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- 越後路に日蓮大聖人の足跡を訪ねて -

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越後路に日蓮大聖人の足跡を訪ねて
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柏崎 番神岬 日蓮大聖人ご尊像
旅
程
実施日
平成16年8月8日(日)~9日(月)・一泊二日
行
8日 7:30 東京出発-関越自動車道・練馬 IC=11:00 北陸自動車道・
米山 IC-11:10 柏崎・番神堂 11:40-11:50「米山大黒亭」(昼
食)12:30-13:10 柏崎・福泉寺 13:40-14:10 出雲崎・良寛記
念館 14:30-14:40 出雲崎・妙本寺 14:55-15:15 村田・本山 妙
法寺 15:50-17:00 弥彦(宿泊)
程
9日 9:15 弥彦出発-9:45 角田・妙光寺-七面大明神岩屋 10:30-
11:00 寺泊・法福寺 11:15-11:20 寺泊アメヤ横丁(昼食・買い
物)12:40-北陸自動車道・中之島見附 IC=関越自動車道・練
馬 IC-17:00 帰着
※移動は自家用車
-1-
参
拝
寺
院
縁
■
番神堂
起
(新潟県柏崎市番神 2-10-42)
日蓮宗・妙行寺(柏崎市西本町 1-13-1)の
境外御堂。
妙行寺は海岸山と号し、開基は慈福院日心
上人。もと真言宗に所属し大乗寺と称してい
たが、文永一一年(1274)三月、日蓮聖人が
佐渡赦免によって鎌倉へ帰途の際、当寺の住職であった慈福法印は聖
人に帰依し日心と改めた。
日蓮聖人は流罪を赦された際、佐渡から寺泊に向かう途中嵐に遭い、
今の番神岬に流れ着いた。この時の難を救ったのが柏崎八幡であり、
他の二十九神と合祀して、ここに三十番神を勧請したのが、番神堂の
はじまりと伝えられている。日本三十番神の随一といわれ、日本三大
番神の一つに数えられる。
現在の御堂は、明治四年(1871)の大火で焼失した後、当時の住職三
一代新居日薩上人と三二代水野日定上人の二代に渡り、巨万の財と七
年の歳月をかけて再建したもので、明治十年(1877)に完成し、現在に
至る。お堂の周囲には、鳳凰と桐、水に亀などの彫刻が刻まれている。
堂宇の裏手には、日蓮聖人の銅像が建てられている。
※隣に「諏訪神社」があり、与謝野晶子の歌碑や、
「裸石大明神」がある。
「裸石大明神」は拝
めば子宝に恵まれるとされ、柏崎市の「謹んでご照覧あれ」とのメッセージが…
■
福泉寺
(新潟県柏崎市新橋 15-6)
開山・六老僧日朗上人(1245-1320)。山
号は常在山。
もとは天台宗であったが、文永九年(1272)
佐渡流罪の身となった日蓮聖人のもとへ、日
朗上人がはるばる鎌倉から師を尋ねた。その
帰りに当地で宿を当寺に求めたが、その際住持福泉法印が日朗の教化
によって、名を日舟と改め改宗した。永仁二年(1294)に日像上人も
宿泊した。
-2-
■
妙本寺
(新潟県三島郡出雲崎町久田 323)
日蓮聖人佐渡流罪の際、休息した地といわ
れ、日蓮聖人が杖で地を掘ると水が湧き出た
という「宗祖手堀の井戸」がある。
■
妙法寺
(新潟県三島郡和島村大字村田 1124)
日蓮宗由緒寺院(本山)の一つ。新潟県三
島郡に所在。法王山と号す。日蓮聖人直弟六
老僧日昭上人(1221-1323)の開創。「村田
の妙法寺」と通称す。
徳治二年(1307)六老僧日昭上人が鎌倉名
瀬(現在の横浜市戸塚区、名瀬妙法寺が旧跡)に創建したのがはじま
り。当地の領主・風間信濃守信昭が鎌倉幕府在勤中に日昭上人の教化
を受けた。日昭上人遷化にのぞみ、妙法寺を風間氏の領内に移し北越
弘法の拠点とすべきことを遺命し、現在の地(吉野朝時代の村岡城跡)
に移る。以後、風間氏が寺領三五〇石を寄進、慶安三年(1650)には
三代将軍家光公より朱印地三五石を寄進され、本山としての寺格を整
えた。
妙法寺は浜土法華寺(後の玉沢妙法華寺)と共に日昭門流を支え、
天文六-七年(1537-38)の鎌倉兵乱の折、浜土法華寺の日弘は弟子
日南と共に村田に戦火を避けた時がある。浜土と村田は日昭門流の本
寺として交流をもち、村田は北越の法華弘通の拠点となった。
■
妙光寺
(新潟県西蒲原郡巻町大字角田浜 1056)
角田山と号す。もと天台僧であった摩訶一
阿闍梨日印(1264-1328)は日朗上人によっ
て改衣し鎌倉に本勝寺を建て、越後三条に本
成寺を建てて化を越後にふるい、金津に妙蓮
寺、そして角田に妙光寺を草創した。
文永八年(1271)十月、寺泊港から佐渡流罪で船出した日蓮聖人は、
強い西風のため押し戻され角田浜に上陸し、近くの岩に衆生結縁と龍
神供養のために、お題目の七字を書いたといわれる地。これを「岸の
題目」と称し、今もその跡をとどめている。
日蓮聖人が岸の題目を書かれたとき、一人の老翁が現れ、
「この近く
に大きな岩穴があり、悪蛇が棲んで住民を悩ましております。聖人の
-3-
法力をもって、この害を除いて頂きとうこざいます」と懇願した。
聖人は、この老翁に案内で岩穴の前に立つと、断崖は人を圧し、悪
気がみなぎっていたという。聖人は法華経を唱え、傍らの小石に経文
を記し、岩穴の中に投げ入れた。やがて悪蛇は教化に伏し、法華経の
行者守護を誓い、のちに身延七面山に鎮座し、七面大天女となったと
伝えられる。
悪蛇の害が除かれた老翁は日蓮聖人にお題目の書写を請い、聖人が
近くの岩に書くと、老翁も並べてお題目を記し、その下に八幡の字を
書き添えて立ち去った。これを「お祖師さま八幡さま書分けのお題目」、
また「岩の題目」と、呼ばれ、現在は角田山妙光寺のお堂に安置され
ている。
角田浜に一泊した聖人は、次の日、佐渡へ船出したが天候が急変、
今にも難破しそうな時、聖人は舷に立って竿を取り上げ、波に七字の
お題目を書いた。すると、不思議なことに波間に輝くお題目が浮かび
上がり、間もなく風も波も静まって、舟は無事に佐渡松ヶ崎に着いた。
このお題目を「波の題目」と称する。
角田浜は、
「岸」
「岩」
「波」の三つのお題目が顕され、また七面大明
神が最初に教化された地であるとされるのである。
これを縁に、正和二年(1313)、三題目にちなんで一山三箇寺の一
つとして、日朗上人門下の優れた九人のうち第一人者といわれた日印
上人によって妙光寺が開かれた。
■
法福寺
(新潟県三島郡寺泊町二ノ関 2720)
天平年間(757-765)に加賀の泰澄大師が
草創、のちに天台宗となる。
日蓮聖人が佐渡流罪の際、当地の代官・石
川宇右衛門の館に荒天のため船待ちで滞在し
た。その時、当時の法福寺住職が法論に臨ん
だが破れ、日伝と改名し、日蓮聖人を開山として、文永八年十月二十
二日に改宗した。
現在の祖師堂の地が石川邸跡で「寺泊御書」をしたためられた硯の
水の井戸が残り、硯の井戸と呼ばれ、座敷跡には日蓮聖人獅子吼の銅
像が建てられている。
また、山上の旧法福寺跡には宗祖が佐渡を遠望し読経した時、袈裟
を掛けられたという「袈裟掛けの松」もある。
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☆
参
考
資
料
『日蓮宗事典』(日蓮宗宗務院)
『日蓮聖人の歩まれた道』市川智康著(水書房)
各寺院の縁起など
寺泊御書(てらどまりごしょ)
今月〈十月也〉十日、相州愛京郡依智(えち)の郷を起つて、武蔵の国久目河(くめがわ)
の宿に付き、十二日を経て越後の国寺泊の津に付きぬ。ここより大海を亘(わたり)て佐
渡の国に至らんと欲す。順風定まらず、その期を知らず。道の間の事、心も及ぶことなく、
また筆にも及ばず。ただ暗に推(お)し度(はか)るべし。また本より存知の上なれば、
始て歎くべきにあらずと、これを止(とど)む。
「霊跡巡礼-越後路に日蓮大聖人の足跡を訪ねて-」
平成 16 年 8 月作成
発行人
加藤彰晃
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