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第1章 むつ小川原開発及び核燃料サイクル施設建設の歴史と六ヶ所村

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第1章 むつ小川原開発及び核燃料サイクル施設建設の歴史と六ヶ所村
第1章
むつ小川原開発及び核燃料サイクル施設建設の歴史と六ヶ所村住民意識の概要
舩橋
晴俊
はじめに
青森県六ヶ所村において、過去30年余にわたって進行してきた「むつ小川原開発」と「核燃料サイ
クル施設」の建設は、日本社会全体にとって、また青森県にとって重大な意義を有する政策的問題で
あるとともに、この開発が地元の六ヶ所村に引き起こした社会問題としても、深刻な帰結をはらむも
のであり、その経過と意義については、多面的な視点からの解明が必要である。
青森県六ヶ所村では、周知のように1980年代半ばより、核燃料サイクル施設の建設が進行し、その
事業の一環として、既に、ウラン濃縮工場の操業、低レベル放射性廃棄物の埋設、海外より返還され
た高レベル放射性廃棄物の一時貯蔵、使用済み燃料の受け入れが実施されているとともに、近い将来
の再処理工場の操業に向けてその建設が進められている(舩橋,1998a;長谷川,1998)。これらの事業
の進行は、六ヶ所村の地域社会とまちづくりに対して、巨大な影響を与えるものとなっている。同時
に、六ヶ所村は我が国のエネルギー政策と放射性廃棄物問題のカナメに位置する地域であるゆえに、
村民がいかなる意向を有するかは、今後のこれらの問題への対処において、絶えず重視されなければ
ならない。
もとより、どの地域のまちづくりにおいても、その地域の住民の意向を尊重することが基本となる
べきである。しかし、これまで、六ヶ所村民の意識を核燃料サイクル施設の建設問題との関連におい
て客観的に把握しようという調査研究は、きわめて乏しいものであった。六ヶ所村は日本の中でも、
唯一、核燃料サイクル施設の立地という特別の条件のもとにまちづくりを進めており、それだけに、
他の地域には見られない苦労や課題があるはずである。国民一般や行政や事業者が、六ヶ所村民の声
や要望に、もっと謙虚に耳を傾ける必要があると思われる。
本章では、まず、この開発問題の歴史的経過を大局的にふりかえりその概要を記述する(第1節)。
次にこの開発問題の意義を社会学的に把握するために必要と思われる基本的視点を体系的に提示する
ことを試みる(第2節)。その上で、そのような視点と関係づけながら、当研究室が六ヶ所村におい
て実施した「まちづくりとエネルギー政策についての住民意識調査」(2003年9月実施)の結果の概要
を記すこととする(第3節)。
核燃料サイクル施設の建設の是非については、六ヶ所村内、青森県内、日本社会全体のどのレベル
においても、厳しい意見対立がある。それだけに、世論形成と政策的選択のためには、地域社会の現
状についての基本資料が、さまざまな立場の人々に公開され共有される必要がある。本研究室は、社
会計画論ならびに環境社会学の研究を課題としており、このような学問的立場から、極力、客観的・
学術的なデータ入手と分析をめざしてきた。なお、住民意識調査についてのデータ分析は、継続中で
あり、本章で提示しているのは、調査結果のうちのごく基本的な部分にとどまる。その意味では、本
章は中間報告という性格にとどまるものである。
第1節
むつ小川原開発と核燃料サイクル施設建設問題の歴史的経過(1)
1969年5月、新全国総合開発計画(略称、新全総)の一環として、むつ小川原開発の構想が登場する。
新全総の内容は高度経済成長の論理を極限にまで追求したという性格を持ち、その骨格となる発想は、
全国各地に数カ所の巨大な工業基地を立地すると共に、新幹線・高速道路などの高速交通ネットワー
クを構築するというものであった。青森県はこの新全総の巨大開発計画をもっとも熱心に推進しよう
とした県であり、1970年4月には「陸奥湾・小川原湖開発室」を設置する。政府レベルでは、1971年3
月に関係8省庁からなる「むつ小川原開発総合開発会議」が発足し、経団連を中心に準備が進んでい
た「むつ小川原開発株式会社」が3月25日に設立される。また、用地買収にあたる「青森県むつ小川
原開発公社」も3月31日に設立され、県職員が大量に出向することとなる。
1
このような準備態勢を背景にして、1971年8月14日、青森県は「住民対策大綱案」とともに「むつ小
川原開発立地想定業種規模(第1次案)」を発表する。第1次案は三沢市、六ヶ所村、野辺地町に及
ぶ17500haを開発区域とし、鉄鋼、アルミ、CTS、石油精製、石油化学、火力発電、非鉄金属などを
含む巨大なコンビナート構想であり、六ヶ所村では1175世帯、5323人の立ち退きが必要という内容で
あった。第1次案の発表に対して、六ヶ所村では村長、村議会、各地区の村民が激しく反発し激しい
反対運動が展開される。開発予定地の激しい反発を受けて、青森県は9月29日に開発区域を7900haに
縮小した第2次案を発表する。第2次案では、立地業種が石油精製、石油化学、火力発電のみへと削
減され、三沢市と野辺地町は開発区域からはずされ、六ヶ所村でも立ち退き世帯数は367世帯へと縮減
される。だが開発面積の規模は約5000ha、石油精製は1日あたり200万バーレル、石油化学は年産エチ
レン換算で200万トン、火力発電1000万kwという巨大なものであった。これに対して、10月には「六ヶ
所村むつ小川原開発反対同盟」が結成され、寺下六ヶ所村長も反対姿勢を堅持し県の開発方針に抵抗
を続けた。けれども、青森県は早いテンポで計画策定を進め、1972年6月に第2次案に基づいた「第1
次基本計画」を正式決定し内閣に提出する。同年9月14日に、第1次基本計画は閣議で口頭了解がな
され、政府公認の計画となり、以後、港湾工事や道路工事のために巨額の政府資金がこの開発に投入
されるようになった。しかし、この時点ですでに、1971年8月のアメリカによるドル防衛策(ドルショ
ック)により、高度経済成長を支えていた枠組みは大きく変化し始めていた。71年末にはすでに、石
油化学工業界にも鉄鋼業界にも過剰生産力が発生していた。政府や青森県としては、この開発の前提
である経済予測を洗い直し、新しい予測にもとづいて、計画を再検討すべきであった。しかし、その
ような冷静な再検討はなされず、現実性のない「予測」に基づいた巨大開発を、他の地域に先駆けて7
2年9月に決定してしまった。そのことが、以後、青森県と六ヶ所村の命運を大きく規定することにな
る。
第1次基本計画の決定後、六ヶ所村内では開発推進の動きが強まり、六ヶ所村議会は1972年12月21日
に、寺下村長欠席のまま、14項目からなるむつ小川原開発の推進に関する意見書を決議する。これに
よって村内の開発賛成派と反対派の対立、村議会と村長の対立は決定的なものとなる。他方で12月25
日より、むつ小川原開発株式会社と青森県むつ小川原開発公社による土地買収が正式に開始された。
土地買収は早いテンポで進み、1973年末には、約2000haが買収された。1973年は、村内の開発賛成派、
反対派の対立が、それぞれ相手のリーダーに対するリコール合戦というかたちで具体化し、頂点に達
した年である。リコールは双方ともに不成立に終わったが、73年12月の村長選挙では、開発推進の古
川伊勢松氏が、開発反対の寺下力三郎前村長に対して僅差(2566票 対 2487票)で勝利し、以後、六
ヶ所村は開発推進の行政へと大きく方向転換をすることになる。
古川村長下で、開発のための土地買収はさらに進行していくことになるが、1973年10月に発生した
第1次石油危機によって、高度経済成長は終焉し、経済情勢は激変してしまう。巨大工業基地を必要
とするような素材産業に対する需要増加の展望は消失し、経済政策の力点は「省資源・省エネルギー
・知識集約化」へと転換することになった。現時点から回顧すれば、六ヶ所村が決定的に開発推進に
踏み出した時期(73年12月)の直前(73年10月)に、第1次基本計画の成立前提が崩壊していたこと
は明かである。
経済情勢の変化は、開発の見直しを要請するものであった。青森県は、1975年12月20日に、第2次基
本計画を決定し、それを同25日に政府に提出する。その内容は、期間を二期に分け、石油精製が第1
期および第2期に各50万バーレル/日ずつで、合計100万バーレル/日、石油化学が第1期及び第2期
に各80万トン/年で、計160万トン/年、火力発電が、第1期120万kw、第2期200万kwで計320万kwとい
うように、規模を大幅に縮小するものであった。しかし、このように縮小した規模であっても、それ
に見合う資源需要は存在しなかったのであり、計画は過大なものであった。実際には、計画作成の中
心を担ったむつ小川原開発室の幹部も、第2次基本計画にリアリティがないことを自覚しており、そ
れは、当面の「つなぎ」という性格にとどまるものであると認識していた。
1979年末には、土地買収面積は累計で3300haを越えるに至るが、第2次基本計画の具体化は不可能で
あった。このような状況のなかで、通産省は1979年10月に、むつ小川原開発地域への国家石油備蓄基
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地(CTS)の建設を決定し、青森県と六ヶ所村もそれを受け入れる。石油備蓄基地は第1次基本計
画にも第2次基本計画にも含まれていなかったものであるが、むつ小川原開発株式会社の借入金は197
9年末で827億円に達しており、青森県としては立地できるものはなんでも受け入れていこうという姿
勢になっていた。石油備蓄基地は1980年11月に着工、1983年9月には石油タンクへのオイルインが開始
される。石油備蓄基地の立地にもかかわらず、他に土地を売却できる開発プロジェクトが存在しない
ので、むつ小川原開発株式会社の経営状態は悪化を続けた。同社の借入金は、1983年末には1303億円
に達したのである。
このような状況の中で1984年に、核燃料サイクル施設建設構想が浮上する。1984年7月、電気事業連
合会(略称、電事連)は、青森県と六ヶ所村に対して、核燃料サイクル施設の立地の正式要請を行っ
た。立地要請がなされた核燃料サイクル施設とは、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設セン
ター、再処理工場の三点である。これらの核燃料サイクル施設の建設は、日本全体の原子力利用政策
の大局的方針に密接に結びついている。ウラン濃縮工場は、原子力発電所で使用する濃縮ウランを製
造する。低レベル放射性廃棄物埋設センターは、各地の原子力発電所の操業に伴う低レベル放射性廃
棄物の最終処分場である。1983年末時点で、200リットルドラム缶換算で52万個分の低レベル放射性廃
棄物が各地の原子力発電所に貯蔵されており(長谷川,1998:47)、その最終処分場が必要になってい
た。再処理工場は、原子力発電所の使用済み燃料から、プルトニウムを抽出する化学工場であり、そ
のプルトニウムを高速増殖炉で利用することが、日本のエネルギー自立のためには、メリットが大き
いとされていた。
1985年4月18日、「原子燃料サイクル施設の立地への協力に関する基本協定書」が、青森県(北村正
哉知事)、六ヶ所村(古川伊勢松村長)、原燃サービス、原燃産業、電事連の五者の間で結ばれ、核
燃料サイクル施設の六ヶ所村開発地域への立地が正式に決定する。核燃料サイクル施設は、元の第2
次基本計画に盛り込まれていないものであったが、形式上は第2次基本計画に付け加える形がとられ
た。立地協定の後、現地六ヶ所村では1986年前半に、核燃施設海域調査が実施された。これに対して、
泊漁協を中心に激しい抵抗運動が展開されたが、警察力の助けを借りながら、原燃二社は海域調査を
強行した。
立地協定のおよそ一年後の1986年4月26日、世界を震撼させたチェルノブイリ原発事故が発生する。
この事故は史上最悪の原子力事故である。その被害の深刻さについては、さまざまな証言が語られて
いるが、現在でもその全貌は明らかになっているとは言えない(Alexievitch,1997=1998)。この事故
は、その後の世界的な脱原発の動きを加速する大きな要因になった。日本でも、とりわけ青森県でも、
チェルノブイリ原発事故以後、反核燃運動が高揚する。特に、農業者の反対運動、各地の女性市民グ
ループの運動は世論の喚起に影響力を発揮し、青森県内の反対運動はこれらの運動と革新政党や労働
組合系の運動とがつながる形で、大きな広がりを見せるようになる。1989年7月の参院選挙で、核燃反
対を掲げる三上隆雄氏が当選する。三上氏は農業者であるが、社会党推薦を受け、全県の反核燃運動
の盛り上がりに支えられた当選であった。1989年8月の時点では青森県内の過半数の農協が「核燃反
対」を表明していた。そして、同年12月の六ヶ所村長選では、「核燃凍結」を掲げる土田浩氏が、核
燃立地を推進してきた現職の古川伊勢松氏を破り当選する。また、1990年2月の衆議院選挙では、核
燃反対を掲げた社会党が青森県内で2議席を獲得するに至る。このような県内の反核燃運動の盛り上
がりの中で、1991年2月の青森県知事選は、核燃問題についての青森県の政策選択の岐路となった。核
燃推進の是非は大きな争点になったが、結果としては、核燃推進の現職・北村正哉知事が、自民党の
幹部や電力会社の応援に支えられて32.6万票を獲得し、核燃反対の統一候補である金沢茂氏(24.8万
票)をしりぞけ、四選を果たした。その後、「凍結論」をかかげて当選した土田六ヶ所村長も実質的
には「慎重な推進」の姿勢を示すようになり、核燃関連施設の建設は次々に進展していくことになる。
すなわち、1988年10月に着工していたウラン濃縮工場へは1990年4月に遠心分離器の搬入が開始され、
1991年10月から濃縮操業が開始された。また、1990年11月には低レベル放射性廃棄物施設が着工し、1
992年12月8日に操業を開始するに至る。核燃反対運動は、低レベル放射性廃棄物施設に対する訴訟を
起こす(1991年11月)などの方法で抵抗を続けたが、全体としては次第に勢力が低下していった。
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核燃反対運動の退潮という状況のなかで、1995年には、海外返還の高レベル放射性廃棄物の六ヶ所村
への搬入が行われる。1985年の立地協定の際には、高レベル放射性廃棄物の貯蔵施設は、再処理工場
の付属施設という扱いであったが、その後、独立の施設というように位置づけが変わり、1994-95年に
は、政治的な焦点に立つことになる。1994年12月26日、青森県(北村知事)、六ヶ所村(土田村長)、
日本原燃の間で、海外返還高レベル放射性廃棄物についての安全協定が結ばれる。この協定締結の前
提として、青森県と政府(科学技術庁長官)の間で、高レベル放射性廃棄物の最終処分地問題につい
ての交渉がなされた(北村正哉,1994;田中眞紀子,1994)。高レベル放射性廃棄物の受け入れについて
は、青森県がなし崩し的にその最終処分地にされるのではないかという批判が、核燃反対運動から投
げかけられていたが、北村青森県知事は、この確約書によって最終処分地にされないことの保証がえ
られたとした。ところが、1995年2月の青森県知事選挙では、新進党の衆議院議員の木村守男氏が、
五選をめざす北村氏の高齢と多選を批判して立候補し北村氏を破り当選する。その直後の4月に、高
レベル放射性廃棄物の最終処分地問題が、もう一度、政府と青森県の交渉の焦点になる。木村知事は、
青森県が最終処分地にならないことの確約を求めて、一時的に高レベル廃棄物の輸送船の接岸を拒否
した。木村知事の要求に対して、田中科技庁長官は「知事の了承なくして青森県を最終処分地にでき
ないし、しないことを確約します」という文言を記入した文書(田中眞紀子,1995)で再度木村知事に
回答した。木村知事は、この回答を保証として認め、4月26日に、高レベル放射性廃棄物(28本のガ
ラス固化体)が初めてむつ小川原港から六ヶ所村に搬入される。以後、2002年12月末までに、イギリ
スとフランスから返還された高レベル放射性廃棄物616本が搬入された。
六ヶ所村への放射性廃棄物の搬入はこれにとどまらなかった。国内の原子力発電所から排出される
「使用済み核燃料」の搬入が、再処理工場の操業の原料という名目で、実施されることになった。し
かし、すでに、再処理工場の将来については、きわめて先行きが不透明な状態となっていた。という
のは、高速増殖炉の開発はきわめて困難なことが次第に明らかになり、諸外国も次々に撤退するなか
で、1995年12月8日に、福井県で操業中の高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩・火災事故が
発生したからである。高速増殖炉が存在しないのであれば、再処理工場によって作り出されるプルト
ニウムの行き場がないことになるから、再処理工場の操業は不要となる。にもかかわらず、再処理工
場への使用済み核燃料の搬入が、電力業界によって固執される理由は何なのであろうか。核燃反対運
動の視点から見れば、「再処理工場の原料として使用済み核燃料を搬入する」というのはタテマエで
あって、「原子力発電所からの使用済み核燃料の搬出、すなわち、六ヶ所村への使用済み核燃料の搬
入を正当化するために再処理工場を運転する計画が維持されているのではないか」という疑問を寄せ
ることが可能である。このような疑問にもかかわらず、1998年10月2日、福島第2原発からの使用済
み核燃料約8トンが、試験用として六ヶ所村に初めて搬入される。ところがその直後に、使用済み核
燃料の輸送容器についてデータ改ざん問題が発覚する。そのため、使用済み核燃料の本格搬入は大幅
に遅延することになった。ようやく、2000年10月12日に、青森県と六ヶ所村と日本原燃の間で、使用
済み核燃料の本格搬入についての安全協定が締結されるに至り、同年12月から本格搬入が実施される。
2002年12月末までに、779トンの使用済み核燃料が搬入されている。
核燃料サイクル施設の建設が次第に進展するなかで、むつ小川原開発株式会社の経営は悪化を続け、
ついに、その精算・再編に追い込まれることになった。むつ小川原開発株式会社の借入金は、1998年
末には2299億円にも達しており、大規模な土地売却可能なプロジェクトもないことから利子分だけ、
毎年、経営状態が悪化していくという状態に陥っていった。金融機関などの債権者に債権を大幅に放
棄させた上で、むつ小川原開発株式会社は精算され、2000年8月4日に「新むつ小川原会社」が設立さ
れる。同社には、青森県、日本政策投資銀行、民間金融機関が出資し、同社の株式を保有しているが、
今後の土地売却に応じてその収入で同社から出資者に対して支払いをし減資していく予定である。こ
れによって借入金にたよらずに同社を維持し、土地を売却する態勢が作られることになった。
使用済み核燃料の搬入以後、核燃料サイクル施設の建設の最大の焦点は、再処理工場の操業問題であ
る。再処理工場の操業の是非については、厳しい論争が続いている。日本の核燃料サイクル政策の中
での再処理政策の位置については、第6章、第7章でより詳細に検討されるが、ここでは再処理工場
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についての賛否の論拠を簡潔に見ておこう。再処理工場の操業を正当化する基本的な論拠は、高速増
殖炉によるプルトニウム利用を柱とする核燃料サイクル政策にとって不可欠だということである。こ
れに対して、再処理工場の操業に対する代表的な批判は次のようなものである。①コストがあまりに
高くて経済的合理性がない、②再処理工場自体が放射能に汚染され大量の放射性廃棄物を生み出して
しまう、③定常的操業状態においても周辺の環境を汚染するし、万一の事故が発生すれば深刻な汚染
を生ずる、④プルトニウムを取り出しても高速増殖炉の計画は頓挫しているのであるから使い道がな
い。⑤再処理の後に残る高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)は安全に処分できない廃棄物である。
このような批判は核燃反対運動から繰り返し提起されているけれども、電力業界が六ヶ所村再処理
工場の運転に固執する実質的理由は、もし再処理工場が運転されないのであれば、各地の原子力発電
所における使用済み燃料の貯蔵はやがて限界にぶつかり、各地の原子力発電所の運転停止に追い込ま
れるという危機が予測されるからである。第8章で見るように、むつ市における使用済み核燃料の中
間貯蔵施設計画の浮上も、このような事情が背景になっている。だが、1995年の「もんじゅ」事故後、
六ヶ所村再処理工場の操業予定は、2000年から2003年1月に延期され、その後さらに、2005年7月へと
再延期されていた。ところが、2001年夏から、再処理工場内の使用済み燃料の貯蔵プールに水漏れが
発生した。ところが、日本原燃は水漏れ箇所の確認に手間取り、その原因究明と対応は難航した。200
3年9月、トラブル続きの中で日本原燃は、再処理工場の操業開始をさらに一年延期して2006年7月と
することを発表せざるを得なくなった。このような状況の中ではあるが、青森県と六ヶ所村は、再処
理工場の操業を進めることを政府に対して、一貫して要望し続けている。
さらに、近年のもう一つの注目すべき動きは、2002年から廃炉廃棄物の処分場を六ヶ所村内に建設す
ることを予定しての調査が、日本原燃によって開始されたことである。廃炉廃棄物は低レベル放射性
廃棄物として一括して扱われているが、その中にはこれまでに搬入されたものより放射能濃度が高い
ものが含まれており、操業に伴って排出される低レベル放射性廃棄物とは、その性格が異なっている。
もし、この動きが事業者の側の希望どおりに実現するのであれば、六ヶ所村にはますます多くの種類
と質の放射性廃棄物が搬入されることになるのである。
以上で、過去30年余りの動向の大局的回顧を終えるが、これに続く直近の2003年の動向については、
第2章の前半において説明される。
第2節 むつ小川原開発と核燃料サイクル施設建設をどのような視点から把握すべきか
前節では、むつ小川原開発と核燃料サイクル施設の歴史的経過と現在の状況を振り返ってみたが、
それらを社会学的に解明するためには、どのような視点が大切であろうか。この地域の複雑な歴史的
経過と現状を把握するためには、少なくとも、5つの理論的視点が必要であるように思われる。それ
は、「異なる水準の利害関心と論理の存在」、「中心部と周辺部の格差」、「開発の性格変容」、
「拠点施設を基軸にした地域社会の変形」、「地域社会の自己決定性」という諸視点である。本節で
は、それぞれの視点について簡単に説明してみよう。
(1)異なる水準の利害関心と論理の存在
むつ小川原開発と核燃料サイクル施設の建設過程には、少なくとも4つの水準の利害関心が同時に
作用している。すなわち、国政レベル、青森県政レベル、六ヶ所村政レベル、各個人の生活レベルと
いう4つの水準である。それぞれの水準で表出される利害関心と、各主体の行為の論理と、社会シス
テムの作動の論理とは異なっている。
第1に、国政レベルとは、日本全体としての地域開発政策やエネルギー政策をどのような方針で実
施していくのかという水準で、政府レベルの主体が有する利害関心と行為の論理であり、その水準で
の社会制御システムの作動の論理である。
第2に、青森県政レベルでの利害関心とは、青森県における地域開発や財政改善をどのようにすす
めるのか、青森県全体の振興と進路をどのような方向に向かって構想するのかという関心である。
第3に、六ヶ所村政レベルでは、全体としての村の進むべき方向をどのように構想するのか、まち
5
づくりをどのように充実していくべきかという関心である。
第4に、各個人の生活レベルというのは、村内の各地域に住むさまざまな職業や年齢の人々が、そ
れぞれ自分の人生設計と生活のあり方をどのように選択していったらよいのかという関心である。
この地域開発問題に関与するさまざまな組織や個人は、以上の4つの水準の利害関心のうち、主要
にはどの水準をよりどころとしながら、自分の目的を設定し追求しているのかという点と、開発に対
する賛否の態度という点で分岐を示す。形式的に見れば、4つの水準のそれぞれにおいて、開発に対
して賛成か反対かという態度がありうるから、少なくとも地域社会に対する8つの異なる志向性があ
ることになる。
異なる水準のさまざまな主体の利害関心と自己主張の論理は、それぞれ独自のものである。例えば、
大きくは開発推進の立場に立つ主体であっても、政府レベル、県庁レベル、六ヶ所村レベル、個人生
活レベルという異なる水準において、開発推進の理由や、望ましい開発のイメージは異なっている。
それらは、時に重なり合い融合するけれども、いつも予定調和するという保証はない。
さらに、これらの4つの水準の内部のそれぞれにおいて、複数の主体が多様な利害関心を持って自
分の目的を追求している。立場と見解の違いに応じて、さまざまな形で、対抗的な自己主張が見られ
る。この30年余を回顧するならば、どの水準においても、むつ小川原開発と核燃料サイクル施設の建
設を積極的に推進するのか、それとも、それに反対するのかという形での意見の分岐が存在してきた。
日本全国レベルのエネルギー政策については、原子力発電推進の是非をめぐって、世論の対立と政策
論争が続いてきた。青森県政レベルでは、巨大開発や核燃施設の是非をめぐって、30年来の論争が続
いている。しかも、賛成と反対という両極の中間には、さまざまな条件付の賛成や反対の態度も見ら
れる。むつ小川原開発と核燃料サイクル施設の歴史的経過は、このような異なる水準に位置する主体
が、多様な志向性をもって相互作用してきた過程として把握しなければならない。このような複数の
水準の関係については、第3章において、政府レベルと県レベルの関係に焦点をあてながら解明を試
みている。
(2)中心部と周辺部の格差
さまざまな主体の立場の相違を把握するのに不可欠なもう一つの視点は、「中心部と周辺部の格
差」という視点である。ここで「中心部」とは、人口と経済力が他の地域よりも相対的に集中してお
り、政治的・行政的意志決定において他の地域より相対的に優越した力を持ち、文化的集積が存在し、
創造力を備え、社会を変化させるような主導権を発揮できるような地域のことである。他方、「周辺
部」とは、これらの諸点において、中心部に対して、相対的に劣位にある地域であり、経済的、政治
的、行政的、文化的な諸領域において、中心部に依存し中心部に対して受動的な地域である(Reynaud,
1981;舩橋,1998:94-95)。
青森県は、日本全体の文脈では、政府や経済界の首脳部が位置する中心部としての東京に対して、
周辺部に位置している。そして、六ヶ所村は、青森県内部の文脈において、経済力や政治的・行政的
権限が集中している中心部としての青森市に対して、周辺部に存在している。したがって、六ヶ所村
は、二重に重なっている中心部/周辺部関係において、「周辺部の周辺部」という位置にあるのであ
る。
むつ小川原開発の当初の企図は、中心部と周辺部の格差という視点から解明することができる。む
つ小川原開発は1969年5月に閣議決定された新全国総合開発計画の一環として構想されたが、そこに
は、当時、大都市部における過密や公害問題の深刻化をふまえて、工場立地の地方分散という志向性
が見られた。過疎地への工場分散は、広大で安価な土地の入手、スケールメリットの実現、公害問題
に対する拒絶の少なさという点でのメリットを意識したものである。むつ小川原開発を推進した経済
企画庁や財界の行為には、中心部と周辺部の間での「格差利用の立地」という論理が見出される。他
方、当初のむつ小川原開発を推進した当時の青森県首脳部には、「格差縮小のための立地」という願
望と論理が見出されるのである。
しかし、むつ小川原開発は、中心部と周辺部の格差を解消するものではなかった。むしろ核燃料サ
6
イクル施設の建設が進行することによって、出現したのは、「環境負荷の外部転嫁」(舩橋,1998c)と
いうかたちで、中心部と周辺部が結ばれるという社会関係である。「環境負荷の外部転嫁」は、中心
部の受益のために生み出された放射性廃棄物を、周辺部に押しつけるという形で具体化した。これは
「危険」の分配の不平等性を意味している。この論理は、中心部の受益圏という性格を強めると同時
に、周辺部を受苦圏として性格づけるものである。すなわち、「環境負荷の外部転嫁」によって、中
心部と周辺部の格差は、さらに拡大することになるのである。
(3)開発の性格変容
むつ小川原開発の歴史を把握する際に必要な第3の視点は、「誘致型開発」→「従属型開発」→
「危険施設受け入れ型開発」という形で、地域開発の基本性格が大きく変容してしまったことである
(舩橋,1998b)。
「誘致型開発」(2)の理念は、ある地域の外部から、有力なあるいは優秀な事業主体を誘致し、その
経済力や技術力を利用して地域開発のための拠点施設を建設し、拠点施設の経済的活動を起動力とし
て、そこから波及効果を引き出し、地域経済の活性化、自治体財政の強化、住民の受益増大をめざす
というものである。誘致型開発は、外部からの事業誘致をその本質的条件としている点に注目すれば、
「外部依存型開発」とも表現しうる(舩橋,1998b:96)。当初のむつ小川原開発において、竹内知事ら
の青森県庁首脳部が構想したのは、誘致型開発に他ならなかった。しかし、この誘致型開発は、社会
・経済状況の予測、開発計画、資金、技術のいずれについても外部に依存するという危うさを内包す
るものであった。1973年の石油ショック以後、日本の高度経済成長は終わり、石油精製製品など各種
の工業用素材に対する需要の伸びは止まった。巨大な将来需要の発生を想定していたむつ小川原開発
計画にとっては、その前提条件が消失してしまったのである。むつ小川原開発公社とむつ小川原開発
株式会社による土地買収は、1973年から本格化し、数年で3千ヘクタールを買収したが、土地の所有
者となったむつ小川原開発株式会社にもたらされたものは売却のメドの立たない広大な空き地と莫大
な借入金だけだったのである(秋元,2003:46-50)。
このような経済的状況の激変の中で、青森県庁にとっても、六ヶ所村にとっても、1980年ごろには、
むつ小川原開発は「従属型開発」へと変容してしまっていた。「従属型開発」とは、ある地域で地域
開発が進められる時、政治的、経済的、行政的、文化的主導権が、その地域の外部の主体に握られて
しまい、地域内の主体の自己決定性が失われてしまうという性格を持つ開発である。したがって、受
益と受苦の配分構造においても、開発による大きなメリットを外部の主体が獲得する一方で、開発地
域住民にとっては、受益が相対的に少ない。逆に、先鋭化した危険や苦痛や格差が、住民にしわ寄せ
されるという帰結が傾向的に生ずる(舩橋、1998b:106)。1980年代前半の石油備蓄基地(CTS)の
立地が示しているのは、政府が持ち込む企画は何であれ青森県と六ヶ所村が受け入れざるを得なくな
っているという状況である。
1984年に発表された核燃料サイクル施設建設計画は、さらに、「従属型開発」から「危険施設受け
入れ型開発」への性格変容をもたらすものであった。「危険施設受け入れ型」開発とは、従属型開発
の基盤の上に、大きな危険性を持つ施設の受け入れという形で、開発が具体化したものである。その
特徴は、①他の地域では拒絶されるような高度の危険を有する施設の立地が開発計画の柱になること、
②危険性と安全性をめぐって住民の間でも専門家の間でも意見対立が深刻であり社会的合意形成が不
可能なこと、③地域社会への受益の性質が「補償的受益」に移行することである。この補償的受益の
獲得は、危険施設受け入れと引き替えに地元にさまざまな経済的・財政的メリットを獲得しようとい
うかたちをとるが、固有の難点を有している。それは、一過性、緊急性の減少に伴う縮小傾向、地域
社会の経営力形成につながりがたいこと、という難点である。
1985年の核燃料サイクル施設の立地協定を画期として、このような意味での「危険施設受け入れ型
開発」への転換が進行した。さらに、1990年代になって、「危険施設受け入れ型」の主要な内容が、
「危険工場受け入れ型」から「危険廃棄物受け入れ型」へと、変容したのである。1995年より海外返
還高レベル放射性廃棄物(ガラス固化体)の搬入が始まり、さらに、1998年からは再処理工場への使
7
用済み燃料の搬入が、当初は試験的に、後には本格的に開始された。そして、2002年からは、廃炉廃
棄物の処分場建設についての調査が始まっている。もしこの方向で廃棄物の受け入れが進展するので
あれば、廃棄物関連施設が四つ建設されることになり、六ヶ所村核燃施設の主体は放射性廃棄物施設
ということになる。当初の工場二つ(ウラン濃縮工場と再処理工場)と低レベル放射性廃棄物埋設施
設一つという内容からすれば、大きな変質である。
まとめて言えば、むつ小川原開発の性格は、「誘致型開発」→「従属型開発」→「危険工場受け入
れ型開発」→「危険廃棄物受け入れ型開発」へと変質を重ねて来たのである。
このような開発の性格変容ということは、開発を推進した主体に即せば、「意図せざる随伴帰結」
という意味を持っている。当初の青森県庁首脳部の目標は、工業化による地域経済力の向上と、それ
を基盤にした青森県市町村の自治体財政の強化であり、それを通しての地域住民福祉の改善であった。
そして元来は、原子力関連施設の立地という選択肢は、当初、この開発を推進した竹内知事が自覚的
に否定したものであった(3)。ここに露見している「目的的結果」と「随伴的結果」のずれという問題性
については、第9章において検討を試みている。
このような歴史的経過を捉え返すならば、青森県庁首脳部の当初の出発点が地域振興をめざした
「善意」であったとしても、結果としては「裏目に出た」と言わざるを得ない。ある六ヶ所村役場の
職員は、むつ小川原開発から核燃料サイクル施設の建設に至る経過を回顧して、「村民の中に『うま
くしてやられた』『だまされた』という意識がある」(4)と語っている。以上のように「誘致型開発」
の陥った陥穽を見つめるならば、その対極としての「内発的発展」の意義について改めて考えてみる
必要がある。第18章は内発的発展という視点からの考察を提示するものである。
(4)拠点施設を基軸にした地域社会の変形
従属型開発、さらに、危険施設受け入れ型開発においては、実際に開発関連施設の建設が進展する
のにともなって、地域社会内の経済的利害関係と社会関係の再編が大きく進展する。それを、「拠点
施設を基軸にした地域社会の変形」と呼ぼう。まず、開発関連の公共事業と、開発により立地する民
間諸施設の建設をめぐって、建設工事の進行過程において、さまざまな経済的金銭フローと雇用機会
および地元企業にとっての事業機会が発生する。開発に協力しようという村民は、これらの経済的機
会を利用して受益し、もっとも積極的な場合は、自らの企業活動を拡大したり、新しく事業を起すこ
とに成功する。さらに、日本原燃及びその関連諸会社の事業活動が活発化するのにともない、日本原
燃を頂点にした経済的な受益機会の階層構造が出現する。その受益圏に参入する個人にとっては、雇
用や取引機会というかたちでの受益が提供されるのである。このような経済的な受益機会の配分構造
は、開発開始以前とはまったく異なる新たな経済的利害関係を形成し、それを軸にして、地域社会内
部の社会関係を再編する大きな圧力を及ぼす。地域社会の変形の進行とともに、進出事業者との利害
関係の有無によって、村民の社会的・政治的立場は異なったものにならざるを得ない。そのことは、
住民意識にさまざまな分岐を生み出す一つの規定要因となるであろう。
(5)地域社会の自己決定性
1971年夏に具体案が発表されたむつ小川原開発は、30年余りたった現在、当初計画されたコンビナ
ートの立地はできず、当初予定されていなかった、全国の放射性廃棄物の集積地となるという帰結を
招いた。およそ、日本で試みられた地域開発の中で、これほど当初の企画と生み出された帰結の落差
が大きいプロジェクトは他に見あたらない。多くの青森県民は、この巨大開発を失敗として批判して
きた(平野・西尾,1996)。このような帰結を生み出した根源には「地域社会の自己決定性」の放棄と
抑圧という要因がある。「地域社会の自己決定性」とは、地域住民の総意にもとづいて、地域社会の
進路を自分たちで自律的に選択することである。「自己決定性」がもっとも明瞭に表出される手続き
は住民投票である。あるいは、住民投票をしない場合であっても、重大な批判や反対が一定の政策企
図に対して寄せられた場合は、民意を尊重して行政が独走しないことが大切である。ところが、むつ
小川原開発の歴史的経過を回顧すると、青森県レベルでも六ヶ所村レベルでも、「地域社会の自己決
8
定性」が再三抑圧されたり、放棄されたりしてきたのである。1971年に初めてむつ小川原開発計画が
具体的に発表されたとき、当時の六ヶ所村議会も寺下六ヶ所村長も反対であった。青森県庁はその反
対を排除するかたちで、開発計画の推進を強行した。1985年の核燃料サイクル施設の立地協定の締結
の際にも、県内では住民投票で決定せよという運動が起こったが、当時の北村知事も県議会も、それ
を採用しなかった。また、六ヶ所村でも住民投票で核燃料サイクル施設の立地の是非を村民にはかる
べきだという運動がなされてきたが、今日に至るまで、村長も村議会もそれを採用しようとしていな
い。では、住民投票を実施しない基本的理由は何であろうか。それは、青森県レベルでも、六ヶ所村
レベルでも、住民投票をすれば、核燃反対の声が多数意見として表出されるであろうことを、核燃推
進の立場に立つ知事や村長や議会が予測して、それを回避しようとしていると解釈できる。しかし、
そのような短期的・ミクロ的に見た場合にそれらの主体にとって「政治的に得策」な方策が、長期的
にみた場合には、青森県と六ヶ所村の自己決定性を喪失させる方向に作用してきたと言わなければな
らない。
この「地域社会の自己決定性」という点で、他の地域でのさまざまな取り組みは示唆的である。例
えば、本報告書の第3章で取り上げられる鹿児島県の志布志湾開発面問題や、第5章で取り上げている静
岡県の沼津・三島・清水におけるコンビナート建設問題の対応においては、「地域社会の自己決定
性」が、非常に重要な機能を発揮している。
以上、5つの理論的視点を提起してきたが、このような地域開発を解明する理論的視点と関係づけ
ながら、現在の六ヶ所村の住民意識の特徴を検討して行くことにしよう。
第3節
六ヶ所村での「まちづくりとエネルギー政策についての住民意識調査」の概要
2003年9月上旬に、六ヶ所村住民を対象にして、「まちづくりとエネルギー政策についての住民意識
調査」を実施した(5)。本節は、この住民意識調査の質問項目のうち、全国的に見ても六ヶ所村の最大
の特徴となっている核燃施設立地に焦点をあてて分析を行う。
近年、六ヶ所村民を対象にした代表的意識調査としては、1995年に久留米大学・鈴木広教授を代表
とする研究グループによって実施された「六ヶ所住民の意識調査」(以下の本文では「1995年意識調
査」と略称する)(内藤辰美,1998)と、1999年に六ヶ所村まちづくり協議会によって実施された「ま
ちづくりアンケート」がある。だが、いずれも回収方法は郵送であるため、回収率はそれぞれ21%と3
3.6%にとどまり、住民の意識の正確な把握という点では、有効回収率が低いという問題点があった。
そのような反省をふまえ、本調査においては、調査対象者は、六ヶ所村の有権者名簿より「等間隔抽
出法」により502人を選び、郵送留め置き法により訪問回収を行った。その結果、有効回収数は311通
(回収率62.0%)となり、住民意識の正確な把握という点での基本的条件を達成したと考える。
本節においては、「住民意識調査」の結果を、主として単純集計表に依拠しながら、主要な論点ご
とに整理した。「住民意識調査」の企画の概要ならびに全問の単純集計表については、付属資料とし
て本報告書の第二部・資料篇に収録してある。
以下の文中において、調査票中の各質問を表現するにあたっては、「質問の略称」を使用した。各
質問についてどのような「質問の略称」を使用しているかは、付属資料の各単純集計表の行頭に記し
てある通りである。
各質問において、さまざまな意見を提示した場合、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と
回答した人をあわせて「同意」と総称し、「そう思わない」「どちらかといえばそう思わない」を総
称して「不同意」と表記する。また説明文中においては、部分的にクロス表分析の結果を引用してい
るところがあるが、紙数の制約ゆえ関連するクロス表を必ずしも、本論文においては提示していない
場合がある。なお、文中および表中の数字は、原則として小数点以下一桁の表示をしたが丸め誤差を
伴うことがあるので、合計数字については不整合がありうる。
(1)回答者の属性
9
まず回答者の属性を確認しておこう。詳細なデータは、後半部の単純集計表に記載してある。
有効回答の合計311票は、性別(問2)で見ると、「男性」が45.0%、「女性」が55.0%であった。女
性の回答数が多い一因は、男性の壮年層に長期出稼ぎが頻発しており、そのため回収不能であった調
査票が存在することである。年齢別(問2)の回答者分布は、最大が「40代」の20.9%、最小が「6
0代」の11.9%であるが、20代から70代に至るまで、ほぼまんべんなく、回答を得ることができた。
居住地区別(問3)の回収数も、ほぼ、人口分布に対応した比率になっている。
「居住年数」(問4)を見ると、「10年未満」は15.8%にすぎず、それ以外の人は、「10年以上」か、
村で生まれた人々である。そのうち、「生まれてからずっと」と「30年以上」の合計が51.8%に達し
ており、全体に長期にわたって村に住んでいるという傾向が顕著である。
「職業」(問29)については、多い順に上位の5つのカテゴリーを列挙すると、「民間企業」(19.
6%)、「主婦」(14.2%)、「無職、年金生活者」(12.5%)、「建設業」(10.9%)、「農業、酪農、
林業」(10.9%)であった。
「学歴」(問31)については、「中学校・旧制小学校」が41.2%、「新制高校、旧制中学など」が40.
2%で、全体の8割強となっているが、「大学、大学院など」の高学歴者も9.7%存在している。
「家族全体の年収」(問33)を見ると、最頻値は「年収200-400万円」で28.3%、ついで、「年収400600万円」が17.0%となっている。年収600万円未満は、合計で57.2%であり、600万円以上は、合計で31.
1%、そのうち1000万円以上は12.2%である。
(2)生活上のニーズとまちづくりの方向性
[1]生活満足度と収入満足度
まず、住民の生活状況を見てみよう。「六ヶ所村での生活の満足度」(問5)への回答を見ると、
「とても満足している」は6.1%と少ないが、「まあ満足している」(53.1%)と合わせると「満足」は
59.2%に達し、「やや不満」(31.5%)と「とても不満」(9.0%)の合計(40.5%)よりも多い。
しかし、「収入についての満足度」(問6)については、「非常に満足」(1.9%)は極めて少なく、
「まあ満足」(33.4%)と合わせて、「満足」は35.4%にとどまり、これに対して「少し不満」(27.7
%)と「非常に不満」(19.3%)を合わせた「不満」が46.9%であり、より多くなっている。
[2]居住継続の意向と転出希望理由
次に、今後のまちづくりの方向について考える際の前提として、住民の「居住継続の意向」(問1
0)について見てみよう。「あなたはこれからもずっと六ヶ所村に住み続けたいと思いますか。それと
も、できれば他の地域へ引っ越したいと思いますか」(問10)という質問に対して、最大の回答は
「ずっと住んでいたい」(44.1%)、2番目は「しばらくは住んでいたい」(18.0%)であり、両者を
あわせて、居住継続の意向を表明している人は、62.1%に達している。これに対して、「できれば引っ
越したい」(16.4%)および「引っ越したいができない」(11.3%)という転出希望を示す回答は、あ
わせて27.7%に達している。3分の2に近い住民が居住継続の意向を表明しているけれども、転出希望
表1−1
20代
年
30代
齢
40代
50代
60代
70代
合計
年齢別の居住継続の意向
居住継続の意向(問10)
居住継続
転出希望
迷っている
計
28 (51.9%)
20 (37.0%)
6 (11.1%)
54 (100%)
24 (45.3%)
18 (34.0%)
11 (20.8%)
53 (100%)
35 (53.8%)
25 (38.5%)
5 ( 7.7%)
65 (100%)
40 (70.2%)
15 (26.3%)
2 ( 3.5%)
57 (100%)
29 (80.6%)
4 (11.1%)
3 ( 8.3%)
36 (100%)
37 (88.1%)
4 ( 9.5%)
1 ( 2.4%)
42 (100%)
193 (62.1% )
86 (27.7%)
28 ( 9.0%)
307 (100%)
(カイ2乗検定で、1%水準で有意)
10
を抱く住民も4分の1を越えており、これは、少なくない比率である。
では、住民の中でも、どういう層が、転出希望を有しているのであろうか。
表1−1は、年齢別に無回答の人を除外した上で、居住継続の意向についての回答を表したもので
ある。「居住継続」の意向が強いのは、50代、60代、70代であること、逆に、「転出希望」の
率が、全体平均(27.7%)より多いのは、20代、30代、40代であることがわかる。特に、30代
の場合、「転出希望」と「迷っている」の合計が、54.8%となっていることは注目される。
一般に年齢の若い人ほど、生活設計の上で、さまざまな選択肢を持っているし、進学や就職をきっ
かけに、居住地を変更することは、頻繁に起こってくる。一人の個人のライフチャンスの開拓という
点から見れば、居住地の変更が、人生の新しい展望を切り開くことに強い関連を有するものである。
しかし、まちづくりの将来を考える際には、相対的に若い世代に、このような転出志向が強いという
ことを、十分留意する必要がある。
では、転出希望の背景にある理由はいかなるものであろうか。引っ越したいと考えている住民に、
その「最大の理由」と「二番目の理由」を質問してみた(問10-2)。この二つの理由についての回答
を合計すると、引っ越したいと考える第1位の理由は「医療福祉体制が十分でない」(36.7%)、第2
位の理由は「良い働き場所が少ない」(31.1%)、第3位の理由は「天候条件が厳しい」(26.7%)で
あった。これらは、いずれも、住民の生活の基盤的条件にかかわるものであり、これらについての判
断が引っ越したい理由の上位に並ぶのはうなずけるものがある。第4番目に多い理由は「核燃への不
安がある」(23.3%)であり、これは、第5番目の理由の「住宅事情や道路・上下水道などの生活基盤
がよくない」(21.1%)や、第6番目の理由の「娯楽や文化活動の機会が乏しい」(20.0%)よりも多
い。天候は人為的、社会的要因ではないことを考えると、「核燃への不安」社会的理由としては、三
番目に来ることになる。ここには「核燃への不安」が六ヶ所村特有の要因として作用していることが
表れている。
[3]まちづくりへの要望
では、六ヶ所村民は、現在、地域生活の改善について、どのような要望を抱いているだろうか。ま
た、まちづくりの方向性について、どのような希望を持っているだろうか。
「まちづくりのために、今後、行政に特に努力してほしいと思う課題」(問19)について、15項
目をあげて3つを選択してもらったところ、第1番目は「保健・医療の施設やサービス」(37.6%)、
第2番目は「交通の便利さ」(32.8%)、第3番目は「福祉や介護のための施設やサービス」(28.9
%)、となった。これらは、先に見た「引っ越したい理由」とほぼ対応しており、行政にとって今後の
課題としてまず優先的に取り組むべき課題となっている。第4番目には「原子力の安全対策」(26.1
%)があげられており、それとほとんど同じ率で、第5番目には「雇用機会の確保」(24.8%)、第6
番目には「子供の学校や教育条件」(24.1%)が選ばれている。これらは、いずれも切実な課題であり、
地域生活の現状から、このようなニーズが強く浮上していると考えられる。
それでは、大局的なまちづくりの方向性については住民はどのような希望をもっているだろうか。
「六ヶ所村は将来どのような産業を中心として発展すべきだと思いますか」(問18)についての回答
は、第1番目は「農林業・漁業を中心にしていく」(21.9%)、第2番目は「原子力に関連した工業を
中心にしていく」(21.5%)という形で、異なる方向性が拮抗している。第3番目が「観光、レクリエ
ーション産業を中心にしていく」(16.1%)であり、第4番目が「原子力以外の工業を中心にしてい
く」(13.8%)となっている。
このような意見分布が、各住民の仕事上の立場とどのように関係しているのかを検討してみよう。
回答者は、仕事上の「日本原燃との関係」(問30)の有無によって、二つのグループに分けること
が出来る。本調査の問30では、回答者本人も含めて、家族の中に、仕事上、日本原燃と関係を有する
人がいるかどうかを質問している。家族の中に関係を有する人がいるのは、「日本原燃で働いている
者がいる」(15.1%)、「日本原燃の関連会社で働いている者がいる」(17.4%)、「仕事上、日本原
燃やその関連会社との取引が重要である者がいる」(8.7%)の三つの場合であり、その合計は41.2%に
11
表1−2
「日本原燃との関係」別に見た「将来、中心とすべき産業」
家族の仕事上の日本原燃との関係(問30)
関係あり
関係なし
計
農林業・漁業を中心に
21 (17.2%)
46(29.9%) 67 (24.3%)
将 来 、 中 商業を中心にしていく
6 ( 4.9%)
11( 7.1%) 17 ( 6.2%)
心 と す べ 観光・レクリエーション産業
23 (18.9%)
24(15.6%) 47 (17.0%)
き産業
文化・教育に関する産業
19 (15.6%)
20(13.0%) 39 (14.1%)
(問18)
原子力に関連した工業
42 (34.4%)
23(14.9%) 65 (23.6%)
原子力以外の工業
11 ( 9.0%)
30(19.5%) 41 (14.9%)
計
122 (100%)
154(100%) 276 (100%)
(カイ2乗検定で、1%水準で有意)
達する。他方、「仕事上、日本原燃やその関連会社との関係がある者はいない」は55.0%
であり、関連のない人のほうが多数ではあるが、約4割の家族が、仕事上、日本原燃と重要なつな
がりを有しているということは、非常に高い割合であると言えよう。そこで、「仕事上の日本原燃と
の関係」の有無と、「将来、中心とすべき産業」(問18)のクロス表をとってみると、表1−2のよ
うになる。
仕事上「日本原燃との関係がある」住民グループでは、「今後、中心とすべき産業」の第1位が
「原子力に関連した工業」(34.4%)であり、第2位は「観光・レクリエーション産業」(18.9%)、
第3位は「農林業・漁業」(17.2%)となっている。これに対して、仕事上「日本原燃との関係がな
い」住民グループでは、第1位が「農林業・漁業」(29.9%)、第2位が「原子力以外の工業」(19.5
%)、第3位が「観光・レクリエーション産業」(15.6%)となっており、原子力関連以外の産業が上
位に並んでいる。「原子力に関連した工業」は14.9%であり、第4位となっている。ここには、現在の
家族において日本原燃と仕事上の関係が有るか無いかということが、将来のまちづくりの中心とすべ
き産業について、異なる意見を帰結していることが明確に現れている。将来の中心的産業を「農林業
・漁業」とする意見と、「原子力に関連した工業」とする意見が拮抗している背景には、それぞれを
選好する住民グループの立場の構造的相違という要因が存在している。以下では、このように重要性
が浮上してきた原子力関連施設を焦点にして分析を進めることにする。
(3)エネルギー政策と核燃料サイクル施設問題についての意見
1971年夏以来、六ヶ所村の歴史はむつ小川原開発計画の対象地域としてこの開発計画の進展と変遷
に深く規定されてきた。1985年には、むつ小川原開発計画の延長上に、核燃料サイクル施設の立地協
定がなされ、関連施設が段階的に建設されてきた。それとともに、六ヶ所村に搬入される放射性廃棄
物の種類と量も増えてきている。六ヶ所村のまちづくりにとって、むつ小川原開発計画と核燃料サイ
クル施設の建設計画が開発事業として実施されてきたことは、他の自治体に見られないきわめて重要
な特徴である。以下では、これら開発関連の諸事業に関する住民意識について、どのような調査結果
が得られたかを、核燃料サイクル建設問題を中心に、記述してみたい。
[1]核燃料サイクル施設に対する総括的意見
1971年からのむつ小川原開発計画と、1985年からの核燃料サイクル施設の立地の進展を住民はどの
ように評価しているであろうか。
「むつ小川原開発への賛否」(問13)の回答を見てみよう。問13への回答によると、「一貫して賛
成であった」(15.1%)と「初めは反対であったが、現在は賛成している」(15.4%)という肯定的意
見が、合計で、30.5%であるのに対して、「一貫して反対だった」(8.7%)と「初めは賛成であったが、
現在は反対している」(5.1%)という否定的意見があわせて、13.8%である。このように現在は、賛成
意見が反対意見の倍以上になっている。回答から計算すると、以前では「反対」が24.1%、「賛成」が
20.3%であったから、賛否が逆転している。
12
だが、これらの形で賛否を表明した住民は半数に満たない。最も多かった回答は「昔のことでわか
らない」(54.3%)であった。特に、この回答は、年齢別に見ると、20代では96.4%、30代では83.0%に
達し、若い世代において顕著である。「1995年意識調査」では同じ質問に対して、「昔のことでわか
らない」が24.2%であったので、8年の間に「わからない」が、ほぼ倍増していることになる。
つぎに、「核燃施設への賛否」(問14)の回答を見てみよう。「一貫して賛成であった」(17.4%)
と「初めは反対であったが、現在は賛成している」(23.5%)を合わせると、現在の「賛成」は、40.8%
である。これに対して「一貫して反対であった」(10.0%)と「初めは賛成であったが、現在は反対し
ている」(3.9%)を合わせると、現在の「反対」の意見は、13.8%である。このように、全体として見
ると、核燃施設の立地については肯定的な意見が、反対意見の三倍近くになっている。回答データよ
り、以前の段階での核燃への賛否を集計してみると、以前の「賛成」は21.4%であるのに対して、「反
対」は33.4%となり、当初は反対意見が多かったものが、現在では、賛否が逆転していることがわかる。
だが、核燃料サイクル施設についても最多の回答は「以前のことなので、わからない」(40.8%)で
あり、賛成意見の合計と同数に達していた。
以上の結果より言えることは、第1に、むつ小川原開発についても核燃料サイクル施設建設につい
ても、それぞれの事業の当初段階では反対意見の人が多かったのに対して、現在では賛成意見が多数
になっていること、第2に、むつ小川原開発についても核燃料サイクル施設についても、過去の事業
開始時のことについて直接的経験を持たない村民が増えていくにつれて「わからない」とする人々が
増えていること、である。このことは、二回にわたって、当初の村民の多数意見を押さえ込む形で、1
970年代にはむつ小川原開発が、1980代には核燃サイクル施設の立地が、青森県庁・政府・事業者によ
って強行されてきたことを意味している。そして、そのような歴史的経過が、時間の経過とともに、
村民の記憶から失われていく傾向が見て取れる。
このような意見分布の背景にある社会的条件はどのようなものだろうか。回答者の「日本原燃との
関係」(問30)を見てみよう。先に見たように、住民は、家族の中に、仕事上、日本原燃と関係を有
する人がいるかどうかによって、大きく二つのグループに分けることができる。「関係がある」家族
が41.7%であり、「関係がない」家族が55.0%であった。
問30についての回答が示唆するのは、村民の中に、日本原燃との関係における経済的立場の分化が
進展していることである。就労と仕事上の取引先に関して、日本原燃と「関係がある者」と「関係が
ない者」とに、村民が大きく二分されている。日本原燃は、六ヶ所村の中で飛び抜けて巨大な事業所
であり、地域経済と村財政と村内の雇用機会に対して、他に比肩するもののない大きな影響力を及ぼ
している。各家族から見れば、日本原燃を中心に、雇用機会の提供という形で、経済的受益機会の圏
域が形成されており、六ヶ所村の各家族の経済的利害状況は、核燃料サイクル事業の中心的担い手で
ある日本原燃との関係において、上記の問30についての回答のように分岐しているのである。
さらに、「関係がない者」には、今回の調査回答に現れていない「長期出稼ぎ者」も存在している。
長期出稼ぎによる調査票の回収不能は、30件強にも達しているが、この人たちは、日本原燃による経
済的受益機会からもっとも離れた所に位置する人々である。
一言で言えば、核燃料サイクル事業の進展は、日本原燃を頂点とした閉鎖的受益圏の階層構造を六
ヶ所村につくり出したのであり、そのような具体的内容を伴う形で、 「拠点施設を基軸にした地域社
会の変形」が進行したのである。
核燃料サイクル施設に対する意見が、当初と現在とでは、賛否逆転したことは、このような経済的
受益機会の形成とひろがりという事態に深い関係があるものと推定される。以下の核燃料サイクル関
連の質問に対しては、村民の中のこのような立場の違いがどのような意見の違いを生み出しているの
か、ということに注目していきたい。
[2]根深い安全性への不安
核燃料サイクル施設に対して、住民はどのような意識をもっているだろうか。まず安全性/危険性
に関連する質問や不安感についての回答を見てみよう。ここで取り上げる質問は「核燃施設について
13
の危険性」(問15ア)、「村民の不安感」(問17)、「原子力事故の可能性」(問26ア)、「事故対
策」(問15コ)の4つである。安全性については、第16章で詳細な検討がなされるが、ここでは、ま
ず村民の安全性に対する意識の概況をみてみよう。
まず、「核燃施設は危険であり、環境を汚染する可能性が高い」(問15ア)という意見については、
「同意」が68.5%であり、「不同意」が26.7%となっている。三分の二以上の村民が、核燃施設の危険
性を感じ、環境汚染の可能性が高いと見ている。
つぎに、「村民のあいだに、核燃料サイクル施設の安全性についてはどのような意見が多いと思い
ますか」(問17)という問に対する回答を見ると、「不安を感じている人のほうが、ずっと多いと思
う」が37.3%、「不安を感じている人のほうが、やや多いと思う」が29.6%であり、両者をあわせると
「不安を感じている人が多数」の意見は66.9%となり、村民の三分の二をこえている。これに対して、
「安心している人のほうが、ずっと多いと思う」は3.2%、「安心している人のほうが、やや多いと思
う」は8.7%であり、その合計は11.9%にとどまった。「不安を感じている人が多数」という意見は、
「安心を感じている人が多数」という意見の5.6倍にも達している。村民一般が不安を感じているとい
う認知が、非常に拡がっている。
より一般的に「原子力の事故を完全に防ぐことは不可能だ」(問26ア)という意見への賛否をたず
ねた所、「同意」は71.4%、「不同意」は14.2%となっており、核燃施設への不安感は、原子力事業一
般に伴う事故への懸念を背景にしていることがわかる。
この回答は、「1995年意識調査」の中での関心事項についての質問において、「チェルノブイリ原
発事故」に対して「非常に関心がある」(54.0%)と「まあ関心がある」(27.8%)の合計が81.8%に達
していたことと、照応するものである。
このような施設の危険性に対する不安感と裏腹の関係にあるのは、事故発生時の対処についての行
政や事業者に対する信頼感の有無である。
「万一の事故が起きても、事業者と行政は安全に対処する態勢ができている」(問15コ)という意
見に対しては、「同意」が36.7%なのに対して、「不同意」は52.4%であり、事故発生時の際の行政と
事業者の対処の態勢については、信頼をしていない人のほうが多い。
このように、核燃施設の危険性に対する不安感は、全体としての村民の多数意見として見られるも
のである。ただし、さらに注目されるのは、仕事上の日本原燃との関係の深浅によって、これらの問
の答えに顕著な差異が見出されることである。「核燃施設の危険性」(問15ア)、「事故対策」(問1
5コ)について、カテゴリー合併した2×2のクロス表(表1−3)を示すと、この二つの村民グルー
プで明確な意見の差異がみられ、家族の仕事上、日本原燃との関係がある村民ほど、核燃事業に対す
る警戒的・批判的意見が少なくなっている。逆に、日本原燃と仕事上の関係が薄い村民においては、
警戒的・批判的意見がきわめて高いものになっている。
表1−3
「日本原燃との関係」別に見た核燃施設についての意見
家族の仕事上の日本原燃との関係
(問30)
核燃施設は危険であり、環境を汚染す 同意
る可能性が高い(問15ア)
不同意
計
万一の事故が起きても、事業者と行政 同意
は安全に対処する態勢ができている
(問15コ)
不同意
計
関係あり
関係なし
72 (57.6%)
133 (82.6%)
53 (42.4%)
28 (17.4%)
125 (100 %)
161 (100 %)
63 (52.5%)
49 (33.1%)
(N=268,
57 (47.5%)
99 (66.9%)
1%水準で有意)
120 (100 %)
148 (100 %)
(N=286,
1%水準で有意)
このように安全性に対しては、根深い不安を村民が抱いているにもかかわらず、先に見たように、核
燃料サイクル施設に対して、現在では、賛成意見が多数になっているのはなぜであろうか。そこで次
に、経済的メリットの評価という要因の作用を検討してみよう。
14
[3]受容的態度の背景としての経済的・財政的メリットの評価
核燃料サイクル施設と経済的・財政的受益との関係に関する質問としては、「核燃施設の財政効
果」(問15イ)、「核燃施設の雇用効果」(問15エ)、「若者流出阻止」(問15オ)がある。
「核燃施設は、交付金や税収で村の財政を豊かにする」(問15イ)という意見については、「同
意」が76.2%であるのに対して、「不同意」は15.8%であり、税収に対する効果が大きいことを、四分
の三以上の住民が承認している。この同意の率の高さは、問15に提示した核燃施設についての13の意
見のうちで、二番目に高いものである。
また、「核燃施設は雇用を増やし、村民を豊かにする」(問15エ)という意見については、「同
意」が54.7%であり、「不同意」が36.3%であり、財政効果ほど強い賛同ではないが、雇用効果につい
ても、過半数の住民が承認している。
このように、核燃料サイクル施設のプラスの効果としては、地元への財政的・経済的メリットが、
広範な村民によって承認されているのである。なお、このような青森県における財政的利害状況と開
発政策との関係については、第4章で検討を試みることにしたい。
これに関連して「核燃施設は若者の村外流出をくい止める」(問15オ)という意見については、
「同意」(44.4%)と「不同意」(45.7%)が拮抗している。ここには、核燃による雇用効果が存在し
ても、その有する効果は若者の流出に対する歯止めとしては限定的であるという認識が示されている。
実際、若者が生まれ育った地域社会から流出する傾向は、本人から見た新しいライフチャンスの模索
を背景にするがゆえに、どこの地域にも見られるものであり、それゆえ流出の動向は、「雇用の機
会」以外のさまざまな要因によって左右されるものである。「居住継続の意向」(問10)でも見たよ
うに、若者の転出志向には根強いものがあり、核燃施設の建設の生み出す、それに対する歯止めの効
果は限定的であるように見える。
[4]経済的効果ゆえの増設に対する両価的態度
それでは、今後の核燃施設の増設に対して、住民はどのような態度をとっているのだろうか。この
点に関して、まず「雇用のための核燃への期待」(問22)と「再処理工場の操業」(問25)について
の回答を見てみよう。
「村内の雇用機会を減少させないために、核燃施設に関連する工事をずっと続けてほしい」という
意見については、「同意」が46.3%、「不同意」が30.2%であり、同意する人は、不同意の人の約1.5倍
である。ここには、率直に、雇用機会の確保との関連で、核燃関連工事の継続を望む人が、相対的に
多数であることが示されている。しかし、「わからない」という答えも20.9%あり、そこには、ためら
いの気持ちが表明されていると見るべきであろう。「不同意」と「わからない」を合わせると、51.1%
となり、「同意」よりも多くなる。
では、調査時点では2005年夏に予定されていた、再処理工場の操業について、住民はどのように考
えているだろうか。「再処理工場の操業」(問25)についての意見を聞くと、もっとも多かった意見
は「不安はあるが、村への経済的効果があるので操業したほうがよい」で39.2%、次に多いのは「不安
があるので、できるものなら止めたい」が22.2%であった。また、「使い道のはっきりしないプルトニ
ウムを生み出すだけだから、操業しないほうがよい」は10.0%であり、「不安はないので操業してほし
い」は7.7%にとどまった。
この意見分布は、「操業してほしい/操業してほしくない」という対比でまとめるならば、「操業
してほしい」が47.0%に対して、「操業してほしくない」が、32.2%である。ところが、「不安はない
/不安あるいは疑問がある」という対比でまとめるならば、「不安はない」が、7.7%であるのに対し
て、「不安あるいは疑問がある」が、71.4%となる。
ここに、核燃料サイクル施設に対する村民の意識の複雑性が、凝縮的に表現されている。再処理工
場については、「操業してほしい」という結論的側面だけ見るならば、操業を肯定する意見が相対的
に多数であるが、それを支えている主たる動機は、経済的効果に対する評価である。だが、住民意識
の根底における「不安」の有無に注目するならば、再処理工場の操業に対しては、「不安あるいは疑
15
問がある」とする意見が圧倒的多数なのである。内心では不安と疑問を感じながら、経済的効果に注
目すれば操業を望むという形の複雑な住民意識がここに露呈している。
再処理工場の操業についてのこのような住民意識のあり方が示しているのは、再処理工場の操業の
是非という重大問題について、第2節(1)で指摘したような「異なる水準の利害関心と論理」の存
在である。日本政府や電力業界は、エネルギー政策内在的に見た合理性という見地から、再処理工場
の操業について議論しようとしている。これに対して、六ヶ所村政や六ヶ所村民の水準の事業推進論
で重視されているのは、自治体財政に対する増収効果や、自分の家族にとっての雇用機会という利害
要因である。これらの異なる水準において、これまで政治的に優勢な論理は、それぞれの水準で、核
燃料サイクル事業の推進を主張してきた。それゆえ、事業者も政府も県当局も村当局も、これまでは、
事業の推進について協力してきた。だが、今後、これらの異なる水準の利害関心と論理が予定調和す
る保証はない。再処理工場の操業の是非をめぐっては、異なる水準のさまざまな論理の乖離が生ずる
可能性が高い。
[5]核燃施設の増設に対する抑制的態度
では、長期的に見た場合、住民は村内における核燃料サイクル施設の将来についてどう考えている
だろうか。
このことを検討する前提として、まず、「温暖化防止の方法」(問23)についての住民の意見を見
てみよう。というのは、核燃料サイクル施設は、原子力発電を電力エネルギー供給源として重視する
ことを前提にしているのであるから、将来の温暖化防止政策やエネルギー政策と結びついており、こ
れらについての住民意識が、核燃料サイクル施設に対する判断にも影響すると考えられるからである。
「地球温暖化を防止するために、今後どのようなエネルギー対策を講ずるのが良いと思いますか」
(問23)という質問に対して複数回答をしてもらったところ、最多の回答は「太陽光発電、風力発電
などの新エネルギーの導入」(78.5%)であり、第2番目は「省エネルギーの推進」(47.6%)であっ
た。「原子力発電の開発推進」は、第3番目であるが、19.9%にとどまり、前2者に比較して、ずっと
低い比率にとどまっている。8割の住民が「原子力発電」を選択していないということは、原子力に
対する警戒心の広範さを示していると言えよう。なお、このようなエネルギー政策の将来の選択肢に
ついては、第17章で検討を加えている。
このような背景の確認の上で、核燃施設と雇用機会の関係を再度見てみよう。「核燃施設の操業や
関連する工事をやめても、別の方法で雇用が確保されるなら、核燃施設は縮小したほうがよい」(問2
2イ)という意見についての評価を見ると、「同意」が59.8%、「不同意」が19.9%、「わからない」が
18.7%という回答となっている。ここからは、核燃施設の受容意見が多数であるのは、あくまでもそれ
に随伴する経済的効果を評価するからであって、核燃施設それ自体の存在を好ましいものとして受け
入れているわけではないという態度が、村内の多数意見であることが読みとれる。この意見は、前述
のように「核燃施設についての危険性」(問15ア)、「村民の不安感」(問17)に関して、危険性の
認知が高く、不安と思う人が多数を占めているという認識に照応するものである。
経済的随伴効果を捨象した場合の核燃施設それ自体に対しては、受容的でないということは、「放
射性廃棄物抑制」に関する質問への回答に、より直接的に表明されている。「これ以上、六ヶ所村に
持ち込む放射性廃棄物の量や種類を増やさないでほしい」(問15ス)という意見に対しては「同意」
が72.4%であるのに対して、「不同意」は21.5%にとどまった。問15においては核燃施設について13の
意見を提示したが、この「放射性廃棄物抑制」の意見についての同意の高さは、13の意見のうち3番
目に位置し、村民の中でも非常に意見の一致が高い項目であった。
(4)住民の意志尊重の要求
それでは、今後の六ヶ所村のまちづくりにあたり、住民の意見を尊重しながら、それを推進するに
は、どのようなことに配慮すべきであろうか。
六ヶ所村のまちづくりにとって、他の自治体には見られない特有の条件は、大規模な核燃施設の建
16
設の進行という事態である。これは住民にとって、非常に重い制約条件として受け止められている。
「核燃施設は既にたくさん建設されたので、好むと好まざるとにかかわらず、この現実は変えられ
ない」(問15サ)という意見に、「同意」は81.0%、「不同意」は11.3%であった。ここには、既成事
実の重みを厳しく受け止めている態度が広まっていることが示されている。では、住民は、まちづく
りに対する主体的姿勢や意欲をうしなってしまっているのだろうか。この点で興味深いのは、「核燃
施設があるため、村のことを村民自身が決められなくなっている」(問15シ)という意見に対する賛
否である。この意見に「同意」は45.7%であり、「不同意」は45.0%であり、賛否が拮抗している。村
の自律性の喪失を感じる住民がほぼ半分弱であるのに対して、そうは思わない村民もほぼ同数いるの
である。
住民のまちづくりに対する一般的姿勢は、「まちづくりの主導権」(問20)に関する質問への答え
に現れている。「「まちづくり」の計画をつくる場合に、あなたは、住民と行政のどちらが主導する
のがよいと思いますか」(問20)に対して、「住民主導」を選んだ人は74.3%に達したのに対して、
「行政主導」を選んだ人は22.2%にすぎない。住民の約4分の3は、住民主導のまちづくりを志向して
いる。核燃施設という制約条件の重さにもかかわらず、村の自律性の喪失を否定する意見が半分近く
存在することは、このような住民主導の志向性が支配的であることを反映しているとも解釈できよう。
では、住民のこのような、まちづくりへの積極的志向性は、現在の地域政治の意志決定システムに
おいて、適切に表明されているであろうか。
住民の地域政治への意志表出として、もっとも代表的な回路は村長選挙や村会議員選挙である。こ
れらの選挙における投票基準はどうなっているだろうか。「あなたは村長選挙・村議会議員選挙の際
に、どのようなことを重視して投票していますか」(問11)をたずね、「最も重視していること」と
「次に重視していること」との回答を合計してみると、第1番目は「候補者の人柄」(49.4%)、第2
番目は「地元代表で地元の世話をよくすること」(42.6%)、第3番目は「まちづくりについての政
策」(25.8%)であった。これらの項目が上位に来るのは、個別の政策に対する賛否というよりも、包
括的・一般的な政策姿勢や資質を考慮して、投票がなされるという傾向である。そして、第4番目は
「職場や取引先の依頼やつながり」(16.8%)、第5番目は「親戚や知人からの依頼」(15.8%)であ
ったが、この二つの理由は地縁・血縁関係が投票行動の際の次に重要な要因になっていることを示唆
している。これに対して、「核燃問題についての政策」は第6番目の13.9%にとどまっており、個別的
政策としては最大の問題であると思われる「核燃問題」は、村長選挙や村議会選挙においては、中心
的争点という位置を与えられていないのである。いいかえれば、村長選挙や村議会選挙によって、結
果として、核燃事業を推進する立場の村長や議員が当選したとしても、それによって「村民は核燃事
業推進を選挙によって選択した」と結論づけるのは、論理的に無理があると言わねばならない(選挙
をめぐる諸問題については、第12章でより詳しく検討される)。
では、核燃問題という個別問題についての民意はどのようにして確かめられるのであろうか。「六
ヶ所村の核燃料サイクル施設の増設は、住民投票によって決めるべきだ」(問26ア)という意見につ
いての回答は、「同意」が60.5%、「不同意」が17.0%、「わからない」が21.2%となっている。核燃施
設について、住民投票をすべきだという意見は、それに同意しない意見の約3.5倍にも達するのである。
地域社会にとって重要な問題はそのつど住民投票で決定するべきだという意見の広まりは全国的傾向
であって、六ヶ所村にもそのような意見が広範に存在することが注目される。議会や行政もこのよう
な住民の意見を重視すべきではないだろうか。
まとめ
(1)以上の分析は住民意識の概要を示すだけであるが、その知見の要点を示せば、次のような複雑
な構造をもった意識のありようが浮上してくるのである。
①六ヶ所村には長期に居住している村民が多数であるが、若い世代ほど転出希望の志向性が強い。
②住民の生活ニーズとして、もっとも要望が強く表出されているのは、「保健・医療」「交通の便利
さ」「福祉や介護」に関する施設やサービスである。
17
③むつ小川原開発についても核燃サイクル事業についても、当初は反対意見の方が多かったが、現在
では賛成意見の方が多くなっている。
④核燃サイクル事業については、危険性についての広範に共有された根深い不安感がある。事業者側
の広報宣伝活動やオフサイトセンターの設置によっても、これらは解消されていない。
⑤不安にもかかわらず、相対的な多数意見は核燃サイクル事業を受容しているが(問14:40.8%)、そ
のような判断の中心的理由は、雇用などの経済的効果や自治体財政上のメリットである。
⑥住民の間に、日本原燃との仕事上の関係の有無によって、立場の違いが生じており、将来の中心的
産業の選択や、核燃施設に対する評価について、立場の違いを反映した大きな意見の分岐が存在す
る。すなわち、日本原燃を中心とする閉鎖的受益圏の階層構造が形成されており、「拠点施設を基
軸とした地域社会の変形」が生じており、それに規定されて、村民意識の分化が進行している。
⑦再処理工場の操業(問25)については、肯定(46.9%)が、反対(32.2%)より多数であるが、そこには経
済的効果への期待が大きく作用している。他方、操業に対して不安あるいは疑問を感じている者
(71.4%)は、不安はないとする者(7.7%)より遙かに多い。
⑧住民の多数は、放射性廃棄物の量や種類の増大をこれ以上望んでいない(問15ス:72.3%)。また
雇用が別の方法で確保されるならば、核燃施設の縮小を望んでいる(問22イ:59.8%)。
⑨村長選挙や村議会選挙の際の主要な判断基準は「候補者の人柄」や「地元の世話」であり、「核燃
問題についての政策」は、主要な判断基準とされていない。したがって、村議会選挙や村長選挙の
結果において、開発事業や核燃推進の候補者が当選したとしても、それをもって、「村民は核燃推
進を支持している」ことの根拠とするのは、論理の飛躍とすり替えがある。
⑩住民の多数はまちづくりを「住民主導」で進めることを望んでいる(問20:74.3%)。また核燃施設
の増設については「住民投票」で決めることを望んでいる(問26ア:60.5%)。
(2)以上の調査結果とこれまでの歴史的経過を回顧すると、六ヶ所村村民の多数意見は、開発を推
進しようとする青森県庁と政府によって少なくとも三回にわたって、無視されてきたことがわかる。
すなわち、その時々の村民の多数意見とは対立する方針が、外から地域社会に押し付けられてきた。
第一回目は、1971年ごろのむつ小川原開発の開始時であり、本調査結果によれば、当時は、反対意見
のほうが村民の多数派であった。第二回目は、1984年以後の核燃料サイクル施設の立地決定の時点で
あり、本調査結果によれば、当初は、核燃料サイクル施設の立地に反対の村民が多数派であった。第
三回目は、現在の時点における放射性廃棄物の搬入についてであり、本調査結果によれば、村民の多
数意見は、村内に持ち込まれる放射性廃棄物の種類と量を増加させないことを望んでいる。しかし、
これらの三回にわたって、現実には村民の多数意見を押しつぶす形で開発政策が進行してきた。第2
節(5)で指摘したように「村民の自己決定性」が大切であるにもかかわらず、それが尊重されてこ
なかった歴史をこの調査結果は浮き彫りにしている。 このような青森県における歴史的経過と六ヶ所村の
住民意識を見ると、青森県と六ヶ所村の運命に「痛ましい」という思いを禁じ得ないのである。
<注>
(1) 第1節における事実経過については、全体として、舩橋(1998a)や長谷川(1998)に依拠している。
(2) 誘致型開発の対極に位置する開発理念は、「内発的発展」である。
(3) 青森県庁むつ小川原開発室の元幹部からの聞き取り(1990年8月)による。
(4) ある六ヶ所村職員からの聞き取り(1995年8月)による。
(5) なお、調査に要する経費については法政大学社会学部政策研究実習費に加えて、文部省科学研究費を使
用した。
<文献>
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18
報』No.47:7.
田中眞紀子(科学技術庁長官),1994,「高レベル放射性廃棄物の最終的な処分について(回答)」『核燃問
題情報』No.47:7-8.
田中眞紀子(科学技術庁長官),1995,「高レベル放射性廃棄物の最終的な処分について」『核燃問題情報』
No.50:4.
内藤辰美,1998,『核燃サイクル施設と地域住民──青森県六ヶ所村の場合』(平成7・8年度科学研究費補
助金(基盤研究A・1)研究成果報告書)
長谷川公一,1998,「核燃料サイクル問題の経過と概要」、舩橋晴俊・長谷川公一・飯島伸子編『巨大地域開発の構想
と帰結−むつ小川原開発と核燃料サイクル施設』東京大学出版会,43-72頁.
平野良一・西尾漠,1996,『核のゴミがなぜ六ヶ所村に──原子力発電の生み出すもの』創史社
舩橋晴俊,1998a,「むつ小川原開発問題の経過と概要」、舩橋晴俊・長谷川公一・飯島伸子編『巨大地域開発の構想
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舩橋晴俊,1998b,「開発の性格変容と意志決定過程の特質」、舩橋晴俊・長谷川公一・飯島伸子編『巨大地域開発の
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19
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