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太宰治と
九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 59 太宰治とシラー 太宰の作品におけるシラーの影響について 九頭見 和 夫 依頼により,昭和10年(1935)10月号の「文藝春 1 はじめに 秋」に競作した4編の内の1編で,他は「起承韓々」 昭和15年(1940)1月から翌年7月までの約一 (高見順),「春秋」(外村繁),「黄昏學校」(衣巻 年半,太宰治は西洋の古典や小説などを素材とし 省三)である。新しい創作方法を用いた自信作と たいわゆる翻案小説をたてつづけに発表した。発 いえるこの作品について,弘前高以来私淑してい 表順に記すと,昭和15年の『女の決闘』,『駈込み た芥川の名が冠せられた第一回「芥川賞」を受賞 訴え』,『走れメロス』,『古典風』,『乞食学生』, できなかった悔しさも加わってか,太宰は随所で そして昭和16年の『新ハムレット』。これらの作 強気の発言をくり返している・太宰の書簡2通, 品のうちドイツ文学を主な素材としたものは,オ イレンベルク (H.Eulenberg,1876−1949)の んど「文藝春秋」に「ダス・ゲマイネ」なる小説 ・Ein Frauenzweikampf“(女の決闘)からの 『女の決闘』,シラー(F.v.Schiller,1759−1805) のBallade・Die B血gschaft“(人質)からの『走 れメロス』,そしてマイヤー=フェルスター(W. Meyer=F6rster,1862−1934)の。Alt−Heidel− belg“(アルト・ハイデルベルク)などからの 『乞食学生』である。 この論文においては太宰と特にシラーとの関係 を究明してみたい:太宰はシラーからその生涯と 作品にいかなる影響を受けたのか・末尾に「古伝 説とシルレルの詩から」と太宰自身がその出典を いずれも昭和10年9月22日付,を紹介する。「こ ひぞく 発表いたしましたが,これは「卑俗」の勝利を書 いたっもりです。「卑俗」といふものは,恥辱だ と思はなければ,それで立派なもので,恥辱だと しゅうしゅう 思ったら最後,収拾できないくらい,きたなく なります。たのみますと言って頭をさげる,その 尊さを書きました。形式は前人末踏の道をとつた っもりです。私自身でさへ,他の作家に気の毒な くらみに,(絶対に皮肉ではなしに)ずば抜けて みると思ってゐます。客観的に冷静に見て,さう なのです。月評子,あるひは,悪口を言ふかも知 れませんが,それは,たった一日の現象です。私 明記した『走れメロス』の場合を除き,太宰への の「ダス・ゲマイネ」は一日では消え失せないも シラーの影響についての研究はこれまで必ずしも のがあると,確信してゐます。」(XI.46)(三浦正 十分ではなかったと思われる。『走れメロス』以 次宛),「ぼくのいまの言葉をそのままに信じて下 外にシラーの影響など太宰はほとんど受けていな さい。(文藝春秋十月号)衣巻,高見の両君には いという解釈もあるいは可能かもしれない。この ことも含め本論文においては,以下の2点を中心 気の毒であった。コンデションもわるかったのだ と思ひます。外村氏のは面白かつた。量感がたっ に太宰の作品へのシラーの影響について考察する: 1)『ダス・ゲマイネ』とケーベル(R.v. ぷりしてゐます。くらべるのではありません。け れども僕の作品は,歴史的にさへずば抜けてゐま Koeber)のシラー論。2)シラーのBalla(1eとの す。自分から,こんなことを言ふのは,生れては 出会い。特に『走れメロス』との関係。 じめてのことです。感激さへしてゐます。」(XI. 46)(神戸雄一宛) 太宰の自信は相当なもので 皿 『ダス・ゲマイネ』とケーベルのシラー 論 あるが,題名の奇抜さばかりか,太宰の言葉をか りれば,「前人未踏の道をとった」形式のユニー 太宰の初期の作品に『ダス・ゲマイネ』がある。 クさ,それに「日本浪曼派,第一巻第九号」(昭 この作品は,第一回「芥川賞」受賞者石川達三を 和10年12月)に発表した自作の解説「ダス・ゲマ イネに就いて」での文壇の大御所菊地寛への個人 除く「芥川賞」最終候補者4名が,文藝春秋社の 60 福島大学教育学部論集第46号 1989−11 攻撃,などもあって,川端康成,林房雄等による (深田康算・久保勉共訳,岩波書店,大正8年), 比較的好意的な論評も一部認められはするが’), ②『ケーベル博士随筆集』(久保勉訳,岩波文庫, 文壇全体としてみると,この作品で試みた太宰の 昭和3年),③『ケーベル博士績小品集』(久保勉 意図は必ずしも十分には理解されなかったという 訳,岩波書店,大正12年),④『ラファーエル・ のが実状のようである。 ケーベル集』(久保勉・深田康算共訳,『現代日本 この作品を論ずる場合,「前人末踏の道をとっ 文学全集,第57巻』所収,改造社,昭和6年)。 これらの翻訳文献のうち「シルレル論」が載って た」形式,すなわち太宰が試みた新しい創作方法 の検討も重要と思われるが,本論文においては 『ダス・ゲマイネ』というユニークな題名の解明 を中心に太宰がこの作品を書くに至った経緯,他 いるのは,①と④である。いずれを太宰が読んだ か定かでないが,おそらく④であろう。理由はい くつかあげられるが,太宰が読まさせられた時期 の作品からの影響,などを考察してみたい。すで が昭和8年であること,④が収められているのが, に引用した書簡にも『ダス・ゲマイネ』創作の意 比較的目にっき入手しやすい『現代日本文学全集』 図が述べられているが,さらにこの意図を明確化 であること,などである。いずれを太宰が読んだ するため,太宰が「日本浪曼派」に発表した目作 にせよ,翻訳者が同じなので内容上の影響はない の解説「ダス・ゲマイネに就いて」の一部を引用 と思われる。以下④のシラーに関する論文「心霊 する。「いまより,まる2年ほどまへ,ケエベル 先生の「シルレル論」を讀み,否,讃まされ,シ の指導者シルラー」の中から,「ダス・ゲマイネ」 ルレルはその作品に於いて,人の性よりしてダス・ ス・ゲマイネに就いて」の中で言及しているシル レルに対応する部分,を引用する。「シルラーは ゲマイネ(卑俗)を駆逐し,ウール・シュタンド (本然の状態)に帰らせた。そこにこそ,まこと の自由が生れた。そんな所論を見つけたわけだ。 ケエベル先生は,かの,きよらなる顔をして, 「私たち,なかなかにこのダス・ゲマイネといふ 泥地から足を抜けないもので,一」と嘆じてみ た。私もまた,かるい溜息をもらした。「ダス・ ゲマイネ」「ダス・ゲマイネ」この想念のかなし について論じた個所の一部,すなわち太宰が「ダ われら ダスしゲマイネ ひ われら 我等を平俗から引き離すことによって,我等の ほんしつ がくしん ふちゃく かなくそ ぢときま ひかり 本質の核心に付着せる鐵尿を除去し,さうして光 にすがた われら ほんらいぞく の子として又神の肖像としての我等が本來属す ところ じゅん エレメント きょうち われら ふく る所の純なる元素(境地)に我等を復しめるので しんがくてき つぎ ごと い で き ある。これは神學的に次の如く言ふことも出來よ にんげん さいはひ かれ にんげん う。シルラーの人間を福にするは,彼が人間を ほんらいの シュタンド ひ もど 『本来の状態』に引き戻すからである,と。」3)前 さが,私の頭の一隅にこびりついて離れなかった。 に引用した「ダス・ゲマイネに就いて」と比較し いま日本に於いて,多少ともウール・シュタンド て気になるのは,ポイントとなる単語の日本語訳 ぶんし きんだち に近き文士は,白樺派の公達,葛西善蔵,佐藤春 が微妙に異なっていることである:①Schillerの 夫。佐藤,葛西,両氏に於いては,自由などとい ふよりは,稀代のすねものとでも言ったほうが, 者名Koeberの日本語表記が「ケエベル」と「ケー 日本語表記が「シルレル」と「シルラー」,②著 よりょく目由といふ意味を言ひ得て妙なふうであ ベル」,③ダス・ゲマイネが「卑俗」と「平俗」, る。ダス・ゲマイネは,菊地寛である。」(X.23) ④ウール・シュタンドが「本然の状態」と「本来 『ダス・ゲマイネ』解明の有力な手掛かりがあ らわれた。2年ほどまえに読まさせられた「ケエ の状態」。特に気になるのは③である。すでに引 用した書簡でも太宰は「卑俗」を用いている・こ ベルのシルレル論」である。「二年ほどまへ」と れらの事実から想定されることは以下の3点であ は,この「ダス・ゲマイネに就いて」が発表され る:1)太宰は原本(ドイツ語)でケーベルのシラー たのが昭和10年12月であるから,昭和8年後半と 論を読んだ。2)国立国会図書館編集の翻訳文献目 いうことになる。太宰にこの「シルレル論」を読 ませた相手も気になるが,まず太宰が読まさせら 録に載っていない文献を太宰は参看した。3)太宰 れた「ケエベルのシルレル論」とは具体的に何か を解明してみたい。」国立国会図書館編『明治・ 最も高いと思われるが,その理由をのべる前に, 大正・昭和翻訳文学目録』によれば,該当する昭 人文書院発行『思ひ出』(昭和15年)に付された 和8年以前に発行されたケエベル関係の翻訳は以 下の4点である2):①『ケーベル博士小品集』 「『思ひ出』序」にもあるので引用する。「『ダス・ が自分流に原文を改変した。可能性として3)が 『ダス・ゲマイネ』について太宰自身の解説が, ゲマイネ』は,昭和十年に書いた。二十七歳であ 九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 61 る。DasGemeineは,通俗性の意である。人の るが,参看したと思われる翻訳の日本語表記に関 心の奥底に必ず,巣食ってみるものである。」(×. 係なく,なぜか太宰は一貫して「シルレル」を用 いている。例えば『ダス・ゲマイネ』の本文中に 378−379)ここでは「通俗性」という表現を太宰 は用いている。このように太宰の「ダス・ゲマイ も「なんといふ型のものであるか私には判らぬけ ネ」についての訳語が一貫しないことから判断し れども,ひとめ見た印象で言へば,シルレルの外 て,太宰の参看した文献を特定する際,「卑俗」 套である。」(315)とある。『走れメロス』,「心の という日本語訳を用いた翻訳文献にこだわる必要 王者」,「諸君の位置」,すべて「シルレル」が使 はないと思われる。そこで3)の可能性の高い理 由についてであるが,まず美知子夫人と親友檀一 われている。③の場合のような言葉の内容に関係 雄の証言を紹介する。「私は,高校卒業くらいま で統一していること,が気になる。内容に関係の でに東西の古典はほとんど読了したのだろうか, ない単純なことなので,一度憶えこんだら,とい する改変でないこと,しかも終始一貫「シルレル」 端座読書の姿を見ることはあまりないが,いっ読 うことであろうか。この件については『走れメロ 書するのだろう,早朝ひとり目覚めて,家族の起 ス』の所でもう一度触れたい。なお②は①と,④ き出すまで床の中で読むのだろうか,などと本気 は③と同じレベルの問題なのでコンメトを省略す で疑問に思っていた。結局,す早く本を選別し, る。これまでの検討の結果,檀一雄の証言などを 選んだその一冊の精粋をつかんでしまうのでない か。手にとってパラパラ繰っている間に,もう何 参考に,太宰は,『ダス・ゲマイネ』を執筆する かを感得するたぐいの読書家ではなかったかと思 際,昭和5年発行の『現代日本文学全集ラファー エル・ケーベル集』に収められたシラー論を参看 う。」(津島美知子)’),「素的な文章は,すぐひろっ したとの推論をひき出した。この推論は,これか てきて,それをうまく転化したな。婦人雑誌を読 ら言及するダス・ゲマイネの意味・内容とも関わ んでいても,普通の人ならボンヤリ読んでいる何 りがあり,断定はできないが,おそらく的をはず でもない記事を,目分流に変えてしまう。太宰は, してはいないと思われる。しかしここで参考のた 微妙な屈接するレンズをもっていたんですね。そ のレンズにあてるから,その色合いも角度も変わ め,檀一雄の証言と異なり,太宰が気に入った言 る。それを表現するわけだ。」5),「しばしば,気 葉を改変せず,訳語をそっくりそのまま作品に用 いた場合もしばしばみられたことも指摘しておき に入った文句を,自分流の妄想で勝手に,改変し たい。例えば『道化の華』に「美しい感情を以て, た原文の章句を,これまた自分流に口調よく作り 人は,悪い文学を作る。」(121)の個所がある。 なおして,人に聞かせたり,引用したりしていた が,時に,原本の本旨と全くかけ違ったことすら 「川端康成へ」の中で太宰が参看したことを告白 ある。」(檀一雄)6)この太宰の身近かにいた二人 の証言で3)採用の理由として十分であろう。そ れから「ケエベル先生は,かの,きよらなる顔を この表現を,『文芸通信』(昭和10年)に発表した したアンドレ・ジイドの翻訳書(アンドレ・ヂイ ド:ドストエフスキー,武者小路實光・小西茂也 共訳,日向堂.昭和5年)の表現と比較すると, までの部分は,太宰が気に入った文章を見つけた 意外にも両方の表現は完全に一致している・ただ し,著者名A.Gideの日本語表記は,翻訳書では 時よくする癖といっていいであろう。例えば檀一 「ヂイド」,「川端康成へ」では「ジッド」と異なっ 雄によれば,太宰がその生涯において「鐘愛」し ている。同様のことは,詳しくは『走れメロス』 た言葉「生くることに心せき,感ずることも急が るる」をレールモントフの訳本の中に発見した時, のところで触れるが,シラーの詩・Die Teilung der Frde“(地球の分配)についてもいえる。太 太宰はレールモントフの口絵を飽かず眺めて嘆息 宰はこの詩を「心の王者」及び「諸君の位置」の していたとのことである。マ)ケーベル(1848−192 中で翻訳書の表現に従い極めて正確に引用してい る。この他にもケーベルのシラー論の表現を太宰 して」から「私もまた,かるい溜息をもらした」 3)が東大で西洋哲学を講義したのは1893年から1 914年までの21年間,太宰が東大の仏文科に在籍 したのは1930年から1935年までの5年半,「きよ が友人に対して改変せずに正確に伝えたという証 らなる顔」に直接太宰が接することは不可能であ 言もある。「あれは昭和十年だったね。芥川賞の 第一回の候補になった四人の新人(高見順・太宰 る。つぎに①Schillerの日本語表記についてであ 治・外村繁・衣巻省三)が「文芸春秋」に競作し 62 福島大学教育学部論集第46号 1989−11 た,そのうちの一つだった。ダス・ゲマイネって どういう意味だねときいたことがある。するとき versc置mt,fr㏄h.6.wenignett,unfair,Ar− みは,やや顔を赫らめながら,ドイツ語なんだ…… ger erregend.7.sehr。“(。Brockhaus Wahrig. 平俗……ヘイゾクだよと答えてくれたことをおぼ Deutsches W6rterbuch in sechs Banden.‘)11) えている。」8)これは伊馬春部の証言であるが, 5.30rdin昌』r,unflatig,unanst㎞(iig. 5.4un− 「①(gemeinsam)共通(同・有)の.②(allge− おそらく太宰は,予期せぬ質問にあわて,「卑俗」 mein)一般の,全般の;公(gew6hnlich)普通の; とか「通俗性」とか改変するひまもなく,翻訳書 通常(日常)の,平凡な,並の;世俗的な.④(a) でみたままを,おうむがえしに「平俗」と答えた ものと思われる。この証言も加えて判断すると, 身分の低い,下賎の,げびた,野卑な;ひきょう 先ほどの推論,太宰は「ダス・ゲマイネ』執筆の かつくような;実に不快な,ひどい(天気・苦痛 な,卑劣な.(bl(ekelig)胸が悪くなるような,む 際に『現代日本文学全集,ラファーエル・ケーベ など).⑤sich∼machem.(a)下賎な人と同等に交 ル集』に収められた「心霊の指導者シルラー」を 参看した,の正確度は極めて高いと思われる。 むと わる.(b)下賎な人と交わって身を貶す,品位を汚 それではなぜ太宰は,ダス・ゲマイネの日本語 Japanisches W6rterbuch』)ロ)なおこの辞典には 訳を「平俗」から「卑俗」または「通俗性」に改 珍しいことに名詞化された後の,,DasGemeine“ 変したのか。平俗,卑俗,通俗性,これらの単語 の意味が載っている:「n.(pしなし)一般的 す。」(相良守峯編『Sagara GroBes Deutsches はほぼ類似した意味を有するいわば同義語と規定 (普通)のもの;下品(野卑)なもの.」の以上が辞 すれば事は簡単であるが,相互に微妙な相違が存 典にのっているallgemeinの意味である。一方, することもまた事実である。この微妙な相違に太 ケーベルのシラー論で使用された.das Gemei− 宰の『ダス・ゲマイネ』執筆の意図があるいは隠 ne“の日本語訳として,久保勉は「平俗」,この されているのではと思われる。まず最初に「ダス・ 序」でのべていることでもあり問題はないと思わ 久保勉の日本語訳を改変した太宰は「卑俗」と 「通俗性」をあてている。この三つの言葉には意 味上微妙な相違があると思われるので,小学館発 行の『日本国語大辞典』で確認する。「平俗:① ゲマイネ」がドイツ語のDasGemeineであるこ とを確認したい。このことは,太宰自身「「思ひ出』 れるが,一部にこれを津軽弁とみなす解釈もある。 平凡で俗っぽいこと。ごく普通であること。また, 例えば,「津軽弁で「ン・ダスケ・マイネ」と云 そのさま。②わかりやすいこと。くだけているこ へば「だから駄目。」または「だから嫌や。」とい と。 ふ意味ださうだ。」(井伏鱒二)9)もしかして太宰 卑俗:いやしく俗っぽいこと。低俗であること。 は「ダス・ゲマイネ」をドイツ語と津軽弁の両方 の意味を持つ一種の掛詞として用いた,と考える 下品であること。また,いなかくさいこと。また ことも可能である。「だから卑俗は駄目」,または 素,属性などを備えていること・またその度 「だから卑俗は嫌や」の意味で。しかしこの解釈 合。」14)なお「通俗」については,「①世間なみ。 は,「ン・ダスケ」を南部弁とする説もあって、1の 世間一般。世間一般に通用すること。また,その さま。②特にその方面の知識がない人でも,わか 無理があると思われる。 そのさまや,その人。 通俗性:俗受けのする要 ドイツ語の「ダス・ゲマイネ」(Das Gemeine) ること。専門的でなく,だれにでもわかること。 は,形容詞gemeinから派生した中性名詞である。 また,そのさま。③世間の一般的風習。一般の習 従ってdasGemeineと名詞化された後も本来が 形容詞なので形容詞gemeinの意味を受けついで 俗。世俗。」!9とある。以上の引用から,平俗, いる:gemeinなこと,gemeinなもの,の意味に なる。以下。gemein“について考察する。(いず れの引用も用例の部分は省略した。) ”1. gew6hnlich,allgemein verbreitet.2.ein. 卑俗,通俗性とも意味上gemeinの範囲を逸脱し ていないことは明白である。同時に意味内容上少 なからざる開きが存することもまた事実である。 中でも「卑俗」は,Brockhaus wahrigでは5. 1,相良では④に該当し意味上最も厳しい表現と fach,norma1. 3.allgremein. 4.gemeinsam なっている。同じ太宰の言葉であるが,「通俗性」 5 . 1 niedertr直chtig,niedrig (gesinnt) , の方がむしろ久保勉訳の「平俗」に近い感じがす hinterhaltig. 5.2wi(ierwart嬉,roh,brutaL る。もしかすると,この違いは太宰がこれらの言 九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 63 使用時期との関係から注目に価する「凡俗」と や「思ふ」だけでなく結婚まで考える,このこと は,きちんとした考え,これをあるいは「思想」と いう表現が「思ひ出』に見い出されるので引用す る。「その夜,二階の一間に寝てから,私は非常 ば,「誰にもできる」ことではない,と解釈する 葉を使用した時期と関係があるのかもしれない。 いってもいいのかもしれないが,を持ってなけれ に淋しいことを考へた。凡俗といふ観念に苦しめ こともできる。この解釈が可能ならば,私の行為 られたのである。みよのことが起ってからは,私 は「凡俗」でないことになる。芸妓初代を妻にし もたうたう莫迦になって了つたのではないか。女 たことも,この「考え」の延長線上にあると解釈 を思ふなど,誰にでもできることである。しかし, すれば納得がいく。2)では,「誰にもできる」こ 私のはちがふ,ひとくちには言へぬがちがふ。私 とをやっているのに私は「下等でない」と開きな の場合は,あらゆる意味で下等でない。しかし, おっていることがポイント。開きなおりの根拠と 女を思ふほどの者は誰でもさう考へてるるのでは なる3)の「思想」の中味が4),5)ともからみ重 ないか。しかし,私は自身のたばこの煙にむせび ながら強情を張った。私の場合には思想がある! 要なポイントとなる。私の行為が凡俗でないこと 私はその夜,みよと結婚するに就いて,必ずさけ られないうちの人たちとの論争を思ひ,寒いほど を証明し,かっ私は「この世のかなりな単位」であ るというプライドを私にもたせてくれるものでな ければならない。1)で試みた解釈は5)が障害に の勇気を得た・私のすべての行為は凡俗でない, なる。使用人と結婚することと,「私はこの世の やはり私はこの世のかなりな単位にちがひないの かなりな単位」とがどうして結びつかないのである。 だ,と確信した。」(60)この「凡俗」は,太宰が ここで「思想」の追求を一端停止し,昭和10年 「ダス・ゲマイネ」の訳語として用いた「卑俗」, に発表された『ダス・ゲマイネ』について考察す 「通俗性」とは関わりがあるのか。また「平俗」 る。この作品の解説「ダス・ゲマイネに就いて」 と「凡俗」とはどうなのか。最初に「凡俗」の意 や三浦正次宛の書簡で太宰が「ダス・ゲマイネ」 味を前述の『日本国語大辞典』によって確認する。 の日本語訳として「卑俗」を用いたことはすでに のべた。さらに,ケーベルのシラー論の訳語「平 「①ありふれていてとりえのないこと。品格の卑 しいこと。また,そのさま。②煩悩に束縛されて 俗」を太宰が「卑俗」へ改変したことに関して, いること。仏の道を悟らないこと。また,その人。 「卑俗」を太宰が用いた時期の検討も必要との指 凡夫。」期先ほどの問にもどる。作家太宰治の実 摘もした。『ダス・ゲマイネ』が執筆された昭和 質的な処女作といわれる『思ひ出』が発表された 10年は,苦痛鎮静剤パピナールによる中毒で太宰 のは昭和8年,しかし実際に書いた時期は太宰に が苦闘していた時期である。さらに芥川賞を受賞 よれば昭和7年とのこと。ケーベルのシラー論を できなかった作家としての悔しさが加わる。太宰 太宰が読んだのは昭和8年の後半とすると両者に にとって芥川の存在が非常に大きかっただけにそ の悔しさも相当なものであったと思われる。就職 は接点はない,すなわち「凡俗」と「平俗」の間 には接点はないことになる。「凡俗」解明のため 失敗による将来への不安。生活資金を援助してく 前述の『思ひ出』でポイントとなる部分をつない れていた長兄への弁明。『ダス・ゲマイネ』をと でいく:1)「女を思ふなど,誰にでもできる」, りまく背景はかなり複雑である。芥川賞創設者の しかし,2)「私の場合はあらゆる意味で下等でな 菊地寛を「卑俗」ときめつけたこと,芥川賞選考 い」,なぜなら3)「私の場合には思想がある」, にかかわって川端康成と何度かやりとりしたこと, 従って4)「私のすべての行為は凡俗でない」,や などこれらの太宰の言動は,前述の背景と密接に はり5)「私はこの世のかなりな単位にちがひな 関係していると思われる。さて問題の「卑俗」に い。」 ここでさらにいくつか問題点を指摘する: ついてであるが,この単語は引用でも明らかなよ うに,すべて「普通以下」の悪い意味でのみ使わ 1)では,「女」と「誰にもできる」がポイントと やっていることになり,「凡俗」の①の意味に該 れている。菊地寛を「平俗」とか「凡俗」ときめ つけたぐらいでは太宰の腹の虫はおさまらなかっ 当する。「女」は,使用人のみよでなく,津島家 たのであろうか。ところが昭和15年に発表された のおぼっちゃんに相応しい良家の子女ならどうな 「『思ひ出』序」では,安定した生活も関係がある のか。おぼっちゃんが使用人の女を「思ふ」,い のか,「卑俗」は「通俗性」にトーン・ダウンし, なる。「誰にもできる」ことは,当然多数の人が 64 福島大学教育学部論集第46号 1989−11 「平俗」や「凡俗」に近い表現となっている。『ダ 「思想」である。そしてこの「思想」こそが,「凡 ス・ゲマイネ』に登場する人物たち,空のバイオ 俗」究明の際ネックとなった「私はこの世のかな リンケースを持ち歩く音楽学校生の馬場,「懸命 りな単位」であるか否かをはかる尺度と思われる。 に画をかいて,高い価で売って,遊ぶ」(333)こ としか考えていない美術学校生の佐竹,そして小 皿 シラーのBalladeとの出会い 説家の太宰治。それから文壇の大御所菊地寛,い 太宰がシラーの詩を素材にいわゆる翻案小説 ずれも「卑俗」の典型と想定されている。さらに 『走れメロス』(昭和15年=1940)を書いたことは, 「あたしたちだって,はたから見るほど楽ぢやな いんだよ」(321)と言った娼婦もまたこのグルー 末尾に付された注記「古伝説とシルレルの詩から」 によってよく知られているが,この他にも太宰は, プに属する。かれらに共通しているのは,自分た シラーのBallade(物語詩)。Die Teilung der ちの行為が「卑俗」であることに気づいていない Erde“(地球の分配)を「諸君の位置」(昭和15 か,かりに気づいていても決して恥辱だとは思っ ていない,ことである・その結果,太宰の言葉を 年)と「心の王者」(昭和15年)でとりあげてい る。『走れメロス』とシラーの詩との関係につい かりれば,かれらの行為は「立派なもの」となる。 ては,拙稿「太宰治のシラー受容一『走れメロ それに対して,娼婦に恋をしてふられ,電車には ねられて死ぬわたし佐野次郎は,彼らの行為が ス』の素材について一」(「東北ドイツ文学研究 「卑俗」であることに気づいていて,このような 第32号」,1988)で詳しくのべたので,本論文に おいては,前述の論文発表後に判明した『走れメ 彼らの中で自己を失っていくことに対して恥辱と ロス』の素材解明につながる事実をとりあげなが しゅうしゅう 感じている。「恥辱だと思ったら最後,収拾でき ら太宰とシラーのBalladeとの出会いについて検 ないくらい,きたなくなります」とは太宰の言葉 討してみたい。 であるが,「収拾できないくらい,きたなく」なっ シラーの詩の紹介は,明治20年代の山口小太郎, て生きることもわたしにはできない。ここが, 「凡俗」を恥辱と感じながらも,いや感じるがゆ えに使用人のみよとの結婚を考える『思ひ出』の わたしとの大きな相違であろう。「凡俗」の場合 大和田建樹による翻訳が最初と思われるが,本格 化するのは明治30年代後半から大正にかけての秋 にはまだこの世界との妥協の余地が残されている 元董風(喜久雄)の精力的な研究活動によってで ある。例えば帝国図書館編『帝国図書館和漢図書 書名目録』(昭和12年二1937)1ηや国立国会図書 のかもしれない。しかし,「卑俗」の場合には, 館整理部編『国立国会図書館所蔵,明治期刊行図 「卑俗」を恥辱と感じたら最後いかなる弁明もわ 書目録』(1974年)のなどをもとに,シラーの詩関 たしには残されていない・電車にはねられてわた 係の秋元の文献を紹介すると以下の通りである: しは死ぬが,これは明らかに自殺であろう。「人 ①『独逸詩粋,紛紅集』(明治37年=1904),② は誰でもみんな死ぬさ。」(344)が『ダス・ゲマ 『野葡萄』(明治38年),③『シルレル詩集』(明治 イネ』最後の一節であるが,かりにその「死」が 自殺とすれば,「誰にもできる」ことではなく, 39年),④『シルレル研究,鐘の歌評釈』(明治40 年),⑤『独逸名詩評釈』(大正2年=1913),⑥ 『独逸詩歌講話』(大正3年)この他のシラー詩紹 従って「卑俗」でも「凡俗」でもない,ことにな る。最後に『思ひ出』の「思想」についてである 介としては,三浦白水(吉兵衛)訳『西詩余韻』 が,『思ひ出』のみならず『ダス・ゲマイネ』な (明治35年),尾上柴舟(八郎)の『金帆』(明治3 ど他の作品やそれらの作品についての太宰自身の 8年)がある。これ以後第二次世界大戦修了(昭 解説等にも明記されていないため,推測にたよる ことになる:「凡俗」に気がっかないか,気がつ 和20年)までのシラーの詩に関係する翻訳文献は, 国立国会図書館編『明治・大正・昭和,翻訳文学 いていてもそれを「恥辱」と感じない世界,別な 目録』(昭和34年二1959)によれば,以下の通り 言い方をすると「凡俗」が勝利を収めている世界 である:①『シラー詩集』(小栗孝則訳,改造社, で,「凡俗」に気づきそれを「恥辱」と感じ,何 らかの方法で,例えば「みよ」のような人間との 昭和5年),②『新編シラー詩抄』(小栗孝則訳, 結婚,あるいは目殺などによって「凡俗」と決別 『シラー選集』所収,冨山房,昭和16年),④『シ する,いや決別したと考える,この思考内容が ルレル詩全集,上・下』(大野敏英他訳,白水社, 改造社,昭和12年),③『詩抄』(木村謹治訳, 九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 65 昭和19年)太宰はこれらの文献のどれを参看し, ンティウスを磔刑にするためにつれていかせた・ 自作に生かしたのか。まずr走れメロス』の素材 かれが連行されている時にやっと,苦労してつい に川を渡ったメロスが近づいていき,死刑執行人 となった「シルレルの詩」と太宰との出会いから 検討する。なお太宰の参看した「シルレルの詩」 に向って遠くから叫ぶ・「とまれ,執行人/かれ がシラーのBallade,,Die Bnrgschaft“(人質) が身代りとなった私はここにいる。」事件が王に であることは周知の事実なので説明を省略する。 つげられた・王はかれを自分の前につれてこさせ, ここで.DieB廿rgschaft“及び『走れメロス』の 自分をかれらの友情の中へ受け入れてくれるよう 成立の経緯を簡単に紹介する。 たのみ,メロスの生命を助けた。」(Hyginus)ゆ, シラーは,ゲーテ(」.W.v.Goethe)より贈ら 「DamonとPythiasは二人ともピタゴラス派の れた,ローマの著述家Hygin囎がイタリーの古 学徒で,互いに以下のような友情の中でくらして 伝説に依拠して書いた.Fabe1“を素材として179 いた。なすわちシラクサの暴君ディオニジウスが 8年にBallade.Die B廿rgschaft“を完成する。そ の後彼は,詩集の豪華版において,この 一方の者を殺そうとした時,かれが用事をきちん と片付けることができるよう,さしあたりかれを Balladeの表題を他の古伝説,ローマの歴史家 Valerius Maximusの書いた作品,に従って, 他方の者はその証明として人質となり入獄するこ ,,Damon und Pythias“に,主人公もM6rosから とをかくごした。今やまもなく身体を抱束される Damonへの変更を企画する。しかしこの試みは 一方の者は死の危険にさらされていた。しかし自 ふるさとへ帰らせてくれることを暴君にたのみ, 彼の死によって実現せずに終わり,ただテクスト 由に生きることができる他方の者は,今や生命を のみが”DieB血gschaft“と。DamonundPythi− as”の2種類残されることになる。以上が.Die かけていた。この取引きをだれもがのぞみ,さし B五rgschaft“成立の経緯であるが,その素材となっ のを待った。言われた刻限が近づく。まだかれは こない。それゆえだれもがおろかな人質を廟笑す たHyginusの.Fabel“とV.Maximusの古伝説 あたりディオニジウスからその期限が述べられる を紹介する:「市民たちを苦しませながら死に到 る。しかしかれは友人の心が不変であることにつ らしめる極めて残酷な暴君ディオニジウスがシシ いて何ら疑問をもたない。友人はちょうど時間内 リアを支配していた時,メロスはこの暴君を殺そ に,定められた瞬間にあらわれた。それでディオ うとした。護衛兵がかれをつかまえ,武器をもつ ニジウスはこの2人の心が不変であることに驚き, かれを王の前につれていった。釈明を求められた 時,かれは王を殺そうとしたと言った。王はかれ かれら2人を自由にしてやり,目分をかれらの友 情における第3番目に付け加えるようたのんだ。 を十字架にかけるよう命令した。メロスは,妹の このような力を友情はもつ。」(V.Maximus)ゆ 結婚を片付けるため,三日間の猶予を求めた。か れは,友人でかっ同僚のセリヌソティウスを,自 太宰が『走れメロス』執筆の際にシラーの 分が三日目にもどってくることの保証人として暴 日本語訳で読んだかについては,かれのドイツ語 .DieB廿rgschaft“をドイツ語の原本で読んだか 君に引き渡すと言う。王はかれに妹の結婚のため 力を証明する証言が全くないことからみて,日本 の猶予を認めるが,セリヌンティウスに対しては, 語訳で読んだことはほぼまちがいないと思われる。 もしメロスが時間までに来ない時にはかれが罰を かりに日本語訳を太宰がみたと仮定すると,太宰 うけねばならない,しかしメロスは自由であると が『走れメロス』を発表した昭和15年以前に発行 言った。さてメロスが妹の結婚式後帰路についた され,かっ.Die B翫gschaft“の訳詩が収められ 時,川がとつぜん嵐と土砂降りの雨によって,歩 いても泳いでも渡れないほど水嵩をました。メロ ている文献が問題になるが,該当する文献は前述 の資料にもとづいて列挙すると以下の3点である: スは岸べに腰をおろし,友人が目分のかわりに死 ①『シルレル詩集』(秋元薩風訳),②晒詩余韻』 なねばならないと泣きはじめた。しかし暴君は, (三浦白水訳),③『新編シラー詩抄』(小栗孝則 三日目ももう6時間が経過したので,セリヌンティ 訳)なお②については,前述の拙稿発表後に入手 ウスを十字架にかけるよう命令した。セリヌンティ した資料である。①と②はいずれも主人公は「ダー ウスは,その日はまだ終わっていないと答えた。 モン」または「ダモン」で,③のみが「メロス」 しかしその日の9時間が経過した時,王はセリヌ である。参考としてそれぞれの文献から第一連の 66 部分を引用する。21) ①保護(ダーモンとピンティアス) あしへくち 1989−11 福島大学教育学部論集第46号 ころ も k首,衣服に隠し持って, ダーモン,暴主に忍び寄りぬ。 さむらい 護衛の侍,彼を捉へ つるぎ 『汝が剣は何用ぞ!』 せっかく ことはあら 太宰は本の標題だけでなく,註解の所でも「シル レル」ではなく「シラー」の文字を目にしたはず である。2)太宰が古伝説など全くみずに小栗訳 『人質』とその註解とだけで『走れメロス』を書 いたのであるなら,太宰は出典を「シルレルの詩 から」とだけ書けば十分なはずであり,「古伝説」 刺客,憤然一一語勢暴に の文字は必要なかったのではないか・素朴な疑問 みや こ であるが,「材料に即して正確にしかも文学とし 『都市を君より救ふ為ぞ!』 くみ 『十字架上の悔やあらむ。』 ②愛と信(人質) シュラキース王ヂオニースに ダモンヒ首をもて近けり 衛卒かれに縄打ちかけつ 「汝k首もて何事をかなす?」 怒れる刺客これに答へぬ 「暴君の手より市を救はん」 「さらば十字架乃上にのぼりて 汝の無謀を悔ゆる時あらん」 ③人質 譚詩 暴君ディオニスのところに メロスは短剣をふところにして忍びよった 警吏は彼を捕縛した 「この短剣でなにをするつもりか?言へ!」 て修辞を整えて書いている」(角田)太宰が,わ ずか数行の「註解」だけで,実際に読んでもいず 中味もよくわからない素材を出典として明示する ものなのか。残念ながら角田氏より明快な回答は 得られなかった。その後,『走れメロス』執筆の ためなのか目的は定かでないが,太宰が『新編シ ラー詩抄』を読んだことはほぼまちがいないと思 われる事実を発見した。太宰の随想に「諸君の位 置」と「心の王者」がある。いずれも太宰が昭和 15年,すなわち『走れメロス』とほぼ同じ時期に 発表したものである。注目すべきは,これらの随 想の中に引用されているシラーのBallade ,,DieTeilungderErde“で,このBalladeの日本 語訳と,『新編シラー詩抄』に収められている 「地球の分配」の日本語訳,特に会話の部分の日 本語訳がほぼ完全に一致していることである。な 険悪な顔をして暴君は問ひつめた お.Die Telung der Erde“は,『シラー詩集』(昭 「町を暴君の手から救ふのだ!」 和5年)にも収められているが,翻訳者が同じ 「礫になってから後悔するな」一 (小栗孝則)であるにもかかわらず詩のタイトル 現在太宰研究家の間で有力視されているのが③ の日本語訳は「地球の分配」ではなく「地球の分 『新編シラー詩抄』である。角田旅人は「この訳 割」となっている・前述の事実確認のため,まず 詩集だけで,「走れメロス」の材料は全て揃って 「諸君の位置」から「シルレル」に関係する部分, おり,これだけで「走れメロス」を書くことがで きた。…あえてヒギンの「寓話」との連続関係を 文を引用する。 考える必要はない。」鋤と結論づける。この結論 「先日,或る学生に次のやうなシルレルの物語 の根拠となるのが特に以下の2点である:1)「小 詩を語って聞かせたところ,意外なほどに其の学 栗訳「人質」とその註解とには,人名・地名・イ 生は喜んだ。諸君は,今こそ,シルレルを読まな つぎに『新編シラー詩抄』から「地球の分配」全 タリーの伝説に由来すること等,「走れメロス」 ければなるまい。素朴の叡智が,どれほど強力に の材料は全て揃って出て来ている」ゆこと。2) 諸君の進路を指定してくれるものであるかを知る 「小栗訳「人質」の表現と「走れメロス」の表現 であらう。「受け取れよ,世界を!」ゼウスは天 に重なる所が多いこと」劉㌔なお角田論文におい 上から人間に呼びかけた。「受け取れ,これはお ては,①と②の文献については全くふれられてい ない。さてこの角田説に対して,筆者は前述の拙 前たちのものだ。お前たちにおれは之を遺産とし, 稿及び角田氏への私信で,要約すると以下の如き 疑問を提出した:1)『新編シラー詩抄』を太宰が 合ふのだ。」忽ち先を争って,手のある限りの者 参看したのならば,なぜかれは出典として「シラー 張り廻らし,貴公子は,狩猟のための森林を占領 し,商人は物貨を集めて倉庫に満し,長老は貴重 の詩」と書かずに「シルレルの詩」としたのか。 永遠の領地として贈ってやる。さあ,仲好く分け は四方八方から走り集った。農民は,原野に縄を 九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 な古い葡萄酒を漁り,市長は市街に城壁を廻らし, 王者は山上に大国旗を打ち樹てた。それぞれの分 割が,残る隈なくすんだあとで,詩人がのっそり やって来た。彼は,遙か遠方からやって来た。あ 67 /彼はゼウスの王座のまへに身を投げた 「勝手に夢の国でぐづぐづしてみて」/神はさへ ぎつた,一「なにもおれを怨むわけが無い/お 前はいったいどこにをつた? みんなが地球を分 あ,その時は,地球の表面に存在するもの悉くに, けあってみるとき」/「私は」と詩人は言った, 其の持主の名札が貼られ,一坪の青草原さへ残っ /「あなたのそばに てなかった。「ええ情ない!なんで私一人だけが みんなから,かまって貰へないのだ。この私が, 眼はあなたの顔にそそがれて/耳は天上の音楽に 聴きほれてゐました/この心をお許し下さい,あ あなたの一番忠実な息子が?」と大声に苦情を叫 びながら,彼はゼウスの王座の前に身を投げた。 てみたのを/」 「勝手に夢の国でぐづぐづして居て,」と神はさへ ぎつた。「何もおれを怨むわけが無い。お前は一 なたの光りに/陶然と酔って,地上のことを忘れ 「どうずればいい?」とゼウスは言った。「地球 はみんなくれてしまった/秋も,狩猟も,市場も, 体どこに居たのだ。みんが地球を分け合って居る もうおれのものでない/お前がこの天上に,おれ とき。」詩人は泣きながらそれに答へて,「私は, と一緒にみたいなら/時々やつて来い,ここはお あなたのお傍に。目はあなたの顔にそそがれて, 前のために開けてをく!」 耳は天上の音楽に聞きほれて居ました。この心を 比較参照するため『シラー詩集』から「地球の お許し下さい。あなたの光に陶然と酔って,地上 分割」の第一連の部分を引用する。 のことを忘れて居たのを!」「どうずればいい?」 地球の分割鋤 とゼウスは言った。「地球はみんな呉れてしまっ 「さあ 世界を受取れ!」ッオイスは天上から人 た。秋も,狩猟も,市場も,もうおれの物でない。 間に呼びかけた/「さあ 世界はお前達のものだ お前がこの天上におれと一緒に居たいなら,時々 /お前達に私の遺産として,又,永遠の領地とし やつて来い。此所はお前の為に空けて置く!」 て与えよう/お前達は仲良く其れを分ち合ふの 詩は,それでおしまひであるが,此の詩人の幸福 だ。」 こそ,また学生諸君の特権でもあるのだ。」(×.1 「地球の分配」と「諸君の位置」,特に下線を 89−190)(諸君の位置) ほどこした部分を対照し,しかる後に「地球の分 地球の分配幻) 割」の第一連とそれに対応する「諸君の位置」を 「受取れよ,世界を!」ゼウスは天上から叫んだ 比較するならば,「諸君の位置」の下線部分が /人間に呼びかけた。「受取れ,これはお前たち のものだ/お前たちにおれはこれを遺産とし,永 「地球の分配」にほぼ完全に一致していることに 気付くであろう。さらに「心の王者」をみると, 遠の領地として贈ってやる/さあ,仲良く頒けあ 太宰が「諸君の位置」でとりあげたシラーの詩の ふのだ」 タイトルが「地球の分配」であることがわかる: たちまち先きを争って,手のある限りの者は馳せ 「シルレルの詩に,「地球の分配」といふ面白い一 向つた/汲々と老ひも若きも働いた/農民は田畑 篇がありますが,その大意は,凡そ次のやうなも きん の収穫に手をのばし/公達は森林を踏みわけ,獲 のであります。」(×.163)とあり,以下「諸君の 物を狙った 位置」でとりあげた同じ詩が載せてある。もうご 商人は倉庫にみたす物貨をあつめ/長老は貴重な れ以上の説明は不要であろう。目的は定かでない 古い葡萄酒をあさり/王者は橋梁と道路を遮断し が,太宰が昭和12年発行の小栗孝則訳『新編シラー て/さて,嘯いた一「一割はわしのものだ」 詩抄』(改造社)を読んだことはまちがいないと のっそりと,分割のとっくに済んだあとで/詩人 が近づいた,彼はとほい遠方からやって来た/あ 思われる。問題は,『新編シラー詩抄』を『走れ メロス』の材源とした場合の明快な根拠である。 あ,そのときは何虜にも何にも無く/すべてが主 状況証拠はそろったが,筆者が提出した疑問を解 人を持ってみた 決する明白な手がかりは現在のところ見つかって はいない。例えば以下の推論が実証的にうらづけ 「ええ情けない!なんで私ひとりだけがみんなか ら/かまって貫へないのだ,この私が,あなたの 一番忠実な息子が?」/大声に苦情を叫びながら られるなら疑問は解消する:1)太宰は必ずしも 「材料に即して正確に」書いてはいない。2)一度 68 福島大学教育学部論集第46号 1989−11 憶えこんだら,のたぐいの太宰の思いこみがある。 ス』(DonCarlos)や『ヴァレンシュタイン』な すなわち太宰が最初に読んだシラー関係の文献の ど,をいずれ検討せねばならないであろう。 記述が「シラー」ではなく「シルレル」になって いた,あるいは太宰に最初にシラーを紹介した人 が「シラー」ではなく「シルレル」と発音した, ために太宰は,最初に憶えた「シルレル」を一貫 して用いた。1)については,すでに引用した美知 子夫人や檀一雄の証言から推測可能である。例え ば『ダス・ゲマイネ』の個所でものべたが,『ダ ス・ゲマイネ』執筆の際に参看したと思われるケー 使用デクスト 太宰治全集.第一巻.筑摩全集類聚(筑摩書房) 昭和50(’75). このテクストよりの引用は, アラビア数字(=ページ数)のみで示した。この 全集の他の巻よりの引用は,ローマ数字(=巻数) とアラビア数字(=ページ数)とで示した。 注 ベルの「心霊の指導者シルラー」における「ケー 1)相馬正一:評伝太宰治.第二部(筑摩書房)昭58 ベル」と「シルラー」の表記は「ダス・ゲマイネ (’83).p.180−181. に就いて」では「ケエベル」と「シルレル」に, 2)国立国会図書館編:明治・大正・昭和翻訳文学目 太宰のお気に入りの言葉「美しい感情を以て,人 録(風間書房) 昭34(’59).p.131、 は,悪い文学を作る」の著者の表記は,太宰が参 3)久保勉,深田康算共訳:ラファーエル・ケーベル 看したと思われる翻訳書では「ヂイド」,「川端康 集〔『現代日本文学全剰〕(改造社) 昭6(’31). 成へ」では「ジッド」に,改変されており,これ らの事実から太宰は必ずしも「材料に即して正確 P.191. に」書いてはいないことがわかる。『走れメロス』 (’83)、p.68. 4)津島美知子:回想の太宰治(講談社文庫) 昭58 の場合もこの延長線上にあるとみなせる。2)につ 5)檀一雄編.竹内良夫,桂英澄,別所直樹共著:太宰 いては,最初に読んだシラー関係の文献,最初に シラーを太宰に紹介した人物,の特定が重要とな 治の魅力(大光社) 昭41(’66).p.291. る。現在のところそのことを明白に示す資料はみ 51. 6)檀一雄:太宰と安吾(虎見書房) 昭43(’68).p. つかっていない。文献については,太宰自身の証 7)同上書.p.49−50. 言から,昭和8年に太宰が参看したと推測される 8)伊馬春部:津軽巡礼,太宰治への手紙.〔「太陽恥 ケーベルのシラー論のタイトルが「心霊の指導者 99」〕(平凡社) 197L p.37. シルラー」であることから,これより以前に発行 9)井伏鱒二:太宰治のこと.〔「文芸読本,太宰治」〕 された「シルレル」の表記が使われた文献でなけ (河出書房新社) 昭50(’75).p.76. ればならない。例えば,確たる根拠はないが,昭 10)伊馬春部:津軽巡礼,太宰治への手紙.p.37 和5年発行の新潮社版『世界文学全集』に収めら 11)Brockhaus Wahrig.Deutsches W6rterbuch in れた『独逸古典劇集』があげられる。この全集は sechs Banden.Dritter Band.Hrsg.v.G、Wah− 当時非常に人気が高く太宰も読んだ可能性が強い rig,H.Kramer,H.Zimmermann.Wiesbaden と思われる。なおこれに収められたシラーの作品 (F.A.Brockhaus),Stuttgart(Deutsche Ver− は,「群盗」と「ウィルヘルム・テル」でいずれ 1ags−Anstalt)1981.S.13L も秦豊吉訳,「シルレル」の表記が使われている。 12)相良守峯:Sagara GroBes Deutsch−Japanisc− シラーを紹介した人物については,例えば学生時 hes W6rterbuch(博友社) 昭33(’58).p.580. 代にシラーの。Wallenstein“(ヴァレンシュタイ 13)同上書.p.580. ン)に感動しシラーを天才として尊敬していた山 14)日本大辞典刊行会編:日本国語大辞典(小学館) 岸外史切があげられるが,彼と太宰の交流が開始 昭50(’75).引用個所は,順に第十七巻p.605,第 されたのは,山岸によれば昭和9年の秋以降で, 十六巻p.701,第十三巻p.630. 太宰がケーベルのシラー論を読んだ昭和8年より 15)同上書.第十三巻.p.630. 以前の条件からはずれる。疑問は疑問のまままだ 16)同上書.第十八巻、p.248. 残りそうである。『走れメロス』とシラーの関係 17)帝国図書館編:帝国図書館和漢図書書名目録,第 については,王の性格づけ,赤いマントなどにか 四編(帝国図書館) 昭12(’37).p.937. かわって,シラーの戯曲,例えば『ドン・カルロ 18)国立国会図書館整理部編:国立国会図書館所蔵, 九頭見和夫:太宰治とシラー一太宰の作品におけるシラーの影響について一 69 明治期刊行図書目録,第4巻(紀伊国屋書店)19 佐藤養治) 明35(’02).p.139.③j、栗孝貝1駅: 74.p.866. 新編シラー詩抄(改造社) 昭12(’37).p.263. 19) Schillers Werke.Mit Lebensbeschreibmg, 22)角田旅人:「走れメロス」材源考.〔『日本文学研 Einleitungen und Anmerkungen.Bd.L Hrsg. 究資料叢書.太宰治H』〕(有精堂) 昭60(’85). v.R.Boxberger.Berlin(G.Grote’scheVerlags− p.178. buchhandlung) 1888.S、153. 23)同上書.p.177. 20)Brechenmacher,Josef Karlmann:Schillers 24)同上書.p.177. ,,B{irgschaft“stoffgeschichtlich untersucht 25)小栗孝則訳:新編シラー詩抄.p.310−312. mit zwei Zugaben.In:Der Schwゑbische Sch− 26)小栗孝則訳:シラー詩集(改造社) 昭5(’30). ulmann.38.Heft.Stuttgart.1917.S.7. p.147. 21)①秋元董風訳:シルレル詩集(東亜堂) 明39 27)山岸外史:人間太宰治(筑摩書房) 昭43(圭68). (’06).p.10L ②三浦白水訳:西詩余韻(仙台, p.181. 70 福島大学教育学部論集第46号 1989−11 DAZAI Osamu−und Schiller Schillers EinfluB in Dazais Werken Kazuo KUZUMI Seit1880SAITOH Tetsutaroh Schillers,,Wilhelm Tell“ins Japanische亘bersetzt hat,wurden viele Werke der deutschen Literatur in Japan einge伍hrt,die starke Ein− f1丘sse auf die japanische Literatur nach der Meiji−Zeit aus廿bten. DAZAI Osamu(1909−1948)hat vom Januar1940bis zum Juli1941eine Reihe von Novellen ver6ffentlicht,die Bearbeitungen europaischer Literatur darstellen.Dazais Werke,deren Hauptthema hauptsachlich auf deutsche Werke zur丘ckzu茄hren ist, sind。Oma−no−ketto“(Ein Frauenzweikampf),”Hashire−M6ros“(Lauf M6ros!) un(i”Kojiki−gakusei“(Ein Stu(ient,der bettelt). Ich vermute,daB von den deutschen Schriftstellem Schiller(ien starksten EinfluB auf Dazai ausgeibt hat.Um Schillers EinfluB in Dazais Werken nachzuweisen,wur一 (ie hauptsachlich das Folgende untersucht:1)Dazais Novelle,,Dasu−gemaine“ (Das Gemeine)und der Aufsatz丘ber Schiller von Koeber,2)die Begegnung mit Schillers Balladen,besonders Schillers EinfluB auf”Hashire−M6ros“. Die Untersuchung kommt zu folgen(iem Ergebnis:1)Dazai bekennt in dem Ess− ay”Dasu−gemaine−nitsuite“(廿ber das Gemeine,1935),daB er(ien Aufsatz芭ber Schi− ller von R。v.Koeber(1848−1923)gelesen hat;Koeber hielt von1893bis1914Vorlesu− ngen廿ber europaische Philosophie an der Kaiserlichen Universitat Tokyo.H6chst− wahrscheinlich hat Dazai。Raphael Koeber−shu“(五bersetzt von KUBO Masaru und FUKADA Kohsan,In:Gendai−nihon−bungaku−zenshu(Samtliche Werke der moder− nen japanischen Literatur),1929)gelesen und den Begriff,das Gemeine‘in seiner Novelle”Dasu−gemaine“廿bemommen.2)Dazai hat Schillers Balla〔ien gelesen und deren Hauptthema oft in seinen Werken廿bemommen.So hat er z.B.1940die Novelle 。Hashire−M6ros“ver6ffentlicht,die eine Bearbeitung von Schillers Ballade。Die Bir− gschaft“(1798)darstellt.AuBer(iem hat er Schillers Ballade”Die Teilung der Erde“(1795)in seinen Essays。Kokoro−no−ohja“(Der K6nig im Herzen,1940)und ,,Shokun−no−ichi“(Die Lage meiner Herren,1940)zitiert.Daraus erhellt,daB Dazai die japanische Ubersetzung”Shinpen−Schiller−shisho“(neu herausgegebene Gedicht− sammlung von Schiller)von OGURI Takanori(1942)gelesen hat.Aber es ist nicht sicher,daB er diesem Buch den Stoff der Novelle,,Hashire−M6ros“entnommen hat.