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袴田事件のあらまし - 東日本ボクシング協会
袴田事件のあらまし 1966年(昭和41年)6月、静岡県清水市(現・静岡市)の味噌製造会社専務宅で、 一家4人が何者かによって刃物で殺害され、住まいが放火されました。警察・検察は、現 場近くにある味噌工場の住み込み従業員で元プロボクサーの袴田巌さんを逮捕・起訴し、 静岡地裁は死刑判決を下しました。 日本の刑事裁判は、 「地方裁判所」、 「高等裁判所」、 「最高裁判所」の順で審理されます。 袴田さんは最高裁まで争いましたが、結局死刑が確定してしまいました。しかし、たとえ 最高裁で判決が確定しても、判決に納得がいかない場合は一定の条件さえ満たせば、法律 上何度でも再審請求(裁判のやり直しを要求すること)が出来ることになっています。 裁判で一貫して無実を訴え続けてきた袴田さんは、死刑判決確定後に再審請求をおこな いましたが、それも2008年3月には、とうとう最高裁で棄却されてしまいました。弁 護団は同年4月に第2次再審請求を静岡地裁へ提起していますが、袴田さんは逮捕以来4 0年以上にわたり身柄を拘束され、現在も東京拘置所で死刑執行の恐怖と戦う日々を送っ ています。 当時の警察は、袴田さんが元プロボクサーだったという偏見によって見込み捜査をおこ ない、逮捕後は真夏の密室で一日平均12時間という過酷な取り調べをおこなって自白を 強要しました。 拷問のような取り調べに耐え切れなくなった袴田さんは、20日後にとうとう「自白」 し起訴されました。裁判所は判決で、 「専ら被告人から自白を得ようと、極めて長時間に亘 り被告人を取調べ、自白の獲得に汲々として、物的証拠に関する捜査を怠った」と、警察 の捜査・取調べの批判をしつつも死刑宣告を下したのです。 犯行着衣として扱われている「5点の衣類(スポーツシャツ・下着のシャツ・ズボン・ ステテコ・緑色のブリーフ)」には不可解な点が見られます。 まず、ブリーフに付着していた血痕と、その上に履いていたステテコやズボンに付着し ていた血痕の血液型が一致していなかったということ。 犯行着衣であるはずのズボンの装着実験では、サイズが小さくて袴田さんには履くこと が出来なかったこと。 その他、いくつもの不可解な点から、弁護団は「5点の衣類」は警察によってねつ造さ れたものではないかと主張しています。 さらに、4人の被害者は合計で40か所以上切りつけられており、なかには肋骨を切断 して内蔵に達している傷さえあったにも拘わらず、犯行に使われたとされる刃渡り約13 cmの木工用「くり小刀」は、刃先が数ミリ損傷しているのみでした。 [一拳一会Ⅱ(エベイユ)より一部抜粋] このように、極めてえん罪性の高い事件に、多くの識者が疑問を投げかけています。ボ クシング界も1980年に袴田さんの死刑が確定した頃から支援活動を展開しています。 また、実際に死刑判決文を書いた元裁判官が、2007年に「私は無罪であるとの心証 を抱いていたが裁判長らの反対で死刑判決を書かざるを得なかった」という告白をして話 題となっています。 一人でも多くの方にこの事件を知って頂き、ご理解とご支援をお願い致します。 東日本ボクシング協会 袴田巌支援委員会