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「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性(biological citizenship)」の変容

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「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性(biological citizenship)」の変容
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<論文>「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性(biological
citizenship)」の変容
上杉, 健志
コンタクト・ゾーン = Contact zone (2015), 7: 2-32
2015-03-31
http://hdl.handle.net/2433/209811
Right
Type
Textversion
Departmental Bulletin Paper
publisher
Kyoto University
Contact Zone 2014 論文
「枯葉剤症」
の副作用と
「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
上杉健志
<要旨>
1970 年代、ベトナム戦争中に使用された複数の化学物質と関連性が示唆される複数
の疾患を含む疾患群がアメリカ特有の文化的背景のもとで生まれた。1990 年代末、こ
の疾患群が新たにそこで刻み込まれた様々な「おまけ」を伴ってベトナムに持ち込まれ
た。本稿ではこの疾患群を「枯葉剤症」と呼び、それがどのような「副作用」をベトナ
ム社会に及ぼしたのかを検討する。特に「バイオ市民性」という医療人類学的概念を通
002
して見えてくる「枯葉剤症」概念に付随する考え方と、そこから生まれるベトナムの枯
葉剤運動の矛盾や新たな倫理観を探る。
ベトナム戦争中、アメリカ軍によって使用された枯葉剤は、戦後も多くの人々の体を
蝕み続けた。しかしその実態は、今も定かではない。
「被害者」は、戦争の肉体的記憶
を宿す者として、国家の枠を超えた普遍的な人間「バイオ市民」として国際化された運
動に組み込まれていく。しかし、ベトナムでは、内戦の記憶が「被害者」を分断し、自
分を「被害者だ」と主張できる人と、できない人を作り出している。そのような状況の
もとで枯葉剤被害者は「責任追及」の主体ではなく、人道支援の対象として扱われる方
が倫理的だという風潮が主流になっている。筆者が 2008 ∼2009 年にフィールド調査を
したベトナム中部トゥア・ティエン・フエ省のアルーイ地区では、被害者の科学的選定
にはほとんど関心が向かず、科学的選定は倫理的ではないという人さえ出てきているの
である。
キーワード:枯葉剤症, バイオ市民性, 内戦, ベトナム
UESUGI Takeshi 日本学術振興会PD 大阪大学 「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
1 はじめに
1970 年代、ベトナム戦争中に米軍によって使用された「枯葉剤」(Agent Orange)と総
称される化学物質との関連性が示唆される疾患群が、アメリカのベトナム帰還兵の間で生
まれた(枯葉剤による中毒被害は、湾岸戦争シンドロームや原爆症などと違って、いまだ
に統一された呼び名がない。したがって本稿では、便宜上、これを「枯葉剤症」と呼ぶこ
とにする 1 )。それから 20 年後の 1990 年代末、その誕生の過程で刻み込まれた様々な倫理
観や市民性概念等の「おまけ」を伴って、この「枯葉剤症」という概念がベトナムに上陸
した。
2004 年 3 月ベトナム枯葉剤被害者の会(Vietnamese Association for the Victims of Agent
Orange/Dioxin 以下「VAVA」と略す)に代表された一団が、アメリカの連邦裁判所で訴訟
を起こした 2。対する被告はダウ・ケミカルやモンサントをはじめとするベトナム戦争中
に米軍の発注で枯葉剤を製造した 30 余りの化学会社だった。原告側は、枯葉剤によって
環境汚染とがんや奇形児などの健康被害を被ったと主張し、環境の除染と被害者の補償を
要求した。
では原告には誰が含まれていたかというと、話は少々複雑になる。この裁判で原告弁護
団は、ある時は 200 万∼ 500 万人、ある時は 300 万人の枯葉剤被害者を代弁していると
主張したが 3、実際に原告として名乗りを挙げたのは十数名の個人原告とその他の被害者
を代表する VAVA だった。米国ではクラス・アクション制度のもと、同じような被害を
被った「類」
(class)の人たちを代表して訴訟を起こすことができる。つまり、具体的に
原告を定めずに訴訟を起こし、和解や勝訴につながった時のみ原告を実際に募るのである
[Shuck 1986]
。言い換えれば、理論上の「被害者」と実際の被害者がこの段階で初めて
結びつくのである。しかし、2005 年 3 月にはこの訴訟も棄却されてしまった。以後、原
告は控訴を続けるが、2009 年、連邦最高裁判決で棄却が決定的となり、その結果原告に
誰が含まれうるかは未解決のままに終わった。
一方、歴史家タイ・ホ・フエ - タム[Tai 2001]が主張するように、ベトナムでは、
1990 年代初頭から記憶の「自由化」が始まり、ベトナム共産党によって独占されていた
戦争の記憶が多様化し始めた。それまで支配的だった英雄的歴史観(米軍からの民族解放
の闘い)から、戦争の悲惨さや戦後社会の矛盾、そして米軍や南ベトナム軍の視点も含
む歴史観が、小説や芸術、観光業、民間の記憶儀礼などで表現されるようになった[Bao
1 サイモン・ウェスリー[Wessley 2001]は湾岸戦争シンドロームと並行させて「枯葉剤シンドローム
(Agent Orange Syndrome)という言葉を使っているが、ネットなどでは Agent Orange Disease や Agent
Orange Sickness という言葉も使われる。医学的カテゴリであると同時に法的カテゴリでもあることを
踏まえると Sickness が適切かと思われる。そして radiation sickness は日本語では「原爆症」と呼ばれて
いるので、「枯葉剤症」が妥当だろう。
2 Vietnamese Assoc. for Victims of Agent Orange/Dioxin v. Dow Chem. Co., MDL No. 381, 04-CV-400
(E.D.N.Y.)[2004]
3 Vietnamese Assoc. for Victims of Agent Orange/Dioxin v. Dow Chem. Co., MDL No. 381, 04-CV-400 (E.D.N.Y. )
(Amended Complaint: 53) (Petition for Writ of Certiorari:3) おそらくこの数字は Stellman et al.[2003]の at
least 2.1 million but perhaps as many as 4.8 million people would have been present during the spraying から来
るものと推測する。
003
1993;Duong 2000;Kwon 2006;Schwenkel 2006]。21 世紀ベトナムの枯葉剤運動
も、こうした戦争の記憶をめぐる運動という側面を持ち合わせている 4。
枯葉剤汚染は、「身体の記憶」として戦時の犯罪を喚起しその責任を問う。しかし、こ
の構図もまた特定の記憶の枠組みを前提としている。枯葉剤は敵味方なく人体を傷つけ
た。したがって枯葉剤問題が喚起する戦争の記憶は、アメリカ対ベトナム、敵対味方とい
う二項対立を超越した歴史観につながるという言説が、運動の当事者の間でもしばしば聞
かれた 5。アメリカ人文化人類学者のダイアン・フォックスは、「われわれは国家や特定の
集団の一員としてではなく、同じ人類の一員として、文字通りの、およびメタファーと
しての『バイオ市民』として、枯葉剤によって脅かされている」[Fox 2010:193]と述
べ、国際的連帯の可能性を示唆する。本稿では、こうした国際的連帯と過去の清算・和解
を目指す言説に敬意を払いつつも、いくらか異なった視点からベトナムの枯葉剤問題とバ
イオ市民性の関係を考える。
フォックスは、
「バイオ市民」という概念をエードリアナ・ペトリーナから借用(adapt)
したというが、使い方はペトリーナとは少々異なる。チェルノブイリ原発事故に関す
る研究の中で「バイオ市民性」
(biological citizenship)という概念を提唱したペトリーナ
[Petryna 2002]にとって、バイオ市民性はあくまでも国家の枠組みを前提とした概念
であり、フォックスのように「普遍的人類」という意味合いで使われてはいない。ソビエ
ト崩壊後独立を勝ち取ったウクライナでは急速な社会保障制度の衰退とともに、「貧困」
004
や「平等」といった概念が国家に対する道徳的意味を失った。そうした中、チェルノブイ
リ原発事故による健康被害が国家の保護を受けるための唯一の根拠として残ったのであ
る。ウクライナの政治家たちも、被害者の補償をこの新興国家を正当化する「国造り」
(nation building)の重要な要素としてとらえた。ペトリーナはこうした「害された身体」
を軸とした市民性を「バイオ市民性」と呼んだのである。本稿ではこの「バイオ市民性」
という医療人類学的概念を通して見えてくるベトナムの枯葉剤運動が持つ矛盾と、この矛
盾から生まれる新たな倫理観を探る。
第 2 章で述べるように、近年の市民性(citizenship)研究では、市民性を歴史・地理的
に変容する流動的な市民形成プロセス、いわゆる「市民性プロジェクト」[Rose 2007:
131]としてとらえている。バイオ市民性という概念も、一般的には、病や遺伝リスク因
子などの生物・医学的知識を軸とした倫理観、社会性や活動などの研究で使われるが、他
4 ベトナムでは、特に外国人調査者の前では語れない過去の記憶はいまだに多い。和解への道標にと、
人道支援活動を始めたにもかかわらず、ベトナム人同士の憎しみには関わることができないと、物乞
いをする元南ベトナム軍兵の前を気付かぬふりして、歩き去らざるを得ないアメリカ人ベトナム帰還
兵。「再教育」と称して、ほぼ島送りの形でアルーイに送られた元南ベトナム政府官僚。巷では、今で
も残る元南ベトナム政府関係者に対する差別の話を幾度も聞かされたが、インフォームドコンセント
を得ない場での話ゆえ、詳細を述べることは調査倫理に反するだろう。
5 国際的な連帯はこの枯葉剤運動の重要な特徴だった。VAVA の訴訟とほぼ同時に、米国や韓国のベトナ
ム帰還兵の訴訟も進行しており、国境を越えた枯葉剤被害者の団結が唱えられた。今回、ベトナムの
原告が米国の裁判所で訴訟を起こすに至った過程でも、IADL(国際民主弁護士協会)やベトナム帰還
兵、海外の平和運動家らの援助や助言を受けてきた。原告の弁護団がとった戦略も、1980 年代にアメ
リカのベトナム帰還兵が起こした訴訟を参考にしていた。そうした中で、ベトナム国内でも、枯葉剤問
題は「国境」を超えた問題として描かれることが多かったのである(VAVA スタッフとの会話より)
。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
の市民性概念同様、「国、地域、トランスナショナルな次元に沿って分割・再編を遂げて
いる」
[Rose 2007:132]
。本稿では、この「バイオ市民性」を枯葉剤症の「おまけ」とし
てベトナムに持ち込まれた倫理観や実践の総合体だと広義にとらえ、これがベトナムでど
のように変異したかを検討する。
科学者の間でも枯葉剤が実際にどのような被害を及ぼすのかという問題で合意に至らぬ
中[Schecter & Constable 2006]、「枯葉剤症」という医学的概念は様々な人たちに影響を
与えている。同時に、枯葉剤被害者に関する表象と経験の間には様々なズレが生じてい
る。第 3 章で述べるように、枯葉剤症は 1970 年代のアメリカにおけるベトナム帰還兵特
有の経験に対応するために生まれた概念で、それは必ずしもベトナムの現実と重ならな
い。第 4 章では、ベトナムではどのような思惑のもとに「枯葉剤症」という概念が広まり
社会運動の軸となり、それがベトナム社会にどのような影響を与えているか検討する。第
5 章では、筆者が 2008~2009 年にフィールド調査を行った、ベトナム中部トゥア・ティエ
ン・フエ省アルーイ地区の少数民族がどのようにして「ベトナム市民」になり、その過程
が内戦後のアルーイの市民性概念にどのように影響したのかを探る。こうした少数民族と
ベトナム国家の関係は、彼らと隣同士で生活を営むベトナムの多数派民族、キン族の人た
ちにも影響を与え、枯葉剤に関する意識の違いにもつながる。第 6 章では、医学的証拠と
枯葉剤被害者に対する補償や支援のギャップから、人道支援的倫理観の台頭を検討する。
まずはバイオ市民性の概念を整理しよう。
2 バイオ市民性
「バイオ市民性」は、1990 年代以降次々と考案された「生社会性」[Rabinow 1996]、
「遺伝市民性」[Heath, Rapp & Taussig 2004]、「治療市民性」[Nguyen 2005]といっ
た、現代社会における生命科学の役割を探求するための医療人類学的概念の一つである。
どれも、ミシェル・フコー[Foucault 1978, 2007]の生権力の研究に着想を得て、権力に
よる細部の規制を生命科学の働きを通して探ることを目的とする。ペトリーナ以来、様々
な研究者がバイオ市民性という概念を駆使して、優生手術、遺伝診断や出産前診断、人
体細胞組織や遺伝子知識の売買、反公害運動、患者運動などについて研究してきた[Rose
& Novas 2005;Wehling 2010]
。
「バイオ市民性」は端的に言って、生社会性と市民性
を掛け合わせた概念である。
Citizenship という言葉は、一般的に「市民権」と訳される。法による保護を指す公民権
(civil rights)、政治への参加を指す政治権 (political rights)、そして社会保障などの「人間
らしく生きる権利」としての社会権 (social rights) が、社会運動の成果として歴史的に発
展してきた[Marshall 2013(1950); Turner 1990]6。しかし、ここであえて citizenship を
「市民性」と訳すのは、最近の文化人類学では、国家が個人を「市民候補としてとらえ、
6 その後も文化的同化政策に対する抵抗の中で生まれた「文化権」など[Rosaldo 1993]
、社会運動な
どを通して市民性概念は拡大している[Lazar ed. 2013]。
005
その脈絡の中で市民としての形成を促す」[Rose 2007:148]プロセスも citizenship の一
部として捉えることが多くなってきたからである。フコーは「組織、手続き、分析と熟
考、計算など、人口をターゲットとした、複雑かつ具体的な権力の戦術的展開の全体的
効果」を「ガバメンタリティ」
[Foucault 2007:108]と呼んだが、citizenship もこうし
た、細部にわたる権力の効果と見られるようになったのである。社会保障制度や徴税、法
による保護と規制、国境の管理、インフラ整備、教育、情報や補助金の提供や開発援助な
どを通して、市民を細かなカテゴリに細分化し、主体であると同時に統治の対象としての
subject としての市民を形作っていく。ニコラス・ローズはこれを citizenship project「市民
性プロジェクト」と呼ぶ。
近年のグローバル化のもと、市民性の概念が必ずしも国家の枠組みに縛られなくなった
のは、こうした市民創出に関わるのは国家ばかりではないという認識が強まったからであ
る 7。ベトナムの枯葉剤運動でも顕著になるように、海外の司法制度や国際法、人道支援
団体なども、被害者の補償の裁定や支援を通してそれぞれ独自の論理で市民を分類して
異なった権利を承認し、自己認識を促すことを通して市民の創出に関わり国家の主権を
相対化している。多国籍企業が社会保障の一部を担う「ネオリベラル市民性」[Sawyer 2004]や、国際人道団体が特定の病に対して治療や医療援助を通して患者の主体性を育む
「治療市民性」なども、その例である[Nguyen 2005]。
一方、生社会性という概念は、もともと医療人類学者ポール・ラビノウが冗談半分に、
006
行動生物学に属する「社会生物学」
(sociobiology)を反転させて、
「生社会性」
(biosociality)
という造語を提案したのが始まりだという[Hacking 2006]。1990 年代初頭、ヒトゲノ
ム計画の完遂を目前に控え、ラビノウは、社会生物学の生物学的決定論に抵抗して、遺伝
学の発展に伴い「生物学的運命」は近い未来、人類にとって回避可能な運命になるという
夢を描いたのである。ラビノウがこの預言的発想を既存の社会運動と結びつけたため、多
くの研究者がこの概念に惹かれた[Gibbon & Novas eds. 2008]
。特に、人々が「病気の
リスク因子や[毒物のような]死の原因因子の知識をきっかけに、自分はその『類』の人
間である、つまりアルツハイマー病にかかったり、自閉症の子を産んだりするリスクを背
負った人間なのだと自己認識する」
[Hacking 2006:84]ようになり、それを根拠に人が
集い、治療法の研究の促進や責任追及に関与するといったシナリオは、科学的知識と社会
の関係を研究していくうえで重要な視点を提供した 8。
ここに出てくる「この『類』の人間」というのが鍵である。既に述べたように「バイオ
市民性」も、単に病、毒の体内汚染、遺伝リスク因子などを基にした新しい権利や社会運
動だけでなく、国家や薬剤会社、人道支援団体などが市民を細かなカテゴリに分別し、形
成するプロセスである。ここで中心的な働きをするのが、生物・医学的知識を基にした
「類」なのである。ジョルジョ・アガンベン風に言えば、これは「自らを自らの〔生物学
7 複数の国家の市民性を同時に所持し、一つの国家への忠誠心よりも流動性を重要視する「flexible
citizenship」や、一国家の中でもすべての市民が必ずしも同等の権利を制度上保障されるとも限らない
という意味合いを持つ「graduated sovereignty」などの概念も、市民性と国家の関係が 1 対 1 の関係で
はなくなってきた現状を表現している[Ong 1999;Solinger 2013:251]。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
的〕
」
『類』や認識に縛り付けることを通して、外的権力に縛り付ける」プロセスと言える
[Agamben 1998: 5]
。法的、医学的、科学的基準に沿った社会保障や司法制度を通した補
償は、同時に特定の原因による身体的損傷を認め、個人をその知識に準じて規定し、その
アイデンティティの様々な含意と向き合うように仕向ける。その際、「被害者」の自己規
制を促進したり、スティグマや差別を助長したり[Lock 2008]、アイデンティティを本
質化したりするなど、本末転倒な副作用もありうるため[Conrad & Angell 2004]、ウェ
リング[Wehling 2010]が指摘するように、バイオ市民性の「副作用」に注視する必要
があるのである。
さて、バイオ市民性という概念を一般的に論じたニコラス・ローズとカルロス・ノヴァ
ス[Rose & Novas 2005]、ピーター・ウェリング[Wehling 2010]らも、チェルノブイ
リ事故を描いたペトリーナのケースをこの概念の元祖あるいは典型例として扱うのだが、
遺伝リスク因子や「希望」の政治などに話が進むにつれ、ペトリーナの議論には存在し
た「国造り」の側面が影を潜めてしまう。過去の悲劇や苦悩を政治の道具として使った
り、国造りの礎にしたりすることは特に珍しいことではない[Das 1996:142;Petryna
2002:15]。しかし、この悲劇の遺産が身体的被害であり、ゆえに国際的ヒューマニズ
ムに語りかける、という点では、チェルノブイリ問題と枯葉剤問題は共通の側面を持って
いる。ウクライナ政府によるチェルノブイリ原発事故後の対応は、ソビエトの不始末に対
する批判と同時に、西側諸国からの技術支援、融資や貿易の問題とも絡んでいた[Petryna
2002:5]
。
ベトナムでは 1980 年代の財政危機以来医療制度が一気に縮小され、特に貧困層向け医
療の維持が急務となっていた[London 2003]。それは同時にベトナムが急速に国際市場
経済に組み込まれていった時期とも重なる。枯葉剤被害者の補償がどのような形で行われ
るか。この問題は、ベトナムの国内事情と国際的ヒューマニズムを結ぶ環として捉える視
点が必要となる。
「枯葉剤症」という概念は、この変化の媒体としてどのような役割を果たすのか。枯葉
剤症とはどのようなもので、どのような形で知られるようになったのかを次に説明する。
8 化学物質や放射能汚染などによる「毒物災害」
(toxic disaster)の被害者をだれが補償するべきかという
問題は自明ではない。広島・長崎の原爆の被害者は原爆を投下した米国政府ではなく、日本政府が補償
を行っている。インドのボパールで起きた化学工場事故では、インド政府は「国親思想」(parens patriae )
を活用し、被害者を代表してアメリカに親会社のある多国籍企業ユニオン・カーバイド社に対して訴訟
を起こした。そこで得た和解金も、インド政府の責任のもと被害者に分配された[Das 1996、Fortun
2001]
。また、チェルノブイリの原発事故後ソビエト連邦から独立したウクライナでは、国家が被害
者の補償を積極的に手掛け、医療と官僚システムなどを巻き込んだ巨大な社会保障システムと、それに
伴う利権集団を築きあげたという[Petryna 2002]
。
司法と行政が担う責任の考え方も国によって異なる。欧州と米国におけるアスベスト毒害裁判を比較
したジャサノフとペリース[Jasanoff & Perese 2004]は、社会保障・規制重視の欧州に比べ、司法重視
の米国では社会保障の一端を司法制度が担っていると指摘する。米国では、環境規制の一端も司法が担
うとも言われている[Galanter 1994]
。こうした国家の責務と市民の権利の関係は、その社会の市民文
化[Das 2001:2]や国の制度に影響される。どの制度の下で権利を主張するかによって、提示しなく
てはならない証拠や市民の主張も変わってくるのである。
007
3「枯葉剤症」の誕生
「枯葉剤症」は 2 種類のベトナム戦争後遺症の片割れとして、1970 年代のアメリカ合衆
国で生まれた。一方の片割れは PTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれるようになっ
た精神疾患の症候群であり、他方の「枯葉剤症」(Agent Orange Sickness)は枯葉剤と関連
性があると疑われた一連の身体疾患を指す。前者は 1980 年代までには正式な精神病とし
て認められたのに対して、後者はいまだに曖昧なままである。便宜上「オレンジ剤」と総
称される数種類の化学物質との関連性が疑われている疾患群が含まれる。
ベトナム戦争中、アメリカ軍とその同盟軍は幾種類もの枯葉剤を使用した。中でも
2,4-D と 2,4,5-T と呼ばれる除草剤によって構成されるオレンジ剤は、ベトナムで使用さ
れた枯葉剤の 3 分の 2 を占めたが、ヒ素系の除草剤カコジル酸を含む青剤、ピクロラム
を含む白剤なども使われた。一般的には、「枯葉剤の毒性イコール(2,4,5-T を汚染する)
ダイオキシン」というイメージがあるが、実際には、ピクロラムを汚染していたヘクサ
クロロベンジンや、2,4-D や 2,4,5-T 自体の毒性も指摘されている[Institute of Medicine 2010]
。
アメリカ医学研究所(Institute of Medicine(以下 IOM))の『帰還兵と枯葉剤調査委員
会』
[IOM 2010]によると、現在まで、これらの化学物質との関連性に関して、「十分な
証拠」が認められている疾患には、軟部組織肉腫、非ホジキンリンパ腫、ホジキン病と塩
008
素ざ瘡が挙げられ、その他に、「限定的もしくは示唆的な関連性の証拠」が認められる疾
患には、喉頭部、肺、気管支や気管のがん、前立腺がん、早期発生性の末梢神経障害、
パーキンソン病、高血圧、虚血性心臓病、タイプ 2 糖尿病や被曝者の子どもにおける脊椎
分離症などが挙げられている。一方、世間では枯葉剤との関連性が疑われることの多い乳
がんや肝臓がん、不妊症、突発性流産、先天性異常(脊椎分離症以外)の発生などと枯葉
剤の関係には十分な証拠が認められていない。ここにリストアップされた疾患もそれぞれ
複雑で、遺伝や環境的要因にも影響される。しかも、塩素ざ瘡を除くと、ベトナム戦争で
使われた一連の化学物質が不在でも起こりうる疾患であるため、病状の発生のみから、そ
の原因を毒物に見出すことは難しい。筆者が本稿で「枯葉剤症」と呼ぶものは、こうした
複数の化学物質との因果関係の存否が不確定な様々な疾患を含む 9。こうした科学的曖昧
さと、世間のイメージや、法的・政治的見解、そして、それらに基づく権利の主張も「枯
葉剤症」問題の重要な要素である。
「枯葉剤症」は、二つの歴史的流れの中で生まれたと言える。一つは、ベトナム反戦運
動。もう一つは、1960 年代以降広まった新しい環境主義運動である。ベトナム戦争中、
ベトナム反戦を唱える人たちは、この戦争の違法性を訴える過程で、「エコサイド」とい
う概念を生み出した[Zierler 2011]。生態系に対するジェノサイドという意味の造語で、
枯葉剤はエコサイドをもたらす兵器として多くの批判の的となった。この環境破壊に対す
9 加害者側に属し利害関係のあるアメリカ政府関連機関の結果をうのみにするのは少々安直ではないか
と思われるかもしれないが、ベトナムの厚生省も多少の違いはあれど IOM のリストを枯葉剤被害者に
対する補償に使っている。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
る批判が、1960 年代末になると、もう一つの環境運動と交差した。レイチェル・カーソ
ンの『沈黙の春』
[Carson 1962]に始まる、人体と生態系を共通のシステムとして考え
る環境主義運動である。特にカーソンは人為的に作られた合成化合物の危険性を訴えるの
だが、中でも当時、米国内で農業や林業で除草剤として使われていた 2,4-D や 2,4,5-T な
どの塩化有機化合物の危険性に警鐘を鳴らしていた。
こうした背景の中で、FDA(米国食品医薬品局)による農薬の安全性試験が行われ、
1969 年には 2,4,5-T の催奇性が発覚した[Courtney et al. 1970]。その後 2,4,5-T の催奇性
は、その生産過程で生じるダイオキシン(2,3,7,8-TCDD)に起因すると考えられるよう
になり[Courtney et al. 1971; National Academy of Sciences 1974]、1970 年代を通して、ダイ
オキシンの毒性に関する謎が解明されていく。芳香族炭化水素受容体と呼ばれる細胞膜リ
セプターと結合することによって、細胞の機能を混乱させるメカニズム[Poland & Glover
1973]、7 年から 12 年にも上ると言われる長い半減期、ごく微量(pg/g レベル)でも効果
を発揮すると言われる猛毒性[Schecter et al. 2006]等、実験科学における知識は、1970
年代半ばまでにはかなり蓄積されていた。
しかし枯葉剤の人体への影響は、はっきりとは確認されていなかった。1970 年、まだ
ベトナムで枯葉剤散布が続いていた頃、南ベトナムでは、動物の奇形や人間の奇形児の増
加が報告されていた 10。当時ハノイに在住していた社会学者のヒラリー・ローズと生物学
者スティーブン・ローズ[Rose & Rose 1972]は、南ベトナムからの難民の口から家畜
や人間の奇形についての話を聞いていた。しかし戦闘状態の中、アメリカ人科学者もベト
ナム人科学者も研究を進めることはできず、その実態は科学的に把握されることはなかっ
た 11。
枯葉剤による人体への被害が実際に世界的に知られるようになったのは 1970 年代後
半、アメリカに住むベトナム帰還兵の間で広まった健康問題として浮上した時だった。当
時、イタリアのセベッソや、ミズーリ州のタイムズ・ビーチ、ニューヨーク州のラブ・
カナルでダイオキシン汚染が絡んだ問題が起こり、化学物質による遺伝子の損傷が話題
になっていた[Allen 2004]。こうした一連の事故の話を聞いたベトナム帰還兵たちの間
で、戦時中自分たちも浴びた枯葉剤による中毒のうわさが広がり始めたのである[Scott
2004]12。同時に、病に苦しむ帰還兵の家族らの問い合わせに触発された米国復員軍人
援護局もデータを集め始めた[IOM 2010]。1978 年には帰還兵たちは枯葉剤を生産した
化学企業を相手取った訴訟を次々と起こし、1984 年には 1 億 8 千万ドルの和解金を獲得
した[Schuck 1986]
。
以上のような歴史を踏まえると、「枯葉剤症」は米国における新しい環境主義とベトナ
ム戦争から帰還した兵士たちが抱えた独自の問題意識の中から生まれたといっても過言で
10 Hanoi Sees Birth Defects. New York Times, Dec 30, 1970
11 当時アメリカ側からは AAAS(American Association for the Advancement of Science) からメセルソンを代
表とする調査団と NAS(National Academy of Science) の調査団がベトナムで枯葉剤の被害に関するパ
イロット調査を行っている。北ベトナム側もトン・タット・トゥン氏を中心として調査団が幾度も南
ベトナムに送られている。
12 同じような話を私もアルーイを訪ねていた帰還兵から聞いた。
009
はない。ベトナムからの帰還後、アメリカ社会の冷ややかな眼差しを一身に受け、怒りと
罪の意識に苛まれていた帰還兵らの不満と地位回復への意欲、そして彼らの政治的影響力
は、既に PTSD という精神疾患をアメリカ精神医療学会に公認させることに成功してい
た[Young 1995]
。枯葉剤問題に関しても、帰還兵を中心とした政治的努力の結果 1984
年の枯葉剤集団訴訟の和解が成立し、さらに帰還兵の補償制度を定めた 1991 年の『枯葉
剤条例』が制定されることにより、枯葉剤が関与する複数の化学物質との関連性が示唆さ
れる複数の疾患の集合体を「枯葉剤症」として社会が一つの病、一つの問題として総合的
に認識することになったのである。
このようにして誕生した「枯葉剤症」には、その成立に至った背景特有の論理が刻印さ
れている。PTSD 同様、枯葉剤症の概念はベトナム戦争から帰還した兵士らの立場に変化
を与えた。PTSD の成立に大きな役割を果たした精神科医ロバート・リフトンとケイム・
シャンタンは、兵士たちの精神疾患の原因が「むごく、汚く、不要な戦争」にあることを
強調した[Young 1995:109]
。戦争という「非人間的」環境によって破壊されてしまう
人類共通の精神を提示することを通して、それまでソンミ村の虐殺報道などを通して米国
内でも批判の的となっていた帰還兵らは「加害者」から「被害者」になったのである。
フォックスの言う枯葉剤の毒に脆弱な「バイオ市民」の身体という考え方もこの倫理的転
換を意味する(ただし多少違うのは、枯葉剤症の場合それを製造して莫大な利潤を得た
「軍産複合体」という具体的な加害者が存在したことではあるのだが…)。
010
こうして、米国特有の歴史、政治関係、市民社会のもとで生まれた枯葉剤症が、それか
ら 20 年の時を経てベトナムに「輸入」されることになるのである。
4 ベトナムの枯葉剤問題と生政治的影響
ベトナム共産党は、長いあいだ枯葉剤問題の政治化を避けてきた[Martin 2012]。枯
葉剤問題に詳しいベトナム人科学者や活動家の話では、その理由は以下の通りだった。
農業国ベトナムにとって、国土のダイオキシン汚染の話題は風評被害につながる恐れが
あった。また、80 年代の国際的孤立のもとで財政危機を経験し、中国の台頭という新た
な脅威の出現にさらされる中で、党の執行部は米国との国交回復を最優先事項と考えてい
た。そのため、枯葉剤問題を外交の場に持ち出すのは得策ではないと判断した彼らは、
1995 年の米国との国交回復の際も補償の件には言及せず、ベトナム人科学者による枯葉
剤に関する研究蓄積も、機密情報として一般市民には伏せられていた。
「科学的知識は社会の役に立ってこそなんぼ」と語るハノイ在住のある医師は、「たとえ
共産党の方針が違ったとしても、米国に補償を求めることができない段階で、一般市民が
枯葉剤について知らされたとしても不安に陥れるだけだから、自分は何も言わなかっただ
ろう」と語る。こうした感情が当時この秘密を共有していた科学者の間で、どれだけ一般
的だったかはわからない。ともあれ、1990 年代の終わりになると、それまで伏せられて
いた情報が徐々に明るみに出てくる。
枯葉剤症の知識をベトナムで広める運動の先駆者となったのが、当時ベトナム赤十字社
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
の会長をしていたレ・カオ・ダイ医師だった。レ氏は戦時中、軍医として中部高原に従軍
し、戦後は肝臓がんの専門家として多くのがん患者を診療してきた13。彼自身も 2003 年
にがんで亡くなっている。そのレ氏が、いつになっても改善されない枯葉剤被害者の苦境
を見かねて、枯葉剤の情報を一般市民に向けて発信し始めたのである。レ氏は、二つの戦
争を戦い革命を担ってきた彼の世代の「最後の使命」として、当時の共産党執行部の方針
に背いて、精力的に枯葉剤問題に取り組み始めた14。
レ氏[Le 2000]は、特に奇形児を持つ家族の置かれた社会的状況を憂えていた。ベ
トナムの農村部では、奇形児の出産は祖先の業によるところが多いという考えが根強く
残っており、被害者家族の差別につながっていた。彼らに対する社会の理解を改善するた
めにも枯葉剤に関する正しい科学的知識を広める必要があると、レ氏は説いたのである。
1998 年、レ氏は「枯葉剤被害者救済基金」を赤十字社に設立し被害者支援の土台を築い
た。レ氏が死去した 2003 年には、米国連邦裁判所における訴訟に先立って枯葉剤被害者
の会(VAVA)が設立されている。
VAVA のような被害者支援を目的とした組織の設立と枯葉剤症に関する科学的知識の普
及は、
「枯葉剤被害者」のみならずベトナム市民一般の認識や出産などの選択にも影響を
与えた。21 世紀にはいると、ベトナム共産党の中でも枯葉剤被害運動に対する理解が徐々
に浸透していった。中でも、この運動への賛同を積極的に示したグエン・チ・ビン元副大
統領は、2003 年、イギリスのガーディアン紙のインタビューでこう述べている。
戦後、故郷に戻った兵士たちは、子どもを作って再び荒廃した国土を再生させたいと
いう気持ちでいっぱいだった。だから一人目の子どもが先天性異常を持って生まれて
も子どもを作ることをあきらめなかった。結果的に、一つの家族に 4 人も 5 人も障害
児がいるという状況を作ってしまった 15。
枯葉剤問題が現在のベトナムにおける障害者問題の有力な説明としてとりあげられるよう
になったのである。2008 年、筆者がベトナムで調査を始めた頃、ベトナムの枯葉剤被害
者を支援する運動は既に全国的な広がりを見せていた。テレビの全国放送はたびたび枯
葉剤に関する報道を行い、『タン・ニエン』や『トゥオイ・チェー』のような全国紙にも
被害者家族の生活ルポなどがたびたび掲載された 16。中でも、三世代目の枯葉剤被害者、
すなわち戦争とも枯葉剤の被害とも無縁だった若い夫婦の間にも奇形児が生まれるとい
う話は、恐怖心を煽り、汚染地から遠く離れたハノイからも、不安に駆られた妊婦たち
が出産前診断を過剰に利用するという現象が報告されている[Gammeltoft 2007]。ハノ
13 肝臓がんはアメリカでは枯葉剤とは関連性は低いといわれているが[Institute of Medicine 2010]、
ベトナムでは枯葉剤被害に含まれている。枯葉剤研究の中心的存在だったトン・タット・トゥン氏も
肝臓専門医だったことも関連していると、ハノイ在住のあるアメリカ人人道支援家は指摘した。
14 医大時代から彼を知る医師の話より。
15 Nguyen Thi Binh in Spectre orange , The Guardian, 29 March 2003 (http://www.guardian.co.uk/world/2003/
mar/29/usa.adrianlevy, accessed 2014/01/15).
16 Eg. Cha me nuoi con bien ho lai lang. Tuoi Tre 20 March, 2008.
011
イで出産前診断の研究をした医療人類学者ティーナ・ガメルトフトは、「ダイオキシンは
ベトナムのソーシャル・ボディーを汚染し、国家の発展を妨げているという不安が、現
在のベトナムにおける出産前診断技術の政治的後押しにつながっているのではないか」
[Gammeltoft 2007:156]と述べる。枯葉剤問題は国家の財産である国民の「質」に関
する、言わば優生学的言説とも結びつくのである。サイゴンのツーズー病院の産婦人科で
は、枯葉剤問題が明るみになる以前から枯葉剤のことが話題にされ、時には奇形児を産ん
だ親に避妊手術が勧められたこともあったという 17。枯葉剤被害の知識を広めることは、
枯葉剤汚染が疑われる人たちに様々な形で自主規制を促すのである。
枯葉剤問題を貧困問題とつなげる言説が多いのも、ベトナムの枯葉剤運動の特徴と言え
る 18。先天性障害を持って生まれた子どもはその家族に大きな経済的負担をかける。しか
も当該家族はもとよりそのコミュニティ、そして最終的には国家全体の重荷になるという
のである。現在ベトナム政府は毎年 5000 万ドル以上を枯葉剤被害者補償にあてている。
補償や医療費にあてる財政的負担はもとより、本来ならば社会に貢献できるはずの国家の
人的資源が枯葉剤の被害によって失われているという言説は、枯葉剤運動は過去の清算と
いう問題だけではなく、現在の困難の克服が重要なのだという言説とも重なるのである 19。
一方、枯葉剤被害者と呼ばれる人たち、特に障害児を持つ家族は、必ずしも国家規模の
優生学的論理を受け入れ出産を控えるという結論には至らなかった。たとえ枯葉剤汚染の
ことが知らされたとしても、障害児の面倒を見る役割を担う者が必要だということに変わ
012
りはない。そのため、新たに健常な子どもを産みたいという親の気持ちは変わらないとい
う話も聞いた。実際アルーイでは、枯葉剤被害者であるという診断が、さらなる出産につ
ながったというケースもある。アルーイ中央病院で事務をしているパコ族のトンと小学
校の先生をしているビンは、障害者の娘ランと健常者の息子ドーを持つ。トンとビンは
二人とも公務員なので本来ならば子どもは二人までに制限されている。しかし 2000 年代
初頭、ランが枯葉剤被害者だと認定されると、もう一人子どもを産む許可が下りたとい
う 20。
2000年代、医療人類学界ではバイオ市民性や生社会性の概念が、あたかも現代社会の
一つのパラダイムであるかのように使われるようになった[Gibbon & Novas 2008]。そ
れとともに、こうした概念の限界を指摘する研究も増えている。国家に対する不信感や社
会保障制度の不備も、特定の病やリスクを積極的に受け入れ、それに基づいて社会運動
を起こすバイオ社会的主体性を妨げることにつながる[Roberts 2008]。たとえ制度的に
は整っていたとしても、病や障害に社会的な意味づけをする社会的資本(Social Capital)
を持ち合わせていない人々にとってバイオ社会性という概念は当てはまりにくい[Das
2001]。アルツハイマー病の遺伝リスクのように、特定の病に伴うスティグマを考え
ると、いまだに治療や予防につながらない遺伝リスクの知識は歓迎されないこともある
17
18
19
20
ハノイ在住のある医師との会話より。
VAVA におけるスピーチやパンフレットなどの出版物や、スタッフとの会話より。
ダナンの枯葉剤被害者の会における集会より。
おそらく人民委員会に特別に許可を乞うたと思われるが、確認はできなかった。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
[Lock 2008]
。枯葉剤にしても、その知識はすでに汚染された被害者にとっては治療に
も予防にもつながらない ( 子どもを産まないという選択以外は )。枯葉剤被害者を含む遺
伝病や先天性障害に苦しむ子どもたちの治療に長年関わり、枯葉剤と先天性障害に関す
る疫学的調査を基に博士論文を書いているフエ医大のグエン・ヴィエット・ニャン医師
[Nguyen Viet Nhan 2000]は、枯葉剤の話は「もううんざりだ」と話す。臨床医として
は、患者が枯葉剤被害者であろうがなかろうが診療方法に関係はない。それどころか「枯
葉剤被害者だ」と診断されるのを恐れて、診察に来ることをためらう障害児の家族もあ
る。治療が遅れれば治るはずの障害も治らない可能性を高める。枯葉剤問題に関する世間
の注目は、臨床の場にも影響を及ぼしているのである。
世間の痛烈な印象とは対照的に、直接枯葉剤症という概念に規定される人たちにとっ
て、その現実が曖昧なのも、この問題の特徴の一つだった。
5 汚染地アルーイの枯葉剤問題
2008 年の冬、実際に枯葉剤が大量に散布されたというトゥア・ティエン・フエ省のア
ルーイ地区にたどり着いた筆者は、愚かしいことに初めて、いったい何をもってカテゴリ
的に「枯葉剤被害者」と呼ぶのか分からないという現実に気付いた。枯葉剤、もしくはそ
の汚染物であるダイオキシンに汚染された「被曝者」を「被害者」と呼ぶのならば、ア
ルーイの人口およそ 4 万人ほぼすべてが「被害者」ということになりかねない。アルー
イ盆地のほぼ全域が、戦時中の枯葉剤散布の被害にあっている[Hatfield Consultants 2000]
。しかしアルーイに住むほとんどの人は、自分を被害者だとは思っていない。逆に
鳥目、腰痛、精神病の発作を、さらには倦怠感や背が低いこと、学業が思わしくないこと
までも枯葉剤のせいにする者もいる。
ベトナム政府は、2001 年から労働・傷病兵・社会保障省を通して一部の「枯葉剤被害
者」を対象に補償を出している 21。アルーイでは、この補償をもらっているか否かが、被
害者かどうかの第一の基準になると考えている人が多かった。そしてほとんどの人が、自
分もしくは自分の親が戦争に参加したか、そしてどの軍隊(北ベトナムの正規軍、人民解
放軍ゲリラ兵、民工と呼ばれる予備軍、青年ボランティア軍)に所属していたか、などと
話を続ける 22。枯葉剤補償制度を通して、戦時中の経歴が枯葉剤被害者という承認につな
がっているのである。
本章では、2008 年から 2009 年における筆者のフィールドワークに基づき、アルーイに
おける枯葉剤症とバイオ市民性について考察する。まずはアルーイに住む人たちとベトナ
ム国家の関係の歴史を簡単に紹介しよう。
21 che do doi voi nguoi tham gia khang chien va con de cua ho bi benh hiem ngheo do chat doc da cam 。(26 /
2000 / QD-TTg, 54/2006/ND − CP http://laws.dongnai.gov.vn, accessed 2010/5/4)
22 ちなみに、アルーイでは毎月 600 人余りがこの補償を受けている。フエ市の赤十字社でもらった統計
によると(その正確さに関しては懐疑的な意見もあったが)
、アルーイでは 5000 人近くが枯葉剤の被
害(bi hau qua)を受けているという。
013
5-1 アルーイの少数民族の市民性
ベトナムの古都フエ市から南西に 60 キロ、ラオスとの国境沿いに位置するアルーイ
は、戦争中は南北をつなぐ補給路、俗にいう「ホーチミン・ルート」の隘路に位置し、双
方にとって戦略上重要な場所だったため激しい戦闘が繰り広げられ、したがって枯葉剤散
布も多かった。中央を縦に流れる二本の川沿いに広がるこの盆地には戦前はタオイ族、カ
トゥー族、パコ族といった少数民族が、歴代のベトナム王朝からは比較的独立した生活を
送っていた[McElwee 2008]
。しかし彼らも 20 世紀後半に入ると、「民族独立の革命」
に巻き込まれていく 23。
第一次インドシナ戦争終結後ベトミンを再編して組織されたベトナム共産党は南ベトナ
ムの民族解放戦線(NLF)とともに、ラオスとの国境地帯のチュンソン山脈と中部高原
を縦断する補給ルート(後の「ホーチミン・ルート」)建設を構想していた。これに対抗
して米国と南ベトナム共和国もこの地への勢力拡大を図り、1957 年にはアルーイ盆地の
アソーで滑走路の建設が始まった[Hatfield Consultants 2000]。こうしてアルーイは以後
十余年の長く激しい戦闘に巻き込まれていく。
戦いが終わってみるとアルーイ盆地の各少数民族は、戦時中の解放軍側における活躍
が認められ「国民的英雄」と称賛されるようになっていた。今日では「ホーおじさんの子
孫」などとも呼ばれている。もともとベトナムとラオスの国境にどちらの国家からも独立
して暮らしてきた彼らは、戦時中の功績を手にベトナム国家の一員となったのである。
014
確かに彼らが払った犠牲は尋常ではなかった。激戦地と化したアルーイは爆撃と枯葉剤
散布により生態系を破壊されていた。戦争が終わりアルーイを離れていた人々が疎開地や
軍隊から帰ってみると、そこにはもう彼らの知る故郷は跡形もなくなっていた。生活の再
建も困難を極めた。
青年期をこの激戦の時代に捧げたカトゥー族のある長老になぜ戦いに参加したのか尋ね
たことがある。すると彼はこう答えた。「祖国が敵に侵略されれば誰だって解放のために
戦うさ」と。「国民意識」の誕生にはある種の記憶喪失が常に伴う[Anderson 1983]。祖
国解放のために戦ったアルーイの少数民族にとって「ベトナム」という国は、そのために
戦うまで彼らの「祖国」ではなかった。それまでは単にフランス植民地主義によって線引
きされた国境の内側にたまたま位置しただけだった。しかし、十余年の戦いは新たな連
帯・帰属意識を育んだ。北ベトナム軍や解放戦線に参加したアルーイの少数民族はアルー
イ以外の土地で戦うことが多かったし、アルーイでの戦闘を受け持ったのは主に 17 度線
以北のクアン・ビン省で組織された正規部隊だった。アルーイの人々はまさに「故郷」で
はなく「祖国」のために戦ったのである。ドンソン村に住むカトゥー族の長老クイン・
ダットも、父親に付き従って参加したフランスとの戦争に引き続きアメリカとの戦争でも
解放軍の案内・伝令役としてダナンを中心に活動した。故郷に足を踏み入れたのは 10 年
間でわずかに一度だったという。彼らにとってみれば戦争自体がベトナムの「市民性プロ
ジェクト」の始まりだったのである。
23 以下の記述は、数人のカトゥー族の長老との会話などをまとめたものである。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
こうして勝ち取った国民国家への帰属にはある種の恩恵と責任が伴った。戦いが終わり
故郷に帰った者たちには政府から半年分の食料などの物資が支給され、さらなる生活再建
の援助を約束された。戦時下の共同農業は戦後の集団農場へと移行し制度化され、それま
で陸稲しか知らなかった彼らは水稲の作り方を教えられた。政府の定住化政策を実現する
ためにも水田は欠かせなかった。その反面、新しい農業技術は化学肥料や殺虫剤などへ
の依存も余儀なくさせた 24。国境を越えた移動の制限など、自由が減ったと感じる者もい
る。人口構成も変わった。戦後に入るとキン族の入植者や政府官僚が増え、今では人口の
4 分の 1 をキン族が占めるようになった 25。市場や医療施設の建設、道路や通信網の整備
などにより戦前と比べアルーイの集落間の距離も、都市部や中央との距離も一気に縮まっ
た。学校ではベトナム語が教えられ、優秀な生徒はフエ市、ダナン市やハノイの大学に進
学するようになった。2000 年以降は、山岳地帯に住む少数民族を支援する「プログラム
135」が始まった。こうした中央主導のプロジェクトにより、アルーイの少数民族は教育
や医療面をはじめ様々な経済的支援を受けた 26。キン族の入植者の多くはこうした市民性
プロジェクトとは比較的無縁だった。しかも多くのキン族は戦時中民間人だったり、中に
は南ベトナム政府の官僚だった者もいたりした。こうした戦時の忠誠や所属も戦後社会に
おける彼らと国家との関係に影響を与えた。
例えば 2001 年に始まった政府による枯葉剤補償は、北ベトナムの正規軍兵士や工作員
または民族解放戦線のゲリラ兵や青年義勇軍とその子孫に限られている。つまり、南ベト
ナム軍の兵士や南ベトナムの一般市民に対する補償は制度上存在しない。また、環境汚染
を経由した間接的汚染も考慮されておらず、現時点では枯葉剤の被害に対する医学的根拠
に基づく統一された補償は行われていない 27。
アルーイでは多くの少数民族の人たちが軍人恩給や傷病兵補償を受けている上に、少数
民族を対象にした開発プロジェクトによる援助も存在している。それとは対照的に、ア
ルーイに住むキン族の多くは戦時中は南ベトナムの民間人、政府の役人や軍人で、中には
戦後ほぼ流刑のような形でアルーイに送られてきた人もいる。アルーイのキン族は、戦後
のベトナムに生きるにあたって、文化的には(言語、教育や商業の面などで)少数民族に
比べて恵まれているかもしれないが、構造的に国の保護から除外されている部分があるの
である(実際に彼らの平均的経済水準は少数民族と比べ 13%高い[Ho 2007:56])。か
くして同じ地域にベトナムの市民になった時期も過程も条件も異なり、戦後の国家による
24 カナダのハットフィールド社[Hatfield Consultants 2000]の調査によると、アルーイの人たちは
DDT にも汚染されている。
25 2007 年の統計によるとアルーイの総人口およそ 4 万人のうち少数民族はおよそ 3 万 1 千人。その内
訳は、パコ族 1 万 6 千、タオイ族 1 万、カトゥー族 4 千、そしてパヒ族 160 人である。ベトナムの公
認民族分類によるとパコ族とパヒ族はタオイ族に含まれるが、パコ族はタオイ族よりも多く自分たち
をパコ族としてタオイ族とは区別している[Hoang et al. 2007]。
26 こうした少数民族政策の同化政策的影響やそれに対する少数民族の抵抗運動に関しては Taylor[2008]
を参照。
27 こうした元軍人に対する枯葉剤補償によって生まれる矛盾は米国でも存在する。1984 年の裁判によ
る和解金を除くと[Schuck 1986]、枯葉剤被害者に対する米国の補償は基本的に復員軍人庁を通し
て政府によって支給されている。アメリカの同盟軍だった南ベトナム軍兵は、難民としてアメリカに
移住した場合、アメリカ政府からの補償も枯葉剤被害者としての認定も受けられない[Ha 2010]。
015
保護も異なる人々が、隣り合わせに暮らすという状況が生まれたのである。
このように戦後のアルーイでは、戦時中の経歴と国家による保護は切り離すことができ
なかった。エイドリアナ・ペトリーナによると、ウクライナでは新国家の成立に際して
チェルノブイリの被曝者であることが国からの援助の条件になったが[Petryna 2002]、
アルーイでは戦争中の貢献が同じような役割を果たした。ここでは「バイオ」ではなく
「戦争の履歴(ly lich)」が市民性の重要な軸になったのである。
アルーイには、戦後、国境のラオス側に位置した故郷を捨て、自らも命をかけて守った
「祖国」に移り住んできた人たちもいる。次節ではこの人々の経験を検討する。
5-2 ダイオキシン・ホットスポットに留まるドンソン村
アルーイ盆地の西南端にドンソンという村がある 28。ラオスから村ごと移ってきたパコ
族が中心となってできた村だ。戦前はアルーイ盆地とラオスとの国境は形式上のものにす
ぎず、住民の交流も多くてラオス側からベトナムの戦争に参加した者もいれば、戦火を逃
れてラオス側に疎開した人たちもいた。戦前、国境のラオス側に位置していたドンソン村
は、終戦を迎えるとラオス側に戻ってラオスの市民になるかベトナム側に移ってベトナム
の市民になるかの選択を迫られた。現在ベトナム側にあるドンソン村は、戦争への貢献の
見返りを期待して移り住んできた人々の村である。
ドンソン村に住むパコ族の男性クイン・ドゥックは、ベトナムにおける戦いに参加した
016
が、参戦しなかった彼の弟は戦後もラオスに残ったという。ベトナムに移り住んでも戦争
での功績がなければ政府からの援助は受けられない。10 年以上も続いた戦闘で荒廃した
ベトナム側の山地では援助なしで生き残るのは困難だった。こうして、ベトナムの国家統
一とともに、それまで彼らにとってはあまり意味を持たなかったラオス・ベトナム・国境
といった概念が突如として生死を分ける重要な要素となった。「市民性」は「生存」のた
めに不可欠なものになったのである。
ドンソン村のパコ族の放浪は戦後もしばらく続き、さらに 2 度の村ぐるみの移動を経
て、1991 年に戦時中アソー米軍基地があった現在のドンソン村にたどり着く。アソー基
地跡には軍事基地特有の環境汚染が放置されていた。滑走路建設のために砂利が敷き詰め
られ、石油や化学薬品などが染み込んだ土地は農地には不向きだった上、無数の不発弾が
埋まるこの土地には従来の住人だったカトゥー族も戦後は住みつかなかった 29。
ドンソン村のパコ族がそこに移住してきて約 5 年後の 1996 年、カナダの環境コンサ
ルタント会社ハットフィールド社の科学者が枯葉剤の残存ダイオキシンの調査にやって
きた。彼らは、土壌、水、食料、人の母乳や血液などの体組織を持ち帰り、そのダイオ
キシン汚染度を最先端の高解像度ガスクロマトグラフィ質量分析技術をもって計測した
[Hatfield Consultants 2000]。その結果、以下のことが判明した。
28 ドンソンはサー(xa)と呼ばれる行政単位に属し、「コミューン」と呼ばれることもあるが、人口は
2000 人ほどで、「村ぐるみ」の移住の経験もあるので、ここでは「村」と呼ぶ。
29 私のリサーチアシスタント、ドゥックの父親は、従来の住人のカトゥー族に属するアソー部族の中で
も初めてこの土地に住み始めた人だった。その彼でも、戦後間もなくの頃は、数百メートル東の丘の
方に住んでいたという。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
戦時中空中散布によって枯葉剤が撒かれた場所では、ダイオキシン濃度は検出不可ない
し許容範囲まで下がっている。しかし、戦時中米軍基地が存在し、枯葉剤の貯蓄と補給が
なされた場所では、いまだに危険な濃度のダイオキシンが残る「ホットスポット」が点在
する。しかも、食物連鎖を通して人体を汚染し続けている。中でも元米軍アソー基地跡か
らは 900ppt 以上のダイオキシンが検出された。
ダイオキシン・ホットスポットを中心に集落を設けてしまったことが発覚したドンソン
では、政府の意向によりホットスポットから百メートル程離れた場所に集落を移した。し
かしアソー基地周辺から去ることはなかった。
5-3 枯葉剤運動に目覚めたアルーイの枯葉剤被害者
ハットフィールド社の「ホットスポット説」は、その後ベトナムで広く受け入れられ、
ベトナムの科学者による枯葉剤研究にも大きな影響を与えた。2003 年には、1980 年以来
ベトナム人科学者による枯葉剤研究を統括してきた厚生省傘下の 10・80 委員会が解散
し、環境資源省傘下の 33 委員会のもとで再編された。研究の重心も健康被害から環境汚
染へと移行した 30。そして、ハットフィールド社の研究の成功とともに、その研究対象地
のアルーイも枯葉剤汚染地域として全国に知られるようになったのである。
ここで、枯葉剤被害者の会(VAVA)のアルーイ支部長クイン・ティの家族の話を紹介
したい。
パコ族のクイン・ティとキン族のイェンの間に生まれた娘ホアンは、障害を持って
生まれ、20 歳を過ぎても床に臥したままで、話すことも一人で起き上がることもで
きない。寝返りを打つことさえできないため、長時間体の下になっていた皮膚はゴザ
の表面との間で擦れて潰瘍になることが多い。そんな時母親のイェンは、丁寧に軟膏
を塗って回復を待つ。家にいるとき時はできる限り頻繁に体の位置を動かす。イェン
は私と話すときも、絶え間なくホアンを擦ったり硬直しきったホアンの手足の指を伸
ばしたりしている。
「この子は、何もわからないんだよ」と言いながらもホアンに向かって話しかけ
る。「語り」だけでは表しきれない、いつ死んでもおかしくないと言われ続けた子と
その母親の関係が、こうしたささいな仕草に垣間見える。
1980 年代、まだ枯葉剤のことが世間であまり知られていない頃、イェンは発熱に
苦しむホアンとともにフエ総合病院に入院していた。その時の担当医師が、「旦那は
戦争に参加したかい、枯葉剤を浴びたりしなかったかい」と尋ねてきた。その医者
は、数年前にイェンがホアンと同じような症状を持つ男の子を連れて入院していたこ
とを覚えていたようだとイェンは言う。クイン・ティは確かに従軍していた。そう主
治医に話すと、彼は「もしかしたら関係があるかもしれない」と呟いたという 31。
30 33 委員会のスタッフとハットフィールド社の科学者の話より。
31 2009 年 6 月 2 日のフィールドノートより。
017
その後 20 年間、床から起き上がることのなかったホアンを世話し続けてきたイェンだ
が、自分は「枯葉剤のことはよく知らないから、夫に聞いてくれ」と、初めはなかなか正
式なインタビューに応じてくれなかった。
クイン・ティはホアンの父親である以上に枯葉剤運動の事情によく通じていた。2008
年の夏、クイン・ティはハノイで開催された VAVA 主催の枯葉剤被害者大会にアルーイ
の被害者代表として招待された。この経験に触発されて、アルーイに戻ると彼は地元の有
識者とともにアルーイの VAVA 支部の設立準備に取り掛かった。一年余りの役場との交
渉の末 2009 年春、ようやく活動を始められるようになっていた。その年の 5 月、私は食
事に呼ばれてクイン・ティの家を訪れていた。
クイン・ティは、突然箸を止めると食い入るようにテレビに向かった。ちょうど
ニュースでは、パリで行われている国際法廷の報道が始まっていた。部屋の中で大騒
ぎをしている自分の孫と養女を少々苛ついた様子で見上げると、クイン・ティはお椀
を片手に立ち上がり、テレビの前に立ちふさがった。
VAVA の仕事の発展とともに、クイン・ティは枯葉剤被害者のための国際的な運動
にも興味を持つようになっていた。このテレビ・ニュースがあったひと月ほど前に
は、「私もこの国際法廷に行くから、パスポートを用意しとけと言われているんだ」
と語ってくれたばかりだった。
018
2009 年の 3 月、ベトナム枯葉剤訴訟が米国最高裁判所で棄却されると、こうした
結末に対する悲壮感を一掃しようと、IADL(国際民主弁護士協議会)はラッセル法
廷をモデルにした国際法廷をパリで開催した。この会議に参加するベトナムの使節団
にクイン・ティは含まれるはずだったのである。少なくとも彼はそう VAVA のスタッ
フから聞かされていた。しかし、ベトナム使節団は、すでにパリに発ってしまった後
だった。
「もうパスポートもあることだし、今度は私も海外に行けるだろう」と少しさみし
げにクイン・ティは言った 32。
医療人類学者ヴィン - キム・グエン[Nguyen 2005]は、国際医療支援団体との関係を
通してエイズ活動家に育っていくブキナ・ファッソの HIV/AIDS 患者研究の中で、国際
団体による治療薬の提供を通して、AIDS 患者としての自覚と習慣を身につけ、それを通
して、まだ治療薬をもらえないでいる他の AIDS 患者のために活動するようになる現象を
「治療市民性」
(therapeutic citizenship)と呼んだ。クイン・ティも自らの毒に侵された体
を通して国際的舞台で展開された枯葉剤運動の一員としての意識を持ち始めていた。同時
に、彼の期待や希望も影響されていった。
私たちが初めて出会った頃、私はクイン・ティに人道支援団体にはどのようなことを期
待するか尋ねたことがある。すると彼は、雨水をためる装置があればうれしいと答えた。
32 2009 年 5 月 12 日のフィールドノートより。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
イェンとクイン・ティがともに仕事に出ている間、ホアンはどうしても寝床で便を垂れ流
してしまう。そうして汚れてしまったベッドや服を毎日洗い流すのに大量な水が必要なの
だ。その水を確保する手段が必要だというのは障害者を持つ親の日常的で個人的な願い
だった。ところがそれから 1 年後、私が帰国する頃には、クイン・ティは障害児を昼間集
めて面倒を見るデイケアの設立を考えていた。クイン・ティ自身の娘の障害は重度過ぎ
て、たとえデイケアができたとしてもその恩恵にはあやかれないだろう。しかし、アルー
イの VAVA 支部長として他の被害者家族のことも考える責任を感じたのだ。
テレビで取り上げられる他の枯葉剤被害者支援の様子は、枯葉剤被害者に対してどのよ
うな支援ができるのかという想像を育んだ。例えば、日本でもなじみの深い「ベトちゃ
ん・ドクちゃん」の一人ドクちゃんの話は一つの成功話としてテレビで報道され、被害
者家族の想像をかきたてた。ドクちゃんは日本の支援者の助力もあって今は病院でコン
ピューター関係の仕事をし、結婚もし、子どももいる。
ある時私は、枯葉剤被害者ランの父親トンから、ランもドクちゃんのようにコンピュー
ターが使えるようにならないだろうかと相談を受けたことがある。しかしランはベトナム
語を理解はできたが、基本的にパコ語を話し、20 歳を過ぎても文字を知らなかった。指
の力も弱く、障害のため長時間体を起こしていることもできなかった。もし小さい頃から
「ドクちゃん」のように様々な支援を受けていればコンピューターを使えるようになった
かもしれないが、今となっては困難が大きすぎた。
枯葉剤散布の 80%はアルーイのような少数民族が住む土地で行われた。しかし、枯葉
剤運動の担い手は都市部が中心だ。訴訟運動も支援方法も、都市部の被害者が規準になる
ことが多く、アルーイの枯葉剤被害者の想像と現実のギャップにつながっている 33。
2003 年 12 月、 米 国 裁 判 所 で の 訴 訟 を 控 え て VAVA が 設 立 さ れ た 時、 英 語 名 を
Vietnamese Association of the Victims of Agent Orange にするか for the Victims にするかが議
論された。最終的には、より多くの人が運動に参加できるようにと、for (ために)が選
ばれたという。実際、直接の被害者ではなく元軍人将校や医者、科学者が VAVA の中心
的指導者となった。
彼らは個人的に被害者とどのような関係にあるのかと VAVA のスタッフの一人に尋ね
ると、「我々の多くも被害者である可能性は十分にある。我々は軍人だった者が多いか
ら、枯葉剤が撒かれた地域で作戦を展開したことがあるから」と答えた。最近は彼も体調
がおもわしくないようだ。歳をとるにつれて周りにも、不調を訴える者が増えている。で
も「自分は体内のダイオキシンの検査はしない。子どもや孫に迷惑をかけたくないから」
と彼は言う。被害者として認定されても治療方法に影響はない。政府から枯葉剤被害者と
してもらえるであろう 60 万ドン(約 40 ドル)ほどの補償金も、物価が高騰するハノイで
は大した足しにもならない。こうした状況は 「極貧状態にある枯葉剤被害者」[Vietnam
News Agency 2006]という世間一般のイメージと一致し、声をあげられない貧しい被害者
33 例えば、アルーイでは、車いすがほこりをかぶって縁側に置き去りにされているのを幾度も目にし
た。砂利道では役に立たないのだという。デイケアにしても、万が一その設立の望みがかなったとし
ても、子どもをそこまで運ぶ方法など、都市部とはまた違った様々な実際的な問題が浮上するだろう。
019
と、彼らを代弁し国際的舞台で活躍するエリート市民といった構図を作り上げている。
5-4 枯葉剤症を「知る」とは
ハットフィールド社の貢献は「ホットスポット説」だけではなかった。彼らはベトナム
人科学者に対する環境アセスメント方法のトレーニングの一環としてアルーイにおける調
査を行ったのだが、同時に現地に研究成果を還元する「文化」をベトナムにもたらした。
ハットフィールド社の研究結果は彼らのベトナム側のパートナーであるベトナム厚生省の
10/80 委員会によってアルーイにもたらされ、枯葉剤やダイオキシンのリスクに関する教
育が行われた 34。各村の人民委員会の敷地内には、ダイオキシンがどこからきて(戦争や
ごみ焼却)、どのような場所(米軍基地跡)や食べ物(魚の内臓、鴨の脂身や肝臓)に蓄
積するかなどの情報が載せられた看板が立てられた。こうした教育も筆者が訪れた 2008
年には既に普及し終えていたようだった。
ある日、アルーイのホン・トゥォン村人民委員会の敷地の片隅に、枠からずり落ちて草
の中で朽ちかけている看板を見つけた。筆者が、どうしてこんな状態なのかと地元の人に
尋ねると、彼らはもうこの看板は用済みだからと答えた。確かに、老人から子どもたちま
で、私が話したほとんどの人がダイオキシンに関する何かしらの知識を持っていた。
「鴨の肝臓や脂身、魚の内臓は食べないこと。水はよく沸かして飲むこと」といった調
子で、彼らは他の予防衛生の知識とまぜこぜにしながらダイオキシンの話をする。だが、
020
どこまでこういった情報を信じているのか、どこまでその知識に基づいて生活をしている
かには疑問が残った(酒を飲む席で魚の内臓のような「禁断」の食材がつまみとして出て
くることもあった)。典型的バイオ市民は自らの病に関する専門的な科学的知識を「身に
着ける」というが、知識を「身に着ける」とはどういう意味なのだろうか。科学的知識を
理解するといっても様々ある。明文化された科学的知識、実用的な知識、科学の方法論の
理解など、その形は多様である[Wynne 1995]。
2009 年のある日、筆者はドンソン村の人民委員会で、何となく集まってきた若者たち
とお茶を飲んでいた。そんな時、こんな会話が耳に入った。
「俺は 61%だと言われた」。
「俺は 62%だって」。
「なに、何?何の話をしてるんだい」、と困惑して尋ねると、「いやね、俺らも検査され
たんだ。そしたら 61%毒(chat doc)と言うんだ。どういう意味かは、よくわからないけ
ど、100%に達しないと補償はもらえない」との答えが返ってきた。
人民委員会の役人ともなると、ドンソンの人でもいろんな数値を知っている。「俺の体
内のダイオキシンの値は普通の 8 倍だってさ」と副委員長のミンは言う。
ペトリーナ[Petryna 2002]も、体内の放射線量の値を熟知しそれを基にチェルノブイ
リ「つながり」を主張する被曝者の話を書いている。しかしこの日集まったドンソン村の
若者たちは、様々な数値は知っていてもその意味はよく分からないという。
34 ハットフィールド社と 10・80 委員会のメンバーとの会話より。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
スーザン・L・スターとジェームズ・グリーズマー[Star & Griesmer 1989]は、科学
者と被害者のような立場の違うアクターが、必ずしも理解を共有せずともお互いに協力し
合うためには、地図やチャート、見本、規準値などの「境界物体」(boundary object)が重
要な役割を果たすと主張する。ダイオキシンのリスクを示す表や体内汚染の数値、被害者
補償の判断に使われる数値なども、科学者や役人、一般市民などが話し合うための境界物
体と言える。しかし彼らがその数値の解釈を共有しているというわけではない。
その日、ドンソンの人民委員会に集まった若者たちは、ダイオキシンや枯葉剤汚染のリ
スクに関する知識に「曝されて」はいたが、それ以上積極的に知ろうと試みるわけでも、
それ以上深く理解できるだけの予備知識があったわけでもない。こうした宙ぶらりんの状
態は、枯葉剤の影響を疑っていたとしてもそれを主張することはできない「被害者予備
軍」を作り上げている。
前述したランの叔母マイは数年前乳がんを患った。それまで教頭を務めていた小学校か
ら休暇をもらい治療に専念していたが、今は状態が安定し、最近仕事に復帰したばかり
だ。
「この辺はがんがすごく多い。肺がん、肝臓がん、乳がん、大腸がん、白血病」と彼女
は言うと、自分が聞き及んだ他のがん患者の話をしてくれる。そして、「枯葉剤と関係あ
るに違いないんだよ」と話を括る。しかし、彼女の乳がんは枯葉剤とは関係ないと判断さ
れ、枯葉剤補償の対象にはなっていない。姪のランは、枯葉剤補償を受けているため、自
分の乳がんも枯葉剤のせいではないかと思うのだが、政府の枯葉剤補償の判断基準を知ら
ないから、要求する術がない(乳がんは枯葉剤症とは認定されていない)。
「枯葉剤症」という概念は、様々な病や障害を区別し、政府の保護や人道支援の対象に
なる苦難とそうでないものに二分した。がんや先天性異常でも、枯葉剤の被害とみなされ
るものとそうでないものに分類される。アルーイでは、小児麻痺や不発弾によって障害を
負った人たちが、しばしば枯葉剤被害者と混同し、政府の枯葉剤補償を請求することもあ
るという。枯葉剤症という言説の導入とともに、それまで一様に苦しんできた人たちが
「被害者」と「ただの病人・障害者」に区別され、補償されるべき主体を生み出したので
ある。
5-5 枯葉剤補償と医学的根拠
しかしこの区分けは官僚制度のもと、必ずしも医学的根拠に基づいて行われていたわけ
ではない。重度の障害を持つ 7 歳の女の子、ニュエの家族の話を紹介しよう。
ニュエの母親ホアも前述したクイン・ティ同様、パリで行われていた国際法廷の
ニュースをテレビで見ていた。ホアは国際法廷がアメリカの責任を認めたことを喜ん
だが、米国政府や企業からの補償につながらなかったことにがっかりしていた(被告
不在のもと行われた民衆法廷だったことは知らなかった)。
「10 億ドン(6 万ドル程度)でもいい。この子はもう二度と普通になれないんだか
ら。ニュエも、この子のように普通になれたらいいのに」とちょうどその時部屋に
021
入ってきたニュエの弟を指して言う。
「アゴーにはこの子よりもっとひどい障害を持った子がいるよ。会ったことあるか
い。この間、テレビにも出ていたけど」とホアは、膝の上に座るニュエの手の指をさ
すりながら続ける。
アルーイでは多くの人が先天性異常によって乳児をなくしており、中には、21 世
紀になって、テレビで自分の子どもと同じ症状の子どもを見て、自分の子どもも枯葉
剤被害者だったのだと気付く人もいた。
「この子は、トイレに行きたい時は、ちゃんと知らせてくれるから、それだけでも
ましだね。でも、この子がいると、やっぱり親のどちらかが家にいなければならな
い」と膝の上でもだえるニュエを引き寄せながら言う。
ニュエの両親のホアとタンは二人ともハノイ近郊のハナム省出身だった。タンは
1980 年代に家族とアルーイに入植し、ホアは 1998 年にタンと結婚してアルーイに移
り住んだ。ニュエが生まれたのは 2001 年。妊娠後 7 か月にも満たない未熟児として
生まれた。まだ頭蓋骨も固まらず、普通の赤子よりかなり小さかった。それでも、普
通に乳をのみ、泣いたものだから、両親も特に何が悪いとも気が付かずに時が過ぎ
た。生まれて 6 か月ほどたった頃、訪ねてきたホアの母親が、ニュエの手足の動きの
不自然さに気が付いた。
ホアの親類の提案により、ニュエはハノイの子ども病院に入院することになった。
022
初めの頃は主治医の先生も治療すれば治るといい、「いろんなリハビリをした。一回
15 分程度で、すごく高くついた」とホアは言う。しかし、そのうち医者は、ニュエ
は脳にダメージを負っていて、もう手遅れだと言うようになった。
ホアが初めて枯葉剤の話を聞いたのは、1998 年にアルーイにやってきてからだっ
た。「このホン・トゥォン村は特に汚染がひどいんだ」と彼女は言う。しかし、ニュ
エの病が枯葉剤に原因があると疑うようになったのは、フエ市にある「平和村」と呼
ばれる障害児施設にニュエを連れて行ってからだった。ドイツの団体によって設立さ
れたこの施設には多くの障害児がリハビリのためにやってきていた。その中の多くが
枯葉剤被害者と疑われる子どもたちだった。
この平和村でニュエが枯葉剤被害者ではないかといわれた。その時ホアは、「枯葉
剤被害者だってことは、もう治らないということなんだ」と宣告されたように感じた
という。
しかしアルーイに戻ってみると、地元の人民委員会の役人はニュエは「枯葉剤被害
者じゃない。ただの障害児だ」といって枯葉剤補償を出してくれない。
「だから夫のタンは言ってやったんだ。だったらうちのばあさんにそういってやる
といいさ、ってね。」
タンの母親はその年の 4 月に亡くなったばかりだった。腎臓の感染など「七つの
病」にかかって死んだという。タンもホアも戦後生まれの世代で、北部出身。特にホ
アはアルーイでの歴史も浅い。しかもニュエは、ホアが妊娠 7 か月の時未熟児として
生まれており、典型的な枯葉剤被害者とは言い難かった。しかし、このニュエの父方
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
の祖母が青年義勇兵として戦争に参加していたことが(ペトリーナ的に言うと)「枯
葉剤つながり」になって、ニュエも 2009 年以降枯葉剤補償を受けられるようになっ
たのである 35。
ホアとタンは、ハノイ近郊出身だということもあり、アルーイで私が会った人たちの中
でも積極的にものをいう方だった 36。ニュエが「枯葉剤被害者」と認められるようになっ
たのも、おそらく、両親が地元の役場に働きかけた効果があったのだろう。ペトリーナ
[Petryna 2002]も、因果関係を示す科学的知識とそれに基づいた権利という考えは、
理想として追求されるものの、現実には様々な場面でこの理想が崩れる事例を紹介してい
るが、ベトナムでは、制度的にも倫理的にも政府の枯葉剤補償を厳密な医学的根拠に基づ
いて行うことは困難だった。
2000 年以来、アルーイでは厚生省と労働・傷病兵・社会保障省の指導のもと、枯葉剤
補償の受給者の選定が行われてきた。しかし、実際に人々の診断に携わった地方の医者た
ちには十分なトレーニングも知識も与えられていなかった。「必要な器具もなかったし、
時間もなかった。何せ一日に一人の医者が 100 人もの患者を見なければならなかった」
と、その時診断に携わったコン医師は証言する 37。
コン医師が枯葉剤補償は「障害者や貧しい人たちに、何かしら支援をするためのもの
だ」と語るように、枯葉剤補償と言っても、枯葉剤との因果関係によってその補償を社会
的に正当化しているわけでは必ずしもない。実際、枯葉剤補償を受けている人たちの中に
は、厚生省によって発行された枯葉剤と関連があるとされる病気のリスト 38 には載ってい
ない病状(盲目、とり目、慢性疲労など)を訴える人も含まれる。枯葉剤補償も、形式上
は医学に基づいたものであるとしても、現場では、成り行きで決定が下されている。ま
た、枯葉剤補償をもらう人は、年毎に少しずつ入れ替わり、受給者本人にもその理由は説
明されないことが多い 39。限られた財源で、より多くの人を支援するためには資源を柔軟
に分配する必要があると役所の担当者は言う。
35 2009 年 6 月 6 日のフィールドノートより。
36 近年アルーイではいくつかの場所で水力発電用のダム開発が始まっていた。ニュエが住むホン・
トゥォン村もダム建設のために土地の強制買収のターゲットになっていた。ホアや夫のタンはこれに
反対しようと周りの人たちを説得したが、不発に終わった。ベトナムは民主主義国ではないとはい
え、近年はこうした開発問題に対する抗議運動が各地で起こっており[Labbé 2011]
、市民の政治
参加の領域が広がっている[Wells-Dang 2010]
。しかし、アルーイではこうした主体的な政治参加
は今も少ない。
37 ベトナムでは、科学的に被害者であることを証明するためには患者の体内のダイオキシン量を測る必
要があるという神話があった。しかし高解度ガスクロマトグラフ質量分析を必要とするこの測定は、
1サンプルあたり 1000 ドル以上するといわれ(最近は、CALUX という比較的安価な測定技術が使
えるようになってきたが)、一人あたりの平均年間収入が 1168 ドルという国の住民にとってはなかな
か手の届かない額だ(http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/4130.htm, accessed January 1, 2014)。VAVA のス
タッフなどは、「それだけのお金があったら、被害者の支援に使うべきだ」と主張するほどである。
体内汚染は被害の指標としては「信じられない」と断言するハットフィールド社の科学者もいるくら
いだが、ここで興味深いのは、測定技術が高価なことを理由に、だから科学的に被害者を選定するこ
とは不可能だと主張している点である。
38 ベトナム厚生省決定 09/2008/QD-BYT。
39 村の担当者と地区役場の担当者は、お互いに相手が勝手に変えているのだと主張したが、誰のせいで
あってもそれは、正当な行為だとも語った。
023
こうした医学的にはかなり根拠が薄い規準によって分配された補償でも、それを受け
取った人たちにとっては「被害者」の証明になり、その認識が生活習慣の変化にも反映し
うる。ニュエの両親は、筆者がアルーイで出会った障害児の親の中でも、特にその子ども
の介護を中心に生活を築いていた。これまでは、母親のホアが家で日用雑貨を売る売店稼
業をしながら、ニュエの面倒を見てきた。しかし、近年のダム建設により田畑が水没する
ことになったため、父親のタンは、家の裏にある池の利用権を買い取り、魚の養殖を始め
た。これからは、ホアが市場に魚を売りに行き、タンが池の魚を管理しながらニュエの面
倒を見ることになるという。同時に、タンは、アルーイの枯葉剤問題にも注目してもらい
たいと、近所の人たちから署名を集めてフエ市のテレビ局に持って行ったり、赤十字社の
地元代表になって枯葉剤被害者の支援に携わったりして、地元における枯葉剤被害者の支
援活動にも積極に取り組むようになっていた。
6 人道支援と市民性
米国連邦最高裁判所でベトナム人の枯葉剤訴訟に対する棄却判決が下りる前年、筆者は
この裁判の原告代表でもある VAVA のスタッフの一人、タイに話を聞いた。彼は、「どの
段階で勝ち負けを判断するか」は複雑な問題だと語った。アメリカのベトナム帰還兵によ
る枯葉剤訴訟でも、裁判における補償や和解金以上に、訴訟運動によって集まる世間の注
024
目と、それによってアメリカ政府にかけられる圧力に意義があったと彼は主張する。実際
ベトナムでは、この裁判を機に、90 年代末からくすぶり始めていた枯葉剤被害者のため
の支援を求める運動が一気に活性化した 40。国内ではメディアの広報活動や VAVA やベト
ナム赤十字の支援活動により、枯葉剤問題に対する認識も広く一般社会に浸透し始めた。
同時に、様々な形で国内外からの支援が届くようになった。裁判闘争というバイオ市民性
運動も、人道支援という異なった論理を持つ運動と共鳴し合ってきた。
筆者が、アルーイに入って間もなく地元の高校で国語の先生をしている友人に「枯葉
剤被害者に会わせてやろう」と誘われて、クアンという名の 15 歳の少年に会いに行っ
た。その後、幾度も彼の家族を訪ねていくことになるのだが、この時だけは正式なインタ
ビューを試みた。クアンの母親のリンに、「この子は枯葉剤被害者だと思うか」と尋ねる
と、彼女は、「そうとも言えるかもしれないけど、わからない」と、何とも曖昧な答えを
返してきた。クアンは、手足が湾曲し、自分の足で立ったり、椅子に座って上半身を伸ば
したりすることが困難だった。何かにつかまれば自分の体を支えることはできたし、少し
舌がもつれるようなところもあったが、しゃべることもできる。障害者であることは間違
いないのだが、それが枯葉剤のせいだと断言できないからなのか、それとも断言したくな
いのか、リンは「政府の枯葉剤補償をもらってないから」と続けた。
前述したように、政府の枯葉剤補償は戦時中の北ベトナム軍関係者のみに支給されてい
40 VAVA スタッフや、当時ハノイに在住し、この問題とも関わりの深かった在ベトナムアメリカ人との
会話より。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
る。クアンの両親は二人とも平地出身のキン族だった。母親のリンはクアンチ省出身で、
80 年代の終わりに党によって組織された青年労働団の一員としてアルーイに上り、林業
や土木工事に携わってきた。フエ省クアン・ディエン出身の父親のビンは、90 年代に日
雇い労働者としてアルーイに移住し、今は大工をしている。二人とも戦時中に生まれた
世代で、実際に戦争には参加していない。こうした世代を超えた戦争の「履歴」(ly lich )
は、1995 年生まれのクアンにも影響を与えたのである。
「ここホン・トゥオン地区にも元米軍タ・バット基地があったから、ダイオキシンの濃
度が高いって言うしね。でも私らのようなものにははっきりしたことはわからない」とリ
ンは言って言葉をにごしたが、環境を媒介した汚染は現在の制度のもとでは補償の対象に
なっていなかった。
一見不公平に見えるこうした状況に、リンは格別異を唱える様子を示さなかった。その
背景には、アルーイの複雑な民族関係と戦争の歴史があったと推測される。アルーイで
は、
「血」の原理や「地」の原理に基づいた「市民性」以上に、戦時中「正しい祖国」の
ために戦ったかが、重要だった。
アルーイでは少数民族に対する国の支援が多かったことも、「政府の援助は、どうせみ
んな少数民族に行ってしまう」とクアンの両親が愚痴ることにつながった。しかし、そう
かといって彼らが人民委員会に直談判することはなかった。この内戦後体制のもとでは、
彼らが枯葉剤補償を受けられないことは格別不思議なことではなかったのである。
そんなクアンの両親だが、ある時突然、「枯葉剤」という言葉を口にした。ベトナム・
フランス友好協会の枯葉剤被害者のためのプロジェクトから雌牛を買うためのローンを受
けられることになった時である。たまたまその場に居合わせた著者にその説明をする際、
母親のリンがクアンを指して「この子が、ほら、「チャット・ドック」(枯葉剤)でしょ」
と言ったのだ。「枯葉剤被害者のための人道支援」も「枯葉剤被害者」としての自覚や認
識の礎になりうるのである。
ローンの話をベトナム・フランス友好協会の地元代理として持ちかけたニュエの父親タ
ンが帰っていくと、リンは不安をのぞかせた。豚やアヒルや鶏ならともかく、牛を飼った
経験はない。病気になったらどうするかくらいは、簡単な訓練をしてくれるらしいが、問
題はそればかりじゃない。例えば、雨期には餌はどうするのか。毎日、牛を遠くの丘に連
れて行って、放牧しなければならないだろう。こうした枯葉剤被害者のための経済支援も
被害者家族の生活に変化を強いるのである。
人道支援は継続性や権利という点では政府の保障より不安定だ。それでも一度支援を
受け取った者には、「支援される者」としての自覚が目覚め、再度支援を期待するように
なる。こうしたケースは、開発援助や人道支援の脈略でしばしば見られる[Feldman 2013]
。
支援を行う側の理屈と、受ける側の理解は必ずしも同じではない。クアンの家族にロー
ンを提供したあるフランスの人道支援団体の代表ジャンと話した時、ジャンは、本来なら
ば、被害者を補償しなくてはならないのはアメリカ政府か化学会社なのだが、それは現時
点では難しい。しかし被害者たちの救済は早急な対処を要するため、彼らのような国内外
025
の慈善家が代わりに買って出るしかないのだと語った。このような人道支援を施す側の
「代理」としての義務感が、法的正義の代わりに「救済されるべき被害者」を生みだす。
この場合、誰を対象に援助をするか、そして、どのような基準を基にその対象者を選ぶか
という問題は比較的曖昧なままでも良い。医学による厳密な線引きは人道支援の倫理に反
すると主張するのである 41。
ダナンの枯葉剤被害者の会は「枯葉剤の被害者とその他の不幸な子どもたちのためのセ
ンター」という名の障害者施設を運営している。その責任者ザンの次の言葉はこうした人
道支援の真髄に触れていると思われる。「私たちにとって枯葉剤被害者のサポートは優先
事項です。でも、こういうセンターを地域社会の中で築いていく時、枯葉剤被害者でなく
ても、彼らと同じくらい不幸な境遇にいる子どもたちがいることを忘れるわけにはいきま
せん。例えば他の障害を持った子たちや、親のいない子どもたちとか。だから「不幸な子
どもたち」という言葉を名前に入れました。」
線引きを嫌い、目の前の苦しみを和らげることが先決だという理屈は、時には「社会的
正義」の追求の否定にもつながる。米国を中心に活動する国際シンクタンク、アスペン・
インスティチュートの枯葉剤プログラムの運営を担っているチャールズ・ベイリーは、
ニューヨークタイムズの取材にたいして「過去のことをとやかくいっても何も始まらな
い。断罪ゲームからは何が生まれるのか。なぜ(枯葉剤被害者かどうかということで)区
別する必要があるのだ。助けを必要としている人はみんな助けようじゃないか」と主張す
026
る[Harris & Amatatham 2012]。こうした言説は、法的「責任」という形ではなく、チャ
リティーという形でベトナムの障害者問題に取り組もうという近年のアメリカ政府の見
解とも一致する。
「アメリカ政府は加害者なのに、今は被告としてではなく、慈善家を気
取っている」と皮肉る VAVA の指導者もいるが、彼らの中にも、肩書はどうであれ、被
害者の支援を優先すべきだという声は少なくない。
7 まとめ
ベトナムでは「過去のわだかまりを拭い去って未来を見すえる」というスローガンがし
ばしば語られる。枯葉剤問題もこうした和解のテーマの中で語られることが多い。しか
し、実践の場では内戦の「記憶」が構造的に残り、枯葉剤被害者のアイデンティティにも
影響を与える。世代を超えて戦争の経歴がものを言う内戦後のベトナムには、同じ枯葉剤
という毒物に害された人たちの中にも、国家の保護を期待できる市民とできない市民が存
在する。特にアルーイのように複雑な民族間の関係と歴史を持つ場所では、お互いの対比
を通してそれぞれの個人と国家との関係が多様に認識される。枯葉剤運動のような国際的
視野を持った運動も、時にはこうしたベトナム国内での差別や認識の相違がもたらす困難
を隠ぺいしてしまう危険性がある。
41 クアンガイ省で枯葉剤被害者に対する支援を行っているあるアメリカ人に、支援を受ける人がどうし
て枯葉剤被害者だとわかるんだと聞いたことがある。すると彼は、「そんなことはどうでも良い。苦しん
でるから助けるんだ」と答えた。
「枯葉剤症」の副作用と「バイオ市民性 (biological citizenship)」の変容
枯葉剤による人体への被害の因果関係に関する科学的証拠、特に疫学的証拠の充分・不
充分は長いあいだ争いのもとになっていた[Schecter et al. 2006]。アメリカ政府は責任
を逃れるために因果関係を否定しているとベトナム側は糾弾し、アメリカ側はベトナムは
非科学的な証拠をもとに障害児を政治利用していると非難してきた[Butler 2005]。しか
し近年は、ベトナム側も科学的に枯葉剤問題を解決することは困難だと認めるようになっ
てきており、それとともに社会的正義の追求は目立たなくなってきている。そもそも、
「内戦後体制」下のベトナムでは、病因のみを根拠に政府または加害者から補償を要求す
るというバイオ市民性的思考法は現実とかけ離れ過ぎているのかもしれない。もし枯葉剤
症のような生物・医学的概念と個人が結びつくことによって権利ある主体が生まれるとい
うのがバイオ市民的倫理観とするならば、そうした線引きを嫌う人道主義の倫理観も同時
に生まれているのである。
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Side-effects of Agent Orange Sickness: a not so Biological Citizenship
Takeshi UESUGI
Keywords: Agent Orange Sickness, biological citizenship, civil war, Vietnam
In the 1970s, a post-Vietnam War syndrome, which consists of an assortment of physical
disorders associated with chemical defoliants generically known as Agent Orange, emerged in
the United States. Toward the end of the 1990s, this concept of a disease (which I call Agent
Orange Sickness in this article) was imported to Vietnam, along with the specific cultural logics
that gave rise to this concept. In this article, I ask what kind of side-effects this concept may have
in Vietnam. Through the notion of biological citizenship, I explore the contradictions within the
contemporary Vietnamese Agent Orange movement and examine the emergence of a new ethical
stance that emerges from these gaps.
The chemical defoliants the US military and its allies used during the Vietnam War continue
to harm the exposed population. Yet its reality remains uncertain. Within the internationalized
justice movement, the victims of Agent Orange are invoked as a particular type of witnesses,
bearing somatic memory that posits a particular notion of humanity with shared vulnerability to the
poison. However, in A Luoi Valley of Thua Thien Hue Province, where I conducted my fieldwork in
2008 and 2009, old social boundaries such as ethnicity and wartime loyalties exert their influence on
who are considered to be Agent Orange victims. Within this post-civil war regime, the identity as a
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victim of Agent Orange is closely tied to the family s wartime record, not only in terms of official
recognition, but also in terms of subjective identification. Post-civil war citizenship thus interferes
with biological citizenship and produces a differential consciousness of victims.
In A Luoi, both potential victims and the medical and state officials involved in dealing out
government Agent Orange pension display a collective apathy toward biomedical identification of
the victims. Those involved consider this program as an aid for suffering individuals, rather than
for the cause of their suffering. In this context, the issue of Agent Orange is increasingly seen as a
humanitarian issue, rather than as a cause for social justice.
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