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粟田部史跡ガイド
粟田部 史跡ガイド お お と べ 岡太神社本殿 花筐自治振興会 人づくり・ふるさと文化部 平 成 19 年 9 月 花筐自治振興会 人づくり・ふるさと文化部 部長 佐々木昇 発刊にあたって 私 が 所 属 し て い る 花 筐 自 治 振 興 会 は 平 成 18 年 4 月 に 発 足 し 、 現 在 2 年 目 を 迎 え て い ま す 。設 立 に あ た り 自 分 た ち の 町 は ど こ が 長 所 で 、な に が 短 所 な の か を 話 し 合 い 振 興 会 の 専 門 部 会 の 立 ち 上 げ に 反 映 し ま し た 。長 所 と し て 古 い 歴 史 と 数 々 の 史 跡 は 特 に 大 事 に し た い 意 見 が 多 く 、そ の 長 所 を 伸 ば す「 人 」を 育 て る こ と を「 人 づ く り・ふるさと文化部」の目的に致しました。 折 し も 今 年 は 継 体 天 皇 即 位 1500 年 の 節 目 の 年 で 、 郷 土 の 歴 史 に も 関 心 が 寄 せ ら れ る 好 機 に 粟 田 部 の 歴 史 や 史 跡 を や さ し く 解 説 し た ガ イ ド ブ ッ ク を 作 成 し 、郷 土 の 歴 史 を 広 く 知 っ て も ら い た い と 思 っ て い ま し た 。そ ん な 時 に「 あ わ た べ 抄 史 男大 迹 部 の 里 」と い う 郷 土 誌 に 出 会 い ま し た 。こ の 冊 子 は 粟 田 部 壮 年 会 が 花 筐 公 民 館 と 花 筐 公 園 保 勝 会 の 協 力 を 得 て 、 昭 和 59 年 に 発 行 さ れ た も の で す 。 冊 子 の 内 容 と し て は 分 か り 易 く 平 易 な 文 章 で ま と め て あ り 申 し 分 な い も の で し た が 、 発 刊 し て 20 年 以 上 過 ぎ て い る の で 蓬 萊 祀 な ど は 現 況 を 加 筆 す る 必 要 が 生 じ 、ま た 写 真 も 更 新 し て「 平 成 版 」に 改 定 す べ く 再 編 集 を 行 い ま し た 。当 然 な が ら 紙 に 印 刷 し た ア ナ ロ グ 情 報 か ら パ ソ コ ン に 再 入 力 し た デ ジ タ ル 情 報 に 置 き 換 え て 、情 報 と し て の 活 用 範 囲 を広げることも目的の一つに掲げました。 単 な る 再 編 集 で も 不 慣 れ な 作 業 も 多 く 、間 違 い を 見 落 と し た 所 や 史 跡 ・ 伝 統 行 事 に つ い て の 説 明 不 足 を 感 じ な が ら も 、 な に よ り も 平 成 19 年 の 時 点 で の ガ イ ド ブ ッ ク を ま と め る こ と が 重 要 と 考 え て 進 め ま し た 。ど う か 本 誌 を 片 手 に 実 際 に 史 跡 を 見 て 回 っ て 、郷 土 の 歴 史 に つ い て 関 心 を も っ て い た だ け れ ば 幸 い で す 。更 に は 振 興 会 活動に一緒に参加し、共に汗を流していただきたいと願っています。 末 筆 な が ら 、ご 指 導 お よ び 多 大 な ご 協 力 を 頂 い た 部 員 各 位 、特 に 宮 田 尚 一 部 員 に は 心 よ り お 礼 申 し 上 げ ま す 。ま た 公 民 館 吉 田 三 和 主 事 な ら び に 原 本 の 再 編 集 を 快 諾 いただいた善玖寺正弥住職にもお礼申し上げます。 目 地 名 粟田部の地名の由来と沿革 ………………………………… 1 ……………………………………………… 3 薄 墨 桜 ……………………………………………………… 4 皇子ケ池 ……………………………………………………… 5 花筐公園の由来 遺 跡 名勝花筐公園碑 ……………………………………………… 5 …………………………………………… 6 …………………………………………………… 6 花筐ゆかりの地碑 粟田部城跡 右大臣蘇我倉山田石川麻呂廟 ……………………………… 7 岩 清 水 ……………………………………………………… 8 帝々の石 ……………………………………………………… 8 皇子の森 ……………………………………………………… 9 佐山媛の古跡 ………………………………………………… 9 ……………………………………………… 9 ………………………………………………………… 10 佐山寺菩提所跡 墓 次 碑 錦 塚 斉藤梁山寿碑 ………………………………………………… 10 …………………………………………………… 11 恵迪斉林詮碑 ………………………………………………… 11 坪田孫助翁碑 ………………………………………………… 12 時 雨 塚 ……………………………………………………… 13 村 雨 塚 ……………………………………………………… 13 …………………………………………………… 14 恵迪斉跡碑 雨聲の句碑 中山翁寿碑 …………………………………………………… 14 飯田友軒墓 …………………………………………………… 14 ………………………………………………………… 15 忠魂碑 千部法華塔 …………………………………………………… 15 ……………………………………………………… 16 萊祀(おらいし)……………………………………………… 17 市 祭 り ……………………………………………………… 19 徳日参り ……………………………………………………… 19 左義長祭 ……………………………………………………… 20 琴 弾 山 ……………………………………………………… 21 神事と伝説 迹王の餅 竹根化蝉の碑 神 ………………………………………………… 21 岡太神社 ……………………………………………………… 22 天 神 祠 ……………………………………………………… 23 社 金刀比羅神社 ………………………………………………… 23 秋 葉 宮 ……………………………………………………… 24 出雲大社 ……………………………………………………… 24 観 音 堂 ……………………………………………………… 24 八 幡 社 ……………………………………………………… 24 …………………………………………………… 25 ………………………………………………… 25 荒樫神社 ……………………………………………………… 25 麻気神社 ……………………………………………………… 25 西山地蔵堂 地蔵町の地蔵 はながたみの里 名勝・旧跡(イラスト)………………… 26 地 名 粟田部の地名の由来と沿革 粟 田 部 の 地 名 の 由 来 に は 諸 説 あ り 、 継 体 天 皇 の 即 位 前 の 御 名 を 男 大 迹 皇 子 の頃 ア ジ マ ノ ゴ ウ の宮居の里として『男大迹部の里』呼ばれ味真野郷の一部であった。 と こ ろ が 、養 老 二( 718)年 、泰 澄 大 師 が こ の 地 に 訪 ず れ た 折 、こ の 地 を 男 大 迹 部 の 里 と 呼 ぶ の は 皇 子 名 を 呼 び す て に す る よ う で 誠 に 畏 れ 多 い と 云 う の で 、 現 地名 の 粟 田 部 に 改 称 し た と い わ れ て い る 。 一 方 、 越 前 国 司 解 に よ れ ば 当 時 の 有 力 氏族 ア ワ タオミ の 粟 田 臣 一 族 が こ の 地 方 に 住 ん で い て 、粟 田 臣 に あ や か っ て 現 地 名 と し た と いう タ ベ ミ ヤ ケ 説。他説では、味真郷は朝廷に米、粟を納める田部屯倉が設けられておりそこに 働くものを田部と称したので、それに因み現地名粟田部としたとの説がある。 こ こ は 何 れ に し て も 古 い 伝 統 を も っ た と こ ろ で 、然 も 継 体 天 皇 即 位 前 58 歳 ま で の 長 期 間 在 郷 さ れ て い た と い う の で 、 幾 多 の 「 神 事 」,「 伝 説 」,「 史 跡 」 が 伝 えら れている。 中 で も 「 謡 曲 の 花 筐 」 。 「 皇 子 形 見 の 薄 墨 桜 」 。 「 皇 子 自 彫 の 神 像 」 。 「 皇子 ケ 池 」。往 古 よ り 伝 承 の「 迹 王 餅 」,「 蓬 萊 祀 」等 の 神 事 。皇 子 に 関 係 す る 史 跡 と し て「 鹿 の 浦 」「 佐 山 」「 馬 場 」「 皇 谷 」「 玉 の 尾 」等 そ の 他 数 多 く の 伝 説 神 事 ,史跡 が伝えられている。 コ ン ル チ 味 真 野 郷 は 大 和 朝 廷 と の 関 係 が 深 く 、流 罪 の 中 で 最 も 軽 い 近 流 地 に な っ て い た 。 ナカトミノヤカモリ 味真野地区には流罪となった中臣宅守 が恋人との別離を詠った相聞歌が残って お り 、 粟 田 部 に は 大 化 の 改 新 後 に 右 大 臣 と な っ た 「 蘇 我 倉 山 田 石 川 麻 呂 」 の 末子 の清彦が冤罪で流罪となっている。 ま た 、 こ の 地 は 往 古 よ り 物 資 往 来 の 地 と し て 定 例 の 市 が 月 の 2 日 と 7 日 に 開か れていて、その名残の二日市の地名が今でも残っている。 藩 政 時 代 に 入 っ て は 、 福 井 藩 内 で も 枢 主 的 な 地 域 と し て 発 展 し 、 藩 札 両 替 分所 が 置 か れ た 。 ま た 藩 の 財 政 的 危 急 を 救 っ た 当 地 の 蚊 帳 の 製 織 、 羽 二 重 の 外 国 輸出 の先覚者を輩出するなど商 業 ・ 工 業 の 面 で も 先 進 地 で あ っ た 。 - 1 - 廃 藩 置 県 に 当 っ て は 今 立 郡 の 役 所 も 設 け ら れ る 等 、今 立 郡 2 町 16 ケ 村 の 中 心 地 と し て 南 越 地 方 で 重 要 な 役 割 を 果 し た 。 ま た 福 井 藩 の 村 塾 が 設 け ら れ 、 後 の 花筐 小学校が県下の教育面でも草分け的な存在であった。 ま た 、 村 往 古 の 草 分 け 時 代 の 戸 数 を 調 べ る と 僅 か に 12 戸 余 り だ っ た と 云 う が 、 元 文 5( 1740)年 に は 333 戸 ,安 政 6( 1859)年 に は 567 戸 ,明 治 28 年 に は 651 戸 と 増 加 し て い っ た 。大 正 15 年 に 町 制 が 施 行 さ れ 粟 田 部 町 と な り 、四 区( 栄 、蓬 莱 、 旭 、 富 永 ) に 分 け た が 、 行 政 上 は 一 町 一 区 制 で 、 番 地 を 106 号 ま で 定 め た。 昭 和 29 年 に は 北 新 庄 村 西 樫 尾 を 編 入 し 、 昭 和 30 年 3 月 に 南 中 山 村 、 服 間 村 、 北 中 山 村 の 一 部 を 粟 田 部 町 に 編 入 合 併 し 、更 に 昭 和 31 年 10 月 岡 本 村 を も 合 併 し た こ と に よ り 粟 田 部 町 を 改 め て 今 立 町 と し た 。 そ の 後 平 成 17 年 10 月 1 日 に 今立 町 と 武 生 市 が 合 併 し て 越 前 市 粟 田 部 町 と な り 今 日 に 至 っ て い る 。 し か し 、 行 政上 の 名 称 が 変 わ っ て も 「 馬 場 」 「 御 殿 町 」 「 耒 耜 町 」 な ど の 地 籍 名 ・ 字 名 の 中 に粟 田部の歴史を辿る事ができる。 粟 田 部 は 在 郷 町 と し て 往 古 よ り 文 化 面 、 商 業 の 中 心 地 で あ っ た が 、 屋 敷 町 ゆえ に 防 災 の 機 能 が 乏 し く 、寛 政 8( 1796)年 以 来 同 12 年 、天 保 5 年 、明 治 2 年 明 治 6 年 、 昭 和 2 ( 1927) 年 4 月 21 日 の 132 年 の 間 に 6 回 の 大 火 に あ い 、 特 に 明 治 6 年 の 大 火 で は 407 戸 803 棟 を 焼 失 し 、 又 昭 和 2 年 の 大 火 で も 200 棟 を 超 え る 災 禍 で 古 来 よ り の 古 文 書 、 宝 物 の 多 く が 焼 失 し て お り 、 今 と な っ て 思 え ば 古 い村 だ と 云 わ れ な が ら 裏 付 け と な る 証 拠 品 が 少 な く 、 男 大 迹 皇 子 の 伝 説 神 事 、 史 跡の 真偽が問われていることは何といっても悲しいことである。 ま た 、 た ま た ま 貴 重 な 資 料 が あ っ て も 忘 れ 去 れ て い る こ と や 、 外 部 へ 持 出 され て既に始末されていることも予想される。 残 さ れ た 課 題 と し て は 、 古 墳 等 の 発 掘 や 広 範 囲 の 史 料 の 研 究 に よ り 何 ら か の手 がかりが得られることが唯一の望みである。 - 2 - 花筐公園の由来 弘化元年に粟 田部の関甚兵 衛が、大和国 吉野より数十 本の桜を現在 地に移植し桜 ケ丘と呼んだ のが花筐公園 の始まりとい われている。 " なにをかは 春のながめといわれいむ 桜ケ丘の花の曙 〟 と う た わ れ、 ま た 明 治 5 年 10 月 東 京 芝 名 山 閣 出 版 社 発 行 瓜 生 三 寅 著 「 日 本 国 尽 」 に " さて名所には 夕月夜露のやどれる安治真野や 継体の帝のいまだ御位に即かせ給わぬその以前 桜の粟田部こそは 宮居のありし名所なり〟 と 詠 わ れ た 。 明 治 28 年 7 月 30 日 の 台 風 は 県 下 全 域 に 未 曽 有 の 惨 害 を も た ら し 、 死 者 163 名 建 物 流 出 350 戸 全 壊 230 戸 埋 没 110 戸 合 計 690 戸 と い う 惨 状 と な り 、 粟 田 部 で も 岡 太 神 社 本 殿 背 後 が 山 崩 れ に な っ た 。 そ の 後 整 地 の 上 桜 を 植 え て 現在 の 上 段 が 完 成 し 、初 期 の 花 筐 公 園 の 姿 と な り 、そ の 後 い く 度 か の 改 良 工 事 を 経 て 、 昭和初期には県下屈指の桜の名所となった。 花 見 時 に は 連 日 1000 名 以 上 の 花 見 客 で 賑 っ た が 、戦 争 中 桜 は 伐 り 倒 さ れ て 食 糧 生 産 の た め 畑 と 変 り 、 あ た ら 県 下 屈 指 の 桜 の 名 所 は 無 残 な 姿 に な っ て し ま っ た。 終 戦 後 復 員 し て 来 た 青 年 た ち が 花 筐 公 園 を 元 の 姿 に と い う 熱 意 あ る 奉 仕 作 業 で復 旧 の 努 力 が 実 り 公 園 の 体 栽 が 整 っ て 、昭 和 37 年 に は 都 市 公 園 整 備 計 画 の 指 定 を受 け 、第 1 次 5 ヶ 年 整 備 計 画 ・ 昭 和 49 年 に は 第 2 次 5 ヶ 年 整 備 計 画 事 業 に よ り 、風 致 公 園 と し て の 指 定 を う け る 。 現 在 は 花 筐 公 園 を 愛 す る 日 を 設 け 、 公 園 の 奉 仕作 業 に 沢 山 の 住 民 が 参 加 し て い る 。ま た 平 成 19 年 に は 国 の 登 録 記 念 物 の 指 定 を 受 け 花筐公園保勝会と地域住民にとってこの上ない朗報となった。 - 3 - 遺 跡 薄 墨 桜 三 里 山 山 頂 皇 谷 の 地 に 、 樹 の 周 り 4.5 m 余 幹 の 高 さ 9 m 余 、 樹 令 500∼ 600 年 を 有 し 、昭 和 45 年 3 月 天 然 記 念 物 と し て 福 井 県 の 指 定 を 受 け た 薄 墨 桜 の 樹 が あ る が 、 伝 え に よ る と 男 大 迹 皇 子 は 日 頃 か ら 大 変 桜 を 寵 愛 さ れ て い た が 、 即 位 のた め急に都へ上られることになり、神社に形見として遺していかれた桜を世人は カタミ 筐 の花と呼んだと伝えている。後俗風に染まるのを畏れて人跡まれな現在地に 文 亀 2( 1503)年 右 野 盛 重( 近 郷 切 っ て の 大 富 豪 大 島 三 郎 右 衛 門 の 先 祖 )に よ っ て 植 え か え ら れ 、 皇 子 の 遺 跡 と し て 崇 め る よ う に な っ た 。 こ の 桜 は 皇 子 在 郷 のと き に は 紅 色 で 匂 が 四 方 に 充 満 し た と い う が 、 皇 子 が 都 へ 上 ら れ て 後 は 花 に 対 する 愛 玩 が 薄 れ 、 次 第 に 色 が う す 黒 く な っ て 、 い つ 頃 か ら か 薄 墨 桜 と 呼 ぶ よ う に なっ た と い わ れ て い る 。 現 在 の 薄 墨 桜 は お お よ そ 500 年 前 に 植 え 替 え ら れ て か ら 何 代 目 な の か は 不 明 だ が 、 老 木 化 が 進 ん で い て 特 に 近 年 の 大 雪 や 豪 雨 に よ り 傷 み が進 んでいる。いずれしても粟田部 を象徴する史跡であることには 間 違 い な く 、花 筐 公 園 保 勝 会 の 力 を 借 り な が ら 、定 期 的 な 手入れを継続しなければな らないと思われる。 岡太神社古縁起によると、薄墨 桜の傍らに祠があり花筐神社と 呼ばれていたが、もとの八幡社 である。後に今の八幡町に八幡 社を移したと言われている。上 記の大島家の古伝説でも氏神の 八幡宮を建谷の祠に遷座したと 伝えられているので、史実と思 われる。 - 4 - 皇子ケ池 こ の 池 の 水 は 、第 27 代 安 閑 天 皇 ウ ブ ユ ・ 第 28 代 宣 化 天 皇 御 二 方 の 産 湯 に使用したとされている。 享保の頃の越前八郡古城跡屋敷 跡記録によると「村ヨリ良(ウシ トラ)佐山卜言ウ所皇子ケ池ト言 フ所アリ 広サ一丈ニ六尺則之男 大 迹 皇 子( 第 26 代 継 体 天 皇 )御 所 池跡ト言ヒ伝ヘァリ」と記されて おり、もともと日常御膳水用とし て使用されていた池の水であったことがうかがいしれる。 現 在 の 六 角 形 石 の 玉 垣 は 、天 保 元 年 継 体 天 皇 1300 年 祭 を 記 念 し て 、木 津 成 助 氏 が私財を投じて造営したものである。 名勝花筐公園碑 古い歴史を秘めた花筐公園の入口 に建てられたこの碑は粟田部と縁の 深 い 16 代 福 井 藩 藩 主 松 平 春 岳 公 の 直孫に当る松平永芳氏(靖国神社宮 司)の筆によるもので、またこの碑 石は福井城の石垣の石で、関文治氏 の 寄 贈 を 受 け 、昭 和 41 年 4 月 に 花 筐 公 園 保 勝 会 が 建 立 し た も の で あ る。 - 5 - 花筐(ハナガタミ)ゆかりの地碑 ハナガタミ 「花 筐」は粟田部の歴史の象徴であり 粟田部の代名詞でもある。 能楽の祖 観阿弥の子世阿弥作の謡曲 「花筐」は天才的能楽芸術家世阿弥の名 と 共 に あ ま り に も 有 名 で あ る が 、こ の「 花 筐」ゆかりの地を後世に伝えるため、宝 生 流 第 17 世 宝 生 九 郎 氏 の 筆 に よ る も の である。 碑は昭和三十年五月三十日有志によっ て建立された。 なお碑の台石は、御大典記念の大砲が 戦時中供出されて台のみが残っていたの を再利用したものである。 粟田部城跡 粟 田 部 城( 行 司 ケ 獄 城 と も い う )は 三 里 山 の 三 角 点 か ら 約 50 m の 東 南 に あ る が 、 こ こ に は 今 な お 敵 の 攻 撃 を 防 ぐ た め の 長 い 堀 切 り と 多 数 の 城 の 一 部 が 構 築 さ れて いた形跡がある。 元 亀 4( 7 月 天 正 と 改 元 )年 3 月 頃 か ら 織 田 信 長 は 、朝 倉 の 勢 力 下 に あ る 若 狭 江 州 を 攻 め 出 し た の で 、朝 倉 義 景 は そ の 防 御 に 疲 れ 8 月 20 日 滅 亡 し た が 、粟 田 部 城 主 朝 倉 出 雲 守 景 盛 も 江 州 刀 根 坂 に て 戦 死 し た と い わ れ て い る 。 粟 田 部 城 は そ の後 ほどなく壊わされたということである。 - 6 - ソ ガ ク ラ ヤ マ ダ イシカワ マ ロ 右大臣蘇我倉山田石川麻呂の廟 大 化 の 改 新 は 蘇 我 入 鹿 の 独 裁 政 治 を 断 ち 切 る 事 件 で あ っ た と さ れ る 。 日 本 書紀 によると功労者の蘇我倉山田石川麻呂 は改新後にできた大臣制で右大臣とな ヒ ム ガ ム サ シ ったが、日向身刺の企みで中大兄皇子 から謀反の罪で兵を向けられた。石川 麻呂は天皇軍と争うこと無く山田寺で 自害し、妻子もことごとく殉死したと あ る が 、 末 子 の 清 彦 (赤 狛 )は 幼 少 の た め乳母の嘆願で越前国の粟田部にただ 一人流罪となり、その後清彦は粟田部 カ ホ ウ ザ ン に住みつき歌鳳山(八幡山)に父石川 麻 呂 の 廟 を 建 立 し て 祀 っ た 。第 53 代 の 重貞は祖先の冤罪を晴らす為に奈良の 山田寺に碑を建て、現在の右大臣廟を 建立している。廟のある境内は先祖代々の墓碑が並び山田家隆盛の頃は実に 1 万 平 方 米 の 広 大 な 境 内 だ っ た と い わ れ 、天 保 11 年 に は 福 井 藩 か ら 家 柄 が 古 い た め苗 字 帯 刀 袴 着 用 の 御 墨 付 き を も ら い 当 時 20 石 4 人 扶 持 を 賜 わ っ て い た と い わ れ てい る。山田一族は粟田部が発祥の地である が、一時期鯖江市河和田地区椿坂に住ん でいた記録も残り、近年は山田清兵衛と 名 乗 り 薬 商 を 家 業 と し 清 彦 よ り 60 代 続 いているが、現在その山田家も消滅寸前 で、粟田部の歴史を彩る名花が散るよう で残念である。 (註)代 々 山 田 家 に 保 管 さ れ た 石 川 麻 呂 の木彫 り の 像 は 、 現 在 越 前 市 役 所 に 保 管 さ れ ている。 - 7 - 岩 清 水 切 り た っ た 岩 壁 の あ ち こ ち に 石 の 仏 像 が 彫 り こ ま れ た 岩 清 水 と 呼 ぶ 霊 地 が ある 。 昔、泰澄大師が この辺で修業し たという。 岩のくぼみか ら清水が湧き、 杉の木立からは 涼風がそよぎ、 昔の大師の修行 が感じられる霊 地である。 この石仏は粟生寺の西国礼所の観音堂のものをこの岩壁へ移したという。 帝々の石 男 大 迹 皇 子 の 近 臣 に 、 皇 子 の 幼 少 時 よ り 侍 者 と し て 仕 え て 来 た 帝 々 左 衛 門 、帝 々 右 衛 門 の 両 名 が い た 。後 廷 々 と 名 を 改 め た 。こ の 両 名 は 佐 山 の 地 に 住 ん で い た が、 王がこの地を離れたの ちは水間谷に移り住み、 岡太神社の祭礼には皇 子より賜わった宝刀を 拝持し参拝して来たと いわれる。子孫の廷々 の姓は今でも残ってい る。 廷 々 の 石 は 、左 衛 門 の 庭 の 石 で 現 在 は 岡 太 神 社 の 神 輿 殿 の 前 に 移 し た も の で ある 。 ※廷々家は岡太神社の巫女の子孫の説もある(柳田国男説) - 8 - 皇子の森 皇 子 の 森 は 皇 谷 山 の 麓 字 玉 の 尾 に 在 り 、 安 閑 ・ 宣 化 両 天 皇 の 御 降 誕 の 地 と いう こ と が 、 味 真 野 名 蹟 誌 に 「 今 に 粟 田 部 大 渓 山 の 麓 に 皇 子 の 池 皇 子 の 森 と 云 う あり て正しき皇居は此処なりと云えり(越前名蹟考)」とある。 佐山媛の古跡 佐山の地に「鹿の浦」と呼ぶ男大迹皇子の御遊覧の所があった。 味 真 野 名 蹟 誌 に 、佐 山 御 前 と い え る 妃 の お わ せ し 跡 と し て 今 に 佐 山 と 呼 ぶ と 見 え 、 又 帰 雁 記 に 粟 田 部 の 佐 山 と 云 う 所 に 御 所 跡 と い っ て 粟 田 部 丑 (北 東 の 方 )の 方 畑 の 内 東 西 七 拾 間 南 北 弐 拾 間 計 所 云 々 と 記 載 せ り (越 前 名 蹟 考 )と あ る 。 佐山寺菩提所跡 越前名蹟考に、又粟田部の佐山と云所に御所跡有、佐山寺というは御寵女な り し 佐 山 姫 の 菩 提 所 な り し と い へ り (帰 雁 記 )と あ る 。 〔 現 在 の 善 玖 寺 〕 - 9 - 墓 碑 錦 塚 カ ガ ミ シ コ ウ ヤ ス ダ イ カ ボ ウ 松尾芭蕉門下各務支考の流れをくむ美濃派に属する安田以哉坊が、この男大迹 皇子の宮跡を訪ね 匂はしや 昔にしきの 山といひ と往古を懐古して吟じたが、俳譜の獅子門初代 の 瑾 理 庵 白 起 (白 起 は 佑 の 孫 で 、医 師 だ が 俳 道 に 志した人で福井藩飯田上俳人以乙斉に師事し後 美 濃 派 以 哉 坊 に 師 事 す )は 以 哉 坊 の 高 教 を 永 久 に 伝 え る た め 寛 政 3( 1789)年 6 月 琴 弾 山 の 西 麓 の西国三十三ケ所観音石像の辺りにこの碑を建 てたが、たまたま地震があったので粟生寺境内 にこの碑を移したという。 斉藤梁山寿碑 医師斉藤良衛を父として天保4年に 生れ、恵迪斎創立当初よりの塾生で三 寺三作塾長が松平春岳公の命で帰藩す るに当り、塾長代行を托されたが塾生 の信望も篤く、また教育に対する情熱 は父祖伝来の医業までも捨て郷土の子 弟教育に一生を捧げた熱血あふれる教 育 者 で あ っ た 。そ の 門 弟 は 700 名 に 及 んだという。この寿碑は門弟有志が師 の 還 暦 を 寿 ぎ 、 西 山 の 南 麓 に 明 治 30 年 5 月 11 日 建 立 し た も の を 後 現 在 地 へ 移 転 し た も の で あ る 。 62 歳 で 没 す 。 - 10 - 恵迪斎跡碑 嘉永3年郡奉行大井弥十郎は、粟田部の地が福井 藩領内で産業経済文化の香り高い所であり教育文化 施 設 の 必 要 性 を 痛 感 し て 、藩 主 松 平 春 岳 公 に 献 策 し 、 藩 公 認 村 塾 と し て 恵 迪 斎 を 嘉 永 6 (1853)年 6 月 設 立 し、塾長に福井藩士三寺三作を迎え塾名を「四書」 ミチ シタガ キチ ミチ サカ キヨ の中の「迪 ニ恵 ヘハ吉 」「迪 二逆 ラヘハ凶 」とい ケイテキサイ う 字 句 を 引 用 し て「 恵 迪 斎 」と 命 名 し た 。そ の 後 安 政3年3月藩学問所明道館外塾4ケ所と共に恵迪斎 を藩直営として授業料謝礼等を廃した福井藩学問所 以外の藩唯一の藩立平民学校として存在したことは 他 に 例 を み な い だ け に 誇 る べ き 教 育 施 設 で あ り 、 特 に 明 道 館 の 学 監 は 橋 本 左 内先 生 で あ り 、 恵 迪 斎 の 価 値 評 価 は 相 当 高 か っ た こ と は 言 う ま で も な い 。 ま た 、 この 恵 迪 斎 跡 碑 の 揮 毫 は 、 こ の 地 が 郷 土 文 教 発 祥 の 地 で も あ り 現 在 の 花 筐 校 名 の 名付 け 親 で も あ る 福 井 藩 主 松 平 春 岳 公 の 後 喬 19 代 松 平 康 昌 候 の 筆 に よ る も の で ある 。 恵迪斎林詮碑 福井藩士結城(林)詮は恵迪斎初代塾長三寺 三作が、安政4年福井藩学明道館教授として帰 藩した後慶応元年二代塾長として名門恵迪斎の 経営に努力し、明治3年藩命により恵迪斎が廃 止され、その後郷学所長を勤め窮理、桜鳴、愛 景 、花 筐 の 各 小 学 校 教 員 と し て 初 代 校 長 を 勤 め 、 明 治 19 年 ま で 粟 田 部 の 小 学 校 教 育 に つ く し た 功 績 を 顕 彰 し て 有 士 が 明 治 36 年 8 月 こ の 碑 を 建 立したものである。 - 11 - 坪田孫助翁碑 坪 田 孫 助 翁 は 天 保 7 ( 1836) 年 の 生 れ で 幼 名 を 駒 吉 の ち 松 吉 と 称 し 、 家 を 興す に 至 り 孫 助 と 名 乗 っ た 。 生 来 機 敏 で 商 才 が あ り 、 そ の 先 見 性 は 海 外 通 商 貿 易 の必 要なことを痛感し、横浜へ飛び福井羽二重の国外輸出に努力した。 越 前 福 井 藩 の 藩 財 政 再 建 の 責 任 者 由 利 公 正 は 坪 田 翁 の 識 見 を 高 く 評 価 し て 、藩 保 有 の 生 糸 全 部 の 処 分 を 翁 に 一 任 し た 。そ の 結 果 期 待 通 り の 大 成 功 を お さ め 、莫 大 な 巨 利 を 博 し た の で 福 井 藩 は こ れ に 対 し て 金 500 両 (当 時 米 1 石 が 1 両 の 時 代 で あ っ た の で 現 在 の 時 価 に 換 算 し て も 相 当 な 巨 額 で あ る こ と か 判 る )を 以 っ て 報 い福井藩が坪田翁に如何に大きな期待と評価をしていたかが窺える。 翁 は ま た 、 福 井 羽 二 重 の 声 価 を 世 界 中 に 広 め た 大 功 労 者 で あ り 、 海 外 通 商 貿易 の 日 本 人 最 初 の 先 覚 者 と し て 郷 土 の 誇 る べ き 偉 大 な 傑 物 で あ っ た こ と を 讃 え てこ の 碑 が 建 て ら れ た も の で あ る 。 特 に 北 海 道 五 陵 郭 で 官 軍 に 最 後 の 抵 抗 を 挑 ん だ幕 臣の農商務大臣榎本武揚の顕額が一段と光彩を放っている。 - 12 - 時 雨 塚 ラ ン チ ユ ツ 獅子門下俳譜第五代中巒窟寿仙の 辞世の句碑に 時雨るヽや 空は浮世の 人こころ がある。 (註 ) 寿仙とは、法幸治良左衛門 の こ と で 明 治 30 年 10 月 28 日 79 歳 に て 没 す 。 村 雨 塚 獅子門道第六世宗匠羅浮園亀昔島伴平氏の句 碑で長男島連太郎氏が建立した。 むらさめに いよいよ秋の 深きかな の辞世の句碑と共に等身大の伴平氏銅像も同時 に建てられたが、戦時中軍へ供出された。 なお、碑の裏面の文は郷土の文学者 石橋重吉 氏の撰である。 - 13 - 雨聲の句碑 獅 子 門 下 俳 譜 第 四 代 の 雨 聲 は 、 酒 井 兵 右 衛 門 の こ と で ( 家 号 灰 屋 の 生 れ ) 碑文 に、この里に伝える第五世の文台を次のように書遺している。 今度 秀北主雅に 授与す 開く 扇道の要を 忘れなよ ト ケ ン テ イ ウ セ イ 杜鵑亭雨聲 明 治 15 年 10 月 7 日 65 歳 で 没 す 中山翁寿碑 中山翁は重野謙造と称し、重野家初代の漢方医、翁は常に医は仁術なり の比 喩 の 如 く 、 自 ら の 生 活 は 質 素 を 旨 と し 医 術 の 研 さ ん に 励 み 、 そ の 医 学 の 究 明 にお こ た る こ と な く 患 者 の 医 療 に 当 っ て は 誠 を 尽 す と 共 に 貧 者 と い え ど も 決 し て 軽ろ ん ず る こ と な く 、 極 力 医 療 に 努 め る 傍 ら 稀 に み る 好 学 の 人 で 、 そ の 医 ・ 儒 の 門弟 実に百余名に及んだという。 翁 の 人 徳 遂 に 藩 の 知 る と こ ろ と な り 褒 賜 せ ら れ 銀 十 五 匁 を 授 け ら れ た が 、 嘉永 6 年 3 月それを記念して門下生寿碑を建立した。 ヌキナシゲル 題 表 は 貫 名 苞 の 筆 、碑 陰 は 鯖 江 藩 の 文 学 者 喜 多 山 三 郷 、撰 書 は 同 藩 の 大 山陶 斉となっている。 飯田友軒墓 友 軒 は 、 田 中 適 所 門 第 一 の 高 足 で 藩 末 か ら 明 治 に 及 ぶ 郷 土 周 辺 の 医 儒 の 輩 出は 友 軒 に 負 う と こ ろ 大 で 、 医 術 文 学 に 優 れ 、 門 弟 計 っ て 西 山 墓 地 に 嘉 永 5 年 3 月墓 碑を建立した。 - 14 - 忠 魂 碑 大 正 13 年 10 月 村 議 会 満 場 一 致 で 村 費 3,988 円 を 以 っ て 建 設 を 決 議 し 、1 年 半 余 の 年 月を経て巨大な岩石の山腹に碑柱を建てた。 他に類のない雄大な碑であり碑文は当時日本 軍の元帥東郷平八郎の書によるもの。碑柱下 に 鎌 倉 時 代( 1294 年 )の 名 刀 匠 五 郎 正 宗 と 双 壁と言われた相模広光作の古銘刀(木津群平 氏所蔵)が納められている。 またこの忠魂碑建設のため2名の尊い犠牲 者を出すほど困難な工事であった。 千部法華塔 福井藩主香華院東光寺十世東岳和尚が、 妙 法 蓮 華 経 3,000 部 、金 剛 般 若 経 10,000 巻 、弥 陀 経 1,000 巻 を 書 写 し た 供 養 塔 で ある。 ※山ノ寺泉福寺境内 寛 政 6 ( 1786) 年 8 月 6 日 建 立 - 15 - 神 事 と 伝説 迹 王 の 餅 10 月 13 日 の 秋 祭 り に 継 体 天 皇 イワレタマホノミヤ が大和国盤余玉穂宮に遷都された 日を祝して迹王の餅を供する神事 が今も連綿と受け継がれている。 こ の 神 事 は 、 宵 宮 の 10 月 12 日 早朝よりその年の当番に選はれた ダ イ ハ ン ギ 若 者 堂 宮 各 12 名 の 家 よ り 大 半 桶 に用意された餅を積んで、威勢の 良い迹王の餅の唄声と共に街中を 練り歩き、神前に献上する神事で ある。 この由来は皇子がこの地に潜竜 の頃、常に深く御心を民事に留め ら れ 、 そ の 恩 徳 に 報 い る た め 郷 民 が 餅 を つ い て 奉 納 し た と こ ろ 、 皇 子 か ら も 餅を つ い て 郷 民 に 下 賜 さ れ た 故 事 に 由 っ て 1500 年 の 今 日 ま で 絶 え る こ と な く 続 け ら れ て い る 。 粟 田 部 で 生 ま れ た 男 児 は 堂 と 宮 の 講 に 加 入 す る こ と が 出 来 て 、 加 入す る と 毎 年 10 月 13 日 早朝に餅が貰えるが、 や が て 20 代 後 半 に なると当番として勤 める。 - 16 - 萊 祀 (お ら い し ) 萊 祀 と は 、通 称 は 蓬 萊 祀 と 呼 ば れ 現 在 も 続 け ら れ て い る が 、旧 正 月 12 日 に 継 体 天 皇 が 河 内 国 樟 葉 宮 に 着 御 あ ら せ ら れ た 日 を 吉 日 と し て 、古 来 12・ 13 の 両 日 を 祭 日 と し 13 日 に 萊 祀 と 称 し て 天 皇 の 行 幸 に 擬 し て 神 幸 の 儀 を 厳 粛 に 行 う 式 典 で あ っ た 。 現 在 は 祭 日 の 2 月 11 日 に 山 車 の 曳 き 回 し を 行 い 、 13 日 に 萊 祀 祭 を 執 り 行 っ て い る 。 下 の ポ ス タ ー は 江 戸 時 代 に 粟 田 部 の 画 家 木 津 成 助 に よ り 描 か れ た 絵図 を 元 に 、 即 位 1500 年 記 念 し て 花 筐 自 治 振 興 会 に よ り 製 作 さ れ た も の で あ る 。 当 時 は 村 人 あ げ て 山 車 物 を 終 日 街 中 曳 き ま わ し 、 当 日 は 親 類 縁 者 を 各 家 々 で招 き そ れ に 他 の 村 か ら は 遠 近 を 問 わ ず 人 々 が 大 勢 集 ま り 、 街 中 は 終 日 大 賑 わ い した と 伝 え ら れ る 。 ま た 、 福 井 藩 か ら 警 護 人 が 派 遣 さ れ 往 来 の 通 行 は 厳 し く 取 り 締ま られ、蓑笠着用は何人といえども禁じられていた格式の高い神事であった。 - 17 - 蓬 萊 祀 は 、 天 平 勝 宝 年 ( 749) 頃 に 初 め ら れ て 、 天 正 元 年 ( 1573) ま で 続 け られ て 暫 く 中 断 し 、 天 正 17 年 頃 か ら 再 興 し て 明 治 5 年 ま で 続 い た 。 そ の 当 時 よ り 毎 年 当 番 宅 を 決 め て 、当 番 宅 が 経 費 を 負 担 し て 行 わ れ て い た 。284 年間の当番宅を記録した「ライシ宿帳」が現存している。 戦 後 間 も な い 昭 和 27 年 に 井 筒 新 造翁が再開し数年は続けられたが、 ま た 中 断 し 、昭 和 59 年 に 当 時 の 粟 田 部壮連協が中心となり再興された。 その後は壮年会が続けて、平成にな ってからは敬成会と壮年会が力を合 わせ今日現在まで運営された。 平 成 17 年 に は「 蓬 萊 祀 保 存 会 」が 設立され、同年「国選択無形民族文 化財」に指定された。 継 体 天 皇 即 位 1500 年 の 節 目 の 年 にも厳かに執り行うことが出来たの も 、 先 人 た ち は も ち ろ ん の こ と 、 地 域 住 民 で 結 成 さ れ た 敬 成 会 や 壮 年 会 の 地 道な 努力の結実であろう。 ※ 栗塚勝治著の郷土史往来に蓬萊祀が詳しく述べられ、起源について別の考察もあ るので、興味のある方は読んで下さい。 - 18 - 市 祭 り こ の 神 事 は 正 月 9 日 ( 今 は 2 月 9 日 ) 深 更 ( 午 前 2 時 よ り 7 時 ) に 行 わ れ る貨 幣 交 換 の 神 事 で 、氏 子 は 神 社 に 参 詣 し て 小 判( 餅 米 の 粉 を 材 料 )を 声 高 に 10 万 両 100 万 両 と 景 気 よ く 呼 び 声 を か け な が ら 買 う 風 習 で 、 小 判 購 入 の 参 詣 者 に は 中 央 に 菊 理 媛 、 左 右 に 恵 比 須 ・ 大 黒 様 の 両 像 の 木 版 刷 り の お 札 ( フ ダ ) が 配 ら れ るこ とになっている。 参 詣 人 は 神 前 に 商 売 繁 盛 を 祈 念 し 、 早 速 小 判 と お 札 を 我 が 家 の 神 棚 に 供 え 再び 商売繁盛家内安全を祈る習慣になっている。 こ の 神 事 は 寛 弘 5( 1008)年 を 初 め と し て 今 日 ま で 約 975 年 余 り 連 綿 と し て継 承 さ れ て い る 古 式 床 し い 神 事 で あ っ て 、 こ の 市 は 往 昔 は 毎 月 2 と 7 の 日 、 月 6回 開かれたといわれている。 現 在 の 二 日 市 は 2 日 に 市 が 開 か れ た 名 残 り の 町 名 で あ り ま た 7 日 に は 本 町 で市 が開かれたと伝えられている。 こ の よ う に 毎 月 定 例 日 に 市 が 開 か れ た の は 、 越 前 国 で は 敦 賀 、 三 国 の 港 町 は別 と し て 武 生 、 織 田 、 平 泉 寺 と 粟 田 部 以 外 に は そ の 例 が な く 、 こ の 粟 田 部 は 古 くか ら産業商工の町として近隣の中核的存在であったということである。 徳 日 参 り 市 祭 り の 翌 正 月 10 日 ( 今 は 2 月 10 日 ) は 岡 太 神 社 の 拝 殿 正 面 に 仏 像 一 躯 が 安 置 さ れ る が 、 参 詣 者 は 深 更 ( 午 前 2 時 よ り 7 時 ) の 時 刻 に 神 社 に 参 詣 し て 無 病息 災家内安全を祈る神事である。 伝 え る と こ ろ に よ る と 、こ の 仏 像 一 躯 は 養 老 2( 718)年 正 月 7 日 か ら 12 日 ま で 泰 澄 大 師 が こ の 地 に 来 錫 し て こ の 社 に 仏 像 二 躯 を 勧 請 し て 神 仏 同 躰 の 行 を 修め て 、社 を 崇 め て 白 山 三 社 大 権 現 神 社 と 称 し た 頃 よ り の も の と 推 察 さ れ る 。 ま た 、 大 野 郡 篠 倉 村 の 篠 座 神 社 ( 延 喜 式 神 名 帖 ニ 記 載 ) よ り 当 社 へ 移 し た 像 と も 伝 えて いる。 徳日祭りの起源は不詳である。 - 19 - 左 義 長 祭 古 来 よ り の 神 事 の 一 つ と し て 、毎 年 正 月 14 日 岡 太 神 社 拝 殿 前 、本 町 上 の 辻 、本 町 下 の 辻 の 三 ケ 所 で 行 っ て い た が 、天 保 10( 1840)年 よ り 岡 太 神 社 拝 殿 前 一 ヶ所 に 併 合 し 1 月 15 日 に 行 わ れ る よ う に な っ た 。 戦後は厄年の男 女が当番で、中心 に杉柱を立て松・ 竹・わら等で裾を 巻き土台を作り、 正月に使用済の松 飾りや門松や厄年 の男女が火打ちを 子供たちの書道の 作 品 な ど で 、15 m の柱に美しく飾り 付けて、神官の大 祓いの後代表の人 が点火し、ドンド 焼きをする。 寒中の火の神事 で、人々たちは降 り注ぐ火の粉を浴 びながらも家内安 全 、 無 病 息 災 、 開 運 な ど 祈 願 す る 人 た ち で 賑 わ う 。 ド ン ド 焼 き の 最 上 部 に は 鯖の 尾 と い わ れ る 縁 起 物 が あ り 、 ド ン ド 焼 き が 引 き 倒 さ れ る と 、 争 っ て そ れ を 奪 い合 う。なお鯖の尾は持ち帰り家内に飾れば、災い除けになると言われている。 - 20 - 琴 弾 山 岡 太 神 社 本 殿 裏 を 薄 墨 桜 へ 登 る 途 中 、 松 の 緑 を 背 影 に 国 の 整 備 事 業 を 終 え て、 憩いの場に変貌した展望台のある小高い丘があるが、それが琴弾山である。 そ の 昔 、 朝 な 夕 な こ の 丘 の 館 か ら 孤 独 な 姫 の 哀 愁 に み ち た 琴 の 調 べ が 聞 え て来 た。村人達は素晴しい恋人のあらわれるのを一日千秋の思いで待っていた。 と ころが突然気高い一人の皇子がその丘を登って行くのを見た。 そ の 皇 子 は 非 常 な 笛 の 名 人 で 、 そ れ 以 来 二 人 の す ば ら し い 琴 と 笛 の 合 奏 の 調べ が毎日のように聞こえるようになった。 村 の 人 々 は こ の 恋 人 同 志 の 喜 び に 、 ほ っ と 安 堵 の 胸 を な で お ろ し た 。 そ れ も束 の間、春夏を過ぎた或る日、突然琴の弦が切れ、二人は別れることとなった。 それ以来その姫は山を降り出家したという。 主 の な い 館 は 風 雪 に 荒 れ 、 遂 に 跡 か た も な く 消 滅 し 、 数 百 年 を 経 過 し た 今 もな お幻想的な調べが聞えてくるようである。 竹根化蝉の碑 橘 南 渓 の 見 聞 記 で あ る 東 遊 記 に 、 粟 生 寺 の 住 持 ( 真 融 上 人 ) と の 交 流 が あ り、 二 十 日 余 り も 逗 留 し た が 、 そ の 折 粟 生 寺 境 内 の 竹 籔 を 掘 る と 竹 の 根 が こ と ご とく 蝉 に 変 化 し て 然 も 生 気 が 備 わ っ て 動 揺 し て 地 上 に 出 た も の 、 い ま だ 半 ば 竹 で 半蝉 に 変 わ り か か っ た も の 等 そ の 数 百 千 に 及 び 、 余 り の 珍 し さ に 二 つ 三 つ 求 め て 携え 帰 っ た 中 に 、 背 中 よ り 竹 が 生 え 出 た も の が あ り 。 人 に 話 し た と こ ろ 草 の 根 が 虫に 変 る こ と 、 竹 が 蝉 に 変 ず る こ と も あ る と い う 橘 南 渓 の 見 聞 記 が 江 戸 時 代 に 全 国に 紹 介 さ れ て 、 粟 田 部 の 地 名 が 一 躍 有 名 に な っ た と い う 。 竹 根 化 蝉 の 物 語 を 後 世に 永久に伝えるためこの碑が建てられた。 - 21 - 神 社 岡 太 神 社 当社は、延喜式神明帖(延長 5年頃)に記する旧今立郡下十 四座中最も古い社で、当初玉穂 宮( タ マ ホ ノ ミ ヤ )と 称 し 、雄 略 天 皇( 479 年 )以 前 か ら あ っ た 古社である。 養 老 2( 718)年 正 月 7 日 か ら 12 日 ま で 僧 の 泰 澄大師がこの地に巡錫の折、仏 像二躯を勧請して神仏同体の行 を修めて社を崇めて「白山三社 大権現神社」と称したという。 タチツヌミノミコト クニサツチノミコト ※ 祭 神 → 建 角 身 命 。国 狭 槌 尊 。 オホナムチノミコト アイドノ 大己貴命なお相殿として継体天皇を祀っている。 春 季 例 祭 は 4 月 1 2 日 、秋 季 例 祭 は 1 0 月 1 3 日 。 秋 の 例 祭 に は 子 供 神 輿 と 大 人 神 輿 が 街 を 練 り 歩 き 、 町を あげて祝う。この日小学生は早く帰宅できるので一層楽しみにしている。 上は岡太神 社本殿 左は拝殿 - 22 - 天 神 社 当 社 の 御 神 躰 の 勧 請 は 雄 略 18 年 で 、男 大 迹 皇 子 が 在 郷 の 折 自 ら 彫 ま れ た 天 神 七 代 の 神 の 中 の 少 彦 名 命 の 尊 像 で 、 朝 夕 皇 子 は 天 長 地 久 に 祈 ら れ た が 、 武 烈 天 皇の 突 然 の 死 去 で 樟 葉 の 宮 へ 還 御 に な ら れ る 際 、 皇 子 に 仕 え て い た 現 善 玖 寺 の 先 祖へ 後々までも祀りを依頼していかれたものである。 (註 )善 玖 寺 は も と 天 神 社 の 別 当 で 、明 治 6 年 の 大 火 ま で は 皇 子 の 遺 品 を 数 点 所 蔵 し て い た (越 前 名 蹟 考 )。 ※ 祭日は9月4日 金刀比羅神社 当 社 は 長 保 3 ( 1001) 年 藤 原 実 秋 に よ っ て 建 立 さ れ た と い わ れ て い る 。 当 社 は 天 保 5 年 の 馬 場 焼 に 全 焼 し た 際 、 御 神 体 が お 札 に な っ て 空 中 に 舞 い 上 がり 大 滝 の 権 現 山 の 一 番 高 い 古 い 杉 の 枝 に か か っ て い る の を 夢 の 告 げ で 知 ら さ れ て、 そ れ を 発 見 し て 御 堂 を 再 興 し 、そ の お 札 を 奉 納 し た と い う 。平 成 19 年 に は 屋 根 瓦 の修復を終えている ※ 祭 日 は 8 月 9 日 ,10 日 に 行 わ れ こ ん ぴ ら さ ん の 祭 り と し て 親 し ま れ て い る 。 - 23 - 秋 葉 宮 石象山東麓字佐山地に古来より木津群平家等講中の祀る宮がある。 (祭神 ※ 火産霊命,崇神天皇) 祭日は 9月4日 出 雲 大 社 石 象 山 西 麓 字 佐 山 地 に 明 治 31 年 4 月 12 日 開 始 の 社 が 、 清 水 幸 助 氏 の 発 起 尽 力 で建立された。 ※ 祭日は 観 8月9日 音 堂 観 音 堂 は 観 音 町 の 地 籍 に あ っ て 、 現 に 祀 ら れ て い る 本 尊 は 地 蔵 菩 薩 二 躰 と 毘沙 門天一躰で何れも平安末期の立像である。 こ の 観 音 堂 は 当 初 は 板 屋 源 右 衛 門 の 所 有 だ っ た も の が 、元 禄 16 年 当 町 善 玖 寺に 寄 贈 さ れ た が 、 の ち 本 町 浅 沢 幸 夫 氏 ( 室 屋 ) の 所 有 に な り 、 戦 前 ま で は 毎 年 4月 18 日 の 祭 日 に は お 鏡 餅 一 重 が 善 玖 寺 よ り 寄 贈 さ れ て い た が 、戦 争 中 の 食 糧 不 足が 原因でその習わしが廃絶し現在に至っている。 八 幡 社 祭 神 は 応 神 天 皇 で 、 勧 請 年 月 日 は 不 詳 で あ る が 、 慶 長 14(1609)年 の 再 建 の 記録が伝えられているので、かなり古い社と謂える。 ※祭礼は 8 月 15 日 - 24 - 西山地蔵堂 本尊は延命地蔵で、建立の由来は戸谷のチエという女の情夫がこの地蔵堂 近 で 刃 障 に あ い 、 露 と 消 え た の を 哀 れ ん で 下 谷 町 の 権 四 郎 ,観 音 町 の 定 次 郎 , 本町の豆腐屋市兵衛等により受難所のこの堂のところに一宇を建て、その菩提 をとむらったものである。 ※ 祭日は 6 月 25 日 地蔵町の地蔵 本尊は延命地蔵で、伝えによると別印村からここの堂へ移されたもので、古 老 の 話 で は 「 オ コ リ 」 落 し の 効 能 が あ る と い う 。 創 始 は 天 明 ・ 寛 政 の 頃 と い う、 ※ 祭礼は 6 月 25 日 荒 樫 神 社 ウハツツヲノカミ 当 社 は 西 樫 尾 区 28 号 字 東 上 出 5 番 地 に あ っ て 、 祭 神 は 天 照 大 神 , 表 筒 男 神 , ナカツツヲノカミ ソコツツヲノカミ 中 筒 男 神,底 筒 男 神,仲哀天皇,神功皇后である。 社の創立は不詳であるが、男大迹皇子潜竜の頃崇敬された神々ということが 口碑に伝えられている。 ま た こ の 社 に は 、 平 安 期 と 鎌 倉 期 各 一 躯 の 十 一 面 観 音 の 等 身 大 の 金 銅 仏 像 が祀 られている。 麻 気 神 社 荒 樫 神 社 境 内 に 当 社 が あ る が 、 麻 和 加 介 命 を 祭 神 と し 、 相 殿 に 振 媛 を 祀 る 。男 大 迹 皇 子 が 幼 少 の 頃 、 母 振 媛 命 に 従 っ て 此 処 樫 尾 の 地 に 来 て 、 伯 父 麻 和 加 介 の家 に在御したと言われている。 そのためこの二柱を祀っている。 - 25 - - 26 - おわりに 今 回 の 編 集 作 業 を 始 め る に あ た り 、原 本「 あ わ た べ 抄 史 お よ び 継 体 天 皇 雑 感 」の 文 字 入 力 は 、障 害 者 の 授 産 施 設 に 委 託 し ま し た 。原 本 の 解 読 で き ない漢字や変換不可能な漢字に手間取ったようです。 そ の 後 の 部 員 た ち の 手 で 文 章 を 直 し た り 、写 真 を 加 え た り 、旧 字 の 漢 字 を 新 字 体 に 置 き 換 え た り の 編 集 作 業 を 行 い 、そ の 結 果 親 し み の あ る ガ イ ド ブックでありながら、歴史を正確に伝えるが出来たと思っています。 今 後 、よ り 良 い ガ イ ド ブ ッ ク を め ざ し 再 改 訂 版 の 発 行 を 考 え て い ま す の で 、ご 一 読 い た だ い て 感 想 や 疑 問 に 思 う 点 が あ り ま し た ら 、お 手 数 で す が 人づくり・ふるさと文化部の部員もしくは部長佐々木までご連絡をいた だければ幸いです。 人づくり・ふるさと文化部 部員一同 参考とした文献 郷 土 史 往 来 、男 大 迹 部 志 、福 井 県 史 、今 立 郡 誌 、今 立 町 誌 、粟 田 部 警 防 史 、若 越 73 号 、 南 越 、 正 弥 正 廣 氏 下 書 き 原 稿 、 観 光 連 盟 岡 山 氏 記 事 、 そ の 他 フ リ ー 百科辞典「ウィキペディア」、諸団体ホームページなど 男大迹部の里 ①初 版 来歴 発 行 年 : 昭 和 59 年 9 月 誌 名:あわたべ抄史 編 者:正弥正廣 男大迹部の里 発行人:林 栄 発 行 所:粟田部壮年グループ連絡協議会 ② 改 定 版 (1 ) 文化部 発 行 年 : 平 成 19 年 9 月 誌 名:粟田部史跡ガイドブック 編集発行:花筐自治振興会 男大迹部の里 人づくり・ふるさと文化部 ( 構 成 :佐 々 木 昇 、 考 証 :宮 田 尚 一 、 写 真 :竹 内 賢 一 ) 改 定 版 (1 ) 発 行 年 : 平 成 19 年 誌 9 月 名:粟田部史跡ガイドブック 男大迹部の里 編集発行:花筐自治振興会 人づくり・ふるさと文化部