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論文(pdf) - 大阪市立大学文学研究科・文学部

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論文(pdf) - 大阪市立大学文学研究科・文学部
2007 年度提出論文
「市町村名の定着-湯布院・上越・美方という 3 地域の事例を通して」
A04LA036 北岡 弘康
Ⅰ はじめに
・・・p.3
Ⅱ 調査対象と研究方法
・・・p.6
1) 生活地名と市町村名
2) 市町村名を巡る昨今の動向
(a) 市町村名の変更が起こる機会
(b) 近年の特徴的な市町村名
(c) ここ最近の市町村名を巡る主な論争
3)調査対象地と調査方法
Ⅲ 旧湯布院町の調査
・・・p.10
1) 由布市湯布院町の概要
(a)湯布院町全体の町勢
(b)旧由布院町域
(c)旧湯平村域
(d)町名の歴史
(e)対象とした理由
(f)調査手法
2) 湯布院町の調査結果
(a)前書き
(b)湯布院町成立直後
(c)現在の「由布院」「湯平」「湯布院」を巡る構図
(d)住民の地名に対する反応
(e)平成の大合併を迎えた湯布院町
(f)今後の旧湯布院町
3) まとめ・考察
Ⅳ. 新潟県上越市の事例
・・・p.29
1)前書き
2) 上越市の概要及び選定理由
-1-
(a)市勢
(b)対象理由
(c) 調査方法
3) 市名決定時の動き
(a) 名称決定時の流れ
(b) 上越市という市名の由来
4) 市名への反対要因
(a) 上越市成立時からの不満
(b) 地名の混同
(c) 13 町村の編入
5) 「市名を考える市民の会」の活動
(a) 活動に至る経緯
(b) 現在の活動
6) 今後の展望と考察
Ⅴ 旧美方町の調査結果
・・・p.40
1)旧美方町(現小代区)の概要及び選定理由
(a)旧美方町の概要
(b) 小代・美方の由来
(c) 対象とした理由・調査方法
2) 調査結果、考察
(a) アンケートに至った経緯
(b) アンケートの結果・住民の反応
(c) 小代区内の施設名について
3) 考察
Ⅵ 三つの事例のまとめ
・・・p.46
Ⅶ おわりに
・・・p.49
注釈
・・・p.52
参考文献
・・・p.58
キーワード: 市町村名、市町村合併、ブランド、生活地名、地域コミュニティ
-2-
Ⅰ はじめに
現在日本には 1800 ほどの自治体があり、それぞれに市町村名が付けられてい
る。しかし、この市町村名は往々にして変更される。その中心は、市町村合併
による名称変更であり、特に、近年は平成の大合併があり市町村名の変更が数
多く行われた。自治体数を見ても、以前の 3232(平成 11 年 3 月 31 日)から 1821
(平成 18 年 3 月 31 日現在 総務省 2007)となった。それと共に市町村名を改
める所も少なくない。
だが、その命名のされ方については議論を呼び起こすことがある。昨今の平
成の大合併でも多くの名称が、
「自治体の名前として適切ではない」などと論争
を巻き起こすこととなった。例えば、愛知県知多郡美浜町と南知多町の合併で
は一時、新市名として「南セントレア市」が挙がったが、内外から「この地域
とは何のゆかりもない片仮名の造語 1)を何故使用するのか。」などの批判が巻き
上がった 2) 。
しかし、ここで振り返ってみると適切な市町村名とは一体どのようなものな
のだろうか。一部の識者は地名の歴史性を重んじているが、当の自治体では、
市町村名は歴史性が全てではないとしている姿勢も根強く、平行線を辿ってい
るのが現状である。特に、近年では地域の歴史性に関係が無くとも有名な地名
を市町村名にすることでアピールをしたいと考えている自治体も少なくない。
市町村名にしても「時間が経てば馴染んでくるはず。」という声も聞かれる 3) 。
そして、識者の語る歴史性にしても、どのような市町村名であれば歴史性があ
ることになるのかという線引きが必ずしも明確ではない。ここで、視点を変え
て「変更から数十年経った新しい市町村名は住民の間で定着するのか。」という
疑問を持ったことがこの論文執筆の動機となる。
だが、調査を行ってみた所、市町村名のほかに、旧市町村単位や集落単位な
ど更に細かい範囲での地名の存在が浮かび上がるようになった。これらは、主
に町内会や自治会などの単位で住民の生活圏の範囲で使用されている。そして、
1)「セントレア」とは、
「Central」と「Air」を繋げて作った造語であり、隣接する常滑市
にある中部国際空港の愛称である。美浜町、南知多町は常滑市の南部にあり空港の南側の
町として発展するようにとの意味を込められて付けられた。
2) この他にも市町村名の変更について疑問を投げかける声は複数存在する。例えば、現在
日本の自治体には地域に長い間伝わる地名を今尾(2005)は「現在と過去を結ぶ縦糸」と
し、安易な地名の変更に疑問を投げかけている。その他にも楠原佑介氏の『こんな市名は
もういらない!―歴史的・伝統的地名保存マニュアル』(2003)など安易な市町村名の創出
を批判する本・資料が出版されている。
3) 2003(平成 15)年 7 月 13 日、四国新聞社特集の特集「合併新市名を考える」で掲載
された声。
-3-
これらの地名は往々にして市町村名よりも愛着を持たれていることがわかった。
そもそも、行政区域である市町村自体が住民の生活圏と必ずしも合致しないこ
とも多く 4) 、その点では市町村名が住民にとってさほど重要なものと認識して
いない可能性もある。つまり、市町村名とこれらの地名の愛着にずれがあるこ
とが調査を進めるうえで明らかになった。一方で、昨今の市町村名論議では、
この点について言及はされていない。そこで、本稿では、このような地名を生
活地名と定義する。そして、単なる市町村名の歴史性などから見る妥当性では
なく、このような生活圏単位での地名がある一方で行政単位である市町村名は
どのような関わりを持っているのか、どのようなずれが生じているのかという
事にも焦点を当てて論じていくこととする。
ここで、先行研究を見ると 1999(平成 11 年)年に合併し誕生した「篠山市」
を例に、新市町村名が地域帰属意識に対して及ぼす影響について研究がなされ
た論文(遠藤ら,2004)がある。但し、こちらは対象となる地が合併して歳月の
あまり経っていない自治体であり、数十年単位での結果は分からない。そして、
このような研究が地理学の論文においてはなかなか論じられていない。そもそ
も、市町村名に限らず「地名」自体が、民俗学のような分野では盛んに論じら
れているものの地理学に於いて粗略に扱われがち(吉田,2004)とされている。
また、天野(2007)によると、市町村合併に伴う地名の変更には歴史地理だけ
でなく行政、政治、社会地理からも議論の余地があることを述べている。以上
のことからも市町村名が地理学に於いて議論される可能性が示唆される。そこ
で、今回は誕生して数十年経った市町村名を対象に、その定着の具合を経緯、
現在から探ることとした。
なお、この論文では、対象地を複数選定しそれぞれを調査、考察するという
形を取っている。これは、各地により市町村名を巡る状況が異なる為である。
例えば、ブランド力のある市町村名とそうでない市町村名であれば、論争の表
出の仕方も異なってくるかもしれない。今回は新潟県上越市、大分県大分郡(旧)
湯布院町、兵庫県美方郡(旧)美方町の三地域を対象地として考察し、市町村
名の定着についてアプローチしてみた。
4)これについて山崎(2001)は、行政区域の中で、地縁組織としての町内会、自治会、小
学校校区などの地域コミュニティの存在を指摘している。また、後述する旧湯布院町の例
では、町内でも「湯平」「由布院」など生活圏が複数存在する。この例では、「湯平」など
の地名が生活地名となる。
-4-
Ⅱ 調査対象と研究方法
1) 生活地名と市町村名
ここで、もう一度市町村名と生活地名について述べてみたい。まず、ここで、
市町村名とは、その名の通り行政区域に使用される名称のことである。そもそ
も地名を考えた時、千葉(1999)は、人々が生活を営む中で、地上を整理・区
分した結果としている。中でも、現在の市町村名は、合併等で広域化しており
しばしば既存の生活圏を超えた範囲をカバーする名称となる。これに対し、生
活地名は、本稿では大まかに人々の生活圏である地域コミュニティで使用され
る名称であると定義する。また、ここでの地域コミュニティとは、山崎(2001)
の示すような市町村単位、旧市町村単位、小学校学区単位、町内会単位などで
ある程度まとまりのあるコミュニティとする。厳密には、生活地名と言っても
(小学校学区単位のコミュニティの中に字・集落単位のコミュニティが存在す
るなど)生活圏の単位や地域によって字や大字など複数の階層に分かれている
が、今回は市町村名との対比を行う為、生活地名を広く上記のような形の名称
としておく。
2) 市町村名を巡る昨今の動向
(a) 市町村名の変更が起こる機会
近年の市町村名の変更のうち、大半は市町村合併に関係するものである。特
に、同規模の市町村同士が合併するときは、新しい市町村名を創出する場合が
多い。これに対し、編入合併 5) のように規模の大きな自治体が規模の大きな自
治体を吸収する場合は、規模の大きな自治体の名称が存続するケースが多く見
られる。因みに市町村合併以外の改称では、1996(平成 8)年 9 月 1 日北海道
札幌郡広島町が市制と同時に改称し「北広島市」となる等のケースがある。
(b) 近年の特徴的な市町村名
合併等によって作られた市町村名には特徴的なものがいくつかある。これら
について解説を加えながら紹介したい。
①合成地名
2 つまたはそれ以上の自治体や字が、合併等の際それぞれの市町村名の一部
5)合併の方式には大まかに「新設」と「編入」がある。
「新設」とは、複数の自治体が合併
する際、全ての既存自治体を廃止とし、全く新しい自治体が誕生することである。これに
対し「編入」は複数の自治体が合併する際、このうちの一つ(大抵は最も規模の大きい自
治体)が存続し、この他の自治体が廃止とすることを指す。
-5-
を取り入れて新しく作られた地名を指す。例えば、2004(平成 16)年 4 月 1 日
に長野県小県郡東部町と北佐久郡北御牧村が合併し発足した「東御市」は東部
町の「東」と北御牧村の「御」が合わさって作られた市町村名である。
②広域地名
都道府県名、旧国名、郡名などの広い範囲を指す地名。転じて、これらの地
名を、その範囲のうちの一自治体が(本来、より広い範囲を指す地名にもかか
わらず)使用していること。また、その地名を指す。例えば、大阪府摂津市は
本来大阪府北部から兵庫県南東部全体を指す旧国名である「摂津」を市町村名
にしている。
③方角地名
これは、自治体の所属する郡名や都道府県名、旧国名などに方角を付け組み
合わせた地名のことをさす。例えば、滋賀県東近江市(近江の東に位置する)、
大阪府泉南市(和泉の南に位置する)などが挙げられる。
④瑞祥地名
これは、現地の状況と関係なく住民が将来への願望や発展への期待をこめた
り縁起を担いだりして命名される地名(黒田 2005)を指す。例えば近年 2006
(平成 18)年 3 月 27 日に群馬県新田郡笠懸町、山田郡大間々町、勢多郡東村
が合併し誕生した「みどり市」などが挙げられる。
⑤その他
その他としては例えば平仮名、片仮名地名がある。例えば、青森県「むつ市」
では、
「陸奥」という漢字を平仮名にしている。これについて、一部の書物では、
地名は多くの場合漢字を伴って意味を成すもので、平仮名などにすれば本来の
意味合いが失われるなどと一部の識者の批判する声もある。
(c)ここ最近の市町村名を巡る主な論争
一章でも市町村名にまつわる問題に少し触れたが、ここで改めて整理して考
えてみたい。冒頭で紹介した「南セントレア市」以外にも、ここ最近複数の市
町村名が論議の的となった。例えば、千葉県山武郡山武町・成東町・松尾町・
蓮沼村の合併では、新市名を一旦「太平洋市」としたが、「新市では 8km太平
洋に面しているだけ。それにも関わらず、
『太平洋』の名を名乗るのは僭称では
ないか。」などの批判が内外から起こった。最終的には新市名を「山武」と変更
している。また、2003(平成 15)年 4 月 1 日に成立した南アルプス市はその
名称に「アルプス」という西洋のような地名が使用されているなどと批判を受
けた。しかし、当の自治体では、
「新しい市町村名のほうがブランドアピールに
-6-
なる。」などから歴史性には必ずしも拘泥しない立場をとる場合が少なくない。
特に、既存のブランド力のある地名を市町村名として利用するケースもよく見
られる。例えば、楠原(2003)は、2002(平成 14)年 4 月に成立した香川県さ
ぬき市について、本来香川県全体の旧国名である名称を一地域だけ使った僭称
であると批判している。しかし、これに対しさぬき市では、
(地名の歴史性より
も)全国的に知名度の高い「さぬき」の名称を市町村名に使うことでイメージ
アップを図っている、として主張は平行線を辿っている 6) 。南アルプス市の場
合も、
「南アルプス」という地名での観光客アピールを狙いこの名称が採用され
た。このように自治体にとっては対外アピールの為、合併協議をスムーズに進
める為 7) など特有の事情もあって市町村名が付けられている。この点で識者と
の溝は深い。また、前述の通り生活地名というものが市町村名とは別に存在す
る。地域コミュニティの繋がりが強く、自治体に愛着が少ない場合などは市町
村名に対する関心が希薄になる可能性もある。だが、この関係について識者と
当事者との論争では指摘されていない。
因みに、合成地名などの新しい市町村名は何も近年になっていきなり使用さ
れるようになったわけではない。例えば、1874(明治 7)年 9 月 7 日に誕生し
た長野県西筑摩郡読書村(現南木曽町)の語源は、構成自治体である与川(よ
がわ)村・三留野(みどの)村・柿其(かきぞれ)村のそれぞれ「よ」
「み」
「か
き」の部分を繋ぎ合わせて創作された名称である。このように、市町村名の創
出は明治期から表出しているのである。
3)調査対象地と調査方法
本稿では以下の条件の下対象となる地域を選定した。
①数十年前に合併などで市町村名の変更が行われた自治体
(短期間であると定着の効果が分かりにくい。また、逆に長すぎると変更当時
の情報が揃いにくく全体の経緯を把握しづらい。そこで今回の調査では昭和の
大合併時かそれ以降 20 年ほどのうちに合併した自治体に限って選定を行っ
6)さぬき市の場合、事前に市名についての公募アンケートを行った結果、1
位が「大川市」
2 位が「東讃市」そして 3 位が「さぬき市」だった。しかし、
「大川」は福岡県に同名の市
がある、
「東讃」は「倒産」のようで縁起が悪い、と結論付けられた(四国新聞社 2003)。
こうしたことも「さぬき市」が決定される要因のひとつとなった。
7) 例えば、2007(平成 19)年 12 月 1 日に鹿児島県川辺郡川辺町・知覧町・揖宿郡頴娃
町が合併して成立した「南九州市」では、合併協議の段階で新市名に旧市町村名を使用し
ないこととした。既存の市町村名の一つを使用した場合、他の自治体から反発が起こる場
合もあるのである。その結果市名は地域の名称と全く異なる(一種の方角地名である)
「南
九州」が採択された。
-7-
た。)
②新しい市町村名が合成地名など人工的な地名、また広域地名など本来その地
域を指す言葉ではない地名。
(これまでの地域の呼び名とは違う新しく名付けられた市町村名が論文の対象
となっているので、当然ながら条件の一つとなる。)
③近年市町村名に関する論争や変更などの動きが行われた自治体
(市町村名の定着を探る手がかりになるし、人々が市町村名について何らかの
感情を抱いているしるしでもある。)
結果、調査候補地として
①兵庫県美方郡美方町{現香美町小代区(かみちょうおじろく)}
②大分県大分郡湯布院町{現由布市(ゆふし)}
③新潟県上越市(じょうえつし)
が選定された(図 1)。候補理由などの詳細は各章に譲りたい。
調査は現地入りなどで 8) 住民の方々にインタビューを行い、それを中心とす
る形が中心となった。調査のきっかけとなった関心事(上越市の例であれば、
「市名を考える市民の会」の活動内容など)を中心とした質問を行い、状況に
応じて市町村名に対する愛着の質問を織り交ぜた。インフォーマント等は各章
毎に記述する。
Ⅲ 旧湯布院町の調査
1) 由布市湯布院町の概要
(a) 湯布院町全体の町勢
旧湯布院(ゆふいん)町は、大分県内にかつて存在し、現在は大分県由布市
の一部となっている自治体である(図 2)。大分県のほぼ中央部に位置し、東で
は別府市、西では玖珠郡九重町などと隣接している。旧町域には、由布院(ゆ
ふいん)、塚原、湯平(ゆのひら)といった地域に温泉が存在し、国民保養温泉
地として厚生労働省から指定を受けている。町内には由布院温泉観光協会と湯
平温泉観光協会など、町内に複数の観光協会が存在しており、観光産業が盛ん
8)上越市だけは現地入りを行わなかった。詳細は上越市の項を参照されたい。
-8-
-9-
- 10 -
である。また、由布岳を含む九州横断道路沿線は阿蘇国立公園指定地となって
いる。標高 1,584mの由布岳を中心とした山々に囲まれており、旧湯布院町役
場の位置した周辺には由布院盆地という原野地形が形成されている。
1889(明治 22)年に市町村制が施行された時には、この地には北由布村、南
由布村、湯平村の 3 つの村が存在していた。このうち、同じ由布院盆地にある
北由布村と南由布村は 1936(昭和 11)年 4 月 1 日に合併し、新たに「由布院村」
が誕生した。この由布院村は、1950(昭和 25)年 1 月 1 日に町制施行をする。
そして、1955(昭和 30)年 2 月 1 日に由布院町と隣村である湯平村が合併し、
今回の調査対象である「湯布院町」が成立する。その後、1957(昭和 32)年 4
月 1 日に九重町田野字扇山を編入後は現在の体制が 50 年近く維持された。しか
し、平成の大合併の流れの中、湯布院町も周辺町村との合併を行う。そして、
2005(平成 17)年 10 月 1 日、町は大分郡挾間町、庄内町と合併し、新自治体
「由布市」の一部となる。尚、
「湯布院」という表記は大字として残ることとな
った。例えば、「大分県大分郡湯布院町中川」は「大分県由布市湯布院町中川」
となる。
今回の調査地ではこの中の旧由布院町と旧湯平村が重要なポイントとなる。
そこで、各旧自治体について以下で別個に解説を加えたい。
(b) 旧由布院町域
現在、
「湯布院」と言えば全国的に名高いが、実際湯布院町の中でも有名なの
はこのうちの由布院盆地を中心とした地域に存在した「旧由布院町」域である。
しかし、湯布院町成立当時は寂れた地域であった。温泉はあるものの旅館の経
営も思わしくなく、歓楽街も無かった。湯布院町役場が観光動向調査を開始し
た 1962(昭和 37)年当時でも、年間 38 万人ほどの観光客しかなかった。湯平
温泉観光協会会長も、
「当時の由布院は旅館数も少なく、温泉地としての生業は
無かった。」と述べられている。だが、それと前後する昭和 30 年の合併直後の
新町長が徐々に町の活性化を測るようになる。1959(昭和 34)年に湯布院町は
「国民保養温泉地」9) の指定を受け、昭和 40 年初めには町長が町を「保養温泉
地」とする方向性を定め、まちづくりに乗り出した(捧,2002)。その頃になる
と、町長だけでなく、由布院盆地の住民からも強力なリーダーが現れ町民のま
14 条の規定に基づくもので、温泉の公共的利用促進の
ため環境庁長官が指定した地域のことである。指定には、温泉の顕著な効用・一定の湧出
量・環境衛生の良好さ・顧問医の存在、などの条件が存在する。国民保養温泉地の指定を
受けた施設は、一部の設備整備に国からの補助を受けることが出来る。
9)国民保養温泉地とは、温泉法第
- 11 -
ちづくり意識が高まり、皆で由布院の活性化に向けた動きが起こる(木谷,2004)。
このような努力が実を結び、現在では年間およそ 400 万人 10) の観光客が訪れる
地となっている。こうした経緯から、現在も町民のまちづくり意識は高い。ま
た、地域には由布院に存在する由布院温泉とは別に、北部の由布院盆地から外
れた所に塚原温泉という温泉も存在する。こちらは、近年まで寂れた地域であ
ったが、ここ最近は町外から人材が入り活性化している。
また、この地はかつてキリシタンの里であった。それ故、江戸時代にはこの
地で遠隔地の藩に帰属させるなどの政策が行われていた。だがその為に自立意
識が生まれ、各村では庄屋を中心とした自主運営に近い形での村の営みが行わ
れていた。
(c) 旧湯平村域
旧湯平村は、現在の湯平温泉を中心とした地域である。湯平は、開けた盆地
に位置する由布院とは対照的に、奥まった山間部に位置する温泉街であり、由
布院盆地からも距離がある(図 2)。こちらは由布院とは逆に、合併当時は栄え
た温泉街であった。湯平独自の観光協会である湯平温泉観光協会会長によれば、
当時湯平は県内で別府に次ぐ温泉地として知られていたという。そもそも湯平
温泉は鎌倉時代に開け、療養温泉の「西の横綱」として人気の湯治場であった。
村内には、劇場やパチンコ、映画館のような娯楽施設も存在したということで
ある。しかし、高度成長時代のテーマパーク建設のあおりもあって過疎が進み、
今では由布院の方が栄え、知名度も上となっている。観光協会会長の話では「(隣
の)由布院はまちづくりの素晴らしいリーダーが存在したので有名になった。
しかし、こちらは(泉質は良いが)土地が狭く温泉量も少ない。加えて過疎な
どで人口も少なくなり、疲弊してしまった。」と述べられている。現在の観光客
数は年間 30 万人程度に留まっている。ただし、温泉の質としては今でも由布院
より湯平の方が高く、昨今は活性化運動も盛んになってきている。因みに、湯
平温泉観光協会会長によると、衰退の原因はあくまで過疎の煽りであり、由布
院町との合併等とは直接の関係はないということだ。
(d) 町名の歴史
「湯布院」の由来は既に述べたが、旧市町村名の「由布院」
「湯平」は古くか
ら伝わる地名である。この章ではこれらについて簡単に説明したい。
10)平成
14 年時点 湯布院町調べ。
- 12 -
まず、湯平については江戸期に初めて「豊後国志」において枝村としてその
記載が行われている。つまり、
「湯平」という地名は少なくとも江戸時代から成
立していた。
一方の「由布院」であるが、こちらは後述する「湯布院」の定着に関わって
いる部分があるので、少し詳しく記述する。
「由布院」については、古くからみ
える地名であるが、その成り立ちには諸説ある。平安時代の和名抄には、
「由布
郷」という名で行政区の一つとして存在していた。しかし、それ以前となると、
「由布」の他に「柚富(ゆふ)」「木綿(ゆふ)」等の別の字で記述されている。
例えば、奈良時代初期に編纂とされる豊後国風土記には、この地域について「柚
富(ゆふ)郷」と記述があり、その由来は「木綿」から来ているとしている 11)
。
また、由布院盆地には「由布岳」という山があり、こちらの名も「由布」と
ほぼ同時期に成立したとされる。この由布岳からはいくつか河川が流れており、
そのうちの一つは山の名を取って「由布川」12) と呼ばれ、由布院盆地とは反対
側の旧挟間町に流れ込み「由布川渓谷」を形成している(図 2)。ここから挟間
町には一時期「由布川村」という自治体が存在したり、
「由布川小学校」という
校名の小学校が作られたりしていた。このことが、後述の平成の大合併時に少
し影響を与えることとなる。
(e) 対象とした理由
まずは、
「湯布院」という名称が、旧市町村名である「由布院」と「湯平」を
組み合わせてできた合成地名、ということが挙げられる。
「由布院」と「湯布院」
の音が同じなので分かりにくい部分があるかもしれないが、実際は 2 つの市町
村名の組み合わせであり、指す地域が違う(尚、この「『湯布院』と『由布院』
の音が同じ」と、成り立ちが合成地名、という面に関しては、後の展開で重要
なポイントとなる。少しだけ記憶に留めて頂きたい)。言い換えると、
「湯布院」
は昭和期に作られた新しい市町村名なのである。
しかし、現在「湯布院町」は観光客数も年間 400 万人を数える名所であり、
町名も全国的に名の通った市町村名のひとつとなっている。ここから、町名に
対する住民の意識も強いのではないかと予想し、調査候補とした。更に、
「由布
市」成立の際、旧湯布院町は名称で論争があった。町のイメージが拡散される
11) 『角川地名大辞典
大分県』(1980)より。
なお、
『角川地名大辞典 大分県』
(1980)によれば、3 町を流れる大分川が由布院盆地
を流れる時は(挟間町内にある「由布川」とは別に)「由布川」と呼ばれるということだ。
12)
- 13 -
ことを嫌い、
「由布院」を連想させる地名を市町村名とすることに反対の声が挙
がったのだ。そこで、住民の町名に関する意識の高さを感じ、調査対象とする
こととした。
(f) 調査手法
調査の中心はインタビュー等による現地調査である。10 月 23 日~26 日にか
け、旧湯布院町へ赴き調査し、聞き取りの他適宜資料収集などを行った。イン
タビューといっても、いきなり住民に話を伺うことは困難なので、まずは観光
協会などへ交渉することとした。その中で、協会の人やその紹介など、計 6 名
の方に聞き取りを行うことができた。6 名の属性は
・湯平温泉観光協会会長
60 代
・由布院温泉観光協会局長
40 代
・由布市市議会議員
女性
30 代
男性
男性
・旅館経営者(由布院まちづくりの先駆者) 70 代
・湯布院地域振興局(市役所施設の一部)職員
・元湯布院町収入役(湯平在住)70 代
男性
40 代
男性
男性
である。2 名は湯平在住の方、2 名は行政関係の方である(重複含む)。基本的
には 1 時間~2 時間程度の直接インタビューという形式にした。但し、元湯布
院町収入役の方のみは日程の折り合いがつかず、後日(10 月 28 日)に電話で
のインタビューを行った。
2) 湯布院町の調査結果
(a) 前書き
私の当初の予想では「湯布院」という名称は町内でも相当定着しているのでは
ないかと考えていた。
「湯布院」という町名が全国的に有名となっている。そこ
で町民の間でも町名に親しみを持っているのではないか、つまり「湯布院」は
定着の成功事例となるのではないかとの予想を付けたのである。しかし、実際
に調査を行った所、
「湯布院」という町名より、寧ろ「由布院」や「湯平」とい
った生活地名がよく使用され愛着を持たれている傾向にあることが明らかにな
った。そこで、本章では「湯布院」という町名に対する住民の意識、またその
意識の背景などを記述したい。
まず、
「湯布院」という名称を巡って欠かすことができないのは、湯布院町成
立時から現在までの、合併を中心とした経緯である。そこで、(b)ではこれら
の話について詳しく記述し、町名の定着にどう影響しているのかを解き明かし
- 14 -
たい。次に、(b)の背景を踏まえ、現在の「湯布院」という市町村名に関する
状況について(c)で解説する。更に、「湯布院」という町名に対し住民がどの
ような意識を持っているのかについて(d)で改めて整理して記述したい。また、
平成の大合併を迎え、
「湯布院」という名称を巡る状況にも変化が現れた。そこ
で、(e)で平成の大合併時やその後の町名について、を記述したい。最後に結
果のまとめや私なりの考察・感想などを(f)で記述してこの章の括りとしたい。
(b)湯布院町成立直後
1955(昭和 30)年 2 月 1 日、由布院町と湯平村が合併して湯布院町となっ
たことは前述の通りである。しかし、この合併の際には紆余曲折があった。旧
湯平村において合併問題についての折衝が存在したのである。湯平でははじめ
隣接する庄内町との合併を望む声と由布院町への合併を望む声で町が二分され
ていた。というのも、当時、旧由布院町は湯平と隣接する町ではあったが経済
圏は異なっており、知名度も高くなかった。こうしたことから由布院町への合
併を望まない声があったのである。最終的には温泉地同士で手を繋いでいこう
という決議になり由布院町と合併することになったが、地域振興局職員の方に
よると「未だに庄内と合併しておけばよかったという声もある。」ということで
ある。このようなしこりがあることに加え、地理的に湯平は由布院盆地とは離
れたところに位置しており、経済圏も違う。このことから合併後も湯平と由布
院は互いに独立傾向が強く観光協会も独自で作られることとなった。つまり、
合併後も由布院と湯平の生活圏は一体とならず、それぞれ独立した地域コミュ
ニティとして存在していたのである。実際、インタビューの中でも「私は由布
院の人だが、未だに湯平に行くとどこか旅行に行ったときのような気分になる
(旅館経営者談)。」とする声もある。このことが、湯布院町という町名に対す
る人々の意識に影響を齎すこととなる。
ここで「湯布院」という新町名が決定された背景についても述べておきたい。
町名決定経緯の詳細については残念ながら今回の調査では分からなかった。し
かし、「対等意識を持たせるために合成地名としたのでは」というのは 6 氏共
通の意見である。当時人口は由布院町の方が勝っていた(表 1)。しかし、温泉
地としての当時の知名度は(現在こそ由布院が有名であるとはいえ)湯平の方
が勝っていた。こうしたことから、町の規模は由布院町のほうが上でも、その
まま「由布院町」としては湯平からの反発が予想された。そこで、湯平の「湯」
の字を借りて「湯布院町」としたのではないか、というのが 6 氏の見解である。
また、湯平温泉観光協会局長によると「当時『由布院』という市町村名にネー
- 15 -
ムバリューがあったわけでもなく、新市町村名決定はスムーズに行われた。」と
のことである。
また、独立状態と記したが、由布院盆地と湯平が現在の段階で断絶、または
対立状態にあるのではないという事を付け加えておく。確かに、湯平では昭和
の大合併に不満を唱える人もいないではないが、観光協会でも共同のイベント
を開催するなどしており、お互いに協力していこうという面も見られる。
(c) 現在の「由布院」「湯平」「湯布院」を巡る構図
①合成地名と独自のまちづくり
合併以降旧由布院町エリアが全国的に有名となったのは既に述べた。しかし、
(a)で述べたようにそれぞれの町域は独立意識が高く、独自のまちづくりが
行われることとなった 13)。こうした独立意識から、もともと合成地名である「湯
布院」という名称は、住民の間では「由布院と湯平を併せた言い方」という意
識が持たれ続けることになった。町外の人々の視点に立てば、
「合併して数十年
経てば、
『合成地名』という町名の由来も薄れ、自分達の地域を指す言葉として
親しまれるのではないか。」という声もあるかもしれない。しかし、湯布院町の
場合は「合成」という意識は根強く続いているようだ。更に、
「由布院」に関し
て言えば「湯布院」と読みが似ているが、両者の使い分け 14) は正確に行われて
いる。少なくとも、今回インタビューを行った 6 氏は全員この使い分けを行い、
「湯布院」が合成地名という認識も有していた。
更に、同じく独自のまちづくりが行われている観点から、行政単位で町を考
える以外では(町内全域を指す言葉である)
「湯布院」を使用する機会が多くな
い。このことから、
「湯布院」よりも旧行政単位であり且つ独自のまちづくり単
位である「由布院」
「湯平」が、より親しみを持ち続けられることとなった。図
3 でもその構造を整理してあるので参照されたい。
②由布院での「湯布院」に対する反応と「湯布院」という名称の伝播
また、
「由布院」では「湯布院」という名称が、特に外部メディアで使用され
ることを必ずしも歓迎していない。由布院独自の観光協会である由布院温泉観
光協会では、「『由布院』を紹介するときに『湯布院』を使用しないようメディ
13)現在は、由布院、湯平の他に、由布院温泉から少し離れた所にある塚原温泉も独自で観
光協会を設けている。
14)つまり、由布院という名称は由布院盆地周辺のみ、湯布院という名称は由布院から湯平
まで全て併せた言い方、と分けていること。
- 16 -
アに呼びかけている。」とのことであった。これは、
「湯布院」という名称が「由
布院」だけでなく「湯平」も含まれていることを意識していること、また「由
布院」が独自でまちづくりを行ってきたという歴史や自負によるものが大きい。
では、
「由布院」だけでなく「湯布院」も有名になったのは何故だろうか。ま
ず挙げられるのは、(当然のことだが)「由布院」が湯布院町内に存在するとい
う事である。町内の一地域が有名になれば、町名自体が宣伝、報道される機会
も飛躍的に増加する。ここから、
「湯布院」という名称も全国的な知名度を誇る
ようになった。しかし、
「湯布院」の場合はこの他に特有の問題がある。ここで、
「湯布院」と「由布院」を比較して見た時、漢字が違うだけで成立背景を知ら
ない人からすれば、似通って見えるという点を思い出して頂きたい。つまり、
町外では「湯布院」が「由布院」であると誤解されやすく、
「由布院」が「湯布
院」として伝わり知名度が上がる、という現象が一部で生じているのだ(図 4)。
実際、旧湯布院町役場には定期的に「『湯布院』と『由布院』の二つは何か違う
のか。」などの問い合わせがあるという。また、由布院温泉観光協会局長、地域
振興局職員もメディアによる誤植を指摘している。ここから、
「湯布院」という
名称が指す地域についての誤解が生じつつ、知名度が上昇したという背景が窺
える。
③地名の使い分け
ここで、由布院において名称に拘りを持つ興味深い事例を紹介しておきたい。
それは、表記の使い分けについてである。まちづくりの先駆者となった現旅館
経営の方の話によると、由布院では、町内イベントなどで名称を使用するとき
に 3 つの表記が使い分けられているということである。一つは、本来の表記そ
のまま「由布院」、一つは町名である「湯布院」、そしてもう一つは平仮名の「ゆ
ふいん」である。同氏によれば、行政の許認可など主に行政が絡むときは「湯
布院」、絡まないときは「由布院」、ニュートラル・曖昧にしたいときは「ゆふ
いん」を使用する傾向にあるということである。例えば「湯布院映画祭」は公
民館の使用など行政の許認可が必要なので「湯布院」、「ゆふいん音楽祭」は、
湯平の立場も考え将来揉めないように「ゆふいん」としている。また、これら
のイベントが成立したのは 30 年以上であるが、同氏は「それくらい前から人々
の中に字を使い分ける意識があった。」と指摘している。
④湯平での反応
一方、湯平では「湯布院」という市町村名は比較的受け入れられる傾向にあ
- 17 -
るようだった。調査前は、
「湯平では『湯布院』という町名が『由布院』と混同
- 18 -
- 19 -
されて困惑しているのではないか。」と私は考えていた。しかし、湯平温泉観光
協会の話では「確かに知らない人には説明する必要があるが、
『由布院温泉観光
協会』と『湯平温泉観光協会』は別のもの。現町名にも不満はないし、
『湯布院』
には『湯平』も受け継がれている(一部省略)。」ということであった。同時に、
「『湯布院』という名称も存在した方がよい。湯平では『湯布院ブランド』に乗
っかって商売している面もある。」という回答も得られた。この点は、先の由布
院と大きく異なる所である。これは、湯平が現在疲弊傾向にあるということに
起因しているだろう。
ただ、観光協会の話では「『湯平』に強い愛着を感じる。」としている。湯平
も(現在疲弊傾向にあるとはいえ)独自でまちづくりを模索してきた。また、
公共施設を見ても「湯平小学校」
「湯平郵便局」など皆「湯平」が使用されてい
る。つまり、人々にとって身近な施設も「湯平」であり、同時に「湯平」とい
う地名も人々にとって身近であった可能性がある。この事については「由布院
小学校」
「由布院駅」などの施設が存在する由布院でも同様のことが言えるだろ
う。この公共施設関係の記述については「小代区」の章で詳しく記述しているの
で、そちらも参照されたい。このような経緯からも「湯平」に愛着を感じる背
景が窺える。
更に、現在湯平ではまちづくりの機運が高まりつつある。数年前から湯平出
身の若者が戻り始め、これを機に石畳沿いの旅館や商店の再生を図る「石畳浪
漫プロジェクト構想」などが打ち出され、町に活力を与えた 15) 。更に、由布市
成立を機に「湯平温泉場活力創造会議」が旅館組合の役員などで構成されてい
る。まちづくりが盛んになると、由布院のように「湯平」に対し自負の意識を
持つ人々が今後更に増加する可能性がある。同時に、
「湯布院」という名称は廃
れだすかもしれない。
(d)住民の地名に対する反応
以上の背景を踏まえたうえで、現在の「湯布院」或いは「由布院・湯平」に
対しどのような反応があるかここで改めて記述したい。まず、聞き取りを行う
中で 6 氏それぞれ町名に対する考えを訊くことができた。そこで、まずは聞き
取りの中で出た 6 氏の市町村名への愛着に関する発言を元に愛着の度合いにつ
いて抜粋し記述したい。
15)「大分県広報誌」
(2006)p.10
より
- 20 -
・湯平温泉観光協会会長
「もし、(地名変更か何かで)『湯平』という名称がなくなるのであれば断固反
対するだろう。『湯布院』の場合は(『湯平』よりは弱いが)どちらかというと
あった方が良い。」
「(平成の大合併で『由布市』という名称の市が生まれたが)もし、名称が『由
布院市』となっていれば反対しただろう。これに対し『湯布院市』となってい
れば別に反対しないと思う。何故なら『湯布院』という名称は『湯平』の『湯』
が取り入れられた名称だが、
『由布院』では完全に『湯平』が外されているから
である。」
(補足)後者では後述する平成大合併時の新市名についての質問から得られた。
・由布院温泉観光協会会長
「観光協会では、『由布院』という名称に拘りがある。高々50 年の歴史である
『湯布院』は造語であると主張し続けている。」
・現旅館経営者(由布院盆地のまちづくり先駆者)
「たった 50 年の合併に基づいて『湯布院』の名称を使用し続けるのはおかしな
こと。自らの生活領域である『湯平』『由布院』を名乗るべき。」
・由布市市議会議員
「『湯布院』は、『湯平』から字を借りて充てただけだから、その意味では抵抗
を抱いている人も多いと思う。便宜上使っているだけという感覚では。」
「(私自身は)
『湯布院』と言われて嫌な感覚はない。しかし、
『由布院』の方が
良いのが正直な感覚。」
・湯布院地域振興局職員
「(私としては)『湯布院』にも『由布院』にも愛着がある。ただ、個人的には
『由』の方が使い易いし PR もやり易いと思う。」
・元湯布院町役場収入役
「『由布院』や『湯平』より『湯布院』に愛着を感じる。やはり『湯布院』が全
国的に有名なので。」
(補足)今回のインフォーマントの中で、唯一「湯布院」に最も愛着を感じる
- 21 -
と回答された。
以上より、多くのインフォーマントから、
「由布院」や「湯平」への愛着が感
じ取られた。同時に、
「湯布院」が合成地名であるという認識も感じ取ることが
出来るだろう。また、興味深かったのは、一部のインフォーマントの名刺に書
かれていた住所表記である 16) 。通常、住所表記では「大分県由布市湯布院町○
○」という表記になるが、その方々の名刺では「九州 由布院」
「九州 由布院盆
地」「大分 由布院温泉」という表記がされていた。これについては「湯布院や
由布を名乗りたくない」という意識が強いとの事であったが、ここからも愛着
の度合いが窺えるだろう。また、由布院では字単位の地域が存在するが、この
名称への愛着も強いという。消防団などもこの字単位で作られており、由布市
市議会議員の方は「地域単位の名称に一番愛着を感じている人も多いのでは。」
と述べられていた。
ただ、行政関係に所属していた湯布院地域振興局の職員は両方、元収入役の
方は湯布院に愛着があるとしていた。これは、旧湯布院町役場で町全体に関わ
る仕事をしてきたからかもしれないが、少なくとも「湯布院」に愛着を感じる
人も存在することはここで記しておきたい 17) 。由布院温泉観光協会局長は、こ
れについて「行政関係の人の中には(町全体の仕事をしているわけだから)
『湯
布院』に愛着を持つ人々もいるかもしれない。」と示唆している。また、由布市
市議会議員の方は「由布院盆地にある小学校は『由布院』だが、中学校は『湯
布院』18) である。こうしたことから『湯布院』に対する愛好精神もないわけで
はない。」と述べられている。
(e) 平成の大合併を迎えた湯布院町
2005(平成 17)年 10 月 1 日湯布院町は大分郡庄内町、挟間町と合併し「由
布市」となった。だが、この合併には新市の名称も含め、紆余曲折があった。
当初、大分県の作成した『市町村合併推進要綱』や、同じ大分郡内に 3 町が存
16 ) 正確には由布院温泉観光協会会長、由布市市議会議員、由布院まちづくり先駆者の
3
人である。
17)湯布院に愛着を感じる人の正確な属性は今回の調査では突き止めるには至らなかった。
しかし、「有名な名称に愛着を感じる。」ということから、ネームバリューが住民側に全く
影響を与えていないとも限らない。この点については今後の課題であろう。
18)もとは由布院中学校だったが、湯平中学校と合併し、町名と同じように学校名も「湯布
院」と改められた。
- 22 -
在していることなどから、3 町で合併を進めることとなった 19) 。しかし、庁舎
位置や新市名その他の問題もあって協議が難航した 20) 。また、湯布院町では合
併へ反対する声も根強く、町長リコール問題にまで発展した 21) 。
合併反対の理由としては、3 町の文化、まちづくりの仕方などが大きく異な
っていることが大きい。湯布院町は温泉などの観光資源もあり、独自の観光路
線を歩んでいる町である。これに対し庄内町は農村地帯であり、挾間町は大分
市のベットタウンという性格が強い。これら性質の違う町が一緒になることで
独自のまちづくりが行いにくくなる、生活圏の違う町と一緒になることに抵抗
を感じる、などの思いが湯布院町では少なからず存在した。
また、新市名問題では、由布院の人々の地名に対する拘りが見られた。そこ
で、新市名問題についてはもう少し詳しく紹介してみたい。まず、新市名につ
いては全国公募で名称の募集(2003 年 11 月 20 日~2004 年 1 月 10 日)を行い、
計 2,937 件(有効数 2,886 件)の応募が寄せられ、その結果件数では由布市が
253 件で最多となった。3 町これを元に、協議会は名称を絞り込み、同年 4 月 6
日の協議で「あらかし市」「碩南市」「豊後市」「ぶんご富士市」「由布市」の 5
つに絞り込んだ。
しかし、この後の 2004(平成 16)年 4 月 12 日に 3 町長に対し、由布院温泉
観光協会と同温泉旅館組合が「新市の名称に『由布院』を連想させる名称を含
まないで欲しい。」という要望を行った(朝日新聞 2004)。一般的には、合併
の際に自らの市町村名を新市町村名に使用したいという要望は少なくない。し
かし、今回のように「新市町村名に使用しないで欲しい。」というケースは稀で
ある。今回の場合は、
「ブランドの拡散が危惧される」というこの町独自の特殊
な背景があるのだ。ブランドの拡散を恐れるとはどういうことか。これについ
て、由布院ではこれまで独自のまちづくりを行い、ここまで町を全国的に有名
にしてきたという経緯がある。一方で挾間町や庄内町は文化も異なり、由布院
19)大分郡は、湯布院町、挟間町、庄内町のほかに野津原町がある。当初は野津原町を含め
た 4 町で任意協議会を開いていたが、野津原町は合併についての住民アンケートを実施、
その結果大分郡ではなく大分市と合併することに決定した。また、
「大分県市町村合併推進
要綱」でも、同郡にあるなどの理由で 4 町での合併が推奨されていた。
20)最終的には 3 町それぞれで機能を分担させる分庁舎方式を採用した。
21)合併を進める町長に対し、合併についての住民投票の署名を行ったが否決された。この
ような経緯もあって、2005(平成 17)年 1 月に 3904 名(有権者数の約 41%)の町長解職を
請求するリコール署名が町選挙管理委員会に提出され、2 月にはリコールが成立し出直し
選挙が行われた。しかし、出直し選では旧町長が再選し、湯布院町は最終的に挟間・庄内
と合併することとなった。尚、合併反対派の人々は町長再選について「対抗馬の擁立が上
手く行かなかった。」と述べている。
- 23 -
のようなまちづくりを行っていない。そのような地域に「ゆふいん」の名称を
使用してほしくないし、観光客も(挟間や庄内も由布院なのかと)混同してし
まう、という意識があった(由布院温泉観光協会局長談)。また、ここでの「『由
布院』を連想させるもの」には、町名の「湯布院」や公募で一位となった「由
布」22) も含まれる。ここで、観光協会では「湯布院」より「由布院」を推奨し
ているのに、
「湯布院」を使用しないで欲しいというのは矛盾するのではないか
と思われるかもしれない。しかし、今回の場合は事実上「湯布院」がブランド
力を持たれていることから、外部的には「由布院」を髣髴させる地名のひとつ
だろうという認識の下反対していたのである。また、
「由布」については公募で
一位となった票数であるが、これは全国で公募した結果であり、新市名に不満
を抱いている声も実際は少なくない 23) 、という(由布院温泉観光局長・由布市
市議会議員談)。
こうした申し入れはあったが、結果的に公募一位ということもあり、2004(平
成 16)年 6 月に新市名として「由布市」が決定された。新市名候補選定小委員
会最終選定結果によると、選定理由について「3 町から仰ぎ見ることのできる
名峰由布岳を象徴とし、3 町の水源でもあることから新市の名称にふさわしい。
ゆふは全国ブランドでもあり人、物、地域の存在感をアピールする事もできる
名称である。」としている。因みにこの由布岳というのは旧湯布院町西部に存在
する標高 1,500m ほどの山のことである。この山は豊後富士という別名もあり、
古来歌枕にも使用されていた。現在も、観光ガイドブック等に山の写真が頻繁
に掲載され、町の景観の一端を担っている。図 2 や図 5・写真 1 も参照された
い。
これについて、新市名正式決定に先立つ 2004(平成 16)年 5 月末には「由布
市」に反対する町民 1,914 人分の署名(町内の有権者は 9,488 人)があった。
しかし、こうした申し入れは、合併そのものを潰す手段として市名問題を提起
している程度にしか受け止められなかった(湯布院町内に合併自体に反対する
声が多かったことは上記の通りである)24) 。そして最終的に協議会は 6 月に名
称を由布市に決定した。
このような抵抗があった一方で挾間町、庄内町では「由布市」について歓迎
傾向にあったようだ。理由としては、やはりブランド力をもった地名を使用で
22)響きが「由布院」と似ている。
16)年 5 月には「由布」を市名とすることに
対し 1,914 人分の署名を以て反対の申し入れが行われた。
24)由布市市議会議員談
23)(後の文章でも登場するが)2004(平成
- 24 -
きるということが大きい。特に挾間町では「ゆふブランドを生かしたい。」とい
う声が実際に協議の中で聞こえてきた。また、前述の通り挟間町内には「由布
川」という川が存在し、挟間町内には「由布川小学校」のような「由布」の文字
- 25 -
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を取り入れた公共施設もある。そういう点では必ずしも「由布」は挟間、庄内
にとっても縁遠いものではなかったかもしれない。
一方で、湯布院町内でも湯平では合併に対する反応は違っていた。湯平はも
ともと昭和の大合併時に合併問題で揺れた地域である。由布院町と合併したも
のの、繁栄する由布院とは違い湯平は中学校も廃校となり、議会も無くなり行
政が遠い存在となった。由布院まちづくり先駆者の方はこの状況について、
「湯
平は 50 年間主権のないままに過ごしてきた。」と表現されている。行政が遠の
いたことで思うように補助金が貰えないようになったが、このことでかえって
自主運営の意識が強まった。そこで、平成の大合併の時は「これまでの合併の
延長でしかない(現旅館経営者談)。」
「湯布院町が合併しても、これまで通り補
助金の増減と関係なくやっていける(湯平温泉観光協会会長談)。」という意識
が強かった。そして、合併自体も由布院と違い、
「合併已む無し」が大半であっ
た。寧ろ、湯平としては合併を契機に再び町を盛んにしたいという考えもあっ
たのである。また、由布院では一部で隣接する九重町との合併案も出たが、そ
れには湯平温泉観光協会では強く反対していた。九重町も温泉が多い町として
知られており、数ある温泉地の一つとして湯平が埋没してしまうことを恐れた
為であった。
(f) 今後の旧湯布院町
様々な論争があったものの、結果的に湯布院町は、挟間町、庄内町と 2005
(平成 17)年 10 月 1 日対等合併をし「由布市」となった。それと共に「湯布
院」という市町村名は由布市湯布院町○○のような大字の一部へと変化するこ
とになった。だが、ここで、由布市市議会議員の方は「湯布院」という名称を
使用する機会が減る可能性を示唆している。同氏によれば、
「これまでは行政単
位として『湯布院』が存在したので、まだ使用する機会もあった。しかし、今
回の合併で、『湯布院』は単なる大字の一部となった。こうなると、『湯布院』
という名称を使用する機会は減少するだろう。」と指摘している。確かに、現在
振興局が旧町村単位で活動しているものの、町域としての湯布院は無くなって
しまった。挟間・庄内にも湯布院町内の湯平のような自治体内での地域コミュ
ニティの存在があると考えると、
「由布院」や「湯平」は由布市内に数多く存在
する地区のうちの 2 つでしかない、という見方もできるようになる。そして、
行政以外で「湯布院」を使用するということは、これまでの使い分けを鑑みる
(地域
と「由布院」と「湯平」の二つの地域を総称する時が主である。しかし、
振興局が旧町単位で存在するものの)湯布院という町域が存在しない今、
「由布
- 28 -
院」「湯平」の 2 つの地域を取り上げるという機会は減少するかも知れない。
更に、観光協会でも「湯布院」でなく「由布院」を使用するようメディアに要
請しており、「湯布院」という名称は今後廃れていく可能性も持っている。
因みに、
「由布市」という名称については、インタビューの範囲では「愛着が
感じられない。」ということであった。上述のように大分郡 3 町はもともと地域
的繋がりが薄く、3 町を総称する「由布市」は未だ馴染まないという。また、
今でさえ湯布院と由布院が誤解され易い状況が生じているのに、音の似ている
「由布市」が入れば更に混乱する可能性もある。特に、住所表記を考えると「由
布市湯布院町○○にある由布院温泉」のように、特定の場所を示す時に 3 つの
地名が混在することも十分に考えられる。このことが、今後「由布市」の定着
を阻む要因になり得る。新たに成立した「由布市」が今後どのような道筋を辿
るのかということも興味深い所であろう。
3)まとめ・考察
今回のケースでは、市町村名とは別の生活地名の存在がはっきり示されるこ
ととなった。湯布院という同じ自治体であっても、
「由布院」と「湯平」では観
光協会も別であり、独自の生活圏を作り上げている。ここから、合併云々に関
わらず「由布院」や「湯平」は生活地名として親しまれ、逆に「湯布院」への
愛着は進まなかった。これが、由布院町、湯平村のままで行政区域が現在まで
存続していた(市町村名と生活地名が一致していた)とすれば、これら町村名
への愛着はかなり見られただろう。このことから、市町村の規模等によって市
町村名の重みが違うという事が示唆される。
また、
「湯布院」の愛着を阻害する要因として「合成地名」が挙げられた。
「2
つの地名の合成」という町名の由来が住民の間で意識されていたのだ。このこ
とは、生活地名への愛着もある中で、単なる合成地名では市町村名はなかなか
根付きにくいという事を示している。
そして、特徴的だったことは、生活地名に於けるブランド意識の存在である。
平成の大合併の項で記したとおり、由布市成立時に市名に関する論争が存在し
た。ここから、人々の「由布院」という地名に対するこだわりが窺われただろ
う。また、このこだわりには自らのまちづくりやブランド意識も含まれていた。
ここから、生活地名といってもブランド等が愛着に絡んで強化されることが示
唆されている。
現在「湯布院」は「由布市」の一部となったが、今後は「湯布院」と「由布」
の名称の展開が気になるところであろう。特に、
「由布」の場合は市域が生活圏
- 29 -
と一致せず、
「湯布院町」で起こっていたような生活地名と市町村名の乖離が繰
り返されることとなるかもしれない。由布院温泉観光協会でも、湯平温泉観光
協会でも、
「これからは市町村名ではなく自分たちの地域名を更にアピールして
いきたい。」という話があった。ここから、「由布市」が成立したことで却って
生活地名への愛着が強まるかもしれない。
Ⅳ. 新潟県上越市の事例
1)前書き
次に、新潟県上越市の事例を見てみたい。上越市は、今から 37 年前に合併し
て誕生した自治体である。だが、ここにきて一部の市民から「市名を変更して
欲しい」という要望が現れ、
「市名を考える市民の会」という市民団体が発足し
た。そこで、今回は市民団体の活動や考え方を通して上越市の事例について触
れてみたい。
2) 上越市の概要及び選定理由
(a)市勢
新潟県上越市は、1971(昭和 46)年 4 月 29 日に、城下町である高田市と、
直江津港を擁する直江津市という二つの異なる性格を持つ市が合併して成立し
た、遠隔合併型(片柳 1997)の都市である。当時の人口は 120,410 人、面積は
249.24 km²(1970 年時点 上越市史より)である。古くから交通の要衝として
栄え、北陸自動車道や上信越自動車道などが存在している。その後 30 年以上現
在の体制が維持されたが、2005(平成 17)年 1 月 1 日に上越市が東頸城郡安塚
町、浦川原村、大島村、牧村、中頸城郡柿崎町、大潟町、頸城村、吉川町、中
郷村、板倉町、清里村、三和村、西頸城郡名立町を編入し、現在に至る。また、
合併により現在の上越市は人口が 209,520 人、面積が 973.32 km²(2007 年 11
月 1 日現在)となっている(図 6)。この面積は旧上越市の 4 倍である。また人
口は旧 14 市町村を併せると、1985(昭和 60)年の 216,348 人をピークに減少
傾向にある。現在の地形は高田平野を中心に米山山地、東頸城丘陵、関田山脈
などの山々が取り囲んでいる。平野部、山間部、海岸部と多彩な地形を有して
いるが、田畑の面積が 21.5%と新潟県全体の 15.9%と比べ比較的高い。
(b)対象理由
最大の対象理由としては、現在に至り市名変更の要望の声があがり、
「市名を
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- 31 -
考える市民の会」が結成されているという事が挙げられる。近年近隣自治体を
編入したとはいえ、合併して数十年経過した自治体に直接このような運動が起
こるケースはあまり見られない。少なくとも、筆者が調査した時点では現在こ
のような形で運動が展開されつつある地域というのはこの地域のみであった。
ここから、
「上越市」という自治体名についての定着を探る手がかりが得られる
のではないかと考え、調査地に含めることとした。
また、
「上越」という名称自体も本来地元の人々が慣れ親しんだ地名ではない。
朝日新聞の記事(2007 年 10 月 27 日 新潟版)によると、
「上越」という名称は
この地域が「上越後」と呼ばれたことに由来している。しかし、これは江戸時
代に新潟県を「上・中・下」地域区分する時に上越後という名称を用いただけ
で、地元の人々の使用した地名ではなかった、と指摘している。また、この区
分で考えたとき、上越後エリアは上越のみをカバーしているわけではない。隣
接する糸魚川市なども上越後に分類される。このことから、「上越」は一種の広
域地名であると考えることもできる。
この他に、成立から 36 年(1971 年成立)と、適度に時間が経過していると
いうのも調査対象とした理由の一つである。
(c) 調査方法
今回は、旧湯布院町の場合と同様に 11 月下旬を目処に上越市に数泊し上越市
役所や「市名を考える市民の会」など各種団体にインタビューを行う予定であ
った。しかし、先方との都合が合わない等の事情で、インタビューから電話・
メールを通しての聞き取り調査に切り替えた。協力機関は以下の通り。
・「市名を考える市民の会」
・上越市役所
・地域新聞社 上越タイムス記者(「市名を考える市民の会」の報道に関わった
ということでご協力頂いた。但し、こちらで伺った内容は上越タイムス全体で
の見解ではなく、あくまで報道に関わった人々の感想や意見であるという事を
予め付け加えておく。)
本章では、これらの機関や既存の文献、新聞等の資料から得られた情報に加
え、
「市名を考える市民の会」で行われた公聴会からの市民の意見などを織り交
ぜながら、上越市の市名問題について取り上げてみたい。
- 32 -
3). 市名決定時の動き
(a) 名称決定時の流れ
それでは、
「上越市」という名称はどのように決定されたのであろうか。合併
に先立ち、1970(昭和 45)年 11 月に合併協議会はおよそ 530 の各種機関や団
体(自治会長・市議会・学校・労働団体・文化団体など)にアンケートを行っ
た結果、図 7 のような結果が出た。
この結果を踏まえ、合併協議会では新市名として「上越市」を採用した。また、
この時一般への公募アンケートというものは行われなかった。市民の会によれ
ば、
「当時、青年会議所を中心に合併がすすめられ、その反対運動も活発になっ
ており行政は一般市民に問える状況になかったと思われる」とのことだった。
(b) 上越市という市名の由来
協議会によると、
「上越」は、米山以南を指す「上越後」を語源とする(歴史
的にも問題のない)地名であるとしている。しかし、先述の通り江戸時代に役
人が使用しただけの地元では馴染みのない地名という見方がある。現在「市名
を考える市民の会」は、市名について「『上越』と使われだしたのは明治時代に
廃藩置県になり新潟市に新潟県庁がおかれ、役人が地域区分名として新潟県を
4区分し『上越』『中越』『下越』『佐渡』としたことが始まり。」という見解を
立て、地元の人々が親しんで使用していた言葉ではないと指摘している。
それでは市名改変運動が現在になり行われている背景について、次章で踏み
込んで市民の会の活動と併せて記述する。
4) 市名への反対要因
(a) 上越市成立時からの不満
上越市という市名決定の流れは先に記述したとおりである。しかし、この時
住民を含めた深い協議をされることなく市名が決定された、と不満の声があっ
た。例えば、上越市決定時に 500 以上の団体に新市名募集アンケートを要請し
そのうち 220 団体の回答しかない中で上越市が決定されたことに対して反発の
声 25) がある。また、討論会参加者の声(60 代無職)によると、
「当時は、合併
反対の声も根強く、行政は一般市民に市名を問えるような状況に無かったと思
われる(抜粋)。」ということであり、見識者などに相談も無く性急に決定され
たと見る人もいる。
25)ここでの声とは、
「市名を考える市民の会」からの意見。
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更に、「市名を考える市民の会」によれば、「上越地方」として本来糸魚川市
などを含む新潟県南東部地域全体を表す名称を、さも高田・直江津を表すものと
して適当な地名(前項参照)であると説明されたことに対する不満が大きい、
としている。
「市名を考える市民の会」でも、市名の由来について文献を集めて
いる時、上越市を「歴史地名まがい」としている書物 26) があり、歴史性に乏し
いという確信を得たという声が聞かれる。このことへの反発も、現在の市名反
対運動の主要な原動力の一つとなっている。
(b) 地名の混同
「上越」という市名について、JR上越線や上越新幹線との混同を危惧する声
もある。これらの路線は、一見すると「上越市」の語源である「上越後」を由来
とするものと見えるが、実はそうではない。「上野(群馬県)の『上』」と「越
後(新潟県)の『越』」を組み合わせた形での「上越」が由来となっている。つ
まり、同じ「上越」ではあるが「上越市」とは指す意味・地域が違っている。実
際、これらの路線は新潟県でも長岡市や新潟市方向に延伸し、上越市内は経由
していない(図 8)。この混同については、上越市成立当初から指摘 27) する声
もあった。市民の間でも混同の不便さを感じ、ここから上越市という市名自体
に不満を持つ声も現れているという(「市名を考える市民の会」)。「市名を考え
る市民の会」でも、この混同される面に対し「(他の地区と間違われないような)
機能性に欠けている」とし、上越市の変更を検討する一理由としている。
更に、現在その混同が原因で新たな問題が起こっている。それは、北陸新幹
線の新駅問題である。2014 年度に北陸新幹線が開通予定であり、上越市内に新
駅が建設される計画である。そして、現在の仮称は「上越駅」となっている。
だが、仮に「上越駅」となった場合混乱が起こる可能性がある。というのも、現
在「上越線」や「上越新幹線」という線が存在するからである(表 2)このよ
うな状況の中で「上越駅」が新設されると、外部の人々にとって混同を招きかね
ない。実際この点からも「上越市」に対する否定的な意見がある。市民の会は、
新幹線新駅の名称も同時に検討する姿勢である。
新駅問題については、混同だけでなく隣接する妙高市との絡みもある。妙高
26)楠原佑介
『こんな市名はもういらない!』(2003)(東京堂出版)
1920(大正 9)年から(上越北線・上越南線として)徐々に開通し 1931
(昭和 6)年に全線開通した、上越市(1971 年)より古い時代から存在していた線路であ
る。対する上越新幹線は 1982(昭和 57)年に開通したが、1971(昭和 46)年の時点で既
に着工の段階にあった。
27)上越線自体は
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市は、2005(平成 17)年 4 月 1 日に新井市が中頸城郡妙高村、妙高高原町を
編入、市町村名を「妙高」と改称して成立した自治体である。この「妙高」に
ついては全国的に比較的知名度の高い名称であり、市名を変更したのも、ブラ
ンドアピールができるという意図が強い。しかし、この妙高市の成立によって、
新幹線の新駅を、
「『上越』ではなくブランド力の強い『妙高』にしてはどうか」
という声が一部で持ち上がっているのである。方や、上越市は「上越線とも間
違われ易くブランドアピールには不適当」とする向きもある。そこで、市名変
更をきっかけとして新たなブランド力を将来的に持つような自治体として盛り
上げたい、という意識や危機感が高まり、市名変更への勢いとなったようだ。
これとは別に、2007(平成 19)年 7 月に上越市が市のPR事業の一環として
首都圏の人々に位置を含む市の認知度調査を行っている 28) 。これによると、上
越市自体の認知率(上越市という市名を知っているか否か)は 93%であった 29)
30) 。しかし、位置の認知率はこれに対し
24.6%に留まっており、この結果を上
越市は位置を含む認知度が低いと見なしている。また市は「(合併以前の)高田、
直江津のイメージがまだ残っている面もあるかもしれない。」「上越新幹線沿線
のまちと誤解している人が多いのでは。」としている。この結果も、上越市とい
う市名ではなかなか首都圏の人から理解されない、ということで後述する「市
名を考える市民の会」の後押しとなっている。
(c) 13 町村の編入
上記のような要因が上越市成立時から内在していたが、上越市が 2005(平成
17)年 1 月 1 日に近隣 13 町村を編入したことにより、新たな要因が発生する
こととなった。それは、編入合併後の名称の協議である。上述の通り、13 町村
編入後も上越市は市名が存続することとなった。だが、上越市の場合は編入形
式の合併ということもあり、名称については合併協議会で協議はされたものの
上越市では、2007 年が浄土真宗の開祖親鸞聖人が当市に赴いてから 800 年を迎える
節目の年であることや、上越市にゆかりのある上杉謙信公の登場する NHK 大河ドラマ「風
林火山」が放映されたことなどから、2007 年(から翌年 3 月まで)を「上越市ふるさと
アピール年間」としている。本項のアンケート調査はその一環として情報発信の効果を把
握する為に行われたものである。別に「市名を考える市民の会」と連動して調査を行った
わけではない。
29)2007(平成 19)年7月 13~15 日の 3 日間に東京都、神奈川、埼玉、千葉の 1 都 3 県
の在住者を対象に、インターネット上で実施し、1000 人から回答を得た(新潟観光特報よ
り)。位置に関する認知度調査については、地名のない県内の地図上に上越市、新潟市、湯
沢町周辺、村上市周辺の 4 地点を示し、上越市の位置を答えてもらうという手法をとった。
30)「市の名前は聞いたような気がする」という不確実認知者 22.0%を含む。
28)
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決定権は協議会に付託されず不十分な議論に終始してしまった。しかし、もと
もと住民の間に馴染みのあった旧市町村名が活発に議論されること無く失われ
てしまったことへの抵抗感は少なくない。また、後述する市民を考える市民の
会の趣意書を見ると、「『上越市』は(『高田』『直江津』という 2 つの同規模の
市町村名があったことから)市名問題で協議会の破綻が懸念され、名称問題を
スムーズに進めるため(中立的な名称である)『上越』が採用された。しかし、
上越市が新たに 13 町村と合併した今となっては、高田と直江津の合併をスム
ーズに進めるという役目は終わり、新たな名称を考え直すべきであった(一部
省略)。」としている。
上越市の場合、編入合併では一つの自治体が他の自治体を組み込む形である
ことから、名称は変更されない場合が多い。しかし、隣接する妙高市(旧新井
市)では、上越市と同じような形(新井市が中頸城郡妙高村、妙高高原町を編
入)での編入合併があったにもかかわらず名称が「妙高」と変更された。これ
は、
「妙高」ブランドを生かすため、協議をスムーズに進めるため、というのが
主な見方だが、上越サイドでは「『新井』が名称を変更したのに何故『上越』で
は十分な協議が行われないのか。」という向きが現れた可能性がある。
5) 「市名を考える市民の会」の活動
(a) 活動に至る経緯
2007(平成 19)年 2 月 18 日に、市内で「上越市」という市名を検証し、市名
変更を検討しようという「市名を考える市民の会」が仮発足、同年 7 月 27 日
に正式に発足し現在活動を行っている。しかし、実際に活動に至った経緯は何
なのだろうか。何故今の時期に発足することとなったのだろうか。
「市名を考える市民の会」の成り立ちを考えた時に、
「住民自治と合併問題を
考える会」というものが関わってくる。この組織は 2002(平成 14)年 3 月 24
日に「市町村合併をどう考えるか」という講演会をきっかけにして発足した団
体である。同団体代表の方は、この会について「行政主導で急展開する市町村
合併議論について、情報の収集・学習・意見交流と情報の発信ができる住民組織
の必要性を感じ、呼びかけ人の一人となって発足に加わった(一部抜粋)。」と
述べられている。この組織は、上越市が周辺 13 自治体との合併協議を行い合
併に至る中で独自に合併問題についてのシンポジウムや意見交換会を行ってい
たが、その中で市名についての意見が出された。正確には 2005(平成 17)年
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5 月 27 日の定例会にて、上越市が 13 町村を編入した 31) が、新市町村名が強く
協議されることも無く決定されたことへの不満から、「14 市町村の住民の意思
が反映されていない。」という意見が挙がり、市名問題を取り上げることが提案
された。その後「住民自治と合併問題を考える会」の会でも検討、他の市民団
体 32) と協議などがなされるようになった。更に 2006(平成 18)年 7 月には、
市名検討活動に賛同を貰う為の「賛同署名」を集める動きになり、その為の趣
意書「上越市という名称の変更を考えてみませんか」(図 9) を作成するに至
った。また、それと前後する形で、
「上越市」という市名の由来などを調査した
結果、市内の児童文学作家に上越市成立当時から市名に不満を抱いている人が
いることが明らかになった。その方は自らの随筆集『花のある小路』(1974 年
発行)の中で「私は『上越市』に住みたくない」という題で上越市成立当初か
ら市名に異議 33)を唱えていた。そこで、その方に賛同者になってもらう等をし、
市名変更の論議に弾みがつき運動が広がっていった。この他にも徐々に地元新
聞が市名検討の動きに注目したことで更に活動が盛んになり、新たに「市名を
考える市民の会」を結成するに至ったのである。
ここで、もう一度結成の経緯について整理すると、発足の大きなきっかけは
13 町村編入時の不満であった。しかし、それ以前から前述のような要因で一部
の人々の間で上越市という市名に対する不満を抱く声があった。そこに、13 町
村編入という新たな要因が契機となり、先の要因と絡まって相乗し「市名を考
える市民の会」発足に至ったというのが大きな背景のようである。
但し、
「住民自治と合併問題を考える会」の会と「市名を考える市民の会」は
現在では一続きの組織ということではないという事を再度強調しておきたい。
構成員も 2 組織では異なっており、目的も市民の会では純粋に市名を考えるも
のとなっている。
(b) 現在の活動
「市名を考える市民の会」は現在、説明会や広報誌の発行など様々な形で広
報活動や意見の汲みいれなどを行っている。特に、2007(平成 19)年 10 月 28
13 町村を編入している。2005(平成 17)年 1 月 1 日に編
入が行われていた。
32)「くびき野地域問題研究会」と「上越市まちづくり市民大学 OB 会」
33)「市民が不在のまま名称を決定された」
「上越市が上越線沿線の町と誤解される可能性
「(文学人の立場から)
『上越』という名称は字面、発音
のある機能性に乏しい名称である」
などの面で美しくない」という 3 点を中心として異議を唱えている。
31)この時点で、上越市は既に
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「住民自治と合併問題 会報 No.4」(2006 年 9 月 27 日)より抜粋
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日には公開討論会 34) も行われ、様々な人々と対話を積極的に行っている。現在
「市名を考える市民の会」会員は 19 名(うち 4 名は討論会での参加)。現在も
会員を柔軟に募集している。年齢層は 50~70 歳であり、多くは上越市成立時
から市名にわだかまりを感じていた人々である。職業は自営業、会社員、主婦、
美術家などである。更に、検討・賛同者は約 50 人ということである。
それと同時に「住民自治と合併問題を考える会」でも 11 月 10 日から 1 ヶ月
の期間で第二回「合併後の住民意識調査」を実施中である。その中で市名意識調
査と北陸新幹線新駅名の意向調査も併せて行っている。残念ながら今回の調査
時点では結果内容を得ることが出来なかったが、今後の市名を考える中でも興
味深いものとなるだろう。
「市名を考える市民の会」は、現在はまだ小規模の団体である。しかし、2007
(平成 19)年春頃から地元新聞でも取り上げられるようになり、俄かにその存
在は注目を浴びつつある。新幹線新駅問題とも絡み、今後更に活動が本格的に
なるものと思われる。
「市名を考える市民の会」では、新駅問題とも絡めて更に
活動を活発化させたいとしている。
また、上越市に代わる名称案は現在検討中の段階にある。これまでに「春日
山市」「くびき野市」等の名が挙がっている。「春日山」については、旧上越市
の高田、直江津エリアの丁度中間に位置し、加えて上杉謙信の居城ともなった
地である。また、
「くびき野」については、編入エリアを加えてこの近辺が「頸
城」と呼ばれていたことに因む。
6) 今後の展望と考察
以上のような形で、「市名を考える市民の会」の活動が展開されつつある。
現在の段階では、未だ市名変更の機運が市民全体に広がっているとまでは言
えず、活動は発展途上の段階にある。参加者の多くは、上越市成立時に不満を
抱いていたり、
(文化人などで)地名の歴史性に敏感であったり、まちづくり意
識が強く、
「市名」も今後のまちづくりを考える上で重要、としている人々が多
い。対して、これらの要因を持ち合わせていない人々からすれば、市名変更に
関心がない場合も少なくない。現に、討論会でも、
「上越市という市名に慣れて
34)公開討論会では、意見発表と自由討論及び意見交換会が行われた。当初は上越市行政側
や地名の歴史性に拘りのある文化人を交えての討論会にするつもりであったが、調整が難
航し市民同士の自由討論という形に切り替えたという。上越市内で行われ、規模は大きく
ないが 30 人の人々が集まった。
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しまった。」という声や、
「市名変更となれば新たに費用がかかる 35) 特に、若い
世代は上越市成立時のわだかまりを直接実感しておらず、生まれた時から「上
越」の名前がある程度浸透しており、関心の低い人々も多いという。また、上
越という市名に不満は持っているが、それに代わる市町村名が今現在決まって
いないという弱みもある 36) 。候補はいくつか挙げられているが、現在の所なか
なか住民感情にしっくりくる名前の提案が見つからないのが現状のようである。
しかし、今回のケースでは、一部ではあるが「位置を明確にする機能性」や
「愛着の持てるような歴史性のある名前」という観点から市名を考える動きが
出現していることを示すものである。このことは、市町村名より生活地名を重
視していた湯布院町のケースとはまた異なった形での名称のこだわりと見るこ
ともできる。つまり、上越市の場合行政区域である市町村名についても愛着を
住民が持てるものにしたいという動きが一部では働いているのだ。更に、ここ
には愛着のみならず市名の将来的なブランド化やまちづくりへの意志も働いて
いた。また、湯布院町との差は、湯布院町が地域毎に分かれてまちづくりを目
指していたことに対し、上越市の「市名を考える市民の会」では、市全体のまち
づくりを視野に入れていたことが大きな要因として考えられる。
また、上越タイムス記者は新幹線の新駅問題を考えると、今後上越市の政策
論争になる可能性もある、という事を指摘している。特に、妙高市の誕生につ
いては、ブランド面から考えても興味深い。今後新幹線新駅で「妙高の名を入
れて欲しい」という声が高まるようなら、市名が今後の市政を考える上で重要
なポイントとなり得る。そうすればもともと市名変更に関心を持たなかった
人々を含めて議論となる場合も考えられるのだ。上越市側も、市名変更につい
ては完全に視野の外にあるわけではない。市名変更の動きが住民の間で高まる
ようであれば市名変更の検討も視野に入れるという姿勢をとっている。今後の
流れも注目される所である。
13 町村編入の時、まず 13 町村内で合併し将来的に上越市と合併するか、一気
に上越市と合併するか 2 つの論があった。しかし、最終的に全て上越市と合併することに
なったのは、合併のたびに市名表記が変更になり、費用と労力が必要、という事情もあっ
た。こういう背景からも市名変更による負担に抵抗を感じる人も存在する(上越タイムス
より)
36)高田、直江津という名称は、先ず力関係の対等な合併自治体のどちらかの名称であり使
用するのは困難という認識がある。加えて、今回更に多くの地域を編入したことにより、
新上越市全体をカバーできるような名称が必要という声もある。
35)上越市
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Ⅴ 旧美方町の調査結果
1)旧美方町(現小代区)の概要及び選定理由
(a)旧美方町の概要
旧美方町(図 10)は、兵庫県北西部に位置する 2005(平成 17)年 3 月 31
日まで存続した美方郡内の自治体であり、現在の香美町内の地域自治区である
「小代(おじろ)区」を指す。標高 1000 メートル級の山が周囲を取り囲み、
町域の 80%以上は山地である。水稲や高原野菜、肉牛飼育が盛んである。冬に
は 2m ほど積雪があることもあり、町内にはスキー場が点在している。人口は、
2,640 人、面積 66.16km²(平成 12 年 10 月 1 日 国勢調査)であり、規模は比
較的小さい。区内には小学校と中学校が一つずつ存在し、それぞれ「小代小学
校」「小代中学校」という名称で呼ばれている。
次に、旧美方町の変遷について整理して述べてみたい。旧美方町は 1889(明
治 22)年の町村制施行時に小代村として成立した。その後、1955(昭和 30)
年 4 月に隣村である射添(いそう)村と合併し「美方町」が成立する。しかし、
庁舎の位置を射添村域内に変更するか否かで旧村同士が対立し 1961(昭和 36)
年 4 月に旧射添村は美方町から分離、村岡町に編入される。この時点で旧小代
村域のみが美方町を形成することになり、その後 44 年間その体制が維持され
る。しかし、2005(平成 17)年 4 月になり、美方町は近隣自治体である美方
郡村岡町、城崎郡香住町と合併し、新自治体である「香美町」の一部となる。
この香美町は地域自治区 37)制を採用し、旧自治体はそれぞれ香美町内の地域自
治区となった。この中で、旧美方町は名称を変更し「小代区」となり、地域自
治区として存在することになり現在に至っている。図 11 に変遷を図で示して
あるので、そちらも参照されたい。
(b) 小代・美方の由来
「美方」という地名は「美方郡」という郡名を市町村名として採用した、一
種の広域地名である。美方郡は、旧村岡町、旧浜坂町 38) 、などが含まれ、本来
202 条に定められる規定である。住民自治を強化する観点か
ら作られた制度で、各市町村が独自の判断で設置することができる。その機能としては、
特別職の区長を設置することができる、住所表示時に区の名称を、
「○○区」などの形で表
示することができる、等である。また、諮問機関として地域協議会を設置することもでき
る。
38)旧村岡町は現香美町、旧浜坂町は現新温泉町である。現在は香美町、新温泉町の 2 町が
美方郡を構成している。
37)地域自治区は地方自治法
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旧美方町のみを指す地名ではない 39) 40) 。これが、射添村との合併の際に広域地
「小代」という名
名として「美方」を採用することとなった。これと比較して、
称は古くから使われている。平安時代には郷名「小代郷」が存在し、これが中
世には小代庄と推移し小代村と至ったと考えられている。
(c) 対象とした理由・調査方法
この地域の名称における最も特徴的な事柄として、香美町成立時の「小代区」
の命名が挙げられる。一般的には、合併等で地域自治区を設置し住所表記に区
を使用する場合、旧市町村名を使用することが多い。他の香美町を構成する自
治体である村岡町、香住町も現在では「村岡区」、「香住区」と旧市町村名を使
用している。しかし、小代区では旧名の「美方」が区名として採用されること
は無かった。地域自治区を採用する時、町側が区名アンケートを実施し、その
結果旧名である「小代」を区名として使用することになったのである。
そして、
(b)で述べたように、
「小代」は古くからこの地域を指す言葉であっ
たのに対し、「美方」という町名は広域地名である。
この経緯を鑑みると、次のような可能性が出てくる。小代村は昭和の大合併
時に美方町として成立したが、広域地名でもともとの名称ではない「美方」よ
り、小代という地域名が使用され続けた。その中で、香美町の成立、地域自治
区の設置を契機にもともとの名称である「小代」を使用することとした。つま
り、美方という広域地名は住民の間であまり馴染まなかった(市町村名が定着
しない事例となる)という可能性を指摘できる。そこで、小代区(正確には旧
美方町の「美方」という市町村名)を調査対象とすることとした。
尚、今回の協力機関は小代地域局である。行政機関に区名アンケートを行っ
た経緯を中心に話を伺い、それを手がかりとすることとした。
39)城崎郡香住町が美方郡村岡町、美方町と合併し美方郡香美町となったことで、現在の美
方郡の領域は更に広がっている。このように市町村合併等で郡の領域が変わることは往々
にして有り得る。しかし、これを考慮しても「美方」は旧美方町だけを指す言葉ではない。
40)更に元を辿ると、美方郡も「二方郡」
「七美郡」に分けられる。美方郡はこれら 2 郡が
1896(明治 29)年 4 月 1 日に合併したことにより成立した。
「美方」という名称も「二方」
と「七美」の合成である。そして当時小代村と射添村は、七美郡に属している。このこと
から、厳密に言えば小代村と射添村は「美方町」のうち「美」には属していても「方」に
は属していないことになり、この意味でも「美方」は適切でない。但し、この論文ではも
ともと主に昭和の大合併前後までの出来事を対象としている上、今回の調査でも 2 郡と町
名の定着との関連性は浮上しなかった。そこで、2 郡への言及はここまでとし、「美方町」
は広域地名という記述に留めておくこととする。
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2) 調査結果、考察
(a) アンケートに至った経緯
まず、アンケートが行われるきっかけであるが、結論を先に述べると、アン
ケートは当時の町長側の提唱によるものであった。当時、旧美方町では「小代
「小代中学校」
(写真 2)など住民にとって身近な(学校・郵便局など)
小学校」
多くの施設が「美方」とならず「小代」のまま存続していた。そして、住民に
とって「小代」という名称が身近であり続けるという状態であった。つまり「小
代」は住民の間で生活地名として存続していた。また、生まれた時から町名が
「小代」
「美方」であった若い世代についても、小中学校が「小代」であった為、
という名称が浸透し続けていた。今回インタビューに応じてくださった小代地
域局局長も「私も美方町という自治体が生まれた後にこの町で育ったが小代に
は全く抵抗がない。」と話されていた。
このような状態の中、香美町が成立、地域自治区が設置されることになり、
行政内部で「この際だから 41) 小代と美方のどちらがよいかアンケートをとろ
う。」という機運が生じたのである。但し、これまでに特段地名に対する住民運
動が起こったり、地域自治区を設置する際に住民からの直接の要望があったり
した訳ではない。また、
「小代」という名前を使用して町づくりなどのブランド
的戦略も有していなかったようだ 42) 。
(b) アンケートの結果・住民の反応
表 3、図 12 にある通りである。ただ、一世帯ごとの統計ということで年代層
など詳細を記すことができなかった。本来は詳細なデータを付すべきであろう
が、年代層、投票率等の詳細なデータが役場でも残っていないということで入
手出来なかった。
とにかく、この数を見る限りでは「美方」を望む人も少なからず存在したと
いう事が窺える。しかし、局長によれば「小代」に決まった所で反対運動など
は起こらなかったとのことである。地域協議会でも地名改称の協議はスムーズ
41)通常地名の変更には住所表記の変更が必要となり費用がかかる。その面からしばしば地
名変更に反対の声が挙がることがある(上越市のケースでも費用面から市町村名変更に消
極的なケースが見られた)。しかし、旧美方町の場合では、地名変更をしなくとも合併によ
り住所表記は変わるので、アンケートという機運を後押ししたものと推察される。
42) 仮に、
「小代」という名称が全国的に名の通った地名であるとすれば、
「美方」より「小
代」の方が観光の面からもアピールし易くなる。しかし、今回は特段そういう意味で「小
代」を使用したのではないとのことだった。上越市の場合は将来的なブランドの確立を見
据えての変更運動だったが、今回はこれと異なる。
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写真 2
小代中学校の看板(2007 年 9 月 14 日
小代区内にて筆者撮影)
表 3 小代区における新区名アンケートの結果(2004 年 9 月 広報みかた)
1
小代
284 票
2
美方
219 票
3
その他(美幸、香美、美流 等) 9 票
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に決まり論争は無かった。強いて言えば、美方食堂や美方スノーパークなど、
「美方」を冠する施設などは商業面からやや不満を抱く声もあった。現在の状
況は、局長によると「小代区成立から 3 年経ち皆馴染んでいるようだ。」との
ことである。
(c) 小代区内の施設名について
以上から、小代区では町内施設が地名の定着に大きく関わっていることが分
かった。そこで、施設名関係の事情について局長から更に話を伺い探求するこ
ととした。
まず、一つ疑問として美方町成立時に小学校などの施設名が何故変更になら
なかったのか、ということが出てくる。例えば、現在存在する「小代小学校」
が美方町成立の段階で「美方小学校」などに変更されるという可能性もあった。
そこで、局長にその点を伺ってみたところ、あくまで局長の推測であるが、次
のような事情が浮かび上がってきた。
当時、小代村域には小北小学校、小代小学校、小南小学校という 3 つの小学
校があった。そこで、1校だけならまだしも、一気に 3 校の小学校の校名を変
えるというのは手間と費用がかかる。故に、校名を変える機運が起こらずその
ままになった。因みにこれらの小学校は 1967(昭和 42)年に統合し現在では
「小代小学校」一校のみとなっている。他の施設についても、局長は「恐らく
郵便局についても当時は町内に複数存在し、全てを一気に変更する機運が起こ
らなかったのだろう。」と述べられている。
また、美方町成立後に作られた施設に着目すると、
「美方」だけでなく「小代」
が使用されているものも少なくない。例えば、現在「小代物産館」という施設
が存在するが、これは 1990(平成 2)年に建設されたものである。この名称は
担当者と町長の協議により「小代」を冠することに決定した。そして、特徴的
なのは「温泉保養館おじろん」である。こちらも 1992(平成 4)年に建設され
た ものであるが、この名称は協議ではなく住民アンケートにより決定された
(「小代」に因んだ名称を望む声が最も多かった)。具体的な票数までは確認で
きなかったが、このことは住民の間で「小代」が使用されていることを端的に
示す現象である。
3) 考察
美方町の場合では先 2 例とはまた違った形での生活地名と市町村名のずれ
が窺われた。まず、美方町成立後に住民にとって身近な施設が「小代」のまま
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存続しており、
「小代」が生活地名として存続していた背景が窺える。美方町は
(a)でも記したとおり比較的行政規模の小さい町である。射添村と一旦合併
したものの分離し、明治期に成立した小代村の行政区域そのままで 2005 年ま
で存続していた。観光協会や学校施設も町内で一つであり、湯布院町のように
町内の複数の地域が独立してまちづくりを行っているというわけではなかった。
故に、湯布院町の例と比べると比較的一町でまとまりのある地域であった可能
性がある。明治期から行政区域が存続していたことから、寧ろ湯布院町の「由
布院」「湯平」の感覚に近かったかもしれない。ここから、「小代」という生活
地名が美方町内全域で成り立っていた可能性が出てくる。つまり、
「湯布院」と
いう行政区域の中で「湯平」
「由布院」のような生活地名が存在しているのと比
べ、
「美方」という行政区域と「小代」という生活地名がほぼ等記号で結ばれる
図式が示唆されるのである。しかも、美方町の場合は行政区域と生活地名の区
域がほぼ同一でありながら、市町村名と生活地名が一致していなかった。これ
は、先述の通り住民にとって身近な施設が「小代」であり続けたために「小代」
が存続したという事情がある。仮にこれらの施設を全て「美方」と改名してい
れば、
「美方」の定着は強まった可能性もある。また、私は当初「美方」から「小
代」に表記が変更された理由として郡名との混同や広域地名への抵抗を考えて
いた。しかし、局長の話では「郡名と同じだから困ったという事はない。寧ろ、
郡名と同じなことで住所表記のときに分かりやすい。」と述べられていた。
香美町成立で住所表記が「小代」となったのは、町域が拡大する中で潜在的
な生活地名が表出したという背景があった。だが、今後の町名に対する愛着は
どうなるだろうか。香美町成立によって町域が山林地帯である小代区から日本
海に面した香住区まで町域が広がった。それとともに、湯布院と同様市町村名
より「小代」が強調される可能性もある。今後の町名の定着も興味深いところ
である。
Ⅵ 三つの事例のまとめ
さて、これまで 3 つの事例を挙げ、市町村名の定着と生活地名との関係につ
いて論じてみた。ここで、事例から得られた市町村名の定着に関する示唆をも
う一度ここで整理し更なる考察を加えてみたい。
①地域毎の独立意識
今回の 3 つのケースでは、生活地名と市町村名の関係についてそれぞれ異な
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った状況が明らかになった。これには、自治体の規模や地域の独立意識の程度
の差によるものも大きい。旧湯布院町では、物理的な生活圏の違いもあり、独
自で観光協会を有しまちづくりを進めている。そこから、町名より自分達の住
んでいる生活地名により愛着を感じる傾向にあることが明らかになった。これ
に対し上越市「市名を考える市民の会」の場合は市町村名に重点を置き、市名
を愛着の持てるようなものにしていこうという動きがあった。これには、
「市名
を考える市民の会」が上越市全体でのまちづくり意識を有している背景が考え
られる。上越市の場合、湯布院町と同じく性格の違う町同士の合併が昭和期に
行われていた。だが、湯布院町は平成期に生活圏の異なる地域と合併したのに
対し、上越市では近隣町村を編入したという違いがある。これらの町村は、大
まかには上越市を核とした地域であり、
(上越市と合併するか、近隣町村だけで
合併して将来的に上越市との合併を考えるかという違いがあったものの)
「生活
圏の違い」が大きな合併の論点となることはなかった。ここから、全体を通し
てまちづくりを行いたいという意識も生まれた可能性がある。更に言及すれば、
43湯布院町は「由布院」などの地域コミュニティとして活動していたのに対
し、上越市では市全体を一種の大きな地域コミュニティとして活動しようとし
ていたと捉えるという見方も出来るかもしれない。そして市名をそのコミュニ
ティの生活地名となるようなものとして改変しようとしたと考えることもでき
るだろう。
②公共施設の名称
そして、公共施設の名称が生活地名と市町村名のずれに影響を与えているこ
とが分かった。住民にとって身近な施設の地名は往々にして生活地名となり得
る。特に、小代区の場合、多くの公共施設が「小代」を使用し続けていたため
に、仮令若い世代であっても「小代」は身近な存在となり、生活地名として成
り立っていた。美方町は比較的規模の小さい自治体にもかかわらず生活地名(小
代)と市町村名(美方)が異なっていたのはこのためである。また、旧湯布院
町の場合でも、町にとって身近な施設が少なからず「由布院」
「湯平」を使用し
ていたことが両市町村名存続の一因であった。
③市町村名の由来
そして、湯布院町の場合は合成地名という地名の成り立ちも市町村名に影響
を与えることが分かった。市町村名の由来が合成地名であるか、広域地名であ
るか、などはなかなか町外の人にとっては分かりにくく、ともすれば古来より
- 52 -
の名称として受け止められかねない。しかし、町内の人々には、その由来が意
識されている場合もあるのだ。特に湯布院町の場合は町名の成り立ち(合成地
名)をインフォーマントの方々全てが意識していた。今回は合成地名であった
が、方角地名などでも同様のケースが見られるかもしれない。いずれにせよ、
単純に市町村名を合成して必ずしも住民の間で定着するわけではないことが明
らかになった。また、市町村名について考える時、湯布院町のケースのような
外と内のギャップの可能性について考慮することが必要となるだろう。
④市町村名の機能性
上越市のケースでは、
(他の場所と混同される可能性があるといった)機能性
の問題からも変更運動が行われていることがわかった。既存の名高い地名にあ
やかりたいという意志等で市町村名に広域地名をつける自治体もあるが、将来
的な町のブランド化を考えるときなどは必ずしも広域地名などは有利ではない。
地域を正確に表象できる地名かどうか、という点も市町村名の定着に関わって
いることが明らかになった。
⑤まちづくりやブランドとの関係
市町村名、生活地名いずれをとってもブランド意識が愛着とは別に地名への
こだわりを深める要因になっていることが分かった。そして、このブランド意
識はまちづくりへの志向と密接にかかわりあっている。例えば、対外的に町を
アピールしようとする場合、名称は重要な要因になる。今回の調査でも住民の
市町村名や生活地名への拘りが窺えた。湯布院町の場合では地域コミュニティ
毎にまちづくりが行われており、それぞれ生活地名への愛着がある。特に、
「由
布院」では活発にまちづくり運動が行われ、
「由布院」という地名がブランドを
持つようになるまでに成長した。ここから、地名へのこだわりも強くなり、由
布市の新市名問題にまで発展した。これに対し、上越市では将来的な地名のブ
ランド化を見据えながらの市名変更運動が行われている。これは、何もブラン
ド意識が既にブランド化した地名だけに起こるものではないということを示し
ている。
Ⅶ おわりに
今回は調査地を複数選定し調査を行ったが、それぞれ地域特有の事情が浮か
び上がってきた。特に、冒頭でも紹介したように、調査の段階で生活地名との
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ずれが市町村名の定着に関わってくることが明らかになった。湯布院町の場合
では、生活地名へのこだわりが強く、その分市町村名には関心が払われにくい
という状況があった。美方町の場合は「小代」が生活地名として潜在的に残り
続け、平成の大合併において市町村名である「美方」から「小代」へと住所表
記を変更することとなった。上越市の場合は、具体的な生活地名への言及はな
かったが、市町村名を住民全体から親しまれるようなものに変更し、生活地名
のように愛着の持てるようなものにしてまちづくりを行おうという面もあった。
これらは、表出の違いはあるが、生活地名と市町村名の間にずれが起こってい
ることが窺える。そして、このずれが発生した場合、市町村名定着の妨げとな
るのだ。
市町村名にしても「時間が経てば馴染んでくるはず。」と考える声がある。し
かし、今回の調査では必ずしも人工的な市町村名が馴染むものではないという
ことが分かった。旧湯布院町の場合は住民の多くが町名を旧自治体の合成と認
識し、定着を妨げる要因となった。また、上越市の場合でも、住民が不在のま
ま市名が決定されたことに対し一部の住民の間ではしこりが残り続け、市名変
更運動の要因のひとつとなっていた。このことが、市町村名の生活地名とのず
れを強めさせる一因にもなる。
また、行政規模、まちづくり意識、ブランドなど、自治体によって市町村名
を巡る状況は異なっている。冒頭で示したような現在市町村名に関する論議が
盛んに行われているが、地域の状況を把握することもこの問題に対処するにあ
たっては欠かせないだろう。例えば、市町村名より地域内の生活地名が強調さ
れている地域もある。このような状況を考慮しなければ、市町村名の適正さに
ついての論議が深まらないだろう 43) 。また、平成の大合併では新たに様々な自
治体と市町村名が誕生することとなった。しかし、これにより市町村名と生活
地名の関係がまた変更される可能性もある。例えば、湯布院町では行政単位が
由布市と拡大したことで、逆に生活地名が強調される可能性が出てきた。今後
も市町村名の定着に関する動きが注目される所であろう。
43)生活地名の存在を考慮に入れた場合、また違った切り口からの議論が可能であろう。例
えば、生活地名に重点を置いて市町村名を既存の生活地名の妨げにならないようなものに
する、或いは市町村名も生活地名のように愛着を持たれるものにするよう模索する、など
が考えられる。
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〔謝辞〕
この論文を作成するにあたり、指導教員であった山﨑孝史先生をはじめ、地
理学教室の方々には大変お世話になりました。更に、今回の調査では沢山の方々
にご協力頂きました。旧湯布院町では由布院温泉観光協会会長、由布市市議会
議員、旅館経営者(由布院まちづくりの先駆者)、湯布院地域振興局職員、元湯
布院町役場収入役、湯平温泉観光協会会長という 6 人もの方々にお世話になり
ました。中には現地で紹介していただいた方もおり、充実した調査を行うこと
が出来ました。上越市の調査では、「市名を考える市民の会」、上越タイムス、
上越市役所の 3 機関に協力いただきました。いずれも電話やメールでの丁寧な
回答に加え、貴重な書類送付まで頂き大変心強く思いました。また、旧美方町
の調査は今回の論文では最初に現地調査を行った場所ですが、慣れない中小代
地域振興局の皆様は親切に対応してくださり調査の弾みとなりました。
皆様のご協力なしにこの論文は成り立ちませんでした。末筆ながら、御礼申
し上げます。尚、プライバシーの観点等から本稿では基本的にご協力頂いた方
の氏名の公表を避け、役職名を記載しておりますのでご了承下さい。
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