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老後生活のQOLと「場」に関する日中比較研究

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老後生活のQOLと「場」に関する日中比較研究
平成 21~23 年度科学研究費補助金研究成果報告書
機関番号:15401
研究種目:基盤研究(C)
研究期間:2009 ~2011
課題番号:21520015
研究課題名(和文) 老後生活の QOL と「場」に関する日中比較研究
研究課題名(英文)
A Japanese-Chinese Comparative Study on the Correlation
between “Ba”and QOL of the Elderly
研究代表者
松井 富美男(Fumio MATSUI)
広島大学・大学院文学研究科・教授
研究者番号: 72223046
研究成果の概要(和文)
:
老いの「場」の概念及びその形成条件を解明し、高齢者の自殺防止の一助となる「場」の
モデルを提示した。また一般的な QOL と異なり、老いの QOL が主観的で「生きがい」と
親和性を持つことを明らかにした。さらに中国の家庭介護の実態調査をして、独居老人が
自分の生活スタイルを変えようとしない理由に「場」の喪失への不安があること、また老
いの「場」が高齢者に「生きがい」を与えることで老いの QOL が向上することを明らか
にした。
研究成果の概要(英文)
:
First, we explained the concept and conditions of “Ba”, where old people gather, and
exhibited a model to prevent old people from suicide. Secondly, we explained that QOL
of the elderly is subjective and similar with “worth living”, in contrast with general
QOL.
Thirdly, from the investigation into home care in China explained we the
following: it is because of anxiety about a loss of “Ba” that an elderly person who lives
alone is reluctant to change his own life, and then “Ba” gives old people feelings
“worth living”, which leads to the improvement of QOL of the elderly.
交付決定額
(金額単位:円)
2009 年度
2010 年度
2011 年度
総 計
直接経費
1,400,000
1,000,000
1,100,000
3,500,000
間接経費
420,000
300,000
330,000
1,050,000
1
合
計
1,820,000
1,300,000
1,430,000
4,550,000
研究分野:人文学
科研費の分科・細目:哲学・倫理学
キーワード:比較哲学、老い、QOL、場
1.研究開始当初の背景
2009 年 10 月時点で日本は出生率が 1.37 人、高齢化率が 22.7%となって少子高齢化が
一段と進み、本格的な超高齢社会に入った。また後期高齢者も 11%と多く、10 人に1人
が 75 歳以上のお年寄りで占められる世界一の長寿国となった。しかしバブル崩壊以後日
本経済は低成長時代に入り、慢性的な不況、デフレ傾向にあり、超高齢社会を支える財源
不足も深刻化して、年金制度や医療制度等の抜本的な改革が喫緊の課題となっている。し
かし社会制度や社会の仕組みをどう変えるのかといった議論とともに重要になるのが、老
いとは何か、社会やわれわれにとってどのような老い像が望ましいのか、といった議論で
ある。この点がはっきりしないと、高齢社会対策は徒労に終わる可能性がある。それゆえ
未来に向けて新たな老い像を創出する必要がある。
2.研究の目的
これまでに色々な老い像が提出されているが、多くは医学、介護学、福祉学、社会学、
経済学などの分野のものであって、そこから醸し出される老い像は、暇人、役立たず、寝
たきり、認知症のように否定的なものが中心であった。こうした老い像は、高齢者たちに
老いの惨めさを突きつけ、結果的に自身の老い像から目を背けさせている。高齢者が社会
の邪魔者と感じるのではなく、長生きしてよかったと感じられる社会を築くとともに、彼
らの存在意義を高める積極的な老い像を創出する必要がある。そのために歴史的な老い像
を調査することに加えて、老い文化の伝統をもつ中国の老い像とも比較することは有意義
である。
中国の高齢者たちは色々な「場」に集って会話や遊びをして日々を過ごしている。
「場」
は彼らの人生に活力を与えている。
「場」は劇場や球戯場のように見知らぬ人々が観賞目的
で集まる、
単なる空間的な場所とは異なる。
この場合には人々は互いに結ばれてはおらず、
単なるモナドとしてバラバラな集合に過ぎない。つまり、
「場」は建物や施設のような空間
的場所とは異なり、むしろ「間柄」に近いものである。
「場」は日本にも見られる。しかし日中の「場」を比較した場合、広場や施設などのハ
ード面では、中国よりも日本のほうがはるかに優れていても、ハード面のよさがそのまま
「場」のよさになるわけではない。
「場」は「生きがい」などのソフト面と密接に関連する
と考えられる。そこでどのような「場」が高齢者にとって真に必要なものか、また「場」
は高齢者の QOL の向上にどのような影響を与えるのか、などの問題について検討する。
3.研究の方法
まず、老いの「場」の概念及びその形成条件を検討することで全体の見通しを付ける。
そして高齢者が求める「場」のタイプを見極めるために、国内外の図書館、研究所、博物
2
館などで関連資料を収集する。中国人高齢者の資料収集に当たっては中国人研究者の協力
を得て進め、特に重要だと思われる文献については日本語訳データを作成する。
次に、中国高齢者が利用する「場」の実態調査をする。対象となるのは北京市、重慶市、
成都市、南京市、長沙市などの諸都市である。各市街地の広場や公園などで過ごす老人た
ちを観察し写真や動画に収める。その際にプライバシーの侵害にならないように特段の配
慮をする。また各地域に点在する色々な養老院や介護施設を可能な限り視察をする。また
「場」の内実を知るために、①日時、②場所、③人数、④年齢層、⑤目的(遊び)
、⑥満足
度などの項目を中心にして、中国人高齢者から聞き取り調査を行う。その際に「遊びがボ
ケ防止になる」と言われることに対して、彼ら自身がどう考えているかを確認する。これ
らの調査データを基に中国人高齢者がどのような「場」を選んで、それを享受しているの
かを分析する。
日本の「場」については通時的な方法を採用する。日本の高齢者が余暇をどのように過
ごしているのかを調査する。高齢者は都会では年金生活者であるのに対して、農村では農
業などの自営業を従事者として働き続ける。これにより「場」の形成の仕方も異なってく
ると考えられる。カルチャーセンターや村祭りも「場」の一種であるが、これらが老後生
活にどのような影響を与えているのかを調査する。調査に当たっては聞き取り調査の他に
インターネットなどの情報も活用する。その際に「場」に無関係に成り立つ「生きがい」
も存在する可能性がある。この点に含めて中国と日本を比較する。また近年、日本の高齢
者の自殺率が高いことを踏まえ、自殺防止の一助となる老いの「場」のモデルを提示する。
次に、高齢者にとってよい生活とは何かを検討するために QOL 概念を調査する。老い
の QOL は大きくは病人や要介護人を対象にしたものと健常人を対象にしたものに分かれ
るが、本研究は後者を中心にする。後者は「生きがい」と親和的であるけれども同一では
ない。神谷美恵子はこの語をハンセン病患者との交流から思いついたとされるが、そのこ
とを踏まえたうえで、まず一般的な QOL の定義とその基準について検討し、次に一般的
QOL と老いの QOL の異同を究明する。
また中国人高齢者の QOL についても調査をする。
調査に当たっては「空き巣老人」を抱える家族から話を聞くなどの方法をとる。
4.研究成果
①「場」の概念と形成条件の解明
「場」は「場所」よりも広義な概念である。例えば家屋、建物、道路、公園などの場所
は、そこに人間がいようといまいと関係なく一定の物理的空間を表すのに対して、
「場」は
このような物理的空間とともに人間存在をその契機として含む。
「場」は人と人との繋がり
を可能にする場所でもある。
「場」と近似的な概念は「トポス」
(topos)である。
「トポス」
は「ある事物を包み囲んでいるものの、その事物に直接する(最も内側の)動かされえな
い境界面」として定義される。すなわち、
「場」には事物を「包み囲む」という意味がある。
また「場」は「だれもが見聞きできる接近可能な領域で、しかも有機的生命一般を育む地
球や自然とは異なり、人工物を介して人々を結びつけたり分離したりする世界」を意味す
る。高齢者のための「場」は公共的であると同時に私的である。この二重性が重要である。
人々は外側の「包むもの」だけではなく、その内側にある「何か」を求めて集まる。その
3
「場」を形成するのは人間存在、すなわち人と人とを繋ぐ「なかま」である。高齢者にと
って仕事の代わりになるのは趣味や遊びである。遊びの本質は、自発的(自由な)行為や
活動、自己目的性(非生産性)
、空間的制約(被隔離性)
、歓び、非日常性などである。以
上のことから、高齢者の「場」は、包み囲む空間、私的領域の公的領域への介入、
「なかま」
としての人の集合、あいだ、自由、目的、歓び、日常性などの諸要素を含むことが分かる。
②老いの「場」のモデル提示
日本では他の年齢層に比べて 65 歳以上の高齢者の自殺率は著しく高い。高齢者は特に
年齢的な「危機」を持つわけではない。それゆえ中年男性とは異なる高齢者のための自殺
対策が必要である。高齢者の自殺原因の中心は、健康問題であるが、それに経済問題、生
活問題、家庭問題などが複雑に絡む。また「老化」と「鬱」は密接に関連する。
「鬱」は自
殺の直接原因であるのに対して、
「老化」は自殺の間接原因である。そこで「鬱」を解消す
る方法が大切になる。高齢者が鬱傾向を持つのは当たり前で、そのこと自体はさほど問題
ではない。それよりも彼らが自身の不安や悩みを口外せずに心の奥に溜めておき、ストレ
スとなるのが問題である。これを解消するには高齢者が気軽に語り合える「場」が必要で
ある。ただし、日常性から逸脱した「場」は望ましいものではない。高齢者がだれからも
干渉されずに自由に語り合える「場」
、日頃の警戒感や緊張感から解放されてありのままの
自分を曝け出すことができる「場」が重要である。そのモデルが江戸時代の銭湯文化に見
いだせることを指摘した。
③老いの QOL の解明
QOL に関する主張や言明は、
「評価的」であるか、
「道徳的に規範的」であるか、のいず
れかである。前者は「性質」にかかわり、後者は「規範」にかかわる。QOL と SOL はし
ばしば対峙されるが、前者は相対的な生命観によって、後者は絶対的な生命観によって支
えられる。QOL を高めるとか QOL を維持するとかいった場合には「人格的生命」が問題
になる。QOL は「よく生きる」というソクラテス的命題によって象徴される。一般の意識
調査では主観的な観点は無視されがちである。しかし安楽死や尊厳死では主観的な QOL
が重要である。QOL の中身はプライドや尊厳である。WHO によれば、QOL は「個人が
生活する文化や価値観の中で、目標や期待、基準や関心にかかわる自分自身の人生の状況
についての認識」として定義される。この定義は、生命倫理学だけでなく、医学、心理学、
老年学、リハビリテーション、社会政策などの分野でも、ごく標準的なものとして受け止
められている。WHO は QOL の評価指標の作成に当たって、各国の病人、健常者、医療
専門家たちの意見を基にしたので、この指標は病人、障害者、老人、健常者など、いろい
ろなタイプの人間や集団に応用可能である。QOL は生命倫理、医学、政治や法、介護など
の領域で使用される場合には「中止」や「打ち切り」を正当化するための基準、すなわち
一種の「線引き概念」である。それゆえ QOL は「尊厳」と逆方向にあるといえる。
「生き
がい」は、人生のうちに積極的価値や精神的充実感を見いだそうとする意識をいう。積極
的価値を志向する点では「生きがい」と QOL は似ているが、前者では「自己」の視点が
問題となるのに対して後者では「他者」の視点が問題となる。「生きがい」は Life の謳歌
4
や充実を目指すのに対して、QOL は Life の限界を意識させて諦観を呼び起こす。その意
味で両者は別方向のベクトルを持つ。
老いの QOL は一般的な QOL 概念から区別される。
老いの積極的価値を見出すためには、
「生きがい」なども取り込んだ評価指標が必要である。それは高齢者の幸福観と深くかか
わる。健康は老いの QOL にとって最も本質的な要素である。「場」が老いの QOL に影響
を与えるためには、
「場」は QOL から独立していなければならない。
「場」は QOL によっ
て規定されるのではなく、反対に QOL を規定する。すなわち、
「場」が高齢者に「生きが
い」を与えていると思われる。
なお、老いの QOL に関するこの知見は、西南大学(中国重慶市)で開催された国際シン
ポジウム(
「老いと生命倫理」
)でも披露した。そこでの共同討議を通じて、中国の老い文
化も主観的な QOL を重視していることが明らかになった。
④中国の「空巣老人」の実態調査と分析
「空き巣老人」とは、
「子女が家から離れた後の中老年の夫婦」 をいう。すなわち、成
人して仕事、勉強、結婚等の理由で家を出ていった子どもの親のことである。
「空き巣老人
はさびしがりで、不眠、自律神経異常、高血圧、冠状動脈心臓病、消化性潰瘍などの病気
になりやすく、また他人の妨げとなるために、心身の介護が必要である」と言われる。
「空
き巣老人」は中国では大きな社会問題となっている。中国では老人ホームに親を入居させ
ることを「不孝」とみる傾向がある。また老人ホームへの入居は子どもに捨てられた証だ
と考える親もいる。そうした考え方は都市よりも農村でいっそう根強い。多くの中国老人
は、
晩年を子どもや孫と一緒に過ごし、家族に見守られて死ぬことを幸せだと思っている。
それゆえ中国では自宅介護が中心にならざるをえない。しかし「空き巣老人」の受け皿が
社会的に用意されていない。この問題は、4-2-1世代になると一段と深刻化する。そ
のことを「輪流」の事例を通じて検証した。中国政府は人口抑制政策の犠牲になった一人
っ子世代のためにも、
「孝」の復権を唱えるだけでなく、社会的な受け皿作りを急ピッチで
進めるべきである。それが中国政府の喫緊の課題である。事例の「輪流」は自宅介護の在
り方を考える上でも参考になる。介護を挟んで、看る側にも看られる側にも独自の実存的
時間が流れている。中国の自宅介護の調査をしてみて、社会施設や専用のスタッフが介護
の基本ではないことを知った。
「場」のない介護は早晩崩壊する。中国人高齢者にとって「自
宅」や「家庭」は彼らの生活史が満載された究極の「場」である。また「空き巣老人」の
家族にとっての「場」がコミュニティにあり、それがどのような意味を持っているのかを
突き止め、中国政府が進める家庭介護の実態とその問題点を浮き彫りにした。
以上のことから、
「独居老人」が自分の生活スタイルを変えようとしない理由の一つに「場」
の喪失への不安があること、
「場」が主観的な QOL と密接に関係すること、QOL が「場」
を規定するのではなく「場」が QOL を規定すること、そして老いの「場」が高齢者に「生
きがい」を与え、そのことが結果的に老いの QOL の向上に繋がることなどが明らかにし
た。
5.主な発表論文等
5
(研究代表者、研究分担者及び連携研究者には下線)
〔雑誌論文〕
(計 4 件)
(1) 松井富美男、中国における「空き巣老人」という社会現象をめぐって-老いに関する
日中比較研究-、HABITUS、16 巻、査読有、2012、pp.27-42。
(2 ) 松井富美男、QOL 概念の再検討-生命倫理及び老い研究のキーワード-、「総合人間
学」実施報告書、巻なし、査読無、2011、pp.54-64。
(3) 松井富美男、老いの「場」の研究-自殺防止のための「場」を求めて-、広島大学大
学院文学研究科論集、第 70 巻、査読無、2010、pp.1-17。
(4) 松井富美男、老いの「場」に関する基礎的研究、広島大学大学院文学研究科論集、第
69 巻、査読無、2010、pp.1-19。
〔学会発表〕
(計 2 件)
(1) 松井富美男、老いと生命倫理、現代倫理学国際検討会-現代倫理学に関する国際シン
ポジウム-(招待講演)
、2011.9.14、西南大学(中国重慶市)
(2) 松井富美男、日本生命倫理の過去・現在・未来、招待講演、2009.9.24、長江師範学院
(中国重慶市)
〔新聞記事〕
・松井富美男、中国新聞(朝刊)
、2009.12 15、
「知の最前線-中国地方の大学を歩く-」
〔その他〕
・松井富美男、ホームページの更新(http://home.hiroshima-u.ac.jp/fmatsui/index.htm)
6.研究組織
(1) 研究代表者
松井 富美男(Fumio MATSUI)
研究者番号:60209484
(2) 研究分担者
該当者なし
(3) 連携研究者
・王 官成(Guancheng WANG)
中国・重慶工業職業技術学院・教授
・王 艶玲(Yanling WANG)
中国・長江師範学院・講師
・呉 献萍(Xianping WU)
中国・中南林業科技大学副教授
6
7
老いの「場」に関する基礎的研究
松井 富美男
1.はじめに:空間的場所から「場」へ
「話し合いの場がない」
「出会いの場がない」「活躍の場がない」などとよく言われる。
こういうときの「場」とはどういう意味であろうか。多くの人々が集まる官公庁、会社、
学校、病院などには目的に応じて色々な部屋が設けられている。なかにはややプライベー
ト向きの相談室、談話室、喫茶室までもが用意されているところもある。けれども「場が
ない」というときの「場」は、このような空間的場所を指すわけではない。何にんもの人
が四六時中同じ部屋で過ごしても「出会いの場」がないと感じることもあれば、仕事を片
っ端からこなしても「活躍の場」がないと感じることもある。こういうときの「場」は「機
会」
「時機」などの意味で、
「場数をふむ」とか「場馴れがない」とかいう場合と同じであ
る。
また「場違い」という言葉もある。「場違い」は漫才やコントのギャグなどによく使わ
れる。しかし「場違い」がギャグの対象となるのは虚構の世界においてのみである。「場
違い」はしくじり行為に似て、周囲の者はそれに気づいても、すぐには注意したり咎めた
りはしない。むしろ当人の気持ちを慮って気づかないふりをするのが普通である。「場違
い」が失笑を買うのは、当事者たちがその場面を後で思い出すときである。そのときには
彼ら自身がすでに当事者から部外者(観客)の立場に移っている。いずれにしても、こう
いうときの「場」は「状況」や「雰囲気」を指し、「場が白ける」とか「場をつくろう」と
かいった意味と同じである。
因みに「場」の意味は、
『大辞林』には「①あいている所、②物事が起こったり行われ
たりしている所、③物事を行うための場所、④物事が行われている時の、その時々の状況
や雰囲気、⑤すぐその時、⑥芝居・映画などの場面、⑦花札・トランプなどのゲームが行
われる場所、⑧取引所で、売買取引を行う場所、⑨物理量が空間的に分布している場所、
⑩ゲシュタルト心理学の基本概念の一つ」 1とある。ここから「場」が色々な意味をもつ
ことが分かる。「場」は「広い場所」や「空き地」を表す「庭」から転じた語で、その基
本的な意味は「所」や「場所」である。ただし、「場」と「場所」を比べて意味がより広
いのは「場」である。例えば家屋、建物、道路、公園などの場所は、そこに人間がいよう
といまいと関係なく一定の物理的空間を表すのに対して、「場」はこのような物理的空間
とともに人間存在をその契機として含む。とはいえ一定の場所に人間がいれば必ず「場」
になるかと言えばそうでもない。例えば多くの人々が劇場、野球場、コンサート会場など
に集まるとき、これらの施設は場所であっても「場」ではない。ここに集まる人々は娯楽
目的を共有していても聴衆や観衆という名の匿名集団にすぎない。「場」は人と人との繋
がりを可能にする場所でもあるのだ。
同じことは学校にも当てはまる。江戸時代まで子弟の教育の「場」であった寺小屋が明
治政府の教育政策下に学校に生まれ変わり、以来学校は戦前戦後を通じて日本近代化の推
1
松村明編『大辞林』三省堂 1988 年 1906 頁参照。
8
進力となった。その学校には校舎がある。子どもたちはここで色々な体験をする。だから
学校は「場」でもあるし、またそうでなければならないのだが、近年このような「場」が
苦痛の場所に変質しつつある。
この反対のケースもある。インターネットは、従来の一方的な大量伝達型のマス・コミ
ュニケーションに替わる双方向のコミュニケーションを可能にしたと言われる。これまで
情報を一方的に受け取るだけであった大衆が自身で情報を発信できるようになった。この
ような状況下で現在人気を博しているのがネット・オークションである。オークションは
古くからあって「競売」とも呼ばれ、不特定多数者が入札し、そのなかから最高値を付け
た者が落札するという仕組みである。かつてはオークションを開催するために会場が用意
され、そこに多くの人々が集まった。学校と同じように一定の場所が存在していた。これ
に対して、ネット・オークションでは人々が集まる空間的場所はない。あるのはコンピュ
ータ上のヴァーチャル空間だけであるが、このような状況下でも「場」は存在しうる。2
このように「場」の探究に当たっては、「場」と場所を便宜的に区別する必要がある。
庭先でも、路上でも、広場でも、駅でも、人々がいればどこでも「場」になりうる。しか
しこれらの場所がそのまま「場」であるわけではない。この点をまず注意しておかなけれ
ばならない。
2.トポスとしての「場」
「場」が成立するためには予め空間が存在しなければならない。例えば近くの場所(こ
こ)にあるコップを少し離れた場所(そこ)へもっていき、再びこちらにコップをもって
くる場合を想定してみよう。もし空間が存在しなければ、
「ここ」は「ここ」だけのもの、
「そこ」は「そこ」だけのものとなって、
「ここのコップ」を「そこ」へ、
「そこのコップ」
を「ここ」へ移動させることはできない。それに「ここのコップ」や「そこのコップ」と
言えるためには2個のコップが必要である。現実には同一のコップが「ここ」に移動して
「ここのコップ」となり、
「そこ」に移動して「そこのコップ」となるだけである。これ
は一定の視点と遠近法をとり続けることで「ここ」と「そこ」が固定され、それぞれの場
所にコップが結びつくことで成り立つものだ。逆に言えば、コップはいつでも「ここ」か
らも「そこ」からも切り離すことができるのである。
このように事物の側から空間を捉えてみると、事物の動きに合わせて空間も動くように
見える。もちろん空間はけっして動くわけではないのだが、この意味での空間論を展開し
ようとすれば、通常の空間概念とは異なる「場」という名称を用いるほうがよい。「場」
とはギリシア語では「トポスtopos」と呼ばれる。トポスは単なる空間とも異なる。では、
トポスの意味での「場」とは何か。それを知るためにアリストテレスの『自然学』の第4
章を瞥見しておこう。 3
2
ヴァーチャル空間であっても「場」として認めるかどうかは定義次第である。しかし特
に高齢者用の「場」が問題になる場合には、明らかにふさわしくない。
3
参照文献は、
『世界の名著(9 巻)ギリシアの科学』(中央公論社 1972 年)に収められて
いる『自然学』
(藤沢令夫訳)である。なお、次の英訳も適宜参照した。Aristotle, The
Physics II, vol. 4, trasl. by Philip H. Wicksteed & Francis M. Cornford, Harvard
9
アリストテレスは、その冒頭で「場」とは何であるのかと問うて、「場」を次のように
規定する。すなわち、
「場」は事物を包み囲むもの(the embracing)で、事物の一部でも
なく、事物より大きくも小さくもなく、そして事物から分離され、上下関係をもち、物体
の運動や静止を可能にするものであると。 4これらの規定は「場」を理解するための前提
となるものだ。アリストテレスは、天体は「場」のなかにありながら動くという例を引き
合いにして、なぜ「場」が動きや変化をもつのかという根本問題を立てる。だがこうした
問いの立て方に問題があるのは明らかである。もしアリストテレスが空間概念を前提にし
て、運動をそのなかでの移動や変化として把握することができたならば、このような無用
な問いを立てずにすんだであろう。彼が陥穽にはまった理由は、「場」は空間と異なり、
事物と境界を接しつつも事物から分離されうるというその微妙な定義にある。アリストテ
レスのいう「場」とは事物を入れる容器のようなものを指す。「場」と事物の関係につい
ては、両者が連続する場合と分離する場合とが考えられる。前者では「場」と事物は全体
と部分の関係にあり、両者は一緒に動くことになる。後者では「場」は固定され、事物は
そのなかで動くことになる。目のなかの瞳や身体のなかの手は前者の例であり、桶の水や
甕の酒は後者の例である。 5
ここからアリストテレスは「場」に関して (1)事物の形相、(2)事物の質料、(3)事物を
包み囲む空虚な広がり、(4)包み囲むものの末端面(内側の面)、という四つの可能性を挙
げそれぞれについて検討している。 6まず(1)と(2)については、形相も質料も事物と一体
で事物から切り離すことができないのに対して、
「場」は事物から切り離すことができる。
そのことは同一の「場」において水と空気が入れ替え可能なことからも明らかである。よ
って「場」は形相、質料のいずれとも同一ではない。次に(3)についてはどうか。アリス
トテレス以前に、運動が成立するためには空虚が存在しなければならないと主張したのは
原子論者たちであった。(3)はこの原子論の立場を代弁している。この立場に対してアリ
ストテレスは、世界は事物だけで成り立っており空虚は存在しないとした。もしそれ自体
で独立する静止した「場」が存在するのであれば、このうちには水や空気が入っている部
分的な「場」も含まれる。そうなれば一つの「場」のうちに無数の「場」が存在すること
になるので矛盾するという。こうして(1)(2)(3)が否定され、(4)にもとづいて「場」は「あ
る事物を包み囲んでいるものの、その事物に直接する(最も内側の)動かされえない境界
面」 7として定義される。これがアリストテレスのいう「場」である。
当然のことながらこのようなトポス論は空間論としては不十分である。近代科学は無限
に広がる均質的な絶対空間を想定するのに対して、アリストテレスはこのような空虚なも
のを認めない。すなわち、世界はすべて事物からのみなり、事物と事物の隙間を埋める空
間は存在しないとした。だがもしこのとおりだとすれば、逆に世界は事物で充満して身動
きがとれなくなって、いかにして運動が成り立つのかが説明できなくなる。これに対して
Univ. 1980.
4
同書 106 頁参照。Cf. Aristotle, op.cit. p.303f.
5
同書 108 頁参照。Cf. Aristotle, op.cit. p.307.
6
同書 108-109 頁参照。Cf. Aristotle, op.cit. p.309.
7
同書 112 頁。Cf. Aristotle, op.cit. p.315.
10
アリストテレスは、運動は事物と事物が位置を入れ替わることで可能だという。この考え
は運動を事物と事物の関係として捉えるもので、ある意味においてライプニッツの先駆け
である。ライプニッツも絶対空間を排して、世界は窓なきモナドによって充満し、空間は
モナドとモナドの秩序連関や秩序体系、つまり「関係」であるとした。因みにこうした問
題は「場」と空間を混同することで生じるが、ここでは次の点を問題にする。すなわち、
「場」は単独では用をなさず、
「包み囲む」というその容器的な性質のゆえに事物との関
係を必要とするという点である。
常識的な空間概念とは異なる「場」の概念は、今日地球環境の破壊やグローバル化が進
行するなかで見直されている。このような「場」の概念を積極的に展開した日本の哲学者
に西田幾多郎がいる。彼は初期の「純粋経験」の思想を発展させて晩年に「場所の論理」
に至った。8その立場は、アリストテレスのトポス論とも一線を画するが、
「場」の考え方
により近い。では、彼のいう「場所」とは何であるのか。その定義を見てみると、「我と
非我との対立を内に含み、いわゆる意識現象を内に成立せしめるもの……を……場所と名
づけて置く」9、
「真の場所は自己の中に自己の影を映すもの、自己自身を照らす鏡という
如きもの」 10、「一般の中に無限に特殊を含みしかも一般に於てある場所」 11などとある。
西田は『善の研究』の「序」で「個人あって経験あらず、経験あって個人あるのである」12
という有名な文句を残している。ここでいう経験は「直接経験」 13とも呼ばれ、個人の経
験ではなく個の自覚が現れる以前の「主客未分の状態」 14を指す。西田はこの状態を「真
実在」とみて、ここから世界の現象一般を捉えようとする。もちろん、そうはいってもこ
の状態ではまだ個的主観も確立していないので、「私は何かを見ている」というのは正し
くなく端的に「見ている」としか言えない。西田のいう「直接経験」や「純粋経験」は個々
人を超越した無限なる一般者の立場をいう。こうした見方は生涯変わらずに晩年まで貫か
れている。先述のようにアリストテレスは、「包み囲む」という観点から「場」が入れ子
構造になっていることを指摘した。西田も同様のことを言う。「物理的空間と物理的空間
......
とを関係せしめるものはまた物理的空間ではない。更に物理的空間が於てある場所がなけ
ればならぬ。あるいは関係に於て立つものが関係の体系に還元せられる時、唯それ自身に
.......
.........
よって成立する一つの全きもの が考えられ、更にそれの成立する場所 という如きもの
云々」
(傍点は筆者)15と。すなわち、アリストテレスは「場」を「包み囲まれる」方向で
捉えたのに対して、西田はそれを「包み囲む」方向で捉えているという違いがあるにせよ、
両者はともに「場」を入れ子構造のように考えている点では共通する。16
8
西田自身は「場所」という言葉を使っているが、ここでは「場」に言い換える。
西田幾多郎『場所・私と汝』岩波文庫 1987 年 68 頁。
10
同書 85 頁。
11
同書 126 頁。
12
西田幾多郎『善の研究』岩波文庫 1950 年 3 頁参照。
13
同書 13 頁参照。
14
同書 16 頁参照。
15
同書 68 頁参照。
16
例えば「AとBが関係する」というとき、西田の立場からすれば、この「関係」も「於
てある場所」に組み入れられてしまう。だがそれは存在論的な問題というよりも単なる言
11
9
3.公共圏としての「場」
啓蒙の精神は、人間は生まれつき自由で平等であるという崇高な理念を掲げてブルジョ
アジーの政治的社会的参加を促し、彼らの自由な経済活動を保障した。これを機に国家・
王侯・教会などの諸権力から独立した、市民社会を基盤とする公共圏としての「場」が登
場してくる。公共圏の出現は近代化と多くの部分で重なっていても、近代化がそのまま公
共圏を意味するわけではない。その起源から言えば近代化よりも公共圏のほうがずっと古
い。そのことを指摘したのはハンナ・アレントである。ただし、彼女自身は公共圏の代わ
りに「共通世界 common world」や「公的領域 public realm」といった語を使用している。
アレントによれば、
「公的public」という語は、
「公的に現れるものは、どれもみんなか
ら見られ聞かれ、可能なかぎり最も広く公示される」17という特徴をもち、
「世界そのもの」
を意味する。 18「公的領域」とは、このようにだれもが見聞きできる接近可能な領域で、
しかも有機的生命一般を育む地球や自然とは異なり、人工物を介して人々を結びつけたり
分離したりする世界を指す。 19この世界は、家庭のような私的所有の場所とは異なり、あ
らゆる人々に共通する領域である。共通するものの好例は金銭である。金銭は人々のあら
ゆる欲望を満たす「共通の尺度や分母common measurements or denominators 」である。
しかし「公的なもの」は金銭のような普遍的な基準をもたない。ここにあるのは「無数の
遠近法と視点innumerable perspectives and aspects」 20だけである。同一の集会場であ
っても、ここに集まった人々はそれぞれ異なった場所から同一の対象を眺めるので、同一
の対象への共通した見方は担保されていない。これがアレントの考える「公的生活」であ
る。彼女は次のように言う。
「事物がその本性を変えずに様々な視点から多くの人々によ
って見られ、それゆえその周囲に群がる人々が、自分たちは同一物をまったく多様に見て
いることを知っている場合にかぎり、世界のリアリティは真に確実に現れうる」21と。
この言葉は実に含蓄深い。われわれは人々の意見が「共通の本性」にもとづいて一致す
ることに至高の価値を見いだしがちである。だが人々の意見が一致するかどうかという問
..............
題はさほど重要ではない。それよりも集会場にいる人々が同一の対象について考えている
という事態がより重要である。リアリティがあるとはそういうことだ。民主主義は多数決
による意思決定の原理を含む。だから一般に民主主義にとっては不一致よりも一致が推奨
される。にもかかわらず不一致が賛美されるとすれば、それは民主主義の逆説である。だ
.....
がこうした逆説は恐れるに足らない。それよりも恐れなければならないのは、いつの間に
語論的な問題にすぎない。なぜならAとBの「関係」を措定するのは主観であって、こう
した主観の見方がなければ、A、Bはそれぞれ独立した存在でしかないからである。
17
Hannah Arendt, The Human Condition, Chicago & London, 1958, p.50. ハンナ・アレ
ント『人間の条件』
(志水速雄訳)ちくま学芸文庫 1994 年 75 頁参照。
18
Cf. ibid. p.52. 同書 78 頁参照。
19
アレントのいう「世界」がハイデガーのいう「道具的存在」と密接に関連することは言
うまでもない。
20
Cf. ibid. p.57. 同書 85 頁参照。
21
Ibid. 同上。
12
....................... ................
か対象が同一であることが分からなくなっていたり、不自然な画一主義が支配したりして
..
いる状況である。アレントは、この状況では一つの遠近法しか有効ではなく、同一の対象
は一視点からしか見られず、人々は完全に私的になって他人との交渉が奪われていると指
摘する。22このような状況は、歴史的には専制主義、絶対主義、全体主義などに見られる。
アレントは現代社会のあるべき政治形態として「共通世界」や「公的領域」を保証した
民主主義を支持する。だが「共通世界」や「公的領域」の保証は同時に逆説を生む。確か
....
に「共通の尺度や分母」というまやかしによって言論の自由を封じたり人々を一方的に誘
導したりする社会は、好ましくないどころか危険でもある。だから真っ先に「無数の遠近
法と視点」が可能な「場」を保証しようとする意図も分からないではない。しかしこの条
件下で人々が集うとしたら、どのような「場」が形成されるであろうか。
アレントは、
「共通世界」が解体するとき、多数の人々に示されるべき多くの視点も解
体し、だれもが自分以外の人と同意できないほどに孤立するか、もしくは「私的領域」の
拡張によって一つの視点に同化し完全に私的になるという。23だが本当にそうであろうか。
彼女のいう「共通世界」や「公的領域」では、人々はそれぞれに「遠近法」をもつので様々
な見方が可能である。これは健全な民主主義の育成に欠かせない条件であるけれども、こ
うした状況で成立する「場」は、言論と論証にもとづく討議中心のものである。人々はこ
こでは他人との濃密な関係を余儀なくされ、絶えず不安と緊張に苛まれることになる。こ
れは穿った見方かもしれないが、他人との濃密な関係を是とするか非とするかは、われわ
れがいかなる文化に育ち、いかなる時代状況にあるのか、といったことと密接に関連する。
アレントのいう「公的領域」や「共通世界」は、ポッパーの「開かれた社会」 24やバイエ
ルツの「不合意」とも相通じる。 25これらに共通する特徴は、健全な世界はいかに相対主
義に裏打ちされるべきであるかといった論調である。こうした論調は、冷戦構造が終結し
た今日でも自由主義と民主主義の名のもとにますます盛んになりつつあるように思われ
る。
だが「無数の遠近法と視点」にもとづく「場」を確保すれば、現代社会において人々は
本当に孤立化を避けられるのであろうか。よしんばそのとおりだとしても、高齢化が急速
に進行している日本や中国において、こうした主張はどれほど有効であろうか。もっとも、
われわれの時代とアレントとの時代とでは、必然的に状況も対象も異なるのでこの疑問自
体がピント外れなことは言うまでもない。だがそれも承知のうえで言えば、「場」がある
かないかといった議論よりも、人々を他人から引き離して「私的領域」へと封じ込めてし
まう「場」のあり方が問われており、逆に「私的領域」の開放化が今日では強く求められ
22
同書 86-87 頁参照。
同書 87 頁参照。
24
Cf. Karl R. Popper, The Open Society and Its Enemies (Vol.1), London, Routledge
& Kegan Paul, p.173f.
25
Cf. Kurt Bayertz, Dissens in Fragen von Leben und Tod: Können wir damit leben?
In: Zeitschrift für medizinische Ethik, Bd.40, 1994, S.288-S.305. L.ジープ・山
内廣隆・松井富美男編(監訳)
『ドイツ応用倫理学の現在』 ナカニシヤ出版 2002 年
197-214 頁参照。
13
23
ている。つまり、公的な「場」にどれだけ私的なものを持ち込めるかが高齢者の居心地度
を測るバロメータになっている。施設や設備といったハード面の強化や改善だけでは「場」
の形成にとって不十分である。
「包み囲むもの」と同時に「包み囲まれるもの」の視点を
いかに敏感にキャッチできるどうかが重要である。ここで「包み囲まれるもの」とは当然
「場」に集まる人々を指すわけだが、「場」が彼らを真に「包み囲む」ことができなけれ
ば「場」とは言えない。単なる空間的場所が「場」であるわけではない。人々は外側の容
器ではなくてその内側にある「何か」を求めて集まるのである。
4.
「なかま」と「場」
「場」の形成に欠かせないのは人間の存在である。人間がいなければ少なくとも「場」
は成り立たない。しかし人間といっても、その単なる身体空間が問題となるのではない。
また人間の存在が必要になるにしても一人では意味はない。人形ごっこやトランプ占いの
場合には、単数の人間でも遊ぶことができる。ところが「場」は一人では成り立たない。
例えば老夫婦世帯の一方が亡くなると他方も続けて亡くなるということがよくある。これ
は老夫婦によって支えられてきた「場」が一方の死とともに喪失することを、すなわち「場」
の形成に複数の人間が必要なことを示していよう。すなわち、「場」の形成には単数の人
間でなく複数の人間、つまり人と人との繋がりからなる「なかま」が必要である。
この意味において和辻哲郎が倫理学を「人間の学」として規定したのは卓見である。彼
は「倫」の意味は「なかま」であるとして、「人倫」を「人のなかま」あるいは「人類」
の意味に解する。26そして「仲間」や「中間」という漢字を引き合いにしながら、
「なかま
は一面において人々の中であり間でありつつ、しかも他面においてかかる仲や間における
人々なのである」 27として「なかま」を共同体の意味で把握する。さらに「倫」の最も重
大な用法もこれと同様だとして「人の大倫」や「天倫」などの例を挙げ 28、これらの語も
共同体の「道」や「秩序」を含意するという。そしてここから「倫」を「道」や「道義」
の意味で理解し、父子間の「親」
、君臣間の「義」
、夫婦間の「別」、兄弟間の「序」、友人
間の「信」といった「人倫五常」ならびに「仁義礼智信」という人倫の徳が、いかに倫理
と密接に関連するのかを説く。
言うまでもなくこの解釈は儒教思想に依拠している。「倫」の字源を丹念に辿ればおの
ずからこのような解釈に導かれよう。だから「倫」の字義から「倫理」の意味を解析して
もあまり問題はない。しかし「倫」の意味を「なかま」として理解する場合にはそういう
わけにはいかない。
「倫」は漢語であるが、
「なかま」は和語である。それゆえ「倫」が「な
かま」を意味するにしても、最初にそれぞれの意味を確定しておく必要がある。とりわけ
問題となるのは「なかま」の意味である。和辻は「なかま」を次のように説明する。
「一
定の人々の関係体系としての団体であるとともに、この団体によって規定せられた個々人
26
27
28
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』岩波文庫 2007 年 11-12 頁参照。
同書 11 頁参照。
同上。
14
の人々で」 29、
「一定の連関の仕方にほかならぬ」 30が、「一体その「なかま」とは、人間
とは、何であろうか。それは自明のことではない。
」31と。このように「なかま」はとりあ
えず未定のままに置かれるが、その一方で「従って「倫」は「なかま」を意味するととも
にまた人間存在における一定の行為的連関の仕方をも意味する。そこからして倫は人間存
在における「きまり」
「かた」すなわち「秩序」を意味することになる。それが人間の道
「倫理」の規定に当たって、
「なかま」
と考えられるものである。
」32としている。すなわち、
の本来性は隠蔽され、
「倫」と歩調の合った「なかま」の概念だけが前面に押し出される。
その結果、
「なかま」の意味は曲解されて倫理的制約を受けることになる。33
29
和辻哲郎『倫理学』
(一)岩波文庫 2007 年 21 頁。
同書 22 頁。
31
同書 24 頁。
32
同書 22 頁。
33
「なかま」という語が昔から日本にあったかどうかは定かではない。しかし少なくとも
江戸時代には使われていたことは文献等で確かめられる。例えば『西鶴諸国ばなし』には
原田内介なる人物が祝宴に「浪人仲間」を招待する件があるし(
『新編日本古典文学全集 6
7』小学館 1996 年「大晦日はあはぬ算用」29 頁参照)、また『政談』にも「奴婢は奴婢の
なかまにて婚姻を通じて、平人と婚姻する事なかれ」とある(荻生徂徠『政談』岩波文庫
1987 年 巻之一「諸代者の事」p.60 参照)
。どちらも「集まり」
「同類」
「伴侶」といった
意味である。また享保期以降幕府公認の「株仲間」という町人組織も実際に存在した。こ
れは西洋で言えばギルドやツンフトに当たる同業組合である。ただし、株仲間がギルドや
ツンフトに似ているのは組織形態だけであって、両者の性格は根本的に異なる。ギルドや
ツンフトは領主権から独立した都市自治権の獲得に寄与するなどして概して公権力に反
抗的であった。日本では農村の「惣」や堺のような自由都市が封建大領主の台頭で崩壊し
て以後、公権力に従順な団体しか出現しなかった。株仲間も幕府からの「お墨付き」を必
要としたので公権力に従順であった。このことは西洋近代における一連のブルジョア革命
がなぜ日本で起こらなかったかという事情を端的に物語っている。
商人や職人は「株仲間」を組織することで商品価値や工賃を協定して収益を吸い上げる
ことができた(井上清『日本の歴史』(中)岩波新書 1965 年 44 頁参照)。このように株
仲間は甚だ特権性の強いものであったが、同時に新興商人の参入を制限して安定的に商品
を供給するなどの公共性をも兼ねていた。「なかま」が倫理的性格を帯びてくるのも存外
この辺からかもしれない。
さらにまた「仲間」という字は、古くは「ちゅうげん」とも読まれ、
「中間」と同等に
使われた。
「ちゅうげん」とは、中世では公家・武家・寺院などに仕える侍と小者との中
間に位する従者を指し、近世では雑役に従事した足軽と小者との中間に位置する武家の奉
公人を指した(
『広辞苑』1558 頁参照)。ここから「仲間」を「ちゅうげん」と読む場合に
は、この言葉が人と人との「関係」や「間柄」ではなくて、単に身分的地位を表していた
ことが分かる。それゆえ「仲間」の字義をもとにして昔から日本社会に「間柄」の倫理が
あったと主張するのはいささか我田引水である。
明治以降「なかま」の表記は現代と同じ「仲間」にほぼ定着したようだ(例えば坪内逍
遥『当世書生気質』岩波文庫 1937 年 31 頁参照)
。しかし若干の例外もある。例えば鏡花
作品には「夥間」いう字も見られる(「女宮」
『歌行燈・高野聖』 新潮文庫 1950 年所収
81 頁)
。他に「同伴」
「夥伴」などの字も当てられた。また『学問のすすめ』のなかにも「仲
間」の字が見られるが、概して「人間交際の仲間」という使い方(伊藤正雄校注『学問の
すすめ』旺文社文庫 1967 年 119 頁参照)
。ただし「すべて人間の交際と名づくるものは、
15
30
以上のことから、和辻が「倫は「なかま」を意味する」34というとき、
「倫」と両立する
「なかま」が想定されていることが分かる。もし彼が「なかま」の意味を「自明のことで
はない」35と本当に考えたのであれば、
「倫」を「なかま」へと還元することに慎重である
べきであったであろう。彼は「倫」から「なかま」を経て不定Xへとは向かわずに、踵を
返して再び「倫」に向かっている。これは言うなれば論点摂取の虚偽に当たる。それに「な
かま」を「行為的連関」として理解するにしても、この意味も「なかま」以上に明らかな
わけではない。世間には倫理的な「なかま」もいれば、非倫理的な「なかま」もいる。36そ
れゆえ「なかま」がいかなる種類の集団であるのかが問題となるが、少なくとも「なかま」
が倫理の紐帯となるためには「倫」における「秩序」や「道」と結びついた「なかま」で
なければならない。しかし「なかま」をこの方向でのみ捉えるならば、逆に「なかま」の
本義が隠蔽されるのは火を見るより明らかである。
もう一度儒教的な家族関係を考えてみよう。
「人倫五常」の家族関係は父子・夫婦・兄弟
の三つに区分される。ここですぐさま湧いてくるのは、なにゆえに父子関係であって親子
関係ではないのかとか、なにゆえに「兄」
「弟」の区別があって一つの「きょうだい」では
ないのか、といった疑問である。現代では父子は親子の亜種で、母子は父子と同列とみな
されるが、古代中国では「おや」は父だけを指したので「父子有親」と言われた。ここの
「親」は「したしむ」という意味である。この意味での「親」は孟子の「人之親其兄之子
(=人の兄の子を親しむ)
」 37という言葉からも伺われる。原始時代には母系性社会のほう
が父系性社会よりも原初的だったので、母子が親子関係の中心であった。そのような時代
であれば「父子有親」とはならず「母子有親」となった可能性がある。だから父子関係に
限定して「親」の漢字を割り当てるのは、自然発生的ではなく「歴史的風土的なる特殊制
約」 38によるのである。和辻自身もそのことを認めて次のように言う。「父子の共同体には
「親」がある。
「親」がこの共同体における秩序である。しかし「親」なくば父子の共同体
そのものは可能ではない」39と。これを敷衍すれば次のようになろう。父子関係は「なかま」
を表し、
「親」は「倫」における「秩序」を表すから、もし「倫」がなければ「なかま」も
不可能であろうと。和辻の解釈に従えばそうならざるをえない。だが翻して、この「なか
ま」は「倫」に引きずられたものであるから、もし「倫」とは無関係な「なかま」が前提
にされるとしたらどうであろうか。その場合には「なかま」は人々の集まりを表すだけな
ので倫理的制約から自由であり、
「人の間柄」も特に倫理的である必要はない。この原因は、
........
和辻が「なかま」はいかにあるべきかという当為問題を主眼に置き、最初から「倫」にお
みな大人と大人との仲間なり。他人と他人との付き合ひなり。」(130 頁)、
「親子の交際を
そのまま人間の交際に写し取らんとする…差し支へあり」(129 頁)などとあるから、
「な
かま」が和辻ではあらゆる人倫関係(親子・君臣・夫婦・兄弟・朋友など)に及んでいる
のに対して、福沢では他人と他人の交際関係に限定されていることが分かる。
34
和辻『倫理学』
(一)21 頁。
35
同書 24 頁。
36
ここでの「非倫理的」は、
「倫理に無関係な」や「道徳に関係ない」などの意味である。
37
藤堂明保編『漢和大字典』学習研究社 1973 年 1196 頁参照。
38
和辻 同書 13 頁。
39
和辻哲郎『人間の学としての倫理学』13 頁。
16
ける「秩序」を「なかま」の根拠に据えようとしていることにある。重要なのは、
「なかま」
.......
はいかにあるのかという存在問題である。 40
しかし和辻が「なかま」の意味を倫理的にやや限定しすぎたにしても、彼が人の「間柄」
に着目して倫理学を構築しようとした点は高く評価できる。木村敏はここから示唆を得て
「あいだ」をキーワードにした現象学的精神病理学を展開した。彼は次のように言う。
「わ
れわれ日本人は、西欧人が神に属しめている多くの作用を、「人と人とのあいだ」に属せ
しめる顕著な傾向をもっている。われわれにとっては、自己と他者との「あいだ」こそが、
私と汝の両者にとってともに「絶対の他」としての包括者なのであり云々」 41と。ここで
注目すべきことは、
「あいだ」が日本人にとって西洋の神のような役割を果たしている点
である。日本人は冠婚葬祭のときにしか神を必要としないとよく言われるが、その神の代
わりになるのが「あいだ」であるというのだ。木村は「あいだ」の重要性を臨床の現場を
通して確信した。医師と患者が診察室で対峙するとき二人にとって独特の「場」が形成さ
れる。この「場」は、感情移入のように一方が他方の心的状態を想像、解釈して成り立つ
ものとは異なり、医師と患者に共有のもの、すなわち「共ノエシス的・間ノエシス的な作
用の場」 42である。このような共有の「場」があるからこそ医師と患者は繋がることがで
きるのである。
このように「場」を形成するに当たって「あいだ」も重要な契機になるが、
「あいだ」
は「人と人のあいだ」つまり二人人格を前提にするので注意を要する。 43それゆえ「あい
だ」を基調にしてそれをさらに広げる形で「なかま」を考える必要があろう。いずれにし
ても「場」を形成するためには一定の空間的場所と人々の集合が必要である。しかし集ま
った人々が烏合の衆であるときには「場」は成立しない。烏合の衆というのは無秩序な偶
然的な集団である。集団が必然的であるためには個々人が共通の目的をもたなければなら
ない。それゆえ「場」が形成されるためには、一定の目的と空間的場所と「なかま」が必
要である。その際に「場」と「なかま」のどちらが先行するのかはもはや不明である。
「場」
があるから「なかま」ができるとも、「なかま」がいるから「場」ができるとも言える。
いずれにしても「なかま」を形成するうえで重要なのは目的である。
5.遊びと「場」
40
人間の活動は多種多様なので行為の目的も無数に存在する。そのために「なかま」の形
態も目的に応じて無数に考えられる。ここでは高齢者用の「場」の形成に役立つ「なかま」
だけを扱うことにする。高齢者というのは基本的に定職を奪われて社会の第一線から退く
ことを余儀なくされた者たちである。彼らに必要な「場」とは、家族や社会によってお膳
立てされたものとは異なり、主体的で居心地のよいものでなければならない。その意味で
自然的な形での「なかま」概念が問題となる。
41
木村敏『自己・あいだ・時間-現象学的精神病理学-』ちくま学芸文庫 2006 年 273-274
頁。
42
同書 270 頁参照。
43
「あいだ」を意味するドイツ語は zwischen である。これは 2 人にも 3 人以上にも用い
られる。これに対して英語は、2 人には between、3 人以上には among を用いて区別する。
17
人間のあらゆる活動のうちで最も魅惑的なものは遊びであろう。遊びには「場」は不可
欠である。だが人々は「場」を作ろうと思って遊ぶわけではない。遊んでいるうちに「場」
が自然に作られるのである。つまり、遊びと「場」は一体なのである。シラーもかつて次
のように述べた。
「人間は言葉の完全な意味において人間である場合にのみ遊び、遊ぶ場
合にのみ真に人間である。
」44と。平たく言えば、遊びの味が分らない奴は人間ではないと
いうことだ。非常に鮮烈ではあるが真相をついた言葉である。シラーはカントの第三批判
に依拠しつつ、感性的衝動と形式的衝動を調和させる根本衝動として遊び衝動を掲げた。45
これは、カントのいう「遊びにおける自由Freiheit im Spiele」46に相当し、質料と形式、
特殊と普遍、必然性と自由、傾向性と義務などの対立を調和する「第三のものein
Drittes」47である。もしこのような境地を真に体現できる者がいるとすれば、それは芸術
家であろう。芸術家は常に自由であって、子どものように天真爛漫、天衣無縫になれるか
らである。だからニーチェは精神の三変化の最終段階に子どもを置き 48、岡本太郎は子ど
もの自由画を賛美した 49のではなかったか。子どもは生来遊び好きで、一時たりともじっ
としていられず、
「無邪気で、忘却、好奇心、遊び、自転している車輪、最初の運動、神
聖な肯定」 50の存在である。この子どもの精神をもう一度大人に取り戻させる当のものが
遊びである。
遊びは一般的に蔑視され敬遠されがちである。仕事は多くの効用をもたらすが、遊びは
非生産的で時間の無駄であるというのが大方の理由であろう。「かんじんなことは、目に
見えない」 51という星の王子さまの言葉は、日々仕事に追われる大人たちへの辛辣な皮肉
でもある。だがパスカルに至っては、単に仕事だけでなく、遊びも人間の惨めさを覆い隠
すための「気晴らしdivertissement」 52とみなされる。彼は、遊びのなかでも、とりわけ
人々が賭け事に興じる理由を次のように説明する。賭け事好きな人は、賭け事から足を洗
うのと引き換え条件に金銭をもらっても退屈して不幸になるだろう。なぜなら彼が真に追
44
Vgl. Friedrich Schiller, Über die ästhetische Erziehung des Menschen, in einer
Reihe von Briefen. 15 Brief.in: Schiller, Philosophische Schriften, hrs.v.Eügen
Kühnemann, Felix Meiner, Leipzig,1922, S.118. シラー『美学芸術論集』
(石原達二訳)
冨山房百科文庫 1977 年 151 頁参照。
45
Cf.ibid. 14 Brief. シラー 同書 146 頁参照。
46
Vgl.Immanuel Kant, Kritik der Urteilskraft, hrsg.v. Karl Vorländer, Felix Meiner,
1974, S.115.
47
これに合わせてシラーが影響を受けたとされるカント美学論の内容、ならびにそれを彼
がどう受け止めて発展させたのかといった問題も思想史的に検討する必要があるが、残念
ながらここでは立ち入っている余裕はない。
48
Vgl. Friedlich Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Kröner Verlag, 1969, S.25.
49
岡本太郎『今日の芸術』講談社文庫 1973 年、特に 205-223 頁参照。
50
Ibid.
51
Antoine de Saint Exupéry, Le Petit Prince, HBJ Book, 1971, p.87. サン=テグジ
ュペリ『星の王子さま』
(内藤濯訳)岩波少年文庫 1953 年 115 頁参照。
52
Cf. Pascal, Penseés, Garnier Fréres, p.109.『世界の名著(29)-パスカル』(前田陽
一編)中公バックス 1978 年 125-126 頁参照。
18
......
求したいのは賭け事の楽しみではなく、まさに熱中することそのものだからであると。 53
この説明は賭け事のみならず遊び一般の本質をよく捉えている。キリスト教文化圏の最
大の関心事は、神にいかに与るかである。神に与ることは彼らの最大の喜びでもある。だ
がそうはいっても、みんなが神に与れるわけではない。神に与れない者は甚だ惨めで不幸
であるので、この状態から免れるために遊びが工夫されたというのである。しかし遊びは、
仕事とは違って不真面目なものなので一般には拒否される。これに対して、パスカルは、
「気晴らし」としての価値を一応遊びにも認めるものの、人間の活動一般からすれば、仕
事も遊びもやはり非本来的なものとして位置づける。しかし果たしてそう言い切れるであ
ろうか。例えば株式投資は神不在の現代にふさわしい巧妙な遊びである。実態は賭け事で
あっても、そのメカニズムを理論的に解明すれば学問にもなり、ノーベル経済学賞も夢で
はない。株式投資は両刃の剣である。とすればこの種の高級な遊びも含め非本来的という
理由だけで遊びを一蹴することもできないし、また高齢者用の「場」の見地からも遊びの
効用に目を向けないのは馬鹿げている。その意味からすれば、遊びに独自の価値を見いだ
しているホイジンガやカイヨウらの遊び論は注目に値する。
西洋の歴史において「遊び」を初めて本格的に取り上げたのは、ホイジンガの『ホモ・
ルーデンス』 54である。この表題は「遊ぶ人」という意味であるが、彼はこの造語が将来
は「ホモ・ファーベル」と同じぐらいに有名になると自負している。本書の意図は、
「ま
えがき」にもあるように「文明は遊びのなかで、遊びとして、発生し展開する」 55という
確信のもとに、
「文化自体はどれぐらい遊びの性格をもっているか」 56を見きわめ、「遊び
概念を文化概念に結びつける」 57ことである。では、そもそも遊びとは何であろうか。従
来の解釈は、遊びを何らかの目的のための手段とみて、心理学や生理学の観点から二次的
にしか扱ってこなかった。また滑稽、戯れ、諧謔、痴愚などを含意する「真面目でないも
のnon-seriousness」58の範疇に遊びを組み込んできた。労働や芸術などの仕事においては
真面目さが要求されるが、遊びにおいては必ずしもそうではない。また仕事は文化創造に
寄与するが、遊びはその退廃的な性格ゆえに文化創造に寄与しないばかりか、場合によっ
てはそれをも阻害する。おそらくはこれが遊びに対する一般的な評価であろう。
では、ここでいう「真面目さ」 59とはどういう意味なのか。もし自己目的や純粋さが真
Cf. Pascal, op.cit. p.112f. 同書 125-126 頁参照。
前田陽一(編)
『世界の名著-パスカル』中公バックス(29) 1978 年 125-126 頁(139
節)参照。
54
Cf. Johan Huizinga, Homo Ludens, Boston, 1962, esp. Fwd. & pp.1-27. ホイジンガ
『ホモ・ルーデンス』
(高橋英雄訳)中公文庫 1973 年 11-71 頁参照。
55
Huizinga, op. cit. Foreword. 同書 12 頁参照。
56
Ibid. 同上。
57
Ibid. 同上。
58
Cf. Huizinga, op.cit. p.5. 同書 25 頁参照。
59
ホイジンガは、
「真面目さ seriousness」以外に「真剣さ earnest」という語も用いる(p.18、
52 頁参照)
。日本語の「真面目さ」も「真剣さ」も意味は同じである。しかし「真剣さ」
というときには、ホイジンガは意識的に「神聖さ sacred」に結びつけて使っているので注
意を要する。因みにこうした真剣さを伴う遊びは、プラトンのイデアの神聖さと一致する
というのが本書の意図でもある。
19
53
面目さを表すのだとしたら、遊びにおいても真面目さが認められるし、仕事においても不
真面目さは認められる。だから真面目/不真面目という指標はあやふやで相対的なもので
ある。さらにまた最初から真面目さが要求される遊びもある。この場合には遊びと神聖な
ものとの区別がつかず祭式、呪術、典礼、秘蹟、密議などの諸観念はことごとく遊び概念
に包摂され 60、結果的に遊びは文化創造の担い手の位置に押し上げられる。ホイジンガの
遊び論の最終的な意図はここにある。すなわち、彼は真面目さを契機にして、人間文化よ
りも根源的な遊び概念を再発見して真面目さの系列に組み込もうとしているのである。61
どのみち遊びを真面目/不真面目に関連づけても混乱するばかりである。そこでホイジ
ンガは、
「面白さ」を内蔵する遊び自体の本質を明らかにするために、まず遊び概念を賢
/愚、真/偽、善/悪といった対概念から切り離して「絶対的に根本的な生の範疇
absolutely primary category of life」 62に組み入れて、遊びを次のように定義する。「遊
びは、ある固定された時間と空間の範囲内で行われる自発的な行為または暇つぶし
(occupation)である。それは自発的に受けとられた規則であっても、絶対的に拘束的な
規則に従っている。遊びの目的はそれ自身のうちにある。それは緊張や歓びの感情と、
「日
常生活」とは「異なっている」という意識を伴う」63と。ここから遊びが(1)時間的・空間
的制限、(2)自発的な行為や活動、(3)規則と絶対的拘束力、(4)自己目的性(非生産性)、
(5)緊張、(6)歓び、(7)非日常性などの特徴をもつことが分かる。これらの特徴は、表現
が多少異なるもののカイヨウにおいても採用されている。カイヨウの規定は次のようなも
のだ。①自由な活動、②隔離された活動、③未確定の活動、④非生産的活動、⑤規則のあ
る活動、⑥虚構の活動。 64両者を比べてみると、定義がより洗練されているのはカイヨウ
のほうである。カイヨウは遊びの定義づけに際してホイジンガを下敷きにして改良を加え
ている。それは端的に賭けや偶然の遊びを追加している点にみてとれる。65
では、遊びとの関連で高齢者用の「場」の基準を考えればどうなるか。 66さしあたって
は自発的(自由な)行為や活動、自己目的性(非生産性)、空間的制約(被隔離性)、歓び
といった規定が役に立つ。
「場」が空間的制約をもつことは言うまでもないが、加えてそ
60
61
Cf. Huizinga, op.cit. p.18. 同書 53 頁参照。
これは遊びを「根本的な生の範疇」に組み込むことに矛盾する。しかし遊びをそのよう
なものとして捉えるのであれば、真面目さを排除するのは不自然である。なぜなら「生」
は「全体性」を意味するので真面目さも不真面目さも含むからである。
Cf. Huizinga, op. cit. p.3. 同書 20 頁参照。
Huizinga, op. cit. p.28. 同書 73 頁参照。
64
ロジェ・カイヨウ『遊びと人間』
(多田道太郎・塚崎幹夫訳)講談社学術文庫 1990 年 40
頁参照。
65
同書 32-33 頁参照。
66
高齢者用の「場」の基準を考えるに当たって、なぜ遊びと関連づける必要があるのかと
いう疑問が湧いてこよう。中国文化は多様で奥行きが深いが、その点では遊び文化も同じ
である。中国社会には子どもからお年寄りまで一緒に遊びを嗜むという風俗習慣が残って
いる。しかも彼らは特に「場」を選んでいる風もない。人々が集まる所はどこでも遊び場
になる。このような光景を何度か目にするうちに遊びと「場」の関連性に興味をもつよう
になり、本研究を始めるきっかけにもなった。
20
62
63
れは与えられたものでも強制されたものでもなく、自発的で楽しいものでなければならな
い。このような「場」は他の何かのための手段ではなく自己目的性を有する。この点では
「場」と遊びは一致する。次に規則と絶対的拘束力、緊張といった規定は、一般的な「場」
が問題となる場合には「場」の統制との関連で必要である。が、こと高齢者用の「場」が
問題となる場合には、高齢者にストレスや恐怖心を与えるきっかけにもなるので、逆の意
味で足枷となる。この場合には規則と絶対的拘束力に対しては例外、緊張に対してはリラ
ックスが必要となろう。ということは遊びにおける最高潮は「場」では不釣り合いどころ
か無用だということになる。
残りの非日常性についてはどうか。遊びの世界は当然のことながら非日常性を前提とす
る。人々は遊びに興じている間は日常性と断絶状態にあり、遊びが終了したときに日常性
を取り戻す。この規定は遊びにとってより根本的な特質である。遊びが規則と絶対的拘束
性、歓びや緊張、あるいは真面目さをもつといっても、これらはすべて遊びの非日常性を
前提にするからである。その意味で非日常性は遊びの本質規定に欠かせない。しかしこの
規定は「場」の形成にとってふさわしくないどころか、あってはならないものである。
日本の福祉行政、とりわけ老人医療や老人福祉は今日に至るまで失敗を繰り返してきた。
その最大の理由は日常性/非日常性の取り扱いにある。老人ホームや介護施設の多くは、
人里から遠く離れた空気の澄んだ閑静な山間部に造られているが、こうした場所での生活
は桃源郷を想起させて幸福なイメージを醸し出す。だが見方を変えれば、ハンセン病患者
たちが戦前からずっと孤島に隔離されてきたのと同じように、これは紛れもなく現代版ゲ
ットーの姿である。現代の物質文明は大量生産と大量消費を売りにして肥大し続けている。
...
....
新商品をさっと手に入れて旧商品をさらっと捨てる生活スタイルが「粋」で恰好がよいと
する刷り込みがすっかり浸透し、こうした事態をもはやだれも疑おうとしない。もしこの
無感覚さの延長に老人ホームがあるのだとしたら「姥捨て山」でなくして何であろうか。
だがこれは捨てられる側の論理である。捨てる側は自身の疾しさを隠匿するために日常性
/非日常性を転位して桃源郷だけを夢想する。彼らには捨てるなどといった感覚は毛頭な
い。日常性がいかに不幸で、非日常性がいかに幸福であるのか、といった論理しか彼らの
頭にはない。この論理は歴史上の為政者たちによってもしばしば援用された。極楽を理想
化する浄土思想はよい例である。古代日本人には死後世界は不浄や汚穢の世界であったが、
浄土思想はこのような死生観を根底から覆して非日常性を現実性に、日常的性を非現実性
に転化して、民衆たちに「死にがい」の死生観を植えつけた。こうして日常性/非日常性
の転位論理は、為政者たちが無能であればあるほど無為の政治に寄与することができたの
である。
6.まとめ:調査研究の視座
高齢者の「場」は、包み囲む空間、私的領域の公的領域への介入、
「なかま」としての
人の集合、あいだ、自由、目的、歓び、日常性などの諸要素を含む。これらを踏まえると、
アンケートの質問項目は次のような内容になるだろう。以下、サンプルを示しておく。
①
高齢者は1日の多くの時間をどこで過ごすのか?[家庭内・家庭外]
21
②
その理由は何か?[健康上の理由・家庭の事情・自分の意思・その他]
③ (家庭外の場合)よく出かける場所はどこか?[公民館・娯楽施設・公園・その他]
④
1週間に約何日間か?[2 日以下・3~4 日・5 日以上]
⑤
1日に約何時間か?[1 時間以下・2~4 時間・5~9 時間・10 時間以上]
⑥
仲間はどういう人たちか?[親戚・友人・会員・恋人・その他]
⑦
仲間は一定か不定か?[一定・不定]
⑧
(一定である場合)何年間の付き合いか?[1 年以下・2~4年・5~9 年・10 年以
上]
⑨
主に何をして過ごすのか?[仕事・雑談・遊び・勉強・旅行・その他]
⑩ (遊びである場合)遊びの種類は?[麻雀・太極拳・ダンス・トランプ・将棋・カ
ラオケ・その他]
⑪ その際に賭け事をするかどうか?[する・しない]
⑫ 「場」に対する満足度はどのぐらいか?[不満・かなり不満・ふつう・かなり満足・
十分に満足]
⑬ 異なった「場」をもってみたいか?[もちたい・もちたくない]
⑭ (もちたいが不可能な場合)その理由は何か?[経済的理由・位置的理由・時間的
理由・その他]
⑮
理想的な「場」はどのようなところか?[自由記述]
(
『広島大学大学院文学研究科論集』
(第 69 巻)2009 年 12 月 pp. 1-19 に掲載)
22
老いの「場」の研究
――自殺防止のための「場」を求めて――
松井 富美男
[キーワード:自殺、高齢者、老化、鬱、銭湯文化]
1.はじめに
日本の年間自殺数は近年 3 万人以上である。なかでも 40~50 歳の中年男性の自殺数の
増加は社会問題にもなっている。67厚生労働省は 2002 年に自殺防止対策有識者懇談会を設
置して「自殺予防に向けての提言」 68を公表した。それによると、中年男性の自殺の社会
的背景として「中年危機」があるとされる。確かに「中年危機」は、日本社会全体からみ
ても深刻である。40~50 歳といえば、会社や企業にとっては、管理職などの職務を担う中
心的な年代である。彼らが仕事や健康や家庭上の問題を色々と抱えるうちに鬱になって、
自殺に追い込まれるケースが目立って多くなっている。「提言」はこうした中年男性の現
況を指摘し、彼らの自殺が「自由意思」によるものとは違い、「追い込まれての死」であ
ることを強調し、自殺予防対策が必要な理由とその方法を提示する。こうした方向づけは、
自殺防止を重要課題として位置づけるかぎり必要であろう。だが高齢者の自殺に関しては
異なった観点からの分析も必要である。以下では、まず棄老や殺老の慣習、自殺の類型、
高齢者の自殺原因などについて検討し、そのうえで高齢者の自殺防止の「場」のモデルと
して銭湯文化を取り上げる。
2.
「自殺」と「人殺し」の区別
西洋の伝統に従えば、
「人殺し homicide」と「自殺 suicide」は法的にも慣習的にも明
確に区別される。すなわち、過失か故意かに関係なく、人間を殺せば「人殺し」あるいは
「他殺」であり、自ら命を絶てば「自殺」である。だが今日、安楽死のようなケースにお
いては、この基準そのものが揺れ動いている。耐えがたい苦痛を伴う不治の病に冒された
患者が「殺してほしい」と懇願し、医師がその願いを聞き入れて、筋弛緩剤や塩化カリウ
ムなどを用いて患者を死なせるとき、この行為が「人殺し」に当たるかどうかが論議され
ている。死を引き起こすという「行為」だけに着目すれば、この行為は死にゆく人自身に
よるものではなく、他者によるものなので「人殺し」である。しかし死にゆく人は「早く
死にたい」と願っているのだから、その意思を尊重すれば、形態的には自殺に限りなく近
い。だから表面上は「人殺し」であっても「自殺」に分類されてもよいように思われる。
このように安楽死の難しさは、行為の意図と行為の結果とが複雑に関係するところに存す
る。
67
日本人の自殺データを正確に知るには、警察庁「自殺の概要資料」、厚生労働省「人口
動態統計」、厚生労働省「自殺死亡統計/人口動態統計特殊報告」を参照するとよい。こ
れらのデータはインターネットで公開されており、日本の自殺疫学の基礎になっている。
68
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2002/12/h1218-3.html
23
「人殺し」と「自殺」の区別は、文化人類学や民族学でもしばしば問題になる。少し前
の事例になるが、この問題を考えるうえで、パプアニューギニアのカリアイ地区ルシ族の
未亡人殺しは参考になる。カウント(Dorthy Ayers Counts)によれば
69
、カリア地区ル
シ族村は平等社会であるが、老人と長兄には例外的に特権が認められている。とはいえ彼
らはその権利を自由には行使できない。それは、もし悪いことをすれば先祖の魂がやって
来て恐ろしい制裁を加えるという伝説を、彼らが信じるからである。それでも女たちは夫
からしばしば虐待される。そのとき彼女たちは我慢するか、自殺するか、さもなければ自
分の親族に訴えて報復してもらうしかない。訴えられた親族は、夫の家を取り囲み、うな
り板でもって怒りや嘆きを表明して、女たちへの虐待を止めさせ、代わりに夫から貝殻の
...
貨幣をもらう。こうすることは、男たちの所有物を傷つけたことに対する夫の償いである。
さらにまた、夫が死ぬと、残った婦人が彼の親族によって殺されるという奇習も存在す
る。 70その要点を次のとおり。①未亡人に対する夫の男親族の行為は「儀式的な殺し」で
ある、②未亡人は死にたいと思い、夫の男親族もそれに同調する、③死は社会を分裂させ
69
Cf. Dorthy Ayers Counts, “Revenge Suicide by Lusi Women: An Expression of Power,”
Denise O’Brien & Sharon W. Tiffany (eds.), Rethinking Woman’s Roles: Perspectives
from the Pacific, Los Angels: University of California Press, 1984, p.75.
http://anthropology.uwaterloo.ca/WNB/FemaleSuicideWifeAbuse.html
カウントは 1966 年から 1976 年までの間にカリアイに3回滞在し(合計 23 カ月間)、3
人の女と 2 人の男の自殺および女の自殺未遂について詳細な情報を得た。
また彼女は、
1979
年から 1985 年までの間に 7 人の女の自殺と1人の男の自殺未遂があり、さらに 1985 年の
5 月から 10 月までの間に 4 人の女の自殺があったと報告している。いずれにしても、四半
世紀から半世紀ほど前の出来事なので、その点は重々肝に銘じる必要がある。
70
カウントによれば、次のような内容である。
「私が働いた村の二人の有力者は、自分た
ちの祖母の儀式的な殺しを目撃しており、このような死が次のように行われたと教えてく
れた。時折、有力者の未亡人は、自分の息子たちやと夫の兄弟たちに、夫が死んだら直ぐ
に自分を殺すように頼んだ。もし夫の親族がみんな賛成してくれるなら、彼女はパンダス
のマットの上に跪いて、夫の親族の一人――たいては長兄――が紐で彼女の首を絞めるか、
あるいは特にその目的で作られた木剣で頭蓋骨の根元の首を壊すだろう。未亡人の行為は、
彼女が死にたがっていることを夫の親族に示していた。彼女は夫の遺体やその埋葬を悲し
むのではなく、いやに明るく、喪中に一人になってその身なりをするよりも、自分の家や
庭での日頃の仕事に精を出した。このように祖母の死を目撃した一人の資料提供者は、婦
人自身にも、夫の親族にも、彼女の行為に対する悲しみの表情がなく、死が社会を分裂さ
せるものではないとコメントした。私の情報提供者は、未亡人が死を求めそこなっても恥
ずかしいことではないと述べた。しかし彼らは婦人の殺されたいという要求を、有力者と
の結婚で得た名声と豊かさを享受してきた老女の合理的な行為として解釈した。一旦未亡
人になれば、子どもたちの世話になることに耐えられなかった。子どもたちは、彼女を無
視するか、あるいは年齢のために、つまり、不幸なことであるが、老女の一般的な宿命の
ために、その能力が落ちるとき、非生産的な扶養家族がもう一人増えることを恨むかもし
れない。私の情報提供者は、儀式的に殺された未亡人の魂は、魂の村[あの世]で夫と一
つになって永遠に一緒に暮らしたがると述べた。カリアイ地区のルシ族は、男の魂と女の
魂はたいてい別々の村で暮らし、互いに独立しているので、死後夫婦が一緒になることは
まれであるが、もしそれができれば、彼らはたぶん生前に味わった緊密な愛情関係を維持
することができると信じている」
(http://anthropology.uwaterloo.ca/WNB/FightingBacknottheWay.html 参照)
24
ない普通のものである、④未亡人の殺されたいという要求は合理的である、⑤未亡人は子
どもの世話になることに耐えられない(食糧の欠乏)、⑥夫婦はあの世でも一緒になれる
可能性がある、など。
①については、未亡人殺しを地元住民は「自殺」とみるのに対して、ドイツやオースト
ラリアの当局は「他殺」とみており、二つの見方が対立する。すなわち、未亡人殺しは、
純粋に行為の観点からすれば「人殺し」であるが、彼女自身がそれを望んでいるという意
思の観点からすれば「自殺」である。この争点はそのまま安楽死問題にも通じる。ただし、
安楽死の場合には、このほかに苦痛があるとか、不治の病であるとか、いった条件が加わ
るので注意を要する。⑤については、安楽死よりも古くからある殺老俗や棄老俗とのかか
わりが強い。
穂積陳重よれば、老人への社会的な取り扱いは、食老俗に端を発し、殺老俗と棄老俗を
経て退隠俗に至ったとされる。71彼は次のように述べている。
「蛮族が殺老俗を保続するに
付ては、・・・父老をして早く極楽往生を遂げしめ、未来の幸福を享けしむる為めなりとい
ふが如き口実を設け、敢て『口を減らす』が為めに老朽者を殺すことを公認せざるなり。
是れ実に原人と雖も亦親愛の性情を固有し、高齢者を殺すに於て、少しく其良心に愧づる
所あるに至れるの証とするに足るべし。」72と。殺老俗の目的は「口減らし」である。棄老
俗の目的も同じである。海外で大きな反響を呼び、ボーヴォワールも注目した『楢山節考』
の主題もこれである。 73
いつの時代でも遺棄の対象となるのは、乳幼児、高齢者、障害者といった社会的弱者で
あった。日本では、棄老俗はだいたい仏教文学の題材として扱われているので、本当に棄
老俗が存在したかどうかは明らかではない。例えば『枕草紙』と『今昔物語』には孝養を
功徳とする話が載っており、その中で棄老俗が言及される。その対象は、前者では「四十
になりぬる」人であり、後者では「七十に余る人」である。 74また姥捨山伝説は『大和物
語』や『今昔物語』などに見える。 75両書の間に内容的な異同が認められるものの
76
、主
題は老人を遺棄すれば自分も同じ目にあうといった因果応報である。さらにまた、柳田國
男の『遠野物語拾遺』にも、60 歳以上の老人がデンデラ野に棄てられたという記述が見え
る。77 これらの話の基になっているのは伝説や伝承である。よって棄老俗が実在したかど
うかは、ここからは明らかではない。因みに民俗学者たちは、日本には棄老俗は存在しな
71
穂積陳重『隠居論』
(復刻版)日本経済評論社 1978 年 57 頁。
同書 48-49 頁。
73
ボーヴォワールは、小説のような棄老俗がつい最近まで日本に存在したらしいなどと述
べている。
『老い』は名著の一つであるが、その点は差し引いて評価する必要があろう。
Cf. Simon de Beauvoir, La Vieillesse, Edition Gallimard, 1970. ボーヴォワール『老
い』
(上巻)人文書院 1972 年、64 頁参照。
74
『枕草子』は 244 段(
『日本古典文学大系』
(第 19 巻)岩波書店 1958 年 264 頁参照)
に、
『今昔物語』は「天竺・震旦部」の巻五の第 32 にそれぞれ見える
75
『大和物語』は 156 段(
『日本古典文学大系』
(第 9 巻)岩波書店 1957 年 327-328 頁
参照)に、
『今昔物語』は「本朝世俗部」の巻三十の第 9(『日本古典文学大系』
(第 26 巻)
岩波書店 1963 年 236-238 頁)にそれぞれ見える。
76
穂積陳重『隠居論』66-92 頁参照。
77
柳田國男『遠野物語拾遺』268(
『遠野物語』角川書店 1977 年 180-181 頁)参照。
25
72
かったと見ているようである。78だが棄老俗の存在をめぐる議論はそれほど重要ではない。
それよりも、現代のヒューマニズムからすると、棄老俗が残酷な習俗として映じることの
ほうがむしろ問題である。思えば『楢山節考』の成功は、このような甘美なヒューマニズ
... ...
ムを徹底的に排除したところにある。ここにはおりんと又やんという対照的な人物が登場
...
...
する。おりんは物分かりのよい家族思いの老人であり、又やんは往生際の悪い自己中心的
な老人である。村には口減らしのために、70 歳になると「楢山まいり」に行かなければな
らないという掟がある。この根底には、全体の利益を慮って、新しい世代のために古い世
...
代を犠牲にすることを善しとする世代間倫理がある。小説ではおりんは棄老俗の象徴とし
...
て、又やんは殺老俗の象徴として描かれている。
殺老俗は老人を意図的に殺すのに対して、棄老俗は老人を自然のままに放置する。しか
し結果的に見れば、両者は老人を死に至らしめる点で同じである。この問題は、生命倫理
で言えば、積極的安楽死と消極的安楽死の道徳的相違をめぐる議論に逢着する。患者を作
為的に死なせる前者と自然任せに死なせる後者とでは、法的には「作為」と「不作為」と
いう違いがあるものの、患者を死なせるという目的からすれば、両者は等価である。これ
はジェームズ・レイチェルスによって展開された有名な議論である。79
その点はひとまずおき、殺老俗についてもう少し見ておこう。穂積によれば、最初は飢
餓や戦争時に生存競争から老人や病人が犠牲にされたが、その風習が未開社会に受け継が
れ、やがては老生は恥辱であるが、自殺は名誉だとする社会通念を生み、殺老俗となった
とされる。しかし老親殺しが徐々に習俗化したという理由だけでは、殺老俗の説明として
不十分である。いくら習俗であっても、自分を愛育保護してくれた親の命を奪うことにな
れば、よい気がしないし罪悪感に苛まれよう。そこで「種々の理由を案出して僅に其良心
を慰め、且つ被殺者をも慰むる」80ために、
「他界説」のような宗教上の迷信が生じたと推
定される。その内容は、現世と来世の生活は同一であり、老衰してからよりも心身が健全
なうちに来世に旅立つほうがよく、その手助けとなる殺老は「至孝」や「慈愛」である、
というものだ。 81
この世とあの世を連続的に結び付ける信仰観は、古代日本人の心性にも伺われる。「常
世」や「根の国」はこの世と続いており、その間をイザナギ、スサノオ、オオクニノヌシ
らは自由に往来している。82ただし、あの世に対するイメージは「穢れた暗黒の世界」
「死
の世界」
「不老不死の世界」など色々である。いずれにしても、このような信仰観は、老
人をあの世に送り出すのに実に都合のよい考え方である。ルシ族の未亡人殺しが「合理的」
78
青柳まちこ編『老いの人類学』世界思想社 2004 年 152 頁参照。
Cf. James Rachels, “Active and Passive Euthanasia,” The New England Journal of
Medicine, vol. 292, no.2 (Jan.9, 1975, pp.78-80). ジェイムズ・レイチェルス「積
極的安楽死と消極的安楽死」
(加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』東海大
学出版会 1988 年 113-121 頁所収)参照。
80
同書 57 頁
81
同上
82
拙著「日本人の老い観―老い文化の底流を求めて―」『広島大学大学院研究科論集』第
66 巻 2006 年 28-29 頁参照。
26
79
な行為として解釈される背景には、こうした現実主義的な信仰観がある。未亡人は夫のお
蔭で恵まれた生活を営むことができ、そのよい状態は死後も続くと信じている。だからこ
そ彼女は殺されることを願い、親族や社会もそれを支持することができるのである。
以上のことからすれば、パプアニューギニアのカリアイ地区におけるルシ族の未亡人殺
しは「人殺し」としてではなく、デュルケームのいう「自殺」として扱われるべきだとす
る指摘は妥当であろう。では、デュルケームの自殺類型とはいかなるものであろうか。
3.デュルケームの自殺類型
デュルケームの『自殺論』は、現在では自殺論の古典と目されている名著である。 83彼
は、まず自殺原因を非社会的要因と社会的要因に分け、さらに社会的要因を「自己本位的
自殺suicide égoiste」と「集団本位的自殺suicide altruiste」と「アノミー的自殺suicide
anomique」の三つに分ける。第一と第二の自殺類型は、社会的拘束力の強弱によって区別
される。例えば同じキリスト教徒であっても、プロテスタントでは聖書解釈に関して教会
の拘束力が弱くて個人の自由が大きいがゆえに、カトリックよりも自殺者が多く、また既
婚者よりも身軽な独身者のほうが自殺数が多いとされる。このように第一の自殺類型は、
社会的拘束力が弱ければ弱いほど自殺者が多い場合である。第二の自殺類型は、社会的拘
束力が強すぎて、個人がもはや適応できなくなる場合である。デュルケームはその典型的
な例として軍人を挙げる。
ルシ族の未亡人殺しのような事例は「集団本位的自殺」の一種として扱われる。デュル
ケームは次のように述べる。「それらの民族[トログロディテス族やセレース人]におい
ては、老人のみならず、夫が死ぬと妻もしばしば後を追わなければならなかったことはよ
く知られている。この野蛮な慣行は、インドの風習のなかに非常に強く根をはっており、
イギリス人の努力のかいもなく長く生きつづけている」 84と。そのうえで「集団本位的自
殺」をも、 (1)老年の域に達した者、あるいは病に冒された者の自殺、(2)夫の死のあと
を追う妻の自殺、(3)首長の死にともなう臣下や家来の自殺、の三つに分類する。 85 これ
らは社会が個人に自殺を強要する点で共通する。(1)については、老人が自殺を選ぶのは、
衰弱や病苦からではなく、生き続けることで社会的に疎外され恥辱を与えられるからであ
る。また (2)と(3)については、夫と妻、主人と家来という従属関係のゆえに、妻や家来
は自殺を運命づけられるのだという。このようにデュルケ―ムは、妻のあと追い自殺を殉
死の一形態として捉えようとする。
第三の類型は、社会が混乱や無秩序に陥り、拘束力や規範が無効となる場合である。個
人との関係から言えば、社会がその無秩序のゆえに、個人に対して統合力を欠く場合であ
る。デュルケームはこうした状態を「アノミーanomie」と呼ぶ。 86無政府状態は言わばこ
の典型である。この状態は第一の自殺類型と同じように見えるが、第一の場合には、社会
Cf. Émile Durkheim, Le Suicide: Étude de Sociologie, nouvelle édition, 3e trimestre,
Paris : Presses Universitaire de France, 1960. デュルケーム『自殺論-社会的研究
-』(宮島喬訳)
(
『世界の名著』第 47 巻 中央公論社 1968 年)参照。
84
Émile Durkheim, op. cit. p.235. 同書 167-168 頁。
85
Ibid. 同上。
86
Cf. Émile Durkheim, op. cit. p.266. 同書 195 頁参照。
27
83
の拘束力や規範までもが崩れるわけではない。結局は自殺に至る動機に違いがある。第一
の場合には、社会との関係を断って孤立的な生き方を求める者が、その拠り所を失って、
絶望感や無力感に襲われることで自殺に至る。第三の場合には、経済危機などによって社
会が突然に機能停止に陥り、人々の肥大化した欲望が満たされずに、社会に焦燥や不満が
蔓延して自殺が生じる。日本でも 1990 年のバブル崩壊以降、伝統的な雇用形態が崩れて
社会への信頼が大きく揺らぎ、働き盛りの 40~50 歳代の自殺者が急増した。その傾向は
今日でも続いているが、これなども社会的統合力の不足が原因である。
以上の三つが自殺の基本類型である。これにさらに、第一と第三を組み合わせた自己本
位的なアノミー的なもの、第二と第三を組み合わせたアノミー的な集団本位的なもの、第
一と第二を組み合わせた自己本位的で集団本位的なものが加えられ、全部で六つの自殺類
型になる。しかし組み合わせがどうであれ、基本類型が社会実態を反映していなければ意
味はない。その点で最も問題になるのは、アノミー的自殺である。
デュルケームは、著しい社会不安をもたらした歴史的事件として、1873 年のウィーンの
金融危機、1882 年のパリの株式市場の破局などを挙げ、これらの翌年には、自殺数が急増
したことをデータによって実証する。短絡的に見れば、金融危機や株価暴落が貧困層を拡
大して、自殺数を増加させたと結論づけられる。もしそうであれば、好景気のときには自
殺数は減少するはずである。だが 1870 年の普仏戦争直後のドイツ統一、1878 年のパリ博
覧会の際には、自殺数は減るどころか逆に増えた。金融危機や株価暴落などの経済要因は
自殺数の増加と直接には関係ないのである。いや、むしろ貧困が自殺を抑制しているとも
言える。では、なぜ産業的・金融的な危機が自殺数を増加させるのであろうか。
デュルケームは、それは産業的・金融的な危機が社会秩序を揺るがすからだと指摘する。
そして動物の本性と人間の本性を比較しながら、この点について詳述する。動物の場合に
は、欲求と手段は均衡し、消費エネルギーだけが補償され、余剰エネルギーは貯蔵されな
い。こうした法則は、生物体の構造に根ざし、生理的・化学的に決定される。しかし人間
の場合には、欲求と手段の関係は不均衡なので、欲求は無限となって努力が報われないか、
あるいは一時的に報われたとしても、さらなる欲求が生じて、欲求不満は解消しない。そ
れゆえ欲求不満を解消するためには、欲求への情念(passion)を能力に応じて限界づけ
る必要がある。 87
情念を限界づけるものは、個人の外部にある必然的な力、つまり社会である。社会が直
接的に、全体的に、また場合によっては諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果
たすことができる。 88社会こそは個人を従わせる唯一の権威だからである。各個人はこの
権威下で自身の欲求を限界づけることができる。しかし何らかの原因で社会が混乱に陥る
と、生活の諸条件が変わって、社会は個人に対する規制力を失う。こうした状況では、人々
は何が可能で何が不可能であるのか、何が正しくて何が不正であるのかを見極められずに、
欲望が多方面に拡大して、伝統的権威は情念に対する統制力を失う。これがアノミー状態
である。この状態では、欲望は限界づけられず、生への意欲は深まるばかりである。よっ
て渇望は満たされることがなく、自殺数が急増する。ところが逆に貧困状況では、欲求充
87
88
Cf. Émile Durkheim, op. cit. p.275. 同書 205 頁参照。
Cf. Émile Durkheim, op. cit. p.275. 同書 205 頁参照。
28
足の手段が抑制されるので自殺数が減少する。
このように「アノミー的自殺」とは、社会の無秩序、無統制な状態での自殺をいう。因
みにリースマンも群衆の行動分析のために「アノミー」という概念を使用した。彼は該概
念を「不適応型maladjusted」の意味で解し、自律的な人間が社会の行動規範に一致する
能力をもつのに対して、アノミー的人間はその能力に欠けると定義した。 89またJ.タンス
トールは、『老いと孤独』において、アノミーを「社会的植物人間化」、つまり社会的価
値観から切り離された「孤独」と定義し、高齢者が特にこの傾向をもつことを指摘した。90
このように従来の自殺論が、個人の身体的・心理的傾向に基づくか、あるいは気候、気
温などの物理的環境に基づく非社会的要因を強調したのに対して、デュルケームは、自殺
の多くが社会的要因によることを明らかにした。彼の自殺論は当時としては斬新で画期的
なものであり、構造的にはフロムの自由論とも相通じる。フロムも大衆社会の出現に伴い、
自由のゆえに孤独と不安に苛まれた現代人が、権威主義的性格にコミットしたがることを
指摘し、そのような大衆心理が一面でナチズムを招来したとみる。 91もちろん、この言説
をそのまま自殺論に結びつけることはできないが、彼のいう権威主義的性格が拘束力の強
い社会と密接に関連するのは明らかである。しかしながら「自己本位的自殺」や「集団本
位的自殺」はもちろん、この「アノミー的自殺」にしても、高齢者の自殺原因を説明する
のには不十分である。なぜなら今日の状況は、デュルケームの時代とはかなりかけ離れて
いるからである。
4.高齢者の自殺原因
日本では 60 歳以上の自殺数は、平成 8 年に 8,244 人、平成 9 年に 8,747 人であったが、
平成 10 年に一気に 11,494 人に撥ねあがり、以後毎年 1 万人台を続けている。 92しかし他
の年代層に比べて高齢者の自殺率が高いことは昔から指摘されているので、このこと自体
は特筆すべきことでもない。高齢者の多くは、子育ても一応終わり定年退職をして、年金
生活をする者たちである。彼らには「中年危機」に当たるような「危機」が特に存在する
わけではない。それゆえ高齢者の自殺対策については、中年男性とも異なる方向での検討
が必要である。これまでどちらかと言えば、中年男性の自殺に多くの目が注がれ、高齢者
の自殺については等閑にされがちだった。2010 年 8 月に発覚した「高齢者の所在不在問
題」 93は、自殺問題とは異なるけれども、こうした高齢者の問題点を改めて浮き彫りにし
Cf. David Riesman, The Lonely Crowd: A study of the changing American character,
New Heaven & London, Yale University Press, 1961, p.241f. リースマン『孤独な群衆』
(加藤秀俊訳)みすず書房 1993 年 225-226 頁参照。
90
J.タンストール『老いと孤独-老年者の社会学的研究-』(光信隆夫訳)垣内出版株式
会社 1978 年 57-58 頁参照。
91
Cf. Erich Fromm, Die Furcht vor der Freiheit, Gesamtausgabe Bd.1, Stuttgart,
Deutsche Verlag-Anstalt, 1980. E.フロム『自由からの逃走』東京創元社 1991 年参
照。
92
警察庁「平成 21 年中における自殺の概要資料」参照。
ttp://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/220513_H21jisatsunogaiyou.pdf)
93
2010 年の夏に高齢者の所在不明問題が浮上した。法務省は 9 月 10 日現在、戸籍に現住
29
89
た。だが他の年代層に比べて、高齢者の自殺原因を把握しにくいのも事実である。高齢者
は自らの悩みや苦しみをあまり口外したがらないからである。こうした事情は日本に限ら
ず外国においても認められる。 94
老年の範囲は、時代とともに少しずつ変化している。日本の場合には年齢に応じて、戦
前は 50 歳半ばで、戦後は 60 歳で、そして今日では 65 歳で老年の烙印を押される。加齢
による区別は、定年制や年金制度と密接に関連し社会的なものである。かつては人並みの
仕事ができないとか、人助けが必要であるとか、病気であるとか、いったことが老年の条
件であった。
「働かざるもの食うべからず」というパウロの戒めは、人類が共同生活を営
...
み始めたときに生まれた。
『楢山節考』のおりんの歯は、年齢に似合わず丈夫であった。
歯が丈夫であるということは、食べ物を噛み砕くことができ、健康であることを意味した。
彼女はこれを逆手にとり、わざと前歯を折ることで「楢山まいり」に行くという老人の義
務を果たすことができた。 95
近代以降、老年層は加齢により労働市場から締め出されることで出現した。しかし平均
寿命が大幅にアップした現在、
「65 歳以上」という年齢基準だけでは多様な老い像を描く
ことが難しくなっている。これまで行政は、高齢者に「お年寄り」や「ご老人」というレ
ッテルを貼るだけでよかった。しかし平均寿命が、男性で 79 歳、女性で 86 歳、男女平均
で 83 歳となった現在(2010 年統計)
、紋切り型行政の弊害が「高齢者の所在不在問題」に
も現れている。一口に高齢者といっても、平均寿命の延長に伴いかなりの幅があるので、
年齢に応じた細かい対応が必要になっている。
65~75 歳未満の高齢者は前期高齢者、75 歳以上の高齢者は後期高齢者と呼ばれる。こ
のうち後期高齢者の自殺数 96は、フランスやアメリカなどでは増加傾向にあるが、中国で
所が記載されていない 100 歳以上の高齢者が、全国で 23 万人以上いるという見通しを示
した。2009 年現在日本の平均寿命は、男性が 79.59 歳で世界第 5 位、女性が 86,44 歳で世
界第1位と相変わらず高水準を維持しているものの、こうした実態が明るみに出たことで、
海外からはデータの信憑性が疑われている。これを機に、これまでの高齢者行政を全般的
に見直す必要があろう。
94
世界保健機関の「自殺防止」の「年齢階級・性別による自殺数の国別データ」によると、
65 歳以上高齢者の自殺は、日本(2007 年)では男性が 24.1%、女性が 36.1%、全体で
27.5%。アメリカ(2005 年)では男性が 17.6%、女性が 12.76%、全体で 16.65%。ヨー
ロッパでは、イギリス(2007 年)が男性で 13.8%、女性で 19.4%、全体で 15.0%。ドイ
ツ(2001 年)は男性で 32.9%、女性で 41.7%、全体で 35.2%。フランス(2006 年)は
男性で 28.8%、女性で 29.2%、全体で 28.2%。因みに中国(1999 年)は都市部で男性が
24.9%、女性が 27.6%、全体で 26.2%。農村部で男性が 30.6%、女性が 26.0%、全体で
28.1%。また都市部と農村部を合わせて、男性が 29.0%、女性が 26.4%、全体で 27.6%。
http://www.who.int/mental_health/prevention/suicide/country_reports/en/index.ht
ml
深沢七郎『楢山節考』新潮文庫 2004 年 40 頁参照。
96
これを知るには、65~74 歳に対する 75 歳以上の自殺数の増減比率を見るとよい。まず
日本は男性で-29%、女性で+13%、全体で-15%。アメリカは男性で+35%、女性で+11%、
全体で+30%。イギリスは男性で+6%、女性で-6%、全体で+2%。ドイツは男性で-5%、
30
95
は減少傾向にある。日本の場合、女性は増加傾向にあるが、男性および全体は減少傾向に
ある。よって「高齢者の死因ではとくに近年 80 歳以上で自殺の頻度が男女とも増加する」97
といった指摘も見受けられるが、実際にそのとおりであるかどうかは疑わしい。 98いずれ
にしても、他の年齢階級と比べて、65 歳以上の高齢者の自殺率が著しく高いことは確かで
ある。では、高齢者の自殺原因は何であろうか。
警察庁の「平成 21 年中における自殺の概要資料」99によると、一般には自殺原因は、健
康問題(47%)、経済・生活問題(25%)、家庭問題(12%)、勤務問題(3%)、学校
問題(1%)などである。60 歳以上の人の自殺原因は、健康問題(61%)、経済・生活問
題(18%)、家庭問題(14%)、勤務問題(2%)などで、上位の三つは一般の傾向に準
ずる。ただし、その割合については、健康問題が 61%と大きな比重を占め、経済・生活問
題はその分減少している。その内訳は、病気の悩み(身体の病気)が 52%、病気の悩み・
影響(鬱)が 32%、病気の悩み・影響(総合失調症、アルコール依存症、その他の精神疾
患など)が 10%などである。以上のことから、健康問題が高齢者の自殺原因の中心となっ
ていることが分かる。しかし健康問題のみならず経済問題、生活問題、家庭問題なども自
殺原因に複合的に関与している可能性がある。 100
女性で+36%、全体で+6%。フランスは男性で+52%、女性で+20%、全体で+42%。中国は
都市部と農村部を合わせて、男性で-24%、女性で-18%、全体で-20%。
97
大内尉義・秋山弘子編『新老年学』
(第 3 版)東京大学出版会 2010 年 499 頁参照。そ
の根拠になっているのが、厚生労働省「人口動態統計」の「性・年齢階級別自殺死亡率(人
口 10 万対)の推移」のデータである。これとほぼ同じデータは、厚生労働省の「自殺死
亡統計/人口動態統計特殊報告」でも確認できる。ただし、こちらは「性・年齢階級別自
殺死亡率(人口 10 万対)の年次比較」としており、調査最終年も平成 15 年である。また
こちらの解説には「男女とも、70 歳以上では死亡率の低下傾向がみられる」とある。ほぼ
同じデータを用いながら、なぜこのように両者においては分析結果が異なるのであろうか。
70~74 歳の自殺数は、昭和 25 年から平成 5 年頃まで減少し続け、その後一旦は平成 10
年頃まで増え続けるものの、その後は再び平成 15 年まで減少し続ける。それゆえ「年次
推移」に限って言えば、70 歳以上の自殺死亡数は確かに低下傾向にあると言える。だが
75 歳以上になると自殺数は増加すると見られている。ただし、同一のデータから、
「近年」
の傾向までも読み取るのは難しいと言わなければならない。
98
『新老年学』499 頁参照。その根拠として厚生労働省「人口動態統計」の中の「年齢階
級別自殺死亡率(人口 10 万対)の推移」の資料を挙げているが、これは「性・年齢(5
歳階級別)別自殺死亡率の年次比較」の誤りではないと思われる(厚生労働省「人口動態
統計特殊報告」参照)
。この資料に基づくかぎり、平成 2 年と平成 16 年に関しては、78
歳以上の男性の自殺率が 70~77 歳頃の男性の自殺率よりも高いことが読み取れるが、女性
についてはそうではない。高齢になれば生存者数の分母も小さくなるので、自殺率は相対
的に高まると考えられる。しかしながら、ここから「近年自殺の頻度が・・・増加する」と
いう事実は得られない。なお、
「人口動態統計特殊報告」は「男女とも、70 歳以上では死
亡率の低下傾向がみられる。
」と指摘している。こちらのほうが妥当な分析であるように
思われる。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/index.html
99
http://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/220513_H21jisatsunogaiyou.pdf
100
その辺の事情を考慮して、警察庁は近年複数回答を認めた自殺原因の調査をしている。
31
次に高齢者の自殺論に関しては、精神障害説と老化説の二つがある。10135)前者は、自
殺者の多くに精神障害の既往症や徴候が認められることを根拠に、特に情緒障害を自殺原
因とするのに対して、後者は、老化は自殺誘発性を有する精神病理的なものであって、精
神障害や自殺は老化と密接にかかわるとする。102高齢者は自身の悩みや苦しみを普段から
あまり口外したがらない。そのために自殺原因は、本人からの直接証言によってではなく、
近親者や友人からの間接証言によって事後的・回顧的に推定される。よって精神障害説は
確実性に欠ける。それにまた、精神障害罹患率に関しては若者のほうが高齢者よりも高く、
自殺率に関しては高齢者のほうが若者よりも高いと言われる。103この点からすれば、精神
障害ではなくて老化が自殺原因であると考えられる。とはいえ、老化説のように、健康、
経済力、仕事、交際等々に関する、老化による負担や喪失が自殺原因である、などと簡単
に断じることもできない。例えばアメリカでは、社会進出のチャンス、労働条件、離職率、
交際範囲のいずれにおいても、女性は男性よりも不利であるが、女性の自殺率は男性より
低いと言われる。104こうした例からも分かるように、老化による負担や喪失がそのまま自
殺に繋がるわけではない。
「老化aging」というのは、多岐的な概念である。一般的には、老化は「誕生(または
妊娠)とともに始まり死とともに終わる生物学的、心理学的、社会学的な相互作用の過
「活力低下」
「瞬
程」105と定義される。また老化とは、生物学的・医学的には「退行過程」
間死亡率の増加」
「個体生存力の低下」
「心身の機能低下」などと 106、社会学的には「役割
「パーソナリティの変化」
の縮小や喪失の過程」と 107、心理学的には「心理的特性の変化」
「高齢者像の変化」109な
「諸能力の変化」などと 108、歴史学的には「エンジング像の変化」
どと定義される。つまり、老化は「退行」
「低下」
「変化」などを含意し、従来「可能」で
あったことが「不可能」になることを意味する。老化は鬱に繋がりやすく、高齢者の鬱罹
患率は他の年齢層と比べて高い。また鬱は自殺リスクを高める。110よって鬱は自殺の直接
原因であるのに対して、老化は自殺の間接原因であると言える。
5.
「場」のモデルとしての銭湯文化
現代人は定年に達すると一様に「老人」に組み込まれ「場」から締め出される。かつて
Cf. James E. Birren (ed.), Encyclopedia of Gerontology II, Oxford: Elsevier Inc.
20072, p.576.
102
『老年学』1189 頁参照。
103
Cf. James E. Birren (ed.), op.cit. p.576
104
日本の自殺状況はアメリカとは異なる。女性では、鬱頻度は男性の 2~3 倍、生涯罹患
率は 20%を超え、また自殺の完遂率は女性よりも男性が高いと言われる(『新老年学』500
頁参照)
。
105
James E. Birren (ed.), Encyclopedia of Gerontology, I, Oxford: Elsevier Inc. 20072,
p.49.
106
『老年学』4-5 頁参照。
107
同書 1588 頁参照。
108
同書 1594 頁参照。
109
同書 1599 頁参照。
110
同書 1189 頁参照。
32
101
の老人と比べると、現代の老人は経済的にも医学的にもはるかに恵まれた状況にある。か
つての老人は、壮健でなければ長生きできなかったし、その末路も概して哀れであった。
..
例えば『平家物語』の妓王が清盛の再三の要請を固辞したとき、母とじの狼狽ぶりはいか
..
ばかりであったであろうか。111巻一の「妓王」におけるとじは、45 歳の白髪老女として描
かれている。彼女は、清盛の参上要請を固辞する妓王に対して、「年老おとろへたる母、
都の外へぞ出されんずらむ。ならはぬひなのすまひこそ、かねて思ふもかなしけれ。唯わ
れを都のうちにて、住果させよ。それぞれ今生・後生の孝養と思はむずる」112などと諌め
ている。また妓王が清盛から恥辱を受けて妹と一緒に死ぬ覚悟をしたときも、「二人のむ
すめ共におくれなん後、年老おとろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、我もと
もに身を投げむと思ふなり」113と追随の意志を示しているものの本音ではない。このよう
に一昔前まで老人の命運は子どもの経済力にかかっており、とても自立できる状態ではな
かった。
高齢者が自立するための条件として、経済力の確保、健康の維持、諸能力の維持管理な
どがある。いくら健康であっても、現代のように高度に分業化した社会では、相応の経済
力がなければ衣食住を安定的に維持することができない。もとより衣食住は人間生活の基
本条件であるから、これを欠く場合には自立生活も困難となる。次に健康については、身
体的に健康であることが最も肝要である。ベッドに寝たきりとか、人や器械の支えがない
と生きられないとかいった状態では、自立力の低下は否めない。高齢者が鬱になりやすい
のは、このような身体能力の低下ないし欠如に伴って精神が傷つき、やがて慢性化するか
らである。その意味では、
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という格言は妥当であ
る。もちろん、心身症のように、身体のどこにも悪いところがなくても、社会的なストレ
スから精神が病んで身体に悪影響をおよぼす場合もある。しかし高齢者の場合には、仕事
上のストレスは軽減されるのが普通である。にもかかわらず、高齢者の自殺率が高いのは
なぜなのか。またどうすれば、高齢者の自殺率を引き下げることができるのか。
...
高齢者は他の世代よりも鬱になりやすい。そのこと自体は老いの身体性と関連し避け難
いことである。躁と鬱は、程度差はあれ、だれにでもある。われわれはよいことに接すれ
ば気分が軽快になり、悪いことに接すれば気分が鈍重になる。それが人間の性というもの
であろう。だから高齢者の鬱傾向については、さほど心配するにおよばない。それよりも
高齢者が自身の不安や悩みを口外せずに心の奥に溜めておくことのほうが深刻である。そ
のような状態ではストレスは溜まるばかりである。それゆえストレスを解消するためには、
高齢者が気軽に語り合える「場」が必要である。
日常性から逸脱した「場」は、どんなに見栄えがよくても、不自然で寛ぎにくく、あま
り望ましいものではない。では、望ましい「場」とはいかなるものをいうのか。一例を示
せば、銭湯(江戸)や風呂屋(関西)。日本人は風呂好きなので、昔から銭湯文化が存在
111
梶原正昭・山下宏明校注『平家物語』(一) 岩波書店 1999 年
参照。
112
同書 48 頁。
113
同上。
33
36-60 頁(巻一「妓王」)
したかのように思われがちだが、そうではない。銭湯は、江戸中期以降巷間で流行し
114
、
家庭風呂が普及する以前の昭和の高度経済成長期頃まで、ごく普通に各所で見られた。
「心
ある人に私あれども、心なき湯に私なし」115とあるように、銭湯は老若男女を問わず平等
な「場」であった。また銭湯は「身を温め、垢を落し、病を治し、草臥を休むる」116を目
的とする憩いや社交の「場」でもあった。老人たちはここで身の上話や世間話をしながら
ゆっくりと過ごすことができた。117式亭三馬は『浮世風呂』でそうした「場」としての銭
湯の様子を軽妙洒脱に描いている。
銭湯にも仁義礼智信の五常というものがある。 118仁は先述の「湯を以て身を温め云々」
をいい、義は「桶のお明はござりませぬかと他の桶に手をかけず。留桶を我儘につかはず。
又は急で明て貸すたぐひ」をいい、礼は「田舎者でござい、冷物でござい、御免なさいと
いひ、或はお早い、お先へと演べ、或はお静に、お寛りなどいふたぐひ」といい、智は「糠
洗粉軽石糸瓜皮にて垢を落し、石子で毛を切るたぐひ」をいい、信は「あついといへば水
をうめ、ぬるいといへば湯をうめる。お互いに背後をながしあふたぐひ」をいう。このう
ち仁は銭湯の目的、智は銭湯の効用を示し、残りの義礼信は銭湯での相互配慮の作法を示
している。
銭湯ではしばしば盗難事件も生じた。犯人は、捕まれば棒しばりにして、顔に油を塗ら
れて追放された。しかし「我から招く禍は、他人の一切存不申事[一切存じ申さぬ事]な
らずや」119というのが銭湯の原則であって、被害者にも非を認めている。そうした盗難防
止の意味もあったのであろう。関西の風呂屋にはなかったが、江戸の湯屋には2階があり、
そこに古参の番頭が控えていた。この利用客は美服や所持品を持った裕福な男たちで、彼
らには茶が振る舞われた。また寿司、菓子、膏薬、歯磨粉なども売られ、1 か月に 6 日ほ
ど囲碁や生花などの稽古も行われたという。 120
このことから銭湯や風呂屋が当時社交の「場」として、いかに大切であったかが分かる。
なお、髪結床も銭湯と同じように社交の「場」の一つであった。121町々に「会所」が設け
られ、そこに髪結師が住み、庶民が集まった。このように「床」を持った髪結師の他に自
114
『近世風俗志』に「今世、江戸の湯屋、おほむね一町一戸なるべし。天保府命前は定
額あり。湯屋中間と云ひ戸数の定めありて、これを湯屋株と云ふ。この株の価ひ、金三、
五百両より、貴きは千余金の物あり。株数、天保前五百七十戸。
」とある(喜田川盛貞『近
世風俗志』
(四)岩波文庫 2001 年 103 頁)。銭湯は最初庶民が勝手に始めたものであった
が、後には幕府もその公共性を認知し、競合を避けるために湯屋株を認めて湯屋数を制限
し、入湯料や風紀に関しても口出しをするようになった。つまり、銭湯は江戸期には既に
芝居小屋と同様になくてはならない社交の「場」であった。
115
式亭三馬『浮世風呂』前篇巻之上(
『日本古典文学大系』63 巻 1971 年 47 頁)
。
116
同上。
117
ただし、
「定書」には「御老人御病後の御方様御一人にて御入湯かたく御無用の事」と
あるので、お年寄りは銭湯にいつでも自由に行けたわけではない(
『近世風俗志』
(四)111
頁参照)
。
『浮世風呂』には丁稚に付き添われた隠居が見える。
118
式亭三馬『浮世風呂』前篇巻之上(47-50 頁)
。
119
同上(49 頁)参照。
120
喜田川盛貞『近世風俗志』
(四)113 頁参照。
121
同書 129 頁参照。
34
分から出前して歩く髪結師もあり、
「まわりのかみゆひ」と呼ばれた。 122髪結床も銭湯と
同じように株仲間を形成し、入湯料はだいたい一定で、幕府の管轄下にあった。三馬の『浮
世床』には、楽隠居と見えたる老人が早朝に髪結床の玄関先に現れて、「起ねへか起ねへ
か。遅いぜ遅いぜ」と寝ている親方にせびる場面がある。123隠居の要求は、銭湯に行った
帰りに最初に髪結をしてもらうことである。このように髪結床も江戸庶民に欠かせない
「場」であった。
『浮世風呂』には何回か老人が登場する。それは三馬が老人の会話の面白さや魅力に気
づいていたからであろう。例えば丸頭巾に紙子の袖なし羽織姿で、口をむぐむぐさせなが
ら杖にすがり、丁稚に伴われた 70 歳ばかりの隠居
124
。彼は深夜に犬の啼き声で目が覚め
て眠れなくなり、家中を巡回したことを告げる。また銭湯の2階で医者と囲碁をさす隠居
もいる。125彼は最近身内に病人が出て碁をうつ暇がなかったと愚痴をこぼす。また死後話
題にされる老人もいる。126その友人たちのやり取りに「六郎兵衛さんも能[いい]老入だ。
息子たちはよく粒が揃て、皆大丈夫なり、娘はそれぞれにかたづくシ、モウ孫も五六人あ
る。今往生すれば残る事はねへのさ。あの人も若い内苦労したから、老て楽をする。」と
ある。その当時にも、苦労して育て上げた子どもから孝養されることを人生の喜びとする
風潮があった。
..
極めつけは、湯船の脇に糠をこぼしながら口をむぐむぐと動かす 70 歳のさる婆と 60 歳
..
.
のとり婆の二人。127彼女たちの会話は生き生きとしており、リアリティに富む。例えばさ
.
る婆が下戸ゆえに老いの苦しみから解放されずに「娑婆には倦じ果てた」「早くお如来さ
..
まのお迎をまつのさ」などと述べるのに対して、とり婆は「死んだ跡は勝手にするがいい。
此世の事さへもしれねへものが、死んだ先がどう知れるものか。寝酒の一盃ツヽも呑んで
快く寝るのが極楽よ」
「こちとらは不断息子や嫁に云って聞かせるのさ。手めへたちはの、
おれが活て居る内にうまい物をたんと喰せろとの。死んだ跡で目がさめるな。」などと述
..
べ、二人の会話はテンポよく流れる。また湯船での嫁評も対照的である。とり婆の嫁はよ
..
くできているが、孫が授からないことが悩みの種。一方、さる婆には 5 人の孫があって一
見幸せそうである。だが彼女は、嫁が大食いの大酒飲みで、家事をしないうえに口達者で
..
寝てばかりいると不平を漏らす。するととり婆が「姑は遠くへ退居るがいい。とかく姑が
口を出すと収まらねへよ。おめヘ死にたい死にたいといふから、死んだ気になって居れば、
何もやかましい筈はねへ」128などと諭す。さしずめ現在なら、カウンセラーが言いそうな
台詞である。このような会話が湯船で交わされることがなんとも妙である。
122
同上。
式亭三馬『浮世床』
「柳髪新話浮世床初篇巻之上」
(『日本古典文学全集』(47 巻)小学
館 1971 年 264 頁参照)
。
124
同書 前編巻之上(57 頁)参照。
125
同書 前編巻之上(65 頁)参照。
126
同書 前篇巻之下(88 頁)参照。
127
同書 二編巻之上(122 頁)参照。
128
同書 二編巻之上(127 頁)参照。
35
123
問題はこれらの会話が虚構か現実かといったことではない。二人の老婆がだれからも干
渉されずに自由に語り合える「場」があることが重要である。ここでの会話が真実のよう
に思えるのは、彼女たちが日頃の警戒感や緊張感から解放されて、そのありのままの姿を
曝け出すのに銭湯が格好の「場」だからである。つまり、会話にふさわしい「場」こそが
会話にリアリティを与えるのである。とはいえ、今日ではこうした「場」を見いだすこと
はますます困難になっている。だから風呂文化をいたずらに吹聴するのもどうかと思うが、
老いの「場」のモデルとして、銭湯を捉え直してみるのも悪くない。失われた老いの「生
きがい」が垣間見えるに違いない。
(
『広島大学大学院文学研究科論集』
(第 70 巻)2010 年 12 月 pp. 1-17 に掲載)
36
QOL 概念の検討-生命倫理及び老い研究のキーワード-
松井 富美男
1.はじめに
まず簡単に私の自己紹介をさせてください。私は思想文化学の倫理学分野に所属してい
る松井と言います。河西先生がこの時期に海外出張されるというので、急きょピンチヒッ
ター役を仰せつかりました。ピンチヒッターというのは、あくまでも正選手の代理ですの
で、間違ってもホームランなどを打って存在感をアピールしてはいけません。せいぜいバ
ントで相手のエラーを誘うというような地味な活躍に徹するべきです。そうでないと正選
手のポジションを奪うことになりかねないからです。今日の私の講義もその意味であまり
面白いものではありません。そのことを最初にお断りしておきます。
私の専門はカント及びそれ以後の西洋近現代倫理思想です。哲学は思弁的な学問ですの
で、抽象的な問題が扱われます。そのために時々自分のやっている学問が現実とどうかか
わるのかが分からなくなります。私が生命倫理を勉強するようになったのは、自分の専門
が実際にどう役立つのかを検証する意味もあったのです。その生命倫理では QOL は、重要
なキーワードです。
次に、私は現在老いの研究を行っています。その点について、もう少し補足しておきま
す。私の研究室にかつて福建師範大学出身の L さんという中国人留学生がおりました。彼
は博士号を取得して中国に帰り、現在母校の教師をしています。2004 年に私は初めて中国
に行き、L さんの勤務校で生命倫理の講演をしました。講演後、福建師範大学の先生方か
ら、日中で共同研究をしませんかと相談を持ちかけられました。そのときに、生命倫理を
研究テーマにするのは中国ではまだ早い気がして、私のほうから老人問題はどうですかと
提案しました。老人問題は 21 世紀の中国でも重要な社会問題になると予想されるので、
ちょうどいいと考えました。
このようなわけで、以後老人問題について少しずつ研究しております。現在は、老いの
QOL を「場」の観点から捉えなす研究をしています。しかし改めてこのような研究に着手
してみると、QOL 概念が多分野にまたがって曖昧なことに気が付きます。今回はその話を
したいと思います。
2.QOL の曖昧さ
2.1 Life の訳語
QOL は Quality of Life の略語で、一般には「生命の質」「生活の質」
「人生の質」など
と訳されます。すなわち、Life をどう訳すかでその意味内容が異なります。日本人は Life
に対して、
「生」
「いのち」
「生命」
「生活」「人生」などの訳語を当てて、それぞれを区別
します。しかし西洋人は、これらの意味をすべて包含した概念として Life を了解してい
ます。では、
「生」
「いのち」
「生命」
「生活」「人生」という日本語は、どのように区別さ
れるのでしょうか。
「生」は「生きる」という動詞を基にしています。仏教ではこの語を「生老病死」のよ
37
うに「しやう」と読むのが普通です。これとは別に、「生の哲学」(philosophy of life、
Lebensphilosophie、phiosophie de la vie)のように、意識的に「せい」と読ます場合
もありますが、これはむしろ特殊な使い方です。ベルクソン、W.ジェームズ、ジンメル、
ディルタイらの哲学がこれに該当します。彼らは「生」を連続的・全体的な根源現象とし
て把握する点で共通します。
まず、
「いのち」はやまと言葉ですが、この語は「チ」という音を含みます。
「チ」には
「霊」という漢字が当てられ、
「血」や「乳」と同様に人体の中に流れているものを指し
ます。この場合には「いのち」は身体の内側に宿る霊魂の意味になります。次に、
「生命」
は古くは畜生の生命に限定して用いられ、「しやうみやう」と読まれました。明治以降は
「せいめい」と読まれ、
「生命観」
「生命権」
「生命保険」
「生命科学」のような造語に用い
られました。また、
「生活」は「生きること」の他に「活動」の意味を併せ持ちます。
「生
活」は人間に特有なもので、他の動物や植物には当てはまりません。他の動物や植物では
自然環境が重要ですが、人間では自然環境よりも社会環境がより重要です。さらにまた、
「人生」は文字通り人間の「生活」の連なりを表し、いっそう時間的、歴史的な性格を帯
びます。
以上のように、日本語の「生」
「いのち」
「生命」
「生活」
「人生」はそれぞれ意味を異に
します。そのために QOL を「生命の質」と訳すか「生活の質」と訳すか「人生の質」と訳
すかで、その意味も異なります。このように見てくれば、QOL の曖昧さは、まずその訳語
に由来することが分かります。
2.2 Life のレベル
人間も生き物である以上、他の生き物と同じように「生物学的生命」
(human biological
life)を持ちます。これはあらゆる生き物が共通に持つ生命維持や代謝系と関連します。
しかし人間はこれ以外に「人格的生命」
(human personal life)をも併せ持ちます。これ
は思考能力、判断能力、選択能力などの諸能力と関連します。まさにこの能力のゆえに人
間はホモ・サピエンスと称されます。
このように人間の生命をレベルによって区別するのは、生命医療技術が高度に発達した
現代社会特有の現象です。例えば無脳症児、乳児、植物人間が生物学的生命を持つことは
明らかであるとしても、人格的生命を持つかどうかは議論の余地があります。後で取り上
げますが、一般的には SOL は生物学的生命を支持するのに対して、QOL は人格的生命を支
持します。
2.3 Quality の両義性
QOL 概念が曖昧なのは、Life が曖昧なのに加えて Quality が両義性を持つからでもあり
ます。Quality は普通「質」とか「性質」とか訳されますが、Life のように特にその訳語
が問題になるわけではありません。問題となるのは「質」の意味です。
「質」は「量よりも質」とか「量から質への転換」とかいった具合に一般に「量」に対
比されます。そうした使い方では「質」は「量」よりも価値が高いことを意味します。こ
うした「質」と「量」をめぐる議論を歴史的に展開したのは、J.S.ミルです。彼は功
38
利主義の創始者ベンサムが「強さ intensity」
「持続性 duration」
「確実性または不確実性
certainty or uncertainty」
「遠近性または疎遠さ proprinquity or remoteness」「多産性
fecundity」
「純粋性 purity」
「範囲 extent」という七つの価値基準を立てて快楽計算の可
能性を示唆したのに対して、
「満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうがよく、
満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」と述べて、快の質差を問
題にしました。そして快には高級なものと低級なものがあり、高級な快は感受性の能力、
あるいはそれに比例する尊厳の感覚によって把握されるとしました。またミルは、「満足
content」と「幸福 happiness」を区別して、高級な快を感受できる人は、幸福は不完全な
ので幸福追求には不満が伴うことを十分に承知していると言います。すなわち、「満足」
という観念は「量」に関係し、
「幸福」という観念は「質」に関係します。それゆえ「満
足した豚」や「満足した馬鹿者」とは、低級な快しか感じ取れない人々を象徴し、「不満
足な人間」や「不満足なソクラテス」とは、高級な快を感じ取れる人々を象徴します。
このように「質」と「量」を対比させると、「質」が「量」よりも価値が高いことが分
かります。
「量から質への転換」というのは、こうした序列関係を前提にします。しかし
範疇としては「質」と「量」は並列的であって、ともに対象構成に欠かせません。だから
「質」がいつでも「量」よりも価値的に勝るというわけでもありません。
以上は「量」と対比される「質」の意味です。次に、「質」が「生命」と結びつく場合
には、QOL に関する主張や言明は、評価的であるか、道徳的に規範的であるかのいずれか
です。すなわち、Quality が前者では「性質」を表すのに対して、後者では「規範」を表
します。
評価的な QOL とは、ある有用性や価値のある特性を「生命」が含むことを意味します。
よって、このような特性を持つかぎり「生命」は望ましいものとして称賛されます。これ
に対して、道徳的に規範的な QOL とは、ある「生命」を積極的に維持すべきかどうかとい
.....
った道徳的判断を含みます。この場合には QOL は「生命」の目指すべき規準となります。
それゆえ「生命」が QOL を満たす場合と満たさない場合とでは「生命」の取り扱い方も異
なります。ミルが「不満足なソクラテス」や「不満足な人間」を挙げる場合も、明らかに
この意味での「質」が問題になっています。
3.SQL と QOL の対比
3.1 ソクラテス的命題としての QOL
ソクラテスは、クリトンからの脱走の誘いを、「生きることではなく、よく生きること
が大切だ」と言って断ります。そのことは死刑になること、つまり直ちに死ぬことを意味
します。またクリトンがソクラテスの脱走を大衆は支持するだろうと主張したのに対して、
ソクラテスは大衆の意見、つまり社会一般の価値観に従うことが必ずしも正しい生き方で
はないと反論します。大衆の意見に従えば、一番大切なのは自身の生命なので、賄賂を駆
使して国外に退去することはよいことだとされます。しかしソクラテスは、それは不正を
なすことであり、不正をなすことは不正を被ること以上に悪く、不正をなすことはよく生
きることではないと反論します。このやりとりは、今日の終末期医療にも当てはまります。
ただし、ソクラテスの死の動機は「不正をしない」ことであって、そのことが「よく生
39
きる」という意味でもあります。すなわち、「よく生きること」は「生きること」そのも
ののうちにではなく正義の順守にあり、その結果として「死ぬこと」が「よく生きる」と
いう逆説を含みます。終末期医療では、例えば植物状態の患者を生かし続けることは、彼
らにとってよき生を保障するかどうかといった議論になります。その際に QOL が関係して
きます。すなわち、植物状態の患者は健常者と比べて QOL が著しく劣るので、そのような
状態で生きたとしても「よく生きる」ことにはなりません。この場合「よく生きる」とは
死を選択することです。
3.2 「神の似姿」に根拠づけられた SQL
動植物などの他の生命と比べて、人間の生命はより高い価値を持つのでしょうか。仏教
では生きとし生けるものはすべて等しく、人間だけが特別な扱いを受けるわけではありま
せん。ただし、人間の生命が草木鳥獣の生命よりも高い地位を占め、死後再び人間に生ま
れ変わることは至難だとされます。ここにはあらゆる生命は輪廻するという万物流転の考
え方があります。この限りでは人間の生命も特別なものではなく、相対的な価値しか持ち
ません。これに対してキリスト教では、人間の生命は神と結びついて特別な価値が与えら
れます。人間は神の「似姿」を持ち、地上の支配権を委ねられて、他のあらゆる被造物を
自身の手段として利用することが許されます。だが人間は単なる暴君であってはなりませ
ん。ノアの箱舟譚のように、他の被造物の庇護者としての役割を求められます。このよう
に人間の生命のみに与えられる崇高な価値は「神聖 Sanctity」と呼ばれます。これはあら
ゆる人間生命に平等に与えられる内在的な価値です。つまり、人間は生きているという、
ただそれだけの理由で絶対的な価値を持ちます。これは文字通り生命至上主義の考え方で
す。
3.3 QOL と SQL は両立可能か?
このように見てくると、QOL が相対的な生命観によって支えられ、SQL(Sanctity of Life
/生命の神聖)が絶対的な生命観によって支えられ、両者が両立不可能なことが分かりま
す。これが一般的な見方です。それに対してエドワード・W・カイザーリングは人間の生
命を「生物学的生命」と「人格的生命」に区分することで QOL と SQL は両立可能であると
の見解を示しました。彼は SQL の根拠として、まさに生命が人間の生命であるという点が
重要だとしました。つまり、人間がまさに人間として生きることに価値があり、それゆえ
SQL に値するのは単なる「生物学的生命」ではなくて、むしろ「人格的生命」であるとし
ました。当然のことながら、この「人格的生命」を尊重する考え方は QOL に矛盾しません。
QOL というのは前述のように「よく生きる」ことを標榜するからである。こうしてカイザ
ーリングは、人間の生命のうち、特に「人格的生命」が問題となる限り、SQL と QOL は両
立可能であると論じました。すなわち、QOL を高めるとか QOL を維持するとかいった場合
には「人格的生命」が問題になっており、このレベルでの人間生命が維持されない限り、
治療や延命の中止は正当化されます。
3.4 安楽死や尊厳死の脈絡での QOL
40
これまでの議論では、QOL は「よく生きる」というソクラテス的命題によって象徴され
ます。しかし「よく生きる」という場合の「よさ」に関しては、客観的な観点が問題にな
り、主観的な観点はあまり問題になりません。例えばエアコン、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、
パソコンなどいろいろな電化製品に囲まれた生活は確かに快適に違いありません。その場
合、快適さはこれらの電化製品をどれだけ所持するかで決定されます。すなわち、快適さ
は電化製品の量に比例します。しかし世の中にはテレビやエアコンなどに関心がなく、そ
れらがなくても不快に感じない人もいます。一般の意識調査ではこのような主観的な観点
は無視されるのが普通です。
しかし安楽死や尊厳死との関係で QOL が問題にされる場合には、このような主観的な観
点がむしろ重要になります。どのような状況で人々が安楽死や尊厳死を望むかは個人差が
大きくて一概には決められません。不治の病に冒され死期が迫っていても、最期の最期ま
で生き続ける人もいれば、余生は意味がないとして途中で死を選ぶ人もいます。前者はな
によりも「生命」を大切にする生き方であり、後者は「生命」よりも QOL を大切にする生
き方です。その際に「生命」よりも重視される QOL の中身とは何でしょうか。
オランダは世界に先駆けて安楽死を合法化した国です。この国では昔から個人の自由
や自律が尊重されます。そうした風習は独立戦争後に培われてきたとされますが、現在で
もドラッグや売春などにその影響を見て取ることができます。事実上黙認状態なのです。
この考え方を敷衍すれば愚行権の容認に行きつくかもしれません。公営ギャンブルにのめ
り込んで身を持ち崩すのは愚かな行為であっても合法的です。その責任は自分自身にあり
ます。なぜならそのような愚行をなすことを決定したのは、ほかならぬ自分自身だからで
す。これがいわゆる自律になるのかどうかはよく考えなければなりません。
少なくともカント的文脈からすれば、このような行為は他律であって自律ではありませ
ん。自律というときには、理性に従う必要があるので、このような愚かな結果をもたらす
行為は自律になりえません。しかし結果がどうであれ、ここには自己決定が認められます。
これが QOL の中身として最も重要なものです。オランダ人は心身の独立を重視します。誰
かの世話になって生きることは彼らの尊厳を冒し、生きがいを失わせます。そうした判断
から、生きられるにもかかわらず、安楽死を選択することになります。この場合 QOL の中
身はプライドとか尊厳とかいったものになります。
3.5 対処能力に欠ける状況での QOL
安楽死は確かに緊張を強いられる問題ですが、道徳的には理解しやすいものです。不治
の病に冒され死期が迫って痛みもある人が死にたいと願っている場合、苦しい状態のまま
で放置して死なせることは、明らかに残酷です。ただし、安楽死は単に道徳問題だけで成
り立つわけではありません。安楽死には近親者の感情、法的な免責問題、社会的な影響な
ど他の側面が含まれます。しかし道徳問題に限ってみた場合には、意外に争点は明確で、
当人が本当に死にたがっているどうかが問題になるだけです。つまり、自己決定の有無が
正当化の重要な鍵になります。この限りでは安楽死問題は、自殺問題に通底すると言えま
す。もっとも、キリスト教の立場からすれば、元来人の生命は神からの預かり物であって、
生死の決定も神に委ねられるべきものなので、自殺も罪になります。このような特殊事情
41
を除けば、一般には安楽死における道徳問題は、深刻ですが見えやすいものです。
これに対して、安楽死問題に酷似し、時々誤って消極的安楽死に分類されるものとして、
対処能力(Competence)に欠ける人をどう扱うかといった問題があります。この場合には、
当人の意思の有無よりも当人の最大利益をいかに実現するかが重要です。安楽死では自己
決定の原理が中心となるのに対して、ここでは他者決定の原理が中心になります。
なお、ここでいう対処能力とは、経験的、相対的な閾概念です。これは例えば「彼は X
をどうにかすることができる。
」
(He is competent to manage X.)といった使い方をしま
す。例えば認知症高齢者は、周囲の人々の日常会話を理解できなくても、自身の利害にか
かわる会話は理解できる場合があります。このように対処能力は人によって、状況によっ
て異なるので、個人個人に応じたきめ細かい対応が求められます。
自分が置かれた状況を把握できずに、自分の問題についても意思表示できない人を、他
者が扱う場合に指針となるのが QOL です。この場合には、功利主義的な観点から、当事者
............
にとって最善になるものが求められます。その際に、最善が積極的に何かをなすことで生
...
........
みだされる場合もあれば、消極的になされるか、あるいは何もしないことで生み出される
場合もあります。つまり、積極的に何かをなすことで、小さなプラス価値と同時に大きな
マイナス価値が見込まれる場合には、何もしないという選択肢もありえます。この場合に
は、ある処置が QOL を高める効果があるかどうかがまず問われ、そのうえで、もしその効
果がないと認められれば、現状の QOL を維持できるかどうか、すなわち QOL を低下させな
いかどうかが問われます。
このように、ここでは QOL が他者決定の重要な要素となります。
4.WHO の QOL 概念
4.1 「健康」の定義
先端医療技術の目覚ましい発達により、病気と健康の境界、治療とエンハンスメントの
境界が次第に曖昧になりつつあります。十組の夫婦に一組の割合で存在すると言われる不
妊は、かつては運命と見なされましたが、今日では病気として位置づけられる傾向にあり
ます。このように「健康」や「病気」の概念が大きく揺らいでいます。これまで「健康」
に関しては、WHO の定義が標準でした。それによると、健康は「単に病気でないというこ
とではなく、身体的、精神的、社会的に完全に安寧な状態」
(a state of complete physical,
mental, and social well-being not merely the absence of disease)として定義され
ます。もとより「健康」は規範概念です。つまり、ある状態が健康であるか病気であるか
は、一定の基準のもとで判断されます。例えば収縮期血圧が 130mmHg 未満、拡張期血圧が
85mmHg 未満の状態は正常であり、収縮期血圧が 140mmHg 以上、拡張期血圧が 90mmHg 以上
の状態は高血圧であると診断される場合などがそうです。ここでは一般的な基準がものを
いいます。
WHO の基準で注意したいのは、
「健康」を身体面だけでなく精神面も含めた統合的な概念
として捉えている点です。古代ローマの風刺詩人ユウェナリスの言葉を誤訳したと伝えら
れる「健康な肉体は健康な精神に宿る」といった健康概念は、言うまでもなく WHO が提唱
する健康概念とは大きく異なります。前者は要するに、身体よりも精神を重視するもので
すが、WHO の健康概念は身体と精神の統合を目指すものです。戦前の日本では「武士は食
42
わねど高楊枝」や「欲しがりません勝つまでは」式の精神主義が持てはやされましたが、
このような精神偏重の健康概念は、今日では非科学的として広くは受けとめられていませ
ん。
4.2 QOL の定義
また WHO は、QOL についても、
「個人が生活する文化や価値観の中で、目標や期待、基準
や関心にかかわる自分自身の人生の状況についての認識」(individuals’ perception of
their position in life in the context of the culture and value system in which they
live and in relation to their great expectations, standard and concerns)という
定義を与えています。この定義は、生命倫理だけでなく、医学、心理学、老年学、リハビ
リテーション、社会政策などの他分野でも、標準的なものとして信奉されています。かつ
て生命倫理分野で QOL が問題になった事例として、1983 年のナンシー・クルーザン事件や
1991 年のヘルガ・ワングリー事件などがあります。前者は、交通事故で植物状態になった
ナンシーの家族が延命処置を拒否して「死ぬ権利」を要求したものであり、後者は 86 歳
のヘルガ・ラングリーを介護する夫が医師団の治療打ち切りの方針に反対したものです。
二つの事例の共通点は、QOL を根拠にして、前者では家族が、後者では医師団が、無益な
医療行為を拒否している点です。ここには QOL の改善に繋がれば有意味、そうでなければ
無意味であるとの判断が働いています。
4.3 QOL の評価指標
QOL は単に想像上の産物ではありません。前述のように、QOL には客観的なものと主観
的なものがありますが、主観的なものであっても評価可能でなければならない。それゆえ
QOL は定義と共に、それに応じた評価指標を持ちます。それがどのような内容になるかは、
人によって解釈が異なります。因みに、WHO は 1992 年から 1997 年まで 5 年の歳月をかけ
て、異文化間でも比較可能な QOL の評価指標を作成しました。それには「WHOQOL-100」と
簡易版の「WHOQOL-BREF」とがあります。WHO は「WHOQOL-100」の作成に当たり、世界中の
15 のセンターの協力を得て、約 300 個の質問項目からなる広範な実験テストを 4500 人以
上に行い、そのデータ結果から 100 個の質問項目を選びだしたとされます(Field Trial
WHOQOL-100, Febuary 1995)
。ただし、
「WHOQOL-100」は国際的な基準とはいえ、1997 年発
行の日本語版は、英語版をそのまま翻訳したものではありません。文化や言語に合った質
問項目の改編を WHO は認めています。しかし大筋の形式やスタイルは一致しています。例
えば、英語版では「問1:あなたはこの 2 週間で自分の健康にどのぐらい不安を感じまし
たか?――回答:1.全くない/2.少し/3.普通に/4.非常に/5.相当にひどく」
のように五択方式になっています。
「WHOQOL-100」はこのようなやり方で 100 回質問を繰
り返します。
「WHOQOL-BREF」は「WHOQOL-100」の簡易版です。これは身体的・心理的・社会関係的・
環境的の四領域にまたがる 24 の質問項目と、QOL に関する2つの包括的な質問項目からな
ります。例えば「問1:あなたは自分の QOL をどう評価しますか?――回答:1.非常に
貧しい/2.貧しい/3.貧しくもよくもない/4.よい/5.非常によい」「問2:自
43
分の健康に対する満足度はどれぐらいですか?――回答:1.非常に不満/2.不満/3.
満足でも不満でもない/4.満足/5.非常に満足」のように。回答は同じく五択方式で
す。
なお、WHO は QOL の評価指標を作成するに当たって、様々な文化の病人、健常者、医療
専門家の意見を基にしているので、この指標は病人、障害者、老人、健常者らいろいろな
タイプの人間や集団に応用可能です。
5.QOL 概念の再構築
5.1 QOL 概念のパラドックス
QOL はしばしば人間の「尊厳」を保障する原理として持ち出されます。そのこと自体は
間違いではありませんが、
「尊厳」が自身の扱われ方に疑問を持つ強力な原理として使用
されるのに対して、QOL はそのような「自身」の観点を持たないことに注意しなければな
りません。QOL は生命倫理、医学、政治や法、介護などの領域で使用されますが、その大
方は「中止」や「打ち切り」を正当化する目的で使用されます。すなわち、QOL はそれよ
り下を切り捨てる「線引き概念」なのです。例えば、医療資源の配分、公共事業への投資、
経済支援先の選択などにおいては、効率性・合理性・有用性などの諸価値が求められます。
QOL の向上が見込めないものは、いかなる大義名分があろうとも、無意味なもの、無益な
ものとして切り捨てられます。その運動方向は「尊厳」とはおおよそ逆方向です。QOL と
いう心地よい表現の裏に、このようなパラドックスが潜んでいることに注意しなければな
りません。
5.2 「生きがい」と QOL
「生きがい」という概念に最初に着目したのは神谷美恵子です。彼女はハンセン病(ら
い病)患者に日々向き合うなかから、このような人間的な概念に行き着きました。彼女に
よれば、
「生きがい」という言葉は日本語に特有なもので、曖昧ではあるが余韻があり、
「日
本人の心理の非合理性、直観性をよくあらわしているとともに、人間の感じる生きがいと
いうもの、ひとくちにはいい切れない複雑なニュアンスを、かえってよく表現している」
(
『生きがいについて』
)とされます。ハンセン病患者が絶望の中でも生きていけるのは「生
きがい」があるからです。すなわち、「生きがい」というのは、人生のうちに積極的価値
や精神的充実感を見いだそうとする意識を言います。
このように積極的価値を志向する点では「生きがい」と QOL は似ています。しかし両者
はそれぞれ視点を異にします。
「生きがい」では「自己」の視点が問題となりますが、QOL
では「他者」の視点が問題となります。逆はありえません。例えば、他者によって自分の
「生きがい」が決定されるとしたらどうでしょうか。その場合には「生きがい」に含まれ
る価値性は阻害されるでしょう。また誰もが QOL を自分自身の基準で決定するとしたらど
うでしょうか。その場合には QOL は「価値」との交換概念に過ぎず、何の意味もなさない
でしょう。それゆえ、あくまでも「生きがい」は主観的な自己の視点から、QOL は客観的
な他者の視点から汲み取られなければなりません。また「生きがい」と QOL は方向性にお
いても異なります。
「生きがい」は Life の謳歌や充実を目指すのに対して、QOL は Life
44
の限界を意識させて諦観を呼び起こします。その意味で両者は別方向のベクトルを持ちま
す。
5.3 老いの QOL
若年や壮年の QOL と比較するまでもなく、心身能力、経済力、社会的役割などの低下に
より、老年の QOL が著しく劣るのは当然でしょう。老いとは、個人差があるものの、心身
.....
......
能力が徐々に衰え始め、これまで普通にできていたことができなくなる状態をいうので、
老いの QOL は相対的に低くならざるをえません。それゆえ老いの QOL を他の年齢層と比べ
てもあまり意味がありません。逆に言えば、QOL が低くなければ「老い」とは言えません。
このように老いの QOL は一般には低いですが、その老い状態にも程度差があります。趣
味などに興じて悠々自適な生活を送る高齢者では QOL はより高く、寝たきりや認知障害な
どの要介護高齢者では QOL はより低いと言えます。これは生活能力全般が問題となる場合
であって、基本的には自立力の有無が重要な鍵となります。
老いの QOL をこの意味で評価したいのであれば、先述の「WHOQOL-100」や「WHOQOL-BREF」
も指標として有効です。しかし注意しなければならないのは、こうした評価指標による結
果が何を意図しているかということです。これは老いに限ったことではありませんが、極
端にポテンツが低下し、QOL の向上ないし回復が見込めない場合には、配分、投資、治療
等が不経済や無駄との理由で中止されたりします。その客観的な基準として QOL がしばし
ば用いられます。
この意味での老いの QOL であれば、できるだけ家族の世話にならないとか、公的サービ
スを受けないとかいった具合に、老いは悲惨や醜悪の対象として消極的価値しか持ちませ
ん。それゆえこのような評価指標では不十分です。
老いの積極的価値を追い求めるには、「生きがい」なども取り込んだ評価指標が必要で
す。それは高齢者の幸福観と深くかかわり、「満足した豚であるよりも、不満足な人間」
や「満足した馬鹿であるより不満足なソクラテス」といったミルの言明にも相通じます。
.
しかし幸福観を幸福についての「私観」とみるなら、快の質差が快楽計算を不可能にする
といったパラドックスは、老いの QOL 評価においても生じます。しかしこの場合、パラド
...
ックスの程度は小さなものです。若年は加齢による心身の衰弱を心配する必要がないから、
享楽がしばしば健康よりも優先します。しかし老年はそうではありません。健康は老いの
QOL にとって最も本質的な要素です。それゆえ、主観的な QOL がどれほど強調されても、
無病息災や長寿といった健康志向の価値観が中心になります。この点では個人差はあまり
問題になりません。とはいえ、やはり人によって老いの状態は異なるので、主観的な価値
観が問題になれば、当然個人差が生じます。しかしそのバラツキは若年や壮年ほど大きく
ありません。それゆえ老いの QOL の客観化に不満を感じても「不満足な人間」や「不満足
なソクラテス」ほどではなく、各人の程度差も僅少にとどまります。
5.4 老いの QOL と「場」との相関性―まとめにかえて-
主観的な QOL を「生きがい」と同じ意味で理解してよければ、「場」との相関性は重要
です。
「場」の定義及びその成立要件については省略しますが(拙著「老いの「場」に関
45
する基礎的研究」参照)
、ここでは「場」が老いの QOL 評価にどのように影響するかとい
った点だけを見ておくことにします。「場」は多かれ少なかれ社会的、歴史的、文化的な
諸要因から成り立ちます。日本でも中国でも娯楽の「場」として公園、広場、公民館、多
目的施設などが選ばれたりしますが、こうした「場」がいかなる機能を持つかといった点
も無視することにしましょう。
一般には、多くの「物」に囲まれた生活は豊かさを反映していると考えられがちです。
このような物質主義からすれば、
「場」も社会的な豊かさに比例して居心地のよい空間に
変わっていきます。この限りでは「場」は、QOL に影響を与える独立因子ではありえず、
むしろ QOL のうちに包摂されます。若年や壮年の QOL が問題となる場合にはこうした見方
もあながち的外れとは言えません。しかし老いの QOL が問題になる場合にはこれとは別の
視点が必要です。なぜなら心身能力の衰退や自立力の低下を伴う老年においては QOL 自体
が低下しており、それに伴う「場」もさほど魅力的ではないからです。
「場」が QOL に影響を与えるためには、
「場」は QOL から独立していなければなりませ
ん。このような「場」は QOL によって規定されるのではなく、反対に QOL を規定すること
ができます。すなわち、
「場」が初めて高齢者に「生きがい」を与えるのです。もしこの
ような「場」が可能であれば、高齢者の低い QOL を高める効果を「場」は持つに違いあり
ません。しかも「場」である限り、けっして個人的な自己満足では終わりません。「場」
..
...
がある高齢者に対してだけでなく、その「場」に集まるすべての高齢者に対して影響し、
その QOL を高めてくれます。残念ながら、そうした魅力的な「場」は日本では見いだしに
くくなっていますが、中国にはまだ存在しているようです。この点についてはまた別の機
会にお話したいと思います。以上です。
参考文献
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Jeremy Bentham, An Introduction to the Principle of Morals and Legislation, 1789.
J. S. Mill, Utilitarianism. 1863.Allen E. Buchanan & Dan W. Brock, Deciding for
Others: The Ethics of Surrogate Deciding Making, Cambridge University Press, 1990.
Warren Thomas Reich & Stephen Garrard Post(eds.), Encyclopedia of Bioethics, 3 ed.
2004.
Ruth F. Chadwick, Dan Callahan, Peter Singer (eds.), Encyclopedia of Applied Ethics,
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Comparatible?”, Law Reform Commission of Canada, 1983.
The World Health Organization, “Quality of Life(WHOQOL)-BREF”, 2004.
World Health Organization: Devision of Mental Health and Prevention of Substance
Abuse,” WHOQOL---Measuing Quality of Life,” 1997.
World Health Organization: Division of Mental Health, “Field Trial WHOQOL-100: The
100 Questions with Response Scales,” February 1995.
46
プラトン『クリトン』
(田中美智太郎編『世界の名著 プラトンⅠ』
(6)中央公論社 1970
年所収)
大内尉義・秋山弘子編『新老年学』
(第 3 版)東京大学出版会 2010 年。
芳賀矢一『国民性十論』1907年(生松敬三編『日本人論』冨山房百科文庫 1977年所収)。
加藤尚武・飯田亘之編『バイオエッシクスの基礎』東海大学出版 1988年。
神谷美恵子『生きがいについて』みずず書房 1980年。
東登志夫他「老人保健施設入所者の主観的QOLと対人関係-老人デイケア利用者と比較して
-」
『長崎大学医療技術短期大学部紀要』1999年。
生命倫理百科事典翻訳刊行委員会編『生命倫理百科事典』丸善株式会社 2007 年
松井富美男「老いの「場」に関する基礎的研究」
『広島大学大学院文学研究科論集』
(第 69
巻)2009 年。
(『
「総合人間学」実績報告書』 広島大学院文学研究科総合人間学講座 2011 年 7 月 pp.
54-64 に掲載)
47
中国における「空き巣老人」の社会現象をめぐって
-老いに関する日中比較研究-
松井 富美男
1.はじめに
日本語の「手紙」は中国ではトイレット・ぺ―パーを表し、ホテルを意味する中国語の
「酒店」は日本では酒屋さんを表す。このように同一の漢字であってもその意味内容が日
中で異なる場合もある。「空き巣老人」もその一例である。この語は現代中国の老人問題
を端的に象徴し、中国ではごく普通に使われている。言うまでもなく、こういう表現は日
本語にはない。ただし、「空き巣」という語は日本語にもあるが、通常はこの意味と異な
る。
「空き巣」という語はもともと「使わなくなった鳥などの巣」 129を意味し、そこから
転じて「人のいない家」を表すようになった。「空き巣狙い」とはそうした留守宅を狙う
泥棒をいうが、
「空き巣」だけでも意味は同じである。この日本語のイメージからすると、
「空き巣老人」も空き巣を狙う老人を表しているように思えるが、そうではない。
中国語の「空き巣老人」というのは、一般的には「子女が家から離れた後の中老年の夫
婦」130をいう。すなわち、成人して仕事、勉強、結婚等の理由で家を出ていった子どもの
親のことである。したがって「独居老人」に限らない、「中年」も含まれるし「夫婦」も
含まれる。日本ではこの辺りのニュアンスが正確に伝えられておらず、「空き巣老人」と
言えばすぐさま「独居老人」と同一視されがちである。「空き巣老人」がこの意味だとす
れば、「空き巣老人はさびしがりで、不眠、自律神経異常、高血圧、冠状動脈心臓病、消
化性潰瘍などの病気になりやすく、また他人の妨げとなるために、心身の介護が必要であ
る」 131などといった説明はかえって誤解のもとである。
そもそも自然界では「巣立ち」はよい意味で使われる。「巣立ち」には、子どもが成長
して独立することを意味すると同時に、親が「子育て」という一定の任務から解放されて
自由になることも含意する。それは当の子どもにとっても親にとってもよいことである。
晩婚夫婦の遅くにできた子どもであれば、子どもの「巣立ち」時期が親の老年期に重なる
可能性もある。その場合には身体的、精神的な不調が子どもの「巣立ち」によって一挙に
吹き出す可能性も否定できない。だが二十代後半夫婦の子どもであれば、子どもの「巣立
ち」時期に親は四十代の中年であろう。とすれば、この時期の子どもの「巣立ち」が「さ
びしさ」をもたらすというのはどういうことか。日本人からすれば、やはり違和感がある。
リーマンショックの影響はいまだに色濃く残り、今日でもなお世界の金融市場は混乱を
極めている。その影響を受けつつ、さらには東日本大震災や福島原発事故の影響も加わり、
日本経済はマイナス成長に転じ、戦後経済の中でも最も深刻な八方ふさがりの状況に陥っ
ている。こうしたなか日本の若者は将来に不安を感じ確固とした信念を持てずにいる。こ
129
130
小学館『精選版 日本語大辞典』2006 年。
http://baike.baidu.com/view/715161.htm 「一般是指子女离家后的中老年夫妇」
。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/fmatsui/kaken2008.pdf 松井富美男編『平成18~20年
度科研費報告書 生命倫理的観点からの「老い」に関する日中比較研究』92頁参照。
48
131
のような社会情勢が若者の精神状況に大なり小なり影響を及ぼしているのは確かである。
大学や大学院に進んではみたものの、思ったような就職口が見つけられずに自信喪失にな
り、鬱になる若者が増えている。
こうした社会状況では親も気が気ではないであろう。都市では親も一緒になって就活を
しているという噂がまことしやかに伝えられるのは、事実かどうかは別にして、それなり
に理由があってのことであろう。もし自分の子どもが社会進出に失敗して自宅に籠り、い
つまでも「巣立つ」ことができないとしたら、それこそ親の苦悩はいかばかりであろうか。
このような状況では「巣立ち」はむしろ歓迎すべきことであって、けっして「さびしさ」
の対象ではない。だから日本人の目からすると、空き巣老人が「さびしがる」という記述
は寝耳に水でしかない。この社会現象は中国政府のプロパガンダや誇張ではないかと疑い
たくもなるが、中国社会の実態を反映している。それはどのような意味か。
2.家族構成の変化
中国には「五世同堂」や「四世同堂」といった言葉がある。五世代は曽祖父母―祖父母
―父母―子-孫をいい、四世代は祖父母―父母―子-孫をいう。かつてはこれらの世代が
一つの家や部屋で暮らすことを意味したが、現在では別々に暮らす世代が春節などで団欒
するときに使われる。これほど多くの世代が一家族を形成するわけだから、言うまでもな
く大家族である。中国には昔からこのような血縁関係による大家族が存在した。しかしこ
うした大家族も恒常的に存続したわけではない。曽祖父母を核とする家族は彼らの死によ
って消滅し、祖父母やその兄弟姉妹が新たな家族の核となる。同じように祖父母を核とす
る家族は彼らの死によって消滅し、父母やその兄弟姉妹が新たな家族の核となる。このよ
うに大家族といえども分裂を繰り返しながら新たな大家族を形成していく。中国社会はこ
れまでこのような過程を千篇一律に繰り返してきた。
しかし改革開放以後様相が一変する。急速な経済発展の下で核家族化が進行し、農村は
別にして、都市では父母と子という 3 人家族が中心になりつつある。これには「一人っ子
政策」が濃厚に影響している。
「空き巣老人」を理解するには、こうした中国の現状もし
っかりと見据える必要がある。もちろん、父母と子という 3 人家族は、なにも中国に限っ
たことではなく、少子化の日本でも珍しくない。だから 3 人家族が直ちに「空き巣老人」
の社会問題に直結するわけではない。子どもが成長して勉強、就職、結婚等の理由で親元
から離れるとき、程度差はあれ、どの親も一様に「さびしさ」を感じるであろう。だがこ
のような感情の内に成長を見守る、期待するなどの感情も含まれるならば、さほど懸念す
るに及ばない。日本の 3 人家族にはそれが当てはまる。日本社会では子が「巣立つ」こと
は好ましいことで、親はその日が来るのを今か今かと待ち望んでいる節がある。しかし、
こと中国においては、3 人家族から「空き巣老人」への転換にはどうしても悲観的なイメ
ージが付きまとう。それはなぜか。
この問題を考えるためには、先ほどの「空き巣老人」の説明に注意する必要がある。
「不
眠、自律神経異常、高血圧、冠状動脈心臓病、消化性潰瘍などの病気・・・心身の介護が必
要」などの徴候は高齢者に特有なものである。このことから、あらゆる「空き巣老人」で
はなくて、中年を除く「高齢者」だけが問題となっていることが分かる。因みに、現在中
49
国には 65 歳以上の高齢者が 1.6 億人おり、うち「空き巣老人」は 5 割以上を占めると言
われる。今後高齢者人口の増加につれて「空き巣老人」も確実に増加し、その比率も一段
と高くなるであろう。21 世紀半ばには 90%に達するという予測もある。
自分の唯一の子どもがいなくなれば親が「さびしがる」のは当然である。だから「一人
っ子政策」を廃止すれば「空き巣老人」の問題が解決すると考えるのは、いささか早計で
ある。中国には昔から子宝に恵まれることを「多子多福」といって持てはやす風潮がある。
豊富な労働力が潜在的な経済力となるように、多子の親は少子の親よりも豊かになるとさ
れる。日本社会が将来に不安を抱える最大の要因はこの少子化、つまり生産人口の減少に
ある。非生産人口が生産人口を凌駕すれば、年金や医療保険等の社会制度はいずれ破たん
する。このように少子化は国の存亡にかかわるだけに深刻である。この視点からすれば、
少子化よりも多子化のほうがよいように思われる。
しかし経済発展によって社会が豊かになると、社会的な制圧とは無関係に少子化が求め
られる。事実、欧米や日本などの先進諸国はいずれも少子化である。中国においても北京
や上海などの大都市では、すでにこうした傾向が一部認められる。子どもに最善の教育環
境を提供しようとすれば経済負担も大きいので、おのずから子どもの人数も制限されてく
る。これが実情のようである。だが中国の「空き巣老人」に関しては別の面も考慮する必
要がある。
3.
「養児防老」の背景
「空き巣老人」は中国では大きな社会問題として扱われるが、日本では高齢者の「空き
巣老人」
(=単独ないし夫婦のみの高齢者世帯)であってもそうではない。これにはどの
ような事情があるのだろうか。
中国には「養児防老」という言葉もある。これは親が子どもを養い、子どもは死ぬまで
親の面倒をみるという意味である。儒教道徳がその根底にある。日本でも高度経済成長期
以前には、こうした道徳は当然なものとして受け止められていた。現在の中国と共通する
点は次のとおり。まず戦後復興期に当たり日本全体が比較的貧しかった、次に当時の出生
率(S.24/4.32 132)から伺えるように多くの兄弟姉妹がいた、第三に老人ホームなどの社
会施設がほとんど存在していなかった、など。これらのことから、どのような高齢社会対
策が当時求められていたかが推察できる。すなわち、自宅介護を基本とし、高齢者問題を
家族問題とみなす立場である。
親を老人ホームに入れるのは親不孝だとする社会風潮は、戦後復興期から高度経済成長
期にかけて普通に見られた。1960 年代は住宅事情もまだよくなく、隣近所の噂が一緒くた
に耳に入ってきた時代である。そうでなくても日本人は他人の評判を気にするので某家の
親が老人ホームに入居したと聞けば、子どもは大罪人のように陰口を叩かれたものだ。
そうした風潮は、その後の社会理解も進んで 133、現在では一応解消しているが、親を老
人ホームに入居させた子どもは、どことなく罪悪感に駆られる。これには最期まで自宅介
132
内閣府『平成 18 年版 高齢社会白書』11 頁参照。
松井富美男「老いの研究-生命倫理の観点からの老い像を求めて-」
『広島大学大学院
文学研究科論集』
(第 68 巻)2008 年 7 頁参照。
50
133
護を続けた子どもが、マスコミ等によって賛美されるという社会風潮も少なからず関係し
ていよう。道徳は残酷なものでもある。老人問題が家庭から解放されて社会問題へと一般
化されたのはよいとしても、
「高齢者」や「家庭」までもが一般化されるようになった。
今日でも古い因習は影響力を持ち続けている。『黄落』の中で筆者が別居老親を見舞う際
に隣の老女を憚っている個所がある。134これなどを読むと「世間の目」は今でも変わって
いない気がする。
こうした日本事情はそのまま現代の中国にも当てはまる。最近は徐々に変わっているが、
中国でも老人ホームに親を入居させることを「不孝」とみる傾向がある。また老人ホーム
への入居は子どもに捨てられた証だと考える親もいる。そうした考え方は都市よりも農村
でいっそう根強い。多くの中国老人は、晩年を子どもや孫と一緒に過ごし、家族に見守ら
れて死ぬことを幸せだと思っている。終末期医療にもこの影響が見て取れる。中国でも安
楽死が数例行われているが、それらが純粋な意味で安楽死と言えるかどうかは疑わしい。
安楽死は病院で行われるのが普通である。しかし中国人の多くは、医療費負担のこともあ
って、病院よりも自宅で死ぬことを強く願っている。それゆえ安楽死が行われるとしたら
自宅になる可能性がある。そうなれば安楽死要件を満たしているかどうかを客観的に判断
できる者がいなくなるであろう。
いずれにしても、中国では今後とも自宅介護が中心にならざるをえない。この点は日本
と大きな違いである。日本ではまだ不十分ではあっても、老人ホームなどの社会施設は以
前と比べてかなり増え、介護サービスも充実してきている。これにひきかえ中国では老人
......
ホームや介護スタッフの数は社会的ニーズをはるかに下回っている。これは経済成長と老
.......
齢化の同時進行のゆえに高齢社会対策が後手に回っていることによる。それゆえ現実的に
も自宅介護を中心にせざるをえないのである。とすれば「空き巣老人」の増加傾向がいか
に深刻であるかは言うまでもないであろう。子どもは親元を離れた後に古巣に戻ることは
ない。つまり、「空き巣老人」が高齢化して「独居老人」となってもその受け皿が外にも
内にも用意されていないのである。
しかし現在はまださほど深刻ではない。
中国では一般に 60 歳以上が高齢者とされるが、
彼らは改革開放以前の世代なので複数の子どもがいる。またこの世代の子どもたちは就職、
勉強、結婚等による移動も少なく、老親の近辺で生活している場合が多い。したがって「空
き巣老人」が本当に深刻なのは、1980 年以降に生まれた一人っ子世代の親である。いわゆ
る 4-2-1 世代である。135
だが改めて考えてみると、4-2-1 の家族構成が特別でないことが分かる。事実、日本で
はこうした家族構成は至る所に見られる。もっとも、先述のように日本の場合にはこうし
た事態は「一人っ子政策」とは異なり、各人の自由意思によってもたらされた。そのこと
は措くとして、4-2-1 が中国で深刻なのに対して、何ゆえに日本ではそうではないのか。
この点が日中の比較研究において重要である。簡単に言えば、高齢者の経済的自立力の差
である。日本では社会福祉の発展によって経済的自立が比較的容易なのに対して、中国で
134
135
左江衆一『黄落』新潮文庫 1999 年 13 頁参照。
「4-2-1」というのは、夫婦 2 人が 4 人の親と 1 人の子どもを養うという意味である。
51
は物価の高騰に見合った年金を貰えないので、他に収入や貯蓄がなければ、経済的自立が
難しく、したがって子どもからの援助を必要とする。もっとも、お金の問題だけであれば、
子どもが定期的に親に送金すれば済むであろう。それゆえ問題の本質はもっと別のところ
にあるように思われる。
4.
「輪流」の一事例
中国語の「輪流」は「かわるがわる、順番に」という意味である。136例えば「轮流看管
耕牛」と言えば「かわるがわる役牛の世話をする」という意味である。137このように子ど
もたちが交代で老親の面倒をみるときにこの語が使われる。これには二通りのタイプがあ
る。老親に 3 人の子どもがいると仮定して、老親をP、子どもたちをC1、C2、C3 として表
せば、PがC1→C2→C3→C1・・・の輪番で 1 か月ごとに 138子どもたちの家を転々とする移動タ
イプと、もう一つはPの家に子どもたちが輪番で同居する固定タイプとがある。両タイプ
に共通するのは、当番を外れた局外者たちが扶養費を負担する点である。その額は話し合
いで決められる。移動タイプは老親が自分自身の家を持たない場合に採用される。また固
定タイプは子どもたちが老親の近くに住んでいる場合にのみ有効である。老親からすれば、
固定タイプのほうが移動タイプよりも心理的負担が少ない。また固定タイプでは自分自身
の家を持つ老親が対象になるので、移動タイプよりも経済的に恵まれていると考えられる。
以下は固定タイプの「輪流」の一例である。 139
*
*
*
A さんは 1928 年生まれの 83 歳の女性である。彼女は中国重慶市 X 区の出身で、約 20
年前に現在の Y 区に移り住んだ。未亡人となったのもこの頃である。子どもは男が1人、
女が 4 人である。長女の E さんは 59 歳、二女の F さんは 57 歳、三女の G さんは 56 歳、
長男の M さんは 53 歳、四女の K さんは 50 歳である。A さんは料理、洗濯、風呂、排泄な
どの日常の生活能力に欠ける重度認知症である。耳の聞こえは悪くなっているが、目や歯
は丈夫なので介助なしで食事を摂ることができる。内臓も丈夫で身体的には健康である。
ただ便秘がひどく、1 週間ぐらい通事がないこともある。そのときには薬を服用する。脊
椎手術後に歩行が不自由になり、杖と車椅子に頼る生活に変わった。認知症の兆候は以前
からあったが、それが避妊手術によるものなのか、薬の副作用によるものなのかは不明。
子供時代の話を繰り返すだけで、双方向のコミュニケーションができず、子や孫の名前も
分からなくなっている。
A さんは 2006 年に脊椎の手術を受けて 2、3 か月間入院した。退院後もしばらくの間寝
たきりで、痛みや麻痺のために自立生活が困難になった。そのとき K さんが 2 か月間 A さ
んの面倒をみたが、仕事との両立が困難になり他の兄姉に事情を訴えた。当初は老人ホー
ムへの入居も視野に入れたが、A さんが強く拒んだので自宅介護の方向で検討された。そ
136
愛知大学中日大辞典編纂処編『中日大辞典』大修館書店 1987 年。
同書。
138
「一か月交代」が最も一般的であるが、それも話し合いで決められる。
139
以下は、F さんからの聞き取り調査にもとに筆者がまとめ、その内容を本人に確認して
もらい同意の上で公表するものである。なお、個人情報保護のために匿名にしてある。
52
137
して F さんが固定タイプの「輪流」を提案し、A さんも同意したので、G さんを除く 4 人
の兄姉で A さんの面倒をみることになった。生活費として A さんの年金が充てられた。最
初は一カ月 500~600 元の予算でスタートしたが、その後物価の高騰もあって、現在は 1000
元の予算である。予算が少し超過した場合には当番者が負担し、大幅に超過した場合には
A さんの貯金を充てた。
A さんの日課は次のとおり。毎朝 7:00 頃起床。その物音で F さんも起き、A さんの着替
えや洗面の手伝いをする。A さんは自力ではウガイをすることができない。ときどき深夜
の 2 時か 3 時に起きだして、厨房の窓から外に向かって怒鳴ったり、テーブルを持ち上げ
て上下に揺すったり、水道の蛇口に手を翳して水遊びをしたりする。F さんはその物音で
目が覚めるが、無理矢理やめさせると喧嘩になるので、A さんをなだめながらベッドに連
れていき寝かせるという。
Aさんは朝食前に 30 分ぐらい近所に散歩に出かけてゴミを拾って帰る(習慣化)
。木屑
や紙屑など色々なゴミが前掛けのポケットに詰め込められている。Aさんがゴミ拾いをす
るのは、ゴミがまだ使えると思っているからであって、路上をきれいにするのが目的では
ない。 140これらの奇行は 2 年前に重度認知症になったときから始まった。
朝食は 8:00 頃に開始。豆乳、揚げパン、麺、雑炊などが朝食メニュー。食欲は普通に
あり、朝昼晩の 3 食とも平らげて残すことはない。嗜好ははっきりしており、嫌いな食べ
物を避けて好きな肉類だけを食べようとする。朝食後Fさんは近所の露店市場に買い物に
出かけ、Aさんもゴミ拾いに出かける。 141
昼食は 12:00 頃開始。昼食メニューは朝食と同じである。昼食後、FさんはAさんと一緒
に散歩に出かける。142散歩コースはだいたい一定である。AさんはFさんの制止を振り切っ
てときどき道路の中央を歩き始める。Aさんには危険認識があるようだが、自分からは絶
対に譲ろうとしない。143また散歩途中で色々なゴミに興味をもつが、有料の物には興味を
示さない。 144 15:00~16:00 頃帰宅。夜眠れなくなるとの理由から昼寝をさせないし、A
さんにもその習慣がない。しかし座りながらうたた寝をすることもある。そんなときには
意識的に声をかけて起こすようにしている。 145
140
F さんは、無理矢理にゴミを取り上げると喧嘩になるので、
「私も欲しいからください」
と頼んで A さんからゴミを受け取り、後でこっそり捨てるようにしているという。
141
A さん宅付近には野菜、魚肉、果物、雑貨類などを売る、昔ながらの露店が立ち並ぶ。
値段は概して市価よりも安い。地元の人は町中に繰り出さずに日々の食材をここで買い求
める。F さんも安くて良質の食材を求めてここに来る。毎日 1 時間以上かけてゆっくりと
回った後に帰宅し、昼食の支度に取り掛かる。これで午前中の日課はほぼ終了。
142
M さんが当番のときには A さんを一人にして遊びに出かける。その間 A さんはゴミ拾い
に出かける。唯一の息子である M さんが A さんには一番可愛らしいと見え、子どもたちの
中で名前を憶えているのは彼だけである。
143
一般に中国社会は交通マナーに欠ける。幹線道路を除く普通の道路では赤信号であっ
ても車や人が自由に往来し、さながら無秩序な状態である。
「交通ルールを正しく守ると
かえって危険なのは、世界でも重慶だけである」などという冗談も囁かれている。
144
紙幣の種類(例えば 1 元、10 元、100 元など)を区別できないが、紙幣になんらかの
価値があることは分かっているようだ。
145
帰宅から夕食まで 1、2 時間の余暇があるが、F さんはその間裁縫やスリッパ作りやセ
53
夕食は 18:00 頃開始。食事メニューもあまり変わりばえしない。来客や祭りや行事があ
るときには特別料理になる。 146食事中テレビは付けっぱなしであるが、Aさんはときどき
テレビに向かって怒り出す。食事の片付けをした後、19:00~20:00 頃にFさんはAさんの体
を拭いてベッドに寝かせる。 147Aさんが朝まで目覚めることはめったにない。
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以上がAさんの日課である。Fさんは午前中の買い物と夕食後のダンスを楽しみにして
いる。それは買い物やダンスに出かけることでストレス解消にもなるからだ。近所の市場
やスーパーが買い出し場所になるが、そこには年来の知り合いも来ている。彼女らは会え
ば立ち話をする。当然自分たちの老親介護が話題になる。例えば「昨夜うちのおばあちゃ
んは大変だったのよ」と話を切り出せば、相手は「それならまだいいよ、うちのおばあち
ゃんなんかもっと大変よ」と受け答えをして、話が盛り上がる。こうしたやり取りを通じ
て介護人は自分の立場を相対化できる。他の家では老人が夜中に徘徊するという噂を聞け
ば、自分の家はそうではないと安堵する。そうした情報交換は介護人のガス抜きや鬱憤晴
らしになる。また夜行ダンスも体全体を動かすのでストレス解消になる。ただの井戸端会
議でもあっても、自宅介護に疲れている者には気休めになり有意義である。ここにはある
種江戸時代の銭湯文化に似た「場」が認められる。 148
些細なことでFさんと A さんはしばしば衝突する。排泄抑制がきかないときや、ごみ箱
からゴミを拾ってきたときには、Fさんもさすがに我慢できなくなる。そのようなわけで
ストレスも溜まり、介護当番が終わればほっとする反面、当番月が近づくと憂鬱になると
いう。Aさんを入院させて楽になりたいというのが本音のようである。しかし老人ホーム
に入居させても、認知症高齢者は周囲から嫌われて苛められるのが落ちだから、痴呆が進
んだ段階からの入居には問題があり、それよりは現状の「輪流」のほうがましだと、Fさ
んは考えている。
5.若干のコメント
私が知らないだけで、探せば日本のどこかに固定タイプの「輪流」を見いだせるかもし
れない。
「空き巣老人」から「独居老人」を経てこのような「輪流」に至るには、親の持
ち家と何人かの兄姉があり、しかも彼らが一定地域に固まって生活している必要がある。
事例ではこうした条件がすべて整っている。しかし入学・進学、就職・離職、結婚・離婚、
住宅取得などの理由で、子どもが親元を離れて生活する可能性は世代を追うごとに高くな
る。そうなれば今後次世代が「輪流」を継承していくのはますます困難になるだろう。
そうした困難さは一人っ子世代が養老の担い手となるときにピークに達する。もはや原
ーター編みをして過ごすか、近所の人と雑談して過ごす。この間、A さんはまたゴミ拾い
に出かけて夕食前の 18:00 頃に帰宅する。
146
兄姉や孫たちが訪問に来て一緒に食事をすることもあるが、めったに長居をしない。
147
A さんの就寝を見届けた後、F さんは公園の広場にダンスに出かける。彼女の知り合い
も多く参加するので、趣味とストレス解消になるという。
松井富美男「老いの「場」の研究-自殺防止のための「場」を求めて-」
『広島大学大
学院文学研究科論集』
(第 70 巻)2010 年 8-11 頁参照。
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理的に「輪流」が成立しないので、残された選択肢は老親と同居するか、老人ホームに入
居させるか、のいずれかである。しかしそれも自身の仕事や家族との絡みで、同居したい
と思っても現実には色々な制約がある。一つに、老親が農村で生活し、子どもが都市で生
活する場合、都市農村間の移動が双方にとって難しい。二つに、一人っ子同士の夫婦の場
合、配偶者もこれに似た家族関係を抱えるから、一方の老親だけが同居するのは難しいし、
ましてや両方の老親が一緒に同居するなどは、夫婦が相当の高額取りか資産家でなければ
とうてい不可能である。平均的な夫婦は、経済的には住宅ローンや子どもの教育費を捻出
するだけで精一杯だし、よしんば養老できるだけの経済力があっても、日々老親の面倒を
みる時間もゆとりもないのが実情である。つまり、老親の面倒をみるためには、お金と時
間の両方が必要なのである。事例の「輪流」は兄姉が協力し合うことでこの条件を満たし
ているといえる。
このように考えると、一人っ子世代が自分の手で老親の面倒をみるのは大変に難しいこ
とが分かる。自身の死によって「家」が消滅するのを覚悟の上で独身のままで老親のため
に「孝」を尽くす以外には不可能なのかもしれない。しかし老親が重度認知症や寝たきり
になった場合には、自分がすでに年金生活者であれば別だが、まだ第一線で活躍中であれ
ばやはり施設に預けるほかないであろう。149中国政府は人口抑制政策の犠牲になった一人
っ子世代のためにも、
「孝」の復権を唱えるだけでなく、社会的な受け皿作りを急ピッチ
で進めるべきである。それが中国政府の喫緊の課題である。
事例の「輪流」は自宅介護の在り方を考える上でも参考になる。A さんは重度認知症の
ゆえに正常な態度をとることができなくなっているが、「ゴミ拾い」という奇行を日課に
している。身内はその奇行に汚辱や嫌悪を感じているが、そもそも清濁観念は人間が決め
たものである。A さんにはそうした清濁観念よりも実用観念のほうがより重要である。A
さんの青春時代は今日のように物に溢れた時代とは異なり物不足の窮乏時代であった。だ
からAさんには、まだ使用可能な物が捨てられているのは「もったいない」のである。問
題はそれがまだ使用可能であるのかどうかという線引きである。人間は年を取るにつれて
「捨てる」ことができにくくなる。それは単に物質的な問題ばかりではない。精神的にも
色々なもので自分の周囲を飾りたてたがる。それは基本的に「不安」だからである。その
結果が「捨てる」よりも「拾う」という行為に端的に現れている。裏返して言えば、それ
こそ生きようとする人間の本能である。同様のことは、Aさんが嫌いな食べ物を避けて好
きな肉料理を食べたがるところにも現れているし、また路上中央を闊歩するところにも現
れている。人間が車を恐れて道の端を歩かなければならないというのは文明社会がもたら
した逆説である。私には痴呆が隠された真理を露わにしているように思われる。
介護人の F さんについても見るべき点がある。彼女は午前に露店市場に出かけ、午後
に老親の散歩に同行し、帰宅後は趣味に時間を費やし、夜にダンスに出かける。一見単調
のようだが、時間を老親のためだけでなく自分のためにも上手に使っているのが分かる。
149
中国では、老人ホームと老人病院を厳密に区別している。原則として重度認知症高
齢者は老人ホームに入居することができない。そのような高齢者は「病人」として扱われ、
精神科病棟に送られるのが普通である。しかし軽度の認知症高齢者は老人ホームで生活す
ることも許されている。
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介護と言えば他人や社会のための奉職のように受け取られがちである。それは悪いことで
はないが、介護士をそうした目で見るのはやはり問題であろう。介護士は聖人でも君子で
もない。昨今日本でも過度のストレスを抱えた介護士が認知症高齢者を虐待したことが報
じられて世の中に大きな衝撃を与えた。この点からすれば、F さんは老親介護を自分の人
生サイクルの内に上手に取り込んでいるといえる。彼女が介護の合間に作った私製のスリ
ッパは市場に出してもおかしくないほどの見事な出来栄えである。同じことは M さんにつ
いても言える。M さんは男性ということもあるが、昼食後の余暇を自身の遊びに費やして
いる。その間、A さんは放置されることになるが、そのことを他の兄姉はだれも咎立てた
りはしない。a さんにとっても、M さんにとっても、他の兄姉にとっても、それが自然な
ことなのだ。
このように「輪流」の事例からは、介護を挟んで看る側にも、看られる側にも独自の実
存時間が流れていることに気付かされる。それは長江の流れのようにゆったりと静かに流
れる時間である。こうした時間の流れの中にこそ本来人間は住むべきである。時間は直進
的に流れるものだが、介護に合った時間があってもよい。それは伸び縮みもし、曲がりも
し、くねりもする自在な時間である。
6.おわりに
介護経験のない者が「介護」について口を挟むのは極力避けるべきであるが、中国の自
宅介護の実態調査をして気付いたことは、社会施設や専用のスタッフが必ずしも介護の基
本ではないということである。もちろん、高齢者介護の専門家や助言者は必要であろう。
また日本は超高齢社会を迎え、この方面での研究や技術開発を一段と求められている。だ
が「場」のない介護は早晩崩壊するに違いない。「自宅」や「家庭」は個々人の生活史が
満載された究極の「場」である。認知症高齢者はこの「場」を通じて過去を反芻する「物
語」を完成させる。それが永遠回帰の物語であっても、認知症高齢者の「生」は已むこと
なく生き続けることができる。戯言として一笑に付すこともできよう。だがよく考えてみ
ると、正常だと思っている我々自身の「生」が彼ら以上に充実しているかどうかは甚だ疑
問である。私には彼らの痴呆的な「生」のほうがはるかに充実して見えるのである。
(
『HABITUS』
(第 16 巻)西日本応用倫理学研究会 2012 年 3 月 pp.27-42 に掲載)
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