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知的財産に関する 日中共同研究報告書 - Japan Patent Office

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知的財産に関する 日中共同研究報告書 - Japan Patent Office
特許庁委託
平成26年度
知的財産保護包括協力事業報告書
知的財産に関する
日中共同研究報告書
平成27年3月
一般財団法人 知的財産研究所
巻頭言
知的財産研究所会長・東京大学名誉教授
中山 信弘
今や、アメリカ・EU と並んで、中国と日本は世界の知的財産大国・特許大国として枢
要な地位を占めている。このような国際情勢の中で、知的財産の世界において重要な地位
を占めている中国と日本が共同して研究を進めるということは、単に相互理解を深めると
いうだけではなく、世界の知的財産法学に与える影響という意味において極めて重要なこ
とであると考えている。遺憾なことに、このような重要な時期に、日中の政府レベルでの
満足のゆく交流はできていないが、それであるからこそ我々民間の研究者による共同研究
の意義は大きい。
現在、日中だけではなく、世界の知的財産制度は大きな曲がり角に来ていると言える。
デジタル技術が発展したことによる著作権制度の有する意味の変化、特許権の数の爆発的
増加による特許の藪の問題、更には先進国と途上国との摩擦問題等々、解決しなければな
らならない難問は山積している。それに知的財産の重要性が増してくると、各国において
も知的財産戦略が重要な国策になってくる。それであるが故に、日中両国において、知的
財産に関する政策についての意見交換をすることの意味は大きいと考えるので、可能な限
り、両国の共同研究を深めて行きたいと思う。
知的財産法の研究方法は、世界的にも新しい潮流が見られる。従来は条文の解釈こそが
知的財産法研究の中心であったが、今日では、それにプラスして、新たな方法論が出現し
ている。例えば、哲学的なアプローチ、あるいはミクロ経済学を応用したアメリカ的な
ロー・アンド・エコノミックスのようなアプローチ、更には心理学や行動経済学を用いた
アプローチ等々が考えられる。
そして近年、情報の独占による弊害、環境保護、生命倫理、開発、人権、社会的正義と
いった様々な公共政策上の多元的価値(公共善)が知的財産法と抵触する事案が数多く生
じている。このような公共政策上の多元的価値を知的財産制度とどのように調和させて行
くべきか、それらを知的財産法の中に取り込むか、あるいは知的財産制度の枠外に位置づ
けつつ知的財産制度と調和を図るのか、という議論も必要となってくるであろう。
一例を挙げれば、生物多様性に関する国際交渉において、発明に使用された遺伝資源の
入手先(資源提供国)を開示することを出願人の義務とせよとの提案が出されているが、
この提案を「国内産業の発達」を目的とする現行特許制度の枠内で整合的に受容すること
は一般に難しいと考えられている。しかし途上国の要望を無視することもできない情況に
ある。このような問題をいかに考え、先進国と途上国との調和を図って行くべきか、とい
う問題もある。細かい問題になるが、人のクローニングや受精卵の商業的利用など、公序
良俗(ordure public or morality)または生命倫理(bioethics)に反する発明と特許付与
との関係がある。公序良俗に反する発明に特許を与えるべきではないという点において、
おおむね世界の共通理解となっているようであるが、公序良俗に反する発明とは具体的に
どの範囲のものか、そもそも国家が公序良俗に反する発明に特許を与えないのはなぜかと
いった基本的な問題となると、必ずしも一に帰するところはない。このような問題は、各
国の慣習、宗教等の歴史的問題とも深く関係し、なかなか国際的調和は難しいが、研究を
重ねて行く必要はあろう。
著作権法は、ある意味では他人の表現の自由を規制する法であり、アメリカでは当然の
こととして、著作権法と憲法はセットで考えられているが、これからは我々も、著作権と
憲法、すなわち著作権と人権の問題も考察しなければならないであろう。特に現在では、
Google 等の巨大なプラットフォームが世界的に寡占化の傾向にあり、この流れはますま
す進むと考えられるが、我々はこれらの「知の独占」に如何に立ち向かえばよいのか、と
いう極めて重要な問題もある。「知の独占」問題は、必ずしも知的財産法独自の問題では
ないが、今後世界中で重要な問題として認識されると思う。これらの新たな問題として浮
上しつつある公共善と特許との抵触問題について、総合的かつ法学的アプローチに基づい
て取り組むことが必要となろう。
日本では、2003 年に、総理大臣主導で「知的財産戦略本部」を創設し、そこで国の基
本的な知的財産戦略を作成したが、その大きな成果の一つが知的財産高等裁判所の設立で
ある。諸外国には,知的財産訴訟を専門的ないし集中的に取り扱う裁判所を設けている国
は少ない。知財高裁は、そのモデルになったと言われているアメリカの CAFC(連邦巡
回控訴裁判所)などとは異なり,審決取消訴訟と著作権等の事件も含む知的財産侵害訴訟
の控訴審を一括して取り扱う,諸外国に類例を見ない包括的な管轄を有する専門裁判所と
して海外からも注目されており、日本としても、この知的財産高等裁判所については情報
発信して行く必要があると考えている。
日本の知財戦略も未だ完成しているとは言いがたいし、また世界の知的財産の世界は極
めて流動的である。日本としても、世界中の情報を吸収してゆかねばならないと考えてい
るし、また日本からの発信もしなければならないと考えており、中国も同じような情況に
あると思う。その意味で、この日中研究者会議は大きな意味があるものと思う。
日中共同研究 参加者一覧(順不同)
共同研究者
中山 信弘
一般財団法人知的財産研究所会長、東京大学名誉教授
中山 一郎
國學院大學 教授
高倉 成男
明治大学 教授
菊池 純一
青山学院大学 教授
淺見 節子
東京理科大学 教授
山根 崇邦
同志社大学 准教授
呉 漢東
中南財経政法大学 知識産権研究センター 教授
曹 新明
中南財経政法大学 知識産権研究センター 教授
熊 琦
中南財経政法大学 知識産権研究センター 副教授
李 明徳
中国社会科学院 知識産権センター 教授
唐 広良
中国社会科学院 知識産権センター 教授
管 育鷹
中国社会科学院 知識産権センター 教授
陳 愛華
重慶大学 講師
事務局
三平 圭祐
一般財団法人知的財産研究所 常務理事
川俣 洋史
一般財団法人知的財産研究所 研究第二部長
金子 好之
一般財団法人知的財産研究所 統括研究員
福田 匡志
一般財団法人知的財産研究所 主任研究員
井手 李咲
一般財団法人知的財産研究所 研究員
引地 博幸
一般財団法人知的財産研究所 研究員
目
次
巻頭言
日中共同研究参加者一覧
第1章 平成 26 年度 知的財産保護包括協力事業の概要 ································· 1
Ⅰ.共同研究の背景と目的 ·························································· 2
Ⅱ.共同研究の概要 ································································ 3
Ⅲ.研究者会議、意見交換会等の概要 ················································ 4
第2章 研究内容の要約 ····························································· 13
第1節 日中における国家戦略の中の知財戦略に関する比較研究 ······················· 14
第2節 知財の在り方に関する基礎理論の研究 ······································· 16
第3節 知財の人材育成問題に関する比較研究 ······································· 18
第3章 研究内容の報告 ····························································· 21
第1節 日中における国家戦略の中の知財戦略に関する比較研究 ······················· 23
Ⅰ.中国の知的財産保護戦略実施及び法治建設状況に関する論評(訳文)
呉 漢東 教授(中南財経政法大学) ········································· 24
Ⅱ.中国の知的財産戦略推進における法執行体制改革の研究(訳文)
管 育鷹 教授(中国社会科学院) ··········································· 36
Ⅲ.日本における国家戦略としての知的財産戦略について
高倉 成男 教授(明治大学) ··············································· 55
Ⅳ.国際知的財産保護のグローバル化とローカル化の趨勢に関する研究(訳文)
熊 琦 副教授(中南財経政法大学) ········································· 71
第2節 知財の在り方に関する基礎理論の研究 ······································· 89
Ⅰ.特許制度の基礎理論の研究:経済効果の検証と制度設計上の留意点
中山 一郎 教授(國學院大學) ············································ 90
Ⅱ.知財制度の在り方に関する基礎理論の研究
山根 崇邦 准教授(同志社大学) ·········································· 99
Ⅲ.商標保護に係る基本理論の研究(訳文)
李 明徳 教授(中国社会科学院) ·········································· 117
Ⅳ.“ビッグデータ”時代の知財保護の新たな構想(訳文)
唐 広良 教授(中国社会科学院) ········································· 136
第3節 知財の人材育成問題に関する比較研究 ······································ 151
Ⅰ.日本における知財人材育成に関する研究 ‐特色ある学校教育モデルを踏まえ‐
菊池 純一 教授(青山学院大学) ········································· 152
Ⅱ.中国の高等教育機関における知的財産人材育成体制の研究(訳文)
陳 愛華 講師(重慶大学) ··············································· 162
Ⅲ.中国知財人材育成モデルの研究(訳文)
曹 新明 教授(中南財経政法大学) ······································· 179
※ 本報告書の中国側研究者の報告書は、一般財団法人知的財産研究所が翻訳を担当した。なお、文中
の訳注は[]で表記している。
本報告書は、一般財団法人知的財産研究所
川俣洋史研究第二部長、金子好之統括研究員、福田匡志
主任研究員、井手李咲研究員、引地博幸研究員が担当した。
第
一
章
第1章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
Ⅰ.共同研究の背景と目的
中国では 2008 年 6 月に発表された「国家知的財産戦略綱要」をもとに知的財産の創造・活用・保
護・管理の能力を向上させ、イノベーション型国家を目指した取組が進められている。
一方日本では、2002 年に「知的財産基本法」が制定され知的財産の創造、保護及び活用に関する施
策への取り組みが行われてきたが、この 2013 年 6 月 7 日、政府知的財産戦略本部は「知的財産政策ビ
ジョン」を発表し、過去 10 年間の日本の知的財産政策についての総括及び今後 10 年を見据えた取組
が取りまとめられた。
そこで、中国でこれまで進められてきた知的財産に関する取組・戦略について取りまとめを行うと
ともに、 日本における「知的財産政策ビジョン」についての検証を行い、さらには知的財産の創造・
保護・活用をさらに発展せしめる知的財産制度を検証するために、中国・日本双方の有識者とともに
中国・日本両国の知的財産施策の方向性の検証および、それらに関する調査・研究を共同で実施す
る。
- 2 -
Ⅱ.共同研究の概要
第
一
章
1.実施事項
(1)中国・日本政府関係機関・学術機関と連携した課題抽出等
(ⅰ)産業財産権法及び隣接法に係る制度・運用(審査・エンフォースメント等)適正化に資する共
同研究の実施
(ⅱ)産業財産権法及び隣接法を所管する中国政府関係機関との意見交換の実施
(2)法・運用整備に係る中国知財関係者との知見の共有及び共通理解の向上
(ⅰ)産業財産権法及び隣接法を所管する中国政府関係機関担当者等知財関係者の日本国への招へい
並びに日本の有識者及び日本のユーザー(出願人・弁理士等)との意見交換の実施
(ⅱ)中国政府関係機関又は学術機関と協力し、中国知財関係者を対象とした法制度・運用に係る
ワークショップ(討論会)の実施
2.研究テーマと担当研究者
(1)日中における国家戦略の中の知財戦略に関する比較研究
中国側
日本側
呉 漢東 教授(中南財経政法大学)
高倉 成男 教授(明治大学)
管 育鷹 教授(中国社会科学院)
淺見 節子 教授(東京理科大学)
熊 琦 副教授(中南財経政法大学)
(2)知財の在り方に関する基礎理論の研究
中国側
日本側
李 明徳 教授(中国社会科学院)
中山 一郎 教授(國學院大學)
唐 広良 教授(中国社会科学院)
山根 崇邦 准教授(同志社大学)
(3)知財の人材育成問題に関する比較研究
中国側
曹 新明 教授(中南財経政法大学)
日本側
菊池 純一 教授(青山学院大学)
李 明徳 教授(中国社会科学院)
陳 愛華 講師(重慶大学)
- 3 -
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
Ⅲ.研究者会議、意見交換会等の概要
1.研究者会議
(1)第 1 回研究者会議
日時等:平成 26 年 7 月 28 日(月曜日)(開催地:中国 武漢)
主
催:中南財経政法大学 知識産権研究センター/一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華 講師
日本側
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆東京理科大学
淺見 節子 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆上智大学
駒田 泰土 教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
◆独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)
亀ヶ谷 明久 部長、王 莹 副主幹
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
概要:
日中双方の研究者の自己紹介の後、本年度の研究テーマについて議論を行い、研究の方向性を確認
した。
(2)第 2 回研究者会議
日時等:平成 26 年 11 月 16 日(日曜日)(開催地:日本 東京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
日本側
◆東京大学
中山 信弘 名誉教授
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長、
金子 好之 統括研究員
- 4 -
◆事務局
福田 主任研究員、
井手 研究員、引地 研究員、坂治 補助研究員
概要:
中山信弘先生より、本事業が国際情勢の中で単に相互理解を深めるというだけではなくて、世界の
知的財産法学に与える影響という意味におきましても、極めて重要なことであるとの発言がなされ、
その後各テーマについての意見を述べられた。
各研究者からは、現状の進捗状況を報告され、今後の方向性について発表された。また、それぞれ
の発表に対し、研究者間でそれぞれの発表をもとに意見交換がなされた。
(3)第 3 回研究者会議
日時等:平成 27 年 2 月 2 日(月曜日)(開催地:中国 北京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華 講師
日本側
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
◆創英国際特許法律事務所
塚原 朋一 弁護士
◆独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)
亀ヶ谷 明久 部長
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
概要:
各研究者から本年度の研究成果を踏まえ、新たな課題等について研究者間で意見交換がなされた。
- 5 -
第
一
章
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
2.意見交換会
(1)第 1 回意見交換会
日時等:平成 26 年 7 月 26 日(土曜日)(開催地:中国 武漢)
主
催:中南財経政法大学 知識産権研究センター/一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華 講師
◆中国の知財関係者
日本側
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆東京理科大学
淺見 節子 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆上智大学
駒田 泰土 教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
国家知識産権局、忠北大学、
中南財経政法大学
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
◆独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)
等
亀ヶ谷 明久 部長、王 莹 副主幹
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
基調講演:
●「特許強国戦略と中国科学技術イノベーション力」
呉 漢東 教授
●「国家知財戦略の実施を深めるためのいくつかの問題点」
管 育鷹 教授
●「『知的財産立国』の実現に向けた課題―特許の活用の側面から―」 中山 一郎 教授
●「知的財産を巡る現状と課題」
淺見 節子 教授
(2)第 2 回意見交換会
日時等:平成 26 年 11 月 17 日(月曜日)(開催地:日本 東京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
日本側
◆東京大学
中山 信弘 名誉教授
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
菊池 純一 教授、川上 正隆 客員教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆上智大学
駒田 泰士 教授
◆特許庁
稲野邉 麻矢 係長
- 6 -
◆一般財団法人 知的財産研究所
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長、
金子 好之 統括研究員
◆事務局
福田 主任研究員、
井手 研究員、引地 研究員、坂治 補助研究員
基調講演:
●「知財の在り方に関する基礎理論の研究―アジア特有の理論構築に向けて―」
山根 崇邦 准教授
●「データ共有と知財保護-ビッグデータ時代の知財保護の新たな構想-」
唐 広良 教授
●「知財の人材育成問題に関する比較研究 -特色ある教育モデルを踏まえ-」
菊池 純一 教授
●「中国知財人材育成のモデル研究」
曹 新明 教授
●「中国の大学における知財人材育成メカニズム研究」
李 明徳 教授
(3)第 3 回意見交換会
日時等:平成 27 年 2 月 2 日(月曜日)、3 日(火曜日)(開催地:中国 北京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華 講師
日本側
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
◆中国の知財関係者
中国科学院、中科智橋国際投資有限公司
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
◆創英国際特許法律事務所
塚原 朋一 弁護士
◆日本の知財関係者
独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)、
パナソニックチャイナ、本田技研工業、
中央大学、
(株)ジェイアイエンジニアリング
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
概要:共同研究者による報告書の概要を発表頂き、それぞれのテーマ毎に、意見交換を行った。
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第
一
章
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
3.ワークショップ(討論会)
(1)第 1 回ワークショップ(討論会)
日時等:平成 26 年 7 月 27 日(土曜日)(開催地 中国 武漢)
主
催:中南財経政法大学 知識産権研究センター/一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
◆中南財経政法大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華 講師
◆中国の知財関係者
日本側
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆東京理科大学
淺見 節子 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆上智大学
駒田 泰土 教授
◆一般財団法人 知的財産研究所
国家知識産権局、武漢市知識産権局、
忠北大学、中南財経政法大学
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
◆独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)
亀ヶ谷 明久 部長、王 莹 副主幹
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
基調講演:
●「中国の知的財産戦略の回顧と展望」
董 涛 処長
●「今後の日本の知財政策―職務発明制度の見直しとクラウド環境への適応―」
駒田 泰土 教授
●「中国の中部地域における知的財産戦略の若干問題」
董 宏偉 局長
●「日中における知的財産戦略推進の展望―知財経営と知財人材育成の視点から―」
菊池 純一 教授
- 8 -
(2)第 2 回ワークショップ(討論会)
第
一
章
日時等:平成 27 年 2 月 1 日(日曜日)(開催地:中国 北京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
協
賛:中国社会科学院 知識産権センター
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
◆重慶大学
陳 愛華
講師
◆國學院大學
中山 一郎 教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授
◆同志社大学
山根 崇邦 准教授
◆創英国際特許法律事務所
◆北京知識産権法院 陳 錦川 副院長
塚原 朋一 弁護士
◆広州知識産権法院 林 広海 副院長、
◆日本の知財関係者
◆中国の知財関係者
独立行政法人 日本貿易振興機構(北京)、
最高人民法院、北京市高級人民法院、
在中国日本大使館、企業の知財担当者等
北京知識産権法院、中国国家知識産権局、
◆一般財団法人 知的財産研究所
中国科学院大学、清華大学、
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長
北京市知識産権法研究会、
◆事務局
北京瑞盟知識産権代理有限公司、
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
林達劉グループ、中倫法律事務所、
中科智橋国際投資有限公司
基調講演:
●「日本の知的財産高等裁判所の誕生と運用から何を学べるか
―日本の知財高裁誕生の時代的背景とその10年間の運用に対する評価と反省―」
創英国際特許法律事務所
塚原 朋一 弁護士
●「北京知識産権法院の設置及び直面する挑戦」
北京知識産権法院
陳 錦川 副院長
●「広州知識産権法院:新たな機関、新たなメカニズム」
広州知識産権法院
林 広海 副院長
- 9 -
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
4.招へい
(1)招へい1(企業・業界団体関係者との討論会)
日時等:平成 26 年 11 月 18 日(火曜日)(開催地:日本 東京)
主
催:一般財団法人 知的財産研究所
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
◆國學院大學
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
中山 一郎 教授
◆青山学院大学
菊池 純一 教授、川上 正隆 客員教授
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
◆明治大学
高倉 成男 教授
◆上智大学
駒田 泰土 教授
◆一般社団法人 電子情報技術産業協会
亀井 正博 様、大西 修平 様
◆一般社団法人 日本知的財産協会
岡本 武蔵リカルド 様、大和田 昭彦 様、
古谷真帆様
◆特許庁
塩澤 正和 補佐
◆一般財団法人 知的財産研究所
三平 圭祐 常務理事、川俣 洋史 研究部長、
金子 好之 統括研究員
◆事務局
福田 主任研究員、
井手 研究員、引地 研究員、坂治 補助研究員
基調講演:
●「知的財産保護の戦略実施と制度構築」
呉 漢東 教授
●「知的財産を巡る国際動向と期待される日中の貢献」
高倉 成男 教授
●「中国知識産権への JIPA 関心事項~JIPA 内アンケート結果を参考に~」 岡本 武蔵リカルド 様
- 10 -
(2)招へい2(大学訪問)
日時等:平成 26 年 11 月 19 日(水曜日)(開催地:日本 青山学院大学)
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
◆青山学院大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
菊池 純一 教授、川上 正隆 客員教授、
楊 林凱 准教授、茂木 裕美 研究員、
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
叢 龍崴 助手
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員、引地 研究員
概要:
青山学院大学が現在実施している知財クリニックについて、営業秘密をベースに説明される。
営業秘密を中心に意見交換がなされた。
(3)招へい3(大学訪問)
日時等:平成 26 年 11 月 19 日(水曜日)(開催地:日本 東京理科大学)
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
◆東京理科大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
荻野 誠 教授、洗 理恵 先生
◆事務局
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
福田 主任研究員、井手 研究員
概要:
東京理科大学が現在実施している専門職大学院についての説明がなされる。中国側からは、『2 年間
と言う期間に対し、中国では、3 年間は必要であろうと思う。また、中国には、専門職の学位制度が無
く、さらに、授業科目の構成は、大変参考になった。』等の意見があり、有益な意見交換ができた。
- 11 -
第
一
章
第1章
第
一
章
平成 26 年度
知的財産保護包括協力事業の概要
(4)招へい4(大学訪問)
日時等:平成 26 年 11 月 20 日(木曜日)(開催地:日本 同志社大学)
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
◆同志社大学
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
◆中国社会科学院
山根 崇邦 准教授
◆事務局
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
井手 研究員
概要:
同志社大学の概要、知財教育現状、交換留学等の教育システムについて説明される。中国側から
は、同志社大学の知財教育の歴史、現在担当教員数、講義の構成について質問がなされる。大学側か
らは、具体的な状況を踏まえ説明があり、有益な意見交換ができた。
(5)招へい5(企業訪問)
日時等:平成 26 年 11 月 20 日(木曜日)(開催地:日本 ローム株式会社)
出席者:
中国側
日本側
◆中南財経政法大学
◆ローム(株)
呉 漢東 教授、曹 新明 教授、熊 琦 副教授
名倉 孝昭 部長、長尾 康広 係長、
◆中国社会科学院
田中 英樹 係長、大木 崇 係長、王 晛 様、
李 明徳 教授、唐 広良 教授、管 育鷹 教授
上村 卓三 様
◆事務局
福田 主任研究員、井手 研究員
概要:
ローム(株)の概要説明後、意見交換がなされる。
中国側からは、『日本の企業に対しての直接的なヒアリングは、めったにない事であり、貴重な時
間となる。』との発言があり、また、中国の商標制度、とりわけ馳名商標制度についての詳しい説明
がなされ、双方商標問題について、学術及び実務の観点から意見を交わされ、有意義な意見交換がで
きた。
- 12 -
第
二
章
第2章
研究内容の要約
第2章
第1節
研究内容の要約
日中における国家戦略の中の知財戦略に関する比較研究
Ⅰ.中国の知的財産保護戦略実施及び法治建設状況に関する論評
中南財経政法大学 知識産権研究センター
第
二
章
呉 漢東 教授
中国は、2008 年に「国家知的財産戦略綱要」を公布実施し、この綱要により確定された五か年短期
目標の基本的な実現は、中国を世界の知的財産大国とした。知的財産保護は、中国のイノベーション
発展の基本保障である。全体的にみて、中国の保護現状は、明らかに改善されているものの、現実の
保護成果は綱要の目標からして、いまだに一定の距離がある。現在から 2020 年まで、中国は、知的財
産強国の建設を戦略的目標として掲げ、良好な知的財産法治環境、知的財産市場環境及び知的財産文
化環境の構築に力を入れる。その主な働きは、知的財産侵害行為への罰則の強化、法執行力の強化、
多元的な紛争解決メカニズムの拡大、権利維持援助及び渉外対応メカニズムの健全化、ソフトウェア
自動化の促進、知的財産保護監督メカニズムの創設及び知的財産文化建設の促進が含まれる。知的財
産法治建設において、本国発展のニーズに立脚して、著作権法、専利法の改正及び整備を行い、知的
財産法執行活動を有効に展開し、日常の管理監督及び専門管理を強化し、司法保護の主導的な役割を
発揮し、知的財産司法保護のレベルを向上させることにあろう。
Ⅱ.中国の知的財産戦略推進における法執行体制改革の研究
中国社会科学院 知識産権センター
管 育鷹 教授
知的財産の保護は、中国のイノベーション促進型発展戦略の実施における法制度上の保障であり、
知的財産戦略は、「イノベーションへのインセンティブ」及び「法を依拠にして国を治める」とい
う、2 つを主軸として進めなければならない。知的財産保護の強化には、法規範そのものの整備、また
科学的で実効性の高い法執行体制の設置が不可欠である。現在、中国の知的財産における法執行体制
には幾つかの問題があり、前述の 2 つの主軸を踏まえた修正と整備を行うべきである。具体的には、
中国の知的財産法執行における「ダブルトラック制」は、今後も一定の期間続くと思われる。しか
し、知的財産の行政保護の強化は、知的財産に関わる各行政管理部門の職権の強化ではなく、国の総
合的な行政法執行体制の改革を踏まえ、知的財産の行政法執行チームの統合である。中国の司法体制
は、知的財産保護の主導的役割を果たすべきであり、その具体的な措置は、司法体制改革全体の動向
を踏まえなければならない。現在、既に設立された北京・上海・広州の知識産権法院は、従来の特化
された審判廷の優れた審判資源を統合したにすぎない。今後、既存の知識産権法院の関連制度を整備
し、厳格な法執行により保護を強化することに加え、司法体制改革を更に推進し、知的財産の権利確
認手続を略式化し、循環訴訟を減少させるとともに、早急に、関連法の改正により、専門的な知識産
権高級法院を設立すべきである。
- 14 -
Ⅲ.日本における国家戦略としての知的財産戦略について
明治大学
高倉 成男 教授
従来、知的財産戦略は、特許庁・文化庁など各省庁によって独立に決定されてきたが、2003 年 7 月
の「知的財産推進計画」の策定以降、内閣の責任と権限で一元的に調整されるようになった。これに
よって、例えば、知的財産高等裁判所の設置、特許審査官の例外的増員など、各省庁個別の対応では
実現困難と思われた多くのことが実現に至っている。
他方で、2003 年から 2013 年までの間に、特許出願件数は約 20%減少し、知的財産民事訴訟は約
13%減少している。これらのことから、知的財産推進計画がイノベーションにどう貢献したかは明ら
かではないとの批判もある。知財の保護を強くすることでイノベーションを起こすという発想自体を
疑問視する意見もある。
本報告書では、こうした批判も考慮に入れながら、知的財産推進計画の位置づけを再確認するとと
もに、その実施状況を評価し、イノベーションの観点から、新たに取り組むべき課題について考え
る。
Ⅳ.国際知的財産保護のグローバル化とローカル化の趨勢に関する研究
中南財経政法大学 知識産権研究センター
熊 琦 副教授
国際知的財産保護制度は、19 世紀から現在に至るまで、ローカル化からグローバル化へ、その後、
再度グローバル化からローカル化へ戻るというプロセスをたどった。この流れは、一見すると国際知
的財産保護制度の反復のように見えるが、変革の本質は、いずれも関係諸国がグローバルな経済競争
の中で自国の利益の最大化を求める表れである。ローカル化とグローバル化の間の変革の法則から、
国際知的財産の発展が民間団体の推進の結果であることが見てとれ、その現象の背後には、経済のグ
ローバル化がもたらした奥深い変革がある。今日のグローバル市場競争には、国家政策、国際関係な
どの多様な要素が入り混じっているため、民間団体も政府の公共政策の制定と国際関係の行方に影響
を及ぼすことで国際知的財産保護の水準を高める努力をしている。これは、個人が国際知的財産法を
創出する時代において、知的財産の国際ルールは、決して神聖で価値中立ではないことを説明してい
る。中国は、一面的に、国際条約を基準として自国の知的財産制度を評価してはならず、その都度、
対応戦略を調整し、公共政策を善用し、自国の比較優位産業を支援・発展させ、積極的に知的財産国
際ルールの制定に参加し、自身が負う国際義務に背かない前提で、自らの発展に最も適した道を選択
すべきである。
- 15 -
第
二
章
第2章
第2節
研究内容の要約
知財の在り方に関する基礎理論の研究
Ⅰ.特許制度の基礎理論の研究:経済効果の検証と制度設計上の留意点
國學院大學
中山 一郎 教授
本稿では、功利主義・帰結主義の立場から、特許制度の正当化根拠を市場の失敗を解決するために
第
二
章
市場メカニズムを活用して創作インセンティブを確保する点に求めることを確認した上で、特許制度
の経済効果を検証した。先行する実証研究によれば、特許制度の全般的な経済効果は不明確である。
よって、特許保護の強化がイノベーションを促進することを無条件の前提とすべきではない。また、
望ましい特許制度は産業により変わり得るが、それに止まらず国あるいは時代によっても変化し得る
と考えられるが、グローバル化を背景にした制度の国際調和への要請が高まる中で、各国が有する制
度設計の自由の範囲は制約を受けざるを得ない。他方、一国の産業の国際競争力の低下は市場の失敗
ではないから、国際的競争力強化への寄与を特許政策の目的と掲げることは適切ではない。国際競争
力の名目の下の政策は保護主義を招きかねない危険性がある。
Ⅱ.知財制度の在り方に関する基礎理論の研究
同志社大学
山根 崇邦 准教授
本稿は、知財制度の在り方について、主に哲学的なアプローチに依拠して再考しようとするもので
ある。具体的には、まず、知財制度がその保護対象の性質ゆえに「自由の共存」を課題とするもので
あることを提示する。そして、イギリスの哲学者 Isaiah Berlin が提示した 2 つの自由概念に依拠し
て、積極的自由と消極的自由のどちらを重視するかによって、知財制度の本質の捉え方や具体的な制
度構想が異なってくることを明らかにする。その一つの例として、知的財産を創出する者の積極的自
由に光をあて、創作者の積極的自由の保護体系として知財制度の本質を捉える Robert P. Merges の構
想と、知的財産を享受する者の消極的自由に光をあて、享受者の消極的自由を制約する特権として知
財制度の本質を捉える Peter Drahos の構想を紹介する。さらに、第 3 の制度構想として、近年注目を
浴びているクリエイティヴ・コモンズや Wikipedia、Linux などの事例を取り上げ、コモンズとしての
知財制度の可能性について検討する。
Ⅲ.商標保護に係る基本理論の研究
中国社会科学院
知識産権センター
李 明徳 教授
商標は、営業活動において使用する標章であり、その役割は、商品又は役務の出所を表示すること
である。商標は、関連する商品又は役務に使用され、消費者は、その表示を見て購買し、当該商品又
は役務に対する積極的な評価が生じる。これが、商標が代表する商業上の信用である。商標権は、一
種の財産権として、標章自体について享有する権利ではなく、商標が代表する商業上の信用にいて享
有する権利である。商標の適正な使用、及び商標権侵害の阻止は、事実上、正常な市場競争秩序を維
持することになる。
商標登録は、財産権取得の手段ではない。商標所有者が、商標行政部門に商標登録を申請し、商標
登録されることは、一連のメリットがあり、手続上の権利の取得である。商標登録を通じての手続き
上の権利と、商標の使用により獲得した財産上の権利を合わさることにより、商標権者は、より手厚
- 16 -
い保護を受けることができる。
商標法は、主に登録商標とそれが代表する商業上の信用への保護をもたらし、かつ、これにより関
連する市場競争の秩序を適正化している。他方で、反不正当競争法[不正競争防止法]は、未登録商
標、商号、その他の営業標章が表す商業上の信用の保護、信用毀損と虚偽宣伝を禁止することにより
市場主体の商標上の信用を保護している。不正な競争を禁止する観点から、商標法及び反不正当競争
法の商標に対する保護を理解しなければならない。
Ⅳ.“ビッグデータ”時代の知財保護の新たな構想
中国社会科学院
知識産権センター
唐 広良 教授
現代社会の発展は、既に「ビッグデータ」時代に入っている。「ビッグデータ」の応用により、社
会全体は、巨大な変化が生じるであろう。これにより、社会の統制上、最も重要な手段である法律制
度も必然的に変化が生じるはずであり、知的財産保護制度もその一環である。
本稿筆者の観点からすれば、ビッグデータ時代において、最も顕著な変化は、人と人の間の関係の
変化である。すなわち、元来全く関連性のない個体であっても、ビッグデータの収集と応用により、
自然に随時関連付けられ、かつ、その関連性は、異なる用途により任意に解読され、全ての解読にお
いて、実際上の意義がもたされる。
このような状況において、知的財産の保護は、単純な私権の保護にとどまらず、イノベーションも
単一の個体ではなくなっている。同時に、イノベーション活動の盲目性と重複性は、大幅に低減し、
これにとって代わるのは、更なる対応性と有効性である。
ビッグデータ時代は、政府機関に対し、より多く、より重要な協調と監督管理の職能を求めるであ
ろう。先ず、政府機関は、明確な政策目標を確立し、社会発展の正確な方向性を示す義務がある。次
に、政府機関は、適切な法律制度を制定・整備し、有効な政策・措置を制定及び実施することによ
り、目標の実現を保証する義務がある。そして、政府機関は、社会各界と共に、技術上信頼でき、道
徳上の信用、法律上の保障された環境の構築を導き、遅滞なく、有効に政策目標の実現を妨げる人と
行為に対して制裁を施す義務がある。
ビッグデータ時代の到来は、世界各国の人々の文化側面での距離を更に縮め、これにより相互間の
紛争を軽減していくであろう。各国の領土と主権の完全性に影響を及ぼさない前提の下で、知的財産
を含む特定分野における法律基準、さらに制度の統一は、現実味を帯びたものとなるであろう。
- 17 -
第
二
章
第2章
第3節
研究内容の要約
知財の人材育成問題に関する比較研究
Ⅰ.日本における知財人材育成に関する研究‐特色ある学校教育モデルを踏まえ‐
青山学院大学
菊池 純一 教授
近年の 10 年間程度の間に構築されてきた日本の学校教育モデル(このモデル自体が知財システムに
第
二
章
他ならない。)の特徴をとらえた上で、知識社会のグローバルな発展に適合する人材育成グローバ
ル・イニシアティブを提案する。
これまでの各教育モデルに共通した課題として、1)教員人材の確保、育成に係る課題は短期的には
解決しない。2)知財の生きた様態(社会実装)に係る事柄を俯瞰し、教育の場に反映することが難し
い。3)ファクトベースの教材が不足している。4)知識社会における知の多様性と躍動性に係る教育
は、手探りの状態である。5)複合リスク管理に係る教育の体系化はなされていない。
今後、日本はこれらの課題を克服し新たな教育モデルを再編するだろう。そして、その知財の恵沢
を他国にも供与すべきであろう。物財の輸出モデルに加えて、グローバル・イノベーションモデルを
加味して知財システムを編成する必要がある。
Ⅱ.中国の高等教育機関における知的財産人材育成体制の研究
重慶大学
陳 愛華 講師
中国の知的財産分野の急成長に伴い、知的財産人材の需要も急伸している。しかし、統計による
と、現在、知的財産人材は、依然として深刻な不足状態にある。2008 年、国務院が発表した「国家知
的財産戦略綱要」において、「若干の国家知的財産人材育成拠点を建設する。高水準な知的財産教員
の整備を加速させる。知的財産二級学科[中分類の学科課程]を設立し、条件が備わった高等教育機関
での知的財産修士課程、博士課程の設置を支援する。各級・各種の知的財産専門人材を大規模に育成
し、急務である企業が求める知的財産管理人材及び代理サービス人材を重点的に育成する」等の知的
財産人材育成方針が明確に打ち出された。中国の高等教育機関は、知的財産教育を実施し、社会に知
的財産人材を輩出する主要な拠点である。本稿は、中国の高等教育機関における知的財産人材育成の
歩みを総括し、現在の高等教育機関の学部教育、大学院生教育において直面する問題を探ると同時
に、問題の背後にある社会環境要因を簡単に分析し、今後の高等教育機関における知的財産人材育成
の方向と重点を掘り下げて検討し、現行の中国の知的財産人材育成メカニズムにいくつかの改革提言
を行うことにより、高等教育機関が育成する知的財産人材が中国社会の発展と実際のニーズに応えら
れることに期待を寄せるものである。
- 18 -
Ⅲ.中国の知的財産人材育成モデルの研究
中南財経政法大学 知識産権研究センター
曹 新明 教授
未来世界の競争は、知的財産の競争であると言われている。そうであれば、知的財産の競争は、結
局、知的財産人材の競争である。中国は、1980 年代から改革開放政策を開始し、経済成長を中心とす
る、中国特有の社会主義建設を進めている。この目標を達成するために、中国は、知的財産に関する
法律を制定し1、知的財産行政管理機関、知的財産裁判機構を設置し、知的財産法務サービス組織を構
成し、それに伴い知的財産人材育成教育を開始した。30 年余りの間、中国は、先進国の知的財産人材
育成の成功経験を参考にして、中国の国情と社会的ニーズを踏まえ、各種知的財産人材の育成モデル
を模索し、数万人以上の知的財産人材を育成してきた。しかし、中国の本格的な改革推進、法による
治国、経済成長のニュー・ノーマルの到来に伴い、中国の知的財産人材の需要は、数量的に顕著な増
加を示すのみならず、質的にも高い基準が設けられた。知的財産人材の量と質の要求を満たすため、
中国政府は、これに対応する知的財産人材育成計画を制定し、高等教育機関と関連研究機関は、これ
に積極的に応え、様々な形式を取り入れて知的財産人材を育成している。
1
1982 年、中国の現行「商標法」公布。1984 年、「専利法」公布。1990 年、「著作権法」公布。これより、中国で新
しい知的財産法制度の構築が始まる。中国は、1898 年、当時の清朝政府により、中国初の知的財産法である「振興工芸
給奨章程」を公布し、1904 年に、「商標登録試弁章程」、1910 年に、「大清著作権律」公布。ここまで、知的財産の 3
大主軸法律の制定が完了。その後、1915~1949 年、既存の法律をベースに「著作権法」(1928 年)、「商標法」(1930
年)、「専利法」(1944 年)を制定。李永然、謝顕栄 監修『智財権-小六法新編」旭昇図書有限公司、2005 年 10 月
参照。
- 19 -
第
二
章
第
二
章
第
三
章
第3章
研究内容の報告
第
三
章
第
三
章
第1節
日中における国家戦略の中の知財戦略
に関する比較研究
第3章
研究内容の報告
Ⅰ.中国の知的財産保護戦略実施及び法治建設状況に関する論評*
中南財経政法大学 知識産権研究センター
呉 漢東 教授
中国は、2008 年に「国家知的財産戦略」(以下「綱要」と略す)を発表及び実施し、知的財産事業
で重大な進歩を遂げ、「綱要」と「十二五」[十二回期五か年計画]計画で提起された 5 年の段階的な
目標をほぼ実現し、知的財産大国と肩を並べることに成功した。本文の主旨は、新たな情勢背景の下
で、中国知的財産保護の状況を整理し、中国知的財産保護の戦略目標を紹介し、中国知的財産法治体
系の構築について論述を行なうことである。
1.中国知的財産保護状況に対する評価:成果と課題
第
三
章
イノベーション型国家建設の全体の戦略目標から出発し、近年、中国は、知的財産制度の構築を一
層強化し、知的財産の保護を更に拡大することにより、科学技術のイノベーションと文化の繁栄を促
進し、経済と社会発展の推進を図っている。早くも 2004 年、2005 年に、中国政府は、それぞれ「国家
知的財産保護ワーキンググループ」と「国家知的財産戦略制定作業指導グループ」を設立し、2008 年
に「国家知的財産戦略綱要」を審議、採択した。2013 年、中央政府は、「全面的に改革を深める若干
の重大な問題に関する決定」において、「知的財産の運用と保護の強化」を強調し、現在の国家知的
財産戦略綱要の実施重点を一層明確化させた。
国家知的財産戦略実施の段階的な評価結果によれば、「綱要」で確立された 5 年短期目標は、ほぼ
達成し、中国の知的財産大国の地位の収得を促した。戦略実施前と比べ、現在、中国の知的財産の創
造力は、明らかに強化され、知的財産の法治環境は、明らかに適格化され、知的財産の管理能力は、
普遍的に強化され、知的財産の仲介サービスは、発展が著しく、知的財産人材群も、安定した発展を
見せている。社会全体の知的財産の全体レベルは、顕著な進歩を獲得し、知的財産の国家の経済社会
の発展への促進作業は、ますます顕在化している1。中国の知的財産事業の成果は、優れており、各項
目の指標は、比較的速い発展を遂げており、その数量からみれば、中国は、既に知的財産大国になっ
ている。第 1、中国は、既に比較的大きい知的財産の創出がある。2014 年 12 月末まで、中国の有効発
明専利の保有量は、119.6 万件に達し、国内の一万人当たりの発明専利保有量は、4.87 件に達し、
「十二五」計画で確定された目標任務(3.3 件)を超過達成し、登録商標の出願量と累計有効登録量
は、世界第一を保持し、著作権の登録量、地理的表示、植物新品種の出願量等は、新たな記録を作り
出した。その中で、版権産業の総産値が当年の GDP で占める割合は、毎年増加し、2007 年の 6.4%から
2011 年は 6.67%2に、2012 年は、更に 6.87%3までに増加している。一部のコア技術分野では、新たな発
展をし、多くのコア技術と自主的知的財産を有する民族企業等を有する。第 2、中国の知的財産の創造
*
本文のデータと図表は、中南財経政法大学知的財産権研究センターの張継文博士が提供したものである。ここに感謝
の意を表す。
1
田力普「知的財産権戦略実施を深化し、有効にイノベーション駆動発展を支える——『国家知的財産権戦略綱要』頒布
5 周年際について」、http://www.sipo.gov.cn/dfzz/ningbo/ywdt/zxxw/201308/t20130830_815450.htm[最終アクセ
ス:2015 年 2 月]。
2
段禎「2011 年版権業産値が GDP の 6.67%を占める」、http://www.ip1840.com/news/in/copyright/25302.html[最終
アクセス:2015 年 2 月]。
3
鄒韌「2012 年我国版権産業行業増加値が GDP の 6.87%を占める」、http://www.chinaxwcb.com/201412/26/content_309929.htm[最終アクセス:2015 年 2 月]。
- 24 -
の構成は、徐々に適格化されつつある。専利を例に挙げると、中国の専利の創出構成の発展は、前後
して既に 5 つの重大な発展を遂げている。すなわち、①1996 年、企業の専利出願量は、初めて大学と
科学研究機構を超たこと。②2003 年、国内主体による発明専利の出願量は、初めて海外主体による出
願量を超たこと。③2004 年、発明専利出願の受理件数は、初めて実用新型[実用新案に類似した概念]
を超えたこと。④2009 年、国内の発明専利出願の権利付与件数は、初めて国外を超えたこと。⑤2011
年、国内の有効発明専利の保有量は、初めて国外を超えたことである。中国の専利創出の主体の構
成、発明出願人の構成、専利類型の構成、専利権利付与の構成、有効発明専利の所有量の構成は、重
大な発展をし、これは、専利技術の応用化と産業化レベルの向上に有利であり、GDP に対する科学技術
イノベーションの貢献率の向上に有利である。第 3、中国の知的財産への資金の投入が持続的に増加し
ている。近年、知的財産研究開発に対する中国の資金の投入が、持続的に拡大されている。2012 年、
中国の社会全体の研究開発への資金の投入は、10,298.4 億元に達し、GDP で占める割合は 1.98%であ
り、中間レベル先進国の研究開発への資金の投入レベルに達し、その資金総額は、世界ランキングの
50 位前後の国の総資産に相当する4。なお、科学技術部の 2014 年の統計によれば、中国の社会全体に
おける研究開発投資(R&D)は、13,400 億元に達する見通しであり、GDP で占める割合が 2.1%に達する
見込みである。これは、顕著な進歩であり、政府の作業報告で提起された 2%の作業目標を超過達成し
たものである5。
知的財産保護は、中国のイノベーション発展のための基本保障である。国家戦略が実施されて以
来、中国の知的財産保護の現状は、明らかに改善されており、これは、公衆の知的財産意識の顕著な
向上、知的財産保護の明らかな強化、知的財産の市場秩序の良好な趨勢から表している。中国の知的
財産保護は、比較的大きな進歩を得ているものの、その保護効果と、綱要における五か年目標の間に
はある程度の乖離がある。知的財産保護において、主に紛争処理の期間が長く、調査・証拠収集が難
しく、判決による賠償額が低く、判決の執行が難しい等の問題が存在し、権利保護のコストが高く、
侵害コストが低い等の現象がいまだに徹底改善されていない。国家知識産権局が関連機構に委託して
行った五年評価の社会公衆へのアンケート調査によれば、約 70%の調査対象が、保護力が弱すぎ、若干
不足とし、64.9%の公衆が、知的財産の違法状況が若干好転されたものの、明らかではないとし、
40.4%と 28.1%の公衆が、5 年以来、権利保護のコストが若干高まった、又は変わらないとした。中国
専利保護協会、中華商標協会、中国版権協会が共同で行った調査結果によれば、2012 年、中国知的財
産保護に対する社会の満足度は 63.69 点であり、全体評価がやや低かった。上述の問題をもたらす原
因は様々であるが、根本的には中国が置かれている発展段階と、経済の転換における特徴によって決
定付けられ、法執行体制の不完全性、法執行資源の有限性、知的財産保護に対する公衆の認識上の不
足等により表れている。まとめて言えば、知的財産保護の実際効果と社会の期待感との間には、一定
の乖離があり、知的財産保護の満足度に対する社会全体の評価は、それほど高くない。
4
孫春祥「研究開発投入が初めて GDP に入れ、占める比重は 1.98%」、http://finance.chinanews.com/cj/2013/1119/5517970.shtml[最終アクセス:2015 年 2 月]。
5
経済日報「2014 年中国全社会研究開発投入(R&D)13400 億元、R&D が GDP で占める比重は 2.1%」、
http://www.qqjjsj.com/zgjjdt/45732.html[最終アクセス:2015 年 2 月]。
- 25 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
2.中国知的財産保護戦略の発展:目標と任務
(1)目標:知的財産強国を構築するための努力
2014 年 7 月 11 日、李克強総理は、WIPO 事務局長と会見した際に、「科学技術成果の現実の生産力
への転化を促進し、知的財産強国の構築のために努力する」と強調した。同年、国務院は、第 68 回常
務会議で、知的財産の運用と保護強化を特別課題として検討し、「国家知的財産戦略の実施を深める
ための行動計画(2014-2020 年)」を審議し、これに同意した。この「行動計画」は、国家知識産権局と
国家知識産権戦略実施工作部際連席会議 28 の構成団体が共同で起草し、各省区市の意見を広範に求め
たものである。当該計画は、3 つの側面において、注目に値する。すなわち、①初めて「知的財産強国
第
三
章
の構築のために努力する」という新たな目標を明確に提起した。②問題志向を明らかにし、知的財産
の運用と保護という二つの中心課題を巡って重点的配置を明示した。③具体的な業務レベルにおいて
も、数多くの新たな提議、新たな配置を明示した。知的財産の密集型産業の発展面において推進する
と同時に、専利の誘導、専利の協同運用、専利の集中管理等の業務を重要視することは、産業の一層
の支えとなる。
「行動計画」では、知的財産強国の構築を戦略目標とし、2020 年まで、知的財産の法治環境を更に
改善し、明らかに知的財産に係る創造、運用、保護と管理の能力を増強し、知的財産の意識を人々の
中に浸透させ、経済発展、文化繁栄と社会構築に対する知的財産制度の促進作用を充分に顕著化させ
ることを明確に提起した。知的財産の保護側面において、具体的な要求は、知的財産保護体系を更に
改善し、司法保護の主導的な役割を充分に発揮し、行政法執行の効果と市場監督管理のレベルを向上
させていくことである。重複侵害、団体侵害、悪意侵害等の行為は、有効に制裁され、知的財産犯罪
者は、有効な打撃が与えられ、知的財産権者の合法的な権利は、有効に保障され、知的財産保護に対
する社会の満足度は、一層高まるであろう。
「行動計画」では、「知的財産強国の構築のために努力し、イノベーション型国家の構築と全面的
な小康社会[裕福な社会]の建設のために有力な支えを提供する」と明確に提起している。イノベー
ション型国家を構築するキーポイントは、国家科学技術競争力の向上、国家文化ソフトパワーの強
化、国家ブランド影響力の拡大にあり、上述の総合的実力は、知的財産の数量と品質に現れている。
中国の未来の発展には、知的財産事業の発展が欠かせないものであり、知的財産戦略の実施により、
イノベーション型国家の構築のために重要な保障を提供することが必要である。国家綱要の実施以
来、各種施策は着実に実現され、第一段階の戦略目標はほぼ実現し、中国の知的財産大国の地位を成
就させた。これは、中国の知的財産強国として構築するための堅実な数量、品質と制度的側面での礎
をなした。しかし、中国の知的財産は、効果、全体的な配置等の側面において、知的財産強国とは、
いまだに大きな乖離がある。したがって、現在と今後の一定期間は、中国が知的財産戦略の実施を深
め、知的財産法治環境を構築する重要な段階であり、肝心な時期であるということができる。
知的財産強国では、知的財産の産業の転換・アップグレード、及び経済の品質アップと効率向上に
十分にその役割を発揮させなければならない。2014 年末、中央は、経済業務会議を開催し、「全面的
なイノベーションの推進は、その多くが産業化のイノベーションで新たな成長点を育成・形成させ、
イノベーション成果を確実な産業活動に転化させることにある」と強調した。「イノベーション成果
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を確実な産業活動に転化させる」ことは、主に、知的財産の産業化の問題に関わるものである。経済
発展の新たな平衡状態において、中国経済は、高速成長から中高速成長に転換し、経済発展の方式
は、規模・速度型の粗放的な増加から品質・効率型の集約的な成長に転じており、経済構造は、増
量・拡能型中心から、現存の量と最適な増量を並存させる調整を行っており、経済発展の原動力は、
伝統的な成長点から新たな成長点に転換しつつある。知的財産の産業化の推進は、知的財産と産業を
結合させ、これにより「品質効率型」の GDP に直接的に貢献することである。これは、一国の経済の
発展を力強く支えるだけではなく、就職をもたらし、内需と輸出をけん引し、さらに経済構造の転換
とアップグレードを実現させる。
(2)任務:良好な法治環境、市場環境、文化環境の構築
知的財産強国は、知的財産保護状況が良好な法治強国でなければならない。国家綱要の固定的な戦
略任務に基づき、我々は、「知的財産制度の改善に全力を注ぎ、積極的に良好な知的財産の法治環
境、市場環境、文化環境を構築し、大幅に中国の知的財産創造、運用、保護と管理能力を向上させ
る」べきである。能動的で、効率の高い知的財産保護の長期にわたって有効なメカニズムを構築する
ために、我々は、次に掲げる作業を行わなければならない。
(ⅰ)知的財産侵害行為に対する罰則を強化する
司法保護の主導的な役割を発揮させる。すなわち、法により司法判決における賠償額を高め、懲罰
的賠償を導入し、技術的手段を充分に運用してネットワーク環境下の権利侵害行為、海賊版を撃退
し、著作権侵害に対する快速追跡と処理メカニズムを構築し、徹底的に知的財産侵害分野における
「侵害コストが低く、権利維持コストが高い」現状を変えていくことである。司法分野における証拠
公証制度の役割を更に発揮させ、公証方法による証拠の保管を奨励し、知的財産における権利取得、
保護(先使用、権利侵害)及び知的財産貿易の中での公証証明の作業を強化する。知的財産の刑事司
法業務を強化し、重複侵害、悪意侵害、集団侵害に対する懲罰を強化し、断罪量刑基準を明確化し、
知的財産犯罪に対する威圧効果を保つ。知的財産案件の審理経験を総括し、知識産権法院の設立を推
進し、知的財産司法判断のレベルを向上させる。知的財産の行政による法執行力を拡大する。知的財
産法執行機関は、法により、法執行を強化し、行政法執行レベルを向上し、法執行効率を高め、知的
財産侵害製品の製造源、製品集散が比較的集中する重点地区に対し、情報監査と情報通報メカニズム
を構築する。積極的に法執行の特別行動を展開し、重点的に、管轄区を超えた、大規模及び社会反響
の強い侵害案件を調査・摘発し、民生、重大プロジェクト、優勢産業等の分野における知的財産侵害
行為に対する取締りを強化する。ネットワークにおける権利侵害、模造、違法犯罪、偽造農業物資の
取締、営業秘密の保護、建築材料、自動車部品、携帯電話、児童用品等の重点商品及び偽造・粗悪薬
品の製造販売違法行為等の重点分野を巡って集中的に整備する。知的財産税関保護モデルを革新さ
せ、適宜拡大させ、法により国内自由貿易区での知的財産法執行を強化する。
(ⅱ)法執行協力の強化
国家知的財産戦略部際連席会議の役割を充分に発揮し、部門間の高層会合メカニズムを構築し、知
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
的財産政策協調を強化すべきである。公正で、権威的な知的財産司法を構築し、有効で、柔軟な知的
財産行政法執行を作り出し、両者相互に協調し、有効に連結することにより、公正で、効率の高い知
的財産司法と行政の法執行メカニズムを形成する。知的財産管理部門と司法部門の間の意思疎通を強
化し、知的財産行政法執行部門の案件情報資源の共用を強化し、行政法執行部門の行政処罰案件の情
報を整合する。区域間、省間の知的財産法執行連携を強化し、重大法執行活動の組織協調を強化し、
部門間の重大案件討議、通報制度を強化する。行政法執行と刑事司法の間の連結メカニズムを実現
し、知的財産行政法執行部門と警察機関の犯罪手掛り移送ルートを確保し、連合法執行協調メカニズ
ムを形成し、知的財産保護全般の効能を高める。
(ⅲ)多元化の紛争解決メカニズムの開拓
第
三
章
各類の業界団体、知的財産仲介サービス等の機構が協調して知的財産関連紛争を解決する積極的な
役目を充分に発揮させ、知的財産保護の自律的なメカニズムを整備すべきである。仲裁、調停等の非
訴訟方式を活用して知的財産紛争解決方式を更に探索し、知的財産仲裁機構、調停機構の構築を整備
し、知的財産紛争解決における仲裁、調停の優勢と役割を発揮させ、紛争解決における時間コスト、
物質コストを低減させ、イノベーション主体の権利維持の熱意を保護する。当事者が選択した知的財
産紛争人民調停委員会、知的財産援助センター及び著作権紛争調停センター等の民間調停、知識産権
局等の行政機関による行政取締りと知的財産仲裁機構による専門仲裁、更に訴訟における紛争類型化
後の専門調停と訴訟を通じて、秩序ある知的財産紛争解決の多元化メカニズムを形成する。
(ⅳ)権利保護援助と渉外対応メカニズムの健全化
政府の知的財産維持援助機構の構築を強化すると同時に、業界団体、仲介機構の役割、市場本位、
企業中心、協会(商工会)牽引、政府支援を発揮させ、企業の知的財産危機対応能力の構築を強化
し、積極的に企業における知的財産の自主的な権利維持援助機構の構築を進めるべきである。有効に
運行できる知的財産海外権利維持機構を構築する。重大渉外知的財産紛争に対する政府の統括的な協
調能力を強化する。企業の重大渉外知的財産紛争対応に関するサービスと指導力を強化し、企業が先
頭に立って知的財産海外権利維持連盟を構築することを奨励し、海外知的財産問題フィードバックメ
カニズムを構築し、海外知的財産サービス機構ネットワークを構成し、最終的に有効に運行できる知
的財産海外権利維持機構を設立し、各関係者が参加する権利維持援助メカニズムを整備し、大いに中
国企業の海外知的財産紛争対応能力を向上させる。
(ⅴ)ソフトウェア正規化の継続的な推進
政府におけるソフトウェアの正規化を強化し、企業が正規版ソフトウェアを使用することを推進
し、ソフトウェアの正規化業務と情報化の構築及び情報セキュリティーを結合させるべきである。全
面的にソフトウェア正規化の長期にわたって有効なメカニズムを実現し、ソフトウェアの正規化業務
の常態化、制度化を確保する。
(ⅵ)知的財産保護監督メカニズムの創設
重大案件の公表制度を整備し、知的財産の公開された法執行を推進し、知的財産に係る民事・行政
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及び刑事裁判活動に対する人民検察院の監督を強化する。また、司法の透明度を向上する。法院は、
継続的に陽光司法[公開された透明な司法]を推進し、さらに知的財産裁判文書のインターネット公開
を拡大し、重大案件の深みのある公開を強化し、開廷審理の生中継、人民代表大会代表の傍聴への要
請、公衆向け開放日の実施、司法保護状況白書の発布等の方法を通じて、絶え間なく司法公開ルート
を開拓する。知的財産行政法執行の情報公開を強化する。法により知的財産侵害行政処罰案件の情報
を公開し、案件情報の公開状況そのものを侵害・偽造取締統計の通報範囲に入れる。社会公衆の参加
監督のルートを拡大し、知的財産保護法執行監督ホットラインを開設する。インターネット上の苦情
提起プラットフォームの構築を強化し、政府主導、業界自律、社会各界が広汎に参加する知的財産保
護監督メカニズムを形成する。
(ⅶ)知的財産文化の構築の推進
知的財産文化は、市場経済を基にして構築された文化であり、その核心は、イノベーションの激励
と保護であり、本質は、知的財産の価値志向と心理承認であって、知識への尊重、イノベーションへ
の崇敬、誠実で法を守る価値観念と行為方式により現れている。大いに国家知的財産戦略を宣伝し、
知的財産保護の重大な策略配置を拡大し、知的財産業務の進展成果を充分に宣伝し、自主的な創造の
模範を宣伝し、知的財産の普及型教育を広く展開し、社会全体において、創造を栄光とし、剽窃を恥
とし、信義誠実を栄光とし、偽造・欺瞞を恥とする道徳観念を発揚する。
3.中国知的財産法治体系の構築:立法、法執行と司法
(1)立法 本土に立脚して能動的に手配する
20 世紀 80 年代以来、中国では、相次いで「専利法」、「商標法」、「著作権法」と「コンピュー
ターソフトウェア保護条例」、「集積回路配置図設計保護条例」、「植物新品種保護条例」等の法
律・法規を頒布・実施し、一連の実施細則と司法解釈を頒布した。これにより、中国の知的財産保護
の法律・法規体系は、改善しつつある。2001 年、中国が世界貿易機関(WTO)に加盟する前後におい
て、中国では、関連法律・法規と司法解釈に対して全面的な改正を行い、立法方針、権利内容、保護
基準、法律救済手段等において、WTO「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」及びその他の知的
財産国際公約と一致させた。現段階で行なっている新たな法改正は、国際公約に加盟するためでもな
ければ、国際社会からのプレッシャーにより起因するものでもなく、その多くは、本土の国情に立脚
し、能動的に手配されたものである。これから「著作権法」、「専利法」、「商標法」の改正状況に
ついて簡単に整理する。
「著作権法」について、現在第 3 回改正を行なっている。2012 年 3 月、国家版権局は、「中華人民
共和国著作権法(改正草案)」を完成・公布した。当該草案では、行政法規の一部の内容を「著作権
法」の中に取り入れた。その主な内容は、「著作権の発生時期」、「技術保護措置と権利管理情
報」、「情報ネットワーク伝播権」、「実用芸術作品」と「貸与権」等に及んでいる。上述の内容に
係る規定は、関連条例の中において、比較的に成熟されたものであり、一般的な条項とされており、
今般、改正草案への反映は、評価に値する。具体的な条文からみれば、今回公布した改正草案は、そ
の編章の構成と体裁のいずれにおいても調整され、計 8 章、88 条になっている。草案では、新たに
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
「権利の制限」、「技術保護措置と権利管理情報」の両章を新設し、改正内容は、著作権の客体、著
作権の内容、著作権の制限、著作権の利用、隣接権、著作権の集中管理、著作権の保護等に及んでお
り、改正度合いと改正幅は小さくない。草案は、一部の問題に関して依然として不足があるものの、
改正の重点内容からみて、第 3 回改正は、中国著作権法律制度が成熟と自主に向かうための重要な一
歩となっている。称賛に値する点として、草案では、権利侵害時の損害賠償の考慮要素及び賠償額の
算定方式を明確化することにより、侵害の取締りの更なる強化を図ったところにある。新たに追加さ
れた条項には、著作権侵害行為に係る法定賠償最高額を 100 万元までに引き上げると同時に、懲罰的
損害賠償制度を導入し、2 回以上の故意侵害について 1~3 倍の賠償額を規定する内容を含んでいる。
「専利法」は、1984 年に頒布された後、1992 年、2000 年と 2008 年の 3 回改正を経て、現段階では
第 4 回改正を行っている。今回の「専利法」改正では、専利権保護強化の側面において、更に専利行
第
三
章
政職権と専利権司法保護を強化していた。意見聴取稿からみれば、改正草案では、主に次の内容につ
いて改正している。第 1、市場秩序を乱す被疑専利侵害行為に対して、専利業務管理部門が法により調
査・処理し、違法所得を没収する等の行政処罰権を強化した。第 2、専利権侵害賠償に対する専利業務
管理部門の職権による判断機能を増設した。第 3、専利業務管理部門が行政法執行権を行使する際の調
査対象者の協力義務を増設した。第 4、専利侵害訴訟における案件受取人民法院の法による調査、収集
の職責を強化した。第 5、故意専利権侵害行為に対する懲罰的賠償制度を増設した。
「商標法」第 3 回改正は、2003 年から正式に始動し、2009 年 11 月 18 日に国務院に提出し、2013 年
8 月 30 日、改正案は 12 期全国人大[全国人民代表大会の略称]常務委員会第 4 回会議で審議・採択さ
れ、2014 年 5 月 1 日から発効された。今回の法改正の主な内容は、商標の異議申立手続の簡易化、商
標先使用権の保護、登録商標専用権保護の強化、登録商標使用義務の強化、馳名商標保護制度の整
理、商標審査時限規定の追加等である。注意すべきところは、新「商標法」では、実務上、権利者の
権利維持コストが過多であり、権利行使が往々にして、権利者の利益にならない現象に対して、懲罰
的賠償制度を導入し、悪意による商標専用権侵害であり、情状の余地がない場合、権利者の侵害によ
り受けた損害、侵害者の侵害により得た利益又は登録商標使用ライセンス費用の 1~3 倍の範囲におい
て、賠償額を確定することができると規定している点である。同時に、新「商標法」では、法定賠償
額の上限を 50 万元から 300 万元に引き上げている。
(2)法の執行:独特な特徴を有する行政体制
知的財産保護の実践において、中国では、行政保護と司法保護という「両種類のルートが並行して
運用される」保護モデルを形成している。中国において、複数の部門が知的財産の保護機能を果たし
ている。主には、国家知識産権局、国家工商行政管理総局、新聞出版総署、国家版権局文化部、農業
部、国家林業局、公安部[警察関係部署]、税関総署、最高人民法院と最高人民検察院等が含まれてい
る。長年にわたり、これらの部門は、それぞれ各自の分野において、卓越な業績を遂げている。
(ⅰ)行政法執行機関と刑事摘発機関の間の業務協調の強化
2001 年、国務院は、「行政法執行機関が被疑犯罪案件を移送することに関する規定」を発布し、行
政法執行機関が警察機関へ遅滞なく被疑犯罪案件を移送することについて明確に規定した。2004 年、
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関係部門は、さらに共同で「行政法執行機関と警察機関、人民検察院の間の業務連係の強化に関する
意見」を発布し、初歩的に行政法執行と刑事法執行の間の連携協力の作業メカニズムを構築した。行
政法執行と刑事司法の間の連携作業メカニズムを整備するために、公安部、税関総署は、2006 年に、
共同で「行政法執行の中で滞りなく被疑犯罪案件を移送することに関する意見」を発布した。同年、
公安部と税関総署は、更に「知的財産法執行連携強化に関する暫定規定」を発布し、警察機関と税関
が知的財産保護における連携協力体制を強化した。「2011 年中国知的財産保護行動計画」では、「行
政法執行機関が被疑犯罪案件を移送することに関する特別監督活動」を展開し、法により厳格に行政
法執行部門の案件があっても移送しない行為、案件があっても立件しない行為、犯罪があっても追及
しない行為、行政処罰で刑事罰を代替する行為、依怙贔屓等の行為を調査、処分し、直ちにその行為
の監督、是正を行うことを提起した。「2013 年中国知的財産保護行動計画」では、次のことを明確化
している。連席会議、案件諮問、情報通報と案件移送等の制度を健全化し、警察、監察機関及びその
他の行政法執行機関と連携し、行政法執行機関に対する被疑知的財産侵害案件の移送に関する監督を
強化する。知的財産法執行機関の間の業務連携の強化は、知的財産法執行保護体系の分散、及び多重
複管理がもたらした弊害をある程度有効に回避できた。かつ、法執行の基準を統一させ、権利の間の
抵触現象を減少させ、知的財産法執行の効率とレベルを高めた。
(ⅱ)顕著な効果がある知的財産特別法執行キャンペーンの展開
中国の知的財産法執行体系において、特別法執行キャンペーンは大きな特色の一つである。特別法
執行キャンペーンは、法執行資源を集中させ、特定時間帯、特定地域に対する大規模で、効率の高い
法執行行動を行なうことである。今まで、中国では、多数の全国範囲での知的財産特別法執行キャン
ペーンを行っており、その成果は明らかである。例えば、国家新聞出版広電[広電とは、ラジオとテレ
ビである]総局は、インターネットにおける文学、音楽、ビデオ、ゲーム、アニメ、ソフトウェア等の
海賊版に対して「剣網行動」[キャンペーン命名]特別取締を展開し、国家工商行政管理総局は、馳名
商標、渉外商標、地理的表示を重点とした登録商標専用権侵害行為を厳しく取り締り、多くの国家部
門は、連携して、「展覧会知的財産保護弁法」を実現し、展覧会期間中の知的財産侵害等の行為を有
効に抑制するための展覧会知的財産保護特別キャンペーン―「藍天」を行い、警察機関は、全国で継
続的に知的財産侵害犯罪を取り締まる「山鷹」特別キャンペーンを展開し、海賊版関連犯罪者を厳し
く取り締まると同時に、「反盗版天天行動」を展開し、不正ディスク製造ラインと不正出版物貯蔵拠
点を摘発し、さらに、専利市場行為を規範化し、専利権者の権利を保護するために、「雷雨」と「天
網」専利特別法執行キャンペーンを展開した。これらのキャンペーンを通じて、中国の知的財産法執
行状況は、明らかに改善されている。
(ⅲ)多数の知的財産行政違法案件の受理と処分
近年、中国各級知的財産法執行機関は、継続的に知的財産法制体系の構築を改善し、知的財産行政
法執行業務の展開を深め、積極的にその制度化、科学化と規範化の構築を推進している。中国の各級
知的財産法執行機関では、多数の知的財産行政違法案件を受理し、処分することにより、知的財産違
法経営活動を有効に取り締り、市場経営秩序を整頓し、規範化した。2012 年、全国行政法執行部門
は、知的財産侵害案件と偽造粗悪商品製造販売案件を計 325,271 件立件したが、その係争金額は、
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
88.9 億元に達した。その中、203,107 件は、処分済みであるが、司法機関に 6,999 件移送し、犯罪拠
点 20,721 か所を摘発した6。
(ⅳ)効率が高く、合理的な知的財産税関保護メカニズムの構築
中国税関は、知的財産分野において業務能力を強化し、知的財産税関保護制度の改善、及び行政法
執行力の強化等において明らかな進展をもたらしている。2007 年、中国における 180 社以上の外国の
多国籍会社から構成した「中国外商投資企業協会優良ブランド保護委員会」は、再び中国税関につい
て最も効率的な知的財産行政法執行機関であると評価した。同年 6 月 28 日、世界税関機構(WCO)は、
中国税関に「世界税関機構 2007 年偽造・海賊版打撃成果賞」を授与7し、中国税関が知的財産侵害打撃
行為の中で取得した成果を表彰した。2013 年、中国税関は、積極的に知的財産保護法執行を展開し、
第
三
章
輸出入知的財産侵害違法行為を厳しく摘発し、確実に公平で秩序のある競争環境を保護した。2013
年、中国税関の知的財産保護状況によれば、中国税関は、知的財産保護措置を計 2.36 余万回行い、被
疑侵害貨物 23,686 ロットの通関を中止させたが、被疑侵害貨物は、2.8 億件に達し、実際に差し押さ
えた被疑侵害貨物は 20,464 ロットに達し、被疑侵害貨物は、約 7,600 万件に達した8。
上述のデータによれば、知的財産保護法制が徐々に改善されるにつれて、中国知的財産保護業務の
重点は、徐々に立法から法執行へ方向転換し、日常の監督管理と特別取締を相互結合することによ
り、知的財産保護の行政法執効力を強化し、知的財産法執行において大きな成果を取得していること
を表明している。
(3)司法:主導的役割の更なる強化
近年、中国の知的財産裁判事業は、重大な進展を遂げている。具体的には、裁判職能が絶え間なく
強化され、裁判分野が広げられ、裁判品質が高まっている。中国が世界貿易機関に加盟した後、知的
財産司法保護は、国内外において、今までなかった高度な注目を浴びており、各級法院では、各種複
雑な知的財産紛争を適切に取り扱い、法により当事者の合法的な権利を保護し、各類別の知的財産侵
害行為を禁止、制裁、取締りをし、公平に競争する社会主義市場経済秩序を保護し、知的財産に対す
る司法保護の主導的な役割が更に強化され、社会に普遍的に認可され、国内外に高度の評価を受けて
いる。
(ⅰ)特色ある知的財産裁判体制の構築
20 世紀 90 年代以前、中国には専門的な知的財産裁判機関がなく、知的財産案件は、民事、刑事と行
政案件の中に分散させ、それぞれ民事裁判廷、経済裁判廷、行政裁判廷と刑事裁判廷がその裁判を担
当していた。1993 年、北京市中級人民法院は、実験的に、知的財産民事と行政案件を専門的な知識産
権廷に集中させ、これにより、中国に初めての知識産権裁判廷が誕生した。1995 年 1 月、最高人民法
院は、知識産権裁判事務室を設立した。2000 年 10 月、最高人民法院は、率先してその内部において組
6
2012 年中国知的財産権保護状況、http://www.sipo.gov.cn/zwgs/zscqbps/201305/t20130530_801068.html[最終アク
セス:2015 年 2 月]。
7
中華人民共和国国家知識産権局「2007 年中国知的財産権保護状況」。
8
蔡岩紅 2013 年中国税関知的財産権保護状況発布、http://www.legaldaily.com.cn/executive/content/201404/29/content_5485268.htm?node=32120[最終アクセス:2015 年 2 月]。
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織改革を行い、従来の知識産権裁判廷を民事裁判第三廷に改めた。司法改革過程において、各級法院
は、最高人民法院の改革綱要の求めに応じて、全面的な司法裁判機構の改革を開始し、刑事裁判、民
事裁判と行政裁判の三者間の関係を整えた。現在、最高人民法院と 31 個所の高級人民法院に、民事裁
判第三廷が設立されると同時に、各省、自治区と直轄市政府所在地の中級人民法院にも知的財産民事
裁判廷を設立した。現在、中国では、既に最高人民法院と地方三等級知的財産裁判機構を設置し、中
高級人民法院の知識産権廷をメインとする裁判構造を形成している。2014 年 8 月 31 日、第十二期全国
人大常務委員会第十回会議では「北京、上海、広州での知識産権法院の設立に関する全国人大常務委
員会の決定」を表決・採択した。北京知識産権法院は、2014 年 11 月 6 日に設立したが、これは全国で
初めての知的財産裁判専門裁判機関である。12 月 16 日、広州知識産権法院が正式に設立し、12 月 28
日、上海知識産権法院が正式に設立した。これから 3 年間、全国人大常務委員会は、実情に基づいて
知識産権法院の具体的な設立状況を更に決めていく。
(ⅱ)知的財産裁判規範の健全化と改善
知的財産の司法解釈は、中国の知的財産裁判業務の中で、大きな役割を果たしている。知的財産民
事案件の審理を統一的に帰属させた後、最高人民法院、最高人民検察院は、相次いで一連の司法解釈
を発布した。かかる司法解釈では、法院の過去の裁判経験を総括し、手続上の規定もあれば、実体的
な規定もある。
期日
2008
2009
2009
2010
2010
2012
2012
2014
2014
2015
【図表-1】近年頒布された知的財産に関する裁判規範9
発布機構
書類名称
「登録商標、企業名称と先行権利抵触民事案件審理における若
最高人民法院
干の問題に関する最高人民法院の規定」
「馳名商標保護関連民事紛争案件審理における法律応用の若干
最高人民法院
の問題に関する最高裁判所の解釈」
「専利権侵害紛争案件審理における法律応用の若干の問題に関
最高人民法院
する最高人民法院の解釈」
「商標の授権、権利確定行政案件審理における若干の問題に関
最高人民法院
する最高人民法院の意見」
「コンピューターネットワーク著作権紛争案件審理における法
最高人民法院
律適用の若干の問題に関する最高人民法院の解釈」
「独占行為から起因する民事紛争案件審理における法律応用の
最高人民法院
若干の問題に関する最高人民法院の規定」
「情報ネットワーク伝播権侵害民事紛争案件審理における法律
最高人民法院
適用の若干の問題に関する最高人民法院の規定」
「商標法改正決定施行後商標案件管轄と法律適用の問題に関す
最高人民法院
る最高人民法院の解釈」
「情報ネットワークの利用による人身権侵害民事紛争案件審理
最高人民法院
における法律適用の若干の問題に関する最高人民法院の規定」
「専利紛争案件審理における法律適用の問題に関する最高人民
最高人民法院
法院の若干の規定」
9
中華人民共和国最高人民法院のホームページにより公表された情報を基に筆者整理、http://www.court.gov.cn/fabugengduo-16.html[最終アクセス:2015 年 2 月]。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
近年、中国の知的財産保護状況は、国際経済貿易分野で注目されている。特に、不正競争防止、知
的財産刑事犯罪「基準」、及び権利抵触問題は、人々が注目する焦点になっている。2007 年に頒布さ
れた「不正競争民事案件審理における法律応用の若干の問題に関する最高人民法院の解釈」は、中国
の法院が発布した初の不正競争案件審理に係る司法解釈であり、同年に発布された「知的財産侵害刑
事案件取扱における具体的な法律応用の若干の問題に関する最高人民法院の解釈(二)」は、更に知
的財産刑事司法保護力を強化し、知的財産犯罪の認定「基準」を引き下げている。2008 年、最高人民
法院が発布した「登録商標、企業名称と先行権利抵触民事案件審理における若干の問題に関する最高
人民法院の規定」では、知的財産分野の権利抵触問題についてよく規範化している。かかる司法解釈
は、知的財産保護を強化し、イノベーション型国家を構築するために、有効な司法保障を提供してい
る。
第
三
章
(ⅲ)品質がよく、効率が高い知的財産裁判活動の進行
中国の知的財産制度が確立されて以降、知的財産案件は大幅に増加し、審理範囲は拡大し続け、知
的財産裁判の既済率は毎年上昇し、二審の判決変更率は徐々に低減し、再審率は下がり続け、調停に
より処理された知的財産案件は、現在既に半数を超えている。例えば、全国地方の人民法院の 2012 年
の知的財産民事の一審案件の既済率は 87.61%で、2011 年とほぼ同一であり、上訴率は 2011 年の
47.02%から 2012 年の 39.53%に下がり、再審率は 2011 年の 0.51%から 2012 年の 0.20%に下がり、全国
知的財産民事一審案件の調停・取下率は 70.26%に達している10。
【図表-2】2008~2013 年知的財産民事一審案件受理、審理既済状況11
民事一审受审量
民事一審受理数
民事一审结案量
民事一審既済数
100000
88583 88286
87419 83850
80000
59882 58201
60000
40000
20000
42931 41718
30626 30509
24406 23518
0
2008
2009
2010
2011
10
2012
2013
(年度)
2012 年中国法院知的財産権司法保護状況、http://www.chinacourt.org/article/detail/2013/04/id/949841.shtml
[最終アクセス:2015 年 2 月]。
11
国家知識産権戦略ホームページにより公表された「中国知的財産保護状況年内白書」のデータを基に筆者作成、
http://www.nipso.cn/bai.asp[最終アクセス:2015 年 2 月]。
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【図表-3】2008~2013 年知的財産行政、刑事案件受理、審理既済状況12
行政案件审结量
行政案件審理既済数
刑事案件审结量
刑事案件審理既済数
14000
12794
12000
9212
10000
8000
5504
6000
4000
2000 1032
3942
3660
3326
2391
2470
1971
2899
2901
0
2008
2009
2010
2011
2012
2013
第
三
章
(年份)
(年度)
近年、中国の知的財産案件の成長幅は、著しく、案件類型は、ほぼ知的財産紛争案件の全部の領域
―専利権、商標専用権、営業秘密等の不正競争紛争案件等をカバーしている。例えば、全国地方の人
民法院が新受、既済した知的財産民事一審案件は、それぞれ計 88,583 件と 88,286 件であり、2012 年
に比べ、それぞれ 1.33%増と 5.29%増になっている。その中、新受した専利案件は 9,195 件で、前年同
期比 5.01%減、商標案件は 23,272 件で、前年同期比 17.45%増、著作権案件は 51,351 件で、前年同期
比 4.64%減、技術契約案件は 949 件で、前年同期比 27.21%増、不正競争案件は 1,302 件(この中、独
占禁止民事一審案件 72 件)で、前年同期比 15.94%増、その他の知的財産案件は 2,514 件で、前年同期
比 13.91%増である。全年度に掛けて、既済された渉外知的財産民事一審案件は 1,697 件で、前年同期
比 18.75%増、既済された香港・マカオ・台湾の知的財産民事一審案件は 483 件で、前年同期比 21.21%
減、既済された独占禁止民事一審案件は 69 件で、前年同期比 40.82%増である13。まとめると、中国の
法院における知的財産裁判の品質と効率は、明らかに向上しており、知的財産制度の構築を推進する
ために重要な役割を果たしている。
現在、中国では国家統制体系と統制能力の近代化が推進されているが、これは、中国の知的財産事
業に対してより高い要求を提起している。知的財産制度は、中国法治構築の重要な内容であり、知的
財産統制能力は、国家統制体系の重要な構成部分である。したがって、我々は、良好な知的財産法治
環境、市場環境、文化環境を構築し、知的財産立法、法執行、司法体系の構築を強化し、社会全体で
知識を尊重し、イノベーションを崇敬する良好な雰囲気を形成することを促進し、イノベーション型
国家の戦略発展目標を実現するために堅実な基礎を固めなければならない。
以上
12
国家知的財産権戦略サイトに公布された「中国知的財産権保護状況年度白書」に基づくデータ作成、
http://www.nipso.cn/bai.asp[最終アクセス:2015 年 2 月]。
13
2013 年中国法院知的財産権司法保護状況、http://www.chinacourt.org/article/detail/2014/04/id/1283299.shtml
[最終アクセス:2015 年 2 月]。
- 35 -
第3章
研究内容の報告
Ⅱ.中国の知的財産戦略推進における法執行体制改革の研究
中国社会科学院 知識産権センター
管 育鷹 教授
1.今後の中国の発展と改革における知的財産戦略の重要な役割
周知のとおり、1979 年以降、中国は外資の引き入れ、技術輸入、国内の天然資源と労働力を利用し
た大発展を遂げ、世界から注目される経済効果を挙げた。しかし、30 年に及ぶ成長を経て、資源浪費
型、労働集約型の経済発展モデルが持続不可能なことを徐々に認識し始めており、社会各界が「テク
ノロジーこそ第一の生産力」との認識を高め、テクノロジーイノベーションへの投資強化、知的財産
の効果的な保護による産業のアップグレードとモデルチェンジの促進及び実現により、イノベーショ
第
三
章
ン型国家を建設し、持続可能な発展の道を進むことが早急に必要とされている。世界は今、新たな産
業革命を迎えようとしている。情報、エネルギー、マテリアル、バイオ等の新技術、並びにスマー
ト、エコロジー等をキーワードとするこの変革は、人々の生産様式、生活スタイル、そして社会経済
の成長モデルを変えようとしている。この重要な成長のチャンスを捉えようと、世界の主要先進国は
いずれも一連のイノベーション促進戦略並びにアクションプランを発表することにより、テクノロ
ジー研究開発の投資を強化し、そのテクノロジーにおける先進的な地位を保持し、将来的発展への布
石を打っている。中国の指導者も、ハイテク産業は今後の新たな経済成長分野であり、今後の国家経
済制度建設の重点は、テクノロジーの全面的アウトプットを促進し、また社会経済の成長をけん引す
る生産力へと転換することであり、イノベーション促進型発展戦略の実施が、中華民族の前途と命運
を決定づけていることを明確に認識している1。
それと呼応して、中国における知的財産制度に対する認識は、当初の市場経済導入により受け入れ
を余儀なくされた「舶来品」から、イノベーション型国家建設に不可欠な制度的保障へと昇華した。
2008 年、中国政府は「国家知的財産戦略綱要」を可決し、イノベーション型国家戦略の推進保護のた
め、自己イノベーション能力を強化し、知的財産の「創造、運用、保護及び管理」のレベルを高める
方針を掲げた。2012 年 11 月、中国の与党は第 18 期全国代表大会において「テクノロジーイノベー
ションは、社会の生産力と総合的国力を高める戦略的後ろ盾であり、国家の発展における中心的位置
に据えなければならない……。知的財産戦略を実施し、知的財産の保護を強化しなければならない」
と明確に指摘した。また、2013 年 11 月の十八大三中全会[中国共産党第 18 期中央委員会全第 3 次全体
会議]において、中国の与党は「知的財産の運用と保護の強化、技術イノベーション促進体制の整備、
知識産権法院設置の模索」、及び「多層的な文化商品と生産要素市場の構築……著作権保護の強化」
を短期的な国際知的財産戦略実施の重点として明確に掲げた。2014 年 10 月、中国与党の十八大四中全
会は、「法による国家統治の全面的推進における若干の重大問題に関する中国共産党中央の決定」と
いう法治中国の建設における里程標となる綱領文書で、「イノベーションを促進する財産権制度、知
的財産保護制度及びテクノロジー成果の実用化促進に関する体制やメカニズムの整備。法執行体制の
イノベーション、総合的な法執行の推進、法執行チームの統合。行政機関による法外権力の設定の禁
止。最高法院の巡回法廷による、行政区画を跨いだ法院及び検察院設立の模索……」といった重大決
1
中国共産党中国科学院党グループ「中華民族の前途と命運を決定する重大戦略――習近平総書記のイノベーション促
進型発展戦略に関する重要な論述に学ぶ」、求是、2014 年第 3 期。
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定を下した。2014 年 12 月、国務院弁公庁は、「知識産権局等機関による国家知的財産戦略の実施徹底
アクションプラン(2014~2020 年)の伝達に関する通知」を公布し、2020 年までに知的財産に関する中
国の法治環境を整備し、知的財産の創出、運用、保護及び管理の能力を顕著に強化し、知的財産に対
する意識を人々の心に浸透させ、知的財産制度の経済成長、文化繁栄及び社会構築に対する促進的役
割を十分に発揮させるという目標をより一層明確にした。
イノベーション促進型発展戦略の実施においては、イノベーション主体の積極性を体制面から促進
し、自身のイノベーション成果の市場運用で得るべき利益を保障する必要がある。法による知的財産
の保護は、市場経済、法治経済の内在的要求であり、知的財産を効果的に保護できれば、好ましい市
場環境が醸成され、イノベーション促進型発展戦略に法制度による保障が提供される。そのため、革
新的な知的成果に対する立法による保護の強化だけでなく、知的財産に関連する法執行体制を更に整
備し、真の意味で知的財産の保護を徹底しなければならない。先進国の実践経験が証明しているよう
に、財産権が明晰な知的財産に関する法制度は、新興産業における資源配分の最適化に役立つ。ま
た、ルールが明確で、法執行手続が公正かつ透明であり、関連行為の法的結果が予期可能な知的財産
法制度は、イノベーション活動に関わる投資家の権益を確実に保障する。中国における知的財産の保
護強化という究極の目標は、中華民族のイノベーション力を奮い立たせ、企業の中核的競争力を高
め、国の長期的発展のための制度的基盤を固めるものとなるであろう。
知的財産制度の本質は、市場経済における法制度であり、市場経済の本質は法治経済である。ここ
数年における中国の国家指導者のイノベーション促進型発展戦略に関する決定及び施策を振り返る
と、「イノベーションの激励」、「法治の構築」が中国の知的財産制度における今後の主要な方向性
であることが分かる。今後、中国の知的財産戦略推進の措置は、立法、法執行、司法、法遵守のいず
れにおいても、現指導者による前述の国家経済成長戦略及び国家統制体制構築の総体的目標と一致さ
せるべきだと筆者は考える。当然のことながら、中国の具体的国情の複雑性を考慮すると、知的財産
戦略は国の社会経済生活の一構成要素にすぎず、特に中国の知的財産に関連する法執行体制は国全体
の行政、司法分野の改革に関わるため、制度の整備には、やや長いプロセスが必要とされる。
2.中国の知的財産に関連する法執行体制の現状と問題
法執行(Enforcement)とは、広義では国の行政機関、司法機関及びその公職者が法により法律を執行
し、適用するあらゆる活動をさす。本文で考察する中国の知的財産に関連する法執行は狭義の意味で
あり、知的財産業務を司る国の行政機関及び司法機関が、法や法令により知的財産に関連する権利侵
害紛争を取り締まり、又は審理を行う行為をいう。知的財産に関する法執行において、中国は「行政
保護+司法保護」の「ダブルトラック制」を適用しており、すなわち知的財産に対する侵害行為につい
て、被権利侵害者は、国の知的財産の行政法執行を担当する関連部門(国家知識産権局、国家工商行
政管理総局、国家版権局及びその省、市、県の各地方に相応する機関)に苦情を申立て、権利侵害行
為に対する取り締まりを請求することができ、また人民法院に直接提訴することもできる。「著作権
法」第 47 条、「専利法」第 60 条及び「商標法」第 60 条、知的財産に関わる中国の主要な現行法はい
ずれも例外なく、権利者は関連する行政管理部門に権利侵害行為の取り締まりを請求できること、特
に、工商行政管理機関は権利侵害行為の取り締まりの際、証拠の調査・閲覧、過料、また主に権利侵
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
害行為に使用された材料、工具、機器の没収や破棄等、非常に大きな職権を有することを定めてお
り、権利侵害行為の再発を根本から防止している。「ダブルトラック制」の実効性からみて、行政法
執行は中国の知的財産法の執行状況の改善に寄与している。なお、注意すべき点として、中国の知的
財産に関連する行政法執行部門は、商標及び専利の権利侵害紛争事件を取り締まるに当たり、権利侵
害に対する賠償問題について法により調停を行うこともできる。
中国は、改革開放以降、国際的な保護基準に適合する知的財産法体系を既に迅速に構築してきたと
はいえ、今日、知的財産に関連する法執行の問題は、依然として国際貿易において最も注目される
テーマであり、また交渉の切り札の一つである。国内外の経済、貿易の発展によりもたらされた新し
い課題に対処するため、中国政府は 2004 年に当時の副総理であった呉儀氏をリーダーとする「国家知
的財産保護活動グループ」を設立し、商務部、公安部[中国の警察機関]、司法部、情報産業部、文化
第
三
章
部、国務院国有資産監督管理委員会、税関総署、工商行政管理総局、質量監督検験検疫総局、版権
局、食品薬品監督管理局、知識産権局、国務院法制弁公室及び新聞弁公室、最高法院、最高検察院等
の主要国家機関を吸収し、知的財産保護を徹底するため、知的財産に関わる部門の法執行業務を調整
している。2008 年の「国家知的財産戦略綱要」の公布・実施後、中国は「国家知的財産戦略実施業務
部際連席会議制度」を設立し、関連部門と協調して知的財産の各主要担当機関の職権範囲における重
点分野の法執行活動、合同法執行の特別キャンペーン等の内容を含む、知的財産戦略推進の年次計画
を策定している。しかし、中国政府は毎年、大量の人力と物資を投じて知的財産に関連する法執行活
動を実施しているにもかかわらず、知的財産が十分に保護されていないとの国際的非難から依然とし
て抜け出せていない。また、国内の権利者、公衆及び学界からの普遍的理解や支持を得られておら
ず、努力に見合った成果が出せていない。これに関し、知的財産は先進国にとって現在最も強力な競
争ツールであり、同時に中国という日増しに強大化する世界経済体にとっての現時点での最大の弱点
でもあることから、中国の知的財産保護又は知的財産に関連する法執行を、国際経済と貿易及び国際
政治と関連付けることは、先進国が現段階において必然的に選択すべき政策だと筆者は考える。ある
程度において、中国と主要先進国の間で、知的財産の保護を交渉の切り札として使われている。経済
的ひいては政治的利益の駆け引きは、今後一定期間の興味深い現象として度々出現するであろう。む
ろん、中国の国内経済成長モデル転換の動きは、知的財産保護の強化という内部ニーズを生み出して
いるのだから、知的財産に関連する法執行体制の整備を急ぎ、国民の知的財産法に対する意識を高め
ていくべきである。中国の知的財産に関連する法執行上の問題を真摯に検討し、また解決すること
は、知的財産の保護に向けた法律、規則自体の実施に関わるだけでなく、中国の国際的イメージの維
持にもつながる。
(1)中国の知的財産に関連する行政法執行の現状と問題
中国の従来の経験からみて、行政機関による法執行行為は、人々からの賛同を得やすい。なぜな
ら、行政機関による処罰手続の実施及び手続は、簡便であり、紛争の迅速な解決に有利に働き、一般
的な違法行為の阻止に対しては、更に有効的とみられるからである。中国において、権利者が知的財
産の侵害紛争に遭遇したとき、まず関連行政機関に取り締まりを請求することで保護を得ようとする
のは当然のこととされている。そのうえ、知的財産の行政保護は、司法保護を排除するどころか補足
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するものである。一方で、中国の行政体制及び司法体制の改革は、今日においても完成から程遠い状
態にある。法による国家統治という方針の下、2014 年に開始された新たな司法体制改革の長期計画に
おいて、知的財産の司法保護体制は期待されるところであるが、この改革はあまりに多くの複雑な要
素に関わるため、効率良く機能する知識産権法院体系の整備には長い期間が必要とされる。そのた
め、知的財産の裁判資源が相対的に不足する現段階において、一定の経験を有する知的財産の行政法
執行チームにより、一般の知的財産侵害に関連する民事事件を解決することが必要である。一方、全
ての知的財産侵害行為の処理を、いきなり全て司法機関に任せた場合、司法体制改革に重圧を与える
ことは免れ得ない。報道によると、北京知識産権法院が 2014 年 11 月 6 日に発足後、僅か 1 か月で、
受理事件は既に 200 件余りに達しており、また 2015 年に受理する事件は 1 万 5,000 件以上に上ると予
測されている2 。これらの数字は、知識産権法院が審理する民事事件、行政事件のみを対象にしてお
り、普通法院で審理される刑事事件を含んでいない。短期間のうちに、国が知的財産に関わる刑事司
法資源(警察、法院、刑務所、労働教育所等の機関)を大幅に拡張することにより、ハードな法執行
任務を遂行できるとは非常に想像し難い。つまり、知的財産のみならず、中国の司法制度は更に多く
の、より民生に身近で緊迫した使命を抱えているため、知的財産侵害行為、特に海賊版や模倣品はい
まだ非常に深刻であり、知的財産保護が日増しに重要視される今日において、行政保護という手段を
残すことは権利者にとって有利となる。また、中国の知的財産保護に関連する現状を考えると、短期
間での司法資源の大幅な拡充を望むことはできず(これは裁判官選別の制度によるものでもある)、
豊富な法執行の経験者を十分に活用し、知的財産に関連する行政法執行を強化すべきである。また、
行政行為は司法審査を受けなければならないという法的理念に基づき、行政訴訟手続は不適切な行政
法執行を速やかに是正することができる。この制度設計も、行政法執行機関による迅速、正確かつ合
法的な紛争解決を保障するものとなっている。
中国の知的財産に関連する行政法執行は、各担当部門が重視する職権として、政府機関の力強い執
行力を頼りに、長年にわたり成果を収めてきたとはいえ、以下に掲げる問題は今日に至るまで解決さ
れていない。
第一に、知的財産を担当する行政法執行部門が、あまりに分散しすぎており、多方面から法執行が
行われている。例として、「商標法」は、工商行政管理部門が、商標に関連する権利侵害・違法行為
の法執行を担当すると定めている。それに対し「著作権法」は、著作権を侵害する行為を取り締まる
法執行主体は、著作権行政管理部門であると定めている。また「専利法」は、専利業務の管理部門
は、専利権侵害の取り締まりを担当すると定めている。その他、知的財産に関連する行政法執行の機
能を持つ行政機関として、税関、国家質量監督検験検疫機関、農(林)業行政担当部門、商務担当部
門等がある。中国の行政機関の職権と機能の区分によれば、これら知的財産に関連する行政法執行の
機能は、それぞれ異なる担当部門に属しているため、互いに協調性がなく、それぞれが個々に業務を
行うという状況は避け難い。さらに重要な点として、これらの担当機関の最高機関は、権利付与の登
録、権利確認、管理、宣伝及び対外連絡等の機能を担っているが、省、市、県の一級に相応する知的
財産管理機関は、公務員の人員制限により、行政法執行に対する力不足、対応の苦労を、しばしば感
じている。また一方で、分業が具体的であり、又は職権区分が明確であるため、異なる担当部門に所
属するこれらの法執行機関は、往々にして自身が担当する事柄にのみ関心を持ち、非常に明白ではあ
2
何欣「知的財産初公開審理案」、北京晨報、2014 年 12 月 17 日。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
るが自分の管轄に属さない目の前の権利侵害行為に対しては、見て見ぬふりをするか、又は職権の重
複により、同一の法執行対象について、別の法執行部門との対立が生じるかのいずれかである。
第二の問題として、知的財産関連の行政法執行に普遍的な有効措置が欠けているという点が挙げら
れる。中国の知的財産法は、行政法執行の権限を、知的財産を担当する各行政管理機関に与えている
が、相応の法執行能力を同時に付与していない。例えば、中国の「著作権法」の規定によると、中央
政府及び地方政府の著作権を担当する行政管理部門は、行政法執行の主体であるが、著作権を担当す
る行政管理部門に「差押・押収」といった強制措置等の相応の行政強制権が付与されていない。これ
は紛れもなく、著作権の行政法執行業務における難題であり、各地の著作権に関わる行政法執行担当
者が事件を取り締まるに当たり、押収、差押等の証拠保全を実施する権利がないため、通常は別の各
種方法(記録、撮影等)により証拠の登記を行う以外にない。しかし、このような方法は、第一に、
第
三
章
とりわけ相手方から阻止を受けやすく、第二に、権利侵害の証拠を十分に保全できないため、イン
ターネット上の権利侵害については、なおのこと証拠を追跡し、制御するいかなる有効措置も存在し
ない。現在、中央政府、地方政府のいずれにおいても、著作権の行政管理機関及び法執行チームの構
築状況と、それが直面する情勢及び負担する任務と責任等の間に、大きなコントラストが形成されて
おり、著作権に関わる各級の行政管理部門に「機関が不健全で、物質的な保障がなく、法執行の手段
に欠ける」等の問題が普遍的に存在している。また、国家版権局は、法令の起草、全国の著作権に関
わる法執行の計画及び調整、著作権に関わる社会活動の管理監督、社会や公衆に向けた宣伝教育、国
際的な多国間問題への対処及び処理等を含む、多くの職責に対する指導、計画、管理を担っている
が、それら行政法執行の職責を執行する人員編成は、全くもって不足している。地方の省級の著作権
に関わる行政管理部門においても、同様に深刻な人員不足に悩まされている。市級以下に至っては、
通常、政府の文化行政管理部門の名の下に看板を掲げるだけで、基本的に著作権管理、法執行の専門
担当者を有さない。こうした現実は、中国がここ近年、海賊版撲滅キャンペーンを折に触れて起こす
ものの、持続的な成果が結局得られず、中国の「知的財産保護が十分でない」との非難に特有の現象
から抜け出せないことを、多かれ少なかれ裏付けるものとなっている。国家知識産権局体制が担当す
る専利に関連する行政法執行にも、同様の問題が存在しているが、公共利益に関わる専利権の侵害に
関連する行政法執行が多くみられないため、問題が表面化していない。現在、中国の知的財産に関連
する行政法執行の実務において、商標関連の行政法執行を担当する工商行政管理機関のみが、強制措
置を講じる職権を有している3。
第三の問題として、行政法執行と刑事裁判の連携不足がある。中国の「刑法」及び「中華人民共和
国行政処罰法」、これら二つの法律は、行政機関及びその法執行職員が事件を司法機関に移送しなけ
ればならないことについて原則的な規定を設けている4。しかし、行政法執行職員が、有罪と無罪をい
かに区別するか、具体的事件において、いかに移送を行うべきかについては、更なる規定を定めてい
ない。知的財産法の規定によると、知的財産に関わる行政法執行機関は、権利者の苦情申立を自発的
3
「商標法」第 60、62 条に基づき、行政法執行機関は、各種の合法的な行政法執行手段を通じて権利侵害嫌疑者に対し、
権利侵害の停止、没収、廃棄、過料、質問、閲覧、検査、調査、差押及び押収の命令等行政強制措置を講じることがで
きる。
4
「中華人民共和国刑法」第 402 条「行政法の執行職員が不正行為を働き、法により司法機関に移送して追及すべき刑
事責任を移送しない場合において、情状が深刻な場合、3 年以下の有期懲役又は拘留を科す。重大な影響をもたらした
場合、3 年以上 7 年以下の有期懲役を科す」。「中華人民共和国行政処罰法」第 22 条「違法行為が犯罪を構成する場合、
行政機関は事件を司法機関に移送し、法により刑事責任を追及しなければならない」。
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に取り締まり、受理した後、知的財産を侵害する違法行為を取り締まる行政上の職権を有しており、
通常は知的財産保護の第一線にある。結審の便宜を図るため、実務において、知的財産を担当する行
政法執行部門は、さらに過料によって事を解決する傾向にある。国家知的財産戦略の実施以降、中国
は「行政法執行機関の犯罪嫌疑事件移送に関する規定」、「人民検察院の行政法執行機関への犯罪嫌
疑事件の移送に関する規定」、「行政法執行における犯罪嫌疑事件の迅速な移送に関する意見」、
「工商行政法執行と刑事司法の連携と協力における若干の問題に関する意見」等の規範性文書を相次
いで発表し、「刑の代わりに罰を科す」現象がやや好転したとはいえ、根絶の兆しはみえない。デー
タをみると、行政法執行機関が司法機関に移送し、刑事責任を追及すべき事件の比率は、依然として
少ない5。当然のことながら、それは中国の知的財産に関連する刑事的保護の条件設置の関連指標に関
わるが、刑事弁護は司法保護の範囲に属するため、本文の後半部分で分析し論述することにする。
(2)中国における知的財産の司法保護の現状と問題
中国の知的財産に関する裁判業務は、1990 年代から専門化の傾向を示し始めた。1993 年 8 月、北京
市中級人民法院、高級人民法院は、全国に率先して知的財産審判廷を設立した。また 1996 年 10 月、
最高人民法院は、知的財産審判廷[知的財産裁判部](後の司法改革により、「大民事」[各種民事裁判
部の統一]構図に応じて第 3 等、第 5 等民事審判廷に変更)を設置した。現在、中国各省の高級、中
級、基層法院に設立された知的財産審判廷は 400 余り存在し、とりわけ知的財産戦略の実施以降、中
国では法律に精通し、学歴が高く、裁判経験が豊富な職員から、知的財産法官[裁判官]を選ぶよう注
意を払うことにより、知的財産法官チーム構造の最適化、裁判能力の強化、専門化した審理レベルの
向上に努めている。また、知的財産をめぐり、専門性が高く、技術度の高い事件の相対的な集中管轄
の構図における更なる合理化がみられている。2013 年末の時点で、全国において事件の管轄権を有す
る中級人民法院の数は、専利では 87 か所、育成者権では 45 か所、集積回路配置設計では 46 か所、及
び著名商標に関しては 45 か所だった。また、中国は知的財産審判廷における知的財産に関する民事事
件、行政事件及び刑事事件の集中審理テスト事業を推進し、知的財産に関する民事、行政及び刑事裁
判の連携体制を整備し、知的財産の司法保護の初歩的な総合効果を発揮している。2013 年末の時点
で、7 か所の高級法院、79 か所の中級法院、71 か所の基層法院が知的財産裁判の「三審合一」[知的財
産に関わる民事、行政、刑事事件を知的財産審判廷が一元的に審理する方式]テスト事業に取り組んで
いる6。中国における知的財産の司法保護は、国家知的財産戦略が実施されて以来、「知的財産裁判体
制の整備、裁判資源配分の最適化、救済手続の略式化」をほぼ達成し、知的財産の司法資源の専門
化、優位性の集中に関して顕著な効果を挙げたといえる。
現在、中国では比較的充実した知的財産裁判体制、特に先進地域においては、知的財産に関する民
事事件、行政事件の裁判の専門化が進んでいることを踏まえると、これらの経験豊富な知的財産法廷
を専門法院に変えた場合、人材や事件数に関するそれほど大きな障害は発生しない。そのため、現在
中国が計画を進めている司法改革案を踏まえ、2013 年 11 月、中国与党は 18 期 3 中全会の決定におい
て、「知識産権法院の設立模索」を明確に提起し、専門的な知識産権法院の設立を新しい司法改革の
5
例えば、2013 年、全国の行政法執行機関が立件した知的財産と模倣・粗悪品の製販事件は 26 万 2,000 件、司法機関へ
の移送事件は 4,550 件。「2013 年 中国知的財産保護の状況」参照。
6
データの出所:「2013 年 中国法院知的財産の司法保護状況」。
- 41 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
突破口とした。2014 年 8 月 31 日の第 12 期全国人民代表大会常務委員会第 10 回会議において、「北
京・上海・広州の知識産権法院の設立に関する決定」が可決され、中国の知識産権法院設置のテスト
事業が開始された。2014 年 11 月 6 日に北京、12 月 16 日に広州、12 月 28 日に上海と、知識産権法院
は相次いで設立され、業務を開始した。
北京・上海・広州の専門的な知識産権法院の設立は、国家知的財産戦略の実施、司法改革の安定的
な推進、国際イメージの向上という、3 つの狙いを実現する一挙多得の策であると考える。知識産権法
院の設立を通じて、司法保護の主導的役割を更に強調でき、更なる集中管轄は裁判基準の統一化に有
利に働く。例えば、権利侵害の救済措置の整備、挙証責任の合理的分配、損害賠償責任の重大化等の
方式により、知的財産保護を強化するという目的を、より良く達成することができる。また、技術調
査官、陪審員等の制度の試行により、公正性と効率性を高めることができる。また、特化されたエ
第
三
章
リート裁判チームの構成は、司法制度改革の重要な内容の一つである。司法体制改革の一環として、
知識産権法院設立に関するこれら 3 つの目的は、知的財産事件に特化した裁判の質と効率の向上だけ
でなく、更に多くの効果が期待されている。例えば、法院職員の分類管理、定員制、法官の選任と特
化、行政区画と適度に分離した司法管轄、主審裁判官及び合議体の事件処理責任制、司法手順の公開
等の試みは、その経験が中国の司法体制改革にとって有益な参考となるであろう。
しかし、北京・上海・広州の知識産権法院の設立は、知的財産に関する法執行分野において長期的
に存在する問題を解決できていない。それは、知的財産権に関する確認訴訟の長期化、訴訟の繰り返
し、知的財産の司法保護における高コスト、保護が不十分等の非難であるが、詳細は以下のとおりで
ある。
第一に、民事訴訟と行政訴訟の長期化による訴訟の繰り返しがある。権利確認訴訟は、当事者が専
利復審委員会、商標評審委員会(略称「両委員会」)が下した決定又は裁決を不服として人民法院に
提起した訴訟紛争事件の総称である。現在、専利の権利付与は中国国家知識産権局専利局が担当し、
専利復審委員会は専利局が下した行政決定に対して裁判を行うほか、専利の無効手続を通じて専利局
が既に権利付与した専利の効力に対して判断を行う機能を担う。商標の登録は、国家工商行政管理総
局商標局が担当し、商標評審委員会は、商標局が下した登録及び効力に関する各種決定について審判
を行う。中国において専利の権利付与、又は商標の登録及び権利の有効性に起因する紛争は通常、4 つ
又は 3 つの審理過程、つまり一つの階級又は二つの階級の行政手続に加え、二つの階級の司法手続を
経なければならない。また、中国の法律は法院が専利権、商標権の効力に関わる事件について裁判を
行うとき、当該知的財産の無効を直接判決できるかどうかについて規定していないため、法院も、専
利権、商標権の無効の決定は、関連する権利付与機関とその審判機関が下すしかないと考えている。
司法手続は、専利権又は商標権の無効判決を直接下すことができないため、一部の当事者は争議にお
いて 4 つの手続を経た後、再び知的財産の有効性をめぐって別の行政手続を提起し、紛争を新たな手
続のサイクルに乗せることにより、紛争解決期間を更に長引かせている。
このように、煩雑で時間や労力を費やす手続の設置により、当事者が払うコストが過剰に高まり、
知的財産に関連する確認訴訟の解決の不利となる上、大量の共有資源の浪費を招く。一般の民事訴訟
に比べ、知的財産に関連する民事事件は本来、証拠や財産保全、証拠交換、専門家による鑑定、権利
侵害監査等に及ぶため訴訟期間が長い。再び権利確認紛争に巻き込まれ、権利侵害に関する民事訴訟
手続を中止した場合、事件審理が果てしなく長引いてしまうが、これは知的財産権利者に、しばし言
- 42 -
葉に尽くせぬ苦しみを与える。不幸なことに、これこそ被告である多くの権利侵害者が通常採用する
訴訟策略なのである。最も典型的で、所要期間が最も長く複雑な専利権侵害紛争を例にとると、被告
が答弁期間内に原告の専利の無効請求を提起した場合、民事訴訟手続は中止してしまう。専利復審委
員会は専利権の有効性維持の決定を下した後、被告はさらに、一審及び二審の行政訴訟手続に進むこ
とができる。その後、もとの中止された民事訴訟手続に戻る。民事事件は、なおも二審終審制であ
る。こうして手続期間全体が極めて長期化するが、専利権者にとって、自身の専利権が侵害されて
も、なお未解決であるとき、実際は訴訟制度による妨げを受けているのである。被告である権利侵害
者及びその他利害関係者にとって、知的財産は長期的に不安定な状態にあり、各自の権利と義務の明
確化や取引の安全にとっても不利となっている。
これを受け、中国の知的財産界は、つとに対策を提起しており、とりわけ中国社会科学院知識産権
センターが提起した中国の知的財産法執行体制改善案は7、2008 年の「国家知的財産戦略綱要」の「知
的財産上訴法院の設立模索」の取り組みにおいて、明確に書き入れられた。事実上、この方案の提言
は、中国の知的財産界のコンセンサスでもある。専利、商標の無効手続は往々にして利害関係のある
第三者(請求者)が開始することが多く、権利者又は出願者に対し、知的財産が無効である理由、又
は権利が自己に帰属する理由を提起する。これらの手続において、出願者(権利者)と第三者(請求
者)の双方は平等な民事主体であるが、「両委員会」は、主として双方の当事者が提供する証拠をも
とに中立の立場で判断を行う。このように、第三者に関わる確認訴訟は、本質的に一種の民事紛争で
あり、権利者と第三者の双方が知的財産をめぐり、その存在、また権利の効力や範囲等について各自
が意見を提示し、論証を行う。権利確認の手続全体が民事訴訟に類似する手続となっており、「両委
員会」の手続における役割は、法院の民事訴訟における審理となんら変わりがない。そのため、国内
の多くの研究者や実務担当者は、知的財産に関連するこうした権利確認手続を民事訴訟に類似する一
種の特殊な手続と称し、「両委員会」は手続において準司法機関の役割を果たしている8。
中国の知的財産戦略は、専利と商標の権利確認手続の改革、専利の無効判断の検討及び商標評審機
関から準司法機関への転換の問題について早くに触れているが、現在に至っては、この問題の複雑さ
は当時の予想を遥かに超えている。そのため、北京・上海・広州の知識産権法院の設置案は、実際の
ところ、中国の指導者が司法改革を進めるうえで、他の要素を総合的に踏まえたうえで、知的財産戦
略実施計画に、臨時に挿入された試験的内容であると筆者は考える。3 つの知識産権法院の設立と試行
の経験からみて、既存の体系を完全に打破していないこのような司法体制改革の取り組みであって
も、人、財、物、制度構築の各方面に大きな衝撃をもたらすことが分かる。この意義においては、北
京・上海・広州に、技術度の高い民事事件、行政事件を集中管轄する知的財産中級法院を先行して試
行的に設置し、既存の行政体制、司法体制に間違いなく甚大な影響を及ぼす知識産権高級法院を、一
足飛びに設立しないという中国の決定は妥当であり、これにより問題をできるだけ簡素化し、改革が
もたらすマイナスの影響をできる限り抑えることができる。
第二の問題として、知的財産事件に関連する民事、行政、刑事手続の不十分な連携は、法律の理解
と適用の不一致をもたらす恐れがある。中国の知的財産の司法保護は、刑事法執行に対して非常に非
力だと考えられてきた。中国の知的財産侵害に関連する典型的現象は、一つは模倣品や海賊版をいく
7
中国社会科学院知識産権センター「中国知的財産保護体系改革の研究」、知識産権出版社(2008 年 8 月)。
北京市高級人民法院知的財産廷「特許、商標の権利確認紛争の解決メカニズムの問題研究」、法律適用、2006 年第 4
期、14~17 頁。
8
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
ら禁止しても発生が止まないこと、また裁判手続に入ることのできる刑事事件が少ないことであり、
そのために国際社会から度重なる非難を受けている。2004 年末に発表された「両高」[最高人民法院と
最高人民検察院]の司法解釈は、知的財産犯罪の有罪認定と刑の量定の基準を定量化したとはいえ、具
体的事件において、過料をいかに確定するか、模倣・粗悪品の製造販売罪及び不法経営罪等の競合を
いかに解決するか、営業秘密と著名商標及びインターネット上の権利侵害犯罪をいかに認定するか等
に関し、依然として少なからぬ問題を抱えている。手続に関して、知的財産に関連する刑事事件と行
政事件の連携をめぐって生じる可能性のある問題は、「刑の代わりに罰を科す」ことであるが、上記
で紹介したためここでは再述しない。このほか、知的財産事件の刑事手続には民事事件との連携とい
う問題が存在する。まず、知的財産侵害事件は附帯私訴事件であることが多く、法院が民事事件の審
理において、被告の同一の権利侵害行為が犯罪を構成する程度に達する恐れがあることを発見したと
第
三
章
しても、原告自身が刑事附帯私訴を提起しない場合、事件を刑事事件として、警察機関に移送する明
確な法的根拠がない。次に、中国は司法実務において「先に刑事、後に民事」という慣例があるが、
現実的に多くの事件において、権利者が、同時に又は先に民事訴訟手続を開始している。ここで生じ
る一つの問題が、知的財産に関連する民事事件の複雑性により、大多数の重大な民事上の権利侵害に
関連する行政事件が、いずれも中級以上の法院の知的財産廷又は民事廷で審理されている(2015 年以
降、北京・上海・広州では、知識産権法院で審理される)。一方で、最も権利侵害が深刻な知的財産
の刑事事件が、一般的に基層人民法院の刑廷で審理されており、審理レベルにおいて明らかに協調性
が欠けている。また、刑事手続の開始を先に開始した場合、同一の刑廷で附帯私訴も担当しなければ
ならないため、知的財産事件の審理分担における必要性を実現できず、また、訴訟前の禁止令等の措
置を講じることも難しく、権利者の民事上の救済が十分効果的に達成されていない。
第三に、知的財産の司法保護に関して長期的に存在する、挙証が難しい、訴訟期間が長い、コスト
が高い、賠償額が低いという問題がある。司法体制、行政体制の大局に関わる前述の重大で難解な 2
つの問題に比べ、この問題は主として裁判の裁量権の適用に関わるため、解決における複雑性はそれ
ほど高くない。当然、「訴訟期間が長い」という問題は、前で触れた「訴訟の繰り返し」という体制
改革の難題に関わるとはいえ、法院内での裁判期間に対する適切な掌握を通じて、ある程度の調節、
制御を行うことが可能である。周知のとおり、知的財産侵害の訴訟にも民事訴訟手続が適用される。
民事訴訟の基本原則は、「主張した者が挙証する」である。知的財産に関連する司法裁判活動におい
て、知的財産自体の無形的特性により、権利者は真っ先に被告の権利侵害行為の挙証という難題に直
面する。権利侵害を挙証する困難が克服され、被告の権利侵害が法院に認定されたとしても、権利者
は、さらに賠償額の挙証という莫大な負担に直面することになる。通常、利益に影響する要素は多岐
にわたり、権利者が侵害を受けた知的財産の具体的損失額について挙証することは難しいが、一方で
自身の会計帳簿に照らして損失を計算する方法は、往々にして法院に認められない。権利者が転じて
被告に利益計算を求めようとすると、被告の財務関連の正確なデータが非常に得にくいものであるこ
とに気付く。また、法院が権利者の請求に応じ、被告が得た利益について司法鑑定を行う裁決を下す
場合、知的財産分野における司法鑑定制度の未整備9という知的財産事件裁判におけるまた別の難題に
ぶつかる。そのため、実務においては、法院が慎重を期すため司法鑑定の必要があると考え、それを
9
司法鑑定課題グループ「民事訴訟鑑定開始手続に関する若干問題の研究」江蘇法院網
http://www.jsfy.gov.cn/llyj/xslw/2014/06/06095124284.html[最終アクセス:2015 年 1 月]参照。
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もとに裁判を行うケースは多くない。とりわけ、権利侵害者が会計帳簿の不明瞭な零細企業ひいては
個人事業主である場合、司法鑑定者であっても権利侵害者の利益取得情報を取得し、それをもとに鑑
定を下すことは難しい10 。こうして、「訴訟に勝っても財を奪われる」ことが当たり前のこととなる
が、これは中国の知的財産の司法保護の非力さとして最も非難を浴びる点でもある。
上記を総じて、中国の知的財産に関連する司法体制の課題は、以下のようにまとめられる。一つ目
は、権利確認手続を略式化した上級の知識産権法院を設置し、権利確認に関わる事件を審理する必要
がある。二つ目は、知的財産専門法院の設置による刑事事件の統一管轄の検討を進める必要がある。
中国の北京・上海・広州の知識産権法院の設置は、知的財産保護の重要性を踏まえて生まれた司法改
革のテスト事業であり、3 年間の試験期間が終了した後、知識産権法院の運営から得られた教訓が、次
なる改革に向けた重要な拠所となる。中国における知的財産の司法保護の非力さについては、知的財
産関連法の全面的改正、関連する法律適用規則の制定時、並びに個々の事件の裁判の中で考慮する必
要がある。
3.中国における当面の知的財産法改正をめぐる法執行関連方案に対する論述
前述の分析を踏まえ、中国における当面の知的財産分野の法改正に反映される、法執行体制に関す
る内容について述べる必要がある。法による国家統治の方針に基づき、今後、中国が知的財産戦略を
推進するに当たり、知的財産に関連する法執行体制を改革する、いかなる取り組みにおいても、まず
立法が先行しなければならない。立法活動における基本的要求は、科学性、民主性、先見性、実行可
能性であり、特に部門の利益を重視する傾向及び地方化を避ける必要がある。そのため、知的財産分
野の法改正において、各改正内容について十分な検討及び考察を加え、法律の可決と効果的な実施に
向けた十分な理論的基盤を提供する必要がある。
中国の「商標法」の 3 回目の改正はすでに完了し、2014 年 5 月から施行されている。新「商標法」
は、中国における商標登録と使用に関する不誠実な冒認出願、模倣や模造といった長期にわたる異常
事態を改善するほか、中国の知的財産に関する法制度全体の整備を主導する役割を担っている。中で
も、最も期待が高く、他の知的財産に関する法律の整備にとって最も参考となるのが、新「商標法」
が権利侵害行為に対する懲罰を強化したことである。具体的には、法定賠償額の引き上げ、懲罰的損
害賠償制度の増設、賠償額判定における挙証妨害防止制度の適用による権利者の挙証責任軽減等であ
る。また、「商標法」は 1982 年以降、行政機関に事件取り締まりに関する強い職権を付与しているこ
とに加え、工商機関の設置及び職員配置は全国各地に及び、中国の商標分野の行政法執行の力は一貫
して保たれている。新「商標法」は、商標権の権利確認と保護に関する法執行体制に対して調整を
行っていないが、登録や無効等の手続期間の短縮、並びに民事事件、行政事件の連携に関する規定を
追加したほか、罰金範囲等の実行可能性のある基準を追加することにより、法執行効果の強化を図っ
ている11。
中国の「専利法」の実体条項の主な改正が 2008 年末に完了したことに鑑み、4 回目の「専利法」改
10
権利侵害者が正規の企業、とりわけ工商、税務等の部門に比較的完全な情報が残されている大企業である場合、利益
等の関連データが取得しやすい。韓芳、余建華、孟煥良「小さな専利から大きな世界へ——正泰集団の仏シュナイダーに
対する専利侵害事件調停ドキュメンタリー」人民法院報、2012 年 4 月 23 日。
11
2014 年に実施された「商標法」の期間に関する各項規定及び第 60、62、63 条参照。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
正は、法執行力の強化、権利維持コストの低減、権利侵害の代償の引き上げ、権利侵害行為の効果的
抑制を主な目的としている。そのため、今回の改正内容は、意匠権の保護期間を 15 年に延長する以外
に、行政法執行の強化及び司法保護手続の設置に集中している12。これに関し、専利権侵害紛争は複雑
な技術特性に関わることが多く、また実用新案権と意匠権には実体審査がないことにより、権利の不
安定性が顕著であるといった要素により、行政法執行職員は出版物、オーディオ製品の海賊版並びに
模倣登録商標に対するように、迅速かつ効果的に権利侵害の判断を下し、懲罰を加えることができな
いという事実を配慮すべきであると考える。このため、専利権の保護は、厳格で公正な手続に従い、
事実と法律に基づいて判決を下すという司法保護を中心とする方法へと徐々に移行すべきであり、法
律の不当な適用により訴えられた権利侵害者の民事上の権益に悪影響が及ぶのを防ぐため、行政法執
行職員が専利権侵害を取り締まる職権を、「専利法」の中で強化すべきでないと筆者は考える。また
第
三
章
その一方で、中国は現在、総合的な行政法執行改革を進めており、権利侵害を比較的判定しやすい実
用新案、意匠等の対象について、権利者が専利権評価レポートを提供するという前提で、これら専利
権の行政保護の強化は、整理統合され、同一の職権と職責を有する法執行チームによって、ある程度
実現することができる。むろん、最も理想的な制度設計は、実用新案、意匠を「専利法」の中から単
独で取り上げることだが、この立法過程には更なる長期的な計画が必要とされる。現時点についてい
えば、改正を進めている「専利法」は新「商標法」と同様、法定賠償額の大幅な引き上げ、懲罰的賠
償制度の追加、権利者の賠償額に関する挙証妨害防止制度の適用等により、専利権の司法保護の強化
を図っており、この立法の動向について筆者は大変賛同しており、学界の主流意見においてもほぼ異
論がない。今後は、国家司法体制の改革を踏まえ、専利権の権利確認手続の略式化を目的とした専門
の知識産権高級法院を設置するため、「専利法」を改正するとともに、専門的法律文書及び司法解釈
を作成できると考える。
中国の「著作権法」の 3 回目の改正は、多くの新制度、新規則の改正又は設立に関わるため進展が
遅く、各界の幅広い注目を引き起こすその他の議題に比べ、特に司法保護の強化に関わる法定賠償額
の大幅引き上げ、懲罰的賠償制度の増加、権利者の賠償額に関する挙証妨害防止制度の適用等、著作
権に関わる行政法執行及び司法保護に関する内容については、それほど多くの論争を引き起こしてい
ない13。しかし、改正法における著作権に関連する行政法執行の強化は、「専利法」改正の考え方と同
様、整理統合され、同一の職権と職責を有する法執行チームによって実現すべきであり、単純に部門
の職権を強調すべきではないと考える。事実、著作権に関連する行政法執行は、一部地域での機関設
置改革のテスト事業において総合的文化法執行チームに統合され、効率的に運営されている(下記に
て紹介)。このため、「著作権法」において、行政法執行の職権について追加しても良いが、その柔
軟性について考慮すべきであり、すなわち、その職権が付与される、著作権の行政法執行権を有する
部門は、各地の総合的な行政法執行の機能を有する部門であり、著作権管理部門としての国家版権局
の下部機関に対応するものではない。
知的財産保護に関わるその他法改正においても同様、法執行体制の整備という問題に配慮しなけれ
12
「専利法改正草案」(送審稿)、国家知識産権局 2014 年 4 月、
http://www.sipo.gov.cn/ztzl/ywzt/zlfjqssxzdscxg/xylzlfxg/201404/t20140403_927396.html[最終アクセス:2015 年
1 月]。
13
「著作権法改正草案」(送審稿)第 76~79 条、国務院法制弁公室 2014 年 6 月、
http://www.chinalaw.gov.cn/article/cazjgg/201406/20140600396188.shtml[最終アクセス:2015 年 1 月]参照。
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ばならない。簡潔に述べると、中国の知的財産戦略の推進において、知的財産保護強化の手段に対す
る理解及び法改正の考え方は、与党の 18 期 4 中全会で制定された「法による国家統治」の方針と一致
させるべきであり、つまり行政法執行に関しては総合的な法執行及びチームの統合を重視し、司法保
護に関しては、第一に個々の事件審理において権利侵害行為の懲罰を強化し、第二に司法改革を踏ま
えて知的財産事件の裁判体制を整備すべきである。
4.中国の知的財産戦略推進における法執行体制整備への提言
知的財産に関連する法執行体制の整備は、中国の知的財産戦略実施の徹底に向けた重要な事項であ
る。知的財産を効果的に保護し、現段階のイノベーション促進型発展戦略実施のニーズに適応するた
め、中国の知的財産に関連する法執行体制の改革においては、共産党が描いた「法治中国の建設」と
いう長期計画の主軸に沿い、イノベーションの促進及び激励という戦略的思考の安定的推進のために
知的財産の保護を強化し、中国の知的財産に関連する行政法執行及び司法保護を段階的に整備するこ
とにより、知的財産戦略の設定目標を達成すべきである。
(1)中国の知的財産に関連する行政法執行体制の整備
知的財産の行政担当機関が、司法機関とともに権利侵害紛争を処理・解決する「ダブルトラック
制」は、中国の国情に適応するための過去の産物ではあるが、今後も一定期間においては、引き続き
中国の知的財産に関連する法執行の特色であり続けると考える。また一方で、世界の先進各国の経
済、政治及び法制度における発展の法則からみて、知的財産侵害に関連する紛争は日増しに複雑化
し、とりわけ技術度が高く、高度な専門性を有する事件が増加することが予想され、厳格な法律専門
知識の研修や高度先端技術に関する専門家の支援を得ていない法執行職員は、簡易かつ迅速に判断を
下し、関連する紛争を処理することができない。そのため、中国特有の知的財産に関連する行政保護
は、将来的に、手続が厳格化、規範化、透明化され、また特化された裁判資源及び技術補助員を配備
した司法保護体制へと移行するであろう。
とはいえ、中国が知的財産戦略を推進する過程において、知的財産に関連する行政法執行は、司法
保護と同様に更なる強化を必要としているが、この論断に関する解釈においては、知的財産制度の
「イノベーション激励」の作用に対する認識を深めることに加え、現段階における国全体の「法によ
る国家統治」という長期計画のトップダウン式の考え方を踏まえるべきである。中国の与党の「法に
よる国家統治」方策の最新構想について考察すると、「法による行政を徹底し、法治政府の建設を推
進する」という枠組みの下で行政法執行に対して提起された改革措置には、階層の削減、チームの整
理統合、効率向上の原則、法執行力の合理的配置、部門を跨いだ総合的な法執行の推進が含まれる14。
事実上、この考え方は深セン、浙江、上海等の沿海部の相対的先進地域において、体制改革、経済
新区、自由貿易区等のテスト事業の形ですでに具現化されている。例を挙げると、中央機構編制委員
●
14
2014 年 10 月 23 日「法による国家統治の本格的推進における若干の重大問題に関する中国共産党中央政府の決定」第
3 部分参照。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
会弁公室は 2002 年、深セン、重慶において総合的な行政法執行改革のテスト事業を開始し15、2004 年
には文化市場行政法執行総隊が設立された。また、2009 年 8 月に可決された「深セン市人民政府機構
改革案」により、工商局、質量技術監督局、知識産権局並びに衛生局が、元来担っていた飲食業の食
品安全に関する管理監督の職責を担う「市場監督管理局」が設立された。2013 年末には、中国の与党
が市場管理監督の体制改革の方針を明確にした後、上海自由貿易区において総合的な法執行体制改革
が実施され、自由貿易区管理委員会が、専利、著作権に関わる行政法執行活動を一括して担った。加
えて、中国は 2014 年 7 月、「市場の公平競争の促進による市場の正常な秩序維持に関する国務院の若
干の意見」を公布し、「各部門に設けられた職責・任務が近く、又は類似している法執行チームを一
つのチームに統合する」目標を掲げた。以上の点から、知的財産に関連する行政法執行の分野におい
て、将来の改革の方向性も法執行資源の統合、法執行の効率向上であるべきということが理解でき
第
三
章
る。
この行政法執行改革の方針は、多かれ少なかれ政府機関の機能の再分配を引き起こし、知的財産の
各担当部門における過去からの慣性として続いてきた業務体制に影響を及ぼすことは否めない。事
実、体制改革は、人員の精鋭化、機関の簡素化を徹底すべきものである。知的財産に関連する行政法
執行の機能は、本質的に政府が法により担う知的財産保護という職責であり、具体的にどの機関がそ
の職責を履行するかということが知的財産保護に影響を及ぼすべきではない。逆に、機関及び人員編
制に元来妥当性を欠く知的財産担当部門を分離し、総合的な行政法執行の機能に統合されれば、知的
財産に関連する行政保護の強化、知的財産に関連する行政法執行の効率及びレベルの向上につながる
であろう。なぜなら、統一的な法執行権を有する専門的な知的財産の法執行チームは、もとの法執行
力を集中させ、海賊版や模倣品等の知的財産の侵害活動を効率的に取り締まることができるからであ
る。また、知的財産を担当する行政機関については、その公共サービス機能を強化すべきであり、と
りわけ専利の出願、権利付与、権利確認、登録等の専門的活動の手続の最適化を通じてイノベーショ
ンに携わる人材に利便性を提供し、イノベーションの促進のために知的財産審査の質を高めるべきで
ある。加えて、知的財産に関連する競争秩序の管理監督、ケーススタディのガイドライン作成、政策
の宣伝、情報の集散、公衆に対する教育、関連部門による法執行活動及び司法活動への協力、公共秩
序及び公共利益に関わる知的財産に対する意思決定等、管理やサービスに関わるその他の機能を拡張
することもできる。
上記を総じて、知的財産に関連する行政法執行の機能は、知的財産を担当する行政機関による管理
及び専門化された機能に、徐々に分離すべきである。総合的な法執行体制改革は大局的な問題である
とはいえ、知的財産に関連する行政法執行はその一部分にすぎない。しかし、知的財産に関連する行
政法執行における種々の立法活動、法執行活動において、関連部門と意思決定者は全面的に考慮し、
既定の改革目標に向けた相応の対策を講じる必要がある。現在、沿海部の先進地域で試験的に設立さ
れている、市場の管理監督による行政法執行の統一、又は知的財産に関連する行政法執行の統合は有
益な試みである。長期的に、知的財産に関連する税関・国境の取り締まり措置は、独立可能な行政法
執行であり、知的財産に関連するその他の行政法執行は、次第に刑事・司法保護へと移行するであろ
う。よって、行政法執行と刑事・司法制度の連携を今から重視するべきである。例として、事件の移
15
「国務院弁公庁、中央機関編制委員会弁公室の行政法執行チームの整理統合による総合的な行政法執行の実施におけ
るテスト事業の意見の転送に関する通知」国弁発[2002]56 号参照。
- 48 -
送基準と手続の整備、行政法執行機関、警察機関、検察機関、裁判機関の情報共有、事件情報の通
報、事件移送制度の構築により、事件を移送できない、移送が難しい、刑の代わりに罰を科すといっ
た現象を根絶やし、行政罰と刑事罰のシームレスな連携体制を実現すべきである。また、行政法執行
の機能を分離した後、知的財産に関する行政担当部門を統合し(特に専利と商標の管理機関)、知的
財産戦略推進計画の制定及び実施により、知的財産又はイノベーション能力において、量の重視か
ら、質と効果の重視に企業と地方政府を誘導し、知的財産制度のイノベーション型国家建設に対する
重要な役割を真の意味で認識させることができる。加えて、専利、商標の審査基準の向上と改善、イ
ノベーション評価指標の改善、イノベーション促進措置の改善、産業発展に向けた各種の知的財産戦
略ガイドラインの発表等を含む具体的措置を通じて、商標、専利の知的財産大国から知的財産強国へ
の移行を進め、文化産業の市場競争力を高めるべきである。
(2)中国における知的財産に関連する司法保護体制の整備
2014 年は、中国の知識産権法院の設立元年であった。8 月 31 日から開幕した第 12 期全国人民代表
大会常務委員会第 10 回会議において、「北京・上海・広州における知識産権法院の設立に関する決
定」(以下、「決定」とする)が可決された後、当年の 11 月 6 日に北京、12 月 16 日に広州、そして
12 月 28 日に上海の知識産権法院が相次いで業務を開始した。前述の全国人民代表大会常務委員会によ
る「決定」の主旨は、優位性のある裁判資源を集中させることにより、既存の省級行政区画内の地域
的な法院設置体制を打破し、難解な事件の裁判の質と基準を統一するため、技術度が高く複雑な知的
財産事件を、設立が計画されている、中級人民法院に相当する知的財産専門法院が一括受理するとい
うものである。
中国の司法体制改革に関わる立法措置である「決定」を実施するため、最高人民法院は、迅速に具
体的施策を実施し、北京・上海・広州の実情に合わせてそれぞれ異なった事件の管轄範囲を画定した
16
。具体的には、北京・上海・広州の知識産権法院は、所在市の管轄区内における下記の第一審事件を
管轄する。第一に、専利、育成者権、集積回路配置設計権、ノウハウ、コンピューターソフトに関す
る民事事件、行政事件。第二に、国務院の部門又は県級以上の地方人民政府が行った著作権、商標、
不正競争等の行政行為に対して提訴された行政事件。第三に、著名商標の認定に関わる民事事件であ
る。そのうち、国務院の部門が下した専利、商標、育成者権、集積回路配置設計権等の知的財産の権
利付与に関する権利確認の裁決又は決定、及び強制実施許諾又は強制実施許諾の使用料、報酬の裁決
等に関する行政事件は、いずれも北京の知識産権法院により審理される。事実、北京と上海は直轄市
であるため、技術度の高い知的財産事件を同一の法院により受理するとしても、影響を受ける機関、
人員、編制等の実際的問題はそれほど大きくない。一方、広州の知識産権法院が全省の技術度の高い
知的財産事件の管轄を統一する場合、そこには不確定要素が複雑に絡んでくる。そのため、広州の知
識産権法院がいかに設立され、運営されているかに関する経験若しくは教訓にこそ参考価値がある。
また、それは司法体制改革全体において直面するであろう問題及びその解決方法のサンプルともなり
得るのである。
16
「北京・上海・広州の知識産権法院の事件管轄に関する最高人民法院の規定」(2014 年 10 月 27 日、最高人民法院審
判委員会第 1628 回会議で可決)参照。
- 49 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
北京・上海・広州の知識産権法院の設立過程は、現時点で考察する限り、いずれも一致して司法改
革の要求に基づいており、法廷手続の略式化、法官の定員制及び主審法官責任制の実施による非裁判
職員の大幅な削減、法官のアシスタント役の追加、法官の選別基準及び透明性の向上、並びに院長、
廷長が自ら事件処理をすることの常態化等に関する試みを行い、司法裁判の効率と質の向上、裁判の
透明度向上等に関して、好ましい社会的効果を挙げている。しかし、僅か半年間の北京・上海・広州
の知識産権法院の設置過程にも注目すべき問題が存在する。まず、最も重要な点として、改革措置の
推進における十分な討論の欠如により、取り組みの公布が、慌ただしさ、不確かさという印象を、依
然として各界に与えていることである。例えば、全国人民代表大会「決定」の発表当初、知識産権法
院の事件受理範囲として「専利、育成者権、集積回路配置設計権、ノウハウ等の技術度が高い、知的
財産に関連する第一審の民事事件及び行政事件」を掲げていた。しかし、最高人民法院の「北京・上
第
三
章
海・広州の知識産権法院の事件管轄に関する規定」(以下、「規定」とする)は、知識産権法院の具
体的な管轄範囲についての解釈を行う際、既存の裁判経験に基づき、「コンピューターソフト」と
「著名商標の認定に関わる民事事件」を補足した。当然ながら、立法には柔軟性があり、司法解釈が
「等」という文言を、コンピューターソフトに関わる民事事件及び行政事件、並びに著名商標の認定
に関わる民事事件と具体化させることに理論上の問題はない。ただ、法律が可決されて間もないの
に、司法解釈が直ちに補足をするという、このような形式は、立法技術としての不備があるようにみ
える。また、広州の知識産権法院の設立過程においては、元の方案に対する臨時変更という問題が見
受けられる。実際のところ、人民代表大会常務委員会と最高法院の管轄意見が提起されたとき、各界
は真の意味で、地域の垣根を超えた専門法院の設置方案の実現可能性に疑問を持っていた。なぜな
ら、実務において、深セン地区の中級法院が過去に審理した重大で難解な知的財産事件は、全国の他
地域よりはるかに多く、広東省全体の技術度の高い知的財産事件を、新たに設立された広州の知識産
権法院が一括審理することは、必然的に人員異動や資源調整といった実施における種々の難題に関
わってくるからだ。しかし、前述の「決定」が可決された後、最高人民法院の「規定」は必要な実施
案として慌ただしく後を追う以外になく、当時、知識産権法院の事件管轄範囲を画定した際には、
「広東省内」の技術度の高い全ての事件及び著名商標に関連する事件を、全て新たに設立された広州
の知識産権法院が管轄することの実現可能性について、詳細に検討する余裕がなかった。また、司法
体制改革の配置に基づき、広州の知識産権法院は 2014 年末までに設立しなければならなかったため、
もとより広州の知識産権法院の設置計画を、所定の案によって遂行することが難しく、最終的に「広
東省深セン市の両級法院が専利等の知的財産事件の管轄を継続することに関する最高人民法院の意見
付回答」に基づき、広東省内の行政区域を跨いだ深セン市を除く全省の専利、育成者権、集積回路配
置設計権、ノウハウ、コンピューターソフトに関わる知的財産に関連する第一審の民事事件、行政事
件、並びに著名商標の認定に関わる民事事件を管轄することとなった17。
北京・上海・広州の知識産権法院の設立と運営において、旧体制からの引継ぎと摺り合わせのため
に、多くの煩雑な問題が発生し、知識産権法院の法官(自ら事件を審理する指導者を含む)に、更な
る重荷をもたらした。例えば、北京・上海・広州の知識産権法院の設立後、もとの相応する各中級人
民法院の知的財産廷がそれに伴い撤廃されたが、新たに設立された知識産権法院は当初画定した知的
17
広東省高級人民法院「広州知識産権法院の職務履行に関する公告」、広東法院網「新聞中心」欄
http://www.gdcourts.gov.cn[最終アクセス:2015 年 2 月]参照。
- 50 -
財産事件の級別管理基準に従い、中級人民法院が審理すべき技術度の高くない一般の知的財産の一審
事件を、以前のように受理すべきなのだろうか。全国人民代表大会常務委員会の知識産権法院の設立
に関する「決定」及び最高人民法院の知識産権法院の管轄に関する「規定」は、この問題の処理につ
いての明確な規定を行っていない。そのため、法理に従い、北京・上海・広州の知識産権法院は現
在、技術度の高くない一般の知的財産事件を審理しなくてもよく、その訴額が 500 万元を超えていた
としても、この種の事件は知的財産事件を扱う基層人民法院、又は最高法院に報告して指定された相
応の基層法院が管轄する。むろん、知識産権法院は中級人民法院として設立されたため、民事訴訟法
の規定に従い、審級を高めて渉外事件又は重大な一般知的財産事件を審理することもできる。管轄以
外に、法院業務から切り離すことができない各種制度は他にも多くある。これら知識産権法院の設立
後の運営において必然的に次々と遭遇する問題、とりわけ司法改革と知的財産の専門的裁判を踏まえ
て新たに設立した制度については、速やかに回答する必要がある。また、もとの中級人民法院から独
立した新機関として、知識産権法院の設置は、多くの段階に関わる複雑な手続であり、立地の選択か
ら、裁判に携わる専門職員の選抜及び事務職員、施設配備、さらには新旧事件の受理や帰結に至るま
で、いずれも大量の労力が必要とされる。それに加え、以上の煩雑な事項には、法官個人及びその家
庭生活に与える不都合は含まれないことを指摘しておかねばならない。法官の負担が急増する中、法
官の名誉感や待遇をいかに高めるかということも、優秀な法官を留めておくために配慮すべき問題で
ある。
筆者は、中国の知的財産戦略推進には、およそ 5 年間は更に必要であると考える。司法保護体制の
整備は、一朝一夕に遂行できるものではなく、知識産権法院の設立に関わる、次の施策や改革が発表
される前に、少なくとも一定の範囲内でパブリックコメントを募集し、有益な意見を幅広く吸収する
ことにより、タイムラインの設定による慌ただしい立法や解釈を避けるべきである。このため、当面
においては一方で、北京・上海・広州の知識産権法院の設立後に直面する共通の問題(法官の定員上
限に対して、事件件数が多い等の上述の問題)を随時総括し、また一方で、知的財産に関連する司法
保護体制の全面整備に向けた先見的な計画を立て、また、できる限り十分な配慮をすることにより、
最終的に国情に最も適したプランを形成できるよう注力しなければならない。事実、これらは全国人
民代表大会常務委員会が「決定」における要求事項であり、3 年後、最高人民法院は全国人民代表大会
常務委員会に対し、実施状況についての報告を行うだろう。また同時に、知識産権法院の整備に関す
る、更なる司法改革が開始されることが予想される。略言すれば、中国の知識産権法院の設置模索に
おいて、北京・上海・広州の知識産権法院の設立は、着実な第一歩を踏み出したにすぎず、「国家知
的財産戦略綱要」が設定する「知的財産の上訴法院」という目標とはまだ開きがあり、世界各国が既
に設立した特許裁判所又はその他類似する知的財産裁判所とは顕著な差がある。今後、中国の知識産
権法院の更なる整備に向けて、以下の各方面に関し早急に検討すべきである。
(ⅰ)北京・上海・広州の知識産権法院の問題とそのモデル推進の必要性及び実行可能性
北京・上海・広州の知識産権法院は、裁判資源の最適化のために設立されたとはいえ、集中管轄は
二つの顕著な障害に直面している。すなわち、民事訴訟の利便性の低下、及び法官の事件処理におけ
る深刻な能力不足である。ただし前者に関して、中国の現在の司法改革の重点は「公正、独立、効
率」等をキーワードとしており、当事者、法官の訴訟業務及び裁判業務にもたらされる一定の不都合
- 51 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
は、改革に伴う一定の代償とみなすほかない。また根本的に、公正な裁判は、訴訟当事者の法制度に
対する最も高い要求であり、多数の当事者は地域的便宜性を放棄してでも、公正で効率が良く、評判
高い法院による管轄を選択しようとするため、知識産権法院が設置する地域的不便性という先天的欠
陥は、専門化された裁判の質によって補うことができる。後者に関しては、新たに設置された北京・
上海・広州の知識産権法院は、法官の定員制により受ける莫大な事件処理の負担が現在既に顕著に現
れており、法官アシスタントの十分な配置、技術調査官制度等の解決方案がすでに開始されている
が、当然これらの制度の運用効果については、更なる考察が待たれる。理論上では、3 年後、実情に応
じて、条件が整った地域に、北京・上海・広州の知識産権法院に類似する専門法院を設立することに
より、優位性のある裁判資源を統合し、技術度が高く、難解な知的財産事件の審理を集中させるとい
う改革目的を達成することができる。むろん、北京・上海・広州の知識産権法院の運用状況に基づ
第
三
章
き、地域の管轄範囲の拡大等により、絶えず高まる知的財産の裁判実務に関するニーズを含んだ、各
自の管轄範囲を再設定することも可能である。
(ⅱ)知識産権法院の刑事事件受理の実現可能性
中国における一部の地方法院では、知的財産に関わる民事事件、行政事件、刑事事件の審理を一括
する「三審合一」テスト事業を既に実施し、一定の成果を挙げているとはいえ、一致しかつ成熟した
方法又は相応の法律規定がない。知的財産事件の専門性を考慮し、専門の知識産権法院が相応する地
域の知的財産に関連する刑事事件を管轄することは、知的財産事件の裁判基準の更なる統一化に有利
に働く。全国人民代表大会常務委員会の「決定」によれば、北京・上海・広州の知識産権法院は、刑
事事件の管轄権を有していないため、重大な改革の取り組みに基づき、法的根拠の精神を貫くべきで
ある。知識産権法院において「三審合一」の多角的な裁判モデルを構築しようとする場合、まずは、
新たな法律を通じて、もとの法律の地域管轄と級別管轄に対する規定を打破することにより、知識産
権法院において、いかに刑事事件の裁判体制を構築するかという問題について更に検討することがで
きる。
(ⅲ)技術調査官等の周辺制度の構築と整備に関する問題
知識産権法院は、技術度の高い知的財産事件を専門に管轄するため、知識産権法院の裁判機関を整
備するには、海外の経験をもとに、技術調査官制度を採用することが非常に必要である。現在、最高
人民法院が、既に公布している「知識産権法院の技術調査官の訴訟活動への参加における若干の問題
に関する暫行規定」は、北京・上海・広州の知識産権法院における、司法補助職員の配置の根拠と
なっており、技術度の高いその他事件の管轄権を有する法院が、類似事件を審理する際の参考となっ
ている。技術調査官は法官の指示で、訴訟業務に参加することにより、技術検証の科学性、専門性及
び中立性を高めることができる。技術調査官は、知的財産の裁判能力を高め、法律専攻出身の法官に
おける、技術的背景知識の欠如による技術度の高い問題に対する認識不足を補うことが可能であり、
結果的に知的財産に関する裁判全体の質の向上につながると考える。とはいえ、いかに適格な技術調
査官を選任するか、技術的アップデートという問題の解決に向けて任期等の体制をいかに構築する
か、技術調査官自体の技術的制約及び技術的偏見を克服するためのルールをいかに設けるか、また、
どのように技術調査官の役割を十分に発揮させつつ過度の依存を避けるか等、更なる検討により、詳
- 52 -
細で明確な司法意見を制定する必要がある。
(ⅳ)知識産権高級法院の設置に関する問題
筆者は、北京・上海・広州の知識産権法院の設立は、知的財産事業の里程標となる重要事項である
が、知的財産に関連する司法保護のプロセス全体においては、司法改革を踏まえた初歩的な試みにす
ぎないと考えている。知的財産分野における保護の強化は、優位性のある裁判資源の集中、司法理念
の更新、法執行の厳格化の外、確認訴訟に関連する知的財産事件の長期化や訴訟の繰り返しといった
難題を解決する必要がある。中でも、権利確認手続を最適化するために、専門の知識産権高級法院を
設立することが、極めて重要である。海外の経験からみた場合、中国の北京・上海・広州に設立され
た知識産権法院は、世界の多くの国・地域で既に設立されている特許裁判所又はその他、知的財産裁
判所と顕著な差異がある。例えば、英国、米国、シンガポール等では、同一の上訴裁判所により特許
の無効、特許権侵害に関する訴訟を審理する知的財産裁判所があり、当該裁判所の最終判決により、
権利が有効かどうかを確定することができる。一方、ドイツ、日本、韓国等の大陸法系国家では、専
門の知的財産高等裁判所が、知的財産を担当する行政管理部門の裁決に対する不服についての一審事
件を直接審理する。また、当該裁判所の判決に対し、国の行政訴訟事件を管轄する最高裁判機関に直
接上訴することができる。当然、中国は大陸法系の司法制度の影響を大きく受けているため、権利確
認手続を略式化する方法が各界により受け入れられやすい。そのためには、「専利法」、「商標法」
をまず改正し、専利復審委員会と商標評審委員会が下す、専利と商標の効力に関わる行政決定を準司
法裁決とみなし、当事者がそれを不服とする場合、設置を計画している知識産権高級法院に直接上訴
する必要がある。それと呼応し、現時点でこの種の事件に対して管轄権を有する北京の知識産権法院
が、専利権、商標権の確認に関する一審事件を審理しないことにより、段階を一つ削減することがで
きる。計画中のこの知識産権高級法院は、北京に設立され、北京市高級人民法院の内部に各審判廷と
並行して開設するか、又は同級の北京知識産権高級法院を単独で設立できる。同時に、この案の実現
には、「専利法」と「商標法」の改正を通じ、北京市高級人民法院により、前述の両委員会の裁決に
不服のある権利確認事件の上訴事件、並びに北京知識産権法院から来る専利等の技術度の高い権利侵
害に関連する民事事件の第二審を統一して受理する必要がある。中国の機構体制改革の複雑さを考慮
すると、世界の知的財産の裁判業務との共通性を反映しつつ、中国の国情における具体的ニーズに適
応した、中国特有の知識産権法院体系を最終的に構築し、模索の一方で経験を総括することにより、
体制を段階的に構築し、整備していかなければならない。
5.結語
中国の特色ある知識産権法院体系の設置と運営は、中国の知的財産の保護を強化する制度の構築で
あり、その整備のプロセスは司法改革の総合計画を踏まえて漸進させる必要があると筆者は考える。
しかし、司法理念に関して、この体系がイノベーション促進の役割を真に発揮するための鍵は、すで
に実施されているか又は近々改正される知的財産に関わる各単行法における権利維持コストの低減、
権利侵害の代償引き上げ、権利侵害行為の効果的な抑止という方針を徹底するため、法執行を厳格化
し、法官が司法のテクニックを柔軟に活用することにより、権利者が「訴訟に勝っても財を奪われ
- 53 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
る」、権利侵害者が別の方法で悪意ある権利侵害を繰り返す等、イノベーションの保護に極めて不利
な長期的現象を除去できる。知識産権法院の設立は、国家知的財産戦略における重要な施策の一環で
あり、中国の司法機関による知的財産事件の処理の専門性と効率の向上により、知的財産事件審理の
経験を蓄積し、法官特化のニーズに適応し、事件の滞りを避け、紛争解決を加速させ、国の経済成長
を促進するものである。専門法院制度の構築及び法官の裁判過程における司法理念の理解と把握を通
じ、改革目標を達成できるかどうかについて、既に設立された北京・上海・広州の知識産権法院が手
本を示す必要がある。
いかなる法律の移植にも長い時間が必要とされ、知的財産法体系の構築は、すぐさま知的財産分野
の法治の実現を意味するわけではない。知的財産に関連する法制度が効率的に実施されるには、十分
な法律文化のバックグラウンドという支えが必要である。目下、中国は経済の転換期にあり、市場経
第
三
章
済の構築過程における関連主体には、まだ本当の意味での自覚的な法律意識が形成されていない。と
りわけ、知的財産をめぐって、市場競争における模倣・粗悪品の製造行為はいくら禁止しても止ま
ず、後を絶たない。また、中国社会は総体的に、なお初期の発展段階にあり、特に地域ごとに極めて
大きなアンバランスがみられ、後進地域及び人口がまだ多数を占めている。人々は生産活動また日常
生活のいずれにおいても、ルール意識が希薄で、反対に暗黙のルールがまかり通っている。さらに、
中国における従来からの民衆の多勢順応主義、虚栄心の強さ等といった要素により、知的財産の構築
という無形の客体上の私権が法的保護を受けることに対する意識が、有形物の財産権に対する意識と
比較してなおいっそう希薄であるため、権利侵害や模倣といった行為に対する容認の姿勢は、有形物
の窃盗や略奪といった違法行為に対する痛みにはるかに及ばない。
そのため、強調しなければならないのは、真の成功を収めるには、いかなる制度の整備や改革にお
いても、相応するコンセンサスを思想や理論の基盤に置かなければならず、西洋の先進国に源を発す
る知的財産制度の場合は、とりわけこれが当てはまるということである。「標本兼治[問題そのものに
加え、問題の根本を解決する]」といわれるように、ただ法律の整備、制度の改革から入手した場合で
あっても、国の強制力を通じて知的財産保護を強化することは可能であるが、さらに重要なのは、各
界が本当の意味でのイノベーション意識を持つことである。中国においてイノベーションの尊重、イ
ノベーションにおける積極性という気風を形成するには、立法、法執行、司法に関して知的財産保護
を強化するだけでなく、実行可能な各種方式により国民全体の知的財産に対する法律意識をたゆまず
強化し、市場主体の法律を尊び、信頼し、遵守し、使用する意識及び法により権利を保護する能力を
育成するとともに、党政府機関の指導者が先頭となって法の遵守意識を高め、法の遵守を光栄とし、
違法を恥とする社会的気運を醸成し、人々の生産活動、日常生活から海賊版、偽物の購入、剽窃・類
似品の生産、並びに偽造、模造等の不正競争の習慣を放棄しなければならない。知的財産に関する法
律意識の育成に当たり、一定の方法を通じて国民教育体系に組み入れることで、幼少期からイノベー
ションを尊重し、知的財産を保護する意識を養成することができる。このほか、知的財産に関する法
律意識を知的財産の創造、運用及び管理の各段階における専門人材の育成に浸透させることにより、
イノベーション型国家と法治中国に必要とされる複合型の知的財産人材を、全面的に育成する必要が
ある。これらは別の重要なテーマとして、系統的に論述するべき内容であるため、本文では展開しな
いことにする。
以上
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Ⅲ.日本における国家戦略としての知的財産戦略について
明治大学
高倉 成男 教授
1.はじめに
特許、著作権など知的財産権に関する国の戦略は、長い間それぞれの権利に関する事務を所掌する
各官庁(特許庁、文部科学省など)によって独自に立案され、必要に応じて省庁間の調整が行われ、
各官庁によって独自に実行されるというパターンが一般的であった。しかし、1990 年代に入って、高
度経済成長期の成長戦略に代わる新しい成長戦略としての知的財産戦略(知的財産の創造、保護、活
用を通じたイノベーション戦略)への注目が集まるようになり、これに伴って国家の知的財産戦略を
内閣の指導の下に一元的に立案し、各担当官庁による実行を監視するメカニズムを創設する必要性が
認識されるようになった。
このような認識の高まりを背景として、2002 年 12 月に「知的財産基本法」が制定され、2003 年 3
月に内閣総理大臣を本部長とする「知的財産戦略本部」が設置され、2003 年 7 月に国家戦略としての
「知的財産推進計画」が策定された。そしてこの年以降、毎年、知的財産推進計画が更新され、それ
に基づいて各省庁の知的財産政策が統一的に実行されるようになった。
こうした新しい政策調整メカニズムの確立によって、それがなければ実現が困難であった又は実現
が遅れたであろうと思われる多くの施策が短期間のうちに実現されることになった。例えば、知的財
産高等裁判所の設置(2005 年)、特許審査官の例外的増員(2004 年~2008 年)、大学における知的財
産活動の活発化(2004 年以降)はそのような施策の具体例であると言ってよいように思われる。
他方で、こうした成果にもかかわらず、2003 年から 2013 年までの間に特許出願件数は 41 万件から
33 万件に約 20%減少し、知的財産権関係の侵害訴訟(全国地裁)の受理件数は 635 件から 552 件へ約
13%減少してしまった。もちろん、特許出願や侵害訴訟が減少しているからといってイノベーション
が停滞しているとは言えないが、イノベーションが進んだことを示す積極的なデータがない以上、知
的財産推進計画がイノベーションにどう寄与したかは不明であるとの指摘が出てくるのももっともな
ことではある。
本稿では、このような批判的指摘の存在も念頭に置きながら、国家戦略としての知的財産戦略の理
念と背景を整理し、知的財産推進計画の内容、成果及び残されている問題点について検討し、イノ
ベーション推進の観点から今後取り組むべき課題について考える1。
2.ポスト「1980 年代」の成長戦略
日本は、1950 年代半ばから 1973 年まで約 18 年間(いわゆる「高度経済成長期」)にわたって毎
年、平均成長率 9%という高い水準で経済成長を続けた。1980 年代に入っても、他の先進諸国が不振
1
知的財産推進計画の当初 3 年間の成果及び重点項目についての最初の 10 年間の実績は、それぞれ下記の資料にまとめ
られている。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/060224housin.html[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日],
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/kyousouryoku/2013dai1/siryou5.pdf[最終アクセス:2015 年
2 月 16 日].
- 55 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
に陥る中、日本は比較的安定的な発展を続けることができた。
これらの時期における日本企業の成長シナリオは、外国から進んだ技術を導入し、改良を加えてよ
り良い製品をより安く作り、海外に輸出をして利益を上げるというものであった(セカンドランナー
型の成長戦略)。そして多くの日本企業の特許戦略は、「大量の国内特許出願」と「クロスライセン
ス戦略」に特徴づけられていた。日本企業は大量に国内特許をもっていてもそれを行使する(侵害訴
訟を提起する)ことはまれで、むしろ互いに特許を行使しないことを約束し合うのが一般的であった
(特に電機業界)。こうして各社は国内業界内においてみずから競争環境を作り出し、きびしい競争
を通じて自社の製品の品質を極限にまで高め、その品質によって世界市場において高い国際競争力を
保ってきた。
しかし、1990 年代に入ると、経済のグローバル化、新興国の台頭等に伴って、日本の国際競争力は
第
三
章
急速に低下していった。スイスの国際経営研究所(IMD)が毎年発表している国際競争力ランキングに
よれば、日本は 1993 年まで世界一位の座を維持していたが、その後大きく順位を下げ、2000 年代以降
は 20 位前後で低迷している(図表-1)。順位を大きく下げた 1990 年代中期に、関係者の間において
1980 年代までの成長戦略に代わる新しい成長戦略の在り方についての真剣な検討が行われた。
【図表-1】 IMD 国際競争力ランキングの推移
出所
平成 25 年版
科学技術白書
様々な検討を経て、関係者の間に1つの考えが醸成されてきた。それは、これまでのセカンドラン
ナー型の成長戦略を脱し、みずから独創的な研究開発をし、その成果を知的財産権として保護し、そ
の専有性を利用して新製品・新サービスにチャレンジするというフロントランナー型の競争戦略をと
るべきであるという考えであった。
このような知的財産の創造・保護・活用を通じたイノベーション戦略を国家戦略として進めていく
ことを目的として、1990 年代半ばに 2 つの重要な施策がとられることになった。1 つは、「科学技術
基本法」(1995)に基づく「科学技術基本計画」の作成と実行であった2。これは、国の科学研究シス
2
第 1 期の科学技術基本計画は 1996 年から 2000 年までの 5 年計画であった。その後 5 年ごとに改定が行われ、現在、
第 4 期の科学技術基本計画(2011~15)が進行中である。
- 56 -
テムの改革と政府予算の集中投入(当初の 5 年間で計 17 兆円)を骨子とするものであった。
もう 1 つは、特許庁に設置された「21 世紀の知的財産権を考える懇談会」(以下「21 世紀懇談会」
という。)の報告書3(1997 年)に基づく「プロパテント政策」の推進であった(図表-2)。これは、
権利の保護と制限のバランスに留意しながら、ライフサイエンスや情報技術などの新分野の発明(例
えば、遺伝子の発明、コンピュータプログラムの発明)が特許対象であることを明確にすること(い
わゆる「広い保護」)、侵害訴訟における特許権者の不利な立場(例えば、侵害の事実や損害額の立
証責任の負担)を是正すること(いわうる「強い保護」)、また大学等の特許活動が適正に行われる
ように学内組織を整備することなどにより、国全体で知的財産の創造・保護・活用からなる「知的創
造サイクル」4の廻しをもって産業の活性化を図らんとすることを目的とするものであった。
【図表-2】 21 世紀の知的財産を考える懇談会の報告書(1997 年 4 月)
2000 年代に入って、このような「プロパテント政策」(又は「知的財産立国政策」)が研究開発シ
ステムの改革を含む国全体の戦略として進められるようになった。次節では、国家戦略としての知的
財産戦略の内容と手続についてみることとする。次節では「知的財産戦略会議」、「知的財産戦略大
綱」、「知的財産基本法」、「知的財産戦略本部」、「知的財産推進計画」など類似の用語が繰り返
して登場し、少々わかりにくい説明になるかもしれないが、「知的財産戦略大綱」は「知的財産戦略
会議」によって作成された非公式・大枠的な戦略であり、これを「知的財産基本法」という法律を根
拠にして公式化・具体化したものが「知的財産戦略本部」による「知的財産推進計画」であるととら
えておけば十分である。
3.的財産推進計画の決定までの経緯と同計画の内容
「知的財産立国」政策は、知的財産制度そのものだけではなく、大学、裁判、税関、医療、農業な
ど他の様々な分野の施策に広く関連することから、21 世紀懇談会の報告書(1997 年)は、「知的財産
3
http://www.jpo.go.jp/shiryou/toushin/chousa/21seiki.jbw[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日].
「知的創造サイクル」については、創造→保護→活用という方向のみではなく、活用→保護→創造という方向にも回
るという発想(活用起点型の知的財産戦略)が重要である。
4
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
権について国全体として統一的な取り組みを行うため、知的財産権についての基本的な方針を策定す
ることが求められる」と提言した。
この提言に基づき、政府部内の調整が行われ、2001 年末ごろ、内閣総理大臣直属の組織を設置し、
基本方針を策定することについて政府関係者のコンセンサスが形成された。そして翌年 2002 年 2 月、
小泉内閣総理大臣(当時)は、国会における施政方針演説の中で「研究活動や創造活動の成果を、知
的財産として、戦略的に保護・活用し、我が国産業の国際競争力を強化することを国家の目標としま
す」、「このため、知的財産戦略会議を立ち上げ、必要な政策を強力に推進します」と宣言し、その
後、2002 年 2 月、内閣総理大臣及び関係大臣並びに中山信弘東大教授(当時)等有識者 11 名、合計
23 名をメンバーとする「知的財産戦略会議」(座長:阿部博之東北大総長(当時))が設置された。
同会議は、2002 年 3 月からほぼ月 1 回のペースで検討を続け、2002 年 7 月、「知的財産戦略大綱」5を
第
三
章
決定した。
知的財産戦略大綱は、その翌年に策定された知的財産推進計画の原型となるものであって、創造、
保護、活用の 3 分野と人材育成の合計 4 つの分野について国が目指すべき方向を定めたものである。
その目指すべき方向とは、第 1 に、創造分野については、科学技術基本計画と連携して大学等におけ
る独創的研究を推進すること、第 2 に、保護分野については、特許制度の強化、裁判システムの改革
等により、「広くて強い」知的財産の保護を実現すること、第 3 に、活用分野については、大学等か
ら生まれる知的財産の活用(知的財産本部の整備)、企業経営における知的財産の活用、知的財産の
流通等を推進すること、そして第 4 に、人材育成については、各分野の戦略を担う知的財産専門人材
を育成し、その数を増やすこと等であった。
知的財産戦略大綱はまた、その実行のために「知的財産基本法」を制定することを提言した。この
提言に基づいて、当局において法案が準備され、2002 年 11 月、臨時国会において可決成立した。法案
の提言から成立まで僅か 8 か月というのは異例のスピードであった。政府首脳の知的財産に対する期
待と認識の高さが感じられるものであった。
その成立から 4 か月後、2003 年 3 月、知的財産基本法が施行され、これに基づき、内閣総理大臣を
本部長とし、全ての国務大臣 17 名と有識者 10 名(有識者のうち 4 名は知的財産戦略会議の有識者メ
ンバーと同じ)、合計 27 名を構成員とする「知的財産戦略本部」が正式に発足した。同本部は、月 1
回のペースで会合を開催し、2003 年 7 月、「知的財産推進計画」6を決定した。その内容はおおむね以
下のとおりである。
第 1 に、創造分野については、大学等研究者の流動性・多様性の向上、競争的資金の倍増、業績評
価における知的財産活動の重視、特許を受ける権利の組織帰属(国立大学は 2004 年の法人化に合わせ
て実施)、大学知的財産本部の整備、技術移転機関(TLO)の整備、大学発ベンチャーの促進、特許法
の職務発明規定の廃止又は改正等を推進する。
第 2 に、保護分野については、特許審査の迅速化(このための任期付審査官の採用)、知的財産高
等裁判所の創設、経済連携(EPA)交渉における知的財産問題の協議、医療行為関連発明の保護の検討
等を推進する。
第 3 に、活用分野については、企業における知的財産重視の経営戦略の実行、知的財産信託に係る
5
6
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki/[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日].
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/index_before090916.html[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日].
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制度の改正、戦略的標準化活動の強化、倒産時の知的財産ライセンシーの保護、中小ベンチャーの財
政的支援等を推進する。
第 4 に、新たな柱として建てられた「コンテンツ分野」については、プロデューサーの育成、日本
ブランドの発信支援、著作権電子管理システムの開発支援、レコード輸入権の創設(還流防止)、技
術的保護手段の回避に対する法的規制対象の拡大、著作権法の簡素化・明確化等を推進する。
第 5 に、人材育成については、弁理士・知的財産専門弁護士の増加、新司法試験(2006 年度に始
まった司法試験制度)における知的財産科目の選択科目化、夜間法科大学院の開設の奨励、初等中等
教育課程における知的財産教育の充実、模倣に関する国民の啓発等を推進する。
知的財産推進計画は、構成的には「コンテンツ分野」が独立としてまとめられたことを除いて知的
財産戦略大綱と大差はないが、内容的には「知的財産高等裁判所の創設についての法案を 2004 年中に
提出する」、「任期付審査官を配置し、任期終了後は知的財産専門人材としての活用を図る」など具
体化の度合いが一層進んだものになった。
なお、創造、保護、活用、コンテンツ、人材育成の5つを柱とする知的財産推進計画の構成は 2008
年度まで 2 期 6 年継続したが、2009 年度に始まった第 3 期以降は、「イノベーションの促進」、「グ
ローバル化への対応」、「コンテンツ戦略」等を柱とする構成に変わっている。このことは、知的財
産推進計画の重心が権利保護からイノベーションの促進へ移ったことの反映であると考えられる7。
4.知的財産推進計画の主な成果
(1)知的財産訴訟システムの改革
(ⅰ)知的財産高等裁判所の創設
2002 年 7 月の知的財産戦略大綱の決定の後、知的財産高等裁判所(以下「知財高裁」という。)の
問題は、訴訟に関連する他の問題8 と一緒に「司法制度改革推進本部」(本部長:内閣総理大臣)の
「知的財産訴訟検討会」(座長:伊藤眞東大教授)において検討されることになった。そして 2003 年
7 月の知的財産推進計画において知財高裁に関する提言が具体化された(2004 年までに法案を提出す
ることとされた)ことを契機として、知的財産訴訟検討会において知財高裁の創設を求める声が一段
と大きくなった。
知的財産訴訟検討会における積極派の委員(主に産業界代表の委員)が主張する知財高裁創設の理
由は、判決の統一又は予見可能性の向上に資すること、知的財産立国を国内外にアピールできること
(看板効果)、技術系裁判官の実現の基盤になることなどであった。
これに対して法学界や法曹界の委員の見解は消極的であった。その理由は、①平成 15 年(2003 年)
民事訴訟法改正によって知的財産裁判の「管轄の集中化」(例えば、特許事件は第一審では東京地裁
又は大阪地裁に集中化し、控訴審は東京高裁に集中化する)が既に実現されている、②「看板効果」
7
「第 3 期知的財産戦略の基本方針」(2009 年 4 月)は、「知的財産の創造と活用を有機的かつ相互につなげるために
は、権利保護のみに注力するのではなく、知的財産をいかに効果的に経済的価値の創出に結び付けるかという視点を重
視しつつ知的創造サイクルの好循環をより拡大・進化させることが重要となっている。」との認識を示している。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/kettei/090507siryou.pdf[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]
8
「訴訟に関連する他の問題」とは、(1)権利行使制限の抗弁(特許法第 104 条の 3)、(2)侵害行為の立証の容易化
(書類提出命令、インカメラ審理、非公開審理)、(3)調査官の権限の拡大・明確化等であった。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
より審理の中身の充実のほうがより重要である、③独立の知財高裁ができると知的財産の事件か否か
の区別(職分管轄)に余分なエネルギーが割かれる、④専門化・独立化により裁判官人事の硬直化、
競争関係の喪失、裁判官の視野の狭隘化など多くの弊害が生じる、⑤仮に専門裁判所を作るにせよ、
一審で通常部、二審で専門裁判所というのはおかしい(専門部を作るなら一審からではないか)、⑥
技術系裁判官も当然に法曹資格が必要である(特別の技術系裁判官の実現には反対)というもので
あった。
このように対立点は多岐にわたっていたが、消極派の 5 つの懸念のうち、①②は知財高裁の設置と
相いれないというほどのものではなく、また積極派が技術系裁判官の実現にこだわらなくなったため
に⑥も争点ではなくなり、結局、争点は③④⑤に絞られた。その後、2003 年 12 月の知的財産訴訟検討
会の会合において、知的財産戦略本部の事務局が「独立した高裁としてではなく、東京高裁の中の特
第
三
章
別の支部(裁判所法第 22 条の「支部」)として『知的財産高等裁判所』を設置する」という調整案
(この案によれば、独立の高裁ではなく、東京高裁の支部であって、看板としてのみ「知的財産高等
裁判所」を名乗ることになるので、⑤の問題は多少残るにせよ、③④の問題は生じないことになる)
を提示し、最終的にこの案が 2004 年 1 月の知的財産訴訟検討会の会合において了承されることになっ
た。
(ⅱ)知財高裁の発足と最近の状況
その後、上記調整案に沿った法案(「知的財産高等裁判所設置法」案)が準備され、同法は 2004 年
6 月に可決成立し、2005 年 4 月に発効した。こうして知財高裁は、その前身の東京高裁の中に以前か
らあった知的財産部門の組織と歴史を引き継ぐ形で 9 、東京高裁の特別の支部として(ただし看板は
「知的財産高等裁判所」として)、4 か部及び特別部(大合議部)、19 名の裁判官、11 名の調査官か
らなる体制でスタートした。これと同時に、技術の専門家等を訴訟手続に関与させることができる専
門委員制度(民事訴訟法第 92 条の 2)も始まった。専門委員と調査官の相違点は図表-3 のとおりであ
る。
知財高裁の扱う主な案件は、特許・実用新案・意匠・商標に関する審決取消請求事件(年間 400~
500 件)と、知的財産に関する地裁の民事事件の控訴案件10(年間約 100 件)に大別されるが、いずれ
の区分の事件についても平均審理期間は平成 15 年(2003 年)から平成 25 年(2013)年までの間に大
幅に短縮されている(図表-4)。2013 年において審決取消訴訟で平均 7.6 か月、侵害訴訟(控訴審)
で平均 6.7 か月であった11。知財高裁関係者の発言によれば、「合理的で安心できる審理期間として限
界にきている」12という状況である。知財高裁は、審理の迅速化という点でほぼ目的を達成している。
9
篠原勝美知財高裁初代所長は、知財高裁は「名称はともかくとして、すでに半世紀以上の歴史がある東京高等裁判所
の貴重な実績を基礎として」生まれたものと述べている。中野哲弘ほか「これからの知的財産高等裁判所と実務」Law &
Technology(L&T)50 号(2011)14 頁〔篠原発言〕。
10
特許・実用新案等の技術的なものについての全国の地裁の事件の控訴案件、及び意匠・商標・著作権(プログラムを
除く)等についての東京高裁管轄下の地裁の事件の控訴案件である。
11
これに対して、知的財産訴訟の民事一審(全国地裁)の平均審理期間は依然として長く、2012 年において約 17 月で
ある。最高裁判所「裁判の迅速化に係る検証に関する報告書(第 5 回)」(2013 年 7 月)。
12
前掲注(9)L&T17 頁〔宍戸発言〕。
- 60 -
【図表-3】 専門委員と調査官
【図表-4】 知的財産裁判所における件数と審理期間
産業財産権関係審決取消訴訟
産業財産権関係侵害訴訟(控訴審)
資料)知財高裁 HP の統計資料に基づき筆者が作成。
一方、判決の内容面の統計的動向としては、特許無効審判請求事件に係る審決の取消率の変化が注
目される(図表-5)。特許無効審判請求に係る審決のうち、有効審決の取消率は 2003 年から 2007 年
までの 5 年間で平均 51%と高い水準にあったが、2008 年に 30%に低下し、その後、同水準で推移して
いる。逆に無効審決の取消率は 2003 年から 2007 年までの 5 年間で平均 9%と低かったが、2008 年に
30%に上昇し、その後、同水準で推移している(図示されていないが、拒絶査定不服審判請求に係る
拒絶審決の取消率も同様の変化を示している)。
2008 年における急激な変化(特に有効審決の取消率の低下)の背景は必ずしも詳らかではないが
(個々の判決の積み重ねの結果、たまたまそういうことになったと理解しておくべきかもしれない
が)13、いずれにせよ、有効審決の取消率が下がったということは、権利者の立場からみると特許の安
定性が増したということであり、また特許庁の立場から見ると知財高裁との判断の齟齬が少なくなっ
たということであるから、権利者にとっても特許庁にとっても好ましい変化であったとはいえる。た
13
川田篤・井上義隆「平成 22 年における特許審決取消訴訟の概況」パテント 64 巻 3 号(2011)44 頁は、この変化につ
いて、「動機付けを重視する基準を意識した判断がされている」と指摘している。
- 61 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
だ、下がったとはいえ、依然として 30%の有効審決が取り消されているという事実は看過し得ず、特
許権者には訴訟当事者として自己の特許の有効性を裁判官に理解してもらう上での工夫が求められる
14
。一方、無効審決の取消率が 30%に上がったことは、特許庁にとっては喜ばしい傾向ではなく、特許
庁には裁判所の最近の変化に対応して本願発明の要旨認定及び引用文献の開示事項の認定の手法を適
宜見直し、無効審決の取消率が下がるよう(すなわち、特許すべきものは特許庁の段階で特許するよ
う)努力することが求められる。
【図表-5】 特許に関する無効審判の審決(有効審決及び無効審決)の取消率の推移
第
三
章
(ⅲ)侵害訴訟における特許無効の判断(特許法第 104 条の 3 の創設)
知的財産訴訟検討会におけるもう 1 つの重要な検討事項は、侵害訴訟における特許無効の判断の問
題、すなわち、平成 12 年キルビー事件最高裁判決の法制化の問題であった。立法化の必要性それ自体
に対立はなく、主な論点は、キルビー判決が「無効理由が存在することが明らかであるとき」(明白
性)を要件とするものであったところ、法制化の際にこの明白性要件を入れるか外すかであった。
一方の意見(裁判官委員等)は、明白性を要件としたキルビー判決をそのまま法制化するのが望ま
しく、仮に明白性要件を外すと、無効の抗弁が乱用され、特許権者の再抗弁の負担が増加し、侵害訴
訟が長期化するおそれがあるというものであった15。
他方の意見(主に産業界委員)は、明白性要件があると、①明らかか否かそれ自体が紛争になる、
②実際に審理をしてみないと明らかか否かわからないので明白性要件は事実上歯止めにはなり得な
い、③明らかでない場合に無効の抗弁が認められないとすると特許無効審判が請求されることになる
ので「一回的解決」の要請に反するなどの理由から、明白性要件は外すべきであるというものであっ
た。
14
例えば、生活日用品など技術内容が理解しやすい発明は進歩性が否定されやすいので、権利者は技術内容の理解の難
易度と発明の創作の難易度が裁判官に混同されないように注意して主張をするべきである。
15
知的財産訴訟検討会第 12 回会合(2003 年 10 月 6 日)飯村委員配布資料。
- 62 -
上記の2つの意見はともに、明白性要件に重きを置いて、その要件を満たさないときは無効の抗弁
は行使できないとする解釈を前提にしているが、第三の意見として、キルビー判決はそのように狭く
解すべきではなく、キルビー判決においても幅広い無効理由について無効の抗弁が許されると解すべ
きであるとする見解もあった16。
最終的に、知的財産訴訟検討会は、明白性要件を外して特許法第 104 条の 3 を制定することを結論
とした17。明白性要件が外された結果、被告は特許無効審判請求と同じように侵害訴訟において無効の
抗弁をすることができることになった(又はそのことが確認された)。そして、明白性要件を外すこ
とにより懸念される無効の抗弁の乱用に対しては、同条第 2 項に一定の歯止め(審理を不当に遅延さ
せることを目的として提出されたものは却下される旨の規定)が設けられることになった。
(ⅳ)特許法第 104 条の 3 の運用状況
特許法第 104 条の 3(以下、単に「104 条の 3」という。)は、知財高裁の発足と同時に 2005 年 4 月
から適用が始まった。2003 年以降の全国地裁の判決統計(図表-6)をみると、104 条の3の適用が開
始された年である 2005 年の前後で顕著な変化は見られない(このことは 104 条の 3 の適用開始前でも
明白性要件は重大な分かれ目になっていなかったことをうかがわせる)が、キルビー判決以降、高い
割合で無効の抗弁がされている。すなわち、2003 年から 10 年間の平均として、判決が出された全事件
の 76%で無効の抗弁がされている。そしてそのうち、50%について無効の抗弁が認められている18。ま
た判決が出された全事件の 82%は原告敗訴事件であって19、原告敗訴事件のうち特許無効を理由として
敗訴した事件の割合は 46%に達している20。
このような状況は特許権者による訴訟の提起を消極にさせているとの見方がある一方、従来から訴
訟を起こせば特許無効審判が請求されることはあったので(特許無効審判も無効の抗弁と事実上同じ
であるので)その見方は疑問であるとの反論もある21。私見では、特許権者が特許の有効性を信じて自
ら提起した裁判において裁判官から「特許無効」と断じられる(この判断には事実上の「対世効」が
ある)ことを経験すると、やはり特許権者としては提訴に慎重になるということはあると思われる。
16
この見解は複数の裁判官の発言により裏付けられている。例えば、2012 年 3 月開催の東京弁護士会主催のシンポジウ
ムにおいて、清水判事は「その明白性の要件にウェイトを置いて、明らかでないものについてはキルビー判決による権
利濫用の抗弁を行使できないという考え方が、実務上はほとんどなかったわけです。」と語っている。また高部判事も
「(104 条の 3 は)キルビー判決の『明らか』の要件とは変わりはないはず」と述べ、三村元判事もキルビー判決の明
白性要件を「技術者でない裁判官にもわかる…という意味で理解しておりました」と述べている。パテント 65 巻 9 号
(2012)93 頁〔清水発言〕、パテント 65 巻 8 号(2012)139 頁〔髙部発言〕、同 140 頁〔三村発言〕。
17
知的財産訴訟検討会第 15 回会合(2003 年 12 月 15 日)配布資料 1。
18
もっとも、特許無効審判の審理結果をみてみると、2003 年から 2012 年までの 10 年間の平均で、審決総数に対する無
効審決の割合は 56%であるから、侵害裁判における無効の抗弁の成立率(50%)が特に高いともいえない。それでも特
許権者とすれば、自己の特許を有効と信じて起こした侵害訴訟での特許無効の割合が通常の特許無効審判請求の場合と
ほぼ同じというのは、やはり深刻な問題であろう。
19
ただし、和解で終わった事件も多く、その中には事実上の原告勝訴も多数あるので、和解も含めて考えた場合の実質
的な原告敗訴率はそれほど高くはない。清水節「統計的数字等に基づく東京地裁知財部の実状について」判例タイムズ
1324 号(2010)52 頁以下によると、和解を含めた実質的な原告勝訴率は約 5 割である。
20
なお、特許無効のみを理由として原告が敗訴する事件が原告敗訴事件総数に占める割合は平均で 35%である。差分の
11%は、「特許無効かつ非侵害」を理由とする原告敗訴事件の割合である。
21
パテント 65 巻 9 号(2012)92 頁〔奥山発言〕、同 93 頁〔古城発言〕。
- 63 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
【図表-6】 特許権侵害訴訟(地裁)における無効の抗弁の利用率等の推移
第
三
章
しかし、いずれにせよ、イノベーションの観点からいえば、真に憂慮すべき問題は訴訟件数の減少
ではなく、特許発明の実施の減少である。企業が発明の実施をする誘因には様々なものがあり、特許
が全てではもちろんないが(特許がなくても必要があれば発明を実施するが)、少なくとも特許は誘
因の 1 つである。特許があれば二番手の参入を一定の期間抑えることができるという期待感が生じる
からである。したがって、イノベーションの促進のためには、特許の安定性をできるかぎり高めるこ
とが必要であり、そのためには、まず、特許庁がサーチ(先行技術調査)及び審査・審判を充実し、
一旦特許になったものが裁判において簡単に覆らないようにすることが必要である。
その上で侵害裁判所に求められることは、特許有効性の判断において、特許庁の専門家のなした審
決を極力尊重するということである。キルビー判決も 104 条の 3 も特許無効審判の審理に時間がか
かっていた時代の例外的措置とみるべきであって、特許無効審判の審理期間も、審決取消訴訟の審理
期間も、格段に短くなっている現在にあっては22、司法と行政の権限分掌の原則に戻り、裁判所は、特
段の事情がないかぎり、審決を待って判断をするというのが筋であろう。
さらに政策論又は立法論として検討の余地があると考えられることは、特許を無効にする第三者の
権利を内容的又は時期的に一部制限することの当否である。このことについては異論もあるかと思わ
れるが、権利者が自己の特許を有効と信じて一定の資本を投下し、発明の実施を通じて社会に貢献し
ていると認められる場合にあっては、権利者を長期にわたって特許無効の危機にさらすことによって
失われるかもしれない公益を考慮に入れ、第三者の特許無効化の権利を一部制限することも特許制度
の目的に反しないのではないかというのが私見である23。
22
特許無効審判の審理期間は、キルビー事件最高裁判決当時の 2000 年に平均 15 か月であったのに対し、2013 年は平均
6 か月にまで短縮されている。審決取消訴訟の審理期間は、約 12 か月から約 8 か月に短縮している。
23
拙稿「イノベーションの観点から最近の特許権侵害訴訟について考える」RIETI ウェブ(2008)。知的財産研究所に
よる調査研究として、平成 25 年度特許庁産業財産権制度問題調査研究報告書「侵害訴訟等における特許の安定性に資す
る特許制度・運用に関する調査研究報告書」知的財産研究所(2013 年 2 月)。
- 64 -
(2)特許審査の迅速化
(ⅰ)任期付審査官の採用とその効果
個々の出願人の立場からいえば、特許審査は必ずしも迅速である必要はなく、「ペンディング」状
態を続けた方がライバル企業を牽制する上ではかえって好都合な場合もあろう。しかし、全ての企業
が「ペンディング戦略」(「遅延戦略」)をとることになると、国全体のイノベーションが遅れるお
それがある。したがって、やはり全体として特許審査は迅速に行われなくてはならない。特許の帰趨
を出願人本人及び第三者に早く明らかにすることがスピード感のある企業経営への転換を促す点にお
いて政策的に合理的であると考えられる。
知的財産推進計画が始まった 2003 年当時、特許庁は 50 万件の「審査待ち案件」を抱え、「審査待
ち期間」(審査請求からファーストアクションまでの期間:「FA 期間」)は平均 25 か月であった。特
許庁は当時、「このままでは 2008 年に 40 か月、2013 年に 60 か月に達する」と予測し、これを避けて
2013 年に FA 期間を 1 年未満にするには、審査官を「10 年で 300 名増員し、合計 1400 名にする必要が
ある」24と試算し、増員を要求した。
一方、国家公務員の定員については、2003 年当時、「行政機関の定員に関する法律」による第 10 次
削減計画(2001-05)に基づいて各省庁が削減の努力をしており、財政当局としては、特許庁のみを特
別扱いすることはできないというのが原則的立場であった。
この問題は、従来のように特許庁と財政当局の間で協議をしただけではおそらく解決できなかった
のではないかと思われるが、実際には内閣総理大臣を本部長とする知的財産戦略本部のイニシアティ
ブによって特別の例外的増員が認められた。ただし、滞貨の問題は「一過性」であることから、採用
する審査官の任期は 5 年(1 回の更新が可能であるから通算 10 年)に限られた。こうして 2004 年から
2008 年までの 5 年間に毎年約 100 名(合計約 500 名)の増員が実現した。かかる特別の人員的措置に
より、「2013 年度末で審査待ち期間 11 か月」という当初の目標(FA11)はほぼ達成された。
本来であれば、任期付審査官は、5 年又は 1 回更新して 10 年の任期を終えた後は、弁理士等の「知
的財産専門人材」として社会で活躍してもらうということになっていたのであるが、特許庁には FA11
の目標達成後も「世界最速・最高品質の特許審査」という新たな目標の達成が期待されており25、この
新目標達成のために任期付審査官のうちの相当数が引き続き特許庁で活躍することになったようであ
る。
それはさておき、任期付審査官の採用により出願審査処理件数が増加し、それに伴って特許登録件
数が増加している(図表-7)。特に最近は特許査定率も上昇し、そのため特許登録件数が加速的に増
加している。特許査定率の上昇の理由については詳細な調査が必要であるが、考えられることは、第 1
に、出願人による事前の先行技術文献調査の励行、第 2 に、前述の知財高裁の進歩性判断の変化の影
響ではないかと思われる。いずれにせよ、日本における特許査定率が米国における特許率を上回るよ
うになったことは、出願人の対米国出願戦略に大きな影響を与えるはずである。米国その他の外国に
おいて効率よく特許を取得するために日本の審査結果が戦略的に活用されることが望まれる。
24
特許庁「特許戦略計画」(2003)。
「『日本再興戦略』改訂 2014」(平成 26 年 6 月 24 日 閣議決定)「第二.一.3.(3)ii)②国際的に遜色ない
スピード・質の高い審査の実現」59 頁。
25
- 65 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
【図表-7】特許登録件数及び特許査定率の推移(日米比較)
第
三
章
(ⅱ)特許出願件数の減少
特許登録件数の伸びとは対照的に、特許出願件数は 2003 年から 2013 年までの間に約 41 万件から約
33 万件へ約 20%減少している(図表-8)。その理由としては、(互いに重なる部分もあるが)、第 1
に、出願人による事前のサーチが適切に行われるようになり、特許性の低い発明は特許出願を控える
ようになったこと、第 2 に、特許出願に代えてノウハウ保護を選択するケースが増えてきたこと、第 3
に、日本企業が外国への出願を増やし、その分、国内出願の数を絞ったこと、第 4 に、リーマン
ショック(2008 年 9 月)の影響により、2009 年以降の研究開発費が抑制されるようになったことなど
が考えられる。
図表-8 から分かるように、2003 年から 2007 年まで、研究開発費が増加している間も特許出願件数
が減少しているので、最近の特許出願の減少は、主に上記の第 1 から第 3 までの理由によるものでは
ないかと推定される。そうであれば、これは「特許戦略の最適化」と捉えることもできるので、深刻
に考える必要はないかもしれないが、それでも研究開発投資が低迷していることは注意をもって受け
止めておく必要があるように思われる。
民間部門の研究開発投資を促すには税制改革を含む政府全体の取り組みが必要であるが、とりあえ
ず、ここでは研究開発と特許発明の実施を促すために特許庁がなしうることについて考えてみると、
それは、企業にとって魅力ある特許を付与することであろうと思われる。言い換えれば、企業にとっ
て活用可能性の高い特許を付与することである。そのような特許の付与によって研究開発の成果の専
有可能性を高めることが新たな研究開発のインセンティブになり、ひいてはイノベーションの推進に
寄与することになると考える。
- 66 -
【図表-8】研究開発費と特許出願件数の変化
第
三
章
(ⅲ)ポスト FA11 の特許審査の課題
特許登録件数の増加は権利者にとっては無形資産の増加である。これを企業価値の増大に結びつけ
るためには、もっているだけでは意味がなく、事業戦略や標準化戦略も考慮に入れた特許の活用が必
要である。このことはこれまでにもたびたび指摘されてきたところであるが26、特許審査の迅速化が進
むにつれ、企業の特許活用戦略の真価がますますきびしく問われることになる。
しかし、「審査は早くなった。特許になる割合も高くなった。その特許をどう活用するか、あとは
企業の責任です。」では、国として十分な対応であるとは言えない。企業による特許の活用を後押し
するために国がなすべきことはまだあるはずである。
例えば、第 1 に、特許の安定化である。特許権者が自己の特許の有効性に不安を抱くようでは発明
の実施にブレーキがかかるおそれがある。イノベーション推進のためには特許の安定化が必要であ
り、そのためには、特許庁においてサーチ・審査・審判の充実を図ることが必要である。その上で前
述のように裁判所の手続にも見直しの余地はある。
第 2 に、特許の経済的価値を高めることである。具体的には、損害賠償額の適正化である。侵害訴
訟において勝訴した原告(特許権者)に対するアンケート調査27によれば、特許法第 102 条 1 項の適用
に関し、「損害賠償額が実際に見合ったものとなっているか」という問に対し、大企業・中小企業を
含む全体では「見合っている」と「下回っている」が半々であるが、中小企業の回答では「下回って
いる」とするもののほうが多い。いずれにせよ、この問題はそう単純ではなく、損害賠償額の単なる
引上げは、パテントトロールに不当な利益を与え、モノづくり産業に深刻な打撃を与えるおそれもあ
る。したがって、権利の保護と制限の適正なバランスが重要である。私見では、中小企業・ベン
チャー企業によるイノベーションを支援する観点から、パテントトロール対策の必要性にも十分配慮
しながら、損害賠償額の認定のバランスを多少権利者寄りにシフトすることが政策的に合理的ではな
26
例えば、知的財産戦略本部による「第 3 期知的財産戦略の基本方針」(2009 年 4 月)は、「総じて、我が国は知的財
産を経済的価値の創出に効果的に結び付けられていないおそれがある」(3 頁)と指摘し、また 2013 年度の知的財産推
進計画も「戦略的活用において他国に後れをとっていると言わざるを得ない」(1 頁)と指摘している。
27
平成 17 年度特許庁産業財産権制度問題調査研究報告書「産業財産権紛争を巡る現状に関する調査研究報告書」知的
財産研究所(2006 年 3 月)第 11 頁。
- 67 -
第3章
研究内容の報告
いかと考える。
第 3 に、グローバルな特許の取得活動の支援である。日本の審査が早くなっていること、特許査定
率が高くなっていることを利用して、日本の審査結果に基づき外国で早く確実に特許を取ることがで
きるしくみ(特許審査ハイウェイ(PPH))を拡充することが望まれる。インターネットや自動翻訳技
術によって一国の情報が瞬時に世界に広がる時代にあって、「一件一国一特許」という古典的特許制
度は特許権者にとって不利になっている。特許は公開の代償という原則に照らし、「一件で世界で特
許」を今後の国際特許政策の基本に据えるべきである。
(3)大学等の特許活動の振興
第
三
章
(ⅰ)大学等をめぐる制度改革
1994 年に日本特許庁が受理した特許出願総数約 35 万件のうち、日本の大学からの出願は僅か 124 件
28
であった。大学は教育と基礎研究を使命とする組織であるから、特許出願が少ないのも当然と当時は
考えられていたが、1996 年から科学技術基本計画に基づき、多額の資金が大学等に投入されるように
なって、その成果の社会的還元の観点から、大学等の特許活動への期待と関心が高まってきた。
このような状況の中で、1998 年 8 月、大学等の研究成果の民間移転を促進することを目的とする
「大学等技術移転促進法」(TLO 法)が施行され、また 1999 年 10 月には政府資金による委託研究開発
から生まれた特許権等を民間企業や大学等に帰属させることを可能にする「日本版バイドール条項」
(平成 19 年改正産業技術力強化法第 19 条)の適用も始まった。これらの一連の措置によって、大学
等からの特許出願が増え始め、2003 年には 2,000 件を超えるまでになった。
【図表-9】大学等における特許活動の推移
28
「21 世紀の知的財産権を考える懇談会報告書」(1997 年 4 月)第 20 頁。
- 68 -
しかし、当時はまだ国立大学の教員の発明について特許を受ける権利は国又は発明者個人に帰属す
ることになっていたため、大学による組織的な対応には限界があった。しかし、その後、2004 年 4
月、国立大学の法人化を機に、特許を受ける権利の機関帰属(法人帰属)への移行が進み、これに
伴って知的財産本部の整備や産学連携のルールの制定も進んだため、2004 年の大学発特許出願件数は
一気に増加し、前年比 2.5 倍増の約 6,000 件に達した。翌年の 2005 年には 8,000 件を超え、2006 年以
降は約 9,000 件前後で推移している(図表-9)。
(ⅱ)基本目的の再確認と活動目標のレベルアップ
大学等における実施許諾等収入は最近増加傾向にある(図表-9 の折れ線グラフ)が、過去 11 年間の
平均は約 10 億円であり、これを過去 11 年間の平均特許出願件数約 8,000 件で単純に(出願から実施
料等収入までの時間差は考慮せず)割ると、1 年間の1特許出願あたりの実施許諾等収入は約 13 万円
にとどまっているので、おそらく多くの大学等において特許活動の収支は赤字であろう。
しかし、大学等が特許活動をするのは収入のためではないはずである。大学等で生まれる発明は事
業化までに長い期間を要するハイリスクの発明が多い。そういう発明は特許がなければ実施が進まな
い。大学等が特許活動をする主な目的は、そのような発明について特許を取る(そしてその特許を企
業に渡す)ことにより、特許発明の社会的実施を進めることにある(このことを裏からいえば、特許
がなくても実施が進むようなローリスクの発明は、特許を取る合理性・必要性が低いということにな
る)。そのような目的のかぎりにおいて、大学等が特許を取ることは、権利というより、社会的義務
であり、そうであるからこそ、税金を使用して研究した成果であっても、大学等がそれを自己の財産
として活用することが正当化されるのである。
もっとも、大学等による特許活動の正当化根拠に関する上記説明は 1 つの見解であって、異なる説
明もありえるかもしれない。例えば、特許活動はそれ自体教育であるという説明は筆者も非常に共感
を覚えるし、また大学等が特許を取らなければ他者が特許を取って囲い込みをすることが懸念される
ので大学等が特許を取って無差別にライセンスをするのだという説明も一理あるように思われる。い
ずれにせよ、各大学等は自分たちの特許活動の目的について再検討し、学内で意識を共有しておくべ
きである。
いうまでもないが、大学の本来の使命は教育と研究である。研究成果の社会的活用は第三の使命で
ある。大学等特許活動は、大学等の本来的使命からして、シーズ先行型が基本であるべきである。し
かし、そうであったとしても、研究成果の社会的活用を真に進めるためには、特許活動の目標を「研
究成果に基づいて特許を取る」から「特許を活用してイノベーションを起こす」へレベルアップする
ことが必要であり、さらにそのためには、研究のより「川上」の段階から企業と連携して社会的ニー
ズを探索し、研究成果をより効果的にイノベーションに結びつけることができるような学内体制(例
えば、「知財の目」をもつ人材の学内配置)を組織一丸となって構築することが望まれる。そのこと
は大学等の本来的使命の遂行を支援することこそあれ、損なうことはないはずである。
産学連携が盛んな米国でさえ、大学等の特許活動が本格するまでには相当の時間がかかっている。
日本でもようやく学内組織が整ってきた段階である。いよいよこれから、学内組織が機能し始め、大
学等の研究成果の社会的活用が進んでいくものと期待している。
- 69 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
5.おわりに
2003 年以来の知的財産推進計画の最大の成果を1つ挙げるとすれば、私見では、省庁横断的問題を
一元的に解決するしくみ(知的財産戦略本部による政策調整メカニズム)ができたことである。逆に
問題点は、そのしくみができたにもかかわらず、依然として縦割り行政の壁があるために、知的財産
戦略本部の各省への統率力が十分貫徹し得なかったことである。したがって、今後の課題の1つは、
知的財産戦略本部の「司令塔的機能」の強化である。
知的財産戦略本部に「司令塔的機能」が求められる局面は様々あるが、その1つは、イノベーショ
ンの促進である。イノベーションの促進のためには、知的財産に関連する施策のみならず、規制緩
和、金融、税制、政府調達など広範な施策を一体的に進める必要がある。知的財産戦略本部は、イノ
第
三
章
ベーション促進に資する施策全般を府省に一体的に実行せしめる法的権限と実務能力を備えるべきで
ある。
また、知的財産戦略本部に「司令塔的機能」が求められるもう1つの局面は、多元的価値に関する
国際知的財産問題への対処である。例えば、「公衆衛生と特許」、「遺伝資源へのアクセスと利益配
分」、「生命倫理と特許」のような価値多元的問題について、各省庁の垣根(個別省庁の政策目標)
を超えた大局的観点から、日本としての最適解が追求されるべきである。
プロパテント又は知的財産立国は、決して一時のスローガンではなく、1980 年代から続くグローバ
ル化と技術革新の必然的帰結である。今後とも知的財産重視政策は継続されるべきである。プロパテ
ント化に伴う特許の濫用のおそれについては、一律に弱い権利を付与する方向で制度を改めることに
よってそのおそれに対処するのではなくて、原則としてこれまでの方向性を維持しつつ、その上で
個々の問題については侵害訴訟を通じた事後的調整(競争政策的考慮)によって対処することが政策
的に合理的であると考える29。
2000 年前後の時期に比べると、最近は企業・国民の知的財産への関心が下がっているようにも思わ
れるが、実際にはグローバルな知識経済化が進む中、知的財産の重要性はむしろ高まっている。国内
の権利保護を中心とする最初の 10 年の計画の成果を土台として、グローバルなイノベーションの実現
を新たな目標とする次の 10 年の計画が知的財産戦略本部の強いリーダーシップの下に加速的に進めら
れるべきである30。
以上
29
事後の競争政策的措置の多様化・明確化について、拙稿「先端技術の特許保護」日本工業所有権法学会年報 30 号
(2006)99‐100 頁。
30
2013 年 6 月に次の 10 年を見据えた「知的財産政策ビジョン」が知的財産戦略本部により決定され、そのうち特に長
期的方針に係る部分が「知的財産政策に関する基本方針」として閣議決定されている。このようなビジョンや方針が各
府省によって個別最適的ではなく、全体最適的に実施されることが望まれる。
- 70 -
Ⅳ.国際知的財産保護のグローバル化とローカル化の趨勢に関する研究
中南財経政法大学 知識産権研究センター
熊 琦
副教授
1.問題の提起
歴史の流れを見ると、国際知的財産保護制度はローカル化からグローバル化へ、その後、再度グ
ローバル化からローカル化へ戻るプロセスをたどった。このプロセスは、一見反復しているように見
えるが、前後 2 つのローカル化の趨勢は異なる社会的背景の下で生じており、決して単純な繰り返し
ではない。国際知的財産保護制度の起源は、第 1 に二国間で知的財産保護に関する協定を締結し、相
手国の知的財産の保護を取り決めたことにあり、それが知的財産保護のローカル化の起点となった。
19 世紀末期、1883 年のパリ条約と 1886 年のベルヌ条約により、知的財産保護が多国間条約の時代に
入り、国際的保護が、これらによって次第に形成されていった。知的財産保護のグローバル化の主な
成果は、「内国民待遇(National Treatment)」の原則を、締結国の知的財産保護の基本原則の 1 つ
としたことである。「内国民待遇」の原則は、自国国民の利益保護に偏った、従来の知的財産の初志
を根底から変えた。その優位性は、国際条約の最低基準を満たすという前提で、一国が自国の法律を
自主的に整備し、実施することを許可したことにある 1 。20 世紀末期における WTO(World Trade
Organization;世界貿易機関)の設立と「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS 協定)」
の形成は、国際的に高水準の知的財産保護基準の実現を表すものである。「TRIPS 協定」が WTO 管轄下
に置かれ、「WTO 加盟」の必須条件の 1 つとなったことで、国際知的財産保護制度の適用範囲が大幅に
拡張された。有効な実施監督体制の構築に伴い、「TRIPS 協定」の各締結国における実施が保証され
た。しかし、21 世紀に入って、知的財産保護のグローバル化は停滞期に入り、WTO の枠組みにおける
知的財産交渉が長期にわたるこう着状態に陥り、すでに長年実施的な進展が見られていない。また、
世界金融危機を経験した後、先進国は経済成長と国際貿易の主要な原動力として知識経済にますます
依存するようになったため、国際知的財産保護の基準と実施においてより高い要求を課す必要が生
じ、依然として経済成長を従来の製造業、加工業に多くを頼る発展途上国との間で共通認識が得られ
にくくもなった。こうして、21 世紀における国際知的財産保護はグローバル化から再びローカル化の
時代に入った。米国主導の「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)」、「偽造品の取引の防止に関する
協定(ACTA)」、「環大西洋貿易投資協定(TTIP)」をはじめ、知的財産保護は多国間協定のグロー
バル化の時代から再び多国間・近隣諸国間のローカル化の時代に入り、国際知的財産保護制度の先行
きは再び不透明なものへと変わった。
中国の国際知的財産保護制度をめぐる既存の研究は、ほぼ次の方面に集中しているといえる。第 1
に、国際知的財産保護制度の基本原則、時期区分といった基本的な問題で、第 2 に、知的財産に関す
●
法学博士。中南財経政法大学知識産権研究センター助教授、国家版権局国際版権研究基地研究員、騰訊(QQ.com)イ
ンターネット法律専門家委員会委員。
1
See Lionel Bently & Brad Sherman, Intellectual Property Law, Oxford University Press. 5(2001).
- 71 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
る発効済みの国際条約の組織構造、構成員資格、意思決定制度である2。全体的に、研究の範囲が国際
知的財産保護制度の静態的研究、すでに形作られた制度と枠組みに対する認識に留まっており、21 世
紀以降のグローバル化からローカル化への転換に関する研究の成果はまだそれほど多く見られていな
い。ローカル化からグローバル化へ、再びグローバル化からローカル化へという 2 つの段階において
世界の知的財産保護をめぐる問題を読み解くことで、それ以前の単純なローカル化からグローバル化
への変遷に焦点を当てた研究とは違った結論が得られるであろう。
2.ローカル化からグローバル化へ:国際知的財産保護制度形成
他の法制度と同じように、知的財産法も一国の内部の需要から生まれた。ヴェネツィアの独占法に
第
三
章
せよ、イギリスのアン女王法にせよ、いずれも自国産業の発展の需要に対してなされた対応であり、
自国の経済モデルと産業発展の違いにより、知的財産法を構成する著作権法、専利法、商標法は国に
よって異なる時期に生まれた。19 世紀に入った後、産業革命の影響が深まり、欧州諸国の面積、人口
の要因により、国際貿易が欧州諸国の経済成長の主要な原動力となった。一国の文化や科学技術の分
野における創造活動の成果が、他国で保護されるようになり、自国の貿易の収益源を保証する重要な
議題となり、ローカル化された知的財産保護が出現し始めた。1828 年、デンマークは、他国との互恵
条件に基づき、外国作品を保護する指令を発したほか、1827 年から 1829 年の間、プロイセン王国とド
イツのその他の州は 32 項目の二国間条約を締結した。その後、フランスやイギリスなども著作権保護
をめぐる多くの二国間条約を締結した。19 世紀末期になると、欧州の主要国の間で、二国間条約を特
徴とする地域間の著作権保護体制が構築された3。著作権制度と同じく、専利制度や商標制度も同じ時
期に、二国間条約の時代に突入し始めた。1883 年の 1 年間だけでも、商業契約、領事契約、宣言、特
殊手配を含めた 69 もの二国間条約が可決された4。
しかし、二国間条約をベースとする地域間の知的財産保護は、その安定性の欠如により非難を浴び
た。条約の撤回や協定の再締結となった場合、知的財産保護に深刻な影響が及ぶためである5。この点
から、各国は、より効率的な多国間の国際条約締結を模索し始め、最終的に「パリ条約」と「ベルヌ
条約」が締結された。1967 年 7 月 14 日にストックホルムで署名された「世界知的所有権機関を設立す
る条約」により、WIPO(World Intellectual Property Organization;世界知的所有権機関)の設立
が宣言された。これは、知的財産保護はローカル化からグローバル化の段階へと入ったことを表す。
WIPO の設立が、国際知的財産保護の成熟化を意味するとはいえ、WIPO 体制下の知的財産保護の度合い
は限られており、とりわけ拘束力に劣るものであった。WIPO の最も重要な条約である「パリ条約」、
「ベルヌ条約」は共に外国国内の原告に対する平等な待遇を求めたものの、それらの基準及び救済の
2
中国のこの分野における優れた代表的な研究成果は次のとおり。呉漢東『知的財産権総論』中国人民大学出版社
(2014 年)、余盛峰「知的財産権のグローバル化:現代の転向と法理の反省」、政法論壇、2014 年第 6 期、何雋「グ
ローバル化時代の知的財産権制度の行方:同質化、差異、融通」比較法研究、2013 年第 6 期、熊琦、王太平共著「国際
知的財産保護における民間団体の役割」法学、2008 年第 4 期、唐広良、董炳和共著『国際知的財産保護』(改訂版、第
2 版)知的財産権出版社(2007 年)、古祖雪『国際知的財産権』法律出版社(2002 年)、張乃根『国際貿易の知的財産
権法』復旦大学出版社(1999 年)、鄭成思『GATT と WTO における知的財産権法』中国人民大学出版社(1994 年)。
3
Peter K. Yu, Currents and Crosscurrents in the International Intellectual Property Regime, 38 Loy. L.A.
L. Rev. 333-339(2004).
4
Id. at 343-348.
5
Id. at 335.
- 72 -
面において大きく異なった。「パリ条約」では構成員に対して特許保護の実質基準を必ず順守するこ
とが掲げられていない。「ベルヌ条約」では保護の最低基準は設けられたが、権利の法的救済を実現
するために権利侵害に対抗する明確な著作権者が定められていない。パリ条約に類似して、その後の
WIPO 条約、その改正版では、いずれも最低保護基準が設けられていない。そのため、WIPO は知的財産
保護に向けた国際的団結の推進に努めたとはいえ、1980 年代中盤に実現した知的財産保護の国際統一
は限られたものであった6。さらに重要な点は、「ベルヌ条約」と「パリ条約」は作者と発明者に大変
重要な保護手段を提供したものの、保護のための有効な実行手順が提示されておらず、唯一、締結国
は国際司法裁判所に提訴することができるという、選択的な紛争解決メカニズムがあるが、実際には
この方法を選択する国は、ほとんどない。実質的な、強制的な執行の欠如により、2 つの条約は有効な
紛争解決の手段を提供できていない7。立法体制において、「世界知的所有権機関を設立する条約」第
4 条では、WIPO の権限は基本的に知的財産業務のみで、その他の業務に及ぶものではないと定められ
ている。そのため、交渉人は交渉中によく利用する交渉レバレッジを利用できない。また、「世界知
的所有権機関を設立する条約」第 6 条と第 7 条では、WIPO の大会と加盟国会議は、「一国一票制によ
る多数決制」の意思決定メカニズムを採用すると定められているため、意思決定における大国の影響
力が目立たず、国際知的財産保護ルール制定における 1 つの国の交渉の作用による影響力を制限して
しまう。
WIPO の設立は、知的財産保護のローカル化からグローバル化への変化を代表しているものの、その
グローバル化は有名無実である。WIPO は強制執行力を持たないため、各国の知的財産保護基準の統合
の実現が困難である。また、国際貿易における知的財産の比重もますます大きくなった。1990 年末に
なると、米国では対外輸出の 50%近くが、特定形式における知的財産保護なしには実現不可能となっ
た8。そのため、米国を代表とする先進国は、知的財産と国際貿易を結びつけ、WTO の枠組みの下での
「TRIPS 協定」が形成された。
WIPO とは異なり、TRIPS 協定における国際知的財産保護には、様々な新しい特徴がみられる。第 1
に、貿易と知的財産問題との関連づけで、TRIPS 協定における国際知的財産保護交渉と貿易その他の問
題とを関連付けることにより、交渉人は貿易のレバレッジを利用し、広範囲で合意に達することがで
きる。第 2 に、最恵国待遇原則を導入して、国際知的財産保護の水準の向上を推進した。TRIPS 協定
は、世界で初めて最恵国待遇原則が導入された知的財産に関する国際条約で、国際知的財産保護制度
に極めて大きな影響を及ぼし、その影響は主に国際知的財産保護の度合いの継続的上昇という点で裏
付けられている。第 3 に、最低保護水準が規定されたことにより、それまで最低保護基準が設けられ
ていなかった工業の知的財産保護に最低保護基準が設けられ、特許に関する保護が、ほぼ全ての客体
に拡張された。また、最短 20 年の保護期間が設けられ、著作権保護の客体の範囲についても明確な線
引きがなされた。第 4 に、効果的な執行メカニズムの規定で、加盟国に対して十分に有効な内部及び
境界の執行メカニズムを提供することを要求し、さらに、知的財産の権利侵害にかかる民事上、刑事
上の懲罰が国内法において規定された。第 5 に、効果的な紛争解決メカニズムが構築され、WTO の紛争
解決メカニズムを TRIPS 協定が起因となった衝突に適用し、WTO 紛争解決機構の裁決を順守していない
6
L. Danielle Tully, Prospects for Progress: The TRIPS Agreement and Developing Countries after the DOHA
Conference, 26 B.C. Int'l & Comp. L. Rev. 132(2003).
7
Yu, supra note 3, at 354-355.
8
李明徳著『“スーパー301 条”と中米知的財産権紛争』社会科学文献出版社、98 頁(2000 年)。
- 73 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
国に対しては、クロス・リタリエーション(cross-retaliation)の発動を定めることで、以前には実
施が困難であった国際知的財産法に実施可能性が備わった。学者は TRIPS 協定を、国際知的財産保護
のために「WTO 紛争解決メカニズムの歯[効力のある執行手段]を差し込んだ」と喩えている9。
3.グローバル化からローカル化へ:国際知的財産保護制度の体制転換の原因
TRIPS 体制の形成は、WIPO 体制の強制力と執行力を超え、国際分野の知識経済の成長に貴重な貢献
を果たした。しかし、TRIPS 体制も知的財産の分野でそれ自体では克服が困難な多くの負の効果をもた
らした10。事実、知的財産と貿易との関連付けは特に非難すべきことではなく、経済成長の視点で知的
財産産業を見ることも必要であるし、つまるところ、知的財産権の客体がどれだけ特別な価値と関係
第
三
章
があろうと、知識経済と産業の繁栄を前提としなければならない。したがって、経済成長の視点で国
際知的財産体制の発展を見ることの弊害は、知的財産権と貿易を関連付けることにあるのでなく、知
的財産保護の範囲と水準が、一国の実情から離れてしまうことにある。TRIPS 協定の負の効果は主とし
て次の面に表れている。
第 1 に、発展途上国の文化的遺伝子の知的財産制度に対する排斥性を過小評価している点である。
知的財産という概念は、主に欧米の文化と政治的伝統から生まれた11 。欧米諸国の発展の過程におい
て、知的財産保護は中世における著作権制度を起源とし、18 世紀の啓蒙運動の中で形づくられ、この
期間において、知的財産は経済成長を促進させる道具として理解され始めた12。知的財産に対するこの
ような位置づけは今日まで続いており、欧米諸国の知的財産についての共通認識となっている。逆
に、非欧米諸国における知的財産の歴史はそれとは全く異なっている。中国をはじめとする発展途上
国においては、知識特権から知的財産権への転換が完了していない国もある。また、知識は神の言葉
であり、富の創造でない、とみなす国もある13。しかし、TRIPS 体制における知的財産は、完全に欧米
社会のコンテクストの中で創造されたため、発展途上国は、その文化的認識において知的財産に対
し、常に受動的に受け入れる地位にあり、このことが、知的財産のグローバル化を推進する上でコス
トを引き上げている。さらに、学者の中には、文化的な阻害と隔絶という点から、国際知的財産体制
は東アジアにおいて効果的に推進することができないとの見方もある14。
第 2 に、知的財産保護の対象は、先進国が核となる分野を持つ比較優位産業と結びついている一方
で、経済成長と直接的な関係が乏しい知的財産が不足している。TRIPS 体制が経済成長と直接関係のあ
る知的財産に高水準の保護を提供する一方で、その明らかな傾向性により特定分野の知的財産保護が
●
9
Tuan N. Samahon, TRIPS Copyright Dispute Settlement After the Transition and Moratorium: Nonviolation and
Situation Complaints Against Developing Countries, 31 Law &Pol'y Int'l Bus. 1055(2000).
10
発展途上国の知的財産に対する不満は TRIPS 協定以前にも存在していた。TRIPS 協定後、その不満が高まったにすぎ
ない。Tully, supra note 6, at 139 参照。
11
See Colin Darch, Digital Divide or Unequal Exchange? How the Northern Intellectual Property Rights
Regime Threatens the South, 32 Int’l J. Legal. Info. 488(2004).
12
Daniel J. Gervais, Traditional Knowledge & Intellectual Property: A Trips-Compatible Approach, 56 Mich.
St. L. Rev. 137 (2005).
13
See William P. Alford, To Steal a Book is an Elegant Offense: Intellectual Property Law in Chinese
Civilization, Stanford University Press 9(1995).
14
Ronald Charles Wolf, Trade, AID, and Arbitrate: The Globalization of Western Law, Gower House 20(2003).
- 74 -
手薄になっている15。この経済成長と直接的な関係が乏しい知的財産の不足は、伝統的知識に対する保
護に体現されている。非典型的知的財産のタイプとして、伝統的知識は「特定の民族集団が継承する
伝統的な文化と芸術を含む製品」と定義できる16。伝統的知識は農業、医薬品、民間文芸などの分野に
及ぶが、TRIPS 体制において伝統的知識は一角を占めていない。まず、TRIPS 体制において、知的財産
には、通常保護期間があるが、保護期間を算出できない伝統的知識は、TRIPS 体制内で、公共領域に帰
属させられる。次に、伝統的知識の権利の主体が不明であるため、TRIPS 体制はその権利の帰属を明文
化できない。最後に、伝統的知識を保護する大きな目的は、その中から収益を得るためでなく、その
純粋性を保護し、過度の商品化がもたらし得る破壊を防止するためである17 。こうした純粋性の保護
は、明らかに TRIPS 体制が追求する経済成長とは逆方向に向かうものである。
第 3 に、人権に関わる知的財産の問題において過度に厳格である。TRIPS 協定において、多くの公衆
衛生に関わる知的財産の問題は、その他の国際条約において規定された人権と密接にかかわってい
る。「健康権(right to health)」は多くの国際人権規約において触れられている。例えば、「世界
人権宣言」第 25 条では、「すべて人は、……自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持す
る権利を有する……」と定められている。「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」第 12
条(1)項でも「到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を享受する権利」が定められている。上述
の条項は、公衆衛生に関して、人権は特定の状況下で、知的財産保護よりも優先されるべきであると
いうことを意味している。しかし、TRIPS 体制において特許の強制実施権の適用は極めて厳格な条件が
必要であるため、多くの発展途上国は公衆衛生用薬を利用できない。とりわけ、流行病が深刻な国に
ついては、高額な特許取得費用を負担できないため、自国の公衆衛生の危機を解決できないままでい
る18。
以上の情況から、発展途上国と先進国はいずれも不満に陥り、これによって自国の知的財産戦略の
発展ルートを追求、選択した。
先ず、発展途上国の選択を見ると、発展途上国は既存の TRIPS 体制から脱却できないという前提に
おいて、TRIPS 体制の外に解決への道を求め始めた。このような取り組みを「レジーム・シフティング
(regime shifting)」、すなわち、発展途上国が条約協定、立法改革などの方法を通じて国際制度体
制を転換しようとしていると考える学者もいる19。レジーム・シフティングは、発展途上国が TRIPS 体
制下の規制から脱却して別の枠組みをつくり、自国にとって有利なルール体系を形成することが狙い
で、既存のプロセスから判断すると、発展途上国は、国際知的財産保護制度を、従来の WIPO、TRIPS
体制から生物多様性、遺伝資源、公衆衛生と人権などの方面に転換する試みをしている。国際知的財
産保護制度は、TRIPS 協定と従来の WIPO 体制内での発展を続ける以外に、発展途上国の推進の下で、
「生物多様性条約(CBD)」、国際連合食糧農業機関の食料及び農業のための遺伝資源に関する委員
15
See Graeme B. Dinwoodie& Rochelle C. Dreyfuss, Designing A Global Intellectual Property System
Responsive to Change: The WTO, WIPO, And Beyond, 46 Hous. L. Rev. 1189-1190(2009).
16
Daniel J. Gervais, The TRIPS Agreement: Drafting History and Analysis (2nd ed.), Sweet & Maxwell
58(2003).
17
Id. at 60.
18
See Bryan C. Mercurio, TRIPS, Patents and Access to Life-Saving Drugs in The Developing World, 8 Marq.
Intell. Prop. L. Rev. 211-212(2004).
19
Laurence R. Helfer, Regime Shifting: The TRIPS Agreement and New Dynamics of International Intellectual
Property Lawmaking, 29 Yale J. Int’l L. 1 12(2004).
- 75 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
会、世界保健機関(WHO)、国際連合人権関連機構の枠組み内で徐々に別の展開を開始した20。知的財
産のグローバル化がポスト TRIPS 時代に突入したといえる。ポスト TRIPS 時代における知的財産のグ
ローバル化は、次の点で WIPO 体制とも TRIPS 体制とも異なる。第 1 に、TRIPS 協定は国際知的財産保
護制度にとって、依然として主導的地位にある。発展途上国の生物多様性、食料及び農業にかかる遺
伝資源、公衆衛生、人権などの分野における取り組みは、発展途上国が、その国内法において TRIPS
協定の基準を徹底する義務を変えられないばかりか、こうしたレジーム・シフティングを、TRIPS 協定
を非難するといった裏の方法とすることもできない。逆に、発展途上国が、TRIPS 協定において求めら
れた知的財産保護のルールを受け入れていない場合、今なお WTO の紛争解決手続きと貿易制裁の危険
にさらされている21。第 2 に、生物多様性、食料及び農業にかかる遺伝資源、公衆衛生、人権などの分
野での発展途上国の努力は、TRIPS 協定を公平で適切な方向に導く上でプラスとなる。発展途上国の、
第
三
章
こうした努力が「国際関係の学者が称する『反体制基準』が生じ得た結果であり、それらを WTO と
WIPO に組み入れることで、TRIPS 協定を直接破壊することなく、間接的に利用されるものとなり得
る」22からである。第 3 に、ポスト TRIPS 時代における国際知的財産保護制度の多くはソフト・ローの
形式で存在する。それは、発展途上国が TRIPS 協定の強行規定に直接違反できず、ソフト・ローの規
則を通じて TRIPS 協定を軟化させるしかないからであり、結果として TRIPS 協定の解釈、ひいては改
正に影響を与えることになる。総じていうと、TRIPS 協定が知的財産のグローバル化を正方向に進ませ
るものだとすれば、ポスト TRIPS の発展は、ある程度において反グローバル化の趨勢を示している。
次に、先進国の選択を見ると、先進国は知的財産が貿易と密接に連動している前提を踏まえ、貿易
パートナーを慎重に選び始めており、より狭い範囲で高水準の国際知的財産保護基準を推進してい
る。ここで、このような反グローバル化の趨勢が発展途上国だけでなく、先進国の動きでもあるとい
う点に注意が必要である。しかしながら、先進国と発展途上国ではローカル化、反グローバル化に関
する方向性が全く異なっている。発展途上国は TRIPS 協定とその体制に対する不満により、WTO の枠組
みの下での知的財産の交渉がとうにこう着状態に陥っている中、先進国は国際貿易においてその知的
財産に基づく核となる分野を保護するため、再び利害関係者と二国間交渉、近隣国間交渉を開始して
おり、このような形で国際知的財産保護が、再びローカル化の時代に入っている。米国は TRIPS 協定
の保護基準を上回る国際知的財産保護基準の提起を目的として、立て続けに「偽造品の取引防止に関
する協定(ACTA)」、「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)(以下、TPP と略する)」の締結を進め
た。とりわけ、アジア太平洋地域の知的財産保護に基づく TPP は米国が「ハイスタンダードで、全て
を網羅した、例外なき貿易協定」と主張するアジア太平洋自由貿易圏の一部である。TRIPS 協定におい
て、自由貿易圏の知的財産をめぐる二国間協定又は近隣国間協定は例外とは見なされていないため、
TPP が発効すれば、それらの協定は自動的に TRIPS 協定における内国民待遇と最恵国待遇の原則が適用
されることになり、交渉段階で排除された中国などの WTO 構成員もこの協定を受け入れざるをえな
い。
最後に、中国の視点から見ると、国際知的財産保護が再びローカル化の時代に入ったのは、次の原
因も考えられる。第 1 に、経済的な実力の比較から見ると、米国には、もはや WTO 加盟のように中国
20
Id. at 27-52.
Laurence R. Helfer, Mediating Interactions in an Expanding International Intellectual Property Regime,
36 Case W. Res. J. Int'l L. 127(2004).
22
Id. at 127.
21
- 76 -
をねじ伏せる力はない。中国の国内総生産(GDP)は、十分それに肩を並べるところまで強大化した。
1990 年代に WTO 加盟を切望していた中国は、自国の実情を上回る国際知的財産保護基準により、貿易
の可能性と国際的地位を手に入れた。しかし、今や世界第 2 の経済体に成長し、徐々に世界一の経済
体になると見られている。中国は、その経済的な実力により、産業イノベーションの可能性を手に入
れる時代となった。中国は、もはや知的財産保護水準の向上を急ぐことなく、その管理と活用の改善
に努めている。知的財産権の立法において、中国は「理論における自信」と「中国的特色」を強調し
ている。理論における自信、中国的特色が、世界第 2 の経済体に直接関係していることは言うまでも
ない。第 2 に、国家間の競争関係からみて、中国は労働集約型産業において取得した非常に高い優位
性と、そこから積み上げた大量の経済資本を通じて、世界各国との間で二国間、近隣国間の貿易協定
を独立して、かつ幅広く構築し始めている。積極的に進めているアジア太平洋自由貿易圏の整備と、
中国版「マーシャルプラン」と見なされている一連の対欧州投資の兆しは、いずれも既存の貿易の枠
組みにおける知的財産のルールから脱却し、自国の経済的な実力によってルールを再構築しようとす
る中国の試みを表している。米国のオバマ大統領は、2013 年の一般教書演説においても、「米国が知
的財産保護を必須とした内容で、アジアの全ての他国と貿易協定を結ぶことは、米国と中国の交渉に
重要な助けとなるだろう」と述べている。中国の前述の動きにより、自国の核となる分野に有利とな
る貿易と、国際知的財産保護体系を維持するため、先進国は、似たような形で中国との貿易交渉を阻
害せざるをえない。第 3 に、中国はすでに海外の技術と資本に完全に依存する時代を通り過ぎ、故に
独自の発展成長モデルを、余裕をもって選択できる。中国の国家知識産権局の最新の報告によると、
中国は知的財産強国の米国モデル、スウェーデン・フィンランドモデル、日韓モデル、スイス・シン
ガポールモデル及びドイツ・イギリスモデルの経験を総括した上で、短期的には日韓モデルの経験を
手本とし、知的財産の活用促進を切り口として、国際知的財産保護の水準を引き上げ、知的財産の管
理とサービスを強化することで、知的財産の創造力向上をけん引する。長期的には米国モデルを手本
とし、知的財産の創造、活用、保護、管理を含めた総合力を引き上げ、あらゆる方向から知的財産の
競争優位性を獲得し、それをもとに知的財産強国に向けた独自のロードマップを構築する。2020 年ま
でに、中国の知的財産の総合力指数を、強国の水準まで引き上げ、知的財産強国の建設を全力で推進
する。2025 年までに中国の知的財産の総合力指数を、知的財産強国の水準まで引き上げ、知的財産強
国の建設に向けた実質的な進展を達成する。2030 年までに知的財産の総合力指数を、ほぼ知的財産強
国の基準に引き上げ、それを維持し、知的財産強国の仲間入りを果たす。
以上の分析から、中国は、自国の経済的な実力をもとにして、国際知的財産保護体制の構築を始め
ている。そのため、国際知的財産保護のロードマップの選択においては独自の様々な主張がある。
4.グローバル化とローカル化をめぐる民間団体の駆け引き:国際知的財産保護の体制転換の法則
知的財産権は過去において、「特権の付与(grants of privilege)」と見なされた。独占禁止ルー
ルの例外はあっても、これらの権利は特権と見なされ、その臨時性、不安定性が強調された。国は特
権を付与することができるが、付与する義務はなかった。一方、今日の社会において、知的財産権は
一種の「私権(private right)」と定義されている。この転換は、国に私権を保護する義務があるこ
とを暗示している。知的財産のグローバル化にせよ、ローカル化にせよ、知的財産権の私権論は、繰
- 77 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
り返し提起される重要な理論的基盤である。このような違いは、言葉の意味の違いのみならず、知的
財産の正当性の根本的な変革である23。これらの観念と制度の変化を追跡することによってのみ、本当
の意味で問題の本質に触れることができる。すなわち、知的財産はなぜ国際貿易を進めるための「武
器」となったかである。私権、すなわち私的権利は、個人的権利、私有の権利、そして私益的権利と
いった側面から理解することができる24。これは、知的財産権が私権に属するようになった後、その主
な受益者が個人となったことを意味する。また、個人の私権収益の占有により、私権としての知的財
産権の大規模な拡張を促したということでもある。歴史上、個人の段階的な発展と強大化により、国
に相対する市民社会を構成できたというならば、知的財産がグローバル化を遂げた今日、国際知的財
産保護に係る、多くの国際関係に関する問題は、その発生の背景が、グローバル化にあるにせよ、
ローカル化にあるにせよ、知的財産権という「私権」の所有者が海外においてそれを保護する環境を
第
三
章
創出するために、その国の政府に、別の一つ又は複数の国に影響を与え圧力を加えるよう仕向ける諸
行為としてしばしば表現されることを認識している学者もいる25。個人が国際知的財産保護制度の行方
の鍵を握っているといっても過言ではない。知的財産を持つ民間団体の中には、自身の利益を守るた
めに、政府の前面に立つ団体もある。
(1)民間団体が国際知的財産保護に介入した理由
民間団体の国際立法への影響は、1970 年代を起点とする。それ以前は、米国企業を主体とする民間
団体は、国際知的財産保護制度にそれほど多く加入していなかった。その主な原因は、2 つの方面に帰
結する。
第 1 に、1970 年代以前の国際知的財産保護は、パリ条約とベルヌ条約の時期から WIPO の時期へと歩
みを経てきた。しかし、パリ条約とベルヌ条約の各国の利益に対する寛容度に関する過度の柔軟性に
より、執行力が欠如した状態が続き、「ソフト・ロー(soft law)」と見なされてきた。それは締結
国が条約加盟時に条項の留保を提起でき、紛争が国際司法裁判所に提訴された場合であっても、国際
司法裁判所は法律の問題に対して解釈を施すことしかできなかったため、締結国に対する拘束力が生
まれず、各国は従来どおり、紛争解決のために外交的手段又は立法的手段を踏襲するしかなかった。
また、条約は「投票による採決」の原則を貫いており、その実質的な内容と附属書は全て締結国の投
票により決定する必要があった。ベルヌ条約の第 27 条では、これらの条文以外に、附属書を含めた全
ての条約文書の改正は、満場一致により可決しなければならないと定められている26 。こうした原則
は、発展途上国と先進国の利益の均衡を実現するためとはいえ、条約の改正を大きく制約するもので
あり、まさにそのために、1970 年以降、両条約の改正は現在に至るまで棚上になっている。コストと
収益の面から分析すると、民間団体は執行や進展が不可能な条約に対して代償を支払うことはないで
あろう。
23
See Susan K. Sell, Private Power,Public law: The Globalization of Intellectual Property Rights,
Cambridge University Press 5(2003).
24
詳細は、呉漢東「知的財産権の本質に関する諸視点からの解読」中国法学、2006 年第 6 期。
25
鄭成思『世界貿易機関と貿易に関わる知的財産権』中国人民大学出版社、10 頁(1996 年)。
26
劉波林訳『文学及び美術著作物の保護に関するベルヌ条約(1971 年パリ改正)ガイドライン』中国人民大学出版社、
190 頁(2002 年)。なお、パリ条約において、条約の改正にどの程度の締結国の同意が必要かについて、明文化されて
いないが、過去の改正において、会議に参加した全締結国の合意を得ていた。
- 78 -
第 2 に、経済のグローバル化が進んでいなかったため、国際知的財産の問題が民間団体に対して経
済的な影響をもたらすことがなく、知的財産を持つ民間団体でさえも国際的な問題に対して実質的な
影響を与えるには力不足であった。1970 年代より前、国際的な知的財産権の立法は、欧州に集中して
いた。両条約の締結にせよ、WIPO 設立にせよ、いずれも欧州諸国によって推進されたものである。こ
の段階の国際知的財産保護制度は、大部分が地域的な現象であり、欧州諸国における知的財産の利益
の共有という基盤の上に設立され、欧州の法律の伝統において主張された人権保護、自然法と起源を
同じくする。当時の米国、ソ連、中国などは長期にわたって条約の外に置かれていた。一部の国(特
に米国)は、自国について知的財産の「消費者(net-consumer)」であり、外国人の知的財産を保護
することは、自国の経済成長目標と衝突すると考えていた。その文化、教育が、欧州諸国より遅れて
いるという実情に基づくと、米国の 1790 年の著作権法で励行されていた権利保護の水準は低く、また
著作権の客体が狭く、作品に対する要求も低く、外国作品の長期にわたる保護がなされず、しかも
1886 年のベルヌ条約と 102 年間もの隔たりがあった27。1980 年代になって、米国は自国が知的製品の
「生産者(net-producer)」に転じたと意識し、EU 諸国、日本などのポスト工業時代の先進国ととも
に、世界の範囲内で高水準の国際知的財産保護を大言し始めた28。19 世紀から 1970 年代までは、欧州
を主導とする国際知的財産保護制度は、常に政府主導であり、国家政治と国際関係がその主題であっ
た。政府の知的財産戦略が自国企業の成長のニーズをある程度体現していたとはいえ、知的財産が企
業の資産に占める地位がまだ低かったため、企業の知的財産保護に対する積極性は顕著でなかった。
前段階の国際知的財産保護制度の推進とは異なり、民間団体の国際知的財産保護制度への参加は、
知的財産保護と国際貿易が関係付けられた 20 世紀末期に始まる。民間団体の能動性は、次の 2 つの視
点から分析できる。
(ⅰ)民間団体参加の内的要因:企業の生産方式の転換
知識経済は、企業の生産方式を完全に変えた。知識経済における知識は、高度技術の基盤となる知
識であり、農業経済時代の経験を基盤とする知識、工業経済時代の一般科学、技術を基盤とする知識
とは違い、その生産力における役割は、非独立的要素から独立的要素へと変化した。また、潜在的な
生産力は、現実的生産力に代り、知識生産力は生産力、競争力及び高度成長を実現するための中核的
要素となった。先進国の企業の中で、知的財産を中核とする無形財産が企業の資産全体に占める比重
はますます大きくなっている。オーストラリアの学者、Peter Drahos 教授は、このタイプの会社を
「知識創造企業(knowledge creating company)」とした29。それに応じるように、知識経済の社会の
分配方式も知識に応じたものになり始めている。米国の学者、ラズロ氏は、「20 世紀末と 21 世紀初
頭、世界の権力と富の性質を規定するゲームのルールが変化した。権力はもはやある組織の権威のよ
うな従来の基準を基盤とせず、富の意味が黄金、貨幣、土地といった有形物から移り変わりつつあ
る。黄金、貨幣、土地よりも柔軟な無形の富と権力の基盤が形成されつつある」と指摘する30。
財産の非物質化革命により、多国籍企業は経済のグローバル化の代弁者、既得権益者となった。国
27
呉漢東「知的財産権制度の運営:他国の経済分析と中国の手段模索」中国版権、2007 年第 2 期参照。
Bently & Sherman, see supra note 1, at 5.
29
See Peter Drahos& John Braithwaite, Intellectual Property, Corporate Strategy, Globalization: TRIPS in
Context, 20 Wis, Int`l L. J. 453(2002).
30
【米】E. Laszlo 著、李吟波、張武軍、王志康訳『運命を決定する選択』三聯書店、6 頁(1997 年)。
28
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
連はかつて、そのレポートにおいて、「国際的生産活動は世界経済構造における主な特徴となった」
と指摘した31。これらの多国籍企業は、全世界で高い利潤を捜し求める能力を有する。知的財産を線引
きし、激励し、配置し、均衡を保ち、そして保護する知的財産制度も重点的な研究対象と見なされて
いる32。知的財産制度は、取引において発生しうる任意的行為、機会的行為を抑制している。それは知
的財産の取引を含む取引コストを引き下げることで、取引双方の行為を予見可能にし、それによって
労働の分担と富の創出を促す33。前述の原因により、米国を初めとする先進国の多くの企業は、これま
でになく知的財産法の制定と執行を重視している。
(ⅱ)民間団体参加の外的要因:経済成長環境の変遷
企業の生産モデルに対応するように、国際貿易における知的財産の比重も拡大している。統計によ
第
三
章
ると、1990 年代末期になると、米国は 50%近くの対外輸出を国際知的財産保護に依存するようになっ
た34。グローバル化を遂げた今日、知的財産を保護すれば、先進国とその企業の経済的な命綱を維持で
きるといって良い。
知識経済はグローバル化された経済である。農業経済は土地を境としてほぼ閉鎖されている。工業
経済はエネルギーと市場に依存し、植民と略奪によるのみである。工業経済から知識経済への転換に
伴い、経済のグローバル化が本当の意味で開始した35。知識経済が社会の支配権を知識保有者に託すに
伴い、国家間の駆け引きは、土地と自然資源の争奪ではなくなり、経済成長も植民地の原材料と労働
力の搾取を原動力としなくなった。知識経済社会における国力の比較は、知識保有量の比較へと変
わった。経済のグローバル化の特徴は、金融のグローバル化、生産のグローバル化、技術更新、政治
の脱構築に概括する学者もいる36。また、技術更新の推進、ハイテク企業の生産コストの急激な上昇に
伴い、企業がコストを回収しようとする場合、国内市場のみに依存することができなくなった。これ
は、一国の企業が自国内の競争のみならず、グローバル市場における他社との競争にも直面している
ことを意味する。そのため、グローバル化は各国の「競争力のある国家戦略(competitive state
strategy)」の登場を招いた。つまり、商業環境の改善、グローバル経済における国の競争優位性を
高めるための政策である37。米国において、この競争戦略は知的財産制度の構築に体現されている。そ
れは主に次の原因に帰結する。
① 自国の伝統工業の没落
米国の意思決定者は、米国は拡大し続ける貿易赤字に直面していると考えている。1971 年に米国で
「第 2 次世界大戦以来」初の貿易赤字が発生した。同年から、米ドルは黄金とつながりを断ち始め、
それとともに下落し始めた。米国企業は、自動車、半導体、家電製品などに関して、従来の製造業に
31
白玲ほか「世界を超えた世界経済変化の趨勢とその不確定要」天津商学院学報、2002 年第 2 期。
知的財産制度の機能を次のとおり概括する学者もいる。1.知的財産の私有の線引き。2.知識創造活動の激励。3.知的
資源利用の配置。4.知的財産共有の均衡。5.知識の利益保護の適正化。詳細は、呉漢東「利害の間に:知的財産制度の
政策科学分析」法商研究、2006 年第 5 期参照。
33
【独】Wolfgang Kasper、Manfred E. Streit 共著、韓朝華訳『制度経済学』商務印書館、35 頁(2004 年)。
34
李、前掲注(8)、98 頁。
35
易継明『技術の理性、社会の発展と自由』北京大学出版社、7 頁(2005 年)。
36
See R. Palan& J. Abbott, with P. Deans, State Strategies in the Global Political Economy, London: Pinter
20(1996).
37
See id. at 6.
32
- 80 -
おける優位性を完全に失ってしまった38。このような従来型工業の没落は、主として発展途上国の極め
て低い人件費とローエンド技術の普及により、米国の従来型工業が発展途上国からの輸入品による致
命的な打撃を受けたことによる。米国の学者、Reichmann 氏は、発展途上国の製造業の水準向上によ
り、先進国は従来型工業製品の放棄を余儀なくされ、比較的優位性のある知的製品(intellectual
goods)に依存せざるをえなくなったと指摘する39。
② 他国の立法の現状の障害
知 的 財 産 の 客 体 は 、 消 費 に お け る 非 対 立 性 ( Non-rivalries consumption ) と 非 排 他 性 ( Nonexcludability)を有する 40 。つまり、それ自体ではフリーライド(ただ乗り)の問題を解決できな
い。ハイテク商品の研究開発費用は、極めて高いため、製品が知的財産保護の水準が低い国に流入す
ると、低コストで模造され、現地の知的財産権の立法により強い制止、制裁を加えられなくなる。と
りわけ、ソフトウェア、オーディオ製品など、デジタル形式で複製できる製品の複製コストは微々た
るものである。しかし他方で、知的製品の研究開発コストが徐々に上昇しているため、企業は研究開
発投資を拡大し続けない限り、その知的製品のハイエンド市場における競争優位性の保証が継続でき
なくなる41。このようなハイコスト生産とローコスト複製の衝突の深まりが、知的財産における米国の
比較優位性を大きく制約した。こうして米国は、国際知的財産の実体法による保護の水準を強化する
必要に迫られる。米国は、以前から「自由」な貿易を提唱し続けていた。1970 年代から知識経済が発
達した国の知的財産関連の貿易は、世界貿易に占める比重が年々増加していることに対して、後進国
における知的財産は、有力な保護を受けられず、貿易に関わる知的財産侵害がますます深刻化した。
世界で知的財産侵害によってもたらされた損失は、年間 800 億米ドルを超え、知的財産侵害品の貿易
量は、世界の貿易総量の 5~8%を占めている。既存の知的財産の国際条約に強制力と規定が欠けてい
ることに鑑み、米国は公平な国際貿易の環境醸成を強調し、「自由」(free)貿易を「自由かつ公平
な」貿易(「free-but-fair-trade」)に変えた。米国の意思決定者たちは、公平な国際経済のルール
さえあれば自由貿易を推進できると信じている。今の問題は、他国がそのようなやり方を阻止してい
るにすぎない42。知的財産における貿易障害とは、国際貿易の中で、各国の知的財産の規定と保護水準
に起因する差異により、知的財産の貿易摩擦が増え続けていることを指す。各国の知的財産保護の実
体法と手続法に統一された最低基準がなければ、米国の知的財産権所有者の経済的利益は、極めて大
きな損害を被るであろう。そのため、米国が「公平」を優先的な考慮の対象とする知的財産政策は、
実質上、世界的規模で自由貿易を推し進めるためのものに他ならない。このような政策指導の下で、
「自由かつ公平な」貿易は、一方で国内の「保護貿易主義(protectionism)」に反対し、もう一方で
は米国の貿易法を通じて、他国のいわゆる明らかに公平を失する行為と戦い続けるとともに、二国
間、近隣国間の交渉により貿易障壁を下げるよう努めている43。
以上を総合すると、「民族国家」をベースとする「必然的な国際政治秩序」の構築と「自由貿易」
38
【米】Michael E. Porter 著、李明軒、邱如美訳『国の競争優位』華夏出版社、496 頁(2002 年)。
Sell, see supra note 23, at35.
40
【米】Robert D. Cooter、Thomas S. Ulen 共著、張軍ら訳『法と経済学』上海三聯書店、上海人民出版社、58 頁
(1999 年)。
41
Sell, see supra note 23, at 38.
42
See Susan K. Sell, Industry Strategies for Intellectual Property and Trade: The Quest for TRIPS, and
Post-TRIPS Strategies, 10 Cardozo J. Int`l & Comp. L. 81-82(2002).
43
See id. at 82.
39
- 81 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
をベースとする「蓋然的な国際経済秩序」の構築は、知識経済の衝撃の下で調和し難い対立が生じ
た。このような「地域の政治情勢」と「国際経済の需要」の対立こそ、民間団体の国際知的財産保護
制度への参加の動機である。民間団体は、主権国家の壁を打破し、自身のためにグローバル市場にお
いてより大きな利益を求めようと試みている。グローバル化は、もはや単一の民族国家が主導するも
のではなくなり、様々な政府間国際機関、超国家機構、非政府間の国際組織などが急激に台頭してき
ている44。このようなグローバル化における基本単位こそ、グローバル化の既得権益者である民間団体
である。
(2)民間団体による国際知的財産保護への介入手段の分析
第
三
章
国内法の体系と違い、国際的な法律、規則には明確な等級がなく、協調や均衡の機能を備えた司法
機関や立法機関も存在しない45。このような等級と権威の欠如により、国際知的財産保護制度は、往々
にして法則、規則が欠いたものになってしまう。そのため、民間団体は自身の力によって自身に有利
な国際法律、規則を打ち立て得る。主権国家が主導する過去の国際立法とは異なり、民間団体が主導
する国際立法は、実用主義を重視し、「正義」、「公平」、「人権」、「開発権」といった、ややも
すれば広大で抽象的なコンテクストから出発せず、法律の制定という出発点を強調する。ドイツの学
者、イェーリング氏が言うように、目的は法の創造者である46。民間団体及びそれが所属する利益団体
は、自身の利益を最大限に国際知的財産保護制度に加え、「脱中心化、脱国家化」された多くの立法
手続きを創出した。それを「民間政府」によるルール制定の形式と呼ぶ学者もいる。これらのルール
は、民間政府が創造する法律が各国の国内法から独立し、一般の国際公法と距離を置くよう求めてい
る。
このような「民間立法」は、一方で国際立法を大きく推進し、市場経済が求める体制上の法制度の
同質化を実現した47 。例えば、多くの分野の国際法規は、いずれも「某業界団体」の名義で提起され
る。これらは、いずれもグローバル市場を開拓するための努力である。その一方で、特定の民間団体
は、その競争力の劣る分野においても、保護主義の大義名分を掲げて、特定の分野におけるグローバ
ル化に反対する。例えば、米国企業は、世界の著作権産業における絶対的な優位性を維持するため、
様々な手段を通じて「文化多様性条約」の可決を妨げようと躍起になっている。
民間団体は国家機構、国際機関において正式な代表権を持たないため、国際知的財産保護制度への
参加は、政府と国際機関に圧力をかける形で実現する。民間団体の実用主義戦略は、次の 2 つの方面
から説明できる。
44
黄文芸「法律の国際化と法律のグローバル化の解析」法学、2002 年第 12 期参照。
See Laurence R. Helfer, The International Relations of Intellectual Property Law: Mediating Interactions
in an Expanding, 36 Case W. Res. J. Int’l L. 127-128(2004).
46
鄭正来『世界構造に邁進する中国法学——パウンド「法理学」(五巻本)代訳序』【米】Pound:「法理学」(第一
巻)、中国政法大学出版社、3 頁(2004 年)。
47
このような同質化は、実体法の一体化、手続法の一体化として表現される。実体法の一体化は、主として民間団体が
構築した各種非政府組織が発表した国際商事契約、モデリング法、国際標準化協定、国際慣習を指す。手続法の一体化
とは、主として仲裁分野の様々な条約とモデリング法を指す。
45
- 82 -
(ⅰ)民間団体の国内戦略:業界団体と政府部門のインタラクション
民間団体の国内戦略は、2 つのステップに分けられる。第 1 ステップは、企業間の「協力の駆け引
き」を実現すること。すなわち、同一の分野において本来競争関係にある企業が業界団体を結成する
ことで利益の最大化を実現する48。第 2 ステップは、業界団体による資金貯蓄、組織拡充、情報統合及
び経験蓄積のほか、豊富な侵略的、組織的なロビー活動を利用して政府、国会の意思決定に影響を与
え、他国の知的財産環境に関するレポートを政府に提供する。台湾政治大学の劉江彬教授は、論文に
おいて、「米国企業が構築した業界団体は米国国内で極めて大きな影響力を有する。さらに、米国の
業界団体は知的財産の問題において事実を誇張、歪曲し、政府官僚、立法者、一般庶民を誤導し、問
題を政治化させていると考える国も多い」と指摘している49。米国は、世界で初めて国家立法の形式で
知的財産と貿易制裁、市場競争を関連付けた国であり、司法省と特許商標庁が先頭になり、連邦捜査
局、税関その他の政府部門が参加する部門間調整機関、専門の国際貿易委員会を率先して開設した50。
その由縁は、民間団体が国家の公共政策の制定に介入するための戦略である。
米国の業界団体と政府部門の駆け引きは、次の 2 点に十分に体現されている。
第 1 に、利益の表現の手段整備である。民間団体の国際知的財産保護制度に対する影響は、そのほ
とんどを国内の制度と機構の支援に依存している。一国の内部の特定の機構設置と制度の手配は、国
際知的財産保護制度に対して極めて大きな影響力を持つ。このような機構は、主として民間団体の意
見を政府の意思決定機関の仲介組織に伝えることで、民間団体の利益と政府の公共政策の好ましいイ
ンタラクションを実現した。米国は、その利害関係を熟知しているため、継続的にこの方面の機構設
置の進展と改善を図り、民間団体の利益訴求をいち早く政府部門の意思決定部門に伝えている。
1980 年代から、知的財産に関わる民間団体は、専門のロビー活動団体(lobbying campaign)を雇用
し、「世界での知的財産保護水準の向上は米国の商品・サービス貿易にとって極めて重要であり、政
府が法的手段を動員し他国に適切な措置を講じて米国の知的財産を侵害する行為を取り締まる必要が
ある」ということを国会と政府が認識するよう、全力で促している51。民間団体によるロビー活動は、
様々な法案や政策の中に反映されてきている。例えば、1979 年に改正された「301 条項」は、「民間
団体が公開という手段により既存の貿易協定の実施を推進する」ことを許可している。また、業界団
体は、米国通商代表部(United States Trade Representative)52を政府における自身の代弁者として
大いに発展させている。米国通商代表部は、業界団体に迎合する産物と考える学者さえいる53。通商代
表部は、国際知的財産の問題に特に注目しており、その元代表アシスタントは、米国の工業に大打撃
を与えた元凶は、国際知的財産権の立法による保護の不足であり、こうした環境で米国企業は四方八
48
米国の、又は米国を起源とする産業連盟としては、(1)国際知的財産同盟(International Intellectual Property
Alliance、略称"IIPA")、(2)ビジネスソフトウェア連盟(Business Software Alliance、略称"BSA")、(3)国際反
模倣品同盟(International Anti-Counterfeiting Coalition、略称"IACC")、(4)医薬品製造者協会
(Pharmaceutical Manufacturers Association、略称"PMA")、(5)国際登録商標協会(International Trademark
Association、略称 "INTA")、(6)知的財産委員会(Intellectual Property Committee、略称“IPC”)等がある。
49
See Paul C.B. Liu, U.S. Industry’s Influence on Intellectual Property Negotiations and Special 301
Actions, 13 UCLA Pac. Basin L.J. 93(1994).
50
郭民生、郭錚共著「『知的財産権の優位性』理論分析」、「知的財産権」、2006 年第 2 期に掲載。
51
Sell, see supra note 23, at 47-48.
52
米国通商代表部は最も早期には米国議会が 1974 年通商法を制定した際に設立された恒久的施設で、1979 年の通商協
定法制定時に米国通商代表部と改称した。米国大統領の指導の下で、対外貿易に関わる業務、紛争処理の機能を担う。
53
M. Gadbaw, Intellectual property and international trade: Merger or marriage of convenience? 22 Vand. J.
Transnat’l L. 223-239(1989).
- 83 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
方から権利侵害者の攻撃を受けていると指摘する54。1980 年代末期、業界団体の努力はついに正当な成
果 を 実 ら せ た 。 1988 年 に 制 定 さ れ た 「 88 年 包 括 通 商 ・ 競 争 力 法 ( Omnibus Trade and
Competitiveness Act of 1988)」は、知的財産の問題を強調するだけでなく、他国の貿易活動が米国
の利益に損害を与えるかどうか、米国が貿易報復を行うかどうか、それをどう行うかといった判断の
権力を、過去の大統領から通商代表の手に移し、国会が通商代表の行使を監督するという点である。
業界団体は事実上、「301 条項」という貿易の武器を手中に収めたといえる。
第 2 に、政府のブレーントラストの担当である。知的財産の高い専門性により、民間団体は、自身
の専門性の強みを利用して、政府の意思決定に絶えず知識を提供している。政府機関は、独自の情報
源を持っているとはいえ、国際知的財産保護の問題に関しては関連情報と専門知識が不足している。
知的財産保護の関連情報とは、外国の知的財産保護状況の自国企業に対する影響などである。多国籍
第
三
章
企業は、その独自の優位性により、政府よりも外国の知的財産保護状況を把握していることが多く、
政府は、知的財産を持つ大手多国籍企業から他国の知的財産保護状況の情報を入手する場合が多い。
多国籍企業は、専門知識に関して知的財産の優秀な人材を集めた管理部門、サービス部門を有し、こ
れらの知的財産のエキスパートが政府に知的財産をめぐる専門的な問題を政治と関連づけて分かりや
すく説明するとともに、知的財産と国際貿易の間の実質的な関係について解説する。これは、知的財
産に関わる民間団体が、情報や専門知識の提供を通じて政府の知的財産政策に影響を与える機会にな
る。民間団体も政府へのこうした情報の提供に積極的である。民間団体は、これらの情報提供は、ワ
シントンの政客や経済学者が知的財産保護を国際貿易交渉の主要な議題にするかどうかを討論する際
に、その役割を発揮すると考えている55。
また、民間団体は米国の通商政策に極めて大きな影響を与える ACTN(Advisory Committeeon Trade
Policy Negotiations;貿易交渉諮問委員会)に代表者を派遣している。ACTN は貿易交渉人、商務省、
農務省、労働省、国防総省が共同で管理し、多国間貿易交渉における民間諮問機関の最高監督委員会
であるだけでなく、民間団体が大統領にアドバイスを行う正式な手段でもある。例えば、ファイザー
社、IBM などの企業の CEO や国際部門の責任者など、多くの知的財産業界団体の責任者はいずれも
ACTN の知的財産特別チームの構成員の担当経験がある56。こうした政府のブレーントラストの担当も国
際知的財産戦略の制定に極めて大きな影響を与えていることは間違いない。
(ⅱ)民間団体の国際戦略:国境を越えた連携と一方的制裁との結合
国内の立法において知的財産と国際貿易を関連付けるだけでは、知的財産に関わる民間団体の要求
はとても満たせない。世界的規模の知的財産権の立法の一体化こそが民間団体の最終的な目標であ
る。米国政府も知的財産に関わる民間団体の経済的競争力を認め、国際知的財産保護制度を主導する
ことを支援している。
民間団体の国際戦略はその国内戦略の派生、発展と見なせるが、ある程度の違いも存在する。国内
レベルで、民間団体は業界団体を通じて政府と駆け引きするが、国際レベルでは、米国企業の経営層
は効率化を図るため、不必要な利益の駆け引きを避けている。そこで、その欧州と日本の団体と直接
協働しながら国際知的財産保護制度を推進している。その最大の成果こそ、WTO における「TRIPS 協
54
55
56
See A. Zalik, Implementing the trade-tariff act, Les Nouvelles, 21 200-206(1986).
Sell, see supra note 23, at 47.
See id. at 48-50.
- 84 -
定」の形成である。
知的財産に関わる民間団体の国際戦略は、主に次の 2 段階に分かれる。
第 1 に、知的財産委員会と他の先進国企業との提携である。1986 年、知的財産に関わる米国の多国
籍 企 業 数 十 社 の CEO は 、 知 的 財 産 の 国 際 保 護 を 趣 旨 と す る 「 IPC ( Intellectual Property
Committee;知的財産委員会)」を設立した。IPC は欧州と日本の団体とともに先進国の知的財産法を
ベースとした草案を起草し、当時の GATT(General Agreement on Tariffs and Trade;関税及び貿易
に関する一般協定)事務局に提出した。それが後に「TRIPS 協定」の雛形となる57。「TRIPS 協定」は
12 名の CEO が代表する、知的財産に関わる民間団体の産物といって良い。知的財産に関わる多くの業
界団体と異なり、IPC の構成員は最多時でも僅か 14 名にすぎない。これは主に、業界団体によって
GATT において知的財産に参加する態度が異なるためである。著作権団体の多くは、特許団体のように
意欲的ではなく、GATT の交渉手続きは複雑で、即効性がないと考えている。また、音楽、映画及び出
版の業界には、「301 条項」によって現に起きている問題を解決すると主張する企業もある。一方、コ
ンピューターソフト業界は、発展途上国におけるベルヌ条約の定着に注目している58。不要な調整や議
論を避けるため、IPC は、故意に構成員資格を制限し、時間を要する企業内部の協定を避けるため、構
成員は権力を最高管理層の代表者に与えるべきだとの方針を固持した。そのため、構成員は多くない
ものの、広い代表性をもたせ、米国の化学、コンピューター、クリエイティブアート、電子、重工
業、消費財製造業及び製薬業など、幅広い分野をカバーしている59。
また、IPC は、内部の意見を統一させた後、国境を越えた連携活動を開始した。1986 年から、IPC
は、一方でイギリス、ドイツ及びフランスの業界団体のほか、欧州産業連盟(UNICE)とコンタクトを
取り始めた60。他方で日本経済団体連合会と連携した。IPC は、知的財産侵害の深刻な負の影響を強調
し続け、知的財産をめぐる二国間交渉の成果をアピールすることでこれらのグループに連携を誘いか
けた。その後、しばらくの検討を経て IPC は最終的に TRIPS 協定に必須の 3 つの部分――(1)著作
権、特許、商標及び創造的成果に関わる最低限の保護法(2)執行手続き(3)紛争解決メカニズム61を
決定した。こうして、共通認識と草案が出来上がり、IPC は知的所有権の貿易関連の側面に関する協定
を後に開催される GATT の交渉の議題に持ち込む準備を始めた。
第 2 に、一方的制裁による「TRIPS 協定」の可決の補助である。先進国の知的財産権案は、発展途上
国の激しい抵抗を受けた。インド、ブラジルを含めた発展途上国は、いわゆる「G10(Group of
Ten)」を結成し、国際知的財産保護を GATT に加えることを制止しようと試みた。IPC はこの問題を解
決するため、米国通商代表部が、「アメとムチ」による関連交渉戦略を講じるよう頻繁に働きかける
ことで、発展途上国を説得した。「アメ」とは、米国の莫大な国内市場であり、関連交渉を通じて、
発展途上国のある「南方」が衣服と農産品の貿易自由化を手に入れることを指す。一方、先進国のあ
る「北方」が手に入れるのは、統合された国際知的財産保護である。「ムチ」とは、ウルグアイラウ
ンドの 8 年間において、米国通商代表部が攻撃的な「スーパー301 条」外交を仕掛け、発展途上国を交
57
58
59
60
61
See id. at 96.
Id. at 101.
Sell, see supra note 42, at 89-92.
欧州産業連盟は EU の商業、工業の公式な代表であり、22 か国の 33 の構成員で構成される。
Sell, see supra note 23, at 103-108.
- 85 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
渉に参加させることである62。それは、1986 年に米国が「G10」のリーダーであるブラジルと韓国に対
して展開した 301 条調査に凝縮され示されているほか、その他の発展途上国に対しても 301 条調査実
施のシグナルを相次いて発した63。この戦略は、顕著な効果を発揮し、1989 年になって発展途上国は、
ようやく米国に従い、先頭になって反対した国も知的財産を GATT に加えることに同意した。同年 4 月
のジュネーヴ会議において、代表者は GATT の基本原則を知的財産の問題に適用する声明に合意した。
ここで「TRIPS 協定」にとっての最大の障害が取り除かれ、協定が実質的な制定段階に入った64。
前述の分析から、知的財産に関わる民間団体は、国内、国際の 2 つのレベルで国際知的財産保護制
度を推進しており、2 つの戦線は相互に関わり合っている。業界団体は、自身の利益に関わる機構を設
置するよう政府に促し、政府との間の円滑なコミュニケーションの経路を構築し、知的財産の問題に
ついて国内の貿易法で規制を強化するとともに、国際的にも他の知的財産強国と協働で、知的財産の
第
三
章
問題を WTO 体制に組み込んだ。こうして、WTO の「全会一致」原則を利用し、発展途上国が量的優位性
を利用した投票を行えないようにすることで、発展途上国が独自の戦略を推進することを阻止し、知
的財産強国の動機を表に出さず、平等な主権の間における最終協定を正当化した65。米国政府は、知的
財産に関わる民間団体に肩入れしている嫌いがあるが、知識経済時代においてのみ、知的財産に関わ
る民間団体が米国の核となる分野を代表しているにすぎない。「知識を支配する」競争戦略は、民間
団体だけでなく、米国がグローバル競争を進める手段ともなった。民間団体の経済的利益を保護する
直接的な影響とは、米国の比較優位が世界で発揮され、国全体の競争力が極めて強固なものとなり、
国内経済の成長モデルが円滑な転換を遂げたことである。知的財産に関わる民間団体と政府は、最終
目標に関する合意に達したといって良い。
5.知的財産保護のローカル化に対する中国の戦略的選択
どの時代であっても、知的財産が貿易から離れ独立して存在したことは一度もない。イギリスのア
ン女王法、ヴェネツィアの独占法からフランスの商標制度に至るまで、貿易と関連性なしに公布され
たものはない。グローバル化にせよ、ローカル化にせよ、国際知的財産保護制度の調整はいずれも貿
易関連主体と不可分の関係にある。知的製品のリスク源は、市民社会(民間)の利用にあるといって
よく、その経済的利益が認められた時点で、市民社会は政府に知的財産制度の更なる充実化を迫り、
更に世界中に普及させようとする66。国際知的財産保護制度は、先進国の利益集団の介入が蔓延した環
境で発展してきたのであり、いずれも民間団体(主に企業、非政府組織など)が推進した結果なので
ある。この現象の背後には、経済、政治及び文化のグローバル化がもたらした高度な変革がある。企
業をはじめとする民間団体が 21 世紀に直面するのは、国家政策、国際関係などの諸要素が混在するグ
ローバル市場競争である。そのため、民間団体も様々な手段を通じて政府の公共政策の制定及び国際
関係の動向に影響を与えており、それによって必然的に発展途上国の利益が損害を被ることになる。
発展途上国である中国も、他の発展途上国と同じように、国際知的財産権の立法と自国の知的財産制
62
See Michael P. Ryan, The Function-specific and Linkage-Bargain Diplomacy of International Intellectual
Property Lawmaking, 19 U. Pa. J. Intel’l Econ. L. 542(1998).
63
See id. at 562-563.
64
Sell, see supra note 42, at 94-96.
65
Helfer, see supra note 19, at 21.
66
See Peter Drahos, A Philosophy of Intellectual Property, Dartmouth: Publishing Company Limited 91(1996).
- 86 -
度の整備をいかに適合させていくかという問題に直面している。知的財産保護と自国の実情の関係を
どう調整するかが、中国が直面する重大な課題である。また一方で、先進国の民間団体は知的財産を
WTO の目標に組み込んだとはいえ、今なお各分野において知的財産制度の一体化といった論断の浸透と
宣伝を続けている。ポスト TRIPS 時代において、知的財産をめぐる利害対立は更に多くの主体とより
広い分野に及んでいる。食料及び農業にかかる遺伝資源の当事者と委員会の生物多様性をめぐる国際
フォーラムの中で、例えば、国連人権委員会と、その人権促進保護小委員会の専門家と組織におい
て、知的財産は中心的な問題となりつつある67。これらの知的財産政策では、知的財産保護を強化する
なら経済の発展は必然の結果となると当然のように想定されている。
しかし、多くの発展途上国は、既にこの見方の誤りを認識し、様々な手段を講じて、次々と先進国
の民間団体による知的財産の拡張戦略に対抗している。発展途上国で構成される「G10」は、知的財産
を議題に含めることに反対し、その後、発展途上国グループのうち 14 か国が自国の開発権を守るため
WIPO の改革を求めた。しかし残念なことに、中国はこれらの発展途上国陣営に加わらなかった。つま
り、発展途上国の中での中国の地位に合わないことが見て取れる。ポスト TRIPS 時代において、中国
が革新型国家の建設の目標を実現するには、国民の知的財産にかかる利益の保護を、最も基本的な出
発点、原点とするべきである。具体的には、次の方面から自国の知的財産戦略を改善しなければなら
ない。
(1)発展途上国と団結し、非政府組織の機能を重視する
中国が知的財産制度の一体化のプロセスにおいて発言したいのなら、他の発展途上国と団結してス
ケールメリットを形成し、利害関係を統一するとともに、国際知的財産権立法における非政府組織の
地位を重視しなければならない。ポスト TRIPS 時代の非政府組織は、主権国家に対抗する力をある程
度備えており、国際関係は、国家間関係を意味する「国際秩序」からそれを超えた「世界秩序」へと
徐々に転換しつつある68。これは、国際関係の主体がより多様化し、企業と非政府組織の結合こそが、
その中で無視できない力であることを意味している。したがって、中国は、非政府組織との意思疎通
と連携を重視するべきである。
(2)知的財産戦略を強調し、自国の業界団体の成長を支援、激励する企業は、知的財産戦略全体の
基本単位であり、知的財産戦略実施の最終的な主体である。米国の知的財産政策は、どれも民間団体
の努力の結果である。現在、政府主導で知的財産戦略が制定されている状況において、中国企業は、
自ら戦略を打ち立てる積極性がまだ不足しており、中国の多くの企業のイノベーション能力が弱く、
イノベーション投資が不十分で、独自の知的財産戦略がまだ形成されていないことが反映されている
69
。中国は、知的財産戦略を実施する中で、企業の戦略改善を重視し、企業の意見を取り入れ、政府と
企業の情報交換の円滑化に努めるべきである。一般的に、国際競争力は多くの産業とそのサプライ
チェーンで構成され、国の実力は、その国の産業と産業クラスターに根ざしていることが多い。国の
競争優位性もその国の多くの産業成長の総合的な表現である70。そのため、企業や業界の声を聴取し、
67
68
69
70
Helfer, see supra note 19, at 6.
万鄂湘ほか「知的財産国際保護の新たな発展」法律適用、2003 年第 7 期。
呉漢東「ポスト TRIPs 時代の知的財産権制度の変革と中国の対応戦略」法商研究、2005 年第 5 期。
Porter、前掲注(38)、7 頁。
- 87 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
企業や業界に有利な環境を醸成することこそ、国家競争力を高める有効な手立てとなる。
(3)知的財産とその他の国際条約との調和を重視し、各主体の利益を守る
ポスト TRIPS 時代の国際知的財産立法は、貿易分野に限らず、生物多様性、文化多様性、食料及び
農業に係る遺伝資源、公衆衛生、人権など複数の分野において同時進行している。発展途上国は、あ
らゆる方法を講じて、これらの分野の知的財産立法における優位性を勝ち取り、知的財産権の立法の
一体化における劣勢を挽回しようと努めている。こうした戦略は新しい条約の起草、現行協定の再解
釈、新しい非拘束的な宣言、ガイドライン及び意見の発生を招いている71。
民間が国際知的財産法を創出する時代において、知的財産の国際ルールは、決して神聖で価値中立
ではなく、中国は一面的に、国際条約を基準として自国の知的財産制度を評価してはならず、その都
第
三
章
度調整し戦略に対応し、公共政策を活用しながら、自国の比較優位産業の支援と発展を図りつつ、知
的財産の国際ルールの制定に積極的に関わり、自身が負う国際義務に背くことなく、最もふさわしい
発展の道を選択するよう努力するべきである。
以上
71
Helfer, see supra note 19, at 28.
- 88 -
第
三
章
第2節
知財の在り方に関する基礎理論の研究
第3章
研究内容の報告
Ⅰ.特許制度の基礎理論の研究:経済効果の検証と制度設計上の留意点
國學院大學
中山 一郎 教授
1.はじめに
特許制度の基礎理論の研究に関しては、複数のアプローチが考えられる。例えば、哲学的アプロー
チ、歴史的・事例研究的アプローチ、統計的・経済学的アプローチなどである。本稿では、第 3 番目
の統計的・経済学的アプローチに着目する1。このアプローチは、第 1 の哲学的アプローチとの関係で
は 功 利 主 義 ( Utilitarianism ) の 前 提 に 立 つ が 、 功 利 主 義 が 帰 結 ( 結 果 ) を 重 視 す る 帰 結 主 義
(Consequentialism)的性格を有する以上、特許制度の経済効果の検証を避けて通ることはできな
第
三
章
い。そこで、本稿では、先行研究として主要な実証研究の成果に依りながら、経済効果に関する現在
の知見を整理した上で、今日の特許制度を制度設計する上での留意点について若干の考察を試みる。
2.前提としての特許制度の正当化根拠
まず、検討の前提として、統計的・経済学的アプローチないし功利主義に立つ本稿の立場から見た
特許制度の正当化根拠を確認しておく。
特許法が保護する発明は、日本法では「自然法則を利用した技術的使用の創作」(特許法 2 条 1
項)と定義されているが、その本質は無体物たる情報である。無体物は、元来、物理的に占有するこ
とができず、公共財としての性格を有する。経済学において、公共財とは、消費の非排除性及び消費
の非競合性という特質を持つとされる。無体物の情報である発明に当てはめると、発明は一旦第三者
の知るところとなると、その第三者による利用を物理的に排除することが困難である(消費の非排除
性)。また、発明は同時に複数の者が利用することが可能である(消費の非競合性)。このような公
共財的性格、特に消費の非排除性の故に、発明の創作に対してはフリーライド(ただ乗り)の誘因が
生じる。この結果、フリーライド(ただ乗り)が存在する市場においては、発明は過少にしか生産さ
れないという「市場の失敗」が存在する。そこで、そのような「市場の失敗」を解決するために、国
は、第三者による発明の無断利用から発明の創作者を法的に保護して発明の創作に対するインセン
ティブを与え、発明の創作を促そうとして、特許制度を設けることとなる。経済学の知見によれば、
以上のとおり特許制度の正当化根拠を説明することができる2。
もっとも、国が公共財を供給するための手法は、特許制度のような排他権の付与に限られない。む
しろ伝統的に用いられてきた手法は税金の投入である(例えば警察サービスなど)。発明といった科
学技術情報の生産についても、実際には、国は、2 つの手段を共に用い、特許制度を整備するととも
に、科学技術の基礎研究などへの助成を通じて直接税金を投入してきた。しかし、税金の直接投入
は、国がどれほどの投資をすればよいのかが不確実であるし、国が必要なコストを全て賄うこととす
ると情報生産活動が不効率になりやすく、加えて国が資金投入対象を的確に選定できるのかという問
1
その他のアプローチについては、本報告書所収の山根崇邦論文参照。
小田切宏之『企業経済学第 2 版』(東洋経済新報社、2010 年)194~197 頁、ジョセフ・E・スティグリッツ=カー
ル・E・ウォルシュ著(藪下史郎ほか訳)『スティグリッツ ミクロ経済学第 4 版』(東洋経済新報社、2013 年)625
~627 頁。
2
- 90 -
題もあり、効率性の面において問題が残る3。これに対し、特許制度の下では、司法によって排他権が
適正に保護されなければならないものの、生み出された知的財産の評価は市場に委ねられており、市
場の規律を前提として事前の投資の判断が行われ、創作活動が実施される。
つまり特許制度とは、市場メカニズムを活用しながら創作へのインセンティブを確保する制度であ
ると理解することができる4。
3.特許制度の経済効果
特許制度が創作インセンティブの確保を目的として創設されたと理解する以上、その経済効果の検
証は避けては通れないであろう。この点をめぐっては、主として米国において実証研究が盛んである
が、紙幅の関係上、以下ではその中から興味深いと思われる主要な先行研究の知見に限って簡単に紹
介する5。
(1)特許制度と創作活動
創作インセンティブ説によれば、特許保護は創作インセンティブを刺激して、発明数を増加させ、
それは特許出願件数の増加となって現れると予想される。現に、米中の出願件数は増加しており、日
本も今日では増加していないが、かつては出願件数が増加していたから、それらは創作インセンティ
ブ説の正しさを裏付けているようにも見える6。
ところが、米国の先行研究によれば、特許出願件数の増加は発明数の増加を意味しない。戦略的特
許出願(Strategic Patenting)が存在するからである。
半導体産業を対象にこの点を明らかにして注目を集めた実証研究が、Hall&Ziedonis による論文であ
る7。この論文では、3.(2)に述べるように、利益を確保する手段としてそれほど有効ではないにも
かかわらず、特許を取得するというパテント・パラドックスの理由が、パテント・ポートフォリオ競
争というメカニズムを用いて以下のように説明されている。
すなわち、一つの製品が多数の技術から成立している場合にその中の 1 つの技術に関する特許権の
侵害により差止めを命じられて事業の中止を余儀なくされると、事業者がそれまでに投じた投資が埋
3
田村善之『市場・自由・知的財産』(有斐閣、2003 年)93~95 頁、田村善之『知的財産法第 5 版』(有斐閣、2010
年)17~19 頁、スティグリッツ=カール・E・ウォルシュ・前掲注(2)642 頁。もっとも、スティーブン・シャベル
(田中亘=飯田高訳)『法と経済学』(日本経済新聞社、2010 年)185~189 頁は、知的財産権の代わりに国が情報の創
造者に報奨金を支払い、その情報の利用は自由とする報償制度について国がその金額を決定することの困難性を認めつ
つも、知的財産権制度が報償制度に優るという明確で説得力のある根拠は存在しない、と述べる。
4
中山信弘『マルチメディアと著作権』(岩波書店、1996 年)4~9 頁、小田切・前掲注(2)196~197 頁、田村・前掲
注(3)『市場・自由・知的財産』93~95 頁、田村・前掲注(3)『知的財産法第 5 版』17~19 頁
5
以下に紹介するもの以外にも、本報告書所収の山根崇邦論文において紹介された米国の先行研究や、時間的には若干
古いが、米国の先行研究を網羅的に整理した中山一郎「『プロパテント』と『アンチコモンズ』:特許とイノベーショ
ンが示唆する『プロパテント』の意義・効果・課題」(2002 年)RIETI Discussion Paper Series 02-J-019 も参照。
6
2004 年には約 13 万件であった中国の出願件数は、2011 年には世界一となり、2013 年は 80 万件を超えている。また、
米国の出願件数も、2004 年は約 36 万件であったが、2013 年には約 57 万件に増加している。同期間に日本の出願件数は、
約 42 万件から約 33 万件に減少しているが、2001 年の約 44 万件に達するまでは増加していた。各年の特許庁「特許行
政年次報告書」参照。
7
Bronwyn H. Hall and Rosemarie H. Ziedonis, The Patent Paradox Revisited : an empirical study of patenting
in the U.S. semiconductor industry, 1979-1995, 32 RAND J. of ECON. 101(2001).
- 91 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
没費用(サンクコスト)化してしまう。そこで、事業者が、埋没費用の発生を防ぎ、クロスライセン
スの交渉材料とするため、多数の特許を取得する結果、パテント・ポートフォリオ競争が生じるとい
うわけである。そして、Hall and Ziedonis は、実際に、従業員一人当たりの資本といった指標で測っ
た資本集約度が大きくなるほど、特許性向(研究開発費当たりの特許件数)も大きくなることを統計
的に分析している。彼等は、そのような傾向が、米国において特許保護が強化された 80 年代後半以降
に顕著になることも示し、そのような現象を、それまで創出されていたが特許化されなかった発明を
特許として「収穫」(harvest)したに過ぎないと指摘している。また、別の表現をするならば、この
パテント・ポートフォリオ競争の下での特許は、他者排除という排他権本来の機能ではなく、事業活
動の自由を確保する機能を果たしており、パテント・ポートフォリオ競争のための出願は、戦略的特
許出願(Strategic patenting)とも呼ばれることがある。戦略的特許出願(Strategic patenting)
第
三
章
の存在は、特許出願件数の増加ほどには創作活動が活性化していないことを示唆している。
また、日米の発明者に対して特許を取得する動機を尋ねた実証研究8では、日米共に、動機として非
常に重要又は重要であるとの回答のトップ 3 は、多い順に、排他的な商業利用、ブロッキング(自社
技術と似た技術を他社が商業化することを防ぐ)、純粋な防衛(他社の特許化で自社技術の利用がブ
ロックされないために特許を取得)である。1 番目と 2 番目の動機は、他社排除を目的とするものであ
るから、特許が排他権として機能し、インセンティブが高められている証左であると見る余地があ
る。しかし、この調査は、実際に特許出願についての最終判断を行う企業ではなく、発明者に対して
特許出願の動機を聞いたものであるから、発明者は自らの発明を重視しがちであるという認知バイア
スによって排他権の重要性がより強調されている可能性を考慮する必要があろう。また、それでも第 3
位に純粋な防衛目的が挙げられていることは、前述した戦略的特許出願の存在を裏付けているといえ
る。
以上のとおり、特許出願の目的が必ずしも他者排除やフリーライドの防止といった点に限られず、
発明の創出後の事情によっても特許を取得するか否かが左右されることを踏まえるならば、特許出願
件数の増加という見かけほどには、創作活動は活性化していないということになろう。
(2)特許保護と企業の競争優位
特許保護が見かけほどは創作活動を活性化させていないとしても、発明の特許保護が企業の競争優
位に寄与しているのであれば、なお企業は研究開発成果を利益確保に結び付けているという意味にお
いて、特許制度のインセンティブ機能は作用しているともいえる。
この点について参考となる先行研究は、イノベーションから生じる社会全体の利益のうち創作者が
享受できる利益の程度を示す専有可能性(Appropriability)という概念を用いて特許の有効性をアン
ケートによって調査したイェ-ルサーベイと呼ばれる研究9 をはじめとする一連の研究である。その
後、日米両国で類似の研究が行われており、米国の新たな研究10 は先のイェールサーベイと区別して
8
長岡貞男「企業は何故特許を取得するのか、また開示情報は如何に重要か:日米の発明者サーベイからの知見」知的
財産法政策学研究 39 号(2012 年)1頁
9
Richard C. Levin, Alvin K. Klevorick, Richard R.Nelson, and Sidney G. Winter, Appropriating the Returns
from Industrial Research and Development, 3 Brookings Papers on Economic Activity 783(1987).
10
Wesley M. Cohen, Richard R. Nelson, John P. Walsh, Protecting Their Intellectual Assets: Appropriability
Conditions and Why U.S. Manufacturing Firms Patent (or Not), NBER Working Paper No. 7522 (2000).
- 92 -
カーネギーメロンサーベイ(以下 CMS と略)と呼称されているが、以下では、米国部分について基本
的に CMS と同様のデータを用いた我が国の研究11(調査時点は 1994 年)を紹介する。
それによれば、表-1のとおり、専有可能性確保の手段としては、日米共に、製品の先行的な市場化
(リードタイム)が有効と答えた企業が最も多い。また、「プロパテント」政策を強力に推進してき
たはずの米国よりも、日本の方が特許の有効性が高いという結果も興味深い。ただし、医薬品産業に
おいては特許の有効性が高く評価されている12。
【表-1】製品イノベーションの専有可能性を確保する方法の有効性
1
2
3
4
5
6
7
8
日本
先行的市場化(リードタイム)
特許による保護
製造設備・ノウハウの保有・管理
販売・サービス網の保有・管理
技術情報の秘匿
生産・製品設計の複雑性
他の法的保護
その他
米国
先行的市場化(リードタイム)
技術情報の秘匿
製造設備・ノウハウの保有・管理
販売・サービス網の保有・管理
生産・製品設計の複雑性
特許による保護
他の法的保護
その他
(出所:後藤=永田・脚注(11)18 頁に基づいて作成)
【表-2】新製品・サービスからの利益を確保する手段
1
1
3
4
5
5
特許・実用新案による保護
企業及び製品・サービスのブランド力の構築・活用
企業秘密化、秘密保持契約の締結
製品・サービスの先行的な市場投入
需要変動に柔軟に対応しうる生産システムの整備
販売・サービス網の整備
…以下省略
利益確保手段として
選択された割合
64.0%
64.0%
60.6%
57.1%
50.6%
50.6%
(出所:科学技術政策研究所・脚注(13)86 頁に基づいて作成)
日本では、その後も、同様の調査が行われており、2013 年の調査結果13(表-2 参照)によれば、特
許・実用新案による保護は、企業及び製品・サービスのブランド力の構築・活用と並んで最も重視さ
れている。もっとも、各手段の数字の差はそれほど大きくなく、2012 年の調査結果14では、秘密保持契
約が 1 位で、企業秘密化が 2 位、特許・実用新案による保護は 3 位となっている。
以上のとおり、特許は利益を確保する有効な手段の一つであるが、企業は多様な手段を用いて利益
の確保に努めており、特許がなければ利益が確保できないといったわけでもないことが分かる。もっ
とも、産業による相違については留意が必要である。
11
後藤晃=永田晃也『イノベーションの専有可能性と技術機会』NISTEP REPORT48(1997 年)
Cohen et al. 前掲注(10) Table 1, 後藤=永田・前掲注(11)20 頁、長岡・前掲注(8)8~9 頁(ただし、医薬
品では、特許化による排他的な商業利用の重要性が高いのに対して、日米共に、バイオテクノロジーでは排他的な商業
利用の重要性が低い。)。
13
科学技術政策研究所「民間企業の研究活動に関する調査報告 2013」NISTEP REPORT 160(2014 年)85~86 頁
14
科学技術政策研究所「民間企業の研究活動に関する調査報告 2012」NISTEP REPORT 155(2013 年)98~99 頁によれば、
秘密保持契約を重視している企業は 61.3%、企業秘密化が 56.3%、特許・実用新案が 54.3%である。
12
- 93 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
(3)パテント・プレミアム
近時、パテント・プレミアム(Patent Premium、以下「PP」と略する。)を計測して特許制度の経
済効果を算出しようとする研究も見られる。PP とは、特許取得によりイノベーションの価値が何倍高
くなるかを示す乗数であり、この数値が1なら特許を取得してもイノベーションの価値は変わらない
ことを意味する。日本について調査した先行研究15によれば、 技術分野全体の PP 期待値は 0.79~1.03
の間にあると推計されており、特許の取得は、イノベーションの価値を低下させるか、せいぜいその
価値を変更させないにとどまる。ただし、分野別では、医薬品が 1.34~1.76 と最も高い。また、イノ
ベーションのうち特許を取得したものに限ると PP 期待値は 1.55~1.79 であり、この場合においても
医薬品は 1.77~2.19 と最も高い。このことは、イノベーション全体で見る限り特許はそれほど有用で
第
三
章
はないが、中には、特許取得がイノベーションの価値を高める技術分野もあり、また、現に特許が取
得されるような一部のイノベーションについても同様に特許によりイノベーションの価値を高められ
ていることを示唆している。その上で、この研究は、そのように特許が有用な限定的なイノベーショ
ンがもたらす高収益により、全体として研究開発投資が 29%増加すると推計している。特許が万能で
はなく、限定された場合に有効であるとの分析自体は、それまでの先行研究とも整合的であるが、そ
の限定的に有効とされた特許の効果が全体の研究開発費を押し上げるとの推計は興味深いものであ
る。もっとも、特許制度の設営と運用には相応のコストを要することとの関係で、約 3 割の研究開発
費増加効果がそれに見合うものであるのか否かは必ずしも定かでないように思われる。
(4)小括
紙幅の関係上、本稿で紹介する先行研究は僅かであるが、それ以外の先行研究を踏まえても16、先行
する実証研究は多義的である。特許制度の全般的な経済効果について明確にプラスであるとする研究
は多くはないが、他方でマイナスの影響しかないとする研究も少ない。また、限定的にみれば特許が
有効である場面もある。特に産業によって特許制度の効果は異なっており、製薬・バイオ産業では特
許が有効に機能していると考えられる反面、それ以外の産業ではそれほど明確ではない。よって、総
じていえば、特許制度の全般的な経済効果は不明確であると言わざるを得ないであろう。
この点に関して想起されるのが、50 年以上前に、米国議会の求めに応じて、特許制度の経済効果を
調査した MACHLUP の先行研究である。それによれば、当時の様々な先行研究を整理分析した MACHLUP が
出した結論は、特許制度が社会にとってプラス、マイナスいずれの効果を有するかは不明であり、
もっとも無難な政策的結論は、「どうにかこうにかやっていく」ことであるというものであった17。そ
れから 50 年以上が経過し、少なからぬ実証研究がなされたものの、依然として MACHLUP の結論と状況
はそれほど変わらないように思われる。
そのように特許制度の経済効果を実証的に明らかにすることが困難であることは、功利主義ないし
15
山田節夫『特許の実証経済分析』(東洋経済新報社、2009 年)225 頁~248 頁。なお、パテント・プレミアムの計測
を最初に行ったのは、Ashish Arora, Marco Ceccagnoli, and Wesley M. Cohen, R&D And The Patent Premium, NBER
Working Paper 9431(2003)である。
16
本報告書所収の山根崇邦論文や中山一郎・前掲注(5)において紹介された先行研究を参照。
17
FRITZ MACHLUP AN ECONOMIC REVIEW OF THE PATENT SYSTEM, 79-80(1958)〔土井輝生訳『特許制度の経済学』(日本
経済新聞社 1975 年)188~189 頁〕
- 94 -
帰結主義の前提からのみ特許制度を正当化することの限界を示しているようにも見える。ここに、冒
頭に述べた基礎理論に関する他のアプローチ(哲学的アプローチや歴史的・事例研究的アプローチ)
を検討する意義の一つがあると思われる。
他方において、知的財産権制度の効率性の測定の困難性を認めた上で、知的財産権制度の正当化
は、効率性のみに求めるのではなく、そのような制度を採択するプロセスの民主的正統性にも求める
ことも提唱されている18。そのように考えるのであれば、厳密に特許制度の経済効果が検証されなくと
も、なお創作インセンティブ論の見地から特許制度を正当化する余地は残されていることになろう。
とはいえ、実証的な先行研究の成果は、特許制度をめぐる政策立案において、特許保護の強化が創
作活動を刺激し、それが企業の競争優位の獲得につながることを無条件の前提とすべきでないことを
示唆している。また、それら先行研究によれば、どのような特許制度が望ましいかは、産業により異
なり得るが、それに止まらず、専有可能性の調査結果が時系列的に変化するように、時代によって
も、あるいは国によっても異なるとも考えられる。
4.特許制度の制度設計に際しての留意点
(1)国際ルールと各国の裁量
望ましい特許制度が国毎に異なり得るといった場合に問題となるのは、TRIPS 協定をはじめとする国
際ルールとの関係である。1995 年に発効した TRIPS 協定は、知的財産分野において、多国間のミニマ
ム・スタンダードを定めるものであるが、それ以降も、FTA や ACTA により、TRIPS 協定プラスのルー
ルが形成されつつある。そのことは、今日の経済活動のグローバリゼーションが特許制度の国際的調
和の要請を高めていることからすれば、自然な流れであるようにも見える。他方、そのような国際
ルールの存在は、各国の制度設計の自由の制約条件となる側面をも有している。
例えば、TRIPS 協定 27 条は、特許は、特許要件を充足する全ての技術分野の発明について付与され
るべきであるとして、技術分野による差別を禁止している。ところが、日本の特許制度の歴史を振り
返れば、1975 年の法改正まで物質特許が認められておらず、原子核変換の方法により製造されるべき
物質の発明についても 1994 年の法改正まで不特許事由とされていた。これらの不特許事由は、該当す
る産業分野における技術開発力が低かったことによるものと説明されている19。そのような保護主義的
発想が望ましいか否かはともかく(4.(2)参照)、TRIPS 協定以前であれば、そのような制度設計の
自由も認められていたわけであるが、同協定 27 条はそのような制度設計の自由を制限している20。
ただし、TRIPS 協定の下でも各国の裁量の余地がないわけではない。同協定 27 条 2 項及び 3 項は、
一定の不特許事由の存在を認めているし、例えば「発明」をどのように定義するかも各国の自由であ
る。また、同協定 6 条が定める消尽のように、各国が同意しないことに同意するといった形で明示的
18
田村善之「知的財産法政策学の試み」知的財産法政策学研究 20 号(2008 年)4~5 頁、田村・前掲注(3)『知的財
産法第 5 版』9~10 頁
19
特許庁編『工業所有権法(産業財産権法)逐条解説〔第 19 版〕』(発明推進協会、2012 年)94~96 頁
20
田村善之「知財立国の動向とその将来像」同『ライブ講義知的財産法』(弘文堂、2012 年)12 頁は、日本の知的財
産法が TRIPS 協定の最低の保護水準に到達したのは、1994 年の TRIPS 協定の直前でしかなく、それを忘れて、途上国等
に現在の日本の保護水準の保護をあたかもそれが産業の発展に資するものであり、倫理的にも当然の理であるかのよう
に押しつけるのは、歴史認識としては正鵠を射ていないと指摘する。
- 95 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
に各国の裁量を認める例もある。このように、TPIPS 協定自体は一定の範囲で柔軟性を有しているとの
前提に立ち、同協定の下で許容され得る政策上の余地(Policy space)を明らかにしようとする試み
が国際的な研究者グループによって実施されている21。
もっとも、TRIPS 協定自体が一定の柔軟性を有しているとしても、FTA などにより TRIPS プラスの
ルールが形成されることは、各国の裁量の範囲の縮小と裏返しである。各国はその点を自覚しつつ、
交渉に臨む必要があろう。
(2)特許政策と国際競争力
各国が一定の範囲で特許政策を立案する自由を有することと、どのような政策が望ましいかは別の
第
三
章
問題である。そのような観点から、日本の特許政策立案上の留意点として、以下では、国際競争力の
問題を取り上げる。
日本の知的財産基本法 4 条は、「知的財産の創造、保護及び活用に関する施策の推進は…我が国産
業の国際競争力の強化…に寄与するものとなることを旨として、行われなければならない」と定めて
いる。確かに、特許法を例にとれば、同法の目的は産業の発達に寄与すること(特許法 1 条)である
から、そのような特許法の「産業政策」的性格からすると、特許政策が国際競争力の強化に寄与すべ
きと考えることに何ら問題はなさそうでもある。
しかしながら、「特許制度が『産業政策』である」という命題と、「特許制度はその国の産業の国
際競争力の強化に寄与すべきである」という命題は、似て非なるものである22 。経済学の知見によれ
ば、規範的にみて正当化され得る「産業政策」とは、「競争的な市場機構の持つ欠陥-市場の失敗-
のために、自由競争によっては資源配分あるいは所得分配上なんらかの問題が発生するときに、当該
経済の厚生水準を高めようとする政策である。しかもそのような政策目的を、産業ないし部門間の資
源配分又は個別産業の産業組織に介入することによって達成しようとする政策の総体」である23。特許
制度に当てはめれば、前述したとおり(2 参照)、無体物である発明は、消費の非競合性と非排除生と
いう公共財的性質を有しており、法的保護がなければフリーライドという市場の失敗が生じるから、
そのような市場の失敗を解決するために排他権を付与し、それにより産業の研究開発等の資源配分に
介入する政策が特許制度であるということができるだろう。
これに対して、再び経済学の知見を借りるならば、国際競争力の低下は、市場の失敗の存在を意味
せず、政策的介入の根拠とならない24。むしろ、国際競争力の低下が市場競争の結果であるとすれば、
市場は機能しているとはいえ、かえって自由な競争に委ねた方が国際競争力強化には資するかもしれ
ないのである。
また、そもそも「(国際)競争力」が曖昧な概念であることも注意すべきである。政府自身も、そ
21
Max Planck 研究所の Hilty 教授らが主導し、各国の特許法研究者に呼びかけて作成された“Declaration on Patent
Protection : Regulatory Sovereignty under TRIPS ” http://www.ip.mpg.de/en/pub/news/patentdeclaration.cfm
[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]である。邦訳につき、田村善之=中山一郎訳「特許保護に関する宣言―法制度設
計に関する各国の主権と TRIPS 協定―」知的財産法政策学研究 45 号(2014 年)1 頁。
22
中山一郎「特許取引市場の機能と差止請求権制限の政策論的当否」日本工業所有権法学会 36 号(2013 年)140 頁、
中山一郎「知的財産政策と新たな政策形成プロセス」知的財産法政策学研究 46 号(2015 年)所収予定。
23
伊藤元重ほか『産業政策の経済分析』(東京大学出版会、1988 年)8 頁。
24
小宮隆太郎『日本の産業政策』(東京大学出版会、1984 年)6 頁
- 96 -
の点を自認しつつ、ひとまず「国際的な競争にさらされる中で、企業が高い所得を生む能力」と競争
力を定義した上で、「競争力のある企業は生産性、収益性とも高いはずである」と述べて25、競争力を
生産性、収益性に置き換えて理解しようとしているように見える。また、産業競争力強化法は「産業
競争力」について「産業活動において、高い生産性及び十分な需要を確保することにより、高い収益
性を実現する能力」(産業競争力強化法 2 条)と定義しており、ここでも、生産性や収益性に近いも
のとして理解されている。さらに、「国際競争力」が「曖昧さと危険性をはらんだ概念である」こと
を認めた上で、国際競争力のパフォーマンス指標としての生産性を議論する見解もある26。
国際競争力をそのように理解する限り、国際競争力か、生産性や収益性かは、単に用語の問題に過
ぎないともいえる。そしてイノベーションを通じた生産性の向上は経済成長の源泉であるという意味
においては、国際競争力ないし生産性が高いに超したことはない27。特許制度の正当化根拠を市場の失
敗に求める場合も、市場の失敗を放置したままでは生産性が低下するから、特許制度は、市場の失敗
を解決し、産業部門の生産性を向上させることで、産業の発達を図る制度であるともいえる。
もっとも、そうであるとしても(国際)「競争力」という観点から政策を考えると保護主義を招き
かねない等の危険性が指摘されている28。この点が懸念される具体例として、以下では、一つの政策を
取り上げてみたい。
日本の産業技術力強化法 19 条は、日本版バイ・ドール制度と呼ばれる。同条は、米国のバイ・ドー
ル制度を参考に、国等が委託し又は請け負わせた研究開発の成果についての知的財産権を一定の条件
の下で受託者又は請負者に帰属させることを認めるものであり29、この制度の下では受託者が知的財産
権を移転等する際には、国の事前承認を受ける必要がある(同法 19 条 1 項 4 号)。そして経済産業省
の委託契約の場合には、事前承認の際、知的財産権の移転等が我が国の国際競争力の意義に支障を及
ぼすこととなる研究開発の成果の国外流出に該当しないか否かが、承認の可否における考慮事項の一
つとされている30。
同様の点は、大学発明の活用についても当てはまり、文部科学省の審議会は、「大学等は、その研
究開発の成果について、…我が国の国際競争力の維持に支障を及ぼすこととなる技術流出の防止に努
める必要がある。」と述べている31。
25
内閣府「平成 25 年度年次経済財政報告」(平成 25 年 7 月)159 頁、なお、「国際競争力」という語の曖昧さ、多義
性については、友寄英隆『「国際競争力」とは何か』(かもがわ出版、2011 年)10~48 頁も参照。
26
元橋一之『日はまた高く 産業競争力の再生』(日本経済新聞社、2014 年)46 頁、75~102 頁。なお、同書 54~74
頁では、国の国際競争力の議論の際にしばしば言及される IMD による国際競争力ランキングの内容や課題などが分析さ
れている。
27
長岡貞夫「日本企業の生産性とイノベーション・システム」藤田昌久=長岡貞夫『生産性とイノベーションシステム』
(日本評論社、2011 年)1~3 頁、元橋・前掲注(26)80 頁以下。
28
ポール・クルーグマン「競争力という危険な幻想」同(山岡洋一訳)『クルーグマンの良い経済学悪い経済学』(日
本経済新聞社、1997 年)18 頁。
29
この場合の受託者には大学に限らず民間企業を含むが、対象となる国の資金が委託・請負に限られ、大学向けの補助
金を含まないことからすれば、実際にはむしろ民間企業が主に適用対象となると思われる。なお、日米バイ・ドール制
度の比較については、中山一郎「日米バイドール制度と大学発明の特許化・ライセンス」椙山敬士ほか編『ライセンス
契約』(日本評論社、2007 年)125 頁参照。
30
これは、研究開発力強化法 41 条 1 項が同旨を定めていることを受けたものである。経済産業省産業技術政策課成果
普及・連携推進室「経済産業省における日本版バイ・ドール制度の事前承認制の適用について」知財ぷりずむ 9 巻 97 号
(2010 年)75 頁。
31
科学技術・学術審議会産業連携・地域支援部会大学等知財検討作業部会「イノベーション創出に向けた大学等の知的
財産の活用方策」(平成 26 年 3 月 5 日)9 頁。
http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/04/01/1346117_1.pdf[最終
アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
- 97 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
しかし、大学発明を海外企業にライセンスしたり、特許権を譲渡したりしたところで、ライセンス
を受けなかった日本企業の生産性が変化するわけではないから、そのような要請は保護主義的な発想
に基づくものと考えられる。
また、そもそも大学発明の利用率は極めて低い。2012 年時点で見ると、全企業平均の特許利用率が
約 51.6%であるのに対して、大学・TLO の利用率は約 18.0%と、全産業平均の半分以下に過ぎない32。
そもそも大学が特許を取得する意義は、ライセンス等を通じて技術移転を促進することにあると考え
られるのであるから、大学等における利用率の低さは、特許出願自体が自己目的化している、あるい
は、出願段階の見極めが不十分である可能性を示唆している33。とすれば、むしろ利用率の低さこそが
問題であるにもかかわらず、海外企業へのライセンス等を制限しようとすることは、本末転倒と言わ
ざるを得ない。まさしく国際競争力を掲げる政策の危険性を示すものといえよう。
以上
第
三
章
32
特許庁「平成 25 年知的財産活動調査結果の概要」7 頁
http://www.jpo.go.jp/shiryou/toukei/pdf/h25_tizai_katsudou/kekka.pdf[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
33
中山一郎「大学特許の意義の再検討と研究コモンズ」知的財産研究所編『特許の経営・経済分析』(雄松堂,2007 年)
301 頁。
- 98 -
Ⅱ.知財制度の在り方に関する基礎理論の研究
同志社大学
山根 崇邦 准教授
1.はじめに
本稿では、「知財制度の在り方に関する基礎理論の研究」について検討する。
そもそも、なぜ知財制度の在り方を再考する必要があるのだろうか。現在では、日中両国におい
て、知的財産を保護する法制度が既に制定されている。そうであれば、なにも知財制度の在り方を再
考しなくても、現行制度のもとで生じる具体的な問題について、関連する条文の解釈・適用の在り方
を議論すれば十分ではないか、という疑問も生じえる。
実際、日本の知財法学においては、伝統的に、実務に資する実学としての知的財産法研究が志向さ
れてきた。例えば、1993 年に公刊された中山信弘教授の体系書では、工業所有権の本質論が、法制史
としての意義はともかく、解釈論や立法論にとって実益を有することは稀だという認識が示されてい
た1。現在でも、条文の解釈や判例の分析を重視する実学志向が強いというのが、学界全体の傾向であ
るように思われる。
(1)知財制度の在り方を再考する必要性
では、なぜ今、知財制度の在り方を再考するのか。その理由として、ここでは次の 2 点を指摘して
おきたい。
(ⅰ)より良い社会を実現するための道具としての知財制度
1 つは、知財制度はそれ自体で固有の価値をもつものではないという点である。知財制度に限らず、
法制度はより良い社会を実現するための道具である。もちろん、どのような社会をより良いものとし
て想定するのか、法制度の目的として何を選択すべきか、ということは大きな問題である。しかし、
こと知財制度に関する限り、この点についてはおおむねコンセンサスがあるように思われる。
例えば、日本の特許法は、第 1 条において、その法目的を次のように規定している。「この法律
は、発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的
とする。」同様に、日本の著作権法の第 1 条は、その法目的を、「この法律は、著作物並びに実演、
レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所
産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目
的とする。」と規定している。
それゆえ、これらの規定からは、日本の知財制度が、産業や文化の発展した社会をより良い社会と
して想定しており、そうした社会の実現に寄与することを法制度の目的として選択していることがう
1
中山信弘『工業所有権法 (上)』(弘文堂、1993 年)8 頁は次のように述べる。「工業所有権の本質論については、従
来多くの議論がなされ、この問題につきページを割く体系書も少なくない。これらの議論は、歴史的には極めて重要な
意味を有しており、かつ工業所有権という法分野の確立に大いに寄与したと考えられるが、現在においてはそれほど大
きな意味をもつとは考えられない。すなわち、現在においては、本質論により、解釈や立法に大きな差異の生ずること
はほとんどないであろう。」
- 99 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
かがえる。このように知財制度の意義を手段的に捉える場合には、現行の知財制度が社会の状態や個
人・組織にどのような影響を及ぼしているのか、その本来の目的をどの程度実現しているのかという
ことが、重要な検討課題になってくる。
(ⅱ)知財制度の意義に対する懐疑の広がり
もう 1 つは、今述べた点と関連するが、近年、知財制度の意義に対する懐疑が広がりつつある点で
ある。
①特許制度の危機
例えば、近年改訂された中山信弘教授の特許法の体系書のはしがきには、次のように記されてい
第
三
章
る。
「近年、特許制度の意義は大きく変化しており、長年特許法の研究に携わった者として考えさせら
れる問題も多い。たとえば世界の特許出願件数が激増し、中国では 2011 年に約 160 万件の出願があり
……、いずれ 200 万件に達することは間違いないであろう。日本の特許出願件数は、ピーク時には約
43 万件あったが、2010 年には 34 万件あまりと漸減傾向にあるが、それでも相当数の出願がある。こ
のような膨大な出願をウォッチすることはもはや不可能に近く、いわゆる『特許の藪』という現象が
起きている。電気分野のように、1 つの製品に極めて多くの特許権が絡んでいると、事前に侵害の調査
が困難になり、地雷原の中を走っているようなものである。特にスマートフォンに代表される電子機
器には多数の特許が関係しているために、世界中で特許紛争が勃発しており、その防護策として特許
権の買収も進んでいる。他方では、自らは実施しないが、訴訟で利益を漁るパテントトロールの存在
も無視しえなくなってきた。このような情況を見るにつけ、技術分野にもよるであろうが、果たして
特許制度がイノヴェーションの発展に寄与しているのか、はたしてイノヴェーションの発展を阻害し
ているのか、考えこまざるをえない。本書は体系書であり政策論を論ずるものではないが、解釈の根
本には理念が必要であり、特許政策と競争政策との調和ある発展ということを常に念頭において、解
釈論・立法論を行う必要があると痛感している。」2
中山教授はここで、日中両国の特許出願件数の急増による「特許の藪」の出現、それに伴う特許紛
争の増加、さらにはパテントトロールの横行などによって、特許制度の意義が変容しつつあることを
指摘している。周知のとおり、同様の問題は米国においてより深刻にみられる。
米国では長い間、イノヴェーションや経済発展にとって特許制度は不可欠の機能を果たすものと考
えられてきた。特許制度には企業の研究開発活動(R&D)を刺激し、イノヴェーションを促進するとい
う経済的機能が期待されてきた。しかし近年、特許制度が本来の機能を喪失し、むしろイノヴェー
ションの阻害要因となっているという見解が有力になりつつある。
そうした見解の代表例が、2008 年に刊行された James Bessen & Michael M. Meurer の研究である
3
。彼らは、米国の上場企業を対象として、1984 年から 1999 年までの期間に特許制度が各企業に対し
てどの程度の利益と費用をもたらしたのかを調査し、製薬・化学産業とそれ以外の産業とで特許制度
が果たす経済的効果に本質的な差異があることを明らかにした。そして、後者の産業分野、とりわけ
2
中山信弘『特許法(第 2 版)』(弘文堂、2012 年)i-ii 頁。
JAMES BESSEN & MICHAEL J. MEURER, PATENT FAILURE: HOW JUDGES, BUREAUCRATS
University Press, 2008).
3
- 100 -
AND
LAWYERS PUT INNOVATORS AT RISK (Princeton
ソフトウェア産業においては、1990 年代後半以降、特許制度の意義が破綻しているとの警鐘を鳴らし
たのである。
Bessen & Meurer の主張の骨子は以下の通りである。まず方法論として、米国の上場企業が特許制度
から受ける利益の額については、上場企業が米国のみならず世界各国で取得し保有する特許権から得
ている利益の額を対象として算出する。一方、上場企業が特許制度から受ける費用の額については、
主に国内の訴訟費用(上場企業が国内で特許権侵害訴訟に巻き込まれるリスク等)を対象として算出
する。このようにして特許制度の経済的効果を算定すると、次のような結果が得られる。
すなわち、製薬・化学産業においては、図表-1 のとおり、上場企業は特許制度から多大な利益を得
ている。そしてその額は、上場企業が特許制度から受ける費用の額を大きく上回っている。つまり製
薬・化学産業においては、特許制度がイノヴェーションを促進する手段として有効に機能していると
いうわけである。
第
三
章
【図表-1】
BESSEN & MEURER, at 139
これに対し、製薬・化学以外の産業、とりわけソフトウェア産業においては、図表-2 のとおり、
1990 年代半ばから、上場企業が負担する訴訟費用が高騰した。その結果、特許制度から受ける費用の
額が、特許制度から受ける利益の額を大きく上回るようになった。つまりソフトウェア産業において
は、特許制度がイノヴェーションを阻害しており、特許制度の意義が破綻しているというわけであ
る。
こうした Bessen & Meurer の警鐘は、その後、米国の知財法学界において広く共有され、「特許制
度の危機」として受け止められるようになった。そして、特許制度の廃止論をも視野に入れながら、
パテント・リフォームの議論が展開されることになったのである4。
以上に鑑みれば、中山教授の指摘を看過することはできない。特許制度の在り方を再考する必要性
は、日本においても高まっているように思われる。
4
MICHELE BOLDRIN & DAVID K. LEVINE, AGAINST INTELLECTUAL MONOPOLY (2008); DAN L. BURK & MARK A. LEMLEY, THE PATENT CRISIS
HOW THE COURTS CAN SOLVE IT (2009).
- 101 -
AND
第3章
研究内容の報告
【図表-2】
第
三
章
BESSEN & MEURER, at 139
②著作権制度の憂鬱
同様に、著作権制度の意義に対する懐疑も高まりつつある。その背景には、日本の著作権制度を取
り巻く環境が、1970 年の立法当時と現在とで劇的に変化しているという事情がある5。
第 1 に、著作権法の保護対象が急速に拡がり、それに伴って著作物の性質が多様化した。1980 年
代以降、情報技術に対する需要が高まった。それに伴い、情報技術に関わる創作物を著作権法によっ
て保護して欲しいとする声が産業界で高まった。同様の要請を米国から強く受けたこともあって、著
作権法は、1980 年代半ばにプログラムとデータベースを相次いでその保護対象に取り込んだ。従
来、著作権法の保護対象には、小説・音楽・絵画などの人格的色彩が強い著作物を中心とした一定の
均質性がみられたが、そこに経済的、産業的な色彩の強い異質な著作物が紛れ込むことになったので
ある。
第 2 に、情報の流通革命が生じた。従来、複製や放送などの著作物の利用行為をなすことができる
のは、ごく一部の業者(例えば出版社や放送局)であった。しかし、1990 年代以降のデジタル・ネッ
トワーク技術の急速な発展により、一般大衆でも質的に劣化のない複製をなすことが可能となった。
また、それを有体物の媒体とは切り離して流通に置き、公衆に発信することも容易になった。いまや
誰もが日常的に著作物を創作して公に発信するようになったのである。
第 3 に、著作物の創作目的やニーズが多様化した。従来、創作者とは主にプロの創作者を指した。
彼らの創作目的は、それが全てではないにせよ、著作権を頼りに収入を得て経済的に自律した生活を
送ることにあった。しかし、デジタル・ネットワーク技術が普及したことで、誰でもブログを書いた
り動画を撮影したりすることが可能になった。非プロの創作者の数が飛躍的に増加した。その結果、
収入の獲得ではなく、純粋に自己表現を目的とする創作活動が増えた。非プロの創作者のニーズは一
様でない。自己の著作物を多くの人に自由に利用してほしい、その際には、著作者名はきちんと表示
してほしい、営利目的では使ってほしくない、文章を改変されるのは嫌だなど、人それぞれである。
5
拙稿「著作権法における多様化現象の位相」瀬川晃ほか『ダイバーシティ時代における法・政治システムの再検証』
(成文堂、2014 年)135-142 頁。
- 102 -
創作者の属性が多様化したことで、ニーズも多様化したのである。
第 4 に、著作物の創作形態も多様化した。従来は、創作者が個人で創作活動を行うことが多かっ
た。そして、創作者は著作権に基づいて著作物の利用を独占的に管理しながら、創作活動に勤しむも
のと考えられてきた。しかし近時は、個人が著作物を独占的に管理するのではなく、一定のコミュニ
ティが著作物をそのメンバー間で広く共有し、協働で創作を行う事例が増えている。例えば、著作権
で保護されるプログラムについて、その開発や流通を特定のプログラマーが著作権に基づいて排他
的・独占的に管理するのではなく、むしろ開発されたプログラムをプログラマーの集団内において広
く共有し、集団メンバーが協働してその改良に取り組むことで、技術的にも優れたプログラムを開発
する動きがみられる。こうした動きは、一般にオープンソース・ソフトウェア運動と呼ばれ、Linux が
その象徴として挙げられる。
以上のように、現在の著作権制度においては、保護対象の多様化に加えて、創作環境と利用・伝達
環境の双方が大きく変化している。そして、こうした動的な環境にいかに対応するのかということ
が、著作権制度の課題となっている。
しかしながら、現行の著作権制度は、物権法的な基本構造を堅持しており、これらの変化や多様性
に柔軟に適応するものとはなっていない。すなわち、著作物を無断で利用する行為は、それが著作権
法上の支分権と抵触する場合には、権利制限規定の適用を受けない限り、原則すべて禁止される。著
作物の利用を望む者は、逐一、個別に許諾を求めなければならない。これが現行の著作権制度のルー
ルだというわけである。
こうした著作権制度の硬直性ゆえに、現在、デジタル・ネットワーク技術を介して物理的には自由
にできるようになった行為が、著作権法によって法的に、人工的に禁止されている、という感覚が社
会の中で生じている。こうした感覚が 1 つの引き金となって、近年、欧州を中心に反著作権思想が広
がりつつある6。
また、コモンズの思想も興隆しつつある。コモンズの思想とは、情報の共有こそ文化の発展の基礎
となるとする見解のことである。先ほどのオープンソース・ソフトウェア運動をはじめとして、近時
は、コモンズの思想に立脚した創作活動が増えつつある。このことは、情報の専有を軸とする著作権
制度の意義それ自体に疑問を投げかけている7。
中山信弘教授によれば、著作権制度が置かれているこうした状況は、「著作権法の憂鬱」というべ
きものである。しかし、このような状況だからこそ、「なぜ著作権制度が必要なのか、著作権制度は
いかなる機能を果たすべきか、その正当化根拠はどこにあるのか、という壮大な構想に思いを致す時
になっている」というわけである8。
以上に鑑みれば、特許制度のみならず著作権制度についてもまた、その在り方を再考する必要性が
高まっているように思われるのである。
(2)知財制度の在り方を再考するためのアプローチ
では、どのような観点から知財制度の在り方を再考するのが適切か。これには複数のアプローチが
6
7
8
中山信弘「著作権法の憂鬱」パテント 66 巻 1 号 107-108 頁(2013 年)。
中山信弘『著作権法(第 2 版)』(有斐閣、2014 年)ⅱ-ⅲ頁。
中山信弘「著作権制度の俯瞰と課題」ジュリスト 1461 号 84 頁(2013 年)。
- 103 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
考えられる。
(ⅰ)統計的・経済学的アプローチ
例えば、現行の知財制度が、産業・文化の発展にどの程度寄与しているのか、あるいは阻害してい
るのかを統計的に検証し、その結果をもとにリフォームの方向性や具体的内容を検討することが考え
られる。
本報告書所収の中山一郎教授の論考は、正にこのような観点から、特許制度の経済的効果を検証す
る日米の先行研究を渉猟した上で、特許制度の制度設計上の留意点について検討するものである。そ
れゆえ、本アプローチの詳細については中山教授の論考を参照していただきたい9。
ここでは、先ほど少し触れた Bessen & Meurer の研究のアプローチを紹介することにしたい。前述
第
三
章
の通り、Bessen & Meurer が統計データを用いて明らかにしたところによれば、特許制度が米国の上場
企業に対してもたらす経済的な効果は、産業ごとに大きく異なる。とりわけソフトウェア産業におい
ては、1990 年代半ば以降、上場企業が負担する訴訟費用が急騰し、特許制度から受ける費用の額がそ
の利益の額を大幅に上回るようになった。そのため、同産業では特許制度の意義が破綻しているとい
うことであった。
ここで問題となるのは、なぜソフトウェア産業では 1990 年代半ばから訴訟費用が高騰したのか、な
ぜソフトウェア産業と製薬・化学産業とで大きく結果が異なるのか、という点である。
このうち、前者の理由として考えられるのは、In re Alappat, 33 F.3d 1526 (Fed.Cir. 1994)や
State Street Bank v. Signature Financial Group., 149 F.3d 1368 (Fed.Cir. 1998) が 、 ソ フ ト
ウェア特許やビジネス方法特許の保護基準を緩和したことにより、90 年代半ば以降、ソフトウェア関
連特許が急増したことである10。
一方、後者の理由として Bessen & Meurer は、ソフトウェア特許の公示機能の問題を挙げている。
すなわち、化学の特許であれば、分子構造や混合物の組成を明確に定義することが可能であり、権利
の境界が明確である。それゆえ、競業者は、特許にクレームされた分子と実際に侵害の対象となる分
子の構造とを直接対比して判断することができる。その意味で、化学の分野においては特許の公示機
能が有効に働いている11。
これに対し、ソフトウェア特許の場合、技術自体が抽象的であるために、クレームの文言も曖昧か
つ抽象的なものが多く、権利の境界が不明確である。クレームの中には、特許権者が発明をしていな
い技術まで権利範囲とするものもある。競業者は、クレームをみても、どのような技術であれば権利
の範囲に含まれるのか、あるいは含まれないのかを明確に判断することが難しい。実際、統計による
と、ソフトウェア特許に関しては、クレームの解釈をめぐって控訴審まで争われる割合が全体平均の
2.18 倍、化学特許の 2.45 倍にのぼっている(図表-3 中央列)。このことは、ソフトウェアの分野に
おいては特許の公示機能を有効に働いていないことを示唆している。こうした公示機能の不全ゆえ
に、ソフトウェア産業では特許訴訟に巻き込まれるリスクが高いというわけである12。現に、統計によ
9
日本における先駆的な業績として、中山一郎「『プロパテント』と『アンチコモンズ』」RIETI Discussion Paper
Series 02-J-019(2002 年)。
10
BESSEN & MEURER, supra note 3, at 150-151.
11
Id. at 152.
12
Id. at 187-214.
- 104 -
れば、ソフトウェア産業における特許 1 件あたり訴訟率は、全体平均の 2.3 倍、化学産業の 4,18 倍に
のぼっている(図表-3
左列)。また、2002 年に米国で提起された全特許訴訟の内訳をみると、ソフ
トウェア特許の訴訟が実に 4 分の 1 強(26%)を占めており、化学特許訴訟(13%)の 2 倍にのぼる
ことが分かる(図表-3 右列)。
【図表-3】
第
三
章
BESSEN & MEURER, at 191
以上をもとに、Bessen & Meurer は、特許制度の経済的機能の向上を図るためには、特許権の公示機
能の改善を、リフォームの目標に据えることが重要であると結論づけている。特許制度の危機の一端
が特許の質の低下(有効性の疑わしい特許の増加)にあることについては、彼らも同意する。しかし、
統計データによれば、特許の無効率自体は、産業分野ごとに大きな差異はないという。このため、特
許の質の低下によっては製薬・化学以外の産業(特にソフトウェア産業)における訴訟費用の高騰を十
分に説明することができない。それゆえ、パテント・リフォームにおいては、特許の質の改善ではな
く、特許権の公示機能の改善を目標とすべきだというわけである13。
以上の Bessen & Meurer の提言は、そのまま日本に当てはまるわけではない。米国においても異論
があり得る。けれども、彼らの議論は、統計的・経済学的アプローチを用いることで、パテント・リ
フォームの議論の見通しを良くし、議論の生産性を高めることに貢献している。こうした点は日本に
とっても参考になるように思われる。
(ⅱ)哲学的アプローチ
別のアプローチとしては、功利主義、自由論、正義論、権利論など哲学的な観点から、知財制度の
在り方を再考することが考えられる。
例えば、功利主義は、社会の幸福が最大になることを社会の最も重要な目的とする考え方である14。
この点、知財制度は、前述の通り、産業や文化の発展に寄与することを法の究極の目的としている。
13
Id. at 215-234.
JEREMY BENTHAM, AN INTRODUCTION
Clarendon Press, 1996).
14
TO THE
PRINCIPLES
OF
MORALS
AND
LEGISLATION (1789; J. Burns & H.L.A. Hart eds.,
- 105 -
第3章
研究内容の報告
それゆえ、産業や文化の発展が、社会の最大幸福に資するものと考えるならば、知財制度は、広い意
味で功利主義的な考え方に立脚した法制度であるということができる。
もっとも、その先の具体的な制度設計の在り方に関しては、功利主義の考え方から一義的に導かれ
るわけではない。功利主義の考え方は、多様な制度構想を受容し得る可能性を秘めている。具体的に
は、先ほどの統計的・経済学的アプローチに基づく制度構想であれ、自由や正義や権利に着目した哲
学的アプローチに基づく制度構想であれ、それが産業・文化の発展を阻害するようなものでない限
り、功利主義の考え方のもとで受け入れられる可能性があるように思われる。
そこで、本稿では、哲学的なアプローチの中でも、主に自由論の観点から、知財制度の在り方を再
考することにしたい。その理由は、知財制度の保護対象の性質が「自由の共存」という問題を提起す
るからである。
第
三
章
すなわち、知財制度の保護対象は、発明や著作物といった無体物である。これらの無体物には、法
的保護が与えられなければ、公共財として誰でも自由に利用できるという性質がある。それゆえ知財
制度による無体物の保護には、この本来自由に成し得るはずの人々の利用行為を制約するという側面
がある。加えて、無体物には物理的な境界がないため、無体物の利用を行おうとする者は、その行為
が侵害に当たるのかどうかを感覚的、外形的に判断することができない。法によって無体物の利用行
為を広範に禁止する場合には、行為者の予見可能性を害しやすいのみならず、行為者は自らの行動の
自由が過度に人工的に規制されているという感覚を抱きやすい。先ほど著作権制度の憂鬱として紹介
した反著作権思想の広がりの背景には、こうした自由規制の感覚があるものと思われる。
アメリカの法哲学者 Jeremy Waldron によれば、「知的財産制度は自己正当化が可能なものではな
い。我々は、制度がなかった場合に比べて行動の自由が制約されたと感じる者に対して、その制度を
正当化する義務を負っている」のである15。
Waldron は続けてこう述べる。「複製をなす者は、オリジナリティに欠ける剽窃者であるとか、他人
の作品の盗作者として侮辱を受けるかもれないが、それでもなお彼らは知的財産法の直接的な影響を
受ける者なのである。知的財産法は、彼らの行為から話し方、生計の立て方に至るまで、その行動の
パターンに影響を及ぼし、彼らの行動の自由を制約しているのである。現状において我々が知的財産
制度を正当化する義務を負っているのは、潜在的な複製者に対してである。」16
以上のように、知財制度においては、知的財産を創作する者の自由と知的財産を享受する者の自由
とが鋭く対立している。こうした中で、いかにしてこれらの自由の共存を図るのかということが、知
財制度の根本的な課題なのである。それゆえ、自由論の観点から検討を加えることは、こうした課題
の解決に向けた取り組みとして有益であるように思われる。
(ⅲ)歴史的・事例研究的アプローチ
さらに別のアプローチとして、歴史的な観点や事例研究の観点から、知財制度の在り方を検討する
ことも考えられる。
例えば、オランダは 1869 年から 1912 年にかけて、またスイスは 1850 年から 1907 年にかけて、そ
れぞれ特許制度を廃止した経験をもつ。そこで、この廃止時期における両国の国内産業状況を分析す
15
Jeremy Waldron, From Authors to Copiers: Individual Rights and Social Values in Intellectual Property,
68 CHI.-KENT. L. REV. 841, 887 (1993).
16
Id.
- 106 -
ることで、特許制度の存在意義を再考する手がかりを得られるかもしれない。実際、そのようなアプ
ロ ー チ を 行 う 研 究 も 存 在 す る 。 そ れ が 、 ERIC SCHIFF, INDUSTRIALIZATION WITHOUT NATIONAL PATENTS: THE
NETHERLANDS 1869-1912, SWITZERLAND 1850-1907 (Princeton UP, 1971)である。紙幅の都合上、本稿では
検討することはできないが、同書に示された知見は特許制度の在り方を考える上で示唆に富むように
思われる。
本稿においては、Linux や Wikipedia などのコモンズの事例を取り上げて、事例研究の観点から知
財制度の在り方を検討することにしたい。
例えば、Linux は、OS(Operating System;オペレーティング・システム)の一種である。特にサー
バ、メインフレーム、スーパーコンピュータ用の OS として世界的に高い評価を得ている。そうした
Linux の開発を担っているのは、世界中のボランティアのプログラマーかるなるコミュニティである。
Linux コミュニティは、そのプログラムソースコードを無償で公開し、一定の条件のもと、営利・非営
利を問わず誰でも自由にそのプログラムの複製、改良、頒布を行うことを認めている。彼らは、その
ようにして世界中のプログラマーの協力を得ながら、協働でプログラムの開発・改良に取り組み、優
れた OS を安定的に供給することに成功している17。
Wikipedia もまた協働創作の一例といえる。周知の通り、Wikipedia は、無料のオンライン百科辞典
である。Wikipedia の各項目は、誰でも記事を書いて投稿することができる。いったん投稿された記事
の内容は誰でも閲覧することができ、その内容の修正や編集を行うことも自由にできる。記事の内容
に誤りがある場合には、編集者や管理者のコミュニティが協働して修正を行う。Wikipedia の各ページ
には、編集履歴が自動的に記録されており、誰でも過去の内容を確認することができるようになって
いる。Wikipedia のコミュニティは、このように協働して各項目の内容を確認、修正、追加すること
で、各項目の質と信頼性を高めている18。
これらの事例においては、Linux のプログラムであれ Wikipedia の項目記事であれ、創作の成果物に
著作権が発生する場合が多い。こうした著作権の保護を受ける創作物であるにもかかわらず、情報の
専有ではなく情報の共有を軸とした協働創作環境を築いている点に、コモンズの事例の特徴がある。
では、コモンズの事例において、こうした著作権はどのように扱われ、どのような機能を果たしてい
るのだろうか。本稿ではこの点について検討し、著作権制度の在り方を再考するための手がかりを得
たい。
そこで以下では、自由論の観点から知財制度の在り方を再考するとともに、コモンズ事例の分析を
通して著作権制度の在り方を再考することにしよう。
17
ERIC S. RAYMOND, THE CATHEDRAL & THE BAZAAR: MUSINGS ON LINUX AND OPEN SOURCE BY AN ACCIDENTAL REVOLUTIONARY (Oreilly &
Associates, 2001); FREE SOFTWARE, FREE SOCIETY: SELECTED ESSAYS OF RICHARD M. STALLMAN (Joshua Gay ed., Introduction by
Lawrence Lessig, GNU Press, 2002); STEVEN WEBER, THE SUCCESS OF OPEN SOURCE (2004).
18
ANDREW LIH, THE WIKIPEDIA REVOLUTION: HOW A BUNCH OF NOBODIES CREATED THE WORLD’S GREATEST ENCYCLOPEDA (2009); JONATHAN
ZITTRAIN, THE FUTURE OF THE INTERNET - AND HOW TO STOP IT. ch. 6 (2008).
- 107 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
2.二つの自由概念に基づく知財制度の在り方の再考
(1)二つの自由概念
自由論の観点から知財制度の在り方を再考する場合、まず問題となるのは「自由」とは何かという
点である。「自由」の概念には大きく 2 つの意味があることを指摘したのは、イギリスの思想史家
Isaiah Barlin である。Berlin は、1958 年のオックスフォード大学教授就任講演において、消極的自
由(negative liberty)と、積極的自由(positive liberty)という、2 つの自由概念を区別すべきこ
とを提示した19。
Berlin によれば、消極的自由とは、自己がなす選択を他者から妨げられない、他者によって強制さ
第
三
章
れないという意味での自由である。これは、外的干渉からの自由ということができる。これに対し、
積極的自由とは、自らを統治する自己決定の能力、すなわち、自分自身の主人として自らが望む自己
の在り方を主体的に選択できるという意味での自由である。これは、自律や自己支配、自己実現とし
ての自由ということができる20。
積極的自由は精神的・道徳的な自己完成といった一定の目的を伴った概念であるのに対し、消極的
自由はそうした目的を伴わず、外部から干渉を受けないことそれ自体を重視する概念である。この点
に両者の違いがある。Berlin 自身は、積極的自由の意義を認めつつも、それが個人に対する抑圧に繋
がり得ることを懸念して、消極的自由を擁護した21。
以上に照らせば、「自由の共存」を課題とする知財制度についても、2 つの自由概念のうちどちらを
重視するかによって、その本質の捉え方や具体的な制度像が異なってくる。例えば、オーストラリア
の法哲学者 Peter Drahos は、知的財産の享受者の消極的自由を重視する立場から、知財制度の本質論
を展開している22。これに対し、アメリカの知的財産法学者 Robert P. Merges は、知的財産の創作者
の積極的自由を重視する立場から、知財制度の本質論を展開している23。両者の議論を比べてみると、
互いに対照的な知財制度像を提示していることが分かる。
そこで本稿では、知財制度の在り方を哲学的に再考するための叩き台として、Drahos と Merges の議
論を紹介することにしたい。
(2)享受者の消極的自由を制約する特権としての知財制度――Peter Drahos の構想
(ⅰ)問題意識
まず、Drahos の議論からみていこう。
知財制度の在り方を考えるうえで、どのような理論を基礎に据えるべきか。それは、有体物を対象
とする所有権と同じ理論でいいのだろうか。有体物を対象とする所有権の理論では、知的財産権と所
有権との権利の性質の相違をうまく捉えることができないのではないか。これらの問いは、Drahos が
19
ISAIAH BERLIN, TWO CONCEPTS OF LIBERTY: AN INAUGURAL LECTURE DELIVERED BEFORE THE UNIVERSITY
(Clarendon Press, 1958).
20
ISAIAH BERLIN, FOUR ESSAYS ON LIBERTY, Ch. 3 (Oxford UP, 1969).
21
Isaiah Berlin, Introduction, in FOUR ESSAYS ON LIBERTY (Oxford UP, 1969).
22
PETER DRAHOS, A PHILOSOPHY OF INTELLECTUAL PROPERTY (Dartmouth, 1996).
23
ROBERT P. MERGES, JUSTIFYING INTELLECTUAL PROPERTY (Harvard UP, 2011).
- 108 -
OF
OXFORD
ON
31 OCTOBER 1958
知財制度の哲学的基礎を考察する際に、分析視座として設定したものである。ここから、Drahos が、
知的財産権と所有権とを対比し、両者の異質性を強調しようとしていることがうかがえる。
もちろん、知的財産権と所有権との間に一定の同質性が存在することは、Drahos も認めている24。例
えば、所有権の 1 つの説明として、所有権とは他者がその権利の内容に規定された方法で干渉するの
を禁止する権利(禁止権)であるといわれる。土地に対する所有権は、他人がその土地を占拠した
り、賃貸したり、売却するといった所有権に定められた方法で干渉するのを禁止する権利である。こ
の意味では、知的財産権も禁止権であることに変わりはない。例えば、著作権は、他者がある著作物
を複製、上演、譲渡、公衆送信等するのを禁止する権利であるし、特許権も他者が特許発明の技術的
範囲に属する製品や方法を業として生産・使用・譲渡等する行為を禁止する権利である。
しかし Drahos によれば、知的財産権と所有権との間には重要な相違がある25。
その 1 つが客体の相違である。所有権の客体は、動産や不動産といった有体物である。一方、知的
財産権の客体は、発明や著作物といった無体物である。両者は、競合財かどうかという財の性質が異
なる。有体物は競合財である。ある人が消費すると他者はそれを消費できないという性質がある。例
えば、私が手元にあるリンゴを消費すれば、他者はもはやそのリンゴを消費することはできない。一
方、無体物(知的財産)は非競合財である。無体物には、他者の消費を減少させることなく、多数の
者が同時に消費可能であるという性質がある。例えば、私は本論文のデータを手元に保持したまま、
同一のデータを出版社に渡すことができる。しかも、本論文のデータを受け取った担当者は、私の手
元にあるデータを物理的に奪うことなく、いつでも、どこでも、そのデータを読んだり、プリントア
ウトしたり、編者に送信したりすることができる。そうした他者の行為によって、私自身が同様の行
為を成すことを妨げられたりはしない26。確かに、無権原の第三者が本論文のデータを無断でネット上
に公開することによって、私自身の人格的・経済的な利益が害されることはあり得る。しかしその場
合でも、私自身が本論文のデータを本報告書に寄稿して刊行すること自体は妨げられない27。
そうすると、競合財の利用を禁止する権利(所有権)と、非競合財の利用を禁止する権利(知的財
産権)とでは、権利の性質が異なるのではないか。Drahos はこのことを明らかにするために、禁止権
が各財の自己利用の確保にとって必要なものかどうか、また、禁止権が他者の消極的自由にどのよう
な影響をもたらすものなのかを検討している。
所有権の場合、禁止権は、所有者自身がその所有物を円満に利用するために必要なものである。私
が手元のリンゴを食べるためには、他人が食べるのを禁止する必要がある。これを「自由」との関係
でいえば、所有者が他者から妨げられることなくその所有物を消費できるようにするために(=所有
者の消極的自由を保障するために)、他者に対して不作為を強制する必要があるわけである(=他者
の消極的自由を制約する必要がある)。また、他者の消極的自由を制約するといっても、その範囲や
程度は限定的なものである。競合財には誰か一人が占有すれば他者の利用は排除されるという性質が
24
DRAHOS, supra note 22, at 211.
Id. at 211-212.
26
このように情報には、本来的に稀少性がなく、その行き渡る範囲が広がれば広がるほど、その情報を利用できる人が
純増するという性質がある(情報コモンズの喜劇)。正にこのような性質ゆえ、情報については古くから占有や所有権
の対象に馴染まないということが指摘されてきた。
27
この点につき詳しくは、Edwin C. Hettinger, Justifying Intellectual Property, 18 PHIL. & PUB. AFF. 31, 35
(1989); Wendy J. Gordon, An Inquiry Into the Merits of Copyright: The Challenges of Consistency, Consent,
and Encouragement Theory, 41 STAN. L. REV. 1343, 1425-1435 (1989); Waldron, supra note 15, at 870-874 を参
照。
25
- 109 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
あるため、他者は基本的に、その競合財に物理的に接する形で利用する行為のみが禁止される。
Thomas Hobbes によれば、こうした制約は、「万人の万人に対する闘争」を避けるために必要なもので
ある28。つまり、市民社会において「自由の共存」を実現するために各人が進んで払おうとする代償で
あるとみなし得るというわけである。こうしたことから、所有権の場合には、その所有物が滅失しな
い限り権利が永久に存続するとしても、特段の不都合は生じないと解される。
これに対し、知的財産権の場合、禁止権は、創作者自身がその創作物を円満に利用するために必要
なものではない。私が手元の論文データを印刷するために、他人の印刷を禁止する必要はない。つま
り、創作者が他者から妨げられることなくその創作物を利用できるようにするために(=創作者の消
極的自由を保障するために)、他者に対して不作為を強制する必要はないのである(=他者の消極的
自由を制約する必要はない)。にもかかわらず、知的財産権は他者の消極的自由を制約しているわけ
第
三
章
である。しかも、そうした制約の範囲や程度は限定的なものではない。非競合財には多数の者がどこ
でも同時に利用可能であるという性質があるため、そうした非競合財の利用を禁止する権利の影響を
受ける者(消極的自由の制約を受ける者)の数は相当大きなものになり得る。また、非競合財には物
理的な境界や限界もないため、権利の範囲は国境を越えて国際的に無限定に広がり得る。Drahos いわ
く、知的財産権は正に「他者の消極的自由への大きな干渉パターンを生み出す権利」なのである29。さ
らに、禁止権の対象となる知的財産の中には、他者の潜在能力(capability)を発展させるために必
要なものも数多く含まれる。それゆえ、知的財産権の場合には、知的財産という非競合財を通じた広
範な人的依存関係を作出するという性質も帯びてくる30。このような権利が永久に存続するとすれば、
社会にもたらされる弊害は甚大なものとなり得る。それゆえ、知的財産権には原則として権利の存続
期間が法定されているものと解されるというわけである。
(ⅱ)懐疑的な道具主義の構想
知的財産権がこのような性質を有する権利なのだとすると、それを保護することは決して自明なこ
とではなくなる。知的財産権を保護する制度の正当性が問題となるのである。
Drahos によれば、知財制度の正当性は、社会的に承認された特定の公共の目的(public purpose)
を実現するための制度である点に求められる。社会の人々は、自分たちの消極的自由が制約されるこ
とになるとしても、それが望ましい公共の目的の達成に真に必要なのであれば、そうした制約を受け
入れると解されるからである。こうした観点から、知的財産権は、国家がそうした公共の目的を達成
するための手段として創出した、享受者の消極的自由を抑制する特権(privilege)として位置づけら
れることになる。それゆえ、そうした特権を付与される者は、特権が創出された当初の目的が実現さ
れる可能性を最大限に高める義務を負うことになるというわけである31。
Drahos は、こうした知財制度の構想を「道具主義(Instrumentalism)」ないし「懐疑的な道具主義
(sceptical instrumentalism)」と呼んでいる。Drahos の構想の特徴は、知財制度全体の正当性を功
利主義の考え方に求めながらも、その具体的な制度の在り方を検討する場面や実際に制度を運用する
28
THOMAS HOBBES, LEVIATHAN, OR THE MATTER, FORME, & POWER
Waller ed., Cambridge UP, 1904).
29
DRAHOS, supra note 22, at 211-212.
30
Id. at 145-169, 176-181.
31
Id. at 213-219.
OF A
COMMON-WEALTH ECCLESIASTICALL
- 110 -
AND
CIVILL, Ch. 14 (1651; A.R.
場面においては、経済分析や自由論、正義論などに依拠して、はたして知財制度がその公共の目的の
実現を果たし得るものなのかを懐疑的に検証しようとする点にある。ここでは、哲学的アプローチと
統計的・経済学的アプローチとの連関が意識されている。
例えば、著作権の存続期間の延長など特権を拡張する立法を行うためには、立法者は、そのような
拡張によって社会にもたらされる費用と便益を経験的に検証し、その費用を上回る重要なインセン
ティヴ効果を証明しなければならないとする。また、特許制度がその公共目的を確実に達成するため
には、特許権者は特許発明の実施をする義務を負うとしている。もしも特許権者が不実施の場合に
は、特権の保有者に課された義務の不履行を理由に、国家による強制ライセンスの発動が正当化され
るとする。さらに、侵害訴訟において、原告の著作権者や特許権者が特権付与の背後にある公序や公
共の目的に反するような態様で権利行使を行う場合には、被告の行為態様にかかわらず、特権の濫用
ないしミスユースとして権利侵害を否定すべきだとしている32。
以上のような Drahos の構想に立脚する場合には、各種の知的財産法が、どのような公共目的の実現
を任務としているのかを明らかにすることが重要となろう。このことは、特権の保有者が負うべき義
務の内容を明確化することにもつながる。
(3)創作者の積極的自由の保護体系としての知財制度――Robert P. Merges の構想
以上のような、享受者の消極的自由に焦点をあてた知財制度の本質論に対抗する形で、創作者の積
極的自由に焦点をあてた知財制度の本質論が、2011 年に登場した。それが、Merges の議論である。
(ⅰ)問題意識
Merges は、知財制度の正当化根拠を考察する際に、次のような問いを立てている。近年の米国の知
財制度のリフォーム論は、利用・流通環境の変化に焦点をあてすぎているのではないか。知的財産の
創作者にも関心を向けるべきではないか。従来、知的財産権を property と捉えた場合に、その権利の
絶対性や排他性が直ちに導かれるものと考えてきた点は、再考すべきではないか。これらの問いから
もうかがえるように、知財制度の危機論や弊害論に対抗し得る理論を提示しようというのが、Merges
の問題意識である。Merges は、功利主義理論ではこの役割を果たせないと考えている。そこで Merges
が新たな理論として提示するのが、Liberal Property 論である。
(ⅱ)Liberal Property 論――職業的創作者の積極的自由の保護体系
Liberal Property 論とは、知財制度を職業として創作に携わる人々(職業的創作者)の自律と経済
的な独立を保障するための制度として位置づける考え方である。こうした考え方の根底には、職業的
創作者の労働が社会にとって高い価値を有するものであり、我々の尊敬の念と報酬に値するものであ
るという理解がある。
「自律とは『自己支配』、すなわち、自らの計画や設計に従って自らの人生のかじ取りができる能
力を意味するということである」33。「もし創作に携わる人たちが自分たちの創作物を支配できず、し
32
33
Id. at 176-178, 220-224.
MERGES, supra note 23, at 18.
- 111 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
かもそれに対して僅かな報酬しか受け取ることができないとしたら、彼らが創作活動にいそしむこと
などほとんど不可能だし、自らの運命を切り開くこともできないだろう」34。職業的創作者の自律を持
続的に確保するためには、彼らの創造物の産物に財産権が認められなければならない。「財産権が支
配と将来の報酬の期待とをもたらすのである」35。
Merges はこのように、知的財産権とは、職業的創作者が自らの才能を発揮して、その技術や芸術的
才能で身を立てることを可能にするために、国家から付与される権利であると解している。これは、
職業的創作者の積極的自由の保護体系として、知財制度の本質を捉える見解といえる。
しかし、このように考える場合でも、他者の消極的自由との関係が問題となる。この点、Merges
は、そうした他者の消極的自由を制約できる権限というのは、職業的創作者の労働に対する我々の尊
敬のしるし、つまり社会からの報酬とみなし得ると主張している36。
第
三
章
(ⅲ)Liberal Property としての知的財産権の柔軟性
もっとも、Merges は、社会が創作者に対して「property」という報酬を与えるという発想に対し
て、嫌悪感を抱く人が多いことも認めている。「property」には、絶対性や強固な排他性が伴うから
である。しかし、こうした見方は、知的財産権が法律上「排他権」として定義されていることに囚わ
れすぎであると反論している。
「人々が財産権という概念に対してしばしば嫌悪感を抱くのは、少なくともブラックストンの時代
から、その本質の定義が、不快とも取れる概念を呼び起こすからである。これまでうんざりするほど
...
繰り返されてきた法格言は、財産権の本質とは排他権であるということを強調する。排他的であると
は、閉め出して、アクセスを遮断すること――喩えるなら、人の目の前でドアをバタンと閉めること
――を意味する。これが財産権の本質なのであるから、財産権が、他者を思い遣る人たちからよく言
われないのも当然のことといえる。」37 「しかし、実際には、財産権を擁護することはそれほど難し
いことではない。要は、法律上の定義、すなわち『排他権』という不吉な響きをもつ見かけ上の権限
や効果にとらわれないことである。最初に権利が付与される時点と付与される権利の形式上の定義に
目を奪われるあまり、その後に起こることから注意をそらしてしまっているのである。もし財産権が
付与された後に何が起こるのかという点に注意を払えば、これまでとはまったく違う光景がみえてく
...
る。典型的な財産権(特にほとんどすべての知的財産権を含む)の一生のうち、重要な付与後の段階
・
・
に注目すれば、排他権とされている財産権が、実際には様々な受容形態と密接に結びついているとい
うことが明らかになる。」38
つまり Merges によれば、権利が付与された後に、知的財産権が実際にどのように活用されているの
かに目を向ければ、そこに柔軟性を見いだすことができるというわけである。
そうした柔軟性の 1 つとして、Merges は権利の事実上の不行使を挙げている39。知的財産権は自動執
行性を有する権利ではない。知的財産権の行使によって得られる利益が、権利者にとって、費用と時
間を要する裁判に訴えるだけの価値がない場合も多い。実際、現実社会においては、知的財産の無断
34
35
36
37
38
39
Id.
Id.
Id. at 293.
Id. at 295.
Id.
Id.
- 112 -
利用行為に対して知的財産権が行使されず、事実上、利用が排除されないというケースが数多くみら
れるというわけである。日本のコミケ市場(コミックマーケット)などもこれに含まれるのかもしれ
ない。
もう 1 つの柔軟性として、Merges は権利の自発的放棄を挙げている40。もちろん権利の完全な放棄が
容易でない場合もあるが、可能な場合もあるだろう。実際、現実社会においては、フォーマル、イン
フォーマルを問わず、複数の権利者が集まって一定のコミュニティを形成し、そのメンバー間では相
互に権利行使を控えることで非排除型の共有空間(コモンズ)を構築するというケースがみられると
いうわけである。例えば、パテント・プールや Linux、Wikipedia などがその典型であろう。
(4)小括
以上のように、知財制度は「自由の共存」を課題としているために、消極的自由と積極的自由のい
ずれを重視するかによって、知財制度の本質論や具体的な制度像が異なってくる。Drahos と Merges の
議論はこのことを我々に教えてくれる。
3.コモンズ事例の分析を通じた著作権制度の在り方の再考
(1)コモンズ事例の分析
最後に、コモンズの事例について分析することにしよう。それらの事例では、著作権はどのように
扱われ、どのような機能を果たしているのだろうか。
前述の通り、Linux コミュニティは、各プログラマーが開発したプログラムをオープンソースの形で
共有し、協働で改良を行っている。彼らは、こうした開発環境を維持するために、GPL(GNU General
Public License)と呼ばれる著作権パブリック・ライセンスの枠組を構築している。
GPL とは、プログラムを対象とした著作権パブリック・ライセンスである。その基本的な内容は、①
プログラムの複製物を他者に頒布すること、②プログラムの動作を調べ、それを改変して改良版を作
成すること、③そうした改良版のプログラムについては元のプログラムと同一の条件に基づいて公衆
に公開することなどを条件として、プログラムの自由な複製や改変を認めるというものである。そし
て、GPL のライセンス条件に反する態様でプログラムの利用を行った者に対しては、コミュニティから
の排除や当該プログラムの著作権に基づく差止め等を請求することが予定されている。
このように、Linux の事例においては、著作権パブリック・ライセンスの枠組が、プログラムの共有
を軸とした協働開発環境を維持する上で重要な役割を果たしているのである。
同様のことは、Wikipedia の事例においても見られる。Wikipedia のコミュニティは、投稿された文
書 を ウ ェ ブ サ イ ト 上 で 共 有 し 協 働 で 編 集 作 業 を 行 う た め に 、 GFDL ( GNU Free Documentation
License)と呼ばれる著作権パブリック・ライセンスの枠組を活用している。
GFDL は、文書を対象とした著作権パブリック・ライセンスである。その基本的な内容は、①原著作
者のクレジットを表示すること、②改変版を頒布する場合には GFDL の条件に基づいて頒布することな
40
Id. at 295-296.
- 113 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
どを条件として、文書の自由な複製、改変、頒布、販売を認めるというものである。そして、GFDL の
ライセンス条件に反する態様で文書の利用を行った者に対しては、投稿・編集・管理資格の停止やコ
ミュニティからの永久追放、当該文書の著作権に基づく差止め等を請求することが予定されている。
以上のように、Wikipedia の事例においても、著作権パブリック・ライセンスの枠組が、文書の共有
を軸とした協働編集環境を維持する上で重要な役割を果たしているのである。
(2)排他権制度の機能の再考
著作権パブリック・ライセンスの枠組がコモンズ事例において果たす機能を考える上で示唆に富む
のが、CCPL(Creative Commons Public License)と呼ばれる著作権パブリック・ライセンスの枠組で
第
三
章
ある。
CCPL は、権利者が自己の著作物(プログラムを除く)の利用条件(ライセンス条件)を簡単に選択
して表示することができるように、あらかじめ利用条件のパターンを用意している。それを示したも
のが、図表-4 である41。
【図表-4】
すべての
権利の主張
いくつかの権利の主張
すべての
権利の放棄
上記の 8 つの利用条件のパターンには、それぞれ、権利者が利用者に対して禁止や積極的な作為を
求める利用態様がロゴの形で表示されている。例えば、一番左には、支分権と抵触する著作物の利用
をすべて禁止する旨のロゴが表示されている。これは、著作権法がデフォルトとする利用条件であ
る。左から 2 番目には、原著作者のクレジットを表示することを求める「表示(BY)」のロゴ、著作
物を営利目的で利用することを禁止する「非営利(NC)」のロゴ、著作物を改変して利用することを
禁止する「改変禁止(ND)」のロゴが表示されている。また、左から 4 番目には、「表示(BY)」と
「非営利(NC)」のロゴに加えて、著作物の改変や変形利用を認めるがそれによって創作される新た
な著作物(二次的著作物)については元の著作物と同じ利用条件で公開することを求める「継承
(SA)」のロゴが表示されている。一方、右から 2 番目には、「表示(BY)」のロゴのみが表示さ
れ、一番右には、すべての支分権の放棄、つまりパブリック・ドメイン(完全な自由利用)とする旨
のロゴが表示されている。
このように、8 つの利用条件のパターンは、左から右へと利用条件が緩やかになっていき、右に行く
につれて利用の自由度が高まる形で並んでいる。そうした中で権利者は、そのニーズに応じて自由に 8
つのパターンの中から 1 つを選択し、そのロゴを著作物とともに表示するというのが、CCPL の枠組の
概要である。
41
図の作成に当たっては、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン編『クリエイティブ・コモンズ――デジタル時代の知
的財産権』(NTT 出版、2005 年)を参照した。
- 114 -
こうした CCPL は、インターネット環境における著作権法の存在意義を否定するものでもなければ、
著作物をパブリック・ドメイン(オープン・アクセス)に供することを権利者に強要するものでもな
い。CCPL が著作権パブリック・ライセンスの枠組を通じてやろうとしていることは、著作物の利用に
関する対世的なルールのベースラインを変更することである。すなわち、著作権法は、〈支分権と抵
触する著作物の利用はすべて禁止する〉、〈利用を望む者は個別に権利者に許諾を求めなければなら
ない〉という対世的なルールをベースラインとしている。CCPL はこれを〈支分権と抵触する著作物の
利用であっても権利者が禁止や積極的な作為を求めることを明示した利用態様以外はすべて自由とす
る〉、〈明示された利用条件を守る限り、利用を望む者は個別に権利者に許諾を求める必要はない〉
という対世的なルールへと変更しようというわけである。このようなベースラインの変更により、権
利者は、その創作目的・ニーズに応じた利用条件を柔軟に選択し、それを対世的な効力を伴う形で表
示することが可能となるのである。
Merges によれば、こうした著作物の自由な共有環境を持続的に確保するためには、逆説的ではある
が、著作権という対世効をもつ排他権(the right to exclude)が不可欠であるという42。
例えば、作家 X が CCPL の枠組を用いて自己の創作した短編小説をインターネット上で公表した場合
を考えてみよう。X は、自分の氏名等のクレジットを入れることと非営利で利用することの 2 点さえ
守ってもらえるならば、ぜひ自分の作品を自由に利用してほしいと考えた。そして、CCPL における
「表示(BY)-非営利(NC)」という利用条件のロゴを選択して、作品に表示した(図表-5 を参
照)。そうしたところ、この短編小説の出来に目をつけた出版社 Y が、クレジット表示をした上で X
に無断で販売を開始した。
【図表-5】
この場合、Y の利用態様は明らかに CCPL のライセンス条件に違反している。では、X はライセンス
契約の違反を理由に Y の行為を差し止めることができるだろうか。文献では、この場合に X の請求が
認められるとは限らないと指摘されている43。なぜなら、X は作品とともにライセンス条件を提示して
契約の申し込みを行っているが、Y がこれを承諾したといえるかどうかは必ずしも明確ではないからで
ある。つまり、契約として有効に成立していない可能性があるというわけである。それゆえ、X が、ラ
イセンス条件を法的に対世的に強制するためには、契約違反ではなく、著作権侵害を理由として権利
行使を行うことが必要となるのである。
それゆえ Merges は、もし著作権という対世効を有する排他権がなければ、CCPL が法的な強制力を
もって通用することは難しいというわけである。そして、これを基点として、著作権という「排他
権」の意義を再考している。すなわち、「排他権」には著作物の利用を対世的に禁止する「the right
to exclude」としての側面と、パブリック・ライセンスの法的な強制力を担保し、著作物の積極的か
42
MERGES, supra note 23, at 295-296.
野口祐子「多様化する情報流通と著作権制度――クリエイティブ・コモンズの試み」中山信弘編集代表『知的財産と
ソフトロー』(有斐閣、2010 年)172-173 頁。
43
- 115 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
つ自由な利用を求めるライセンス条件を対世的に履行させる「the right to include」としての側面
の、両方の側面があることを明らかにしている。そして、著作権の保有者は、これら 2 つの側面をい
わば両極として、その間にスペクトラム上に並ぶ著作権の排他性の程度を、パブリック・ライセンス
のライセンス条件を調節することで柔軟に選択・調整することが可能であることを示唆するのである
44
。
4.結びに代えて
以上、本稿では、自由論の観点から知財制度の在り方を検討するとともに、コモンズ事例の分析を
通して排他権制度の機能を再考してきた。引き続き、知財制度の在り方を検討していきたい。
以上
第
三
章
44
MERGES, supra note 23, at 296.
- 116 -
Ⅲ.商標保護に係る基本理論の研究
中国社会科学院
知識産権センター
李 明徳* 教授
1.商標の概念
商標は、商品又は役務の出所を示す標章であり、その役割は各事業者が提供する商品又は役務と異
なり、商標を通じて商品又は役務を購入する際の消費者に便宜を提供することである。「商標」とい
う中国語の字面どおりの意味は、商業活動において使用する商業的な標章である。商標は英語で
「trademark」といい、字面どおりに解釈すると、「trade」に使用する「mark」又は標章である。中
国語でも英語でも、「商」業活動又は取引活動において使用する「標章」であって初めて商標と呼ぶ
ことができる。実際に、商標の定義から見ると、商標は実際の商業活動において使用して初めて、指
定商品又は役務の出所を示す役割を果たすことができる。
近年、中国の商標の登録出願件数は上昇の一途を辿っており、年間 100 万件以上に上る。国家知識
産権局が 2014 年 4 月に発表した「2013 年中国知的財産権保護状況」によると、2013 年通年で受理し
た商標の登録出願件数は、前年比 14.15%増の計 188 万 1,500 件で、12 年連続で世界 1 位であった1。
また、国家工商行政管理総局のデータによると、2012 年末時点で、中国の商標登録の累計件数は 717
万件、有効な登録商標は 609 万件で、いずれも世界 1 位となっている2。筆者が大まかに推計したとこ
ろによると、現時、有効な登録商標は、850 万件前後に上ると見られる。この莫大な商標の登録出願件
数、有効な商標の登録件数により、中国を「商標大国」と評価するメディアも現れた。
その一方で、これほど莫大な商標登録の出願件数と有効な商標の登録件数に対して、私たちは疑問
を提起するべきなのかもしれない。例えば、年間 100 万件余りに上る商標登録出願のうち、出願者が
使用している、又は商業活動への使用を予定している商標は何件あるのであろうか。また、およそ 850
万件の有効な登録商標のうち、実際に商業活動に使用されている商標は何件あるのであろうか。単に
商業登録簿に記載されているだけの「商標」は、何件あるのであろうか。確かに、近年の中国経済の
急速な成長に伴って、商品又は役務への商標使用に対する事業者の需要規模も大幅に高まっている。
この中で、年間 100 万件余りの商標の登録出願件数、年間 850 万件余りの有効な商標の登録件数が本
当にこの経済成長の速度に見合うものかは探究に値する問題である。少なくとも筆者は、年間 100 万
件の登録出願件数のうち、かなりの部分は商業活動において使用意思のある「標章」ではなく、850 万
件余りの有効な登録商標のうちかなりの部分については、商品又は役務の「標章」として使用された
ことが全くないと考えている。登録を出願した、又は登録が認められたこれらの「標章」は、商標法
上の「商標」の概念と異なっていることが明らかである。
近年、商標の登録出願件数と有効な商標の保有件数の急増は、中国の「商標法」において遵奉され
る「登録主義」と密接に関わっている。「登録主義」によれば、登録を認められた商標のみが「商標
法」で保護され、出願しておらず、登録が認められていない商標は、「反不正当競争法」[不正競争防
止法に相当]の範囲でのみ保護される。しかし、かなり長い間にわたって、商標に関わる法曹界、法学
*
中国社会科学院知識産権センター主任、教授。
国家知識産権局「2013 年中国知的財産権保護状況」2014 年 4 月参照。
2
周伯華「中華人民共和国商標法改正案(草案)」に関する説明、2012 年 12 月 24 日、第 11 次全国人民代表大会常務
委員会第 30 回会議を参照。
1
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
界のいずれにおいても、多かれ少なかれ「不正競争防止法」の未登録商標に対する保護について軽視
されてきた。しかも、登録主義の理論によると、商標登録が認められた後で得られる保護は確定的で
あるが、「不正競争防止法」で与えられる保護は不確実である。なぜなら、権利侵害訴訟において、
登録商標の所有者は、登録証書を提示しさえすれば自己が権利者であると証明できるが、未登録商標
の所有者は、まず商標の権利の享有を自らが証明しなければならない。登録出願を通じて「商標法」
によって保護されることは、商標を保護するための重要な、ひいては唯一の手段といえそうである。
登録主義の方法に沿えば、中国の「商標法」と幾つかの規範文書は、「商標登録」と「商標権の付
与」を同一視しさえしている。例えば、「商標法」第 3 条では一貫して、「商標局の審査を経て登録
された商標」を登録商標とし、「商標登録者は、専用権を享有し、商標法により保護される」と規定
されている3。また、最高人民法院が 2010 年 4 月に「商標権の付与、権利確認をめぐる行政事件の審理
第
三
章
における若干問題に関する意見」を発表したが、この主題も商標の登録が「権利の付与」であり、商
標登録をめぐる論争の焦点が「権利の確認」であることを直接反映している4。なお、ここでいう「専
用権」及び「権利付与、権利確認」を手続上の権利とみなしても、それほど深刻な問題を引き起こさ
ないという点は注目に値する。しかし、商標主管部門及び専門家らにより、商標登録は財産権の付与
として意味付けられた。つまり、「商標法」でいう「専用権」は財産権に相当し、商標登録は財産権
を取得することに相当する。この考え方に従えば、事業者が競って商標を登録し、「商標権の付与」
を得ようとするのも不思議ではない。
しかしながら、「商標」の本来の意味は、標章を、その登録いかんを問わず、商品又は役務に使用
し、それによって商品又は役務の出所を示すことである。商品又は役務の出所という商標の概念を起
点とし、英米法系では、商業活動において実際に使用する商標のみが、商標法上の商標を構成し、商
標登録と商標法による保護を得られると、一貫して強調されている。これに関しては、米国が 1988 年
に連邦商標法を改正し、商業活動において使用意図のある商標がようやく追加され、その登録が認め
られるようになった。しかし、このような状況下においても、出願者は登録出願の際、関連の商標を
真に使用する声明と証拠を提出しなければならない。特許商標局は、審査した後に「許可通知書」を
交付することができるが、「許可通知書」の交付から 36 か月以内に、出願者が実際の使用に関する証
拠を提出できない場合には登録は認められない5。この意味からすると、使用意図がある商標は、登録
出願はできるものの、最終的に登録が認められるのは、やはり実際に使用する商標である。
欧州の大陸法系の国についていえば、商標登録とそれによる商標の保護を重視する一方で、商標の
使用についてもないがしろにされてはいない。欧州連合理事会が 1989 年に公布した「商標ハーモ指
令」第 10 条では、「登録が認められた商標は、登録日から 5 年以内に実際に使用されていない又は継
続して 5 年間使用されなかった場合、登録を取り消すことができる」と規定されている6。なお、「商
標ハーモ指令」第 10 条の表題が、「商標の使用」であるという点は注目に値する。欧州連合理事会が
1993 年に発表した「共同体商標規則」第 16 条にも類似の規定があり、その表題は同じく「共同体商標
の使用」である7。登録商標の使用に関して、「商標ハーモ指令」の「リステイトメント」第 8 では、
3
4
5
6
7
2001 年の「商標法」、2013 年の「商標法」第 3 条を参照。
最高人民法院「商標権の付与、権利確認をめぐる行政事件の審理における若干問題に関する意見」2010 年 4 月。
Lanham Act, Article 1.
Trademark Directive (89/104/EEC), Article 10.
Council Regulation on the Community Trademark (94/40/EC), Article 15.
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特に「欧州連合における登録商標の数を減らすため、登録を認められた商標は必ず使用しなければな
らない。使用しない場合は、それを取り消すことができる」と強調している。これらの規定と説明か
ら、商標登録を強調する欧州の大陸法系の国であっても、商標の使用がないがしろにはされていない
ことが分かる。
これに関しては、商標の実際の使用について、世界貿易機関(WTO)の TRIPS 協定にも、その要件が
定められている。一方で、TRIPS 協定 15 条 3 項では、「加盟国は、使用を商標の登録要件とすること
ができる。ただし、商標の実際の使用を登録出願の条件としてはならない。…」と規定されている。
その一方で、TRIPS 協定第 19 条 1 項では、「登録を維持するために使用が要件とされる場合には、登
録は、少なくとも 3 年間継続して使用しなかった後においてのみ、取り消すことができる。ただし、
商標権者が、その使用に対する障害の存在に基づく正当な理由を示す場合は、この限りでない。」と
規定されている8。このように、TRIPS 協定では、加盟国は「使用」を商標の登録要件とすることがで
き、継続して 3 年使用しない場合、登録を抹消することができるとされており、商標の実際の使用に
対する要件が反映されている。
実は、中国の「商標法」は、商標の実際の使用を軽視していないどころか、さらに、実際に使用し
ない限り、商標登録が認められないとしている。例えば、1982 年の「商標法」第 4 条では、「企業、
事業単位と個人事業者は、自身が生産、製造、加工、選別若しくは取次販売を行う商品について、商
標専用権を取得する必要がある場合、商標局に商標登録を出願しなければならない」と規定され、関
連商品に使用されている商標だけが、登録出願及び商標登録できると明記されていた。また、1993 年
の改正「商標法」4 条では、旧規定に、「企業、事業単位と個人事業者は、自身が提供する役務につい
て、商標専用権を取得する必要がある場合、商標局に商標登録を出願しなければならない」という条
項が追加され、ここでは、関連役務に使用されている商標だけが、登録出願と商標登録できると明記
されていた。2013 年の改正「商標法」では、過去の規定を踏まえて、「自然人、法人又はその他の組
織が、生産経営活動において、その商品又は役務について専用権を取得する必要がある場合には、商
標局に商標登録を出願しなければならない」と修正された9。明らかに、「商標法」4 条の修正状況か
らは、登録が認められた商標が実際に使用しない「標章」であるのか、特定の商品又は役務と関連性
のある「標章」であるのかを判断することはできない。
当然ながら、中国の「商標法」4 条では、使用意図がある商標の登録が排斥されていない。なぜな
ら、条文の字面どおりの意味から、「その商品又は役務が専用権を取得する必要がある場合」には、
商標登録を出願できるからである。これにより、既に実際に使用されている商標は、無論登録出願が
でき、実際に使用したことがなくても、関連する商品又は役務の使用意思があれば、登録を出願し、
登録の許可を受けることができる。しかし、それは使用意思又は使用意図がある「登録商標」が、恒
久的に存在し続けられることを意味するものではない。1982 年の「商標法」36 条、1993 年の「商標
法」30 条及び 2001 年の「商標法」44 条では、いずれも、「登録商標を継続して 3 年使用しなかった
場合、商標局は当該商標の登録を取り消すことができる」と規定されている。また、2013 年の「商標
法」49 条では、「正当な理由なく登録商標を継続して 3 年間使用しなかった場合は、いかなる事業者
●
8
9
TRIPS Agreement, Articles 15, 19.
1982 年の「商標法」4 条、1993 年の「商標法」4 条、2001 年の「商標法」4 条、2013 年の「商標法」4 条を参照。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
又は個人も、商標局に当該登録商標の取消を請求することができる」と規定されている10。「商標法」
の商標登録と登録取消に関わる 2 つの条文を踏まえると、商標局に登録が認められた商標は、まず、
商業活動において使用されている商標でなければならず、次に、使用意思がある商標であるといって
間違いない。使用意思がある商標であっても、事業者は登録を認められて 3 年以内にそれを使用しな
ければ、登録は取り消されてしまう。
中国の「商標法」では、1982 年から前述の 2 つの条文が定められているとはいえ、工商行政管理部
門の主導の下で、商標登録の重要性が過度に誇張されてきた。しかし、商標の登録出願件数が、年間
100 万件のペースで急増し、有効な商標の登録件数が膨張し続けるこの時勢において、少数の学者の商
標の概念と商標の使用に関する主張は、法官、学者、弁護士、事業者から徐々に賛同が得られるよう
になってきた。これに対応して、2013 年の改正「商標法」では、複数の条文において商標の使用が強
第
三
章
調された。例えば、8 条では、「事業者の商品又は役務と他人の商品又は役務を『区別することができ
る標章』であれば、商標として登録できる」と規定されている。また、48 条では、商標の使用につい
て、「この法律で商標の使用とは、商品、商品の包装又は容器及び商品取引書類上に商標を用いるこ
と、又は広告宣伝、展示その他の商業活動中に商標を用いることにより、商品の出所を識別するため
の行為をいう」と定義されている。さらに、64 条では、「権利侵害訴訟において、登録商標の所有者
は、過去 3 年間に当該登録商標を実際に使用したことを示す証拠を提供しなければならない。過去 3
年間に当該登録商標を実際に使用したことを証明できず、また権利侵害行為によってその他の損失を
受けたことを証明できない場合、被告は賠償責任を負わない」と規定されている。このほか、59 条で
も、「商標登録者が商標登録を出願する前に、他人が既に同一又は類似の商品に対して、登録商標と
同一又は類似し、かつ一定の影響を有する商標を使用しているときは、登録商標の所有者は、当該使
用者が当該商標をその範囲内で引き続き使用することを禁止する権利を有しない。ただし、当該使用
者は、必要に応じて、区別するための標章を追加しなければならない」と規定されている11。
中国の 2013 年の改正「商標法」では、商標の実際の使用を強調することで、「商標法」が、ようや
く商標保護と商標登録の原点に立ち戻ったといえる。あるいは、中国の「商標法」では、1982 年の公
布以来、商標又は登録商標の使用が、一度もないがしろにされたことがないといえる。ただし、多く
の人の認識の誤りから、商標の実際の使用が軽視され、さらには、商標登録が財産権取得の手段と見
なされるようにさえなったのである。
2.商標権の概念
商標は、文字、アルファベット、数字、図形、色、立体的形状などの要素で構成される。WTO の
TRIPS 協定の 15 条では、「いかなる標章又は標章の組合せも、商品又は役務の出所が区別できる場合
においては、商標を構成することができる。これらの標章は、特に、文字(人名を含む)、アルファ
ベット、数字、図形、色の組合せ及び前述の要素の組合せを含む。」旨が規定されているほか、「加
盟国は、『可視性』を登録が認められる条件とすることができる」旨も規定されている12。こうした規
10
1982 年の「商標法」36 条、1993 年の「商標法」30 条、2001 年の「商標法」44 条、2013 年の「商標法」49 条を参
照。
11
2014 年の「商標法」の関連条文を参照。
12
TRIPS Agreement, Article 15.
- 120 -
定をもとにして、中国の 2001 年の「商標法」8 条では、「事業者の商品(又は役務)を他の者の商品
又は役務と区別できるいかなる『可視性のある標識』も、商標として登録出願することができる。そ
の標識には、文字、図形、アルファベット、数字、立体的形状、色の組合せ及びこれらの要素の組合
せが含まれる」と規定された。2013 年の改正「商標法」では、「可視性」の要件が削除され、音声を
含めた「あらゆる標章」を、商標として登録できるとされた13。2013 年の改正「商標法」では、匂い商
標の登録には言及されていないが、行政法規又は司法解釈により、匂い商標を登録の範囲に組み入れ
ることができると筆者は考える。なぜなら、改正法の 8 条では、商標登録の範囲について、文字、図
形、数字、立体的形状、色の組合せ、音声「など」を含む「あらゆる標識」と規定されており、「匂
い商標」を含んでも全く問題ないからである。
まず、文字、アルファベット、数字、図形、色、立体的形状、音声、匂いなど、商標を構成するあ
らゆる要素は、最初からパブリックドメインにある。ここで、ある人が新しい名詞、アルファベット
又は数字、新しい図形を創造し、若しくは新しい色を調合したとしても、知的財産の保護は得られな
い。なぜなら、これらのものは、保護が得られる著作物を構成せず、また保護が得られる発明も構成
しないため、最初からパブリックドメインに置かれ続けるからである。次に、パブリックドメインか
らこれらの要素を選択し、又はこれらの要素を組み合わせることで、商業上で使用する「商標標識」
を形成することができる。組み合わされた「標章」が著作物を構成する場合、著作権法で保護され、
商品の意匠を構成する場合、法定の要件を満たすという前提で、意匠又は専利で保護される可能性が
出てくる。当然ながら、これによって生じた商標標識が、著作物も意匠も構成せず、著作権法、意匠
法で保護されない場合もある。明らかに、商標法は商標を構成する標識に対してではなく、著作権法
又は意匠法を土台として上乗せされた保護である。言い換えれば、商標権は標章そのものについて享
有する権利ではないのである。
このように、広範囲にわたる標識又はこれらの要素で構成される標識でも、識別性を備え、商品又
は役務の出所を示すことができて、初めて商標として使用することができ、又は登録を出願し、登録
の許可を受けられることはいうまでもない。この識別性は、2 つの観点から理解できる。第 1 に、その
商標が商業活動において実際に使用され、商標権者の商品又は役務を他人の商品又は役務と区別でき
ること、第 2 に、理論上の識別可能性を備え、更に登録が認められてから 3 年以内の使用予定がある
ことであり、それは使用意図がある商標を指す。商標を実際に使用することで、商標の付された商品
又は役務に対して、消費者の積極的な評価が生まれ、商標法又は不正競争防止法によって保護される
べき信用又は名声が生じる。実際に、商標法と不正競争防止法で保護されるのは、標章そのものでは
なく、商標に化体した信用又は名声である。この信用又は名声は、商標と密接に関わるだけでなく、
商標の付された商品又は役務とも密接に関わっている。信用を得ない「商標」は、単なる「標章」に
すぎない。
国際社会の慣行からすると、商標権は一種の財産権であり、商標とそれに化体した信用について享
有する権利である。一方、商標法と不正競争防止法における偽造をめぐる訴訟は、商標とそれに化体
した信用を保護するための法的な手段である。関連の研究によると、イギリスの商標保護に関わる最
古の判例は 1618 年に発生した。それは、布業者が別の布業者の商標を模倣した事例であり、裁判官
は、判決において、「原告の商標は、その使用において高い営業上の信用を得ており、被告に対して
13
「商標法」8 条を参照。
- 121 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
訴訟を提起することができる」と判断し、被告に対して権利侵害の判決を下した。これにより、原告
の商標とそれに化体した営業上の信用が守られた。イギリスでは、1875 年に商標登録制度が確立さ
れ、これによって商標保護により確実性が備わり、商標の譲渡と使用許諾が円滑に行えるようになっ
た。しかし、それによって裁判所では、商標の保護に対して大きな変化が見られず、商標権侵害は依
然として模倣と欺瞞、他人の営業上の信用の不法利用が基準とされた。19 世紀末には、イギリスとア
メリカの学者が「信用」(good will)の概念を明確に唱え、商標に係る財産権は信用に体現されると
考えられるようになった14。このような観点は、既に国際社会における共通の認識となっている。
商標に化体した信用は、商標の使用によって得られる。ある具体的な商標は、特定の商品又は役務
と関連づけられ、市場で消費者に供給されてこそ、消費者の積極的な評価が得られ、関連する信用を
積み上げて、これの増大につなげることができるのである。商標権者は、自らの商標に化体した信用
第
三
章
の蓄積と増大のために、多様な措置を講じなければならない。例えば、積極的に技術革新を図り、専
利技術、非専利技術を数多く使用することなどによって、商品の品質や性能を向上させ、商品コスト
を削減し、消費者の支持を獲得する必要がある。また、市場において大量の広告を投入し、自己の商
標とそれに関連する商品・役務を宣伝し、又は独創的なマーケティング方式を採用することで、自己
の商品又は役務に対する消費者と公衆の支持を得る必要がある。実際に、正にこうした一連の独創的
な知的活動によってこそ、商標とそれに関連する商品又は役務が消費者の肯定的な評価を得ているの
である。この意味からすると、商標に化体した信用は、信用の獲得と増大を含み、それ自体が一連の
独創的な知的活動の成果の結晶なのである。関連する国際条約で商品の商標、役務の商標、商号が知
的活動の成果の範囲に組み入れられたことも、信用という観点から理解しなければならない。
以上の認識に基づき、鄭成思教授は、かつて「商標が財産を構成し、譲渡、使用許諾の対象とな
り、企業の合併、合弁などの活動において評価材料となり得るのは、事業者が特定の標章を選定し、
使用した後、広告宣伝、販路開拓などの販促活動によって、関連する標章に一定の名声や信用が築か
れるからである」と述べた。鄭成思教授は、さらに「商標とそれに化体した信用について、最も根本
にあるのは、事業者が技術によって商品の品質を保証し、経営を通じて商品又は役務の品質を保証す
ることで、自己の商標、商号などの標章に安定的で常に上昇し続ける価値を持たせることであり、こ
れらの活動が標章に付加する創造性を軽視してはならない」と指摘している15。
商標と信用の関係は、商標を一種の財産とし、商標権を一種の知的財産権として理解するための鍵
である。商標権は、標章自体について享有する権利ではなく、商標に化体した信用について享有する
権利である。商標が知的活動の成果を構成するのは、商標が信用を化体しているからであり、商標に
化体した信用を商標権者が蓄積し、増大する中で、独創的な知的労働を投入するからである。1967 年
に締結された「世界知的所有権機関を設立する条約」の 2 条では、「商品、役務の商標、商号及び各
種の標章を作品、発明、工業品の意匠と同一に論じる場合も、商標とそれに化体した信用から理解し
●
14
Lionel Bently, “From Communication to Thing: Historical aspect of the Conceptualization of Trade Marks
as Property”, a Paper Presented at the Fifteenth Annual Intellectual Property Conference, New York, April
13, 2007.
15
鄭成思『知的財産権法』(第二版)法律出版社、7 頁(2003 年)。
- 122 -
なければならない」とされている16。そうでなければ、商標と商号が知的活動の成果であると理解する
ことが困難となる。
商標と信用の関係は、商標の保護の核心でもある。実際に、商標権の保護範囲及び商標権侵害の認
定基準は、いずれも商標に化体した信用によって決定される。商標の役割は、商標又は役務の出所を
示すことである。実際の商業活動において、商標が示すことのできる商品又は役務の出所の範囲は、
一般的に当該商標に化体した信用の範囲である。つまり、商標は実際の使用によって、消費者が特定
の商標と特定の商品又は役務を連想できるようにすることで、当該商標が示す商品又は役務に対し
て、積極的な評価を生み出すものともいえる。それは、当該商標に化体した信用の範囲であり、また
商標権者が保護されるべき範囲でもある。実生活において、他人の商標と同一又は類似の商標を、同
一又は類似の商品又は役務に使用する不正競争の行為が見られるが、その目的は、消費者に誤認混同
を生じさせる形で他人の商標に化体した信用を利用することにある。このように、信用保護の観点か
らいえば、商標権侵害の基準は、消費者に誤認混同を生じさせるおそれでしかない。この基準に従え
ば、事業者は、他人の商標又は商標の構成要素の使用によって、消費者に誤認混同を生じさせるおそ
れを惹起した場合、権利侵害が生じ得る。消費者に誤認混同を生じさせるおそれをもたらさない場
合、権利侵害は生じ得ない。
この意味からすると、商業活動において実際に使用する商標には、少なくとも次の 3 つの意味が含
まれる。まず、商標は、営利を目的とする標章であって、商品又は役務の出所を示すことができる。
次に、商標に体現された一定の信用は、商標権者の関連商品又は役務に対する投入をその源とする。3
つ目は、商標の適切な使用、及び商標権侵害の阻止は、正常な競争関係を反映している。日本の学
者、中山信弘教授は、これについて、「標識法の保護の対象は営業上の標識であるが、真の保護対象
は標識に化体されている営業上の信用である。営業上の信用とは、顧客が当該営業者に関して有して
いる情報の総体であり、それは営業者の財産でもある。標識法はこの標識という財産を保護する法で
あるが、単なる財産法であるに止まらず協業秩序の維持もその目的の一つである。」と述べている17。
商標に化体した信用は、馳名商標[中国における日本の周知商標に相当する概念]が特別な保護を得
るための要件でもある。まず未登録の馳名商標に対する保護について、「パリ条約」の規定によれ
ば、未登録の商標について、ある同盟国において周知であると認められる場合、当局は他人による登
録を拒否し、他人の使用を禁止することができる18。これは、主に消費者に商品又は役務の出所につい
て誤認混同を生じさせることを防止するためである。未登録の商標が周知であるというのは、当該商
標が同盟国において登録されていないとはいえ、商標の実際の使用により、消費者又は需要者から一
定の知名度を得ているからである。ここでいう知名度が、正に我々のいう信用又は名声である。言い
換えれば、ある商標について、たとえ関連の同盟国で登録されていなくても、それが実際の使用に
よって一定の知名度又は信用を獲得すれば、必要な保護を受けられるということである。この意味か
らいえば、未登録の馳名商標に対するパリ条約の保護は、実質的には当該商標に化体した信用に対す
16
Convention Establishing World Intellectual Property Organization, Article 2. “Intellectual property”
shall include the rights relating to: ……and all other rights resulting from intellectual activities in
the industrial, scientific, literary or artistic fields. その中で、“rights resulting from intellectual
activities”は「知的活動の成果の権利」と訳すことができる。
17
中山信弘『工業所有権法(第二版増補版)』(上)弘文堂、12 頁(2000 年 4 月)。
18
Paris Convention, Article 6bis.
- 123 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
る保護である19。
次に、登録された馳名商標に対する希釈化防止保護について、TRIPS 協定の 16 条によると、パリ条
約の馳名商標に関する規定は、原則として登録商標が標示する商品又は役務と、非類似の商品又は役
務に準用される。非類似の当該商品又は役務において、他人の登録商標を使用することで、当該商品
又は役務と商標権者の関連性を示唆し、かつ商標権者の利益がそれによって損害を受けるおそれがあ
る、というのが前提条件になる。これが一般的に言われる馳名商標の「希釈化防止保護」又は「多区
分保護」である。他人の馳名商標に対して、区分を越えた使用を行うことは、消費者に誤認混同を生
じさせる可能性はないが、依然として当該商標に化体した信用が損害を受けるおそれがある。これと
対応して、馳名商標の希釈化防止保護又は多区分保護の要件は、どの程度の区分を越えて保護するか
という状況を含め、関連の商標に化体した信用によって決定される。具体的にいえば、ある馳名商標
第
三
章
の周知性が高ければ高いほど、また信用が高ければ高いほど、「希釈化防止保護」の範囲又は「多区
分保護」の範囲も大きく広がる。
実際に、「TRIPS 協定」16 条で規定されている希釈化防止の 2 つの前提条件は、登録された馳名商
標の信用に対する保護も体現している。なぜなら、非類似の商品又は役務に他人の登録商標を使用す
ることは、当該商品又は役務と商標権者に関連があることを示唆し、関連する使用が馳名商標の信用
の範囲に加わったことを表明するからである。関連する使用が馳名商標権者の利益に損害を与えるお
それがある場合も、当該商標に化体した信用が損害を受ける可能性がある。実際に、信用保護の観点
から見て、多くの国は、登録された馳名商標に対し希釈化防止による保護を与えるだけでなく、未登
録の馳名商標、更には周知商号に対しても希釈化防止による保護を与えている。例えば、日本の「不
正競争防止法」2 条 1 項 2 号によると、「自己の商品等表示として他人の著名な商品等表示と同一若し
くは類似のものを使用する行為」も不正競争行為を構成する。馳名商標の標章は、未登録の馳名商標
と周知商号を含む。また、米国の「連邦商標希釈化法」も、登録された馳名商標、未登録の馳名商標
の商号について言及している20。
3.商標登録の概念
商標に係る法律の発展から見ると、登録制度の出現は、商標と信用の関係をもとに、商標に対する
保護を更に強めた。しかし、商標登録の許可は、商標権を財産権として取得することとは無関係であ
る。なぜなら、商標権は財産権であり、商標の実際の使用と消費者の支持をその源とするからであ
る。使用された商標については、登録が認められることで直ちに当該商標に化体した信用が高まるこ
とはない。未使用の商標も、登録が認められることにより信用が無から有を生じさせることはあり得
ない。その一方で、別の観点から見ると、商標権者は、商標登録を通じて一連の恩恵を受けることが
できる。これらの恩恵は、商標登録の手続を通じて得ることから、「手続上の権利」と呼ぶことがで
き、商標権者が信用について享有する「財産上の権利」とは異なる。中国の「商標法」とその他の法
19
パリ条約が規定する「well-known marks」を中国語で「馳名商標」と翻訳するのは甚だ適切ではない。特に「馳名」
を全国的に著名であると定義すると、多かれ少なかれ、「well-known」の意味から乖離してしまう。近年は、それをも
ともとの意味のとおりに中国語で「馳名商標」と翻訳するよう主張する者もいる。だが、商標と信用の関係からみて、
それを一定の信用を備えた商標と呼ぶことができる。
20
Lanham Act, Article 43, Article 45.
- 124 -
律によると、登録の出願と承認によって商標権者は次に掲げる恩恵を受けられる。
第 1 に、全国において有効な権利が認められたと推定される。商標と信用の関係から見て、商標権
者の権利は、商標を実際に使用する区域に限定されるはずである。それは、珠江デルタ、長江デル
タ、東北地域、西南地域、さらには省・市である可能性がある。しかし、その商標登録が認められた
時点で、全国において有効な財産権を取得したと推定されることができる。商標登録が認められたこ
とで、商標権者は、消費者に誤認混同を生じさせる可能性を回避するため、全国において他人が使用
する同一又は類似の商標を排除することができる。この場合の排除は、商標権者が商業活動に従事し
ている区域に限られない。また、商標登録における「公示」の性質により、後の使用者も自己が同一
又は類似の商標を善意で使用したと主張することが困難となる。こうして、商標登録は、商標権者が
全国において自己の商業活動を拡張するための確固とした基盤を築くことができる。商標登録が認め
られることにより、善意の先使用者(もしある場合)は、もとの範囲内で関連する商標を継続して使
用するしかなく、更には区別するための標章を付加せざるを得なくなる。この点に関して、中国は、
2013 年の「商標法」改正時に 59 条 3 項において、「商標登録者が商標登録を出願する前に、他人が既
に同一又は類似の商品について、商標登録者より先に、登録商標と同一又は類似し、かつ一定の影響
を有する商標を使用しているときは、登録商標の所有者は、当該使用者がもとの使用範囲において当
該商標を引き続き使用することを禁止する権利を有しない。ただし、適切な区別できる標章を加える
よう要求することができる」と規定された21。
第 2 に、実際に使用していない商標を登録できる。使用されている商標を除き、実際に使用してい
ない商標又は使用意図がある商標についても、登録制度において手続上の権利が与えられた。登録制
度の趣旨によると、実際に使用していない商標は、登録が認められた時点で、全国において有効な手
続上の権利が得られる。最短で登録が認められてから 3 年間、商標権者は、同一又は類似の商標につ
いて、他人による登録が認められることを防止でき、関連商標を、誠意をもって使用したとの他人の
主張に対抗することができ、もとの範囲内でその商標を使用するよう先使用者に求めることができ
る。当然ながら、実際に使用していない登録商標については、その手続上の権利の範囲は非常に限ら
れている。例えば、継続して 3 年使用しない場合、何人も商標局に登録の取消を求めることができ
る。さらに、3 年以内に権利侵害行為が発生した場合、差止請求による救済が受けられるが、損害賠償
による救済は受けられない。「商標法」64 条では、「登録商標の所有者が賠償を請求し、被告により
登録商標の所有者が登録商標を使用していないとの抗弁がなされた場合、人民法院は、登録商標の所
有者に、過去 3 年以内にその登録商標を実際に使用したことの証拠を提供するよう求めることができ
る。登録商標の所有者が過去 3 年以内に、当該登録商標を実際に使用したことを証明できない、又は
権利侵害行為によりその他の損失を受けたことを証明できない場合、被告は賠償責任を負わない」と
規定されている22。
商標登録に関して、多数の者の認識上の混乱を引き起こしやすい問題は、使用意図がある商標の登
録又は未使用の商標の登録に、いかに対処するかという問題である。ここで、未使用の登録商標を一
つの殻又は容器に例えてみる。登録者が享有するのは、この殻又は容器を所有する権利にすぎない。
これに関して、日本の著名な商標法専門家である小野昌延氏は、「商標登録出願により生じた権利
21
22
「商標法」59 条 3 項参照。
「商標法」64 条参照。
- 125 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
は、商標法上、将来に特定の信用の受け皿になることについての先願的地位を有し、将来において使
用権が得られると共に、禁止権により第三者がこれと抵触する商標を使用することを阻止する可能性
を有し…、また、その出願によって得られた地位についても制度的に移転性が認められていることに
より、その適否は別論として、現行法では、将来の独占を期待しうる利益を有する財産権とされてい
る。」と述べている23。しかも、商標法の関連規定によると、登録者がこの容器に対して有する手続上
の権利の有効期間は、僅か 3 年間にすぎない。なぜなら、ある登録商標が継続して 3 年使用されない
場合、いかなる者も商標局に登録を抹消するよう求めることができるからである。
第 3 に、登録商標は、希釈化防止保護を受けられる可能性がある。「パリ条約」6 条の 2 では、未登
録の馳名商標に対する保護が与えられている。規定によると、消費者に誤認混同を生じさせることを
防ぐため、他人が既に使用し、一定の名声を有する商標については、主管機関が商標の登録を拒絶し
第
三
章
又は無効とし、及びその使用を禁止することができる。これは、未登録の馳名商標に対して与えられ
る特別な保護である24。「TRIPS 協定」に至っては、16 条 3 項において、「パリ条約 6 条の 2 の規定
は、登録された商標に係る商品又はサービスと類似していない商品又はサービスについて準用する。
ただし、当該類似していない商品又はサービスについての当該登録された商標の使用が、当該類似し
ていない商品又はサービスと当該登録された商標の権利者との間の関連性を示唆し、かつ、当該権利
者の利益が当該使用により害されるおそれがある場合に限る。」と規定されている25。これが通常言わ
れる馳名商標の多区分保護又は希釈化防止保護である。なお、TRIPS 協定で規定されている希釈化防止
保護が、登録された商標に限定されるという点は注目に値する。これに対応して、中国の「商標法」
13 条 2 項でも、「同一でも類似でもない商品について登録出願した商標が、中国で登録されている他
人の著名商標を複製、模倣又は翻訳したものであって、公衆を誤導し、当該著名商標登録者の利益に
損害を与え得る場合は、それを登録せず、かつその使用を禁止する」と規定されている26。最高人民法
院の司法解釈によると、「係争商標が著名商標に相当程度の関連性があると関連公衆が判断するに足
り、馳名商標の顕著性を弱め、馳名商標の市場における名声をおとしめる又はその名声を不当に利用
すること場合、「商標法」13 条 2 項で規定されている「公衆を誤導し、当該著名商標登録者の利益に
損害を与え得る」に該当する27。
第 4 に、商標を登録してから 5 年後に抹消不可能な登録商標となる。商標権者がある商標を採用又
は登録するとき、固有の顕著性が備わっていない、地理的名称が含まれている、他人の先行権利と衝
突するといった瑕疵が存在する可能性がある。商標が未登録の状態において、こうした固有の欠陥
は、商標の有効性に影響を及ぼし得る。しかし、多くの国の商標法において、前述の欠陥を有する商
標は、登録が認められてから 5 年後には登録を取り消すことができない、又は権利侵害を訴えられな
い商標に変わり得るとされている。これは、当初関連する登録商標に瑕疵があっても、継続して 5 年
間使用する中で、商標権者が相応の投資を行い、消費者も関連商標の付された商品又は役務を支持し
たことによる。この投資と形成された商業的関係については保護されるべきである。そのため、中国
の「商標法」45 条では、「登録商標について、登録日から 5 年以内に、先行権利者又は利害関係者
23
小野昌延『商標法概説』有斐閣、11 章、391 頁(1999 年)。
「パリ条約」6 条の 2 を参照。
25
See TRIPS Agreement, Article16.
26
「商標法」13 条 2 項参照。
27
最高人民法院「馳名商標の保護をめぐる民事紛争事件の審理に対する法律の適用に関する若干の問題の解釈」9 条参
照。
24
- 126 -
は、商標評審委員会に当該登録商標の無効審判を請求することができる。悪意により登録された馳名
商標の権利者は、5 年間の期間制限を受けない」と規定されている28。
明らかに、商標登録が認められてから 5 年経過すれば、もとの瑕疵に起因して登録が取り消される
ことはなくなり、商標権者の商標に対する投資が保障されることが分かる。少なくとも、商標権者
は、自己の商標の登録が取り消されることを懸念する必要がなくなり、登録商標の付された商品又は
役務に対し、安心して、大胆な投資を行い、それに見合った利益を得ることができる。
第 5 に、商標の登録は、譲渡、使用許諾の証拠となる。未登録商標は、譲渡又は使用許諾の面で、
明らかに一定の不確定性が存在する。例えば、当事者は、双方の契約によってのみ商標の譲渡又は使
用許諾の事実を確定することができる。一方で、関連商標の登録が認められた状況では、商標の譲渡
又は使用許諾は、当事者双方の契約以外に、商標登録証という要素が加わることで、商標の譲渡と使
用許諾を行う上でその確実度が増す。多くの国の商標法や関連規定において、登録商標の譲渡と使用
許諾は、主管部門に届出が行われ、主管部門によって公示されなければならないとされている。この
ような届出や公示も商標の譲渡と使用許諾を行う上での確実性を高めるものである。
これに関しては、中国の「商標法」にも、登録商標と譲渡と使用許諾の届出についての規定があ
る。「商標法」42 条では、「登録商標を譲渡する場合は、譲渡人と譲受人は、譲渡契約を締結し、共
同して商標局に申請しなければならない。登録商標の譲渡は、許可された後に公告される。譲受人
は、公告日より専用権を享有する」、また「商標法」43 条では、「商標使用許諾契約を締結すること
により、他人が当該登録商標を使用することを許諾することができる。許諾者は、被許諾者が当該登
録商標を使用する商品の品質を監督しなければならない。被許諾者は、当該登録商標を使用する商品
の品質を保証しなければならない。他人に当該登録商標の使用を許諾するときは、許諾者は、当該商
標の使用許諾について商標局に届け出て、商標局は、これを公告しなければならない。商標使用許諾
を届け出ない場合は、善意の第三者に対抗することができない」と規定されている29。
第 6 に、登録商標は、権利侵害訴訟において、より多くの法的救済を得られる。未登録商標とは異
なり、登録商標の所有者は、権利侵害訴訟を提起する前から、有効な法的救済を得ることができる。
例えば、多くの国の商標法において、登録商標の侵害が発生した状況において、商標権者は、訴訟前
の暫定的な差止命令、財産保全、証拠保全など、裁判所に訴訟前臨時措置を請求することができると
されている。訴訟前の暫定的差止命令と財産の保全に関して、中国の「商標法」65 条では、「商標登
録者又は利害関係者は、他人がその専用権を侵害している又は行おうとしていることを証明する証拠
を有しており、これを直ちに阻止しなければ、その合法的な権利・利益に回復し難い損害を与えるお
それがあるときは、提訴する前に、法により人民法院に関係行為の差止命令と財産の保全措置を行う
よう請求することができる」と規定されている。これは、訴訟前の暫定的差止命令と財産保全に関す
る規定である。訴訟前の証拠保全に関しては、「商標法」66 条で、「侵害行為を差止めることによ
り、証拠が失われる可能性がある又は今後の取得が困難である場合においては、商標登録者又は利害
関係者は、訴訟を提起する前に、人民法院に証拠保全を請求することができる」と規定されている30。
このほか、多くの国の商標法において、裁判所が商標権侵害を認定した場合において、商標権者
は、特別な救済措置を受けられるとされている。例えば、中国の「商標法」63 条によると、商標権侵
28
29
30
「商標法」45 条参照。
「商標法」42 条、43 条参照。
「商標法」65 条、66 条参照。
- 127 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
害が確定した状況において、商標権者が得られる損害賠償は、権利者の損失、侵害者の利益所得、使
用許諾料の倍数を参照して合理的に確定するほか、懲罰的損害賠償と法定損害賠償を課すことができ
る。懲罰的損害賠償は、2013 年の「商標法」改正時に加えられた救済措置である。規定によると、悪
意により専用権を侵害し、情状が重大なときは、上述の方法により確定した金額の 1 倍以上 3 倍以下
で賠償額を確定することができる。法定の損害賠償は、2001 年の「商標法」では 50 万元以下、2013
年の改正「商標法」では 300 万元以下に変更された。具体的には、「権利者が侵害により受けた実際
の損失、侵害者が侵害により得た利益、登録商標の使用許諾料を確定することが困難な場合は、人民
法院は、侵害行為の情状に応じて 300 万元以下の賠償命令の判決を下す」と規定されている31。
第 7 に、登録商標は、刑事的救済が受けられる。商標権侵害において、同一又は基本的に同一の商
標を同類の商品又は役務に使用することが最も重大な権利侵害行為であり、これは通常、商標の不正
第
三
章
使用といわれ、重大な場合は、犯罪を構成し、刑事的制裁を受ける。関連する国際条約や多くの国の
法律において、商標の不正使用とは、登録商標の不正な使用を指し、未登録商標のそれを含まないと
されている。例えば、「TRIPS 協定」61 条の第 1 文では、「加盟国は、少なくとも故意による商業的
規模の商標の不正使用…について適用される刑事上の手続及び刑罰を定める。」と規定されている。
また、「TRIPS 協定」51 条ではその注釈 1 において、「この協定の適用上、(a)「不正商標商品」と
は、ある商品について有効に登録されている商標と同一であり又はその基本的側面において当該商標
と識別できない商標を許諾なしに付した、当該商品と同一の商品(包装を含む。)であって、輸入国
の法令上、商標権者の権利を侵害するものをいう。」とされている32。
これに関しては、中国の「商標法」67 条でも、「商標登録者の許諾を得ずに、同一商品にその登録
商標と同一の商標を使用し、犯罪を構成する場合、被侵害者の損失を賠償するほか、刑事責任を追及
する。他人の登録商標の標章を偽造若しくは無断で製造し、又はその偽造若しくは無断で製造した登
録商標の標章を販売することにより犯罪を構成するときは、被侵害者の損失を賠償するほか、刑事責
任を追及する。登録商標を不正使用した商品と知りながら販売することにより犯罪を構成するとき
は、被侵害者の損失を賠償するほか、刑事責任を追及する」と規定されている33。これに対応して、中
国の「刑法」213 条では、登録商標の不正使用行為について、214 条では、登録商標を不正使用した商
品と知りながら販売する行為について、及び 215 条では、他人の登録商標の標章を無断で製造し、又
はその偽造若しくは無断で製造した登録商標の標章を販売する行為について、7 年以下の有期懲役、拘
留、管制、罰金など、具体的な刑事責任が定められている。このほか、220 条でも、罰金、主管者その
他の責任者への刑事責任の追及など、事業者による犯罪について規定されている34。
第 8 に、登録商標は、税関の保護を受けられる。今日の経済グローバル化時代において、商品の取
引又は役務の提供は、多くの場合において一国の範囲にとどまらない。これに対応して、輸出や輸入
において自己の商標をいかに保護するか、商標を不正使用した、又は商標権を侵害している商品が税
関を出入りすることをいかにして防止するかは、商標権者にとって大変重要となっている。これに関
して、関連する国際条約や多くの国の法律では、登録商標に特別な保護が与えられている。例えば、
「TRIPS 協定」51 条では、「…この節の規定に従い、不正商標商品又は著作権侵害物品が輸入される
31
32
33
34
「商標法」63 条参照。
See TRIPS Agreement, Articles 61, 51.
「商標法」67 条参照。
「刑法」213 条、214 条、215 条、220 条参照。
- 128 -
おそれがあると疑うに足りる正当な理由を有する権利者が、これらの物品の自由な流通への解放を税
関当局が停止するよう、行政上又は司法上の権限のある当局に対し書面により申立てを提出すること
ができる手続を採用する。加盟国は、この節の要件を満たす場合には、知的所有権のその他の侵害を
伴う物品に関してこのような申立てを可能とすることができる。加盟国は、自国の領域から輸出され
ようとしている侵害物品の税関当局による解放の停止についても同様の手続を定めることができ
る。」と規定されている。この条文の注釈 1 によると、不正な商標商品とは、許諾なしに登録商標と
同一の商標又は基本的側面において類似する商標を使用した商品を指す35。
中国の「税関知的財産権保護条例」では「輸出入商品において、それに関わる専用権、著作権及び
隣接権、専利権について税関の保護を与える」と規定されている36。この中の「専用権」とは、登録商
標に係る権利であり、未登録商標は含まれない。知的財産権の権利者が税関に届出を行うことができ
るという規定から見ると、商標権者のみが税関に自己の商標を届け出ることができ、かつ相応の証明
文書を提供することができる。一方、未登録商標権者は、権利の有効性を証明する基本的な証拠の提
供が困難である。
上述からすれば、商標登録は、商標の保護において非常に重要な地位にあり、大変重要な役割を発
揮していることが分かる。例えば、全国において財産権を有すると推定され、希釈化防止による保護
を得られる可能性が生じる。継続して 5 年使用すれば登録を抹消できない商標となり、商標の譲渡と
使用許諾を行う上で確実度を得る。また、使用していない商標も登録が認められ、3 年間有効となる。
商標登録が認められることの最大のメリットは、商標権者が手厚い保護が受けられるといえるであろ
う。例えば、商標登録証書は、権利侵害訴訟において権利の有効性を示す証拠となり、商標権者は、
訴訟前臨時救済措置、懲罰的損害賠償、法定損害賠償を受けられ、刑事的措置による救済を得られる
ほか、輸出入において税関の保護が受けられる。こうして見ると、商標登録は、財産上の権利を得る
ための手段ではないが、手続上の一連の権利を得るための手段であり、これら手続上の権利と財産上
の権利を組み合わせることで、商標権者は、より手厚い保護が受けられる。これに対応して、商標権
者、とりわけ関連の商標を既に使用している商標権者は、積極的かつ速やかに主管部門による登録許
可を求め、自己の商標とそれに化体した信用を有効に保護するべきである。
登録商標に関していうと、商標権者の権利を「財産上の権利」と「手続上の権利」に分けること
は、登録商標と商標保護における商標登録の地位と役割を理解する上で大変重要である。ここでいう
財産上の権利は、商標の実際の使用により生じる基本的な権利である。手続上の権利は、商標局にお
ける登録によって生じるもので、財産上の権利に付属する権利である。このように分けた場合、手続
上の権利は、財産上の権利と組み合わされて、初めて法的な価値を有する。単独で存在する手続上の
権利は、実質的な価値のない権利である。これに関して、商標権者が有する財産上の権利は、「皮」
に、商標権者が登録によって得た手続上の権利は、「毛」にそれぞれ例えることができる。「毛」
は、「皮」に付着しない限り価値を持たない。すなわち、「皮」に付着できない「毛」には価値がな
い。中国語には「皮がなければ、毛はどのように付す」という意味のことわざがあるが、正にこの道
理に示されるとおりである。これに対応して、誰かの使用する意図のない「標章」の登録出願をいか
に防ぐか、商標局が未使用で、使用する意図もない「標章」の登録の許可をいかに防ぐかが、私たち
35
36
See TRIPS Agreement, Article51.
「税関知的財産権保護条例」2 条参照。
- 129 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
が直面する課題となる。
4.不正競争の制止と商標の保護
不正競争の制止に係る法律は、商標及び信用の保護と密接に関わっている。前述のとおり、商標
は、商業活動において使用する標章であり、当該商標の付された商品又は役務の信用又は名声を体現
している。信用の獲得という観点からすれば、関連商標を商品又は役務に使用しさえすれば、それを
出願したか否か、そして登録が認められたか否かに関係なく、法により保護されるべき信用が生じ、
関連する商標を登録出願し、登録が認められた場合、商標法による保護が受けられる。関連商標登録
を出願せず、登録が認められない場合、不正競争防止法による保護が受けられる。商標法と不正競争
第
三
章
防止法は、それぞれ異なった観点から商標及びそれに化体した信用を保護するものといえる。しか
も、事業者による事業活動によって生じる信用又は名声は、商品商標又は役務商標にのみ体現される
のではなく、商号及びその他の営業標章にも体現される。ある事業者は、登録商標及び未登録商標へ
の侵害だけでなく、商号及びその他の営業的標章への侵害、信用毀損や虚偽宣伝等の方法により、他
人が事業活動を通じて蓄積してきた信用や名声を不正に利用することができる。実際に、営業標章の
偽造の阻止、信用毀損と虚偽宣伝の阻止は、正に不正競争の制止に係る法律の趣旨である。
不正競争の阻止に係る法律は、営業標章の偽造の阻止をその発端とする。例えば、イギリスでは
1618 年に、布業者の別の布業者の商標に対する模倣を阻止する判決を通じて、偽造阻止の原則が確定
された。その後、関連の判例を通じて、偽造阻止の規則の充実化と整備が図られ、営業標章の偽造、
虚偽宣伝及び信用毀損も含めたイギリスの不正競争法制が形成された37。また、アメリカでも、イギリ
スの偽造防止の原則をもとに各州の不正競争防止法が制定され、その後、偽造阻止、信用毀損、虚偽
宣伝及び希釈化などの内容を含めた、連邦不正競争防止法が制定された。少なくとも英米法系の国で
は、商標法は、不正競争防止法を起源としており、不正競争防止法における特別法に属する。例え
ば、イギリスでは 1875 年に偽造阻止を土台として商標法が制定された。また、アメリカでも、各州の
不正競争防止法を基礎として、1946 年に連邦の商標法である「ランハム法」が制定された。この意味
からすると、登録商標保護は、不正競争防止法の原則の域を超えてはいない。つまり、登録商標保護
の趣旨は、依然として消費者の商品又は役務の出所に対する誤認混同を防止することであるといえ
る。
一方の大陸法系の幾つかの国では、営業標章の偽造阻止を基礎とし、成文化された不正競争防止法
が制定された。例えば、ドイツで 1896 年に制定された「不正競争防止法」は、世界最古の不正競争の
制止に係る単行法となった。20 世紀以降、フランス、スイス、オーストリア、イタリア及び日本など
が相次いで不正競争の制止に係る成文法を制定した。各国の不正競争防止法及び司法実務の整備に伴
い、「パリ条約」の 1900 年ブリュッセル改正条約 10 条の 2 でも、不正競争の制止に係る基本原則が
制定された。その後も条約の整備が進み、今日私たちが目にするストックホルム改正条約 10 条の 2 が
形作られた38。
37
See Cornish, Llewelin, Intellectual Property: Patents, Copyright, Trade Marks and Allied Rights, 6th
edtion, 2007, Part V “Trademarks and Names; Lionel Bently & Brad Sherman, Intellectual Property Law,
Oxford University Press, 2001, Part IV “Trademarks and Passing Off.
38
Paris Convention, Article 10bis.
- 130 -
営業標章偽造の阻止が進展するに伴い、関連する国内法及び国際条約でも不正競争の制止をめぐる
商業倫理が注目された。例えば、ドイツの 1909 年の改正「不正競争防止法」では、「営業上の取引に
おいて発生した競争目的をもって『善良な風俗に違反する』行為をなした者については、いかなる者
もその差止め及び損害賠償を請求することができる」と規定された。2004 年の改正「不正競争防止
法」では、「善良な風俗に違反する」行為が「不正」行為に変更された39。また、「パリ条約」10 条の
2 では、「工業上又は商業上の公正な慣習に反する全ての競争行為は、不正競争行為を構成する」と規
定されているが、これが通常いわれる「信義誠実」の原則である40。実際に、関連する競争行為が「正
当」であるか「不正」であるかには、商業倫理の判断が示唆されている。正に、「不正競争の制止」
という商業倫理を旗印に、従来の営業標章偽造、信用毀損、虚偽宣伝及び営業秘密の窃盗窃取も不正
競争防止法の範疇に組み入れられた。このほか、パブリシティ権(Right of Publicity)の保護、独
創性のない模倣(Slavish Imitation)、馳名商標の希釈化(Dilution)を不正競争防止法の範疇に組
み入れた国もある。
19 世紀末以降、不正競争防止法の理論と実践は、大いなる進展を遂げたとものの、知的活動の成果
の保護という範囲を超えることはなかった。しかも、「パリ条約」の規定を見ると、営業標章に化体
した信用の範囲でさえも超えていない。「パリ条約」10 条の 23 項は、同盟国は、少なくとも次の 3 つ
の不正競争行為を制止しなければならないとしている。第 1 に、いかなる方法によるかを問わず、競
争者の営業所、産品又は工業上若しくは商業上の活動との混同を生じさせるような全ての行為。これ
は、商標、トレードドレス、商号の偽造を指している。第 2 に、競争者の営業所、産品又は工業上若
しくは商業上の活動に関する信用を害するような取引上の虚偽の主張。これは、信用毀損を指してい
る。第 3 に、産品の性質、製造方法、特徴、用途又は数量について公衆の誤らせるような取引上の表
示及び主張。これは、虚偽宣伝を指している。これら 3 つの行為と信用との関係をそれぞれ次に説明
する。
「偽造」とは、他人の商標、トレードドレス及び商号を許可なく使用することで、ある事業者の営
業所、商品若しくは工業上又は商業上の活動が、別の事業者の営業所、商品若しくは工業上又は商業
上の活動であると消費者に誤認混同を生じさせるおそれを生じさせることをいう。これに関して、中
国の「反不正当競争法」5 条の前の 3 号では、商標、トレードドレス及び商号の偽造が基本的に網羅さ
れている。表面的には、偽造の目的は営業所、商品若しくは工業上又は商業上の活動の出所について
消費者に誤認混同を生じさせることのように思えるが、実質的には他人の営業所、商品、トレードド
レス及び商号に化体した信用を利用することである。WIPO(世界知的所有権機関)の「不正競争防止
に関する保護のモデル規定」の注釈によると、「商標、商号その他の営業の象徴となる標章を希釈化
し、企業の信用又は名声に損害を与える事由を構成する」とされているほか、「他人の信用又は名声
に損害を与える行為は、関連する行為又は方法が消費者に誤認混同を生じさせるかどうかを問わず、
不正競争を構成する」とされている41。中でも、消費者に誤認混同を生じさせて、信用に損害を与えた
場合、偽造を構成する。消費者に誤認混同を生じさせていないが、信用に損害を与えた場合、希釈化
を構成する。営業標章の偽造にせよ、その希釈化にせよ、いずれも他人の信用を利用する、又は損害
を与える行為であることが分かる。
39
40
41
See Frauke Henning-Bodewig, A New Act Against Unfair Competition in Germany, IIC 4/2005.
Paris Convention, Article 10bis.
WIPO Model Provisions on Protection against Unfair Competition, WIPO Publication Mo. 832, 1996.
- 131 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
「信用毀損」とは、競争者が虚偽の陳述により、同業者の競争者の営業所、商品若しくは工業上又
は商業上の活動の信用に損害を与える行為をいう。信用毀損の阻止は、被害者の信用を守るために行
う。WIPO の「不正競争防止に関する保護のモデル規定」では、「パリ条約」の規定を土台として、信
用毀損に当たる行為が列挙された。「モデル規定」5 条によると、「工業上又は商業上の活動における
いかなる虚偽又は不当な陳述も、それが他人の企業又はその活動、特に他人の企業が提供する商品又
は役務の信用に損害を与える、又は損害を与えるおそれのある行為は、不正競争行為を構成する。こ
の他人の信用に損害を与える行為は、広告活動又は販促活動において発生する可能性があり、さらに
次に掲げる事項に関わるとき、容易に発生する。(1)商品の製造方法、(2)商品又は役務の特定の
用途、(3)商品又は役務の品質、数量その他の特徴、(4)商品又は役務を提供する条件、(5)商品
又は役務の価格その他の計算方法」としている42。信用毀損と信用の関係については、中国の「反不正
第
三
章
当競争法」14 条でも十分に反映されており、「事業者は虚偽の事実を捏造し、流布して競争相手の営
業上の信用又は商品の名声に損害を与えてはならない」と規定されている。
「虚偽宣伝」とは、事業者が虚偽の表示や説明により、自己が提供する商品の性質、製造方法、特
徴、用途及び数量について消費者に他の商品との誤認混同を生じさせ、消費者の関心を引き寄せるこ
とをいう。虚偽宣伝は明らかに、一方で自己の商品の名声を誇張し、他方で客観的に他の競争者の商
品の価値を貶めることで不正競争を構成する。よって、他の事業者が虚偽宣伝を阻止するために訴訟
を起こすことは、競争秩序を維持するとともに、自己の商品の名声を守ることでもある。WIPO の「不
正競争防止に関する保護のモデル規定」では「パリ条約」の規定を土台として、虚偽宣伝の形式が列
挙されている。「不正競争防止に関する保護のモデル規定」4 条によると、「工業上又は商業上の活動
において、企業又はその活動、特に当該企業が提供する商品又は役務について、公衆に誤認混同を生
じさせる、又は誤認混同を生じさせるおそれのある行為又は方法は、いずれも不正競争行為を構成す
る。この誤認混同を招く行為又は虚偽宣伝は、競争者の広告活動又は販促活動において生じる可能性
があり、さらに次の事項に関わるとき、容易に発生する。(1)商品の製造方法、(2)商品又は役務
の特定の用途、(3)商品又は役務の品質、数量その他の特徴、(4)商品又は役務の地理的出所、
(5)商品又は役務を提供する条件、(6)商品又は役務の価格その他の計算方法」とされている43。こ
れに関しては、中国の「反不正当競争法」9 条でも、「事業者が、広告又はその他の方法を用いて、商
品の品質、成分、性能、用途、生産者、有効期間、原産地などについて公衆に誤解を与える虚偽宣伝
を行うことは、不正競争行為を構成する」と規定されている。
「パリ条約」で列挙された 3 つの不正競争行為が、保護の範囲を依然として営業標章及び信用に限
定していたとするならば、WTO の「TRIPS 協定」に至って、不正競争の制止の保護範囲が営業秘密へと
拡大された。「TRIPS 協定」によると、加盟国は、「パリ条約」10 条の 2 で規定される不正競争から
の有効な保護を確保するために、公正な商慣習に反する方法に背く方法により、自己の承諾を得ない
で他人が営業秘密を開示し、取得し又は使用することを防止しなければならないとしている44。営業秘
密は、商標や信用に直接的な関係はないが、営業秘密にせよノウハウにせよ、人類の知的活動の成果
であることは疑いの余地がない。正にこの意味からして、「TRIPS 協定」は営業秘密の保護を不正競争
防止の範疇に組み入れ、営業秘密を知的財産権として保護したといえる。
42
43
44
WIPO Model Provisions on Protection against Unfair Competition, WIPO Publication Mo. 832, 1996.
WIPO Model Provisions on Protection against Unfair Competition, WIPO Publication Mo. 832, 1996.
See TRIPS Agreement, Article 39.
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「パリ条約」、「TRIPS 協定」で規定されている偽造、信用毀損、虚偽宣伝及び営業秘密の窃盗窃取
の阻止のほかに、一部の国で規定されているパブリシティ権の保護、独創性のない模倣の阻止及び希
釈化防止も、知的活動の成果に密接に関わる。例えば、米国の「第 3 次不法行為法リステイトメン
ト」46 条では、「商業的目的のために、他人の氏名、肖像その他の身分の標章を許可なく使用するこ
とは、他人の身分の商業的価値の利用を構成し、差止命令と損害賠償の責任を負わなければならな
い」と規定されている45。この商業的価値は、著名人の傑出した才能によって得たものである場合もあ
れば、偶然の要素により得たものである場合もある。また、ドイツの「不正競争防止法」では、「他
人の商品又は役務の摸倣が出所について誤認混同を生じさせるおそれがある場合、不正競争行為を構
成する」と規定されている。AIPPI(国際知的財産保護協会)の 1996 年の専門家による指摘による
と、「独創性のない模倣又はやや独創性のない模倣(slavish or quasi-slavish imitation)は、オ
リジナルの商品又は役務(original product or service)にかかわり、消費者がオリジナルの商品と
摸倣品を区別できないとき、初めて不正競争と認められる」としている46。信用にせよ、オリジナルの
商品又は役務の様式にせよ、いずれも知的活動の成果を構成することが分かる。また、馳名商標の希
釈化は、それ自体が他人の商標に化体した信用に対する毀損である。他人の馳名商標と同一又は類似
の商標を異なる類型の商品又は役務に使用する場合、消費者に誤認混同を生じさせる可能性を生じな
いとはいえ、当該馳名商標に化体した信用を利用され、損害を与える可能性があるともいえる47。
知的財産権又は知的活動の成果に対する保護という観点からいえば、不正競争防止に係る法律は、
なお改善の余地が大きい。その一方で、本文の主題についていえば、商標法と不正競争防止法の関係
を理解することは、商標の保護を十分に理解する上で大変重要な意義がある。まず、商標の保護の歴
史を見ると、先に権利侵害法と不正競争防止法による商標の保護があり、その後に商標法が出現して
いることは明確である。少なくとも英米法系の歴史を見ると、商標法は、不正競争防止法を土台とし
て、一部の商標に登録による保護を与えたにすぎない。この意味からいえば、商標法は、不正競争防
止法の枝分かれにすぎない。次に、不正競争防止法は、信用について幅広い範囲で保護を与えた。信
用の保護に関して、商標法は、登録商標とそれに化体した信用を保護するだけであったが、不正競争
防止法は、未登録商標、商号その他の標章に化体した信用を保護し、さらには信用毀損や虚偽宣伝を
阻止することで事業者の信用を保護している。
商標法と不正競争防止法の関係を見ると、商標法は、登録商標に対して保護を与えるものであり、
いまだに不正競争の制止に係る保護にとどまっているといえるかもしれない。商標を構成する要素
は、初めからパブリックドメインに置かれており、いかなる事業者もその中の要素を利用して自己の
商標を形成し、商品又は役務の出所を示すことができる。商標権者がその商標について享有する権利
は、商品又は役務の出所を示すという意義においてのみ存在する権利である。他の事業者又は個人
が、商品又は役務の出所を示すこと以外の意義において関連する営業の象徴となる標章を使用する場
合、消費者に誤認混同を生じさせるおそれがない限り、正当な行為である。商標法と不正競争防止法
は、商標とそれに化体した信用に対して保護を与えるものであり、著作権法の著作物に対して与える
保護とも、専利法の技術的発明に対して与える保護とも異なる。これに対応するように、商標権と著
45
American Law Society, Restatement (third) of Unfair Competition, Section 46.
Reprinted in GRUR Int. 1996, 1043. Christopher Heath, the System of Unfair Competition Prevention in
Japan, Kluwer Law International 2001, 3/129 から引用。
47
WIPO Model Provisions on Protection against Unfair Competition, WIPO Publication Mo. 832, 1996.
46
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
作権又は専利権と同列に論じることは適切ではない。
5.結論
商標は、商業活動において使用する標章であり、その役割は、商品又は役務の出所を示すことであ
る。しかし、この一見単純な概念は、中国の商標制度の歩みの中で変化を遂げてきた。多くの人は、
関連する標章の登録が商標局に認められさえすれば、商業活動において実際に使用するかどうかを問
わず、「登録商標」となり、権利を享有できると考えている。しかし、年間 100 万件を超える商標の
登録出願件数、約 850 万件という有効な登録商標件数を前にして、当局の職員、司法機関の法官、商
標権侵害を提訴する弁護士、諸々の事業者、専門家が商標というものについて真の意味で明確に理解
第
三
章
しているかどうか疑問を投げかけるべきかもしれない。
商標を関連する商品又は役務に使用することで、商品又は役務の出所を示すことができ、関連する
商品又は役務に対する積極的な評価を生み出すことができる。これこそ、商標に化体した信用であ
り、商標権の財産権としての価値である。商標権者は、自己の商品又は役務に対する消費者の支持を
得るために、専利技術や非専利技術の使用、経営方法の改善、広告や宣伝の強化といった多様な方法
を講じて、商品又は役務の品質を高めようとする。この意味からいえば、関連する商品又は役務に対
する事業者の大々的な投資は、最終的に関連する商品とそれに化体した信用に成果となって現れる。
これに対応して、商標とそれに化体した信用は、企業にとって貴重な財産となる。
中国では、「商標権は標章に係る権利である」という学説がかつて流行した。この学説によれば、
商標権とは、標章について享有する権利であり、商標は、商標行政部門から登録が認められさえすれ
ば、商標権が生じる。この学説が商標登録を強調し、多かれ少なかれ商標の実際の使用、それによっ
て生じる信用をないがしろにしていることが分かる。商標の登録は、財産権を得るための手段ではな
く、商標の登録によって得られるのは、手続上の権利にすぎない。この手続上の権利は、例えば、全
国において有効な財産権と推定される、希釈化防止保護を受ける可能性を得る、商標の使用許諾又は
譲渡の証拠となる、多くの民事的救済を得る、必要な刑事的救済や税関による保護を受けるなど、商
標権者に様々な恩恵をもたらす。しかも、商標権者が登録によって得られた手続上の権利は、商標の
使用によって得られる財産上の権利と組み合わさり、自己の商標を一層手厚く保護できる。正にこの
意味で、商標権者は、自己の商標に対するより手厚い保護を実現させるために、商標登録を適時求め
るべきである。
商標の保護の歩みを見ると、先に権利侵害法と不正競争防止法があり、その後に商標法が出現して
いる。少なくともイギリスと米国では、先に不正競争防止法による商標の保護があり、後になって、
商標法により一部の商標に対して登録による保護が与えられた。商標法は、不正競争防止法の枝分か
れにすぎない。その上、商標法が制定されても、商標の使用に対する要件、商標に化体した信用の保
護、権利侵害の認定において、消費者に誤認混同を生じさせ得る基準は、依然として不正競争防止法
の基本原則を踏襲している。実際に、商標法と比較して、不正競争防止法では、信用に対する幅広い
保護が与えられている。例えば、商標法では、主に信用の保護に関して登録商標とそれに化体した信
用を保護するのであったが、不正競争防止法では、未登録商標、商号その他の営業標章に化体した信
用が保護され、さらには、信用毀損や虚偽宣伝を阻止することで事業者の信用が幅広く保護されてい
- 134 -
る。商標と信用の関係から見ても、我々は、商標法による保護に注目するだけでなく、不正競争防止
法による保護にも注目しなければならない。
以上
第
三
章
- 135 -
第3章
研究内容の報告
Ⅳ.“ビッグデータ”時代の知財保護の新たな構想
中国社会科学院
知識産権センター
唐 広良 教授
1.本課題研究の背景に係る考慮
本事業における 2015 年 11 月に開催された東京会議において、中山信弘教授は、中国側に対して
「中国の知財に関する法制度の正当性の根拠はどこにあるのか?」と問われた。この問題について、
中国の学者は、次のとおり、一致した見解を示した。中国の知的財産制度は、欧米先進国からのプ
レッシャーの下で構築され、かつ最初の制度と規範化は、ほとんど先進国からそのまま導入したもの
であり、欧米諸国の法律・規範を検討・解読した上、最大限に我々が読み取り、かつ明らかに中国の
第
三
章
利益を損害していない制度と規範を選定したものに過ぎない。それから 30 年経て、中国経済の発展に
つれて、国力が増強され、中国も国際化の中で自己の自由意志で発言できる初歩的な資格を有して始
めて、知的財産保護制度を含む法律制度を真剣に検討し始め、最大限に本国の国民経済と社会発展の
ためにその役目を果たすように図っている。
事実上、知的財産保護の正当性がどこにあるかの問題について、恐らくこの制度が誕生した欧米諸
国でも、いまだにはっきり説明できないであろう。それは、我々も常に欧州、米国の一部の学者から
知的財産保護制度に対する質疑があるからである。むろん、市場経済がグローバル化されつつある現
在において、大多数の人々は、知的財産保護の正当性を疑わなくなり、数多くの学者は、むしろ各自
の方法を用いることによりこの保護の正当性の存在を証明している。したがって、事実上、筆者も知
的財産保護制度の「反対者」ではなく、「批評者」に過ぎない。
通常、知的財産保護は、有効に革新を促進し、科学技術と文化の進歩を促進することにより、生産
力のレベルを向上させ、かつ最終的に経済と社会の発展を保障・促進する重要な動力である。言い換
えれば、各国で知的財産を保護しようとする核心目的は、正に経済発展を促進するためであり、この
目的を実現するルートは、法律制度の保護を介して豊富な投資の利回りメカニズムを形成し、能力の
ある個人と組織を刺激することにより、科学、技術、文学、芸術等の分野に係るイノベーション活動
に参加させることである。表面上、知的財産保護制度では、ある知的成果の中から利益を得た全ての
人々が、その発明者、創造者に一定の報酬を支払うよう求めている。すなわち、大多数の人が少数の
人にお金を支払うので、大衆の利益を侵害する疑いがあるように見えても、理論上、かかる結果は、
より多くの人にイノベーションに従事させることを通じて、より多くの人々が大多数の社会公衆に有
益な知的成果を創造していくようになる。
中国の知的財産法律制度は、30 年以上も前に実施して以来、専利出願と権利付与の件数、商標登録
の件数、文学芸術作品の出版数量等を含む量化できるものは、いずれも 30 余年前に比べ、明らかに数
万倍の上昇状態を表している。しかも、中国の社会全体及び社会公衆の個人と家庭の生活レベルも 30
余年前に比べ、確実に質的な向上状態を見せている。したがって、個別の知的財産学者は、相応の
データを結合することにより、「知的財産の保護は、社会発展及び人民生活の改善に有利である」と
の結論を出している。
しかし、現在に至るまで、中国では、「数百万件の専利技術は、一体どれくらいの経済価値をもた
らしたのか?千万件に近い登録商標と、国民経済、社会発展の関連性はどこにあるのか?数え切れな
- 136 -
いほどの『著作物』は、どんな科学、技術、文化、芸術等における進歩をもたらしたのか?」、これ
らを教えてくれる、本当に人々を感服させる研究報告は、いまだにない。しかしながら、社会公衆の
構成員であると同時に、知的財産学者である私本人及び私の同僚らの主観的な感覚は、次のとおりで
ある。30 余年以来、本法の意味での創造的な技術発明は、ほとんど一般社会公衆の視野に入っておら
ず、関係部門に認定された馳名商標は、既に数千件に達しているものの、真に公認された周知ブラン
ドは、ますます減少しつつあり、改革開放当初に育成された数件の中国「名牌」[中国の著名ブラン
ド]も、徐々に人々の記憶の中で薄れている。広範に流通可能な文学芸術作品は、あまりにも少なく、
ほとんど見いだすことができないほどである。各専門分野において、「権威」的な学術著作も多くは
ない。
また、政府が実施していた各種の知的財産保護と刺激政策がもたらすマイナス影響は、絶え間なく
メディアに取り上げられており、国際社会において相当な広範において注目を浴びている。特に、馳
名商標及び地方の著名商標[中国の各地方の制度により認定される商標]の認定とその保護制度、財政
手当を介して専利出願を激励する制度、ハイテク企業の認定と政策優遇制度、各種研究課題支援制度
等において顕著である。少なくとも、全体状況のイメージからして、人々は、上述の各制度がもたら
すメリットは感じておらず、その反面、この制度によりもたらす社会の不公平及びそれに絡んでいる
汚職問題は、これらの制度では拭えないマイナス影響を与えている。
このような状況の下で、人々は、突然、中国改革開放の前期 25 年間において、先進技術と優良品質
の製品をもって、大部分の中国市場を占めていた「外国製品」(特に日本製品)が、かつての栄光を
失い、高級ブランド製品及び一部のリードファッション製品を除けば、絶対多数の日用消費品の市場
は、いずれも「国産製品」に占められていることに気が付く。例えば、1980 年代から中国に影響を与
えていた幾つかの日本の著名な電器ブランド―日立、東芝、三洋、JVC、TDK 等の姿は、既に中国市場
から消えており、パナソニック、ソニーの両大企業のシェアも徐々に少なくなっている。つい最近、
パナソニックは、山東済南に設立していたテレビ製造工場の閉鎖を宣告した。これは、中国における
パナソニックのテレビの製造が、完全に終了することを意味する1。シチズン(CITIZEN)社は、広州に
設立していた精密計器工場の生産を開始して 5 年も経たないうちに、その閉鎖を決めた。今日、携帯
電話は、中国人誰もが使用する通信機器である。Canalys の予測によれば、中国の巨大なスマートフォ
ン市場における 2014 年の売上は、4 億 2 千 3 百万台に達するようである2。このような巨大な販売数量
において、日本ブランドのシェアは、ほんの僅かである。
ここで否認できないことは、政治要素が、ここ 3 年間、確かに中国市場における日本企業に深刻な
損害をもたらしていることである。しかし、欧米ブランドの敗北は、先進国のブランド及びその製品
が中国市場で敗北した主な原因が明らかに政治問題ではなく、その他の一部のより複雑で奥深い要素
であることを語っている。人々が理解できないことは、中国現地の企業でさえ、スーパー有力企業が
影響力を失いつつある中で、インターネットに係る新興企業が一夜にして有名になる現象である。し
かし、我々の調べによれば、ここ数年間、中国市場で新たな勢力を見せており、重大な影響力を持つ
ようになった企業は、一部の企業が「権利侵害ランキング」にランクインされている以外、その多く
は、知的財産により起業したものでない。
1
むろん、一般の消費者として、我々が見られるところは、一種の「現象」に過ぎず、これをもって中国におけるパナ
ソニックの全体の経営状況に対して断定することができない。
2
http://www.askci.com/chanye/2014/08/11/103951amm7.shtml[最終アクセス:2015 年 2 月]。
- 137 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
少なくとも、中国の現状からみれば、知的財産の有無は、1 つの企業が市場における地位における如
何なる関連性も持たない。中国ないし全世界のインターネット企業のここ数年間の成功は、我々に、
市場ニーズに応じて、最も一般的な社会公衆のニーズと願望を満たし、十分に人々の注目を引く要素
を備えていれば、いわゆる「技術含有量」とその他の伝統的な競争優勢を有さなくても、短い期間内
に市場を獲得し、高い利益を得ることができることを何度も証明している。これに比べ、技術分野の
トップを称し、自社の技術と製品で消費者の消費方向を導こうとしているグローバル企業らは、ます
ます個性的な消費者に直面し、次々に専利により構築した「象牙の塔」から転落し、一部の企業は、
二度と立ち上がれず、自社の資産、若しくは会社全体を売却せざるをえなくなる。例えば、欧州のエ
リクソン社(Ericsson)とノキア(Nokia)、二大ブランドの携帯電話市場における運命、及び日本の
各大手ブランドのテレビ市場における運命が同様である。
第
三
章
このような社会変化と現実について、筆者は、知的財産学者として、多面的に観察し、考えてみ
た。また、今回の共同研究の機会を利用して、普通の中国人の視点から「ビッグデータ」及びその影
響から着手して、中国の知的財産保護政策の未来の方向性について一定の分析と予測を試みる。
2.ビッグデータ及びその影響
(1)ビッグデータ時代は既に到来した
2014 年 12 月 31 日の夜 11 時 35 分、新年カウントダウン・イベントが開催され、数多くの観光客が
上海外灘に集まっていた。これにより、黄浦区外灘陳毅広場へ入ろうとする観光客と、同広場から出
ようとする観光客の流れが衝突し、多くの人が転倒し、雑踏事件になってしまった。同事故により、
36 人が死亡、49 人が負傷し、この事件は、社会全体の注目及び政府の日常管理及び非常状態への対応
能力への批判をもたらした。
事件発生翌日、すなわち 2015 年 1 月 1 日、テンセント社は、対外に前日夜の北京国貿エリアと上海
外灘エリア両地域のヒートマップの分布と変化を公表し、直観的に両地域の 2014 年 12 月 31 日夜 11
時から 2015 年 1 月 1 日 0 時までの人員の流れと変化状況を示した。いわゆるヒートマップとは、正に
テンセント社が位置確認請求のビッグデータに係る分析結果に基づくものである。情報によれば、世
界最大の即時通信サービス提供者として、テンセント社は、自社の地図サービスで求められる位置情
報の照会が毎日 100 億回以上にも達し、真正の「ビッグデータ」である。
ヒートマップによれば、前記両地域における、2014 年 12 月 31 日夜 11 時 20 分ごろの人員の密集度
は既に危険レベルに達していた。この危険な状況に気付き、北京国貿エリアにある世貿天階は、臨時
的に新年カウントダウン・イベントを中止し、数万人を短時間内にその場所から離れさせた。しか
し、同一時間帯に、上海では、人員の密集度に対し、注目されておらず、人々が既に相当程度混み
合っている状況で、いかなる規制や誘導措置も取っておらず、また外灘のライトアップショーも中止
しなかった結果、雑踏事件を起こしてしまった。
外灘雑踏事件に対するテンセント社のフィードバックは、人々に、ビッグデータ技術の応用が現代
社会において重要な補助的な管理手段であることを再度証明し、肝心なときに、人々に各種生じ得る
危険について警告することにより、危険を回避し、さらに多くの人命を救うことができることを示し
- 138 -
た。
各大都会での日常交通・生活において、若者たちは、運転中にスマートフォンの GPS サービスを利
用しているが、その目的は、往々にして見知らぬ目的地へ行くためではなく、熟知している所へ行く
ための最適なルートを探すためである。それは、交通サービス部門がビッグデータサービスを利用し
て、運転者にリアルタイムで道路状況と予測サービスを提供することにより、運転者の毎日の帰宅時
間を最大限に縮小させてことができるためである。北京、上海等の超大型都市で暮らしている若者に
とって、これらのサービスは、充分に彼らの生活を変えている。
ここ十年間、B2C[Business to consumer]と C2C[Consumer to Consumer]電子ビジネスの飛躍的な発
展につれて、オンラインショッピングは、中国絶対多数の都市市民の毎日欠かせないイベントとなっ
ており、一部の若者たちは、さらに「タオバオ」[中国のオンラインショッピングモールであるが、転
じてオンラインショッピング行為を指すようになっている]、「団体購入」等を一日三食同様にしてい
る。ウィンドーショッピングを人生の享受とする「品のある」消費者にとっても、“タオバオ”を通
じて自己のお気に入りについて事前の市場調査をすることは、最低の価格で最適な製品を買うことを
保証する欠かせない選択肢であることを認めざるをえない。インターネット上のデータによれば、
2013 年の 1 年間、アリババ社の傘下にあるタオバオと T モールのオンラインショッピングサイトの総
取引高は、1.4 万億元に達しており3、同期の全国商品の小売売上高は約 20 万億元である。これは、ア
リババ社の傘下にあるオンラインショッピングサイトの取引高が、全社会の商品の小売売上高の 7%を
占めていることを意味する。仮にその他の専門的なオンラインショッピングサイト及びその他の小売
商社のインターネットルートを加算した場合、保守的な予測でもオンラインショッピングを介した販
売高は、全社会の商品の小売売上高の約 30%を占める。
もっと重要なことは、オンラインショッピングにより形成されるのは「取引量」のみならず、膨大
な「ビッグデータ」でもある。このようなビッグデータに対する分析と利用を通じて、我々は、全社
会の日常生活に係るほとんど全部のデータと情報を獲得することができ、これにより社会全体の動向
を正確に把握することができる。製造企業は、これらのビッグデータを利用して、正確に、異なる地
区、季節、公衆の市場ニーズについて予測することができ、販売企業は、これらのビッグデータを利
用して、最大限正確に、製品の仕入と備蓄、合理的かつ秩序的な貯蔵、運輸及び配送、かつ最短時間
内に消費者への商品送達を実現できる。
大多数の一般消費者にとって、オンラインショッピングは、無限な選択肢を与えており、商品の品
質に対する懸念により、幾つかの「著名ブランド」にのみしがみつく必要がなくなった。消費者の購
買心理と理念がますます成熟するにつれて、技術とブランドは、既に大多数の消費者が最も注目する
要素ではなくなり、機能、デザインと価格等の「実用要素」が取引量を決定する最も重要な要素に
なっている。現在、「正しい物を買い、高価な物を買わない」は、大多数の中国消費者の買物上の基
準となっている。このような基準によりもたらされる最も直接的な結果は、いわゆる「高付加価値」
製品が徐々に市場から消えること、又は 20 年前のように消費の流れをリードしていくことはもはやな
くなったということである。
3
インターネット上のデータによれば、数社の主な電子商取引サイトに登録されたユーザーの数量は、10 億人となり、
日常的に利用しているユーザーの数は、約 3 億人を維持している。2014 年 11 月 11 日、一日で、アリババ社の傘下にあ
るタオバオと T-マモールの両サイトにおける取引高は、571 億元に達している。仮に、その他の B2C、C2C サイトを加え
た場合、ユーザー数と一日の取引高は、天文学的な数字になる。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
むろん、この過程において、「店舗の信用」は、ほとんどのインターネット商取引サイトが、成功
できるか否かを決める優先的な要素になっている。通常、店舗の信用は、過去の取引量及び買い手の
評価により決まるものである。しかし、ここ数年間、一部の犯罪者は、技術手段を利用して目の前の
利益を追求する一部の売り手のために、短期間で店舗の信用を向上させていた。しかし、法律制度の
改善及び取引プラットフォームの管理技術レベルの向上につれて、このようなやり方は市場から追い
出される日もそう遠くないであろう。それと同時に、ビッグデータの利用は、政府管理機関、取引プ
ラットフォーム及び一部の消費者にある程度正確に偽造・粗悪商品及び不誠実な売り手を選別できる
ようにしている。オンラインショッピングに係る法律と人文環境は、徐々に正規になりつつある。
なお、政府機関の政務管理にしろ、又は企業の経営管理にしろ、いずれもビッグデータ技術及び
サービスに注目し、徐々にそれを導入し始めている。道を歩いていれば、公共バスの看板、室外広
第
三
章
告、ショッピングモールのポスター等を含め、至るところに「ビッグデータ」に係る視覚的な刺激に
遭遇する。絶対多数の人は、ビッグデータに対してはっきり説明することができなくても、全く誇張
なしに、「ビッグデータ時代」は既に到来している、と言える。
(2)「ビッグデータ」とは?
「ビッグデータ」とは何かについて、我々は、依然として有力な定義を探し出せていない。その語
源からみると、この概念は、最初データ処理領域において生まれ、「処理すべきデータ量が大き過ぎ
て、既に普通のコンピューターの容量を超えているため、エンジニアらがデータ処理のツールを改良
しなければならない」ことを指す4 。しかしながら、膨大なデータ処理に用いられるソフトウェアと
ハードウェア技術の発展につれて、「ビッグデータ」は、もはや一種の「技術」となっている。つま
り、最大限に収集・保存し、かつ異なる目的に応じて異なる処理を行うことにより、多種・複雑な
データを不特定多重目的のために用いる技術である。このような技術は、「クラウドコンピューティ
ング」と総称されている。
「ビッグデータ」の概念は、現代のコンピューターとネットワーク技術の高速発展を前提として提
起されたものであり、その目的は、従来の「データベース」概念及びその構造化、目録化されたデー
タへの依存を打破し、高性能計算技術と高速ネットワークの伝達技術の力を借りて、無制限にデータ
を取得し、スマートなデータ処理ソフトウェアを介してビッグデータの間の関係性を探し出し、最終
的に関連問題について、より正確で、信頼できる推定的な結論を与えることである。
したがって、非技術的立場からみれば、いわゆる「ビッグデータ」とは、必ずしも「大量又は莫大
なデータ」を指すものではなく、一種の分析、評価、判断作業に係る構想方式又は方法を指すもので
ある。すなわち、できる限り多くのデータ情報を利用して、事案に対して全面的、多層的、多視角の
総合的な判断を行うことにより、最終的に正確な結論を得る方法、及び同様の方式を用いて現実の課
題を解決する方法である。
事実上、高知能動物である人間にとって、全ての判断と意思決定は、その前に得られたデータ、経
験、能力等の要素に基づいて、複雑な脳の処理過程を経てから得るものである。ただ、各個体が把握
4
中国語版「大数据時代」008 頁参照。[英]Vicktor Mayer-Schönberger、Kenneth Cukier 著述、盛楊燕、周濤訳、浙江
人民出版社(2013 年 1 月)。
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できるデータには必ず限りがあるものである。したがって、人々が熱烈に討論している「ビッグデー
タ」は、実際には、数十年前から既に試されてきた「人工知能」の拡大に過ぎないことを説明してい
る。人工知能は、個別設備の処理能力に係るシミュレーション化の程度を強調していたことに対し
て、ビッグデータは、処理能力の背後にある膨大なデータであり、最も重要なのは、ネットワークシ
ステムの協同処理、及び人とシステムの間の交流とインタラクションであると強調された点が異な
る。
また、異なる著書において、各作者は、数個の「V」でビッグデータの特徴を表現しているが、主に
3V 説と 4V 説がある。3V 説は、ビッグデータには、「量(Volume)」、「頻度(Velocity)」及び
「種類(Variety)」の 3 つの特徴があるとしている。4V 説は、上述 3 つの特徴のほか、ビッグデータ
にはさらに「正確性(Veracity)」の特徴を有し、物事及び相関関係に関する表現が伝統的なサンプ
リングデータに比べて遥かに正確であるとしている。私は、ビッグデータの特徴には、さらに 1 つの V
があり、すなわち、「価値(Valuable)」を追加し、5V とすべきであると考えている。データの価値
は、既に人々に認められているものの、構造化された伝統的データに比べ、ビッグデータの価値は、
遥かにそれを抽象化し、帰納し、目録化した後のデータの全体を超えており、ビッグデータにより実
現できる価値は、その利用方法により異なり、最も重要なのは、ビッグデータの利用可能な価値に限
りがないことである5。
むろん、一部のビッグデータ領域の専門家は、「ビッグデータ」はデータの量の大きさに関係な
く、意思決定の過程においてデータが占める比重に基づいて判断されると主張している。もし、ある
時代の各種の意思決定において、データを用いず、又はデータを用いることがめったにない場合、そ
れは「スモールデータ」時代であり、データが意思決定の過程において重要な役割を果たし、又は
「全てがデータを基準に」という場合、それは「ビッグデータ時代」である6。このような立場からみ
れば、大勢から「民主のサンプル」と呼ばれている米国は、18 世紀の独立時から既にデータを用いて
意思決定を行っており、米国憲法の制定から、連邦政治体制と議会全体の設置に至るまで、データに
基づく評価・測定と意思決定の過程を経ていないものがない。このような人々から見れば、中国が過
去の数百年の間において、時代遅れの状態に陥っていた最も重要な原因の 1 つが、データに基づく意
思決定のメカニズムが欠如していたということである。したがって、現在の中国において、少なくと
も一部の人々は、「ビッグデータ時代」の到来に対して相当高い期待感を持っている。
(3)ビッグデータ時代の「3 つの変化」
ビッグデータを研究している多くの専門家によると、過去と比べて、ビッグデータ時代において、
人々の行為パターンは、以下の 3 つの側面において大きな変化が生じるものと考えられている。
第 1 変化は、ビッグデータ時代において、人々は、より多くのデータを分析することができるとい
うことである。時には、ある具体的な物事に係る全てのデータを処理することができ、サンプリング
により得られた有限なデータを用いることがないかもしれない。
5
ある学者は、「ビッグデータ」の中の「ビッグ」と「データ」自体は何ら価値もなく、価値のあるものは、ビッグ
データの「運用」のみであるとした—「駕馭大数拠」第 1 章。[米]Bill Franks 著、黄海、車晧陽、王悦等訳、人民郵電
出版社(2013 年 1 月)。
6
「数据之巓」全書、“専門家熱評”の一部の観点を含めて参照。涂子沛著述、中信出版社 2014 年 5 月出版。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
第 2 の変化は、使用するデータの量が膨大であるため、人々は、各データの正確性に対してそれほ
ど高く求めることなく、データと解決しようとする問題が、最低限の関連性を有すればよいというこ
とである。強いては、一部の完全に関連性のないデータに対して分析を行うかもしれない。
第 3 の変化は、必ず一種の結論が、正確であると証明された後に行動を取るのではなく、ビッグ
データ処理の結果が、1 つの特定な結論を示していればよいということである。中国の伝統的な表現で
言えば、その結果のみ知り、その理由を知る必要がないということである。
上述の 3 つの変化は、ビッグデータの出現により、技術開発を含む多くの活動において、従来よ
り、信頼性の高い意思決定の根拠を得たことを意味している。投資者は、長い時間を費やして 1 件の
研究開発プロジェクトを支持するかどうかについて繰り返し論証する必要がなくなり、技術開発者も
数え切れないほどの試験を介して 1 件の技術方案の実行可能性を検証する必要がなくなっている。膨
第
三
章
大なデータに対する分析を通して、求めている結論が最も短い時間内に人々の目の前に現れ、かつそ
の信頼度も非常に高い。
社会公衆にとって、ビッグデータの使用は、選択・決定する前に、ある商品又はサービスに対して
非常に明晰な理解を持つことにより、購買時の盲目性を回避又は減少でき、かつ最大限に虚偽宣伝及
びその他の商業詐欺により受け得る悪影響を排除し、理性的で保障された消費行為を確保することが
できる。
(4)「ビッグデータ」時代における革新活動の特徴
人々の理想における「ビッグデータ時代」が到来する際に、知的財産の保護意義上の革新活動は、
徐々に次のような新たな特徴を示すであろう。
第 1、革新活動は、実質的に「オープン型」活動になる。
伝統的に、全ての技術革新は、「クローズ」状態で完成されている。専利法で、専利出願に対する
第 1 要件が正に「新規性」であり、この技術が専利出願前まで、必ず「未公開」のものでなければな
らない。これは、技術革新に係る技術そのものは、必ず「機密」状態で研究開発を経て完成されたも
のでなければならないことを意味する。さらに、個別な状況での「共同」発明を除き、通常、技術革
新の過程においても、同業者に知られてはならない。すなわち、新たな技術が、生まれたか否か、生
じたか否かに係らず、研究開発の課題と研究開発の過程は、同様に秘密にしなければならない。
上述に比べ、ビッグデータ時代における技術研究開発活動と技術詳細は、安易に公開するものでな
いにしても、「ビッグデータ」の一部分として、適切な法律保護の状態下で事実上「オープン」状態
に置かれており、関連データ情報は、「調べることが可能」で「利用可能」なものである。
むろん、ビッグデータ時代といえども、全ての活動データの公開を求めるわけではないが、「クラ
ウドコンピューティング」を介して、ある研究開発チームが進めている研究開発プロジェクト及びそ
の進展状況は、「分析」により得られるものであり、特に各種管理制度のデジタル化とネットワーク
化につれて、ほとんどの商業活動情報、すなわち、商品の流通、サービスの提供、資金の往来と収支
状況、納税と貸出、交通と通信、人材交流と流動、企業の社会活動参与状況、企業内部活動と変動状
況を含む情報等は、いずれもビッグデータの一部分として、随時にクラウドコンピューティングの範
疇に収められる。これにより、その他の人は、必要に応じて、特定企業、科学研究機構、又はある分
- 142 -
野、ある行業等がどんな活動に従事しているか、及びかかる活動が生じられる影響等を推察すること
ができる。
これは、ビッグデータ時代において、「秘密保持」は、一種の法律状態のみであり、事実状態でな
くなったことを意味する。
第 2、革新活動にはより明確な適応性がある。
現在に至るまで、我々は、依然として大多数の技術革新活動は、「盲目」的に開始し、進められて
きたと言える。企業の研究開発活動は、計画と適応性があるかもしれないが、かかる計画と適応性
は、いずれも自らの状況と判断により得たものであり、マクロ的な観点から見れば、依然として比較
的大きい盲目性のリスクがある。なぜなら、研究開発者は、正確に市場ニーズを判断することができ
なく、また、他の企業が同様な技術を研究しているのか、その進展状況はどうなのかを知り得ないか
らである。
ビッグデータ時代において、クラウドコンピューティングを介して同業者の研究開発活動及びその
進展状況を分析し、又は推測し得るほか、更に重要なのは、より正確に市場ニーズを理解・把握し、
強いては一定時期後の消費の傾向及び社会全般の発展方向を予測することができ、研究開発計画の制
定と実施において、その開始時点から明確な適応性を持つものとなるであろう。むろん、ビッグデー
タの役割の発揮は、その開始時点では一部の公衆の日常関与度又は社会敏感度が比較的高い分野から
始まるものである。例えば、公共医療衛生分野、情報技術分野、ファッション商品分野、耐用消費材
分野等である。技術と制度が成熟するにつれて、かかる影響は、徐々に全ての分野において、ステッ
プ的に拡大されていくだろう。
むろん、このような革新的なイノベーション活動は、明らかにビッグデータ活用能力のある機関の
みが展開できるものである。他方、ビッグデータ活用能力を有さない小企業及び個人は、ますます明
らかに周辺化ないしは追放され、イノベーション活動の主要な参加者でなくなる。
第 3、社会公衆の行為は直接に革新活動を影響する。
伝統的に、革新は、少ない人が閉鎖状態で自ら完成する過程である。市場ニーズは、元来、企業革
新の重要な動力であるにも関わらず、事実上、本当に社会公衆のニーズを満たすことを直接的な目標
をする革新の成果はそれほど多くない。大多数の状況において、企業は、広告・宣伝、市場販売促進
等の行為を介して社会公衆の消費を導き、推進している。さらに、一定の欺瞞性を有する手段によっ
て消費者を誘導し、最終的に消費者に買物をさせる目的を達成する。社会管理と国家管理において、
社会公衆が直接関与する機会は更に少ない。民主制度の国家であると称している国においても、社会
公衆は「代議制」、懇願、政府の請求又は許諾に基づく意見発表等の方法を介して限定的に関与す
る。
ビッグデータ時代において、「大衆に大衆の問題を解決してもらう」ことは、1 つの共通認識になる
であろう。いわゆる「大衆に大衆の問題を解決してもらう」とは、まず、社会管理と国家管理におい
て、社会公衆が自己の利益に係る各種社会業務の解決に関与する可能性・機会・権利及び義務を有す
ることである。科学技術と文化革新分野に係る場合、一般社会公衆は、それほど直接関与する意識を
持たないかもしれないが、「ビッグデータ」の価値は、一人一人の有意識な活動又は過程への関与で
はなく、一人の関連行為自体が同様にこの活動又は過程に対して意義のある影響をもたらすことにあ
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
る。ビッグデータ技術影響の拡大7及びデータ利用率の向上につれて、各種革新活動は、いずれも社会
公衆のニーズと希望への注目からスタートを切り、革新過程において社会公衆のニーズの変化に応じ
て自己の計画と進展を調整していく。
第 4、革新活動はより多くの社会性を有する。
ますます多くの革新活動が、社会公衆の日常行為と密接に係わるようになり、ビッグデータ時代の
革新及びその成果は、より多くの「社会性」を持つようになる。むろん、何時においても、個人の完
全なる革新欲により開始し、完成した革新過程を排除することは不可能である。しかし、市場経済の
条件下でビッグデータの利用を介して社会の成り行きに適応した革新活動がその主流になることは間
違いない。
なお、ビッグデータの利用は、多くの小規模の革新活動、及び技術含有量の比較的低い革新成果が
第
三
章
市場を介して商業価値への転換機会をますます減少させるため、「単独で戦う」スタイルの革新メカ
ニズムは、徐々に歴史の舞台から引き下がり、それに代わってくるのは「協力革新」、「共同革新」
等のいくつもの革新主体が共同で関与するチーム革新メカニズムである。
3.ビッグデータ時代における知的財産保護の新構想
ビッグデータ時代において、競争相手に対する「防御」を目的とする知的財産保護のニーズは、
徐々に減少するが、その原因は、ビッグデータの利用を介して、競争相手の間における相互理解の程
度が十分であるため、それほど多くの警戒心と防御措置が必要となくなるからである。同時に、1 枚の
紙の証書で知的財産権を証明することも実質的な価値を持たず、特に何ら技術的優位性と文化的内容
も有しないいわゆる技術と作品は、二度と市場を有することができなくなる。このような状況におい
て、現行の知的財産保護制度とやり方もこれに応じて適切な調整を行なうことになる。
発展の視覚から見て、未来の知的財産保護制度は、少なくとも次の内容において、その調整をしな
ければならない。
(1)専利の検索の範囲とデータ量を拡大させ、専利の審査品質及び権利化された専利の品質を向上
すること
現行の専利権利付与審査は、いずれも権利付与機関が有するもの、又は他国から提供された構造化
されたデータベースを基にして情報を検索しており、そのデータ量が相当大きいものの、依然として
「スモールデータ」時代のやり方である。「ビッグデータ」時代の到来につれて、従来のやり方によ
り得られた結論と現状の間の違いは、ますます明らかになっていく。審査結論のミスを減少し、審査
品質を向上することにより、権利化される専利の品質を高めるために、権利付与機関は、まずクラウ
ドコンピューティング技術を導入し、インターネットのマスデータを利用して、深みのある検索と関
7
例えば、スマート家電及びその管理システムの普及につれて、各家庭のエネルギーの消耗量と具体的な消耗時間、強
いては各部屋、家庭の各メンバーのエネルギー消耗データは、いずれもビッグデータシステムにより取得される可能性
があり、それにより各家庭及びその構成員の具体的な活動習慣、ある時間帯における人の有無又は具体的な人数、何を
しているか等の……また、たとえば、スマートフォンの普及につれて、持主の所在位置、通信状況等はいずれも記録さ
れ、そこから、ある具体的時点におけるこの持主の位置、さらに何をしているか等を分析できる。ある時間帯に基づく
データ分析により、その活動パターン、主な活動場所、人脈関係、社会役柄等……が知り得る。
- 144 -
連審査を行い、最終的にできる限り正確な結論を得るべきである。
むろん、現実的な言い方をすれば、各国の専利権付与機関は、長年にわたって既に比較的固定され
た思考方式と業務方式を形成し、自らが把握している情報が最も全面的かつ権威的なものであると確
信している。筆者が入手した情報によれば、現在、多くの専利審査官は、インターネット上のビッグ
データに対してそれほど興味を示しておらず、軽蔑する者さえもいる。しかし、専利情報サービス分
野において、ビッグデータは、既に、多いに注目されている。筆者は、近い将来、特に先進国の専利
権付与機関が、その思考及び業務方式を変える際に、中国の専利権付与機関も迅速に対応するもので
あると信じている。
(2)専利出願の「敷居」を高め、ゴミ専利を減少させること
ビッグデータのサポートを利用して高いレベルの審査を行うほかに、未来の専利制度では、専利出
願に対してより高い要求を提起すべきである。例えば、出願人に対して関連技術の背景について、よ
り具体的な記載を行い、かつ技術背景の記載に用いる参考書類の出所と書類を取得した方法に関する
説明を追加するよう求めるべきである。さらに、出願人は、より充分な説明と証拠を提供することに
より、自ら発明した技術の進歩性と実用性を証明しなければならない。かかるやり方の目的は、専利
付与ができない事由が明らかな出願について、最初から権利化手続に入れないことにより、最大限に
「ゴミ」専利の出願を減少させ、行政資源の浪費を回避すると同時に、最大限に知的財産を利用して
正常な商業活動の妨げを減少させるためである。
筆者の観点からすれば、現行の専利が審査・権利付与制度の下で、大量の「ゴミ」専利が生じてい
ること自体、その最も重要な原因は、正にその対比「データの有限性」にある。すなわち、審査官
は、専利出願のテーマのみに基づき、既存の構造化されたデータに対する検索を行うため、結局、本
件と先行技術の間で同一性を見いだせず、本件の出願書類作成者が設けた罠を潜り抜け、その「新規
性」、「進歩性」と「実用性」を認め、数多くのイノベーション価値のない専利出願について、その
権利を付与してしまっている。
ビッグデータを導入した場合、現在の「検索データベース」のほかに、より多くの参考データを得
ることができ、模糊検索との対比を通じて、比較的容易に出願案件に存在する「問題」を見いだすこ
とができ、ひいては専利性がない考案に権利付与する可能性を減少させることができる。
(3)一般性専利の普及を強化し、社会と経済発展に対する知的財産の障害を減少させること
ビッグデータの利用は、政府が正確に社会公衆のニーズを理解・把握するためのより大きい可能性
を提供し、そもそも「見えない手」と言われる市場を徐々に見えるものとし、さらに正確にその具体
的な形象を描けるようになる。これは、正に政府が政策の制定と実施により、商業活動を導くための
より大きい空間も提供し、資源、資金、人材、技術、商品の流動のために、より公平で合理的な市場
秩序を提供していくことになる。むろん、ビッグデータの利用は、自動的に不合理的な商業競争を消
去することができないだけではなく、根本的に独占を排除することもできない。この状況について、
公権力の支配者とする政府は、立ち上がってその役割を果たし、標準の実施、税収と貸出政策の導
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
き、メディア世論のリード、科学技術に関する研究開発代替手段の推進等を含む強力な政策によっ
て、一般性を有する技術の普及・応用を促進し、権利者が知的財産保護を利用して社会と経済発展を
妨げる可能性を減少させるべきである。
1996 年 に 締 結 し た 「 TRIPS 」 協 定 の 序 論 部 分 に お い て 、 「 知 的 財 産 権 は 、 私 権 で あ る 。
(intellectual property rights are private rights)」ことを強調している。これは、一旦、権利
が付与された場合、知的財産権の権利者は、任意に自己の権利を処分する権利を有し、いかなる他人
又は組織、特に公権力からの干渉を受けないことを意味している。過去の知的財産理論からみれば、
これは、論議する必要もない道理にみえる。しかし、一部の国家政府、産業及び消費者は、知的財産
権の保有者が自己の知的財産権を利用して、大多数の人の利益を損害するおそれがあるとき、公権力
のメカニズムを運用して知的財産権の「濫用」者に対してある制裁を与えることが現実的な選択に
第
三
章
なっていることを認識する。数日前[2015 年 2 月 9 日]に、中国国家発展与改革委員会(発改委)は、
独占禁止裁定書を下し、米国の「クアルコム(Qualcomm)」社に対して 60.88 億元に達する罰金を科
すと同時に、一方的な無償専利フィードバック、不必要な強制抱合わせ販売等を含む、過去の違法商
業仕業の是正を命じた。
この事件は、そもそも普通の独占禁止事件であり、かつ類似のやり方は、先進国では、しばしば見
られる。しかし、中国政府機関が、世界第一のスマートフォンチップ製造者に対して、このような高
額の「罰金」を科す裁定を下したのは、「初めて」であり、その影響力と意義は、数十億元の金銭的
な価値より遥かに大きい。この事件と本文の関連性は、それほど大きくはないため、深く評価しな
い。筆者は、インターネット時代の到来につれて、世界全体に巨大な変化を起こし、その中には、政
府職能の変化及び公権力と私権利間の関係の変化を含むことを述べたい。知的財産の地位のみから言
えば、「公権力の干渉を受けない」という待遇は、徐々に減少するであろう。むろん、公権力の干渉
及び介入は、決して全てが知的財産を制限するものでなく、最終的な目的は、真に価値のある知的財
産の運用を促進することにより、社会全体及び大多数の社会構成員のために役立たせるためである。
(4)イノベーション評価標準システムの再構、イノベーションインセンティブ政策及び体制の整備
少なくとも中国で、「イノベーション」という言葉は、近年において、ホットな話題である。中央
政府は、「イノベーション型国家の構築」の戦略目標を確立し、その実現のために「国家知的財産戦
略」計画及び関連する一連の具体的な企画を含む複数の戦略計画又は企画を制定した。過去の 10 年近
くの間、中央から地方に掛けて、政府は、複数の異なる政策と措置を発布し、一連の法律、法規を改
正又は制定したが、その目標は、いずれもイノベーションを奨励し、知的財産を保護するためであ
る。
しかし、これらの政策と措置を実施した後、実際の効果は、それほど望ましいものではなく、様々
なマイナス影響をもたらしている。直観的にいえば、政策によるインセンティブと刺激の結果は、確
かに知的財産の「量」的な大幅な増加をもたらしたが、期待していた実質的な、積極的社会効果をも
たらすことはできなかった。反対に、政策の実施過程における一部の悪評高いやり方は、確実に関連
事情を知る社会公衆の反感を得てしまい、専利出願と権利付与の激増は、先進国の広範な懸念すら生
じさせている。
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ビッグデータの応用は、政府と社会公衆が、いずれもより賢くなり、騙されにくくなる一方、各種
の政策と制度の執行がより信頼を得るようにもなるであろう。むろん、過去の様々なマイナス影響に
ついて、我々が優先的に行うべきことは、イノベーション評価基準を改めて構築し、二度と、単純な
専利出願又は権利付与件数、商標登録件数、著作権の登録件数等を含む人為的に「製造」したデータ
を政策的優遇の享受根拠としてはならず、優遇享受請求を提出したイノベーション成果に対して、よ
り厳格に評価すると同時に、より全面的な社会公衆の評価と監督への参与メカニズムを導入し、ビッ
グデータを有効に利用することにより各種政策実施の権威性を保障すべきである。また、過去の金銭
的な奨励、税金減免等を含む純粋な経済的インセンティブメカニズムを変えると同時に、多側面的
な、選択可能なインセンティブ政策を導入し、真のイノベーターが自己に最も価値のある奨励方法を
選択させ、同時に、事後的な監督と責任追及メカニズムを構築することにより、模造等の不正手段で
政策上の優遇を求める者にその代価を支払わせなければならない。
(5)地域性の打ち破りは、全世界の統一された知的財産保護制度の可能性をもたらす
「地域性」は、知的財産保護制度の根本的な特徴の 1 つとして見なされているが、これは、1 つの国
家又は地区における法律の有效範囲内で取得した知的財産は、当該範囲内のみで尊重と保護を受けて
おり、当該範囲を越えた場合は、その他の者に属され、又は公知分野に入ってしまうことを意味す
る。
ビッグデータ時代の到来につれて、情報及びその流動範囲は、いずれも徹底的な「無国境」状態を
示しており、1 件の新技術の出現、1 個の新製品の出現は、いずれも極めて短い期間内で「全世界に知
られる」ことになり、一旦 1 部の作品が伝達可能な状態に置かれた場合は、瞬間的に世界のいずれか
のコーナーにいる者に取得されてしまう。このような環境下において、知的財産保護の「地域性」
は、正に価値のある知的財産権が受けられる法的保護を有名無実なものにさせることにより、権利者
の利益目標が完全に当て外れになってしまう。商業価値のある専利技術及び商標にとって、権利者が
関連製品をある国家の市場に投入する前に、競争相手の同一製品は、既に天地を覆うほどになってし
まう。
このような可能性に直面して、知的財産を保護する唯一の有効な選択は、正に「同時グローバル
化」である。すなわち、知的財産に対して「地域を超えた」保護を実施することである。むろん、現
在に至るまで、一部の超国家経済体を除けば、国際社会においては、知的財産の超国家保護に対して
如何なるプロセスも始動されておらず、大多数の人も短期間内で、かかる構想を受け入れないのであ
ろう。
中国は、発展途上国としてその知的財産の「量」が膨大なものになっているものの、そのうちの大
多数は、いずれも「金の含有量」[価値があまりない]が比較的低いものであり、市場での競争力を欠
如している。将来予見できる相当長い時期において、かかる状况は、それほど大きな変化はないので
あろう。したがって、現在、中国で知的財産の超国家保護を討議することが絶対多数人に反対される
ことは、明らかなことである。しかし、反対されるにもかかわらず、筆者は、大胆に次のような予測
をしてみたいのである。すなわち、ビッグデータ時代の到来は、実質的に知的財産保護の地域性に衝
撃を与え、かつ将来の何時かにおいて、知的財産のグローバル化された保護を促成できるということ
- 147 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
である。
(6)知名ブランドの価値がある程度低下され得る
データ情報の抵抗のない流れの特徴は、商品の出所に対する消費者の注目を可能にさせている。一
旦、消費者が商品の原始出所を知得した場合、ブランドに対する消費選択の依頼は、徐々に減少して
いく。特に、一部の知名ブランドの商品が OEM 加工されたこと、すなわち、世界各地に分散されてい
る異なる工場が製造し、ラベルを貼り付けて、販売されている事実を消費者が知った場合、消費者
は、同一工場で製造された物で、価格が比較的安い非ブランド製品を選択する可能性が高く、結局、
消費選択に対する知名ブランドの影響力が更に低下するであろう。同時に、小さなブランド及び
第
三
章
ニューブランドの生存空間は、大きく開かれ、一部の新たに創立されたブランドが、短期間内で市場
の広範な認可を得ることにもなり得る。
上述のとおり、絶え間ないオンラインショッピング環境の最適化につれて、消費者もますます成熟
し、「実用性」は、消費者が買物する際に、選択する優先考慮項目であり、「ブランド」には、依然
として一定の信用を保障する役割がある。ただし、ブランドに含まれる「水分」は、市場により徐々
に絞り出されるであろう8。この 10 年の間、消費市場の現実は、いわゆる「高級ブランド製品」のほか
に、価格が明らかに同類商品における一般消費品より高い場合、その市場シェアは、いずれも大幅に
下落していることが明らかである。上述の日本ブランドの家庭電器のほかに、「ベンツ」、「BMW」等
の知名ブランドを含むいわゆる家庭用自動車の中国市場における販売価格もしきりに下落しており、
基本的にサラリーマンも負担できる程度まで下がっている。従って、この 10 年間、「豪車」[超高級
車]として見なされていた大手ブランド自動車は、現在、いわゆる「街車」[普通自動車]に変わってい
る。
むろん、市場において、かかる「大手ブランド」の総評価価格は、上述の原因で低減されていない
かもしれないが、個別商品の平均値を取った場合、ブランドの価値は、低下していることに間違いな
い。同時に、数年前まで多くの人に軽蔑されていた中国ブランドの自動車の販売高は、既に先進国か
ら来た大手ブランドと競争できる状況になったことは明らかである。もっと風刺的なのは、それほど
名が知られていなかった一部の中国ブランドが、欧米の大手ブランドを買収することにより、大手ブ
ランドの実際のオーナーとなり、確実に「海老が大魚を呑み込む」如きになっている。
筆者は、ビッグデータ時代の真正な到来につれて、「ブランド」を頼りにして油断している欧米の
「大手会社」はますます苦しくなることと信じている。仮に、迅速に自己の心理状態と行為パターン
を調整しない場合、彼らは、あっという間に虎視眈々とする海老らに呑み込まれる日が来るであろ
う。
8
ここにいう「水分」とは、過去の数百年間、情報の非対称により、消費者が商品の製造過程及び商品自体の構成要素
を知得していなかったので、ブランドに頼って消費保障を求めることが多かったことを指す。かかる状況は、いまだ知
名度を有しないブランドの製造者が有償で商標の使用許諾権を購入することにより、知名ブランドを用いて自社の商品
を販売していたので、商品の原価を高めざるをえない一方で、消費者は、真相を知らない状況下で、ブランドにより商
品を選択し、実用物品とサービスを購入すると同時に、ブランドのためにより多い代価を支払わざるをえなかった。現
在の立場から見れば、かかる「ブランドの価値」は、事実上、商品に添加した「水分」にすぎないものである。
- 148 -
(7)新たな法律と規則を制定し、ビッグデータの使用を促進すると同時に、情報主体の利益保護を
強化する
ビッグデータ時代において、最も大きい価値を有する資源は、「ビッグデータ」そのものであり、
真正な「ビッグデータ」は、普通の人が掌握し、取得できるものではない。現在の状況からみれば、
真にビッグデータを掌握し、取得できる者は、いずれもインターネット及びその他の情報サービス分
野において独占的地位を占めている企業、又は大勢のクライアントを有する大手企業である。例え
ば、電信企業、インターネットポータルサイト、即時通信サービス提供者、検索エンジン、ユーザー
に対して情報保存と発布の無料サービスを提供するウェブサイトである。しかも、随時に公衆情報を
収集できる政府機構には、警察、医療管理機構、社会保険機構、観光と交通管理部門、出版と伝達管
理機構等もビッグデータの掌握者である。
ビッグデータの商業価値がますます際立つにつれて、ビッグデータを支配するデータのビッグヘッ
ド等の優勢地位もますます際立っており、その行為が社会全体にもたらす影響力もますます顕著に
なっている。また、ビッグデータに対する社会ニーズと依頼は、ますます強烈になる。このような
「無料の昼食がない」時代において、データのビッグヘッドらは、その優勢地位を利用して独占的行
為を実施し、ビッグデータに対するデータの取得と処理能力が欠如する企業及び社会公衆の利用を妨
げ、さらに社会全体の発展を妨げる可能性がある。かかる状況の発生を回避するために、我々は、事
前に法律及び制度の準備を行い、国家の強制力によりデータ情報の正当な取得と利用を保証しなけれ
ばならない。
「ビッグデータ」には、営業秘密及び個人のプライバシーに係るデータと情報、及び著作権法の保
護を受けるテキスト類の著作物を含む全てのデータを含んでいるので、大雑把に、全てのデータはい
ずれも自由に取得できるものと規定することは、明らかにできないことである。さらに、データに対
して簡単にある分類作業を行い、かつ自由にある類別のデータを取得することをできないように規定
するのは、「ビッグデータ」時代においては実現できないことである。それは、上述の紹介と分析に
より、我々は、「ビッグデータ」の特徴の 1 つは、ビッグデータが“含まれていないものがなけれ
ば、存在しないところもない”ことであると知っている。また、クラウドコンピューティングの結果
の正確性のために、法律上秘密類に該当するデータも必ずその利用範囲に入れなければならない。し
かし、データ主体の権利と利益も損害してはならないものである。
したがって、我々は、ビッグデータの操作を普及する前に、制度と技術上の準備を十分に行い、原
始データの採集時点から厳密な営業秘密と個人情報の保護メカニズムを加えることにより、秘密情報
が漏洩されない前提で、その他の者が、かかる情報における「中性データ」9を利用することを許すべ
きである。例えば、何者かが正常なルートを介して医療データを取得することを許すと同時に、シス
テムが自動的に患者の姓名、住所、連絡先、身分証明番号等を含む、ある個体を特定化できるプライ
バシーに係る情報を遮断・濾過し、商業主体が同業者の全体経営データを了解することを許すと同時
に、自動的に特定データの出所に対する同主体の確認を阻止すべきである。
以上
9
いわゆる「中性データ」とは、秘密要素がスクリーンされた後、不特定の多数者の活動に対する判断に用いる客観的
データを指し、本文の著者が自ら思い付いた概念としてその他の者が使用したことが見付かっていないものである。
- 149 -
第
三
章
第
三
章
第
三
章
第3節
知財の人材教育問題に関する比較研究
第3章
研究内容の報告
Ⅰ.日本における知財人材育成に関する研究‐特色ある学校教育モデルを踏まえ‐
青山学院大学
菊池 純一 教授
本稿においては、日本の学校教育における教育モデルを参考にして、知財の人材育成に係る教育モ
デルの特徴を述べることにする。したがって、企業内教育や業界団体の啓蒙啓発セミナー及び専門家
スキルアップ研修の機会に係る諸問題については、本稿では特段の対象としない。ただし、産学官連
携の枠組みを鑑みた場合、かつ、社会システム・イノベーションの実装の有様を鑑みた場合、学校教
育とそれらの教育機会との接点における課題を指摘することは重要であると考える。
1.知財の人材育成に係る教育モデルの特徴
第
三
章
教育の実施内容や形態を類型化することがどの程度有用なのかは定かではない。しかし、近年の 10
年間程度の間に構築されてきた教育モデルの特徴をとらえて、知識社会のグローバルな発展に適合す
る人材育成の態様に資する提案をまとめることは、本稿の一つの役割であろうと考える。
(1)知的創造循環モデルに基づく教育
2004 年に日本が導入した知的創造循環モデルは、創造、保護から始発し活用へと変位するパス
ウェー(選択経路)上に配された仕事に精通した熟練した専門家を育成することであった。また、同
時に、産業財産権の特別法の中に配置された特許発明を主務することが前面に押し出された。このモ
デルの選択が間違っていたとは言えない。なぜならば、知的財産(発明、商標、意匠、著作、営業秘
密、種苗、その他有用な情報)を保護することは、一つのステップにすぎない。それらの知的財産を
積極的に活用することも、重要なステップである。そして、種々の権利関係が絡む利益相反に係る紛
争に対処することも、必要なステップである。しかし、反省すべき点はあるだろう。例えば、知財の
ビジネス法務の局面にて展開される複合的リスクを軽減するためには、少なくとも、知的財産が社会
的イノベーションをもたらすことの有様をデザインし、予定調和的ではない複数の選択肢を創造する
ことを明確に意識しなければならなかったことは確かであろう。とすれば、選択肢として別のパス
ウェーへ移行するための専門的な架け橋の仕事をも教育モデルに組入れるべきであった。つまり、例
えば、知的財産に係る情報を分解して顕在化していない可能性や危険性を知るための方法論(仮に、
これを知財のリバースエンジニアリングと称しよう。)について学ぶことは、非構造的な個別事例の
内容から新たな選択肢を組み上げることに他ならないと考える。さらに、知的財産が複数の競合財や
非競合財に係わるとすれば、それらを組み合わせ、それに参画する者たちや利活用の図式を勘案し、
再編成する能力(仮に、これを知財のパッケージングと称しよう。)も育成する必要があるだろう。
知財のリバースエンジニアリングや知財のパッケージングの仕事(仮に、これらの仕事を総じて知財
のアウトリーチと称しよう。)は、必ずしも、パスウェー上にあるとは期待できない。とすれば、新
たな選択経路を探索する知財のアウトリーチの仕事についても知財人材育成モデルに入れることが望
ましいと考える。
- 152 -
(2)排他独占の合理性を求める教育
知の独占と共有の連携に係る課題は、教育の本質に係る極めて古いテーマである。知識社会とは、
自然人及び法人が為す活動の根幹において形成され他者に譲渡可能となった情報のかたまりである知
識、この知識を「本位とする社会」のことであると考える。知識は国の枠組みを越えて、分野の境界
域を越えて、社会の中に開花する文化と産業の活動の態様に多様性と爆発的な躍動力を持たせること
になる。したがって、法の規律についても社会的適合性を問われることになる。それゆえに、教育の
役割として法治の遵守に係る啓蒙のみならず次世代の制度設計を担う知恵に係る育成も視座に入れる
必要がある。
知的創造循環モデルの根底においては、人と人が相乗りする「舟」と「場」を構想し、「互恵関
係」を築くことが自由の共生につながることを意識していたはずである。権利主張に関し、他者から
何らかの干渉を受けないという自由を保障する上で、他者が関わることを禁止する(排他権を設定す
る)には、まずは、当該の情報のかたまりが社会にもたらす裨益の内容(これを知財の与益と称す
る。)を開示する必要がある。同時に、権利主張に関し、自らが自律的に決定できるという自由を保
障する上では、排他権を含む複数の権利を選択的に編成できる環境(制度環境及び知財の取引環境)
が必要になる。干渉を受けない自由と自律的に決定できる自由を保障するには、さらに、知識社会を
構成する自者と他者とが信頼関係(Fiduciary の関係とするのが相当である。)を作り、自由を共生し
なければならないという条件が加わると考える。したがって、排他独占に係る教育においては、知識
社会における財産としての知財から得られる与益創成に係るコモンズの有様を踏まえて、知財の権利
の束から求める受益配分の合理性を学習する必要があると考える。それゆえ、知財の人材育成におい
ては、特に、学校教育の場においては、大学院あるいは学部段階における機会のみならず、高等中等
教育や初等教育の段階から持続した機会を配置するべきであろう。知識社会を担う者たちは、自ら、
「知財に係る三つ子の魂(自由三原則、与益主義、知識本位)」を醸成する責務があると考える。
(3)法学・経営学・工学の隣接領域の総合化を求める教育
1989 年に設立された知的財産研究所の活動において、時流の要請によるトッピックイシューを調査
するにとどまらず、各種の政策立案の基盤となる成果が多々残されている1。また、2002 年に日本知財
学会が創設され、産学官連携の枠組みの中で活動が展開されてきた。これらの機関において、特に、
若手研究者の育成が継続されていることや、国内の視座からの視点ではなくグローバルな課題への対
応も積極的に展開されていることは特筆すべきであろう。しかし、法学・経営学・工学の隣接領域の
総合化を求める試みは、20 数年の歴史を持つにすぎない。アカデミック・デシプリンとして知的財産
の学問領域が確立するまでには、もうしばらくの時間を要するであろう。まずは、大学院や大学学部
における教育と研究の深化を期待したい。
1
一般財団法人知的財産研究所、http://www.iip.or.jp[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
日本知財学会、http://www.ipaj.org[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
- 153 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
(4)知財クリニックの知見を踏まえた視座
2004 年に、筆者を始めとする数名の者が強い知財の基底に健康な知財を希求することを提唱し、知
財クリニックという「知財の病院」を始めた。10 年目で症例は 410 数件を越える程度になり、この実
践教育の機関に係わる者も数十名に至った。知財に係るトピック・イシューを生きた状態で捉えてき
た経験を踏まえると、全ての事柄が病理的な症候群の様相を呈しているとまでは明言することはでき
ないが、制度的齟齬を含む各種の摩擦的調整の歪みが内在していることは確からしい、「知識社会が
要請する将来の姿(複数の選択肢)を想定した上で、現行制度の不都合等を解析し、新たな制度設計
を行うこと」が求められていると感じる2。
例えば、特許発明の質と量を鑑みるに、日本には、66 万人の研究者がいるといわれている。中国
第
三
章
は、120 万人の研究者がいると聞いている。日本は、GDP の 4%を研究開発に投じているが、中国は
2%と聞いている。また、日本では国家戦略として、基礎研究から得られた成果を産業技術開発のレベ
ルに発展させ、かつ、戦略性をもってそれらを社会実装すべく各種の施策が再編成されつつある。従
来の組織内における PDCA(計画、実施、評価、改善)の考えに基づくステージゲートの管理方式では
なく、今後は、例えば、新しいスタイルの知財の管理も導入されるであろう。とすれば、教育の現場
においてそれらの要請にも応じる必要があると考える。
2.学校教育における教育モデルの事例から見た特徴
各教育モデルには複数の特色が配備されている。日本社会が築き上げた知財システムにほかならな
いと考える。それら特色にハイライトを当てて、後段で提案する予定の人材育成グローバル・イニシ
アティブにつながる項目を抽出する。
(1)大学院博士課程の教育モデル
履修科目群を設定し修了要件単位を明確にしている事例は少ない3。博士課程に認定プログラムを配
置した事例として、青山学院大学大学院ビジネス法務専攻知財プログラムの「知財クリニックドク
ター(IPCD)」があり、IPCD 履修証明書+博士(ビジネス法務)が組み合わされている。博士課程スキ
ルアッププログラムとしては、知財クリニック・インターンシップⅠ(4 単位) 、知財クリニック・
インターンシップⅡ(4 単位) 、研究指導・模擬知財クリニックⅠ(4 単位)、研究指導・模擬知財
クリニックⅡ(4 単位)、複合リスクソリューション(4 単位)等である4。
2
菊池純一編著『知財のビジネス法務リスク-理論と実践から学ぶ複合リスク・ソリューション-』(白桃書房 2014)。
東京理科大学大学院総合科学技術経営研究科博士課程、青山学院大学大学院ビジネス法務専攻知財プログラム等があ
る。
4
同プログラムにおける「4 単位」とは、春学期 (2 単位)+秋学期(2 単位)で構成され、90 分授業 15 回を 2 単位と
して、教育内容を編成している。
3
- 154 -
(2)大学院修士課程の教育モデル
類型してみると、法学系;学位は修士(法学)又は修士(ビジネス法務)、専門職大学院系; 学位は
知的財産修士(専門職)、経営学系; 学位は、社会健康医学修士(専門職)、修士(経営学)、通信
教育系;学位は修士(知的財産学)、の四系統になる5。
特に、専門職大学院系においては、工学系実学ベースでの高度専門職の育成、社会人向けキャリア
アップ、産学連携を含むグローバル交流機会の提供、弁理士資格への道筋等を明確にして教育カリ
キュラムの編成がなされている。また、特色ある試みとして、京都大学大学院医学研究科社会健康医
学系専攻知的財産経営学分野では、医学と経営学を連携した実践教育がなされている。青山学院大学
大学院経営学研究科戦略経営・知的財産権プログラムでは、世界税関機構(WCO)との共同事業の下、
世界各国の行政官のスキルアップ研修の一環として英語による教育が実施されている。
各大学院のカリキュラムの特色をまとめてみると以下の 8 項目が列挙できる6。
1)法学・経営学・工学の隣接分野の総合、2)契約交渉、ソリューション科学等の実学、3)アク
ティブ学習・模擬的演習の拡充、4)ワークショップ型の研究会、専門家講習会、5)インターンシッ
プの活用(一部)、6)複数国の制度比較(一部)、7)産業財産系分野への傾斜(一部)、8)歴史的
考察科目の導入(一部)。
カリキュラムの階層化の基本設計については、青山学院大学大学院ビジネス法務専攻知財プログラ
ムが開示している。例えば、以下のように四層に層化されている。1)土台(6 単位以上履修); コア
コンテンツ系 2 単位及び 4 単位科目、レクチャーメソッド系講義、基本的リテラシー修得系、経営戦
略法務的発想を修得する。2)発展・展開(6 単位以上履修); プログラムコンテンツ 2 単位科目、レ
クチャーメソッド系講義、知財プログラムが求める専門性を修得する。3)応用(4 単位以上履修);
イシューコンテンツ系 1 単位、ケースメソッド型講義、ホットイシューについて学際的な視点からの
アプローチを確認する。4)最終目標(8 単位以上履修); プログラムワークコンテンツ 2 単位科目、
裁判例演習、模擬知財クリニック、知財評価演習、研究論文指導及びワークショップで発表する。
(3)大学学士課程の教育モデル
独立した学部教育により学士(知的財産学)の学位を実施しているのは、大坂工業大学知的財産学
部である。知的財産保護のための法律および手続きに関する知識、知的財産の活用に関する知識、国
際法務の知識などを体系的・総合的に教授することによって、知的創造サイクル推進の専門人材を育
成することが目途とされている7。
大学に附置された機関が率先して全学部生を対象に知的財産の教育を実施しているモデル・ケース
5
法学系;国士舘大学大学院総合知的財産法学研究科、北海道大学大学院法学研究科(情報法政策学研究センター)、大
阪大学大学院法学研究科知的財産法プログラム、青山学院大学大学院ビジネス法務専攻知財プログラムなど。専門職大
学院系; 大阪工業大学大学院知的財産研究科、東京工業大学大学院エンジニアリング知的財産講座、日本大学大学院知
的財産研究科、東京理科大学大学院知的財産戦略専攻、金沢工業大学大学院知的財産プロフェッショナルコースなど。
経営学系; 京都大学大学院医学研究科社会健康医学系専攻知的財産経営学分野、青山学院大学大学院経営学研究科戦略
経営・知的財産権プログラム(WCO 教育プログラム)など。通信教育系; 吉備国際大学大学院知的財産研究科。
6
知的財産教育研究・専門職大学院協議会(JAUIP)において、各大学院のカリキュラムを事例紹介している。
7
大阪工業大学知的財産学部 ホームページ http://www.oit.ac.jp/ip/faculty/faculty/index.html[最終アクセス:
2015 年 2 月 16 日]。
- 155 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
がある。山口大学は、全学生に共通教育知財必修科目として、各要所の概論的な内容であるが、「各
学部生(7 学部)のための知財入門)」(8 回授業、1 単位)を開講している8。
広域大学知的財産派遣事業としては、列挙すると、「北海道地域中小規模大学ネットワーク」、
「異分野融合によるデザイン産学連携広域ネットワーク」、「近畿地域広域大学知的財産ネットワー
ク」、「近畿・中部地区医系大学知的財産管理ネットワーク」、「西日本教員養成大学知的財産管理
運用ネットワーク」、「美術・デザイン系大学ネットワーク」。「生活科学系大学知的財産管理ネッ
トワーク」、「医学系大学知的財産管理ネットワーク(IP-med)」など、特色ある組み合わせが展開
されている。
(4)高等専門学校の教育モデル9
第
三
章
実践的技術系の 5+2 年間の専門教育の中において実施されている。特色としては、産学官連携活動
を導入し 5 年間の実践エンジニア教育を強化することが目的となっている。創造型技術コンペ・ワー
クショップ(ロボットコンテスト、特許明細書作成コンテスト)や情報処理科目(IPDL 検索演習、パ
テントマップ作成演習)が編成されている。
(5)高等学校・中学校の教育モデル
情報関連科目で「著作権の配慮などを扱う」、「著作権の保護を簡単に取り扱うこと」が指導要領
に明記された。また、工業高校にては「産業財産権を簡単に取り扱うこと」となった10。情報社会にお
ける個人プライバシーや知的財産の保護に係る教育は重視されており、「発信する情報に対する責任
などの情報モラル及び情報通信ネットワークシステムにおけるセキュリティ管理の重要性について取
り扱うこと」となっている。
高等学校学習指導要領では、「芸術、音楽、美術、表現、情報、農業、工業、商業、水産、家庭、
看護、福祉系を含め 12 教科で知的財産及び知的財産権を取り扱うこと」。さらに、中学校学習指導要
領では、「音楽に関する知的財産権などについて、必要に応じて触れるようにすること。美術に関す
る知的財産権や肖像権などについて配慮し、自己や他者の著作物を尊重する態度の形成を図るように
すること」。「著作権や発信した情報に対する責任を知り、情報モラルについても考えること。情報
通信ネットワークシステムにおける知的財産の保護の必要性についても取り扱うこと」となっている
11
。
文化庁の実態調査によると、リーガルマインド教育は定着しつつあるといえる。なお、金城学園で
8
ちなみに、2014 年度の 8 回授業内容は、例えば、経済学部生対象として、1.知的財産の全体像、2.著作権の基礎知識、
3.研究者の知財マナー、4.産業財産権の基礎知識、5. 知財情報・検索解析・活用、6.デザイン・プログラムの保護、7.
商標戦略等、8.企業の知財戦略となっている。
9
国立高等専門学校機構法に基づき、国立(51 校) の高等専門学校がある。中学校卒業生を受け入れ、本科 5 年、専
攻科 2 年からなる。全国には、公立(3 校)、私立(3 校)の高等専門学校もある。
10
世良清「新しい高等学校学習指導要領案における「知的財産」の取り扱い」、愛知淑徳大学大学院現代社会研究科研
究報告書 第 4 号 2009 149-159 頁。
11
文化庁が提供する Web 教材の「高校生のための著作権教材」、「著作権なるほど質問箱」等が利活用されている。
http://www.bunka.go.jp/1tyosaku/koukousoft/[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日] 。
- 156 -
は、在籍する生徒のみならず、保護者の協業の下、コンプライアンス、ネットエチケット等に関する
ハンドブックを出版している12。
(6)小学校の教育モデル
学習指導要領解説には、「他者への影響を考え、人権、知的財産権などの自他の権利を尊重し情報
社会での行動に責任を持つこと、・・・情報を正しく安全に利用できること」等が示すように、教育
機器利用の一環として導入されている。(独)工業所有権情報・研修館が提供するテキストを参照し
ている教諭も多い13。ただし、マンガを用いた副読本は多々、出版されているがその利用実態は明らか
ではない14。事例報告としては、三重大学教育学部付属小学校にて生活科の学習にて知財教育が行われ
た事例がある15。その他、単年度事業ではあるが、九州知的財産戦略協議会による出前授業(対象:福
岡県内の小学校生徒、教育手法:寸劇、工作教室、副読本、マンガ、アニメ)が報告されている。
(7)幼稚園の教育モデル
報告されている事例は少ない16。事例にみられる工夫としては、現場の教諭や保護者の理解を得てか
ら、対象年齢や経験を勘案して子供たちに知財に関する教育を行うという教育環境を整えている点で
ある。幼稚園、小学校での知財教育においては、排他権については教えてはいない。むしろ、物財と
知財の乖離した状況について理解してもらうことに教育の狙いがある。複数の違った本物の道具を使
う機会を用いて、例えば、木のおままごと(年少)、ステンレスのセット(年中)、陶器のカップ・
ソーサー、皿など(年長)を教材として、どんな、工夫をしているのか(技術思想の特徴)を教え、
なぜ、作った人の名前が入っているのか(創作者の存在)を教えている。かつ、色、形、文様などの
美しさ(意匠、商標の役割)、同時に、使いやすさ(利便性、有用性、新規性)も教えている。
3.教育モデルに共通する課題
共通の課題として、次の五点を指摘する。1) 教員人材の確保、育成に係る課題は短期的には解決
しない。2) 知財の生きた様態(社会実装)に係る事柄を俯瞰し、教育の場に反映することが難し
い。3) ファクトベースの教材が不足している。4) 知識社会における知の多様性と躍動性に係る教
育は、手探りの状態である。5) 複合リスク管理に係る教育の体系化はなされていない。
今後、日本はこれらの課題を克服し新たな教育モデルを再編する必要があるだろう。
12
金城学園中学校・高等学校『中高生のためのケイタイ・スマホハンドブック』(学事出版)。
(独)工業所有権情報・研修館『平成 23 年度今後の知的財産人材育成教材等の在り方に関する調査研究報告書』
2012.3、10-16 頁。
14
例えば、米村でんじろう『天才たちの発明・実験のお話』(PHP 出版)、あさのりじ『発明ソン太』(マンガショッ
プ)、岩永勇三『発明者をプロデュース~あなたのお子さんが世界を変える~』(アチーブメント出版)など。
15
大学教育学部向け知的財産教育研究報告書(2003)、http://www.cc.mie-u.ac.jp/~lp20103/patent/h15/genko/[最
終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
16
学校法人青山学院『安全と安心(青山学院メソッド 幼稚園篇)』2007 10-15 頁。東海大学付属本田記念幼稚園等に
おいても知財教育を試みている。
13
- 157 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
(1)教員人材の確保、育成に係る課題は短期的には解決しない
複数の学問領域が連携する分野ではあるが、他の領域と比較して教育手法上の特異性は見られな
い。しかし、複合領域であるため、一人の卓越した智者が教育することには限界があり、教育モデル
の実施にあたって、特定テーマを複数担当者が切り口を変えて教育する工夫がなされている。あるい
は、モデレーターを配して所定の内容を複数の者が担当することが一般化している。それゆえ、教育
の体系的編成を試みる場合、多数の教員配置が必須となる。ゆえに、独立した大学院や学部の編成は
機関経営上の視点からしても限定されることになる。とすれば、少数の教員が知財に係る教育を進め
るためには、知識社会の教養教育に首座をおいて、知的創造循環モデルの一部を応用として伝達する
ことを選択せざるをえない。したがって、その場合、教育の現場を統括する担当教員の資質能力に依
第
三
章
存することになるであろう。
(2)知財の生きた様態(社会実装)に係る事柄を俯瞰し、教育の場に反映することが難しい
知財教育においては、情報のかたまりとしての知的財産の利用の様相から説明する方法とは逆に、
それら情報のかたまりを創成する活動から財産権の保護の様相へと段階的に説明する方法が採択され
ている。いずれの方法においても、関わる人々の関係と係る処々の目的の構図について説明を加える
必要が生じる。裁判例を用いて説明する場合においても、知的財産の特別法に係ることのみならず、
不法行為等の規律を含む隣接の法制度についても触れざるを得ない場合がある。加えて、法の解釈と
実際の法運用のギャップについて、教育のどの段階から導入すべきなのかについても、ビジネス上の
競争実態を参酌すると軽軽には判断できないと考える。したがって、いくつかの定石となる教材を選
定して教場の環境を整える必要がある。しかし、知財に係る近年の動向は国内外を問わず劇的に変容
し、定石の教材には書かれていない事案が発生する。かつ、それらのことがインターネット等を介し
て断片的に配信されることがある。そのような状況下においては、社会に実装された知財がもたらす
現代的課題についても、適宜、教場で取り扱わざるを得ないであろう。
(3)ファクトベースの教材が不足している
教材に使用できる事例データベースは、判例データベースを除いて、組織間で共有できる状態とは
なっていない。また、他国の制度等の比較を行う場面においても、判例データベースは各国の言語
ベースであるため、必ずしも、教材としての利用頻度は高くないと推測する。日本知的財産仲裁セン
ターの事例集についてもその開示内容は部分的なものであり、教材のレベルにはなっていない17。日本
知的財産協会の会員用の研修プログラムは充実しており、ファクトベースの資料が蓄積されている
が、しかし、それらを学校教育の場において再利用する試みは未整備の状態にある18。(独)工業所有
権情報・研修館は、知財人材のプログラムを定期的に開催している。また、同館が提供する学習用資
料や「IP・e ラーニング」の遠隔学習教材は大学院教育モデルの中においても積極的に利用されている
17
日本知的財産仲裁センター、http://www.ip-adr.gr.jp[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
日本知的財産協会、http://www.jipa.or.jp[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。経営感覚人材育成研修や知財技術
スタッフ研修のグローバルコース等の資料は参考になるだろう。
18
- 158 -
ことも付記しておくことにする19。
(4)知識社会における知の多様性と躍動性に係る教育は、手探りの状態である
知識社会における社会システム・イノベーションの様相を教育するには、社会を構成する知財を体
系的に把握することが、最も有用な選択肢となる。例えば、環境保全に係るカリキュラムのケースを
想定してみよう。環境保全と知財の係わりのアナロジーをもって、社会システム・イノベーションの
選択肢を構想することも知財人材教育の現場には重要な用具となるはずである。なぜならば、環境保
全の分野は、属地主義の構想を越えて地球規模の展開を想念せざるを得ないからであり、人による善
悪二分論を越えて生態系模倣の科学に基づく技術思想の可能性を開花させ得るからであり、そして、
有形無形の財に係る人の知覚に基づく優越的価値の選択肢と社会システムの様相(有形無形の財の取
引市場の様相も含む)との関係を再設計しなければならないからである。
環境保全に係る知的財産、知財人材、知財ビジネス図式を社会の中に実装することによって期待さ
れるイノベーションの実態を学習し、及び、そのイノベーションを実現するために、環境保全の効用
等の評価に係る専門家諸氏の知見を学ぶことは、単にリーガルマインドの重層化教育の効果を高める
にとどまらず、知識社会の中でグローバルな視点から知の利用に係る信頼関係を維持することに資す
るものであると考える。知財人材の教育においては、このような社会システム・イノベーションに係
る方法論的アプローチが必須のものとなるであろう。
(5)複合リスク管理に係る教育の体系化はなされていない
大学院や学部の教育と企業等の実務要請をどのように結びつけるべきかの視点は、いわゆる、学生
の出口の議論といわれるものである。仮に、大学等の教育によって知的財産に係る専門知識を優秀な
成績で習得した者であっても、各企業等の実務実態に適合する人材を数年かけて組織内部で育成する
ことが通常のキャリア形成過程に組入れられているとすれば、企業が求めるコア・コンピテンシー
(基本的修得能力)は、知的財産に係る専門的知識の習得にあるのではなく、むしろ、契約審査、法
律相談、ライセンス実務、裁判実務等に係る知財の複合的なリスク管理の基底を形成するコア・コン
ピテンシー、つまり、基礎的知識基盤、思考技法、ヒューマンパワーの三要素に体系化できると考え
るのが妥当である。そのような能力の習得を目途とした学校教育モデルの試行事例は、知財ワーク
ショップに基づく協働アクティブラーニング等、皆無であるとはいえないが、極めて、少ない20。
学校教育モデルの出口の先に、何らかの組織内教育の機会(企業内教育などの機会)が用意されて
いるのであれば、その機会との連携(リカレント教育を含む連携)を構想する必要があるだろう。し
かし、そのような教育の機会が付与されない環境に当該学生がおかれるのであれば、そのような弱者
救済の機会を賦与すべきであろう。例えば、複合的なリスク管理の基底を形成するコア・コンピテン
19
(独)工業所有権情報・研修館、http://www.inpit.go.jp[最終アクセス:2015 年 2 月 16 日]。
著者が担当する大学院及び学部の合同演習(2 年間)では、模擬知財クリニックの事例を扱い、協働アクティブラー
ニングの中で、複数の教員(客員教授を含む)、博士課程インターン、修士課程 TA、学部 3 年、4 年次学生、総計 40 名
程度が混在してグループ学習が行われている。学部生及び院生の修得能力としては、基礎的基盤(6 系統)、思考技法
(7 系統)、ヒューマンパワー(8 系統)が設計されている。
20
- 159 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
シーを習得することを必須とし、その上で、知財のアウトリーに係るトピック・イシューの知識を付
加するような人材育成モデルを導入することが良いと考える。
4.人材育成グローバル・イニシアティブの提案
知的財産基本法の第 3 条には、「知的財産の恵沢を享受できる社会」を実現するに資する旨と、並
びに、第 4 条には、「知的財産を基軸とする新たな事業分野の開拓並びに経営の革新及び創業」を促
進することに資する旨が併記されている。鑑みるに、近年の 10 年間は、第 1 条の「国際競争力の強
化」の目的が前面に打ち出され、数十年継続されてきた物財の輸出モデルの中に知的創造循環の構図
が組み込まれた。国内では技術革新による多様な「恵沢」が享受できたはずである。今後、その知財
第
三
章
の恵沢を他国にも供与すべきであろう。とすれば、物財の輸出モデルに加えて、グローバル・イノ
ベーションモデルを加味した知財システムを編成する必要がある。知財の人材育成についても同様で
あり、グローバルな視座から育成スキームのイニシアティブを構築する必要があると考える。
(1)これまでの特色ある教育経験を踏まえ、内なるグローバル化を推進する
10 年間に投下された労力の蓄積は極めて大きい。教育モデル自体が新たに創成された知的財産であ
り、その恵沢を日本社会は享受してきたはずである。しかし、それらをグローバル・イノベーション
モデルに組入れるには、まずは、国内で展開されている教育モデルのグローバル化を推進する必要が
ある。グローバル化の本質は、国を越えて、企業を越えて、分野を越えて、組織を越えて、教育モデ
ルの実装を可能にすることである。そのためには、まずは、組織内で構築され運用されている現行の
人材育成モデルの状態を観察し意見等の交換をすること(これを内なるグローバル化と称する。)か
ら始める必要がある。そのことを踏まえ、組織と組織の間の交流を可能とする人材教育モデルを制度
設計すること(これを外なるグローバル化と称する。)を推し進めることが望ましい。例えば、その
第一歩として、関係国の若手教員等が持続的に往来することを目途にした「グローバル・教員イン
ターンシップ制度」を導入し、自らが係わる組織内の人材教育スキームを改善することを提案する。
(2)産学官連携グローバル・イノベーションの場において人材育成の機会を醸成する
国と国は、国境を隔てるのではなく、互恵関係の下、相互に産学官連携の機会を設け、グローバ
ル・イノベーションの枠組みに基づき、偏在する知財の恵沢を広く享受することを醸成すべきであ
る。産学官の組織内部の意思決定に係る時間間隔が大きく異なるのであれば、予定調和的メカニズム
に委ねるのではなく、複数の選択肢の姿を指示して、人材教育の機会を創成することが望まれる。
また、特に、日本の企業内教育モデルは、物財の輸出モデルに合致するように改良改善が積み重ね
られてきているはずである。それらの企業内モデルに内在するグローバル化の課題については別の機
会に論じるとしても、日本の企業内教育モデルはグローバル・イノベーションの枠組みには不可欠な
ものであると考える。それゆえ、企業内教育モデルと各種の学校教育モデルとの連携を深める必要が
ある。実務専門家の意見交換又はスキルアップ研修の場に、大学院生、大学生等の若者を参加させる
- 160 -
「グローバル・創育フォーラム」を構築することを望む。
(3)判例データ、知財流通データ等のファクトベースを用いて、複数国の制度理解等を目的とし
た、複数の教員が協働するアクティブラーニング(能動的学習)を導入する
学校教育の場においては、ダブルディグリー制度や単位互換科目を編成し、複数国の制度理解等を
目的とした、複数の教員が協働するアクティブラーニング(能動的学習)を導入することが望まし
い。例えば、長年の経験を持っている中国の熟年教員と経験の浅い日本の若手教員とが協働して、数
日に及ぶ能動的学習の機会を両国の学生に与える実験的試みは、イノベーションの芽となるであろ
う。その際、判例データ、知財流通データ等のファクトベースに係る研究と教育の機会を確保するた
め、複数言語で共有できる「グローバル・知財データベース」を開発し、人材育成の教材プラット
ホームを豊かにする必要があると考える。例えば、それらの情報を教育の現場で教材として使う際に
は、論点の切り出しの調整を行った上で、まずは若手教員が所定時間の座学授業を行い、その後、熟
年教員と若手教員がコーディネーターとなって、学生自らが主導するアクティブラーニングによる論
点の再設計の機会を設け、最後に、実務専門家が参画した上で熟年教員が主導するアクティブラーニ
ングの機会を組み合わせると良い。
(4)知財の戦略的監理能力を育成するスキル・コアを体系化し、専門家諸氏との連携を図り、教材
を開発するためのグローバル・コンソーシアムを構築する
戦略的監理能力とは、事前設計、実施管理、予後評価のステージゲートを戦略的に統括する組織能
力である。リスク・ガバナンスに係るこの視点をどのように教育するのかについては、教材の選定に
とどまらず教育の手法も含めて、教育モデルとしての枠組みは確立しているとは言えない。特定の企
業が開発したガバナンスのマニュアルが有用であるのか、あるいは、米国系のビジネススクール等が
提唱する手法が適合するのかは、現時点では論評するに十分な知見が得られてはいない。ただし、学
校教育モデルと企業内教育モデル等の相互連携を築きあげる必要はあるだろう。仮に、個々の専門家
諸氏が自らの経験値をもってして最適な解を知り得ているのであれば、大数の法則の力を借りて、最
も尤もらしい解を得るために、まずは、専門家諸氏との連携を図り、教材を開発することを目的とし
た「グローバル・教材コンソーシアム」を構築することを期待する。
以上
- 161 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
Ⅱ.中国の高等教育機関における知的財産人材育成体制の研究
重慶大学
陳 愛華 講師
1.中国の高等教育機関における知的財産人材育成の歩みを振り返って
中国の高等教育機関[日本の専門学校、短期大学、大学以上に当たる]における知的財産教育は 1980
年代に始まり、これまでに大きく分けて 3 つの重要な時期を経てきた。国の政策が進む中で、知的財
産人材育成の歩みは、時代ごとの特色を呈している。
第 1 の重要時期は 1984~1985 年で、この時期は、中国の専利法が公布・実施されて間がなく、専利
の出願、管理及び技術移転に関する知的財産の専門的人材確保が急がれた。加えて、高等教育機関
第
三
章
は、中国で技術開発を行う主要な拠点の 1 つとされ、1982 年から中国の教育部(当時の国家教育委員
会)が 9 期の研修を相次いで開催し、直属の高等教育機関に向けて専利管理者、専利代理人 300 余名
を育成するとともに、約 30 名を海外に派遣した。そのうち、大多数は中国の高等教育機関で最初の知
的財産の教育、研究、実務に従事する主力となった 1 。また、旧国家教育委員会と専利局の承認を経
て、30 余か所の高等教育機関の内部に、高等教育機関における研究成果の実用化、保護及び活用を担
う専利事務所を設立し、これにより 1,000 名近くの専利代理人及び専利管理者を育成した。これらの
専利事務所もまた中国の高等教育機関における知的財産活動の最も早期の拠点となった2。当時、全国
の少数の高等教育機関の学部生、短大生のカリキュラムに「専利法」、「工業所有権法」といった単
独の選択科目を開設した。知的財産は、まだ 1 つの学科として存在しておらず、教育モデルも一定の
体系が構築されていなかったが、知的財産教育という命題は既に人々の視野に入っていた。このよう
な情勢の下、1987 年、まず中国人民大学が知識産権教育研究センターを開設し、知的財産法の専門課
程を開設したほか、中国で最も早期の知的財産に関する高等教育機関向けの法学教育教材を出版した
(後に、当該センターを基盤として、中国人民大学は、2009 年に知識産権学院を設立)。この時期、
知的財産の学科設立は着手されたばかりで、全国的に知的財産教育が普及しておらず、各高等教育機
関の法学その他専門の教育関係者、研究者は知的財産に関する教育活動に大々的、積極的に参加して
はいなかったが、知的財産教育に対する意識は既に芽生えており、その後の発展のための基盤を固め
た。
第 2 の重要時期は 1991~1995 年で、中国と米国は、知的財産の問題をめぐって二国間貿易危機を引
き起こし、3 度にわたってハードな交渉が繰り広げられた。しかし、この 3 度の交渉を通じて、中国の
一般大衆の間に知的財産に対する認識が高まり、知的財産の大衆における普及の度合いが高まった。
同様に、高等教育機関も知的財産をめぐる教育と研究活動の重要性を認識し始め、この期間中、一部
の高等教育機関に知的財産に関する教育・研究機関が設立され、学部生、大学院生を対象とした専利
法などの知的財産に関する選択科目が開設されるとともに、知的財産コースの学部生、大学院生の育
成が重視された。例えば、北京大学は 1993 年に知識産権学院を設立し、知的財産専攻の第二学士号取
得を目指す学部生の育成に取り組んでいるほか、民商法の修士課程を設置する学部・学科の下で知的
財産コースの修士課程の学生の育成を開始した。1999 年からは、科学技術法の博士課程を設置する学
1
陶鑫良「中国の高等教育機関の知的財産教育研究機構及びその人材育成方法」、陶鑫良ほか『中国知的財産人材育成
研究』上海大学出版社(2010 年)。
2
陳美章「中国の高等教育機関の知的財産教育と人材育成についての研究」知識産権、第 16 巻第 91 期(2006 年)。
- 162 -
部・学科の下で知的財産コースの博士課程の学生の育成を開始した。また、1995 年、華中科技大学も
管理学院に知的財産学部を設立し、知的財産法の第二学士号取得を目指す学部生の育成に取り組んで
いる。上海大学も 1994 年、「上海大学知識産権学院」を設立し、知的財産法専攻、知的財産管理専攻
の学部生の育成、知的財産法のダブルディグリープログラムを開始し、憲法、行政法、刑法、管理工
学、国際貿易の修士課程を設置する学部・学科の下で知的財産コースの修士課程の学生を育成し、社
会学分野の管理学学科の下で博士課程学生を育成した。復旦大学も 1995 年、校内各単位[行政、事業
体、企業などの職場・所属先]の水平的な連携により、知的財産教育と知的財産の課題をめぐる研究活
動を行うための「復旦大学知識産権研究センター」を設立した。この時期において、全国で設立され
た知的財産に関する教育・研究機関のある高等教育機関は依然少なかったが、以前と比べると、学科
の発展整備に大きな進展が見られた。まず、学科の発展という点では、知的財産が法学の二級学科又
は管理学の三級学科(小分類の学科課程)に組み入れられ、カリキュラムの設計も以前の一時期に比
べてより体系化された。前述の各大学も「専利法」といった 1 つの科目でなく、「著作権法」、「商
標法」、「営業秘密法」などの一連の科目へと拡張された。また、教員陣営についても、当時、知的
財産分野の教員は、各高等教育機関の専利管理部門、専利事務所で知的財産教育に熱心に取り組む教
育者、及び法学専門の教員や研究者の中で知的財産に精通した教育者であったが、その専門分野が単
独の法学から管理学、理工科系などへ拡張された。最後に、前述した「知識産権学院」、「知識産権
学部」又は「知的財産教育研究センター」などの教育・研究機関の全国数か所の重点高等教育機関に
おける設立が、その後の知的財産教育の大規模な推進に模範的な役割を果たしたことは間違いない。
第 3 の重要時期は 2003~2008 年で、特に中国が世界貿易機構(WTO)に加盟して以来、内需と外圧
の下で、知的財産の中国国内における地位と役割は絶えず上昇し続け、高等教育機関の知的財産教育
及び研究機関の設立も、より広範囲に広がった。2004 年 11 月、教育部、国家知識産権局は共同で、
「関於進一歩加強高等学校知識産権工作的若干意見(高等教育機関における知的財産活動の強化に関
する若干意見)」(教技[2004]4 号文)(以下、「意見」)を発表した。「意見」の第 4 部には、「知
的財産専門人材育成」に関して、次の 4 つの内容が含まれている。「11.知的財産に関する知識を普及
させて、学生と教員の知的財産に関する教養を高める。高等教育機関は「法律の基礎」などの科目の
中に知的財産法などに関する内容を追加し、学部生、大学院生向けに単独で知的財産の科目を開設す
るための環境を整備する。12.知的財産人材の育成と専門人材の研修を強化する。国のために緊急に必
要とされる知的財産渉外人材を提供する。条件の整った高等教育機関は、知的財産人材育成と専門人
材の養成を行い、企業や代理機構に向けて第一線の知的財産専門職者を輩出する。国内外の教育機関
との協働を含め、複数のチャネル、手段を通じて国内外の知的財産のルールに精通した高度な専門人
材の育成に取り組み、知的財産を公費留学の優先的対象専攻分野に据え、国に知的財産の渉外人材を
早急に送り込む。13.知的財産の修士課程を設置する学部・学科を増設する。条件の整った高等教育機
関が教育資源を統合し、知的財産法学や知的財産管理学に関わる修士課程・博士課程を設置する学
部・学科を設立し、知的財産に関わる学科の地位を引き上げる。知的財産分野の教員と研究人材の育
成を強化する。14.学生の創造力とイノベーション意識を育成する。高等教育機関は、大学院生を中心
として学生のイノベーション、発明活動、専利出願を激励、支援する。在学生と発明特許取得者につ
いて、学校は相応の奨励を与える、又は奨学金評定の指標として卒業や学位の成績の中に反映させる
ことができる」。教育部、国家知識産権局が共同で発表した、この「意見」は、高等教育機関の知的
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
財産教育機関の相次ぐ設立、知的財産人材育成に向けた積極的な取り組みを、ある程度けん引、推進
した。その後、2008 年に国務院が公布した「国家知的財産戦略大綱」第 5 部の戦略措置において、知
的財産人材育成強化に関する内容について、次のように定められた。第 59 条「部門間の調整体制を構
築し、知的財産人材育成を統一的に計画する。国と省の知的財産人材プールと専門人材の情報ネット
ワークのプラットフォーム構築推進を加速する」。第 60 条「若干の国家知的財産人材育成拠点を整備
する。高水準の知的財産教員人材の整備推進を加速する。知的財産二級学科を設立し、条件の整った
高等教育機関に知的財産の修士課程、博士課程を設置する学部・学科を開設する。各級・各種の知的
財産専門人材を大々的に育成し、企業が急ぎで必要とする知的財産の管理・代理サービス人材を重点
的に育成する」。第 61 条「育成計画を制定し、党・政府の指導幹部、公務員、企業及び公的機関の管
理者、専門技術職者、文学・芸術創作者、教員などを対象とする知的財産研修を幅広く実施する」。
第
三
章
第 62 条「知的財産専門人材の導入、活用及び管理に関わる制度を整備し、人材構造を最適化し、人材
の適正な流動を促進する。公務員法の実施を踏まえ、知的財産管理部門の公務員管理制度を充実させ
る。国の職名制度改革の上位目標に照らして、知的財産人材の専門技術評価体系を構築、整備す
る」。
政策の力強い後押しを受け、中国各地の高等教育機関の知的財産教育・研究機関は、雨後の筍のよ
うに増え始めた。この時期は主として、2004 年に同済大学法学院が国家知識産権局、ドイツのマック
ス・プランク知的財産研究所などの国内外の機関の支援の下で、同済大学知識産権学院を設立したこ
となどがある。同様に、華東政法大学は、社会の知的財産の管理・保護に当たる複合型人材のニーズ
に応えるため、法律、管理、科学技術に造詣の深い知的財産人材を育成するため、2013 年 11 月に知識
産権学院を設立し、2004 年に正式に学生の募集を開始した。この時期に増加した知的財産教育・研究
機関は、数十か所に上った。中でも華中科技大学知識産権学院の知的財産学科は、教育部が承認した
全国初の学部の知的財産専攻課程でもあり、理工科系の知識を基礎とし、管理・法知識を備えた複合
型の知的財産人材の育成を趣旨とする。具体的には、一定の理工科系の基礎知識を備え、また科学技
術のイノベーションとその発展のルールを理解し、知的財産の経営、管理、保護の実践的技能を備
え、知的財産法の原理と実務の知識に精通し、知的財産の管理・法律業務に従事できる複合型専門人
材を育成する。このため、カリキュラム設計において、専利法、商標法、営業秘密法、公正取引法、
専利の検索と分析、知的財産権実施許諾、知的財産管理、知的財産評価などの科目の他に、民法総
論、物権法学、債権法学、商法学、民事訴訟法、行政法、刑法学、行政訴訟法学などの法学の基礎科
目も含まれる。また、大学物理、大学化学、機械図面などの工学系の科目、法学基礎類科目、さらに
は、企業経営管理、知的財産管理などの管理学の基礎科目も含まれる。
3 つの時期の発展を経て、国内の知的財産教育・研究機関は、急速かつ凄まじい発展を遂げた。現
在、中国の 100 か所近くの知的財産教育機構で、1 つは「知識産権学院[学部]」又は「知識産権系[学
部]」(22 か所の高等教育機関に開設)、もう 1 つは「知識産権センター」(77 か所の高等教育機関
に開設)という 2 とおりの名称が用いられているが、これらの名称の間には実質的な違いがない。こ
れらの教育機関の学科設置という視点から、法学コースと管理学コースに分けられる。法学コース
は、中国社会科学院知識産権センター、中国人民大学知識産権学院、中南財経法大学知識産権セン
ター(知識産権学院)などで、通常は、民商法、憲法、行政法などの一級学科(大分類の専攻課程)
の下に知的財産法コースを設置し、講義においては知的財産を中心として、法学的視点から国の立
- 164 -
法、行政、司法の知識を密接に組み合わせるという特徴を有する。華中科技大学管理学院、同済大学
知識産権学院、上海大学知識産権学院、廈門大学公共管理学院は、管理工学・科学、公共管理又は工
商管理などの一級学科の下で知的財産管理コースを設け、講義においては法学、経済学、管理学など
の内容を織り込んでいる。表-1 に、知的財産教育機構を設置する一部の高等教育機関を列記した。
【表-1】知的財産教育機構が設立された大学
知的財産学部が設立された大学
• 北京大学 知識産権学院(北京)(法学)
• 華中科技大学 管理学院 知識産権学部(武漢)
(経営学)
• 上海大学 知識産権学院(上海)(法学・経営学)
• 同済大学 知識産権学院(上海)(法学・経営学)
• 暨 南大学 知識産権学院(広州)(法学)
• 華南理工大学 知識産権学院(広州)(法学)
• 華東政法大学 知識産権学院(上海)(法学)
• 中南財経政法大学 知識産権学院(武漢)(法学)
• 重慶理工大学 知識産権学院(重慶)(法学・経営学)
……
知的財産研究センターが設立された大学
• 中国社会科学院 知識産権センター(北京)(法学)
• 中南財経政法大学 知識産権研究センター(武漢)
(法学)
• 中国人民大学知識産権教育と研究センター(北京)
(法学)
• 復旦大学 知識産権研究センター(北京)(法学)
• 清華大学 知識産権法研究センター(北京)(法学)
• 山東大学 科技法と知識産権センター(済南)(法学)
• 西南政法大学 知識産権センター(重慶)(法学)
• 西安交通大学 知識産権センター(西安)(法学)
• 華中師範大学 知識産権センター(武漢)(法学)
• 上海交通大学 知識産権センター(上海)(法学)
• 中国政法大学 知識産権所(北京)(法学)
……
以上より、現在、知的財産の研究においても、法学的視点からの研究、理工学的視点からの研究、
そして管理学的視点からの研究の 3 種類に分かれており、理工科系を背景とし、法学を基礎とし、管
理学を重点とする中国の知的財産教育の構図が形成されている。近年、これらの知識産権学院、教育
研究センターは、単独で教育研究に取り組むほか、所在する高等教育機関の法学院(所在の高等教育
機関の法学院と本来同じクラスで異なる看板を掲げる機構、また法学院に附属する)と共同で教育・
研究を行っている。また、当地の知識産権局の支援を得て、関連プロジェクトの任務を担っている。
その中には、教育部、国家知識産権局及び最高法院の教育研究拠点、戦略実施拠点として機能する高
等教育機関もある。例えば、中南財経政法大学知識産権研究センターは、教育部が設置した人文社会
科学の重点研究拠点であり、北京大学知識産権学院、同済大学知識産権学院など 4 か所の教育機関
は、国家知的財産戦略実施研究拠点などになっている。現在の全国の高等教育機関にある知的財産研
究拠点のリストは、表-2 に示すとおりである。
30 年近くにわたる歩みを経て、中国の高等教育機関の知的財産教育・研究機関はかなりの規模に達
し、訓練を積んだ専門の教員チームが次々と集まっており、現在もなお、高等教育機関における知的
財産の学科の地位を高める多大な努力が必要とされているとはいえ、垂直方向の比較にせよ、水平方
向の比較にせよ、中国の高等教育機関における知的財産教育は、カリキュラムの設計、学科の整備及
び研究の成果のいずれに関しても顕著な成果を収めている。中国の高等教育機関における知的財産の
学位教育[学位取得のための教育]をめぐる状況を次に紹介する。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
【表-2】全国の知的財産研究拠点
教育部人文社会科学重点研究拠点
国家知的財産戦略実施研究拠点
知的財産の司法保護理論研究拠点
拠点所属教育機構
中南財経政法大学知識産権研究センター(2004)
北京大学知識産権学院(2010)
中南財経政法大学知識産権学院(2010)
同済大学知識産権学院(2011)
天津大学経済管理学院(2012)
北京大学知識産権学院(2010)
中国人民大学知識産権学院 (2010 年)
華東政法大学知識産権学院(2010 年)
西南政法大学知識産権学院(2010 年)
国際版権研究拠点
第
三
章
国家知識産権局が設立した省・市の知的財
産研修拠点
深圳大学知識産権研究センター(2010 年)
中南財経政法大学知識産権研究センター(2012)
湖南大学知識産権研究院(2009)
煙台大学山東省知識産権研究院(2010)
同済大学知識産権学院(2010)
中南財経政法大学知識産権学院(2010)
中国科技大学(2010)
華南理工大学知識産権学院(2010)
重慶理工大学重慶知識産権学院(2010)
南京工業大学(2010)
西北大学(2011)
東北林業大学(2011)
新疆大学(2011 年)
鄭州大学知識産権研究センター(2012)
江蘇大学知識産権研究センター(2012)
広州金融学院(2012)
資料の出所:陶鑫良「中国の高等教育機関における知的財産教育と人材育成」(2013)筆者作成
2.中国の高等教育機関における知的財産教育の現状と問題
中国の高等教育機関は、科学研究活動の主要な拠点であり、国内で最も早期の 30 余か所の専利事務
所も各高等教育機関内に設置され、高等教育機関の研究開発の成果の実用化のための足場となってい
る。そのため、中国の高等教育機関は、知的財産に最も早い段階で触れた窓口の 1 つといえる。2005
年から 2009 年までの統計済みの専利公報に公開された専利出願件数を見ると、高等教育機関による出
願件数は、出願総数の 10%前後を占め、毎年の漸増曲線は、全体の漸増曲線とほぼ一致している。そ
のため、中国の高等教育機関による専利出願件数は、比較的安定した漸増状態にあることが分かる。
また、大部分は高等教育機関が単独で出願したものだが、共同出願(高等教育機関間の共同出願、高
等教育機関と企業の共同出願)の数も年々増加している。教育部科学技術発展センターの統計データ
によると、2010~2011 年に付与された専利のうち、浙江大学は 1,062 件で、2011 年末までの専利の所
有件数は 4,407 件に上り、高等教育機関ではトップで、その次に、清華大学、上海交通大学が続く。
以上のデータを通じて、中国の大規模の高等教育機関の知的財産権、とりわけ専利出願に対する重視
の度合いが見てとれる。その主な原因として、次の 2 つが考えられる。第 1 に、中国の高等教育機関
には、研究活動の主要な拠点として多くの国家レベルの実験室と実験拠点が置かれており、これらの
実験室と実験拠点は、自ずとその研究開発の成果(特に自然科学系の成果)について専利を出願し、
保護を得ようとする。第 2 に、高等教育機関の成果評価システムにおける専利の出願件数及び取得件
- 166 -
数は、学術論文の発表と同等で、当該研究者の産出効果又は研究費の使用効率を代表するものであ
り、プロジェクト申請、職級の届出、及び業績評価の主なよりどころでもあるため、高等教育機関の
研究者はそれを重視し、積極的に専利を出願する傾向がある。また、大規模の各高等教育機関内にあ
る校弁産業[学校が経営する会社]は、その研究成果を実用化するための理想的な足場を提供してお
り、例えば、北京大学の方正集団、清華大学の同方股分有限公司などは、企業収益が 100 億元を超え
る。その一方で、高等教育機関による専利出願の目的は、その出願又は取得の件数を重視するといっ
た形式的なものにとどまっており、取得した権利の質及びそれを実際に活用して利益に換えられるか
否かについては、実際にあまり問われない。
このように、高等教育機関の専利出願をめぐる「形式を重んじ、実質を軽んじる」、「量を重ん
じ、質を軽んじる」という姿勢には、中国の大多数の企業の知的財産への向き合い方が、かなり反映
されている。関連調査によると、企業の専利出願の動機は様々である。例えば、ハイテク企業の登記
申請が成功すれば、企業は納税や人材導入などの面で好ましい優遇政策を得られるが、ハイテク企業
に認定されるための必要条件は、独自の知的財産権を一定数有していることであるため、ハイテク企
業の登記申請を主要目的として専利を出願する企業もある。また、専利を出願すれば、国や地方政府
から様々な補助が受けられる。例えば、西安高新区管理委員会は、専利出願補助弁法を公布し、国外
で特許を取得した企業に対して 1 件につき 3 万元、国内段階に移行された PCT 出願に対して 2 万元、
国内の専利について 1 件につき 3,000 元の資金援助をそれぞれ支給している。そのため、政府の資金
援助取得も、企業が専利取得を目指す目的の 1 つとなっている。
こうした背景により、中国の専利出願件数は、年間 15%のペースで増加している。2013 年の統計
データによると、中国の専利出願件数は 237 万件に上り、そのうち、発明特許の出願件数は 82 万
5,000 件3、件数では世界第 1 位である。ただし、専利の質、企業の知的財産の活用意識、知的財産の
管理、代理サービス職員の専門性、一般大衆の知的財産に対する認識に関しては、まだ改善の余地が
大きいため、中国は知的財産教育の強化に力を注ぐ必要がある。
現在、中国の知的財産教育は、主に専門教育と一般教育の 2 種類に分かれている。一方で、中国の
高等教育機関における知的財産の学位教育は、主として知的財産専攻又は専攻コースの学部生、大学
院生に向けた専門教育モデルをさす。続いて、中国における知的財産人材の位置づけを分析した上
で、学部教育と大学院生教育の 2 つの面から知的財産教育の現状を分析する。
(1)知的財産人材の位置づけ
米国は、知的財産人材の位置づけについて、専門人材に重点を置いている。好ましい知的財産の一
般教育と啓蒙教育を基盤として、米国の高等教育機関の知的財産教育は、その多くが職業教育であっ
て、教養教育ではない4。そのため、他の法学分野と同じく、米国の学士課程には知的財産専攻は開設
されておらず、通常は大学の 4 年間の学士課程を修了して学士号を取得した後に、初めて知的財産法
などの専門知識を習得する課程へ進む資格を得る。米国の高等教育機関における知的財産専攻の学生
3
中華人民共和国国家知識産権局の統計情報
http://www.sipo.gov.cn/ghfzs/zltjjb/jianbao/year2013/a/a2.html
[最終アクセス:2015 年 3 月 4 日]
4
曾培芳ほか「中米知的財産人材育成モデル比較研究」科学技術の進歩と対策、第 25 巻第 12 期、227~230 頁、(2008
年)。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
が複数専門分野のバックグランドを有するのも、正にそのためである。また、米国の高等教育機関に
おける知的財産人材育成は、専門性のある複合型人材の育成という明確な目標がある。
それと比較すると、日本の知的財産人材に対する定義は広義である。日本は、知的財産人材を「知
的財産専門人材」、「知的財産の創造、管理人材」、「その他の知的財産人材」に分けている。「知
的財産専門人材」は、知的財産の保護と活用に直接関わる人材、「知的財産の創造、管理人材」は、
知的財産を創造する人材、及び知的財産を経営活動に活用する人材である。「その他の知的財産人
材」は、知的財産の基本的知識を備えた人材と知的財産の未来を創造し得る人材である5。
中国の知的財産戦略における知的財産人材は、主に知的財産の創造、活用、保護及び管理の各側面
で必要とされる各種人材を指す。現在の国内知的財産人材の分類によると、研究型人材と実務型人材
の 2 大分類に分かれる。研究型人材には主として、(1)知的財産人材育成・養成を担当する教員、
第
三
章
(2)知的財産の制度設計と理論研究の人材が含まれる。また、実務型人材には、(3)企業と研究機
関の知的財産経営管理人材、(4)知的財産に関わる司法裁判人材、(5)知的財産に関わる行政管理
と法執行人材及び(6)知的財産の代理サービス専門人材6が含まれる。これら以外にも、非技術型法律
人材、技術型法律人材、管理型人材及び教育型人材7に分ける学者もある。知的財産は、複数の学科の
専門に跨っており、法律、科学技術、経済、管理、文化などの複数の学科に関わるため、知的財産人
材育成について、このような複合型という特徴が強調され、高くて幅広い適応性が求められる。
総じていうと、知的財産人材に対する統一的認識は、高い資質・能力及び複合型の力を備えた人材
を必要とすることであり、知的財産人材の基本的な資質・能力に対する要求として、各分野の技術的
課題に対する解読能力、法知識の活用能力だけでなく、知的財産を企業の利益に転換する際の管理、
活用能力も含まれる。また、知的財産人材は、高いレベルの外国語運用能力が必要な場合が多く、外
国語の特許文献を閲読できなければならない。むろん、最も重要な点は、知的財産人材の育成が実践
と密接に関わる形で行われることであるが、高等教育機関における知的財産人材育成が難しいとされ
る点が正にここにある(図-1 のとおり)。
【図-1】企業向けの知財(専門)人材像
5
日本内閣知的財産戦略本部「知的財産人材育成総合戦略」(2006 年)。
鄭勝利「中国の高等教育機関における知的財産専門人材教育について—『国家知識産権戦略実施綱要」の思考」中国の
発明と特許、2008 年第 8 期、15~18 頁。
7
馮暁青「中国の高等教育機関における知的財産人材育成の若干の重要な問題から模索まで-中国政法大学における知的
財産人材育成を考察対象として」馮暁青ほか『中国知的財産人材育成研究』上海大学出版社(2010 年)。
6
- 168 -
(2) 知的財産の学部教育
知的財産の学部教育は、当初第二学士号からスタートされた。現在、中国の複数の高等教育機関が
積極的に学部の知的財産専攻の申請を進めているが、専門の設置、人材の学科背景、学科の位置づ
け、育成方法、いずれにしても統一されたモデルが形作られておらず、各高等教育機関の教育に置か
れる重点もそれぞれ異なり、教育界でも高等教育機関が知的財産を学部教育において取り組む実行可
能性について掘り下げた討論が行われた。世界にも先例がないため、中国の知的財産の学部教育は、
全くの手探り段階にある。現状から、高等教育機関による知的財産専攻の学部教育のモデルとして
は、次の 2 種類がある。
(ⅰ)四年制の学部教育モデル:
総じていうと、四年制の一般学部教育の学生は、主に理工科系出身の高卒生から選抜されており、2
種類に大別される。一種類は、知的財産法の専攻コースで、理工科系出身の学生に対して知的財産法
に関する専門教育を行う。主として、法律専攻を軸とするカリキュラムを基礎とし、知的財産に関す
る法体系を重点とするカリキュラムを実施する。例えば、上海大学知識産権学院は、1994 年から法学
専門(知的財産法コース)の学部生の募集を開始した。もう一種類は、学際的な複合型人材の育成を
目的とし、教育において著作権法、専利法、経済法、民法、刑法、訴訟法などの法律系の科目以外
に、専利検索などの知的財産に関する科目、及び科学・科学技術管理、工業設計、生物工学などの科
学技術系の科目、及び企業経営管理、知的財産管理などの管理系の基礎科目が大幅に増やされる。華
東政法大学知識産権学院の四年制の学部育成モデルは、その一例である。
(ⅱ)ダブルディグリー「3+2」教育モデル:
複合型人材の育成を目標とし、一部の高等教育機関は、ダブルディグリー「3+2」モデルを開始し
た。このタイプの育成モデルは、主に 2 つの段階に分かれる。第 1 段階である「3」とは、理工科系の
1 年生から 3 年生までの学部の期間又は 3 年間の理工科系の短大での学習期間、短大の卒業証明書の取
得を指す。第 2 段階である「2」とは、知的財産のダブルディグリーの 2 年間、又は 2 年間の知的財産
の学習を経た知的財産の学士号取得を指す。理工科系での学部又は短大での 3 年間の学習の後、優秀
な学生又は短大の卒業資格を得た学生は、2 年間の体系的な知的財産法律、知的財産管理、経済などの
知識を習得し、ダブルディグリー又は学士号を取得する。当然ながら、知的財産のダブルディグリー
を専攻する学生は、4 年目に理工科系の 4 年生のカリキュラムを同時に履修しなければダブルディグ
リーを取得することができない。例えば、華南理工大学が 2000 年に開設した知的財産法「3+2」モデ
ルでは、理工科系専攻の在学生のうち、前の 3 年間の総合成績がクラスで上位 15%以内に入る学生を
選抜し、学生本人の申請、学校の同意・確認を得た後、学生は試験を受けて知識産権学院に入り、更
に 2 年間の学業を積む。成績が合格基準に達した学生は、2 つの専攻、2 つの学士号を取得する形で卒
業する。また、重慶(理工大学)の知識産権学院では、重慶市の「短大から学部へ」の規定を基に、
重慶市の理工科系の短大生を募集し、2 年間の知的財産教育を行う。特に、専利管理関連の知識につい
て、成績が基準に達した学生は、学士号を取得できる。
当然ながら、以上の 2 種類以外にも様々な形式で知的財産の特色ある専門プログラムが実施されて
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
いる。各地の高等教育機関の状況はそれぞれ異なり、加えて範囲が狭く一般的でないこともあり、本
報告においては、これ以上の言及は避けることとするが、各地の高等教育機関が各種のモデルの中で
行われている様々な試みも、現在の高等教育機関における知的財産の学部教育の模索の現状を反映し
ているといえる。下表-3 では、教育部が承認した学部の知的財産専攻設置校を列記している。
【表-3】教育部により批准された大学知財学部名簿(一部)
1
2
3
4
5
6
7
8
第
三
章
大学名称
華東政法学院
華南理工大学
暨南大学
重慶理工大学
中国計量学院
杭州師範大学
浙江工業大学
浙江工商大学
学内教育機構
知識産権学院
知識産権学院
知識産権学院
知識産権学院
知識産権学院/法学院
知識産権研究所
知識産権専攻
知識産権研究所
専攻番号及び名称
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
030103S 知識産権
批准時間
2003 年
2004 年
2005 年
2005 年
2005 年
2006 年
2007 年
2009 年
修了期限
4年
4年
4年
4年
4年
4年
4年
4年
授与学位
法学
法学
法学
法学
法学
法学
法学
法学
知的財産の学部教育の問題点
高等教育機関が、学部において知的財産教育を正式に開始して、10 年以上経過した。しかし、現在
の実施状況から見て、設定された育成目標を完全には達成できていない。最も際立った問題は、育成
目標とカリキュラム設置の問題である。国家が、現在最も緊急に必要とする知的財産人材の資質・能
力に係る要求に照らすと、専門的な複合型人材の育成は、その主要目標である。このため、カリキュ
ラムの設計においては、単に法律を学ぶだけでなく、経済、管理を学び、必須である理工科系の基礎
知識を把握しなければならない。例えば、学生がこれらの知識を十分に消化吸収できるかどうかにつ
いて、教育界に「高等教育機関の教育は、専門型人材を育成すべきか、総合型人材を育成すべきか」
という重大な問題提起がなされている。高等教育の基礎である学部教育は、基礎が深く、幅が広いリ
ベラルアーツ教育であるべきであり、専門教育を細分化するのは望ましくないという教育関係者もい
る8。知的財産自体、学際的な特性があり、知的財産法、知的財産管理を学ぶにしても、法学と管理学
の基礎知識を切り離すことはできず、同じように理工科系の知識も必要となる。こうした各分野の知
識を身につけようとする場合、学部の 4 年間(「短大から学部へ」、ダブルディグリーの 5 年間)の
教育において、学生の学習に係る負担は、大きく増加するであろう。結局のところ、自然科学の知識
を体系的に把握できないだけでなく、法学と管理学の基礎知識の習得もままならない。「高楼、万丈
にして平地に起つ」といわれるように、「この不完全な知識構造は、学生が継続的に学習する能力に
深刻な影響を及ぼし、また、就職の競争力と潜在的な成長力にも影響を及ぼす。このような教育は、
社会における職業訓練と全く区別がなく、その効果は職業訓練に及ばない可能性さえもある。なぜな
ら、職業訓練に参加する人は、往々にして良い専門的バックグランドと一定の実践経験を備えている
が、中国の学部教育における育成の対象は、いかなる実践経験も持たず、他の専攻のバックグランド
も有さない。」9。
また、現在の学部の知的財産専攻の卒業生の就業状況は、決して楽観視できるものではない。各高
8
鄧社明「中国の知的財産人材育成の現状と提言に関して」鄧社明ほか『中国知的財産人材育成研究』上海大学出版社
(2010 年)。
9
張玉敏「高等教育機関の学位取得のための教育における知的財産人材育成に関する幾つかの問題」西南知識財権網
http://www.xinanipr.com/partner/show/22.aspx [最終アクセス:2015 年 2 月 9 日]。
- 170 -
等教育機関の知識産権学院が相次いで設立され、毎年輩出される知的財産専攻の卒業生も増えてきて
いる。しかし、基本的には、法学専攻の知的財産に関する学部生と大学院生の育成であり、その教育
内容の多くは、法律系のカリキュラムで、実際のニーズにそぐわない。そのため、中国の知的財産人
材(特に、企業の知的財産管理人材と代理サービス人材)は、依然として深刻な不足の状況が続いて
いる。以前企業から、「大学は企業が本当に必要とする人材を育てていない」という声が上がったこ
とがある。事実、知的財産専攻は、2014 年の中国教育部高等教育司が公布した最も就職が困難とされ
る専攻の 1 つに掲げられている。学部における知的財産専攻の開設が盛り上がりを見せる一方で、卒
業生は「引く手あまたの人材」とはなっていない。
このような現実に対し、学部の知的財産専攻教育は、スリム化すべきだとの意見がある一方で、学
部段階で知的財産専攻を設置すべきでないとの意見もある10。その理由は、第 1 に、中国で設置されて
いる知的財産教育機構の育成方針に照らすと、大量な学部の知的財産法学専攻の卒業生の育成となっ
ており、知的財産管理人材を求める企業のニーズを満たしていない。そのため、学部の知的財産法学
の教育は、適度に抑制されるべきである。第 2 に、米国、イギリス、ドイツなどの先進国では、知的
財産教育は、法学と同様で、専門教育か職業教育に属している。米国においては、4 年間の学士課程を
修了し、学士号を取得しなければ、知的財産のカリキュラムに進むことができない。こうして、学生
の多様な専攻バックグランドが保証されるとともに、育成目標も一層明確となる。当然ながら、その
前提条件は、よりよい知的財産の啓蒙教育と基礎教育を受けることである。2006 年、呉漢東教授は、
知的財産法を高等教育機関のリベラルアーツ教育の課程に組み入れることを提言した。呉教授はま
た、国内の著名な知的財産の専門家 40 名と連名で、「中国の知的財産人材育成に関する提言書」を提
出し、知的財産の内容を大学院生、学部生、短大生の教養課程の一部に組み入れて、知的財産に関す
る科目を理工科系、文科系の各専攻の必修科目にすることを提案した。しかし現在、リベラルアーツ
教育は、目立って普及には至っておらず、高等教育機関の学生の多くは、「知的財産」は何を学ぶ科
目なのかさえ分かっていない。
(3)知的財産の大学院生教育
中国の高等教育体系において、知的財産は、いまだ独立した学科とはなっておらず、法学又は管理
学という一級学科の下に帰属する二級学科、三級学科の地位11に置かれ、単独で知的財産の修士課程、
博士課程を設置する学部・学科はない。2004 年、教育部が公布した[2004]4 号文書(詳細内容は前文
を参照)において、「知的財産専攻の修士課程を設置する学部・学科を増設する。条件の整った高等
教育機関が教育資源を整合し、知的財産法学又は知的財産管理に関する修士課程、博士課程を設置す
る学部・学科を開設し、知的財産の学科の地位を引き上げる。知的財産を担当する教員と研究者の育
成を強化する」ことが明確に掲げられた。また、2008 年に国務院が公布した「国家知的財産戦略綱
要」の戦略実施部分においても「若干の国家知的財産人材育成拠点を整備する。知的財産教育を担当
10
張玉敏「高等教育機関の知的財産人材育成における位置づけ」張玉敏ほか『中国知的財産人材育成研究』上海大学出
版社(2010 年)。
11
中国の教育体系において、知的財産コースには、三級学科に属する民商法、憲法、経済法、行政法が増設されてい
る。ただし、一級の法学学科の学位を取得できる高等教育機関は、一級学科の下に知的財産法類の二級学科とその学位
を取得できる学部を設けることができる。管理学については、管理科学と管理工学、工商管理、公共管理などの二級学
科の下に知的財産コースが設立されている。
- 171 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
する高水準の教員の育成を推進する。知的財産の二級学科を開設し、条件の整った高等教育機関によ
る知的財産の修士課程、博士課程を設置する学部・学科の設立を支援する」ことを掲げた。これらの
文書の公布から 10 年以上が経過したが、この主要戦略目標の達成には、なお引き続き努力を要する。
そのため、中国の知的財産は、法学の分野において、通常は民商法、憲法、行政法及び経済法など、
既存の二級学科の修士課程、博士課程を設置する学部・学科の下に「知的財産の研究コース」を増設
する場合が多い。同様に、管理科学、管理工学、工商管理などの管理学の分野の下に「知的財産管理
の研究コース」が設置されている。中国の知的財産の具体的な大学院生教育モデルは、主に次の幾つ
かの種類がある。
(ⅰ)知的財産法専攻の修士課程·博士課程教育モデル
第
三
章
主に学部で法律を専攻した学生を対象として、それを基盤とした、「専利法」、「商標法」、「著
作権法」、「反不正当競争法[不正競争防止法]」などの知的財産関連法制度の活用の学習、法理論の
研究を行う。目下、国務院学位委員会への届出を経ている中国社会科学院大学院、中南財経政法大学
知識産権学院、西南政法大学法学院知識産権研究センター、中国人民大学法学院知識産権研究セン
ター、華東政法大学知識産権学院などのように、法学の一級学科の学位を取得できる高等教育機関に
おいては、通常、一級学科の下に知的財産法の二級学科が設けられている。
(ⅱ)知的財産管理専攻の修士課程・博士課程教育モデル
知的財産管理人材は、中国の高等教育機関における知的財産人材育成の重点対象である。法学と同
じく、管理学領域の一級学科の学位を取得できる学部・学科を有する高等教育機関は、国務院学位委
員会への届出を経て、知的財産管理類の二級学科とその学位を取得できる学部・学科を設置すること
ができる。例えば、華中科技大学管理学院知識産権学部は、長年にわたって工商管理一級学科の下
で、知的財産コースの修士課程及び博士課程の学生を育成している。同済大学知識産権学院は、2003
年から一級学科「管理科学と管理工学」の下で知的財産と知識管理の博士課程の学生を募集してい
る。厦門大学公共管理学院は一級学科「公共管理」の下に、「知的財産と出版管理」コースを設置し
た。上海大学知識産権学院でもかつて一級学科「管理科学と管理工学」の下に「知的財産管理」コー
スが設置されている。総じていうと、商学院[ビジネススクール]又は管理学院において、管理学科の
下に知的財産管理類二級学科を設ける高等教育機関は少なく、昨今、企業の知的財産管理人材に対す
る逼迫した需要とは全く相容れない。
(ⅲ)知的財産法律修士(JM)教育モデル
この類の育成モデルは、学部で法学を専攻していない学生、又は特定条件下の法学専攻の学生を対
象とし、知的財産法コースの修士課程で、より深く学ぶものである。知的財産人材そのものの資質に
対する要求は、学際的で、複合型人材であるため、これらの学部生の専攻の多様化、着実な基礎専攻
の基盤により、その専攻の特長を存分に発揮できる。そのため、この類の知的財産人材育成モデル
は、最も緊急に必要とされる複合型人材の育成のための重要なチャネルの 1 つと考えてよい。教育部
は、既に中国社会科学院、中南財経政法大学、北京大学、中国人民大学などの高等教育機関・研究機
関の「知的財産法律修士」学位授与の資格を承認している。
- 172 -
(ⅳ)知的財産に関する MBA・EMBA プログラムの教育モデル
こ の 他 に 、 社 会 人 向 け の MBA ( Master of Business Administration ; 経 営 学 修 士 ) 、 EMBA
(Executive MBA)プログラムの教育モデルは、知的財産法律修士と同じく、その育成対象が着実に専
門知識を習得しており、加えて学習の目的が明確であることからも、専攻が複数の、実務型人材、複
合型人材の育成にとって有利である。現在、この方式は、まだ模索段階ではあるが、実践を重視する
知的財産教育は、将来的に実務型人材育成の主要な手段の 1 つとなる可能性がある。目下、曁南大学
知識産権学院、上海財経商学院が、知的財産管理コースの EMBA の学生募集を開始している。
(ⅴ)学士・修士一貫課程の「4+3」モデル
このタイプの教育モデルも 2 つの段階に分かれる。第 1 段階は、大学の学部 4 年間で、学生は工
業・工学専攻のカリキュラムに沿って学び、理工科系の基礎知識を習得する。第 2 段階は、3 年間の修
士課程で、知的財産法又は管理コースを専攻し、学部の理工科系の知識の基礎を備えた上で、知的財
産管理、法律、経済などの知識をより体系的に学ぶ。なお、大学学部の 3 年、4 年は、学校の優秀者選
抜、学生の自発的な申請の原則に従って、学部の理工科系の大学 3 年生、4 年生の学習課程を、全て終
えるとともに、法学の 2 学科の学習も終えるという点を説明しておく必要があろう。大学院生の段階
では、知的財産法をより深く学ぶ。近年、上海大学は、モデル事業を開始し、この類の学生 20 名前後
を毎年募集しており、現時点で 100 名近くの理工科系出身の知的財産法専攻の大学院生を輩出し、就
職率も高い12。
(ⅵ)大学院生教育に存在する問題点
知的財産の大学院生教育は、現時点で比較的成功を収めているが、次の点において幾つかの問題が
見られる。
第 1 に、複合型人材の教員が欠如し、複合型人材育成の要請に十分に応えられていない。高等教育
機関の教員の多くは、単一の専門の研究と教育に従事していることが多く、学際的学問分野を背景に
持つ教員が非常に少ないため、実際の教育活動においては、分野の異なる教員がそれぞれ単一分野の
科目を担当することが多い。分野の幅が広いため、教員間の交流が少なく、複合型学習の目標別の立
場から思慮できないほか、学生が各分野の関連性の把握が困難となり、最終的に単一分野の断片的な
知識しか得られず、複合型人材のニーズに応えられない。
第 2 に、研究型人材と実務型人材の育成モデルが区分されていない。前に分析したように、知的財
産人材は、研究型人材と実務型人材に分けられ、更にそれらを細分化することもできる(前文を参
照)。しかし、現在の育成方法で講じられているのは「画一的」な方法で、異なるタイプの知的財産
人材を分類した上での育成は、行われておらず、各高等教育機関の具体的な科目設置に多少の違いが
あるとはいえ、総じていうと、研究型人材と実務型人材は実際の区分がなされていない。
第 3 に、授業は教室での講義と理論の伝授が中心で、実践が明らかに不足している。知的財産制度
の環境、管理方法は、時間とともに変化する。さらに、具体的な制度の適用と操作も実際の「実習」
を通じてはじめてその意味を理解できる。そのため、知的財産は、実践と密接に結びついた、時代の
変化に対応すべき科目であるといえる。しかし、実際、教員の負荷の高い教育、研究のノルマによ
12
陶、前掲注(1)。
- 173 -
第
三
章
第3章
研究内容の報告
り、通常、教室での講義が主な教育方式になってしまう場合が多い。理論の伝授が主な教育内容であ
るため、往々にして現実世界の変化について行けず、学生は実践力が著しく欠如したまま、実際に自
分の職場に立ったときに困惑と不安を感じてしまう。
第 4 に、企業や実務部門との提携の機会が少ない。教育において実践が欠如している一方で、高等
教育機関と企業、実務部門が研究プロジェクトに関して様々な提携を行っているにもかかわらず、教
育においては、類似の提携がほとんど見られない。現在、産官学連携が唱えられてはいるものの、多
くは表面的な提携にとどまっており、高等教育機関と企業、実務部門の間での深く、長く、安定した
提携を保障するための体制が不足している。
(4)社会環境から引き起こされた知的財産の教育をめぐる問題
第
三
章
以上の高等教育機関の知的財産をめぐる学部教育と大学院生教育の問題点を除いて、次の 4 つの問
題は、現在の社会環境によって引き起こされたものである。本文でも、ここで若干の分析を行う。
第 1 に、知的財産専攻に「ふさわしい地位が見当たらない」。知的財産コースは、法学系や管理学
系の学科に設けられた二級学科、三級学科であるため、完全に独立した学科としての地位がない。近
年、国は政府主導で関連規定を定め、条件の整った高等教育機関が国務院学位委員会への届出を経
て、法学又は管理学の下で、知的財産コースの二級学科の設置を促した。ただ、このような動きは、
限られた範囲にとどまり、政策の具現化を待つ必要がある。特に、管理学の分野において、知的財産
コースを設ける高等教育機関は、まだ僅かであるため、企業の管理型人材のニーズに応えられていな
い。
第 2 に、教育方針の認識に齟齬がある。知的財産は、発明、技術革新と密接な関わりがあるため、
当初、高等教育機関において専利代理事務所が設置された目的も、高等教育機関の研究成果を実用化
することであった。そのため、以前は技術に熟練し、一定の理工科系の背景を持っていることが、知
的財産人材を育成するための重要な条件であった。一般的に、知的財産人材育成とは、理工科系出身
の学生を対象とした、更に知的財産法学の教育を施すことと考えられていたが、時代の移り変わりと
ともに、知的財産は、様々な業界に浸透しつつあり、中でも文化産業は、知的財産をめぐる紛争が最
も頻繁に発生する業界の 1 つである。そのため、知的財産人材育成において、その専攻背景について
多様化を求め、理工科系背景だけが強調されなくなっている。
第 3 に、需要と供給の食い違いがある。国務院が発表した「国家知識産権戦略綱要」によると、不
足の状態が最も顕著に見られるのは、企業の知的財産管理人材と代理サービス人材である。しかし、
実際の知的財産教育体系において、知的財産教育は、今なお法学院又は法学科に依存しているため、
主な育成対象は法学の人材で、管理学の人材が不足している。
第 4 に、理想と現実とのギャップがある。先進国の現状を見ると、企業や研究機関に勤務する知的
財産専門職員の比率は、研究開発者の 1~4%となり、中国において、2020 年までに企業が喫緊に必要
な知的財産管理人材は、10~13 万人である。そのため、「国家知識産権発展綱要」において、企業の
知的財産管理人材と代理サービス人材の育成に注力するという方針が掲げられた。政策主導により、
2004 年から 2008 年の間、中国の高等教育機関では未曾有の知的財産ブームが巻き起こり、各高等教育
機関に知識産権学院が相次いで設置され、学部の知的財産専攻も大々的に開設され始めた。卒業生の
- 174 -
社会への進出に伴い、厳しい就職情勢が確実にこのブームの熱を冷ましていった。事実、一部のハイ
テク企業を除き、ほとんどの企業には、依然として知的財産を重視する意識が欠けている。調査によ
ると、中国の 99%の企業は、独自の知的財産を持たない。また、「2012 年の一定規模以上の工業系企
業の専利活動と経済利益の状況に関する報告」によると、一定規模以上の企業 34 万 4,000 社のうち、
研究開発活動に取り組んでいる企業は、4 万 7,204 社で、独自の知的財産を有する企業は、4 万 1,927
社である。しかし、研究開発活動に取り組みつつ、独自の知的財産を有する企業は、僅か 2 万 1,538
社で、知的財産活動と研究開発活動との間にずれがあることが分かる。企業に知的財産を重視する意
識が欠けているため、知的財産人材に実力を発揮する機会を十分に提供できず、もともと実践と密接
に関わり、時代の変化に対応していく必要があるこれらの学生は、適時に職業指導が得られず、就職
難に遭遇したとき、又はキャリアアップの妨げになることが分かると、自ずと転職に走るため、これ
により知的財産専攻の卒業生(特に学部生)の就職方向が制限される(図-2)。
【図-2】
他の先進国に比べて、中国の知的財産教育は、ある程度トップダウン式の推進モデルとなってお
り、政府が知的財産教育を進める中で主導的な役割を果たしている。1980 年代、中国政府は知的財産
の重要性を認識し、まず、知的財産法の制定を進めるとともに、高等教育機関でも研究成果を実用化
するための専利事務所を設立した。その後、外圧・内需の中で、政府は高等教育機関における知的財
産教育を推進する以外に、政府自ら計画した知的財産教育に取り組んだ。例えば、国、各地方の知識
産権局が大量の企業・事業単位、高等教育機関、行政機関の在職者の研修を担うほか、教材作成など
の活動に取り組んだ。
政府主導の下、高等教育機関は、まず政府の政策に応えて、知的財産人材育成の重要な拠点とな
り、知的財産教育の主力となった。これまでに 100 か所弱の高等教育機関が、知的財産教育機構を設
置し、知的財産専攻を設置する高等教育機関は、200 か所以上に上る。博士課程を設置する学部・学科
のある高等教育機関は、10 余か所であるほか、国家レベル(省・部レベル)の知的財産研究拠点、戦
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
略実施拠点は、20 余か所存在する。
しかし、政府、高等教育機関に比べて、企業と社会の政策の浸透は、相対的に遅れている。上述の
ように、一部のハイテク企業を除き、大部分の企業は、知的財産を重視する意識が欠けている。特に
経営者の経営活動における配慮の多くは、製品、市場、利益、収益などであり、それらにおいて知的
財産の要素が果たす積極的な推進の役割が見過ごされている。さらに、知的財産経営に取り組む企業
はまれである。しかしながら、この状況は、次第に変化しつつあり、2014 年にトムソン・ロイター社
が評定した世界のイノベーション企業 100 社の中に、中国企業(華為(ファーウェイ))が初めてラ
ンクインした。評定においては、企業が有する知的財産の数、質、影響力が重要な評価指標となった
13
。また、一般公衆の知的財産に対する認識も次第に高まり、最近の「淘宝[タオバオ、オンライン
ショッピングサイトの 1 社]と工商局の紛争」、「王老吉と加多宝[いずれも「涼茶」という、薬草の
第
三
章
入った漢民族伝統の飲み物を販売する飲料メーカ]の紛争」といった事件の露出が一般公衆の熱い議論
を巻き起こした。そのため、知的財産教育のトップダウン式の推進は、壮大な事業であり、長期的な
プロセスとして理解できる(図-3)。
【図-3】中国型知財教育モデル
3.知的財産人材育成体制改革に関する提言
現在の中国の知的財産人材育成体制に見られる問題について、海外の経験を参考にしつつ、中国の
実情を踏まえて、4 つの側面から提案したい。
まず、知的財産自体が学際的な特性を持ち、現在の専利の位置づけに照らすと、優れた教育資源、
研究資源を得られにくいため、知的財産専攻は、レベルが高く、独立した学科の地位を与える必要が
ある。それには 2 つの角度からの作業が必要となる。1 つ目は、政府から支援を得ることである。政府
が公布した政策から見て、政府は、知的財産専攻学科の地位の重要性と必要性を意識しており、政策
の具現化が、今正に最も差し迫った問題である。2 つ目は、各大規模な高等教育機関の積極的な賛同が
必要である。法学と管理学の一級学科の下に、数十か所の高等教育機関に知的財産コースの二級学科
の修士課程、博士課程を設置する学部・学科が設けられたものの、その割合はまだ相当低く、教育界
全体の積極的な呼びかけと推進が必要である。
13
トムソン・ロイター社は、イノベーション企業の主要な評定基準を、特許出願の成功率、特許出願のグローバル性、
特許の影響力、革新的な特許数、4 つとしている。
- 176 -
次に、前文に述べたとおり、知的財産専攻は、実践性と適時性が強調され、知的財産教育におい
て、理論と実践を兼ね備えた教育モデルが特に重要となる。そのため、管理学の学習モデルに準じ
て、参加型のケーススタディ法を導入すべきであると筆者は考える。参加型のケーススタディ法にお
いては、まず学生に必要な分析ツール(関連する知的財産制度など)を掌握させたうえで、教員が指
導的な役目を担う。事例の内容に応じて学生をグループ分けして考察や討論を行い、グループの意見
をまとめた後、教員がより深く分析を行う。このような教育方式により、学生は臨場感をもって授業
に参加でき、将来の知的財産活動への参加に向けて着実な準備ができる。しかし、ケーススタディ法
を実施する場合、大規模な教育事例データベースの準備が必要となり、また、教員が多くの時間と労
力を割り当て、価値ある事例の開発作業に取り組む必要がある。しかし、現在の高等教育機関の科学
研究評価体系についていえば、事例開発は、教員の職級評価の指標になりにくいため、教員の事例開
発への積極性向上は、今後の教育改革の重要な課題となるであろう。ケーススタディ法の導入のほ
か、産学連携を強化し、長期的で着実な企業実習拠点を構築することも有効な手段であり、このよう
な提携を通じて双方に有利な結果をもたらすこともできる。一方で、学生は実習の中で、実社会で発
生する事柄を理解し、理論に対する理解を深めることができ、他方で、企業も実習に参加する学生の
中から優秀な学生を発掘し、企業の人材候補としてリザーブしておくことができる。しかし、様々な
現実的問題により、実習が表面化、形式化されやすいため、制度において企業の実習の効果を保証す
る必要がある。法曹界の関係者を教室に招いて経験を伝授してもらい、さらには法曹界での実務経験
を持ち、かつ教育事業に従事する意欲のある人物を、高等教育機関に招聘することも直接的な方法で
ある。この点、ほとんどが実務経験を備え、知的財産の様々な実践分野に身をおく教員を招いた日本
の専門職大学院の教育モデルを参考とすることができる。
第 3 に、現在の知的財産教育をめぐる主要な問題は、人材が力を発揮できる場が整っていないこと
だ。そのため、企業、とりわけ経営者の知的財産を重視する意識を高め、知的財産人材の活用にふさ
わしい場を提供することも差し迫った課題である。しかし、これは巨大な事業であり、長期的に、地
道に、たゆまず努力していく必要がある。例えば、知的財産専攻の EMBA、MBA プログラムを開発する
ことも非常に有効な手段である。学習に参加する学生は、企業の中核社員、主力であることが多く、
企業の経営層、管理層の場合もある。一部の学生は、知的財産を重視する意識がある程度備わってお
り、学習目標が明確である。このような学習環境は、率先して手本を示す効果となって、他の学生に
影響を及ぼし、その学習効果は企業の経営活動に直接反映される。また、中国の企業家と知的財産を
重視する海外企業との交流も、実効性のある方法の 1 つである。中国の多くの企業家は重視していな
いのではなく、国内のマクロ環境の下では、他の業務の重要性が一層目立ち、海外企業の経営者との
交流の機会を増やすことができれば、客観的な立場から企業の将来の行方を念入りに観察すること
で、知的財産経営に対する認識を高めることができる。
最後に、知的財産教育の普及には、社会全体の知的財産重視の意識向上も必要となってくる。米国
の知的財産専門教育の重要な背景として、学生が良好な知的財産の啓蒙教育と一般教育を受けている
ことが挙げられるが、今の多くの中国の高等教育機関の学生は、「知的財産」が何かさえ知らない。
そのため、大学の学部で、知的財産についての一般教育とリベラルアーツ教育を実施することが、大
変重要であるとともに、高等教育機関による、一般公衆を対象にした、積極的な知的財産普及のため
の公開講座の実施においても、高等教育機関の優位性を発揮することができる。また、知的財産の啓
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
蒙教育及び基礎教育は、小・中学校[日本の小・中・高校に当たる]のイノベーション科目に組み入れ
て行うことができる。一定の小・中学校では、既にこれに関する教育を取り入れ、かつ一定の成果を
収めており、この教育モデルは、継続して普及促進することができると筆者は考える。
以上
第
三
章
- 178 -
Ⅲ.中国知的財産人材育成モデルの研究
中南財経政法大学
知識産権研究センター
曹 新明
教授
1.中国の知的財産人材の現状
中国の知的財産制度は、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて始まり、1940 年代に形を整えた。1950
年代から 1980 年代にかけて、中国の知的財産制度は、変異休眠状態にあった。1980 年以降、中国は、
近代的な知的財産制度の構築を開始し、それに伴い、知的財産人材育成のための教育が本格的に開始
された。その代表的な成果として、鄭成思教授が 1982 年に『知的財産権通論』を編纂したこと、中国
人民大学が 1986 年に「知識産教育研究センター」設立し、1987 年に知的財産法第二学士号クラスの募
集を開始したこと、呉漢東教授が 1988 年に『知的財産権法』教材を監修したことが挙げられる。2014
年末の時点で、中国の各種知的財産の高度専門人材は 8 万人余り、知的財産関連の業務従事者は、30
万人余りに上っている1。中国の知的財産人材の分布状況は次のとおりである。
(1)知的財産行政管理人員
(ⅰ)国レベル:国家知識産権局(専利局、専利復審委員会)、国家新聞出版広播電視総局(版権
局)、国家工商行政管理総局(商標局、商標評審委員会)などの 28 の部・委員会・
局。
(ⅱ)地方レベル:国の知的財産行政機関に対応する機関
(2)知的財産審査人員
(ⅰ)専利局の専利審査人員
(ⅱ)商標局の商標審査人員
(ⅲ)集積回路配置図設計、食物新品種審査部門の人員
(3)知的財産裁判人員
(ⅰ)最高法院の知的財産裁判人員
(ⅱ)各高級法院の知的財産裁判人員
(ⅲ)各中級法院の知的財産裁判人員
(ⅳ)基層法院の知的財産裁判人員
(4)知的財産法律サービス人員
(ⅰ)専利代理機関の専利代理人
(ⅱ)知的財産サービス機関の役務提供者
(ⅲ)商標代理機関の商標代理人
(ⅳ)法律事務所の知的財産弁護士
法学博士、中南財経政法大学教授、博士課程教官、同大学知識産権研究センター 常務副主任。
「ハイレベル人材群を構築し、知的財産事業発展の支えとリード」中国知識産権報、2014 年 12 月 19 日付、第一版。
1
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
(ⅴ)知的財産民事調停員
(ⅵ)知的財産仲裁人
(5)企業の知的財産業務担当者
(ⅰ)企業の知的財産管理者
(ⅱ)企業の知的財産専業従事者
(ⅲ)企業の知的財産に関わる業務に従事する人員
(6)知的財産教育者
(ⅰ)高等教育機関の知的財産担当教員
第
三
章
(ⅱ)高等教育機関、研究機関の知的財産学術研究者
(ⅲ)高等教育機関の知的財産管理者
(ⅳ)その他の機関の知的財産に携わる教育者
(7)その他の知的財産業務従事者
種類別の知的財産人材の数については、現時点の統計データはない。
現在、中国の知的財産人材の大多数は、1980 年代以降に育った人材である。それ以前に育成された
人材は、現在では貴重な存在となっている。今日の中国における知的財産人材は、合理的な年齢構
成、不均衡な地域分布、やや偏狭な知識体系、イノベーション力のやや欠如及び全体数の増加が待た
れる、といった 5 つの特徴を持つ。
2.中国知的財産人材育成の目標
中国の知的財産人材育成は、1980 年代から開始され、その設計上の目標は、時代とともに若干変化
しているとはいえ、全体的な目標は、確定されたものである。
1980 年代当時の中国では、知的財産法学に関する有識者数は数える程度で、商標、専利、版権[中国
における著作権の旧称]など、基本概念でさえ知る人は少なかった。当時の国の差し迫った需要に応え
るため、国家教育委員会は即効性が期待できる戦略を採用して、法知識、理工系基礎知識、知的財産
の基本理論の分かる実用型人材を育成するという目標に向けて、既に学部で理工科系の学士号を取得
した卒業生に対して、知的財産法学の第二学士号を取得させ、専門人材を育成した。
当時、多くの大学の法学部及び法学系の学部では、法学部の学生に知的財産法学の基礎知識に触れ
させるために、カリキュラムに知的財産法の科目を取り入れた。例えば、当時の中南政法学院、中国
政法大学などである。その目標は、法律と知的財産の基礎知識の分かる応用型人材の育成である。現
在、知的財産管理、裁判、実務及び教育業務に従事している高度な人材の多くは、このような方式に
よって育成されたものである。
1990 年代、中国は、米国などの西洋の先進国から度重なる知的財産保護をめぐる非難と交渉を経
た。これにより、国の知的財産人材に対する要求は、数量的な増加傾向にあるだけでなく、理論的レ
ベル及び国際的対話力も高まりつつあった。このような背景の下で、中国の多くの大学、政治・法学
- 180 -
系大学と研究機構は、知的財産法の基礎知識に精通し、知的財産国際ルールを熟知し、知的財産理論
を駆使して、具体的な問題を解決する高度専門人材の育成という目標に向けて、知的財産修士及び博
士の育成を開始した。例えば、当時の中南政法学院、中国社会科学院などがこのような人材を育成し
た。
21 世紀に入り、2001 年に中国は、WTO に正式に加盟した。この重大な歴史的な出来事は、中国の知
的財産制度への重大な挑戦であり、同時に、中国の知的財産事業の発展に千載一遇のチャンスをもた
らした。このような背景の下、国、社会及び企業の知的財産人材の需要は、急激に高まり、更に重要
なのは、知的財産人材の総合的な素質について更に高い要求がなされた。国、社会及び企業の知的財
産人材に対する需要を満たすため、中国は、「法学、科学技術、管理が分かり、少なくとも 1 つの外
国語が堪能であり、知的財産国際ルールに精通した」知的財産人材の育成を目標に掲げた。
第
三
章
知的財産人材育成の目標
IP理論と実務を
熟知、IP国際
ルールを把握
知的財産の理論
と実務を熟知
80年代
90年代
法律、管理、外国
語、国際ルール
を熟知
現在
3.中国知的財産人材育成の径路
前述の知的財産人材育成の目標を実現するために、中国は、時代要請に沿い、時代の発展と歩調を
合わせ、知的財産人材育成の径路について探り続けている。
1980 年代中盤、中国は、法学部の民法学、経済法学、管理学などの課目に知的財産の内容を追加し
た。1980 年代後期、幾つかの法学系の単科大学では、知的財産法学の課目を設け、民法学、経済法学
などと並ぶ、独立した課目とした。最も革新的であったのは、中国人民大学が法学部に知的財産法学
の第二学士号専攻を創設したことである。その後、北京大学、華中科技大学なども知的財産法学の第
二学士号専攻を相次いで開設し、これによって、国、企業が喫緊に必要とする学際的な知的財産人材
を多く育成した。
1990 年代、中国の多くの大学は、民法学の知的財産専攻修士課程及び博士課程の学生を募集し始め
た。例えば、当時の中南政法学院、中国人民大学などである。1990 年代後期、理工科系大学又は総合
大学は、ダブルディグリー(大学に在籍する学部生が、その専攻課程を終了し学位を取得すると共
に、知的財産の科目も履修しその学位を取得する)を導入し、複合型の知的財産人材(理工系の専門
知識又はその他の文科系の専門知識だけでなく、知的財産の専門知識も習得した人材)の育成を開始
した。複合型の知的財産人材は、社会からの高い評価を受けた。
21 世紀に入ると、多くの大学と研究機関は、知的財産専攻の修士課程と博士課程の学生を募集し始
めた。例えば、中国社会科学院知識産権センター、中南財経政法大学、北京大学、中国人民大学など
- 181 -
第3章
研究内容の報告
である。このほか、華中科技大学などは、知的財産管理学専攻の修士課程と博士課程の学生を募集
し、知的財産管理人材を育成した。
呉漢東教授ら知的財産学者の提唱の下で、2006 年秋、中国の司法部、教育部及び国家知識産権局
は、法律修士(JM)の知的財産専攻の実用型人材育成プランを共同で発表し、同年、学生募集を開始
した。現在、知的財産法律修士は、重要な専攻分野となっている。これをベースに、知的財産専攻修
士の人材類型を更に拡大させた。とりわけ注目すべきことは、呉漢東教授ら権威ある知的財産専門家
が、知的財産学部の設置に向けた論証を行ったことであり、2013 年、教育部は、知的財産法学部を、
独立した専攻として、新たな学科目録に組み入れた。現在まで、中国では、65 の大学において知的財
産学部が設置された。
もう一つの知的財産人材育成の方法は、社会教育であり、大きく次の 5 種類の形式がある。1 番目、
第
三
章
自学自習系の大学では、知的財産法学課目を必須とし、多くの自学自習を通じて育成された社会人が
知的財産法の基礎知識を習得できるようにする。2 番目、放送系の大学では、知的財産法学を必修科目
とし、授業を受ける学生に知的財産法学知識を学習させる。3 番目、特別研修プログラムでは、主とし
て、特殊な知的財産人材を必要とする事業者が、自身の必要に応じて知的財産人材の特別研修教育を
行う。例えば、中国の放送系事業者が放送に関する知的財産の専門人材の育成を急務とし、中南財経
政法大学知識産権研究センターに特別研修プログラムの開設を依頼した。毎年、中国で開設される知
的財産人材特別研修プログラムは、数百期に上る。4 番目、企業の知的財産人材研修である。今日、企
業は知的財産人材の最大の需要者であり、かつ知的財産人材に対する要求も特殊性を有する。企業の
類型によって必要とする知的財産人材も異なっているため、企業はその必要に応じた知的財産の教育
プログラムを設計し、独自の研修を実施せざるをえない。5 番目、その他の社会教育である。例えば、
ある地方で、小・中学校[高校も含む]での知的財産の課外教育活動を計画する場合、教員が必要とな
る。そこで、現地の教育行政主管部門は、管轄区内で知的財産研修クラスを開設し、管轄区内の小・
中学校から 1 名又は数名の教員を指名して、知的財産に関する研修を実施する。
中国では現在のところ、小・中学校における知的財産教育は、本格的に実施されているわけでな
く、今後、開拓余地のあるルートである。
知的財産人材育成の径路
現在、
IP学部の開設
1990後期、
修士・博士の育成
1990年初期、
IP課程の開設
1980年代、
IP内容の教授
- 182 -
国の需要に応じて、多
種方法を用いて、知的
財産人材を育成
4.中国知的財産学部専攻課程の体系
現在まで、中国で知的財産学部を開設した大学は、65 校に上る。代表的な学校として、華東政法大
学、中国計量学院、華南理工大学、重慶理工大学、南京理工大学、杭州師範大学、上海大学、蘇州大
学、南昌大学、華東理工大学、浙江工商大学、浙江工業大学、河南財経政法大学、煙台大学、曁南大
学などがある。そのうち、華東政法大学、華南理工大学及び中国計量学院は、知的財産専攻を、最も
早い段階で開設した学校である。
現在開設されている知的財産学部の名称は二種類ある。すなわち、知的財産法学専攻と知的財産専
攻である。名称から、両者には差異があり、カリキュラム編成の重点も異なるが、両者の共通点は比
較的顕著である。
(1)曁南大学知的財産学部のカリキュラム編成
刑法、民法、知的財産総論、社会学概論、経済学導論、著作権法、技術革新とインキュベーター、
管理学の原理、科学技術法、国際法、商標法、知的財産民事手続法、刑事訴訟法、競争法、行政法・
行政訴訟法、経済法、専利実務、技術契約法、商法、法律英語、国際私法、知的財産原理、ネット
ワーク情報法、物権法、知的財産刑事保護、国際経済法、知的財産損害賠償、EU の知的財産法、企業
知的財産戦略、弁護士と公証実務。
(2)湘潭大学法学専攻(知的財産コース)主な履修科目
法理学、中国憲法、中国法制史、行政法と行政訴訟法、刑法、民法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟
法、国際法、国際経済法、経済法、環境法、労働・社会保障法、国際私法、知的財産法総論、専利
法、著作権法、商標法と競争法、専利代理実務、知的財産戦略と管理、知的財産実施許諾、知的財産
評価と投資、先端技術の知的財産保護、知的財産情報検索、知的財産訴訟実務、法律文書作成学。
(3)華南理工大学知的財産専攻科目
法学入門、憲法、刑法総論、法律方法、民法総論、商法、国際法(二か国語)、経済法、知的財産
法、中国法制史、民事訴訟法、刑事訴訟法、国際私法、国際経済法、法理学、行政法と行政訴訟法、
税法、人権法(二か国語)、環境法、西洋法律思想史、立法学、労働社会保障法、物権法、債権法、刑
法分論、比較憲法、犯罪心理学、婚姻と相続法、不動産法、企業の知的財産管理、電子商務法、WTO 法
(二か国語)、競争法、知的財産裁判実務、法律文書、国際知的財産法(二か国語)、新類型知的財産保
護概要。
(4)中国計量学院知的財産専攻科目
法理学、民法学、刑法学、知的財産法などの教育部が定めた法学の主要科目及び専利法、商標法、
著作権法、営業秘密法、知的財産貿易などの知的財産の主要科目。本専攻は、知的財産法律、知的財
産管理及び知的財産実務の特色が際立っている。
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第
三
章
第3章
研究内容の報告
(5)華東政法大学知的財産専攻科目
高等数学、大学物理、大学化学、現代生物学基礎、機械図面、管理学の原理、法学基礎、民法学総
論(民事責任、人格権法を含む)、物権法学、債権法学(契約法を含む)、刑法学、行政法学(行政
訴訟法を含む)、民事訴訟法学、商法学、著作権法、商標法、専利法、知的財産管理、営業秘密法、
公正取引法、専利文献の検索と分析、コンピューターソフト保護、知的財産評価、知的財産実施許
諾、国際知的財産保護。
(6)西南政法大学知的財産専攻科目
法理学、中国法制史、中国憲法、行政法と行政訴訟法、民法、知的財産法、民事訴訟法、刑法、刑
事訴訟法、婚姻と相続法、労働法と社会保障法、環境と自然資源法、国際私法、国際経済法、契約
第
三
章
法、権利侵害行為法、不動産法、企業管理、企業知的財産管理、知的財産代理、知的財産訴訟、知的
財産貿易、国際知的財産保護。
曁南大学、華南理工大学、湘潭大学、計量学院、華東政法大学、西南政法大学における知的財産学
部のカリキュラム編成を比較すると、その共通点は、教育部が指定した法学部の重点的なコア科目を
全て取り入れ、かつ知的財産基礎理論科目と実務科目を全て取り入れたことにある。相違点は、知的
財産に関わる他の科目にある。
中国の大学で開設された知的財産学部は、名称こそ統一されていないものの、カリキュラムの編成
としては、依然として法学の基礎知識を土台に、知的財産基礎理論と実務を軸に、その他の関連学科
の知識をサブとする構造をとっていることが明らかである。
2014 年 10 月 30 日から 31 日にかけて、我々は、広東省広州市の大学ゾーンに赴き、華南理工大学と
華南師範大学において、中国の知的財産人材育成モデルの調査を行った。調査期間中に、華南理工大
学の知的財産専攻課程の教員、知的財産専攻の学生とそれぞれ座談会を行った。座談会には、2011 年
入学生 7 名、2012 年入学生 3 名の計 10 名の学生が参加した。2011 年入学の学生は、一般募集生、
2012 年入学の学生は、優先募集生である。一般募集生のうち、1 名は、知的財産専攻を第一志望に選
び、2 名は、知的財産専攻を第二志望に選び、4 名は、知的財産専攻を選択せず、調整されて入った学
生であった。ただし、7 名とも、今では知的財産に興味を抱くようになった。2012 年入学生は、全員
が、2014 年の 2 年次を終了した時点で知的財産専攻を選択した。学生からは、知的財産専攻の科目設
置について、法学でも、工学でも、管理学でも、そして知的財産でもない、どっちつかずの状況にあ
り、法学課程の重点が顕著でなく、科学技術、管理学の科目は内容が浅く、知的財産専門科目は深み
がなく、明白でない、という認識を示した。
以上から、知的財産学部の専攻科目をいかに設置するかについて、より詳細な検討が必要であるこ
とが分かる。
- 184 -
知的財産学部の専攻科目設置計画
法律
法律必修科目
民法、刑法、
行政法、法理学、
国際法
IP
専門
IP
実務
専門必修科目
知的財産法総論、
著作権法、専利法、
商標法、競争法
実務科目
特色
特色科目
知的財産代理、知
専利インキュベーター、
的財産貿易、知的
現代生物学基礎、
財産訴訟
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5.中国知的財産人材の素質の構造
知的財産人材は、特殊な人材であり、その特殊性は次の 5 つの面に表れている。
第 1 に、水平思考によれば、知的財産人材は統括型人材と専門型人材に分けられる。統括型知的財
産人材とは、知的財産の基礎理論を熟知し、それを柔軟に活用して現実の問題を解決することができ
る総合型の人材を指す。専門型知的財産人材とは、知的財産に関わる特定の専門分野の基礎知識を熟
知し、それを柔軟に活用して現実の問題を解決できる人材を指す。例えば、専利代理人、専利審査
官、専利仲介者などの専利分野の人材、商標代理人、商標審査官、商標仲介人の商標分野の人材、著
作権分野の人材などである。専門型の知的財産人材は、自己が所属する専門分野の基礎理論や実務に
は非常に精通していても、その他の知的財産理論と実務については疎い場合がある。
第 2 に、垂直思考によれば、知的財産人材は、国内型人材と国際型人材に分けられる。国際型の知
的財産人材は、単一又は複数の外国語に精通するだけでなく、特定の国又は地域の知的財産法、訴訟
メカニズム、裁判ルールなどを熟知し、さらには知的財産に関する国際ルールを理解する必要があ
る。国内型の知的財産人材とは、知的財産に関わる各種専門人材を指す。
第 3 に、関連知識の側面から見ると、知的財産人材は、知的財産法の知識、訴訟メカニズム、裁判
ルールを熟知するだけでなく、知的財産の客体の所属分野の関連知識も熟知する必要がある。例え
ば、専利の専門人材は、少なくとも専利に関わる具体的な技術とその関連知識を適度に習得する必要
がある。著作権に関わる人材は、少なくとも著作物に関する知識を適度に習得し、商標に関わる人材
は、少なくとも商品又は役務に関する知識を習得しなければならない。
第 4 に、職業スキルの視点から、知的財産人材は、鋭敏な情報収集能力、精確な情報分析能力、正
確な情報処理能力、柔軟な情報活用能力を備えていなければならない。こうした能力は、学習によっ
て身に付けられ、理論の蓄積、実践を通して磨くことができるが、更に重要な部分は、個人の才能や
天賦の表れである。知的財産制度は、新技術の発明と活用によりイノベーションを促進する。全ての
新技術の誕生において、新たな知的創作物が生み出される可能性がある。新たに生み出される知的創
作物がどのようなものであり、それに対して知的財産保護を与えるか、どのような保護を与えるかに
ついて、明確な答えを与えなければならない。このような答えは、必ず知的財産人材が与えなければ
ならない。
第 5 に、公平と正義という視点から、どれほど複雑な知的財産紛争に遭遇しても、知的財産のスペ
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研究内容の報告
シャリストは、公平と正義の原則に適合する解決案や解決策を出せなければならない。この過程にお
いて、知的財産の保有者の利益、相手方の利益、社会的利益と国家利益の交差直面する可能性があ
る。知的財産保有者の利益を過度に強調すると、他の利益に損害を及ぼすおそれがある。反対に、知
的財産保有者の利益を保護せず、他の利益についてその重みに応じて保護を与えない場合、知的財産
制度の目的に反する。したがって、知的財産人材は、必ず公平と正義の守護者でなければならない。
以上の分析に基づき、知的財産人材は、高度なインスピレーション、充分な知的財産の専門的素
養、良好な公平・正義理念、知的財産理論を円滑に実践で生かせる能力、及び正確に知的財産の各種
実務を処理できる能力を備えなければならないと筆者は考える。
知的財産人材の素質構造
第
三
章
天性の素養
法律素養
理念的素養
専門席素養
実践的素養
知的財産に対する優れた天性を備える
知的財産に関する豊富な法律素養備える
公平・正義理念を堅く守る
知的財産理念に関する深い素養を備える
知的財産理論を柔軟に実践に活用できる
6.中国知的財産人材育成の基本モデル
1980 年代以降の 30 年余り、中国は、改革開放の進展に伴い、経済成長が快速から高速、高速から安
定したニュー・ノーマルの過程を経ている。中国の知的財産人材育成は、このような経済成長の需要
に伴いスタートされたものである。この過程において、我々は、中国の現実の需要と国情を踏まえ
て、中国の知的財産人材育成の基本モデルを模索し、数多くの知的財産人材を育成してきた。
(1)モデル 1、正規学歴教育モデル
知的財産人材の正規学歴教育モデルは、中国の知的財産人材育成における主要なモデルであり、知
的財産人材が社会で普遍的に認められている唯一のモデルである。このモデルは、次のタイプに分け
られる。
(ⅰ)知的財産法学の第二学士号
このモデルは、1980 年代に中国人民大学によって創設されたものである。1986 年、当時の WIPO 事
務局長、D.A.Bogsch 氏が中国を訪問した。その中で、中国の知的財産人材の不足が取り上げられ、い
かにこの問題を早急に解決するかという話題が上がった。D.A.Bogsch 氏は、理工科系の大学の卒業生
から知的財産履修生を募集し、短期(2 年)の専門教育を実施し、正規の知的財産法の第二学士号を与
える提案をした。この提案は、即効性のある育成モデルであるとして中国の指導者からの賛同を得
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て、当時の国家教育委員会に、この件に関する対応の権限が与えられた。最終的に、国家教育委員会
は、中国人民大学を学生募集のモデル校に選び、1987 年秋季から、正式に学生募集を開始した。この
即効性が見込まれる育成モデルは、優れた成果を収め、今日に至るまで、中国人民大学で知的財産法
学の第二学士号課程のカリキュラムが維持されているのみならず、北京大学、華中科技大学などもこ
れを手本とした。このモデルの最大の欠陥は、育成対象の学生が 6 年間(その他の専門は、学部 4 年
+知的財産法学専攻 2 年)の学習が必要であるのに対して、取得できる学位が学士号にとどまること
である。このような知的財産人材は、学歴として低く、社会に出てからの待遇も良くない。
(ⅱ)民商法(知的財産コース)修士
知的財産人材の差し迫った需要の解決のため、また、知的財産法学の第二学士号専攻の欠点を克服
するために、1990 年代初頭、高等教育機関は、民商法(知的財産コース)の修士課程の学生育成の試
みを開始した。民商法(知的財産コース)修士は、学歴が向上され、社会に出てからの待遇も高ま
り、知識体系の面からも、法学以外の専攻の学部生の募集が可能となった。そのため、このモデル
は、直ちに当時の民商法修士の育成資格を持つ高等教育機関と研究機関に支持され、急速に普及が進
んだ。ただし、この種の知的財産人材の欠点は、知的財産専門知識が比較的貧弱であり、社会に出て
からある程度の適応期間を必要とする点である。
(ⅲ)知的財産法学専攻の修士
民商法(知的財産コース)修士課程の長所を取り入れた上で、中南財経政法大学知識産権研究セン
ター及び中国社会科学院知識産権センターなどは、知的財産法学修士課程を開設し、知的財産法学専
攻の修士の育成を開始した。このタイプの知的財産人材は、社会の高い評価を得ている。しかし、こ
の種の人材の主な欠点は、知的財産理論の研究を重んじ、知的財産実務を軽んじることである。この
種の知的財産人材は、知的財産担当法官、知的財産に関する学術研究、知的財産関連部門の需要には
満足させても、企業の知的財産法務などのような知的財産実務からの要求には及ばない。
(ⅳ)知的財産法律修士
2006 年、呉漢東教授と鄭成思教授は、中国共産党中央政治局で知的財産の講義を行った後、中央政
府の指導者の求めに応じて、知的財産法律修士育成の意見提起を行った。その後、呉漢東教授を中心
とする中南財経政法大学知識産権研究センターは、知的財産法律修士育成の目標を掲げ、カリキュラ
ムを設計した。同年 7 月、司法部は、知的財産法律修士履修生の募集、及びこの類型の知的財産人材
育成モデル事業の開始を承認した。当時、承認されたモデル校は、中南財経政法大学、中国社会科学
院知識産権センター、北京大学、華中科技大学、中国人民大学であった。現在、法学修士育成資格を
有する教育機関は、全て知的財産法律修士専攻を開設している。
知的財産法学修士と知的財産法律修士を組み合わせることにより、知的財産の学術面と実務面の相
互補完が可能となり、知的財産法律人材のニーズを満たしたが、社会で必要とされる知的財産管理人
材としては、これら 2 種類のいずれにも欠陥があった。そこで、生まれたのが知的財産管理修士であ
る。
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研究内容の報告
(ⅴ)知的財産管理修士
知的財産管理修士の育成目標は、企業が必要とする知的財産管理人材、知的財産行政機関が必要と
する知的財産管理人材などを含む、知的財産管理業務に従事する人材を育成することである。現在、
中国で知的財産管理修士を育成する学校として、華中科技大学、同済大学、中南財経政法大学知識産
権研究センターなどがある。
知的財産管理修士に、知的財産法学修士及び知的財産法律修士が加わることで、修士レベルでは、
社会各方面の知的財産人材のニーズをほぼ満たすことができている。
(ⅵ)知的財産博士
知的財産修士の育成目標は、主として、知的財産専門技能を習得した人材を供給し、知的財産実務
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三
章
部門の需要を満たすことである。しかし、知的財産修士では、高等教育機関の教員、研究機関の研究
者、知的財産の高度管理人材の需要を満たすことができない。そこで、1990 年代初頭から、法学博士
の育成資格と管理学博士の育成資格を有する学校と研究機関が民商法(知的財産コース)博士、知的
財産法学博士、管理学博士などの知的財産関連の博士の育成を開始した。これは、中国の高度な知的
財産人材の主な育成モデルであり、中国では高等教育機関、研究機関、上級管理職で知的財産に関す
る教育、研究、管理業務に従事する職員の多くが知的財産博士号を有している。
(ⅶ)知的財産学部
中国において、知的財産学部の人材育成は、着手されたばかりで、最長でも 10 年、最短で 1~2 年
にすぎない。なぜ知的財産学部の設置が知的財産修士と博士より何年も遅れているのか。それには、
様々な原因が考えられるが、主に次の 4 点に帰結できる。第 1 に、社会のニーズが明白でない。第 2
に、学部の設置が非常に複雑である。第 3 に、知的財産専攻は特殊性を有する。第 4 に、著名な高等
教育機関の関心度が低い。現実に、2014 年に教育部が公布した、就職状況が良くない学部の専攻リス
トの中に、知的財産専攻が入っている。前述でも紹介したが、現在、各校で設置されている学部の知
的財産専攻は、育成目標が自然発生的で、しかも編成されるカリキュラムが多種多様で、統一的なシ
ラバスや教材がない。したがって、知的財産学部の専攻構築には、共通の認識を得るのに、さらに一
定期間の模索が必要であろう。
(ⅷ)知的財産のダブルディグリー
知的財産のダブルディグリーとは、大学に在籍する知的財産以外の専攻を持つ学部生が、その専攻
の学士課程の履修と共に、副専攻として知的財産の学士課程も履修し、自分の専攻と知的財産の専攻
の両方の科目の単位を取得して、2 つの学士号を同時に取得する制度である。この制度により、学生
は、自分の専攻の知識を広げられるだけでなく、知的財産に関する専門知識の基本を習得して、一般
的な知的財産業務に従事できる能力を身に付けることができる。その長所は、非常に顕著で、まず、
知的財産の第二学士号専攻に比べて 2 年もの時間を節約でき、早く職に就くことができる。更なる研
鑽を積みたい場合は、知的財産修士課程を専攻すればよく、複数の学科の基礎知識を身に付けること
ができる。第 2 に、学部生の段階で、知的財産の知識を身に付けることができる。もし、単純に知的
財産専攻の学部生向けに知的財産に関する一般教養科目を開設しただけであれば、せいぜい知的財産
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に関する多少の常識が得られる程度で、就職に明らかな効果は表れず、学生は学習の意欲を失ってし
まう。第 3 に、ダブルディグリー取得のための学習は、正規の 4 年間の学部の専攻期間に行われ、週
末を利用することができるため、正規の専攻の学習に大きな影響を及ぼすことがなく、学生たちの学
習に対する関心を引きやすい。
前述 8 種類の、より規範的な正規学歴教育以外にも、知的財産教育学の修士・博士、知的財産 MBA、
EMBA プラグラムなどがある。例えば、曁南大学 EMBA(知的財産管理コース)は、企業の上層部、管理
職向けに、中国が WTO 加盟後に直面している知的財産をめぐる諸問題に対処するために開設された新
しい専攻コースであり、企業向けに、知的財産制度の活用について熟知し、企業のイノベーション体
制の構築、知的財産の戦略及び策略を制定できる高度な管理人材を育成することを目的とするもので
ある2。主流的な方式ではないため、ここでは詳細に触れない。
(2)モデル 2、社会教育モデル
社会教育機関を通じての知的財産人材育成は、中国が 1980 年代以降継続して採用している手段であ
り、このモデルにより育成された知的財産人材の数は、正規学歴教育により育成された人材の数より
も多い。
(ⅰ)専利審査官の育成
中国の専利審査官は、国が行う専利権付与・権利確認の専門人材であり、大学の新卒者、既に実務
経験のある社会人の 2 種類の採用が行われているが、新卒者の割合が高い。社会人からの採用者数は
少なく、新卒者の約半数である。一方で、中国においても、その他の国においても、専ら専利審査官
を育成する大学や研究機関がなく、国の専利行政機関が招へいした職員にトレーニングを行うしかな
い。したがって、専利審査官は、基本的に国の専利行政機関が、国内での特別研修や海外派遣研究に
より、自ら育成しているものである。国内における研修期間は、通常 4 か月で、大学の 1 学期間に相
当する。その後は、実情に応じて、訓練が継続される3。
専利審査官の研修に類似する形として、商標審査官の研修がある。
(ⅱ)知的財産に関する各種人材の研修
知的財産人材は、国の知的財産戦略、地方の知的財産戦略、企業の知的財産戦略を実践するための
重要な要素である。2008 年以降、中国の国家知識産権局は、全国に 20 か所余りの知的財産研修拠点を
開設し、毎年、知的財産関連行政管理職員向けの研修、企業の知的財産管理職員向けの研修、大学生
向けの知的財産知識教育、小・中学校向けの知的財産教育など、100 期を超える詳細な知的財産人材育
成計画を制定し、延べ数万人の知的財産人材を育成してきた。2013 年、2014 年に開催した各種研修は
それぞれ 200 期を超え、研修参加者は、3 万人以上に上った。
2
「高度管理職工商管理修士 EMBA(知的財産管理コース)募集要項」参照、
http://souky.eol.cn/HomePage/takeinfo/155/1432.html [最終アクセス:2015 年 3 月 9 日]。
3
「中国の専利審査官を読み解く」参照、http://www.chinaipmagazine.com/journal-show.asp?id=665 [最終アクセス:
2015 年 3 月 9 日]。
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三
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第3章
研究内容の報告
(ⅲ)企業の知的財産人材研修
企業は、市場の担い手であり、知的財産の実践の場であり、大量の知的財産人材を必要とし、とり
わけ特殊な技能を備えた専門人材を必要としている。そのため、企業は、大学から知的財産に関わる
一般人材を募集するだけでなく、知的財産実務に従事する従業員を、目的に合わせて、実践能力の高
い人材に育てる必要がある。企業のニーズに応えるため、中国の大学や研究機関などでは、毎年企業
の委託を受け入れ、専門の研修を実施し、又は企業の従業員を博士・修士課程の学生として募集し、
高水準の人材育成を行っている。例えば、中南財経政法大学知識産権研究センターでは、放送関係の
高水準の知的財産人材の育成プログラム、インターネット関係の知的財産専門人材の育成プログラム
及び著作権関係の知的財産専門人材の育成研修を毎年実施している。また、曁南大学では、企業向け
の知的財産 EMBA プログラムを開講して、高度管理人材を育成している。
第
三
章
(ⅳ)その他の形式の社会教育
前述の 3 とおりの育成方法の他にも、社会教育の方式として、放送系の大学育成、自学自習系の大
学育成、オープンキャンパスによる育成などが挙げられる。いずれにしても、社会の知的財産人材に
対する多様なニーズに応えていくことを目的として実施されている。
7.中国知的財産人材育成の将来
中国は、既に経済成長モデルの転換期に突入し、粗放型から集約型へ、資源投入型からイノベー
ション駆動型への成長モデルに切り替えた。また、内需けん引型から海外投資型へ、高速・迅速成長
から適度な安定成長へと成長モデルの転換を遂げた。これらの転換を完結させるための、中核的な要
素は、知的財産であるが、そのキーファクターは、知的財産人材である。
中国は、既に数多くの各種知的財産人材を育成したとはいえ、その結果は、中国の今後の成長、特
に企業競争のニーズとは、まだ大きな隔たりがある。そのため、海外の発展動向と中国の実情を踏ま
えて、深い論理的思考力を土台に、気高い職業的素養を備え、高い実践力を有する国際型の知的財産
人材を育成しなければならない。
中国の知的財産人材育成の将来の方向性として、次の 3 つが考えられる。第 1 に、知的財産人材育
成を小・中学校、さらには、幼稚園へと移行し、次世代を担う青少年がいち早く知的財産に触れ、習
得できるようにする。第 2 に、知的財産人材育成方法を改善し、企業や社会のニーズを踏まえた人材
育成を展開する。第 3 に、他国の進んだ経験や実践方法を習得するために、知的財産人材を海外に派
遣して教育を受ける機会を与える。
当然ながら、現在の中国の実情からして、これら 3 つの実現は、いずれも想像を絶するほどの困難
があり、多くの体制や仕組みの改革を必要とする。今、私たちができることは、最大限、既存のモデ
ルの下で、より良い知的財産人材を育成し輩出できるよう力を尽くすことである。
以上
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禁 無 断 転 載
平成 26 年度 知的財産保護包括協力事業報告書
知的財産に関する日中共同研究報告書
平成 27 年 3 月
委託先
一般財団法人 知的財産研究所
〒101-0054 東京都千代田区神田錦町 3 丁目 11 番地
精興竹橋共同ビル 5 階
電 話 03-5281-5671
FAX 03-5281-5676
URL
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E-mail
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