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黒之瀬戸大橋の架橋が及ぼした影響について

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黒之瀬戸大橋の架橋が及ぼした影響について
2013.02.19(全7頁)
黒之瀬戸大橋の架橋が及ぼした影響について
下土橋
渡
(鹿児島県薩摩郡さつま町)
気仙沼大島と長島は、本土と狭幅の瀬戸によって隔てられており、それぞれ大橋が架けられる
(架けられている)という点で似かよっています。
気仙沼大島(宮城県気仙沼市)
面積 9.05km2
大島瀬戸(最狭幅 230m)
大橋(2012 年 1 月 27 日事業着手式、2018 年度開通予定)
長島(鹿児島県出水郡長島町)
面積 90.79km2
黒之瀬戸(最狭幅 300m)
黒之瀬戸大橋(1972 年 5 月 20 日起工式、1974 年 4 月 9 日開通)
長島は、もう3つの有人島と大小 18 の無人島で長島町を構成しています。4つの有人島のうち
3つの島は架橋によって半島化されていますが、獅子島だけは未だ離島のままで、その島への架
橋が長島町民の宿願になっています。
また、長島は、海峡をはさんで約 10km 西方に位置する天草市牛深地区(旧牛深市)との結び
つきが昔より強いでした。今も、長島の蔵之元港と牛深港を結ぶフェリーに乗ると、長島から牛
深の専門学校へ通う学生の姿を目にします。現在、大型フェリーが日中に 10 往復していますが、
「天草-長島架橋構想」に大きな期待が寄せられています。このように、長島は、架橋の恩恵を
受けていながら、今なお架橋への願いを抱き続けている島です。
黒之瀬戸大橋の架橋が嘆願され出した昭和 30 年代の後半から着工・開通した昭和 40 年代は、
それゆけどんどんの経済成長期でした。車の大衆化が進み、車が急増した中で黒之瀬戸大橋が開
通すると、堰を切ったように島への交通、流通が拡大し、当初 30 年をめどにしていた建設費の償
還も 17 年目に償還し終わるほどでした。
本報では、まず長島町の概要と黒之瀬戸大橋の開通までの経緯とその後について述べ、Web サ
イト(インターネット閲覧)と郷土史などから得た、黒之瀬戸大橋の架橋が及ぼした影響(効果
と懸念)に関連する記事や記録を列挙しました。三月には長島町役場とブリ養殖の東漁協、焼酎
の共同瓶詰め工場である長崎研醸などを訪問してみる予定です。
1
1.長島町の概要
R389
天草フェリー
R266
片側港
獅子島
天草市
牛深
蔵之元
長島町
R389
諸浦港
出水
諸浦島
R3
天草灘
10km
獅子島
雲仙天草
国立公園
八代海
ブリ養殖場
肥薩オレンジ鉄道
阿久根
九州新幹線
乳之瀬橋
伊唐島
竹島大橋
針尾公園
長島海峡
伊唐大橋
県道47
長島町役場
三和フェリー
天草市牛深へ
湯之浦古墳群
蔵之元港
B&G海洋センター
長島海中公園
明神古墳群
日本マンダリンセンター
太陽の里
(旧東町)
赤崎橋
小浜崎古墳群
行人岳
不動明王廟
県道379
長島青少年旅行村
小浜海水浴場
癒しの宿
サンセット長島
道の駅・長島
川床ふれあいの郷
(特産品販売所)
県道380
指江庁舎
指江古墳群
長
堂崎城跡
島
町
城川内小学校と
長光寺のソテツ
県道47
(旧長島町)
長崎鼻灯台公園
遣唐使漂着の地
記念碑
国道389
道の駅・
黒之瀬戸だんだん市場
上り浜
汐見の段々畑
黒之瀬戸大橋
阿久根市
国道389
図1
長島町概要マップ
2
(01)長島町は、鹿児島県の北西部、熊本県天草島と九州本土との中間に位置する長島本島と獅
子島、伊唐島及び諸浦島の4つの有人島と大小 18 の無人島で構成されている。長島本島は
東西約 11km、南北約 15km の大きさを持つ、面積 90.79 平方キロメートルの島である。
(02)長島本島の東部と 18 の島で構成されていた東町(あずまちょう)と長島本島の西部を占
めていた長島町が平成 18 年 3 月に合併し、長島町となった。
(03)有人島のうち、長島本島と伊唐島及び諸浦島は架橋によって半島化したが、獅子島だけは
現在も離島のため、生活文化、医療面等で厳しい生活を強いられている。そのため、獅子
島住民はもとより長島町民の架橋建設実現に対する要望には強いものがある(1)。
(04)生活圏域は、従来、南部は阿久根市、北部は天草地域(天草市)に依存していた(1)。
(05)国道 389 号の海上区間として牛深~蔵之元間にフェリーが就航している。天草と長島を結
ぶ航路として、大正時代より経済、文化の交通を果たしてきた航路であり、特に昭和 42
年のカーフェリー就航により、九州本土と長島を結ぶ黒之瀬戸大橋の実現(昭和 49 年開通)
に寄与した。現在では、天草を接点とした長崎~鹿児島を結ぶ国道フェリーとして重要航
路となっている(2)。
(06)黒之瀬戸大橋の完成により生活圏域が阿久根市、出水市を中心に薩摩川内市、鹿児島市に
まで及ぶようになったが、農水産物の流通や医療など天草市・天草地域との関係も深く、
現在構想が推進されている島原・天草・長島架橋構想にかける期待が大きい(1)。
(07)
「かごしまブランド品目」として、
「長島地区の赤土ばれいしょ」と「東町漁協のブリ」
(養
殖ブリ日本一の水揚げ)がある(3)。
(08)また、町内には焼酎工場が5工場あるが、昭和 42 年に長崎研醸という共同瓶詰め工場を
設立し、販売については統一銘柄で出荷している。そのうち「さつま島娘」という銘柄は、
島内小売店限定販売となっている。
2.黒之瀬戸大橋の開通までの経緯とその後
(1)開通までの経緯
昭和 30 年代の後半、フェリー3隻で1日 23 往復の輸送を行っていたが、一日の乗客 700 人、
自動車 350 台の輸送が限界だった(4)。自動車が急増し、車の大衆化・生活化が進み、いつも多く
の積み残しが出る状態で、黒之瀬戸大橋架橋への嘆願が強まった。
昭和 38 年(1963 年)10 月 24 日
東町、長島町、阿久根市三者による架橋促進期成同盟会結成。以後、黒之瀬戸架橋の陳情
が繰り返される。
昭和 43 年(1968 年)7 月 1 日
地方遊説で阿久根を訪れた佐藤栄作総理大臣に四十四年着工を陳情する。
昭和 44 年(1969 年)1 月 14 日
陳情のため上京中の町長・議長から“四十四年着工”の知らせが届く。
3
昭和 45 年(1970 年)4 月 1 日
阿久根市脇本に、工事事務所開設
昭和 47 年(1972 年)5 月 20 日
大橋の起工式を現場船上で実施
昭和 49 年(1974 年)4 月 9 日
開通式が現地で行われ、午後 3 時から一般の人も正式に通行がはじまった。
架橋促進期成同盟会結成から 12 年(直接工事 2 年)の歳月と、18 億 5,000 万円の巨額を投じ
て、全長 502 メートルのシルバーグレーの「夢のかけ橋」が実現した(5)(6)。
(2)開通その後(5)
・大橋が開通した昭和 49 年の 11 月 5 日、県道瀬戸~蔵之元線が国道 389 号に昇格した。
・当初の計画では、一日の車の通行量を 1,300 台程度と見込んでいたが、15 年後には一日平均
4,200 台という驚異的な数を記録した。
・架橋以来、農林漁業を中心に産業活動が活発化し、橋を通過する車両も急ピッチで増加、架
橋当時、年間 629,000 台だったのが、昭和 55 年には 100 万台、平成元年度には 1,644,000
台と、初年度の三倍近くになった。
・建設費の償還期間のめどを 30 年として、通行料金が、片道小型普通車 400 年、大型普通車
600 円、大型特殊車 1,600 円に設定され、各分野の年間経費はばく大なものであった。
・しかし、通行料金の徴収も年ごとに増え、平成 2 年度は年間 5 億円以上と、当初の計画の倍
以上のはやさで上昇していった。これにともない、30 年をめどにしていた建設費償還期間も
大幅に短縮されて、17 年目の平成 2 年(1990 年)9 月 21 日、無料化が実現した。
3.黒之瀬戸大橋の架橋が及ぼした影響
(1)プラスの影響(効果)
(01)黒之瀬戸大橋は、旧東町・旧長島町の農林水産業の基盤整備や農水産物の流通ルートの確
立・観光開発・福祉医療の向上等、政治・経済・文化の進展に大きく貢献し、そのため、
町民所得の伸びは驚異的な発展を遂げた(5)。表1に、黒之瀬戸大橋開通の翌年の昭和 50 年
度から平成 12 年度までの町民所得の推移を示す(1)。
表1 町民所得の推移(人口 1 人当たり)
昭和
(単位:円)
平成
年度
50 年度
55 年度
60 年度
2 年度
7 年度
12 年度
長島町
570,615
924,327
1,388,286
1,814,562
1,889,660
2,181,957
県平均
798,921
1,237,714
1,598,245
2,054,075
2,269,075
2,348,418
74.68%
86.86%
83.34%
83.28%
92.91%
県民所得差
71.42%
4
(02)人口の推移を見ると、昭和 35 年以降、昭和 40 年、さらに昭和 45 年と、年平均 500 人
以上という急激な減少傾向が続いたが、昭和 47 年ごろからは徐々に減少傾向が鈍化し、
昭和 49 年に黒之瀬戸大橋が開通し九州本土と陸路で結ばれたことから、昭和 51~54 年
人口(人)
頃にはUターン等も増え若干の増加傾向も見られた(1)。
10,200
10,000
9,800
9,600
9,400
9,200
9,000
8,800
8,600
8,400
8,200
黒之瀬戸大橋開通
図2
旧東町の人口推移 (5)
(03)黒之瀬戸大橋の完成、主要地方道の国道 389 号への格上げ、蔵之元・牛深フェリーの大型
化と増便などによる基幹動脈の発展にともなって、主要幹線町道や農林道の改良舗装、港
湾、防災無線施設など諸活動の根幹となる交通通信体系が飛躍的な発展をみせた(1)。
(04)黒之瀬戸大橋の架橋は、輸送・交通の所要時間を短縮させた他、住民の「離島からの隔絶
性」の解消や、
「生活への安心」をもたらした。また、産業面では、時間的制約を受けるこ
となく、漁業・農業の大量運搬、安定出荷が可能となった。
(05)長島は、鹿児島県の最北端に位置し、周囲を紺碧の海に囲まれ、町の北部一帯が雲仙天草
国立公園に指定されており、変化に富んだ美しい海岸線やみどりの山、東シナ海に沈む夕
日など、町全体が観光資源となっている。黒之瀬戸大橋の開通によって観光面では、島内
にレジャー施設として、旧東町では「太陽の里」や「日本マンダリングセンター」、旧長島
町では「青少年旅行村」、「道の駅」等が整備され、多くの観光客が来島するようになった(7)。
(05)長島地区は、黒之瀬戸大橋の開通によって離島という地理的ハンデイを脱し、園芸・畜産
などの振興が図られてきた(3)。
(06)昔は、伊唐島のサツマイモを船で仕入れに行っていたが、伊唐島の人たちは船賃の分だけ
安く売るほかなった。しかし、伊唐橋が架かってからは長島と同じ値段で売れるようにな
った。若い人は当たり前と思っているかもしれないが、黒之瀬戸大橋が架かる前を知っ
ている人は、橋の大切さを知っている。獅子島の人だけでなく、町民全体で獅子島の
架橋実現の取り組みを続けていく必要があると思う(獅子島架橋実現への願い)。
(07)長い間、連絡船を唯一の交通手段として生活してきた。昭和 49 年、念願の黒之瀬戸大橋
が架けられてから、国道 389 号が天草までつながり、産業の発展だけでなく、人の心も潤
うようになった。
5
(08)長島町の生活圏域は、従来、南部は阿久根市、北部は天草地域(天草市)に依存していた
が、黒之瀬戸大橋の完成により阿久根市、出水市を中心に薩摩川内市、鹿児島市にまで及
ぶようになり、近接市町つまり広域圏内での商圏、医療、就業上での結びつきが強くなっ
た(1)。
(2)マイナスの影響(懸念)
上述のように、黒之瀬戸大橋は、長島町の今日は、黒之瀬戸大橋の架橋なしには考えられない
という効果をもたらしており、架橋によるマイナスの影響を述べた記事や記録は見当たらないが、
①購買力が島外へ流失する
②マイカーを持っている人と持っていない人との間に格差が生じる
③事業所や工場の本土への統合、集約によって働く場が失われる
のではないかという懸念を、下記の指摘は示唆している。
(01)商業は、モータリゼーションの発達などの要件により購買力は阿久根市、出水市等の大型
店に流出してきた。この間、人口や地理的条件から商店街の形成など大規模な対策につい
ては、資金もなくまた効果は期待できないと考えられたため取られなかった(1)。
(02)そのような中で、商工会スタンプ会の発足やAコープの進出で若干の拡大が図られたが、
従来からの近隣型商店は不振で廃業したものも多く、そのため、マイカーを持たない高齢
者等は買物が不便になっている(1)。
(03)さらに、公共交通機関である定期路線バスが赤字路線であり運行回数が減らされるなど、
課題も出てきており、早急な対応がせまられています。また、マイカーを持たない高齢者
等の足の確保を図るため、町巡回バスの運行が開始された(1)。
(04)食鶏センターが、本土の工場に統合され、従業員の失業問題を生んでいる(1)。
5.伊唐島のその後について
長島町を構成する有人島の一つである伊唐島に伊唐大橋が開通したのは、平成 8 年(1996 年)
8 月 2 日のことでした。人口約 350 人の島に 123 億円の巨費の事業費を注ぎ込んで長さ 675 メー
トルの PC 斜張橋が建設されました。事業費の大半を国と県が負担し、多額の税金が投入された
ことから、一世帯当たり一億円、税金の無駄使いなどといわれました。伊唐島のその後について、
鹿児島県の公式ホームページに、次のようにあります(8)。
(1)伊唐大橋の開通(平成 8 年)後は、長島本島と獅子島に比べて伊唐島の人口は減少率が鈍
化している。
(2)近年は小学生が増えている。つまり、若い夫婦が島に定住するようになった。
(3)島の主産物の生産量が橋の開通前の平成7年に比べて、開通後の平成 12 年には4割増とな
り、平成 22 年には倍増となった。
(4)これには大量の輸送が確実に行える橋の存在が大きく貢献している。
長島町が平成 17 年に作成したパンフレットが掲載されていて、住民の声に次のようにあります。
(1)離島を半島に変えた橋は、伊唐島の人々の暮らしを大きく変えた。農作物の搬出コストは
大幅に下がり、赤土で栽培されるジャガイモはかごしまブランドに育った。また、急患搬
6
出が大幅に短縮されたのはもちろん、それまで帰宅船の時間を気にしていた中学生も、ク
ラブ活動に打ち込めるようになった。事業の恩恵は、数字だけでは測れない。時間をかけ
あらわれる成果もある。約千人を集めたマラソン大会もその一つ(記者の目)。
(2)今の仕事は、自動車で長島地域の知的障害者の家庭を巡回する仕事です。伊唐大橋ができ
てから就職できました。以前は身体障害者を施設に送り迎えするのに船を利用していまし
たが、危険で大変気を使っていました。伊唐架橋は自分たちの一部ですし、今ではなくて
はならない一番の財産です(52 才の女性)。
(3)橋ができて通勤が可能になったので雇用の確保が広がりました。町外出身者の従業員もい
ます。漁業資材の仕入れや出荷などの輸送経費等を伊唐橋架橋によってコストダウンでき
ます(58 才、水産会社社長)。
(4)離島で生活をしてみると、安心と安全が一番の願いです。夜間の緊急時や台風災害の時は
命を助ける手段がありません。夜中、病人に毛布を被せて船で運んだことは数回です。橋
のありがたさは島に生活してみないと実感できないと思います。橋がつながると救急車が
きます。タクシーですぐに病院や避難所に行くことができます(59 才男性)。
【参考サイトおよび図書】
(1)長島町過疎地域自立促進計画(平成 22 年度~平成 27 年度)(案)
→
http://www.town.nagashima.lg.jp/update/upload/20101110160052_490.pdf
(2)三和フェリー公式サイト
→
http://www.ezax.co.jp/index.htm
(3)北薩地域を中心としたグリーン・ツーリズムの推進による農村活性化方策に関する調査
報告書
→
http://www.kiac.or.jp/library/pdf/houkoku_h16hokusatu.pdf
(4)【長島町きっずページ】長島五橋、知っていますか?
→
http://www.town.nagashima.lg.jp/kids/nagasimakids03.html
(5)東町郷土史(平成 4 年 3 月 31 日発行)
(6)目で見る出水・阿久根・大口の 100 年(郷土出版社、2005.3 発行)
(7)シリーズ『九州の橋めぐり』・日本三大潮流の橋「黒之瀬戸大橋」(株)福山コンサルタント
→
http://www.fukuyamaconsul.co.jp/ti/ti04_image/ti04-pdf/FUNEX12R.pdf
(8)伊唐島のその後(鹿児島県公式ホームページ)
→
http://www.pref.kagoshima.jp/am12/chiiki/hokusatsu/sangyo/nougyou/nougyounousonnse
ibi/ikarajima.html
7
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