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第一高等学校校長としての新渡戸稲造 - DSpace at Waseda University

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第一高等学校校長としての新渡戸稲造 - DSpace at Waseda University
70
社学研論集 Vol. 17 2011年3月
論 文
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
―「籠城主義」との対決 ―
小 林 竜 一*
はじめに
1 日露戦争後の思想的動揺
札幌農学校出身者である新渡戸稲造は,日露
日露戦争が決着したことで,大陸発展への足
戦争で非戦論の立場を貫いた旧友の内村鑑三
掛かりを得た日本は,ロシアから譲歩を引き出
とは異なり,政府を弁護する立場に固執した。
し,国際的地位も上昇した。ポーツマス条約の
1906年9月,新渡戸に京都帝国大学より法学博
締結においては新渡戸の『武士道』Bushido, The
士の称号が授与されると,新渡戸は第7代校長
として第一高等学校に就任した。
新渡戸が一高で提唱した「社会的連帯 (social
(1)
solidarity)」という目的意識は ,前校長である
狩野亨吉が醸成した「籠城主義」との間に深刻
な対立を生ぜしめた。しかし,こうした現象
は,第一高等学校という教育機関が近代日本に
おける知的伝統の中核に位置するための触媒と
して作用することになったという点において,
Soul of Japan (1900) が少なからぬ役割を演じた。
すなわち,日露の仲介を斡旋したセオドア・
ルーズベルト (Theodor Roosevelt) は旺盛な読書
家であり,『忠義浪人』The Loyal Ronins (1880)
に感銘を受けた人物として知られているが [ 木
村1982: 326],ルーズベルトは『武士道』を数
十冊購入して知人に頒布し,兵学校や士官学
校の学生にも強く推薦していたのである [ 松隈
1969: 193]。
肯定的に評価される必要があるように思われ
しかし,日本の勝利の背後では,増税による
る。 耐乏生活を強いられた人々の政府に対する不満
本稿では,従来の新渡戸研究で軽視されてき
が鬱積していた。国家予算の約4倍の戦費を投
た狩野の存在や,一高校長として在任中に新渡
入したにもかかわらず,ロシアからの戦争賠償
戸が直面した諸問題に注目し,近代日本におけ
金が得られなかったため,そうした人々の不満
る新渡戸の思想史的意義,ならびに,正確な新
の捌け口の矛先は桂内閣へと向けられ,東京で
渡戸像を構築するための問題を提起し,新渡戸
は暴動が発生し,政府の立場を支持した徳富蘇
の再評価に資するものとしたい。
峰が主宰する国民新聞を襲撃するなど,戦後
処理をめぐる暴動は,「日比谷焼打事件」へと
*早稲田大学大学院社会科学研究科 2010年博士後期課程満期退学(研究生)(指導教員 池田雅之)
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
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発展した。事態の収拾を誤ったという理由で桂
ように批判した。「今の日本には希望の活火を
内閣は解散を余儀なくされ,政権が政友会へと
吹き込むべき宗教がない。今の日本国家にはた
移行すると,後継首相の西園寺公望は,文部大
よるべき信条の糸ひもがない。国家に希望の光
臣に牧野伸顕という人物を起用したのである
明とたよるべき根底がなければ,多くの青年が
[ オーシロ 1992: 105]。
失望し絶望して自堕落におちいるのもまた止む
大久保利通の二男である牧野は,第一高等学
を得ないわけである。それゆえに,青年の腐敗
校校長として新渡戸の就任を要請したが [ オー
した原因と言えば,主として国家に,たよると
シロ1992: 同上 ],当時,京都帝国大学教授で
ころの大本がないのに帰せねばならない。国家
あった新渡戸はこれを逡巡した。そこで,新渡
にたよるところがないとは,国家の無信仰を意
戸は後藤に相談し,無謀な交換条件を課すこと
味するのである。国家の不信用を意味するので
によって,牧野の依頼を謝絶しようとした。実
ある。国家の無主義を意味するのである。国家
際,新渡戸は就任の条件として,現在の予算の
に,一代の人心を率うべき倫理的大本なきこと
倍増,外国人教授の倍増,寄宿舎の大改造,高
を意味するのである。いかに法律や制度ばかり
等学校制度や教育方針の調査を目的とする一年
がりっぱであっても,上に好色大臣や蓄妾政治
間の欧米視察などを要求した。しかし,こう
家が跋扈して国釣を秉っているようでは,国家
した無理難題が就任を断るための口実である
の政は万事休せり」[ 内村 1962: 96] というので
ということを看破した牧野が説得を続けた結
果,新渡戸は牧野の懇請を受諾した [ 石井1934:
ある。すなわち,「失望」や「絶望」が原因と
なり,「自堕落」へと陥った状態が「青年の腐
235-236]。一高の初代校長であり,時の京大総
敗」であると考えた内村は,国家に対して倫理
長であった木下廣次は,新渡戸を呼んで以下の
的指針を確立する必要性を主張したといえるで
ように激励した。「自分の生涯中,一高校長時
あろう。
代が最も苦しい時であったと共に,最も愉快な
1903年5月,第一高等学校生の藤村操が日光
時である。それで,今度あなたが赴任せらるる
の華厳の滝で投身自殺した [ オーシロ1992: 105-
に際して,文部省に言ってやりたいことがあ
106]。当時,一高生の間では「個人主義の跳梁」
る。即ち新渡戸を無理に呼ぶ以上は,あれの肩
という言葉が使用されていたが,一高の学内誌
を持ち,世間の者が批難してもあれを助けてや
である『向陵誌』には,藤村の自殺について「沈
れ,と言ってやらうと思ってゐる」[ 佐藤 1984:
滞せる社会は愕然として或は怒り,或は嘲笑せ
新聞や雑誌の俎上に上った若年層の動向に注
索的良心の琴線のいたく振動するを感じぬ」[ 武
90]。
り。然れども之が為め真面目なる青年はその思
目していた牧野は,青年における道徳観念の欠
田1960: 65] とか,「陳套なる校風論衰えて宗教
落を懸念していた。事実,日露戦争の前後か
ら,いわゆる「煩悶青年」の増加が問題視され,
的,文芸的趣味に移らんとす」[ 武田 1960: 同上 ]
という記述がみられた。さらに,その翌年に
マスメディアの関心を集めていた。たとえば内
は,魚住影雄が『校友会雑誌』に「自殺論」を
村は,雑誌『警世』において国家の現状を次の
執筆して情死を礼賛するなど [ 鈴木 1970: 178],
72
煩悶青年の存在は後を絶たなかった様子が認め
られる。このように,一高では藤村の自殺を肯
2 狩野亨吉と「籠城主義」
定的に受け止める精神的風土が浸透していたと
第一高等学校は,新渡戸や内村が学んだ東京
考えられるのであるが,こうした現象は,立身
英語学校を前身とする,確固たる伝統を誇った
出世主義の反動として,唯物的生活条件が満た
日本随一の名門であり,日本全国から秀才の誉
された青年の精神が厭世観に浸蝕され,彼らの
れ高き俊英(エリート)が集まっていた。とく
精神の空虚が他者との一体感の渇望へと転化さ
に,木下,狩野,および新渡戸は「名校長」と
れていたことを裏書きしているのではないだろ
称され,それぞれが異なる特質を発揮して一高
うか。
の校風を醸成した [ 鈴木 1970: 181]。一高校長
一方,大町桂月,井上哲次郎,黒岩涙香な
として新渡戸が就任するにあたり,笹川臨風と
どの有識者はこうした傾向を手厳しく批判し,
いう人物は,遁世的な学者であった前校長の狩
勤勉,忠実,努力の価値を鼓吹する道徳教育
野の対蹠的存在として新渡戸を評価し,横浜毎
を青年に施すべきであると主張した [ オーシロ
日新聞を創刊した島田三郎は,新渡戸を常識と
1992: 106]。彼らは国家の現状を批判した内村
専門知識が両立する森鴎外に準えた。つまり,
とは異なり,「煩悶青年」が発生した原因を青
新渡戸の校長就任により,これまでに醸成され
年自身の問題であると解釈し,苦労なき成長,
た「籠城主義」と称される一高の校風の激変
試練や挫折に持続可能な気力の欠如,愛国心の
が期待されたというのである [ オーシロ 1992:
欠落といった特質に注目しつつ,青年の精神を
改善する必要性を主張した。こうしたなかで,
青年教育の現状に危機感を抱いた牧野は,「煩
115]。事実,「新渡戸先生以前に一高校長なく,
新渡戸先生以後に一高校長なし」[ 石井 1934:
234] とか,あるいは「日本全國の青年の思想的
悶青年」の彌漫を克服するために,確固たる指
中心となられたのであります。當時の日本は日
導指針を持つ教育者を配当する必要性を痛感し
露戰爭直後で國民思想の動猺期でありました。
たように思われる。
大戰後に起りやすい粗暴な氣分と,當時文壇に
こうした青年時代の懐疑や煩悶については,
現はれた自然主義文學の唯物的な破壞的な思想
新渡戸も札幌農学校の学生時代に経験したとこ
の影響を受けまして大勢の青年が適從するとこ
ろであった。また,新渡戸は『英文新誌』,『中
ろに迷つてゐました時,博士はその一流の人格
学世界』,『青年界』,『基督教世界』などへの執
主義と理想主義とを提げて滿天下の靑年に歸
筆を通じて多くの青年読者を獲得していたこと
向するところを示されたのであります」[ 石井
に加えて,『武士道』の執筆者として国際社会
における日本の地位向上に貢献し,日本の国力
1934: 237] など,「籠城主義」という弊風を克服
したという視点から新渡戸が礼賛され,新渡戸
の増強を体現する象徴的存在としての名声を確
研究者の見解も,こうした評価を鵜呑みにした
立していた。すなわち,牧野は青年を教導する
ものとなる傾向がみられる。その結果,従来の
role model としての条件を整えた理想的人物で
研究では一高校長としての新渡戸が肯定的に評
あると新渡戸を評価したのではないだろうか。
価されることも少なくない。すなわち,新渡戸
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
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は一高生に瀰漫した「頑迷固陋なる旧弊」であ
の設置目的を次のように述べている。「我校の
る「籠城主義」を覆し,「人であるがゆえに人
寄宿舎を設けたる所以のものは徒に路程遠近の
を重視する」という「人格主義」に立脚する「社
便を圖りて然るに非ず,又敢へて事を好みて然
交主義」や「教養主義」を提唱することにより,
るにも非ず,今日の情勢において極めて必要な
「天下向陵の外に何物もない」[ 石井 1934: 244]
るに由れり,最近我國の風俗漸く壊敗して禮儀
と言って憚るところがなかった一高生の「高
将に地に堕ちんとし殊に書生間においては徳義
慢」を変革するという実績を残した教育者であ
の感情甚だ薄く,試みに其の下宿屋に在る状を
るというのである。
察すれば放縦横肆にして殆ど云ふをしのびざる
ただし,従来の新渡戸研究においては,前校
ものなり,我校夙に之を憂ひ,此の狂瀾の勢に
長である狩野の存在が軽視,ないしは無視され
抗して徳義を維持せんと欲し倫理の科を設け,
ていたという点で,一面的な理解に傾斜してい
日に講筳を開けり,然れ共今此の壊敗せる風俗
たのではないだろうか。しかし,こうした客観
の世に生れ,横肆の書生と下宿を同じうして而
性を欠いた理解では,穏当な新渡戸の評価には
して行の修り德の進まん事を望むは猶木に據り
到達しないように思われる。それどころか,狩
て魚を求るが如し,苟も此の惡風に染まざらん
野の存在は,新渡戸が達成した教育実績の一因
ことを欲せば宜しく此の風俗に遠ざかり,此書
なのではあるまいか。すなわち,狩野という肥
生との交際を絕たざるべからず,而して,此の
沃な精神的土壌が後衛であったからこそ,その
目的を達せんが爲めには籠城の覚悟なかるべか
対蹠的存在である新渡戸が推進した校風が一高
らず,我校の寄宿寮を設けたる所以のものは此
に「創造的反目」をもたらし,やがて,一高
れを以て金城鐡壁となし,世間の惡風汚俗を遮
が「近代日本における知的伝統」が育まれる磁
斷して純粹なる徳義心を育成せしむるに在り」
場へと生成することになったのではないだろう
[ 石井 1934: 245-246] というのである。この木
か。こうした問題意識を踏まえて,新渡戸が提
下の訓示からも読み取れるように,「寄宿舎」
唱した「社会的連帯」に対する後衛であったと
の設置目的は,たんに学生の通学の便を図るこ
いう視点に立脚しつつ,狩野が醸成した「籠城
とにではなく,「没道徳」に陥った学生の生活
主義」の形成過程を考察したい。
環境を改善することに主眼が置かれていたと考
後に初代京都大学総長に就任した木下初代校
えられる。したがって,この訓示を検討する限
長の主導のもと,第一高等学校に「寄宿舎」が
りにおいては,牧野や新渡戸と同様,木下も
完成するのは1890年のことである。狩野が校長
「道義的退廃」を懸念し,倫理教育を重視して
に就任して2年目の1901年には「全寮制」が確
いたという点においては,決して人後に落ちる
立した。この制度の確立を契機として,学生の
ものではなかったといえよう。やがて,木下の
「自由自治の生活」[ 石井 1934: 245] が一高の最
訓示は一高生の間に金科玉条のように浸透し,
大の特色となったといえるであろう。
この訓示のもとで,一高生は「寄宿舎」という
「籠城主義」醸成の根源となる「寄宿舎」の
世間の荒波から隔絶した「真空地帯」に籠城し,
設置を推進した木下は,入寮希望者に対してそ
「高踏遊民」という立場に安住する態度を強化
74
した。
り,狩野は一高校長に就任した。狩野の薫陶を
「籠城生活」の「綱領」として,木下は「一,
受けた学生は,田辺元,小宮豊隆,安部能成,
自重の念をおこし廉恥の心を養成すること。
川田順,谷川徹三などであった。とくに強調し
二,親愛の情を起し公共の心を養成すること。
たいのは,狩野が「自由意志」,
「神の存在」,
「霊
三,辭譲の心をおこして靜粛の心を養成するこ
魂不滅」を「人類の三大妄想」であると考えて
と。四,攝生に注意し淸潔の習慣を養成するこ
いたという点である。キリスト教信仰の衰微を
と。」[ 石井 1934: 246] という項目を掲げ,この
批判し,機械的人間論と正面から対決したトマ
治と自由が容認された。しかし,所詮「綱領」
渡戸とは異なり,狩野はジャン・メリエ ( Jean
いわゆる「四大綱領」のもとで,一高生には自
というものは,キリスト教における「信仰箇
条」と同様,空疎な標語や形式主義へと転落す
る可能性を孕んでいるのであり,そうした意味
において,鋭敏な倫理観を持った一高生のなか
には,教条化された「籠城主義」に対して強い
ス・カーライル (Thomas Carlyle) を崇拝する新
Meslier) に共感した。メリエはカトリックの司
祭であったにも拘らず,唯物論や無神論,な
らびに社会主義理論を『遺言集』Le Testament
(1864) に書き残して世を去った人物である [ 鈴
木 1970: 24]。
不満を抱いた学生もあったようである。その結
34歳の若さで一高校長に就任した翌年,狩野
果,次第に「籠城主義」への反発として台頭の
は安藤昌益の『自然真営道』全100巻,計92冊
兆候を示し始めた「個人主義」をめぐって,
「校
の筆書本を入手し,安藤昌益に対して「哲学と
風論」についての論戦が発生したというのであ
か宗教とか云ふやうなことに限らないで,科学
る [ 石井 1934: 247]。
でも芸術でも皆入れてやる」[ 鈴木 1970: 17] と
一高生が謳歌した「籠城主義」が頂点に到達
いう学際的な視点からのアプローチを試み,安
したのは,狩野が校長に在任した1898年から
藤昌益の愛国心の確立における意志の強靭を礼
1906年の間であった。狩野は世界観や思想構造
賛した。狩野は次のように述べている。「彼が
の点においても新渡戸の対蹠的位置に屹立する
民族を建てようとの意志熱情は到る処に表はれ
存在であり,頗る興味深い人物である。1865年,
て実にいたましい程である。彼は神を信ぜず仏
狩野は秋田の進取的な立場の儒学者である狩野
を信ぜず又聖人を信ぜず,全く傍若無人の言を
良知の次男として生まれ,終生にわたり科学
弄して憚らざるにも係らず,事苟も我国の利害
的合理主義と自然主義的唯物論の原則を貫き,
に関すと見れば,蹶然起って神を喚び,此神
1942年に世を去った。1879年に東京大学予備門
国をどうする積りであるかと詰責する」[ 鈴木
に入学した狩野は,1888年に東京大学理科大学
数学専攻を卒業後,同大学文科大学哲学科に再
1970: 25] というのである。つまり,安藤昌益の
精神への共鳴を通じて,狩野は「神国日本」へ
入学し,大学院では「数学のメソドロジー」を
の矜持という自己の思想的立脚地を発見し,こ
研究した。その後,四高,五高の教授を歴任し,
うした立場に屹立した視座から,聖徳太子であ
1898年に中学時代の同窓である沢柳政太郎の仲
れ,空海であれ,外国の文化に対する態度が浮
介と文部次官の任にあった柏田盛文の推薦によ
薄で盲従的であると批判したというのである
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
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[ 鈴木 1970: 26]。こうしてみると,西洋への盲
であろう。また,寄宿舎において伝染病が発生
従に反発した夏目漱石の「自己本位」という態
し,腸窒扶斯による死亡者が発生した際には,
度も,狩野の精神的系譜に連なるものではある
全寮の閉鎖を要求した学生の主張など,狩野は
といえる。
歯牙にもかけず,
「病菌を校外に伝播するの恐
狩野は,道徳主義に立脚した「徳育」を涵養
れがある」[ 鈴木 1970: 117] という理由で学生
する必要性を説き,世間一般に蔓延する功利主
の要求を却下したこともある。こうした狩野の
義を仮借なく批判する立場を堅持した。たとえ
態度に憤慨した一高生は,狩野校長弾劾大会を
ば,『一高校友会雑誌』に掲載された「徳育に
開催し,杉村陽太郎を中心として,激烈な非難
就きて」のなかで,狩野は「籠城主義」の根幹
演説を挙行した。これに対して,狩野は微笑を
をなす精神的貴族主義者としての立場につい
たたえて受け流し,「私は『病気』というもの
て,次のように述べている。すなわち、「近來,
は,自己の罪悪の結果であるか,或いは先祖の
世人の俗論に誑惑せられて,正道を迂なりとな
罪悪の結果である……と考えて居る。そこで今
し,徒に権謀術策を以て,時勢に適せりと爲す
度の問題であるが,その措置については,私に
の傾向,益甚しき者あり。其勢我教育界に波及
考える所がある。これを校長としての私に一任
し,此淨地をとりて,亦濁世の潮流の蹂躙に委
してもらい度い」[ 鈴木 1970: 178] と静かな口
ねんとす。此時に當り,吾人教育者たると被教
調で述べると,足早にその場を後にし,残され
育者たるとを問はず,苟くも國家社會の根本的
た学生は呆気にとられたというのである。結
改良に貢獻すべき義務のある者は,決爲自信を
局,「寄宿舎」は閉鎖されることもなく,「籠城
守り,至重の天職を辱むることなかるべきな
主義」の温床が存続した。狩野が社会全体を俯
り」[ 鈴木 1970: 333] というのである。
瞰する視座から,合理的に物事を考えていたと
このように,社会を蔑視する傾向を持つ狩野
いうことを裏書きする一例であると思われる。
について,当時の一高生は次のように述べてい
一高校長退任後,京都大学で科学一元論に徹
る。「狩野先生という方は全く地味な人で,ま
する倫理学を講じた狩野は,文部省の官僚主義
あいわば「無為にして化す」という型の教育者
的独善を不満として退職した後,一時的に教え
なのでしょうか,非常に口数少なく,この人の
子の会社に関与した。狩野はその収益で研究所
どこがえらいのか全くわからない。(中略)新
の設置を企図したが,失敗に終わり,債務者と
入生の私どもへの訓示も全く平凡そのもので,
しての軛を一生背負い続けることになった。狩
健康に注意して勉強を怠らぬようにという程度
野の先輩にあたる浜尾新や山川健次郎は,皇太
のもので,時間にして五分くらい,せいぜい
子の教育掛として狩野を斡旋しようと試みた
長くとも十分を越えることはありません。こ
が,「危険思想」の所有者であると自任した狩
の点,次代の新渡戸先生の三十分以上一時間
野はこれを固辞し,東北大学総長としての推薦
にも及ぶ大演説とは好対照でした」[ 鈴木 1970:
も辞退した。世俗的栄誉には全く頓着すること
従来の新渡戸研究者の関心を惹起しそうな言葉
画鑑定家として「明鑑社」を開業した。なお、
175]。この発言は,新渡戸を盲目的に評価する
なく,結局、骨董屋としての人生を選択し,書
76
狩野は日本思想史上における志筑忠雄の価値を
ラリティー」,「ソシアリティー」という特質に
発見した人物としても知られた存在である [ 鈴
分類しているが,こうした特質の機能は以下
木 1970: 15-16]。
3 新渡戸稲造と「社会的連帯」
の通りである。すなわち,「ヴァイタリティー
(活力)」は「メンタリティー(知力)」獲得の
ための必要条件であり,「知力」の目的は「ク
「合理性」を重視し,外国の文物への盲従を
リアー・ヘッド(明晰な頭脳)」の確保にある。
唾棄しつつ,寡黙で古武士的な合理精神を所有
そして,「明晰な頭脳」が「モラリティー(倫
する狩野に代わり,校長として迎えられた人
理性)」によって運用の「方向性」を与えられ
物が,新渡戸であった。狩野とは異なり,「道
ることにより,「徳義」に応用される「クリー
徳的感情」を重視し,英語にも堪能で,狩野の
ンハート(公平な関心)」が得られる。言うま
言う「人類の三大妄想」を積極的に肯定するク
でもなく,こうした心的態度は,「高慢」とは
エーカー派のキリスト教徒であったという意味
相容れぬものである。けれども,「公平な関心」
で,あるいは,「人格主義」と「教養主義」に
というものは,現実の「社会」で適用されなけ
立脚する「社会的連帯」の涵養を高等教育の究
ればそれ自体無価値な特質なのであり,それ
極目的とする点で,新渡戸は狩野とは根本的に
が実際に適用される時に「ソシアリティー(社
相容れぬ世界観に依拠した人間であった。
会的連帯)」という態度に到達するというので
京都大学に文科大学が開設されるにあたり,
ある [ 石井 1934:252]。新渡戸はこのように述
京大総長の木下に請われて学長への就任を要請
べ,
「籠城主義」に固執する一高生に対して「社
されことにより,狩野の退任が決定すると [ 鈴
会的連帯」という正反対の価値を提示した。栄
木 1970: 517],吉植庄亮という学生が「(一高
華に満たされた巷間を軽蔑するという意味の歌
校風の根本的破壤)といふいまいましいデスイ
詞がその寮歌に組み込まれているように,一高
ルージヨンが先輩や校友の眼に大きく映つてゐ
生にとり,「社会」は侮蔑の対象でしかなかっ
た」[ 石井 1934: 249] と当時の様子を回想した。
た。したがって,「社会的存在」としての人間
すなわち,一高生の間では,狩野の後任として
のありかたを重視した新渡戸の発言は,一高生
就任した新渡戸により「東洋豪傑」の気風が一
が醸成してきた「籠城主義」という独善的態度
掃され,代わって「西洋教養主義」的な校風が
の根幹を脅かす挑戦であると受け止められたの
鼓吹されることが予想されたというのである
ではないだろうか。
[ 石井 1934: 249]。
同年10月,新校長の歓迎会に臨んだ新渡戸
1906年9月,新渡戸は新任披露式の場を借り
は,やはり「社会的連帯」の必要性を唱道し
て,社会学者の学説を援用しつつ,「社会」を
た。新渡戸は「籠城主義」に固執する学生を
重視した教育理念を次のように披露した。知,
念頭に置いて,以下のように述べている。す
徳,体の育成を目的とする従来の方針は人間を
なわち,「今日師弟の情誼すたれて恰も敵同士
断片化する弊がある。社会学者は人間の特質を
の觀がある。しかしながら“To Thee be all men
「ヴァイタリティー」,「メンタリティー」,「モ
heroes, every woman pure, and each place a temple”
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
77
人間事物の美點を觀,胸襟を開いて相交りたい
と「個人主義」と「社会的連帯」という価値観
ものである。諸君の現はるるは自己のみによる
の「三極分裂」をもたらしたということに他な
に非ず,所謂四邊の雰圍氣によるのである。願
らないのであり,木下校長による指導の下で伝
くば自己の周圍に城府を設くることなく,襟度
統的な「武士的気概」を育み,狩野校長の下で
を廣くして性格の修養に努られよ」[ 石井 1934:
「沈潜」,「矜持」,そして「遁世」が三位一体を
252-253] というのである。このように,新渡戸
なす「高踏遊民」としての生活を謳歌した一高
は人間が周囲の条件に制約された存在であると
生が,狩野派と新渡戸派との間で分裂したこと
いう現実を直視すべきであると一高生に要求し
を意味している。とはいえ,こうした現象は一
た。この新渡戸の発言は,リアリティーを踏ま
高が近代日本における「思想闘争の場」と化し,
えているという点では説得力があり,「籠城主
倫理的緊張感がもたらされたという側面から,
義」という従来の価値観を動揺させる破壊力を
肯定的に理解される必要があろう。新渡戸に反
持っていたという意味でも,一高生に深刻な衝
発した一高生は,従来の質実剛健たる校風を柔
撃を与えたのではないだろうか。
弱な校風へと堕落させる「伝統破壊者」として
さらに,新渡戸は学内誌においても,「籠城
新渡戸を捉えたのであるが,そうした「籠城主
主義者」の弊害について書いている。その概略
義者」の不満は,やがて校長不信任演説として
は以下の通りである。第一に,「籠城主義者」
表面化することになる。
は異なる立場の人間を排斥し,同一の主義を持
ところで,札幌農学校教授時代に様々な校務
つ者のみで組織化する。第二に,「籠城主義者」
に従事していた新渡戸は,その反動で神経衰弱
は精神的に共有するものがなければ,容易に烏
になったこともあり,一高では「俗吏は大嫌い
合の衆へと化す。第三に,「籠城主義者」の排
だ」[ 石井 1934: 238] と述べ,部下に校務の一
他性は高慢へと転化する。そして第四に,「籠
切を委任した。その一方で,学生の道徳観の涵
城主義者」の生活が単調であるために,進歩向
養を主眼とする新渡戸は,寮から発信されてい
上から乖離する,というのである [ 石井 1934:
る超俗的な対外イメージの改革に着手した。こ
254]。つまり,一高生は旧弊たる「籠城主義」
うした徳育面での活動では,札幌農学校教授時
を排し,「社会的連帯」を涵養する必要性があ
代の経験が活用されたように思われる。
るということであろう。
札幌農学校の教員として予科生全員を講堂に
一方,「籠城主義」に固執する一高生は,「個
集めて倫理を講義していた新渡戸は,学生時代
人主義者」を「伝統破壊者」であるという理由
に東京英語学校で経験し,札幌農学校教授とし
で激しく攻撃したのであったが,新渡戸が唱道
て効果を実証した「英文学」によるアプローチ
する「社会的連帯」についても,「個人主義」
を一高でも採用し,日本で選抜された第一級の
の対蹠であるとはいえ,「籠城主義」の存在理
青年を国際社会で活躍する指導者として育成す
由を根底から覆す立場であったことから,一高
るという方向性を明確に打ち出した。たとえ
生の多くは憤慨した [ 石井 1934: 254-255]。す
ば,1910年の入学式の際になされた校長演説で,
なわち,新渡戸の就任は一高生に「籠城主義」
新渡戸は次のように述べている。「我が國の學
78
校で最も情ない事は,訓育の缺乏してゐること
である。イギリスのパブリック・スクール,た
とへばイートンやラグビーのやうな學校では,
校長に非常に立派なひとを据ゑ,その人物に對
ゲーテ ( Johann Wolfgang von Goethe) の『ファウ
スト』Faust (2vols.1808-1833) であった。新渡戸
の講義は,後に『衣服哲学講義』(1938)(2),お
よび『ファウスト物語』(1910) と題して出版さ
して社會は高き尊敬を拂ひ地位を與へてゐる。
れることになるのであるが,新渡戸にとり,札
生徒は常にその先生に私淑してゐる中に,言ひ
幌農学校の学生であった頃から,カーライルは
しれぬ感化を受けるのである。我が國でも,制
特愛の作家であった。たとえば,カーライルの
度は作れば出來る。人物も捜せば居るのかも知
『クロムウェル伝』Oliver Cromwell’s Letters and
れない。しかし現在のところでは,之に缼けて
Speeches(1845) に感化されたことが原因で「不敬
ゐる。わが一高なども殘念ながらこの點が不十
事件」を起こした内村は,次のように述べてい
分である。先生方はいづれも人格の高いお方
る。「余輩の知友中最も善くカーライルを知れ
のみであるが,その授けられるものは専門の
る者は,札幌農学校教授ドクトル新渡戸稲造な
學科であつて,人格の感化といふところまで
り。而して彼が最も熟読含味せるは『サルトル
はなかなか手が行き届きかねる」[ 矢内原 1940:
レザルタス』及び『仏国革命史』なり」[ 内村
を「ジェントルマン」に育成する英国のパブ
1907年9月,カーライルについて,新渡戸
リック・スクールの教育システムがあったので
は一高生に対して以下のように述べている。
あろう。たしかに,ジョンズ・ホプキンス大学
「カーライルは二十五六歳の年配まではよいが,
の学生時代,すでに『トム・ブラウンの学校生
其の以後は讀むに足らぬといふ人もあるが,僕
活』Tom Brown’s Schooldays (1857) を愛読してい
は四十以上になつても依然たるカーライル崇拝
た新渡戸は,編集顧問を務めた『英文新誌』に
で實にお恥ずかしい次第である。尤も段々年を
おいても,この書物の注釈を連載したことがあ
とると,青年時代の霊魂病を患つてゐたときほ
る。新渡戸の理想がトマス・ヒューズ (Thomas
どにこのカーライルといふ藥の利き目はない。
180-181]。このように,新渡戸の念頭には学生
1981: 327] というのである。
Hughes) という「キリスト教社会主義者」が描
それはどの樣な本でも同じことだ。けれども僕
いた学校であったことから,新渡戸が自分を作
はカーライルを命の親と思つてゐるからまだ棄
品中の主人公に準えるところもあったという指
てはしない,屡々讀んで,殊にこれは實に明言
摘も首肯されよう [ オーシロ 1992: 115]。
であると思つたところにはしるしをつけて,何
に立脚し,学生の「自発性」を重視するとい
井 1934: 259] というのである。おそらく,『衣
新渡戸は「西洋的教養主義」と「人格主義」
年何月に幾度もここを讀むと書いてある」[ 石
う面において,従来とは根本的に対立する価
服哲学』を愛読した新渡戸は,自己の「才能」
値観を「文学作品」を通じて一高生に提示し
に依拠するという態度が世間では通用しないと
た。とくに,道徳観の涵養を目的として新渡戸
いうことを伝えたかったのであろう。新渡戸は
が用いた「文学作品」は,カーライル (Thomas
次のように述べている。「よく西洋にもあるが,
Carlyle) の『衣服哲学』Sartor Resartus (1836) と
殊に日本の學生間にはいはゆる當世風の才子が
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
彼方此方で人の氣に障らないやうにいい加減に
お辭儀でもして幇間的に,藝者的に自分の主義
も何もなしに好い鹽梅に世の中を胡麻化して渡
79
れたロベスピエール (Maximilien François Marie
Isidore de Robespierre) を評して,軽重本末を知
らぬ偽君子であると唾棄した。一方,金銭に対
らうといふものが往々にあるが,カーライルは
して見境がなく,他人の妻を強奪し,刑務所か
ソンナ事では本當に世間を渡れるものではない
ら出所した際には厚顔無恥な痘痕面の男であ
ぞ,世の中は地味なものであり,眞面目なもの
る,などという周囲からの痛罵を歯牙にもかけ
が一番勝利を占める」[ 石井 1934: 263] という
なかったミラボーについては,口を極めて絶賛
「キャラクター(品格)」の意義をカーライルに
イルの見方同時に新渡戸先生の見方を忘れて
学んだということを強調した。つまり,品行方
は本當の新渡戸先生はわからない」[ 石井 1934:
のである。さらに,新渡戸は「品行」ではなく
正は重要な要件に相違ないが,その根本にある
した [ 石井 1934: 265]。石井満が「このカーラ
266] と主張しているように,人物の真贋を判断
不可視的な「品格」のほうが重要であり,人に
する際には,「品行」に象徴される「可視的特
よっては卑しい動機から品行方正にしている者
質」という「上部構造」ではなく,「下部構造」
があると新渡戸は喝破したのである。たとえ
にある「品格」という「不可視的特質」が重視
ば,吝嗇な人間が大儲けを目論んで寛大に見せ
されなければならないということであろう。こ
かけることがある。あるいは,遊郭に通わない
うした判断に,新渡戸が「自発性」を重視する
こと自体は品行方正な行為であるが,資金不足
所以があると言えるのではないだろうか。新渡
や世間体など,自己外部の制約が原因でそうし
戸は以下のように続けている。「品行方正は甚
た品行方正が確保される場合には,品行方正は
だよろしいが,其のために,人間が小さくなつ
人格の高みを保証する要因にはならないという
て仕舞つてはいけない。何の某は藝者買をする
ことになる。したがって,可視的な行為という
からもうとても濟度すべからざる者だ。何の誰
ものは,根本の動機とは正反対のことがあり,
は酒をのむ,酒なんどを飲んでは駄目だと,や
品行方正は「品格」そのものではないというの
やもすると,人間をごく小さなものにして仕舞
「才能」や「理
である [ 石井 1934: 264]。つまり,
うものがあるが,僕のカーライルに學んだこと
知」ではなく,「品格」や「精神性」の意義を
は其んな局量の小さなことではない。抑々奥が
説き,「社会的連帯」の重要性を訴えるところ
正しくて後に,表の品行が方正になるのであ
に新渡戸の教育の特質があったと考えられる。
る」[ 石井 1934: 267]。この言葉は,上に引用
た し か に カ ー ラ イ ル に は, ク ロ ム ウ ェ ル
した「法律や制度ばかりがりっぱであっても,
(Oliver Cromwell) や ミ ラ ボ ー (Honoré Gabriel
上に好色大臣や蓄妾政治家が跋扈して国釣を
Riqueti, Comte de Mirabeau) など,「非人道主義
秉っているようでは,国家の政は万事休せりで
者」や「不品行者」という範疇に入れられた
ある」という内村の主張と比較すると,両者の
人物を高く評価する傾向があった。たとえば,
人間観には深刻な乖離が実在するように思われ
カーライルはフランス革命期において,品行方
る。「品行」を絶対視することのない新渡戸の
正で如何なる誘惑にも左右されないと評価さ
立場は,台湾総督府での勤務など,「現実社会
80
での実践」を踏まえた人生観の提示であると考
だ。ファウストのなかには随分怪しからぬと思
えられる。
ふことがしばしばある。或は魔法使のやうなも
以上みてきたように,新渡戸にとり,カーラ
のが出て來たり,惡黨が出たり,甚だ不快に思
イルは精神的支柱とでも言うべき存在であった
ふことがあるけれども,また狭い意味の品行と
のであるが,カーライルにおいては,ゲーテが
いう點からは非難すべき點は少なくないけれど
そうした役割を演じていた。実際,カーライル
も之を讀み了つて囘想すれば,他人はいざ知ら
はゲーテの作品『ヴィルヘルム・マイスターの
ず,僕の心持はずつと廣くなるやうに感じ人生
修業時代』Wilhelm Meisters Lehrjahre (1796) など
とはかうしたものかと悟るのだ。人をして人生
を英訳したほか,ゲーテの顰に倣い,『ウォッ
は貴い人として生けるものは乞食同然の賤しい
トン・レインフレッド』Wotton Reinfred (1826)
者でも何程つまらない者でも矢張り之は人間で
という未完のビルドゥングスロマン(教養小
あると尊んで,其れこそはじめて,世の中の調
説)を書いている [Carlyle 2000: xv-xvi]。新渡戸
和が出來るものだと寛大なる悟りに入らむに
はカーライルが評価したゲーテの特質を次のよ
は,この人の教訓であつて,而してこの大思想
うに紹介した。つまり,品行方正ではなかった
が實にカーライルをおこした所以だと思ふ」[ 石
ゲーテであるが,経済力,学問,社会的地位,
美貌といった要件を満足させた比類なき人物で
井 1934: 270-271] と述べている。如何なる人間
に対してであれ,その存在自体を尊重するとい
あるという点で,カーライルとは大変な相違が
う態度は,万人の心中に神の種子が宿るとする
あった。しかし,カーライルはゲーテの「不品
クエーカー主義の人間観に連なるものであり,
行」を誇大視することなく,その堅固な「品格」
こうした認識は,世間に対する優越意識を基調
を 看 破 し て い た と い う の で あ る [ 石 井 1934:
とした「籠城主義」の対蹠に位置したものであ
269]。とはいえ,新渡戸はゲーテに対しては
ろう。 カーライルほど共感することはなく,むしろシ
新渡戸は学生に対し,「快活な性格」と「社
ラ ー ( Johann Christoph Friedrich von Schiller) の
会的連帯」の意義を主張したが,これを新渡戸
作品に文学的価値を認めていたようである。実
は人類に対する社会的義務であるとさえ看做し
際,新渡戸は「僕の如き甚だ面目ないけれども
ていた。また,こうした特質は形式的なもので
とてもゲーテを量ることは出來ない。人は三十
はなく,「内発性」に基づいたものでなければ
までがシルレルで,其れ以上にならなければ
ならないと強調した。それどころか,新渡戸は
ゲーテは解らぬと云つたが僕は四十になつても
「社会的連帯」というものが,物質界を超越す
未だにシルレルの方がよいやうな心持がする」
る精神界での交流に立脚するものでなければな
[ 石井 1934:270] と述べている。
らないと考えていた。たとえば,新渡戸は外な
た だ し,『フ ァ ウ ス ト 』 は 例 外 で あ っ た。
る関係を意味する「社会的連帯」を「横の関係
1908年9月,新渡戸はカーライルの存在を念頭
(to do)」とし,「内発性」については,「縦の関
に置いて「僕はゲーテの本はあまり讀まない。
唯,彼の傑作フアウストは十遍ばかりも讀ん
係 (to be)」という表現を使用した。こうした表
現が十字架の横軸と縦軸に表象される関係に対
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
81
応することに注目すると,新渡戸の教育観は本
書生となるという家訓があり,田島は新渡戸家
質的にキリスト教信仰に立脚するものであった
に入った。田島には新渡戸家の玄関脇に自室が
と考えられる。新渡戸は「キリスト」の名を敢
割り当てられ,訪問客の応対や選別を任されて
えて唱えることはなかったが,宗教的意識が鋭
いたというのである [ オーシロ 1992: 113]。
敏な学生のなかには,新渡戸の態度がキリスト
既に述べたように,キリスト教徒であったに
教信仰に立脚したものであることを看破する者
も拘らず,新渡戸は学生の前で「キリスト」の
もあった。
名を唱えることがなかった。それどころか,キ
親しく新渡戸の謦咳に接した弟子は,近衛文
リスト教により接近したいという意欲をもつ学
麿をはじめ,鶴見祐輔,前田多門,田島道治,
生に対しては,自分は「キリスト教に脇の門か
笠間杲雄,岩永裕吉,金井清,藤井武,塚本虎
ら入り,内村は正門から入った」と述べるにと
二,矢内原忠雄,南原繁,高木八尺,三谷隆
どめ,旧友の内村の元へと送り込んでいたので
正,三谷隆信,川西実三,田中耕太郎,森戸辰
ある (3)。
夫,河合栄治郎,那須皓,君島清吉,石井満な
内村が少数の優秀な弟子に限定して福音を伝
ど,主として一高の「読書会」や「弁論部」の
播する一方で,新渡戸は全国の勤労青年の人格
メンバーであり,後に内閣総理大臣,文部大
的向上に強い関心を示していた。こうしたな
臣,宮内庁長官や侍従長,そして東京大学総長
かで,実業之日本社の社長である増田義一は,
へと就任した人物がいた。なかでも,鶴見,前
『実業之日本』の編集顧問への就任を新渡戸に
田,田島の3人は,新渡戸の高弟として位置づ
打診した。新渡戸が編集顧問となっていた『英
けられる存在であろう。鶴見は1885年に岡山に
文新誌』が桜井鴎村の退社により廃刊となって
生まれ,岡山の中学に学んだ後,1902年に一校
以来,わずか数か月後の1908年末のことであっ
に入学した。すでに狩野の薫陶を受けていた学
た。
生であった鶴見が新渡戸の謦咳にはじめて接
増田は自助の精神に依拠し,独力で立身を成
したのは,1906年のことであった。鶴見は恩師
し遂げた人物である。1869年,新潟県に生まれ
新渡戸に私淑し,英語が堪能であったこともあ
た増田は,21歳で上京すると,早稲田大学の前
り,メアリーとも親しくなった。新渡戸は鶴見
身である東京専門学校に入学した。東京専門学
の就職の世話をし,後藤新平の娘とも結婚させ
校で政治学を学んだ増田は,立憲改進党で政治
た [ オーシロ 1992: 113]。また,前田は1884年
活動に参加しながら優秀な成績で卒業し,読
に大阪に生まれ,一高に入学した。一高の寮で
売新聞の記者として短期間働いた後,1900年に
鶴見と知り合い,意気投合した両者は無二の親
『実業之日本』を継承した。増田はその後10年
友となり,共に新渡戸を理想とした。前田も新
足らずで『実業之日本』を有力雑誌へと育て上
渡戸の紹介で三田フレンド女学校出身の女性と
げ,日本初の大規模広告システムを開発し,独
結婚した [ オーシロ 1992: 113]。一方,田島は
立心と商才を活用して,『実業之日本』の発行
1885年に名古屋に生まれた。田島家には,男子
部数を上昇させたのである。『実業之日本』は,
は20歳になると家を出て,師匠と定めた先生の
目標達成のための助言や方法を説くなど,啓蒙
82
的性格が顕著な雑誌であったというのである
[ オーシロ 1992: 119-120]。
させる必要があったといえる [ オーシロ 1992:
同上 ]。
編集顧問への就任を依頼した増田を自宅に招
1909年に発行された『実業之日本』の新年号
いた新渡戸は,実業之日本社の経営哲学や,
『実
において,新渡戸は顧問として紹介され,同時
業之日本』の使命について説明させた。この時
に「余は何故実業之日本社の編集顧問となりた
増田は,産業界で社会生活を実践する青年に精
るか」という文章も掲載された。新渡戸は顧問
神面を指導する意義を強調した。この点につい
を受諾した理由を列挙し,以降4年間,一高校
ては,新渡戸に一高校長就任を依頼した牧野に
長としての職務と並行して,『実業之日本』の
も連なる認識であり,増田は日本中の青年の憧
編集顧問として修養をテーマにした多くの記事
憬となっている新渡戸以外に編集顧問の適任者
を寄稿した。新渡戸が執筆した記事は反響を呼
は絶無であると考えていたのではないだろう
び,
『実業之日本』の売れ行きは上昇した [ オー
か [ オーシロ 1992: 120] 。実際,すでに新渡戸
は,勤労青年の啓蒙を目的として,札幌に遠友
シロ 1992: 121]。後に新渡戸の記事は纏めら
れ,『修養』(1911) と題して出版される。
夜学校を設立していた。新渡戸が増田の依頼を
ところで,従来の新渡戸の伝記では黙殺され
受けていた頃,札幌農学校時代の教え子である
ている点についても,ここで触れておく必要が
有島武郎がその代表者として学校を運営してい
あろう。じつは,新渡戸は『実業之日本』のラ
た。創立者である新渡戸は,夜学校の終身校長
イバル誌である『実業之世界』にも多数の論説
という地位であった。したがって,新渡戸の念
を執筆していた。しかも,新渡戸は実業之世界
頭には日本全国の勤労青年の存在があったと考
社の編集顧問を受諾することに関しても前向き
えられる。すなわち,新渡戸にとり,勤労青年
な姿勢を示していた。『実業之世界』を創刊し
に対する道徳教育は,学理を応用した社会的実
たのは,野依秀市という人物である。1885年,
践を意味していたのであり,学理の追求と社会
大分県に生まれた野依は,家庭の事情により叔
的実践の両立こそ,学者としての新渡戸の使命
父に預けられるなどの苦労の末,慶応義塾商業
であった。また,道徳教育の意義を認めること
夜学校に通学し,『三田商業界』という経済雑
にかけては,新渡戸も増田とは見解を共有する
誌を創刊した。1908年,『実業之日本』に対抗
ところであり,新渡戸は日本の将来について真
すべく,これを『実業之世界』へと改題し,幸
摯な態度を示す増田に共鳴した。如何なる階級
田露伴,渋沢栄一,三宅雪嶺の支持を得た。新
であれ,青年が人生の目的を発見し,社会に幾
渡戸も「青年の元気は如何にして回復す可き
許かの貢献をなしうるように導かれることによ
か」,「後藤新平男に学ぶ可き点」,「学生は暑中
り,国家を支える構成要素となり得るという点
休暇に何をするか」,「花柳界に於ける紳士の交
に関しても,両者の見解は一致した。文明開化
際と其矯正策」,「余の見たる故児玉大将」,「現
以来,日本は一等国へと発展しつつあったが,
代学生の三大欠点および其矯正策」,「吾が身の
実際には,欧米列強に遅れていた。個人が社会
欠点を矯正したる余の実験」,「余の結婚は正月
に貢献することにより,日本を国家として充実
元旦なりき」,「五十年後に於ける伊藤公の歴史
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
83
的価値如何」,「新年の遊楽を社交に応用する最
問である。また,新聞紙上において,新渡戸
良法」,「日本に新渡戸の感心す可き人物なきは
は「八方美人」と揶揄されている。しかも,新
何故か」,「後藤男爵は近頃何故に評判悪しき
渡戸が唱道する「社会的連帯」なるものは「八
か」など,数々の文章を寄稿した。このように,
方美人」と混同される弊害がある。一高運動会
新渡戸が実業之世界社に関係した時期があった
において「婦人席」の設営を推奨するに至って
という事実に関しても,強調される必要がある
は,軟弱の極みであり,慙愧に堪えないという
のではないだろうか [ 横田 : 144-149]。やがて,
のである [ 石井 1934: 256-257]。これに対して,
界』は,新渡戸に執拗な誹謗中傷を加えること
祐輔,青木徳三が反駁演説を行い,新渡戸の立
になる。
場を擁護した。しかし,続いて立ち上がった石
野依と新渡戸との間で確執が生じ,『実業之世
4 問題の所在
新渡戸派の学生である金井清,前田多門,鶴見
本は「末弘氏に同感である。私はある日新渡戸
先生のお目にかかりお話を聞くことを得たが,
新渡戸は学内外を問わず多くの青年の人気を
先生はアーノルドを以て理想とせられたれど,
獲得することになるのであるが,新渡戸を敵視
文部省の經費不足なれば其の理想を現實し得な
する勢力も依然として根強く残っていた。稿を
い,余に方法なきに非ざれども犬死することは
終えるにあたり,ここで新渡戸が学内で直面し
いやだと云はれた。また其のとき先生は自ら教
た毀誉褒貶を整理し,今後の新渡戸研究の課題
育者ではないと云はれた。これ何事であるか校
を提起しておこう。「籠城主義」に固執する運
長は徳の高き人格者でなければならない」[ 石
動部の学生は,校風の改変に着手した新渡戸の
井 1934: 257] と発言した。この発言からは,新
言動に敵対したということについては既に触れ
渡戸の言動の真意を量りかねた石本が,「教育
た通りであるが,こうした学生は,蛮勇を理想
の効力」と「教育者の人格」とを混同している
的態度であるとし,粗暴な東洋豪傑風の態度こ
ことが読み取れるであろう。すなわち,新渡戸
そ一高生の理想的学生像であり,新渡戸が唱道
には「教育の目的」を構成する「活力」,
「知力」
,
する西洋風の「ジェントルマン」というものが,
「倫理性」という特質を満足させることによっ
脆弱な西洋かぶれであると決め込んでいた。保
て,「教育の効果」が「教育者の人格」とは無
守派の学生は,新渡戸が唱道した校風が主潮流
関係に保証されるという立場への信頼があった
となりつつあるのを認めると,新渡戸の態度
ように思われる。この新渡戸の認識は,カト
を「八方美人」であるとして,攻撃を開始す
リックや英国教会などの教会主義が依拠する
る。1909年3月1日には,一高卒業生である末
「事効論」の系譜に連なるものであろう。教義
弘厳太郎と一高生の石本惠吉が校長不信任の演
の異同はさておき,クエーカー教徒としての認
説を行い,ここに「校長不信任問題」が表面化
識の根本において絶対者たる神の存在を肯定し
した。末弘は記念祭の壇上で以下のように述べ
ていたという点に限っていえば,新渡戸の立場
ている。校長就任の際,新渡戸が説いた校長,
は教会主義者とは異ならない。したがって,キ
職員,生徒の三角同盟の成果に関しては頗る疑
リスト教的世界観においては,たとえ教育者で
84
あっても,神の被造物である以上,人間は「不
たのである。この演説が公になった結果,批判
完全」な存在でしかないという人間観に立脚し
の矛先が責任者である新渡戸に対して向けられ
ていたと考えられる。末弘や石本の校長不信任
た。多感な青年に危険人物の話を聴かせたこと
演説を平然と眺めていた新渡戸は,おもむろに
が無分別であるというのである。しかし,新渡
壇上に立ちあがると,ポケットから取り出した
戸は学生に対して勉強に専念するようにと指示
原稿を読み上げた。学生が新渡戸を無用である
し,全責任を引き受けた [ 石井 1934: 242]。結
と断罪するのであれば,校長を辞任するという
局,新渡戸が文部省から懲戒処分を受けること
のである [ オーシロ 1992: 117]。そして,新渡
により,事態は収拾した [ オーシロ1992: 118]。
ブラウン・スクールデーズの話の如く,諸君の
る発言が問題視される事件が発生した。新渡戸
うちの一人でもが二十年三十年の後再びこの學
は倫理の時間に「日本海を中心として,七十五
園に來つて,往年のことを追懷してくれるなら
哩の半徑で圓をかくと朝鮮と関東州が入る,更
非常に滿足である」[ 石井 1934: 258]。この新
に百五十哩の半徑で圓をかくと支那の一部が入
任演説を行った石本でさえ,これを契機に新渡
1934: 243] と述べている。倫理講和で「侵略主
戸は演説を以下のように結んだ。
「吾輩はトム・
渡戸の言葉は,却って学生を感動させた。不信
そして第三に,新渡戸の「領土問題」に関す
つて丁度いい格好のものが出來上がる」[ 石井
戸の熱心な賛美者へと転向したというのである
義」を説いたとして,中国分割論に連なる新渡
[ 石井 1934: 同上 ]。こうした経緯もあり,新渡
戸の発言は物議を醸した。この点に関しては,
戸に対する感傷的な偶像視に一層の拍車がかか
戦後に刊行された新渡戸の伝記的研究では,
ることになったと考えられる。それにもかかわ
『実業之世界』への関与と同様,一様に黙殺さ
らず,依然として新渡戸に対して強い反感を抱
れているというのが現状である。その理由とし
いた学生もいた。芥川龍之介が新渡戸を揶揄す
て,「平和主義者」としての新渡戸のイメージ
る短編「手巾」を書いたことなどは,その一例
を定着させる上で生じる齟齬を解消するための
ではないだろうか [ オーシロ 1992: 117]。
配慮が働いていると考えられるが,こうした事
第二の問題は,幸徳秋水が11人の無政府主義
実の隠蔽にみられる情報操作は,歴史の贋造に
者とともに明治天皇暗殺を企図したという理由
直結する行為であるといわざるを得ない (4)。
で処刑された「大逆事件」の直後に発生した。
たしかに,校長不信任問題と「謀反論」につ
一高では,河上丈太郎と河合栄治郎の発案によ
いては,「新渡戸山脈」とも称される,一高校
り,徳富蘆花を招待して「謀反論」と題する講
長時代の新渡戸に影響を受けた弟子の存在を前
演会が挙行された [ オーシロ 1992: 118]。徳富
にすれば,瑣末な問題の域を出ないのかもしれ
は自己の心中にある「勤王の精神」を肯定し,
ない。しかし,新渡戸が「武士道」ではなく,
圧政は「社会主義」を「無政府主義」たらしめ
国際的な視野から「社会的連帯」を提唱したこ
るものであると断じ,死刑廃止論を肯定して
と自体,明治ナショナリズムの後退を促進する
「諸君よ,希くは人格を修養せられよ」[ 石井
行為であったということが強調されなければな
1934: 241] と結び,政府の対応を痛烈に批判し
らないように思われる。「社会的連帯」の唱導
第一高等学校校長としての新渡戸稲造
により,「大正デモクラシー」が胎動する条件
が整えられたという意味で,新渡戸は「近代日
本における思想史的分水嶺」に屹立していたの
であり,近代日本の知的伝統における新渡戸の
存在の意義については,より正当に評価される
必要があるのではないだろうか。
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と訳している。本稿では新渡戸の真意を斟酌し,
「社会的連帯」という三谷隆正の言葉を使用した。
⑵ 新渡戸は一高で数年にわたり『衣服哲学』の連
続講義を行ったが,1938年に刊行された『衣服哲
学講義』( 研究社 ) は,1918年8月の軽井沢夏期大
学での速記をもとに編集されたものである。
⑶ 新渡戸は一高読書会のメンバーの信仰指導を無
教会主義者の内村鑑三に託している。内村のもと
さらにいえば,
「籠城主義」に代わるものと
で,前田多門,田島道治という新渡戸の高弟をは
して新渡戸が提示した「社会的連帯」という
じめとして,岩永祐吉,藤井武,三谷隆正,高木
価値観は,『トム・ブラウンの学校生活』を執
筆したトマス・ヒューズが信奉する「キリスト
教社会主義」に収斂するものであるという視点
の導入が必要であろう。「キリスト教社会主義」
とは,キリスト教徒の社会的責任を重視し,
「奉
八尺,森戸辰男などが「柏会」という信仰集団を
結成し,峻厳な福音主義的贖罪信仰を培った。
⑷ 三輪公忠は「〈展望〉新渡戸稲造の「復権」」
(『ソ
フィア:西洋文化ならびに東西文化交流の研究33』
所収)のなかで,占領下の1948年に出版された『余
の尊敬する人物』の第5版以降において,新渡戸
が「朝鮮併合」の意義を強調した箇所の記述が削
仕と犠牲」の精神を中核とした「協同組合」を
除されていることを例に,新渡戸研究者が無意識
通じて社会改良を推進するという立場であり,
のうちに「平和主義者」,「反軍閥主義者」,「国際
こうした側面は,新渡戸が依拠した「クエー
カリズム」にも連なる特質であると考えられ
る。従来の研究においては,新渡戸は信仰指導
を内村に一任したという見方もあるが,新渡戸
が「キリスト教社会主義」と「クエーカリズム」
とを内面化していたという事実に注目すれば,
「社会的連帯」を唱導するという行為が,新渡
主義者」として新渡戸を偶像化し,歴史の改竄に
加担する傾向があることに注目し,これを「怠慢
の所産」であるとして仮借なく批判している。
参考文献
Carlyle, Thomas, Sartor Resartus: The Life and Opinions of
Herr Teufelsdröckh in three books, introduction and notes
by Roger Tarr (Berkeley and Los Angels CA: University
of California Press, 2000)
石井 満 1934『新渡戸稲造傳』関谷書店
戸にとってはキリスト教信仰の実践であったと
内村鑑三 1962『内村鑑三信仰著作全集20』教文館
理解するほうが妥当であるように思われる。
1981『内村鑑三全集 5』岩波書店
けれども,新渡戸が「侵略主義」を説いたと
ジョージ・オーシロ 1992『新渡戸稲造―国際主義の
いう事実については,「平和主義者」としての
新渡戸のイメージの根幹を覆す可能性を孕んで
いるだけに,議論の余地が多分に残された問題
であるといえる。
〔投稿受理日 2010.11.20/掲載決定日 2011.1.27〕
開拓者』中央大学出版部
木村 毅 1982『日米文学交流史の研究』恒文社
佐藤全弘 1884『新渡戸稲造―生涯と思想』キリスト
新聞社
鈴木 正 1970『狩野亨吉の研究』ミネルヴァ書房
武田清子 1960「教育者としての新渡戸稲造」『国際
基督教大学学報 I−A,教育研究7』国際基督教大学
松隈俊子 1969『新渡戸稲造』みすず書房
注
矢内原忠雄 1940『余の尊敬する人物』岩波書店
⑴ 新渡戸が提唱した「ソシアリティー」について,
横田順彌 1991『熱血児押川春浪―野球害毒論と新渡
石井は「社交主義」と訳し,矢内原は「社会性」
戸稲造』
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