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アメリカ労働運動のイデオロギー : ゴムパーズとルーサ
ーの比較分析
高田, 一夫
一橋研究, 1(4): 106-121
1977-03-31
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/6483
Right
Hitotsubashi University Repository
アメリカ労働運動のイデオロギー
一ゴムパーズとルーサーの比較分析一
高 田 一 夫
アメリカ労働運動史においてサミュエル・ゴムパーズ(Samue1Gomders)
とウォルター・ルーサー(Walter Reuther)とは対照的な取り合わせと言っ
てよいだろう。かたやゴムパーズは熟練職種別組合中心のアメリカ総同盟
American Federation of Labor(以下AFLと略記)の創始者の一人であ
り,ビジネス・ユニォニズム(business unionism)の代表的思想家・実践者
である。他方ルーサーはAFLから脱退した産業別組合中心の産業別組合会議
Congress of Industria10rganization(以下CIOと略記)の指導者の一人
であり,社会運動としての労働組合運動を志した人とされている=1〕。本論の課
題は一見対立的とさえ思われるこの二人の思想と行動を分析することにより,
アメリカ労働運動のイデオロギーの一端を検出することにある。勿論アメリカ
の労働運動がこの二人にすべて代表されるというのではない。ただ,アメリカ
的労働組合の確立者であり,アメリカ労働運動の最高指導者として半生を送っ
たゴムバーズと,労働運動の革新者として期待され結局アメリカ総同盟産別会
議AmericanFederationofLabor−CongressofIndustria10rganization
から脱退し,労働者行動連盟Alliance for Labor Action(2〕を結成したルー
サーとはそれぞれアメリカ労働運動の正統と異端とに位置づけることができる
のであり,相反する二極の相互関係の分析という意味において本論は一つの意
義を持ちうると信ずるものである。
I
1. ゴムパーズの反社会主義
ゴムパーズは自ら語ったごとくr直観」の人であり㈹,プラグマティストだ
106
アメリカ労働運動のイデオロギー
と言ってよいがω,このことは彼が特定のイデオロギーを持たなかったという
意味てばなし一・。次に引用する彼自身の回想は彼のイデオロギーの性格をよく象
徴するものである。すなわち,若きゴムバーズは,社会主義者との論争の中で
こう主張したという。
君たちの重視する階級意識(Klassen Bewustzsein)なるものは,思考力
をもつ者ならだれでももっている一つの精神上の過程であって,基本的なも
のでも,本質的なものでもない。経験だけから生まれる素朴な力は階級感情
(Klassenge飾h1)というものだ{5〕。
これを少タ敷術すれば次のようになるだろう。第一に,労働者に固有なもの
は共通の労働者としての経験であり,それは階級感情という形をとる。第二
に,階級意識というのは普遍的・観念的なもので労働者に固有のものではな
い。したがって第三に労働者は階級感情をもって団結の中核としなければなら
ない。これは単なる社会主義嫌悪ではなく,一個の思想と言うべき’である。
ライヒは二種類の一大衆と革命的指導部と一階級意識の存在を指摘した
が㈹・ゴムパーズの思想は大衆の階級意識に基いたものである。彼はこれを労
働者の意識の本質と考えたのである。したがって共通な体験を持たぬ知識人が
労働運動に介入することを拒否した。「労働運動は敵だけでなく見当はずれの
友に対しても防衛しなければならぬ。これは賃金労働者が賃金労働者自身によ
り,賃金労働者のためにする運動である。万能楽をたずさえて労働運動を指導
したり,時には破壊しようとする善意の人,いわゆる『知識人』・『労働者の救
世主』などに対しては充分注意しなけれぱならないといっても決して間違いで
年まカ兵し、o」{7〕
さらに,彼はこの思想をマルクス主義の労働運動論で補強している。彼によ
れば,マルクスはおそらく「社会主義のもっとも痛烈な措判者」であった。
「彼の著作は当時の労働運動の混迷期に広く用いられた用語で社会を激しく告
発.していた。マルクスが使った用語は,しばしば,後年になって定着した意味
とは著しく異なった意味を持っていた。……マルクスは,労働組合とは賃金労
働者の生活を高めることのできる,直接的で実践的な機関であるという原則を
107
一橋研究第1巻第4号
把握していた。」㈹つまり,ゴムパーズは,社会主義:政治(選挙活動)=労
働組合不要論とみたのである。これは決して根拠のないことではない。彼の若
かった頃のニュー・ヨークはラサール派の社会主義が主流を占めていたのであ
る。ゴムパーズはマルクスに自らの組合運動の正当化を読みとった。rマルク
スはその全著作を通じて,必ずしも首尾一貫しているとはいえないが,賃金労
働者を労働組合に組合に組織する必要と,政治手段によって労働者の政府を樹
立しようとする前に,経済力を育成する必要があることを力説した。」{9〕
階級感情論(反知識人論)と労働組合優位論,この二つが彼の作り上げた反
社会主義の理論といえるであろう。彼の次の主張はこの立場の論理的帰結にす
ぎない。すなわち,「宗教において私は労働者である。政治においても労働者
である。私の頭のてっぺんから足の先まで,あらゆる願替において,労働者仲
間の利益を押し進める側に立つものである。」㈹では,労働者仲間の利益とは
何だろうか。それは社会主義社会ではないのだろうか。ゴムバーズによるとそ
れは当面考えなくてよいのである。1900年に彼は次のように述べた。「私にわ
かっているのは賃金制度のもとで生活しているということ,それが存続してい
る限り労働者のために,富の生産者(1Dのために,不断により大きな分け前を
獲得しようとつとめることが目的なのだ,ということだけなのです。……〔賃
金制度や社会主義,無政府主義などのことは〕私はすべて,本来が決定し,つ
くり出せばよいのだと思っています。……さしあたり,私たちの目的とすると
ころは,より良い労働条件を獲得して,労働者の心のなかに,より大ぎた勇気
と独立心を吹きこみ,その知的視野を広げることなのです。」ω彼は社会制度
が現在のままで正しいとは考えなかった。しかし,何が現行制度にとってかわ
るべきか,それは今は考えなくてよい,たぜならより大きな分け前を獲得して
いけば,労働者は「種六の問題に当面しても,それによりラまく対処するだけ
の準備ができるだろう」u3〕から。
したがって問題は経済力である。「経済力を踏み台にしてこそ,他の分野で
も力が発揮できるのである。だれであれ何であれ,経沢力を支配するものが集
団や国家の発展を指導し,形成するのである。」(Iωそして労働組合が作られた
l08
アメリカ労働運動のイデオロギー
のは経済的な改善のためであるから,労働組合活動こそ労働者の運動の中核を
なすものである。彼の労働運動哲学の師,元第一インターナシ目ナルのマルク
ス派社会主義者であったフェルディナンド・ラウレル(Ferdinand Laurreu)
は若いゴムパーズに繰り返し,こう言ったという。「サム君,君の組合員証を
よく研究してみるんだね。その思想が君の組合員証に書いであることに一致し
たいなら,その思想は本物じゃないんだ」(I5〕と。
以上で,ゴムパーズの思想の中心部分が明らかになった。これを要約すれば
労働者は,(1)階級感情をもっており,これが階級的連帯の中核をなしている
(階級感情論),(2)経済力は何にもまさる(経済優位論),(3)労働組合は経済的
改善のための組織であり,したがって,労働者階級の真正の組織は労働組合で
ある(労働組合優位論),(4)理想社会の問題は労働者の経済力が向上した時自
然に解決するだろう(政治的日和見主義)。
このようにゴムパーズは一個の反社会主義思想を持っていたということがで
きる。しかし,彼本来の活動領域は実践の中にあった。そこで次に彼が実際行
動の中でいかに社会主義と対決したかを検討しよう。
2.社会主義との対立
ここでは特に,(1〕ナイツ・オブ・レイパーKnights of LaborとAFLと
の斗争,および,(2)90年代のAFL内部での「ビジネス・ユニオニストbusi−
neSS unioniSt」と社会主義者との衝突の二つを取り扱う。この二つを選んだ
理由は,前者は協同組合的な社会主義運動と労働組合主義者との戦いであり,
AFLがこれを勝ちぬいたことがアメリカ労働運動の一大転機をなしたからで
あり,また後者はAFLにおける社会主義者の浸透工作(いわゆるr内部切り
崩しboring from within」)の一つの代表例だからである。
(1) ナイツはもともと1869年ユライア・ステイーヴンスUriahStephens
によって結成された衣服製造工の秘密結社であったが,1877年の鉄道ストライ
キを契機として大発展した。この組織は規約中に「一人の苦痛は全員の関心事
である」と階級連帯を強調し,加入は労働者に限らず,酒類の販売に携わる者
および弁護士,医者,銀行家以外は自由で,いわゆる生産者階級(producing
109
一橋研究第1巻第4号
CIaSS)の団結をめざした。組織の形態は地域別に全員を組織する混合ローカ
ル(mixed10cal)が主であり,高度に集権的た制度を持っていた。その目標
は生産協同組合による社会の改造にあり (いわゆる 「改革組合主義reform
uniOniSm」),従って団体交渉には熱心でなかったΩ6〕。
これに対し80年代に息を吹き返した労働組合は,熟練労働者を中心とした組
織であり,組織形態は同職の労働者の全国組織,すたわち地域別混合ローカル
に対する,同職ローカル(trade10cal)の全国組織であった。目標は賃金引上
げ,労働条件の改善にあり,その主たる手段は団体交渉,ストライキであっ
た。
ナイツと労働組合は初期においては必ずしも敵対的ではなかった。後に反ナ
イツの中核となる葉巻工国際組合Cigarmakers’Intemationa1Union)にお
いても,指導者たるゴムパーズ自身ナイツの会員であったし{17〕,またナイツ
と同綜合との対立の始まった1885∼1886年においても一部では協力関係が保た
れていた{エ8〕。鋳鉄工組合Iron Molders Intemai㎝a1Union製鋼工組合
Ama1gamated Association of Ironand Stee1Workersもナイツと共同
ボイコット運動を行なったし,活版組合Intemationa1Typographica1U−
niOnはナイツの支援を感謝する決議を出しているα9〕。また,ナイツも労働組
合に敵対的な行為はむしろ模しんでいた(,o㌧しかし,上述のとおり・ナイツ
の目的は社会改革であり,方法として全労働者を一つの組織に包みこむ混合ロ
ーカルによる運動をめざしたから,勢力が拡大するにつれて労働組合の組織を
侵食することになった。ナイツは労働組合に比べ入会金が低く加入しやすかっ
ただけでなく,その会員に労働組合の定めた賃金率・労働条件の標準以下で雇
用されることを許したから,労働組合員の雇用機会を奪うおそれがあった。労
働組合の非難に対しナイツは,両組織の協力を呼びかけたが,労働組合の利害
関心からして調停は不可能だった。というのは第一に,ナイツの混合ローカル
組織は労働組合の同職組織と重複する部分を持ち,必然的に主導権争いを惹き
起こしたばかりでなく,第二にナイツの追求した連帯行動による社会改革運動
は,相互に異なった経済的環境の下に置かれている労働組合に統一行動を要求
110
アメり力労働運動のイデオロギー
することになり,したがって労働組合活動の中心である団体交渉機能を損う可
能性があり,また,第三に熟練労働者を中心とする労働組合は,利害の一致し
ない不能練労働者を含むナイツと協力する意志を持たなかった=2I〕。つまり,
労働組合とナイツとは・組・織形態と機能とが異質でありながら,組織範囲が重
複したため衝突が避けられなかったのである。
ゴムパーズの加入していた葉巻工組合ニュー・ヨーク支部は,この対立が最
も激しかったものの一つであり,彼は同僚とともにこの戦いを積極的に推進し
たω〕。このことは, ゴムパーズが政治的改革よりも同職の労働者による経済
的向上の道を選んでいたことを明確に示している。このようなナイツとの闘争
過程でAFLの結成は促進されたのであった。
(2) かくして成立したAFLにおいても,内部闘争はなくたらなかった。
社会主義労働党(Socialist Labor Party)は政治活動の母体としてAFLを
好適なものと見たからである。同党の方針はAFLに社会主義政治運動を行な
わせることであった。最初の対決は1890年,ニュー・ヨークの中央労働連盟
(Centra1Labr Uonion)の加入資格をめぐるものであったが,ゴムバーズは
社会主義労働党の支部がこの連盟の会員になっているのを答め,「社会主義労
働党の長所短所を論ずるのは私の任ではないが,純粋な労働組合の中央連合体
にこの党に限らず政党が加入するということは,私には許せない」と拒否し
た{舳。この問題はAFLデトロイト大会に提訴されたが,大会はゴムパーズ
の処置を支持したΩ4〕。
1893年大不況の最中に開かれたAFLシカゴ大会では,社会主義労働党は最
大の成功を収めた。同大会にモーガンT.J.Morganが提出した政治綱領
politica1prOgramは,前文の,独立政治運動の方針をとったイギリスの労働
組合員を賞讃することと,第10条の「全生産手段の人民による共同所有」がそ
の中核をなしていた。モーガンはこれを加盟各組合で審議の上,翌年のAFL
大会で決議するよう提案し,大会の賛成を得た㈱。綱領は加盟各組合の大会
で多くの賛成を得,ゴムパーズの出身組合である葉巻工組合でも支持されれ
ゴムパーズはこの状況に危機感を抱き,同志マガイアにこう訴えた。「今こそ
1n
一橋研究第1巻第4号
労働組合が真の活動領域をおもちゃにしたり,そこから離れてしまわないよ
う,我々は最善の判断と主張を行なわなくてはならたい㈹。」ゴムパーズは翌
デソヴァー大会直前,シカゴに同志を集めて戦術を検討した。その結果大会で
は巧奴にも綱領は一条ずつ切り離して討議され,まず前文が綱領から除かれ,
また第10条がポピュリズム的な土地独占非難の決議に修正可決された。所属組
合から綱領原案を支持するよう指示を受けていた代議員は修正綱領全体の採択
に反対したため,その結果綱領は否決されたのである=舳。
以上のようにゴムバーズは,政治的改革主義にも社会主義・独立政治運動に
も,危険とみれぱなりふりかまわず強引に行動した。これらの行動からも前述
したゴムパーズの思想は十分に跡づけることができる。彼によれば経済力こそ
政治を含むその他の諸力に優越するのだから,労働組合が政治的改革をめざ
し,団体交渉を軽視することは論外であった。また独立政治運動は労働者間に
意見の対立をまねき団結が損われるおそれがある。したがって,「私〔ゴムパ
ーズ〕の信念によれば,純正な労働組合こそ賃金労働者本来の組織であり,賃
金労働者に物質的たらぴに実際的改善を保障し且つまたその究極的解放を実現
できる」蜆8〕のであった。このようなゴムパーズの思想はr労働組合主義」と
いうことができよう。
II
ルーサーはゴムパーズのごとく明確に自己の思想を表現したことがない。し
たがってわれわれは思想そのものの分析を断念し,行動と断片的な思想表明と
から彼の思想構造を探求しなければならない。
1.社会主義との秘法
ルーサーの少年時代の環境は社会主義に親しいものであった。彼の父はドイ
ツ人移民の労働運動家であり,またデブズ(Eugene V.Debs),プラィァン
(Wi11iam J.Bryan)の熱心た支持者であった。一時は社会党候補として国会
議員選挙を戦ったことさえある。息子ルーサーの回想によると,r父の膝の上
でわれわれ〔克弟たち〕は労働組合の哲学を学んだ」のである㈱〕。彼が社会党
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アメリカ労働運動のイデオロギー
に後に入党したことも決して不自然ではなかった。
1929年10月全米を大恐慌の嵐が呑み込み始めた時ルーサーはフォード社の職
長であったが,大恐慌の惨害に大きな衝撃を受けたようである。どちらかと言
えば「利殖に興味を持っていた=30,」ルーサーは,1930年に入学したデトロイト
市立大学に率先して社会問題クラブ(Socia1Problems C1ub)を設け,社会
主義運動に接近した。彼は同クラフを社会党系の産業民主主義連盟(the Lea−
gue of Industrial Democracy)に加盟させ〔舌D,また1932年の大統領選挙
では社会党員として同党候補ノーマン・トーマスのために中西部を友人ととも
に遊説してまわった。さらに,同年,会社に隠れて行っていた労働組合活動が
露見してフォード社を解雇されると,共産党員の元同僚の奨めに従い,ソ連の
自動車工場に約2年間勤務した(32〕。
しかし,ルーサーの社会主義は決して筋金入りではたかったようである。現
にソ連からの帰国後,1936年の大統領選挙では,社会党がノーマン・トーマス
を候補に立てていたにもかかわれずローズヴェルトを「情熱的に」支援したと
いう㈹。ただし社会党との関係は尚暫く続いたようである。その証拠に,
1937年夏,ルーサーの所属する統一自動車労働組合(United Automobi1e
Worker)が独自の組合候補を擁してデトロイト地方選挙に臨んだ際,ルー
サー自身市議会議員に立候補し,所信表明演説において,「自動車労働者とし
て,組合役員として,一社会党員として,またデトロイトの愛国的市民として
・㈹」と自らの立場を明らかにしたのである。しかし,これとても後年の発
言によると,組織なしでは充分な活動ができないという現実的理由によるもの
であった㈹。果せるかた翌年にはルーサーと社会党との亀裂は決定的となっ
た。1938年ミシガン州知事選挙において,社会党は独自の候補をたてたが,一
方ルーサーは労働組合に好意的なニュー・ディール派の民主党員マーフィー知
事㈹の再選を支持していた。党の方針に制約されることを嫌ったルーサーは
離党を申し出たが,社会党側の説得により組合内の派閥抗争(舳の終結まで離
党は延期された(舳。
以上のように,ルーサーは社会党からローズヴェルト連合へと決定的に転向
113
一橋研究第1巻第4号
した=39〕。彼は転向を正当化するものとして,アメリカの階級構造を挙げてい
る。
古典経済学的な線にそうて社会が発展し,厳格な階級的集団をもつヨーロ
ッパにおいては,高度に固定化した階級社会が存在するから,その政治的表
現として労働党が自然的に発生する。しかし,アメリカは社会集団が流動的
であり,固定した階級構造をもたない社会である。アメリカには中小企業主
は存在するが,彼らは共和党の高級擁護者ではない。また数百万の農民があ
るが,彼らは賃金取得者ではなく,土地や生産手段に自分の富を投資する小
実業家であり,狭い階級構造には当てはまらない。しかも彼らは,自由な政
治組織の活動力の重要な一部であり,それらの人々を労働者と協力させる以
外に,アメリカでは策の施しようがないのである“0〕。
したがって,ルーサーにとっては「社会党はあまりに教条的すぎる」のであ
り,「アメリカの政治思想はマルクスからではたく,アメリカの土から生まれ
てこなくてはならない」‘41〕わけである。
アメリカの土にあわないのは共産主義も同様である。しかし,ルーサーの共
産党に対する姿勢も最初から対立的ではなかった。次にルーサーと共産党との
関係を検討してみよう。
2 共産主義との摂決
UAWの結成には多数の左翼活動家が参加したが,中でも共産党系の活動家
が最大の勢力を有していた㈹。当時(1936−1939年)共産党は統一戦線戦術を
採用しており,当初は社会党に近いルーサーとの関係はむしろ親密なものであ
った㈹。前述の組合内派閥抗争においては,共産党派とルーサー派は共闘し
統一派を結成し,ルーサーは外部め観察者から共産党系と見られるほどであ
った。社会党内部でもルーサーの親共産党的態度を措判する者があったとい
う(44〕。 しかしこの提携関係は長続きしなかった。すなわち,1939年8月ナチ
・ドイツ,ソ連間に不可侵条約が締結され共産党は統一戦線戦術を変更し「自
動車労働者の中に共産主義者・非共産主義者の進歩的連合をうちたてることに
よってルーサーの政策と指導とを孤立させる方針をとった㈹」のである。
114
アメリカ労働運動のイデオロギー
これに対しルーサーはUAW大会においてソ連政府を含む全体主義政権非
難の決議(1940年),および外国政府に忠誠を誓う組織の会員ならびに支持者
の組合役職就任を禁止する決議(1941年)を採択させることに成功した。とこ
ろが共産党は1941年6月ナチ・ドイツのソ連侵攻後,帝国主義戦争反対の立場
を突如民主主義防衛のための戦争協カベと転換させた。そのためルーサー派と
の対立は一時緩和されたのである。しかし第2次大戦の終了とともに両派は全
面的対決に突入し,1946年ルーサーがUAW組合長に当選したことを転機と
して1939年以来UAWにおいて多数派であった共産党派は1947年までに一掃
されてしまったのである㈹。
ゴムパーズの葉巻工組合におけるナイツとの闘争がアメリカ労働運動のその
後の方向を先取りしたものであったのと同じく,ルーサーの共産党派に対する
闘争もCI0から共産党の影響力が排除される晴夫とたった。すなわち1949年
CIO大会において規約改正が行なわれ,共産党員およびその同調者の役職就
任が禁止されるとともに執行委員会に加盟組合の除名権限が付与されたのであ
る。この規定にもとづいて1950年までに共産党系11組合がCI0から追放され
た(ω。この追放を推進したのがルーサー等反共派指導者であったことは断わ
るまでもなかろう=49〕。
ルーサーの共産主義に対する反対理由が前述の第三政党に対するそれと同一
であることは推察するに難くない。しかし,ここで興味深いのはルーサーが共
産主義者を非難するのに挙げた今一つの理由である。ルーサーはC101949年
大会において,共産主義者を許せないのはその行動が労働組合の立場に立た
ず,アメリカ労働者の必要に基づかない共産党の方針に沿っているからだ,と
発言している㈹。上述した社会党との決裂は,労働組合に好意的な民主党政
権を維持したいという意図によるものであった。その意味でルーサーはr労働
組合の立場」を選んだと言うとすれば,共産主義拒否の理由もま「労働組合の
立場」にあると言うことができる。
ルーサーの「労働組合の立場」は共産党との今一つの対立点についても確認
できる。共産党は1941年コミンテルンρ戦術転換にもとづき,軍需生産遅延ス
115
一橋研究第1巻第4号
トから突如生産協カベと態度を一変させたが,1943年にはさらに最高指導者ブ
ラウダー(E.Browder)が戦時生産促進のため奨励給制度導入を主張した。
この制度は必然的に作業のスピード・アップを結果する。ルーサーはこの時一
切の奨励給制度に反対した。UAW結成以前の自動車労働者の最大の不満の一
つがこのスピード・アップの慣行にあったから㈹,ルーサーの反対はしたが
ってr労働組合の立場」に立ったものと言うことができる。
Iで論じたとおりゴムバーズの反社会主義思想は「労働組合主義」(労働組
合優位論)に立脚していた。ルーサーについても社会主義あるいは共産主義運
動組合を従属させることを拒否したという意味において,やはり「労働組合主
義」の立場に立ったということができよう㈱。
III
ゴムパーズおよびルーサーがともに「労働組合主義」に基づいて社会主義あ
るいは共産主義に反対したとしても,それはなおネガティヴな性格のイデオロ
ギーにとどまっている。彼らのイデオロギーはさらに積極的な側面を持ってい
た。二人はともに一方で社会主義(共産主義)に反対するとともに,他方では
反労働組合勢力に対決していたのである。
ゴムパーズは労働組合に敵対的であったパック・ストーヴ・アンド.レンジ
社(Buck’s Stove and Range Co.)に対するボイコット運動のため,裁判所
から実刑判決を受け,実に7年間にわたって法廷闘争をくりひろげた(鵬〕。彼
は労使関係に国家が介入することに対し断固反対したのであ孔ゴムパーズは
次のように主張する。
国家は国民に奉仕するために存在する代理機関である,という者がいる。
しかし,国家は〔そのような〕非人格的存在ではない。……国家の政策は…
・・権力を持ち影響力を行便できる者以外には左右できないものである。・・
労働者が労働関係の統制権を立法・行政機関に譲り渡してしまえば,労働者
の産業における自由は国家の意のままになってしまう。労働者は防御手段を
奪われ丸腰になってしまうのであるω㌧
116
アメリカ労働運動のイデオロギー
国家の統制に対してゴムパーズが主張したものは自由意志,すなわちヴォラ
ソダリズム(Voluntarism)の哲学であった。彼の生前最後のAFL大会と
なった1924年エルパソ大会において彼は次のような演説を行なっている。
・人間の自由の根本にあるもの,すなわちヴォラタリズムの原理に献身
することを私はぜひとも勧めたいと思う。強制から永続的な利益が生まれた
ことは絶えてなかったのである……
われわれはこの原理を経済,政治,社会ならびに国家間の諸関係に適用
し,その正しいことを証明してきた。この原理に欠けているものはないので
ある㈱。
他方,ルーサーの積極的主張はr民主主義」であった。共産党との闘争のさ
なか彼はこう述べている。
まじめな自由主義者は,いったん共産主義者との闘いを任されたなら,反
共を唯一の旗印にしている人たちと力を合わせたり,そういう人たちから援
肋を受けようなどという気を起こしてはならない。反動におべっかを使って
共産主義に抵抗すると,命取りになる。アメリカ外交の主な弱点は反共を約
来するものなら誰とでもつきあう国務省の偏向にある。また,国内における
スターりソ主義に対する攻撃にあたっておちいりやすい最も危険なあやまち
は,共産主義に敵対する者はすべて民主主義の味方であると考えることであ
る。
共産主義は民主主義的良心の喪失を利用し,民主的行動の欠点に乗じ
てはぴこる。理論と実践との間の溝を埋めることが民主主義の仕事である。
われわれは経済力がまさっている少数者と大衆とを分離せしめている二重標
準をアメリカからも世界からも一掃したけれぱならない。われわれの社会を
悪化させているのはこの二重標準である(附。
以上,ゴムパーズならびにルーサーがともに「労働組合主義」の立場から社
会主義(共産主義)に反対したこと,および両者の積極的主張がそれぞれ,
「ヴォランタリズム」,「民主ま義」にあったことを明らかにした。次の課題は
「ヴォラソダリズム」およびr民主主義」が具体的にどのようた内容を持つも
117
一橋研究第1巻第4号
のか検討することにある。これを筆者は政治的側面および経済的側面に分けて
論ずるつもりであるが,本論文の紙数はすでに尽きてしまった。稿を改めて検
討を続けることとしたい。
(注)
(1)
ダニエル・ベルはアメリカ労働運動の主流を市場型組合主義(market union−
iSm(一般に謂うビジネス・ユニオニズム)と呼び,それに対し社会改革への志
向をもつ労働組合運動を社会連動(social movement)と呼んだ。Da皿ie!Bell,
τ加圧m㎡oグ〃eo’ogツ,Glencoe,1960,pp.208−209,221.
(2)
ALAは1968年AFL−CI0を脱退したルーサーの率いる統一自動車労組
(United Automobile Workers)と既にAFL−CI0を除名されていたトラック
運転手程合(I皿temational Brotherhood of Teamsters)とによって結成され
た中央連合体で,未組織労働者の組織化,生活保障の充実,等の運動目標を掲げ
た。ALAについては,陸井三郎「最近のアメリカ労働運動とその問題点」r経
済』56号,田中勇「アメリカ労働運動の新展開について」『労働運動史研究』51
号,Frank Comier and William J.Eaton,Rem肋〃,瓦nglewood C1iffs,
1970,pp.405−422;Joseph C.Goulden,Memツ,New York,1972,pp.371−403.
等を参照されたい。
(3)
SamueI Gomers,∫mm〃 γe〃50グエゲeαmaムαわ07,New York,1925,
VO1.II,p.24.(以下工伽と略記)S.ゴムパーズ自伝刊行合訳,1969年.下巻,
147−148頁。
(4)
Mary R,Beard,ηeλme〃。αnムα凸〃Mθmmε励,New York,1931,pp.
(5)
Gompers,Zヴe,Vol.I,P.383.邦訳,上巻375貫。
(6)
Wilhelm Reich,物5∫5’〃α∬mムmm8e伽,Kop㎝hagen,1934、久野収訳
179−180.
『階級意識とは何か』三一書房,1974年.30−33頁。大衆の階級意識とは日常生
活の小間題を重大と考える種類のもので指導者のそれのもつ歴史の必然性の意識
が欠けている。
(7) AFL,λ刎e〆。”m Fedem〃m鮒,Nov.1915,p.974.
(8) Gompers,工伽,Vol,I,pp.82−83.邦訳,上巻,93−94頁。
(9) ∫〃.,Vol.I,P.51.邦訳,上巻,62頁。
(1O) ∫〃.,Vol.I,p.454.邦訳,下巻,31頁。
(11)
労働価値説の影響をここに見るのは不当ではない。ゴムバーズたちr純正」組
合主義者(後注24も参照されたい)が第一インターナショナルのマルクス派から
出現したことはひろく指摘されている。しかしゴムパーズをサンジカリストと呼
118
アメリカ労働運動のイデオロギー
ぶこと(Wimam M.Dick,エαb〃α〃Sθc舳舳肋λme〆。α,port Wa−
shington,1972,pp.34,113−118.)は適当でない。ゴムパーズにはぺり一・アン
ダースンの所謂「ヘゲモニー的イデオロギー」(Perry Anderson and Robin
B1ackbum,τm〃as50cm仇m,L㎝d㎝,1965佐藤昇訳rニュー・レフトの
思想』河出書房,1968年、38頁)が欠けているからである。この点については別
稿で論ずることにしたい。
(12)U.S.Indusrial Co㎜missionにおける証言。ただし引用はLouis S.Reed,
〃eムαあ〃〃〃05ψ伽。ゾ∫αmm’oomρeκ,New York,1930,p.17.佐々木
専三郎訳『サミュエル・ゴンパースの労働哲学』東洋書店.1973年,1O−11頁よ
り。
(13) 必”.,p.17.邦訳.11頁。
(14) Gompers,工所e,Vol.I,pp.286−287.邦訳,上巻,288頁。
(15)〃姐,Vo1.I,P.75、邦訳,上巻,86頁。なお,ゴムパーズはその自伝をラウレ
ルに捧げている。
(16) John R.Commons et al.,〃舳ηoゾL必θm切肋2σm伽d S物。es,New
York,1918,VoL II,叩.196−197,332−338;Lloyd Ui醐an,〃e”520アme
M田〃。n〃σ〃。m,Ca皿1bridge,1955,pp.348−356.
(17) Gompers,L伽,VoI.I,pp,78−79.邦訳,上巻,89−90頁。ただし入会したも
のの会合には二度と出席しなかったという。
(18) Dennis East,HUnion Label a皿d Boycotts,”Zω〃〃赦θη,VoL16,No.2.
1966を参照されたい。
(19) Gerald N.Gmb,Wb〃〃5maαo伽。,Evansto皿,1961,p,105、
(20) ∫あ{d.,pp.105_106.
(21)Ulman,oカ.c〃.,PP.356−377.
(22) これについてはGompers,Z伽,Vo1.I,PP.241−284.邦訳,上巻.243−286
頁,小林英夫『サミュエル・ゴムパーズ』ミネルヴァ書房.1970年,46−57頁を
参照されたい。
(23) Gmb,oカ.c〃.,P.172.
(24)AFL,0θmen”m Pmcee〃mぎ∫,1890,pp.12−21.ゴムパーズの有名なr純正」
労働組合trade union,“pure and simpIe”という言葉はこの大会でのものであ
る。
(25) AFL Co刎m”m Pmcm〃mξ5.1893,PP.37−38.
(26) Gmb,oφ.c批,カク、177−178.
(27) Philip S.Foi1er,〃柵θηqμ加工”か07Mωe吻m㍑〃加σ〃伽d S〃加∫,New
York,■1955,Vol.II,pp.29レ292、翌年の大会で綱領の否決が確認されたが立法
要求の形で実質的には修正綱領が採用された。Grob,oヵ.〃.,ヵ.179.
l19
橋研究第1巻第4号
(28) AFL,Cθ伽m〃。m Pmcm〃mg5.1890,p.17,
(29) Cormier and Eaton,oφ.c〃.,pp.4−7.
(30) 当時の友人ビショップMelvi皿Bishopの言。〃d.,P.17.
(31)〃広,叩.16−17.
(32) 〃加.,pp.19−46.Jean Gould and Lorena Hickok,Wo〃〃R伽m〃,New
York,1972,pp.49_53,65_89.
(33) Cormier and Eat011,oヵ,cψ.,p.64.
(34)∫〃.,P.123.
(35)〃姐,p.124.彼はこの選挙に葉選した後公職選挙には推されても立候補しな
かった。
(36)知事は1936−37年のUAWによるGM組織化運動の際,斡旋に尽力した。
Walter Gal㎝s㎝,neα0C加〃e8e’θ肋eλ〃,Cambridge,1960,pp.
138−143,147−149.参照。
(37) マーティン組合長を中心とする革新派Progressive Cau㎝sとルーサー派お
よび共産党派を中心とする統一派U皿ity Caucusとの間の闘争である。これに
関しては津田真徴rアメリカ労働運動史』総合労働研究所,1972年,276−278頁I
拙稿「UAWルーサー体制の成立」r一橋論叢』74巻4号、1975年,および
Gal㎝s㎝,ψ.c〃1,pp.150−178を参照されたい。
(38) Cormier a1]d Eaton,oρ.c〃.,p.144.
(39)社会党からローズヴェルト連合への転向の例は他に,ヒルマンS.HiHmanや
グビンスキーD.Dubinskyがある。DavidA.Sha皿mn,〃e Sθcゴα〃5CPα〃ツ
○グλ舳〃。α,New York,1955,pp.245−246.
(40) Arthur J.Go1dberg,λFZ−CJ0=工αム〃σm伽σ,New York,1956,p.215.
松井・古米訳r労働運動の分裂と統一』好学社,1965年,225頁。
(41) Cormiera皿d Eaton,ψ、c〃.,PP.278−279.「アメリカの土から生まれて」く
るものが句かは別稿で検討する。
(42)hving Howe and B.J.Widick,〃eσλW ma Wα〃〃Rm肋e7,New
York,1949,pp.72−73.
(43) ルーサーは共産党入党さえ奨められたという。Cormier and Eaton,oヵ.c〃.,
P.125参照。
(44) Jわ’ゴ.,pp.119−120.
(45)共産党機関紙Daily Workerの記事による。Howe and Widick,o力.c〃.
P.153参照。
(46)Jack W.Skeeis,〃e Dm切刎mθグpo〃5c〃S肋〃ψw舳伽f乃e
σ〃〃ル’o Woγ后㈱σ〃。〃,Unpub1ished Ph.D.Thesis,Univ.of Wis−
consin,1957,pp.134, 138−141.
120
アメリカ労働運動のイデオロギー
(47)
George D.Blackwood,丁加σm伽dハ〃。刎。”e Wb”〃50ゾλm〃北α.
1935_51,Unpublished Ph.D.Thesis,Ulliv.of Chicago,1952,pp.255−267,
287_291.
(48)
長沼秀世rCIOの「共産系」組合追放」rアメリカ研究』2号11968年。David
J.Saposs,Cθmm舳おm伽λm〃。mσ加m5,New York,1959,pp.170−189.
(49)
ルーサーはまた.CI0の世界労連脱退,自由労連参加にも尽力した。Comie正
(50)
SaPoss,0ψ.cκ.,pp.170_171.
(51)
Howe a皿d Widick,ψ.c机,pp.114−117.
(52)
ルーサーは後に次のように語っている。r政治と組合活動を同時にうまくやるこ
andEat㎝,oク.c〃、,P.254.
とはでぎたいと思う。どちらかに決心しなくてはいけたい。」勿論彼は組合活動
をとったのである。CormierandEaton,ψ・c〃・,p・276・
(53)
Gompers,工びe,Vol.II,PP.205−223.邦訳,下巻、305−323頁。
(54)
Gompers,エ励〃m6me Cθm刎m We’∫〃e,New York,1919,pp.45_46.
(55)
R㏄d,ψ.c売.,p,130.邦訳,138頁。
(56)
Walter Reuther,∫e’e肋6P妙〃∫,New York,1961.石田磯次訳『民主的
進歩のための闘い』日刊労働通信社・1963年・37,46頁。
(筆者の住所:国分寺市戸倉2−27−6 旭荘3号)
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