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「わが主」キリスト

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「わが主」キリスト
「わが主」キリスト
ルカによる福音 82
「わが主」キリスト
20:41-44
ファリサイ人、律法学者、サドカイ人との公開討論の最後の所ですね。場
所は宮の庭、つまりエルサレム神殿の境内です。こういう現場は、聖書を読
んだ者としては、どうしても行って自分の眼で確かめて、自分の足でその敷
石を踏んでみたいものですが……。
エルサレムまで行って神殿の庭を見なかったのは私くらいかも知れません。
ちょうど戒厳令が敷かれていて、神殿の境内だけは入れなかったのです。外
側から壁の大きな石を見て、写真を撮って触ってきましたけれど、その日の
朝も神殿の付近で騒乱があったから近づくなというのです。もちろん今そこ
にはユダヤ人の神殿はなくて、アラブの回教のドームが立っています。夕暮
れ近かったですが、迷路みたいな路地を一人で恐る恐る裏の方から廻って帰
ってきました。
「外国人旅行者の生命は保証される」というフセイン国王のお布令が出て
おりましたが、ああいう時はどうなるか分からないでしょう。角川映画のラ
ストシーンみたいに銃殺されて巻き添えになるのはごめんですから。
でも、無責任なことを言う人もいました。「君、エルサレム神殿の庭に自
分の足で立ったら、死んでも本望だろう」……そうは参りません。ちょうど
隣のシリアがナセル派のクーデターでエジプトと合併して、アラブ連邦共和
国になったり、また離れたりしていたころで、そのナセル派の工作員がヨル
ダンもひっくり返そうとしていた最中、
あれは 1963 年 4 月 24 日のことです。
大体、エルサレムへ行くのはやめておけと、ダマスコの日本大使館で言わ
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「わが主」キリスト
れてきたのです。でも折角学校のイースター休みを利用して、アテネからイ
スタンブール、ベイルート、アンマンまで来たのに引き返すわけにはいきま
せん。アンマン市内なんか、ヨルダン軍の戦車と兵士でいっぱいでした。結
局エルサレムは殆ど全部見ましたけれど、宮の境内だけはあきらめました。
その私にとっては幻の敷石の庭で、ここの 2 頁の問答はみんなあったのです。
20 章の初めから……覚えていらっしゃいますか?
「ヨハネの浸しは天からであったか、人からであったか……」「カイザル
のものはカイザルに返すがよい。そして神のものは神に……」それに先週読
んだ所もですね。「神は死んだ者の神ではない。つかまえたら生かさずには
おかぬ神だ」私もこれで案外想像力がありまして、その時のイエス様のお声
が庭の石畳みや大理石の壁にどう反響したろうか……私もその壁の外側だけ
は触ってきたのです。それに、この時はヘブライ語で話されたとしたら、三
分の一位は私にも分かったかな……ちょっと無理かな、などと考えます。そ
の劇的な討論の一番最後に、今日のこの「キリストはダビデの子」であろう
か……という所が出てくるのです。
エルサレムの学者ロバート・リンゼーという人は、ここの所のイエスのお
言葉 7 行ほどを次のように復原しています。
(ヘブライ語の朗読)
こういう風に空想しますと、現場感と言いますか、私には非常にその場の
様子がリアルに感じられるのですが、その代わりこの時おっしゃった内容自
体はどうでしょう。少し理屈っぽくで、神学的で面白くないですか? 大体の
意味は一読してお分かりになると思いますが、本当のキリストが来られる時、
彼は単なるダビデ王の子孫ではない。あの偉大なダビデ王でさえ「わが主」
と言った。ダビデ王にとってもこの人は主であった。あなた方の期待するキ
リスト像、メシア像を根本から考え直せ!
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1.ユダヤ人の夢を叩き壊す :41.
イエスは彼らに言われた、「どうして人々はキリストをダビデの子だと言
うのか?」
どうして……と言えば、その理由の一部は私たちでも、聖書を読んだ者な
ら知っています。たとえばクリスマスによく朗読されるイザヤ書の箇所です
が、エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結
び、その上に主の霊がとどまる。(イザヤ書 11:1)
エッサイはダビデ王の父ですから、ダビデ王家の後裔から主はメシアを起
こされるという預言です。このルカ伝ではザカリヤの歌の中にもありました。
主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがな
い、わたしたちのために救の角を僕ダビデの家にお立てになった。(1:69)
でもそのことをイエスはここで訂正なさったわけではありますまい。神が
お送りになるメシア・キリストは血統から言えば確かにイスラエル最大の王
の子孫、イスラエルの黄金時代のシンボルでもあったダビデ王家の血を引い
ていたのです。これは使徒パウロもローマ書の冒頭で裏書きしております。
イエスが否定なさったのは、その黄金時代の再来を夢見させる小ダビデみ
たいなキリストにかけられた夢です。その夢が多くの人に安易な世直しと、
外国の圧政からの独立ばかりを追わせました。ですからこの時代はそういう
メシア、時称「ダビデの子」がガリラヤを中心に輩出しています。
実際こういうダビデ王国の再来を約束する小ダビデを次々に追いかけたこ
とが、ユダヤ滅亡の方向へ、とどまることなく向かわせたのです。A.D.70 年
のエルサレムの包囲と兵糧攻め、前にも申し上げましたように、結局広島よ
りも沢山の人が死にました。その後、マサダ砦の玉砕というのがあります。
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沖縄を思わせますが、
婦人子供を含む 1000 人近い人が死にました。すべて「ダ
ビデの子」、小ダビデの夢の犠牲です。そういうメシア、そんな救い主だけ
が欲しい。それが民の願いだっただけでなく、律法学者もファリサイ人も皆、
そう願ったのです。
A.D.130 年の最後のユダヤ反乱の時は、革命の指導者バル・コクバという
人を正式にメシアとして迎えたと言います。ダビデの子キリスト、ダビデの
夢をかなえる小ダビデです。この時はユダヤ最大の宗教家で聖人とも言われ
るラビ・アキバまでがバル・コクバに夢をかけて、この人がメシアだ、信ぜ
よと言ったのです。結果はバル・コクバもラビ・アキバも亡国の民と運命を
共にしました。
「どうして人々は、キリストはダビデの子だと言うのか?」小ダビデの夢
を追うのをやめよ。その方向は、そのまま突っ走れば全民族の破滅につなが
るのみか、神があなた方に遣わす本当のキリストの姿を見失わせる。今なら
間に合う。
イエスが言っておられるのは、悠長な神学論ではなく、生き死ににかかわ
る神の赤信号でした。
2.ダビデ王自身が指したものはそれとは違う :42,43.
42.ダビデ自身が詩篇の中で言っている、
『主はわが主に仰せになった、43.
あなたの敵をあなたの足台とする時までは、わたしの右に座していなさい』。
旧約聖書の詩篇は 150 の歌を集めた、イスラエルの信仰告白と讃美の歌集
で、たいてい独特の節を付けて歌ったものです。正確にどの部分を誰が書い
たかという作者の詮索は、ヘブライ文学や文献学の問題ですけれど、150 の
内 73 の詩には、ダビデによる
dwId'l.
という肩書が付いております。
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ここの「ダビデ自身がこう言っている」というイエスのコメントも、その
ユダヤ人の間で理解されている通り、ダビデの詩としてこれを見るなら、ダ
ビデはどう言っていることになるか……? ダビデの見たメシア像、キリスト
像は何か―そういう意味で詩篇を引いているのですね。大体この「わが主」
という人物、神の右に坐する者というのが、本当に神が遣わすメシアの姿だ
というのが人々の共通の理解でしたし、詩篇 110 篇の文脈もそうであります。
簡潔に説明しますと、「主はわが主に」で重複するようですが、これは独
り言を言っているのではなく、最初の「主は」の方は新改訳に太字で印刷し
て区別してあるように、これは原文でヤハヴェ、全能者、主なる神様のこと
です。「わが主に」の方はアドニーで、私があるじと仰ぐ方という意味の主
です。日本でも主君とか主人とか言いますね。
私が主と仰ぐその方への、主ヤハヴェのお言葉「あなたの敵をこれから私
の手で征服して打ち負かす。あなた自身の力ではなく、神の全能の力で私が
自ら勝利する」多分この敵というのは、人間を押し潰して命を奪うもの……、
罪と死の力……ということだろうと、これは第一コリント書の終わりの方か
ら考えるのですが、敵というのはローマ軍や異民族の圧政者ではなく、もっ
と恐ろしいものを指すのでしょう。「最後の敵として滅ぼされるのが死であ
る」(第一コリント 15:26)というパウロの言葉もありました。
キリストが人間の最終の敵である罪の力、死の力を足の下に踏みにじる。
それも主ヤハヴェ御自身の力でそれをさせる。キリストはただ父のお傍に座
っているだけでよい。座って勝利の完成まで神の手の業を見学しているだけ
でよい。人を救うのに必要な罪の贖い、清め、死からの復活、全部父なる神
の手が一方的にこれを進める―という、非常に力強い内容です。
この詩を引いて、イエスはこう言おうとしておられるのでしょう。
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ダビデが見た「わが主」というのは、ケチな小ダビデじゃない。『ダビデ
王国の夢よもう一度』というダビデの子みたいなお粗末なもんじゃない。も
っとスケールの大きい、偉大な者、ダビデ自身にとってさえ「主」である方
なのだ。……これがイエスの言われる趣旨です。
3.ダビデの主は、あなたの主(あなたを納める主)である
:44.
44.このように、ダビデはキリストを主と呼んでいる。それなら、どうして
キリストはダビデの子であろうか。
つまりダビデの主だと言われるのです。ダビデは全てのイスラエル人が崇
めた理想的な王です。そのダビデが「わが主」と告白したのであれば、その
方は実は神を仰ぐすべてのイスラエルにとっても「主」ではないか……。い
や、あなた自身がこの方を自分の主として仰ぐかどうかが問われる!
この「主」Lord という称号は、面白い性質を持っています。これは告白す
る私自身が、本当にこの方を私の主だと……つまり私の上に主権を持って臨
む方だということを本気で信じていない限り意味を持たないのです。私自身
が自分で自分を所有して、自分を自分で治めきれる。私には主など不要とい
う自信を持っている限り、「シュ」という言葉はただの音声、空気が抜ける
時の「シュー」というような音声で、「シュ、キリスト」と言っても無意味
なんです。
この本はちょうど 20 年前に出した新約聖書の辞書ですが、その中の「主」
という言葉を解説する時に、私はこんなことを書きました。「すなわ
ちクリスチャンにとっては彼は自分の全生活を支配する本当の主であり、我
が生命は彼のものであり,自分は彼の奴僕である。この方を主と呼ぶ時は、
正味の意味でそう呼ぶべきであり、これを単なる習慣や『シュ』という音声
たらしめてはならない」
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ここにあるのは、20 年前にある新聞に載った書評で、東京神学大学の竹森
満佐一氏による「学徒に待望の小辞典」という題で、大先輩のお言葉として
非常に好意的なものですが、その中に「この辞典が説明的であることは、非
常に大きな特長である。しかしそれは同時に弱い点になる場合もある。それ
は、説明が説教になったり、一つの神学的立場の主張になることもあるから
である。たとえば
『主』という項目で、編者は『キリストをこう呼
ぶのは単なる習慣やシュという音声たらしめてはならない』と書いてあるが、
これは辞典の範囲を超えるものではあるまいか? ……むしろ語学的な的確
な訳語によって表すべきで、あまり説明的に過ぎることは適当でない。こと
に編者は、この辞典をもって神の言葉を正しく伝えようとしている。そうい
う熱心からのことではあろうが、辞典としてはかえって逆効果になる恐れが
ある」
辞典としては本当にそうなのですが、私が書いたことも正味本当なのです。
《 ま と め 》
ですから私たちは、どんな初歩的な単純な信仰でもいいから、自分が正味
この方を「わが主」として受け入れる時だけ、洗礼を受けるのです。形だけ
の洗礼、キリスト教徒に改宗する洗礼というのは、カトリック国やギリシャ
正教国にあっても、我々にはないのです。
三年か四年前、ギリシャの主教の姪御さんが、日本の青年と駆け落ちした
ことがあって、ギリシャから私に頼みの手紙が来たことがあります。娘さん
のご両親が外国人との結婚を絶対に許さないというので、御嬢さんは成人に
達するまで待って、勝手に結婚しても法律的に罰せられない日になると、す
ぐに飛行機の切符を買って日本に来てしまった。相手の青年はキリスト教徒
全く関係のない仏教とか無神論者です。何とかギリシャ正教徒に改宗させな
いと、娘さんの結婚は本国では正式に認められない。
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何処でどう調べたのか、ギリシャの主教様から私に依頼があり、埼玉まで
出向いてその青年を説得してギリシャ正教徒に改宗させてほしい……と言う
のですが、そんなことできるわけがありません。その上大阪と埼玉というと、
自転車でちょっと行ける距離位に思っているらしい……とても困りました。
まあ、ギリシャ政府には昔世話になって義理がありますけれど、学校を休ん
でそんなことをしている暇はありません。
結局娘さんにギリシャ語で手紙を書きまして、「あなた、いくらなんでも
ご両親の手紙になしのつぶてというのはよくない。あなたももう大人だから、
ちゃんとご両親に手紙で詫びを入れなさい。お父さんも決して悪いようには
しないと思う……」こういう所の人情はギリシャ人も日本人も同じですが、
結局後で聞くと、この青年はお父さんを安心させるために、東京のニコライ
堂でギリシャ正教要理の講義を受けて、ギリシャの主教様立会いの下にめで
たく洗礼を受けたのです。この時は正直、大いに興ざめました。恐らく形だ
けギリシャ式のキリスト教徒になって、「主キリスト」を告白したのです。
「主」という言葉の内容なしに……これはダビデが仰いだ主に対する侮辱で
す。よその教会、よその国ではそういう例はあっても、私たちの間では絶対
にあってはならない。本当に主を主と崇めて服する人だけが、「主」という
言葉を口にしなければならないのです。
考えてみると「主、イエス・キリスト」という短い告白だけでも、ごまか
せない事実と重い意味が詰まっています。「キリスト」と「メシア」は同じ
で、神が立てて任職の油を注いで送って下さった方、神の最終的意志がその
方に込められている全能者の名代として、この方を尊重するのでなければ、
「神のキリスト」という言葉は意味を持ちません。第一、神が人の世にその
ような方を送るということがあり得ない、滑稽なことであれば、キリストと
いう告白も無いわけです。
イエスという名 jesus、ヘブライ的に言うとヨシュアですが、「イエス」
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という名は「神は救う」とか「神が救う」という意味ですけれど、神に救っ
て頂かなくても自分自身の力で何とかなる。神様の手でしか解決できないよ
うな問題は私の中には無い。罪なんてものは、キリスト教徒の妄想だ……と
思えば、「イエス」という名を良心的に口にできないでしょう。
でも一番ハッキリしているのは「主」ですね、自分が全面降伏して服さな
い限り「主」と申し上げるのはお芝居になりますから。本当に言うたびに「シ
ュゥ」と空気が抜けるだけです。滑稽で悲しいだけでなく、これは神を侮る
ことになる。
考えてみると、この称号はイエスがおっしゃった「神の支配」「神が王と
してあなたを治める」というあの思想とつながっています。the Kingdom of
Heaven です。元々人間は主なんかを持ちたくないものです。でも神様に手
を触れて清めて頂かねばどうにもならないものを内に見て、初めて主が分か
るのです。神の子の血だけが、この私を罪から清めて下さる。死から復活し
た方だけが、この死んだ私を生かす。それに気づいた人だけが、喜びを込め
て「主」と言うのです。
今からその主イエスのパンと杯を頂くわけですが、これを受ける人と受け
ない人と差別があると思わないでください。どんな幼稚な不完全な信仰でも
いい。カラシ種ほどの信仰でも、正味この方が私を治めて下さる主だと思う
人だけが、これを喜んで手にするのです。そして、まだその決断のつかない
人は、謙遜に、いわばご遠慮申し上げて、祈ってその時を待つのです。
これは、ありがたい安全装置じゃないですか! 悲しいお芝居、滑稽なお芝居
を避けるために、主が下さった安全装置です。
(1984/09/30)
《研究者のための注》
1. 前置きの所で、イエスのお言葉の復原と言って朗読したヘブライ語は、正確にはルカ
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伝ではなく、マルコ伝の平行箇所(12:35-38)を Robert Lisle Lindsey という人が
ヘブライ語に訳したものです。詩篇の引用箇所は原典のまま、イエスの御発言の所は
現代ヘブライ語のやや固い文語体と言ってもいいですが、事実上ミシュナ・ヘブライ
語のスタイルに近いものです。
2. 詩篇 110 の厳密な釈義という立場からすれば、「わが主」という所はこのフレーズの
慣例から見て国王を指すわけですから、これはダビデの発言ではなく、王の家臣が「わ
が主」である王への尊敬とその君主への神の祝福・守りを歌っていることになります。
しかし、イエスご自身の解説は、この詩全体を当時の理解に基づいてダビデの発言と
して捕えたら、どんなショッキングな宣言がここにあるか……ということで、私たち
は信仰の出発点としてカノンとしての詩篇を見る限り、文献学の釈義はどうであれ、
このイエス様の解釈に基づいてこれを読むべきでありましょう。
3. マソラ本文による詩篇 110:1 の冒頭は
対発音せず
yn;Ada]
ynIdoal; hw"hy> ~aun>
ですが、hwhy はユダヤ人は絶
と読みました。ですから現実に読まれた形は
ynIdoal; yn;Ada] ~aun>
です。
昔のアメリカン・スタンダード訳では、Jehovah said to my Lord で、最初の主に
Jehovah という語を当てはめました。日本語ではカタカナでエホバと書かれ、いまだ
一部の人たちの間では神聖な名として頑固に守られていますが、本当は、エホバは一
時代の語学者の勘違いから出た読み違いで、正しくはヤハヴェでありましょう。ユダ
ヤ人の習慣を尊重するなら、口語訳や共同訳のように「主は」とすべきでしょう。主
ヤハヴェと主アドナーイまたはアドニとを区別するには、新改訳のようにヤハヴェの
方を太字で印刷するのも一つの方法です。このヤハヴェの発音が長い間失われて不明
であった事情、母音字のないヘブライ語の表記などについては、不充分ですが、マル
コによる福音第 44 講「ダビデの主」の初めの部分を参照してください。
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