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2014.3発行
展景 季刊 No.73 March 2014 季刊 展景 目次 号 顚倒夢想〈俳句〉 ………………………………………… 新野祐子 一葉〈短歌〉 ……………………………………………… 布宮慈子 歳末〈短歌〉 ……………………………………………… 丸山弘子 津波のごとき朝の日〈短歌〉 …………………………… 結城 文 春となる〈短歌〉 ………………………………………… 池田桂一 冬の陽〈短歌〉 …………………………………………… 市川茂子 冬朝歩み〈短歌〉 ……………………………………… 小野澤繁雄 二〇一四年一月一日〈短歌〉 …………………………… 河村郁子 近江気まぐれ文学抄 水上 勉 『しがらき物語』 ……………………… 新関伸也 PART 49 ………… 丸山/布宮/小野澤 高野山 ……………………………………………………… 松井淑子 〈那須通信 〉ネコヤナギ ……………………………… 加藤文子 〉 やっけ …………………………… 鈴木京子 〈 鳥海山麓だより 対詠 ごきげんいかが? 前号作品短評 ………………………………………………………… 前号作品短評 ………………………………………………………… エッセイ教室「清紫会」の作品より … ……………………… 市川茂子 「 ピンピンコロリ」のこと 曾祖父秀実の事 ……………………………………… 大石久美 短気は損気? ………………………………………… 池田桂一 「清紫会」だより ……………………………………………………… 無二の会短信 …………………………………………………………… 編集後記 ………………………………………………………………… 4 6 2 展景 No. 73 展景 No. 73 3 42 8 18 16 14 12 10 8 73 A B 20 44 42 38 34 30 26 58 54 53 50 48 46 18 顚倒夢想 にい の 新野祐子 どり 冬ぬくし被曝の猿が電線に うき ね 浮寝鳥除染済みしと言ふべきや ぶ く ま 山眠るフレコンバッグ敷きつめて あ 阿武隈山を抜け冬の水混濁へ さが お降りや若き杜氏ら山目指す うが 溶鉱炉のやうな初日の我らを穿つ てん だう 冬帽子顚倒夢想とて転ぶ 雪起しラーゲリの手記再読す 絹のごと糀咲きゆく寒月下 透明の器にも影日脚伸ぶ 4 展景 No. 73 展景 No. 73 5 一 葉 やす こ 布宮慈子 取材せし講座に出会ひたる一葉 冬の間われの中に息づく シュール 明 治 期 の つ い こ の ま へ の 小 説 に「 。」少 な く て 息 が つ づ か ぬ こ 二文字を見つめてをれば若き娘が老婆のごとく転びぬ をなご 気 つ 風 の い い 女 子 で あ つ た「 た け く ら べ 」の 美 登 利 の お 転 婆 群 を 抜 く 一葉はまことの詩人と鷗外の絶讃したり同時代に生き 女とて持ち上げらるるは御見通し一葉かなりクールでありき さい くん 細 君といふ語があるからフクンでせうね講師の先生われより若し に落語が入れてありしゆゑそを聞きながら風邪の日過ごす i Pod いやほんをさして眠れば樋口奈津ゆめをはみだす本郷菊坂 一葉をふかく思へり日を受けて真珠のやうにひかる白鳥 6 展景 No. 73 展景 No. 73 7 歳 末 丸山弘子 「 天 皇 誕 生 日 」す な は ち 父 の 発 ち 日 に て 墓 ま で の 道 枇 杷 の 花 咲 く ぬぐ イヴの日の開店なれば記念品のポインセチアの鉢 床に溢るる み 禅定院の本尊不動明王像檀家の人らお身拭ひしてをり ブロックの塀を水洗ひして角の家大晦日ひねもすペンキ塗りゐる 山茶花の花にはやけれどはやばやとメジロ来てゐるチィーと鳴く声 しばらくは飯撒くことを止めゐるに番の鳩の今日も来てをり 公園の小高きところ侘助の思ひがけなき花の多さよ 池の辺にわが佇ちをれば浮かび来ぬメタボの鯉にスリムが寄り添ひ ま 洗張り屋の跡地たちまち整地され七台分のコインパーキングと成る く る 縁石を越えて自動車は大破とぞ運転手の君の無事でよかつた 8 展景 No. 73 展景 No. 73 9 津波のごとき朝の日 結城 文 温暖化の海凪わたり操業を止めしクレーンの上の青空 衣ずれの音ひそやかに時のゆき刻々移ろふ湾の夕映え 水の面を風がわたつてゆくやうにさざ波たてて想念の過ぐ かん せい 音もなく影絵のやうにつづきをりひそかなる陥穽のプロット 遁走か挑戦なるか空を截る飛行機雲よしばし崩るな 灼熱の砂漠で水を欲るごとく平和は戦争によりて語らる 通過する回送バスのうす暗き座席にわれを乗せて去らしむ フル・ストップ打ち次の文おこすやう車窓の景は次つぎ変はる 黄金の葉むらをなべて解き放ち来む春夢みて天を指す公孫樹 「 さ・よ・な・ら 」と 夢 に て 言 ひ き カ ー テ ン を 開 け ば 津 波 の ご と き 朝 の 日 10 展景 No. 73 展景 No. 73 11 春 と な る 生きる習いとならんか吾も 池田桂一 ひよ 残り柿に群れいる鵯のさわがしき 冬の田はさびしきものよ稲株の並び続くを車窓に見つつ 帰路にまだつながれて犬は吠えており目の合いしとき声のやわらぐ 隣り家にエンジンの音止みてのちパパお帰りと続く子らの声 べ 餌台に古米撒かんと庭に立つ吾の姿に鳥ら寄りくる よ 昨夜降りし雪置く板をぬぐいつつ古米の餌を雀らに撒く 葉は落ちて沙羅の木肌はつやめける降り継ぐ雨に濡れつつおれば チェーンソーの音に近づく道を来て伐られし森の空を仰げり 暗がりに舌うちならし猫を呼ぶ慣らいに気づきひとりの笑い 夜来より続ける雨に春めくは花壇の土の黒きにおもう 12 展景 No. 73 展景 No. 73 13 冬 の 陽 い 市川茂子 な かすかなる地震にも心さわだちてわが立ち位置をたしかめいたり 少しずつ体内時計のずれてゆく老いのきざしを日々に感じて くりや 米粒をこぼして厨に拾うとき田植の感触かすかによぎる とう ムーンマーメイド 子雀の軒近く来て啼きおれば飯を残して分け与えたり せい じつ 生 日に給びし 夢 蘭 の鉢と重なる友の笑顔が 庭先の野ぼたん冬の陽を浴びてつぎつぎ開く深き紫 野ぼたんの深き紫かすみたり白内障と告げられてより 取りいだす羽毛布団の破れいて蝶のごとくに羽毛飛び交う 冬の陽の強く射しくる部屋におり目の手術後のサングラスして また一つ高きビル建ちまなかいに沈みゆく陽の彼方消されつ 14 展景 No. 73 展景 No. 73 15 冬朝歩み 小野澤繁雄 鴉には種のちがいのみ早朝をバッハのような髪に女は 六人という人数ながら数えおえ通学班リーダーは女子歩み始む 土手上に低くたいらに枯芝は土をし摑むみちを続けて くぐもった声の降りきぬ二階やの小屋はめずらし鳩飼いおれる 高台は畑地下手に雑木林丘陵地なるみちを歩める その家では何につかいし駐車場に薪きっちりと積み上がりいる ものみなはあるがままにて冬朝は雲一面に晴れ間がひとつ いろ 葉も凍みて艶うものかな赤椿腫れたるように一木一木は 何もなき庭もしよけれ手が入りて土のたいらに均されていつ カーテン越しに灯がみえる人が住むへやの灯が冬朝歩み 16 展景 No. 73 展景 No. 73 17 二〇一四年一月一日 十 「 年日記 河村郁子 今年より何かを変へたき思ひにて選びしものは 十年間ひと日の事を書き入れるコマは3×8センチほど 一頁の左上のコマを埋め右下までは時空十年 この一年一日ごとに推し量る十年先のこの日の万事 はざま 十年の三千六百五十余日過去と未来の間を生きる 」 一日ごと未来志向を強ひられる 八十路過ぎればそれもよからふ 十年の魁となる文字は 晴 「 」 兆しになれと初詣する この冊を 老 「 春日記 と 」 名づけたり良かれ悪しかれ私の真実 柿の葉の鮨の形に積まれゆく歳月われを待つてはくれぬ 庭先の梅のつぼみに紅さしてわが老春時代始まる 18 展景 No. 73 展景 No. 73 19 近江気まぐれ文学抄 勉『しがらき物語』 水 上 にいぜき 新関伸也 たぬきの置物で有名な信楽は、甲賀や伊賀の山に囲まれた琵琶湖の南の静かな盆地にある。良質 の陶土が取れ、そこで作られる信楽焼は、中世から今日まで綿々と技を伝える日本六大古窯の一つ に数えられる。信楽は日本有数の窯業のまちである。 この物語の主人公「弥八」は、身寄りのない少年の頃から学校へも通えず、陶土掘として信楽の 雲井に住み、山で土まみれになって力仕事の男たちと働いていた。陶土を掘っては、信楽や京の陶 工のもとへ「リヤカー」で運ぶ仕事を黙々と行っていた。その風貌は偉丈夫で、顔つきは三白眼に 大きな鼻、阿呆面のいわゆる醜男である。そんな弥八に弟子になるように、陶土を運ぶ山道で声を かけ た の が 、 陶 工 木 崎 平 右 衛 門 で あ っ た 。 平右衛門は、腕の立つ名陶工であるが、無口でその上、独り身の変わり者と噂されていた。それ は孤児の「小夜」をもらい受け養育しながら、お紺という身寄りのない流れ「ヒデシ」を雇って作 ひ と 陶に明け暮れていた。この「ヒデシ」とは、ろくろを廻す女職人のことをいう。信楽では、自力の 蹴廻しろくろではなく、他人にろくろを廻してもらうのが常であった。この「ヒデシ」との相性が ひ よくなければ、よいものは碾けず、当然秀作はできなかった。そのため、息の合った夫婦同士で碾 くことが多かったという。このヒデシ廻しは、地べたに腰を下ろし、ろくろ台の心棒に縄をまきつ けて手回す作業である。女が、地べたに座った格好で懸命にろくろを廻すうち、着物の腰巻きの裾 がはだけ、秘部が見え隠れした。「観音さんが見えたら、 腕がにぶる」 というように、 陶工とヒデシは、 仕事柄、艶っぽいことも起こり、ろくろでは息の合った関係が求められた濃密な関係であった。 そのような仕事をしながらも、平右衛門の腕は確かだが、無口の上、生涯妻帯せずそれも美人の お紺を使い続けながら、男女の仲にもなっていないという評判で、世間は不能者とうわさし、挙げ 句の果て幼い養女を男手で育てたため、変わり者と蔑称されていた。 「土掘り」あがりのため、 一方、弥八は、平右衛門に弟子入りし、陶工のイロハから仕込まれるが、 飲み込みも遅く、師匠に癇癪を起こされることもたびたびであった。平右衛門は、時流にのって儲 けの出る火鉢や植木鉢、テーブルセットなどの大物は碾かず、大型大量生産をかたくなに拒んで小 品を 作 り 続 け て い た 。 主人公弥八は、平右衛門という師匠、ヒデシのお紺、養女の小夜との生活を重ねるうち、やがて 師匠とお紺との秘密の関係に気づき始めるのである。日中の仕事の場では、 張り詰めた空気が流れ、 黙々とろくろを碾く二人の姿しかなかったが、毎夜、平右衛門は、三十歳も離れたお紺の肌に身を 埋め、「すまない」と哀願しながら、その裸体を愛撫した。お紺も平右衛門を毎夜のように受け入 れながら、軽蔑も自虐もなく、雇われたヒデシとして時を重ねていく。ただし、平右衛門は不能者 20 展景 No. 73 展景 No. 73 21 42 であ っ た 。 また、小夜も成長と共に美しさを増し、その乳房の膨らみを、たまたま背負った背中で感じなが ら弥八は、師匠の娘に献身的に身の回りの世話をしつつ尽くしていく。 そのような四人の生活が続いていたが、ある日、平右衛門は出先の京都で倒れ、六十八歳で死を 迎えてしまう。師匠亡き後、弥八は、平右衛門の陶工の遺志を継ぎながら、 「行平鍋」を作ること に精魂を傾ける。また、お紺も弥八と共に窯を守るべくヒデシとして精進を重ねていく。やがて小 夜も他の窯元へ嫁いでいくのであるが、その嫁いだ夜に弥八と四十を過ぎたお紺は、お互いに引き 寄せられるように結ばれるのである。夫婦同然となった二人は、世間の誹謗中傷をものともせず、 作陶 に 励 ん で い く の で あ る 。 ある日のこと、お紺の女体を愛でる最中に、亡き師匠の作った壺のイメージが突如沸き出し、寝 食を忘れて作陶に没頭する。その壺のできの良さは、周囲をも驚かせ、陶工弥八の名を高めること となった。その作陶への創作欲求は、昼夜を問わぬ激しいお紺との情交と歓喜から生まれたもので あった。お紺の女体と快楽が、壺を作る上で弥八に欠かせぬものとなっていた。お紺は弥八のつき ることない欲求を受け止め、自らも喜びとした。 だが、お紺の体は結核にむしばまれていく。闘病すること一年、四十八歳でこの世を去ることに なる。弥八の激しい愛撫が身体をさいなみ、身をやつれさせたことを自ら悔やんだが、臨終に近い 床で、お紺に幸せな信楽での毎日であったことを涙ながらに告げられる。お紺亡き後、弥八は壺を 作ることをパッタリやめてしまうのである。おそらく、お紺なしには、あの壺は作れなかったに違 いな い 。 のち一人静かに仕事を続けていた弥八は、嫁いだ小夜の介護を受けながら、余生を送っていたが、 やがて遺体となって発見されるのである。その息絶えていた場所が、信楽川の近くの小川の川岸で あったという。まさに、そこは出生の定かでない弥八が、かすかな記憶をたどって、母と過ごした と思い込んでいた場所であった。享年六十歳である。 この『しがらき物語』は、昭和三十九年『小説新潮』 、十一月号に連載されたもので、人間の 業を深く見つめたテーマを得意とした水上勉の執筆旺盛な時期に発表されている。水上は、小説の 発想となる「風景」を大切にした作家であり、特に自然に囲まれた山間僻地を舞台にして、そこで 生きる人々が時代に翻弄されながら生きていく男女の交情を細やかに描くことを得意とした作家で ある 。 風景を大切にした水上は、この小説の冒頭で滋賀の瀬田から大石を通って信楽川伝いに何度か窯 場を訪れるうちに興味がわいたのは焼き物ではなく、風景と人物であったと回顧している。また、 信楽川沿いの道で陶土をリヤカーに乗せて運んでいた老夫婦から、この小説の着想に至ったと述べ ており、やがて陶工「弥八」や「お紺」が生まれたのである。戦前、手仕事や人力によって支えら れていた窯業は、やがて機械化や量産に進んでいくことになるが、濃密な人間関係の上で成立して 22 展景 No. 73 展景 No. 73 23 十 いた生業や技が失われていく一抹の寂しさも水上がこの小説を書く動機となっていたことは否めな い。まさしく、世の中は、戦後の高度経済成長期の時期であった。 また水上は、信楽の陶工「平右衛門」や「弥八」の姿を借りて、男と女、創作と性欲、醜男と美 女、女性と少女、師匠と弟子など、対照的な人物設定で、人間の宿業そのものを浮かび上がらせて いる。そこで繰り広げられる男女の交情は、出生の孤独を埋め合わせるように愛欲的である。その 人間の愛欲を包み隠さず露わにすることで、人間の業の罪深さに美醜や貴賤のないこと教えている。 24 展景 No. 73 展景 No. 73 25 高 野 山 初めて高野山にいった。私にはすべてが新知識で、興味深かった。 松井淑子 まず高野山とは、そういう名前の山があるのかと思っていたらそうではなく、それは弘法大師空 こん ごう ぶ じ 海が開いた真言密教の総本山金 剛 峯寺の山号で、それがやがてこの地域一帯の呼称となっていっ たも の だ と い う 。 この地域はまた、仏・菩薩が座る蓮花座の蓮の花弁に見立てて内八葉・外八葉と呼ばれる何層も の山並に囲まれた盆地で、盆地とはいっても標高八、九百メートルはある高台である。今でこそバ スとケーブルカーを乗り継いでゆけるが、昔この山並を越えてゆくのはさぞ大変だったことだろう。 私は関西に住む従兄に車で連れていってもらったが、往復とも道幅が狭いうえに急カーブ続きで、 生き た 心 地 が し な か っ た 。 と従兄が教えてくれた。敵同士のお墓があるとは、いったいどうなっているのだろう。まずはそ 「墓地が面白い。織田信長や明智光秀のお墓があるよ」 うつそう こを見学することにしよう。私は興味津々だった。 蒼とした杉木立に囲まれた薄暗い参道の両側が墓地に 奥 之 院 へ の 賛 同 入 口 の 一 の 橋 を 渡 る と 、 鬱 なっていて、古びた五輪塔や大小の墓石が延々と連なり、その傍らには墓石の主の名を記した札が 立っ て い た 。 そ れ ら を 読 み な が ら 進 む 。 なるほど、織田信長、明智光秀、豊臣家、石田三成、武田信玄、上杉謙信、大岡越前守、千姫、 春日局……等々、数え切れないほどたくさんの歴史上の有名人のオン・パレードである。これだけ 並ばれると、感心するよりむしろ、何やら照れくさくなってくる。 それに墓地といっても、並んでいる五輪塔や墓石はほとんど供養塔であって、そこに本人が葬ら れているわけではないらしい。本人の死後、縁者が建てたものなのだろうか。ほんとうに本人が葬 られているのは豊臣家の墓所ぐらいかもしれない。 豊臣家墓所は参道から階段を数段上がった小高い広場にあった。大きな五輪塔を中心にして、そ の左右に小さな墓石が並んでいる。五輪塔が豊臣秀吉で、その他は親族か。関白秀次の墓もここに おい ある の だ ろ う か 、 な ど と 考 え な が ら 眺 め る 。 で、一度は秀吉の後継者とされたが、淀君に秀頼が生まれたため後継者の座 関 白 秀 次 は 秀 吉 の 甥 を追われた。それをはかなんで高野山に籠ったが、秀吉に謀反の心ありと疑われて自害に追いやら れた 。 た し か そ ん な 人 で あ る 。 26 展景 No. 73 展景 No. 73 27 ふすまえ 絵に飾られたその部屋は 金剛峯寺主殿の柳の間というのがその秀次の自害の間であった。柳の襖 当時のままだそうで、そう聞いたせいか、墓地よりむしろこちらに、秀次の怨念とも悲しみともつ かない暗い想念がわだかまっているように思われ、薄気味わるかった。 夜は宿坊に泊まった。これも初めての体験である。泊まってみてわかったことだが、宿坊は本堂 く り も備えた小さな寺院で、主に修行僧と、請われれば一般参詣客も庫裡に泊めるというのが本来の姿 らしい。だが現在では一般旅館とほとんど変わらず、 私が泊まった宿坊には温泉まで引いてあった。 「宗教法人にはふつう税金はかからないものだが、こういう所にはやっぱり事業税はかかるんだろ うな あ 」 と従兄はいたって俗っぽい疑問を呈してふしぎがる。 高野山は奥深い。一泊二日の旅ではとても全体を見切れるものではない。もう一度訪ねたいもの だ。 そ う 思 い な が ら 山 を 下 っ た 。 28 展景 No. 73 展景 No. 73 29 〈那 須 通 信 〉 ネコヤナギ か すい 加藤文子 春が近づき、ネコヤナギの盆栽の花穂がふくらんできた。実際を見ることはできないけれど、内 部では活発な動きがはじまっているのだろう。真冬にくらべ、水やりの回数も増えている。 水やりの機会が多くなると、発見もいろいろある。 今日も水やりをしていたら、枯れ枝が数ヵ所あることに気づく。枯れたところを剪定するため、 ネコ ヤ ナ ギ を 仕 事 台 へ 移 し て み る 。 台の上でこうしてまじまじと見るのは久々のこと。 ネコヤナギの類は数鉢育てているが、これは中でも一番の長老、三十年のつき合いになる。 幹には深い皺が刻まれ、ジグザグにうねる枝が這うように絡んでいる。赤みをおびた枝は、ガウ ディのドラゴンゲートのようだ。直立していた枝が、こんなに繊細でしなやかになるなんて想像も つか な か っ た 。 30 展景 No. 73 展景 No. 73 31 18 ひと頃のようにたくさん花穂はつけなくなったけど、多い少ないは問題にならないくらい存在そ のも の が 素 敵 だ 。 花穂がにぎやかだった時代は、木の姿というよりも、枝先に咲く花穂に関心が寄せられていたよ うに 思 う 。 「スゴイネェ、木のカタチがオモシロイ」っ 近年は春ばかりでなく、夏も、秋も、落葉してからも、 て、 声 を か け ら れ る 。 花穂が減ったのは、年をとったせいだろうか。それとも、考えの及ばない内容で改善、工夫ので きる 何 か が あ る の だ ろ う か 。 置き場を変えてみたり、栄養をあえて控えめにしたり、また水の加減も調節して探っているのだ が、年とともに花穂はさびしくなり、枯れ枝も増えている。 これは近い将来、終焉を迎えようとしている兆候なのか。本当のところはわからないけれど、ネ コヤナギのこのごろを見ていると、寿命ということが頭をよぎる。 年月を経て醸し出されたのどかな静けさと細やかな旋律を想起させるような枝の流れ、この均衡 は、この言いしれぬ美しさは、いったい何なのだろう。 32 展景 No. 73 展景 No. 73 33 十分生ききったあとに訪れる最後であるのなら、枯れることも悪くはないと、ネコヤナギを前に そん な こ と を 思 う の だ 。 早春の光に包まれてクロヤナギの花穂が輝く Photo : Kato Fumiko 〈鳥 海 山 麓 だ よ り や っ け 〉 鈴木京子 「冬 が な け れ ば と 思 う で し ょ ? 」 東京の友人らによくそう聞かれる。私の答えは 「ヤァダァ! 冬がなかったら一年中働いてなきゃ なら な い ん だ よ ! 」 だ 。 クリスマスをはさんでの一週間、ミネコさんちで葉牡丹の出荷作業を手伝ったら、あとは二月末 まで〝冬眠〟だ。この冬眠期間があるからこそ、 春夏秋を、 太陽と大地に感謝しながらからだを使っ て働 い て 暮 ら せ る の だ と 思 う 。 刺し子教室に「復学」し、映画のDVDを一日中見て、読みたかった本を片っ端から片付ける。 通年週一回の刺し子教室では、同期生はとっくに修了証をもらい、私は留年三回。でも、農家仕事 のない冬に刺す、これこそが伝統的な刺し子ライフなのサ。 冬眠期間中の稼ぎは、時給七七〇円のお風呂掃除だけになる。週四日、夜の八時半から三時間、 雪の中を近くの温泉施設に通って、宴会場の片付けをし、サウナや浴槽を亀の子タワシでゴシゴシ 洗う。やっと月四万円弱の収入を得る。それでも、ゼロになるよりはいいヨネ。夜の仕事だから農 家仕事がある季節もできる。始めてからもう二年が経った。 十二月の始めごろ、お風呂掃除歴十年以上のムッチャンが、パート仲間全員に、古米を、申し訳 なさ そ う に 、 で も か な り 強 引 に 配 っ た 。 「新米も出て、もっけだども(申し訳ないけれど)手伝ってくれぇ」 近所の農家さんから三〇キロ袋をもらい困っているのだとか。ムッチャンの娘も農家だし、ほか のパートさんたちも自分あるいは親戚の誰かがコメをつくっている。このあたりでは、余って困っ ている人はいても、「コメがなくて困っている人」はごく稀だ。 年が明けてからもまだ、ムッチャンは「コメ、いらねが?」と騒いでいるので、コメを必要とし ている人を紹介した。野宿者に炊き出し支援をしている仙台のグループだ。 「送料は送る人の負担 になるけど、余っているなら……」と、恐る恐る言ってみた。即答だった。 「おらぁ、 やっけだぁ(面 倒くさい)」。 「ああいう人もやぁ、仕事も家もねぐているんだば、わがまま言ってねで、田舎に帰ってくればえ えんだよのぉ。田舎だば、食えねってことはねぇ」 ハナチャンがそう言うと、その場にいた四人はみな同感のようだった。 34 展景 No. 73 展景 No. 73 35 8 本当にそうかな? 田舎なら生きられるかな? もちろん帰る田舎なんかない人もいるし、田舎がある人だって、もしかしたら都会で衣食住に困 る以上の、「どうしようもない生き難さ」に曝されることをわかっているから、帰らないのじゃな いだろうか。私は実家を出てからずっと、いつホームレスになるかわからないと覚悟しながら生き ているけど、ホームレスになったら、きっとここにはいられない。田舎は、人も環境も、ホームレ 36 展景 No. 73 展景 No. 73 37 スと い う 生 き 方 を 許 さ な い 。 これは3年前に作ったメンダリ(前掛け)。 リバーシブルで裏はかわいい絣です 都会には、ホームレスとして生きられる多くの無関心と、ほんのちょっとの手助けがある。そし て、その無関心という〝自由〟のほうが、田舎の「どうしようもない生き難さ」よりもマシ、と思 う人 が 確 か に い る の だ と 私 は 思 う よ 。 Photo : Suzuki Kyoko 刺し子 2014 シーズンの新作! 刺し子部分には会津木綿を使い、色味は緑、紫、 黄(インド綿)を全体に生かしました。マチ 部と肩ベルトの、共通の刺し子もいいでしょ? 1 1 12 12 12 12 12 16 13 8 4 31 25 18 15 13 12 9 1 29 23 21 18 日 27 M O N M O N M O N O N 〉 2 0 1 3 – 2014 (元 日) 月 1 〈 PA R T 49 1 対 詠 ご き げ ん い か が ? 1 丸山 弘子 布宮 慈子 小野澤繁雄 女主人逝きて一とせ御自慢の南天の大き実高きに輝く 1 冬朝を自転車置場に近づいて冷たく硬きものに触れん者 かたはらに母ゐて賀状書きしなど思ひ出づ梅の花に色さす 201 年 歳末を雪は覆へり日の当たる木々きらきらとこの世照らして ついたちの朝を歩いて山口さん馬場さんと続く門札を読む 梅照院の初詣での人の列長くことしも遥拝のみに過ぎ来つ しら ひげ 白 鬚 と い は る る ア サ ツ キ、 初 飴 を 正 月 十 日 の 初 市 に 買 ふ 冬はまた千手観音のごとき樹よかよわき手々にふしくれ腕に 寒ければ雀らいづへに潜みゐむ撒きたる古米雨にふやけつ 一斉に空ひるがへし帰りゆく羽州の冬を舞ふ夕雀 声であり音色でありとそのひとつ朝を降りきてわれにとどくも 月 月 月 月 月 月 月 月 月 月 日 日 M 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 日 N 日 O 月 月 月 月 月 M パタパタと少女ら階段をのぼる音ピンクの自転車乗りすててあり お 驚きてネットの画面みつめたり真白なりける甲府盆地を N 38 展景 No. 73 展景 No. 73 39 日 M 一夜にて真白となりたる町ゆけば輝きを増す南天の朱 1 月 春立つといへど音なし北の地に小雪舞ひ降る一日となりぬ 1 日 もつれあう子らの声どちひとしきり間なくも姿団地入口に 2 あか ふたたびの大雪警報スーパーにおなじ思ひの友と出会ひぬ 2 2 O N M 2 4 25 21 20 16 12 5 日 1 日 23 N M O N M O N M O 展景 No. 73 40 ひよ みぞれ ベランダに鵯が小首を傾げをり餌見当たらぬ霙 降る朝 囀りは朝をせわしく降りてきてどこの家か和すラジオの声が あ た た か き 昼 下 り 銀 杏 に 来 て 鳴 け り 雀 、ひ よ ど り 、四 十 雀 も ゐ る ぬか ほ 日 28 鳥のこゑ聞こえず雨ののちみぞれ冷えゐる窓に額を寄せたり こ 月 2 耳に入りし声のひとつは老人会に出かけんという声夫婦者 わ 3 月 月 月 月 月 月 月 月 3 日 晩年に入らんとするにアパートがなぜか気になる人すまぬへや く 3 日 日 日 日 41 む 3 清掃車のこぼしたるもの拾ひつつ椋鳥の番があとにつきゆく 3 日 3 と し ど し に 花 咲 く は や し「 プリンセス 雅 」和 子 誕 生 を 祝 ぎ 植 ゑ し よ り 部屋ぬちの啓翁桜の花に次ぎ葉の生ひ出でて夜は深かり 3 展景 No. 73 3 前号作品短評A〈小野澤〉 ●ゆくりなく「中西先生」と声に出る論文資料最多なりせば 河村郁子 中西先生は、万葉学の泰斗中西進先生。「ゆくりなく」は辞書的には思いがけず、不用意に、突 然にといったところ。¬」は要るのか要らないのか。声に出るのは、作者がいかにも既知の、知り 人に あ っ た 感 じ 。 評者は十八歳で上京し、一年間を予備校に通ったが、そこで中西進先生の現代国語の講義を受け た。丸顔の顔に笑顔を絶やさない、ハキハキとした言葉でスピード感のある講義だった。スモーカー で、教室外で何を云ったか、声をかわした覚えがある。 歴史館の万葉の庭に拾ひたりほどよく虫の食ひたる枯葉 「ほどよく」という云い方が河村さんかな。枯葉にも枯葉の歴史があるような。 一連「越中国 万葉のふるさと」の詞書のようにして書かれたエッセイが、同じ号に載る。一連 にはまた、起承転結のほどよさがあり、結はこの十首目の歌。 犀 もくせい 満ち足りて歴史館出る私を包みくれたるかをり木 ●鯖雲に並ぶ風力発電所 新野祐子 時勢の句として挙げてみた。風力発電所はまだなじみが薄く、風景を異化するような存在感があ る。それ自体音数があるので、空に並ぶ、の空を補いたい。発電所の位置は、海に近いか。 十 月 の パ ラ グ ラ イ ダ ー 着 地 せ ず 「着地せず」でいろいろなことを感じさせる。 「十月の」に立ち返らせるようなある種浮遊感、あ 即身仏百年後掘る野 分 中 の わき なか るい は 不 穏 さ 。 作 者 は 決 め て い る だ ろ う か 。 膝 だれに連れられお出でとや部屋に一粒ありて動かず 布宮慈子 ゐのこづち 面白い句。秋の野分中に収穫物のようにか、掘り出されるのだ。 ● 牛 「連れられ」とあるので「動 牛膝は、ヒユ科の多年草、苞にとげがあるので実は衣服につきやすい。 かず」と意思あるもののように収めた。歌には、外界とのある親炙した関係がうかがわれる。だれ は、 作 者 に 数 え ら れ る 人 だ 。 夕べ行くと告げればわれの運転を案ずる母はまづ飯を炊く こ ぞ はや 何にせよ子を案ずるのは親の仕事のようなものだが、そうした心配を打ち消すように、とりあえ ずいつもの反応、のようにとりかかる仕事が、ここでは飯を炊く、とみた。 年死にし猫を埋めたる土は早ましろきせかい受け容れむとす 去 飼い猫を埋葬したことで、土は改められた。その土が雪に真向かう。土に向けられた視線もまた そうした雪を受け容れなければならない。時間(の経過)を。 42 展景 No. 73 展景 No. 73 43 前号作品短評B 〈慈子〉 ●つき合ひはほどほどでよし十二月たちまち弟の一周忌がくる 丸山弘子 一周忌とは、肉親にとってさまざまな感慨が浮かぶものだろう。しかし作者は、親戚づき合いは ほどほどでいいと言い切る。いや、自分自身を納得させているのか。人間関係においては余計な思 い入れは控え、適度な距離をおくことがうまく付き合っていくコツ。掲出歌は二句切れであるが、 「十二月」が少し宙ぶらりんで上と下にかかるようになっているのが思わぬ効果を生んだ。 二槽式にこだはりありて洗濯機を種類少なき中より選ぶ 数字の入った歌が多い一連。 ●石割りて咲く盛岡の桜木の花に遇はなむ来春こそは 結城 文 昨年、盛岡で開かれたドナルド・キーンさんの石川木に関する講演の折の歌。次の歌は、盛岡 の地が輩出した詩人や学者、政治家の気質を暗示しているようだ。 は半ば透きつつゆるやかに北上川へ向かふ水音 川こ床 ず か た 来方の城址に寝転ぶ木の「十五の心」の歌碑に遇ひたり 不 おおな い 「十五の心」と 木の「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」は有名だ。 いう魅力的な語句を記憶している人も多いだろう。桜は、もうそろそろ咲くころだろうか。 いわしろ 代 大地震の恐れはいらぬ」 ことば空しき 池田桂一 ●祖母言いし「この地は岩 いわしろのくに 代国といった。詳しくいうと、現在の中通りと会津に当たる。頑強な地だった む か し 福 島 県 は 岩 はずだが、大きい地震が起きてしまった。原発事故の対応が最優先で進められるため、地震の被害 は後回しにされている。個人の力ではどうにもならない家屋敷の壊れようを日々目にして生活して いる 作 者 。 そ の 苦 し さ と 達 観 が に じ み 出 る 。 逆らわず生きる余生を吉として自然のままにコーヒーを飲む 三首目の「あと幾年経てば百年その蔵は」とは、百年以上たった建造物を文化財とみなすと聞い たのだが、念頭にあるのはそのことかもしれない。百年たっていないものは該当しないのだ。 ●たしかにも「おさなごのこぶしのような」実の下がるみゆ秋のはじめに 小野澤繁雄 自然観察において、知識と実際を見比べるのは作者の得意とするところ。素直にうたい、余計な ものが入っていないのがいい。ところで、この歌で辛夷の名の由来を知った。かれんな花とは違う たばこ イメージだが、果実はにぎりこぶし状のデコボコがありこの形状がコブシの名前の由来という。 もつ 水のべに休めるは郵便配達夫一ブルジョワの風に莨 「郵便配達夫」「ブルジョワ」がいかにもクラシックな風景を醸しだす。 「ブルジョワの風に」をい ま想起できるかどうか。寺山修司を想起させる、現代の哀感が漂う一首である。 44 展景 No. 73 展景 No. 73 45 エッセイ教室「清紫会」の作品より 「 ピ ン ピ ン コ ロ リ 」の こ と せん じ 市川茂子 新聞の夕刊紙にときどき掲載されている「時のかくれん坊」は、黒井千 次氏の記事である。読 んでみると、今日の見出しは「ピンピンコロリの是非」について。 「いつの頃からか、よくこの言葉に出合うようになった。元気でピンピン動きまわっていた人が、 ある時突然他界してしまうことを指しているらしい。……」と言っている。 「健康セミ 五年ほど前に、いつもお世話になっている近所の看護師長が町内の老人会に招かれ、 ナー」として話をしたことがあった。その時に、生活習慣病にならないように具体的な事例を出し て気を付けることのほかに、ピンピンコロリの話を聞いた。 やはり年を重ねるうちに、その時は気を付けようと思うのだが、日がたつにつれ薄れてしまう。 長野県では、ピンコロ地蔵さんを建ててお参りしているようである。 日頃の心がけが大事なことはいうまでもないが、突然の出来事に残された周囲の人が迷惑しないよ うに 静 か に 終 わ り た い も の だ 。 そうはいっても、願望や欲望が出てきて、つづまりは痴呆になってと、あれやこれやに執着して、 思い 切 れ な い こ と が あ る 。 黒井氏は記事のなかで、こういっている。 「我が事としていえば、とりわけピンピンコロリに憧れを持ってはいない。最後にひと言の挨拶く らいはする暇が欲しいな、と思うからである」 身近にいる、お世話になった方々にだけでも、ありがとうのお礼をいってからにしたいものだと 考えたりして、物事が思うようにならないことを追いかけているような気がする。 この夏、沖縄旅行のおみやげに長寿のお茶をいただいた。もう一人の方からはベトナムのおみや げに蓮の茶をいただいた。その効用には、いろいろな病気に良いと書いてある。 寒くなるとますます動かなくなるので、ピンピンコロリというわけにはいかないようだ。 長寿のお茶や蓮のお茶などをブレンドして、ピンコロ茶なるものを作って飲んでみたらどうなる だろうかと、寝ぼけたことをいっている怠け者がいる。 46 展景 No. 73 展景 No. 73 47 曾祖父秀実の事 正月も数日後に迫った暖かな昼、仏壇を浄めようと私は、布を手にした。 大石久美 都の大光寺というお寺に墓があり、終戦後、亀戸の自性院に、姑は、新 大 石 の 家 は 古 く か ら 、 京 いきさつ しく墓所を決めた。その経緯は私は知らない。 マンション暮しなので、ここに引越す時に位牌も古いものは纏めて一つにして貰ったので中に在 るの は 幾 つ で も な い 。 十一年前に、心不全で死亡した夫の秀夫を包むように、その父啓二郎と母エツを並べた。祖父母 の位牌は、京都に住む、啓二郎の異母弟が、墓と一緒に守ってくれている。 それにしても位牌の数が少いのは、ここ四、五代は、一人息子か、養子のせいであろう。三つの 位牌の陰に十五センチ位の古びたのがたっている。 「狂狷院鵜水秀実居士」 (明治三十一年八月十一 日没 ) と あ っ た 。 私は、以前この狂狷院の院号に興味を持ち夫に聞いたが、夫は、その父以外全く興味を持たない。 それで姑の機嫌の良い時をみはからって、少しずつ引出してみた。 きようけん 狂狷を辞書でひいてみた。何かおどろおどろしいものを感じていたが、 意外に「 『論語・ そ の 間 に 、 子路 』 理 想 に 走 り か た く な な こ と 」 と あ る 。 姑の話と共に、数代の家系図、書類が見つかったので、私なりに解った事を書きとめておく。大 石の家は維新まで丹波の亀岡藩、五万石、松平氏の藩士であった。それは維新後、五十石に減俸さ れた書付に藩印が押してあるので確かである。 この五十石もその後政府に取り上げられる事になるのだが、もともと小藩故、家計は大変だった と思う。それにこの時の主人は、狂狷といわれる。狂狷というのは辞書にあったように、理想は高 いが頑固ものという事である。多分、私の夫は、その血筋を引いていたのであろう。何かこの秀実 さん に 似 通 っ て い る よ う な 気 が す る 。 その時代、秀実は、剣ではなく、漢字に優れていたようだ。幕府に招聘され、若くしてそのころ、 幕府の設立した開成所で、子弟に教えていたらしい。詳しい事は解らないが、維新後、新政府は、 開成所を吸収し、東京大学創設(一八七八年)と共に秀実も教員となったが、一八八六年、東京大 学は帝国大学となり、同年、義務教育の尋常小学校が各地に設置された(満六歳で入学、修業年限 四年)。幕府の開成所出身の彼は、当時の藩閥政治の中にあって、その性格故に、多分悶々とした あずか 事であろう。死の明治三十一年迄、彼は四国各地の小学校校長を歴任していたという。 その葬儀の折の祭文が虫食いだらけで判じにくいが、一途に子弟の教育に与 った事が書きとめ られ て い る 。 48 展景 No. 73 展景 No. 73 49 短 気 は 損 気 ? 池田桂一 いよいよ今年もあと二ヵ月というところで、危惧していたことが、現実に起ってしまった。 年中行事の一つとして、健康維持のために、毎週月曜日の午前中には、東長生会のグラウンドゴ ルフ が 続 い て い る 。 グラウンドゴルフ 十時にゲームが開始するので、九時半には会場に行って、グラウンドの整備とコースの設定をす るの が 私 の 役 目 で あ る 。 東長生会の会員が百名ほどの中で、この G ・ G 愛好会に所属しているのは二十一名なのだが、 六十代の会長を除いては、七十代が六名で、私より若い年齢が三名だけ、あとは八十代が十四名な ので、手伝いを要求するのは無理な状況でもある。 その日は、二ゲームを終了し、今年の最後の行事として納会を兼ねて、会場を集会所に移しての 時の こ と で あ る 。 和室に全員が揃って、開会を待っている時刻であった。二チームに分かれてのゲームだったので、 そば ホールインワンやボールが行ったり来たりの打席の話で盛り上がっている側で、ゲームのスコア計 算をしていると、突然に前会長のH氏が私たちのところへ来て、 「何 を や っ て る ん だ 。 ま だ 出 来 な い の か 」 と 大 声 を 上 げ た の で あ る 。 ゲームを終了して、まだ十五分も経っていない。 昨年は別室で計算をしたのだったが、昨年手伝ってくれたTさんが、ここでいいのではと言うの で、 そ の 通 り に し た の だ ア ダ に な っ た 。 「ま だ 出 来 な い の か ョ 」 集計は、一点の間違いでも順位が変わり、賞品に影響するので間違いは許されない。 計算を確認しながら、順位の整理をしているところでの大声に、さすがの私も耐えきれずに頭に きた 。 「Hさん、二十名の二ゲームの計算ですよ、早くても三十分は掛かります。そんなに言うなら、あ なた も 手 伝 っ て く だ さ い よ 」 言いたいことはいっぱいあるのだが、会員の面前でのことである。 誰しもが状況を把握していると判断したので、 「今からでもいいですから、残りを手伝ってくださいよ」 50 展景 No. 73 展景 No. 73 51 と自己主張するばかり。 と繰り返したが、Hさんは返事をするどころか、 「み ん な が 待 っ て る ん だ か ら 、 早 く し ろ よ 」 と う と う 私 も キ レ た 。 「急がされても私にはこれ以上出来ません。責任をとってこれで辞退しますから、あとはあなたが よろ し く お 願 い し ま す 」 と、背中を向けているH氏に声を投げつけて、食事も摂らずに会場を後にした。 Tさんも、前会長のH氏には遠慮しているので、声をあげる気配もない。ただ、時間はある程度 かかるのだから、と小声でつぶやくのを通りがけに聞いたが、現会長のI君も誰もが、H氏には頭 が上 が ら な い の で あ る 。 「清 紫 会 」だ よ り ◆第 回 平成二十五年十一月二十一日(木) 、会場・文京シビックセンター三階和会議室 〈提出作品〉市川茂子・ 「ピンピンコロリ」のこと/小野澤繁雄・キャラメル/河村郁子・滅相もない/ 林博子・老いる/松井淑子・高野山/丸山弘子・烏 ◆第 回 十二月十九日(木) 、会場・文京シビックセンター三階和会議室 〈提出作品〉池田桂一・短気は損気/大石久美・手紙/小野澤繁雄・鳩/河村郁子・十年日記/林博子・ 落葉の頃 ◆第 回 平成二十六年一月十六日(木) 、会場・文京シビックセンター三階和会議室 〈提出作品〉大石久美・曾祖父秀実の事/小野澤繁雄・室温/林博子・「おでん」を煮る/丸山弘子・セ キセイインコ (松井) 52 展景 No. 73 展景 No. 73 53 113 114 115 無二の会短信 キュッと鳴る雪で、除雪も苦労なく出来た。二度目の大雪は センチを超え、湿気が多く凍って重 ◆今年の雪は例年にない降り方で、幼い頃の雪のような気がした。最初の大雪は センチ。キュッ 41 幅2メートル、長さ メートルほど除雪しなければならない。スコップで掻き出せず、 センチ角 い雪 に な っ た 。 東長生会新年度の用意のため外出の要があるが、 車を母屋の軒下近くに置いたので、 50 か作業を続けて脱出。ところが翌々日、門の屋根に積っていた センチほどの雪が道路側と屋敷側 分はコンクリートのように固く、高さも厚みも1メートル以上の雪で塞がれていた。しかし、何と 時過ぎようやく門まで。唖然とした。夜のうちに市のブルドーザーが来たのだろうが、道へ出る部 に切り出して始末することになった。昼になっても半分。疲労困憊し腰も痛くなったが、続行。三 30 歌の方々や教え子たち、それぞれに語りかけながらの膳はこの上なく賑々しいのである。河村郁子 ところ毎年、元日に二百通くらい頂く。親戚、恩師、先輩や知人に小学校からの学びの友たち、短 と話しながらいただいている頃に年賀状が届く。御無礼とは思いながら、読み出してしまう。この たった後で私は特製の「私のお雑煮」を作り、一人の正月膳を楽しむ。御神酒や御節を仏壇の両親 御本家気取りで振舞っている。御節は二階とほぼ同じなのでと言って、 二階の一家が引き上げていっ 卓の上に用意してある屠蘇と大皿にのせた塩焼きの真鯛一尾とで、新年のあいさつを交わす。私は 親のしていたように続けている。そのころ、二階の姉の一家が神仏の礼拝に下りてくる。仏間の座 清め、家内安泰を祈る。今では私一人の世帯なので、ずいぶん簡素化してしまったが、これは、両 それから、神棚の榊や仏壇の花と荒神松の水を替え、灯明をあげて礼拝をする。火打ち石で家中を ◆私の家の元旦は、まず、若水で手と口をすすぎ、東の窓から太陽の光を合掌しながら迎え入れる。 い。 小野澤繁雄 を買って帰ってきた。しばらく手書きするなどしていたので、普通に印刷できるのが単純にうれし 込んだが、手数料、修理代などで七千円余りかかるという。すすめられるまま、五千円余の同等品 で、コピー機能を試したりして、プリンタ本体の不具合と見当はついた。四年前に買った店に持ち ◆プリンタがまったく印刷しなくなり難儀した。ヘッドクリーニングを続けてしたり、複合機なの てまいります。 市川茂子 り過ぎてしまいます。とりあえず十首にしてみました。皆さんのご指導をいただきながら、努力し て下さいました。年改まって、再び歌を詠んでみようと思いましたが、希望や勇気など、頭上を通 ◆しばらく歌を作ることを休んでいた間にも、展景の皆さんはいつも変らずに、心にかけて励まし 携帯電話など、常日頃なんでもないことの大切さを味わった出来事だった。 池田桂一 クリ腰となり二週間。全く動けずに寝返りでも目が覚める有様。寝不足や充電不足で不通になった に落下し、またもや車も人も外に出られなくなり、除雪作業となった。そして、予感していたギッ 50 54 展景 No. 73 展景 No. 73 55 20 ◆仕事でタヒチを訪れる。日本から十一時間、南国常夏の島である。フランス領であったために公 用語はフランス語、文化もフランス的で混血も進んでいる。かつて、 パリの生活に疲れ果てこの島々 にたどり着いたゴーギャンは、タヒチの女性と出会い、そこで彼の画業が花開く。その一端を感じ るための旅であったが、意外と都会なのに驚く。狭い島のため車の渋滞あり、物価は日本並み。高 級リゾートホテルが点在し、お金持ちが訪れる。近くのモーレス島の山々や海に癒やされたが、正 直ゴーギャンの浸った風俗は、今はない。ただ鬱蒼と茂った神殿跡に立ち入ると、霊気が漂ってい た。ふと、日本の神社を思い出す。やはり、人が崇め守り続けた場所は、人を何かしら生の根源に 戻す 霊 地 な の か も し れ な い 。 新関伸也 ◆十二月、福島浜通りの視察に参加した。莫大な公共事業費を投入し除染を行い、一刻も早く避難 者を帰還させ賠償金を打ち切る。復興とは程遠い棄民政策が一目瞭然であった。福島の高校教師・ 中村晋さん(「海程」同人)は、かつて「東北は青い胸板更衣」と詠んだ。東北のみずみずしい山 河と生きとし生けるものを彷彿させる。そんな大地が原発事故によって一瞬にして奪われた。限り ない犠牲の上にしか成り立たない原発はもうごめんだ。 新野祐子 ◆昨年以来、珍しく体調不良である。まずは重症のギックリ腰。ようやく痛みがとれ、コルセット がはずせたと思ったら、今度は発熱で五日ばかり寝こんでしまった。ただ整形外科で骨密度を検査 してもらったところ、骨年齢は実年齢よりはるかに若い、と医師に感心され、大いに気をよくして いる。 松井淑子 ◆「私、九十歳まで死ねないの」。この間久しぶりに、年長の友人に電話をかけたらそう言った。 つづけて「家の中のものを整理して、できるだけ捨てなければ…。死んでも死にきれないのよ。で も間に合わないかもしれない」。いくらかその人よりは若いけれど、 私も人ごとではないと思った。 エネルギーが少しでも残っている間に、私もやらなくてはと思っている。 物は大切にして使いきる、 そう言われて育ったころとは、時代が変ってしまったのだ。 丸山弘子 ◆北海道の冬休みは、東京より少しだけ長い。冬籠りをするように、家で過ごす人が多いからだろ うか、道を歩く人もまばらになる。年末年始は、久方ぶりに家を離れ、小樽の冬を見に行った。どっ しりと重量感のある雪がうずたかく積み上げられていた小樽の町。粉雪の苫小牧に戻り、ホッとし たよ う な 、 物 足 り な い よ う 気 分 に な っ た 。 山内ゆう子 ◆この地に移ってから、やがて一年が経とうとしている。書斎の窓の景も、四季をめぐったことに なる。最近では、街にも乗り物にも慣れて、楽しみつつ歩けるようになった。顧みればこの一年は、 私にとってかなり目まぐるしい変化の歳月であった。立春を迎えた後の時間が、落ち着いた平穏な ものであればと願う。 結城 文 56 展景 No. 73 展景 No. 73 57 編集後記 ◆昨秋、編集ボランティアとして市民講座の取材をする機会があった。二回にわたる日本近代文学 の講座だったので、「手紙」という切り口で取り上げられた樋口一葉の小説を読んでみることにし た。現代語訳の本を読んでみたが、書き手の息が伝わってこないので断念。文語調をそのままで読 んでみる。意味がわからないことばもあって、なかなか進まない。しかし、自分が作っている短歌 も旧仮名遣いである。数ページを我慢して読んでみたら、だんだんおもしろくなってきた。 や 樋口一葉は、ほかの誰とも違う生き方をした女性だった。極貧のなか二十四歳という若さで亡く なっているが、子どものころは本郷のお屋敷に住んでいたこともあるらしい。中島歌子の歌塾「萩 の舎」に通った一葉は、上流階級の人たちとの付き合いがあった。ミスマッチのように思えるが、 彼女 の な か に 下 地 は あ っ た の で あ る 。 小説を書くのは生活のためだった。師である半井桃水に対して恋心を抱きながらも、自ら絶交を 申し出て、その気持ちを封印しながら書きつづけた。裕福な家の妻から遊女や酌婦にいたるまで、 幅広く描き切った。それは、一葉が生活の変遷のなかで見た人々の暮らしや思いだったのだろう。 一葉の手紙や日記には小説以上のおもしろさがある。たしかに、残っている部分だけでも興味が そそられる。兄の死によって若くして戸主となり、家を背負っていく樋口奈津(一葉) 。日記には 女ゆえに政治にも口出しできない悔しさをつづっており、人生訓とも読める文章はいまだに古びな い。彼女のオリジナルな考え方は胸のすくほど明解である。が、一葉は結核にかかっていた。森鷗 外の紹介により病院で診てもらったときには、すでに手遅れだったという。 図書館に行ったら、井上ひさしをはじめ、一葉について書かれた本が並んでいた。ああ、こんな に一葉にハマった人たちがいたんだ……。ことしの一月、 直木賞に浅井まかての 『恋歌』 が選ばれた。 一葉の和歌の師である明治の歌人・中島歌子の物語だ。この本の予約はいまのところ、三十人待ち である。 (布宮慈子) 58 展景 No. 73 展景 No. 73 59 muninokai.com 季刊 展景 号 一 — 七 — 二〇二 — Copyright©2014 MUNINOKAI. All rights reserved. [email protected] 山形市上町 二 制作 スタジオ・マージン 無二の会「展景」発行所 二〇一四年三月三十一日 発行 編集・発行人 布宮慈子 73