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田代安定にみる恒春と八重山
田代安定にみる恒春と八重山 ――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場 設置の関連を中心に 大浜 郁子 ∗ 〔摘要〕 田代安定是 1880 至 1920 年代在沖繩與台灣進行「舊慣」調查的官員。有關近 代日本針對沖繩與台灣的統治政策的關聯,既有的研究雖曾詳盡指出,但實證性的 研究卻不夠充足。到目前為止,筆者是以教育政策為中心,主要運用「台灣總督府 公文類纂」 ,進行日本第一個殖民地台灣與早於台灣的沖繩兩者的統治政策與比較 研究。其結果,從人際關係上確實清楚顯示在教育方面兩地域統治政策的關連性, 特別是把沖繩的統治政策作為台灣的先行典範。在進行這樣的比較研究過程中,筆 者認為近代日本與沖繩、台灣的關係追溯到肇始的時間點並加以探討是有其必要。 因此已著手研究的是「牡丹社事件」 。有關此一事件,在政治外交史與軍事史的領 域上,雖然累積了諸多研究,但筆者是從不同於過去的研究角度,由身為當事者的 琉球島民與「原住民」的雙方來解讀事件,以導入新的視點,闡明本事件中從來未 曾有的見解。即,多數的漂流民並非漁民,而是琉球王府的官員,以及事件發生的 場所不是牡丹社而是高佛社的可能性很高,又「原住民」保護漂流民之後,將漂流 民當作物品意圖做交換卻失敗,而演變為出草的可能性等,這些是可以推翻一般說 法的成果。 ∗ 琉球大学法文学部 准教授 220 因此,在本稿中將著眼於田代安定,根據現存於日本與台灣有關他的履歷書與 報告書等,介紹他在沖繩與台灣所進行的「舊慣」調查的一部分。有關田代的相關 資料,則有台灣大學圖書館特藏室所典藏的「田代文庫」 。以清楚分析由「田代文 庫」資料所見的田代安定舊慣調查全貌為前提,根據現存的公文書,透過探討田代 的經歷以及在沖繩與台灣的調查經過,這是闡明田代安定在兩地域所進行的 「舊慣」 調查一部分時所不可或缺的。而在本稿中筆者認為,藉由探討田代之經歷來看沖繩 與台灣的「舊慣」調查,對於解釋後來作為統治政策的一環,並於各方面大規模實 施的「舊慣」調查的全貌有著相當的關連。 (譯者:廖彥琦) 〔關鍵字〕 :田代安定、 「田代文庫」 、恒春熱帯植物殖育場、八重山、 「舊慣」調查 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 221 Tashiro Yasusada’s Surveys in Koushun and Yaeyama: Consequences of the “Mudan Society Incident” for the Foundation of the Koushun Tropical Botanical Laboratory Ikuko OHAMA Abstract TASHIRO Yasusada was a government official who surveyed the “old custom” in Okinawa and Taiwan between the 1880s and the 1920s. Previously, the author conducted the comparative research on Japan’s ruling policy, especially its education policy, on Taiwan (Japan’s first-ever colony) and Okinawa (its “preliminary experiment”), by consulting the Public Documents of the Governor General of Taiwan's Office. The research on human relationship revealed the relevance of these two regions in the education policy, particularly the fact that the policy on Taiwan was modelled on Okinawa. Since this research convinced the author of the necessity of tracing the relationship between Japan and Taiwan to the very beginning, a new research on the” Mudan incident” was undertaken. The author made an attempt to reconstruct this incident by investigating both the Okinawan and the Taiwanese sides. According to this new perspective, the author concluded the following points: (1) many of the “castaways” were not “fishermen” but the officials of the Ryukyuan Kingdom; (2) the incident seems to have happened in 222 “Gaoshifo Village” rather than “Mudan Village”; (3) there is a possibility that after saving the “castaways” the “aborigines” attempted to exchange goods with them, but failed, which eventually led to the “headhunting”. Accordingly, based on his personal records and reports located in Japan and Taiwan, this article describes the wide range of TASHIRO Yasusada’s surveys, including of plants and of the “old custom”, in Yaeyama of Okinawa and Hengchun of Taiwan. Regarding historical sources on him, the National Taiwan University Library Special Collection holds the “Tashiro Library”. Referring to some of its documents which have never attracted historians’ attention, this article argues that the “Mudan incident” influenced not only Tashiro’s motive for moving from Okinawa to Taiwan but also his foundation of the Tropical Botanic Laboratory in Hengchun. This is a basic research for clarifying the full picture of Tashiro’s “old custom” surveys. In future research, it will be essential to investigate his career and his surveys by consulting the existing public records in order to elucidate his “old custom” survey. This research on Tashiro’s “old custom” surveys in Okinawa and Taiwan will be the first step towards the revelation of the full picture of subsequent larger-scale “old custom” survey conducted in various places as part of Japan’s ruling policy. Keywords: TASHIRO Yasusada, “Tashiro Library”, the Koushun Tropical Botanical Laboratory, Yaeyama, “old custom”surveys 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 223 田代安定にみる恒春と八重山 ――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場 設置の関連を中心に 大浜 郁子 【要旨】 田代安定(たしろ やすさだ)は、1880 年代から 1920 年代にかけて、沖縄と 台湾において「旧慣」調査を行なった官僚である。筆者は、これまで、教育政策 を軸に、主に「台湾総督府公文類纂」を用いて、日本初の植民地台湾とそれに先 行する沖縄での統治政策や比較研究を行ってきた。その結果、人的なつながりか ら、教育性における両地域の統治政策の関連性、特に沖縄でのそれが台湾の先行 モデルとなったことを実証的に明らかにした。こうした比較研究を行う過程で、 私は、 近代日本と沖縄と台湾の関係をその初発の時点にまで遡って検討する必要 があると考えて着手したのが「牡丹社事件」の研究である。同事件については筆 者は、既存の研究視角とは異なり、当事者の琉球島民と「原住民」の双方から事 件をみる、という新しい視点を導入することで、漂流民の多くは「漁民」ではな く、琉球王府の役人たちであったこと、事件の発生場所が「牡丹社」ではなく「高 士仏社」であった可能性が高いこと、さらに「原住民」は、漂流民を保護した後、 漂流民を物品と交換しようとして失敗し、その結果「首狩り」に及んだ可能性が あること等の通説を覆す成果を得た。 224 よって本稿では、田代安定に着目し、日本と台湾に現存する彼の履歴書や報告 書などに基づいて、田代が沖縄・八重山と台湾・恒春を中心に、植物などの調査 から「旧慣」調査に至るまで取り組んでいたことを概観する。そして、特に、田 代の関係資料については、台湾大学図書館特蔵室が所蔵する「田代文庫」が存在 するが、同文庫から新史料を紹介しつつ、田代が沖縄から台湾へ渡った動機や恒 春で熱帯植物殖育場を設置した背景に「牡丹社事件」の影響があった可能性など について明らかにする。本稿のテーマは、 「田代文庫」資料にみる田代安定の「旧 慣」調査の全容を解明する基礎作業として位置づけられる。今後、現存する公文 書に基づいて、 田代の経歴や沖縄と台湾における調査経過を検討することによっ て、田代安定が両地域で行った「旧慣」調査の一端を明らかにすることは、必要 不可欠である。 本稿で検討する田代の経歴にみる沖縄と台湾の「旧慣」調査は、その後、統治 政策の一環として大規模に各方面で実施された「旧慣」調査の全容の解明へと繋 がっている。 キーワード:田代安定、 「田代文庫」 、恒春熱帯植物殖育場、八重山、 「旧慣」調査 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 225 はじめに 「台湾は我が領土になった。八重山島に十数倍の熱帯地を日本は獲得 した。翁は次いで抜擢され、帝国領土の最南門戸たる此の台湾に於て、 思ふ存分に仕事をする様になった。翁は八重山から得た経験と、八重山 で立てた計画方針を携へて、新附の台湾に於て愈々之を実行した。恒春 熱帯植物殖育場が即ちそれである」1と、ここで記される翁とは田代 やすさだ 安定 のことである。 田代は、1857 年(安政 4)鹿児島に士族の子として生まれ、柴田 塾で仏語や博物学を学んだ後、1874 年(明治 7)に上京して内務省雇と なる。後に一時帰郷して鹿児島県勧業課陸産掛となり、1882 年(明治 15)に農商務省からキナ樹試植の命を受けて沖縄調査を行う。この時の 調査報告書が「沖縄県下先島廻覧意見」である。1884 年にはロシアで 開催された万国園芸博覧会に派遣され、さらにカール・ヨハン・マシモ ウィッチ教授(植物学)の下で熱帯植物の研究に従事した(この時期に 田代はロシアの植物学の学士会会友証状を受け、ロシア皇帝から勲章を 受章している) 。1885 年ロシアから帰国の途次、フランスの「マジコ」 (宮古島)占領計画の情報に接して「海防着手急務ノ建議書」を政府に 1 「三十二 機は動き風雲は急転す、台湾我が領有に帰し、翁の舞台は茲に幕を切る」(永 山規矩雄編『田代安定翁』、台湾日日新報社、1930 年)、78 頁。本稿では、資料引用に 際し、原則として旧漢字は新漢字に、片仮名を平仮名に改め、適宜句読点を付し、補足 説明には[ ]を使用した。また、原文には現在では不適切な表現も含まれるが、歴史的 な用語してそのまま引用した。 226 提出した。この建議が受け入れられ、同年 7 月に八重山出張を命じられ た。1887 年にも八重山諸島の「旧慣」などを調査し、 「八重山群島急務 意見書」や「八重山群島物産繁殖ノ目途」等の意見書を提出して、八重 山統治の改善を訴えたが受け入れられず、農商務省を辞職した。3 度目 の八重山調査時の人類学的調査記録は田代の死後、 『沖縄結縄考』 (長谷 部言人校訂)として公刊されている。 1895 年には台湾へ渡って台湾総督府嘱託となり、以後 30 年余滞在す ることとなる。田代は、植物学調査に加えて、漢族や「原住民」に関す る広範な「旧慣」調査を行い、膨大な量の復命書や意見書、手稿類を残 した。これらの史料群が、台湾大学図書館特蔵室に所蔵される「田代文 庫」である。 1.田代安定に関する研究の現状 田代安定に関する日本の国内・国外の研究動向は、 4 つに分けられる。 まず、(1)先駆的研究であり、田代の復命書に基づく明治政府による沖 縄・八重山統治に関する研究がある(三木健「田代安定と近代八重山」 、 同『八重山近代民衆史』三一書房、1980 年) 。関連して、ジャーナリス トが田代を「冒険科学者」と見なして注目している(柳本通彦「時勢を 駆け抜けた反骨の植物学者―田代安定」 、同『明治の冒険科学者たち』 、 新潮新書、2005 年) 。次に、(2)田代の復命書に基づく台湾総督府の「原 住民」統治に関する研究がある(陳偉智「殖民地統治、人類學與泰雅書 寫―1895 年田代安定的宜蘭調査」 、 《宜蘭文獻雑誌》29、1997 年 9 月) 。 また、(3)田代の南洋調査に関する研究もある(西野照太郎「日本最初の 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 227 オセアニア民族学者田代安定―なぜ今日の民族学界で無視されるのか」 、 『太平洋学会学会誌』35 号、1987 年 7 月) 。そして、(4)田代の関係資料 についての研究である(斉藤郁子「田代安定の学問と資料」 、 『沖縄文化 研究』32 号、2006 年 3 月) 。 上記の研究は、すべて田代の一次史料を用いた研究ではない。特に(4) は、主に田代の伝記(永山規矩雄編『田代安定翁』 、台湾日日新報、1930 年)に依拠して著作目録をまとめたもので、原本の確認を行っておらず、 解題として不十分である。2004 年に台湾大学で田代の一次史料が大量 に発見され、2台湾大学図書館特蔵室に所蔵される「田代文庫」は、現 在、台湾関係資料を中心に一部がデジタル資料として同館 HP 上で公開 されている。3 私は、約 4 年前より同大学図書館特蔵室で「田代文庫」の資料調査 を開始し、昨年度からは同館と共同研究を進めている。田代の資料には、 同大が作成した仮目録はあるが、多くの資料名や作成年などが「不明」 とされており、未完成という理由で非公開である。草書体で書かれた田 代の資料は、日本人研究者でも解読は非常に困難である。特に「田代文 庫」に収録される「沖縄関係資料」は、沖縄に固有の地名や人名や王府 時代の役職名などが多く記録されているからである。そのため、沖縄近 現代史を専門とする私は細々と解読作業を続けてきた。 「田代文庫」は、 手稿類 631 件、蔵書(和書)148 件、英文・欧文資料(蔵書を含む)約 800 件からなり、全 1580 件にのぼる。ただし、手稿類は、本来別の文 書であるものが同一のものとして分類されている史料も散見されるた 2 3 史料は発見の経緯については、三木健「台湾に田代安定の資料を訪ねて―幻 の旧慣調査報告書の出現」 、 『沖縄大学地域研究所年報』2004 年 3 月に詳しい。 台湾大学所蔵「田代文庫」(http://tulips.ntu.edu.tw:1081/screens/cg.html#)。 228 め、実際には少し分量は増える。この中の「沖縄関係資料」は約 300 件 である。同資料の目録の完全版を作成して全文翻刻することは、沖縄戦 で多くの史資料を失った沖縄にとって貴重な資料となるだけではない。 笹森儀助が日本の国境地域の調査に赴く際に、田代に教えを請うたとい われるが(笹森儀助『南嶋探験』1・2、東洋文庫、1982 年-1983 年) 、 田代の一次史料の目録完全版の作成と電子データ化は、田代の調査の全 容解明にも繋がる意義ある研究である。 また、従来、沖縄、台湾、朝鮮、日本などと個別に研究されてきた近 代日本による「旧慣」調査を横断する研究はまだ無く、本研究は、 「旧 慣」調査を軸に近代日本の統治政策を総体としてとらえることにつなが る基盤となる研究である。本研究による田代資料に基づく沖縄と台湾の 「旧慣」調査の比較研究を通じての統治政策の一環としての「旧慣」調 査のモデルケースの解明は、日本国民のみならず、近代日本の統治を受 けた地域の人々にとっても将来的に多様で豊かな歴史認識の構築に資 するものと考える。 2.田代の沖縄・八重山諸島から台湾への調査対象の変遷 について これまで、沖縄調査、特に八重山諸島の調査から台湾へ渡って現地調 査を行なった田代については、田代を通した八重山と台湾の連関は指摘 されてきた。しかし、近年まで資料的な制約もあったため、未だその連 関は実証的には明らかにされていない。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 229 田代が、沖縄の特に八重山諸島の調査から、後に台湾へその調査対象 を移したことはよく知られている。日清戦争によって、日本が台湾を植 民地領有したことにより、田代は自ら願い出て台湾へ渡った。田代の渡 台理由は、 未公刊の自伝 4や伝記 5などから明らかになっているが、 特に、 彼が中心的な役割を果たした台湾における本格的な熱帯植物殖育場は なぜ創設されたのか。その殖育場がなぜ恒春地域に創設されたのか。こ れらの問いは、これまでこうした問いを立てることすらなされず、理由 は明らかにされてこなかった。 田代がなぜ台湾へ渡ったかについて、田代本人の自注が付された履歴 書によれば、1885 年(明治 18)7 月 20 日付で、沖縄県庁の庶務課常務 係を兼務となり、 「右は欧州より帰朝の際、沖縄県八重山、宮古諸島、 外交問題に関し、建議書提出の結果、戸籍、地理、宗教、租税、其他旧 慣制度改革上の準備調査及各島周囲面積測量業を兼ね、同年七月より翌 年五月に至る約十一箇月間滞留す」とある。この 11 ヶ月にもわたる調 査期間中に、田代は沖縄本島および八重山諸島に軍事視察に来ていた山 県有朋内務大臣に面会している。田代の調査書を閲覧した山県に、八重 山の軍備と炭坑を含めた開拓につき意見を述べ、山県からは西表島に集 治監を設置して囚人を開墾に従事させる意見を開陳され、この件につい ても田代の調査項目に追加するように指示された。田代の八重山調査の 結果は、50 冊にも及ぶ報告書として、農商務省と沖縄県庁にそれぞれ 4 5 田代安定「駐台三十年自叙史」、同「駐台三十年自叙誌」(沖縄県立図書館蔵「蔓草庵資 料」(天野鉄夫)収録)。これらの資料は、田代の直筆の原稿と、それらを天野氏が清 書したもので構成されている。柳本通彦氏がこれらの資料の翻刻を行っているが、翻刻 時の誤植が散見される(柳本「田代安定と「駐台三十年自叙誌」、沖縄大学地域研究所 彙報第 6 号(2008 年度)「台湾特集」」。なお、同特集には、三木健「田代安定「駐台 三十年自叙誌」余滴-天野鉄夫と『蔓草庵資料』のこと-」も掲載されている。 永山規矩雄編『田代安定翁』、台湾日日新報、1930 年。 230 提出された。6にもかかわらず、翌 1886 年(明治 19)9 月 4 日に、 「御 用有之出京申付」られた折の「上京後は、最初欧州帰朝の素意に基き、 八重山島施政上の急務意見を、当時の内閣各大臣に建議し、六箇月間全 力を注ぎしも、外交関係上遂に否認され、畢生の望絶えたるものとして 職を辞せり」となったのである。 ロシアからの帰国途次に、フランスの宮古島占領のニュースに接した 田代は、関係各所へ「南門の鎖鑰」としての沖縄の国防の必要性などを 唱え、自らその調査結果にあたり、長期間かつ詳細な調査結果に基づく 建策が、明治政府に悉く却下されたことに憤慨して職を辞したが、その 後、森有礼の勧めにより帝国大学理科大学と文部省の嘱託として、八重 山の調査を継続していた。また、この時期に、田代は南洋諸島の調査に も従事している。 田代は、1894 年(明治 27)にも、明治政府に「八重山島所見瓣議」 を提出している。しかし、政府は日清戦争時であり、田代の八重山に関 する建議を取り上げることはなかった。この建議も受け入れられなかっ た田代だが、日清戦争を機に状況が一変する。同じ薩摩出身の樺山資紀 (海軍次官時)に面会した折に、樺山から「台湾は早晩我か領有に帰せ しめさるへからさる島なり。今日より其島情を研究し置く必要あり」と 言われ、さらに樺山は『台湾府志』を田代に貸与したという。7田代は 「明治二十七年意外の時変到来し、日清開戦となる。独慨然として謂ら く、吾家兄弟数人ありと雖も、不幸にして一人も軍籍に身を置く者なし。 一家の恥辱是より大なるはなし。且又、平素企画中の沖縄県施政改革案 6 7 これらの報告書は長く所在不明とされていたが、田代の手元にあった控えが台湾大学図書 館に収蔵されており、現在、同館と筆者が共同で目録化の作業と翻刻を進めている。 前掲、田代「駐台三十年自叙史」。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 231 は時可ならす休止中、急に成達の望なし。寧ろ今心機を一転し従軍して、 一身を殉し以て家名を挙け志を潔ふするに若くはなしと」8の決意のも と、自ら志願して台湾へ渡ることとなる。 3. 「熱帯植物試植場創設之議」にみる沖縄と恒春のつな がり 1895 年(明治 28)3 月 30 日、田代は広島の大本営で、樺山大将に面 会して従軍を激励され、4 月 2 日には陸軍省雇員(混成枝隊附)となり、 従軍して澎湖島へ渡った。同島で地理、民情、植物調査に従事して報告 書を大本営に送るなどし、同年 6 月に割譲後の台湾島へ渡り、台湾総督 府民政局附となり、殖産部雇員として勤務した。翌年には台湾総督府民 政局技師となった。以後、殖産課の拓殖係、林務係、農務係などを兼任 した。そして、1901 年(明治 34)10 月 31 日付で恒春庁へ出張を命じ られた。この時の履歴書の田代の自注では「右は、前に建議中の恒春熱 帯植物殖育創設の件、採用につき其着手準備の為めなり」と記されてお り、 「台湾総督府公文類纂」には、1902 年 11 月 1 日付「総督府技師田 代安定に恒春熱帯植物殖育場兼務を命す」9との文書が収録されている。 田代が創設の建議をした新史料である同文書の写しが、田代安定「熱帯 植物試植場創設之議」10であり、同史料は「田代文庫」に収録されてい る。新史料であるため、少々長い引用となるが、以下にその一部を紹介 したい。 8 前掲、田代「駐台三十年自叙誌」。 国史館台湾文献館蔵「台湾総督府公文類纂」明治 35 年、第 2 門官規官職、進退(請求番 号 00799-8)。 10 以下、「試植場創設之議」と略記する。 9 232 【件名】田代安定「熱帯植物試植場創設之議」 【欄外】写し 【本文】熱帯植物試植場創設之議 (明治三十四年四月) 田代安定 台湾は北緯二十一度五十三分乃至二十五度十六分圏内に互座し、我 が版図内の最南域に居れり。殊に台南恒春地方の如きは熱帯圏内に属 し、略ほ香港、其他印度諸島の一部分と緯度を等ふするものあり。但 た、気候の点に於ては島の位置、地勢等の関係に由り緯度のみを以て 一概に律すへからさるものなりと雖、今植物に就て論するときは、 種々予想外なる純熱帯植物の野生するあり、又、移植品にして実に驚 くへき好発育を遂け、宛然固有植物に等しき景観を呈するものなり。 但た、恨むらくは往時和蘭人の嘗て占住を試みし以後、熱帯植物等の 殖育場に鋭意熱心なる欧米人の意匠経営を留むるもの尠きか故に、他 の同緯度の邦国にては普通一般の植物にして尚ほ本島に於て全く缺 け居るもの実に幾多なるを知らず。本邦に於ても熱帯植物の殖育に就 ては夙に着手し来る所にして、試に二、三の形跡を挙くれは、乃ち小 笠原群島の弾力護謨樹、茄菲木、幾那樹、宮崎県飽肥の旧農商務省熱 帯植物試験場、沖縄県の幾那樹、 「コカ」木及ひ大島群島(鹿児島県 下)の「チーキ」樹、試植等に於けるが如き殆んと枚挙するに遑あら さるものあり。此中、小笠原諸島の茄菲は今日同地の一産物と為り、 護謨樹は既に一喬木と為り、飽肥旧試験場は其廃止の当時植物は総て 沖縄諸島に移せしも多く枯槁し、沖縄県の幾那、 「コカ」木及ひ大島 群島の「チーキ」は其場処の不適当等の為め、今日亦形跡を認め得難 きものあり。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 233 [ママ] 今や此種の試験業に天附の好位置たる台湾島我が領土に帰す苟も 等閑に附するを得んや。但た今日まで之が実行を阻み来りし所以の ものは是全く林野官民有の区分未だ確定せす。且、其監督上の機関 缺くるに由るに外ならさるなり。即ち、旧殖産部時代の植樹業の如 き旧撫墾の地方苗圃の如き今日蕩然形跡を留めさるに至る所以は、 全く地籍と事業の目途不確定なるに外ならさるなり。依て、林野整 理の基礎定まるを俟て、諸重要経済植物殖育の方法制定せんか姑く 時期を俟つに際し、一方には、農科大学其他宮内省植物御苑等より 時々熱帯植物種子の寄贈を受くるあり。又、一方には、今回総督府 嘱託愛久沢氏布哇及ひ印度地方出張序各熱帯地方植物種子を採集携 帯せしものあり。又、同氏の尽力に依りて、 「チーキ」樹苗の早晩当 地に到達すへきものあり。右、諸種苗の整理上今日之か準備に着手 せさるを得さる場合に迫まれるものあるに至れり。 先年来、殖産課苗圃に於ても比較的夥多の熱帯地方植物は播栽さ れしなり。而して普通平野に育長すへき諸品は何れも至良の成績を 奏し、現時台北地方に移植せるものゝ如きは僅々三、四年を出すし て幹高二十尺に達し、既已に子実を結び、敢て種子の購入を要せず して、繁殖用種子を収め得らるゝものあり。而るに山林及ひ高地生 植物等は、現殖産課苗圃にて育長せし樹苗中其適当林野地に速に移 植を要すへきものあり。又、今回愛久沢氏携帯の各種子中肉荳蒄、 [ママ] 幾那、ガムビール 」 等の類は、勉めて高夾の山林地にして海風の 侵害其他気候の劇変なき良好土地を撰択せさるを得す。是に相当す る土地は、南位の生蕃地内にあり。依て、其場所及ひ着手上の方法 234 順序を予定すること左の如し。 名称及組織 該場は、当分の間、総督府殖産課拓殖係の主管に属し、其名称は、 熱帯植物殖育場と為し、殖産課傭員或は嘱託員中より監守人一名を選 定して、現場内に在勤せしめ、其植物の護育及ひ取締上のことを負担 せしめ、平素の監督は、地方庁に委嘱し置き、追て、経費の都合に依 り、同場主任を在勤せしむる方針を執り行くこと適策ならん。 位置及着手上の順序 恒春庁管内に総督府直轄の熱帯地方植物試植場を置く其着手の初 テラソ 年度は、猪朥束国語伝習所分教場の接近地に約二町歩内外の苗圃を 設け、該場に於て各種子の播栽及床替を為し、又、現殖産課苗圃よ り殖産用に緊要の目的ある諸苗木を移殖し、該場を以て恒春地方熱 帯植物試植上の根拠地と為し、又、該場内に直に成木せしめて母樹 用に供すへきものもあり。但し、其地籍は固より官有山林地なれと も、本島蕃社の習慣として下十八社総土目、即大股頭人潘万金の支 テラソ 配に属するものなり。現猪朥束社分教場に於ては附属園を設け、茶 樹の試植に着手し、又、二、三熱帯植物の播種中に属するものあり。 故に、此接近地に於て種苗圃を撰定するには他の蕃地に向てするよ り遥に便利なるのみならす、生蕃人にして、最も能く政府の命令を 遵守し、且、恒春全体の蕃地に勢力隆々たる大股頭人潘万金の父蕃 杰か 文杢 其間に於て斡旋の労を取らは、該苗圃は永久無事を期し得るこ 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 235 と瞭然たり。 次年度、即明治三十五年度に至りては、更に歩を進て、下十八社蕃地 中牡丹社、高士仏社方面の山林中海面上一千尺以上の両全地を撰ひ、 十町歩以上の熱帯地方樹木の移植試験に着手する予定なり。但し、山 副産物らしむへき熱帯経済植物及ひ薬剤植物等の栽培業も此地域林内 に於て併せ行はんと欲するものなり。 恒春牡丹社は、其附近高士仏社と共に明治七年日本軍大討伐の 歴史を有する著名の蕃社にして、旧来剽悍を以て世に名を知ら るゝものなるも、本島領有以後は他の蕃社よりも遥に静穏なり。高 士仏社の如き最も然り。是全く七年の役に於て日本軍隊の威力深く 梁等の心竊に銘刻せし結果に外ならさるなり。殊に、下十八社の全 杰か 権を掌握し来れる潘文杢 常に新政府の為め斡旋を怠らさるを以て、 其配下の諸蕃社近年に至りては能く我が治化に服し、今や各社より 学校生徒を出し事理を弁識するもの尠からす。 [ママ]試殖場か 明治三十六年度以降は、熱帯植物 試 に 接続地に年々十町歩以 上つゝ事業区域を拡充し、百町歩に達するを度として之を母樹育養地に 充て、其成績に従ひ、更に他所に適当地を撰出し、実地応用を主とする テラソ 広林区を設置するの予定なり。故に、着手の初年度は、前述の如く猪朥束 社附近に二町歩以上の苗圃を創設し、次年度よりは、其樹苗の移植に着手 するものなるも其林用敷地は、最初より前述の方位に百町歩以上を撰出し 236 置くの予定なり。 「試植場創設之議」の内容の分析に入る前に、この史料の性格を把握 する必要がある。同史料には欄外に「写し」と墨書があり、田代の署名 に押印はなく、 「台湾総督府恒春熱帯植物殖育場」の用紙(朱罫紙)に 認められている。件名に続けて、 「 (明治三十四年四月) 」と作成年月が 明記される。作成年月は 1901 年(明治 34)4 月とあるが、実際に、恒 春熱帯植物殖育場が創設されたのは、田代のこの写しの原本である建議 書が提出された翌年 1902 年(明治 35)のことである。 田代が自ら記した記録によって「試植場創設之議」と熱帯植物試植物 場創設の経過を整理すると次のようになる。まず、1901 年 3 月 23 日付 で、田代は「試植場創設之議」を、 「台湾林野監督署及び管理主務課設 立の件」と共に当時の台湾総督児玉源太郎宛てに提出した。田代によれ ば、 「[台湾林野監督署及び管理主務課設立の件]是は原稿尚存在し、当時 参事官評議にも上り、一時我が進退をも是に由りて決するの覚悟を以て 其の形行を伺ひ、同時に熱帯植物殖育場創設の議案を併せて二通提出中、 殖育場案は故障なく採用裁可され、主眼の林野監督署案は其詮議中に上 京し、次で恒春殖育場を自ら担当したるを以て、台北を去りて任地に赴 き、其れと共に監督署案は自然立消体に終了するに至れり」11という状 況であった。つまり、採用された「試植場創設之議」によって、翌年の 11 田代安定「第十節 往年蕃地管理局創設案提出の事歴」『日本苧麻興業意見』、1917 年、 286~290 頁。同書の奥付には「著作者兼発行者田代安定」とある。なお、中生勝美が「田 代安定が台湾で活動したことは、従来、永山の伝記と「駐台三十年自叙誌」に依拠して 描かれてきた。しかし、1917 年に田代が生涯初めての著作として出版した『日本苧麻興 業意見』に書かれた台湾での記述は見落とされている」(「田代安定伝序説:人類学前 史としての応用博物学」、(東洋英和女学院大学現代史研究所紀要『現代史研究』7 号、 2011 年 3 月、147 頁)と指摘し、同書の台湾の記述を若干紹介している。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 237 1902 年に恒春熱帯殖育場が創設され、田代は自らその担当者に任命さ れて、恒春に居住することになったのである。 これらの経過から判断すると、 「試植場創設之議」は、正確には 1901 年 3 月 23 日付で作成された文書であり、同文書は台湾総督児玉源太郎 宛てに提出された。同文書の写しが「田代文庫」に収録される本稿で紹 介した前出の新史料であり、写しの方は実際の作成日とは異なる 1901 年 4 月と記していることになる。 次に、 「試植場創設之議」の内容をみてみよう。同史料には、試植場 を創設する意義から創設後の具体的な各年度計画まで記されているが、 特に注目されるのは「田代がなぜ恒春に熱帯植物殖育場を創設したの か」の理由が明記されていることである。恒春の「総督府直轄の熱帯地 テラソ 方植物試植場」は、 「猪朥束国語伝習所分教場の接近地に」苗圃を設け るとし、選定理由は、他の蕃地よりも「遥に便利なるのみならす」 、 「生 蕃人にして、最も能く政府の命令を遵守し、且、恒春全体の蕃地に勢力 杰か 隆々たる大股頭人潘万金の父潘文杢 其間に於て斡旋の労を取らは、該 苗圃は永久無事を期し得ること瞭然」であるからとしている。そして、 但書では「恒春牡丹社は、其附近高士仏社と共に明治七年日本軍大討伐 の歴史を有する著名の蕃社」であり、1874 年(明治 7)の「台湾出兵」 時より、 「旧来剽悍を以て世に名を知ら」れる集落だが、日本の台湾植 民地領有以後は「他の蕃社よりも遥に静穏」であり、 「高士仏社の如き 最も然り」である。それは「台湾出兵」で「日本軍隊の威力深く梁等の 心竊に銘刻せし結果に外ならさるなり」と理由づけている。また、特に 238 杰か 下十八社の全権を掌握している潘文杢 は「常に新政府の為め斡旋を怠 らさるを以て」 、潘配下の「諸蕃社近年に至りては能く我が治化に服し」 ており、今では他の「原住民」集落よりも通学生徒を多く出している事 は、その証であるとしている。 つまり、恒春は、まさに「牡丹社事件」12の地であり、同事件の報復 措置として、日本が「台湾出兵」を行い、その結果、牡丹社や高士仏社 のパイワン族の人々は多大な被害を受けたことで日本軍の威力を刻銘 したことにより、植民地統治以後は他地域よりも日本の支配に対して穏 当であるため、恒春は殖育場設置の適地であると判断したということで ある。 この田代の意見は、いわば植民地主義の表出ともいうべき内容である。 田代が、 (沖縄・八重山においてもそうだが)台湾・恒春においても、 「蕃地」の「開発」を目的とする有用植物の育成のための場の選定にみ られるように、田代が意図していたことは決して現地住民の生活向上や 生産力の向上などではなかった。これは、前にも触れたが、田代個人の 問題というよりも植民地統治そのものがもつ性質といってよい。このよ 12 「牡丹社事件」という名称は、台湾では、主に「台湾出兵」を称するが、近年、1871 年 の琉球漂流民殺害事件から 1874 年の「台湾出兵」を一連のものとして、「牡丹社事件」 と総称する向きもある。日本では、1871 年の事件を長く「琉球漁民殺害事件」と称して きたが(かつて筆者は「「加害の元凶は牡丹社蕃に非ず」―「牡丹社事件」からみる沖 縄と台湾」『二十世紀研究』第 7 号、2006 年 12 月で指摘した)、殺害された琉球島民の 多くは漁民ではなく地方役人であったことなどから、現在、日本史教科書などでは「琉 球漂流民殺害事件」と称される。他に「台湾事件」、「台湾遭害事件」などと称される こともあり、統一した呼称はない。ちなみに、「牡丹社事件」という呼称は、殺害事件 が発生した場所に由来するとみなされてきたが、筆者は、事件発生場所が「牡丹社」で はなく、「高仏士社」の可能性が高いことを指摘した(前掲大浜論文、及び「「牡丹社 事件」再考―なぜパイワン族は琉球島民を殺害したのか―」(『台湾原住民研究』第 11 号、2007 年 3 月)。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 239 うな指向が、田代という人物を通しても、 「国内植民地」とされる沖縄 をモデルに植民地台湾で実践されたということができよう。 田代が、恒春に沖縄とのかかわりを認識していたことの傍証として、 次のことに注目したい。 「田代文庫」には、田代とは異なる経歴ではあるが同様に沖縄から台 湾へ渡り、初代恒春支庁長を務めた相良長綱 13の報告書である「祭琉球 島民之霊文」14の写しが収録されているのである。 「祭琉球島民之霊文」 の原本は、 「台湾総督府公文類纂」に収録されている。15 相良は、 「台湾出兵」に従軍した後、沖縄で学務課長を務め、渡台し て恒春の支庁長に着任した。相良が最初に着手した事業が、まさに「牡 丹社事件」で犠牲となった琉球島民の慰霊祭であったのである。相良の 慰霊祭の報告書の写しを田代が所蔵していたという事実は、田代が「牡 丹社事件」によって行われた「台湾出兵」の地である恒春に強い縁を感 じていたことを明らかにしているのではないだろうか。もっとも、薩摩 出身の田代の立場を考慮すれば、田代にとって恒春が重要であったのは、 13 14 15 相良長綱(1847-1904):鹿児島藩士族。戊辰戦争時、薩摩藩兵の身分で従軍。71 年陸軍 大尉、74 年「台湾出兵」従軍、75 年依願免本官。85 年農商務省御用掛、外務省御用掛を 兼任。86 年高等師範学校幹事となり、沖縄県師範学校、学務課長、沖縄県尋常師範学校 長を兼任。88 年免兼官、文部省視学官、90 年非職。95 年陸軍省雇となり、台湾総督府雇 に転じ、恒春出張所長に就任。翌年台南県支庁長、台湾総督府国語伝習所長心得、台東 支庁長兼任。97 年台東支庁長に就任し、台東国語伝習所長兼任。1901 年臨時台湾土地調 査局事務官兼任。03 年文官懲戒令により非職(部下の汚職による)。(国立公文書館蔵 「公文録」明治 18 年、巻 183(請求番号 2A-公-4078)、同「公文類纂」明治 37 年、第 1 巻、内閣 1(請求番号 2A-類-779)、国史館台湾文献館蔵「台湾総督府公文類纂」明治 28 年、永久追加、第 2 門官規及官職(請求番号 00053-1)より作成)。 台湾大学図書館蔵「恒報告第貮号 開庁報告」、「田代文庫」(請求番号 t0220001)。 国史館台湾文献館蔵「琉球島民亡霊祭典施行報告」(「台湾総督府公文類纂」明治 28 年、 永久保存、(請求番号 00051-6))。 240 「牡丹社事件」の地であったからというよりも、むしろその後の「台湾 出兵」で同郷の多くの者が戦病死などで命を落としたという事実による 可能性も考慮すべきことである。 田代の沖縄・八重山と台湾・恒春での取り組みの内容にもどれば、 「台 湾における田代の言動、とりわけ台湾植民論の中に“八重山問題”の体験 がおおいに反映している」との指摘があり、田代の『日本苧麻興業意見』 の中の台湾の「蕃地開拓」に関する意見にその例がみられるという。16つ まり、 「一方では「蕃人化育の歩を進め」他方では「其の兇行反抗を抑 制する」という硬軟両用の“治蕃政策”は、かつて田代が八重山改革の意 見書中で、一方では旧慣法改革や殖産興業を唱えつつ、他方では島民の 民心を鎮圧するには「警察権理拡張」や「兵備拡張」を主張したことと 発想においては全く軌を一にするもの」であり、 「しかも重要なことは、 それが田代一個人の問題としてではなく、実に明治政府の台湾における 植民地政策そのものが、沖縄統治の体験から割り出されてきたものであ った」17との指摘である。 台湾における植民地統治や沖縄における「国内植民地」的統治を、硬 軟両用の使い分けとしてとらえるか、植民地統治そのものが両面を併せ 持つものであるとみなすかは、議論の余地があるところであろう。しか し、このような指摘は、これまでも異口同音になされてきたが、台湾と 沖縄の両地域には具体的にどのような統治政策に類似性がみられるか といった実証的な研究は、残念ながらまだ十分になされているとはいい 難い。よって筆者は、これまで、両地域の統治政策の中でも、特に教育 16 17 三木健「Ⅲ 田代と近代八重山-辺境のいわゆる“近代化”をめぐって-」、『八重山近代 民衆史』、三一書房、1980 年、129 頁。 同上、三木、129 頁。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 241 政策の比較を行ってきたわけであるが、田代の「旧慣」調査は、両地域 の統治政策を比較する新たな研究として着手したのである。 結びにかえて 本稿では、まず、田代安定に関する研究の現状を把握した上で、 「台 湾総督府公文類纂」や 2004 年に発見された台湾大学図書館蔵「田代文 庫」に収録される田代の履歴書などから、田代の沖縄・八重山調査と台 湾・恒春調査への変遷を概観した。 次に、田代は、なぜ沖縄・八重山の調査とその結果に基づく建策に献 身していたにもかかわらず、日清戦争直後に台湾へ渡り、その後没する 直前までの三十数年を台湾の植民地統治政策へ関与したのかについて、 その動機を明らかにした。 特に、田代はなぜ恒春に熱帯植物殖育場を創設したのか。近代日本と 沖縄と台湾の関係の初発である「牡丹社事件」の発生地であり、 「台湾 えにし 出兵」の舞台であった恒春に、田代が沖縄との 縁 を感じていたであろ うこと、あるいは薩摩出身の田代にとって「台湾出兵」で同郷の多くの 者が落命した地への思いがあることは、容易に想像がついたが、具体的 にどのような考えに基づいていたのかについては既存の研究でも全く 明らかにされてこなかった。この点について、新史料である田代の「試 植場創設之議」 (写し)から、その理由が予想に違わず、琉球島民の多 くが犠牲となった「牡丹社事件」の地であったからこそ、恒春に植物殖 242 育場を創設したことを明らかにし得た。さらに、その理由には、 「牡丹 社事件」の報復措置としての「台湾出兵」により多大な被害を受けた牡 丹社や高士仏社の「原住民」は日本軍の威力を認識していたために、植 民地領有後も日本の支配に対して「穏当」であることが、恒春での殖育 場設置の理由であったことをも明らかにした。 新史料にみられる田代の意見は、いわば植民地主義の表出ともいうべ き内容であり、沖縄・八重山や台湾・恒春における田代の「旧慣」調査 から始まり、植物調査に至るまで多岐にわたる調査を通して、 「国内植 民地」とされる沖縄をモデルに植民地台湾で実践しようと企図していた ことまでは確認できたといえよう。 本稿では、具体的な統治政策の内容についての紹介は紙幅の関係でで きなかったが、田代本人がどのような意図で、沖縄・八重山から台湾へ と調査対象を変遷させたのかについては明らかにできた。このことは、 前述した両地域の統治政策の比較につながる重要な視点であると考え る。 田代と同様に、沖縄と台湾についての調査に基づいて明治政府に建策 を行った人物である笹森儀助については、本稿で触れることはできなか ったが、沖縄諸島全域にわたる調査に基づいて笹森が著した『南嶋探験』 は、柳田国男などにも影響を与えたといわれる。18その笹森が、沖縄調 査へ旅立つ前に、東京で田代と面会し、教えを請うている。田代と笹森 の人的つながりから、田代と笹森の沖縄と台湾の両地域への調査とそれ らに基づく建議の内容の比較についても今後の検討課題としたい。 18 横山武夫『笹森儀助翁伝』、1934 年。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 243 【謝辞】 本稿を作成するにあたり、国立台湾大学歴史学系周婉窈教授、同大学 図書館特蔵室のスタッフの皆様に多大なご協力をいただきましたこと をここに記して、感謝申し上げる。本稿は、国立政治大学原住民族研究 中心主催「第五屆台日原住民族研究論壇」 (2012 年 8 月 26 日開催の第 6 セッション)において、代読発表させていただいた内容に加筆修正した ものである。同論壇を開催された国立政治大学原住民族研究中心の林修 澈教授はじめ関係者の皆さまに、心より御礼申し上げる。最後に、本誌 への掲載にあたり、貴重なご指摘をいただいた 2 名の査読者にも感謝申 し上げたい。 なお、本稿は、科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金) 「若 手研究 B」 (課題番号 23720323)の研究成果の一部である。 244 参考文献 国立公文書館蔵 《公文録》明治 18 年,巻 183(請求番号 2A-公-4078) 。 《公文類纂》明治 37 年,第 1 巻,内閣 1(請求番号 2A-類-779) 。 国史館台湾文献館蔵 《台湾総督府公文類纂》明治 28 年,永久追加,第 2 門 官規及官職(請求番号 00053-1) 。 〈琉球島民亡霊祭典施行報告〉 《台湾総督府公文類纂》 , 明治 28 年,永久保存、 (請求番号 00051-6) ) 。 台湾大学図書館蔵 〈恒報告第貮号 開庁報告〉,〈田代文庫〉 (請求番号 t0220001) 。 〈田代文庫〉 。 田代安定 1901〈熱帯植物試植場創設之議〉,国史館台湾文献館蔵《台湾総督府公文類 纂》明治 35 年,第 2 門官規官職、進退(請求番号 00799-8) 。 1917《日本苧麻興業意見》 。 作成年不詳 〈駐台三十年自叙史〉,沖縄県立図書館蔵「蔓草庵資料」 。 作成年不詳〈駐台三十年自叙誌〉,沖縄県立図書館蔵「蔓草庵資料」 。 笹森儀助/東喜望 校注 1982 年-1983《南嶋探験》1・2 巻 東洋文庫。 永山規矩雄 編 1930《田代安定翁》 台湾:台湾日日新報社。 田代安定にみる恒春と八重山――「牡丹社事件」と熱帯植物殖育場設置の関連を中心に 245 横山武夫 1934《笹森儀助翁伝》 大浜郁子 2006〈 「加害の元凶は牡丹社蕃に非ず」―「牡丹社事件」からみる沖縄と台 湾―〉,《二十世紀研究》7,京都大学文学部。 2007〈 「牡丹社事件〉再考―なぜパイワン族は琉球島民を殺害したのか―〉, 《台湾原住民研究》11,台湾原住民研究会。 2010〈 「牡丹社事件」はなぜ起こったのか―「原住民」 ・琉球島民・客家人 からみた事件の発端に関する検討〉,《第三屆台日原住民族研究論壇論 文集》,国立政治大学原住民族研究中心。 2011〈日本植民地統治期台湾における「牡丹社事件」認識について―「台 湾総督府公文類纂〉を中心に―〉,《第六屆台湾総督府擋案学術研討会 論文集》,国史館台湾文献館。 2011〈 「牡丹社事件」の発生原因についての一考察―パイワン族と客家系漢 族との交渉を中心に―〉,《第四屆台日原住民族研究論壇論文集》,国 立政治大学原住民族研究中心。 2012〈田代安定の経歴にみる沖縄と台湾の「旧慣」調査〉,《第七屆台湾総 督府擋案学術研討会論文集》,国史館台湾文献館。 斉藤郁子 2006 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