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帯広渡辺学園100周年記念誌 2

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帯広渡辺学園100周年記念誌 2
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いまから1世紀前の帯広を想像することは、容易ではない。
妹尾満佐が裁縫私塾を開設した1916年、渡邉登美が来帯して私塾経営を承継した1920年ころの
帯広を、資料に基づいて俯瞰してみよう。
帯広の開拓は、官主導の屯田兵ではなく、1883年、静岡県松崎町出身の依田勉三率いる晩成社移
民団27人が入植したことに始まる。晩成社という社名は「大器晩成」にちなみ、長い時間がかかる
であろうが、必ず成功してみせるという決意を込め名付けられたといわれている。その後、富山・
岐阜など各地からの移民が続き、帯広の開拓が始まった。
1892年、北海道庁により十勝原野の殖民地区画が始まった。それを基盤にして翌年、碁盤目状の
帯広市街地区画測設が行われた。これが現在の帯広市街地の原型となる。
1895年、現在の緑ヶ丘公園付近に北海道集治監十勝分監(後の十勝監獄)が開庁。これにより受
刑者による開墾が進み、人口の急増・市街地の急激な発展を促した。
1902年、二級町村制の施行により、下帯広村外8村が統合されて帯広町が誕生した。当時の帯広
町の人口は約3,200人であった。それが1級町村制が施行された1915年には、日露戦争終結による
不況にもかかわらず約8,500人と3倍増になり、さらに1920年の第1回国勢調査時には1万6,081
人と、わずか5年間で倍増になったのであった。その後も、1925年には2万208人と、小都会に変
わっていく。なお、帯広町が帯広市に変わるのは1933年のことである。
帯広は十勝の農作物集散地、商業の中心都市として急速に発展していったが、交通網の整備がこ
れに大きく貢献している。まず1905年には帯広−釧路間に、また1907年には帯広−旭川間に鉄道
が開通した。その後、1911年には釧路線に函館・釧路間の直通列車が通ることになり、1913年に
は滝川−下富良野間が開通、1921年には根室まで延びた。それらを含めて、帯広方面の交通の発
達は目覚ましかった。1920年には清川などの方面を結ぶ北海道製糖株式会社の専用鉄道が開通、
1924年からは十勝鉄道株式会社が帯広駅の南を起点として一般旅客などの取扱いを始め、1929
年に大通駅ができた。また、1925年には上士幌線の帯広−士幌間が開通し、翌年全通。1929年に
は広尾線の帯広−中札内間が開通、1932年に広尾まで通じた。十勝全体の人口も、1902年当時は
3万人であったものが、1920年には14万4,000人と急増した。
帯広の発展には、第一次世界大戦も関係している。1914年に第一次世界大戦が始まると、ヨー
ロッパの食糧が不足となり、小樽港を経由した十勝地方からの豆類の輸出が増大した。これによ
り、十勝は豆景気に沸くことになる。十勝は、雑穀を主力とした移出作物生産地としての基礎を築
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き、帯広町は十勝の農産物集散市場、商業中心地となった。雑穀などの商いとともに、亜麻産業も
活況を呈し、1917年には、日本麻糸株式会社の工場が帯広に進出してきた。また、本社を東京から
帯広町に移した北海道製糖株式会社は、1921年から大正村(後の川西村)に工場を建て事業を開始
するのである。
1916年5月には、産業組合法に基づく無限責任組合として帯広信用組合(現在の帯広信用金庫)
が設立された。また、町の商工業者が相寄り、1921年には帯広実業協会が結成され、1926年には
帯広商工会となって商工振興に努めた。
このように、大正の時代、帯広町の商業の戸数が急激に増加し、帯広町は十勝の農村を背景にし
て一躍商工都市として発展をみたのである。
大通りから北を望む。十字路左手角に藤丸呉服店が見える。
(大正初め頃)
改築した土蔵造りの藤丸呉服店。
(帯広渡辺学園創立と同じ1916年)
西2条南8丁目から北を望む(1922年)
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1916年 3月
妹尾満佐が当時の河西郡帯廣町字東1条7丁目10番地に裁縫私塾を開設
1919年
河西郡帯廣町字西1条8丁目に移転
1920年 5月
渡邉登美が来帯し、裁縫私塾の経営を実妹である妹尾満佐から承継
1923年 4月
北海道長官の設立認可を受け、帯広裁縫女学校(校長 渡邉登美)を設立
1929年 5月
帯広市東3条南6丁目13番地に校舎と住宅兼寄宿舎を新築し移転
1939年12月
火災により校舎が全焼。帯広市西4条南9丁目の十勝公会堂を借用して授業を再開
し、1940年10月には帯広市東3条南12丁目の旧柏尋常高等学校校舎に移転
1945年 3月
再建した校舎が強制買収され、止むなく帯広裁縫女学校を廃校にする
1946年 4月
帯広市東3条南6丁目13番地に僅か16坪のバラック校舎を建設し、渡辺裁縫塾を
再開
1949年 9月
北海道知事の設立認可を受け、渡辺裁縫女学校(校長 渡邉登美)を設立。校舎
を新築
1952年 7月
財団法人渡辺女子学園(理事長 渡邉登美)を設立
1954年10月
学校法人渡辺女子学園(理事長 渡邉登美)を設立し、同学校法人のもとに渡辺
裁縫女学校(校長 渡邉登美)を設置
1954年11月
渡邉登美が第5回帯広市文化賞受賞
1955年 4月
帯広市東4条南4丁目4番地に渡辺女子高等学校の校舎建設に着手
1956年 3月
学校法人渡辺女子学園が私立学校法第64条6項の規定による学校法人渡辺女子学
園(理事長 渡邉登美)となる。同学校法人は、営む事業として、渡辺女子高等
学校(校長 渡邉登美)と渡辺裁縫女学校(校長 渡邉登美)を設置
1956年 4月
渡辺女子高等学校開校式。被服科第1回入学生161名
1958年 4月
渡辺女子高等学校に普通科を開設し、被服科を家庭科に変更
1958年11月
渡邉登美が第10回北海道文化奨励賞受賞
1959年12月
渡邉登美が北海道知事より私学特別功労者表彰授与
1959年12月
渡邉登美が社会事業に功績があったとして紺綬褒章受章
1960年 9月
渡辺女子高等学校創立5周年記念式典挙行
1962年 5月
渡邉登美が藍綬褒章受章
1962年10月
教え子達が浄財を集めて製作した渡邉登美の寿像が渡辺裁縫女学校校舎前に完成
し、除幕式挙行。
1963年11月
学校法人の名称を学校法人帯広渡辺学園と改称。理事長に渡邉眞が就任(2代目)
1964年 3月
28日に渡邉登美逝去。31日に学園葬執行。渡辺女子高等学校校長に渡邉眞が就任
(2代目)。また、渡辺裁縫女学校校長に渡邉宣子が就任(2代目)
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1964年 4月
渡辺女子高等学校の名称を帯広北高等学校と改称。男女共学とし、家庭科の募集
を停止
1966年 4月
渡辺裁縫女学校校の名称を渡辺女子学園と改称
1966年 9月
渡辺女子学園開塾満50年、帯広北高等学校創立満10年記念式典挙行。校歌制定
1968年 1月
学校法人帯広渡辺学園が営む事業として、従来の帯広北高等学校と渡辺女子学園
の他に、新たに渡辺学園幼稚園が加わる。
1968年 4月
河東郡音更町共栄台西11丁目5番地に渡辺学園幼稚園を開設(園長 渡邉宣子)
1969年 3月
学校法人帯広渡辺学園の事業から渡辺女子学園が除かれる。なお、同時に渡辺女
子学園を設置する事業主体として、学校法人渡辺女子学園(理事長 渡邉宣子)
が新たに設立される。
1975年 9月
帯広北高等学校創立20周年記念式典挙行
1981年 3月
学校法人帯広渡辺学園の事業から渡辺学園幼稚園が除かれる。なお、同時に、渡
辺学園幼稚園から改称された共栄台幼稚園を設置する事業主体として、学校法人
音更共栄台学園(理事長 渡邉宣子)が新たに設置される。
1983年 7月
帯広北高等学校の校舎を帯広市稲田町基線8番地2に新築し、移転
1983年 9月
帯広北高等学校新校舎落成記念式典挙行
1991年 5月
学校法人帯広渡辺学園理事長に菅野邦夫が就任(3代目)
1992年 4月
帯広北高等学校校長に高田平八郎が就任(3代目)
1995年10月
学校法人帯広渡辺学園理事長に菅野伴睦が就任(4代目)
1997年 4月
帯広北高等学校校長に沓良雄が就任(4代目)
1999年 4月
帯広北高等学校校長に高宮裕が就任(5代目)
2001年 4月
帯広北高等学校校長に伊藤建夫が就任(6代目)
2002年 8月
学校法人帯広渡辺学園理事長職務代行に松浦護が就任
2004年 4月
帯広北高等学校が特進・総合のコース制導入
2004年10月
学校法人帯広渡辺学園理事長に松浦護が就任(5代目)
2005年 7月
学校法人帯広渡辺学園開基90年、帯広北高等学校創立50周年記念式典挙行
2006年 4月
帯広北高等学校校長に平 秀明が就任(7代目)
2012年 4月
帯広北高等学校校長に小島修二が就任(8代目)
2015年 4月
帯広北高等学校校長に橋雅人が就任(9代目)
2015年 6月
学校法人帯広渡辺学園創立100年を祝う会挙行
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帯広市東3条南6丁目の渡辺裁縫女学校
1931
昭和6
1956
昭和31
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帯広市東4条南4丁目の渡辺女子高等学校(帯広北高等学校)
1958
昭和32
帯広市稲田町基線8番地2の帯広北高等学校
2015
平成27
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帯広裁縫女学校(1929年新築)
火災後の仮校舎となった十勝公会堂
この建物は、1911年9月の皇太子(のちの
大正天皇)行啓の際の行在所として建設され
たものである。1922年7月19日、時の皇太子
(のちの昭和天皇)行啓の際にも再度、行在所
に充てられた。帯広裁縫女学校が仮校舎とし
て借用したのは1940年である。
戦後1947年11月に帯広市公民館として生ま
れ変わった。
狭隘と老朽のため1962年に市民会館が新築
されたことで解体されることになったが、建物
のうち御便殿は、由緒ある歴史的建造物とし
ての保存が望まれ、真鍋庭園内に真正閣の名
のもとに再建され現在も保存されている。
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その後の仮校舎となった
旧柏尋常高等学校
この建物は、1920年に帯廣町東
2条・東3条12丁目に建築された
ものである。同校の現在地(帯広
市東8条南10丁目)への移転によ
り空いていた旧校舎の一部を借用
し、1940年10月より仮校舎とし
た。1941年4月時点での生徒数は
460名であった。
渡辺裁縫女学校(1949年新築)
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渡辺裁縫女学校(東3南6)
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帯広北高等学校旧校舎(東4南4)
上空からの帯広北高等学校旧校舎
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帯広北高等学校現校舎(稲田町基線8-2)
上空からの帯広北高等学校現校舎
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