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統監府・朝鮮総督府による風俗習慣調査の史的変遷
統監府・朝鮮総督府による風俗習慣調査の史的変遷 ―調査資料の機関別・時期別整理を中心に― 宮内 彩希* Miyauchi Saki <要旨> The surveys of manners and customs conducted by the Residency-General and the Government-General of Chosen -A research about its historical changesIt is of great importance to consider how survey about manners and customs were conducted by the Government-General of Chosen and their possible relation with its policy. However, since the documents about this during Japanese colonial period surveys are dispersed in various places, systematic analysis could not be conducted so far. This paper is, therefore, an attempt to investigate how the Government-General of Chosen, the Central Council and the Police surveyed Korean manners and customs. To achieve this, it focuses on the historical changes in the surveys, trying to offer a general view of these documents. Keyword : 植民地朝鮮(Colonial Chosen)、調査(survey)、風俗習慣(manners and customs)、朝鮮総督府(Government-General of Chosen)、中枢院(Central Council) 1.はじめに 1.1 研究背景と本稿の目的 近代日本における異民族の組織的な調査は、明治初期の岩倉使節団に代表される 「学ぶべき」相手としての欧米から、「帝国版図」のターゲットになりつつあった アジアにシフトしていったことが大きな特徴である 1)。調査は植民地化を前提とし た版図・市場拡大、原住民支配などの目的から行われ、その調査結果は一方で統治 * 北海道大学大学院 文学研究科 歴史地域文化学専攻 博士課程 3 年次 (独)日本学術振興会 特別研究員(DC1) 1) 末廣昭(2006)「他者理解としての「学知」と「調査」」末廣昭編『「帝国」日本の学知: ⑥地域研究としてのアジア』岩波書店、2-4 頁。 - 201 - 政策の立案に2)、もう一方で帝国大学を中心とする異民族研究の学問的権威の形成 に反映されていった3)。両者は相互補完的に進行していったといえるが、本稿では、 こうした調査がもたらしたもののうち、前者について検討したい。特に、朝鮮半島 の統治を目的として行われた統監府・朝鮮総督府の調査には、統治側の問題関心が 反映されているとみるのが自然であろう。よって、統監府・朝鮮総督府の各種政策 を検討する前段階作業として、政策立案に先立っていかなる調査が行われていたの か、機関別・年代別に詳細に把握する必要がある。 従来、植民地期に日本人が作成した調査資料に関する評価は、その目的が植民地 政策立案のためであり、調査主体も官憲であったという否定的見解が大半であった ため、さほど実証的な研究がなされてこなかった。しかし、1990年代後半から調査 資料への関心が日韓両国で高まり、現在では活発に行われる研究分野の一つとなっ た4)。本稿ではこうした研究蓄積を踏まえた上で、調査資料への歴史学的分析を試 み、なぜ/いかなる調査が行われたのか、統治側の問題関心・政策との関係性から 検討を加える。ただし、紙面の制約上、対象を風俗習慣に関する調査に絞りその時 期別・機関別の特徴を辿ると共に、実例として主に墓地風習の調査を検討すること とするが、その理由は以下に順次説明する。 まず、風俗とは主に「一定の社会集団に広く行われているならわし」 5)等の意味 合いで用いられるが、その定義・範囲は多様である6)。また、風習・習慣・ならわ し等の意味と混同して用いられることもある 7)。範囲が曖昧な対象を風俗習慣と一 括りにして検討するのは、調査主体であった朝鮮総督府や中枢院が「風俗調査」や 「風俗習慣」と題して調査研究を行ったことに倣っているが、「風俗習慣」の指す 対象は調査時期・主体によって一様ではなかった。統治側が何を風俗習慣として調 査し、いかに記述したかにも留意したい。いずれにしろ、風俗習慣は法制度等では 対応が困難であることに加え、政治性が比較的希薄な領域であるということもあり、 2) 박현수(1993)「일제의 조선조사에 관한 연구」서울대학교 박사학위논문 (朴賢洙(1993) 「日帝の朝鮮調査に関する研究」ソウル大学校博士学位論文)。 3) 최석영(2012)『일제의 조선연구와 식민지적 지식 생산』민속원 (崔錫榮 (2012)『日帝 の朝鮮研究と植民地的知識の生産』民俗苑)。 4) 朝倉敏夫(2011)「植民地期朝鮮の日本人研究者の評価」山路勝彦編『日本の人類学-植民 地主義、異文化研究、学術調査の歴史』関西学院大学出版会、121 頁。 5) 福田アジオほか編(2000)『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、454 頁。 6) 日本風俗史学会編(1979)『日本風俗史事典』弘文堂、555-556 頁。江馬務(1975)『江馬務 著作集 第一巻:風俗文化史』中央公論社。 7) 前掲、日本風俗史学会編(1979)、556 頁。 - 202 - 統治初期には政策上重要な事項であるとは考えられていなかった。しかし、1919年 の3・1運動を契機に風俗習慣に関する認識が歴然と変化した。朝鮮特有の風俗習慣 を顧みず統治を行ったことへの反省と調査の必要性が論じられ、以降大々的な調査 事業が開始された。先行研究でも1920年代以降の調査事業に着目したものが多い8)。 とはいえ、それ以前に風俗習慣への問題関心が皆無であったのではなく僅かながら も調査は行われおり、調査の担い手・目的・項目等に変化が現れたということに過 ぎない。本稿では調査の変遷を辿りつつ風俗習慣に対する認識についても考察する。 朝鮮半島民の「康福」増進を目的として統治を開始した日本帝国にとって9)、風 俗習慣に含まれる「前近代」性の側面は統治に正当性を与える一方で朝鮮の固有性 をいかに扱うべきかという問題を同時に抱えることとなった。本稿では特にその事 例として墓地に関する風俗習慣調査を主な検討対象とした。これは、墓地の問題が 「近代」性と固有性の間で議論となった格好の事例であると同時に、調査から法制 度導入といった一連の流れが資料から他の風俗習慣に比し確認しやすいためである。 1.2 本稿が対象とする時期・調査機関 本稿で検討する風俗習慣の調査機関には、統監府(1906-1910)、中枢院(総督諮問 機関、1910-)、朝鮮総督府官房調査課・文書課(1922-)、警務局・警務総監部(1907 -)が挙げられる。前述のように、先行研究では大々的な調査事業が行われる1920年 代以降を中心に論じられる傾向が強かった。そこで本稿では、関連研究の補完的意 味も含めて、調査事業が本格化する以前の統監府期からの調査も検討し、1920年代 以降との比較、あるいは連続的な視点から論じる。 また、調査事業の研究が本格的に取り組まれてこなかった一因には、調査資料の 残存状況が不明であったこともまた大きく関わっている。李昇一はこうした問題点 を念頭に慣習調査事業に関する資料の所在確認と事業の全体像整理、分類方法の提 案を行った10)。特に中枢院が作成した資料を収集・分析し、現在散在している資料 8) 崔吉城(1989)「日本植民地統治理念の研究-朝鮮総督府調査資料に現れた文化政策の考察」 『 日 本 學 年 法 』 2 号 。 장철수(1998)「조선총독부 민속 조사자료의 성격과 내용」 『정신문화연구』72 호 (張哲秀(1998)「朝鮮総督府の民俗調査資料の性格と内容」『精 神文化研究』72 号)。 青野正明(2001)『朝鮮農村の民族宗教-植民地期の天道教・金剛大道を中心に』社会評論社。 9) (1910.8.29)「日韓併合詔書」『日韓併合並朝鮮王公貴族ニ関スル詔勅及法令』1-3 頁 (国立国会図書館近代デジタルライブラリー公開)。 10) 이승일(2012)「일제 강점기 한국관습조사자료의 소장현황과 분류·記述」『법학사연구』46 호 (李昇一(2012)「日帝強占期韓国慣習調査資料の所蔵現況と分類・記述」『法学史研究』46 号)。 - 203 - 群を統合的な分類方法によって研究資料として利用できるよう着々と研究を進めて いる。こうした取り組みは風俗習慣に関する調査においても進めるべきである。そ の出発点として、まず調査機関別にいかなる方針の下、どのような調査が行われた のか、また資料の残存・発掘状況はどの程度進んでいるのか等を系統的に把握・整 理しておく必要がある。ところが先行研究では、上記調査機関毎に調査の目的・内 容・方法等が異なるにも関わらず、明確な区別をしていなかったり、中枢院と総督 府官房の調査を同一視、あるいは混同して論じたりする傾向がある11)。本稿では、 風俗習慣調査の本格的研究に先立って、まず調査資料の残存状況の整理と調査機関 毎の調査内容を多くの初出資料も用いて精査し、各機関の調査実態を探っていきた い。参考に【表1】に調査機関別の組織変遷を整理しておく。 【表1】 風俗習慣の調査機関別組織変遷 中枢院 系列 統監・朝鮮総督官房 (総督諮問機関) (中央行政機関) 1906 不動産法調査会 統監官房 1907 法典調査局 1910 韓 取調局 1912 1915 1918 1919 1922 1925 中枢院 ⇒調査課・編纂課 国 併 総督官房 警察 系列 韓国警察・統監府警察 韓国駐箚軍(1904-) 統監府警察⇒憲兵警察 合 (1910.8) 警務総監部・憲兵隊 朝鮮駐箚軍 参事官室 総督官房 設置 朝鮮駐箚軍⇒朝鮮軍 3・1運 動 (1919.3)、 官 制 改 正(1919.8) 警務局(警務課・高等警 ⇒調査課 新設 察課・保安課・衛生課) 廃止⇒文書課調査係 2.統監府期における調査(1906-1910年) 2.1 慣習調査と、その付随調査としての風俗習慣調査 この時期の最も組織的な調査は、中枢院の前身にあたる不動産法調査会(190607)、及び法典調査局(大韓帝国政府直属,1907-10)による慣習調査である。これは 11) 前掲、박현수(1993)。前掲、崔吉城(1989)。 - 204 - 日本による統治を前提として、日本法令の韓国への適用可否を検討するため各地の 慣習法を調査するものであった。つまり、ここでいう「慣習」は慣習法の法令化の 観点から限定的な意味を指し12)、一般的な風俗習慣まで含んだ概念ではなかった。 慣習調査の内容や実態に関しては既に多くの研究蓄積があるので13)、詳細はこれら に譲り、ここでは簡略にその調査内容・方法を確認しておく。両機関は1906年統監 府設置後、初代統監の伊藤博文が不動産法の制定・民法等の法令起案を目的として 設立させたものである14)。責任者として東京帝国大学法学教授の梅謙次郎に委託し て慣習法に関する聞き取り調査を全国で行った15)。調査員は梅の作成した調査項目 に関して各地の日本人理事官・韓国人観察使・府尹・古老等に直接質問する形式で 調査した16)。この時の調査結果は1912年に制定される「朝鮮民事令」に反映される こととなった17)。その後植民地期全体に亘り民事令と慣習法の突き合わせが行われ た点からも先行研究では専ら慣習調査が重視され、風俗習慣の調査が看過される傾 向にあった。これは風俗習慣調査が慣習調査に付随する形で遂行され、また資料も ほぼ残されていないことに起因するが、風俗習慣に関する調査が全くなかったわけ ではなかった。特に、土地問題と深く関わりのあった墓地に関する風習は早い時期 から調査されており、資料も比較的残っている。そこで、本稿では墓地の風俗調査 を事例として取り上げる。 墓地に関する調査は、旧慣調査の一環として大韓帝国政府内部・警務総監部の嘱 託であった山道襄一 18) が行い、報告書『墓地ニ関スル調査 並ニ葬法ニ関スルモ ノ』を作成、翌年に私見を加えて『朝鮮半島』を刊行した。報告書の冒頭には、 12) 13) 14) 15) 16) 17) 18) 前掲、青野正明(2001)、84-85 頁。 최석영(1997)『일제의 동화이데올로기의 창출』서경문화사 (崔錫榮(1997)『日帝の同化イ デオロギーの創出』書景文化社)。李英美(2005)『韓国司法制度と梅謙次郎』法政大学出版 局 。 이승일(2009)「일제의 관습조사와 전국적 관습의 확립과정연구」『대동문화연구』 67 (李昇一(2009)「日帝の慣習調査と全国的慣習の確立過程の研究」『大東文化研究』67)。 朝鮮総督府中枢院『朝鮮旧慣制度調査事業概要』1938 年,1 頁。前掲、李英美(2005),51 頁。 前掲、朝鮮総督府中枢院(1938)、1-2 頁。 이승일(2008)「일제의 조선 관습조사 사업 활동과 식민지 법인식」 이승일,김대호,정병욱 외 편『일본의 식민지 지배와 식민지적 근대』동북아역사재단 (李昇一(2008)「日帝の朝鮮慣習調査事業の活動と植民地法の認識」李昇一・金大鎬・鄭昞 旭ほか編著『日本の植民地支配と植民地的近代』東北ア歴史財団、35-38 頁。 前掲、李昇一(2008)。 1882 年広島県出身、早稲田大学卒。新聞記者を経て 1912 年衆議院議員に当選(デジタル 版日本人名大辞典、講談社)。報告書・著作を書いた頃、京城で日本人が発行していた 『大韓日報』(1904 年 3 月-、1910 年 4 月頃から『朝鮮日報』に改名)の主筆を務めて いた。 - 205 - 「旧慣調査中墓地ニ関スルモノハ其関係スル所ノ範囲広汎ニシテ最モ複雑ヲ極ムル モノヽ一ナリトス即チ事実ノ慣行ノ基礎ニ立ツテ歴史的引証法律上ノ断案等ヲ要求 スル点極メテ多シ」19)とあり、従来の慣行に基づいた法令制定を念頭に置いて別個 調査されたことが明記されている。山道にこの調査を委託したのは、当時警務局長 であった松井茂であった。『朝鮮半島』の「序」で、松井本人が「朝鮮の風俗慣行 の研究は刻下の急務なり、一日之を緩くすれば一日の損失あり」との認識から1907 年警務局長就任と共に山道に調査を依頼したと説明しており20)、統治に際し風俗習 慣の研究の重要性を警務局長が認識していたことが分かる。報告書の内容は、まず 一般社会の状況を「彼等ノ墓地ニ対スル尊重心ノ起源ハ祖先崇拝ノ宗教的感念及家 マ マ 族制度ノ発達ニ伴ヘル宗族感念ニ基キテ起リタルモノナルコトハ明カナレドモ今日 ニ至ツテハ迷信ニ依テ支配セラレツヽアル旺盛ナル自己的観念ヨリシテ此風習ヲ養 成シ来リタルモノ」21)と説明し、風水説により墓地を選定する風習を自己中心的な 「迷信」であると断じた。墓地風習の「迷信」が階級を問わず浸透した要因につい ては、朝鮮時代の儒教の「道義主義、形式主義」が一方で墓地に対する尊重の念を 盛んにさせると同時に、仏教への「抑圧主義」が他方で精神世界の虚空を生じさせ、 その空間を埋めるのが他に存在しなかったためと分析している22)。「葬法ノ種類及 方法」の章では、一般的な葬法を概説した上で、希望通りの墓地を取得できない場 合に違法で行われる埋葬の種類も詳述した。また、土葬が一般的であるため火葬は 僧侶・伝染病患者・子孫のない者等を除いては決してしない風習であることが述べ られた23)。「墓地及葬送ニ関スル弊害」の章では、社会上の弊害として、国民の独 立的精神・理性の消滅、公安秩序の紊乱、運命観の強固と国民的自覚心の閉塞、犯 罪者の増加等が挙げられている。産業上の弊害としては、非向上の精神による経済 的成長の妨害、不生産的な土地利用、交通傷害等が挙げられた。総じて、墓地風習 の個人・社会・国家に及ぼす弊害を中心に記述したのが特徴である。 『朝鮮半島』にも墓地風習の内容を掲載したが、その他の章で身分制度・冠婚葬 祭・迷信等の章を追加した。迷信の章では、墓地風水説と占筮の風習を挙げ、墓地 選定を担う風水師についてその勢力は絶大であり、朝鮮民衆の生活問題に直接影響 19) 20) 21) 22) 23) 山道襄一(1910.6)『墓地ニ関スル調査 並ニ葬法ニ関スルモノ』警務総監部(東京経済大 学図書館所蔵(四方博朝鮮文庫))。 山道襄一(1911)『朝鮮半島』日韓書房、7 頁。 前掲、山道襄一(1910.6)、1 頁。 同上、7 頁。 同上、18 頁。 - 206 - するため、彼等の撲滅は不可能なので「一般の民智向上と共に彼等の存在が日一日 と困憊に陥るに従ひ温和なる関渉を試みる」のが良策であるとの見解を示した24)。 2.2 警務局・憲兵隊における調査 このように、警務局長が統治の必要性から風俗習慣の調査を嘱託に行わせたが、 他にも、警察関係者へ配布するために編纂した『韓国警察一斑』の「風俗警察」の 章で、風俗習慣に関する調査と統治方針を記述したものがある。主に調査・編纂し たのは当時地方の警察部長であった今村鞆25)であり、彼も後に『朝鮮風俗集』とし て前書を修正加筆したものを出版した。『韓国警察一斑』でも、山道と同様、風俗 として「墓地ニ関スル慣習」「巫卜術客」を取り上げ、その特徴と弊害、取締方針 を論じている。取締方針としては、担い手である風水師や巫覡の取締が肝要である が、「迷信ヨリ来ル弊害ハ人性ノ弱点ニ根源スルヲ以テ到底之レカ根絶ヲ期スヘカ ラス…警察ノ干渉範囲ハ国情ニ照シ公安風俗ヲ害スル限度ニ止メ他ハ深ク立入ラス 文化ノ普及ニ待ツヘキモノトス」26)と、山道と類似の見解を示した27)。 また、この時期警務局と同様に治安維持の職務に当たっていた韓国駐箚憲兵隊司 令部においても、「韓国古来の社会組織及び風俗習慣等を網羅し憲兵職務の一端を 補はんか為」28)に、司令部所属の韓国人将校から聞き取り調査した社会制度・風俗 習慣の諸般を『韓国社会略説』として独自に編纂した。内容は、社会組織・身分制 度・冠婚葬祭・職業・家族制度・信教等を簡略に記述しており、これを併合後に改 訂し『朝鮮社会考 全』として編纂している29)。 以上のように、統監府期には、法制度導入の観点から慣習調査が行われると同時 に、取締を前提として警察や憲兵隊によって風俗習慣の調査がなされた。風俗習慣 とはいえ、土地制度と密接に係る墓地に関する風習やその担い手となる風水師、ま たは巫覡等に関する調査が主立っており、風俗習慣に関して非常に限定的に調査さ 24) 前掲、山道襄一(1911)、179、290 頁。 1870 年土佐国(現高知県)出生、法政大学卒。1908 年に渡韓し各道警察部長を歴任。職 務の傍ら朝鮮民俗に関する調査研究を行った(崔吉城(1994)『日本植民地と文化変容』御 茶の水書房,10 頁)。 26) 韓国内部警務局(1910.1)『韓国警察一斑』、272-273 頁)。 27) 取締方針に関しては、拙稿(2012.6)「韓国併合前後における「迷信」概念の形成と統治権 力の対応」(日本植民地研究会『日本植民地研究』第 24 号、8-9 頁)で詳細に検討して いる。 28) 韓国駐箚憲兵隊司令部(1910.6)『韓国社会略説』、<凡例>。 29) 朝鮮駐箚憲兵隊司令部編纂(1912.3)『朝鮮社会考 全』文星社(非売品)。 25) - 207 - れていた。ここで調査者の念頭にあった「風俗」とは社会的弊害のある従来の文化 であり、近代的法制度から逸脱するものを重点的に調査していたことが特徴である。 ただし、取締については急進的ではなく徐々に干渉することを提案していた。 3. 武断統治期における調査(1910-1919年) 3.1 中枢院における風俗調査計画 併合後、初代朝鮮総督の寺内正毅は、統治政策立案のための調査事業として、以 下のような方針を定めた。 施政の始めに当り、半島民衆に適切なる親政を行はんとすれば、先づ従来の政治形態 と慣習とを知るを必須とし、取調局を設けて此等を調査研究せしめ、之を基礎として時 勢に順応したる制度を定めむとせしにより、旧慣及制度調査事業は俄然重要なる地位を 占むるに至れり[朝鮮総督府中枢院1938:2、下線は引用者] こうして取調局が併合前の慣習調査を引き継ぐも、1912年に参事官室、さらに 1915年には中枢院にその業務を移管した。中枢院とは、1910年に朝鮮総督の諮問機 関として設立した機関だが、特に10年代は実際に諮問を行うというより、併合に協 力的でありながら総督府の官職につけなかった者を優遇する機関との見方があった ため当時から「敬老堂」と批判を受けており、解放後も「親日」論と結び付けられ て肯定的な評価や客観的な分析が行われない傾向があった30)。しかし、こうした諮 問機関としての評価とは別に、中枢院のもう一つ重要な役割に慣習・歴史・地理等 に関する調査事業があった。「中枢院職員は併合当時韓国政府に在職せる有識者中 の主なるものを網羅し、其の該博なる智識と経験は最も旧慣制度調査に適すると認 められたる」31)と述べられているように、慣習調査は従来の慣習を熟知した職員も 参与し、かつ併合前から慣習調査に携わっていた者も業務移管と共に異動になって いることから、中枢院の傀儡的機関という既往の評価をそのまま適用するのではな く、調査事業に関する実証的研究を行っていく必要があるだろう。 30) 31) 김윤정(2011)『조선총독부 중추원 연구』경인문화사, 1-7 쪽 (金倫延(2011)『朝鮮総督府中枢院の研究』景仁文化社、1-7 頁)。 前掲、朝鮮総督府中枢院(1938)、2 頁。 - 208 - 中枢院では慣習調査が一段落した1915年7月、新たな調査内容に「行政上及一 般の参考となるべき風俗習慣」を定め、「民事慣習」「商事慣習」「制度及び風 俗」に分類し調査する計画を立てた32)。ところが、中枢院での風俗に関する調査 は、統監府期同様慣習調査に付随する形で計画され、実際はごく僅かしか行われ なかったようである。風俗調査資料として現段階で唯一確認できるのがこの時期 の調査報告原稿をまとめた『朝鮮人ノ風俗習慣ニ関スル調査資料』である33)。本 書に収録された報告書は、風俗習慣,内房及外房ニ関スル風習調査報告書,朝鮮婦 人ノ地位特ニ妻ノ社会的権力(1917.12.25),◆隠居,◆祖先ノ墳墓ト其所有者,◆ 召史ノ称ト姓トノ関係,◆庶子アル場合ノ養子,奉祀ニ付キ,胎児ト養子トノ関係, ◆婚姻ノ方式,異例小作,内官ニ関スル調査,朝鮮ニ於テ医ヲ卑ミシ理由,朝鮮ノ神 ト鬼(嘱託 洪爽鉉),支那古代の姓氏に関する研究一・二(内田銀藏),済州島ニ於 ケル人情風俗慣習其他,南原郡名所旧跡調,禾利ニ関スル調査ノ件四巻(全州郡 守,1911.3.16)であった[( )内は報告者・報告日]。本書は、1910年代までに限定 的・付随的に行われた風俗調査の報告書を一冊にまとめたものと思われる。系統 的ではないが広汎な風俗習慣の調査報告がなされている。全体的に調査方法は不 明であるが、文献を参照した部分も多く、また現地調査の場合も官吏や地方有力 者等限られた対象者から聴取しており慣習調査と同様の方法であることが分かる。 ◆印を付けた報告書には、平壌・安州・鎮南浦・義州・新義州等の平安道におい て聴取を行ったことが明記されており、同一の質問事項について、各地方の応答 者がどう答えたかが列挙されている。調査方法・調査地域の一致からも、慣習調 査とこれらの調査が同時に行われた可能性が考えられる。 本書中、墓地関連の報告書をみてみると、「◆祖先ノ墳墓ト其所有者」では、 祖先の墳墓が「長派」=宗家のみの所有物か、あるいは「支派」=庶家も含めた 共同所有物かという問題をめぐって両者間で訴訟が絶えないことを報告している。 これは土地所有者の確定において重要な問題であった。調査者によれば日本の民 法では墳墓の所有権を家督相続の特権に属することが明記されている一方、高麗 朝以来の朝鮮の墳墓関連法令には、墳墓の所有権が誰に属するのかは明記されて いないという。しかし、平安道各地での聞き取り調査では、応答者が皆長派所有 32) 同上、2,61 頁。 『朝鮮人ノ風俗習慣ニ関スル調査資料』(早稲田大学古典籍総合データベース)。裏表紙に「大 正十年十二月 朝鮮事情要覧原稿(未定稿)」とあることから、朝鮮総督府の定期刊行物 『朝鮮事情要覧』に調査報告書を掲載する予定で 1921 年頃編纂したものと思われる。 33) - 209 - に属し共同所有の慣習はないと回答しており、当然長派の所有とみるべきである と結論づけている。この報告書から、日本の法制度との差異点が念頭に置かれ、 また文献資料と現地での聴取の二つの方法を用いて調査が行われたことが分かる。 3.2 警察当局による調査 併合後、寺内総督は各道警察部長に対しても、「法規ノ適用ハ緩厳其ノ宜シキヲ 得サル可ラス之レカ為メニハ善ク事情ニ通シ善ク風俗習慣ヲ究メ機微ヲ細察」し職 務に当たることを訓示した34)。法制定や取締にあたり、現地の風俗習慣を熟知すべ きであるという認識は統監府期同様、警察当局において特に意識された問題であっ た。その中でも衛生に関する風俗習慣については、警務総監部が衛生行政を一括管 理していたため早い時期から独自の調査を行っていた。『韓国警察一斑』『朝鮮風 俗集』を著した今村も、「如何にせば、職務の執行が民度と調和を得るかと云ふ点 に付き、苦心したること、一再ならざりしが、余は此時より、朝鮮の風俗習慣を知 了するの必要事たることを適切に感じ」、その断片的調査の成果として『朝鮮風俗 集』を編纂したという35)。 韓志沅は1910年代に警察によって書かれた『朝鮮風俗集』と『朝鮮衛生風習録』 36) を大々的かつ最初に調査された「医療民俗誌」と評価して詳細に分析・比較検討 を行った37)。韓によると衛生風習に関する調査は警察当局が近代医療制度の導入と 衛生行政の政策立案を目的として全道で行ったという。両書の詳細な比較分析は韓 の研究に譲るとして、ここでは『朝鮮衛生風習録』の調査過程を確認しておく。本 書は、警務総監部が「朝鮮の各地に於ける諺語習慣にして衛生に関するものを調査 し…矯むべきものは之を矯めて徐ろに卑陋の俗を化し仍て新に共通普通の美俗を馴 致」することを企図したものであり、特に「腐儒巫呪の徒の妄誕虚説」=民間治療 のような「迷信」が国法を犯し生命を脅かしていることを問題視し、調査・編纂し たものである38))。衛生行政を管轄していた警務総監部が、取締に供するため調査 を全道的に行ったのである。章立ては、格言、俗諺、民間治療、迷信療法、慣行、 34) 35) 36) 37) 38) 寺内正毅(1912.5.14)「各道警務部長ニ対スル訓示」水野直樹編(2001)『朝鮮総督府論 告・訓示集成Ⅰ』緑陰書房、101 頁。 今村鞆(1914)『朝鮮風俗集』斯道館、<自敍>。 朝鮮総督府警務総監部(1915)『朝鮮衛生風習録』(非売品,ソウル大学校附属図書館所蔵)。 한지원(2013)『조선총독부 의료민속지를 통해 본 위생풍습 연구』민속원 (韓志沅(2013)『朝鮮総督府の医療民俗誌を通して見た衛生風習研究』民俗苑)。 前掲、朝鮮総督府警務総監部(1915)、2 頁。 - 210 - 一般風習の6章構成であり、予め設定した質問事項に関して各道警務部に調査報告 を行わせ編纂した。各項目の末尾にはどの警務部が収集したかが付されている。韓 はこの調査が全道の警察関係者を動員して計画的に行われたものだとしたが39)、調 査編纂の過程にはもう一つ重要な点がある。それは、警務総監部の衛生風習調査が 1915年9月に開催された始政五年記念朝鮮物産共進会(以下、共進会)への出品の準 備作業として開始されたという点である。当時朝鮮で発行されていた『毎日申報』 は、朝鮮には衛生に関する迷信が多く存在することを指摘した上で、次のように報 じた。 …これら迷信は衛生上参考になるものが多いために今年秋に開催される始政五年記 念共進会に各道からその地方の迷信を出品すれば相当な参考資料になると思われるので、 当局では各道にその調査を命令したという[和訳は引用者]40) つまり、警務総監部は衛生に関する迷信に関心を持ち「施政」の成果を示す共進 会での展示を企画していたのである。報道された3月頃から調査が開始されたとす ると、報告書が10月に印刷されているので調査期間はおよそ半年であり、共進会の 日程とも合致する。実際に警務総監部は巫女の衣服や用具、舞踊の写真を陳列し、 巫女や地師(墓地選定を行う者)が「吉凶禍福を説き、或は病気平癒の祈祷、又は墓 地の方位を相し、若くは運気を占卜し、荒唐無稽の説」を行うことを弊害あるもの として問題視し「迷信者の覚醒剤」のためにこれらを展示したとある41)。展示品が どの地方の警務部からの出品かが明示されていたことからも 42)、各道警務部の調査 結果が共進会の展示にある程度反映されていたといえる。 また、武断統治期に警察の役割を担った軍部も職務遂行上必要な風俗習慣の調査 を行った。1912年から2年間朝鮮の北部地方に派遣された第8師団軍医部では、衛生 施設の参考資料を得るため所属軍医22名に各自駐屯している地域の衛生状態を調査 報告するよう命じた43)。衛生問題と関連した衣服、洗濯方法、調理方法、食事量と 39) 前掲、한지원(2013)、52-54 頁。 「共進會와 迷信 - 출품하기로 준비」『매일신보』1915 년 3 월 25 일자 (「共進会と 迷信-出品するということで準備」『毎日申報』1915 年 3 月 25 日付)。 40) 41) 42) 43) 亥角仲蔵(朝鮮総督府警務官、1915.10)「一万四千哩の治安を保持する警務機関」『朝鮮 公論』31 号、3 頁。朝鮮総督府(1915.10)「共進会巡覧記」『朝鮮彙報』1915(10)、14 頁。 서병협(1916)『공진회실록』박문사,555 쪽(徐丙協(1916)『共進会実録』,博文社,555 頁)。 第8師団軍医部編纂(1915)『朝鮮人ノ衣食住及其ノ他ノ衛生』。 - 211 - 回数、病院施設の有無、医療業従事者の数、民間療法等が調査され、直接現地民に 聞かなければ知りえない内容も含まれている。調査方法も中枢院や警務局と同様、 予め設定した項目について各軍医が調査報告したようである。報告書は元々陸軍内 部で利用するために編纂されたものであったが、朝鮮にいる多くの人に参考書とし て利用してもらうため翌年再編して『朝鮮人の衣食住』を出版した。編者である総 督府内務局嘱託の村上唯吉は、本書を出版するに至った経緯を次のように説明した。 衛生の施設に於ても、農業を経営するに就ても、乃至は商業を策し、又は工業を起 するに就ても、先づ此三者[衣・食・住-引用者注]の研究を遂げ実際の真相を明かにす るにあらざれば、到底最善の効果を収め難きは…其の土地の風俗習慣若くは嗜好の如何 を調査するのは、事業経営上の先決問題たる事は何人も知悉する処[村上唯吉1916:7-9] 同様に、出版過程において村上と第8師団軍医部長の仲介をした京城衛戍病院院 長の佐藤恒丸も、一民族を研究するにあたって第一に注目すべきは衣食住であり、 あらゆる職業の者も、衣食住を知り抜いた上でなければその民族に対し「手の下し やうが無いであらう」との序文を寄せている44)。以上から、朝鮮で活動するにあた り、まずは風俗習慣を知らなければならないという認識があったにも関わらず、こ れを調査研究する者がほとんどいなかった現状が分かると同時に、その空白を衛生 に関する問題意識から調査した警察や軍部の内部報告書によって埋めるしかなかっ たという事情もみてとれる。その結果、取締や法制度の導入、あるいは近代衛生観 念に反する「迷信」という観点から調査された風俗習慣の記述が、後に公刊され一 般に紹介されることに繋がっていったのである。 次に、警察当局の当初からの関心事項であった墓地の問題に関しては、1912年に 「墓地、火葬場、埋葬及火葬取締規則」(以下「墓地規則」)が施行されることに なる。朝鮮総督府は法施行の経緯と概要を以下のように説明している。 古来朝鮮ニ於ケル諸種ノ迷信中墓地ニ関スルモノヲ最甚シトス是レ原ト祖先ヲ崇尊ス ルノ美風ニ出テタルモノナリト雖漸ク転シテ迷信トナリ墳墓ノ地位ノ良否ハ即チ子孫ノ マ マ 盛衰ヲ支配スルモノト為シ争ウテ其ノ地ヲ選ミ而シテ自家ニ良地ナキ者ハ理想ノ地ヲ探 ル為一族各地ヲ彷徨シ得レハ価ヲ選マス…斯カル弊風ハ到底等閑ニ付スヘカラサルヲ以 テ明治四十五年六月墓地・火葬場・埋葬及火葬取締規則ヲ発布シ直ニ各地ニ準備ヲ命シ 44) 村上唯吉(1916) 『朝鮮人の衣食住』大和商会図書出版部、5 頁。 - 212 - 其ノ完了ヲ待テ漸次施行スルコトトセリ該規則ノ主要ナル点ヲ挙クレハ墓地ハ原則トシ テ府・面・里・洞其ノ他公共団体ノ設置ニ係ル共同墓地ニ限ルコトトシ特別ノ事情アル 場合ニハ私有墓地ヲ許スヘキ例外ヲ設ケ屍体ハ墓地以外ニ埋葬スルコトヲ禁シ尚一面火 葬場ノ設置ヲ許シテ火葬ノ風習ヲ喚起シ而シテ従来ノ墳墓ハ其ノ存在ヲ認メ其ノ死者ノ 配偶者ノ屍体ニ限リ之ヲ合葬スルコトヲ許シ規則施行後一年以内ニ墓籍ノ届出ヲ為ササ ルモノハ無縁墳墓ト看做シ必要ニ応シテ之ヲ整理セシメ…[朝鮮総督府 1915:101-2] 風水説に基づき墓地を選定し土葬するという従来の朝鮮の風習を「迷信」だと断 定し、社会上・衛生上・治安上の弊害を列挙しているが、これは統監府期に山道や 今村が調査記述した内容と一致する。総督府ではこうした弊害を除去すべく、特別 な例外、あるいは配偶者の埋葬を除いては共同墓地に火葬すること等を規定した 「墓地規則」を断行した。山道が僧侶・伝染病者等を除いて火葬は決してしない風 習であると調査報告したことから考えても、この規則が急激な墓地風習の変化をも たらしたことは想像に難くない。総督府も「墓地規則実施ハ従来ノ慣習ニ違フ処ア リ。多少民情ニ通セサルカ如シ」との認識を持ちつつも、法施行には法の主旨を地 方民に徹底させることを方針とした45)。法制定過程において、法制定者は墓地に関 する調査内容を参照しつつも、急激な取締ではなく温和策を用いるのが良いとした 調査者達の見解は採択せず、強圧的な墓地政策を採ったのである。 以上、武断統治期においても統監府期同様、警察当局が記述する「風俗習慣」は 墓地の風習や民間療法等、統治上の阻害要素という批判的な対象でしかなかった。 さらに、墓地に関してはそうした風俗習慣を一掃すべく「墓地規則」が断行された のであった。その一方で、一部から衣食住等のより全般的な「風俗習慣」を扱った 調査研究が望まれ、軍部等で調査したものを公刊する動きもみられた。 4. 文化統治期における調査(1920年代以降) 4.1 中枢院における風俗調査の新計画 1919年の3・1運動は統治政策を転換させる契機となった。「安定的な」統治のた めには日本の諸制度をそのまま導入するのではなく、朝鮮の風俗習慣等を十分に把 45) (1912)「[仮]道長官会合ノ際寺内正毅口演草稿」、山本四郎編(1984)『寺内正毅関係文 書:首相以前』京都女子大学研究叢刊 9、同朋舎、75 頁。 - 213 - 握した上で政策を立てるべきだと盛んに論じられるようになるのである。実際に新 総督の齋藤実は「朝鮮ノ文化ト旧慣トヲ尊重シテ其ノ善ヲ長シ其ノ弊ヲ除カントス ルニアリ旧慣ノ調査歴史ノ研究ハ一層之ヲ盛ナラシメム」と就任時に述べた46)。こ れに伴い調査事業も従来の「慣習」中心の調査からより日常的な風俗調査へと拡大 した47)。調査主体も各部局で様々な調査が行われるようになった。ただし、総督府 官房の嘱託として調査した善生永助は、部局間で類似の調査項目があっても、官房 では朝鮮事情を紹介し朝鮮の基礎調査を行うことが文化政策推進上必要だという構 想から各局とは別個の調査として特別な連携なく調査されたと戦後に回想した48)。 中枢院では1915年以来「慣習」中心の調査を行っていたが、それまで付随調査に 過ぎなかった風俗調査を独立させて本格的に着手するに至った。1921年に正式に慣 習・制度・風俗の3部門に分類し風俗調査は風俗25項目(①)を設定した。調査担当 者に属49)1名と嘱託若干名を任命し、現在の風俗調査を優先させ施政の参考とする ことも決定した50)。ところが1923年、「風俗調査を完成するには尚相当の年月を要 すること判明せるを以て、先づ其の大意を簡明に記述するの必要を認め」、25項目 調査を一時中断、「朝鮮風俗概要」17章(②)を編纂することとし、終了次第従来の 25項目調査に戻ることに計画が変更された51)。1931年に17項目の脱稿が完了し、翌 年から25項目調査を5カ年計画で再開することとなるも、結局調査結果として刊行 されたのは『朝鮮の姓名氏族に関する研究調査』(1934年),『扇左縄打毬匏』 (1937年)の2冊のみであった。1938年の担当者の報告では、1915-36年に行った風俗 調査書類が煩雑な保存状態で632冊あり、これらをまず整理し風俗調査の進捗状況 を明らかにすることが急務であるとあった52)。報告書の中には、2,3枚に過ぎない もの、記述が重複しているもの、記述と資料の混合したもの、資料の綴りのみのも の等、統一性のない状態で保管してあり、これを1936年から2年かけて147冊にまで 46) (1919)「総督訓示要綱(朝鮮総督就任ニ際シ訓示)」、(1990)『齋藤実文書:朝鮮総督時代 関係資料』第 1 巻、高麗書林、477-478 頁。 47) 前掲、朴賢洙(1993)。 48) 善生永助報告(1963)「連続シンポジウム 日本における朝鮮研究の蓄積をどう継承する か 第 5 回:朝鮮総督府の調査事業について」『朝鮮研究月報』第 13 号、27-28 頁。 49) 属とは、中枢院の専任職員で、「上官ノ指揮ヲ承ケ院務ニ従事」した(朝鮮総督府(1912) 『朝鮮総督府及所属官署職員録』、19 頁)。 50) 朝鮮総督府中枢院(1926)「旧慣、制度、風俗等調査経過概要」、『風俗調査計画』風俗 139(韓国国史編纂委員会史料館 所蔵)。 51) 前掲、朝鮮総督府中枢院(1938)、128 頁。 52) 正木薫(属、1938)「昭和十三年一月一日現在 事務状況報告」、前掲『風俗調査計画』。 - 214 - 分類統合・整理したという53)。これに56種類の整理番号を付けて合冊(③)した。前 述のように、現状ではこの時行われた風俗調査資料の検討はおろか資料の残存状況 の把握さえ行われていない。そこでまず①~③の調査項目を以下に記し、かつ現在 最も資料を所蔵する韓国国史編纂委員会史料館において保管が確認できるものを明 示する。 (標準:所蔵確認とれず、太字:所蔵はあるが閲覧は不可、下線:所蔵・閲覧共に可、 ◆:所蔵確認できるが閲覧できないため同タイトルの冊子との判別が不可能) ①1921年 風俗25項目計画:◆服装,◆飲食,住居,車輿船,出生,冠婚葬祭,◆礼俗,職業,◆ 学問,俚諺,礼儀,家庭日常,◆宗教,迷信,◆節行,医薬,美術,楽歌舞,娯楽及遊戯,族譜,◆巫卜 及術客,姓名及貫,◆年中行事,雑 ②1923年 朝鮮風俗概要17章計画:総論,衣食住,冠婚葬祭,◆宗教,職業,◆学問,礼儀,歌 舞楽,医薬,姓名,族譜,娯楽・遊戯,家庭の日常,巫覡卜術,迷信俚諺,◆年中行事,雑 ③1938年 56種類の整理番号を付け合冊:服装,飲食,住居,車,輿,船,出生,冠礼,笄礼,婚 礼,喪礼,墳墓,祭礼,◆礼俗,農業,漁業,◆商業,典当舗,鉱業,鉱業,公務及雑業,◆学問,科第, 金石,礼義,家庭ノ日常,仏教,儒教,道教,類似宗教,迷信,風水説,巫卜及術客,◆節行,医薬,美 術,楽,楽器,歌,舞,趣味娯楽遊戯,族譜,姓名及貫,◆年中行事,童謡,民謡,俚諺,伝説,野談,産 物,度量衡,貨幣,旅行,契,郷約,雑 このように、風俗調査は生活一般に関わる様々な項目に対象が広げられたことが 分かる。閲覧可能な冊子をみると、政策に対する意見はほとんどなくテーマに関す る概説のみとなっている。例えば、『風水説一 記述合冊』では風水説の歴史的起 源、墓地選択の方法、各名称等を説明している。冒頭の部分を以下に一部引用する。 墓地選定の良否は子孫繁栄枯盛衰吉凶禍福に由る所とし上下挙けて之を尊信すること 実に想像の外に在りて数代に亘りて山争絶えす又之か紛争に当りては生命財産を賭する ものあり以て如何に人心に透徹せしを識るに足るへし風水の説は墳墓の外遷都、設邑、 家宅等一として之に拠らさるものなし54) 53) 54) 同上。 『第丗ニ 風水説一 記述合冊』風俗九一(韓国国史編纂委員会史料館 - 215 - 所蔵)。 朝鮮では風水説が階級を問わず信じられており、墓地の場所が子孫の栄枯盛衰を 左右すると考えられていた。よって墓地の場所をめぐる紛争が絶えないこと、他に も都市計画や家屋建築等あらゆる方面で風水に対する信仰が存在することを説明し ているが、単に「迷信」と規定し批判的に記述しただけの10年代までの内容とは性 格を異にしている。また、原稿の中にはハングルと漢文の混用体で書かれその後ろ に和訳文が付けられているものや、ハングル文と和文を問わず草稿の後ろに校閲し た清書が付せられているものがあった。これは嘱託がまず原稿を書き、場合によっ ては翻訳した上で責任者の属あるいは嘱託が校閲したということを意味する。実際 に1932年の風俗25項目の調査を再開した時の計画には、嘱託3名が調査事項を分担 し調査記述、それを主任の属か嘱託1名が訂正・編纂することが定められていた55)。 こうした記述内容は10年代の警察等にみられたような弊害の把握から出発したので はないこと、1919年以降忠実に風俗習慣を把握するという問題認識が高まったこと も関係あるであろうし、朝鮮人も含んだ嘱託がまず調査報告を行い、その後の属に よる校閲過程で、事象の客観的記述が試みられたことも大いに関連があると考えら れる。 朴賢洙は、朝鮮総督府官房の調査が植民地統治のための基礎参考資料の提供と共 に政策代案の提示まで行ったのに対し、中枢院の調査者は政策資料を提供するに留 まっていたと結論付けた56)。確かに、中枢院の調査資料をみる限り政策への提案は 行っていないようだが、そもそも中枢院の調査者は政策立案を自身の役割としてい なかったのではないだろうか。調査に携わった属の渡邊業志が1926年に出した意見 書では、風俗調査の目的はその沿革・変遷を究明することによって執務の参考に資 するためであり、必要な事項から順次調査・印刷し関係各方面に配布することを強 調していた57)。また、1936年から風俗調査書を大々的に整理統合した正木も調査書 利用の不便性を指摘した上で、調査後に調査書を根幹として有益に活用する方法を 講ずるべきことを主張した58)。つまり、中枢院で風俗調査の実務に当った調査者は 直接政策立案の提案を行うことはせずとも、政策立案の過程で調査結果を参考でき るよう調査体系の整備と記述方法を試みていたといえるであろう。中枢院の調査者 は政策立案者と調査者の役割を明確に区別して任務に当たっていたのである。さら 55) (1932)「風俗調査予定計画」、前掲『風俗調査計画』。 前掲、朴賢洙(1993) 、75 頁。 57) 渡邊業志(属) (1926.1.22)「旧慣制度風俗調査事務ニ関スル意見」、前掲『風俗調査計画』。 58) 前掲、正木薫(1938)「昭和十三年一月一日現在 事務状況報告」、前掲『風俗調査計画』。 56) - 216 - に、朴は中枢院の調査は資料提供に留まっていたとして実際の調査内容の分析は行 っていないが、立案に先立つ資料提供を行っていたのであれば、それはやはり総督 府官房の調査資料同様、内容は検討されてしかるべきである。今後、さらなる資料 の発掘と調査内容の分析を進めていきたい。 4.2 朝鮮総督府官房における調査課新設 総督府官房でも、1919年の3・1運動、そして官制改正に伴い業務内容に大きな変 化があった。参考までに官房が編纂していた定期刊行物の一覧を【表2】に挙げる。 【表2】 統監・朝鮮総督官房において発行された定期刊行物一覧 発行者 発行期間 定期刊行物名 1907-1910 『統監府統計年報』1-3巻 統監官房 総督官房 総督官房 調査課 ⇒文書課 総督官房 1908-1910 1910-1944 1910-1943 1911.6-1915.2 1915.3-1920.6 1920.7-1944 1912-1922 1923-1933 1934-1944 1923.12-1925.3 1924-1933 1934-1939 『韓国施政年報』1-2巻 『朝鮮総督府統計年報』 『朝鮮総督府施政年報』 『朝鮮総督府月報』1巻1号-5巻2号 『朝鮮彙報』1-65号 『朝鮮』66-354号 『最近朝鮮事情要覧』 『朝鮮要覧』 『朝鮮事情』 『調査彙報』1-16号 『朝鮮の風習』初版~増訂9版 『朝鮮の習俗』改訂10版~改訂14版 1930-1944 『調査月報』 まず注目すべきは、1922年に官房内に初の直属専門調査機関である調査課が新設 されたことである。ここに統計係と調査係が設置され、調査係には外国の植民地統 治に関する資料収集を担当する英語・仏語・独語・中国語のできる嘱託と、朝鮮の 一般経済社会等に関する調査の嘱託が合計で14,5名所属していた59)。調査された結 果は『調査彙報』として随時発表した。第1号で当時調査課長であった大西一郎は、 官房では以前から統計の調査編纂、または各分野の「施政」実績の概説編纂を担当 し、統治のための基礎資料の提供という役割を担っていたが、調査課設置を機に官 房での調査結果を定期刊行物として随時発表していくこととしたと説明した60)。ま 59) 60) 前掲、善生永助(1963)、20,24 頁。 大西一郎(1923.12)「発刊の辞」 朝鮮総督府庶務部調査課 『調査彙報』 第 1 号。 - 217 - た、嘱託の善生も「調査資料は学術研究とちがい、施政の参考、或いは研究の資料 になるものを、できるだけ早く、多く世の中に紹介するのがよいと考え、上司の諒 解激励の下に、ドンドン出す方針で最初から掛かっておりました」と戦後に回想し た61)。調査課は10年代に引き続き統治の基礎資料の提供という役割に加え、より調 査内容を細分化・深化させると同時に調査結果の公開を重視していたことが分かる。 また、朝鮮の風俗習慣を紹介した定期刊行物を新しく発行し始めたことも興味深 い。1924年から『朝鮮の風習』、1934年から『朝鮮の習俗』として改訂を繰り返し ほぼ毎年公刊した。1924年版のはしがきの一部を以下に引用する。 風俗習慣は国民性の一反映とも見るべきでありませう。その国民性が、天賦の性情 に、幾百千年間の、科学・文芸・宗教などの諸要素や、政治・経済・教育、乃至は自然 力などの影響の織込まれたものでありまする以上は、如何に他愛もなき風習の一行事に も、如上の諸要素の史的面影を止めてゐないものはありません。…内地人として、朝鮮 の如何-その民情・風習の如何といふことを知るのは、最早や学者・好事家のみの趣味 の問題ではなく、実に国民全体としての必要な事件に直面してゐる訳であります。… かゝる風習の一端なりとも速に心しておくべきではありますまいか。まして風習は偉大 なる潜勢力の持主であります[朝鮮総督府1924.9,下線部は引用者] いかに些細にみえる風俗習慣も長い歴史の面影であり、そこには国民性が反映さ れているとした上で、朝鮮と同国民として付き合っていく以上、学者や好事家だけ ではなく全国民が知るべき問題だと説明している。風習を「偉大なる潜勢力」と表 現していることからも筆者のその重要性に対する認識が伺える。武断統治期に警察 や軍部の関係者が風俗習慣の調査研究の必要性から要望していたような書物がこの 時期になって総督府官房で刊行されることになったわけである。1924年版の章立て は、社会階級、一家の意味、家庭、男女の別、言語と応対、訪問と接客、服装、飲 食、住居、年中行事であった。第6版の墓地の記述を例にとって以下に引用する。 墓地は又極めて大切なものとされ、もし墓地がよくないと子孫が栄達しないと云つ て、吉地であればどんな遠方でも、山の中でも力にあかして選定します。朝鮮に来て若 し禿山や荒野の中に鬱蒼たる緑林を見たならば、それは必ず某家の墓地と定まつてをり 61) 前掲、善生永助(1963)、22 頁。 - 218 - ます62)。 朝鮮の墓地風習がいかなるものか、平易な文章で簡略に記述されている。また他 の章も、はしがきにある通り、朝鮮の風習中、特に内地とは異なる点を中心に分か りやすく説明した内容である。 さらに、総督府官房では、前述の定期刊行物の他に、調査結果を編纂して『調査 資料』シリーズとして1923-41年の間に全47巻を不定期に刊行した。 4.3 警務局における調査と墓地規則改正 警務局では、10年代に引き続き管轄事項に関する調査、つまり衛生に関する風俗 習慣の調査を独自に行った。まとまった調査として確認できるものが、 総督府発 行の雑誌『朝鮮』に各道警察部が調査報告した「朝鮮に於ける衛生に関する迷信」 または「衛生に関する風習並迷信療法」という資料である。この連載では1927年10 月-1929年12月に12回にわたり民間療法・衛生思想・墓地風習・妊娠出産等に関す る調査報告がほぼ全ての道から紹介されている。多少項目や量に違いはあるが、病 気別の予防・治療法、医療妨害の例、身体に危険を及ぼした例等を箇条書きで記述 した。この調査も1915年同様、始政20年を記念すべく1929年9月から開催された朝 鮮博覧会に出品するため警務局が各道警察部に調査を指示したものであろう。実際 に朝鮮博覧会で警務局が準備した衛生館では、「朝鮮には特に迷信治療が多い所か らその馬鹿々々しいことを如実に示し迷信打破に資せんとして」63)、「不完全治療 迷信療法」と「完全療法」との比較展示を行い、衛生思想の普及を目指す展示方法 がとられた64)。実際にどの程度行われているかという量的な問題は別として、こう した言い伝えがあるという事実を収集し、近代的医療との比較を行ったといえる。 そして「迷信」としての民間療法等の風習を批判的に展示していたのである。 また、墓地規則に関しては、1918年1月と1919年9月に「緩和」改正がなされるこ とになった。従来の墓地規則は、「急激に過き朝鮮人の祖先崇拝に関する道徳的感 情を圧迫すること尠からさるものあり寧ろ私設墓地を許容するの範囲を一層広汎な らしむるを以て却て社会の実情に適応するを認め」65)、既存の祖先や配偶者の墓地 62) 63) 64) 65) 朝鮮総督府『朝鮮の風習』第 6 版、1930 年、4-5 頁。 (1929.8)「朝鮮博覧会彙報」『朝鮮公論』197 号、77 頁。 (1929.9)「朝鮮博覧会の規模会場の沿革、各館案内記等」『朝鮮公論』198 号、103 頁。 朝鮮総督府『最近朝鮮事情要覧』1921 年、472 頁。 - 219 - に近接させるという条件で私設墓地の設置を許可するに至ったのである。また改正 直後、『東亜日報』でも、「昨春独立運動の爆発後、総督府の官吏は、中年以上老 年階級が総督政治に対する現実的不平が墓地の拘束にあることを見抜き、此階級の 不平を緩和すべく私設墓地の寛大な認定が第一だと気づき」66)、墓地規則を改正し たことは明らかであると見ていた。以上からも、共同墓地と火葬への朝鮮民衆の不 満がいかほどであったかは想像に難くない。これを受け従来の一方的な規則を改め、 「文化政治の確立を期する為めには先つ朝鮮に於ける民風及慣習の據る所を知り、 民情に適応する施設を為ささるへからさること」67)は勿論であり、より一層調査事 業を進めていくことを新たな方針とした総督府であったが、朝鮮の風俗習慣に関す る純粋な「理解」や尊重に基づくものであったわけではない。1919年の墓地規則改 正も、「祖先崇拝の慣習の尊重と人民の便益とを主とせるものなりと雖、将来に於 ては思想の進歩と社会の変遷とに従ひ漸次或は個人墓地の面積を節約し或は専用墓 地より共同墓地に至るへき自然の発展を期待するものに外ならす」68)と述べている ように、急速的な風俗習慣の変化はかえって民衆の反感を買うという歴史的経験か ら、まず現在の状況を正確に把握した上で、温和的な政策を採択するが、将来的に は消滅させる方向で進めるという前提には変化がなかったのである。 5. おわりに まず、統監府期や武断統治期においては、法制度導入といった統治初期に不可欠 な項目から調査し、また調査主体も取締を念頭に置いて主に警察が役割を担ってい た。調査項目も土地制度に関わる墓地風習や衛生行政と関わる民間療法、その担い 手等が限定的に調査された。ここで「風俗」の対象となったのは、近代的法制度か ら逸脱し、取締対象となるべきものを前提とした「迷信」とされたものであった。 ところが、こうした風俗習慣にどう対応すべきかに関しては調査者と政策立案者の 間には差異が見られ、墓地の風習については、調査者の提案した温和策は採用され ず、従来の風習とは全く異なる共同墓地の火葬制度が導入されることとなった。ま 66) 67) 68) 「墓地規則改正과 当局의 矛盾」『동아일보』(「墓地規則改正と当局の矛盾」『東亜 日報』1920 年 9 月 6 日付)。引用文訳は引用者による。 朝鮮総督府『朝鮮に於ける新施政』朝鮮総督府官房庶務部、1921 年 10 月、60 頁。 同上。 - 220 - たその一方で、警察や医療関係者から風俗習慣に関する調査研究の必要性が論じら れていたにも関わらず、風俗習慣全般を扱った調査はほとんど行われていなかった。 そのため衛生問題など特定の関心から調査された報告書が後に公刊される傾向があ ったが、このことは朝鮮の風俗習慣が非衛生的である、迷信深いといったイメージ を生成することに繋がったとも考えられる。実際に警務局は、博覧会でも「施政」 の成果=近代医療制度の確立との対比として朝鮮の「迷信的療法」を積極的に宣伝 材料として用いていた。こうした状況に大きな変化をもたらしたのが1919年の3・1 運動である。どの機関においても風俗習慣に関する認識・対応が歴然と変わり、よ り日常的な項目への調査が活発化した。同様に、風俗習慣は「とるにたらない、捨 てるべき旧習」といった認識程度であったものが、全て「理解」した上でより効率 的・円滑な統治を行うという認識へ変容した。さらに、制度・法等の物質的関心か ら、人に対する内面的関心へ移ったともいえるであろう。もちろん、これは純粋な 風俗習慣の「理解」ではなく、植民地社会のより実質的・能率的な統治方法考案の ためであることはいうまでもない。こうした調査は、調査側が知るべきだと思う明 確な目的・対象がまず前提としてあり、その上で行われるので、当然その調査内容 や結果も、その調査側の意図・意識の領域を超えることはない。つまり、調査対象 の実態がそのまま反映されるのではなく、領域からはみ出た現象は観察されず、ま た見方も調査側の規定枠にはめられて記述されるのである。 調査方法としては、多くの場合調査責任者や政策立案者が調査項目を指定し、各 地方の職員や嘱託がその項目に沿って資料を収集報告、それを責任者が編纂すると いう方法であった。現地民からいかに情報を収集したかは不明であるが、中枢院で は地方の官吏や古老、軍部では所属の朝鮮人将校という例が見られた。この点から も、調査内容や情報源は限定的なものであったということは念頭に置く必要がある。 また、調査機関別の特徴を整理すると、中枢院は政策立案・方針決定のための特 定項目の調査だったといえる。ただし調査者は自身が政策立案をするのではなく、 あくまでも政策立案のための資料提供を忠実に遂行していた。結局、植民地期に調 査結果が刊行されることはほとんどなく、調査資料も雑多な形で残存しているが、 この調査結果が実際に政策方針にいかに活用されたかは今後の研究課題である。こ れに比し、総督府官房の調査は、統治のための基礎資料としてはもちろん、宣伝の 要素が多分に含まれたものであった。特に1920年代以降は、「理解」した上での統 治の必要性と、文化的に「施政」を行っているという宣伝を目的として、朝鮮全般 に亘る基礎調査を大々的に行い調査結果を刊行した。 - 221 - 今後の課題としては、まだ未発掘の調査資料の所在状況を明らかにし、風俗習慣 調査の全体像を把握することである。その上で、各機関の調査内容と実際に施行さ れた政策との連関関係を精密に検討する必要がある。 ※本稿は、日本学術振興会の平成23-25年度特別研究員奨励費(課題番号23・3170)の 助成を得て行われた研究成果の一部である。 <参考文献> (日本語) ・青野正明(2011)、『朝鮮農村の民族宗教-植民地期の天道教・金剛大道を中心に』、 社会評論社. ・朝倉敏夫(2011)、「植民地期朝鮮の日本人研究者の評価」、山路勝彦編、『日本の人類学 -植民地主義、異文化研究、学術調査の歴史』、関西学院大学出版会. ・今村鞆(1914)、『朝鮮風俗集』、斯道館. ・李英美(2005)、『韓国司法制度と梅謙次郎』、法政大学出版局. ・江馬務(1975)、『江馬務著作集 第一巻:風俗文化史』、中央公論社. ・韓国駐箚憲兵隊司令部(1910.6)、『韓国社会略説』. ・韓国内部警務局(1910.1) 、『韓国警察一斑』. ・末廣昭(2006)、「他者理解としての「学知」と「調査」」、末廣昭編、『「帝国」日本の 学知:⑥地域研究としてのアジア』、岩波書店. ・善生永助報告(1963)、「連続シンポジウム 日本における朝鮮研究の蓄積をどう継承する か 第 5 回:朝鮮総督府の調査事業について」、『朝鮮研究月報』第 13 号. ・第 8 師団軍医部編纂(1915)、『朝鮮人ノ衣食住及其ノ他ノ衛生』. ・崔吉城(1989)、「日本植民地統治理念の研究-朝鮮総督府調査資料に現れた文化政策の考察 -」、『日本學年法』2 号. ・ (1994)、『日本植民地と文化変容』、御茶の水書房. ・朝鮮公論社、『朝鮮公論』. ・朝鮮総督府(1912)、『朝鮮総督府及所属官署職員録』. ・ (1915.10)、『朝鮮施政ノ方針及実績』. ・ (1915.10)、『朝鮮彙報』. ・ (1921.10)、『朝鮮に於ける新施政』朝鮮総督府官房庶務部. ・ (1924.9)、『朝鮮の風習』. ・ (1930)、『朝鮮の風習』、第 6 版. ・ (1927-1929) 、『朝鮮』. ・朝鮮総督府警務総監部(1915.10)、『朝鮮衛生風習録』(ソウル大学校附属図書館所蔵). ・朝鮮総督府庶務部調査課(1923.12)、『調査彙報』. ・朝鮮総督府中枢院(1938)、『朝鮮旧慣制度調査事業概要』. ・ 、『風俗調査計画』風俗 139(韓国国史編纂委員会史料館 所蔵). - 222 - ・朝鮮駐箚憲兵隊司令部編纂(1912.3)、『朝鮮社会考 全』、文星社(非売品). ・日本風俗史学会編(1979)、『日本風俗史事典』弘文堂. ・福田アジオほか編(2000)、『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館. ・水野直樹編(2001)、『朝鮮総督府論告・訓示集成Ⅰ』、緑陰書房. ・宮内彩希(2012.6)、「韓国併合前後における「迷信」概念の形成と統治権力の対応」、 『日本植民地研究』第 24 号、日本植民地研究会. ・村上唯吉(1916)、『朝鮮人の衣食住』、大和商会図書出版部. ・山道襄一(1910.6)、『墓地ニ関スル調査 並ニ葬法ニ関スルモノ』、警務総監部(東京経 済大学図書館所蔵(四方博朝鮮文庫)). ・ (1911)、『朝鮮半島』、日韓書房. ・山本四郎編(1984)、『寺内正毅関係文書:首相以前』、京都女子大学研究叢 9、同朋舎. ・(1921 年頃)、『朝鮮人ノ風俗習慣ニ関スル調査資料』、(早稲田大学古典籍総合データベース). ・『日韓併合並朝鮮王公貴族ニ関スル詔勅及法令』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)。 ・(1990)、『齋藤実文書:朝鮮総督時代関係資料』第 1 巻、高麗書林. ・『第丗ニ 風水説一 記述合冊』、風俗九一(韓国国史編纂委員会史料館 所蔵). 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