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人間の性(さが) 若者の心模様く〉江口法子 智は限り
浄土第 61 ,巷第 11 号 (毎月 1 月 l 困 l 日発行 ) 平成 7 年川月 l 日発行昭和 10 年 5 月初日第 3 積郵便物認可 人間の性(さが) 若者の心模様く〉江口法子 智は限りあり、愚は限りなしO 日下部匡信 発想・イメージ・映像く〉丸林久信 浄土宗と卓球界く〉佐藤行信 白球を追ってく〉小川有順 [連破] 外国で生活して 中村良観 共に生きる 御所野洋幸 箆上特段ぎやらりい 遊行期大島泰生の仏画 法然上 人鍛仰 会 ・ 発行 6日本テレコム 咲いたら、幸せo 楽しい、媛しい . ちょっと切ない‘なつかしい . いろんな話をしたり .聞 いたり . そんな何気ないことが‘人と人との 固い紳の第 一 歩 . それぞれの人の.それぞれのお話に 花を咲かせるお手伝い . 安い市外電話の . 0088 です . 8mm ζx>88 料 無 1 [ 位向 rト L OO 2 . 一一 印刷 00時一九 ( Qvd 摘 。V問問 お問い合わせお申し込み l阜、日本テレコムお客種センヲーまでお気砲に . ¥ 遊 Tす 期 大島泰生(泰雄)の仏画 来迎悌 不動明王 愛染明王 カナ力パツサ 大島泰生(泰雄)氏は、作家武田泰淳氏の 実兄にあたる方で、ながらく東大の水産学の 。 教授をおつとめになりました 晩年、まった くの趣味で描かれた仏画ですが、絵に門外漢 であった氏の、この巻頭連載の、精魂をこめ 。 。 筆捕かれた魂の仏画ともいえる作品 て一筆 一 に、定年後の自由な心境を、もうひとつの人 生の輝きを、見ていただければ幸いです 奥様の淑様は今年出版された作品集になか に、こう害いておられます あったと思います 。 老後の楽しみに絵を描きはじめましたが 併画を描く時は、それなりの緊張感が、 。 その合間に、色紙や小品等を、 描いておりました 。 (淑) 日本画の絵の具の顔彩を、まぜ合わせて 色を作るのが好きでした じ よ'フど 目次 カラーグラビア遊行期・ H ・ H ・......・ H ・-…....・ H ・-仏画=大島泰生 3 人間の性(さが)…....・ H ・..…・・大本山増上寺法主藤堂恭俊台下 8 若者の心模様どんな模機かいえますか?・……・… ・ 江口法子 1 4 智は限りあり、越は限りなし....・ H ・-…日下部匡信 22 魅せられて映画に....・ H ・...・ H ・-… H ・ H ・-…・-…・・丸林久信 外 国 で生 活して… ....・ H・....・H ・....・ H ・...・ H・...・ H ・中村良観 30 38 コラム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・・・ ・・・・・ ・ ・・ ・ ・・・・・・・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 47 輔氏は諮る共に 生 きる …・・…...・ H・.....・ H ・..…御所野洋幸 球を追って ...・ H ・.....・ H ・...・ H ・ .. .. ・ H ・....・ H ・ - … ・ ・小川有順 浄土宗 と 卓球界 .. . .・H ・-… H ・ H ・ . ......・ H・....・ H ・-…・佐藤行信 J フ ォ ーラム… H ・ H・-… H ・ H ・-…H ・ H ・-… H・ H ・-…....・ H ・...・H ・.. 事務局便り …・...... . .......................................................... 編集後記・ H ・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・.....・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・.....・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・.. 表紙題字=浄土門主 小村康隆俊下 表紙撮 影 = 御所野洋 ~~ アートデイレクション= 近必卜問郎 7 8 4 52 56 6 3 6 8 70 俊 台 下 ε (さが) 暴 2( 人聞の性 企笛函 孟置邑上 法然上人の心を探る 藤吉 人 IlIJの性 ぎよきだいえ (浄土宗祖法然上人の遺徳を敬 一山を包むように桜花が咲きそろい、春 四月二日から始まる大本山増上寺の御忌大会 慕讃歎し、その忌日に行う法会) 霞のただようただ中に始まり、風に誘われて桜花の散りはじめる七日に終る。 。 埠の鳴き戸に明け暮れる晩夏ともなれば、今まで肩をよせあ 桜の木はひと時も休むことなく、まことに早い速度でみるみる内に若葉、青葉 に衣更えをする 虫に喰われたりして散りはじめ、 桜の落ち葉については半世紀以上、昔の思い出が (浄土宗総本山知恩院)下の小院で、 秋の彼岸を迎える頃、 。 っていた一葉一葉が、黄いろく変色したり、 。 った祖山 日一日と日影を狭めてゆく ある 私が育 、 。 そのことは、 幼いころ意気地なしの飽き性だ、と母親から 竹等 て桜の落葉を幾度となく掃きながら、草をひきぬいた少年時代のことが、 喰にうかんでくる った 。 汗を流しながら掃いても、掃いても汗の流れが止らないよ よく言い聞かされていたこともあって、自発的に匡正しようと一念発起した試 、 みの一つ であ 9 は - -、 主ノドし っていく落葉には 正直い 。 その 風と相撲をしてい って腹だちさえ催した これと同じことを経験する 。 し 私はその 原稿執筆中であ っ てくる 。 と自分自身に言い聞かせたことが、昨日のことのように匙 喜寿の歳を迎えても、 。 このようなことに怒り・腹だちしているのは、 次から次へと散 たびごとに 。 るのと同じである っ てくる るとか、称名念仏の最中に、 雑念妄念が落ち葉のように襲 明遍は問いかえす 。 上人は 「源空 そのとおりであるが、念仏を申している 南無阿弥陀仏とみ名をとなえるに如くな 。 時に法然上人と高野の明遍空阿弥陀仏との問答をおもいだす 生死をはなれ浄土に往生する道は、 し、という法然上人の言葉を受けて、 ら 「『 , CイL 、 さらに問い つ める 。 。 上人は 。 仏願カに乗じて往生すべし、とこそ心えて候へた それをばいかが候ベき」と、 をよび候はず」と、素直にそのことはあなたと同じであると答える 最中に「心のちるをばいかがし候べき」と、 もちか しかし明遍は 「ちれども名を称すれば、 だ詮ずるところ、 おはらかに念仏を申候が第一の事にて候也」と懇切に教えれ 10 人 1m の性 散心をすてて往 。 上人のいう 散心ながら念仏申すもの 。 たち 、と ば、「これをうけ給はりにまいりつる」と、明遍は満足してっ立 去いう。 上人は後刻、 。 目鼻のあるがごとし そのことはりしかるべからず たとへば人界に生をうけたるもの、 生せんといはん事、 。 めでたき本願にてはあれ 黒谷上人語燈録 』巻第五に伝えている 『 自 然のなりわいに驚異のおもいが湧い 木枯らしや霜、 雪に無防備の 人間の営みとは異 人間の闘である雑念妄念の相手をしないで、起らば起れと ったと、 が往生すればこそ と、門弟たちに語 「おはらか」 。 冬にたち向うすさまじい生命力、 。 。 落葉し始めても、 桜の木が丸裸になるのにははど速いが、 取りあわないことである と った、様がわりの冬仕度を始めたことを告げる 44R44 てくる II は 。 我田引水と 枯木のように丸裸になっての越糸、は、凍え死にしないだろうか、という私た ち人間の思慮分別からすると、まるで捨身のわざとしか思えない み よう 。 桜の木は無 阿弥陀ほとけのお慈悲のふところに飛びこみ、すがり・ま 噺笑されるかも知れないが、南無阿弥陀仏とみ名をとなえ、わが身とわが心の すべてを投げだし、 き かせてすべてをゆだねる帰命の心情に通じるおもいを禁じ得ない 防備になることによって、 大自然の恩恵に浴しつつ春を待つように、念仏者は 。 。 阿弥陀ほとけ我をた 一心具足の名号と申也 。 心にはあみだほとけ、 たすけ給へとおもひ 別したる事には思べからず 思慮分別をかなヤり捨てることによって、在り阿弥陀仏のとわのみいのちに生 かされて生きる 南無阿弥陀仏といふは、 すけ給へといふことばと心えて、 ロには南無阿弥陀仏と唱えるを、 。 この「たすけ給へ」という切なる心情は、 みずからを全面的に阿弥陀仏に投 と、法然上人は常に仰せられたという て 12 人 IlHの性 げ捨て、すべてをゆだねる情態である。こぎかしい人間の思慮分別・はからい ら いは、 南無阿弥陀仏とみ名をとな は容易に捨てがたい。それは人聞が生まれながら具えている人間の性であるか らである。その 捨てがたい思慮分別・はか えれば、 おのずから消え去ってゆく。捨て去ろうとする意志は自分自身の心の 。 自分自 世俗と異 った、 阿弥陀仏 のと のふところの 中に生まれかわることであり、 って 自分自身の空無化することである 南無阿弥陀仏と み 名を はたらきであっても、実際に捨て去ることのできるのは、 南無阿弥陀仏の一戸 阿弥陀仏に向 一声に加わる阿弥陀仏のおはた らきによる。このように となえることは、 身を空無化することは、阿弥陀仏 利害損得に明け暮れ、 名聞利養に うつつをねかす わのみいのちに生きることである。 1 3 タ若 佐者 模の 様れ 若者の'I_>f,貼苦 今年は年の始めから色々と、人を、心を騒がせるようなことがいつになく多い年である。 それも若者がクロ ーズアップされ、何やかやと取り沙汰されるようなことが続く。若者た 。 。 ち、それぞれの 心模様はどんなもの、であろうか さま、ざまな心の有り様があるだろう あの未曾有の被害を出した阪神大震災ては、学生を含む若者の多くのボランティアが大 。 活躍した 駆け付けた時と、ボランティアを終えた時とでは、本人も思わなかったような 。 ろら うにあなたの心模様は? 心の変化、成長を遂げた若者が多かったこと、であ彼 ー 、 やろうとしている こ とをは 。 っきりと、 っきり持ち、それを実現する グで大活躍している野茂投手のような若者もいる。彼は新聞などで見る 。 ねるとはっきりと自信を持って、自分たちの心の変化を誇ってくれるだろそ ううして、 アメリカの大リ と、早くから自分のしたいこt 。 べく努力をしてきたとのこと。それがみごと花聞き今日がある 彼も、 いつもは っ ている 自分の有り様を、目指すところのことを語 一方あの、 お干ましいサリン事件をきっかけに、続々と恐ろしい事実が判明し続けてい 。 るオウム真理教のさまざま 無表情な、人間らしい反応を忘れてしまったような顔を持つ 多くの若者たちがつまつぎと新閉そ、テレビを賑わし続けている。彼らには「私は」とい 。 う形で自分を語ることはとても難しいだろう 気にかかるのは、彼らに代表されるかもしれない多くの若者の心の有り様が E うなって I 5 と 尋 いるのかということだろう 。 っきり答える、」tが出来るだろうか 「あなたの心模様は?」 どれだけがは 。 。 。 僕は、私はこういう人問、てす、といえるだろうこ かれは難しいことではある を自認している我々だって、一呼吸おかないと出てこないかもしれない 私は誰? 、 っとは 「(自分が)何だかおかしい」「て (も 自自 分分のことが)わからなくて、も 。 。 おとな っ きりし たい」と心理相談機闘を訪ねてくる若者が多くなってき自 た分を見つけよう、心の有り 。 。 様を確認しようとする 確認したい、 は っきりしたいと自分自身を見つけるために悩んで いる 言〈 っ てくれる 悩んでいる彼らの中には何だか分からないりれど、それらしいことを強 。 し 。 っかり引 っ張 ってくれる人を求めている 。 って引きずられていくこともあるだろう どの人が正しい 人なり、団体なりに頼りたくな のか選択するのは難しい とにかく強く、 。 自分の心の有り様を見つめる在り方を、小さい時からしてきた若者は少なぉいだろう r6 若者の,叶獄;(( 。 とながそういうふうには係わってこなかったから 、 。 私たちが成長の過程て乗り越えていかねばならない心の発達課題がいくつもあるとも すればそれが、 いつのまにやら周りのおとなによってねじ伏せられて、積残しのままで体 。 だけ成長してしまうという状態が多くなっている 社会の多様化、複雑化によりおとなた 。 ちも考えるひまなく、こどもたちを追い立て、おとなになれない若者たちを作り出してし まっている 。 。 アイデンティティを確立せねままの若者が、あちらこちらでふわふわと歩きまわる 「私はこういう人問、です」と自分のことをはっきり告げられない若者たちが作り出されて いる 確たる自分が自分で捉えられない辛さは、表現の仕様のないことだけに、苦しいことであ ろ'フ 。 悩まない若者たち E、 うしたら 若者、本人が来るだけでなく、最近、自分のこどもをどう考えたらいいか 。 そこから見えてくる若者たちの有 いいかと相談に見える母親たちの多いのに驚かされる り様は「何だかおかしい」とも「もっと自分のことをはっきりさせたい」とも、まったく 17 、 思う事無く過ごしている姿でもある 。 っているわけで 本人はそのことを意識して苦痛に思 。 。 っわ た 大学を優秀な成一織で卒業し、挫折を味 。 も、問題としているわけでも、困っているわけでもなさそうである ただ、自分の有り様 フリ!?ン つてはいるのであるが・ が不十分なために起こってくるトラブルには困 。 たとえば、こんな例がある 年令お歳の男性エリート -T った 。 。 おとなしい性格から母親なE はやりやすい、 いい 子 と の こともなく、難なく大企業に就職しかし、学校時代から友人関係も少なく、ひとりでパ 。 。 ところが:・ 。 異性の友達を求め、なんとか 息子が不自由なく勉学に励めるようにと、母親は身の同りの世話を焼き、 ソコンに向かうことが多か 見方をしていた 欲しがるものは無理をしてでも与えていた 。 付き合いをしようと思うのであるが、なかなかうまく付き合えない始めは順調にいくが、 。 。 。 激高する 彼女 その内、彼女の行動をいちいちうるさく非難しはじめ、彼女が反発すtる が去るとそれに落ち込み、母親に当たる そういう息子を見かねてなんとかしてやらねばと母親が相談にくるのである 。 た育 若 対人関係も希薄で、挫折営体験することもなく、あまりに護られた環境っで 。 この男性はお歳ではあるが、成熟とは程遠い 未だ青年であり、若者としか言 いようが ない 。 。 自分の振 者である 知的な而が優位にたち、葛藤に対する耐性のなさは想像に難くない 1 8 u名-の,tA英.r,'f( E 。 誌藤にならないのである ただ、なんとはなしに何か、親とのこ 。 。 があるのかなと感じてはいるのか、お前の育て方が悪いから、こうなったと母親に 。 る舞いが自己中心的だとは考えてもいないし、ましてやそれが自分の心の有り様と関係あ な るとは思ってもいない t 当たりはしている その問題を円分にぶつけ、抱え、悩むことが出来ない 。 結問木は、そういうふうに育ててきた母親たちが右往左往して困り果てているのである 。 行動のパタ ー ンは承知している。それは小さい時から見知ったものであり、 母親たちと話をしていると、毎日 一緒に生活してきたはずのこどもたちのことがまるで見 えていない 反応であるから、それを母親たちも全く変えようとせずに今円まできている。小さい時は 。 。 おとながさま、ざま手を貸して、世話をしなければいけないのは当然でそ あれ るが叩歳に な っても、 初歳になっても絞いている こどもの動き、反応を少し距離を置いて兄ていると、前述の発達課題に従って、少しず :: 。 つ違った反応、動きがあったはずである。それに応じておとなも係わり方を少しずつ変え ていくことで成長への歩みを進められるはずなのだけ E: 。 母親たちの押さえ込みが成功して、そのまま成長したこどもたちが「何だか変だな」 おとなの思うやりやすい、いい子、であってほしいから、反抗期がくると押さえこもうと する と何となく感じながら、でも、何がどうだか分からないまま、そうして、何をどうしてい 1 9 ・ アワ卜 。 。 . - 何となく自分自身に居心地の悪さを感じながらも、それを自分自身のこと いのか分からないまま過ごしている 結局は母親たちの注文どおりには育ち切れずにドロ ップ 。 とは考えず、外へ原因を求めようとする親が悪いとか、上司が悪いとかetc 。 o んなはずではなか こ ったとこども 相手が悪いから自分が悪くなったと(幾分は当っ たている ) m歳を過宮ても、却歳を過ぎ 。 でもなお、自分自身のことを自分て負いかねる 母親も を責める 心模様、か語れるには 。 。 。 体は成長 していても、 一方的なものでもなにお 互 いの関係性の それも丁 寧 に、 心をこめて、繰り返し繰り返し、相手の反応、動きをみ 親と子との関係のなかで、さまざま積み重ねないt出来上がっていかないものが人間の 成長なのである っておいて成るものでもなく、 ながら積み重ねていかねばならない 心の成 長 はは 中で培われていくものであり、それがないと生 きてはいけない ことを構 っ てもら 。 ったり 分か 、 っ てもら ったりした体験がないという。 。 は成長しないまま そういう体験を持たずに成長した若者が増えている 丁寧に、自分の .r.、 20 若者の,日英才* 。 目に見えないもの、形 t して見えない心に係わるさまざまなものを疎かにして 社会は 学歴偏重を始め、日に見えるもの、形あるもの、俗好を付けることにばかり頑張 。 っ てきた きた t かしたいと思 っ てもいる 。 。 人間誰でも成長への指向性を持つ なんとかした 。 そのために、 いずれの形にしろ、自分のことで悩んでいる多くの若者たちがいる そう して、なん 。 。 そういうおとなに出会えた時に、初めて若者は自分の心 。る 正 而から受 ぃ、なりたいと思 ったときに、誰が応えてやれるか、傍に誰がいるかであ けとめてやれるおとなが居るか 模様をは っきりと捉え、語ることが出来るように思う (例教大学臨床心理学研究センター-セラピス卜) 21 法然上人と私 智は限りあり、 患は限りなし 日下部匡信 智 lま限りあり 、 ,也は限りなし つ こちらが要求する前に 私は、求道の末に法然上人の教えに出会 。 。 氏の、』とばをおかりしながら考えてみたいと 思います Z 天 。 せば、仰の来迎は法爾の道理にてうたがひ ちかひ給たれば、ただ 一向に念仰だにも申 は、名号をもて非惑の衆生をみちびかんと 。 らはみな法爾の道理なり 阿弥陀仰の本願 。 のなかに、すき物ありあまき物あり これ 。 にのぼり、 水はくだりさまにながる 菓子 うつ -あたりまえのことを言う名人 - 道は 理 さ 宅と 大学生の頃、 。 法空 れ 爾正 た のの 法爾の道理といふ事あり ほのをはそら 御法語でした 語家 たのではあ り ま せ ん さらにここ数年、 型l 心 ・ h v ド え d-られたものは、有難みもなく、本当に使 。 ど』を いこなせないなどといわれますが、ご先祖さ 恥ずかしいことです T れ け る まから代々うけつがれてきた信仰はそれを超 。 えて尊いものです 浄上宗寺院に生まれ育ち、 今に至るまですべてが法然上人の教えの中に あったのですがそのことに気付きはじめた 。 のは、大学を出て住職にな ってからのことで す った 法然上人の教えのいただき方が‘自分の経験 をものさしにした独り善がりのものであ 。 を反符させられています 理論や理屈は こ t 。 白分の頭、で作るものです これから書くこと も、理屈の世界を出ることができないかもし れませんが 、 智 は 限 り あ り 、 思 は 限 り な し の 視点て、法然上人の教えのいただき方を、諸 、 法然 。 リ山--+AFあたりま・え、 無理がない 自然体 f ll というものへのあこがれがありました 2 3 ね な し という名も 『 修御伝 勅 』 によれば「幼稚のむ あたりまえのことが、ある種の力になること も知 っています しかし、法然上人の「法府 かしより成人のいまに 至るまで、父の遺言 わ の道理」の御法語をいただくときに、世間の 。 すれがたくしてとこしなへに隠遁の心ふかき 、 原理 てあたりまえをとらえてはいけないので 少年にしてはやく山離の心 相対的な世界に生きている っ ている っても、 よしをのべ 給 に 人間が 。 んな悲惨な状況にな す E をおこせり、まことにこれ法然道迎のひじり 必ず阿弥陀仰の慈悲がそれを上阿 りまえなのです 。 なりと随点いして、法整房と号し 云、 々:::」 という絶対的な事実を受けとめた上でのあた 『 然 で「入信の動機より、 法 』 とありますし、明治から昭和期の小説家中里 その著 私たちは「.使利は暇を生むと同時にその駁 介山は 出家の経路、煩悶より待選、 一宗 一門附制に を食前すものをも牛 4 。 m…永福山恒存)と む」(評A 不ヒるまで、 その名の如く全く法爾hH然、て、飢… いうことばに傾けます もう少し引川しまし 。 トゐ'「 ノ 理といふものは少しもない、彼は天成の平民 。 的求道者であり、宗教的偉人である 」と法然 私達が白分にと って損になるものを切捨 。 上人をたたえています 本 立nt建て前に分け 一緒に切捨てることになり、その反対に 一緒に背 ずそれと抱合せに般になるものも 何か得になるものを入手するときには、必 も てるときは、必ずそれに伴ふ得になるもの 。 るならば、無理なく本音の立場にある法然上 人です 私たちはや」活の小で、あたりまえのことを 引 号円 一うのに,塑 一 がいることを経験しますし、 又 2 4 智 lま限りあり、思は限りなし t になる 損だけを捨て、得だ 。 におかされて、行を怠ることがあるが、この 障をどうしたら止めることが出来るだろう 負ひこむこ けを庇ふ と い ふ わ け に は ゆ か な い か L との質問に、法然上人が「目のさめたら それは 取引の原理である以上に、附A口ひの原理で んほど、念倒したまへ」と答えた話を紹介し 。 なぜなら取引の場合には、差引勘定 。 兼好法師 ら念仰すればいにあたりまえすぎることで、 。 おそわれたら眠るのが自然だ 自がさめてか 。 ある (福田恒存) て、,実にあたりまえの答えであるねむりに 。 。 が出来る が、附合ひの場合には、それが 出来ないからである 日常はこの通りです。しかし、念仰を称え 。 「酒のむは罪にて候か」という質問に そこにはどんな無理も誇張もない って往生を得という、阿弥陀仰の 、,、 、、 ることによ lt' i は、「いと尊ふとかりけりt」 感心しているJ 、 った絶対的、超越的な事実なので 方で先手 て用意されている事実は、 日常の事 実 とは異な 対する「まことには、のむべくもなけれ E も、 法然上人はこの事実に基づいて「仰の来 。 す っていると評し、最後に りまえの亨』とを 一う 言 人こそ其の智者であろ ているとき、平然として、ずばりと、あた つ競 世の中があげて突飛で変った、』とを り」の情がこも なんとも味わいふかい答え、微妙な「いたわ この世のならひ」という法然上人の答えを、 。 迎は法爾の道理にてうたがひなし」と、念仰 をすすめるのです 。 亡父の新聞切り抜き帳で、評論家の亀井勝 一郎が「あたりまえのことを 言 う名人」とし 』に出てくる「念仰のとき、睡 ・ 品した て法然上人をあげている記事を見つけ手 『 然草 彼は、 徒 2 5 いる 教訓を 失 敗「 t 母の いたす わべ れて まりは す; 飲に 他 人 例さ「 ん の でせ 育い ま がつ ごら 若者 ろし んが」 にふ な と え って う • 下乙 げな なた けは れま まの い頭 を をみ襲す撃合室説 を ν 説持を に を 超るあた い もあわ てつべう えで さにそとたて のu てもが王名 k り 人 る 本 就 成 願 の a主義 tEfき占な フ。 たしりと 下私てりせい思臨 ZスE E 湖E、 刷い るこ fにF 下き と ま よまめ ええて t 法黙 のこ すま t は 言よ人を 草活日 L 法ぃ~ 1:ま£での 会 然 tこな ヵ t 需柱 宰 の 上ま 向げ のはも 人か主分さ分白 て・せい識 知の」ま す。 道る 苦し はいの かくさ は者の11 の いら らも で し 2 6 智 は限りあり 、 ~I. は限りなし ていら っしゃるから、 。 、 自分を変 つ てはいけな いじめられでも n汚く篤 、 格段の差 です t れでも、決して他人を いよ」とい う 教 育 。 t い って、事実を打ち 人生で出会うことは、そ えずに、他人を変えることばかり願 っ ていて 幸 せはありません れが気 にいらないから 、 のう 。 (ある念偽者のことば) 現代化などといいながら、法然上人の教え 智は限りあり、思は限りなしで 。 人は皆、幸せを願います しかし、 幸 せ 。 を自分流に解釈する思い上がりを反省せねば 。 なりません す を願う心よりも、俺が俺がという白分中心の ツピ l 。 エンドがないからなあ」t お っしゃっ も次の欲望、悩みが出てきます 「人生にはハ は消えていきます 。幸せを得て安心していて 。 我欲でい っぱいの私です 無理に求めた幸福 あえぎあえぎて世を渡るかな 一 をせおいつつ 巣てしなき欲の章荷 三 つ四つ五 つ六っかしの世や 附一 の中は 一つかなえばまた 二 つ 。 心の方が強いのがこの私です ああしてこう 自分の荷物は、あき 消すことはできません すればうまくいくと頭、て承知していても、自 。 らかに見きわめて、什庖旧を決めて背負わなけ 。 仏教は成り立たないのです。『枚 一起 ら 。 。 分中心の心が前に山山てしまいます 立場か えの基、です人間の知性、理性を一番とする る軌持や煩悩に日そ向けるのが法然上人の教 。 ればなりません 人間の知性、理性をゆがめ ヵ、 請文 』の「忠鈍の身になして」「智者のふるま 。 教えを大事 。 いをせずして」とはこのことです ら 有難いで 凡夫はのう 教えを大 事 に し ま し ょ う で にさせてもろうた 教えより自分の考えの方を大事にするから 2 7 叩 。 た人があります 小説や物語のようにはいか から始るのだ」 「盛也、正真は人に求めるものではない」 。 ないのが人生です ハッピ ー エンドのないま 世の中の兵実、ですまして、極重悪人、無 。 ま、生老病死するまま、この身このまま救わ います 。 某師がおっしゃいました 。 頭を下げなければならないことをつくづく思 私のはからい守捨て、教えを大事に司自分の 他方便の凡夫が、阿弥陀仰のみ力、て教われる 。 。 れる教えを大事にせねばなりません 知識教 まず自分の頭を下げることです という法然上人の念仰の教えに向かうとき、 。 だけで本当の心の安らぎはえられま 養ぞつれU せん 『 家草軽 山本周五郎の小説 武 』で、主人公 告示方伝三郎に老人が語ります。 自分の立場を固定して、内分の受けとれ る法然ヒ人の教えを選んでいないか 思い 「、』なたは世間を汚らわしい卑賎なものだ と云われる あがっている。法然上人の教えで、自分が 。 た向身から始るのだ、世間がもし汚らわし 山朋喫するt-』ろから始まるべきだ しかし世間というものは-」な く卑賎なものなら、その責任の一半はすな 表現はきびしいですが、例法のうけとり方 。 わち宗方いとのにもある、世間というものが の基本だと思います 他人のことじゃない 。 人間の集りである以上、 おのれの責任、でな 法然上人の教えを、私がいただくのです。 。 いと云える人聞は 一人もない筈だ、世間の 卑賎を挙げるまえに、こなたはまず自分の 頭を下げなければなるまい、すべてはそこ 4砂 2 8 智は限りあり、恐は限りなし 法然上人鑑仰会から与えられた「法然上人 。 私」というテ!?にそうことができたでし t ょうか 。 借り物のこ tばばかりですが最近考 えることを記しました 野村康次郎 最後に好きな詩を一一つ。 l RU・ 同町M だれも ダメなのです いやだと い っ て も うん・』の上にもおちなければなりません は かわってくれないのです 榎本栄 しぶといこの顕が下がったら 澄先生の論文「現代と法然上人の教 お浄土の光りはこんなところに 合清水 『 然上人の伝記と思想 隆文館)との え」(法 』 出会いを喜んでおります。 (長崎 ・長徳寺住職) 2 9 雨 自 仁士コ 発想 イメージ 丸林久信 映像 「絵を?」彼は興味をもったらし〈、じ tっ 俳句をみつめていたが、やがて大きくうなず JI 古池や蛙 飛、び、』む水のをと ど くと、あっというまに次のような絵を描きあ E司 俳聖芭蕉の句、です。中ム子生の男の子に 6 げたのでした。 5 「きみは、』の俳句で絵を拙くとしたら、 な絵を捕〈?」 ん γ 守之ト iL-、 、 じ 。 。 ・ ω 制ぽ7 , a き 彼は、色紙にきらきらっと錨き おなじ質問を、俳句をよくする友人にぶつ けてみました あげてみせてくれました 腕月が左上方に描 まず、男の子の発想ですが、彼は、この句 かれて、その下の余白に俳句を書いたのです。 を、なぜ、こうした絵のコマの柏み重ねに置 。 き換えたの‘でしょうか彼の顕の中にはただ いられん 単に絵があるの、ではなく、動きがあったので 。 彼は文章を読むのではなく、 す。そして、その動きとともに 一連の流れが ひろがります 兄ていたのです。視覚による感党で文章を読 。 って出ようとして障子を聞けた。男が逃げ、 。 芭蕉は全神経を耳にあつめた機先を制し討 。 蛙が鳴きやんだ 誰か来たッ!伊賀者の くりあげていくのでした 絵コンテふうの絵からつぎつまと物語りをつ 動きなどこまかく指示した演出用台木)で、 に拙いたもの。カット割、アングル、俳優の 影台本に、一カットずつ具体的にスケッチ風 んだといえましょう。彼はコンテ(監督が撮 ノ沿わの令 11 枕 ]2 手邑想・イメー ジ ・ l州事t 。 。 ろの波紋は静かな輪を描いていくので空 す ねが だが、私は、どちらか 。 池の蛙が「ヨカ ッ夕、不」と微っ笑 た 「蛙クン、 間にひろがる無限のひろさを感じとれます 。 ありがとうよ」と芭蕉も微笑 った 蛙は安心 。 。 。 といえば、男の 子の発想に、これこそ映画だ、 こころがわかります 混濁した世相のなかで、こうした心境を祈う 。 して池にとびこんだ ポチャン、静かな平和 のときが 戻っ た 「き っと、刺客の奴、顔をみられちゃまずい 映像だとういものがあるように思えるのです 。 んで、あわてて逃げたんだ あいつ、芭蕉と 管んこう 。 俳諮師としての彼の弟子 は 。 奥の細道紀行』『 伊勢紀行』など ざらし紀行』『 『 諸国諸大名、富豪、寺社関係者が多いから 野 を 差 しむけたか 伊賀者だとしたら (誰が、なんのために刺客 。 そこで、私の想像の姐が::: 芭蕉がもし L はね ったんだぜ」 仲良しの俳句の友だちか弟子だ 。 私はこの 言葉に驚かされ 「大人って嫌だ」という言葉の裏にか 。 って嫌だなあ 男の 子は唇を噛みしめると、腹立たしそうに 。 い ったのでした ったんだ 大人 「あいつ、裏切 t ました きて、友人の絵ですが、 。 。 。 芭蕉、隠密なりせば ひと )E んどんと話が、画がひろが っていくのです ・:などなど 悩みがあ ったのでは 彼の隠密行の目的は? 。 日本国中、吟行に名を借りて往来が出来たの 1 くされたもの、私たちが日常なにかしらここ 住 ではないか 隠密の家に産れて世襲の重 みや 、 。 ろの底て考えていたようなことを、ちゃあん と見抜いていたのです 。 子 のテ!?に 大人 の世界への批判が、男の な っていたのです いる関所を通れたの か 。 本中を歩けたのか、あの厳重 な瞥 戒を布いて っては、まず、芭蕉がなぜ日 りよがりの推理かも知れませんが、私たち映 さわ ひるさが 彼は司」の句のなかの寂 びと佑びの世界を具象 。 ここ 。 像を創る者にと 争ふ 、 蛙 化したわけです 深川の草庵の春の昼 下りに っています のとびこんだ水の波紋は見えなくても 詠んだ句が、ここでは夜にな 33 、 でしょ う か 。 。 疑問は発想の源では 。 B が、ば ったりと顔をAH わせました 。 そして、テ!?をみつけ、 なぜ、 なんのために ない イメージ と 〈 想像〉 から創造にと発展します A す三じ えたストーリー(物語、筋)を考え、それぞ さらに発展させ、絵コンテふうに組み立てて ったような、映像あそびをや っ て つこう映 みたりとい ってみるとけ 。 いちどや みませんか ライター、演出家、俳優 ・ 像住家( シ ナリオ 五、た った十七文字のなかや ・ 、 知人"であっても、そうでなくてもよいのです 。 つく っていくのです 。 。 頭のなかの映像はスク 回の中で映像守 発想・イメージ、そして、 一 が出米あがるのです ちょっとした出あいから、ながいながい作品 ・ヒ プロデューサー)の気分が味われると思えま 五 が、このふたりのめぐりあいが、悲劇喜劇の す 。 人生棋織のドラマをくりひろげるのです 。 ' AF 友人のパーティに紹ばれて知りあった 約 束の待ち合せの時刻に遅れたばかりに、おな 。 偶然、 。 じ遅れた者同士が結ぼれた 交通事放で加害 めば おと被 害将のあいだに恋が芽生えた リーンに写しだされる映剛、テレビのブラウ 。 殺人引場を目撃したばかりに、殺人者 A に追 か〈しつ った登場人物はひとつの人格を形 。 。 。 、 いきおい そうた人物の会話や行動のな かから、テ!?がみえてきます をしています 成して、ドラマの世界で生活をし息づかい なたのつく ン管に流れる映像のように動きだしますあ 。 (H) われる B、生さね仰の AtB の確執(もめご と)による引件 :::etc しザかいる 閑さや山石にしみ入蝉の声(芭蕉) ひとつや 二家に遊女もねたり萩と月 こへ仕事もとめて峠の風にうづくもる ドラマは活気づいていきます 「而h い!」そ E (一石路) う思 ったら、こんどは、角 度、視点を変えて 、芭蕉と刺客、そ うしろすがたのしぐれてゆくか(山顕花) AtB 考えてみるのです 。 こうした旬から、時代劇、現代劇に置きか 34 発4セ1 ・イメージ ・ l映像 別の而 h さ を み せ て く れ ま す 。 れぞれの立場に立ってみると、、ドラマはまた 。 ン)から書い シ!とから頭に ・ ・シ l 当時、助監督だった私に、マキノ雅弘監督 が言われました 「脚本は顕(ファ ースト 。 て、次には終り(ラスト 向って書くんだ そうすると、いろいろな矛 盾、ぜったいこうはならない、そんな発見を 仰しやられたとおり、はじめはし っかり構 おヲ するよ」 てスタッフ・ル l ムに行きました 。 。 三 人 否立に、監督 机をはさんで腰かける l ン(場而)の設定とセリ ツけ・」 。 が、私たちの目の前に台木をひろげて、どん と机を叩きました 「おい、どうする 監督は、このシ それッ!というわけで、三人は原稿用紙 。 フが気にいらないのです 。 スタッフ -wlムは、まるで兵 に向い、同時にそれぞれでそのシーンを書き 直すのです 剣勝負の場のような気機が漂い、誰も入って H ・」 。 。 。 これは 黒沢きんならでは出米ないことだと思 。 人知を集めて、充実した仕事を成しとげる と、つくづく思いました いなァ ||ああ、 この監督、ひとの使い方がうま 。 「よし、、」れでい、』う」黒海監紙日が決断します 常き 一 u あがって、ディスカッション(討議) とうぎ 成した筈が、筆にまかせて、いつのまにか都 。 来い 。 来れない雰同気になります 。 合よく予』とを運ん、ていたことに気づきます 虫…滞組「生きる」の助蛇管についていたと きのことです 或るシーンの撒影にとりかか る寸前、黒沢監督が t 「マルッ!堀川(旧制川弘道監督)ツ!デ コスケ ッ!ちょっ ふたりを呼びつけました 「さァ、古が落ち 。 るぞ!」スタッフの口が私たちに注がれます 私も招川君も嫌な予感、て、監督のあとについ 3 5 います 。 、 イメージが湧いても、ぃ ざ撮影に入 。 俳優が動いてみた ら 、コンテ てみたら、監督の思いどおりにならないこ っ ともあります ッチ ト(舞台装 ッ どおりには、 語 ることも動くことも出来ない、 また、俳優の肉体的条件がセ 。 置)、天候の条件に左右され、ッニ チもサ もいかなくなるときがあります 。 ばんぜ ん 私と堀川君が呼びつげられたのは-』んなと きです 。 「人間に万全はあり得ない」これは常識だが、 しつよう 黒さんは執助なまでに万全を求める 妥協す 。 なんどオープン(野外セッ 「 きものの語録」太陽の大きさと赤さの色 生 が気 にいらない 。 。 「なあ 。屋外)で待機したことか これはいかな ト 、 天下の黒沢監督 でも自由に出米ない E 。 ったとは 言 わない 。 四 つに取り組むの 。 こまでも押しの強い黒きんである 絶 に、いまに向こうさまが合わせてきてくれ る」 です 対に参 「監督からどん欲を除レたらなにが残る」 。 言葉はいまだに私の心の奥の 黒さんの、」の 方に焼きついている っ てい 当たり前の、』とが当たり前でなくな かた,、 。 る弱さを頑なに拒否し、もがいているのかも って るこのごろ、余計に生き生きと私を鞭う AM い 。 そして、面白きが判 ったところで、ぜひ、 粘りに粘 って、イメージの世界に遊んで下さ 、 発想から頭の中で描き写す映像 あなたも 。 知れない 仕事に対して、その場を上手にす 。 amら e そして、 くれる 是目 茶でした 。 りねけて対処する人々をみるとき、開 示さんは そこに自分 の 在 り ょ う を み つ け る その弱さが鋭のように自分に返ってくる 。 「人聞は元来弱いものだ、だからといって諦 (元東宝映画監督) 。 いままで以上に、映像づくりへの関心をたか 黒さんは自分の弱さに打ち克 めていいのか 。 めていただきたいと思います 。 とうと頑張るのです 私はそんな黒さんが好 きでした 36 発忽 ・ イメージ ・ l映像 注テーマ 主題。φ 作者のモチ ーフ(動機)から生れた 作者の人生観 ・社会観 ・人間性のつかみ方の あらわれ。作者が、その作ロ聞をとおして、何 ! ? ・ ソング(主題歌)、テ ! ? ・ ミュ lジ ぞいわんとしているかの何にあたる部分。② テ ツク(主題山) 「黒沢明ドキュメント」キネマ旬報処 -|参考文献||拙著「映画製作ハンドブック」繁明書一一宍 ・イメージ ・ 映像 。 「見る」から「創る」に ・ 助監督物盟国 O人間の眼 ・カメラの眼 O発想 ロメロ きるも死ぬも O走れ j ・ 女と男シナリオ・そのこ ・ その一 O変なひとたち・撮 E所 F こぼれ話 O男と女 O誰かが・どこかでシナリオ 37 お怠仏に生かされる 中村良観 ・・・・・・・・・............................................. 外国で生活して の歴史は数万頁を以てしても書き足らない」 「世界人類の歴史は一頁に収まるが、個々人 に百一って熱っぽく語ってくれた時、眼から鱗 の問い方と偽教者の生き方について、一週間 ー ル博士 「偽教の十二原理」を公表して、世界に向っ 。 の落ちる想いにかられた 因みにパ て偽教の基本的な理解を訴えていた法学者ク ウエルズの と言うのは、有名な歴史学者 は英国で国際仏教研究所を主宰し、戦後早く て、あれこれの回想がマスメディアをにぎわ リスマス・ハンフリイズ博士の高弟であった HG 言葉であるが、戦後五十年の節目の年に当っ している時、四十年に及ぶハワイでの開教生 。 活をふり返って、ごく断片的な想出を綴って パール博士の主張と信念に激発 8れ、平和 ー マに聞かれたのが、第二回世界併教徒会議 。 . への生きさまを模索していた時、偶々一九五 。 旅順で海軍予備学生の訓練を了えて、九州 二年の秋 「戦争の反省と偽教徒の責任」をテ 見た い の特攻隊基地に派遣されながら、不思議に命 長らえて、終戦後いち早く仏教専門学校に復 であった 名大併青を代表して始めての国際 学を果たし、卒業後自分なりの青春の想いを や-分科会で知遇を得た「行動派」の指導者た 会議に参加し、東京、名古屋、京都の各会場 。 学究の生活にぶつけて名古屋大学に在学中、 ちに魅せられて、海外への脱出を企てる事に 特請の講師は極東軍事裁判の主席判事を た 。 大倉山文化科学研究所のゼミナールに招かれ 済事情の故に決断を遅らせていた筆者は、丁 併陀の国インドへの留学を志しながら、経 。 なった 。 つとめたインドのパール博士 戦勝国が敗者 を裁くのは国際法上不当であると主張しなが ら、「恨みはうらみに依って静まることはな 度その年にハワイ巡教を了えて帰国されたば うらみなき心によってのみ:::」と言う い かりの故国の大先輩、師表と仰ぐ椎尾弁匡先 。 法句経のコ卜パを引用して、公正な戦争責任 39 ........・・e・e ・e・....・e・............................... 。 生の奨めで、念例具通のためにハワイへの転 める覚悟で、真珠湾攻 撃 の日に父と兄を失っ 、 贈るべき指輪を購める貯えのあろう筈もなく た日系三世の娘を伴侶に選び要ったものの、 「時は今 ところ足許その事にうち込むい 任地の山寺では数カ月の問収入もなかった 、 のち永遠の御いのち」の色紙を頂き、「海外 来る日も来る日も買い置きの味噌をなめ、野 出を果たすことになった に出て先ず学ぶことです」と激励されて横浜 生のグワパをもぎバナナをあさって食いつな 。 を出港したのが一九五四年六月、七日半の船 ぎながら、開教したばかりの日本語学校に児 sd 旅を了えて入港したホノルルは、折しも六月 童を集める為に、連日連夜サトウ蕉耕地をか その頃泌々と味い知ったのは初期移民労働 。 ア 十一日、カメハメア大王祭の祝日であった け廻る日が続いた 者の忍従と苦闘の歴史であった 入植当初の 。 ロハ塔にふりそそぐ陽光はまぶしく、アラモ アナに打ち寄せる白波は紺碧の大洋に連なり、 日本人にとってハワイは楽園ではなかった 。 ハワイ大学を懐にしてマノア〈 ハ 口にかかる虹も、 言葉も通ぜず、風俗・習慣も宗教も思考も異 。 力ラカウア大通りに咲き競うポインシアナの る諸民族が一つの耕地にひしめき合い、娯楽 も慰安も求めようのない生活環境の中にあっ その太陽は今も変らず、万象の上にも左程 。 街路樹も、総てが清新の気に満ちていた の変移は認められないが、昨年間教百年を迎 て、人間の求めるものは何であろうか?奴 。ん えたハワイに住む人々の心には、隔世の違和 U ょう 乱し、飲酒・賭博 ・刃傷沙汰が頻発し、三万 らんにん 隷に等しい過酷な労働条件の許で、風紀は棄 ハワイ島の僻地 「東西哲学者会議」を主催して来たハ 。 感があり、その生活様式にも格段の相官瑳か見 られる 、 人にのぼる日本人渡来者が極端な精神的危機 年学んだのち ワイ大学に に陥っていた時、一八九四年の春、満曲家の広 l に赴任を命ぜられたのを機に、現地に骨を埋 40 海外で生活し て ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・e・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 野では日露の戦火が砲煙を交えていた頃、四 プナ地方に在職九年、一九六三年のチリ津 。 育つまでには十五年の歳月を要した 波の後、乞われてヒロ明照院に転任 隣接す 、 手段として、星の光を頼りに数十哩に跨る耕 るヒロ大学にキャンパス・ミニスター として またが 尺に余る併像を背負い、馬の背を唯一の交通 地を駆けづり廻った熱血漢阿部開教使の逸話 奉仕、仏教学生センターを開設、幼稚園の経 俗だ などを肌で感じながら、人間生活の限界ぎり 曾ての教え子遠の入信、入値、結婚 。 の司式から就職の斡旋、事業への助言、人事 なった 営に乗り出した頃、収穫の秋を迎えることに 。 ぎりの所で、念仏信仰の果たした役割の重さ を見 直 さ ず に は お ら れ な か っ た やがて生れた長女をチャンドラ(月光)と カウンセリング協会、これ にはカソリック、キリスト教、ユダヤ教など ・ 走らせて十指に余るキャンプ説教に、幻灯機 の聖職者と心理童?医師・証書婦 フェイス ンタ 相談などの激増に促されて結成したのが、イ や紙芝居などを用意して各戸五 O 仙の法謝、 ルワ|力 ー に寝かせながらの二部授業、毎月夜道に車を 名づけ、ダンボール箱に入れて教室の片隅み 二十マイルに散在する農家から子供達を拾い 防止・アルコール匡正、精神衛生などのプロ 。 の事を学び得た 深夜の酒場に急行して酔っ ー などの参加と協力によって、自殺 ・ソシヤ 集めて集会場で聞いて来た日曜学校、やっと グラムを展開して、多忙を極めながらも多く やポ ぱらいを看護したり、未明の一刻を自殺未遂 セント の想いで再組織させてもらった地域の青年団 たジユニヤとシニヤの仏教青年会、そうした 者の部屋で過しては、人間の悲哀を想い知ら イ・スカウト、やせる想いでこぎつけ ものが動くまでには石の上の三年 赴任早々 されたりした上に、癌の告知、臨死の立合い、 l に竹林を梯って飢えた果樹は五年して実を結 臨終行儀などを通じて、業縁とも言うべき人 。 んだが、妻と共に流した汗と涙の種が芽生て 41 ...・.....・・・・・・・e・・e・..・.....・e・............・・・e・・e・・e もろ 間性のすさまじさ、生命の重さと脆さの両面 五 OO回を数え、この人口三万足らず の三日月の町が、二人の娘にとっては言わず もがな、家内にも私自身にも第二の故郷にな 。 をいやと云う程見せつけられ、又自ら深く見 っていた事'に気づかされた 。 大学への愛着、 ・ 毎週足繁く訪問した記念病院での想出、信頼 とした町のたナ示'まい 高校 何処を歩いても知らぬ人のない小じんまり 。 く他人の悲しみが解らなくては宗教家にはな 倣め直す事が出来た事は感謝に堪えない 。 に結ばれた二百に余る檀信徒の家族、キャン 4H-FAA ライオンズ、ボーイスカウト、精神衛生協会、 ハワイ郡政府や令参事会を始め日系人協会、 に選出されて、ホノルルへ移住するに当って、 かさに満ちていた するホノルルでは味わえない緩慢で素朴な暖 率を追い求め、物質的な繁栄を強調して変貌 も離れ難いものであった それらは速さと効 で馴染んだ子供たちの円らな眼:::どれ一つ などの若者たちの笑顔、幼稚園や日校 移民資料館等々、苦楽を頒ち合って来た幾つ れの中で、見失いかけていた心の落ち着きと YBA プやプロジェクトを共にした かの団体から表彰、感謝、送別礼を受けるに 人間への信頼をとり戻させ、感謝と充足とを 。 急き立てる様な時代の流 。 及んで、蟹は甲羅に合わせて穴を選ぶ事に想 与えてくるれ「人間らしい生活」がそこには かに プナ時代から始めて、二十年の りで あ っ た 。 残されていた ホノルルの会議を終えて島に ヒロ在任中、二つの局から毎週送り続けたラ 変えると、ほっとしてよく眠れたものである 。 ジオの「修養講座」と「宗教講話」もいつし 。 い至り、円頂ながらも後ろ髪を引かれる事頻 一九八三年の秋、ハワイ浄土宗の開教総監 〈〉 社会との連りから 宗教は語れないからである 人間性といのちとのぎりぎりの対決なしには、 れない:::と言われるが、まことに赤裸々な よ カ、 42 i1!j外で生i jf;して ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・e・・・..........・e・................. ヒロの町では、偶々食堂に座っても、こちら の気づかない裡に、私を見かけた誰彼れがそ 国境を越えて結ぶ信と友情 〈〉 呼ばれる景勝の地がある そこは曾て初期日 。 あったし、「いかがですか!」と声をかけなが 本人移民の上陸港とて、浄土宗第二番目の寺 ハワイ島ハマクア沿岸にラウパホエホエと ら病室をすり抜けて行くと、知らない患者に 院が建てられ、教務所の置かれた事もあった っと代金を支払ってくれると言う事も屡々で 呼び止められて話しこんだり、外人から祈り が、一九四六年の津波で小学校と村落が潰滅 交際を通して、年に一度のパザア に特命が下った ラジオ法話でこの事にふれ 社から土地の返還を迫られていた時点で小禍 されて荒廃に頻していた 無住のまま耕地会 ベトナム、 いもかけない人種の協力が得られたし、日本 たところ、旬日ならずしてオアフ島から十数 。 を空輸して来島するや、浄土院の庭と近くの 教徒の信者が、他島から寝具や炊事器具まで 。 リーダーのヤクザン・ベルデシ 。 から訪ねて来た初対面の学生の保証人を引き 名の奉仕同かかけつけてくれた 何とそれは 。 を頼まれたりは常のことであった し、その後うちょせる耕地過疎化の波にさら うけて、カソリック系高校の父兄会で神父と 、 フィリピン、中園 韓国人やユダヤ系などとの 隣り合わせたり、自坊で行う結婚式に基教の 回教の一派ニユウェイジ・スウフイのグルー には、思 牧師を呼んで祝諸帽をまかせたり、他宗教の聖 プであった ー 堂に招かれて葬儀を司ったり:::こうした想 ユはアルゼンチン生れの哲学者で池ノ坊華道 。 出を残すことが出来たのも、清貧に甘んじな ッ プルを含 の師範で、同行の信者は三組のカ 。 がら無報酬で続けたラジオ放送のお蔭か、市 む男女十六名に幼児が二名国籍も雑多な異 。 内の酒場や集会場に貼り出した「人事相談緊 急電話」の効果であったかも知れない 43 -・・..............................・・...........・e・..... 。 空地にキャンプを設営して、即日仕事にとり かか っ て く れ た みなぎり、「浄仏国土」への参加を果たした喜 直し、屋根の張り替えから天井と床板の修繕 綜合したこの聖集に、手をつなぎ肩を組みな ユダヤ・ヒンヅウ み、手はささくれ立っていたが、イス l ム ラ・ 半月に余る日々起居を共にした私の腰は痛 。 びと誇りに輝いていた にとりくんで疲れも見せなかった メンバー がら、各国語による礼拝を繰り返して、夜の 生い茂った巨木の枝をおろし、石垣を積み の職業は大学教授に弁護士、商店主にダンサ 更けるのも忘れていた ・ 。 中東アラブ系特有の 仏教各派の独自の祈りを ー等、経歴も教養もまちまちであったが、大 むせぷ株な音律に合わせた円障の舞と念併合 。 工経験者の指揮の下に、慣れぬ手にハンマー 唱の響き、それにも増して弥陀本尊の御姿を チェーンソウ を握り機械鋸を操作し、薮蚊にくわれながら ふり仰ぐ彼らの自の色の涼しさ・・::伝統にも 。 の炊き出しなど、挨まみれの顔に目ばかりが 形態にも捉われない自由で率直な宗教的熱情 一日の労働の終りに は円陣を組み手をつないで敬虐な祈りを捧げ 生き生きと輝いていた が私の心をゆさぶり、魂の底までずしりと響 。 てタ前を楽しみ、座談に花を咲かせてから互 いて、二十年后の今も尚燃えつづけいる 。 いを祝福してテン卜で寝に就いた これと前後してチベット悌教がハワイ島進 旧日蓮宗寺院を貰いうけ、シンゴン ・ラムパ 出を企てながら行き詰っていた時、パハラの パランティヤの原点とも言うべき二週間余 の奉仕を終えた月に、何とか寺らしくうまれ の献堂式までこぎつける上に、私なりの協力 。 旅 抑止った併前でユニバーサル礼拝を持った 費と雑費を捻出する為に、私物を出し合って が出来たのもこうしたスウフイとの体験を通 ガレージ 車庫セールまで催し、異教の荒寺復旧に汗を しての事であった お蔭でダライラマ十四世 。 流した人々の顔には、安堵の想いと満足感が 4 4 i毎外で生前して e・......................・..・・e・・・・・・e・...............・ 視下の知遇を得て、インドはダラムサラの宮 訪ねて来たボストンの医師アンドリュ・マイ で研績にはげんでいる妻浪江の葬式の直後 の場合、その道心堅固と見込んで別院に 。 殿に招かれ、その後も目、米、ハワイ各地で ヤ ο当 ボストンにささやかながら浄土院を開創 l 数度に亘って接見の機会を与えられ、色紙の 留め、一ヶ月修練の後浄安の法名を与えて、 。 揮一電や記念品を頂いたのも、例縁の不思議と 言うの外はない の特別法要に参加したり、ロス、パンコック、 て接見の座に連り、王室の寺エメラルド寺院 宴に、ハワイ仏教徒を代表して王宮に招かれ て、彼は今清貧に甘んじ病苦にもめげず、勇 日本に招いたところ、一ヶ月余の特訓に堪え て来たが、一昨年の秋法縁の機熟して浄安を 現地信者白人、中国人十数名の帰敬式を行っ 移った後も、毎年続けて研修別時会に出講し、 初のアプル卜ン街から南ボストンの現在地に コロンポ、東京の各地で、中国仏教界の指導 偽縁と一吾士言一 者越撲初先生などと併教を論じ、度々食卓を 猛精進・忍終不悔の願行に励んでいる 。 共にして語り合えた事も、更にはベトナム難 民たちとの心あたたまるふれ合いと、今に変 。 らぬ友情の紳など、すべての出会いが例縁の 業成 と し か 考 え ら れ な い 一九八三年間教総監に就任と同時に開設し た浄土教センターでは、浄舟、浄道、浄信、 に、故藤井御門主税下の御指南を得て子弟と 浄蓮など白人、黒人、中国尼僧との出合を機 して僧籍に登録し、念併の同行として今日ま 45 e・・・・・・.....・・..................................・e・..・ りを離れて、今日只今を心聞いてよりよく生 それが又アミダ仏の生命を生かして頂く所以 を心をこめて歩むことこそ吾が生甲斐であり、 やがて足速に花ひらくであろう道 ホノルルでの四期八ヶ年の別院生活は別の 。 機会に述べる事とするが、入手不足で多忙を であると信じ、六十五才を過ぎて輝いて生き さること 極めた寺務の外に、ハワイ仏教連盟・仏教伝 る為に、大宇宙の官只一つ生命を育む地球と 〈〉結び 道協会スダ|タ委員会の行事や会議、毎週い 一一言う美しい惑星を破滅させない為に ・ も・・ ・: と 〈 くつかの病院慰問、養老院の出張説教、ラジ 考えて、国連の NGO プロジェクト、「国際緑 ue オ放送、テレビ局への協力、超宗派サマリタ 十字」の発会式、京都会議に向けて帰国した かん ン・カウンセリングの実務、ボーイスカウト (滋賀・清久寺) (未完) 訳である 。 連盟、精神衛生協会、家族計画委、上下両院 だんらん での祝薦、加えて日系諸国体の様々な集いに 参加 J するなど・・::その生活は家族との団繁な ど顧みる暇もない慌しいものであったが、有 難いことに、在住三十八年の問に、一五 OO 人以上の死に立ち合い、七百五十組に及ぶ結 「 ハワイ仏教」誌の 婚を司式し、二千五百四を越えるラジオ放送 など を 通 し 、 又 八 年 間 の 編集やいろいろな人々とのふれ合いを通して、 。 あまりにも多くを学ばせて頂いた 過去にとらわれることなく、未来への気掛 46 もうすぐ七五三を迎えます 。 可愛らしく着飾ったお子さんた そのため 八 主 o eo跏CD0_ ちが、お父さんやお母さんに手 を引かれて、あ る い は だ っ こ さ れているほのぼのとした姿が、 。 今年もあちらこちらで見られる 親御さんであれば、誰しも我 ようになります が子の健やかな成長を、そして 。 立派な人間になって欲しいと願 わない人はいません に時には褒め、時には叱り、限 。 この時期、子 り無い愛情を注いで、懸命に育 てようとします 内で掌を合わせている親御さん 供さんを連れて神社やお寺の境 。 の背中から、そ の 胸 の 内 が ひ し ひしと伝わって参ります 動や言動が、いかに大きな影響 力を持っているかをあらためて ところで、学習というのは、 まず誰かのしていることをまね 。 さらには、家庭という限られ 思うのです 認識しないわけにはいかないと 。 まだわずかしか話せない ることから始まるとよく言われ ます ような小さな子供の言葉づかい、 ん た範囲だけのことではありませ 幼稚園や学校への行き帰り 行動に、何気ない親の口癖やし に自にする人、もの全てが、善 。 ぐさが現れているのを目にする と、本当にその通りだなと感心 それを 今朝、お仏壇にご飯とお水を 。 くも悪くも子供のお手本となっ 。 させられたりもします ているのではないでしょうか せてお参りをしたお父さん、お あげ、お線香を立て、掌を合わ ことでしょうが、きっとそれは 見た親御さんは少なからず驚く ともっとたくさんのことを知ら 。 を教える||このことを今一度 葉では伝え切れない大切なもの 。 じ、何を学んだでしょうか 言 母さんの背中に、子供は何を感 ほんの一部で、おそらくはもっ 。 ず知らずのうちに覚え、そして 子供にしてみれば、直接言葉 まねているはずです で褒められたり叱られたりした (正) ことよりも、親の背中を見て学 考え直してみたいと思います 。 親の常日頃の行 ぶことのほうがどれほど多いか わかりません 47 「どうか、健康で、いい子に育 ちますように・・・」 若和尚の 表紙は語る 共に生きる 佼幸 真洋 ・倍野 斎一戸 利御 ブナ原生林から 森は水を貯え、上岐を作る 。 .tt!!)求温暖化の原因になっている 二酸化 炭素を吸収し、却款を育て、プランクト ンや虫の育成まで行い、結来的には魚駕1 も保護している 。 その森の働きの姿、それカ fブナの原生 林なのだ。 t長捕告 150年のブナ l 本で、が:)8 トンの水 を貯え、ヘクタ -JVあたり年間 10 トン近 い葉を落とすという 。 雨が地表を走ることさえ抑えて洪水を防 ぐプナ。 果実は鳥獣を長い、落策 iま土を 肥やし、山菜や他の野草を育てるプナ。 森の母、森の医者と呼ばれるプナ。 その ブナと共に生き、写真を搬り絞けるひと りの写兵家がいる 。 共に生きる 阿仁町に跨がる約二十キロ四方に広がる山域 森吉山は標高千四十円五十四メートルの山、で秋 私の撮影地奥森士口は森吉山の北京麓である。 ている。海抜九百メートルの豪雪寒冷地でこ して Eれもが杉独特の姿で直っすぐ上にのび いるものなど変化仁富んだ杉の巨木群だ。そ の幹に分かれているものや、数本群になって んな大木に、 t木の生命力に驚き入る。正に 田県の中央東部北緯四十度に位置し森吉町と をもち、その一万五千ヘクタールが県立向然 い秋田杉は温室の杉に思えてくる。幹の分か 天然の杉だ。樹皮も堅く締っていて遅しく、 挑桐杉(森吉町側)と佐渡杉(阿仁町側) れている所には者がひろがりその巾'から二十 公国に指定されている。その尾根づたいに国 である。通常の秋田杉は海抜七百メートル以 センチ程のヒメコマツが木枯しをうけ絶え間 この杉を見ていると今迄私の知っている美し 下に分布しているが、この杉は海抜八百メー な冷い風だ。 なく揺れている。いまにも雪を運んできそう の天然記念物に指定されている杉がある。 トルから千メートルの高山、で豪雪寒冷地にあ 、 感嘆の声が出た。兄ごとである。 t から全身にまといつく、明るくなった林の中 の葉が折れるそのたびごと枯葉の香りが足元 だ。一足ごとにガサガサと立ne立て霜柱と木 集が落ちて明るくなり一商枯葉のジlュタン 平成三年十一月卜一日、林の巾はほとんど り耐寒耐雪品種の杉である。伏状枝が発達し ているのが特徴でブナ・ナラ・ヒメコマツな どと混生している。見に行ってみた。 ノロ川林道の行き止りで率を降りると一二十 1 分程で桃桐杉に若く。 オ る。しかし倒木の多い所ても若木も古い木も で台風十九回すの被害の大きさをあらためて知 残っている。古い木、て残っている木はちょっ プナやナラが葉ぞ落して明るくなった林の中 一一メートル近い一本の幹の途中から三、四本 で緑のまま、尚早萱tそびえ立っている。直径 4 9 と兄には姿形はよくないがしっかりと川慨を張 り幹の畑山木も太く校先はまわりの木々と協調 『 ばちゃんの本 とにている お 』 。 しているかのようにバランスもよく余分にの びていない、 斡と幹、校と校それぞれが適度の間隔をもち 。 互に譲りAn っている織に兄える 十月撮影予 定だったブナは直径八十センチ程、て木肌も美 しく、枝葉は幹を中心に四方に閉じ様に広が 一メートル程の上をつけたまま倒れている 。 り兄映えの良い木、であった。しかし艇は浅く 。 。 改めて繰り返し木は私に生きかたを教え 幹の太きにしては恨は浅く広がりも少なくな い ている 。 。 L字形、大きい木に寄り 素直にのびた木、途中にこ 同じ環境なのに太さは同じでも 葉を落した木々は円分の姿を完令にさらけ 出している ぶのある木、 S字や エスエル 姿形は全部違う 添い細くひょろひょろとのびた木、 一本 一木 ゆっくり兄ていくうちに木の形から、これは K君だ、この木はYさんに似ているなどと友 5 0 共 に生き る 。 。 人知人の顔が木 tダブる 熊除けの歌を歌い 冬の寒さから若い葉を保護するために厚〈 ながら林の中を歩き回る 堅 い皮に包まれた冬芽、大きいのがホオノ木 小さいのがブナとナラ、カエデはその中ぐら 。 い 。 リコー 脂肪やグリコーゲンをたくわえ少し 甲虫類や半姐類には成虫、て冬を越すもの いだ、それも同じようにセピヤ色てゆれてい る が多 づ っこれを使い生きているものや、 グ 。 半姐類のチャパ、みアオカメムシ ゲンをグリセリンに変え仮死状態で冬を越す 。 。 グリの袴に身舎ひそめている 山の 生 ものもいる 、 は ドン 物達は冬ごもりの準備が終わったようだ 。 。 時折吹く冷い風が足元の枯葉を舞い上げる 今夜は 雪 になりそうだ 5 1 野擦の名選 小川有順 rl(;~ を追っ て 。 。 北引原正蔵氏である北引い人達に 今年八月の初旬の朝刊に一人の許報が拘載 されていた はあまり馴染みもなかろうが、昭和十年頃の ♀稲旧大学野球部の投手として名を馳せた人 。 物である あの頃はプロ野球と呼ばず職業野 学野球に較 球と呼ばれ、人気の程も束京六大 『 球界 野 』 の表紙も巻頭のグラビア写 べたら月とスッポンの遠いがあり、当時 一冊 一円の 。 、 E 今ては想像もつくまいが、ことに早 真もすべて大 学野球の選手ばかりで占められ ていた t もなるとそれこそ天下を二分するほ った 。 若原投手は長身 の人気があり、神{同球場の入場券を手に入れ 慶戦 るのは大変なものであ でなかなかの好男チだったから実力もさるこ 。 とながら下手な俳優な E よりよほどたくさん 私はまだ小学生だ 、 ったが、どうい のファンもいたよう盲である若原が活躍して いた 当時 うわけか私の周囲には早稲田の出身者が大勢 た私も自 っ 人、しかも早稲 じて大卒の相撲取りでは一 只 ってしまったりした 。 若原氏の字年 田山の笠置山という人がいたのでそれのファ ンにもな 二十歳代だ ったということになる 。 は八十歳と記されていたから、彼の活躍期は ちょうど 昨年の寺報の秋号に、私は以下のような文章 。 を害いている ||私にとって我慢ならない ったと のは試合中の選手のガッツポーズがやたら t 。 多すぎること、である ヒットを 一本打 い っては天や突き上げる仕革をするし、ホー ムランを打ったりすればべ l スを同る問中、 。 私も物心のついた昭和十 栄一 を尚々と挙げて「ほれみろ」といわんばか りにアピールする 年頃から野球の試合をずいぶん凡てきたつも りだが、少なくとも戦前はもとより、昭和四 。 っ 一人もいなかったはずである (中略)打 十年代くらいまではあんなことをする選手な ど l 、 ・ ムの口惜しきもよくわき 払 04えれば、決し たら打たれた者の身になる、勝ったら負けた チ てあんなプ ザマなポ lズなどはとれないはず 53 いて、ルールなどろくに知らなか 然に早稲田を応援するようになり、それが向 。 である。近頃は野球ばかりか人気のサッカー エンド(最下位)を味わ ったシーズンがあ っ たが、その折の早慶戦は当然ながらボロ負け ンの連続でがっかりする な E もそうしたシ に負け十点以上の差がついてしまった。する l が、大北日からの観客ならそんな臼慢げなポー と相手校麗応の応援席の全只が立ち上がり、 が起こったのである。宿敵のあまりの不甲斐 なんと「頑張れ頑張れ早稲凹」の大声援 ガッツポ lズをする選手など見かけた記憶は なきに期せずしての奮起を促す声ととるか、 はシベリアに抑留されているけれど、そのう 一度もない。応援も観客の多いわりには全体 ちきっと還ってくる優秀なピッチャーがいる。 それともパカにされたものととるかは人それ ールの派手な踊りな E皆無だ った。しか そいつさえ帰同できたらこの屈辱はきっとは が粛々と統制のとれたものだったし、次子学 れでも選手達はほとんど表情一つ変えず文字 ぞれだろうが、その時、誰からともなく、「今 どおり白球をひたすら追い、ひたすら打つこ らせる」という晴が流れはじめた。山中すまで しそ とにのみ専念していた。私は子供心にも、あ もなく野球は一人でするものではなくチ ム の数万人を呑み、」む球場、てまるで剣道の試合 プレーである。たかが一人の選手が帰ったく らいで本当に勝つことが.できるのか、といっ っきり党えているのである。後年、 たのをは かし奇跡は確実に起こったのである。学徒出 た疑問は誰しもが抱くに違いないのだが、し 加わったから年齢は私などより二、三年は上 陣に加え、シベリアでの不条理な抑宿生前が 私自身が早稲田に入学して、あれは昭和二十 早稲田大学が野球部創部以来初めて ア 4 ール・ は失礼だが京大が六位と決まっているのに、 何年の春だか秋だか、いつもは必ずといって l をみせられているような真剣さが充満してい 生も数えるほどしかいなかったせいかチアガ そう、まさに昔の野球ゲl ムではそうした ズをしなくても必ず拍手はする。ーー 。 54 だ ったが、ろくな練習期間もないままに次の シーズンでは 主戦投手としてマウンドに立ち、 ったので 打てば四番で豪打を披露してくれた結果、な 。 その投手こそ、昨年、アマチュア野球 んとピリから 一位に返り咲いてしま ある った 。 今は茨城の大慌て旅館を営ん から唯 一、野球殿堂入りを果たした石井藤吉 郎氏であ でいると聞いたが、考えてみれば先に記した 、 るの であろう 若原氏は八十年の舟命を全う 。 したが、同じ早稲田の松井、小野、慶応の楠 。 本、法政の松下など、名選手といわれた人々 った の多くが太平洋戦争で戦死をしてしま 今年も、中チ闘では高校野球が行われたが、 ら れ できればあの選手全部が無事で、平和に人生 。 を全うしてほしいと心から願わずにはい ないのである (東京府中・ 蓮宝寺住職 ・芝 中・ 高校校長) 三八 f弗 四 目宍 店 町 若原投手のほぼナまホの後輩ということにな . > ュ ⑤六 一五 京都市右京区 医主 千年の歴史に HH い 七 五六 手 句人 三七 育まれた巧みの技 . 悌具は当店に 干干 法 3 」ー 七七 津 票 I I 者F 京仏壇 間宮林) o0 七七 - ~." 五五 尽 。 佐藤行信 l争土宗 t 卓球界 れ、のち青森県の卓球協会の会長もなさり、 寺の御住職の楠美知行上人も卓球部で活躍さ 現在も日本卓球協会のために大変御尽力をい こんな睡で舎かせていただくと、皆様は大 変お ろかれると思いますが、実は大正大学 の前身の宗教大学、これは浄土宗だけの大学 たずいております。 E でした 。現在の大正大学は、浄土宗、天台宗、 、です。その宗教大時 学代から卓球はやってお のちに OB 会長として、大正大学卓球部にお 人も、卓球部の選手として、また監督として、 また先年亡くなった亙口主党院稲田稔界上 りました。大正大学は大正十五年に創立され 力をいただきました。また、神戸の中川治安 真言(豊山)、真言(智山)の三宗四派の大学 ておりますが、宗教大学時代、大正二年に卓 上人、旦見達人上人(大正大月子常任理事)、新 奈 川の橋下上人、大阪上宮学園小林理事長等 球の試合を宗教大学がやっている記鋒があり 浄土宗の の北川一有上人、信入院の渡辺一雄上人、神 た。人はお坊さんの大学と、歯医者さんの大 相沢氏、玉木氏、中島氏等、別に浄土宗と関 潟の藤田説宜上人、埼玉の落合上入、長寿院 学と、農家の方の大学が卓球をやっていたと 係がない、名選手もおりましたが、昭和三十 ます。その頃は三球連盟と云って、宗教大学、 云っていました。それが現在は男女合せ計百 年迄はどちらかと云うと寺院関係者が多く卓 東京歯科、車口山由民大と三校でやっておりまし 五十二悦(男子八十九校、女子六十二校)に 球部に関係しておりました。大正大学になっ 、 なり、関東学生卓球連盟となっています。 てからはもう亡くなりましたが、天台宗の吉 は枚挙にい kまがありません。 このように大正大学の卓球部の歴史は宗教 田上人、(元大正大学理事長、元卓球部長)、生 方上人(天台{一ホ)等も活躍されています。 OB の執事長をなさった千々和上人は、関東学生 大学からのものであります。ですから知恩院 卓球選手権で優勝なさったり、現在青森正覚 57 宗教大学時代は白衣でタスキがけて、ラケ 。 このように大正大学卓球部の膝史に宗 ットを握って卓球をよ足、でやっておったそう です 。 教大学以来浄土宗の関係者が数多く関係して おります また浄土宗では神条川県饗 M組山桁瀬上人、 山口上人、他{示、で言 は宗 真知u山派出身、ては呪 子は古田部長(天台宗)、でしたが、古田部長 土宗)がつよく推選してくれました。当時男 。 父が昭和十七年に部長に はご多忙で、結局小生が男'kt も而倒をみる ことになりました 。 なったのは、それまで監杯米部長の稲田上人 が出征されたからだそうです 小牧」がおあづかりしました 頃は、児子は二 の来る前に一部に tがったそうですが、当時 部と一部を行ったり来たり、女子は 一度小生 は 三 郎でした 在埼玉工業大学に勤務している福島氏、(埼玉 k人、時山 陣川 一で 示は 、宇都宵の市中小上人、また大 女とも六校、 二部も引火とも六校てその三 郎 県卓球協会理事長)茨城の奥田氏、山川王の布 正大学教授の浄上京、(E 川H先生、淑徳短期大 'K は山力 とも十 二校ずつで六部まであります 。 。 ところで関東学述は一部は児 学の浄上宗白介先生、愛知県の八木氏、崎王 現在火子は五部迄です 当時は現 K 化、山川玉県の秩父にある ほ パ知 畳川 一京 u 。 の浄土宗本庄の石凹上人など寺院関係者は枚 挙にいとま が あ り ま せ ん 。 丁度此の頃より寺院関係者は減り、 現在でも部に二人程浄上宗の寺院子弟がおり 。 すが、父が大正大学の卓球部長を昭和ト七年 ますが、現在の大正大学は一学年の宇佐数八 ました 山派のお上上人がコlチ、のちに監行になり からやっていました関係、て、丁度大学に小生 百人のうち、寺院関係者が有名を少し上同る 。 小生が大正大学卓球に関係したのは今から が勤務したので、父のあとまず女子の卓球部 住ですので、それに卓球で優秀な選手は、体 二十五年前、です別に選手でもなかったので 長になりました。この件には渡辺元監督(浄 58 i下l:iぷとヰ瑚t界 っては宗門関係将は 一人もおりません 。 育奨学生、て入学してまいりますので、火チに いた しかし、持げ上宗の宗立学校および関係学校 。 は卓球が強いので、そのい口川等学校の山身者が 校にも名が知れ、関東山下述の一部、て活躍して 。 みたいと 五 一 う全国の尚校生が、受験してきて くれております 運動部とぷうものは、卓球だけにかぎらず 。 強くするのは大変です 並大抵でない努力が 。 大正大 学も この頃大変入 学同艇になり、約 部御三家 と小しております 大正大川予では、空手、カlヌ 、卓球を運動 。 数多くいます 必要です 引在埼玉工業大学深谷高校、 また卒業生の中には、大阪上山円高校、京都ぃ氷 。 山毘枚、女子、ては淑徳高校、淑徳学聞高校の 卒業生がおります また浄土宗の高校、ては樹 一万名程受験して入門子するのは八斤名ですの 摘則前校、地' 「K 頂古 YT 川枝、名トu屋東海山校等が 谷大川五十球部、て現従前蹴しておったり、孝次 で、学校が瑚解して下さっている体育推服乍 EE 業大宇が関 大学でも宗門関係では、山川 ない年もあります 。受験しているのは卜名位 伺以外の学仰は、毎年二人伏で、AH絡してこ 。 冷」がいたりしています 東 二部、て、 'K 'k 子、では淑徳 ーす短期大半は関東 いるようですが、これだけ大学の入乍は凶雌 現在、てはだいぶ世間 一般の山 。 ぶうのがあ ったそうですが、呪症は東北一 悩 一 (浄土宗)、駒沢大宇(曹洞宗)、竜谷大学(京 E業 祉大学(白山城県仙台市阿桐京)、 は 大川 学玉 と 大会を始めました 以前には仏学連卓球大会 この 二、三年程前から、仏教系大学の卓球 。 一部で活躍しております。先日の 全 日本大学 です 。 選手権には、関西学連代表tして仰教大やも 出場しておりました 現在の大正大学は、男女とも、十八年間 一 部におりますし、 その間に男子は 三 川、 'K チ 。 も問川優勝し、 このと、」ろおかげさまで安定 しております 59 深めております。希望があれば立正大学、仰 戦と個人戦を一泊二日でやっており、交流を 回、二月に各校順番で当番校になり、チ l ム 東山高校から、仏教大学を出た熱心な指導者 は、広島、府中に西雲寺住職金子上人という 回国民体育大会は広島で行われます。そこに して活躍しておられます。ま た来年第五十 一 卓球大会(世界ベテラン大会)のリーダーと 教大学とも交流をもちたいと思います。女子 がおります。 都府浄土真宗本願寺派)と大正大学で、年一 も東北福祉大学、淑徳短期大学、竜谷大学、 かけ、全国の仏教系大学の交流を深めたいと うと云って下さっております。小生の地元鎌 卓球を浄土宗門学校のメ l ンスポーツにしよ 埼玉工業大学の松川理事長にいたっては、 思います 。ある程度の力がそろってこないと、 会の会長をし、御子息の大正大学出身の山口 倉で浄土宗の貞宗寺の山口上人が鎌倉卓球協 大正大学などありますので、この三枝に呼び 以前にあった仏学連のように、つぶれてしま 。 小生の関係しております、関東 学連の伊沢 っております 工科大学付属高校のコーチとして頑張って貰 円誉君が村奈 川、て一番強 い男子の高校、湘南 学の力の平均を いますので、全国の仏教系大 。 みながら、卓球部があり、全国大会を目ざし ている卓球部に呼びかけたいと思います 崎玉工業大学の松川理事長は、現在財団法 人日本卓球協会の専務理事を、日本卓球協会 副会長は、名古屋の東海高校、早大の出身、て、 佐藤監督、選手、では、戸回選手、小泉選手、 現在大正大学の出身者では、日産自動車の す。 会長の石川六郎氏(鹿島建設会長)に依頼さ いう静岡の来迎院の御住職が、お自 現在シチズン時計卓球部の部長をしておりま t れやっておられます。また浄土宗には、山田 仰孝氏 身も専修大学、て有名な選手、でしたが、静岡県 卓球協会の会長であり、現在日本の高齢者の 6 0 i下 lニ宗 t 卓球界 l の皆川選手、ま 指導者がいるからです。埼玉深谷には吉田先 中先生がおられました。東山古川枝A の1 井先生 生、東山高校には今井先生、上宮高校には凹 斉藤選手、大阪グランプリ たん民子の選手、では、さくら銀行に小泉選手、 先般なくなられました。このあとをつぐ後継 を引退され、問中先生は不治の病い、がんで はご健在ですが、士円田先生は本年の脊で監行 藤村選手、十六銀行の宇佐美選手等、また高 。 校の指導者としては、東奥の吉田鎖光先生が 活眼しています 大正大学は平成十年に卓球部創部、宗教大 者の埼玉の斉藤先生、上宮の河野先生のこれ 。 問中先生が古川てた選手が 明、 大の山 (上 {mH 、M 専)修天学の村上君(埼玉深谷)、佐 崎君(は川王深谷)、合お君(崎玉深谷)遊沢行 u田 。 学よりかぞえて八十五年になります 現在、 おそらく米年も今年同様に力を発 っていただき、 います からの努力に、埼玉、上宮の勝負がか、って 。 その八十五年を迎えるべくチームを強化して おります 。 大正大学は良い練狩場をつく 輝山来ると思います 体育奨学生等、学校の理解があって卓球部の 藤君(崎王様谷)、大正大の波辺君(崎王様 。 今日があるのです あとよい指導者のもとに 。 高校の相談役をやっています t 学 関東学述、大正大 学の部長、埼玉工業大 、 小生も現住、財団法人円本卓球協会の役員 等です。 谷)、木村君(崎玉深谷) 三、 原君(埼玉深谷) 。 よ質のある選手を集める、』 t に努力すれば強 くなります 。 て世界選子権、 っ この 選手の素質はたれ、い 現在大正大学 に仲村錦次郎君という二年生 の選手がお り ま す まれです 。 是 非 こ の 選 手 を も 、 卓球と 一広 フ' 競技はメンタルなとこがあるス 。 ック を目指したいものです ポーツで、台の上 で相手の顔がよくわかると オリンピ 浄上京門の高校が強いのは、そこに有能な 6 1 。 っ きり よく小生は選手に、サ1ブを出 ころでや っておりますので、表情もは と見えます 引け すとき落ち若いて出しなさい、心を必ち世 るために、あなたの 宗教 、浄土 宗なら、南無 。 。 このよ 特に桁神的に弱く、練習の状態の半分以 阿弥陀仏をけ僻してから出しなさいと中しま す 下の実力しか出ない選子もおります うな選手には、お念仏をさせるとか、精神修 。 行をさせる必要があります。気 が弱いのをな lζ 二部との山には曜があり、 おすにはまず勝つことです なかなか 一部 簡単に突破する大学も、たまにはありますが、 。 大部分の学校は、一部に定析するまでが時間 がかかり大変です 崎玉工業大学 においては、 一円も円十く関東 一部に昇絡して欲しいと思っています。 (鎌倉・高徳院副住職・日本卓球協会副会長) 6 2 FORUM 瀞士の広場 「人の死どは、かくなるものなのか:::」 』れがその目見た 後 の最 初の 素 直な 感想 だ 「これいいのだろうか:::?」 病院から霊安室ヘ った 。 蓮門 ・テレビ小 僧 。 …否かの葛藤:: ・ 支は後者を選ぴ、あくまで隠し 、 。 一通すことを決意し周闘の者にその己けを告げる うこう f 門 うつもりはない 一 。 私は彼 kh 身に ここで、あえて小生はその長の選択に対して安 …易に E …なりきれるはずはな〈、よってブラウン管の外側 …からその決断をにわかに盟'るなど出米ょうはず …もない。もっとも、小生がその場に照合わせた当事・ いも「ほん t うのことを話す」(「告知」というlタム 。 ・おであったならば話は別だが・: ・: 焔に限らずと 一はなぜか好きになれない)ことが周囲の析にとっ ・を訴さない」ことも同じくらいに、いや 、 もしか .ていかに辛いことか(もちろん「ほんとうのこと 存よ来い 』 。原作・するとそれ以上に辛いであろう)、また時にそれ の側の辿絞テレピ小魂明書市山氏の小に・ひと川ほE 川に放映を終えた『 。 。 。 3病院側から会叩数か円である・』一れ、安はなるべくロア品物の務理をして病室を引 そうなるとどうしても、明日は Eうなる二』とが芳比した 。 。 さら は、 告にげ られる のかが気になり、ついつい兄てしまうようになる…とを知らされた長の思い、犬に事実を訴すべきか…き払うよう、看護財から なった はた 程なくして病室から霊安室へと移き なっ ただけなのか?)以前よりは見る機会が多〈…ということになっていたようだが、後に箔である…犬 なっ 。 ーズに…返すという話になっていた 「肋膜」を忠っている…ドラマもいよいよ終篤に近づいた頃、夫は亡く 活に時間的な余裕が出てきたのか(単にル 。 もな のがある れ ないで戸惑うことが多かった しかし故近は、生一しばらく前から主人公の犬が病で入退院を繰り一伴うか、はかりしい ため、 たまに見ることがあっても内容がつながら…て小生には兄どころのあるドラマに思えた。いとうのことを話される」ことがどれほどの苦悩を 小生、時間の関係であまり兄たことはなく、その一ずいぶんと苦心されたようだが、なEか うな しか …の場合は、告をいを信じている中犠引にとって「ほん 。 もご覧になっている万は少な〈ないことと思う 一将と山山山山者との聞でのすれちがいがあったりで、-が、安椛感を与 えが るあ ケるにしても、大体 lス NHK 6 4 M HUH 明 のような「流れL にしたのかどうかはわからな ーで でン ある可能性は誰にも否一ドキュメンタ リはないから、原作者の意向で 間髪を入れずに訪れた主治医から、遺体を解剖さ・米る「ノンフィクシL ョ …る そ せて欲しいとの話が持ち込まれ、ろ〈な説明もな・定できないはず。 であ 。 。病室でのああいつた出来事も、看護対 主や 治 いまま同音等 Uにサインを求められる そして、何…次の場蘭は、葬儀も終わり、真っ白な布をかぶいい 。 。 。 …ろであった その間わずか数分 あまりにも駆け…ッフの何か思い入れが、あるいは故意的な演出が が何だか事態を把握していないままそれに応じて一せられた遺品百箱が自宅の巾陰庖にまつられるとこ一医の話し方、表情も、原作者 ペンを執る委r :: 。 一人 大生 事 」の 一加わっていないとも確約は出来ない この病室でのことを凡て、何か喉につかえたよ…足で通り過ぎて行ってしまった「 であろう 。来 たしてあのように 、 一 看護婦がこのドラマと同じように遺族に対応 、時 間には「ドラ一 問 -しかし、その裏、見えない部分 りる 忠者が亡くなった場合に、どこの病院でも、医 。あ … きれいなまでに…〈数 Hが過ぎたと、自明川なく映った可能性も 。 lケ スの場合- つま うな感を受けたのは、おそらく小生だけではない…であった凡ている者の目には、きして問題もな…その怠味では、あのような 、 言 えない 。 それは有り得ない。従つ 」とかたづけきれない、否、かたづけ…し、同じような出来事が繰り広げEられているな 背中一マだから::: スムーズに、事務的に、実際の現場においても行 われているのだろうか?そう思った途端 もちろん に冷たいものが流れるのを感じないわけにいかな・てはならない「重み」が存してい。 る主 の… でと あはる 。 。 一で、あたかもそれが全 てであるかのようにとらえ lス かった 反対に、淡々と話す'者護婦と、主治医のい・人公をはじめ、取り巻いている人たちの心境を忍…て、このドラマのこ うの いみ うを ケ見ただけ 、 に証明することができる るあの病室 からは何ら血肉の通ったあたたかみの一うときそれは符日朝 『( 。出 「 来ればこ…かの立花隆氏がその革科書 臨 死体験 ・上 hH文…るのは、大変な過ちを犯すことになるし、また小 あるものの存在は感じ取れなかった ょ の巾だけの話であって欲しい・: うを なし発 : 九変な期待が円 警護社)の 中で、膨大な時間の取材をしてもテ…生も安易に医擦のあり方冷前うよ言 。 。 ブラウン管の中だけでの出率事とは思えない何か - 。 いずれにせよ、とても 思か わし な、い をよ宮ったが、現実はどうなのだろう?読者諸一レピ・というメディアを通して我々が見ることの出一うとはし 。 ただ単に小生 の考え過ぎ、取 り越し苦労なのであ -U 口を述べておられる つまり、見える部分のみで-をこの一話から感じたのである 氏はどのような感想をお受 けになったであろうか 一来るのは、その制約上、ほんの 一部である、とう ろうか?しかし::加「ニれはドラマだ」と簡単.こと終われりと思い込んでしまうことに大変な危一月並み章 な展 文開とお叱りを受けそうであるが 『 春よ来い は…しなくてはなら。な いは、先に記した病 室で 我々 』 っを ておられるのである…ここでヰ我々は僧: 侶iと しいて と にかたづけてしまうこと勿れ 。同線の 「シlン」は…険性があるというこ言 う問題提起を uと 今日 もどこかの病院で目の当 たりにすることの出… τ 小 生 は受 け止めたて もっとも、 』ノ 'f 6 5 。 、 。 。 、 、 f 、 。 えてくると、孜々の作k教の院大き よ 。 遭遇することはなかったであろうし、-』れか一し、医縦従事街にと示 っ ぶのは附取な-あるから 決して存観的問題ではないのである 教て やも 学{ y 、 い、務ら寒い「シ lン」が済んだ後の 葬儀とい…スト教か仏教か 仏教ならばどの 宗 胃の教えか うしつらえられた(と、白分が主役であるかのよ・といった問題が出てこないとも限らない 。 壬口で有名な人気タレント一 が 冊の本を著した 。 ど りにしている)「舞台」・恥ずかしながら、小生、まったくの波中につき、うやら「昨今、戦後瓦ト年といってい川だかんだと 'J 。 。 実的になってき…そんなのは獲さんが念仏を称えるようなものだ」 …ことは出来ない 話がいささか現 。 、 死へと向かっていくその本人にとって、 ニド引の受…をれらも深める必要があるし、そのことや 吊 を 大…注いであるし ' 。 。 。 。 きわめて危険でもある と同時に、 。 qの らば、その災任は少なからず我々の側にないとも 、 それは、寸生」の山寸備範附は阿内線従事行、…日ではぷでもが耳にしていることかもし …れ 浄な 上い 教、お念仏の教えは 生死に対する孜 。 。 。 7われい航けているということ…また、れら引っている点務の大きさと屯さを思い 「生死」は分断したものではな…に、 川 A,羽化もそれが 。 。 、 、 、 むことが必要であるというのではない 宗教者皆・か 病に倒れ 脊しみ悩み、死を迎える人々は我々一 。 て何も両者が互いの範闘の小に、無四やり入り込…では氷速のテ!?であることの証ではないだろう…あった 。 く、むしろ連続しているのである だからといっ一はそれだけ大きな 重い、川つ難解な あるぷ昧…知らされた、小生にとっては長いHt卜江分間で ことと三えよう しく本筋を反れた、誤った認識のもとになされる…きそうであ 語われ出したことなの…に途いない しる かし、北口 | | そん落下、nT 誇り砂新たにし、 。 d 」の守俄銃聞はや布教者であるといったような著…「また同行 じっ こて とるよ」そんな-〆も聞こえて一問いかけに刈し、その終 えを明示してくれるもの はない 子 汽 えないのであろう 川われ絞け、 A1. した上に決められるとしたら、こんな迷惑は他に一こんなことは、慨に遥か昔から 応的な枠組み設定を・らに思うのである 相反するものかのように、 二一 け持ち範聞を「債と死」という、あたかもそれが.にして説いていかなくてはならないと、今夜なが.仮に同じような考えをしている人がいるとするな 、 朽の受け持つ範附は確かにある しかし、生から.少なくとも もっともっと孜々は死に対する認識.な与えを持っているのであれば、それは大きな山 。 医協従事-おには医療従事おの.宗教将 宗に 教は ・たきらいがあるが、それが本立でもない しかし、・といった体の御セ仮のようであるが、まーにそん ら、それはあまりにも危険である に招かれているといった鈴党を持っているとした…説折消氏にこ 万 一れ っと た目新しいことを提供する…騒いでいるがいい加減にしろ‘何の意味がある、 うな勘違いを気づかない …晴らしきを感じないわけにはいかない 先頃、議 らもそうかもしれない あの、何とも表現しがた…ことではないであろうまして、その場合 キリいこ弓£ ん の出率下のような引場には、おそらAー くまでほと…が医学の専門的な知識宮下ぶのは雛しいであろう…白身も合的これからも永述になくならないので 6 6 秋深し山の彩つ日々に濃 一つ消えまた一つ消ゆ祭 雪もよひ別れ りの日 M A向背ょっ の品 目 弘 みト ねおとと イじ 7 Tみがく 祈つの灯静か にやヨの Lぼ ははあ 風の全戸風ひるがへ る葛の 秋草を手向くちち く 児玉良男 (静岡 ) 良書同 一一 慧 (筒玉 児玉仁良 (筒玉) 67 -琉秋()久、、 ]O R U M 句 事務局便り -J ・F ORUM ( 浄 土 フ ォーラム) ・ FORUM Y 毎月、投句、投稿を頂いて ご好評を頂いております、皆様のためのコーナ 〈J ー 。 おりますが、編集部ではもっともっとたくさんの 作品を、お待ちしております 短歌や俳句、書評 川柳など:・二首まで ・ -続 者アンケートのお 願 い 。 編集部では「浄土」のより一層の充実を図るた 。 めに、皆様にアンケートをお願いしております |十 一月号でもっともよかった記事 。 ご意見、ご感想など 官製はがきまた 。 で事務局までお送り下さい もれなく記 。 。 。 原稿は返却いたしませんので必ずコピーを 。 。 今後、掲載してもらいたい記事、希望する内容 2 その他 FAX 。 年会費は六千円です また、ご寺院の皆 。 様方にはなるべく一般会員へのご入会をお願いさ 下さい 。 徒、お知り合いの方々にも本誌のご購読をお勧め 。 当会では随時新規会員を募集しています檀信 -新規会 員 事集のお知らせ (住所、氏名、電話番号をお忘れなく) 。 念品を差し上げます どうぞご協力お願いします は 4 随筆や詩、身近な出来事や情報など、先の要領で 3法然上人讃仰会の活動として望むこと 。 どんどんご応募ください 私たち編集部では、読 。 浄土 」 をより楽しく、 書の皆さんと 一緒に、この 『 すばらしいものにしていきたいと考えております 短歌 ・ 随筆 ・歌など:・四百字詰め原稿用紙十枚以内 | 俳句 2 。 。 その他、本誌の体裁や掲載記事に対するご意見 3 ・・・適宜 投稿は随時受け付けてお 。 やご感想など、何なりと気軽にお聞かせ下さい タイトルは自由です また がでしょうか 。 ご贈呈先のご住所、お名前をお知 また、お友達への贈りものにされてみてはいか 。 方には本誌を毎号五部お送りしているます 。 一般会員の りますが、採否に関しては編集部に「ニ任下さい せて頂いております(年会費三万円) 。 おとりの上お送り下さい 採用分については記念 品を進呈いたします 6 8 らせ下 さ い 。 す ご希望の方、また掲載内容をお知りになりた . いま 一昨年四月号以降のバックナンバーがさご 。 。 い方お問い合わせ下さい なお、 一九九四年二、 ができませんので、あらかじめご了承下さい 。 きっとあなた あなたからのプレゼントであること 。 のあたたかいまごころが伝わるでしょう をお伝えして発送させて頂きます -一月号予告 。 五、十一月号は残部僅少につき、お分けすること 〈購読会員〉 -新規会 員紹介(敬称略、順 不同) *神奈川横浜市渡辺孝一郎 国際的仏教学者であり、現在東方学院院長、東 フがお話をお伺いしました 京大学名誉教授の中村元博士に、当編集部スタッ *神奈川逗子市堀越喜美 *東京板橋区青木東正 生い立ちから、インド哲学を志したいきさつや、 。 *東京新宿区吉田芳三 〈お詫びと訂正〉十月号新規会員紹介で、上 現在博士の仏教、法然上人に寄せる思い、世界平 和への願いなど、他では聞くことができない博士 。 尾市宇高一薫は、宇吉岡 一慧様の誤りでした 訂正 のお心を紹介します 七|四 | アンケート、お問い合せ、投稿は・ 。 しお詫びいたします 。 -会 費 ご 請 求 の お 知 ら せ 近目、平成七年度会費をまだお納め頂いていな EIAHV 八 O ニ l三五七八 |七 O 一一六 T E L O 二 1三五七八 |六九四七 明照会館内 一O五東京都港区芝公園田 〒 法然上人鏑仰会 なお、ご不明の点はお尋ね下 い方へご請求をさせて頂ますので、同封の振込用 。 紙にて、忘れずに、お早めにご送金下さいますよ 。 うお願い致します さい - バッ クナ ンバ ーの ご案内 6 9 編集 冬隣月みる人に憂いなし 。 口 一 日 t朝晩束、さを感じ、月がますます美しく かがやいて見える気がいたします まさに こ の時 。 が多いようです 。 。 少々肌寒い晩 。 期は、宗祖の 『 月影 』 の心をいただく、絶好の季 節のようです 前門主藤井実応台下に御揮口すいただいた金口に、 「月ひ t っ、水の浅い深いを嫌う、 』t なく、万水に 浮かぶ」という書がありました t 『 宗祖の止日より、我が宗門、では阿弥陀仏は 月 』 。 。 編集チ ー フ 編集スタァフ 編集協力 編集顧問 大 室了 附 石上俊教 佐山哲郎 斎総晃道 村田洋 一 太田正孝 長谷川岱潤 オフィス自 E ヒヒ卜 に-燃えられる こ 。 。 たらもう冬だったかもしれま λ ・ 秋の夜長、月を静かに見つめているだけで、信 仰 心 が高まってくるように感じられます 青春時 人生を季節に喰える 言 い方があります それ 代はまさに人生の奔 t いう こ とになります では 円 ' 秋、いえ十 一 日 t いう晩秋はまさに冬隣と なりますが、現代てはいくつぐらいを指すのでし 昔は五十歳を越 ょ,フか。 せんが、平均寿命が八十歳を越える現代、先月号 お話した金さん銀さんのように、百歳を過ぎても っ てきました ï'-i いい歳がまったく解らなくな 。 岳 まだ、ご自身を右後 t 考えていない人々もいます お弔いに行 っ て、 「ご長寿を全うされた」と 一言って 。 (長) 阿弥陀仏 4ì ')口し E立Z !H ニ r~q ト ハヒヱエ 年齢はまさに、その人仁よるとしか言えないよ 『 うです 天寿 』 などという 言葉 、数値的 まして なことがあろうはずがありません た t え十代で 『 天寿 』 なのだ t い も、亡くな った時がその人の 。 つまり、いつでも晩秋、であるという理解も必要 。 t が、仏様の教えであると最 t を理解するこ うこ 近つくづく考えきせられました であり、年齢に関係なく月を見るこ L に気づく ことが求められているのです 川 '11 平首 " 川 ' " if 諦 H召 Q九 仰 イ 文 l テ ヒ 六 鍛町l l l J l i 占 日 山林 仁 人 ヒq シ E21 牧寓 ) J L ) J t ) 1 年 卜年 卜 n .~j 十産E 品費 M(由i 一五 b: ! 社11 .~ I I n 二 ii I EP '!刀u 発 干 巻卜 -I lm さ │ 00 、、 ・ー・ 医21d1ιq1.、4.1 ニニ --仰と T一ー一 , 、 江 写 真 刷行 印発 編集 発 ~ Fi立 行 倦z芸 五五」トー I T S Z tE I Z F Ln 卜 二一 土 」 ハ A 高 所 吊 植所人人 XJEi住 字 i争 行刷 T II 五ilミ 0 惜 澗 70 あ 「 l ツ生きててよかツた ・ l N・」と 声がでる・ - 1 秒が F ln 、 このうまさは.何なんだ.ノドたたく快感、 い・ 1 秒 満 ちている .ii 駆 けぬける爽やかな味わ たまらない喜びに この黒ラベルの味、ひとことでいうとヲ y ドうつ、うまさ日それが黒 ラベルです 冶 υ1 明 一 F ・・. 、 ' - 一 『一 J Ja s--R 逼 --a u t 且邑圃MR ノドが、 体が ・.さて、黒ラベル.プシュツ f ゴタゴタゴタゴク ただいま.渇いています.ビールを欲しがっています. フ モ 画 h宮 岡 ‘ 日町匝 売楠 による嗣閣 の雌売 は午後日時t 午 前 5時主再生 υれていat ビールは、加歳になってからあきかんはリ サイクル へ @ 。 ∞一? 山 川 舎川 Ea圃圃""1 こんどのパルサーは 、 O たのしい新実用主事長 。 いろん e 縄鍵盤 に . ヨロコヒがあるのが衝しいのたそれ tt'. こんとのパルザーのたのしい衝突 用主・し ヲ かり温 ふ o b 制 tt ....ð l,. .,が)~:3'tð Mr. t.. ~ 制のこれから‘ 'R 鰐ちょ〈ザボートし .... 。 j 4aJ 伸円山開 54 hm作小山相一 州丹ト 付 ;:14! 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