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明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)223−250
有機農業と地域おこし
一南仏コラン村と里山ねっと・あやべのばあい一
杉 山 光 信
224
、4bstract
Revitalization of Rural Village and Organic Agriculture:
Two Cases:Corrans in France, Satoyama−Net in Japan
SUGIYAMA Mitsunobu
In this articlet I take up the theme of revitalization of rural villages and organic agriculture.
In the last 20 years, most rural villages in Japanese mountainous districts, ordinary life of the
inhabitants became difficult because of rural depopulation and rapid increasing of the rate of
ド
aged persons in total population. Then, f6r the purpose of attracting urban people, special豊y
people of younger generations, various kinds of trials and activities are being organized And
organic agriculture also is included among these kinds of activities.
But activities to bring back younger generation people are contradictory to organic
agriculture. Look at the history of the organic agriculture movement. In 19 70s, this movement
was begun by the people who felt uneasy about the effects of common agricultural products
made by a huge quantity of agricultural chemicals and fertilizer.
At that time, many klnds of pollution diseases such as Minamata disease appeared and
attracted the.interest of the mass media. Then a handful of progressive farmers tried to
cultivate rice and vegetabies by organic method, that is without chemicals and fertilizer. But
there arose one problem. Agricultural products by organic method could not circulate on
ordinary commercial distribute networks. So they had to look fbr tlle consumers who also were
afraid of the effects of chemicals and fertilizers. In this way, agricultural products by organic
method were produced and consumed in closed networks of supporters of this kind of activity.
And these supporters were very sensitive to the utilization of chemicals, they were inclined to
make iso亘ated groups from ordinary people.
By the way, activities f()r the purpose of revitalization of rural village have to appeal to the
people as much as possible. So, on one side there are closed circuits of producers and
consumers, on the other side, open appeal to ordinary people. How this contradictory relation
was solved?Itraced and examined three stages on which organic agriculture movement had
pursued in Japan.
The second part of this articlet I introduce a case of revitalization of rural village by
organic agriculture in France. Among the European countries, Ausdia and Germany are well
known by the achievement of organic agricul亡ure. But in France also, we can find an advanced
225
case in this field. The Corrand village located in Var prefecture has a population of 760
inhabitants. This village in a mountainoしls district is famoしls because of its experiment of organic
wine production by all village farmers. This experimentation is lead by Michael Latz who is
actually the village headman. I tried to introduce the situation he persuaded the villagers and
sし1cceeded to change from chemical agriculture to organic agriculture.
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《特別研究》
有機農業と地域おこし
一南仏コラン村と里山ねっと・あやべのばあい一
杉 山 光 信
(一)
この論文のテーマはふつうむらおこしといわれている地域振興の取り組みと有機農業についてで
ある。中山間村地域における過疎化・高齢化の進行が「限界集落」「水源の里」問題としてクローズ
アップされるにおよんで,都市の人びとをこの地域に引きこむための仕組みがいろいろ考案されるよ
うになっている。農作業体験からエコツーリズムまでさまざまなメニューが提供されている。農作業
にかかわるもののなかには有機農業の農作業体験も含まれている。このばあいの有機農業とは一般的
に行われている化学肥料と農薬を使用する農業とは異なり,化学肥料,農薬及び禁止資材を一切用い
ない農業であることはいうまでもない。有機農業を軸に据えることで地域振興に取り組んでいるケー
スをフランスと日本で見ていこうというのである。
これはある意味ではむらおこしという一般的で広く社会に開かれた活動のなかに有機農業を組み
入れていることなのだが,これにはひとつの背理が含まれている。これから概観するように,わが国
での有機農業は一部の研究者・有識者と意識の高い篤農家たちによって始められたもので,当時も今
も一般化している農薬と化学肥料を多用する農業(慣行農業といわれているもの)に背を向けるもの
であったからだ。当然のことながら有機農業をめざせばめざすほど分離主義的で一般社会から切れた
ものにならざるをえない。提携運動としてこれを推進した人びとは1980年代初めまでは「生活を変
える」「もう一つの世界を目指す」運動として有機農業や提携購入運動を進めていたことはのちにみ
るとおりである。歴史的な経緯からいうと有機農業は広く一般社会に開かれたものではなく,むしろ
それに背を向けたものであった。ところが今日では有機農業は生態系との共存,自然との新しいつき
あい方と結びつけられ,広く一般社会の人びとを巻き込もうとする地域振興の活動でかなり重要な部
分を占めるようになっている。有機農業の位置にみられるこのような変化は,人びとの考え方や行政
の対応が反農薬から環境保全へとかわったからということだけで理解できるものだろうか。そこには
もっと複雑な要因が働き,屈折した展開がみられるように思われる。
227
有機農業と地域おこし
そのことを考えるために,わが国における有機農業の展開についてかんたんに振り返っておこう。
有機農業は有機農業「運動」として始まったとされている。有機農業についてふれた論文や著作はい
ずれも1971年の「日本有機農業研究会」の結成をもって出発点とみることで一致している(1)。1971
年は高度経済成長の終わり近い時期であるが,それは石油エネルギーを大量に消費し,化学製品を人
びとの消費生活のなかに導入し普及させてきた。しかしそれはまた反面ではさまざまな公害を発生さ
せもした。そのマイナスの側面がメディアを通じて人びとに広く知られる時期である。農業について
いえば戦前までは少量の自然系農薬が用いられていたに過ぎなかったのに,DDT, BHCなどの有機
塩素系農薬にくわえ有機水銀系農薬が急速かつ大量に使用されていくことになる。当初これら農薬の
示した効果は驚異的であったし,戦後の化学工業の発展はこれら農薬をすぐに供給するようになるた
め,戦後の日本で農薬の使用はまたたくまに広まっていった。
ところで工業地帯での公害病が認識され社会問題化するのと同時に農業における農薬使用もまた
問題となった。大量に撒布される農薬は農産物のなかに残留する。とくに有機塩素系農薬は大きく取
りあげられ,このことは消費者たちの問で「安全な食べ物」を求める運動を生み出していた。日本有
機農業研究会は一楽照雄が中心になり創設される。一楽は協同組合運動に長く従事し協同組合研究所
の理事をしていた人だが,このような状況のなかでの協同組合のあり方を再検討する。そして「協同
組合が行うべき純正な商品の取り扱いの原則からみて,残留農薬により安全性が懸念される農産物の
生産と販売は,その原則に反していると考える。そこで大量の農薬に依存せざるをえなくなっている
日本の農業のあり方を根本的に考え直すべきである」②と考えた。こうして一楽照雄は農薬問題と
取り組んでいた医学者.生物学者,農学者,生協関係者などに呼びかけこの研究会をスタートさせる。
研究者,有識者が毎月一度集まる研究会であった。この時点では各地に残存している伝統的農業以外
に有機農業の技術体系は確立されていなくて,一楽はJJ.ロデイルにより進められたアメリカの有機
農業運動から多くの示唆を受けている(ロデイルの『有機農業』の翻訳を行っている)。この研究会
の設立趣旨では以下のことが掲げられている(3)。
(1)有機農業をたんなるひとつの取り組みとしないで,農業全体のあり方,農と食のあり方,現
代社会を問い直すあり方とみること。
(2)あるべき姿の農業と人間の健康回復がセットとして把握されていること。農と食,生産と消
費についての代替的なあり方の探求。暮らし方を変えること。
(3)農法の転換のためには消費者の協力,そのための消費者の意識改革が必要なこと。
(4)あるべき農法は未確立であり,とりあえずは旧技術に立ち返ることもやむをえないこと。
こうして1971年に東京で日本有機農業研究会は始まるが参加した会員たちはそれぞれの地域で独
自の研究会を組織し具体的な実践に踏み出す(山形県の高畑有機農業研究会,兵庫県有機濃業研究会
など)一方で,都会で安全な食べ物を求める消費者グループ(兵庫県の「食品公害を追放し安全な食
べ物を求める会」など)も参加し,研究会は有機農産物の生産者グループと消費者グループをつなぐ
提携組織・提携運動のセンターとしても活動することになる。
有機農産物の生産者グループと消費者グループとの提携といっても事柄はかんたんではない。すで
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に提携組織や提携運動の研究が指摘していることだが,そこには多くの解決すべき問題が存在してい
た。「食品公害を追放し安全な食べ物を求める会」が同じ兵庫県の市島町有機農業研究会や金川牧場
のような有機農業の生産者グループと提携したケースを考えてみればよい。有機農家がつくる農産物
は一般の農産物流通の回路にのるわけではない。委託生産された農産物は全量を消費者グループが引
き取らねばならないし,その生産物と価格をどう決定するかの問題もある。日本有機運動研究会の活
動のなかでは提携について多くの先進例が紹介され,そこから以下のような提言がなされていた(4)。
(1)提携は農産物の売り買いの問題ではない。有機農業に取り組む生産者・消費者のそれぞれの
側での相互理解と相互扶助の関係である。
(2)相互の交流と理解に立ち,生産者の土地で可能な多品目の作物を計画的に栽培し,消費者は
生産物を全量引き取り,それで全面的に生活するようにする。
(3)価格は生産者と消費者での相談で決め,一定期間は変動を避け固定価格とする。また全量引
き取りを原則とし,たんなる商品として代金を支払うのではなく,謝礼というニュアンスの
価格を払う。
(4)提携グループの人数は多すぎないほうがよい。拡大はグループ数を増加させる方が好ましい。
以上のことは,有機農産物の生産者グループと消費者グループの提携を成功させるための条件であ
るわけだが,それはたんなる提携関係の円滑な発展ということにとどまったであろうか。
提携運動は「反農薬」「安全な食べ物」「反食品公害」から始まったのだがこのような条件の下で進
められてみると,それは提携運動の参加する人びとの生活スタイル,生活のあり方を問い直させるも
のになっていくのである。高度経済成長はものがあふれる「豊かな社会」を出現させそこでは人びと
は「ほしいものを,ほしいときに,ほしい量だけ,ほしい形で買って食べる」という生活スタイルに
慣れることになった。野菜でいえばビニールハウス栽培が拡大した結果季節を問わずいかなる種類の
野菜でも手に入る。スーパーの売り場では標準家庭の人数での一回分の量ごとにパックされている。
これを買って調理すればよいようになっていた。ところがそのようにして手に入る農産物は化学肥料
を多用し,それゆえ病害虫に弱いため農薬の多用を必要とし,さらに温室栽培のため余分に石油エネ
ルギーを投入することでつくられたものなのである。
しかし,提携農家から消費者家庭にもたらされる有機農産物はそれとは全く異なっていた。「有機
農家がもたらすものは,自然の成長のリズムから生みだされる,泥つき,虫食い,大きさの不揃いの
農産物,これは消費者にとって「考える素材」としての衝撃力をもつ存在」なのである。多部田政弘
のいうように,このようなモノ=野菜が持ち込まれるとなると,人びとはそれまでの豊かな社会の生
活=消費スタイルでは対処できない。自然のサイクルに従うから,ある時期にトマトや小松菜,ほう
れん草が大量にどっさり届くのである。そうなると消費者は旬にあわせ食べ方を変える。同じ材料で
調理法を工夫する。食べきれずに残ったものは自分の手で加工・保存する生活技術を身につけるよう
になる。容易ではないけれど「食の安全」をもとめて購1入グループに参加した消費者たちは旬の野菜
を生かす献立,調理法,保存法を考え出す。その情報を教えあい共有する。こうして食生活の変革に
至るのである。消費者の家庭についていうと「有機栽培の野菜を食卓に供することは家族ぐるみで食
229
有機農業と地域おこし
生活を変革すること」であり,同じ野菜ばかりが食卓に並ぶことへの夫の理解や協力が得られないば
あいには提携運動から脱落することもじっさいにみられたのである。それゆえ有機農業運動において
消費者と生産者の提携はこのような「小さな日常的変革の積み重ねのうえに成り立っている」(5>。
「豊かな社会」での生活スタイルにならされた人びとが食の安全の問題に目覚め,有機農業運動に
参加してもたらされる変革はそれのみにとどまらない。調査の結果を見ると,提携の消費者グループ
に参加した人びとはプラスチック製品,合成洗剤,大衆保健薬を使わないようにしているという。
いったん開かれた消費者の目は畜産・食肉などにも向かい,これが輸入原料に依存する加工業に過ぎ
なくなっていること,「肉やタマゴなどの畜産物を生み出す家畜の足は日本の土地についていない」
ことも見抜くに至る。このことは食肉・乳製品では日本の風土や日本人の体質に必ずしも適していな
い畜産物の過剰消費に至っているのではないかとの考えにみちびき,その延長上では「米を主とし,
麦,野菜,ソバ,豆,魚海藻などの海産物を基礎とする伝統的な食文化が見直される」ことにまで
至る。1970年代の「もう一つの生活スタイル,もう一つの世界」の思想の流れのなかで有機農業は「も
う一つの豊かな食生活を手中にさせる。石油タンパクに象徴される「食の工業化」を拒否する視座を
獲得させてくれるものと考えられ位置づけられるようになるのである。消費文化に対抗する一つの文
化,しかし対抗する分だけ社会のメインの流れとはちがう方向に進まざるをえない。このような思想
と展望のもとで1970年代のいわゆる第一次有機農業ブームは展開をみせたのであった。
次に有機農業が社会的な注目を集めるようになるのは1980年代後半のことである。有機農産物を
生産する農家数は増えてくるし,また「大地を守る会」「ポラン広場」「らでいっしゅぼ一や」などの
有機農産物を主に扱う流通事業体が拡大する。これら流通事業体は有機農産物の生産者グループの生
産したものを会員となった消費者に個別に配達するのである。以前の提携運動にとってはこれらの専
門流通事業体の発展は有力な競争相手0)出現なのである。じじつ提携運動はこれ以後参加者数を減ら
していくことになる。
日本有機農業研究会は提携組織で結ばれる生産者と消費者の全国センターとして活動していたが
「1970年代には一貫して増加していた会員は,1983年の6000人をピークに,以後減少する」,そして
1999年には3000人を割り込み2885人にまで低下した。このことは首都圏およびその他の大都市での
消費者グループについてもみられる。本城昇によると,首都圏にある「安全な食べ物をつくって食べ
る会」は1990年代初めには1300人を越える会員を擁していたが,1998年になると1000人を割り込み,
1999年には960人まで減ってしまう(6)。ピーク時の会員の匹1分の一を失っているのである。槌田もこ
の第二次有機農業ブームについて「有機農業が社会的に認知されたことはよろこばしいがt同時にそ
れは曲がり角に来ている」ことを指摘する。有機農産物がほかのものと変わりない商品となること
で,提携運動に騎りが出るようになったという。
もう少し具体的にみるとこうである。首都圏その他の大都市でみると,提携組織の会員たちは届け
られる農産物を共同購入方式で扱っている。地域の消費生協の共同購入と同じように数人の会員でグ
ループをつくり,注文品はこのグループひとまとめにして一箇所に届けられ,あとは会員で仕分ける
という方式である。この方式を維持するのがこの時期になると容易ではなくなってくる。その理由に
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ついて槌田は「リーダーたちの高齢化にくわえ,若い主婦層の就業化が進み,共同購入に参加しにく
い状況が広がっていり」ことにあるという。首都圏での提携グループのリーダーでもある浅井まり子
も「女性たちのほとんどは働く時代となり,有機野菜を分け合い決められた時間に取りに行けない仲
間は宅配を望んでいる。世話人の高齢化も進んでいる」という⑦。「高齢化は,共同購入における荷
分けなどの作業の負担感から,高齢者にとって退会理由となっている」と本城昇はいデ8♪。女性の
就業化率の高まり,専業主婦の減少は育児・子育てにとって問題を投げかけるだけでなく,市民運動
の担い手への影響としても指摘されているが,有機農業運動にも影響は及んでいるのである。第一次
有機農業ブームの時期には提携運動への参加はその人の食生活を変え,生活スタイルを変え,さらに
は豊かな社会の消費生活からの決別をもたらすものとされたのだが,提携運動の共同購入から,専門
流通事業体による宅配への変化は,この側面でも変化を生じさせずにはいない。「個別配達方式を導
入すると配達の手間と費用は増加し,消費者相互のつながりがうすれる。提携や有機農業についての
知識や情報を消費者相互で共有できなくなり,理解の深化がさまたげられる」(9)。問題は消費者の側
だけでなく生産者側でもちがった形で生じてくる。有機農産物は後述するように有機JASの認証を
えマークをつけてスーパーストアでも売られるようになる。スーパーに出荷されると有機農産物はほ
かの一般商品と同じような仕方で消費者に買われるようになる。「提携の消費者向けとはことなり,
なんの反応もなく,ただ黙々と出荷するだけ,やりがい感を失う」(lo)ことになる。また提携運動で
は生産者に対する消費者の側からの所得補償という意味で,また有機農家のリスク負担をするという
意味で全量取引が原則であり,このことが多部田政弘のいうように消費者側での意識変革に大きな意
味をもっていた。しかし,高齢化,女性の就業化で会員数が減ってくるとそれも困難になってしまう。
こうして有機農業運動,とくに提携型有機農業運動にかんしては停滞と混迷が論じられるようにな
るのだが,その原因は高齢化と専業主婦の減少のみであっただろうか。もうひとつ有機農産物の品質
管理の制度,つまり有機農産物の認証制度がこの時期に整備されてくることを考慮に入れる必要があ
る。「大地を守る会」などの有機農産物を扱う専門流通事業体が発展をみたことは,「安全な食べ物」
である有機農産物を求める人びとが増えたこと,他方で有機農産物を生産する農家も増え,出荷量も
増えたことを意味している。根強い有機農産物への需要は社会的にはかなりいかがわしい状況をつく
り出すことになる。「東京の秋葉原にあった神田青果物中央卸売市場では,積み上げられた野菜の段
ボールに「有機野菜」等の有機表示が氾濫する事態になり,ワラー本入れただけで「有機栽培」と表
示しているものさえあると噂される有様であった」(11)という。このような状況を前にして農水省は
1992年に「有機農産物などの表示に関するガイドライン」を設定し,表示の適正化をはかる。この
ガイドラインは1999年7月の改正JAS法として有機農産物の基準及び認証制度が法制化される。こ
の制度のもとで有機JAS表示をするために,以下のような条件をみたしていることが必要になった。
(1)農薬や化学肥料,その他の使用禁止資材の使用禁止
(2)圃場の外部からも「使用禁止資材」が飛来しないように緩衝地帯を設ける義務(外部からの
汚染があるばあいには有機JAS表示ができない)
(3)遺伝子組み換え技術を用いて生産された「種子・種苗」の禁止
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有機農業と地域おこし
そしてこのような有機農産物を生産する農家は,その圃場において3年以上農薬・化学肥料などを
用いていないことが認証機関により認められていなければならないし,また毎年認証機関の検査を受
けることが義務づけられている。このようにして有機農業についての品質の管理と保証のシステムが
つくられている。ところで日本の有機農業運動と欧米のそれを比較するとき興味深いちがいが目につ
く。欧米の有機農業運動では生産する農産物の有機認証化については,主要な有機農業の生産者組織
を中心に自主的な検査・認証の制度が作られまたそれぞれの組織や団体のもつ「基準書」の公的認知
を求める,というかたちで運動が進められてきた。日本のばあい1992年の農水省がガイドラインを
設定導入しようとするとき,多くの生産者組織は「必要なし」の態度を取り,反対することさえあっ
た。有機生産者組織の規模が大きくなり提携先の消費者グループの数が多くなるにつれ農産物の安全
確保の問題は意識されるようになってくるものの,このことは生産者集団と消費者グループの関係が
親密であるケースほど必要ないとする傾向が見られたのだ,とされている。
懲嶽総箆嫌騰名
なぜ日本の有機農業と欧米のそれとのあいだでこのような違いが生まれたのであろうか。多部田政
弘は日本では19. 70年代初めになって,つまり高度経済成長の終わり近くになって短期間のうちに烈
しい形で農薬汚染と食品公害の問題が噴出し公然化した。それにたいする自衛として生産者と消費者
が急速に結びつく(安全な食品を求める消費者グループは,山間地域まで出かけて農薬と化学肥料を
使わず伝統的農法を維持している農家を探し出し栽培を委託するということさえあった)のであり,
ルドルフ・シュタイナイーやJJ.ロデイルのような有機農法の提唱者の思想に共鳴してその農法を実
践するというふうに始まったのではないこと,また中央卸売市場の支配が強化され流通の一元化が進
んでいたため有機農産物の流通が排除されていたという事情を挙げている。アメリカやヨーロッパで
は公設市場や青空市場そのほかの地域内流通の制度があり,有機農業の生産者たちはこれらの市場で
有機農産物を販売するさいに,自主的な認証制度と表示を必要としていたのであるq2>。いずれにせ
よ,1999年のJAS法改正により有機JAS表示によって有機農産物は厳密に管理されることになった
のだが,それはまた有機農産物をそれ以外の農薬や化学肥料を多用した農産物と同じ流通ルートにの
せ,消費者には同列の扱いの商品にさせる。こうして提携運動のもとでみられた消費者の意識の深
化・共有から遠ざかっていくことになったのである。
1980年代になると有機農業運動は停滞と混迷の様相を示すようになるといわれるのだが,それは
また提携型運動とはことなる性格の活動を展開させることでもあったともいえる。いわゆる「環境保
全型農業」である。といっても単一の活動があったわけではなくて,組織事業としての有機農業への
関与,減農薬運動の広がり,だれでもできる有機農業のための技術開発地域おこしの一環としての
232
有機農業関連の取り組みなど,さまざまな試みがあり,これが支援する行政の側からひとまとめにし
て「環境保全型農業」といわれたのである(13)。
これまでの有機農業の流れとはことなる流れである「環境保全型農業」はどのようにして出現して
くるのであろうか。有機農業の推進者たちがいうような完全無農薬,完全無化学肥料というのは一般
農家が転換するにあたって越えるべきハードルとしては高すぎるから,というのであろうか。ハード
ルを低くして減農薬から始めようというのではないのである。というのはわが国で最初に有機農業に
ついての紹介と概観をおこなった保田茂は,有機農家が農家経営として成功するためには四つの条件
が必要であるとしていた。1970年代のことである。(1)技術的条件で,地力再生産に不可欠な堆肥
などの有機物をどのようにして確保しようとするか。あるいは耕地利用の方法を確立することができ
ているかどうか。(2)消費者との直接的な提携があり安定的に発展させるための流通の条件が確保さ
れているかどうか。(3)さらにt消費者との直接の提携のなかで農産物を流通させるだけでなく,生
産者と消費者のあいだの人間的交流をはかること。つまり消費社会の生活スタイルの変革のための信
頼とコミュニケーションの必要。これらはすでにのべたことであるが,保田は四つの条件のうちで最
初に来るものとして「有機農業の重要性について生産者がいかに認識するか,またその認識をいかに
不退転の意志にまで高めうるかという生産者の主体的条件」〈14)を挙げていた。農薬と化学肥料の多
投と過剰な使用にもとつく近代農法に対抗するには,完全無農薬,完全無化学肥料で断固行う。その
意志の堅さこそが有機農業の成功を決めるカギであるというのである。多投の結果米や野菜に残留す
る農薬が人びとの健康をむしばむ状況が告発される状況では,この主体的条件が強調されたのもよく
理解できる。しかし,その条件にこだわることが1980年代には有機農業運動を袋小路にみちびいて
しまう。
そこから抜け出るにはどうすればいいか。1980年代にこれまでとは性格の違う取り組みがなされ
るのは,このような問題意識からである。取り組みにはさまざまなものがあるのだが,ここでは宇根
豊たちの試みを追いかけてみたい。
さきに一楽照雄が日本有機農業研究会を始めたとき,一楽はアメリカの有機農業の創始者JJ.ロデ
イルに示唆を受けていたことにふれた。農業において化学的に合成されたDDT, BHC,ドリン剤な
どが多用されるようになるのはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が示したように第二次世界大戦
の時期(戦争用に開発された技術の転用)でありロデイルの活動はそれ以前のことである。1930年
代のアメリカでは土壌荒廃が農業において大問題となっており,かれは土壌保全について考えた。そ
して土壌の肥沃は回復できるし,回復の秘密,農場の回復の秘密は堆肥を使用し,それを土壌のうち
に保つことであり,有機物の土壌還元の必要を説いたのである。1970年代の日本で一楽照雄その他
の人びとが有機農業に関心を向けたのは反農薬や反食品公害からであるから,ロデイルと一楽照雄た
ちでは目をむけていたところは同じではなかった。
それはともかくとして有機農業では化学肥料の使用を拒否し,もっぱら堆肥などの有機物を圃場の
土に戻すことが強調される。有機農業に取り組む人びとが「地力」の保全を強調し,化学肥料の使用
を徹底して拒否するのはどのような理解に基づいているのだろうか。宇根豊たちの取り組みを理解す
233
有機農業と地域おこし
るためにはこの点をおさえておくことが必要である。
水田や畑など圃場の土はもともとは自然の岩石が風化して気の遠くなるほどの長い時間の経過の
なかで風化され土壌生成されてできたものである。つまり高い場所から雨水とともに下流に流れてき
て有機物を含み堆積してできたものである。自然な状態では土は団粒構造をなし,団粒構造をもつ土
壌は農作物の栽培に適している。その理由を古沢広祐は次のように説明している。「団粒構造の生成
過程では,生物的作用も強く介在する。微生物の働きにより有機物がつくられ.その有機物が土の粒
子を結合させる。団粒構造はそのまま細菌の住みかとなり,多様な微生物の生存を可能にする世界を
つくりだす」㈲こうみてくるとロデイルのいった「地力保全」の意味もよくわかる。「地力が高いと
は,たんに土壌中に植物の栄養分が十分含まれているということではない。土壌じたいがあたかも有
機体のごとく複雑で相互的な作用を展開し,多段階に組み合わされた有機的,総合的能力を生み出
すTその能力をいう」。ということであれば栽培される農作物にとって有益であれ害を与えるもので
あれ,ネズミ,モグラ,クモなど多様な生物がみられることは,土壌の肥沃地力の高さを示すこと
にほかならないし,それが農作物の生育に適した環境ということなのである。ここでは植物は水と空
気と太陽エネルギーで育てられ,植物は動物に食べられ腐って土に戻り,また植物を食べた動物も最
終的には死んで土に戻っていく(チッソの循環)。
圃場のこのような生物的過程に化学肥料を投入するとどういうことになるだろうか。「無機養分を
投入することは,循環の流れのなかで「生物学的過程」を切り捨て,栄養分を植物に短絡させること
にほかならない。土壌の生態系のなかで物質循環システムを分断し,植物と土壌生物との相互作用,
土壌生成の「生物的過程」を省略することである」。問題はこのような分断と短絡を人為的に行うと
き.つまり化学肥料のみで作物の生育が安定かつ長期的に保証されるかどうか,である。すでに農業
試験場の実験では,大麦を化学肥料のみで作りつづけると初めの10年間は収量が有機肥料によるもの
よりも上回るが,30年から40年経過後では,収量が大きく低下することが知られているとい
う(16)。日本有機農業研究会がスタートする1971年は天候不)11fiで水稲作凶指数は93%で,これは単年
度でみるかぎりB本国民の一年間の消費には不足するものであったが,この冷害にたいして堆肥を用
いた試験場では被害が少なかったことが報告されているu7)。稲のばあい生育に必要な窒素のうち化
学肥料から吸収されるのは三分の一で,残りの三分の二は地力窒素として地中に貯えられたものによ
るのである(古沢)。それゆえ「化学肥料への大幅な依存は地力を衰退させることになりtその結果
は生物をしての生育基盤を最終的に不安定にする」(18)のである。
同じことは農薬の使用についてもいえる。個々の植物や動物がさらされる農薬の量がわずかであ
るとしても時間の経過のなかではそれは生体の内部で濃縮され蓄積される(薄めて用いれば問題がな
いといえないのは水俣病その他でよく知られているとおり)がここでは立ち入らない。さらに複合汚
染として食品公害も生じさせてもいる。宇根豊の取り組みとのかかわりでいえば自然で豊かな生態系
の存在しているところでは農薬を使用するとき,農薬はどのような振る舞いをするのだろうか,また
農民のありかたにどのように跳ね返ってくるのか,ということである。たしかに農薬は害虫とされる
一部の昆虫や微生物を殺す。しかしそれと同時に農薬はそれら有害とされる昆虫や微生物も含めて成
234
り立っている生態系のバランスを破壊してしまう。また害虫として殺虫剤をまかれた昆虫がその殺虫
斉IJにたいして抵抗性をもつようになるということもある(早いばあいは2年,平均して2.5年くらい
で抵抗性をもつといわれる)。そもそも害虫に対する殺虫剤の効果そのものに問題があるのだ。古沢
広祐は小豆につくアキゾウムシの例を挙げている。アキゾウムシを一世代ごとに毎回その半数を殺す
(50%殺虫)と,次の世代ではすぐに急増して以前の水準にもどってしまう。80%殺虫でもすぐ以前
のレベルに回復し,90%殺虫でようやくいくらか減少傾向を示し始め,97.5%殺虫ではじめてははっ
きりした減少効果がみられるという。しかし,農作業の現場で975%殺虫を実現するためには植物の
葉の裏一枚一枚に至るまで念入りに殺虫剤をまかねばならず,現実的でない。農家が通常やっている
半分くらいの殺虫ではかえって害虫を増やしてしまう(19)。
このことは畑や水田で農薬をまく農民にとってどういうことであったろうか。農薬をまけば害虫は
防除できる,だから安心できるというとしても,じっさいに農薬をまくときに「単位面積(あるいは
一株あたり)何匹以上なら防除する」という基準はあったのだろうか。1970年代に農業改良普及員
として働いていた宇根豊によると,そのような基準はなにもなかった。判断の基準がなにもないまま
農薬散布が日本中の農民のもとで普及してしまったのだ。たしかにDDT, BHC,ドリン剤などの農
薬が戦後すぐにあらわれたとき,それらは人びとに強い印象を残すような効果を示し,人びとに「こ
のまま農薬が普及したら害虫の研究はもう不要になるのではないか」とさえ思わせた。このように強
力な効果をもつ農薬はまた強い毒性をもつ薬品である。したがって農民が勝手に扱うことはできな
い。農薬散布は「指導されて」農民が行う技術とされていた偲考と実行の分離D。「指導され」て
行われるとはどういうことか。宇根豊は次のようにいう。撒布を行うかどうかの判断は指導員がおこ
なう。しかし指導員は村落にある個々の水田すべてでの害虫の発生予察と指導は不可能である。そこ
で病害虫の発生の多い水田があればその水田を基準として,村落中の水田に農薬散布の指示を出す。
こうして病害虫の発生の少ない水田での発生状況のデータには意味がないとされ,発生の多い水田の
データにもとづき撒布指導がおこなわれていった。日本の農政で取られていたこのやり方では農薬散
布を少量に抑えるような仕組みが初めから組み込まれていなかった,と宇根豊はいう(20)。このこと
が際限ない農薬散布を日本中の圃場で行わせることになったのである。残留農薬と食品公害はこうし
て生じていたわけだ。
農民のなかでこのことに疑問をもつ人びとがいなかったわけではないが,農薬散布をやめるないし
は減量するとどうなるかについてのデータは存在せず,撒布の指導にたいして反論できない。この状
況のなかでどうしたらよいか模索していた宇根豊は,1977年に桐谷圭治ほかの『害虫とたたかう』
に出会うのである。桐谷圭治は農水省の研究所で農薬によらない害虫防除の研究を進めていた。この
著作は宇根にとって導きの糸になる。「発生予察が減農薬につながるにはt病害虫の発生量の変動の
予測が科学的かつ合理的に行えることが不可欠である」,「現状では,個々の農家が防除の判断ができ
るまでにはほど遠い。いきおい防除所や県農試の防除指導に従わざるをえない」,「しかし害虫防除を
殺虫剤のみで行おうとする限り,減農薬には限界がある」「近代科学が生み出した各種の防除手段は
いずれも安全無害なものではないという認識を十分にもつべきである」(21)。これらの言葉を当時の
235
有機農業と地域おこし
農村での農薬多投の現実に途方にくれていた宇根は読んだのである。
さきにもふれたように当時有機農業の推進者たちは完全無化学肥料,完全無農薬の農業への決意を
強調し,減農薬という方向をみむきもしなかった。これにたいして宇根豊はあらゆるレベルでの減農
薬を重視し,減農薬による効果を詳細に記録することを始めたのであった。このことは畑や水田には
どのような昆虫がいて生態系をつくっているか,その知識をもちその時点の病害虫の発生状況に対し
て農薬を使用するかどうかは農民自身が判断することを必要とする。分離されていた思考と実行の再
結合を必要とする。宇根豊たちは虫見板を考案し,虫見板を用いることで福岡市の農民たちとともに
減農薬の効果をくわしく観察し続ける。そしてその結果はすぐに明らかになる。1985年に九州地方
では50年に一度というトビイロウンカの大発生にみまわれ福岡県内では多くの水田で稲が枯れて
いった。ところが被害の出方にちがいがあった。トビイロウンカの被害は予想に反して減農薬の水田
ほどすくなかったのだ。隣接する糸島郡では農薬散布回数は二倍以上であったが,水田の30%に被害
がみられた。これにたいして福岡市内では3%にとどまったと宇根はいっている。「こうして減農薬
による農民は自分の水田と自分で観察することの大切さを確認し自信を深めていった」(22>が,宇根
もいうようにいったん減農薬をはじめると無農薬農業に向かうケースが多いのである。
虫見板を用いて減農薬を推進しようとする宇根の試みは農業だけにとどまらない。畑や水田の生態
系を自分の目でとらえようという生き方は自然にたいする見方の変化をせまるものでもあり,これは
まちおこし,地域おこしと地域の価値の発見というところでつながってくるのである。これについて
は(三)でふれることにしよう。
(二)
コラン村は南フランスのヴァール県にある。四方を低い山で囲まれた小さな盆地をなし,そこに住
む人口は760人ほど。200ヘクタールある農地のほとんどはブドウ畑である。西北にあるスーン峡谷
を通って入りこんでくるアルジャン川は村の中央で方向を真南にかえる。川にかかっているアーチの
石橋からみるとマスの群が泳いでいるのが見える。静かな典型的なプロヴァンス地方の村である。こ
の村を私が訪れたのは「フランスで最初の有機農業の村」だからである。この村のブドウ畑は1997
年に現在この村(正確にはフランスには市町村の区分はなくてすべてコミューン)の村長をしている
ミカエル・ラッツの提案に応えすべてが有機農法によるブドウ栽培に転換された。この村にある3つ
のドメイン(うちひとつはラッツ家の所有)と一つある生産組合(コーオペラティブ)で製造出荷す
るワインはすべて有機農産物のマークを付けている(フランスでは有機農業をビオロジック農業とい
うが以下では有機農業としておく)。
しかし,コラン村で行われている有機農業がなにを意味するか読みとるためには,ヨーロッパとフ
ランスで今日有機農業にたいしてどのような政策がとられているか,それを支持し推進する人びとは
どのようであるか,またワイン産業のなかでのビオ・ワインがどのような状況にあるか,背景を知っ
ていることが必要だろう。
236
日本での米価と同じようにヨーロッパ各国でも農産物価格支持をはじめとする手厚い自国農業の
保護の政策がとられてきたが,これがどのような結果をもたらしてきたかといえば,近代的農業(つ
まり化学肥料,農薬を多投し機械化する)の大規模な推進であり,農産物の過剰生産であり,農家間
の格差拡大であり,環境破壊であった。過剰に生産された農産物には保管コストがかかる(国民の税
負担に跳ね返る)だけでなく,たとえば輸出補助金をつけて輸出されて,たとえばアフリカ諸国では
現地農産物よりやすい食品を氾濫させ,現地農業を破壊することになっている。このままでよいのか
という世論の高まりが1989年の欧州議会選挙での環境派の躍進の背景にあったことは知られている
とおり。そこでEUはこれまでの農業政策を見直し転換させることによって,問題の解決をはかろう
とすることになる。農産物の過剰生産と環境破壊が同一の原因から生じていたとするなら「農産物過
剰問題の解決は農業生産力を抑制すること,すなわち農法転換しかない」㈱ということになる。そ
してこのことは農産物価格の抑制,環境保全型農業の育成(農薬や化学肥料の投入を減らすだけでな
く,生態系を尊重する農業の育成)にむけ,この二つを結ぶものとしデカップリング政策の提唱にな
る。デカップリングは交付金を受け取る見返りに,環境に配慮した農業活動を実践するよう農業者に
義務づけるものでtドイツではこのことが中山間地域の景観の保存に役立っていることはわが国でも
紹介されているとおり。このようなEU農業政策の転換のなかで「あらかじめ定められた土地管理指
針を遵守している農業者」つまり有機農業者などは交付金を受け取ることができるようになるし,ま
たその制度的前提として有機農業の基準有機農産物基準がEU共通に適用されるものとして定めら
れることになる。有機農業基準が,土壌管理,輪作,肥培管理雑草防除病虫害管理栄養分補給
など生態系を尊重する立場から厳密に定められたものであることはいうまでもない。EU15ヶ国にお
いて有機農業作付面積の総作付面積に対する割合は1998年のL8%から2005年の4.1%まで増大してい
る。
ヨーロッパ有機農業作付面積の推移
面積(%)
経営数
1993
2002
2004
0.8
5.5
6.3
36,080
160,458
175,000
(Eurostat. L’Agricしllture biologique prend differentes forms dans IEU25, juin 2007)
とはいえヨーロッパ各国のうちでも有機農業の展開の状況は国ごとにかなりの差が見られる。有機
農業作付面積と総作付面積の比率は以下の通り。
237
有機農業と地域おこし
国別にみた有機農業作付面積と総作付面積にたいする比率
面積(ヘクタール)
イタリア
1.168212
%
8
イギリス
724,523
4.22
ドイツ
698,678
4.1
スペイン
665,055
フランス
517,965
17
オーストリァ
295,006
11.6
チェコ
253,136
59
スウェーデン
214ユ20
6.1
デンマーク
178,360
6.7
ブインランド
156,692
7
((Eurostat. L’Agriculture biologique prend diffe rentes forms dans l’EU25, juin 2007)
この表からすぐ分かるようにオーストリア,北欧,そしてイタリアでは有機農業はすでにかなり発
展しているのに,フランスは大きく出遅れている。フランスはEUのうちでも農業大国なのに有機農
業は遅れているのだ。このことは現在のサルコジ政権も気づいていて,つい最近ではフランスにおけ
る有機農業の作付面積比率を現時点の2%から2012年には6%,2020年には20%に引き上げると政
策目標を発表させている(24)。フランスで有機農業が遅れているのはパイオニアとその支持者たちに
より推進されたこの運動の歴史がかかわっている。神智学の創始者であり人間の生活を宇宙の法則に
合わせて生きることを説いたルドルフ・シュタイナーは晩年の1922年にシレジアで有機農業につい
ての連続講義を行い,ドイツや北欧諸国へと支持者を増やしていった。今日ビオディナミとして知ら
れ認証のデメテル・マークを付けた有機農産物を販売しているのはこの運動の組織である。ヨーロッ
パでのもう一つの流れはロデイルの思想をうけて1940年にイギリスでアルバート・ハワードが発展
させる腐葉土と堆肥を用いて肥沃土を回復保持させることの重要性を説くものであり,これはイギリ
スで「土壌協会」(Soil Assoclation)を拠点にそれなりの影響力をもつことになる。フランスでもシュ
タイナーやハワードの思想を受け継ぎ実践する人びとはいるのだが,それが社会的に目に見えるよう
な形で登場するのはずっと遅くなってのことなのである。
フランスで有機農業が出現するのは第二次世界大戦後になってからである。カトリーヌ・ド・シル
キイによると1950年に二つの流れの合流から生まれたという。一つは食物による健康を重視するも
ので,フランスでも農薬と化学肥料を多投する近代的農業の急速な広まりは一部の医師と消費者のも
とで健康不安をかき立てることになる。ガンや精神病の増大が見られるがこれは近代農業による農産
物に原因があるのではないか。1950年に医師であるW.バス博士により「正常な食物のためのフラン
ス協会」(AFRAN)が結成される。食物公害と健康への影響から始まっていることでは一楽照雄の
日本有機農業研究会に似ているがバス博士の協会は,フランス農村こそ良識,労働と努力の愛好,祖
国などの伝統的価値の根付いている場所であり,これらの価値を守れという色彩の濃いものだったら
238
しい。戦後経済成長と近代化で伝統価値が揺らぐのに抵抗しようという運動である。もうひとつはハ
ワードに始まる「土壌協会」と結びつくもので農業改良,とくにフムスを用いて土壌改良と土地の肥
沃化を進めようとするもの。この二つの流れは合流して1959年に西部有機農業集団を生み,ついで
フランス有機農業協会(AFAB)を1962年に結成させることになる。
しかしフランス有機農業協会は短期間しか続かない。有機農業者たちはその実践する農法や信念に
こだわるから分裂と再結集を幾度となく繰り返すことになる。その詳細はここでは必要ないが,ル
メール=ブーシェ社と「自然と進歩」の二つについてはふれておかねばなるまい。フランス有機農業
協会は医学者,農学者などを集めていたのだが,流通業者でありまたプジャード派代議士のラウー
ル・ルメールも参加していた。ルメールと農学者ブーシェは手を組み,ブルターニュ海岸でとれる石
灰分を多く含む海藻を用いた土壌改良法を確立する。この方法は花尚岩質で酸性土壌のブルターニュ
地方では大成功をおさめた。そしてルメールとブーシェが中心になり創設された企業は有機農家を結
集し,これら農家に肥沃剤その他を販売するとともに,農家から集めた生産物の販売や経営支援を
行った。ルメールとブーシェの商業主義的な方向を拒否する有機農業者たちは1964年に「有機農業
による健康・ヨーロッパ協会」を設立し,これが発展し「自然と進歩」(Nature et Progres)になる
のである。ルメールとブーシェの肥沃剤はフランス南部の石灰岩質の土壌では効果がないことが知ら
れるようになる一方,1968年以後の「豊かな社会」批判や環境保護意識の高まりのなかで「自然と
進歩」は影響力をのばしていくことになる。この時期はフランス各地の都市で安全な食べ物を手に入
れようとする消費者により消費生協がつくられ,有機農業者グループとの提携が模索される一方,都
会生活から脱出し農村生活に回帰しようとする若い人びとの動きもあり,そのような状況のなかで有
機農業組織の離合集散も複雑だったのである(L’5)。
1972年にヴェルサイユでそれぞれの有機農業組織のイデオロギーと農法の差違を超えてIFOAM
(国際有機農業運動連盟)が組織される。フランスでも各地で有機農業を実践していた農業者たちは
「自然と進歩」とラメール=ブーシェ社の対立を残念に思い,すべての流派の有機農業団体とそれら
が提携する流通事業体に対して開かれている組織として有機農業全国連合(FNAB)を1975年に結
成する。そしてこれ以後有機農業者たちはフランス農業のなかで有機農業がおかれている周辺的地位
から抜け出し,有機農業の公的認知に向けて動き出すことになる。すでに「自然と進歩」は中道右派
の政党である中道社会民主派(CDS)と接触をもっていた。そしてディスカール=デスタン大統領
の時期のバール内閣で農業相をつとめたピエール・メヌリーはブルターニュを基盤とするCDSの政
治家であり,また農業専門大学出身の農業技師であったのである。この内閣のもとで1980年に「農
業の方向付けに関する法律」が審議されるときCDSの議員たちは有機農業について修正案を提出す
る。それは有機農業の公的認知の条件として基準書(cahiers de charges)にかんするものであった。
それぞれの有機農業団体や組織はそれぞれの農法や農作業の条件・手順について厳密な基準を定めて
いる。この遵守がその団体や組織に加わる農業者の有機農産物としての質を保証するわけだが「農業
の方向付けにかんする法律」のなかに「化学合成物を用いない農業の生産条件を規定する諸々の基準
書は,農業省の省令によって承認される」と書き込まれることになったのである。ここでは有機農業
239
有機農業と地域おこし
(agriculture biologique)という用語は用いられていないが有機農業の諸団体にとってこれは大成功
であったのである(26)。有機農業および有機農産物はこうしてフランスで公的認知を受けたのだが,
この経過は日本のばあいとは対照的である㈱。
9.●
NATURE囹
AG醗ICU LT讐飛鑑
BIOLOGIQU ff
日本での有機農産物は提携組織を介して生産農家から消費者グループに渡される。あるは「大地を
守る会」などの専門流通事業体によって会員に宅配される。当事者にとっては扱われているものが有
機農産物であることは自明であったから,有機農業ないし有機農産物を公的に認知させるという発想
はなかったのである。1992年になって農水省が「有機農産物等の特別表示ガイドライン」を制定す
るとき,有機農業団体はそれに反対の態度を取ったのであるが,ここではこれ以上は立ち入らない。
話をフランスでの有機農業の公的認知にもどそう。こうして有機農業の厳密な基準書をもっている
団体はこの基準書が農業省で承認されることで公的認知を受けることになった。この制度のもとで最
初に承認されたのは「自然と進歩」で1986年であり,その生産物には「自然と進歩」のロゴマーク
が付けられていた。ほかの有機農業団体もこれに続き,いくつもの有機農産物表示をつけた農産物が
流通することになる。ほとんど基準書の内容はかわらないのに団体ごとにマークがちがうのは具合が
悪い。そこで有機農業団体間で共通の基準を満たしていることを示すものとして1993年に有機農業
ラベル(ABラベル)が設定されt公的にも認知されわが国の有機JASマークと同じように農産物
や加工製品につけられるようになった。ABマークを付けている農産物はアルカーヴ,アグロセル,
エコセルなどの認証機関の認証を受けていることはいうまでもない。
以上がフランスでの有機農業運動の大まかな流れであるが,コラン村での有機農業に入るためには
有機ワイン農業の状況について見ておくことも必要であろう。ワイン農業の世界での有機農業はさら
に複雑である。というのはワインの世界はワインの賞味的評価おいしいワインという評価によって
構造化されており価格もそれによって決定される世界である。ところでまたワイン農業といっても有
機農業を実践している人びとのなかを見ると,信念や理念でも,市場化にたいする態度でも相互にか
なりちがう人びとを含んでいるからである。さらにまたワインはその産地ごとにコート・ド・ロー
240
ヌ,ブルゴーニュ,ボルドー,ラングドック=ルシヨンあるいはコート・ド・プロヴァンスなどの有
名ワイン産地ごとに産地呼称認証がなされていて,それがワイン品質の保証となると同時に賞味的な
ランキング付けにもなっている。有名な評判の高いワイン銘柄では産地呼称は詳細に行われ,たとえ
ばボルドー(地方名),メドック(地区名),マルゴー(村名)までが認証の対象となる(ブルゴーニュ
ではロマネ・コンティのように畑名まで対象となる)。これは有機認証とは異なる種類の認証だが,
二つの種類の認証はどのような関係になるのだろうか。有機ワインがフランス国内で狭い提携組織間
の回路や有機食品の専門流通事業者のネットワークをこえてもっと広い世界に出て行くためには,こ
の関係をうまく解決する必要があるのである。
テイルとバレはラングドックールシヨンとロワール地方の約200人の有機ワイン農家にたいして聞
き取り調査を行っている。それをみると有機ワイン農家のうちには大きく分けて二種類の人びとがい
る。ひとつはビオディナミであったり「自然と進歩」であったりする以前から有機農業を実践してき
た人びとで,もう一つは1990年代以降になって安全な食べ物やワインを求める社会的需要の高まり
に応じて有機ワイン農業に入ってきた人びとである。古くから有機農法でブドウ栽培を行っている人
びとは提携組織などの特殊な流通回路と,消費者もまたそのワインがどのように生産されているかよ
く知っているという信頼関係を優先させる。この人びとのもとでは自分たちのワインは有機農法に
従って生産されたのに,必ずしも有機ワイン(ABマークその他)を表示しないということさえ見ら
れる。それは近年になって「新しい」有機農法により生産されたワインが増えてきているが,それと
一緒にされたくないという態度をしめすものであり,有機農業を実践することは現代の「豊かな社会」
にたいして距離を取ることであり,それを売り物にしたくはないのである。自分たちの生産物をよく
理解している提携組織の人びとを相手にするので十分というなら有機ワイン認証は必ずしも必要ない
ことになる。このばあい有機農家は認証をもつけるけれど自分たちのワインのボトルにABラベル
を貼ることを望まない。またラベルは貼るけれど,有機ワイン生産は「倫理」を示すものであって「商
品価値」を目指すものではないと考える人びともいる⑳。
これにたいしてほかの種類の人びとは,有機ワイン生産はワイン市場への投資と成功の機会を求め
ることである。コラン村のばあいはこのどちらになるのか。コラン村での有機ワイン農業への転換が
1997年のことであることはすでにふれた。この年にコランのワイン生産協同組合は経済的に困難な
立場におかれていた。村の未来をどうするかという選択を前にして,ミカエル・ラッツはこの村を全
面的に有機ワイン生産に転換させたのである。農学専門大学出身(農業技師)であり,EC事務局,
ヴァール県農業会議所で働いた後,経済産業省の中小企業担当の部署で自然食品の流通の仕事を行っ
ていたラッツは,ECにおけるワインの生産過剰と減反が必至と予想される状況で生き残るには,有
機ワイン農業への転換しかないと考え,コオペラティブの若い指導者たちと村の農民たちを説得した
のだという。転換によってコラン村のワイン出荷量は大幅に増大したのだからこの見通しは正しかっ
たことになる。C.ラダンはラッッについて「有機農業ファンダメンタリストではない」といってい
ることも付け加えておこう。「もし地球上のすべての穀物が有機農法によって生産されるなら,私た
ちは大規模な飢餓に直面することになるだろう。有機農業はインテリジェント農業でありパラダイム
241
有機農業と地域おこし
として役立てられるものである。環境の諸側面をよく考慮に入れ,古典的農業を奨励するものが有機
農業の発展となるのである」㈱というのである。ラッツの有機農業についての考え方は柔軟である
が,それはまた思想信念から有機農業を実践してきた人びとからは猜疑の目を向けられることにな
る。
さてビオディナミや「自然と進歩」などの有機農業団体が共同して1997年に有機農業基準を作り,
公的承認をえ,認証された農産物にはABロゴがつけられるようになって以後すべての有機ワイ
ン農家はこの認証を受けている。この基準は単純でありFNABに加盟するすべての有機i農業団体に
共通するものというメリットをもっている。この基準はワインについていうと「有機農業でつくられ
たブドウからの生産物」(PRIAB)ということになる。先にふれたようにワインには産地呼称認証局
(INAO)が管理する産地呼称認証(AOC)が存在していたから,これにたいしもう一つの認証
PRIABが出現することになったのである。二つの認証のあいだに対立と緊張がなかったわけではな
い。しかしPRIABの表示は消費者と流通業者にたいして有機ワインをわかりやすいものにし認知さ
せるのに役立ち,その製品を一般商業ルートにのせる。こうして有機ワインはこれまでより遠くまで
流通するようになり,輸出においての重要な地位を占めるようになる。「たやすく旅するようになる」
のだ。ミカエル・ラッツがコラン村の人びとを説得したように,有機農業への転換には助成金も出て
いた。こうしてラングドック;ルシヨンその他でワイン農家が有機農業に転換し出荷量は増えるが,
狂牛病が農産物への不安をかき立て大手流通業者が有機生産物を扱うようになり。従来の有機農産物
専門の事業者はこれとの競争を余儀なくされる状況まで至るのである(29)。
これまで見てきたのは有機ワイン生産者をめぐる状況の変化である。それでは消費者の側はどう
か。提携組織その他に見られるように,有機ワインを購入する人は有機農産物の消費者である。かれ
らは有機ワインをほかの有機農産物と同時に購入する。他方ワイン好きの人びと・愛好家はスーパー
ストアで有機ワインに惹かれるということはない。「愛好家たちは有機ワインに好意的とはいえない」
のである。「有機ワイン農家はコンクールでの金賞をめざすこともなく基準書をまもることだけを考
えている。ワイン批評家とかかわることもしないし,ワイン用ブドウ農家としてのかれらの才能を誇
示することもない」(テイル,バレ)。それだけではない。有機農法に熱心であるということはワイン
の味や風味をよくする努力をないがしろにすることではないか。こうして「有機ワインはおいしくな
い」という漠とした世評が漂うことになっていた。それにワインのうんちくに詳しい愛好家たちに
とっては「有機ワイン」というのは冗語に思われた。ワインというものは畑や葡萄樹の性質を自然の
ままにとりだしたものでないのか。ここで「ワインに優れた質」をあたえる「資源」をなすのは「自
然」か「有機農業」かという問題が浮上することになる。
それはこういうことである。近年フランスのみでなくイタリアなどでもカリフォルニアtチリ,
オーストラリアなど新世界のワインが輸入され競争にさらされるようになっている。この状況でフラ
ンスのワイン生産者たちは新世界の「工業的に生産されたワイン」の台頭にテロワールへの回帰に
よって対抗しようとする。フランスのブドウ畑で古くからの醸造法に従ったワインの質へのこだわり
といえばよいか。さきにふれた産地呼称認証の例を想起してもらえばよい。なぜ地区や村あるいは畑
242
名まで明記されるかといえば,テロワールの性質がワインの質を決定すると考えられているからであ
る。そのブドウ畑の位置(陽当たりのよい南向きの斜面など),朝夕霧を浴びるなどのミクロ気候,
石灰質の土壌の状態またブドウの樹齢など。これらの条件がすべてそろっていることが優れたワイ
ンの生まれる条件なのだ。ということであれば優れたワインを生産するには,できる限り自然な形で
この質を最終生産物に反映させなければならないことになる。そこで今日のフランスのワイン農業で
は「テロワールを見出すためにブドウ栽培農家はかれらの畑の特殊性を土壌から奪いかねないすべて
のものを拒否する。化学肥料やときには有機肥料さえも,それらがテロワールと関係ない要素をもた
らす程度に応じて拒否される」。そしてテロワールの性格をもっともよくブドウに伝える方法が探求
され,それはブドウ畑を「再肥沃化」することにみちびいている,jこれは醸造過程でも同じでブドウ
液の濃縮土地固有のものでない酵母菌の使用,硫黄分の除去などはすべて拒否される。
新世界のワインと競争するためテロワールの質を高めようとしてワイン農家により実施されてい
ることは,こうして有機ワイン農業に近づいている。けれどもこのような人びとは有機農法をどれほ
ど尊重するとしても自分たちのワインを有機農業ワインであるとはいわない,,有機ワインの認証を求
めることはしない,「自分たちのワインの賞味的な高級な質の認知だけを求め」てきた。今日のフラ
ンスでのワイン農業は「きわめて柔軟な仕方で有機農業からさまざまなものを取り出すことにより,
ブドウ栽培法を革新し,新しい発明をなし,有機ワインと競合するに至っている」。ここでなにが生
じているかといえば「有機農業ワインはおいしくない」という世評の見直しである,,この競合のなか
で有機農業ワインの生産者たちも賞味的な質に目を向けるようになってきている1:leJ。
コラン村のブドウ畑(下草がみえる)
これだけみたところでコラン村に戻ることにしよう 村の人びとの住居は石灰岩でできた丘陵の多
いプロヴァンス地方の小さな盆地の中央部分に集まっていて,あとはほとんどブドウ畑である。そし
て南フランスの太陽と昼夜の温度差のある小さな盆地,石灰岩質の土壌などの条件はブドウ栽培に
とって例外的に恵まれたミクロ気候をなしている、,この太陽光のふり注ぐ土地では病害虫は脅威とな
らないし各農家の規模が大きくないことも手間のかかる有機農業にとっては逆に有利である。村を取
243
有,機農業と地域おこし
り囲むブドウ畑を歩いてみると転換にあたってミカエル・ラッツがこのように説いたというのもよく
分かる。ほかの地方のブドウ畑を見慣れた目には雑草が多いけれど除草剤を用いず地中の生態系の豊
かさを最大限に生かそうとするなら,このようになるだろう。村の人びとはこうして村の条件に相応
しいワインをつくっている。主なブドウ品種は白ワインではロールとユニブラン,ロゼではサンソー
とグルナッシュ,赤ワインではシラーとグルナッシュである。この地方(コート・ド・プロヴァンス)
の主流のワインは赤とロゼであり白は珍しいのだが,この村で白ワインを生産しているのはミサ用に
白ワインをつくっていた修道院の伝統を引き継いでいるからである(アルルに本拠をもつモンマ
ジュール修道院はこの土地に分院を建て,その跡は今日時計台になっている)。コラン村でのワイン
生産は三つのドメイン(アスプラ,グランド・パリエール,シャトー・ミラヴァル)と一つの生産協
同組合(コオペラティブ)によりなされ,そのいずれでも赤,ロゼ,白の三種のワインを生産してい
る。コオペラティブのワインは「クロワ・ド・バッサン」で有機農業に転換して年間4万本の出荷か
ら80万本の出荷にまで増大したという(ラッツ家のドメイン・アスプラも年間8万本を生産)。これ
らのワインのラベルを見ると「クロワ・ド・バッサン」でも「アスプラ」でも最初にPRIABである
ことが記載され,ついでコート・ド・プロヴァンスのAOC認証が記されている。市場戦略としては
安全な有機ワインを求める人びとと一般消費者とを視野に入れているし,2005年の「クロワ・ド・
バッサン」はパリ農業コンクールで銀賞をえている。より高級なワインのイメージを求めるシャ
トー・ミラヴァルは有機ワインの表示をつけていない。
こうして有機農業ワインはコラン村の中心産業となっているが,それだけにとどまらない。ワイン
についていえば1月末ないし2月初めの月曜日に「プロヴァンスの有機ワイン・サロン」が開催され
バイヤーたちを集めるが,また有機農業ワインがどのようにして生産されるか知らせる機会にもなっ
ている。近年,コラン村の有機農業はブドウとワインから有機野菜,ハーブ栽培,養蜂まで広がって
いるが8月の第3週には有機農産物および有機加工品のフェスティバルが開かれフランス全土から多
くの人びとを集めるに至っている。11世紀初めに立てられたというモンマジュール修道院はのちに土
地の領主の城館となったが,その外壁を残す形で小さなホールがつくられ音楽会,映画上映などのさ
まざまな催しが行われるようになっている。またコラン村の西の境界でアルジャン川が入りこんでく
るところは切り立った岸壁が数キロにわたって続くスーン峡谷となり岩登りをする人やカヌー遊びを
する人を引きつけている。このようにコラン村での有機ワイン農業はたんに農業生産を行うことをこ
えて地域おこしとして成功していて,過疎化の問題など知らないのである。
(三)
里山ねっと・あやべが位置するのは綾部市の豊里西地区である。綾部市の人口はほぼ3万6千人
で,人口の割に市域は広く347.11平方キロもあるが多くは山間部である。豊里西地区もまた綾部市の
西北部に位置する山間地である。江戸時代には綾部から福知山にぬける峠の道があったが,明治期に
なってから100年以上も人が通ることなく雑木に埋まっていた。最近,森林フロンティアのボラン
244
ティアの人びとが雑木を伐採して道を再開通させ遊歩道として整備したといえばどんな場所か想像で
きるだろう。この地区には鍛冶屋と小畑という二つの集落があって,数年前までは農協支部付設の店
舗があって日用品や食料品を売っていた。ところが農協は撤退してしまい店舗が一つもなくなる状況
に直面して,集落の人びとは資金を出し合い農協の建物を買い取り自主的に店舗を運営している(こ
こはまた簡易郵便局をかねる)。この地区にあった豊里西小学校は7年前に市内の学校に統合され廃
校になった。綾部市は小学校の木造二階建ての建物内部を改装し.宿泊研修ができるようにした。こ
の改装された建物を管理運営する目的で設立されたのがNPO法人里山ねっと・あやべである。この
ような成立の経緯からいって綾部市のこのNPO法入への支援は大きいがNPO法人としての活動は
自立した形で行われており,この施設に受け入れた人びとの研修メニューを作成実施するほか,森林
ボランティア,そば塾そのほかのさまざまなボランテでア活動グループの拠点としての役割も果たし
ている。
「里山ねっと・あやべ」のある鍛冶屋地区
日本各地の中山間村地域では過疎化・高齢化は深刻な問題となっているが豊里西地区も例外では
ない。70戸ほどの鍛冶屋地区の集落でも移住し空き家になっている家屋や放棄され手入れされていな
い畑地がみられる。里山ねっと・あやべはこのような畑を所有者から借り受けそばの種をまき収穫す
る。そしてそば粉にひき.招いた専門家とともにそばにうちたべる。このような活動への定期的な参
加者を京阪神の大都市の住民から募り,リピーターを増やし綾部に住みたいという希望者を増やし,
新規移住者を獲得したいと考えている.さまざまな活動のうちには有機農業も欠けてはいない。小畑
地区で村上正氏は乳牛60頭を有機飼育し,また有機農作物を栽培している。実習プログラムの授業で
里山ねっと・あやべを利用する立命館大学,京都大学などの学生たちは,毎夏,村上正氏の牛舎で搾
乳を行なったり,有機大豆畑での雑草取りなどの作業を体験することになる。そしてこの牛乳でつく
られたアイスクリームや有機大豆からつくられた味噌のみそ汁を味わう。したがって,里山ねっと・
あやべでの地域おこし活動のなかで有機農業はそれなりに重要な部分となっているのだが,私がここ
でふれてみたいのはそれとはちがうことである,,
245
有機農裳と地域おこし
里山交流大学での授業の様子
里山ねっと・あやべでは2007年の8月,11月,2008年2月に各2泊3日で3回完結の里山交流大
学という活動を組織した(2008年度にも第2回の里山交流大学が開かれた),中山間村地域における
過疎化・高齢化にたいしてどうするか,全国各地で地域おこしのためにどのような活動が取り組まれ
ているか,体験交流の試みであるが,じっさいに里山交流大学に来た講師や参加者たちの話の内容は
それをはるかに超えている,講師たちのなかには越後妻有での大地の祭りをコー一一一ディネートした北川
フラム氏や,京都知恩院で「百万遍“手づくり市一一」を推進している榎本潔氏.新潟の安塚で冬には
邪魔ものであった雪をアイデアで観光資源に作りかえた矢野学氏,それに日本各地の山間村を旅して
周り日に日に進む荒廃の状況をエッセイに綴るとともに宮城県鳴子市で土地に適した米作りを推進し
ている結城登美雄氏までが含まれていたことを想起すればいいだろうt・ここでこれらの人びとの話す
べてに立ち入るつもりはなく,この論文のテーマである有機農業と地域おこしとの関連で宇根豊をと
りあげたい,,宇根豊氏は里山交流大学での冒頭の講師をつとめたのであり,それはこのイベントの基
調を示すものでもあった。
小中学校の授業カリキュラムのなかに実習学習が組み入れられ,各地で農家民泊やNPOが多様な
メニューを用意しこのような学校生徒たちの体験実習の受け皿となっている。そこで田植えの時期に
なると裸足になった生徒たちが水田にはいり稲苗を植えるなどということが実施されるようになって
いる。水田の土にふれたことのない子どもたちがモノに自然にふれるという「生きた体験」に意味
があるというのだろうか、水田での田植えがほとんど機械化されている状況で手による田植えをする
ということに意味があるのかともいわれている。問題はその点である、=今日大都市に暮らし人工的な
環境で生活している子どもたちが自然にとりかこまれた環境に来て.自然にふれる体験をする.そし
て自然への感じ方を新たにする,という、ところでその「自然」はどのような自然なのか、慣行農業
で行われている水田でもオタマジャクシや赤トンボの幼虫はいないわけではない、だが自然にふれる
というのは,自然についての新しい見方を身につけるというのは,その程度のことなのだろうか。宇
根豊が虫見板を用いて水田の生物を観察することで1田んぼのなかの自然が見えてくる」というと
き,もう少し重いことをいっているように思われるc、宇根豊たちが福岡市で減農薬の運動を始めたと
246
き,減農薬を効果あるものにするには農業者が目の前の害虫の発生状況をみてこれに農薬を撒くかま
かないか,自分で判断できるのでなければならないといっていたことはすでにみた。農薬を使わない
として,そのとき虫がどうして増えるのか,どうして増えないのかがつかめないのなら,減農薬の農
業はできない。もしこれができるようになれば,「害虫が見えてくれば,害虫に依存している天敵(益
虫)も見えてくる。害虫と益虫がみえてしまうと,害虫でも益虫でもない「ただの虫」もみえて,田
んぼの全体が見えてくる」というのである。小学生たちが田植え経験で土にふれる,自然にふれるの
とはかなりちがっている。宇根はそこからされに進んで,「自分の田んぼの個性が見えてくる」「技術
が改良できる」「自分から情報が出せる」「地域が見えてくる」「こどもたちに伝える方法が増えてく
る」というからである。
宇根豊の考えていることを理解するためにはもうすこし説明が必要だろう。減農薬にたいしてしば
しば抱かれている心配ないし懸念に「農薬は減らしたいが,自分だけ撒布しないで,周りの田んぼで
撒布すると(虫が)うちの田んぼにとびこんでくるだろう」とか「うちだけ農薬を散布しないとここ
が害虫の発生源になって,周囲に広がって迷惑をかけることになる(だから減農薬したくない)」と
いうものがある。しかし,宇根豊たちの観察によるなら「幼虫はほとんど生まれた稲株から移動しな
い。ウンカの成虫は移動することもあるがt周囲に移動するのではなく,長距離移動する」。さきの
懸念や心配は水田の昆虫の生態とは対応していない「迷信」(32)なのである。宇根はこのような迷信
が生まれたのは「害虫とつきあい,自分で観察して農薬散布の判断をする技術がなかったから」であ
り,それはまた「要防除密度」という概念が存在していなかったからであるという。
それでは「要防除密度」とはなにか,ということになる。桐谷圭治の考え方が定着している農業生
態学の分野では,ウンカならウンカという単一種の集団を個体群(population)という単位で考察す
る。すると害虫個体群でもそうでなくても「どんな生物種でも時空間的に密度(空間単位あたりの個
体数)は変動する。つまり分布と数は変動している」(33)このようにおさえると興味深い見方が引き
出される。はじめから「害虫」である昆虫はいないのである。「農作物や家畜に実害(経済的許容水準)
をこえる密度になればその種は実害となり「害虫」となるが,この水準以下ならば「ただの虫」なの
である。じっさいの現場では被害が出てからでは遅いので,害虫個体群が経済的許容水準に達するよ
り低い時点が要防除密度である」。このような要防除密度の考えは桐谷圭治以前にはなかった。それ
をあきらかにしただけではなく桐谷たちは,害虫もときとばあいによっては「ただの虫」となり「益
虫」となることも明らかにしていた。蛾の一種であるハスモンヨトウやコガネムシ類は大豆の葉を食
べるのだが,「大豆の栄養成長期のある時期まではこれらの虫によって葉の25%以上食害があったほ
うが,大豆の子実収量は向上する」このばあいは害虫による間引き効果で収量が向上するのである
(34)。すでに1980年代前半に宇根豊は農業生態学者の日鷹一雅らと協力して減農薬をしたときの水田
の昆虫・生物の個体数の増減についての考察を進めていた。そのころ,農業改良普及員をしていた宇
根豊,現場の農民,駆け出しの研究者であった日鷹一雅の三人が福岡市の田んぼで虫見板を用い,そ
こにみられる虫の様相をまえにして議論している様子を日鷹は伝えている。興味深いものなので少し
長いが再録しよう。
247
有機農業と地域おこし
「今年はウンカが多いと聞いているが,うちの田はどうじゃろうか?」(農家)
「県の病害虫防除所は,7月初旬にウンカの大飛来があったと言うとったら」(普及員)
「そろそろ2代目の成虫が出るころですよ。いっしょに調べてみましょう」(学者見習い)
「田をまんべんなく手分けして診断しましょう(統計学の系統抽出)。畦際はウンカが少ないから,
5mは中央部に(周辺効果考慮)。あっ,トビイロの短翅型がいますね。セジロはほぼ長翅でこの田
からいなくなるでしょうねえ(生活史戦略の理論)。害虫化問題はトビイロですから,皆で雌の短翅
型の株あたり密度を数えましょう」(学者見習い)
「う一ん,株あたり2∼5匹くらいはおるのお。心配じゃあ」(農家)
「要防除密度は株1∼2匹と県は定めていますが,いまのところは「ただの虫」でもあと2週間く
らいで害虫化しそうだなあ。どうしよう。撒きますかあ」(普及員)
「あっ,ちょっと,待ってください」(学者見習い)
「やっぱり,ウンカ最前線だけあって,広島の田よりも密度高いですねえ。でもウンカ糸片虫がい
るって聞いていましたけど…。う一ん,ウンカつぶしてみよう」(学者見習い)
しばらく三人は虫見板と虫見ちりとりを手に手に,田をくまなく歩き回り,ごそごそやっている。
「ウンカの雌の短い羽のを10ほどつぶしたが,8匹糸片虫が出てきたと。これらは子を産めるんか
の?」(百姓)
「ほんとほんと,糸片虫,多かねえ」(普及員)
「ええそうですね。寄生されているウンカの雌を顕微鏡下で解剖したことがあるんですが,卵巣は
おろかどこに消化器官があるかも,わからないぐらい,糸片虫に占拠されているんですよ。ウンカの
ほうが生きているのが不思議なんですよ」(学者見習い)
「それじゃあ。心配ないかな。8割も寄生されているなら」(百姓)
「県の要防除密度は,9月だと株あたり雌成虫2匹と言っているが,糸片虫の寄生率が8割ならば,
実質は2×O.2でO.4匹でセーフたい」(普及員)
「ええ,要防除密度以下ですね。それにウンカ糸片虫は,ウンカの体外へ出た後,このまま田の土
のなかで成熟越冬すると報告されていますから,いま薬撒くと,来年のウンカ発生が心配じゃああ
りますね」(学者見習い)
「また次の幼虫を見てみましょう。じゃあ,いま急いで農薬撒かんほうがよかね」(百姓)
「それにしても,広島の有機水田みたいにトビムシも多いのお」(学者見習い)
「名前教えてくれてありがとう。わしらヒゲムシって呼んどったです」(百姓)(35>
このように減農薬を実践するにあたって「田んぼのなかの自然」を見る目が具体的で詳細で,また
柔軟になってくると身の回りの自然の見方も変わってくることがあるだろうか。宇根豊とともにここ
では赤トンボを取りあげてみよう。赤トンボは日本中どこででも初夏になると出現し,夏の暑い時期
にはいったん山地に移動し,秋になると大群をつくって移動する。その移動の情景はときにはメディ
248
アでも報じられたりする。
わたしたちはふつう赤トンボとしてひとまとめにしているが,正確にいうなら西日本で多く見られ
るものはウスバキトンボ,関東から東北地方で見られるものはアキアカネで種類がちがい生態もすこ
しちがうが,水田で生まれ育つ点では共通している。ウスバキトンボは6月初旬に飛来して,産卵す
る稲の葉が茂りすぎると水面に舞い降りれなくなるので,田植えから30日くらいのあいだに産卵し,
産卵されると5日くらいで幼虫(ヤゴ)が生まれる。ヤゴはミジンコや小さな虫を食べながら脱皮を
5回繰り返し30日で成虫になる。夜になると稲の茎を登り背中が割れてトンボが羽化する。こうして
7月中旬から下旬になると西日本の田んぼはウスバキトンボだらけになる。関東・東北でのアキアカ
ネは秋に稲刈り後の田の水たまりに産卵する。そして水を落とした田でタマゴの状態で冬を越し,5
月に田植えのための代かきがおこなわれると卵からかえり,ヤゴは1か月で成虫になる。どちらも水
田で田おこし,代かきの作業を人間が行うことによって種として存続し繁栄してきた。赤トンボとい
う自然の風物詩は日本人が水田稲作を行ってきたことと深く結びついている。だが人びとはこのこと
をどれだけ知っていただろうか。宇根豊らが百姓老人クラブで「赤トンボが田んぼで生まれているこ
とを知っていましたか」と聞いてみると,気づいていた人は41%,きいたことがある人は11%,い
ま初めて知ったという人が43%であったという。水田で農作業していても気がつかないままだった人
が半分以上もいる。またグリーンコープ組合員80人ほどを対象に赤トンボがどこで生まれると思うか
きいてみた結果は,川が77%,池が15%,田が8%であったという(:ta)。減農薬運動の広まりで福岡
市の水田ではウスバキトンボの個体数は劇的に増大しているそうだが,人びとはこのトンボが水田で
生まれることを知らないままである。ほかの地方ではどういうことになるだろうか。
同じことはカエルについてもいえる。赤トンボと同じようにカエルも人間が水田で稲作することに
依存して生きている。カエルがいつ田んぼに集まり産卵するか見てみればいい。水田に雨水がたまっ
ている,あるいは田植えをひかえて湛水されているというだけでは.集まってきて鳴くことはない。
田植えのために代かきの作業が終わった夜になって鳴き始める,カエルは代かきの後の水田でなけれ
ば産卵にむいていないのを知っていて,人間のする農作業を見ているのである。宇根豊は2001年6
月の代かきのときにカエル(ヌマガエル,トチガエル,アマガエル)の数を数えたことがあるという。
「代かきのとき,これらの蛙はみんな畦に避難している。だから畦際を耕転機で代かきしながら数え
ていった。すると一匹一匹と目が合うのである。蛙はまた生まれた田んぼに帰ってくることが分かっ
た。10アールで約1200匹だった。もし私がその田んぼを減反したら,蛙はどうなっただろうか」(37)。
赤トンボもカエル(オタマジャクシ)も米の収量には影響がないとされ,稲作技術と赤トンボやカ
エルは関係ないとされてきた。しかし「田んぼのなかの自然」が見えてくるならカエルも赤トンボも
水田の生き物を土台で支える重要な生き物であること,逆にまた農薬で水田からオタマジャクシがい
なくなればその水田の生物相は極端に貧困になってしまうのである。人が食事のときに食べる茶碗1
杯分の米は,稲株3株分の量だという。10アールの水田ではオタマジャクシは23万匹いるから,3
株で35匹のオタマジャクシということになり,茶碗1杯分の米は35匹のオタマジャクシとつながっ
ている。体験学習の授業でいわれる自然とのふれあいと宇根豊のいう「田んぼのなかの自然」をわか
249
有機農業と地域おこし
るのとはまだかなりの隔たりがある。しかし,有機農業や減農薬農業を地域おこしに組み入れると
き,そのような方向への可能性が開かれるということはあるだろう。
注
(1)保田茂,『日本の有機農業 運動の展開と経済的考察』,ダイヤモンド社,1986,第2章3節「一楽照雄
氏と日本有機農業研究会」pp.35−36。国民生活センター編『日本の有機農業運動』,日本経済評論社,第1
章「有機農業運動の発生過程」pp.25−29。
(2)保田茂,前掲書,p.135。
(3)中島紀一,「有機農業をめぐる戦略的課題に関する一考察 運動論的視点と特殊型農業視点の間」,『年
報 村落社会研究 voL33有機農業運動の展開と地域形成』,農文協1998, pp.58−59。
(4)中島紀一,前掲論文,pp.59−60。
(5)多部田政弘,fH本の有機農業運動』の終章pp.264−266。
(6)本城昇,丁日本の有機農業 政策と法制度の課題』,農文協,2004,pp.50−51。
(7)本城昇,前掲書,p.51.
(8)本城昇前掲書,p.52.
(9)本城昇前掲書,pp.52−53,
(10)本城昇,前掲書,p.53.
(11)本城昇,前掲書,pp.70−71.
(12)多部田政弘前掲書,pp261−262,終章,有機農業運動の視座
(13)中島紀一,前掲論文tpp.63−64,「80年代の第2の特徴的な動き」
(14)保田茂,前掲書,pp.142.
(15)古沢広祐,『共生社会の論理 いのちと暮らしの社会経済学』,学陽書房1988,pp.43−44.
(16)古沢広祐,前掲書,p.48.
(17)保田茂,前掲書,p.36.
(18)古沢広祐,前掲書,p.48.
(19)古沢広祐,前掲書,p.59
(20)宇根豊,『天地有情の農学』,コモンズ,2007,pp.29−30,
(21)桐谷圭治,中筋房夫,『害虫とたたかう 防除から管理へ』,NHKブックス,1977, pp.120,130,185r
214.
(22)宇根豊前掲書,pp.37−38.
(23)福士正博四方康行,北林寿信,『ヨーロッパの有機農業』,家の光協会,199 2,第1章「環境保全と持
続的農業を重視したEC農政」, pp.22−36.
(24)CLamine, P.Viaux,」.M Morin, Dynamiques de development de ragriculture biologique:elements
de debat. Innovations Agronomi(lues(2009),4.307−312, P.307,
(25)Catherine de Silgtiy, L’ Agriculture biologiqite, colLQue sais−je?PUF,1991, pp.12−14.
(26)Caterine de Silguy, op.cit., pp.15−16.
(27)GTell, S. Barrey, La Viticulture biologique:de la recherch6 d’un monde nouveau au
renouvellement du gout de terroir. Innovations Agronomiques(2009)4, pp.427440, pp.431−433.
(28) Christophe Brunella, Correns, Premier Village Bio de France,13/08/2004.
250
左側がミカエル・ラッツ氏,このときラッツ氏は下院議員選挙(ヴァール県第6区)に社会党候補となっ
ていたため,話はもと村長のサディオン氏(右側)にきくことになった。
(29)G,TeiL S. Barrey,θp.(’it’, pp.433−436.
(30)G.TeiL S. Barrey,θp.cit., pp.・136−437.
(31)宇根豊,「虫見板で豊かな田んぼ1,創森社,2004,pp.18−21.
(32)宇根豊前掲書,p.30.
(33)日鷹一雅,「ただの虫の農生態学的研究(D」『有機農業研究年報 >ol.6』2(X)6, p.75,
(34)日鷹一一雅,前掲論文.pp.81−82,
(35)口鷹一’雅,前掲論文,pp.76−77,81−82,
(36)宇根豊,陳地有情の農学』,pp.73−74.
(37)宇根豊,前掲書,p.122.
*この論文は2007年度明治大学入文科学研究所による研究助成(特別研究)により作成されたものである
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