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回は、当「キリンビール大学」が 無事一周年を迎えた記念ということであり

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回は、当「キリンビール大学」が 無事一周年を迎えた記念ということであり
 回は、当「キリンビール大学」が
無事一周年を迎えた記念ということでありまして、
話題をもっぱら我らが大学の校名である"キリン"に絞り、
その歴史背景などをも見渡しながら、
"飲み物"であるビール"講座を進めたいと思います。
リンは首の長い動物です」と言うだけでは、
あまりにもセンスがなさ過ぎます。
テレビを見ていると、
「キリンさんよりは、ゾウさんの方が、もーっと好きです。」
などというセリフを可愛い声で発する子供の姿を、
某引っ越し運送会社のコマーシャルで見ることがよくあります。
確かに、キリンよりはゾウのほうが好きだという子供が多いように思います。
しかし、大人、それも気品のある大人は大体において、
ゾウよりはキリンを愛するものです。
そのことは様々な文学作品からも知ることができます。
サク・ディーネセンというデンマークが生んだ世界的な女性小説家がいます。
ヘミングウェイがノーベル賞を受けた時に、
この賞は本当ならば女性が受けるべきだ、
と言ったことでも、ディーネセンは知られています。
大人気を博した映画「愛と悲しみの果て」の
"Out of Africa(日本語訳『アフリカの日々』)"は、彼女の作品です。
そのディーネセンは、
東アフリカでの生活で身近に接したキリンについて、
作品"Longing for Darkness(『闇への憧れ』)"のなかでこう言っています。
「キリンは淑女そのものだから、人はその脚のことは考えるのを遠慮する。
だが、朝露と蜃気楼の織物で出来たロングドレスを身につけて、
平原に浮かんでいる彼女の姿を心に残す。」
この作品を書いたころ、
彼女はカーレン・ブリクセンという名も使っていました。
たしもまた、東アフリカのサバンナでの生活で、
何百回となくキリンの姿に接してきました。
もの静かで、落ち着いた優雅さには心が魅かれます。
夕暮れの空の下で、すでに陽の光を失いかけているために
黒ずんでいる枝を傘のように広げたアカシアの木の茂みから、
長い首をそっと出して、じっとたたずんでいるキリンの姿や、
夜、月の光を浴びた草原を緩やかに走るキリンの幻想的な姿には、
心を奪われたものでした。
ころでそのキリンですが、東アフリカだけでも、
次の3種類ものキリンがいることを知っているでしょうか。
1・マサイ・キリン
2・ロスチャイルド・キリン
3・網目キリン
を言うと、わたしはその優雅なキリンを食べたことが何度かあるのです。
勿論、その当時の、その場の状況では、
キリンを食べることは不法な行為ではありませんでした。
ただ、珍しいことであるに過ぎませんでした。
この講座は"食べる"ことについてのものですから、
その時のキリン料理について、少しは詳しく話すべきかもしれません。
しかし、キリンは種類によって味が異なるというものでもなく、
シマウマのような草食獣と較べても、特に味が異なるというものでもありません。
従って、あえてお話しをするというほどのことでもないのです。
際にはこの世に存在せず、ただ話のなかだけに登場するキリンもいます。
その代表は、空想上のキリン、または伝説のキリンです。
そして、その姿こそが、
我が"キリンビール"のトレードマークともなっているのです。
この空想上のキリンに関する話は、
簡単と言えば至極簡単なものですが、
話題に深入りすると、一冊の本になるほど込み入った話になります。
ここでは簡単な方を選びたいと思います。
台は遙か昔の中国となります。
甲骨文字、金文が使われていた時代の中国では、
"四霊"と呼ばれる四種類の動物の存在が信じられていました。
そうした時代に生存していたと信じられていた獣ですから、
それらは"音声"としての名前が持つ意味のみではなくて、
"文字"によって書き残された名前としても、
様々な意味を背後に持っています。
霊"。
この名称に使われている文字のうち、
"四"は数の"四つ"、
"霊"は、"神霊、霊妙、神秘"なるという意味を持ちます。
これらの動物の漢字名を、日本語読みにして示してみると、
次のようになります。
この内、実際に存在するのは"亀(き)"、
すなわち"かめ"のみです。
れらのうちから、まず、今回の講義とは関係が薄い動物について、
簡単に眺めていきましょう。
想上の鳥である"鳳(ほう)"は、
"鳳凰(ほうおう)"という名で知られています。
この鳥は、聖天使の世に姿を現し、皇后を象徴しているともいわれます。
その生態は独持なものです。
梧桐(ごどう、青桐(あおぎり))の枝でしか翼を休めず、
世にも稀な竹の実だけを食物とします。
鳴き声は妙なる音楽です。
"鳳"は雄、"凰"は雌を意味するとも言われます。
また、"鳳"の字は、"妖怪の気が感じられるような、
人にとっては有害な風"、すなわち、
"台風"を意味していたのであろうという説も見られます。
(き)"。
これは、本来は" "と書くべきでしょうが、
こんな文字を字引も見ずにスラスラと書ける者は、
当大学の学生としてはふさわしいとは思えません。
教師であるわたしも、字引に目を近づけたり、遠ざけたりしながら、
その形をようやく掴むことができました。
さて、この亀のみが四霊のうちの実在動物であることは言うまでもありません。
ただし、この亀には、中国の"食べ物"では馴染みが深いスッポンは含まれません。
多分、海亀の一種であろうと思われます。
それも、当時の中国から見れば遠方の地である
マレーシアあたりの南の海で採れた亀で
貢ぎ物として献上された貴重なものであったようです。
この種の亀は、単なる"食べ物"というよりは、
なにか宗教的な意味を持っていたのです。
まず、その体型が独特です。
普通の動物とは異なった、奇怪な体は、
蝦蟇(がま)などと同じに、霊物とされました。
その楕円形をした体は、"天円地方(天は円く、地は方形)"、
すなわち、自然界を型取るものとされました。
その安定した姿は、宇宙の姿と結びつけられました。
しかし、そういう説とは別に、
"亀"という文字を"亜"と結びつける説があります。
"亜"という字形は、
原始時代の華北地帯に見られた住居を上から見た図だとするのです。
それは神聖視されるような特別な身体を持った人物が住む家でありました。
当時としては普通の生活のあり方であった狩猟、戦い、
そして農耕などの肉体労働に就くことが、
彼らには身体的条件のために出来ませんでした。
そこで、彼らは神に仕える仕事、呪術にたずさわる仕事などに就いたのです。
亀の腹側の甲は、その"亜"という文字に似ている。
そこで、亀が占トに使われるようになったとされるのです。
亀の頭と人間の男根との類似から、
何か宗教的に目出度いという意味が汲み取れそうだという期待が、
古い漢字から読みとれないというのは興味深いことです。
(りょう、りゅう)"。
尖った角、冠羽でも付いているように見える頭は、
威勢のよさと飛翔という意味を持つとされます。
大きく裂けた口、くねくねした長身の胴体は、
夜の闇の中に閃光を走らせる稲妻だとされます。
それは鳥でもなく虫でもない。
四つ足までそろった獣なのです。
竜は、晴天の中を走る事はありません。
暗黒の空中か、雲で覆われた悪天候の空の中でのみ飛翔し、天に昇るのです。
文字の上の"立"に似た図形は"雨"、
下の"田"という図形に立て棒がつき抜けているような字形は
"デン・デン(田々)"と鳴る雷鳴と、
その真ん中を突き抜け、天に向けて飛翔する獣の姿なのだとされています。
て、いよいよ本題の"麒麟"です。
麟"は、聖人がこの世に現れる時に生まれてくるものと決まっています。
それは、鹿のような体を持ち、図体は大きく、
尾は牛の尾に似ていて、蹄(ひずめ)は馬の蹄に似ています。
目は五色に輝き、頭には肉と皮に包まれた角を一本生やしています。
その角は戦いには向かないものなのです。
また、短くてしっかりした足が付いているのですが、
草を踏むこともなしに空中を飛んで移動します。
そのことによって、ほかの生き物に害を与えることは決してありません。
草木も虫も殺しません。
"麒麟"はそのような優しい動物なので、"仁獣"と呼ばれることになるのです。
そして、なによりも、"麒麟"は空想上の獣なのです。
ある説によりますと、"麒"は雄、"麟"は雌であるということになります。
が、この説は、後の時代に机の上で考え出されたことであるとして、
あまり受け入れられていません。
"麟"の左側の部分が"鹿"ではなくて、
"馬"になっている" "などという紛らわしい漢字名が見出されますが、
これはキリンではなくて、"よく走る馬"といった意味の語だそうです。
漢字学の立場では、"麒"の右側の"つくり"、すなわち"其"という図形を
"箕(き)"という音を持つ文字と関連付ける立場があります。
"箕"というのは、広くて平らな底の上に穀物を置いて、軽く上下に揺すり、
モミやヌカをふるい落とすために使う竹製の農具の一種です。
わたしは、子供の頃、この"箕"という字で書かれた道具を"き"ではなくて"み"、
あるいは語尾を尻上がりにして"みい"と呼んでいたものです。
それはそれとして、一説では、この"其"は、
"上方にあおる"から"飛翔する"に通じるものであるとします。
また、"麟"の方は、左側、すなわち扁が"鹿"で、右側のつくりの方" "は、
"数珠のように繋がって群れているという習性を持つ獣"
を意味する文字であると言われます。
つまり、文字を先行させて解釈すれば、"麒麟"というのは、
"空中に体を浮揚させながら、群れて飛ぶ動物"ということにでもなるのでしょうか。
ずれにせよ、"麒麟"は、
単に地の上を走り回る獣たちとは、格が違います。
それは、同じ獣仲間から飛び抜けて優れているものなのだという解釈になるのです。
世に言う"麒麟児"は、単に走るのが速いというのではなくて、
何事かにおいて、ずば抜けて優れている人物を意味しているのです。
を自由に飛びまわる。
これは、人類普遍の夢です。
その夢は、百年ほど前に飛行機の発明ということで叶えられました。
しかし、それは自分自身が飛んでいるのではなくて、
飛んでいる物体に自分が乗っているだけです。
人は、まだまだ、一杯飲むことでしか、
宇宙を自由に飛ぶことはできないのでしょうか。
そんなことを口にすると、
「いや、アルコール飲料の場合は、飛んだ気になっているだけで、
本体は地面や床の上でふらついているだけだ」などと、
生真面目なことをいう者もいるでしょうが、
我が"キリンビール大学"では、
物事をそれほど厳しく見る必要はありません。
去の人々が描いていた麒麟の姿そのものを再編成することは、やや困難です。
そこで、"麒麟"という文字を支える"鹿"という文字に注目し、
その原型見本を少しばかり黒板に示してみましょう。
これらは、甲骨文字、金文といった中国の古い文字の字体によるものの一部です。
なお図形(A)の鹿の下にみえる" "の図形は、勃起した男根を意味し、
この図の動物は雄であり、"強壮力の強い鹿"を意味すると言われています。
この説の延長では、"武士"の"士"も意味は同じであり、
上の横棒は単なる飾りであったといわれます。
文字の起源はあまり詮索しないほうが、
心を乱すことなく物事が書きつづれるのかもしれません。
の辺で、東アフリカ、中国、日本のキリンの関係について話を進めましょう。
本語の名称"キリン"は、
中国の南方方言での発音"k'ilin(キリン)"から来たものと考えられます。
北京語では"qilin(チリン)"です。
これらは、共に中国の架空の動物である"麒麟"を意味し、
アフリカにいる野生動物のキリンのことではありません。
ちなみに、中国ではアフリカの野生動物の"キリン"のことは、
"長頸鹿(チャンジンル)"と言います。
また、中国と六百年ほど前に関係を持った東アフリカ沿岸部地域で、
最も一般的に話されていた言語はスワヒリ語とソマリ語ですが、
スワヒリ語での"キリン"は"twiga,トゥイガ"、
ソマリ語での"キリン"は"geri,ゲリ"です。
なお、"giraffe,ジラフ"という英語の単語は、
アラビア語の"zirafa,ジラファ"に由来します。
古い時代の東アフリカと中国との関係は意外に知られていませんが、
そのあり方は画期的なものでした。
国人によるアフリカに関する記述は、
八世紀半ばごろから出てきますが、
まさに常識を覆すような出来事が起きたのは、
明代の鄭和(ていわ)の艦隊の一分団が東アフリカ沿岸部に姿を現したときでした。
その場所は、多分、現在のケニアの海岸の町マリンディか
その北側のラム諸島のどこかであったと推測されます。
鄭和は、雲南省の昆明でイスラム教徒の家に生まれました。
姓は馬(マ)、色目人にして、宦官(かんがん)の鄭和は、
数奇な運命をたどり、長じて皇帝の要人となり、
七回に及ぶ大航海(1405∼1433)を行いました。
それは"下西洋(シャーシーアン)"と呼ばれ、
日本では"西洋下り"の名で知られる一大壮挙でした。
ところで、ここでいう西洋とは、ヨーロッパのことではなくて、
マラッカ海峡から向こうのインド、ペルシャ、インド諸島などを指しています。
鄭和は明の永楽(えいらく)帝の命を受け、
二万七千人ほどの人員を乗せた大船団を組み、
南の海に乗り出したのです。
1405年のことでした。
その船団は六十隻を上回る、さまざまな役割を持つ大小の船で構成され、
中心は"宝船(ほうせん)"と呼ばれる巨大な船でした。
鄭和の七回に渡る大航海のうち、
東アフリカに到着したのは第四回航海からです。
また、東アフリカの地を踏んだのは、分隊であったとされ、
鄭和自身はアフリカの土地を踏んではいないようです。
その時代に、アフリカから中国に珍しい動物がもたらされました。
"花福録(シマウマ)"、"獅子(ライオン)"、
"駱駝(一瘤ラクダ)"、"駝鶏(ダチョウ)"などは、その例です。
"キリン"は、皇帝に献上するために、長角馬は哈獣(不明、羚羊の一種?)と共に、
阿丹(南アラビアのアデン)から運ばれました。
アデンにはキリンはいないので、
前もって東アフリカから仕入れてあったものが船に積み込まれたのでしょう。
また、1414年に傍葛刺(ベンガル)の王様から中国の皇帝に"麒麟"が献上された記録や、
1415年に"麒麟"が麻林(ケニアのマンディ)からもたらされた
という記録も残されています。
"キリン"は、東アフリカのソマリ語では"geri,ゲリ"と呼ばれます。
"キリン"は、体型も伝説の"麒麟"と似ています。
また、発音の上でも、ソマリ語の"ゲリ"は
中国語の南方方言の"k'ilin,キリン"と似ているのです。
ということで、この時代に、
"キリン"は"麒麟"と同一のものとみなされるようになったと伝えられています。
の話を、もうすこし詳しく知りたい者は、
月刊"しにか"という雑誌(大修館書店)の2000年11月号にわたしが書いた
「"中国・東アフリカ関係"覚え書き」という記事を参考にしてください。
本とビールの関係は、それほど古いものではありません。
その歴史は三百年程のものです。
こうしたことを考える場合、大切なことは、
日本人によるビールの紹介はいつの時代か、
実際にビールを飲み始めたのはいつの時代か、
国外での日本人によるビール体験はいつ頃からか、
といったような話を区別する必要があるということです。
たとえば、1860年、
幕府の第一回遣米使節の一行に加えられた随員の一人、
仙台藩士の玉虫左太夫は、
船がまだ品川沖にいるうちに"ビール"というものを飲んだと書き残しています。
大変古い記録です。
その後、いろいろな人物がアメリカ、ヨーロッパに渡る道中や、現地で、
ビールをたしなんでいます。
ころが、日本でのビールの紹介は、もっと古い時代に始まります。
内林政夫という方が調べたところによりますと、玉虫左太夫の体験以前にも、
ビールはいろいろと紹介されていることがわかります。
1724年 フィッセル『和蘭問答』 (麦酒、ビール)
1799年 大槻玄澤 『蘭説弁感』 (ビール)
1832年 高野長英 『居家備用』 (粥以爾)
1836年 高野長英 『ニ物考』 (ビイル)
1850年 黒川翁満 『異人恐怖伝』(ビール)
治時代に入りますと、
ビールはドイツ、イギリスから輸入されるようになります。
営業を目的としたビール醸造は、
アメリカ人のW.コープランドという人物によって始められます。
その後の経過は、
1870年(明治三年)
コーブランドが横浜に"スプリング・ヴァレー・ブリュワリー"という名の醸造所を設立。
1885年
"ジャパン・ブリュワリー・カンパニー"設立。日本名は日本醸造株式会社、
日本ビール株式会社、日本麦酒醸造株式会社などが用いられた。
1888年
商標に"麒麟"を使ったビールの製造・販売を開始。
我が"キリンビール大学"の母体の誕生です。
ビール産業の始祖の流れをくむ、
この"ジャパン・ブリュワリー・カンパニー"は、
1907年(明治40年)に、麒麟麦酒株式会社として、
事業が継承されることになり、名実ともに"キリン"のビールとなりました。
うした歴史背景を詳しく知りたい人は、
是非、我が校の大先輩たちが書いた二つの本を読んで欲しいと思います。
キリンビール編『ビールと日本人』三省堂 1984年
北島親『ビールとホップ』徳間書店 1968年
いずれも古い本で、その辺の書店に行っても見つかるものではありませんが、
物を学ぶということに情熱がある当校の学生ならば、
図書館などに出かけて探し出すという情熱もあってよいものと思います。
品名の付け方には、多様な発想があります。
キリンビールの場合は、世界のビールを見ると、どういうわけか、
ゾウ、トラ、ワシ、キツネ、ヒツジ、カメ等の動物が多く使われているが、
東洋の国である日本のビールには何が適切か、という話題があがった時に、
それならば、"聖獣"である"麒麟"はどうかという案が出て、
それが採用されたということのようです。
それは、地平線から顔を半分だしている真っ赤な太陽の前を走る
キリンの小さな姿でした。
やがて、「それでは、なんだかわからない。」という声があがってきて、
デザインをしなおして、ラベルにローマ字で"KIRIN"と入れた、
太陽なしの"麒麟"の図で現在見られるものの原形となりました。
デザインしたのは東京芸術大学で漆(うるし)を担当していた
六角紫水先生であるとされますが、
大正12年の震災で資料が焼失し、詳しいことは分からないようです。
校一年。
この機会を借りて一つの"飲み物"にまつわる話をするのも、
また"食べ物"というものの背景に潜む世界を知ることに通じるのではないでしょうか。
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