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独り山に籠もってもろくなことはない

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独り山に籠もってもろくなことはない
独り山に籠もってもろくなことはない
この邪魔が入って女犯が遂げられないという話では、高雄にいた侍従の阿闍梨公
尊の話が「ピカイチ」です。この男の話は『伝記』の中に延々と載せられています。そ
の話、異常に長いのです。恐らく公尊の心情が明恵の心情によく似ていて、明恵の
心の中にも公尊への同情の念が深く淀んでいたのでしょう。それで、『伝記』の中に
異例と思うほどの重さと長さで取り上げられている、というわけです。
さて、そのお話を延々と披露してみましょうか。
亦当初高雄に侍従の阿闍梨公尊とて、閑院のきれはし有りき。遁世して山を出
で、後亦還住して、懺悔して申さく、「此の神護寺の交衆(きょうしゅう)の体(てい)も
むつかしく、行学とて励むも皆名聞利養を免れず。此の如くにては受け難き人
身を受け、値ひ難き仏法にあへる験(しるし)更になし、空しく三途に沈まん事疑
あるべからず。如かず此の山を出でて山中に閉ぢ籠もり心静かに後生菩提を
祈り道行を励まん」と思ひて、小原(おはら)の奥に興(きょう)ある山の洞(ほこら)求め
出して、庵を結びて栖む(すむ)程に、寂莫(じゃくまく)として心の澄むこと限りなし。
背かざりける古(いにしえ)も今は悔しく覚えて、十二時中空しく廃る(すたる)時なく、
更に浄界に生れたる心地して、勇猛精進に成り帰りて、半年許り送る程に、只
独り閑(ひま)なるままに、こしかた行末の何となき事どもさまざま思ひ出でられて、
或時期せず婬事(いんじ)起れり。公尊少く(おさなく)より住山(じゅうざん)せしかば一
生不犯にてありし故に、女根(にょこん)ゆかしく覚えていしき障りとなりぬ。とかくま
ぎらかし退治せんとすれども、やみがたかりし程に、「中々かやうにては道の障
りと成りなん。さらば志をもとげて妄念をも払はばや」と思ひて、俄に(にわかに)あ
らぬ様に姿をなして、亡者訪へ(とぶらえ)とて人の布施したりし物を、物のなきま
まに、さりとて纒頭とかやに取らせんと思ひて懐(ふところ)に入れて、色好みのあ
る所を尋ねんとて京へ行く程に、夏の事にていと暑きに、京近く成り胸腹痛くな
りて霍乱(かくらん)と云ふ病をし出して、苦痛する事かぎりなし。路の辺に(ほとりに)
小家(こや)のありけるに立ち寄りて、とかくして其の夜は留りぬ。又次の日も猶な
ほりやらでわびしかりし程に、京に行く事叶はずして這々(はうはう)小原へ帰りて、
様々養生してなほりぬ。亦暫く(しばらく)は其の余気(よけ)ありてわびしかりし程に、
紛きれ(まぎれ)過しぬ。或時亦本意を遂げんと思ひて、先の如く行く程に、いか
がしたりけん、路にてとぐいを足に深くけ立てて、血夥しく(おびただしく)流れ出づ。
痛きこと忍び難し。一足も歩むに及ばず。畔の人来りて見てあはれみて馬に乗
せて庵に送りぬ。又兎角癒えて後、又こりぬままに行く程に、今度は相違なく京
に行き付きぬ。色好みの有る処に尋ね行きて、かかぐり行く(ありく)程に、心中に
は忍べども、さすが風情のしるくこそありけめ、年来(としごろ)しりたる俗人のそこ
を通るに目を見合ひぬ。あさましきこと限りなし。露ならば消え入るばかり思ヘど
も、すべき方なくて立ちたるに、比の男の云はく、「いかがして、こには立ち給ふ
ぞ」と云ひて、よに怪気(あやしげ)なる体(てい)なり。弥々(いよいよ)心うくて、何の物
狂はしさ(ものぐるわしさ)にかかる所に来て、憂目(うきめ)を見るらんと疎ましく(うとまし
く)覚えて、兎角延べ紛らかしてにげ帰りぬ。さる程に終に (ついに) 本意を遂ぐる
に及ばず。其れより後はふつとこりはてて思ひ留りぬ。かくて過ぎ行く程に秋深
く成りて不食(ふじき)の病起りて、万(よろず)の食物嫌はしくて(きらわしくて)日数(ひか
ず) ふるままに、身も衰へ力も弱はりて道行も叶はず、只悩み居たる計り (ばかり)
にて明し暮す程に、「かくては閑居(かんきょ)の甲斐もなし。身を資けて(たすけて)
こそ道行をも営まめ」と思ひて、伴(とも)に置きたる小法師(こほうし)をば京へ使(つ
かい)にやりて、其の隙に(ひまに)、此の山の奥より山人鳥を取りて京へ売りに罷る
(まかる)が、此の庵の前近き路をとほるを、忍びて買ひ取りて、是れを調へて時
をも食ひて見んとて、世事所(せじどころ)に置きて小用しに出でたる跡に、放れ猫
来りて皆食ひ散したり。是れを見付て嫉さ(にくさ)ともなく惜しさともなく、そばなる
木のふしを以て抛打ち(なげうち)にする程に、あやまたず猫の頭(かしら)を打ちか
きて両眼を打ちつぶせり。鳴き苦痛して血夥しく(おびただしく)垂りて(たりて)、縁の
下へ逃げ入りてさけび鳴く。かくまでせんとは思はず、只をどし計り(ばかり)にこ
そとしつるに、かわゆさあさましさ云ふ計りなし。山籠りして菩提を成ぜんとこそ
思ひ立ちしに、あらぬさまなる振舞どもしける事、浅ましく覚えて悲涙(ひるい)押
え難し。「大方此の事ども只一筋に放逸に引きなされたり、心安きままに朝(あし
た)も物くさき時は日たくるまで起きあがらず、夜は火なども燃すことなければ、
暗きままに宵よりさながら眠りあかし、すぐに居る事も希に、いつとなく物によりか
かり足をのべ、寒き夜は小便などをさへねや近くして、芝手水(しばてみず)ばかり
心やりてうちし、何事も恣に(ほしいままに)振舞てのみぞ過ぐしける。かくてはあさ
ましき事ぞかし」と心を誡めながら、「ともすればかかる式になりき。さすが人中
にあらば自然にかかる事どもは有るまじきに」と、「中々閑居は無益なりけり」と
思ひて、神護寺に立ち帰りて見るに、公尊此の山を遁れ出でし時は、未だ童形
にて華厳の『五教章』などをも、我等にこそ文字読みをもし、義をも問ひし者、今
は小僧にて来りて「いかに」なんど云ふ。「此程の御山籠(みやまごもり)の体(てい)
をも参て見まゐらせたく候ひつれども、学文に寸の暇を惜むやうに候ひし程に、
存じながら罷り(まかり)過ぎ候ひき。山中の御修行御うらやましく候」とて、法文を
問ひかけて、法理に於て不審をなす。兎角云ひ延べんとすれども、はたとつま
りてせん方なし。其の時、此の小僧云ふやう、「山中にて此の両3年、仏法の深
理をも見披き(みひらき)給ひぬらんと、いぶかしく存じ候ひつるに、是程の事だに
などや分明ならずと戯れ云ふ」。げにもと恥かしくて、「我も彼に放れて3年にこ
そなるに、彼は3年善知識にそひ耳をうたせたり。我は3年静かに道行すると思
ひたりつるは徒事(いたずらごと)なり。是を以て是を比ぶるに、我も中々此の3年、
此の寺にて道行を励みたらば、いかばかり増るべかりし物を」と、今更こし方悔
しく覚へしと云々。其の小僧は当初、明恵上人神護寺に住み給ひし比(ころ)、若
き学匠の中(うち)に群に抜けて、聖教の義理を宣べ(のべ)給ふに肩を並ぶる人
なかりし、そこにかよひて付そひ奉り、華厳を学し談義に耳をうたせけり。此の懺
悔せし事思ひ出されて、「彼と云ひ此と云ひ旁(かたがた)益なかるべし」と思ひて、
喜海が閑居も思ひ留りにき。比の山中に清衆一味和合して、互に道を勧め菩
提を助けん事を先としき。然るに近比(このごろ)、衆多くして、或は疑はしきを見て
実(まこと)と云ひ、或は慈悲を忘れて、人の矢を顕はす類(たぐい)ままありき。上
人にあひ奉りて、「彼の房かかる不善の聞こへあり、衆を出さるべきか」など語り
申す人あれば、上人答へて言はく、「何となけれども清衆の中(うち)に居して不
善なる者は、諸天照覧し給へば、をのれと顕れ、をのれと退く習ひなり。然るを
汝我に語って彼を損ぜんは、僧として無慈悲の至りなり。仏は実に(まことに)有る
事を自ら見るとも、僧の失を顕すべからずと禁め(いましめ)給へり。是れ大いに深
き方便なり。浅智の能くしる所に非ず。仏弟子の過を説くは、百億の仏身より血
を出すにも過ぎたりと説けり。又一には和合僧の中を云ひたがふるは、五逆罪
の中の其の一なり、四重を犯ずる(ぼんずる)にまされり。汝既に此の二つの罪を
犯せり、五逆罪の人に片時も同住せん事、恐れあり」とて、先ず訴へける僧をば
是非に付きて即ち追放せらる。此の不善の聞こへある僧をば能々ただして、所
犯(しょぼん)まぬがれねば同じく追出せらる。若し又指したる (さしたる)証拠なきを
ば、俗人すら罪の疑はしきをば行なはざるは仁なりとて免じ給ひけり。然れば三
宝の加護も甚しかりけるにや、実に(まことに)不善なる者は自ら退きしかば、山中
の清衆けがるる事更になかりきさと云々。
〔現代語訳〕
また以前に高雄山に入っていた人に、侍従の阿闍梨公尊といって、閑院家の
末流に連なる人がいた。出家して後に山を下り、後にまたもとの高雄に帰り住ん
で、後悔していうには、「この高雄の神護寺の皆々との接触もうるさく、修行だ学
問だといって努力し励んではいるものの、どれもこれも皆、名誉や利益をむさぼ
り、金をもうけるためである。このような人々と一緒にいては、幸いにも人と生れ、
また幸いにも仏法の教えに出会う幸運に合いながら、その甲斐もなく、空しく亡
者の行くべき三つの途に迷い沈んでしまうに違いない。むしろ高雄の山を出て、
もっと静かな山中に引き籠り、心静かに死後の菩提を祈り、修行に励もう」と思
って、小原(おはら)の里の奥に風情のある山の洞穴があるのを探し出し、庵を建
てて移り住んでみると、閑静で心が清められることはこの上もない。高雄に住ん
だ時間までも今は惜しく残念に思われ、12時中無駄に送る時間もなく、全く浄
土に生れたような気持となり、雑念を去って一心に仏道を修めて怠るまいという
気持ちで一貫してゆこうと、半年程の年月を送ったところが、ただ一人で努力し
てきたので、来し方行く末のことが色々と気にかかり始めて、ある時思いもよら
ず淫りがわしいことが起った。公尊は小さな時から俗世を離れて山に入り出家し
たので、それまでは仏戒を守って男女の交わりをしなかったので、逆に女の体
に接してみたいという欲が起って大変な障りとなった。何やかや心を紛らしてこ
の欲望を押えようとするが、とても消えそうにもないので、「このような状態では仏
道修行の邪魔になるだろう、どうせそれなら欲望のままに目的を果して、迷い心
を一掃してやろう」と思って、急に変った様に姿を変え、死んだ人の菩提のため
にと他人が自分に布施してくれた物を、他に適当な物もないために、それでは
祝儀にでも与えようと思って懐に入れ、遊女のいる所を尋ねてみようと京の町の
方へ出掛けたが、ちょうど夏のことで、大変に暑く、京都の町近くなって胸や腹
が痛くなって日射病に罹り、苦しい姿で、路端の小屋に入り、その夜はその小
屋で泊った。翌日になっても少しも癒らず(なおらず)、力も抜けてしまい、京都に
行くことはできないで、這うようにして辛うじて小原の住処(すみか)に帰り、色々と
養生したお蔭で全快した。その後しばらくは病後で力も抜け、欲望は隠れたま
まで月日を送った。ある時またしても欲望が起って目的を果したいと思い、この
前のように京へと出掛けたところが、どうしたことか、路で先の尖った杙(くい)を踏
みつけ足に深く棘が刺さって、おびただしく血が流れ出た。痛きこと甚だしくて
一歩も歩くことができない。近くの人がこの様子を見て気の毒がって馬に乗せ
て小原の庵まで送ってくれた。その後この怪我もとにかく直ったが、また性懲り
もなく京都の町へと出掛けて行き、今回は間違いなく到着し、色里を探しながら
たどり行く途中で、心の中では本心を隠し隠し行くが、やはり様子がそれと知ら
れる姿であったのであろう、多年知りあっていた世俗の人がそこを通り合わせた
のと目が合った。意外なことに驚き、恥ずかしいことこの上もなく、露が消えるよ
うに自分も消えることができたならばと思うが、どうにも仕方がなく立ちすくんで
いると、その男がいうには、「どうしてこんな所に立っておられるのか」と、不思議
がっている様子である。いよいよ情けなく、正気の沙汰とも思われぬ有様でこの
ような所に来て、恥ずかしい目に遭うのだろうと情けなく思われて、何とかかんと
か言い紛らして逃げ帰った。こういう訳で終に(ついに)目的を果たせなかった。そ
れ以後はプッツリといやになって止めてしまった。このようにしている間に秋も深
まり、食欲のなくなる病となり、どんな食物も欲しくなくなって日数が経つにつれ、
身体も気力も弱まり、仏道の修行もできず、ただ悩むばかりで日を送るうちに「こ
んな有様では一人静かに日々を送っても無意味である。身体が元気になって
こその修行だ」と思い、供の小法師を京都へ使いに出し、その留守の間に、こ
の小原の山奥の樵人(きこり) が鳥を捕って京都へ売りに行く時、彼の小屋の前
の近い道を通るのを、人目につかないようにそっと買い求めて、この鳥の肉を
料理して食事時にたべようと思って、台所に置いて小便をしに台所を離れた後
に、捨て猫がやって来てみな食い荒らしてしまった。これを見つけて憎たらしい
のでもなく、惜しいというのでもないが、つい、近くにあった木の節をつかんで抛
(なげ)つけたところが、あやまたず猫の頭に当って両眼を叩きつぶした。猫は泣
き苦しんで多量の血を垂らして縁の下に逃げこんだ。これ程までの重傷を負わ
せるとは思わず、ただ猫を脅すためだけだったのに、意外の結果に哀れと思い、
浅ましく思うだけであった。山に閉じ籠って、悟りを開きたいと思い立ったのに、
してはならぬ行いをしたことを残念に思い、悲しみの涙に袖をぬらした。「このよ
うな挙動はただ一人、勝手気ままに生活していたためである。朝は日が高く昇
るまで起床せず、夜は火を燃すこともしないので、暗さのために夕方から眠り通
して時間を過ごし、姿勢を真っ直ぐにしていることは少なく、いつの間にか物に
もたれ足も伸ばし、寒い夜は小便などでさえ面倒で寝室の近くで用をたして、
手など洗うのもそこそこにし、万事が勝手気ままで年月を送ってしまった。あき
れ果てたことである」と自分の心を戒めながら、「もし他人の中におれば自然とこ
んなことにはならなかったろうに」と残念に思い、「一人伸々(のびのび)した生活を
送ることは無駄であった」と気づいて、神護寺に戻ってみると、公尊がこの高雄
山から逃げ出して小原の奥に移った時は、まだ稚児姿で華厳の教相判釈であ
る『五教葦』などでも、読み方や意味を公尊に質問していた者が、今は少年の
僧になっていて、「如何です」などと挨拶に来て、「あなたの小原の奥でのご様
子も拝見に参上したかったものの、学文に少しの暇でも惜しんで努力していた
ものですから、失礼致しました。山中での心静かなご修行が羨ましうございま
す」と言って、仏法の文章や仏法の道理について質問をしてきた。あれこれ説
明しようとするが、言葉に詰まってどうしようもない。その時にこの少年僧が言う
には、「山の中で足掛け3年にわたって、仏法の奥深い道理を悟られたであろう
と心惹かれて(ひかれて)おりましたのに、こんな簡単な質問にも、どうしてよくは分
らないと、子供扱いのご返事をされるのですか」という。「そういわれると、その通
りだ」と恥ずかしくなって、「私も彼と離れて3年にはなるが、彼は3年間、高徳の
方についてその教授を耳でしっかり聞き止めたのに対し、私は一人で3年間静
かに仏道を修行するものと思っていたのは、とんでもない間違いであった。この
両者を比較すれば、私もこの3年間、この神護寺に留まって仏道の修行を努力
していれば、どれ程よく、修業し得たろうに」と、今改めて残念に思われたとのこ
とである。その少年僧は、はじめ明恵上人が神護寺にお住みになったころ、誰
一人上人に及ぶ者はなかったが、その神護寺の上人の許に通いつめて、華厳
の学問をし、仏教についての談話を聞いた人であった。この公尊の懺悔話をし
たことも思い出して、この喜海も静寂な所を求めて一人静かに修行しようとの考
えも思い止まったのである。この山中で心も行いも清らかな一同が仲良く団結し
て、お互いに仏の教えを勧め合い、正しい悟りへの一助とするのを第一とした。
ところが、近頃では人数も多くなって、ある者は疑わしいものを逆に真実だと主
張し、ある人は慈悲心を忘れて、他人の欠点を言いふらすようなことが時たまあ
った。明恵上人にお会いして、「彼の房にはこのような善からぬ風評があります
ので、この山中での仲間から追放したがよろしいでしょう」と申し上げる者がある
と、上人はお答えになって、「心清らな皆の衆と一緒にいて不善をなす者がお
れば、諸々(もろもろ)の天人が見ておられるのだから、自ずと現われ、自分から身
を退くものである。しかるに汝が私に彼の不善を述べて彼を非難することは、無
慈悲の至りである。釈尊は現場を自分で見聞きしても、僧侶の過失を他人に弘
めてはならないと禁止された。これは大変に意味深い巧みな手段である。浅は
かな智慧ではその真意が理解できない。仏の弟子となった者の過失をあれこれ
指摘することは、百億の仏たちの身体から血を出させる以上の罪だと説明され
ている。また、今一つには仲良く修行している僧侶の中を裂くということは、五逆
罪の一つでもあり、四重禁以上の罪でもある。汝は既に以上の2つの罪を犯し
た。五逆罪を犯した者としばらくの間でも一緒に生活することは堪えられない」と
言われて、まず第一にこの訴え出た僧を山から追放された。その後にこの善か
らぬ噂のあった僧に事の次第を充分に問いただし、この僧の罪もまた逃がれぬ
ところとして同様追放にされた。もしもそれという程の証拠がない者に対しては、
一般の人でも証拠不充分は罪にしないのが仁の道としているのだからとして無
実にされた。以上のようであったから、仏のご加護も大きかったのでありましょう。
本当に善からぬ者は、自然と山から退いたので、山中の心清い一同は、もはや
穢されるることはなかったということである。
内容的に難しいところはありませんので、原文を読み、現代語訳を読んで下されば、
公尊の人柄、明恵の人柄、共によく分ると思います。
公尊は出家して後に山を下り、その後また高雄に帰り住んで、自分のしたことを後
悔していうのに、この高雄の神護寺の皆々との接触もうるさく、修行だ、学問だといっ
て努力し励んでいるものの、どれもこれも世間に聞える名誉や利益をむさぼって自
分を養うためだ。こんな連中と一緒にいてはだめだ。むしろ高雄の山を出て、もっと
静かな山中に引きこもって、心静かに死後に仏になれるよう祈ろう、というので、小原
の里の奥に洞穴があるのを見つけて、小屋を建てて独りの生活を始めました。
ここで極楽浄土に生まれたような気分で半年ほどたった時、思いがけず淫りがまし
い気分になり女が欲しくなりました。無理に抑えようとすると、いよいよ烈しくなるので、
どうせそうなら欲望のままに思いを遂げて迷い心を一掃してやろうと、明恵と同じよう
なことを考えます。
遊女のいる所を訪ねて見ようと出かけたのですが、ちょうど夏のことで、大変に暑く
日射病に罹り、道端の小屋で一夜を明してから小原の小屋に帰りました。ある時また
欲望が起こって京へ出かけたところ道の先の尖った杭を踏みつけ、足に棘が刺さっ
て出血し、一歩も歩けなくなりました。近くの人が気の毒がって馬に乗せて小原の庵
まで送ってくれました。またその次、今度は首尾よく京都に着き、色里を探しながら
行く途中、知人に出会ってしまいます。その人は「どうしてこのようなところに立ってい
られるのか」といって怪しんでいるので、なんやかやと言いつくろって、ほうほうのて
いで逃げ帰ります。ありそうなことですねえ。
そうこうしているうちに、女犯のほうもいやになってふっつりと止めてしまいます。
そのうちに拒食症にかかって体力も気力も弱まり、仏道の修行もできず、これでは
だめだ、体が元気になってこその修行だというので、そばに置いていた小僧を京都
に使いに出し、その留守の間に烏を買い、料理しようと台所に置き、小便に立ったす
きに捨て猫に食い荒らされてしまいます。カッとなって、手もとの木を投げたところ、
頭に当り両眼を叩き潰してしまった。猫は鳴き苦しんで縁の下へ逃げる。意外な結
果に驚き呆れ、山に籠って煩悩を断とうと思ったのに、してはならぬことの連続で残
念に思い、悲しみの涙に袖をぬらします。このようなことは、ただ一人勝手気ままに
暮らしているためである。朝は日が高く昇っても起きず、夜は夕方から眠り通し、寒
い夜は小便も面倒で寝ている近くで用を足す、手も洗わぬようになった、呆れたこと
である、もし他人の中におればこんなことにはならなかったと思い、一人伸び伸びと
生活をするのは無駄なことであったと思い、神護寺に戻ってくるのです。
戻って見ると、昔稚児だった者が一人前の少年僧になって挨拶に来る、この少年
に仏法のことを質問されても言葉に詰まってどうしようもない、少年からは「山の中で
足かけ3年にもなり、仏法の深い道理を得られたであろうと心ひかれておりましたの
に、こんな簡単な質問にも答えられないのはどうしたわけですか」と笑われてしまうの
です。
この少年僧は明恵上人のもとに通いつめて華厳の学問をし、仏教についての談
義を聞いた人であったのです。公尊は「私もこの3年間神護寺に留まって仏道修行
の努力をしていたら、どれほどよく修行し得たろうに」と後悔しています。独りよがりの
修行、独りよがりの単独行動は往々こういう結果になります。女犯よりも恐ろしいのは
慢性的な怠け癖ですね。この懺悔を聞いて喜海という弟子は、静かな所で一人で修
行したいという考えを中止しています。この判断は正しかったと思います。(紀野一
義)
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