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尋常ならざる男、トム・クルーズ
映画俳優、特に個性や容姿を活躍の拠り所にする俳優の有効性
も変わらず第一線において有効であり続けている俳優が何人いる
だろうか。ほぼ全滅と言っても過言では無い中で、唯一、トム・
クルーズだけはハリウッドの最前線において有効であり続けてい
ると言える。彼のような長いキャリアを擁する俳優が、未だに最
盛期を過去の物にしていないというのは驚くべき事であり、「ブ
ラット・パック」という括りを外しても特異な存在であると言え
る。彼が何故、有効であり続けられるのか、そして最前線におい
て有効であり続けることに彼はどんな意味を見出しているのか。
は 複 数 の 要 素 に よ っ て 決 め ら れ る。 言 い 換 え れ ば 複 数 の 立 場 の『ミッション・インポッシブル』とは
何だったのか?
人々だ。流行を作り出さんとするのは映画会社の為すところだろ
ターと呼ばれる映画俳優は、常に大衆のイメージに沿うことを強
ブに捉える人間はなかなか居ない。そういった意味では一部のス
るのを巨大なスクリーンで幾度と無く見せられ、それをポジティ
飽きやすく、そして移り気である。同じ顔が同じ様な役柄を演じ
のみならずあらゆる局面で発生してきたものだ。大衆というのは
この現象というのは、それこそ映画が出来る前、しかも芸術に
こうして俳優は有効性を完全に失い、過去の遺物となっていく。
て姿を見せる機会も減るので、観客からも遠からず忘れ去られる。
や彼女の出演に積極的で無くなる。出演作が減れば、観客に対し
とって魅力的では無い、数字に繋がらない人材だと判断して、彼
かの具体的な数字に現れ始めると、映画会社はその俳優が観客に
ころから失われ始める。観客のネガティブな反応が興行成績だと
つまり映画俳優の有効性とは、観客がその俳優に飽きるというと
めて、アクションのジャンルに分類される映画に挑んだとも言え
度も出演していない。逆に捉えれば、彼は初製作映画において始
ジであると言えるアクションを主体とした映画に、クルーズは一
ション・インポッシブル』以前には、
現在では彼の一般的なイメー
れている。九十六年に自身の初製作作品として公開された『ミッ
ていくと面白い事に、そのイメージの転換で実に明白に打ち出さ
イメージの主に二つが存在する。彼のフィルモグラフィーを追っ
イメージと、その後に纏うことになるアクションスターとしての
ては、デビューから青年期の間に纏ってきたアメリカ的好青年の
変遷であるとも言える。一般観客が彼に対して抱くイメージとし
生源は紛れも無くクルーズ自身であるが、纏ってきたイメージの
彼の有効性を考える上で外せないポイントだろう。このズレの発
の年齢層によって抱くイメージに若干のズレがあるという点は、
トム・クルーズがどういった俳優かという問いに対して、観客
うが、
流行に対して「ノー」を突き付けるのは観客の為すところだ。
いられ、そして飽きたら捨てられるという非常に悲しい存在であ
る。
この『ミッション・インポッシブル』は、監督にアクションが
る。八十年代の青春映画を中心として現れた「ブラット・パック」
と呼ばれる一群の若手スター俳優陣の中で、二十一世紀に入って
2
ていた俳優である。こうしてこの映画を形作る要素を見ていくと、
の四人以外のキャストは、全員がヨーロッパを中心として活躍し
ンであるエミリオ・エステベス、そして主演であるクルーズ自身
レイムス、「ブラット・パック」時代の盟友で友情出演的なポジショ
ン・ヴォイト、そして後に相棒としてレギュラーとなるヴィング・
專門とは言い難いブライアン・デ・パルマを迎え、敵役となるジョ
良く分かる。
何にこの映画が業界に空いた一つの空席に首尾良く収まったかが
代が中盤に差し掛かる頃のハリウッド大作の状況を考えると、如
功はきっとクルーズ自身が狙って手に入れたものだろう。九十年
あるというイメージを観客と他の製作者達に植えつけた。この成
は殆どゼロに等しくなり、そしてクルーズ自身が肉体派の俳優で
ズ映画の製作によりクルーズの姿がスクリーンから消えるリスク
れているが、厳密にはアクション映画ではなく、アクションの要
例の宙吊りシーンのイメージが先行しがちになってしまい見失わ
無かった監督のレニー・ハーリンが自らの妻を主演にした『カッ
を圧倒しようとする映画が数多く作られたが、爆薬の量しか頭に
スター・スタローンなどを代表として、銃撃と爆発の熱量で観客
な作品が主流だった。アーノルド・シュワルツネッガー、シルベ
チョイズムの極地、つまり筋肉量が映画内での勝敗を決めるよう
八十年代中盤から九十年代前半までのアクション映画は、マッ
決してハリウッドの大作アクション映画とは思い難い要素を多分
に含んでいるが、これがまさにクルーズの狙いだったのであろう。
素を含むサスペンス映画である。クルーズはアクションではなく、
まず初めに『ミッション・インポッシブル』という映画自体は、
興奮させる要素を多分に含んだ娯楽としてのサスペンス映画を作
3
トスロート・アイランド』で記録的な赤字を出し、筋肉アクショ
乱暴なれど、ハッキングはカッコイイので良しとす
るクルーズ (『ミッション・インポッシブル』より )
りたかったのである。そうした意味ではヒッチコックの信奉者で
あり、サスペンス映画の分野では一定の評価と卓越した映像演出
を誇ったデ・パルマを監督に据えたのは、これ以上ない人選だっ
たと言える。そしてクルーズはデ・パルマに、ややもすれば物語
の進行を妨げかねない、そして多くの一般観客が気の留める事の
無い、凝った映像演出を許し、結果として八〇年代〜九〇年代前
半のハリウッド大作アクション映画には無かったルックを映画に
持たせる事に成功した。またキャスト、ロケーションの面からも
ヨーロッパ系の俳優を多く揃え、CIA本部以外のロケーション
は全てヨーロッパ各国で行うことによって、やはり九〇年代の前
半に主流だったアクション映画と印象の面で大きな違いを付ける
この『ミッション・インポッシブル』に持たされた各々の狙い
事に成功している。
は、クルーズに一体どういった結果をもたらしただろうか。興行
的な成功は言うに及ばず、二〇年近くに渡って続く一連のシリー
「ファイトぉ ! 一ッ発 !!」自らの上腕二頭筋を
誇示するシルベスター・スタローン
(『クリフ・ハンガー』より )
代のアクション映画の到来の確信を促し、そしてその通りに観客
は真似できない特異な映像演出によって、クルーズは観客に新時
リンや『ダイ・ハード』の監督であるジョン・マクティアナンに
持つヨーロッパライクな外見と、デ・パルマによるレニー・ハー
筋肉だけで押し進む時代には終わりがもたらされた。この映画が
シブル』が公開されると、アクション映画の潮流は一気に変わり、
のインテリジェンスを遺憾なく発揮した『ミッション・インポッ
ある。
そして九十六年、クルーズが自らのしなやかな肉体性と程々
ロダクションの設立、そして第一回作品の企画立案、製作進行で
グナーとクルーズによる制作会社である、クルーズ・ワグナープ
こっていたのが、元エージェントでパートナーであるポーラ・ワ
ウ ッ ド か ら 姿 を 消 し て し ま っ た。 そ れ と 並 行 し て ハ リ ウ ッ で 起
れまでの隆盛が嘘だったかのように、この手の映画は一気にハリ
ン映画界の台風の目だったカロルコピクチャーが倒産すると、そ
する言動に顕著だが、を見れば納得出来ない事ではない。彼の
ホームズとのロマンスや自身が信仰するサイエントロジーに関
とも言えるが、プライベートでのクルーズの言動、ケイティ・
した男の行動としては、些か短絡的な思考が発端になっている
技なのではないだろうか。莫大な資産と映画界での権力を手に
してもらいたいという、ある種独善的とも言える善意が為せる
手段を超えて、観客に自分が素晴らしい感じる映画体験を共有
ないだろうか。それは彼にとって自らの立場を安定させる為の
るが、を現代のアメリカ映画界に甦らせようとしているのでは
それは彼の俳優としての根本形成に関わる作品群だと考えられ
とは想像に難くない。
つまり彼は自らが少年だった頃の思い出、
ば、この時代のアクション・サスペンス娯楽作を観て育ったこ
いるようでもある。一九六二年生まれである彼の出所を考えれ
が上記のような要素を抱えていることは、その意図を裏付けて
らの意志を反映させて作った『ミッション・インポッシブル』
中では自らが有効であり続ける為の試みと、彼自身の願望、つ
は新たなアクション映画の登場と捉えた。
何がクルーズを映画製作に
駆り立てるのか?
実際には『ミッション・インポッシブル』はテレビドラマシリー
ズの『スパイ大作戦』を基とした一種のリメイク作品であり、そ
ういった意味では観客にとって未知の要素を持つ作品では無かっ
た訳だが、筋肉に飽々していた観客にとっては、映画館に足を運
ぶのに十分な形式を持った作品に仕立て上げられていた。これは
後述する二〇一三年公開の『アウトロー』にも言える事だが、ク
ルーズにとっての六〇〜七〇年代のアクション・サスペンス映画
を現代的意匠によって甦らせる行為には、クルーズ自らのスター
性の確立と安定を超えた意図があるように思える。彼が初めて自
ターでもその人自信を演じる
を可能にしており、どんなス
側面と彼自身の人間性の解離
程度で、スター俳優としての
役柄を演じるというガス抜き
サンダー』などでの破壊的な
グノリア』や『トロピック・
の だ ろ う。 だ か ら 彼 は、
『マ
にとっても分かち難いものな
なっていて、それはもはや彼
る と 言 う 事 が、 渾 然 一 体 と
まりは自分が観たいものを作
「ケイティは最高の女だ !」と興奮するクルーズ。
しかしながら 6 年弱で離婚する事となる。
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必要があるのに対し、彼は私生活でもスクリーン上でもトム・ク
またクルーズが『ミッション・インポッシブル』以降、主に活
ルーズとして存在していられるのである。
動の軸をアクションに置いている原因の一つに、青春映画スター
としてデビューし一五年近くの間「アメリカニズム」の体現者と
して扱われていた事への一種の反発があると見られる。最も顕著
な映画は『七月四日に生まれて』だと言えるが、クルーズ自身が
七月三日生まれであることから、彼へのこういったイメージを纏
う要請は運命づけられているかのようでもある。『七月四日に生
挑み、なおかつそれをヨーロッパライ
クなルックでパッケージングしたの
は、 実 に 理 に 適 っ た 事 で あ る。 そ し
てご存知の通り、クルーズは今やアク
ションスターとしてのパブリックイ
メージを獲得し、
それを進化させ続け、
自らの有効性を持続させ続けている。
ハゲた後、反戦活動に身を投じるクルーズ。
(『7月4日に生まれて』より)
たに過ぎない。このイメージから脱
欲望のままに動かされる道化であっ
たはずだ。この時点では彼は大衆の
ルーズにとってはジレンマにもなっ
しては名誉な事かもしれないが、ク
された証拠であろう。俳優の経歴と
込まれ、クルーズ自身もカメラに美麗に収まる事に執着している
を迎えて、ウー独自の美学に基づくアクションがふんだんに盛り
ても分かることで、二作目には香港ノワールの巨匠、ジョン・ウー
た雰囲気の作品に仕上がっている。それは各作品の担当監督を見
では、クルーズの判断により作品毎に監督が交代し、
各々全く違っ
と五作目の製作準備が進められている。面白い事にこのシリーズ
ン映画シリーズとして、
既に四作品が制作されており、現在も着々
ご存知の通り、『ミッション・インポッシブル』は超大作アクショ
自己改革を続けるクルーズ映画の
行き着く先とは?
まれて』では、愛国心から海兵隊としてベトナム戦争に従軍し、
参 加 し、 民 主 党 サ イ ド か ら 政 治 的
な影響力を持つまでになる、という
アメリカ合衆国独特の矛盾から苦悩
する青年を、あくまでも観客の「ア
メリカニズム」を裏切らない形でク
ルーズは演じた。これによって彼は
アカデミー主演男優賞にノミネート
されるが、これはクルーズが「アメ
却する為に彼が『ミッション・イン
リカニズム」の体現者であると認知
哀れクルーズ、ベトナムで撃たれて半身不随に。
(『7月4日に生まれて』より)
ポッシブル』においてアクションに
5
最終的には自助努力という「アメリカニズム」よって反戦活動に
「共産主義を潰す為だったら、喜んでベトナムに行くね !」と
若気の至りで息巻くクルーズ。(『7月4日に生まれて』より)
ようであった。三作目ではテレビドラマの世界で実力を伸ばして
れした大規模なものが繰り広げられる事となった。
下で、アクションシーンはCGをふんだんに使った、一種現実離
イルは、無個性的で限りなく異物感が取り除かれた一つの個性で
ブン・スピルバーグの影響を強く受けた彼のウェルメイドなスタ
あった。しかし以後のエイブラムスの作品を見るだに、スティー
を取らず、クセの無い娯楽作に仕上げる事に専念したかのようで
は、過去作で顕著であった監督自身のスタイルを反映させる手法
風へと変貌した。この映画で初の映画演出を担ったエイブラムス
クルーズの肉体性や演技が描き出されるという、クルーズにとっ
に飽きさせない為と言えるが、やはり各監督のスタイルによって
作監督を交代するのも、二度同じ傾向の映画を作らない為、観客
様々な面を観客にアピールする事が出来るという利点がある。毎
要不可欠な要素であるが、それ以上にクルーズにとっては自らの
く姿が描かれる。この事は物語とアクションを盛り上げる為に必
きず、常にスタンドプレイによって事態を収拾することを余儀な
衆国の工作員を演じているが、作戦内容から政府の支援は期待で
シリーズ全作を通じて、クルーズはイーサン・ハントという合
いたJ・J・エイブラムスを監督に据え、原案とも言える『スパ
あった事が分かる。その後にクルーズと共同という形で、エイブ
ての利も大きいように思える。しかしながら、この種の利点は彼
イ大作戦』の特徴であった、チームプレイの要素が垣間見える作
ラムスがシリーズの製作に就き、三作目のスタイルは四作目にも
ぐ映画のコントールを完全に手中に収め、映画そのものになろう
同一化を試みているようでさえある。つまり彼は自らが偏愛を注
代のアクション・サスペンス映画に偏執的な愛情を示し、完全な
完全に自ら演じるのめり込みを見せる。まるで映画、特に七〇年
画化し、その主人公を演じるばかりでなく、アクションまでもを
前述の通り、自らが観て育った『スパイ大作戦』を自らの手で映
シ ズ ム よ り も む し ろ 映 画 に 対 す る 偏 愛 を 現 し て い る よ う で あ る。
特にアクションの面で役柄にのめり込むスタイルは、彼のナルシ
りもしている。こういったクルーズの必要とされる以上に演技、
り、バラエティ番組などでも運転を披露し、好タイム叩き出した
に車両の運転技術に関してはハリウッド随一の腕前を持ってお
ンやバイク、レーシングカーなどの運転技能も取得している。特
る為に、肉体の基本的動作はもちろんの事、高度なガンアクショ
る、という点にある。クルーズはアクションスタントを自ら務め
のナルシシズムという一点に集約することは不可能である。その
継承される事となった。四作目ではチームプレイの要素が作品の
理由はクルーズ自らが危険を顧みずにスタントまでを行ってい
今 回 の ハ ン ト は、
メンバーと喧嘩し
た り 仲 直 り し た り、
絆を確かめ合った
りします。
↓(
『M:I4』より)
→ハント、結婚す。
おかげでややこし
い 事 態 に な る の で、
絶対に独身で通し
た方が良かった。
(
『M:I3』より)
髪を伸ばしたのが
不評だったハント。
サル顔女に惚れて、
厄介事になります。
↓(
『M:I2』より)
主 眼 と な り、『 M r イ. ン ク レ デ ィ ブ ル 』 な ど の ア ニ メ ー シ ョ ン
作品で大きな実績を残していたブラッド・バードの初実写演出の
→好青年な顔立ちの
イーサン・ハント。
敵の策略が理解出来
ないまま、映画が終
わっていきます。
(
『M:I』より)
6
ローテンポでシンプルな映画へと仕上げられた。この映画におい
の対極をいく、あくまでアナログなアクションにこだわった、ス
大 作 主 義 的 な 方 向 へ 舵 を 切 っ た『 ミ ッ シ ョ ン・ イ ン ポ ッ シ ブ ル 』
督・脚本にクリストファー・マッカリーを据えて、CGを多用し
ズと双璧となる新たなシリーズ映画として製作された今作は、監
にてさらに先鋭化している。『ミッション・インポッシブル』シリー
クルーズの傾向は、二〇一二年公開の製作・主演作『アウトロー』
この七〇年代アクション・サスペンスへの回帰と同一化という
ズによるアクション帝国が築かれるのも、有り得ない事では無い
アクション映画を復古させるつもりなのだろう。近い将来、クルー
方向へと向かわざるを得なかった反省を踏まえ、本当にアナログ
において彼が行った事であり、結局は同シリーズが大作主義的な
ろうか。それはまさに九六年に『ミッション・インポッシブル』
によって、アクション映画の現状を塗り替える気なのでは無いだ
態となる可能性が考えられる。つまりクルーズは自らの回帰志向
これは既にクルーズと映画の同一化といった次元すら超越した事
監督となれば、クルーズが製作する映画は回帰志向一色となる。
の続編と『ミッション・インポッシブル』五作目がマッカリーの
に、クルーズの次の企みへの手がかりにもなり得る。『アウトロー』
て、クルーズは原作こそあるものの、完全にオリジナルブランド
かもしれない。
としているのである。
として七〇年代アクションのスタイルを再現する権利を手にし
サービス精神の現れである全力疾走(トム走り)。サヨナラおじさんこと
淀川長治氏調に言うと、「筋骨隆々の美青年が走る、走る、走る」。
しかし、顔が怖い。(『M:I4』より)
た。マッカリーは『ユージュアル・サスペクツ』の脚本担当とし
て名高いが、監督作としては『誘拐犯』というアナログなガンア
クションが目立つスローテンポな映画を一本だけ手掛けており、
エイブラムス、バードと同じくクルーズのセンスによって抜擢さ
れたと言える。このマッカリーはクルーズにとって欠かせない人
材であったようで、クルーズが出演し、マッカリーが脚本を担当
した『ワルキューレ』以降、クルーズが主演する映画の多くでマッ
カリーが脚本チームに加わるようになり、『アウトロー』の監督・
脚本への抜擢と続く。そして驚くべき事にマッカリーは『ミッショ
ン・インポッシブル』シリーズ五作目の監督・脚本を務める事も
決定しており、クルーズの活動の主軸になると思われる二本柱は、
両方共マッカリーの手によるものとなる。
製作者や出演者のスタンスからというよりは、もはや映画狂的
なセンスに立脚するスタンスから監督の選定を行っていたように
思えるクルーズが、ここにきてマッカリーに自らの全てを託すよ
うな決断をしたことは見逃せない。その事実はクルーズの七〇年
代アクション的な映画への回帰志向を裏付けるものであると同時
7
(
『M:I』監督)
のか、という点に関しては同じくデ・パルマが監督を担当した『ア
ンタッチャブル』を観ると、
何となしに想像がつくところである。
というのも、
『アンタッチャブル』では全くと言っていい程、デ・
パルマが好んで多用する技法が使われておらず、
『戦艦ポチョム
キン』でのオデッサの階段や『めまい』の螺旋階段のシーンへの
オマージュが目立つ程度である。
『アンタッチャブル』はサスペ
ンスとアクションに溢れた娯楽作であったが、この映画でのデ・
パルマは極々基本に忠実な、他の監督作と比べると些か禁欲的と
も言える演出を施している。言ってしまえば、この手の演出であ
ればデ・パルマよりも手堅い監督は大勢いる訳で、
映画自体はヒッ
トしたが、
演出面から観ると無個性的な作品と言わざるを得ない。
製作サイドからの指示があったか、もしくはデ・パルマ自身が大
いに自制を効かせたのか、実際の所は不明であるが、
「失敗は出
来ない、好成績を挙げなければならない」という圧力があったの
は間違いない事である。そういっ
た意味では、失敗の許されない大
作映画が監督の資質に与える弊害
の最も顕著な犠牲者がデ・パルマ
であったと言えよう。言い換えれ
ば、デ・パルマ映画の魅力は極め
て個人的かつ内省的な部分にある
のである。
初期の傑作『ファントム・オブ・
パラダイス』や、ジョン・トラボ
ルタを主演に迎えた『ミッドナイ
トクロス』では、まるで映画演出
の見本市のように様々な趣向をこ
らした画面が頻出するが、物語と
しては両作とも哀愁に溢れた結末
を迎えている。両作ともデ・パル
8
ブライアン・デ・パルマ
ニューハリウッド世代、スティーブン・スピルバーグやジョー
ジ・ルーカス、マーティン・スコセッシにフラシス・フォード・
コッポラなどの、今や映画界の大巨匠となっている監督たちと同
等のスタートを切りながら、巨匠と呼ばれるに相応しい地位に就
き損ねた印象があるのが、ブライアン・デ・パルマだ。彼のキャ
リアの順調な発展を妨げているのは、メジャー資本による雇われ
仕事の影響が大きいように思われる。
最も顕著なものは『虚栄のかがり火』だと思われるが、企画成
立時点から非常に難航し、最終的にデ・パルマが監督を担当する
事となった。二転三転したキャストは、トム・ハンクスやブルー
ス・ウィリスなどのスター俳優で落ち着いたにも関わらず、脚本
自体の持つ印象と全く噛み合わず、興行成績は制作費の三割程度
しか回収出来ない結果に終わった。この映画により、デ・パルマ
はメジャー大作映画から事実上干される事となった。九六年に監
督を担当した『ミッション・インポッシブル』が彼のキャリアの
中でも数少ない大作映画であるが、この映画に関しては製作のト
ム・クルーズが彼の特徴的なテクニック重視の映像演出を見込ん
でのオファーだった為、デ・パルマならではの演出と映画の狙い
とする点が見事に噛み合った作品となっていた(流石にスプリッ
トスクリーンは観られなかったが)。
クルーズが何故、デ・パルマの演出を気に入っていたと言える
『アンタッチャブル』の階段落ちシーンは、オマージュ
にも関わらずその後様々な映画でパロディにされた。
ここ最近のトム・クルーズ関連映画で、クルーズ&ワグナープ
ロダクションの共同経営者であるポーラ・ワグナーに次いで、重
要な役割を果たしていると思しき人物が、クリストファー・マッ
カリーである。前述の通り、
『ユージュアル・サスペクツ』の脚
本担当としてアカデミー賞の受賞など、名高い栄誉を得ている彼
であるが、クルーズ製作映画において発揮される彼の資質は、緻
彼の経歴はデビューの華々しさとは対照的に、実際は業界のメ
密で意外性に富んだ脚本とは少々違った点にある。
インストリームでの活動は意外な程に少ない。その理由として考
えられるのが、彼の志向する理想の映画像があまりにもハリウッ
ドで求められる類の映画とかけ離れているという事だ。例えば最
も顕著な例で言えば、
二〇〇〇年に監督・脚本を担当した
『誘拐犯』
が挙げられるだろう。この映画ではアメリカ南部の荒野を舞台と
して、誘拐に手を染めるチンピラ
二人組と誘拐される妊婦、そして
妊婦に代理出産を依頼していたマ
フィアのボスが、変形的な三つ巴
を繰り広げられる。
しかしながら、
登場する各々の人物の説明が明確
に欠落しており、語られる言葉と
表情などから人物の内面と、ひい
てはその過去までを想像すること
を 観 客 に 要 求 し て く る の で あ る。
その上、思考が追いつきそうにな
る寸前のタイミングで、コンバッ
トシューティングの技法を大きく
徹底して理に適った銃撃戦が展開されるが、
どのように習得したかは全く説明されない。
(
『誘拐犯』より)
9
クリストファー・マッカリー (『アウトロー』監督)
大好きなヒッチコックの『サイコ』にも、
堂々とオマージュを捧げちゃいます。
(
『ファントム・オブ・パラダイス』より)
マ自身が脚本を手がけている事から、演出のみでは窺えない彼の
内的世界が現れていると言えるが、筋書きは両作とも恋愛に発展
しつつある感情が挫折する物語である。『ファントム・オブ・パ
ラダイス』では自らの曲を他人に盗られる悔しさよりも、恋した
歌手志望の女性を他人に盗られる(尚且つ、その情事を窃視させ
られる)悔しさの方が物語として重要な転換点となっている。ま
た『ミッドナイトクロス』でも陰謀に巻き込まれた録音技師は、
ナンシー・アレン演じるヒロインを奪われたことにより陰謀の告
発を挫折してしまう。この映画では冒頭の劇中映画のシーンで、
窃視による女性の裸体が頻出するのにも関わらず、美人局に加担
するヒロイン(しかも、ベッドに裸体が隠された写真が登場する)
と主人公がフレンチ・キスの段階までしか関係を築けない点にも
注目したい。つまり、人の情事を窃視する事が出来ても、その情
事自体には絶対に手が届かない、まるで女性と適切な関係が築け
ない悶々とした感情から、延々と逃れることが出来ない物語がデ・
パルマ映画の本質的な魅力となっているのである。
「悔しいけど、覗いちゃいます」な窃視プレイ。
(
『ファントム・オブ・パラダイス』より)
が故に、観客はその源泉を探りたい欲求に駆られるのである。だ
決して無い、経験と知性に裏付けされたものであると感じさせる
という事実がある。登場人物から語られる言葉は出任せなどでは
がある。しかしながら、この困惑自体が映画を魅力的にしている
密度で展開されるのだから、いささか困惑を余儀なくされる部分
取り入れたリアリズム至上の銃撃戦が、映画のリズムを崩す程の
任せている。
映画のブレーンとも言える役割を
態度を表明し、現在ではクルーズ
のスタイルに対してポジティブな
ム・クルーズは、このマッカリー
最も意外な人物であると言えるト
況となった。しかし、ある意味で
では想像することさえ不可能だっ
は、彼の経歴から考えると五年前
現在のマッカリーのポジション
が『誘拐犯』という映画自体でその答えが語られることは決して
客自身に「誰なのか、何故なのか、どうしてなのか」を考えさせ
たと言える。何しろ監督二作目に
無く、観客の胸のつかえは取れないのである。それは否応なく観
る作劇法であり、謎の解消に快楽を持たせていた『ユージュアル・
一つ言えることは、これがマッカリーの本質的な作家性だと言
えた、まだ観客に媚びる事を製作サイドから求められる以前の、
マッカリーの描く、寡黙で無骨で、そして少々の小粋さを兼ね揃
ル』シリーズの監督に内定しているのだ。その理由は前述の通り、
してクルーズ製作・主演の『アウトロー』を担当し、ハリウッド
サスペクツ』の作劇法とは意図的にズレを生じさせているのであ
うことだ。つまり彼は、観客の理解を助けるような描写であって
昔懐かしい孤高のヒーロー像にクルーズが深く共鳴したからに他
る。何しろ『誘拐犯』では主人公となる二人組の本名さえ明かさ
も、物語の展開には不要であると判断すれば、何の躊躇いも無く
ならない。現に『アウトロー』では、クルーズ演じるジャック・
でも有数に潤沢な資金を準備出来る『ミッション・インポッシブ
カットするのである。これは現在のメジャー映画では決して許さ
リーチャーは自らの過去を決して語ろうとはせず、マッカリーは
れないのだ。
れない事であるが、映画がまだ、映画監督や脚本家の表現の場で
興味深いことに、この『アウトロー』という映画は、クルーズ
上映時間をフル活用して彼が事件を解決へと導いていく過程と、
が演じる新しいヒーローを観客に対して紹介する、名刺代わりの
あった頃の映画を想起させるスタイルである。実際にマッカリー
に基づくと、登場人物の「今まで」と「これから」は言葉で説明
一作というスタンスで作られている。しかしながらそのスタンス
彼が何者であるのかという説明を、やはり言葉では無く映像で積
されるままに観客が需要するのではなく、あくまでも表情や仕草、
は、観客に対してのプレゼンテーションの形を採っているのでは
の監督作の手触りも実に七〇年代的なアクション映画に近く、映
行動などから能動的に読み取っていくものとなる。昔であれば一
なく、あくまでもジャック・リーチャーという孤高の男を紹介す
み重ねていく。
般的なアクション映画のスタイルと言えたかもしれないが、お察
るという形を採っており、そこに観客のリアクションを取り込ん
画内で重視されていることは物語を言葉で無く、映像の積み重ね
しの通り現在のアメリカ映画界ではこのスタイルは十分な理解を
で描写していく事だ。そのスタイル(信念と呼べるかもしれない)
得 る こ と が 出 来 ず、 批 評 的 に も 興 行 的 に も ほ ぼ 黙 殺 に 等 し い 状
10
夜行バスで現れ、夜行バスで去っていき、
ヒロインとはキスさえしないヒーロー。
(『アウトロー』より)
で い く 余 地 は 殆 ど 無 く な っ て い る。 つ ま り 二 時 間 近 い 時 間 を か
け て リ ー チ ャ ー そ の も の を 描 写 す る こ と に よ っ て、 観 客 に リ ー
チャーの揺るぎ無いイメージを植え付けることに成功しているの
である。それを観客が気に入るか否かは、全て観客に委ねられて
いる。
しかし、クルーズは大多数の観客から否定的な意見が上がっ
たとしても、マッカリーの描いたリーチャーという人物を演じ続
けるだろう。その意気込みは『アウトロー』が一作目にして既に、
ある一定のパターン、言い換えればマンネリズムを獲得している
点から明白である。つまり、クルーズとマッカリーは共謀して、『ア
ウトロー』シリーズの量産体制を一作目にして作り上げてしまっ
たのだ。
アメリカ映画界におけるマッカリーという男の重要性について
は、まだまだ未知数な部分も多い。二〇〇〇年以降、監督業から
遠ざかっていた男が、今や業界一のビックバジェット映画を任さ
れているのである。しかしながら一つだけ言えることは、かつて
の相棒であったブライアン・シンガー(『ユージュアル・サスペ
クツ』
、『X―MEN』シリーズ監督担当)よりも、クリストファー・
『マグノリア』より
(以上、文:浅野祐希)
マッカリーは今後の動向が注目されるべき、重要な人材であると
いう事だ。
コラム
人間の様子
人生とは何かの役を演じることなのでは?そう考えたことのない人間は
きっとなかなかいないと思う。みんな何かしらの役を選びとって、それを馬
鹿みたいに夢中になって演じてるのだと、きっと思ったことがあるはずだ。
でも私たちは、あまりにも役に対して無知で、トーシローすぎて、たまにま
ごつく。役にふさわしくない振る舞いをしてしまう。校長先生が大麻を吸う、
な ん て 大 き な こ と じ ゃ な く て も、 た と え ば ガ ー リ ー な あ の 子 が 大 股 開 き で
シーソーに乗ってしまったり、料理が得意なパパが玉ねぎを切った手で目を
こすってしまったり(激痛!)、する。私たちはいつも気の利いたセリフを
一番大切な山場で言えないし、何の変哲もない歩行の途中でつまずくし、笑
うべき時に笑えず、泣かなければならない時に泣けない。人生において人間
はみんなヘタクソな、棒読みの、ただそこにいるだけで使いようのない、ヘ
ボな大根役者だ。
『 マ グ ノ リ ア 』 で ト ム・ ク ル ー ズ が 演 じ る の は、 新 興 宗 教 の 教 祖 ま が い の
胡散臭いまでに自信過剰な男だ。彼フランクは、女の服従ハウツー本「誘惑
してねじふせろ」を執筆し、チンコの腐ったセカンド童貞たちから熱狂的な
支持を得る。フランクは女性を洗脳に近い状態で思うままに出来ると、大勢
のさえない男たちに向かって説く。もちろんそんなことできっこないのだが、
男たちはフランクを狂信し、エゴに満ちた言葉のひとつひとつに酔いしれる。
フランクという男は、フランクという男自身が選びとったマッチョイズムの
教祖様という役を、見事に演じているかのように見える。
だが、実体を調査すべく現れた女性記者(エイプリル・グレイス)が、フ
ランクの 偉
“ 大な業績 を
” 褒 め た た え る よ う に 見 せ か け な が ら、 徐 々 に 痛 烈
なまでに彼の愚かさに近づかんとするうち、演技はフランクの思い通りには
いかなくなっていく。カメラをみすえていたはずの視線はあたかもその奥の
人間の様子をおずおずと伺うかのように泳ぐし、やけに大きく腕をまわした
かと思えば静止する。ついにはセリフの途中でまごつき、まともに言えなく
なってしまう。それは果たしてトム・クルーズの演技が大根だからなのか。
そうではない。トム・クルーズは、演技の向こう側、すなわち生ける人間全
員がしているはずの演技がままならなくなった、まったきの無そのものを体
現できる存在なのだ。これが果たして他の名優だったらどうだろう。彼らは
おそらく、 鳥
” 肌のたつような演技 を
” す る だ ろ う。 だ が ト ム・ ク ル ー ズ は 、
そこにいるだけだ。彼はそこで、演技すらできなくなったまったきの無その
ものの人間として、ただスクリーンに映り続ける。そしてそれは、いつかの
人間全員の様子でもあるのだし、これから私たちが陥る人間の様子そのもの
なのだ。
(文:若松沙織)
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映画ばかり観てると
バカになる Vol.1
トム・クルーズは一体何を企んでいるのか?
編集&発行 ・・・ 浅野祐希
発行所 ・・・ 言語創作集団 MU-GA
執 筆 者、 編 集 ス タ ッ フ 募 集 中 !!
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