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成果報告書 - 京都大学

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成果報告書 - 京都大学
ポスト構造改革における市場と社会の新たな秩序形成
―自由と共同性の法システム―
課題番号 19GS0103
平成 19 年度~平成 23 年度科学研究費補助金
【学術創成研究費】研究成果報告書
平成 24 年 3 月
研究代表者
川濵 昇
(京都大学大学院法学研究科教授)
研究組織
研究代表者 川濵 昇 (京都大学大学院法学研究科・教授)
研究分担者 高木 光 (京都大学大学院法学研究科・教授)
木南 敦 (京都大学大学院法学研究科・教授)
新川 敏光 (京都大学大学院法学研究科・教授)
村中 孝史 (京都大学大学院法学研究科・教授)
前田 雅弘 (京都大学大学院法学研究科・教授)(平成 21 年度 ~23 年度)
山本 敬三 (京都大学大学院法学研究科・教授)
服部 高宏 (京都大学大学院法学研究科・教授)
佐久間 毅 (京都大学大学院法学研究科・教授)
土井 真一 (京都大学大学院公共政策連携研究部・教授)
髙山 佳奈子(京都大学大学院法学研究科・教授)
齊藤 真紀 (京都大学大学院法学研究科・准教授)
森本 滋 (前 京都大学大学院法学研究科・教授)(平成 19 年度 ~20 年度まで)
(現 同志社大学大学院司法研究科・教授)
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-2-
目次
はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
第1部 市場秩序形成の諸問題 市場と消費者・企業
1.市場をめぐる法と政策 川濵 昇 ・・・・・・・・11
2.契約規制の法理と民法の現代化 山本 敬三 ・・・・・・・・75
3.消費者契約法5条の展開― 契約締結過程における第三者の容態の帰責 佐久間 毅 ・・・・・・・135
4.企業統治 齊藤 真紀 ・・・・・・・145
5.インサイダー取引規制のあり方 前田 雅弘 ・・・・・・・163
第2部 社会的秩序形成の諸問題 社会的支援と労働
1.福祉レジーム転換と小泉構造改革 新川 敏光 ・・・・・・・175
2.ケア・制度・専門職― 福祉国家再編への視座 服部 高宏 ・・・・・・・201
3.労働法の役割と今日的課題― 労働紛争処理の観点から 村中 孝史 ・・・・・・・ 217
第3部 法実現の諸問題 1.法執行システム論と行政法の理論体系 高木 光 ・・・・・・・227
2.金融機関経営者の刑事責任― 特別背任罪を中心に 髙山佳奈子 ・・・・・・・247
第4部 自由と共同性の新たな法モデルをめぐって 自律からの出発
1.人格的自律権論に関する覚書 土井 真一 ・・・・・・・259
2.ロックナー判決における自律と自立 木南 敦 ・・・・・・・277
-3-
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はじめに
本報告書は、科学研究費補助金・学術創成研究「ポスト構造改革における市場と社会の新
たな秩序形成 -自由と共同性の法システム」(課題番号 19GS0103)(以下では「本研究プ
ロジェクト」と呼ぶ)の成果の概略をまとめたものである。
本研究プロジェクトの成果は既に多数の論文等で公表されているが、それらのすべてを冊子
体でまとめることは困難である。そこで、研究代表者及び研究分担者の公表論文からそれぞ
れ一篇を選び出し、アンソロジーを編むことによって本研究プロジェクトの成果の概略を示す
ことにした。それが本報告書である。
以下では、まず本研究プロジェクトの内容を背景・目的・方法の観点から説明し、その上
で本研究プロジェクトの成果を部門毎にまとめ、本報告書に収められた論文の位置づけを示す
ことにする。
1.研究開始当初の背景
バブル崩壊後の長期停滞から脱却すべく、「構造改革」が推し進められた。そこでは、従
来、多くの分野で共同体的な関係に根ざした不透明な制度や慣行が存在し、様々な保護行政
により効率の悪いシステムを温存してきた構造に長期停滞の主因があり、この構造的要因を除
去し、人々の創意工夫を生かす自由な活動の促進が社会・経済の再生に不可欠と考えられた。
しかし、単純に規制をなくすだけでは、不公正な取引が横行し、企業の組織形成においても、
強者による不公正な支配に歯止めが効かなくなる。そのため、規制緩和の一方で、市場の公
正さを確保し、自由な競争を保障するための規制の拡充・強化が要請される。また、そうし
た自由で競争的な市場に委ねることは効率性の追求に役立つとしても、それにより私人間の関
係形成が歪められ、社会の存立基盤を掘り崩すような結果がもたらされる危険性もある。構造
改革は、人々を他律から解放しようとしたが、今求められているのは、自律としての自由を尊
重しつつ人々の共同性を確保することを可能にする法システムであると考えられる。
2.研究の目的
従来型の規制でも自由放任でもなく、自由を尊重しつつ共同性の確保を可能とする法システ
ムのあり方を検討することが目的である。次の3つの側面から検討を進める。(1)市場の秩
序形成。自由で競争的な市場と公正な取引を確保する制度、企業活動を活性化しつつ逸脱行
動を防止する企業組織を検討する。(2)社会の秩序形成。自律と信頼を確保する制度として
契約・責任・家族制度を再検討し、効率性原理の浸透が社会と個人の存立基盤を脅かさな
いようにするセーフティネットを検討する。(3) エンフォースメント。個人や団体の自律的イニ
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シアティブの活用も含めた実効的法執行システムのあり方を検討する。これらの検討を通じ、
将来整備を進めるべき法的規制のプログラムを提言する。
3.研究の方法
研究の中心的な課題として、市場秩序と消費者支援、個人の自立と社会保障、これらに相
応しい規制・執行システムに焦点を合わせる。研究期間を3つの期に分け、第1期(平成
19・20 年度)を各課題領域における現状の把握と問題点の整理、第2期(平成 21・22 年
度)をそれに基づく新たな法モデルの検討、第3期(平成 23 年度)をこの法モデルを基礎
とする具体的法的規制のプログラムの検討にあてた。
4.研究の成果
(a)市場の秩序形成についての解明
(1) 企業間秩序にかかわる競争法に関する調査と分析
競争法の目的を消費者厚生の向上と考える点についてはコンセンサスはあるが、消費者厚
生の内容とそのための競争法のあり方については不明確な点があったことから、消費者厚生
の多義性を踏まえつつ、一般市民の期待及び競争法の手段と整合的な観点からその意義を
確定した。さらに、「競争法の介入は、規制対象たる行為が消費者厚生に及ぼす直接的影響
のみによって評価する」というアプローチが決定不能状態をもたらしたり、所期の目的に照ら
して機能不全に陥る状況を明らかにし、競争法の直接的な制御対象である競争プロセスへの
影響を第一次的判断基準とすることにより、その難点を回避できることを明らかにした。また、
競争ルールの公正さに注目するこの考え方が、当事者にとっての法の遵守可能性、市場参加
者にとっての予測可能性の点で望ましいことを明らかにするとともに、この立場が規範的参照
点を定めることによって、消費者厚生についての帰結主義的な評価も可能にすることを示した。
それを踏まえて競争法の規制のあり方についての提言も行った。それらの成果の概要は、第
1部1.に収録の川濵論文がまとめている。
(2) 企業・消費者間の秩序にかかわる消費者契約法制に関する調査と分析
契約に関する規制の変容を受けとめるための基礎として、契約規制は、他律型規制と自律
保障型規制に分かれ、自律保障型規制には、自律を侵害から保護するための規制と自律を支
援するための規制が含まれ、前者の規制は、契約時にすでに意思決定の自由が侵害される場
合の規制と、契約時に侵害はなく、みずから同意した契約に拘束され、将来の自己決定が拘
束されることによって侵害が生ずる場合の規制に分かれるという分析枠組みを設定した。その
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上で、2000 年に制定された消費者契約法をはじめ、90 年以降の立法および判例は、全体と
して、他律型規制から自律保障型規制にシフトしてきていること、自律を支援するための規制
が不十分であることも示した。以上の成果の一部は、第1部2.に収録の山本論文にまとめ
られている。また、第1部3.に収録の佐久間論文は消費者法にかかる具体的な提言の一例
である。
(3) 企業内秩序にかかわる企業組織法及び金融資本市場法に関する調査と分析
企業結合は、特に構造改革期に活発に行われたが、その統一的な規制が存在しないまま
放置されてきたことを踏まえ、諸外国の法制を参照しながら、この問題に関する多様な規律の
相互作用を視野に入れ、開示規制・実体規制の双方において問題点を解明した。その成果
の一部は、日本私法学会で発表し出版された。
企業内のガバナンスについては、平成 17 年法によりその基本原則である株主平等原則が
明文化されたことを踏まえ、それが形式的処理を要請したため保護を希釈化し、利益衡量を
硬直化させたことを明らかにした上で、原理的な比較衡量基準を提案した。また、企業組織
については、構造改革期にソフトローによる整序の必要性が強調されたものの、それが作動
するメカニズムが十分に解明されなかったことを踏まえ、諸外国の法制を参照しながら、ソフ
トローの機能する局面とそれが機能しない局面を区別する方向で分析し、ガバナンスについ
ての法のあり方を示した。その成果の一部は、第1部4.に収録の齊藤論文にまとめられて
いる。
また、企業内秩序を健全に保つには金融・資本市場のインテグリティを確保することが不可
欠であるが、その規制の不備への対処は重要な課題であった。これについて、金融・資本市
場における規制基準の内容とともにその遵守を確保するメカニズム設計が課題となる。後者は
エンフォースメント部門の問題と連携した課題である。このような観点から金融・資本市場の
あり方について多角的な検討を行った。特に資本市場のインテグリティ確保に重要でありなが
ら、規制の困難なインサイダー取引を例に規制の内容とエンフォースメントメカニズムの設計
について、具体的な政策提言を行った。第1部5.に収録の前田論文はインサイダー取引規
制の今後のあり方についての提言をまとめたのである。
(b)個人の自立と社会保障
(1) 福祉国家と社会保障の変容に関する調査と分析
マクロ政策面での研究
福祉国家の成立とその特徴について調査・分析し、自由・平等・友愛という普遍的価値は
国境に限定された国民的連帯として実現され、福祉国家とは国民国家の完成であり、市民=
国民としてのみ、社会権が成立したのに対し、現在、こうした枠組みは、グローバル化、高齢化、
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家族の多様化のなかで揺らぎつつあることを明らかにした。さらに、ドイツ、フランス、スペ
イン、イタリア等、これまで家族主義が強いとされてきた福祉国家で生じている変容を調査・
分析し、そこでは自由主義化といわれる現象がみられるものの、単純な収斂をみているわけ
ではなく、各国の制度遺産を反映して、異なったタイプの自由主義化がみられることを明らか
にした。こうした「収斂の中の多様化」のなかから、社会保障の新たな枠組みとしてどのよう
な可能性があるのかという課題を設定し、日本を含む東アジアにおける社会保障改革につい
て調査・研究を進めてきた。それらを通して今後の日本で採用すべき方策について提言した。
その成果の一部は第2部1.に収録の新川論文にまとめられている。
ミクロ政策及び基礎理論的考察
社会保障のあり方については資源配分にかかわるマクロ政策に還元されない側面の考察が
現下のボトルネックを打開する上で不可欠である。そこで検討すべきは普遍志向の正義的考
察からケアの倫理による原理的な考察である。この点についても法哲学的な考察をケアの現場
との対話の中で進め、ケア倫理の中から新たな制度と専門家のあり方についての展望を得た。
その成果の一部は第2部2.に収録の服部論文が明らかにしている。
(2) 労働法制の見直しに関する調査と分析
労働及び労働法の分野における構造改革を歴史的に位置づけ、その結果、プレ構造改革
期は、労働組合の組織率の低下に伴い立法的・行政的介入の必要が高まり、80 年代から規
制強化の傾向がみられたのに対し、90 年代以降、派遣労働や有料職業紹介等の分野で規制
緩和が進み、構造改革期には、非正規従業員の増加が進むと同時に、正規従業員について
も成績主義が強化され、濃密な人間関係に支えられた日本的労使関係像が弱体化してきたこ
とを明らかにした。また、高齢化に対応した社会制度の整備が喫緊の課題となり、将来の社
会保障負担の軽減が図られるとともに、企業に対しても少子化対策の負担が求められる状況
を明らかにした。これをもとにして、集団的な交渉システムの再構築の可能性と労働者保護法
及び労働契約法の役割という2つの柱を立て、諸外国の法制を参照しながら、労働法制を見
直す方向性について検討を進めている。その成果にもとづく今後の労働法の方向性について
の提言の概略は第2部3.に収録の村中論文がまとめている。
(3) 財産管理と自立支援に関する調査と分析
財産管理については、高齢社会における民事信託の意義と可能性について、専門家による
情報提供を踏まえて検討した。その成果の一部は、すでに公表した。自立支援については、
成年後見および社会福祉を重点領域として取り上げ、実務家や専門家を招いて共同研究を行
い、自立支援という目標となる価値理念の意味のほか、その実現・実施の困難さとその原因
及びそれを克服する方策を検討した。
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(c)規制・執行システムのあり方
(1) 行政規制
即時的命令強制行為、法規命令、法執行システムを集中的に検討し、行政強制論から義
務履行確保論への大きな流れを確認し、わが国行政法規における「実効性確保」のための
法的な手段が未整備であることを明らかにし、今後の方向性として「行政制裁金」ないし「強
制金」の導入・強化が望ましいことを示した。その成果の概略は第3部1.に収録の高木論
文が明らかにしている。
(2) 刑事規制
EUの制度等を参照しつつ、独禁法及び法人処罰の現状と問題点を明らかにし、いっそう
実効性の高い規律の実現には、刑事罰を廃止して課徴金制度への完全な移行を図るべきであ
るという方向性を示した。また、経済的規制において個人に対して刑事制裁を活用する際の
限界についても研究を進めた。第3部2.に収録の髙山論文は後者の成果の一部である。
(3) 民事規制
刑事規制及び行政規制における調査・分析の成果を踏まえ、(a)(b)に述べた具体的課
題のなかで、各規制の相互関係及び相補関係に留意し検討した。
(d)基本的法モデルの検討と提示
(1)「自律と共同性」の法モデルの研究
自律を尊重する個人保護のあり方として、認知能力の限界を踏まえて学習可能な状況を作
出する法の整備と学習不能な状況への対処としての直接的な介入という構造を持つ法モデル
をポスト構造改革の法モデルとして構想した。自律を尊重する法規制の構想としては、行動経
済学的な観点から Cass R. Sunstein らが提唱したリバタリアン・パターナリズムが世界的に著
名である。本研究では、国内各地・他分野の多数の研究者の協力を得ながら準備作業を行
い、Sunstein を招聘してシンポジウムを開催し、リバタリアン・パターナリズムの理解を深めた。
この理解に照らして本研究の構想する法モデルの妥当性を詳細に検討した。
(2) 憲法秩序と市場秩序・社会秩序の再編成
社会生活の基本的秩序が法体系においてどのように構成されるかという体系的・理論的問
題を基礎にすえ、憲法と民法が交錯する実践的諸問題を取り上げ、社会秩序の実相とポスト
構造改革における方向性について調査・分析を進めた。個人の自律を尊重しつつ「適切な支援」
を考えるには、個人の自律性の憲法的位置づけ及び自律と自立を巡る基礎的な法原理を明ら
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かにする必要があり、まずそれを解明した。その成果の一部は第4部1.に収録の土井論文、
第4部2.に収録の木南論文が明らかにしている。
この基礎の上に、自律を尊重する個人保護のあり方として、認知能力の限界を踏まえ学習
可能な状況を作出する法の整備と、学習不能な状況への対処としての直接的な介入という構
造を持つ法モデルをポスト構造改革の法モデルとして検討した。この成果はまだ公表されてい
ないが順次発表することを予定している。
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市場をめぐる法と政策 *
京都大学大学院法学研究科 川濵 昇
第一章 はじめに
第1節 背景的問題-ポスト構造改革における市場問題
1970年代末の規制緩和から始まって、その後の民営化、規制改革、構造改革と焦点に
変化はあるものの、この30年間ほどの世界的な潮流が、社会における様々な財・役務の内
容・供給のあり方等に関する決定を市場に委ねようというものであったことは確かである。い
わゆる構造改革は、多様な内容を持っているが、教育・医療・労働などの分野にまで市場の
領域を広げる、いわば市場の領域拡張ないし市場化の完成段階を目指したものと言ってよか
ろう 1)。
市場の領域拡張ないし市場化という言葉を無造作に使ってきたが、市場という言葉はコンテ
クストによって様々な意味でもちいられる 2)。法学において「市場」とは何なのか真剣に考えら
1) わが国における「構造改革」は、政治的なキャッチフレーズであり、行財政改革、地方自
治体改革、特区構想など多彩な内容をもっており、その全貌を整合的に説明するのは困難であ
るが、市場の領域拡大を主眼とする点については、争いはなかろう。構造改革について書かれ
た書物は数多いが、その推進母体であった経済財政諮問会議の議員であった経済学者による、
吉川洋『構造改革と日本経済 』
(岩波 2003)が理論的な背景の説明として有益であろう。
2) 競争政策では、市場支配力の測定に過不足なく需要と供給の代替性によって画定される領
域ということになる。ここでの問題は市場の範囲ではなく、市場に委ねるとはどういうことか
という問題である。なお、市場の範囲の問題であっても、分析の関心事に応じてそれが変化す
ることについては、Jean Tirole,Theory of Industrial Organization(1988)6-13 参照。
- 11 -
れていない」3) という亀本洋による批判もある。ここでいう市場化とは、必要とされる財・役務
に関して売り手と買い手の自律的な決定に基く交換によってその供給等にかかる決定がなされ
るようにすることであり 4)(以下では市場と交換経済を互換的に使う 5))
、そのような決定がなさ
れる場を市場と呼ぶことにする。
市場は適切に機能するなら、自発的な取引によって相互改善がなされ、人々の自律的な意
思決定を最大限効果的に尊重した状態を達成できる。すなわち、与えられた資源の下でもっ
とも無駄なく人々の欲求を満たすという資源配分の効率性 6) が達成される。さらに、このような
帰結主義的に望ましい状況が当事者の自律的な意思決定によって達成されるという、個人の
自由尊重の点でも望ましいという特性ももつ。また、Hayek ら、オーストリー学派の論者が言
3) 亀本洋「レトリックとしての「法と経済学」
(一)」論叢148巻1号1頁、6頁(2000)
参照。亀本教授は、多数の売り手と買い手から構成される市場に対して、法学が相対取引を規
律する法をもって、市場経済の支援するものとしている点を問題視している。本稿が考える市
場は、自律した主体による自由な交換が承認されたときに市場があるという考え方であって、
これは相対取引も含む。
このような領域が確保されたとして、どのような条件があれば(仮に相対取引が基調となっ
ている場合も含めて)、所期の目的が達成可能かどうかが重要な問題なのである。ゲーム理論、
メカニズムデザインの分野における第一人者が、市場が円滑に機能するためのプラットフォー
ムを多くの事例を材料に探求したものとして、ジョン・マクミラン(滝澤弘和・木村友二訳)『市
場を創る バザールからネットワーク取引まで』(NTT 出版 2007)を参照。
交換経済から需給の均衡が現実に導かれるか否かは、実験経済学において初期の段階から
の格好のテーマであった。実験経済学の代表的な成果については、少し古いが John H. Kagel
and Alvin E. Roth,The Handbook of Experimental Economics(1995)49-60 を参照。 4) この説明は、マクミラン(前掲注3))6-8頁によった。これは、平井教授が、市場的
決定を説明する際の、市場概念とも対応している(平井宜雄『法政策学 第二版』(有斐閣)
62頁参照)。なお、平井教授においては貨幣的媒介のない交換活動をも射程にいれており、
本稿では主として貨幣的媒介のある限定された問題に焦点を合わせているという違いはある。
5) 自由な交換が認められることと、需給調整が可能な場が存在することとの違いについては
前注参照。
6) 競争的市場における資源配分の効率性については任意のミクロ経済学のテキストを参照せ
よ。
- 12 -
うように 7)、市場は、人々が自己が望ましいと考える提案を試み、それが受け入れられるか淘
汰することによって、動学的に望ましい成果をもたらすとも考えられてきた 8)。
さて、市場化の進展に対して、医療・教育、社会保障分野での行き過ぎ、消費者保護行政
の不充分さ、金融資本市場の混乱など多くの領域でこれに懐疑的な立場が有力になっている。
もっとも、市場の行き過ぎというときに、それが市場化の拡張それ自体の問題なのか、市場
における無規律が問題なのかは判然としない。いわゆる構造改革に対する批判の1つには本
来市場に任せるべきでなかった領域、いいかえれば商品化(commodification)すべきでな
い領域への市場が拡張されたという問題が挙げられる 9)。これは、重要な問題ではあるが、本
稿ではひとまず市場化の対象とするのが望ましい領域を前提として、市場化が好ましい効果を
持つためにその秩序づけのあり方を検討対象とする。
第2節 市場経済に不可欠な法律
市場が良好に作動するには法的な規律が必要である。政府介入にもっとも懐疑的な論者で
あっても、財産権が確定され、それが保護され、契約の自由とその履行を強制する法制度の
7) オーストリー学派のこの展望にふれた文献は数多いが、ここでは現代オーストリー学派の
代表者が手際よくまとめたものとして、Israel M. Kirzner,How Markets Work:Disequilibrium
,Enterpreneurship and Discovery (1997)31-53 を、邦語文献としては、わが国におけるオース
トリー学派の草分けによる紹介として、越後和典『競争と独占 産業組織論批判』(ミネルヴァ
書房 1985)52頁以下を挙げておく。
8) オーストリー学派の展望は標準的なミクロ経済学の均衡概念を否定して、絶え間ざる不均
衡の中で鞘取りの機会を求める企業家の発見を通じた動学的プロセスの重要性を説くものであ
る(Kirzner,supra note(7)at51-53)。しかしながら、標準的な経済学であっても、市場におい
て新たな発見を試みるプロセスやそれがイノベーションを促す機能については認識されてい
る。イノベーションが市場で促される前提条件は標準的なミクロ経済学の発展によってようや
く明らかにされつつあるものである。標準的な経済学によるイノベーションの概観するものと
して、その第一人者によるスザンヌ・スコッチマー(青木玲子監訳、安藤至大)『知財創出 イノベーションとインセンティブ』(日本評論社 2008)が有益である。
9) この意味での市場化の限界については例えば、Margaret Jane Radin, Market-inalienability,
100 Harv. L. Rev. 1849 (1987),Margaret Jane Radin, Contested Commodities (1996) を参照。
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存在が市場経済に不可欠である点には同意するであろう 10)。
もっとも、市場が望ましい成果をもたらすには、さらに追加的な規制が必要と考えられる。
典型的には市場による資源配分の効率性を阻害するような市場の失敗にかかる規制である。
例えば、外部性、公共財、情報の不完全や非対称性等にかかる規制である。
古典的な市場の失敗の観点以外に個人の自律的な意思決定を確保するための規制も近時
重要なものとなっている。よく知られているように、現実に存在する個人は、標準的ミクロ経
済学が仮定するような合理的な主体ではなく、情報処理(不確実性下における予想=確率形
成)における合理性からの乖離(狭義の限定合理性:各種ヒューリスティックや過剰楽観等)
、
選好における非整合性(フレーミング効果等)
、意思力(時間不整合等)11) の限界に直面して
いる。不合理であるから、直ちに法が支援せよとは言えない。自発的な学習等で対処すべき
場合が多い 12) のは当然である。しかし、個人的、集団的な学習によって改善が不可能な場合
や個人的には学習を待っていられない事態も多い。このような場合、少なくとも相手方の弱み
(限定合理性)につけ込まないように取引のルールを定めていくことは、自律的な交換経済に
10) もっとも、財産権の保護や契約の実現を国家が充分に確保できない条件の下での市場経
済も考えられる。仮に形式的に国家法が準備されていても、それを充分に実現するだけの資
源が乏しいこともある。これらの状況を踏まえて、国家法による支援が期待できない場合に
市場経済を支える私的秩序づけの効果を検討するものとして Avinash K.Dixit,Lawlessness and
Economics : Alternative Modes of Governance(2004) がある。これは、無政府的な市場経済を
正当化するものではなく、国家法の効果的な実施に資源を避けない状況下での代替的なシステ
ムを理論的に探究するものである。財産権の保護と契約の実現を国家法が十分に担保できてい
る場合であっても、インフォーマルな社会規範による制御や社会規範が内面化されていること
が当事者の機会主義的行動を制約することを通じて、当事者にとって有利な自由な交換を促進
し、市場の活性化につながることも確かである。
11) これらは、行動経済学の多くの文献で紹介されている。代表的なものとして、法政策
を視野に入れた文献として、Cass R. Sunstein & Richard H. Thaler, Libertarian Paternalism Is
Not an Oxymoron, 70 U. Chi. L. Rev. 1159 (2003) を参照。なお、情報処理能力と選好の非整
合については、川浜昇「「法と経済学」と法解釈の関係について-批判的検討 (4・ 完 )」民商
108 巻 3 号1頁(1993)がまとめて紹介を行っている。意思力がかかわる時間整合性の問題
については、Shane Frederick et al., Time Discounting: A Critical Review, 40 J. Econ. Literature
351 (2002) を参照。
12) Richard A. Epstein, Behavioral Economics: Human Errors and Market Corrections, 73 U.
Chi. L. Rev. 111(2006) 。
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とって必要であろう 13)。消費者保護規制はかかる観点からも重要なものである 14)。このコンテク
ストでは、取引のルールは執行可能な契約がどのような特性を備えるべきかという問題や、他
者の利益に対する配慮義務はどのようにあるべきかといった、私法の領域の問題と見ることも
可能になる。完全合理性を前提に作られた契約法が規制の有無を判断するためのベースライ
ンとなるなら契約の自由に対する介入と言うことになるし、生身の人間を前提にするなら、こ
れがない方がそれによって不利益を被る人々からの権利の侵害をもたらすものということにな
る 15)。
第3節 規制緩和時代の規制戦略
市場の失敗に対処するための介入に対して、規制緩和・規制改革の文脈でしばしば、事前
規制から事後規制へというスローガンが唱えられている。この区分はそれほど明確なものでは
ないが、事前規制の典型として参入規制や価格・投資等の事前認可等が念頭におかれてい
る。もっとも、それらは事前であることが問題なのではなく、そのような規制手法が規制目的
に効果的であるかどうかの問題と考えた方が実態に即しているように思われる。逆に事後規制
というのを単に悪影響が出てから対処を行うので充分だとするのなら問題である。安全であれ、
環境であれなんらかの弊害が見つかってからの対処にとどまるのでは規制緩和に懸念するの
は当然のことであろう。規制緩和がもっとも急激に推し進められた米国の1980年代初頭の
レーガン政権において、その前期の規制緩和が、弊害予防の不遵守から様々な問題を多発
し、後期にいたってかえって規制の数が増大したといわれる 16)。また、事後規制も事前の透明
13) 一方当事者が企業等で相手方の認知能力の限界を利用可能な主体と仮定して規制を考
えるのが一般的である(Russell B. Korobkin & Thomas S. Ulen, Law and Behavioral Science:
Removing the Rationality Assumption from Law and Economics, 88 Cal. L. Rev. 1051
,1082(2000))が、双方が認知能力の限界に直面するという対等な関係を前提にした上で、市
場の機能を適正化する規制も考えられる。この観点から、英米契約法における諸原則を検討し
たものとして、Melvin Aron Eisenberg, The Limits of Cognition and the Limits of Contract, 47
Stan. L. Rev. 211, 213-14 (1995) を参照。
14) 標準的な法と経済学の文献では、消費者保護を情報の非対称への対処を通じた資源配分
の効率性の改善と見ることになろう(落合誠一「消費者法の展望と課題」ジュリスト1139
号)。しかし、例えば、クーリング・オフ、説明義務、適合性原則などは限定合理性の観点か
らの方がよりよく説明可能であろう。
15) 消費者保護とベースライン問題については、長谷部恭男「憲法学から見た規制と消費者
保護」ジュリスト1139号16頁(1998)を参照。
16) Jay A.Sigler, and Joseph E. Murphy, Interactive Corporate Compliance: An Alterna tive to
Regulatory Compulsion(1988)42-43 参照。
- 15 -
なルールとその遵守の期待なしには行えない。とすると、望ましい事後規制とは次のようなも
のであろう。
まず、規制が対処すべき弊害をもたらさないように、それを避けるために「事前」に明確なルー
ルを定め、その枠内で市場参加者が自由に活動できるようにする。そして、事前に設定される
ルールは、透明な手続で、目的と合理的に連関した明確なものとする。これらを準備した上で、
かかるルールの遵守を求めその違反に対しては民事・刑事・行政の各面から厳格に対処する。
そのように、ルール遵守の誘引を作り出した上で、ルールに基づいた自由な企業活動を保障
する。これが規制緩和の時代の「事後」規制の理念型であろう。
逆に問題にされるべき「事前」規制とは、悪しき行為を特定せず、業務内容の多くの部分
についてその当否を事前にチェックし、規制と目的との合理的連関を明確にしないまま規制当
局が裁量的に一般的監督を行うという規制レジームであろう。たとえば、かりに先に述べたよ
うな事前ルールが策定可能であったとしても、それを当該企業が遵守するか否か判然としな
い場合がある。それを遵守させ、規則違反を未然に防止するために、いわばモニタリング(監督)
の便宜のために多くのチェック項目を守らせるよう努めるという手法がある。これなどが悪しき
事前規制の典型である。この場合、悪しき効果とどの程度関連するのかわからない細部まで
(い
わば箸の上げ下ろしまで)
、監督の便宜のために規律する必要が生じる可能性がある。これに
対し、悪しき行為が何であるかを明確にし、それを違反した場合に適切にサンクションが課さ
れるなら、企業は自らそのようなルールを遵守するはずであるし、また企業組織の実態を知悉
する企業の方が組織をしてルールを遵守するように仕向ける知識と経験を有しているものと考
えられる。企業経営に知識と経験をもたない官僚組織が細部のモニタリングを行うのは困難で
あるから、基本的なルールの遵守のための努力を企業にゆだねようというのも規制緩和の基
本的アイデアであり、規制緩和の時代に法令遵守が唱えられるようになった由縁である。
もちろん、事前に透明なルールを設定するという方式が万能なわけではない。金融・資本
市場規制の分野では、規制緩和とともに透明なルールを目指して膨大なルール群が作り出す
という対応がわが国をはじめとして採用されたが、膨大なルール群に依拠したルールベースド
な規制は、かえって規制の機能不全を生みだすことさえあり、むしろルールの背景にある原理
(プリンシプル)に基礎をおいた 17)、インタラクティブな規制の方が規制の有効性、企業活動
への負担の両者から好ましいという主張も有力である 18)。
17) プリンシプルベースドの規制の先進国たる英国の規制の概略については、Bazley Stuart
and Haynes Andrew,Financial Services Authority Regulation and Risk-based Compliance(2d
2006)123-171 参照。
18) 2つの規制手法の違いは、要件を明確化した準則か、考慮要因を列挙したスタンダード
の違いにすぎないのか、もしくは規制内容についてのインタラクティブ性に注目すべきなの
かといった問題もある。インタラクティブな規制を探求したものとして、Ian Ayres and John
Braithwaite, Responsive Regulation - Transcending the Deregulation Debate(1992) を参照。
- 16 -
第四節 本稿の課題:政策と法の緊張関係
(1)問題の所在
事前に設定された明確なルールによって、一定の政策目的を達成するという手法は上述の
ような限界はあるものの、それが可能であれば望ましい。しかし、なんらかの政策目的を達成
するようなルールを事前に明確に策定するのは容易ではない。具体的な法適用の局面で裁量
的に政策的判断が必要になるようなものであれば、取引社会の基本的ルールとして当事者に
遵守を期待するのは難しい。事前に設定されたルールが取引社会のルールして受容されるこ
とを理念型とする事後的規制の構想は、平井宜雄の言葉を借りるなら法設計段階ではいわゆ
る目的=手段図式の影響を強く受けたものかもしれないが、事後の適用においては法的決定
モデルに拘束されることから、2つの決定モデルの矛盾相克に直面することになる 19)。これは、
競争秩序が単に政策的概念なのか、それとも権利義務に関わるものなのかという山本顕治が
提起した問題 20) にも関連する。基本的なルールの遵守をどのように確保するのかという問題も
あるが、明確なルールによって集合的利益を保護することがどのようにして実現可能なのかを、
上記問題とともに検討する必要がある。
(2)本稿の検討対象:競争秩序法としての独禁法
独禁法ないし競争法(なお、本稿では「独禁法」はわが国の現に存在する通称「独禁法」
をさすときに独禁法を、独禁法の機能を果たす競争政策の基本的ルールを定める法一般を念
頭におくときは競争法と独禁法を併用する。)は、市場の失敗の中でも不完全競争に起因する
資源配分の不効率の是正のための法 21) と考えられている。その意味では「社会全体のある種
19) 平井宜雄『法政策学 第二版』(有斐閣 1995)46-47頁。
20) 競争秩序を権利指向型に理解しようとするものとして、山本顕治「競争秩序と契約法-「厚
生対権利」の一局面-」神戸法学56巻3号272頁(2007)があり、これに対して吉田
克己「総論・競争秩序と民法」NBL 863号39頁(2007)は権利論、政策法の峻別を越
えた視点から、競争秩序と民法の関係を捉える。本稿は民法と独占禁止法の関係を直接的な主
題とするものではないが、それが権利義務にかかる義務論的視点と政策的=厚生に関わる帰結
主義的視点の二重構造を伴っていることを示す。その意味で峻別論を超えた視点を提供するも
のである。
21) もっとも独禁法を、市場支配力による社会的厚生(社会的効率性)の悪化を防ぐための
ものと解するのが妥当か否かは別問題である。この点は第二章第1節、第3章第3節を参照。
- 17 -
の集団的目標を促進し保護する」という Dworkin の意味における政策的考慮 22) に由来する法
の典型である。これは、田中成明が言う資源配分目的の管理型の法 23) の代表例とも言えるが、
集団的目標に関わる市場の具体的成果を制御変数とはせず、間接的規制であることを特徴と
する。
他方、独禁法はそれを通じて個人の自由の発揮を促すものだとしばしば主張されるてきた。
経済的な自由の憲章として、経済的自由を私人間においても最大限に発揮させるものだという
主張は反トラスト法制定時からしばしば見られた 24)。これは、独禁法が、一見したところ厚生主
義的帰結主義 25) に依拠しているように見えるが、経済的自由と公正な競争機会の確保といった
権利にかかる法という側面を持つことを意味する。
独禁法の原型が「経済領域に選択と自己決定の自由に対する障碍を排除するため」にコモ
ンローが形成した「特殊の原理」から発展してきた 26) ことから、上述の側面は一貫して強調さ
れてきた 27)。これは、最終的な公共目的にかなった状況をもたらすための誘因を与えるための
ルールの集合体としてのみ独禁法が存在するのではなく、権利義務に関わる何らかの原理的
根拠に裏付けられた法として独禁法が存在することを含意している。そのような発想こそが、
「自
己の生活領域に関する個人の自己規律を尊重し、その相互作用により好ましい社会状態が達
22) ロ ナ ル ド・ ド ゥ ウ ォ ー キ ン( 木 下 毅 = 小 林 公 = 野 坂 泰 治 訳 )『 権 利 論 』( 木 鐸 社 1986)99頁。なお、山本・前掲注20)232-204頁は、独占禁止法の従来の目的
論に関して、権利基底的理解と厚生・効率性を規定とする理解とを対比して検討を加える興味
深い論稿であるが、権利基底的理解で独占禁止法を整合的に説明できるか否かが検討されてい
ない。
23) 田中成明『法理学講義』(有斐閣 1994)79頁。
24) 川濵昇「取引の自由と契約の自由」田中成明編『現代法の展望』(有斐閣 2004)
51頁参照。
25) 介入が結果として社会の構成員の福利(well-being)を向上させるか否かを判断基準に
するという意味で使っている。帰結主義、厚生主義概念についての詳細は若松良樹『センの正
義論 効用と権利の間で』(勁草書房 2003)12-42頁参照。なお、独禁法における
厚生が社会的厚生なのか、それとは異なった意味での消費者厚生なのかをめぐっては争いがあ
る。前者であれば典型的な厚生主義的帰結主義といえるが、後者の場合は、分配をも加味した
厚生主義ととらえるか (Louis Kaplow and Steven Shavell,Fairness versus welfare (2002)24-37
参照 )、厚生主義に対する義務論的制約と考えるか問題となる。一般的な理解では義務論的制
約と言うことになろう。なお、このような制約がかえって社会的厚生の向上に資するという議
論もありえる。
26) 大隅健一郎「英米コンモン・ロウにおける独占及取引制限(一)」論叢53巻5・6号
227頁、229頁(1948)
27) 川濵前掲注24)参照。
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成できるような前提条件を整えることに独禁法の重要な機能があり、私法秩序とは相互補完的
な関係にある」という、今日の経済法学や民事法学で有力に主張されている立場の根底にある。
さて、上述した独禁法の政策的機能は、社会的効率性(ないし消費者厚生)28) の改善として
説明される。後述するように、これは独禁法の主たる禁止規定の対市場効果要件を市場支配
力の形成・維持・強化とする通説的見解と一致する。わが国の母法である米国反トラスト法、
EU 競争法、さらにわが国独禁法でも消費者厚生等の改善が主たる経済的機能であることに異
論はない。ところで、このような見方と独禁法を実質的な自由の確保とする立場とは対立する
のであろうか。
反トラスト法でも、EU 競争法でも、競争の自由なり取引の自由を確保することを競争維持
のメルクマールとした時代があった。しかし、今日では上記経済的機能が重視されており、自
由の観点を強調する考え方は勢いを失っている。わが国でも「取引の自由」を基軸に競争へ
の害を説明する優れた取り組みが行われてきたが、今日の独禁法の運用において自由の問題
は明示的には現れてこない 29)。米国、E U の現状を見る限りにおいて、法と経済学の論者を
中心に、社会的効率性等の評価で十分だとする見解が強いように思われる。しかし、この立
場は妥当なのだろうか。それ以上に、この立場で独禁法の主要部分を整合的に説明できるの
だろうか。これは、わが国のみならず、競争法を市場の基本的な法として採用している国に共
通の問題である。
独禁法の典型的な介入方式の特色は、一定のルールを通じて私人が自発的に活動すること
によって目標を達成するという間接的な規制だという点にある。私人の活動への介入が最小限
であり、先に述べた理念型としての事後的規制の条件を充たした、個人の自己決定を尊重し
た介入形態であることが想定されている。市場で決定可能な諸変数を直接制御するという統
制型介入とは異なった、一定のルールを通じて市場の競争秩序を適正化するための法律とい
う点が重要なのである。
言い換えれば、単に社会的厚生等の悪化をもたらす行為それ自体を規制するのではなく、
市場において企業間で取引相手をめぐって競い合うという競争過程(プロセス)を害すること
28) 社会的効率性とは総余剰の意味での社会的厚生が実現されていることであり、消費者厚
生は消費者余剰の意味で理解されている。ただし、消費者厚生を総余剰の意味でとらえる論者
もいる。概念の整理として、川濵昇「独禁法上の抱き合わせ規制について (1)」法学論叢 123
巻 1 号 1 頁、5-7頁(1988)参照。競争法の経済的目的としてはいずれかが主張され
るので、以下では消費者厚生等ないし社会的効率性等と表現する。いずれが重要かをめぐる議
論については、第三章第 3 節参照。
29) この取り組みについては、後注57)参照。明示的に現れてこないだけであって、事業
者団体の規制等で拘束が問題となるとき、拘束内容のみならずその程度が著しいことを問題に
するなど暗黙の内には関連性を有していると考えることも可能ではある。なお、第二章第2節
(2)参照。
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を介入根拠とするものなのである。競争過程への害を通じて、市場の機能悪化がもたらされ、
それによって消費者厚生等が害されることを防止するのが独禁法の主たる役割なのである。競
争過程が害され、市場の機能が悪化することを防ぐことが競争秩序の適正化の実体である。
このように、独禁法における、競争への悪影響は、競争過程への害と市場における競争機
能への害(市場支配力の形成・維持・強化)の2つから把握されている 30)。そして競争過程
への害を考える際に、競争する自由や取引の自由が関連性を有するのであり、独禁法が単な
る集合的目的の達成にとどまらない Dworkin が言うところの原理的 31) な性格を有するものであ
ることを示している。
産業組織論と厚生経済学を専門とするわが国を代表する経済学者達が「公正で自由な競争
の促進を目的とする競争政策は、公正で自由な競争の場を的確に整備・維持することによって、
自立的な経済単位が個性的な目標を自己責任の原則に則って自由に追求する機会を公平・透
明に提供する政策なのであって、なんらかの目標関数の制約条件付き最大化というシナリオに
なじむ政策ではないというべきである」32) と述べている。これはまさに競争過程への影響に焦
点を合わせることの重要性を指摘したものと見ることができる。 本稿は、競争過程に焦点を合わせて、それが独禁法で持つ機能を明らかにする。それを通
じて、独禁法が自由と厚生の両方を射程に入れていることを示すとともに、(a) で述べた相克
が独禁法においてどのように現れてくるかを明らかにする。さらに、それらの問題群が近時わ
が国を含む多くの国で解釈論上の大問題とされている「排除」の意義といった現実の課題と
直結することを明らかにする。
(3)先駆者としてのオルドー学派
上記問題群は米国反トラスト法の歴史の中で議論され続けてきた論点である 33)。しかし、こ
れらを体系的になかんずく「競争秩序」に注目して追求してきたものとして、ドイツのオルドー
学派 34)(フライブルグ学派)がすぐさま想起されよう。また、次章以下でE U 競争法の例をい
くつか取り上げるが、それらにオルドー学派の影響が色濃く残っている。特に、最近のE U
30) 一見自明な事柄であるにもかかわらず、今日の米国反トラスト法でこの点がしばしば見
落とされている点については、Joseph Farrell and Michael L.Katz,"The Economics of Welfare
Standards in Antitrust",2 Competition Policy International 3 (2006 Autum) を参照。
31) Dworkin によれば「一定の経済的、政治的、社会的状況がこれを促進したり保護するか
らではなく、正義や公正その他の道徳的要因がこれを要請するが故に遵守去るべき基準」が原
理である(ドゥウォーキン・前掲注22)15頁)。
32) 鈴村興太郎=後藤晃『日本の競争政策』9頁)(東大出版 1999)
33) 川濵・前掲注24)94-95頁注6引用の文献及び富山康吉「経済秩序における自由」
・
小西唯雄編『競争促進と寡占体制』(有斐閣 1976)3頁を参照。
34) オルドーリベラリズムと表現するのが通例であるが、ここではオルドー学派と表現する。
- 20 -
競争法の現代化(消費者厚生あるいは社会的効率性基準への収斂の側面もある)は、Orodo
Legacy からの脱却という側面さえあり、厚生主義的帰結主義に還元されない価値や競争秩序
法としての独禁法を考えるにあたってオルドー学派は参照点となる。
オルドー学派については、わが国でも既に法学、経済学の双方から優れた研究が数多くな
されている 35)。独特の社会哲学に彩られたその思想をここで論じる余裕はない。オルドー学派
内部でも多様な見解があり、その全体像を詳述する余裕もない。ここでは、E U 競争法でオ
ルドー学派の影響が言及されるときに、その競争政策の特徴とされる要点(Eucken の競争に
ついての見方を中心とする 36))に焦点を合わせてその特色をまとめることにする。
オルドー学派は、まず中央管理型経済と取引経済(市場経済)の両者を比較して後者の優
越を説きつつ、自由放任では市場経済に期待される個人の自由を確保ができないとして、個
人の自由を確保するため自由競争秩序を人為的に形成する必要があるとする(経済憲法の問
題)。これを実現する政策が秩序政策である。すなわち、「競争秩序の政策は自由放任政策の
時代の経験が雄弁に語るように、市場形態の選択と通貨システムの選択を経済それ自体に委
ねはしない。企業と家計が自由に計画し活動する枠組みは、枠組みがそのもとで管理される
経済政策によって支配されているのである。企業はそれが生産するもの、使用する技術、購
入する原材料、販売を望む市場を自由に選べる、しかしゲームのルール(Speilregel) をいか
なるものとするかや経済プロセスがどのような形態をとるかを選択する自由はない。これは秩
序政策の領域に属するので」37) ある。経済プロセスの形態とゲームのルールを決定するのが秩
序政策なのである。
35) 法学では、オルドー学派の最重要概念である経済制度(経済憲法)の意義をその前史も
含めて詳細に研究した、舟田正之「ドイツ『経済制度』理論史(1)-(7)」国家学会雑誌
88巻7・8号435頁、9・10号538頁、(1975)、89巻1・2号56頁、5・
6号233頁、11・12号677頁、(1976)、90巻5・6号270頁、9・10号
589頁(1977)(特に第二章第四節)及び村上淳一『ドイツ市民法史』(東大出版 1985)314~362頁がまず取り上げられるべきであおる。経済学では、最近、雨宮昭
彦『競争秩序のポリティクス ドイツ経済政策思想の源流』(東大出版 2006)、藤本建夫
『ドイツ自由主義経済の生誕-レプケと第三の道-』(ミネルヴァ書房 2008)といった大
型研究が刊行されている。また、オルドー学派の主要な論者の翻訳として、E.J.メストメッ
カー ( 上柳克郎 , 河本一郎監訳 )『法秩序と経済体制 』(商事法務 1980)
;
(早川勝訳)『市
場経済秩序における法の課題 : 法理論と秩序政策に関する論文集』(法律文化社 1997)
及びW.オイケン(大泉行雄訳)『国民経済学の基礎』(勁草書房) 1958);(大野忠男訳)
『経済政策原理』(勁草書房 1967)を参照。
36) 以下の説明は、主として Walter Eucken, Die Wettbewerbsordnung und ihre Verwirklichung
, 2 Ordo, 1, (1949) に依拠している。
37) Eucken,a.a.O.,S23.
- 21 -
したがって秩序政策は狭義の競争政策にとどまらない。安定した通貨政策、取引経済を支
えるための私的所有権の保護、契約の自由、明確な責任のルール、開放を妨げるような政府
規制の撤廃といった基本的な枠組 38) も含まれる。それらに埋め込まれる形で 39)、競争を維持す
るための狭義の競争秩序政策が存在するのである。特に、競争政策の前提として利益集団に
よる政府を通じた競争を歪曲する必要が説かれており、公共選択論の展望を先取りしたものと
なっている 40)。
競争政策には、その担い手として独立した独占当局がまず必要とされる。規制の内容として
は、独立行動を確保させるためのカルテル禁止 41) と独占規制が中心となる。後者は回避可能
な独占の禁止と回避不可能な独占のコントロールに分かれる。回避可能な独占については可
能な限り分離・解体による競争の回復が目指される。残存する回避不可能な独占に対しては、
「
(完全)競争であるかのように(als ob)
」(以下「かのように」基準と呼ぶ)42) に制御するこ
とが課題とされる。回避不可能な独占の定義にもよるが、「かのように」基準は自然独占等に
対する制御のための基準であると同時に残存する独占一般に対する基準と考えられていた 43)。
これらの点を捉えて、オルドー学派が完全競争を目指しているといった批判があった。構造
規制の基準として完全競争を目指すという議論に無理があるのは確かである。また、「かのよ
38) これら競争秩序の確立に必要なものを構成原理とよび、次の狭義の競争政策に係るもの
を規制原理と呼ぶ。
39) Walter Eucken,Grundsatze der Wirtschaftspolitik,(1952) 305 は、米国の反トラスト法が
トラスト規制に失敗した理由を反トラスト法の欠陥ではなく、補完的な関係にある特許政策、
会社法等が独占を促すようになっていたからであるとする。
40) 前注のような問題を防ぐために、利益集団による競争歪曲的立法を制御することが秩序
政策の重要な一部となるのである。いわゆる強い国家(雨宮・前掲注35)105-116頁)
は、利益集団ポリティクスに影響されないような制度的アレンジメントを含意しているのであ
る。なお、ここでの強い国家概念を米国反トラスト法の初期に一部で見られた共和主義傾向(川
濵前掲注24)80頁参照)と軌を一にしていると見ることもできるし、堕落した形態では誰
にも代表されない諸階級の利害を代表しているかが如き概観を装う全体主義的国家につながる
という批判も可能である。
41) 「カルテル」で表現される内容も問題になる。ここではいわゆるハードコアに限らず、独
立した経済活動の自由を合意によって拘束する広範な行為が競争を損なうものと捉えられる。
42) Eucken,a.a.O.S68 でこの基準が示唆されていたが、これを理論的に深めたものとし
て Leonhard Miksch," Die Wirtschaftspolitik des Als Ob", 105 Zeitschrift fur die Gesamte
Staatswissenschaft"310 (1949) が参照されるべきであろう。
43) Miksch,a.a.O.S333.
- 22 -
うに」基準も、
オルドー学派の継承者達には拒否する者が多い 44)。もっとも、後述するように「か
のように」基準は単に分散化された市場構造や競争的価格設定を目指すという以上の内容を
持つ上、それが競争のあり方についての規範的参照点を意識したものだという点では重要な
意味を持つ。
なお、ここでいう「完全競争」は、市場参加者が価格受容者であるという通常のミクロ
経済学の意味につきるものではない。市場において他の事業者の活動を強制する力を有さ
ないことを意味するものである 45)。これは、競争を個人の自由の価値を実現する立場に由来
する。Eucken の独自の完全競争を強調するために、英語訳として「完備競争(complete
competition)
」があてられることもある 46)。
ところで残存する独占に対しては、排他条件附取引、忠誠リベート、略奪的価格設定等の「妨
害競争」47) を禁じることによって競争を回復させるという手法も重視されている。「妨害競争」
の意義が問題となるが、「かのように」基準では完全競争では観察されないような慣行はそれ
に該当することになろう 48)。さらに、完全競争を「強制する力」が存在しないと解する立場から
は、相手方の意思決定への力による介入と想定される行為があれば、妨害競争の手段という
44) その代表として、Ernst-Joachim Mestmacker, "Verpflicht §22 GWB die Karetellbehorde
marktbeherrshenden Unternehmen ein Verhalten aufzuerlegen als ob Wettbewerb
bsetunde"DB1968,S1800,S1803-1806 を参照せよ。なお、村上淳一「西独競争制限禁止法の
思想的背景」公正取引454号4頁、6-8頁(1988)も参照。
45) Eucken の完全競争概念については、Dieter Schmidtchen, "German "Ordnungspolitik" as
Institutional Choice", 140 Zeitschrift fiir die gesamte Staatswissenschaft, 60( 1984) 及び Hans
Otto Lenel, "Walter Euckens ordnungspolitische Konzeption, die wirtschaftspolitische Lehre in
der Bundesrepublik und die Wettbewerbstheorie heute", 26 Ordo,62,71-5(1975) 参照。もっ
とも、通常の意味での完全競争状態であっても、他者の事業活動を強制することはできない。
46) David J. Gerber ,Law and Competition in Twentieth Century Europe:Protecting
Prometheus (1998)245,n52 参照。
47) 妨害競争と業績競争の二分法は , ドイツの不正競争法に由来する考え方である。その
詳細と競争法への組込の意義については、岸井大太郎「ドイツ競争法における「業績競争
(Leistungswettbewerb)」理論(1)(2)」法学志林83巻1号1頁、4号61頁(1980)
を参照。業績競争は「自己の業績という手段をもって、その営業の販売活動を促進する」行為
であるのに対して、妨害競争「自己の業績の上昇を伴わず」に、「ただ競争者の妨害(行為の
自由の侵害)のみを引き起こし、それによってはじめて自己の売り上げのための無制限の通路
を創出する行為」とされる(前掲1号15頁)参照。
48) 妨害に、競争者の行為自由の侵害を見出すことは(岸井・前掲注47)1号15頁)、オ
ルドー流の完全=完備競争の前提が充たされていないことを意味する。そこに完全競争と業績
競争概念との接触面がある。
- 23 -
ことになろう。これらの考え方が、後述する EU 競争法の独占者に対する特別の責任論や、形
式ベースの排除行為規制などをもたらしたと解されている 49)。擁護する側からすると、
カルテル
禁止と併せて明確な法的ルールによって市場参加者の活動の自由を確保することを意図したも
のであって、経済的自由を保護するためにそれがその前提条件を破壊することのないようにし
たものだということになろう。
これらの内容は、競争政策をより広い秩序政策の中に埋め込もうとしている点を別にすれ
ば 50)、米国の反トラスト法の歴史に類似の規制及び規制理念を見出すことは容易である。しか
し、オルドー学派の特徴は、自由の規律のため国家介入する規範的参照点(ベースライン)
を明示的にしようとする点にある。批判にさらされることも多い「かのように」の基準もその観
点から再評価することができる 51)。
(4)以下の構成
上述のように、本稿は基本的なルールにもとづいて適正な市場秩序を形成する法律として
の独禁法の特性を確認するとともに、それを素材に政策的な裁量的判断と権利義務に基く原
理的な判断との緊張関係を追究する。それがどのような問題をもたらし、それにどのような対
処が考えられるかを検討し、かかる検討の中で独禁法の基本的な問題群のいくつかに新たな
光をあてんとするものである。ここでいう基本的な問題群とは、独禁法と自由との関係、独禁
法の目的として消費者厚生と社会的効率性のどちらが優先されるのかという問題、さらには今
日もっともホットな議論となっている競争の「不当な」排除とはどのようなものかという問題で
ある。
その際の視点として、独禁法が競争過程の保護を通じて、市場の改善を図っているという
側面を強調する。独禁法が、競争過程を適切に保ち、もって市場の機能を適正なものとする
というのは一見自明なように思われよう。にもかかわらず、市場過程についての争点は従来見
落とされてきた。さらに、競争過程や市場の機能の適正さとは何かという根本的な問題につい
ての論点整理も充分に行われてこなかった。独禁法において競争は最重要概念だが、その概
49) Richard Whish,Competition Law(5th ed 2003)19-20,John Kallaugher and Brian Sher,
"Rebates Revisited: Anti-Competitive Effects and Exclusionary Abuse Under Article 82" 25
E.C.L.R. 263(2004),Gunnar Niels. Helen Jenkins,"Reform of Article 82: Where The Link
Between Dominance and Effects Breaks Down" 26 E.C.L.R. 605(2005)
50) Walter Eucken,Grundsatze der Wirtschaftspolitik, 6. Auflage S.305
51) Nils Goldschmidt and Arnold Berndt Leonhard Miksch (1901 - 1950), 64 American
Journal of Economics and Sociology 973,978(2005) は、Miksch の「かのように」の基準につ
いて、私的市場支配力を明らかにし、それを制約するための規範的な参照点が必要であること
を我々に思い起こさせることに成功したとしている。これは、次章第3節で説明するベースラ
イン問題の明示化に外ならない。
- 24 -
念の多義性・開放性はよく知られている。第三章で説明するが、競争過程の考察は自由の位
置づけなど原理的な考察をおこなう基盤ともなる。競争過程の意義を確認する作業は上記問
題群の探求作業を通じて行われる。
したがって、競争過程概念をめぐる考察を行うには、独禁法と競争政策に関する基本的な
概念及び議論状況を整理する必要がある。第二章はこの前提作業を行う。そこでは、まず競
争政策と独禁法との関係を整理し、次に諸概念の整理作業の前に、今日でもしばしば競争概
念のベースラインとして採用される完全競争概念の位置づけを確認する。その上で、独禁法
と自由との関係、独禁法における対市場効果要件・消費者厚生・社会的効率性の意義と位
置づけを整理し、その上で競争概念におけるベースライン問題の重要性を説明する。それら
の前提作業の上で、第三章で競争過程概念の独禁法における意義を検討する。競争過程を
害するとはどういうことか、それが法的議論で果たす役割などを説明し、競争過程概念が従来
の問題群とどのように関連するかを示し、第四章で「排除とは何か」という今日世界的に議論
されている問題を材料に、(2)の末尾で提起した問題点を吟味する。すなわち、競争過程
概念が独禁法の議論において有する意義、独禁法における政策的考慮と原理的考察の相克、
競争秩序にかかるベースライン確定の重要さと困難さを確認する。
第二章 独禁法と競争秩序をめぐる論点整理
はじめに
前章第4節(4)で述べたように本章では、独禁法と競争政策に関する基本的な概念及び
論点を確認する。ところで、競争政策という言葉はしばしば独禁法に基づく規制と同一視され
る。競争政策という言葉は文脈に応じて用いられ、その状況において指示するものがある程
度明らかになればよいという程度で用いられており、その意味を確定する作業はそれほど重要
ではない。しかし、独禁法における介入に関して、特定の行為を違法とするルールを決定す
るレベルの問題と、競争が害されている状況に対するそれを改善するという措置的介入を中
心とする2つのレベルがあること、特に後者が現行独禁法を離れて競争政策としての法の意
義を確認する上で重要だと言うことを確認することは有益であろう。第1節では、まず、その
観点から独禁法・競争法におけるルール中心の見方と措置的介入中心の見方を説明し、本稿
の関心たる市場秩序の基本法が前者の側面にかかわるものであることを確認する。第2節で
は、独禁法における基本概念を整理する。まず、独禁法・競争政策に関して今日でも完全競
争が言及されることがあるので、それが仮装問題であることを確認する。次に、独禁法=競
争法における自由の位置づけについてそれがどのように「競争」概念と関連づけられてきたか
を整理する。さらに独禁法の介入の前提としての市場レベルでの反競争効果がどう考えられて
いるかの今日の標準的見解を確認し、その上で独禁法=競争法の経済的目的としてもっとも
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重要な争点となっている消費者厚生基準と社会的効率性基準の対立を説明する。第3節では、
これまであまり意識されなかった独禁法=競争法の介入の参照点としてのベースライン確定作
業の重要性を説明し、競争過程の適正さを問題にすることの意義を確認する。 第1節 独禁法と競争政策:ルール中心の見方と措置中心の見方
独禁法と競争政策はしばしば混同された形で言及される。それを同一視することも多い。競
争政策と市場における競争を促進・適正化するための介入と定義すれば、独禁法がそれに属
することは確かだが、規制改革後の公益企業規制などにおいても上記競争政策が行われてい
る。
広義の競争政策を考える上で、一定のルールの遵守の問題と、市場における競争が害され
ている状況への介入の問題を区別することが重要である。競争政策の中には、市場参加者に
対するルールを提示する以外に、市場における競争が充分でない状況への直接的介入も含ま
れている。英国の競争法における市場調査(独占調査)制度 52) がその典型である。これは、
市場の特性が競争を損なっている場合に、競争委員会に調査を付託し、悪影響が確認された
場合に、その是正のために必要な措置を当該市場参加者に命令するというものである。最終
手段としては企業分割も可能である。介入対象は限定的であるものの、わが国の独占状態の
規制(独禁法8条の4)も、この系列に属するものである。
これは、現に発生している市場の失敗を直接的に是正しようというものであって、もっぱら
将来志向の政策的思考が問題となる。その介入自体は法に基づいて行われるが、市場参加
者が守るべきルールの執行とは異なっている。ただし、あくまで競争を取り戻すことが目的で
あって、市場で決定されるべき価格、数量等への直接的介入ではない。
競争を回復するという課題は、通常の独禁法違反行為においても、重要な課題ではある。
違反行為に対し、その停止だけを命じるのではなく、それによって損なわれた競争状態をそ
れのなかった状況へと回復することが競争当局の最大の課題である。この側面では、違法行
為に比例した内容であるなどの制約はあるものの競争当局の高度の裁量的判断の合目的性が
重要である。
米国の反トラスト法では、衡平法の伝統から違反行為に対する広範な救済が可能となって
おり、企業分割、特許の開放など一見ドラスティックな多様な救済が採用されてきた。これを
受けて、この救済(措置)を市場の失敗の是正手段と見て、反トラスト法違反をそのための
引き金に過ぎないのだという見方がシャーマン法2条の運用を中心に1960年代に有力化
した。いわゆる構造規制の考え方であるが、これを立法論ではなく解釈論レベルで実現しよう
52) Enterprise Act 2002 Part4 を参照。これは1948年以来の独占調査を拡張したもので
ある。独占調査の内容については、川濵昇「イギリスの競争政策」(小西唯雄編『産業組織論
と競争政策』(晃洋書房 2000)所収)181頁以下参照。
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とした結果、米国においては、実体的な違法性の判断基準を介入による改善の可能性で見て
いくという倒錯した状況を生み出し、わが国でも追随する論者がいた 53)。市場における競争ルー
ルとして守るべき内容と、それが生み出した状況の排除の問題は峻別するのが妥当である。
本稿ではあくまでも実体的なルールのあり方、その適用に現れる問題に焦点を合わせる。
なお、実体的なルールに焦点を合わせるということは、市場の失敗に対する直接的介入が
妥当でないという判断を前提にしているわけではない。わが国の独占状態規制はまったく利
用されてこなかったが、英国の市場調査(独占調査)規制は企業分割の例こそないものの、
弊害のある市場に対して実効性ある介入を行ってきた。英国では1998年競争法によって、
EU競争法の直接的な継受に近い形で従来の競争法の再編が行われたが、独占調査制度に
は手をつけられず、2002年企業法の段階で市場調査という形で介入を広範にしたのも、
これまでの実績に由来するものであろう。さらに、公益企業規制の分野での規制当局による実
質的意義における競争政策では、違反行為を契機としない介入は非常に重要な意味を持って
いる。
第2節 独禁法と競争政策の基礎概念
(1)「完全競争」という仮装問題
独禁法の目的が競争の促進であるとして、そこで念頭に置かれる「競争」とは何か。完全
競争が資源配分の効率性を達成することを根拠に、「完全競争」がしばしば言及されてきた。
完全競争とは市場参加者の決定によって価格に影響することがないこと、すなわち市場参加
者が市場価格を所与として行動する価格受容者であることを意味する。そこで市場参加者が
価格受容者となるための市場構造の諸条件をあげ、それを理想として近づくことを独禁法の目
的とするかが如き言説がかつて見られたし、いまでもそのような誤解がある。しかし、完全競
争条件を現実に満たすことは通常不可能であるし、望ましいとも限らない。また、完全競争の
諸条件のいくつかが同時に不充足の場合、一部の条件を充足させたところで事態の改善にな
る保証もない。
そこで、市場構造によって定義される「完全競争」は、法及び公共政策が促進を目指すべ
きものでないとして、実現不可能な完全競争ではなく現実に追求すべき競争としての「有効競
争(workable competition)
」を構造・行動・成果の3つの観点から探究するという研究プロジェ
クトが1960年代まで米国で有力であった。その影響は他国にも及んだが、今日では廃れ
53) このような立場が、シャーマン法2条の解釈における重要問題の探求を妨げてきた点に
ついては、川濵昇「独占禁止法二条五項について」『京都大学法学部百周年記念論文集 三』
323頁、328-330頁(有斐閣 2000)参照。
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た 54)。経済学のプロジェクトしてそれが廃れた経緯はともかく、完全競争なり有効競争なりを法
の目指す基準とすることによっては、独禁法の各規制を説明することはできない。市場の失敗
に対する裁量的介入における市場の改善のための基準点として、完全競争や有効競争を採用
することがあり得たとしても、特定の行為を違法と評価するにはかかる構造中心の基準は有効
ではない。にもかかわらず、今でも独禁法に関連して「完全競争という仮装状態が想定され
ている」55) と批判されることがある。ここでの「完全競争」が、構造的基準を問題にしているな
らそもそも意味をなさない。もっとも、第一章第4節(3)で見たようにオルドー学派や古典
的な反トラスト学説では、完全競争の構造条件ではなく、完全競争では観察されない行為な
り慣行が存在するとき、それらを完全競争でないことの徴憑と見るだけでなく、競争を害する
ものと看做す立場がある。R.Coase がかつて米国の反トラスト法にみられたという
「冷遇の伝統」
も同様である。すなわち、行為の適切さを判断する際のベースラインとして完全競争状態で観
察されうる慣行かどうかを問題にするという立場である。この立場に対しても、完全競争で観
察されない慣行が観察されたとしても、それは反競争的な慣行であるよりも、不完全競争に起
因する不効率等に対処するための慣行である可能性もあり、完全競争をベースラインとするこ
とはやはり妥当ではない。
(2)独禁法と自由等の関係
独禁法を取引の自由(経済的自由)や公正な機会の擁護のためのものだという考え方は反
トラスト法制定段階からある。国家による経済的自由の制限ではなく、経済的権力による経済
的自由の制限から保護するということが独禁法の目的なのだという思想は伝統的な反トラスト
法思想においても 56)、オルドー学派(前章)においても見られた。また、わが国においても取
54) 有効競争論の意義とそれが廃れた経緯については、川濵昇「独禁法と経済学」日本経済
法学会編『経済法講座第 2 巻・独禁法の理論と展開』(三省堂)39-88 頁(2002)。
55) 「シンポジウム競争秩序と民法」私法70号7頁(内田貴発言)
56) Edward S. Mason,"Monopoly in Law and Economics"47 Yale L.J.34,36(1937) は、法学に
おける自由競争とは「個人又は企業が合法的経済活動に従事する自由が、国家、競争者間の協
定、ライバルの略奪的戦略によって、制限されていない状態をいう」としていた。
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引の自由の観点から競争概念を構築しようという試みがなされてきた 57)。 もっとも、競争と自由等の関係の議論は特定の禁止類型に関連して述べられることが多く、
内容も多岐にわたるため、議論の整理や法的規準との接合が充分になされてきたとは言えず、
レトリカルな主張にとどまっていることも多い 58)。コンテクストによって、競争が自由を守るよう
に語られたり、事業活動の自由や公正な競争機会が競争の前提であるとされたり(それを追
求することが競争の追求なのだとされる)
、それらが渾然一体となって主張されたりする。ここ
では、競争法と自由について語られる際の典型的な言説を整理しておく。
(a) 分散化された市場と経済権力の抑制
強大な経済権力が自由を抑圧することを念頭におきつつ、経済権力を分散させることが競
争の維持であるとする立場がある。少しニュアンスは異なるが中小企業を維持することそれ自
体を中小企業の経済活動の自由と考え、その存在が競争を維持するのだという形で競争と自
由を結びつける立場もあった 59)。さらには、経済権力が政治的権力と結びつく危険性も、オル
57) 取引の自由からの競争概念を志向するわが国の代表的研究として、舟田正之「『公正な競
争』の規範的意義(上)(下)」公正取引 423 号 15 頁、424 号 39 頁 (1986) 及び江口公典「公
正競争阻害性、競争の実質的制限の解釈理論について(上)(下)」公正取引437号23頁、
468号47頁(1987)があり、本文の分類では主として (b) ②の観点から取引の自由と
公正競争との関係を理論的に解明している。また、楠茂樹「 独禁法における「競争」の理解
及び「競争」とルールの関係についての検討(1)(2)」論叢147巻3号70頁、149巻
2号65頁(2000)は、Hayek 思想の丹念な読込をを通じて、その自由観とルール観から
「競争」概念の解明を試みている。
58) Rudolph J.R.Peritz,Competition Policy in America,1988-1992 History , Rhetoric,Law(1996)
反トラスト法において「自由」をめぐる言説がどのように展開してきたかを6つの時代区分に
応じて叙述しており、競争と自由のレトリック分析として有益である。
59) United State v.Almiumu Co.,148 F.2d 416,429(2d Cir.1945) で Hand 判事がシャーマン
法の目的の一つは「小規模な単位が相互に効果的に競争しあうような産業組織を、それ自身の
ためにあり得べき費用にもかかわらず、存続させ、維持させることである」としたのは有名で
ある。さらに Brown Shoe Co. v. United States,370U.S. 294,344(1962) も参照。なお、Eleanor
M. Fox, The Modernization of Antitrust: A New Equilibrium, 66 Cornell L. Rev. 1140, 1187-88
(1980) も参照。
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ドー学派のみならず、反トラスト法の判例 60) でも指摘されていた。
このタイプの「自由」保護機能は、わが国では一般集中の形式的規制を正当化する文脈で
持ち出すことは可能である。しかし、独禁法の一般的な基準に関連性を見出すのは難しい。
米国では SCP パラダイム華やかなりし頃、比較的低い集中度で合併規制を行われていた。そ
の際に補強的な論拠として分散された市場が自由を守るという議論も見られたが 61)、後者の観
点から運用可能な企業規制基準を提案するのは困難である 62)。むしろ企業結合規制基準は経
済分析による国際標準とも言う規制枠組が今日存在している分野である 63)。一般集中規制のよ
うに、ラストリゾートしての経済権力の抑制措置は市場の機能維持に必要と筆者も考えるが 64)、
競争と自由の関係では周辺的な話題とならざるを得ない。
(b) 事業活動の自由
① 事業活動の自由を制約するような拘束的な合意を行うことを自由への制限と考え、独立し
た事業活動それ自体を競争の不可欠の構成要素と考える立場がある。これはコモンローで取
引制限とされていたものであり、かかる制限を契約の自由の限界とする法理が競争法の出発
60) 例えば、United States v.Untited Auto Workers,352 U.S.567,570(1957) は「シャーマン
法は巨大な産業結合が経済的自由に対して脅威となっていると感じられたことへの対応であっ
た」とした上で「集積した資本が政治に不当に影響して、腐敗に至らないとは言えない影響が
あるという一般的な感覚」を強調しているように、Warren 期の反トラスト法において強調さ
れた。なお、政治過程を虜にするものとして、大企業の経済力と中小企業の集団的行為がどち
らが効果的かなど、このタイプのストーリーについては詳細な検討が必要である。
61) Brown Shoe Co. v. United States,370U.S.at343-344 はまさにその理屈からシェア5%の
合併を問題としたのである。
62) なお、競争を排除する戦略的地位による競争の実質的制限を「自由」の修辞で説明する
ことは可能であるが、それは市場支配力分析の問題であって、ここでの経済権力云々とは異っ
ている。
63) わが国の現行企業結合ガイドラインがこの国際標準の枠組を採用している点については、
川濵・泉水・宮井・和久井・林・池田『企業結合ガイドラインの解説と分析』(商事法務 2008)参照(特に第一章、第七章)。
64) たとえば、今日でもラグラム・ラジャン=ルイジ・ジンガレス(堀内昭義=関村正悟=
有岡律子=アブレウ聖子 訳)『セイヴィング キャピタリズム』(慶應大学出版部 2007)
416頁は、自由市場の擁護の観点から、銀行と商業の分離をはじめとする一般集中型の法的
介入が今日なお有効であることを力説する。自由市場への信頼は、かような規制の必要性と矛
盾しないのである。なお、銀行と商業の分離と一般集中規制との関係については、川濵昇「米
国における銀行の株式保有規制の変遷ー銀行と商業の分離原則の行方ー」法学論叢152巻5・
6号211頁(2003)を参照せよ。
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点であった 65)。最広義の合意 66)(意思の連絡)によって事業活動を制約しないこと、換言すれ
ば意思決定の独立性を失わせないことで、自由を強制することが自由競争の核心と考えている
のである。
この場合、制約される事業活動の内容が問題とされるのが通例である。価格、数量、販売
地域等の顧客選択にかかる事項は、それに対する事業活動の自由の制約は競争への侵害の
程度が高いものとしつつ(当然違法ないし目的において反競争的な行為)
、それ以外の事項
については別異に考えるのが通例である。もっとも、後者であっても、原則として独立して意
思決定を制約することそれ自体を競争を害するものと見る立場もある。今日では、これらの制
約内容のタイプは、わが国独禁法で言えば「一定の取引分野における競争の実質的制限」を
認定する上での重要な要因と位置づけられており、自由への制約にかかる質的な問題と考え
られてはいない。自由を競争の直接的な構成要素と考える立場からは異なった考え方もあり得
る。
② ①のバリエーションとして、事業活動の自由を、優位に立つ事業者が相手方の意思決定
を制約する形で圧力を加えないという形で理解することもある。これも、コモンローの取引制
限の法理にその基礎がある。ここでも上記と同様に拘束される事業活動の内容を問題にする
余地があるが、同時に拘束の程度も問題となり得る 67)。拘束性の程度又は拘束を加える事業
者の優位性が強い場合とそれ程でもない場合とで自由に対する制約の度合いとは違うことにな
る。
これらの事業活動の自由が制限されるところでは、自由な競争が行い得ないという視点であ
る。独禁法1条が「その他一切の事業活動の不当な拘束を排除すること」に言及しているの
はこの意味での事業活動の自由を念頭におくものであるが、問題はいうまでもなく不当な拘束
とは何か、その不当性がどのように判断されるのかと言うことである。
(c) 公正な機会
競争者がなんらかの不当と考えられる手段で競争する機会を奪われること(排除される)こ
とから保護することを競争法の目的という形で整理することがある。なんらかの不当な手段を
どのように理解するかが肝心である。この場合に、他の事業者の事業活動を拘束ないし強制
65) 川濵・前掲注 24) 参照。
66) ここで合意とは契約だけではない。自己執行可能な共通了解の成立も含まれている。
67) 相互拘束の場合もこれを考える余地はある。合理的な目的のための事業活動の制約であっ
てもその拘束性の程度が必要か否かを問題にする場合などである。この場合も、強い拘束が合
理的な目的達成に必要か否か、拘束性が強いことが市場支配力の形成強化等にどのように機能
するのかが問題であるとするのが市場支配力分析の常道である。
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することが手段の不当性 68) を見る上で重要な要因と考えられてきた 69)。また、
このような公正な
機会が与えられることが事業者の自由にとって不可欠なものということもできる 70)。
(d) 消費者の選択の自由
市場支配力が形成・維持・強化された場合、その影響の及ぶ範囲内で当該市場の消費者は、
価格・品質その他各般の取引条件について自己に有利な選択を行う自由を奪われている。こ
の点をとらえて、取引の自由、選択の自由の問題とすることが可能であり、一般にそのように
考えられている 71)。(a)(b)(c) と異なり、これを自由と構成するかは別にして、このような消費者
の利益が、それ自体として競争法上保護されるべき目的・価値であることはほとんど異論がな
い。むしろこれに限定されるのか否かが今日の争点なのである。
(3)競争の評価基準:対市場効果要件と消費者厚生・効率性
(2)(b) で述べたような自由と競争との関係にもかかわらず、競争法での競争へのインパク
トは市場における競争の機能が害されたか否かによって判断される。市場における競争への
影響は評価の必要条件とされている。
市場での競争が完全であれば価格は競争水準となるが、市場参加者が競争水準を超えた
価格設定を自己に利益になるように設定しうる場合がある。このような状態を市場支配力と呼
68) ここで手段の不当性は competition on the merits の観点からの判断と軌を一にしている
が、わが国での公正競争阻害性における、もっぱら手段の不当性によってそれが決せられる
タイプとしても問題となる手段の不当性とは異なっている。この点については、川濵昇「競
争者排除型行為規制の理論的根拠-不公正な取引方法を中心に-」公正取引671号9頁
(2006)を参照。
69) 例えば、Fox,supra note(59)at1188-90 参照。なお、川濵昇「独禁法上の抱き合わせ規制
について (1)(2・ 完 )」法学論叢 123 巻 1 号 1 頁、29頁注(69)(1988)も参照。オルドー
学派において妨害競争と認定される手段は他者に行為を強制できないという意味で「完全競争」
において見られないものであるという理解を前提にすれば直ちにそう解することができる。こ
の視点だけで「排除」を決定できるわけではないにしろ、この視点が「排除」の判断において
重要な要因となっていることは第四章第4節で説明する。
70) Harlan M.Blaken and William K.Jones,"Toward a Three-Dimensional Antitrust Policy
Goals of Antitrust: A Dialogue on Policy " 65 Colum. L. Rev. 422,427-436(1965) 参照。
71) 舟田・前掲注57)の取引の自由はまさにこのような消費者の利益も自由と構成するも
のであり、江口・前掲注57)も同様である。さらに川濵昇「競争秩序と消費者」ジュリスト
1139 号 22 頁(1998)も参照。なお、山本・前掲注20)もこの点を強調するものと読むこ
とができる。
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ぶ 72)。なお、支配という言葉はあるが、これは経済学の慣用に習っただけであり、別に誰かを
支配していることをいささかも含意しない。
特定の行為によって、市場支配力が形成・維持・強化されることが市場レベルでの反競争
効果と考えるのが、今日多くの国の競争法で一般的な立場である。独禁法にいう「一定の取
引分野における競争を実質的に制限する」もそのように解するのが通説である。
誤解のないように確認しておくが、市場支配力が存在することが問題なのではない。一定
の慣行が市場支配力を形成・維持・強化するか否かが問題なのである。そのような誤解がな
いという前提で、簡略化のため、上記基準を市場支配力基準と呼び、そのような分析を市場
支配力分析と呼ぶことにする。
さて「一定の取引分野における競争の実質的制限」は上記見解と整合的であるが、このよう
な立場では公正競争阻害性をとらえきれないのではないかという疑問もあろう。公正競争阻害
性のうち、取引相手の意思決定の歪曲など手段の不当性にのみ求める類型、あるいは優越的
地位の濫用のように自由競争基盤の侵害とされる類型については、市場支配力基準が直接的
には妥当しないのは確かである。他方、この2類型については、その悪影響を市場に与える
インパクトの直接的感知とは無関係に認定することができる。しかしながら、公正競争阻害性
のうち、自由競争侵害とされるものは、上記市場支配力の形成・維持・強化を危険性のレベ
ルないしは低い水準で補足しようとするものであり、本質的な差違はない。実際、欧米におい
ても市場支配力基準と呼ばれながら、ある種の行為についてはその立証を要求しなかったり、
非常に簡略化された形での立証が認められたりしている。公正競争阻害性における自由競争
侵害に基く規制と同様のものが少なからず存在するのである 73)。
(4)消費者厚生基準と社会的効率性基準
米国では、反トラスト法の目的が消費者厚生 74) の向上であることについてコンセンサスがで
きあがりつつある。E U 競争法でも同様である。争点となっているのは消費者厚生を消費者
余剰と考えるか、社会的厚生(効率性)と考えるかであるが、前者が通説・実務であるが、
経済学を重視する論者では後者も有力である。いずれの立場であっても多くの場合、結論に
72) 自己に利益になるようにという要件は、単に価格受容者ではないという条件より限定的
なものと考え反トラスト市場支配力と分類する立場も米国では有力である。この立場では、独
占的競争のモデル(差別化された市場での自由参入可能な市場モデル)では、市場支配力は存
在するが、超過利潤は存在しないため反トラスト市場支配力と言えないことになる。
73) 共同の取引拒絶、抱合せ、再販売価格維持などは、欧米でも「市場支配力の形成・維持・
強化」を規制の前提としていない。
74) consumer welfare の訳である。これを消費者利益とした場合、総余剰説を消費者厚生と
考える余地がなくなるので、その表現を避けた。もっとも、わが国では総余剰説を消費者厚生
ととらえる立場は、外国論文を直訳したとしか思われない例を除くと見られない。
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差はない。
ここでいう目的論は、わが国独禁法1条にいう究極目的論のレベルのものではない。独禁
法の「直接の保護法益たる自由競争経済秩序の維持」75) が直接達成する目的 76) のことである。
消費者厚生基準は、先に見た市場支配力基準に対応している 77)。問題の行為が市場支配力
の形成・維持・強化をもたらすなら、それに対応して、消費者余剰の剥奪(当該行為による
価格上昇に伴う追加支払に相当)と資源配分の不効率(価格上昇により買えなくなったことに
起因する不利益に相当)が発生することになる。これを防ぐことを競争法の目的だとするのが
消費者厚生基準なのである。要するに、高くなって追加的に支払わされた不利益と、高くなっ
たために買えなくなった不利益(競争的価格と消費者の評価額との差額に相当する)の両方
75) 最判昭和59年2月24日刑集38巻4号1287頁。
76) 独禁法の究極目的を消費者厚生の向上と考える立場も考えられる。ただし、消費者厚生
の改善に資する効率性は、競争促進効果と評価できるため、直接の保護法益と矛盾はなく、最
高裁判例が考える究極目的はこれより広いものと考えられる。
77) 以下の内容に関する初等的だが詳しい説明として、川濵・泉水・瀬領・和久井『ベーシッ
ク経済法 第二版』(有斐閣 2006)(以下ベーシックとして引用)10-18頁参照。
- 34 -
が消費者の不利益だと言うことになる 78)。
78) なお、山本・前掲注20)153頁は、市場支配力にともなう消費者の不利益をスルツ
キー方程式の所得効果と代替効果に分けるという興味深い説明を行っている。煩雑な数式の展
開のため、そこで述べられた経済学的意義が一部読者によって誤解されているようであり(な
お、151頁の毛皮コートの例を用いた説明は読者の誤解を招くものである)、山本見解につ
いて若干の補足的説明を行っておく。
そこで行われている作業は要するに、本文中に述べた追加的な支払による不利益と高くなっ
たために買えなくなった不利益(死重損失)が同一の消費者に生じた場合を対象としているの
である。死重損失を精密に測定して余剰分析を可能とするには、需要曲線に一定の数学的特性
が必要だが、山本・前掲が行っている補償需要曲線の導出は価格変化に応じた積分によって社
会的な厚生の貨幣的評価を得ることができるようにするための作業なのである。両者を同時に
扱い、かつ通常の立証ではあまり問題とならない精密評価の議論を混入させたことが標準的な
独禁法私訴の分析手法を不透明にしたように思われる。標準的と語ったが、これ以外の方式を
採用した法域は寡聞にして知らないが。この点については)不当な市場支配力の形成等による
損害は単に超過支払と死重損失と表現すれば十分であって、それを損害とするのが標準的な手
法である(というより、これ以外の説明をとっている法域を寡聞にして知らない。ユルゲン・
バ-ゼドー(井畑陽平訳、川濵昇監訳)「EU 競争法違反行為に対する民事的責任について」民
商138巻6号681頁(2008)参照)。死重損失は市場支配力の形成等に生じることが
予見可能なものであって、通常損害とすべきものである(山本・前掲151頁は、不透明な分
類を行った結果、死重損失と不購入による後続損害とを混同しているように思われる。買わな
いで代わりに何を買おうとしたかが問題なのでない。違法行為に伴う価格設定より小さいが、
元の価格水準より高い、当事者の貨幣的評価が損害なのである。また、支払意欲が独占的価格
より小さい状況下でそれより高い出資をするということは、所得効果を考えても有り得ない。)。
死重損失以外の買えなかったことに後続する損害については予見可能性を問題とする余地があ
るが、それはスルツキー方程式の関与する問題ではない。もっとも、死重損失分が実際上損害
賠償の対象とするのは困難である(バゼドー前掲参照)。そのような被害が予見困難だからで
はなく、それを具体的に立証するのは事実上不可能といって良いほど困難だからである(死重
損失の一部分が中間購入者の利潤の喪失として立証可能なケースはあり得る)。それゆえ、独
禁法にもとづく損害賠償請求は集合行為問題を別にしても過小となるのである(バゼドー前掲
693頁参照)。
さらに付言しておくとカルテルの不当性の説明も合意当事者以外のものへの外部不経済の押
しつけと見れば足りるであろう。そうだからこそ、カルテル契約は Hayek や Epstein のような
自由市場への介入にもっとも懐疑的な論者にとっても違法とすべきものとされるのである。楠・
前掲注57)及び Richard A.Epstein,"Monopoly Dominance or Level Playing Field? The New
Antitrust Paradox",72 U.Chi.L.Rev.49,58(2005) 参照。
- 35 -
なお、消費者厚生の定義には、上述したような (a) 消費者余剰の移転と資源配分の不効率
の双方による消費者余剰の減少を考える消費者余剰説 79) 以外の立場もある。消費者余剰の剥
奪は消費者から消費者(企業の利潤も最終的には株主等の消費者たる自然人に帰属するはず
だということを前提にしている)への余剰の移転に過ぎず、(b) 社会から失われた消費者厚生
は資源配分の不効率にとどまるという社会的厚生ないし効率性 80) 説である。米国、E U とも
に (a) の消費者余剰説が現行法運用の基準でありかつ通説であるが、経済分析を重視する論
者の間では (b) の社会的効率性説も有力である。消費者厚生の一般的な意味は前者と理解さ
れている(ただし、後者と解する見解も米国では有力である)。各国の立法で一般消費者の利
益が言及されている場合も前者の意味に理解されるのが通例である。
なお、わが国でも2007年企業結合ガイドラインが効率性を勘案するにあたって(企業
結合審査に関する独占禁止法の運用指針(平成19年3月28日公取委)第4 2(7)
)
、
前者の意味での消費者厚生を企業結合規制の基準とする解釈を示している。
社会的効率性の意味での効率性を改善するか否かを競争法の判断基準とする立場の中に
は、R.Bork のようにそれが改善されることをもって競争的であるとすべきだとする立場もあ
る 81)。この立場は、第三章で見るように競争概念を競い合いないし競争過程に依拠して考える
べきではないという主張を伴っている。
なお、米国の判例法では競争促進的という言葉に企業レベルでの生産上の効率性の向上を
含めて考えている。このことの意義は、第三章第3節で検討する。
第3節 競争法におけるベースライン問題の重要性
第2節(2)で述べたように、競争法の介入は事業活動の自由を私人によっても干渉させ
ないようにするという側面を持つ。このことは、事業活動の自由が衝突する場合に、何が他方
79) 消費者厚生(利益)を余剰の移転にしか見出さないような表現を見ることがあるが、こ
れは資源配分の不効率性の形で発生した消費者の不利益に気がついていないだけのようであ
る。後者に気づきながら、それを自覚的に排除した例は、著者の見聞する限りでは見あたらない。
80) 独禁法の目的を効率性という場合、部分均衡分析での総余剰の意味での効率性のことを
さす。要するにカルドアヒックス基準の意味における効率性のこととされている。なお、競争
法の分析において、デッドウェイトロスを資源配分の効率性と呼び、個別企業が低価格で、あ
るいはよりよい品質で財・役務を提供できるという意味での効率性を生産上の効率性と呼ぶ
用語法が使われている(Bork,Antitrst Paradox(1978)91)。この用語法は、Frank Knight ,The
Economic Organization(1933)9 に倣ったものとされる。同じ表現が多義的に使われすぎるの
をさけるため、本文では特に断らない限り効率性は生産上の効率性の意味で用いる。なお、前
掲注28)参照。
81) Bork,supra note(80)at58-61.
- 36 -
に対する干渉であると見るのかについてのベースライン確定の重要性を示唆する。
そもそも、独禁法の母法である反トラスト法、その中でも特に不当な取引制限の法理は契
約の自由が取引の自由を制限することが公序に反するというコモンローのルールから出発し
た。
ところで、市場に対するなんらかの規制が、市場に対する干渉であるのか、それとも市場の
機能を支援するためのものなのかいかにして区別できるのだろうか。米国では労働時間規制
等を契約の自由の侵害として違憲判決を下したロックナー期の判例理論の問題点をいかに説
明するかが重要な課題となっているが、それを明確に示したことで著名な Sunstein の論文 82)
が明らかにしたように、ロックナー期の問題点は「コモンローの下での市場の秩序づけを現状
として、それを中立性、作為・不作為(介入・不介入)からの乖離を測るベースラインとし
た点にある」。別稿で検討したように 83)、米国では反トラスト法における不当な取引制限は、実
質的にはコモンローとは異なったものであったのが、その後、反トラスト法の達成した内容を
コモンローの内容と見直すことになった。いわばベースラインを変更することによって反トラス
ト法が市場への干渉であるという主張が封じ込められた。Sunstein は、ベースラインが現状
維持的かつ恣意的に定められることに注意を促し、ベースライン自体が公共的に決定できる場
合があることを強調したが 84)、反トラスト法の歴史は自然なコモンローではなく、公共的な考慮
が肝心であることを確認させるものである。
ところで、Sunstein が問題としたベースライン問題は憲法問題としての中立性、介入の測定
点としてのそれであるが、契約の自由や事業活動に対する規制を通じて自由を維持しようとす
る競争法においてはなにが基準点かは常に直面する問題である。反競争的行為により市場支
配力を形成等することにより、社会的な損失を与える自由が認められる世界とそのような行為
のよって消費者の選択の自由が害されない世界のいずれをベースラインとするのか。これらは、
憲法問題以前に、競争秩序の法を構想する上で不可避的に考察されるべき問題である。
反トラスト法のコモンローにおける淵源が問題となるとき常に言及される判例として、不当
な取引制限の原型たる1415年 John Dyer's 事件 85) と、1410年の Schoolmaster 事
82) Cass R. Sunstein, Lochner's Legacy, 87 Colum. L. Rev. 873 (1987).
83) 川濵・前掲注24)参照。
84) この点をより広いコンテクストで主張するものとして、野崎綾子「日本型『司法積極主義』
と現状中立性」井上達夫・島津格・松浦好治編『法の臨界 1法的思考の再定位』75頁(東
京大学出版 1999)を参照。
85) Y.B.,2 Hen. Ⅴ ,vol.5,pl.26(1415)
- 37 -
件 86) があげられる。後者の判決は「競争を行うことによって」他者が不利益を被ったとしても
不当侵害(trespass)に該当しないとしただけのものである 87)。これが、なぜ反トラスト法の出
発点になるのか。これは、なんらかの意味で不当性を帯びないことには、競争それ自体で害
を与えることは他者の侵害にならないというベースラインを設定した点において重要なのであ
る。
第三章 競争過程概念の意義
第1節 競争過程の位置づけ
(1)競争過程の問題とは何か
競争過程とは事業者が市場において顧客を獲得すべく、よりよい取引条件と品質を呈示しあ
う活動(競争活動)が集積する過程のことであり、それを通じて市場における価格・数量等
が決定される。また、生産や流通その他で新たな試みがなされ、評価されるのもその過程を
86) Anonymous "The Scoolmaster Case",Court of Common Pleas,Hilary Terms,1410.
Y.B.11Hen. Ⅳ ,f.47,pl. なお、この判決の意義について当時の教育制度や教会裁判所と世俗裁判
所の管轄問題なども踏まえて丹念に解明したものとして、滝澤紗矢子「グロスター事件判決
( 一四一〇年)に見出される「競争」概念再考」法学71巻6号1頁(2008)を参照。
87) スクールマスター事件判決が判決当時に有していた意義が、後世の論者の理解したようなも
のであったかについては疑問がある。滝澤・前掲注86)は、同判決の射程は、判決時におい
てははるかに限定的であったことを説得的に説明している。不当な取引制限の代表とされている
John Dyer's 事件も、一見したところ「営業の自由」にかかる17世紀以降の判決の先駆けのよ
うに見えるが、その射程ははるかに限定的だっとことが明らかにされている(川濵・前掲注24)
51 頁注21及びそこで引用されている文献を参照(2004))。コモンローの競争17世紀に営業
の自由が確立されるプロセスで初期コモンローの判決の読み直しがなされたものと考えられる。
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通じてである。独禁法(競争法)はこの過程を害する行為を規制するものと考えられる 88)。既
に述べたように、独禁法違反行為での競争への害とは、競争過程(競い合いの過程)を害し
たこととそれを通じて市場支配力の形成等をもたらすことの両面を含むのである。なお、単純
に用語法の問題であるが、文献の中には「競争過程を害する」という表現を、狭義の競争過
程を害しかつ市場支配力の形成等が生じたことを意味するものとして用いる例もあるので注意
を要する。
それでは、どのようなときに競争過程が害されたといえるのだろうか。これは、まず競争の
回避及び競争の排除として理解される。
競争の回避とは、個々の事業者が独立した行動をとらずに一定の拘束を相互に受け入れた
り、一方的に拘束されることによって競争が回避 89) されることを問題とするものである。要する
に、競争を過程として捉えるということは、「競争は、買い手と売り手がそれぞれ誰とどのよう
な条件で取引を行うかについての決定を自ら行うことから成り立っており」「個人的決定は競争
の中心的特徴である」という競争観を前提とするものなのである 90)。
競争の排除とは競争参加者(潜在的な者も含む)の競争的活動を困難にすることによって
競争的抑制を緩和ことを意味する。自由な決定を行う事業者が、その事業活動する機会を不
当に制限されることなく、競争的抑制を相互に及ぼすことが競争過程の本質と考えられるから
である 91)。
上記説明では、競争過程の視点は不当な取引制限、私的独占、不公正な取引方法といっ
た行為規制に妥当するにしても、構造規制と分類される企業結合規制には関係ないと誤解さ
88) 競争過程(competitive process もしくは Competition as Process)への害という表現に
どのような意味を込めるかについては、論者によって広狭様々である。本文でも述べたように
市場レベルでの反競争効果も発生していることを含めて理解する例もる。また、競争過程に言
及するコンテクストに応じて、本稿での説明の一部を切り取った形で競争過程が言及される
こともある。例えば、独占化のコンテクストでは参入もしくは周辺的企業の拡張の機会が維
持されることを競争過程の維持と呼ぶことになろうし(Fox,supra note(59)at1169)、共同行
為のコンテクストでは競争事業者が独立した意思決定を行っている点をとらえることになる
(Louis Kaplow and Carl Shapiro,"Antitrust" in Handbook of Law and Economics,vol2.(A.Mitchell
Polinsky and Steven Shavell,ed 2007).1073,1134, さらに、Bork,supra note(80)at58-59)。そ
れらのコンテクストごとに競争の機会なり自律的行動という用語を使うこともあり得るが、い
ずれの用語を用いた場合であっても本文で説明した競争過程を害さないという要請を意味ある
ものとしている点に違いはない。
89) かような一方的拘束は、わが国では支配型私的独占ないし不当な拘束条件付取引の対象
となるが、不当な取引制限の対象とする国も多い。
90) Kaplow and Shapiro ,supra note(88)at 1134.
91) Fox,supra note(59)at1188-90.
- 39 -
れるかもしれない。しかし、企業結合規制においても競争過程の視点は関連性を持ち、規制
基準を考える際に重要な意味を持つ。
水平的企業結合を例にとると、それが規制される典型的場合とは、競争していた複数の企
業が統合されることによって、競争圧力を受けることなく市場支配力を行使できたり(単独行
動による競争の実質的制限)
、市場に残存する企業との競争回避的行動をとりやすくなる(協
調行動による競争の実質的制限)ことが前提となっている。結合を契機とした競い合いの緩
和という形で競争過程が害されることによって市場における反競争効果が生じるというのが規
制の条件となっているのである。競争過程の視点の重要性は、いわゆる「効率性ゆえの違反」
(efficiency offence)92) の問題を念頭に置くといっそう明らかとなる。
有力な企業が企業結合の結果その事業活動の能率をいっそう高めることになりそうだとす
る。その結果、残存する企業が対抗することが困難になるとして、企業結合を問題視できるだ
ろうか。かつて、米国ではそのような規制が行われていた 93)。しかし、この場合に市場支配力
の維持等があったとしても、それは競争回避を通じて発生したとは言えない。また、不当な競
争排除を通じて当事会社の地位が強化されたとも言えない。競争過程は害されていないので
ある。このような企業結合は、競争を活発にするという競争過程にプラスの影響を持っている
と考えるべきなのである。そうであるがゆえに、今日このような「効率性ゆえの違反」を積極
的に容認する議論は見られなくなった 94)。他方、競争者の費用を人為的に引き上げたり、略奪
的行為を行えるような地位を獲得することを通じて市場支配力の形成等をもたらす場合には、
不当な競争排除という競争過程への害が見出されることになる。後者は、垂直的企業結合や
混合型企業結合では特に問題となる競争過程への害である 95)。
もっとも、「効率性ゆえの違反」に過ぎない場合と排除する戦略的地位を生み出すが故に生
じる競争過程への害が区別しにくいのは確かである。しかし、確かに区別が存在し、またそ
92) 企業結合を「効率性ゆえに違反」とする議論のバリエーションについては、Bork,supra
note(80)at204-05 参照。
93) Brown Shoe Co. v. United States, 370 U.S. 294, 344 (1962) 及び FTC v. Procter & Gamble
Co., 386 U.S. 568, 579 (1967) を参照。
94) 林秀弥「合併規制の根拠からみた混合合併の規制基準」・社会科学研究(東京大学社会科
学研究所)
・56 巻 3・4 号 27 頁(2005)も、本稿とは異なった視点から「効率性ゆえの違反」
について同様の結論を導く。
95) 水平型企業結合であってもこの面での悪影響も併せもつ例は多い。
- 40 -
の区別こそが競争法にとって決定的に重要である 96)。いずれにせよ、当事会社の費用の低減や
品質向上などの事業活動上の効率性の改善が競争者の困難につながったとしても、競争過程
を害したとはいえない。よくいわれるように競争者の保護と競争の保護は違うのである 97)。ここ
でいう競争の保護とは上記の意味での競争過程の保護にほかならない。
(2)競争過程軽視の傾向がなぜ生まれたのか?
(1)で見たような競争過程への害という問題設定は一見したところ自明のように思われる。
しかしながら、米国ではこれが必ずしも自明でなくなり、それどころか競争過程を持ち出すこ
とそれ自体に対して批判的な見方さえ現れるに至った。まず、なぜ自明でなくなり、さらには
敵視の傾向さえ生まれたのかを説明し、改めてその重要性を確認する。
第二章第2節(3)で見たように、独禁法の直接の保護法益は市場における競争の維持で
あり、それに対する悪影響は市場支配力の形成等もしくはそのおそれによって判断される。こ
れは、消費者厚生もしくは社会的厚生(効率性)98) を問題とするのとほぼ同じことになる。法
と経済学の隆盛のもと、社会的厚生が重視されるようになってから、Bork のように、社会的
96) GE と Honeywell の合併に関連して、EU 競争当局と米国反トラスト当局でこの点につい
て意見の対立があったことは有名であるが、いずれもこの区別の重要性については認識してい
たことは重要である。この点を詳述するものとして、池田千鶴『競争法における合併規制の
目的と根拠- EU 競争法における混合合併規制の展開を中心として-』(商事法務 2008)
222- 247頁を参照。
97) 競争に競争者が必要なのは当然であるが、競争過程から退出する者がいることそれ自体
を問題視することができないのも当然である。肝心なのは何によって排除することが問題とな
るのかである。この点について、池田・前掲注96)505-507頁を参照。この問題は、
後述する競争過程を害する排除とは何かの問題と関連する問題である。なお、この文脈で企業
結合規制における参入障壁の評価の仕方にも関連する。参入障壁を所与とする場合なら Bain
流の参入障壁が妥当するが、参入障壁自身を制御変数と見るべき場合には Bain でなく Stiegler
ないし Weitzsacker の参入障壁が妥当することになろう。参入障壁の各種定義については、
Preston McAfee ,Hugo M. Mialon and Michael Williams,"What is a Barrier to Entry?," 94 Amer.
Econ. Rev.461(May 2004) を参照。
98) 前掲注80)で見たように、独禁法で効率性の改善が目的であると語られるとき、それ
は総余剰ないしカルドア=ヒックス基準の意味での効率性のことである。これはしばしば社会
的厚生を目的とすることと同一視されている。両者はもちろん異なり、社会的厚生を問題とす
る場合、分配も視野に入れることになるはずであるが、効率性を重視する論者は独禁法で分配
目的を達成するのが不効率であることを前提に、分配は租税に任せることとして、社会的厚生
の改善を独禁法の目的と捉えるのである。この点に関連して、常木淳『法理学と経済学 規範
的「法と経済学」の再定位』(勁草書房 2008)22-30頁参照。
- 41 -
厚生が害されることをもって競争への害と考える立場が有力になった。このような立場が有力
化したのはなぜか。一つには、第二章第2節で述べたような競争概念の不明確さにある。特
定の市場なり、市場内部の慣行が競争的か否かを日常言語ではよく使うが、どちらがより競争
的なのかについての基準は判然としない。経済学に依拠しようにも完全競争の定義はあるが、
市場構造だけを内容とするそれをベースラインとして競争秩序を再構成することは非現実的で
ある。有効競争は、構造、行為、成果の三面からベンチマークを提示しようとしたが、厳密
な研究プログラムとしては40年近く前に頓挫した。その中、競争なる曖昧な概念にかえて、
社会的厚生という経済学が提供できる基準によれば的確な判断ができるのだというのが、法と
経済学の隆盛とあいまって有力化したのである。
ところで、Bork らはそもそも競争過程概念を持ち出すこと自体に批判的である 99)。これは、
競争過程を強調する議論がしばしば競争過程への害それ自体を直ちに違法の根拠とする傾向
があったからである。事業活動が他の事業者によって拘束されず、独立した意思決定を行うこ
とや競争の機会を不当に奪われないないことは、競争過程の維持に必要である。しかしながら、
それをもたらす行為が直ちに市場レベルでの悪影響を持つとは限らない。もっとも、よく知ら
れているように米国ではハードコアカルテルや共同ボイコット、抱合せといった行為類型に対
して当然違法という扱いがなされているし、EU 競争法でも81条において目的において反競
争的とされる行為類型がある 100)。これらの類型の存在を市場への効果と無関係に競争過程へ
の侵害だけを規制根拠にできるという理解が、過剰規制を生んだというのが Bork らの立場で
ある。当然違法原則の位置づけが重要な意味を持つのである。
今日、これらの行為類型は次のように市場レベルでの悪影響を持つ蓋然性が高いがゆえに
規制されるのだと考えられている 101)。例えば、競争業者間における価格協定、数量協定、顧
客分割協定、談合などのハードコアカルテル 102) は、市場支配力の形成等による利潤獲得とい
う目的を持って行われ、効率性の向上と言ったそれ以外には当事者の利益となる競争促進的
な理由は通常存在しない。したがって、行為の外形から市場レベルでの悪影響を推認ないし
99) Bork ,supra note(80)at58-59 ,Kaplow and Shapiro ,supra note(88)at1134.
100) 水平的協定に関する当然違法原則の米国、EU、その他各国での採用状況については、
Einer Elhauge and Damien Geradin,Global competition law and economics(2007)55-66 を参照。
101) 当然違法と合理の原則の区別の今日的意義については 7 Phillip E. Areeda & Herbert
Hovenkamp, Antitrust Law 335-446 (2d ed. 2003) を参照。以下の叙述も、同書の分析に依拠
している。
102) 競争を制限することによって利益を得ることをもっぱらとする競争業者間の協定、あ
るいは競争を制限することによって利益を得ること以外には当事者の利益にならないような共
同行為のことである。価格や数量、顧客分割などがこれに該当する(ただし、付随的制限に過
ぎない場合は別である)
。ハードコアカルテルの意義については、金井・川濵・泉水編『独占
禁止法第2版補訂版』(弘文堂 2008)60頁(宮井雅明執筆)参照。
- 42 -
擬制することが経済的経験則に照らして妥当とされ、多くの国で当然違法等の扱いを受けてい
るのである。
わが国はハードコアカルテルに対しても反競争効果の立証を要求するとという経済的先進国
では少数派の立場 103) を採用しているが、企業結合規制とは異なって簡略化された形での立証
で十分とされている。なお、事業者団体が行うハードコアカルテルについては行為の外形から
推認される立場をとっている(8条1項4号)104)。これらは上記経済的経験則に裏打ちされた
立場と考えることができる。他方、これを行為の競争過程に対する悪性が市場における悪影
響の立証に関連するものとはとらえずに、第2章第2節(2)で見たような自由なり機会を保
護することそれ自体が競争の維持なのだという観点から理解する立場もあり得る。価格カルテ
ルの悪性を、価格決定の自由という重要な意思決定を拘束することそれ自体に見出すというも
のである。このような形で悪性を認めると、例えば再販売価格維持行為は価格決定の自由を
制約するがゆえに直ちに違法と言うことになる。他方、これを価格決定の自由の制約を通じた
価格競争の緩和によって市場支配力の形成等のおそれがあるものと考える立場とでは規制の
範囲が異なってくる 105)。
市場での競争への影響とは異なった、行為の本来持つ性質にのみ注目するという発想から
規制を行うと過剰な規制となる可能性がある。例えば、ハードコアカルテルではない競争者間
の合意の問題を考えよう。競争過程の本質を個人的意思決定を重視し「取引の適切な条件に
ついて何らかのレジームを押しつけようとする集団は過程を損なうもの」106)と考える立場からす
ると、これも原則として競争過程への問題をはらむ。競争過程の意味での競争を過度に重視
する立場、例えばかつての EU 競争法81条1項(旧ローマ条約85条1項)の運用におい
て有力であった立場を例にとろう。そこでは、拘束されないで意思決定を行うことは反競争的
と考えられ、拘束されない意思決定が害されることそれ自体が問題だとされ、事業活動にか
かるあらゆる結合がプライマフェイシーに81条1項の反競争効果を持つものと考えられてい
た 107)。例えば規格を集団的に決定する標準化協定も直ちに競争への害を持つように考えるかも
しれない 108)。集団的意思決定が競争過程への害をはらんでいるにしろ、かかる行為が当然に
市場支配力の形成等ないしそのおそれを持っているとは限らない。当事者にとって市場支配
力の形成等以外に独立した競争促進的な利潤動機がある以上、行為の態様から市場レベルで
103) Elhauge and Geradin,supra note(100)at65-66.
104) 公取委・事業者団体の活動に関する独占禁止法上の指針第二1~3(1995)参照。
105) 川濵昇「 再販売価格の拘束と販売方法の拘束をめぐって-道具としての独禁法」民商
法雑誌 124 巻 4=5 号 573 頁、610 頁注 40(2001)参照。
106) Kaplow and Shpiro,supra note(88)at1133.
107) 例えば、Case13/61 Bosch [1962] ECR45 を参照。さらに Jonathan Faull and Ali Nikpay,The
EC Law of Competition (2d ed 2007)218-223,231-235 も参照。
108) このような協定が正当化されるのは、81条3項の適用によってということになる。
- 43 -
の悪影響を認定することができず、実際に反競争効果を有するか否かを判断する必要がある。
また、独立した活動がなくなること自体を問題とするなら、競争業者間の企業結合は常に競争
過程を害するものとして問題となりかねない 109)。このような相互拘束という人為的な行為が当
事者のインセンティブをどのように変動させて市場支配力の形成等をもたらすことが示されて
初めて介入すべきはずである 110)。
当然違法原則が行為の態様と市場レベルでの反競争効果との因果連鎖についての経験則に
依拠したものだとする見解に対し、上述のような競争過程それ自体を問題にする立場は行為の
自由に対する形式的な害を規制根拠と考える傾向があった 111)。さらには過程を重視するあまり
市場レベルでの考察を無視する傾向も生まれた。それゆえ、過程を問題にすることそれ自体
を忌避する立場が生じたものと考えられる。
排除に関する形式ベースのアプローチの問題も同様である。これは、市場支配力を有する
事業者が排除的慣行を行った場合、完全競争市場では観察されない一定の行為が行われたこ
とを問題視し、それらが行われた以上反競争的であるはずだとして、効果に対する検討を行
わずに規制する立場である 112)。競争過程への害とは、独立した意思決定の尊重、事業活動に
よる拘束への懸念、公正な競争の機会といった第二章第2節 (b)(c) で取り上げた価値の保護
109) 企業結合規制の文脈でその競争法上の中立性に特殊性を見出す見解がある(根岸=舟
田『独占禁止法概説 第3版』(有斐閣 2006)93頁)。しかしながら、不当な取引制限
であってもハードコアカルテルやあからさまな制限以外の類型では、競争政策上中立的なもの
であるはずである。行為の動機として反競争的な目的がなくとも成立するがゆえに行為の態様
だけではなく、具体的な市場のコンテクストで競争への悪影響を持つか否かを判断する必要が
あるのである。根岸=舟田・前掲93頁が「行為規制の場合は、当該行為の反競争性の強さに
よって、市場構造に関する判断の重さが異なってくる」としているのは、行為の態様が市場レ
ベルでの反競争効果の判断に影響することを意味するものと解されるが、これは競争過程を害
するか否かの判断とともに、行為の態様が市場レベルでもつ反競争効果に対する経済的経験則
に依拠した判断を必要とする。企業結合と同様の判断枠組を採用する共同行為も多いのである。
110) 非ハードコアカルテルにおいて反競争効果をいかに示すのかは難問である。この点を
包括的に検討した研究として、中川晶比兒「非ハードコアカルテル規制の体系化-反競争効果
の立証を中心に-(1)-(3)」論叢160巻1号20頁、2号34頁、163巻1号25
頁(2006-2008)参照。
111) 代表的な立場としては、Harlan M.Blaken and William K.Jones,"In Defense of Antitrust
Goals of Antitrust: A Dialogue on Policy " 65 Colum. L. Rev.377,385-6 (1965) 参照。
112) 形 式 ベ ー ス の 考 え 方 に つ い て は、Report by the EAGCP, "An Economic Approach to
Article 82", at5-7July 2005 (Gual, Hellwig, Perrot, Polo, Rey (Coordinator), Schmidt and
Stenbacka)available at http://ec.europa.eu/comm/competition/publications/studies/eagcp_
july_21_05.pdf を参照。
- 44 -
の問題でもあり、それらを第一義的に重視する立場への批判とも関わる。忠誠リベート、排他
条件付取引、抱合せなど完全競争市場では観察されない慣行は、取引相手の自由への介入
や公正な機会への侵害を主眼とするものと見られやすい。しかしながら、不完全な市場では、
情報の非対称や取引費用など事業活動の効率性向上のために用いられることもある 113)。つま
り、競争を阻害することを通じて利益を得ることを意図したものではなく、競争促進的な動機
のために行われ得るのである。形式ベースで一律に規制すれば過剰規制となる。
排除であっても、共同ボイコットによる排除などであれば、ハードコアカルテルと同様に、
その形式から市場支配力の形成等ないしそのおそれが存在するというのは理にかなっている。
行為の形式が、市場レベルでの反競争効果を推認させるか否かが問題であって、行為の態様
が先験的に競争過程を害するがゆえに規制根拠があるものと即断することはできない。
以上の考察は、競争過程への害はそれだけでは完結するものではないことを意味するだけ
である。逆に言うと競争過程にのみ注目すると問題があるということは、競争過程を視野に入
れないで良い理由とはならない。もちろん、社会的厚生だけが問題なのだとする立場からは、
競争過程などにこだわる必要はないという立場もあり得る 114)。しかし、第四章で見るようにこの
立場は実行困難である。
(3)競争過程はなぜ重要か?
上記のような見解が有力化したため、米国では反トラスト法が介入するには「競争」(競争
過程)が害されたことが必要であることを著名な産業組織論学者がわざわざ確認しなければ
ならない事態となった 115)。競争法は、単に社会的厚生が害されたという厚生主義的帰結主義
の視点のみならず、手続的ないし原理的な側面をも併せもっていることが見落とされがちに
なったということである。
経済学的に定義することが困難であっても、競い合いの過程を害することで社会的厚生等
が害された(市場支配力の形成・維持・強化とほぼ同じ)ことが必要条件なのであり、これ
113) これらの慣行の評価については、初級レベルでの説明として、柳川=川濵編『競争の
戦略と政策』(有斐閣 2006)第6章、9章を参照。より発展的レベルでの説明としては、
Motta,Competition Policy:Theory and Practice (2004) を参照。
114) Louis Kaplow and Steven Shavell,Fairness versus welfare (2002) が主張するように、法
的ルールの選択について社会的厚生のみが問題であって、義務論的制約を考えるのは妥当でな
いという立場からは、競争過程への注目は義務論的制約と同旨されるべきものとなるはずであ
る。Kaplow and Shapiro,supra note(88)at1134-6 は、そのような立場を志向しつつも、現行
法が競争過程のインテグリティに注目するのは、裁判所の能力ゆえのことであると一定の理解
を示している。競争排除での議論でも指摘するが、裸の厚生評価と衡量は現実に遂行すること
は困難なだけでなく、望ましいことでもない。
115) Farrel and Katz ,supra note(30)at5.
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はおよそ競争法を制定している国では暗黙の前提とされてきた。わが国でも、講学上競争を
害する行為を問題にする際に、競争の回避、競争の排除と分類してきたのはこのことを反映し
ている。もっとも競争過程への害の問題は、個別の行為要件における解釈論に吸収されており、
それ自体としては意識されることは少なかったよう。
競争過程の問題は、問題の行為がどのような形態で市場レベルでの反競争効果をもたらし
たかということに関わるが、典型的カルテルを中心とするわが国の多くの事例では競争過程が
害されたことが自明なものである。わざわざ市場レベルでの反競争効果以外に競争過程という
問題を意識する必要は少なかった。しかし、(2)で見たように、企業結合の限界事例や私的
独占における排除、さらには排除型不公正な取引方法の一部の類型などで、正常な競争過程
の一環である行為とそうでないものとの識別は重要な争点となる。
競争過程の問題がいったんは視野から消えたかに見えた米国において独禁当局などが競争
過程概念を意識し始めたのも、激しい競争と競争過程を害する行為との識別が重要な問題と
なったからである 116)。
競争過程が手続的側面ないし原理的側面に関わるというのは、そこでの行為の当否の識別
問題が関係当事者の権原(entitlement)の配分問題に関わるからである。すなわち、独禁
法違反に対する損害賠償請求権の境界設定の問題は競争過程概念抜きには判定静ライもので
ある。次節でこの点を検討する。 第2節 競争過程と権原の配分の問題-
(1)独禁法違反による被害とは何か
競争過程への害の概念は、独禁法違反に基づく損害賠償責任の問題と密接に関係する。 この問題は、これまで民法709条に関して議論されてきたが、ここでは独禁法25条の無
過失損害賠償請求権に関連してこれを考察することにする。この検討は、独禁法の主要な禁
止規定がどのような保護法規であるかを確認することでもある 117)。
独禁法25条は、私的独占、不当な取引制限、事業者団体の行為、不公正な取引方法に
よって被害を受けたものに無過失損害賠償請求権を認めている。問題は「被害」である。当
該違反行為によって事実上因果関係のある損害を被っただけでは被害があるとは考えられな
い。それでは、どのような形態で損害を被った場合に被害があるのだろうか。わが国ではこの
問題はこれまで検討されたことはなかった。
116) 例えば、U.S. Department of Justice, Competition and Monopoly: Single-Firm Conduct
Under Section 2 of the Sherman Act (2008) が、競争過程の害をキーワードとして用いている
のはこのことを反映している。
117) 独禁法がどのような保護法規であるかの検討は民法709条の解釈に直結するが、か
かる検討はまず独禁法25条の射程を把握することによって行われるはずである。
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米国反トラスト法ではこの問題は自覚的に検討されてきた。反トラスト私訴における反トラ
スト被害(権利侵害)(antitrust injury)の判例法理がその検討の結論であると言えよう 118)。
この法理は、反トラスト私訴を提起するには、原告が単に問題となる行為によって事実上損害
を被っただけでは足りず、反トラスト被害を被った場合でなければならないというものである。
原告の受けた被害が「反トラスト法が発生を防止しようとするタイプの被害であって、被告の
行為を違法とするものから生じる被害でなければならない」119) とされるのである。
反トラスト被害に該当しないとはどういう場合であろうか。例えば、競争業者間のジョイント・
ベンチャーが行われたとして、別の競争者がそれが違法であってそれによって損害を被ったと
主張したとしよう。ジョイント・ベンチャーが競争回避によって市場支配力を生むものであるな
ら、他の競争者は損害が生じることはない。競争者の被害が、当該ジョイント・ベンチャーが
効率的であるため事業機会を奪われるというものであるというものなら、これは、効率性のゆ
えによる被害であって、反トラスト被害には該当しない。あるいは、流通業者に対して最高価
格再販が行われた例を考えよう。その場合、流通業者の競争相手が、「もし最高価格再販が
なければより高い値段をつけたはずだから、われわれの利益は増加していたはずである」と
主張したとしても、その損害は最高価格再販が反競争効果をもたらす法的観点と無関係なも
のであって(もし、再販価格が低すぎるというのなら、それが不当廉売の要件を充たすことが
必要である)
、反トラスト被害とはならない 120)。
(2)独禁法上の被害と競争過程
それでは、「反トラスト法が発生を防止しようとするタイプの被害」とは何だろうか。反トラ
スト法の目的を消費者厚生ないし社会的厚生と考える立場からは、それが被害ということにな
りそうである。それなら、市場支配力の形成等に伴う被害だけが、これに該当することになる
のだろうか。しかしながら、そのように考えてきた裁判所は存在しない。反トラスト法違反行
為によって排除された競争者 121)、違反行為遂行過程(例えば排他条件付取引や再販売維持行
為)で事業活動を拘束されたり、拘束の手段として取引を拒絶されることによって損害を被っ
た者 122)、いずれも反トラスト被害を被っているものと考えられている。
118) 反トラスト被害については、石川正「米国独禁法訴訟における原告適格及び「独禁法上
の被害」の概念の最近の展開について」(『民事手続法学の革新(上)―三ケ月章先生古稀祝賀』
361頁 ( 有斐閣 1991年 ) を参照。
119) Brunswick Corp. v. Pueblo Bowl-O-Mat,Inc.,429 U.S.477,489(1977).
120) Atlantic Richfield Co.v.USA Petroleum Co.,495 U.S.328(1990).
121) 例えば、Aspen Highlands Skiing Corp., 472 U.S. 585, 595 (1985) を参照。
122) これらも例は多数あるが、例えば、Isaken v.Vermont Castings,825 F.2d 1158,1165(7th
Cir.1987)MCA Televison v. Public Interest Corp.,171F3d 1265,1280-81(11 th Cir.1999) を参照。
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以上のような議論は、わが国独禁法でも暗黙のうちに前提されてきたと考えられる 123)。カル
テルによる超過支払のみならず、不当廉売により排除された競争者、不当な拘束条件付取引
によって拘束された者、拘束手段として取引を拒絶された者、それはいずれも被害を受けた
者に該当すると考えられてきたのではないか。これらは、市場レベルでの悪影響の効果として
被害を受けたのではなく、市場レベルでの悪影響を生み出す競争過程を害する過程において
被害を受けたのである。もっとも、これらを単に独禁法の行為類型の要件から見出す議論もあ
り得よう。不公正な取引方法の規制を前提とするなら、不当廉売は、安売業者による競争者
の排除が、不当な拘束条件つき取引や取引拒絶は、拘束や拒絶が25条の被害をもたらす
のは、それらの被害が不公正な取引方法の類型が念頭に置いたものだからという論法である。
しかしながら、それらの行為類型がかかる被害を念頭に置いているという判断自体が、公正
且つ自由な競争秩序維持の観点から競争過程をどう把握しているのかいう原理的な考察を必
要とするのである。私的独占として排他条件付取引を行った場合の拘束された事業者は同等
に被害を被っていると判断できるのは、まさにそれらが公正且つ自由な競争秩序を害する過程
で被害を被るものと判断できるからである。
(3)競争過程と競争法の原理的意義
独禁法が市場における競争秩序を維持するために事業者に遵守を要請する行為準則が、そ
の違反行為によって損害を被った側に一定の損害賠償を認めているというのは、そのような損
害を被らない形で市場に参加する権原を認めたことに他ならない。そのような基本的なルール
によって市場が制御されていることによって、当事者の自主的な努力によって市場参加者にとっ
て自己実現の機会を与えるというのが独禁法が市場の基本ルールを定めたと称される内容な
のである。単に競争が総体として持つ市場における社会的厚生等の向上という価値のみなら
ず、その実現のために当事者が相互作用するルールとしての競争過程のあり方に対する一定
の価値判断が、独禁法=競争法のルールを支えているのであり、それなくしては私訴のルー
ルが、少なくとも今日ほとんどの国で採用されている形では正当化することが困難になるので
ある。その意味では、競争過程についての考察は独禁法=競争法が単に政策的な処方箋とし
てあるのでなく、原理的な側面 124) を持っているのである。
123) カルテルによる超過支払のみならず、不当廉売により排除された競争者、間接取引拒
絶によって損害を被った競争者も被害者と考えられてきた。
124) ここで原理的な側面には、権利義務に関わるといった側面だけでなく、当事者にとっ
て遵守可能かどうかといった公正さの観点も関わってくる。この点については、第四章で考察
する。
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第3節 競争促進効果と効率性:消費者厚生か社会的厚生か
(1)競争促進効果と効率性
競争過程への害を考えるとき、競争過程への害の側面とともに、競争を促進する効果も考
慮に入れる必要がある。ここまで特に競争促進効果の意義を明確にしてこなかったが、これは
通常、競争的活動を活発に行わせるという日常的な意味で用いられているからである。すな
わち、協調するインセンティブを低下させ、競争相手から顧客を争奪するインセンティブを高
め、市場で競争する機会を増大させるような、要するに競い合いを活発にする効果全般という
意味で用いられるのが通常である 125)。これらの効果も存在する場合、それも勘案してなお競争
制限効果が発生し、それによって市場支配力の形成等またはそのおそれが発生する場合に違
法となるというのが市場レベルでの効果に関する通常の判断枠組みである。
これに関連して、問題とされる行為が当事者にとってその能率を高めるようなものであった
場合、要するに生産上の効率性を高める効果をどう位置づけるかが問題となる。米国ではこ
のような効果も競争促進的なものとして、むしろその典型として取り扱われてきた。わが国でも、
従来からこのような意味での効率性の向上を当該企業を競争単位として強化する要因として勘
案されるべきものとしてきた。その意味での勘案の仕方は、まさに上記意味における競争促進
的と同じ意味をもつ。しかしながら、反競争的効果を市場支配力の形成等により発生する資
源配分上の不効率と考え、かかる効率性をその不効率性を直接打ち消すという意味でこれを
競争促進的と呼ぶ場合もある。第1節でふれた Bork 流の競争概念からは、このような結論が
導かれることになる。このような評価の局面を競争促進的と呼ぶか否かは別にして、生産上の
効率性をこのような局面で勘案して良いか否かは、特に企業結合規制の文脈で問題とされて
きた 126)。
(2)消費者厚生か社会的効率性か 127):効率性の評価方法
この問題は米国、EU では企業結合が市場支配力の形成等をもたらすとしても、それが効率
性をもたらす場合、前者の害と後者の便益とを比較して、後者が優越する場合は企業結合を
許容すべきかという問題として論じられてきた。
まず問題となるのは比較衡量の基準である。この問題を最初に検討した1968年のウィリ
125) 金井他前掲注102)33頁(泉水執筆)参照。
126) この問題はわが国では企業結合のコンテクストで問題となってきたが、非ハードコア
カルテルでも同様である。
127) この表題は消費者余剰か総余剰かと書くのが通例であり、下記の分析もそれに合致し
ている。しかし、スタティックな余剰分析ではない形で効率性と消費者厚生に拡張しても同種
の議論が展開可能なので、表題のようにした。なお、社会的効率性の意義については、前掲注
28)参照。
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アムソンの論文 128) は総余剰の改善を反トラスト法の目的と捉える立場から、
「市場支配力が発
生し、それに伴う死重損失があったとしても、費用低下による便益の方が大きければ、それは
許容されるべきだ」とした。
この点を簡単な図で説明すると次のようになる。結合前は競争的であったのが結合後は市
場支配力が発生したとする。その場合、図にあるように三角形部分の厚生の損失(資源配分
上の不効率)が発生する。これは競争的であれば社会にもたらされた金銭的な便益である。
しかし、企業結合により効率性が増大し限界費用が下にシフトするならば、その低下分に生
産量を乗じた四角形部分の価値が社会に生まれる。後者の方が大きければ合併は社会的な
総余剰を増加させており、許容されるべきだというものである。
この見解は競争法を総余剰の意味での社会的厚生 129)という目的達成の手段と考える立場に
立つものであり、もっぱら厚生主義的帰結主義の立場に立つものと言える。この見解では、当
該企業結合により当該市場の消費者の利益は明らかに減少している。四角形部分の利潤が移
転するし、資源配分上の不効率による消費者の不利益も存在する。しかしながら、社会全体
では、富 130) は増加しており、消費者の被った被害は単に所得の分配に過ぎない。分配の不公
正が問題なのだとしても、それらは租税によって解決すべき問題だとする。さらには、企業へ
の利益も最終的には消費者に帰属するのだから、全体としては消費者の厚生は害されていな
いというのである。
この立場は有力ではあるが、国際的にも主流ではない 131)。米国や EU においては経済学を
重視する論者の間では上記議論を支持する者が有力ではあるものの、通説及び執行機関、判
例はかかる立場を採用していない。両者においては、効率性は考慮要因ではあるが上記のよ
うなトレードオフ分析は行われない。そこでの基準は、企業結合が効率性の問題以外の側面
128) Oliver Williamson, "Economics and an Antitrust Defense:The Welfare Tradeoffs", 58
Amer.Econ. Rev.18(1968).
129) 社会的厚生と総余剰の関係については、前掲注98)参照。
130) 総余剰の Posner による表現である。
131) カナダの合併規制は、条文上も総余剰基準を示唆した数少ない例外であった(The
Canadian Competition Act Section 96(1))。しかしながら、裁判所はその文言を狭義の消費者
厚生を重視するように解釈した(Commissioner of Competition v Superior Propane, Inc. (2001)
,11 CPR (4th)289(4 April 2001))。その後、カナダでは、消費者余剰、生産上の効率性等を
総合衡量する方向に向かったが、衡量の際のウェイトは不確実なままとなっている(Canada
Merger Guidelines s8.34(2004))。適当にウェイトをつけることによって社会的厚生関数を定
義できるかどうかはそもそも疑問であろう。いずれにせよ、厚生主義的帰結主義を企業結合規
制においては徹底すべきだとする立場がカナダにおいて有力化したのは、企業結合規制が将来
に向けた事態の改善に主眼がおかれるからと考えられる。この点に関して、ルールと措置につ
いて論じた第2章第1節を参照せよ。
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で市場支配力の形成等があったとしても、効率性の増大が結果として消費者に被害を及ぼさ
ない特段の事情があるときは企業結合は容認されるというものである 132)。先の図で仮に限界費
用の低下がきわめて顕著であれば、市場支配力の形成等があったとしても費用低下に伴って
当該企業にとって合理的な(利潤最大化)水準の産出量が増大し、競争水準より価格を引き
上げるインセンティブは生じないことになる。このような場合は、企業結合は容認されるという
のが米国、EU で主流の見解である。これは、市場支配力の形成等による害から消費者を守
ることを競争法の目的とする立場から帰結するものとされている。
およそ競争法を制定する際に念頭におかれたのは、総余剰ではなく、消費者余剰の意味で
の消費者厚生と考えられる。さらに、事業者側の利得獲得であっても最終的には消費者の利
益であるとするのは、消費者保護法制で通常考えられる見解から大きく逸脱しており、そのよ
うな極論を正当化する説得的な理由が見いだせない。通説的立場が支持される所以である。
なお、ここで勘案すべき生産上の効率性は企業結合によってはじめて実現できるという意味
このような評価は企業結合に留まらな
で企業結合特有の効率性でなければならない 133)。また、
い。非ハードコアカルテルなど他の行為類型でも同様の判断基準が提案されている 134)。
もっとも、このように効率性が考慮可能であっても、市場支配力の形成等の規模が大きい場
合はほとんどそれが相殺されることはないものと考えられており、実際このような形で効率性
が考慮されることはきわめて希であることに注意されたい。効率性が考慮されたといわれる数
少ない事案であっても、反競争効果の発生が疑わしい状況下で効率性の向上が当該企業結合
を問題なしと判断する上で秤の針を動かせたにすぎないものがほとんどである 135)。
わが国の企業結合ガイドラインも、平成18年度改正において同様の立場を採用した。す
132) Federal Trade Commission and U.S. Department of Justice “Horizontal Merger
Guidelines”para.4 (1992 amended in 1997) 及び European Union,“Guidelines on the assessment
of horizontal mergers under the Council regulation on the control of concentrations between
undertakings”, Official Journal of the European Union, February, 2004/C 31/03 を参照。この
問題の詳細については、
武田邦宣『合併規制と効率性の抗弁』
(多賀出版 2001)第四章参照。
133) なお、競争の消滅それ自体がもたらす費用節約は企業結合特有の効率性とはならない。
企業結合特有の効率性をどのように判断するかについては、Joseph Farrell and Carl Shapiro,
“Scale economies and synergies in horizontal merger analysis”,68 Antitrust L.J.685(2001) を
参照せよ。
134) Federal Trade Commission and U.S. Department of Justice ,"Antitrust Guidelines for
Collaborations among Competitors"3.37(1999) 参照。誤解のないように付言しておくが、ハー
ドコアカルテルでは定義上、効率性目的は存在しないのでいわゆるここでいう効率性=競争促
進効果は関係しない。ハードコアカルテルにかかる「公共の利益」論が問題とするのは競争促
進効果ではない、競争制限効果を通じて達成する公共目的なのである。
135) 武田・前掲注132)参照。
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なわち、「効率性が向上することによって」「競争的な行動をとることが見込まれる場合には,
その点も加味して競争に与える影響を判断する」としつつ、①企業結合に固有の効果として効
率性が向上するものであること,②効率性の向上が実現可能であること,③効率性の向上によ
り需要者の厚生が増大するものであることの3つの観点から判断するものとしている。これは、
米国、EU と同様の消費者厚生基準を採用したものである。
さて、この基準については次のような批判があり得る。この基準は、社会的効率性基準より
も一般消費者の利益確保を唱った独禁法の趣旨にかなったものかもしれないが、違法性判断
基準を反競争効果と考える独禁法の原則に適合しないのではないか。市場支配力の形成等が
あれば競争法の介入根拠としては十分であって、上記効率性の観点は競争への影響とは関係
しないのではないか。すなわち、独禁法の企業結合の規制基準は「一定の取引分野におけ
る競争を実質的に制限することとなる」であって、(生産上の)効率性はそれ自体としては競
争に関係なく、この要件と関係ないのではないか。有力学説もこれらの視点から効率性を考
慮に入れることを批判してきた 136)。もっとも、有力学説の批判してきたのは、総余剰等の観点
から市場支配力の社会的費用と効率性改善の便益とを比較衡量する立場であって、公取委が
とる今日世界的に有力な立場とは異なる。上記批判にもかかわらず、以下に見るようにこの立
場は伝統的な反競争効果の理解と整合的なものである。
市場支配力の形成等の可能性があっても大幅に限界費用が削減されるような事情があれ
ば、産出量を増大させることが利潤増加につながるのであり、価格引下など顧客に対して自ら
と取引する魅力を向上させること(需要を増やすこと)が自己の利益となる。これは、企業が
競争的な行動をとるインセンティブを向上させるものであり、競争促進効果そのものである。
競争的行動とは当該企業に対する需要を増すことによって競争者からの需要を奪うことである。
そのように行動する効果が高ければ、それがない場合の企業結合による悪影響を打ち消す場
合がある。すなわち、合併による従来の競争関係の消滅や市場構造の変化に伴う、市場支配
力の形成等(価格引上げなど自己に対する需要を減少させる行動をとることによって利益を得
る地位の形成等)の効果は市場における産出量を削減するインセンティブを生む効果と呼び
かえることもできるが、上記競争促進効果が強ければ合併前の状態より取引条件を相手方に
不利益にすることによって利益を得る可能性が失われている。これは、合併前の状態を基準と
するならば、市場支配力が追加的に形成・維持・強化されていないことを意味する。言い換
えれば、合併前の状態を基準にする限りは競争の実質的制限がないことになる。
改正ガイドラインは、需要者の厚生増大という帰結主義的な比較衡量を示唆しながらも、
競争的行動をとることの見込みを考慮した判断であることを強調している。そこでいう競争的
行動とは上述したように、商品や取引の魅力を向上させることにより当該事業者の産出量の拡
大を伴う行為と考えられる。ガイドラインの立場は、このような理解を前提にしたものと考える
136) 実方謙二『独占禁止法第四版』(有斐閣 1998)129頁参照。
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ことができる。
なお、誤解のないように確認しておくことが、「企業結合後も価格を引き上げません」と主
張するだけでは反競争効果が無いとは言えないことである。ここで問題となっているのは効率
性が向上する結果として利潤最大化目的の企業であっても市場支配力の追加的行使のインセ
ンティブが生じないことである。市場支配力をたまたま行使しなかったことをもって反競争効
果がないとはいえない。これまでの先例学説が確認しているように、競争の実質的制限とは
取引条件を左右できる状態の成立等そのものをいうのであって、たまたまその力を消費者の
利益に使うということは関係ないのである。効率性の向上は、合併前の状態に比べて価格を
引き上げることが利潤最大化とならないことがポイントなのである。
(3)競争過程と消費者厚生基準
さて、上記説明を競争過程の観点を用いて整理しておこう。効率性以外の観点では競争回
避 137) を通じた市場支配力が発生しそうな企業結合は、競争過程への害を通じて市場レベルで
の反競争効果をもたらすものと言える。しかしながら、効率性が向上することが当時企業にとっ
て産出量を増大させる効果は、競争回避によって産出量を削減しようという反競争的インセン
ティブを打ち消す方向に働く。結果として、前者が優越するなら、競争回避を通じて産出量を
削減するという競争過程への悪影響が打ち消され、ひいては市場支配力の形成等という悪影
響も打ち消されることになる。
この説明によって、なぜ(生産上の)効率性が競争促進効果と呼ばれるか明瞭になったと
思われる。また、効率性が帰結にのみ関わるのではなく、競争過程という手続的な側面に関
わることも理解できよう。さらに、効率性がいわゆる公共の利益の問題ではなく、まさに競争
の評価の問題であることもわかろう。したがって「一定の取引分野における競争の実質的制限」
の通説的解釈と整合的なのである。このように、消費者厚生基準は競争過程と市場レベルに
おける反競争効果についての通常の理解と整合的なものなのである。
これに対して、社会的効率性基準は、競争過程及び市場レベルでの反競争効果とは異なっ
た純然たる厚生主義的帰結主義にコミットしたものである。かかる立場は比較衡量の困難さ以
前に、問題となった行為が市場参加者間の関係に具体的に与える影響とは無関係になるため、
当事者にとって行為の是非が判断し難い。それゆえ、市場における行為のあり方を定めたルー
ルとして受容しにくいものとなっている。行為時に行為者が知る情報だけでは識別ができない
場合がある 138) だけでなく、独占的高価格を余儀なくされている消費者にとっては、たまたま行
137) 簡単化のために水平的企業結合で問題となる競争回避型の効果を問題にしたが、競争
排除型の効果も考えられる。その際は、不当な排除とそれ以外の区別という厄介な問題が絡ん
でくる。前注及び第四章参照。
138) 排除の場合、排除される側の費用条件が結論にとって重要な意味を持つし、死重損失
は購入を断念した者の支払意欲によって決定されることになる。
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為を行っている当事者の利潤と購入を断念した者の不利益という観察不可能な事情で自己の
不利益を甘受せよという受け入れにくい結論になる 139)。第2節で見たようなこれまでの通説的
な損害賠償ルールと不整合を来すことも問題となろう。企業結合規制ならこの問題に直面しな
いが、非ハードコアカルテルの効率性比較衡量の基準に総余剰基準を採用した場合、直ちに
この問題に直面することになる。いずれにせよ、社会的効率性基準では最終局面での評価が
競争概念と無関係なものとなる。競争を通じた評価とは関係しない形で社会的効率性を評価
することが極めて困難な 140) 上に、そもそも競争法が競争過程とそれによる市場レベルでの競
争を基準とするという前提 141) に反することになるのである。
139) 競争過程を害する行為による独占的超過利潤の取得をいわゆる効率性の抗弁の形で認
めると、レントシーキング活動を招いて結果として社会的不効率を増加させる可能性も高い。
140) よく知られているように、他の市場が完全競争的でない場合には、ある市場の市場支
配力を是正したとしても社会的な効率性は向上しない可能性がある。よく知られているセカ
ンドベスト問題である(R.G. Lipsey & R.K. Lancaster, The General Theory of Second Best, 63
Rev. Econ. Stud. 11(1956) )。複数の市場において市場支配力が存在する状況下においては、
その内の一つの市場を競争状態に移行したとしても、パレート効率性からかえって遠ざかるか
もしれない。このような状況下でパレート効率性を達成する条件は複雑でかつ実施可能とは考
えられない。逆に言うと、競争政策の正当化としてパレート効率を持ち出すのが説得的でな
いと主張する論者の中に、セカンドベスト問題を持ち出す者がかつて多かった(Lawrence A.
Sullivan, Book Review, 75 Colum. L. Rev. 1214, 1219-20 (1975))。相互依存関係の強い部門を
ひとまとめにして検討対象とするとセカンドベスト問題はある程度回避可能である点について
は、Gavin C. Reid, Theories of Industrial Organization,116-123(1987) 参照。市場間における
セカンドベスト問題以外に、市場内で市場の失敗があれば当然セカンドベスト問題が生じる。
例えば、問題となっている製品に負の外部性があるにもかかわらず規制がないなら、市場支配
力によって産出量が削減されることは効率性改善効果も持つことになる。しかしながら、市場
内であれ、市場外であれ、かかる効率性の改善反競争的な不効率性を、競争法の枠組み内で比
較衡量させるという立場は、通常考えられていない。このような比較衡量を例外的に許容した
ものとしてわが国の公共の利益要件を位置づけることも可能かもしれない。
141) 前注で述べたように、自由競争維持という法益を離れた公共の利益のレベルでの考慮
を例外的に許容するのがわが国の立場であると解したとしても、それはあくまで例外であろう。
なお、これに関連して、一部に競争促進効果と公共の利益とを混同した議論があるようだが、
両者は区別できるし、競争促進効果は競争過程と対市場効果のレベルで衡量可能だが、公共の
利益ではそれが困難となろう。この点について検討したものとして、中川晶比兒「水平的協定
における合理の原則と比較衡量 (2)」論叢155巻4号50頁、60-62頁、71頁注(109)
(2004)を参照。
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第4節 競争過程をめぐる近時の課題
競争回避型行為では競争過程への害は多くの場合簡単に認識できる。独立した行動を制約
するような人為的な行為が競争を行うインセンティブを低下するのであれば、それで十分であ
る。いわゆるハードコアカルテルでは、市場支配力の形成等も容易く導かれるであろう。非ハー
ドコアカルテル場合は、それらの行為が競争を回避するインセンティブを高め、それを通じて
市場支配力の形成等をもたらすことを具体的に立証するのが容易でない場合が多い 142)。しか
し、市場支配力分析は難しいにせよ、競争回避を通じて競争過程が害されるのはどのような
場合であるかについての概念は明確 143) である。そこでの課題は、行為の態様において反競争
的と思われるものが市場レベルでの反競争効果を持つのがどのような場合か、また行為の態
様の性質がその判断においてどのように関連するかを、経済的経験則を踏まえて明らかにして
いく作業である。
問題は、競争排除型行為である。私的独占にいう他の事業者の事業活動を排除するとは、
他の事業者の事業活動を困難にすること 144) を意味する。活発な競争はそれ自体として排除を
招き、それによって市場支配力の形成等がもたらされることもある。しかし、それをすべて批
難するのでは競争の否定につながる。良く使われる言い回しによるなら、能率=真価に基く競
争(competition on the merits)によらない事業者の排除が問題なのである。
周知のように、活発な競争と排除的な手段とをいかに識別するかという問題は、ここ数年来
日米欧をはじめとする各国独禁法でもっとも盛んに議論されているテーマである 145)。奇妙なこ
とに、この問題は理論的な重要性にも関わらず、議論が活発になされるようになったのは各国
142) 非ハードコアカルテルにおける反競争効果を当事者の誘因を軸に包括的に検討したも
のとして、中川晶比兒「非ハードコアカルテル規制の体系化-反競争効果の立証を中心に- (1)
- (3)」論叢160巻1号20頁、2号34頁、163巻1号25頁(2007-2008)参照。
143) なお、競争回避による市場支配力の形成等があっても、非ハードコアカルテルの場合
は効率性による競争促進効果が悪影響を打ち消す可能性がある。その場合は第3節で述べた議
論が妥当する。
144) 競争者の機会を奪うでも良いが、それが結果として市場支配力の形成等につながるた
めには機会の奪取が被排除者が競争的制約を及ぼせないようにしていることを含まねばならな
い。
145) 欧米における議論も含めたこの問題の概略については、経済法学会編『私的独占の現
在的課題<経済法学会年報17号>』(有斐閣,2007)参照。なお、私的独占のみならず、
排除一般に広げた展望としては川濵・前掲注68)を参照。もっとも、競争と自由等の関係は
既にわが国でも検討されてきた、特定領域についての接合とを充分になされたとは言えず。
- 55 -
ともここ数年の出来事である 146)。
第1節(2)で述べたように、米国ではひところ競争過程に言及することを忌避する傾向が
見られたが、最近、経済的アプローチを重視する論者であっても競争過程に言及するようになっ
てきた 147)。排除の問題がクローズアップされたからである。活発な競争と不適切な競争を識別
する問題は、いいかえれば適切な競争手段と競争過程を害する手段の識別でもある。もちろ
ん「競争過程への害」とは何かというのは、出発点であって直ちに結論を引き出せるわけで
はない。排除とは何かの探求や基準をめぐる論争が、独禁法の保護法益としての競争すなわ
ち「競争過程」の意義を検討させる契機となったのである。その議論の中で次章に見るように、
社会的効率性を直接評価軸とした介入の問題点が明らかとなり、純粋の政策的思考の限界が
認識され法的なルールを制定することの意義が再確認されるようになったのである。
第四章 競争過程と排除行為
第1節 排除行為を論じる意義
(1)なぜ排除が問題となるのか?
第三章第4節で述べたように、競争を排除する行為とは何かをめぐる問題は近時世界的に
非常に活発に議論されているテーマである。これに関する議論の詳細を論じるのは本稿の目
的ではないが、競争過程の意義、帰結主義的厚生主義のみによる基準設定の困難さと問題点、
ベースライン確定の重要性などを考える材料として、この問題は有益である。まず、排除問題
の特異性を再確認しておく。
他の事業者の事業活動を困難にすることを排除と呼ぶならば,それは正常な競争であって
も起こり得る。正常な競争手段と考えられる行為によって他の事業者の事業活動を困難にし、
それによって市場支配力の形成・維持・強化がもたらされることもあり得る。「望ましい競争は
促進した上で結果として市場支配力がもたらされようが,それは許容範囲である」ということ
を基本とするならば,不当な排除と妥当な排除を識別する必要がある。米国では、それが正
当な排除か否かを問題にする際、能率競争(competition on the merits)148) に言及してきた。
すなわち、能率競争を害した排除か、効率性の追求過程の中での市場からの排除に過ぎない
146) この問題がなぜ長年等閑視されてきたかについては、川濵・前掲注53)323頁
(2000)を参照。
147) Katz and Farrel ,supra note(30),U.S. Department of Justice, Competition and Monopoly:
Single-Firm Conduct Under Section 2 of the Sherman Act (2008) 参照。
148) わが国で能率競争概念が不正手段型公正競争阻害性に限定して言及されてきたが、そ
もそも母法の反トラスト法及び EU 競争法では自由競争減殺型の排除についてこの概念が用い
られてきた点について、川濵・前掲注68)10頁参照。
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のかという形で問題を設定してきた。ところがここで頼りになる概念というのは,能率競争概
念あるいは level playing field,normal competition といった,非常に曖昧模糊としたもので
しかない。それはどのように判断されるのか。もちろん、共同ボイコットのように、競争業者
が結託してアウトサイダーを排除するという点で、競争回避と同様に競争過程への害が明白な
ものもある。競争業者間での結託が問題となっているのではない、いわゆる単独行為 149) によ
る排除では、正常な競争と不当な手段による競争との線引きがまず問題となる。
(2)競争過程の問題
さて、独禁法上の違法な排除の判定基準として、2001年米国のマイクロソフト事件の
控訴審判決の次のような立証責任分配型ルールが国際的にも有名である 150)。
それによれば、まず、問題の行為は「競争過程を害し、それによって消費者を害する 151) も
のでなければなら」ず、これらの立証責任は原告が負うとされる 152)(第一段階の基準)。原告
がこれらの反競争効果を立証して、一応有利な事件を確立したときは、被告がその行為に競
争促進的な正当化を提出することになる。競争促進的な正当化を主張した場合ーその行為が
実際に能率に基づく競争の一形態である(例えばそれがより大きな効率性や消費者への訴求
力の向上にかかわるがゆえに)という単なる口実ではない主張を行った場合、その主張を反
証する責任が原告に移転することになる。
この基準は排除を完全に定義するものとはなっていない。第一段階で競争過程を害すると
されていることの意義を確定しなければならないのである。競争過程を害するか否かを上記
の比較衡量で行うという立場から、上記の定式化を厚生基準による比較衡量による排除の定
義と理解する見解もあるが、競争過程への害の内容いかんでは排除の各種定義に転用可能な
149) いわゆるとしているのは、競争関係にないものとの合意等を分類上共同行為とする用
語法もあるがゆえのことである。
150) ここでいきなり、米国の判例法理に言及することを奇異に思われるかもしれないが、
ここで検討している排除とは何かは、独禁法の個々の条文の解釈問題というよりも、競争政策
の基本的原理ともいうべきものの解明であって、制度的な差違に起因する問題は別にして(例
えば、そもそも手続法のレジームが異なる法体系の立証責任論を直輸入することはできない)、
その思考枠組み自身は独禁法・競争法を持つ国では同様に問題となる。それゆえ、私的独占の
規制についてはわが国以上に米国と乖離している EU 競争法においても米国の議論が頻繁に参
照されるのである。
151) 消費者を害するとは結局のところ、市場支配力の形成等と同一である。
152) United States v. Microsoft Corp., 253 F.3d 34, 58 (D.C. Cir. ) (en banc), cert. denied, 534
U.S. 952 (2001)
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ものとなっている 153)。問題は競争過程の意義なのである。
(3)排除の一般的定義
それでは、競争過程を害する排除はどのように定義されるのか。これに対しては、すべての
行為について一般的定義を目指す立場と、いくつかの典型的バージョンについて個別的に基
準を探求する立場がある。まず、一般的定義を目指すものを説明する。
一般的な定義を標榜する基準として、①厚生基準、②短期利潤犠牲=経済的有意味性基準、
③同等効率性基準などがある。これらの一般的定義がそれだけで正常な競争とそれ以外とを
識別する一般的基準としては有用でないことを以下で明らかにし、それらを識別するベースラ
インが複数の観点から正当化されることを示す。特に、一見したところ経済学的基礎がありそ
うな①厚生基準が、基準としては機能しないことをまず確認する。
第2節 厚生基準の無意味さ
(1)厚生基準の意義
独禁法の目的としての社会的厚生等の改善をそのまま排除の定義に当てはめたものであ
る。この場合、例えば消費者厚生を基準として選択した場合は、第二章第 3 節 (2) で行った
のと同様の比較衡量基準と同種の基準となる(立証責任の分配に注目した比較衡量基準が前
節(2)で見たマイクロソフト事件控訴審判決の基準なのである)。そこで述べたように、そ
れ自体としては説得的な基準である。問題は、競争過程を害したか否かの判断それ自体をも
社会的厚生等に対する影響から判断しようと場合に現れる。すなわち、前節(2)で述べた、
一応反競争的といわれるための基準=競争過程への害 154) を厚生基準で導出することが問題と
なる。競争過程への害を厚生への効果のみで判断することは可能だろうか、また問題は生じ
ないのだろう。
まず、第一にかような立場からは次のような妥当とは言い難い結論が導かれる。既に市場
支配力を有する独占的事業者がいたとする。それへ競争圧力をかけうる新規参入者等が存在
したとする。その競争圧力の存在によって市場支配力の行使に一定の制約を受けているとき、
その競争圧力の源泉である競争者の事業活動を困難にする行為がなされたとしよう。その行
為がいかなる性質のものであれ、それによって市場支配力の維持・強化が生じることになる。
153) U.S. Department of Justice, supra note(147)at35-36 も、マイクロソフトの基準は立証
責任の分配テストであり、排除についての各種定義と整合的に利用可能だという立場をとって
いる。
154) 競争過程への害というかわりにライバルの競争の機会を奪うという表現をとることも
あるが(詳しくは、川濵・前掲注68)14頁参照)、それらを定義しないことには第一段階
テストの内容がはっきりしない。
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これは消費者厚生及び社会的厚生を悪化させるものだとひとまずは言える。そうだとすると、
市場に残り少ない競争者が存在するときに、安売り攻勢をかけなければその企業が重要な競
争的抑制力として存在し得たかもしれないときに、低価格販売は(費用基準と関係なく)市場
支配力の維持・強化をもたらしたといえなくもない。それにともなって、効率性が一部損なわれ、
消費者厚生が害される可能性もある。
しかし、それだけを根拠に介入するのは正常な競争を不当に抑制することにならないだろう
か。例えば、支配的事業者の協力があればその市場支配的事業者の市場支配力の抑制要因
になり得る事業者が協力を申し込んだのに拒絶されたとすれば、その取引拒絶は市場支配力
の維持・強化の効果を持ったといえる。少なくとも短期的には協力させることが効率性の改善
になる。適法に獲得された市場支配力を言えども、それを消滅させれば短期的には社会的厚
生は向上するかもしれないが、そのように単に現状からの改善を介入のベースラインにするこ
とは、市場支配力を減少させる行為義務を負わせるに等しい。これでは明確な行為基準を示
せない。
(2)特別の責任論との関係
ところで、排除行為に関連して、EU 競争法82条では、市場支配的企業の特別の責任論
が持ち出される。特別の責任論とは、市場支配的企業が競争相手に不利な行動をした場合に
特に厳格に違法とする立場である。支配的企業は、自らの行為によって純粋の歪曲されない
競争を傷つけることがないようにするべく特別の責任を負うとされるのである。これは一見した
ところ、競争者に対して受容的な態度をとることを含意するようでもある。
上述した社会的効率性基準が近時の経済分析重視の反映であるのに対して、特別の責任論
はオルドー学派の影響を受けた過度に介入主義的な立場とされてきた。そうだとすると、両者
は対立的な様に見えよう。しかし、両者は字義通りに考えるとその結論において類似したもの
となる。すなわち、当該行為が社会的効率性や消費者厚生の観点から悪影響をもつか否かを
基準にすれば足りるという見解は、独占企業の特別の責任論を正当化することもできるのであ
る。
特別の責任の内容をどうとらえるかにもよるが、それを字義通りにとらえると、なんらかの行
為によって独占を維持し、強化することそれ自体を排除と見ることになる。競争的企業に対し
て、市場支配力維持以外の観点からも最適反応となるはずの対応を禁じて、可及的に受容的
行動を要請することになりかねない。さらに、支配的地位を維持する効果をもつ作為だけでな
く、不作為をも射程に入れると、支配的地位自体を消滅させる強力な武器となる。実際、「支
配的事業者(a dominant business )は、その支配的地位をいかにして獲得したかを問わず、
競争者が許されるような態様にて競争してはならないことが要求される。そしてそれゆえに支
配的事業者の『特別の責任』は、実際上、究極的に自らの支配的地位を失しめるべき義務(an
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obligation ultimately to lose )へと形を変えるのである」155) と評価されることもある。
独占企業が存在するという状況で社会的厚生基準は少なくともその第一段階において特別
の責任論と同じ結論を導くことは容易に看取できよう。
(3)ベースライン確定の必要性 このように、社会的厚生等への悪影響というときに、既に独占力を有する企業がいるときに、
それへの競争的抑制をもたらすなんらかの作為・不作為が想定できるとき、それを行わない
ことによって、市場支配力の維持・強化が存在するという論法を常にとることができる。
許容される作為・不作為とそうでないものを決するベースラインをどこかで確定しなければ
ならない。単純に価格競争をしたり品質の良いものを作ったりした結果として競争者を困難に
したのではない、何らかの「不当性」を行為に見出す必要がある。いわば、行為者が他者の
取引機会を奪ったことが正当か否かを定める境界線の設定が重要だということである。
当事会社が自己の効率性の発揮ではない形で,例えば直接的に相手方の競争する能力を
傷つけることを通じて市場支配力の形成・維持・強化となった場合であれば、当該行為を問
題視することに異論は少ないだろう。そうでない一見したところ中立的な競争手段で問題とな
る場合をいかに識別するかが問題となる。この部分を社会的厚生等だけで説明すると行為の
当不当を議論することなく第一段階で不当視されることになるのである。これに対して長期的
な効率性を考慮に入れれば不当な結論を逃れることができるのでないかという異論もあるかも
しれない。上述の望ましい行為を許容することは、短期的な効率性を犠牲にして長期的な効
率性を改善しているという論法である。しかし、目に見える短期的悪影響があるとき、長期的
な観点からの効率性の改善の有無で第一段階のフィルターである競争過程を害するか否かを
判断するというのは、当事者にとってあまりに不透明である。第一段階では個別的行為が有す
る長期・短期の効果といった不透明な個別的判断によることなく行為の当否が判断ができな
ければならない。
私的独占の規制であれ,不公正な取引方法規制であれ,当該行為者はその行為について法
を遵守することが可能でなければならない。当該行為の判断基準が最終的に効率性を害する
か害さないかというだけでは、それを遵守するのは困難である。その判断は必ずしも自明では
なく、特に社会的厚生を問題にする場合、他の事業者の生産上の効率性如何によって行為の
155) P.Jebsen & R.Stevens, Assumption, Goals, and Dominant Undertakings: TheRegulation
of Competition Under Article 86 of the European Union, 64 ANTITRUSTL.J. 443,504 (1996).
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許容範囲が変化する 156)。何らかの形で当事者にとって自分の行っている行為が社会を害するも
のであると認識できないことには,その法を遵守するすべもない。個別の行為が結果として厚
生を増大するか否かという行為功利主義的な発想で行為基準を考えることはできないのであ
る。なお、この問題は、独禁法・反トラスト法の達成すべき目的を効率性ないし消費者厚生
の増大ととらえることそれ自体から生じるわけではない。行為の当事者にとって事態の当否を
識別し難いという事実から生じるのである。
(4)インセンティブ制御のための行為規制と違法性
ところで、独禁法の促進を社会的効率性と考える立場からは、直接的に社会的厚生を損な
う行為を禁止する必要は必ずしもない。一定の行為義務を課すことによって結果として社会的
厚生等を損なうようなインセンティブをなくすという方策も考えられる。
このような立場の好例は、不当廉売に対する Baumol のルールである 157)。どのような不当廉
売が競争を害し不効率をもたらすかという問題は、排除の定義をめぐる議論においても中核的
な論点である。ほとんどすべての国で何らかの費用基準に則った規制基準が採用されている。
しかし、実はこの基準を純粋に経済学的な視点、すなわち理論的にあり得る略奪的価格設定
の識別や効率性の判断基準からうまく説明することはできない。費用基準は価格競争に関す
る同等に効率的な事業者に対する脅威をベースラインとする考え方や偽陽性のコストなどを
勘案して導かれている。しかも費用基準を採用したところでその具体的運用は難しい。そこで
Baumol は、直接に不効率な略奪戦略を定義するかわりに、それを行うインセンティブを低下
させる方策を提案した。すなわち、新規参入に直面した独占的企業が価格引き下げを行った
場合、参入者が撤退等した場合において一定期間価格を引き上げることを原則として禁止す
156) 既に市場支配力を有する事業者が行った「不当な行為」は、結果として効率性を向上
させる可能性もあり、効率性と公正さに対する問題も惹起されることになる。
なぜ、そのようなことが生じるのか?排除された企業が不効率な企業である場合、「不当な
排除」で市場支配力を維持強化させ資源配分上の不効率を増大させたとしても、不効率な生産
が取りやめられたことに伴う効率性改善効果も発生する。結果として効率性が向上するかどう
かはケースバイケースとなる。
類似の問題として、行為が帰結主義的に効率性を増大させるか否かだけを問題にすると、
独占的競争が行われている場合には、消費者を欺く不実な広告が一定の範囲内では効率性
の向上をもたらすという結論を導くという問題もある。Dixit and Norman,"Advertising and
welfrare"9 Bell J.Econ.1(1978)
これもケースバイケースであるが、効率性が結果として向上する場合であっても、不公正と
考えられることに異論はないであろう。
157) この基準及びそれと類似する基準について検討したものとして、中川寛子『不当廉売
と日米欧競争法』(有斐閣 2001)39頁以下を参照せよ。
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るというものである。このようなタイプのルールは他にも設計可能ではある。経済法において
実体法化された例として、金融商品取引法164条の内部者の証券取引にかかる短期売買差
益の提供義務があげられよう。同条のように、悪しき行為を抑制するために適切な機能を期
待できる場合はもちろんある 158)。
しかしながら、かような対応は、悪しき排除を定義し、違法とするものではなく、単に不効
率な行為を行うインセンティブを間接的に低下させるだけである。違反行為が誰かの利益を
侵害したか否かを問題とする原理的な議論とかかわる「排除」の定義には関連性を有さない。
競争過程を害するおそれのある行為をした者に対して事後的な行為義務を課し、それによっ
て不適切な行為をスクーリニングしようというものである。違反行為者に対して排除措置命令
としてこのような行為義務を課すことは適切かもしれないが、侵害と行為との間に直接的な連
関がないため、それが他者に対して好ましからざる効果をもつことがはっきりしない。そのため、
法令遵守の意識を喚起させることが難しく、またエンフォースメントのためのメカニズム設計も
困難となろう。
(5)問題点の総括
従来から competition on the merits の解明として扱われていた問題群は,遵守可能な不正
な行為の集合の特性を析出するためのものと言える。その問題群をスキップして、いきなり行
為の厚生阻害効果と改善効果を裸で比較衡量するというフォーマットは機能不全に陥る。
ところで、不公正な取引方法のリストに列挙された排除行為に関しては,そのリストに該当
する限りはすべて先の第1段階テストをクリアするものと即断する向きもあるかもしれない。不
公正な取引方法には、そもそも米国法で排除として問題となったきた行為が挙げられているの
は確かである。しかしながらそれ自体として comptition on the merits に反するあるいは競争
過程を害すると即断できるものばかりではない。
例えば単独かつ一方的な取引拒絶の例にとろう。ここで一方的とは相手方に何らかの作為・
不作為を条件付けたものではなく、単純に単独で取引拒絶をおこなったものをいう 159)。独占者
が存在している状況下で、それに競争しようという者が独占者の協力があれば新規参入するこ
158) 短期売買差益が役員等のインサイダー取引のインセンティブを低下させるのに適切な
方策か否かは争いがある。より適切にインセンティブを制御する提案として、Jesse M. Fried,
Informed Trading and False Signaling with Open Market Repurchases, 93 Cal. L. Rev. 1323,
(2005) を参照。
159) この類型の取引拒絶は規制基準をめぐって世界的に問題となっている。この点について
最近の議論状況を概観するには、規制に消極的な色彩が強いが DOJ,supra note(147)Chap.7 が
便利であろう。なお、わが国においてこのを問題を包括的に探求したものとして、和久井理子
「単独事業者による直接の取引・ライセンス拒絶規制の検討(一)(二)」 民商法雑誌121巻
6号731頁、122巻1号1頁(2000年)を参照。
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とができるとき、協力を依頼したのにそれを拒めば常に拒まれた者からの競争的な圧力はなく
なる。だからといって、直ちに competition on the merits を害するとは言えない。当事者にとっ
て把握可能な,良いか悪いかに関する識別基準が必要となる。
不公正な取引方法の行為リストに載っているというだけでは答えにならない。当該行為類型
が何らかの形で competition on the merits を害することを説得的に論証する必要がある。近
時、欧州で形式ベースの基準として批判を浴びている行為リストもこの問題に対応している。
伝統的に、独占的企業が行う価格差別や忠誠リベートなどに対して行為リストに該当し、競争
者に何らかの痛手を被らせるものなら、competition on the merits を害するという先行了解が
あったが、その自明性が破綻したがゆえに問題として理解されることになったのである。
いずれにせよ、効率性をベースにした比較衡量を行う前に競争プロセスへの害を判断する
基準が必要になるのである。さらに、競争過程への害を判断するベースラインが問題となるの
である。
第3節 競争過程を害する排除の概念をめぐって:包括的概念構築の失敗
(1)複数の基準
第2節で見たように、かりに独禁法の目的を社会的厚生等の集合的利益の改善にあるとい
う立場をとったとしても、そのことから直ちに排除を社会的効率性等への害をもたらすものとし
て定義したとしても、指針にはなりえない。競争過程(日常的な意味での競争)への害を別
個の観点から確定する必要がある。それでは、競争過程を害する排除をどのように確定すれ
ばよいのだろうか。第1節(3)で言及した一般定義のうち、厚生基準以外にも、利潤犠牲
ないし経済的有意味性基準や、同等に効率的な事業者基準などが、包括的定義として提案
されている。結論から言えば、それらは包括的な定義としては有用ではない。「排除」をめぐ
る詳細な議論は本稿の課題ではないが、それらがなぜ包括的な定義とはなり得ないかを確認
することは有益である。他方、それらは包括的な定義としては難点はあるものの、ある排除を
不当視する際の「視点」を与えていることも確かである。すなわち、これらの基準は一見した
ところ正常な競争手段を通じた排除がある種の人為性を帯びていることを示すのには有益で
あったり、また、価格競争を重視する市場観とは整合的であるなど、部分的には合理性を持っ
ているのである。本節(2)(3)でそのことを示す。さらに、そもそも包括的な排除の定義
を念頭に置いたものではないが、競争者の費用を引き上げることによって競争的抑制を妨害
する戦略は、これを不当な排除(ないし妨害競争の典型)と見ることに異論が少ない(わが
国では皆無かもしれない)類型であるが、厳密には費用引き上げ戦略とは何かをめぐって問
題がある。費用引き上げ戦略と簡単に言っても具体的に何を指しているかを示す必要があり、
そこで保護されるべき競争過程とは何かをめぐる議論に再度直面することになる。(4)では
その点を説明し、競争過程を害する排除を識別するベースラインは複数の視点から正当化さ
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れることを明らかにする。
(2)利潤犠牲基準(経済学的有意味性基準)
これは「ライバルの退出を誘い出し独占利潤を得ることを目的に,競争状態でなら稼げた
かも知れない利益の一部を犠牲にしたライバルへの対応」160) を不当だとするものである。要す
るに,ある行為の結果として相手方を市場から追い出すことよる独占利潤の獲得ないしはその
蓋然性(期待効用・利潤)が存在し,そうした利益を考えない限り,当該行為が当事者にとっ
て利益にならない行為を排除(略奪)とするものである。もしも自分の効率性を反映する行為
であるならば,その行為自体が自身にとって得になる。他者を退出せしめることによる独占的
利益があろうがなかろうが,自己に利益となるはずである。反競争効果がない限り,行為者に
とっては利益をもたらさないという意味で経済的には意味がない場合とも言える。それゆえ「経
済的有意味性基準(make economic sense)
」基準とも呼ばれる 161)。経済的に意味があるかど
うかは、反競争的効果がなければ、そのような行為を行う実益がないという反事実的な評価
を必要とする。競争がなければ当事者にとって利益になった,競争を害することなしに利益に
なっただろうかという仮定の問題を考えるため、「バット・フォー・テスト」という呼ばれること
もある。
この基準は、略奪的価格設定を念頭において考案されたものである。要するに,一見する
と競争の典型のような行為であるにもかかわらず競争過程を害するのなら、そのときの識別基
160) Janusz A.Ordover and Robert D.Willig,"An Economic Definition of Predation:Pricing and
Product Innovation ",91Yale L. J.8(1981). なお、この基準について経済学的な検討として、長
岡貞男「独占化行為の規制への経済理論からの含意:利潤犠牲を中心に」日本経済法学会年報
28号92頁(2007)参照。同論文は、この基準が統一基準ではあり得ないことを指摘し
つつ、「企業行動が市場独占化への意図をもった者かどうかを識別する上で非常に有用な分析
視点を提供する。」とした上で、十分条件でない点を指摘する(前掲、103-04頁。なお、
法学的な説明としては、川濵・前掲注53)358-361頁、及び根岸哲編『注釈独占禁止
法』2条5項(川濵執筆分)(有斐閣、近刊)参照。
161) これらの基準は同類であるが両者の区別が強調されることもある。経済的有意味性基
準は反競争効果以外の何らかの自己の利益になるという説明が可能であればそれで足りるとい
う点が指摘される。もっとも、単に事業上の合理性があればそれだけでクリアできる rational
basis 基準なのか、それを超えた基準なのか、有意味性は利潤最大化と捉えることができるの
でないかといった点も問題となる。また、短期利潤犠牲説も独占的な説明以外には利潤最大化
にならないといった厳密な想定を行わずに、単に一見したところ身近な利益を犠牲にしていれ
ばこの基準をクリアしているという誤ったバージョンで理解する立場に対して、合理化された
バージョンで経済的有意味性基準を持ち出す用語法もあり得る。これらセマンティックな問題
にはここでは立ち入らない。
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準は何かという問題意識にでたものである。
米国においてはこの基準の位置づけが重要な争点となっている。著名な連邦最高裁判決で,
単独で一方的な取引拒絶の基準としてこれを採用されたが如き判示を行ったことでしられてい
る 162)。
しかしながら、この基準を排除の一般的定義として用いることは次のような問題点がある。
まずこれは必要条件であろうか。例えば次節で述べるライバル費用引上げ戦略などは,こ
の定義に該当しなくとも反競争効果を持つ。利潤の犠牲を伴わなくとも直ちに他者からの競争
抑制を減少させるのなら,直ちに利益が生じる。そうであれば反事実的想定など必要なしに
議論できるはずである。 また、十分条件であるか否かについても議論がある。短期的利潤を犠牲にしてというと、長
期的な利益を目指す研究開発も排除なのかという当然の反論が出される。ここで問題なのは、
市場支配力による独占利潤の獲得ないしその蓋然性(期待独占利潤)がない限り、当事者に
とって利益にならないということである。研究開発は市場支配力の形成・維持・強化がなくとも、
当事者にとって利益となるなら、利潤犠牲説はクリアできる 163)。このように反事実的想定の下
での考察が必要だという点を忘れてはならない。この基準は、価格競争や競争事業者からの
協力要請の拒否という、それ自体としては競争的な行為が、人為的に競争を歪曲するのはい
かなる場合であるかをめぐる考察から出発したものである。排除の必要条件を定めたというよ
りも十分条件を示唆するものである。ここには、何を基準に利益の犠牲を考えるかという反事
実的な想定の基準問題にかかわる問題も関わっている。なお、この基準を提案した Ordover
らの論文はまさに研究開発が不当になる異常な場合を識別するために出されたものである。
このように一般的な定義にはなり得ないものの、廉売行為や単独かつ一方的な取引拒絶、
設備投資など一見したところ正常な競争手段と考えられる行為が、なお、人為的に競争を排
除するものを識別する、いわば人為性を明確にとらえる第一段階の基準としては、有用なもの
と考えられる 164)。
162) Verizon Communications, Inc. v. Law Offices of Curtis V. Trinko, LLP, 540 U.S. 398
(2004)
163) 長岡・前掲注160)102-03頁は、ドラスティックイノベーション(独占均衡
価格でも競争相手が対抗できないが故に市場を独占することになるイノベーション)を前提に、
短期利潤犠牲説ではそれへの投資が過小になることを問題とする(なお、規制がなくとも最適
水準の投資インセンティブがそもそもない)。これも短期利潤の見返りは低費用(品質等の場
合はそれで換算した費用)の成果と見るなら独占利潤のために犠牲にしたというよりも、準レ
ントのための投資と見ることができる。
164) 同旨、長岡前掲注160)104頁。
- 65 -
(3)同等に効率的な企業に対する脅威:社会進化論的パースペクティブ
Posner は排除とは「当該状況において、被告の属する市場から同等もしくはそれ以上に効
率的な競争者を排除しそうな行為」165) であると主張する。
「効率性に基づいて競争することを本来あるべき競争とするならば,効率性に劣っている者
が市場から淘汰されるのは仕方のないことである」という、市場を淘汰のプロセスと見る適者
生存型競争観を前提としたものである。競争を社会進化論的に捉える俗論からすると一見説
得的である。
これも、一般的定義とするのは適当でない。まず、(2)と同様にライバル費用引上げ戦略
を正当に位置づけられない。さらに、不効率な事業者であったとしても,それが存在する限り
は競争的な抑制要因となっていることを没却している。不効率な事業者であってもその抑制要
因を除去・緩和することは市場支配力の維持・強化となり得る。その手段として、あからさま
に不当な戦略が用いられた場合、これを competition on the merits に合致しないとするのは
奇妙であろう。
例えば独占者より劣った技術しか持たない不効率な企業が、独占者の市場支配力に対する
制約となっているという状況を考えよう。劣った技術しか持たない企業に固有の投入要素が
あったとして、独占者がそれを囲い込みむことによって、費用引上げあるいは市場からの駆逐
を実現した場合、市場支配力の維持・強化が不当な形で実現されたと言ってよかろう 166)。 不効率な事業者であっても、それが市場に存在することが、現に市場支配力の行使の抑制と
なっており、また競い合いの圧力を及ぼして動的な効率性につなげるという意味で競争過程
の維持役立っているのである。
もっとも、この基準はそもそもは略奪的価格設定に関して提唱されていた。すなわち、これ
によってコンベンショナルに採用されてきた費用基準を正当化できるからである。(2)で見た
利潤犠牲テストはそもそもは略奪的価格設定を念頭に置いて提案されたものであったが、そ
れでは独占的利潤が存在しないという反事実的想定下での機会費用という、客観的に認識可
能ではないものが基準となる。利潤犠牲テストに対してこの条件を追加することにより、この
問題を是正するものとなっている 167)。略奪的価格設定の文脈では同等に効率的な事業者基準
165) Richard Posner, Antitrust Law ,194-95 (2001)
166) なお、この場合、消費者余剰の意味での消費者厚生は常に害されるが、社会的効率性(厚
生)は、ケースバイケースとなる。資源配分上の不効率は増えても、不効率な生産に伴う不利
益が改善される可能性があるからである。
167) W. Kip Viscusi, John M. Vernon, and Joseph E. Harrington, Jr, Economics of regulation
and antitrust,272(2d 1995) は、同等に効率的な競争者基準を不当廉売への追加的要件として
提案していた。なお、2005年に出た第四版では、経済学的には効率性が劣っている事業者
を排除して、市場支配力の維持・強化がなされ、効率性が阻害されることもあることを認め叙
述を変更している(at308)。
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は客観的に認識可能な費用基準と整合的である。そのような基準が導出されなければ価格競
争という独禁法が擁護すべき活動を萎縮させる危険性も大きい(偽陽性の費用が偽陰性の費
用を凌駕している)。さらに価格競争に関しては効率的な企業がその能力の発揮を抑制される
べきではないというのは、かなり広く受容されている市場秩序にかかる規範的要請とも言える。
これらの観点から、価格競争に関わる不当性の判断でこれが言及されるのである 168)。
第4節 ライバル費用引き上げ戦略の位置づけ
(1)競争する能力を傷つける戦略
第3節(3)で同等に効率的な企業基準が説得的でないと例として、排除される企業の費
用を人為的に引上げる場合を挙げた。このように、自己の効率性を増大させる努力等の反映
ではなく,相手方の効率性を害する行為の結果,競争者からの競争上の抑制をなくし,市場
支配力の形成・維持・強化をもたらす戦略が問題とされることは多い。これはライバル費用増
大戦略(raising rival's cost = RRC)としてわが国でもよく知られている 169)。この概念は、一
般的な排除の定義を問題にしているものではない。むしろ、伝統的に排除の手段とされてきた、
排他条件付取引や抱合せ取引などの排除的垂直的契約に理論的基礎を与えることに主眼があ
る。まず、この戦略が持つ反競争効果発生メカニズムの特色を見ておく。
ライバル費用引き上げ戦略の場合,競争者を市場から退出させて競争上の抑制を消滅させ
るというストーリー以外に,競争者の効率性が損なわれる結果として,その競争上の抑制が緩
和されることも問題となる。相手の費用関数が上がると反応曲線がどう変化するかを考えれば,
この戦略により直ちに市場支配力の維持・強化がもたらされる可能性があることは容易に分か
ろう。このことから、即時的に反競争効果による超過利潤の可能性がある。費用引き上げ戦
略の費用が小さい場合、利益犠牲型戦略の条件を満たさなくとも反競争的となりうる。
(2)不当性が自明な場合
さて、ライバルの費用を上昇させる行為は多数考えられる。まず、独禁法以前に競争者へ
の危害を不当視できるものがある。産業組織論のテキストでは、直接的手段などとして分類
168) 金井他・前掲注102)259頁以下(川濵執筆分)参照。米国や EU の公的な議論で、
価格競争について同等に効率的な企業基準が支持されていることについては、川濵昇「私的独
占解釈論の現状と課題」日本経済法学会年報28号20頁、30-33頁(2007)参照。
なお、USDOJ,supra note(147)at43-45 も同様である。
169) Thomas G. Krattenmaker and Steven C. Salop "Anticompetitive Exclusion :Raising
Rivals' Costs to Achieve Power over Price",96Yale L. J.209(1986)、川濵・前掲注53)355
頁以下参照。
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される類型である 170)。例えば、直接的妨害(中傷、不正競争等の相手方に直接的に被害を及
ぼす行為)
、政府活動の不当利用などである。後者は最近のわが国の私的独占規制例とも関
係が深い。公的、私的な規格・標準作成過程や規制策定手続、規制機関への働きかけを通
じて行う排除行為は米国ではかねてからシャーマン法2条の重要な適用領域であった。わが
国でも日本医療食事件(公取委・勧告審決平成8年5月8日審決集43巻209頁)では、
法が要求していない登録制度等を準公的規制(広義の規格)を通じて実施したことが不当だ
とされ、北海道新聞事件(公取委同意審決平成12年2月28日、審決集46巻144頁)
では自己の使用を予定しない商標をもっぱら競争者の妨害のために用いた点が不当だと考え
られたのである。この種の事例では、行政過程等への働きかけの適正さの判断にまで立ち入っ
て、排除行為が認定されることになる。
その他、相手方に対する不法行為に該当するような行為も、それによって費用を増大させる
行為として、所要の反競争効果をもたらす可能性がある。このような形での競争を害する行為
というのは,最近は cheap exclusion171) として注目されている。リバタリアンであってさえもそ
の不当性を認識できる場合と言ってよかろう 172)。
これらの行為に対しては独禁法がなくとも禁止されるものもある。そうであるなら、あえて
独禁法をもちだす必要はないという批判もある。かつて米国では、独占的企業がいわゆる
business tort(経済関係を侵害する不法行為)など競争者を害する不法行為を行ったときに、
3倍額賠償を利用するためにシャーマン法2条を安易に持ち出す例が多く濫訴が問題とされ
たことがあった 173)。他方、現に不法行為によって競争者を害することによって市場支配力の維
持・強化がなされたのであるなら、シャーマン法2条違反とするべき点に異論はない。この問
題は上述した、わが国で言うなら「競争の実質的制限」に該当するだけの反競争効果の閾値
をどう定めるかの問題である。なによりも、他の規定で違反とされる場合であっても、それら
の規制が直接的な加害行為の救済にのみ注目しているのであれば、被害者が害に加えて市場
支配力に起因する害も生じる独禁法の観点では抑止が過小となることもあり、これをも独禁法
問題とする必要性ある。もちろん、米国では3倍額賠償に起因する当事者のインセンティブの
歪曲が問題となりうるが、米国以外ではかかる問題はない。
170) Dennis W.Carlton and Jeffrey M.Perloff,Modern Industrial Organization(4th ed
2005)371-72.
171) Susan A. Creighton, D. Bruce Hoffman, Thomas G. Krattenmaker,and Ernest A. Nagata "Cheap Exclusion" 72 Antitrust LJ975(2005).
172) Richard Epstein,Antitrust Consent Decrees in Theory and Practice (2007)14 は、反ト
ラスト違反は通常は彼のような古典的自由主義者が問題とする強制や欺罔を伴わないとしてい
るが、まさにそれに関わる場合がこれである。
173) このたぐいの戦略とその法的処理を一覧するものとして 3B Phillip E. Areeda & Herbert
Hovenkamp, Antitrust Law 320-344 (3d ed. 2008) を参照。
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いずれにせよ、およそ効率性の改善効果を持ちようもない,他者を欺罔等して害する一連
の行為によって費用を増大させるような、Chep exclusion は、パラマウントベッド事件(公取
委勧告審決、平成10年3月31日、審決集44巻362頁)でも見られ、これを軽視す
べきでないのは確かである。もっとも、ここでは欺罔等のもとより手段の不当性が明白な行為
が競争者の費用を引き上げた点が問題となっており、それが能率競争= competition on the
merits の観点から妥当でない点をあえて問題とする必要はない。
(3)不当性のベースライン
この cheap exclusion と対極的に、問題とされる行為が費用引き上げとして不当かどうか自
明でない類型もある。例えば、市場支配的事業者に協力を依頼すれば費用が節約できて効果
的な競争をできるのに協力を拒まれたがゆえに、費用が節約できなかったという場合を考えよ
う。行為類型としては取引拒絶に該当することになる。一部に誤解があるかもしれないが、こ
れは、費用引き上げ戦略とは考えられていない。この戦略を取り扱った経済学の文献では、
かような戦略を問題とする分析は見あたらない。
例えば取引拒絶事件として世界的に著名な Aspen 事件 174) では、原告は協力を得られなかっ
たために事業活動を円滑に進められなくなったが、これは一般には費用引き上げ戦略の問題
とは考えられていない。ちなみに、Aspen 事件の取引拒絶を費用引き上げ戦略として構成す
ることも可能ではあるが、そのような構成は協力の拒否が直ちにもたらす悪影響を問題とする
のではない。問題となった行為が顧客に対して実質的に排他条件付取引を課したのと同様の
効果を持つことを問題とするのである 175)。単独かつ一方的な取引拒絶の場合、仮に相手方が
その投入要素を入手できないとしても直ちに費用引き上げ戦略のターゲットになったとは断定
できない。かような取引義務があるという前提で取引が拒絶された場合等に、初めて費用引
き上げ戦略と見なされているのである 176)。ここでは、費用引き上げを測定するためのベースラ
インが問題となっている。単なる協力拒否であれば、協力を行わないことを基準として、反事
実的想定によって直ちに費用引き上げの効果をもたらしたと評価することができない。Aspen
や後に Trinko177) が、
このコンテクストで経済的有意味性(ないし利潤犠牲)を問題にしたのは、
174) Aspen Highlands Skiing Corp., 472 U.S. 585(1985)。同事件の概略は、ベーシック・前
掲注77)171頁以下(泉水執筆分)に記述されている。
175) Dennis Carlton, A general analysis of excusionary conduct and refusal to deal: why
Aspen and Kodak are misguided, 68Antitrust Law J.659,678 (2001).
176) Jean-Jacques Laffont, Patrick Rey and Jean Tirole,"Competition between
telecommunications operators"41 Eur. Econ. Rev.701,710(1997) は接続が義務づけられてい
る場合において、価格設定を操作することを標準的なライバル費用引き上げ戦略としている。
177) 前掲注162)及び第三章第三節(2)の該当する本文参照。
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協力拒否がある種の人為性をもったものと見なすために必要な基準だったのである 178)。
通常「費用引き上げ戦略」とされているものは、ここでの人為性が明白なものである。すな
わち、抱合せ取引、各種排他条件付取引、それと同等の効果をもつ間接取引拒絶・差別的リベー
トなど、取引相手の活動領域に干渉することが明白な戦略である。これらの戦略は、第二章
第2節(1)(2)で見たように、かかる行為は米国の古典的な反トラスト法やオルドーリベ
ラリズムの立場では、少なくとも市場支配力を有する事業者が行った場合には危険視されてき
たものであり、形式ベースの考え方(第三章第1節(2))では原則として反競争効果を生じ
るとされてきた。シカゴ学派に代表されるスタティックな経済分析ではかかる反競争効果が生
じることに懐疑的であったのに対し、それが現に市場レベルでの反競争効果が生じることを示
したのがライバル費用引き上げ戦略に依拠する議論なのである。いわば、第三者の活動領域
に干渉する契約や拘束を契機として費用引き上げ効果が生じる場合、その行為がない状況を
ベースラインにして、当該行為が反競争効果(費用引き上げとそれに伴う市場支配力の形成・
維持・強化)が持つのであれば、競争過程への害があったとプライマファーシーには言えると
いう立場を暗黙のうちに前提としているのである。ライバル費用引き上げ理論の提唱者である
Salop が、排除の定義として社会的効率性基準をもっとも強く主張する論者 179) でもあるのは、
Salop のフレームでは競争過程への害が第一義的には発生しており、効率性の比較衡量が構
造化されているからであろう。
ここでは、独禁法で従来から問題とされてきた取引の自由とそれに依拠した競争者の事業機
会が、ライバル費用引き上げ型戦略という認識枠組みを通じて、排除と見なされているのであ
る。Hayek が問題とした排除行為概念もこれにオーバーラップしている。Hayek はいうまでも
なく市場における自由な活動領域をいうまでもなく最大限に要請する。それゆえ、独禁法につ
いてもその必要性を認めつつ最小限の内容にとどまっていた 180)。しかし、彼の立場であって、
独占者がその差別する力でもって取引相手に何らかの行動をなさしめた場合を違法とすること
178) いわゆるエッセンシャルファシリティ理論は、自然独占性等からその者に一般的に取引
義務を課すことをベースラインとすることに合意があることが問題となっているのである。こ
れがコモン・ロー上の公益企業概念に端を発するのは、まさに取引を行うことがベースライン
となっていることを示しているのである。それゆえに、取引を行うことをベースラインと見て
よい場合をめぐって(それが存在するか否かも含めて)、果てしなき論争が続いているのである。
179) Steven C. Salop, Exclusionary Conduct, Effect on Consumers, and the Flawed ProfitSacrifice Standard, 73 Antitrust L.J. 311 (2006) 参照。これを、かかる先行了解なしに、効率
性にかかる比較衡量を基準とする立場と解すると、第四章第2節(1)で見た様な批判(同旨、
DOJ,supra note(147)at37-38)に直面することになる。
180) Hayek 及びオーストリー学派の視点から競争法の位置づけを検討したものとして、楠・
前掲注57)及び楠茂樹「オーストリア学派における独禁法をめぐる議論状況と課題」産大法
学1号1頁(2003)を参照。
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に同意していた 181)。そこでは、差別されることによって取引相手の行動を制約し、それでもっ
て競争者の競争する機会を制約する状況が念頭に置かれていた。これを現代流にソフィスケー
トするとライバル費用引き上げ戦略によって説明されることになろう 182)。
(4)反射効果的費用引き上げ
費用引き上げ戦略におけるベースラインの重要性を確認するために反射的効果としての費
用引き上げを考えてみよう。一方の企業が、効率的な企業運営を目指す過程で付随的にライ
バルの費用が増大することも有り得る。いうまでもなく、問題とすべき戦略は付随的効果とし
てのそれではなく、効率性追求の過程とは無関係に生じるライバル費用増大戦略である。例
えば、支配的企業が効率性を増大させて増産を重ねた結果として、ライバル企業の産出量が
減少して規模の経済性を発揮できなかった場合をライバル費用増大戦略として非難するのは
ばかげているであろう。この場合には、費用引き上げ戦略としての動機がなくとも、自らの効
率性追求だけで利潤最大化となるなら適法な行為と考えられるべきあるなどの人為性が認定さ
れるべきであろう 183)。略奪型アプローチの類推である。両方の効果が併存している場合、両者
の違いといずれが妥当かはさらに検討を要する。
(5) 競争促進的目的による反証の問題
排他条件をつけるなど人為的な行為がなされたが、それが同時に別個の費用削減をもたら
したような場合をどのように評価するか。この場合は、効率性向上に伴う競争促進効果と,相
手方の費用上昇に伴う反競争効果の比較衡量が行われることになる。この比較衡量は第三章
第3節(3)及び第四章第1節(2)で述べたような形で行われることになろう。この場合には,
当該行為が持つどのようなストーリーでライバル費用を増大させて市場に悪影響をもたらすか
という問題と,その行為がどのような形で効率性増大効果を持つかということに関する経済的
な分析に即して分析されることになる。この分析は排他条件付取引を例にとれば、単に代替
的な取引先がどれだけあるかだけではなく、乗換コストの大きさ、行為者のコミットメント可能
性など、取引のタイプ、行為の状況に応じて検討されることになる。
181) Law, Legislation and Liberty vol.3,84-85(1979)
182) もっとも、価格差別に関してオルドーと同種の過誤(完全競争基準論)に陥っていた
疑いがある。
183) 効率性追求が名目的な理由に過ぎないのかどうかなどを判断するにあたって、効率性
追求のもつ競争促進効果とライバル費用増大の競争制限効果の比較衡量の問題とするアプロー
チも考えられる。
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小括
本章では、近時もっとも活発に議論されている排除とは何かという問題について、競争過程
の視点から検討を行った。厚生という帰結主義的な目的から演繹的に結論を出すという論法
が、厚生を強調する立場からも支持できないことを示した。また、統一的な結論を示唆する様々
な定義とされるものが、不当な排除を根拠づける様々な視点の一つに外ならないこと、また、
それらの各種視点から、競争過程において許容される行為とそうでない行為を識別するベース
ライン確定のための論拠が提出されることが明らかになった。排除をめぐる課題は、個々の慣
行毎に上記視点から競争過程への害を根拠づけ、さらにそれが市場支配力の形成等をもたら
しうる道筋を解明していく作業である。言うまでもなく、その作業は経済分析の助けなしには
できない。他方、経済分析ではしばしば行為の評価軸を厚生等にのみ求める傾向があったが、
仮に厚生の改善が課題であったとしても、我々が検討すべきはあくまで競争への害を通じたそ
の悪化なのである。
結語
本稿では、市場秩序の法としての独禁法が、消費者厚生等の帰結主義的な目的を基本的
なルールを定めることにより達成するには、競い合いの過程としての競争の保護という視点が
重要でありことを確認した。独禁法は、市場参加者の相互作用を規律し秩序づけるものであ
るから、当然その行為の境界付けが必要である。それを意識化するのが競争過程の問題を考
えることなのである。市場と競争を帰結主義的な目的達成の手段としてのみ考える立場からは、
この境界付けもまた何らかの厚生基準で決定できると考えることになりそうであるが、第四章
で見たように、それはそのような経済分析を重視する論者であっても直ちにその観点から基準
が出せるわけではなく、競い合いのあり方に関する何らかの第一次的接近なしには、厚生評
価を実行することも難しいのである。もっとも、競争過程は、消費者厚生なり社会的厚生なり
についての考察を簡明にするための道具的意義にとどまるのではなく、独禁法がどのような法
益を守るための保護法規であるかを確認するために必要である。被規制者に透明な行為ルー
ルを与えるだけでなく、他者がそのようなルールを遵守することを期待して市場参加者が自己
の能力を発揮する行動計画を立てられるように機能するのも、独禁法が直接的に厚生等を改
善する規則ではなく、競争過程を制御することを第一次にすることから帰結するのである。
しかし、第四章で見たように同時に直接的に厚生等から直結するわけではない競争過程に
おける行為の限界付けの基準は単一の原理・原則から演繹できるわけではなく、市場におい
て観察される様々な慣行に関して、複数の視点から正当化されることになる。かかる複数の視
点からの整合的な正当化という解釈レベルでの議論も必要になってくる。また、競争過程の視
点は同時にそれを害する態様で現に市場における競争の機能が害されること(市場支配力の
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形成等及びそのおそれ)の立証も必要である。それには本稿ではほとんど議論しなかった経
済分析が不可欠な道具である。
*本稿は、科学研究費補助金・学術創成研究費「ポスト構造改革における市場と社会の新た
な秩序形成―自由と共同性の法システム」(研究代表者:川濵昇京都大学教授)主宰の第1
回学術創成セミナーにおいて筆者が行った報告「市場をめぐる法と政策 ――市場秩序法とし
ての独禁法――」(2007年9月6日)をもとに、その後の状況をふまえて改稿したもので
あり、『民商法雑誌』第139巻第3号、同第4・5号、同第6号に発表されている。
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契約規制の法理と民法の現代化*
京都大学大学院法学研究科 山本 敬三
第一章 はじめに
一 契約規制の変容
契約に対する規制のあり方は、この 20 年あまりのあいだに大きく変化してきている。
伝統的には、契約に対する規制といえば、一定の内容の契約について、その効力を否定す
るタイプのものが中心だった。しかも、そのような規制は、一定のあるべき秩序を維持するこ
とや社会的な弱者を保護することを目的としてきた。借地法・借家法、身元保証法をはじめと
した多くの強行法規や、公序良俗違反とされる場合は、まさにそのようなものだったといって
よいだろう。
これに対して、1980 年代から 90 年代にかけて、消費者取引・投資取引の領域で紛争が
多発したのをきっかけに、いわゆる「合意の瑕疵」 の問題がクローズ・アップされるようになっ
た。そこでは、意思形成の過程で、相手方の不当な干渉により、本来ならばするはずのない
契約をさせられた場合に、錯誤や詐欺・強迫、さらに暴利行為に関する規制を拡張する可能
性が議論された 1)。このような動きを受けて、消費者取引の領域では、2000 年に消費者契約
法が制定され 2)、さらに電子消費者契約等特例法の制定や特定商取引法の拡充など、一連の
立法が続いている。さらに、投資取引の領域では、同じく2000 年に金融商品販売法が制定
され、その後、金融商品取引法の制定とあわせてさらに拡充されている 3)。これらは、基本的に、
消費者契約や特定の契約類型-訪問販売・電話勧誘販売・連鎖販売契約・特定継続的役務
提供等契約・業務提携誘引販売契約、金融商品の販売-について、当事者間に情報・交渉
力に構造的な格差があることから、合意の瑕疵に相当するものが生ずるおそれが定型的に存
1) くわしくは、山本敬三「民法における『合意の瑕疵』論の展開とその検討」棚瀬孝雄編『契
約法理と契約慣行』(弘文堂・1999 年)149 頁のほか、同「契約関係における基本権の侵害
と民事救済の可能性」田中成明編『現代法の展望-自己決定の諸相』(有斐閣・2004 年)3 頁、
同「基本権の保護と契約規制の法理」先物取引被害研究 29 号 7 頁(2007 年)を参照。
2) くわしくは、山本敬三「消費者契約法の意義と民法の課題」民商法雑誌 123 巻 4=5 号 39
頁(2001 年)を参照。
3) くわしくは、山本・前掲注 1) 先物取引被害研究 29 号 15 頁以下を参照。
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在することを理由に規制をおこなうものである。
このほか、1990 年代から 2000 年代にかけて、新自由主義的な考え方を基調とした規制
緩和論が台頭し、従来の行政的な事前規制や強行的な内容規制にかえて、
「市場」化ないし「契
約」化、手続規制化と任意法規化が強く主張された。たとえば、借地借家法の領域でも、定
期借家制度の導入のほか、一連のサブリース訴訟を通じて、伝統的な賃借人保護とは異なる
契約規制の可能性が問題とされた 4)。さらに目を広げれば、職務発明に関する特許法の改正 5)
や労働契約法の制定 6) などでは、「契約」化とそれにともなう規制のあり方について、同様の
傾向がみられるようになっている。
2004 年におこなわれた保証契約に関する民法の改正も、このような動きに対応している 7)。
保証契約については、従来から、利他性・無償性・情義性・未必性等を理由に、とくに継続
的保証について、保証人を保護するために契約に対して強行的な規制をおこなう必要性が強
調されてきた。それに対して、2004 年の改正では、保証人を保護するとしながら、契約の締
結に書面を要求したり、極度額の定めを要求するほか、期間を制限し、元本の確定事由を定
型的に定めるなど、契約の内容よりもむしろ手続に関する規制が中心とされている。
二 民法の現代化
このようななかで、現在、債権法を中心として、民法を抜本的に改正するための作業が進
められつつある。
これは、民法典が制定されてからすでに 110 年が経ち、前提となる社会・経済の状況が制
定当時の予想を超えて大きく変化していることを背景としている。この間に、判例・学説を通
じてそうした変化に対して対応がはかられてきたほか、それだけでは対処がむずかしい領域で
は数多くの特別法が制定され、民法の不備が補完されてきた。しかし、その結果、民法典に
書かれていない規範が膨大なものにのぼり、全体の見通しと規範の透明性が損なわれること
になっている。しかも、そのような補完的・部分的な対応だけでは限界があり、変化に対応し
4) サブリース問題と契約規制との関係について、山本敬三「借地借家法による賃料増減規制
の意義と判断構造-『強行法規』の意味と契約規制としての特質」潮見佳男 = 山本敬三 = 森田
宏樹『特別法と民法法理』(有斐閣・2006 年)153 頁を参照。
5) 職務発明と契約規制との関係について、山本敬三「職務発明と契約法-契約法からみた現
行特許法の意義と課題」 民商法雑誌 128 巻 4=5 号 24 頁(2003 年)、同「職務発明の対価規
制と契約法理の展開」田村善之 = 山本敬三編『職務発明』(有斐閣・2005 年)109 頁を参照。
6) 労働契約法と契約規制との関係について、山本敬三 = 野川忍「対談・労働契約法制と民法
理論」季刊労働法 210 号 94 頁(2005 年)を参照。
7) くわしくは、山本敬三「保証契約の適正化と契約規制の法理」新井誠 = 山本敬三編『ドイ
ツ法の継受と現代日本法』(日本評論社・2009 年)397 頁を参照。
- 76 -
きれないことも否定できない。そこで、市場のグローバル化に対応した取引法の国際的な調
和をはかる動きもふまえながら、民法を現代的な状況に応じて見直すこと-民法の現代化-
が焦眉の課題となってきた。
こうした民法の現代化においては、上述した契約規制のあり方の変化をどのように受けとめ、
民法の内容と射程を見直すかということが避けて通れない問題となる。実際、2009 年 4 月
に民法(債権法)改正検討委員会(以下では「改正検討委員会」と呼ぶこととする)が公表
した民法の改正試案-「債権法改正の基本方針」(以下では「改正試案」と呼ぶこととする)
- 8) では、そのような検討を通じて、抜本的な見直しが提案されている。そこでは、たとえば、
公序良俗とならべて暴利行為に関する規定を新設するほか、情報提供義務と結びついた沈黙
による詐欺に関する規定を明文化することが提案されている。さらに、消費者契約法について、
その一部を消費者契約だけでなく法律行為一般に適用されるものとして-その意味で一般法
化して-民法に取り込み、その他の規定についても一部を消費者契約に適用されるものとして
民法のなかに統合することが提案されている。また、それと同時に、新たに約款規制を導入し、
約款の組入れや-消費者契約と一部重なりつつ-不当条項規制に関する規定を整備すること
も提案されている。
こうした見直しに向けた作業の結果、民法および消費者契約法について実際にどのような改
正がおこなわれることになるのか、今のところまだ定かではない。しかし、まさにそのような段
階であるからこそ、契約規制のあり方の変化を受けとめる理論枠組みをあきらかにし、それを
ふまえて民法の現代化を進める方向性を検討することに大きな意味があるというべきだろう 9)。
そこで、本稿では、契約規制の類型とその変容という観点から現代における契約規制の理
8) 民法(債権法)改正検討委員会編『債権法改正の基本方針〔別冊 NBL126 号〕』
(商事法務・
2009 年、以下では『基本方針』として引用する)。これを解説したものとして、民法(債権法)
改正検討委員会編『詳解・債権法改正の基本方針Ⅰ-序論・総則』(商事法務・2009 年、以
下では『詳解Ⅰ』として引用する)
、同編『詳解・債権法改正の基本方針Ⅱ-契約および債権
一般 (1)』(商事法務・2009 年、以下では『詳解Ⅱ』として引用する)も参照。さらに、民法
(債権法)改正検討委員会編『シンポジウム「債権法改正の基本方針」
〔別冊 NBL127 号〕』
(商
事法務・2009 年)、内田貴『債権法の新時代-「債権法改正の基本方針」の概要』(商事法務・
2009 年)も参照。
9) 改正試案のうち、本稿で取り上げる提案の多くは、改正検討委員会の第2準備会-法律行
為(条件および期限を除く)・契約の成立・約款・消費者契約・契約の解釈・売買・交換・贈
与等を担当し、筆者のほか、磯村保・横山美夏・内田貴・筒井健夫がその構成メンバーである
-が起草の準備作業を担当したものであり、筆者もその作業に関与している。しかし、公表さ
れた提案は、準備会での共同作業の結果をふまえて幹事会で調整し、全体会議の議論を経て-
必要な場合は多数決によって-決定されたものであるため、本稿でも適宜言及するように、個
人的な見解とは一致しないところも少なくない。
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論枠組みをあきらかにしたうえで 10)、現在提案されている改正試案を素材としながら、そこにみ
られる現代化の意味と特徴を分析し、あるべき民法改正の方向性を検討することとしたい。
第二章 契約規制の類型とその変容
第一節 分析枠組み
民法によると、契約に関しては、契約自由が基本原則とされる。つまり、当事者が契約をし
た場合は、原則としてその内容どおりの効力が認められる。問題は、こうした契約自由に対し、
どこまでの規制をおこない、それをどのようにして正当化するかである。
まず、契約に対する規制は、何を規制の対象とするかという観点から、契約の締結過程に
対する規制と契約の内容に対する規制に区別することができる。ここでは、前者を締結規制、
後者を内容規制と呼ぶこととする。締結規制は、契約締結の自由や相手方選択の自由、方式
の自由に介入するものであり、内容規制は、契約の内容形成の自由に対して介入するものとし
て位置づけられる。
次に、そのような契約に対する規制は、どのような理由から正当化するかという観点から、
当事者の自律に対して外在的な理由による規制と、当事者の自律を保障するための規制に区
別することができる。ここでは、前者を他律型規制、後者を自律保障型規制と呼ぶこととする。
このうち、後者の自律保障型規制は、当事者の自律をその侵害から保護するための規制と、
当事者の自律を支援するための規制に分かれる 11)。ここでは、前者を自律保護型規制、後者を
自律支援型規制と呼ぶこととする。自律保護型規制は、さらに、契約の締結時にすでに意思
決定の自由が侵害され、本来ならば望まない契約が締結された場合の規制と、契約の締結時
には意思決定の自由に対する侵害がなく、みずから同意した契約に拘束され、将来の自己決
定が拘束されることによって侵害が生ずる場合の規制に分かれる。ここでは、前者を決定侵害
10) 一般に、「契約規制」というと、契約自由を制限し、契約の手続や内容に関して介入的な
いし統制的な規律をおこなうという意味で受けとめられることが多い。しかし、本稿でいう「契
約規制」とは、そのようなものにかぎらず、契約について法的な規律をおこなうこと-法的な
規範を確定・設定すること-一般を指す。他に適当な用語があればそれによりたいが、たとえ
ば「契約規律」「契約規整」等では日本語としての語感に問題があるほか、意味の点でも大差
はないため、本稿では「契約規制」という用語を使用することとしている。
11) 山本・前掲注 5)『職務発明』133 頁以下では、他律型規制に相当するものを「自律排除
型規制」、自律保障型規制に相当するものを「自律尊重型規制」と呼んでいたほか、後者の「自
律尊重型規制」では、もっぱら自律保護型規制を念頭においていた。
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型規制、後者を自己拘束型規制と呼ぶこととする 12)。
以下では、これらの規制類型のそれぞれの意味を確認しながら、最近の立法等においてそ
の力点がどのように変容してきているかという点を概観することにしよう。
第二節 他律型規制
他律型規制とは、当事者の自律に対して外在的な理由にもとづく規制である。そうした規制
として通常考えられるのは、一定の内容の契約について、他律的な理由からその効力を全部
または一部否定するものである。これまで強行法規や公序良俗というと、通常、このタイプの
規制をおこなうものと考えるのが一般的だったといってよいだろう。こうした規制をおこなう他
律的な理由として考えられるのは、次の二つである。
一 秩序維持型規制
第一は、一定の公共的な目的を基礎として、あるべき秩序を設定し、それを維持するため
にこのタイプの規制をおこなうものである。これを、秩序維持型規制と呼んでおこう。
たとえば、談合契約が公序良俗に反し無効とされるのが、その一例である 13)。国が競売制度
や入札制度を定めたのは、多数の者に自由に申込みをさせて目的物をできるかぎり高価に換
価するためである。談合行為はそうした制度の基本精神に反する以上、公の秩序に反し無効
だと考えられるわけである。
また、賭博契約が公序良俗に反し無効とされるのも、この類型の一例である 14)。賭博におい
ては、偶然の事情によって一部の者が利益を得、残りの者が損をする。そのような賭博行為
が社会に蔓延すると、健全な勤労観念が麻痺することになりかねないほか、不正行為を防止
するための公的な制度がないかぎり、暴行、脅迫、窃盗その他の副次的な犯罪を誘発するお
それがある 15)。それゆえ、こうした社会の秩序を維持するために、賭博を禁止し、処罰するだ
けでなく、その契約の効力も否定すべきだと考えられるわけである。
このほか、不貞行為に関する契約が公序良俗に反し無効とされるのも、この類型に属す
る 16)。正当な婚姻関係がある以上、それをできるかぎり尊重するのが婚姻制度の要請であり、
12) 決定侵害型規制と自己拘束型規制の区別については、山本・前掲注 1)『現代法の展望』
16 頁以下を参照。
13) 大判大正 5 年 6 月 29 日民録 22 輯 1294 頁、大判昭和 14 年 11 月 6 日民集 18 巻 1224 頁等。
14) 大判昭和 13 年 3 月 30 日民集 17 巻 578 頁、最判昭和 61 年 9 月 4 日判時 1215 号 47 頁等。
15) 最判昭和 25 年 11 月 22 日刑集4号 11 号 2380 頁を参照。
16) 大判大正 9 年 5 月 28 日民録 26 輯 773 頁、大判大正 12 年 12 月 12 日民集 2 巻 668
頁等を参照。
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そうした要請と相容れない契約は婚姻秩序に反するものとして、無効とすべきだと考えられる
わけである。
二 弱者保護型規制
第二は、一定の者たちについて特別に保護する必要を認め、そのために契約規制をおこな
うものである。
たとえば、借地契約や借家契約において、存続期間や更新等につき、借地借家法の規定
に反する特約で借地権者・借家権者に不利なものが無効とされるのが、その一例である(借
地借家 9 条・16 条・30 条・37 条)。同様の規制は、たとえば身元保証法や労働基準法 13
条等にもみられる。
これらは、従来、社会的な弱者を保護するための規制として位置づけられてきた 17)。その意
味で、これを、弱者保護型規制と呼んでおこう。こうした規制の特徴は、保護されるべき当事
者に不利な特約のみを無効とする-いわゆる片面的強行法規-ところにある。
第三節 自律保障型規制
かつては、契約規制というと、以上にみたような他律型規制が主として念頭におかれていた。
当事者の自律を保障するための規制に相当するものも、たとえば詐欺・強迫による取消しや
行為能力制度がそうであるように、従来から認められていた。しかし、それは自律保障型規制
として明確に認知されていたわけではなく、秩序維持型規制や弱者保護型規制に連なるもの
-取引秩序に反する悪質な行為から保護するための規制、知的能力の劣る者を保護するため
の規制-としてとらえられていた。
これに対して、自律保障型規制が前面に出てきたのが、最近の契約規制の傾向である。そ
こでは、自律保障型規制に相当するものが自律保障型規制として認知され、従来は他律型規
制として位置づけられていたものが自律保障型規制として整備しなおされたり、従来は不十分
だった規制が拡充されたりすることになっている。
一 自律保護型規制
自律保障型規制のうち、まず、自律保護型規制は、契約締結時にすでに意思決定の自由に
対する侵害があったかどうかにより、決定侵害型規制と自己拘束型規制に分かれる。
17) ただし、借地借家法による規制の意味が変質してきていることについては、山本・前掲注 4)
『特別法と民法法理』176 頁以下・189 頁以下を参照。
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(1) 決定侵害型規制
前者の決定侵害型規制は、契約をする際に意思決定の自由が侵害され、その意味で自由
に契約したといえない場合に、その契約の効力を否定するというタイプの規制である。これに
よると、どのような場合に「自由に契約したといえない」、つまり決定侵害があったと判断する
かが問題となる。これは、その判断を個別的におこなうか、定型的におこなうかで、さらに二
つのタイプに分かれる。
(a) 個別的決定侵害型規制
第一は、「自由に契約したといえるかどうか」という判断を個別的におこなうものである。こ
れを、個別的決定侵害型規制と呼んでおこう。このタイプの規制は、従来から民法でも認めら
れてきたが、最近では、それを拡充する必要があることが主張されている。
( ア ) 締結規制
(i) 民法上の規制
まず、詐欺・強迫による取消し(民 96 条)が、このタイプの規制にあたる。これによると、
一方当事者が詐欺または強迫を受けた結果、契約が締結された場合には、その当事者は、
取消しによって契約の拘束力からまぬがれることができる。これはまさに、契約の締結過程に
おいて意思決定の自由が実際に侵害された場合に、その侵害を受けた者を保護するための規
制として位置づけることができる。
このほか、公序良俗のうち、暴利行為に関する準則も、同様の性格をもつ。それによると、
契約内容が一方当事者に不当に不利であるだけではなく、相手方の窮迫・軽率・無経験に乗
じたことを理由に、契約が無効とされる 18)。これは、当事者の自由な意思決定が実際に侵害さ
れることにより、財産がいわば奪われたところに規制の根拠を見いだすものである。その意味
で、これは、締結規制と内容規制を統合した個別的決定侵害型規制として位置づけることが
できる。
(ii) 従来の法状況
もっとも、詐欺・強迫による取消しにしても、暴利行為に関する準則にしても、従来は、非
常に限定的に理解されていた。
まず、詐欺については、故意による違法な欺罔行為があったことが厳格に要求され、単に誤っ
た事実が告げられたり、意思決定に必要な情報が告げられなかったりしただけでは、詐欺によ
る取消しは認められない。強迫についても、畏怖により意思決定の自由を失ったことが厳格に
要求され、たとえば関係や状況を利用して一定の意思決定をせざるをえないような状況に追
い込まれた場合でも、強迫による取消しは容易には認められない。これは、みずから意思をもっ
て契約した以上、保護が受けられるのは、詐欺や強迫という悪質な行為がおこなわれた場合
にかぎられると考えられてきことによる。
18) 大判昭和 9 年 5 月 1 日民集 13 巻 875 頁等を参照。
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また、暴利行為についても、窮迫・軽率・無経験等に乗じることが必要とされるほか、「い
ちじるしく過当な利益の獲得」を内容としたことが要求され、不均衡の程度が数倍程度では足
りないとされることが多かった 19)。これもまた、契約自由が原則であり、その例外として無効が
認められるのは、法秩序からみて容認できない悪質な行為がおこなわれた場合にかぎられる
と考えられたためだろう。
(iii) 最近の展開
これらの要件を厳格に考えるかぎり、意思決定の自由が侵害されていても、それを十分に
保護できないことになる。まさにそうした問題が、80 年代のなかばごろから多発した消費者
紛争や、90 年代に入ってバブル経済の崩壊とともに頻発した投資取引をめぐる紛争のなかで、
顕在化してきた。これらの紛争では、消費者や一般投資家の意思決定が、事業者の不当な取
引行為によって歪められたり、誘導されたりすることが問題となった。既存の民法上の手段で
は、こうした問題に対処しきれないことから、下級審の裁判実務では、消費者や一般投資家
を保護するために不法行為法が利用された。ただ、そこで認められた損害賠償の内容は、多
くの場合、契約によって出捐させられた金銭の回復-いわゆる原状回復的損害賠償-である。
このような賠償が認められれば、結果として契約をしなかったのと同じことになる。その意味で、
これはまさに不法行為法を通じて、以上のような法律行為法の不備をおぎなったものとみるこ
とができる。
こうした動きを受けて、学説では、詐欺・強迫を拡張したり、暴利行為を柔軟化したりする
ことが提唱された 20)。詐欺については、不利な情報を告げない場合をカバーするために情報提
供義務を広く認め、故意の推定を認めたり、過失による場合でも取消しを認める可能性が主
張された。強迫については、畏怖にまでいたらなくても、自由な意思の形成が侵害されたとい
える場合には、強迫に準じて取消しを認める可能性が主張された。さらに、暴利行為につい
ては、伝統的な暴利行為の定式の前半部分-他人の窮迫・軽率・無経験等に乗じること-を
意思決定過程に関する主観的要素、後半部分-いちじるしく不相当な財産的給付を約束させ
ること-を契約内容に関する客観的要素ととらえたうえで、両者の相関関係によって不当性を
判断するという考え方-現代的暴利行為論-が主張された 21)。
( イ ) 内容規制
以上のような変化は、暴利行為にかぎらず、公序良俗による内容規制についてもうかがうこ
19) 大村敦志『公序良俗と契約正義』(有斐閣・1995 年・初出 1987 年)273 頁以下、山本
敬三『公序良俗論の再構成』(有斐閣・2000 年・初出 1995 ~ 98 年)123 頁以下を参照。
20) くわしくは、山本敬三「取引関係における違法行為をめぐる制度間競合論-総括」ジュ
リスト 1097 号 128 頁以下(1996 年、奥田昌道編『取引関係における違法行為とその法的処
理-制度間競合論の視点から』(有斐閣・1996 年)所収)、山本・前掲注 1)『契約法理と契約
慣行』151 頁以下を参照。
21) 大村・前掲注 19)359 頁以下を参照。
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とができる。とくに下級審裁判例でみられる動きは、次のようにまとめられる 22)。
第一に、問題となる領域が、かつての人倫に反するものといったものから、取引関係や労
働関係をはじめ、経済活動に関するものへと変化してきた。
第二に、経済秩序に関する法令を中心に、法令違反を理由の一つとして公序良俗違反を認
めるものがふえてきた。しかもその際、個人の権利・自由の保護を目的とした法令の違反がし
ばしば問題となっている。たとえば、優越的地位の濫用等をはじめとした不公正な取引方法に
関する法令が、その代表例である。
第三に、個人の権利・自由を保護するために公序良俗違反を認めるものがふえてきている。
たとえば、営業・職業の自由など、憲法上の自由や人格権、平等権の侵害を問題としたケー
スが目立つようになっている。
このように個人の権利・自由を保護するために公序良俗違反を認める場合は、上述した秩
序違反を理由に公序良俗違反を認める場合と異なり、内容規制に尽きない側面をもつ。とい
うのは、権利・自由の制限を内容とする契約を締結しても、それだけではその権利・自由が
侵害されたことにはならないからである。当事者がその契約に同意している以上、それは権利・
自由に対する侵害ではなく、権利・自由の行使にあたる。そこで権利・自由が侵害されたとい
えるのは、そのような内容の契約を意思に反して押しつけられた場合である。その意味で、権
利・自由の保護を理由とする内容規制は、通常、個別的決定侵害型規制としての性格をもつ
わけである。
(b) 構造的格差型規制
以上に対して、現在では、「自由に契約したといえるかどうか」、つまり決定侵害があったか
どうかの判断を定型的におこなうタイプの規制も導入されている。消費者契約法による規制が、
これにあたる。
( ア ) 消費者契約法の趣旨
消費者保護というと、従来は、消費者という社会的な弱者を保護するためのものと考えられ
てきた。これは、当事者が自発的にどのような合意をしても、弱者の保護のために介入をお
こなうという意味で、他律型規制に属する。それに対して、消費者契約法は、規制の根拠を、
消費者と事業者のあいだに情報・交渉力の格差があるところに求めている。そのような格差が
あれば、事業者は、それを利用して、自己に有利な契約へと消費者を誘導することが可能に
なる。それは、消費者からいえば、本来ならば望まないような契約をさせられる危険性が高い
ことを意味する。そのように、消費者の意思決定の自由は事業者によって侵害されやすい以上、
その保護を拡充する必要がある。それが、消費者契約法の趣旨だとみることができる。
このように、消費者契約法による規制は、事業者と消費者のあいだに情報・交渉力につい
22) 山本・前掲注 19)『公序良俗論の再構成』186 頁以下、山本敬三「民法における公序良
俗論の現況と課題」民商法雑誌 133 巻 3 号 9 頁(2005 年)を参照。判例の詳細については、
『公
序良俗論の再構成』155 頁以下を参照。
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て構造的な格差があることから、決定侵害がおこなわれるおそれが定型的に存在することを理
由とする。その意味で、これは、構造的格差型規制と呼ぶことができる 23)。
( イ ) 締結規制
消費者契約法に定められた規制のうち、締結規制に相当するのは、誤認または困惑による
取消しである。これは、以上のような考慮から、上述した民法の詐欺・強迫による取消しを拡
充したものとして位置づけられる。
(i) 誤認による取消し
まず、誤認による取消しは、次のような事業者の行為によって、消費者が誤認し、それによっ
て契約を締結した場合に認められている(消契 4 条 1 項・2 項)。
第一は、消費者に事実の認識を誤らせる行為である。具体的には、不実告知-重要事項に
ついて事実と異なることを告げる行為(消契 4 条 1 項 1 号)-と不利益事実の不告知-重要
事項またはそれに関連する事項について消費者の利益となる旨を告げながら、その重要事項
について消費者の不利益となる事実(当該告知により当該事実が存在しないと消費者が通常
考えるべきものにかぎられる)
を故意に告げないという行為(消契 4 条 2 項)-がこれにあたる。
第二は、消費者の判断を誤らせる行為、具体的には断定的判断の提供-消費者契約の目
的となるものに関し、将来における変動が不確実な事項につき確実であるかのように決めつけ
ること(消契 4 条 1 項 2 号)-である。
これらはいずれも、民法の詐欺と比較すると、故意による欺罔行為が要求されていない点で、
消費者の保護を広げている。これは、消費者にとっては、故意による欺罔行為でなくても、事
業者が不当な表示をすれば、誤認をしてもやむをえないという考慮から基礎づけられる 24)。
(ii) 困惑による取消し
次に、困惑による取消しは、不退去または監禁という事業者の行為によって、消費者が困
惑し、それによって契約を締結した場合に認められている(消契 4 条 3 項)。
これは、民法の強迫と比較すると、害悪の告知による畏怖が要求されていない点で、消費
者の保護を広げている。これは、消費者にとっては、事業者がこのような意思を誘導する行為
をすれば、困惑し、契約を締結することになってもやむをえないという考慮から基礎づけられ
る 25)。
23) 山本・前掲注 5)『職務発明』135 頁以下、同・前掲注 1) 先物取引被害研究 29 号 12 頁を参照。
24) 山本・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 44 頁以下、同・前掲注 1)『現代法の展望』
24 頁を参照。
25) 山本・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 49 頁以下、同・前掲注 1)『現代法の展望』
25 頁を参照。
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( ウ ) 内容規制
(i) 個別条項規制
次に、消費者契約法は、内容規制として、まず、個別的に不当条項にあたるものを列挙し
ている。事業者の責任を制限する条項(消契 8 条)と、消費者が支払う損害賠償額の予定・
違約金に関する条項(消契 9 条)が、それにあたる。
(ii) 一般条項による規制
消費者契約法は、こうした個別条項規制をおぎなうものとして、一般条項を定めている。そ
れによると、民法、商法その他の法律の公の秩序に関しない規定、つまり任意法規を適用し
た場合とくらべて、消費者の権利を制限し、または消費者の義務を加重する条項であって、民
法 1 条 2 項に規定する基本原則、つまり信義則に反して消費者の利益を一方的に害する条項
は、無効とされている(消契 10 条)。
これを民法の一般原則とくらべると、まず、任意法規は、もともと当事者がそれと異なる定
めをすることが許されるものであり、それに違反しても契約が無効とされることはない。また、
一方当事者の利益を害していても、伝統的な考え方によると、反社会的で「耐えがたい不正義・
不道徳」といえないかぎり、公序良俗違反にはあたらない。こうした理解を前提とするならば、
消費者契約法は、消費者契約に関するかぎり、無効とされる範囲を広げたものと評することが
できる。
(iii) 個別交渉条項
以上のような消費者契約法による規制の性格を理解するうえで重要なのは、個別交渉条項
に関する議論である。これは、消費者と事業者のあいだで個別的に交渉された条項も以上の
ような不当条項規制の対象となるかどうかという問題である。
有力な見解は、個別交渉を経た条項でも、不当条項規制の対象にふくめるべきであるとする。
しかし、少なくとも消費者契約法の本来の趣旨からすると、これはおかしいというべきだろう。
消費者契約法が契約条項を無効とするのは、その内容がそれ自体として許されないからでは
ない。両当事者のあいだに構造的な格差があり、自由におこなわれた契約として尊重される
ための前提を定型的に欠いていると考えられたからである。こうした理解によると、事業者と
消費者のあいだでも、現実に、十分な情報のもとで個別的に交渉がおこなわれ、それを引き
受ける意図のもとで契約をした場合は、これを無効とすべき理由はない。これが、弱者の保
護ではなく、構造的な格差を理由とする規制であることからする帰結にほかならない 26)。
(2) 自己拘束型規制
以上に対して、自己拘束型規制は、契約時には意思決定の自由は侵害されていないけれど
も、その後契約に拘束されることによって侵害が生じる場合に関する規制である。この場合は、
26) 山本敬三「消費者契約立法と不当条項規制-第 17 次国民生活審議会消費者政策部会報
告の検討」NBL 686 号 28 頁以下(2000 年)、同・前掲注 5)『職務発明』136 頁、同・前
掲注 1) 先物取引被害研究 29 号 13 頁を参照。
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契約の締結に自由に同意したことが前提となるため、それにもかかわらず一般的に規制を認め
るならば、契約の拘束力を否定することになってしまう。問題は、契約の拘束力との関係で、
この場合の規制をどのように正当化するかである。
(a) 締結規制
こうした正当化が比較的容易なのは、締結規制である。契約に拘束力を認め、その後の意
思決定を拘束するためには、当事者がみずからその契約を締結するという意思決定をしたこと
が前提となる。そのような意思決定をおこなう資格要件や手続要件を設定することは、契約の
拘束力の原則と抵触するものではなく、むしろそれが妥当する前提を確保するための規制とし
て正当化することができる。
( ア ) 資格要件型規制
こうした規制としてまず考えられるのは、契約の拘束力をつらぬくためには一定の資格要件
が必要であるとするものである。これを、資格要件型規制と呼んでおこう。現行法では、行為
能力制度がこれにあたる 27)。
かつての行為能力制度は、十分な判断能力がない者を定型化し-未成年者・禁治産者・
準禁治産者の三類型-、それらの者から行為能力を一律に剥奪・制限することによって保護
をあたえるという特徴をもっていた。これは、弱者を後見的に保護する-極端にいえば隔離す
る-ための制度としての性格が色濃く、上述した弱者保護型規制として位置づけられる。
しかし、ひとくちに判断能力を十分もたないといっても、その程度はさまざまである。それ
にもかかわらず、ごく少数の類型に限定して、それに該当する者の行為能力を一律に剥奪・
制限するならば、一方で取引の自由が過度に制限され、他方で必要な保護があたえられない
可能性が生ずる。このことは、高齢化が急速に進行するとともに、深刻な問題となった。高齢
者は、加齢にともない判断能力が徐々におとろえていくという特性をもつため、従来のような
定型的・画一的な制度では対処しきれなくなったわけである。さらに、障害者一般について、
障害者を隔離するのではなく、家庭や地域のなかで通常の生活ができるような社会をつくるべ
きであるという考え方-ノーマライゼーション-が重視されるようになってくると、従来の行為
能力制度はもはや維持できないことになる。
以上のような背景から、1999 年に成年後見制度が導入され、新たに法定後見として後見・
保佐・補助という三つの類型を用意し、本人の能力に応じて保護の程度を柔軟に選択する可
能性が認められることになった 28)。そこでは、上述したノーマライゼーションの考え方を実現す
27) 行為能力制度について概観したものとして、山本敬三『民法講義Ⅰ総則』(有斐閣・第 2
版・2005 年)41 頁以下を参照。
28) 成年後見制度の基本的な考え方については、小林昭彦=大鷹一郎=大門匡編『一問一答
新しい成年後見制度』(商事法務研究会・新版・2006 年)3 頁以下、小林昭彦=大門匡編著『新
成年後見制度の解説』(金融財政事情研究会・2000 年)2 頁以下等を参照。
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るために、個人の自己決定をできるかぎり尊重することがはかられた。これは、次の二つの意
味をもっている。
第一は、個人がみずから決定することができるかぎり、それを実現できるようにすることで
ある。判断能力が不十分であるといっても、自分で判断できる事柄もありうる。そのような事
柄に関しては、できるかぎり自己決定を実現する可能性を確保すべきだと考えられたわけであ
る。たとえば、後見・保佐に加えて補助という類型が新設され、行為能力を制限する範囲・
程度も画一的なものではなく、必要に応じて柔軟に変える可能性が認められたほか、手続に
おいても本人が決定ないし関与できる可能性が拡充されることとなった。
第二は、個人がみずから望む決定を実現できるようにするために、積極的な支援をおこなう
ことである。自分で判断できる事柄があるといっても、精神的・身体的な制約等により、みず
から望む決定を実現できないこともある。そのような場合でも、自分の希望にかなった生活が
できるようにするためには、自己決定を支援する制度を整備すべきだと考えられたわけである。
たとえば、行為能力を制限する範囲・程度を必要に応じて柔軟に変える可能性が認められた
ことにより、みずから決定できる事柄はみずから決定しつつ、一人では決定しきれない事柄
については保護者にその部分を補完してもらうことが可能になる。さらに、任意後見制度が新
設され、現在は十分な判断能力を有する者が、将来判断能力が低下した場合にそなえて、そ
の場合の能力を補完する方法をあらかじめ自分で決めておくことも可能となった。この意味で、
成年後見制度は、後述する自律支援型規制としての性格ももつということができる。
( イ ) 手続要件型規制
このほか、契約の拘束力を認めるために、一定の手続要件を課すという規制も考えられる。
これを、手続要件型規制と呼んでおこう。たとえば、契約の拘束力を認めるために方式要件
を課すものがこれにあたる。
民法では、贈与契約について、書面によらない場合は、撤回できるとされてきた(民 550 条)。
これは、贈与者が軽率に贈与を約束する可能性があるため、書面によって贈与者の意思を確
証させる必要があるほか、後日になって紛争が生じることを避けるため、書面によって権利関
係を明確にさせる必要があるという考慮にもとづく 29)。ただし、書面によらない場合でも、効力
が認められることに変わりはなく、さらに履行の終わった部分については、撤回は認められず、
確定的に拘束力が認められる。
これに対して、2004 年の民法改正で、保証契約が要式行為とされ、書面でしなければ効
力が生じないとされた(民 446 条 2 項)。これは、「保証契約が無償で、情義に基づいて行
われる場合が多い」ことや「保証契約の際には保証人に対し現実に履行を求めることとなる
かどうかが不確定であり、保証人において自己の責任を十分に認識していない場合が少なく
ない」ことを考慮すると、「保証を慎重ならしめるため、保証意思が外部的にも明らかになっ
29) 山本敬三『民法講義Ⅳ -1 契約』(有斐閣・2005 年)337 頁を参照。
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ている場合に限りその法的拘束力を認めるものとすることが相当である」と考えられたことによ
る 30)。保証の場合に要式行為化にまで進んだのは、
「保証契約の存在を前提として主たる債務
としての融資が実行される等の経済取引が行われるものであることから、事後的な撤回という
方法によると法律関係を不安定にし、債権者に不測の損害を与えるおそれがある」からであり、
贈与のように既履行の抗弁を認めれば、「保証取引の実情に照らし、書面によらない保証合意
に基づく強引な取立てを助長するおそれがある」からだとされる 31)。
2004 年の民法改正では、「貸金等根保証契約」-融資に関する根保証契約であって保証
人が個人であるもの-について、極度額の定めのない根保証契約が無効とされたほか(民
465 条の 2 第 2 項)
、根保証契約における保証期間を制限する趣旨で、契約締結日から 5 年
を経過する日より後の日を元本確定期日とする定めが無効とされ(民 465 条の 3 第 1 項)
、
その定めがない場合には、契約締結日から 3 年を経過する日を元本確定期日とするとされた
(民 465 条の 3 第 2 項)。これらは、手続規制としての性格を有している。極度額について
は、定めればよいだけであり、その額をいくらにするかは自由である。ここでは、かならず定
めをするとしておけば、注意して契約するだろうという意味で、警告機能に力点がおかれてい
る。また、元本確定期日についても、長期化を防止しておけば、かならず一定の期間ごとに
債権者と保証人の合意をもって元本確定期日の変更をする必要がある。そうすれば、交渉の
機会がもたれ、根保証の要否とその必要な範囲について慎重な判断をおこなう機会が確保さ
れるという意味で、これもまた、意思決定をおこなうプロセスに関する規制として位置づけられ
る 32)。
(b) 内容規制
以上のような規制は、当事者がみずからその契約を締結するという意思決定をしたといえる
ための前提を確保するためのものであり、契約内容を問題としない間接的な規制として位置づ
けられる。これに対して、自己拘束型規制でも、契約内容を問題とする直接的な規制に相当
するものも考えられる。
( ア ) 基盤保障型規制
まず考えられるのは、契約の拘束力をつらぬくことによって、当事者の権利が侵害されるこ
とを理由とする規制である。
もっとも、自己拘束型の場合は、契約時に当事者が契約の締結に自由に同意したことが前
提となる。したがって、たとえその契約がその当事者の権利の制限を内容としたものであった
としても、それだけでただちにその当事者の権利に対する侵害とはいえない。たとえば、Xが
30) 𠮷田徹 = 筒井健夫編著『改正民法[保証制度・現代語化]の解説』(商事法務・2005 年)
13 頁。
31) 𠮷田 = 筒井編著・前掲注 30)14 頁。保証契約の要式化については、さらに、山本・前掲注 7)
『ドイツ法の継受と現代日本法』421 頁以下を参照。
32) 山本・前掲注 7)『ドイツ法の継受と現代日本法』423 頁以下を参照。
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Yのもとを退職する際に、一定の期間特定の就業行為をしない旨を約束した場合でも、それは、
Xが自由に同意したかぎり、あくまでもXの職業の自由の行使である。Xにとっては、それも
また「善い」と信じてみずから決定したことであって、Xが決めた生き方の表現として尊重さ
れなければならない。それはまさに、究極的には、何が幸福かという決定と追求を個人にま
かせるという憲法 13 条にさかのぼるリベラリズムの考え方から要請される。
ただ、個人個人がどのような生き方を幸福と考えて追求するかにかかわりなく、およそその
ような追求をおこなうためにはどうしてもなくてはならない基礎的な価値もある。たとえば、生
命・身体・健康や人間の尊厳、さらには基本的な財産などは、およそ幸福を追求しようとする
営みをそもそも可能にする基盤にほかならない。こうした基盤を破壊し、Xが後で異なる幸福
を追求しようとしても、それが不可能になるような場合は、契約の拘束力からの解放を認める
必要がある。少なくとも、X自身が保護を求めるのにそれを否定し、当初の契約に拘束する
ならば、それはXの権利に対する「侵害」を帰結し、保護を必要とするとみるべきである 33)。
これにより認められる規制は、個人に幸福追求を可能にする基盤を保障するための規制とい
う意味で、基盤保障型規制と呼ぶことができる。もっとも、
このタイプの規制では、本人自身、いっ
たん自己の権利の制約を内容とする契約に自由に同意したことが前提となる。このような場合
は、その契約の相手方にも、当該契約を前提にして生活し、活動する権利-上述したように、
これもまた究極的には憲法 13 条の幸福追求権にさかのぼる-があることを無視できない。し
たがって、本人に幸福追求を可能にする基盤を保障するために規制をおこなうとしても、それ
は相手方の権利に対して過剰な介入にならない限度にとどめる必要がある。
たとえば、契約を公序良俗に反し無効とする場合は、①契約の履行強制が否定されるだけ
でなく、②そもそも契約の履行を請求することも、③契約不履行にもとづく損害賠償も否定さ
れることになる。この場合は、本人の側でも、④履行された給付の保持が否定されることにな
るため、給付をした相手方は不当利得としてその返還を請求することができるが、それが不法
原因給付にあたるとされれば、返還請求まで否定されることになる。これは、相手方の権利を
剥奪するものであり、もっとも強力な規制にあたる。しかし、その一方で、契約を規制する方
法としては、契約の効力は否定せずに、たとえば、①強制執行のみを排除したり、②任意解
除や撤回権を認めることにより履行請求を排除したり、③契約不履行にもとづく損害賠償を原
状回復利益や信頼利益に相当するものに限定したりするものも考えられる。そこでは、本人に
幸福追求を可能にする基盤を保障するために、少なくとも必要最低限どこまでの規制を認める
ことが要請されるかが決め手となる 34)。
33) 山本敬三「現代社会におけるリベラリズムと私的自治-私法関係における憲法原理の衝
突 (2)」法学論叢 133 巻 5 号 20 頁以下(1993 年)、同・前掲注 19)『公序良俗論の再構成』
69 頁以下、同・前掲注 1)『現代法の展望』35 頁以下等を参照。
34) くわしくは、山本・前掲注 33) 法学論叢 133 巻 5 号 21 頁以下、同・前掲注 1)『現代法
の展望』36 頁以下を参照。
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( イ ) 事情変更型規制
このほか、契約が有効に成立し、契約に拘束力が認められる場合でも、その後例外的にそ
の契約の拘束力から離脱する可能性を認めるものとして、事情変更の原則が考えられる。もっ
とも、これをどのような性格をもつ規制として理解するかについては、争いがある 35)。
(i) 信義衡平説
事情変更の原則は、一般に、契約締結当時その基礎となった事情が、当事者の予見でき
なかった事実の発生によって変化し、そのため当初の契約内容に当事者を拘束することがき
わめて過酷になった場合に、契約の改訂または解除が認められるという原則であるとされる 36)。
これは、伝統的な理解によると、次のように説明される 37)。
まず、
「契約は守らなければならない」という原則からすると、
たとえ事情が変化したとしても、
当事者は契約どおり履行しなければならない。しかし、そのために当事者に重大な不利益が
生じ、過酷な結果をもたらす場合にまでこの原則を形式的に貫徹することは、信義衡平の理
念に反する。
ただ、契約に拘束力が認められることが原則である以上、その例外が認められる場合は限
定する必要がある。したがって、そのような契約の拘束力の制限は、まず、当事者が事情の
変化を予見しておらず、かつ予見できなかった場合にかぎられる。当事者が事情の変化を予
見していた場合は、それをふまえてみずから契約した以上、契約は守らなければならない。ま
た、当事者が事情の変化を予見できた場合も、みずからの不注意でそれをふまえて契約する
ことをおこたったのだから、そのリスクはみずから負担すべきだと考えられるからである。
しかし、当事者が予見しておらず、かつ予見することができなかった事情の変化が生じたと
いうだけで、ただちに契約の改訂や解除が認められるとするならば、当事者間の関係はきわ
めて不安定なものになってしまう。したがって、そのような契約の改訂や解除は、当事者を当
初の契約内容に拘束することが信義衡平上いちじるしく不当な結果をもたらす場合にかぎる必
要があると考えられる。
これによると、事情変更の原則は、信義衡平の理念から契約の拘束力の原則を例外的に制
限するものとして位置づけられる。これをさしあたり、信義衡平説と呼んでおこう。
(ii) 契約基準説
もっとも、最近では、事情変更の原則を本当にこのように理解してよいのかどうかについて、
35) 山本・前掲注 4)『特別法と民法法理』168 頁以下を参照。
36) 判例でも、一般論としては確立しているが、実際にこの原則を適用し、契約の解除を認
めたのは、最上級審レベルでは、大判昭和 19 年 12 月 6 日民集 23 巻 613 頁のみである。
37) 中山充「事情変更の原則」遠藤浩 = 林良平=水本浩監修『現代契約法大系・第 1 巻』(有
斐閣・1983 年)72 頁以下等を参照。
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疑問を呈する見解も主張されている 38)。
それによると、たしかに、たとえば売買契約がおこなわれた場合に、
「目的物甲を引き渡す」
「代金1億円を支払う」ことが契約内容であるとすると、事情変更の原則は、そのような内容
をもった契約の拘束力を例外的に制限するものとして位置づけられる。しかし、実際の契約は、
このように単純なものではない。売買契約でも、契約が最終的に履行されるまで、さまざまな
障害が発生する可能性がある。そのうち、どのような障害は売主の側で克服して履行すべきで
あり、どのような障害は買主の側で甘受すべきかというリスクの配分についても、当事者は何
らかの合意をすることが可能である。少なくとも、そうしたリスク配分の合意が実際になされて
いれば、それにしたがって解決することが、契約自由の原則の当然の帰結と考えられる。
しかし、よく考えてみると、このようなリスクをどう配分するかについて、取引社会には、一
定の指針が存在する。そうでなければ、取引の計算が成り立たない。実際の当事者も、それ
では不都合な部分について独自に合意をすることがあるとしても、そうした指針を前提として
契約をしているとみることができる。このようなリスク配分の指針も、およそ契約をする以上、
当然前提としているのだから、契約内容を構成する。そう考えるならば、事情変更の原則は、
そのかぎりで、契約内容を確定する作業に吸収されることになる。契約内容が基準になるとい
う意味で、これをさしあたり、契約基準説と呼んでおこう。
この考え方によると、事情変更の原則は、契約に拘束力が認められる範囲を確定することを
目的とした規制として位置づけられ、むしろ次に述べる自律支援型規制に属することになる。
二 自律支援型規制
(1) 自律支援型規制の考え方
以上に対し、自律支援型規制は、意思決定の自由が侵害を受けている、ないしはそのおそ
れがあるわけではないけれども、そうした意思決定をよりよくおこなうことができるように支援
するための規制である。
こうした自律の支援という考え方は、そのような言葉を用いるかどうかは別として、もともと
民法の基礎におかれていた考え方である。契約自由を原則としながら、なお契約に関する規
定-とりわけ合意により排除できる任意法規-を定めるのは、意思決定の自由を尊重しながら、
そうした意思決定に指針をあたえ、必要な場合にそれを補完するためである。これはまさに、
自律を支援するという考え方のあらわれととらえることができる。
38) 𠮷政知広「契約締結後の事情変動と契約規範の意義-事情変更法理における自律と他律
(1)(2)」民商法雑誌 128 巻 1 号 43 頁・2 号 3 頁 (2003 年 )、とくに 2 号 14 頁以下、同「『履
行請求権の限界』の判断構造と契約規範-ドイツ債務法改正作業における不能法の再編を素材
として (1)(2)」民商法雑誌 130 巻 1 号 37 頁・2 号 66 頁(2004 年)、とくに 2 号 82 頁以下
を参照。
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しかし、このような自律の支援という考え方がとりわけクローズアップされるようになってき
たのは、この 20 年あまりのことである。それは、この間に新自由主義が台頭し、福祉国家批
判が展開されたことと関係している。それによると、経済を活性化させ、グローバル化に対応
するためには、自由な経済活動を最大限保障して、市場競争にゆだねるべきであり、それを
阻害する規制は可能なかぎり撤廃すべきであると主張された。その結果、たとえば消費者に
しても、労働者にしても、国家が後見的に介入して「保護」をあたえることが問題視され、そ
のような「規制」についても見直しを求める声が高まった。このようななかで、後見的な保護
と自由放任のあいだのいわば第三の道として注目されたのが、自律の支援という考え方であ
る 39)。それによると、個人は生身のいわば等身大の人間としてとらえられ、さまざまな制約を受
けつつも、主体的に決定できる存在として尊重することが要請される。したがって、そこで必
要となる規制も、個人の自律を度外視した後見的な「保護」をあたえるための規制-本稿の
用語でいうと弱者保護型規制-ではなく、個人の自律を可能にし、その実現をサポートするた
めの規制だということになる。この意味で、自律支援型規制は、自由を基調とする社会におい
てもなお正当化でき、かつ実際に必要な規制として注目されるようになってきたわけである。
こうした自律の支援は、さまざまな方法によっておこなうことができる。このうち、民法が定
めているのは、次のようなものである。
(2) 制度保障型規制
まず考えられるのは、意思決定をおこなうことを可能にする法的な制度を用意するものであ
る。これを、制度保障型規制と呼んでおこう。これは、さらに、意思決定の主体に関する支援
制度によるものと意思決定をおこなう行為に関する支援制度によるものに分かれる。
(a) 主体に関する支援制度
まず、主体に関する支援制度の代表例は、代理制度である。代理制度は、従来から、私的
自治を拡張し、補充するために、本人と一定の関係にある者がした行為の効果が本人に発生
することを認めるための制度として理解されてきた 40)。その意味で、代理制度は、まさに人の自
律的な活動を支援するための制度として位置づけられる。
さらに現在では、団体制度も、
このような性格を強めている。団体制度については、伝統的に、
団体の社会的実体を問題とし、それにふさわしい規律をおこなうという志向が強かった。それ
に対して、最近では、法律により認められる団体のカテゴリーを多様化し、団体を利用して経
済的・社会的活動をおこなうための選択肢を拡充する方向で一連の立法-とりわけ 2005 年
の会社法改正や 2006 年の法人法改正等-がおこなわれている。そこには、団体制度もまた、
人々の活動のための手段であり、人々の活動をよりよく支援するという観点から整備されるべ
39) 大村敦志「消費者・消費者契約の特性」同『消費者・家族と法』
(東京大学出版会・1999 年・
初出 1991 年)46 頁以下、同『消費者法』
(有斐閣・第 3 版・2007 年)27 頁以下・35 頁を参照。
40) 於保不二雄『民法総則講義』(有信堂・1951 年)213 頁以下、四宮和夫『民法総則』(弘
文堂・第 4 版・1986 年)225 頁等を参照。
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きものであるという考え方を見てとることができる 41)。これによると、団体制度も自律を支援す
るための技術的な制度として位置づけられることになる。
(b) 行為に関する支援制度
これに対して、行為に関する支援制度は、契約という行為をおこなうことを可能にするため
の制度である。
実は、契約制度そのものが、このような意味をもつ。そもそも契約は、何が「契約」であ
るとするかというルールがあってはじめておこなうことが可能になるからである。二人の人の行
為を「契約」の締結と構成し、それに拘束力をあたえる一連のルール、つまり契約制度が存
在してはじめて、そうした契約をおこなうことができるようになる 42)。民法が定める契約の成立
や効力に関する規定群は、まさにそのような契約制度を保障したものとして位置づけることが
できる。
こうした契約制度がなければ、誰もが-幸福追求権の一つの具体化として-自分の生活空
間を自分で形成する自由をもつのだから、他人に影響するような生活空間の形成は、一人で
はできないことになってしまう。そこで、そうした生活空間の形成でも、その他人の同意を得
ることによって可能にするのが、契約制度にほかならない。その意味で、契約制度は、自分
の生活空間を自分で形成する自由、つまり自律を支援するために不可欠の制度だということが
できる 43)。
同じことは、契約各則等において典型契約類型を定めることにもあてはまる。典型契約類型
の意義については、この 10 年あまりのあいだに再評価が進められ 44)、契約に関する問題を法
41) 山本・前掲注 29)『民法講義Ⅳ -1』759 頁を参照。
42) 山本敬三「憲法システムにおける私法の役割」法律時報 76 巻 2 号 65 頁(2004 年)等
を参照。
43) 山本・前掲注 19)『公序良俗論の再構成』27 頁、山本敬三「基本法としての民法」ジュ
リスト 1126 号 264 頁以下(1998 年)を参照。
44) 大村敦志『典型契約と性質決定』(有斐閣・1997 年・初出 1993 ~ 95 年)。さらに最近
では、石川博康による一連の研究がある(石川博康「『契約の本性』の法理論 (1) ~ (10)」法
学協会雑誌 122 巻 2 号 71 頁・6 号 120 頁・123 巻 1 号 81 頁・4 号 28 頁・5 号 1 頁・7 号
1 頁・11 号 146 頁・124 巻 1 号 167 頁・5 号 150 頁・11 号 119 頁(2005 ~ 07 年)、同「典
型契約冒頭規定と要件事実論」大塚直 = 後藤巻則 = 山野目章夫編著『要件事実論と民法学との
対話』(商事法務・2005 年)122 頁、同「『契約の本性』の法理論」私法 68 号 174 頁(2006
年)、同「典型契約と契約内容の確定」内田貴 = 大村敦志編『民法の争点』(有斐閣・2007 年)
236 頁)。
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的に構成するための準拠枠として働くことがあきらかにされている 45)。たとえば、売買契約では、
主体として、売主と買主、給付として、目的とされた財産権の移転とその対価である代金の支
払いが不可欠の構成要素とされ、たとえば目的物について権利の瑕疵や物の瑕疵がある場合
に売主の責任が問題となる。あるいは、賃貸借契約では、主体として、賃貸人と賃借人、給
付として、目的物を使用収益させることとその対価である賃料の支払いが不可欠の構成要素と
され、たとえば目的物が使用収益できない状態になった場合に修繕義務が問題となる。こうし
た準拠枠があたえられ、またそれが共有されているからこそ、対象となる事態を法的に構成し、
それについて了解することが可能になる。このような共通の準拠枠として典型契約類型を定め
ることは、法律家にとってはもちろん、当事者にとっても、その活動を可能にし、支援するた
めのインフラ・ストラクチャーを整備するという意味をもつ。このように、典型契約類型は、そ
れ自体、自律を支援するための制度として位置づけられるわけである。
(3) 内容形成型規制
以上のような契約制度の保障を前提として、さらにそうした契約の内容形成を支援するため
の規制も考えられる。これを、内容形成型規制と呼んでおこう。たとえば、任意法規を整備す
ることなどがこれにあたる。これは、相互にオーバーラップするものの、次の二つの機能を有
する。
第一は、契約について標準的な内容を指針として提示するという機能である。そうした標準
的な内容が提示されていれば、当事者は、契約内容を決めるための手がかりとしてそれを利
用することができる。また、実際に契約が締結された場合でも、当事者が定めたことの意味が
明確でないときには、特別な事情がないかぎり、標準的な内容に即して解釈することができる。
その意味で、こうした標準的な内容を提示した規制は、契約の内容形成を支援するものとして
位置づけられる 46)。内容形成型規制がもつこの側面を、契約規整機能ないし契約規整型規制
と呼んでおこう。
第二は、契約に定められていない事柄について契約を補完するという機能である。このよう
な契約を補完するための規制が用意されていなければ、当事者はすべての問題について合意
し尽くしておかなければならないことになる。その意味で、こうした契約を補完するための規
制は、契約の内容形成を支援するものとして位置づけられる。内容形成型規制がもつこの側
面を、契約補完機能ないし契約補完型規制と呼んでおこう。
45) 山本敬三「契約法の改正と典型契約の役割」山本敬三ほか『債権法改正の課題と方向-
民法 100 周年を契機として〔別冊 NBL51 号〕』(商事法務研究会、1998 年)8 頁以下を参照。
さらに、同「民法における法的思考」田中成明編『現代理論法学入門』(法律文化社・1993 年)
233 頁以下も参照。
46) 山本・前掲注 45)『債権法改正の課題と方向』25 頁以下を参照。
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第三章 民法の現代化とその意義
第一章でふれたように、現在、民法の抜本的な改正をおこなうための作業が進められつつ
ある。本章では、第二章であきらかにした契約規制の理論枠組みを前提として、現在提案さ
れている改正試案を素材としながら、そこにみられる民法の現代化の意味と特徴を分析し、あ
るべき民法改正の方向を検討することにしよう。
第一節 自律保護型規制-決定侵害型規制
上述したように、最近の契約規制の傾向として、自律保障型規制が前面に出てきていること
が指摘できる。そこでは、自律保障型規制に相当するものが自律保障型規制として認知され、
従来は他律型規制として位置づけられていたものが自律保障型規制として整備しなおされた
り、従来は不十分だった規制が拡充されたりすることになっている。こうした傾向は、現在の
改正作業にもはっきりとみてとることができる。本節では、まず、そうした傾向がもっとも顕著
にうかがうことができる自律保護型規制のうち、決定侵害型規制について、改正試案が示す方
向性とその意義をあきらかにすることにしよう。
一 個別的決定侵害型規制
改正試案では、個別的決定侵害型規制に属するものとして、三つの規定が新たに提案され
ている。第一は、暴利行為に関する【1.5.02】
〈2〉であり、第二は、不実表示に関する【1.5.15】
であり、第三は、沈黙による詐欺に関する【1.5.16】〈2〉である。
(1) 暴利行為
まず、暴利行為について、改正試案は、【1.5.02】〈2〉で、「当事者の困窮、従属もしくは
抑圧状態、または思慮、経験もしくは知識の不足等を利用して、その者の権利を害し、また
は不当な利益を取得することを内容とする法律行為は、無効とする」と定めることを提案して
いる。
第二章でふれたように、暴利行為については、意思決定過程に関する主観的要素と法律行
為の内容に関する客観的要素の相関関係によって不当性を判断し、法律行為の無効をみち
びくという考え方が有力に主張されている。改正試案は、この現代的暴利行為論にしたがい、
暴利行為に関する準則を新たに明文化することを提案するものである 47)。そこでは、意思決定
過程に関する主観的要素として、「当事者の困窮、従属もしくは抑圧状態、または思慮、経験
もしくは知識の不足等を利用」すること、法律行為の内容に関する客観的要素として、「その
47) 前掲注 8)『基本方針』20 頁、『詳解Ⅰ』58 頁以下を参照。
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者の権利を害し、または不当な利益を取得することを内容とする」ことがあげられている。
主観的要素のうち、「困窮」は、伝統的な暴利行為の定式の 「窮迫」 に対応し、「思慮」「
経験」 の不足は、「軽率、無経験」に対応する。これに対して、「従属もしくは抑圧状態」お
よび「知識」 の不足は、伝統的な暴利行為の定式に対し、新たに付け加えられたものである。
「従属もしくは抑圧状態」が加えられたのは、それが利用される場合でも、自由な意思決定
が妨げられることに変わりはないからであり、これにより、既存の関係を利用する場合や不当
な威圧がおこなわれる場合にも対処が可能になる。「知識」の不足が加えられたのは、情報・
交渉力の格差を利用して不当な契約をさせる場合も対象とするためである。ただし、以上の要
素はあくまでも例示であり、これらに類するものを排除する趣旨ではない 48)。
客観的要素のうち、後半の「不当な利益を取得することを内容とする」ことは、伝統的な
定式の「いちじるしく過当な利益の獲得を目的とする」ことを緩和したものである。主観的要
素がそなわる程度が大きければ大きいほど、当事者が自由に決めたとはいいがたくなり、そ
のような場合は、現代的暴利行為論が説くように、
「いちじるしく過当」とまでいえなくても、
「不
当」といえる程度の利益を取得することが内容とされていれば、法律行為の効力を否定しても
よいと考えられるからである 49)。
「不当な利益を取得することを内容とする」ことは、契約において不相当な対価を合意させ
た場合だけでなく、対価は相当であっても、不必要に多量の物品等を購入させる場合-いわ
ゆる過量販売-もふくむ 50)。また、契約による場合だけでなく、契約によらずに不当な利益を
取得しようとする場合もここにふくまれる。たとえば、
「困窮、従属もしくは抑圧状態、
または思慮、
経験もしくは知識の不足等」を利用して、不当な遺贈を内容とする遺言をさせたり、相続につ
いて単純承認や放棄をさせたりする場合などがそれにあたる。さらに、当事者の困窮等を利
用する程度がいちじるしいような極端な場合、たとえば故意に弱みにつけ込み、そもそも契約
する意図も利益もなかった者を契約に応じさせたような場合は、そのような者と契約すること
自体、
「不当な利益を取得することを内容とする」契約と評価できる 51)。このように考えるならば、
これはまさに個別的決定侵害を広くとらえる一般条項として位置づけることができる。
これに対し、客観的要素のうち、前半の「その者の権利を害し」という部分は、伝統的な
48) 前掲注 8)『基本方針』20 頁以下、『詳解Ⅰ』60 頁以下を参照。
49) 前掲注 8)『基本方針』21 頁、『詳解Ⅰ』61 頁を参照。
50) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』61 頁を参照。2008 年に改正された特定商取引法 9 条の 2 は、訪問
販売に関して、日常生活において通常必要とされる分量をいちじるしく超える商品の売買契約
等の申込みの撤回または契約の解除を認めている。
51) 山本敬三 = 磯村保 = 横山美夏 = 児島幸良 = 児島政明「インタビュー・『債権法改正の基
本方針』のポイント-企業法務における関心事を中心に④ 民法(債権法)改正検討委員会・
第2準備会 法律行為、約款・消費者契約、契約の成立、売買 ( 上 )」NBL 910 号 31 頁(2009
年)〔山本敬三の発言〕を参照。
- 96 -
定式にはなかったものである。これは、かならずしも相手方が「不当な利益」を取得するとは
いえない場合でも、被害者の「権利」-確立した権利にかぎられず、法律上保護される利益
にあたるものもふくむ-が侵害されているかぎり、救済を認める必要があるという考慮にもとづ
く 52)。
(2) 不実表示
改正試案は、【1.5.15】〈1〉で、「相手方に対する意思表示について、表意者の意思表示
をするか否かの判断に通常影響を及ぼすべき事項につき相手方が事実と異なることを表示し
たために表意者がその事実を誤って認識し、それによって意思表示をした場合は、その意思
表示は取り消すことができる」と定めることを提案している。これは、消費者契約法 4 条 1 項
1 号に定められた不実告知を拡充し、消費者契約だけでなく、法律行為一般に適用されるも
のとして民法に取り込む-一般法化する-ことを提案したものである。
消費者契約法 4 条 1 項 1 号は、事業者が消費者契約の締結について勧誘をするに際し、
不実告知をした場合に、消費者がその告げられた内容が事実であると誤認し、それによって
当該消費者契約の申込みまたは承諾の意思表示をしたときは、これを取り消すことができると
定めている。これは、「消費者と事業者との間の情報の質及び量並びに交渉力の格差にかん
がみ」(消契 1 条)
、このような場合は、消費者に自己責任を求めることが適切でないと考え
られたことによる。
しかし、事実に関して取引の相手方が不実の表示をおこなえば、消費者でなくても、誤認を
してしまう危険性は高いというべきだろう。しかも、前提となる事実が違っていれば、それを
正確に理解しても、その結果おこなわれる決定は不適当なものとならざるをえない。したがっ
て、事実に関する不実表示については、表意者を保護すべき必要性は一般的に存在し、かつ
その必要性はとくに高いと考えられる。相手方もみずから誤った事実を表示した以上、それに
よって錯誤をした表意者からその意思表示を取り消されてやむをえないだろう。【1.5.15】〈1〉
52) 前掲注 8)『基本方針』21 頁、『詳解Ⅰ』61 頁以下を参照。
- 97 -
が不実表示を一般法化したのは、このような考慮にもとづく 53)。
【1.5.15】〈1〉は、上記のように、「相手方に対する意思表示について、表意者の意思表示
をするか否かの判断に通常影響を及ぼすべき事項につき相手方が事実と異なることを表示し
た」ことを要件としている。これは、消費者契約法 4 条 1 項 1 号および 4 項に準拠したもの
であるが、
「消費者契約」による限定を外し、
「意思表示」に関する規定にあらためているほか、
次の2つの点が異なっている。
第一に、消費者契約法 4 条 4 項に定められた「重要事項」の定義のうち、①「当該消費
者契約の目的となるものの質、用途その他の内容」と②「当該消費者契約の目的となるもの
の対価その他の取引条件」による限定が外されている。現行消費者契約法の解釈についても、
事業者が積極的な行為によって消費者を誤認させた以上、契約を取り消されてもやむをえな
いという考え方が本来の立法趣旨であることからすれば、消費者の判断に通常影響を及ぼす
53) 前掲注 8)『基本方針』31 頁、『詳解Ⅰ』128 頁を参照。不実表示を一般法化することに
対して、事業者間取引(とくに M&A 取引や資金調達に関する取引等)で実務上用いられる表
明保証条項-事業者が開示した一定の事実が真実であることを表明し、保証すると定め、それ
が不実であったときは、相手方に生じた損害を補償する旨を定めた条項-の効力が認められな
いことになるのではないかという危惧が示されている(前掲注 8)『シンポジウム「債権法改
正の基本方針」』94 頁を参照)。不実表示による取消しを定めた【1.5.15】が強行法規である
とすると、表明保証条項は無効になると考えられるためである。これについては、三つの可能
性が考えられる。第一は、この場合は、そもそも不実表示にあたらないとみる可能性である。
表明保証条項のように、不実であったときも損害の補償にとどめ、取消しを認めないという特
約がある場合は、
【1.5.15】の意味での「不実表示」にあたらないと考えるわけである。第二は、
これをリスク負担の合意とみる可能性である。合意により、事実に関する認識の誤りのリスク
を相手方に転嫁できるという考え方は、事実錯誤(従来の動機錯誤)に関する【1.5.13】〈2〉
でも認められている(前掲注 8)『基本方針』29 頁、『詳解Ⅰ』117 頁以下を参照)。これによ
ると、不実表示についても、同じような合意が可能であると考えるわけである。ただし、この
場合は、あくまでも合意が必要であるほか、たとえば消費者契約による場合は、不当条項規制
の問題となる。第三は、取消権の放棄とみる可能性である。錯誤の場合はもちろん、不実表示
の場合も、取消権を定めた規定自体は強行法規であるとしても、それにより発生した取消権を
放棄することは権利者の自由である。表明保証条項は、この取消権を事前に放棄することを定
めた特約-たとえ不実表示にあたるとしても、それによる取消権をあらかじめ放棄するという
特約-であるとみることができる。詐欺・強迫による取消権を事前に放棄する合意は、公序良
俗に反すると考えられるとしても、錯誤・不実表示による取消権を事前に放棄する合意は、公
序良俗に反するとまではいえないだろう。もちろん、消費者契約でそのような特約が定められ
たときは、不当条項規制の問題となるが,事業者間契約であれば、原則としてその効力を認め
てよいと考えられる。おそらく、この第三の可能性が、この問題の解決にもっとも適している
というべきだろう。
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べき事項について誤った事実が告げられたと評価されるかぎり、取消しを認めてもよいはずで
あり、①②は単なる例示にすぎないとみる見解も主張されている 54)。【1.5.15】〈1〉は、このよ
うな考え方にしたがい、とくに限定をせず、「表意者の意思表示をするか否かの判断に通常影
響を及ぼすべき事項につき」相手方が不実の表示をすれば足りるとしたわけである 55)。
第二に、消費者契約法 4 条 1 項 1 号では、「事実と異なることを告げる」ことを要件として
いるのに対し、「事実と異なることを表示した」ことが要件とされている。消費者契約法 4 条
1 項 1 号の「告げる」については、かならずしも口頭による必要はなく、書面に記載して消費
者に知らせるなど、消費者が実際にそれによって認識しうる態様の方法であればよいとされて
いる 56)。しかし、それでも、実際に積極的な告知行為をしたことが必要となり、四囲の事情か
ら黙示的に表示されたと評価される場合はふくまれないと解される余地もある。そのような場
合でも、表意者がそれによって事実を誤って認識するならば、同様に取消しを認めてよいと考
えられる。【1.5.15】〈1〉が「事実と異なることを表示した」としているのは、このような場合
もふくむという趣旨である 57)。
不実表示の意味をこのようにとらえるならば、消費者契約法 4 条 2 項に定められた不利益
事実の不告知も、ここでいう不実表示にふくまれると考えられる。消費者契約法 4 条 2 項によ
ると、不利益事実の不告知が認められる場合、そこで問題となる不利益事実は、消費者の利
益になる旨を告げることにより、そのような事実は存在しないと消費者が通常考えるべきもの
である。ここでは、消費者にとって利益となることと不利益事実は表裏一体をなしている場合
が対象とされているわけである。不利益事実の不告知とは、それにもかかわらず、利益となる
旨のみを告げて、不利益事実は存在しないと思わせる行為であり、それ自体一つの不実表示
54) 山本敬三「消費者契約法と情報提供法理の展開」金融法務事情 1596 号 12 頁(2000
年)等。国民生活審議会消費者政策部会消費者契約法評価検討委員会『消費者契約法の評価及
び論点の検討等について(平成 19 年 8 月)』(http://www.consumer.go.jp/seisaku/shingikai/
hokokusyo/hokokusyo.html 以下では「国生審評価検討委員会」として引用する)16 頁は、
「消
費者契約法上の『重要事項』の概念について、特定商取引法におけるように、契約を締結する
動機に係る事項を含め概念を拡張すべきと考えられる」としたうえで、「その際、どのように
拡張するかについては、適用範囲を明確化する必要をも踏まえながら、引き続き検討すべきで
ある」としている。
55) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』129 頁を参照。
56) 内閣府国民生活局消費者企画課編『逐条解説消費者契約法』(商事法務・新版・2007 年、
以下では「内閣府編」として引用する)98 頁。
57) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』129 頁を参照。
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と評価することができる 58)。したがって、不実表示に関する一般規定を【1.5.15】〈1〉のよう
に定めるならば、消費者契約法 4 条 2 項の不利益事実の不告知に関する規定はこれに吸収さ
れると考えられる。
これに対して、不利益事実の不告知は、そのように不実表示に包摂されるとしても、なおこ
の場合に取消しが認められることを明示的に確認しておくことが望ましいという考え方もある。
これは、現行消費者契約法では明文で定められているものが明示的に定められないことにな
れば、疑義を生じる可能性があるという考慮にもとづく。また、不利益事実の不告知について
は、消費者団体訴訟制度による差止めも認められるため、差止めが認められる行為を明示的
に特定しておくことが望ましいという考慮もある。しかし、不利益事実の不告知はここでいう不
実表示に包摂されるにもかかわらず、あえて不利益事実の不告知について明文の規定をおけ
ば、不実表示の射程が限定的に解釈されるおそれも出てくる。そのため、不利益事実の不告
知に関する規定は、独立の規定として存置すべきではないと考えられる 59)。
(3) 沈黙による詐欺と情報提供義務
(a) 改正試案の立場
改正試案は、【1.5.16】〈1〉で、「詐欺により表意者が意思表示をしたときは、その意思表
示は取り消すことができる」と定めたうえで、
〈2〉で、
「信義誠実の原則により提供すべきであっ
た情報を提供しないこと、またはその情報について信義誠実の原則によりなすべきであった説
明をしないことにより、故意に表意者を錯誤に陥らせ、または表意者の錯誤を故意に利用して、
表意者に意思表示をさせたときも、〈1〉の詐欺による意思表示があったものとする」と定める
ことを提案している。
現行法のもとでも、沈黙による詐欺について、以前から、信義則上相手方に告げるべき義
務がある場合には、沈黙も現民法 96 条 1 項の「詐欺」にあたるとすることに異論はない 60)。
【1.5.16】〈2〉は、この沈黙による詐欺に関する一般的な考え方をリステイトしたものであ
る 61)。
問題は、どのような場合に情報提供義務や説明義務が認められるべきかである。この点に
ついて、【1.5.16】〈2〉は、「信義誠実の原則により」と定めるにとどめて、解釈にゆだねるこ
ととしている。このほか、改正試案では、【3.1.1.10】で、交渉当事者の情報提供義務・説明
義務について、〈1〉で「当事者は、契約の交渉に際して、当該契約に関する事項であって、
58) 沖野眞已「『消費者契約法(仮称)』における『契約締結過程』の規律-第 17 次国民生
活審議会消費者政策部会報告を受けて」NBL 685 号 18 頁(2000 年)、山本・前掲注 54)
金融法務事情 1596 号 8 頁、同・前掲注 1)『現代法の展望』24 頁等を参照。
59) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』131 頁以下を参照。
60) 大判昭和 16 年 11 月 18 日法学 11 巻 617 頁等のほか、我妻栄『新訂民法総則』
(岩波書店・
1965 年)309 頁、四宮・前掲注 40)184 頁等を参照。
61) 前掲注 8)『基本方針』33 頁、『詳解Ⅰ』142 頁を参照。
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契約を締結するか否かに関し相手方の判断に影響を及ぼすべきものにつき、契約の性質、各
当事者の地位、当該交渉における行動、交渉過程でなされた当事者間の取り決めの存在およ
びその内容等に照らして、信義誠実の原則に従って情報を提供し、説明をしなければならない」
と定め、
〈2〉で、
「
〈1〉の義務に違反した者は、相手方がその契約を締結しなければ被らなかっ
たであろう損害を賠償する責任を負う」と定めることが提案されている。そこでも、どのような
場合に情報提供義務・説明義務が認められるかは、「信義誠実の原則」の解釈にゆだねられ
ている。
改正試案がこのような態度をとっているのは、情報提供義務・説明義務違反がどのような場
合に認められるかについて、意見の一致をみているとはいえないと考えたためである。消費者
契約に関しても、現行消費者契約法 3 条は、これを努力義務にとどめている。その当否につ
いては、賛否両論があるとしても、少なくとも事業者について一般的に情報提供義務を課し、
その違反がある場合に取消しを認めることについて、コンセンサスが確立しているとはいいが
たいと考えたわけである 62)。
(b) 情報提供義務違反による取消しの可能性
しかし、少なくとも消費者契約に関しては、このような立場には問題が残る。事業者と消費
者のあいだに情報格差があるという消費者契約法の前提からするならば、情報の劣位者であ
る消費者は、本来ならばするはずのなかった契約をさせられるおそれが定型的にある。それ
では、実質的には自分で決めたということはできず、自己責任を負うための前提を欠くことに
なる。そう考えるならば、むしろ事業者に情報提供義務を認め、その違反がある場合は消費
者に保護、つまり取消しを認めることが要請されるはずである。少なくとも、事業者に対し一
律に情報提供義務を否定するならば、消費者が自分で決める権利に対して必要な保護があた
えられないことになってしまうだろう。
もちろん、逆にすべての事業者に対して一律に情報提供義務を課すならば、事業者によっ
ては、過剰な介入になる可能性があることは否定できない。しかし、それは、そのかぎりで
例外を認めることができるような要件を設定すれば足りるはずである。たとえば、消費者がそ
の情報をすでに知っていたような場合にまで、事業者に情報提供義務を課すのは無意味であ
るし、事業者にとってもその情報を入手することが困難だったような場合にまで、事業者に情
62) 前掲注 8)『基本方針』33 頁、『詳解Ⅰ』142 頁以下を参照。改正試案は、保証に関する
【3.1.7.02】〈2〉で、「債権者は、保証契約の締結にあたって、次に定めるところに努めなけれ
ばならない。保証引受契約を締結する債務者も同様である。」と定めることを提案し、
〈イ〉で「保
証人に、その責任の内容につき、正確な認識を形成するに足りる情報を提供すること」をあげ
ている。これに対して、山本・前掲注 7)『ドイツ法の継受と現代日本法』433 頁は、金融機
関に一定の説明義務を課したうえで、その義務違反の結果、保証人の債務負担意思もしくは責
任負担意思のいずれかに瑕疵が生じたときには、誤認による保証契約の取消しを認めることを
提案している。
- 101 -
報提供義務を課すのは過剰な介入になると考えられる。そのような場合に例外を認めるような
かたちで、情報提供義務違反による取消しを認めるのが、あるべき改正の方向だろう。
ただ、かりにそれでもまだ一律に事業者に対して情報提供義務違反を課すこと自体がやは
り過剰な介入にあたる-したがって事業者の情報提供義務違反を理由とする取消しを一般的
に認めるような改正にまでは踏み切れない-と考えるならば、事業者と消費者のあいだの一
般的な情報格差とは別の理由から情報提供義務を基礎づけたうえで、その違反がある場合に、
【1.5.16】
〈2〉の沈黙による詐欺にもとづく取消し-この場合は故意が要件となる-、
あるいは、
上述した【1.5.02】〈2〉の暴利行為による無効-当事者の「思慮、経験もしくは知識の不足
等を利用」することにより、「その者の権利を害し、または不当な利益を取得することを内容と
する」契約がおこなわれた場合にあたると構成する-を認めることが考えられる。この場合に、
情報提供義務が認られるべき理由として考えられるのは、次の二つである 63)。
第一は、情報の危険性に着目した理由である。その契約をすることによって、表意者の生命・
身体・財産等に損害が生じる可能性が強い場合は、そうした表意者の権利を保護するために、
危険性とその程度に関する情報を伝えることが要請される。
第二は、事業者の専門性に着目した理由である。とくに複雑性の高い取引では、専門的知
識を有する事業者に依存することがどうしても必要となる。そこで自己責任の原則をつらぬけ
ば、表意者にとって不利な取引がおこなわれる可能性が高い。しかも、事業者自身、そうし
た自己の専門性に対する社会的な信頼があってはじめて営業活動が可能になる。事業者は、
そこから利益を得ているのだから、それに応じた情報提供義務を課せられても、事業者の権
利が過度に制約されることにはならない。したがって、そうした専門性の高い事業をおこなう
者は、相手方に対し、その取引をおこなうかどうかを決めるために必要な情報を提供する義務
を負うというべきだろう。
(c) 不利益事実の不告知の統合
上述したように、消費者契約法 4 条 2 項の不利益事実の不告知は、不実表示の一種として
位置づけることができるほか、情報提供義務違反が認められる一つの場合として位置づけるこ
ともできる。というのは、先行行為として「事業者が消費者契約の締結について勧誘をするに
際し、当該消費者に対してある重要事項又は当該重要事項に関連する事項について当該消費
者の利益となる旨を告げ」たときは、信義誠実の原則よると、「当該重要事項について当該消
費者の不利益となる事実(当該告知により当該事実が存在しないと消費者が通常考えるべき
ものに限る。)
」を当該消費者に告げなければならないと考えられるからである。したがって、
当該事業者がこの義務に故意に違反し、それによって当該消費者が「当該事実が存在しない
63) 山本・前掲注 54) 金融法務事情 1596 号 10 頁、同・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5
号 53 頁以下、同・前掲注 1)『現代法の展望』29 頁以下等を参照。沈黙による詐欺に関する
【1.5.16】〈2〉でいえば、以下の理由が認められる場合は、「信義誠実の原則により提供すべき
であった情報」にあたると解釈することになる。
- 102 -
との誤認をし、それによって当該消費者契約の申込み又はその承諾の意思表示をしたときは」、
沈黙による詐欺による取消しが認められることになる 64)。
不利益事実の不告知との関係では、現在、特定商取引法が適用される取引に関して、故意
の不告知による取消しが認められていることも考慮する必要がある。それによると、所定の重
要事項について、事業者に相当する者が故意に事実を告げないことにより、そのような事実が
ないと顧客が誤認した場合に、取消しが認められている(特商 9 条の 2、24 条の 2、40 条の 3、
49 条の 2、58 条の 2)。これは、先行行為を必要とせずに、故意の不告知を一般的に取消
しの対象としている点で、消費者契約法による規制を拡充したものということができる。
このように、不告知という不作為で足りるとされているのは、所定の重要事項に関する事実
について定型的に告げるべき義務があるという考え方を前提としていると理解できる。今後の
法形成の方向としては、不利益事実の不告知はこのような故意の不告知に移行していく可能
性があり、将来的にはそのようなものとして明文化することを検討すべきだろう 65)。
(4) 内容規制-保護的公序
以上のように、改正試案では、暴利行為、不実表示、沈黙による詐欺に関する規定を新設
することにより、個別的決定侵害型規制を相当程度強化・拡充しているということができる。
とくに現代型暴利行為論にしたがった暴利行為に関する提案は、個別的決定侵害型規制の受
け皿規定として活用されることが期待でき、不実表示に関する提案は、これまで詐欺取消しの
限定性から保護に欠落が生じていた部分を広くカバーすることが期待できる。
これらはいずれも、個別的決定侵害型規制のうち、締結規制に相当するものである-暴利
行為に関する提案は締結規制と内容規制とを統合したものであるが-。それに対して、改正
試案では、内容規制に相当する新しい提案はおこなわれていない。公序良俗に関する
【1.5.02】
〈1〉-「公序または良俗に反する法律行為は、無効とする」-も、現行民法 90 条を基本
64) 沈黙による詐欺に関する【1.5.16】
〈2〉によると、詐欺者には「故意」が要求される。これは、
表意者を錯誤に陥らせ、または表意者の錯誤を利用することについての故意である。これに対
して、不利益事実の不告知では、立法担当者の理解によると、当該事実が消費者の不利益とな
ること、および、消費者が当該事実を知らないことを認識したことが、「故意」として要求さ
れるにとどまる(内閣府編・前掲注 56)105 頁を参照)。そのため、不利益事実の不告知でいう「故
意」が認められても、厳密にいうと、それだけでは沈黙による詐欺を理由とする取消しは認め
られず、さらに、その不利益事実を告げないことによって消費者を錯誤に陥らせ、または消費
者の錯誤を利用するという故意が必要となる。ただ、不利益事実の不告知でいう「故意」が認
められる場合は、当該事実が表意者にとって不利益であり、しかも表意者が当該不利益事実を
知らないことを認識していながら、利益となる旨のみを告げ、そこから通常想定されるべき不
利益事実を告げていないのだから、通常は、それによって表意者を錯誤に陥らせ、または表意
者の錯誤を利用しようという故意があると推認できる。
65) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』144 頁以下を参照。
- 103 -
的に踏襲したものであり、明示的には大きな変更はおこなわれていない。
もっとも、この公序良俗に関する【1.5.02】〈1〉については、それに続く〈2〉で上述した
暴利行為に関する提案が新設されることが意味をもつ可能性がある。【1.5.02】〈2〉では、法
律行為の内容に関する客観的要素として、「その者の権利を害し」という要素が付け加えられ
ている。これは、上述したように、かならずしも相手方が「不当な利益」を取得するとはい
えない場合でも、被害者の「権利」が侵害されているかぎり、救済を認める必要があるとい
う考慮にもとづく。このような規定が、【1.5.02】〈1〉の具体化として〈1〉に続けて定めら
れることにより、公序良俗の射程に、個人の権利・自由を保護することを目的とした保護的
公序に相当するものがふくまれることが示されることになる 66)。その意味で、公序良俗に関する
【1.5.02】は、全体として、公序良俗が権利保護型規制としての性格をもつことを明確化して
いると評価できる。
二 構造的格差型規制
改正試案は、構造的格差型規制として、これまで消費者契約法に規定されていた締結規制
と内容規制を-その内容を拡充したうえで-民法に統合し、さらに約款規制を導入することを
提案している。
(1) 締結規制
まず、改正試案は、締結規制として、断定的判断の提供による取消しと困惑による取消しを、
消費者契約に適用される規定として民法に統合することを提案している。
(a) 断定的判断の提供
消費者契約法 4 条 1 項は、1 号で、不実告知により消費者が誤認した場合とならべて、2 号で、
断定的判断の提供により消費者が誤認した場合に、取消しを認めている。このうち、不実告
知については、上述したように、改正試案は、不実表示に関する【1.5.15】で、これを消費
者契約にかぎらず、一般法化することを提案している。これに対し、断定的判断の提供につ
いては、同じように考えることはできない。というのは、判断は、本来、各人の責任でおこな
うべきものであり、相手方が誤った判断を提供したとしても、それを鵜呑みにするのではなく、
みずから事実を正確に理解し、それにもとづいて主体的に判断すべきだと考えられるからであ
る。それにもかかわらず、断定的判断の提供によって誤った判断をした場合に消費者契約法
が取消しを認めているのは、事業者と消費者のあいだに判断力の格差が構造的に存在するこ
とから、自己責任の原則を制限し、消費者を保護する必要があるためである。そこで、改正
試案は、【1.5.18】で、断定的判断の提供にもとづく取消しは一般法化できないとし、消費者
66) 前掲注 8)『基本方針』20 頁、『詳解Ⅰ』62 頁を参照。
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契約に関する特則として位置づけたうえで、民法に統合することを提案しているわけである 67)。
そのうえで、改正試案は、断定的判断の提供による取消しの要件について、消費者契約法
4 条 1 項 2 号が「将来における変動が不確実な事項」に関して断定的判断が提供されたこと
を必要としているのに対して、これを削除し、「不確実な事項につき断定的判断を提供したこ
とにより」消費者が誤認した場合に取消しを認めることを提案している。消費者契約法の基
礎にあるのは、事業者が積極的な行為によって消費者を誤認させた以上、契約を取り消され
てもやむをえないという考え方である。これによると、将来における変動が不確実な事項かど
うかは、本来、重要性をもたないはずである。事業者と消費者のあいだに判断能力の格差が
構造的に存在することを問題視する以上、事業者による誤った断定的判断の提供が消費者の
誤認を惹起するかぎり、取消しを認めるべきだろう。改正試案は、このような考え方にもとづ
く 68)。
(b) 困惑取消し
次に、消費者契約法 4 条 3 項は、事業者が勧誘する際に、不退去または監禁により、消
費者が困惑し、それによって消費者契約が締結された場合に、取消しを認めている。
このように、消費者契約法 4 条 3 項によると、困惑を惹起する行為は不退去と監禁に限定
されているものの、それによって惹起される 「困惑」 がどのようなものかについては、とくに
限定されていない。「困惑」の意味については、「困り戸惑い、どうしてよいか分からなくなる
ような、精神的に自由な判断ができない状況」をいい、
「畏怖(恐れおののくこと、怖じること)
をも含む、広い概念である」とされている 69)。
消費者契約法において、このような広い意味をもつ「困惑」によって意思表示がなされた
場合でも取消しが認められたのは、事業者と消費者のあいだに情報および交渉力の格差が構
造的に存在し、その点で劣位に立つ消費者が事業者の行為によって 「困惑」 に陥った場合には、
望まない契約を拒絶することが期待できないと考えられたからだろう70)。そのような消費者契約
の場合を超えて、一般的に困惑による取消しを認めてよいかどうかについては、少なくとも現在、
コンセンサスが得られているとはいえないと考えられる。そこで、改正試案は、【1.5.19】で、
困惑による取消しは一般法化することはできず、消費者契約に関する特則として位置づけたう
えで、民法に統合することを提案している 71)。
そのうえで、改正試案は、困惑による取消しの要件について、不退去または監禁による限
定を廃止することを提案している。
67) 前掲注 8)『基本方針』35 頁、『詳解Ⅰ』152 頁を参照。
68) 前掲注 8)『基本方針』35 頁、
『詳解Ⅰ』153 頁。このような提案は、すでに、山本・前掲注 1)
先物取引被害研究 29 号 14 頁でもおこなっていたところである。
69) 内閣府編・前掲注 56)124 頁。
70) 内閣府編・前掲注 56)117 頁を参照。
71) 前掲注 8)『基本方針』36 頁、『詳解Ⅰ』157 頁を参照。
- 105 -
現行消費者契約法 4 条 3 項によると、不退去または監禁にあたらない場合-たとえば、執
拗な電話勧誘がおこなわれた場合や、既成事実を作ってもう断れないような状況に追い込ん
だりする場合など-は、たとえ困惑を惹起したとしても、消費者契約法にもとづく取消しは認
められない。しかし、
もともと 消費者契約が立法されたのは、事業者と消費者のあいだに「情
報の質及び量並びに交渉力の格差」が構造的に存在するからである(消契 1 条)。そのよう
な格差があるがゆえに、消費者の意思決定は、事業者によって容易にゆがめられる。困惑に
よる取消しが認められたのも、そうした不当な誘導行為によって、本来ならば望まなかったは
ずの契約をさせられてしまった消費者を保護するためだったはずである。こうした趣旨からす
ると、決定的に重要なのは、消費者の意思決定がゆがめられたかどうかでなければならない。
少なくとも、不退去や監禁という特定の行為がおこなわれた場合にかぎる理由はない 72)。
もちろん、消費者が困惑をしたというだけで取消しを認めるならば、何をもって「困惑」と
いうのかかならずしも明確ではなく、しかも外部から容易にうかがい知ることができない事情
によって取引の効果がくつがえされる可能性もあり、取引がいちじるしく不安定になるおそれ
がある。
そこで、改正試案は、
【1.5.19】で、不退去と監禁という特定の行為による限定に代え、
「事
業者が消費者契約の締結について勧誘をするに際し」、「当該消費者が勧誘の継続を望まない
旨の意思を示したにもかかわらず、当該消費者に対して勧誘を継続することにより、当該消費
者が当該消費者契約の申込みまたはその承諾の意思表示をするまで勧誘が継続するものと困
惑」したことを要件とし、不退去と監禁はその例示とすることを提案している 73)。
このような修正をおこなえば、最近しばしば問題とされる不招請勧誘 74) -契約を望んでいな
い消費者に対する一方的な勧誘等-をめぐる問題についても、一定の対応が可能になる。不
招請勧誘については、それがプライバシーや平穏な生活に対する侵害を帰結するかどうかは
本人の意思次第であり、一般的・全面的に禁止することはむずかしいという問題がある。しか
72) 山本・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 56 頁を参照。
73) 国生審評価検討委員会・前掲注 54)15 頁は、「消費生活相談事例においては、必ずしも
場所的な不退去又は監禁を伴うわけではないが、電話による執拗な勧誘がされたり、断れない
状況下で消費者がやむなく契約を締結していると見られる場合のほか、高齢者や認知症の傾向
が見られる者等に対し、その弱みにつけ込むようにして不必要とも思える量及び性質の商品を
購入させていると見られるいわゆるつけ込み型の勧誘事例も見受けられるところである」とし
たうえで、困惑類型の規定のあり方については、「対象として拡張すべき勧誘行為の類型化に
ついて、消費者の属性をも考慮しつつ検討すべきである」としている。
74) 不招請勧誘の問題については、後藤巻則「不招請勧誘と私生活の平穏」国民生活センター
編『不招請勧誘の制限に関する調査研究』(2007 年・国民生活センター)183 頁以下、比較
法研究センター = 潮見佳男編『諸外国の消費者法における情報提供・不招請勧誘・適合性の原
則〔別冊NBL 121 号〕』(商事法務・2008 年)を参照。
- 106 -
し、少なくとも本人が「勧誘の継続を望まない旨の意思を示した」にもかかわらず勧誘を続
けることは、本人の意思がはっきりしている以上、
もはや正当化できない。したがって、
【1.5.19】
のように要件を設定すれば、取消しを認めることについてコンセンサスが得られやすいと考え
られる 75)。
このほか、消費者契約法 4 条 3 項については、たとえばSF商法のように、密室におかれ
た消費者に対し、たくみな演出等を用いて、その場で購入しないと損であるかのような雰囲気
を作り上げて契約させるような場合は、取消しが認められないという問題もある。このように消
費者が眩惑された場合に、現在の消費者契約法 4 条 3 項で取消しが認められないのは、不
退去や監禁という行為がないだけでなく、そもそも消費者を困惑させたといえないからである。
上述したように、消費者契約法の本来の趣旨からすれば、決定的に重要なのは、消費者の意
思決定がゆがめられたかどうかであり、眩惑された場合を排除すべき理由はない 76)。ただ、こ
のような場合までふくめて、事業者が消費者の意思決定を不当に誘導した場合について消費
者に取消権を認めるためには、要件を設定するための考え方についてさらに慎重な検討を必
要とする。そのため、改正試案の【1.5.19】では、眩惑に相当するものについてはとくに定め
ず、現行法と同じく、消費者が困惑した場合に限定して定めることとしている 77)。
(2) 内容規制-不当条項規制
(a) 消費者契約法の統合と約款規制の可能性
次に、内容規制に関して、改正試案は、消費者契約法の不当条項規制を民法に統合する
だけでなく、約款規制も導入することを提案している。その結果、不当条項規制の全体的な
枠組みが大きく変わることになっている。
まず、現在の消費者契約法は、10 条に不当条項の一般条項、8 条と 9 条に個別的な不当
条項規制を定めている。消費者契約法が消費者契約についてこのような不当条項規制を定め
たのは、事業者と消費者のあいだに情報・交渉力の構造的な格差があることによる。そのよ
うな格差のある当事者間の取引では、その点で優位に立つ者がその格差を利用して自己に不
当に有利な契約条件を作成し、それを押しつける可能性がある。たとえ締結過程において十
分に情報が提供されたとしても、消費者はその情報を正確に理解できるとはかぎらないし、正
確に理解したとしても、交渉力において劣位に立つ消費者が、それを是正することは実際上
75) 国生審評価検討委員会・前掲注 54)29 頁は、不招請勧誘に関するルールのあり方等につ
いては、「事業者の営業活動の自由に対する過度の制約になってはならないという要請に配慮
する一方で、不招請勧誘は断れない消費者をターゲットとして勧誘する傾向があると考えられ
ることをも踏まえつつ」、消費者契約法上の「困惑類型(第 4 条第 3 項)の規定の在り方につ
いて検討するのと合わせて、引き続き検討すべきである」としている。以上については、山本・
前掲注 1) 先物取引被害研究 29 号 17 頁以下も参照。
76) 山本・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 56 頁を参照。
77) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』159 頁以下を参照。
- 107 -
むずかしい。したがって、このように構造的に劣位に立つ消費者を保護するためには、締結規
制に加えて、特別な内容規制を用意する必要がある。消費者契約法が定められたのは、その
ためである。
こうした消費者契約法の基礎には、契約の内容形成に一方当事者が実質的に関与できない
という意味での不均衡が構造的にある場合には、一般原則を超える特別な内容規制をおこな
うことが正当化されるという考え方がある。改正試案は、そのように考え、同じ趣旨は、約款
が用いられる場合にもあてはまるとする。約款は、多数の取引に使用するために定型化された
契約条項群であり、これが使用される場合は、相手方が消費者の場合はもちろん、事業者の
場合、つまり事業者間契約でも、その内容の形成に相手方は実質的に関与できない。内容を
認識する可能性や交渉によって変更する可能性についても、不均衡を来す。そこで、改正試
案は、消費者契約に対する規制を民法に統合するとともに、新たに約款規制を導入すること
を提案している 78)。
以上のように、消費者契約に対する規制に加えて約款規制を導入することの実践的な意味
は、事業者間で約款が使用される場合に特別な内容規制をおこなうところにある。事業者間
取引については、基本的には一般的な契約規制が妥当すると考えたうえで、実際に当事者間
の対等性がくずれ、不当な内容の契約が一方的に押しつけられるような場合は、上述した個
別的決定侵害型規制で対処すれば足りるとする考え方もありうる。しかし、少なくとも約款が
使用される場合については、事業者間であっても、改正試案のいうように、消費者契約の場
合とはまた違った意味で構造的・定型的な格差が存在することは否定できない。その意味で、
消費者契約に対する規制に加えて、新たに約款規制を導入することは、十分考慮にあたいする。
ただし、その場合でも、消費者契約と事業者間契約とで、不当条項規制の基準を区別する必
78) 前掲注 8)『基本方針』105 頁以下・111 頁以下、
『詳解Ⅱ』80 頁以下・104 頁以下を参照。
- 108 -
要がないかどうか、さらに慎重に検討する必要があるというべきだろう 79)。
(b) 不当条項規制の見直し
問題は、不当条項規制として具体的にどのような規定を定めるべきかである。
( ア ) 一般条項
まず、改正試案は、不当条項規制の一般条項については、消費者契約法 10 条を消費者契
約だけでなく、約款にも妥当する原則として構成し直している。具体的には、
【3.1.1.32】
〈1〉で、
「約款または消費者契約の条項」「であって、当該条項が存在しない場合と比較して、条項使
用者の相手方の利益を信義則に反する程度に害するものは無効である」と定めることを提案し
ている。
現行消費者契約法 10 条との違いは、同条では「民法、商法その他の法律の公の秩序に関
しない規定の適用による場合に比し」と定められている部分を「当該条項が存在しない場合
と比較して」にあらためている点である。
消費者契約法 10 条については、
「規定」という文言からもうかがわれるように、そこでいう
「公
の秩序に関しない規定」は、法律の明文で定められた規定であることが起草過程では前提と
されていた 80)。消費者契約の規制にあたって、一義的で明確なルール化をはかることがとくに
強調されたためである 81)。
しかし、そもそも消費者契約について不当条項規制をおこなう必要があるのは、情報・交
渉力の格差があるために、消費者が本来ならば同意する必要がなかった条項をふくむ契約を
してしまう可能性があるからである。このような消費者契約法の本来の趣旨からすると、基準
となるのは、そのような特約がなければ消費者に認められていたはずの権利義務を消費者の
79) たとえば、アキ(Acquis)・グループによる現行EC契約法原則(Principles of the Existing EC Contract Law)6:301 条(条項の不公正)では、個別交渉を経ない契約条項について、
(1) で一般原則-信義誠実の要請に反し、その契約から生ずる当事者の権利義務に重大な不均
衡を生じさせることにより、相手方を害する場合-を定めたうえで、(2) で事業者間契約の場
合について緩和された基準-(良き)商慣習 (good commercial practice) からいちじるしく逸
脱する場合-を定めている。また、ヨーロッパ私法共通参照枠草案(Draft Common Frame of
Reference)Ⅱ .-9:404 条・9:405 条・9:406 条は、条項の「不公正」の意味について、事業者・
消費者間契約の場合-信義誠実および公正な取引に反して消費者をいちじるしく害する場合
-、非事業者間契約の場合-信義誠実および公正な取引に反して相手方をいちじるしく害する
場合-、事業者間契約の場合- ( 良き ) 商慣習、信義誠実および公正な取引からいちじるしく
逸脱する場合-を区別して定めている。それぞれの基準の当否は別として、このような区別を
することの理論的および実践的な意義についてさらに検討を進める必要があるというべきだろ
う。
80) 内閣府編・前掲注 56)201 頁を参照。
81) くわしくは、山本・前掲注 26) NBL 686 号 22 頁を参照。
- 109 -
不利に変更しているかどうかということになるはずである。そして、そのような特約がない場合
の権利義務は、明文の任意法規だけではなく、不文の任意法規、さらには契約に関する一般
法理からもみちびかれる。改正試案が「当該条項が存在しない場合と比較して」とあらため
たのは、このような考慮にもとづくと考えられる 82)。
このほか、【3.1.1.32】〈2〉は、「当該条項が相手方の利益を信義則に反する程度に害して
いるかどうかの判断」に際して考慮されるべき要素をあげている。具体的には、「契約の性質
および契約の趣旨、当事者の属性、同種の契約に関する取引慣行および任意規定が存する
場合にはその内容等を考慮するものとする」とされている。もっとも、これらはいずれも、判
断に際して考慮されるべき要素にすぎず、これらの要素をどのように判断するかという基準に
相当するものは示されていない。この点は、今後も「信義則」の解釈にゆだねられることになっ
ている。
消費者契約法の立法過程では、この「信義則」の解釈に関する手がかりとして、
「事業者が、
契約内容を形成する過程で不利な立場にある消費者の利益について適切に配慮する義務を負
うことは、信義則(民法第 1 条第 2 項)の要請するところである」という考え方が示されてい
た 83)。その基礎にあるのは、「自己の利益のみを考えて、相手方の利益を配慮しないような態
度を許さない」という考え方である。これによると、正当な理由もなく、双方の契約上の利益
のあいだに不均衡を来たし、その意味での均衡性ないし相互性をやぶるような条項が、「信義
則」に反し、無効とされることになる 84)。かりにこのような理解にコンセンサスが得られるとす
るならば、たとえば、「当該条項が存在しない場合と比較して、条項使用者とその相手方の契
約上の利益に不均衡を生じさせることにより、信義則に反して相手方を害する条項は、無効と
する」と定めることも検討にあたいするというべきだろう。
( イ ) 個別条項規制
改正試案は、約款および消費者契約に共通する不当条項リスト-消費者契約のほか、事
業者間契約でも約款が使用される場合に妥当する-のほか、消費者契約に関する不当条項リ
スト-消費者契約にのみ妥当し、事業者間契約には妥当しない-を設けるものとし、いずれ
についても、ブラック・リスト-条項使用者の相手方の利益を信義則に反する程度に害する
と「みなされる」もの-とグレー・リスト-条項使用者の相手方の利益を信義則に反する程
82) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 22 頁、同・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 73 頁
以下を参照。
83) 第 16 次国民生活審議会消費者政策部会報告「消費者契約法(仮称)の制定に向けて」
(1999
年 1 月 )37 頁(http://wp.cao.go.jp/zenbun/kokuseishin/spc16/houkoku_c/spc16-houkoku_
c-2_3.html)を参照。
84) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 23 頁、同・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 74 頁を参照。
もちろん、そのうえで次の問題は、そこでいう「不均衡」とは何を意味し、その判断基準をど
こに求めるかである。
- 110 -
度に害すると「推定される」もの-を定めることとしている(【3.1.1.B】【3.1.1.C】)。そのうえ
でさらに、それぞれのリストに該当する不当条項の候補がかかげられているが(【3.1.1.33】~
【3.1.1.36】)
、いずれも今後の検討のための「例」にすぎないことが強調されている 85)。
現行消費者契約法が個別条項規制として定めているのは、事業者の責任を制限する条項(消
契 8 条)と消費者が支払う損害賠償額の予定・違約金に関する条項(消契 9 条)だけである。
消費者契約法の立法過程では、かなり多くの不当条項が検討対象としてあげられていたにも
かかわらず、最終的にこのように限定されたのは、予見可能性の高い明確なルールのみを定
めることが強く主張されたため、ブラック・リストにあたるものとして明確に要件を定めること
ができないものは落とされた結果だと考えられる 86)。
個別条項規制は、本来、上述した不当条項に関する一般条項を具体化したものとして位置
づけられる。そこでは、一般条項が定める基準、つまり上述した「信義則」に照らして定型的
に不当条項にあたると考えられるものが具体的に規定されることになる。しかし、容易に予想
されるように、およそ例外を許さず、一義的に「信義則」に反する条項のみを定めようとすると、
そのようなものはきわめて限定されることにならざるをえない。そうした態度をとれば、かぎら
れた個別条項規制に該当するもののほかは、すべて一般条項の解釈にゆだねられることにな
り、個別条項規制を定める目的-とくに予測可能性の確保と紛争処理基準の明確化 87) -が十
分に達成できないことになる。したがって、ブラック・リストだけでなく、むしろグレー・リス
トにあたるものを積極的に定めることが望ましいというべきだろう 88)。
具体的に個別条項規制として定められるべき不当条項については、今後、国際的な動向の
ほか、日本における実態もふまえたうえで 89)、さらに詰める必要がある。しかし、上述したよう
に、
「信義則」の意味が当事者間の契約上の利益の不均衡に求められるとすると、少なくとも、
①事業者に一方的な権限をあたえる条項や②消費者からの解除・解約の権利を制限する条項、
③事業者からの解除・解約の要件を緩和する条項などは、不当条項として明文で定められる
べきだと考えられる。これらの条項は、一方は契約に拘束されるのに、他方は拘束からまぬが
れることができるという可能性を生み出すものにほかならず、少なくとも正当な理由がないか
85) 前掲注 8)『基本方針』114 頁を参照。
86) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 27 頁を参照。
87) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 23 頁以下を参照。
88) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 26 頁以下、同・前掲注 27)『民法講義Ⅰ』278 頁は、
現行消費者契約法が定める個別条項規制-一般にはブラック・リストと考えられている-につ
いても、一律に無効となるのではなく、信義則に反するといえない場合には有効とされる可能
性を認めている。
89) この点に関する調査研究として、消費者契約における不当条項研究会『消費者契約にお
ける不当条項の実態分析〔別冊 NBL92 号〕』(商事法務・2004 年)、同『消費者契約における
不当条項の横断的分析〔別冊 NBL128 号〕』(商事法務・2009 年)がある。
- 111 -
ぎり、「信義則」に反すると考えられるからである 90)。
(c) 不当条項規制の射程
以上のような不当条項規制の射程については、次の二つの点が問題となる。
( ア ) 契約の主要な目的・価格の規制
第一は、契約の主要な目的・価格も不当条項規制の対象にふくめるかどうかである。
現在の消費者契約法は、契約の付随的な条項を規制するものであるとされ、契約の主要な
目的・価格に関する条項は、規制の対象から外されている。消費者契約法の立法時には、事
業者と消費者のあいだには情報・交渉力の格差がある以上、契約の主要な目的や価格につ
いても対等な決定はできないのだから、これらについても規制すべきであるという意見も少な
くなかった。
改正試案は、約款に関してこれに対応する問題に言及し、結論として、この意味での「中
心部分に関する条項」が規制の対象となるかどうかについては、なお学説が分かれているため、
「解釈に委ねることとし、明文で定めることはしない」としている 91)。
契約の主要な目的や価格に関する事項は、本来、市場にゆだねられるべき事柄であるとい
う理解にも十分理由がある。とくに価格規制をおこなうときには、何を規制の基準となる「適
正額」とみればよいのかという大問題がひかえている。したがって、この種の問題に関しては、
個別的決定型規制を中心とし、実際に当事者の自由な意思決定が侵害されることにより、財
産が奪われたといえるような場合に必要な規制をおこなうべきだろう。
( イ ) 個別交渉条項
第二は、当事者間で個別的に交渉された条項も不当条項規制の対象にふくめるかどうかで
ある。
改正試案は、約款については、
【3.1.1.25】
〈2〉で、
「個別の交渉を経て採用された条項」には、
約款に関する規制は適用しないものとしている。個別交渉がなされたうえで締結された合意で
90) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 27 頁、同・前掲注 2) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 76 頁、同・
前掲注 27)『民法講義Ⅰ』277 頁以下を参照。改正試案では、①に相当するものとして、
【3.1.1.34】
(不当条項と推定される条項の例)〈イ〉「条項使用者に契約内容を一方的に変更する権限を与え
る条項」、②に相当するものとして、【3.1.1.34】〈エ〉「継続的な契約において相手方の解除権
を任意規定の適用による場合に比して制限する条項」、〈オ〉「条項使用者に契約の重大な不履行
があっても相手方は契約を解除できないとする条項」、【3.1.1.36】(消費者契約に関して不当
条項と推定される条項の例)〈ウ〉「事業者のみが契約の解除権を留保する条項」、〈エ〉「条項使
用者の債務不履行の場合に生じる相手方の権利を任意規定の適用による場合に比して制限する
条項」、③に相当するものとして、【3.1.1.34】〈ウ〉「期間の定めのない継続的な契約において、
解約申し入れにより直ちに契約を終了させる権限を条項使用者に与える条項」があげられてい
る。
91) 前掲注 8)『基本方針』106 頁、『詳解Ⅱ』86 頁を参照。
- 112 -
あれば、約款が用いられていることに起因する問題は解消されるといえるというのがその理由
である 92)。これに対し、消費者契約の条項については、規制の対象からはずすという考え方と、
規制の対象にふくめるという考え方を併記している。
個別交渉条項を規制の対象にふくめるという考え方は、これを規制の対象外とすると、形式
的に交渉をよそおって脱法をはかる事業者があらわれたり、交渉の有無をめぐって紛争が生じ、
迅速な解決をさまたげるおそれがあることを理由とする。しかし、不当条項規制は、公序良俗
等の一般原則による規制よりも、無効とされるべき条項の範囲を広げるものである。消費者が
必要な情報の提供を受け、実際に個別的に交渉して合意をおこなうときにまで、一般原則より
も無効とすべき範囲を広げる理由はなく、自己決定にもとづく自己責任という基本原理と相容
れないというべきだろう。右のおそれに対しては、実際に個別交渉があったというために、当
事者間の実質的対等性が現実に確保されていたことを要求することで対処すれば足りる 93)。し
たがって、消費者契約についても、個別合意がおこなわれた場合には、不当条項規制の対象
からはずすことを明確化すべきである。
第二節 自律保護型規制-自己拘束型規制
前節でみたように、自律保護型規制のうち、決定侵害型規制については、改正試案では、
相当程度整備が進められていると評することができる。それに対して、自己拘束型規制につい
ては、改正試案では、かならずしも多くの提案がされているわけではない。しかし、それでも、
締結規制のうち、資格要件型規制として、意思能力に関する規定を明文化し、手続要件型規
制として、約款の組入れに関する規定のほか、透明性原則を基礎とする不明確準則を新たに
定めることが提案されている。また、内容規制については、保証に関して、基盤保障型規制
に関連する提案がみられるほか、事情変更型規制について、新しい考え方が示されている。
一 締結規制
(1) 資格要件型規制-意思能力
改正試案は、【1.5.09】で、意思能力に関する規定を新たに定めることを提案している。具
体的には、〈1〉で、「法律行為をすることの意味を弁識する能力(以下「意思能力」という。)
を欠く状態でなされた意思表示は、取り消すことができる」と定め、〈2〉で、「表意者が故意
または重大な過失によって一時的に意思能力を欠く状態を招いたとき」に関する規定を定める
ことが提案されている。
92) 前掲注 8)『基本方針』106 頁、『詳解Ⅱ』85 頁を参照。
93) 山本・前掲注 26) NBL 686 号 29 頁を参照。
- 113 -
「意思表示をした者が意思能力を欠いていたときは、その意思表示は無効となる」という準
則は、現民法に規定されていないものの、古くから当然のこととして、判例 94) および学説 95) に
より異論なく認められている。このような意思能力に関する準則は、法律行為・意思表示制度
の基本原則に相当するものであり、実践的にも重要な意味をもつ。したがって、このような準
則を明文化することについては、おそらく異論はないだろう。
現行法では、行為能力制度に関する規定のなかで、意思能力に相当するものを指すために、
「事理を弁識する能力」という文言が用いられている(民 7 条等)。もっとも、「事理を弁識
する能力」では、人の行為という一般的な観念を想定して、そのような行為を「みずからした」
といえるために必要な能力は何かという問題の立て方をすることになる。それに対して、意思
能力で問題となるのは、そのような行為一般ではなく、契約-これもさらにさまざまな種類の
契約に分かれる-をはじめ、さまざまな種類の法律行為を構成する制度を前提として、そのよ
うな制度の趣旨に照らして「みずからその行為をした」といえるかどうかである。意思能力と
は、そうした各種の制度ごとに、その種の法律行為をみずからしたといえるために必要とされ
る一種の資格要件として位置づけることができる。意思能力の基準が行為の種類によって違っ
てくる可能性があることがしばしば指摘されるのも、このためだと考えられる。改正試案が「法
律行為をすることの意味を弁識する能力」と定式化することを提案しているのは、このような
考慮にもとづく 96)。
このように、意思能力の有無が行為の種類と相関的に判断されることになるならば、従来、
適合性原則の問題として考えられてきたもののうち、とくに知的能力にかかわるものが一定の
範囲で取り込まれる可能性も生まれてくる。その意味で、改正試案は、意思能力制度の現代
化を進めるという意味ももちうる 97)。
(2) 手続要件型規制
(a) 方式規制
次に、手続要件型規制のうち、方式に関する規制については、改正試案は、基本的に現行
民法の立場を踏襲している。
たとえば、保証に関する【3.1.7.02】〈1〉は、現行民法 446 条 2 項と同様に、保証契約(お
よび保証引受契約)について、「書面でしなければ、その効力を生じない」と定めることを提
94) 大判明治 38 年 5 月 11 日民録 11 輯 706 頁。判例の状況については、熊谷士郎『意思
無能力法理の再検討』(有信堂高文社・2003 年)283 頁以下を参照。
95) 意思能力に関する従来の議論状況については、武川幸嗣「意思無能力無効」椿寿夫編『法
律行為無効の研究』(日本評論社・2001 年)291 頁以下、熊谷・前掲注 94)45 頁以下を参照。
96) 前掲注 8)『基本方針』24 頁以下、『詳解Ⅰ』82 頁以下を参照。
97) 前掲注 8)『詳解Ⅰ』83 頁を参照。
- 114 -
案している 98)。贈与についても、
【3.2.3.03】〈1〉で、現行民法 550 条と同様に、
「贈与契約
が書面(電子的記録を除く。以下、本章の書面につき同じ。)でなされなかったときは、各当
事者は贈与を解除することができる」とし、「ただし、履行の終わった部分については、この
限りではない」としている 99)。
これに対して、改正試案は、終身定期金契約に関して、新たに書面によることを効力要件と
することを提案している。【3.2.14.02】〈2〉によると、終身定期金契約は、「書面(電子的記
録を除く。)でしなければ、その効力を生じない」とされ、「ただし、当事者双方が各自の義
務の全部または一部を履行したときは、この限りでない」とされている 100)。
(b) 約款の組入れ
手続要件型規制に関して理論的にも実践的にも注目されるのは、改正試案が、約款の組入
れについて新たに手続要件を導入することを提案している点である。
( ア ) 約款の組入れ要件と開示規制
改正試案は、【3.1.1.26】〈1〉で、約款の組入れ要件を定めることを提案している。それに
よると、原則として、
「約款は、約款使用者が契約締結時までに相手方にその約款を提示して(以
下、開示という。)
、両当事者がその約款を当該契約に用いることに合意したときは、当該契
約の内容となる」とされている。
約款が契約内容になるかどうか、なるとしてどのような場合に契約内容になるかという問題
について、判例は、当事者双方が約款によらない意思を表示せずに契約したときは、契約時
に約款内容を知らなかったとしても、反証のないかぎり、約款による意思をもって契約したも
のと推定している 101)。これによると、通常、約款による意思があるものとされ、約款使用者の
相手方がその内容を知っているかどうかにかかわりなく拘束力が認められることになる。
しかし、契約時に約款の内容を知る機会がない場合にまで、このようなことを認めるのは契
98) ここでの「書面」については、【3.1.1.04】に定められた書面の定義がそのまま妥当する
ため、現行民法 446 条 3 項と同じく、電子的記録による場合もふくまれる。
99) 現行法では「撤回」とされているのが「解除」にあらためられているが、実質に違いは
ない。「書面」から電子的記録が除かれているのは、「本提案において、書面を作成することの
意義は、贈与者の意思を書面によって確認するだけでなく、書面を作成することを通じて、贈
与者が、無償で受贈者に財産権を移転する義務を法的に負うことを自覚するよう促すところに」
あるため、
「本提案における書面といえるためには、その書面により、贈与者が書面の作成を
通じて自らの行為の法的意味を自覚する契機を担保しうる性質のものである必要がある」が、
「電子的記録の作成は、贈与者にそのような契機を与えるとはいえない」と考えたためである(前
掲注 8)『基本方針』300 頁を参照)。
100) 「書面」から電子的記録が除かれているのは、贈与の場合と同様の考慮にもとづくと考
えられる。
101) 大判大正 4 年 12 月 24 日民録 21 輯 2182 頁(火災保険契約に関するケース)を参照。
- 115 -
約の拘束力に関する一般原則と相容れない。およそ知りえなかったものには同意をあたえるこ
ともできない以上、そこまでの合意があったとはいえないからである。したがって、約款に関
しては、単に約款によるという表示があるだけでなく、約款を開示することにより、約款使用
者の相手方が実際にその約款内容を確認する機会が保障されていないかぎり、その約款は契
約内容にならないと考えるべきである 102)。改正試案は、
まさにこのような考え方によるものとし
て評価することができる。
改正試案によると、この意味での約款の「開示」がされたというためには、「相手方が現実
に約款の内容を認識することまでは必要ないが、約款を相手方に交付するなどにより、約款
の内容を認識しようとすれば容易に認識できる状態に相手方を置くこと」が必要とされる。具
体的には、「約款使用者の側が、約款を交付する、あるいは契約を締結する場所で、相手方
が目にみえるところに約款を掲示するなどの方法により、契約締結時までに、相手方が特別の
アクションを起こさなくてもよいところに約款を置いて、約款の内容を認識しようとすれば容易
にその内容を認識できるような状態を作り出すことが必要である」とされている 103)。
もっとも、たとえば公共交通機関の約款などのように、契約の締結時までに以上のような開
示をするのが性質上いちじるしく困難な場合も考えられる。そこで、【3.1.1.26】〈1〉は、「た
だし、契約の性質上、契約締結時に約款を開示することが著しく困難な場合において、約款
使用者が、相手方に対し契約締結時に約款を用いる旨の表示をし、かつ、契約締結時までに、
約款を相手方が知りうる状態においたときは、約款は契約締結時に開示されたものとみなす」
と定めることを提案している。
これは、先ほどの開示と違って、
「相手方が自らアクションを起こせば容易に約款の内容を知
りうる状態に置くこと」で足り、「約款を相手方のもとに届けたり契約締結場所に約款を備える
ことまでは必要ない」とされている。具体的には、「たとえば、バスの停留所から乗客がバス
に乗って運送契約が締結される場合、停留所またはバスの乗車口に、当該契約に運送約款が
用いられることおよび、約款を備え付けてある場所を明記した上で、バスの営業所に約款を備
え付けてあれば、乗車時に当該約款について乗客が認識していなくても、約款は開示された
102) 山本敬三「消費者契約における契約内容の確定」河上正二ほか『消費者契約法-立法
への課題』(商事法務研究会・1999 年)74 頁以下、同・前掲注 1) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号
57 頁以下を参照。
103) 前掲注 8)『基本方針』107 頁、『詳解Ⅱ』90 頁以下を参照。ただし、とくに事業者間
取引において、複雑かつ大規模な(ないしは構造化された)システムを利用した契約がおこな
われる場合には、約款中で他の約款にしたがう旨が定められたりしているため、そのすべてに
ついて「開示」の要件をみたすことが困難になる場合も考えられる。この種の取引における約
款の「開示」のあり方については、諸外国の動向を調査しながら、さらに慎重に検討する必要
がある。
- 116 -
ものとみなされる」とされている 104)。
いずれにしても、このように例外が認められるのは、約款の認識可能性についてのみであり、
「約款は両当事者の合意があって初めて契約内容となることは、どのような場合にも共通の準
則である」とされている 105)。その意味で、改正試案は、約款について、法規説ではなく、契約
説を採用することを前提としている。もっとも、この「約款を当該契約に用いる旨の合意」は、
黙示の合意で足りるほか、さらに「ある契約につき特定の約款を用いることが慣習として確立
しているときは」、法律行為と慣習に関する【1.5.04】により、「当事者の一方または双方が
その慣習によらない意思を表示したと認められる場合を除き、慣習に従い、当該約款はその
契約の内容となる」とされている 106)。これが、契約説の立場と整合的かどうかについては、疑
問も残るところである。
( イ ) 不意打ち条項
改正試案は、以上の提案に続けて、【3.1.1.A】で、「約款の不意打ち条項に関する規定は
設けない」としている。ただし、この点については、改正検討委員会内でも議論があり、「約
款の不意打ち条項については、【3.1.1.26】にかかわらず、取引慣行に照らして異常な条項ま
たはとりわけ取引の状況もしくは契約の外形からみて約款使用者の相手方にとって不意打ちと
なる条項は、契約の内容とならないとする規定を設けるという考え方もある」ことが併記され
ている。
改正試案が不意打ち条項に関する規定は設けないとしているのは、二つの理由による。第
一に、「排除されるべき不意打ち条項につき明確な基準を設けることは容易でなく、特に、そ
の基準を平均的顧客層の理解に求めることは約款の規律について当該契約当事者を基準とす
ることと必ずしも整合的ではない」ためであり、第二に、「不意打ち条項が不当条項と重複す
ることも少なくなく、そうでない場合にも、情報提供義務・説明義務を課すことにより、相手
方にとって予想できないような条項が約款に入っていた場合に対処することが相当程度は可能
と考えられる」ためであるとされる 107)。
第一の理由が「その基準を平均的顧客層の理解に求める」ことを問題とするのは、それが
不意打ち条項を定めたドイツ民法 305c 条 108) に関する一般的な理解とされることによる。もっ
104) 前掲注 8)『基本方針』107 頁、『詳解Ⅱ』90 頁以下(「約款を相手方が知りうる状態」
に置いたといえるためには、約款が備え付けてある場所が、バスの利用者にとって簡単にアク
セスすることのできる場所でなければならない」としている)を参照。
105) 前掲注 8)『基本方針』107 頁、『詳解Ⅱ』91 頁を参照。
106) 前掲注 8)『基本方針』107 頁以下、『詳解Ⅱ』91 頁を参照。
107) 前掲注 8)『基本方針』109 頁、『詳解Ⅱ』97 頁以下を参照。
108) ドイツ民法 305c 条 1 項「約款中の定めで、当該事情、とくに契約の外形からして約款
使用者の相手方がそれを予期する必要がないほどに異例であるものは、契約の構成要素となら
ない。」
- 117 -
とも、ドイツ法でも、不意打ち条項にあたるかどうかを判断する際には、契約の外形や約款
使用者の説明等、当該契約における具体的事情を斟酌する必要があるとされ、平均的顧客
層の理解が考慮されるのも、取引経験等がとぼしいために当該顧客にとって予期できなかっ
たというだけでは不意打ち条項にあたらないとするところにポイントがあり、具体的事情により
当該顧客が予期できなかったとしてもやむをえない条項も不意打ち条項にあたる場合があるこ
とは否定されていない 109)。契約解釈一般についても、
「当事者が当該事情のもとにおいて合理
的に考えるならば理解したであろう意味」が基準とされるとするならば(規範的解釈に関する
【3.1.1.41】)
、「約款の規律について当該契約当事者を基準とすること」と「整合的ではない」
とはいえないだろう。
また、第二の理由についても、ドイツにおいて、約款規制法が制定されるまでは、不意打
ち条項を通してしばしば隠れた内容規制がおこなわれていたことは事実であるが、同法の制定
後は、不意打ち条項と内容規制は意識的に区別され、内容的に不当とはいえない条項でも不
意打ち条項にあたると考えるのが一般である 110)。たとえば、保守管理を必要とする製品の売買
契約において、約款で有償の保守管理契約の締結合意を定めるような条項などが、その代表
例である。そうしたいわば真正の不意打ち条項は、不当条項規制ではカバーできない。
さらに、情報提供義務・説明義務に関しては、上述したように、改正試案では、沈黙によ
る詐欺のなかで考慮されることになるため、故意の立証が必要となるほか、効果についても、
個々の条項単位での取消しを認めなければならなくなる。しかし、まさにこうした場合に対処
するために考え出されたのが不意打ち条項であることからすると、あえてそのような問題をとも
なう情報提供義務・説明義務に関する規律にゆだねるのは疑問といわざるをえない。
したがって、改正の方向としては、不意打ち条項に関する規定を正面から認めるべきであ
109) Peter Ulmer in Ulmer / Brandner / Hensen / Schmidt, AGB-Gesetz, 9.Aufl. 2001, §3 Rz.11ff.,22f.;
Walter F. Lindacher, in: Wolf / Lindacher / Pfeiffer, AGB-Gesetz, 5.Aufl. 2009, §305c Rz.35ff., 38ff. ; Jürgen Basedow in Münchener Kommentar, Bd.2, 5.Aufl. 2007, §305c Rz..5ff. を参照。邦語文献として、石
田喜久夫編『注釈ドイツ約款規制法』
(同分舘・改訂普及版・1999 年)42 頁以下〔増成牧執筆〕を参照。
110) Ulmer in Ulmer/ Brandner/ Hensen/Schmidt , a.a.O.(Fn.109) Rz.1.; Lindacher in Wolf/ Lindacher/ Pfeiffer, a.a.O.(Fn.109) Rz.5等を参照。
Basedow in Münchener Kommentar, a.a.O.(Fn.109)
Rz.3f. は、不意打ち条項と内容規制の対象となる不当条項の区別は、きわめてむずかしいとし
つつ、両者の適用領域は一部で重なるもののやはり異なるとしている(ドイツ法によると、団
体訴訟の対象とされているのは不当条項規制だけであり(差止訴訟法 1 条)、具体的なケース
における当事者の期待によっても左右される可能性のある不意打ち条項規制は個別訴訟でのみ
認められるほか、主たる給付に関する条項は不当条項規制の対象とされないが(ドイツ民法
307 条 3 項)、不意打ち条項規制の対象となる可能性があるという違いがあることによる)。
- 118 -
る 111)。たとえば、「約款中の条項であって、契約の外形等、契約を締結する際の諸事情から、
約款使用者の相手方が通常予期することができなかったものは、契約の内容とならない」と
定めることが考えられる。
(c) 不明確準則
以上のほか、改正試案は、約款の解釈と消費者契約の解釈について、不明確準則を定める
ことを提案している。【3.1.1.43】によると、〈1〉で、約款について、契約解釈の一般原則-
本来的解釈(当事者の共通の意思によるとする)に関する【3.1.1.40】と規範的解釈(当事
者の意思が異なる場合)に関する【3.1.1.41】-によってもなお「複数の解釈が可能なときは、
条項使用者に不利な解釈が採用される」と定め、〈2〉で、「事業者が提示した消費者契約の
条項」について、同様に「複数の解釈が可能なときは、事業者に不利な解釈が採用される」
と定めることが提案されている。これは、透明性の原則-契約条項は、明確かつ平易な言葉
で表現されなければならないという原則 112) -の実効性を確保するための規制であり、契約の
締結過程における手続要件型規制の一つとして位置づけることができる。
契約解釈の一般原則によっても複数の解釈可能性が残ることは、約款や消費者契約にかぎ
らず起こりうる。不明確準則とは、もともと、そうした場合に、それらの解釈可能性の一つに
したがって内容を確定するというものである。このような場合に、その部分を無効とすることな
く、残された解釈可能性のうちの一つにしたがって内容を確定することは、当事者がおこなっ
た契約をできるかぎり尊重するという考え方からも要請される。その意味で、これは契約一般
に妥当する解釈原則だということができる 113)。実際、比較法的にみても、これを契約一般に妥
当する解釈準則として規定するものは少なくない 114)。
これによると、その場合に、どのような基準にしたがって残された解釈可能性のうちの一つ
を選ぶべきかが問題となる。いずれを選ぶかによって、どちらの当事者が有利になるか不利
になるかも変わってくる。しかし、契約を尊重し、その効力を維持しようとするかぎり、どちら
かの当事者が不利益をこうむることは避けられない。こうした場合に民法の基本原則から出て
くるのは、不利益を課されてもやむをえない者、つまり帰責性のある者に不利益を課すという
111) 山本・前掲注 102)『消費者契約法』79 頁以下、前掲注 1) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号
59 頁以下も参照。
112) 改正試案では、保証に関する【3.1.7.02】〈2〉で、
「債権者は、保証契約の締結にあたっ
て、次に定めるところに努めなければならない。保証引受契約を締結する債務者も同様である。」
とされ、〈ア〉で「契約条項は、明確かつ平易な言葉で表現されること」があげられている。
113) 上田誠一郎『契約解釈の限界と不明確条項解釈準則』(日本評論社・2003 年・初出
1998 年)183 頁以下を参照。
114) たとえば、フランス民法 1162 条、オーストリア民法 915 条、第二次契約法リステイ
トメント 206 条等を参照。旧民法財産編 360 条 1 項も、「合意ノ解釈」について、諾約者有
利の原則を定めている。
- 119 -
考え方である。これによると、不明確な条項を使用し、その不明確さを生じさせたことについ
て帰責性のある者の不利に解釈することが要請される 115)。
契約一般についていえば、不明確な条項を使用したからといって、常にこの意味での帰責
性が認められるわけではないだろう。しかし、約款に関しては、約款使用者がそれを多数の
契約のために一方的に使用しようとするのであるから、みずから約款を使用する以上、それ
が不明確であることによる不利益は負担すべきであると考えられる。【3.1.1.43】〈1〉が「条
項使用者に不利な解釈」を採用するとしているのは、このような考え方にもとづくと考えられ
る 116)。
また、消費者契約に関しても、消費者と事業者のあいだには知識や情報の構造的な格差が
あるという前提に照らせば、事業者が契約条項を提示した以上、それが不明確であることによ
る不利益はその契約条項を使用した事業者が負担することが要請される 117)。【3.1.1.43】〈2〉
は、このような考え方にもとづくものと評価できる。
このように考えるならば、約款による場合はもちろん、消費者契約の場合でも、個別の交渉
を経て採用された条項については、契約一般の解釈準則によるべきであり、不明確な条項を
使用したというだけでその不利に解釈するのは問題である。改正試案では、消費者契約に関し
「個別の交渉を経て採用された条項については、この限りではない」というただし書きを付加
する可能性について、両案を併記しているが 118)、これは明示する方向で考えるべきだろう。
二 内容規制
(1) 基盤保障型規制
上述したように、自己拘束型規制のうち、内容規制にあたるものとして、基盤保障型規制-
115) 上田・前掲注 113)191 頁以下は、その意味で「表現使用者」に「過失」がある場合に、
「表現使用者に不利に」解釈するという準則が妥当するとしている。
116) 上田・前掲注 113)194 頁以下は、「約款を用いた契約であるからといって、表現のあ
いまいさから生じる不利益な結果を常に約款使用者側に帰せしめうるとは限らない」とし、約
款による場合は、「約款使用者側の過失が推定されるものとし、約款使用者側の帰責を軽減す
る個々の事情については、反証を許すのが妥当であろう」とする。
117) 山本・前掲注 1) 民商法雑誌 123 巻 4=5 号 61 頁以下では、条項作成者の不利に解釈す
ることを提案していたが、厳密にいうと、不明確な条項をみずから作成した者に限定する必要
はなく、不明確な条項を使用した以上、本文で述べた意味での帰責性を認めてよいと考えられ
る。
118) 約款については、【3.1.1.25】〈2〉で、約款を構成する契約条項のうち、個別の交渉を
経て採用された条項には、約款に関する規定は適用しないとされているため、約款の不明確準
則に関する【3.1.1.43】〈1〉も適用されないことになる。
- 120 -
個人に幸福追求を可能にする基盤を保障するための規制-がある。しかし、改正試案では、
このタイプに属する規制については、新たな規制にあたるものはほとんど提案されていない。
保証に関する【3.1.7.02】〈2〉で、「債権者は、保証契約の締結にあたって、次に定めるとこ
ろに努めなければならない。保証引受契約を締結する債務者も同様である。
」
とされ、
〈ウ〉で「保
証人の資力に比して、過大な責任を負わせないこと」があげられている程度である。ただし、
これも努力義務にとどめられ、実際に保証人が「過大な責任」を負わされることになった場合
の救済方法について、何も述べられていない。
保証に関しては、従来から、とくに第三者保証の場合において、保証人と主たる債務者の
人的関係が利用され、本来ならば保証を引き受ける客観的・合理的な理由がないのに、保
証の引受けを断れない状況に追い込まれる場合-いわゆる保証契約の情義性-が問題とされ
てきた。
この問題については、これまで、根保証契約は、そのような保証をする客観的・合理的な
理由がなければ、効力は認められない、少なくとも責任は制限されるとする見解 119) -保証制
度について客観的な秩序が内在することを前提とし、その秩序に反する契約を規制するという
考え方によるものであり、本稿でいう秩序維持型規制に相当する-や、債権者に保証人の利
益を保護すべき義務を課し、それが尽くされた場合または尽くされた限度でのみ自分が本来負
担すべきリスクを保証人に転嫁することが許されるとする見解 120) -保証人を弱者としてとらえ
るものであり、本稿でいう弱者保護型規制に相当する-が主張されてきた。
しかし、保証契約についても、契約自由および契約の拘束力の原則が妥当し、「みずから
保証すると約束した以上、契約は守らなければならない」ことが出発点となる。このように意
思決定の自由を尊重するならば、そのような決定に客観的合理性があるかどうかということ自
体が問題なのではなく、その意思決定の自由が侵害された場合に、契約の効力を否定すれば
足りる。これは、保証契約に特有の定型的な問題というよりも、意思決定の自由に対する個別
的な侵害を理由とする規制一般の問題ということができる。その意味で、この問題に関するか
ぎり、上述した暴利行為に関する【1.5.02】〈2〉によることになる 121)。それでカバーできない
問題については、基盤保障型規制として一般的に考えられる諸手段-公序良俗違反による無
効のほか、強制執行のみを排除したり、任意解除や撤回権を認めることにより履行請求を排
除したりすることなど-にゆだねられることになる。
119) 伊藤進「保証の法的効力について-中小企業金融に伴う保証を中心に (7)」銀行法務
21・634 号 34 頁以下(2004 年)、齋藤由起「近親者保証の実質的機能と保証人の保護-ド
イツ法の分析を中心に (3)」北大法学論集 55 巻 3 号 247 頁 (2004 年 ) 等を参照。
120) 西村信雄『継続的保証の研究』
(有斐閣・1952 年)212 頁以下、平野裕之『保証人保
護の判例総合解説』(信山社・2004 年)21 頁以下等を参照。
121) 山本・前掲注 7)『ドイツ法の継受と現代日本法』437 頁以下を参照。
- 121 -
(2) 事情変更型規制
改正試案は、
【3.1.1.91】以下で、新たに事情変更型規制を明文で定めることを提案している。
それによると、まず、【3.1.1.91】〈1〉で、「契約締結に当たって当事者がその基礎とした
事情に変更が生じた場合でも、当事者は当該契約に基づいて負う義務を免れない」という原
則を確認したうえで、〈2〉で、所定の要件をみたすときに、「当事者は【3.1.1.92】の定める
請求をすることができる」としている。
提案要旨によると、〈1〉は、「事情変更制度が、あくまで契約によるリスク配分を中核とす
る契約責任制度の中では例外的なものであることを明示した」という説明がされている 122)。事
情変更の原則については、上述したように、信義衡平の理念から契約の拘束力の原則を例外
的に制限するものと位置づける信義衡平説と、契約内容を確定する作業に吸収されるとする
契約基準説が主張されている。改正試案は、このうち、前者の信義衡平説に依拠していると
みることができる。
【3.1.1.91】〈2〉が定める要件は、〈ア〉「当該事情の変更が、契約当事者の利害に著しい
不均衡を生じさせ、または契約を締結した目的の実現を不可能にする重大なものであること」、
〈イ〉「当該事情の変更が、契約締結後に生じたこと」、〈ウ〉「当該事情の変更が、契約締結
時に両当事者にとって予見しえず、その統御を越えていること」である。これらは、従来の学
説および判例上共有されている枠組みを基礎としたものと説明されているが、信義衡平に反す
る等の文言が姿を消しているほか、いちじるしい利害の不均衡とならんで、契約目的の達成
不能を独立の類型としていることなど、子細にみると修正がほどこされていることがわかる 123)。
しかし、基本的には、この点でも従来の信義衡平説の主張にしたがっていることはあきらかで
ある。
以上の点については、なお議論の余地があるとしても、【3.1.1.92】では、事情変更の効果
について、再交渉義務に相当するものを導入することを提案している点がとくに注目される。
それによると、上記の要件をみたすときは、当事者は契約改訂のための再交渉を求めること
ができ(〈1〉)
、この申出がされたときは、相手方は交渉に応じなければならず(〈2〉)
、両当
事者は再交渉を信義にしたがい誠実におこなわなければならないとされる
(〈3〉)。そのうえで、
当事者が〈2〉もしくは〈3〉に定められた義務に違反し、または再交渉を尽くしたにもかかわ
らず、契約改訂の合意が成立しない場合は、当事者-〈2〉または〈3〉の義務に違反した
者を除く-は、裁判所に契約の解除、または改訂案を示して契約の改訂を求めることができる
とされている(〈4〉)124)。
122) 前掲注 8)『基本方針』155 頁、前掲注 8)『詳解Ⅱ』382 頁以下。
123) 前掲注 8)『基本方針』155 頁、前掲注 8)『詳解Ⅱ』387 頁以下。
124) その際、「契約改訂請求の可否を先決問題にする」甲案と、「解除請求権の可否を先決
問題とする」乙案を併記している。
- 122 -
最近の学説でも、事情変更の原則の効果として、ただちに契約の改訂や解除を認めるので
はなく、当事者自身による自律的な解決をうながすために、再交渉義務を認めるべきであると
いう考え方が有力に提唱されていた 125)。改正試案は、こうした動きをふまえたものであり、当
事者による自律的な決定を支援するために、内容規制に手続要件型規制を組み込んだ提案と
して積極的に評価すべきである。ただし、上記の要件がそなわれば、それだけで常に再交渉
義務を認めてよいか、再交渉を期待できない場合について阻却要件を整備する必要がないか、
解除と改訂請求の関係をどのように設定するか等、なお詰めるべき問題が残っていることは否
定できない 126)。
第三節 自律支援型規制
以上に対し、改正試案では、自律支援型規制-意思決定の自由が侵害を受けている、ない
しはそのおそれがあるわけではないけれども、そうした意思決定をよりよくおこなうことができ
るように支援するための規制-に相当するものが大幅に拡充されている。以下では、改正試
案にふくまれる諸提案のうち、自律支援型規制としてとらえることができるものを概観し、その
意義をあきらかにすることにしよう。
一 制度保障型規制
上述したように、自律支援型規制としてまず考えられるのは、意思決定をおこなうことを可
能する法的な制度を用意するものである。この制度保障型規制は、さらに、意思決定の主体
に関する支援制度によるものと行為に関する支援制度によるものに分かれる。
(1) 主体に関する支援制度
(a) 代理制度の整備
改正試案では、まず、主体に関する支援制度として従来から存在している代理制度について、
見直しがおこなわれている 127)。そこでは、基本的には現行法の枠組みを維持しながら、それ
を整備する-趣旨を確認して、明確にすべきものは明確にし、不整合を来しているところは修
正し、足りない部分があればおぎなう-という姿勢がとられている。実際、代理に関するすべ
125) 久保宏之『経済変動と契約理論』(成文堂・1992 年・初出 1987 年)244 頁以下、松
井和彦「過程志向的法システムと再交渉義務」一橋論叢 115 巻 1 号 250 頁(1996 年)、石川
博康「『再交渉義務』論の構造とその理論的基礎 (1)(2)」法学協会雑誌 118 巻 2 号 48 頁・4
号 40 頁(2001 年)等を参照。
126) 山本・前掲注 29)『民法講義Ⅳ -1』109 頁以下を参照。
127) 前掲注 8)『基本方針』39 頁以下、『詳解Ⅰ』184 頁以下を参照。
- 123 -
ての規定について、このような整備がおこなわれているほか、とくに代理権の濫用(【1.5.33】)
や無権代理と相続(【1.5.40】)・無権代理人の責任の相続(【1.5.44】)について、新たに規
定を定めることが提案されている。
全体を通じていえば、委任等の契約当事者間の内部関係と、おこなわれた行為の相手方
との外部関係を区別し、代理の節では後者の外部関係について定めるという方針が現行法よ
りも徹底されている(【1.5.C】)128)。また、任意代理と法定代理をあわせて規律するという現行
法の立場を維持しつつ、それぞれに特有の規律を現行法以上に定めることが提案されている
(【1.5.D】)
。これは、もともと現行法のなかには、本来は任意代理を想定した規定を過度に
一般化したものが少なくないことから、それらが本当に法定代理にもあてはまるかどうか、あら
ためて検討し直したことによる。現行法で、任意代理と法定代理が区別されているのは、復代
理に関する規定(民 104 条・105 条・106 条)と代理権の消滅事由に関する規定(民 111
条)だけであるが、改正試案では、代理行為の瑕疵(【1.5.26】)
、代理権の範囲(【1.5.28】)
、
代理権の濫用(【1.5.33】)についても、任意代理と法定代理を区別することが提案され 129)、さ
らに表見代理は法定代理については認められないものとすることが提案されている(【1.5.35】
【1.5.36】【1.5.37】)。最後の点は、「権利者が権利を失うことを正当化するためには、その
権利者自身に権利を失ってもやむをえない理由がなければならない」という表見法理の基礎
にある考え方が-権利の尊重の要請にかなうものとして-基本原則として位置づけられたこと
による 130)。
(b) 授権制度の新設
改正試案は、以上の代理とならんで、授権に関する規定を新たに定めることを提案している。
授権とは、自己の名で法律行為をしながら、その法律効果を本人に帰属させる制度であり、
処分授権-被授権Bが自己の名で授権者Aに帰属する権利を処分する旨の法律行為をするこ
とによって、その権利を処分したという効果が授権者Aに帰属するというタイプの授権-のほ
128) たとえば、復代理に関する規律について、現行民法 105 条に定められている復代理人
を選任した場合の代理人の責任や、107 条に定められているもののうち、本人と復代理人の
あいだの権利義務関係については、委任に関する提案にゆだねられている(【1.5.H】【1.5.I】
【1.5.31】)。また、利益相反行為(【1.5.32】)と代理権の濫用(【1.5.33】)についても、その
前提として、代理人が本人に対し忠実義務を負うことは、内部関係の問題として、委任に関す
る提案にゆだねられ、代理の節では、外部関係の規律に限定されている。
129) このほか、代理人の行為能力に関する民法 102 条も、法定代理の場合にそのままあて
はまるかどうか疑問がある規定であるが、改正試案は【1.5.27】で-最低限の手当てをおこな
うという少数意見が付されているものの-、これを改正するためには親族法の見直しが避けら
れないため、基本的に現行法を維持し、その全面的な見直しは将来の課題としている(前掲注
8)『基本方針』44 頁以下、『詳解Ⅰ』208 頁以下を参照)。
130) 前掲注 8)『基本方針』56 頁、『詳解Ⅰ』271 頁以下を参照。
- 124 -
か、義務設定授権-被授権者Bが自己の名でした法律行為によって、授権者Aに義務を負担
させるというタイプの授権-などもふくまれる。改正試案は、【1.5.45】で、このうち、処分授
権にかぎって認めることを提案している。義務設定授権を認めると、法律行為の相手方Cは
被授権者Bが契約当事者(債務者)であると信じていたのに、授権者Aが契約当事者(債務者)
だったことになり、相手方Cに不測の不利益をあたえるおそれがある。それに対して、処分授
権の場合は、権利が授権者Aから相手方Cに移転するだけであり、授権者Aにとっては意図
したとおりの効果が認められ、相手方Cにとっても権利を取得できるだけである以上、これを
認めても問題はないと考えられたわけである 131)。
このような授権制度が法定されれば、本来の意味での委託販売-委託者Aと受託者Bの間
では委任契約が成立し、Bは第三者Cと売買契約を締結して売買代金を取得し、ここから委
任契約にもとづいて認められるBの報酬や費用額を控除して、その残額をAに交付する関係
-に法的な裏づけがあたえられることになる。その意味で、これはまさに意思決定をおこなう
ことを可能にする法的な制度を用意するものであり、自律支援型規制として位置づけることが
できる。
(2) 行為に関する支援制度
次に、改正試案では、行為に関する支援制度として、典型契約類型の整備・拡充が進めら
れている。
その際、改正試案は、民法典に各種の契約に関する規定をおく意義として、次の三つをあ
げている 132)。第一は、当事者が自由に契約を設計するための道具となりうる規律を提供すると
いう意義、第二は、標準的な規律を規定することにより、当事者が契約交渉をする際の出発
点を示すとともに、消費者契約においては、積極的な基準を示すという意義、第三は、紛争
が生じた場合の解決の基準を提供するという意義である。このうち、第一および第二の意義は、
本稿でいう自律支援型規制を定める意義に相当する。
そのうえで、改正試案は、新種の契約を民法典に取り込むかどうかについて、社会的事実、
とりわけ社会的需要の大きさや立法の実現可能性を考慮するほか、既存の典型契約との関係
も考慮すべきであるとする。具体的には、既存の典型契約で対処できるものはそれにより、既
存の典型契約の抽象度・普遍性との均衡を考慮するものとしている 133)。
以上の検討の結果、改正試案で新たに採用することが提案された契約類型は、以下のよう
なものである。
131) 前掲注 8)『基本方針』65 頁以下、『詳解Ⅰ』329 頁以下を参照。
132) 民法(債権法)改正検討委員会編『詳解・債権法改正の基本方針Ⅳ-各種の契約 (2)』
(商
事法務・近刊、以下では『詳解Ⅳ』として引用する)8 頁を参照。民法典に新たな契約類型を
定めるための考え方と基準について検討したものとして、山本・前掲注 45)『債権法改正の課
題と方向』10 頁以下、とくに 19 頁以下を参照。
133) 前掲注 132)『詳解Ⅳ』8 頁を参照。
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第一に、現在の典型契約類型と同列のものとして、ファイナンス・リースを独立に定めるこ
とが提案されている(【3.2.7.01】以下)。これは、「①現在の取引形態としてのファイナンス・
リースの重要性、②契約としての独自性(他の典型契約に解消されない独自の性格)
、③そう
したファイナンス・リースの独自性の判例における承認」を理由とする 134)。
第二に、現在の典型契約類型よりも抽象度の高いものとして、役務提供(契約)を定める
ことが提案されている(【3.2.8.01】)。これは、「請負・委任・寄託・雇用を包摂する上位の
カテゴリー」として位置づけられるものであり、それらに対する総則としての性格をもつと同時
に、それらのいずれにもあてはまらないものの受け皿として位置づけられている 135)。このほか、
典型契約類型と呼ぶかどうかは別として、「継続的契約」というカテゴリーが設けられ、それ
に共通する規律を定めることが提案されている(【3.2.16.12】以下)。
第三に、 現在の典型契約類型の下位類型に相当するものとして、 売買については試
見売買(【3.2.1.44】)
、 請負については下請負(【3.2.9.10】)
、 委任については媒介契約
(【3.2.10.19】)・取次契約(【3.2.10.20】以下)
、寄託については混合寄託(【3.2.11.15】)・
流動性預金口座による消費寄託(【3.2.11.17】)・流動性預金口座を管理する預金契約
(【3.2.11.18】)・宿泊契約にともなう寄託等に関する宿泊役務提供者の責任(【3.2.11.19】)
、
組合については内的組合(【3.2.13.29】)を定めることが提案されている。
これに対して、たとえば、在学契約や診療契約は、役務提供契約の規律にゆだね、独立の
下位類型としてあげないこととされ、フランチャイズ契約・特約店契約やライセンス契約なども、
民法典に規定することは見送られている 136)。しかし、とりわけ在学契約や診療契約のほか、旅
行契約などは、社会的需要も大きく、少なくとも最低限のルールを定めることができるだけの
蓄積も形成されつつあると考えられる。これらについては、役務提供契約の下位類型として独
立に定める方向でさらに検討を進めるべきだろう。
二 内容形成型規制
以上のほか、自律支援型規制には、さらに、契約の内容形成を支援するための規制も考え
られる。改正試案では、こうした内容形成型規制が非常に強化されている。
(1) 任意法規の拡充・整備
上述したように、内容形成型規制の代表例は、任意法規である。これは、契約について標
準的な内容を指針として提示し-契約規整機能ないし契約規整型規制-、契約に定められて
いない事柄について契約を補完する-契約補完機能ないし契約補完型規制-という機能をも
つ。
134) 前掲注 8)『基本方針』350 頁を参照。
135) 前掲注 8)『基本方針』357 頁を参照。
136) 前掲注 132)『詳解Ⅳ』9 頁以下を参照。
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こうした任意法規は、現行法でも、契約各則を中心として、非常に多数定められている。改
正試案では、それらの任意法規をひとまずすべて点検し直し、その整備がはかられている。
(2) 補充的解釈
以上のほか、改正試案では、自律を支援するための補完型契約規制に相当するものがさら
に定められている。その一つが、契約の補充的解釈に関する提案である(【3.1.1.42】)。それ
によると、本来的解釈(当事者の共通の意思によるとする)に関する【3.1.1.40】と規範的解
釈(当事者の意思が異なる場合)に関する【3.1.1.41】により、「契約の内容を確定できな
い事項が残る場合において、当事者がそのことを知っていれば合意したと考えられる内容が確
定できるときには、それに従って解釈されなければならない」と定めることが提案されている。
本来的解釈および規範的解釈によっても契約の内容を確定できない事項が残る場合には、
その部分をどのように補充するかが問題となる。この場合は、任意法規と慣習により補充す
ることが考えられるが(現行民法 91 条に相当する【1.5.03】・92 条に相当する【1.5.04】)
、
それだけでは十分とはいえない。というのは、任意法規にしても慣習にしても、程度の差はあれ、
典型的な場合を想定したものであり、常に実際の契約に適合するわけではないからである。
個々の当事者は、さまざまな考慮から実際の必要をみたそうと考えて契約をするのであり、
契約制度は、そのような個々の当事者の自律的な活動を可能にするために用意されているも
のである。したがって、実際に個々の当事者の意思が一致している場合に、その意思を尊重
しなければならないのはもちろん-本来的解釈に関する【3.1.1.40】はこの要請に対応する-、
そうでない場合でも、当事者が実際にした契約の趣旨や締結の際の事情等から、当事者が
知っていれば合意したと考えられることが確定できるときには、それを尊重することが要請され
る 137)。改正試案は、このような考え方にもとづく 138)。
これはまさに、本来的解釈および規範的解釈によっても契約の内容を確定できない事項が
残る場合でも、可能なかぎり両当事者がその契約でおこなった決定を尊重し、それに即した
補充をおこなおうとするものであり、当事者の自律を支援するための補完型契約規制として位
置づけることができる。
(3) 債務不履行に関する規律-契約主義への転換
改正試案では、債務不履行に関する規律について、契約主義への転換とでもいうべき新た
137) 山本敬三「補充的契約解釈-契約解釈と法の適用との関係に関する一考察 (5)」法学論
叢 120 巻 3 号 39 頁以下(1986 年)、山本・前掲注 27)『民法講義Ⅰ』129 頁、磯村保「法
律行為の解釈方法」加藤一郎 = 米倉明編『民法の争点Ⅰ』(有斐閣・1985 年)33 頁等を参照。
138) 前掲注 8)『基本方針』123 頁、『詳解Ⅱ』155 頁以下を参照。
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な提案がおこなわれている 139)。これもまた、本稿でいう自律を支援するための契約補完型規制
として位置づけることができる。
(a) 改正試案では、まず、履行請求権について、【3.1.1.53】で、「債権者は、債務者に対
し、債務の履行を求めることができる」としたうえで、【3.1.1.56】で、「履行が不可能な場合
その他履行をすることが契約の趣旨に照らして債務者に合理的に期待できない場合、債権者
は、債務者に対して履行を請求することができない」と定めることが提案されている。そこでは、
履行をすることが合理的に期待できないかどうかが、従来のように「社会通念」という契約外
在的な基準ではなく、
「契約の趣旨」に照らして判断されるべきであるとされている 140)。また、
追完請求権に関しても、【3.1.1.57】〈1〉で、「債務者が不完全な履行をしたときは、債権者
は履行の追完を請求することができる」としたうえで、
〈3〉で、
「追完を債務者に請求することが、
契約の趣旨に照らして合理的には期待できないときは、債権者は債務者に対し直ちに追完に
代わる損害賠償を請求することができる」と定めることが提案されている。ここでも、追完請
求権の限界を判断する基準が「契約の趣旨」に求められている。
(b) 損害賠償の要件についても、【3.1.1.62】で、「債権者は、債務者に対し、債務不履行
によって生じた損害の賠償を請求することができる」としたうえで、【3.1.1.63】〈1〉で、「契
約において債務者が引き受けていなかった事由により債務不履行が生じたときには、債務者は
【3.1.1.62】の損害賠償責任を負わない」と定めることが提案されている。これは、契約の
拘束力の考え方から基礎づけられる。それよると、債務者は、契約により、債権者に対し債
務を負担している。ここで、債務者がその契約にもとづいて負担した債務を履行しなかったと
きは、債務者は債権者に対して損害賠償責任を負う。もっとも、
「債務不履行をもたらした事態
(不履行原因)が契約において想定されず、かつ、想定されるべきものでもなかったときには、
債務不履行による損害を債務者に負担させることは、契約の拘束力から正当化できない。契
約のもとで想定されず、かつ、想定されるべきものでもなかった事態から生ずるリスクは、当
該契約により債務者に分配されていないため、このような損害を債務者に負担させることは契
約の拘束力をもってしては正当化できないからである」。改正試案が「契約において債務者が
引き受けていなかった事由により債務不履行が生じた」ときに、債務者の免責を認めている
のは、このような考え方にもとづく 141)。
(c) 損害賠償の効果についても、
【3.1.1.67】〈1〉で、
「契約に基づき発生した債権において、
債権者は、契約締結時に両当事者が債務不履行の結果として予見し、または予見すべきであっ
139) この転換の意義について簡潔に概観したものとして、前掲注 8)『シンポジウム「債権
法改正の基本方針」』14 頁以下(潮見佳男)を参照。さらに、その背景にある考え方について、
潮見佳男「総論-契約責任論の現状と課題」ジュリスト 1318 号 81 頁(2006 年)、山本敬三「契
約の拘束力と契約責任論の展開」ジュリスト 1318 号 87 頁 (2006 年)を参照。
140) 前掲注 8)『基本方針』132 頁、『詳解Ⅱ』196 頁以下を参照。
141) 前掲注 8)『基本方針』137 頁、『詳解Ⅱ』247 頁以下・249 頁以下を参照。
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た損害の賠償を、債務者に対して請求することができる」と定めることが提案されている。こ
れもまた、「契約に基づくリスク分配を基礎にして賠償範囲を決すべきであるとの立場」にもと
づく 142)。さらに、【3.1.1.67】〈2〉では、「債権者は、契約締結後、債務不履行が生じるまで
に債務者が予見し、または予見すべきであった損害についても、債務者がこれを回避するた
めの合理的な措置を講じたのでなければ、債務者に対して、その賠償を請求することができる」
と定めることが提案されている。これは、「契約に即して債務者に損害回避のために誠実な行
動を促す」ためのものであるが、「この場合における合理的措置の内容は、契約の趣旨に即し
て定まる」とされている 143)。
(d) 改正試案は、解除について、【3.1.1.77】〈1〉で、「契約当事者の一方に契約の重大な
不履行があるときには、相手方は、契約の解除をすることができる」と定めることを提案して
いる。それによると、「解除を、債務不履行をおかした債務者に対する責任追及の手段という
観点からではなく、債務不履行が生じた状況下で、債権者を『契約の拘束力』から離脱させ
るための制度であると理解するところから、出発し」、「解除制度、そして、解除が認められる
ための要件は、債務者による債務不履行があったときに、債権者がどこまで契約に拘束され
続けるのが正当かという観点から、再構成されるべきである」。そこで、「契約からの離脱が認
められるためには、債務不履行があったことに加え、債務者に『重大な不履行』があったこと
が必要である、そうでなければ、債権者としては他の救済手段で満足すべきである」と考える
わけである。その意味で、解除制度は、「債務不履行を理由として債権者が契約の拘束力か
ら離脱するための制度」としてとらえられ、その「契約からの離脱のための要件として、『重
大な不履行』が要求される」ものとされている 144)。
以上のように、改正試案では、債務者に対する責任追及という観点ではなく、契約の拘束
力の射程がどこまでおよぶかという観点から、債務不履行に関する規律をとらえ直すという立
場が鮮明にとられている。これは、履行請求権や損害賠償、解除について、契約で明示的に
合意されている場合はもちろん、そうでない場合でも、「契約の趣旨」に即した救済が認めら
れることを可能にするものであり、まさに本稿でいう自律を支援するための契約補完型規制と
して債務不履行に関する規律を再構成しようとしたものと評価することができる。
第四章 終わりに
本稿では、契約規制の類型とその変容という観点から現代における契約規制の理論枠組み
をあきらかにしたうえで、民法の改正試案を素材としながら、そこにみられる現代化の意味と
142) 前掲注 8)『基本方針』139 頁以下、『詳解Ⅱ』263 頁以下を参照。
143) 前掲注 8)『基本方針』140 頁、『詳解Ⅱ』265 頁以下を参照。
144) 前掲注 8)『シンポジウム「債権法改正の基本方針」』22 頁以下(潮見)を参照。
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特徴を分析し、あるべき民法改正の方向性を検討した。最後に、以上の検討の骨子をまとめ、
さらに残された問題として、民法と消費者契約法の関係について検討の方向を示すこととする。
一 契約規制の類型と現代化の方向性
(1) 秩序維持型規制から自律保障型規制へ
かつては、契約規制というと、当事者の自律に対して外在的な理由にもとづく規制-他律型
規制-が主として念頭におかれていた。一定の公共的な目的を基礎として、あるべき秩序を
設定し、それを維持するためにこのタイプの規制をおこなうもの-秩序維持型規制-や、一
定の者たちについて特別に保護する必要を認め、そのために契約規制をおこなうもの-弱者
保護型規制-が、それにあたる。当事者の自律を保障するための規制-自律保障型規制-に
相当するものも、たとえば、詐欺・強迫による取消しや行為能力制度がそうであるように、従
来から認められていたものの、自律保障型規制として明確に認知されていたわけではなく、秩
序維持型規制や弱者保護型規制に連なるもの-取引秩序に反する悪質な行為から保護するた
めの規制、知的能力の劣る者を保護するための規制-としてとらえられていた。
これに対して、自律保障型規制が前面に出てきたのが、最近の契約規制の傾向である。そ
こでは、自律保障型規制に相当するものが自律保障型規制として認知され、従来は他律型規
制として位置づけられていたものが自律保障型規制として整備しなおされたり、従来は不十分
だった規制が拡充されたりすることになっている。こうした傾向は、現在の改正作業にもはっき
りと見てとることができる。
この自律保障型規制は、当事者の自律をその侵害から保護するための規制-自律保護型規
制-と、当事者の自律を支援するための規制-自律支援型規制-に分かれる。前者の自律保
護型規制は、さらに、契約の締結時にすでに意思決定の自由が侵害され、本来ならば望まな
い契約が締結された場合の規制-決定侵害型規制-と、契約の締結時には意思決定の自由
に対する侵害がなく、みずから同意した契約に拘束され、将来の自己決定が拘束されることに
よって侵害が生ずる場合の規制-自己拘束型規制-に分かれる。
(2) 自律保護型規制
(a) 決定侵害型規制
自律保護型規制のうち、決定侵害型規制に関しては、まず、現実に決定侵害があった場合
に、その侵害を受けた者を保護するためにおこなわれる規制-個別的決定侵害型規制-が考
えられる。このタイプの規制は、詐欺・強迫による取消しや暴利行為に関する準則のように、
従来から民法においても認められてきたが、最近では、それをさらに拡充する必要があると主
張されている-詐欺・強迫の拡張理論や現代的暴利行為論-。改正試案でも、こうした動き
を受けて、不実表示に関する規定や現代的暴利行為論にしたがった規定を新設することが提
案されている。残された問題は、情報提供義務の整備であるが、これについても、沈黙によ
- 130 -
る詐欺に関する規定を新設することが提案され、法形成を進める手がかりが示されている。
決定侵害型規制には、さらに、決定侵害があったかどうかの判断を定型的におこなうタイプ
の規制-構造的格差型規制-もある。その代表例が、消費者契約法による規制である。改正
試案では、締結過程に関する規制のうち、断定的判断の提供による取消しと困惑による取消
しを拡充したうえで、民法に統合することが提案されている。また、不当条項規制も、同様に
民法に統合するほか、約款規制を導入することも提案されている。そこでは、消費者契約の
規制と約款規制の関係や不当条項規制の射程についてなお検討を要し、一般条項の基準もさ
らに詰める必要は残るものの、従来にくらべ所要の規制が格段に整備されることになる。
(b) 自律保護型規制-自己拘束型規制
これに対して、自己拘束型規制については、まず、契約の拘束力をつらぬくために、意思
決定をおこなう資格要件を設定するもの-資格要件型規制-と手続要件を設定するもの-手
続要件型規制-が考えられる。行為能力制度は、かつてはむしろ画一的な弱者保護型規制に
相当するものであったが、1999 年に成年後見制度が導入されることにより、できるかぎり自
律を尊重することを可能にする柔軟な資格要件型規制へと再編され、さらに自律を支援するた
めの規制としての性格をあわせもったものとなっている。このほか、2004 年の民法改正によ
り、保証契約が要式行為とされ、貸金等根保証契約について、極度額の定めが必要とされたり、
保証期間の長期化を防止するための規制が定められるなど、慎重な判断をおこなう機会を確
保するための手続要件型規制が導入されている。改正試案でも、資格要件型規制として、意
思能力に関する規定を明文化し、手続要件型規制として-不意打ち条項規制をふくめて、な
お検討を要する点が残るとしても-、約款の組入れに関する規定のほか、透明性原則を基礎
とする不明確準則を新たに定めることが提案されている。
自己拘束型規制については、内容規制に相当するものとして、個人に幸福追求を可能にす
る基盤を保障するための規制-基盤保障型規制-や、契約が有効に成立する場合でも、その
後例外的にその契約の拘束力から離脱する可能性を認めるもの-事情変更型規制-が考えら
れる。前者の基盤保障型規制については、公序良俗違反による無効(さらに不法原因給付に
あたるとする可能性もある)のほか、強制執行のみを排除したり、任意解除や撤回権を認め
ることにより履行請求を排除したり、契約不履行にもとづく損害賠償を限定したりすることなど
が考えられる。改正試案では、保証に関して、これに関連する提案がみられるものの、とくに
新たな提案はなされていない。これに対して、事情変更型規制については、明文で定めるとと
もに、再交渉義務に相当するものを導入することが提案されている。これは、当事者による自
律的な決定を支援するために、内容規制に手続要件型規制を組み込んだものとして位置づけ
られる。
(3) 自律支援型規制
以上に対し、自律の支援という考え方は、もともと民法の基礎におかれていたということが
できるが、とりわけこの 20 年あまりのあいだに、後見的な保護と自由放任のあいだの第三の
- 131 -
道として、クローズアップされるようになってきた。それによると、個人は生身のいわば等身大
の人間としてとらえられ、さまざまな制約を受けつつも、主体的に決定できる存在として尊重
することが要請される。したがって、そこで必要となる規制も、個人の自律を度外視した後見
的な「保護」をあたえるための規制-弱者保護型規制-ではなく、個人の自律を可能にし、
その実現をサポートするための規制-自律支援型規制-とされる。改正試案では、この自律
支援型規制に相当するものが大幅に拡充されている。
このタイプの規制としてまず考えられるのは、意思決定をおこなうことを可能にする法的な
制度を用意するもの-制度保障型規制-である。これはさらに、意思決定の主体に関する支
援制度によるものと意思決定をおこなう行為に関する支援制度によるものに分かれる。このう
ち、主体に関する支援制度の代表例は、代理制度である。改正試案では、その整備をはかる
ほか、さらに授権に関する規定を新たに定めることが提案されている。これに対して、行為に
関する支援制度は、契約という行為をおこなうことを可能にするための制度である。契約制度
そのものがこのような意味をもつほか、典型契約類型を定めることもこれにふくまれる。改正
試案では、こうした典型契約類型がもつ意味を明確に意識したうえで、既存の典型契約類型
を整備するほか、それと同じレベル・より抽象度の高いレベル・より抽象度の低いレベルの
それぞれで-さらに拡充する必要が残るものものの-新しい契約類型を定めることが提案され
ている。
このほか、自律支援型規制には、契約の内容形成を支援するための規制-内容形成型規
制-も考えられる。その代表例は、任意法規である。これは、契約について標準的な内容を
指針として提示し-契約規整機能ないし契約規整型規制-、契約に定められていない事柄に
ついて契約を補完する-契約補完機能ないし契約補完型規制-という機能をもつ。こうした任
意法規は、現行法でも、契約各則を中心として、非常に多数定められている。改正試案では、
それらの任意法規がすべて点検し直され、その整備がはかられている。
このほか、改正試案では、自律を支援するための補完型契約規制に相当するものが定めら
れている。その一つが、契約の補充的解釈に関する提案である。これは、本来的解釈および
規範的解釈によっても契約の内容を確定できない事項が残る場合でも、可能なかぎり両当事
者がその契約でおこなった決定を尊重し、それに即した補充をおこなおうとするものであり、
当事者の自律を支援するための補完型契約規制として位置づけることができる。また、改正
試案では、債務不履行に関する規律について、債務者に対する責任追及という観点ではなく、
契約ないし契約の拘束力の射程がどこまでおよぶかという観点からとらえ直すことが提案され
ている。これは、履行請求権や損害賠償、解除について、契約で明示的に合意されている場
合はもちろん、そうでない場合であっても、「契約の趣旨」に即した救済が認められることを
可能にするものであり、まさに自律を支援するための契約補完型規制として債務不履行に関す
る規律を再構成しようとしたものにほかならない。
- 132 -
二 民法と消費者契約法の関係
以上のように、契約規制の内実をどのように理解し、整備・拡充・改変していくかという問
題とともに、契約規制に関する法律の体系をどのように編成するかという問題もある。現在の
改正作業では、とくに消費者契約法を民法との関係でどのように位置づけるべきかということ
が、大きな問題の一つとして議論されている。
現在の消費者契約法は、消費者と事業者とのあいだで締結される契約に適用されるもので
あり、民法に対して特別法として位置づけられる。しかし、他方で、消費者契約に関しては-
多くの場合、公法的規制とともに-数多くの個別法が定められている。それらの個別法は、消
費者契約法に対して特別法として位置づけられる。たとえば、割賦販売法、特定商取引法、
旅行業法、宅建業法、住宅品質確保促進法等々、そうした特別法は枚挙にいとまがない。こ
れらの特別法と対比すると、現行消費者契約法は、消費者契約の締結過程と内容に関して、
すべての消費者契約に一般的に妥当する規制にしぼって定めているということができる。
問題は、このような民法-消費者契約法-個別法の関係を今後もそのまま維持すべきかど
うかにある 145)。 考えられる方向は、大きく分けて、二つある。
第一は、個別法に定められている規制を消費者契約法のなかに取り込み、消費者契約法を
消費者契約に関する包括的な法典へと発展・拡充させていく方向である。そこでは、たとえば
撤回権や不当条項に関する規制などのように、消費者契約一般に妥当しうるものをいわば総
則として取り込むと同時に、取引方法や取引内容に関する主要な類型ごとに各則のかたちで
関連する規制を取り込むことも考えられる。
第二は、消費者契約に関する一般的な規制を民法のなかに取り込んでいく方向である。本
稿でもその一端をみてきたように、現行民法典が制定されてからすでに 100 年以上が経過し、
その間に生じた社会・経済の大きな変化と判例等による対応、さらには国際的な調和への動
きをふまえて、その現代化をはかる要請が高まっている。そのような民法の見直しのなかで、
少なくとも消費者契約に関する一般的な規制を現代にふさわしい民法の内容を構成するものと
して取り込もうというわけである。
改正試案では、このうち、第二の方向を採用することが提案されている。それによると、消
費者契約法のうち、不実告知・不利益事実の不告知による取消しは消費者契約にかぎらず意
思表示一般に適用されるものとして一般法化するほかは、断定的判断の提供・困惑による取
消しと不当条項規制は消費者契約に適用されるものとして-不当条項規制の一般条項と個別
条項規制の一部は約款にも適用されるものとして-民法のなかに統合することが提案されてい
る。これは、「市民社会において日常的に行われている取引の基本原則を包括的に規定するこ
145) 山本敬三「消費者契約法の法典化と民法の現代化」消費者法ニュース 56 号 133 頁(2003
年)、同「消費者契約法の将来像」先物取引被害研究 29 号 1 頁(2007 年)を参照。
- 133 -
とが、『市民社会の基本法』としての民法の性格に合致するし、民法を、現代社会の実態に
適合し、かつ透明性が高く、わかりやすいものにすべきであるという民法の基本理念に照らし
ても、そうすることが妥当である」と考えられたためである 146)。
これに対して、第一の方向を支持する立場からは、改正試案によると、①目的規定を取り
込むことができないため、目的規定を参照した解釈が困難になり、消費者の保護に欠けるお
それがあること、②民法に取り込むと保護規定の内容が固定化し、消費者保護の発展の阻害
要因になること、③特定商取引法や割賦販売法等における民事ルールを取り込むことができ
ず、消費者保護ルールが分断化されること、④消費者庁の設置とあいまって、消費者保護関
連法の所管が分断化され、縦割り行政による弊害が生じかねないことといった問題点が指摘
されている 147)。
いずれの道を選ぶかは、日本の法体系の全体像をどのように構想するかという根本問題に
かかわる。そして、そうした体系編成のあり方によって、個々の問題に関する法形成が促進さ
れる場合もあれば、阻害される場合もある。その意味で、これは実践的にも非常に重要な問
題だといわなければならない。
改正試案がいうように、消費者契約に特有の規定でも、市民社会における一般的な取引の
基本ルールを定めていると認められるものは、「市民社会の基本法」としての民法に属すると
いう考え方は、民法の現代化を検討するうえで出発点にすえるべきである。ただ、そうした「市
民社会の基本法」としての民法を民法典に集約しなければならないと考えるか、それとも、民
法典を基礎としながら、いくつかの基本法典によって構成することも可能だと考えるかは、立
場の分かれるところである。後者の道も、十分検討にあたいするというべきだろう。ただ、い
ずれにしても、このような体系編成についての立場の違いに目を奪われて、民法の現代化に
向けたあるべき規範形成とそれにしたがった改正への動きが阻害されるならば、本末転倒とい
わなければならない。本稿での検討が、民法の現代化の意味を理解し、今後の改正の方向
について議論を進めるための一助となれば、幸いである。
*本稿は、科学研究費補助金・学術創成研究費「ポスト構造改革における市場と社会の新た
な秩序形成-自由と共同性の法システム」(研究代表者:川濵昇京都大学教授)主催の第2
回学術創成セミナーにおいて筆者がおこなった報告「基本権の保護と契約規制の法理」
(2007
年 9 月 26 日)をもとに、その後の状況をふまえて改稿したものであり、『民商法雑誌』第
141巻第1号、同第2号に発表されている。
146) 前掲注 8)『シンポジウム「債権法改正の基本方針」』11 頁(鎌田薫)を参照。前掲注 8)
『基本方針』10 頁以下、『詳解Ⅰ』28 頁以下も参照。
147) 前掲注 8)『シンポジウム「債権法改正の基本方針」』78 頁(中井康之)のほか、大阪
弁護士会『実務家からみた民法改正-「債権法改正の基本方針」に対する意見〔別冊 NBL131
号〕』(商事法務・2009 年)4 頁以下も参照。
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消費者契約法5条の展開 -契約締結過程における第三者の容態の帰責
京都大学大学院法学研究科 佐久間 毅
1 はじめに
現在の取引社会では、契約当事者が契約締結過程において第三者を利用することは、一般
的なこととなっている。契約締結過程に第三者が介在する場合、それによって契約の締結過程
や内容の適正が確保されることがある反面、他人の行為を制御することは難しいことから、当
事者の予期しない問題が生じる危険も高まることになる。したがって、この場合における第三
者の容態(作為、不作為、主観的態様)の法的な扱い、とりわけその容態について契約当事
者間にどのような効果を認めるかは、取引法全般において重要な問題となる。これは、消費者
契約についても同様である。契約締結過程における第三者の利用は、法人事業者にとって不可
避であり、個人事業者にとっても事業の効率化や拡大のために有益であることから、とりわけ
事業者の側で日常化している。そして、こういった第三者の利用が、消費者と事業者との間の
構造的な情報格差・交渉力格差を生む大きな一因となっていることに疑いはないであろう。こ
のため、契約締結過程に第三者が介在する場合について、消費者契約の特性に照らした規律
が求められることになる。
消費者契約が第三者の媒介または代理により結ばれた場合について定める消費者契約法第5
条は、このような要請に応えるという役割を担った規定ということができる。もっとも、同条に
ついては、当初から、とくにその第1項の規律に関していくつかの問題点が指摘されてきた。こ
れは、同条がその担うべき役割に照らして十分な内容となっているかを疑問視するものであっ
たが、それらの問題点に関して、近時、新たな動きが消費者契約法の外でみられる。そこで、
以下では、消費者契約法5条(とくに、その第1項)の規律の内容・意義・問題点を確認した
うえで、同条の規律に関連する最近の動き(割賦販売法の改正、民法(債権法)改正の議論)
を紹介することを通して、消費者契約における第三者の容態の帰責の問題を検討する。
2 消費者契約法5条1項の意義
消費者契約法5条1項は、事業者が第三者に対して消費者契約の締結について「媒介すること
の委託」をした場合において、その委託を受けた第三者が消費者に対して同法4条1項~3項
に該当する行為をしたときに、消費者に同条各項による取消しを認めるものである。この規定
- 135 -
については、契約締結過程に介在した第三者の容態を理由とする意思表示ないし契約の効力
否定に関する民法上の規定ないし法理との関係について、2つの異なる捉え方がある。
(1)第三者の容態の特殊な帰責を認める規定とする見解
一つは、消費者契約法5条1項は、民法の規定ないし法理によって取消しが認められない場
合にも、消費者契約の特性ないし実態を考慮して消費者に取消権を与えるものである、とする
見解である 1)。これは、次のような見解である。
すなわち、私法上一般には、他人の容態について責任を問われることはないのが原則である。
もっとも、この原則に対する例外が民法にもいくつか用意されており、契約締結過程に介在した
他人(第三者)の容態については、民法96条2項と101条1項がこれに当たる。このような民
法の立場によれば、当事者の一方が第三者に契約締結の媒介を委ねた場合には、第三者に契
約締結の代理権が与えられていないため民法101条1項は適用されず、錯誤無効や強迫取消
しのように表意者側の事情のみにより意思表示の無効や取消しが認められるときは格別 2)、
そう
でなければ、第三者の容態のゆえに意思表示や契約の効力が否定されることはない。意思表
示や契約の効力の否定は、第三者の容態を含む契約締結にかかる諸事情に関する委託者自身
の主観的態様が責められるべきものである場合に限って、認められるべきことになる。これに
よると、消費者契約において事業者から契約締結の媒介を委託された第三者が消費者契約法
4条1項~3項に該当する行為をした場合、事業者がその第三者の行為につき善意であるため
消費者は意思表示を取り消すことができない、ということが起こりかねない。しかし、このよう
な結果は、
「衡平を欠く」3)。そこで、消費者が契約の効力を否定しうるようにするために消費者
契約法5条1項が設けられた、というわけである。
(2)第三者の容態の帰責に関する民法上の法理に基づく規定とする見解
もう一つは、消費者契約法5条1項は、民法における既存の法理を基本的に確認する規定で
ある、とする見解である 4)。これは、契約締結過程に介在した第三者の容態の帰責に関する民
1) たとえば、消費者庁企画課編『逐条解説・消費者契約法〔第2版〕』(2010年)154
頁・159頁、日本弁護士連合会消費者問題対策委員会編『コンメンタール消費者契約法〔第
2版〕』(2010年)109頁以下。
2) このような場合の意思表示や契約の効力否定は、もっぱら表意者保護の理由によるもので
あり、第三者の容態についての相手方の「帰責」の問題とはいえない。
3) 消費者庁企画課編・前掲注1)154頁。
4) 佐久間毅「消費者契約法と第三者・代理」ジュリスト1200号64頁。池本誠司「消費
者契約法5条によるクレジット契約の取消」国民生活研究47巻4号4頁も、このように解す
べきであるとする。
- 136 -
法上の法理について、
(1)の見解とは異なる見方を前提とするものである 5)。
すなわち、契約締結に介在した第三者の容態によって意思表示の効力が否定されるとする規
定は、現行民法には確かに96条2項と101条1項しかない。しかしながら、このうち101条1
項は、意思表示の代理に特有の考慮に基づく規定というわけではない。すなわち、民法101
条1項には、代理において意思表示の瑕疵の存否は代理人について決するとする規律と、意思
表示の効力が主観的態様によって左右される場合に本人は代理人の主観的態様による不利な
効果を引き受けなければならないとする規律という、区別されるべき2つの規律が含まれてい
る。このうち、前者の規律は、代理人が意思表示をすることから導かれるものであるのに対して、
後者の規律は、意思表示をする者が誰であるかに直接の基礎があるものではない。意思表示
または法律行為の効力が主観的態様によって定まる場合 6)、一定の主観的態様を理由とする不
利な法的結果を避けるためには、その事情のもとで法が要求する措置または対応をする必要が
ある 7)。この措置は意思表示の時において講じられていなければならないので、意思表示を第
三者に委ねた場合には、その措置についても委ねることにならざるを得ない。そのため、代理
人がその措置を講じなかったときには、本人はそれによる不利な法的結果を免れることができ
ない。その基礎にあるのは、自らの事務を第三者に委ねることによって分業の利益を得ること
はできるが、それによっても自己の事務であることに変わりはなく、その事務についての法の規
範を回避することはできないという考え方である。
この考え方によるならば、事業者が消費者契約締結のための事務を第三者に委ねた場合、
事業者は、その第三者が事業者のためにした行為について、行為者の第三者性を援用して自己
が服するべき法の規範を回避することは許されない。消費者契約法5条1項は、まさにこれに
沿う内容を定めるものており、したがって、民法の既存の法理に基づく規定であると解される
ことになる。
3 消費者契約法5条1項の解釈論上の問題点
消費者契約法5条1項については、同条の意義の理解にも関連して、その適用範囲について
5) 以下についてやや詳細には、佐久間・前掲注4)63頁以下を参照。また、とくに民法
101条の意義の捉え方については、佐久間毅『代理取引の保護法理』(1991年)48頁
以下を参照。
6) たとえば、第三者の詐欺による意思表示の場合や、無権代理人による契約について表見代
理の成否が問題となる場合。
7) たとえば、第三者の詐欺による意思表示であると知った者は、表意者に錯誤の事実を指摘
しなければ、意思表示の取消しを避けられない。無権代理の場合にも表見代理によって本人へ
の効果帰属を主張しうるようにするためには、代理人と称する者の代理権の存否について契約
前に適切な調査をし、ときには本人に直接確認する必要がある。
- 137 -
次のような解釈論上の問題が当初から指摘されている。
(1)「媒介」の意義
まず、消費者契約法5条1項が適用される第三者の範囲について、である。
同条同項は、
「消費者契約の締結について媒介することの委託・・・を受けた第三者」によ
る消費者契約法4条1項~3項に該当する行為を適用の対象としている。ここにいう「媒介」に
ついて、
「他人間に法律行為が成立するように、第三者が両者の間に立って尽力することをい」い、
「
『両者の間に立って尽力する』
とは通常、
契約締結の直前までの必要な段取り等を第三者が行っ
ており、事業者が契約締結さえ済ませればよいような状況と考えられる」とする解釈 8) と、
「尽
力の対象が、消費者契約締結に至る一連の過程の一部に限定され」ている場合であってもよ
いとする解釈 9) の対立がみられる。
前者の解釈の理由は必ずしも明らかではないが、消費者契約法5条1項は第三者の行為につい
て民法の原則によるならば本来認められない責任をも事業者に負わせるものであるという理解
からすれば、規定の適用範囲を限定することによって過重な責任負担となることを避けるという
発想はありうるだろう。それに対し、消費者契約法5条1項は民法上の既存の法理に基づくも
のであるという理解によるならば、第三者の行為が事業者から委託を受けたこととして行われ
たものであり、その行為が契約の締結に寄与したと認められるときには、事業者がその行為に
よる法的に不利な結果の負担を拒むことは許されない。そうすると、たとえば、事業者から契
約締結の勧誘ためにある情報の提供を委託された第三者がその委託の実行に際して不実告知
等をし、それによって消費者が誤認をして契約が締結されるに至った場合にも、消費者契約法
5条1項が適用されることになる 10)。
(2)多段階委託にあたる場合
次に、消費者契約法5条1項が適用される多段階委託とは何か、である。
同条同項において、
「第三者」には、事業者から直接委託を受けた第三者だけでなく、その第
三者以後に委託が繰り返された場合に委託を受けたすべての者が含まれるとされている。そこ
で、事業者が第三者に委託する際に再委託を許していなかったにもかかわらず再委託がされた
場合など、多段階にわたる委託のある段階において許されていない再委託が行われた場合に、
その再委託を受けた者以降の者も「当該委託を受けた第三者」にあたるのかが問題になる。こ
8) 消費者庁企画課編・前掲注1)155頁。
9) 落合誠一『消費者契約法』(2001年)98頁。
10) 佐久間・前掲注4)65頁。また、消費者契約法の制定前に、このような場合にも消費
者の取消権を認めるべきであると説いていたものとして、沖野眞己「消費者契約法(仮称)に
おける『契約締結過程』の規律」NBL 685号22頁。
- 138 -
れについては、あたるとする見解 11) と、あたらないとする見解 12) が主張された。
復代理や委任における再委任の扱い、問題はやや異なるものの占有補助者や履行補助者の
容態の帰責に関する一般的な考え方等に鑑みれば、契約関係において第三者の容態について
当事者に責任を負わせるためには、当事者がその第三者の行動を制御しえたはずであるという
だけでは足りず、第三者の関与を認めていたと評価しうることが必要である、とするのが民法
の原則であると考えられる。とすれば、委託契約によって許されていない再委託を受けた者も
消費者契約法5条1項の第三者に該当するとする場合には、この点については同条同項を創設
的な規定 13) と解することになる。
このように理解する場合に問題となるのは、民法と異なる扱いを基礎づける理由である。事
業者は、他人を利用することで取引組織を構築・拡大し、それによって取引機会を拡大させる。
取引組織が拡大すれば、意図せざる過誤が生じる危険も高まるため、事業者は、その取引組
織の制御について民法上一般に要求されるよりも厳格な責任を負うべきであると考えることが
できる。このことから直ちに、委託をした事業者は自己の許していない再委託を受けた者の行
為についても一般的に責任を負うとまでは言えないと思われるものの、消費者契約においては、
事業者による第三者の利用が当事者間に情報力格差・交渉力格差を生ずる大きな原因であるこ
とから、事業者に特別の責任を負わせることができると考えられる 14)。
(3)クレジット契約の扱い
さらに、クレジット契約の消費者契約法による取消しのために、消費者契約法5条1項の活
用が説かれてきた。
消費者が事業者との間で売買契約や役務提供契約を締結する場合に(以下では、便宜上、
売買契約で代表させる。)、その代金の支払にあてるために、割賦購入あっせんによる立替払
契約やローン提携販売による消費貸借契約等のクレジット契約が締結されることがある。この
場合、消費者が売買契約の意思表示を消費者契約法によって取り消したとしても、消費者にとっ
ては、クレジット契約による債務を免れ、既払金の返還を受けることができなければ、意味が
ない。ところが、後述の割賦販売法改正の前においては、消費者は、割賦販売法30条の4によっ
てクレジット業者に対して残債務の弁済を拒絶することはできたものの、既払金の返還を認め
る規定は存在しなかった。そこで、消費者のクレジット契約申込みの意思表示が販売業者と消
11) 落合・前掲注9)100頁。
12) 佐久間・前掲注4)65頁以下。
13) 無権限の再委託の場合、当初の委託者は、再受託者の行為について責任を負わないのが
原則であり、表見法理や追認法理など特別の相手方保護法理が働く場合にのみ責任を負う。消
費者契約法5条1項は、この相手方保護法理の一つに位置づけられることになる。
14) 佐久間・前掲注4)65頁では、消費者契約においても事業者に特別の責任を負わせる
基礎はないと考えられる旨を述べたが、本文のとおり改める。
- 139 -
費者との間で事実上完結し、販売業者はこの申込みの受付をクレジット業者との間の加盟店契
約などの提携契約に基づいてするという実態から、販売業者はクレジット契約締結の媒介者に
あたるとして、クレジット契約締結の意思表示の消費者契約法4条・5条による取消しという構
成が模索されてきた 15)。
問題となりうる事態は多様であるが、そのうち、販売業者による不退去・監禁の場合や、利息
や返済時期などクレジット契約それ自体の内容についての不実告知等の場合には、クレジット
契約締結の意思表示について消費者契約4条・5条による取消しが認められることに争いはほ
とんどないと思われる。これに対して、売買契約の内容や取引条件について不実表示等があり、
クレジット契約の内容・取引条件については通常の説明がされていた場合は問題である。この
場合、消費者契約法4条4項の「重要事項」を同条同項1号または2号の掲げる契約内容また
は取引条件に限定し、かつ、契約内容または取引条件を厳密に解釈するならば、売買契約の
意思表示に瑕疵のないことはクレジット契約について重要事項・取引条件のいずれにも該当し
ないため、消費者に取消権は認められないことになる。しかしながら、このような結論は、売
買契約とクレジット契約の密接関連性、クレジット業者が顧客に対して負うべき加盟店につい
ての調査管理の責任等に鑑みると、容易に首肯しうるものではない。そこで、契約内容または
取引条件は消費者契約法4条4項の「重要事項」の例示にすぎないとする解釈や、契約内容
または取引条件を可能な限り緩やかに解すべきであるという解釈に依拠して、立替金や消費貸
借金の使途となる売買契約に関する不実告知等はクレジット契約の重要事項についての不実告
知等にあたると解すべきであると、有力に主張されてきた 16)。
4 消費者契約法5条1項に関連する最近の立法上の動き
消費者契約法5条1項についての以上のような解釈論上の問題点に関連する重要な立法上の
動きが、最近、消費者契約法の外側でみられる。
(1)割賦販売法の改正
まず、平成20年の割賦販売法改正において、個別信用購入あっせんを利用した訪問販売等
の5つの取引形態(特定商取引法が定める取引形態のうち、通信販売以外のもの)での契約
締結において、販売業者がクレジット契約の締結の勧誘に際して一定の事項につき不実告知ま
たは事実不告知をした場合に、購入者にクレジット契約の取消しを認める規定が新設された(割
賦販売法35条の3の13~35条の3の16)。そして、その一定の事項の一つとして、売買契
15) 野々山宏「消費者契約法・金融商品販売法の運用と課題 消費者の立場からみた運用上
の問題点と課題」金融法務事情1644号27頁以下、池本・前掲注4)1頁以下。
16) 以上に関しては、とくに池本・前掲注4)において、関連する裁判例の紹介ととともに、
詳細かつ精緻な検討が行われている。
- 140 -
約に「関する事項であって、購入者・・・の判断に影響を及ぼすこととなる重要なもの」が挙
げられている(割賦販売法35条の3の13第1項第6号ほか)。
立案担当者の解説 17) によれば、購入者にクレジット契約の取消権を付与するこれらの規定は、
消費者契約法4条および5条を参考に、両条の特則として設けられたものである。そして、こ
の特則は、個別信用購入あっせん業者と販売業者との間に契約勧誘・締結過程における特に
密接な牽連関係が存在することと、特定商取引5類型における個別信用あっせんの利用によっ
て消費者被害が助長されやすいこととに鑑みるならば個別信用購入あっせん業者に特に重い損
失負担を負わせることが正当化されるとして、設けられたものである。これによると、先に3(3)
に述べた問題は、特定商取引5類型の販売契約等に個別信用購入あっせんが利用された場合
に限って、立法上の解決が図られたことになる。したがって、店舗販売や通信販売における個
別クレジットの利用の場合等のその他の場合については、売買契約の重要事項に関して不実告
知等がされたことによるクレジット契約の取消しの可否の問題は、なお残されたままとなってい
る。そして、この問題について、仮に割賦販売法の上記規定とその趣旨に照らした判断がされ
ることになると、クレジット契約の取消しは容易には認められないことになる可能性がある 18)。
(2)民法(債権法)改正の議論
つぎに、債権関係を中心に現在進められている民法改正の検討においても、消費者契約法
5条1項における問題に関連する議論がみられる。
第一に、法制審議会民法(債権関係)部会の「民法(債権関係)の改正に関する中間的な
論点整理」
(以下、
「論点整理」という。)において、第三者詐欺による取消しについて定める
民法96条2項に関して、相手方が詐欺の事実を知っていた場合だけでなく、知ることができた
場合にも表意者に取消権を認めることとするとともに、
「その行為について相手方が責任を負う
べき者」がした詐欺については、相手方の主観的態様に関わらず表意者に取消権を認めること
が検討事項として挙げられている 19)。 第二に、同じく
「論点整理」において、錯誤による意思表示の無効を定める民法95条に関して、
錯誤の効果を表意者への取消権の付与に改めることのほか、①動機の錯誤についても、ある
事実の認識が法律行為の内容になっている、あるいは表意者が錯誤に陥っている事実または
表意者が錯誤に陥っている事項の重要性を相手方が認識しているなど一定の要件のもとで、そ
の事実に関する錯誤に民法95条を適用すること、②表意者に重大な過失がある場合であって
17) 経済産業省商務情報政策局取引信用課編『平成20年版 割賦販売法の解説』(2009
年)221頁以下。
18) このような帰結を避けるための割賦販売法の改正を受けてのこの問題の考え方について
は、池本誠司「改正割賦販売法における民事規定の活用」現代消費者法1号3頁以下を参照。
19) 商事法務編『民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理の補足説明』(2011
年)245頁以下。
- 141 -
も、錯誤による意思表示を相手方が知っているか知らないことにつき重大な過失がある場合や、
表意者の錯誤を相手方が惹起した場合などに表意者による無効の主張を認めることとすること
が、検討事項として挙げられている 20)。
第一の、
「その行為について相手方が責任を負うべき者」の例として、
「論点整理」において例
示されているのは法人の従業員だけである。もっとも、この案は、代理人の詐欺を本人の詐欺
と同視する民法101条1項の基礎にある考え方(上述2(2))を発展させようとするものであ
る 21)。そうであれば、消費者契約法5条1項にいう受託者も、
「その行為について相手方が責任
を負うべき者」に含まれる可能性がある 22)。また、民法101条1項の基礎にある考え方を発展
させるということであれば、仮に第二の動機錯誤に民法95条が適用されるべき場合の検討事
項どおりに民法が改正されるときには、上記①から、表意者と「その行為について相手方が責
任を負うべき者」との間で事実の認識が法律行為の内容とされている場合、あるいは、
「その
行為について相手方が責任を負うべき者」が表意者の錯誤に関して認識している場合にも、動
機錯誤による意思表示の無効
(または取消し)が認められるべきことになる。そして、上記②から、
表意者の動機の錯誤が、
「その行為について相手方が責任を負うべき者」による説明や情報提
供等により惹起されたものであったならば、たとえ表意者に重大な過失があったとしても、意
思表示の無効(または取消し)が認められることになる。これによると、売買契約が販売業者
の不実告知等によって結ばれ、その代金の支払にあてるために販売業者を介してクレジット契
約が結ばれた場合には、購入者が売買契約の有効を信じたことはクレジット契約について動機
の錯誤にすぎないとしても、販売業者と購入者との間で売買契約の有効がクレジット契約締結
の前提として合意されている、あるいは、販売業者は購入者の動機の錯誤を知っており、かつ、
その錯誤はクレジット業者が「その行為について責任を負うべき者」である販売業者が惹起し
たものであることから、クレジット契約の意思表示の無効(または取消し)が認められることに
なる。
20) 商事法務編・前掲注19)240頁以下。
21) 商事法務編『民法(債権関係)部会資料 第1集<第2巻>』(2011年)571頁。
22) 実際、民法(債権法)改正検討委員会による「債権法改正の基本方針」
【1.5.16】は、
「論
点整理」において検討事項とされた考え方を改正の方向として提案しているが、そこでは、
「消
費者契約法5条1項に当たる者もここに含まれる」とされている(民法(債権法)改正検討委
員会編『債権法改正の基本方針』32頁)。また、そもそも、仮に消費者契約法5条1項を民
法上の既存の法理に基づくものではなく、創設的な規定と解する立場によるとしても、同項に
いう「受託者等」も民法96条2項の「第三者」にあたると解することにはならないはずであ
る。そのように解することは、詐欺の要件を緩和して消費者に取消権を付与する消費者契約法
4条1項または2項の行為については、事業者は受託者の行為を知らなくても責任を負担しな
ければならないのに、悪性のより強い詐欺については事業者がそれを知らないのであれば責任
を負担しなくてよいという、評価上の矛盾を生ずるからである。
- 142 -
5 おわりに
最後に紹介した民法改正における検討事項の考え方の波及効果は、相当大きくなる可能性が
ある。売買代金の支払にあてるために個別クレジット契約が締結される場合のように、複数の
契約の間に構造的に密接な牽連関係が認められる、一方の契約が他方の契約の不当な締結を
構造的に誘発しがちであるといった特殊な要因が認められる場合に限らず、たとえば、建物の
売買契約とともにその売主の媒介によって建物リフォームの契約が結ばれた場合において、建
物売買が売主の不実告知等を理由に取り消されたときのように、契約甲が契約乙の有効を前
提として結ばれるものであり、かつ、契約乙の相手方が契約甲の締結の媒介をしている場合に
おいて、契約乙の相手方が契約乙の無効または取消しの原因を作った、あるいは契約乙の無効
または取消可能を知っていたときには、表意者による契約甲の意思表示の無効の主張または取
消しが認められることになりうる。
そのため、前述のような考え方が事業者間契約も含めた契約一般に妥当する準則として採用さ
れるかどうかは、不明である。しかしながら、仮に民法上の一般的な準則としては認められな
いとしても、消費者契約については、別に考える余地があると思われる。なぜならば、事業者
による契約締結過程における第三者の利用が事業者と消費者との間の情報力格差・交渉力格
差を生ずる大きな原因であることに鑑みれば、その第三者の責められるべき容態によって消費
者が重大な事実認識の誤りに基づいて意思表示をしていた場合に、事業者が第三者との別人
格性に依拠して契約の利益を確保することを認めることは、消費者契約法の立法趣旨に適合し
ないと考えられるからである。
- 143 -
- 144 -
企業統治
京都大学大学院法学研究科 齊藤 真紀
一 本報告の対象
わが国において株式会社形態を採用している事業主体の実態は多様であるが、本報告にお
いて株式会社というとき、
(わが国の市場に)株式を上場させている(わが国の)株式会社を念
頭に置くこととする。
企業統治ないしコーポレート・ガバナンスというテーマの下で議論されている内容のうち、本
報告は、経営機構に関する規律のあり方につき、議論の俎上にある立法提案にも言及しつつ、
試論を展開するものである。二において近時の状況を整理し、三において具体的な問題点につ
いて検討を行う。
二 上場会社の経営機構法制に関連する近時の状況
1 委員会設置会社の普及状況
委員会設置会社の普及は進んでいない 1)。委員会設置会社は、英米の経営機構になじみのあ
る外国の投資家にもわかりやすい制度であり 2)、社外取締役の選任が義務づけられ、いわゆる
「インセンティブのねじれ」の問題の一部も解決されていることから、今日の立法論的課題の多
くがすでに解決された形態である。上場会社の現経営陣が委員会設置会社への移行をためら
う理由の一つは、指名委員会・報酬委員会の設置義務、とりわけ経営者の後継人事を社外取
締役に委ねなければならない点にあるといわれている 3)。
移行を妨げる要因として、平成 13 年 12 月商法改正における監査役制度の強化も挙げられる。
1) 委員会設置会社の採用状況については、日本監査役協会「委員会設置会社リスト」(平成
23 年 8 月 9 日)(同協会ウェブサイトの電子図書館より入手可能)参照。委員会設置会社の
現状分析については、高橋均「監査・監督委員会設置会社と企業統治─会社法制の見直しに向
けて─」商事法務 1936 号(2011)15 頁。
2) 金融審議会金融分科会我が国金融・資本市場の国際化に関するスタディグループ報告
(2009 年 6 月 17 日。以下「スタディグループ報告」という)10 頁。
3) 島岡聖也「企業法務の展望と課題」商事法務 1920 号(2011)101 頁、高橋・前掲注 1)13 頁。
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これにより、監査役設置会社の維持を望む経営者は、同形態が、委員会等設置会社と遜色の
ない統治構造を備えていると主張しやすくなった。
制度新設の当初、委員会等設置会社を採用した会社については相対的に規制の一部が緩和
されていたが(利益配当決定権限の取締役会への委譲(旧商法特例法 21 条の 31)等)、会社
法制定時に差異が平準化されたため、委員会設置会社の魅力がますます失われた。日本経済
団体連合会からは、監査役設置会社と委員会設置会社に対するガバナンスの評価の等価性を
前提に、立法においても両者を平等に扱うことへの要望が出される 4)。
2 実務の動向
機関投資家・ファンドの発言力がますます増し、アデランスホールディングスのように上場会
社の株主総会において会社側の提案が否決される例もあった。外国の機関投資家だけでなく、
国内の機関投資家も議決権行使基準を明らかにして、より積極的に議決権行使をするようにな
り 5)、機関投資家に助言を与えることを業とする会社の動向もまた、上場会社の株主総会の帰趨
により大きな影響を与えるようになった 6)。
さらに、敵対的買収の例が散見され、買収防衛策の適法性にかかるガイドライン、裁判例も
登場し 7)、上場会社における買収防衛策の導入が一気に進んだ。親会社や経営陣による完全子
会社化も行われるようになった 8)。これらは、特定の経営者個人と会社との間の利益相反とは性
質の異なる利益相反が存在する場合における、関係者の行為規範のあり方につき問題提起を
した。
4) たとえば、日本経済団体連合会「企業の競争力強化に資する会社法制の実現を求める~会
社法制の見直しに対する基本的考え方~」(2010 年 7 月 20 日。同連合会ウェブサイトより入
手可能)。
5) 2008 年 5 月 9 日付日本経済新聞朝刊 3 面「総会議案の賛否厳しく、国内運用各社、基準
を強化」参照。
6) 石田猛行「2011 年ISS議決権行使助言方針」商事法務 1925 号(2011)28 頁参照。
7) 経済産業省=法務省「企業価値・株主共同の利益の確保又は向上のための買収防衛策に関
する指針」(2005 年 5 月 27 日)、経済産業省の企業価値研究会による諸報告書、東京高決平
成 17 年 3 月 23 日判例時報 1899 号 56 頁(ニッポン放送事件)、最決平成 19 年 8 月 7 日民
集 61 巻 5 号 2215 頁(ブルドックソース事件)等。
8) 企業価値研究会「企業価値の向上及び公正な手続確保のための経営者による企業買収(M
BO)に関する報告書」(2007 年 8 月 2 日)、経済産業省「企業価値の向上及び公正な手続確
保のための経営者による企業買収(MBO)に関する指針」(2007 年 9 月 4 日。以下「MB
O指針」という)、発行者以外の者による株券等の公開買付けの開示に関する内閣府令 13 条 8
号、同第 2 号様式・記載上の注意(6)f後段参照。
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監査役については、取締役の違法行為差止めの仮処分の申立てなど、積極的な権限行使の
例がみられた 9)。監査役による権限行使を促す制度的背景の一つとして、平成 19 年公認会計士
法改正に際して監査人に課された違法行為等に関する会社への通知義務、当局への届出義務
が挙げられる(金融商品取引法 193 条の 3、違反した場合の過料制裁について、同 208 条の
2 第 4 号~ 6 号)。不正の兆候を見逃した農業協同組合の監事に任務懈怠責任を認めた最高
裁判決 10) も、慎重な業務監査を促す契機となり得る。
3 規範形成の多層化・多元化
2008 年より東京証券取引所(以下「東証」という)の自主規制が上場会社にコーポレート・
ガバナンスに関する報告 11) を求めていたが、2010 年の企業内容等に関する内閣府令の改正に
より、コーポレート・ガバナンスの状況に関する有価証券報告書等への記載が義務づけられた
(第
2 号様式・記載上の注意(57)
(a)~(c)等)12)。
また、東証は、2007 年、企業行動規範の策定を通じて、取引所として望ましいと考える企
業慣行を具体的に加除式の形で明らかにし、その不遵守に公表措置等、金融商品取引所特有
の制裁を結びつけた 13)。2009 年 12 月には、国内の上場会社に対して、1 名以上の「一般株主
と利益相反が生じるおそれのない社外取締役又は社外監査役(独立役員)」の確保を求め(東
証有価証券上場規程 436 条の 2 第 1 項)、本年 3 月 1 日以後に終了する事業年度にかかる定
時株主総会において独立役員を確保できなかった企業には、実効性確保措置を発動すること
9) 2009 年 4 月 20 日付日本経済新聞朝刊 14 面「監査役、相次ぐ権限行使」、山口利昭「監
査役の権限」岩原紳作=小松岳志編『会社法施行五年 理論と実務の現状と課題』ジュリスト
増刊(2011)38 頁。
10) 最判平成 21 年 11 月 27 日判例タイムズ 1314 号 132 頁。
11) 「コーポレート・ガバナンスに関する報告書」。「『コーポレート・ガバナンスに関する報
告書』記載要領(2011 年 3 月 28 日改訂版)」東京証券取引所上場部編『2011 年 6 月版東京
証券取引所会社情報適時開示ガイドブック』(東京証券取引所、2011)753 頁以下参照。
12) 谷口義幸「上場会社のコーポレート・ガバナンスに関する開示の充実等のための内閣府
令等の改正」商事法務 1898 号(2010)21 頁以下。同じ改正により、臨時報告書における
株主総会の議決権行使結果の開示(企業内容等の開示に関する内閣府令 19 条 2 項 9 号の 2)、
および報酬等の総額が 1 億円以上の役員につき報酬の個別開示が義務づけられることになった
(同第 2 号様式・記載上の注意(57)a(d)等)。
13) 特定の施策の要求・推奨手段としての「企業行動規範」の性格につき、東京証券取引所
上場制度整備懇談会「『上場制度整備の実行計画 2009(具体策の実施に向け、検討を進める
事項)』に関する審議のとりまとめ」(2010 年 3 月 31 日)2 頁。
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とした 14)。これにより、上場会社に「独立性」の要件を満たす一名以上の社外役員の登用が強
制されたが、社外監査役も社外役員として届け出ることが可能である(東証の自主規制の意義
については、商事法務 1940 号掲載の河村報告参照)。
4 政策提言チャンネルの変化
会社法が定める株式会社の基本構造は、株主を含む諸ステークホルダーに与えられる(法
的および事実上の)会社経営および富の分配に対する発言力にかかわる。政治過程の具体的
な分析は報告者の能力を超えるが 15)、2009 年の政権交代により各関係者が政策実現に有す
るチャンネルに変化が生じたことが、各関係者の行動にも影響を及ぼしていることが予想され
る 16)。
三 具体的な問題点の検討
岩原紳作教授の言葉を借りれば 17)、とりわけ平成五年以降の改正は、本来取締役制度の改革
として行われるべきものを、取締役制度の改革の身代わりとして、もしくは取締役の責任の緩
和の要件、条件、手段としてなされた面が強い。以下では、まず、監査役制度も含む「広義」
の取締役会(「ボード」と呼ばれているもの)の経営者に対する監督機能の意義を整理し、続
いて、監査役制度・委員会制度等のあり方について考察する。
1 取締役会の監督機能
取締役会の監督機能は、
(1)会社運営の適法性確保、
(2)利益相反性の監視、
(3)効
率性の観点からの監視の三つに大別できる 18)。
14) 東京証券取引所「『上場制度整備の実行計画 2009(速やかに実施する事項)』に基づく
業務規程等の一部改正について」(2009 年 12 月 22 日)参照。
15) 政治過程の分析は、政治学の分野において盛んであるが、会社法改正に関する会社法研
究者による分析として、中東正文=松井秀征編著『会社法の選択─新しい社会の会社法を求め
て』(商事法務、2010)参照。
16) 民主党政策集 INDEX2009 における「公開会社法の制定」(民主党ウェブサイトより入手
可能)。大久保勉「『公開会社法』今後の展望」ビジネス法務 10 巻 5 号(2010)11 頁参照。
17) 岩原紳作「監査役制度の見直し」前田重行=神田秀樹=神作裕之編『(前田庸先生喜寿記
念)企業法の変遷』(有斐閣、2009)11 頁。
18) 川濵昇「取締役会の監督機能」森本滋=川濱昇=前田雅弘編『企業の健全性確保と取締
役の責任』(有斐閣、1997)25 頁参照。
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(1) 会社運営の適法性確保
取締役会による決議と、事業運営を担当する者による取締役会への報告は、取締役会によ
る会社経営の適法性の監視の機会を提供する。
違法行為の抑止という観点からは、違法な会社経営の事実の取締役会への適時の伝達と、
個別の業務執行上の判断に対する取締役会による適法性の再審査が要請される。しかし、大
規模な企業の運営において、事業のあらゆる出来事が取締役会に報告され、意思決定がすべ
て取締役会で行われることを期待することは現実的ではない。従業員・役員の独断による違法
行為の監視は、事業運営の下位のレベルにおける相互チェックを通じて違法な行為が抑止され、
違法性の疑いがある行為が発見されれば、それが適時に取締役会に報告され、必要な措置が
講じられる機会を確保する仕組みの構築・運用を通じて図られる。取締役会による適法性の
監視機能は、このような内部統制システムの構築および運用を通じて発揮されることになる。
経営者が主導する組織的な違法行為の抑止については、取締役会への適時の情報伝達が期
待できないため、取締役会による監視は副次的なものにとどまる。経営者の指揮下で行われる
企業行動の適法性確保は、実体法のレベルにおいては取締役の善管注意義務の内容として法
令遵守義務を観念し 19)、規範のエンフォースメントについては、問題となる個別の法領域ごとに、
経営機構に埋め込まれた経営者と経営者の監視者への動機づけと、
(減免制度も含む)刑罰・
行政罰および民事責任その他の制裁の望ましい組合せを模索するべきである。一般に、構成
員の属性が一様な集団は暴走しやすく、取締役会への社外者の登用は、多様性確保による経
営者の暴走抑止の一手段といえる。
(2) 利益相反性の監視
① 利益相反の位置づけ
ここでいう利益相反とは、会社経営を委託された経営者がなすべき判断につき、経営者が私
的な利害関係を有する場面一般を指す。
利益相反にある経営者の規律は、適法性確保の問題とも、効率性の観点からの監視の問題
とも重なる。故意に会社等に不利益をこうむらせ、私利を図る行為の一部は、法により直接禁
止されている(横領、特別背任等)。しかし、利益相反性を伴う行為も、国民経済的な観点か
ら望ましい場合があり、利益の公正な分配がなされれば会社または株主の利益にもなることか
ら、すべてが禁止されているわけではない。他方、経営者は自己の内在的な動機に従ってその
地位に就くことを承諾する者であり、その業務遂行のあらゆる場面において何らかの利己心が
紛れ込むことは避け難い。利益相反性の伴う行為とそうでないものを厳格に区別することは困
難である。
19) 違法であることが明らかな行為について、法令を遵守するかどうかの裁量は取締役には
ないと考えるべきことにつき、吉原和志「会社法の下での取締役の対会社責任」黒沼悦郎=藤
田友敬編『(江頭憲治郎先生還暦記念)企業法の理論(上巻)』(商事法務、2007)532 頁。
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特定の行為類型に特別の規制が課されてきたのは、それらによって生じ得る何らかの価値の
増加分の分配を、当事者の交渉や市場メカニズムに委ねるだけでは、不公正な結果を招きや
すいという評価が法曹の間に共有され、法により価値の分配を強制的に修正する余地を認める
こと、あるいは不公正な結果が生じないように誘導することの必要性が認識された結果である
といえる。利益相反性が伴う行為の解決が市場メカニズムに委ねられるかどうかが問題となる
のではなく、利益相反性が高いと問題視された行為は、市場メカニズムに委ねてはならないの
ではないかと思われる。
② 利益相反の解消手法
開示規制以外に利益相反の解消手法として知られているものとその問題点の整理を試み
る 20)。
(ⅰ) 株主による(場合によっては多数決による)同意。問題点として、時間や費用がかか
る場合、株主間のコーディネートがうまくいかない場合、株主には十分な情報がない場合があ
ることが挙げられる。
(ⅱ) 市場取引の条件による。問題点としては、市場が存在しない場合、市場取引の条件
に幅がある場合、市場取引の条件自体を利益相反関係にある者が操作し得る場合があること
が挙げられる。
(ⅲ) ショッピング・競争入札によるより有利な条件の機会の探索。問題点として、その間
に当初の取引相手も翻意し、取引の機会自体が失われる場合、行為の性質上、取引相手の個
性が重要な場合があることが挙げられる。
(ⅳ) 公平な第三者による事前チェック、事後の修正。問題点として、能力と公平性の双方
の要請を満たす第三者が存在しない場合や、制度上依頼することが困難な場合があることが
挙げられる。
(ⅴ) 株主全体の利益を代表する者による同意・交渉。問題点として、代表者の選任・監
視につき新たな問題が発生することが挙げられる。
(ⅵ) 利益相反状態が生じ得る関係の形成時に、将来の利益相反問題につき特定の解決
手段を提示した上で、不服な者に退出の機会を付与。問題点として、株式買取資金を負担する
者への経済的な負担が生じること、将来の予測を迫られる株主の能力に限界があることが挙げ
られる。
③ 規制の適用時期および態様
規制の適用時期には事前と事後があり得るほか、その態様にも、特定の行為を禁止・命令
するもの、一定の手続に従った場合には帰結の是非の評価に法は立ち入らないもの、受益者の
利益になる帰結を保障するわけではないが、行為規範を通じて受益者の利益になるような帰結
20) 関係者間取引の比較法的な整理として、Kraakman et al.,The Anatomy of Corporate Law,
2nd ed., OUP, 2009, pp153-182 参照。
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を誘導しようとするもの、事後に分配の修正のみを行うもの等さまざまなタイプがある。
利益相反の類型とその解消手法の望ましい組合せがあれば、立法的手当てが可能である。
現行法に設けられた諸規制(取締役の利益相反取引規制等)はその例であり 21)、企業結合立法
の課題の一つは、支配株主の支配下に置かれた経営者と少数株主との間に生じ得る利益相反
問題の解消にふさわしい手段の特定である(商事法務 1940 号掲載の中東報告参照)。
友好的な買収における取締役の行為規範 22) のように、問題性が認識されているものの、望ま
しい解消手段が特定できない段階においては、利益相反の解消のために適切な手法を採用す
ることを経営者その他の経営機構の構成員の義務と解して、自律的な対処方法の検討を促し、
不服のある株主の申立てに応答する司法審査の蓄積に、漸進的な規範形成を委ねることにな
るのではないかと思われる 23)。敵対的買収における防衛策の領域においては、このような規範
形成がみられた。
④ 利益相反と社外取締役
親子会社関係における子会社の経営者のように、利益相反性が経営者たる地位に付随する
構造的な利益相反において、社外取締役が一般株主・少数株主の利益の代表として、経営者
に対峙し、行為に同意を与えたり、交渉をしたりすることが考えられる(前述の②(ⅴ))。
しかし、形式的に「社外取締役」に該当する者による形式的な承認を得たことを、直ちに特
定の法的効果(たとえば、民事責任における行為の公正さにかかる立証責任の転換)に結びつ
けることには慎重であるべきである。利益相反の監視において焦点を当てるべきは、具体的行
為に関する利害関係の有無である。社外取締役の利害関係の有無を含む利益相反を解消する
仕組み全体につき、司法が厳格な審査をなすことを前提に、それが確保されている場合には、
行為の公正さにかかる立証責任を原告に負担させる(そうでなければ被告が負担する)という
規律は考えられるのではないかと思われる。
⑤ 第三者の動員
MBO等の一回限りの取引については、専門的な知識・能力を有している第三者に臨時に交
21) これらについても、見直す余地がある。神作裕之ほか「〈座談会〉取締役会の実態と今後
の企業統治」別冊商事法務編集部編『会社法下における取締役会の運営実態』別冊・商事法務
334 号(2009)11 頁~ 12 頁〔神作発言〕〔武井一浩発言〕、関俊彦「社外取締役と会社法」
柴田和文=野田博編『会社法の実践的課題』(法政大学出版局、2011)17 頁以下。
22) たとえば、舩津浩司「友好的買収における対象会社の株主の保護」大証金融商品取引法
研究会報告記録(2009 年 11 月 27 日)2 頁以下(大阪証券取引所のウェブサイトより入手可
能)、白井正和「友好的買収の場面における取締役に対する規律(一)~(四)」法学協会雑誌
127 巻 12 号(2010)1935 頁、128 巻 4 号(2011)1002 頁、128 巻 5 号(2011)1259 頁、
128 巻 6 号(2011)1533 頁。
23) 司法の役割について、江頭憲治郎「会社法制の将来展望」同『会社法の基本原則』(有斐
閣、2011、初出 2009)17 頁以下。
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渉等を委託したほうが株主のためになるという考え方もあり得る。
実務では、買収防衛策に関する対抗措置の発動や経営者・支配株主による完全子会社化に
際して、外部の識者からなる第三者委員会に諮問をすることが行われているようであり 24)、東証
の自主規制においても、大量の第三者割当増資(東証有価証券上場規程 432 条)および支配
株主が関連する重要な取引につき(同 441 条の 2 第 1 項)、独立した者ないし利害関係を有し
ない者による意見の入手が必要とされている。しかし、単に外部の者に意見を聴くだけであれば、
利益相反関係にある者による「公正さ」に関する情報収集の一つにすぎない。利益相反の監視
者としての第三者の登用には、選任における経営者からの独立性の確保・その意見が尊重され
る仕組み、第三者の活動資金の確保と報酬構造の監視、第三者が負うべき責任などの課題が
ある。
その解決として、一時役員の制度を活用することが考えられる 25)。しかし、一般株主の利益
を保護するモチベーション、与えられる情報の質の評価能力、追加的な情報の入手経路等を確
保する観点から、臨時に雇い入れられた第三者に監視を全面的に委ねるより、利害関係のない
取締役の関与があるほうが望ましいのではないかと思われる。いずれも人選に依存するため、
一概に判断することは難しいが、利害関係のない取締役に一般株主の利益を代表する役目を期
待しつつ、必要に応じて専門的知識を有する第三者へ補助的業務を依頼する、あるいは共同
で監視に当たらせるといった仕組みが相対的には優れているのではないかと思われる。
(3) 効率性の観点からの監視
① 事後評価としての監視
適法性確保および効率性の観点からの監視のいずれにおいても、取締役会は、経営者の行
為を監視することには相違ないが、取締役会に期待される役割は若干異なる。効率性の監視
のうちでも、まったくの職務怠慢や社長の暴走のような極端なケースにおいては、適法性監査
の場合と同様に、個別の業務執行行為に照準を合わせた監督が要請される。しかし、効率性
の観点からの監視に求められるのは、それにとどまらず、一定の業績目標の達成度に関する事
後的な評価である。このような評価は、具体的には経営者の報酬額のコントロールと人事を通
24) 「MBO指針」・前掲注 8)は、独立した第三者への諮問を提言している。実態につき江
頭憲治郎ほか「〈座談会〉MBO取引・完全子会社化時の取締役の行動規範(下)」ビジネス法
務 11 巻 6 号(2011)72 頁〔二井矢聡子発言〕参照。
25) 江頭憲治郎ほか・前掲注 24)71 頁〔江頭発言〕。現行法においては、一時的な適格者の
不在は現行制度における「欠員」には該当しないと厳格に解されるおそれがあることから(稲
葉威雄ほか編著『〔新訂版〕実務相談株式会社法3』
(商事法務研究会、1992)661 頁〔胡口一郎〕
参照)、制度の利用促進には、取締役会で議決権を行使し得る者が一時的にいない場合なども
対象とするための、要件の緩和が必要であろう。
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じて実現される 26)。米国においては、社外取締役が構成員の多くを占める取締役会制度が経営
者の業績評価とそれに基づく積極的な人事権の発動を可能にしているのではないかとわが国で
も高い関心が寄せられてきた 27)。
② 社外取締役の登用
委員会設置会社が普及せず、監査役設置会社における社外取締役の登用も進まないことか
ら、監査役設置会社における社外取締役の(少人数の)選任の義務づけの可否が議論されて
いる 28)。なお、社外取締役であれ、社外監査役であれ、社外役員の登用を求める制度趣旨は、
経営者からの独立性を有する者を経営機構に入れることにある。以下においても、社外取締役・
社外監査役という場合には、会社法の定義(会社法 2 条 15 号・16 号)を形式的に満たす者
ではなく、原則として、実質的な独立性が確保されている者を前提としている 29)。
社外取締役に期待される役割には、透明性の確保から、助言機能、経営者のコーチ役、経
営目的の達成評価、人事面の評価までさまざまなレベルがあり得 30)、どの役割を果たし得るか
は、社外取締役の人数、属性、人柄等にも依存する。少人数の登用にも期待され得る透明性
の確保、助言機能などは、既存の社外監査役によって発揮されている企業もあるであろうし、
社外監査役がその機能を果たし得ていない企業において、追加的に社外取締役の選任を義務
づけても、適切な人選がなされるか疑わしい場合もあろう。
わが国における社外取締役の登用とパフォーマンスを示す指標との相関を示す実証研究もあ
る 31)。しかしながら、現在の社外取締役は、自発的に登用された者である。個々の企業では、
社外取締役の登用と業績の因果関係が反対(経営状態がよいために、社外取締役を登用した、
社外取締役への就任を承諾した)であることも考えられるし、良好な業績にも社外取締役の積
極的な登用にも寄与する第三の要因(たとえば、企業風土など)が存在することも考えられる。
経営機構の改革の効果を発揮させるには、実権を握っている者が主体的に行うことが望まし
26) 川濵・前掲注 18)29 頁参照。
27) 落合誠一「独立取締役の意義」新堂幸司=山下友信編『会社法と商事法務』(商事法務、
2008)227 頁参照。
28) 監査役設置会社における社外取締役の選任状況について、東京証券取引所「東証上場会
社コーポレート・ガバナンス白書 2011」18 頁以下(以下「東証コーポレート・ガバナンス白書」
という)。
29) 社外監査役より、社外取締役に、親会社・関係会社・大株主等の関係者が就任しているケー
スが若干多いようである。東証コーポレート・ガバナンス白書 24 頁、33 頁参照。
30) 神作裕之「取締役会の実態とコーポレート・ガバナンスのあり方─「会社法下における
取締役会の運営実態」を読んで─」別冊商事法務編集部・前掲注 21)37 頁以下、神作ほか・
前掲注 21)22 頁~ 24 頁以下〔神作発言〕
(究極的には、効率性の観点からの監督であるという)。
31) 内田交謹「取締役会構成変化の決定要因と企業パフォーマンスへの影響」商事法務
1874 号(2009)20 頁以下参照。
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い 32)。社外取締役の選任強制は、ガバナンスの意識の高い経営者が他と差別化を図る手段の
一つを奪い、消極的な経営者からは社外取締役登用の意義を内面化する機会を奪う 33)。画一
的な「上からの」社外取締役の積極的な登用推進は、疑問がある。
東証の「独立役員」の職務は「一般株主の利益保護」であるとされる 34)。利益相反が顕在
化する場面においては、株主の財産的な利益の保護は取締役の善管注意義務の一部を構成す
ると解し得る(会社法 429 条 1 項の「第三者」に株主が入るべき場合)。利益相反関係にある
取締役とそれ以外の取締役とで善管注意義務の内容が異なる顕れ方をすることも、現行法は
すでに予定している 35)。しかし、利益相反の場面だけでなくより一般的に 36)、一部の役員の職責
が(会社の長期的な利益とは区別される)一般株主の利益の擁護であると強調することには、
資本市場の短期的な動向や一部の機関投資家の意見が経営者に与える影響を強める効果が伴
う。独立役員が少人数にとどまる場合には経営者に多少の(多くの場合、望ましい)緊張感を
与えるにとどまり、当該役員の意見を傾聴することが会社の利益に資すると説明し得る 37)。しか
し、③にも関連するが、規制強化には慎重であるべきである。
③ いわゆるモニタリング・モデル
過半数が社外取締役によって構成される取締役会を、立法により推進・強制することには疑
問がある 38)。経営者からの独立性の追求がある程度をすぎると、情報や専門性、業務へのモチ
ベーションの確保等と両立し得なくなり 39)、また、形式的な要件は容易に潜脱され得るため、法
による厳格なエンフォースにも向かない。
32) コンプライアンス業務に携わる弁護士として、企業のリスク管理における経営者や従業
員の主体的な姿勢の重要性を説くものとして、國廣正『それでも企業不祥事が起こる理由』(日
本経済新聞出版社、2010)105 頁以下。
33) 宍戸善一=柳川範之=大崎貞和『公開会社法を問う』(日本経済新聞出版社、2010)54
頁~ 57 頁〔柳川範之発言〕。
34) 東京証券取引所上場制度整備懇談会「独立役員に期待される役割」(2010 年 3 月 31 日)
6 頁。
35) 北村雅史「競業取引・利益相反取引と取締役の任務懈怠責任」川濱昇=前田雅弘=洲崎
博史=北村雅史編『(森本滋教授還暦記念)企業法の課題と展望』(商事法務、2009)233 頁
以下参照。
36) 「独立役員に期待される役割」前掲注 34)8 頁。もっとも、他の利害関係者の利益の考
慮は排除されるものではないとされている(7 頁)。
37) 関・前掲注 21)7 頁。
38) 落合誠一「会社法制見直しの基本問題」西村高等法務研究所責任編集・落合誠一=太田
洋編著『会社法制見直しの論点』(商事法務、2011)10 頁は、米国型のモニタリング・モデ
ルがガバナンスのデファクト・スタンダードであると評する。
39) 企業統治研究会「企業統治研究会報告書」(2009 年 6 月 17 日)4 頁参照。
- 154 -
資本市場への経営者の感応度の高さが企業の生産性の向上に寄与し得る場合があるとして
も、たとえば米国の企業関係の背後には、経営者の市場の存在、短期の交代可能性を前提と
した経営者の報酬体系、経営者が交代すれば経営方針を容易に転換し得る企業内における意
思決定権限の所在の明確さや上意下達の徹底等、流動的な労働者市場とそれを支える教育制
度、そのような労働者にふさわしい業種等、制度的な条件がある 40)。
もっとも、
「日本型経営」を特徴づける閉鎖的な取締役会構造、株式相互持合い、銀行によ
る監視等も 41)、特定の経済社会的背景に依存している。経営者人事の慣行の硬直さは、米国型
コーポレート・ガバナンスのわが国への移植に懐疑的な論者からも問題視されており 42)、日本板
硝子のように自発的に社外から経営者を登用する例もみられる。企業ごとにばらつきはあろう
が、各企業のガバナンス構造とその環境とのかかわり方は、従来の特徴を残しながらも、資本
市場の変化、IT技術の発達、人口動態等に応じて、緩やかに変容しているのではないかと思
われる 43)。
このような変容は、社会のグランド・デザインを描く少数の者の手によって、意図的にもたら
されたものというより、無数の関係者の行動の相互作用が集積した結果である 44)。効率性の観
点から望ましい企業のガバナンス体制は、立法という経路で一つの型を選びとるより、法が提
供する基本構造の枠内で、各企業において、時代や業種、その他の環境に照らして具体化され
40) 米独日の比較につき、ピーター・A・ホール=デヴィッド・ソスキス『資本主義の多様性』
(ナカニシヤ出版、2007、原書は 2001)v頁以下、25 頁以下、ヴェルナー・アーベルスハウザー
『経済文化の闘争』(東京大学出版会、2009)161頁参照。
41) 宮島英昭=河西卓弥「金融システムと企業統治─日本型企業システムの多元的深化─」
橘川武郎=久保文克編『講座・日本経営史第六巻 グローバル化と日本型企業システムの変容』
(ミネルヴァ書房、2010)105 頁参照。
42) 宮本又郎「日本型コーポレート・ガバナンス」宮本又郎ほか『日本型資本主義』(有斐閣、
2003)191 頁。
43) わが国の企業の変容につき、宮島=河西・前掲注 41)131 頁以下、青木昌彦『コーポレー
ションの進化多様性』(NTT出版、2011)189 頁以下参照。銀行支配と集団交渉の伝統から
のドイツ企業の変容について、Wolfgang Streeck, Re-Forming Capitalism, OUP, 2009, Ch.6 参
照。共同決定制度と二層制ボードシステムという特殊な制度を抱えるドイツ企業の経営機構の
実態も、資本市場指向に変化してきていることにつき、クリストフ・H・サイプト「ドイツの
コーポレート・ガバナンスおよび共同決定─弁護士、監査役員、研究者としての視点から─」
商事法務 1936 号(2011)34 頁参照。ドイツから学び得るのは、共同決定制度の是非ではなく、
ドイツの上場企業法制が、伝統的な経営機構と産業・市場構造の変化との間にどのように折合
いをつけようと努力しているか、という点であると思われる。
44) cf. Streeck, supra note 43, Ch7. 資本市場規制の改正によりドイツ産業の変容が生じたの
ではなく、順番はその逆であるとする。
- 155 -
ていくことに委ねるべきである。平成一四年改正における委員会等設置会社制度の創設も、国
際的潮流に対応しようとする一部の企業の動きを、既存の法制度との整合性が保てる範囲で立
法により追認したと位置づけられる。
2 監査役制度、三委員会制度および監査・監督委員会制度
(1) 新制度の提案
委員会設置会社の監査委員会に準じる委員会のみを設置するタイプの機関構成の創設が提
案されている(委員会設置会社の監査委員会と区別するために、当該委員会を、以下では「監査・
監督委員会」と呼ぶ)45)。社外取締役の登用には前向きであるが、経営者の人事権が社外の者
に掌握されることをためらう経営者らの期待にも適う提案である 46)。この提案は、現行法の監
査役制度および委員会制度への問題提起といえる。
(2) 妥当性監査
適法性監査を行う監査役という日本独自の制度の由来は、昭和四九年商法改正における監
査役の業務監査権限の部分的復活に求められる 47)。監査役の権限を適法性監査に制限する解
釈論は、取締役に対する取締役会による監督権限との調整の必要性から生じた 48)。しかし、取
締役会構成員の大多数が、実質的には監視の対象である代表取締役の指揮下にある従業員ま
たは業務執行取締役である現実が、引き続き問題視されている現状において、少なくとも立法
論としては、取締役会が代表取締役の行為の妥当性をチェックしているから、監査役は適法性
監査のみでよいとはもはやいえない。
昭和二五年改正前には、
(利益相反の監視も含む)広範な業務監査権限が監査役に与えられ
45) 法制審議会会社法制部会第五回会議部会資料3「企業統治の在り方に関する検討事項
(2)」第2の3注一、同第九回会議部会資料9「企業統治の在り方に関する論点の検討(1)」
第1の2、奈須野太「経済産業省意見『今後の企業法制の在り方について』」商事法務 1906
号(2010)51 頁。制度設計に伴う論点の整理として、武井一浩「『監査委員会設置会社』の解禁」
商事法務 1900 号(2010)20 頁以下。
46) 経済界、企業法務関係者の評価も好意的である。阿部泰久「経済界からみた企業法制整
備の課題」商事法務 1920 号(2011)94 頁、北川浩「『企業法制見直しに関する意見』の概要」
商事法務 1928 号(2011)40 頁~ 41 頁。
47) 上田純子「日本的機関構成への決断─昭和四九年の改正、商法特例法の制定─」浜田道
代編『(北澤正啓先生古稀祝賀論文集)日本会社立法の歴史的展開』(商事法務研究会、1999)
400 頁以下、松井秀征「規制緩和と会社法」中東=松井・前掲注 15)410 頁以下。
48) 上田・前掲注 47)400 頁以下、松井・前掲注 47)418 頁。
- 156 -
ており 49)、昭和四九年商法改正以降、取締役会の権限と重複しないものについては、監査役に
妥当性に踏み込む権限が与えられてきた 50)。現行法の下では、解釈論としても、監査役の権限
51)
。
に妥当性監査が含まれる見解が有力になりつつある
(ただし、会社法施行規則 124 条 4 号ニ)
立法論としては、監査役設置会社においては、取締役会と代表取締役を併せて業務執行機
関とし 52)、取締役会が設置されていても、取締役会を通じた経営者同士の監視に期待せず、監
査役は業務執行の妥当性および利益相反の監視をも行う機関と位置づけ、それに必要な改正
をすべきである。
(3) 人事への関与
有力な見解として、妥当性に対する監督は最終的に人事で決着される必要があるため、現在
の監査役制度と国際的な潮流との調和を図る観点から、監査役に取締役を兼任させることを
認め、公開会社である大会社においては兼任を義務づける考え方がある 53)。この考え方を唱え
られた大杉謙一教授によれば、同一時期に同一人物が業務執行と監査役の職務の両方に携わ
らない限り、
「自己監査」の批判は当たらない 54)。実態調査によれば、実務における取締役会
49) 大杉謙一「監査役制度改造論」商事法務 1796 号(2007)四頁、岩原・前掲注 4)6 頁参照。
50) 会社と取締役間の訴訟における会社代表(会社法 386 条 1 項。同法 353 条、364 条参照)、
取締役に対する責任追及等の訴えにかかる訴訟提起の請求(それに伴う判断権限)、和解の通知・
催告の受領(同法 386 条 2 項、847 条 4 項)、その訴訟参加における同意権(同法 849 条 2
項)、取締役の会社に対する任務懈怠責任の一部免除への同意(同法 425 条 3 項、426 条 2 項、
427 条 3 項)、内部統制システムの相当性、会社支配の基本方針に関する意見の監査報告への
記載(会社法施行規則 129 条 1 項 5 号・6 号、130 条 2 項 2 号)。
51) 弥永真生『演習会社法〔第二版〕』(有斐閣、2010)125 頁以下、前田庸『会社法入門〔第
12 版〕』(有斐閣、2009)495 頁以下。
52) 監査役設置会社における取締役会と代表取締役の関係について、通説は、並立機関説に
立つが(鈴木竹雄=竹内昭夫『会社法〔第 3 版〕』(有斐閣、1994)283 頁、286 頁)、本文
のような取締役制度および監査役制度を支える理論としては、取締役会と代表取締役を併せて、
業務執行機関と位置づける派生機関説(大隅健一郎「代表取締役の地位」同『商事法研究(下)』
(有
斐閣、1993、初出 1951)11 頁以下)を基礎とするべきである。また、会社法 362 条 4 項列
挙事項も見直すべきである。齊藤真紀「監査役設置会社における取締役会」川濵ほか・前掲注
35)174 頁以下。
53) 大杉・前掲注 49)6 頁。
54) 大杉・前掲注 49)8 頁。
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の付議事項は広範囲にわたることがあり 55)、現状のままであれば、大杉教授の定義によっても、
「自己監査」の状態が生じる可能性が高い。また、兼任義務づけは、自らが決定・実行してい
ないことを監査させるという兼任禁止の利点を生かす道を閉ざすことになる。
監査役設置会社の取締役は、比較的短期間(2 年)で株主総会に信任を問われるため、監
査役の株主に対する情報提供の機会を確保する限り、必ずしも監査役に直接人事への関与を
認めなくともよいのではないか。監査役に妥当性監査権限が認められるのであれば、監査役に、
取締役の選任・解任権限を付与したり、取締役会による代表取締役等の解任にかかる議決権
を与えたりする定款自治を認めることも立法論として考えられ得る 56)。
(4) 委員会設置会社制度の緩和
取締役会による経営者監視体制を導入した昭和二五年商法改正の理念は、委員会設置会社
に引き継がれたといえる。現行の委員会設置会社では、取締役会の過半数を社外取締役とす
ることが要求されない代わりに、三委員会の設置が強制され、一部の事項については委員会
の決定を取締役会が覆せない、国際的には珍しい規律になっている 57)。独立性のある取締役が
取締役会の過半数を占める場合には、監査委員会以外の委員会の設置および権限について会
社自治を認めるという立法提案もある 58)。
前述のとおり、厳格な独立性を要求するほど監督機能の強化につながるというわけではない。
取締役会に付議される事項が限定され、業務執行と監督の峻別を確保し得るのであれば、業
55) 別冊商事法務編集部・前掲注 21)62 頁、174 頁以下参照。監査役設置会社において特
別取締役による取締役会決議はあまり利用されず、委員会設置会社における取締役会への付議
基準も緩やかな現実について、神作ほか・前掲注 21)4 頁~ 5 頁〔藤井孝司発言〕〔植野隆発
言〕、8 頁~ 9 頁〔藤井発言〕〔植野発言〕、61 頁、62 頁以下参照。
56) 監査役に取締役と同等の議決権を付与する定款自治を認める提案として、法制審議会会
社法制部会第 5 回会議議事録 17 頁〔神田秀樹発言〕。
57) 委員会制度は、ドイツやフランスの会社法制においても取り入られているが、フランス
の上場会社では監査委員会以外の委員会の設置は強制されておらず、また委員会に意思決定を
委譲することは禁止され、取締役会が最終責任を負うことが求められているようである(Paul
le Cannu/Bruno Dondero, Droit de sociétés, 3e édition, 2009, p.596)。ドイツの株式会社にお
いては、二層制ボードシステムを採用していることから、監査委員会の設置も強制されておら
ず、また、監査役会の権限の一部は、下位の委員会への委譲が明文で禁止されている(株式法
107 条 3 項)。
58) 日本取締役協会・金融市場委員会「公開会社法要綱案 第一一案」3・01 条(現在は早
稲田大学グローバルCOEプログラム《企業法制と法創造》総合研究所に引き継がれている)
参照。また、太田洋=森本大介「日本取締役協会『独立取締役の選任基準モデル』の概要と意
義」商事法務 1937 号(2011)15 頁参照。
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務執行に携わらない取締役(ただし一部には厳格な独立性を要求)が取締役会の過半数を占
める場合に、監査委員会以外の委員会の設置・権限につき会社自治を認めてもよいと思われ
る 59)。
もっとも、実態調査によれば 60)、委員会設置会社においても取締役会への付議事項は多いよ
うである。決議事項の下限・上限の法定により現実の付議の範囲をコントロールすることは難
しいだけではなく、裁判規範とみなされることによる弊害も大きい 61)。執行と監督の峻別が委員
会設置会社制度の前提であるとしても、立法による手当ては、取締役会を業務執行の意思決
定機関と位置づける現行法を改めて、執行役を業務執行機関、取締役会を法定の事項を決議
するほか、定款または取締役会規則に定めた事項につき、執行役からの提案に承認を与える
監督機関と位置づけることで、執行と監督の峻別を支える理論的な基盤を提供する程度に限定
されるのではないかと思われる。
(5) 監査・監督委員会制度の位置づけ
監査・監督委員会制度は、社外取締役の人数に下限を設けない場合、取締役会の規模が大
きくとも、社外取締役を二人選任しさえすればよい制度となる。多数決原理が支配する取締役
会に存在する社外取締役が過半数に満たない場合にも十分な監督機能を期待し得るという説
明は、委員会設置会社制度との整合性を保つことが困難である 62)。監査・監督委員会制度採用
の要件として、取締役会の過半数が社外取締役であることを要求することが素直であるが 63) 厳
格な独立性を追求することが必ずしも望ましいわけではないため、社外性に多様性を認めても
よいと思われる。監査役設置会社、委員会設置会社に加えて第三の類型を創設する必要はなく、
前述のとおり、委員会設置会社の一類型と位置づければよいと思われる。
3 従業員による監視
実質的に従業員に一部の監査役を選任させる制度も提案されている。この提案は、適法性
59) 社外性の多様性につき、企業統治研究会報告書 5 頁参照。
60) 前掲注 55)。
61) 齊藤・前掲注 52)179 頁。
62) 委員会設置会社における監査委員会の独立性は、監査委員を選任する取締役会の構成員
の候補者が指名委員会で決定され、報酬も報酬委員会で決定される点にある。
63) 高橋・前掲注 1)17 頁。
- 159 -
監査の強化として説明されているが 64)、監査役の既存の権限には妥当性の領域に踏み込むもの
があるから、従業員の経営参加という側面もある。
従業員によるインフォーマルな監視は、わが国における重要な経営者の規律の一つであ
る 65)。しかし、従業員の利害状況は株主に比べて多様であり、労使間や従業員同士に対立が生
じた際に、監査役の権限が一部の従業員によって交渉の道具に使われる可能性がある。監査
役制度は独任制がとられており、その独立性が強く保障されている。現行法には、従業員の推
薦を受けた監査役のインセンティブにふさわしい監視体制が備わっていない。
従業員に経営機構構成員を直接選任させる制度は、経営者への監視にとどまらず、株主と従
業員・労働者間の利害関係の衝突を経営政策の決定レベルに持ち込む(ことにより調整する)
ものでもある 66)。従業員の貢献への対価および雇用の確保は、財・サービス市場における競争
が激しくなり、資本市場の動向が経営者にもたらす影響が増大し、経営者の外部登用が増えて
くれば、労働市場の流動性が乏しい分野ではますます重要な政策課題となろう。従業員の高
い技術・能力に依存する領域においては、従業員の意見尊重にかかる制度的なコミットメントが、
生産性の向上に寄与する可能性もある。しかし、事業運営の機動性や資本の効率性の向上の
要請との既存のバランスをどのように変更するのが望ましいか、一律に見極めることは困難であ
る。現段階では、従業員持株制度や種類株式の活用等も視野に入れながら、従業員と経営者・
株主との交渉による任意の採用を可能とする制度が望ましいと思われる 67)。
従業員選任監査役にかかる提案が、監査役に適切な監査が期待し得ないことに関する問題
提起であるとすれば、その改善策として、内部統制システム構築義務の一環として、内部通報
制度の整備と通報者の保護を取締役会等に義務づけることが考えられる。
64) 連合「2010 ~ 2011 年度(2009 年 7 月~ 2011 年 6 月)政策・制度の要求と提言」
(2009)
34 頁以下、同「2011 年度 連合の重点政策」(2010)9 頁、「2012 ~ 2013 年度(2011 年
7 月~ 2013 年 6 月)政策・制度 要求と提言」(2011)41 頁、
「2012 年度 連合の重点政策」
(2011)8 頁。寒川裕之「連合が求める従業員〝選任〟監査役とは」ビジネス法務 10 巻 6 号(2010)
20 頁。従業員選任監査役を支持する見解として、末永敏和『コーポレート・ガバナンスと会
社法─日本型経営システムの法的変革』(中央経済社、2000)24 頁。
65) 加護野忠男=砂川伸幸=吉村典久『コーポレート・ガバナンスの経営学』(有斐閣、
2010)252 頁。
66) 従業員の利益を会社法の解釈論・立法論に組み込む可能性につき、上村達男「会社法と
労働の基礎理論」布井千博=野田博=酒井太郎=川口幸美編『(川村正幸先生退職記念論文集)
会社法・金融法の新展開』(中央経済社、2009)8 頁以下(ただし、従業員選任監査役は上村
教授の着想によるものではない)。
67) わが国における従業員の経営参加制度の導入に肯定的な見解として、たとえば、関孝哉
「ドイツの従業員代表制度に学ぶ日本型『従業員経営参加』のあり方」ビジネス法務 10 巻 6
号(2010)25 頁。
- 160 -
4 いわゆる「インセンティブのねじれ」
(1) 問題の所在と背景
監査役設置会社における会計監査人の選任議案の決定権限は取締役会に、報酬に関する契
約の内容の決定は原則として取締役会(ただし、代表取締役等に委任可能)にあり、監査役
に同意権(選任議案については、さらに提案権)が付与されている(会社法 344 条、399 条)68)。
このような法的構造が、経営者と会計監査人のなれあいを助長する危険があるのではないかと
問題視されている 69)。背景には、会計監査人の実質的な独立性を求める国際的な潮流 70)、平成
一九年公認会計士法の改正による慎重な監査の要請の高まり 71) などがある。
(2) 法的手当ての要否
会計監査業務において、監査役が被監査会社の窓口となることに照らせば、会計監査人の人
事も監査役が主体的に行うことは、経営者と監査役の役割分担として筋が通ったものであると
いえる。しかし、会計監査人の人事における独立性は、監査役が、会社の内部監査部門や会
計部門、会計監査人との独自の協力関係を築けるかどうかに依存しており、それが可能であれ
68) 委員会設置会社においても、監査委員会に会計監査人の選任議案の決定権が与えられて
いるが(会社法 404 条 2 項 2 号)、報酬を含めた監査契約の内容の決定は取締役会にあり(執
行役に委任可能)、監査委員会は、報酬につき同意権を有するにすぎない(同法 399 条)。
69) 金融審議会公認会計士制度部会報告「公認会計士・監査法人制度の充実・強化について」
(2006 年 12 月 22 日)6 頁以下、衆議院財務金融委員会における「公認会計士法等の一部を
改正する法律案に対する附帯決議」(2007 年 6 月 8 日)、参議院財政金融委員会における「公
認会計士等の一部を改正する法律案に対する附帯決議」(2007 年 6 月 15 日)、日本公認会計
士協会「上場会社のコーポレート・ガバナンスとディスクロージャー制度のあり方に関する提
言─上場会社の財務情報の信頼性向上のために─」(2009 年 5 月 21 日)第1部Ⅱ、スタディ
グループ報告 12 頁。
70) 証券監督者国際機構専門委員会ステートメント「監査人の独立性及びモニタリングにお
ける企業統治の役割に関する原則」、米国サーベンス・オクスリー法三〇一条欧州委員会会社
法第 8 指令 41 条 1 項・3 項参照。監査役の主体的な関与の重要性を指摘するものとして、丸
山秀平「ドイツにおける監査役会と決算監査人の連携」平出慶道先生高窪利一先生古稀記念論
文集編集委員会編『(平出慶道先生・高窪利一先生古稀記念論文集)現代企業・金融法の課題(下)』
(信山社、2001)927 頁。
71) 前述の不正行為等の発見時における通知義務・届出義務の創設のほか、過失による虚偽
証明も課徴金の対象とされたこと(公認会計士法 30 条 2 項、31 条の 2 第 1 項 2 号、34 条の
21 第 2 項 2 号、34 条の 21 の 2 第 1 項 2 号)が挙げられる。
- 161 -
ば、改正は不要であるという見解も有力である 72)。
監査役の主体的な行動に対する障害として、次のようなものが考えられる。
① 監査役の姿勢─監査役が主体的に行動することを望んでいない。
② 法解釈─会計監査人の人事への主体的関与は、
「業務執行」に該当するという理解が、
監査役の自粛を促している。
③ 法定の権限が有するメッセージ性─監査役が主体的に行動しようとしても、監査法人・
公認会計士も、会社内部の関係者も、責任者は代表取締役・取締役会であると理解し、交渉・
折衝に応じてもらえない。
会計監査人の人事および報酬が業務執行に該当するために監査役の権限外であるという説明
は、監査役に同意権・提案権が付与されていることに照らして硬直的であると思われる。政策
決定の二元化という懸念は、会計監査に関連する領域においては取締役会・代表取締役には
監査役への協力義務があると解することにより、解決する余地があるように思われる。
法改正の意義は③の問題の解消にあると思われる。選任議案の作成や報酬内容の決定に必
要な準備作業を監査役が責任者として行うべきことを、監査役、経営者、関係部門、会計監
査人すべてに対して明示するためには、会社内部の意思決定権限の所在を変更するだけでは不
十分である。監査契約の締結について、監査役に代表権を与えるとともに、対内的にも内部統
制システムの構築・運用は、監査役と取締役会の共同権限とするなど、対外的・対内的な業務
執行権限の変更が必要である 73)。
*本稿は,学術創成研究の成果の一部を平成 23 年度日本私法学会のシンポジウムの場で報
告する資料として,商事法務 1940 号(2011)に掲載させていただいたものである。
72) 岩原・前掲注 17)33 頁、伊藤靖史「公開会社法─監査役制度を中心に」大証金融商品
取引法研究会報告記録(2010 年 4 月 23 日)36 頁〔伊藤靖史発言〕。日本監査役協会「有識
者懇談会の答申に対する最終報告書」(2010 年 4 月 8 日)16 頁以下は、決定権の付与が望ま
しいとしつつ、当面ベスト・プラクティスとして、会計監査人の報酬および選任議案への同意
権行使において、主体的に関与することを推奨している。
73) ドイツにおいては、株式法 111 条 2 項 3 文が、決算監査役への委託は監査役会の権限で
あることを定めるが(丸山・前掲注 70)912 頁参照)、これは会社の代表権にかかわることで
あるため、監査役会の代表権を定める同法 112 条のほうが据わりがよかったという指摘がな
されている。Hüffer, AktG Kommentar, §111 Rn 12a.
- 162 -
インサイダー取引規制のあり方
京都大学大学院法学研究科 前田 雅弘
一 問題の所在
平成19年9月30日に完全施行された金融商品取引法制において、インサイダー取引
規制については基本的な規制枠組みが維持された(金融商品取引法〔金商法〕166条・
167条)1)。
インサイダー取引規制の現在の枠組みは、昭和63年の証券取引法改正により設けられた
ものである。現在の規制枠組みの最大の特色は、インサイダー取引となるための要件の明確
性が重視された結果、形式的・具体的な規制となっていることである。インサイダー取引の基
礎となる重要事実の定め方がその典型であり、現行法は、重要事実を個別・具体的に列挙し(金
商法166条2項・167条2項、金融商品取引法施行令28条~29条の2)
、そのうち
規制から除外される軽微基準および規制に含める重要基準を詳細に定めるという構造をとって
いる(有価証券の取引等の規制に関する内閣府令〔取引規制府令〕49条~53条・55条・
62条)。
学説においては、このような形式的な規制枠組みについて、昭和63年改正の直後から 2)、
規制があまりに複雑で硬直的であるという批判がなされていた 3)。その後も、重要事実および
内部者の定義を見直すべきこと 4)、とりわけ重要事実の定義を包括条項だけで行うべき旨の具
1) 有価証券の範囲およびデリバティブ取引の範囲が広がったことでインサイダー取引の規制
対象は実質拡大し、また罰則は強化されたが、規制の基本的枠組みに変更はない。
2) 昭和63年改正前においても、インサイダー取引をした者に厳しい民事制裁を課す形の立
法提案がなされていた。龍田節「内部者取引の効果に関する立法論的考察」大隅健一郎先生古
稀記念『企業法の研究』(有斐閣、1977)698頁、近藤光男「内部者取引」河本一郎先
生還暦記念『証券取引法大系』(商事法務、1986)520頁。
3) 龍田節「インサイダー取引規制」ジュリスト948号(1990)155頁。
4) 黒沼悦郎「内部者取引規制の立法論的課題ーー内部情報および内部者の定義を中心とし
てーー」竹内昭夫先生追悼論文集『商事法の展望ーー新しい企業法を求めてーー』(商事法務、
1998)317頁 [ 同『証券市場の機能と不公正取引の規制』(有斐閣、2002)所収 ]。
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体的な提案がなされ 5)、最近にも、一般的・抽象的な要件に改めるべき旨の提案がなされてい
る 6)。また、アメリカおよびEU諸国との比較研究においては、わが国の規制が国際的に見て
相当に特異な規制であることが明らかにされた 7)。他方、経済界からは、平成14年に、前記
の学説とは逆向きに、インサイダー取引の明確性をより高めるため、重要事実に係る包括条
項の削除等が提案されたことがある 8)。
金融審議会においても、インサイダー取引の見直しが検討課題とされ 9)、審議がなされた
が 10)、具体的な改正に向けた検討がなされないまま、昭和63年改正法の形式的な規制の枠
組みは、今日まで維持されてきた。
インサイダー取引が規制を要する悪性の強い行為であることは、もはや今日では異論はな
いであろう。なぜ悪いかの説明は異なり得ても 11)、インサイダー取引を禁止すべきことに争い
はない。そして、インサイダー取引規制のあるべき姿を考える際に、考慮すべき要素が何で
あるかについても、おそらくは異論のないところであろう。すなわち、要件の面では、規制さ
れるべき取引が過不足なくカバーされ(適用範囲の必要十分性)
、投資者側にとってある取引
が規制の対象かどうかが明確に判断でき(規制の予測可能性)
、かつ、規制を行う側にとって
規制が運用可能であること(規制の運用可能性)である。効果の面では、規制の違反があっ
た場合に、十分な抑止力を働かせることができるだけの制裁が課され、かつ、被害者救済が
5) 黒沼悦郎「インサイダー取引規制における重要事実の定義の問題点」商事法務1687号
(2004)40頁。
6) 梅本剛正「インサイダー取引規制の再構築」森本滋先生還暦記念『企業法の課題と展望』
(商
事法務、2009)521頁。
7) 川口恭弘ほか「インサイダー取引規制の比較法研究」民商法雑誌125巻4・5号
(2002)423頁。
8) 日本経済団体連合会「インサイダー取引規制の明確化に関する提言(平成15年12月
16日)」商事法務1687号(2004)37頁、島崎憲明「インサイダー取引規制の明確
化のための日本経団連の提言」商事法務1687号(2004)30頁。
9) 金融審議会金融分科会第一部会報告「市場機能を中核とする金融システムに向けて」(平
成15年12月24日)において、「インサイダー取引規制をはじめとする既存の不公正取引
そのものについても、時代の変化に対応した見直しが必要であり、引き続き、当審議会で審議
していくこととしたい」旨の提言がなされた。
10) 金融審議会金融分科会第一部会(平成15年12月24日)および同部会(平成16年
4月16日)の議事録参照。
11) もっとも、インサイダー取引の悪性の捉え方の違いにより、規制すべき内部者の範囲等
については違いが生じうる。インサイダー取引の規制根拠の捉え方については、藤田友敬「未
公開情報を利用した株式取引と法」竹内昭夫先生追悼論文集『商事法の展望ーー新しい企業法
を求めてーー』(商事法務、1998)575頁参照。
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図られることである。これらの要素を兼ね備えた規制が実現可能ならば、それが規制の理想
的な姿であることに疑いはない。
しかし、現実の規制のあり方を考えるうえで生じる困難な問題は、適用範囲の必要十分性
の要請と、規制の予測可能性および規制の運用可能性の要請とは、完全に両立させることが
ほとんど不可能な要請だということである。すなわち、適用範囲の必要十分性を確保するため
には、形式的な要件の定め方では限界があり、実質的な要件を盛り込まざるを得なくなるが、
実質的な要素を盛り込むと、規制の予測可能性および規制の運用可能性は、それだけ損なわ
れることとなる。逆に、現行法がそうであるように、規制の予測可能性および規制の運用可能
性を重視すると、形式的な要件の定め方をせざるを得ず、そうすると適用範囲の必要十分性
を確保するのは困難となる。
昭和63年改正法は、形式的な規制の枠組みを基本とし、若干の実質的要素を加味する
規制枠組みを採用した。この規制枠組みが、立法論的な批判を受けながらも今日まで維持さ
れてきたのは、前記の要請の調整が困難であり、現在の規制枠組みに代わりうる規制枠組み
を見出しがたいことがその理由であろう。
改正後20年余りの歳月を経て、インサイダー取引が違法である旨の認識は相当に浸透し
た。自主規制機関による未然防止の体制も整えられ、平成4年に設置された証券取引等監視
委員会も活発な活動を続けている。とりわけ平成16年の証券取引法改正で課徴金の制度が
導入されたことにより、インサイダー取引規制の実効性は高まりつつあると言ってよい 12)。それ
なりに現在の規制はうまく機能しており、このままで不都合はないという評価もあり得よう。し
かし、昭和63年改正直後から指摘されていた問題は放置されたままであり、また、欧米諸
国の制度と比較して現在の規制が異様に複雑な規制となっていることは否定できない。現在
の規制をわが国が将来にわたってずっと維持し続けていくことが賢明であるとは思われない。
本稿では、インサイダー取引の現在の規制枠組みについて、問題点を改めて整理し、規制
のあるべき姿について若干の考察を行いたい。
二 現在の規制枠組みの問題点
1 形式的な規制枠組みが採用された理由
昭和63年改正法が形式的な規制枠組みを採用したのはなぜか。
12) インサイダー取引について証券取引等監視委員会が課徴金納付命令に関する勧告を行っ
た件数は、平成17年4月から平成22年5月までの間に87件ある。証券取引等監視委員会
事務局「金融商品取引法における課徴金事例集(平成22年6月)」1頁。なお同委員会のウェ
ブサイトによると、同委員会が平成4年に発足して以来、平成22年3月末までに告発したイ
ンサイダー取引事案は61件ある。
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同改正前、インサイダー取引は、金融商品取引法157条1号(当時は証券取引法58
条1号)の違反となることが学説上は異説を見ないほどであると指摘されながらも 13)、同条は
要件が不明確であるという理由で、現実には同条がインサイダー取引に適用された例は皆無
であった。このような特殊な背景のもとで、インサイダー取引に突如として157条を発動す
ることは困難であると考えられ、インサイダー取引を規制するためには、新しい法律を適用す
る必要があった。
そして、それまで157条を現実には運用することができなかったことを踏まえ、新たな規
制は、できるだけ形式的な要件を明確に決めて、投資者側にとってある取引が規制の対象か
どうかが明確に判断できること(規制の予測可能性)
、および、規制を行う側にとって規制が
運用可能であること(規制の運用可能性)が至上命題とされた 14)。
2 適用範囲の必要十分性への配慮
このような形式的な規制枠組みでは、規制されるべき取引を過不足なくカバーすること(適
用範囲の必要十分性)は困難となる。一方では、本来規制を必要としない取引が規制対象
となってしまい、他方では、本来規制すべき取引が規制から漏れるおそれがある。前者につ
いては、形式に該当しても起訴便宜主義等により運用面で対処することが不可能ではないが、
後者については、形式に当たらないものを規制対象とするわけにはいかない 15)。
もっとも、現行法は、規制に漏れが生じないよう配慮をしていないわけではない 16)。第一に、
重要事実のうち、決定事実および発生事実については、個別具体的に法律に列挙された事実
のほか、それに準ずる事実は政令によって重要事実として指定することができる(政令指定。
決定事実について金商法166条2項1号ヨ・5号チ、発生事実について同条2項2号ニ・
6号ロ)。
第二に、法律・政令によっては重要事実とされない事実であっても、当該会社・子会社の「運
営、業務又は財産に関する重要な事実であつて投資者の判断に著しい影響を及ぼすもの」は、
重要事実となる(包括条項。金商法166条2項4号・8号)。
第三に、金融商品取引法166条以下のインサイダー取引規制が及ばない行為であっても、
なお同法157条の適用がありうる。
規制漏れを防ぐためのこれらの制度が実効的に機能し、全体として規制されるべき取引がカ
バーされるのであれば、規制の適用範囲は現在のままで問題はない。しかし、適用範囲が十
分かについては、次に検討するように疑問がある。
13) 鈴木竹雄=河本一郎『証券取引法〔新版〕』(有斐閣、1984)555頁。
14) 竹内昭夫「インサイダー取引規制の強化〔下〕」商事法務1144号(1988)11頁。
15) 龍田・前掲注3)156頁。
16) 竹内・前掲注14)13頁。
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3 適用範囲についての問題点
(1)金融商品取引法157条の活用
まず、金融商品取引法157条が同法166条以下のインサイダー取引規制の漏れを防ぐ
ことができるか。166条以下の規定と157条との関係については、観念的競合と解する
のが通説である 17)。166条以下の規定の適用がある取引についても、悪性の特に強い取引
については重ねて157条が適用され、さらに、166条以下の規定では規制漏れとなる取
引についても、悪性の特に強いものにはやはり157条が適用されうる。
そうすると、157条は、形式的規制枠組みによる規制漏れを防ぐ一定の役割を果たすこ
とができるが、しかし、157条がカバーできるのは、規制漏れのうち、悪性の特に強い取
引だけであり、それに至らない取引はカバーできない。また、157条は、60年もの間イ
ンサイダー取引に使われてこなかった規定であり、いきなりこれを使って摘発がなされること
を期待することには、現実には無理がある。昭和63年改正当時とはインサイダー取引が違
法である旨の認識に違いがあるとはいえ、現在もなお、要件が抽象的であるという理由で、
157条は現実には使えないというのが一般の理解ではないかと思われる。157条で規制
漏れをカバーすることは、理論的にはあり得ても、現実の運用可能性は期待しにくい。
(2)重要事実の定義
重要事実の要件については、政令指定の制度および包括条項が用意されている。
このうち、政令指定の制度によって漏れを事前に防止することは不可能である。どうしても
事前に予測することのできない種々の新しい事象が生じうることは否定できないのであって、
あらゆる事態を予測し、それを事前に具体的に列挙しておくことは期待できない。
包括条項については、これを幅広く柔軟に解釈できるのであれば、これによって重要事実
を漏れなくカバーすることができるはずである。経済界からは、規制の予測可能性を重視し、
包括条項を廃止して、重要事実は具体的・個別的列挙だけにすべき旨の提案がなされている
が 18)、種々の新しい事象を予測して具体的に列挙することは前記のように無理であり、包括条
項を削除することは、規制の及ばない取引の範囲を明確化するとともに拡大することになる。
規制の予測可能性への配慮は必要であるが、むしろ逆に、包括条項を積極的に活用する方向
での改善策を探るのが正当である。
しかし現行法は、
「具体的列挙+包括条項」という形の規制をし、包括条項については、
「前
三号に掲げる事実を除き」という限定がなされている。そのため、最高裁は、具体的に列挙
17) 龍田節「インサイダー取引の禁止」法学教室159号(1993)68頁、河本一郎ほか『金
融商品取引法読本』(有斐閣、2008)453頁、近藤光男ほか『金融商品取引法入門』(商
事法務、2009)307頁。
18) 前掲注8)参照。
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された事実にいったん包摂・評価されると、それが軽微基準に該当して重要事実に当たらな
いこととなれば、さらに包括条項の該当性を問題にすることはできないと判示した 19)。確かに、
具体的に列挙された事実として軽微基準に該当し、重要事実に当たらないといったん判断され
た事実が、もしも再び包括条項のほうで重要事実に当たることになると、規制の予測可能性お
よび規制の運用可能性のために現行法が重要事実を具体的に列挙し、詳細な軽微基準を定
めたことの意味が乏しくなるため、現行法の解釈としては、最高裁の考え方はやむをえないと
ころであろう。
このような解釈を前提にしても、もし軽微基準が規制漏れのないように設定できるのであれ
ば、軽微基準で重要事実でないとされた事実を包括条項で重要事実とする必要はない。
しかし、
そもそも軽微基準を規制漏れのないように設定するのは不可能である。
たとえば、売上高について、公表された直近の予想値に比べて新しく算出した予想値または
当該事業年度の決算に差異が生じたことは、重要事実とされるが(金商法166条2項3号)
、
その差異として、前者が後者のプラス・マイナス10%未満であれば、重要事実とはならない
(取引規制府令51条1号)。しかし、投資者の投資判断への影響は、会社の規模、業種な
どの企業特性によって異なるはずであり 20)、企業特性を無視した軽微基準では、規制漏れのお
それを否定できない。また、たとえば新株発行の決定(金商法166条2項1号イ)につい
ても、払込金額の総額が1億円未満ならば重要事実でないこととなるが(取引規制府令49
条1号イ)
、規模などの企業特性を無視して投資判断への影響は決められない 21)。
したがって、軽微基準で重要事実でないとされても、再び包括条項で拾わなければ規制に
漏れが生じることとなるが、それは前記最高裁判決で示されたように、解釈論としては困難で
ある。
前記最高裁判決の事案においては、医薬品の卸売りを業とする会社において、新薬の副
作用の情報が内部情報に当たるかどうかが争点となり、最高裁は、副作用症例の発生は、新
薬の今後の販売に支障を来すのみならず、会社の信用をさらに低下させ、会社の今後の業務
の展開および財産状態等に重要な影響を及ぼすことを予測させ、ひいては投資者の投資判
断に著しい影響を及ぼしうるという面があることを指摘し、この面は、業務上の損害(金商法
166条2項2号イ)の発生として包摂・評価される面とは異なる別の重要な面があって、
この面については包括条項の該当性を問題にしうると述べた。最高裁のこの考え方は、「具体
的列挙+包括条項」という現行法の枠組みの中で包括条項をできるだけ活用しようという苦肉
の解釈として支持すべきものと思われる。
もっとも、最高裁のこの判断枠組みが使える場面は限られる。第一に、ある事実が具体的
19) 最判平成11年2月16日刑集53巻2号1頁(日本商事事件)。
20) 伊藤邦雄「インサイダー取引規制の経済的検証と問題点」商事法務1225号(1990)
4頁。
21) 龍田・前掲注3)156頁。
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に列挙された事実として包摂・評価されない面を有しなければ、この判断枠組みはもとより使
うことができない。
第二に、この最高裁判決の事案のように、具体的に列挙された事実に包摂・評価される面
と包摂・評価されない面とに、ある事実を分解することができる場合であっても、前者の面で
軽微基準により重要事実とならず、後者の面でも「投資者の判断に著しい影響を及ぼすもの」
とはいえないときには、当該事実は重要事実とはならないこととなる。当該事実が総合的に
みて投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすものであれば、重要事実として規制を及ぼす必
要があるところ、最高裁のようにある事実を複数の面に分解する論法をとると、過小規制の問
題が生じる 22)。
結局のところ、この最高裁判決の考え方では、十分に規制の漏れを防ぐことはできないので
あり、
「具体的列挙+包括条項」という規定振りのために、包括条項でありながら重要事実を「包
括」的にカバーすることができないという状況が存在している。この問題を解決するには、個
別列挙事項をなくし、包括条項だけで重要事実を定義するほかないと思われる 23)。
(3)内部者の範囲
現行法の形式的な規制枠組みから生じる規制漏れの問題は、重要事実に関するものにとど
まらず、内部者の範囲に関しても存在する。すなわち、現行法は、規制の予測可能性への配
慮等から 24)、第二次以降の情報受領者を規制の対象とはしていない。しかし、形式的に第一
次情報受領者までで切ってしまうことは、インサイダー取引規制の趣旨からは説明することが
できず、比較法的に見ても特異な規制である 25)。ここにも規制の漏れが生じているものと思わ
れる。
三 改善の方向
1 形式的な規制枠組みの見直し
規制漏れをなくすためには、現行法の形式的な規制枠組みを見直し、一般的・抽象的な規
制枠組みに改める方向を目指す必要があるが、その際には、規制の予測可能性、および規制
の運用可能性にも十分配慮しなければならない。いかに適用範囲の十分性を確保するためで
あるとはいえ、刑事制裁と結びついた規制を設ける限りは、罪刑法定主義から規制の予測可
能性および規制の運用可能性を確保する必要が生じる。
22) 黒沼・前掲注5)40頁。
23) 黒沼・前掲注5)41頁。
24) 横畠祐介『逐条解説・インサイダー取引規制と罰則』(商事法務、1989)122頁。
25) 龍田・前掲注3)159頁、龍田・前掲注17)67頁、川口ほか・前掲注7)482頁。
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したがって、現在の形式的枠組みを全廃して、金融商品取引法157条だけで対応すると
いう、昭和63年改正前の状態に戻ることはできない。
2 一般的・抽象的な規制枠組みへの変更
そこで、金融商品取引法157条とは別に166条以下の規定を残すこととするが、現行
法の形式的な規制枠組みに代えて、法律では一般的・抽象的な規定だけを定めることとする
方法、たとえば、重要事実については、包括条項だけを法律で定めるという方法が考えられ
る 26)。
法律の規定は一般的・抽象的な定め方であっても、具体的で詳細な基準がガイドライン等
の形で定められ 27)、また具体的な事件の積重ねにより明らかとなっていけば、規制の予測可能
性は確保することができ、このような規制の方法は、インサイダー取引規制の理想型であろう。
しかし、このような規制は、法律の規定が金融商品取引法157条ほどに抽象的ではない
にしても、60年もの間、157条に基づいてインサイダー取引に刑事制裁が科せられたこと
がないという歴史に照らせば、現実に運用可能かどうかについての疑念を払拭できない。刑
事制裁を科すための基礎としてでなく、行政処分の基礎として適用するのであれば、罪刑法定
主義による制約はないはずであるが、これについても、インサイダー取引に対しては、157
条に基づいて行政処分すらなされた例がないという歴史を見れば、どこまで現実に運用される
ことを期待できるかには、疑問が残る。
いくら罪刑法定主義に縛られることなく運用されることを望んでも、もしも規制を行う側の目
から見て使いにくく、現実に使われないこととなれば、せっかく理論的に優れた規制を構築し
ても、元も子もない結果となる。法律で一般的・抽象的な規定だけを定めることとするのであ
れば、刑事制裁とは完全に切り離した規制を設けるのが現実的ではないか。そこで検討すべ
きは、課徴金制度の活用である。
3 課徴金制度の活用
平成16年の証券取引法改正により、行政による証券規制を実効的に行うため、刑事罰と
は別に、新たな行政上の措置として課徴金の制度が導入され、インサイダー取引もその対象
とされた。課徴金の制度は現に活発に利用され 28)、これによってインサイダー取引規制の実効
性は大いに高まったと思われるが、問題は、課徴金の対象となる取引が刑事制裁の対象とな
る取引と同一に定められたことである(金商法175条1項柱書・2項柱書)。インサイダー
26) 龍田・前掲注3)156頁、黒沼・前掲注5)41頁。
27) 龍田・前掲注3)156頁、梅本・前掲注6)539頁。
28) 前掲注12)参照。
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取引を課徴金の制度の対象としたことは、インサイダー取引規制を罪刑法定主義の呪縛から
解き放つ絶好の機会であったと思われるが、残念ながら現行法はその機会を逃した。
課徴金の制度であれば、罪刑法定主義から要請される規制の予測可能性および規制の運用
可能性に過度に配慮する必要はない。従来の刑事制裁を伴うインサイダー取引規制とは別に、
課徴金制度との関係では、インサイダー取引規制は、すっきりとした一般的・抽象的な規制
枠組みに改めることを目指すべきであろう29)。課徴金の制度を中核としてインサイダー取引規制
を柔軟に運用することとし、これを課徴金の被害者への分配の制度と結びつければ 30)、長らく
わが国のインサイダー取引規制において欠落していると批判されてきた被害者救済 31) にも大い
に役立つ。
そして、課徴金制度を運用していく過程で、具体的で詳細な基準が、ガイドライン等の形で
定められ、また具体的な事件の積重ねにより明らかとなっていくことが期待できる。こうして、
将来、一般的・抽象的な法律の規定のもとでも、規制の予測可能性、および規制の運用可
能性が十分に確保できるという状況になれば、課徴金向けの規定と刑事制裁向けの規定とい
う二重構造を廃止し、課徴金向けの規定に刑事制裁を結びつける形で規制を一本化するのが
よいのではなかろうか。
四 課徴金制度を基礎としたインサイダー取引規制
1 刑事制裁との切断と重要事実・情報受領者の定義
課徴金制度を中核としたインサイダー取引規制を構築するとするならば、現行法のインサイ
ダー取引に係る課徴金の制度は大幅な見直しが必要となる。最後に、基本的な見直しの方向
について検討しておきたい。
まず、現行法のもとでは、刑事制裁の対象となる取引がそのまま課徴金の対象にもなる構
造になっているが(金商法175条1項柱書・2項柱書)
、課徴金の対象となるインサイダー
取引は、刑事制裁の対象となる取引とは別の取引類型として規定を設けるべきである。
その際、規制漏れの問題(前記二3)に対応するため、とりわけ重要事実および情報受領
者の定義を大幅に見直す必要がある。
重要事実については、たとえば「当該上場会社等の運営、業務又は財産に関する重要な事
29) 梅本・前掲注6)536頁。大森泰人ほか「市場監視の実際(インサイダー取引を中心に)」
大証金商法研究会特別号(2010)26頁以下[龍田節、黒沼悦郎、大森泰人発言]も参照。
30) 課徴金を被害者に分配する制度については、黒沼悦郎「投資者保護のための法執行」商
事法務1907号(2010)43頁参照。
31) 龍田・前掲注3)158頁、龍田・前掲注17)66頁、神崎克郎ほか『証券取引法』(青
林書院、2006)921頁、河本ほか・前掲注17)453頁。
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実であって投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」という一般的で簡明な定義規定と
することが考えられる。
会社外部で発生する事実については、現行法は、公開買付け等の実施・中止に関する事
実だけを規制対象としており、それ以外の事実については、証券の価格に重大な影響を及ぼ
しうる事実であっても、規制の対象とはしていない 32)。証券市場に対する投資者の信頼確保と
いうインサイダー取引規制の目的に照らせば、会社外部で発生する事実であっても、「証券に
関する重要な事実であって投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」については、規制
対象とすることを検討すべきであろう 33)。
情報受領者については、会社関係者から直接に内部情報の伝達を受けた情報受領者に限
定することなく、たとえば、「会社関係者から直接又は間接に重要事実の伝達を受けた者」と
広く定義したうえ、その者が売買等の時点で重要事実であることを知らなかった場合には規制
対象から除くことが考えられる 34)。
2 他人の計算によるインサイダー取引
現行法のもとでは、課徴金の額は、「重要事実公表前の買付け等の価格(または売付け等
の価格)
」と「重要事実公表後二週間の最高値(または最安値)
」との差額として算定され、
その買付け等(または売付け等)は、「自己の計算において」なされたものに限られる(金商
法175条1項1号2号・2項1号2号)。したがって、自己の計算によらないインサイダー
取引は、課徴金の対象とはならない。
課徴金の額の算定において、現行法が自己の計算でなされた買付け等(または売付け等)
しか考慮していないのは、もともと、課徴金の制度が、実質的に二重処罰の禁止(憲法39条)
に抵触することがないよう、利得の剥奪という形で設計されたこと 35) に起因している。
しかし、インサイダー取引規制において、禁止の対象となる「売買等」は誰の計算でなさ
れるかを問わない 36)。課徴金の制度の目的は、違反行為を抑止し、規制の実効性を確保する
32) 欧米諸国では、外部情報をより広く規制対象に取り込んでいる。川口ほか・前掲注7)
482頁。
33) かつて民事責任の形でインサイダー取引規制の立法提案がなされた際にも、外部情報を
規制対象に含めるべき旨が提言されていた。龍田・前掲注2)706頁。同旨、黒沼・前掲注
4)343頁。
34) 前掲注33)の立法提案においては、情報受領者は間接の受領者も含むとしたうえ、取
引当時に相当な注意を用いても重要事実であることを知ることができなかった者を除くことと
されていた。龍田・前掲注2)710頁。同旨、黒沼・前掲注4)344頁。
35) 川口恭弘「金融商品取引法上の課徴金制度」同志社法学61巻2号750頁(2009)。
36) 神崎ほか・前掲注31)884頁、横畠・前掲注24)44頁。
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ことにあるにもかかわらず、他人の計算によるインサイダー取引を課徴金の対象外としてしまう
のでは、同制度によるインサイダー取引の抑止は甚だ不十分なものとなる。
また、自己株式取得に際してのインサイダー取引、すなわち上場会社等の役員等が当該上
場会社等の計算で行ったインサイダー取引については、課徴金の対象となるよう手当てがなさ
れてはいるが、この場合に課徴金納付命令を受けるのは当該上場会社等であり、取引を行っ
た当該役員等ではないため(金商法175条9項)
、これで十分な抑止となりうるか疑問があ
る。
平成20年の金融商品取引法改正に向けた議論の中で、インサイダー取引を含めた不公正
取引について、他人の計算において行われたものであっても、課徴金による抑止が有効と考
えられるものについては、課徴金の対象とすべき旨が提言されていたが 37)、同改正は、わずか
に、他人の計算によるインサイダー取引のうち、当該他人と行為者とを経済的に同一視しうる
一定の場合、および金融商品取引業者等が顧客の計算で行為した場合を適用対象に加えるに
とどまった(金商法175条10項11項・1項3号・2項3号)。これは、同改正法がなお、
課徴金の制度を利得剥奪の制度としか位置づけていないこと 38) の現れである。
しかし、同改正は、他方において、違反行為を的確に抑止する観点から、課徴金の減算制
度および加算制度を導入したところ(金商法185条の7第12項・13項)
、この制度は、
課徴金の金額が利得相当額と一致しなくなる場合を正面から認めるものであって、ここにおい
て、課徴金の制度はすでに利得の剥奪という性格だけでは説明できない制度となっている 39)。
また、独占禁止法上の課徴金の制度は、すでに平成21年改正により利得の剥奪という観念
からは切り離されたと考えられており 40)、また、平成19年の公認会計士法の改正により導入
された課徴金の制度も、利得の剥奪という枠を超えた制度となっている 41)。このように、もはや
課徴金の制度を利得剥奪の制度として捉えるべき理論的必然性は乏しいと考えられ、何より、
課徴金の制度が違法行為の抑止を基本的な目的とするにもかかわらず、利得の剥奪という観
念に縛られていては、その目的を達することができない。課徴金の制度は、利得の剥奪とい
う観念からは完全に解放すべきであり、インサイダー取引については、誰の計算でなされるか
を問わず課徴金の対象とすべきであろう。
37) 金融審議会金融分科会第一部会法制ワーキング ・ グループ報告「課徴金制度のあり方に
ついて」Ⅳ4(平成19年12月18日)。
38) 大来志郎ほか「課徴金制度の見直し」商事法務1840号(2008)31頁 [ 別冊商
事法務324号所収 ]。
39) 梅本剛正「課徴金制度の改正について~ワーキンググループ報告の検討を中心に~」証
研レポート1646号(2008)8頁。
40) 川口恭弘「課徴金制度の見直し」ジュリ1390号(2009)59頁。
41) 川口・前掲注35)738頁。
- 173 -
3 課徴金の金額と監督官庁の裁量
課徴金の金額の適正な水準を考慮する際の最も重要な要素は、違法行為の抑止という課徴
金制度の基本目的に照らし、十分な抑止力を有するかどうかである。課徴金の制度を前記の
ように利得の剥奪という観念から切断することにより、利得相当額に縛られることなく、抑止力
に主眼を置いた金額設定が可能となる 42)。
もっとも利得相当額は、インサイダー取引の悪性を示す重要な一つの指標にはなりうるで
あろうから、利得相当額を課徴金の金額を決定する際の考慮要素とすることは差し支えない。
具体的には、たとえば、利得相当額の複数倍(たとえば3倍)を課徴金の金額にするととも
に 43)、利得が発生しない場合または利得が僅少な場合にも抑止力を確保するため、この利得
相当額の複数倍の金額が一定金額(たとえば100万円)を下回る場合には、この一定金額
をもって課徴金の金額とすること 44) が考えられるであろう。
そして、これによって算定される課徴金の金額の範囲内で、監督官庁の裁量をどこまで認め
るかが問題となる。現行法は、インサイダー取引があれば、監督官庁には課徴金納付命令を
出さないという裁量は一切認められないかのような文言の規定を設けている(金商法175
条1項柱書・2項柱書)。しかし、一口にインサイダー取引と言っても、証券市場に対する投
資者の信頼確保というインサイダー取引規制の趣旨に照らし、課徴金を課すほどのことはない
と考えられる軽微な違反事例も存在するのであって、そのような場合にまで課徴金を課すこと
は必要なく、むしろ取引を萎縮させる等の弊害がある。課徴金の前記金額を上限として、課
徴金を課すかどうか、またどれだけの金額の課徴金を課すかについては、監督官庁の裁量を
認めるべきであろう 45)。現行法のもとでも、すでに軽微な違反については課徴金を課さないよう
運用がなされているようであるが 46)、明文で明らかにするのが望ましい。
*旬刊商事法務 1907 号(2010 年)25 ~ 34 頁に掲載
42) 梅本・前掲注39)9頁。
43) 川口・前掲注40)61頁。
44) 梅本・前掲注39)8頁。
45) 川口・前掲注40)61頁。
46) 大森ほか・前掲注29)28頁 [ 大森発言 ]。
- 174 -
福祉レジーム転換と小泉構造改革 *
京都大学大学院法学研究科 新川 敏光
はじめに
小泉内閣が退陣してから、はや 5 年が過ぎた。政策の遅滞にもかかわらず、政治の流れは
急であり、小泉構造改革は既に歴史のなかに葬り去られた観がある。小泉純一郎の指名によっ
て生まれたともいえる安倍政権において実質的な小泉構造改革の見直しは始まっていたし、麻
生内閣は公然と小泉構造改革の見直しを打ち出した。小泉構造改革へのとどめともいえるのが、
民主党政権の誕生である。民主党に政権をもたらした 2009 年総選挙における同党のマニフェ
ストをみれば、税金の無駄遣いを諌めながら、農業個別所得補償制度、子ども手当、最低保
障年金などの創設、高速道路の原則無料化等々、小泉構造改革が目指した「小さな政府」路
線とは真っ向から対立するものであった。
格差社会論が注目されて以降、小泉構造改革への評価ははっきりと否定的なものに変わった。
格差社会という現実を否定するつもりはないが、それが小泉構造改革によってもたらされたも
のかといえば、首を傾げざるをえない。格差社会論の火付け役になった橘木俊詔『日本の経済
格差』が出版されたのは 1998 年であった。筆者は 1993 年に上梓した『日本型福祉の政治経
済学』
(その後『日本型福祉レジームの発展と変容』
(2005)第一篇として再版)において、わ
が国の賃金格差が、1970 年代後半には既に拡大傾向を示していることを指摘した。ジニ係数
から所得格差をみると、後述のように、遅くとも 1980 年代には拡大傾向がはっきりと表れてお
り、それは明らかに小泉構造改革に先立つ現象である。
小泉政治、小泉構造改革に関する著書は数多い。しかし、そのほとんどは、小泉の政治手
法やキャラクター、あるいは道路公団民営化や郵政民営化という個別事例への関心が強く、小
泉構造改革が戦後日本の福祉国家にとってどのような意味をもっていたのかを問う研究は見当
たらない。小泉政治、小泉構造改革の本質は新自由主義にあるといわれ、新自由主義の批判
の矛先が福祉国家に向けられていたにもかかわらず、である。本稿では、従来の研究が軽視し
てきた小泉構造改革が戦後日本の政治経済システム、なかんずく福祉国家にとってどのような
意味をもっていたのかを歴史的構造的に明らかにしようとする 1) 。
1) 福祉レジームとは福祉機能を担う国家、市場、共同体、家族から構成され、福祉国家とは、
資本主義経済と民主主義の発展・成熟を条件として生まれる特定の福祉レジームである(新川
2010; 2011a 参照)。
- 175 -
1 小泉時代の経済パフォーマンス
小泉純一郎が政権にあったのは、2001 年から 2006 年 9 月 26 日までである。この小泉時
代をマクロな経済指標によって輪郭づけてみよう。まず経済成長率をみれば、小泉内閣が誕生
した 2001 年はマイナス成長であったのが、2003 年から 2006 年の退陣までの間平均 2% 以
上の成長率を維持した。経済成長の回復に伴って、失業率も 2002 年 5.4%とピークに達したも
のの、2006 年には 4.1% にまで下がっている http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3080.html、
2011 年 7 月 30 日アクセス)。
図1
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4400.html、2010 年 12 月 7 日アクセス。
経済成長率、失業率をみる限り、小泉政権時代は日本経済にとって回復期にあったといえる。
こうした状況は、株価にも反映されている。日経平均株価をみると、1990 年代ほとんどの
内閣では株価は下落しており、積極財政を展開した小渕恵三内閣時代(1998 年 7 月 30 日
~ 2000 年 4 月 5 日)に 4261.17 円と大きく上げているのが例外的に目立つ。21 世紀に入っ
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て小泉内閣時代もまた株価を上げている。小泉第一期政権時代(2001 年 4 月 26 日~ 2003
年 11 月 19 日)こそ、4358.43 円と大きく株価を下げたものの、第二期(2003 年 11 月 19 日
~ 2005 年 9 月 21 日)には 3581.97 円、第三期には(2005 年 9 月 21 日~平成 2006 年 9
月 26 日)2360.88 円株 価を上昇させている(http://www.kabudream.com/souri_nikkei/、
2011 年 7 月 30 日アクセス)。
もっとも小泉時代の景気回復が、小泉構造改革によるものであるかどうかは定かではない。
上川龍之進は、このような景気回復は、
「中国をはじめとした海外需要の増大によるところが大
きい」と指摘している(上川 2010: 318)。財政抑制、郵政三事業民営化といった政策は、直
ちに好景気をもたらすような性質のものではなく、このような見解は妥当なものに思われる。し
かし他方において、小泉構造改革が市場から好感をもって受け止められたことは間違いないし、
景気からみて小泉時代に国民生活が悪化したとはいえないことは明らかである。
財政の赤字体質改善という点では、小泉政権は掛け声ほどには成果は挙げていない。確
かに小泉政権は、予算削減を行った。2002 年の当初予算は前年度比 10.7% 減であり、そ
の後も 4% 前後の削減を続けている。とりわけ公共事業費については、2006 年当初予算の
7 兆 2015 億円という額は、2001 年当初予算からみると 23.7% 減の数字となっていた(内山
2007:47)。しかし下図をみるとわかるように、政府債務残高は小泉時代においても一貫して上
昇しており、国際的にみて日本のそれは突出している。小泉政権には、政府債務残高を減少さ
せるほどの大がかりの財政削減はなされなかったのである 2)。
2) ちなみにわが国の法人税率は 1984 年行政改革の中で 43.3% にまで引き上げられたが、
1999 年以降は 30%と国際水準並みにまで引き下げられている。
- 177 -
図2
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5103.html、2010 年 12 月 7 日アクセス)
小泉時代に景気はよくなったといったが、景気がよくても、不平等が拡大し、貧困に苦しむ
者が増加した可能性はある。そこで所得格差について、ジニ係数(0 から1の間で計り、0 に近
いほど平等性が高く、一に近づくほど不平等性が増す)の推移から確認しよう。当初所得の
ジニ係数は、2002 年段階では 0.498 であったが、2005 年には 0.526 に上昇している。つま
り所得格差は拡大している。とはいっても、図 3 をみればわかるように、所得格差拡大傾向は
1980 年代から一貫したものであり、小泉時代にそれが生まれたわけでもなければ、特に加速
されたわけでもない。格差拡大傾向の加速がみられるのは、小泉時代に先立つ 1990 年代後
半である。この時代、労働者派遣の原則自由化や裁量労働、変形時間制の導入要件緩和など、
労働市場規制緩和が一気に進み、非正規雇用者数も増えたことが、格差拡大の背景としてある
(新川 2007: 補論)。
格差社会を小泉構造改革の産物とみなすことは、再分配所得のジニ係数をみると、一層困
- 178 -
難になる。2002 年の 0.381 から 2005 年には 0.387 へとわずかに数値が上がっているものの、
再分配所得は当初所得の格差をかなり是正していることがわかる。つまり当初所得の格差拡大
にもかかわらず、小泉時代わが国は政策的に社会的不平等の拡大をかなりの程度抑えたとい
うことができる。再分配による所得格差改善度は一貫して上がっており、2002 年には 23.5%、
2005 年には 26.4%となっている。それではどのような施策によってかといえば、税による再分
配効果は小さく、ほとんどが社会保障による改善である。
以上を要するに、小泉政権では景気回復はある程度なされたものの、それは輸出主導によ
るものであり、国内の構造改革の結果とはいい難く、財政構造も大きく変わっていない。つま
り財政的に「小さな政府」に向かっていない。さらに社会保障システムは、識者から「底抜け」
とまで酷評されながらも、再分配機能をむしろ大きくしている。このように、マクロな数値をみ
る限り、格差社会が小泉構造改によってもたらされたとはいえない。
格差社会といわれる深刻な社会現象が存在しなかったというのではない。ワーキング・プア、
プレカリアートといわれるような周辺労働者層の拡大は見られたし、そのような実態に対して小
泉構造改革がなんら対策を練ったようには思われない。小泉時代に派遣労働が製造業におい
て解禁されたし、社会保障改革をみると健康保険の被保険者本人の三割負担、企業年金の改
正(厚生年金基金解散要件の緩和や日本版 401K の導入など)、公的年金へのマクロ・スライ
ド方式の導入と所得代替率の引き下げなどが行われている。つまり、小泉時代、道路公団や
郵政民営化だけでなく、労働市場・社会保障政策においても、福祉縮減、新自由主義的な指
向性がみられる。健康保険の三割負担を実現する際には、小泉は自民党、連立パートナーの
公明党、厚生労働省の抵抗を押し切っており、郵政民営化以上にリーダーシップを発揮したと
もいわれる 3)。
しかし、繰り返すが、小泉構造改革が俄かに格差社会を作り出したわけではない。そのよう
な短期的視点に立てば、小泉構造改革は思ったほどの効果を挙げなかったという評価しか出て
こないだろう。しかし小泉構造改革にはより大きな歴史的役割があった。わが国において新自
由主義的構造改革は、既に 1970 年代中葉に始まっており、小泉構造改革とはその総仕上げと
しての意味をもつものであった。この点を敷衍する前に、そもそも小泉政治とはどのようなもの
であったのか、新自由主義とは何かを明らかにする必要がある。
3) 「晩秋の政府与党での改革案取りまとめから年末の診療報酬改定、改革法案の国会提出時
の与党調整、法案審議、要所要所で総理自身が党幹部を呼んで直接調整に乗り出したり、厚生
官僚を叱責する場面が何度もあった。郵政民営化でさえ、ここまで総理自身が直接コミットす
ることはなかった」(飯島 2006: 82)。
- 179 -
図3
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4667.html, 2011 年 7 月 30 日アクセス)
- 180 -
2 小泉政治の特徴
小泉政治については数多の考察が行われ、論者によって様々な小泉像が描かれているが、
小泉が類まれな指導力をもった首相であったことについては共通認識があるようである。そして
多くの場合、小泉の個人的資質や政治手法、それらによって生み出された高い支持率に強力な
指導力の源泉を求める。小泉政治について書かれた大半の本が小泉が政局に強い勝負師であ
ること、ワン・フレーズ・ポリティクスによってマスコミを惹きつけ、財政諮問会議を用いて官
邸主導の政治をおこなったことについて言及している(清水 2005; 読売新聞政治部 2005; 上
杉 2006)。このような小泉論としては、ポピュリズム概念を駆使した大嶽秀夫の研究が代表的
なものといえる(大嶽 2003:2006)。大嶽によれば、
ポピュリズムとは、
「普通の人々」と「エリート」、
「善玉」と「悪玉」、
「味方」と「敵」の二元
論を善として、リーダーが、
「普通の人々(ordinary people)の一員であることを強調する(自
らを people にアイデンティファイする)と同時に、
「普通の人々」の側に立って彼らをリード
し「敵」に向かいあって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、
「劇場型」政治スタ
イルである(大嶽 2003: 118-119)。
さらに大嶽は、近年の傾向として、政治のアイドル化、ショービジネス化がみられるとし、そ
の背景としてマスメディアの存在を指摘している(大嶽 2003:120)。小泉のメディアを利用した
ポピュリズム、劇場型政治を、大嶽はネオ・リベラル型ポピュリズムと呼ぶ。それは単に議会
を迂回して大衆にアピールするだけではなく、大衆的支持を背景に、分権化し、既得権益化し
た「鉄の三角形」
(官僚、議員、業界)に攻撃を加え、その権益、権限の解体を目指すもので
ある(大嶽 2003: 121)。
このような小泉個人の手法に着目するのではなく、小泉の指導力の源泉として制度を重視す
る研究がある。たとえば竹中治堅は、小選挙区制によって党公認の重みが増したこと、政治資
金規正強化や政党助成法によって派閥が地盤沈下したことが、自民党総裁の権限強化に結び
ついたと指摘する(竹中 2006)。制度変更は確かに重要であるが、他方、自民党総裁ならだ
れでも小泉と同様に強力な指導力を手に入れられるわけでもない。小泉は、竹中の指摘するよ
うな制度変更を権力資源として有効に活用する知力と意思、政治的技能をもっていたといえる。
小泉は日本国首相の権力が実は強大なものであることを、よく認識していた。小泉は、2003
年 8 月、自民党総裁選での再選を前に、次のように語ったという。
「三役と総理の権力とはまっ
たく違うんだな。三役にはない総理大臣の権力というものがある。そもそも権力は総理大臣に
あるんだから」
(清水 2005: 316)。首相の権力とは、つきつめていえば伝家の宝刀といわれる
衆議院の解散権である。その重要性を、小泉は、まだ一回生議員に過ぎなかった当時、三木
おろしを目の当たりにして、学んだといわれる(清水 2005: 319-321)。経済財政諮問会議の重
- 181 -
要性については誰も否定しないだろうが、この「制度」が首相を強力にしたのではなく、首相が
「制度」を強力にしたのである(大嶽 2006: 107)。
御厨貴は、小泉政治を三無主義(説得せず、調整せず、妥協せず)と特徴づけている(御
厨 2006: 45)。といっても、小泉があらゆる政策分野で我を通したわけではない。上川龍之進
は、小泉の悲願であった郵政民営化以外の政策分野では、時には「抵抗勢力」に譲歩や妥協
を行っていることを指摘している(上川 2010)。郵政民営化の前哨戦ともいうべき道路公団民
営化においては、小泉の「抵抗派」への妥協がマスコミによって批判されたし、郵政民営化以
上に小泉が指導力を発揮したといわれる健康保険料本人負担の三割引き上げにおいては、小
泉自ら政府内外に対して積極的に説得工作を行っている(飯島 2006)。
それでは小泉は、その「強い指導力」を用いて、何を達成しようとしていたのだろうか。小泉
構造改革には戦後日本の保守政治を支配してきた「鉄の三角形」を打破しようという明確な意
図があったと思われるが、小泉にとって破壊が目的であり、既存政治に代わる新たなヴィジョン
は持っていなかったという見方がある(日本経済新聞政治部編 2001)。この考えを推し進める
と、小泉を勝つか負けるかのゲーム的な面白さを楽しんでいるだけのニヒリストであるというこ
とになる(御厨 2006; 清水 2005: 372)。小泉を「究極のナルシスト」であるとする見解も、小
泉政治には政策理念がないこと、ゲームに勝つ己の姿に酔っているだけだという含意がある(上
杉 2006: 217)。
小泉をポピュリストと考える大嶽秀夫もまた小泉の政治理念に対しては、懐疑的である。大
嶽のポピュリズム論においても、何かを実現しようとするのではなく、二項対立を鮮明にして、
敵に打ち勝つことが重視されている。大嶽は、小泉をネオ・リベラル型ポピュリズムとして捉え
ているが、小泉がネオ・リベラルの理念を持っているとはいわずに、
「ネオ・リベラリズムと多く
のレトリックを共有する」と慎重な態度を示している(大嶽 2003: 121)。ネオ・リベラルと重
なるのは、小泉の破壊しようとしているものが、
「鉄の三角形」といわれる利権構造であり、そ
れはマーケット・メカニズムを阻害するものだからである。利権構造は、自民党政治の根幹で
あり、したがって小泉が「自民党をぶっ壊す」といったことは、決して誇張ではなかったといえる。
しかし小泉が潰そうとしたのは、自民党そのものというよりも、派閥、しかも特定派閥、経
世会であったという指摘がある(日本経済新聞政治部 2001; 野中 2008)。道路行政にせよ郵
政にせよ、それは田中派―経世会が支配してきた。これに反撥し、挑戦したのが小泉であるが、
小泉個人は福田派―清和会という派閥に属し、そこで育ってきた政治家であり、その意味では
骨の髄まで古い体質の政治家である。小泉は経世会の権力の源泉を枯らし、内部分裂を誘っ
て、その凋落を促した。郵政民営化をめぐって、経世会の二大巨頭、野中広務と青木幹雄は対
立し、結局野中は政界引退を余儀なくされ、経世会の権勢は地に落ちた。他方小泉首相の出
身派閥である清話会は、小泉政権下で勢力を拡大し、最大派閥と化す。しかしながら、小泉
が清話会支配を目論んでいたのかといえば、首を傾げざるをえない。彼は後継者として同じ派
閥の後輩、安倍晋三を指名したものの、派閥の長である森喜朗の意見を尊重することがほとん
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どなく、2005 年の解散総選挙で生まれた小泉チルドレンを清話会に間接的にせよ誘導するこ
ともなかった。また小泉構造改革の打撃を最も大きく受けるのが経世会であり、したがって短
期的には経世会に対して清話会が優位に立つことがありえたとしても、長期的には、自民党が
新たな支持基盤を作り上げない限りは、どちらも衰退するしかない運命にあった。
さらに穿って、小泉は自己の権力維持にのみ関心があったという見解もある(上杉 2006)。
しかし小泉の補助金や財政投融資に対する批判は、新米議員であったころから一貫していた。
小泉が党内緊張・対立を利用して自らの権力を維持したことは明らかであるが、だからといって
小泉が権力維持だけに関心をもつニヒリストであると考えられるだろうか。小泉続投を求める声
が世論・マスコミで強かっただけでなく、自民党内においてもそれに反対する強い声がなかっ
たにもかかわらず、小泉は公言通り 2006 年 9 月に退陣している。そして小泉が院政を敷くの
ではないかという一部の憶測もあっさり裏切り、政界を引退した 4)。
多くの論者が小泉政治における理念の欠如を指摘するのに対して、小泉政治とは「理念の
政治からアイディアの政治への転換である」という注目される見解を示しているのが、内山融
(2007)である。しかし内山は、小泉はロゴスの人というよりはパトスの人であり、国内政治に
おいては竹中平蔵というブレーンがおり、経済財政諮問会議がアイディアを注入したためにうま
くいったものの、外交では小泉のパトスが前面に押し出されて、場当たり的になったという(内
山 2007)。内山説は、小泉個人の理念を認めているわけではなく、小泉政治のアイディアは竹
中平蔵というブレーンによって注入されたものであるという主張であるといえる。
小泉政治を国内政治と外交という二元論で割り切って評価できるのかという問題はさておく
としても、小泉自身のリーダーシップを考えるときに、彼自身のアイディアや信念の重要性を無
視できないように思われる。確かに竹中は経済財政諮問会議を通じて官僚に対抗する政策アイ
ディアを提示し、類まれな政治的調整能力を発揮しており、竹中なくして小泉構造改革はなかっ
たであろう(清水 2005; 太田 2006)。しかし 1972 年衆議院初当選以来大蔵委員会に所属し、
補助金行政や財政投融資への理解を深め、政治家として、一貫して「鉄の三角形」を批判して
きた小泉が、真空首相であり、単に竹中のアイディアを受け入れただけであったとは考え難い(塩
田 2002: 100-114)。小泉は小泉として、独自のアイディアと政治的信念をもっていたのであり、
竹中の政策アイディアはそれと共鳴したと考えたほうが妥当であろう。
小泉の「鉄の三角形」批判はどこから生まれたのであろうか。1970 年代後半、ケインズ主
義が権威を失い、新自由主義が台頭していた。1974 年ハイエク、1976 年フリードマンがノー
ベル経済学賞(アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)を受賞している。
小泉が、彼らの理論から直接影響を受けたかどうかは定かではないが、間接的に新自由主義
の影響を受けた可能性はある。慶応大学の恩師である加藤寛は、小泉の結婚
(1978 年)に際し、
4) 小泉の関心は権力維持にあり、院政を敷くのではないかという予測もあったが、これは後
から見れば、全く的外れであった(上杉 2006)。この点では、総理をやめると政治家をやめ
るのではないかと予測した御厨(2006)が鋭い。
- 183 -
自著をプレゼントしたという(塩田 2002: 111-112)。加藤は、わが国においていち早く新自由
主義の流れに呼応し、
「小さな政府」論を唱え、1980 年代の行政改革の知恵袋となった人物
である。小泉は加藤の著作を通じて、
「小さな政府」論への理解と確信を強めた可能性はある。
小沢一郎の側近中の側近であり、参議院議員を務めたこともある平野貞夫は、小泉の郵政
民営化は構造改革ではなく、族議員としての行動であり、銀行のためだという(塩田 2002 :
110)。族議員としての行動ということであれば、なによりも大蔵省の権益を守ろうとするはずで
あり、財政投融資にメスを入れようとする行動は、むしろ解せない。田中秀征は、行政の簡素
化と腐敗防止という伝統的な保守の行政改革というものが戦前からあると指摘し、小泉をその
流れに属すると指摘している(塩田 2002: 113)。
小泉の「小さな政府論」、鉄の三角形への挑戦が、新自由主義的なものなのか、
「良質な保
守の伝統」に基づくものなのか、あるいは両方に影響を受けているのかを判断する材料を筆
者は持ち合わせていない。しかし小泉の郵政民営化論が、権力獲得のための単なる手段やゲー
ム感覚に基づくものではなく、政治家としての出発点から小泉を捉えて離さなかったアイディア
であり、信念であったことは疑いがない。そして、そのような小泉のアイディアと信念が、わが
国において 1970 年代中葉から始まっていた構造改革の総仕上げという歴史的役割を小泉に与
えることになった。
首相就任所信表明演説において、小泉は、日本経済の複合的病理を解決するために、三つ
の経済・財政の構造改革をしなければならないと宣言した。一つは不良債権の最終処理であ
り、第二は 21 世紀の環境にふさわしい競争的な経済システムを作ることであり、第三は、財
政構造の改革である。社会保障については、
「自立、自助」を基本に、
「共助」の社会を築
いていくとしている。さらに小泉は、女性閣僚を 5 人起用したことに触れ、
「男女共同参画を
真に実のあるものにしたい」、
「女性と男性がともに社会に貢献し、社会を活性化するために、
仕事と子育ての両立は不可欠の条件です」とジェンダー平等によるライフ・ワーク・バランス
の実現に向けた意気 込みを語っている(http://www.sangiin.go.jp/japanese/gianjoho/old_
gaiyo/151/1513206.htm、2011年 9 月 3 日アクセス)。不良債権処理は、主義主張に関わりなく、
取り組む必要のあった懸案事項であるが、その他は全て、ジェンダー平等論も含めて、新自由
主義的戦略に適合的なものである。といっても、新自由主義とは、しばしば誤解されるように、
市場原理主義と同義ではない。この点について、節を改め、敷衍しよう。
3 新自由主義とは何か
翻訳に伴うあいまい性や誤解から、新自由主義という言葉も免れていない。20 世紀初頭イ
ギリスの社会政策を前進させる上で大きな力となったのは、ニュー・リベラリズム、すなわち新
自由主義であった。今日日本語で新自由主義といえば、ネオ・リベラリズム(neo-liberalism)
を指す。ちなみに neo-liberalism をインターネット検索すると、様々な解説が出てくる。E. マル
- 184 -
チネスと A. ガルシアの署名が入った「ネオ・リベラリズムとは何か」というサイトを覗くと、ネオ・
リベラリズムとはアメリカではほとんど聞かれない言葉であるが、過去 25 年ほどの間に広く知
られるようになった経済政策パッケージであるとされ、ネオ・リベラリズムの要点として、市場
支配、社会サービスへの公共支出削減、規制緩和、民営化、公共善やコミュニティの消去が
挙げられている
(http://www.corpwatch.org/article.php?id=376、2011 年 8 月 31 日アクセス)
。
この二人を引照する「ネオ・リベラリズム:起源、理論、定義」というサイトでは、グローバ
ル化と新自由主義との密接な関係が指摘され、
「新自由主義とは、市場の存在と働きがそれ自
体として価値があるという哲学である」と語られている(http://web.inter.nl.net/users/Paul.
Treanor/neoliberalism.html、2011 年 8 月 31 日アクセス)。ウィキペディア(英語版)では、
「新古典派経済学に依拠した経済・社会政策への市場本位アプローチであり、私企業、自由貿
易と相対的に開放的な市場の効率性を強調し、したがって国家の政治的経済的プライオリティ
を決定する上で民間セクターの役割を最大化することを求める」とある。続けて、ネオ・リベ
ラリズムとは、通常こうした政策への反対者が用いる言葉であり、支持者は用いない、つまり
ネオ・リベラリズムという言葉には、そもそも批判的含意があることが指摘されている(http://
en.wikipedia.org/wiki/Neoliberalism、2011 年 8 月 31 日アクセス)。
ネット検索で得られる一般的理解としては、ネオ・リベラリズムとは、市場原理主義と同義と
受け止められており、それは、しばしば IMF や世界銀行主導のグローバル化と結び付けて用
いられること、その批判者たちが用いるレッテルであること、そしてアメリカ国内ではあまり用
いられないということのようである。
実はネオ・リベラルズムという用語が、アメリカ国内で用いられなかったわけではない。しか
しその意味するところは、上記の理解とは大きく異なる。佐々木毅はレーガン共和党の勝利を
(新)保守主義の勝利として位置づけ、ネオ・リベラリズムとは、
「保守主義の台頭に対するリベ
ラルの側からの新たな反応であった」と指摘する(佐々木 1993a: 91)。それは G. ハートからク
リントン政権につながる流れであり、ケインズ主義的な政策は放棄するものの、なお社会改革、
社会正義を実現する上での政府の役割を擁護するものである(佐々木 1993: 91-133)。保守主
義とは、佐々木によれば、
「ニューディール以来の政府の経済活動への介入を排し、アメリカ伝
統の自由主義経済と市場機構への信頼を唱える立場」である(佐々木 1993b: 10)。つまりアメ
リカの文脈では、通常言われる市場原理主義的な立場が保守主義であり、ネオ・リベラリズム
はそれに対抗する立場なのである。
しかし話はここで終わらない。佐々木は、実はネオ・リベラリズムが依拠するのはケインズで
はなく、シュンペーターであり、
「企業化魂への訴えと成長の重視は、彼らと供給重視学派との
親近性を想い起させる」
(佐々木 1993a: 103)。ネオ・リベラルはアメリカの資本主義の伝統と
結びつき、保守主義と見まごうばかりの政策を提唱し、伝統的リベラルからは、レーガンと同
じ穴のムジナとみなされる(佐々木 1993a: 103-104)。つまりアメリカの文脈における保守主義
とネオ・リベラリズムの対抗関係は、共和党と民主党の競合という点では重要であっても、ネ
- 185 -
オ・リベラリスムを市場原理主義として批判する者にとっては両者の区別はさしたる意味はない
といっても差支えなさそうである。しかしながら、ネオ・リベラリズムは市場原理主義とは同義
ではない。ネオ・リベラリズムには、保守主義的要素が含まれている。ネオ・リベラリズムと保
守主義は政治競合からみると対抗関係にあるが、大きな政府、福祉国家批判という点では一
致し、両者は渾然一体の関係にある。
この点について、デヴィッド・ハーヴェイの議論を紹介しなが、敷衍していこう。ハーヴェイは、
次のように新自由主義を定義する。
新自由主義とは何よりも、強力な私的所有権、自由市場、自由貿易を特徴とする制度的枠
組みの範囲内で個々人の企業活動の自由とその能力とが無制約的に発揮されることによって
人類の富と福利が最も増大する、と主張する政治経済的実践の理論である。国家の役割は、
こうした実践にふさわしい制度的枠組みを創出し維持することである(ハーヴェイ 2007:
010)
このハーヴェイの定義自体は、インターネット検索でランダムに見つけた定義と大きく異なる
わけではない。しかしハーヴェイは、新自由主義を「埋め込まれた自由主義」の崩壊という歴
史的文脈から把握し、新自由主義体制下における国家や新保守主義イデオロギーの重要性を
指摘している。残念ながら、
「埋め込まれた自由主義」に関するハーヴェイの記述は十分に体
系的とはいい難いので、以下、ハーヴェイの議論を補足する形で、筆者の見解を展開する。
カール・ポランニによれば、本来経済は社会に埋め込まれたもの、社会の一部であるにもか
かわらず、自由放任経済においては、経済が社会から自立し、社会を従属させるような観を呈
する。しかし経済は決して自己調整的、自律的なシステムではなく、国家や社会の役割なくして
は維持再生産できない(Polanyi 1957)。アメリカの国際経済学者ジョン・ラギーは、このよう
なポランニの理解を下敷きに、第二次世界大戦後に生まれた国際的な自由経済秩序を、
「埋め
込まれた自由主義」と定義した (Ruggie 1983)。第二次世界大戦前の自由放任経済は、国際
経済の不安定化から結局はブロック経済化を招き、破綻してしたことを踏まえ、戦後再建され
た自由主義体制は自由主義を各国の文脈に埋め込むメカニズムを組み込んだものであった。戦
後経済自由主義を支えた国際的枠組といえば、まず IMF - GATT 体制が挙げられるが、これ
自体が各国の経済状況を配慮し、自由主義が各国経済に致命的打撃を与えることを防ごうとす
るメカニズムを備えていた。
GATT は、各国の関税等の貿易障壁をできるだけ低くし、安定した国際的自由貿易を実現し
ようというものであったが、その協定には例外が多く含まれ、各国の経済実態に応じて自由貿
易原則を尊重するものとなっていた。IMF をみれば、加盟国への融資はいうまでもなく、自由
貿易の要と考えられた固定相場制そのものにも自由主義を各国社会に埋め込む工夫がみられ
る。金本位制では各国通貨は金と直接リンクするが、戦後の固定相場制においては各国の通貨
- 186 -
が直接リンクするのはドルであって、金との交換比率を定める責務を負うのは、基軸通貨たるド
ルだけである。したがって各国為替レートは基本的に固定的であるが、IMF の承認を得られる
なら、変更可能である。戦後固定相場制は、厳密には、
「調整可能なペッグ制」というものであっ
た。
さらに重要なのは、戦後自由主義体制において資本の国際移動が厳しく規制・監視されたこ
とである。このことは、自由主義を各国の国内的文脈に埋め込むためには決定的に重要である。
これなしでは、ケインズ主義的な国内需要管理の有効性は著しく損なわれたであろう。福祉国
家についても、同様のことがいえる。福祉国家は再分配政策を通じて自由競争の結果を是正し、
国民的連帯を実現した。他方において再分配政策は、有効需要を創出し、市場資本主義を支
えたのであるが、こうしたことが可能であったのは資本移動の規制があったからであった。
企業は、福祉国家のコスト負担をできるだけ避けようとするだろうが、資本の移動は規制され
ているため、簡単に国外逃避はできない。そこで生産性向上が重要になる。生産性向上のた
めに欠かせないのが、労使協調である。そして労使協調を可能にしたのが、フォーディズムと
いわれる資本蓄積体制である。フォーディズムにおいては、生産性向上に応じた賃上げ(生産
性インデックス賃金)がなされる。このことは労使和解体制を促すだけでなく、購買力の向上
した労働者は消費者としても重要性を増す。つまりフォーディズムとは、労働生産性を向上させ
るだけでなく有効需要をも創りだす、大量生産大量消費内包型の資本蓄積体制なのである(新
川・井戸・宮本・眞柄 2004: 第 1 章)。
以上のように IMF - GATT 体制、ケインズ主義、福祉国家、フォーディズムといったメカニ
ズムを通じて「埋め込まれた自由主義」が実現する。この体制下で、戦後資本主義は「黄金の
30 年」を謳歌したのである。しかしこのシステムは、あくまでも戦後アメリカの圧倒的な経済
力を背景にしたものであったため、アメリカの経済力が弱まると維持困難になる。1971 年 8 月
ニクソン米大統領は新経済政策を発表するが、そのなかには米ドルと金の交換性停止や輸入
課徴金の導入など、それまでの IMF-GATT 体制に変更を迫る内容が含まれていた。紆余曲折
はあったものの、最終的にアジャスタブル・ペッグ制は変動相場制へと移行し、資本移動の規
制も解かれる。1980 年代後半に生まれるグローバル化の波とは、1971 年のニクソン声明に端
を発し、その後西ヨーロッパに広がった資本移動の自由を普遍化しようという運動であった。
このような運動こそ、その批判者達が新自由主義として捉えたものであった。新自由主義と
は、アメリカ発の脱「埋め込まれた自由主義」戦略であったということができる。とはいっても、
新自由主義戦略を生んだ思想は、1970 年代に突如として現れたわけではない。ハーヴェイは、
ケインズ主義への一貫した反対者であったフリードリッヒ・フォン・ハイエクを中心に 1947 年
に設置されたモンペルラン協会にその起源を求める。同協会には、ルードヴィヒ・フォン・ミー
ゼス、ミルトン・フリードマンのほか、カール・ポパーも一時参加していた(ハーヴェイ 2007:
032-033)。同協会はヨーロッパの古典的な自由主義を標榜していたが、
「埋め込まれた自由主
義」全盛の時代には、ほとんど注目されない存在であった。流れが大きく変わるのが、ニクソ
- 187 -
ン新経済政策以降である。かつては滅び去った恐竜のように思われていたハイエクやフリード
マンの市場擁護論が脚光を浴びるようになったのである。
しかし新自由主義戦略は、市場原理主義ではない。脱「埋め込まれた自由主義」を実現す
るためには、市場外の制度に依拠する必要がある。IMF や世界銀行の活動がグローバル化を
推進したことは夙に有名であるが、そもそも市場における自由競争を実現するためには「強い国
家」が必要となる。
「大きな政府」を解体し(ケインズ主義政策からマネタリズムへの転換、福
祉国家政策の見直し、民営化など)、市場ゲームを円滑に展開させるための厳格なルールを作成・
適用するためには、強い国家が必要となるのである。
さらに市場は、それ自体として国境をもたないため、福祉国家を否定するなら、それに代わっ
て新たに国民的連帯を創りだすメカニズムを考案する必要がある。
国民的連帯は、
市場外にあっ
て市場秩序を安定化させる重要な役割を果たす。この文脈で注目されるのが、新保守主義で
ある。ハーヴェイによれば、新保守主義は、
「エリートによる統治、民主主義への不信、市場
の自由の維持といった新自由主義的政策目標と完全に一致している」
(ハーヴェイ 2007: 116)
。
しかし、新保守主義は、以下の二つの点で、新自由主義とは異なる。一つは個人的利益のカオ
スに対して秩序を重視することであり、もう一つは「国家を安全に保つ上で必要な社会的紐帯と
して、道徳を重視」することである(ハーヴェイ 2007: 116)。新保守主義が社会的秩序、道徳
を担う存在として期待するのが、家族であり、教会であり、場合によっては NPO のような存在
である。
このように、ハーヴェイは新自由主義を補完する思想として新保守主義を捉える。新自由主
義がそれのみでは統治原理たりえないことを指摘している点において筆者はハーヴェイに同意
するが、彼が新自由主義の代表的理論家とみなすハイエクをみれば、実は彼の思想のなかでは
自由主義と保守主義のモメントが融合していることがわかる。ハイエクは、人間合理性の限界
を認識することから、伝統や慣習を自由の拘束としてではなく、自由を可能にする条件とみなす。
ハイエクは、いわば保守主義的な立場から自由主義を擁護するのである。このような理論構成
が、単純な市場原理主義とは似て非なるものは明白である 5)。ハイエクの場合、市場擁護と伝統
(自生秩序)擁護とは分かちがたく結びついている。
このように、新自由主義を語る場合、それが保守主義と密接不可分の関係にあることは忘れ
てはならない。1979 年政権を奪取したイギリスのマーガレット・サッチャーは、イギリス帝国
の栄光、ヴィクトリア朝時代の価値(節制や勤労、家族の絆)を強調した。1981 年アメリカ大
統領となるレーガンもまた、家族の絆や教会という伝統的価値を重視した。要するに、彼らの
新自由主義戦略とは、福祉国家解体、小さな政府実現に向け、市場の機能を重視しながら、
福祉国家に代わる社会的保護システムとしては、自助や相互扶助、そしてそれに関連する伝統
的価値をも動員するものであった。したがって、彼らを新保守主義の台頭として捉えることは、
5) ハイエクの保守主義思想を扱った研究書は数多いが、ここでは近年の労作として、山中
(2007)、萬田(2008)を挙げておく。
- 188 -
決して稀ではないし、間違っているわけでもない 6)。新自由主義と保守主義はアメリカの文脈で
は対抗関係にあるにせよ、両者は「大きな政府」、福祉国家を批判・解体するという点で一致し
ており、市場と伝統的価値や倫理は相互補完的にあり、したがって新自由主義と保守主義とは
一体のものと捉えることが可能である。
4 日本における新自由主義
日本における初の新自由主義政権といえば、1980 年代に行政改革を主導し、国鉄等の民営
7)
化を実現した中曽根康弘政権を挙げることができるであろう
(大嶽 1994 参照)
。サッチャー、
レーガン、中曽根の比較検討する試みもある ( 上川・増田編 1989)。このような通説に対抗す
る主張を展開しているのが、ハーヴェイ『新自由主義』監訳者である渡辺治である。渡辺は、
新自由主義とは、資本蓄積の危機とそれに対するグローバル企業の競争力回復のため、国家
の強力な介入をいとわず、市場優位の制度を導入するために強力な国家介入を行う運動や体制
であるという(渡辺 2007: 294)。このように考えると、わが国に資本蓄積の危機が訪れ、これ
への対応を迫られた結果、新自由主義が登場したのは、細川政権時代ということになる。しか
も新自由主義の本格化は小泉政権を俟たねばならなかった。渡辺の見解では、中曽根政権の
改革は、せいぜいのところ早熟な新自由主義改革の試みであり、予防的な改革にすぎなかった
(渡辺 2007: 296-297)。
なぜわが国に資本蓄積の危機が 1990 年代まで訪れなかったといえば、渡辺によれば、日
本の蓄積体制は、
「福祉国家体制が取らざるを得なかった階級妥協を行わずにすんだからであ
る」
(渡辺 2007: 298)。そして渡辺は、日本でも階級妥協が行われたのだが、それは福祉国
家体制とは異なる形で成されたといい直す。異なる形での階級妥協とは、開発主義国家体制で
あり、その特徴としては、
「企業支配 + 企業主義的労働運動組合 +下請け制 + 自民党による企
業優位の税財政体系」が挙げられる。
「日本の新自由主義の遅れは、非福祉国家タイプの先進
国の新自由主義化に特有のものであった」
(渡辺 2007: 299)。
渡辺の指摘する開発主義国家体制の内容は、筆者がかつて戦後保守支配体制として論じた
ものとほぼ重なる(新川 2005:第一篇)。しかしそれを開発主義国家と呼ぶことについては、
躊躇を覚える。開発主義国家(developmental state)という概念は、政治学・政治経済学の
分野ではチャーマーズ・ジョンソンの用語として定着しており、そこでは国家官僚(ジョンソン説
では、日本の場合通産省が特に重要)のイニシアティヴが重要となる(Johnson 1982)。この
ような国家主導型の蓄積体制が日本において見られたのは、せいぜいのところ 1960 年代前半
までであり、1964 年貿易自由化以降は企業の自主性・自立性が強まっていったと考えられる。
6) 前述の佐々木(1993a & b)のほか、( 川上・増田 1989) を参照のこと。
7) 厳密に言えば、行政改革は第二臨調をスタートさせた鈴木善幸内閣時代に始まるわけであ
るが、鈴木善幸内閣において行政改革を取り仕切ったのは行政管理庁長官中曽根康弘であった。
- 189 -
そもそも開発主義国家という概念が、福祉国家に対抗する、あるいは代替する概念たりうる
のかという点についても、筆者には疑問がある。福祉国家とは「埋め込まれた自由主義」とい
う国際体制のなかで生まれた政治経済システムを比較分析する概念枠組であるの対して、渡辺
のいう開発主義国家とは日本の政治経済体制の特徴にすぎないように思われるからである。こ
れに対して、開発主義国家をより比較論的に捉えようとする見解もある。G・ゼアボーンは、開
発主義を、渡辺同様に西欧の福祉国家とは異なるモデルであると考え、それを、銀行や信用
を国家がコントロールし、国家主導や銀行・信用統制によって、重工業を育成し、世界市場へ
の輸出指向をもつ体制と考えている。そしてそのパイオニアが日本であり、これに韓国、台湾、
シンガポール、香港、さらにタイ、インドネシア、フィリピンが、マレーシア、フィリピンが続く
という(Thereborn 2008: 8-9)。比較福祉国家論のなかでは、このような開発主義国家におい
ては、福祉が工業化や経済発展に従属している共通性があるとして、東アジア福祉モデルなる
ものを提唱する向きがある((新川 2005: 276-279 参照)。
アジアの経済発展を開発主義モデルから分析することの是非について、筆者には判断する能
力がない。しかしそれが福祉国家の代替であるとか、あるいは固有の福祉国家モデルであると
いう議論については同意しがたい。資本蓄積は福祉国家発展の前提であって、福祉国家はそれ
自体国民経済繁栄のためのプロジェクトである。後発国において国家主導の工業化がなされる
のはごく一般的にみられることであって、それが特定の福祉国家を形成しているとは思われない。
福祉国家は、
「埋め込まれた自由主義」の時代に、一定の国内的政治経済的要件を備えるこ
とによって登場した。日本は、そのような時代にそのような要件を満たすアジアでは唯一の国
であった。日本はアジアでは例外であり、そのことによって福祉国家論のなかで比較検討され
うる存在となった。ゼアボーンを始めとする開発主義国家論者たちは、このような福祉国家の
一般理論と日本の固有事情に対して十分な注意を払っているようには思われない(新川 2005:
276-279 参照)。
福祉国家とは、前述のように、
「埋め込まれた自由主義体制」の下に生まれる。フォーディズ
ム的労使和解が実現し、階級闘争が民主主義政治に翻訳されることを通じて、福祉国家の発
展は促される (Lipset 1981 新川 2009; 2011a)。もとより各国の労使和解と民主的階級闘争の
制度化や権力資源動員状態は各国によって異なり、それに応じて福祉国家は多様である。筆者
は、エスピング - アンダーセンの類型論を踏まえ、脱商品化(社会権の制度化)と脱家族化(男
性稼得者モデルの衰退、直截には女性の男性稼得者からの自立)という指標を用いて、以下
の四つの類型を提唱する。脱商品化が低く、脱家族化の高い自由主義レジーム(市場福祉中心、
アメリカが代表例)、脱商品化が高く、脱家族化が低い保守主義レジーム
(職域別社会保険中心、
ドイツが代表例)、脱商品化と脱家族化、どちらも高い社会民主主義レジーム(普遍主義的国
家福祉中心、スウェーデンが代表例)、脱商品化と脱家族化、どちらも低い家族主義レジーム(家
族・疑似家族福祉への依存大、日本が代表例)である(新川 2009; 2011a)。
日本は社会保障給付費の対 GDP 比が低い点において、また企業福祉への依存が大きい点
- 190 -
でも、アメリカなどの自由主義レジームと親近性をもつ。しかし社会保障制度の構造をみると、
日本は職域別社会保険という保守主義レジームと共通する特徴を持つ(1980 年代後半から年
制度の統廃合が進んでいるが)。ただし保守主義のような寛大な給付を行っておらず、企業福
祉がこれを補完している。また公的な社会保険においても、企業規模別に異なる制度が存在し、
厚生年金基金のように公的制度から企業が離脱することすら可能な制度もあり、企業主義の影
響が色濃く反映されている。
図 5 福祉レジームの 4 類型
脱商品化
高
脱家族化
高
社会民主主義
低
保守主義
著者作成 低
自由主義
家族主義
ところで脱商品化の低い自由主義や家族主義に属する国々、日本やアメリカといった国々は、
福祉国家ではないといわれることがある。アメリカは、市場を通じての福祉獲得に大きな価値
を置き、医療保障においてすら、全国民をカバーする公的制度をもたない。日本の場合、たと
え開発主義国家という概念を用いなくとも、高度経済成長期の政策が福祉を軽視した生産第一
主義といわれるものであったというのは、常識的な見解である。しかし比較福祉国家論におい
ては、どちらも福祉国家の異なる類型として捉えるのが一般的である。それは、繰り返しにな
るが、福祉国家というものを単なる社会保障制度の発展として捉えるのではなく、戦後成立し
た「埋め込まれた自由主義」という国際システムを反映する先進国に共通の現象と捉えるから
である。
アメリカはそもそも「埋め込まれた自由主義」体制を作り上げた国であるし、日本もまた
1960 年代前半までには「埋め込まれた自由主義」の条件をほぼ満たすようになる。日本は占
領下で普通選挙を戦後直ちに導入し、民主主義政治を実現し、1955 年日本生産性本部の設
立によって労資和解体が進み(ただし公共部門は除く)、フォーディズム的蓄積体制が構築され
る。そして1964 年には IMF8 条国となり、本格的に開放経済体制へと移行した。その後日本は、
1970 年前後にはアメリカに次ぐ経済大国となる。完全雇用が実現され、国民生活は豊かになっ
た。福祉国家として分析される政治経済的要件を備えるようになったのである。
「埋め込まれた自由主義」の崩壊は、当然あらゆる福祉国家にとって危機を意味した。各国
の危機管理戦略は、各々の福祉国家のあり方に規定された経路依存的なものであった。資本
蓄積の危機に対して、いち早く新自由主義戦略を採用したのは、自由主義レジームのアメリカ
であった。これに対して、社会民主主義レジームのスウェーデンは、労使協調による賃金抑制
と見返りとしての社会賃金の提供というコーポラティズム戦略によって危機管理を行った。保守
- 191 -
主義の場合、雇用保障が手厚かったため、直ちに新自由主義戦略を採用することはなく、かと
いってスウェーデンのように中央交渉によって賃金抑制が可能になるほど組織労働が強力では
なかったため、コーポラティズム型の賃金抑制は実現せず、結局インサイダーである正規雇用
者の早期退職を促すことによって雇用の流動化、若年者の失業問題を緩和しようと試みた。
グローバル化が本格化する 1990 年代になると、各国はさらなる対応を迫られるようになる。
自由主義レジームのアメリカやイギリスは、1990 年代に入ると新自由主義戦略のさらなる展開
としてワークフェアを打ち出すが、社会民主主義、保守主義レジームにおいても、自由主義レジー
ム同様に労働と福祉との関係を強化する方向へと徐々に舵を切る。スウェーデンの場合、個人
の就労能力を高める教育・訓練プログラムへの投資が大きく、
その蓄積戦略はアクティヴェーショ
ンと呼ばれることもあるが、労働と福祉との関係強化という指向において英米型のワークフェア
と変わるところはない。保守主義レジームが活用した早期退職制度は、国家に大きな財政負担
を強いるだけでなく、危機対応策としてはあまり効果を上げられず、保守主義レジームは危機
管理の失敗例とみなされることになったが、やがてオランダを先頭に、正規雇用と非正規雇用
の垣根を低くし、両者を一元的な社会保障システムで保護するフレクシキュリティ戦略が生み出
され、成果を挙げるようになる。雇用の柔軟性を促すとともに包括的社会保障を提供するフレ
クシキュリティ戦略は、今日では EU の雇用戦略としても採用されている(新川 2011a & b)。
家族主義レジームに属する日本もまた、国際システムの変動によって大きな打撃を被った。
1974 年日本は高度経済成長から一転マイナス成長に陥り、これに対応するために 1975 年春
闘では賃金抑制が行われている(新川 1984)。日本の賃金抑制は、国家の直接介入を避け、
日経連のガイドラインに企業労使が自主的に従うという形をとったため、論者によってはこれを
ミクロ・コーポラティズムと呼ぶ。しかしミクロ・コーポラティズムという概念は、分析概念とし
ては厳密性を欠き、誤解を招くものである。コーポラティズムとはそもそも下部に対して統制力
をもつ頂上団体の存在を前提とした概念であり、企業レベルでの労使協調をあえてコーポラティ
ズムと呼ぶ必要はない。さらにいえば、日本の場合、コーポラティズムのように賃金抑制に対
する見返りとして社会賃金を提供するといった社会契約が存在せず、むしろ自由主義的な結果
を招いている。非正規雇用を増やし(女性パートタイマーが 1970 年代後半から急増する)、こ
れをショックアブソーバーとして利用する、いわゆる「デュアリズム」戦略がとられたのである(新
川 2005: 196-212 頁 ; Goldthorpe 1984)。
こうして日本の危機管理は、家族主義レジーム、労使を運命共同体とする疑似家族たる企業
主義から理解可能である。戦後日本における家族主義レジームは、企業福祉が先行し、それ
に規定された形で公的福祉が後追い的に整備された。したがって戦後日本の社会保障制度は、
体系的な福祉国家ヴィジョンに基づいて構築されたのではなく、企業福祉の存在を所与とし、
戦前・戦中に作られた制度を建て直し、経路依存的に発展したものであった。このようにして
形成された家族主義レジームは、高度経済成長期には、
「遅れ」として認識されていた。1960
年代後半、佐藤内閣における経済社会発展計画(1967 年)、新経済社会発展計画(1970 年)
- 192 -
には、社会資本整備の遅れを是正し、福祉充実をめざす方向性が示されていたし、経済同友
会代表幹事木川田一隆は、
「新しい経済と福祉社会の形成」を唱えていた(新川 2005: 85 -
87)。
ところが高度経済成長期には目標とされた西欧福祉国家は、国際経済システム危機のなかで、
公共部門の肥大と経済の停滞をもたらす先進国病(ヨーロッパ病、あるいはイギリス病とも呼
ばれた)として、厳しく批判され、むしろ家族主義レジームが積極的に評価されるようになる。
先進国病を避けるために、自助や相互扶助という日本の伝統や美風を生かした日本型福祉社
会を実現すべきであるという主張は、1970 年代前半にみられた公的福祉の拡充への反動であ
り、家族主義レジームを自覚的に選択し直そうという動きであった。それまで家族主義モデルは、
歴史的経路依存によって、いわば自然発生的、偶発的に生まれたにすぎなかったが、日本型
福祉社会論のなかで、それは対自化され、将来的ヴィジョンとして彫琢されることになった。
日本の脱「埋め込まれた自由主義」戦略は、家族主義という遺産を活用することによって、
あるいはそれに規定されて、当初から反福祉国家的なものであり、
「小さな政府」論に則ったも
のであった。したがって、日本における新自由主義は、中曽根政権どころか、日本型福祉社会
論が提唱された 1975 年までその起源を辿ることができる。日本型福祉社会論の段階では、市
場原理主義以上に家族主義的価値を前面に押し出すことによって、国家福祉の肥大を抑制しよ
うというモメンタムが強く働いていたが、既に述べたように、新自由主義は伝統的価値をも動員
して福祉国家解体を目指す戦略であることを理解すれば、日本型福祉社会論が新自由主義戦
略の一つのヴァリエーションであることがわかる。そこには、
「公的福祉が民間の活力を損なっ
てはならない」というメッセージが直截に表現されている(新川 2005: 96-109 頁)。
5 二段階構造改革
日本型福祉社会論に示された新自由主義戦略が具体化されるのが、1980 年代の行財政改
革である。第二次臨時行政調査会は「増税なき財政再建」をスローガンに、社会保障改革に
乗り出す。1982 年の老人医療の有料化、1984 年健康保険一部自己負担導入、1985 年の年
金改正など、いわゆる「福祉見直し」が本格化している。公的福祉の抑制に対して、企業レベ
ルでの生涯総合福祉プランの作成が 1970 年代後半から 80 年代にかけて相次いで行われてい
る。また 1982 年老人保健法が導入されるが、厚生省は、慢性疾患の多い高齢者に対して、入
院ではなく在宅介護(医療)重視の方針を打ち出す。しかしながら、1980 年代は、いわゆる「増
税なき財政再建」の時代であり、在宅医療・介護を支える公的支援体制を形成することは出
来なかった。加えて、女性の労働市場参加が増え(その多くは、パートタイマー)、家族福祉の
潜在能力は低下しており、高齢者ケアを家族福祉によって賄うという方針の限界が露わになる。
いわゆる「介護地獄」といわれる現象が生まれたのである(新川 2005: 第 2 編第 2 章)。
1989 年の消費税導入をきっかけに、1990 年代に入ると高齢者ケアの社会化が進む。公的
- 193 -
年金や健康保険における支出抑制の方向は堅持されるものの(保険料引き上げのほかに、健康
保険料窓口負担増、年金支給開始年齢の引き上げ、年金給付の抑制など)、高齢者ケアについ
ては家族福祉から公的ケアへの方向転換、ケアの社会化がみられる。消費税導入と共に高齢
者保健福祉推進 10 ヵ年戦略(ゴールドブラン)が策定され、在宅介護と施設サービスの拡充
が謳われ、1994 年には計画を拡充した高齢者保健福祉計画(新ゴールドプラン)に衣替えが
なされ、1999 年その事業が終了すると、さらにゴールドプラン 21 が提示された。また 1990
年代中葉には、高齢化に対して新たな社会保険導入の動きが本格化し、2000 年公的介護保
険がスタートした。
また子育てについても、公的支援の拡充が見られた。1989 年の合計特殊出生率が、丙午
で極端に低かった 1966 年の数値以下となる1.57 を記録したことが、マスコミに大きく取り上げ
られ、
「1.57 ショック」と呼ばれた。
「1.57 ショック」を契機に、厚生省(現、厚生労働省)が
中心となって、仕事と子育ての両立支援など子どもを生み、育てやすい環境づくりにむけた政
策が展開されることになる。1991 年育児休業が制度化され、その後の法改正によって休業中
の給付も実現している。1994 年12月、
「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」
(エンゼルプラン)が策定され、保育所の量的拡大や低年齢児(0 ~ 2 歳児)保育、延長保育
等の多様な保育サービスの充実、地域子育て支援センターの整備等を図るための「緊急保育
対策等 5 カ年事業などの具体的方針が示された。
1999 年 12 月、少子化対策推進関係閣僚会議において、
「少子化対策推進基本方針」が決
定され、この方針に基づき、
「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について」
(新
エンゼルプラン)が策定された。新エンゼルプランは、エンゼルプランと緊急保育対策等 5 ヵ
年事業を洗い直し、5 年の間に従来の保育サービス関係だけでなく、雇用、母子保健・相談、
教育等の事業も加えた総合的な少子化対策を推進することを謳っていた。2002 年の少子化
対策プラスワンでは、男性の育児への積極的加担を求めている。新エンゼルプランは、2004
年には子供・子育て応援プランへと引き継がれる。
ケアの社会化と同時に進んだのが、女性の労働力化
(労働市場参加)への取り組みである。
「雇
用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」
(いわゆる男女雇用機会均等法)が 1986 年に施行された。当初、募集・採用、配置・昇進に
ついては努力目標にとどまっていたが、改正によって 1999 年から募集・採用、配置・昇進、教
育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇、全てにおいて男女差をつけることが禁止された。同時
に労働基準法も改正され、時間外労働、休日労働、深夜業に関する女子保護規定が撤廃され
た(裁量労働制の対象業務拡大、変形労働時間制の導入要件緩和も実現した)。
2000 年施行された男女共同参画社会基本法は、ジェンダー平等政策の理念をまとめている。
その前文をみれば、
「少子高齢化の進展、国内経済活動の成熟化等我が国の社会経済情勢の
急速な変化に対応していく上で、男女が、互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性
別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の実現は、
- 194 -
緊要な課題となっている」との認識を示し、固定的な性別の役割を見直し、女性差別につな
がる制度や慣習の見直しのため、国や地方、および国民が一丸となって取り組む必要があるこ
とを訴えている。
家族福祉からケアの社会化、女性労働力化促進、ジェンダー平等への動きは、一見 1980
年代の福祉見直しと対立するように見える。第一に、ケアの社会化は当然にしてコストを伴うも
のであるから、福祉縮減というよりは拡充の動きであり、したがって新自由主義戦略とはいえ
ないのではないかという疑問が湧く。第二に、女性の働きやすい環境を政府が率先して整える
というのは、脱家族化政策としては、アメリカ的な市場任せの自由主義化ではなく、国家イニ
シアティヴによって男女平等を実現した社会民主議戦略により近いのではないのかという声もあ
りうる。アメリカのような自由主義レジームでは、脱家族化、女性の家庭からの自立は、労働
市場のデュアリズムを前提に(この場合、市場における安価なケア労働力の存在を前提に)進
められたのに対して、スウェーデンのような社会民主主義レジームでは、社会サービス部門が
女性を直接雇用することによって男女間での平等な賃金・雇用条件を実現したのである。
第一の問題から検討していこう。ケアの社会化によってコストが増えることは確かであるが、
国際比較から見て、この時代日本の福祉国家支出が大きく増えたとはいえない。21 世紀に入っ
て日本の高齢化率は世界で最も高くなっているにもかかわらず、社会保障給付費はなお低い水
準にある。2007 年の OECD 統計資料によれば、日本の公的社会支出(税と社会保険を含む)
の対 GDP 比は 18.7% であり、これはアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドな
どの自由主義レジーム諸国を上回るものの、依然として OECD 平均(19.3%)以下である。西
欧諸国(南欧を含む)は、スイスとアイスランドを例外として、全て日本の数値を上回っている
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2798.html、2011 年 9 月 5 日アクセス)。高齢者向けと家
族・子ども向け支出を別途抜き出したのが、図 6 である。日本の高齢者向け支出は 8% であり、
24 か国中 8 番目となっている。さすがに高齢化を反映して、上位 3 分の 1 グループには入って
いるものの、高齢化率を考えると、支出はよく抑えられているといえよう。家族・子供向け支
出については非常に小さく、最下位グループに属する。このような実態をみれば、確かに 1990
年代のケアの社会化や育児支援政策は財政支出を押し上げたであろうが、日本を「大きな政府」
に移行させたとはいえない。
より重要なのが、脱家族化の質である。女性の労働市場参入に対して国家が積極的に加担
するという点では、日本はスウェーデンと同じといえるが、加担の仕方は大きく異なる。日本の
場合、国家が直接女性の雇用を増やし、男女雇用の平等性を実現しようとしたわけではなく、
女性の多くは(今日では働く女性の約 7 割)パートタイマーや派遣労働者として、すなわち非
正規の安価な労働力として、市場に駆り出されている。したがって、スウェーデンのように男女
の賃金平等化が促されることはなく、むしろ労働市場のデュアリズムは強化されている。つまり
脱家族化は、アメリカと同じような効果を生み出している。日本においては国家が女性を安価
で柔軟な労働力として労働市場に動員することに加担したのであって、それは社会民主主義的
- 195 -
な国家イニシアティヴとは正反対の効果をもつものであった。
図6
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5120.html、2011 年 9 月 5 日アクセス)。
雇用の柔軟化という点で見逃せないのが、男女雇用均等法と同じ 1986 年に施行され、改正
を重ねてきた「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の就業条件の整備等に関
する法律」( 以後労働者派遣法 ) である。制定当初、労働者派遣は業種を限定して認められて
いたが、やがて対象業種が拡大し、1999 年には原則自由化となった。例外であった製造業に
ついても、2004 年には派遣労働が認められるようになった。つまり男女雇用機会均等と非正
規雇用の拡大は同時並行的に進行したのである。両者の複合的効果として、女性は企業にとっ
て使い勝手のいい低賃金労働力として動員されることになった。
このように考えると、1990 年代の構造改革は、新自由主義戦略に反するものではなく、実は
それを一層推し進めるものであったことがわかる。1980 年代の動きは福祉見直し、小さな政
- 196 -
府(適正規模の政府)を標榜するという点では確かに新自由主義的であったが、それは家族主
義的レジームを否定せず、むしろ再編強化する動きであった。したがって 1980 年代には企業
は雇用の柔軟化を図りながらも、余剰正規雇用労働力に対しては解雇を極力避け、中間労働
市場を創出して(出向や転籍を通じて)、終身雇用神話を守ろうとしたのである。これに対して
1990 年代以降の改革は、家族主義レジームの破綻を前提に、市場自由主義的な色彩を強め
ていった。1995 年には日経連がついにそれまでの日本的雇用慣行(なかんずく終身雇用、年
功賃金制)の見直しを宣言し、非正規雇用のみならず、正規雇用の見直しにも乗り出す。終身
雇用、年功制賃金という従来の慣行は全面的に廃止されるわけではないが、将来の幹部候補
生に限られるとしたのである(新川 2007: 220-221)。1990 年代後半から、早期退職制度の
適用が 50 歳代前半、さらには 40 歳代にまで拡大され、年俸制賃金が技術職や役職から一
般被用者にまで広がっていったのは、こうした日経連の雇用新戦略を反映したものといえよう。
(新川、2005: 301-302)。
日本的雇用慣行の見直しは、企業福祉にも及んでいる。公的社会保障の縮減に対して企業
福祉が補完するというのが日本型福祉社会論の想定は、1990 年代後半には崩れた。長期の
不況から適格年金制度を廃止する動きが目立つようになり、厚生年金基金の運用も厳しさを増
すなか、2002 年には企業年金法の改正が行われ、受給権保護が強化されたものの、他方に
おいては厚生年金基金の解散要件緩和や日本版 401kの導入など、経営者負担の軽減、管理
の柔軟化が実現した(新川 2005: 303-308)。1980 年代わが国の労働市場政策は、正規雇用
の日本的慣行を維持しつつ、周辺労働力の拡大を通じて雇用の柔軟化を図るものであったが、
1990 年代後半には正規雇用への保障も薄くなり、雇用の柔軟化が例外なく一般化したといえ
る。しかもヨーロッパの保守主義レジームの採用するフレクシキュリティ戦略のように雇用に対
する社会的保護の網が包括的に張られたわけではなく、新自由主義戦略による柔軟化、つまり
セキュリティなしのフレクシビリティが実現したのである。
結びにかえて:ポスト新自由主義戦略
脱「埋め込まれた自由主義」という世界的大転換のなかで、日本もまた構造改革を迫られた
点で、他の福祉レジームと変わりはなかった。当初日本は、家族主義レジームの遺産を活用す
ることによって、公共部門のスリム化、雇用の柔軟化を図ろうとした。しかし高齢化やグローバ
ル化の進行が、1990 年代に入るまでには、そうした戦略の限界を明らかにした。1990 年代、
とりわけ後半に入ると、わが国の構造改革は家族主義から大きく離脱していくことになる。結果
として、わが国はアメリカの新自由主主義戦略をほぼ全面的に受け入れることになった。小泉と
ブッシュ・ジュニアとの親密な関係は、単なる偶然、個人的なものではない。小泉政権時代は、
日本が最もアメリカ自由主義に近づいた時代であった。
しかし、いうまでもなく、日本はアメリカになりえない。新自由主義戦略はその完成とともに、
- 197 -
見直しを迫られる運命にあった。とはいっても、時代の歯車を逆転させることはできない。雇
用の柔軟化やジェンダー平等の流れを前提として、新自由主義戦略を見直す現実的選択肢とな
れば、フレクシキュリティ戦略以外にはないだろう。膨大な累積赤字を抱える日本が、グロー
バル化の時代に、社会民主主義レジームへと移行する可能性はほとんどない。雇用の柔軟化を
前提に、非正規雇用者を含む一元的包括的社会保障システムの構築を図るしかない。
ただし、たとえ労働時間の短縮、ワークシェアリングが広範に実現したとしても(その可能性
は決して大きくはないが)、今日の日本において、望む者全てに良好な雇用機会を与えることは
難しい。国際分業の流れは止められず、日本国内で良好な雇用需要が飛躍的に伸びるというこ
とは考え難いからである。したがって国際分業、そして高齢化に対応した社会的保護システム
の構築が不可欠になる。その際考慮されるべき二つの重要なことがある。一つは雇用に関係な
く、働いていようがいまいが提供される基本給付を実現すること、いわゆるベーシックインカム
の実現である。
ベーシックインカムついて筆者は幾つかの論稿を公表しており、詳しくはそちらに譲るが、こ
こで一点強調したいのは、ベーシックインカムが良好な雇用が減少する時代に、ディーセントな
仕事を選択する可能性を提供するということである。何がディーセントであるかということを特
に定義する必要はない。自分がやりたくないと思う仕事をしない自由が得られるだけで十分な
のである(新川 2002; 2010; 2011c)。
もう一つ重要なのは、普遍主義的な医療保障の実現である。高齢社会において喫緊の課題
は、普遍主義的医療サービス、すなわち誰でもが均等に、窓口負担なしに、医学上必要なサー
ビスを受けられるサービスの実現である。
健康上の不安は、
高齢者にとって、
最大の関心事といっ
て過言ではない。高齢者に二割、三割の窓口負担を課したのでは、高齢者の将来的不安に拍
車をかけ、国内需要に水を差す結果となる。高齢社会においては高齢者の購買力を引き出さな
ければ、国内需要は伸びない。最低限の所得保障と普遍主義的な医療保障の整備は、グロー
バル化と高齢化のなかにあって、社会的(国民的)連帯と経済の活性化を実現する要である。
このようにフレクシキュリティ戦略においても、なお大きな財政出動が必要となることは避け
られない。巨額の累積債務を抱えるこの国において、はたしてそのような財政出動が可能なの
だろうか。財政赤字は、簡単にいって、収入に対して支出が多すぎるわけである。その解決は、
支出を減らすか、収入を増やすしかない。既にみたように、わが国はその高齢化に見合っただ
けの十分な支出をしていない。問題は十分な収入がないところにある。税収の自然増が期待で
きないなら、増税(+社会保険料引き上げ)するしかない。それができていないのは、政治へ
の信頼が不足しているからである。
税の国民への還元率が高くなれば、国民は政府を信頼し、増税路線を受け入れることも可
能になる。膨大な財政赤字をもつからといって政府が何もしなければ、赤字はますます肥大し、
国民生活の不安は募るばかりで、政府への信頼はますます低下する。このような悪循環を断ち
切るためには、政治がイニシアティヴをとる以外に道はない。政治主導によって、明確なヴィジョ
- 198 -
ンを提唱し、それを実行することこそが、政府への信頼を獲得する第一歩である。税が国民に
還元される道筋を明らかにしないまま、増税路線を突き進むなら、それは国民の不信を煽るだ
けであり、必ずや失敗する。財政は単なる帳尻合わせではない。それは優れて政治的営みであ
る。今日の財政問題は、政治の失敗を物語っている。財政悪化と政治不信の悪循環を断ち切
るために必要なのは、いかに虚しく響こうと、政治のイニシアティヴなのである(新川 2009)。
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*本稿は、科学研究費補助金・学術創成研究費「ポスト構造改革における市場と社会の新た
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創成研究中間総括シンポジウムにおいて筆者が行った報告「国際比較にみる福祉レジームの
分岐と収斂」
(2009年3月13日)をもとに、その後の状況をふまえて改稿したものである。
本稿は、加筆修正の上、
『民商法雑誌』第 145 巻第 2 号に発表されている。
- 200 -
ケア・制度・専門職
― 福祉国家再編への視座 ―
京都大学大学院法学研究科 服部 高宏
1 はじめに
ギリガン(Carol Gilligan)の著作『もうひとつの声』を契機に「ケア倫理」が注目を集め、
その意義が再発見されて以来、普遍性・抽象性・自律性・原理性等の性格をもつ正義の思
考とは対照的に、個別具体性・状況性・関係志向性・情緒性等の特徴をもつケアの思考に
ついて、その意味と射程をめぐる議論がさまざまな学問分野においてさかんに行われてきた 1)。
しかしながら、その一方で、社会の制度的仕組みや社会政策の在り方に関する規範的議論に、
こうしたケア的思考を反映させることができるのか、またそれが可能であるとして、それをどの
ようにして行うのかについての検討は、わが国では必ずしも十分に行われてこなかった。
他方、現実社会に目を転じれば、今日もなお、自由で平等な自律的個人の選択・自己決定
を基底に据えるリベラルな国家・社会の在り方をよしとする見方が概ね優勢である。多くの先
進諸国において抜本的な見直しを迫られているリベラルな福祉国家のプロジェクトも、伝統的
なリベラリズムの枠組みを前提としつつ、その都度の具体的な必要や要請を対処療法的にそ
こに組み入れることにより、問題の克服に努めるものであった。具体的には、市場の不確実性
や市場の失敗に備え、失業補償、障害年金その他のセーフティーネットを整備することで、個
人に生じうる危険や衝撃を緩和しようという構想に基づいている。しかし、こうした対応がある
種の閉塞状況に陥っている今日、制度の前提となる理念や枠組みそのものについて今一度顧
みる必要が生じているのではないか。
本稿では、当初はもっぱら私的な領域や個人的な関係にその意義が見出されたところから
出発したケア倫理について、これを公的領域においても一般的・普遍的に妥当しうる価値とし
て捉え、さらに社会の基本的なフレームワークの構想や、社会政策の具体的な展開にケアの
思考を活かそうとする最近の英語圏の議論に注目する。もとより、かかる議論も現時点では
発展途上のものが多く、個別具体的な政策提言を中心としたり、抽象的なアイディアの展開に
とどまったりして、確固たる代替案を提示するでは至ってはいない。しかし、福祉国家再編を
1) ケア倫理への注目をはるかに遡り、古代ギリシア・ローマの時代から現代にいたる「ケア」
論の流れを鳥瞰するものとして、『生命倫理百科事典』に収められた「ケア」の項目(ライク
他執筆)(Reich 2004: Vol.1, pp.341-374 = 2007、第 2 巻、862 ~ 890 頁)を参照。
- 201 -
構想するにあたり、発想の転換を試みる際の重要な観点を提供するのではないかと期待でき
るものも少なくなく、その意味でかかる議論動向を追うことには一定の意義があると思われる。
また、その中には、福祉国家の質的側面での展開を語る上で重要なケアの専門職の職制の在
り方についての言及も散見され、併せて注目される。
以下では、まず、ケア倫理の主張の概要とその主唱者たちの初期の見解の展開を見た上で、
次いで、ケアを社会政策の基礎的価値として位置づける論者たちの考え方を整理し、その特
徴を探る。最後に、そのうちの何人かの論者の見解において重要なものとして取り上げられる
ケアの専門職の職務遂行の在り方、さらにその制度化について、補足的に問題点を指摘する
という順序で論述を進めたい。
2 ケア倫理とその展開
(1)「ケア倫理」と「正義倫理」
周知のように、教育心理学者のギリガンは、1982 年の著書『もうひとつの声』において、
女性に典型的に見られる一定の道徳的思考・性向に注目し、男性的な「正義倫理(ethics of
justice)
」と対比して、これを「ケア倫理(ethics of care)
」と名付けた。「正義倫理」とは、
彼女の師コールバーグ(Laurence Kohlberg)の道徳発達理論が重視したものであり、普遍
的な原理に基づく公平で自立的な道徳的判断の様式を指す。彼の理論は、ロールズ(John
Rawls)の正義論にも好意的に受け容れられたが、しかしもっぱら男性を被験者とする調査に
基づくものであるため、女性の発達過程を上手く捉えられず、女性の発達段階を低く位置づけ
る結果となった。これに疑問を抱いたギリガンは、女性を主な被験者にして調査を行い、コー
ルバーグも用いた「ハインツのジレンマ」(重病の妻を救うため、その治療薬を開発して高く
売る町の薬屋に安くしてほしいと掛け合うが断わられ、やむを得ず薬屋に押し入って治療薬を
盗んだハインツの行動の是非を問うもの)も用いつつ、彼女たちの声を丹念に聞き取ることに
よって、男性の思考に比して散漫にみえる情緒的なその思考様態の中に、他者との関係の形成・
維持を何よりも優先し、相手のニーズに応じようとする、気づかいと責任の意識に充ちた独特
の道徳的思考を見出したのである 2)(Gilligan 1982)。
クレメント(Grace Clement)の整理を用いるなら、正義倫理とケア倫理の違いは以下の点
にある。第 1 に、道徳に対するメタ倫理学上の接近方法の違いである。正義倫理は、一般
化された他者を想定し、原理や規則に基づく普遍的で公正な道徳的判断を求める抽象的なア
プローチを採る。これに対し、ケア倫理は、具体的な他者との関係において、個別・具体的
2) ケア倫理については、その意義にいち早く注目した川本(1995)の他に、倫理学上の
問題から社会政策上の最近の理論展開まで含めてケア倫理について幅広く検討を加えた品川
(2007)第 7 章~第 11 章を参照。法哲学の領域では、その基層にケアと尊厳の理念を見出す
ことで正義と自由を論じ直そうとするものとして、葛生(2011)が示唆に富む。
- 202 -
状況の中で自然な感情に基づく道徳的判断を重視するという文脈的なアプローチを採用する。
第 2 に、
自己(self)についての考え方の違いである。正義倫理は、人の別個性(separateness)
に照準を合わせ、自律的で自由な意思主体としての自己とその選択を重視し、そのため、他
者に対する義務づけは、何らかの意味での本人の同意を必要とすると考える。他方、ケア倫
理は、人のつながり(connectedness)を基礎に自己概念を捉え直すため、依存的(dependant)
な他者に対して人が負う特別の義務を、その人の選択の対象としてではなく、むしろ承認さ
れるべき所与として捉える。第 3 に、何にプライオリティーを置くかの違いである。すなわち、
正義倫理は平等を優先し、「等しきものは等しく、等しからざるものは等しからざるように扱う」
を旨に画一的な対応を求める。これに対し、ケア倫理は、他者との関係のネットワークの維
持や、自分が関係する他者のニーズに応えることに行為の優先性を見出す(Clement 1996:
11-20)。
さらに、関連する論点としてクレメントがこれに付け加えるのが、正義倫理が前提とする公私
(public/private)の区分をどうみるかという点である。初期のケア倫理の主張者たちは、こ
の点において一枚岩ではなかった。ケア倫理の射程を私的な個人間の関係に限るべきだと説
く者がある一方で、公私を区別する枠を相対化し、公的な文脈にまでその拡充を図るべきだ
と主張する者もあった 3)。
ギリガンと同時期にケア的思考の意義を強調したラディック(Sara Ruddick)とノディングス
(Nel Noddings)の見解に、すでにこの点に関する立場の違いが現れていた。教育哲学者の
ノディングスは、
ケアし・ケアされる者の間の相互性を強調するため、
「ケア」でなく「ケアリング」
の語を用い、「専心没頭(engrossment)
」の意味で把握される自然なケアリングを、必要な
ときには倫理へと高めるべきだとすら説いた。その際に彼女は、かかるケアリングの関係の射
程をあくまでも個人間の関係に限定し、その普遍化可能性を否定した。つまり、特定個人の
ニーズに応えようとする直接対面的(face to face)なケア(caring-for)だけが可能であるとし、
公的領域での一般的な他者に対する普遍的ケア(caring-about)の可能性を排除するのであ
る(Noddings 1984:112-113)。
他方、哲学者のラディックは、ギリガンの『もうひとつの声』よりも一足早く1980 年に発表
された「母性的思考」と題する論文の中で、子を保全し、成長を促し、社会への受容をすす
める母的実践を支える母性的思考の独自のはたらきに注目した。そして、一種の科学性すら
認められるこの思考に、独立の規範的視座としての意義があると強調した上で、これを親子な
3) なお、クレメントはこれ以外に、自律概念をどう捉えるかという点も付随的な重要論点と
して挙げている。正義倫理が自律概念を中心に置くのに対し、他者への依存や愛着(attachment)
を重視するケア倫理は、自律を中心的な価値と考えず、さらにその望ましさや実現可能性にさ
え疑義を差し挟む(Clement 1996: 21-44)。本稿では取り上げられないが、この問題点との
関連で、ケア倫理を擁護する論者たちにより、「関係的自己(relational self)」や「関係的自律
性(relational autonomy)」の概念が展開されているのも注目される。
- 203 -
ど個人間の関係に留まらず、非暴力の組織化といった形で公的領域においても活かすべきだ
と説いて、萌芽的な仕方においてではあるが、ノディングスとは対照的に、のちのケアの制度
化・政策論的展開に向けて早くも布石を打っているのである(Ruddick 1989 に収録)。
後述するように、ノディングスも後に自らの立場を修正し、積極的にケアの社会政策論を展
開し始めることになる。しかし、ハンキフスキ(Olena Hankivsky)が「ケア論の第一世代」
と呼ぶこれら初期の論者たちは、少なくとも 1980 年代の状況では、ケア倫理が公的領域とそ
の諸制度に対してどれほど重要で、また応用可能であるかを、説得的に示すには至らなかっ
たのである 4)(Hankivsky 2004:11-14)。
(2)リベラリズムの側からの対応
その一方で、正義の観念を重視するリベラリズムの主唱者のなかには、ケア倫理をあく
までも正義倫理の補完物として捉え、リベラリズムの基本構想の中にケア倫理を同化・吸収
(assimilate)することにより、両者の統合を図ろうとする論者もあった 5)。
たとえば、批判理論とフェミニズムの統合を目指す政治学者ベンハビブ(Seyla Benhabib)
は、ハーバーマス(Jürgen Habermas)の討議倫理について、これが依拠する普遍主義を相
互作用的な意味に読み替え、さらにこれに差異の承認の要素を加えることによって、“ 一般化
された他者 ” ではなく“ 具体的な他者 ” が “ 現実の対話 ” を通じて合意を獲得する手続として、
討議理論を再構成すべきであると主張している(Benhabib 1987)。
また、リベラル・フェミニズムに属する政治学者オーキン(Susan Moller Okin)は、ケア
倫理の観点からロールズの正義論を読み解くことによって、子どもの正義感覚の発達を重視す
る彼の見解について、むしろケアや差異を承認する仕方で理解するのが整合的であるとの結
論に達している(Okin 1989)。
さらに、リベラリズ ムを 基 礎 に多 文 化 主 義 を 展 開 する政 治 哲 学 者 キムリッカ(Will
Kimlicka)は、依存的な他者の主観的要求への応答責任については、個人の自律を基礎とす
る正義倫理の射程を超えることを認めつつも、関係性の保持および具体的差異への配慮とい
4) その一方で、ケア倫理の主唱者に対しては、主にリベラリズムの側から、種々の批判が投
げかけられた。要点のみ述べるなら、①ケアの倫理を女性固有の倫理とみる本質主義に堕する
危険がある、②身近な人間関係のみにかかわる偏狭主義である、③ケア役割の女性への押し
つけとなる、④他者との一体性を強調するあまり、ケア提供者にとって他者のニーズが自明の
ものとなりがちで、パターナリズムに陥りやすい、⑤ケア関係内部で生起する問題(近親者に
よる暴力行為等)に有効に対応できない、⑥他者志向的であり、ケア提供者自身に対するケア
の視点が欠如ないし不十分である(ケア従事者のバーンアウトの問題等)、等々である(vgl.
Herrmann 2008:360-361)。
5) 家族問題との関連で、リベラル・フェミニズムの立場からケア倫理の提起する問題にも対
応する野崎(2003)も、大きく類別すればこのグループに属するであろう。
- 204 -
うケア倫理の要請については、リベラルな正義倫理によってこれに十分に対応できると説いて
いる(Kimlicka 2002: 398-420 = 2005、571 ~ 600 頁)。
しかしながら、自律的人格の概念を基礎に、公正や平等、個人的権利、抽象的原理等を
重視する正義倫理と、相互的な関係性に基づき、他者のニーズへの応答、つながりの維持、
他者への責任、具体的な文脈での判断を重んじるケア倫理とでは、両者の間の視座の乖離は
非常に大きいと言わざるを得ない。それゆえ、正義倫理を基軸にしつつそれと相容れる限り
でケア倫理を組み込む仕方で両者を統合しようとするこうした試みによっては、ケア倫理の意
義と価値が十分に反映される理論が展開されるのを期待するのは困難であろう。
そこで近年では、ケア倫理に重きを置くフェミニストたちにより、むしろケア倫理を基本的な
価値として基底に据えた社会秩序や国家の構想を展開しようという試みが盛んに行われるよう
になっている。それは、ケア倫理の制度化の試みであり、ケアの社会政策の展開であり、また
ケアを基本的価値とする福祉国家の在り方の再編への取り組みであるとも言えるだろう 6)。
3 ケア倫理の制度化と社会政策
以下では、ケア倫理の意義を積極的に評価する立場から、ケアを公的領域でも妥当する基
底的価値として捉え、さまざまな仕方で制度化によるその普遍的実現や社会政策としての具体
化を図る論者として、トロント(Joan C. Tronto)
、ノディングス、ヘルド(Virginia Held)
、キ
テイ(Eva Feder Kittay)
、およびエングスター(Daniel Engster)の見解を取り上げることと
しよう。
(1)J・トロント
政治学者のトロントは、女性の立場からの道徳的議論を阻むものとして、①道徳と政治の境
界、②公正な道徳的観点から引かれる境界、③公的生活と私的生活の境界、以上 3 つの道
徳的境界(moral boundary)を批判的に検討し、これらをすべて脱構築化する。その際に彼
女が注目するのは、社会の中心にある者たちの特権はどのようにして支えられているのか、と
いう問いである。
トロントは、ケアをたんなる態度・性向としてではなく、専心・責任・能力・応答等のある
種の性質を伴う実践として理解する。そして、相手に対する非対称的な関係においてではなく、
6) ケア倫理の制度化あるいは社会政策的な取り組みの重要性については、川本隆史が早くか
らして指摘してきたところであり(川本(1995))、川本自身もまた、医療・看護・介護・教
育の分野の専門家・研究者とともにその検討を開始している(川本(2005))。この点に関し
ては、品川(2007:第 9 章・第 10 章)や池田(2011)の議論の整理や問題点の指摘が参考
になる他に、最近では有賀(2011)がケアワークの再分配や、シティズンシップ論、現代家
族論などに照準を合わせ、ケア倫理の規範理論に取り組んでいる。
- 205 -
自己・相手・第三者を含むすべての者が生活を営む世界そのものに対する態度を含むものと
してケアを幅広く捉え、社会的文脈の中にケア関係を位置付ける。その一方で、ケアにおけ
る相手のニーズへの応答性を強調することにより、それがパターナリズムに堕する危険も回避
しようと、こうしてケアに基づく制度的政治理論を構築する視点を切り開くのである。
最終的にトロントの描くケアリングの政治理論のビジョンは、よりケア的であるシティズンシッ
プを吹き込まれたリベラル・デモクラシーのそれであり、かかる構想においてケアは、リベラ
ルで多元的で民主的制度の文脈の中での政治的理想として活かされることになるのである。と
いうのも、そこでケアは、ニーズについての公共的議論や、ニーズや利益の相互関係を肯定
的に評価する政治を前提にするからである(Tronto 1993: 157-180)。
トロントの見解はケア概念をかなり拡張・抽象化しており、その分だけ具体的な国家や政治
の形が見えにくくなっている面があるが、それでもケア倫理の問題提起を受け、これをシティ
ズンシップ論へと議論を展開している点に大きな特徴がある。
これと同様に、ケアの相互依存関係を軸にした新たなシティズンシップの構想として、フ
レイザー(Nancy Fraser)やヤング(Iris Young)の見解も注目されている 7)(Fraser 1989;
Young.1997)。さらに、フレイザーの教え子で政治学者のクレメントも、トロントにも触発され、
ケアと自律のディコトミーを越え、両者と相容れる関係的な自己概念を模索し、公私の領域区
分を超え出でてケア倫理の射程を公的領域にまで拡げた上で、ケアを基礎的な道徳的原理と
し、紛争解決より紛争防止に重点を置いた社会政策論を展開している(Clement 1996)。
(2)N・ディングス
ノディングスは、前述の通り、『ケアリング』では caring-for と caring-about を区別して後
者の可能性を否定したが、2002 年の著書『家庭から始める(Starting at Home)
』ではこの
見解を修正し、caring-about に正義感覚の道徳的基礎として一定の意義を認めるに至った。
これは、彼女のケア論を個人的な関係からより広い公的な領域へと拡大することを意味し、彼
女が同書でケアの社会政策論を展開する上で大きな転換点であった。もっとも、彼女は、特
定他者のニーズに直接に応える対面的なケアリングである caring-for こそ何より重要であるこ
との見解は堅持している。そして、公的領域でのケアリングの制度化とも言える caring-about
は caring-for を成立・維持・充実させるための手段的な意味をもつことを強調して、正義を
7) ケア倫理の影響を受けたシティズンシップ論について検討するものとして、岡野(2010)
第 4 章・第 5 章参照。
- 206 -
caring-for に優先させるカント的見解との違いを際立たせるのである 8)(Noddings 2002:2124)。
その上で、ノディングスは、ケアすることを学ぶ場を形成・維持するための社会政策の重要
性を指摘する。そこで、そうした社会政策の起点となるのが、家庭(home)である。彼女が
家庭ということで念頭に置くのは、特定タイプの家族ではなくて、むしろ人に屋根や食糧等の
資源を与え、他者との出会いの場となり、相互交渉の仕方を教え、社会的受容に備え、人が
自己のアイデンティを育む場である。そして、ホームレスなどの家庭のない人たちに家庭を与
えること、家庭を機能させるために教育を改善することなどが彼女の社会政策の具体的な柱と
なるのである(Noddings 2002:150-161、248ff.)。
その際、ノディングスによると、社会政策を展開する上での基本となる態度は、ケアを必要
とする他者に対する「私はここにいます(I am here.)
」という応答(response)であり、そし
て、そうした応答の能力を高めていくことが重要であるとされる。そして、彼女は、かかる基
本的態度をふまえた社会政策であれば、「応答する立場にある人たちが、ケアを求めあるい
は明らかに必要としている人たちに対してケアをもって(with care)応答することを不可能に
するようないかなる原理やルールも否定するであろう」という。これは、制度の仕組みが社会
サービスに携わる人たちの努力の障害になってはならないことを意味し、また応答性や自発性
(willingness)を旨とするこうした業務では、官僚機構より家族間の関係に類似したプログラ
ムの在り方が望まれるということでもある。それゆえ、ノディングスは、――教育学者である彼
女は教員等を念頭に起きつつ――「専門職は高いレベルの能力に至るまで訓練されねばなら
8) ノディングスは、自然的ケアリングと倫理的ケアリングを区別するが、その点との関連で
もカント的な見解との違いを強調している。彼女によると、自然的ケアリングとは特定の他者
のニーズに応えるために「私は~しなければならない(I must)」という自ずと湧き起こる自
然な感情であり、それはその人にとって他に選択肢のあり得ない当然な行為である。他方、ケ
アすべき立場にある人――教育哲学者のノディングスにとっては教師がその典型として想定さ
れるであろう――にそうした I must という感情が自発的に起こらない場合には、ケアリング
の感情の喚起が倫理的な義務として課される。このようにケアリングの義務づけを説くノディ
ングスであるが、彼女にとって、あくまでも自然的ケアリングが第一義的なものであり、倫理
的ケアリングは自然的ケアリングを確立・回復するための手段としてのみ位置づけられる。そ
の限りにおいてノディングスは、義務から行為することを倫理の要とみるカント的立場との差
異を強調するのである。また、I must というのを捉えて、かかる意味でのケアリングも原理な
のではないかとの批判が浴びせられていることに対して、彼女は、それが原理であるとしても
記述的な原理であり、カント的な意味での指図的原理ではないとして、批判を斥けている。こ
のように論じた上でノディングスは、自分の見解が、ケアされる人への何らかの効果を求める
という点で、――功利主義ではないものの―― 一定の帰結主義的な立場に立つことを認めて
いる(Noddings 2002: 26-29)。
- 207 -
ず、広範囲にわたる決定が任されねばならない」と述べて、専門職の裁量の重要性を説くとと
もに、「判断する者から効果的に判断を奪ってしまうような命令的な法律はあってはならない」
と主張する(Noddings 2002:231-232)。
他方、ノディングスは、ケアの専門職(caring profession)に裁量を認めることで生じる
濫用等の恐れについては、かかる危険があるからといって専門職の判断の余地を元から排除
してはケアの仕組みそのものが無意味になるとして、むしろ現実に起こりうる裁量の逸脱・濫
用等のそうした危険に対しては、専門職が互いの活動をモニターし合い、必要に応じて再検
討の提案をし、クライアントとの間で紛争が起こればそれを調停する役目を果たす審査委員会
(review board)等の仕組みを設け、かかる事態に備え対応するのが望ましいであろうとして
いる(Noddings 2002:232-233)。
(3)V・ヘルド
ギリガンやノディングスとともにケア理論の第一世代に属すとされ(Hankivsky 2004: 1114)
、1980 年代からケア倫理の意義を説いてきた哲学者のヘルドも、当初は公私の領域区分
と正義およびケアの視点の役割について自分自身十分な考察ができていなかったとの反省に
立って、2006 年の著書『ケアの倫理――個人的、政治的な、そしてグローバルな』におい
ては、社会を構成する価値としての正義とケアの関係について考察を深めようとしている。彼
女が問うのは、ケアと正義についてどのような編み合わせ(meshing)の仕方を構想するかで
ある。この点についてヘルドは、候補となるいくつかの見解に検討を加えた上で、ケア関係を
広い道徳的枠組みあるいはネットワークとして基底に据え、そこに――効率や徳と並んで――
正義が適合的に配置されるという形の両者の編み合わせの仕方に到達する。その根底にある
のは、たとえば家庭生活がそうであるように、人の生活の大半は正義なくして営まれるのに対し、
ケア関係はほとんど誰もがこれを生涯にわたり必要とするという事実である(Held 2006: 6872)
もっとも、これは正義その他の価値をケアへと解消する還元主義(reductionism)を説くも
のではない。正義や効率、公正といった価値には、ケアとは別の次元の価値があるとされる
からである。ただ、あくまでもケア関係を基礎に据えた上で、たとえば、諸個人を抽象的な人
格とみるのが最善であるかどうかが、一定の不正義に対応する上でそれが適切かどうかという
観点で問われるのである。個人=抽象的人格という見方は、公法の領域や税制、人権の保障
といった一定の領域にとってのみ適切な見方なのであり、かかる見方それ自体が特定の領域
を超えて普遍的妥当性をもつのではないのである(Held 2006: 72-75)。
ヘルドは、権利主張が展開されるリベラルな社会の基礎に社会的信頼(social trust)がな
ければならないことに注意を喚起し、かかる信頼が崩れれば権利の尊重も不可能になるとして、
ミノウ(Marsa Minow)らフェミニズム法学の論者とともに、それを支えるケアの価値の承認
に資するような仕方で、権利を方向づけ、権利概念を再定式化すべきであると主張する。そ
- 208 -
の一方で、法・権利に基づくアプローチをあらゆる領域の道徳的・政治的問題に拡げる “ 法
帝国主義 ” に与してはならないとし、あくまでもケアの視点を基礎に据えた上で、個々の問題
について、それを法・正義の視点で解釈するのか、あるいはそれ以外の道徳的価値を軸に考
えるのかを検討しなければならないと説く(Held 2006: 138-147)。
(4)E・F・キテイ
こうした問題への対応として、家族の在り方にも関連して興味深い提言を行い、近年わが国
でも注目されているのが、哲学者キテイである。彼女は、「私たちはみな誰か母の子である」
という一般原理を立てて依存関係を共通の道徳的基礎とした上で、人に対してケア提供を行う
者も、依存労働者として「母の子」である以上、キテイが「ドゥーリア(Doulia)
」と呼ぶ原
理に従い、それに見合った何らかの形のケアを要求することができるとする。ここでいうドゥー
リアとは、母が幼児をケアするのと同様、新たに母となった人を支援する出産後のケア者の名
前からとられたものである。そして、この原理に基づき彼女は、「我々が生きるためにケアを要
求したように、我々は他者――ケアという作業をする者も含めて――が生き残るために必要と
するケアを受け取るのを許す条件を提供する必要がある」と説くのである 9)(Kittay 1999: 6871, 132-134, 140-146 = 2010、159 ~ 163、292 ~ 294、305 ~ 316 頁)。
キテイのドゥーリアの概念は、ケアする人が他者に直接にケアを与える能力を育むのを支
援しようとするものである点で、先にみたノディングスの社会政策の見方と類似点がみられる。
その一方で、キテイの理論は、ノディングスが見落とした重要点、すなわち、ケア提供者がケ
ア提供の実践によりしばしば搾取され不利益を受けるという問題に、取り組もうとするものであ
る。この点について、キテイは、ケア提供者がケアワークにより不公正に負担を掛けられない
ようケア提供者自身にケアを与える必要性を強調することにより、この重要問題の解決の糸口
を与えようとするのである。
(5)D・エングスター
以上のような議論の展開を視野に入れつつも、個人のケア実践を支援する政治制度の在り
方について個別政策を超えて一般的に説明することに成功している者はまだいないとして、自
らその課題に取り組もうとするのが政治学者のエングスターである。
彼は、
ケアに政治的価値を見出し、それを政治構造の一部とする理由を説明するために、
オー
ストラリアの哲学者グッディン(Robert E. Goodin)が展開する、脆弱性(vulnerability)に
基づく他者への集合的責任論に依拠する。グッディンは、人は自らの行為により傷つけうる状
9) また、フェミニズム法学者の M・ファインマンも、依存的関係として捉えられる母子関係
等のケア的関係に注目し、かかる関係に照準を合わせて国家の積極的な保護的介入が行われる
べきだとする実質的平等論を展開し、そうした本来の狙いから外れた今日の婚姻制度は無用で
あると提言している(Fineman 2004 = 2009)。
- 209 -
況にある他者に対して道徳的責任を負うと述べ、他者への道徳的責任を根拠づけた上で、さ
らに、集団を組織することでよりよくその責任が果たせる場合には、人は集団の組織化を行っ
てそれに対応する道徳的責任を負うとする 10)(Goodin 1985: 118-136)。ケアの提供について
も同様に考えるエングスターは、自分にそうしたケア提供が可能であるなら、ケアを必要とす
るすべての他者をケアする道徳的責任が生じるとし、さらに、集団によってしかその責任が果
たせず、あるいは集団による方が効率的にそれを果たせる場合には、集団的なケアのスキー
ムを組織して支援をする責任を負うと説く。とはいえ、これを私的または慈善の団体ではなく、
政府自らが、あるいは政府が関係する仕方で制度化することを正当とするには、追加の理由
が必要である。この点につきエングスターは、①平和・安全保障、環境保護など政府または
その関連主体にしか効率的に充足できないニーズがある、②ケア提供の地域偏在等を防ぐた
めにケア提供活動のコーディネートを行い、またネグレクトや濫用に対する監督を行うことに
よって、すべての人の基本ニーズが社会により効果的に満たさせるようにするには、政府など
の関与が不可欠である、③ケアを必要とする他者への道徳的責任を公平に義務づけるには政
府の関与が必要である、以上 3 つの理由を挙げて、政府が主体的にまたは政府が関与する形
でケア提供を行う必要を根拠づける(Engster: 70-75)。
では、ケアを行う政府はどのような構造原理により構築されるのか。エングスターは、内政、
経済、国際関係の各分野について検討を行っているが、ここではさしあたり内政のみを取り上
げ、彼の構想をみてみよう。ケアの提供者が受給者に直接対面する個人間的ケア(ノディング
スのいう caring-for)とは異なり、かかる care-for が活発に行われうるための条件整備のため
の公的な領域での制度・政策に関する集合的・制度的ケア(caring-about)においては、実
際のケア提供はソーシャル・ワーカーや医療専門職等に委ねることになるが、その場合でも人
は、専門職等が行うよりよいケア提供を支援するという仕方で、ケアの受給者であるその他者
をケアしているのである。その際に、ケアを行う政府の目的はまず、ケアする個人のそれと同
様に、①人が自己の基本的ニーズを満たす手助けをする(生き抜くためのケア)
、②人が基
本的能力を発展させ維持するのを手助けする(成長のためのケア)
、③人が不必要な苦痛や
苦悩を避けるのを助ける、以上 3 点にある(Engster 2007: 75-76)。
10) グッディンは今日、功利主義に基づく公共哲学の主唱者として注目されているが、彼が
80 年代に明らかにしたかかる道徳的責任論は、ケア倫理の制度化・政治化に賛同する論者た
ちの間で、しばしば用いられている(たとえば、Young(1997)、Tronto(1993)、Clement
(1996)など。キテイも、一部修正した上でグッディンの脆弱性論を参照しつつ議論を展開し
ている(Kttay(1999)))。グッディンの議論のポイントの 1 つは、ある人の「傷つきやすさ(脆
弱性)」の概念を、それに対して影響を及しうる人との関係において規定しうる、相関的な概
念として捉えている点にある。すなわち、自分が行動を起すかどうかにより、他者が実際に傷
つくかどうかが左右されるような立場にある者は、その他者に対して道徳的義務を負う、とさ
れる。
- 210 -
しかし、枠組みのみでは実のあるケアは行われない。問題はどのようにしてケアリングの徳
(virtue)を政府のプログラムに組み入れるかである。この問題との関連で、ケアする政府の
目的にさらに 2 点が加えられる。ケアのプログラム形成・実施へのレシピエントの関与の推進
と、政府のケア提供プログラムにおける補完性(subsidiarity)の原則がそれである。すなわ
ち、④政府がケア提供支援プログラムを組織するときは、潜在的なケアの受給者(recipient)
をできるかぎりこのプログラムの作成・実施の過程に組み入れるようにすべきである、⑤政府
はケア提供をできるかぎり個人および地方レベルに移し、個別具体的な事情に対応する仕方
でケア提供ができる家族、ケア提供事業者、地域団体等を支援することで、ケアリングを推進
すべきである。そして、ケアを行う政府の最後の目的としてエングスターは、ケアのプログラ
ムが容易に利用できるよう、⑥政府はケアの支援と調整のためのプログラムに対し、すべての
人からのアクセスを容易にするよう努める、という項目を挙げるのである(Engster 2007: 7579)。
なお、エングスターによると、⑤でいう補完性原理は、保守的なケアの民営化提案と混同し
てはならない。たしかに、保守派もまたケアはできるだけ家族・友人・地方組織等で行われ
るべきだと主張するが、その際に彼らはケアのみならずコストも自前で行わせようとする。そ
れに対し、ケアに取り組む政府は、個人や家族地域ケアに対し、適切なケアへのアクセスが
可能となるよう補助金を出し、社会全体にわたりこの支援のコストを拡げる。つまり、個人と
地域のケアを適切としつつ、ケアリングの支援は公的責任と考えるのである(Engster 2007:
79)。
こうした「ケアする政府(caring government)
」の構想は、伝統的なリベラルな福祉国家
(liberal welfare state)に類似するように見えるかもしれない。しかし、エングスターは、以
下 3 点を挙げて、上記の構想がそれとは別の(alternative)福祉国家であると主張する。ⓐ
リベラルな福祉国家は、たとえばその基礎にある個人の自律概念ゆえに、福祉政策を支持す
る論拠とともにそれに反対する論拠も提示しうるというジレンマに陥り、それゆえ、プログラム
の一貫した実施を不可能にする。それに対し、ケアする政府の構想は、人間の依存性の前提
から出発し、ケア的な福祉政策を支持するより説得力ある議論のフレームワークを提供する。
ⓑリベラルな福祉国家は、市場の不確実性や市場の失敗に対し、失業補償、障害年金その
他のセーフティーネットを提供することで、個人に迫りうるリスクを和らげることを目指すもので
あり、基本的に、人が失業し、怪我をし、働けなくなってから支援をしようとするものであって、
しかもケアの実践を公的領域外の主に個人の活動において期待するものである。他方、ケア
する政府の構想は、ケア活動の支援と調整に照準を合わせ、ケア提供者の支援プログラムを
組織するものであり、伝統的な福祉サービスも支持するが、しかしより一般的に伝統的な福祉
を減らすような予防的政策も進めるのであり、その意味でより開発志向の(developmental)
ものである。ⓒリベラルな福祉国家は、財の分配に主たる関心をもち、その分配の様態には
ほとんど関心を示さないため、プログラムを作成しても、サービス受給者に対して十分な配慮
- 211 -
をせずにそれを実施することから、当初の目的を達成せず、かえって新たな社会問題を引き
起こすこともある。それに対し、ケアする政府は、プログラムの作成・実施にサービス受給者
を組み込む一方で、家族、学校、コミュニティーグループ、市民参加などを支援しつつ、分
権化されかつ柔軟な仕方でのケア提供を組織するものであり、それによって、ケアの趣旨に適っ
た仕方で財とサービスの提供を行うことを目指すのである(Engster 2007: 93-95)。
4 結びにかえて
以上では、ケア倫理の意義を基本的に肯定的に評価しつつ、ケア・ケア倫理を核にして、
依存性、依存的他者への責任、関係性、個別性、具体性、文脈、ニーズ、応答といったキー
ワードを軸に据えて、公的領域における国家や社会政策の構築に積極的に取り組む幾人かの
論者の見解をみた。全体として、ケア倫理の制度化を論じる人たちの論調を概観するならば、
民主主義との関係に重点を置き、とりわけ「私」化された領域でケア労働を “ 強いられ ” てい
た人たちにシティズンシップへの参加の道を開こうとする方向で、議論を進める論者がある一
方で、福祉国家の再編という観点に重点を置き、依存的な他者のニーズに応じるケアの適切
な仕方での提供という側面を中心に検討を加える論者があるように思われる。もちろん、両方
の側面は関係しており、たとえばシティズンシップ論において、パターナリズム的な専門家主義・
官僚主義を廃すべく、ニーズをめぐる公共的議論を重視する見方が一方であり、また福祉国
家の再編に関する議論においても、ケア・サービスの受給者および提供者のスティグマを除
去する必要とその方法をシティズンシップ論との関係で論じる視角も十分に可能であると思わ
れる。
このように見れば、選ぶ視点によって論じるべき重要なポイントはいくつも見出されるが、
紙幅の都合もあり、ここではケアを基本的価値と措定して福祉国家の再編を考える場合に、ケ
アの専門職の役割とその(法的)制度化の在り方がどのようになるかという問題に絞り、補足
的な論じ方にはなるが、最後に若干の検討を加えておきたい。
この点については、主に教員を念頭に置いてであるが、ノディングスが、専門職に業務上
の裁量を広く認め、法的な規制の程度を抑えるべきという主張をしている点が目を引く。また、
ケア提供者の能力を高めるという目標をノディングスと共有しつつ、ドゥーリアという原理を引
合いに出して、ケア提供者自身に対するケアの重要性を説くキテイの見解も注目される。エン
グスターは、ケアの潜在的受給者をプログラムの策定段階から組み入れることが、ケアという
本来個別的人間関係においてのみ成り立つものを制度へと架橋するための工夫となると説く。
また、エングスターが、たとえばドイツでは社会福祉のみならず社会秩序の構成原理そのもの
ともなっている補完性原理を、保守主義者の説く民営化論とはっきり区別しつつ、ケアする政
府の主要目的の 1 つに掲げていることも、ケア提供者と国家との関係という観点からみて大い
に示唆に富む。
- 212 -
福祉国家の再編との関連でのケア専門職の役割と制度化については、筆者自身別の機会に
検討してきた(服部(2003)
、同(2004))。福祉国家の再編を考える際には、単にそれを
財の再分配の機構という観点からみるのでは足りず、どのような仕方でケアのサービスを行う
かにも同様の注目をしなければならない。だとすると、様々な領域で実際のケアの担い手とし
て活動する種々のケアの専門職の在り方と、さらにそれを指させる制度、そしてその根底に置
かれる価値が、どのようなものかが重要になってくるのである。
看護を念頭において対人専門職制度の問題に取り組む社会学者の三井さよは、パーソンズ
(Talcott Parsons)の専門職論を基礎にしつつ、その限界をも自覚し、患者へのケアの在り
方を、一方で、ケアのためのスキルやアートを重視する「ケア技法論」と、他方で、ホスピタ
リティとしてのケアに重きを置く「ケア倫理論」とに大きく二分して捉えた上で、ケア従事者自
身に対するケアをも視野に入れながら、患者の「生」に対して開かれている契機も残しながら、
自己の職務の射程を各々が主観的に限定しつつ職務に臨むという「戦略的限定化」の意義を
強調している(三井、2004:第 1 章~第 3 章)。三井が指摘するように、ケア倫理からすれ
ば患者のニーズに精一杯応えるという全人格ケアが理想化されそうにも思うが、しかし現実の
ケアを考えれば、それは不可能であるし適切でもなく、その意味で、何らかの形で自らの活動
の射程に限定をかけつつ、それをケア受給者の生に向けて開く契機を残しておくという三井の
提言は、重要である。問題はこれを政治や法の側でどのように受け止めて、制度化していくか
である。もちろん、それは三井がケアの「制度化」という語を用いずに「ケアの持続」という
言葉を選んだ(三井、2004:38 ~ 41 頁)
、その趣旨を汲み取りながらの制度化の試みを
意味する。しかし、ここではそれを課題として指摘しておくに止めざるを得ない 11)。
以上、ケア倫理を基底に据えて公的領域の秩序の在り方を再検討しようといういくつかの考
え方をみてきた。検討課題そのものが非常に大きいため、具体的提言につなげるには、筆者
自身もまだ手掛かりを探っている段階にすぎない。しかし、ケアを基本に据えて社会秩序の
在り方を考え直そうとするときにどのような国家イメージが立ち現れるのかについては、比較
福祉国家論の議論などとも接合させ、現にある様々な福祉国家の在り方を念頭に置きながら、
検討を加えていく必要があるのではないかと思われる。わが国でも近年、様々な領域での構
造改革が試みられたところであるが、改革でも前提されている基本的な枠組みそれ自体が、た
とえばエングスターの指摘する通りリベラルな福祉国家のそれであるとするならば、その基本
原理が制度や政策の目標を推進する一方で、むしろ阻害する側に回ることもあり、必然的にジ
レンマを生む構造が埋め込まれていることになる。本稿では十分に取り上げられなかったが、
キテイもその関連の議論を進めており、さらに検討を加える必要があると考えている。
11) これとの関連で、ケア倫理の制度化を前提にした専門職の在り方において、ケア倫理と
パターナリズムの関係をどのように捉えるかという問題が生じる。これについて、ケア倫理を
一種の弱いパターナリズム論として捉え、両者を共通の土俵でみようとするものとして、中村
(2007)参照。
- 213 -
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*本稿は、科学研究費補助金・学術創成研究費「ポスト構造改革における市場と社会の新た
な秩序形成―自由と共同性の法システム」(研究課題番号 19GS0103)の研究成果の一部で
ある。
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- 216 -
労働法の役割と今日的課題 - 労働紛争処理の観点から -
京都大学大学院法学研究科 村中 孝史
はじめに
1980年代以降、労働関係法令の制定や大きな改正が、従前に比してより頻繁に行われる
ようになった。1985年には男女雇用機会均等法と労働者派遣法が制定され、均等法制定に
伴う労基法改正も行われている。また、労基法が定める法定労働時間が48時間から40時間
へと改正されたのは1987年のことである。90年代に入ると、育児休業法(1991年)、時
短促進法(1992年)、パートタイム労働法(1993年)などが相次いで制定されるとともに、
1)
2)
997年)や職業安定法と労働者派遣法の改正 (1
999年)が行われている。
均等法の改正(1
このような立法の動きは21世紀に入ってからも止まることはなく、最近でも、均等法等の改正
のほか、労働審判法(2004年)や労働契約法(2007年)といった新法の制定が行われて
いる。
もちろん、80年代より前においても、たとえば労基法から最低賃金法(1959年)や労働
安全衛生法(1972年)などの法律を独立させるなどの動きがあったし 3)、労災保険法の分野
では、給付内容の充実や保護範囲拡大のための改正が繰り返されている 4)。しかしながら、総
じて言えば、高度経済成長期においては、戦後すぐに骨格が形成された労働法の枠組みが基
本的に維持され、その拡充が漸次的に図られていたのに対し、80年代以降は、従前の枠組
み自体の見直しが次第に図られるようになった。こうした展開の背景には、技術発展や産業構
造の変化、グローバリゼーションによる競争激化、それらに伴う就労形態や雇用形態の変化な
ど、社会・経済情勢の多様な変化を見て取ることができるが 5)、それら諸変化に対応して、労働
法令の動きにも多様な側面を観察することができる。ここでは、そうした多様な動きの一側面、
すなわち労働紛争処理に関する法整備に着目して、現在の労働法が直面している課題を探って
1) 募集・採用について努力義務規定から義務規定へと修正された。
2) 有料職業紹介及び労働者派遣について、対象業務に関する原則自由化が行われた。
3) 労基法の改正経過については、厚生労働省労働基準局編『改訂新版労働基準法上』
(2005
年、労務行政)34頁以下参照。
4) 労災保険法の改正に関しては、厚生労働省労働基準局労災補償部労災管理課編『六訂審判
労働者災害補償保険法』(2005年、労務行政)34頁以下参照。
5) 拙稿「労使関係の変化と今後の労働法」司法研修所論集118号(2008年)57頁以
下参照。
- 217 -
みたい。
1 労働紛争処理をめぐる法整備の過程
(1)集団的紛争に関する議論
労働紛争処理が議論されるのはけっして最近のことではなく、従前より労働法学が扱うテー
マの一つであった。もっとも、従前、このテーマの下で議論されたのは、労働委員会における
不当労働行為事件の処理や同事件の取消訴訟をめぐる問題、さらには、団交応諾の仮処分を
はじめとする労働仮処分の問題といったものであり、主として集団的紛争にかかるものであっ
た 6)。
これらは、
憲法28条を基礎に戦後新たに形成された集団的労働法が惹起した問題であり、
多くの理論的課題を含むものであった。しかしながら、これらの問題について判例が形成され、
また、労使関係が安定して紛争自体の数が減少すると、このテーマも大きな関心を引くことは
なくなった。
(2)個別労働紛争に関する議論の開始
こうした状況はしばらく続いたが、90年代以降、労働紛争処理は再び活発な議論の対象と
なる。もっとも、ここで議論されるようになったのは、もはや集団的紛争の処理ではなく、増
加する個別紛争(個々の労働者と使用者との間で生じる紛争)をどのように処理するのか、とい
う問題であった 7)。
(3)個別労働紛争の特徴
個別労働紛争事件のほとんどは労働者側が不満をもつ事件であるが、労働者は訴訟を提起
するだけの資力に欠けることが多いし、また、労働事件の訴額は必ずしも大きくはなく、訴訟
遂行に高額な費用が必要となると費用倒れになることが少なくない 8)。さらに、労働者は自ら働
かなければならないため、訴訟遂行のための時間的余裕に乏しく、長期間に及ぶ訴訟は大き
な負担となる。加えて、訴訟提起となると弁護士に依頼することが望まれるが、労働法につい
て熟知した弁護士は多くはないし、そもそも、どの弁護士がそうなのか、よくわからないといっ
た事情もある。このように、訴訟という紛争解決手段は、憲法が保障する紛争解決手段である
にもかかわらず、労働者にとってはきわめて利用しにくいものであったと言える。
6) たとえば、日本労働法学会編『労使紛争と労働委員会』
(1966年、総合労働研究所)、同『労
働争訟-その実態と法理』(1968年、総合労働研究所)
7) 日本労働法学会も1992年5月に個別労使紛争をテーマとして取り上げている。日本労
働法学会編『労使紛争の解決システム』(1992年、総合労働研究所)
8) 労働紛争の特質を分析した文献は多いが、最近のものとして、和田肇「労働紛争の特徴と
解決システム」法政論集221号(2008年)453頁がある。
- 218 -
(4)日本的労使関係と個別労働紛争
こうした事情は、90年代以降になって生じたものではないが、いわゆる日本的労使関係が
広がりを見せていた時代においては、労働者が多少の不満を抱いても、それらは労使関係の
中で処理され、あるいは、抑えられており、そもそも労働者が企業外での紛争解決を望む場
合が相対的に少なかった。それは使用者と労働組合との交渉によるものであったり、あるいは、
上司と部下とのコミュニケーションによるものであったりした。しかしながら、日本的労使関係
が収縮を始めると、この状況は変化し始める。
第一に、日本的労使関係の埒外におかれた非正規従業員が増加することで、それらの者を
めぐる紛争が顕著に増加し始めた。第二に、正規従業員に関しても、多くの企業は能力や業績
を従前以上に重視する処遇を導入するなど 9)、より厳しい競争を強いるようになり、労働条件の
個別化といった現象も見られるようになった 10)。こうした事情は、集団的労働関係の機能を弱め
る方向に働いたし、また、企業内での人間関係を変質させ、企業内部での紛争解決力を低下さ
せた。第三に、企業自体がグローバル化の進展によって従前以上に厳しい競争環境におかれ、
長期雇用の保障が難しくなるとともに、大企業においても統廃合や倒産が増加し、雇用の流動
化が進展した。このこと自体、紛争の増加要因となるし、また、このような変化は労働者の意
識にも変化をもたらし、裁判等に対する抵抗感の低下とも相俟って、訴訟提起の数も増加し始
める。
(5)個別労働紛争の増加と紛争処理機関の欠如
もっとも、前述したように、我が国の裁判は労働者にとっては非常に利用しづらいものであっ
たため、大半の紛争は、裁判所に持ち込まれるのではなく、労働基準監督署や都道府県の労
政主管事務所の労働相談窓口などに相談という形で持ち込まれるようになった。労働基準監督
署は労基法等の違反に関して管轄するものであるから、紛争の内容が労基法違反である限り、
刑罰の適用を背景に迅速な解決を図ることが可能である。しかしながら、労基法等の保護法
違反以外の事件に関しては、労働基準監督署は管轄するものではなく、できることには限界が
あったし、また、あまりにも大量の相談が持ち込まれると、本来の業務に差し支えが生じること
にもなる。また、都道府県の労政主管事務所は、労働相談という範疇で多様な紛争を取り扱う
ことは可能であったが、関与の態様は相談にとどまり、それ以上に紛争解決を行えたわけでは
ない。また、都道府県事務であるから、当然、都道府県によってその対応は様々であった。い
ずれにせよ、多くの紛争がこうした窓口に押し寄せてはいたものの、それを十分に処理できる
体制が整備されていたわけではなかった。
9) たとえば、土田・山川編『成果主義と労働法』(2003年、日本労働研究機構)参照。
10) 個別化の問題に関しては、拙稿「個別的人事処遇の法的問題点」日本労働研究雑誌
460号(1998年)28頁以下を参照。
- 219 -
(6)行政ADRの整備
こうした事情を受けて、旧労働省では、労働紛争の処理に向けた行政ADRの創設を行うこ
ととし 11)、平成 10 年の労働基準法改正により、労働基準局長による助言・指導という制度を導
入した。これは、労使から紛争の解決援助を求められた労働基準局長が、相手方に対して助
言や指導を与えることで紛争の解決を図るというものである。助言や指導に法的な拘束力はな
いものの、行政に対する信頼を梃子に解決を図る趣旨である。保護法違反以外の個別紛争に
対して、労働行政がはじめて関与したものであり、その点での意義が大きなものであったと言え
る。
この制度は、直後の平成13年に成立した個別労働紛争解決促進法に引き継がれるが、同
法は、これに加えて、紛争調整委員会によるあっせんという制度を創設した 12)。これは、弁護
士、大学教授、社会保険労務士といった個別労働紛争に関して専門的知見を有する者から構
成される紛争調整委員会に、個別労働紛争のあっせんを行わせる、というものである。紛争
調整委員会は都道府県労働局におかれ、2 時間程度のあっせんを1回行うことで紛争解決を試
みるという、きわめて迅速簡易な手続きが開始された。周知のとおり、労働局長による助言指
導および紛争調整委員会によるあっせんは、その後、利用数が増加し、平成21年度において
は7778件の助言・指導が申出られ、また、7821件のあっせん申請が受理されている。
(7)労働審判制度の創設
他方、裁判所においても、同じ頃動きが見られるようになった。もっとも、裁判所が増加す
る労働紛争への対応という問題意識をもっていたわけではない。裁判所においては、労働訴訟
の増加という現象は見られたものの、その数は訴訟全体から見ればなお微々たるものであり、
多くの労働事件を効率的に処理するといった必要が裁判所全体の課題になっていたわけではな
い。したがって、裁判所での動きは、もっぱら司法制度改革 13) の文脈で理解されなければなら
ない。
あらためて言うまでもないが、司法制度改革は、2割司法といわれた我が国の司法を、より
国民に開かれたものにすることによって活性化しようとするものである。その趣旨は、グローバ
ル化に対応して我が国社会における法の支配を進展させようとするものであり、別角度から言う
ならば、政治改革、行政改革に引き続き、官主導の社会から民主導の社会を実現するために、
司法を強化しようとするものであった。
11) 行政ADRとしては、男女雇用機会均等法(1985年)が定めた、都道府県婦人少年
室長による助言・指導・勧告及び機会均等調停委員会による調停が先行している。
12) 同法に関しては、厚生労働省大臣官房地方課労働紛争処理業務室編『個別労働紛争解決
促進法』(2001年、労務行政研究所)参照。
13) 司法制度改革に関しては、司法制度改革審議会『司法制度改革審議会意見書-21世紀
の日本を支える司法制度-」(平成13年6月12日)参照。
- 220 -
司法制度改革においては、裁判員制度の導入、法科大学院制度の創設など、様々な施策が
実現されたが、労働事件に関しては、労働審判制度が導入された 14)。労働審判制度は、裁判官
である労働審判官1名と労働関係について専門的知見を有するが必ずしも法律家ではない労働
審判員2名からなる労働審判委員会により、調停を試みつつ、これが成立しない場合には審判
を行うことで紛争を解決する制度である。労働事件の数が多い地方裁判所では労働部や集中
部が設置されてきたが、労働事件に特化した手続としては本手続が最初のものであり、その点
に大きな意義があった。また、費用が判決手続の場合の約半分に抑えられているほか、原則と
して3回以内の期日で事件処理を行うことで迅速性が確保されるとともに、実効性の点で問題
はあるかもしれないが、審判というより柔軟な判断方法が採られるなど、労働関係をめぐる紛
争の特質に配慮した設計となっている 15)。
労働審判制度も、個別労働紛争解決促進法に基づく助言・指導やあっせんと同様、その利
用は顕著な増加傾向にある。審判事件の一部は、従来であれば判決手続や仮処分手続が利
用されていた事件であると推察されるが、裁判所に持ち込まれる事件の総数が増加しているこ
とを考えると、従来であれば裁判所に持ち込まれなかった事件が持ち込まれるようになったと
言える。すなわち、同手続の創設は事件の掘り起こし効果を相当に発揮したと評価できる。
(8)実体法の整備
ところで、紛争解決の体制整備にとっては、紛争処理のための機関や手続を整備するととも
に、紛争解決にあたっての実体法の整備も不可欠である。いかに手続を整備しても、紛争解
決のためのルールがないと、紛争解決機関が提示する解決案への信頼性は小さくなるし、紛争
解決機関としても容易に解決案を見出すことができない。場合によっては、両当事者の主張を
足して2で割るような解決案しか提示できないことにもなりかねない。しかしながら、個別労使
間の契約関係に関しては、労働基準法のような最低基準を定める労働者保護法は整備されて
いたものの、それ以外に、労使間の利益調整を図るルールは十分に整備されてこなかった。
(9)労働契約と民法
もちろん、労働契約も契約であるから、特別なルールを定める労働法令が存在しない限り、
民法の契約法のルールを適用することも考えられるが、民法にも、個別労使紛争の解決に必要
14) 司法制度の改革ではないが、この過程において、不当労働行為審査手続の改善を目的と
した労組法改正も行われた。詳細については、拙稿「不当労働行為制度の課題と労組法改正の
意義」ジュリスト1284号(2005年)63頁以下参照。
15) 詳細については、菅野・山川・齊藤・定塚・男澤著『労働審判制度[第2版]-基本趣
旨と法令解説-』(2007年、弘文堂)、石崎信憲『労働審判法 使用者側代理人から見た労
働審判制度』(2006年、労働新聞社)等参照。また、拙稿「労働審判法の意義と今後の課題」
法律のひろば57巻8号(2004年)33頁以下。
- 221 -
な具体的なルールが十分整備されているわけではないし、また、ルールが定められている場合
でも、両当事者の対等性を前提に作られた民法のルールを適用することが、労働関係当事者
にとって適切な紛争解決をもたらすかは疑問である。
たとえば解雇に関して言えば、民法627条は、原則として2週間の予告期間をおけば「いつ
でも」両当事者は期間の定めのない雇用契約を解約できる(解約自由の原則)と定めている。
これに対し、労基法は予告期間を30日としたり(同法20条)、労災により療養している労働
者や産前・産後休業中の労働者に対する解雇を禁止したり(同法19条)といった規制を行って
きたが、従前、これ以外に解雇権を一般的に制約する労働法令上の規定は存在しなかった 16)。
そのため、かりに労働法令上の規定が存在しないので民法のルールに従うということになれば、
使用者は上記労基法上の制約さえ遵守すれば、とくに何の制約を受けることもなく労働者を解
雇できることとなる。しかし、これでは労働者の生活は常に不安定な状況におかれるし、その
結果、解雇の威嚇を通じて労働者が使用者から人格的支配を受ける危険すら生じかねない。そ
こで、後述するように、裁判所は、権利濫用法理に依拠して、
「客観的に合理的な理由を欠き、
社会通念上相当と認められない解雇権の行使は権利の濫用であり、無効である」との判例を
形成し、この種の事件の解決を行ってきた。
もっとも、前述したとおり、労働関係をめぐる紛争の多くについては、民法にも対応するルー
ルがとくに定められていない。たとえば、労働者の非違行為に対してなされる懲戒処分につい
て言えば、民法は契約違反があった場合の効果として損害賠償や解除権を定めるが、懲戒処
分の種類はこれらとは異なるし、そもそも懲戒処分は契約違反に対する制裁というよりも、企
業という団体内部での秩序違反に対する制裁という性格が強く、これについて民法はとくに定
めるものではない。そこで、裁判所は、そもそも使用者にこのような懲戒処分を行う権限があ
るのか、また、あるとした場合、その限界等の問題に関し、ルールを設定する必要に迫られた。
懲戒処分の法的根拠については契約解釈が、また、限界については権利濫用法理が用いられ
ているので、外形的には民法の一般的理論に依拠するものではあるが、実質的には労働関係
の特質に配慮したルールの形成が行われたと評価できる。
(10)労働契約法の制定
このように、労働立法が欠けた部分は、裁判所が判例法理を形成してきたため、紛争解決
機関にとって依拠しうる基準がまったくなかったわけではない。しかしながら、こうした判例法
理は、専門家でなければその存在や意義を知らないことがほとんどであるし、また、その内容
を正確に理解することも困難である。したがって、判例法理の存在をもって、紛争解決基準が
十分に整備されているとはとうてい言えない。そこで、紛争解決の基準を定める実体法の整備
も、また、紛争処理という観点から重要な課題として生じることとなった。
16) 労基法3条や労組法7条1号等、特定の理由に基づく解雇を制限する規定は従前から存
在した。
- 222 -
実体法整備の嚆矢は、平成15年の労基法改正による解雇権濫用法理の成文法化である。
この法理を述べる下級審判決は戦後の早い時期から見られ、最高裁も、昭和50年の日本食
塩事件判決や昭和52年の高知放送事件判決において同法理を確認している 17)。労基法18条
の2(当時)は、最高裁判決で使われた文章をほぼそのまま踏襲する形で、この法理を成文法
化したものであった。続いて、平成19年には労働契約法が成立した 18)。労基法18条の2として
成文法化された解雇権濫用法理を引き継ぐ(労契法16条)と同時に、就業規則と労働契約と
の関係に関する判例法理や懲戒権及び出向命令権の濫用法理等を規定した。これらも判例法
理を成文法化したものと言え、とりわけ就業規則と労働契約との関係に関する法理(「就業規
則法理」)19) は、労働契約をめぐる法律関係にとって基本となるルールであるだけに、成文法化
の意義は大きかったと言える。もちろん、これらは判例法理をほぼそのまま成文法化したもの
であるから、法状況にとくだんの変更が加えられたものではないが、法に馴染みのない多くの
国民にとっては、事実上、新法が成立したに等しいインパクトがあったのではないかと推察され
る。
このように、紛争処理機関や手続きの整備とともに、実体法の整備についても進展が見られ
るようになり、労働紛争処理という点では、ここ10年ほどの間に大きな進展があったと言える。
しかしながら、現状で整備が万全になったわけではない。以下においては、労働紛争処理とい
う観点から、労働法の課題をいくつか指摘したい。
2 労働紛争処理からみた労働法の課題
(1)判決手続の問題
まず、手続面であるが、労働審判制度が導入されたものの、この制度においては、審判に
対し一方当事者が異議を申し立てると判決手続に移行することとなっている 20)。また、労働関係
当事者が最初から労働審判手続ではなく判決手続を選択することも可能である。実際、労働
事件が判決手続において処理されるケースも従前に比べると相当に増加しており、また、今後、
労働審判手続の利用がさらに進むと、判決手続に移行する事件数が増加することも予想される。
しかしながら、今までのところ、判決手続に関して労働事件に関する特別な措置は講じられて
いない。この点に関して言えば、従前より、ドイツの労働裁判所のような参審制度も議論の対
17) 日本食塩事件・最判昭和50年4月25日民集29巻4号456頁、高知放送事件・最
判昭和52年1月31日労判268号17頁参照。
18) 労働契約法制定の意義については、拙稿「労働契約法制定の意義と課題」ジュリスト
1351号(2008年)42頁以下参照。内容の詳細に関しては、たとえば、荒木・菅野・
山川『詳説労働契約法』(2008年、弘文堂)参照。
19) 秋北バス事件・最判昭和43年12月25日民集22巻13号3459頁参照。
20) 労働審判法22条
- 223 -
象となってきたところである 21)。こうした特別な裁判所制度については憲法上の問題もあって、導
入はなかなか難しいところであろうが、労働紛争は上述したとおりの特徴を有しており、少なく
ともこうした特徴に対応した工夫が必要となる。とくに、費用負担の軽減と迅速性の確保は重
要な課題である。
(2)費用負担
まず、費用負担に関して言えば、労働者の負担となり得る費用には、裁判所に支払う費用だ
けでなく、弁護士に支払う費用も含まれる。勝訴の場合には、弁護士費用についても一定額を
得る可能性はあるが、敗訴の場合にはすべて自らの負担となる。これについては、制度改正で
は対応が難しい部分であるし、また、弁護料が需給バランスで決定されるとするならば、あと
は保険制度などの整備に期待するしかないであろう。
ドイツなどでは、組合員については訴訟の費用を労働組合が負担する制度が見られるところ
であり、組合員にとって組合に加入する動機の一つとなっている。わが国では、いわゆる合同
労組を中心に、労働組合自体が個別労働紛争の解決を団体交渉によって図ろうとする例が多く
見られるが、個別労働紛争の大半は権利義務の存否をめぐる紛争であるから、本来、法律の
適用により解決が可能である。労働組合としても、個別労働紛争の解決については、団体交渉・
争議行為という手段を考えるだけでなく、組合員に対し法律相談等のサポートを強化し、より
容易に法的解決手段を利用できるような環境整備を進めることが望まれる。
(3)迅速性の確保
費用の問題とともに、迅速性の確保も重要な問題である。とくに解雇事件に関しては 22)、少
なくとも理論的には原職復帰が原則となっているのであるから、それが事実上も可能となるよう
に、早期の解決が望ましい。また、使用者側にとっても、敗訴の場合には訴訟期間中の賃金
の支払いが命じられることになるので、この期間が短いことにはメリットがある。
迅速性の確保に関しては、費用の問題とは異なり、制度や運用による工夫で相当な効果が期
待できる。すでに裁判所では民事訴訟全般の迅速化に取り組んできたところであり、その成果
も着実に出ている。ただ、労働事件に関しては、事件の内容が長期間にかかわる複雑なもの
であったり、また、当事者間の対立感情が激しく主張・立証が多岐にわたる場合が少なくない
ため、迅速化には限界があるようであるが、今後は、労働審判での経験を参考にすることが考
えられる。また、労働事件の迅速な裁判には、労働法に関する専門性を高めることが必須の
条件となるが、司法試験の選択科目として労働法を選択する者が相当数に上ることや、労働審
21) 各国の労働紛争処理システムに関しては、毛塚勝利編『個別労働紛争処理システムの国
際比較』(2002年、日本労働研究機構)等参照。
22) ドイツの労働裁判所法61a条は、解雇事件について迅速処理のためのルールを定めて
いる。
- 224 -
判を経験する裁判官が生じるといった好材料を踏まえ、さらに裁判所における専門性の向上に
むけた努力が望まれよう。
(4)実体法整備としての労働契約法
次に、実体法整備に関して、いくつかの課題を指摘しておきたい。
前述したとおり、平成19年には労働契約法が成立し、就業規則と労働契約の関係や解雇権
濫用法理などを明文化したが、同法は全部で19箇条の短い法律である。労働関係は多種多様
な権利義務の束であり、同法が定めるルールは、その根幹部分にかかわるものとはいえ、すべ
てをカバーするものではない。また、同法が成文法化した判例法理以外にも、確立していると
見られる判例法理も存在する。たとえば、配転命令権の濫用に関する判例 23) や雇い止めに関す
る判例 24) は、その具体的適用に関してもかなり安定しているように見受けられる。したがって、
今後は、そのような確立した判例法理を中心に、逐次、法律の中に取り入れていくことが一応
考えられる。ただ、労働契約法を、判例法理の成文法化という方法で形成することについては、
問題がないわけではない。
(5)裁判規範と行為規範
第一に、判例法理は、基本的には、それぞれの紛争の解決のために設定されたルールであ
るから、事後的な紛争解決という観点からは適切な基準であったとしても、労働関係当事者が
それに従って将来の関係を形成するには必ずしも適切な基準とは言えない。
たとえば、労働契約法10条が規定する就業規則の合理性審査にしても、同法16条が定め
る権利濫用の成否にかかる審査にしても、基本的には諸般の事情を総合考慮して結論が出さ
れる。事後的な紛争解決という視点から見ると、このような基準は、労働関係当事者の利益
状況を多様な観点から調整し得る点で使い勝手のよい判断枠組みであろう。しかしながら、今
から就業規則を変更しようとしている使用者、あるいは、労働者を解雇しようとする使用者か
ら見ると、意図する変更や解雇が法的に許されるのか否かをこのような基準で判断することは
きわめて困難であるし、労働者側から見てもこの点は同様である。
このことは、せっかく法律にルールがあるにもかかわらず、裁判所で判断してもらわないと
ルールの適用の結果がわからない、ということを意味しており、紛争予防という観点から見て
も、また、法的安定性という観点から見ても、けっして望ましいものとは言えない。労働法令
が事後的な紛争解決基準としてだけでなく、労使の行為規範としても機能することを考えると、
立法にあたっては後者の側面にも一定の配慮を行うことが必要である。こうした観点から見た
場合、上記の就業規則法理や解雇権濫用法理は必ずしもベストの解であったとは言えず、これ
23) 東亜ペイント事件・最判昭和61年7月14日労判477号6頁参照。
24) 東芝柳町工場事件・最判昭和49年7月22日民集28巻5号927頁、日立メディコ
事件・最判昭和61年12月4日労判486号6頁参照。
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らに関しては、少なくとも基準をさらに明確にする努力が必要である。
(6)判例法理と日本的雇用慣行
第二に、判例法理には、いわゆる日本的雇用慣行の下で雇用される正社員の雇用関係を念
頭に形成されたものが多い。労働契約法に定められた出向に関しても、正社員に関しては問題
になりうるものの、有期契約である非正規従業員に関してはおよそ出向ということは考えにくい。
同じく雇用契約と言っても、様々なタイプのものがあり、それぞれにおける権利義務は相当
に異なった様相を見せる。そして、それぞれのタイプにおいて、多様な権利義務は互いに関連
づけられ、全体として労使の利益バランスを形成している。たとえば配置転換に関して言えば、
長期雇用を前提とした労働契約においては、それが当然のこととして含意されていることが多
く、そのことが長期雇用や相対的に高い賃金水準と見合いになっている。これに対し、非正規
従業員の労働契約においては、およそ配転は想定されていないことが多く、それに対応して賃
金水準が抑えられていたりする。
したがって、労働契約であるから、一般的に配転命令権が存在するとか、逆に存在しない、
と言うことは、本来、無理なように思われる。そして、このことは、出向や昇進・降職といった
他の人事措置をはじめ、他の多くの問題にも妥当する。この結果、権利の存否に関する任意規
定を労働契約一般について設けるとしても、その前提となる事実的基礎を確認できるものは、
それほど多くはないであろう。かりに、より積極的にそうした任意規定を設けようとするのであ
れば、たとえば、期間の定めのない契約と定めのある契約を区別するなど、労働契約という類
型の下にさらに小さな類型を設定することが必要となる。
おわりに
本稿においては、労働紛争処理という観点から、労働法の課題を検討した。この間、労働
紛争処理に関する法整備はかなり進んだと言えるが、上述したとおり、手続の面でも、実体法
の面でも、なお課題は残っている。また、司法制度改革において打ち出された法曹人口増加の
方針は、労働法に明るい弁護士の増加を期待させたが、近時は、法曹人口を抑制する動きが
見られる。より充実した労働紛争処理という観点から見ると、労働法に明るい弁護士がさらに
増加することが望まれるが、現在の弁護士業務がそれほど拡大しないのであれば、社会保険
労務士や司法書士に活躍を期待すべき場面がさらに拡大することとなろう。このような観点か
ら見た場合、社会保険労務士が特定社会保険労務士制度を設けて、労働法に関する専門性の
向上に努めていることは注目される。労働紛争が国民の多くにかかわる日常的な法律紛争であ
ることに鑑みると、司法書士に関しても、労働法に関する知見のいっそうの向上が期待される。
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法執行システム論と行政法の理論体系 *
京都大学大学院法学研究科 高木 光
一 はじめに
本稿は、「法執行システム」の全体のなかで行政法システムがどのように位置づけられるべ
きか、また、法の「社会統制機能」1) との関係で行政活動の存在意義をどのようなものと考え
るべきか 2)3) を考察するための準備作業として、「法執行システム」という捉え方が行政法の理
「行政制裁」と「行政強制」という2つの概念お
論体系にとってどのような意味を持つか 4) を、
よび両者の関係を手掛かりに、整理することを目的とする。
京都大学における共同研究「ポスト構造改革における市場と社会の新たな秩序形成――自
由と共同性の法システム――」は、<構造改革後の法秩序形成のあり方、すなわち、単なる
自由放任でない、自律性を尊びながら、かつ自律性を支える全体のシステムを維持するあり
方>をさぐるものである 5)。また、
「市場の秩序形成」「社会の秩序形成」「エンフォースメント」
という3つの部会の名称に含まれる「秩序形成」および「エンフォースメント」という用語か
ら示唆されるように、この共同研究においては、法ないしルールの「機能」に着目した分析
1) 田中成明『法理学講義』
(有斐閣・1994年)p74-80は、法の機能を「社会統制機能」
「活動促進機能」「紛争解決機能」「資源配分機能」の4つに整理し、「社会統制機能」を有する
ものとして、刑法と並んで不法行為法をあげている。同書の説明は「制裁」ないし「サンクション」
の概念について考察する際に有益な示唆に富むものであるが、行政法の「社会統制機能」につ
いての分析は少ない。この点の補充が筆者の本稿後の課題である。日本機械学会編『機械工学
便覧デザイン編β9(法工学)』(丸善・2003年)第1章(高木光執筆)参照。
2) 1990年代の規制緩和論における<行政による事前規制から司法による事後規制へ>と
いうスローガンの限界について考察した論稿として、曽和俊文「司法改革の理念と行政法」自
治研究77巻10号(2001年)7-16頁。
3) より一般的に民事法および刑事法の限界から行政法の存在意義を説いた先駆的なものとし
て、阿部泰隆『行政の法システム(上)』(有斐閣・1992年)。
4) 曽和俊文「法執行システム論の変遷と行政法理論」公法研究65号(2003年)216頁。
曽和教授の定義によると、
「法執行システム」とは、<私人による(行政)法違反を是正し、
(行
政)法目的に適合した状態を実現するための法的仕組み>をいう。そして、これは、アメリカ
法にいうエンフォースメント(Law Enforcement)という捉え方に近いものとされている。
5) 筆者の第3回学術創成セミナーでの報告の概要は、高木光「強制・制裁・サンクション-
-行政法学の視点から--」学術創成通信2号13頁に掲載されている。
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が不可欠なものとされている。
市場や社会の「秩序形成」という場合に、
あるべき状態が「目標」として設定され、その「目
標」をどのように実現するかという形での分析がなされることになる。そこでは、「目標」を実
現するための様々な「手段」がどの程度「実効性」を有するかという視点が重要となる。また、
あるべき状態としての「秩序」あるいはそれを実現するためのルールに関しては、それらに反
する行動や、秩序の形成やルールの順守にとって阻害要因となる行動の存在が不可避である
から、それらの行動の「抑止」やそれらの行動の結果の「是正」のための手段が用意されな
ければならない。そのような手段の中核は、公的機関が行使する「強制」および「制裁」で
あるが、これらについても、どの程度「実効性」を有するかという視点が重要となる。
さて、わが国の行政法学においては、すでに1960年代後半から1970年代には「実
効性確保」という視点に先駆的論者が着目し 6)、1980年代後半には、
「実効性確保」とい
う言葉が学会報告の表題として採用されるに至っている 7)。さらに1990年代以降は、学会
あるいは論文の表題の中で用いられる 9) など、その問題意識がかなり広
の統一テーマとされ 8)、
く共有されるようになり、現在では、標準的な教科書 10)11) でも一定の説明がなされている。そ
6) 先駆的なものとして、今村成和『行政法入門(初版)』(有斐閣・1966年)がある。そ
の他の文献については、曽和・前出注 4) および高木光『技術基準と行政手続』(弘文堂・
1995年)第1編第3章「行政手法論」(初出・1986年)参照。
7) 高木光「実効性確保」公法研究49号(1987年)186頁。
8) 碓井光明「行政上の義務履行確保」、畠山武道「行政強制論の将来」、早坂禧子「行政調査」、
福井秀夫「行政代執行制度の課題」、曽和俊文「経済的手法による強制」、市橋克哉「行政罰」、
三辺夏雄「自治体行政の実効性の確保」、芝原邦爾「行政の実効性の確保―刑事法の視点からー」
公法研究58号(1996年)。
9) たとえば、宮崎良夫「行政法の実効性の確保」雄川献呈『行政法の諸問題(上)』(有斐閣・
1990年)203頁、大橋洋一「建築規制の実効性確保」法政研究65巻3・4号1頁(1999
年)など。近時の論文集として、北村喜宣『行政法の実効性確保』(有斐閣・2008年)。
10) 塩野宏『行政法Ⅰ(第5版)
』(有斐閣・2009年)227頁注4は、<制裁目的の制
度と、効果としての抑止制度を弁別し、全体を行政法の実効性確保の制度として整理すること
にも意味があると思われる。>と指摘し、大橋洋一『行政法(第2版)』(有斐閣・2004年)
381頁の整理法を評価している。塩野教科書自体は、第2部「行政上の一般的制度」のなか
で第1章「行政上の義務履行確保」と第2章「即時執行」という整理を行っている。なお、こ
こでいう「即時執行」は、伝統的な用語では「即時強制」に相当する。
11) これに対して、宇賀克也『行政法概説Ⅰ(第3版)』(有斐閣・2009年)は、第4部
の表題を「行政上の義務の実効性確保」とし、第15章「行政上の義務履行強制」と第16章
「行政上の義務違反に対する制裁」に分けて説明し、「即時強制」は、第2部「行政活動におけ
る法的仕組み」のなかの第8章「規制行政にある主要な法的仕組み」のところで説明している。
- 228 -
して、筆者のみるところ、
「実効性確保」という用語は、
「法執行システム」ないし「エンフォー
スメント」という捉え方を行政法学が受け止めたものにほかならない。その意味で、「法執行
システム」という捉え方が、すでにわが国の行政法の理論体系に一定の影響をもたらしている
ことは確かである。しかしながら、周知のごとく、わが国の行政法学の理論体系は、戦前に
受けたドイツ理論(ないし大陸法系の理論)の強い影響をかなりの程度引き継いでいる。そ
こで、「法執行システム」という捉え方から得られる示唆を、伝統的な概念を用いた議論のな
かで適切に位置づけるためには、様々な概念の意義についての慎重な考察が必要となるので
ある。
そこで、本稿では、以下まず、独占禁止法における課徴金の性格をめぐる議論を振り返っ
た(二)のち、「行政制裁」の概念(三)および「行政強制」の概念の意義について(四)
、
それぞれ整理すると共に、「制裁」と「強制」という2つの要素を包括しようとする「実効性
確保」という捉え方が理論的にどのような意味を持っているのかについて再考することにした
い。
二 課徴金の性格付け論争
独占禁止法の平成17(2005)年の改正で、同法の「実効性」を高めるために課徴
金が強化された。
この立法論的な政策判断は、従来の独占禁止法の「法執行システム」ないし「エンフォー
スメント」が不十分であり、同法<違反を是正>し、同法の<目的に適合した状態を実現す
る>ためには、より「抑止効果」の高い仕組みが必要であるという判断によるものであった。
そして、より具体的には、課徴金の水準が、「不当な利得」に相当する額に抑えられているこ
とが問題であるとされたところである。そして、周知のとおり、改正論議 12) においては、古典
的な解釈問題としての「二重処罰の禁止論」が再度持ち出され、課徴金の性格をめぐって「利
益剥奪か制裁か」という問題設定がなされたのである 13)。
さて、このような問題設定の主たる狙いは、<制裁としての課徴金と刑事罰の併科は憲法
12) 筆者は、改正に先立って平成14(2002年)から独占禁止法研究会に置かれた「措
置体系見直し部会」において行われた議論に参加する機会を有した。
13) この問題設定は新しいものではなく、課徴金が昭和52(1977)年に導入された際
にも、平成3(1991)年に強化された際にも、課徴金は「利益剥奪」であり「制裁」では
ない、という「正当化」のロジックが用いられたことが伏線となっている。このロジックは、
課徴金の創設時から示されてきた、課徴金の性質は制裁であり、刑罰との併科は、憲法39条
が禁止する二重処罰にあたるのではないかという疑義に応えるものであった。そこで、平成
17年の改正においても、「制裁」としての性格を有することになる場合は、刑事罰との関係
を整理しなければならないという主張が再び強硬になされたのである。
- 229 -
39条の二重処罰の禁止に抵触する。>という命題を前提に、<課徴金を強化する場合には、
刑事罰を廃止すべきである。>という立法論的提言、
あるいは、<刑事罰を存置する場合には、
課徴金の強化は断念すべきである。>という立法論的提言を根拠づけるところにある 14)。このう
ち、立法論的提言の前者は、先に触れた我々の共同研究の<行政制裁金の導入・強化と刑
事罰の廃止>という基本的方向に関する中間的結論と矛盾するものではない。しかし、その
前提である命題に、理論的に見過ごせない重大な誤りが含まれている 15) ことは、再度確認し
ておく必要があろう。
憲法39条<何人も、実行のときに適法であった行為又は既に無罪とされた行為について
は、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
>
この39条の後段から、<制裁としての課徴金と刑罰の併科は許されない。>という命題
を導くのは相当無理がある。すなわち、カルテルをした事業者に課徴金を課すことも「刑事上
の責任」を問うことを意味するというのは、かなりの「拡大解釈」であるからである。
この点につき、佐伯教授は、憲法39条のモデルといわれるアメリカ合衆国憲法修正5条
の<何人も同一犯罪について、重ねて生命身体の危険に臨ましめられることはない。>という
規定について、アメリカでの判例の状況を含めた検討を踏まえて、次のように説いていた 16)。
[ 憲法39条は、二重起訴の禁止という手続上の保障に限定して理解すべきである。また、
この手続上の保障は、原則として刑事手続上の負担に限定される。他方で、刑罰権の実体面
での制約原理は、憲法13条に含まれる「罪刑均衡の原則」に求められるべきである。行政
制裁と刑事罰の併科についても、その制約は同様に「罪刑均衡の原則」(ないし「比例原則」)
からなされるべきである。
刑罰規定には自由刑と罰金刑を併科するものがあり、さらに没収刑が科されることもある。
このような複数の制裁を1つの手続で併科することが許されるならば、それを別個の手続で併
科することも、実体面での問題に限っていえば、許されるというべきである。そうであれば、さ
らに、これらの制裁の一部を刑事罰ではなく行政制裁として科すことも許される。もし、行政
制裁と刑事罰の両方を科すことが許されないとすれば、それは2度に分けて科すからではなく、
全体として均衡を失しているからであろう。]
14) 「行政制裁」と「刑事制裁」の関係を理論的に整理しなければならないという主張は、そ
れ自体としてみれば正当である。その主張の政治的意味については、岸井大太郎「課徴金」法
学教室286号2頁(2004年)参照。
15) 筆者は、当時この問題について最も詳細で説得力のある分析を示されていた刑法学者の
佐伯教授の研究に依拠して小稿を執筆した。高木光「独占禁止法上の課徴金の根拠づけ」NB
L774号20-26頁(2003年)。佐伯仁志『制裁論』(有斐閣・2009年)第2章第
1節(初出・1994年)第2節(初出・2003年)。
16) 佐伯・前出注 15) 95-96頁。
- 230 -
以上のような佐伯説によれば、<制裁としての課徴金と刑事罰の併科は憲法39条に反す
る。>という主張は、全く根拠のないものということになる。そして、とりわけ、理論上の見地
から問題とされるべきは、上記の主張が、「制裁」はすべて「刑事罰」に該当するという無理
な「拡大解釈」をしていることで、その背景には<制裁的機能は刑事法が専管するものである。
>という誤った観念 17) がみられることである。
なお、判例上は、非刑事的制裁と刑事罰の併科が許されることは、従来から特に問題なく
認められてきている 18)。また、独占禁止法の課徴金についても、平成10年の最高裁判決 19) が、
17) 高木・前出注 15) 24頁。
18) たとえば、租税の領域では、追徴税と刑罰の併科に関する最判昭和33年4月30日(民
集12巻6号938頁)と、重加算税と刑罰の併科に関する最判昭和45年9月11日(刑集
24巻10号1333頁)があった。また、刑事裁判における証人の証言拒否に関する過料と
刑罰の併科に関しては、最判昭和39年6月5日(刑集18巻5号189頁)があった。
19) 最判平成10年10月13日判時1662号83頁 ( シール談合事件審決取消訴訟)は
次のように判示している。<本件カルテル行為について、・・・罰金刑が確定し、かつ、国か
ら上告人に対し不当利得の返還を求める民事訴訟が提起されている場合において、本件カルテ
ル行為を理由に上告人に対し同法7条の2第1項の規定に基づき課徴金の納付を命ずること
が、憲法39条、29条、31条に違反しないことは、最高裁・・・昭和33年4月30日大
法廷判決・民集12巻6号938頁の趣旨に徴して明らかである。>
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傍論ではあるものの、刑事罰との併科の合憲性を認め 20)、平成17年の最高裁判決 21) で「不当
利得構成」がとられないことが明示されるに至っている。そこで、現在では、もはや導入時の
ように「制裁」ではなく「利益剥奪」であるという「正当化」をする必要がないことが確認さ
れているとみるべきであろう 22)23)。
20) 例外として、東京高判平成13年2月8日判時1742号96頁(シール談合事件不当
利得返還請求訴訟)は、これも傍論とはいうものの、次のように判示していた。<独占禁止法
は、カルテル行為に対しては別途刑事罰を規定しているから、課徴金の納付を命ずることが制
裁的色彩を持つとすれば、それは二重処罰を禁止する憲法39条に違反することになる。した
がって、課徴金制度は、社会的にみれば一種の制裁という機能を持つことは否定できないとし
ても、本来的には、カルテル行為による不当な経済的利得の剥奪を目的とする制度である。そ
して、このような課徴金の経済的効果からすれば、課徴金制度は、民法上の不当利得制度に類
似する機能を有する面があることも否めない。
・・・利得者が、損失者にすべての利得を返還し、
他に剥奪されるべき不当な利得はないにもかかわらず、なおも課徴金が課されるというときに
は、そのような課徴金の納付命令の合憲性については検討が必要であろう。>
この東京高裁判決の「素朴な二重処罰禁止論」は、公正取引委員会の伝統的説明である「不
当利得構成」にミスリードされたものかもしれないが、上記の判例の流れからすれば、特異な
ものというべきであろう。
21) 最判平成17年9月13日民集59巻7号1950頁(機械保険カルテル)は、次のよ
うに判示している。<独禁法の定める課徴金の制度は、昭和52年法律第63号による独禁法
改正において、カルテルの摘発に伴う不利益を増大させてその経済的誘因を小さくし、カルテ
ルの予防効果を強化することを目的として、既存の刑事罰の定め(独禁法89条)やカルテル
による損害を回復するための損害賠償制度(独禁法25条)に加えて設けられたものであり、
カルテル禁止の実効性確保のための行政上の措置をして機動的に発動できるようにしたもので
ある。また、課徴金の額の算定方式は、実行期間のカルテル対象商品又は役務の売上高額に一
定率を乗ずる方式を採っているが、これは、課徴金制度が行政上の措置であるため、算定基準
も明確なものであることが望ましく、また、制度の積極的かつ効率的な運用により抑止効果を
確保するためには算定が容易であることが必要であるからであって、個々の事案ごとに経済的
利益を算定することは適切ではないとして、そのような算定方式が採られ、維持されているも
のと解される。そうすると、課徴金の額はカルテルによって実際に得られた不当な利得の額と
一致しなければならないものではないというべきである。>
22) 白石忠志『独占禁止法』(有斐閣・2006年)440頁。
23) 証券取引法の平成16年改正による課徴金の導入と併せて解説するものとして、櫻井敬
子「課徴金」自治実務セミナー44巻11号12頁(2005年)参照。同論稿は、同『行政
法講座』(第一法規・2010年)の第7章「法執行」に収録されている。
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三 行政制裁の概念
(1)狭義の制裁と広義の制裁
行政法の仕組みによって課される「制裁」と刑事法の仕組みによって科される「制裁」の
役割分担をどのように図るかは、あるべき「法執行システム」を考える際に、避けて通れない
問題である。
その前提として、「行政制裁」について、行政法理論ではどのような整理がなされてきたの
であろうか。この点は、私のみるところ実は十分なものではない。そこで、この点について考
察を深めることが今後の課題となるが、さしあたりは、以下のような宇賀教授の説明から出発
するのが便宜であると思われる 24)25)。
[「行政制裁」には、広い意味と狭い意味の2つがある。広義の「行政制裁」とは、<過
去の行政上の義務違反に対して課される刑罰以外の制裁で、その威嚇的効果により間接的に
義務の履行を強制するもの>である。また、狭義の「行政制裁」とは、広義のそれのうち<
違法行為前よりも不利益な状態に置くもの>である。]
以上のような分析に従う場合には、次の2点に留意が必要となる。まず、第1に、課徴金
の性格をめぐる議論のなかでみられた「利益剥奪と制裁の二者択一論」は、狭義の「行政制
裁」に着目するものであったことである。すなわち、そこでは、「利益剥奪」にとどまっている
限りでは「二重処罰」の問題は生じないが、「利益剥奪」を超えると「制裁」としての性格を
持つことになり「二重処罰」の問題が生じる、とされていた。
このような立論においては、
「制裁」という概念が「罰」という概念とほぼ重なるものとイメー
ジされ、かつ、「罰」という概念と「刑事罰」という概念の区別も全くなされていないというこ
とが指摘できる。おそらく、
ここでの「制裁」
という概念は、
アメリカ法でいうペナルティ
(penalty)
という捉え方に近いのであろう。しかし、ペナルティには刑事罰だけではなく、非刑事的な(civil)
のそれ、すなわち制裁金が含まれ、アメリカでは、税法、環境保護法、証券取引法、虚偽請
求法など多くの分野で用いられている 26) ことを見落としてはならなかったと思われる。
(2)「性格付け」と「機能」の区別
第2に、広義の「行政制裁」という捉え方は、「機能」に着目したものであると思われる。
24) 宇賀克也「行政制裁」ジュリスト1228号(2002年)50頁。
25) 「行政制裁」をさらに広義に捉え、許認可等の取消しなどを含める整理もあるが、塩野・
前出注 10) 226頁(注 4)は、「機能」だけに着目するのではなく、「法的性格付け」(「本来
の制度趣旨」)に十分意を払う必要があるとして、これに批判的である。これに対して、宇賀・
前出注 11) 249頁は、立法論としては、制裁を直接の目的とした許認可等の取消しも考えら
れないわけではなく、現に存在すると指摘している。
26) 佐伯・前出注 15) 77頁参照。
- 233 -
すなわち、このような広義の概念は、「制裁的機能」を有するものを広く包括することをめざ
すものとみられるのである。しかし、その反面、「間接的に」「強制する」という言葉の意味次
第で、その範囲が曖昧なものとなる可能性があることに留意が必要となる。 というのは、たとえば、広義の「行政制裁」に含まれるものとして、伝統的な行政法理論に
おける「行政罰」から「行政刑罰」を除いた「行政上の秩序罰」があるからである。しかし
ながら、現行法上の「行政上の秩序罰」は、比較的低額の「過料」を課すもので、「威嚇力
により」「強制する」という機能を果たすことが予定されているかどうかには疑問が残る 27)。
また、同じ「過料」という名称で、「行政上の強制執行」の一種としての「執行罰」という
カテゴリーに分類されるものがある。この「過料」は、戦後改革によって現行法上はほとんど
みられないものであるが、理論上は「間接強制」とされ、「間接的に義務の履行を強制する」
という機能を果たすことが予定されているというべきである。ただ、これはおそらく、宇賀教
授のいう広義の「行政制裁」には含まれない。その理由は、「過去の義務違反に対して課さ
れる」のではなく、「将来の義務履行を強制するために課される」からである。
しかしながら、義務の履行をめざすもの(「強制」)なのか、義務の履行をあきらめて「懲
らしめる」もの(「制裁」)なのかは、その手段がどのように機能するかに依存しているから、
制度上の位置付けだけでは判断できないというべきかもしれない。すなわち、ある措置の「(法
的)性格付け」と「機能」は重なる場合もあれば異なる場合もあるといわざるを得ないので
ある。
「性格付け」とは、その措置の「趣旨」ないし「目的」に照らしてなされるものである。
「秩序罰」は、
「過去の義務違反に対して課される」ものであるとされ、
「制裁」という「性
格付け」がなされているが、宇賀教授は「強制」という「機能」をも有していると考えて
いることになる。他方で、「執行罰」は「将来の義務履行を強制するために課される」も
のであるとされ、
「強制」という「性格付け」がなされているが、
「実効性」に欠けるために、
「制裁」という「機能」を有するにとどまる場合もあるかもしれない。
(3)「サンクション」の概念
ここで、「制裁」と「サンクション」の関係について補足するとともに、「実効性確保」の概
念のねらいについてコメントしておく。
行政法学においては、
「実効性確保」のための手段を分類する手がかりとして、
「強制」と「制
裁」のほかに「サンクション」という概念が提唱されたことがある。たとえば、畠山教授は、
「制
裁」と同様に「機能」に着目しつつ、「制裁」よりも広い概念として「サンクション」という概
念を用いた 28)。すなわち、そこでいう「サンクション」は相手方にとって不利益に機能する「ネ
27) 櫻井敬子「行政的制裁」自治実務セミナー46巻1号16頁(2007年)参照。
28) 畠山武道「サンクションの現代的形態」『岩波基本法学第8巻』(1983年)365頁。
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ガティブなサンクション」と、相手方にとって利益に機能する「ポジティブなサンクション」の
両方を含み得るとされたのである。そして、この新たなアイデアが英語から来ていたこと、ま
た、環境法などの領域で用いられる「経済的インセンティブ」などが例示されていたことから、
経済学的な考察が背景にあったことは容易に推測できる。税と補助金は、法的な「性格付け」
は全く異なるものの、経済学的には「機能的等価物」である場合もあるからである。
このように、「サンクション」や「インセンティブ」という捉え方は、「制裁」という捉え方よ
りさらに視野を広げるという意義を有すると思われる。そして、多くの仕組みをその機能面に
よって整理していくという発想、同じような機能を持つものを比較して、その相互関係を意識
するという発想が、制度設計という観点からは重要であることがうかがえる。
なお、「実効性確保」という捉え方は、先に触れたように1960年代半ばから1970年
代に「義務履行確保」という捉え方からさらに一歩進むものとして「発見」されたものである。
その契機は、当初は日本特有の現象とみられていた「行政指導」の多用であった。「行政指導」
は、定義上、法的な意味で「義務を課すものではない」から、それがめざす目標が正当なも
のであり、かつ目標の実現のために「公表」や「給付拒否」などの手段を駆使することが正
当なものであるとされた場合にも、それらの手段は「義務履行確保」という概念によっては整
理できないからである 29)。
社会的な背景としては、公害問題や都市問題の深刻化、消費者問題の発生などが指摘され
る。伝統的な「法律による行政の原理」は、「自由主義国家観」を出発点にしており、その
原理に忠実に従うと、「公的規制」は、法律によって授権された限りでのみ行えることになり、
その手段も「行政行為」と「強制執行」および「行政罰」に限定される。しかし、国の法令
による対応が不十分な状況のなかで、現実の行政需要を意識した現場の行政機関は、緊急
避難的にこれらの制約を打破しようとしたのであり、行政法理論の側でも、それらの対応に一
定の積極的評価を与えたのである 30)。
そして、「実効性確保」という概念は、広義の「制裁」と広義の「強制」という概念を包括
するものであるから、
「実効性確保」という整理の仕方は、
「行政強制」という整理の仕方と「義
務履行確保」という整理の仕方の両方の狙いを共に生かすことをめざすものとみることができ
る。そこで、そのような整理ないし説明の仕方は長所を有するとともに短所を有することになる。
短所として指摘されるのは、法的な問題の焦点を曖昧にするおそれである。曽和教授 31) に
よれば、規範論としての行政法理論を重視するならば、同じ「経済的手法」であっても、義
務履行確保手段としての経済的手法と社会システムとしての経済的手法(義務履行確保ある
29) 高木・前出注 3) 99頁
30) 「要綱行政」ないし「権限なき行政」が、後の「政策法務」、いわゆる「攻めの法律学」
の先駆的形態であるとするものもある。人見剛「分権改革と自治体政策法務」ジュリスト
1338号96頁(2007年)。
31) 曽和・前出注 4) 219頁
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いは法違反の是正を目的としない経済的負担)は、区別されなければならない。前者につい
ては、私人の行動に対する適法・違法の判断が先行しており、その判断基準の妥当性が伝統
的な法律学の関心事であったからである。
ただ、曽和教授も、従来「行政強制」論の枠組みで検討されてきた制度の多くが、行政目
的を達成する手法としても理解できること、「法執行システム」という捉え方も、それをより最
広義に捉えれば「法目的の実現システム」ということになり、そこには規制手法、助成手法、
経済的手法など様々な手法が包括されることを指摘している。
四 行政強制の概念
(1)「即時強制」の位置づけ
「法執行システム」の説明のなかで、「義務履行確保」というグルーピングとは別に、「行政
強制」というグルーピングがある。たとえば、田中二郎博士の教科書 32) では、「行政強制」と
いう概念が、「行政上の強制執行」と「行政上の即時強制」の上位概念とされ、それが「行
政罰」と対置されていた。
これに対して、1970年代以降の多くの教科書で採用されている「義務履行確保」という
グルーピングの場合は、「義務履行確保制度」の中に「行政上の強制執行」と「行政罰」が
位置づけられ、「即時強制」(ないし「即時執行」)は孤立するものが多くなっている 33)34)。こ
のように、戦後の行政法学の学説史からは、「行政強制論」から「義務履行確保論」へとい
う流れがあるといえるので、「行政強制」というグルーピングの方が「古く」、「義務履行確保」
というグルーピングの方が「新しい」ということになる。しかし、戦前の行政法学を視野に含
めると必ずしもそうはいえないことに留意が必要である 35)。
さて、
「即時強制」の概念において第1に注意すべきは、そこでの「強制」が「有形力の行使」
32) 田中二郎『新版行政法上』(弘文堂・1974年)
33) 塩野・前出注 10)221頁。
34) 宇賀・前出注 11) 103頁。
35) 高木・前出注 6) 97頁。詳細な概念史として、須藤陽子「『行政強制』と比例原則」川
上古稀『情報社会の公法学』(信山社・2000年)599頁、同「直接強制に関する一考察」
立命館法学312号(2007年)5頁、同「『即時強制』の系譜」立命館法学314号(2007
年)1頁。
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という最も狭い意味のそれであることである 36)。すなわち、
「即時強制」における「強制」は「有
形力の行使」という「直接強制」と共通点を有するものが想定されている。行為類型の観点
からは、いわゆる「権力的事実行為」がその中核ということになる。このようなカテゴリーの
存在は、市場や社会の「秩序形成」という観点、法の「社会統制機能」という観点から見落
としてはならないと思われる。しかし、他方で、裁判所の活動を中心に法の機能を分析する
場合には、位置づけに困難を有するものであることも確かである。
これに対して、「行政上の強制執行」には、「強制徴収」「代執行」「執行罰」「直接強制」
という4つの類型が含まれ、それぞれにおける「強制」の意味はさまざまである。そこで、
「強
制執行」における「強制」の概念はより広いものになっている。
第2に注意すべき点は、
「即時強制」と「直接強制」ないし「代執行」との違いは、
「行為類型」
としての違いというよりは、「行政手続上の位置づけ」の違いではないかということである。す
なわち、「法執行システム」というときも、それを広く捉える場合には、「法の実現のプロセス」
ということになるので、「行為」と「手続」の組み合わせという観点からの整理が有効である
と考えられるからである。
そこで「即時強制」の理解においてまず参考とされるべきは、この概念の淵源であるドイツ
における位置づけ 37) であろう。
まず、ドイツにおいては、「行政上の強制執行」を金銭給付義務の実現にかかるものとそ
れ以外の「作為、受忍または不作為義務」の実現にかかるものに分けて説明する「二元的
36) 櫻井敬子=橋本博之『行政法(第2版)』(弘文堂・2009年)は179頁、187頁
で次のように説明している。<直接強制とは、義務者の身体または財産に対して直接有形力を
行使して、義務の実現を図ることをいう。作為義務・不作為義務のいかんを問わないし、非代
替的作為義務の場合はもとより、代替的作為義務の場合でも直接強制の対象とすることが可能
である。><即時強制とは、義務の存在を前提とせず、行政上の目的を達するため、直接身体
もしくは財産に対して有形力を行使することをいう。義務の存在を前提としないので、義務履
行確保の手段とはいえないが、直接強制との違いは実際上は大きくない。たとえば、違法駐車
された自動車のレッカー移動については、警察官が運転者に対して移動命令を出したうえで行
う場合(道路交通法51条1項、2項)と、運転者が現場にいない場合に移動命令を出すこと
なく車両を移動する場合(同条3項)の2通りがある。移動命令を前提とした移動は直接強制
とみる余地があり、これを前提としない移動は即時強制である。両者は概念的には別異である
が、実際上の措置として質的に異なるというほどのものではない。>
37) 以下の記述は、学術創成研究の平成21年度研究員であった重本氏が京都大学大学院に
提出した最新の学位論文に依拠している。重本達哉『ドイツにおける行政執行の規範構造―行
政執行の一般要件と行政執行の例外の諸相―』(2010年・未公表)。その前半部分は、法学
論叢166巻4号(2010年)109頁、167巻1号(2010年)39頁に公表されて
いる。
- 237 -
構成」を採用し、「作為、受忍または不作為義務」の実現にかかるものについて「行政強制」
(Verwaltungszwang)という概念を用いるのが通例である 38)。
また、ドイツにおいては、
「行政強制」を「行政行為」によって課された義務の「強制執行」
(Verwaltungsvollstreckung)と捉え、「行政強制」の手段として、「代執行」「強制金」「直
接強制」という3つの類型を位置づけている 39)。
そして、「即時強制」は、独自の行為類型ではなく、「行政強制」の手段が「先行する行政
行為なしに」用いられるものであると理解されているのである 40)。
このように、
ドイツにおいては、
「即時強制」は、
「行政強制」の手段が用いられる態様を表わすものであるが、注意すべきは、
「即時強制」で用いられる手段は、
「代執行」と「直接強制」の2つに限定されることである。
これは「強制金」は性質上「手続の省略」になじまないことによるもので、連邦法ではそのよ
うに解釈するものとされるが、ラント法のなかには、条文のなかで明示しているものもある。
以上のように、ドイツにおいては、行政行為によって課せられた義務を「戒告」(連邦行政
執行法13条)および「強制手段の決定」(14条)という「手続」を踏んで実現する形態
が原則であるという整理がなされている。そして、そのような「標準的な」形態の対極に「即
時強制」が、そして両者の中間に、行政行為は先行するものの、「戒告」ないし「強制手段
の決定」が省略される「略式手続」
(Abgekürztes Verfahren)が位置づけられているのである。
(2)「間接強制」の概念
先に触れたように、「強制」の概念は多義的である。とりわけ、<義務の履行を間接的に強
制する>というように、「強制」という概念を機能的に捉える場合には、その範囲は曖昧にな
らざるを得ないという問題がある。たとえば、宇賀教授のように「広義の行政制裁」を<過去
の行政上の義務違反に対して課される刑罰以外の制裁で、その威嚇的効果により間接的に義
務の履行を強制するもの>と捉える場合には、「行政上の秩序罰」も「間接的」「強制」に当
たることになりそうである。しかしながら、現行法上の「行政上の秩序罰」は、比較的低額の「過
38) 連邦の「行政強制」に関する一般法の規定は以下のとおりである。連邦行政執行法6条
1項<物の引渡し又は作為、受忍若しくは不作為を命じる行政行為は、それが不可争となるか
又は確定前の執行が命じられ若しくは法的争訟手段が停止的効果を有しない場合には、9条の
定める強制手段によって実現することができる。>
39) 連邦行政執行法9条1項<強制手段は、代執行(10条)、強制金(11条)、直接強制(12
条)とする。>2項<強制手段は実現される目的と適正な関係にとどまるものでなければなら
ない。強制手段は、関係人及び公衆に対する侵害の度合いが最小になるように定められなけれ
ばならない。>
40) 連邦行政執行法6条2項<行政強制は、刑罰若しくは過料の構成要件を実現する違法行
為の阻止又は切迫する危険の回避のために即時執行が必要不可欠であり、かつ、行政庁がその
法律上の権限内で行動する場合、先行する行政行為なしに用いることができる。>
- 238 -
料」を課すもので、「威嚇力により」「強制する」という機能を果たすことが予定されているか
どうかには疑問が残る。そこで、「制裁」と性格付けられるものの中には、「強制的機能」を
有するものとそうでないものがあり、低額の「過料」(=「秩序罰」)は、もともと「制裁」と
いう機能を有するにとどまるものとして制度設計がされていると整理をすべきであろう。
これに対して、「行政刑罰」は通常の理解によれば「厳しい制裁」であり、平均的市民に対
しては、「強制的機能」を有するものとして制度設計がなされるはずであった。しかし、違反
の多くが見逃され、あるいは低額の罰金刑で終わることが通例となると、「行政刑罰の著しい
機能不全」が語られることになるのである。
他方で、同じ「過料」という名称で、「行政上の強制執行」の一種としての「執行罰」と
いうカテゴリーに分類されるものがある。これは、戦前にドイツから継受された仕組みで、現
在のドイツでは「強制金」(Zwangsgeld)という名称になっている。この「執行罰」は、わ
が国では戦後改革によって整理され、現行法上はほとんどみられないものとなっているが、ド
イツでは一般法で認められており、かつ、近時はその活用が図られているとされる 41)。この「執
行罰」ないし「強制金」は、理論上は「間接強制」とされ、
「間接的に義務の履行を強制する」
という機能を果たすことが予定されているというべきものである。そこで、わが国においても、
活用する方向での立法による改革が望ましいと思われる 42)43)44)。
41) 西津政信『間接行政強制制度の研究』(信山社・2006年)32頁。
42) 阿部泰隆『行政法解釈学Ⅰ』(有斐閣・2008年)594頁参照。
43) この点からも参考となるのは、民事執行の領域における「間接強制」の活用という動き
であろう。すなわち、司法制度改革の議論のなかで、民事執行の非効率性が批判され、その原
因のひとつが従来の「間接強制の補充性」という原則であるとされたところである。そして、
平成15(2003)年の「担保物権及び民事執行制度の改善のための民法等の一部を改正す
る法律」(略称「新担保・執行法」)および平成16年(2004)年の「民事関係手続の改善
のための民事訴訟法等の一部を改正する法律」(略称「続改善法」)によって、物の引渡し義務
や代替的作為義務・不作為義務、そして扶養義務等に係る金銭債権について、間接強制による
強制執行が認められるようになっている。中野貞一郎『民事執行法(増補版新訂5版)』(青林
書院・2006年)11頁。
44) なお、民事法における「代替執行」と行政法における「代執行」とは同じ概念をルーツ
とするが、「直接強制」および「間接強制」との役割分担が異なる点に注意が必要であるとさ
れている。すなわち、民事執行にいう「代替執行」は、
「代替的作為義務」についてのほか、
「不
作為義務」について、債務者のした行為の結果を除去し、または将来のため適当な処分をする
ことを裁判所に請求するという形態がある(民法414条3項)。また、民事執行では「直接強制」
が一般的な強制手段とされ、行政法にいう「強制徴収」も含めた制度となっている。阿部・前
掲注 42) 554頁。
- 239 -
(3)「公表」の「制裁的機能」
さて、
「新たな義務履行確保手段」として説明される「公表」45) については、
「行政制裁」の
一種なのか、「行政強制」の一種なのかという問題があることが指摘できる。
45) 最判平成14年7月9日民集56巻6号1134頁は、宝塚市が条例に基づく「中止命令」
に従わなかった業者を被告として、民事訴訟を提起し、不作為義務の履行を求めた事件に関す
るものである。行政上の義務についての不履行にどのように対処するかは、まさに「法執行シ
ステム」の問題であり、これについての古典的な分類が、「司法的執行モデル」と「行政的執
行モデル」である。「司法的執行」というのは、行政上の義務についても、その不履行に対す
る「強制」や「制裁」は、通常の裁判所が担当するシステムであり、英米法がそれを採用して
いるとされる。「行政的執行」というのは、行政上の義務については、行政機関が、通常の裁
判所の力を借りることなく、
「強制」や「制裁」によって対処することができるシステムであり、
ドイツ法がそれを採用しているとされた。なお、フランスは、英米とドイツの中間的なシステ
ムであると指摘されている。阿部・前掲注 42) 556頁参照。(フランス法の現状については、
学術創成研究の平成20年度研究員であった福重さと子氏の研究(未公表)が継続中である。
学創通信5号45頁参照。)上記最高裁判決は、わが国における「法執行システム」のめざす
べき方向は、「行政的執行モデル」の要素の強化にあることを示唆していると思われる。
なお、上記条例は平成15年に全面的に改正され、その「実効性確保」のための手段として、
命令違反についての刑事罰と並んで、公表の規定が置かれた。宝塚市パチンコ店等及びラブホ
テルの建築の規制に関する条例12条<市長は、建築主等が、第4条第1項若しくは第9条第
1項の同意を得ずに、(中略)、対象建築を建築しようとし、又は建築したときは、当該建築主
等(中略)に対して、当該建築工事の中止を命じ、又は相当の猶予期限を付けて当該建築工事
の変更、原状の回復、除却その他必要な措置を採るべきことを命ずることができる。>13条
1項<市長は、前条の規定による命令を受けた建築主等が、当該命令に従わない場合において、
必要があると認めるときは、その事実を公表することができる。>2項<市長は、前項の規定
により事実の公表を行うときは、あらかじめ当該事実を公表される建築主等に対し弁明の機会
を与えなければならない。>22条<第12条の規定による命令に違反した者は、6月以下の
懲役又は300,000円以下の罰金に処する。>
- 240 -
すなわち、たとえば、櫻井・橋本両教授の教科書 46) での公表についての説明は、どちらか
といえば「公表」を「行政強制」の一種として捉えているかのような印象を与えるものとなっ
ている。しかし、多くの学説においては、「公表」の「制裁的機能」が法律(ないし条例)
の根拠を必要とする理由づけとされており、上記教科書も異なる立場をとっているとは言い切
れない。
そこで、いずれの立場をとるにせよ、公表についての説明と、行政代執行法1条の解釈に
おける説明の整合性をどのように確保すべきかが多少気になるところである。
行政代執行法が昭和23(1948)年に「行政執行法」を廃止しつつ制定された際の
考え方がどのようなものであったのか、そして、それは現時点でどの程度維持されていると考
えるべきなのかが問題である。
行政代執行法1条<行政上の義務の履行確保に関しては、別に法律で定めるものを除いて
は、この法律の定めるところによる。>
この1条で「別に法律」という場合の「法律」は、2条の「法律」にかっこ書がついてい
ることとの対比で、
「文理解釈」からは、国会の定める「法律」に限定されるということになる。
そして、同法の制定当時、「義務の履行確保」の手段のなかに、「公表」が含まれると考えら
れていなかったことは確かである。
先にみた櫻井・橋本両教授の発想は、義務履行確保の制度を設ける権限は、国だけでは
なく、地方公共団体にも認めるのが憲法の趣旨に合致するので、行政代執行法1条に「実定化」
されている「法律主義」の及ぶ範囲を限定的に解釈すべきであるというものであるとみられる。
このような発想は多くの論者も共有するところで、政策的には適切であると思われる。
ただ、そのような「目的論的解釈」の際のテクニックとしては、制定当時に念頭に置いてい
たものについてだけ「法律主義」が妥当するというもの(「古典的手段法定説」=第1の考え方)
のほかに、同法にいう「義務履行確保」の概念を厳格に解して、理論上の「強制執行」につ
46) 櫻井=橋本・前出注 36) 183頁は以下のように説明している。<義務を履行しない者
の氏名(個人名ないし企業名)・住所等を公表することにより、義務の履行を促すことが制度
化されている場合がある。(中略)公表は・・・情報提供の意味合いを持つと同時に、公表さ
れる者にとっては義務の履行を促す機能をあわせ持つ。><公表は、義務履行確保の手段とし
て高い効果が期待される反面、氏名を公表される当該個人ないし企業に深刻な不利益を与える
可能性があり、また、いったん誤った情報が公にされると原状回復が事実上困難となる。そこ
で、義務履行確保のための公表制度を設けるには法律の根拠が必要であり、公表に先立って直
接の利害関係者に意見書提出を認める等の事前手続を整備すべきである。><条例で一定の行
為を義務づけ、その義務履行確保の手段として氏名等の公表制度を設けることは、直接強制や
執行罰とは異なり、可能と考えられている。公表は行政代執行法制定時には想定されていなかっ
た新たな義務履行確保の手段であり、同法の規制の及ぶところではないからである(行政代執
行法1条)。
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いてだけ「法律主義」が及ぶとすることも考えられる。
第2の考え方(「強制執行法定説」)によれば、行政代執行法は、
「直接強制」と「執行罰」
(と「強制徴収」)について個別の法律が認める場合だけに許容するということを定めたにと
どまり、義務の不履行に対する「制裁」としての「行政罰」について規律するものではないこ
とになる。そこで、条例で「行政刑罰」を定めることができるかどうかは、行政代執行法1条
の解釈問題とは別に、
「罪刑法定主義」および地方自治法の解釈問題として、また、条例で「行
政上の秩序罰」である「過料」を定めることができるかどうかはその応用問題として解決され
るべきことになる。そして、さらに、新たな「制裁」としての公表の法的統制についても、同
様に、行政代執行法1条の解釈問題とは別に、まずそれが「法律の留保」に服するのかを解
明し、それが肯定された場合には、続いて、条例が根拠として許容されるのかを検討すべきこ
とになると思われる。
以上のように考えてくると、即時強制の許容性に関する議論も再考の余地がありそうである。
現在の多くの教科書では、「直接強制」の根拠は法律に限定されるが、「即時強制」の根拠は
条例でもよいという立場が採られている。しかし、原田教授のように、「直接強制」とのバラン
スを重視する立場もある 47)48)。
そこで、上記の第2の考え方によって、条例を根拠とする即時強制が許容されるという解釈
をとると、それは「即時強制」は「強制執行」ではないという形式論理に依拠しているという
批判を受けることになりそうである。そのような批判を回避し、逆の結論を導くためには、行
政代執行法1条にいう「義務履行確保」には、理論上の「強制執行」だけではなく、「即時
強制」も含まれるという第3の考え方(「行政強制法定説」)をとることが考えられる。さきに
紹介した「即時強制」は「行政強制の例外中の例外」であるというドイツの発想に従えば、
こちらの方が「素直」な立場といえそうである 49)。
(4)広義の「強制執行」
最後に、「強制執行」を広義に捉え、「即時強制」も「強制執行」の一種であるとする説明
について触れる。
オーストリアの公法学においては、基礎理論として純粋法学の影響がなお根強いようであり、
47) 塩野・前出注 10) 242頁。宇賀・前出注 11) 248頁。
48) 原田尚彦『行政法要論(全訂第7版)』(学陽書房・2010年)239頁。
49) 明示的ではないが、芝池義一『行政法総論講義(第4版増補版)』(有斐閣・2006年)
211-212頁。これらに対して、阿部・前掲注 42) 592頁は、地方分権の時代に即して、
行政代執行法1条を「文理に反して」限定解釈すべきであるという立場(第4の考え方=「条
例準法律説」)をとっている。そこでは、重大な人権侵害が生じない場合には、条例でも、「直
接強制」や「略式代執行」を定めうるという結論をとることによって、条例で「即時強制」を
定めうるという結論とのバランスを図ることが試みられているのである。
- 242 -
たとえば、憲法学の標準的な教科書において、
「強制規範」
(Zwangsnormen)の要素として、
「刑
罰」(Strafe)または「強制執行」(Exekution)の存在を想定する立場が表明されている 50)。
そして、本稿にとって興味深いのは、行政手続に関する教科書的説明 51) のなかで、「強制
執行」(Exekution) についても「狭義」と「広義」のそれがあり、「狭義の強制執行」は、義
務を付加する行為とそれを実現する行為の2段階を踏むが、例外的なものとして「即時強制」
があり、それを含めて「広義の強制執行」と呼ぶとの整理が示されていることである。
先にみたように「義務履行確保」という捉え方は、「強制執行」の概念を中核としているこ
とから、さしあたりは、裁判所の活動を中心に法の機能を分析する立場と親和的であると思わ
れる。すなわち、民事法の世界では、裁判所の判決によって「義務」が個別的具体的に確定
され、それを義務者が「任意」に履行することによって法秩序が維持される、というのが本来
あるべき姿とイメージされる。
そして、行政法の世界でも、それと類似したいわゆる「三段階構造モデル」52) が説かれてき
たことが想起されるべきであろう。すなわち、行政庁の行政行為によって「義務」が個別的
具体的に決定され、それを義務者が「任意」に履行することによって行政目的が実現される、
というのが本来あるべき姿とイメージされるのである。そして、そのような「任意の履行」が
ない場合に、「強制的」な履行を確保することが法秩序の維持のために不可欠であると意識さ
れている 53)。
しかし、「法の社会統制機能」を重視する場合に、このような裁判所の活動を中心とした法
の機能の分析で十分か、また、「行政法の社会統制機能」を重視する場合に、裁判所の判決
と行政庁の行政行為という活動を中心にした法の機能の分析で十分かには疑問が残るところ
である。行政法学における「行政行為論から行政の行為形式論へ」54) という理論の展開は、
ま
50) Walter/Mayer/Kucsko-Stadlmayer,Bundesverfassungsrecht,10.Aufl.(2007),Rz3. なお、こ
こでは、Strafe と Exekution の上位概念として Sanktion が用いられているため、「制裁」の概
念が本稿よりもさらに広く、「強制執行」を包括するものとなっている。
51) Walter-Mayer,Verwaltungsverfahrensrecht,8.Aufl.(2003),Rz969.
Antoniolli-Koja,Allgemeines Verwaltungsrecht,3.Aufl.(1996),S.622 も同様。
なお、オーストリアにおけるいわゆる権力的事実行為と行政行為論との関連については、高木
光「即時的命令強制行為(行政法入門45)」自治実務セミナー48巻8号(2009年)3頁。
52) 藤田宙靖『第4版行政法Ⅰ(総論)改訂版』
(青林書院・2005年)20頁。高木光「三
段階構造モデル(行政法入門27)」自治実務セミナー46巻9号(2007年)3頁。
53) 他方、刑事法の世界では、
「刑罰」は、裁判所によって科されることにより、それ自体が、
法秩序をかく乱した者に対する「制裁」として機能するものと想定されているようである。た
だ、刑事政策の観点からは、「執行猶予」等の制度を含めて、刑事実体法の「実効性確保」の
あり方を機能的に分析する必要性が感じられる。
54) 高木光『事実行為と行政訴訟』
(有斐閣・1988年)283頁(初出・1985年)参照。
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さに、「行政指導」「事実行為」「行政立法」「行政計画」など「行政行為」以外の行政活動
への着目が必要であることを背景としていたからである。 五 おわりに
以上のとおり、本稿の内容は、従来の研究に特に目新しいものを付け加えるものではなく、
オーストリア法の研究から若干の示唆を得たことを示したにとどまるなど、まさに基礎作業に過
ぎないものである。法の「社会統制機能」との関係で、行政活動の存在意義をどのようなも
のと考えるべきか、また、「法執行システム」の全体のなかで行政法システムがどのように位
置づけられるべきかを考察することが本来の課題であるが、最後に、「課徴金の普遍性」につ
いて一言してひとまず本稿をとじることにしたい。
周知のごとく、違法行為に対して課される「課徴金」は、久しく独占禁止法に基づくものに
限られていた。そして、平成16(2004)年に導入された証券取引法に基づく課徴金も、
当初の水準は、違反行為によって得た利益相当額とされた 55) ところである。ほかに、平成19
(2007)年の公認会計士法の改正により監査法人に対する課徴金が導入されたが、これ
らを合わせみても、「課徴金」がわが国の「法執行システム」の中で普遍的な仕組みとなって
いないことは明らかである。このことをどのように評価すべきかが、次の問題であり、その前
提として、「制裁」および「強制」の概念で捉えられる様々な仕組みとの関係が整理されなけ
ればならないが、あらかじめ、理論面での見通しを示すと以下のとおりである。
独占禁止法は、主として「経済法学」の研究領域であり、行政法学にとっては、ひとつの「参
「法執行システム」ないし「エンフォースメント」という
照領域」56) と位置づけられる。そこで、
捉え方、そして「実効性確保」という用語が、経済法学においては当初から抵抗なく受け入
れられたとしても 57)、行政法理論にとっては、
「新たな」視点をもたらすものとして受け止められ、
その「消化」にはなお時間と労力を有するものと思われる 58)。この点を象徴的に示すものとして、
55) 証券取引法は、平成18年改正で金融商品取引法と改題され、平成20(2008)年
の同法改正で課徴金の水準の引き上げがなされている。宇賀・前出注 11)246頁は、同法
の課徴金を利益剥奪のためのものと固定的に考えるべきではないとする。
56) 「参照領域」理論は、ドイツのシュミット・アスマン教授等が説くものである。大橋・前
出注10) 14頁。なお、実質的に同書の第3版にあたるものとして、同『行政法Ⅰ(有斐閣・
2009年)17頁参照。
57) 注4) で指摘したように、「実効性確保」という視点を重視し、行政法の教科書の記述に
初めて採用した今村教授が、独禁法に造詣の深い研究者であったことは、偶然ではないと考え
る。
58) 白石・前出注 22)、金井貴嗣=川濱昇=泉水文雄編『独占禁止法(第3版)』(弘文堂・
2000年)
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標準的な教科書 59) は次のように説いている。
<加算税、課徴金等の違反金は、税法、経済法など個別法の必要性に応じて作られ、かつ、
それぞれの分野で論議の対象とされてきたものである。したがって、もともとの立法理由も一
様ではないが、法令違反を抑止する、別言すれば、法執行の実効性を企図するものとして収
斂しつつあるものといえよう。ただ、わが国においては、行政上の義務履行確保における一
般的制度の一つとして違反金制度を普遍化することまでには至っておらず、不当な経済的利得
の抑止に限定して、まさにアドホックな対応で推移してきている点に注意しなければならない。
その意味で、違反金制度を普遍的なものとして法制上位置づけるには、なお、秩序罰との関
係につき、さらには条例による違反金制度の活用可能性を含め検討した上で、違反金(行政
制裁金など名称はいろいろ有り得る)にかかる法制上の整備を進めるのが妥当であろう。そ
れまでは、これまでどおりに、個別具体の作用法ごとに、違反金の必要性、算定額を検討す
る必要があるように思われる。>
以上の説明は、現状の認識としては、筆者としても異論のないところである。また、筆者は「課
徴金の普遍性」を主張する論者として紹介されている 60) が、筆者の前記改正論議での主張の
力点は「課徴金の性格付け」と「課徴金の根拠付け」を区別すべきである 61) というところにあ
り、課徴金を行政の全分野に導入すべきであるという立法論的提言をしたわけではない。
ただ、一般論としては、わが国の行政法規は「実効性確保」のための法的な手段が十分に
整備されていないことが多く、立法による改善の必要性が高いということができよう。そして、
その際の基本方針としては、導入ないし強化される手段の「
(法的)性格付け」とその手段
が実際に果たす「機能」の乖離をできるだけ少なくすることが重要であると考える。すなわち、
ある手段を導入する場合には、「機能」に即した「性格付け」を行うべきであり、「性格付け」
にふさわしい「機能」を果たしていない手段については、まずその「機能」を強化する方策
を検討すべきであろう。そして、筆者も、相当数の論者が提言しているように、わが国の行政
法規の実効性確保のためには「行政制裁金」(=「違反金」)ないし「強制金」の導入・強
化が望ましいという結論が、比較法的な検討から得られるとの見通しをもっているのである。
*本稿は、科学研究費補助金・学術創成研究費「ポスト構造改革における市場と社会の新たな
秩序形成―自由と共同性の法システム」(研究代表者:川濵昇京都大学教授)主宰の第3回学
術創成セミナーにおいて筆者が行った報告「強制・制裁・サンクション――行政法学の立場か
ら――」(2007年11月2日)をもとに、その後の状況をふまえて改稿したものであり、
『民
商法雑誌』第143巻第2号に発表されている。
59) 塩野・前出注 10)245-246頁。
60) 同・246頁(注 3)
61) 高木・前出注 15)21頁。
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金融機関経営者の刑事責任――特別背任罪を中心に――
京都大学大学院法学研究科 髙山 佳奈子
1 はじめに
(1)特別背任罪の拡張傾向
バブル経済の崩壊以降、金融機関の経営者が刑事責任を問われる事件が散見される。とり
わけ、市場や個別財産に対する実害の発生を要件とする犯罪類型は、実体としても重大だと考
えられており、量刑も比較的重い 1)。中でも、不正融資事件における取締役等の特別背任罪(会
社法 960 条)の訴追事例は、巨額の財産的損害を特徴としており、判例は厳しい態度でこれ
に臨んできた。特別背任罪は一般の背任罪(刑法 247 条)の特別類型であり、主な成立要件
としても刑法上の背任罪と同じく、①主体、②目的、③任務違背、④財産上の損害の 4 つがある。
最近の法改正および判例を全体として見ると、本罪による処罰を強化する発展の傾向がいくつ
かの点において指摘できる。
第 1 に、法定刑が引き上げられた。現在の法定刑は 10 年以下の懲役もしくは 1000 万円以
下の罰金またはそれらの併科であり、これは、同じく経済刑法事犯に適用される業務上横領
罪(刑法 253 条)や詐欺罪(刑法 246 条)の法定刑が 10 年以下の懲役であることと比較し
ても、罰金の併科がある分、より重くなっている 2)。第 2 に、主体の要件に関し、判例上拡張的
な解釈の示されたことが挙げられる。背任罪は身分犯であり、主体の要件は「他人のためにそ
の事務を処理する者」
(事務処理者)である。取締役等、特別背任罪の主体はその特別類型
であるとされるが、最高裁は、これには報酬を受け取っていない者も該当しうるとした 3)。第 3 に、
目的要件の拡張の傾向がある。特別背任罪の条文上、
「自己若しくは第三者の利益を図り又は
株式会社に損害を加える目的」
(図利加害目的)が成立要件とされているが、判例における解
釈は、会社の利益が決定的目的でない限りこれが満たされるとするに等しいものとなってきてい
1) 業務上横領罪などを含まない虚偽有価証券報告書提出罪で実刑を認めた東京高判平
20.7.25(判時 2030 号 127 頁・判タ 1302 号 297 頁――ライブドア事件)の量刑(第一審の
判断を維持)は従来の他の事件との比較でいえば異例である。
2) なお、会社法 961 条の代表社債権者等の特別背任罪の法定刑は 5 年以下の懲役もしくは
500 万円以下の罰金またはそれらの併科である。他に、背任的な行為を含む犯罪類型として、
会社財産を危うくする罪(会社法 963 条)があり、法定刑は 961 条と同じである。
3) イトマン事件に関する最三小決平 17.10.7(刑集 59 巻 8 号 1086 頁)。
- 247 -
る 4)。第 5 に、本罪の共同正犯の成立範囲が広範に肯定されるようになっている。不正融資を
受けた側までが共同正犯として処罰される例が出てきているばかりでなく、共同正犯性を認め
るための基準も緩やかなものになっている 5)。
(2)限定の徴候
その一方で、最高裁は最近、銀行の取締役の行為に
「経営判断原則」が適用される余地を認め、
たとえ損害が出た場合であっても特別背任罪の成立が否定される場合のありうることを理論的
に肯定した。
従来、背任罪における「任務違背」性に関する議論は少なく、教科書や注釈書なども「冒険
的取引であっても直ちに任務違背となるわけではない」という趣旨を述べるにとどまることが多
かった。しかし、刑法理論において日本に強い影響を及ぼしているドイツでは、近年、巨額の
4) 平和相互銀行事件に関する最一小決平 10.11.25(刑集 52 巻 8 号 570 頁)は、本人の利
益を図るという動機があったとしても、それが「融資の決定的な動機ではな」いときは図利目
的が肯定されるとする「消極的動機説」を採用した。しかし、この基準では、何の動機も認定
されないときにも犯罪が成立することになり、目的要件の意義が失われる(佐伯仁志「特別背
任罪における第三者図利目的」ジュリ 1232 号 196 頁)。さらに、イトマン事件に関する最三
小決平 17.10.7(刑集 59 巻 8 号 779 頁、注 3 決定とは別)は、被告人の動機が会社の利益よ
りも自己や共犯者の利益を図ることにあったと認められ、また、会社に「損害を加えることの
認識、認容も認められるのであるから」、図利目的も加害目的も認められるとしている。だが、
そもそも故意の内容として「財産上の損害」の認識が要求されている以上、損害を加える認識・
認容のみで「加害目的」を肯定することはできないはずであり、少なくとも加害を動機とした
ことを要求すべきである。
5) 最三小決平 15.2.18(刑集 57 巻 2 号 161 頁)は、融資を受けていた会社の代表者が「支
配的な影響力を行使することもなく、また、社会通念上許されないような方法を用いるなどし
て積極的に働き掛けることもなかった」としても、融資担当者らの任務違背・財産上の損害に
ついての「高度の認識」と、それらの者に自己および融資先の「利益を図る目的」があること
の認識とを持ち、「融資に応じざるを得ない状況にあることを利用」しつつ「迂回融資の手順
を採ることに協力」したときは特別背任罪の共同正犯が成立するとした。同様に、最一小決
平 20.5.19(刑集 62 巻 6 号 1623 頁)は、銀行頭取らの特別背任行為につき、当該融資の申
込みをしたにとどまらず、その実現に積極的に加担した融資先会社の実質的経営者には、特別
背任罪の共同正犯の成立が認められるとしている。しかし、西田典之「銀行による不正融資の
融資先の実質的経営者が特別背任罪の共同正犯とされた事例」金法 1847 号 20 頁は、本件が
バブル経済時代の事件であり、「融資元と融資先の関係は『運命共同体』ではなく『緊張関係』
にある」現在にあっても「バブル経済期における判断枠組みが妥当するかは今後の判例を待つ
しかないであろう」と指摘する(同 14 頁以下は共同正犯の成立範囲に関する学説を分析して
いる)。
- 248 -
役員報酬 6) や寄付をめぐって、背任罪の任務違背性に関する学説・判例の議論が高まっており、
日本でも早晩同じ議論の起こることが予想された 7)。
そのような中で、虚偽有価証券報告書提出罪および違法配当罪に関するいわゆる「長銀事件」
の最二小判平 20.7.18(刑集 62 巻 7 号 2101 頁)は、会計基準に一定の選択の余地があるこ
とを認めて無罪を言い渡した。ここでは、最善の選択がなされたとはいえない場合であっても、
刑法上の違法性が直ちに肯定されるわけではないとする立場が示されている。その後、特別背
任罪が問題となったいわゆる
「拓銀事件」に関し、最三小決平 21.11.9
(刑集 63 巻 9 号 1117 頁)
は、結論としては有罪を認めたものの、任務違背性に関しても「経営判断原則」が妥当する余
地を肯定するに至ったのである。
(3)本稿の目的
このように、特別背任罪に関しては比較的新しい最高裁判例において注目すべき動きがみら
れる 8)。本稿では、特に任務違背性の要件に着目しつつ、処罰範囲の望ましい画定について若
干の考察を試みることとする。刑事司法の視点からは、犯罪を構成する行為を効果的に抑止す
る必要があり、経済の視点からは、処罰範囲の不明確さのせいで企業活動に対する過度の萎
縮効果が発生することを回避しなければならない。しかし、罰則は通常抽象的な文言によって
規定されており、それ自体としては適用について十分な予測可能性を与えないことが多い。領
域によっては、政府の指針などである程度の明確化が図られているものの、特別背任罪にはそ
れもないため、企業のコンプライアンスの確保のためには、刑罰法規の明確性の原則にかなっ
た処罰範囲の限定という観点が重要になる。
2 拓銀特別背任事件最高裁決定
(1)事実の概要
拓銀事件決定は、最高裁が「経営判断の原則」に言及し、その適用余地を理論的に肯定し
た初の判断として注目される。事案は、北海道拓殖銀行(拓銀)の代表取締役であった甲、甲
6) 日本語での紹介文献として、クリスチャン・フェルスター(齊藤真紀訳)「経営者報酬の
開示義務――ソフトローによる法の同化の一例」カール・リーゼンフーバー=高山佳奈子編『法
の同化:その基礎、方法、内容――ドイツからの見方と日本からの見方』(de Gruyter Recht、
2006 年)223 頁以下。
7) 任務違背性の要件に関する日本の先駆的かつ本格的な研究として、品田智史「背任罪にお
ける任務違背(背任行為)に関する一考察 (1)(2・完 )」阪大法学 59 巻 1 号 101 頁以下、2 号
265 頁以下がある。
8) 背任罪全般に関する近年の裁判例の紹介・検討として、たとえば、芝原邦爾『経済刑法研
究(上)』(有斐閣、2005 年)179 頁。
- 249 -
の後任の代表取締役であった乙、融資の相手方である丙につき、甲と丙、乙と丙とがそれぞれ
共謀して、丙の経営する複数の会社に不正融資を行ったとして特別背任罪(適条は改正前の商
法 486 条 1 項)により公訴が提起されたものである 9)。
第一審(札幌地判平 15.2.27)は、図利加害目的が認定できない(図利目的を認めた供述が
検察官の誘導によるものだったとして、供述の一部につき証拠能力が否定された)として全員
を無罪としたが、その際、
「経営判断」による行為の許容性に言及した。それによれば、
「長年
融資取引のあった取引先の経営状態が危ぶまれる事態に陥」っても、
「追加融資することによっ
て、当該取引先の経営が好転して既往の融資の回収が図られたり、追加融資をしない場合と比
べて回収額が増えたりすることが、合理的根拠に基づいて算出される場合などには、経営判断
として、追加融資をすることが許される」。
「その場合、追加分の融資について、その回収可能
性が懸念される以上、損失拡大を極力回避するため、融資額を可能な限り抑え込むとともに、
債権回収に向け最善の方策を検討し、取引先にリストラ等経営改善策を求めたり、人員を派遣
して、その経営を管理するなど、可能な限りの債権保全策を講じることが」要請される。本件
では、甲・乙ら「拓銀経営陣の融資判断は、真撃な取組みの下になされたものと認めることは
できず」任務違背性については肯定できる。
控訴審(札幌高判平 18.8.31)は原判決を破棄し、甲および乙にそれぞれ懲役 2 年 6 月、丙
には懲役 1 年 6 月の実刑を言い渡した 10)。その結論自体は最高裁の維持するところとなるが、
最高裁の判示との間にはトーンの相違がある。すなわち、控訴審は「経営判断の原則」に対し
否定的であり、
「経済性の原則」を第一次的に重視しているように見える。控訴審によれば、
「銀
行の公共性は、もともと預金者保護や信用秩序の維持を中核としている上、拓銀の貸出業務
取扱規程に、貸出業務が信用秩序及び国民経済に対して広く深い関係を持ち、多彩な影響を
与えることから、経済性の原則を堅持しながら公共的使命の達成に努めなければならないとあ
るように、経済性の原則、中でも、その中心である安全性を無視することは絶対に許されない
のであって、公共性の名の下に回収の見込みのない融資が許されることにはならないのであり、
また、融資の打切りによって当該取引先が倒産し、それまでの貸付金が回収できず、あるいは、
その従業員が失職し、さらには、当該取引先の取引企業等にも影響を及ぼすことは避けられな
いところ、それを理由に回収見込みのない融資をしても通常は破たんを先延ばしするに過ぎな
いから、結局は、上記のとおり、破たん先企業への融資が許されるのは、その融資による新
9) 詳しい検討として、渡部晃「旧長銀『違法配当』事件最高裁判決・最高裁決定をめぐっ
て:最二小判平 20.7.18 刑事事件判決と最二小決平 20.7.18 民事事件決定 ( 上 )( 中 )( 下 )」金
法 1857 号 20 頁以下、1858 号 24 頁以下、1859 号 40 頁以下、松山昇平「『経営判断の原則』
と取締役の責任:拓銀事件(最三小決平 21.11.9)を契機として」金法 1896 号 16 頁以下など。
10) 本稿では量刑判断に詳しい検討を加えることはできないが、実刑が選択された理由の 1
つに被害額の大きさがあったことは指摘できる。甲の行為による被害額は 8 億 4000 万円、乙
の行為による被害額は 77 億 3150 万円であったとされる。
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たな損害発生を防止するに足りる措置を講じ、近い将来における破たん先企業の再建が十分に
見込まれ、その結果、より多くの貸付金の回収が可能となる場合に限られる」。図利加害目的
については、甲らが自己保身の目的から本件融資を決定・実行したことは明らかだとして肯定さ
れている。
(2)最高裁の判断
最高裁は被告人側の上告を棄却したが、次のように述べて、
「経営判断の原則」を援用する
理論的な余地を残した。
「銀行の取締役が負うべき注意義務については、一般の株式会社取
締役と同様に、受任者の善管注意義務(民法 644 条)及び忠実義務(平成 17 年法律第 87
号による改正前の商法 254 条の 3、会社法 355 条)を基本としつつも、いわゆる経営判断の
原則が適用される余地がある。しかし、銀行業が広く預金者から資金を集め、これを原資とし
て企業等に融資することを本質とする免許事業であること、銀行の取締役は金融取引の専門家
であり、その知識経験を活用して融資業務を行うことが期待されていること、万一銀行経営が
破たんし、あるいは危機にひんした場合には預金者及び融資先を始めとして社会一般に広範
かつ深刻な混乱を生じさせること等を考慮すれば、融資業務に際して要求される銀行の取締役
の注意義務の程度は一般の株式会社取締役の場合に比べ高い水準のものであると解され、所
論がいう経営判断の原則が適用される余地はそれだけ限定的なものにとどまるといわざるを得
ない。」
「したがって、銀行の取締役は、融資業務の実施に当たっては、元利金の回収不能と
いう事態が生じないよう、債権保全のため、融資先の経営状況、資産状態等を調査し、その
安全性を確認して貸付を決定し、原則として確実な担保を徴求する等、相当の措置をとるべき
義務を有する。例外的に、実質倒産状態にある企業に対する支援策として無担保又は不十分
な担保で追加融資をして再建又は整理を目指すこと等があり得るにしても、これが適法とされ
るためには客観性を持った再建・整理計画とこれを確実に実行する銀行本体の強い経営体質を
必要とするなど、その融資判断が合理性のあるものでなければならず、手続的には銀行内部で
の明確な計画の策定とその正式な承認を欠かせない。」本件では「既存の貸付金の返済は期待
できないばかりか、追加融資は新たな損害を発生させる危険性のある状況にあ」り、被告人ら
は、
「抜本的な方策を講じないまま、実質無担保の本件各追加融資を決定、実行したのであっ
て、上記のような客観性を持った再建・整理計画があったものでもなく、所論の損失極小化目
的が明確な形で存在したともいえず、総体としてその融資判断は著しく合理性を欠いたものであ
り、銀行の取締役として融資に際し求められる債権保全に係る義務に違反したことは明らかで
- 251 -
ある」11)。
控訴審が「経済性の基準」を採用し、破たんを先延ばしするだけの融資は認められず、結果
としてより多くの貸付金の回収が可能となる場合にのみ追加融資が許される、と述べたのに対
し、最高裁はそこまで厳格な基準は立てていないと見るべきであろう。多数意見が、①一般論
として、経営判断の原則の適用がありうることを認めた点、および、②会社の性格によりそれ
がどの程度広く認められるかが異なるとした点は重要である。
(3)長銀事件との関連性
拓銀事件の控訴審判決は経済性の原則を重視していたものの、最高裁はその 2 年後に、企
業のベスト・プラクティスが実践されていたとはいいがたい長銀事件で無罪判決を出している。
事案は、旧日本長期信用銀行の代表取締役頭取であった被告人らが、共謀の上、未処理損失
を過少に計上するなどした虚偽の有価証券報告書を提出し、株主に配当すべき余剰金がないに
もかかわらず株主に対し違法に配当金を支払ったとして起訴されたものである。最高裁は、有
価証券報告書の提出および配当に関する決算処理につき、従前「公正ナル会計慣行」として行
われていた税法基準から、資産査定通達等によって補充される新たな決算経理基準への移行
期において、前者の基準によったことは違法でないとの判断を示した。関連ノンバンク等に対
する貸出金が実質的に回収困難になっている場合に、旧基準によれば、積極的支援先への貸
付金は回収不能とは評価されないが、新基準は実体をより正確に反映するものになっていた。
しかし、最高裁は、新基準が直ちに適用するにはいまだ明確性に乏しいものであり、従来の処
理を排除してこれに厳格に従うべきことも必ずしも明確ではなかったとした。背景としては、新
しい基準が法令の形で指示されていたものではなく、ガイドラインにすぎなかったことや、他の
多くの銀行でも長銀と同様の処理がなされていたこと 12) などが重要だと思われる。
最高裁は無罪判決を下したものの、古田裁判官の補足意見は次のように指摘している。確か
に、
「税法基準においては、……関連ノンバンクに対する貸付金を回収不能とすることは困難で
あったと思われる」。しかし「業績の深刻な悪化が続いている関連ノンバンクについて、……税
法基準の考え方により貸付金を評価すれば、実態とのかい離が大きくなることは明らかであ」り、
11) なお、田原睦夫裁判官の補足意見は、被告人らが「自行の融資金の管理に意を払い不良
債権の発生を抑止するという、銀行の取締役として当然の責務を果たしていなかったと言わざ
るを得」ないから、「本件各企業に対する各融資は、経営判断の原則の適用の可否を論じるま
でもなく」任務違背性が明白だとする。しかし、刑法上の「個別行為責任の原則」からは、融
資をしたことが背任行為とされるのであって、事前の問題行動が処罰対象となっているのでは
ない。融資前の行動を重視して「経営判断の原則」の適用自体を否定することには疑問がある。
12) 冴木駿一「旧長銀事件最高裁判決の意義:
『公正な会計慣行』とは」商事 1841 号 66 頁は、
もしほとんどの金融機関が新基準を採用していたならば異なる結論が導かれた可能性があると
指摘する。
- 252 -
「このような決算処理は、当時において、それが、直ちに違法とはいえず、また、バブル期以降
の様々な問題が集約して現れたものであったとしても、企業の財務状態をできる限り客観的に
表すべき企業会計の原則や企業の財務状態の透明性を確保することを目的とする証券取引法
における企業会計の開示制度の観点から見れば、大きな問題があったものであることは明らか
と思われる。」つまり、補足意見の評価によれば、旧基準の適用は、ベストの選択肢でなかっ
たばかりか、むしろ望ましくない処理であった 13)。そのような行為であっても、刑法上直ちに違
法と評価されるわけではない 14)。
このような判断の背後には、
「可罰的違法性」論があると思われる 15)。すなわち、刑法上の
違法性を肯定するためには、当該刑罰法規による保護目的に対応した違法性の「質」、および、
刑罰を科すに値するだけの違法性の「量」が必要であって、何らかの点で法的に瑕疵がある、
あるいは不適切である行為がそれだけで刑法上の違法性を備えることにはならない16)。このこと
は、会計基準の選択についてだけでなく、背任罪における任務違背性の検討にあたっても意味
をもつと考えられる。
13) このことから、無罪の結論に疑問があるとするものとして、野村稔「株式会社日本長期
信用銀行の平成 10 年 3 月期に係る有価証券報告書の提出及び配当に関する決算処理につき、
これまで『公正ナル会計慣行』として行われていた税法基準の考え方によったことが違法とは
いえないとして、同銀行の頭取らに対する虚偽記載有価証券報告書提出罪及び違法配当罪の成
立が否定された事例:長銀粉飾決算事件上告審判決」判評 607 号 173 頁。
14) 弥永真生「『税法基準』と『公正ナル会計慣行』」ジュリ 1371 号 47 頁は、補足意見に関し、
従来の基準が「会社の財産及び損益の状況を必ずしも十分に示しているとは考えられない場合
であっても、それを否定する明確なルールが存在しない場合には、(平成 17 年改正前)商法
違反あるいは証券取引法違反とはならないというもの」だと理解する。
15) これに対し、民事と刑事では同じ判断基準が適用されるべきだとするものとして、岸田
雅雄「旧長銀事件最高裁判決の検討」商事 1845 号 31 頁。
16) 日本では全逓東京中郵事件に関する最大判昭 41.10.26(刑集 20 巻 8 号 901 頁)以来、
判例によって維持されている立場である。ドイツでは違法性に関し「法秩序の統一性」論から、
法領域による違法性の相違を認めない立場が通説であるが、日本では、少なくとも違法性の量
に関しては、可罰的なものとそうでないものとを区別するのが通説である。故意など主観的要
件における刑事と民事との相違を分析するものとして、渡部・前掲注 9)(下)43 頁以下。
- 253 -
3 任務違背性の検討
(1)「経済性の原則」との関係
最高裁は、
「経営判断の原則」に言及しないまでも 17)、厳格な意味での「経済性の原則」が
つねに適用されるものでないことを認めてきたと考えられる。
そもそも、
「経済性の原則」を厳密な形で追求すること自体が難しい場合もある。
「信用保証
協会事件」に関する最一小決昭 58.5.24(刑集 37 巻 4 号 437 頁)は、信用保証協会が、元
来、経営の行きづまりや資産不足のある担保力の弱い中小企業に対する援助機関であって、単
に企業が破産に陥る危険があるという理由でこれを放置することはできないという前提の下で、
次のように論じている。
「信用保証協会の行う債務保証が、常態においても同協会に」
「損害を
生じさせる場合の少なくないことは、同協会の行う業務の性質上免れ難いところであるとしても、
同協会の負担しうる実損には資金上限度があり、倒産の蓋然性の高い企業からの保証申込を
すべて認容しなければならないものではなく、同協会の役職員は、保証業務を行うにあたり、
同協会の実損を必要最小限度に止めるべく、保証申込者の信用調査、資金使途調査等の確実
を期するとともに、内規により役職に応じて定められた保証決定をなしうる限度額を遵守すべ
き任務があるものというべきである。本件においては、信用保証協会の支所長であつた被告人が、
……企業者の資金使途が倒産を一時糊塗するためのものにすぎないことを知りながら、しかも、
支所長に委任された限度額を超えて右企業者に対する債務保証を専決し、あるいは協会長に
対する禀議資料に不実の記載をし、保証条件として抵当権を設定させるべき旨の協会長の指
示に反して抵当権を設定させないで保証書を交付するなどして、同協会をして保証債務を負担
させたというのであるから」、任務違背性が認められる。団藤裁判官の補足意見は、任務違背
性の判断にあたっては内部規程遵守の有無が特に重要だとしている。
したがってここでは、常態でも損害の発生しうることが前提となっている金融機関においては、
融資先が破産する危険だけでは任務違背性を肯定できないこと、
および、
内部規制の内容によっ
て任務違背性の判断が異なりうることが認められていると解される。従来、注釈書等でも、企
業自体が冒険的取引(ハイリスク・ハイリターン)を追求しているのであれば、一定の限度で損
害発生の危険のある行為が許容されるとされてきた。
問題は許容性の限界である。一方で、たとえば企業における福祉や環境保護への取組みの
ように、ある期間内で考えれば損失の出るような行為であっても、より長期的に見れば利益を
もたらす場合がありうる。そうだとすれば、短期的に利益を最大限(損失を最小限)にする選
択が行われなければ任務違背となる、という意味で「経済性の原則」を適用することはできな
17) 弥永真生「特別背任と経営判断原則」ジュリ 1392 号 179 頁は、従来、最高裁が経営判
断原則に言及していなかったのは、そもそもこれを論じる余地すらないほど義務違反性の明ら
かな事件が多かったからではないかと評価している。
- 254 -
い 18)。他方で、いかなる理由であってもそれが経営方針として採用されていれば任務違背にはな
らない、とすることもできないであろう。拓銀事件第一審判決は、
「銀行の有する公共的な使命、
殊に、拓銀が道内におけるリーディングバンクの地位にあったことを考慮すると、当該取引先へ
の融資を打ち切ることによって生じる地域経済等への影響についても、一定程度考慮すること
も許される」としていた 19) が、控訴審ではこの考え方が否定されている。
(2)団体の性格による制限
拓銀事件最高裁決定において言及された「経営判断の原則」は、団体の性格の相違を重視
するものであると解される。金融機関は、民間企業ではあるが、ある程度の公的性格を有する
ため、独創的な経営戦略による方針の相違は出てきにくい。金融機関の性質によっても、公共
性の程度は異なろう。一般に、公共性が高まるほど、経営者の自由裁量の余地は狭まると考え
られる。
会社法(旧商法)の罰則について見ると、それらはもともと、会社の有する一定の公的地位・
社会的重要性に着目して 1938 年に創設されたものであり、たとえば特別背任罪の場合には、
そうした公的重要性が刑法上の背任罪よりも重く処罰される根拠になっている。少なくとも立法
者は、民間企業であれば何もかも自由に活動させてよいとは考えなかったのである。拓銀事件
最高裁決定によれば、金融機関の公共性は他の一般の民間企業よりもさらに高くなる。
(3)違法性の相対性
そうだとすると、金融機関は、行政そのものと同等の公共性までは備えないが、ベンチャー
18) たとえば、旧日本道路公団鋼鉄製橋梁談合事件に関する東京高判平 19.12.7(判時 1991
号 30 頁・判タ 1259 号 142 頁)は、旧公団の理事であった被告人が、「高架橋工事について、
分割発注をすべき合理的な理由がなく、分割発注をすれば一括発注に比べて合計請負代金額が
相当多額になることを知りながら、……工事を 2 分割して発注するように指示し」て「請負契
約を締結させ」、公団に対し「少なくとも約 4780 万円の財産上の損害を加えたのであるから、
被告人に背任罪が成立する」と判示している。任務違背性を肯定するには、単に代金が多額に
なっただけでは足りず、「分割発注をすべき合理的な理由がな」かったことが決定的だと見る
べきであろう。この点の指摘として、塩見淳=品田智史「旧日本道路公団鋼鉄製橋梁談合・背
任事件東京高裁判決」刑事法ジャーナル 14 号 106 頁以下。
19) 東京高判平 19.12.7 前掲注 18)では、被告人が、国民経済の観点からは受注機会の確保
も重要であると主張している。確かに、「受注機会の確保」は、それだけでは談合の擁護にほ
かならない。しかし、任務違背性の判断にあたって費用額のみを基準とするのでは、金額への
換算が困難な企業活動をとらえきれず不十分である。髙山佳奈子「発注者である公団理事と共
謀共同正犯(旧道路公団鋼橋工事談合刑事事件)」経済法判例・審決百選(別冊ジュリ 199 号)
261 頁。
- 255 -
企業ほどの活動の自由までは持たず、それらの中間に位置することになる。すでに行政機関に
ついて見ても、その活動には裁量がある。裁判所が、行政機関の行為に対する司法審査を行
う場合には、最善の選択肢が採用されたか否かではなく、裁量権の逸脱があったかどうかを問
題にする。特別背任罪の任務違背性の要件においては、民間企業の経営者らの判断を刑事裁
判所が評価することになるため、行政裁量の統制の場合と比較してもさらに緩やかな介入のみ
が認められよう。刑事裁判所は、経営にかかわる判断を経営者に代わって行うことができない
し、またその責任をとることもできない。そうだとすれば、金融機関では経営者の裁量が一般
の民間企業におけるより制限されるとしても、可罰的違法性の判断としては、団体の性格も考
慮した上で合理性のない場合だけ違法とするのが適切であろう。
日本の判例は一般に、刑法上の違法性が他の法領域における瑕疵や効力からは独立に判断
されるとしており 20)、刑法学説は、可罰的違法性が原則として私法上否認される範囲よりも限定
的にしか認められないとしている(刑法の謙抑性)21)。背任罪に関するドイツの議論においても、
かなり長期的に考えても合理性がないという意味での「支持不可能性」に至って初めて任務違
背性が肯定されるとする見解が主張されている 22)。
背任罪を含む財産犯においては、名目上の権利ではなく、ひとまずは私法的効力を離れて評
価される事実的・経済的な財産が保護されている 23)。したがって、刑法上の評価としても、第一
次的には、問題となる行為が会社本人の方針に合致していたか否かが重要となろう。信用保証
協会事件では、融資のための手続的制限に対する違反が問題となった。法令上の制限も、本
人が考慮している場合には基準となる。だが、法令違反が直ちに任務違背性を基礎づけるわ
けではない 24)。たとえば、賄賂罪を構成する支出や談合行為でも、仮にそれが会社の方針に合
致していたのならば、
「任務違背」には該当しないと考えられる 25)。むろん、私法上、何が会社
の方針かは「企業は誰のものか」に関連して困難な問題を提起するが、刑法上は、法令等によ
る規範的制限よりも、事実上追求されていた方針のほうが決定的だと見るべきである。
20) たとえば、私法上は禁止されなくても、不合理で損害を発生させるばかりの行為は「任
務違背」に該当すると考えられる。
21) もっとも、私法の専門家からは、善管注意義務違反と任務違背とが同じ基準によって評
価されるものとされている。たとえば、清水真=阿南剛「北海道拓殖銀行特別背任事件最高裁
決定の検討」商事 1897 号 28 頁。松山・前掲注 9)16 頁以下は、拓銀事件最高裁決定が善管
注意義務と任務違背性との関係を明確にしていないところに疑問があるとする。
22) 詳しくは品田・前掲注 7)(2・完)279 頁以下参照。
23) 前掲の信用保証協会事件決定も、経済的見地において協会の財産的価値が減少すれば「財
産上の損害」の要件が満たされるとする。
24) 品田智史「銀行の代表取締役頭取による不良貸付が特別背任罪における任務違背として
認められた事例:北海道拓殖銀行事件最高裁決定」刑事法ジャーナル 22 号 118 頁。
25) 品田・前掲注 7)(2・完)311 頁参照。
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4 おわりに
背任罪に関する従来の判例によれば、客観面では、回収の見込みがなくなった後の融資に
ついて、原則として背任にあたるとされている。主観面では、会社本人の利益のために行動し
た場合だけが、図利加害目的を欠くことになるとされているが、実際にそれが認められる場合
はほとんどない。
このような中で最高裁が「経営判断の原則」に言及したことには、背任罪の成立範囲を限定
する余地を理論的に認めたものとして、積極的意義が見出されるべきである。これまでにも、
学説上、冒険的取引を行う企業の場合には、財産上の損害が出たとしても、任務違背性が認
められない限り犯罪は成立しないとされてきており、判例もこれを否定はしていない。任務違
背性が財産上の損害とは別の要件として置かれている以上、これを短期的に理解された「経済
性の原則」によって判断すべきではない。短期的には財産上の損害が出る行為でも、長期的に
見て合理性があれば任務違背とすべきではない。刑事事件においては、可罰的違法性および
刑罰法規の明確性の観点から、企業目的に照らして何らかの合理性が説明できれば足りるとい
う広い意味で「経営判断の原則」を理解することも可能だと思われる。
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人格的自律権論に関する覚書
京都大学大学院法学研究科 土井 真一
この人間の分際で、この難しい人生に向かって解決を与えるなどということはおそらくできない。
ただ正しく訊くということはできる。小林秀雄
はじめに
一 佐藤幸治博士による人格的自律権論の展開
二 人格的自律権論に対する批判とその検討
結びにかえて
はじめに
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的
人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。
日本国憲法は、第11条においてかく定めている。もし、後段の「この憲法が国民に保障
する基本的人権」を憲法第14条から第40条において個別に保障されている権利を総称す
るものと解し、前段の「基本的人権」もこれと同義であると解すれば、本条は、憲法が個別
に規定する権利のすべてについて各国民が享有することを確認するに留まることとなる。それ
ゆえ、「基本的人権」の概念も個別的権利の総称に過ぎず、その考察は既に画定された外延
について、その共通の性質を解明する作業となり、解釈論上の意義も限定されたものとなる。
しかし、憲法起草者は、
これとは異なる理解を前提としていた 1)。第一に、第11条前段の「基
本的人権」とは、理論上、憲法に先行して存在すると措定される人間生来の権利であり、同
条はかかる基本的人権のすべてを憲法により保障することを宣言したものと解していた。そし
1) この点に関する詳細については、土井真一「憲法解釈における憲法制定者意思の意義-幸
福追求権解釈への予備的考察をかねて(四・完)」法学論叢131巻6号2- 23頁(1992
年)を参照。
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て、第二に、後段の「この憲法が国民に保障する基本的人権」とは、前段にいう意味での「す
べての基本的人権」を受けたものであって、表現の自由や信教の自由等の個別的権利はその
例示であると解していたのである。
このように、憲法が第11条において自ら包括的人権保障を掲げていると解するならば、
「基
本的人権」概念の考察は、時代の変転の中で、その外延を画定していくという創造的性格を
帯びることとなる。この点こそが、そもそも「基本的人権」とは何か、そのような「基本的人権」
は何を根拠として認められるのかという問いが、憲法解釈論上重要な意義を有するためのアル
キメデスの点であった。この点を明晰に示したのが種谷春洋博士の幸福追求権論であり 2)、そ
れを礎として基本的人権に関する原理的問題を提起し、その探究を通じて、包括的人権保障
論にかつてない豊饒をもたらしたのが、佐藤幸治博士の人格的自律権論である 3)。
本稿は、佐藤博士の人格的自律権論に対して、近時様々な角度から提起されている批判的
見解の検討を通じて、憲法解釈学が基本的人権に関する原理的考察を行う上で、今後検討す
べき課題を明らかにする断章的な覚書である。
一 佐藤幸治博士による人格的自律権論の展開
佐藤博士は、憲法第11条が包括的人権保障を宣言する規定であるとしても、基本的人権
2) 種谷博士の幸福追求権論については、種谷春洋「『生命、自由及び幸福追求』の権利(一)
(二)
(三)」岡山大学法経学会雑誌14巻3号55頁、15巻1号79頁、2号47頁(196465年)、同「生命・自由および幸福追求権」芦部信喜編『憲法Ⅱ人権(1)』130頁(有斐閣、
1978年)を参照。種谷博士による基本的人権の歴史的研究については、同『アメリカ人権
宣言史論』(有斐閣、1971年)
、同『近代自然法学と権利宣言の成立』(有斐閣、1980
年)、同『近代寛容思想と信教自由の成立-ロック寛容論とその影響に関する研究』(成文堂、
1986年)を参照。
3) 佐藤博士の人格的自律権論については、主として、佐藤幸治「「人権の観念-その基礎づ
けについての覚書」ジュリスト884号『憲法と憲法原理-現況と展望』145頁(1987年)、
同「日本国憲法と『自己決定権』-その根拠と性質をめぐって」法学教室98号6頁(1988
年)、同「憲法学において『自己決定権』をいうことの意味」『法哲学年報1989年・現代に
おける<個人-共同体-国家>』76頁(有斐閣、1990年)〔同『日本国憲法と「法の支
配」』(有斐閣、2002年)所収、125頁以下〕、同「人権の観念と主体」公法研究61号
13頁(1999年)〔前掲『日本国憲法と「法の支配」』所収、152頁以下〕、同「『人格的
自律権』に関する補論」阿部照哉先生喜寿記念論文集『現代社会における国家と法』3頁(成
文堂、2007年)を参照。なお、佐藤幸治『憲法』(青林書院)の初版(1981年)、新版
(1990年)、第三版(1995年)からの引用については、それぞれ『初版』、『新版』、『第
三版』と略記し、本文中で頁数を示す。
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とは何かを解釈する際の最大の手掛かりは第13条であると捉え、同条を以て包括的人権保
障の直接的な根拠条文と位置づける 4)。
「一人ひとりの人間が『人格』の担い
まず、第13条前段の「個人の尊重」については 5)、
手として最大限尊重されなければならないという趣旨であって、
これを『人格の尊厳』ないし『個
人の尊厳』原理と呼ぶ」(『第三版』444頁)とする。そして、「次の14条は『人格の平
等』原理を規定しており、13条と14条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎と
することを明らかにするものである」(『第三版』444頁)とされている。この両者の体系的
関係については、一人ひとりの個人に着目をして、その個人に認められる人格それ自体の在り
方を示すのが「人格の尊厳」、そのような人格を有する個人相互の関係の在り方を示すのが「人
格の平等」であると整理されている。ただ、究極的には、すべての人間について「人格の尊厳」
を認める以上、同時に当然に「人格の平等」を意味するのが理であると指摘されている点に
留意する必要がある。
それでは、どのような人格の在り方を以て尊重に値するものと理解されているのだろうか。
この点については、「一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければな
らないという趣旨 6)」、あるいは「人格性によって通底された個々の具体的人間の自律性を尊
重しようとする 7)」ものであって、「各人がそれぞれ自己の幸福を追求して懸命に生きる姿に本
質的価値を認め…、その価値を最大限尊重 8)」することであると説かれている。そして、ここに
いう人格的自律とは、他者の意思に服することなく、「人間の一人ひとりが “ 自らの生の作者で
ある ”」(『第三版』448頁)ということであり、そのような自律に本質的価値があると考える
のが 9)、佐藤博士の人格的自律を基礎とする「個人の尊重」論であると考えられる。
次に、第13条前段の「個人の尊厳」原理と後段の「幸福追求権」の関係が問題とな
4) 佐藤・前掲注 3)
『日本国憲法と「法の支配」』159頁、及び「『人格的自律権』に関する補論」
6頁参照。
5) なお、『初版』における「個人の尊重」の説明は、憲法第13条「前段は、後段の『立法
その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』と一体化して、個人は国政のあらゆる場にお
いて最大限尊重されなければならないという要請を帰結せしめる」(311頁)という簡潔な
ものであった。また、『初版』において既に「個人の尊重」は「個人の尊厳」と互換されてい
るが、「人格の尊厳」という語はまだ直接用いられていない。
6) 佐藤・前掲注 3)「『人格的自律権』に関する補論」6- 7頁。
7) 佐藤・前掲注 3)『日本国憲法と「法の支配」』159頁。
8) 佐藤・前掲注 3)「『人格的自律権』に関する補論」7頁。
9) 自律の価値に関する「手段的価値」と「即自的価値」の区別については、佐藤・前掲注3)
『日
本国憲法と「法の支配」』136- 137頁を参照。佐藤博士は、自律が手段的価値の側面を持
つことを否定しないが、自律には、それ自身において価値をもち、経験するに値するものとで
あるという意味で、本質的価値があると説く。
- 261 -
る。この点、当初から、「後段の『幸福追求権』は、前段の『個人の尊厳』原理と結びつい
て、人格的生存に必要不可欠の権利・自由を包摂する包括的な主観的権利である」(『初版』
311頁)と説明され、前段が「個人の尊厳」を客観的原理として規定し、後段はそれを主
観的権利の側面から規定したものであるとされていた。ただ、客観的原理と主観的権利をどの
ような論理で接合するかは、必ずしも明確ではなく、この点を明らかにするための鍵として導
入されたのが、「基幹的な人格的自律権」(以下、「基幹的自律権」という。)概念である 10)。
佐藤博士は、前段にいう人格的自律を前提として、自己がそのような人格的自律の存在で
あることの主張を一個の権利と構成し、
これを「基幹的自律権」と呼ぶ。この基幹的自律権は、
具体的な自由あるいは利益の主張ではなく、
「人格的自律性」を以て人間存在に固有の在り方
と把握し、そのような存在として他者から尊重され、配慮をうける権利、いわば「人格的自律
の存在」それ自体に対する権利であって、基本的人権保障全般の基底に存し、その生成・展
開の母体となる権利である。
個々の基本的人権は、「人間の人格的自律(personal autonomy)に基礎をおき、そうした
自律を全うせしめるためのもの 11)」、すなわち、このような基幹的自律権を実現していく上で不
可欠ないし重要な自由あるいは利益を類型化して具体的に保障するものであって、
「派生的(個
別的)な人格的自律権」(以下、「派生的自律権」という。)と位置づけられる。憲法の個別
条項が、
「信教の自由」や「表現の自由」など、
自由あるいは権利を類型化し保障しているのは、
このような派生的自律権の代表例であるが、派生的自律権はそれに尽きるものではなく、時代
の要請等に応じて、基幹的自律権から新たに導出されることになる。このような人格的自律権
の動態的な生成・展開を支える根拠となる条項が、第13条後段の「幸福追求権」条項な
10) 「基幹的自律権」及び「派生的自律権」については、佐藤・前掲注 3)「日本国憲法と『自
己決定権』」14- 15頁、及び『日本国憲法と「法の支配」』138- 140頁を参照。なお、
佐藤博士は、
「人格的自律権」概念を三つの異なる次元で用いている。第一に、
「基幹的自律権」
を広義の「人格的自律権」とし、第二に、「派生的自律権」のうち、憲法第13条で補充的に
保障される権利を狭義の「人格的自律権」と呼んでいる(『第三版』448頁)。そして、第三
に、狭義の「人格的自律権」から、「人格価値そのものにまつわる権利」、「適正な手続的処遇
をうける権利」、「参政権的権利」を除いたものを、最狭義の「人格的自律権」と定義している
(『第三版』460頁)
。ただ、狭義及び最狭義の「人格的自律権」概念は、憲法第13条によ
り補充的に保障される権利の全部またはその一部を総称するための概念であって、それぞれ性
質の異なる自由あるいは利益を包摂しており、とりわけ最狭義の「人格的自律権」概念を立て
ることが、解釈論上、果たして有用かどうか、検討する必要があるように思われる。
11) 佐藤・前掲注 3)『日本国憲法と「法の支配」』130頁。
- 262 -
のである 12)。
このように、個人の尊厳や基本的人権の保障の基礎に「人格的自律」の観念を据え、「幸
福追求権」条項による権利保障の範囲を、人格的自律にとって不可欠ないし重要なものか否
かを基準として画定しようとするところに、佐藤博士による人格的自律権論の最も重要な特質
があるといってよい 13)。ただ、佐藤博士の基本的人権論は、より動態的ないし開かれた構造を
有しており、このような基準に照らして、端的には基本的人権として保障されない自由あるい
は利益についても、「こうした様々な事柄が人格の核を取り囲み、全体としてそれぞれの人の
その人らしさを形成している。したがって、こうした事柄にも、人格的自律を全うさせるために
手段的に一定の憲法上の保護を及ぼす必要がある場合がある」(『第三版』461頁)と解さ
れている点には留意しなければならない。
12) 当初、「『幸福追求権』の基本的属性は、その思想史的系譜からして自由権と考えられ」、
「25条を社会権の総則的規定とみることが可能であるから、『幸福追求権』に強いて社会権的
性格を併有させる必要性はない」(『初版』313頁)とされていた。しかし、憲法第13条
の構造について、本文に示すような理解に辿り着いたことから、「基幹的自律権」の次元にお
いては、幸福追求権は、自由権のみならず、社会権や参政権をも包摂するものと捉えられるこ
とになる(
『第三版』448頁参照)。ただし、狭義の「人格的自律権」の次元において社会
権の補充的保障を問題にしなければならない余地は、ほとんどないとされている(『第三版』
450頁参照)。
13) 佐藤・前掲注3)
「『人格的自律権』に関する補論」7頁参照。この点、
『第三版』においては、
0
0
0
0
0
「人格的自律の存在として自己を主張し、そのような存在であり続ける上で必要不可欠な権利・
自由」(445頁。傍点筆者)と定義されていた。「必要不可欠」から「不可欠ないし重要」に
改められたのは、保障範囲の限定が厳格に過ぎないように配慮されたものと解される。
- 263 -
二 人格的自律権論に対する批判とその検討
以上のような佐藤博士の包括的人権保障論に対しては、様々な問題点が指摘されている 14)。
そのなかでも、「人格的自律」を基礎として基本的人権を考察すること自体に対して厳しい批
判を展開するのが、阪本昌成教授である。
阪本教授は、人格的自律権論の問題点を検討する際には、「『人権』と人間存在の特質の
関連性の捉え方」、「さらに遡源すれば、人間像と、その人間にとっての自由の価値の捉え方
の違い」に着目することが必要であると指摘した上で 15)、「憲法の依拠する人間像を『人格的
自律の存在としての人間』と捉えること、また、『人格的自律』から『幸福』追求権を道徳理
論で支えることは、現実的でもなければ、理論的でもない 16)」と説く。つまり、そもそも、「人
間を人格的存在と考えることが、はたして正しいか」どうか疑問であって、「人間の倫理的な
属性が人権を基礎づけるとする思考そのもの 17)」に対して批判が展開されているのである。本
章では、この阪本教授による批判を手掛かりとしながら、人格的自律権論の意義と課題につ
いて若干の検討を行いたい。
1 人格的自律権論と「幸福」
阪本教授による「人格的自律権論」批判の重要な鍵は、「人格的自律」の観念と「幸福」
あるいは「幸福追求」とが整合しないのではないかという点にある。阪本教授は、佐藤博士
14) 人格的自律権論あるいは人格的利益説を批判し、一般的自由の保障を説く代表的な学説
としては、後掲の阪本昌成教授の見解のほか、戸波江二の教授の見解が注目に値する。戸波教
授は、基本的人権理論において「人格」概念が一定の役割を果たすことを積極的に評価する。
戸波江二「自己決定権の意義と射程」芦部信喜先生古稀記念祝賀『現代立憲主義の展開(上)
』
325頁(有斐閣、1993年)、同「幸福追求権の構造」公法研究58号1頁(1996年)、
戸波江二・小山剛「幸福追求権と自己決定権」井上典之・小山剛・山元一編『憲法学説に聞く
-ロースクール・憲法講義』7頁(日本評論社、2004年)。なお、人格的利益説と一般的
自由説の対立を再構成し、阪本説と戸波説の相違を明らかにするものとして、中村英樹「憲法
上の自己決定権と憲法十三条前段『個人の尊重』-自己決定権理論の再構成のための予備的考
察」九大法学76号151頁(1998年)を参照。
15) 阪本昌成「プライヴァシーと自己決定の自由」樋口陽一編『講座・憲法学 第三巻 権利の
保障』219頁以下、221頁(日本評論社、1994年)。
16) 阪本・前掲注 15)223頁。
17) 阪本・前掲注 15)221頁。
- 264 -
の人格的自律権論をカントの哲学・倫理学を基礎とするものと捉えた上で 18)、「幸福追求権」
の解釈に「人格的自律」の観念を導入するのは、「『自律』と『幸福』とをカントが二項対立
的に捉えていた事実を看過しているといわざるをえない 19)」と批判する。これは、そもそも「幸
福」を基礎としない義務論的な道徳理論を「幸福追求権」の基礎とすることが可能なのかと
いう根本的な問題提起であり、幸福を人格的自律との関係においていかに位置づけるかとい
う、人格的自律権論にとって重要な課題を指摘するものである。
カントが、幸福あるいは人間の欲求や願望等を道徳法則の基礎とすることに対して厳しい批
判を展開したことは、
よく知られている。彼は、任意に行為を選択する能力を選択意志(Willkür)
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と呼び、
「純粋理性によって規定されうる選択意志は、自由な選択意志」であり、
「ただ傾向性
(感性的衝動、stimulus 刺激)によってだけ規定可能な選択意志というのは、動物的な選択
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意志(arbitrium brutum)
」であるとした上で、「選択意志の自由とは、感性的衝動による規
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定からの独立 20)」であると説いている。
そもそも、カント倫理学においては、行為はそれが義務に基づいてなされた場合にのみ道
徳的価値を有する。結果として自己にもたらされるであろう幸福のためではなく、また自らの傾
向性のゆえでもなく、「もはやどんな傾向性も彼を善行へと誘わないのに、それにもかかわら
ず彼が、…一切の傾向性なしに、ただただ義務に基づいて善行をするとしたなら、その時こ
そ初めて、彼の行為は正真正銘の道徳的価値をもつのである 21)」。
それでは、義務に基づく行為とは何か。カントは、ある特殊な目的を実現するために最も効
果的な方法を指示する「熟練の命法」や、自らの幸福を実現するための方法を指示する「賢
さの命法」あるいは「自己愛の原理」と、「道徳性の原理」を区別し、先の二原理はあくまで
仮言的であって、このような原理に基づく行為は、真の意味で義務に基づくものではないとす
18) なお、佐藤博士の人格的自律権論が、カントの哲学・倫理学に直接依拠するものである
と理解してよいかどうかは、検討を要する問題である。この点について、佐藤博士は、
「筆者の『人
格的自律権』論は、…カント哲学の『影』を意識していたことは事実であるが、専門外でカン
トの哲学について格別の深い理解をもち合わせていない筆者にとって、その論をカント哲学に
よって直接基礎づけるあるいは基礎づけなければならないという思いはなかった」(佐藤・前
掲注 3)「『人格的自律権』に関する補論」9頁)と述べている。
19) 阪本・前掲注 15)223頁。また、阪本昌成『法の支配-オーストリア学派の自由論と
国家論』(勁草書房、2006年)113- 117頁も参照。
20) イマヌエル・カント(樽井正義・池尾恭一訳)
「人倫の形而上学」
『カント全集11』26頁(岩
波書店、2002年)。
21) イマヌエル・カント(平田俊博訳)
「人倫の形而上学の基礎づけ」
『カント全集7』20頁(岩
波書店、2000年)。
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る 22)。それに対して、道徳性の原理は、
「一定の行動を直接に命令するもので、その行動によっ
て達成されるべき何か別の意図を基礎的条件としない命法 23)」、すなわち定言命法でなけれ
ばならず、それがまさに純粋理性の普遍的法則なのである。純粋実践理性の真の動機は、純
粋な道徳法則以外の何ものであってもならない 24)。
そして、「幸福の原理にしたがうことは、感性の法則、すなわち自然的な必然的な因果の法
則によって規定されることとされ、自由はただ道徳法則、定言的命法にしたがう意志だけにみ
とめられるのである。道徳法則にしたがう意志だけのもつ自由、それが自律なのである 25)」。
このようにして、普遍的な道徳法則に基づく意志=自由な意志=自律というカントのテーゼが
展開されるのである。
これを文字通り厳格に受け止めるとすれば、たとえ「幸福」概念の多義性を指摘し得るとし
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ても、このような道徳理論をそのまま「幸福追求権」の基礎とすることは困難であり、「世俗
的利益を保障するはずの幸福追求条項は、人間の道徳的人格性の故に保障される利益を基底
とするのではなく、各人がその選好を自由に追求できる過程と領域とを解放しておく利益を基
底とする 26)」と説く阪本教授の指摘は、傾聴に値するものといわざるを得ない。しかし、カント
倫理学における「幸福」の位置づけについては、その詳細をめぐって様々な解釈が展開され
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てきており、これらの検討が「幸福追求権」の考察において一定の意義を有するのではない
かと考えられる。
この点に関しては、何よりもまず、『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)や『実践
理性批判』
(1788年)の段階から、
『判断力批判』
(1790年)を経て、
『人倫の形而上学』
(1797年)に至るカント倫理学の展開に注目する中村博雄教授の見解が重要である 27)。
22) 例えば、毒殺者が相手を確実に殺すための処方の指令もまた「熟練の命法」に含まれるが、
このような命法に従う行為が道徳的であるとはいえないであろう(カント・前掲注 21)45
頁参照)。
23) カント・前掲注 21)46頁。
24) イマヌエル・カント(坂部恵・伊古田理訳)「実践理性批判」『カント全集7』250252頁(岩波書店、2000年)参照。
25) 矢島羊吉『増補カントの自由の概念』77頁(福村出版、1986年)。
26) 阪本・前掲注 15)224頁。
27) 中村教授による憲法第13条とカント哲学との関係に関する研究については、中村博雄
「カントにおける『人間性の尊厳』の形而上学的展開」ホセ・ヨンパルト教授古稀祝賀『人間
の尊厳と現代法理論』193頁(成文堂、2000年)、同「人格的自律権の哲学的考察-カ
ント研究からの形而上学的解明」ホセ・ヨンパルトほか編集『法の理論 20』111頁(成文堂、
2000年)、同「カントの『実践的目的論』による『公共の福祉』(日本国憲法13条)の哲
学的解明」日本カント協会編『日本カント研究3 カントの目的論』43頁(理想社、2002年)
を参照。
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中村教授によれば、英知界を前提として実践理性に関する形而上学的問題について批判的考
察を行っていた段階では、カントは、
「道徳における義務の定言的な側面を前面に押し出して、
その厳格性を強調していた」が、『判断力批判』においては、「人間が有限な存在であること、
それと同時に常に理念に向かって努力している途上的存在であること」がはっきり確信されて
いたとされる 28)。そして、
「『人倫』とは、まさに『人としての生き方』に他ならない。人間が生
きているのはあくまで現実社会の中であり、それは、有限な人間の喜怒哀楽、試行錯誤の現
場である 29)」のだから、幸福追求権論を考察するに際しても、
「自己の完成」と「他者の幸福」
を人間の目的論的本質と捉えるに至った段階のカント「人格論」を前提とする必要があると説
かれている。
このような中村教授の指摘は、カント倫理学の全体を理解する上で重要であり、また「自己
陶冶」(Kultur)など、幸福追求権の考察において有益な示唆を与えるものであるように思わ
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4 4
れる。ただ、たとえ人間を「動物的・理性的の同時に両方の存在、すなわち有限な存在であ
り、しかも自らが自覚している究極目的に向かって、挫折を繰り返しながらも常に自己を陶冶
しようと努力している途上的存在 30)」であると捉えるとしても、なお、その「究極目的」を、幸
福追求権に関する憲法解釈論において、どのように位置づけるのかという困難な問題が残るの
ではないかと考えられる。
確かに、人間が生きていく上において、道徳的あるいは宗教的な理想・目的を掲げること
は承認されるべきであるし、そのような理想・目的に向けて自己を陶冶することは、憲法上、
尊重に値すると考えられよう。しかし、そのような理想・目的の内容について、憲法がどこま
で具体的な想定を置くことが許されるのかという問題については、慎重な検討が必要である。
究極的であるにせよ、幸福の追求それ自体が本来的に悪であり、人は自らの幸福や欲求から
すべて解き放たれたときにこそ真の自己になるとする人間観は、憲法第13条の「個人の尊重」
規定において前提とされるべき人間像としては、やはり強きに失する想定であり、場合によっ
ては、憲法が保障する信教の自由や良心の自由と矛盾抵触する危険があることに留意が必要
であろう。
これに対して、第二に、そもそもカント倫理学における「幸福」の位置づけについて再検討
がなされるべきであると説く見解もある。例えば、H・J・ペイトンは次のように指摘する。
「カントによれば-時としてカントは、理性的な人は傾向から完全に自由であることを欲するか
のように語るが-傾向を根絶しようとすることは不毛であるばかりでなく、また有害であり、非
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難すべきことである。純粋実践理性は、我々が幸福に対するあらゆる要求を放棄するよう要求
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しているのではなく、ただ義務が問題である場合には我々は幸福を考慮に入れるべきではな
28) 中村・前掲注 27)「哲学的考察」118頁。
29) 中村・前掲注 27)「哲学的考察」133頁。
30) 中村・前掲注 27)「哲学的考察」117頁。
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4
いと要求しているにすぎないのである 31)」。
実際、カントは、「幸福であるということは、理性的ではあるが、有限な〔存在〕者すべて
が必然的に要求するところであり、それゆえこうした存在者の欲求能力の不可避的な決定根拠
である 32)」ことを認めており、「叡知者の理念のうちでは、道徳的に最も完全な意志が最高の
浄福と結びつけられて世界におけるすべての幸福の原因であるのだが、幸福が(幸福である
ことに値することとしての)人倫性と厳密に比例しているかぎりにおいて、私は、そのような叡
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知者の理念を、最高善の理想と呼ぶ 33)」としている。
しかも、カントは、『人倫の形而上学』の徳論において、人格が目指すべき「同時に義務で
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ある目的」として、
「自己の完全性」に加えて「他人の幸福」を掲げており 34)、そうである以上、
「幸
福」あるいは「幸福の追求」それ自体を悪とすることはできないはずだという解釈が生じる余
地がある 35)。こうした解釈に立てば、カントは「幸福の追求」をそれ自体として悪だと排斥して
いる訳ではなく、「幸福」それ自体は義務の直接的根拠とならないとしているに過ぎないと解
することも可能であろう。実際、ペイトンが指摘するように、
カントの定言命法の第一法式は、
「信
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条〔格率〕が普遍的法則となることを、当の信条を通じて自分が同時に意欲できるような信条
に従ってのみ、行為しなさい 36)」とされており、義務と格率が同時に存在することが前提とされ
ている 37)。
このように解する場合には、義務は幸福や傾向性に優越するがゆえに、義務に反する幸福
の追求は許されないが、それ以外の場合には、義務と幸福追求は両立しうることになる。つま
り、義務は幸福追求の範囲を画するものであって、その範囲内での幸福追求は肯定されるこ
とになる。
ただ、そのように解するとしても、定言命法の第一法式を前提として、ある実質的格率が普
遍的法則として同時に意志しうるものであるか否かは、どのようにして明らかになるのか、そ
31) H・J・ペイトン(杉田聡訳)『定言命法-カント倫理学研究』80- 81頁(行路社、
1986年)〔注番号省略〕。
32) カント・前掲注 24)155頁。
33) イマヌエル・カント(有福孝岳訳)「純粋理性批判」『カント全集6』93- 94頁(岩波
書店、2006年)。
34) カント・前掲注 20)249- 250頁、及び259- 261頁を参照。
35) ペイトンは、「仮にすべての人が常に、他人の幸福を促進するために彼自身の幸福を、彼
自身の真の必要を犠牲にするのであれば、それは自己矛盾であろう」(ペイトン・前掲注 31)
81頁)と指摘する。
36) カント・前掲注 21)53- 54頁(〔〕は筆者が付し、また傍点についても筆者が改めた)。
なお、訳文中で「信条」とされているのは、Maxime であり、拙稿では「格率」の語を当てている。
37) ペイトン・前掲注 31)81頁参照。
- 268 -
の判断の規準が問題となる 38)。勿論、だからといって、この普遍的法則の法式が道徳的に無意
味に帰すわけではない。なぜなら、
この普遍的法則の法式は、他者に対してある取り扱いを行っ
ておきながら、自己に対してはそれと異なる取り扱いを要求する特権は認められないという意
味において、人格相互の平等性の要請を含んでいるからである。ただ、それでもなお、「普遍
性という論理的形式によっては、どの普遍的命題は真でありどの命題は偽であるかを語ること
はできないであろう 39)」。
この点について、カントは道徳的直観と論理的整合性に対する信頼を有していたのかもしれ
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ない。しかし、結局、そのような直観の背後において、
「汝の欲せざるところ、他に施すなかれ」
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あるいは「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」という
黄金律が示唆するように、何らかの意味で「幸福」が作用せざるをえないのではないか。普
遍的法則の法式は、格率の普遍化可能性を問題とするものであるが、格率自体は幸福あるい
は傾向性を基礎とするものであるから、普遍化の前段階において、幸福等の観点から人が意
志しうるかどうかが判断されているのではないか 40)。そうだとすれば、行為から生ずる帰結を道
徳的判断から排除することはできないのであって、やはり「幸福」についての規範的考察が
求められるのではないか。今後、人格的自律権論を展開していく上においても、こうした点に
ついて、検討を行っていくことが必要なのではないかと考えられる。
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しかし、それでは、なぜ「幸福」は義務の直接的根拠になりえないのか。これに対しては、
道徳法則は理性の普遍的法則であって、それゆえ定言命法の形式をとらなければならないが、
幸福は主観的・相対的であるがゆえに、それを基礎とする格率は仮言命法の形式を必然的に
取らざるをえないからであると解答することができるかもしれない。先に触れたように、たとえ
道徳において幸福が一定の意義を有するとしても、それは当該格率が普遍化可能な場合に限
られるのであり、その普遍化を要求する定言命法自体は、幸福とは独立に、理性によって導
かれると解するのである。そして、このような理解の背景には、理性が普遍的であるならば、
普遍的なるものこそが理性的であり、それは多様かつ限定を受けた経験のうちにではなく、a
priori な理性の形式のうちにこそあるとする超越論哲学的な基礎が存するのであろう。
しかし、この普遍性に対する過剰なまでの信頼が、カント倫理学がもたらす具体的帰結に対
する違和感を生む原因となっている。例えば、カントは、
「人間愛からの嘘 41)」において、
「嘘
をついてはならない」という誠実の義務は普遍かつ絶対の命令であって、たとえそれが人の
命を救うためであっても、嘘をつくことは許されないとする。ナチスにアンネ・フランクを引き
38) この点を鋭く指摘したのが、ヘーゲルである。高橋貞子「ヘーゲルの自然法の学問的な
取扱い方について」お茶の水女子大人文科学紀要26巻1号1頁(1973年)を参照。
39) ペイトン・前掲注 31)203頁。
40) 矢島・前掲注 25)185- 190頁を参照。
41) イマヌエル・カント(谷田信一訳)「人間愛からの噓」『カント全集 13』251頁(岩波
書店、2002年)参照。
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渡すことが道徳の命ずるところと解さざるをえない、この論理をそのままは受け入れることは難
しい 42)。
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おそらく、ここには、「行為の記述の一般性と、その行為を道徳的義務と定め、あるいは反
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道徳的行為として禁じる行為規範の普遍的妥当性」と 43) の混同がある。格率に対して普遍的
法則の法式を適用し導出された実質的な道徳命題の中に、行為あるいは行為の前提となる状
況に関する特殊な記述が含まれているとしても、それ自体として当該命題の普遍的妥当性が
妨げられるとはいえない。むしろ、道徳命題における特殊性がもたらす問題は、行為主体の
特殊利益の優先を招来してしまうことにあるとみることができる 44)。苦境を切り抜けるために、
守るつもりのない約束をして相手を騙すことの問題点をカントが指摘し、幸福を義務の基礎と
することを批判するのは、この点に関わる。
とすれば、道徳において普遍性が有する本質的意義は、実質的な道徳命題における記述
の一般性のうちではなく、定言命法たる普遍的法則の法式のうちにこそ求められるべきである
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と解すべきなのかもしれない。そして、その定言命法が、「自分の人格のうちにも他の誰もの
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人格のうちにもある人間性を、自分がいつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段と
してだけ必要としないように、行為しなさい 45)」という「目的自体の法式」として定式化される
ことに鑑みれば、これは、人格の間において恣意的で不公正な差別を行わないこと、「人格と
人格との間の、責務の相互性 46)」を示すものであって、根源的には、人格性に対する平等な尊
重が議論の実質であると解することができよう。
とすれば、義務は幸福によって直接根拠づけることができないとカントが解したのは、「人
格に対する平等な尊重」を幸福から基礎づけることはできないと考えたということになる。幸
福とりわけ自己の幸福を道徳の直接の基礎とするならば、他者の幸福の犠牲の上に自己の幸
福の実現を図ることができる場合に、それを阻止する道徳規範を導くことはできない。しかし、
人がいかなる幸福を追求しようとも、人格に対する平等な尊重は義務づけられるのであり、そ
のことによって苦痛を感じることになろうとも、その義務が免ぜられることはない。それゆえに
こそ、「人格に対する平等な尊重」は幸福によってではなく、理性の普遍的法則として超越論
的に基礎づけられなければならない。
つまり、カント倫理学の関心は、人が自らの「幸福を追求する権利」を主張する根拠にあ
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るのではなく、それがすべての人に認められなければならない根拠に、換言すれば、なぜ「す
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べて国民は、個人として尊重」されなければならず、また「個人として尊重する」とはどのよ
うなことかを問うことにあったと解することもできよう。ここに、人格の共同的性格、すなわち、
42) この点については、加藤尚武『現代倫理学入門』7- 27頁(講談社、1997年)を参照。
43) 黒田亘『行為と規範』132頁(勁草書房、1992年)。
44) 黒田・前掲注 43)134- 135頁参照。
45) カント・前掲注 21)65頁(傍点については筆者が改めた)。
46) ペイトン・前掲注 31)198頁。
- 270 -
一人ひとりの人間を人格として承認すべきであると考える人格的自律権論が、共同体の構成員
が相互にその存在意義を承認し、自律的存在として「共に生きていく」ことを重視する理由が
ある。
ただ、この問いに対しては超越論哲学によってのみ解答を与えることができるのかどうか、
さらなる検討が必要である。ホッブスは、「自己保存」の目的から、社会契約による国家の樹
立と正義及び公正を論じている 47)。また、ロールズは、政治哲学の実践的役割として、第一に
「分裂を起こさせる政治的対立と秩序問題を解決する必要 48)」を挙げ、「ある世代から次世代
へと長期にわたる公正な社会的協働システムとしての社会 49)」という観念を自らの政治哲学の
基礎概念に据えた上で、「自由で平等な人格の観念」について論じている。それでは、なぜ
政治的対立を緩和し、公正な社会的協働システムを構築・維持しなければならないのか。そ
こに依然として幸福あるいは功利性の原理が働く可能性がないのか、さらなる検討が必要であ
る 50)。
2 「人格」及び「自律」の概念について
人格的自律権論に対しては、基本的人権の解釈に「人格」概念を導入することについても、
厳しい批判が展開されている。阪本教授は、「人格権論は、人権の基底を思弁的で理念的な
『人格』に求めようとするあまり、人権の実体把握を困難ならしめ、さらには、卑近な人間の
欲求を軽んずるおそれをもつ 51)」と指摘する。そして、
「人格」概念が有する「道徳性」、
「理性」
的側面そして「共同性」を批判した上で 52)、
「幸福追求権は、人間の道徳的人格性の故に保障
47) ホッブズ(水田洋訳)『リヴァイアサン(一)(二)』(岩波書店、1954年)を参照。
48) ジョン・ロールズ(田中成明・亀本洋・平井亮輔訳)『公正としての正義 再説』3頁(岩
波書店、2004年)
49) ロールズ・前掲注 48)10頁。
50) この点の理解の如何によって、「ロールズは修正功利主義者にすぎません」(加藤・前掲
注 42)6頁)という評価が生じることになる。なお、この問題との関係で、近時、進化生物
学の観点から人間の本性に基づく人権論を説く興味深い見解として、内藤淳『自然主義の人権
論-人間の本性に基づく規範』(勁草書房、2007年)参照。
51) 阪本・前掲注 15)246頁。
52) 阪本昌成『憲法理論Ⅱ』136- 142頁(成文堂、1993年)。なお、個人主義と人
格主義の相違を強調する見解として、ホセ・ヨンパルト「日本国憲法解釈の問題としての『個
人の尊重』と『人間の尊厳』(上)(下)-尊属殺違憲判決をめぐって」判例タイムズ377号
8頁、378号13頁(1979年)、同「人間の尊厳と個人の尊重〔法哲学の側から〕」星野
英一・田中成明編『法哲学と実定法学の対話』62頁(有斐閣、1989年)を参照。ヨンパ
ルト教授の問題提起に関する検討は、紙幅の関係もあり、他日を期したい。
- 271 -
されるのではなく、限られた知識しかもたない各人がその自己愛を追求する過程と領域とを開
放しておくことを保障したものである 53)」と説く。
何よりもまず、「人格」概念を検討する際には、「人格」概念をめぐる議論が複数の異なる
次元を有している点に留意しなければならない 54)。第一に、ある存在を「人格」であると承認
することが、その存在をいかなる在り方のものとして承認することを意味するかを論ずる次元
である。換言すれば、ある存在を「人格」であると承認することによって、その存在に対して
いかなる処遇を行うことが求められるかを明らかにする次元である。第二の次元は、いかなる
存在を「人格」を有するものと承認するか、つまり「人格」を有すると承認される存在の範囲
の画定を行うものであり、第三の次元は、なぜ「人格」なるものを措定する必要があるのか
を考察する次元である。この三つの次元は、相互に区別されると同時に密接な関連性を有し
ており、その関連づけ方が重要な意義を有する。
まず、カントの定言命法の目的自体の法式は、「人格」に関する第一の次元の議論と密接
な関連を有している。例えば、法律学で「人格」と言えば、権利の主体となることのできる地
位または資格、すなわち「権利能力」を意味する。それに対して、「物」とは権利の客体であ
る 55)。典型例として所有の場合を考えれば、「所有権」とは、その対象を自由に使用・収益・
処分する権利であるから、権利主体たる「人」は、自らの利益のために対象を支配し、利用・
処分できるのに対して、「物」は主体の利益のために利用され、取引され、あるいは破壊・消
滅させられる存在である。それゆえ、ある存在を「物」ではなく「人格」を有する「人」であ
ると承認するということは、その存在は、専ら他の「人」の利益のために使用・収益・処分さ
れる対象ではないことを意味している。
カントの目的自体の法式が、人格を手段としてではなく、目的として扱うようにせよと命じて
いるのは、まさにこの点に関わっている。もちろん、カントは、およそ「人」を手段として用
いてはならないとは言っていない。もし、これを厳格に解するならば、誰かにコピーを依頼す
ることさえ、その者を手段として用いていることであり、許されないということになろう。しかし、
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目的自体の法式は、「ただ手段としてだけ」、「いつでも同時に目的として」とされており、人
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格を有する他の存在を専ら自己の幸福や傾向性のために支配・利用することは許されないとし
ているのである。このように考えるならば、自らのうちに固有の目的を有する存在として、それ
に相応しい処遇を求めることのできる資格を「道徳的人格」とし、その求められる処遇の具体
的内容を個々の基本的人権であると捉えることには、やはり重要な意義が認められるように思
53) 阪本・前掲注 52)240頁。
54) この問題を考える際には、若松良樹「人権の哲学的基礎」ジュリスト1244号6頁
(2003年)が非常に有益である。
55) 現行民法は、総則第58条以下に「物」の規定を置いているが、そこにいう「物」は、
厳密には、権利の客体一般を指すものではなく、主として、所有権を中心とする物権の客体で
ある。従って、債権の直接の客体や人格権の客体は、同条にいう「物」ではない。
- 272 -
われる 56)。
そして、ここで注目すべきなのは、このような「人格」の持つ価値が「尊厳」であって、代
替可能な等価物を持たないとされている点である 57)。もちろん、カントも、人間の有する一定
の能力(例えば、労働における熟練や勤勉)が、需要と供給によって決定される「市場価格」
を持つことは認めている。しかし、人格であると承認することは、その存在のうちに「市場価
格」等に還元し尽くせない、あるいは還元することが許されない価値を認めることではないの
か。それゆえ、基本的人権論において、この次元での「人格」概念の否定が何を意味し、い
かなる事態を帰結するか、慎重な検討が必要であるように思われる 58)。
次に問題になるのは、そのような人格が認められる存在の範囲である。歴史的には、すべ
ての人間に「人格」が承認されて来たわけではない。奴隷のように、支配・取引の対象とされ、
あるいは娯楽・慰みのために互いに殺し合うことを強いられる人間もいた。基本的人権の保
障の真髄は、すべての人間に第一の次元における「人格」を承認することにある。
しかし、基本的人権理論の躓きの石は、ここで「なぜ」と問うことにある。なぜ、すべて
の人間に、そして人間に対してのみ人格が認められるのか。この問いに答えるために、人格
の実体が探求され、あるいは人格を認めるために必要な属性が何かが議論されることになる。
この点について、カントが理性すなわち普遍的法則によって規定された意思の自律にその属性
を見出したことは周知のことである。しかし、人権の根拠を実体的属性に求めた結果、その属
性を有する存在と生物学的意味での人間との間に、範囲の広狭が生じるという問題が発生す
ることとなった。
この点に関しては、第一に、理性が一定の精神的能力である以上、先天的・後天的事情で
精神的能力を喪失している人間には「人格」を認めることが困難になるのではないかという批
判がある 59)。これに対しては、現実の能力ではなく潜在的能力を問題にすれば足りると解する
立場もあり得るところであり、未成年者や、疾病等による一時的な能力の喪失の場合には潜在
的能力による正当化は機能しうる。しかし、大脳欠損児など脳の器質的欠損を伴う場合には、
能力の潜在ではなく喪失が問題にならざるを得ない。このような場合になお理性の存在を想
56) 人格と人権の関係については、石川健治「人格と権利-人権の観念をめぐるエチュード」
ジュリスト1244号24頁(2003年)を参照。
57) カント・前掲注 21)73- 75頁参照。
58) 「人格」の否定の上に成立する自由は、人が自らの全存在を市場価格に基づく取引の客体
とする自由を含む可能性を有するのではないか、とりわけ、債務奴隷や金銭的対価を得て自ら
の生命を絶つ自由が認められることにならないか、慎重な検討が必要であろう。
59) 竹中勲「自己決定権と自己統合希求的利益説」産大法学32巻1号21- 23頁(1988
年)を参照。この点に関して、精神障害者や脳疾患者等は通常の意味で人権主体ではないとす
るものとして、奥平康弘「“ ヒューマン・ライツ ” 考」和田英夫教授古稀記念『戦後憲法学の展開』
130- 137頁(日本評論社、1988年)を参照。
- 273 -
定するとすれば、心身二元論に基づいて霊魂の存在を認める立場に立たない限り、それは擬
制であるに過ぎない。
ただ、擬制であるがゆえに誤謬であるとは限らない。問題は、なぜそのような擬制が導きだ
されなければならないかにある。もし、理性的能力を有する人間が、理性的能力を喪失して
いる人間に、自らもまたそのような状態になる、あるいはそうなり得た可能的姿を見ることによ
り、あるいは理性的能力を喪失している人間と親密な関係にある人間の感情に対する共感を
通じて、その者に対してなお人格を擬制するならば、それが理性的能力を有する人間に人格
を認める理由と整合的である限りにおいて、合理性を認めることは可能ではないか。一定の
実体的属性は、それ自体として客観的に人格性を内在させるのではなく、結局、人格性は承
認されるものなのであり、実体的属性はその承認のための合理的根拠の一つに過ぎないと考
えることも可能であろう。そして、このことは、「人格」概念をめぐる第三の次元、すなわち、
なぜ「人格」なるものを措定しなければならないかという問題に関連しているように思われる。
また、「理性」概念をめぐっては、カントのいう理性は形而上学的理性であって、それを基
本的人権論の前提とすることは適切ではないとする批判がある。もし、合理性なるものを想定
するとしても、
「人間は、限られた知識に頼りながら、限られた選択肢のなかで、当の本人にとっ
てベストと思われる予測のもとで行動する」のであって、
「他人の意思決定に影響を受けながら、
置かれた環境のなかで本人にとってベストと思われる選択をなす能力 60)」といった経験的・限
定的な意味で捉えるべきであると主張されている。
具体的にどのような能力を含めるかは別としても、基本的人権の保障に際して現実に要求さ
れる合理性が、完全な意味での合理性でないことは、カントですら現実の人間が完全に理性
的な存在であると考えていないことからも明らかである。もし、人間が完全に理性的であるなら、
そもそも人間は失敗も、また悪をも犯し得ない存在であるということになる。
では、どのような能力が理性的能力として想定されるのか。確かに、自己の目的を実現す
る上で最善と考えられる選択をなす能力が当然の前提として必要とされよう。しかし、同時に、
他者を尊重・配慮する能力もまた必要であり、それを全く欠いている者に自由を認めることは、
社会的協働の破綻を意味することになる。世俗的にいえば、道徳的能力とは、結局この後者
の能力を意味するものであり、この意味での道徳性をも基本的人権論から排除するならば、
基本的人権は社会的協働ともまた秩序とも両立しえないこととなる。「人格」あるいは「自律」
の概念は、まさにこの問題に関わるものではないだろうか。
そして、これとの関連で、最後に触れておきたいのは、人格において措定される道徳性を、
法によって強制することが可能な行為規範の水準に限定することが適切か否かについては、さ
らなる検討が必要であるという点である。確かに、行為の選択にあたって、その選択肢のうち
いずれか一つだけが道徳的に正しいと、いかなる場合においても想定することは過剰な道徳
60) 阪本・前掲注 19)86頁。
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主義であろう。リンゴとミカンのいずれを食べるかの選択において、いずれか一方のみが道徳
的に正しいとすることは、特段の事情がないかぎり、常識的直観に反する。つまり、道徳的義
務として命じられる行為と禁じられる行為のほかに、道徳的に許容される行為があり、道徳的
に許容される行為間での選択は、道徳以外の考慮によってなすことができることが承認される
べきであろう。
しかし、道徳的義務の水準と法的義務の水準を一致させ、法的規律を受けない領域での選
択は、すべて主観的選好の問題に過ぎないとすることが適切であろうか。例えば、電車で老
人に座席を譲ることは、法的規律の対象とならないとしても(譲らなかったからといって法的
義務に違反し制裁を受けるわけではない)
、しかし、それが単に選好、すなわち好き嫌いの
問題に過ぎないのだろうか。もし、これを依然として道徳的問題であると捉えるのであれば、
すなわち善悪の問題であると考えるのであれば、法的自由が認められている範囲内において、
なお道徳義務が存在していること、そしてその実現は法的強制ではなく、道徳的「自律」の
問題であることを前提としていることになる。中村教授が、「『自己の完成』と『他者の幸福』
という『同時に義務である目的』を目指して努力する実践主体としての人格 61)」を問題とし、
人倫の形而上学の法論と徳論の内的関連性を指摘した上で、「法的自由とは、法を犯さなけ
れば何をしてもよいというものではないはずである 62)」とするのはこの点に関わる。
他方、もし道徳的義務の水準と法的義務の水準を一致させ、法的規律を受けない領域での
選択は、すべて主観的選好の問題に過ぎないとするのであれば、憲法の保障する「良心の自
由」が前提とする「良心」を、善悪ではなく、好き嫌いに関する判断の自由と位置づけざる
0 0
を得ないのかもしれない。「良心の自由」の保障を正当化するために、「善・悪」の問題を主
観的選好の問題に還元することが適切なのか、「善・悪」という問題設定を維持しつつ、自律
と寛容の論理に依拠すべきなのか、「人格」あるいは「自律」概念との関係で、なお検討が
必要であるように思われる。
結びにかえて
以上、佐藤博士の人格的自律権論を基礎として、それに対する批判的見解について若干の
検討を行った。しかし、本稿は、博士が構築された人格的自律権論の全体像を展望するもの
でも、またそれに対する批判を網羅的に検討するものでもなく、いくつかの論点に限定して取
61) 中村・前掲注 27)「哲学的考察」128頁。
62) 中村・前掲注 27)「哲学的考察」126頁。この点は、卓越主義(perfectionism)の問
題にも関わる。リベラリズムと卓越主義の接合を図ろうとするジョゼフ・ラズの見解について
は、濱真一郎「ジョゼフ・ラズにおけるリベラリズムの哲学的基礎づけ」同志社法学47巻1
号102頁(1995年)及び「ジョゼフ・ラズの卓越主義的リベラリズム(一)(二・完)」
同志社法学49巻1号65頁(1997年)、2号86頁(1998年)を参照。
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り上げたに留まっている。しかも、それらの論点について明確な結論を提示するには至ってお
らず、今後、人格的自律権論が検討すべき問題の所在を示そうと試みたに過ぎない。それゆえ、
その問いに対する解答を求めるという課題は、依然として筆者の眼前に残されている。
ただ、「生きる」ということに最終的な結論が必要なのかどうか、いまの筆者にはわからな
いように、これらの課題について、結論に辿り着くことができるかどうかも、わからない。問う
ということが、ただ問い続けるということが、「生きる」ということなのかもしれない。もしそう
だとすれば、そして人格的自律権論が人間として「生きる」ことの意味を考えることの重要性
を説くものであるとするならば、今後の私にできることは、この課題に取り組み続けるというこ
とにおいて他にない。そして、それが、二〇年の長きにわたる佐藤幸治博士の温かいご指導
に対して、私のような牛の歩みをもつ者が応える道であろう。
末筆ながら、佐藤博士の末永い御健康を心より祈念して、拙稿を捧げることとしたい。
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ロックナー判決における自律と自立
京都大学大学院法学研究科 木南 敦
一 ロックナーの背景 1 はじめに
2 連邦制と州のポリス・パワー
3 自由労働と契約の自由
4 ニューヨーク州のパン製造所の規制
二 ニューヨーク州対ロックナーとロックナー対ニューヨーク
1 ニューヨーク州対ロックナー ニューヨーク州の第一審と控訴審の判決
2 ニューヨーク州対ロックナー ニューヨーク州の最上級審判決
3 ロックナー対ニューヨークの合衆国最高裁判所法廷意見
4 ロックナー対ニューヨークにおけるハーラン反対意見
5 二つの意見の対比
三 合衆国最高裁判所によるポリス・パワーの判断
1 ロックナー判決と同時期におけるポリス・パワー判断
2 合衆国最高裁判所による州労働時間規制法の判断
3 労働時間以外の規制に関する合衆国最高裁判所の判断
4 通商規制権限の事件との対比
5 ポリス・パワー行使の判断
四 むすび
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一 ロックナー事件の背景
1 はじめに
合衆国最高裁判所によるロックナー判決 1)(Lochner v. New York)は、契約の自由と結びつ
いて広く知られている。契約の自由は、市場における取引を通して個人と社会の福利の向上に
寄与することが期待される。契約の自由が保障されると、個人の自律もまた保障される。とは
いえ、契約の自由がそれに期待される効用を発揮するには、この自由が帰属する個人の自立が
確保されていることが必要である。契約の自由が期待されるように働くために必要な条件を整
えるには、法を用いた支援が必要である。法を用いた支援はときに、規制という形をとること
がある。
本稿は、ロックナー判決をロックナー判決前とロックナー判決後を含め、ロックナー判決で
説かれた契約の自由という議論と、それと同時期の社会規制に、若干の考察を加える。はじめ
に、ロックナー判決が言い渡された時代、修正第14条に依拠して州の立法権限を制約する法
理の展開、ロックナー判決で効力が争われたニューヨーク州のパン製造所の規制の概要を簡
単に紹介する。
合衆国最高裁判所が Lochner v. New York で判決を言い渡したのは1905年4月17日、革
新主義の時代と呼ばれる時代の最中である。革新主義の時代は、南北戦争後の再建期の終了
後と、大恐慌後とニューディール期の間に位置し、この期間には第一次世界大戦があった。こ
の期間には、北米大陸を横断する鉄道交通網が整備され、地域間の交流が活発となり、フロ
ンティアが消滅したと発表された。国内各地から都市部に向かう人口移動に加え、東海岸には
ヨーロッパ大陸から、西海岸には東アジアから多数の移民が到来し、その多くが新しい都市住
民として生活を始めた。都市の生活条件は低下しはじめ、スラムが出現した。内陸部の農業地
帯から農産品が鉄道によって都市部消費地に運ばれ、農業地帯には鉄道によって工業製品が
運ばれた。農産品と工業製品はまた、アメリカ合衆国の主要な輸出品でもあった。広い物価下
落傾向のため、農民は農産品の価格低下と高い鉄道運賃に悩まされ、人民党の結成に至る農
民運動が見られた。工業化が進展し、大企業が製造業において出現し、独占状態が生じた産
業もあった。社会の貧富の格差は、金ぴか時代という書物の題名が示すように大きく拡大した。
労働運動が活発になり、労働組合が組織され、労働争議が発生した。アメリカにおける社会
主義の運動において、アメリカ社会党という政党が組織されるに至った。1873年の株価暴落
から不況に入り、1893年の株価の暴落と銀行倒産からまた不況を経験した。20世紀に入る
と、初めての世界大戦を迎え、この世界大戦中は、戦争遂行のため社会生活の多面に及ぶ政
府による統制が敷かれた。
上に挙げたことは、世紀転換期の前後のアメリカ合衆国における社会の変化の断片である。
1) 198 U.S. 45 (1905).
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こうした変化の多くは社会問題として取り上げられ、その解消や改善を目指す社会運動が登場
した。市場の独占状態に対抗し独占を解消しようとする反トラスト運動も、鉄道運賃規制やイ
ンフレーションを誘導する政策を求める農民運動も、都市化がもたらす都市生活の諸条件の改
善を求める都市運動も、賃労働をする労働者の労働の条件を向上しようとする労働運動も、運
動の目標の実現に必要とする立法を求めた。こうした社会改革運動は、州政府と合衆国政府と
の立法部に働きかけることから、政治改革運動とも結びつくことになった。求める改革の内容
によっては、禁酒運動のように憲法改正が必要とされることがあったが、通常は、社会改革の
実現を可能にする法律の制定が求められた。法律が制定されると、それに基づいて規制が導
入され、規制を執行する組織が政府に設けられることもあった。革新主義の時代は規制立法
の時代であり、規制国家が始まる時期であった。
2 連邦制と州のポリス・パワー
立法部が規制を可能にする法律の制定を求める運動の求めに応じることは、立法権限を行
使し法律を制定することである。法律が制定され、規制の執行に必要な資源が割り当てられて、
政府による規制を実施することができる。一方で、根拠となる法律を制定して規制をする必要
があるか、それに用いられる方法が適切であるかが問われる。このような問いに応答して立法
することは立法部の任務である。他方、立法部に求められている法律を制定する権限がある
のかが問われる。立法部に託されている権限の範囲外であるか、政府が権限を行使することを
禁じられているならば、立法部には法律を制定する権限がない。
州も合衆国も人民が主権を有する共和政体である。そこでは、人民が自らの福利の向上と増
進を図るため政府の形態を選び、政府に権限を託し、このような権限は付託される権限を記し
た憲法という文書によって託されている。こうして政府に託されている権限は、人民の福利の増
進及び向上のために行使されることが予定される。立法部が手続に則ってそれに託されている
権限を行使したならば、立法部は法律を制定するとき、その法律を通じて人民の福利が増進又
は向上されることを確かめて、その法律の制定が必要であると判断したと扱われる。これは必
要性の判断である。これに対して、立法部に法律を制定する権限がないという主張は、立法部
がこのような必要性をどう判断しようが、法律には効力がないという主張である。この主張の当
否の理解には、州と合衆国との政府に権限がどのように託されているかについて、特に、合衆
国憲法における連邦制度とポリス・パワーと呼ばれる州の権限について知ることが必要である。
合衆国憲法における連邦制度とポリス・パワーと呼ばれる州の権限を順に簡単に紹介する。
(1)アメリカ合衆国憲法における連邦制度 1776年7月4日、北米大陸の13の英領植
民地を単位とする地域それぞれが独立を宣言し、これらの地域の人民による共和政体が樹立さ
れた。この13の共和国は、それらが締結した連合規約に基づいて国家連合である The United
States of America を組織し、これに対外関係に関する権限を委譲していた。このような13の
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共和国を所与のものとして、1787年から1788年にかけて、憲法の制定を通じて人民による
一つの共和国が樹立され、1789年にはアメリカ合衆国の政府が始動した。こうして制定され
た憲法すなわちアメリカ合衆国憲法によって、この憲法を通じて樹立された共和政体の一般政
府と、それ以前から存在していた共和国によって構成される連邦制度が整えられた。この連邦
制度は、州と合衆国政府とを通じて、人民が福利の向上と増進を図ろうとする制度である。連
邦制度の要点は、福利に関する政府の方針の選好が必ずしもアメリカ合衆国に組み込まれた地
域ごとに等しく分布しないことから、地域に権限を分散する決定方式を採用して、そうしない
場合より多くの人々を満足させることができることにある。連邦に組み込まれ構成単位となる地
域には、自然条件においても社会条件においても地域特有の事情があり、この事情ゆえ、福利
を増進し向上させる政府の諸方針の順位付けは地域によって違いがありうるからである 2)。
全体の視点にたってみた人民の福利とは別に、構成単位である地域の事情が反映されるよう
人民の福利を増進し向上する方策を選定すれば、構成単位総体で人民の福利を最大限増進し
向上させることができる。地域単位で福利について判断すべき事項と、全体として福利につい
て判断すべき事項を分けて、前者については地域の人民の福利を、後者については全体の人民
の福利を向上する策を選定し実施することを可能にする制度が採用されるのである。合衆国憲
法のもとでは、州政府が前者に関わる決定をし、合衆国政府が後者に関わる決定をするとい
う制度を導入された。この連邦制度による分散決定方式は、既存の共和国がその領域の内部
では従前とほぼ変わりなく方針を決定することを保障し、新しい共和国の政府を通じて合衆国
の人民全体にとっての福利を図るという構想の実現に必要であった。
アメリカ合衆国憲法では、連合規約において The United States of America という名称の国
家連合に委譲された対外関係に関する権限が強化され、その他の立法権限をはじめとする権
限が追加されて、合衆国政府に託された。合衆国憲法が樹立されるまでは独立の共和国であっ
た州は、州の領域の内部の事項については、合衆国憲法に基づいて加えられる制約を受けつつ、
州の人民より州憲法に基づいて託される権限を有することになる。
(2)ポリス・パワーという州の権限 州の権限は、州の人民より託されているものである。
州は対外関係を管理することができなかったが、共和政体が内部の事項を管理できるのと同様
に、州の境界の内部で物や人を管理する権限を有し続けた。州はまず、州の憲法により州政府
に託されない権限を行使することはできず、州憲法による禁止に反して権限を行使することは
できない。人民により合衆国憲法において合衆国政府に託されていない権限は、州の政府に託
されているか、どの政府にも託されていないかのいずれかであり、さらに、合衆国憲法には合
2) Larry D. Kramer, Putting the Politics Back Into the Political Safeguards of Federalism, 100
Colum. L. Rev. 215, 222 (2000).
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衆国政府及び州に対する禁止も定められる 3)。そのため、州は、合衆国憲法による州に対する
制限に反して権限を行使することもできないことになる。
それでは、合衆国憲法により合衆国に託される立法権限の内容はどのようなものか。合衆国
憲法第1条が合衆国議会の立法権について定める。第1条のうち第1節が合衆国の立法権限が
合衆国議会に託されると定め、第8節が合衆国議会が権限を有する事項を列挙する。第8節
に列挙される事項は合衆国の人民全体としての福利の増進と向上を図るのに必要と判断された
事項である。第8節の第3項は、合衆国議会が「外国との、州と州の間の、及びインディアン
部族との間の通商を規制する権限を有する」と定める。この権限は通商規制権限として知られ、
合衆国議会の立法権限のなかでも合衆国政府による規制の根拠となる法律を制定するのに依
拠されてきた。合衆国の法律が通商規制権限に依拠して制定された法律であるというためには、
その法律の制定が合衆国議会の通商規制権限の行使であると判定されなければならない。こ
の判定には基準が必要である。合衆国最高裁判所が Gibbons v. Ogden4) においてこの判定を
した際に、合衆国最高裁判所は、外国との、州と州の間の及びインディアン部族との間の通商
を規制するという規定を構成する言葉の意味を明らかにし、法律がこのような通商を規制する
ものか、またはその規制するのに必要なものであるかを確かめた。そして、合衆国議会は、外
国との、州と州の間の及びインディアン部族との通商に関する方針を定め、定めた方針を執行
するために必要な法律を制定することができるとされた 5)。
合衆国議会が通商規制権限に依拠して制定した法律に基づく規制は、州の内部の物や人に
及ぶ。州と州の間の通商を規制すると、合衆国のうちで州以外の地域を除けば、通商規制権
限の対象とされる活動の主体である人も、州と州の間の通商の対象となる物も、いずれかの州
の境界の内側に存在するからである。州の内部にある物や人には、州政府が有する権限が及ん
でいる。合衆国国内でかつ州の領域内で生じる活動とそこに存在する物は、合衆国議会の権
限と州の権限との両方の対象となりうる。
最高法規条項として知られる合衆国憲法第6条第1項は、合衆国議会の立法権限の行使が
有効であると、そうして制定された合衆国の法律が、それと相容れない州の法に優位すること
を規定する。しかし、合衆国議会の権限が及ばないと判定される場合は、州の権限のみが合
衆国憲法が定める制限に服しつつ、その境界の内部の物と人に及ぶ。そうすると、州がその憲
法の定めに従って独自に立法判断できる場合は、合衆国憲法が定める制限が及ばず、合衆国
議会の権限も及ばないとされるところである。この範囲内において、州はその人民の福利の増
進と向上を独自の判断に基づいて図ることができる。州の立法部がこの範囲のことについて法
3) これについては合衆国憲法修正10条参照。合衆国憲法修正第10条は、
「この憲法によっ
て合衆国にゆだねられずまたそれによって州に禁止されていない権限は、それぞれの州または
人民に留保される」ことを規定する。
4) Gibbons v. Ogden, 22 U.S. 1 (1824).
5) 木南敦『合衆国憲法と通商条項』58―82頁(1995年)参照。
- 281 -
律を制定していなければ、この範囲のことは州の裁判所によるコモン・ローによって律されるこ
とになる。
州がその内部の事項を管理する権限は州に人民が託した権限に由来する。この権限は、州
という共和政体内の統治に関わることであり、その内容は州憲法に由来する様々な内容の権限
の総体である。その具体的内容は州ごとに違う。州はこの権限を人民の福利の維持及び向上の
ため行使する。州という共和政体がこうして内部の事項を管理する権限がポリス・パワー(police
power 又は police powers)であるということができる。ポリス・パワー又は州の内部事項管理
権限自体は、合衆国憲法を通じて人民により託された権限ではなく、州を単位として人民が州
に託した権限に由来する。連邦制度の観点から、ポリス・パワーという言葉は、州に属する権
限と合衆国議会が行使する権限とを対比するのにも用いられる。ポリス・パワーは州の憲法に
由来することから州憲法に基づく制約を受けるだけではなく、合衆国憲法に基づく制限の対象
でもある。合衆国憲法に基づいて州法の効力が争われる文脈では、ポリス・パワーは合衆国憲
法による制限を受ける州の権限でもある。
合衆国議会が法律を制定するにしても、その内容が道路や運河を建設し整備するために合
衆国の国庫から資金を提供したり、州のなかに所在する合衆国の有する土地という財産を農民
定住の促進や鉄道敷設補助のため処分するものであるならば、その方針の是非やその必要性
が争われるとしても、合衆国の法律が州の境界の内部のことに及ぶことを理由として合衆国議
会の権限を問うことは強く求められない。しかし、同じく州の境界の内部のことでも、合衆国
議会が州と州の間の通商に関して定めた方針を執行するために制定した法律によって州と州の
間の通商に関わる物や活動を規制するとき、合衆国議会が通商規制権限を行使し立法できる
範囲を画定し、州による独自の判断可能な領域を確保することは、主要な課題の一つと扱われ
ることになった。
合衆国議会が通商規制権限を行使することによって合衆国内の事項を管理しようとする一歩
は、1887年に制定された Interstate Commerce Act6)(州際通商法)によって踏み出された。
合衆国議会はその後も、合衆国内における規制の求めに応じて反トラストや食品衛生など様々
な領域における規制制度を通商規制権限を根拠として構築する。合衆国議会は、合衆国内の
物や人を対象として合衆国内部の事項の管理を始めるに至った。このような展開を受けて、合
衆国の法律が州の内部の事項に及ぶことを理由として、合衆国議会の権限の範囲を画するとい
う要求が強まった 7)。これと同じ時期、合衆国憲法修正第14条第1項の定める州に対する制限
を手がかりとしてポリス・パワーを制約することも求められた。
6) An Act to regulate Commerce, ch. 104, 24 Stat. 379 (1887).
7) 木南、前掲注5)、150―170頁。
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3 自由労働と契約の自由
合衆国憲法による州に対する制限は、修正第13条、修正第14条及び修正第15条により大
幅に拡大された。この3つの修正条項は、南北戦争という内戦に決着を付けるために合衆国憲
法に追加されたもので、再建修正条項とも呼ばれる。南北戦争終結後、修正第13条によって
奴隷という地位から解放され市民となった人たちに対して、南部の諸州は州法に基づいて自由
な市民が享受するのと同じ権利を保障することなく、また、このような人たちは不法な暴力の
対象となった。合衆国議会はこの事態に対処するため、奴隷の地位から解放され市民となった
人たちが市民として有する権利を保護する法律を制定し、そして、修正第14条第1項はこうし
た法律の内容を合衆国憲法の一部とした。修正第14条第1項はそのため、州に対する制限を
規定して、同条第5項が合衆国議会がその規定を実施するために適切な法律を制定する権限
を有すると定めた 8)。
修正第13条から修正第15条までの再建期の憲法修正の実現を主導した政党が共和党であ
る。共和党は1854年から各地で結成され、1856年には全国組織として最初の党大会が開
催された。このときに共和党に結集した人びとが掲げたスローガンは自由労働(free labor)と
自由土地(free land)であった 9)。これは「自由な土地での自由な労働にこそ、人間が本来的価
値とする生の基盤があ」り、
「またそれは人間の独立を支える基盤でもある 10)」という理念の表
現である。このスローガンはまた、
「19世紀前半の自立的個人を単位とした小企業家や小農民、
職人の社会 11)」の理想像を映した。この共和党のスローガンは、中西部の農民から北部の労働
者の支持も受けるようになった。共和党が掲げた自由労働の理念では、自由労働をする個人は
他人のもとで働いていて、その後独立して働きはじめ、さらにその後には他人を働かせている
という経路をたどる個人である 12)。
自由労働について強調されることは論者によって違いがあった。リベラリズムを奉ずる論者に
は、自由労働は個人の自律という原理を体現したものであり、奴隷制度の南部の特徴であった
強制による社会関係ではなく、自律する個人の間における合意に基づく関係を促進することを
意味した。自由労働において自律の価値を見出す論者は、選択の制約のない自由を確保する
手続を維持することを支持するものの、個人による選択の実体は顧慮しなかった。そして、自
8) 木南敦「合衆国憲法修正一四条五項に基づく議会の立法―裁判所の憲法、議会の憲法、人
民の憲法―」米沢広一ほか編『国民主権と法の支配』(上巻)131頁(2008年)参照。
9) Eric Foner, Free Soil. Free Labor, Free Men: The Ideology of the Republican Party Before
the Civil War (1970).
10) 紀平英作・亀井俊介『アメリカ合衆国の膨張』177―178頁(紀平英作執筆部分)
(2008年)。
11) 同書229頁(紀平英作執筆部分)。
12) Eric Foner, supra note 9, at 30.
- 283 -
由な労働市場は、社会関係の合意に基づく形成を制度化するので、自由労働のリベラリズムに
よる理解の極めて重要な部分であったが、労働運動を進める論者は、自律に基づく合意の実
現のための手続ではなく市民の自立を強調する実体的結果に力点を置き、独立革命以前にま
で遡って経済的に自立する市民の重要性に関わる政治思想上の伝統を引き合いに出した 13)。さ
らに、自由労働は、個人の自立とも個人の独立とも結びつくように理解されたほか、奴隷制度
や年季奉公制度のもとにおける不自由労働と対比すると勤労の自発的な誘因を伴うとして、効
率がよい生産のメカニズムであると説かれ、また、男性労働者が家族を扶養するだけの家族賃
金を前提として、労働における市場の領域と家庭の領域を分つものであるとも説かれた 14)。
19世紀の後半に入るころには、アメリカ合衆国の東部そして中西部の一部では、働く人々
の多数は工場、製造所や企業組織のなかで賃金を得て労働していた。1870年時点で、所得
のあるアメリカ人のうち3分の2が自営者ではなく賃金労働者であり、賃金労働者の割合は増加
した 15)。
自由労働は賃金労働者による労働も含んだ。自由労働と対比される奴隷制度において、奴隷
の身体は所有権の客体とされ、その所有権は奴隷の所有者に属し、奴隷の身体から産み出さ
れる労働力という果実はその所有者に帰属すると扱われた。他方で、ある者が自由であるときに、
身体の所有者を観念するならば、所有者はその者自身である。人は自らの身体を所有し、身体
から産み出される労働はその人自身に属し、人は労働を市場に出し、労働の対価として賃金を
手にすると理解された。奴隷には、労働を自らのものとして自ら選択するところに従って売る自
由はなかった。しかし、自由な人間は自ら取引の相手を選択し、自ら決定する条件で取引の内
容を決定することができる。こうして、自由労働の理念は、賃金労働に関して取引に関する選
択の自由を導きだすことになる 16)。
共和党が当初、奴隷制度を南部に限定しようとしたのも、共和党政権のもとで南北戦争が始
まり、その結果として奴隷制度が廃止されるに至ったのも、自由労働の理念を政策として展開
したものである。合衆国憲法の一部となった再建憲法修正条項は、合衆国全土において奴隷
制度を許容せず、自由労働を合衆国全土に拡大したことを確定する憲法改正となった。こうして、
自由労働は再建修正条項を支え、かつ、修正第13条と修正第14条に体現されると理解された。
そして、修正第14条はその後、自由労働を保障する根拠となる憲法の規定として扱われること
になった 17)。
13) John Fabian Witt, Accidental Republic: Crippled Workingmen, Destitute Widows, and the
Remaking of American Law 34 (2004).
14) Id. at 34-35.
15) Id. at 35-36.
16) エリック・フォーナー(横山良ほか訳)
『アメリカ 自由の物語』上、94頁(2008年)。
17) William E. Forbath, The Ambiguities of Free Labor: Labor and the Law in the Gilded Age,
1985 Wis. L. Rev. 767.
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以上のように、修正第14条第1項は自由労働という価値を反映し、市民を等しく扱い、個人
の選択の自由を保障する憲法規定であると理解されるにいたる。1873年、Slaughter-House
Cases において、フィールド合衆国最高裁判所裁判官は判決に反対する意見で次のように論じ
た 18)。
(合衆国の市民)にはどこでも、あらゆる仕事、職業及び生業の門戸が、同じ、年齢、性
及び条件の、他のすべての者に等しく課される制約以外の制約なしに開かれている。州は、
公衆の衛生を促進し、良き秩序を確保し、社会の繁栄を振興するような規制をすべての
職業について定めることができるが、いったん定められたならば、指定された条件に該当
し規制に従う市民はみな、その職業に自由に従事することができなければならない。...
私の見解では、修正第一四条は、この権利の平等が尊重されるべきことが州のすべての
立法が有効であるのに不可欠なものとする。
フィールド裁判官は、この権利の平等を尊重しないルイジアナ州の法の効力を支持すること
は、人の神聖かつ不可侵の権利の一つである自由労働の権利の侵害であると論じた 19)。また、
フィールド裁判官は、奴隷制と意に反する労役の廃止はこの国の中で生まれた者を自由な人間
とし、そのような意味で、その者に他の人々にも及ぶ制約以外の制約なしに通常の職業に従事
し、かつ、その労働の成果を他の人々と平等に享受する権利を与えることを意図されたと述べ
た 20)。
これに対して、ミラー裁判官による法廷意見は、修正第14条の一般目的は、奴隷制の対象
とされていた人種の自由を確固たる、確実なものにし、新たに自由な人であり市民となった者を
その者に対して従前は無制約の支配を行使していた者による抑圧から保護することであると解
した 21)。こうして、合衆国最高裁判所は、奴隷制の対象であった黒人人種のほか、意に反する
労役という境遇に置かれた人々を保護することが修正第14条の目的であると理解し、修正第
13条と修正第14条に依拠して、ニューオリンズ市域を含む地域において屠殺場を独占する法
人を設立するルイジアナ州の法律は効力がないという同市内の食肉加工販売業者の主張を退
けた。法廷意見は、この主張を容れると、従前は合衆国政府による管理下になかったところま
で州を合衆国議会や裁判所の管理に服させることになり、従前の合衆国政府と州の相互の関
係の考え方を根本から変更することになると指摘した 22)。この事件でフィールド裁判官の意見を
支持した裁判官は3名であり、合衆国最高裁の裁判官の多数を占めなかった。
しかし、合衆国最高裁判所はロックナー事件において、自由労働という考えをそれに由来す
る契約の自由として用いることになった。フィールド裁判官は、Slaughter-House Cases で、修
18) 83 U.S. (16 Wall.) 36, 109-110 (Field, J., dissenting).
19) Id. at 110 (Field, J., dissenting).
20) Id. at 90 (Field, J., dissenting).
21) Id. at 71.
22) Id. at 79.
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正第13条及び修正第14条第1項、なかでもデュープロセス条項を特に手がかりとして議論を
展開した。自由労働の理念には、自由及び財産の保障が前提として含まれる。自由と財産に対
する州による制限の効力の争いを自由労働の理念に依拠して判定するとき、フィールド裁判官
は、修正第14条第1項が南北戦争を通じて合衆国全部に通用する理念となった自由労働を体
現する規定と理解していた。フィールド裁判官は、この議論が修正第14条のデュープロセス条
項から導き出されるということはなかった。それでも、デュープロセス条項が自由と財産を州に
よる不当な制限から保障することに言及するから、修正第14条第1項のなかでも特にデュープ
ロセス条項が手がかりとされたとみることができる 23)。
自由労働といっても、自営業者や農業者とは違って、工場、製造所や企業組織のなかで働く
者は賃金労働者であった。賃金を対価に労働する者には、身体から自由に労働という果実を引
き出すことでき、この労働を売る相手と条件を選択する自由があることが導き出される。これは、
自由労働の理念に由来するものの、労働から得られる成果を手にして経済的に自立する個人と
つながるより、個人に身体の自由があることに力点を置く立場につながる。契約の当事者とな
る自由も、自由に契約をする自由も、奴隷制度のもとでは所有権の客体である奴隷には許され
ることのなかったことから、奴隷制度廃止の展開でもある 24)。契約の自由は、修正第14条を通
じ、修正第13条により奴隷制度から解放された市民を含め、すべての市民が市民として等しく
有する権利として保障される権利である。契約の自由は、修正第13条及び修正第14条第1項
により保障されるということになる。自由労働の理念は、契約の自由という選択の自由と、職
業の遂行に対する制限における平等な扱いを求めて、州による規制を制約する原則の基礎を提
供した。
ロックナー事件では、州の規制が契約の自由という選択の自由を制限するという主張が展開
された。この契約の自由はこれまで述べた通り、奴隷制度を廃止した修正第13条と、その定
着を図ろうとした修正第14条第1項に結実した自由労働の現れの一つであった。労働に関する
契約の条件を規制する法律は、人が自らの労働力をみずからが適切であると考えるように処分
する権利を制限することから、この自由労働の理念に反すると論じられた。自由労働の理念は、
概して平等な社会の独立した小生産者を賞賛するものとして生まれながら、このような立論で
23) オーエン・フィスは、19世紀から20世紀の転換期における合衆国最高裁の裁判官に
とり、憲法解釈は憲法条項の語句の解剖ではなく、これはロックナー判決を含めこの時期の
主要な判決に現れると指摘する。Owen M. Fiss, 8 The Oliver Wendell Holmes Devise History
of the Supreme Court of the United States: Troubled Beginnings of the Modern State, 18881910, 85 (1993). フィスは、修正第14条のなかで条項を特定しようとはされなかったことも
指摘する。Id. at 182. このフィスの指摘は、フィールド裁判官の意見にも当てはまると考えら
れる。
24) Forbath, supra note 17, at 786.
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は、
資本主義市場の束縛のない運用を擁護するものに変質することになった 25)。契約の自由は、
自由放任主義から考案されたものではなかった。
19世紀末に契約の自由が唱えられたとき、契約の自由は、自由労働が描いた独立した小生
産者について唱えられたのではなく、賃金労働者について唱えられた。平等な社会における小
生産者の時代は過去のものとなり、貧富の格差の大きな工業社会のなかで労働者として働き始
め、労働者として働きを終える人たちが社会の多数を占める時代であった。また、当時は革新
主義の時代であった。それでは、革新主義の目的を達成するためポリス・パワーはどのように
行使されたのか。
ロックナー事件で効力が争われたニューヨーク州パン製造所規制法を見ることにする。
4 ニューヨーク州のパン製造所の規制 合衆国最高裁判所がロックナー事件で無効であると判断したニューヨーク州の法律は、
「被
用者は、ビスケット、パン若しくはケーキ製造所又は菓子製造所において、1週に60時間、若
しくは1週の最後の日における労働時間を短縮する目的を除いて1日に10時間を超え、又は被
用者が労働するものとされる1週の日の数につき平均して1日10時間を超えることになる時間数
を一週の間に労働することは、求められることもなく許されることもない。」と定めた 26)。
これは、ニューヨーク州議会が1895年に小麦粉食品を規制するために制定したパン菓
子製造所法(Bakery Act)と呼ばれる法律 27)(パン菓子製造所法という。)の第1条である。
1897年にニューヨーク州一般法の第32編となる法律が制定されたとき、この規定は、他の
パン菓子製造所法の規定とともに、労働法(The Labor Law)という題名を持つ一般法第32
編の第8章としてパン菓子製造所に関する一連の規定中に編入された 28)。以下、ニューヨーク州
のパン菓子製造所法の制定の経緯を簡単に紹介して、この法律の概要及びその目的と考えられ
ることを紹介する。
パン菓子製造所法が制定された時期のパン菓子製造業の様子については次のような紹介が
ある。19世紀後半、それまで家庭のオーブンを使って焼き上げられ食卓に上っていたパン類
を商品として製造し販売することが、産業として成長しつつあった。同じく小麦粉を使って製造
される食品でもクラッカー及び乾パン類の製造には、大きな企業が出現していたが、パン菓子
類の製造所は小規模又は零細な事業所であり、1899年にはパン菓子製造所の78パーセン
25) フォーナー、前掲注16、175頁。
26) N.Y. Laws. , ch. 415, Art. 8, sec. 110 (1897).
27) An Act to regulate the manufacture of flour and meal food products, N.Y. Laws. , ch. 518
(1895).
28) An Act in relation to labor, constituting chapter thirty-two of the general laws, N.Y. Laws. ,
ch. 415 (1897).
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トが従業員4名以下の事業所であった。大方のパン菓子類製造所は、日雇いの製パン職人が
独立し、自ら小規模な製造所を構えたものであった。パン菓子類製造過程において機械の導
入は進まず、パンと菓子の製造は手作業であった。オーブンを入手し備え付ける場所を確保す
れば、パン製造を始めることができた。製造所は多く、都市部によく見られたテネメント・ハ
ウス(tenement house)という共同住宅形式のアパートメント・ビルディングの地下室にあった。
テネメント・ハウスの地下室は、家賃が安いだけではなく、床が固くて重いオーブンを固定する
のに適した。しかし、地下室内は建物の下水が流れ、その床は湿っぽく、採光窓と通気口は小
さくまた数が少なく、換気は十分ではなく、こうした地下室にあるパン製造所は清潔な場所で
はなかった。そこは、オーブンに火が入るまで寒く、火が入ると高温となった。パン職人が仕
事中に身体に負傷することはなかったが、製造室内は小麦粉が舞い、職人には慢性の肺病を
患う者が多かった。パン製造所で働く日雇いのパン職人となる者は外国生まれの移民の男性で
あり、児童や女性ではないという傾向があり、ニューヨークではその多数はドイツ系移民であっ
た。日雇い職人はパン製造所に寝泊まりし、寄宿料が賃金から差し引かれた。パン製造所の
典型的労働時間は1週72時間であり、多くの日雇い職人はこれより長時間働いた 29)。
テネメント・ハウスは、居住環境が悪くスラムと化しやすく、スウェット・ショップと呼ばれる
低賃金かつ悪条件かつ長時間労働の作業場としても利用され、その居住条件を改良する対策
が必要であるという考えから社会運動の対象とされ、社会の関心を集めていた。ニューヨーク
州政府は、テネメント・ハウスの状況を調査する委員会を数次にわたり設置した。1894年に
設置された調査委員会の委員でもあった新聞記者エドワード・マーシャルは、同年、テネメント・
ハウスの地下室のパン菓子製造所の様子を描写する新聞記事をニューヨーク・プレスという新
聞に発表した。この記事は、不潔な製造現場と非衛生的な製造過程を描いただけでなく、そ
こで働く日雇いパン職人の困難な職場環境と長時間労働も描写した。
この記事がきっかけとなっ
て、社会運動や市民運動の中心を占めた人物も加わり、パン菓子製造業の改革を求める運動
が広く支持を得ながら進展した。この運動が1895年のニューヨーク州パン菓子製造所法制
定につながった。この記事とそれに続く記事がニューヨーク・プレスに発表されたころ、パン製
造所で働く日雇いパン職人の組織のなかで、他の製造業においても見られたように、労働時間
の短縮を求め、1日10時間、週60時間という労働時間を求める運動があった。このような労
働組織も、パン菓子製造業の改革運動に加わった。1895年、パン菓子製造所法となる法案は、
州議会下院は120対0で、ついで、上院は20対0で通過した。知事に提示された段階で、労
働時間に関する法案第1条の規定が被用者のみに適用されるよう修正する必要があることが指
摘された。議会は、この指摘に従って修正された第1条を含む法案を、下院が90対0で、また、
上院が29対0で可決後、知事が署名して、修正後の法案は法として効力をもった 30)。
29) Paul Kens, Judicial Power and Reform Politics: The Anatomy of Lochner v. New York
6-13 (1990).
30) Id. at 44-59.
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ニューヨーク州の最上級裁判所のヴァン裁判官はロックナー判決における意見において、
1895年のニューヨーク州パン菓子製造所法は、英国の1863年パン菓子製造所規制法
31)
(Bakehouse Regulation Act)
を模範としたように思われると指摘した 32)。19世紀後半、英国
でも、パン菓子製造所の多くは地下室にあり、日雇いパン職人の職場環境は不潔で非衛生的
であり、パン職人は長時間そのような環境のなかで働いていた 33)。英国の1863年パン菓子製
造所規制法の概略は次の通りである 34)。第3条は、18歳未満の者を午後9時から午前5時ま
で就労させることを禁止し、これに違反する雇用があったパン菓子製造所の占有者に罰金を科
す規定を置いた。第4条は、5000人以上が居住する市などの地域にあるパン菓子製造所の
壁及び天井は油びき又は石灰塗料で定期的に仕上げて洗浄することを求めるほか、あらゆる場
所にあるパン菓子製造所を清浄な状態に保ち、換気手段を整え、かつ、悪臭が生じないように
するように求め、その違反を処罰する規定を置いた。第5条は、5000人以上が居住する市
など地域にあるパン菓子製造所に関して、同法に定める適当な大きさの窓と換気口のある仕切
られた個室を製造所内に設けなければ、その一部を宿泊所として使用することを禁止し、その
違反を処罰する規定を置いた。
1895年に制定されたニューヨーク州パン菓子製造所法の内容は次のようなものであっ
た 35)。第1条が、パン菓子製造所の被用者の労働の時間の上限を定める労働時間規制である。
第2条が、パン菓子製造所として使用される建物を健全な衛生状態に保つように排水設備と配
水管を配備することを求める。第3条が、パン菓子類の製造に使用される部屋の床、壁及び
天井の状態について規定する。第4条が、製造されたパン菓子類を乾燥し風通しが良く、清掃
しやすい場所に保存するよう求める。第5条が、パン菓子が製造される部屋の外に便所及び水
洗便器を設置することを求める。第6条が、製造所で働く者の宿泊場所をパン菓子類の製造
及び保管場所とは別の場所とすることを求める。第7条が、同法の規定違反に関する罰則であ
る。第8条が、この法律と、女性及び児童の製造所における雇用に関する法律の執行のため、
工場検査官によって4名の副検査官を追加任命することが可能であるとし、この副検査官が工
場検査官の指示を受け、パン菓子製造所を検査し、この法律等の規定が製造所において順守
されていることを確認することを定める。第9条が、第2条、第3条又は第5条の対象になる建
物の所有者と賃借人は、建物の変更の命令の通知を文書により受けてから60日以内に、その
命令に従わなければならないことを定める。
31) 26 & 27 Vic. , ch. 40 (1863).
32) People v. Lochner, 69 N.E. 373, 382 (Vann, J., concurrring). See David E. Bernstein,
Lochner v. New York: A Centennial Retrospective, 83 Wash. U. L. Q. 1469, 1481 (2005).
33) F. Waldo, The Sanitation of Places Where Food is Stored and Prepared: Bakehouses, 15
Journal of the Royal Society for the Promotion of Health 21 (1894).
34) 26 & 27 Vic. , ch. 40.
35) N.Y. Laws. , ch. 518 (1895).
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1895年に制定されたパン菓子製造所法は翌年、改正された 36)。1896年の改正では、第
1条の規定の内容に変更はなかった。しかし、第2条には、換気を確保する設備を求める規定と、
改正後の衛生規定に合致しない地下室を今後パン菓子製造所として使用することを禁止する規
定が、第3条には、パン菓子製造に使用される部屋の天井の高さを最低8フィートとする規定と、
猫以外の家畜をパン菓子の製造及び保存に使用される部屋に入れることを禁止する規定が、第
6条には、被用者の宿泊場所がパン菓子製造場所と同じ階にあるときには宿泊場所を検査し、
衛生を確保するため清掃又は改修を命令することができるとする規定がそれぞれ追加された。
第八条では、工場検査官が追加して任命できる副検査官の員数が6名とされた。
さらに、1897年、ニューヨーク州はニューヨーク州法典整備の一部として、一般法第
32編となる労働に関する法を制定した 37)。この一般法第32編の名称は「労働法(The Labor
Law)」とされた。1896年改正後のパン菓子製造所法の規定の内容は一般法第32編第8章
に編入され、章の名称は「パン菓子製造事業所(Bakery and confectionary establishment)」
とされた。
一般法第32編第8章は110条から116条までの7箇条からなった。110条がパン菓子製
造所法第1条と同じ内容の労働時間規制の規定であった。111条が、排水設備及び配水管並
びに換気について、112条が、パン菓子類が製造される部屋の天井の高さ、床、天井及び壁
の状態並びに製造されたパン菓子類の保存場所の状態について定めた。113条が、パン菓子
製造用の部屋の外に便所と水洗便器を設置することを求め、パン菓子類が製造される部屋に
宿泊することを禁止し、製造所で働く者の宿泊場所をパン菓子類の製造及び保管場所とは別の
場所とすることを求めた。114条が、工場検査官による検査を受けなければならないと定め、
115条が、建物の変更命令について定めた 38)。一般法第32編は、パン菓子製造所法の罰則
規定である第7条以外を廃止した 39)。労働法の規定の違反に関して刑法典を改正する法律が一
般法第32編第8章と同じ日に法となって、この法律は、刑法典384l条第3項の規定として、
一般法第32編第8章の労働法の規定の違反が軽罪にあたり、違反に対し罰金または自由刑を
科すと定めて、パン菓子製造所法第7条を廃止した 40)。
既に紹介したように、当時のパン菓子製造所の多くはテネメント・ハウスという共同住宅用ビ
ルディングの地下室にあり、そこは不潔で非衛生的な場所であった。製造室内には排水管や排
水溝が通り、換気が悪く小麦粉が粉塵として舞い、オーブンの熱気がこもった。日雇いパン職
人がこのような製造室で、手作業でパンや菓子を製造していた。職人は、パン菓子製造所に住
み込み、週72時間に及ぶ長時間労働をしていた。これに照らせば、パン菓子製造業の規制の
36) N.Y. Laws, ch. 672 (1896).
37) N.Y. Laws. ch. 415 (1897).
38) N.Y. Laws. ch. 415, Art. 8, secs. 111-15 (1897).
39) N.Y. Laws. ch. 415, Art. 13, sec. 190 (1897).
40) N.Y. Laws, ch. 416, secs. 3, 4 (1897).
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目的は、パン菓子製造の場所が不潔であり非衛生的であるので、パンと菓子を公衆にとって安
全な食品とすることと、製造所で働く者の健康を守ることが目的であったということができる。
こうした目的を達する手段として、製造所の衛生状態の最低限を確保する規制と、パン職人が
不潔で非衛生的な職場に置かれる時間を管理する規制が用いられたということができる。
公衆が口にする食品の安全を求め、劣悪な職場環境にさらされる人たちの健康を守ろうとす
る社会改革の運動と、労働時間の短縮を求めるパン職人の労働の運動が合流して、ニューヨー
ク州議会はパン菓子製造を規制する法を制定したと考えられる。ロックナー事件において適用
されたニューヨーク州のパン菓子製造業を規制する法はこのようなものであった。
二 ニューヨーク州対ロックナーとロックナー対ニューヨーク
1 ニューヨーク州対ロックナー ニューヨーク州の第一審と控訴審の判決
ジョゼフ・ロックナー(Joseph Lochner)は1862年にバイエルンで生まれ、アメリカ合衆
国に渡った移民である。20歳のとき、彼はニューヨーク州ユーティカ市に落ち着き、パン製
造所でパン職人として働き始めた。職人として8年間働いたのち、自らパン菓子製造所を構え
た 41)。彼のパン菓子製造所は、パン職人組合の組合員がいないパン菓子製造所であった。ロッ
クナーは、彼の製造所で働くパン職人が1日10時間を超えて働くことを許容した。彼のもとで
働く別の職人がこのことを通報したため、1899年12月21日、ロックナーは彼のパン菓子類
製造所で働く被用者に1週に60時間を超えて働くことを許したという容疑で逮捕され、起訴さ
れた。ロックナーは、ニューヨーク州一般法第32編第8章110条に違反したとして有罪判決
を受け、この判決により科された25ドルの罰金又は25日の自由刑という罰のうち、25ドルの
罰金を支払った 42)。
1901年、ロックナーはふたたび、ニューヨーク州一般法第32編第8章110条に違反した
ということで逮捕された。容疑は、彼がパン菓子製造所で働く職人がケーキ菓子の製法を学ぼ
うとするので、その職人に1日10時間を超えて働くことを許容したということであった 43)。ロック
ナーは、ニューヨーク州オナイダ郡の大陪審によって、一般法第32編第8章110条違反で刑
法典384l条第3項の規定に基づいて起訴された。1902年、ニューヨーク州オナイダ郡裁
判所における公判前の審理において、ロックナーは起訴状の記載が不適当であると主張した。
41) Hadley Arkes, Lochner v. New York and the Cast of Our Cases, in Great Cases in
Constitutional Law 94, 104 (Robert P. George, ed., 2000).
42) Id. at 103-04.
43) Id. at 104(別の職人による10時間を超えた労働); Note on Recent Case, Bakery Law of
New York Unconstitutioal, 39 Am. L. Rev. 450, 405 (1905)(ケーキ菓子を学びたかった職人によ
る10時間を超えた労働); Bernstein, supra note 32, at 1487 (2005)(1902年の2度目の逮捕).
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彼は、起訴状に記載されているところの彼の行為は犯罪に該当しないとも主張した。公判では、
ロックナーは有罪又は無罪の答弁も防御もしなかった 44)。裁判所は刑法典の同じ規定に基づい
て、違反が2度目のものであることから50ドルの罰金の支払い又は50日の自由刑という判決
を言い渡した 45)。ロックナーは即日控訴した 46)。控訴審では、ロックナーは、起訴状に不備であ
るという主張を繰り返したが、主として、ニューヨーク州の一般法第32編第8章110条の規
定がニューヨーク州及び合衆国の憲法に反して無効であると論じた。控訴審裁判所は、前者の
主張を簡単に退け後者の主張も容れず、3対2の多数決で原審の有罪判決を支持した 47)。
控訴審では、ロックナーは、ニューヨーク州一般法第32編第8章110条は、ロックナーが
その事業を遂行するために他者と契約することを不必要に禁止するから、彼の自由の不法な侵
害であり、合衆国憲法修正第14条第1項にも同趣旨の規定を含むニューヨーク州憲法にも反
すると主張した 48)。裁判所はこの主張について次のように述べる。合法な職業に従事する市民の
権利の制限は、それが恣意的であり人民の福利と健康に関連がないならば支持され得ない 49)。
この関連の有無の判断において、憲法が禁止する権限の明確な不法行使のみが、裁判所が立
法部の行為が憲法に反し無効であると宣言することを正当化する 50)。ニューヨーク州一般法第
32編第8章111条ないし115条の規定の目的は、パン菓子製造業を適切に営むのに維持さ
れるべき衛生状態について定め、コミュニティの健康を保護し、この種の事業に従事する者の
健康を保護することである 51)。
裁判所は、本件の主たる問題は州の有するポリス・パワー(police power)の性質と範囲で
あるとする。ポリス・パワーは州が社会の健康、快適さ、安全及び福利を促進することができ
るようにする権限であり、際限がないものではないが、人が自らの財産を公衆が利害関心を持
つ使用又は事業の遂行に供すると、そのような財産保有と事業遂行は、公の道徳及び公衆の
一般的安全と福利を保護し維持するためその財産の使用を規制し又は管理するポリス・パワー
に服すという原則が確定している 52)。被告人が事業を遂行し又は従業員を雇用する権利を否定
するのではなく、そのような権利が享受される条件を定めて規制するのであり、両者の間には
大きな違いがあり、被告は類似する事業における他の者に否定されていない権利を奪われず、
本件で効力が争われている規定はパン菓子製造業に従事する者全般に適用され、特権を与え
44) Kens, supra note 29, at 81-82.
45) Id. at 80-81.
46) Id. at 82.
47) People v. Lochner, 76 N.Y.S. 396 (N. Y. App. Div. 1902).
48) 76 N.Y.S. at 397.
49) Id. at 398.
50) Id.
51) Id.
52) Id.
- 292 -
ることも不当な差別をすることもない 53)。裁判所は、このように述べてから次のようにいう。
コミュニティの衛生のためには、パン菓子製造者が健康によいパンと清潔な食品を提供す
ることが非常に重要である。人々はこの事業に利害関心を有する。この事業はこのように
公衆が利害関心のあることであるから、立法部は、州のポリス・パワーに基づいて、公衆
の衛生を確保するのに必要な規制によってこのビジネスを管理することができる。本法に
より設けられた規制は、被用者の健康を保護し、かつ、公衆にパン菓子製造者により販
売される健康によく清潔なパンその他の食品を提供することを目的とする。事業所は、顧
客に午前中から商品を提供するため、夜間にパンを製造することが必須である。事業所は、
昼も夜もオーブンに火を入れていることが必要であり、被用者は、他種の事業に就いてい
る者が通常働くよりも長時間働くことが求められる。我々が、パンが製造される部屋の高
温、その空気中に浮遊しパン菓子製造所内で働く者が吸い込む小麦粉に注目するならば、
このような条件のもとにおける昼夜の長い労働は人体の疾病状態を生み、被用者がその
仕事を適切にすることができず、公衆に健康に良い食品を提供することができないことに
なろうことに疑いはほとんどない。立法部は、この事業所の経営者は、その被用者から可
能な限り多くの労働を得ようとし、被用者はしばしば、解雇されることを恐れ、昼間も夜
間も働くという使用者による要請を応諾するように誘引されるという事実を認めたことに疑
いはない。そして、立法部が、1日10時間以上の労働は被用者の健康に有害であろうと
いう結論に至ったことは明らかである 54)。
控訴審は、ニューヨーク州一般法第32編第8章のパン菓子製造所法が「公衆の安全と、過
度かつ消耗を招く労働がもたらす危険から個々の被用者の健康を保護する法規制 55)」であると
判断して、その効力を支持した。
2 ニューヨーク州対ロックナー ニューヨーク州の最上級審判決
ロックナーが上訴し、ニューヨーク州一般法第32編第8章110条は合衆国憲法修正第14
条第1項、及びそれに類似するニューヨー州憲法の規定に反するという主張を繰り返した 56)。
ニューヨーク州の最上級裁判所は4対3の多数決で上訴を退け、原判決を支持した。この判決
には4名以上の裁判官が賛同した意見はなかった。原判決を支持する裁判官のうち、パーカー
主席裁判官の意見はこの結論を次のように説明する。
パーカー裁判官は、ニューヨーク州の法律が合衆国憲法修正第14条第1項に反するという
主張も、それと類似するニューヨー州憲法の規定に反するという主張も同様に判断され、ニュー
53) Id. at 401-02.
54) Id. at 402.
55) Id.
56) People v. New York, 69 N.E. 373, 374 (N.Y. 1904).
- 293 -
ヨーク州の裁判所は合衆国最高裁判所と同じ立場であるという57)。先例を挙げて、法律がポリス
・
パワーの行使であると判断されるならば有効であると判断されることを示す 58)。
パーカー裁判官は2つの先例に着目する。その一つが Holden v. Hardy である 59)。この事件
では、生命又は財産が危険にさらされている場合を除いて地下にある鉱業場または採掘場にお
いて労働者の雇用時間は1日8時間と定め、その違反を処罰するユタ州の法律が、合衆国憲法
修正第14条第1項に反すると主張されたところ、合衆国最高裁判所は、この法律はポリス・パ
ワーの行使として有効であると判断した 60)。もう一つは People v. Havnor である 61)。この事件で
は、日曜日(ニューヨーク市とサラトガ・スプリングズ村では日曜日午後1時以降)に理容業に
従事することを処罰するニューヨーク州の法律が、同州憲法のデュープロセス規定に反すると
主張されたところ、ニューヨーク最上級裁判所は、この種の法律を制定することは州のポリス・
パワーの範囲内であると判断した 62)。こうして、パーカー裁判官はポリス・パワーについて次のよ
うにいう 63)。
公衆一般が、病気や死の原因となる病原菌に関する不安及びそれに由来する不安がある
今日、パン菓子製造所を清潔かつ衛生のよい状態にすることに利害関心を持つことに疑
いはない。近時までパンはおおかた、家庭内で製造されていたが、今では都市及び村の
多くの割合の家々で、パン、ビスケット、ケーキ、パイのほか菓子類の供給をパン菓子
製造所に依存すると同時に、週二度又はそれ以上、多くの郊外の道路にパン製造者の
荷車が行き来し、農民や小規模な定住地の住人に製品を提供している。今日の家庭は、
生活必需品の供給源のなかでパン製造者にパンの供給を依存しているといっても過言で
はない。したがって、人々の健康を最も増進しかつ保護するように、この事業の執行を
規制することは、州立法部のポリス・パワーの範囲内のことである。
パーカー裁判官は、パン菓子製造を規制するニューヨーク州一般法第32編第8章の目的は
パン菓子の製造過程において衛生を確保することであり、この法律の一部である労働時間規定
の目的も同じであるという 64)。州議会が、労働者の健康と清潔さが作業室の清潔と同じく最も
重要であり、人間は、健康状態がよく働き過ぎていない状態では疲労から消耗している状態よ
り注意深く清潔であり、後者の状態は不注意でだらしなくなる癖を助長し、不潔で病気になり
がちであるということを考慮したと、この法律全体から仮定することは相当であり、そうすると、
57) Id. at 376.
58) Id. at 374-377.
59) Holden v. Hardy, 169 U.S. 366 (1896)
60) 69 N.E. at 374 (citing Holden v. Hardy, 169 U.S. 366 (1896)).
61) People v. Havnor, 149 N.Y. 195 (1896)).
62) 69 N.E. at 376 (citing People v. Havnor, 149 N.Y. 195 (1896)).
63) Id. at 379.
64) Id. at 379-80.
- 294 -
州議会はこの法律規定を制定する権限を有し、裁判所はその立法をポリス・パワーにより正当
とされるものとして支持しなければならないとする 65)。
さらに、パーカー裁判官は、被用者の労働時間制限の目的が被用者が製造する製品を食べ
る公衆を保護することでないとしても、州議会が、事業所で働く被用者の健康を保護すること
を目的とし、この種の仕事では平均して1日10時間以上働くべきではないという結論に十分な
理由があって至ったと仮定しても、この立法はポリス・パワーの範囲にあると判断する 66)。
パーカー裁判官は Holden v. Hardy と Havnor v. People をこの判断の典拠とする。前者が
合衆国憲法修正第14条が関わる限りで本件を律するものであり、ニューヨーク州憲法の同内
容の規定が関わる限りで本件を律するべきであるとされ、後者からは、立法の目的がパン菓子
製造所の労働者を1日10時間を超えて働かないよう保護することであると仮定されても、それ
がポリス・パワーの範囲内でありそれゆえ州憲法に反しないことが導かれる 67)。パーカー裁判官
は、多くの医学文献がパン菓子製造所の労働者を陶工、石工、研磨工など粉塵を吸い込み、
そのため肺病に罹りやすくする職種と同一分類に置いていることを指摘し、この問題に関して公
表された医学上の見解及び人口統計だけでも、本規定がこの種の事業所における被用者の健
康を保護するものであることを正当化し、裁判所は、本規定がこの問題に照らしてだけではな
く、この問題に関する医学文献の力を十分に認めて考案されたと仮定しなければならないとい
う 68)。
こうして、パーカー裁判官は、労働時間に関する規定を含め、ニューヨーク州一般法第32
編第8章の目的は公衆に利益をもたらすことであり、公の福利に正当かつ合理的関係があり、
それゆえ、州立法部に属するポリス・パワーの範囲内であるという結論を導いた。
パーカー裁判官のほか判決を支持した3名の裁判官のうち、グレイ裁判官とヴァン裁判官が
意見を表明した。そのうち、グレイ裁判官は次のように説く。労働時間の制限の規定は、この
法律の他の規定が伴わずそれ単独であれば、その目的は賃金に比して不均衡な仕事量を強い
ることから被用者を保護することであるようにみえるから、裁判所が効力を否定してきた種類の
立法に該当し憲法に違反すると扱うように傾くが、この規定はそれに続く規定と一体として理解
されなければならず、そうすればこの法律の目的は公衆衛生の保持に関係することが確かめら
れることがわかる 69)。立法部は、労働者の雇用を必要とする規模で運営され、かつ、食品の健
全性は衛生に関するルールと予防措置の遵守に依存するという意味において公益を帯びた事業
を扱い、そのような予防措置は、事業の一般環境と同様に、労働者の通常の体力が維持され
65) Id. at 380.
66) Id.
67) Id.
68) Id.
69) Id. at 381.
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るよう確保することも含むことができる 70)。合衆国最高裁判所は、合理的な法律によって公衆の
安全、衛生及び快適が促進されるとき、内部規制をするポリス・パワーを行使する州の権限を
広く承認してきたのであり、この労働時間規定は、パン菓子製造所主がその製品に有害な影響
を与えることができないように製造所を運営することを求めるから、公衆衛生を合理的に促進
する規制であると評価できる71)。パン菓子製造所の環境の下で健康によくないまで長時間働くこ
とがあり、結果として体力を損ない器質性疾患に罹患することがあると仮定することは不合理
でなく、立法部が、その製品が消費者に及ぼす可能性のある影響を予防するために、他の規
制とともに制限することによって労働時間を制約するとしたら、裁判所はそのような制約に理由
がないと判断すべきであるとは考えないというのである 72)。
ヴァン裁判官は次のように説く。この労働時間の規制は、パン菓子製造所における仕事が健
康に有害な職業であると普通の知識から述べることができなければ、その効力を支持すること
ができないと考えられ、このような職業が不健康であれば、州議会は、被用者に一日又は一週
当たり定まった時間を超えて仕事場にいることを求め、又は許すことを使用者に禁ずる権利が
あり、小麦粉及び砂糖の細かな粒子が室温の高い製造室内から肺に吸い込まれると肺疾患を
生じさせることは裁判所の知るところであるということができ、この知識のもととなったところは
州議会にも利用できた 73)。公衆衛生に関する文献を含む資料を引きながら、証拠は一様ではな
いが、そこからはパン菓子職人という職業が不健康であり呼吸器疾患に至る傾向があるという
結論が導かれる。女性又は児童が1日に所定の時間を超えて製造場において使用されてはなら
ないと定める法律が有効であるから、立法部が健康に有害であると考え、実際にそうである職
業では、年齢又は性別を問わず、何人も1日または1週に一定時間を超え労働することが要求さ
れまたは許されないと規定する法律は有効であると考え、このような立法はこの場合は衛生に
関する法律であり、ポリス・パワーの行使として有効であるのである 74)。
以上紹介した裁判官の意見から、パン菓子職人として雇用される者の労働時間制限によって
パン菓子製造所で製造される食品の安全が図られるという関係があると判定されるので、時間
制限規定は食品の衛生を確保する規定としてポリス・パワーの行使として有効であると判断で
きたことが示される。このような関係があると判定されないとしても、この労働時間制限によっ
て細かな粒子を吸い込み呼吸器疾患に至る傾向がある職業に雇用される労働者の健康が促進
されるという関係があると判定されるので、労働時間制限規定はパン菓子職人の健康を保護す
る規定としてポリス・パワーの行使として有効と判断できたことも示される。
ニューヨーク州最上級裁判所の判決には3人の裁判官が反対していた。そのうち、オブライ
70) Id.
71) Id. at 381-82.
72) Id. at 382.
73) Id.
74) Id. at 384.
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エン裁判官とバートレット裁判官が意見を表明した。オブライエン裁判官は次のように説く。こ
の規定がポリス・パワーの範囲内にあるとされなければ、それは合衆国憲法修正14条1項及
び類似のニューヨーク州憲法の規定による保障に違反することは明らかであり、この規定は、
公衆の衛生を、又は少なくともパン製造所で使用される者の健康を保護するため制定された保
健法であるという理由により有効であると論じられる 75)。しかし、パン製造所で労働者が働くこ
とが許される時間数がそこで製造されるパンの衛生上の品質に有するか又は有し得る関係を想
像することが困難であり、だれも労働者を使用しないパン製造所主が製造する健康に有害なパ
ンから公衆を保護することが必要であると考えなかったから、このような製造所主は邪魔を恐
れず日中又は夜間働くことができる。労働者が長く働きすぎることにこの法律は制限したり罰し
たりせず、この規定の目的が労働者の健康を欲深さやエネルギーを投じる先を誤ることから保
護することならば、法律が労働者が1日10時間を超えて働くことを禁じないことは注目すべきこ
とである 76)。オブライエン裁判官は、この法律はその規定の文言にもその現実の作用にも、公
衆衛生に関係があることを示すものはないとみる 77)。裁判所は自ら、個々の事件でポリス・パワー
の行使であると主張される立法が、実際に主張されているものであるか否かを決定しなければ
ならず、本件におけるように、法律が衛生になんら関係がなく、その実際の目的が、私的かつ
道徳又は衛生に有害でない事業において雇い主と使用人の間の労働時間を規制することである
場合は、互いに契約し相互の義務を定義する自由は基本法に違反することなく制限されること
はあり得ない 78)。それゆえ、オブライエン裁判官は、起訴状に述べられた事実は罪とならない
ので、有罪判決は破棄されると判断した。
バートレット裁判官は次のように説く。パン職人は、ホテル、レストランそれに家庭におけ
る調理人と同じく、小麦粉、砂糖その他の材料を自ら仕事で使うため用意してきたことは普通
の経験である。このような準備された材料をパン職人という仕事においてこね合せることが不
衛生な仕事であるという主張は、ニューヨーク州のパン職人と善良な主婦を驚かせることだろ
う 79)。バートレット裁判官は、深くて不衛生な坑道、及び、健康と生命を危険にさらして遂行さ
れる仕事において、州は労働時間を規制できるが、パン職人の仕事はこの一般原則にあたらな
いから、原判決を破棄すると判断した 80)。
オブライエン裁判官とバートレット裁判官はともに、一般法第32編第8章の他の規定は衛生
を確保する規定であってポリス・パワーの行使として認められても、このことにより労働時間制
75) Id. at 387.
76) Id.
77) Id.
78) Id. at 387-388.
79) Id. at 389.
80) Id.
- 297 -
限規定が有効とされることはないと指摘した 81)。
ニューヨーク州最上級裁判所の判決に賛成した裁判官と反対した裁判官の意見の概略から、
ニューヨーク州一般法第32編第8章のパン菓子製造所法が規定する労働時間制限が健康の
保護に関係があると判定すると、労働時間制限規定は合衆国憲法修正第14条やそれに類する
州憲法規定に反する恣意的立法とされることなく、ポリス・パワーの正当な行使と扱われること
が示される。この基準を用いて判断することは裁判官の間で一致していた。しかし、この判断
の結果は裁判官の間で分かれた。関係があると判定した4名の裁判官には、労働時間制限規
定は、それが契約をし相互の義務を定義する自由を制限しても、ポリス・パワーの行使として
認められ有効であることになる。しかし、関係があると判定しなかった3名の裁判官には、こ
の規定はポリス・パワーの行使とは認められず無効であり、契約をし相互の義務を定義する自
由を制限するものとなる。
ロックナーは合衆国最高裁判所に上訴した。合衆国最高裁判所がこの関係を判定すること
になった。
3 ロックナー対ニューヨークの合衆国最高裁判所法廷意見
合衆国最高裁判所はニューヨーク州最上級裁判所の判決を破棄し、ニューヨーク州第一審
裁判所に差し戻した。法廷意見はペッカム裁判官が執筆し、法廷意見に4名の裁判官が賛同し
た。判決に反対した裁判官4名のうち、ハーラン裁判官が執筆した意見に、ホワイト裁判官と
デイ裁判官が賛同した。判決に反対したホームズ裁判官が別に意見を執筆したが、以下、法
廷意見とハーランによる反対意見において、労働時間制限と公衆の健康の保護の間の関係とポ
リス・パワーの行使の効力がどのように判定されたのかを中心にみることにする。
法廷意見は、本件の事実の概要を紹介してからすぐに、労働時間制限規定が、使用者のパ
ン製造所において被用者が働くことが許される時間について使用者と被用者の間の契約の権利
を必然的に干渉するという 82)。続けて、労働を購入又は売却する権利は、その権利を排除する
事情がない限り、修正第14条により保護される自由の一部であり、州にはポリス・パワーと総
称される権限があり、州がポリス・パワーの行使により課すことができる相当な条件に基づい
て財産と自由が保持され、修正第14条はこのような条件に干渉しないという 83)。それゆえ、州
は個人がある種の契約をすることを妨げることができ、それについては合衆国憲法は保護を与
えることはないという 84)。法廷意見は残る部分で、労働時間制限規定がポリス・パワーの行使で
あると認められるか否かを扱う。
81) Id. at 388 (O'Brien, J.); at 389 (Bartlett, J.).
82) Lochner v. New York, 198 U.S. 45, 53 (1905).
83) Id.
84) Id.
- 298 -
法廷意見は、州によるポリス・パワーの正当な行使には限界があることが承認されなければ
ならず、修正第14条が有用性を欠き、州の立法部が限界のない権限を有することになってしま
わないように、州のポリス・パワーの行使として相当かつ適切であるかが問われるという 85)。立
法がポリス・パワーの範囲に収まるかという問題は、裁判所が答えを出さなければならない問
題であるとする 86)。
法廷意見は、第一に、この法律が純粋かつ単純な労働法として有効であるか否かという問
題を片付けるのに多言を要しないという。パン職人という職について労働時間を定めて身体の
自由や自由に契約をする権利を干渉する相当な根拠はない。パン職人が集団としてその他の職
業に就いている者より知力や能力で劣るという主張も、州による保護の手を差し伸べられ判断
及び行動の独立に干渉を受けなければ自己のために権利を主張しまたは世話をすることができ
ないという主張もない。パン職人たちは州による後見を受ける者ではない。健康という問題に
関連のない純粋な労働法として見ると、この法律は公衆の衛生、道徳及び福利に関係がなく、
このような法律によって公衆の利益は少しも影響を受けないから、この法律が公衆のパン職人
という職業に就いている個人の健康に関わる法律としてポリス・パワーの正当な行使であるとさ
れなければならないとする 87)。
法廷意見は、第二に、パン職人の労働時間を制限すると、パン職人の仕事に従事する個人
の健康の保護になるという関係か、又は、その製品が公衆にとって安全になるという関係があ
ると判定されると、労働時間制限規定はポリス・パワーの正当な行使であると認められると述べ、
このような説明が成り立つか否かを確かめる。まず、法廷意見は、清潔で安全なパンかはパン
職人が1日10時間又は週60時間のみ働いたかどうかで決まらないから、労働時間の制限はこ
れを根拠としてポリス・パワーの行使とはならないとして、それが有効とされるとすれば、パン
職人の仕事に従事する個人の健康に関わるものとしてでなければならないとする 88)。法廷意見
は、労働時間制限が公衆の健康に遠い関係のみあるということを主張することだけでは労働時
間制限規定を有効とすることにはならず、契約の自由に干渉する法律が有効であると判断する
ことができるには、それがある目的の手段としてみて、これよりも直接の関係があり、また、目
的がそれ自体適切かつ正当でなければならないとする 89)。
法廷意見は、パン職人の職業は、立法部が労働する権利と自由に契約する権利に干渉する
権限を与える程度に不健康な職業ではないとする。全職業に関する統計を通覧すると、パン職
人の仕事は他の種類の仕事と同程度に健康なものであり、また、それでも他の別種の仕事と比
較すればずっと健康なものであると見え、また、一般に理解されるところによれば、パン職人
85) Id.
86) Id. at 56-57.
87) Id at. 57.
88) Id.
89) Id. at 57-58.
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の仕事が不健康なものであると見られたことがなく、ほとんどすべての職業は多かれ少なかれ
健康に影響するということができ、立法による自由の制約の根拠となるためには、ある少量の
不健康さが存在しうるという事実だけでは足らないという 90)。
法廷意見はさらに、職人は働きすぎていないときの方が清潔である傾向があるから、労働時
間制限は職人を清潔にする傾向があり、清潔であればパン職人の製品も清潔となるという主張
を取り上げる。パン職人が働くことを許される時間数と職人が製造するパンの安全性の間に関
係を見つけることはできず、仮に関係があるとしても、それは立法部による干渉を支持する議
論を築くには薄すぎるという 91)。1日に10時間働くときには差し支えがなく、10時間30分又は
11時間働くとその製造するパンが安全性を欠き、職人は10時間を超えて働くことは許される
べきでないということになるが、これは相当でなく恣意的である 92)。この法律が健康と衛生に関
する法であるという主張にもっともらしい根拠を与えるためにこのような主張が必要となること
は、公衆の衛生又は福利のほかにこの立法を支配する動機があるという疑念を生じさせるとい
う 93)。
こうして、労働時間制限は、公衆の健康又はパン職人という仕事に従事する個人の健康を保
護するという正当な目的を達成する手段として用いられるが、労働時間制限と目的の間に直接
な関係があると判定されないので、パン職人の労働時間制限立法はポリス・パワーの行使であ
ると判断する根拠はないことになる 94)。言い換えると、立法は相当な根拠を欠き、恣意的な立
法ということになる。この立法はポリス・パワーの行使として認められなければ、それには契約
の自由を干渉する効果が残る。
そこで、法廷意見は次のようにいう。法律の性質及びその扱う対象から、公衆の衛生又は福
利がその法律と最も遠い関係にあると見えるときには、それが公衆の衛生又は福利を保護する
ためにポリス・パワーと称されるもののもとで制定されたとしても、それは現実には別の動機か
ら制定されたということができ、法律の目的は使用された文言の自然かつ法的な効果から決定
されるべきであり、それが合衆国憲法に反するか否かは、その目的と称されるところからでは
なく、それが適用されたときにおける自然な効果から決定されるべきである 95)。ロックナーを起
訴する根拠とされた規定に定められた労働時間の制限は、この規定を現実に衛生法と見ること
を正当化するほど、被用者の健康と直接の関係がなく、それに実質的な影響がないことが明白
であり、このような事情のもとでは、使用者と被用者の間の、雇用に関して相互に契約しこの
90) Id. at 59.
91) Id. at 62.
92) Id.
93) Id. at 62-63.
94) See id. at 58.
95) Id. at 64.
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関係を定める自由が干渉されると、合衆国憲法違反とならざるを得ない 96)。
4 ロックナー対ニューヨークにおけるハーラン反対意見
ハーラン裁判官は、州のポリス・パワーについて合衆国最高裁判所がその範囲を確定しよう
としてこなかったが、合衆国及び州の裁判所はその存在を承認していて、合衆国最高裁判所は、
善意で制定され、かつ州が人々の生命、健康及び財産に関して市民に提供する義務を負う保護
に適切かつ直接の関係のある州のポリス・パワーによる規制の必要性を認めていることを指摘
し、修正第14条は広範に及ぶとしても、州の人民の衛生、平穏、道徳、教育、良き秩序を向
上する規制を定めるポリス・パワーという権限に干渉することは予定されていないという 97)。
ハーラン裁判官はさらに次のように言う。先例によれば、契約の自由は、州が社会の共通の
善と福利のため定めることが相当な規制に服するということができ、合衆国又は州の立法はそ
れが明白ではっきりと立法権限の範囲外であることに疑問がない場合を除いて無効であると判
断されないという一般原則があるから、裁判所がこのような規制を立法権限の範囲外であり無
効であるということができる条件は何であるかには争いの余地はない 98)。公衆の衛生、公衆の
道徳又は公衆の安全を保護するため制定されたという法律がこのような目的に現実の関係又は
実質的関係がない場合のみ、一般の福利に影響する事項に関する立法部の行為を審査する裁
判所の権限が存在する 99)。法律の効力に疑念がある場合は、疑念は法律が有効であるとされる
よう解消されるべきであり、裁判所は手を触れることなく、立法者が賢明でない立法に責任を
とるようにしなければならない 100)。
本件規定がパン菓子製造所で働く者の身体の健康を保護するために制定されたことは明白で
あり、これは一般論として、普通の人間がパン菓子製造所において週60時間を超えて働くと健
康を害することがありうるという、ニューヨーク州の人びとの所信をあらわすと解されなければ
ならず、また、裁判所は立法の賢明さに関わるものではないから、契約の自由を干渉する権限
の問題を解決するにあたり、裁判所は、州が用いる手段が適法に達成しうる目的に密接なつな
がりがあり、パン菓子製造所に雇用される男女の日常の仕事に関わるかぎりで健康の保護に現
実の又は実質的関係があるか否かを調査することができる 101)。常識に照らして、手段と目的の
間に現実の又は実質的関係がないということも、この規定が健康の保護と適切又は直接の関
96) Id.
97) Id. at 65.
98) Id. at 68.
99) Id (citing Jacobson v. Massachusetts, 197 U.S. 11, 31(1905)).
100) Id.
101) Id. at 69.
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係がないということも、それが当該被用者の健康を促進しないということもできない 102)。この規
定は、労働者が常時吸い込む空気が、他の製造所の空気や屋外の空気ほど清浄かつ健康によ
いものではないことを誰もが知っている、パン菓子製造所という場所における労働にのみ適用
される 103)。ここで、ハーランは、パン菓子製造という労働が健康に有害であり、また、パン職
人の健康状態が一般にはよくないという文献を紹介する 104)。また、労働者の体力と安全に関わ
る職業における1日の労働時間は合衆国議会とほぼすべての州による立法の対象とされている
ことが裁判所に知られ、その多くが1日の労働として適当な時間の基準を8時間としているとい
う 105)。
ハーランは、すべてを考慮に入れると、パン菓子製造所で毎週1日10時間を超える労働を
続けることは、労働者の健康に有害で寿命を縮め、そのことから、州に役に立ちまた扶養され
る者を支える労働者の身体及び精神能力を減じるという考えを支持する、重く、中身のある、
人類の経験に基づく理由があるという 106)。こうして、ハーランは、労働時間制限規定はポリス・
パワーの行使として認められると論じ、それは合衆国憲法修正第14条に違反せず、恣意的立
法でないと考えた。
5 二つの意見の対比
法廷意見とハーラン反対意見を対比して、ロックナー判決の特色を探ることにする。法廷意
見もハーラン反対意見も、契約の自由がポリス・パワーを行使して制定された法律によって制限
されるということについて一致している。そのうえまた、労働時間制限規定がポリス・パワーの
行使であると判断するのに、労働時間制限と公衆の健康の関係を判定する。労働時間がパン
菓子製造所の労働者の健康又は公衆の健康に有する関係について、裁判所が必要と考える程
度の関係があると判定すると、労働時間制限規定はポリス・パワーの行使であると認める。そ
う認めると、労働時間制限規定は、契約の自由を制約しても無効ではないという判断をするこ
とが前提とされる。法廷意見は、ポリス・パワーの行使であると認めるのに必要な関係がない
と判定した。こう判定されると、労働時間制限規定は無効であるとされ、それが契約の自由を
干渉するものであると扱われる。これに対し、ハーラン反対意見は、必要な関係があると判定
したから、この規定はポリス・パワーの行使であると認められることになる。そうすると、契約
の自由を干渉することがあるとしても、この規定は効力があることになる。
ポリス・パワーの行使であると認めるために必要な関係は、法廷意見によれば、遠い関係で
102) Id.
103) Id. at 70.
104) Id. at 70-71.
105) Id. at 72.
106) Id.
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はなく、それよりも直接ということができる関係があることであって、本件においてこのような
関係はないという。ハーラン反対意見によれば、それは密接なあるいは実質的ということがで
きる関係であることであって、本件においてこのような関係がないということはできないという。
両者の間の違いは、労働時間制限がパン菓子製造所で働く職人の健康の保護という公衆の健
康を保護することに必要な関係があると認めるか否かにある。
しかし、両者には共通点がある。それは、法廷意見とハーラン反対意見のいずれによっても、
裁判官がこの関係の存否そのものを判断することである。法廷意見は、ポリス・パワーには限
界があることを指摘し、立法部がこの限界を超えていないか否かを確かめる任務を裁判所が
受け持っていることを強調する。ハーラン反対意見は、法律の効力に疑念がある場合は、法
律が有効であると扱い、立法者が賢明でない立法に責任をとるようにしようとする。ここには、
ポリス・パワーの行使と認めるか否かという判断に臨む裁判官の態度の違いが現われているが、
いずれも裁判官が判断することとする共通点がみられる。
法廷意見は、立法部がポリス・パワーの限界を超えていないか否かを確かめるため、遠い関
係というより直接の関係が必要であるとするとみることができる。裁判所は、このような関係が
あると判定するときのみ、ポリス・パワーの限界を超えていないと判断する。関係が直接であ
るという判定を介して、ポリス・パワーの行使がその限界を超えないことが確保される。このよ
うなやり方はポリス・パワーに限られない。合衆国最高裁判所は、19世紀末から20世紀の
最初の約35年の間、合衆国議会が通商規制権限を行使して立法の適用対象としようとする活
動が州と州の間の通商に間接ではなく直接の関係があると判定されるとき、その立法は通商規
制権限の行使の限界を超えず有効であると判断してきた 107)。ここでもまた、関係が直接である
という判定を介し、立法権限の行使がその限界を超えないことを確保しようとされた。
この判定の結果、関係は直接ではなく遠いあるいは間接であると判定されると、ポリス・パワー
の行使であるとは認められないことになる。ポリス・パワーの行使と認められないならば、立
法は無効と判断される。立法による干渉から契約の自由が保護されるのは、それがポリス・パワー
の行使であると判定されないゆえにその立法の効力が否定されるからである。ここで注意すべ
きことは、こうして生じる契約の自由の保護は、ポリス・パワーを代表とする立法部の行為によ
る干渉に及ぶのであり、州裁判所が適用するコモン・ローによる規律には及ばないことである。
以上から示されるように、ロックナー判決の特色の第一は、裁判所が、ポリス・パワーの行
使であるというのに必要な関係の存否を独自に判定するとして、ポリス・パワーの行使であると
は判断せず、それゆえ法律は無効であるという結論を導くことである。裁判所がこうして法律
が無効であるとする場合は、契約の自由は立法部の干渉を受けないけれども、裁判所が、法
律が契約の自由に干渉することから法律が無効であると判断したことにはならない。
特色の第二は、パン職人が知力と能力においてその他の職業についている者と変わりなく、
また、自己のために権利を主張しまたは世話をすることができると扱い、パン職人の後見がポ
107) 木南、前掲注5)、150―158頁。
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リス・パワーの行使の根拠とならないといい、このような後見が判断と行動に関してパン職人の
独立に干渉することになるということである。これは、自由労働の理念の一つの現れであると
理解することができる。ここで注意する必要があることは、コモン・ローに基づく規律が排除
されていないから、裁判所が誰にでも適用されるコモン・ローを用いて契約の当事者を保護す
ることまで否定されていないことである。
つぎに、合衆国最高裁判所によるポリス・パワーの判断に移り、まず、ロックナー判決と同
時期の判決における合衆国最高裁判所の判断から扱うことにする。
三 合衆国最高裁判所によるポリス・パワーの判断
1 ロックナー判決と同時期におけるポリス・パワー判断
ロックナー判決と同時期、ポリス・パワーは合衆国憲法とどのように関わると扱われたのか。
ポリス・パワーは州の立法権を指す用語である。それは州の立法部が州の憲法に基づいて有す
る立法権限の総体をいうのに用いられてきた。
権利や自由が州の法律の定める条件に服するとされるとき、この条件の効力は州の憲法を持
ち出して争うことができる。こうして争われる限り、この争いは州法に基づいて生じる争いである。
州憲法を用いて争うかぎり、州の法律が州憲法に反しないかという問題について、その最終判
断者は州の最上級裁判所となる。他方、事件が合衆国最高裁判所に上訴されるまでに、裁判
においてそのような州の法律が合衆国憲法の規定に反すると主張され、裁判所がこの主張を判
断の対象としていると、この事件は合衆国最高裁判所が判断することができる事件となり得る。
州の法律が合衆国憲法の規定に反すると論じる際に、修正第14条の規定を根拠として用いる
ことができる。ロックナー事件では、修正第14条のデュープロセス条項がこのように用いられ
た。これは、州の法律が定めている条件によりデュープロセス条項において保護される権利ま
たは自由が制約されるという主張である。
合衆国最高裁判所はこのような主張を判断するため、ポリス・パワーを手がかりとした。す
でに述べたように、ポリス・パワーは州憲法に定められる立法権の総体であり、それは州の人
民の福利のために行使される権限であった。アーンスト・フロインドは、1904年に出版され
た著書『ポリス・パワー』の序文において、同書の対象であるポリス・パワーについて次のよう
に述べた。ポリス・パワーは、アメリカの憲法において常に使用され欠かすことができない用語
であるものの、権威があり一般に受け入れられている定義は存在せず、この書物では、自由及
び財産を制約又は規制して公共の利益を促進するものとして用いるというのである 108)。
ポリス・パワーをその内実から説こうとしても、その内実は州ごとに異なり、それは州憲法が
州内の事項を管理する権限として個別に列挙する権限に到達するだけである。ポリス・パワー
108) Ernst Freund, The Police Power iii (1904).
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は州の内部事項を管理する権限であるが、フロインドの用法で示されるように、ポリス・パワー
は権限行使の目的から定義することができる。それでも、ポリス・パワーの名のもとに括られる
立法権限は、州憲法が論じられる場面では立法権限を画するものであり、合衆国憲法の議論
においても州の立法権を行使して制定される法律の有効性を判断するのに用いられる。そのた
めに、フロインドが説明するように、アメリカの憲法において常に使用され欠かすことができな
いものとなる。
こうして、ポリス・パワーを手がかりとして、州の立法部の行為が州の立法権限の行使という
ことができるかが問われるのである。ヴィクトリア・ノースは、この時期の憲法の議論において
ほぼすべてのことが権限で決まったと述べている 109)。ノースがいうことは、このフロンンドの説
明に対応すると考えることができる。
ノースは、合衆国最高裁判所がロックナー判決と同じ年、1905年、Manigault v. Springs で、
「ポリス・パワーは、人民の生命、健康、道徳、快適及び一般の福利を保護するための、政府
の主権の行使であり、個々人の間の契約に基づくいかなる権利にも優先する。」110) と述べたこと
を紹介する。ノースによると、このポリス・パワーに関する叙述は、合衆国最高裁判所の先例
に基づくものであり、また、ポリス・パワーに権利を従属させることはロックナー判決より前に
確定していたことである 111)。ノースはまた、1900年、Gundling v. Chicago112) で合衆国最高
裁判所が、Crowley v. Christensen においてフィールド裁判官が「すべての権利の所持及び享
受は、コミュニティの安全、衛生、平和、良好な秩序及び道徳に欠かせないとみられる合理的
な条件に服し、権利のなかで最も重要な自由でさえ欲するところにしたがって行動することを許
す制約のない許可ではない」と述べた 113) ことを根拠として、紙たばこの販売を許可制とする規
制が合衆国憲法修正第一四条のデュープロセス条項に反するという主張について、規制はポリ
ス・パワーの行使であり有効であると判断したと 114) 指摘する115)。フィールド裁判官が Crowley v.
Christensen の意見で権利の所持と享受の条件としたものは、州がポリス・パワーを行使して定
めることである。
ノースは、この時期、このようなポリス・パワーの扱いは、道徳を規律する立法、契約及び
財産に関する法規からコモン・ローの準則の立法による変更にまで及んだという 116)。この時期
109) Victoria F. Nourse, A Tale of Two Lochners: The Untold History of Substantive Due
Process and the Idea of Fundamental Rights, 97 Calif. L. Rev. 751, 761 (2009).
110) 199 U.S. 473, 480 (1905).
111) Nource, spura note, 109, at 764-65.
112) 177 U.S. 183 (1900).
113) 137 U.S. 86, 89 (1890).
114) 177 U.S. at 188.
115) Nourse, supra note 109, at 765.
116) Id. at 765-67.
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に州の法律により合衆国憲法修正第14条に基づいて自由又は権利が制限されると訴訟で主張
することは、その法律を制定する根拠であったポリス・パワー行使の効力について合衆国憲法
に基づく判断を受ける契機となった。このような自由又は権利の制限の主張がもっともらしいと
考えると、裁判所は、自由又は権利を制限する法律がポリス・パワーの行使ということができ
るか否かを判断する。この判断は、合衆国憲法に基づく主張に関する判断である。これが争
われる事件における最終判断をする裁判所は、合衆国最高裁判所となる。このような事件で、
合衆国最高裁判所は、修正第14条が言い分に用いられた自由又は権利を州による制限から保
護するか否かを結論の根拠とするのではなく、州の法律がポリス・パワーの正当な行使である
か否かを判断して結論を導いていた。
すでにみたように、合衆国最高裁判所がロックナー判決において示したのは後者の判断で
あった。ノースは、ロックナー判決よりさきに、このような扱いが定着していて、ロックナー判
決はこの扱いに従った判決であって、ロックナー判決ののちも、この扱いに則って判断がされた
というのである 117)。すなわち、合衆国最高裁判所は、ロックナー判決でもそれに先後する判決
でも、州の法律がポリス・パワーの正当な行使であるということができるか否かを判断し、結
論を示したのである。ここで、ポリス・パワーの正当な行使であると判断されるときは、州の法
律が修正第14条が保護する自由又は権利を制限するという主張がもっともであると扱われてい
るようでも、この法律は有効であると判断されることになる。他方、ポリス・パワーの正当な行
使ではないと判断されるときは、この法律はこのことだけをもって無効であると判断されること
になる。このような扱いが、合衆国最高裁判所の確定した扱いであったというのである。
ポリス・パワーの正当な行使であるか否かは、合衆国最高裁判所がロックナー判決で示した
ように、法律が用いる措置と、その法律をもって達成しようとされる目的との間の関係の性質の
判定に基づいて判断された。ポリス・パワーは、フロインドによる定義に見られるとおり、公共
の福利を促進するために行使されると考えられた。合衆国最高裁判所のロックナー判決が示す
ように、公衆の衛生、道徳又は安全は公共の福利に該当する。州の立法部がポリス・パワーを
行使して立法する際、ポリス・パワーの行使が公衆の衛生、道徳又は安全につながると判断し
たということができる。しかし、ポリス・パワーの行使が裁判で争われることになると、裁判所
は独自に、法律が採用した措置が公衆の衛生、道徳又は安全との間の関係があるか否かを判
定することになる。裁判所がこのような関係が直接又は密接であるという性質を有すると判定
したら、ポリス・パワーの正当な行使であるとして、法律は有効であるとした。関係が直接又
は密接という性質を有することを要求することにより、裁判所はこの関係について独自の判断を
して、州の立法が公共の福利につながることが確保されるようにしたと考えられる。
117) Id. at 767.
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2 合衆国最高裁判所による州労働時間規制法の判断 ロックナー事件で効力が否定されたのは、パン菓子製造所の労働者の労働時間を規制する
ニューヨーク州法であった。合衆国最高裁判所は、ロックナー判決を Muller v. Oregon118) と
Bunting v. Oregen119) において明示しないままに覆していたといわれる120)。この2つの判決にお
けるポリス・パワーの行使の判断を見ることにする。
1908年の判決、Muller v. Oregon では、オレゴン州が1903年に制定した女性の労働時
間に関する法律の規定の効力が争われた。この法律は、女性を州内にある工場、製造所及び
洗濯屋において1日10時間を超えて使用することを禁止し、その違反に対して罰金を科した。
オレゴン州最高裁判所は、この法律は州憲法のどの規定にも反しないと判断していた 121)。合衆
国最高裁判所では、この法律は、成人が契約をすることを妨げることから、合衆国憲法修正第
14条に反すると主張され、そのうえで、ポリス・パワーの有効な行使ではないと主張された。
この法律が禁ずる種類の仕事は、不法なものではなく、不道徳でも公衆の衛生に有害でもなく、
このような法律は女性を保護することを目的とすることを根拠として有効であるということはで
きず、法律が定める制限と公衆の衛生、安全又は福利との間に必要とされる関係が存在しない
というのである 122)。
合衆国最高裁判所は裁判官全員一致で、原審オレゴン州最高裁判所と同じく、この法律が
有効であるという判断を示した。ブリューアー裁判官による法廷意見は、Lochner v. New York
においてパン菓子製造所で使用される者の労働時間制限がポリス・パワーの正当な行使でない
と判断されたことに言及したのち、この判決がこのオレゴン州の法律の効力の判断を決するも
のとして引用されるが、これは、性の違いが労働時間に関する違ったルールを正当化しないと
仮定していると指摘する 123)。
法廷意見は、本件で憲法の問題を調べるまえに、立法の動向及び裁判例以外の典拠に見ら
れる意見の表明を調べることは不適切ではないといい、オレゴン州の代理人であるブランダイ
118) 208 U.S. 412 (1908).
119) 243 U.S. 426 (1917).
120) Bernstein, supra note 32, at 1506-07 (2005); Nourse, supra note 109, at 769.
121) Muller, 208 U.S. at 417.
122) Id. at 417-18.
123) Id. at 418-19.
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ズの提出した趣意書 124) の中に、これに関する事柄が収録されていることを指摘し、その要約を
脚注に示した 125)。そして次のように述べる。このような立法及び意見は、女性の体格及びその
結果として女性が果たす役割が、女性が労働することが許されるべき条件を制限又は限定する
特別立法を正当化するという広くいきわたった考えを示す。憲法問題は、現時点の世論のコン
センサスがあったとしても、それによって決されることはないが、事実の問題が論じられかつ論
じることができ、特別の憲法による制限が及ぶ範囲がその事実に関する真実の影響を受けると
きは、その事実に関して広く行きわたり長続きしている考えは配慮に値するという 126)。
法廷意見はこう述べてから本件の憲法の問題を扱う。契約の自由は、合衆国憲法修正第14
条が保護する個人の権利であるが、州は修正第14条の規定に抵触することなしに、個人の契
約に権限を制限することができるという 127)。ついで、法廷意見は、立法により女性に関して選
挙、身体及び契約に関する権利に対する制限は取り除くことができ、法律に関する限りで男性
と同じ地位に置かれたとしても、女性の身体的構造及び母性機能を適切に果たすことは、女性
自身の健康と人類の福利という観点から、女性を男性の熱情と強欲から保護することを正当化
するという 128)。そして、この法律が労働する時間に関して使用者と合意する権利に課す制限は、
女性のためだけではなく、大方すべての者のためにも課されるといい 129)、両性の間の違いが立
法における違いを正当化し、かつ、女性が担わされる負担の一部を軽減しようとすることを支
持するという 130)。このような理由から、法廷意見は、ロックナー判決にいかなる点でも疑義を
持つことなく、このオレゴン州の法律は合衆国憲法に抵触すると判断することができないとす
る 131)。
こうして、Muller で効力が争われたオレゴン州の法律は、契約の自由を制限するがポリス・
パワーの正当な行使であると判断された。合衆国最高裁判所は、製造所、工場及び洗濯場で
使用される女性の労働時間制限は、このように判断するに足る関係が公共の福利との間で認め
124) ブランダイズがオレゴン州の代理人として提出した趣意書は113ページからなる。
そのうち、法的議論は2ページであり、他は諸州の類似の立法及び事実に関する記述であっ
た。ブランダイズは法的議論において、本件に適用されるルールは数が少なくまた確立され
て い る と い い、 そ の 典 拠 と し て、Lochner v. New York、Holden v. Hardy 及 び Jacobson v.
Massachussets をあげた。Brief for Defendant in Error, Muller v. Oregon, 208 U.S. 412 (1908)
(No. 107) 9-10. See Melvin I. Urofsky, Louis Brandeis: A Life 216 (2009).
125) Id. at 419-20.
126) Id. at 420-21.
127) Id. at 421.
128) Id. at 422.
129) Id.
130) Id. at 422-23.
131) Id. at 423.
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られると判定したのである。ブランダイズ・ブリーフは、女性労働の実情とそれに対処する州の
方針を示す立法を網羅して示すことによって、ポリス・パワーの正当な行使であると判断するの
に必要な関係が存在するという判定を支持する事実を提供することになったと考えられる。多
数の州の立法部が、女性労働者がおかれている実態を観察し、それに基づいて女性労働者の
保護のために労働時間を制限するという方針を採用していたということは、このような関係があ
るという例証であると見られた。合衆国最高裁判所は、アメリカ合衆国のなかでみられる傾向
を参照してこのような関係が認められると判定し、オレゴン州の法律がポリス・パワーの正当な
行使であるという判断の手がかりとしたということができる。
それでは、労働者全般に労働時間を制限するとどうなるのか。合衆国最高裁判所は1917
年の判決、Bunting v. Oregen132) でこの問題を扱った。1913年に制定されたオレゴン州の法
律は、法定の例外に該当しない限り、製作所、工場及び製造所において1日10時間を超えて
人を使用することを禁止するが、被用者が1日3時間まで超過して労働することが、それに対し
て正規の賃金に5割の割増賃金が支払われることを条件として許されると定め、その違反は処
罰の対象とした。この事件では、この法律に違反したとして起訴された者が罰金の支払いを命
ずる有罪判決を不服として、法律の効力を合衆国憲法修正第14条に基づいて争った。合衆国
最高裁判所でオレゴン州を代理したハーバード・ロー・スクールの教授フェリックス・フランク
ファーターは、最高裁での口頭弁論までに出版していた論文、Hours of Labor and Realism
in Constitutional Law133) を引用して、ブランダイズが Muller で提出した趣意書にならい長時
間労働が労働者の健康及び国の繁栄に及ぼす影響に関する事実と統計を体系的に提示し、ま
た、第一次世界大戦開戦の外国の状況を加えた趣意書を提出していた 134)。
合衆国最高裁判所は、このオレゴン州の法律が有効であると結論した。5名の裁判官がこ
の結論を支持し、3名の裁判官が結論に反対したが意見を表明しなかった。なお、1916年
に合衆国最高裁判所裁判官に任命されていたブランダイズは本件の審理にも判決にも加わらな
かった。
法廷意見は、このオレゴン州の法律が修正第14条に合致するかが本件の問題であり、これ
は、この法律が州のポリス・パワーの正当な行使であるか否かにより決まり、オレゴン州最高
裁判所は、それがポリス・パワーの正当な行使であると判断していたという 135)。法廷意見は、
この法律が、製作所、工場及び製造所における被用者の健康の保持に必要でも有効でもない
という主張について、事件の記録にはこの主張を支持する事実は何ら存在しないといい、オレ
ゴン州最高裁判所の次の見解を引いた。州の産業における慣行は1日10時間より長時間の労
132) 243 U.S. 426 (1917).
133) Felix Frankfurter, Hours of Labor and Realism in Constitutional Law, 29 Harv. L. Rev.
353(1916).
134) Bunting, 243 U.S. at 433 (Argument for Defendant in Error) .
135) Id. at.434.
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働を承認しないという、よく知られている事実に照らせば、この法律の要求は裁判所の扱う問
題として、労働時間に関して不合理であるとも恣意的であるとも判断することはできない、とい
うものである 136)。
Muller でも Bunting でも、修正第14条に基づいて効力が争われた州労働時間制限法は健
康を維持し公益をはかるため制定された法律であると認められた。これは、それぞれの法律が
州のポリス・パワーの正当な行使であると判断されたからである。
3 労働時間以外の規制に関する合衆国最高裁判所の判断
次に、労働時間制限法以外の州の立法でも同じようにポリス・パワーの正当な行使であるか
否かが判断されたことを見ることにする。取り上げる事例は、使用者が、採用及び雇用継続の
条件として、労働組合に加入しないと口頭又は文書で合意をするよう要求することを禁止する
法律の規定の効力である。カンザス州は、1903年、このような内容の法律を制定し、それ
に違反する者に罰金を科した。1915年、Coppage v. Kansas137) でこの法律の効力が争われた。
合衆国最高裁判所は、この法律は無効であると判断した 138)。法廷意見は、この規定が契約の
自由を制限するので、それが州のポリス・パワーの正当な行使であるとして支持されなければ、
恣意的なものであると判断されなければならないといい、州の法律は有効であるという強い推
定があるけれども、州が使用者と被用者の間で強制を防止するためポリス・パワーを行使する
ことができないというのではないが、この法律が、この事件でカンザス州裁判所が解したよう
に、成年に達し理解力を備えた者につき、強要、強制、強迫又は不当威圧がない場合にも適
用するとされると、州のポリス・パワーの正当な行使であるとして支持することはできないとい
う 139)。法廷意見は、この法律は公衆の健康、安全、道徳及び一般の福利にどのような関係が
あるのかという問いについて、いかなる関係をも見いだすことができないという 140)。
法廷意見は、カンザス州最高裁判所がこの事件の判決において、被用者は普通、使用者が
労働を購入する契約をする際ほど、それを売却する契約をする際に金銭的に同程度に独立して
いることができないことは一般に知られていることであると述べたという 141)。これに関して、法
廷意見は、すべての物が共同所有でないかぎり、ある者は別の者より多くの財産を持つことは
136) Id. at 438.
137) 236 U.S. 1 (1915).
138) この結論に賛成した裁判官は6名であり、判決に反対した3名の裁判官のうち、ホー
ムズ裁判官とデイ裁判官が意見を執筆した。デイ裁判官の意見には、ヒューズ主席裁判官が賛
同した。
139) Id. at 14-15.
140) Id. at 16.
141) Id. at 17.
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自明であるから、ことがらの性質上、契約の自由及び私有財産の権利を支持すると同時に、こ
れらの権利の行使の必然的結果である財産の不平等を正当と認めないでいることは不可能であ
るという。州は契約の自由及び私有財産の権利を直接に攻撃できないのであるから、実質的に
は公共の利益が、それらの行使の通常かつ必然的結果に過ぎない不平等を取り除くことを必
要とすると宣言し、そのうえで他に目的なしにその不平等を取り除くためポリス・パワーを持ち
出すことにより、それを間接にそうすることは許されないという 142)。
さらに、法廷意見は次のようにいう。ポリス・パワーが公衆の健康、安全、道徳及び一般の
福利の維持のため適正に行使され、こうしたポリス・パワーによる規制が契約をする権利を含
む自由の享受を合理的に制限できると判断された事例では、州が公共の福利に直接に影響する
とみることが公正な規制を採用することは、それにより自由及び財産という私的権利の享受が
制約されるけれども許容される。本件のカンザス州の法律は、財産を有する者から金銭的な独
立というべきものの一部を奪うことにより、富の不平等を平準にするほか、公衆の健康、安全、
道徳及び一般の福利に関わると主張される目的は存在せず、また、個人の自由及び財産上の権
利の通常の行使に干渉することは、この法律の一次的目的であり、一般の福利の向上に伴うも
のではないというのである 143)。
デイ裁判官による反対意見は、本件における問題は、州の権限が恣意的に行使されたために
その行為は憲法に反し無効であるかであるという 144)。デイ裁判官は、労働組合に加わる権利は
争われず、判例のなかでしばしば肯定されていると述べてから、このカンザス州の法律はポリス
・
パワーという権利を行使して制定された法律であり、その公然たる目的は、使用者が被用者か
らある法的権利を雇用の条件として奪うことを妨げることによってその権利の行使を保護するこ
とであると述べ、州がこの権利をその他の権利と同様に保護することが許されない理由は見い
だせないと考える 145)。
法廷意見もデイ裁判官の反対意見も、このカンザス州の法律がポリス・パワーの正当な行使
であるか否かの判断に基づいてこの法律の効力を決している。法廷意見もデイ裁判官の反対意
見も、さらに判決に反対したホームズ裁判官の意見のなかでも、Adair v. United States146) にお
ける合衆国最高裁判所の判決が引用される。この事件で効力が争われた法律は州の法律では
なく、合衆国議会が制定した法律であった。この合衆国の法律は、合衆国憲法第1条第8節第
3項を根拠として制定された法律であった。州のポリス・パワーが正当であるかが判断される
場合と対比するために、この事件において、どのようにしてこの法律が合衆国議会の権限の行
使であるか否かが判断されたのかをみることにする。
142) Id. at 17-18.
143) Id. at 19.
144) Id. at 30.
145) Id. at 32-33.
146) 208 U.S. 161 (1908).
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4 通商規制権限の事件との対比
Adair v. United States では、州と州の間の通商に従事する運送事業者及びその従業員に関
する1898年制定の合衆国の法律の第10条の規定の効力が争われた。この規定は、この法
律の適用対象である使用者が被用者又は求職者に労働組合に加わらないと合意することを雇
用の条件として求めること、及び、その被用者が労働組合に加わっていることを理由として解
雇すると脅迫し、又は不当に差別することを合衆国の犯罪として処罰することを定めた。合衆
国最高裁判所は、この法律の規定は無効であると判断した。本件では、合衆国憲法修正第5
条のデュープロセス条項に反すると論じられた。ハーラン裁判官による法廷意見は、第10条
の規定が、修正第5条から生じる人の自由と財産の権利との問題と関係なく、合衆国議会の州
と州の間の通商を規制する権限に基づいて定められたということができるという主張について、
この主張は、この法律の規定が合衆国憲法の意味で州と州の間の通商の規制でなければ本件
の判断に関わりがないと述べた 147)。そうして、この法律の規定が合衆国憲法の意味で州と州の
間の通商の規制であるかを判断する。
法廷意見は、州と州の間の通商という活動について定められる規則は、規制の対象である
通商に現実又は実質的関係がなければならないことを指摘したうえ、被用者が労働組合の構
成員であることと、州と州の間の通商の遂行にどのような法的又は論理的関係があるのかと問
う 148)。労働組合は州と州の間の通商に関わりがないことは確かであり、州と州の間の運送事業
の役務に従事する者は、組合の構成員であるか否かを問わず、その職務をきちんと果たすと見
られるべきであり、その職務適性及び職務遂行における勤勉が組合の構成員であるか否かに
依存することは決してあり得ない。また、組合構成員であることにより、その適性が確保され
一層勤勉であるということも、組合構成員ではないことによりその適性及び勤勉さが減じるとい
うことも考えられない 149)。そして、この法律の文言のみをみて、その範囲と効果を確定し、その
効力を決定しようとすると、州と州の間の通商と労働組合の構成員であることの間に、合衆国
議会が、州と州の間の運送事業者の使用人が被用者を組合構成員であることを理由に解雇す
ることを合衆国に対する犯罪とする権限を与えるような関係があるとは判定しないという150)。そ
うすると、この規定は合衆国議会の立法権の行使として正当化されず、修正第5条が保護する
自由を制限することになる。
判決に反対したマッケナ裁判官は、法廷意見はやや狭い道筋をとって論を進め、事件を決
すると思われる考慮に適切な扱いをしていないという 151)。マッケナ裁判官は、第10条をそれが
147) Id. at 176.
148) Id. at 178.
149) Id. at 178-79.
150) Id. at 179.
151) Id. at 180-81.
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含まれている法律から切り離さす、その意味をこの法律全体の中で捉える。また、修正第5条
の保障する自由は、一切の制約と制限を受けない自由ではないという。マッケナ裁判官は、本
件では、第10条が、この法律を制定させるにいたり、それが達成しようとする目的と関係があ
るか否か、そのような目的が州と州の間の通商の助けになるか否かを確かめなければならない
という152)。この法律は、運送事業者とその被用者の間の紛争を仲裁と調停に持ち込んで解決し、
それにより、ストライキ、及びそれに伴う社会の騒動とビジネスの混乱を予防しようとする策を
提示するといい、運送事業者とその被用者の間の紛争に仲裁と調停を導入し、労働組合を労
働仲裁に加わらせようとするという 153)。マッケナ裁判官は、第10条はこの法律が設ける仲裁制
度を確保し、かつ有効なものにする手段の一部であるという 154)。1898年の法律は州と州の
通商を保護することを目的とし、この目的は合衆国政府の権限の範囲内の目的であるから、第
10条が課す制約はこの目的の達成を助けるものであって、有効と判断されるというのである。
合衆国議会の法律の効力が修正第5条のデュープロセス条項に基づいて争われる場合に、
その法律が合衆国議会の立法権限の正当な行使であるか否かの判断に基づいて、合衆国の法
律の効力が判断された。修正第14条のデュープロセス条項に基づいて州のポリス・パワーの
行使の効力が争われるときと同じく、法律の効力の判断は、それが有効な立法権の行使である
か否かの判断に置き換えられたのである。
ポリス・パワーが修正第14条に基づいて争われると法律の用いる措置と公衆の福利の関係
が、通商規制権限が修正第5条に基づいて争われると法律の用いる措置と州と州の間の通商の
関係が、直接あるいは実質的な関係であることが、制定された法律が有効であるというために
必要とされた。このような関係があると判定すれば法律は有効とされ、法律により契約の自由
が制限されていることはそのまま容認される。それがないと判定すれば法律は無効とされ、無
効とされればむろん、契約の自由を制約すると主張された措置はないと扱われる。
これが、合衆国最高裁判所が法律の効力を判断するのに用いた判断の方法であった。契約
の自由に関して展開され導きだされる基準を法律に当てはめて法律の効力を判断するより、立
法部に法律を制定する権限があるか否かの判断に基づいて法律の効力の判断を示した。そし
て、この判断の結論次第で契約の自由という主張が通るか通らないかが決まったのである。
5 ポリス・パワー行使の判断
州の法律の効力が、その法律が修正第14条により保護される自由を制限するという主張に
基づいて争われると、合衆国最高裁判所は、その効力の争いを法律が州に属するポリス・パワー
の正当な行使であるか否かという問題として扱っていた。ポリス・パワーの正当な行使であると
152) Id. at 182.
153) Id. at 185.
154) Id. at 189.
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判断すると、法律は有効と判断され、その法律による契約の自由の制限はそのままになる。他方、
正当な行使でないと判断すると、自由を制限すると主張された法律は無効と判断され、そのよ
うな自由があるという主張が通ったように見えた。後者の場合は、合衆国最高裁判所は、権限
の有効な行使であるか否かという観点から法律の効力の判断していたところが、判決の結果は、
契約の自由を制限すると主張された法律が無効とする判決があったと映る。これには、判決の
結果は取りようによっては、契約の自由という主張が支持されたと見えるという特徴がある。
チャールズ・ウォレンは、合衆国最高裁判所が1889年から1918年の間に扱ったポリス・
パワーに基づいて制定された法律について次のように述べた。422件の事件において効力が
争われ、53件で法律が無効とされたが、そのうち14件のみが個人の一般的権利及び自由に
関わる事件であり、そのうち2件が広い範囲から批判を受け、その1つが Lochner v. New York
である 155)。大部分の事例では、ポリス・パワーの正当な行使であると判断され、効力がある
とされていたのである。1918年以降はどうであったか。ロックナーの時代という呼称が用い
られる期間は以前は、第一次世界大戦の終了のころでこの期間を区分して論じられていたとい
う 156)。ウォレンの記述は、このうち前半の時期の観察結果であるということができる。合衆国
最高裁判所では1921年から2年あまりのうちに4名の裁判官が入れ替わったほか、第一次世
界大戦の戦時体制から平時の秩序の回復を図って立法部の権限を抑制する傾向があったと指
摘される 157)。それでも、ウォレンが見た傾向とは大きな変化はないという見方が示される 158)。そ
うすると、ポリス・パワーの行使は多くの場合に正当な行使として効力が支持されたけれども、
注目されたのはロックナーの時代という呼称が示すように、法律を無効であるとした少数の判
決であると考えられる。
法律を無効であるとした判決は、修正第14条が保護する自由を制約したので無効であるい
う主張が支持されたと映ることはすでに述べた。こうして目に映る像をもとにすると、ロックナー
判決は、修正第14条のデュープロセス条項が保護する契約の自由を制約する法律を無効とし
た判決である。それゆえに、ロックナー判決は批判され、ロックナーの時代という呼称が生まれ、
合衆国最高裁判所が修正第14条のデュープロセス条項によって保護されるという自由と権利を
制限する法律の効力を否定していた時期であるとされたと、ノースは論じる 159)。
実際はこの時期、合衆国最高裁判所は州の法律と公共の福利との関係を判定し、法律と公
共の福利との関係が間接あるいは遠いと判定するとき、その法律は無効であると判断していた
155) 2 Charles Warren, Supreme Court in U.S. History 741 (rev. ed. 1926).
156) Robert C. Post, Defending the Lifeworld: Substantive Due Process in the Taft Court Era,
78 B. U. L. Rev. 1489, 1492-93 (1998).
157) Id. at 1491-93.
158) Michael Phillips, The Progessiveness of the Lochner Court, 75 Denv. U. L. Rev. 435,
489 (1998).
159) See Nourse, supra note 109, at 796.
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のである。裁判官が、立法権の及ぶ範囲を画することをその任務であると理解するとするから、
この判定は、裁判官が独自にするものとされる。そのため、立法部が法律制定の際に、法律が
公共の福利を達成するという関係があると規定したとしても、裁判官は立法部の見解と独自に
この判定をすることになる。そうしなければ、立法部が立法権の及ぶ範囲を自ら決定する事態
を招く恐れが生じるからである。
裁判官が、この関係が間接あるいは遠いものであるか、それとも直接あるいは密接であると
判定するにあたって、その法律から生じると裁判官が考える効果に着目するということができる。
この効果は、裁判官がその法律から普通にあるいは自然に生じると考える効果であるというこ
とができる。裁判官が、このように法律から普通にあるいは自然に生じる効果として、公衆の
衛生といった公共の福利が維持又は向上されるか否かを判定すると考えられる。ロックナー判
決の場合、このような法律から生じる効果は、立法を求める利益集団の利益と見られたという
指摘がある 160)。法律は公共の福利ではなく、労働時間の短縮を求める利益集団の利益を実現
するものであると見られたというのである。自由労働という奴隷制度廃止運動に由来する理念
を受け継いでいる時代に、合衆国最高裁判所の裁判官の間において、労働時間規制は、それ
により利益を受ける集団の要求を満たすものであり、それが公衆衛生といった公共の福利に役
立つと判定することはできないという見解が多数を占めたのである。
合衆国最高裁判所が州の法律と公共の福利との関係が直接あるいは密接であると判定した
場合は、その法律の普通の効果が及ぶ生活領域は、州がポリス・パワーに基づく規制を及ぼし
得る領域であると判断したということもできる。すでに紹介したとおり、Bunting v. Oregon は、
労働時間はポリス・パワーによる規制の対象であると判断したことになる。そのため、この判
決は、明言しないが、ロックナー判決は覆されたと解されるのである。
合衆国最高裁判所は同時期に、別の方法でも、州がポリス・パワーに基づく規制を及ぼし
得る範囲を確定しようとしていた。そのために用いた概念が、
「公益を帯びた(affected with a
public interest)」財産という概念である 161)。裁判所が「公益を帯びた」と判定したことには、
州がポリス・パワーに基づく規制を及ぼすことができるとされた。
「公益を帯びた」財産という
概念は、活動に用いられる財産に着目し特に料金の規制について、州がポリス・パワーに基づ
く規制を及ぼしうる領域と、そうすることができない領域を画するのに用いられたといわれてい
160) See David A. Strauss, The Modernizing Mission of Judical Review,76 U. Chi L. Rev. 859,
878 (2009).
161) Munn v. Illinois における使用例がその最初の例とされる。 Munn v. Illinois, 94 U.S.
113, 126 (1876). 鉄道、電気ガス業、保険業や穀物倉庫が「公益を帯びた」ものの例としてあ
げられる。この概念が用いられる範囲は1922年ころまで広がりを見せたが、「公益を帯び
た」と判定されるものの種類が限定されることになったと説かれる。Post, supra note 156, at
1505-06 (1998).
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る 162)。
合衆国最高裁判所は、法律と公共の福利との間の関係の判定をするにしても、
「公益を帯び
た」財産に該当するか否かを判定するにしても、州がポリス・パワーに基づく規制を及ぼすこと
ができる領域を確定していたとみることができる。州の法律から普通に生じる効果がこの領域
に及ぶときには、合衆国最高裁判所は、州の法律が修正第一四条によって保護される自由を制
限するとしても、その法律がポリス・パワーの正当な行使として有効であると判断して、ポリス・
パワーによる規制がその領域に及ぶことを認めたことになる。しかし、このように判断されない
領域の場合については、合衆国最高裁判所は、その領域はポリス・パワーの対象外と扱ったこ
とになる。
このように領域が画されたときに、ポリス・パワーの対象外の領域では、裁判所で形成され
るコモン・ローによって律せられていたことに注意されなければならない。ポリス・パワーが及
びうる領域ではコモン・ローのほかに州の立法部が定める法もその領域を律することが認めら
れ、州がポリス・パワーに基づく規制を及ぼすことができないとした領域は、コモン・ローが律
していたということである。1938年に判決のあった Erie Railroad Company v. Tompkins163)
まで、コモン・ローはいずれかの州の法として定められると扱われることなく、コモン・ローを
扱う裁判所の裁判官が一体となり形成される法として理解されてきた。
コモン・ローも社会を律する点では変わりないから、それが修正第14条が保護する自由を
制限すると主張できないとは思われないが、ロックナーの時代にはそのような主張は取り上げ
られていなかった。コモン・ローは、州の立法部が立法権を行使して定められる法ではなく、
裁判所が形成し内容を管理していた法であるから、ポリス・パワーに基づく立法と同列に扱わ
れなかったということができる。
四 むすび
ロックナーの時代と呼ばれる時期の大部分は改革主義の時代と重なる。社会が抱える問題
はコモン・ローを主要部分とする法では対処しきれないと判断して、議会が立法して問題に対処
することが求められた時期である。合衆国最高裁判所がポリス・パワーに基づいて立法できる
範囲を画することは、一方で、コモン・ローによる規律を補いもしくはそれに取って代わる立法
による規律の妨げとなる。他方で、ポリス・パワーに基づいて立法できない範囲では、コモン・
ローの規律に反しない限り、自由が保障される。このため、コモン・ローに加え、ポリス・パワー
に基づいて制定できるとされて付加された法により形成されている秩序が存在すると映る。裁
判所がこのような秩序に反すると判定しない限り、自由が保障されている状態にあるということ
になる。
162) See Post, supra note 156, at 1507-08.
163) 304 U.S. 64 (1938).
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こうした状態ができるのは、裁判所が、立法と公共の福利の関係を判定して立法がポリス・
パワーの正当な行使であるか否かを判断してその立法の効力を決めることによる。立法と公共
の福利の関係は裁判官が独自に判定するから、法律の効力は、現存する権利の配分から導か
れる中立的基準線からの逸脱をもとにして判断される 164) とは必ずしもいうことはできず 165)、何
がどのように公共の福利をつながることになるかという判断、あるいは、ある状況のもとでは何
が公共の福利であり、採用された措置がその公共の福利の実現につながるかという判断を導く
考え方に準拠されると考えられる。立法部が立法に当たってする判断もまたこの判断である。
ロックナーの時代には、裁判所が独自にこのような判断をして、州の法律がポリス・パワーの
正当な行使であり有効であるか否かを決定し、それを通じて、コモン・ローとポリス・パワーの
行使として許容されて形成された法の範囲の中で、自由が保障されていた。このことがこの時
代の特色である。それでは、裁判所が立法部に対してその立法権限の行使の効力に関してこの
ように判断をすることなく、法律が採用する措置が公共の福利につながるという立法部がした
判断を尊重するとどうなるのか。
ロックナーの時代には、法律が修正第14条が保護する自由を制約するということ自体から、
その法律が無効であるとされていなかったのである。法律が採用する措置が公共の福利につな
がるという立法部がした判断を尊重することにすれば、立法権限の行使として有効と判断され
た法律は修正第14条が保護する自由を制限することが許容されるから、ロックナーの時代の
ように自由が保障されている状態が生じることはなくなる。このような尊重の求めに応じつつ、
裁判所が合衆国憲法に基づいて法律を審査するならば、これまでと異なる方法を用いる必要が
生じることになる。この必要は実際に、1930年代後半に生じた。
法律が採用する措置が公共の福利につながるという立法部がした判断を尊重しつつ、修正第
14条が保護する自由が確保されるようにすることが、こうして1930年代後半以降の課題と
なったのである。合衆国最高裁判所がこの課題にどのように対処するとしても、合衆国憲法修
正第14条の文言とその注釈では、対処しようがないことは広く指摘されているとおりである。
自由の制限を扱ったロックナーの時代の判例を参照しようとしても、法律がポリス・パワーの正
当な行使であれば自由の制限を手がかりに法律が無効とされたのではないので、自由の制限に
関して述べられたことは判決の結論を導くものではなかった。
契約の自由についていえば、個別の法律につき契約の自由の制限の内容や制限する法律に
よって達成しようとする公共の福利の内容を盛り込んで、法律が審査されることにはならなかっ
た。契約の自由が社会で重要かつ複雑な働きをしていることに疑いの余地はない。コモン・ロー
が契約の自由を制限して公共の福利を実現するように、州の法律も公共の福利の実現を図るに
際して契約の自由に制限が及ぶことになる。コモン・ローも法律も州の実定法であるので、契
164) Cass R. Sunstein, The Partical Constitution 45 (1993).
165) Post, supra note 156, at 1545.
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約の自由の制限に関して違いはない 166)。また、州の立法部が公共の福利の実現を図るのに法律
で契約の自由を制限することができないという根拠は明らかではない 167)。
契約の自由の制限に関わる問題は、それが言論の自由と同じく個人と社会にとって重要であ
るからこそ、困難かつ複雑であると考えられる。実際、言論の自由と同じように、契約の自由
も裁判所によって実現され得るということはできるが、そうするには、契約の自由及びその限界
について十分に理解し、事例ごとに運用可能な法理を開発する必要であるという、デイヴィッド・
ストラウスによる的確な指摘がある 168)。
同じストラウスが、裁判所は、憲法の文言あるいは先例になんらか手がかりがあるときに、
法律が人々の意見をもはや反映していなくなったか、法律が人々の意見の流れに反していると
判断するとその法律を無効と判断し、また、人々の意見が裁判所の予期した方向と違う方向に
向かっていることが明らかであると判定したら、以前無効であると判断したものと同じような法
律の効力を支持するというアプローチを現代化アプローチと呼んでいる 169)。ストラウスは、合衆
国最高裁判所の新しい実体的デュープロセス判決において、ロックナーの時代とは全く異なり、
このアプローチが用いられていると指摘する 170)。
ストラウスのいう現代化アプローチは、裁判所が、以前に制定された法律は現在では制定さ
れることがないか、間もなく人々による支持を失うと判定すると、それを無効とし、また、無効
としたがその際に裁判所が予期した方向に人々の意見が向かっていないことが判明したら立場
を変えるというものである。合衆国最高裁判所は、Muller v. Oregon や Bunting v. Oregon で、
労働時間規制が社会の傾向に合致するということをもとに、ポリス・パワーの正当な行使であ
ると判断し、ロックナー判決を暗黙のうちに変更して労働時間規制を有効としていた。これは、
この現代化アプローチに近いということができる。
合衆国最高裁判所が Muller v. Oregon や Bunting v. Oregon でみせた法律と公共の福利の
関係の判定は、現代化アプローチにおけるのと類した判定によることができることを示唆する。
しかし、ロックナーの時代でもその後は、この判定に当たって硬直したアプローチを使用して
いたということができる。契約の自由という個人と社会にとって大切な原理は実際は、複雑で
困難な問題を提起しつづけるのに、硬直したアプローチによってこのような複雑な世界に単純
な解をもたらそうとしたのではないか。自由という概念を展開しても単純な解は導けず、複雑
な世界に相応の解を用意して実用可能な判断が求められる。一方で裁判所がコモン・ローの道
具を使って契約の自由とその基礎になる価値を実現し、他方で立法部はポリス・パワーを行使
166) 合衆国最高裁判所は1964年、New York Times v. Sullivan において言論の自由の制
限に関してこのことを認めている。376 U.S. 254 (1964).
167) See David A. Strauss, Why Was Lochner Wrong?, 70 U. Chi. L. Rev. 373, 385 (2003).
168) Id. at 386.
169) Strauss, supra note 160, at 861-63.
170) Id. at 875.
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して同じことをして、ともに人々の利益と公共の福利を図っているというのが現状である。
個人がみないつでも自律をすることができる、そうすべきであるとは誰もいうことができない
とすれば、そうしない個人も自律している状態に近づけるよう支援が必要である。自立できな
い状態では自律どころではないから、自立を可能にする支援が必要である。このような支援は、
裁判所がコモン・ローの運用を通じて提供するか、立法部が立法権限を行使して提供すること
になる。こうして提供されるルールは、自由を展開して導きだされる単純なルールではなく、個々
の場面に応じて支援を必要とする社会の複雑な実情に応じたルールになると思われる。
*本稿に加筆したものが、
『民商法雑誌』第146巻第1号、同第2号(2012年)に掲載される。
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