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戦争体験者インタビュー

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戦争体験者インタビュー
戦争体験者インタビュー
1.海軍整備兵として見つめた太平洋戦争(瀧本 邦慶さん)・・・・・・P2
2.淀川河川敷から見た長柄橋の空襲(坂上 貞夫さん)(調整中)
3.子育て中の戦争体験と食糧事情(清水 正子さん)・・・・・・・・・P7
4.小学校卒業式前夜の大阪大空襲(岡田 匠さん)(調整中)
5.母に守られて助かった奇跡の子ども(松原 俊明さん)・・・・・・
P8
6.学徒動員(竹立威三雄さん)(調整中)
7.母と子で乗り越えた戦中と戦後(京本 良子さん)・・・・・・・・・P10
8.3回も招集された夫との戦争にまつわる思い出(高橋 菊江さん)・・P15
9.崇禅寺駅員として体験した空襲(石井 冨恵さん)・・・・・・・・・P17
10.東淀川区最高齢が語る日中戦争(二村 良介さん)・・・・・・・・・P23
11.浪商高校 戦後初の全国高校野球大会優勝(島田 雄三さん・山本 英夫さん)
・・・・・・・・・P25
12.戦時中の村の暮らしを支えたお寺の娘さん(若林 幸代さん)・・・・P30
13.不発弾が変えた生きかた(藤野 高明さん)・・・・・・・・・・・・P33
p.1
①瀧本邦慶さん
海軍整備兵として見つめた太平洋戦争
瀧本邦慶さん(92)大正 10(1921)年 香川県三豊市生まれ
海軍整備兵として戦地へ。真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などを体験し、南方
作戦ではトラック島で終戦を迎え帰還。若者に戦争を語り継ぐため小中学校な
ど講演活動に活発。東淀川区在住
大正 10(1921)年に香川県三豊郡桑山村で生まれました。今は三豊市豊中町
というみたいですけどね。観音寺商業高校を卒業した 17 才の時に海軍を志願し
たんです。僕は陸軍が嫌いでね。この時代には徴兵制があって、20 才になると
ほとんどが陸軍に取られることになっていました。中等学校に入ると教練があ
って、上級生は陸軍と同じような訓練を受けさせられるわけです。そうすると
陸軍は歩くでしょ、重い荷物を背たろうて。あれが嫌でね。同じ兵隊に取られ
るんなら、早くから志願して自分の好きな海軍に入ろうと思って試験を受けま
した。身体検査と簡単な学力試験があって、昭和 14(1939)年 6 月に佐世保海
兵団へ入団することになりました。
p.2
①瀧本邦慶さん
洗脳されても変わらぬ親子の気持ち
兵隊へ行く時の気持ち?
そりゃ小学校に入った時から軍国主義教育を受け
て完全に洗脳されてましたから。学校の教科書は全部国が指定したものだけ、
先生は本に書いてあること以下は生徒にしゃべってはいけない。今からは想像
もできないくらい軍国主義がピークの時代でした。
親も子も国民全体が洗脳されてたわけですよ。小学校1年に入ったら、男の
子は五体満足なら兵隊に行って、死んだら靖国神社にまつわれるというのが最
高の名誉だと教えられたんです。戦争に行くのは嫌やということなんて言えた
雰囲気はありません。
父も元海軍の軍人でしたから入隊する日に「今から行って参ります」と挨拶
すると「おう、行ってこい」と送り出してくれたのに対して、母は「気ぃつけ
て行っておいでや」と言うんです。それが精一杯の心遣いなんですよ。だって
兵隊に行ったら死ぬんですよ。その覚悟の僕に「気ぃつけて」ってね。
「死なな
いで」とは言えない。いくら国中が洗脳されているとはいえ、親の気持ちとい
うのは変わらんもんじゃないですか。
僕自身も心の底では本当は行きたくないですわな。行ったって死ぬことわか
ってるんやから。私も大勢の人に見送ってもらって汽車に乗って、友達らが見
えんようになったところでやっぱり涙が出ましたわ。
生命の危機を感じる“いじめ”
入隊すると陸戦の方法や船の上での生活、ボートやカッターの漕ぎ方など海
軍兵としての基礎訓練を半年受けました。その後、自分が乗り込む船が決めら
れました。「八重山」という 1200 トンの船で、機雷を戦艦に敷設するための敷
設艦と呼ばれる船です。自分の乗る船は決まったんですが、当時「八重山」は
日中戦争のシナ海での作戦に参加していたので海の上にいました。そこで商船
に便乗して台湾のキールで「八重山」に乗り込むことになりました。
ここからが大変でした。海軍には悪い伝統が残っていたんです。いじめです
ね。
「軍人精神注入棒」というので上級兵から思いっきり殴られる。船によって
気質は違うと思いますが、うちの船は特にそれが激しくて「この船に乗ってい
たら殺されるな」と思うくらい厳しいいじめにあったんです。自ら退艦するた
めには、自殺するか逃走するかしかない。あとは専門技術や知識に関する試験
を受けて受かると、違う兵科として転属することができたんです。私は生命の
危険すら感じていたからもう何の試験でもよかった。とにかく一日でも早く受
p.3
①瀧本邦慶さん
けられる試験というのが「整備」だったんです。興味があったわけでもないけ
れど、なんとかそれに合格して半年間乗った「八重山」から横須賀にある追浜
海軍航空隊に移ることができました。昭和 15(1940)年5月のことです。
空母に乗り込み戦地へ
航空隊で半年間整備に関する学校に通い、四等一般水兵から三等整備兵にな
りました。海軍になると一人一人兵籍番号というのがつけられてね、今でも覚
えていますよ。
「佐志整 2143」。佐世保の志願兵、整備兵という意味ですね。そ
の後、私はあの航空母艦(空母)
「飛龍」に乗り込むことになったのです。昭和
15 年 11 月頃、ここから本当の艦隊生活がはじまったわけです。
空母はなんといっても海軍の花形。太平洋戦争以降は航空戦が主流となり、
海上で戦闘機が離発着する空母が一番の戦力になっていたんです。それでも当
時国は戦艦大和を作ったわけですが、あんなもん無用の長物ですよ。アホみた
いに大きな戦艦作ってね。
長さ 230 メートル、幅 24 メートルの空母「飛龍」に佐世保から乗り込んで、
戦闘のない時は、ずっと洋上訓練をしているんです。いくら大きいと言っても
海の上に浮かぶと小さなもの。そこをめがけて戦闘機がばんばん発着訓練をす
るんですが、これが命がけ。僕ら整備兵はこれに爆弾を抱かせたり、整備した
りするんです。鹿児島湾で低空飛行の訓練をよくしていたのですが、あとから
聞いたらあれが真珠湾攻撃の訓練やったんです。だいたい丸一年くらい洋上訓
練を重ねました。
アメリカとの戦争に疑問も
そして、昭和 16(1941)年 11 月 24 日、自分も乗り組んだ空母「飛龍」は千
島列島択捉島の単冠湾に集合して、艦隊を組んで真珠湾に向かうことになりま
した。奇襲攻撃なので隠密行動をとらないといけないでしょ。だから商船にも
出会わない時期に最も荒れた北太平洋を回る航路を取ったんです。30 年前まで
の気象条件を精査して選んだそうですよ。
我々も知らされたのは出航後。よほど大きな演習だなと思っていたら、艦長
から真珠湾攻撃について知らされたんです。世紀の作戦を告げられても乗組員
は特別湧くこともなく、淡々としていました。なんせ訓練で既に命がけの体験
をしていますしね。12 月 8 日、真珠湾攻撃の結果はご存知の通りです。
でも、私はアメリカと戦争をすると聞かされたその時、心の中では「こんな
戦争をおっぱじめて大丈夫かいな」と思っていましたよ。ちょっとは地理を知
p.4
①瀧本邦慶さん
っていたので、日本みたいな小さな国が原油もないのに、どうやってアメリカ
と戦うのかと。
ミッドウェー海戦の真実
真珠湾攻撃の後は、ベトナム、ジャワなどの東南アジアの産油地域を押さえ
にいきました。いわゆる南方作戦です。これが快進撃を続け、国中が浮かれま
くっていました。勝ち戦ばかりで敵なしの状況でしたから。こんな状態でミッ
ドウェー海戦へ向かいました。昭和 17(1942)年 5 月 27 日海軍記念日に出撃
したのです。赤城、加賀、蒼竜、飛龍。海軍の虎の子とも言える4つの空母で
艦隊を組んで、鼻歌まじりで出動したんです。でもこれがわずか一日で壊滅す
るんです。敵はこちらの暗号をすべて解読していたようです。
私の乗っていた飛龍には 1500 名が乗っていたのですが、爆撃を受けて 1000
人が亡くなりました。私は何とか船の端に逃げて生き延びたんです。爆撃を受
けて燃え盛る飛龍は全速で逃げるのですが、私たちは艦長の命令なしに船から
逃げる訳にはいきません。海軍は自分の意志で船から離れると逃亡罪になって
しまうんです。空を見ると飛龍から飛び立った航空機が着艦しようとしている
けれど、燃え盛る「飛龍」には着艦できない。上空を旋回し、燃料がなくなる
とともに次々と海に突っ込んでいくんです。私たちはそれをじって見てること
しかできない。これが戦争の実情です。
艦長から、生き残っている者は駆逐艦に乗り移るように命令を受け、我々も
近くの船に乗り込みました。それでも飛龍はまだ沈まない。いつまでも浮かん
でいる空母は、アメリカ軍に戦利品として取られてしまう。そうすると軍事機
密が敵に渡る。そういう判断から私たちの乗り移った駆逐艦から2発の魚雷を
飛龍に向けて発射させ自らの手で撃沈させたのです。責任を取った艦長と司令
官もまた乗り込んだ飛龍ともに海に沈められたのでした。そんなこと信じられ
ますか。
内地へ帰ると、ミッドウェー海戦では4つの空母が壊滅したのもかかわらず、
大本営発表は「1隻撃沈1隻大破」というもの。それが戦争の実情です。政府
や国が何を言っても、だまされたらあかん。鵜呑みにすることなく自分の頭で
考えないといけない。自分の命は自分で守らないといけない。国はいざとなっ
たら命を守ってくれない。私が若者たちに伝えたいのはそういうことです。
p.5
①瀧本邦慶さん
===================================
瀧本さんはミッドウェー海戦からの帰還後、海軍での立身を目指して1年間
海軍高等科で学び翌昭和 18(1943)年 6 月には下士官に昇進し、海軍二等整備
兵曹として任官することとなる。昭和 19(1944)年 1 月に五五一航空隊に入隊。
南方作戦の重要な補給地であったトラック島へと上陸すると同時に、1万5千
人の戦死者を数える奇襲攻撃を受けた。壊滅状態の島には食料、医薬品がほと
んどなく部隊は裸同然。多くが飢餓生活を送る中でも上官だけが銀飯を食べる
ことへの矛盾や、仲間同士が争い合う姿に改めて「一体誰のための戦争なのか」
ということについて考え直したという。まさに九死に一生を得た、これら一連
の体験は平成 18(2006)年 12 月に自ら筆を取り『それでも君は銃をとるか』
としてまとめられている。
参考資料:
2006 年若者に告ぐ私の戦争体験と主張『それでも君は銃をとるか』瀧本邦慶
毎日新聞連載『平和をたずねて』広岩近広(2013 年 5 月 28 日〜全 20 回)
p.6
②清水正子さん
子育て中の戦争体験と食料事情
清水正子さん(95)大正 8(1919)年 兵庫県生まれ
戦争当時は上新庄地域に暮らしていた主婦。二人の小さな子どもを抱えて空襲
から逃れた。
昭和 14(1939)年に鴫野から上新庄に引越してきました。今住んでいる場所
(豊新 4 丁目)からもすぐ近くの場所です。このあたりはとにかく田んぼや麦
畑だらけでした。戦争の時には家の前あたりの田んぼの土手に防空壕を自分た
ちで掘って、そこに避難していましたよ。
とにかく食べるもんがあらへんし、大豆をもろて煎って食べたり、干し芋を
煎ったりして栄養を取っていました。このあたりにはセリがよくできたから取
ってきて食べたりね。とにかく始末して食べました。私はお産の後やったから
歯がぼろぼろでしたね。
昭和 20 年に主人が最後の方の徴兵に招集されてしまって、私は幼子を二人抱
えていて不安でした。海軍だったんですが、帰って来た主人の海軍の制服を仕
立て直して、子どもの入学式の時に着せたのを覚えています。
戦争の記憶?
そうですね。道ばたに落ちていた空の爆弾を子どもたちと引
っ張ったりしたこともありますね。
p.7
⑤松原俊明さん
母に守られて助かった奇跡の子ども
松原俊明さん(69)昭和 20(1945)年 東淀川区木川生まれ。生後2日で崇禅寺
で空襲に遭うが、母に抱かれて命をとりとめた。その際の機銃掃射で母を亡く
したが、様々な人の助けを受けながら今年 70 才を迎える。戦後ともに歩んだ人
生を振り返っていただいた。
越賀道一と嘉津子の長男として生まれました。父の道一は崇禅寺に生まれた長
男だったのですが、当時兵隊として戦争に行っていました。その頃の大阪は空
襲が相次いでいて、生まれたての小さな私を抱えた母・嘉津子は木川の自宅か
ら、道一の妹夫婦(西岡祖学※・マキコ)がいた崇禅寺の平屋に疎開すること
になったと聞いています。
そんな中で空襲に遭いました。生後2日目(昭和 20 年 6 月7日)のことです。
今も崇禅寺の境内に残るクスノキの前に離れの平屋があって、私を抱いて逃げ
ようとした母は機銃掃射で眉間を打たれて即死しました。幸い私は母に守られ
て命を取り留めました。もちろん、私は覚えているわけありませんが、法事な
んかで親戚が集まるたびにこの話は聞いてきましたよ。
終戦後、父の道一は戦地から戻り、崇禅寺は西岡祖学さんら妹夫婦にまかせ、
自分は尼崎の全昌寺へと行くことになります。とはいえ妻を亡くして乳飲み子
p.8
⑤松原俊明さん
である僕を抱えて行くわけにもいかない。そこで私は嘉津子の母、つまり母方
の祖母・松原ヒサ子の養子にもらわれることになりました。松原の家には姓を
継ぐ子どもがいなかったのも理由だと思います。
木川東にあった祖母の家で二人で暮らしていましたが、小学校にあがること
から叔父と叔母も一緒に暮らすようになりました。この叔父さんと叔母さんが
とても厳しい人でしてね。二人には子どもはなかったので、自分の子どものよ
うに育ててくれた。僕が今あるのは彼らのおかげなんです。自分の境遇につい
て理解したのは小学校3〜4 年生の頃でしょうか。
木川小から十三中学、北野高校に進学し、関西学院大学の経済学部に入学し
ました。大学では謡曲部に入り、同志社女子大学の能楽部長と知り合ったんで
す。その時の彼女が今の妻。卒業後、神鋼商事に入社し 26 才で結婚して2男1
女に恵まれました。今は孫が5人もいます。
毎年、お盆とお彼岸、家族の命日には崇禅寺のお墓にむかいます。お堂の向
いにある母の墓を訪ねて、大きなクスノキを見るたびに「お母さんはここで僕
の代わりに亡くなったんだなあ」と思いますね。戦争で孤児になった人も多か
ったのに、僕は母親の分まで命をもらって、まわりのみんなに助けてもらうこ
とができた。生みの親より育ての親。本当に感謝しています。実は最近、次男
を 37 才で亡くしました。まだ小さな子どももいるので、今度はおじいちゃんの
僕が頑張って手助けできればと思っています。
僕は戦争の経験があるわけではないけれど、絶対にしたらあかんと思います。
戦国武将の話は好きですが、それと戦争は違いますもんね。
===================================
※西岡祖学氏(崇禅寺前住職)の手記は『ながら
—大阪大空襲を語り継いで—』
昭和 58(1983)年に「兄嫁の死—崇禅寺の惨状」として掲載。6 月 7 日の空襲
では崇禅寺の境内に1トン爆弾が4つ、小型爆弾や焼夷弾が無数に落ち、戦後
不発弾として二つが発見されている。この空襲で多くの人々が亡くなり啓発小
学校下(山口町、日之出町、飛鳥町)518 名の埋葬に、住職として立ち会った
祖学氏。あまりの数に焼くことができず土葬にしたが、戦後 10 年ほど経ち、あ
まりにも気の毒だと掘り出し、長柄に運び洗って火葬にして戦災者の墓碑を2
カ所に作っておさめたという。今も崇禅寺では6月7日には慰霊祭が開かれて
いる。
p.9
⑦京本良子さん
母と子で乗り越えた戦中と戦後
京本 良子(きょうもと ながこ)さん(80)
昭和9(1934)年 東淀川区生まれ。父親が 4 歳のときに戦死し、母と弟の3人
家族に。戦時中は能勢へ疎開し、戦後は家計のために働く母の代わりに遺族会
の活動を手伝い、大阪市遺族会婦人部副部長を担当。歌を詠んだり文章を書く
特技を生かして、地元の新庄小学校の記念誌などにも寄稿している。現在も生
家で暮らしている。
取材メモ
大正時代に建てられたという生家に暮らしている京本さん。戦災の被害を免
れたこともあって、戦中・戦後の手紙や写真、道具などを大事に保管されてお
られます。当日は、疎開先で母親の光子さんと交わした多くの手紙や、貴重な
写真をご紹介いただきながらお話をうかがった。
p.10
⑦京本良子さん
葬送の写真
この写真は、昭和 14(1939)年の下新庄駅の東側から淡路方面から歩いてき
た葬送の行列を撮影したものです。父が中国の広東で亡くなり、大阪の本願寺
津村別院で慰霊祭をして、淡路で電車を降りて菩提寺の覚林寺へ移動している
ところです。肉親ですので、列の前のほうに私もいるはずですが、当時4歳で
したので紛れてしまって分かりません。大きな花輪は、本願寺でもらってきた
もので、最前列の人が持っている旗は葬送用のもので、まだ自宅に保管してあ
ります。この日、出兵前に勤めていた新京阪が、天神橋駅から淡路まで遺骨を
運ぶために特別列車を出してくれたそうです。父はマラリヤにかかり病死でし
た。痛い思いをしなかっただけ幸せだったのかもしれません。物心つく前に離
れ離れになり、亡くなってしまいましたので「お父さん」と呼んだ記憶はなく
て、いつも話に聞く「わが父」でした。少しよそよそしい感じですね。
下新庄の風景は、今から想像できないような畑が広がっているでしょう?じ
つは淡路駅の周辺もあまり建物はなくて、パラソルが見えるようなのどかな風
景だったようです。
父は亡くなる1年前に兵隊になりました。靖国神社に父が合祀されることに
なり、小学1年生の私は母に連れられて一緒に行きました。ゴザの上に座るの
ですが、足が痛くなってしまい、憲兵に頭を押さえられたりもしました。境内
の明かりが消え、灯籠に火が灯ると、遠くの方から馬の蹄の音が聞こえてきま
した。そして前から3頭目の真っ白な馬に乗っておいでのお方様が、昭和天皇
陛下でした。12 月 8 日の2か月くらい前でしたから、秋の大祭だったと思いま
す。
33 歳で未亡人になった母は、呉服屋さんから仕事をもらって縫い物をしていま
した。自宅で縫っていましたが、近所の方にもお仕事を手伝ってもらい、工賃
を渡していました。また、その合間に軍服も縫っていました。裁縫店のチラシ
p.11
⑦京本良子さん
を残しています。ここに「貯蓄豊国は銃後女性の…」って書いてあるでしょう?
こんな言葉は、今は使いませんね。国を守って働きましょうという意味です。
当時から電車の路線図もほとんど変わっていませんね。城東貨物線も変わって
いません。私たちはこれを弾丸列車と呼んでいました。兵隊さんを送っていま
した。
京本さんの母・光子さんが自宅で仕立
物をしていた頃のチラシ。右上には「貯
蓄豊国は銃後女性の寸暇を利して!」
と書かれている。
親元を離れて集団疎開
東能勢へ集団疎開に行ったのは4年生のときです。昭和 18(1943)年の秋か
らでした。出発する前に近くの覚林寺へご挨拶に上がりましたら、
「ちゃんと仏
さんを拝んでから寝なさいよ」とお数珠をもらいました。
疎開先ではちゃんと食べさせてもらいましたので、食べ物には困りませんで
したが、畑の収穫を手伝いました。周りでは誰もしていなかったけど、繕い物
も見よう見まねでやりました。それでも欲しいものはあったので、ほかの子た
ちがしていたようにハガキに書いて、疎開先から母親へ送りましたら、母は「良
子さんとの手紙は綴り方のお勉強ですよ」と諭され、これが基礎になり作文が
上手になりました。ある日、雪の間から出ていた水引草を押し花にして母に送
りましたら、
「仏様にお供えするお花もない大阪ですのに、良子さんはとても優
しく育ってくれて、母さんはとても嬉しい」と喜んでくれました。自分にとっ
て、疎開の経験は人間形成のうえで大事な時期だったと考えています。そのと
きに母からもらったハガキは、私の財産です。
下新庄の実家の母から、疎開先の京本
さんの元へ送られてきたハガキ。現在
のハガキよりもひと回りほど小さい。
p.12
⑦京本良子さん
疎開先では、こんな話もありました。正月を迎えるにあたって全員にお餅が
配られるのですが、前の晩、ある子どもが布団に入ると、隣の子から足をつね
られました。
「明日は餅をよこせ」という合図です。先生はそういうことがある
のを知っていますから、
「きょうは食事の前にちょっと立って」と全員に言うん
ですね。仏さまのお側ですから、ちょっと立ってと。そうするとモンペの裾に
お餅が隠してあるのが分かるんです。ばれてしまったら、またつねられてしま
うんですね。
水商売をしていた母親のことを「親戚のおばちゃん」だと教えられていた子
どもが、手紙を通して本当の母親だと知るなんてこともありました。離れ離れ
になると本当のことを言いやすくなって、人間模様が出るんだな、と子ども心
に分かりました。離れることがいいとは思いませんが、私の場合はいい関係で
した。
淡路の高射砲
父の命日だった3月 19 日のことです。父のお墓の隣にあった高射砲から撃っ
た弾が米軍機に命中しました。母は運命的なものを感じて、落ちた飛行機を見
ようと出かけたようですが、淡路駅の近くでは線路が飴細工のようにひどく曲
がっていて、恐怖を感じてすぐ帰ってきたそうです。空襲では水源池をめがけ
て飛行機が飛んで来たと聞きます。私の家のある下新庄周辺の被害は少なかっ
たのですが、一部に焼夷弾が落ちたところもあったようです。私は疎開してい
ましたので、あとから聞いた話です。
疎開先の能勢の山奥から、家に帰りたくて大阪のほうを見ていました。する
と大阪の空は灰色なんです。能勢は青い空なのに、どうしてなんだろうと。で
も子どもでしたから、どうして大阪のほうは黒いのか分かりません。空襲でた
くさんの家が燃えると、決まってそのあと黒い雨が降ったということを、あと
から知りました。
戦後の下新庄
弾丸列車(城東貨物線)は、最初日本の兵隊が送られました。終戦を迎える
と、乗ってきたのは進駐軍で、乗車口からティッシュペーパーやチョコレート
を撒きながら通り過ぎていきました。近所の子どもたちと喜んで拾いに行くと、
「負けた国の者がそんなものを拾うな」と母親に怒られました。戦後に流行っ
た「リンゴの唄」も、家ではろくに歌わせてもらえませんでした。そのへんが、
普通の家庭と全然違うところでした。
p.13
⑦京本良子さん
貨物線では、農業がまた盛んになるにつれて牛や馬が運ばれて、やがてクル
マが運ばれるようになりました。今はコンテナが運ばれています。私は疎開の
1年を除いて、ずっと生家に住んでいますから、環境の変化そのものが歴史だ
と分かるんです。
終戦後は親について遺族会を手伝いました。夫が戦死したものと思って家に
残された妻が再婚したら、夫が帰ってきたりして、いろいろあったのです。私
の家は早くに父が亡くなった分、いろいろな事情が分かっているということで
参加しました。母親は働かなくてはなりませんので、その代わりに会合でも「勉
強は家に帰ってからやればいいから、行っておいで」と言われて。遺族会は 70
歳までやりました。人間形成の面で育ててもらって、本当の奉仕というのはど
ういうことなのかを知りました。
母への思い
戦争中は母が子どもだった私たちを守ってくれましたが、育て方は厳しいも
のでした。それを受けとめるような気持ちで大きくなりました。母は、子ども
の私たちに礼を言って亡くなりました。悲しんでいたら、お寺の住職が「親が
親であってくれたことがどんなに幸せなことか」とおっしゃってくれて、ずい
ぶん励まされました。
終戦後は私も裁縫を教えて生活をしてきました。
「縫った糸を始末する」とい
いますが、始末という言葉には、きれいに片づけることと、ものを大切にする
ということの2つの意味があるんですね。そんなことを思いついて、私の人生
は親に導かれて生きてきたなと思います。
若い世代へ伝えたいこと
広東で父が亡くなって、生きて帰った兵隊さんの戦友会の人たちと一緒にそ
の足跡をたどる旅行にも参加しました。聞いているのと行くのは全然違います。
聞いていられないような話を聞いたりもしました。そこで感じたのは、過ぎた
ことを大切にしなければならないということです。そうしないから、こんな世
の中になっています。みな、過ぎたことを思い出さないんです。返還前の沖縄
にパスポートを使って行きましたが、その頃はひめゆりの塔もまだ整備されて
いなくて、かわいそうなくらいでした。今は語り部のみなさんががんばってお
られます。過去に学ぼうという人がいたからこそ、あのような立派な慰霊塔が
建っています。過去をおろそかにしてはいけません。
p.14
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