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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL ダンドゥットの成立と発展(II) : オルケス・ムラユの発展 とムラユ音楽 田子内, 進 東南アジア研究 (1998), 36(3): 355-378 1998-12 http://hdl.handle.net/2433/56687 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 東 南 アジア研 究 36巻 3号 1 998年 12月 ダ ン ドゥ ッ トの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) オルケス ・ムラユの発展 とムラユ音楽 田 子 内 進* TheFo r ma t i ona ndDe v e l opme nto fDangdut(II): Or ke sMe l ayua ndMus i kMe l ayu susumuTAKONAI * I ti sl ar gel y agr eed t ha tt heor i gi n ofdangdut .t hemos tpopul armusi cl nI ndonesi a,i smus i k Mel a yu. Thi spaperhi ghl i ht g st hechangesand de vel o pmentoft hi smus l kMe l ayu.whi c h was r k e sMe l a yu i n1950-65. pl a yedbyo I n 195ト54,Mal ayan f i l ms wer es o po pul ar l nI ndone s i at ha tt he mus i ci nt he s ef i l ms, es pe c i al l y P.Raml e e' ssongs .Wer ef avor i t eswi t hI ndonesl an Pe opl e and ma ny o r ke s( mus i c al k e sMe l a yu a tt hatt i mewer e gr oups)i mi t a t e dandpl a yedP.Rar nl e e' ss ongs. Themc ' s tpopul aror Or kesMe l a yu Si nar Meda na nd Or kes Me l a yu Kenangan. I n 1954-58.0rke s Mel ayu Buki t Si gunt angr eac he dt hepea kofi t spopul ar i t y,t hr oughs uchpopul ars i nge r sasHas na hTa har ,Nur ai n.a ndSuhai mi . Thevc ombi neddi ver s emus i cali nf l ue nc es.I ncl udi ngI ndi anandLat l nmusi c, Wi t hmus i kMe l a yu a ndc ompos eds ongst hatdi f f er e df r om t hepr evi ouso γ k e sMe l a yu. By 1 959, 0r kesMe l ayuBuki tSi gunt angha ddec l i ne di npo pul ar i t y unde rt heons l aughtofr ock ' n'roll, al t houg h Se r o dj a,as ol emnMe l a yu s ongs ungbySai dEf f e ndi .wasabi ghi ti n1959-60. s umpahPe muda' '( yout hoat h) 1 nt hedevel opmentoft heC once ptofH I ndone sl a● 'f ol l o wi ngt he" of1928,pol emi cabouthow anew I ndonesi ancul t ur es houl dbecr e at ed,ar os eamongi nt el l ec t ual s. Thi spol e mi cwa sknown a s" pol emi kkebudayaan( Cul t ur ePol em ic ) / 'Kr o I WO ng Wa sr e gar dedas nat i onalmusi c( mus i knasi o nal )bec aus ekr o nco ng s ongswer ' ec ompos eda nds ungt oe nc oura get he nc o ng ha ddec l i ned I ndones i a npe opl edur i ngt hewarofl ndepe ndene e . Butt hepopul ar i t yofkyo i kMel ayu wa st henpopul ar ,butmus l kMel a yu wa snotr e gar de dasna t i onalmusi c. by1 954. Mus Rat her,i twast houghtofa sal owerf or mt hanot herki ndsofmusi ca ndasonet ypeofe t hnl C mus i ci nI ndone si a. Thet er m Me l a yu ha dbe enuse dt oi ndi ca t eI ndone si a.a si nBahas aMel aJ , u ( Bahas aI ndo nesi a) . Butt het erm Mel a yu i nml l Si kMe l a yu r ef err e dt ooneoft hee t hni cgr oupsi n k es Mel aJ u Wa sC ll a ed o r k e s Har mmuum be f or et he 1 950S . Butt he name was I ndones i a. Or oor k e sMel a yu be ca us ei t smus i cals t yl ewasl ar gel yi nf l ue nc e dbyMal ay ( Me l a yu)f i l m changedt S OngS. Suka r nocr i t i c i z edr ock l n'r ol li nhi sspeec hof17t hAugus t1959asde cade ntandcul t ur ei mper i al i s t i c. I nt hi sl ef t wi ng pol i t i c alat mospher e,we s t er nc ul t ur el i ker ock ' n'r ol landf l l m wasr es t r i c t e d. I ni t spl ac e,Mi na ngkabau( Wes tSumat er a)songsbecamepopul ; 1 rl n1 960a sa lcul t ur e. goodmodelofI ndonesi a nnationa ons, Or kesKe l anaRi awasf or med i n 1962and r el ea s e d ar emar kabl e Unde rt he sec ondi t i f i r sta l bum ent i t l ed… Ka filah.I El l yaAgus,oneoft hesi nger soft hi so r k e s.s angs eve ra ll ndi a nndang besi des vi ol i n,pi ano. i nf l uence d Mel a _ v us ongs. Or k e s Mel a yu had us ual l y ut i l i z ed ge ar i net ,c ont ra bass ,gui t ar ,and t u mpet r . ButOr kesKe l anaRi aut i l i z eds uL l ng a n d ac oordi on,cl *3197-1Sashi ogi ,Omi ya,Sa i t ama33ト0047, J a pan.emai l : kece @J a2. s one t . ne. j p 3 5 5 東南 アジア研 究 36巻 3号 ge nd a n g,t woi ndi s pe ns abl emus i c a li ns t r ume nt sf ord a n g d u E ,f ort hef i r . s tt i me . Ho we v er ,t he s es on gsby El l yaAguswe r eba nne d unde rt hes t r on ge rl e f t wi ngpol i t i c a l a t mo s phe r e ,t o ge t he rwi t hot he ryoun gba ndsl i keKos eBer s a uda r a ,be c aus eoft hes t r o ngI ndi an a ndwe s t e r ni nf l ue nc edi s pl a ye d. Ⅰ は じめに 本稿 は,前稿 1 )で検証 した, 19世紀 末 か ら20世紀 前半 の ム ラユ音 楽 ( mus i kMe l a p )とその 演奏楽 団, オルケス ・ム ラユ ( o r k s eMe l a y u)の発展 の続 編 と して, ム ラユ音 楽が ダ ン ドゥッ ト ( dangdut )- と呼称 を変 え る前段 階 の 1950年 か ら1965年 までの ム ラユ音 楽 とオルケ ス ・ム ラユ の発展 ,変容 につ いて検証,分析 す る もので あ る。 現 代 イ ン ドネ シアの代 表 的 な大 衆音 楽 ダ ン ドゥ ッ トは, その主 な支持 層 が下層 階級 ( k e l as ba wa h)で あ る こ とか ら, ダ ン ドゥッ トの用 語 が 生 まれ る以 前 の ム ラユ 音 楽 の 時代 ,即 ち, 1960年 代 後 半 頃 か ら長 ら く中上 流 階級 ( k e l a sme ne nga hda nal as )か ら =田舎 者 の音 楽 ( mus i k k ampu n ga n)" と蔑 まれて きた。 しか し,民 間テ レビ局 が続 々 と開局 し始 め た 1990年 代 に入 る と状況 は一変 し, ダ ン ドゥッ トは中上流 階級 まで その支持層 を広 げ,現在 で は 「イ ン ドネシア mus i kn as i o nall ndo ne s i a)( 後述 )」 と しての地位 を獲得 しつつ あ る。 カセ ッ ト売上 の国民音 楽 ( も常 に上位 を占め, イ ン ドネシアで流通す る全 カセ ッ ト数 の30% か ら40% は ダ ン ドゥッ トが 占 めてい る [ Kc mp a s,23Apri 11996] 02) しか し, これ まで, これ程 人気 の高 い ダ ン ドゥッ トの歴 史 につ いて は詳 しい研 究 は行 われていなか った。 イ ン ドネシアで は, 1990年代 に入 りマス コ ミ を中心 にその歴 史 を検 証す る動 きが始 まったが, これ らの検 証 は, 50,60年代 に活躍 した歌手 や楽 団の メ ンバ ーか らの断片 的 な聴 き取 り調査 3) が 中心 で, 当時 の文献 や録音 を参照 した体 系 的 な検証 はこれ まで行 われていない。 また,欧米諸 国や 日本で もダ ン ドゥッ トの歴 史 を正面 か ら取 り上 げた研 究 はほ とん ど行 われていないのが実情 であ る。 ダ ン ドゥッ トに関す る研 究 の草分 け的存在 で あ る フ レデ リ ック ( Wi l l i am 汁.Fr ederi ck)は, =ダ ン ドゥッ トの王" ロマ ・イ ラマ ( Rhomal rama)につ いて研 究 した論文 の 中で, 簡単 にで はあ るが 1950年 か ら1965年 までの ム ラユ音楽 の発展 につ いてお よそ次 の よ うに述べ て いる。 1950年代 か ら60年 にか けて, 「 指導 され る民 主主義 」の政治 的雰 囲気 の中で ブル ジ ョア性 を 1)田子内 [ 1 99 7:1 3 6-1 55 ] 2) しか し,イン ドネシアでは海賊版が横行 してお り,実際に流通 しているカセ ットの数は,公表され ている数の 3倍はあると言われている。 3)これらの歴史検証の動 きに呼応する形で,ダン ドゥット界に1 95 0,60年代のムラユ音楽を見直す動 I i sDa hl i a )の きが出始め,1997年にはこれらのムラユ音楽をリメイクした女性歌手イイス ・ダリア ( アルバム 「クチェワ ( k e c e wa失望 ) 」が百万本を超える大ヒットを記録 した。 。 356 田子内 :ダンドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) 強 め た クロ ンチ ョンに代 わ り,音 楽 家達 は よ り土着 的 な音 楽 を探 し始 め, そ れ をメ ダ ンとパ ダ ンで演 奏 されて い た オルケ ス ・ム ラユ の 中 に見 出 した。 オル ケ ス ・ム ラユが演 奏 す るム ラユ ・ Me l ayuDel i )と呼 ばれ る ム ラユ 音 楽 は, ピー ・ラ ム リ ( P.Raml e e:後述)主 演 の マ レー デリ ( 映画4) の大 ヒ ッ トに よって そ の地位 を確 固 た る もの に した 。 1 960年 代 に入 る と, 大 衆 か ら人 El l ya)の歌 うイ ン ド色 の強 い ム ラユ音 楽 は,左 翼 や民 族 主 義 的 グル ー プが 気 の あ ったエ リヤ ( 禁 止 した西 洋 ポ ピュ ラー音 楽 の代 替 音 楽 と して, 当時 の イデ オ ロギ ー的要 求 を満 たす こ とに な った [ Fr eder i c k1 982:1 06-1 08]。 フ レデ リ ックに よる と,1 950年代 , ム ラユ音 楽 が クロ ンチ ョンに代 わ って人気 を獲 得 した背 景 に は イ ン ドネシア固有 の音 楽 の発展 を求 め る政 治 的 な思惑 が あ った。しか し,ム ラユ音 楽 は, 930年 代 末 に は オ ル ケ ス ・ハ ル モ ニ ウム ( or k e sHar mo ni um)と呼 ばれ る楽 団 少 な く と も1 5) に よって演 奏 され て お り, 特 にバ クビアで は クロ ンチ ョン と並 んで 人気 が 高 か った。 そ して, 「 指 導 され る民 主 主義 」体 制 以前 の 1 950年代前 半 には, ム ラユ音 楽 を演奏す るオルケ ス ・ム ラ ユ が既 に ジ ャカル タを拠 点 に幅広 い活動 を行 って い た こ と も確 認 されて い る .この よ うに, フ 。 レデ リ ックの オル ケ ス ・ム ラユ の活動 とム ラユ音 楽 の流 行 の時期 に対 す る歴 史認 識 に は不 正確 な部 分 が あ る こ とが わか る。そ して,フ レデ リ ックが続 けて述べ て い る よ うに,1 960年代前 半 , イ ン ド色 の強 い ム ラユ音 楽 は, 当時禁止 され た西 洋音楽 の代 わ りにな りえたので あ ろ うか。 本稿 で は以上 の問題 意 識 に基づ き, ダン ドゥ ッ トの歴史,即 ち, ム ラユ音 楽 が どの よ うな過 程 を経 て ダ ン ドゥ ッ ト- と発展 したのか につ いて, その演 奏楽 団で あ るオル ケ ス ・ム ラユ の発 展 過 程 と併せ て,可能 な限 り一次資 料 を用 いて検証 ・分析 す る もので あ るO 一次 資 料 と して, , 大 衆 娯 楽 雑 誌 『ア ネ カ ( Ane k a) 』 『フ ァ リア (Var i a) 』 を主 に用 い, 当時 の録 音 も可 能 な限 り 参 照 す る こ とにす る。 ム ラユ 音楽 は, その地理 的利 点 を生か した イ ン ド, タイ, 中国 さ らに他 の東南 ア ジア, 中近 東 の諸 国 との貿 易 に よる永 い時 間 をか けたゆ るやか な文化接 触 をへ て,変容 を遂 げ熟 成 し沈殿 した音 楽 で あ り [ 滝沢 1 99 4:5 4], オ リジ ナ ル, 伝 統 音 楽 , 近 代 音 楽 の 3段 階 に分 類 され る [ Lukman 1 990:23]。本稿 で検 証す るム ラユ音 楽 は,扱 う時代 が 1 95 0年 代以 降で あ る こ とか ら, 特 に断 りの ない限 り,西 洋楽 器 が使 われ て い る近代音 楽 の段 階 と しての ム ラユ音 楽 で あ る。 なお, オル ケ ス ・ム ラユ を一つ の音楽 ジ ャンル とみ なす 見方 が 一部 にあ るが,6) ォル ケ ス ・ ム ラユ はあ くまで ム ラユ 音 楽 を演奏 した楽 団 を指 す 用語 で あ り,音 楽 の ジ ャ ンル を指 す 用語 で は な い。 ダ ン ドゥ ッ ト以 前 の音 楽 は,例 外 的 に 1 970年 代 に ム ラユ ・モ デ ル ン ( Me l a yumo de m) と呼 ぶ場 合 が あ ったが ,単 にム ラユ音 楽 と呼 ぶ のが 一般 的で あ った。 4)英領マラヤ ( 現在のマ レーシア,シンガポール)で制作 され た映画 。 5)オルケス ・ハルモニウムについては日子内 [ 1 9 9 7:1 5 ト1 5 2 ]参照。 6)例 え ば, 田 中 [ 1 9 9 6' .1 8 9 ]o 3 5 7 東南 アジア研究 3 6 巻 3号 Ⅰ Ⅰ 1 9 5 0 年から1 9 6 0 年 までのムラユ音楽 1949年 1 2月27日, オランダか らイ ン ドネシアへの主権委譲 に よってイ ン ドネシアの植民地解 放戦争 は終結 し, イ ン ドネシアには再 び平和が訪れた。翌 1950年 3月には,映画界 の巨匠 ウス Us ma rl smai l )が イ ン ドネシア初 の民族系 映画 会社,国民映画社 ( Per f i ni : マ ル ・イスマ イル ( pe r us a haa nFi l m Nas i onal )を設立す る等,様 々な文化 活動が活発 にな り [ sai d 1991:53],普 楽 の分 野 で も国営 ラ ジ オ局 ( RRI :Radi oRe publ i kI ndones i a)の ジ ャカ ル タ ・ス タジ オ楽 団 ( or kesSt udi oDj akar t a:以 下 OSD)の生演奏番組 が人気 を博 してい た。OSD は 1948年 オ ラ ン Rui o)によって結成 され,一時期著 名 な クロ ンチ ョンの作 曲家, イスマ イル ・マ ダ人 ライオ ( ルズキ ( I s ma i lMar zuki )が リーダー を務 めた こと もあ った l Ane k a,1Febr uar y1 956] oosD に は, 1910年代 末か ら活動 していたクロ ンチ ョン楽 団, リー フ ・ヤ ー ワ ( Li eHava 愛 しきジ ャ ワ)の メ ンバ ーであ るヤ ヒヤ ( M.J ahj a)がバ イオ リン演奏者 として参加す る等, 当時の著名 な 音 楽家達が多数参加 して いた。結成 当時, OSD の メ ンバ ーは約 25名 で あ ったが,サ イフル ・ バフリ ( Sai f ulBahr i )が リー ダー を務 めた1950年代前半 には50名 か ら成 る楽 団 に成長 し, OSD は黄金 時代 を迎 えた l i b i d. ]。OSD の演奏 した音 楽 は西洋音楽 か らクロ ンチ ョン, ム ラユ音 楽 まで多 岐 にわた って いた [ Ane k a,20Febr uar y1 954]。 サ イフル ・バ フ リは, OSD での活動 の 他 に, プスパ ・ドゥリマ ( PuspaDe l i ma ザ クロの花)と呼 ばれ る楽団 を1 945年 (? )に結成 し ている。 この楽団 は楽団名 にム ラユの名前 を付 していない ものの, ムラユ音楽 を新 しくア レン ジ した曲 を演奏 した と言 われて いる [ Ane k a,1Fe br uar y1956]。1952年 には,女性歌手ヘ ルヤ ンテ ィ ( Her yant i )が歌 ったプ トゥス ・ハ ラパ ン ( Put usHar a p an 絶望)が, イ ン ドネシアのみ Ane k a,1 0J une1 956]o な らず英領マ ラヤで も大 ヒ ッ トを記録 した l OSD が活躍 していた 1951年,最 も人気 のあ った音楽 は クロ ンチ ョンであ る。 クロ ンチ ョン が如何 に人気があ ったかにつ いて 『アネカ』は次の様 に述べ ている。 ほ とん ど毎 晩,全 国の国営 ラジオ局 の番組 か らクロ ンチ ョンが聞 こえて くる。 ( 中略)ク ロ ンチ ョンは非常 に人気のある音楽で, ほ とん ど全 てのバ ン ドが演奏 し, ほ とん ど全 ての 歌手が歌 ってい る。 ( 中略)ア ラブ系, 中国系, マ レー系 の住 民が,階級 を問わず み んな Ane k a,20November1951 ] クロンチ ョンを好 んで いる。 l 事実, RRIの地方局,例 えば, 中部 ジ ャワの ス ラカル タ放送局で は, RRIの専属楽団ス ラカ Radi oOr kesSur akar t a)が頻繁 に ク ロ ンチ ョンを演奏 して い た l Ane k a,1 ル タ ・ラジ オ楽 団 ( Apr i l1951 ]。 しか しその一方で , 1951年 にはム ラユ音楽 を演奏す る楽団, オルケス ・ム ラユが ジ ャカル タ 358 田子内 :ダンドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) で その活動 を活発 化 させ て い た。 当時 人気 の あ った オルケ ス ・ム ラユ は, オルケ ス ・ム ラユ ・ シナ ル ・メ ダ ン ( Or ke sMel ayuSi narMedan 楽 団 「メ ダ ンの光」,以下 OMSM)とオルケ ス ・ Or kesMel ayuKenangan 楽 団 「 想 い 出」,以 下 OMK)で あ る。 OMSM と ム ラユ ・クナ ガ ン ( OMK は, OSD と と もに RRIジ ャカ ル タ放 送 局 で そ れ ぞ れ の演 奏 番 組 を もつ 程 の 人気 楽 団 で あ った。7 ) OMSM は ウマ ル ・フ ァウ ジ ・アセ ラ ン ( UmarFauz iAs er an)が 1 948年 頃結 成 した楽 団 で, A.Harr i s ), ア スマ ニ ( As mani ), エ マ ・ガ ンガ ( EmmaGangga)等 が い 専 属 歌 手 に はハ リス ( 954] 。 1 951年 に は, ハ . )ス8) が歌 った ク ダ ク ・ラ . )( Kudak ul ar i 僕 の馬 た [ Ane k a,1May1 Tamba j ong 1992:Vol .I,196] 。 また,女 性 歌 手 ハ スナ ・タハ ル が 走 る)が ヒ ッ トして い る [ ( Has nahTahar:後述 )もこの楽 団 で歌 って い た。 エ マ ・ガ ンガ とハ スナ ・タハ ル は, いず れ も 1940年 代 後 半 , 西 スマ トラ の パ ダ ンで 活 動 を行 っ て い た シ ャ ム ス デ イ ン ・シ ャ フェ イ ( sj ams udi nSj af ei )が 率 い る トニ ー ル劇 団9) ラ トゥ ・ア シ ア ( Ra t uAs i a)に参 加 して い た。 ラ トゥ ・ア シアは 1950年 に活動 の拠 点 をジ ャカル タに移 し,両 人 は ラ トゥ ・ア シアで活動 を続 け る一万 , ム ラユ音 楽 の歌 手 と して OMSM に参加 した [ Ane k a,10Sept ember1953;1 0J une1954; po sKo t a,24Oc t ober1970] 0 -万 ,OMSM と共 に人気 の高 か った OMK は,1951年 に フ シ ン ・ア イデ イ ッ ト ( Hus i nAi di t ) が 結 成 した 楽 団 で, 結 成 当 時 は オ ル ケ ス ・ハ ル モ ニ ウ ム ・ク ナ ガ ン ( Or kesHar moni um Kenangan)と呼 ばれ て い た。 代表 的女 性 歌手 に は スハ ナ ( Suhanah)が い る [ Ane k a,10Augus t 1 95 4 。OMSM と OMK が どの よ うな ム ラユ音 楽 を演奏 して い たか につ いて は, 残 念 なが ら録 ] 音 が ほ とん ど現 存 しない た め は っ き り した こ とは わ か らな いが , ハ リス に よる と, oMSM は イ ン ド色 の強 い ム ラユ 音 楽 を演 奏 し, 一方 ,OMK を始 め とす る ほ とん どの オル ケ ス ・ム ラユ は, 当 時 人 気 の 高 か っ た マ レー 映 画 音 楽 を模 倣 した 演 奏 ば か り行 っ て い た と い う [ ci t r a 1 994:No.223 ] 。 この時期 , マ レー半 島で演奏 されて い た音 楽 の イ ン ドネシア流 入 は,大衆 演 劇 バ ンサ ワ ンを 介 して もた らされ た 1900年 代前 半 とは異 な り, その媒 介 の手段 は映画 に移 行 して い た 。 1950年 か ら55年 まで の輸 入 映画 に関す る統計 に よる と, マ レー映画 の上 映数 は, 1950年 6本 ,51年 25 本 ,52年 61本 ,53年 75本 ,54年 47本 ,55年 32本 で ,51年 か ら急 激 に増 加 し, 54年 か ら逓減傾 向 に転 じた こ とが わか る。 この時 期 ,最 も多 く輸 入 され た映画 はア メ リカ映 画 で, 毎 午 l, 500本 か ら2、 500本 の映 画 が 上 映 され て い た Uauhar i1992:53] 。 この よ うに, 上 映 され た映 画 は欧 米 系 の映画 が圧倒 的 多数 を占めて い たが,観客 数 をみ てみ る と,上映数 ほ どの大 きな開 きはな 7) l Me r d e k a,6De c e mbe r1 95 2;1 2De c e mbe r1 95 2 8)ハ リスは,1 97 7 年,ロマ ・イラマ初の主演映画,「ブナサラン ( Pe n as a r a n) 」の監督を務めた0 9)近代商業劇団。 トニール劇抱については猪俣 [ 1 9 9 6:4247 ]参照. ]0 359 東南アジア研究 3 6 巻 3号 か った。統計 の時期 が若干ず れ るが, 1 952年 か ら60年 まで の 9年 間で映画館 を訪 れ た観 客数 の 総 数 は約 4億 5千万 人で,その うち欧米 映画 の観 客 数 は 2億 7千万 人で,イ ン ド,日本,マ レー 映画 は 1億 3, 500万 人,国産 映画が4, 500万 人で あ った l i b i d.:71 ] 。 この うち, イ ン ド,マ レー 映画 は主 に二級 映画館 で上映 され,観客層 は下層 階級 か ら中流 階級 が 中心 であ った。 イ ン ド, Ane k a,1 0J anuar y マ レー映 画 の 人 気 の 理 由 は, 映 画 の 中 に必 ず 歌 が 挿 入 され て い た こ と [ ],更 に圧 倒 的 な人気 を誇 るス ター俳優 が存在 して いた こ とであ った Da uhar i1 992:62]. 1 957 つ ま りス ター ・システムに よって,観客 はス ター を 目当て に映画館 に足 を運 んだのであ る。 そ Kas maBo ot y)が そ して, マ レー映画 の場合,男優 ピー ・ラム リ10) と女優 カスマ ・ブ-テ ィ ( の ス ターであ った。 952年 初頭 の頃 か ら見 え始 め,女優 カ スマ ・ブ『ア ネカ』 の ピー ・ラム リに関す る記事 は1 テ ィ,男 優 オスマ ン ・グマ ンテ ィ ( Os manGumant i )らの人気俳 優 とと もに, 当時人気 が 出始 めて い る男優 と して紹介 されて い る l Ane k a,1 0J a nua r y1 952 ]。 マ レー映画 は1 952年 頃か ら急 速 に人気 を獲得 し,例 えば, 同年後半 にバ グ ンで上映 され たマ レー映画 「ア ンジ ュラ ン ・ナ シ ブ ( Andj umnnaS i b 運命 の定 め) 」 は 9日間大入 りが続 い た [ Ane k a,1 00c t ober1 95 2]。 また, イ ン ド人 S.ラーマ ナ ー タ ン11) が監 督 を務 め た 「ジ ュウ イ タ Uuwi t a 美 人) 」 は ジ ョク ジ ャ カル タで 3カ月 間連 続 で上 映 され た [ Fr e der i c k1 982:1 06-1 07 ]。 マ レー映 画 の 中で歌 わ れ た 歌 は,上映 翌 日には街角 のあ ち こちで耳 にす る程 の人気 で あ った [ Aneka,100ct ober1 952 ]。 そ して,1 953年 には ピー ・ラム リとカスマ ・ブ-テ ィの人気 は最高潮 に達す るこ とにな る。 彼 らの一挙手 一投足 にイ ン ドネシアの若者 の関心 が集 ま り,彼 らの服装 ,髪型,化粧等 を模 倣 す る若者 が激増 した l Ane k a,1 0De c e mbe r1 953]。 マ レー映画 の人気 の理 由 は,庶民 の 日常生 活 に根差 したス トー リー設定 と挿入歌 にあ った。中傷 が原 因で妻 と離婚す る愚 か な夫 の話 な どの, 庶民 が 日常生 活 の 中で見 た り聞 いた り経験 した りす る話 が取 り上 げ られ,観客 は映画の 中に挿 入 され る感情 豊 か な ど一 ・ラム リの歌 に 自己 を投 影 させ たのであ る l Ane k a,1 0Augus t1 95 4]。 英領 マ ラヤで は1 940年代 後半 か ら1 95 0年代 にか けて多 くの歌手 が生 まれ, レコー ドや映画 を 通 じて人気 を獲得 していた。 当時英領 マ ラヤで流行 していた音 楽 は,西洋 ポ ピュラー音楽 やサ ンバ, チ ャチ ャチ ャ等 の ラテ ン音 楽,ハ ワイア ン音楽, イ ン ドの映画音 楽等 の要素 を取 り入 れ た音 楽 で あ った [ Loc kar d1 991:1 9 ]。 ピー ・ラム リも, これ らの音 楽 の要 素 を巧 み に 自分 の 音楽 に取 り入 れたが, その一方 で ム ラユ伝 統音 楽 の要素 も残 した l i b i d.:2 4]。実 際 に彼 の歌 を 1 0) ピー ・ラムリは,1 9 2 9 年 3月2 2日ペナン島に生 まれ, 「 ナンタ ( Cl ' nt a愛)」( 1 9 4 8 )で映画界にデビュー した。彼 は,映画の中で,専門のプレイバ ック ・シンガーを使わずに歌 を歌った最初の俳優で, 1 9 5 7 年,東京で開催 されたアジア映画祭で, 「アナ ックゥ ・サザ リ ( Anak k uSa z al i 私の子,サザ リ) 」 の中での演技が高 く評価 され,主演男優賞を受賞 した。また,作曲能力 も優れ, 「アジザ- ( Az i z ah) 」 ( 1 9 4 8 )から 「アイル ・マタ ・デイ ・クアラ ・ルンプル ( Ai rMat aDiKual aL , umPur クアラルンプー 」( 1 9 7 3 )に至るまで約2 5 0曲を作曲 した [ Ha num1 9 9 0:l l 2 0 ]。 ルの涙) l l )S .ラーマナータンについては松岡 [ 1 9 9 7:1 1 3 1 2 3 ]参照。 3 60 田子 内 :ダ ン ドゥ ッ トの成立 と発 展 ( u) 聴 いて み る と, ム ラユ伝 統 音 楽 色 の強 い 曲が あ る一方 で, チ ャチ ャチ ャ等 の ラテ ン音 楽 を大胆 に取 り入 れ た 曲や,日本 の歌 謡 曲 に似 た 曲,ジ ャズ っぽ い 曲,そ して悲 しいバ ラー ド等 が あ り, 多種 多様 な歌 を歌 って い た こ とが理解 で きる 。 ピー ・ラム リの歌 が イ ン ドネ シ ア音 楽 界 を席 巻 して い た 1 95 4年 , イ ン ドネシ アで は, 「 国民 音 楽」 と して親 しまれ て いた クロ ンチ ョンの 人気 が, ク ラシ ック,西 洋 ポ ピュラー音 楽 , ム ラ 95 4] . 一 方 , この 頃, ジ ャカル ユ 音 楽 の 人気 に押 され繁 りを見せ 始 め て いた [ Ane k a,1May 1 タで は オル ケ ス ・ム ラユ ・ブキ ッ ト ・シ グ ン タ ン ( Or kesMel ayuBuki tSi gunt ang,以 下 OMBS 楽 団 「シ グ ン タ ンの 丘 」)12) と呼 ば れ る楽 団 が, OMSM に代 わ って 人 気 を獲 得 し始 め て い た l i b i d. ] 。1 3) oMBS は 1 95 0( 51?)年 頃 ア ・ハ リク ( A.Chal i k)が結 成 した楽 団 で,専 属歌 手 に は Komar i ah), ヌル ・ア イ ン ( Nur'ai n), ムルヤ ニ ( Mul j ani ), ア ビ ハ スナ ・タハ ルや コマ リア ( di n)等 が い た [ Ane k a,1 0May 1 955] 。 OMBS は, 1 952年 頃既 に RRIジ ャカ デ イン ( A.Z.Abi 0Sept ember1 952], そ の全盛 時代 はハ スナ ・タハ ルが ル タ放 送 局 で 活躍 して いたが [ Ane k a,1 OMSM か ら移 籍 して きた 1 95 4年 中 頃 か ら 1 958年 頃 まで で あ る [ Ane k a.1May 1 95 4;1 0June 1 95 4;1January 1 959] 。 OMBS は, 1 95 0年 代 後半 の オル ケ ス ・ム ラユ を代表 す る楽 団 と言 われ て お り, テ ン タ ・ハ ムパ ( Cf nt aHampa 空虚 な恋 )な ど現 在 で も歌 い継 が れ て い る曲 を数 多 く 残 して い る。 また, イ ン ドネ シアの ム ラユ音 楽 が , マ レー映 画音 楽 の影響 か ら脱却 して独 自の 発 展 を遂 げ る際 の先 駆 的役 割 を果 た した楽 団 と も言 わ れ て い る [ ci E r a1 994:No .223]。 従 っ て,以 下 で OMBSの楽器編 成 及 び音 楽 ス タイル につ い て詳 し くみ る こ とにす る。 設 立 者 の ア ・ハ リク は 1 920年 ジ ャ カ ル タで 生 まれ, 小 さい こ ろ か ら オ ル ケ ス ・ガ ンブ ス ( or kesGambus) と呼 ばれ る ア ラブ音 楽 の演奏 楽 団 に夢 中 にな り,1 935年 ,1 5歳 の時 にヤ ー ワ ・ ガ ンブ ス ( J avaGambus), そ して 1 939年 に は オ ル ケ ス ・ガ ンブ ス ・プ ム ダ ・ブ タ ウ イ ( Or kes GambusPemudaBet awi 楽 団 「ブ タウ イの青 年 」 )と呼 ば れ る楽 団 で, ガ ンブ ス14) の 奏 者 と 933年 に トニ ー ル劇 団, ダル ダネ ラ ( Dar danel l a)15) の世 界公 演 に参加 した後, して参 加 した。1 OSD の バ イ オ リ ン演 奏 者 と して も有 名 で あ った ヤ ヒヤ よ りバ イ オ リ ンの教 授 を受 け, OMBS 結 成 後 も, 長 ら くバ イ オ リ ン演 奏 者 と して OSD で の 活 動 を続 け て い た [ AI Wk a,1 0January 1 95 4 ] 。 OMBSの 名 称 は, 著 名 な 作 曲 家 で 音 楽 評 論 家 で も あ る ア ミル ・パ サ リ ブ ( Ami r pasari bu)が 付 け た もの で [ Ane k a,1 0May 1 955 ], そ の 由 来 は 明 らか に さ れ て い な い が , 1 2 )OrkesMel a yuBuki tSe gunt angと綴 る場 合 もあ る0 1 3 )スマ トラ島 の メ ダ ンで は, リ リ ・スヘ イリ ( Li l ySt l h e i r y,1 91 5 1 7 9 )が ,1 9 5 3 年 ,RRIメ ダ ン放 送 局 Or ke sSt t l di oMe da れ)を結 成 し, ブ ガ ・ラ ンパ イ の 尊 属 楽 団 , オ ル ケ ス ・ス トゥデ イオ ・メ ダ ン ( ( Bu7 WaRa mp a i花 束 )や ラ ユ ナ ン ・ク ンチ ャ ナ ( Ra _ v una l lk e nca naけ い 曝 き)な ど の ム ラユ ・デ T ) ( Me l ayuI ) e l i )と呼 ばれ る伝 統 色 の 強 い ム ラユ音 楽 を,現 代 的且 つ 洗 練 され た オー ケ ス トラで演 奏 し て いた [ pa nt l aPe r i n ga t anSe wi nduWa f a t nyaKompo ni sLi l ySuhe i r y1 9 8 7:1 6 1 1 8 ] 。 〕 1 4)ア ラブ音 楽 の ウー ドにあ た る 6弦 の 旋律 楽器 。 1 5 ) ダル ダ ネラにつ いて は猪俣 [ 1 9 9 6:4 2 4 7 ,1 2 41 2 6 ]参照 。 361 東南 アジア研究 3 6 巻 3号 南 スマ トラ地方 パ レンバ ンにあ る仏教 遺跡 の地 名, ブキ ッ ト ・ス グ ンタン ( Buki tSe gunt ang) か ら取 った もの と思 われ る。OMBSは専属歌手 を除 く11名か ら成 る楽 団で,楽器編成 は,バ イ オ リン, トラ ンペ ッ ト, クラ リネ ッ ト, ピア ノ, アコーデ ィオ ン, コ ン トラバ ス, ギ ター, グ ge ndang :片面太鼓),マ ラカスか ら成 って いた。 この楽器編成 は当時 の オルケ ス ・ム ンダ ン ( ラユ と して は標 準 的 な もので [ 田子 内 1 997:1 39-1 40], ダ ン ドゥ ッ トの特 徴 で あ る グ ンダ ン Suli ng:竹笛)は まだ使 われていなか っ は使 われていた ものの,もう一つの特徴 で あ るス リン ( た。OMBSの活動 は,RRIジ ャカル タ放 送局 の番組 や結婚式等 の行事 での演奏が 中心 であ った が hne k a,1 0Ma y1 955],ウスマル ・イスマ イル監督 の代表作 であ る映画 「テ ィガ ・ダラ ( Ti ga Dar a 三 人 姉 妹)」( 1 956)の 音 楽 演 奏 を務 め る な ど, 映 画 音 楽 の 分 野 で も活 躍 した [ ci t r a 1 99 4:No.223]。ア ・ハ リクは OMBSで歌手兼作 曲 を担 当 し,彼 が作 曲 したマ リラ ッ ( Mal i l ah さあ さあ),マ リ ・ブルデ ンダ ン ( Mar ib e r de nda ng 一緒 に歌 お う)は, イ ン ドネシアのみ な ら i b i d. ]。OMBSは, レコー ド会社 イ ラマ ( I r a ma )16) に多数 の ず英領 マ ラヤで も人気 を集めた [ 録音 を残 してお り,発売 された レコー ドは当時 と しては驚異 的 な売 り上 げ を記録 し, イ ラマ社 957年 に最 も売 れた 曲は, ヌル ・アイ に とって は最大 の収益 を もた らす楽 団であ った。例 えば1 ンが 歌 った ブ ル ン ・ヌ リ ( Bur ungNur i オ ウ ム)で, 次 い で オ ル ケ ス ・デ ン ダ ン ・ク ラナ ( or ke sDe ndangKe l a na 楽 団 「さす らい人 の歌 」 )が演奏 し, ジ ュウ イ タ ( Dj uwi t a )が歌 った I n d ahnyaAl am 美 し き 自然), ス ハ イ ミ ( Suha i mi )が歌 う ドゥニ ア イ ンダ ッこ ヤ ・ア ラ ム ( ( Duni a 世 界), ハ スナ ・タハ ルの ア イガ ( Ai ga)の順 にな ってい る [ Mus i k a1 958:No.6]。 これ らの曲は現在 で もダン ドゥッ ト界で歌 い継が れてい るお馴 染みの曲ばか りであ るが,上位 4曲の うち, イ ンダ ッニ ヤ ・ア ラム を除 く全 ての曲が,OMBSが演奏 した曲で あ る。 この事 実 か ら,1 95 0年代後半 の ム ラユ音楽 の人気,特 に OMBSの人気 の高 さが窺 えるであろ う。そ して, この OMBSを支 えたのが,女性 歌手 ハ スナ ・タハ ル とヌル ・アイ ンの人気 で あ った 。 特 にハ スナ ・タハ ルの人気 は高 く,彼女 は1 95 0年代 の ムラユ音楽 を代表す る女性歌手 とまで言 われて い る。この頃のハ スナ ・タハ ルの歌 い方 の特徴 は, 現在 の ダ ン ドゥッ ト歌手 の最大の特徴 とな っ て い る 「チ ェ ンコ ック ( c e ngk o k)」と呼 ばれ る音 高 を上 下 に連続 的 に変化 させ る `こぶ し'は ほ とん どな く, ム ラユ伝統音楽色 の強い比較 的抑揚 のない平坦 な歌 い方 を していた。ハ スナ ・ タハ ルは映画界 に もその活動 の範 囲 を広 げ,1 952年 か ら1 957年 までの間 に 8本 の映画 に出演 し てい る [ si ne ma t e kI ndone s i a1 979:206]。 この OMBSが演奏 した音 楽 につ いて,雑誌 『アネカ』 の 1 959年 1月 1日号 は次 の様 に述 べ てい る。 1 6 )1 9 5 1 年設立の国営 レコー ド会社。 362 田子内 :ダン ドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) ジ ャカル タにお け る ム ラユ音楽 の発 展 につ いて議論 す る場 合 には, OMBSを忘 れ るわ け に は い か な い。 数 年 前 の OMBSの演 奏 に は欠 点 が た くさん あ ったが, イ ラマ社 で の レコー デ ィング以 来 その演 奏 は徐 々 に洗練 されて きた。演 奏技 術 が 向上 す る に伴 い ア レンジ も変 わ り, ム ラユ音 楽 に時 々マ ンボや コ ンガ, ブ ルー ス等 の他 の音 楽 が混 ざ って い る よ うに聞 こえ る。 ア ・ハ リクは大衆 の時好 に合 わせ て イ ン ド音 楽 や ラテ ン音 楽等 を取 り入 れた ア レ ンジ も行 って い る。 ( 中略)従 って, 現 在 の OMBSの演 奏 す る音 楽 は スナ ン ドゥ ン ・テ イ Se n andungTi o n gho a 中 国 の鼻 歌 )や ク ア ラ ・デ リ ( Kual aDe L i デ リ川 河 口) オ ンホ ア ( の よ うな ( 伝統 的 な)ム ラユ音 楽 ばか りで な く, よ り帽 の広 い音 楽 を演奏 して い る。 この よ うに, OMBSの音 楽 に対す る評価 は,前述 の ピー ・ラム リの音 楽 に対 す るそ れ と非常 に似 て い る こ とが わか る。 実 際 に, この時期 の OMBSの演 奏 や ハ スナ ・タハ ルの歌 を聴 い て み る と,伝 統色 の強 い ム ラユ音 楽が あ る一方 で, イ ン ド音 楽 や ラテ ン音楽 の影響 を受 けた 曲が あ るな ど,実 に多種 多様 で あ った。1 9 5 0年代前半 に活躍 した オル ケス ・ム ラユ の ほ とん どが, 単純 に ピー ・ラム リの音 楽 を模 倣 した演奏 を行 って い たの に対 し, OMBSは, ア ・ハ リク らが 作 曲 した オ リジナ リテ ィ溢 れ る音 楽 を演 奏 して 人気 を集 め た こ とは注 目すべ きこ とで あ る。 ピー ・ラム リの影 響 を受 けなが ら も独 自の ム ラユ音 楽 の発 展 を模索 し始 め た オル ケス ・ム ラユ が, この OMB Sであ った 。 しか し, OMBSの 人 気 は 1 9 5 9年 に 入 る と急 速 に 落 ち て い っ た [ Ane k a.1Oc t o b e r1 9 5 9 ]。 1 9 7 0 年1 0月 に ジ ャカル タの イスマ イル ・マ ルズキ 公園 ( Ta ma nl s ma i lMar z uki )で の演 奏 を最 後 に, OMBSは ム ラユ 音 楽 界 か ら姿 を消 す が, 実 際 は 1 9 6 0 年代 以 降 その活動 はほ とん ど報告 されて い な po sKo t a,6Oc t o be r1 9 7 0 ]。 OMBSの 人 気 低 い [ 下 は ム ラユ 音 楽 全 体 の 人気 の低 下 を示 す もの で あ った。 1 9 5 9 年 は,エ ル ヴ イス ・プ レス リーやパ ッ ト ・ブ- ン等 の ロ ックの 人気 が イ ン ドネ シアの若 者 の 間で ピー ク を迎 えて いた。 イ ン ドネ シアにお け る ロ ックの影響 は1 9 5 5 年 の映画 「ロ ック ・ア ラ ウ ン ド ・ザ ・ク ロ ック ( Ro c kAr o undt heCl o c k ) 」 の 成 功 に よ り全 国 的 に広 が っ た [ pENSI1 9 8 3: 21 ]。 ギ ター を持 って バ ン ドを結 成 す る若 者 達 が 9 5 8 年1 2月 に は これ らのバ 都市部 を中心 に現 れ ,1 写実1 0 MBSの看板歌手,ハスナ ・タハル ン ドの 腕 を競 い 合 う 「 流 行 歌 フェ ス テ ィバ ル 出所 :雑誌 『 ムシカ』1 9 5 8 年 6月号の表紙 363 東南アジア研究 3 6 巻 3号 ( Fes t i vall ramaPopul er)」が開催 され る等 , ロ ックの人気 は1960年代 を前 に最高潮 に達 しつつ あ った [ Ane k a,20January1959]。 この ロ ックの勢 い に押 され る形 で ム ラユ音楽 の 人気 は徐 々 に下降線 をた どってい った。例 えば, 1959年 1月 17日, 中部 ジ ャワの ジ ョクジ ャカル タで楽団 Pe s t ao r k e s )が開催 され, 当時 の人気 楽 団, オルケス ・ムラユ ・ドゥンダン ・ フェステ ィバ ル ( クラナ等 の他 に, ロ ック ・バ ン ドが複 数参加 した。 しか し, ここで の オルケス ・ム ラユの演奏 は観衆 か ら全 く歓迎 されず,野次 までが飛 ぶ有 り様 であ った。 その一方で,エ ル ヴ イス ・プ レ ス リー等 を模 倣 したバ ン ドはいず れ も大成功 を収 め た l Ane k a,10February1959]。 更 に, ム ラユ音楽 の人気凋落 を端 的 に示す 出来事 が同年 9月 11, 12日に同 じくジ ョクジ ャカル タで開催 Konkur sl agu1 aguMel ayuseDj awaTengah)」で され た 「中部 ジ ャワム ラユ音 楽 コ ンクール ( あ る。 この コ ンクール には OMBSの看板歌 手 ハ スナ ・タハ ルが ゲ ス ト出演 したが,予想 に反 して会場 の 3割 か ら 4割 が 空 席 とな り, 主催 者 側 は大 幅 な赤字 とな った [ Ane k a,1Oct ober 1959]。 ム ラユ音楽衰退傾 向が強 まる中で, 1950年代最後 の人気歌手 として登場 したのがサ イ ド ・エ Bondowos o) フェ ンデ ィで あ る。 サ イ ド ・エ フェ ンデ ィは1925年 東部 ジ ャワのボ ン ドウ オソ ( 生 まれで,戦後 間 もな くは ジ ョクジ ャカル タの トニ ール劇団 デ ワ ・マ ダ ( DewaMada)に参 加 していたが, ジ ャカル タに移 った 1940年代 末 には OSD に歌 手 と して参加 した。 当時 はエ フェ Ef f endi ) とい う名前 で活動 を続 けてお り, 1950年代前半 は歌手 と して よ りも,バ フテ ンデ ィ ( ラ ・ラジ ュ ( Baht e r aLad j u 船 は行 く)の作 曲者 と して有名で あ った [ Ane k a,1J ul y1954]。 そ Ane k a,1May1954], 1957年 (?)には楽 団 オル の後 , 1954年 頃, OMBS に歌手 と して参加 し [ ケ ス ・ム ラユ ・イ ラマ ・ア グ ン ( Or kesMel ayul ramaAgung 楽 団 「 偉 大 な る音 楽」 以 下, OMI A)を結成 した。 この楽 団 には,著 名女性 歌 手 ル ピア ( Rubi ah)17) も参加 し, 1957年 末 に イ ラ マ 社 よ り伝 続 色 の 強 い パ タ ・ハ テ ィ ( Pat ahHat i 失 恋)や ジ ャ ラ ック ・リ ンテ ィ ン ( Dj al akLi nt i ng 九官 鳥)を発 売 して注 目を集 めた [ Mus i ka 1 958:No.5]。 サ イ ド ・エ フェ ン Se r o dj a 睡蓮 )」 の大成功 に よって デ ィの人気 は 1959年 1月,彼 が主演 す る映画 「ス ロジ ャ ( 一気 に高 まった。18) この映画の中で,サ イ ド ・エ フェ ンデ ィは自作 曲 6曲 を含 む計 8曲 を歌 っ Aneka,20January1959;10Apri 11959],特 に映画 の タイ トルに もな ったスロジ ャは, てお り l 高 らか に歌 い上 げ る大作 と して,映画 の成功 を契機 に一気 に人気が高 まった。サ イ ド ・エ フェ ンデ ィはこの 曲で ムラユ音楽界 にお ける名 を不動 の もの と し, イ ン ドネシアで最 も人気 のあ る 歌 手 と まで 言 わ れ る よ うに な り, そ の 人気 はマ レー シ ア に まで 広 が った [ Ane k a,1Mar ch 1960]。彼 の人気 を裏付 ける もの と して,例 えば,1960年 1月 にメダ ンで 「 北 スマ トラサ イ ド ・ 1 7) ル ピアは, ムラユ音楽の歌手 として第二次世界大戦前 の英領マラヤで既 に高い人気 を得ていた l Has nahTaharVol.I I1 95 8? ]. 1 8) この映画は大成功を収めたため,翌1 960年に続編が制作 されている [ ci l r a1 994:No. 22 4]. 364 田子内 :ダンドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) エ フェ ンデ ィ歌 唱 大会 ( Sa j e mbar anyanyi a nSai dEf f e ndis e SumUt a r a ) 」が 開催 され て い る 。 一 人の歌手 を対 象 に した この種 の大会が行 われ る こ とは当時極 めて珍 しく,サ イ ド ・エ フェ ン デ ィの 人気 の高 さに加 えて, そ の独 特 な高 音 と特 徴 あ る歌 い 回 し故 に この種 の大 会 が 可 能 に i b i d. ]。 な った と言 われてい る l スロジ ャを始 め とす るサ イ ド ・エ フ ェ ンデ ィの 曲 は, マ レー シア とシ ンガポ ールで もヒ ッ ト Li f e)よ りサ イ ド ・エ フェ ンデ ィの ベ ス ト盤 し, 現在 で もマ レー シアの レコー ド会 社 ラ イフ ( 950年 代前半 か らマ レー映画音 楽 の影響 を受 け続 けた イ ン ド が発売 され てい る。 この よ うに,1 ネシアの ム ラユ音楽 は, OMBSを経 て,サ イ ド ・エ フェ ンデ ィの登場 に よって, その影響 か ら C〟γ α1 994: 完 全 に脱 却 し, 逆 に マ レー シ ア の 音 楽 に影 響 を与 え る よ うに な った の で あ る [ No.223]。 Ⅰ Ⅰ Ⅰ 国民音楽 とムラユ音楽 前章 で は, クロ ンチ ョンに代 わ って大衆 の人気 を獲得 した 1 95 0年代 の ム ラユ音楽 につ いて詳 細 に見て きたが, この章 で は, ム ラユ音 楽 が イ ン ドネシア音楽 界の 中で どの よ うな位置 を占め mus i knas i o nalI ndo ne s i a)に対 す る議論 と関連づ けなが て いたのか を, イ ン ドネシア国民 音 楽 ( らみて い くこ とにす る。 イ ン ドネシア国民 音 楽 とい う概 念が生 まれ たの は, 当然 の こ となが ら, 「イ ン ドネシア」 と い う国家 ,民族 の概 念 が生 まれ た20世紀 以 降で あ る。 その20世紀前 半 の オラ ンダ東 イ ン ド社 会 の 中で大衆 の心 を掴 んで いた音楽 は クロ ンチ ョンで あ った 。 ポ ル トガル音楽 にムーア人 と呼 ば れ た北 アフ リカの イスラム教徒 の音楽 が混 じ り合 ってで きた 「 雑種 」音楽 と考 え られてい る ク 991:1 22], 1 9世 紀 末 に生 まれ た近 代 大 衆 演 劇 コ メデ ィ ・ス タ ンプ ル ロ ンチ ョン は [ 土屋 1 ( k o me dt 's t a mb o e l )に よ って ジ ャワ各地 に広 が った [ 田子 内 1 997:1 45] 。 そ して, クロ ンチ ョン 945年 の独立宣言 以 降, クロ ンチ ョンとイ ン 作 曲家 イスマ イル ・マ ルズキが活動 を活発 にす る1 ドネ シア ・ナ シ ョナ リズムの流 れ は一つ に溶 け合 い, クロ ンチ ョンは イ ン ドネシア民族 の民族 991:1 93-1 94] 。 音楽, い ままさに生 まれ た国家 を代表 す る国民音楽 とな った [ 土屋 1 ところが, クロ ンチ ョンを国民音楽 とみ なす動 きはそれ以前 に既 に始 まって いた 。 イ ン ドネ 928年 の 「 青年 の誓 い」以 降, ナ シ ョナ リズムの シア とい う概 念 を具体 的且つ正式 に宣 言 した 1 i J f L れ は,新 しい国家創 出 を 目指 して来 るべ きイ ン ドネシア国民文 化 のあ り方 を模 索 す る方 向- Ro s i di1995:10] 。 この文 脈 の 中で展 開 され た のが , 1930年 代 半 ば頃 に行 と向 か って い った [ われ た 「 文 化 論 争 」19) で あ る 。 あ りうるべ きイ ン ドネ シア文 化 の姿 をめ ぐって繰 り広 げ られ S.Ta kdi rAl i s j a hba na)と, た この論 争 は, 欧 化 主義 を主 張 す る タ クデ ィル ・ア リシ ャバ ナ ( 1 9)「文化 論 争」 につ いて は, 山本 [ 1 9 81 ], 及 びRo s i d l[ 1 9 9 5:7 1 1 8 9 ]参照O 365 東南 アジア研 究 3 6 巻 3号 長 い伝統 が あ る地方文化 の 中に積極 的 な価値 を兄 い 出そ うとす るサ ヌ シ ・バ ネ ( SanusiPane ), ス トモ ( Dr .Soe t omo), アデ イヌゴロ ( Adi ne gor o), デ ワ ン トロ ( KiHadj arDewant ar a)らの間 で展 開 され た もの で あ る。 新 しい イ ン ドネ シア民 族 の発 展 の 中で民族 と して の ア イデ ンテ ィ テ ィを見 出そ うとす る動 きは, この 「文化 論争」 を契機 に,文学 ,音 楽,演劇 ,絵 画 な どの各 i b i d.:1 0-1 6 ] 。 特 に音 楽 の分 野 で は, タクデ ィル ・ア 1 )シ ャ 分野 で も具体 的 に始 まってい た [ バ ナ と意 見 を同 じく して いた アル メ イ ン ・バ ネ ( Ar mi j nPane)が, ポ ル トガル とイ ン ドネ シ ア 民 族 の 出合 い に よって生 まれ た音 楽, ク ロ ンチ ョンこそ が 国民 音 楽 に相 応 しい と主 張 した [ i b i d. :l l-1 2] 。 アル メ イ ン ・バ ネが 主 張 す る 「国民 音 楽」 とは, ガム ラ ンの よ うな伝 統 的 な 地方音 楽 ときっぱ りと決 別 し,西 洋音 楽 の要素 を積極 的 に取 り入 れ た新 しい タイプの イ ン ドネ 無所 属」 の音 楽 で あ る クロ ンチ ョンに求 め たの で シ ア音 楽 の こ とで,彼 はそ れ を 「 無 国籍 」「 あ る。クロ ンチ ョンはその後 ,独 立戦争 中 に国民 を鼓舞 す る音 楽 と して作 曲 され歌 われ た結 果 , 前 述 の よ うに,新 し く誕生 した イ ン ドネ シア民族, 国家 を代表 す る国民音 楽 と しての地位 を名 実 ともに獲得 す るに至 ったのであ る。 この よ うに, イ ン ドネ シアの国民音 楽 の称号 は,結果 的 に, アル メイ ン ・バ ネが主張 した よ うに クロ ンチ ョンに与 え られ る こ とに な ったわ けであ るが, それで は, 国民音 楽 に対 す る理解 は独 立 後 どの よ うに変化 したので あ ろ うか。1945年憲 法 の文化 に関す る規程 をみ てみ よう。 第 32条 に 「政 府 は イ ン ドネ シ アの 国民 文化 ( k eb uda yaan nas i mwII ndo ne s i a)を向上 させ る」 と記 されて お り, その注釈 には, 「 民族 の文化 とは,即 ち, イ ン ドネ シア国民 の滴養 の結 実 と して akpun c ak) と して 生 じる文化 の総 体 に他 な らな い。 イ ン ドネ シア全域 の地 方文化 の頂 点 bunc 存在 す る土着 で古 い文化 は,民族 の文化 と して数 え られ る。文化 の構 築 は,徳,知 恵及 び統 一 の向上 を 目的 と しなけれ ばな らず, それ は,民族 自身 の文化 を発展 させ豊 か に し, また, イ ン ドネ シア民族 の人 間性 を高 め うる外 国文化 の新 しい諸要 素 を拒 否 す る もので はない」 と示 され てい る。 この解 釈 で規定 して い る国民 ( 民 族)文化 の文化 を音 楽 に置 き換 えて み る・ と, 国民音 楽 に対 す るイ ン ドネ シア政府 の公式 解釈 が明 らか になろ う。 即 ち, ガム ラ ン等 の地方音楽 の頂 点 と し て存在 す る土着 の音 楽 も国民 音楽 と して見 な され る一方 で,外 国音 楽 の諸要 素 を取 り入 れた イ ン ドネ シア国民 の滴菱 の結実 と しての音 楽 も国民音楽 と見 な され るわけであ る。 この よ うに, 930年代 の 「文化 論争」 で展 開 され た両者 の主 張 を取 り入 独 立後 の国民 音楽 に対 す る解釈 は,1 れた もので, これ に よって, クロ ンチ ョンを国民音楽 とす る こ とに正統性 が与 え られた こ とに なる。 ところが, クロ ンチ ョンの人気 は前章 で み た よ うに, 1954年 頃か ら徐 々に繁 りを見せ始 めて いた。そ して,代 わ って大衆 の人気 を集 め始 め たのが ム ラユ音 楽 であ った。しか し,クロ ンチ ョ ンとは異 な り, ム ラユ音 楽 を国民音楽 とす るか否 かの真 剣 な議 論 20) は当時 ほ とん ど行 われ な 366 田子内 :ダン ドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) 951年 か ら国営 ラジオ局 が毎 年 主 催 して い る 「ラジ オス ター賞 ( Bi nt ang か った。 この こ とは, 1 Radi o)」にお け る音 楽 カテ ゴ リーの分類 に も如 実 に表 れ て い る。 この 「ラ ジオス ター賞」 の様 子 は, 各雑 誌 が地 方予 選 か ら本選 まで の結 果 を詳細 に報 じ,素 人のみ な らず , ノルマ ・サ ゲル ( Nor maSanger )の よ うに既 に名声 を獲得 した歌 手 達 も毎 年参 加 して い た こ とか らわ か る よ う 950年 代 にお いて最 も権威 の あ る音 楽 賞 で あ った。 カテ ゴ リー は, に, 国営 ラジオ局全盛 期 の 1 クロ ンチ ョン,西 洋 芸術 歌 曲の ス タイル を踏襲 した イ ン ドネ シア歌 曲で あ るセ リオサ ( s e r t ' o s a), 「 娯 楽」 を意 味 す る ヒブ ラ ン ( hi b wan)の 3つ に分 け られて いた 。21 '1950年 代 に人気 の高 か っ た ム ラユ音 楽 は, これ らの 3つ の カテ ゴ リーの いず れ に も含 まれず, 公式 な音 楽 賞 か ら軽 視 さ れ る形 とな った。 3つ の カテ ゴ リーの共通 点 はいず れ も西 洋起 源 の音 楽 で あ る こ とか らわか る よ うに,独 立 後 の イ ン ドネ シアの音 楽状 況 は,45年 憲法 の期 待 とは裏腹 に,西 洋音 楽偏 重 主義 954年 5月の 『ア ネ カ』 の記事 の 中で, クロ ンチ ョンに代 わ って ム ラユ音 の色 彩 が濃 か った 。 1 楽 を今 後 の 国民 音 楽 の 基 礎 とす べ きで あ る とい う主 張 が 行 わ れ た こ と もあ っ たが [ Ane k a,1 May 1 954], 当時 , ム ラユ音 楽 を国民 音 楽 とみ なす 議 論 は ほ とん ど起 こ らなか った。 その理 由 は, 当時 , ム ラユ音 楽 が クロ ンチ ョンや西 洋音 楽 と比 較 して一段 低 い音 楽 とみ な され て い た こ b angs aI ndo me s i a)を構 とに加 え, クロ ンチ ョンが, ジ ャワやバ リとい った イ ン ドネ シア民 族 ( s uk ub angs a エ スニ シテ ィ) 22' に も属 さない とい う中立 的 な立 成 す るいず れ の ス ク ・バ ンサ ( 場 の音 楽 で あ った の に対 し, ム ラユ 音 楽 は ム ラユ とい う一 つ の ス ク ・バ ンサ に属 す る音 楽 で あ った こ とが挙 げ られ よ う。 この 「ム ラユ 」 とス ク ・バ ンサ の関係 につ いて は,筆者 は前稿 「ダ ン ドゥ ッ トの成立 と発展 ( I ) 」の 中 で, 「独 立 後 ,既 に イ ン ドネ シア とい う国が存 在 して いた に も拘 らず , オ ラ ンダ植民 地 時代 に イ ン ドネシア を指 す 言葉 で あ った 『ム ラユ 』が何 故 ,楽 団 の名前 と して採 用 され たの 38]。 以 下 , この 問題 につ い て検 討 し で あ ろ うか」 とい う問 題 提 起 を行 った [ 田子 内 1997:1 てみ た い 。 オ ラ ン ダ領 東 イ ン ドで は, オ ラ ン ダ語 の他 にム ラユ 語 ( マ レー語)が 公用 語 ,教 育用 語 と し て使 わ れて い た。文 学 の世 界 で も, 19世 紀 末 か らオ ラ ンダ領 東 イ ン ドの 中心 都 市 バ クビアで ム ラユ 語 大 衆 小 説 が 流 行 し, 更 に, 1920年 代 か ら30年 代 に か け て 「シ テ ィ ・ヌ ル バ ヤ ( Si t i baya)」 ( 1922)等 多 くの す ぐれ た ム ラユ 近 代 文 学 作 品 が 生 まれ た。 しか しそ の 一 方 で, Nur 1 920年前 後 か ら 「イ ン ドネ シア」 とい う用語 が ナ シ ョナ リス ト達 に よって意 図的 に使 わ れ始 め 2 0) このような議論は一見無意味のようであるが,第 I章で触れたように, ダン ドゥットを国民音楽 と 0年代 に入ってか ら行われ始めていることを想起する必要がある。 ダンドゥットの基 みなす議論が9 9 5 0年代のイン ドネシア音楽界の中で どの ような地位 を占めていたのか 礎 となったムラユ音楽が,1 を検証することは,十分意味のあることである0 21 ) ヒブランとはポ ピュラー音楽のことで,具体的には西洋ポ ピュラー音楽 をインドネシア語で歌 った 音楽を指 し,後にポ ップ ・インドネシアと呼ばれる音楽である。 2 2)エスニシテ ィについては,加藤 [ 1 9 9 0 ]参照。 367 東南 アジア研 究 3 6巻 3号 て い た。23) そ して ,1 92 8年 の 「 青 年 の誓 い」 の採 択 に よって 「イ ン ドネ シア」 とい う概 念 が 具体化 され た結果 , ナ シ ョナ リス ト達 が宣伝文書 や演説 で用 い るの は もはや 「ム ラユ語」 で は 請) 」と 「イ ン ドネシア ( 請) 」 の この よ な く 「イ ン ドネ シア語」 になったのであ る。「ム ラユ ( うな経過 をみてみ る と, ム ラユ ( 請)は植民地時代 の呼称 であ って, イ ン ドネシア ( 請)の成立 952年 1 0月 1 0日号 の 『 ア と と もに破 棄 した ( すべ き)呼称 で あ った こ とにな る。 この こ とは,1 ネ カ』の次 の記事 か らも明 らかで あろ う。 ム ラユ とい う言葉 は耳 障 りだ。独 立後 はイ ン ドネ シア とい う呼 び名 の方 が便利 で誇 りで も あ る。 捨 て去 った はず の ム ラユ とい う言葉 は反 国家 的 な響 きが あ る。 しか し,現在 , ムラ ユ は蔑視 や皮 肉の意 味 で再 び使 わ れ始 めて い る。 ( 中略)独 立 戦争 時代 の尊 い犠牲 に よっ て, ム ラユ か らイ ン ドネシアに移行 出来 たのであ る。 しか し,1 95 0年代 に流行 したム ラユ音 楽,そ してその演奏 楽 団であ るオルケス ・ム ラユ の 「ム 936年 の オ ラ ン ラユ」 の解釈 は,上述 の 「ム ラユ」 の解釈 とは全 く別 の ものであ る。 例 えば, 1 NI ROM:Ne de r l a ndsl ndi s c heRa di oOmr o e pMaa t s c ha pp j i )の者 組 ダ東 イ ン ドラジオ放 送 会社 ( so e ar aNI ROM 1936]。 しか 表 を見 てみ る と, ム ラユ音楽 の演奏番組 が あ る こ とが確 認 で きる [ し, これ と並 んで, ジ ャワ, ス ンダ,バ リ, ア ンボ ン等 の地方音楽 の演奏番組 も確認 で きるた め, この番組 表 の 中で使 わ れて い るム ラユ音 楽 の 「ム ラユ」 は, 「イ ン ドネ シア」 の意 味で は な く, 「イ ン ドネ シア」 を構 成す るス ク ・バ ンサ を意 味す る地 方音 楽 と して の ム ラユ 音楽 で あ 9 2 8 る と解 釈 して間違 い ないであ ろ う。 この ようにみ てい くと, 「ムラユ」 に対 す る理 解 は, 1 年の 「 青 年 の誓 い」採択 以 降, 「ム ラユ語」 に象徴 され る 「ム ラユ」 - 「イ ン ドネシア」 か ら, 「ムラユ」 - 「イ ン ドネシア民族 を構 成 す る一つ の ス ク ・バ ンサ」へ と変化 して い った こ とが わか る。 1 950年代 にイ ン ドネ シアで流行 した ム ラユ音 楽 は, 当時人気 の高 か ったマ レー映画音楽 の影 響 を受 けていた こ とは既 に前章 で述べ た通 りであ るが,実 は, オルケス ・ム ラユ とい う用語が 1 95 2-5 4年)と重 なって い る こ 定 着 した時期 が, マ レー映画 が イ ン ドネ シア を席 巻 した時期 ( 930,40年代 は, オルケス ・ハ とは興 味深 い。 オルケス ・ム ラユ とい う用語 が定着す る以前 の 1 997:152] 。24) しか し, マ レー映画 ルモニ ウム とい う呼 び名 の方 が一般 的で あ った [ 田子 内 1 音楽が イ ン ドネシアで大流行 した結果 ,マ レー映画音楽 を模 倣 したオルケス ・ハ ルモニ ウムが, 23) インドネシア民族の形成については,永積 [ 1 980]参照。 2 4 ) オルケス ・ハルモニウムの存在は,1 9 42年の NI ROMの番組表か ら確認で きる [ So e waNI ROM,4 J a n u a r y1 9 4 2 ]。当時の楽器編成 と演奏者及び歌手の服装から判断すると,オルケス ・ハルモニウム は西洋音楽等の影響 を受 けたムラユ音楽を演奏 していた可能性が高い [ so e ar aNI ROM,1 8J a n u a r y 1 9 4 2 ] 。 36 8 田子内 :ダンドゥットの成立 と発展 ( 1 Ⅰ ) 写真 2 オルケス ・ハルモニウム ・プンヒブル ・ハテ ィ 出所 :[ 5 , 1 0( , ar aNI ROM,4J a nua r y1 9 42 ] ハ ルモ ニ ウム とい う名称 を捨 て て, マ レー映 画音 楽 ,即 ち, マ レー ( ム ラユ )を楽 団 に付 して, オ ル ケ ス ・ム ラユ と名乗 る よ うに な った わ けで あ る 。 25J1 950年 代 前 半 に人気 の高 か った オ ル 951年 の結 成 当初 は オル ケ ス ・ハ ル モ ニ ウ ム と名 乗 って ケ ス ・ム ラユ の一 つ で あ る OMK は, 1 954年 の時 点 で は既 に オ ルケ ス ・ム ラユ に呼称 を変 えて いた。この事 実 は,オル ケ ス ・ いたが ,1 ム ラユ とマ レー映画音 楽 の関係 を端 的 に示 す もの と して興 味深 い。 Ⅰ Ⅴ 「ngakngi kngok」 演説 とミナ ンカバ ウ音楽の流行 この章 で は,1 960年 代 の イ ン ドネ シアの音 楽状 況 全般 とム ラユ音 楽 につ いてみ て い くこ とに する 。 映画 「スロ ジ ャ」 の大 ヒ ッ トで一世 を風 離 したサ イ ド ・エ フ ェ ンデ ィの 人気 は 1 960年 に入 る 961年 に はサ イ ド ・エ フ ェ ンデ ィ率 い る OMI A は活 動 停 止 まで に追 い込 まれ, と急 降下 し, 1 ム ラユ音 楽 は冬 の時 代 を迎 え る こ とにな る。 この時期 , 代 わ って 人気 を集 めて いた の は,西 ス Mi nangkabau)の 音 楽 を 演 奏 し た オ ル ケ ス ・グ マ ラ ン ( Orkes マ トラ の ミナ ン カ バ ウ ( Gumarang)で あ る。 ミナ ンカバ ウ地 方 は ム ラユ 音 楽 の心 臓 部 で あ る スマ トラ島東 海 岸 部 に地 理 的 に隣接 して お り,音 楽 的 に も類 似 点 が 数 多 くあ る と言 われて い る。 実 際 , 1 948年 頃 に は, Tamba j ong 1 992:Vol . 2,78 ミナ ンカバ ウ地 方 で もオ ル ケ ス ・ム ラユ の活動 が行 われ て い た [ ] 。 2 5) また,1 9 5 0年代に入ってか ら,オルケス ・ハルモニウムの主要楽器であったハルモニウムがほとん ど使用されな くなったこととも関係があるであろう∴ . 369 東南アジア研究 3 6巻 3号 オルケス ・グマ ラ ンの結成 は 1 95 4年 頃 に遡 る。 ミナ ンカバ ウには故郷 を離 れ異境 の地 で商売 954年 , ジ ャカル タに住 んで い た ミナ ンカバ ウ を行 うム ラ ンタウ ( me r ant au)の慣 行 が あ り, 1 )を結成 した。この同郷 会 には,スポ ー 出身の人達が集 まって グマ ラ ン26) と呼 ばれ る同郷 会 27 ツ部 , ダ ンス部 ,演劇部 ,音 楽歌謡部 が あ り, この音 楽歌 謡部 で結成 された楽 団 をオルケス ・ Anak グマ ラ ン と呼 んで い た。 オル ケ ス ・グマ ラ ンは RRIジ ャカル タ局 で, ア ナ ック ・ダロ ( Dar o ),バ ジ ュ ・クル ン ( Bad j uKur ung)等 の古 い ミナ ンカバ ウの 曲 を, ラテ ンアメ リカ風 にア t )と呼 ばれ る伝 統 的音 楽 も演 奏 し, そ レ ンジ して歌 って い た とい う。 更 に, ガマ ッ ト ka ma の名前 はジ ャカル タで は既 に有名 にな って いた。楽器編成 は, ピア ノ, ギ ター, グ ンダ ン, マ ラカス, ス トリングバ スか ら成 ってお り, これ は当時 の オルケス ・ム ラユ の楽器編成 とほ とん ど同 じで あ った。 オルケ ス ・グマ ラ ンは, RRIで の演奏 の他 に,懇親会等 の様 々な行事 の場 で 演 奏 活動 を行 い,迎 賓 館 で ミナ ンカバ ウの伝 統 的舞 踊 , 夕 1 )・ピ リン ( Tar iPi r i ng)が 演 じら れ た時 に演奏 を担 当 した こ と もあ った。 当 時 の オル ケ ス ・グマ ラ ンの活動 は OMBSな どの オ ルケ ス ・ム ラユ と比較 して活発 とは言 えなか ったが, ミナ ンカバ ウの歌 を現代風 に ア レンジ し 958年 に は, オル ケ ス ・グマ ラ たそ の演 奏 ス タイ ル は各 方 面 か ら注 目を集 め始 め て い た。28) 1 ka,1 0Fe br ua r y1 958],翌 1 959年 に女性 ンは ジ ャカル タで か な りの 人気 を獲得 してお り [ Ane Nur s eha)が歌 った アヤ ム ・デ ン ・ラペ ( Ayam de nl a Pe h 私 の鶏 が逃 げた)の大 歌 手 ヌルセハ ( ヒ ッ トで その人気 は全 国的 な もの にな った。 ヌルセハ は,西 スマ トラの ブキテ ィンギ在住 の頃 953年 頃 ジ ャカル タに移 り,人気 か ら地元 の オルケス ・ム ラユで ム ラユ音 楽 を歌 ってい たが ,1 楽 団 OMK に参加 して歌 手 と して本格 的 な指導 を受 けた。 ヌル セハ は, この OMK時代 にム ラ Me l a t i )レーベ ルか らム グナ ン ・カ シ ( Me nge nangk as i h 愛 しき人 を思 い 出 して)とい う ティ ( ka,1Ma r c h1 959]。 曲 を発 表 して い る [ Ane 1959年 か ら1963年 頃 まで続 いた オル ケ ス ・グマ ラ ンの人気 は, イ ン ドネシアの音 楽 史上大 き 959年, イ ン ドネシアの若者 の 間で ロ ックやチ ャチ ャチ ャを始 め とす る な意味 を もってい る。1 ラテ ン音楽 の人気 が頂 点 に達 しつつ あ った こ とは前述 の通 りだが, ス カル ノ大統 領 は, これ ら の西 洋音 楽 を文化 的帝 国主義 とみ な して強 い調子 で非難す る一方で, イ ン ドネ シア民族文化 の 959年 の 「 ngak-ngi k-ngok」 演説 で あ る。1 959年 8月 1 7日の独 立 保護 ・発展 を訴 えた。 これが 1 「 Mani po l -USDEK」 演説 と 記 念 日に, スカ ル ノ大統 領 は 「わが革 命 の再 発 見」 と題 す る演説 ( もい う)の 中で次 の ように述べ た。 2 6) グマランとは, ミナンカバウの昔話 = チ ン ドゥア ・マ ト ( TJ ' i nd uaMat o )' 'の中に登場する牛の名前 であ る l Aneka,1 0Ma r c h1 9 6 0 ]。 2 7) ジャカルタ在住の ミナンカバウ人については,加藤 [ 1 9 8 3:47 61 ]参照。 2 8) オルケス ・ヒナタン ( Or k e sKhi na t a n)やオルケス ・ビヌアン ( Or k e sBi nu a n g )のように,オルケス ・ Anek a,1Apr i l1 9 5 5 ]。 グマランのスタイルを模倣 した楽団がジャカルタでい くつか結成 された [ 370 田子内 :ダン ドゥットの成立 と発展 ( Ⅰ Ⅰ ) 諸 君 は 確 か に経 済 的 帝 国 主 義 に 反 対 で あ り, ま た 政 治 的 帝 国 主 義 に 反 対 で あ る。 ( 中略 )なぜ 諸 君 の 中 に は ロ ック ン ・ロ ー ル に うつ つ をぬ か し, チ ャチ ャチ ャの踊 りにふ ngak-ngi k-ngok)をか き鳴 らす こ と を好 む者 が け り,音 楽 と呼 ばれ る気 違 い じみ た騒 音 ( 多 くみ られ るの で あ ろ うか。 ( 中略)政 府 は わ れ わ れ の民 族 文 化 を保護 し,民 族 文化 の 発 展 を援 助 して い くつ も りで あ るが ,青 年 男 女 諸 君 ,諸 君 こそ文化 帝 国主 義 に対 す る反対 に 積 極 的 に当 り,わが 民族 文化 の保護 と発展 の ため に積 極 的 に行動 しなけれ ば な らないの だ。 [日本 国際 問題研 究 所 1 972:30] この演 説 を契機 に, ロ ック と西 洋 映画 ,特 に米 国映 画 に対 す る締 め付 けが 厳 し くな り, イ ン pi perandJ abo 1 987:1 0]。 まず , 「イ ドネ シ ア音 楽 界 は大 きな転 換 期 を迎 え る こ とに な った [ ン ドネ シ アポ ピュ ラー音 楽 祭 ( Fes t i ヽ , all r amapopul erI ndones i a)」 と呼 ばれ る音 楽 祭 が ジ ャカ ル タの他 ,ジ ュ ンブルや マ カ ッサ ル等 の地方都 市 で も開催 され,課 題 曲 に地方音 楽 や オルケ ス ・ グマ ラ ンの ミナ ンカバ ウの歌 を課 して, 民 族 文 化 の振 興 を図 った [ Ane k a,1J anuar y1 960;8 Fe br uar y1 960;1 0May1 960;1August1 960;2 0August1 960]。 更 に, これ らの音 楽 祭 に参 加 す るバ ン ドの 名前 も, 例 え ば TheRyt hm andBe l l sを Sual aNus ant ar aとい うふ うに, 英 語 表 Aneka,り anuar y1 960]。 これ らの 一 記 か らイ ン ドネ シ ア語 表 記 に強 制 的 に変 更 させ られ た [ 連 の民 族文 化振 興 政 策 の 中で イ ン ドネ シ ア音 楽 の模 範 とされ たのが, オルケ ス ・グマ ラ ンの大 ヒ ッ ト曲, ア ヤ ム ・ダ ン ・ラ ペ で あ る。 こ の 曲 が 実 際 に 人 気 を 獲 得 し始 め た の は 「 ngak-ngi k-ngok」 演 説 の前 で あ るが, ミナ ンカバ ウ とい う地 方 音楽 に ラテ ン音 楽 を融 合 させ て全 国的 な人気 を獲得 した オル ケ ス ・グマ ラ ンの音 楽 は,将 来 の イ ン ドネ シ ア音 楽 の在 り方 を 示 す 一つ の基準 にな った。29) この オル ケ ス ・グ マ ラ ンの 成 功 は タパ ヌ リ, バ ン ジ ャル, ア ン ボ ン, マ カ ッサ ル, ジ ャワ等 の他 の地方音 楽 の 発展 を促 す結 果 とな った。 例 えば,現 在 ウジ ュ ン ・パ ン ダ ン を代 表 す る 曲 と して 有 名 な ア ギ Angi ng Mami r 書風 が 吹 く)も こ の ン ・マ ミリ ( 時 期 生 まれ た 曲で あ る [ Tamba j ong 1 9 92: vol . 2,697 0]。 写真 3 オルケス ・グマラン( 〕映画 「 世界の隅々 民 族 音 楽 振 興 政 策 は, 西 洋 文 化 帝 国 主 義 に 反 発 す る一 方 で, 地 方 反 乱 が続 くイ ン ドネ シ 出所 :[ Mus t k a.Fe br ua r y1 9 5 8 ] ア 国 内 の 正 常 化 政 策 の 道 具 と して も利 用 され 2 9)オルケス ・グマ ランは,1 9 61 年にはイン ドネシア芸術団 ( Mi s ike s e ni a nRJ)のメンバーとして中国, ソ連公演に参加 した。 371 東南アジア研究 3 6 巻 3号 た。 オル ケ ス ・グマ ラ ンの歌 が流 行 して い た 1 958年 2月 ,皮 肉 な こ とに, オ ラ ンダ企業 の接 収 pemer i nt ahReを契 機 に西 ス マ トラの ミナ ンカバ ウ地 方 で は イ ン ドネ シ ア共 和 国 革 命 政 府 ( vol usi onerRepubl i kI ndonesi a)が樹 立 され,武 装 反 乱 が始 まった。 反 乱 は同年 5月 には終結 し 960年 8月 20日に 「イ たが , イ ン ドネ シア政府 は ミナ ンカバ ウ地方 正 常化 政 策 の一 環 と して ,1 ン ドネ シ ア及 び地 方 ポ ピュラー音 楽 フ ェス テ ィバ ル ( Fes t i valMusi kl ramaDaerah &I ndonesi a Popul er )」を西 スマ トラのパ ダ ンで 開催 した。 フ ェステ ィバ ル は, ム ラユ 音 楽 ,現 代 ミナ ンカ Mi na ngmo de m), イ ン ドネ シアポ ピュ ラー音 楽 ( Hi b ur a n/I ndmws i aPo Pul e r ), ガマ ッ バ ウ音 楽 ( ト, クロ ンチ ョンの 5分 野 に分 れて行 わ れ,全 国 的 に人気 の高 い オルケ ス ・グマ ラ ンの 曲 と西 スマ トラの伝 統 音 楽 で あ る ガマ ッ トを取 り上 げ た。 これ に は,武装 反乱 の傷 跡 が まだ残 る ミナ ンカバ ウ地 方 の住 民 を懐 柔 させ , イ ン ドネ シ ア国 家 に取 り込 も う とす る意 図 が 感 じ られ る l Ane ka,2 0August1 960]. しか し,若者 達 に浸 透 して い た西 洋音 楽 の流 れ は止 め る こ とが 出来 ず, 1 962年 頃 には様 々な 種 類 の イ ン ドネ シ ア ・ポ ピュ ラー音 楽 ( ポ ップ ・イ ン ドネ シ ア)の歌 が 生 まれ た。 感 傷 的 な ( c e nge ng)歌 で 有 名 な ラ フマ ッ ト ・カ ル トロ ( RahmatKar t ol o)のパ タ ・ハ テ ィ ( Pat ahHat i失 悲)や, ビー トル ズ の影 響 を受 け た クス ・ブ ル ソ ダラ ( KoesBer saudar a)の 曲 は若 者 の心 を捕 Ti t i ekPuspa)や り リス ・ス ルヤ ニ ( Li l i sSur yani ) え, また,女性 歌 手 テ ィテ ィ ック ・プスパ ( が歌 う軽快 なポ ップス は, 1 963年 か ら1 964年 にか け て若 者 か ら絶 大 な人気 を獲 得 した [ PENSI 1 983:22, 1 9]。 一万 , 1 960年代 は イ ン ドネ シ アの政 治 が大 き く揺 れ動 い た時代 で もあ った。 ス カル ノ大統 領 に よる 「 指 導 され る民 主 主義」 の下 ,1 959年 に議 会 は解 散 させ られ ,1 960年 末 に発 表 され た民 族 主義 ,宗教 ,共 産 主義 の三 本 の柱 か ら成 る 「ナサ コム体 制」 に よって, 共 産党 の勢 力 が大 き く伸 びて い った。 また ,1 963年 に はマ レー シ ア対 決が起 こ り, イ ン ドネ シ ア はマ レー シア との 通 商 関係 を断絶 し, そ の影 響 を受 け て 60年 代 以 降上 映 回数 が 逓 減 して い た もの の依 然 人気 の あ ったマ レー 映 画 の輸 入 は全 面 禁 止 とな った [ Mayapada 2:1967]。 ア メ リカ は, 経 済 再 建 が 不 可 能 にな った イ ン ドネ シア に対 す る経 済援 助 を打 切 り, これ を契機 に イ ン ドネ シア は急 速 に 中国 に接 近 し, イ ン ドネ シアの左 傾 化 は ます ます 顕 著 にな って きた。 これ に伴 って,西 洋文 化 に関す るあ りとあ らゆ る物 が批 判 の対 象 にな った 。 当時若者 に絶 大 な人気 の あ った ビー トル ズ を始 め とす る ロ ックや西 洋 映画 , そ して革命 精神 を弱体 化 させ る感傷 的 な歌 は, 共産 党支持 者 よ り激 しい批 判 を受 け,30) 西 洋 ポ ピュ ラー音 楽 や ロ ックの 影 響 を受 け た音 楽 を演 奏 し都 市 部 の若者 に人気 の あ った クス ・ブ ル ソ ダラが逮捕 され投 獄 され る事 件 が発 生 した [ pENSI1 983: 年世代による文化宣言 ( Ma ni f esKe buda ya a n)が 1 9 6 4年 5月にスカルノ大統領によって禁止 されて 3 0 )4 5 か ら共 産 党系 の レク ラ ( Le kr a人民 文 化協 会)の文化 活 動 に対 す る攻 撃 は益々激 し くなった [ Mo e l j ant oa ndl s ma i l1 9 9 5:4 7 4 9 ]。 372 田子内 :ダン ドゥットの成立 と発展 ( I l ) 1 93] 。また,ム ラユ音 楽 界 で も,イ ン ド色 の強 い ム ラユ音 楽 を演奏 して い た オルケ ス ・ム ラユ ・ Or kesMe l ayuChandr a l e l a)の リー ダー, フセ イ ン ・バ ワ フ イ も一 時 事 情 聴 チ ャ ン ドラ レ ラ ( El l ya 取 され,31) 更 に, 同 じよ うに イ ン ド色 の 強 い ム ラユ 音 楽 を歌 って い たエ リヤ ・ア グ ス ( Agus )の 曲 も禁 止 され る事 態 に な り ( 後 述 ), ム ラユ 音 楽 界 は相 当 の痛 手 を受 け る こ とに な っ た。 V 1 96 0年代前 半の ム ラユ音楽 1960年代 の ム ラユ 音 楽 の衰 退 につ い て , 1960年 5月 10日号 の 『ア ネカ』は次 の よ うな記事 を 掲 載 して い る。 以前 , ム ラユ音 楽 が 人気 のあ った頃,村 の子供 達 までが ム ラユ 音 楽 を聞 くと身体 を揺 ら して い たが ,今 で は オル ケ ス ・グマ ラ ンの ミナ ンカバ ウの歌 が 人気 で あ る。 若 者 か ら子供 まで ミナ ンカバ ウの歌 の練 習 を して い る。 960年 当時 ,ム ラユ音 楽 の 人気 は もはや過 去 の もの とな って い た こ とが わか る。 この よ うに,1 実 際 に,1 960年 か ら1963年 まで の雑 誌 『フ ア リア』には,オ ルケ ス ・ム ラユ の記事 は オル ケス ・ var i a .7 Au gus t1 963], エ カ ・サ ブ タ ( Eka ム ラユ ・チ ャ ン ドラ レラ を除 い て ほ とん どな く l Sapt a)や ク ス ・ブ ル ソ ダラ, バ ン ド ・ア ル ラ ン ( BandAr ul an), パ モ ー ル ( Pamor)等 の 新 し い世代 の バ ン ドに関す る記事 が 多 くな って い る [ t r ar i a.6November1963] 。 しか し, この よ うな人気 沈 滞 の一 万 で, 1962年 頃, 後 の オル ケ ス ・ム ラユ の ス タイル に大 き Adi kar s o)を中心 な影響 を与 え る注 目すべ き楽 団 が結 成 され た 。 そ の楽 団 が, アデ イカル ソ ( Or kesKel anaRi a, 以 下 OKR)で あ る [ C〃γ α1 994: に結 成 され た オ ル ケ ス ・ク ラ ナ ・リア ( Ka f i l ah 隊商 )」の ジ ャケ ッ トには,ラ ク ダに乗 っ No. 224] 。この楽 団 の第一作 目 「カフ ィラー ( て砂 漠 を行 進 す る絵 が描 か れて お り,また タイ トルが ア ラ ビア語 で あ る こ とか ら も分 る よ うに, OKR は ア ラ ブ音 楽 を前 面 に打 ち 出 して い た。 そ のせ いか , OKR は オル ケ ス ・ム ラユ とは名 乗 らず,単 に オルケ ス と称 して い た。しか し,OKR は ア ラブ音 楽 ばか りを演奏 した わ けで はなか っ た。 「カフ ィラー」 の 中 に は, イ ン ド音 楽 の影 響 が 強 い ム ラユ音 楽 や ラテ ン音 楽 を取 り入れ た ム ラユ音 楽 , そ して, イ ン ドネ シア ・ポ ピュラー音 楽 も収 録 され て お り,他 の音 楽 を大胆 に取 り入 れ た幅 の広 い音 楽 を演 奏 して い た。 そ の 中 で特 に注 目 され るのが , イ ン ド音 楽 の影響 32) 31 )フセイン ・バ ワフ イに対する1 9 93年 8月28日のインタビューより。 32) イン ド音楽の影響については稿 を改めて検証する。 373 東南 アジア研 究 3 6 巻 3号 を強 く受 け た ム ラユ 音 楽 で あ る。 この ア ル バ ムで は, ム ラユ 音 楽 が ダ ン ドゥ ッ トに名 前 を変 え る前 の 1960年 代 後 半 か ら1970年 代 前 半 にか けて最 も人気 の高 か った女 性 歌 手 , エ リヤ ・カ ダ ム ( El l yaKhadam)が, エ リ El l yaAgus )33) の名 で,現 在 の ヤ ・アグス ( ダ ン ドゥ ッ トとそ れ程 変 わ らな い 曲 を 4曲 歌 って い る。 1950年 代 に も OMBSが イ ン ド 音 楽 の影 響 を受 けた ム ラユ 音 楽 を演 奏 して い たが, そ の影 響 はそ れ程 顕 著 で は な く, ハ ス ナ ・タハ ル らの歌 手 達 の歌 い方 も, 基 本 的 に伝 統 的 な ム ラユ 音 楽 の特 徴 を維 持 し て い た。 しか し, エ リヤ ・ア グスの歌 い方 写 実 4 0KRの第一作,「 カフィラー( 隊商) 」の LP ジ ャケ ッ ト は これ まで の ム ラユ 音 楽 の 歌 手 達 とは全 く 異 な り, その特 徴 的 な高音 と適度 に利 かせ た こぶ Lは, 当時 の ム ラユ音 楽 界 に衝 撃 を与 えた と い う。34) そ の他 に も, 2作 目以 降 か ら OKR を率 い る こ とに な る ムニ フ ・バ ハ ス ア ン ( Muni f Bunga Ni r wana Bahas uan)が, ム ラユ音 楽 とラテ ン音 楽 が 融 合 した傑 作 ブ ガ ・ニ ル ワナ ( 淫 楽 の花)を歌 ってい るが, この 曲は, 1950年代 末 のサ イ ド ・エ フェ ンデ ィの流 れ を汲 んで お り 不 自然 な印象 は与 えない。 しか し,エ リヤ ・ア グスの一連 の イ ン ド色 の強 い歌 は, これ までの オルケス ・ム ラユ にはなか ったス タイルの ム ラユ音楽 で, 突如登場 した印象が強 い。従 って, 「カフ ィラー」 はム ラユ音 楽 が初 めて イ ン ド音 楽 を大胆 に取 り入 れた記 念碑 的 アルバ ム と言 え るであ ろ う。 当時 の雑誌 『フ ァリア』は この アルバ ムにつ いて全 く報 じてい ないが, か な りの 成功 を収 め た ら し く,エ リヤ ・ア グス とムニ フ ・バハ ス ア ンは一躍有名 にな った。35) OKR の もう一つ の注 目すべ き点 は, その楽器編 成 で あ る。OKR は, マ ン ドリン, ス リン, ピア ノ, ア コーデ ィオ ン, ス トリング ・バ ス, グ ンダ ン, ガ ンブスか ら構 成 されてお り, これ までの オルケ ス ・ム ラユ で使 用 されて い なか ったス リンが始 めて登場 して い る こ とが注 目され る。 ス リンは, エ リヤ ・ア グスが歌 うイ ン ド色 の強 い ム ラユ音 楽 の演奏 の時 だ けに使 われてい るが, これ は,笛 の音色 が特徴 であ るイ ン ド映画音楽 を模 倣 す るため にはイ ン ドネ シア独特 の 33) エ リヤ ・カダムは,1 93 8年 1 0月 2 3日ジャカルタ生 まれで,結婚によって,エ リヤ,エ リヤ ・アグス, El l yaAI wi ) ,エ リヤ ・ハ リス ( El l yaA.Ha r r i s ),エ リヤ ・カダムと姓 を 5回替 エ リヤ ・アルウ イ ( えている 3 4) エ リヤ ・カダムに対する1 995年 3月 9日のインタビューより 35) 二作 目 「 ヤー ・マフムッド」のライナーより。 。 。 37 4 田子 内 :ダ ン ドゥ ッ トの成立 と発 展 ( I I ) 木管楽器 ス リンが最適 で あ ったため だ と思 われ る。現 時点 で確認 出来 る限 りで は,現在 の ダ ン ドゥ ッ トで重要 な役 割 を果 たす グ ンダ ンとス リ ンの両楽 器 を初 め て使 用 したのが この OKRで ci t r a 1994:No. 224] 。 OKR は, 翌 1963年 に二 作 目 「ヤ ー ・マ フ ム ッ ド ( yaMahmud あ った [ お おマ フム ト)」を発表 し,更 に大成功 を収 めた。 マ スハ ビ ( Mas ha bi )の ラ タパ ン ・アナ ッ ・ Rat apa nAnakTi r t ' 継 子 の 嘆 き)や ユ ハ ナ ・サ タ ル ( Dj uhanaSat t ar )の ク チ ェ ワ ティリ ( ( k e t ] ' e wa 失望) 36) な ど,現 在 で も歌 い続 け られ てい るム ラユ音 楽 の名 曲が数 多 く収 録 されて 37) い る。 しか し,エ リヤ ・ア グスの イ ン ド色 の強 い ム ラユ音楽 は, あ ま りに もイ ン ド色 が強す ぎる と い う理 由で,前述 の クス ・ブル ソ ダラの 曲 と同様 に,左傾 化 が続 くイ ン ドネシアの政 治状 況 の i1992:67]。 新 しい動 きが萌 芽 し始 め てい 中で 禁止 に まで追 い込 まれ る こ とに な った Uauhar 30事 た ム ラユ音楽 は この よ うに して行 き場 を失 い, その芽が再 び活動 を活発化 し始 め るの は9. 967年 まで待 たね ばな らなか った 。 件 後 の1 ⅤⅠ 終 わ りに 本稿 で は, 1950年 か ら1965年 までの オルケ ス ・ム ラユ とム ラユ音楽 の発展 ,変容 につ いて, 主 にその歴 史 を辿 りなが ら検 証 して きた。 その 中で 明 らか にな ったの は, 1950年代 の ムラユ音 楽 の発 展 に は, ピー ・ラム リの マ レー映 画 音 楽 が 大 きな役 割 を果 た して い た こ とで あ る O 。 MBSの成功 とサ イ ド ・エ フェ ンデ ィの 人気 は, ム ラユ音楽が この よ うなマ レー映画音楽 の強 い影響 の 中か ら独 自の音 楽 ス タイル を模索 す る象徴 的 な出来事 で あ った と言 え よう。 ム ラユ音 960年代 初頭 にエ リヤ ・ア グスが 楽がマ レー映画音 楽 か ら決 別 し独 自の道 を歩 み始 め たのが , 1 歌 った一連 の イ ン ド色 の強 い ム ラユ音 楽 で あ った。 マ レー映画音楽 に もイ ン ド音 楽 の要素 を取 り入 れ た曲が幾つ かあ るが,エ リヤ ・ア グスの歌 はその影響 が特 に際立 ってい る。この よ うに, ム ラユ 音 楽 の歴 史 をみ て み る と, そ の柔 軟 さに改 め て驚 か され るで あ ろ う 。 クロ ンチ ョンが 1 950年代 にその硬直性 ゆ えに急速 に 人気 を落 と して い ったの と対照 的 に, ム ラユ音 楽 は, その 時代時代 の流行 に敏感 に反応 しなが ら自 らの ス タイル を変 えてい った。そ して,ム ラユ音 楽 は, 1966年 以 降 若 者 の 間 で 大 i J T L行 した ロ ック等 の影 響 を受 けて再 び そ の ス タイル を変 え, ダ ン ドゥ ッ ト- と発展 して ゆ くが, この過程 につ いて は稿 を改 めて詳 しく検証す るこ とに したい。 3 6) この 曲 は 1 9 97年 に女 性 ダ ン ドゥ ッ ト歌 手 イイス ・ダ リアが リバ イバ ル ・ヒ ッ トさせ て い る。注 3)参 照0 3 7)OKR はそ の後 ,1 9 6 4年 に 「ヤ ム ・エ ル ・シ ャマ - rramELSh a mah) 」,1 9 6 5 年 に 「ヤ ・ハ ミダー ( Y a Ha n dd a h) 」 を続 けて発 表 して い る [ Me r d e k a,9Jul y1 9 6 4 ] . 375 36巻 3号 東南 アジア研 究 謝 辞 本稿作 成 にあた って は,佐 久間徹 氏 及 び佐藤 弥生氏 よ り丁 寧 かつ貴重 な コメ ン トを頂 いた。 また,吉 岡 修氏 か らは1 95 0年代 の貴重 な録音 資料 の提供 を受 けた。 この場 を借 りてお世話 にな った方 々 に感謝 の意 を 表 したい。 参 考 文 献 De par t menPe ndi di ka nda nKebudaya an.1 979. 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M.Buki tSi gunt ang).I r ama.M.558-91. L Hwa I ' ank u' .Am i rHamz a( 0 . M.Bukl tSi gunt a n). Has nahTaharVo l umeI I ,Ha s nahTa har ,Ef f eny,Rubl a h,S J a ugi e,Dl dl ,Dj uwi t a1 958?I r amaLPI .1 75 05. I da ma nk u' ,Suhai i & Has m na hTahar( 0. M.Buki tSi gunt a n), Kat nSI L ngk i t ,Orke sTr ( ) pi cana.I r ama.LPl .1 75 44. L Ka paγ f n ] 0㌧Ha s nahTahar ( 0. M.Buki tSi gunt a ng).I r ama.M.1 983. Ka ft ' L ah.Or ke ske l a naRi a1 962.I r a maLPI .1 7537. ' He nangank u■ ,Mul j a ni( 0. M.Buki tSl gunt ang).I r a ma.M.1 98-3. ' KeSawah' ,Ami rHar nz a( 0. M.Buki tSi gt l nt a n). L A' udakul ari ' .Ha s nahTa har( 0. M.Buki tSi gunt ang).Tops.M.31 3-ll . LaguRi 7 1 du,Sa i dEf f e ndi( Or kesChandr al el a).Bal i .BER017. ◆ L . e mb a j ungSund j a' ,Has na hTaha r( 0. M.Buki tSi 削l nt a ng).Tops .M. 31 3-ll.1 957. M̀e nghar al ,Kas i h' ,Dj uha na ( 0. M.Buki tSi gunt an). C ) . M. Chandr al el aVol . i, 0rke sMel a j uChandr al e l a ( ) . M. 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