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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の 発展 館山. 豊 茨城大学人文学部紀要. 社会科学論集(33): 63-107 2000-03 http://hdl.handle.net/10109/9154 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html パクスアメリカーナへの移行期における 国際石油産業の発展 The evolution of the world petroleum industry in a period of transition 丘om Pax Britannica to Pax Americana 館 山 豊 はじめに パクスブリタニカの時代にはみられないもの 本稿ではパクスブリタニカからパクスアメ であった。それがアメリカの世界体制の強さ リカーナへの移行期における国際石油産業の と弱さを形成していた。本稿では,その強さ 発展について分析する。時期的には20世紀初 と弱さがパクスブリタニカからパクスアメリ 頭から第二次世界大戦勃発までである。 カーナへの移行期においていかに準備されて 経済的にみた場合,ある国が覇権国になり いったのかを分析する。 あがるには,単に画期的な技術革新や新生産 この時期の国際石油産業の展開を包括的に 方法の採用が生じるだけでは不十分である。 分析したものは意外に少ない。世界的な統計 それと同時により大きな熱量をもった新エネ の不備がその一因である。本稿ではなるべく ルギー源への転換が不可欠となる。それに 統計を利用しながら,国際石油産業の展開を よってはじめて他国を圧倒する生産力水準を 追うことに努力した。 実現できるからである。 既存の研究に比べて本稿の特徴は次の二点 原油資源に恵まれたアメリカでは20世紀に である。第一は既存の研究がどちらかといえ はいるといち早く石炭から石油へのエネル ばアメリカ国内についてもまた世界について ギー転換が進展し,イギリスを凌駕する生産 も少数大資本による独占的支配を強調するの 力水準を確立する。それを背景にアメリカは にたいして,本研究ではむしろ競争的側面を 第二次世界大戦勃発直後から覇権国への意図 強調している。第二は既存の研究のほとんど 的な歩みを開始し,1949年頃までにパクスア が軽視してきた大資本と産油国との関係を重 メリカーナの基本的枠組みを確立するにいた 視している。むしろ両者の関係の変化こそが る。その際,アメリカ石油資本はイギリス石 国際石油産業の発展段階を画するともいえる。 油資本とともに中東の原油資源の独占を実現 する。それは覇権国としてのアメリカに強大 第1章 アメリカにおける石油産業の発展と な力を付与するとともに,エネルギー供給基 市場構造の変化 盤の飛躍的拡大をもたらした。 この時期の世界の石油産業はアメリカを中 もっともそれは西側世界が必要とするエネ 心に編成されていた。アメリカは1925年の世 ルギー資源の大半を少数の中東・北アフリカ 界の石油消費量の69.9%,産油量の70.9%を 産油国に依存するという危険と裏腹の関係を 占めるとともに,原油輸入量,石油製品輸出 なすものであった。原油資源をめぐるこうし 量ともに第一位の座を確保し,世界の製品価 た構図は,少数の資本による世界的な資源独 格はアメリカからの輸出価格によって規定さ 占が不可能な石炭をエネルギー源としていた れていた。1930年代にはいるとその地位は低 84 茨城大学人文学部 社会科学論集 下するが,それでも石油消費量,産油量とも あったものの自動車1台あたり走行距離の増 世界の60%前後を占め,アメリカの圧倒的地 加などにより比較的高い伸びを示し,1939年 位はあまり変わらなかった。そこでまずアメ には29年比45.5%増の水準に達していた。他 リカ国内の石油産業からみていくことにしよ 方産業活動の影…響を直接うける重油の消費量 う。 は1930年代にはいると大きく減少する。その 後暖房用需要の急増とともに消費は回復する 第1節石油需給構造の変化と原油価格 が,39年には29年比10.6%増の水準にとど 20世紀にはいるとアメリカの石油製品需要 まっていた。灯油消費量は30年代にはいって の中心は灯油からガソリンへと急激に移行す も微増傾向を維持した。 る。自動車の普及によるものである。自動車 販売額でみると,1939年の卸売販売額はこ は1914年のフォードシステム採用以降,価格 の間の価格下落を反映して1929年比1.8%減 の低落とともに大衆に普及し,自動車登録台 の21.7億ドルにとどまっていた。製品別では 数は1900年の0.8万台から1929年の2,670万台 ガソリンが1.7%減,重油が13.1%増となっ へとまたたくまに増加する。それとともにガ ていた3)。 ソリン消費量も1899年0.07億バーレルから 一次エネルギー消費量全体(薪もふくむ)に 1929年の3.8億バーレルへと55倍に増加し,石 占める石油の比重は1900年の2.4%から1940 油製品消費量全体に占める割合も12.9%から 年の29.7%へ,天然ガスは2.6%から11.6% 44.6%へと上昇した。また重油の消費量も へと上昇した。他方,アメリカの石炭消費量 1899年の0.07億バーレルから1929年の4.2億 は1918年をピークに減少に転じ,一次エネル バーレルへと60倍に急増し,製品全体に占め ギー消費量に占める比重も1900年の71.4%か る比率も14.0%から48.4%へと上昇した。他 ら1940年には49.7%へと半分を割り込む4)。 方それまで主力製品であった灯油の消費量 石炭の消費減が著しかったのは鉄道や船舶な は,電灯の普及におされ,1899年の0.3億バー どの輸送部門および家庭,商業部門などで レルから1929年の0.37億バーレルと微増にと あった。こうしてアメリカ経済は第二次世界 どまり,製品全体に占める割合も1899年の 大戦勃発までに主として輸送部門を中心に石 56.7%から1929年には4%ととるにたらない 炭依存型から石油依存型へと急速な変化をと 水準にまで縮小した1)。 げていった。 金額でみると,1929年の製品卸売販売額 上のような製品需要の急増にもかかわら 22.1億ドルのうち,ガソリンが13.9億ドル(全 ず,アメリカはそれを国内原油の大増産でま 体の62.9%),重油4.1億ドル(18.6%),潤滑 かなうことができた。アメリカの産油量は 油1.8億ドル(8.1%),灯油0.8億ドル(3.6%) 1900年の0.63億バーレルから1929年には10億 となっている2)。単価の高いガソリン需要の膨 バーレルへと16倍に拡大しだ)。この拡大ぶり 張が石油産業の急成長を主導したことを示し は世界でもぬきんでているが,原油の大増産 ている。 を支えたのは20世紀にはいってからあいつい 1930年代にはいると大恐慌の影響で自動車 だ国内大油田の発見であった。それらは太平 普及の伸びは鈍化する。1930年をピークに減 洋岸のカリフォルニア,内陸部のオクラホマ, 少に転じた自動車登録台数は33年を底に再度 カンザス,およびメキシコ湾に近いテキサス, 増加をはじめるが,39年にようやく1929年比 ルイジアナなどの各州に位置していた。一般 16.1%増の3100万台に達したにすぎなかっ に大油田ほど産油コストは安いが,そのうえ た。しかしガソリン消費量は多少の停滞は 油田発見後しばらくは産油コストが急激に低 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 85 1920年=100 億バーレル 120 14 12 100 、 ’\ 米産油量→ 10 、 ’ 、 、’ 、 @ 、 @ 、 @ 、 @ 、 8 @ 、 @ 、 @ ’ 米原油平均井戸元 6 \!一 \ 価格(左目盛) 、 、 \、 ↓ 40 @ /〉 ’・、 _ ●膚 ’ 鰯 嘲 r r英ガソリン小売価格 匂 一一 ㌔一一一一 、 ’ r 噛 20 (左目盛) 0 ♂♂ず匪認評逮詑詑ボ評評調匪誤3ぜ紳詑誘詑調年 4 2 0 第1図 アメリカの産油量と英米の石油価格推移 資料)米原油価格,産油量:恥eη’‘e腕(フεπ如rッPe‘roZ餌πL 8‘α孟‘8≠‘c8,1973, Degloyer and MacNaughton. 英ガソリン小売価格:G.Jenkins,0‘Z Ecoπo加8診ls Hαηdわooん,5th ed., Vo1.1, London,1989, P.96. 下するので,大油田の発見があいつぐ場合に 田はアメリカ史上最大の規模をもち,そこか は原油価格は持続的に低落していく。アメリ らあふれでる原油は大恐慌による需要の減退 カの平均原油井戸元価格は,第1図のように とあいまって30年代初頭には原油価格を29年 原油不足不安から1920年に高騰したあと下落 のちょうど半分にまでおしさげ,多くの既存 をはじめ,多少の上下はあったものの,1929年 油井を閉鎖に追いやり、業界は一時パニック には1920年の41%の水準までにまで低落した。 に陥った。産油量は32年の底まで22%の低落 新規油田から産出される安い原油は次々と を示し,33年以降回復するものの,29年水準 建設される大口径長距離パイプラインでメキ を凌駕するのは1936年であった。39年には29 シコ湾岸積出港に運ばれ,そこで精製された 年比25%増の水準に達した。その過程で安価 後,タンカーでアメリカ東部やヨーロッパに な原油を産出するテキサス州が全米産油量の 輸送されるようになった。このルートは新油 40%前後を占めるにいたり,アメリカの産油 田からの産油量の拡大とともに石油供給の大 量を左右する最大の州になりあがる。そして 動脈になっていった。輸送コストの低廉さが 激しい下落を経験してきた原油価格も連邦お それに拍車をかけた。この新たな流れが石油 よび州政府による産油規制導入の結果,1934 製品の世界市場価格を規定する基点価格制の 年から1ドル/バーレル前後に安定する。 基礎となる。 1930年代にはいっても油田の発見はあいつ ぎ,とくに1930年に発見された東テキサス油 86 茨城大学人文学部 社会科学論集 第2節 スタンダード独占体制から競争的寡 統合を推し進めていった。解体後もスタン 占体制ヘ ダード石油(ニュージャージー,以下NJと略 需要構造の急変と新市場の急膨張,新油田 記)は世界最大の規模を誇り,アメリカ石油 の発見にともなう産油地域の地理的移動は伝 産業を主導する位置にあったが,そのほかに 統的なスタンダード独占体制を時代遅れのも カリフォルニア・スタンダード石油,スタン のにした。19世紀のスタンダード石油の独占 ダード石油(ニューヨーク),スタンダード石 的地位は規模の小さい灯油市場を前提とし, 油(インディアナ)といった有力企業が成長 精製部門およびパイプライン部門の独占と鉄 をとげてくる。 道会社との運賃協定によって支えられたもの こうしてアメリカ石油産業は19世紀の精 であり,油田としてはこれまた規模の小さい 製・輸送部門の支配を基礎とするスタンダー 東部のペンシルバニア油田に依拠していた6)。 ドトラストー社による独占体制から,それぞ それにたいして新規発見大油田を基盤に成長 れ垂直統合を実現した20社程度の一貫操業大 をとげたテキサコ,ガルフといった非スタン 企業がかなりのシェアを占める寡占体制へと ダード系企業(独立系企業)はガソリン市場 変化をとげていった。各部門の水平的集中度 ● 前提として,大口径パイプラインの敷設, は第1表のとおりである。原油幹線パイプラ 製油所の建設,販売網の形成などの攻撃的な イン部門やタンカー部門における集中度は産 前方統合を推し進めながら,スタンダード石 油部門や精製部門よりも高いが,それでもJ.S. 油の地位を脅かしていった。急膨張するガソ ベインの分類によれば,中位以上の集中度を リン市場はどの資本の支配も確立していない 示すタイプ皿の寡占であり,それは「少数の 未開拓分野であったから,原油のはけ口はい 上位大企業間に寡占的相互依存度を生み出す くらでもあった。その結果,19世紀末には全 には十分であるが,市場の重要な割合はかな 米の33.5%にまで達していたスタンダード石 り多数の比較的小規模な売手によって供給さ 油の産油量は1911年には14%にまで低下して れている」状態である。精製業は中位以下の いた7)。さらに同年にはスタンダード石油が 集中度を示すタイプIVの寡占であり,それは シャーマン反トラスト法違反により34社に分 タイプ皿よりも「低度」の寡占で,市場はよ 割された。解体後もしばらくはスタンダード り競争的となっている。産油部門にいたって 各社は協力関係を維持していたが,徐々にグ は上位20社の集中度は52.5%にすぎない。こ ループの論理よりも自社の論理を優先するよ れはほとんど寡占とはいえないタイプVの寡 うになり,独立系資本に対抗するためにも精 占に近い状態である8)。ここでの参入障壁はほ 製・販売部門から産油部門への防御的な後方 とんどないといえる。つまり輸送部門をのぞ 第1表 アメリカ石油産業における大企業の占有度(1930年代末) (単位:%) 1) 原油生産量 エ油幹線 @ パイプライン 上位4社 上位8社 上位20社 52.5 精製能力 タンカーDWトン 50.3 31.5 78.7 52.9 70.6 2)89.0 85.6 3)87.2 50.7 資料)Temporary National Economic Committee, Investigation of Concentration of Economic Power, Monograph No.39, Co厩roZ oμんe Pε’roZeμηz Iη伽8〃ッ6ッ1協dブor 0記Coηzpαη‘ε8,1941, P.5,71,83. 1)延長距離,2)上位14社,3)上位15社 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 87 くと各部門の水平的集中度はそれほど高くな ことの反映であった。30年代にはいるとあら いのである。 たにガソリンパイプラインが導入され,そこ この時代の特徴はなによりも新規参入があ でも大企業間の建設競争が展開された。 いつぎ,垂直統合と企業規模の拡大をめざし 競争の激しさは大恐慌時における価格と産 て大企業が相互に競争していた点にある。競 油量の推移にもあらわれている。たとえば鉄 争的寡占の時代といってもいい。伊東光晴氏 鋼業など独占体制が確立していた部門では需 によれば競争的寡占が成立するには,市場の 要減に対応して大資本が生産制限をおこなっ 急速な拡大,大きな所得および需要弾力性, たため,生産量は大幅に落ち込むが,価格の 顕著な技術進歩による大量生産が可能という 下落はそれほどでもないという現象がみられ 条件が必要である9)。まさにこの時期のアメリ たが,石油産業では前掲第1図のように産油 力石油産業は自動車産業とならんでその条件 量の落ち込みは1929年比2割程度と緩やかで を十分に満たしていた。アメリカは両大戦間 あるが,価格は5割も下落するという逆の現 期に他国に先がけて富裕社会を実現し,所得 象が生じていた。これは産油部門における大 の上昇は新製品である自動車の普及を促進し 資本の支配力の弱さを示すものである11)。ア た。それにともなうガソリン需要は1920年を メリカ石油産業で協調的な寡占体制が確立す 除くとかなり大きな価格弾力性を示してい るのは州および連邦政府による産油規制が制 た。他方ガソリンの供給は新油田の相次ぐ発 度化された1930年代半ば以降のことである。 見と精製技術の発達により十分すぎるほどで あった。大企業への集中度の高いパイプライ 第2章 アメリカ以外の地域における石油産 ン部門にしても,その延長距離は年々拡大し, 業の発展と国際石油カルテル とくに1927−31年の拡大にはめざましいもの 第1節 需給構造の変化 があった1°)。それは大油田の発見にあわせて アメリカ以外の地域(以下「その他地域」 大企業が競ってパイプラインを敷設している と略記)における石油消費量のデータが手に 第2表 世界の石油製品消費量 (単位:億バーレル) 1925年 1929年 1937年 アメリカ 6.72 9.08 11.13 西ヨーロツパ 0.81 1.27 2.14 ソ連 アジア 0.42 0.73 1.98 0.42 0.60 0.90 ラテンアメリカ その他 世界 0.68 0.96 1.19 0.54 0.94 1.18 9.61 13.58 18.51 (単位:%) 69.9 66.9 60.1 西ヨーロツパ 8.5 9.4 11.6 ソ連 アジア 4.4 5.4 10.7 4.4 4.4 4.9 ラテンアメリカ その他 世界 7.1 7.0 6.4 5.7 7.0 6.4 100.0 100.0 100.0 アメリカ 資料) J.Darmstadter, et. al., Eηe7gッ‘η施e Wl)rZ(∬Ecoηo配% Johns I{opkins Press, Baltimor亀1971, Table Xより作成。 The 88 茨城大学人文学部 社会科学論集 はいるのは1925年からである。第2表に示し は西ヨーロッパとソ連であり,1937年には前 たように同年の「その他地域」の石油消費量 者は世界の消費量の11.6%を,後者は10.7% は世界の30.1%を占め,地域的には西ヨー を占めるにいたった。他方ラテンアメリカは ロッパが8.5%,ラテンアメリカが7.1%,ア 6.4%に下落し, ジア,ソ連が各4.4%を占めていた。製品別消 1925−37年の 費量は不明であるが,製品別輸入量によって 量の伸びをみると,重油2.7倍,ガソリン2.5 間接的に需要構…造をみると,西ヨーロッパで 倍であり,灯油1.0倍,潤滑油1.2倍を大きく はガソリン,重油の輸入量がそれぞれ3,200万 上回っていた。 バーレル,2,190万バーレルで1,2位を占め また工場用ボイ ていたのにたいして,西ヨーロッパ以外の地 直接影響する石油の利用がさらに拡大してい 域では自動車普及の低位性を反映して重油と ることがわかる。 灯油の輸入がそれぞれ3,558万バーレ きガソリンと重油の伸びが顕著であり,37年 ル,2,090万バーレルと1,2位を占めてい には重油の輸入量 た12)。 リンのそれ(7,478万バーレル)に肉薄してい 20年代後半以降,「その他地域」の消費量は る。西ヨーロッパ以外の地域でも同様 アメリカより早い伸びを示し,1929年には世 で,1937年の重油とガソリンの輸入量はそれ 界の33.1%,1937年には39.9%を占めるにい それ8,643万バーレル,4,580万バーレルとな たった。なかでもめざましい拡大を示したの り,ガソリンは灯油の輸入を抜いて2位に上 第3表 国別産油量の推移 (単位:万バーレル) アメリカ ベネズエラ メキシコ 1900年 1920年 1929年 1939年 6353 44292 45 15706 1223 100732 13747 4468 3214 224 162 7567 14893 1752 743 2543 68888 3927 3475 10064 148586 126496 20647 4289 7815 3079 6208 4564 22086 208616 42.7 64.3 67.8 60.6 0.1 9.3 9.9 一 22.8 3.0 2.1 瞬 1.8 2.2 3.7 富 一 イラン イラク インドネシア ルーマニア ソ連 世界 一 一 一 79 (単位:%) アメリカ ベネズエラ メキシコ イラン イラク インドネシァ ルーマニア 一 ■ 冒 1.5 2.5 0.1 1.5 2.6 3.0 1.1 1.1 2.3 2.2 ソ連 50.8 3.7 6.8 10.6 世界 100.0 100.0 100.0 100.0 資料)R・WFerri・葛翫H‘・’・型・ノ伽B翻・h P・診・・Z・・配σ。卿鰐蹴L肪e @ DeひeZqρ‘ηg艶αr&1901−32, pp.638−639. 恥・厩’んσ・η鱒P伽Z・・m8嬬・彦εc81973, D・G・lyer and M・・N・ught。n 香j1ロングトン=7.45バーレルで換算 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 89 昇した13)。 第2節 貿易構造 ソ連の需要構造はやや特異であり,消費量 上記新興産油国三ヶ国にルーマニア,イン は重油,灯油,ガソリン,潤滑油の順となっ ドネシア,ソ連,アメリカからの輸出をくわ ている。工業化の進展を反映して重油の比重 えたものが世界の石油輸出のほとんどを占め が高く,また寒冷な気候を反映して灯油比率 ていた。国別純輸出量をみると1920年代半ば がかなり高い。他方ガソリン比率は自動車普 まではメキシコが,20年代後半以降はべネズ 及の極度の低位性を反映してかなり低くなっ エラが最大であった。アメリカの純輸出量は ている14)。 産油量に比べればそれほど大きなものではな 次に原油供給側の変化についてみると,20 く,ほぼイランと拮抗し,常に第3位に位置 世紀にはいってから産油国の地理的分布にか していた。 なり大きな変化が生じている。第3表から明 しかし粗輸出量をとってみると,第4−A表 らかなように,世界の産油量は1900−29年に のようにアメリカの地位は大きく上昇する。 10倍に拡大した。そのなかで特徴的なことは 粗石油製品輸出量に占めるアメリカの比重は 第一に,アメリカの産油量が16倍に急増する 1925年に世界全体の45.5%,1929年38。3%と とともに,それまで最大の産油国であったロ きわめて高いものがあった。これはアメリカ シア(ソ連)が政治的混乱や革命によって産 がラテンアメリカから重油精製用に安価な原 油量を激減させ,一時は1900年水準の1/3まで 油を大量に輸入すると同時に,他方ではガソ 落ち込んだことである。その結果,世界産油 リンを中心とした石油製品を輸出していたか 量に占めるアメリカの地位は42.7%から らである。第4−B表のようにアメリカの粗原 67.8%へと躍進するが,ロシアは50.8%から 油輸入量は1925年で世界全体の49%,1929年 6.8%へと凋落した。 で32%を占め,最大の原油輸入国であった。 もう一つの変化はメキシコ,ベネズエラ, このように1920年代のアメリカは最大の産油 イランといった新興産油国の参入がみられた 国であっただけでなく,最大の原油輸入国で ことである。1929年にはその三ヶ国だけで, あり,最大の製品輸出国であった。 「その他地域」の産油量の45%を占めていた。 第4−B表によって石油の粗輸入量につい もっともメキシコはナショナリズムの高揚に てみると,1920年代,30年代をつうじて原油 ともなう政情不安などで1920年代半ば以降は と製品はほぼ拮抗している。しかし原油輸入 急速にその地位を低下させ,かわってベネズ については上にもみたようにアメリカのべネ エラが台頭し,1929年にはアメリカに次ぐ産 ズエラやメキシコからの輸入およびカナダの 油国になる。 アメリカからの輸入がそのほとんどを占め, 1930年代になるとアメリカ産油量の比率は 地域的性格の強いものであった。地理的な広 61.1%にまで低下する。これは大恐慌の影響 がりという点からすると石油貿易の中心は製 で同国の産油量が減少したのにたいして,他 品貿易にあり,その粗輸入量では西ヨーロッ の産油国が増産をつづけたからである。とく パが1925年で世界の45.4%,1929年46.8%,37 にソ連とイランの増産は顕著であり,前者は 年48.2%と一貫して高い比率を占めていた。 ベネズエラを抜いて第2位の産油国へと復活 次いでアジアとラテンアメリカの製品輸入量 する。こうした産油地域の地理的変化に対応 が拮抗していた。 して,世界の石油貿易の構造も当然変化をと アメリカの製品輸出先は世界中にわたって げていった。 いたが,主要な市場への石油製品の供給基地 としてはアメリカよりもそれ以外の産油国の 90 茨城大学人文学部 社会科学論集 方が輸送距離の点で有利な位置を占めてい 格を規定していたことは明らかである。 た。たとえば最大の市場であるヨーロッパへ 1930年代にはいるとアメリカの純石油輸出 はルーマニアやソ連だけでなくベネズエラも 量は拡大する。しかしそれは粗輸入量の減少 メキシコ湾岸積出港より至近距離にあった。 幅が粗輸出量の減少幅より大きかったせいで アジア市場においてもソ連やイラン,インド ある。37年には29年比で粗輸出量の拡大がみ ネシアの方がアメリカ西海岸よりも有利な地 られるが,その大半はカナダや日本,フラン 域が多かった。しかもそれら産油国の原油の スへの原油輸出の増大である。他方アメリカ 方がアメリカよりも低コストで産油でき の製品輸出量は1929年水準を回復することは だ5)。しかしそれら産油国からの石油だけで なかった。しかもアメリカ以外の産油国から は世界需要を十分満たすことができず,アメ の製品輸出が増加したので,アメリカの相対 リカからの製品輸出が必須であった。つまり 的地位は1937年には22%へとかなり低下し アメリカからの製品輸出は世界市場への限界 た。もはや20年代のような勢いはない。かわっ 的供給者として,世界の石油製品価格を規定 てベネズエラ(蘭領アンチル)からの製品輸 するものとなったのである。先にもみたよう 出が拡大し,世界に占める比率も1937年には に20世紀にはいるとメキシコ湾岸(ガルフ) 31.0%へと上昇する。他方,アメリカの原油 が石油積出港として興隆をとげ,アメリカか 輸入量は1932年に導入された輸入関税等によ らの輸出の大半を占めるにいたる。前掲第1 り急減し,1933年に世界の14.5%,38年には 図にあるようにイギリスのガソリン小売価格 9%ととるにたらない水準へと低下する。そ はアメリカの原油価格とほぼ同様の動きを示 れにたいして西ヨーロッパの原油輸入が拡大 している。アメリカの石油輸出が世界市場価 する。アメリカは30年代においてもなお有数 第4表 石油の輸出と輸入 (単位:万バーレル) A:粗輸出量 アメリカ ベネズエラ. (アンチル)1) メキシコ イラン インドネシア ルーマニア ソ連 世界計 1937年 1929年 1925年 原 油 製 品 原 油 製 品 原 油 製 品 1396 1966 9802 2765 14088 13123 7040 18408 10154 581 (828) 0 (637) (378) 31 (7606) 611 2 46 11656 986 21562 229 23420 868 2776 2563 1992 2683 34254 6764 2045 2722 1626 7765 2922 8526 2057 10458 2986 12877 4013 6019 770 0 0 3882 1930 1534 1701 1220 17 (559) 841 366 70 346 90 (13632) 1421 34856 6427 4041 3575 1362 45906 3486 9402 18681 2299 17023 4862 B:粗輸入量 アメリカ 西ヨーロツパ 南米 (アンチル)1) アジア アフリカ 世界計 (1799) 310 73 13782 (57) 2294 709 17109 (9039) 1282 89 26406 (251) 3433 1435 27502 (16083) 3055 78 38840 (1277) 4631 3188 35289 資料)Darmstadter, op. c紘, Table IV. 1)蘭領アンチルはベネズエラから原油を輸入し、精製し、そのほとんどを再輸出している。 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 91 の製品輸出国ではあったが,しかし地理的に ルダッチ・シェルにより買収され,ロシアか みた場合,カリブ海の急速な台頭によりメキ ら姿を消していた。結局生き残った国際石油 シコ湾岸の世界市場にたいする価格規定力は 資本は,広く産油地域を分散していた英蘭資 20年代に比べて明らかに低下していた。 本のロイヤルダッチ・シェルと,ペルシアに 拠点をおくAPOC,ビルマに拠点をおくビル 第3節英米資本の対立と協調 マ石油,メキシコに拠点をおくメキシカン・ (1)英米資本の角逐 イーグル石油などのイギリス資本であった。 20世紀初頭に,のちにセブンシスターズと とくに前二者は第一次大戦を契機に急速に力 よばれる7大国際石油資本がすべて出そろっ をつけ,スタンダード石油(NJ)の強力な競 ている。スタンダード石油(NJ),スタンダー 争相手として登場してきた。それに対抗し, ド石油(ニューヨーク),カリフォルニア・ス それまで海外資源に関心を示さなかったスタ タンダード石油のスタンダード系3社は1911 ンダード石油(NJ)を中心としたアメリカ資 年のスタンダード石油の解体により誕生し 本は第一次大戦後,海外資源の獲得をめざし た。非スタンダード系企業としては,1902年 て海外へと進出をはじめる。こうして第一・次 にテキサコが,1907年にはガルフ石油が設立 大戦後の国際石油産業は英米資本間の抗争を されている。イギリス資本であるアングロ・ 軸に展開されることになったのである。 ペルシア石油会社(APOC)は1909年に設立さ しかしアメリカ資本の海外進出はイギリ れ,ロイヤルダッチ・シェルは1907年にオラ ス,オランダ,フランスなどの植民地体制の ンダ資本ロイヤルダッチとイギリス資本シェ 壁にぶつかることになった。イギリス政府は ルトランスポートが合併して誕生した。 早くから石油の軍事的重要性に気づき,1901 しかし最初から7大資本が世界の石油産業 年には軍艦の石油による推進実験を開始して を支配していたわけではない。アメリカが唯 いる。石油燃焼型軍艦は石炭燃焼型軍艦より 一の産油国であった時代にスタンダード石油 も速度が速いなどの多くの優位性をもってい は世界市場の大半をアメリカからの製品輸出 た16)。1915年には石油専焼の軍艦が建造され によって満たしていた。それにたいし1880年 た。イギリスの石油への関心はきわめて軍事 代以降ヨーロッパ資本がロシア,ルーマニア, 的性格の強いものであった。 蘭領東インドなどの石油を基盤に台頭し,ス 他方でイギリス政府は原油資源の確保をめ タンダード石油の市場支配に挑戦しはじめ ざした政策を展開する。その第一は英帝国内 る。イギリス資本のシェルトランスポート, での原油資源の発見・開発を最優先とするこ ビルマ石油,あるいはジャーディンマセソン と,第二は帝国内で石油がみつからない場合 などの商社,スウェーデンのノーベル兄弟, には,次善策として帝国外の原油資源をイギ フランスのロスチャイルド家,ドイツのドイ リス資本によって支配すること,第三はイギ ツ銀行,オランダのロイヤルダッチなどであ リス石油資本の株式,資産の外国人への譲渡 る。 を厳しく制約することであった17)。1914年, このような対立の構図は第一次世界大戦に イランの石油資源を独占していたAPOCの支 よって大きく変化する。まず敗戦国ドイツの 配的株式をイギリス政府が購入したのも,上 資本がルーマニアやロシアから駆逐された。 のような政策を確かなものにするためであ 他方ではロシア革命後の国有化によりスウ る18)。またロイヤルダッチ・シェルにたいし エーデン資本が衰退した。ロシアに権益を てもイギリス政府の影響下におくことを目的 もっていたフランス資本は革命以前にロイヤ としてさまざまな働きかけがおこなわれた。 92 茨城大学人文学部 社会科学論集 その結果オランダの勢力圏以外において,同 なり後までその勢力圏を維持しえたのは海軍 社はほとんどイギリス資本としてふるまっ の迅速な燃料転換とイギリス資本による石油 た19)。 資源の確保がうまくいったからである。アメ それにたいしてアメリカ資本は政府の強力 リカ資本が英蘭資本の産油量を凌駕するのは な後押しを受けながら,門戸開放をスローガ ようやく1946年になってからである。 ンに英領植民地やその周辺部への割り込みを 少数の英蘭米資本間の争いは下流部門にも はかる。その成果のひとつがメソポタミアに および,石油製品の販売競争は熾烈であった。 利権をもつトルコ石油会社(1929年にイラク なんどか国際石油資本間で世界的な価格戦争 石油会社IPCに改名)への参加である。第一 がおこなわれた。なかでも1927年のインド灯 次世界大戦後イラクを中心とするメソポタミ 油市場をめぐるロイヤルダッチ・シェルとス アはイギリスの委任統治下におかれたが,ト タンダード石油(ニューヨーク)との価格戦争 ルコ石油会社におけるドイツの権益は戦勝国 はまたたくまに世界に波及し,翌28年まで続 であるフランスに引きつがれ,同社は英蘭仏 いた。寡占的大企業による価格競争は当事者 資本が独占するところとなった。メソポタミ だけでなく他の資本にも大きな打撃を与え アから締めだされた格好のアメリカ資本は長 た。こうした経験をふまえ1928年になると主 年の交渉の末,1928年にIPCへの参入を果たす。 要3社を中心に国際石油カルテル結成への動 また1912年にスタンダード石油(NJ)が足 きが具体化してくる。 場を確保していた蘭領東インドにおいても, オランダ政府に圧力をかけ,1928年にようや (2)国際石油カルテル く利権拡大をかちとる。しかしそれ以外の東 1928年9月,スタンダード石油(NJ),ロ 半球での利権の獲得は植民地体制の壁に阻ま イヤルダッチ・シェル,APOCの三社(以下, れきわめて困難であった2°)。アメリカ資本が ビッグスリーと呼ぶ〉はアクナキャリー協定 比較的自由に進出できたのはメキシコやベネ とよばれる国際的なカルテル協定を締結し ズエラなどのラテンアメリカ諸国であった。 た。これはカルテルメンバーの石油製品販売 アメリカ資本はそこを拠点に産油量を増やし シェアを1928年の水準に固定しようとする市 たので,アメリカ資本の海外原油生産は西半 場分割協定であり,7つの原則からなってい 球に偏ることになった。 た。内容的には各社がシェアの拡大を求めて 資本の国籍別にアメリカ以外の地域の産油 相互に競争しないように,投資競争,価格競 量をみると,第一次大戦後から1924年にかけ 争を極力排除するとともに,他方ではアウト て一時的にアメリカ資本の産油量が英蘭資本 サイダーにたいするコスト面での優位性を確 のそれを上回るが,それをのぞくと20世紀に 保するために,設備の相互利用や石油の相互 はいってから一貫して英蘭資本が米資本にた 融通,あるいは市場価格以下でのメンバー間 いする優位を確保していた21)。しかしこれは 取引などを規定している。なお反トラスト法 すべてが英蘭の石油政策の成果というわけで を考慮して,アメリカは協定の対象地域外と はない。英帝国内には石油埋蔵量の豊富な国 された22)。 があまりなかった。英蘭資本にとってはむし アメリカ連邦取引委員会の『国際石油カル ろメキシコ,イラン,ベネズエラなど植民地 テル』が公刊されて以降,アクナキャリー協 以外の地域において獲得した利権が役に立っ 定は1928年の赤線協定とならんで国際石油力 た。20世紀にはいってからの経済的地位の低 ルテルの代名詞のようになった。前者がカル 下にもかかわらず,イギリスが軍事的にはか テルによる製品市場支配の,後者が原油生産 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 93 規制の好例とされたのである23)。しかし赤線 などをおこなう輸出カルテルを組織する。し 協定の舞台となったイラクの産油量は1930年 かしこのカルテルは価格決定および輸出割当 代前半までは微々たるものにすぎず,産油量 にかんして意見がまとまらず,ほとんど実効 の世界的規制になんの役割も果たさなかっ 性をもたないまま,1930年末には実質的に破 た。それはイラクでの石油開発を抑制したと 綻してしまう28)。 いう意味では産油量の増大をあらかじめ防止 次いで大恐慌による市場の縮小が生じる。 したといえないこともないが,少なくとも産 縮小したパイの分け前を求めて競争は一層熾 油規制の中心には位置していなかった。 烈さをます。ビッグスリーはそれに対処する アクナキャリー協定にしても,具体的なカ ために,1930年に「ヨーロッパ市場にかんす ルテル協定としてはほとんど効力を発揮しな る覚書」をかわし,1932年には「販売にかんす かった。というのはこの協定を実行に移そう る項目協定」を締結する。前者はアクナキャ とすると,「特定市場における価格構造を混乱 リー協定の原則の適用範囲を地方的販売地域 させるような輸出業者や販売業者などのアウ とするように修正をおこない,ヨーロッパ市 トサイダーが常に出現する可能性があった」 場に限定してカルテルを結成しようとしたも からである24)。アクナキャリー協定はむしろ のである。後者はそれにさらに修正を加えた 「市場安定に関する一般原則,目的,手続きを ものである29)。いずれも管理機構をそなえて 作成するための憲法ないし憲章」にとどまっ いた。 ていた。しかも「アクナキャリー協定で樹立 他方上のような市場協定を補完するかたち された7原則のうち“2,3の原則”を実行す で,1929年から31年にかけてルーマニアで2 ることが,以後8年間にわたり交渉された 回にわたって生産協定が結ばれた。これはス 個々のヨーロッパ市場を対象とした一連の協 タンダード石油(NJ)とロイヤルダッチ・シ 定の目的であった」という記述から明らかな エルが主導したもので,ルーマニアの生産と ように,7原則の多くが具体化されるにはい 輸出の制限をめざした地域的な生産・輸出力 たらなかったのである。また協定に規定され ルテルであった。また1932年にはソ連にたい ていたカルテルの管理機関も結局設立されな して石油製品輸出量を全量買い取る提案がな かった25)。 された30)。 アウトサイダーからの競争を効果的に排除 しかし問題はアメリカの生産と輸出が依然 できなかったのは,ビッグスリーがアメリカ, として制御できないことであった。そのため ルーマニア,ソ連からの製品輸出を統制する ルーマニアの生産者も生産協定を実施できず, 力をもっていなかったからである。アメリカ その状態が1934年までつづいた。また上記買 ではすでにみたように産油部門での大資本の い取り提案を拒否したソ連の石油も,限られ 支配は確立していなかった。ルーマニアでも た市場でカルテルの撹乱要因となっていた。 国際石油資本への集中度は低かった26)。ソ連 しかし1933年以降,ソ連の石油輸出量は減 の石油輸出は革命の混乱がおさまった1920年 少をはじめ,35年には32年の半分の水準にま 代末から増大する27)。この3力国で1929年の で落ち込み,その後もさらに縮小をつづける。 世界石油製品粗輸出の52%を占めていた(前 その主たる原因はスターリンの工業化による 掲第4表)。 国内石油需要の増大にある31)。その結果,世 スタンダード石油(NJ)は,アメリカの輸 界市場の撹乱要因のひとつが除去されていっ 出を統制するために1928年末から29年にかけ た。そして1933年末から34年にかけて,最大 てアメリカ国内において輸出価格や輸出割当 の撹乱要因であったアメリカの産油量が連邦 94 茨城大学人文学部 社会科学論集 および州政府の介入によってようやく規制さ リーのシェアが大幅に低下していることがわ れるようになる。平均原油価格は1ドルに回 かる。これは1928年のアクナキャリー協定が 復する(前掲第1図参照)。そして1934年6月, 三社の製品市場のシェアがいまだそれほど浸 最後のカルテル協定である「諸原則の覚書草 食されていない時期に締結されたものであっ 案」が主要国際石油資本間で締結された。こ たから,その後の産油部門における支配力の れは今までの市場協定の集大成である。アメ 低下が製品市場に及ぶにつれ,三社は1928年 リカでの産油規制を前提として,おそらくこ の「現状」を維持できなくなったのである。 のころから国際石油カルテルが実際に機能し たとえば1927年におけるビッグスリーのアメ はじめたとみていいだろう32)。 リカ以外の地域における製品販売シェアは しかし以上のような国際的取り決めの展開 50.5%,産油量に占める比率は39.4%であっ 過程は同時にアクナキャリ協定の中核をなし た33)。その後,産油部門におけるビッグスリー たビッグスリーの地位低下の過程でもあっ の地位はアメリカ資本を中心とする多くのア た。この点は従来あまり指摘されていないが, ウトサイダーの進出によって低下した。原油 『国際石油カルテル』をよく読めば書いてある を手にしたそれらアウトサイダーは世界中に ことである。第5表はヨーロッパ市場におけ 販路を探しもとめたから,製品市場でのビッ るビッグスリーの製品販売シェアの変化を示 グスリーの地位が低下するのは必然であっ したものである。イギリスとベルギーをのぞ た。 く各国で1928年から36年にかけてビッグス そうした状況のなかでカルテルがうまく機 第5表 ビッグスリーの製品販売シェアの変化1) (単位:%) 国 名 スウェーデン イギリス フランス ベルギー イタリア デンマーク3) ノルウェー3) 1928年割当 1936年実績 ビッグスリー 他のカルテルメンバー アウトサイダー 81.91 0 70.60 21.90 21.90 18.09 7.50 一10.59 企 業 増 減 一11.61 ビッグスリー 88.20 82.60 一5.60 サの他 P1.80 P7.40 @5.60 ビッグスリー 62.90 50.90 一12.00 サの他 R7.10 S9.10 @12.00 2)65.70 62.90 一2.80 2)29.70 13.00 一16.70 2)4.60 24.10 29.50 一19.33 ビッグスリー 他のカルテルメンバー アウトサイダー ビッグスリー 73.58 54.25 サの他 Q6.42 S5.75 @19.33 ビッグスリー 95.32 82.50 一12.82 S.68 P7.50 @12.82 99.39 90.00 一9.39 O.61 P0.00 @9.39 サの他 ビッグスリー サの他 資料)米国連邦取引委員会報告書(諏訪良二訳)『国際石油カルテル』オイルリポー ト社,1998年(原書は1952年),366∼383頁から作成。 1)ビッグスリーとはスタンダード石油(NJ),ロイヤルダッチ・シェル, APOCを 指す。 2)1931年実績,3)1936年の数値は割当 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 95 能した国もあれば,そうでなかった国もある。 れは政府の規制によるものであった。 たとえスウェーデンやイギリスではカルテル またベルギーでも1930年に成立したカルテ がうまく機能し,フランスやベルギーではう ルが33年,34年に相次いだ加盟企業の脱退に まく機能しなかった。 よって崩れ,1931−36年にアウトサイダーの スウェーデンでは販売シェアの低下に直面 シェアが急増している。また35年に再建され したビッグスリーが31年頃からアウトサイ たカルテルにおいても,加盟企業の一部は実 ダーを取り込むかたちでカルテル結成への動 質上アウトサイダーとしてふるまっていたと きを活発化させる。1932年にはロシア石油と いわれている39)。 の間で熾烈な価格戦が展開されるが,ロシア このようにすべての地域にわたってカルテ 石油と協定を結んだ1933年頃からカルテルは ルがうまく機能したわけではなかった4°)。ま 安定をみせはじめる。もっともそれは強固な た比較的よく機能したスウェーデンにしても カルテルというよりは「やや弱いカルテル諸 カルテルは弱い取り決めにとどまっていた 取り決め」にとどまっていた34)。 し,強力といわれたイギリスのカルテルにし イギリスでは最も強固なカルテルが形成さ てもそれほど強い価格支配力をもっていたわ れたといわれている。『国際石油カルテル』に けではなかった。製品差別化が困難な石油産 よれば早くも1929年にカルテルが結成され, 業ではビッグスリーのシェアが高くてもそう それがそのまま第二次大戦まで維持された35)。 簡単にはアウトサイダーからの価格競争を排 しかし前掲第1図からも明らかなようにイギ 除できない。もちろん競争が完全に排除され リスの税別ガソリン小売価格はソ連石油の輸 なければカルテルが成立しないというわけで 入が拡大した1931年に大きく下落している。 はない。あくまでも程度の問題である。また したがってカルテルが少なくとも31年頃まで 国際石油カルテル結成の意義も軽視してはな はうまく機能しなかったことは確かである。 らないだろう。しかしこれまでみてきたとこ カルテルが安定をみせはじめるのは,ビッグ ろからは,国際石油カルテルが「きわめて強力 スリーが1932年から34年にかけて積極的にア な生産・販売カルテル」であるというよりは, ウトサイダーの買収をはかった頃からであ 産油部門での支配力の弱さとそれに起因する る36)。他国に比べてイギリスにおけるビッグ 製品市場でのアウトサイダーの進出にたえず スリーのシェアの低下がわずかであるのはそ 脅かされていたという姿が浮かびあがってく のためである。しかしイギリスのガソリン価 る。アメリカの産油規制とソ連石油の輸出減 格が,1931年以降も低迷をつづけていたこと という幸運をまたなければカルテルが安定し は,カルテルがそれほど強い価格支配力をも なかったところにそのことが端的に現れてい ちえなかったことを示唆している37)。 る。 他方,フランスでは国内の小企業を優遇す 最後に基点価格制であるガルフプラスにつ る政府の強力な石油政策のため,1932年に結 いてみておこう。基点価格制は基準点におい 成されたカルテルは1935年までに崩壊してし てのみfbb価格が表示され,それ以外の地域に まった38)。さらに1935年以降は,イラクに権 おける引き渡し価格は「基点のfbb価格」十「基 益をもち,フランス政府が35%の株式を所有 点からの運賃」によって決定されるというも しているフランス石油会社(CFP)による原 のである。国際石油産業ではアメリカメキシ 油輸入が拡大する。1936年のビッグスリーの コ湾岸(ガルフ)での船積み価格(fbb)に, シェアはヨーロッパのなかではフランスが最 ガルフから消費地までの運賃を加えた額が現 も低かった。製品価格は安定していたが,そ 地での引き渡し価格となるが,それをガルフ 96 茨城大学人文学部 社会科学論集 プラスと呼ぶ。 かなりのシェアを占め,イラクはIPCがおさ ガルフプラスは国際石油資本間の取り決め えていた。それがガルフプラスを受け入れや によって人為的に採用されたものではない。 すくしていたことは確かだろう。 アクナキャリー協定にはガルフプラスについ ガルフプラスが国際石油カルテルのなかに ての取り決めはない41)。むしろその存在を当 組み込まれるのは,アメリカ国内で産油規制 然の前提として,加盟企業間の石油取り引き が導入され,原油価格が市場の自由な変動か 価格について規定している。「国際石油カルテ ら切り離されたときである。産油規制により ル』によれば世界の石油価格は1926年以後, 高値に維持されたメキシコ湾岸価格はそのま アメリカの輸出業者が伝統的にこれを決定す まガルフプラスをつうじて世界市場価格の引 るようになったとしているし,またフランク き上げあるいは安定へとつながる。時をおな はガルフプラスを1920年代以前からおこなわ じくして石油輸出の拠点はアメリカからベネ れていた慣行であると指摘している42)。 ズエラへと移動する。もしベネズエラの産油 基点価格制はしばしばカルテル的行為と同 業者が低価格を武器に輸出攻勢をかければ, 一視されるが,しかし競争的な状況のなかで かなりのシェアを奪うことができた。しかし も成立することがある。1920年代の世界の石 その頃までにベネズエラではスタンダード石 油産業のようにメキシコ湾岸からの製品輸出 油(NJ)とロイヤルダッチ・シェルの支配が が世界輸出の相当部分を占め,さらにそれが 強固に確立していたため,両社は輸出価格を 世界の追加需要を満たしうるだけの供給能力 メキシコ湾岸価格に連動させ,高値を維持し をもっているならば,世界市場価格はガルフ た。それによって国際カルテルはガルフプラ プラスの水準に収敏する。ベネズエラ,ソ連, スをカルテル価格へと転化したのである。ア ルーマニア,イラン,蘭領東インドなどの主 メリカでの産油規制の成立がその前提となっ 要産油国からの製品輸出は低廉ではあるが, ていたことはいうまでもない。 主要市場を単独で満たせるほどの供給能力を もっていないために,そこでの販売業者に 第3章 利権協定一資本・産油国関係 とってはガルフプラスより安く販売する動機 これまでは主として資本間関係についてみ がない。ただしソ連のように急激に輸出を増 てきた。しかし石油産業を構成するもうひと やす国が出現した場合には,それが一定の市 つの重要な柱は資本・産油国関係である。こ 場シェアに達するまで局地的に価格競争の生 の関係も石油産業の発展段階によって変化す じることがある。 る。というよりこの関係の変化こそが石油産 基準点であるメキシコ湾岸はきわめて競争 業の発展段階を画するといってもよい。 的であったが,それ自体はガルフプラスを脅 20世紀初頭から石油危機にいたるまで資本 かすものではなかった。国内産油業者間の競 と産油国との関係は基本的には利権協定 争の激化によりメキシコ湾岸価格が低下する (Concession)という形で処理されていた。そ と,それにあわせて世界市場価格も低下する れは国家と外国民間企業との間に結ばれる契 だけであった。 約であり,内容的には,国家がみずからの所 もっともカルテルの中心メンバーはアメリ 有下におく原油資源の探査・採掘権を外国民 力以外の産油地域の大部分を支配していた。 間企業に付与し,それと引きかえに民間企業 APOCはイランの原油資源を独占的に支配 から利権料等の支払いを受けるというもので し,蘭領東インドはロイヤルダッチ・シェル ある。産油量や石油価格の決定権,採掘した が,ベネズエラはロイヤルダッチ・シェルが 石油の処分権などは資本に帰属し,国家が口 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 97 をはさむことはできない。利権料の支払額に は18世紀末に成立したものの,その地政学的 ついてもあらかじめ協定で決められている。 位置ゆえに当初からロシアやイギリスの強い そのかぎりでは利権協定は私人間の契約とか 外交的圧力を受けていた。19世紀後半に財政 わるところはなく,国際石油資本と産油国と 難からイギリスやロシアの資本に各種利権を の関係は,経済学的には純粋な資本一土地所 割譲したことなどを契機に,同朝は主として 有関係として処理できる。 イギリスの半植民地下におかれるようになっ しかし一一方の契約当事者が国家であるがゆ た。ダーシーの石油利権も他の利権と同じよ えに,産油国は資本にたいして純粋な土地所 うに基本的にはイランのそうした半植民地的 有者としてだけでなく,政治権力としても対 な状況の産物であったといえる44)。 峙する。産油国政府は場合によっては契約を 利権協定を考察する場合,次の3点が重要 一方的に破棄したり,資本の活動への干渉を となる。 おこなったりする43)。石油危機前後の産油国 第一は利権区域の広さである。それが広け による石油産業の部分的国有化などはその好 れば資本による資源独占の度合いが強まる。 例であろう。しかし他方の契約当事者である 第二は利権期間である。この期間が長ければ, 外国民間資本も,自己の権益を守るために自 資本は地下埋蔵資源をより多く掘りだすこと 国政府の外交的圧力を利用したりする。外国 ができる。また借地関係のもとでは土地に不 民間資本の本国が覇権国である場合には,そ 可分に合体した固定資本残存部分は,契約終 の外交的圧力にはきわめて強いものがある。 了時に土地所有者に無償で引きわたされる このように産油国と国際石油資本との関係 が,契約期間が長ければ,資本は土地に合体 は,純粋な経済的関係だけでは処理できない した固定資本を十分に回収できる。逆に短け 側面をもっている。 れば,資本にとっては失う部分が大きくなり, 本論文であつかっている20世紀初頭から第 不利となる。第三は地代水準である。それが 二次世界大戦直前までの利権協定は,内容的 低ければ利潤率は上昇し,逆に高ければ利潤 には資本にとってきわめて有利なものであっ 率は低下する。 た。そこでここではイラン(当時はペルシ ダーシー利権では北部5州をのぞくイラン ア,1935年イランに改名)とベネズエラの利 全土にわたって利権区域が設定され,面積は 権協定をとりあげ,その点についてみること 130万Km2におよんでいた45)。それはフラン にする。両国を対象としたのは,いずれも20 ス,イギリス,ドイツの合計面積を上まわる 世紀にはいってから急速に発展をとげた産油 広大なものであった。また利権期間は60年も 国であると同時に,1940年代から50年代にか の長期にわたっていた。この二点だけからも けて,資本・産油国関係の変化を積極的に主 ダーシー利権が資本にとってきわめて有利な 導していった国だからである。 ものであることがわかる。ただし地代につい てはやや詳しい分析を必要とする。 第1節 イラン この時期の地代は主として利権料というか イランは1901年イギリス人W.K.ダーシー たちをとっており,ダーシー利権における利 に包括的な石油利権を与えた。それはその後 権料は企業の純利益の16%であった46)。その 1933年に一部改訂されたが,基本的には1951 ほかにダーシー側は輸出税,輸入税,土地税 年の国有化騒動にいたるまで50年にわたって などの免除が認められていた。ダーシー利権 両者の関係を規定した。当時イランを統治し は1909年にAPOCに引き継がれるが,その後 ていたのはカジャール朝であった。この王朝 利権料支払いの基準となる「純利益」の解釈 98 茨城大学人文学部 社会科学論集 万トン,万ポンド %,シリング 1200 25 1000 純利益 F−←利権料/純利益 @ (右目盛) /(左目盛) 産油量_!! 20 (左目盛) 1 800 / ! / @ { / 600 ρ 一 I 15 @ 1 、 @ 1!\ / ノ / ’ 1 トンあたり利権料 !/ (右目盛) 10 S00 5 200 1 │/ @ \1騰) 0 ♂評♂ず匪認ジ鍵評詑♂評評ず匪認卵ぜ紳詑誤紳年 0 第2図 APOCの利益,利権料 資料)R.WFerrier,%ε研8‘07ッげ%e Br漉8んPε6roZωηL Coη乙pαηッ, Vbl.1,1982, p.233, 234,370,601.1931∼1938年についてはJ.H. Bamberg,丁肋H‘8‘o型げ渉加Br漉8ん PeかoZeμηz Co1ηpαη飴Vlol.2,1994, p.57,69. 注1)1927年までは会計年度(4−3月),1929年以降は暦年,1928年は4−12月。 をめぐって紛争が生じ,結局1920年12月に, るように,利権料の減少率の方が利益のそれ イラン以外で活動しているAPOCの子会社も よりも大きかった。トンあたり利権料も大幅 含めた純利益の16%ということで妥協が成立 に落ち込み,1931年には1シリング1ペンス した。しかしかなり多くの控除がそれら子会 となる。要するにこの利権料方式のもとでは, 社に認められたため,結果的にそれはイラン イラン側はAPOCの利潤増大の恩恵に十分に にとって不利なものになった。 あずかれないだけでなく,企業の業績不振時 APOCの純利益とペルシア政府が受けとっ にはそのしわ寄せを大きく受けるしくみに た利権料とを示せば第2図のごとくである。 なっていた。 1920年代前半までの利権料は企業の利益の大 ところでイランの利権料を他と比較してみ 幅な変動にほとんど反応していない。産油量 よう。たとえば隣国のイラクであるが,1925 は拡大していたから,当然トンあたり利権料 年に締結されたトルコ石油会社(1929年イラ は低下する。20年代後半になると利益の拡大 ク石油会社となる)との利権協定で,イラク に対応して利権料は拡大し,トンあたり利権 政府はトンあたり4シリング(金)の利権料 料も増加する。しかしそれでも純利益に占め を受けとることになっていた。イランと異な る利権料の比率は図に示したように,1926/27 り,イラクでの利権料は単位重量あたりいく 年にようやく15%に達した程度である。それ らと固定されているが,この4シリングは 以後純利益が縮小するが,利権料/純利益の数 1924/25年∼1925/26年のイランの平均利権料 値が10%以下に低下していることからもわか 4シリング3ペンスとほぼ同じ水準である。 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 99 ミクダシによればトルコ石油のトンあたり4 いはその外側の試掘領域における地代であ シリングという数字は,当時のペルシア湾岸 り,それはほぼ資本の平均利潤と等しいと意 での原油価格を推定して,その8分の1に設 識されていたのである。 定されたという。当時ペルシア湾岸で原油を したがって1925年のイラク政府との利権協 産出していたのはイランだけであるから,参 定ではこの12.5%というアメリカで一般化し 考にした原油とはイラン原油のことであろ ていた限界油田での利権料率が採用されたわ う。そしてミクダシは8分の1(12.5%)とい けであり,1925年前後におけるイランの利権 う数字は,石油を産出する土地の所有者に支 料もほぼそれと同水準であったということに 払われる利権料が,井戸元価格の12.5%であ なる。もっともイランの利権料は年々大きく るというアメリカでの一般的な慣行からきて 変動し,また20年代後半には原油価格が下落 いると指摘している47)。そうだとするとイラ しているので,1925年前後の数値だけでイラ ンやイラクの受けとっていた地代は産油国に ンの地代も限界油田並みの地代であったとは とってそれほど不利なものではなく,アメリ ただちにいえない。しかし1921−31年のイラ カでの一般的な地代と同水準であったという ンのトンあたり利権料は平均3シリング7ぺ ことになる。 ンスであり,それと比較すると4シリング3 それにたいして水島多喜男氏は,アメリカ ペンスは20%ほど高い水準にあった。した ではかならずしも井戸元価格の12.5%が一般 がってイランの地代も平均すれば限界油田並 的な利権料水準ではなかったと異議をとなえ みの地代であったといってもそれほど間違い ている48)。氏はアメリカの土地貸与法を分析 はないだろう。APOCは広大な利権区域の埋 し,12.5%という水準は生産油田の外側にあ 蔵原油資源を長期にわたって,限界油田並み る土地(試掘領域)での産油事業からえられ の地代で採掘することが可能になっていたの る純収入を採掘業者と土地所有者とが折半す である。 る水準であり,なおかつそれは採掘業者の平 均利潤率を確保するための最低の水準である 第2節 ベネズエラ ことを明らかにしている49)。オクラホマやテ それではベネズエラはどうだろうか。1821 キサスなどの優良油田では豊度に応じて 年スペインの植民地からグラン・コロンビァ 12.5%から33.3%までのスライディングス が独立し,その後1830年にそれがさらに分解 ケールが採用されていた。1925−26年の公有 し,ベネズエラが誕生した。しかし植民地本 地における平均利権料率はカリフォルニア州 国の権威が消失すると社会は無秩序に陥り, 14.2%,ワイオミング州16.5%,オクラホマ カウディーリョと呼ばれる地方実力者が覇を 州15.5%,ルイジアナ州12.5%などとなって 競う,暴力と混乱の時代が続いた。そうした いる。またオクラホマ州内のインディアン居 状況を打ち破り,国内再統一と中央集権化を 留地からは多くの石油が発見されたが,その 果たしたのが1902年に権力を掌握したカスト うちオセジ族は16.7∼20%の利権料を手にし ロであり,1908年にその後を襲ったゴメスで ていた。アメリカでは利権料のほかに油井採 ある。とくにゴメスは1935年まで安定的な独 掘権にたいしてボーナスが支払われるが,オ 裁体制を維持した。彼の時代に外国石油会社 セジ族の居留地では,エーカー(0.004Km2)当 への利権の付与が活発におこなわれた。 たり平均146ドルとかなり高額のボーナスが 20世紀初頭にいたるまでベネズエラに強い 支払われていた5°)。このようにアメリカでは 経済的影響力をふるったのはアメリカではな 井戸元価格の12.5%という地代は限界地ある くヨーロッパであった51)。それを反映してべ 100 茨城大学人文学部 社会科学論集 ネズエラの石油開発に最初に参入したのはロ ①利権区域は,探査の場合は1万ヘクター イヤルダッチ・シェルである。その利権区域 ル(100Km2)まで。利権契約から3年目に, は27万Km2に及ぶ広大なものであり,また利 利権区域の1/2(50Km2)を政府に返還する。 権料もきわめて低いものであった。翌1914年 ②利権期間は40年。 には石油を掘りあて,1917年には輸出を開始 ③利権料は石油市場価格(ベネズエラでの した。 船積み価格)の10%。そのほかに,探査税 経済開発の支柱として石権料収入に早くか 0.1ボリバール/ha,初期開発税2ボリバー ら着目していたゴメスはロイヤルダッチ・シ ル,地表税2ボリバール(13年目以降は5 エル以外の外国石油資本を呼び込むため ボリバール)を支払う。ただしマラカイボ に,1918年に鉱業法,1920年,22年に石油法 湖や海から250Km以上離れている地域や を次々と制定していった。ベネズエラの特徴 水で覆われている地域の場合,利権料は はそうした国内法にもとついて利権協定を締 7.5%に,各種税金は半分にする。 結するところにある。 イランと比較すると利権区域が著しく細分 たとえばその後の利権協定の基本となった 化されていること,利権期間が40年と比較的 1922年石油法は次のようになっている52)。 短いことなどが特徴となっている。これは多 70 百万ボリバール・百万トン ボリバール 7 米国平均原油価格×10%(右目盛) レへ\/ \ 利権料 → 60 6 \ / \ (左目盛) 50 / \\ /ノ \ 5 レ @ \ 40 @ \ /\\ / \ 432 @ 30 20 @ \ g_縞 \\\へ(右目盛) .一∼、\/ \/一 ! \一_一ノへ__ ! ! ノ @ ! 10 1 ノ @ ’ 0 @ ’ @ ’ @ ’ @ 一 一一 一 1922 1923 1924 1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935年 第3図 ベネズエラの利権料と産油量 資料)B.S. McBeth,」配αηWceπオεGo配e2αηd痂ε0∫Z Co配pαπ護e8‘η脆πε2麗Z傷190& 1934Cambridge University Press, Cambridge,1983, p.64. 0 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 101 くの資本に参入機会を提供することによっ 第3節 1930年代における利権料水準の引き て,より多くの資本を呼びこみ,結果的に原 上げ 油の増産と利権料総額の増大をねらったもの イランにしろベネズエラにしろ,産油コス であった。その点ではベネズエラの利権協定は トや主要市場への輸送費用等を考慮すると当 資本にとってイランより不利なものであった。 時としては優良油田であった。1925/26年の しかし利権料率はかなり低かった。利権料 イランの産油コストはバーレルあたりドル換 算定基準原油価格は1927年から42年までは, 算で28セント,利権料は15セントであったか 石油雑誌に掲載されるニューヨークの製品価 ら,資本にとって費用と意識される額は43セ 格からベネズエラの原油価格を逆算したもの ント前後であった57)。当時のアメリカの原油 が利用された53)。ベネズエラの利権料の推移 平均井戸元価格は1.7ドル前後であったから, を第3図にしめした。原油価格低落の影響を イランはイギリス市場にたいしてメキシコ湾 うけ,トンあたり利権料は1922−27年に減少 岸より30%ほど遠距離にあり,かつスエズ運 していったが,産油量の急増とともに利権料 河通行料を支払わなければならなかったもの 総額も急増した。これは原油価格の低落の影 の,APOCはガルフプラス価格体系のもと 響をうち消すほど産油量の拡大が速かったこ で,十分に超過利潤をあげることができたの とにくわえて,利権料の安いロイヤルダッチ・ である。 シェルの産油比率が低下していったからであ 他方,1931年のベネズエラの産油コストは る54)。なおトンあたり利権料はベネズエラ原 ドル換算でバーレルあたり65セントであり, 油価格が密接に連動している米国平均原油価 イランの産油コストより高かったが,利権料 格の10%にすら達していなかった。ベネズエ は6.6セントにすぎず,両者あわせて71.6セン ラに支払われる地代は限界油田以下であっ トであった58>。しかも主要油田は海岸線近く た55)。 に位置し,積出港までの輸送費用が安いうえ, こうしてゴメスの思惑どおり,1922年以降 製油所はベネズエラのすぐ沖に位置する蘭領 多くのアメリカ石油資本が利権の獲得をめざ アルーバ島にあった。またロンドンまでの距 してベネズエラに流入した。しかもゴメスは 離はメキシコ湾岸積出港からよりも20%も短 資本が欲していた「政情の安定」を実現し かった。したがって当時のアメリカ原油平均 た56)。それは他のラテンアメリカ産油国に最 井戸元価格は65セントに暴落していたが,そ も欠けていたものである。その結果同国の産 れでもベネズエラ石油はヨーロッパ市場でメ 油量は1926年にイランを凌駕し,29年にはそ キシコ湾岸石油よりも優位にたつことができ の4倍の水準に達した。しかし投機目的の資 たのである。メキシコ湾岸原油価格が上昇す 本の進出が多く,また仲介業者が暗躍したた ればその優位性はさらに大きなものとなった。 め,結局1920年代末には資金力にまさるロイ この両国にたいして限界油田並みあるいは ヤルダッチ・シェル,スタンダード石油(イ それ以下の地代しか支払われていないという ンディアナ),ガルフ石油の三社が全産油量の ことはどういうことだろうか。 90%以上を独占していた。なかなか油田を掘 経済的な理由としては,両国とも利権協定 り当てられなかったスタンダード石油(NJ) 締結時には限界油田の外側に位置する未採掘 は1930年代にはいるとスタンダード石油(イ 地域かそれに近い地域であったことがあげら ンディアナ)の利権を買収することにより, れる。イランについては1890年代初頭にフラ ベネズエラ最大の産油業者になりあがる。 ンス政府使節団の調査で石油発見の可能性が 指摘されていた59)。ベネズエラについても 102 茨城大学人文学部 社会科学論集 1880年には駐ベネズエラ米国領事が石油の存 れる。開発独裁型の政治体制をとるレザー 在について本国に報告している6°)。しかし シャーの地代増額要求は,政治基盤が弱体で 1920年におけるベネズエラの産油量はメキシ あったカジャール朝のそれよりもはるかに強 コ,ペルー,トリニダード,アルゼンチンな いものであった。なによりも政変は旧体制の どの他の南米産油国に比べれば微々たるもの もとで締結された利権契約の正当性を問い直 にすぎず,のちに同国がアメリカに次ぐ世界 す。その結果,利権契約期間中であっても産 第二位の産油国になると想像した者はだれも 油国側から利権改訂要求がでてくる。 いなかった。イランでも事情はたいして変わ もうひとつは大恐慌の過程で利権料収入が らなかった。政情も不安定であった。そうし 大幅に落ち込み,あるいはそれまでの増勢が た地域に投資するリスクを考えれば,資本が 急に鈍ったことである。イランの利権料は 限界油田並みかそれ以下の地代しか支払わな 1930年の128.8万ポンドから31年には30.6万 いのも仕方がないかもしれない。 ポンドへと激減した(前掲第2図)。ベネズエ 第二に,そうした傾向を助長したものとし ラでは急速に増大していた利権料収入が1929 て植民地体制の存在があげられる。先にもみ 年をピークに横ばいから減少に転じている たようにイランや蘭領東インドなどはイギリ (前掲第3図)62)。利権料収入の減少は財政収 スやオランダの植民地か半植民地下にあり, 入の減少をとおして,財政支出の削減を強制 ・ 他国籍の石油資本の参入を認めなかった。植 する。財政支出の削減は開発独裁型政治体制 民地体制が資本の自由な競争を妨げていた。 の基盤を掘りくずす。したがって産油国の利 当然産油国は不利な立場にたたされる。トル 権料増額要求は大恐慌の過程でより強いもの コ石油が利権を獲得していたメソポタミァも となる。 第一次世界大戦後はイギリスの委任統治領と イランでは政変に加えて,大恐慌による利 なった。ベネズエラにしても植民地ではな 権料の落ち込みが激しかった分だけ,利権改 かったが,イギリスの経済権益が強く,第一 訂要求が強いものとなった。それは1933年の 次大戦後においてもなおアメリカ石油資本の 利権協定改訂へとつながる。新協定において, 参入を阻止しようとしていた61)。 利権区域は26万Km2(旧利権の20%)に縮小 しかし産油量の増大にもかかわらず,利権 し,パイプライン敷設特権などが剥奪された。 料率が長期にわたって元のままというので 利権料はトンあたり4シリング(金)の固定 は,資本にとって一方的に有利な協定といわ 制となり,さらに普通株主への配当の20%相 ざるをえない。資本は優良油田にたいして限 当額が支払われることになった。また利権料 界地代しか支払わないのであるから,超過利 は75万ポンドを下回らないこととされた。し 潤のほとんどを自己の利潤として吸収してい かし利権期間はそれまでと同じ60年間とさ たことになる。その意味では産油量の増大と れ,契約期間は1993年までとなった63>。そし ともに産油国から地代増額要求がでてくるの て新たな算定方式にもとついて1931年にさか は当然ともいえる。 のぼって利権料が支払われた。これによりイ しかしそうした地代増額要求が具体的な利 ランの31年の利権料は31万ポンドから134万 権契約の改定や利権料算定基準の変更などに ポンドへと跳ねあがり,以後37年の354万ボン 結びつくには,いくつかの条件が必要であっ ドまで年々増大していった。32年以降は産油 た。ひとつは政変である。イランではカジャー 量が拡大したから,その面からの増収効果も ル朝が倒れ,1925年にレザーシャーがパーレ あった(前掲第2図参照)。 ピー朝を興すとすぐに利権改定交渉が開始さ トンあたり4シリングという水準は当時の 館山:パクスアメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 103 中東の水準と同一のものであった。イラクに 後,1940年代にはいってからのことである。 ついてはすでにみたが,サウジアラビアでも こうみてくるならば,1930年代における利 1933年のソーカルとの利権協定において4シ 権料引き上げ要求は,限界油田並みかそれ以 リングの固定制が採用されている。 下の地代しか支払われていなかった優良油田 イランにとってはトンあたり4シリングと において,大恐慌による利権料収入の落ち込 いう利権料は,絶対額としては1925年の利権 みに対応して,地代水準をひきあげようとし 料とほぼ同じである。当時の4シリングは原 たものであるといえる。イランでは利権料率 油価格の12.5%という限界油田なみの水準で がかなりひきあげられただけでなく,利権区 あったが,それ以降の原油価格の低落を考慮 域の大幅縮小など産油国側に有利な修正が実 すると,1933年以降の利権料は限界油田以上 現した。政変が生じなかったベネズエラでは の水準にあったといえる。34年以降,原油価 利権料率のわずかな変更にとどまった。資本 格はもちなおすが,それでも1925年の2/3の水 側が大恐慌にもかかわらず産油国の要求を受 準でしかなかった。その結果,利権料は原油 けいれたのは,1930年代におけるアメリカ原 価格の12.5%から18.75%に上昇している。さ 油価格の暴落という状況のなかで,海外の安 らに前掲第2図からも明らかなようにトンあ い原油資源の確保が国際市場における生き残 たり石油収入は4シリングを超えて上昇して りの必須の条件となってきたからである66)。 いるから,実質的な利権料はもう少し高いも しかし1934年以降,産油規制にともなうア のになっていた。利権改訂によってイランの メリカ原油価格の回復は国際石油カルテルを 地代は限界油田並みからかなり引きあげられ つうじて世界市場価格の引きあげへとつなが たといってよい。 り,景気の回復による石油需要の拡大とあい ベネズエラでも1931年に利権料算定基準価 まって国際石油資本の利潤を潤沢なものにし 格はベネズエラ沖のアルーバ製油所渡し原油 た67)。それによって資本は利権料率の引上げ 価格に改められ,それはさらに1937年アルー を十分に吸収できた。そしてそのことが今度 バ製油所での製品価格からの逆算によってえ はゴメス死去後のベネズエラにおいて資本・ られる原油価格に変更された64)。その結果, 産油国関係の大きな変化を引きおこすことに ベネズエラのトンあたり利権料は前掲第3図 なる。1930年代の資本・産油国関係の変化 のようにアメリカ平均原油価格の10%を上回 は,1940年代以降の変化に比べれば,まだ ることになった。1935年のそれは2.5ポリ 微々たるものにすぎなかった。 バール/トンであり,アメリカ平均原油価格の 13.15%であった65)。それは限界油田の利権料 《注》 よりわずかに高い水準である。もっともトン 1)以上の数字はH.EWilliams・n, A. R. Daum,既e あたり利権料の絶対額自体は1931年以降はほ 加er‘c侃Pe’r・伽m 1屈μs幅Vbl』, Greeル とんど変わらなかったから,利権料算定基準 w・・dpress, Westp・r七,1g63, p.11,168,443およ の変更はそれ以上の利権料率の低落を防止し びHε8’。r‘CαZS‘α’醜C8・μんeσπ‘診e4S‘α診e8, たにすぎなかった。利権料総額は1934年から C・Z・珈Z伽e8孟・1970, p.716からとった。 増加しはじめるが,それは産油量の増大によ 2)American Petroleum Ins七i七ute, Pe診r。Zeμ配 るものであった。1933年に利権協定の改訂を Fαc’sα記F‘gμres,1g47, p.157. おこなったイランの利権料率との格差は明ら 3)重油の販売額の伸びがガソリンより大きいのは, かに拡大した。ベネズエラの利権協定に根本 濯青炭産業での公正競争規約の採用によって1934 的な変更が加えられるのはゴメス死去 年以降石炭価格が急速に回復し,石炭と競合する重 104 茨城大学人文学部 社会科学論集 油の価格も同様の変化をたどったことによる(アメ 13)1938年における世界の自動車登録台数は4311万 リカ経済研究会編「ニューディールの経済政策』慶 台であり,そのうちアメリカが2950万台(68.4%), 磨通信,1965年,57頁およびWilliamson, et,al., qρ. ヨーロッパは904万台(21.0%),その他457万台 c鵡p.664)。 (10.6%)であった(API, op. c紘,1947, p.217)。 4)S・且・S・hurr and B・C・N・tschert,翫・塑漉・ 14)16畝PP218−221. A7ηer‘cαπEcoηoηzッ1850−1975 The Johns Hopk− 15)北部ヨーロッパ市場にたいしてイランはメキシ ins Press, Baltimore,1960, pp.511−513. コ湾岸より遠距離にあったが,低廉な産油コストの 5)ガソリン需要はこの間に55倍に増大したが,原油 せいで,アメリカ石油と十分に競争できた(HM. 産出量は16倍にしか拡大しなかった。その差は精製 Larson, E. H. knowlton, C, S. Popple, NeωHor‘一 技術の発展によって埋め合わされた。 εoηs1927−195αHarper&Ro琳Publishers, New 6)1898年にスタンダード石油は全米精製能力の Ybrk,1971, p.304)。 82%,幹線パイプライン距離数の90%を支配してい 16)D.ヤーギン(日高義樹,持田直武訳)『石油の世 た(Williamson et. al., op. c菰, p.74,627)。 紀』上,日本放送出版協会,1991年(原書は1990 7)J.G. McLean and R.W Haigh, Tんe Groω仇げ 年),257頁。 ● P・’・g・α娚αZσ卿傭・s・Th・Plimt・n Press, 17)D. J. P・勲一Smi七h,0‘Z, A 8鋤。ハ伽伽, N・rw・・d,1954, PP・70−71・ P吻A掘A伽耐・α’‘・・, Her M句。、tyl、 St。ti. 8)J・S・ベイン(宮灘一監訳)r産業組織論』上, ・nery O箔ce, L・nd・n,197・, PP.匪10, E, Li。uw。n, 丸善株式会社,1970年(原著は1968年),141−148 Pε‘roZ飢配どπ%ηe2配e匁A研8’o聯University of 頁・ C・li飴・ni・Press, B・・k。1。X 1954, P.19. 9)伊東光晴「近代価格理論の構造』新評論,1965 18)当初APOCの株式の97%はイギリス資本のビル 年,第8章。 マ石油が所有していたが,1914年にイギリス政府 10)Williamson, et.aL,(∼ρ.c鵡p.340,568. が株式の66.7%を取得することによって支配的株 11)森疸夫氏は石油産業のこうした現象を次のよう 主になった(R.W, Ferrier,丁勉研8≠07ッo!7%θ に理解する。「原油生産部門では,大恐慌あるいは Br読8んPε’roZeπ配σ0配pα脇Vb乙1丁漉DeひεZρp一 37年恐慌に際し,価格の大幅な低下によって市場を 加8y肱r81901−193名Cambridge University Pr← 維持し,在庫量の低下を伴いながら生産量の低下を ss, Cambridge,1982, p326)。 比較的少なくするという独占的部門としてはかな 19)Payton−Smith,(∼ρ. c紘, p.13. り特異な動きを示した」(「両大戦問におけるアメリ 20)1917年以前に石油資源の獲得をめざしたアメリ 力石油産業(二)一その構造と独占・競争に関する 力資本のインド,ビルマへの進出はイギリス政府に 準備的考察一」『経営論集』明治大学14巻1号,1966 よって拒否された(Federal Trade Commission, 年,6頁)。つまり森氏は,大恐慌時には原油生産 Eεpor’oη。Fore忽η0ωηθr8ん加腕此e PεかoZ飢配 部門にすでに独占の支配体制が確立していたと認 1π伽8’購1923,pp.39−40)。 識しているのである・だからこそ大恐慌時の生産の 21)A纏・α・P・‘・・Z・・配厩・…。ご。F。.。な。 緩慢な減少と原油価格の大幅低下という現象を「特 Coμη彦r‘餌Hearings Befbre A Special Commit一 異な動き」と表現したのである。 tee Investigating Petroleum Resources, U. S. 12)J・D・・m・t・dt・蔦・t・・1・・E・・卿‘漁・胴d S・n・t・,79th C・ngress,・・t・essi。n,・945, PP.・89. Ecoηoηz%The Johns Hopkins Press, Baltimore, 193. 1971,pp.303−305.なおトンからバーレルへの換 22)Staff Report to the Federal Trade Commission 算レートはガソリン8.45,重油6.70,灯油7.89で submitted to the Subcommittee on Small Busin一 ある・ ess, U.S. Senate, Tんe Iπ,erη碗♂oηαZ Pe‘roZeμ配 館山:パクスァメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 105 Cαr’eZ,1952, pp.199−201(諏訪良二訳『国際石油力 32)アメリカにおける産油規制の分析は紙幅の関係 ルテル』オイルリポート社,1998年,236−238頁)。 で割愛した。 23)たとえば「赤線協定とアクナキャリー協定は国際 33)産油量については,Larson, Knowlton, Popple, 石油産業におけるきわめて強力な生産・販売カルテ qρ.c紘, pp.38−39.製品販売量については, G. S. ルであった。両協定に参加した一貫統合国際石油会 Gibb and E. H. Knowlton,丁肋Re8π㎎eη彦距αr8, 社は外国(アメリカ以外の)原油生産の約85%,外 1911−192Z Harper&Brothers, New Ybrk,1956, 国小売市場の約90%を支配していた」という具合で p.501。 ある(浜渦哲雄『国際石油産業』日本経済評論 34)『国際石油カルテル』338頁。 社,1987年,52頁)。 35)同上書319頁。 24)「アクナキャリー協定の原則を実行に移そうとし 36)この買収については,同上書353頁およびJ.H. たとき,予測もしなかった厄介な問題に直面した。 Bamberg,丁肋H‘8渉01ッげ6んe Br漉8んPe〃oZ餌配 なかでも主要な撹乱要因はアメリカでの産油量の Oo皿ρηα劣%Z.2, Tんe AπgZoJr侃’αηy魔rs,1928一 持続的な拡大であった。」(Larson, Knowlton, 1954, Cambridge University Press, Cambridge, popple, op. c紘, p.30g)。 1gg4, p,130を参照。 25)以上の括弧内の記述は「国際石油カルテル』247 37)『国際石油カルテル』ではイギリスのカルテルの 頁より引用。 強固さの指標として税込製品卸売価格の安定性を 26)ルーマニアについては1927年の時点でロイヤル 指摘しているが,税別価格でみる方が正しい。30年 ダッチ・シェルが産油量の17%,スタンダード石油 代初頭には,税別価格は下落しているのに,税金が (NJ)が6%程度にすぎなかった(Larson, 引きあげられため,税込価格はあまり変化していな Knowlton, Popple, qρ. c肱, p.38)。 い(G. Jenkins,0∫Z Ecoπo肌‘8舌’81fαη(1booゐ,5th 27)ソ連では1920年代末から産油量が増大し,それに ed.,Vbl.1, London,1989, p.96)。 ともない輸出量も27年の210万七から32年の600万t 38)フランス政府は大企業にたいしては製品輸入に まで急増した。ソ連の石油はヨーロッパ市場への輸 割当制を導入したが,小企業や商社についてはその 送距離も短かいため,安価であった(R.イーベル, 制限外としたため,それらが競って輸入を拡大する 奥田英雄訳『ソビエト圏の石油と天然ガス』石油評 ことになった(『国際石油カルテル』,355−359頁)。 論社,1971年 13−18頁)。 なおフランスは第一次世界大戦を契機に石油産業 28)『国際石油カルテル』255−265頁。 にたいする国家統制を強めたが,1928年に一連の石 29)前者では,加盟企業内における過剰取引と過小取 油業法を制定し,石油の輸入,精製,販売を政府の 引との調整方法,過剰取引と過小取引に課されるぺ 完全な統制下においた(有沢広巳編『エネルギー政 ナルティ,販売価格と販売条件の多数決による決定 策の新段階=欧州のエネルギー革命』ダイヤモンド などの組織内強制についてアクナキャリー協定よ 社,1961年,第3章)。 り詳細に規定されている。後者では,アウトサイ 39)これはベルギーがヨーロッパ各国への石油の積 ダーの加盟に以前より寛容な条件が付されている み換え地点にあたっていて,アウトサイダーが他国 ほか,市場安定のためにアウトサイダーの買収を勧 へ輸送中の製品の一部を国内消費に振り向けるだ 奨したり,未開拓市場の開拓はアウトサイダーの犠 けで,市場を撹乱することができるという立地上の 牲においておこなわれるべきことなどが新規につ 問題からくるものであった(『国際石油カルテ け加えられていた(同上書265−273頁,279−291 ル』,363−365頁)。 頁)。 40)日本については,阿部聖「1920年代の日本の石油 30)同上書273−278頁。 産業」「商学論集』中央大学商学研究会)第24巻, 31)イーベル前掲書,18頁。 第4号,1982年および「第二次大戦前における日本 106 茨城大学人文学部 社会科学論集 石油資本と米英石油資本」同上,第23巻第4号,1981 ロイヤルダッチ・シェルの利権料は旧協定の2ポリ 年参照。 バール/tにとどめおかれていた(Ibid., p.104)。 41)たとえば米川伸一『ロイアル・ダッチ=シェル』東 なおロイヤルダッチ・シェルの産油量は1924年には 洋経済新報社,1969年,197頁には「ここで(アク ベネズエラ全体の80%を占めていたが,1929年には ナキャリー協定で一引用者)採用された価格が,か 41%にまで低下した(B.S. McBeth,」ωαπWceη‘e の有名な『ガルフ価格』である。」という指摘があ Go配θ2侃d ‘加0μσo配p侃‘θs加脆πe訓eZα, る。 1908−1935,Cambridge University Press, Cam一 42)「国際石油カルテル』388頁,H. J. Frank,σ配de bridge,1983, P 62)。 0‘ZPr診cθs加抗e 1協ddZεEα8’, Frederick A. 55)ただしイランと異なり,ベネズエラでは資本は地 Praeger, Publishers, New Ybrk,1960, p.10. 表税や開発税を支払っていたから,政府の石油収入 43)利権協定の法的性格をめぐっては,落合淳隆『石 はもう少し増える。 油と国際法』敬文堂,1977年,皿「石油コンセッ 56)Gibb and Kmowlton, op. c紘,p.388. ション協定の法的性格」を参照。 57)Ferrier, qρ。 c‘’., p.415,601より算出。換算レート 44)利権付与の歴史について加賀谷寛「イラン現代 は,1ポンド=4.84ドル,1ロング・トン=7.45バー 史』近藤出版社,1975年,13−34頁を参照。 レル。 45)ダーシー利権については,Ferrier, qρ.c紘, 58)McBeth, qρ. c紘, p.1,64.換算レートは1ドル Appendix 1.1.を参照。 =5.2ボリバール,1メートル・トン=7.33バーレ 46)この16%という水準は1889年の第二次ロイター ル。 利権でのペルシア政府の取り分と同じであった 59)EFesharaki, DeひeZoP隅e漉げ6んe lrαη‘侃0〃 (乃認.,p.25)。 1π(加8なy, Praeger Publishers, Inc., New Ybrk, 47)Z.Mikdashi, A F‘ηαηc‘αZ Aπ吻8‘80!ル飼dZe 1976, p.5. Eα8孟εrπαZCoηces8‘oη8’1901。65, Fredehck A. 60)Gibb and Knowlton,叩. c紘,p.384, Praeger, New「Ybrk,1966, pp.62−63. 61)Rabe, qρ. c紘,pp.22−28. 48)水島多喜男「サウディ・アラビア王国1933年石油 62)これは大恐慌の影響にくわえて,アメリカが1932 利権協定における純収入の分配について一原油価 年に石油輸入関税を導入したことにより,ベネズエ 格研究(2)一」『経済学』東北大学経済学会研究年報, ラの対米輸出量が減少したことによるものである。 VbL52, No.2,139−143頁。 63)そのほかイラン政府はAPOCから株主と同じ情 49)原油の存在が知られていない地質構造の公有地 報を入手でき,重役会や委員会に出席する権限を では,利権料は5%とされていた(同上,142頁)。 もった政府代表1名を指名できること,APOCはイ 50)API, op.c‘ち1928,pp.137−143. ラン人の雇用を拡大すること,また過去の紛争の解 51)S.G. Rabe,丁肋Roα4めOPEqση漉d 8’α’es 決金としてイラン政府に100万ポンドを支払うこと ReZα’‘oπ8 W励艶πθ2μeZα,1919−1976, University などが合意された。改訂された利権の内容について of Texas Press, Austin,1982, p.5. は, Bamberg, op. cあ., pp.48−50を参照。 52)Lieuwen,(∼ρ. cあ., p.28. 64)Edwards, op. ci七., p.105. 53)G.G. Edwards,“Foreign Petroleum Compan− 65)McBeth, op. c舐,p.63,64. ies and the State in Vbnezuela”in R. E Mikesel, 66)たとえば1929−39年にスタンダード石油(NJ)の Fore∫gπ1ηひε8’肌e撹加’んεPe診roZeμ肌απdルf‘ηθ一 調達原油は,アメリカ国内産が日産35.5万バーレル rαZ1π伽8’r‘e8, The Johns Hopkins Press,1971, から38.5万バーレルへの微増にとどまったが,外国 p.105. 産は日産18.0万バーレルから45.9万バーレルに増 54)1918年鉱業法以前にベネズエラに進出していた 加した(Larson, Knowlton, Popple, qρ. c‘‘., p.148)。 館山:パクスァメリカーナへの移行期における国際石油産業の発展 107 67)入POCの税引後利潤(インフレ調整済み)は1929 引後投資収益率も1931年の4.2%から37年の14.9% 年を100とすると,31年には55.8,33年には64.3と低 へと上昇している(Bamberg,ρρ.c‘ちp.23)。 迷したが,34年115.4,1937年161.3と急増した。税