...

高志学舎

by user

on
Category: Documents
9

views

Report

Comments

Transcript

高志学舎
[高志学舎HP150403](2)
【特集】高志学舎設立趣旨のキーワードとしての(子ども・未来世代のための)
「高志」に つ い て ――「高志」とは何か? なぜ今「高志」か?
201 5 年 4 月 3 日 札 幌 に て 東 海 林 邦彦
《 全体目次 》
A:『マッサン』( N H K 朝 ド ラ : 2014 年 10 月 ― 15 年 3 月 ) の こ と ;
A´:吉田松陰( N H K 大 河 ド ラ マ 『 花 燃 ゆ 』 2015 年 1 月 ― 1 2 月 の 実 質
主人公)のこと;
B:
「高志」をめぐるメモ的断想( わ が パ ソ コ ン・保 存 フ ァ イ ル 中 の メ モ か
ら );
B´ :( わ が パ ソ コ ン ・ 保 存 フ ァ イ ル 中 の ) 関連アフォリズム(格言)( か
ら の 抜 粋 );
C:「高志学舎」 設 立 に 込 め た わが(一般的)思い ( + 「 高 志 」 と い う ネ
ー ミ ン グ の 由 来 ・ 趣 旨 ) ―― NPO 法 人 「 高 志 学 舎 」 設 立 趣 意 書 ( 第 八
版)からの関連箇所の抜粋・コピー;
C´:上記「高志(学舎)」提言への・わが自分史的背景としてある
ものー ー 同 上 の 抜 粋 ・ コ ピ ー 。
【参考付録】村岡崇光先生への手紙*
* こ れ を「 参 考 付 録 」と し て 添 付 す る 理 由・趣 旨 に つ い て は 上 記 C ´
中の当該関連「註」を参照のこと。
《本【特集】の趣旨・全体構成》
・ なぜ今「高志」かーーそれは、なによりも、全国の学校・職場で「ピ
ッカピカの一年生」が誕生するこの春・4月初めにあたり、その「一
年生」のみなさんにむけて、皆が可能なかぎり平等に「高志ある人生」
を送っていただきたい、という、われわれのメッセージを、当NPO
のホームページを通じて届けたいとの思いによるものであるが、同時
にまた、(惜しくも!)先週3月 27 日で終了した・上記「朝ドラ*:
1
マッサン」への・惜しみない賞賛の声を――それが、( な に よ り も 、 こ の
札幌のすぐ近くの余市のニッカの創業者・竹鶴の物語であり、小生も、年に一、
二度は必ず試飲会場に行ってタダ酒を飲んでくるのを楽しみにしているという
下 世 話 な 話 は と も か く も ! ) わが「高志」にも通じる精神を高らかに歌い
上げるものであっただけに、そして、この・何事もスピード速く移り
行く時代にあって、一週間も経ったら最早「遠い過去」のことになり
かねないだけにーーその感動のこころが「賞味期限」が切れて時期は
ずれのものとなってしまわないうちに、一年生のみなさんに届け、そ
の感動の余韻を皆さんと共有したい、との思いがあるからである**。
* な お 、小 生 は 、そ も そ も 、朝 ド ラ( を 初 め 、後 述 の 大 河 ド ラ マ 以 外 の テ レ ビ
ド ラ マ )は 、ほ と ん ど み な い( い ち い ち ド ラ マ に 付 き 合 っ て るほ ど の 暇 人 で
は な い ! )。 ち な み に 「 ジ ェ ジ ェ 」 は 舞 台 が 三 陸 沿 岸 の 久 慈 と い う こ と も あ
っ て 、気 に な っ て 最 初 み か け た の で あ る が 、被 災 一 年 ま え に 始 め て 同 地 を 訪
問 し た と き の・小 生 の 印 象 か ら し て も 、あ ま り に も 軽 い ノ リ の 、地 方 の 生 活
の 本 当 の 厳 し さ か ら は 相 当 に か け 離 れ た 、そ の よ う な 意 味 で 東 京 人 的 感 覚 で 、
視聴者「受け」だけを狙ったような、いわば3.11への「悪乗り的便乗」
型 の 、文 字 通 り 作 り 物 = ド ラ マ 、と い う 嫌 悪 感 し か な く 、見 る の を や め て し
ま っ た ! む ろ ん 、シ リ ア ス で あ り さ え す れ ば 良 い と い う 、単 細 胞 的 感 性 の 持
ち 主 で は 、 小 生 な い つ も り だ が ー ー )。
― ― そ の 様 な 意 味 で も 、 今 回 の マ ッ サ ン へ の ・ 小 生 の 熱 中 ・ 集 中 ぶ り は 、
小 生 の こ れ ま で の 人 生 に と っ て も ( ! )、 い さ さ か 異 例 ・ 異 常 と も い う べ き
も の で あ っ て 、( 土 曜 日 に 一 括 し て ビ デ オ を み る 形 で あ っ た た め ) そ の 土 曜
がくるのが待ち遠しかったほどで、今度の 5 月のGW明けには、早速余市
に 行 っ て 、マ ッ サ ン ー エ リ ー の 墓 を 拝 み 、そ し て あ の 余 市 工 場 を 見 学 が て ら 、
試飲を楽しんでこようと思って、今から期待に胸膨らましている次第であ
る!!
――ただこれまでのほぼ唯一の例外として、数年前に放映された朝ドラ
「 萌 え の 物 語 」 は 、( そ の ス ト ー リ ー に つ い て の 記 憶 は も は や う す れ つ つ あ
り、おそらくは何らかの実話をもとにしてのドラマであろうと思われるが)
北海道のある炭鉱町の駅に捨てられた赤ちゃんをそこの駅の駅長が引き取
っ て 育 て る 過 程 の 苦 労 話 、そ し て 自 分 を 捨 て た 親 を 探 し 遭 遇 す る 旅 、ま さ に
親子とはなにかを考えさせる非常に感動的で含蓄に富んだ内容のドラマで
あ っ た と お も う が 、そ の 父 親 に 象 徴 さ れ る・北 海 道 開 拓 を 支 え た 資 本 家 的 言
動 の 描 写 の 部 分 は 、原 作 者 の 池 澤 夏 樹 著 の 単 行 本 と し て 活 字 に な っ た 段 階 で
は 落 ち て い て 、ど こ か の ス ジ か ら の 圧 力 が あ っ た せ い で は な い か ー ー と 、―
―氏が小生も高く評価する小説家であるだけにーー不審に思ったことをこ
2
の 際 指 摘 し て お き た い( ち な み に ま た 、そ の 後「 萌 え 」と い う コ ト バ が 、そ
れ と は 雲 泥 の 差 の あ る 次 元 で 、若 者 言 葉 と し て 流 行 し た こ と に 、世 事 に 疎 い
小 生 な ど 、 ほ と ん ど 呆 然 自 失 の 態 ― ― )。
* * ち な み に 、N H K 大 河 ド ラ マ の 方 は( 朝 ド ラ と は 異 な り )比 較 的 見 て き た
方 で あ り( と く に 、大 分 前 の『 獅 子 た ち の 時 代 』と 二 年 前 の『 八 重 の 桜 』は 、
上 記 マ ッ サ ン の 後 半 の 舞 台・余 市 が 、旧・会 津 藩 士 が 明 治 に な っ て 多 数 移 住
し た 土 地 で あ る と い う こ と と も 繋 が り 、非 常 な 感 銘 と 精 神 的 充 実 感 を も っ て
見 た 記 憶 が あ る )、と く に 、本 年 一 月 か ら 始 ま っ た 上 記 大 河 ド ラ マ「 花 燃 ゆ 」
は 、そ の 実 質 的( ! )主 人 公 が 、か の 吉 田 松 陰 で あ る こ と 、い う ま で も な く 、
而 し て 、上 記 C ´ の 最 後 の 部 分 を 読 ん で い た だ け ば 分 か る よ う に 、す く な く
と も 自 分 史 的 に は 、わ が 少 年 時 代 に 読 ん だ『 吉 田 松 陰 伝 』か ら う け た 感 銘 は
( し か し 当 然 な が ら 、当 時 田 舎 の 小 学 6 年 の 小 生 に 、そ の 時 代 的 思 想 的 背 景
な ど な に も 分 か ら な か っ た に も 拘 ら ず )非 常 に 大 き い も の が あ り 、そ の 様 な
意 味 で 、 こ れ ま た 、 わ が 「 高 志 ( 学 舎 )」 へ の 思 い に 繋 が る も の で あ っ て 、
是 非 、当 H P で も 採 り 上 げ た い と 考 え て い た の で あ る が 、テ レ ビ 放 映 の 前 後
か ら 多 く な っ て き た・松 蔭 に つ い て 書 か れ た も の な ど に 、若 干 な が ら 目 を 通
し て み て 、こ れ ま た 当 然 な が ら 、か れ の「 思 想 と 行 動 」に 関 し て は 、あ ら た
め て 、批 判 さ る べ き 点 も す く な く な い の で は ー ー と 考 え る よ う に な っ た こ と
も あ り 、な に よ り も ド ラ マ じ た い は じ ま っ た ば か り で も あ り 、そ れ が 終 盤 に
近づいた段階で落ち着いて当HPで採り上げても晩くはあるまいというこ
と で 、今 回 は 、そ の 標 題 だ け を 予 告 編 的 に 掲 げ る に 留 め た こ と 、了 と さ れ た
い。
( ち な み に 、マ ッ サ ン と 松 蔭 と を 同 じ く「 高 志 」の 項 で 特 集 と し て 採 り 上 げ
る の は 、酒 造 り と 志 士 と を 同 列 に 並 べ る こ と に な り 、適 切 で は な い の で は ー
ー と の 、批 判 も 聞 こ え て き そ う で あ る が 、小 生 は 、そ う し た 考 え こ そ 不 当 な
「 差 別 」意 識 の 一 種 と 考 え て い る こ と 、余 計 な こ と な が ら 、付 言 し て お き た
く 思 う 。)
・ 本【特集】全体の構成は上記目次に示したとおりであるが、その内で
も最後のCないしC´が、その「目玉」であることは、その字数が占
める全体の分量的割合からも窺われるとおりである( メ イ ン の 部 分 を 先 に
出 す の が ス ジ か も し れ な い が 、そ れ で は 、前 半 の A な い し B の 、二 つ の 柱 の 部 分
に た ど り 着 く ま で に ダ ウ ン さ れ て は 、今 回 敢 え て 挿 入 し た か っ た・こ の 二 つ の 柱
― ― た だ し 、B ― B ´ は 、わ が パ ソ コ ン に か ね て 保 存 し て い た メ モ か ら 、本・特
集 に 関 連 し た も の を ピ ッ ク ア ッ プ し て 、こ の 機 会 に「 一 挙 大 放 出 」の 大 サ ー ビ ス
3
と い う 、い さ さ か バ ー ゲ ン セ ー ル の 如 き 感 も な く は な し ー ー が 、か す ん で し ま う 、
と の 配 慮 も あ っ て 、こ の 二 つ を 先 に 出 し た 次 第 )。而して、このCないしC´
の二つは(上記目次にも注記しておいたように)、2013 年当NPO法
人立ち上げー関係者への協力依頼等のために作成・配布した「設立趣
意書」第八版( A 4 版 表 裏 本 文 + 資 料 で 300 ペ ー ジ 近 い 分 量 の も の を 簡 易 製 本 )
から、本【特集】の上記・標題の趣旨に関連する部分のみを摘出し(若
干の必要な補完をくわえつつ)コピー・掲載したものであり、それを
通じて、要するに、当NPO法人「高志学舎」の、その「高志(学舎)」
というネーミングの趣旨、それに込めたわれわれの思い・願いを説明
すること、を以ってその内容的骨子とするものであるが、そのネーミ
ングの由来はとりもなおさず、その設立じたいに込めた「高志」への
思い・願いそのものにも通じることであり、同時にまた、(その背景・
基礎にある)小生自身のこれまでの自分史的「志」の(いわば)本質
的部分を語ることにもつながるゆえに、いささか長たらしいものとな
ってしまったが、可能なかぎり多くの関連箇所をそのままコピーして
掲載した次第である。
・このCないしC´については、なお、当NPO法人「高志学舎」の基本
理念ないし基本的問題意識・課題設定と、その背景・基礎にある小生自
身の個人(史)的思い・願いを、その設立を決意してから二年半余りを
経過し、当面の(被災地小学校への図書カード送付という)活動課題を
終えて、今後の活動の方向性等についての再検討をふくめ模索の過程に
ある今日、ここで、上記・基本理念等を再確認し、反省すべき点や活動
のなかでの教訓等を検証して、関係者の方々に、当HPを通じて、考え
ていただく、機会ともしたいとの思いも込められている。ただし、今回
は、上記のように、あくまでも、われわれの考える「高志」とはなにか
を説明するためのツールとして、さしあたり、上記・趣意書の関連個所
の(若干の補正のうえでの)コピーと若干の参考資料等の追加をくわえ
て、当HPに掲載するものであり(小生としては、この趣意書の完成ま
でにはーー 他 人 に 理 解 と 協 力 を お 願 い す る も の で あ る 以 上 、可 能 な 限 り 詳 細 懇 切
に そ の 趣 旨 と す る と こ ろ を 説 明 し な く て は 、 と の 思 い も あ っ て ーー率直に言っ
て少なからざるテマ・ヒマがかかっているだけに、また、ほぼ余すとこ
ろなく、少なくとも執筆当時の時点での、小生の考え思い願うところを、
かなりの程度踏み込んで、書ききったとの思いもあって、これをそのま
ま眠らせることは余りにも勿体なく、今後も可能なかぎり活用したいと
の思いもある)、上記「検証」を直接意図するものではない。むしろ、
4
その本格的検証のためにも、今後さらに、上記・基本理念等のなかのキ
ーターム (「 子 ど も の 視 点 、そ の 最 善 の 利 益 、子 の 福 祉 」「 未 来( 世 代 )」論 、「 平
等 ・ 格 差 問 題 」「 教 育 」「 古 典 読 書 」 等 ) の掘り下げとか、またさらに、当N
POとの取り組みのなかで遭遇・経験・実感した非営利組織・活動、子
の読書支援活動等をめぐる、実際的制度的ないし理論的問題点・課題等
*について、今後、当HPでも「特集」等のコラムで、随時取り上げ、
関係者に問題提起して議論のたたき台としていきたいと考えている ( そ
れらも含め、今後、当HPに発表予定の拙文上でも、――上記・趣意書からのこ
ぴー・ペーストの煩を避けて、適宜、本「特集」での下記コピー部分を掲載ペー
ジ 数 を 指 示 の う え 、「 請 う 、参 照 」と し た い 、と い う 予 定 も あ っ て 、や や 長 文 の コ
ピ ー と な っ た ー ー ペ ー ジ 数 も 上 記 趣 意 書 本 体 A 4 ・ 300 ペ ー ジ の 約 半 分 近 く に な
っ て し ま っ た ! ― ― こ と 、 了 と さ れ た い )。
* 言 う ま で も な い こ と な が ら 、当 N P O 設 立 に あ た っ て の・そ の 基 本 理 念 と か
問 題 意 識 、そ れ を 踏 ま え て の わ れ わ れ の 思 い・願 い は 、基 本 的 に は な ん ら 間
違 っ て は い な い し 、依 然 と し て 維 持 さ る べ き も の と 考 え て い る が 、学 習 環 境
困 難 児 の 古 典 読 書 支 援 と い う 基 本 的 活 動 内 容 一 つ と っ て み て も 、な に よ り も 、
学校間格差―受験競争―そのもとで公教育自体が構造的に学習塾の存在を
不可欠のものとして成立している(塾に通えないのも「格差」のうち!?)
と い う 、教 育 を め ぐ る 現 状・体 制( そ し て そ れ を 拡 大 再 生 産 し て い る マ ス コ
ミ ・ お 受 験 マ マ の 心 性 )の カ ベ は 余 り に も 大 き く 、他 方 、里 親 ・ 一 人 親 家 庭
等 の 支 援 を め ぐ る 制 度 の カ ベ も 少 な く な く 、さ ら に 現 実 問 題 と し て は 、当 然
な が ら 、非 営 利 活 動 を め ぐ る ヒ ト と カ ネ の 二 大 資 源 の カ ベ も 、無 視 で き な い
も の が あ る こ と ー ー 小 生 自 身 も 、約 一 年 以 上 も の 間 、や り か け の 研 究 テ ー マ
等 と の 取 り 組 み を 完 全 に 放 棄 し 、私 財 を 投 じ て の 東 奔 西 走 の 調 査・情 報 収 集
旅 行 な ど 、少 な く な い 犠 牲 を 払 っ て き た こ と も 事 実 ― ― を 、こ の 機 会 に 予 め
総 括 的 に 指 摘 し て お き た い( つ ま り 、こ こ で も 、夢 = 志 の 前 に 立 ち は だ か る
カ ベ は 余 り に も 大 き い と い う こ と ー ー か )。
・ なお、とくにC´の部分にかんしては、
(Cが、その「高志(学舎)」
の一般的説明であるのにたいし)、まさに自分史的な、それゆえに、い
ささかプライバシーを曝け出すような仕儀にならざるを得なかったが、
それも、わが「高志(学舎)」の目指そうとするものを具体的リアリテ
ーをもって深く理解していただくためには、
(必要不可欠とはいえない
までも)有益であるとの判断にでるものであること、ご理解いただけ
ればと思う(従ってとくに個人情報的部分にかんしては相応のご配慮
をお願いしたい)。
5
《本文》
A:マッサン:
・この朝ドラに、われわれが深く感動したこと、教えてもらったこと、の
最大のもの、それは、なによりも、“Dreams come true”にいたるま
での、その山あり谷ありの文字通りのドラマ、そして、夢=志をあきら
めずに持ち続け、追求すること、そして何よりも(その夢=志の、いわ
ば質・中味としての)「ホンモノ」へのこだわり、それを、あらゆるカ
ベを乗り越えて追い求めること、の困難さ・厳しさ;そして、また、マ
ッサン本人のそうした「夢=志」とそのための努力・粘りが、その感動
の中核にあることはいうまでもないとしても、それを周りで支えた(奥
さんのエリーをはじめとする)周囲の人々の温かい協力と、いささかの
「運」(時代の波:例、海軍様御用達―戦後の規制緩和・ウィスキーブ
ーム等――もっともこの「時代の波」は、マッサンにとっては、厳しい
波であるほうが多かったのであろうがーー)もまた、その実現のために
は不可欠であったこと。
・その他、とくに感銘を受けたことーー(エリー役のシャーロットをはじ
め登場人物を演じる俳優女優の印象に残る好演など、イッパイあるが)
小生のメモから、二、三だけ抄録すると:
・「 人 生 と は 冒 険 な り 」 Life is an adventure.― ― 「 マ ッ サ ン 」 家 の 家 訓 :
・ 一 馬 戦 死 の 公 報 、 そ の 数 ヶ 月 後 に 届 い た 白 木 の 箱 と そ の 中 に 入 っ て い た 、 た っ
た一枚の紙切れ――今度ほど、あのような若者を死に追いやった戦争の残酷さ
を身近にリアルに感じたことはないのはなぜか(吾が郷里にもそうした話は沢
山 聞 い て い た し 、学 徒 動 員 で の 特 攻 隊 等 、そ の 種 の 話 は 多 か っ た の に ー ー )。
(た
だし、この部分はフイクション?)
・戦後すぐのころ流行った、あの「りんごの歌」――余市で、エリーが歌うから
こそ胸に迫るものあり;
・余 市 ニ ッ カ 工 場 を 敢 え て 米 軍 は 空 襲 し な か っ た こ と;「 進 駐 軍 」の ウ ィ ス キ ー 購
入を(経営が厳しく、喉からイエスと言いたいのを抑えて)断るマッサンの心
境。
・大 阪 は 小 生 か ね て「 も う か り ま っ か 」の 世 界 で 、と く に岩 手 県 人 た る 小 生 に は 、
あ る 種 の 違 和 感・不 信 感 す ら あ っ た の で あ る が 、今 回 の ド ラ マ で 、大 阪 人 の「 人
情」の厚さというものを、あらためて印象づけられた思いがしている。
6
――――――――――――――――――――
A´:吉田松陰:
*これについては、上記・註のとおりの理由で、今回は予告編的宣伝の意味で標題
だけを掲げることにした。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
B:「高志」をめぐるメモ的断想
―― ( わ が パ ソ コ ン ・ 保 存 フ ァ イ ル 中 の ) 断 片 的 未 整 理 メモから :
@@教育をめぐる現代の病理=「高志」を持ちにくくさせる現代社会・教
育:
@@「高志」の最低要素:
1.ミッション:社会的使命感・必要とされている自分をもつことの重要性;
2.ライフワークをもつこと:オマンマを食べる職業との関連;
3.ハングリー精神をもった求道・求知の人生;
@@志――複眼的見かた、多次元的見かた、の重要性;とくに、それが人
を巻き込むとき;
@@優等生的器用さーーこの国の品格とは無用無縁
@@現代的時間感覚の狂気:
大 器 晩 成 ど こ ろ か 、
中 器 中 成 も ゆ る さ ず 、 あ る の は
小 器 小 生 の み
― ― そ れ に 抵 抗 し て 大 器 晩 成 を め ざ す 精 神 に 要 求 さ れ る 精 神 の ボ ル テ
イジの高さ:脱俗的超越・貴族的精神
@@時空両次元における「遠くを見る目」――われわれがどんなに遠くを
見れるか、見ているか、それが品格と俗物性とを分ける分水嶺;百年
7
の大計に取り組む姿勢
@@世の騒音、この世のしがらみから、一歩も二歩も距離をおいて、遠く
を見ること;とくに政治・実務、ないし一般に「この世」との、適当
な距離:離れすぎては世間離れ、ベッタリでは何も見えない
@@言葉の重さ・軽さということーーそれを受け止めるもの:受け取る側
の人生経験・生活体験、想像力・思考力、感性;
@@すくなくとも自分は、上にも下にも媚びない生き方、無意味に群れる
ことをしない生き方、小心よくよくと保身にのみ齷齪する生き方――
などだけは、一貫して峻拒してきた、その様な意味での一匹狼的生き
方を(それゆえの満身創痍に耐えつつ)貫いてきたとの、変な誇りだ
けは、あるように思う。
@@現代の若者(というよりも戦後団塊の世代以降)の一般的「思考と行
動」の特徴――その最大の問題点・病理:
・「 下 流 志 向 」、 頑 張 ら な い 主 義 、 中 流 志 向 ― ―
・ 大 志 で は な く 「 中 ま た は 小 志 」;
・高志ではなく、低志;
@@「普通の生活者」への自足――その退屈さ、俗物性;デモーニッシュ
なもの=根源的批判―革新・変革への情熱=芸術・学問の本質、等と
は真逆のもの:あの独特の心の奥底に響いてくるような姜さんの語り
のなかで、唯一違和感をもったラジオ講演 ( 学 長 と し て 「 普 通 の 学 生 」
に接しての率直な感想であることは分かるがーー)
《ひと》
@@佐渡裕さんーー2010 年 5 月:ベルリンフィル正指揮者に、小学 6 年
の卒業文集に書いた夢が現実のものに!
@@日経新聞 2010 年 3 月 28 日『高原慶一郎(ユニチャーム会長)
・私の
履歴書・28 回目』家族親戚縁者向け限定版「高原家の家訓」: @ 「 生 き て も あ と 3000 日 く ら い 。 一 日 一 日 を 大 事 に し た い 」
@ 「 四 つ の 「 し 」:
志――何をするにも高い志をもって貫徹すること;
師――会う人は皆、師匠であり、人生の生き方や原理原則を教えてくれたり、自
8
分に直言したりしてくれる人をもつこと;
詩――人生や仕事に対する夢やロマンをもつこと;
死――限りある人生を真剣に生きること。
@( 20 代 、30- 40 代 、50- 60 代 と い う )人 生 そ れ ぞ れ の ス テ ー ジ で の 戦 略・心 構
え;
@ 5 つ の 「 シ ョ ン 」: ビ ジ ョ ン ( 構 想 )、 パ ッ シ ョ ン ( 情 熱 )、 ミ ッ シ ョ ン ( 使 命 )、
ア ク シ ョ ン ( 行 動 )、 デ ィ シ ジ ョ ン ( 決 断 )
@@マザー・テレサの偉さ:既成の観念・制度のカベをたった一人の無力
な状態から地道な活動によって突き崩していったそのナイーブさが
もつ力:とくにーー
1 .修 道 女 制 度 の カ ベ:修 道 院 制 度 の カ ベ の 中 で の 教 育 の 限 界( 彼 女 は 、制 度 と
し て の カ ソ リ ッ ク の カ ベ を も 超 え た ? )、
2 .制 度 を 変 え な け れ ば 何 も 始 ま ら な い 、個 人 で は 何 も で き な い 、と い う 既 成 観
念のカベ、
3.ヒンドゥーvsキリスト教等の宗教のカベ;
――それを支えたもの=人々の共感を呼ぶ最大のもの:窮極の弱者へ
の無私の救い
@@司馬さん:とくに「街道」シリーズにみる人物像、そこでの志
――日本人も捨てたものではない、との救われる気持ち、この国への勇気・希
望を灯される気持ちになるのが良い;
――「生涯一書生でありたい」と自ら書き、かつまさにその沢山の作品世界か
ら も 、 ひ し ひ し と 伝 わ っ て く る よ う な 、 司 馬 さ ん の 、 さ わ や か な 「 生 き 様 」;
ーー少なくとも、あの、学界や大学の、師―弟とか、先輩―後輩とか、学閥と
かの、あれこれの低次元のしがらみに、満身創痍、足元をすくわれそうになり
そうな人生を何とか無事に生きてきた自分から比べれば、よほどに恵まれた高
志ある人生;
@@北大「大志」
(<「高志」)― ― ク ラ ー ク 先 生 門 下 札 幌 バ ン ド に 集 っ た 人 々
への小生なりの人物評価:とくに、内村鑑三はともかくも、新渡戸稲造<有島
武 郎(「 カ イ ン の 末 裔 」を 書 き 、自 ら の 弱 さ に 忠 実 な 終 焉 を 迎 え た か れ へ の 共 感;
逆に、新渡戸については、その教育者としての退屈な言説とか、行政マンとし
ての政治へのコミットにおける、歴史的政治的評価において批判的再検証の必
要があるのでは?すくなくとも、あんなに持ち上げて神話化することへの抵抗
感 );
9
――――――――――――――――――――
B´:( わ が パ ソ コ ン・保 存 フ ァ イ ル 中 の ) 関連アフォリズム(格言)( か
らの抜粋)*:
* 下 記「 C な い し C ´ 」で も 引 用・取 り 込 ん で い る も の も あ る が 、重 複 を い
とわず敢えて、遺すこととした。
「岩手の人、沈深牛の如し。
(中略)
地を往きて走らず、
企てて倉卒ならず。
遂にその成すべきを成す。」
高 村 光 太 郎 「 岩 手 の 人 」 昭 和 20 年 :
「学問とは「そんなことができますかね」と疑われるような未知の問題
にたいして勇気と誠実さをもって絶え間なく立ち向かい問いかける
息の長い営みであり、しかもそれは所詮、自分ひとりが他ならぬ自分
ひとりの責任において行う「独学、独習」である」
護雅夫( 中 央 ア ジ ア 史 の 碩 学 と し て 小 生 も 深 く 尊 敬 し て い る 学 者 )「 歴 史 を
学 ぶ と い う こ と 」 中 央 公 論 1981 年 4 月 号
「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立て、その奥を
究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし。この志よわくては、
学問すすみがたく、倦怠(ウミオコタ)るもの也。」
本 居 宣 長『 う ひ 山 ふ み 』岩 波 文 庫 p 2 5( 1978 年 、35 年 の 歳 月 を か け て『 古
事記伝』全44 巻を書き上げたのち、弟子たちのかねての要望に応え、後
進 の た め に 研 究 方 法 を 説 い た 書 )。
「燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや」 史 記 ― 陳 渉 世 家
「少にして学べば則ち壮にして為すこと有り
壮にして学べば則ち老いて衰えず
老にして学べば則ち死しても朽ちず」
佐藤一斎『言志余録』
10
「物思ふ葦にしあればゆく雲の、高きに舞はむ心をわが有(も)つ」
大 田 青 丘『 国 歩 の な か に 』昭 和 25 年 所
収:
「行不由径」―― 論 語 ・ ○ ( ヨ ウ ) 也 篇
「なくてはならぬもののいのちは内から決まる。外から決まるのは値
段ばかり」( 高 村 光 太 郎 )
「 蹉 跌 は 証 だ ー ー お も ち ゃ の タ バ コ は 燃 え 落 ち る こ と は な い 」( 光 太
郎)
。
「まさに器用に書いている。が、畢竟、ただそれだけだ。」
芥 川 龍 之 介『 侏 儒 の 言 葉 』中 の「 半 肯 定 論 法 」よ
り。
「 耐 え て 夢 を 追 う 」― ― 0 4 .1 1 .1 6 p m 。9:1 5 - 1 0:0 0 :
NHK―TV3ch。
「 プ ロ ジ ェ ク ト X:サ ッ カ ー J リ ー グ 立 ち 上 げ に 奔
走した男」腎臓摘出の難病―週3日の透析に耐え、Jリーグの夢を実現
し た 男 が 2 0 0 0 回 目 の 透 析 を 記 念 し て の パ ー テ イ で 色 紙 に 記 し た 言 葉 「その小さな共和国に住む、気弱な作家たちは「世間」を恐れるように
なった。そこからやって来る熱と波と情報に目を奪われた。そして何
より孤立を恐れた。 彼等はいつも怯えていた。なにが正しく、なにが美しいのか。何が
間違っていて、何が醜いのか。自信を持っていえるものはどこにもい
なかった。だから彼等は何かのあとについてゆくことしか出来なかっ
た。かれらは、かつて彼等が憎み、離れようとした「世間」の人たち
と、何時しか同じものになっていたのである。」高 橋 源 一 郎『 官 能 小 説 家 』 「ドグマ的な調子のするものは、大いなる無知以外のなにものでも、ない
( ラ ・ ブ リ ュ イ エ ー ル )」C’est la profonde ignorance qui inspire le
ton dogmatique(LaBruyere)
「 生 き て い る っ て こ と は 、 死 に 抗 う 働 き 全 体 の こ と で あ る 」( 作 者 未 詳 )
La vie est l’ensemble des functions qui resistant a la mort.
11
「努力するかぎり人間は迷うものだ」Es irrt man,solange er bestribt.
( J.W .von Geothe)
――以上においてわざわざ原語を付する理由:ぺダンチックな動機ではなく、むし
ろ 、「 翻 訳 は 常 に 誤 訳 で あ る 」と の 名 言 が 示 唆 す る よ う に 、翻 訳 で は 、ど う し て も 原
語の持っている微妙なニュアンスは出せないということの例証:例、上記「努力す
る」は、原語ではむしろ、何かを求めて模索し、もがき苦しむというようなニュア
ンスか?
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
C:「高志学舎」設立に込めたわが(一般的)思い ( + 「 高 志 」と い う ネ ー ミ
ン グ の 由 来 ・ 趣 旨 ) ―― NPO 法 人 「 高 志 学 舎 」 設 立 趣 意 書 ( 第 八 版 ) か ら
の関連箇所の抜粋
《趣意書表紙・標題》
NPO 法人「高志学舎」 設立趣意書 ( 第 八 版 )
(呼びかけ人)002-8043札幌市北区東茨戸 3 条一丁目14-2「バラ
ト庵」主人こと 東 海 林 邦 彦
E
メ
ー
ル
・
ア
ド
レ
ス
:
[email protected]
@ 2012 年 9 月 1 1 日
=わが71歳(!)の誕生日(=本 NPO 立ち上げ・呼びかけへ
の決意を最終的に再確認した日)
= 71 年 前 ( = 1 9 4 1 年 = 昭 和 1 6 年 )、 小 生 が こ の 世 に 産 声 を
上げ、そして、その約三ヵ月後に日米開戦のあった日;
=11年前の 9.11、わが60歳の誕生日の夕方のテレビで、
あの世界貿易センタービル二棟が崩れ落ちる 瞬間を見た日; =1 年半前の3.11、三陸海岸の我が郷里も大津波に襲われた
日;
《趣意書全体の概略目次》
【0】はじめに
―― 本 NPO 立 ち 上 げ に 向 け て の わ れ わ れ の 「願い」( 理 念 ) と「思い」( そ
12
の 理 念 の 背 景 に あ る 基 本 的 問 題 意 識 ):
【0-1】本NPOのプロジェクト全体を通じての、われわれの「願い」
(究極的理念・目標)
【0-2】( 上 記「 願 い 」の 背 景 ・ 根 底 に あ る ) われわれの「思い」
(根本的問
題意識)
( 1 )「 弱 者 」 と し て の 子 ど も ・ 未 来 世 代 ( 一 般 ) * :
(1-0)なぜ、今あらためて、その「弱者」性を強調するのか?――未来世代からみた〔過
去―現在―未来〕: (1-1)世代論的時間軸における「絶対的弱者」としての未来世代
(1-2)
(事実と制度の両面における)能力的次元における「絶対的弱者」としてのこども・
未来世代:
(1-3)親との関係における「相対的弱者」としての子ども(ないし、未来世代)――「子
どもは親を選べない」:
(1-4)社会ないし時代との関係における「相対的弱者」としての子ども(ないし、未来世
代):
( 1 ´ )「 最 大 弱 者 ( ? )」 と し て の 遺 児 ・ 孤 児 な い し 被 ・ 遺 棄 児 ( な ど ) * :
* 上 記( 1 )及 び( 1 ´ )二 つ の 項 目 は い ず れ も 省 略 す る( た だ し 後 日 、当 HP[便
り ]欄 の「 特 集 」で 、
「 子 ど も・未 来 世 代 論 」を 取 り 上 げ る 際 に 、引 用 の 予 定 )。 ( 2 ) わ れ わ れ の ( 究 極 の ) 願 い と し て の 「( 上 記 の よ う な 本 来 的 「 弱 者 」 た る )
児 童 ・ 未 来 世 代 に 、「 高 い 志 」 or「 大 き い 夢 」 (ま と め て 「 高 志 」 )へ の 機 会
が与えられますように」――(そしてその「高志」という言葉に込めた)
われわれの思い:
(2-1)われわれの願い・思いと、その具体化のための三つのプロジェクト:
(2-2)しからば、Q1:なぜ、今、とくに「高志」なのか?また、Q2:その「高
志(学舎)」とは如何なる内容のものか?
Q1:なぜ、今、「高志」か?――「幸福」(感)と「高志」:
Q2:「高志」とは如何なる内容のものか(とくに、なぜ「高志学舎」か)?
Q2-1:なぜ「高志」学舎か:
Q2-2:なぜ高志「学舎」か:
(3)
( わ れ わ れ の 、以 上 の よ う な 、
「 弱 者 」と し て の 子 ど も・未 来 世 代 に 、可 能 な
か ぎ り 平 等 に「 高 志 」あ る 人 生 へ の 機 会 が 与 え ら れ ま す よ う に 、と い う 、わ れ
わ れ の )「 願 い 」 か ら 見 た と き の ・ 現 代 日 本 社 会 の 問 題 点 ― ― わ れ わ れ 自 身 の
13
現状認識と問題意識:
(3-1)子ども・児童をめぐる諸課題にかんする、基本的問題状況、根本的問題
の所在など:
(3-2)(われわれの当面の活動課題と関連する限りでの)子ども・児童をめぐる
現状の問題点*:
*この(3)もいずれも省略し、後日、当 HP[便り]欄の「特集」で、子ども・未来
世代論として、取り上げる際に、引用の予 定。
( 4 ) 本 NPO が さ し あ た り 取 り 組 も う と す る 活 動 課 題 = 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト
ー ー そ の 基 本 的 コ ン セ プ ト ( 4 - 1 )、 そ の 相 互 関 係 ( 4 - 2 )、 そ の 限 界 ( 4
- 3 ):
【Ⅰ】プロジェクトⅠ「遠隔地・学習環境困難児・学習支援活動プロジェクト」:
【Ⅰ―0】はじめにーープロジェクトの全体像*
【Ⅰ―1】本プロジェクトⅠにおける人的支援対象の範囲・限定(「誰のために?」)
=「震災遺児・学習支援プロジェクト」及び「離島在住児童・学習支援プ
ロジェクト」*
*省略。
【Ⅰ―2】如何なる支援目標をもって? ( 1 )「 高 志 」 に 支 え ら れ た ( 狭 義 な い し 広 義 の )「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」 養 成 の た
めにーーその基礎作りへのお手伝い:
(1-1)
「狭義のリーダー」像、とくに国家・政治の領域における、あるべき「2
1世紀型リーダー」像――その特殊今日的な意義:
①「 未 来 力 」
( ま た は 、真 の 意 味 で の 問 題 解 決 力 、ひ い て ま た 、創 造 力・改 革 力 ):
②「〈二つ目〉の力」(または総合力)
③「越・国境力」(または国際力)
④「矛盾力」(またはバランス力)
⑤「リスク力」と「自然力」(または「野生的なたくましさ」)
(1-2)「広義におけるリーダー」像――とくに「文化」的領域における「21世
紀型リーダー」像:
(1-3)(上記の狭義―広義いずれの意味での「リーダー」であれ)それを育てる
ことの、一般的ないし特殊現代的・現実的むつかしさ:
(2)「普通の生活者における「高志」ある「生きがい」としてのライフワーク」構築
のためにーーその発見・準備へのお手伝い:
(2-1)(「高志」ある)リーダーになることだけが唯一価値ある人生目標か?
( 2 - 2 ) 人 そ れ ぞ れ の 適 性 に 合 っ た 「 高 志 」、「 普 通 の 生 活 者 」 と し て の 「 高 志 」
=生きがいを感じられるライフワークの追求を:
14
(2-3)
(上記のような理念・目標をもつ学習支援を、差当り)とくに「震災遺児」
ないし「離島在住児童」を対象にして行おうとすること、の、その意義(再
論)、方向性、およびその限界*:
*省略
【Ⅰ―3】如何なる具体的内容の支援を?*
*以下【Ⅱ】[プロジェクトⅡ]まで省略 【Ⅲ】〔プロジェクトⅢ〕 未来世代のための社会的提言活動・関連プ
ロジェクト*:
【Ⅲ―1】基本的内容:
【Ⅲ―2】趣旨・目的:
【Ⅲ―3】具体的方法・必要資源・工程等
*この項・全部省略:
【Ⅳ】 上 記 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト 活 動 全体に共通 する実際的かつ原則的な諸
事項について( 上 記 プ ロ ジ ェ ク ト 全 体 の 総 括 を 兼 ね て )( こ の 項・全 部 省
略)
―――――――――――――
( 省 略 部 分 を 除 く = 抜 粋 箇 所 の )《本文》
【0】はじめに
―― 本 NPO 立 ち 上 げ に 向 け て の わ れ わ れ の 「願い」( 理 念 ) と「思い」( そ
の 理 念 の 背 景 に あ る 基 本 的 問 題 意 識 ):
【0-1】本NPOのプロジェクト全体を通じての、われわれの「願い」
(究極的理念・目標)
本 N P O「 高 志 学 舎 」は 、
( 当 面 の 活 動 の 柱 と し て は )下 記 各 項 目( Ⅰ 、Ⅱ 、Ⅲ )
で そ れ ぞ れ 説 明 す る よ う な 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト を 展 開 し よ う と す る もの で あ る が 、
そ れ ら 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト を 貫 き 、そ れ ら に 通 底 す る 、わ れ わ れ の 願 い( 基 本 的 な
活 動 理 念 な い し 究 極 の 目 標 )は 、要 す る に( ややスローガン風に要約していえば )
「最
も恵まれない立場におかれた児童をはじめとする(可能なかぎり全ての)未来世代
が 、そ れ ぞ れ の 人 生 の 初 め に お い て 高 い 志・大 き な 夢 へ の 機 会 が (可能なかぎり平
等に) あ た え ら れ ま す よ う に ! 」 と い う こ と で あ る 。
――つまり、われわれは、なによりも
15
「( 現 時 点 で 幼 少 年 で あ る 児 童 、 お よ び こ れ か ら 生 ま れ て く る 子 ど も た ち 、 の 双
方 を 含 め た 意 味 で の ) 未来世代にとっての幸福 ( 広 い 意 味 で の 「 子 の 最 善
の 利 益 」) とはなにか?」
と い う 根 本 的 な 問 い を そ の 思 考 と 行 動 の 原 点 に 据 え 、而 し て 、そ の 絶 え ざ る 問 い か
け を 行 っ て い く な か で 、そ れ ぞ れ の 時 点 に お い て わ れ わ れ が「 子 の 最 善 の 利 益 」と
考 え る 方 向 に 立 っ て 考 え た と き に 解 決 し 改 善 す べ き 諸 問 題 、克 服 す べ き「 カ ベ 」を 、
( み ず か ら は そ の 立 場・利 益 を 擁 護・主 張 す べ き 口 も 手 足 も も た な い )未 来 世 代 の
立 場・利 益 を 代 弁 し 擁 護 す る と い う 原 理 的 ス タ ン ス に 立 っ て 取 り 組 む こ と 、つ ま り
「すべては、未来世代の立場から・未来世代のために」
という観点から、考え・行動すること;――やや具体的には、
「すべての未来世代が、その・たった一度の貴重な人生を、
(真に豊かな
人 生 に と っ て の 、す く な く と も 最 も 重 要 な 必 要 条 件 と し て の ) 高い志・大き
な夢をもって努力することができますように!」
―― そ し て 、 そ の た め に も 、
「すべての児童がその人生の ( 限 り あ る 資 源 を め ぐ っ て の 競 争 と い う 、こ の
世 に 生 き る 人 間 に と っ て 避 け が た い 社 会 生 活 の 一 面 に お い て 、す く な く と も そ
の )出発点においては、可能なかぎり公平な条件のもとにおかれ、そ
の高い志・大きな夢を、その後の人生においてできる限り最大限追
求し具現化できる環境に置かれますように!」
との希望を掲げ、――そしてそのためにも、
「最も恵まれない立場に ( 当 然 な が ら 自 ら は ど う す る こ と も 出 来 な い 事 情 に
よ っ て )置かれてしまった児童にこそ、可能なかぎり最大限、
(上記の)
高 い 志 ・ 大 き い 夢を追求できるような条件・環境が社会・公共によっ
て与えられますように!」
と の 心 か ら の 願 い * を も っ て 、関 連 す る 諸 問 題 と 向 き 合 い 、考 え・行 動 す る 、こ
と、
ーーそれこそが、本NPOの、その究極の活動理念であり、行動目標である。
*「子・未来世代にとっての幸福」とはーー上記の理念・目標設定のうち、「未来世
代にとっての幸福」とか「子の最善の利益」というキーワードは、
「幸福」とか「最
善の利益」という多義的で不確定な概念をふくみ、何をもってそう考えるかとい
うことじたい、論点ごとに、また論者によっても考え方が多様であり得、今後、
われわれも理論的に究明すべき大問題であると考えるが、ただ現時点ではさしあ
たりその点については、
(それがあくまでも世間にむかっての組織活動の スローガ
ン的な性格をもつコトバであるがゆえに)、今のところ厳密な定義等はカッコの中
に入れて以下の論述をすすめること、ご容赦いただきたい。ただし、少なくとも
16
上記後半の、みずからの立場・利益の擁護・主張の術をもたない未来世代のため
に、その「代弁者」として考え・行動するという理念・目標、また、すべての未
来世代のための可及的な「機会の平等」の実現(その一環としての、もっとも恵
まれない立場の子どもたちの社会的公的支援)という理念・目標は、比較的明確
で、何人も異論の余地のない方向性を指向するものと考える(ただし、その実現
のための具体的方法・手段・範囲、問題の所在・現状の認識等に関しては、意見
が分かれるであろうがーー)。
【0-2】( 上 記「 願 い 」の 背 景 ・ 根 底 に あ る ) われわれの「思い」
(根本的問
題意識)
以 上 の よ う な 、わ れ わ れ の 究 極 的 な「 願 い 」の 背 景・根 底 に は 、以 下 の よ う に 、
まずもって、子ども・未来世代全体が一般に置かれていると思われる、種々の側
面・局 面 で の 本 来 的「 弱 者 」性 と い う 、一 般 的 な 問 題 認 識・意 識 が あ り( 下 記( 1 ))、
と く に( 遺 児・孤 児 の よ う な )
「 最 も 恵 ま れ な い 立 場 に あ る 児 童 」に は そ の「 弱 者 」
性 が 集 中 的 に 現 れ る の で あ り ( 同 ( 1 ‘ ))、 そ れ ゆ え に こ そ 、 す べ て の 児 童 ・ 未
来 世 代 に 、そ の 人 生 の 出 発 点 に お い て 可 能 な 限 り 平 等 に「 高 い 志 」
「大きい夢」
(こ
れ ら を 合 わ せ た 意 味 で の 「 高 志 」) へ の 機 会 が 与 え ら れ る べ き で あ る ( 同 ( 2 ))
が、他方しかしわれわれは、現実社会は必ずしもその「願い」を実現するには程
遠 い 状 況 に あ る と い う 具 体 的 な 問 題 認 識・意 識 を 持 た ざ る を え な い( 同( 3 ))―
― そ う し た「 思 い 」( 根 本 的 問 題 意 識 )の も と 、わ れ わ れ は 、上 記 の よ う な 現 代 社
会 の 問 題 状 況・諸 課 題 の 解 決・改 善 に 向 け て の さ さ や か な 一 歩 と し て 、本 NPO「 高
志学舎」を立ち上げ、下記ⅠないしⅢの三つのプロジェクトに取り組もうと決意
し た ( 同 ( 4 ))。
と も あ れ 、 以 上 の 意 味 で 、 本 NPO 立 ち 上 げ へ の 、 わ れ わ れ の 「 願 い 」 と そ の
背 景・根 底 に あ る そ の「 思 い 」に と っ て 、そ の キ ー ワ ー ド と な る 一 般 的 概 念 は 、
「こ
ど も・未 来 世 代 の 本 質 的 弱 者 性 」と い う こ と と 、「 高 志 」へ の 平 等 な 機 会 と い う こ
との、二つであって、以下ではその点のコメントを中心に説明をくわえることと
する。
(1)「弱者」としての子ども・未来世代(一般)*:
( 1 - 0 )な ぜ 、今 あ ら た め て 、そ の「 弱 者 」性 を 強 調 す る の か ? ― ― 未 来 世
代 か ら み た 〔 過 去 ― 現 在 ― 未 来 〕: (1-1)世代論的時間軸における「絶対的弱者」としての未来世代
( 1 - 2 )( 事 実 と 制 度 の 両 面 に お け る ) 能 力 的 次 元 に お け る 「 絶 対 的 弱 者 」
としてのこども・未来世代:
( 1 - 3 )親 と の 関 係 に お け る「 相 対 的 弱 者 」と し て の 子 ど も( な い し 、未 来
17
世 代 ) ― ― 「 子 ど も は 親 を 選 べ な い 」:
( 1 - 4 )社 会 な い し 時 代 と の 関 係 に お け る「 相 対 的 弱 者 」と し て の 子 ど も( な
い し 、 未 来 世 代 ):
(1´)「最大弱者(?)」としての遺児・孤児ないし被・遺棄児(など)
*:
*これら二つの項目はいずれも省略(後日、当 HP[便り]欄の「特集」で、子ども・
未来世代論として、取り上げる際に、引用の予定) (2)われわれの(究極の)願いとしての「( 上 記 の よ う な 本 来 的 「 弱 者 」 た
る ) 児童・未来世代に、
「高い志」or「大きい夢」 (ま と め て 「 高 志 」 * )
への機会が与えられますように」―― ( そ し て そ の「 高 志 」と い う 言 葉 に
込 め た ) われわれの思い:
*「高い志」と「大きな夢」――この二つのコトバを敢えて並列した のは、前者に
は (「 高 い ー 低 い 」 と い う 形 容 詞 じ た い も 、 ま た 「 志 」 と い う 漢 字 じ た い も 機 械
的に分解すると「士」の「心」ということで)なにかしら(かつての)エリート
的貴族的序列とそれを踏まえた立身出世=上昇志向的教育理念の臭いを否定で
きず、後述のようにリーダー像( 論)としては止む得ない面があるとしても、後
述のような、文化面での・ココロにおけるリーダーとか、さらにはライフワーク
論になると、むしろ「大きな夢」という方が適切ではないかとも思うからである
が、しかしなによりも、いちいちこの二つを併記するのはわずらわしいこと、ま
た我々の言う「高い志」と「大きな夢」とは決して競合・矛盾するものではなく、
むしろ、われわれにあっては(すぐ下にも述べるように、また本・趣意書の随所
の記述からもご推察いただけるように)前者は後者を包摂する意味をも含意する
ものであるし、また文章の簡略化・節約 等の実際的必要からも、以下では 原則と
して、両者をあわせて「高志」で通すこととする(記述にニュアンスを持たせる
意味で、後者の表現も併用することもある)。
(2-1)われわれの願い・思いと、その具体化のための三つのプロジェクト:
・ わ れ わ れ の 「 願 い ・ 思 い 」 ー ー 上 記 ( 1 ) に お い て わ れ わ れ は 、 本 NPO 全 体 の
基本的理念・目標設定における出発点として、児童ないし未来世代について、そ
の「弱者性」を強調し、それをめぐるわれわれの一般的・根本的ないし現代的具
体 的 問 題 意 識 を 述 べ て き た の で あ る が 、わ れ わ れ は こ こ で(上記三つのプロジェク
トの基本的課題として示されているように)さらに具体的に、その「弱者」たる児
童ないし未来世代が、その「弱者性」のゆえに単に消極的に「保護」の対象とさ
18
れ る だ け で は な く 、よ り 積 極 的 に「 高 い 志 」
「 大 き な 夢 」を も っ た 人 生 へ の 機 会 が 、
しかも、可能なかぎり平等に与えられますように、との願いをもって、我々なり
の学習支援ないしその他の社会的アクションへの一歩を踏み出そうとするもので
ある。
・ そ の 具 体 化 の た め の 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト ー ー わ れ わ れ は 、「 高 志 」 学 舎 と い う ネ
ー ミ ン グ を 附 し た N P O を 立 ち 上 げ る と と も に 、そ の 下 で 、具 体 的 に 下 記 三 つ の
プロジェクトを企画することとした:
【 Ⅰ 】:本 N P O 全 体 の 最 も 中 核 的 な 活 動 と し て 位 置 づ け ら れ る 上 記・震 災 遺 児
(ないし、よりひろく里子)などの最も恵まれない立場の児童・子ども
の た め の 学 習 支 援 活 動 プ ロ ジ ェ ク ト た る〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ 〕に お い て は 、
( イ )「 高 志 」に 支 え ら れ た ( 狭 義 = と く に 政 治 ・ 組 織 等 の 領 域 、 な い し 、 広
義 = こ こ ろ ・ 文 化 の 領 域 、 双 方 の 領 域 に お け る )「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」
を 目 指 す た め の 、 そ の 基 礎 作 り へ の お 手 伝 い 、( ま た は )
( ロ )「 高 志 」に 支 え ら れ た「 生 き が い = ラ イ フ ワ ー ク 」あ る 人 生 設 計 の
ための、その発見・準備へのお手伝い、
と い う (下記にそれぞれの項目に分けて説明するような) 二 つ の 基 本 的 目 標
を も っ て 、( イ ン タ ネ ッ ト を 主 た る ツ ー ル と す る 古 典 学 習 支 援 、 な い し 夏
休 み 等 に お け る 集 中 合 宿 等 の )具 体 的 諸 活 動 を 展 開 し よ う と す る も の で あ
る 。 さ ら に 、
【Ⅱ】
:
〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅱ 〕で は 、と く に 付 近 地 域 の 児 童・子 ど も 達 を 対 象 と し て 、
上 記 い が 同 じ よ う に「 高 志 」を も っ て 人 生 を 送 れ る よ う な 基 礎 的 学 習 支 援
等を行おうとするものであり、また、
【Ⅲ】
:
〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅲ 〕で は 、可 能 な か ぎ り す べ て の 児 童・子 ど も 達 が そ の よ
う な「 高 志 」を も っ て 人 生 を 送 れ る よ う な 社 会 的 制 度 的 基 盤 づ く り に 向 け
てのアクションないし提言活動を行おうとするもである。
― ― こ の よ う に「 高 志 」と い う こ と ば は 、本 NPO に と っ て の キ ー ワ ー ド で あ
るといえよう。
( 2 - 2 )し か ら ば 、Q1:な ぜ 、今 、と く に「 高 志 」な の か ? ま た 、Q2:そ の「 高
志 ( 学 舎 )」 と は 如 何 な る 内 容 の も の か ?
Q1: な ぜ 、 今 、「 高 志 」 か ? ― ― 「 幸 福 」( 感 ) と 「 高 志 」:
― ― す く な く と も 小 生 の 考 え る と こ ろ 、 人 生 の 豊 か さ と は 、 究 極 的 に は 、( 経
済 的 な も の と か 、他 人 が 外 か ら つ け た 評 価 = 名 誉・値 段 等 で も な く ー ー む ろ ん 、
そ の よ う な こ と に「 生 き が い 」を 見 出 す 多 く の 人 々 の 存 在 を 小 生 も 知 ら な い で
は な い が 、す く な く と も 小 生 の 価 値 基 準 か ら は 軽 蔑 の 対 象 で し か な く 、ま さ に
19
そ の よ う な 意 味 で も「 論 外 」)、な に よ り も 、そ の 人 に と っ て の 精 神 的 充 実 感 =
幸 福 感 に よ っ て 決 ま る の で あ り 、 し か し て そ の 充 実 感 な る も の は 、( 他 人 と か
に 強 制 さ れ た り 、食 べ る た め に 仕 方 な く 、と い う こ と で も な く 、そ の 人 自 身 に
と っ て )な ん ら か の 主 体 的 内 的 パ ッ シ ョ ン を も っ て 取 り 組 め る 志・夢( ま た は 、
自 ら の「 生 き が い 」を 感 じ る こ と の で き る ラ イ フ ワ ー ク )が あ る か ど う か 、そ
れに支えられた人生設計をみずから模索しつつ描き、堅持し、現実の厳しさ、
人 生 の さ ま ざ ま な 労 苦 、に 負 け ず に そ の 実 現 に む け て 忍 耐 づ よ く が ん ば れ る か
ど う か で 決 ま る ー ー こ の こ と を 小 生 は 、と く に 、定 年 後 の・さ ま ざ ま な 人 々 の
生き様を見、自らを省みて、痛感することが多いのである。
そ し て 、社 会 全 体 と し て も 、当 該 社 会 を 構 成 す る 個 々 人 が ど れ だ け 、そ の よ
う な 志・夢 を も っ て 生 き 生 き と 生 き が い を も っ て そ の ラ イ フ ワ ー ク に 取 り 組 ん
で い る か で 、社 会 全 体 と し て の「 幸 福 」の 総 量 が 規 定 さ れ る し( 言 う ま で も な
く 、そ れ は GTP で 計 れ る も の で も な く 、な に か し ら 画 一 的 客 観 的 な 指 標 で 測
定 で き る も の で も な い )、 そ れ こ そ が 社 会 を 活 性 化 す る 、 と い っ て も 過 言 で は
ない。*
而 し て そ の よ う な 志・夢 の 高 さ・大 き さ は 、な に よ り も 個 々 人 の 青 少 年 期
ないし修業時代にどれだけその基礎・基盤を広く深く掘り進め蓄積してきた
かに、よってかなりの程度決まるように思われる。いずれにしても、可能な
か ぎ り 全 て の 青 少 年 が 平 等 に そ の よ う な 高 く 大 き い 志・夢 が も て る か ど う か 、
そして、その後の人生で志・夢を失敗や挫折に負けずにどこまで堅持できる
か、本人の資質・努力等もさることながら、周囲の社会的環境等の要因によ
って左右されることも否定できない。それゆえに社会全体が、そのような未
来世代・子どもたちの志・夢(あるライフワーク)を、恵まれていないもの
も恵まれない立場にいるものにも、その実現にむけて可能な限り支えていく
こと、が、幸福な社会であるための(全てとは言わないまでも、一個の重要
な)必要条件であるといえよう。
而してまた、現代日本社会が果たしてそのような意味で幸福感に満たされ
ているか、とくに多くの青少年・若い世代ができるだけ等しく上述のような
幸福感に満たされているかといえば、日々メデアを通じて報道される情報か
らは、その問いにたいし全面的にイエスとは答えることができないし、とり
わけ教育をめぐる問題状況(とくにそこでの「格差の再生産」という現状と
それを生み出す社会構造)にたいしては、すくなくとも小生自身は、本趣意
書でも繰り返し表明しているように、むしろ憂慮と危機感を懐かざるを得な
い ー ー そ れ だ け に ま た 、 わ れ わ れ は 本 NPO に お い て 、 可 能 な か ぎ り す べ て
の青少年に「高志」を、と訴えざるを得ないのである。
20
*目指すべき「幸福」とはーー3・11後、わが国では「幸福」論が一時、論
壇・マスコミ等を盛んに賑わ したが、小生自身は、正直のところ「何をいま
さら」との感を否定できなかったのも事実である。小生としては、幸福論の
原点は所詮上記本文のような、いささか単純なところにあるのではないかと
思わざるをえないーーつまりそのような意味では極めて主観的かつ精神的
心理的なものであってそれ以上に論究を深める価値あるものか疑問である
(「 幸 福 の 科 学 」 を 標 榜 す る 宗 教 団 体 な い し 政 党 す ら 存 在 す る ご 時 世 で は あ
るがーー。ともあれ少なくとも私見によれば、むしろ平等な幸福感を可能に
する社会構造変革論のほうが、より生産的であり、しかも理論的にも実践 的
にももっとも困難な課題であろう。そして、この点について政府の目指すべ
き目標・理念なるものは、
「 最大多数の最大幸福」というよりも、せいぜい、
誰かが言っていたように「 最小不幸社会」の実現である、というべきであろ
う)。
ともあれ、これまたいささか飛躍するようであるが、わが郷土の詩人・宮
沢賢治の生涯の思想と行動を貫いていたと思われる「全ての人が幸福でなけ
れば自分は幸福とはいえない」という、すくなくとも小生にとってはあまり
にも高すぎる理想、またかのドイツの哲学者ヘーゲルが「世界の偉大なこと
で、内的パトス無しに成し遂 げられたことは何もない」という趣旨のことを
どこかで言っていたこと(むろんそれは彼一流の観念論哲学の背景があるの
で あ ろ う が )、 あ る い は ( む ろ ん い さ さ か 異 な る コ ン テ ク ス ト に お い て で あ
るが)高村光太郎が何かの詩のなかで「無くてはならぬものの命は内側から
決まる;外側から決まるのは値段ばかり」いっていたこと、などを 、小生は
ここで今、ある種の共感をもって思い出すのである。
Q2:「 高 志 」 と は 如 何 な る 内 容 の も の か ( と く に 、 な ぜ 「 高 志 学 舎 」 か ) ?
― ― こ の よ う に「 高志 」と い う 言 葉 は 、本 N P O 活 動 全 体 に と っ て の キ イ ー・
タ ー ム と も い う べ き も の で あ る が 、そ の 用 語 の 意 味 を 、こ こ で あ ら か じ め 厳 格
に 定 義 す る 形 で 提 示 す る こ と は 、あ ま り 適 切 で は な く 、基 本 的 に は む し ろ 、以
下 に 述 べ る よ う な 具 体 的 な 活 動 内 容 と 、そ こ で わ れ わ れ が 目 指 そ う と し て い る
も の の 、全 体 か ら 汲 み 取 っ て い た だ く ほ か な い 、と 考 え る が 、た だ そ れ と の 関
連 で こ こ で 、 少 な く と も 「 高志学舎 」 と い う N P O 自 体 の ネ ー ミ ン グ に 込 め
た 、 わ れ わ れ の 以 下 の よ う な 「 こ だ わ り 」、「 思 い 」 を 知 っ て い た だ く こ と は 、
本NPOないし本プロジェクト立ちあげの実質的趣旨そのものをご理解いた
だくためにも有益であろうーー以下、
「高志」
( Q2-1)と「 学 舎 」
(Q2-2)に 分
解してそれぞれ説明することとする:
21
Q2 - 1 : な ぜ 「高志」 学 舎 か :
ク ラ ー ク 先 生 と 北 大 の( 連 想 ゲ ー ム 的 )代 名 詞 の 如 く に な っ て い る( Boys,be
am bitious の 別 れ の 呼 び か け の 中 の 、 最 後 の 形 容 詞 am bitious の 翻 訳 と さ れ
る )「 大 志 」 と い う 言 葉 を 避 け て 、 こ こ で 敢 え て ( 小 生 の 造 語 か も し れ な い 、
耳 慣 れ な い )「 高 志 」 と し た の は 、 ク ラ ー ク 先 生 の 本 旨 は ( 人 口 に 膾 炙 し て い
る 上 記 の こ と ば よ り も ) む し ろ 札 幌 農 学 校 ・ 開 校 式 で の 「 lofty am bition を 」
* と い う よ び か け に あ っ た の で は な い か 、と の 指 摘 も す で に あ る こ と で も あ り 、
な に よ り も 、あ ま り に も 観 光 ブ ラ ン ド 化 さ れ 、手 垢 が つ き す ぎ 、イ ン フ レ 化 し
て し ま っ た 「 大 志 」 で は な く 、 ま さ に そ の 後 者 の lofty am bition と い う 言 葉
の 翻 訳 ( 直 訳 す れ ば 「 気 高 き 野 心 」) に ヨ リ 近 い と 思 わ れ る ( し か も 「 気 高 き
野 心 」 と い う よ り も 、 ヨ リ わ れ わ れ の 思 い に 近 い と 思 わ れ る )「 高 志 」 * * の
方 こ そ 、我 々 自 身 の 志 向 す る も の・思 い を 表 現 し 託 す る に ふ さ わ し い 言 葉 で は
な い か 、 と 考 え た か ら で も あ る 。 ― ― 而 し て 、 天 下 の 慧 眼 の 士 よ 、「 大 志 」 で
有 名 な こ の 北 海 道・札 幌 の 、ま さ し く こ の 地 に 、そ れ と は( 似 て 非 な る 、と は
言 わ な い ま で も )敢 え て 異 な る「 高 志 」の 名 を 冠 す る「 学 舎 」を 立 ち 上 げ よ う
とする、われわれの「志」を、壮とせよ!
そ し て 、そ れ よ り も な に よ り も 、「 人 間 、何 が な く て も 、( 逆 に ま た 、何 が あ
っ て も )、 高 い 志 だ け は 、 堅 持 し て い き た い 」 と の 、 か ね て よ り の 小 生 自 身 の
研 究 者 人 生 に お け る 自 戒 の 思 い ー ー そ う し た か ね て よ り の 個 人 的 思 い が 、今 回
の NPO 立 ち 上 げ に 際 し て も 、精 神 的 原 動 力 と な っ た こ と も 事 実 で あ る * * * 。
* lofty
語源・小考 ――lofty という語について、手元の英和辞典をひもとく
と、これは語源的には古スカンジナヴィア語で「空、空気、上階の部屋」を意
味する lopt に由来し、英語としては屋根裏部屋などを意味する loft(今日では
むしろ、ロンドンやマンハッタンなど芸術家が集まる街の代名詞などとして、
また日本では店の名前で「ロフト」としてカタカナ語で使われたりすること、
周知のとおり)の形容詞形であって、その辞典の訳としては、
「聳え立つ」とい
う具象性をもった語義から、
「高貴な、高潔な、高尚な、高遠な」というまさに
クラーク先生が上記挨拶で意図したと思われる語義が現れる。しかし、さらに
続けて「高慢な」とか「現実離れした」とかの語義も現れ、なにやら、われら
の「高志」への皮肉・警告ともとられないでもない語義も載っていて、思わず
「にやり」とした、ことなどもここに余計なことながら記しておこうーー余計
ついでにいえば、この「屋根裏部屋」の語は、そうしたものと現実生活におい
てあまりなじみのない日本人としての小生自身の中では、かつての札幌農学校
で実際に使われ、現在も北大キャンパスの北端に移築・保存されている、大き
な馬小屋兼糧秣倉庫「バーン」barn のそれと結びついていて、クラーク先生じ
22
しん、実は心中,上記の lofty am bition は 、「屋根裏部屋的野心」などとも懸
けて、ニヤッとしていたのではーーと、おかしみをおぼえない、でもない。む
ろんこれは全くの冗談だが。
* *「鴻志」
「不由径」と い う 漢 語 に つ い て ;「こころさし」と い う 和 語 に
ついて
・この「高志」という言葉から連想して、小生の好きな「鴻志」という漢語に
ついても言及しておきたい:漢籍(『史記―陳渉世家』)の中の有名な一節「燕
雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
(燕や雀のような小さな鳥に、どうして鴻(おおと
り)や鵠(はくちょう)のような大きな鳥の心がわかろうか:諸橋轍次訳)に由来
する、こ の「鴻志」という言葉は、いかにも大時代的な、漢詩文特有の レト
リカルな表現であり、上記「高志」との、日本語の音読上の一致は当然なが
ら偶然の一致でしかないとはいえ、ただ、ひとの志にも質的高低のあること
は 否 定 で き ず 、「 わ れ わ れ は 高 い も の を 目 指 し て 闘 っ て い る の だ 」 と い う そ
の気概のようなものは、それがリーダーとしてのそれであれ、ライフワーク
としてのそれであれ、むしろ今日においてこそ大いに称揚されるべきものと
思われるだけに、そしてなによりも、高志を持ち続けるということ は、しば
しば孤独の厳しさ、現実社会の辛さに耐えることを必然に要求するものでも
ある、という意味において、われわれの上記「高志」への思いと通底するも
のがあるように思われる。
・ 因 み に ま た 、 こ の 「 鴻 志 」 と い う 言 葉 を 口 に す る と き 小 生 が い つ も 思 い 出
す、やや個人的な思い出があるーーそれは、小生が北大に赴任する前に7
年間勤務していた金沢大学の主要校舎群は、その当時、旧前田藩の金沢城
の城跡の中に、戦後、旧・陸軍解体の後を受ける形で、建っていたのであ
るが、その城跡の一角に、本来、外来講師用の宿舎として建てられたと聞
く「鴻志寮」という名の建物が建っていた。おそらくこの寮の名前は、
「講
師」にかけた言葉遊びも兼ねて、上記漢籍から採られたもの、であろう(し
かし、この建物も、その名前とともに、跡形もなく消えていた)。
さらにもう一つ、その金沢大学に因んで、そしてこの「高志」に通底する
ような思い出話をすると、その大学本部――あの (観光用として今も残る)
石川門を入ってすぐ目の前にあったーーの入り口前に、当時学長をしていた
中 川 善 之 助 先 生 揮 毫 の 「 行 不 由 径 」( 行 く に 径 ( こ み ち ) に 由 ら ず ー ー 道 を 歩 く
ときは、近道をしません:貝塚茂樹訳) という『論語―擁也篇』からとられた一
節を記した石碑が建っていたことを思い出す。
この金沢城(=金沢大学)の濠を挟んで隣の兼六園は小生がいたころはま
だ 門も なく 無 料 開 放で 、昼 飯 前 に 、 まず 城跡 の、 人 の あまり 行か ないあ たり
23
を 一通 り歩 き ま わ って から 、 お 堀 の 向う 側の 兼六 園 を 散策す るの が、小 生の
ほ とん ど日 課 の よ うに なっ て い て 、 おも えば 本当 に 贅 沢な日 々で あった 。―
― そし て、 そ の 際 には 石川 門 を 必 ず 通る わけ で、 そ の すぐ手 前の 大学本 部の
建 物の 前に 立 っ て いた 「行 不 由 径 」 の石 碑も 当時 あ ま り気に もと めてい なか
っ たが 、自 分 史 を 書こ うと 思 い 立っ て 、 ふ と気 にな りだ し た ー ーと いう のが
実際である。
翻ってまた、小生の「学者バカ」を地でいくような 人生も、この「径」を
あちこち彷徨しすぎ、回り道ばかりして、これではいかん、と思い直して、
小道でなく自らの大道を模索し始めたときは、お天道様はすでに西の空にか
たむき道は暗くなりかけている(!)――との思い、頻りである(それと比
較すると、中川先生の学者人生の方が、早くから要領よくも「身分法学」一
筋という感じで、その意味ではまさに「由径」の生き方をされたようにも思
うが、しかし、そのことの功罪有りやなしやーーと いうことはまた別論とし
てあり、この点もふくめ、中川学説批判は、小生なりの研究課題の 一つとし
ての日本近代法(学)の批判的総括(ただしその最も重要な一環)という課
題として将来に留保されていることを、これまた余談ながらお断りしたい。
― ― と も あ れ 、( こ う し た 個 人 的 な 記 憶 の な か の 、 漢 籍 由 来 の 「 鴻 志 」 と
か「不由径」の語と結びつく )物理的な建物とか石碑は我々の眼前から消え
去った。而してまた、外国文化としての中国文化に権威を求めずとも、すで
にわが江戸国学の大家・本居宣長は「すべて学問は、はじめよりその心ざし
を 、 高 く 大 き に 立 て ー ー 」(『 う ひ 山 ふ み 』; 傍 点 、 引 用 者 ) と の 教 え を 残 し
ている。それは、おなじ日本人として、すくなくとも個人的には(外国文化
の焼き直しではない)自分なりの学問を志して悪戦苦闘してきた小生にとっ
て、そして今まさに、その「高い心ざし」を次の世代の人たちにも 人生の目
標として奨めようとしている小生にとって、貴重な励ましでもあるーーこの
「心ざし」という和語は、今正確に調べている余裕はないが、おそらく、心
の目指す方向性という意味で、漢字を当てるとすれば「心指し」ということ
になろうが、少なくとも漢語の志の機械的分 解から想像される「士の心」と
いう何かしら儒教道徳的ないし前時代的身分制の匂いを感じさせることば
よ り は 、 余 程 味 わ い が あ っ て 良 い 感 じ で あ る が 、 た だ 、「 高 い 心 ざ し 」 学 舎
などと和語を入れたネーミングは、いささか「しまりのない」語感があって、
こ こ は 雑 種 文 化 な ら で は の 良 さ ・ 強 み を 取 り 入 れ て 、「 志 」 の 字 で 一 貫 す る
しかない――なお、ここで宣長さんにご登場ねがったからと言って、小生が
狭隘な国粋主義者とは全く遠い地点にいること、以下の行文から言わずして
明らかであろうし、宣長さんにとってもそれはおそらく本意ではなかろう)。
24
***世界向け発信用(英文)ネーミング = School of lofty am bitions( 略
称 : SoLa )
― ― 以上のような「高志」に賭けたわれわれの願いたる「可能なかぎりすべ
ての子どもたちに、高い志、大きな夢へのチャンスを」をという願いを 実質
的 に 表 現 し う る ネ ー ミ ン グ と し て は 、 School giving chances to lofty
am bitions for all children とでもすべきかとも考えたのであるが、長す
ぎ、くどすぎ、ということで、やはり上記ネーミングを提案したい。ちなみ
に 、 上 記 ・ 略 称 SOLA は 、 英 語 の solar の 語 源 と も な っ た ラ テ ン 語
〔 sol,solis,m 〕に も 通 じ( 手元の『羅―日辞典』では太陽という語義が第
一にでてくる。もっとも sol には sola という変化形はなさそうであり、む
しろその複数主格が sola となる〔solum、-i、n〕というコトバは「足の裏、
靴底」の語義が出ていて全く反対のイメージになってしまうが、この辺は要
するにどうでもよいことーー)。ちなみにまた、日本語の音では「ソラ( 空)」
となり、空(クウ)という、例の『般若心経』の難解な思弁よりも、まさに
天文学的知見が示唆しているように思われるある種の哲学にも通じ、何より
も、羅+日あわせて「 子ども達全てが、あの空の太陽のように輝いていて欲
しい」という、われわれの願いにもつうじるものがある 。――もっとも、
「高
志学舎」というのはいささか重すぎて今頃の若者にはどうもーーという向き
には、要するに関西芸人風の「ソラ、エライコッチャ」の「ソラ」NPO だ、
という、軽いノリの方が通りがよさそうでーー。
Q2 - 2 : な ぜ 高 志 「 学舎」 か :
上 記 の よ う な 、民 間 の・草 の 根 的 学 習( 支 援 )組 織 と い う と 、人 は す ぐ「 ○ ○
塾 」と い う 語 を つ け た が る し 、現 に 、あ の 吉 田 松 陰 の「 松 下 村 塾 」― ― こ れ に つ
い て は 、最 後 の【 Ⅴ 】で 、わ が 少 年 期 の 読 書 遍 歴 的 思 い 出 話 と し て 再 度 言 及 す る
ー ー を は じ め 、と く に 、こ の 国 の 近 世 末 期 に は 、ま さ に 日 本 各 地 に 多 く の 、歴 史
に の こ る 、す ぐ れ た「 塾 」が 叢 生 し た こ と も 周 知 の 事 実 で あ る 。し か し 、こ の よ
う な 過 去 に お け る 賞 賛 す べ き 塾 の 伝 統 か ら す れ ば 、最 近 の・目 に 余 る よ う な 進 学
「 塾 」の 横 行( ひ い て 市 民 権 化 )な ど 、単 に「 塾 」の イ ン フ レ 化 で あ る の み な ら
ず、その堕落系である、としか断じ、嘆ぜざるを得ない(最近の各種「政治塾」
の 叢 生 な ど も 、安 物 の 政 治 家 を 付 け 焼 刃 的 に 促 成 栽 培 す る だ け の 、三 流 政 界 に 咲
い た 徒 花 と い っ て は 言 い す ぎ で あ ろ う か )。 む し ろ 我 々 が 目 指 す の は 、 そ う し た
進 学 塾( な い し 各 種・予 備 校 )と か 政 治 塾 と か と は 一 線 を 画 し 、或 い は む し ろ 真
逆の方向をこそ志向するものであること、そのことを敢えて強調する意味でも、
そして、上記のような「高志」に支えられた真の「学問」という意味での「学」
に 相 応 し い の は 、そ の よ う な「 塾 」で は 断 じ て あ り え ず 、な に よ り も 、貧 し い な
25
が ら も 向 学 心 に も え た 村 の 子 供 達 が 集 う 、藁 葺 き 屋 根 の な つ か し い 匂 い が 漂 っ て
き そ う な 語 感 の す る「 学 び 舎 」の「 舎 」* で な け れ ば な ら な い ー ー 、そ の よ う な
思 い を 込 め て 高 志「 学 舎 」と し た 次 第 で あ る 。ゆ え に ま た 、以 下 、そ の 長 を「 舎
頭 」 * * 、 そ の 生 徒 を 「 舎 生 」、 そ の 生 徒 の 学 習 を 会 費 ・ 寄 付 ・ 現 物 贈 与 な い し
ボ ラ ン テ ア 等 で 支 援 す る 会 員 を「 舎 友 」と 呼 ぶ こ と と す る( な お 、そ れ ら の 、N
P O 法 な い し 本 N P O 組 織 全 体 の 中 で の 位 置 づ け 等 に つ い て は 、後 述【 Ⅳ 】参 照 )。
*「学舎」というコトバなどの 歴史的先例
札 幌 農 学 校 で ク ラ ー ク 先 生 の も と ( 内 村 鑑 三 ら と と も に )「 札 幌 バ ン ド 」 に 集
い盟約した学生の一人である新渡戸稲造らがーーおそらくは、かれがアメリ カ留
学中にクウェーカー教会で知り合い、ともに信者であった夫人の働きかけが大き
かったのでは、と推察するがーー札幌農学校教授時代の明治27年、勉強の機会
に恵まれない働く若者のために開設した「遠友夜学校」(「遠友」の語が論語冒頭
の 有 名 な 語 句 に 由 来 す る こ と 言 う ま で も な い ) が 、 何 時 の こ ろ か ら か 、「 遠 友 学
舎」と名前を変え、そして現在 、その名を冠した立派なセミナーハウスのような
建物も北大構内に再建された。ーーわが「高志学舎」も、単にその音韻上の類似
性だけではなく、勉強への意欲がありながらもその環境に恵まれないものに平等
にその機会をあたえようとする、その理念において、共通するものがあり、その
ことへの敬意と共感が、この「高志学舎」というネーミングの背景としてあるこ
とも、この際、いささか僭越を承知で、お断りしておきたい 。
――ちなみに「舎」の字は、札幌農学校との連想では、有名な北大・けいてき
寮・寮歌「都ぞ弥生」の一節にある「羊群声なく 牧舎にかえり、手稲のいただき
黄昏込めぬーー」という、今もなお残る(羊が草を食む光景などの)北大独特の
イメージとも、なんとなく重なるものがある(むろん、学舎と牧舎とでは、舎の
字のみの類似性のみで、むし ろ、学生と羊を一緒にするのかと、顰蹙を買いそう
であり、むしろ本・学舎が目指すものは「羊のように大人しい」学生とは対極に
あるはずのものであり、「舎」という漢字のつくりも屋根の下に吉(=義=善?)
を求める人々が集っているというイメージであるーーただし、この勝手なこじつ
けに、敬愛して止まない白川静先生ならどういうか )。
――ちなみにまた、本趣意書最終版も最終局面にさしかかった 2013 年 1 月 22
日朝日新聞朝刊によれば、上記・寮歌「都ぞ弥生」誕生 100 年を記念したドキ
ュメンタリードラマ「清き国ぞと憧れぬ」のロケが進行中で、本年 4 月下旬―5
月上旬 HBC テレビにて放送予定とのことである(寮 OB・北大 OB らの脚本、
北大映画研究会 OB の映画監督・早川渉の監督、明治 45 年に作詞した横山芳介、
作曲した赤木顕次、を現役寮生が演じる、HBC 製作作品)
:同記事によれば「モ
ノやお金ではない憧れの「人の世の清き国」のメッセージが東日本大震災後の日
26
本の在り方を示唆」するとあり、本 NPO の立ち上げとも共鳴するものがありそ
うで、いささかミーハー的ながら引用しておいた(ただし、ここでもまた「憧れ」
と現実とは、小生のわずかな見聞・体験でも、相即すること難きことであったこ
とも、同時に指摘しておく必要があろう);
――ちなみにまたまた、その手稲の山波は、札幌西方をとりまく低い山並みの
中でも最も高いーーといってもせいぜい 500m くらす?――せいもあり、わが「パ
ラ ト庵」=第二書斎からも、よく見えるーー)。
― ― な お ま た 、「 遠 友 夜 学 校 」 と と も に 、 こ こ で 忘 れ て は な ら ぬ の は 、 留 岡 幸
助の名とともに名高い(家庭に恵まれぬまま非行を犯した少年を保護するために、
なによりも家庭と学校の双方の機能を具えた施設が必要であるとして、民間の力
だ け で 、 戦 前 、 北 海 道 ・ オ ホ ー ツ ク 海 側 の 町 に 創 建 さ れ た )「 遠 軽 家 庭 学 校 」 の
ことであり、この点について小生の知るところ・勉強は、あまりにも貧弱であり、
本 NPO が目指す理念と目標も、それと比べることもおこがましいほどに低 く貧
弱なものであるが、宮田聖研での示唆もふくめ、 今後の研究課題としたい。
** 「舎頭」 というネーミングにまつわる弁明少々:
― ― 学 舎 の 長 で あ る な ら 「 舎 長 」、 と い う こ と に な り そ う で あ る が 、 発 音 が
「社長」と同じになり、これこそ日本中どこにでもいて 、手垢にまみれたこと
ばになってしまっているだけではなく、非営利・公益に徹しようとする本 NPO
に と っ て も 相 応 わ し く な い の で 、「 棄 却 」 と い う ほ か な く 、 ま た 「 学 」 の 方 を
とって学長とか、学生というのも、いずれも今やインフレ化してありがたみが
なく(それどころか、就職への通過点でしかなくなって、真の「学び」のここ
ろを失った「学」生・大「学」への忌避感もあり)ボツ。なおまた小生自身の
趣 味 と し て も 、「 長 」 と 名 の つ く も の は 、 し ば し ば 俗 臭 紛 々 た る 名 誉 欲 の 別 名
の よ う な 気 が し て 、 チ ョ ウ 嫌 い な の で ー ー 。 他 方 、「 シ ャ ト ウ 」 は 発 音 的 に は
間 違 っ て 「 蛇 頭 」 と い う 中 国 マ フ ィ ア を 連 想 さ れ な い で も な い が 、( わ れ わ れ
が そ の 建 学 の 精 神 に お い て 強 く 共 感 し て や ま な い 、 か の ○ ○ 義 塾 の 、「 塾 頭 」
と い う 前 例 も あ る こ と で す し ー ー )、 こ こ で は む し ろ chateau○ ○ と か の 美 味
しいフランス・ワインなど連想してただくことにして、むしろ上記「舎友」と
か「舎生」とかと平仄を合わせる意味でも、標記に落ち着きました。なお、法
律上は、舎頭は本 NPO の代表理事ということになる。
[本 HP 掲 載 に あ た っ て の 補 註 ]
「高志学舎」なるネーミングがすでにどこかで使われ、命名権侵害などとクレ
ームがついたらいやだなーと思いつつ、ネット上で検索したところ( 2013 年 1
月 段 階 )、 す く な く と も 「 高 志 」 名 を 冠 す る も の は 、「 越 」 の 国 ( ご 存 知 、 古 代
27
日本からの北陸地方の呼称)の学園ということに由来する某学園組織名「高志
学園」(福井?)があるくらいで、あとはすべて学習塾らしきものの HP のみで
あり、いわんや「高志学舎」と称する団体はなかったこと、いささかの安心と
失望(!?)とをもって、報告したい;
(3)(われわれの、以上のような、「弱者」としての子ども・未来世代に、可能なかぎ
り平等に「高志」ある人生への機会が与えられますように、という 、われわれの)
「願い」から見たときの・現代日本社会の問題点――われわれ自身
の現状認識と問題意識:
(3-1) 子 ど も ・ 児 童 を め ぐ る 諸 課 題 に か ん す る 、 基本的問題状況、根本
的問題 の 所 在 な ど :
(3-2)
( わ れ わ れ の 当 面 の 活 動 課 題 と 関 連 す る 限 り で の )子 ど も・児 童 を め
ぐ る 現状の問題点 :
*この(3)もいずれも省略し、後日、当 HP[便り]欄の「特集」で、子ども・未来
世代論として、取り上げる際に、引用の予定 。
(4) 本 NPO が さ し あ た り 取 り 組 も う と す る 活動課題=三つのプロジェクト
ー ー そ の 基 本 的 コ ン セ プ ト ( 4 - 1 )、 そ の 相 互 関 係 ( 4 - 2 )、 そ の 限 界 ( 4
- 3 ):
【 Ⅰ 】 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ 「 遠 隔 地 ・ 学 習 環 境 困 難 児 ・ 学 習 支 援 活 動 プ ロ ジ ェ ク ト 」:
【Ⅰ―0】はじめにーープロジェクトの全体像*
【 Ⅰ ― 1 】本 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ に お け る 人 的 支 援 対 象 の 範 囲・限 定(「 誰 の た め に ? 」)
=「震災遺児・学習支援プロジェクト」及び「離島在住児童・学習支
援プロジェクト」*
* 省 略 。
【 Ⅰ ― 2 】 如 何 な る 支 援 目 標 を も っ て ? こ れ は 要 す る に 、( 上 記 ・ 趣 意 書 ・ 冒 頭 の 【 0 - 2 】( 2 ) で や や 詳 し く 述 べ
た よ う な 、わ れ わ れ の 所 謂「 高 志 」を も っ た 人 生 に む け て の・児 童 の 基 礎 作 り 的
支 援 と い う こ と に 帰 着 す る が 、た だ そ の「 高 志 」の 向 か う 、や や 異 質 な 二 つ の 方
向 性 の 種 類 に 応 じ て )、 下 記 二 つ * の 支 援 目 標 に 分 け ら れ る :
( 1 )「 高 志 」 に 支 え ら れ た ( 狭 義 な い し 広 義 の )「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」 養 成
のために:その基礎作りへのお手伝い:
( 2 )「 高 志 」 に 支 え ら れ た 「 生 き が い = ラ イ フ ワ ー ク 」 構 築 の た め に : そ の 発
見・準備へのお手伝い:
― ― 以 下 、そ れ ぞ れ に つ い て 分 説 し 、最 後( 3 )で 、そ れ ら に 共 通 す る 趣 旨 ・
意義等について、総括的ないし補足的に述べることとする。
28
*上記を一覧してお分かりのように、いずれの支援目標も全体としてまさ に「高
志」という理念によって支えられたものであるが、ただその理念の向かう具体
的方向性ないし内容は、上記(1)と(2)では、かなり異質であるのみなら
ず、
(1)の「21世紀型リーダー」に関しても 、狭義の(つまり、とくに政治
ないし組織一般の分野におけるリーダー)それを志向する場合と、広義の(つ
まり、文化的領域における 、いわば「心・精神のリーダー」)それを志向する場
合とでは、いうまでもなく(そして、すぐ下に述べるように)、かなり異なるこ
とは否定できないーーそのような意味では、それに応じて、われわれの支援目
標も、(二つ、というより)三つに分けることができるともいえよう。
(1)「高志」に支えられた ( 狭 義 な い し 広 義 の )「21世紀型リーダー」養
成のためにーーその基礎作りへのお手伝い:
一 般 に 、如 何 な る 集 団・組 織 、如 何 な る 社 会・国 家 に あ っ て も 、す ぐ れ た リ ー
ダ ー が 必 要 不 可 欠 で あ る こ と は 否 定 で き な い( 単 純 機 能 型 単 細 胞 的 共 同 体 で あ れ
ば 粘 菌 型 な い し 全 員 参 加 型 秩 序 形 成 も 可 能 で あ ろ う が 、多 少 と も 複 雑 化 し た 多 機
能型組織にあってはリーダー不要というわけにはいかないのも否定できないと
こ ろ で あ る 。問 題 は む し ろ 、リ ー ダ ー シ ッ プ が 権 力 的 支 配 ― 被 支 配 の 関 係 を 生 み
や す い と い う と こ ろ に あ る )。 そ れ は 、 い う ま で も な く 、 ま さ に そ の 反 面 教 師 と
し て 、「 と ん で も な い リ ー ダ ー 」 に よ っ て 破 綻 し 、 長 く そ の 「 負 」 の 遺 産 に 苦 し
ん だ 、多 く の 国 家 や 経 営 組 織 等 の 、古 今 東 西 の 歴 史 に お け る 、枚 挙 に 遑 の な い ほ
ど 沢 山 の 事 例 、が 示 す 通 り で あ る ー ー 以 下 、そ の よ う な 、国 家 、各 種 集 団・組 織
に お け る リ ー ダ ー を「 狭 義 の リ ー ダ ー 」と よ び 、と く に 政 治 な い し 国 家 に お け る
現 代 的 リ ー ダ ー 像 を 念 頭 に 、わ れ わ れ の 考 え る「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」像 の 要 点
を、下記(1-1)に述べよう。
他 方 ま た 、 そ の よ う な ( 通 常 よ く 使 わ れ る 意 味 で の 、 狭 義 の )「 リ ー ダ ー 」 だ
け で は な く 、 広 い 意 味 で の 各 種 ・ 文 化 的 領 域 に お け る 「 リ ー ダ ー 」( そ れ を 、 わ
れわれは前者と区別する意味で、
「 広 義 の リ ー ダ ー 」と 呼 ぼ う )も ま た 、一 般 に 、
同時代の人々にとってはいうまでもなく、後世の人々にとっても、いわば、心・
精 神 の 導 き の 星 、社 会 全 体 の 知 の 宝 と し て 、貴 重 で あ る こ と 、い う ま で も な い と
こ ろ で あ り 、而 し て ま た 、わ れ わ れ は 後 者 の 意 義 に お け る リ ー ダ ー も ま た 、い ま
や(上記「狭義のリーダー」の場合とある程度重なるような意味あいにおいて)
「 2 1 世 紀 型 」の そ れ で な け れ ば な ら な い と 考 え る( そ の 要 点 は 下 記( 1 - 2 ))。
最後に、上記・狭義―広義いずれの意味でのリーダーにせよ、その養成には、
一 般 的 次 元 に お い て も 特 殊・今 日 的 な 次 元 に お い て も 、固 有 の 困 難 が と も な う こ
と を 、 こ こ で の リ ー ダ ー 論 ・ 総 括 と し て 指 摘 し て お き た い ( 1 - 3 )。
29
(1-1)「狭義のリーダー」像、とくに国家・政治の領域における、あ
るべき「21世紀型リーダー」像 ― ― そ の 特 殊 今 日 的 な 意 義 :
わ れ わ れ は と く に こ の 国 に お い て 求 め ら れ て い る( 上 記・狭 義 の )
「リーダー」
( の 理 想 像 ) と し て は 、( 世 上 一 般 に リ ー ダ ー に 求 め ら れ る 最 大 公 約 数 的 資 質 は
謂うまでもないことながら、それ以外に何よりも)下記①から⑤までの五つの
「 力 」 * を 備 え た 「 21世紀型 」 リ ー ダ ー で な け れ ば な ら な い 、 と 考 え る :
*「力」という言葉 の(通常は使わないという意味で)意表をついた使い方に
おいても印象的な、近時のベストセラーの標題『悩む力』、を真似して。なおま
た何が「21世紀型」であり、
「20世紀前型」とどう違うか、という点につい
ては、基本的には、以下の行間から読み解いてもらうほかないが、ただ少なく
とも、単細胞的英雄豪傑の類とか、神話や何らかの超越者・絶対者によってし
か、または血(という名の共同幻想)の永遠性・純粋性とかによってしか、自
己の支配を正当化・正統化しえない古代的王権とか、さらには現代的な縮小版
としての(身分制的世襲=指定席を当然として政界等に居座る)
「 何様のお子様」
たち、ムラ社会の中を組織の力学に逆らわずに組織を遊泳するだけの「調整型」
という(リーダーシップとは矛盾する、むしろリーダーとしての無能を意味す
る)不思議な(!)
「リーダー」などなど、古今東西の歴史は「21世紀型」の
反面教師的事例には事欠かない事例にあふれている。いずれにしても、すくな
くとも前時代における政治の分野におけるリーダー論にかんしては、対外的軍
事体制ないし体内的秩序維持体制と、宗教的な正統化観念が、その分析のキー
ワードになるであろうことは否定できず、しかしてすくなくとも21世紀型の
理念像は、反対に(以下の行間からも窺われるように、なによりも)それら前
時代的リーダー像の批判・克服の方向へのベクトルにおいてこそ、構築されな
くてはならないであろう。
①「 未 来 力 」
( ま た は 、真 の 意 味 で の 問 題 解 決 力 、ひ い て ま た 、創 造 力・改 革 力 ):
― ― ( プ ロ ジ ェ ク ト Ⅱ に 関 連 し て 後 述 す る よ う に )「 現 在 世 代 の 近 視 眼 的 エ ゴ
イ ズ ム 」の み な ら ず「 過 去 世 代 よ る 、お 墓 の 中 か ら の 亡 霊 力 に よ る 支 配 」に も 抗
し て 、逆 に 5 0 年 後 1 0 0 年 後 の 遠 く を 見 据 え た「 未 来 世 代 の 目 か ら の 絶 え ざ る
現 代 批 判 と 現 状 変 革 」を 志 向 で き る リ ー ダ ー;そ の た め に も 、深 い 知 性 と 豊 か な
感 性 に 支 え ら れ た 想 像 力 =「 見 え な い も の を 見 る 目 」を も っ て 、未 来 世 代 に と っ
ての幸福とは何であるかを鋭く洞察し、現状に安住安眠することも、既成の制
度・権 威・枠 組 み に 徒 に 囚 わ れ る こ と も な く 、そ の よ う な 意 味 に お い て 柔 軟 に 新
た な・そ の 時 々 の 問 題 に 対 応 対 処 し * 、か つ ま た 、足 元 の 世 界 の 不 合 理・不 条 理・
不 正 義 の 現 状 を す こ し で も 良 い 方 向 で 改 善 し 解 決 し 、必 要 が あ れ ば そ れ を い ろ い
ろ な 場・方 法 で 変 革 し て い く 創 造 力・実 践 力 、し か も 可 及 的 に 具 体 性 を も っ た 政
30
策 立 案・制 度 設 計 力( 最 後 の こ れ が 、実 は も っ と も 難 し く 、も て る 知 恵 と 知 識 の
総動員が要求される)をもったリーダー;
*注意すべきは、ここでいう「問題解決力」とは、出された試験問題や受験問題
にたいし模範解答で答えて点を取り良い成績をあげる、という――小生もかつ
て大学受験のときそうしたように、そしていまももっと過酷な進学競争のもと、
「ママゴン+受験産業」体制下、ますます子ども達を煽り立て駆り立てている
ーー「お受験システム」とも呼ぶべきものの下での能力(評価・評判体制)、と
は根本的に異なる発想・哲学に立つものである、ということである。つまり、
ある予め与えられた公式的大前提・枠組のなかで「学校説例」的に構成された
「問」にたいし、その前提・枠組み自体の根源的妥当性正当性等はいうまでも
なく、その「問」自体の「問題性」を、根本的に問い疑う、などというおおそ
れたことなど考えず、如何に器用にその枠のなかでの・期待される解を、定石
どおりマニュアルどおりに答えとして出すかで、評価し成績を決めるという、
まさに受験勉強を典型とするような「問題―公式へのアテハメー解決」という
「アテハメ・モデル」という思考様式のもとでの、そのための技術力・暗記力
等の習得、をいうのではない。
そ も そ も 、 そ の 「 問 題 」 じ た い 、 一 般 に 、 政 治 的 問 題 で あ れ 、 社 会 的 事 件 で
あれ、法的事件であれ、いわんやあれこれのリスク問題(3.11をみよ)で
あ れ 、お よ そ 、こ の 人 間 が 多 か れ 少 な か れ 関 わ る( す く な く と も 困 難 な )事 件 ・
問題は、(世上「一度あることは二度ある」とよく言われる「諺」とは全く反対
に)「一度起きた事件・問題は二度と起きない」と考えるべきであって、単純に
過去の先例とか公式とかに「アテハメ」てイッチョウ上がりというような単純
な事件・問題はむしろ少ないと考えた方がよい(その意味では世上よくいわれ
るように「歴史に学ぶ」ことは、できない、というくらいに考えるべきであっ
て、けだし、「歴史はくりかえす」という世上よく言われる諺にたいしても、む
しろ「歴史は決してくりかえすことはない」と考えるべきであるから)。
そのように「同じ問」が繰り返されることがない以上、むしろ重要なことは、
日々新たな状況のもとで、まさに主体的に、従来の問を再構成すること、そし
て新に問いつづけること、新たな問をみずから提示し、模索する中でその問自
体を深化させ具体化させ再構成していく、という(安易な・小役人的アテハメ
作業とは比較にならないような忍耐力の要る)困難な作業に耐えること。すく
なくとも、過去においてそれぞれの時代・局面で先人たちが向き合った問い・
課 題 、そ れ に た い す る 先 人 た ち の( 一 応 の )答 え・解 は 、あ く ま で も そ の 時 代 ・
局面・状況のもとで出された、そのいみでも相対的な問であり答えであって、
むしろ、現在世代ないし未来世代は、その「問―答」集を後生大事に権威主義
的 に 保 守 し 、 そ れ を 単 に 機 械 的 に 覚 え ・「 習 う 」、 せ い ぜ い 注 釈 ・ 解 釈 に 浮 き 身
31
をやつすーーなどの、思考停止・思考怠惰に陥ることなく、むしろ、新たな時
代・状況との対峙のなかで、その問い自体を再構成すること、それこそが、過
去に学ぶという真の意味であり、真の創造への一歩となろう;
他 方 ま た 、 そ の 問 に た い す る 既 存 の 「 公 式 」 な る も の も 、 そ も そ も ( 一 度 あ
った事は二度あることが普通で、またそのようなもろもろの公理・公式とその
もとでの因果的規則性・法則性を疑うべからざる所与の前提として組み立てら
れている)自然科学の世界ですら、その公理・公式じたいに合わない、または
説明がつかない自然界の事象・事実に直面して、あるときは神様を持ち出した
り、アリストテレス等の過去の権威をもちだして、つじつまを合わせ、または、
その事実じたいを無視し隠蔽するというまさに非科学的なスタンスで対応し、
他方では、自然科学的真理論証における演繹論法の限界を克服するべく、それ
に代るものとしての帰納法とかアプダクション的論証法が持ち出されたりして
きた。そしてなによりも重要なことは、
(小生のあやしげな科学史的知識をもち
だすことが許されるとすれば)その公理公式じたいの無限定的妥当性を疑った
天才たちによって、たとえば、ニュウトン力学にたいする相対性理論とか量子
力学、ユうクリッド幾何学にたいする非ユウクリッド幾何学の対置が説得的に
なされるという事態が示唆するように、自然科学の世界ですら、絶対普遍・不
動の真理など存在しない(むしろ、小生も多大の興味をもち、下手な哲学など
よりはよほどに哲学的な神秘を感じる)天文学とか生命科学の分野における最
先端の研究者たちは、この宇宙はいうまでもなくこの地球・自然界にはまだま
だ分からないことが沢山あるのだと語っていることが、実に新鮮に小生の耳に
は響き、まさにそのような意味でも、勉強は一生無窮の業であることを実感す
るのである)。
ともあれ、コト斯くの如くであるとすれば、すくなくとも学校秀才とか受験
秀才の限界は、政治の世界においても文化・学問の世界においても、リーダー
の資質としては、むしろ「そこから先が問題よーー」というのが、その「田舎
秀才」をもって自任し、人からもそういわれた小生(エヘン!)の、大学の中
だけで生きてきた感のあるわが人生の経験的実感としてもある(――しかし、
残 念 な が ら 、「 町 始 ま っ て 来 の 神 童 」 と ま で は 言 わ れ な か っ た な ー 。 も っ と も 、
昔 神 童 、 今 た だ の ヒ ト と い う こ と も あ る こ と だ し ー ー )。 そ の よ う な 意 味 で も 、
「アテハメ秀才」をまるで人生の勝利者みたいに思わせる、進学競争を前提と
した現行教育体制は大いに憂慮すべきものがあり、少なくとも、既成の権威を
根底から疑うところからしか、真の創造はありえない、その「元気」こそ、未
来世代に期待したいところのものである。
② 「〈 二 つ 目 〉 の 力 」( ま た は 総 合 力 )
32
― ― 高 度 に 発 達 し た 現 代 文 明・知 識 社 会 の も と 、専 門 分 化 が 日 々 激 し く 進 行 し 、
専 門( 家 )間 は い う ま で も な く 、一 般 市 民 と 専 門 家 間 の 相 互 理 解 は ま す ま す 困 難
に な っ て い る( そ し て 逆 に そ れ を い い こ と に 、専 門 家 は ま す ま す 専 門 家 ム ラ に 自
閉 し 、非 専 門 家 は 専 門 家 へ の 不 信 を 高 め る と い う 、負 の 方 向 で の 力 学 が 事 態 を 悪
化 さ せ て も い る )今 日 だ け に 、広 い 教 養・豊 か な 知 性・感 性 を 備 え て い る と い う
意 味 で の 「 鳥 の 目 」 と 、 細 部 に つ い て の 深 い 専 門 性 と い う 意 味 で の 「 虫 の 目 」、
の 二 つ の 「 目 」 を 兼 有 す る 「 超 人 」、 ま た は 底 辺 に お け る 広 い 裾 野 = 教 養 ・ 知 性
の 上 に こ そ 高 く 聳 え 伸 び う る 専 門 性 を 持 ち う る と い う 意 味 で の「 逆 T 字 型 人 間 」、
ま た 、と く に「 文 の 目 」と「 理 の 目 」双 方 の 二 つ の た し か な 目 に よ る 的 確 な 総 合
的 判 断 力 を も っ て 、双 方 の 専 門 家・専 門 知 を 使 い こ な せ る 能 力 を 備 え た リ ー ダ ー
と い う 意 味 で の「 文 理・二 つ の た し か な 目 」を 具 有 し た リ ー ダ ー の 重 要 性 が ま す
ます大きくなってきている*;
* 「専門力と総合力、とくに、文理融合――その理想と現実」
「文の目」と「理の目」双方の二つの確かな目―― これが如何に重要かは、とく
に今回の3.11後の福島原発をめぐる諸状況が何よりも雄弁に示している通りで
ある。ただ、高度に発達した現代文明のもとでは(原発問題に止まらず)多くの社
会問題・科学技術問題が、文―理のカベを越えて生起していることは、多少ともそ
うした問題に遭遇した人であれば、痛 感しているはずであり、しかも、それは一国
の指導者だけではなく、地方自治体、企業経営、その他多くの事業組織(ひいてま
た司法とか学問・研究・教育の諸分野)においても、直面している大問題である。
それだけに今や、
( か の 古 代 ギ リ シ ャ に お け る ア リ ス ト テ レ ス と か 、ヨ ウ ロ ッ パ ・
ルネッサンスの時代の賢人たちのような、今日の目からみればまさに驚異的な8宗
兼 学 の 「 知 の 巨 人 」 は 望 む べ く も な い と し て も )、 少 な く と も 、 各 専 門 知 の ( そ の
時々の時点での)最先端の研究成果のエッセンスはなにか、それが現代の人間・社
会にとっていかなる意義・イ ンパクトをもつものであるか、それらについていずれ
の信頼できる情報ソースの扉を開けばアクセスできるか、――等について聞けば分
かる程度の基礎力・判断力をつけておくことの重要性は非常に大きい。
た だ 問 題 は 、「 文 ― 理 の 融 合 」 と い っ て も ( そ の 各 々 が 加 速 度 的 に 専 門 分 化 の 度
を 深 め て い る 現 状 に お い て は )、 そ の こ と 自 体 が 「 言 う は 易 く ー ー 」 の 類 の 問 題 で
あること、いうまでもないところであるが、なによりも本質的に重要なことは、私
見によれば、単に両者を平面に均しく並べて「どちらもバランスよく一生懸命勉強
しましょうねーー」などという受 験秀才的お説教ではなく、むしろ、科学と技術が
それ自体として自己完結的自足的に存在するのではなく、なによりもそれらの発達
の結果、その応用・利用の面で社会に及ぼすところの、決定的ともいえるその経済
的倫理的ひいて政治的ですらあるインパクトこそが問題である(原子爆弾はその最
たるもの)以上、むしろ「文」がその英知・叡智をもって如何に「理」の論理を社
33
会的倫理的に適切にコントロールしていくか、そのための相互の対話・理解であっ
て、而して残念ながらこの任務を「理」の側に期待することは、すくなくとも小生
の み る と こ ろ 、 そ し て 原 則 論 一 般 論 と し て は 、( 誤 解 を 恐 れ ず に ハ ッ キ リ 言 え ば )
不適当であるのみならず不可能ですらある、ということである(これは個個の理系
研究者の怠慢とか能力とか資質の問題ではなく、なによりも激しい競争の論理の中
で自ずから専門バカ的業績主義・結果主義に陥らざるを得ない理系全体の構造の問
題の故であるように思われる。――もっともさればと言って、既成の教典とか専門
学説の権威的枠組みに囚われた宗教(家、学者)とか、哲学・倫理学者に多くを期
待できないことも明らかである。この点でも、一方で人間と社会とにかんする人類
学的人類史的文明論的知見を踏まえ、他方においてはまた、科学・技術史の的確な
基礎的理解と最先端の科学・技術についての全体的な知の枠組みを踏まえた、科
学・技術にかんする哲学・倫理のあらたな構築が望まれるのである)。
ともあれ、同じ 文系 の中 で す ら、な にか 一 つ で も他 の専 門に つ い て 、上記 の よ う
な意欲をもってトライするとき、如何にそのカベが高く、乗り越えることが困難か
は、この情報化社会のなかで情報は溢れているにも拘わらず(というよりも、その
洪水のような多さの故に、というべきか)小生自身も何度か辛い思いをしてきてい
る。専門化の弊害が叫ばれ 、学 際 的 研 究 の 必 要 が 説 か れ て き て 、久 し い が 、事 態 は
む し ろ 悪 化 の 一 途 を た ど っ て い る よ う に 思 わ れ る 。( そ れ だ け に ま た 、 専 門 の タ コ
ツボに自足しているこの専門化的状況を克服し、広い視野をもって全体を俯瞰鳥瞰
しうる見識なるものは、その緊要性にも拘わらず暁天の星のごとくに極めて得難い
ものとなっているように思われる。)
而してその原因(の少なくとも一班)が現在の(大学等における)極度に縦割り
化された研究・教育制度、そしてそれに即応した(文系―理系に早くから縦割り化
された)受験勉強体制にあることは(小生自身のささやかな経験 からいっても)否
定 で き な い よ う に 思 わ れ る ( さ ら に い え ば 、 ス ポ ー ツ ・ 芸 能 界 等 で の 、「 天 才 ○ ○
少年」などと、小中学校のころから子ども達を、将来のマスコミ的ないしドル箱的
「有名人」に仕立て上げるための「囲い込み」が目に余るような現状――)。
小 生 自 身 は 、 現 役 時 代 、「 総 合 」 大 学 に 籍 を 置 い て い た メ リ ッ ト を 活 か す 形 で 、
医療・先端的生殖補助医療ないし生命科学と医倫理・生命倫理上の問題が法(学)
的に提起する諸問題に興味をもって幾つかの研究プロジェクトを立ち上げ、ひいて
またリスク論とか科学技術倫理とかの面での、科学技術一般と法(学)との接点に
ついても、問題発見のためのボーリング作業だけは、あれこれ手がけた経験があり、
そして今後の研究課題としても、そうした従来の個別的研究作業を「現代民事法理
論体系・原論」の一環としてとりまとめるという研究構想、さらにより根本的には
「秩序理論体系」とでも呼ぶべき理論構想の一環として、法・倫理・宗教・経済・
政治等の社会関連秩序を自然科学的法則ないし「生命学」的秩序(と小生のよぶも
34
の)との対比において理論化する、という研究課題をもっているだけに、上記縦割
りの弊害が身に沁みて痛感されるのである。むろん、小生自身、どちらといえば「文
系人間」であり、理系についての能力不足(そして 戦後すぐの田舎の高校ゆえの情
報不足・刺激不足)は隠しようがなく、省みて他をいう資格はないが、ただ、あの
二度もの(!)受験勉強時代にあれだけの時間とエネルギーをかけて勉強した、数
学 ・ 物 理 ・ 化 学 等 の 理 系 の 知 識 が 、( と く に 物 理 の 奥 深 さ の 一 端 を 感 じ た 程 度 で )
ほとんど何の役にも立っていないことだけは、たしかである(ただ学生・助手時代、
理系の学生とか先生とかとの交流がーーいい意味でも悪い意味でも!ーー、小生の
理系についての「生きた認識」にいささか 寄与していることは事実である)。
研究者自身が極度に専門分化した塀の外のことには関心すらなく、むしろ「学問
的禁欲」の名のもと境界侵犯しないように自己規制し、ひいてまた、専門(家)エ
ゴイズムのもと、入学者等の若い世代を「我が田」に引き込もうと「囲い込み」を
強化し、教育行政も黙認どころか、それを後押しし(現に、教養部は廃止され、ゆ
と り 教 育 も 撤 回 、 と い う 見 識 の な さ )、 公 教 育 の 現 場 も 進 学 塾 も そ れ に 即 応 し た 体
制をとらざるを得ず、マスコミも無責任な空騒ぎをするだけーー、ということで、
いまや広い視野・教養はよほどの「ゆと り」か、よほどの「冷や飯」覚悟、でもな
いかぎり、それ自体、得難い贅沢品になってしまっている、というのが率直な感想
である(しかもまたその「ぜいたく品」なるものは、けっして一夜漬け的受験勉強
とか一朝一夕の付け焼刃的勉強で身につくものでなく、とくに子どものころからの、
意識的で一貫性をもった継続教育がひつようであることもまた、あきらかであるー
ーわれわれが、何はともあれ、そのすごさに圧倒されるイギリスやフランスのその
文化的アウトプット、その背景には、なによりも、それを生み出す教育的文化的伝
統としての、氷山の「目に見え ない部分」があるのだ、ということを忘れてはなら
ないであろう。
そうであるだけに、このような流れに抗して、われわれは敢えて、上記のような、
文―理をふくめて総合力ある「21世紀型リーダー」を目指して、そのための(本
当にささやかな)お手伝いができればーー、と考えているわけである。
③ 「 越 ・ 国 境 力 」( ま た は 国 際 力 )
― ― 可 能 な か ぎ り グ ロ ー バ ル な 広 い 視 野 を も っ た リ ー ダ ー 、世 界 に 通 用 し 、世
界 に は ば た く 力 を も つ 、と 同 時 に 、狭 い 国 家 的 利 害 関 心 に の み 捕 ら わ れ ず に 、世
界 に 平 和 を 作 り 出 す た め に 行 動 で き る リ ー ダ ー 、い う ま で も な く 、イ ン タ ネ ッ ト
や テ レ ビ・電 話 等 を 介 し て 瞬 時 に 諸 外 国 の 情 報 と つ な が り 、ま た ジ ェ ッ ト 機 で 数
( 十 )時 間 で 諸 外 国 に 旅 行 で き る 、そ の よ う な 、高 度 に グ ロ ー バ ル 化 し た 現 代 世
界 に お い て 、日 本( 人 )の お か れ た 地 理 的 言 語 的 立 ち 位 置 を 相 対 化( す く な く と
も ー ー ま こ と に 残 念 な が ら 、事 実 と し て の ー ー そ の「 辺 境 性 な い し 特 殊 性 」に つ
35
い て の 謙 虚 な 自 覚 )し て と ら え た う え で 、イ ン タ ナ シ ョ ナ ル な 発 信 力・交 流 力 を
も つ リ ー ダ ー 。 而 し て わ れ わ れ が 伝 統 的 な 古 典 (「 国 際 標 準 」 の 知 的 基 礎 と 、 こ
の 国 の 文 化 的 伝 統 * の エ ッ セ ン ス に つ い て の 知 的 基 礎 )を 重 視 す る と と も に 、そ
の 展 開 系 と し て の( さ し あ た り )英 語 の 読 解・作 文 、な い し 漢 詩 文( 白 文 )読 解
の 、学 習 支 援 を 展 開 し よ う と す る の も 、さ さ や か な が ら そ の た め の 一 助 た ろ う と
いう願いからである。
*小生自身のささやかな外国体験でも、外国人に、日本の神道・仏教・禅等のことと
か、言語・歴史・民俗・伝統芸能とかの民族的事項を説明しようとして、自分自身
日本人でありながら、如何に日本のことを知らなかったかに、冷や汗をかく思いを
したこと一再ならずであった。自国・自民族のことを外国人に相応に説明しうるこ
とが、国際交流の第一歩であるこというまでも ない。
④ 「 矛 盾 力 」( ま た は バ ラ ン ス 力 )
― ― と く に 、一 方 で 、グ ロ ー バ ル 化 の な か で 、人 権 を 初 め と す る 現 代 世 界 の 最
低限の共有規範、人類が目指すべき平和を初めとする普遍的な価値目標などを、
堅 持・追 求 す る 、い わ ば 求 心 的 方 向 性 と 、他 方 に お い て 、世 界 に お け る 宗 教・言
語・民 族・民 俗・伝 統 等 の( 歴 史 と 現 状 に お け る )多 様 性 へ の 関 心・理 解 、而 し
て 他 文 化 理 解 の 困 難 さ の 自 覚 と そ の 克 服 へ の 努 力 、と く に「 中 心 」に た い す る( 国
際 社 会 か ら 一 国 国 内 に お い て も 避 け が た く 存 在 す る 地 理 的・政 治 的・経 済 的・文
化 的 等 の 諸 側 面 で の )「 周 辺 ・ 周 縁 」 へ の 、 感 性 ・ 知 性 双 方 に お け る デ リ カ シ ー
をもった「まなざし」=複眼的視点をもって世界と国家を認識・理解し、かつ、
そ れ ら 多 様 性 の 共 存 と い う 困 難 な 実 践 的 課 題 の 解 決 を 志 向 す る 、と い う 、い わ ば
遠 心 的 方 向 性 と 、を バ ラ ン ス よ く 同 時 的 に 追 求 す る と い う 、そ の よ う な 意 味 で の
「 矛 盾 力 」を 備 え た リ ー ダ ー;あ る い は ま た 、人 間・個 人 と 社 会・国 家・世 界 の
あ る べ き 姿 に つ い て の 品 格 あ る ロ マ ン 、夢 、哲 学 、理 念( わ れ わ れ の い う「 高 志 」
も そ の 一 つ た ろ う と す る も の で あ る が )な ど を 、こ こ ろ の 奥 底 に 、か つ 絶 望 す る
こ と な く 、堅 持 し 続 け る 、そ う い う 意 味 で の ロ マ ニ ス ト で あ り つ つ も 、同 時 に ま
た 、霊 的 知 性 的 能 力 と 身 体 性( い わ ば 、理 性 的 存 在 と し て の 人 間 と 、と く に 消 化
器 系 と 生 殖 系 の 器 官 を 具 有 し た 動 物 的 存 在 と し て 生 き る ほ か な い 、生 老 病 死 を 免
れ 難 い 人 間 )、理 性 と 感 情 、強 さ と 弱 さ( 英 語 で い う vulnerability( 傷 つ き 易 さ ))
と い う 矛 盾 す る 要 素 を 同 時 存 在 さ せ た 人 間 存 在 、そ し て ま た 、そ う し た 人 間 が 織
り 成 す 社 会 生 活 に お い て も 、善 と 悪 、利 己 主 義 と 利 他 主 義 、信 頼・協 力・共 同 と
不 信・競 争・戦 争 、等 の こ れ ま た 如 何 と も し が た く 本 能 的 と も い え る 矛 盾 の 同 時
存 在 、こ う し た 人 間 と 社 会 へ の リ ア ル な 認 識 と 洞 察 に 支 え ら れ た 、リ ア リ ス ト で
も あ る 、と い う 意 味 で の「 矛 盾 力 」を 備 え た リ ー ダ ー( さ し あ た り 目 の 前 の「 波 」
に 乗 り 、そ の「 波 」か ら 落 ち る こ と な く 、む し ろ そ の「 波 」を う ま く 乗 り こ な し 、
36
さ ら に は そ の「 波 」を 乗 り 越 え 、そ の「 波 」の 彼 方 に あ る 遠 く 高 い も の を 目 指 し
て諦めずに航海を続けること。俗な言い方をすれば、ある程度「酸いも甘いも」
「 表 も 裏 も 」「 光 も 陰 も 」 味 わ い 見 聞 し た こ と の あ る 、 そ の よ う な 意 味 で の 「 苦
労 人 」 で あ り つ つ 、 そ こ に 自 足 し な い ロ マ ニ ス ト で も あ る 、 と い う こ と );
⑤ 「 リ ス ク 力 」 と 「 自 然 力 」( ま た は 「 野 生 的 な た く ま し さ 」)
― ― 一 般 に リ ー ダ ー た る も の 、よ く 言 わ れ る よ う に 、時 と し て 修 羅 場 に お け る
胆 力・体 力 を 要 求 さ れ 、危 機 的 状 況 に お け る 的 確 な 危 機 管 理 能 力 * が 問 わ れ 、そ
の 決 断・断 行 に た い し 最 終 的 に み ず か ら 結 果 責 任 が 問 わ れ る( 別 言 す れ ば 、少 な
く と も「 き れ い 事 」だ け の 心 情 倫 理( M .ウ エ ー バ ー )の 世 界 と は こ と な り * * 、
結 果 に た い し 自 ら 泥 を か ぶ る 覚 悟 を す べ き )も の で あ る 以 上 、す く な く と も 、温
室育ちのひよわな「何様のお子様」とか、毒にも薬にもならない凡庸の徒とか、
何 ら か の 権 威 や タ テ マ エ や 先 例 等 に よ っ て し か 自 己 を 正 当 化 し え な い「 虎 の 威 を
借 る 狐 」、 組 織 に ぶ ら 下 が り 組 織 の 中 を 遊 泳 す る だ け の 組 織 人 、 受 験 技 術 だ け で
目 先 の 点 数 を 稼 ぐ だ け の 真 の 底 力 の な い 学 校 秀 才 ― ― 等 々 の 輩 が 、( 品 格 あ る 知
力とか豊かな感性とかを備えたリーダーとは、およそ縁遠い存在であると同様)
そ の 任 に 堪 え な い も の で あ る こ と 、い う ま で も な い 。む し ろ そ の よ う な リ ー ダ ー
と し て ふ さ わ し い の は 、― ― 比 ゆ 的 に 、
「花の匂のする電気機関車」
(芥川龍之介)
* * * を も じ っ て 言 え ば ー ー「 土 の 匂 い * * * * の す る 電 気 機 関 車 」の よ う な リ
ー ダ で あ り 、深 い 知 性 的 品 格 と 同 時 に「 野 生 的 な た く ま し さ 」を 備 え た リ ー ダ ー
である、ということである。
* 今年(2013 年)に入ってからでも世界では、アルジェリア人質事件に続き、2013
年 2 月中旬には、①北(朝鮮)に核のミサイルを撃ち込むぞと意気込む王朝あれ
ば、②西(ロシア)には巨大隕石が落ちてきて、③南(グアム)には分けも分か
らずに暴走車に轢かれ「気狂いに刃物」で刺される人あり、④すぐ隣の西の国か
らは汚れた空気と軍艦とーーと、空にも地上にも海にも、まさに地球大=国際化
したリスクのオン・パレード;3 .1 1はいうまでもなく(予測しえないかどう
かはともかくも、すくなくとも通常は予想もしなかったような)リスクで目が回
りそうな現代世界、というところか。
* * 近 時 の 週 間 誌 記 事 ― ― 佐野眞一「ハシシタ 奴の本性」 ― ― の 下 劣 さ と 、
政治の世界を志す者の覚悟:
――「職業としての政治」家になろうとするものは須らく「悪魔に魂を売り渡す
覚悟」が必要( M .ウェーバー)かどうかは、ともかくとして、この国でも、本・趣
意書と取り組んでいる最中の 2012 年 10 月以降の衆議院選挙近しの政治状況のな
37
か、あらためてそのような「悪魔」が(とくに選挙が近くなればあちこちに出没す
るのはおなじみのことではあるが、すくなくとも小生にとっては)こんなところに
ま で 出 て く る の か ー ー 思 わ せ る よ う な 一 事 例 に 遭 遇 し 、( 売 ら ん か な の 大 衆 社 会 的
情報化のなかで「表現の自由」の行き着く先とはこんな程度のものーーと、いつも
ながらの低劣な週間誌広告等にうんざりして、慣れっこになっている小生として
も ) 今 回 の 件 に つ い て は ど う し て も こ こ で 言 及 せ ざ る を 得 な い ー ー そ れ は 、『 週 間
朝日 10 月 26 日号』に載った緊急連載・佐野眞一「ハシシタ 奴の本性」という
記事であり、その標題の下劣さもさることながら(それまで佐野氏がみずから付け
たとはこれまた信じ難いがーー)、
(テレビで知って、普段買ったこともない週間誌
を小生も無くなる前に急ぎコンビニで買って実際に読んでみて)大阪の橋本徹市長
にたいする読むに堪えないような内容のものであり、さすがに同誌は批判を受けて
「おわび」を掲載するとともに、その後の連載の中止を決定したとのことである。
小生にとってこの事例は、とくに次の二点で許し難い義憤を感じ、本趣意書でも敢
えて言及したく思った次第であるーーつまり 一つは、以下でもいくつかその記事を
引用するように、朝日新聞は小生にとっても 10 代のころから購読してきて今日に
およんでいる新聞であり( むろん小生は、戦後政治体制のなかで、いわゆる「進歩
的文化人」がその権威に寄りかかって果たしてきた政治的責任については、その影
響を受けてきたものの一人として、厳しく検証する必要があると考えているもので
あるがーー)、また『週間朝日』は( 10 月20日付けの朝日新聞は同誌は 2008 年
に分社化した朝日新聞出版の編集にかかるものであり、あたかも関係がないはずと
いいつつも、橋本氏らにはご迷惑をかけたとの談話をのせているが、みられるよう
にすべて朝日の名前を使っている以上、法的倫理的にも果たして無関係といえるだ
ろ う か ? )、 何 よ り も ( こ れ ま た 以 下 で も し ば し ば 言 及 す る よ う に ) 小 生 の 敬 愛 し
てやまない司馬遼太郎の、まさに国民的文化遺産とも言うべき「街道をゆくシリー
ズ」を企画・連載した週間誌であるだけに(その連載中、小生の知人の某・元大学
教授は毎回それを読むのが楽しみで、いつかは司馬さんが辿ったその「街道」をた
ど り 直 す 旅 に 出 る の が 夢 だ と も 語 っ て い た こ と を 、 思 い 出 す )、「 ○ ○ よ 、 お 前 も
か!」という憤りを禁じえなかったということ、また第二に、著者の佐野眞一につ
いては、かつて NHK テレビの教養番組で「宮本常一」の辿った道を好意的に紹介
する上質の講義をしていた人だけに、最初同一人物であることが信じられなかった
くらいであり、他方その宮本常一は小生も少なからぬ関心をいだき続けてきた民俗
学の分野で柳田国男とは別の意味で尊敬もしていた方だけに、このような程度の質
の売文家に解説されていたのかーーと、いう、みずから尊敬する人の肖像画に汚物
を投げつけられたような憤りを感じたということ、である。要するに、これが橋本
氏への政治的打撃をねらう政治勢力による政治的マヌーバーの一環であること、し
かもそれが大「朝日」の権威を隠れ蓑にして為されたということに、なにかしら信
38
頼を裏切られた感じを受けたことを、この際はっきりと表明しておきたい(むろん、
そのように言ったからといって、小生が橋本氏の政治的見解に全面賛成というわけ
で は 断 じ て な い こ と 、 こ れ ま た 言 わ ず も が な の こ と な が ら ー ー )。 ― ― と も あ れ 、
政治家とは、泥沼を這いずり回ることをも厭わぬ、余程の心身の図太さがないと勤
まらぬものらしいこと、この政権交代劇のドタバタをみていて、そういう感じを抱
かぬ人はあるまい。
* * * 「草花の匂いのする電気機関車」=「レニン」― ― これは、彼の『レニン第
三』と題する詩の一節からの引用で、それは次のよ うに続く(いうまでもなく、傍
線筆者):
「( 前 略 ) 誰 よ り も 民 衆 を 愛 し た 君 は / 誰 よ り も 民 衆 を 軽 蔑 し た 君 だ 。 / 誰 よ
りも理想に燃え上がった君は/誰よりも現実を知っていた君だ。/君は僕らの東
洋が生んだ/草花の匂のする電気機関車だ。」
――若干三十代で亡くなった鬼才・芥川は、その若さにもかかわらずモノが見え
すぎるほどよくみえていたと思わざるをえないが、その鬼才をもってしても、その
当のレーニンが「電気機関車」のような革命リーダーとなって樹立したソ連邦 が「自
壊」してしまうとまではまさに「想定外」であったろう 。
* * * * 「 土 の 匂 い の す る 電 気 機 関 車 」 = 故・秋野さんのこと、故・倉田さ
んのこと :
――「土の匂い」ということへのこだわりは、あの戦後すぐの時代に、貧しくて
何もない、とくに文化的には都会にくらべて貧弱な岩手・三陸の漁村で幼少年時代
を過ごした身には、高度成長後の「暖衣飽食」化、それにともなう日本社会全体の
「土のにおい」の希薄化――人々の生活・社会、さらには人間性そのものまでもが、
ますます自然から離れ「土のにおい」
(小生の場合はさらに、あの「磯の香」)がし
な く な っ て 久 し い ー ー と い う 、 こ の 大 変 化 は 、「 一 生 に し て 二 世 を み る 」 か の ご と
き変化の経験であったように思う(とくに昭和40年代からの高度成長はあの東北
の田舎にも、それこそ津波のように押し寄せてきて、少年時代、男四人の兄弟で交
代で、井戸水から汲んだきた水で浸したコメを杉の葉と薪で燃やしたコンロで煮る
代わりに電気釜が、あるいは洗濯物を手を真っ赤にしながら桶で手洗いする代わり
に洗濯機が、箒と雑巾の代りに電気掃除機が、登場し、原始的家事労働から解放さ
れ、本当に便利になったーーその代わりに、人々はカネ=神さまとなり、良き古き
田舎の人情も、紙の如しに一変した。学生時代帰省の度ごとに その感を深くしたも
のである)。今や、小さな子供のころから「塾通い」を強いられ、
(外で泥んこにな
り、自然と一体となって遊ぶことをしなくなった)都会的生活が地方の田舎にまで
浸 透 す る ー ー と い う 、 こ の 異 常 さ 。 そ う で あ る だ け に 、( そ の ほ と ん ど が 、 大 学 社
39
会という小さく「特殊な」窓を通しではあったが)その変化のなかに潜む、人間的
ないし社会的「病理」のようなものも鋭敏に感じとらざるを得ないことも、少なく
なかったことも事実である。
― ― ともあれ、小生はそうした「土の匂い」のするリーダーの具体像として、ここ
で 誰 よ り も 、( 北 大 ・ 大 学 院 を 出 た ) 秋 野 豊 さ ん の こ と を 想 い 出 す 。 5 0 台 初 め そ
こそこの若さで、タジキスタンで国連・政務官として任務遂行中に問答無用 の銃弾
にたおれ永遠に帰らぬ人となった秋野君。国際関係論・外交史の有能な若手研究者
として、ーー書斎のなかで活字と格闘するだけの小生など及びもつかないーー「行
動する研究者」としての スタンス、を貫いたがゆえの(それを利用された?)悲劇
(――またそれは、志を貫くとは、そのような非情な死をも覚悟するくらい大変な
こ と だ と い う こ と を 示 し て も い る )。 小 樽 の 出 身 で 誰 か ら も 愛 さ れ 、 ラ ガ ー と し て
のたくましい心身の持ち主でもあった彼こそ、いかにも「どさんこ」らしい「野生
的なたくましさ」をもった「土の匂いのする電気機関車」のごとき人物で、本当に
惜しい人を亡くしたものだと思う。一般に自分より若い人の死は残念なことだが、
とくに彼の死はここで敢えて個人的な追悼の念を示したく一言した次第である。―
― ひ る が え っ て 、 こ の 小 生 な ど 、( 老 害 を 垂 れ 流 す こ と だ け は 敢 え て し て こ な か っ
たーーできなかった?――つもりではあるものの)大したこともできずに7 0歳の
坂まで越えて、ダラダラと「資源の浪費」を続けている。神様はなんと不公平なこ
とかーー嗚呼、合掌。
なおまた、標記の倉田さんは、同僚の・社会保障法の若手研究家であったが、惜
しくも40代の若さで急逝された。学問的に有能かつ良いセンスをもった、人物的
にも好漢そのものの、秋野さんとは別の意味で「土の匂いのする」スケールの大き
い研究者で、将来を嘱望されていた優れた研究者であっただけに、これまた痛恨の
極みというほかない。倉田さんは秋野君とは専門も気質も異なるとはいえ、北海道
育ちらしい土の匂いのする良い研究者であったーーそのような意味で小生はこの
二人の若者の死をここに深い哀惜の念をもって記したく思う( 小生にとって彼らの
葬儀への出席はまさに、心からの哀悼の故であり、世間的儀礼とは全く無縁のもの
であった)。
(1-2)
「広義におけるリーダー」像― ― と く に「 文 化 」的 領 域 に お け る「 2
1世紀型リーダー」像:
・「 現 代 国 家 ・ 社 会 ( な い し 一 般 に 組 織 ) に お い て 求 め ら れ て い る 、 あ る べ き リ ー ダ
ー像」
― ― 上 記 の よ う な「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」論 が 、と く に こ の 国 に お け る 3 .1 1
後 の 政 治( 的 混 乱 )状 況 と 、そ れ に 関 す る 我 々 自 身 の 現 状 認 識 、問 題 意 識 、そ し て
も っ と は っ き り 言 え ば 危 機 意 識 の よ う な も の に 支 え ら れ た も の で あ る こ と は 、否 定
40
で き な い 。そ の よ う な 意 味 に お い て 、上 記「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」像 が 何 よ り も 第
一次的には、
( 国 家・社 会 の 諸 問 題 の 集 約 的 表 現 で あ り 、と く に 明 治 時 代 =「 近 代 」
以 降 、異 常 に「 国 家 」が 重 く な っ て し ま っ た 体 制 の も と で は 、そ の 意 思 決 定 の あ り
よ う が 、そ れ を 構 成 す る 個 々 人 の 幸・不 幸 に 直 結 し 、そ の 命 運 す ら 握 る に 至 っ て い
る )こ の 国 の 政 治 的 指 導 者 の あ り よ う を 念 頭 に お い た も の で あ る こ と も 、喋 喋 す る
までもないであろう。
そ う で あ る だ け に ま た 、そ こ で の 要 求 水 準 が( 上 記 ① 以 下 の 記 述 か ら も 窺 わ れ る
ように)高くなってしまう傾向は如何ともし難い。
― ― 他 方 し か し ま た 、上 記 の よ う な リ ー ダ ー 像 は 、今 日 、単 に 国 家 の 政 治 統 治 の
場 に 止 ま ら ず 、い ま や 地 方 政 治 と か 行 政 機 関 と か 各 種 企 業・事 業 経 営 、専 門 職 業 ・
研 究 等 の 各 界 で 、そ の 組 織 の 大 小 に 拘 わ ら ず 、そ れ ぞ れ の リ ー ダ ー と し て の 責 務 を
に な っ て い る す べ て の 人 々 に も 、多 か れ 少 な か れ 求 め ら れ て い る 資 質 で あ る 、と か
ん が え ら れ る ー ー そ の よ う な 意 味 で 、 わ れ わ れ の 上 記 リ ー ダ ー 論 は 、( 国 な い し 地
方 の )政 治・統 治・行 政 組 織 レ ベ ル 以 外 に も 、企 業・事 業 体 等 の 各 種 組 織 を も カ バ
ーする)いわば「組織リーダー論」を指向するものでもある。
・た だ わ れ わ れ と し て は 、こ の 際 起 こ り う べ き 誤 解 を 避 け る た め に 、あ ら か じ め お 断
り し た い と 思 う の は 、ま ず も っ て 、以 上 の よ う な わ れ わ れ の リ ー ダ ー 論 が 、単 に 国
家 の 政 治 的 統 冶 に 限 定 さ れ 、か つ 、な に か し ら 大 時 代 的 な「 英 雄 待 望 論 」* 的 色 合
い を も っ て う け と ら れ る と す れ ば 、そ れ は 、ま さ に 拒 否 さ る べ き 誤 解 で あ る 、と い
うことである。
つ ま り 、 上 に 掲 げ た よ う な 「 力 」 な い し 資 質 を 備 え た 「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」
なるものは今日、かつてのカリスマ的英雄とか帝王のような、一部の特権的ない
し神秘的な、ないし超「エリート」たる、指導者像**ではなく、高度に情報化
さ れ た 民 主 主 義 的 大 衆 社 会 の な か で の 、そ の よ う な 意 味 で「 普 通 の 生 活 者・市 民 」
の一人としてのリーダーであるということである(ここでは、欧米諸国の何人かの
具体的政治リーダーがイメージされている)。
* 鶴見俊輔的リーダー論 ――まさにこの「英雄待望論」と同名の著書を、小生は少
年時代、郷里の友人 M M 君から借りて読んだ記憶がある。しかし 、本の題名を覚え
ているだけで、内容として 何が書いてあったか、ほとんど記憶がないのは、上記・吉
田松陰伝ほどのイムパクトがなかったということであろうーーちなみに著者は戦前
の代議士・鶴見悠輔であり、かの鶴見俊輔や和子の父であり、タカ(または俗流政治
家)がトンビ(またはすぐれた独創的な思想家)を生んだ、また時代の波が その子ら
の思想を鍛えた、ということか。岩手・水沢が生んだ政治家・後藤新平との・その縁
戚関係の存在のゆえにか、なぜかとくにその名が記憶に残っただけであるのかもしれ
ないがーー。
* * 芥川的リーダー論 ― ― 芥 川 が 、 そ の 『 朱 儒 の こ と ば 』 の 中 で 、「 軍 人 と い う も
41
のはよくも平気で、酒に酔うこともなく、勲章をぶらさげて得々として街の通りを歩
けるものだ」という趣旨のこととか、また博物館とかで過去の英雄の嚇嚇たる戦果を
示す刀剣などをみると、自分は感心するよりも心臓が妙に高鳴ってとても正視にたえ
ない、すくなくとも自分はとてもそんなのにはなりたくない、と言う趣旨のことを書
いていたのを、ここで思い出す(芥川のような鋭角的なエスプリの持ち主が昭和一ケ
タ代にこの世を去ったこと、つまり、あの狂気の戦争の時代にまでは生きていなかっ
たことは、あるいは、そのような意味でも幸いなことであったのかもしれない、と思
わないでも、ないーー。すくなくとも永井荷風日記のような、世俗の巷を横目にみな
がら超俗的に生きる生き方ができたろうか)。
・ 「( 上 記 「 組 織 の リ ー ダ ー 」 だ け で は な く )「 文 化 の 領 域 」 で の リ ー ダ ー の 重 要 性 」
― ― と こ ろ で 、 一 般 に 国 際 社 会 に お い て 尊 敬 さ れ る 国 の 品 格 が 、( そ の 国 の 現 状 と
歴 史 に お け る 多 く の 問 題 的 状 況 と 負 の 部 分 に も 関 わ ら ず )、 そ の 国 の 、 豊 か で 深 い
知 性 に 支 え ら れ た 文 化 の 高 さ 、に こ そ 求 め ら れ る こ と 、そ の 国 の 文 化・知 の 領 域 に
お け る 、人 類 共 通 の 遺 産 の 、豊 か さ 深 さ の ゆ え に こ そ 、そ の 国 が 尊 敬 さ れ る こ と ー
ー 卑 近 な( か つ 、小 生 の 好 み に あ わ せ て 、思 い つ く ま ま の )例 で は た と え ば 以 下 の
ご と し : い ま や EURO 圏 の お 荷 物 に ま で な っ て し ま っ た ギ リ シ ャ は 、 た と え ば 、
あ の ギ リ シ ャ 神 話 と ソ ク ラ テ ス ー ア リ ス ト テ レ ス な ど の 故 に 、お 荷 物・第 二 第 三 候
補 の イ タ リ ア は 、た と え ば 、古 代 ロ ー マ 法 と ル ネ ッ サ ン ス 芸 術 の ゆ え に 、ヒ ト ラ ー・
ナ チ ス * の 蛮 行 に も か か わ ら ず ド イ ツ は 、た と え ば 、ゲ ー テ と カ ン ト な ど に よ っ て 、
さ ら に ま た 、( ア ジ ア ・ ア フ リ カ 等 の 帝 国 主 義 的 植 民 地 獲 得 競 争 と い う 負 の 歴 史 を
抱 え る )主 要 西 洋 諸 国 、と り わ け 、か の イ ギ リ ス は 、例 え ば 、ア ダ ム・ス ミ ス や ダ
ー ウ ィ ン や シ ョ イ ク ス ピ ア な ど に よ っ て 、ま た 、か の フ ラ ン ス は 、例 え ば 、モ ン テ
ス キ ュ ウ や ル ッ ソ ー や レ ヴ ィ・ス ト ロ ー ス な ど の ゆ え に 、そ し て さ ら に 、オ ラ ン ダ
は、たとえば、グロチウスのゆえにーー等々。
而 し て ま た 、 北 東 ア ジ ア の 太 平 洋 の 片 隅 の 一 小 国 に す ぎ な い こ の 我 国 が 、 今 後 、
世界から畏敬の念をもって迎えられる国として生き残ることができるかどうかの
「鍵」は、(すでにしばしば指摘されているように)なによりも、その全体としての
「知力」の強・弱、とくに豊かで深い知性に支えられた、そのような意味での品格
ある知力を備えた文化的リーダー、を得られるかどうか、に係っている、と言って
よいであろう。
・と く に あ の 3 .1 1 が 、ま さ に あ ら た め て 、わ れ わ れ に つ き つ け た も の は 、真 の
「 幸 福 」と は な に か 、そ れ を( す く な く と も 、行 け 行 け ド ン ド ン の 空 気 に 逆 ら っ
て で も )立 ち 止 ま っ て 考 え る こ と の で き る 余 裕 で あ り 、勇 気 で あ っ た 、と い え よ
う 。実 の と こ ろ す で に そ の 2 0 数 年 前 の 9 0 年 代 、バ ブ ル ー そ の 崩 壊 、そ の 事 後
処 理 、と い う( あ る 意 味 今 日 ま で 続 い て い る )一 連 の 過 程 の な か で み え て き た も
42
のも、本質的にはまさにそのことであったように思われる。
そ の よ う な 意 味 で ま た 、わ れ わ れ の 目 指 す リ ー ダ ー と は 、何 か し ら 、政 治 や 大
組 織 等 の ト ッ プ と し て 、い つ も 人 の 目 に つ く と こ ろ に い て 采 配 を ふ る う 、と い っ
た タ イ プ の ( 通 常 そ の よ う に 解 さ れ て い る よ う な 、 い わ ば 広 い 意 味 で の )「 組 織
の リ ー ダ ー 」だ け で は な く 、人 類 史 的 視 野 に た っ て 遠 い 過 去 を ふ り か え り 、5 0
年 後 1 0 0 年 後 を 見 据 え た 未 来 を 望 み 見 る こ と の 出 来 る 、豊 か で 品 格 あ る 知 性 を
も っ た リ ー ダ ー 、や や 具 体 的 に は 、文 筆・言 論 に よ っ て 国 家 と 社 会 の 進 む べ き 方
向 を 良 心 的 か つ 説 得 的 に 説 い て く れ る オ ピ ニ オ ン・リ ー ダ ー * * と か 、或 い は ま
た さ ら に 、社 会 の 目 に 見 え な い と こ ろ に い て 、し か し 品 格 を た だ よ わ せ る 生 活 と
行 い に よ っ て 「 一 隅 を 照 ら す 」( だ け の ) 巷 の 生 活 者 * * * と か 、 ま た ( た と え
ば 、人 々 に 希 望 と 勇 気 の 火 を と も し 、人 間 と 人 生・世 間 に つ い て の 確 か な 観 察 眼
を 鍛 え 、ま た は 吾 ら の 汚 れ や す い 心 を 洗 い 清 め て く れ る 、各 種 文 学 作 品 と か 、乾
い た 心 を 癒 す 音 楽 と か の )品 格 あ る 芸 術 作 品 * * * * 、学 問 的 誠 実 に 貫 か れ た 書
籍 * * * * * な ど に よ っ て 、社 会 の 人 々 の「 心 の 栄 養 」と な り 、現 世 と 後 世 の 人 々
に と っ て の 貴 重 な 文 化 遺 産 と な る よ う な 、そ の 様 な 、ご く 広 い 意 味 で の「 心 の リ
ー ダ ー 」も ま た 、同 様 に 、わ れ わ れ に と っ て 、な く て は な ら ぬ リ ー ダ ー で あ る と
い っ て よ く 、而 し て わ れ わ れ の 上 記「 2 1 世 紀 型 リ ー ダ ー 」像 も ま た 、こ の よ う
な 広 い 意 味 で の「 文 化 」の 領 域 に お け る リ ー ダ ー( 待 望 )論 を も 、そ の 射 程 と し
て( す く な く と も そ の 方 向 性 を も )意 識 し て い る も の で あ る こ と 、こ こ で お 断 り
しておきたい。
* 「民意」も過ちうる ーーそして「見る目」の決定的重要性ということ:
――ヒットラーも最初は選挙で、そのような意味で「合法的」に政治の場に出てき
た ! つ ま り 、( し ば し ば 忘 れ ら れ が ち の こ と で あ る が ) 民 主 主 義 政 治 体 制 は 、 原 理 的
には所詮、手続き=過程=形式的正義の要請を満たすだけで、実体的結果的正義を必
ずしも常に保証するものではないし、高度に発達した情報化・大衆社会的状況下での
その危うさは、すでに多くの歴史的実例が示唆するとおりである。そもそも民主主義
なる意思決定システムが、すべての重要な政治的イッシュウに関して主権者=投票権
者たる一人ひとりの国民が常に正確な認識と判断力をもつ、という壮大なフィクショ
ン的暗黙の前提の上に成り立つタテマエ的制度であることは否定できない(小生など、
定年後時間が出来たお陰でテレビ・ラジオや新聞等の国会討論などーーとくに政権交
代以降――比較的よく見聞きするようになったが、正直のところ、金融・財政・税制
のことなど、良く分からぬことが多く、あらためてこれ等の分野の本格的な勉強をし
なくてはーーと痛感している。すくなくとも、街頭でいきなりマイクを突きつけられ
てこれらについての意見を求められても、ボクのようなウマのホネには聞かないでく
ださい、と逃げたいと思っている)。別言すれば、
「 多数もまた誤り得る」ということ
43
(独裁よりはまだましという程度の、セカンドベストの・意思決定システム上の制度
選 択 で し か な い と い う こ と )、「 勝 て ば 官 軍 」 と は い え 、「 民 の 声 」 が 常 に 「 天 の 声 」
という保障はなく、時に「悪魔の声」ともなりうること(政治家がしばしば持ち出す
「国民」という語のマジックワード性)ーーそれだけに、以上のような意味でまた、
その(狭義の)リーダーを評価し選び監視する規範となる別の次元での「目」の重要
性が浮かび上がってくるともいえるのであって、ここでいう「広義のリーダー」とか
次項で扱う第三の「21世紀型リーダー」論とも言うべき「ライフワーク論」の、積
極的現代的意義の(すくなくとも)一つが、その「目」の一つとなりうるという点に
存する、ということもここで強調しておきたい。つまり「とんでもない指導者」を選
ん で し ま う と 、「 と ん で も な い 目 」 に あ う の は 、 ほ か な ら ぬ 、 そ の 選 ん だ ( ま た は 選
ぶことすら許されなかった)当の大衆じしんであること、それだけに(とくに政治に
お け る ) リ ー ダ ー を 評 価 し 選 ぶ 側 の 「 目 」( ま た は そ の 体 制 ) が 決 定 的 に 重 要 な の だ
ということ、これまた、古今東西どころか、なによりもこの国にとって「殷鑑遠から
ず」の痛い歴史的教訓としてあるのだ、ということ ーーなお、このような「見る目」
の存在の重要性は、単にこのような大衆政治レベルのそれだけではなく、あらゆる社
会的組織的分野・領域においてもいえることーー数例だけ挙げるとすれば、上記・芥
川 の 鬼 才 を 見 抜 い た 夏 目 漱 石 、か れ に「 朱 儒 の こ と ば 」を 書 か せ た 一 高 時 代 の 級 友 ・
菊池寛の度量、若き啄木をその「観潮楼」歌会に参加させた森鴎外の雅量、司馬さん
にあの街道シリーズを書かせた週間誌編集長 等等)。
** オピニオン・リーダーの玉と石 ――個人史的恨み節もかねて:
――小生がこれまで物心ついてから読んできたあれこれの「活字」、とくにその時々
の政治問題とか社会問題に関連して読んできた 本・論説等で、例えば、あの60年安
保のほとぼりが冷め、大学紛争の嵐が去り、ソ連を中核とする社会主義体制が終焉し、
東西冷戦が終結し、バブルが崩壊しーー等等の、それぞれの歴史的画期が 過ぎ去って
みると、それまでに、
(とくに、○○大学教授とか○○書店とか○○党とかの「権威」
に )踊 ら さ れ 煽 ら れ る よ う に し て 読 み 、一 定 の 影 響 も 受 け た 、あ れ こ れ の 本・論 文 ・
論説等々は、一体なんであったのか、という、なんとも言い難い「悪い夢」をみた後
のような後味のわるさ、そしてなによりもその「読書」に費やされた膨大な時間の浪
費への後悔の念、をもって思い出すものも少なくない――とくに、小生など、この歳
に な っ て み て ( あ る い は 、 な っ て も )、 読 む べ き 本 の あ ま り の 多 さ ( ― ― に も か か わ
らず、未だ読んでいない本の多さ)と、それにひきかえ、残された時間のあまりの少
なさに、嘆息し、あらためて、学問の奥の深さ、それに引き比べての人生の短さ(つ
まり、一人の人間に与えられた「時間という資源」の相対的有限性、しかも時間とい
う資源は、他の資源とちがって、カネでは買えない、否そもそも、売っていない!)
というものに愕然として直面させられる想いである。それだけにまた、そうした時間
44
の浪費へと誘い込んだあれこれのゴミ本とその著者たちへの、曰く言い難い憤り(「時
間泥棒!」とでも叫びたい気分)のようなものを隠せないのである。
と く に 、 上 記 歴 史 的 画 期 の う ち で も 、 あ の ソ 連 の 崩 壊 に よ っ て 、 あ ら た め て 、( い
わゆる「論壇」に代表される)知やアカデミズムの世界が(も)その信用力・品格を
失ってしまったとの思いをいだくのは小生だけだろうか。
――ちなみにまた、この国のもっと 以前の時代、戦前―戦中の戦争賛美の言説をば
ら撒いた人、それに踊らされた人が、それぞれ戦後に感じたであろうことは、これと
は比較にならないくらいの広さ深刻さのものであったことであろうーーもっとも、そ
の・まさに未曾有の歴史的経験が、その後、現在にいたるまで、この国の人々によっ
て、真に誠実・真摯に検証されつくしたといえるのかについては、いわゆる「戦後処
理」としての歴史的事件の多くのことがらとともに、疑問の余地も多く、少なくとも
小生自身は、自らの目であらためて徹底的に批判的主体的にそれを検証しなおすとい
う仕事もまた、今後の課題の一環としてある。
ーー而してまた、世間では今なお、性懲りもなく、マスコミ等を中心として、無責
任に書きたい放題・言いたい放題・扇動し放題のゴミ論文・アブク論文の数数――。
いまや、このような、混乱し氾濫するこの情報の渦のなかで、その深い知性と知的誠
実さに裏打ちされたリアルで柔軟な政治的社会的認識・分析 によって、流れに逆らっ
てでも正論を説く、いぶし銀のような輝きを放つ、そうした良質の「論檀」リーダー
は、いまや本当に暁天の星のごとくに、少なくなってしまった。むろん 一定の見識を
具えた大人は各自それ相応の評価・判断力によってそれこそ自己責任で読む読まない
の選択をするであろうが、その判断力のない児童・少年をとりまく情報環境は、この
情報化・大衆消費社会化の渦の中、マスコミ・出版資本等の儲かるなら何でも垂れ流
す式の、時間が幾らあっても足りないほどのゴミ情報に溢れているといっても過言で
は な い 環 境 に あ る 。 ま こ と に 「 渡 る 世 間 」 に は 、( ホ ト ケ ば か り で は な く 、 む し ろ )
到る所に、人をダメにするオニたちが沢山の「落とし穴」を作って待ち構えているー
ー而して、その「落とし穴」に落ちる方がバカなのよ、と平然といってのける「自己
責任」論は、それこそ無責任の謗りを免れまい(むろん、小生は、実践的にも理論的
にも個人主義的「自己決定」原則の原理的重要性から出発するものであるがーー)。
ーーともあれ、このような意味でも「良き先達はあらまほし」であって 、少なくと
も、これからの人生を歩み始めた児童・少年たちが、小生のように人生の暮れ方にな
って時間が足りないといって臍をかむことの無きよう、これら氾濫する情報の中で、
時 間 を 浪 費 し な く て 済 む よ う 、「 玉 と 石 の 区 別 」 力 、 ホ ン モ ノ と ニ セ モ ノ の 違 い を 見
抜く目、すくなくとも「何を読むべきか」の判断力・選択眼 、をつけてもらうような
学習支援の機会、最低の共通規準・規範となるものを身につける機会が、できるだけ
早い年令の段階で、かつ系統的継続的に、提供される必要があると考える。それが、
とくに後述、我々が本プロジェクトの中心的内容として企画している古典学習支援の、
45
一つの基本的趣旨・動機でもあり、また、それを通じてまた、彼らが、彼ら自身の次
の世代にとっての良き「文化的リーダー」となっていってほしい、との思いがあるの
である。
* * * 「一隅を照らす生き方」 ― ― 無 償 の 奉 仕 活 動 を 黙 々 と 国 の 内 外 で 続 け て い
る少なくない人々がいるということ今回の3.11でもあらためて知らされた通り
であり、小生じしんも、とくに神戸大震災後の「ボランテア元年」といわれる人々
の活躍をみて、「日本もまだ捨てたものではないなーー」という共感が、あらためて
研究テーマとしても無償法とか非営利組織論への取り組みやNPO学会とかNPO
研究会等への参加・立ち上げへとつながった、と いう経緯がある。ひいてまた 、(い
ささか話題が飛ぶようであり、かつ、小生の隠棲志向的嗜好に惹き付けて言えば)
たとえば、かの国の「竹林の七賢人」ですら、後世の我々から見れば、種種の戦争
や権力闘争に明け暮れただけの王侯貴族とか、そのもとでの数多の小役人・兵士な
どと比べて、よほどに深甚なる「心のリーダー」といえよう。
****「こころに残る宝としての作品:若干の例」――これまた小生の好みで思い
つくまま数例をあげるとすれば、高村光太郎の詩、宮沢賢治の諸作品、司馬遼太郎
氏 の 「 街 道 を 行 く 」 シ リ ー ズ 、 モ ン テ ー ニ ュ 『 エ セ ー 』、 兼 好 法 師 『 徒 然 草 』 な ど 。
*****「国民的文化遺産としての(または、文化水準を測るバロメーターとして
の)各種・各領域の辞典・事典」――そのごくわずかの例として、時々覗き見るだ
けでいつもその学問的誠実に圧倒される辞典(この辞典というカテゴリーだけをこ
こで採り上げるのは、なによりも、いわばすべての知的作業における「縁の下の力
持ち」的存在として、重要不可欠ではあるが目立たず、地道で労あまりに多くして
報われること少なく、しかし、その国の知的共有財産として、その国の知的水準の
高さのバロメーターとも言いうる著作・出版事業であるから、こその故である)・二
例:中村元『佛教語大辞典』、白川静の三部作『字典』。
(1-3)( 上 記 の 狭 義 ― 広 義 い ず れ の 意 味 で の 「 リ ー ダ ー 」 で あ れ ) それを育て
ることの、一般的ないし特殊現代的・現実的むつかしさ :
・「 一 般 的 む つ か し さ 」 ― ― い う ま で も な く ま た 、 上 記 の よ う な 理 想 的 リ ー ダ ー が 、
( 目 前 の 選 挙 目 当 て だ け の )イ ン ス タ ン ト 的「 ○ ○ 塾 」で の 、一 朝 一 夕 の「 付 け 刃 」
的 勉 強 と か 、 目前の・目に見える・特定の「○○資格」とか「○○合格」とか の 実 利
的 目 的 だ け を 追 求 す る「 ○ ○ 学 校 」と か で 作 ら れ る も の と は 誰 も 考 え な い で あ ろ う 。
け だ し 、す ぐ れ た 知 性 も 人 格 も 、健 康 な 体 を つ く る た め の 食 習 慣 を 初 め と す る 生 活
46
習 慣 と 同 様 、し か も 子 供 の 頃 か ら の 、一 日 一 日 の 不 断 の 積 み 重 ね 、そ の 意 識 的 で 継
続 的 な 努 力 の 長 い 蓄 積 、さ ら に そ れ を 支 え 可 能 に す る 家 族 の 見 守 り 、一 定 の 社 会 公
共 の 制 度 的 支 援 の う え に 、は じ め て 成 り 立 つ も の で あ る こ と 、こ れ ま た 否 定 で き な
いところであろう。
・「 特 殊 今 日 的 む つ か し さ 」 ― ― 而 し て こ の よ う な リ ー ダ ー と 、 そ の 意 識 的 養 成 ・ 援
助 を め ぐ る 社 会 的 環 境 、よ り 一 般 に は 、今 日 の こ の 国 に お け る 、児 童 を め ぐ る「 社
会的教育的環境」は、すくなくとも小生のみるところ、きわめて憂慮すべき状況
にある、といわねばならないように思われるーー「ゆとり教育」の結果できた児
童 の「 ゆ と り 」の 時 間 を 、待 っ て ま し た 、と ば か り に 浸 食 す る 、進 学 塾 、TV ゲ ー
ム 、ケ ー タ イ 、等 々 。( 弊 害 が 小 生 の 少 年 時 代 の こ ろ か ら 言 わ れ な が ら む し ろ 拡 大
一方の)有名大学・進学校・有名校志向、学校の序列化、目に余る進学塾等の受
験市場化、それを煽り立てるママゴン=週刊誌的大衆社会、他方また、上の学校
にすすんでも、シュウカツのきびしさのもと、ここでもまた「ゆとり」を失って
ま す ま す 劣 化 す る 大 学 ( 教 育 = 研 究 )、 さ ら に 他 方 ま た 、 い じ め 、 児 童 虐 待 等 々 、
― ― 。(「 自 然 環 境 」 保 護 は 地 球 上 に 住 む 万 人 に 影 響 す る こ と ゆ え 自 己 防 衛 の 必 然
の 赴 く と こ ろ 、早 晩 な ん と か な る で あ ろ う が )、み ず か ら を 守 る 術 の な い 子 供 達( の
心)をとりまく、これら「社会的教育的環境・こころ」の荒廃の諸状況に、暗澹
たる思いをいだくのは、小生だけであろうか。
他 方 に お け る 大 人 の 世 界 を め ぐ る「 リ ー ダ ー 」論 的 状 況 は 、と り わ け 3 .1 1 後
の 我 国 政 治 状 況・社 会 状 況 は 周 知 の と お り 、
「 決 ま ら な い 政 治 」、対・官 僚 に た い し
て も 対・派 閥 に た い し て も ガ バ ナ ン ス 能 力 を 欠 い た 政 府・政 党 、そ し て 、あ れ こ れ
の 天 下 り の「 指 定 席 」を 当 然 の 特 権 と 考 え る「 何 様 の お 子 様 」的 高 級 官 僚 、復 興 予
算 1 9 兆 円 に 火 事 場 泥 棒 的 に「 た か っ た 」と し か( ま さ に 品 格 を 欠 い た 、そ し て そ
れ を 口 に 出 す こ と さ え 品 格 を 欠 く ゆ え に 憚 ら れ る )形 容 の 言 葉 し か 見 出 せ な い 中 央
省 庁・官 僚 の 、
「 精 神 の 退 廃 こ こ に 窮 ま れ り 」と 慨 嘆 せ ざ る を 得 な い 行 動 * 、
「原子
力 ム ラ 」に 群 れ た 多 く の「 精 神 な き 専 門 人 」
( マ ッ ク ス・ウ エ ー バ ー )、3 .1 1 の
直 後 に も バ カ 番 組 、お 笑 い 番 組 を 平 気 で 流 し つ づ け た TV 局 の ご と き「 心 情 な き 享
楽 人 」( 同 ) の 群 れ 、 ー ー な ど な ど 、 こ れ ま た 暗 澹 た る 状 況 ;
― ― と も あ れ 、こ の よ う な 状 況 下 、大 衆 社 会・情 報 化 社 会 の 風 圧( と い う よ り も
又 、あ の 巨 大 な 大 津 波 に も 比 す べ き 大 波・激 流 )に 抗 し て 、上 記 の よ う な 理 想 的 な
リ ー ダ ー 像 を 育 て よ う と す る 意 識 的 営 み は 、何 よ り も そ の よ う な「 世 間 」の 諸 状 況
と の き び し い 対 峙・闘 い を 覚 悟 し 、そ れ に 堪 え る こ と を わ れ わ れ に 強 い る で あ ろ う
こと、必定である。
*「官僚機構における「たかりの構造」――生活習慣病か不治の病か?」
47
― ― こ の NPO 立 ち 上 げ の た め の 趣 意 書 に と り く ん で い た 最 中 の 2 0 1 2 年 9 月 9
日pm9.00- NHK―DTV(3ch)放映番組報道による。その震災復興とはほ
とんど関係のないような予算使用の法的根拠をどのように言いぬけるのかーーそし
てなによりも、あきれ果てるのは、法的根拠を問題とされないよう周到に当該関連法
令にその抜け道を書き込んだ官僚のサル知恵、そしてそれをチェックできなかった
(知ってて、しなかった?)政治家の無能――。少なくともそれをみた小生自身の感
慨としては、あらためて国家なり 行政なり政治なりというものにたいしては、如何な
る甘い幻想も懐いてはいけないということ、この国を精神的倫理的に退廃させ荒廃さ
せていき、そのような意味でこの国を真に滅ばす「原動力」となるのも、こうした中
央官僚の、この期に及んでもなお改まることなき、こうした行動様式であるのだとい
うこと、この際あらためて、怒りを込めてはっきりと指摘しておきたい。と同時に、
元宮城県知事浅野史郎のことばを以てすれば「国はやるべきことをきちんとしている
のか、逆にやらなくてもいいことをやってはいないか」ということを不断に「仕分け」
していく必要性をあらためて痛感する。――それは個人的には、小生自身が三陸海岸
の出身者として、いまなおぺんぺん草がおいしげり沢山の被災者が避難(所)生活を
いまなお余儀なくされている被災地の実情に、他人事でない心の痛みを感じるからで
もあり、そしてさらには、長年国立大学の禄を食んできていて、国家というものが如
何に壮大な税金の無駄遣いをするものかを、内側からみて知っている(というよりも
小生自身もまたその「共犯者」ではなかったか、という思いがある)だけに、そして
翻ってまた生活者としての小生自身、年金だけが頼りの定年退職者になってみてはじ
め て ( ! )、 税 の 負 担 と い う も の が 身 に 染 む だ け に 、 つ い 弾 劾 の 筆 は 激 し た も の に な
らざるを得ないーー。
(2)「普通の生活者における「高志」ある「生きがい」としてのライフ
ワーク」構築のためにーーその発見・準備へのお手伝い:
(2-1)
(「高志」ある)リーダーになることだけが唯一価値ある人生目
標か?
・「 大 志 の 終 焉 ? 」 ― ― そ も そ も 、 上 記 の よ う な 「 高 志 」 あ る リ ー ダ ー た ろ う と す
る 人 生 は 、と く に( か つ て の よ う な「 末 は 博 士 か 大 臣 か 」と い う「 立 身 出 世 」物
語 も 死 語 と な っ て し ま っ た )今 や 、正 直 い っ て「 し ん ど い 」生 き 方 で あ り 、大 衆
の 大 部 分 は 、平 凡 で 平 均 的 な 行 き 方 で い い か ら 、も っ と「 楽 な 生 き 方 」を し た い
と 考 え て い る こ と も 、「 象 牙 の 塔 」 し か 知 ら ぬ 理 想 主 義 者 の 小 生 と て 知 ら な い わ
け で は な い ( ! ):
ー ー そ の こ と に 関 連 し て 、再 び 個 人 的 思 い 出 話 に な る が 、小 生 が 勤 務 し て い た
大 学 は「 少 年 よ 大 志 を い だ け 」の ク ラ ー ク 先 生 で 有 名 で あ る が 、小 生 の 目 ― ― と
48
くに、あの60年安保の騒然とした雰囲気のなかで大学の一年間を過ごし、そこを
一年二ヶ月余で中途退学して入った別の、良き古き大学そのものの「研究(者?)
第一主義」を標榜する大学では、最も腰を落ち着けて勉強したかった時機に、ゲバ
棒を鉄パイプに持ち替えて「武装」した過激派学生による研究室封鎖などの、上記
「60年安保」以上に、勉強どころではない騒然とした雰囲気*のなかで、学部生
から助手時代を過ごすことを余儀なくされた小生などの目 ― ― か ら み れ ば 、幸 か 不
幸 か 洵 に 平 穏 静 謐 な キ ャ ン パ ス の な か 、今 度 は 一 転 し て 、○ ○ 資 格 試 験 合 格 率 何
割 が 叫 ば れ 、産 学 協 同 が 叫 ば れ 、近 視 眼 的 業 績 主 義 の み が 強 調 さ れ る よ う な 、様
変 わ り 状 況 の 中 、 大 部 分 の 学 生 は 、 世 間 の 作 り 出 し た 権 威 や 価 値 序 列 に 、( 少 な
く と も 小 生 の 目 か ら は )骨 が ら み に 絡 み 捕 ら れ て 去 勢 さ れ て「 大 人 」し く 、と て
も そ れ ら を 疑 い 、そ れ を 乗 り 越 え 、変 え て い こ う 、と い う よ う な 反 骨 精 神 旺 盛 な
元 気 ― ― そ れ こ そ が「 大 志 」を も つ も の の メ ン タ リ テ ー と い う べ き も の ー ー を も
っ た 学 生 を 見 出 す こ と は む つ か し い よ う な 有 様 で 、つ い「 ク ラ ー ク 先 生 、墓 の 下
で 泣 い て い る ん じ ゃ な い の ー ー 」と 愚 痴 っ て 、嫌 わ れ 、以 後 そ の よ う な 口 を き く
こ と は や め る こ と に し た ( と い う よ り 、 そ う い う 元 気 を 失 っ た ? )、 と い う よ う
な経験がある**。
*「 大学紛争 とは何だったのか?単なるバカ騒ぎ?」――あの大学紛争の渦中のな
かで(小生自身は幸か不幸か(!)過激派学生でもなく、他方それに指弾される
責任ある立場の教官でもなく、基本的には局外者・傍観者的立ち位置にいたにす
ぎないが)、ときどきふと何かの折にーーあの騒然としたキャンパス内のもろもろ
の光景とともにーーそうした思いが胸をよぎることがある。とくに、上記に敢え
て「バカ騒ぎ」とはき捨てるような過激な表現を用いざるを得なかったのは、大
学改革・移転といったような大学固有の火種もあったにせよ、今思い出しても何
のための「闘い」であったのか、ただ皆が訳もなく騒いでいただけではないのか、
フランス等の外国の学生も騒いでいるからーーというまさに権威主義的付和雷同
の空気、それを外部から煽った「知識人」、そこで関わった学生たちの、小生が知
っているだけの範囲でのその後の生き様、そこで飛び交った、あれこれのおどろ
おどろしい言説の空虚さ、そして、それが結果として大学と社会にもたらしたも
のの「負の遺産」(それを具体的に述べることはここでは控えるが、要するに、何
も変わらなかっただけではなく、総体としての官僚主義的「管理」の強化)、など、
すくなくとも小生にはその否定的な側面ばかりが目についてしょうがないからで
ある。すくなくとも、あの頃のことをまるで革命家の勲章のようにもちあげたり
する言動には、エリート的甘え・無責任の構造を感じて腹立たしい思いがするだ
けである。ただそこでの「歴史的教訓」が唯一あるとすれば、社会の中のひずみ
のように鬱積して溜まった人々のルサンチマン的心性というものは、何かのきっ
49
かけであの時のような、なんらの建設とか改革への展望もない、ただ破壊し暴発
するだけのアナーキーな暴徒と化する、ということもあり得るのだ、ということ
に 尽 き る )。 そ し て そ れ は 、( 自 分 み ず か ら 、 こ の さ さ や か な 人 生 の な か で 遭 遇 し
目 撃 し た )( 幼 少 年 期 の )「 戦 後 体 験 ( ! )」、 ソ 連 邦 崩 壊 = 東 西 冷 戦 の 終 結 、 9 .
11、3.11――等々の、国内外の歴史的大事件と比べると、いささか大学と
いう、甘やかされた「特殊 社会」(!)の中の、コップの中の嵐のごとき(しかも
全く意味不明の)小事件かもしれないが、いずれにしろ、これら大・小の事件と
りまぜて、自分自身が生きた時代を、批判的主体的に総括しておくこと、そして
また、残り少ないこれからの我人生のなかで、(本「学舎」の子供達をふくめた未
来世代に、可能なかぎり)、それを歴史の目撃者として語り、(「自分史」などの形
で)記録として後世に伝える義務を感じてもいるし、本 NPO の立ち上げへとこの
老体を突き動かしているものの一部には、そうした小生なりに目撃してきた「歴
史」への漠然たる思いのようなものがあるように思われるのである;
**「高志」vs 社会的価値序列・学歴・学閥 :
・悪いのは学生さんだけでないーー上記の「大志の終焉」的状況をめぐっては、こ
こで学生さんだけを責めるわけにはいかないということ、なによりも大学にくる
までに(上記ママゴンや学校教師等を通じて)そうした社会的価値序列にがんじ
がらめにされ、安全な平均的コースを(それこそ平凡に)生きて行くことすら、
こ の 競 争 社 会 で は 容 易 な こ と で は な く な っ て い て 、お の ず か ら「 無 気 力・無 感 動 ・
無思想」の三無主義に流されるほかなくなっている;そうした中で学生さんに一
方的に「大志」をもてと煽るのも酷な話ではあって、すくなくとも、みずから「高
志」を堅持追及することが、ときに孤立のきびしさに耐え、世間的幸福すら犠牲
にすることもあるのだということへの、きびしい自覚をもってこそ、他人にもそ
れをすすめることができるのだーーということ、――これはなによりも自戒をこ
めて!
・ と く に 、 諸 悪 の 根 源 と し て の 社 会 的 価 値 序 列 ( と く に 今 な お 、 学 歴 偏 重 の 世 情 の
弊害について)――「自由・平等」等のスローガンもと、身分制の否定のうえに
成立したはずの近代民主主義社会において今日なお、依然として社会(意識)の
さ ま ざ ま な 場 ・ 局 面 で 残 り 、( 拡 大 ) 再 生 産 さ れ る ( 上 記 )「 世 間 の 作 り 出 し た 権
威や価値序列」なる「共同幻想」、およ び そ の 帰結 と して の現実的格差の存在・固
定化、そのなかでもとくに、児童をとりまく、そうした「社会環境」の最たるも
のが、
(大学・高校どころか、保育園・小中をも巻き込む)学校の序列化、それを
前 提 と し た 各 種 教 育 ・ 指 導 体 制 、 そ し て 進 学 塾 の 低 年 齢 化 ・「 普 遍 化 」( い ま や 駅
前一等地を我が物顔に独占するのは、かつての消費者ローンに代わって、予備校・
進学塾・学習塾の立派な建物・看板!)という、すくなくとも、そうした「塾」
50
などというものとはまったく無縁な戦後の漁村の少年時代をすごした小生の目か
らみれば、ほとんど狂気としか見えない状況、そのような現実状況が意識の平面
に結果として生み出す、一方では、序列上位のバスに乗ることのできた者の、
「何
様のお子様」的意識(ないし「指定席」的現実)、故なき野郎自大的優越感、他方、
乗りそこなったものの劣等感・卑屈感・挫折感という、個人の精神・心理・倫理
レベルでそれをねじまげさせる負の連鎖(つまり、それが個人レベルでは、その
いずれの側の人間をもスポイルするものであるか、小生はそのマイナスの光景を
あまりにも多く見てきた感じがするーーそれだけにそうでない「風」を敏感に感
じ易いのかもしれない)、そしてその結果としての社会・国家総体としての活性化
流動化の衰退(その結果としての、全体としての知力・品格の劣化・低下)など、
小生自身のこれまでの人生経験のなかでも、身近にすくなからず見聞きし、自ら
嫌な思いをし、憤慨し心を痛めることが多かったのも事実であるーー小生は大学
社会だけで生きてきたので大学の中のことしか分からないが、学歴・学閥・師弟
関係など、
「虎の威を借る狐」の類の、直接見聞きし経験し た事例には事欠かない
し、思い出す度に厭な思いにさせられることも多い。自分が T 大で銀時計組であ
ったことをひけらかし、おまえら H 大生はバカばっかりだと、帝国主義者さなが
ら の 言 辞 を 講 義 で 平 気 で 弄 す る 御 仁 、 小 生 の 出 身 大 学 = TH 大 学 だ と 分 か っ て 、
自分の出身校たる某有名進学校から TH 大学に進学するのはバカばっかりだと面
と向かって小生に言い放った某「市民派」教授などなど――あらためて、人間と
は 、「 人 の 上 に 人 を つ く り 、 人 の 下 に 人 を つ く っ て 、 よ ろ こ ぶ 」 と い う 、( 福 沢 諭
吉が明治維新に期待したのとは真逆の)差別と格差の精神構造をもって本能とす
る仕方のない動物なのだーーと、さも訳知り顔に、諦め悟りたくなるのも正直な
ところであるが、しかしまた、次々と生まれ成長していく多くの若い世代を前に
して、やはりわれわれ(やがて消え行くであろう)老兵がなすべきことは、すく
なくとも、その現実を少しでもいい方向に変えるためのささやかな一歩をふみだ
すこと、――それがまた、本「高志」学舎設立に向けての理念的精神の根底にあ
るもの(の少なくとも要素的部分)としてある(そして社会全体としてもたしか
に、上記のような負の状況は、戦前社会との比較ではいうまでもなく、戦後もと
くに90年代以降の「実力主義」的風潮のもと、
「良い大学」を出たからとか、そ
もそも「大学を出たから」という肩書きだけでは通用しなくなり、どこの大学、
どの段階の学校を出たかではなく、実際に社会に出たとき、如何なる志をもち、
何をめざし、どんな仕事をするかで、人を評価するようになってきていること、
また何よりも、現役を退いてからは、どのようなライフワークを目指して、どれ
だけ精神的充実感をもって最後の余生を遅れるかこそが大事であると考える人々
もふえ、それゆえ大学等をめぐる社会状況もかなり改善されつつあり、とくに大
学・高等教育研究の劣化にたいする憂慮の念から、従来の受験技術的知識偏重に
51
代る学生選抜方法も模索されるなど、
「進学塾」など無化する方向での、ある程度
の状況改善の兆しもみえなくはないーー、など、われわれの目指すものにとって
順風ともいえる「風」がある程度は吹き始めているように思われるのも、事実で
あるが、すくなくとも、大学間格差・序列意識の存在、それを前提とした進学競
争、その下での親心にタカる受験産業、そのなかで子供の頃からその進学競争の
レースに落ちこぼれない様に負けないようにと鞭打たれる子ども達ーーという、
散々言われてきたこの国の教育をめぐる諸悪の根源は、依然として断ち切れずに
いるというのも他方の事実であり、それだけに人生の真の幸福は、決してそうし
た競争の勝者になることによっては達成されないのだという、別の選択の道を本
NP0も指し示そうとするものであるが、はたして世間の大人はこの理想にどこま
で従いて来てくれることやらーー。
・
「柳川範之氏の
40 歳定年説」― ― ち な み に 、 本 ・ NPO の 立 ち 上 げ の 決 意
を固めつつあった、2012年8月、朝日新聞「旬の人、時の人」欄で、柳川範之
(1963年生まれ、49歳 )という、(昨年、上記 「価値序列」の頂点に世上位
置づけられている大学の教授となられ、小生もそれ以前に彼のゲーム論的契約理論
という興味深い研究発表を北大の研究会で聞いたこともある)方の履歴とそのユニ
ークな「提案」が紹介されていて、それは、小生の本構想にとっても一服の清涼剤
として吹いてきた風のごとくであったので、簡単に要約して紹介するとーーかれは、
10代後半は銀行マンの父親の赴任先だったブラジルで過ごし 、学校には入らず、
小学生とサッカーをして過ごす日々。独学の末、大学入学資格検定(大検)に合格、
慶大の通信課程で経済学の面白さに目覚め た。93年、東大大学院博士課程修了、
博士号取得。2011年から東大大学院教授;国の長期ビジョン『フロンテア構想』
に盛り込まれた「40歳定年」の発案者。「国も企業も模範解答のない難題に直面
しているのが今の時代。多様な働き方、生き方を認める社会にしなければ、国も個
人も強くなり、輝くことはできない」 とか、「――レールに縛られて力を発揮でき
ない人が多いのは不幸なことだと感じている」 等の発言には全く同感――そして、
「40 歳」定年というのは極端でも、すくなくとも 50 歳くらいで第二の人生を選
択・設計できる、そのようなライフコースにおける選択の自由が広がることは、個
人にとっても社会にとっても、大いに活性化の源泉となりうるように思う。小生じ
しんも、定年後思い切って研究の幅を広げてみて、あらためて「(経済的余裕さえ
あったら)あと 10 年はやく、こういう自由な研究がしたかったのにーー」と、残
された時間の希少性を思いつつ、痛感したのことであった。
・ 「叙勲制度」所感― ―後日、本 HP[便り]の「特集」で取り上げる予定の「平等」
論で 引用の予定であり、ここでは省略。
52
(2-2)人それぞれの適性に合った「高志」、
「普通の生活者」としての
「高志」=生きがいを感じられるライフワークの追求を:
1.総理大臣になる夢をもっていた小生の少年時代――その後、その夢を捨てたこ
と:その言い訳少々:
前 項 に の べ た よ う な 今 頃 の 学 生・若 者 た ち 一 般 の「 普 通 の 生 活 者 」指 向 =「 大
志の終焉」的状況を、どう考えるべきか、すくなくとも単に、悲憤慷慨するだけ
でよいのか?
――翻って考えれば、この小生自身してからがそもそも、なによりもその能力
と性格からいって、とても上記のような政治的リーダーにはなれなかった、とい
うのが正直なところであり*、すくなくとも政治とか経済・経営の世界でのリー
ダ ー に な る 夢 、な い し 、そ の た め の 熾 烈 な 競 争 レ ー ス・コ ー ス か ら は 、
(その資格
も意欲もなく、その機会にも恵まれず)人生の早い段階で早々とあきらめ、降り
てしまった人間であり、その意味でもそもそも自分は、若い人にむかって「高志
あるリーダーたれ」とお説教を垂れる資格があるのか、省みて忸怩たる思いがな
いわけではない。
* 「 総理大臣になりたかった小生 ― ― 少 6 の と き の 授 業 参 観 日 の と き の 、 文 字
通 り の 「 大 言 壮 語 」 と 、 そ の 後 の 人 生 コ ー ス ― ― こ の 日 小 生 は 、「 将 来 大 人 に な っ
た ら 何 に な る か 」 と い う 担 任 の S 先 生 の 質 問 に 、 真 っ 先 に 手 を 挙 げ て 、「 日 本 の 総
理大臣になってこの国をよくしたい」と答え、先生に「クニヒコは大きく出たなー」
と例の温顔でニコニコしていた(少年の小生をしてそう言わしめたものはーー、吉
田松陰伝の影響?あるいは、オヤジがときどきもらす政治論の影響か?はたまた、
我が家の貧しさとか、狭い町の中でも存在した貧富の格差への、子供なりの、現状
への憤懣の発露?)ーーその場で聞いていた母チヤは「あんな 偉そうなことをよく
もまあ平気でーー」という趣旨の、例によって内心で思っていることとは裏腹のこ
とを、誰に言うともなくつぶやいていたことを 記憶している。
――とはいえ、小生は小学校の時代から「博士」とか「学者」とかと綽名されてい
て、一人で静かに本を読んでいるのが何よりも好きなタイプの子どもであったし、
(二年の回り道の末に)東北 大学・法学部に入ったときも、一年生のころから、
(弁
護士として弱いものの味方になろうとして、わざわざ二年の回り道をして入ったこ
ともあり、また何よりも大学から企業または公務員等への・エスカレーター式の安
全 コ ー ス と い う 周 囲 の 雰 囲 気 に い さ さ か 嫌 気 が さ し て い た こ と も あ り )「 ど ん な 形
であれ、組織の歯車になるような就職だけはすまい、反骨精神の固まりのような小
生、どうせ上役と喧嘩して、組織を、おん出るか、おん出されるか、のどちらかの
結末になるのが関の山」――と、人生設計を立てていたほどで、その後上記・弁護
士のコースもこれまたあまり小生の性にはあってなさそうだ、ということで、結局、
研究者のコースに落ち着いた、という次第であるーーそして、今振り返ってみても、
53
その職業選択は間違っていなかったと思うし、正直のところ、自分が人生をやり直
す、あるいは、生まれ変わって何をやるか、と問われれば、やはり研究者(または、
できるものなら、もっと自由な立場の文筆 業)の道と答えるであろう。
― ― と も あ れ 以 上 の よ う な 次 第 で 、( 組 織 と か 集 団 と の お 付 き 合 い ・ 駆 け 引 き ・
妥協等が不可避の、それゆえ、言いたくないことも言わざるを得ず、言いたいこと
も言えないこともある)政治家には向いていなかったーーだから、総理大臣にも結
局ならずに終わりそうで、上記・授業参観の日の大言壮語は実らず!ちなみにわが
オヤジはなぜかときどき、町の政治の話しのついでに「だれそれさんは、如何なが
ら 学 者 だ っ た 、 ず ー ( だ っ た そ う だ 、 と い う 意 味 の ま さ に ズ ー ズ ー 弁 )」 と い う こ
と が あ っ て 、 要 す る に 能 力 の あ る 人 な ん だ け ど 、「 学 者 」 的 で 生 真 面 目 す ぎ て 融 通
が利かず政治家むきではない、という趣旨のことを残念そうにいうことがあって、
なんとなく、小生のことを言われているような気がしたものであった。なおまた、
小生が総理大臣になるのを諦めた原因に関する別の説によれば、すでに郷里の山田
町出身の鈴木善幸さん(町ではゼンコーさんといって神様扱い!)が小生30代の
ころすでに総理大臣になっていて、同じ町から二人も総理大臣が出るというのは日
本国民にたいして申し訳ないではないかなどと考え、岩手県人らしく謙譲の美徳を
発揮して遠慮したからではないか、との 説もあるが、これは全くの冗談かスジのわ
るい俗説か?)。
2 .「 高 志 」の 向 か う 方 向 性 は 、人 そ れ ぞ れ の 適 性 に お う じ て 、い ろ い ろ で あ っ て よ
いーーとくに「普通の生活者」としての「高志」=「生きがいを感じることので
きるライフワーク」の重要性:
上記のような小生の個人的な例を持ち出すまでもなく、人それぞれの適性とい
う も の が あ り 、 而 し て そ の 適 性 に あ っ た 「 高 志 」 を 、「 普 通 の 生 活 者 」 と し て も 、
それぞれの個個の人生において「生きがい」を感じることのできる(そしてそれ
こそが幸福感の源泉ともいえる)
「 ラ イ フ・ワ ー ク 」と い う 具 体 的 な 形 で 、発 見 し 、
堅持し、追求していくことの重要性を、あらためて強調したいと思うし、現にこ
の国のいたるところ(地域・場)で、そうした生きがいをもつゆえにこそ輝いて
生きている人が、決してすくなくないこと(そしてそれこそがこの国の社会の幸
福の総量を規定するであろうこと)も事実である。
つ ま り 、現 代 社 会 に お い て は 圧 倒 的 に 大 多 数 の「 普 通 の 人 々 」は 、自 ら の 糊 口
を 塗 す る た め に も 、ま た 家 族 を 養 っ て い く た め に 、要 す る に「 食 べ て 生 き て 」い
く た め に 、し か も 多 く は 、労 働 者・サ ラ リ ー マ ン と し て 雇 用 さ れ て 働 く わ け で あ
り 、仕 事・職 業 と 趣 味・ラ イ フ ワ ー ク 等 と は 全 く 別 の も の と い う 方 が 一 般 的 で あ
っ て( そ れ ゆ え 、定 年 = 年 金 生 活 の 自 由 な 生 活 が 、待 ち 遠 し い と い う サ ラ リ ー マ
ン が 圧 倒 的 に 多 く )、 自 ら に と っ て の 「 生 き が い 」 と し て そ れ に 全 力 投 球 で き る
54
ライフワークと生活の糧のための仕事とが完全一致する(俗な言い方をすれば
「 メ シ の 種 = 仕 事 」が そ の ま ま 、生 き が い で も あ る )と い う 幸 運 に 恵 ま れ て い る
人は、一部の芸術家・タレントとか独立自営的職業人とか事業経営者、そして、
ごく一部の「組織人間」のみ、ということになりそうで、そのような意味では
( も ? )、上 記 の よ う な「 リー ダ ー 論 」な ど 、大 多 数 の「 普 通 の 人 々 」に と っ て 、
現実離れしたエリート的理想論と感じられるかもしれない。
そ し て そ も そ も 、人 の 能 力・意 欲・個 性・適 性・生 き が い 感、さ ら に は そ の 置
か れ た 立 場 ・ 環 境 な ど は 、( 小 生 の 例 も ふ く め て ) 人 さ ま ざ ま で あ る 以 上 、 す べ
て の 人 が す べ て 一 律 の「 リ ー ダ ー・コ ー ス 」を 目 指 す べ き だ 、と い う の も 、そ れ
じたい無理無体なはなしである。
― ― た だ 、普 通 の 生 活 者 と し て の 人 生 を 選 択 す る と し て も 、ま さ に「 た っ た 一
度 の 人 生 」で あ り 、そ の 人 生 を「 メ シ 」の た め だ け に 齷 齪 と 働 い て 終 え る ー ー と い
う の も 、 こ れ ま た ま さ に 「 も っ た い な い 」「 さ び し い ハ ナ シ 」 で あ っ て 、 む し ろ 、
人 は ど の よ う な「 生 き が い と し 、夢 の あ る 、ラ イ フ ワ ー ク 」を も ち 、そ れ を( 可 能
な か ぎ り ) ど こ ま で 追 求 し つ づ け て い く か 、 で 、そ の 人 の 人 生 の 豊 か さ が 決 ま る 、
と さ え 言 え る よ う に 思 う 。 そ し て そ の 「 人 生 の 豊 か さ 」 な る も の も 、( よ く 言 わ れ
る よ う に 、そ し て な に よ り も 、こ の 小 生 自 身 、こ の 歳 ま で 生 き て き て 改 め て 実 感 す
る こ と で あ る が )決 し て モ ノ や カ ネ だ け の 豊 か さ に よ っ て で は な く 、な に よ り も 精
神 的 充 実 感 と か「 心 の 豊 か さ 」を 感 じ る 人 生 か ど う か 、ど の よ う な「 生 き が い = ラ
イ フ ワ ー ク 」を も つ か ど う か 、に よ っ て 、大 き く 左 右 さ れ る の だ と 思 う( 長 年 組 織
の な か で 人 生 の 大 半 の 時 間 を 使 い 果 た し 、そ し て 定 年 を む か え 、高 齢 者 の 仲 間 入 り
を し て 、人 生 の 暮 れ 方 を 迎 え た と き 、人 は 誰 し も 、そ の こ と を 実 感 す る の で は な い
か )。
ち な み に 、小 生 は 現 役 の 教 官 時 代( と い っ て も 、と く に 定 年 近 く な っ て 、自 分 自
身 が そ の 定 年 後 の 人 生 を 真 剣 に 考 え ざ る を 得 な く な っ た 段 階 で で あ る が )、 ゼ ミ 生
で 就 職 し て い く 学 生 へ の 激 励 の こ と ば と し て 、「 で き れ ば 自 分 の 仕 事 以 外 に 、 な に
か 一 つ で も( 単 な る 趣 味 と い う よ り も 、み ず か ら の 生 き が い そ の も の で あ る よ う な 、
あ る い は 自 分 が 真 に 生 き た と い う 人 生 の 証 し の よ う な 、そ れ ゆ え に ま た 全 身 全 霊 を
も っ て 全 力 投 球 で き る よ う な 、な に か )ラ イ フ ワ ー ク の よ う な も の を も っ た 方 が よ
い 」 と 、 勧 め て き た 。 そ れ は つ ま り 、 た っ た 一 回 き り の 人 生 を 、「 オ マ ン マ の た め
の 仕 事 」に だ け 捧 げ る と い う「 仕 事 人 間・組 織 人 間 」は( 仕 事 や 組 織 だ け が 生 き が
い と い う 例 外 的 な 人 も い る だ ろ う け ど )い か に も 寂 し い 話 し だ し 、な に よ り も 定 年
後の人生を考えてライフワークのある人生設計を早くからしておいた方がいいよ、
という趣旨のことであった。
3 .「 生 き が い を 感 じ る こ と の で き る ラ イ フ ワ ー ク 」発 見・充 実 の た め の 基 礎 作 り へ
55
のお手伝いとしての本プロジェクト:
而 し て ま た 、 い う ま で も な く 、 何 に 「 生 き が い 」 を 見 出 す か 、 と い う こ と も ま
た、人さまざまであり、また、その「ライフワーク」発見・実現の方法・道すじ
*等も、さまざまな形がありうるであろう。
た だ 、 す く な く と も わ れ わ れ は 、 こ こ で も ま た 、 上 記 「 高 志 」 = 原 点 を 指 向 し
た「 生 き が い 」な り「 ラ イ フ ワ ー ク 」こ そ が 、( マ ス コ ミ や 市 場 の 作 り 出 す あ れ こ
れの大衆社会的アブク的流行に流されず、組織とか企業の論理に押しつぶされな
いための、そのような意味で真に自由な生き方の指針として、また、単に受身で
消費し観戦し鑑賞するだけではなく、何か後世に遺す価値あるものを自ら作り出
すための原点として)目指すべき真のものであり、而してまた、その志が高けれ
ば 高 い だ け 、そ の 前 に た ち は だ か る カ ベ は 高 く 大 き い と 思 わ れ る し 、「 何 が 生 涯 か
け て 追 求 す る に 値 す る ラ イ フ ワ ー ク な の か 」、と い う い わ ば「 生 き が い = ラ イ フ ワ
ー ク の 発 見 」も 、( 人 生 の 節 々 で 誰 し も が 遭 遇 す る も ろ も ろ の「 選 択 」と 同 様 )そ
れ相応の良き指導・助言があった方がベターであることも、我々自身の経験から
も痛感するところであり、そうであるだけにまた、みずからそのライフワークを
具現化するのに必要な広く深い基礎づくりのためにも、子供の頃からの、古典学
習等の系統的で意識的計画的な学習支援が有益であるように思われる。われわれ
が本プロジェクトにおいて、上記リーダー養成のためのお手伝いという目標以外
に 、こ の「 生 き が い = ラ イ フ ワ ー ク 」の い わ ば 構 築 準 備 の た め の お 手 伝 い と い う 、
第三の目標を掲げる趣旨も、以上のような点に存するといえよう。
*よく知られているように、トロイの遺跡発掘という少年時代の夢を懐きつづけ、
商売でお金を貯めて、50歳代になってはじめて その実現にむけて活動を開始し、
ついにその夢を果たした、あのシュリーマンのように、人生の前半生はライフワ
ークのための資金稼ぎで、後半はその実現に邁進するという自由な人生設計もあ
ってよく、あるいはまた、メシの種としての仕事と「いきがい=ライフワーク」
とを同時に並行してうまくこなすーーそうした生き方もふくめ、要するにライフ
ワークをもった人生設計こそ、いたずらにだらだらと仕事や組織にしがみつくよ
うな生き方にくらべ、よほど「高志」ある生き方だと思う。
(3)以上 ( 厳 密 に は や や 異 な る 意 味 合 い の ・ 上 記 三 つ の ) の支援目標全体に
共通・通底するものーー支援目標論の総括を兼ねて:
(3-1)支援目標全体に通底するものとしての理念・基本的方向性=「高
志」
・狭義・広義双方の意味でのリーダー養成のための基盤つくり、ないし「普通の
生活者としての生きがい=ライフワーク」構築準備という、三つの「コース」
に応用しうる、そのような意味で応用範囲の広い学習支援活動
56
――以上のように、本プロジェクトが具体的にその活動目標として設定する
ものは、狭義ないし広義のリーダー養成へのお手伝い、ないし「生きがい=ラ
イフワーク」構築準備へのお手伝いという、いささか幅広い目標設定となって
おり、その分、全体として総花的であるとの批判・懸念が出てくるかもしれな
い。
し か し 、そ も そ も 将 来 の 人 生 設 計 ・進 路 ・志 向 な ど は 、人 の 成 長 過 程 で 変 わ
りうるものであり、また遺児だけに限定しても、その適性・志望等は10人い
れば10の異なる適性・志望等がありうることも、屡述の説明の要をみないで
あろう。そのような多様なニーズにたいし可能な限りのコース・メニュウを用
意しておくことは当然のことであろうーーただ、本プロジェクトは、われわれ
の主体的力量の限界もあって、上記目標に対応する形での三つのコースを設定
しているわけではない。ただ、各学級マックス12人という少人数ゆえに可能
な、一人ひとりの適性・志望等を考慮にいれつつの、肌理細かで柔軟な指導を
心がける、という形で、それらの多様なニーズに応えるよう努力する所存であ
り、また、その提供しようとする学習支援活動の内容も、基本的には、今後、
各学生が上記いずれの人生・職業上の「コース」を選択することとなっても、
そ の 共 通 基 盤 と な り う る ( と 我 々 が 考 え る )、 か つ 平 均 以 上 に 幅 広 く 底 の 深 い 、
「古典力」
「 語 学 力 」お よ び「 総 合 的 教 養 力 」の 三 つ の 柱 を 中 核 と す る 知 的 基 礎
を、9年間に亘って系統的継続的に、提供しようとするもので、そこでの提供
内容も、いわゆる「つぶしが利く」という意味での応用・適応範囲のひろい、
真の「基礎・土台」となりうるものを心がけて行く所存である。
・ そ れ ら に 共 通 す る 理 念 と し て の 「 2 1 世 紀 型 高 志 」 と そ の 総 括 的 要 点 :
― ― の み な ら ず ま た 、政 治 等 の「 組 織 の リ ー ダ ー 」で あ れ 、文 化 的 領 域 に お け
る「 心 の リ ー ダ ー 」で あ れ 、さ ら に は 、普 通 の 生 活 者 と し て の「 生 き が い = ラ イ
フ ワ ー ク 」あ る 人 生 で あ れ 、わ れ わ れ が 、そ の た め の お 手 伝 い と し て の 学 習 支 援
に お い て 目 指 す も の は 、 と も に す べ て 、「 高 志 」 に 支 え ら れ た 、 し か も 「 2 1 世
紀 型 」の 、そ れ で あ っ て 、そ こ に ま た 、わ れ わ れ が ど の よ う な 人 間 像 を「 期 待 さ
れ る 人 間 像 」 と し て 学 生 た ち の 人 間 形 成 ・成 長 の た め の お 手 伝 い を し よ う と し て
い る の か 、と い う 、わ れ わ れ 自 身 の 教 育 理 念・教 育 哲 学 が 、そ れ ら 三 つ の も の に
共 通 の 理 念・哲 学 と し て 存 す る 。と 同 時 に ま た 、そ こ に は 現 代 日 本 に お け る 、
「知
と 教 育 」の 現 状 、そ の 基 本 的 な枠 組 み・方 向 性 と い っ た も の へ の 、我 々 自 身 の 問
題意識ないし批判的認識・評価といったものも存する。
そ れ ら( つ ま り 、も っ と も 抽 象 的 に は 、わ れ わ れ の い わ ゆ る「 高 志 」と か「 2
1世紀型」等の意味するもの)についてのある程度具体的な内容は、上記三つ
の目標それぞれの項目において、散発的な形であれ、言及してきたところであ
り、また、後に、われわれが企画している学習支援の個別の内容を説明する際
57
にも、さらにやや詳しく述べることになるが、ここでおもいつくままに、やや
総括的かつ箇条書き的に、その基本的スタンスの要点を列記しておきたい:
1 。 つ ね に 未 来 志 向 の 観 点 か ら 、 原 理 的 に 過 去 と 現 状 を 批 判 し 乗 り 越 え 、 か
つ具体的な政策・制度設計を提言し実現しようとするスタンス;
2 . 或 る 分 野 に つ い て の 深 い 専 門 的 知 性 と 同 時 に 、 つ ね に ( 浅 く と も ) 広 い
教養、豊かな感性を志向するスタンス;そのような意味での、専門のカベ
を 乗 り 超 え る 総 合 力 を 志 向 し 、と く に 文 ― 理 の カ ベ を 乗 り 越 え る ス タ ン ス;
3 . 語 学 的 ス キ ル ( と く に 国 際 的 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 能 力 ) を 基 盤 と す る 豊
かな国際性を志向するスタンス;
4 。 多 様 な 他 の 民 族 的 民 俗 的 文 化 の 伝 統 ・ 歴 史 を 理 解 し 尊 重 し 、 同 時 に ま た
自国・自民族の伝統・歴史への深い理解と発信力をたかめようとするスタ
ンス;
5 。中 央 の 視 点 と 同 時 に 、「 周 辺・周 縁 」へ の 視 点 を 忘 れ ぬ 複 眼 的 志 向 を も つ
スタンス;
6 . 西 洋 文 明 中 心 の 視 点 ・ 枠 組 み を 乗 り 越 え て 、 広 い 人 類 史 的 文 明 論 的 視 点
を志向するスタンス;
7 . 古 典 等 の 正 統 的 文 化 ・ 学 問 の 蓄 積 を 謙 虚 に 学 ぶ こ と を 通 し て 、 知 的 忍 耐
力をもって、たしかな立脚点を築くとともに、それを乗り越え、またとく
に、マスメデアとか既成の「世論」とか権威によって作り出される騒音・
虚像に振り回されることなく、何が真で、何が善で、何が美かを、惰性的
思考停止に陥ることなく、常に批判的主体的かつ創造的に考え創造しよう
とするスタンス;
8 . 自 然 の 一 員 と し て の 人 間 と い う 自 覚 に た ち 、 普 通 の 市 民 と し て の 生 活 感
覚をわすれることなく、とくに豊かな感性を絶えず磨くことに努めるスタ
ンス。
(3-2)(上記のような理念・目標をもつ学習支援を、差当り)とくに
「震災遺児」ないし「離島在住児童」を対象にして行おうとすること、
の、その意義(再論)、方向性、およびその限界*:
* 省 略( な お 、と く に な ぜ「 離 島 ― ― 」を 対 象 と す る の か に つ い て は 、わ れ
われの「辺境」ないし「中央―地方」等についての考え方が、その基礎・
背 景 に あ り 、 而 し て 後 者 に つ い て の 一 般 論 は 、 別 途 、 本 HP[便 り ]に 連 載
中 の「 新 疆 ツ ア ー 紀 行 文 」に て 、近 日 中 に や や 立 ち 入 っ て 採 り 上 げ る 予 定
である)
58
【Ⅰ―3】如何なる具体的内容の支援を?*
* 以 下 【 Ⅱ 】 [プ ロ ジ ェ ク ト Ⅱ ]ま で 省 略 。 た だ し 、 と く に 、 上 記 ( 震 災 遺 児
ないし離島在住児童を中心とする学習環境困難児童を対象とする)[プロ
ジェクトⅠ]における支援内容の主な柱は、要するに、古典読書の・一貫
し た 方 針 の も と で の・長 期 に わ た る 支 援 、と い う こ と に あ り 、而 し て 、こ
の・古典読書の重要性等についてのわれわれの基本的考え方に関しては、
別 途 、本 HP[便 り ]の「 特 集:読 書 を め ぐ る 理 想 と 現 実( 仮 題 )」に て 、引
用 の う え 、 再 論 し た い と 考 え て い る 。 【Ⅲ】〔プロジェクトⅢ〕 未来世代のための社会的提言活動・関連プ
ロジェクト:
本 NPO が 展 開 し よ う と す る 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト の う ち の 第 三 の 柱 と し て わ れ
わ れ は 、 標 記 の よ う な 「 未 来 世 代 の た め の 社 会 的 提 言 活 動 関 連 プ ロ ジ ェ ク ト 」、
す な わ ち 、未 来 世 代 に 直 接・間 接 に 関 連 す る 社 会 的 諸 問 題( と く に 、そ れ に 関 す
る 政 策 論 ・ 制 度 論 ・ 立 法 論 等 ) に つ き 、( 可 能 な 限 り ) 未 来 世 代 の 立 場 、 し た が
っ て ま た 可 及 的 に 長 期 的 か つ グ ロ ー バ ル な 視 点 に 立 っ て 、制 度・立 法 等 の( 可 及
的に具体的な)提言等を行うという意味での社会的アクション、そしてさらに、
そ の た め の 基 礎 的 情 報 収 集・調 査 、基 礎 的 研 究 等 の 諸 活 動 、を 展 開 し た い と 考 え
て い る 。そ の 当 面 の 課 題 と し て や や 具 体 的 に わ れ わ れ は 、下 記 の よ う に 、親 子 関
係 関 連 家 族 法 制 改 革 提 言 活 動( Ⅲ ― A)、お よ び 、
(親子関係関連法制以外の領域・
分 野 で の )児 童( な い し 未 来 世 代 )福 祉・権 利 関 連 社 会 的 提 言 活 動( Ⅲ ― B)の 、
二 つ の プ ロ ジ ェ ク ト と 取 り 組 み た い 。そ れ ら 二 プ ロ ジ ェ ク ト の 基 本 的 内 容【 Ⅲ ―
1 】、 そ の 趣 旨 ・ 目 的 【 Ⅲ ― 2 】、 そ の 具 体 的 方 法 ・ 工 程 等 【 Ⅲ ― 3 】、 は 下 記 の
とおりである*:
【Ⅲ―1】基本的内容:
〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅲ ― A〕親 子 関 係 関 連 家 族法 制 改 革 提 言 と そ の た め の 情 報 収 集・研 究
活動:
こ れ は 要 す る に 、子 供 の 福 祉・権 利 の 観 点 か ら 直 接・間 接 に 問 題 に な る と 思 わ
れ る 、現 行 親 子 法・家 族 法( 改 正 )に 関 連 す る 諸 問 題( 親 子 関 係 確 定 法 制 、親 権 、
養 子 制 度 、 関 連 相 続 法 制 等 )、 お よ び 、 同 様 の 観 点 か ら の 生 殖 補 助 医 療 な い し 生
殖 関 連 生 命 科 学・技 術 に 関 連 す る 諸 問 題 に つ い て の 、問 題 発 見・整 序 、そ の た め
の 調 査・分 析 、関 連 す る 学 際 的 基 礎 的 研 究 、そ し て さ ら に 、そ の 基 礎 的 作 業 を 踏
ま え て の 、具 体 的 政 策・制 度 設 計・立 法 提 言 を 目 標・課 題 と す る プ ロ ジ ェ ク ト で
ある。
59
〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅲ ― B〕( A 以 外 の 論 点・分 野 で の )児 童( な い し 未 来 世 代 一 般 )に
かんする福祉・権利関連社会的提言とそのための情報収集・研究活動
こ れ は 、上 記 親 子 関 係 法 制 以 外 の 児 童 の 福 祉・権 利 等 の 児 童・未 来 世 代 を め
ぐ る 関 連 法 制 な い し 社 会 的 諸 問 題 に つ き 、差 当 り と く に 、国 連・児 童 権 利 条 約 関
連 の 問 題 点 に つ き 、国 内 外 の 児 童・未 来 世 代 を め ぐ る 情 報 収 集・分 析・提 言 、な
い し 関 連 テ ー マ に つ い て の 基 礎 的 研 究 を 、 国 内 外 の 関 連 NPO-NGO と 連 携 を と
りつつ、遂行しようとするものである。
【Ⅲ―2】趣旨・目的:
(1)序 ― ― ( と く に 上 記 〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ ( な い し Ⅱ )〕 と の 関 係 で の ) 本 プ ロ
ジェクトの位置づけ・意義について:
・上 記〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ な い し Ⅱ 〕に お い て わ れ わ れ は 、被 災 遺 児 を は じ め と す
る 全 国 規 模 で の( Ⅰ )、ま た さ ら に 付 近 地 域 で の( Ⅱ )、恵 ま れ な い 立 場 の 子 ど
も・児 童 の 学 習 支 援 と い う 、実 践 的 活 動 を 展 開 し よ う と す る も の で あ る が 、し
か し 、い う ま で も な く 、児 童・こ ど も・未 来 世 代 の 置 か れ た 問 題 状 況 は 、親 ・
家 庭 の 格 差 に よ る 学 習 機 会 の 不 平 等 と い う こ と に 尽 き る わ け で は な く 、そ れ 以
外 に も 本 来 的 弱 者 と し て の 子 ど も・児 童 を め ぐ っ て 解 決 さ れ 克 服 さ れ る べ き 社
会 的 問 題 は 国 内 外 に 山 積 し て い る こ と 既 に 言 及 し た 通 り で あ り 、ま た 社 会 的 ア
ク シ ョ ン と し て 求 め ら れ て い る こ と も 、決 し て( そ の た め の )直 接 的 実 践 活 動
だ け で は な く 、そ れ ら と 並 行 し て 、理 論 的 基 礎 的 研 究 を 踏 ま え た 関 連 制 度 等 に
つ い て の 社 会 的 提 言 活 動 も ま た 、重 要 な 課 題 と し て 要 請 さ れ て い る 、と 考 え る 。
・而してまた、いうまでもなく、児童の福祉・権利とか親子関係の問題とかは、
時 間 的 地 理 的 に も 普 遍 的 な 現 象・問 題 で あ り 、し か も 問 題 は 多 種 多 様 な 形 で 多
数 存 在 し て お り 、し た が っ て ま た そ の 解 決 の た め に は 非 常 に 広 く 長 期 的 な 展 望
で の 検 討 が 必 要 で あ り 、学 問 的 に も 広 範 な 学 際 的 研 究 、こ れ ま で の 蓄 積 に つ い
ての深い知見等が必要とされる分野であること、いうまでもない。
こ の よ う な 中 に あ っ て 、わ れ わ れ は 、本・趣 意 書・冒 頭 部 分【 0 - 1 】で や
や 詳 し く 検 討 し た よ う に 、子 ど も な い し 児 童・未 来 世 代 の お か れ た 、そ の「 本
来的弱者性」という根本的問題意識にたち、その「最善の利益」とはなにか、
そ の 最 大 限 の 実 現 の 方 途 如 何 等 の 問 に た え ず 立 ち 返 っ て 、子 ど も・児 童・未 来
世 代 を め ぐ る 、社 会 的 現 状・問 題 点 の 把 握 、関 連 す る 制 度・法 制・政 策 等 の 批
判 的 検 証 、そ の た め の 基 礎 的 理 論 的 研 究 等 を 行 い 、而 し て 可 能 な か ぎ り 、そ れ
に 代 る べ き 、 ま た は 改 善 す べ き 、 新 た な 諸 制 度 ・ 法 制 ・ 政 策 を 、( み ず か ら は
そ の 利 益・立 場 を 主 張 す る こ と が で き ず 、そ の 権 利 を 擁 護 す る こ と も で き な い )
子 ど も・児 童・未 来 世 代 に 代 わ っ て 、主 張・擁 護 し 提 言 す る 等 の 活 動( い わ ゆ
る advocacy 活 動 )に 、可 能 な か ぎ り 長 期 的 展 望 を も っ て 、取 り 組 む 所 存 で あ
60
る 。と は い え 、な に よ り も 我 々 自 身 の 主 体 的 力 量 の 限 界 の ゆ え に 、す く な く と
も 小 生 の 世 代 で の 当 面 の 、い わ ば 本 NPO の 第 一 期 活 動 計 画 と し て は 、上 記 Ⅲ
― A( な い し B)に 課 題・目 標 を 限 定 し て 、取 り 組 ま ざ る を 得 な い 、と 考 え て
お り 、そ れ 以 外 の よ り 多 く の 課 題 と の 取 り 組 み は( 本 NPO を 引 き 継 い で い た
だけるであろう)次の世代に期待するほかない:
( 2 ) 上 記 〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅲ ― A〕 の 趣 旨 ・ 目 的 :
・このうち親子関係法制改革提言活動を第一の取り組むべき課題とする趣旨は、
(民事法関連の現行法制の根本的見直しが最も緊急かつ重要な課題分野と考
え ら れ る )家 族 法 改 正 に お い て 、そ の 中 で も も っ と も 優 先 的 序 列 を も っ て 位 置
付 け ら れ る べ き も の 、而 し て ま た 学 問 的 に も も っ と も 遅 れ て い る 研 究 分 野 、は 、
小 生 の み る と こ ろ 、( す く な く と も 、 ― ― 本 来 的 原 則 的 に は 、 私 的 自 治 に 任 せ
る べ き ー ー 婚 姻 法 そ の 他 の 家 族 関 係 法 で は 、 断 じ て 、 な く ! )( 社 会 ・ 公 共 ・
国 家 の 関 与 が 最 も 必 要 で あ り 、そ の 正 当 化 根 拠・内 容 等 の 理 論 づ け を 要 求 す る
も の と 思 わ れ る )親 子 法 の 分 野( そ し て 、そ こ で の 困 難 か つ 中 心 的 な 問 題 と し
ての「子の最善の利益」の解明)でこそある、と考えるからである。
た だ し 、 親 子 関 係 法 制 は 、 問 題 が 多 岐 に わ た り 、「 学 際 的 基 礎 的 研 究 」 が も
っ と も 要 求 さ れ る 分 野 で あ る と い え よ う 。つ ま り 、親 子 関 係 が 、動 物 か ら 人 類
に 到 る ま で の 共 通 ・ 普 遍 的 な 現 象 で あ る と 同 時 に 、「 人 類 史 」 に 限 定 し て も 、
文 明 時 代 以 前 か ら 以 後 、さ ら に は 人 種・民 族・国 境 の 差 を 越 え て ま さ に 普 遍 的
な 現 象 で あ る 以 上 、 そ れ に 関 す る 研 究 分 野 ・ 蓄 積 も 、( 小 生 自 身 が 今 ま で そ の
研 究 の 必 要 を 感 じ て い る だ け で も )動 物 行 動 学 、霊 長 類 学 、進 化 生 物 学 、遺 伝
学 、民 族 学・人 類 学 、民 俗 学 、宗 教 学 、社 会 学 、歴 史 学 、行 動 諸 科 学 、心 理 学 ・
精 神 分 析 学 、社 会 福 祉・社 会 保 障 学 、法 学・倫 理 学 等 の 、極 め て 多 岐 に 亘 る の
で あ り 、従 っ て 、上 記 の 現 代 的 現 実 的 諸 問 題 に 対 し て 何 ら か の 具 体 的 政 策 論 ・
制 度 提 言 等 を 行 お う と す る た め に は 、( グ ロ ー バ ル 化 と 医 療 ・ 生 命 科 学 の 発 展
の も と で 、 む し ろ そ れ だ け 逆 に )、 そ れ ら の 関 連 す る 諸 分 野 と の 共 同 的 ・ 学 際
的 な 研 究 、そ の 上 に 立 っ た よ り 根 源 的 理 論 的 な 検 討 、が 不 可 欠 で あ り 、少 な く
と も( 例 え ば 、従 来 か ら よ く 見 受 け ら れ る 、欧 米 先 進 国 の 論 議 や 立 法 動 向 等 を
表 面 的 翻 訳 的 に な ぞ っ た だ け の「 研 究 」と か 、お 役 所 的 提 言 、の よ う な )小 手
先 だ け の 、ま た は 狭 い 専 門 的 視 点 か ら だ け の 検 討 だ け で は 、到 底 不 十 分 不 完 全
で あ る こ と は 否 定 で き な い 。而 し て こ の 点 に 関 し て も 、す く な く と も 我 国 の 現
状 は 、基 礎 研 究・実 際 的 調 査 提 言 活 動 、双 方 の 面 で 、貧 弱 な い し 皆 無 と い っ て
も 過 言 で は な い 状 況 に あ る 。こ の こ と は 、親 権 と か 子 ど も の 権 利 に か ん す る 基
礎 的 研 究 な い し 法 制 度 改 革 の 、欧 米 先 進 国 と 比 較 し て の 決 定 的 遅 れ と い う 事 例
だ け を 考 え て も 、思 い 半 ば に 過 ぎ る も の が あ る ー ー 数 年 前 に 、こ の 国 で も 、高
齢 化 社 会 の 提 起 す る 実 際 的 問 題 に 対 処 す る 必 要 に 迫 ら れ て 、そ れ ま で 全 く と い
61
ってよいほど研究蓄積のなかった後見制度の全面的見直しーーいわゆる成年
後 見 制 度 ― ― に 際 し て も 、未 成 年 後 見 な い し 親 権 制 度 と の リ ン ケ ー ジ 等 の 問 題
も ふ く め 、よ り 総 合 的 か つ 根 源 的 な 研 究 が 必 要 で あ っ た に も 関 わ ら ず 、例 に よ
っ て 、独 仏 な い し 英 の 主 要 ヨ ウ ロ ッ パ 諸 国 の 翻 訳 的 雑 種 的 法 制 の 、倉 卒 た る 導
入 に 終 始 し た こ と の 、学 問 的 立 法 論 的 反 省 が ど れ だ け 誠 実 謙 虚 に な さ れ た と い
えるか大いに疑問なしとしない*。
* こ の 間 に あ っ て 、 昭 和 ● ● 年 民 法 改 正 に よ っ て 導 入 さ れ た 特別養子制度 は 、
例外的ともいってよいような、注目・特筆すべき改正であったといえよう。ち
なみにそれは、まさに今回の3.11東日本大震災でも大きな津波被害を受け
た石巻市での、菊田医師による堕胎拒否=「養子斡旋」という、
(当時としては、
違法な、それゆえに保険医指定取り消しという、――裁判闘争も効を奏するこ
となくーー不幸な行政処分を結果した、そのような意味でも)文字通り献身的
な行為なくしては、日の目をみることが無かったであろう。小生はかねがね家
族法の講義でこの特別養子制度にふれる際には、
(例によって、事件当初のセン
セーショナルなマスコミ報道への関心のあとには、ほとんど忘れられ掘り下げ
られることもなく放置されている感のつよい)この菊田医師・養子斡旋事件と
この事件のもつ(単に民法改正のきっかけになったということ以上の)法哲学
的運動論的な根源的な意義(とくに、産婦人科団体の偽善的な形式論的違法論
と、それを乗り越えて、生まれてくる子どもの生命を守ろうとした菊田医師の
問題提起的行為が、提起する問題)に必ず言及するようにしていたのであるが、
10 数年前仙台方面に出かける用事があった折、この石巻にまで足を伸ばし、当
時某新聞社の石巻支社で新聞記者をしていた大学同期の S 君の計らいを得て、
菊田医師を慕う何人かの市民の方に集まっていただき、菊田医師の思い出話を
語っていただき、あらためてこの事件が提起した問題を掘り下げて研究する必
要を痛感したのであった。
他 方 、 そ れ 以 前 に 養 子 制 度 の 改 正 が 当 局 に よ っ て 俎 上 に 上 せ ら れ た と き 、 私
法学会でシンポジウムが開かれた時のことは小生の記憶の片隅にあるのである
が、少なくとも成年養子制度のもつ家族制度的残滓の問題性は十分に論議され
ることなく、実際に実現した改正法も夫婦共同養子制度の問題などの実務・学
説上のテクニカルな問題の解決が主であったように思う(比較法的調査をつう
じてもわが養子制度の問題性は根本的に考え直さなくてはならなかったはずな
のにーー)。
― ― 以 上 の 個 人 的 な 記 憶 に 残 る 事 件 ・ 問 題 ・ 論 議 も ふ く め 、 わ れ わ れ が 先 ず
もって真剣に取り組むべきは、とくに親子法制論からみた戦後家族法改革とそ
の後の立法・改正動向の批判的検証であるように思われるのであって、それは
なによりも今回の3.11(およびそれ以前の神戸・淡路大震災)で生み出さ
62
れた多くの孤児・遺児が提起した問題でもあるように思われるーーたとえば、
本来、特別養子制度がこうした子どもたちのためにはもっと活用されるべきと
考えられるところ、里子制度と比較してすくなくとも量的にはあまり利用され
ていないこと、その他、震災と震災以外の原因での遺児・孤児等の制度的受け
皿としての公的社会的施設ないし養子・里子制度の制度とその運用上の問題点
を改めて批判的検証の俎上にのせて論議することが求められているように思わ
れる。それはさらにまた、子どもをとりまく(親子、家族法制以外の)社会保
障制度、児童保護制度、教育制度等への批判的検証と進まざるを得ないであろ
う。
やや具体的には、生殖補助医療における親子関係確定法制の立法論議も(法
制審議会の中途半端な試案が発表されたのち)中断したままであり、小生自身
も生命科学と倫理・法の接点で提起されている多くの問題には、現役時代も二
度の大型の科学研究費の補助を受けて取り組んできて、そのなかでとくにその
親子関係法制論上の問題について多少は論文も発表もし(例、家永登、上杉富
之編『 生殖 革 命と 親・子 』早稲田大学出版部、2008 年 中の、小生担当論稿は、
死後生殖出生子の親子関係確定をめぐる最高裁判例を素材として、小生の現行
民法・親子関係確定法制論全体への構想・視点等を展開するものである)、こう
した先端的医療・研究が逆に浮き彫りにする現行親子法制の問題点の所在と、
そのためにもその根源的研究の必要性を痛感せざるを得ないことも事実であっ
た。この点の小生自身の研究もその後他のテーマに追われて中断の余儀なきに
至っているが、2012年12月山中伸弥京都大教授・ノーベル医学生理学賞
受賞――iPS 細胞(細胞初期化のための4遺伝子=「山中 factors」発見)――
とくにそれが生殖(医療)段階で使用されたときの、ES細胞での段階とは質
的量的に異なる深刻な生命倫理的問題状況については、山中教授自身が、「髪の
毛一本で子どもができる」ような iPS 細胞応用段階での・その「光と陰」の大
きさについて語ったいたのが印象的で、あらためて未来世代の観点からの生命
倫理・科学倫理の問題に早急に取り組む必要性を感じる。
( 3 ) 上 記 〔 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅲ ― B〕 の 趣 旨 ・ 目 的 :
・児 童 福 祉・児 童 権 利 に 関 す る 実 際 的 な い し 理 論 的 な 諸 問 題 な り 課 題 が 、上 記 の
親 子 関 係 法 制 に 尽 き る も の で は な い こ と 、し か も そ れ ら が 極 め て 広 範 か つ 長 期
的 な 諸 課 題・諸 問 題 に 亘 る も の で あ る こ と 、上 述 の 通 り で あ る 。国 内 レ ベ ル だ
け で も 、教 育 体 制 問 題 、児 童 虐 待 等 育 児 上 の 諸 問 題 、い じ め 等 学 校 現 場 で の 問
題 、 児 童 ポ ル ノ の 問 題 な ど 、 メ デ ア を に ぎ わ し て お り 、、 ま た 国 外 か ら の 報 道
に い た っ て は 、も っ と 多 く の 痛 ま し い 問 題 状 況 が し ば し ば 報 道 さ れ て い る こ と 、
周 知 の 通 り で あ る 。し か も 、こ の 分 野 で も ま た 、い ま や 、国 際 的 地 球 的 な 広 が
63
り の な か で 問 題 は 発 生 し 、か つ そ の 社 会 的 背 景 は 深 く 複 雑 な 様 相 を 呈 し て い る 。
こ の よ う な 中 に あ っ て わ れ わ れ は さ し あ た り 、国 連・児 童 権 利 条 約 を は じ め
と す る 国 際 的 な レ ベ ル で の 法 制 的 到 達 点 を 一 応 の 基 準 点 と し て ふ ま え つ つ 、そ
の 観 点 か ら 、国 内 外 の 関 連 す る 社 会 的 諸 問 題 を め ぐ る 政 策・制 度・立 法 の 問 題
点 に つ き 、国 内 外 の 現 状 に つ い て の 情 報 の 収 集・分 析・提 言 、な い し 関 連 テ ー
マ に つ い て の 基 礎 的 研 究 を 、 国 内 外 の 関 連 NPO-NGO と も 連 携 を と り つ つ 、
遂行しようとするものである。
(4)上記〔プロジェクトⅢ〕全体の一般的趣旨・意義・展望:
・以 上 の よ うな 理 論 的・基 礎 的 研 究 は 、一 般 的 な 観 点 か ら も 、と く に NPO 等 の
民 間 に お け る 社 会 的 ア ク シ ョ ン が 、そ の 立 ち 上 げ ー 取 り 組 み の い ず れ の 段 階 に
おいて、ともすれば目前の個別具体的な課題の対症療法的解決に目を奪われ、
そ れ に 忙 殺 さ れ て 、し ば し ば 一 過 性 の 表 面 的 問 題 解 決 、な い し 自 己 満 足 的 ボ ラ
ン テ ア 活 動 に 終 始 す る と い う 傾 向 、す く な く と も 、そ の 個 別 問 題 の 根 底・背 景
に あ る も の と の 長 期 的 で 、し っ か り し た 理 論 的 裏 づ け・基 礎 を と も な っ た 運 動
に な り に く い と い う 傾 向 が 、多 い と い う 現 状 に お い て 、そ の 現 状 に た い す る 批
判・アンチテーゼとしても重要性をもつと考える。
ま た 、政 策・立 法・制 度 論 的 な 提 言 活 動 は 、そ れ ら 国・自 治 体 の 政 策・立 法 ・
制度論を、専門政治家とか行政だけに「お任せ」することの限界・危険性は、
と く に 我 国 で も 1 9 9 0 年 代 以 降 の 政 治 状 況 の な か で 、あ ら た め て つ よ く 認 識
さ れ る よ う に な っ た こ と で あ り 、而 し て ま た そ れ と の 関 連 に お い て も 、政 策 ・
立法提言型(それも単に社会学的統計的調査を踏まえた程度のものではなく、
より基礎理論的な検討も踏まえた提言のできる)シンクタンク、の重要性を、
小 生 は か つ て と く に 、非 営 利 法 制・組 織 の 研 究 、と く に N P O 学 会 等 へ の 参 加
を 通 じ て 痛 感 し た が 、3 .1 1 後 の 、周 知 の よ う な 社 会 的 政 治 的 混 乱 状 況 は あ
ら た め て そ の こ と を 痛 感 さ せ た よ う に 思 わ れ る 。 そ の よ う な 意 味 で 、 本 NPO
に お け る 第 三 プ ロ ジ ェ ク ト は 将 来 的 に は「 未 来 世 代 研 究 所 」と も い う べ き シ ン
クタンクとして提言活動を国内外に発信していく民間研究機関としての発展
へ の 展 望 を も っ て い る も の で あ る こ と 、こ れ ま た 、わ れ わ れ 自 身 の 一 個 の 、本
NPO 立 ち 上 げ に む け て の 「 高 志 」 と し て あ る こ と を 、 こ こ で 宣 言 し て お き た
く思う。
【Ⅲ―3】具体的方法・必要資源・工程等 ( 省 略 ):
【Ⅳ】 上 記 三 つ の プ ロ ジ ェ ク ト 活 動 全体に共通 する実際的かつ原則的な諸
事項について( 上 記 プ ロ ジ ェ ク ト 全 体 の 総 括 を 兼 ね て )( こ の 項 ・ 全 部 省 略 )
64
――――――――――――――――――――――
C´:上記「高志(学舎)」提言への・わが自分史的背景 として
あるもの:
《趣意書関連箇所全体の概略目次と抜粋箇所目次》
【Ⅴ】追記 ー ー N P O 立 ち 上 げ に 向 け て の 、 小 生 の 個 人 的 思 い ・ 自 分 史 的 背 景 :
【 Ⅴ ― 1 】は じ め に ー ー 本「 趣 意 書 」全 体 で の【 Ⅴ 】の 位 置 づ け 、そ の 全 体 の 構 成 :
【Ⅴ―2】本趣意書においては既に随所で自分史的背景=個人的動機・思いが顔
を出す(出し過ぎた?)こと、にもかかわらず以下でももっと踏み込
ん で そ れ ら を 説 明 す る こ と 、 へ の い さ さ か の 弁 明 :
【Ⅴ―3】
( 本 NPO 設 立 へ と 自 ら 動 き 出 す ま で に )自 分 を た め ら わ せ て 来 た 、
(ま
た は 、 現 在 な お 、 な に か し ら )、 不 安 で い る 、 も の ー ー つ ま り 、 そ れ を
大 別 す る と 以 下 の 如 く 、世 間 一 般 の 不 安 な 情 勢( 1 )と 、個 人 的 な も ろ
も ろ の 不 安 感 情 ( 2 )、 の 二 つ で あ る :
【 Ⅴ ― 4 】( 上 記 の よ う な 、 あ れ こ れ の 、 逆 風 ・ 不 安 ・ た め ら い ) に も か か わ ら
ず、
「 一 歩 前 へ 」と 、自 分 の 背 中 を 押 し て い る よ う に お も わ れ る も の :
――
【 Ⅴ ― 5 】「 さ い ご 」 の 最 後 に ー ー (「 一 歩 前 へ 」 と 踏 み 出 す 以 上 、 な に よ り も )
自 分 自 身 に 求 め ら れ て い る 覚 悟 ( 自 戒 を 込 め て ):
【Ⅴ―参考】
【Ⅴ―参考1】
「(2012 年)9 月 11 日」( 本 ・ 趣 意 書 の 冒 頭 ・ 標 題 の 日 付 = 本
NPO 立ち上げ・呼びかけへの決意を最終的に再確認した日 * ) に つ
な が る 、あ れ こ れ の・小 生 個 人 の 自 分 史 的 事 件 ――個人史につなが
る日本史―世界史!
【Ⅴ―参考2】後編(別紙添付)資料=自分史的参考資料:A3コピー
〔 M ´1―M ´5〕へのコメント: 3 . 1 1 を 契 機 と し て 、
あらためてさまざもの個人的記憶を呼び覚まされた写真と地図ー
ー 小 生 個 人 の 自 分 史 の 一 部 に つ な が る も の と し て の 土 地・建 物 な い
し地域の思い出:
【Ⅴ―参考3】:( 以 上 の )「自分史的時間・空間」からの若干の「哲学」
的省察ないし断想―― ( 1 )「 個 別 性 v s 普 遍 性 」、( 2 )「 周 辺
65
v s 中 央 」、( 3 )「 前 近 代 ― 近 代 ― ポ ス ト モ ダ ン 」、( 4 )「〈 し が ら
み 〉 と し て の 共 同 体 v s 〈 絆 〉 と し て の 共 同 体 」、( 5 )「 庶 民 v s
市 民 」、( 6 ) 伝 統 的 法 律 解 釈 学 批 判 :
【Ⅴ-参考4】コトバへのこだわり、「ガレキ」ということば、地名の
こと、末弟・故・淳のこと な ど 、「 連 想 ゲ ー ム 」 的 余 談 あ れ
これ:
【Ⅴ―参考5】小生の外国語学習・小遍歴録:
【Ⅴ―参考6】「学校制度クソ食らえ」の一エピソード( 父 子 相 対 の 家 庭
教育だけで、子供を司法試験に合格させ、剰え、ラテン語まで教えた
父親の話:近代国民国家における義務的公教育制度の 実質的正当性如
何を問う好個の事例として――とくに、上記ラテン語の話しとの連想
から、はるか数十年前の新聞記事についての、小生の記憶の片隅への
飛躍 )
:
【Ⅴ―参考7】わが自分史のなかの読書遍歴・その断片的記憶から ― ―
と く に 、『 吉 田 松 陰 伝 』 の こ と 、 小 学 校 の 図 書 館 の ( と く に 偉 人 伝 関
係の)本を読んでやろうと春休みで休館 中の図書館を空けてもらって、
誰もいないところで一人読書に耽った思い出など:
【参考付録――村岡崇光先生宛て手紙( 2014 年 6 月 22 日)のコピー】
―――――――――――――――
《抜粋箇所本文》
【Ⅴ】本NPO立ち上げに向けての、小生の個人的思い・自分史的背景:
【Ⅴ―1】はじめに ー ー 本 「 趣 意 書 」 全 体 で の 【 Ⅴ 】 の 位 置 づ け 、 そ の 全 体 の
構成:
・上 記【 0 】な い し【 Ⅳ 】の 五 篇 は 、い わ ば 本 NPO な い し プ ロ ジ ェ ク ト に つ い
て の そ の 立 ち 上 げ の 趣 旨 、ひ い て ま た そ れ へ の( 種 々 の 形 態・内 容 で の )協 力
依 頼 に あ た っ て の そ の 趣 旨 を 、世 間( 社 会・公 共 )に む け て 説 明 し 理 解・共 感
を い た だ く た め の 、い わ ば 事 務 的 な 文 書 と し て の 説 明 で あ り 、そ れ ゆ え 全 体 と
しては一般的客観的な説明の部分である。
・ こ れ に た い し 、 以 下 の 【 Ⅴ 】 は 、 本 NPO な い し プ ロ ジ ェ ク ト の 立 ち 上 げ に
向 け て の 小 生 自 身 の 個 人 的 思 い・動 機 な い し( そ の 背 後・基 礎 に あ る )
「自分
史」的背景という、いわば「立ち上げ以前」にあったものの、まさに特殊個
人 的 な「 語 り 」の 部 分 で あ る;つ ま り 、、総 じ て 言 え ば【 0 】か ら【 Ⅳ 】ま で
66
の「本論」の部分がいわば事務的一般的趣意書であるとすれば、この【Ⅴ】
は、それへの「付記」として、あくまでも個人的主観的語りとして、前者を
補完し具体的に説明しようとする部分といえよう。
【Ⅴ―2】本趣意書においては既に随所で自分史的背景=個人的動機・
思いが顔を出す(出し過ぎた?)こと、にもかかわらず以下で
ももっと踏み込んでそれらを説明すること、へのいささかの弁
明:
(1)「自分」の出(し)すぎ?
以 上 の こ れ ま で 趣 意 書 を 読 ん だ 方 は 、本 来 、こ の 種 の・世 間 に 向 け て の 普 通 の
「 趣 意 書 」に し て は 、い さ さ か 標 記・副 題 の よ う な 印 象 を 懐 か れ た 方 も 多 い の で
は な い か と 推 測 す る 。た し か に 、小 生 は 、本・趣 意 書 に お い て 本 N P O 設 立 の 呼
び か け を 書 い て い く な か で 、随 所 で 、そ の 呼 び か け の 背 後 に あ る 個 人 的 な 想 い ・
主 張・志 向 、個 人 的 な 動 機 、自 分 史 的 な 思 い 出・背 景 な ど と い っ た こ と の 説 明 に
も 、多 く の 言 を 費 や す 結 果 と な っ て し ま っ た よ う で あ る 。そ の 結 果 と し て 、い さ
さ か 過 剰 な ほ ど に「 自 分 」を さ ら け 出 し た 感 も あ り 、し か も そ の 中 に は 、世 間 に
よ く あ る 「 自 慢 た ら た ら 」 式 か 「( 良 い 所 だ け を 拡 大 誇 張 し て 見 せ た く な い と こ
ろ は 覆 い 隠 す )厚 化 粧 」式 の 回 想 録 か「 よ い し ょ 」式 の 評 伝 的 要 素 は あ ん ま り 顔
を だ す こ と な く( も と も と 小 生 の こ れ ま で の 人 生 に は 栄 光 よ り は 挫 折 と 満 身 創 痍
の 人 生 の 方 が 似 つ か わ し い と い う こ と も あ る が )、 む し ろ 、 そ の 挫 折 と 満 身 創 痍
的部分をもあからさまに露出している部分も多かったことも事実である。
にもかかわらず、それでも言い足りない、といわんばかりに、以下の「付記」
で は 、も っ と ま と め て 自 分 を さ ら け 出 そ う と い う わ け で あ り 、い さ さ か 変 態 性 露
出狂ではないか、といわれかねない仕儀とは相成った。
(2)その点についての弁解として、以下二点:
(2-1)書きかけの「自分史」( の 延 長 と し て の 本 ・ 趣 意 書 【 Ⅴ 】):
小 生 は 、一 昨 年( 2011 年 )の 正 月 、自 分 も「 古 希 」を 目 前 に し て「 自 分 史 」
をまとめておかなくてはーーという思いに駆られて、研究の合間に、思い出の
資料的品々を集めたりして、すこしずつ書き進めてきたのであるが、とくに自
分の生まれ育った郷里・岩手――0 歳から5歳=昭和21年までは釜石鉱山の
あった大橋村、それ以後18歳までの13年間(+10ヶ月)は山田町――の
ことを書く段になって、あらためて、如何に自分が自分自身のこれら郷土のこ
とを知らないかを愕然とする思いで自覚させられ、
『 山 田 町 史 』を 送 っ て も ら っ
て拾い読みしたり、さらには岩手―東北の歴史、ひいて日本の古代史(とくに
縄 文 期 )や 海 村 や 漁 民 の 歴 史 、と く に 近 世「 網 野 史 学 」、さ ら に は( 上 記・釜 石
67
や山田のことも沢山でてくる、例の柳田国男『遠野物語』などを初めとして、
以前から関心のあった)民俗学関係の文献を柳田のものなどを中心としてあれ
これ濫読したり、司馬遼太郎の『街道シリーズ』の関連部分を初めとする紀行
文を読んだりと、――(抽象的な法理論を眠気を我慢しながら読むのとは異な
り!)自分自身をとりまく歴史の「もろもろ」であるが故ならではの、強い興
味をもってーー文献渉猟の楽しい旅を続けていて、肝心の「自分史」の方は、
例によって筆の動きが滞りがちになってしまっていた。
それでも文献だけではなにか不足するものを感じたのと、なによりも、郷里・
山田のあのなつかしい 9 月の秋祭りをどうしても見たくなって、その年の9月、
[八戸―久慈―田老―宮古]と三陸海岸沿いに南下して、郷里・山田に泊まって、
念願の、山田湾の「お神輿渡禦」を初めとする祭りの賑わいの中に(しかし何か
しら、
「帰ってきた異邦人」のごとくに遠慮がちに遠くから)見物人の一人として
身をおくことが出来たし、また、甥の YT 君の車で釜石や釜石鉱山にまで足を運
んで、まさに「鉄」ゆえの人々の「夢の跡」を、わが70年近くまえの出生地ゆ
えの深い感慨をいだきつつそぞろ歩き、とくに、
「仙人峠」のすぐ前の麓の深い山
の中に隠れるようにして立っていた元の鉱山事務所の跡(オヤジも働いていたで
あろう。今は博物館)を始めて見学したり、後述の俘虜収容所関係のものが何か
残っていないか調べまわったりもし、さらに帰路、盛岡に寄って、県立図書館に
行って柳田國男の三陸海岸紀行文とか上記・収容所関係の資料がないか調べたり、
原敬記念館などを初めて見学して、日本近代史以降の岩手の歴史・社会に自らの
半生を重ねてみていろいろ考えたり、そして何よりも、小生にとって、大学には
いってすぐの年に遭遇した・あの60年安保のデモとその後の「小繋農村調査」
―初恋の思い出、などの多くの思い出の詰まった岩手大学のキャンパス、盛岡の
街、あの雄大な岩手山と雫石川のなつかしい景色、などを見ながら巡り、過去へ
のタイムカプセルに身を任せるかのような一時の感傷旅行を楽しんで帰ってきた
のであったーー。
― ― そ し て 、そ れ か ら わ ず か 半 年 く ら い 後 の 、翌 年 2012 年 の 、思 い も 寄 ら な
かった、あの3.11!
(そのとき、久しぶりで泊まった、空き家とはいえ、両親の思い出の残る 、あの)
実 家 は 海 の 藻 屑 と 消 え て 波 に 洗 わ れ 、自 分 が 暫 く ぶ り で 見 た あ の 山 田 の お 祭 り も
お 神 輿 も 、 も は や 当 分 の 間 見 る こ と も で き な い で あ ろ う ー ー お も え ば 、( 無 宗 教
主 義 者 の 小 生 に は 似 つ か わ し く な い 非 理 性 的 表 現 を あ え て す れ ば )な に か「 虫 が
知らせる」ものがあったかのような帰郷の旅であったーー。
― ― と も あ れ 、 か く し て 、( 主 観 的 に は 、 こ れ ま た 少 な く な い 時 間 と エ ネ ル ギ
ー を 注 ぎ 込 ん だ ま ま の )上 記「 自 分 史 」の 方 も 、自 分 が こ の 地 球 上 に 生 を 享 け る
前 の 「 前 生 」 篇 (宇宙誕生から説き起こしたまさに天文学的スケールの部分) と 「 後 生 」
68
篇(自分の「生」がこの地球上のリアル・ワールドからは「バイバイ」することになるその「過
程」とその後の「後生」の消息を記す、そのような意味では、未だ見も来てもおらぬ「悲しい
未来」であるが、それだけに人は、その悲しさと怖さを紛らすために、とてつもない冗談と空
想の世界に遊びたがるもののようでーー)と は 、な ぜ か 、す い す い と 楽 し く 筆 が 運 ん で 、
ほ ぼ 完 成 の 域( ! )に 達 し て い た の で あ る が 、そ の 中 間 、つ ま り (つまり、上記の
ように小生の「生」がこの地球上に「こんにちは」してから「バイバイ」するまでの、前と後
の間ゆえ)「 間 生 」 篇 * 、 と く に 、 上 記 ・ 小 生 の 誕 生 か ら 10 代 終 わ り こ ろ ま で の
20 年 間 を す ご し た 岩 手 の 郷 里・釜 石 や 山 田 に 関 連 し た 自 分 史 の 部 分 は 、あ の 3 .
11の衝撃でどうしても書けなくなり完全に中断の余儀なきに至ったーーとい
う よ り も 、そ ん な 些 些 た る 個 人 史 な ど 吹 き 飛 ば す よ う な 広 範 囲 で 大 き す ぎ る 被 災
の 状 況 ゆ え に 、と て も 書 く 雰 囲 気 で は な く な っ た ー ー と い う 次 第 で あ り 、他 方 ま
た 、 さ ら に そ の 翌 年 ( 2013 年 ) の 正 月 あ た り か ら 、 や っ と 、 3 . 1 1 一 週 年 を
前にして「山田・三陸海岸出身の自分も何かをしなくてはならないのではーー」
と い う 気 持 ち 、 と く に 本 NPO の 立 ち 上 げ の 気 持 ち が 、 す こ し づ つ 頭 を も た げ 、
何 度 も 行 き つ 戻 り つ 迷 い を 重 ね つ つ 、こ の 9 月 の 7 1 歳 の 誕 生 日 あ た り を 契 機 に 、
最 終 的 に 立 ち 上 げ を 決 意 し た と い う 次 第 で あ っ て 、結 果 と し て 、上 記・自 分 史 の
な か の 書 き か け の 部 分 が 、わ が 胸 に た ま り に 溜 ま っ た 思 い と し て 、そ の「 は け 口 」
を 求 め て ( ! )、 本 ・ 趣 意 書 に ど っ と 流 れ 込 ん だ ー ー そ う い う 事 情 も あ っ て 、 本
趣 意 書 の 中 に は ど う し て も 、個 人 的 な あ れ こ れ の 思 い 、自 分 史 的 な 思 い 出 話 が 顔
を出さざるを得ない仕儀に至った、という次第である。
(2-2)而してまた ( 少 な く と も こ こ で の )「自己露出」は必要かつ有
益でもある:
そ も そ も 一 般 に NPO な る も の が 、(営利会社、とくに株式会社のように、営利と
か儲けという動機のもと、貨幣とか株式のような、比ゆ的にいえば「顔も名前もない関係」
でつながった組織・関係性とは異なり)、な に よ り も「 志 」へ の 共 感 に も と づ く 、そ
の よ う な 意 味 で ま さ に 具 体 的 な 顔 の 見 え る 関 係 で な け れ ば な ら ず 、し た が っ て
ま た そ こ で の 呼 び か け も 、(タテマエだけの、毒にも薬にもならない官僚的作文とか、
そ の 事 務 的 伝 達 と は 、 全 く 逆 に )、 心 か ら 心 へ の ホ ン ネ の 呼 び か け ・ 願 い で あ り 、
血 の ぬ く も り 、息 吹 の こ も っ た 、等 身 大 の 生 身 の 人 間・人 生 か ら の 叫 び 、そ れ
ゆ え に ま た 毒 に も 薬 に も な り う る も の 、と な ら ざ る を 得 な い 、― ― と い う よ う
な( い さ さ か 一 般 的 な )事 情 も 、ご 理 解 い た だ き た い と 思 う 。そ し て 、如 何 な
る「 も の ご と 」も 、ま ず は 一 人 の 思 い・願 い・呼 び か け か ら 出 発 す る も の ー ー
だ と す れ ば 、む し ろ 、そ の 呼 び か け る 主 体 の 側 の 、こ こ ろ の 内 側 、真 の 動 機 の
よ う な も の を 率 直 か つ 誠 実 に 開 い て 見 て い た だ く こ と 、そ れ が( た ん に 一 般 論
抽 象 論 の レ ベ ル で で は な く )よ り 深 く ご 理 解 い た だ き 、共 感 し て い た だ く く た
69
めには、むしろ必要なのではないか、と考える次第である。
― ― と り わ け 、 本 NPO は 、 児 童 ・ 少 年 を 相 手 と し 、 そ の ( 古 典 読 書 を 中
心とした)学習支援=教育を中心的な課題・目標とするものであるところ、そ
もそも、教育の営みなるものが、生身の人間が生身の人間を相手にするもので
あり、それゆえまたそれは、教育しようとする側の生身の個人的思い、動機、
それまでの生き様を、投影せざるを得ない、要するに自分の弱さ・愚かさ、恥
部・暗 部 を ふ く め て 全 部 自 分 を さ ら け 出 さ ざ る を 得 な い も の で あ る と い う こ と 、
あるいはさらに、教育というものが人間を相手とするものであり、人間と世界
についての一定の根本的観方・哲学なしには成立しえない営為である以上、良
かれ悪しかれ、自分自身のその哲学・世界観・人間観を語ることをせまるもの
であろうが、而して、この自分には果たして、その哲学を語るに足るだけのも
のがあるかどうか、自分を全部さらけ出す勇気があるかどうか、その自信のな
さ ゆ え に 、NPO の 立 ち 上 げ 自 体 、逡 巡 と 迷 い を 繰 り 返 し た 後 の 、や っ と の 思 い
での決断であったことも事実である。
とりわけ、小生は、大学という教育機関の一端で、文字通り末席を汚しつ
つその半生を生きてきたようなものであるが、本趣意書の随所でも、大学の窓
を通して見えてくる現代日本の教育の在り様・病理にたいするほとんど絶望的
と も い え る 現 状 に た い し て 、つ い あ れ こ れ と「 嘆 き 節 」
「 ぼ や き 節 」的 言 辞 を 吐
かざるを得ないことが多かったことからも窺われるように、ある時期から小生
は、とくに大学の内外を覆う「進学塾的マンタリテ」に嫌気がさして、教育に
対する情熱を失いかけ、なかんずく大学入試制度をあれこれいじくりまわす動
きなど全く愚の骨頂とばかりに、
「 ケ・セ ラ セ ラ ー ー 」と で も い う よ う な 心 境 で 、
自分の専門・研究の城の中に硬く身を閉ざし、定年後はとりわけ、そうした意
味でも遁世気分を謳歌していた、という次第である(というよりも、みずから
の内部から沸き起こるような研究への情熱・使命感ゆえの精神的充実感、そし
て残された時間の圧倒的少なさゆえの焦燥感の日々で、周りの世の中のことな
ど 、野 と な れ 山 と な れ ー ー の 、無 関 心 状 態 の 日 々 と 、言 い 換 え た 方 が 正 確 か ? )。
い ず れ に せ よ 以 上 の よ う な 意 味 で も 、 本 NPO 立 ち 上 げ へ の 決 断 に は 、 小 生
なりに「重い腰」を自分の意思・決断で「よっこらしょ」とあげるごとき感が
あったのであるが、そのせいか、本趣意書を書き始めた当初は、あまり自分の
思いや考えを前面にだすことをひかえるような心理が働いていたようであり、
現に、本・趣意書の最初の「版」の方では、もっと事務的で没・個性的な文章
が並んでいた。しかし、書き進めていくうちに、いままでずっと小生の腹に溜
まったきて「腹膨るる」感じになっていた様々のことども、いろいろな思い、
といったものが、
( あ た か も 長 い 間 固 い 地 底 に 溜 ま っ て い た 熱 い マ グ マ が 、今 回
の こ の 3 .1 1 を 契 機 に 、一 気 に 爆 発 し て 次 か ら 次 と 噴 き 出 て き た か の 如 く に )、
70
本趣意書でも、いささか激越な表現で現在の教育とか大学の現状を告発すると
いった感じ、或いはまた、小生の自分史的な背景をバックにした個人的な思い
が随所に顔を出すという結果、になってしまったかもしれない。
― ― そ の よ う な 次 第 で 、 こ れ ま で 溜 ま り に 溜 ま っ て き た 小 生 の 心 の 中 の
「( 3.11 を 惹 き 起 こ し た と い わ れ る 地 殻 の 歪 な ら ぬ )ひ ず み 」
「思い」
「 願 い 」の
ようなものが、この機会に一気にはじけた、としても、その結果、地震―津波
がおきて災いを惹き起こすわけでもなく、せいぜい小生が、世間に向かって、
時間とカネをかけて、自分の恥を晒してでも、現代日本の児童・子供をめぐる
問題状況をすこしでもいい方向に改善し、可能なかぎり不幸な子が一人でも減
り、とくに機会の不平等を出来るだけ少なくする方向でがんばり、そのような
意味で、世のため人のための、さわやかな風一つでも惹き起こし、未来世代の
幸福のためにささやかな社会貢献が少しでもできれば、以て瞑すべしーーと考
える次第である。
(2-3)「自分史・正編」予告編(?)としての本趣意書【Ⅴ】:
ただし以下は、あくまでも「自分史・抄録」にすぎず、その様な意味でこれ
は 、( 近 い 将 来 、 完 成 予 定 の )「 自 分 史 ・ 正 編 」 の 予 告 編 と も い う べ き も の で あ
り、自分史の本格的展開(?)は、将来に残された課題・宿題である、という
わけである。
つまり当然ながら、自分史とか自分の教育観とかの、すべてを詳細に語るこ
とは、本趣意書はその場でもなく、この「今」がその時でもない、ことも事実
であって、その意味でも、本趣意書中の随所でしばしば顔を出した断片的自分
史 も 、ま た 以 下 の【 Ⅴ 】で や や ま と め て( 本 NPO に 直 接 間 接 に 一 定 の 関 連 性 を
もつと思われる自分史的あれこれをとりまぜて)書き残そうとしている自分史
的「 告 白 」も 、こ の NPO 立 ち 上 げ に 当 た っ て 、そ の 趣 旨・真 意 を よ り 深 く よ り
生身の具体性をもってご理解いただきたい、との思いから、まさに恥をしのん
で書きつづったものであり、そのような意味ではそれは、あくまでもいわば自
分史のなかの関連するあれこれを余談的に書きとめた「抄録」に過ぎない。
――以上、いささか弁解的前置きが長くなってしまったが、以下では、具体
的 に 、本 NPO 立 ち 上 げ に あ た っ て 小 生 を 躊 躇 わ せ て き た( い る ? )若 干 の 逡 巡
の 個 人 的 思 い(【 Ⅴ ― 3 】)、そ れ に も か か わ ら ず「 一 歩 前 へ 」と 背 中 を 押 し て い
る よ う に 思 わ れ る 個 人 的 思 い と そ の 自 分 史 的 背 景(【 Ⅴ ― 4 】)、最 後 に 、こ う し
て「一歩前へ」踏み出した以上、なんとか最後まで頑張りますという決意表明
少 々 (【 Ⅴ ― 5 】) ― ― と い う 順 序 で 、 わ が 思 い を 語 る こ と と し た い 。
な お 、そ の 後 に 続 く【 Ⅴ ― 参 考 1 な い し 7 】は 、上 記【 Ⅴ 】( と く に ー 4 )で
71
述べてきたことをより多面的重層的に「解釈」し「理解」していただくための
文字通りの「参考」的ないし補足的な資料・説明を付加的にしようとするもの
である(当初、この部分はいささか詳細にすぎて長大にわたることもあって、
全面削除することも考えたのであるが、やはり、上記【Ⅴ】をより深く理解し
て い た だ く た め の 参 考 資 料 と し て 付 加 す る 価 値・意 義 は 少 な く な い 、と 判 断 し 、
適宜――とくに地理的説明部分はーー削除・省略のうえで、付加することとし
た次第である)――つまり【―参考1】では、その自分史のクロノロジカルな
年 表 風 の 説 明 を 、【 ― 参 考 2 】 で は 小 生 の 生 ま れ 育 っ た 郷 里 と そ の 周 辺 ( 被 災 )
地 域 の( 趣 意 書・本 体 で は 、3・11 の お か げ ! で 、新 聞・雑 誌 等 で 繰 り 返 し 使 わ
れ、報道された写真・記事、また親戚の方の好意で送ってもらった写真などを
挿入し、それを説明する形式での)いわば地理的空間的説明(そしていうまで
もなく、それを通しての、土地とつながるあれこれの思い出・記憶等の説明)
を 、【 ― 参 考 3 】 で は 、( 上 記 ・ 参 考 1 な い し 2 で の ・ わ が 自 分 史 に 関 わ る 個 別
的時間と空間のあれこれを、いわば理論的に総括したときの、若干の抽象的論
点 に つ い て の )い わ ば「 哲 学 的 省 察 」( ! )と で も い う べ き 一 瞥 的 思 索・考 察 を
披 露 し 、 さ ら に 【 ― 参 考 4 】 で は 、 3.11 報 道 で 使 用 さ れ た あ れ こ れ の 言 葉 や 地
名 に つ い て の 小 生 な り の 批 判・苦 言・省 察 と 、さ ら に は 、そ の 地 名 と の「 連 想 」
で、地名研究を定年後の楽しみにしつつ還暦を目の前にして亡くなった末弟・
淳 へ の 鎮 魂 の 思 い を 述 べ 、【 ― 参 考 5 】で は 、小 生 の 外 国 語 学 習 の( 小 )遍 歴 録
を 述 べ( た だ し こ れ は 、別 途 後 日 、当 HP[便 り ]の コ ラ ム「 研 究 余 滴 」で 取 り 上
げ る 予 定 で 、 削 除 )、【 ― 参 考 6 】 で は 、 上 記 ・ 目 次 か ら も あ る 程 度 推 測 さ れ る
ように、制度化された公教育の意義を根底から相対化せしめるような戦後すぐ
の こ ろ の エ ピ ソ ー ド を( 小 生 の 教 育 観 を 補 足 す る 意 味 で )紹 介 し 、最 後 に 、【 ―
参 考 7 】 で は 、( 当 NPO の 学 習 支 援 活 動 の 中 心 と も い う べ き 古 典 読 書 支 援 の 背
景にある自分史的背景としての)小生の青少年期の読書遍歴をエピソード的に
紹介した。――以上、あわせてお読みいただければ幸いである。
【Ⅴ―3】( 本 NPO 設 立 へ と 自 ら 動 き 出 す ま で に ) 自分をためらわせて来た、
(または、現在なお、なにかしら)、不安でいる、もの ー ー つ ま
り 、そ れ を 大 別 す る と 以 下 の 如 く 、世 間 一 般 の 不 安 な 情 勢( 1 )と 、個
人 的 な も ろ も ろ の 不 安 感 情 ( 2 )、 の 二 つ で あ る :
(1)世間の逆風 ― ― 本 N PO の 設 立 ・ 展 開 に と っ て 予 想 さ れ る 、 客 観 情 勢
等のカベ、すくなくとも順風とはいえない、種種の困難な社会状況:
・ デ フ レ 不 況 等 の 下 で の 経 済 の 低 迷 ( 他 人 の 子 の た め に 寄 付 す る ほ ど の 余 裕 は な
い ? )、震 災 復 興 の お く れ 、政 治 の 混 乱 、消 費 税 値 上 げ 、さ ら に は 、最 大 死 者 数
32万人とも予想される南海トラフ震災、そしてまもなく半年足らずで再び巡
72
る 来 る 3 .1 1 の 2 周 年( 郷 里 か ら の 声 は 、
「世間の人の心は熱しやすく醒めや
す い は 世 の 習 い 、う つ ろ い や す い の は 人 の 世 の 常 」と 諦 め 顔 で あ り 、
「震災バブ
ル」をめぐる状況もそう長くは続くことはないとか、日々現地の状況は変化し
て い る と も 言 わ れ て い る ) ― ― な ど 、 本 NPO 立 ち 上 げ を め ぐ る 、 周 り の 世 間
の「逆風」も感じないわけではない。
・他方、なによりもまた、古代アテネにおいて、アリストテレスが開いた「リュ
ケ イ オ ン 」( フ ラ ン ス の リ セ が こ れ に 由 来 す る こ と は 有 名 な 話 )が 、テ ク ネ ー に
堕すことなき、総合的な「知のための知」の殿堂、を目指すものであったこと
は周知の事実であるところ、本「学舎」のめざすものは、その足元の爪先程度
にも及ばないが、さればといって逆に、目前の有名校・有名大学の合格を目指
す進学塾でも予備校でもなく、何かすぐに役にたつ専門的知識・技術を伝授し
資 格 取 得 を め ざ す 専 門 学 校 で も な く 、「 高 志 」と か「 学 舎 」と か の 、い さ さ か 高
踏的貴族的で理想主義的教養主義的な、すぐには役立ちそうもない、曖昧模糊
たる総合知の主張であることも否定できない;
而して、他方、世間一般の親たちの平均像といえばーーますます世知辛くな
っている世相のもと、日々の生活に追われ、将来に種々の不安をかかえ、マス
コミのつくりだす「世論」にながされ、ますます、目前の実利だけを追い、と
り わ け 教 育 の 面 で は 、有 名 校・有 名 大 学 等 々 の「 お 受 験 」の み を 最 高 の「 教 育 」
目標にし、幼稚園からすでに始まっているという進学競争、ほとんど狂気とし
か言いようのない塾通いの生活――われわれは社会全体の、この(ますます加
速し過熱する、そして少なくとも小生の目からは)ほとんど狂気としか思えな
い現実に抗して、それとは別の理念理想に立った活動を、どこまで成功裡に進
めることができるだろうか、そもそも保護者・子どもたちは、そのような現実
に負けずにわれわれに付いて来てくれるだろうか;われわれは、理想主義が現
実の前に無残にも敗れ去った事例、創立者のはじめの高い理想が後の人々によ
って無残にも汚され貶められた多くの事例を、少なからず、かつ身近にも、見
てきたーーなど、
( 上 記 世 間 一 般 の 経 済 状 況 等 と は 違 っ た 次 元 で の )不 安 を 隠 せ
ないのも事実である。
(2)個人的な不安材料=「ボヤキ節」三つほど:
・不安材料・その1:「二兎を追う者一兎をもーー」、有態にいえば、研
究時間が減ることへの不安――:
小 生 は 学 部 卒 業 後 す ぐ に 研 究 生 活 に 入 っ て 6 3 歳 の 定 年 ま で 、ほ ぼ 4 0 年 に お
よ ぶ 年 月 を 研 究 者 と し て 、ほ と ん ど 趣 味 ら し い 趣 味 も な く 、土 日 も ほ と ん ど 休 む
こ と な く 、 研 究 室 で 過 ご し て き た 。 と く に 北 大 に 移 っ て か ら は 、「 小 器 用 に ま と
ま ら な い 、こ じ ん ま り ま と ま ら な い 、小 成 に 甘 ん じ な い 」と い う「 三 な い 」主 義
73
を 心 ひ そ か に 誓 い 、ア ブ ク 論 文 、ア リ バ イ 論 文 、ゴ ミ 論 文 だ け は 書 く ま い 、世 人
を 迷 わ す ご と き 無 責 任 な・売 文 的 論 文 だ け は 、書 き 散 ら す ま い 、と い う 、ま さ に
( 前 記 【 0 - 2 】 引 用 の )「 行 不 由 径 」 を 地 で 行 く か の ご と き 、 文 字 通 り 、 愚 直
な る 彷 徨・模 索 の 道 を 行 く 学 者 バ カ 人 生 を 歩 ん で き た 。― ― 批 判 を 覚 悟 で( 現 に 、
批 判 と い う よ り も 、悪 意 あ る 陰 口 、が 陰 に 陽 に 小 生 の 耳 に も 聞 こ え 、厭 な 気 持 ち
を 味 わ っ た こ と 一 再 な ら ず で あ っ た が )、 あ ち こ ち 興 味 の あ り そ う な と こ ろ の テ
ー マ を 探 し て は ボ ー リ ン グ 作 業 の よ う に 試 掘 を く り か え し 、未 完 成 の ま ま の あ れ
こ れ の 論 文 を 、し か も 僅 か な が ら 残 し て 大 学 を 去 る 、と い う い さ さ か 無 様 な 仕 儀
と な っ た 。 む ろ ん そ れ は 、 よ く 言 え ば 、「 問 を 学 ぶ 」 と い う 「 学 問 」 の 字 義 通 り
の生き方であるとの自負がないわけではなく、とくに学問研究の世界において、
「 大 器 晩 成 」* ど こ ろ か 、貴 族 主 義 的 遊 び の 精 神( 小 生 の み る と こ ろ 、そ れ な し
に は 真 の 学 問 は 成 熟・熟 成 し え な い こ と 、定 年 後 、専 門 と い う 外 か ら つ け ら れ た
壁 も ふ く め 、も ろ も ろ の「 シ バ リ 」か ら 自 由 に な っ た だ け に 、そ れ を よ り 強 く 感
じる)の余裕のなくなったかのようなこの国の雰囲気(個人的な感じとしては、
と く に 90 年 代 バ ブ ル の 崩 壊 以 後 と く に ) の 中 に あ っ て 、「 少 器 早 生 大 器 晩 成 」
と 嘯 い て「 急 行 列 車 に は の ら ず に 鈍 行 列 車 の 旅 を 」ー ー 内 心 で は く る し み 、あ せ
り つ つ も ー ー 楽 し ん で き た か の 如 き 小 生 の 研 究 者 人 生 で も あ っ た 。 そ し て 定 年 前 後 に な っ て や っ と 、「 現 代 ( 民 事 ) 法 理 論 体 系 ・ 原 論 」 の 構 築 と
い う 理 論 構 想 、而 し て ま た 一 方 で 、そ の 歴 史 的 前 提・基 礎 と し て の「 1 8 6 8 年
― 1 9 4 5 年 を 画 期 と す る 日 本 近 現 代 史 の 批 判 的 主 体 的 総 括 」、 他 方 で 、 そ の 基
礎 理 論 的 作 業 と し て の「 一 般 秩 序 理 論 上 の 主 要 諸 問 題 の 自 分 な り の 理 論 的 解 明 ・
構 築 」と い う 、全 体 と し て 三 つ の 柱 か ら な る 、研 究 構 想 を た て 、す こ し づ つ 作 業
をつづけてきた(前半までの小生の構想・思いは、後編・別紙添付資料 M´―
5所掲の・自己紹介代わりの「北大時報」記事のコピー参照。ただし、それは、
英 独 仏 の 関 係 文 献 を 一 日 少 し づ つ 読 解 す る と い う 、ま さ に 三 大 巨 峰 に む か っ て 蟻
が と ぼ と ぼ と 歩 い て 行 く が ご と き 歩 み で あ る )。そ れ は 、第 一 の 柱 だ け で も 、
(そ
の 一 角 た る 経 済 秩 序 シ ス テ ム 論 構 築 の た め の 、さ ら に そ の 一 翼 を 構 成 す べ き 伝 統
的 基 礎 概 念 = 形 式 的 判 断 枠 組 み ー ー 形 式 的 と は い え 、そ れ を 抜 き に し た ら 法 律 学
は単なる小役人的小手先の概念遊戯に堕してしまうであろう態のもの!――の
批 判 的 検 証 作 業 た る )民 法 ― 商 法 の 関 係 の 史 的 比 較 法 的 解 明 、債 権 ― 物 権 を 中 核
と す る パ ン デ ク テ ン 体 系 の 歴 史 的 形 成 過 程 と そ の 批 判 的 克 服 、所 有 権 体 系 ― 信 託
法 体 系 と の 比 較 法 的 概 念 的 分 裂 の 克 服 、有 償 契 約 ― 無 償 契 約 の 関 係 等 に か ん す る
歴 史 的 分 析 、営 利 的 組 織 法 制 と 非 営 利 組 織 法 制 と の 関 係 等 々 の 、民 事 法 の 根 本 概
念 の 根 本 的 見 直 し と い う 、一 つ 一 つ と っ て み て も 、そ れ だ け で 一 生 か か り そ う な
大テーマばかりで、
「 そ の 年 で お 前 正 気 か 」と 嘲 笑 さ え さ れ そ う な 感 じ で あ る が 、
し か し 、無 論 小 生 じ し ん は 、
( 研 究 者 バ カ 人 生 の た め に 、払 わ ざ る を 得 な か っ た 、
74
家 庭 的 幸 福 を ふ く め て の )犠 牲 が 大 き か っ た だ け に 、そ れ を し 遂 げ す に は「 死 ん
でも死に切れない」との思い切なるものがあることもまた事実である。
そ し て ま た 、定 年 後( 僅 か の 期 間 の 飛 行 機 通 勤( ! )に よ る 、東 京 の 某・私 立
大 学 法 科 大 学 院 で の お 手 伝 い を 除 き )天 下 晴 れ て の 2 4 時 間 自 由 の 身 、漸 く 手 に
入 れ た あ こ が れ の 隠 遁・隠 者 の 生 活( 現 役 時 代 の か な り 早 い 時 期 か ら 実 は そ う だ
っ た と の 説 も あ る が ? )、 締 め 切 り を 気 に せ ず に す べ て マ イ ペ ー ス で や っ て い け
る 気 軽 さ( も っ と も 、現 役 時 代 か ら 締 め 切 り 破 り の 常 習 犯 で あ っ た が ー ー 。と も
あ れ 、 出 版 社 の 締 め 切 り は 延 期 と か 無 視 と か も で き る が 、「 人 生 の 締 め 切 り 」 と
い う 、 す く な く と も 無 視 は で き な い 、 小 生 に も 遅 か れ 早 か れ 訪 れ 、( 今 度 こ そ 、
文 字 通 り 絶 対 に ) 逃 れ ら れ な い 、「 人 生 の 締 め 切 り 」 を 前 に し 、 日 は 暮 な ん と し
て多岐亡羊の嘆のみ深し、というところか)**。
― ― そ う で あ る だ け に 、 今 後 、 本 ・ NPO と の 本 格 的 か か わ り に よ っ て 割 か れ
る 自 分 自 身 の 研 究 時 間 へ の 不 安 も 大 き い 。現 に 本・趣 意 書 を 仕 上 げ 、認 証 申 請 ―
受 理 = 法 人 格 取 得 へ の 一 応 の メ ド が つ く 段 階 ま で の こ の 二 ヶ 月 あ ま り は 、( こ れ
まで日課としてきた、
「 朝 飯 前 の 」)外 国 語 文 献 読 解 と 文 法 学 習 は 完 全 に 一 時 中 断
と い う 状 態 で 、上 記 研 究 テ ー マ の 方 も 一 本 か 二 本 の 論 文 を 仕 上 げ る だ け の 日 時 と
エ ネ ル ギ ー を す で に 消 費 し た と の 感 を 否 定 で き な い 。さ ら に ま た 、そ の 後 、モ ノ
ー カ ネ ー ヒ ト の 確 保 ― 開 校 に ま で こ ぎ つ け る ま で の 東 奔 西 走 の 日 々 、そ し て 無 事
開 校 で き た と し て そ の 後 も 、プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ の 各 年 次 学 級 の 支 援 活 動 が 一 応 安 定
軌 道 上 に の る ま で の 期 間 中 は 、あ る 程 度 の 研 究 時 間 の 犠 牲 は 覚 悟 せ ざ る を 得 な い
であろう。
(しかし少なくともその後は、
( 合 宿 等 の 予 め 予 定 さ れ て い る「 繁 忙 期 」
以 外 は )一 週 間 の う ち 本 NPO の た め に 割 く 時 間 は 、最 高 で も 一 週 間 の 半 分 だ け 、
と 決 め た い と 考 え て い る 旨 、関 係 者 に は 予 め「 宣 言 」し 、了 承 を 得 て お き た く 思
う 。)
*ちなみに、老子に関する近年の極めて興味深い研究成果(蜂屋邦夫『NHKラジ
オ ・ 宗 教 の 時 間 ・ テ キ ス ト :「 老 子 」「 荘 子 」 を 読 む 』 上 ) に よ れ ば 、 こ の 四 字 熟
語の元となった老子の言葉はもともとは「晩成」ではなく「免成」または「曼城」
であって、免も曼もいずれもこの場合「無」の意味に近く、そこには、
「無限大(=
無?)」という老荘特有の概念・思想が込められているのだという(後世の儒教の
もとでは、そのような哲学的思弁は捨てられ、器の語も、「君子は器ならず」(『論
語』―「為政」篇)における「器」の用法にみられるように、大器=大人物とな
って、要するに処世訓的な現在の用法が一般化したのだという)。ともあれ、すく
なくとも小生にとっては、このいずれの解釈も、同じ程度に惹かれるものがある
こと、をここで告白しておきたい。
**小生の中高生時代、好きな座右の銘として 、「 努 力 」の 二 次 と と も に 、勉強机の傍
に自ら書いて貼っていた、有名な漢詩の一節:
75
「少年老い易く、学成り難し。(――一寸の光陰軽んずべからず。)」
――あれから 60 年近い年月を閲して、多岐亡羊を嘆じつつこの年令になってし
まった小生としては、まさにずしりと胸にこたえる「予言的中」的箴言というとこ
ろである(ということはまた、すくなくとも学問の世界において世間が付与する名
誉名声など「ヘ」みたいなもの、学者を安眠に誘い込む麻薬のようなものーーであ
るとの学問的謙虚さが何よりも重要であるという自戒でもある)。
そ う で あ る だ け に ま た 、「 少 而 学 、 則 壮 而 有 為 。 壮 而 学 、 則 老 而 不 衰 。 老 而 学 、
則死而不朽」との佐藤一斎『言志四録』中のことばーーつまり「人生これ、死ぬ
まで勉強」ということのまさに優等生的漢詩文表現――はまさに小生にとっての
現在の実感でもあるーーもっとも小生の場合、第一句に関しては、有為ではなく、
無為であり、第三句にかんしては、不朽といえるかは、なお未定 であり、90 歳あ
たりを越えてーーむろん、生きていればのハナシだがーー頭も体も勉強どころで
はなくなったら、
「学舎」のお庭あたりで、近所の児童たちと、あのすばらしい夕
焼け空をみながら、
「夕焼け小焼けのーー」と好きなわらべ歌とか小学生唱歌でも
歌いながら縄跳びごっこ、その他の遊びをしながら日がな一日――というのが小
生の夢――良寛さんには及びもないが 。
――閑話休題、ともあれ「教えることは二度学ぶこと」、本 NPO が成功裏に立
ち上がり集ってきた児童・少年たちとともに学ぶことのできることを心待ちにし
ているというのも実感である。――現に、本 NPO の立ち上げを自覚的に追求する
過程で、これまで見過ごしてきた視点・問題意識で新聞・テレビ等のマスメデア
からの情報からあれこれ「勉強」しつつあることも、非常に多く、まさに「虎穴
に入らずんばーー」を実感している。
・不安材料・その2:(「虎穴に入らずんば虎児も得ず」を 逆方向にもじっていえば)「鬼穴
に入らずば鬼児を見ず」 つ ま り 、( 覗 か な け れ ば 覗 か ず に 済
む )「 鬼 穴 」 を ( 止 せ ば 良 い の に こ の 年 で ス ケ ベ 根 性 を 出 し て )
覗いたばかりに、(見なければ見ないでも済む、できれば見たく
もない)
「鬼児」をみてしまうのでは、という不安――
つ ま り 、こ こ で も ま た 、人 は 一 人 で は 何 事 も な し 得 な い と は い う も の の 、
(可能
なかぎり人に頼らずに自分ひとりだけでコチョコチョやっていれば、または、就
かず離れずの、外交儀礼程度・年賀状の交換程度の、あっさり・さっぱりの他人
的関係で済ませていれば)見ずに済むであろう人間性の厭な部分を、人と何かを
企てる過程では多少に拘わらず必ず見ざるを得ないことは、これまた世の常なる
こ と は 兼 好 法 師 の 言 を 俟 つ ま で も な く 、小 生 自 身 こ れ ま で も 何 度 か 経 験 も し た し 、
とくにそれが儲け話ではなく、善意の志を共有しての(したがって本来、非営利
の)組織活動であればなおさら、その厭な部分が目につくこと、飽きずに繰り返
76
される政治のドタバタ劇ならずとも人間世界の変わることなき姿であること、小
生 自 身 、本 NPO の こ の 立 ち 上 げ の 段 階 で も す で に 、
「 が っ く り 」と い う 落 胆 を 何
度か味わってもいるーー。
とくに自分のように、専門の研究室のなかの学問=本の世界だけで活字を食っ
て生きてきたような人間にとって、また性格的にも、人付き合いが一番苦手で、
超俗至純の観念=理想主義(ひいて原理主義)にはしりやすい内向的性向の、小
生のような人間にとって、大学という世界は他の世界とくらべて(かつての修道
院とか僧院と同様)おそらく生態系的にはもっとも居心地のよい世界であったは
ずであるが、すでに現役時代も上述のように、当然ながら、学生の教育等もふく
め俗世間の論理と没交渉でおられるはずもなく(とくに良き古き研究第一主義の
伝 統 も 崩 壊 し た バ ブ ル 崩 壊 期 以 降 、費 用 対 効 果 の 近 視 眼 的 経 済 論 理 が も ち こ ま れ 、
卒業証書と資格だけが欲しい学生が押しかけるという大衆化の濁流に大学も巻き
込 ま れ 文 字 通 り の 満 身 創 痍 )、さ ら に は 、能 力 も な い の に 背 伸 び を し て( 学 問 内 在
的 な 要 請 の 命 じ る ま ま に 、純 粋 法 律 学 以 外 に )、医 師・医 療 関 係 者 、弁 護 士 、裁 判
官、他専門領域研究者との(医療事故訴訟、生命倫理と法、リスク論、非営利組
織論等の、まさに学際的な)研究会・研究プロジェクトを何度か中心になって組
織もし、また参加もしてきて、自分の狭い研究室だけに閉じこもってシコシコや
っていさえすれば決して味わうことのないであろう精神的ストレス、厭な思いを
味わったことも一再ならずで、それだけにやっと訪れた憧れのこの隠遁生活の中
で そ の 古 傷 = PTSD を 舐 め つ つ 癒 し て い た こ の 時 機 に 、 そ の 古 傷 も 完 全 に 癒 え ぬ
というのに、また性懲りもなく、何をいまさら好き好んで、あの俗塵渦巻き清濁
合わせ流れる濁流に、みずから舟を漕ぎ出そうとするのかーー(ああ、あの大津
波 の 濁 流 さ え わ が 郷 里 を 襲 わ な か っ た ら 、 雉 も 鳴 か ず 飛 ば ず に い た も の を ー ー )。
お も え ば「( 山 の 彼 方 に 住 む と 人 の 言 う )幸 い 」を 求 め 幾 度 も「 涙 さ し ぐ み 帰 り 来
ぬ 」の わ が 人 生 行 路 、こ と も あ ろ う に そ の 人 生 行 路 の 終 幕 に 何 で ま た 、
「山の彼方」
の「なお遠く」の見果てぬ夢を追い求めて、新たな旅立ちをしようとするのか、
この懲りない人は?!「真・善・美」とかの純粋理念を青くさく言い立てて、俗
世に舞い降りた鶴が、
「 ヒ ッ チ コ ッ ク の 鳥 」の 大 群 に つ つ か れ 小 突 か れ 足 を ひ っ ぱ
られーーて、再び満身創痍の重傷必至――か?
不安材料・その3:自分自身の性格・能力への不安――
人に頭を下げること、カネ勘定、金集めなどは、これまでの小生の人生のなか
で最も縁のうすかったことであり、他方また、組織(の個人の自由を多少なりと
も 圧 殺 す る ど ろ ど ろ し た 論 理 ) ぎ ら い 、「 離 群 性 」( 小 生 の 学 生 時 代 、 啄 木 と な ら
ん で 好 き な 詩 人 の 一 人 で あ っ た 高 村 光 太 郎 の 詩 の 一 節 に あ る こ と ば )、つ ま り「 群
れること」への極端な嫌悪感、一匹狼的傾向にくわえ(だから小生、大学入学直
77
後から、民間企業・公務員コースという法学部なら普通のエスカレーターにのる
こ と は 、は じ め か ら 拒 否 し た こ と 、前 述 の と お り )、人 生 の 或 る 時 季 か ら( そ れ も
定年数年前から)は、世捨て人・隠遁者的傾向が顕著になり、わが意に沿わぬこ
と志向に背くことであれば最低限の世間的義理も世間的権威も無視するまでのア
ウトサイダー振りわがまま振り反骨ぶりを貫き通したことーーしかしおかげでま
た、媚びない生き方、権威に尻尾をふらない、心にもない追従とかお世辞などは
口が曲がっても言わない・言えない、流れに抗することはあっても無意味に流さ
れはしない、過剰に集団主義的に同調しない、という人生でもあり、それはまた
一個の誇りですらある(要するに権威大嫌いの反骨精神の塊のようなもので、反
骨 精 神 に か け て は 模 範 的( ! )右 総 代 と い う と こ ろ か 。だ れ も 褒 め て は く れ な い 、
ど こ ろ か 、こ の 国 で は 個 性 が 強 す ぎ る 人 間 は「 変 人 」扱 い ! そ れ で も「 変 人 首 相 」
以 降 、風 向 き は 大 分 変 わ り つ つ あ る が ー ー )。こ れ ら「 前 世 」の「 前 科 」的 所 業 か
らこの年で足を洗うつもりは毛頭ないが、人に頭を下げ、人の協力を頼りに人と
何かを図ろうとするとき、そうツッパッテばかりもいられないことも事実で、そ
の点でなによりも自分が前向きに自分を変えることができるか、宗旨をまげて世
間 と 妥 協 す る こ と が で き る か ー ー 。と く に 、人 に 頭 を 下 げ る こ と を 幸 か 不 幸 か( ほ
とんど)しなくても済む人生を歩んできた自分、そしてとりわけ、カネ(儲け・
勘定)のことには幸か不幸か全く無縁の人生で来た自分に、寄付のお願いに勧進
帳 を ぶ ら 下 げ て 勧 進 行 脚 を つ づ け る こ と が 、ど こ ま で 出 来 る だ ろ う か ー ー 。ま た 、
事務的なこととか技術的な世界のことは「形而下」の世界のこととして「天下国
家」論への情熱とか真善美探求の世界とか老荘・詩文の世界への憧れのゆえに一
段低く見る傾向、能力的にも性格的にも実際的実務的な面には向いていないし、
そうした問題はせいぜい科学研究費の(今にしておもえば随分と甘やかされた)
世界で接点があったくらいの経験の乏しさ、なによりも不器用を画に描いたよう
な 鈍 重 な 牛 の よ う な 自 分 に 、小 な り と は い え 一 種 の 経 営 体 で も あ る NPO で 人 を 動
かしカネを集め管理する能力・器量が果たして自分にあるだろうかーーなどなど
の不安。そしてまた、自分自身、過去のあれこれの「羹」に懲りて、すくなくと
も「 巻 き 込 む 側 に た つ こ と も 、巻 き 込 ま れ る こ と も 」も う コ リ ゴ リ 、「 あ っ し に は
関わりのねえこって!」と決心した自分だったのではーー。
【Ⅴ―3】( 上 記 の よ う な 、 あ れ こ れ の 、 逆 風 ・ 不 安 ・ た め ら い ) にもかかわら
ず、「一歩前へ」と、自分の背中を押しているようにおもわれ
るもの:――
以上の「不安」要因のうち、まず、外的社会状況の逆風に関しては、無論自分
一個の力ではどうすることも出来ないことで、風向きが変わるのを期待するしか
ない、またはあれこれ自己防衛策を講じるしかない、ということになろう。
78
また上記の不安・その1にかんしては、自分は、少なくともプロジェクトⅠに
かんしては、上記のように(学級開始前後と合宿以外の期間は)それに割く時間
は上記パラト庵に泊りがけでの「週二日のみ」とすることで了解してもらうこと
で 対 処 す る 以 外 に な い と 考 え て い る( ― ― と 言 っ て も 、す く な く と も 本 NPO 全 体
が軌道にのるまでの数年間はーー現在のようにーーかなり研究時間を削って、と
い う こ と に な ら ざ る を 得 な い で あ ろ う こ と 、 覚 悟 )。
さらに、不安・その2にかんしては、何よりもプロジェクトⅠが実質的に始動
した段階でそれを中核的に担っていく「分校長」として、信頼できる有能な人を
我々がリクルートできるかどうかということが最大のキー・ポイントであり、ま
た同時に、事務スタッフとしてこれまた有能で信頼できる人を確保できるかどう
かが鍵を握っている、そのために頑張る、としか言いようがない(あとはそうい
う 人 に 恵 ま れ ま す よ う に 神 様 に 祈 る ほ か な い ー ー「 無 神 論 者 で も 神 様 に 祈 る の か 」
と再してもツッコミが入りそうであるが、
( 無 神 論 者 と い う よ り も )脱 宗 教 論 者 の
小生も時には北海道神宮などに行って手を合わせることもあるのですーー「苦し
い 時 の 神 頼 み 」)。
最 後 の 不 安・そ の 3 に 関 し て は 、本 NPO 立 ち 上 げ へ の 決 断 は 、誰 か に 勧 め ら れ
強制されおどらされてーーということでは全くなく、むしろ、自ら進んでの、自
分自身の(けっして短くない、逡巡・懐疑と、それなりの熟慮の期間を経ての後
の)主体的決断・選択の結果としてであり、まさにそのような意味で文字通りの
意 味 で の volunteer と し て の 決 断 ・ 意 思 の 所 産 で あ っ て 、 而 し て ま た 「 情 け は 人
の た め な ら ず 」と は こ の 小 生 に あ っ て は 換 骨 奪 胎 し て「 人 に 情 け を か け る こ と は 、
(まさに互酬という意味での)将来の酬い・返報を期待してのことではなく、む
しろ他ならぬ自分のためでもある」別言すれば「名利を捨て私心をすてての利他
行とはなによりも自分自身の心の問題であり自分自身の人生のための行なり」と
の 思 い・感 想 も 、す で に こ れ ま で の 立 ち 上 げ 作 業 の 過 程 で も 実 感 す る こ と が 多 く 、
そしてそれへの思い・決断は、後述するような・小生なりの70年の生涯から紡
ぎだされたものと自負する(すくなくとも紙のうえだけの・なんらかの抽象的な
理論とかの産物では決してなく、また何らかの宗教的教義や組織のバックもない
孤独な個人的決断である)分、同時にそれだけそれなりの重いものがあると自負
しているーーようするに平たく言えば、
「 人 間 、自 分 で や り た い 、や ろ う と 思 っ て 、
や る こ と に な る と 、意 外 と ど う に で も 変 わ る も の 」、こ れ 、小 生 の 人 生 経 験 に も と
づ く 「 生 活 の 知 恵 」。( 事 実 、 認 証 申 請 ― 法 人 格 取 得 ― 税 務 署 ・ 地 方 税 事 務 所 な ど
と 、ほ と ん ど 行 っ た こ と も な い 役 所 通 い を は じ め て 経 験 し て み て 、書 斎 や 研 究 室 ・
図書館でひとりふんぞりかえっているだけでは、決して経験しえないような社会
勉強、自尊心というカベを乗り越える忍耐力の鍛錬だけは、現在進行形でしてい
る と い う の が 、 実 感 と し て あ る )。
79
――そしてなによりも、以上のようなあれこれの不安・躊躇い等にもかかわ
らず、そしてそれへの自分なりの(神頼みとか忍耐とかの)消極的克服法だけ
で は な く 、む し ろ ヨ リ 積 極 的 に 、敢 え て「 一 歩 前 へ 」、と 小 生 を 駆 り 立 て て い る
ものーーそれは、
( 小 生 自 身 の 内 省 的 自 己 分 析 的 結 果 を 整 理 す る と )以 下 の ① か
ら⑧までに述べるが如し:
①自分は3.11のために何が出来るか、という問い――
あの3.11は、決して、どこか遠くの土地の、他人の不幸ではなく、まさ
に自分の生まれ育った郷里の空前の災害であったことーー現に、添付写真にあ
るように、実家も流失し、親戚・友人・知人も被災し亡くなった方も少なくな
い 。こ の 郷 里 を ふ く め た 東 北 沿 岸 の 惨 状 に 、
「 自 分 も 何 か し な く て は 」と の 思 い 、
わずかのお金を町役場や同級会にお見舞いとして送っただけでいいのかーー力
もカネも技術も何もない、ナイナイづくしのこの小生が出来ることは何かー
ー?
――この現実を前にして、さしあたり小生ができそうなこと、それは結局の
ところ、この(人生の夕暮れ時にかかろうとして、夕焼けに輝くかどうか未定
の)研究者人生での、それなりにかけがえのない経験――なによりもその失敗
や後悔を、可能な限り次の世代に伝えていくことではないのか、という思いー
ー。
②「モノの復興」と「心の復興?」――
今 回 の 3 .1 1 で も 、す く な く と も「 モ ノ の 復 興 」は 、
(いささか突き放した
言 い 方 が 許 さ れ る と す れ ば )、お そ か れ 早 か れ 、そ し て 、そ れ な り の 程 度 に お い
て、成し遂げられるであろうーー現に、その66年前の3.10の東京大空襲
(等)で廃墟となった(ときどき写真やテレビなどでみる)あの震災後の東京
から、だれが今日の巨大ビルの林立する東京を想像し得ただろうか。広島・長
崎 の 被 爆 地 の 復 興 ま た 同 じ 。ま さ に 、こ の 国 に も ド イ ツ 同 様「 奇 跡 の 戦 後 復 興 」
は歴史的現実としてあったのだーー(むしろ、今回の3.11に直面して、ど
れ だ け の 人 が 、あ の 、ま さ に 人 災 そ の も の と し か 言 い よ う の な い 1 9 4 5 年 8 .
15の街や村、そして無念不条理の死を死ななくてはならなかったあまりにも
無数の人々のその無念の思いに、思いを馳せたというのだろうかーー新聞等で
ごく一部の戦中派といわれる人々がそうした感想を述べていたのが散見される
程 度 )。
と も あ れ 、こ の よ う に「 モ ノ の 復 興 」と い う こ と は 早 晩 あ り 得 て も 、
「ココロ
の 復 興 」と く に 、親 し い 人 を 突 如 と し て 失 っ た 人 々 の 心 に は 、
「 復 興 」と い う こ
80
とはありえない!モノは戻ってきても、ヒトは戻ってはこない。なかんずく、
親 が 突 如 と し て い な く な っ た 多 く の 子 ら の こ こ ろ 、こ れ か ら の 人 生 は ー ー 。
(そ
れにしても、おそらくは何十倍何百倍に及ぶであろうあの戦災孤児たちはどこ
でどのように育っていったのだろうーー小生も写真で見、ラジオで聞いた、あ
のガード下の靴磨き少年たちのこと、今も耳に残るラジオから聞こえてきた宮
城 ま り 子 「 靴 磨 き 少 年 の 歌 」 ― ― * 。)
― ― 要 す る に 、 天 災 、 人 災 、 自 然 環 境 破 壊 ― ― い ず れ も 、 目 に み え る モ ノ 、
そ し て 自 己 自 身 の 生 存 本 能 か ら し て 戦 わ ざ る を 得 な い も の に 対 し て は 、人 は 何
と か 汗 を 流 し 知 恵 を だ し て 自 分 を 守 る し 、そ の 結 果 、自 然 保 護 も 、災 害 復 興 も 、
遅 か れ 早 か れ 現 実 の も の と な る 、こ れ が 多 く の 歴 史 の 実 例 の 示 す と こ ろ 。而 し
て 他 方 、 目 に 見 え な い 心 の 「 災 害 ・ 破 壊 」、 と り わ け 自 己 自 身 を 守 れ な い 者 、
将 来・未 来 の こ と は 、後 回 し か 放 置 か 無 視 か― ― 。何 よ り も 、片 親 を 失 っ た 子 、
両親を失った子の、将来はーー。
* 本 趣 意 書 執 筆 中 に た ま た ま 目 に 留 ま っ た 2 0 1 2 年 1 2 月 4 日 朝 日 新 聞 投 書
欄・東京都主婦「踏みにじられた孤児の人生」によると、太平洋戦争で突然親
や家族を奪われた子ども達=「戦災孤児」=12万3千人以上(厚生労働省調
べ、ただし(親戚などの引き取り手なしの)浮浪児など含まず)で、
「その戦争
トラウマは生涯消えることなし」との悲痛な叫びを記している。
ちなみに東京大空襲が3・10でまさにあの3.11の前日であったこと、
3.11後のテレビ報道で知り、あらためて、あの戦争はなんであったのか、
津波じたいは天災である(むろん、自然が牙をむくこともあること、を軽視し
想定外と高を括る、要するに自然を甘くみる人間の傲慢さが招いた悲劇という
意味では、まさに人災でもあるがーー)としても、戦争、そして原爆は、まさ
に人災そのものであるだけに、その対比にいろいろと考えさせられたのは小生
ならずともーーというところであろう(しかし、新聞等でそうした視点で書き
語っていたのは、いまや少数となってしまった戦中派の僅かの方々のみであっ
たことも印象的であった。所詮ひとは経験によってしか物事が見れないという
こ と で あ ろ う か ー ー 。)( な お 、 朝 日 新 聞 歌 壇 に ア メ リ カ 在 住 の 被 爆 者 と い う 方
からの投歌として、
「これしきの被曝――」という趣旨の歌が載っていたのが小
生の目にも留まったことを、誤解をおそれずに、ここでエピソード的に紹介し
て お き た い )。 な お ま た 、 さ ら に 誤 解 を お そ れ ず に い え ば 、「 モ ノ の 復 興 」 は な
んだかんだいっても、そして遅かれ早かれ成し遂げられるであろうーーだれが、
あの一面の焼け野原の東京が今日のような東京に生まれ変わると想像しえたで
あろうか?而して「心の復興」、とくに親をなくし た子の喪失感は絶対的に癒さ
れることなきものではないのか(戦災孤児とか浮浪児とかいわれた沢山の少年
達、そして、中国残留孤児)ーー本プロジェクトがささやかながらそこにこそ
81
光を当てたいと思うのは、それゆえの思いがあるからである。それにしても、
あの千鳥が淵、および、両国・東京都戦災等慰霊館を訪ねたことがあるが、そ
の折感じた、そのコンクリートのなんとも無機質な建物のなかから、たちあが
ってくるような無数の死者たちの無念の思いーー。この国ははたしてなにより
もこれら無数・無念の死にたいし然るべき責任ある歴史的検証をはたしてきた
といえるのであろうかーー小生があらためて、1945年とそれに連なる18
68年とはなんであったのか、その批判的主体的検証なしに現在を語ることは
できないと切におもうのは、そうしたときである。
③わがオヤジ・オフクロのことーー
オ ヤ ジ・篤 造 は 、こ れ ま た 幼 く し て 母 親 と 死 別 し( そ の 回 想 録 に よ れ ば 、簡 単
な風邪かなにかの程度で医療さえきちんと整っていれば助かったかもしれない
命 と い う )、 さ ら に 父 親 ( 小 生 か ら は 祖 父 。 し か し 時 折 の お 墓 参 り の と き に 墓 石
の 名 前 と し て オ ヤ ジ が 教 え て く れ た 思 い 出 の み )と は 小 学 二 年 生 く ら い の 時 に 心
臓 発 作 か な に か で 死 別 。以 来 、孤 児 と な っ て 、当 時 の 農 漁 村 が そ う で あ っ た よ う
に 、 親 戚 ( た だ し オ ヤ ジ の ば あ い は 、「 回 漕 店 」 と い う 屋 号 の 、 三 陸 海 岸 に あ る
程 度 鉄 道 が 敷 設 開 通 す る 戦 前 ま で は 、石 巻 ― 八 戸 あ た り ま で の 汽 船 に よ る 港 湾 海
運 を 仕 切 っ て い た 、立 派 な 倉 庫 を 何 軒 も か か え る よ う な 運 送 業 者 で あ っ た )の と
こ ろ に 、年 季 奉 公 と い う 形 で 徴 兵 検 査 ま で( 満 2 0 歳 ? )世 話 に な り 、そ の 後 は 、
大橋村――小生はそこで生まれたーーの釜石鉱山の事務系職員として勤務しな
が ら 、三 回 の 召 集 、旧 満 州・中 国 大 陸 へ の 派 兵 ― ― と い う 兵 隊 人 生( 小 学 卒 で も
軍 曹 の 階 級 ま で い っ た の が 自 慢 で 、戦 後 も そ れ を 自 慢 し 、そ の せ い か 、近 所 の 親
戚 の・綽 名 を つ け る の が 得 意 な 叔 父「 YT に い さ ん 」が 、な ぜ か 子 ど も の 小 生 の
こ と を「 グ ン ソ ー 、グ ン ソ ー 」と 呼 ん で 冷 や か し た ! )を な ん と か 生 き 残 り( ニ
ュ ウ ギ ニ ア 戦 線 行 き の 予 定 が 、所 属 部 隊 の 列 車 の 都 合 か な に か で 、先 行 の 部 隊 と
は 紙 一 重 の 差 で 免 れ た の だ と い う )、 戦 後 郷 里 の 山 田 に 帰 っ て の 職 を 転 々 と し な
が ら 、最 低 貧 困 生 活 で の 、男 の 子 四 人 を 抱 え て の 大 奮 闘 の 人 生 ― ― そ の オ ヤ ジ が
生 前 何 か に つ け て 、( 上 記 ・ 回 漕 店 に は 、 本 当 に 親 身 の 世 話 に な っ た こ と 、 そ こ
で の 青 少 年 時 代 は そ れ な り に 充 実 し た も の で あ っ た ら し い こ と を 、な つ か し そ う
に 物 語 っ て い た し 、そ し て 、親 が い な い だ け に 、親 戚 づ き あ い と い う も の を 、本
当 に 大 事 に し て い て 、お 盆 の 時 の お 墓 参 り な ど 、こ こ の 墓 は こ れ こ れ の 親 戚 関 係
で ー ー と 説 明 し な が ら 方 々 の お 墓 を 回 る の が 毎 年 の 年 中 行 事 で あ っ た 。― ― に も
か か わ ら ず )、 特 に 両 親 が い な い 孤 児 と し て の 人 生 の 寂 し さ 、 不 安 と い っ た 気 持
ち を 、ふ と 漏 ら す こ と が あ っ て 、と く に そ の オ ヤ ジ が 定 年 後 の 手 な ぐ さ み の よ う
に し て 、昔 習 っ た と い う 尺 八 で 民 謡 な ど 吹 く こ と が あ っ て 、な ぜ か 寂 し い そ の 音
82
色 が 小 生 の 耳 に も 残 っ て い て 、今 で も 、CD で 尺 八 の 音 を 聞 く と 、オ ヤ ジ は ど ん
な思いでこの尺八を吹いていたのだろうーーとつい小生の目もうるんでしまう
こ と が あ る( そ の 小 生 も 定 年 に な っ て 暇 に な っ た ら オ ヤ ジ に な ら っ て 小 生 も 尺 八
や 民 謡 を ー ー と 思 い 、前 者 に つ い て は 東 京 に 通 っ て い た こ ろ 同 級 会 で 、長 年 の そ
の 道 の 名 手 K 君 か ら 頂 い た 入 門 書 と か CD な ど も 、 当 分 は ツ ン ド ク し か な い か
ー ー )。
他 方 、わ が オ フ ク ロ・チ ヤ ー ー そ の 母 た る 人( 小 生 か ら み れ ば 祖 母 )は 、出
産 の と き の 事 故 か な に か で 、お フ ク ロ が 生 ま れ た と き は こ の 世 に は な く 、片 親
だ け の 貧 乏 な 桶 屋( 桶 屋 の 長 五 郎 さ ん ー ー ち な み に 、街 道 一 の 大 親 分・清 水 の
次郎長の本名は山本長五郎、当然ながら全く関係はないーー無用の余談なが
ら )の 子 と し て 、小 学 校 卒 後 す ぐ 町 の 郵 便 局 に 勤 め て 電 話 交 換 手 な ど し て 家 計
を 助 け た( そ う し た 健 気 な チ ヤ に 同 じ 境 遇 の よ う な 篤 造 青 年 は 惚 れ た の で あ ろ
う ー ー も っ と も そ れ が オ ヤ ジ に と っ て 幸 福 だ っ た の か ど う か ー ー ! ? )。 と も
あ れ 母 は 貧 乏 生 活 が 身 に つ い て い る せ い か 、小 生 が 子 供 の 頃「 お か ず の 数 が 少
な い 」 と い っ て 不 平 が ま し い こ と を い っ た と き 、「 自 分 の 小 さ い こ ろ の 桶 屋 の
食 事 は 、ご 飯 ― 味 噌 汁 ― 漬 物 だ け と い う の が 普 通 だ っ た 」と い っ て 叱 ら れ た 記
憶 が あ る( も っ と も 、か つ て の 普 通 の 農 家 の 食 事 は そ ん な も の で あ っ た ー ー 盆
暮 れ と か の ハ レ の と き だ け 、食 い き れ な い ほ ど の ご 馳 走 。そ れ と 比 べ れ ば 今 は
毎 日 が 盆 暮 れ の よ う な も の ! )。
そ の 後 中 学 生 に な っ た 小 生 に「 お 前 の 年 頃 に は 私 は も う 働 い て 家 を 助 け て い
た 」「 あ ん ま り そ ん な に 勉 強 す る も ん じ ゃ な い 、 勉 強 し す ぎ る と 頭 が パ ー に な
っ て だ れ そ れ さ ん の よ う に 気 狂 い 病 院 に い か な く て は 、 な ら な く な る 」「 大 学
な ん か 行 か な く て も よ い 、大 学 に い く と 、ろ く な 人 間 に は な ら ん( こ の あ た り 、
学 歴 は な く と も 経 験 知 ゆ え の「 あ た ら ず と い え ど も 遠 か ら ず 」の 感 な く は な し
ー ー 小 生 ・ 註 )。 田 中 角 栄 は 小 学 卒 で 総 理 大 臣 に ま で な っ た で は な い か 。 ま た
近所の○○さんの子は中学卒だけでサケマス独航船に乗って一航海○○百万
円 も ら っ て 、親 の た め 立 派 な 家 を 建 て て や っ て 、ほ ん と に 親 孝 行 な も ん だ ー ー
( だ か ら お 前 も ー ー と ま で は 、 た し か 言 わ な か っ た ! )」 と 、 ど こ ま で 冗 談 か
分からぬ(そして今頃のママゴンが聞いたら卒倒するかキョトンとしそうな)
「 お 説 教 」 を し 、 他 方 、 小 生 の 方 は 小 生 で 、 反 抗 期 と い う こ と も あ り 、「(「 こ
の 親 に し て こ の 子 あ り 」、と い う 諺 が あ る け ど 、我 が 家 の 場 合 は )「 こ の 親 で も
こ の 子 、で は な い か 」と 食 っ て か か っ た 記 憶 が あ る ー ー 。そ ん な 世 間 一 般 の 常
識 か ら は 変 わ っ た 母 親 で も( と い う よ り も 、お フ ク ロ に し て み れ ば 、そ れ が 自
ら の 人 生 か ら 出 た 正 直 な 思 い 、ま た は お 袋 ら し い 屈 折 し た 自 己 表 現 で あ っ た の
で あ ろ う )、 小 生 が 学 年 一 番 の 成 績 を と っ て 小 学 を 卒 業 し た と き な ど 、 そ れ を
83
担 任 の 先 生 の・オ フ ク ロ の 電 話 交 換 手 時 代 の 旧 友 の 奥 さ ん か ら 聞 い て 余 程 う れ
し か っ た の か 、普 段 食 べ た こ と も な い よ う な 大 福 餅 か な に か を 買 っ て き て 、何
も 言 わ ず に 皆 に 食 わ せ た こ と を 覚 え て い る ー ー も っ と も 、そ の 後 ず っ と 一 番 で
通 し た 小 生 に た い し て 、 お 袋 は 、( あ り が た さ も 回 を 重 ね る と あ り が た み が 薄
れ る と い う 経 済 学 で い う「 収 穫 逓 減 の 法 則 」ど お り 、あ ま り 褒 め な く な く な っ
た ば か り か )「 学 校 秀 才 は 世 の 中 に で て ダ メ に な る 」 と 説 教 す る こ と 再 三 な ら
ずで、この最後の点だけは「予言的中」というところかーー。
お 袋 の 悪 口 が で た つ い で に も う 一 言 二 言 ― ― 小 生 は 遺 伝 的 に は ど う も 母 親
似 で 、と く に 、母 親 の 、涙 も ろ い と こ ろ 、情 に 流 さ れ や す く お 人 よ し な と こ ろ 、
ス ケ ベ な と こ ろ 、ボ ウ と し て 気 が 利 か な い と こ ろ 、わ が ま ま な と こ ろ( オ ヤ ジ
も そ れ で 苦 労 し た )、 体 質 的 に 虚 弱 で 自 律 神 経 失 調 気 味 な と こ ろ な ど 、 悪 い と
こ ろ は す べ て 母 親 似 の よ う な 気 が す る( オ フ ク ロ ご め ん ー ー こ れ に 反 し 、父 は 、
過 酷 な 人 生 経 験・生 活 環 境 に も か か わ ら ず 、上 記 肺 病 の と き 以 外 、風 邪 で 寝 込
ん だ 姿 を み た こ と も な い 位 、 丈 夫 な 人 で あ っ た )。
悪 口 ば か り だ と オ フ ク ロ に 祟 ら れ そ う な の で( ! )バ ラ ン ス を と る 意 味 で 最
後 に 一 言 三 言 ― ― オ フ ク ロ が 家 計 を 支 え る た め に 行 商 を は じ め と し て( 殻 つ き
の生牡蠣を 1 斗缶に海水と一緒につけて背負って小生の手をひいて農村部を売
り に 歩 く の は 、 ま だ 若 い こ ろ と は い え 、 か な り の 重 労 働 で あ っ た ろ う )、 い ろ
い ろ の 内 職 で 生 活 を さ さ え て 苦 労 し た こ と は 上 記 し た と お り で あ る が 、そ の た
め に 体 を 壊 し た の か 、心 臓 の 病 で 5 0 代 く ら い か ら は 寝 た り 起 き た り 入 院 し た
り で 、家 の 中 の こ と を 父 や 子 供 ら が 代 わ っ て や る ー ー 等 の こ と も あ っ た( 家 の
な か に 病 人 が い る と ど う し て も 家 が 暗 く 沈 ん で し ま い が ち で あ る こ と 、こ の と
きの経験としてもあるーーそれにしてもオヤジはそのオフクロを死ぬ直前ま
で 、ほ ん と に 模 範 的 献 身 的 に 看 護 し た こ と も 、小 生 も 時 折 帰 郷 の 折 に 見 て 覚 え
て い る )。 ま た 、 上 記 の よ う な 小 生 に た い す る 、 普 通 の 母 親 ら し か ら ざ る 発 言
等 も 、片 親 だ け で 育 っ て 若 い 頃 か ら 窮 乏 生 活 を 送 っ た が ゆ え の 、屈 折 し た 思 い
の 故 で も あ っ た ろ う ( 昭 和 40 年 代 以 降 の 高 度 成 長 期 の 、 モ ノ ・ カ ネ の 豊 か さ
を も と め て の 風 潮 は 、三 陸 の 田 舎 を も 変 貌 さ せ 、お 袋 は 保 険 の 外 交 員 で 人 が 変
わ っ た よ う に 生 き 生 き と 働 き は じ め た が 、そ の 中 で 、帰 郷 す る た び に 、お 袋 も
変 わ っ た な ー と 思 う こ と も 多 く 、反 発 し て「 テ レ ビ な ど 買 う 必 要 は な い 」な ど
と い っ た り し た 記 憶 も あ る が 、し か し 、そ れ は 今 に し て 思 え ば 、こ れ ま で の 想
像 を 絶 す る よ う な 窮 乏 生 活 に 対 す る 反 動 の 大 き さ 故 で も あ っ た ろ う と 、同 情 し
た く も な る 次 第 )。
オフクロ弁護談の最後に、まさに3.11にも関連する、母の「勲章話」1
題 ― ― 上 記・電 話 交 換 手( こ れ も 電 話 の ほ と ん ど が 自 動 化 さ れ ケ イ タ イ に な っ
た 今 で は 、死 語 と な り つ つ あ る 言 葉 で あ ろ う が 、す く な く と も 当 時 は す べ て 局
84
の 機 械 の ま え の 交 換 手 が 手 で 繋 い で い た )と し て( N さ ん 、U さ ん ら と )勤 務
し て い た 昭 和 8 年 三 月 三 日( こ の 日 は 小 生 の い た こ ろ の 小 学 校 で も 避 難 訓 練 の
日 で あ っ た が 、子 供 た ち に と っ て は 半 分 ふ ざ け あ い な が ら の 訓 練 で 、全 然 緊 張
感 は な か っ た ! ) 深 夜 午 前 2 時 、 明 治 ・ 三 陸 津 波 に 次 ぐ 大 津 波 (『 町 史 』 に は
な ぜ か 震 度 5 と し か 記 さ れ て い な い )が 押 し 寄 せ た と き 、三 陸 海 岸 南 部 の 局 か
ら の 緊 急 の 第 一 報 を 受 け て 、当 時 極 く 少 数 の 加 入 者 し か い な か っ た 電 話 の 保 有
者 と 警 察 に 津 波 の 襲 来 を 知 ら せ 、そ の 結 果( 通 信 手 段 が あ ま り 発 達 し て い な か
っ た 当 時 と し て は 、 す く な く と も 下 記 ・ 明 治 29 年 の 大 津 波 の と き の 被 害 と 比
べ る と 劇 的 に す く な い ) 死 者 12 人 ( 山田湾・船越湾沿岸町村あわせて) と い う
こ と で( 町 史・中 巻 1 2 1 3 ペ ー ジ )、「 逓 信 大 臣 賞 」と い う 粗 末 な 紙 切 れ 一 枚
の 賞 状 *( プ ラ ス ○ ○ 円 の 賞 金 )を も ら っ て 、そ れ が 、あ の 今 度 流 さ れ た 実 家
に も 、父 が き れ い に コ ピ ー し て 襖 の 天 井 に 飾 っ て あ っ た の を 覚 え て い る ー ー そ
れは、母にとって、ささやかながら、生涯唯一の「勲章」であった。
*なお上記「賞状」のコピーは以下のとおり::
「褒状
通 信 事 務 員 湊 チ ヤ 大 正 四 年 二 月 二 十
三日生
昭和8年三月三日三陸地方震災ニ際シ海嘯襲来ノ報ニ接スルヤ一身ノ危険ヲ顧
ス電話交換座席ニ止マリ急を警察官憲及自局電話加入者等ニ通報スル等克ク機宜
ノ措置を講シ町民ノ避難ヲ速ナラシメタルハ一般職員ノ模範ト為スニ足ルヨッテ
金参拾円ヲ授与シテ之ヲ褒ス
昭和八年七月十八日
逓信大臣従三位勲一等 南 弘」
――ともあれ、わが郷里はこのように、津波の記憶と重なることの多い郷里であ
る。それ以前の明治 29 年の「大海嘯」の被害は昭和8年のとき以上に深刻なもの
があったようであり、町史によれば、山田湾・船越湾沿岸全町村あわせて死者 2172
人でそれら町村の全人口が 9343 人であったことを考えるとその被害の甚大さが偲
ばれる。なおその当時の津波のことを直接聞いた記憶は少なくとも小生には ほとん
どなく、わずかに隣村の大沢村との境界あたりの海岸にその記念の石碑が立ってい
て、こどものころ「海嘯」って何だろうと思った記憶があるのみである。ようする
に、災害の記憶も、喉元すぎればーーということで、容易には伝承されない、とい
うことか。
― ― と も あ れ( 以 上 、つ い あ れ こ れ 思 い 出 す こ と も 多 く 脱 線 的 余 談 続 き で ハ ナ
85
シ の 本 筋 が 見 え 難 く な っ て し ま っ た が 、要 す る に )我 オ ヤ ジ・オ フ ク ロ は と も に 、
上 記 の よ う に 片 親 ま た は 両 親 の な い 子 供 時 代 を 過 ご し 、 何 か に つ け て 、「 親 が そ
ろ っ て い る っ て こ と は あ り 難 い こ と な ん だ ぞ 」ー ー と 我 々 に も 何 か の 折 に 説 い て
聞 か せ( し か し 残 念 な が ら 、子 で あ っ て も 、親 の そ う し た 人 生 体 験 の 辛 さ 悲 し さ
は、所詮言葉でしか伝わらず、実感としてはなにも伝わらない!それどころか、
反 抗 期 に は「 親 な ん て い な く て も 良 い 」、と 悪 態 を つ い た り ー ー )、ま た 、自 分 達
の 家 だ け で も 食 う や 食 わ ず の 貧 乏 所 帯 な の に 、当 時 、町 の な か に も 結 構 い た( 親
戚 の )孤 児・片 親 だ け の 兄 弟・子 な ど に も 、な に く れ と な く 、温 か い 目 を 注 い で
い た こ と 、そ う い う 立 場 を 経 験 し た も の だ け が も ち う る や さ し さ な の だ ろ う ー ー
と 傍 で み て い て 感 じ た も の で あ っ た (「 苦 労 知 ら ず で 育 っ た 人 間 は 得 て し て 冷 た
い 人 間 が 多 い が 、逆 に 貧 乏 人 の 方 が 貧 乏 人 に や さ し く な れ る 」と 親 父 は よ く 言 っ
て い た が 、こ れ は 小 生 自 身 の 実 感 と し て も あ る ー ー も っ と も 小 生 は 、親 に 対 し て
も 冷 た い 個 人 主 義 者 と し て 振 舞 う 傾 向 が 多 か っ た ゆ え に 、親 不 孝 人 間 と し て 親 の
目 に は 映 っ て い た か も し れ な い が ー ー )。
― ― 以 上 、幼 児 の と き 親 が い な い こ と が ど れ だ け 子 供 の 生 涯 に と っ て 辛 い 影 を
お と す も の で あ る か 、そ れ を 小 生 は 自 ら の 両 親 を 通 し て 聞 か さ れ る こ と が 多 か っ
た と い う こ と 、と く に 、息 子 の 小 生 の 目 か ら み て も 非 常 に 有 能 で あ っ た オ ヤ ジ ー
ー 定 年 後 に 再 開 し た 上 記・尺 八 も バ イ オ リ ン も 、ま た 詩 吟・書 道 も 、詩 吟 を 除 き
ほ と ん ど 自 己 流 で 覚 え た と の こ と で 、残 念 な が ら そ の 才 能 は 、小 生 を ふ く め 兄 弟
4 人 だ れ も 受 け 継 い で い な い ! ― ― が 、両 親 が い な い ば か り に 上 の 学 校 に も い け
ず 、い ろ い ろ 悔 し い 思 い 無 念 の 思 い を し て 生 き て き て 、と く に 酒 が 入 る と( 飲 み
た い 酒 も 飲 め ず 、た ま の 冠 婚 葬 祭 の と き の タ ダ 酒 を 飲 む く ら い が 楽 し み の 人 生 ―
― )人 が 変 わ っ た よ う に「 な に 、あ の 無 能 の バ カ 者 が ー ー 」と 町 の 誰 彼 の 悪 口 三
昧となり、それがまた裏返された形での、変に卑屈な権威主義的言動ともなり、
― ― と 、そ の よ う な 姿 を 身 近 に み て い た だ け に 、小 生 に は そ の オ ヤ ジ の 、早 く か
ら 両 親 な く し て 育 っ た 無 念 ・怨 念 の 声 、オ フ ク ロ の 屈 折 し た 思 い 、が 、今 に な っ
て小生の背中から後を押しているような気がするのである(そしてそれはまた、
や や 形 を 変 え て 、子 と し て の 小 生 自 身 の 無 念・怨 念 と し て も 滞 留 し 続 け た も の で
も あ る )。 そ れ 以 外 に も 、 自 分 の 身 の 周 り に も 、 ま た あ れ こ れ の 見 聞 を 通 し て 、
「 親 な き 子 」に 特 有 の 精 神 構 造 を あ れ こ れ 感 じ る こ と も あ っ た こ と も 事 実 ― ― も
っ と も 文 学 者 の な か に も 結 構 そ う し た「 親 な き 子 」と し て 育 っ た 人 も い て 、だ か
ら こ そ 鋭 い 人 間 観 察 が 可 能 で あ っ た 、と い う 人 も 少 な く な い こ と に 気 付 く( 小 生
が 直 接 知 っ て い る 事 例 も 多 い が 全 部 省 略 )。 そ し て さ ら に 、 自 分 自 身 の 成 長 期 か
ら 今 日 ま で に 経 験 し た 、あ れ こ れ の 序 列・格 差・差 別 へ の 憤 り 、そ う し た 小 生 自
身 の 原 体 験 が 、 本 趣 意 書 冒 頭 の よ う な 、 叫 び に も 似 た 理 念 的 宣 言 ( と く に 、「 せ
め て 、人 生 の ス タ ー ト ラ イ ン で の 機 会 の 平 等 を 」、と い う 叫 び へ の 動 機 )、ひ い て
86
ま た 、震 災 遺 児 に 焦 点 を あ て た 学 習 支 援 と い う 今 回 の 支 援 プ ロ ジ ェ ク ト 立 ち 上 げ
の 、そ の 精 神 分 析 的 根 底 に あ っ て 、そ れ へ の 小 生 な り の 個 人 的 動 機 と な っ て い る
ことは否定できない。
④「逆境人間」としての個人的感慨――
「自分には、多くの子供たちに、他ならぬ自分だからこそ、伝えられること、
伝 え る べ き こ と も あ る の で は 」、と い う 思 い 、一 般 に 、現 在 世 代 が そ の 体 験・経
験を、未来世代に伝えたいこと、伝えるべきこと、活字とか抽象理論とかでは
絶対に伝わらない、伝えられないことは、少なくなく、それはしかも、一般的
な社会や国家の歴史には還元しえない、個々人固有の自分史であるほかない。
「近頃の若者はーー」と何度も繰り返されてきた愚痴だけを永遠の時間の闇の
な か に 流 し て し ま う の で は な く 、伝 え る べ き も の を 整 理 し て 形 に し て 遺 す こ と 。
と く に 、小 生 の 見 る と こ ろ 、( 自 慢 た ら た ら の )成 功 譚 か ら 学 ぶ こ と は あ ま り な
く、むしろ、人生の苦労・貧乏・失敗・挫折・後悔からこそ後行者は学べるこ
とが多いのではないか(小生がかねてーー3.11の前から、医療事故問題の
発展系として関心をもってきたリスク(マネージメント)論の一環としてのー
ー『失敗学』の人生版)ーー
以下はそのような小生自身の人生のなかでの(ささやかながらも)あれこれ
の「逆境」体験を少々ーー
「逆境・その1: 貧 乏 体 験 」
・戦後の、あの東北・岩手の三陸の漁村での、今の暖衣飽食の生活からは想像
もできないような、貧困のどん底そのものの衣食住(とくに、5歳から14
歳 く ら い ま で 釜 石 か ら 来 て 移 り 住 ん だ 、山 田 線 の 線 路 が す ぐ 目 の 前 に せ ま る 、
農 家 の 物 置 を 改 造 し た だ け の 、自 称「 ブ タ 小 屋 」。そ こ に 、6 畳 ほ ど の 板 敷 き
と 8 畳 ほ ど の 畳 の 部 屋 に 親 子 6 人 が 暮 ら し た )。育 ち 盛 り の 男 の 子 4 人 の 兄 弟
を食わせるために、オヤジはいろいろな食糧自給のために、がんばったし、
なによりも、
(それでもある時期から安定した職であった農業共済職員として
の)少ない給料を補うために昼の勤めを早めに切り上げて、町の主要産業で
あったイカ釣り船に乗せてもらっての夜のアルバイトーー大漁だと夜中じゅ
う釣って夜明けごろ帰ってきて朝少し仮眠をとって農協の勤めにでるという
過酷な日課、その無理がたたったのか結核の一歩手前の肺病にかかって、そ
れでも何とか入院もせずに衛生兵時代の知識*をもとに自分でなんとか治す。
母 も( 上 記 の よ う な )行 商 、頼 母 子 講 、保 険 外 交 員 、と ほ ん と に よ く 働 い た 。
兄弟も、小生をはじめ、その母親の内職の手伝いのほか、掃除・洗濯(洗濯
機 の な い 時 代 の 冷 た い 水 で の 洗 濯 の つ ら さ ! )・( 近 所 の 共 同 井 戸 か ら の ) 水
汲み(当時の「黄害」列車が毎日何本も走るすぐ傍の井戸――あれでよく病
87
気にもならずに生きていた:もっとも、だから、ろくな栄養も取らずによく
成長した!?)等の家事一切をはじめ、新聞配達、近所の親戚(まさに屋号
も「 海 苔 屋 さ ん 」)の ノ リ 作 業( と く に 、冬 の 朝 早 く 、暗 い 内 か ら 起 き て 、爺
さんが小型の長方形のせいろ様のものの上に敷いた生ノリを一枚一枚干し場
に 運 ん で 乾 し て い く 作 業 )へ の 手 伝 い 、燃 料 用 の 薪 や 杉 の 葉( 方 言 で ス ン パ )
とりなど、
(ろくな食べ物もないのにーーバナナなど一年に一回の運動会か遠
足に食べられればいい方)本当によく働いた(子供は当時の農山漁村でなに
よ り も 貴 重 な 労 働 力 で あ っ た )。
* 兵 隊 と し て ず っ と 後 衛 の 衛 生 兵 で あ っ た せ い か 無 事 生 還 し た の は 幸 い で あ
ったが、しかしその軍隊式の生兵法で、下痢しても天ぷらを食わせられ(「シ
ナ 人 ど も は そ う し て い る 」 と の 理 由 を つ け て )、 歯 並 び が 悪 い と い っ て 無 理
に歯列矯正をやらされーーと、小生の胃腸弱の原因とか(甘いものをあまり
食う機会がなかったせいか、虫歯が一本もないことが、体の弱い小生の唯一
の自慢の種であったのに)早期の入れ歯の、すくなくとも「直接の遠因」を
つ く っ た の も オ ヤ ジ で 、 斯 く の 如 く に 、「 親 必 ず し も 子 の 幸 福 を 保 証 す る も
のにあらず」ーーこれオヤジの悪口というよりも、未来世代幸福論の本 NPO
立 ち 上 げ の 趣 旨 に も 関 わ る 問 題 ゆ え 一 言 あ え て ー ー と い う こ と で 、「 オ ヤ ジ
許せ」。 た だ な り よ り も 一 番 厭 な 思 い 出 は 、 オ フ ク ロ が 、「 オ ヤ ジ の 給 料 が 少 な い 、
や っ て い け な い ー ー 」、な ど と 、わ れ わ れ 子 供 の 前 で オ ヤ ジ を 、な じ る 、け な
す、ぐちる(オヤジはだまって聞いていたーー)のを聞くことで、後年、学
生 時 代 の 愛 読 書 の 一 つ で あ っ た『 啄 木 全 集 第 一 巻 』
(岩波のクロス版を盛岡の
古本屋で買って、講義をさぼっては、まさに不来方のお城跡に寝転んで読ん
だ記憶がある。今も、赤黒く変色して手元にある、ときどき取り出しては鉛
筆 で 印 の つ い た 愛 歌 を 読 み 返 す こ と も あ る ) の 中 に 「 わ が 抱 く 思 想 は す べ て 金 な き に 因 す る ご と し 秋 の 風 吹 く 」 に 共 感 し た の も 、 そ の せ い か ?
――ただ、そうした貧しい生活ではあったが、額に汗して働く労働の辛さ
尊さを体を通して学び(涙とともにパンを食べたことのない人間にはパンの
本 当 の 味 は 分 か ら な い ! )、と 同 時 に ま た 、周 り の 自 然 の 豊 か さ の な か で 、自
然と一体となって遊んだことなど、戦後岩手の漁村だからこそ味わえた・消
えることのない貴重な体験としてある(しかしまた、そうした貧乏生活のわ
りには、小生は、金銭的には全くの無縁無関心人生という感じであり、また
本・趣意書からも窺われるように、カネにも名誉にも縁がないのに精神貴族
志向だけは人一番強烈ということで、それもこれも要するに、そして良かれ
悪しかれ、小生の子供の頃からの読書のお陰(または、せい)ということに
尽 き る よ う に 思 う )。
88
「逆境・その2:「無名三流高校」体験」
小 生 が 子 供 の こ ろ か ら「 本 の 虫 」人 間 で あ っ た こ と は 既 に 述 べ た が 、そ の せ
い か( 最 低 の 学 習 環 境 な が ら )小 中 高 と 何 時 も ト ッ プ の 成 績 で あ っ た こ と( エ
ヘ ン )、そ し て 家 の 経 済 状 態 で は 選 択 の 余 地 な く( し か し 、
「 勉 強 な ん か 、ど こ
に 居 た っ て で き る 」と 強 が っ て )入 学 せ ざ る を 得 な か っ た 地 元 の 高 校 =( か の
「 青 森 山 田 高 校 」と ち が っ て 、す く な く と も 天 下 の 有 名 高・一 流 進 学 校 の 範 疇
か ら は 外 れ る 、わ が )山 田 高 校 は 、す く な く と も 大 学 受 験 の 点 で は 、多 く の 人
は 就 職 組 で 、進 学 者 は「 1 0 年 に 一 人 国 立 大 学 に 受 か れ ば 御 の 字 」と い う 、受
験 勉 強 の 環 境 と し て は 最 悪 の 環 境( 小 生 卒 業 の 後 は 大 分 改 善 さ れ 、後 輩 も 大 分
頑 張 っ て い る 様 子 で 心 強 い か ぎ り ー ー )。 そ れ で も 、 小 生 は 本 当 に よ く 勉 強 し
た ー ー 先 生 方 も 同 じ 小 さ な 町 に 住 ん で い る メ リ ッ ト を 生 か し て 、と く に 英 語 の
S 先 生 の と こ ろ に は 分 か ら な く な る と 夜 自 転 車 で 走 っ て い っ て 、教 え て も ら う 、
学 校 の 行 き 帰 り は わ ざ わ ざ 田 ん ぼ を 遠 回 り し て 単 語 の 勉 強 、情 報 の 少 な さ は ラ
ジ オ の 受 験 講 座 を 一 生 懸 命 聞 い て 補 う ー ー 等 の 頑 張 り の 連 続 で 、努 力 の 積 み 重
ね 、 逆 境 に 負 け て な る も の か と い う 気 迫 、「 あ ん ま り 勉 強 す る と ア タ マ が パ ー
に な る 」 と オ フ ク ロ に 止 め ら れ て も や り ぬ い た ガ リ 勉 、 そ の お 陰 か 、( 当 時 、
東 北 地 方 の 国 立 大 学 の う ち 一 期 校 は 東 北 大 学 と 岩 手 大 学 の 二 つ だ け で 、浪 人 の
余 裕 な ん か な い 家 庭 環 境 の も と で は や む な く )岩 手 大 学 を 受 験 、し か し 、そ の
入学試験は岩手大学はじまって以来の高得点のトップであったということで、
上記 S 先生もわざわざ小生の家に興奮して報せにきたこと、大学の教官たち
も「 あ の 無 名 の 山 田 高 校 の 出 身 者 が 」ー ー と 皆 び っ く り し て 、入 学 後 に は そ の
教 官 た ち か ら 岩 手 大 学 の 寮 に 電 話 が か か っ て き て 、そ の 教 官 の 知 り 合 い で 盛 岡
の 学 校 に 来 て い た 山 田 町 や 大 槌 町 の 金 持 ち の 息 子・娘 の 家 庭 教 師 を 頼 ま れ た り 、
と い う こ と も あ っ た ( ま た ま た 、 エ ヘ ン ! )。 そ し て 、 6 0 年 安 保 の 挫 折 ― 農
村調査での小繋事件=入会権訴訟事件との出会いー(第二の!)初恋の人 F
さ ん と の 実 ら ぬ 出 会 い を 経 て 、「 法 律 の 救 済 を も と め て 戦 っ て い る 人 民 の た め
に 自 分 も 弁 護 士 に な ろ う 」と 決 心 し て の 、一 年 数 ヶ 月 で の 岩 手 大 学 退 学( だ か
ら 小 生 の 正 式 な 学 歴 は 、下 記・東 北 大 学 の 前 に「 岩 手 大 学 中 退 」と 書 く べ き な
のですーーもっともそんなこと今更他人にとってはどうでもよいことゆえい
ま ま で も 履 歴 書 に は 一 度 も 書 い た こ と は な い )― 郷 里 に 帰 っ て の 、退 路 を 断 っ
て ゆ え の( 再 び の )猛 勉 強 、そ し て 東 北 大 学 法 学 部 で の 学 生 ― 助 手 の 8 年 間 の
迷 妄 に 満 ち た 模 索 の 青 春 時 代 ― ― こ れ が 、小 生 2 0 代 ま で の 人 生 の 大 急 ぎ で の
簡 単 な ス ケ ッ チ で あ る が 、な に よ り も 、自 分 は そ こ で 、逆 境 を な ん と か 自 分 の
努 力 ・ 頑 張 り で 乗 り 越 え て き た 、 と い う 自 信 の よ う な も の ー ー IQ の 点 で は 小
生よりも上の人もいたし小生も少なくとも天才だとはおもってはいない(!)
89
が 、た だ 岩 手 県 人 ら し い 、こ つ こ つ 努 力 す る 粘 り 強 さ だ け は ー ー 後 掲・高 村 光
太 郎 の 詩 に あ る よ う な ー ー 人 一 倍 あ る と 自 負 も し て い る 。そ し て 人 生 に お け る
そ う し た 自 信 、そ こ で の 努 力 の 大 切 さ 、逆 境 が 長 い 人 生 の な か で は か え っ て 人
に 強 さ を 与 え 、恵 み と な る こ と も 少 な く な い の だ ー ー 等 の 人 生 訓 は 、誇 り を も
って子供たちにも伝えられるのではないかーー。
と も あ れ 、そ れ ら を 通 じ て 小 生 は 、東 北 人( と い う よ り も 、岩 手 の 人 ? )特
有 の 、じ っ と 寒 さ を 耐 え て 春 を ま つ「 さ な ぎ 」の よ う な 忍 耐 力 、愚 直 な 粘 り 強
さ を 鍛 え ら れ た よ う に も 思 う し 、い ま ま た 、こ の 北 海 道 で の 長 く き び し い 冬 を
堪 え て こ そ 、あ の(「 美 し き 5 月 」な ら ぬ )春・6 月( ! )「 待 っ て ま し た 、と
ばかりに、まさに一斉に」花開く感のある、あの草花が目に沁みるーー。
「逆境・その3:学 生 ― 大 学 教 官 ― 生 活 者 と し て の「 X 転 び 、X+ 1 起 き 」の 挫
折=満身創痍 ( ? ) 体 験 」
す で に 上 記 で も 何 度 か( 恥 を し の ん で 敢 え て )
「 告 白 」し た よ う に 、
「シュトル
ム ウ ン ト ド ラ ン グ 」の 若 き 日( こ の 語 も い ま や 死 語 ? )に お け る 、政 治 的 に
は 社 会 主 義・革 命 思 想 か ら の「 転 向 」= 挫 折 、宗 教 的 に は 結 局 な ん ら か の 既 成 宗
教に帰依することもできずに「脱宗教派」ともいうべき立場=「永久漂泊の旅」
へ の 再 帰 着( 小 生 に は 今 で も 、若 き 日 に よ ん だ『 憂 鬱 な る 党 派 』か『 さ れ ど 我 等
が 日 々 』だ っ た か の な か の 一 節「 信 じ る っ て こ と は 、楽 に な る っ て こ と だ か ら ね
ー ー 」と い う 言 葉 が 、身 に 沁 み る ー ー )― ―( 小 生 の 人 生 は と も す れ ば 、表 面 の
履 歴 だ け を み て 、大 学 と い う 無 風・安 全 地 帯 の な か で 、小 心 よ く よ く と 安 全 コ ー
ス を 踏 み 外 さ ぬ よ う 怪 我 を し な い よ う 、利 口 に 安 穏 と 過 ご し て 来 た か に 思 わ れ る
か も し れ な い し 、そ れ は 一 面 の 真 実 で は あ る が 、し か し )日 本 社 会 の な か で の 一
組織としての大学=学問の世界で、力もないのに反骨精神だけは人一倍旺盛で
( 空 気 を 読 め な い K Y 人 間 と い う よ り も 、敢 え て 空 気 を 読 ま ず に 、人 事 と か 学 位
と か で 学 者 的 正 義 感 の み に か ら れ て 、慣 習 法 破 り の 発 言 を し て 、後 日 ひ ど い イ ジ
メ に あ っ た り )( と く に 、 あ る 時 期 か ら は 、 グ レ て ! ) 学 者 バ カ 的 一 匹 狼 を 貫 い
た が ゆ え の 、満 身 創 痍 の・損 な 生 き 方( も っ と も 、研 究 会・講 演 会 で の 、完 ぺ き
主 義 ゆ え の プ レ ゼ ン の ま ず さ 、そ し て あ る 時 期 か ら 、そ の 気 に な ら な く て は モ ノ
が 書 け な く な る 、す く な く と も 共 同 体 的 強 制 に よ る 論 文 執 筆 の 拒 否 の 姿 勢 な ど の 、
研 究 者 的 吾 が ま ま 、そ の 他 、研 究 者 と し て の あ ま り に 無 駄 多 き 、回 り 道・模 索 ・
彷 徨 な ど 、 小 生 の 側 の 自 業 自 得 的 要 因 も 、 反 省 点 と し て は い ろ い ろ あ る )、 そ し
て な に よ り も 個 人 的 な 家 庭 生 活 の 面 で は 、 今 も そ の 古 傷 = PTSD に 苦 し ん で い
る「 離 婚 体 験 」* ― ― と は い え 、む ろ ん 、こ れ ら が 果 た し て「 挫 折 」
「逆境」
「満
身 創 痍 」と い え る ほ ど 深 刻 な も の か は 、世 の 中 に は も っ と 残 酷 な 不 運 不 幸 を 経 験
し た( ま た は 、し つ つ あ る )人( 大 学 の 中 だ け で も 、例 え ば 、折 角 の 有 能 な 学 問
90
的才能、人物としての魅力(人物・学問ともに尊敬に値するという稀有の事例)
に も か か わ ら ず 、「 女 」 の 問 題 で つ ま ず い て 、 そ れ ら を 十 分 開 花 さ せ ず に 短 命 に
終わった、E 先生・H 先生などの、幾つかの敬愛すべき先輩研究者の例など)
は 沢 山 い る こ と 小 生 も 承 知 で あ る だ け に 、「 い さ さ か オ ー バ ー な ー ー 」 と の 批 判
はありうるであろう。
ともあれ少なくとも主観的には挫折多き人生であったとの思いは否定し難い
も の が あ り 、そ れ も「 ど う せ 器 用 に は 生 き ら れ な い 」自 分 自 身 の 弱 さ 愚 か さ 故 の
自 業 自 得 と い わ れ れ ば そ れ ま で で あ る が 、 見 方 に よ っ て は し か し 、「 虎 穴 」 に 入
っ て み て 初 め て 体 験 で き る( ま た は 虎 穴 に 入 っ た こ と の な い 人 間 に は 分 か ら ぬ で
あ ろ う )「 虎 児 」 的 体 験 ( ? ) と い う も の も あ り 、 す く な く と も ま さ に 「 蹉 跌 は
証 し 」( 高 村 光 太 郎 ) で あ り 、 挫 折 は 、 小 器 用 と か 安 逸 と か 思 考 停 止 ・ 怠 惰 と は
反 対 の 知 的 人 間 的 誠 実 の 証 し で も あ り う る( 上 記・光 太 郎 の 詩 に は 玩 具 の タ バ コ
は 燃 え 落 ち る こ と が な い 、む し ろ 蹉 跌 こ そ 人 間 で あ る こ と の 証 し な の だ 、と い う
趣 旨 の フ レ ー ズ が あ っ た と 記 憶 す る )と い う こ と も 真 実 で あ っ て 、そ し て な に よ
り も 、上 述 の よ う に 、人 は 他 人 の 成 功 か ら で は な く 、挫 折 を 含 め た 失 敗 か ら こ そ
多 く の 教 訓 を 得 る こ と が で き る は ず の も の で あ る か ら 、小 生 の そ う し た 挫 折 体 験
は 未 来 世 代 に と っ て も 伝 え る 何 が し か の 価 値 が あ る 、と い う こ と に も な ろ う ー ー
「 流 し た 涙 の 数 だ け 」他 人 に も 優 し く な れ る の は 演 歌 の 世 界 の 話 で あ ろ う が 、し
か し 、す く な く と も「 流 し た 涙 の 数 だ け 」人 の 痛 み 、人 の 真 実 は 分 か る よ う に な
る と い う の は 真 実 で あ ろ う し 、す く な く と も 挫 折 や 失 敗 や 回 り 道 を 恐 れ て は な ら
な い と い う 、ま さ に こ れ か ら の 日 本 社 会 を 担 う 若 い 世 代 に と っ て 最 も 重 要 な メ ッ
セ ー ジ を 、た ん な る 上 滑 り の 言 葉 だ け の メ ッ セ ー ジ と し て で は な く 、伝 え ら れ る 、
何がしかのものが、そこにはあるという自負もある。
*これは小生にとって、もっとも触れたくない、触れて欲しくない、古傷の一つで
ある
(実際に不眠と精神的不安定状態が続き、精神病院めぐりで一時は欝病と診断され
たこともあり、今も少なくとも不眠と高血圧の PTSD には苦しめられてもいる)
――而して、「夫婦喧嘩は犬も食わない」が、人の離婚の話の方は「他人の不幸話
は蜜の味」、どうせ週刊誌的ノゾキの興味半分でしか聞いてくれないし、どうせ体
のいい噂話のタネになるのがオチ、というのが小生じしんの人生訓でもある。ー
ー実際にも、全く思いも寄らぬ形で某研究者がばら撒いた小生の離婚をめぐる無
責任かつ悪意ある中傷的噂話が、学界という狭い世界ゆえの全国版で拡散してい
るらしいことなど、(離婚そのものの苦しみもさることながら、それに絡まる・そ
の後のーー離婚という一事さえなければ味わわずに済んだであろう・もろもろの
屈辱・苦痛、そして、渡らずに済んだかもしれない・もろもろの「危ない橋」な
91
ど)あれこれのこと故の PTSD の心の傷もふかく、この点での人間不信は、抜き
難いものがあり、単純に自業自得と決め付けて欲しくない気持ちもあり、つい筆
は激してくるーー。
ただ、なによりも本 NPO 立ち上げの個人的動機を理解していただくためにも、
とくに、なぜ小生が(抽象理論の世界に自己満足して自閉する冷たい学者先生の一
族と思われがちな)この小生が、遺児とか不幸な立場におかれた子どものこととか、
親子関係のことに、これだけ執着するのかを分かってもらうためにも、すくなくと
も 下 記 二 点 は 触 れ な い わ け に は い か な い( む ろ ん 、上 記 の よ う な 、小 生 の オ ヤ ジ ・
おフクロの不幸な生い立ちも、もう一つの重要な個人史的背景としてはあるがー
ー):
それはなによりも、二人の子を、離婚の結果、ほとんど「父親のいない二人の子」
にしてしまったという、自責の念、何の罪無くして生まれた子らに、碌なことをし
てやれなかったと言う罪の意識、終生消えることなき負の遺産を残してしまったと
いう負い目、――こどもが居なかったら(一時の若気の至りゆえの選択の間違いと
して)こんなには苦しまなかったろう(そのいみでもまさに藤原定家(?)の歌で
はないが、子というものは、親にとっての「惑い」の因となる最大の「心の闇」で
ある)。
そ し て ま た 、 そ う し た 自 分 自 身 の 人 生 体 験 の な か で の 「 制 度 の カ ベ 」 と し て 苦
汁を味わわざるを得なかった、現行家族法の問題点、とくに親子法の問題点――
ただし、それはとくに自分自身の専門研究分野であるだけに、少なからぬ問題関
心をよせざるを得なかったテーマであり、これまでもそれなりの勉強を重ねてき
ているのも、そうした個人的背景もないわけではないが、しかし、むろんそれは、
研究者としては当然のことながら、そうした一個人の事情を超えた(あるいはそ
れをより普遍的理論的に昇華させた、上述のような)もっと一般的な理論的制度
論的問題関心・問題意識の次元のことであること、ここで同時にお断りしておき
たい。
いずれにせよ、小生が法学部での家族法の講義第一回で必ず紹介した、トルス
トイ『アンナ・カレーニナ』の冒頭の一節ではないが、「幸せな家庭はみな同じ顔
をしているが、不幸な家庭はそれぞれに異なる不幸な顔をしている」という言葉
が小生には身に沁みるのであり、それだけにまた、活字だけの生半可な知識だけ
で、一遍の抽象概念だけで、人それぞれに多様な苦しみを一括して括られること
(況や、週刊誌的興味本位の噂話とされること)への激しい拒絶感が本能的に反
応するのである。
⑤神戸大震災後=ヴぉランテア元年で見た「人々の善意」と、小生自身
のその後の NPO 研究への関心、実践――
92
神戸大震災後に澎湃として起こった「ヴぉランテア元年」といわれる現象を
目 の あ た り に し て 、( 自 分 自 身 も ふ く め て 、狭 い 大 学 社 会 で の 人 間 模 様 に ウ ン ザ
リ し 、人 間 不 信 に な り か け て い た だ け に )「 こ の 国 も 、人 間 も 、ま ん ざ ら 捨 て た
ものではないなーー」というある種の新鮮な感動を覚えたのも事実で、以前か
ら(わが恩師・広中教授の影響も下地としてあって)興味をもっていた無償法
とその延長線上での非営利組織論の実践的かつ理論的な重要性・意義といった
ものに改めて目覚め再認識した次第であるーーつまり、それは、経済システム
としての市場システムおよび(政府=統治権力の税―財政という制度・機構を
通 じ て の )「 再 配 分 シ ス テ ム 」と 並 ん で 、歴 史 的 に も 現 代 的 に も 重 要 性 を 有 す る
(贈与・ボランテア等の無償ないし互酬的関係――行為論と組織論――を総称
し て の )「 互 酬 シ ス テ ム 」の 現 実 的 重 要 性 と 、そ れ に も か か わ ら ず 、こ れ ま で の
経済学的法制度論的検討の不十分さ、の再認識ということである。
そ の よ う な 問 題 意 識 を 背 景 と し て 、 自 ら 北 大 と 札 幌 市 内 の 研 究 者 と 研 究 会 を
組織したり、文科省・科研費をもらって共同研究を組織したり、当時発足した
( 阪 大 の 本 間 教 授 や 山 内 教 授 ら を 中 心 と す る )NPO 学 会 等 に は 第 一 回 総 会 か ら
かなり熱心に参加して(例によって執行部に批判的なことばかり言っていって
い た 小 生 が 、し ま い に は 理 事 に ま で さ せ ら れ た )、理 論 的 実 践 的 に い ろ い ろ 新 た
な知見として得る所も多く、それらを背景として、小生自身の研究成果の一端
を 、さ し あ た り 、成 立 し た ば か り の NPO 法 に つ い て の 批 判 的 研 究 と し て 、北 大・
法学部の「紀要」にも論文*を発表し、この面では、もう一つの医療ないし生
命科学と法・倫理関係の研究テーマと並んで、自分としては現役時代かなり集
中 し て 勉 強 し た テ ー マ で あ っ た 。そ れ だ け に 、こ の 中 断 し た ま ま に な っ て い る 、
非営利組織論(ないし「行為論」としての贈与・無償関係論)を、単なる研究
テーマとしてではなく、いわば実地にみずから実践していくなかで、現行法制
の問題点などもリアリテーをもって受止め、新たな研究視点・問題点も発見で
きるのではーーというような問題意識も、やや副次的ながら、ないわけでは、
ない。
*(「「非営利法人」法制改革(2006年)の批判的検討(1)(2)(3)」北大法
学論集58巻3号、4号、6号)。ただし、これまた、とくに「信託法」「法人論」
という巨大な問題群のカベと主観的にはかなり一生懸命格闘したにもかかわらず、
なおそれらの(これまた遠く古代ローマ法にまで遡らざるを得ない)歴史研究の
必要性を感じつつ、その時間的余裕を見出せぬまま、未完に終わっているが、将
来的には、
「現代日本民事法体系・原論」の一環として、営利的組織との対比的視
点のもと組織法制論として、まとめる構想をもっている。
⑥自分自身の人生問題としての、鶴の恩返し=「互酬」的思いーー
93
以 上 の よ う な 利 他 的 = 非 営 利 で の 社 会 貢 献 へ の 思 い は 、た ん に 、上 記 の よ う な 、
理 論 的 一 般 的 な 次 元 の 問 題 と し て だ け で は な く 、よ り 個 人 的 な「 自 分 自 身 の 人 生
問 題 」で あ る と の 感 も つ よ い ー ー と く に 、古 希 の 坂 を 越 え て 、あ の 世 や ら と か へ
の ( 不 帰 の ) 旅 立 ち の 日 も 、( 2 0 年 後 か 3 0 年 後 か 、 は た ま た 、 明 日 か ! ? )
と も か く も 、「 よ り 近 く な っ て 来 た ー ー 」 と 実 感 す る 、 今 日 こ の 頃 、 こ れ ま で お
世 話 に な っ た 多 く の 方 々 の 、ま た は( 不 特 定 多 数 の 、し か し 極 く 限 ら れ た 範 囲 で
の ! )社 会・公 共 へ の 、な ん ら か の 恩 返 し を し な く て は ー ー 、と の 思 い 、さ ら に
逆 に ま た 、自 ら の 弱 さ と 愚 か さ 傲 慢 さ な ど の 故 に 、自 分 が 犯 し て き た 罪 、傷 つ け
て し ま っ た 人 々 、迷 惑 を か け 、無 礼 を 重 ね て 来 た 人 々 へ 、の 、何 か せ め て も の 償
い の よ う な も の ( い わ ば 「 負 の 方 向 で の 互 酬 」) を し な く て は ー ー 、 と の 思 い も
ま た 、今 回 の こ の NPO 立 ち 上 げ へ と 、小 生 を 突 き 動 か し て い る 、少 な く も 一 つ
の 個 人 的 な 動 機 ・ 背 景 と し て あ る よ う に 思 わ れ る 。( し か し 、 天 国 や 極 楽 に 逝 き
た い と い う 願 望 は 、そ も そ も そ う い う 世 界 は 、漱 石 的 言 辞 を も っ て す れ ば 所 詮 は
人 間 が 苦 し 紛 れ に 捏 造 し た る 想 像 物 で し か な い と 思 う ゆ え に 、さ ら さ ら な く 、何
かの勲章をもらいたいという名誉心もーーそもそも小生は後述のように叙勲制
度 反 対 論 者 で も あ る の で ー ー こ れ ま た さ ら さ ら な く 、む し ろ 、自 分 で い う の も な
ん で あ る が 、 も っ と 純 粋 な 以 下 の よ う な 動 機 = 「 心 情 倫 理 」 の ゆ え で あ る 。)
⑥―1:「学問的恩返し」――
「恩返し」といっても、カネもチカラもない一介の貧乏学者に過ぎない小生が
できることは、所詮、なによりも、自分のこれまでの一生をかけて模索してき
た研究を少しでも多く取りまとめて公刊し、なによりも直接的には、小生の学
者的才能を(小生がたしか2年生のときに、二ヶ月くらい完全に学校をサボッ
て下宿で書き上げ学友会の雑誌に投稿した、入会権についての論文――という
のも恥ずかしいくらいの代物――を通して)慧眼にも(!)見抜き、今日まで
の学問生活への扉を、文字通りこじ開けていただき、それに続くたどたどしい
歩みを放蕩息子を黙って忍耐強く見守るようにして見守ってくれてきた直接の
恩師・広中俊雄教授をはじめとする、学恩ある東北大の当時の諸先生がた*へ
の、せめてもの恩返し(+罪滅ぼし)として謹呈し、そしてまた、できるもの
ならば、次の世代、未来世代への共有財産として役立ててもらうことであろう
(本当に役立つものになるかどうかは、それら世代が決めてくれるであろうー
ーともあれ、小生は、そのように考えて、定年後も、定年前以上に熱心かつ欣
然として、上記・広大無辺の研究テーマに孜々として取り組んできたつもりで
も あ る )。
*小生が学生ないし助手として在学していた頃の東北大学は、
「研究第一主義」を標
榜し(口の悪い人間は「研究者第一主義」ではないか、というものもいたがーー)、
94
(権力にも商業主義にも屈せず染まることを拒否する、当時としてはすでに過去
の骨董品的なものとなりつつある感のあった)良き古き時代のアカデミズムの伝
統的雰囲気、それを固守しようとする大学人の学者魂・姿勢というものの、少な
くともその余韻のようなものが、われわれ若い世代にも感じられ、小生自身もそ
こから、とくに、学問的誠実さとか、学問的貴族主義理想主義とかの、研究者と
してのエートスのようなもの、また近代主義的思想を中核とした社会科学方法論
のエッセンスのようなものを、吸収してきたように思う。とくに、「知的廉直性」
という M .ウエーバーの「職業としての学問」の言葉を何かある度ごとに語り書い
ていた(そのコピーは小生の手元にもある)、法制史家にしてウエーバー研究の第
一人者、故・世良晃志郎先生は、経済学部の先生方と「社会科学方法論研究会」
を組織して我々若手も自由に参加を許していただき、そこでの学際的議論等から
学ばせていただいたことも少なくない。
また、小生の直接の恩師・広中先生もそうした研究サークルの主要メンバーとし
て、上記のような学問的雰囲気を強烈に体現する一方で、おそらくは二度とこの国
の学界には現れないであろうと思われるような、強烈な学問的個性(なによりも凡
庸さ凡俗さを忌避嫌悪することにおいて一貫して強烈な個性、本質的なものとそう
でないものを鋭く見分ける本質直感能力ともいうべきもの)、既成の学問分野に捕
らわれない、まさに日本人離れした越境、強固な実践 的批判的信念・経験にたって
の(小生の目にはいささか「こだわり過ぎではーー」とも、思われないでもない)
概念法学的方法論へのこだわりの(その先生がしかし、小生に口癖のように言って
いたのは、「法解釈学なんて地べたを這いずりまわるような(卑しい)仕事」だと
某先生がよく言っててねーー、という「伝言形」の言葉であったことも、この際同
時に書き加えておく必要があるであろう。小生自身、「パンのための学問」として
の伝統的法律(解釈)学にどうしてもなじめず好きになれずにしん吟彷徨してきた
だけに、その学問的スタンスは基本的に通底す るものがある。しかし、紛争解決学
の一としての実用法学の意義の捉え方等においては、小生はやや見解を異にする点
もあるし、先生じしん、その既成の学問体系の呪縛からは自由ではなかったという、
小生なりの批判もある)一方で、逆に豊かな 法社会学的歴史的かつ人類学的視点を
もっての諸業績(とくに最後の点については、あの戦後焼け跡の混乱情況のなかで、
そこに咲いたあれこれの徒花の類――これは法律学とか法社会学とかについての
もろもろのエピゴーネンとか二流三流の誰彼を具体的にイメージし、小生も「時間
泥棒」された人々のことーーとは一線 を画して、贈与法という一見非現実的非実践
的なテーマを、古代ローマ法について、しかも人類学的蓄積に学びつつ取り組んだ
助手論文は、そのテーマ性じたいが、当時の時代状況にあっては一個の脅威的驚異
ですらあるーーちなみに小生は、先生がある人類学者の葬儀の後ろにいて一人つぶ
やいていたと書いておられている一節、そして、ドイツへの文部省留学のまえに、
95
小生にたいし「ホントは自分はアフリカにでも行ってみたいんだけどなー」と、お
そらく当時の学会常識では許されないから仕方がないかーー、という感じでふと呟
いて、当時の小生の方は小生の方で「変なことをいう先生だな」という、今にして
思えば幼稚な感想しか持てなかった!)。先生の物事の本質を鋭く見抜く直感的鋭
さ、そして何よりも、( T 大で「銀時計」を貰ったことを唯一の人生の勲章として
平気で他の大学の学生を卑下する言を公言して憚らない、唾棄すべき)凡庸の徒と
は全くの対極にある精神の品性品格(先生ほど凡庸さを唾棄した人はそう多くはあ
るまい)――若造の小生でもそれくらいは直感できた。 ――むろん、先生の学
問にたいしては、その近代主義的限界をはじめとして、小生もすでに広中学説の一
部を批判する論文も書いているし、今後も上記小生なりの理論体系のもとで弘中理
論批判もその基礎的作業の一環として位置づけてもいる(上記世良先生がよく言っ
ていた言葉「学説はねー、君、克服されるために存在するんだよー」の一実践!)
し、なによりも個人的には先生にたいし(小生の研究者としての道を開いたくれた
恩人であり、少なからず公私にわたるお世話になり、なによりも心配をおかけし続
けた先生であるにもかかわらす、なによりも、――師とか弟子とかという関係性が
これまでの真の学問のあるべき姿を歪めダメにしている一つの克服すべき負の遺
産であり、それは打 破克服すべし悪弊にすぎないとの思いもあってーー、世間でい
う「弟子」としては落第・非常識の)不義理を重ねてきた(伝統芸能の世界でもあ
るまいし、今時「あれはだれそれの弟子だからダメなんだ」とか小生も言われたこ
ともあり、「おれはだれそれの先生の孫弟子はだけどーー(言外にお前は、だから
おれより下なんだといわんばかりの)」とまさに「虎の威を借る狐」を地でいくよ
うなことを学生に吹聴してまわる俗物「教授」もいたりして、小生は金輪際、あの
どろどろしたしがらみにまみれた「師―弟子」などという言葉も使うまい、と心に
決めたのである。しいて言えば、小生はすべてのすぐれた尊敬すべき先行「賢人」
たちの弟子でありたいと願うし、また「親鸞は弟子ひとり持たず候」との親鸞聖人
を想う)。
と も あ れ 、先生を中心とした、あのアカデミックで自由闊達な学問的雰囲気は、
仙台―東北大の名とともに、今もなつかしく思い出されるし、その後襲って来た
大学紛争・封鎖という、研究どころではない喧騒の日々が続いて、その限り後半
はとくに不幸な日々であったが、いずれにしても、それは「近代主義的アカデミ
ズ ム 」 の 伝 統 が 、 こ の 仙 台 の 地 で 、( そ の 限 界 と 同 時 に )、 い わ ば 最 後 の 残 照 を 放
って、この日本でもっとも輝いていた時代であった、ように思う;
な お 日 本 近 代 家 族 法 ( 学 ) 創 立 者 ・ 中 川 善 之 助 先 生 は 、 小 生 が 入 学 し た 当 時 は
すでに東北大学を定年で去っていたが、先生が如何に深く東北大学とその学生達
を可愛がったか、それは何よりも戦後の学生達の窮状を見かねて自ら奔走して仙
台近郊・岩沼の地に「沖和寮」という学寮を建てられて学生を住まわせたことに
96
も現れているし、その感謝の思いがあればこそ、先生の退官を記念して『中善並
木』という個人名を冠する桜並木がキャンパス内に植えられ今も花を咲かせてい
るということであろう。小生自身も、
(小生の郷里の隣町――といっても陸路では
ほとんど孤島といってもよいような僻遠の地で、今度の3.11でも被災し NHK
テレビでも取り上げていた)重茂集落に、法学部助手一年目の年の夏、自ら組織
した自主ゼミ「法社会学ゼミ」の学生達と一緒に、漁業権とか里子(漁村に里子
が多いことは民俗学とか法社会学の世界ではよく知られていた)のことで調査に
入って、その報告書を、これまた上記・学友会の雑誌に投稿したところ、全く思
いもかけず、当時学習院大学におられた先生から別の法学部の先生を通じて、中
川先生が当時は編集責任をしておられた法学セミナーにそのエッセンスを書くよ
うにとの依頼があり、先生の「今時の学生にしては珍しくよく勉強している」と
のいささか褒めすぎの推薦の辞を付した形で掲載していただいたーーちなみにそ
の折参照させていただいた、先生の味わいある名著の一つであり、資料的価値あ
る紀行文集でもある『民法風土記』のなかには、今度被災した女川町の里子調査
の項も入っていることも、3.11にからんで、思い出されることの一つである
(その時点では中川先生との直接の面識はなかったが、金沢に赴任してから文字
通り公私に亘る形でのお世話になることになる。その時の個人的思い出もあるだ
けに、そしてまた小生あたりが中川先生の謦咳に直接接することのできたおそら
く最後の世代となりつつあるだけに、日本の家族法学の学説史的評価にとっての
隅の首石ともいえる中川学説の、小生なりの批判的検証が急務だと考えているー
ーそれにしても、質量共にあれだけの重要な業績を残した先生のきちんとした著
作集すら今なお出ていないことに小生はーーゴミ論文を集めただけの、従って資
源の浪費でしかない○○著作集がゴマンとでていることとの対比においてーーな
によりも憤慨し、その実現に向けて少々動いたことがあるのだが、直接お世話に
なった方々は一体どう考えているのだろうか。少なくともお墓参りをすることだ
けが能ではあるまい)。
以 上 ( 老 人 に な っ た 証 拠 か ) い さ さ か 長 々 と ( 脱 線 気 味 に 、 か つ 敢 え て 「 時 間
がすべてを美化する」傾向、逆に浄化されようにもされえない「澱」の残るのを
承知で)仙台・東北大学の思い出話を書いてきたが、これまた、上記・本「高志
学舎」とそのもとでの当面のプロジェクトにかける小生の思いを知っていただく
ための一助となれば、との小生の老婆心に免じてどうかご海容をーー。
な お 、 以 上 の う ち 、 重 茂 調 査 の こ と に つ い て は 別 紙 添 付 の 資 料 と そ れ に つ い て
の後述の【Ⅴ―参考2】のコメント、また中川先生の金沢での思い出については、
冒頭【0-2】をも、参照のこと。
⑥―2:「社会的恩返し」――
97
上 記「 学 問 的 恩 返 し 」な る も の は 、そ れ を 第 一 の 、残 さ れ た 有 限 の 時 間 資 源 に
と っ て の 優 先 課 題 と す る と し て も 、そ れ は 、こ れ ま た 所 詮 は 、狭 い 専 門 研 究 者 を
中心とした世界を名宛人とするものに止まることも否定できないであろう。
し か し 、自 分 が「 お 返 し 」で き そ う な も の は 、そ の よ う な 一 部 の 人 だ け が 見 る
研 究 成 果 だ け で は な く 、上 記 の よ う に 、小 生 自 身 が そ の 固 有 の 人 生 体 験 の な か で
こ そ 得 る こ と の で き た 、さ ま ざ ま な 内 容・レ ベ ル の( つ ま り 高 尚 な も の か ら 卑 近
な テ ク ニ カ ル な も の に 到 る ま で の )人 生 教 訓 、教 育 哲 学・政 治 哲 学・社 会 哲 学 の
よ う に 、多 少 は 普 遍 性 一 般 性 を も っ た も の も あ る の で は な い か 、ま た 一 人 の 生 活
者・市 民 と し て の 社 会 貢 献 と い う も の が あ っ て よ い の で は な い か ー ー 、と く に 小
生 の 場 合 は 、小 中 学 校 は 町 立 の 、高 校 は 県 立 の 、そ し て 岩 手 大 学 ― 東 北 大 学 * と
学 生 時 代 は 国 立 の 、そ の 後 、助 手 ― 助 教 授 ― 教 授 と す べ て 国 立 大 学 の お 世 話 に な
り 、要 す る に 子 供 時 代 か ら 定 年 ま で の 5 0 余 年 間 、地 域 住 民 ま た 国 民 の 税 金 の お
世 話 に な っ て 過 ご し 、と く に 大 学 に 残 っ て か ら は 、い わ ば 好 き な 勉 強 を( 私 学 等
に 比 較 す る と )や や 贅 沢 な 形 で 税 金 で や ら せ て も ら っ た( そ の う え 、北 大 で は 科
学 研 究 費 と い う 形 で か な り 大 型 の 予 算 を 三 度 ま で 使 わ せ て も ら っ た * * )こ と も
忘 れ て は な ら ぬ 事 実 で あ る 。そ う で あ る だ け に 時 間 が い く ら か 自 由 に な っ た 今 日 、
今 度 は 、地 域 住 民 と か 国 民 に 対 し 、学 習 環 境 困 難 児 へ の 学 習 支 援 と い う 極 々 限 ら
れ た 範 囲 と は い え 、お 世 話 に な っ た お 礼 を「 恩 返 し 」す べ き で は な い か ー ー そ う
し た 思 い が 、と く に 今 度 の 3 .1 1 を 契 機 に 勃 然 と し て 沸 き 起 こ っ て き た こ と も
否定できない。
* 東 北 大 学 で は 親 の 仕 送 り は 期 待 で き な い こ と も あ り 、 い ろ い ろ な バ イ ト も し 、 育
英会の奨学金ももらったが、とくにここで忘れてならないのは、その一年のとき
に(世界的なエアコン・メーカー「ダイキン」の初代社長・山田晃氏が創設した)
「山田育英会」の奨学金(当時のオカネとしては結構な金額であったと思う)を
四年間もらうことが出来たことである。これは一年のとき募集があり、なにより
も(他にいくつかあった民間企業奨学金制度とちがって)
「ひもつき」なしの魅力
に惹かれて応募したところ、工学部の学生と小生が選ばれた(入学試験の成績順
で機械的に決めたと事務の人が言っていたので、小生の入学試験の成績は、前の
岩手大学――もっともこちらは大学始まって以来の高得点と後日聞いたーーと同
様、トップクラスであったのであろうーーエヘン 、エヘ ン!)。その 面 接 試 験( こ
れは実際には形式だけで、要するに顔見せの挨拶)ということで、初めて大阪に
行き、上記・工学部学生とふたり・梅田駅前の本社に行って山田社長にお会いし
たわけであるが、社長が言っていたことで唯一記憶に残っているのは「学生運動
だけはやるな」という「お言葉」だけ。小生それに違反して学生運動に精を出し
たわけで、これは「奨学金贈与契約違反?」(であるとしても、もはや 50 年近い
前のことなので、すでに時効! 他方、わが郷里のオヤジは、
「ありがたいこと」だ
98
として、毎年年末には社長宛に・郷里の川で採れた鮭をお歳暮として送っていた
ーー親とはかくもありがたいもの!)――ともあれ、その時に案内された堺の・
大きな工場のこと(要するに戦時中は潜水艦の・おそらくはフロンガスを用いて
の空調施設で急成長し、戦後は、例の朝鮮戦争特需で息を吹き返して、今や世界
的なエアコンメーカーになった会社)、泊めて頂いた宝塚の会社保養施設、その後
に廻った奈良の万葉集関連観光施設のことなど、懐かしい思い出でもある。
**それらをきちんとした形に残せていないこともまた、小生にとって後悔として
あるが、しかしそれらはすべて、上記・研究構想の中に「肥やし」として胚胎さ
れており、テクニカルには今回の本 NPO における諸プロジェクトの計画段階で
も実施段階でも十分その経験は、まさに恩返しの一環として、活かせるものと考
える(それはまた、研究とか学問とかには、一見無駄のようにおもわれること、
回り道とか失敗とか迷いとかに対しても、長い目で寛容にみておく必要、何十年
もあとに花を咲かせる土壌の肥やしというものもある、ということを世間の人に
はわかってほしいと思うからでもあるーーいささか我田引水かもしれないが)。い
ずれにせよ、カネも名も権力はいうまでもなく、バックとするべきいかなる宗派
も政治団体ももたない小生にとって、それは今回のプロジェクトにおいて小生が
もちうるほとんど唯一の財産といってよい貴重な経験であるであろう。
― ― そ し て そ れ は ま た 、 小 生 が 助 手 時 代 に 、( 左 翼 政 治 組 織 ・ 運 動 に さ さ く れ
立 っ た よ う な 心 の 渇 き の 癒 し を 求 め る か の よ う に し て 自 ら 門 を 敲 い て )た っ た 一
年 だ け 通 っ た 「 宮 田 聖 研 」( 東 北 大 ・ 法 の 政 治 思 想 史 の 教 授 で あ っ た 宮 田 光 雄 先
生 が 日 曜 ご と に 自 宅 を 開 放 し て 主 催 さ れ て い た 聖 書 研 究 と 自 由 読 書 の 会 )で の 教
え に 通 じ る も の で も あ る 。 そ こ で 先 生 が メ ン シ ョ ン さ れ た ( M .ウ エ ー バ ー の 名
は い う ま で も な く 、ミ ハ エ ル・エ ン デ 、フ ラ ン ク ル 、エ ー リ ッ ヒ・フ ロ ム 、ト レ
ル チ 、何 人 か の 神 学 者 、大 塚 久 雄 、神 谷 恵 美 子 、内 村 鑑 三 等 々 の 著 者 た ち の )著
書 書 籍 は 、先 生 が 言 葉 の 端 々 に 出 さ れ た 外 国 語 の 片 言 隻 句( ニ ュ ヒ テ ル ン 、ガ イ
ス テ ッ ヒ 、エ キ ュ メ ニ カ ル 等 等 ー ー )と も に 、キ リ ス ト 教 関 係 以 外 に も 文 学 関 係
と か ウ エ ー バ ー を 初 め と す る 社 会 思 想 関 係 等 、わ ず か 一 年 と は い え 、そ の 後 の 小
生 の 思 想・精 神 形 成 に と っ て も 少 な く な い 影 響 を 与 え て い る の で あ る が 、そ れ は
古 典 の 継 続 的 読 書 の 必 要 性 と と も に 、家 族 と か 民 族 と か の 狭 い 血 の 論 理 を 超 え た
普 遍 的 な 価 値 へ の 貢 献 と い う 意 味 で 、本 NPO 立 ち 上 げ の 精 神 的 動 機・背 景 と も
な っ て い る 。と く に 先 生 は 、自 宅 を 新 築 さ れ る 際 に 、少 し 余 計 に 広 く 敷 地 を 購 入
され、その庭に「一麦学寮」という(聖書の「一麦の粒」の譬えからとられた)
題 を つ け ら れ( そ れ 以 前 に も 先 生 ご 夫 妻 が 文 字 通 り 共 同 の 手 作 り で 聖 研 の 学 生 等
に 配 ら れ て い た ガ リ 版 刷 り の「 一 麦 通 信 」は す っ か り 黄 色 く 色 づ い て し ま っ て い
る が 、 小 生 の 「 人 生 の 宝 」 と し て 大 事 に と っ て あ る )、 市 内 の 学 生 を 住 ま わ せ て
99
お ら れ た 。小 生 は そ の 新 築 さ れ た 建 物 を 見 る 前 に 、助 手 論 文 が 忙 し く な っ て 宮 田
聖 研 を は な れ 、間 も な く 仙 台 を 離 れ た が 、そ の 寮 を 建 て る 動 機 と し て 我 々 に 語 っ
て い た こ と は 、上 記 中 川 善 之 助 先 生 の 上 記・岩 沼「 沖 和 寮 」の 先 例 も 一 つ の 意 識
としてはある、と仰っていたのを小生はおぼえている。
宮 田 先 生 が 深 く 傾 倒 し て い た 内 村 鑑 三 や 矢 内 原 の 無 教 会 派 の 考 え 方 と か 、内 村
と 同 じ ( ク ラ ー ク 先 生 に つ な が る 、「 札 幌 バ ン ド 」 の 一 員 と し て の ) 新 渡 戸 稲 造
の「 遠 友 学 舎 」も ま た 、そ の 名 と 共 に 、お な じ 札 幌 の 地 で わ れ わ れ が 立 ち 上 げ よ
う と し て い る「 高 志 学 舎 」の 精 神 的 な バ ッ ク ボ ー ン の 一 つ と し て あ る の も 、小 生
の 宮 田 聖 研 で の 出 会 い が そ の ル ー ツ と し て あ る と い う の も 、何 か の 不 思 議 な「 え
に し 」を 感 じ る も の が あ る( た だ し 、小 生 は 、既 述 の よ う に 、キ リ ス ト 教 の 信 者
と な る こ と も な く 、む し ろ「 脱・宗 教 派 」を 標 榜 す る 無 頼・漂 泊 の 徒 で あ り 続 け
て は い る が ー ー )。
と も あ れ 、ク ラ ー ク 先 生 と 同 じ く た っ た 一 年 で は あ っ た が 、そ こ で 小 生 の う け
た 精 神 的 思 想 的( と く に 、こ の 世 を 越 え る 何 か と い う 思 想 )な 影 響 は 良 か れ 悪 し
か れ 決 定 的 な も の が あ っ た よ う に 思 う し 、そ れ は 、上 記・東 北 大 の よ き 古 き 大 学
の 余 韻 と 同 時 に 、古 典 読 書 重 視 の わ れ わ れ の 本・プ ロ ジ ェ ク ト の 背 景 に あ る も の
でもある*。
*とはいえ、上記⑥-1及び2で言及した何人かの先生方についてはいずれも(生
意気であるとの批判覚悟で敢えて言えば)、学問的思想的な次元においてはいう
までもなく(思想的にはとくにその近代主義的啓蒙主義モデルの限界など、ま
た学問的には、前述のように、小生の専門ともっとも近い広中理論も中川理論
も今後の小生自身の研究構想の基礎的出発点としての学説史的批判・克服の対
象としていく必要があると考えているーー世良教授の「学説は乗り越えられる
ためにある」との上記所説に背中を押されるようにして )、また人間的にもごく
近くでみていただけに、いろいろと(今にして思えば微笑ましいとおもえるよ
うな)人間くさい欠点弱点を抱えておられることも、そのいささかプライバシ
ーに関わることとともに(個人情報に関わるゆえ秘匿するほかないがーー)、い
ま思い出す。
⑥ ― 3 :「 償 い 」 ― ―
そ れ は 、要 す る に( 自 分 が 受 け た 恩 へ の お 返 し 、と は 真 逆 の )自 ら の 弱 さ と 愚
かさ傲慢さなどの人間的欠陥の故に、自分が犯してきた罪、傷つけてしまった
人 々( 上 記・小 生 の 離 婚 の 故 に 父 親 の 愛 情 を 十 分 受 け る こ と の 出 来 な か っ た わ が
子 ら が 、 そ の 最 た る も の で あ る こ と 、 い う ま で も な い )、 迷 惑 を か け 、 無 礼 を 重
ね て 来 た 人 々 へ 、の 、何 か せ め て も の 償 い の よ う な も の( い わ ば「 負 の 方 向 で の
100
互 酬 」) を し な く て は ー ー 、 と の 個 人 的 な 思 い で あ り 、 古 希 の 坂 を 越 え て ま す ま
す募る自責の念である。
む ろ ん 、 本 ・ NPO を 通 じ て の 社 会 ・ 公 共 へ の 奉 仕 く ら い で 、 そ れ ら の 罪 が 相
殺 さ れ 消 え る ほ ど 単 純 な も の と は 毛 頭 思 わ な い し 、 ま た 、( 無 神 論 の 小 生 が 「 あ
の 世 」な ど 信 じ る は ず が な い 以 上 、い ま さ ら )天 国 に 行 き た い た め の 罪 滅 ぼ し な
ど と 、世 迷 い 事 を 言 う は ず も な く( こ こ で も ま た 所 詮「 天 国 」と は 人 の 心 の 中 に
し か 存 在 し 得 な い も の と の 達 観 ! )、 な に よ り も 離 婚 問 題 と 同 様 、 い さ さ か 下 半
身 に 関 わ る こ と な ど( 一 部 含 ま れ て い た り し て ! )、こ れ 以 上 は 申 し 上 げ な い が 、
他 方 ま た 、 ま さ に 個 人 的 に 本 ・ NPO 立 ち 上 げ へ と 、 老 骨 を 鞭 打 つ よ う に し て で
も 、立 ち 向 か わ せ て い る 何 か * 、の 一 つ と し て 、こ れ ま た 正 直 の と こ ろ 、や は り
等 身 大 で の 個 人 的 思 い を こ こ で も「 告 解 」し て お い た 方 が 、本 NPO を す く な く
と も 英 雄 豪 傑・聖 人 君 子 だ け の 聖 域 で は な く 、普 通 の 等 身 大 の 人 の も の に す る た
めにも、あえて一言した次第である。
*ゲーテが『フアウスト』の(前半部はともかくも)後半部において、メフィスト
ファレスの誘惑に負けた自分への罪の意識からの解放の目指すものは、いささか
ドイツ・ロマン派 の人らしい貴族主義的観念的方向性が強すぎて、小生には正直
のところいささか眠気を催した次第である(ここでもまた古典とされているもの
も、あまりありがたがらない姿勢が大事という教訓――眠くなったら無理せず寝
るしかない!)。すくなくとも小生は、
「罪」もその「償い」も等身大の人間的現
実に即したものでありたいと考えている。
⑦( 児 童・子 ど も た ち の 教 育 を め ぐ る )危機意識・( と く に 格 差 へ の )問題意識
――
とくにプロジェクトⅠについて上述したような理念・目標を掲げるについて
のわれわれの問題意識として、とくに、教育・大学の現状、政治の混乱等にた
いする、我々なりの危期意識・憂慮といったものがあること、すでに随所で屡
述した通りであって、ここではそれ以上繰り返さない。ただ、小生は何度か引
照したように、南方熊楠の「学校ぎらいの勉強大好き人間」のような子供を許
容することができるかどうか、温室栽培の学校秀才だけではない、野生的なた
くましさ、明治維新期日本(あるいはあの戦後すぐのころの日本)が持ってい
た明るい面、バイタリテある子供を育てることが出来るかどうか(この国にも
体制=秩序が大きく変動する転換期にはそうした惚れ惚れするようないい人間
が 少 な か ら ず 輩 出 し た こ と も 忘 れ て は な ら ぬ こ と で あ る )、が 、こ の 国 の 未 来 を
決めるとさえ考えているということ、ここでとくに再言しておきたい(小生の
ような「大学嫌いの学問大好き人間」になるには、論理的にも大学に入ってか
らでも間に合う!)そのような意味では逆に、入学試験の成績とか大学の成績
101
な ど「 へ 」み た い な も の で あ る と の 実 感 ― ― 逆 に い え ば そ う い う 馬 鹿 げ た 評 価 ・
序列基準が唯一絶対的に幅を利かしていたーー、とくに戦前日本社会の異常さ
が、あるいはそれを平気で引き摺ってきた霞ヶ関官僚社会とかの・それを規準
にして「何様のお子様」的構造を再生産してきたバカさ加減、そのもとでの過
酷な受験競争を強いられる子ども達、そこで再生産されるあれこれの個人・社
会両面での病理現象、などをこの際あらためて指摘おきたい(とくにそうした
世 の 親 た ち の 価 値 基 準 = 需 要 に 応 じ る 、 目 に 余 る よ う な 受 験 産 業 の 横 行 )。( な
お 、小 生 自 身 の 大 学 入 学 試 験 の 成 績 に つ い て は 、こ の 文 章 で も 何 度 か「 エ ヘ ン 」
を繰り返してきただけに、このようにいうのは矛盾ではないかといわれそうで
あるし、小生もすくなくとも大学に入るまでは必死の(模範的)ガリ勉派であ
っ た だ け に 、そ の よ う に い う こ と は 自 己 否 定 で は な い か と 思 わ れ そ う で あ る が 、
実感的真意は、むしろ本文のようなところにあること、なによりもそのような
風 潮 、序 列 意 識・構 造 へ の 批 判・克 服 こ そ 本・NPO 立 ち 上 げ へ の 一 つ の 情 念 的
動機としてあるのだということ、具眼の士であればご理解いただけるものと思
う )。
そ し て 同 時 に ま た 、子 供 に と っ て 、生 ま れ た 瞬 間 の 事 情( ど の よ う な 親 か ら 、
い つ 、ど こ で 、生 ま れ た の か )、ま た は そ の 後 の 親 や 家 庭 の 事 情 の 有 為 転 変 、等
の、こども自身にとってはどうすることもできない、諸事情によって、厳然と
存在するこの世の過酷非情というほかない「格差」――遺児とか孤児という境
遇もその一つであるこというまでもない。而してその格差は、可能なかぎり、
社会・公共がすこしでもその不利益を軽減し和らげてやるほかないものーーと
い う 問 題 意 識 、 そ れ が 本 NPO の ( す く な く と も 一 つ の 大 き な ) 出 発 点 と し て
あることも、冒頭から屡述してきたとおりである。
むろんそのための社会・公共による支援はわが国でもこれまで公式的にも非
公式なかたちでも種々取り組まれてきたことも周知の通りである。ただわれわ
れとしては、それらの遺児等への支援についても、それが、今回の震災遺児の
支援等に典型的に見られるように、いささか、広く寄付金をあつめてそれを広
く被災遺児等に配るという形態、とくに「さしあたり(進学等で)困っている
学生」への奨学金補助等の形態に偏り勝ちではないか、との批判的問題意識を
かねがねもってきたことも事実である。
つ ま り 、 そ こ で は 、 寄 付 者 と 児 童 等 の 「 受 益 者 」 の 関 係 が 顔 の み え な い ( そ の
よ う な 意 味 で ま さ に )「 あ し な が お じ さ ん 」的 関 係 で あ っ て 、し か も 使 途 も「 奨
学」という以上には特定されない、お金を媒介とする量的(=抽象的形式的)
支援になりがちである。またその基本的スタンスも当面困っている児童・家庭
のために、という、どちらかといえば消極的で後ろ向きの方向での、かつ一過
性の、しかもどちらかといえば「こころ」の問題状況に注目したケアを中心と
102
し た 活 動 内 容 で 、( わ れ わ れ の よ う な「 高 志 」あ る「 リ ー ダ ー 」と か「 ラ イ フ ワ
ーク」ある人生とかの)より積極的な目標、50年先100年後先をみすえた
ような教育理念とかは、多くの場合あまり見られない(それどころか、受験産
業 ま で が 、こ の 震 災 を「 商 機 」と と ら え て 被 災 地 に「 進 出 」し て い る と も 聞 く )。
――われわれの目指す本プロジェクトがそのような支援活動の限界・問題性に
たいする批判的問題意識から出発するものであることも、この際再確認してお
きたい、と思う。
⑧「バラト庵(ないし、バラト文庫)」というモノから、その社会的活
用という「ココロ・心指し」へ―― 小 生 の 「 バ ラ ト 庵 」 が 、 そ も そ も 小 生
の「第二書庫兼第二研究室」として既に述べたような経緯で建てたものである
こと、その建築計画中に3.11が発生し、完成後、3.11支援の方途をい
ろ い ろ 模 索 す る う ち に 、 上 記 ・ プ ロ ジ ェ ク ト を 基 本 的 活 動 内 容 と す る 本 NPO
を 立 ち 上 げ 、 そ の 敷 地 部 分 全 部 と 一 階 書 庫 部 分 を 、 そ の 蔵 書 (「 バ ラ ト 文 庫 」)
と と も に 、 当 NPO の 活 動 資 源 と し て 活 用 し て も ら お う 、 と い う こ と に お ち つ
いたものであること、もすでに随所で述べたとおりである。そのような意味で
は、小生自身の「バラト庵」といささかの蔵書という、いわば「モノ」と、前
者 と 偶 然 に も 同 時 的 に 起 き た 3 . 1 1 と い う 外 的 事 象 (「 コ ト 」) と 、 と い う 二
つ の も の が 重 な り 合 い き っ か け と な っ て 、 小 生 の ( 本 ・ NPO へ 立 ち 上 げ へ の 、
上 記・縷 縷 述 べ て き た よ う な )
「 コ コ ロ 」が こ こ に 何 と か 重 い 腰 を 上 げ た ー ー と
いうあたりが率直なところであろう。逆にいえば、そうした「ココロ」=志へ
の火種が小生の中に燻ぶっていても、上記のモノとコトがなければ、この火種
に火がつくことはなかったであろう。つまり、ココロというよりも、むしろモ
ノ と コ ト の 方 が 、「 初 め に あ り き 」、 と い う こ と で 、 そ れ は ま た 、 コ コ ロ が い く
ら熱く燃えていても、カネも権力ももたぬ無名の貧乏学者にとって、なんらか
のモノとかコトがなければココロは単なるユメかコトバに止まるのみ、という
い さ さ か 悲 し い 現 実 を 意 味 し て も い る 。 而 し て 、 本 NPO が め ざ す こ う し た 社
会貢献活動にとって、なによりもココロ・志こそがαにしてωであること、そ
れから比べればモノとかカネとか組織・制度とか末の末でしかないこと、そし
てなによりもその本と末を逆まにしてはいけないーーということ、は、あらた
めて深く心に刻むべき真理である。
と は い え 、し か し 、「 バ ラ ト 庵 = モ ノ = 私 物 」と「 3 .1 1 = コ ト = 社 会 的 事
件」の二つだけがあっても、それらを結びつけてより大きく前向きな方向に活
用しようとする小生自身のココロ(志、意思、情熱など)とそのココロをさま
ざまな形で支えてくれるもっと多くの人々のココロがなければ、上記二つのも
の は 、単 な る モ ノ で あ り コ ト と し て 存 在 す る に す ぎ な い 、と い う こ と に な ろ う 。
103
そして小生自身を突き動かしている・そのココロにしても、上記のように、逡
巡し弱気になる自分の背中を支え押しているように思われる両親のこと、自分
自身の人生体験、見聞きしたもの学んだものなどを通して形成されたさまざま
な 思 い 、な ど 、目 に 見 え な い さ ま ざ ま な も の の 複 合 の 産 物 で あ る 、と い う こ と 、
も、当然のことながらここで再確認しておきたい。
と同時にまた、みずからの研究のために建てたささやかな書庫と、集めたわ
ずかの蔵書とが、ほんとうに小さなものながらも、いわば一個の「核」となっ
て 、 本 NPO の 志 に 共 鳴 同 感 し て 結 集 し た 人 々 の 熱 い 思 い ・ 協 力 に 支 え ら れ て 、
「核分裂」をおこし、大きなエネルギーとなって、3.11の被災遺児とか、
付近住民・児童、或いはさらにより広く、将来世代・未来世代の幸せのため、
ひいて広く世のため人のため、かつ、小生の次の世代の方々が小生の死を越え
てその後にも、活用していただくことができれば、その他になんら社会公共に
役立ててもらうほどの「私財」などもたぬ、全くの貧乏学者の小生としても、
むしろもって瞑すべし、というほかない、――これが古希の坂を越えた小生現
在の心境である。
【Ⅴ―4】「さいご」の最後に ー ー (「 一 歩 前 へ 」 と 踏 み 出 す 以 上 、 な に よ り も )
自 分 自 身 に 求 め ら れ て い る 覚 悟 ( 自 戒 を 込 め て ):
本 NPO が 目 指 す 根 本 理 念 が 、上 述 の よ う に 、な に よ り も 、将 来 世 代・未 来 世
代 が 一 人 で も 不 幸 な 子 供 が 少 な く な り 、少 な く と も 皆 が 平 等 な ス タ ー ト ラ イ ン に
立 て ま す よ う に と の 思 い か ら 出 発 し 、そ の 思 い に 共 鳴 す る 全 国 各 地 の 方 々 の 善 意
に 支 え ら れ な が ら 、ま さ に そ の 不 特 定 多 数 の 将 来 世 代・未 来 世 代 の た め に 具 体 的
活 動 を 展 開 し て い く も の で あ る 以 上 、そ れ は 当 然 な が ら 、な に か し ら 、見 返 り と
か 報 い を 期 待 す る こ と と か 、そ れ を 要 求 す る こ と と は 、全 く 無 縁 の 、そ の よ う な
意 味 で は 、目 に 見 え る 共 同 体 内 部 の 関 係 性 の な か で の「 互 酬 的 関 係 」と も こ と な
る、完全な無償・奉仕の業であるといえる。そのような意味では、それはまた、
親 の 子 に た い す る 愛 情 と か 、自 ら の 血 縁・親 族 、さ ら に は 自 己 の 属 す る 民 族・部
族 と い う 、 い わ ば 「 血 の 論 理 」( そ れ は つ ま る と こ ろ 、 自 己 な い し 自 己 の 属 す る
種 族 の 遺 伝 子 を 自 己 を 超 え て 残 そ う と す る「 利 己 的 遺 伝 子 」と い う 本 能 の な せ る
業 で し か な い )に 媒 介 さ れ る「 ○ ○ 愛 」と も 異 な る 、よ り 普 遍 的 な 未 来 世 代 一 般 、
未 来 の 社 会 公 共 を 遠 望 し た 、そ の よ う な 意 味 で も 全 く 見 返 り を 期 待 し な い( と い
う よ り 、 出 来 な い )、 よ り 抽 象 化 さ れ た 広 く 永 遠 に 連 な る 愛 の 思 い 、 に 発 す る も
の で あ る 。目 前 の 利 害・関 心 事 に の み 捕 ら わ れ る こ と な く 、5 0 年 後 1 0 0 年 後
の 未 来 と 世 界 と い う 、遠 く を 見 据 え た 目 で な さ れ る 活 動 で あ る 。そ の 限 り 、小 生
も ふ く め 、わ れ わ れ は 、そ こ で は 、私 心 を 捨 て 去 る 覚 悟( 夏 目 漱 石 の 有 名 な「 即
天 去 私 」 の 自 己 流 解 釈 )、 少 な く と も ( 上 記 ・ パ ラ ト 庵 の 建 物 一 階 部 分 お よ び 敷
104
地 の 無 償 利 用 、自 分 の 研 究 等 で の 時 間 的 な も の も ふ く め 、完 全 犠 牲 に な ら ぬ 程 度
の )「 出 血 」 を 覚 悟 す る 必 要 が あ る で あ ろ う 。
の み な ら ず ま た 、 そ れ は 、( す く な く と も 短 期 的 に は 、 そ し て な に よ り も 自 分
自身が世話になり恩義を受けた人々に対しそうした振る舞いを一再ならずそう
し て き た よ う に ) 未 来 世 代 の た め に 「 踏 み 台 」 に な る 覚 悟 、 少 な く と も 、「 歩 留
ま り ○ % 」を 覚 悟 す る 勇 気 、最 悪 の 場 合 に は 、理 想 主 義 が 現 実 に よ っ て 裏 切 ら れ
る( 過 去 の 少 な か ら ざ る 実 例 の よ う に )か も し れ な い 覚 悟 を 、我 々 自 身 に た い し
て要求するであろう。
小 生 自 身 、 文 字 通 り 狭 い 研 究 室 の な か 、 自 分 の 狭 い 専 門 分 野 の 檻 の 中 で の 、
目 前 の・小 さ な 研 究 関 心・問 題 関 心 か ら の 、( す こ し で も 良 い 業 績 を 挙 げ て 、よ
い評判・良いポスト・良い物的研究環境を求めてーー等々の)要するに狭い研
究者エゴイズムの世界で生息してきた研究者の一人でしかなく、大学という専
門 の 狭 い「 特 殊 社 会 」の 中 で 、「 人 間 の 利 己 心 」本 能 の み を 基 本 前 提 と し て 思 考
し行動せざるを得ない習慣が「習い性となる」式に体質化しているかのごとき
自 分 に と っ て も 、「 ケ ・ セ ラ セ ラ 」「 自 己 決 定 ・ 自 己 責 任 」 の 無 関 心 ・ 不 干 渉 主
義の哲学が身に染み付いていることも否定しようがない事実である。国内外で
繰り返される、あれこれの紛争・殺し合い、足の引っ張りあい、憎しみの連鎖
な ど な ど ー ー 小 生 も ふ く め 、 人 々 は 、「 ま た か ー ー 」、 と 諦 め 顔 、 し た り 顔 、 で
すらある。
以 上 の よ う な 小 生 に と っ て 、上 記 の よ う な 利 他 的 理 想 主 義 的 理 念 を 掲 げ て の 行
動 は 、正 直 の と こ ろ 、か な り の 飛 躍・跳 躍 を 伴 う 内 面 的 精 神 革 命 を 要 求 さ れ う 態
の も の で あ り 、相 応 の 覚 悟・勇 気 を し な く て は な ら な い 、何 よ り も 自 分 自 身 が 変
わ る 努 力 を し な く て は ー ー と NPO 発 足 を 呼 び か け る こ と に 決 意 し た 段 階 で 、覚
悟を固めている次第である。
そ の よ う な 覚 悟 を 固 め た 小 生 の こ こ ろ に 、 何 ら か の 勇 気 と 希 望 の 灯 を 点 し て
くれる先人は、遠近ふくめて少なくないが、最後にひとつだけ、その灯を記す
と す れ ば( と い う よ り も ど う し て も こ こ で 記 し て お き た い の は )、そ れ は 、あ の
1963年8月28日アメリカ合衆国首都ワシントンでの、記念すべき「ワシ
ン ト ン ・ マ ー チ 」 の 最 終 演 説 で 、 キ ン グ 牧 師 が 力 強 く 述 べ て い た I have a
Dream — 以 下 の フ レ ー ズ 、 無 論 そ れ を 小 生 は カ セ ッ ト テ ー プ * で 聞 い た だ け で
あ る が 、そ の フ レ ー ズ が( あ の 女 性 ボ ー カ ル に よ っ て 歌 わ れ る 有 名 な W e shall
overcom e! の 印 象 的 な 旋 律 ・ 詩 句 と と も に ) 小 生 の 耳 に も 印 象 深 く 残 っ て い
て、そして(短期間ながらアメリカで生活してみて、そこでの人種対立の根深
さ を 垣 間 み る 機 会 が あ っ た だ け に )、そ れ か ら 4 0 年 足 ら ず 後 の 2 0 0 4 年 、そ
105
の ア メ リ カ 合 衆 国 の 大 統 領 に バ ラ ク・オ バ マ が な る ー ー ま さ に 、Dream s com e
true !の 現 実 を 目 の あ た り に す る ー ー と は !
* そ の カ セ ッ ト ・ テ ー プ は 小 生 が ニ ュ ウ ヨ ー ク の コ ロ ム ビ ア 大 学 に 短 期 留 学 中 に 、
セントラル・パーク近くの五番街の小さなレコード店で偶々見つけて買って帰っ
たもので、小生の愛聴カセットの一つである。上記日付はそのテープからの移記
である。なおまた、キング牧師のことも、小生が多少は関心をもったのは、ガン
ジーの非暴力主義や、
(キリスト教セクトの一つとしての「エホバの証人」=)灯
台社・明石三郎らの(あの戦前戦中における)兵役拒否の運動などとともに、宮
田聖研で宮田先生が(静かな共感をこめて)しばしば称揚していたことがその背
景としてある。
而して本 NPO をめぐる小生の〈a dream〉とは、いうまでもなく、本・趣意
書冒頭に掲げた基本理念の一つたる「最も恵まれない立場に置かれてしまった児
童にこそ、夢・可能性を実現できるような最大限の条件・環境が社会・公共によ
って与えらますように」ということであり、かれらがひとりでも多くわれわれの
いう「高志」をもった人生を送ることができますように、ということに尽きる。
な お 、 オ バ マ は 本 趣 意 書 第 八 版 の 執 筆 中 の 2 0 1 2 年 1 1 月 に 、 周 知 の と お り
再選を果たした。それはまた、依然として混沌とした状況のつづく内外の政治情
勢のなかで、明るい希望の灯の一つが消えずに 残った瞬間でもあった。
「最後」の最後にまた、青少年時代の小生の愛読書の一つ、光太郎詩集からの
一節:
「 岩 手 の 人 、沈 深 牛 の 如 し 。/( 中 略 )地 を 往 き て 走 ら ず 、/ 企 て て 草 卒 な
ら ず 、/ 遂 に そ の 成 す べ き を 成 す 。」( 高 村 光 太 郎『 岩 手 の 人 』昭 和 20 年
*)
*それは、疎開先の花巻郊外・大田村のあの雪深い山荘での作品と思われる。
ちなみに光太郎の詩には、動物に仮託したメッセージ性の強い詩で好い詩が多い
が、とくにそのなかでも小生は牛を歌った詩が好きである(自分が牛のように、
いつまでも田舎臭く、鈍重であるからであろう)。――もっとも、小生の場合は、
「 沈 深 牛 の 如 し 。」 で は な く て 、「 愚 直 、 鈍 牛 の 如 し 。」( ま た は 、「 不 器 用 な る
こ と 、 画 に 画 い た 如 く 」) と い う と こ ろ で あ り 、「 成 す べ き を 成 す 」 か ど う か は 、
現在のところ、すべて未定(!)ではあるが、とくに本NPOに関しては何より
も皆様のあついご協力と小生の上記「覚悟」に、また上記研究構想にかんしては、
かかって小生自身の精進と健康如何に、それぞれかかっているということだがー
ー。
ちなみに、その後かれは『暗愚小伝』で自らの戦争責任を告白することになる
ーー「鬼畜米英」を叫び時局に迎合し大東亜共栄圏論を説いた舌の根も乾かぬう
106
ち に 、「 欧 米 礼 賛 」「 民 主 主 義 万 歳 」「 社 会 主 義 待 望 論 」 に 一 夜 に し て 「 転 向 」 し
た少なからぬ知識人とはちがって!)
@ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @
【Ⅴ―参考】*
* 以 下 の [参 考 1 な い し 7 ]ま で の 項 目 そ れ ぞ れ の 趣 旨 ・ 全 体 概 要 に つ い
て は 、上 記【 Ⅴ ― 3 】の 直 前 の 説 明 を 参 照 い た だ く こ と と し 、こ こ で
の繰り返しは避けることとする:
【Ⅴ―参考1】「(2012 年)9 月 11 日」( = 本・趣意書の冒頭・標題の日付=本
NPO 立ち上げ・呼びかけへの決意を最終的に再確認し た日 ) = こ の
日付は、同時にまた、下記①ないし④の四つの記念すべき意味を
も つ ( 個人史につながる日本史―世界史! ):
=①わが71歳(!)の誕生日であり、同時にまたーー
=②その 71 年前(=1941年=昭和16年)のこの日 、小生がこの
世に産声を上げ、その約三ヵ月後に日米開戦のあった日;
=③11年前(=2001年)の 9.11、わが60歳の誕生日の夕方の
テレビで、あの世界貿易センタービル(トウィン・タワー)二棟
が崩れ落ちる瞬間を見た日; =④1 年半前(=2011年)の3.11、あの東日本大震災で三陸海
岸の我が郷里も大津波に襲われ、わが実家も「ガレキ」となった日。
(その前年の 2010 年 9 月には、小生は、虫の報せか、八戸から釜
石・盛岡まで、自分史的調査旅行を敢行し、自分の生まれ育った郷
里の・被災前最後の町並とお祭りとを見物することとなった。)
つ ま り ( や や 詳 し く 、 そ れ ぞ れ に つ い て の コ メ ン ト を く わ え る と ー ー ):
① 上記(2012 年)9 月11日という日は、なによりも第一に、小生71歳の誕生日
であり、
「小生もついに古希の坂を越えてさらに一年!」――という、みずからの
年齢についての、信じがたい、がしかし如何ともし難い厳然たる事実への、曰く
言い難い複雑な感慨があり、来し方と現在、そして行く末に、あれこれと思いを
馳せざるを得ない日である。そして 同時にそれは、
(上記【Ⅴ-3】に も 縷 々 述 べ
たような、種々の逡巡と迷いのすえ、にもかかわらず小生なりの自分史的背景と
思いに背中を押されるようにして)この・遺されたわが人生の希少な時間資源を、
年 来 の 研 究 テ ー マ の 研 究 と と も に 、 本 NP0 を つ う じ て の ・ 小 生 な り の さ さ や か
な社会貢献のために、捧げようと決意決断した日でもある。
②と同時にまたそれは、その71年前の昭和16年、その誕生日の3ヶ月近く後の
107
12月8日に周知のように日-米(等)開戦という歴史的事件*の勃発した年で
もあり、而して小生自身はそのような意味ではいうまでもなく「戦中派」とはい
えないが、しかし、その敗戦までの4年余の期間とその敗戦後の昭和20年代に
(岩手三陸沿岸の鉱山町と漁村という、文字通りの片田舎で)幼児期ないし少年
期を過ごした「小・戦後派」ともいうべき世代**として、いたるところに戦争
そのものと戦後の蔭・跡があったことを自らの身体体験としてあれこれ記憶して
もいる。そして都会ほどではなかったとはいえ、
(そのような意味では全くの「戦
争を知らない世代」とはいえない)。わが誕生日はそのような意味でむしろ、あの
戦争と(小生なりに)つながる日でもあり、とくに戦後すぐのあの(今の暖衣飽
食の生活からは想像もできないような 、食べたい盛りでいつも腹を空かせていた、
そして後述のような「ブタ小屋」のような住居での)窮乏生活の思い出とつなが
る日でもあり、そのような意味でわれわれの世代は間接的戦争被害者でもあった
ということも言えなくはなく、そのような時代的環境に制約された人間形成であ
ったということ、そのことをふくめ、小生なりのその人生体験を通しての、その
後の高度経済成長期以降の現代社会、とくに教育のありよう、子どもをめぐる学
習・生育環境のありようへの問題意識が、間接的であれ、今回の NPO 立ち上げへ
の動機として深いところでつながっているように思われる(それらにかんしては
関連するかぎりで、本趣意書中でも随所で言及した)。
*その日、オヤジは会社から社宅に帰ってくるなり、
「とうとう日本はアメリカ
と戦争だ」と興奮気味におフクロに話しかけ、オフクロは「大丈夫ダベーガ
ー」と心配げに応じ、オヤジは「なに日本は強い、絶対勝つ」と強い口調で
断言したーーこれらのやり取りを、おフクロに抱っこされていた小生は(ま
だ三ヶ月にも満たぬ赤ちゃんであったが)確かに聞いたような記憶が耳の底
に残っていて、それを後年大きくなってから両親にいったら、乳児がそんな
ことまでおぼえているのかーーと半信半疑であった。このエピソードは、も
しそれがあり得る話であるとすれば、一般論としても要するに、子どもは小
さくても大人の話を意外と聞いているものだということ、そのことを大人は
十分心すべきであるということを、教えているようにも思うのである。
**敗戦後の日本社会を(東北の一漁村で少年として)生きた小生にとっても、む
しろその敗戦後のこの国の政治状況をもっとも基本的に規定した、グローバル
な=国際政治次元での基本的対抗軸としての冷戦体制 、つまり、資本主義体制
か社会主義体制かという、なによりも経済体制を主軸とする体制選択の問題 、
しかもその冷「戦」が、ほかならぬ海を隔てた隣国:ソ連下ロシア・中国・朝
鮮半島を主戦場として戦われたこと 、こそが重要であるだろう(それを象徴す
るものとしての、公職追放―解除―レッドパージの有為転変 )――それだけに
また、小生なりの思い考えのもとでの、 1945 年とそれにつながる 1868 年の
108
主体的批判的な歴史検証は、小生の学問的課題にとっとも、なによりも避けて
通れない重要課題であり続けている(そのためにも外国語の習得は最低限の課
題である)。
③あの10年前のわが誕生日たる2001.9.11に、まさに跡形もなく消滅し
てしまった「世界貿易センタービル」にかんしては、小生自身もいささかの個人
的思い出と重なるものがあり、その意味でもこの「9.11」は忘れがたいメモ
リアルデーとなったーーその思い出の一つは小生が1990年ごろアメリカ・ニ
ュウヨーク・コロンビア大学への短期留学中に二度そのビルの中のオフィスを訪
ねた記憶であり、その一つは、税法専門の日本人弁護士として働いていた I 氏を
訪ねていって、その何階かのワン・フロア全体を借り切った大きな法律事務所を
案内してもらったこと、またもう一回は日本からの送金のことで当時このビルの
中にあった拓銀支店を訪ね、これまた誰かの紹介でそこで働いていた某氏と話を
して、当時「金余り」のバブルの最中で投資先を探して拓銀も世界進出している
のだという、正直のところいささか怪しげな印象をもったこと。またさらに、そ
の 留 学 の 一 年 前 に 夏 休 み を 利 用 し て 40 日 近 く 滞 在 し た 英 会 話 集 中 レ ッ ス ン ー ー
スタッテン島の中の小さな私学で開催していたもので、その島とマンハッタン島
との間は、世界貿易センタービルの近くのバッテリー・パークから出るフェリー
が通っている――の、授業のない日に何度かマンハッタン島に出かけ、夜の帰り
の便からみえるマンハッタン等の例の夜景にひときわ目立って屹立していた二本
のビルの光景は、そのビルの窓からすぐ真下のように近くに見える「自由の女神」
の姿、ビルの屋上からみたマンハッタンのビル群とその周囲の光景などとともに、
目に思い浮かぶ。――そうであるだけに、同時放送での目の前のテレビのなかで、
そのビルが二棟とも一瞬のうちに消えてなくなるとは!なによりも、まさにその
死の意味をも理解できぬままに一瞬にして生命を奪われた二千余人の人たちの無
念は、いかばかりであったろうか!世の中には予想もしなかったことが起きるも
のであるとの驚き、
(津波にしろ原発事故にしろ自然を甘くみていた人間の驕りの
招いた悲劇というふうに総括するほかない今回の3.11とはことなり)、明確な
人の「意思」がそこにあってまさに意図的に惹き起こされた事件であるというこ
との驚きーーそこに込めらた怨念の深さ、その背後にある世界の多様性を理解す
ることなしには、21世紀冒頭におきたこの大事件の歴史的意味・教訓を引き出
すことはできないであろう。この歴史的事件との個人的遭遇体験とそこで小生な
りに考えたことなどもまた、まさにその 21 世紀を生きていくほかないこれからの
未来世代に、遺し伝えていく必要があるのではないかーーそれもまた小生にとっ
て本 NPO の立ち上げにつながる思いの一つとしてある。
109
④そして最後に、それは2011年のあの3.11(の一年半記念日)――それは
この国と世界にとって永遠に記録されるであろう歴史的大事件のあった日である
と 同 時 に 、そ し て ま さ に 、ほ か な ら ぬ わ が 郷 里・山 田 と わ が 実 家 も 、そ の 被 災 地 ・
者の一部であったという意味で、直接個人的意味をもった事件のあった日であり、
而して2012年9月 11 日、マスメデアは、とくに復興が進まない現状を「あの
日から一年半」というタイトルでしばしば取り上げていたこともあり、小生とし
てもあらためて、(偶然の符合ながら)3.11は誕生日の半年前としてあらため
て位置づけられる日となった。いずれにしても、上記のように、この 2011 年の大
事件(「コト」)と、それから程なくして完成した上記「パラト庵」という「モノ」
がなければ、正直のところ(同時にまた残念ながら!)おそらく小生も、この老
体をおしての NPO 立ち上げにという挙(壮挙か、暴挙か、はたまた愚挙かは、神
のみぞ知る、というところか?!)にでることもなかったであろう。ともあれ、
本 ・ NPO 立 ち 上 げ と 最 も 関 連 す る 形 で の こ の 3 . 1 1 に つ な が る 小 生 の 思 い は
本・趣意書中でも随所で述べたとおりであり、ここでは繰り返さない。
――なおまた、後述のように、あの3.11のあった 2011 年の・まさに前年の
2010 年 9 月の中旬(つまり 3.11 のほぼ半年前)、小生は、自分史を書くための八
戸から釜石にかけての調査旅行を敢行したので あるが、その意味でその年月日は、
小生が吾が郷里の町並み・お祭り等の被災前の姿を(虫の報せか偶然にも)最後
に見にすることとなった年でもあった!
・以上のように、この2012年9.11という、この小生個人にとって一年中で
もっとも忘れることのできない日に奇しくも結びつく形で、時代を画するという
文字通りの意味で「画期」的な幾つかの歴史的事件がこの世界と日本に起きたと
いうこと(かくのごとくに、小生のように幸か不幸か「歴史的有名人」でもない
「普通の人」の個人史も、多かれ少なかれ今や日本と世界の歴史と結びつくもの
で あ る こ と 、こ の 小 生 自 身 の 実 感 と し て あ る )、そ し て そ れ ら 諸 事 件 は( こ の 7 1
歳 と い う 、「 古 希 の 峠 」の 向 こ う に 一 歩 足 を ふ み い れ た )小 生 に と っ て ま さ に 今 回
の 本 NPO 立 ち 上 げ へ の ( 少 な く と も 一 個 の ) の 直 接 な い し 間 接 的 動 機 と な っ た 、
という意味でも、複雑な感慨を懐かざるをえないものがあり、その意味でも、と
くにこの日付を残しておきたく思った次第である。
――――――――――――――――
【Ⅴ―参考2】A3コピー 〔 M´1―M´5〕( 資 料 M ´ と し て 添 付 し た 3 ・
11被災関連の・郷里とその付近・三陸沿岸の地図・写真等)へ
のコメントーー 3 . 1 1 を 契 機 と し て 、 あ ら た め て さ ま ざ も の
個人的記憶を呼び覚まされた写真と地図ーー小生個人の自分史の
110
一部につながるものとしての土地・建物ないし地域の思い出:
〔M´1〕
「家は流されたーー」( A3 航 空 写 真 + 小 型 写 真 二 葉 )― ― 3 .1 1 被
災 直 後 の わ が 郷 里( 岩 手・山 田 ― ― た だ し 、中 心 地 域 の み )と 実 家 の 惨
状:
① 流 さ れ た 実 家 ― ― 小 生 が 中 2 ご ろ か ら 高 3( + 1 )こ ろ ま で の 5 年 間 近 く 住 ん
で い た 旧「 小 型 ウ サ ギ 小 屋 」を 、そ の 後 オ ヤ ジ オ フ ク ロ が 全 面 改 築 し 、亡 く な
るまで住んでいた、関口川・河口付近の家:
・町 営 の 新 築「 文 化 」住 宅 ゆ え 、そ れ 以 前 に 住 ん で い た 下 記「 ブ タ 小 屋 」よ り は
衛生的にはマシではあった(ブタからウサギへの進化)が、それでも、広さ的
には、6畳と4畳半くらいの部屋二つだけの、小中高の4人の兄弟と夫婦二人
が住むにはあまりにも狭い家(それゆえ後掲のパラト庵が二階建ての「中型ウ
サギ小屋」とすればその一階部分程度の広さゆえ「小型ウサギ小屋」と自称―
― 世 界 に 名 だ た る 日 本 の シ ン ボ ル・元 祖「 ウ サ ギ 小 屋 」? )。父 の 定 年 退 職 を 機
に総二階建てに立替え、やっと人間の住む家らしくなった(その時はしかし子
供 た ち は 山 田 町 に は お ら ず 、夫 婦 二 人 だ け の 終 の 棲 家 と な っ た ! )。す で に 十 年
前に両親ともに亡くなり、兄弟4人だれも住む人もなく無人の家であったこと
は不幸中の幸い。両親の残した遺品とか、小生が旅先で買って帰ったお土産の
品とか、小生にとってもさまざまな思い出がこびりついていた家――それもこ
れもすべて「ガレキ」とは!
・ も と も と こ こ は 川 の 河 口 で そ の 一 帯 は 沼 と か 湿 地 帯 で 船 の 引 き 揚 げ 場 と か ゴ
ミ 捨 て 場 な ど に な っ て い て 、付 近 に 人 家 も ほ と ん ど な く 、わ れ わ れ は 夏 な ど 水
遊 び を し た り う な ぎ・フ ナ な ど の 魚 と り を し て 遊 ん だ 記 憶 が あ る 。そ の 後 一 帯
は 埋 め 立 て ら れ 、住 宅 が 立 ち 並 ぶ よ う に な っ て 、頑 丈 な 堤 防 が 町 営 住 宅 の 屋 根
よりも高く川との間にカベを作っていて無機質な風景になってしまっていた
の で あ る が 、 津 波 は そ れ を も 軽 々 と 乗 り 越 え て き た の だ ろ う 。 ② 自 称「 ブ タ 小 屋 」の 建 っ て い た あ た り ー ー 小 生 が 5 歳 ご ろ か ら 中 学 2 年 こ ろ ま
での10年間近く住んでいた、まさにブタ小屋のようなあばら家(今は人手に
わ た っ て 、人 が 住 ん で も お か し く な い よ う な こ ぎ れ い な 家 に 変 貌 )
;す ぐ 目 の 前
を山田線の線路が走っていた;:
・「(「 ブ タ 小 屋 」 い う て も ) わ た し ゃ 、 ブ タ の 子 で は ー ー な い 」、 い わ ん や 「( 鰯 や イ
カに囲まれて育ったからといって) 鰯 の 子 で も な く 、イ カ の 子 で も な い 」
、と は い え
「神の子でもない、ただの人の子」――ともあれ、上記・第一、二句の洒落が
分 か る ひ と は 、そ こ そ こ 浪 花 節 の 通 で す ぞ (ただしそのようなひとは残念ながら、い
まや日本国の絶滅危惧種、とまではいかずとも、希少種であることは確実!);
・も と も と こ れ は 、母 親 の 実 家 の 桶 屋 の 爺 さ ん が 農 作 業 用 の 道 具 等 の 置 き 場 と し
111
て買っておいた物置を釜石鉱山から郷里の山田に「引き揚げ」てきた我々親子
のために貸してくれたものと聞く。目と鼻の先に(ほとんど軒先すれすれに)
山 田 線 の 鉄 道 線 路 が 通 っ て い て 、 当 時 は と く に SL で 貨 物 列 車 が 通 る と き な ど
家がガタガタ揺れた記憶などがある(東南アジアやインドなどのテレビ報道で
よ く 見 か け る 光 景 ― ― と も か く も 、よ く 事 故 に も あ わ ず に 生 き 延 び た ! )。8 畳
間一間と 6 畳ほどの土間があるだけの狭さーー親子六人がそこに川の字で寝て
い た 。衛 生 状 態 も 最 悪 で 、と く に 梅 雨 の こ ろ は ナ メ ク ジ が 台 所 に 這 い 回 る な ど 、
今から考えてもホントによくあのような家で病気にもならずに無事生き延びた
ものと思う(戦後すぐのころの、とくに都会の庶民の住宅事情は、ある程度大
同 小 異 で あ っ た ろ う が ー ー )。
・ こ の 「 ブ タ 小 屋 」( と そ の 周 辺 な い し 町 全 体 の 家 ・ 人 ・ 自 然 ) に ま つ わ る 小 生
な り の あ れ こ れ の 記 憶・思 い 出 は 、そ れ が と く に 成 長 期 の も の で あ る だ け に 特
別 の も の が あ る 。そ の い く つ か は 本・趣 意 書 に も 随 時 書 き 込 ん だ つ も り で あ る
が 、な お 多 く の 残 さ れ た 思 い 出 に つ い て は( 上 述 の よ う に 3 .1 1 以 来 中 断 し
て し ま っ て い る )自 分 史「 正 編 」の 中 に よ り 詳 し く 書 き 残 し た い と 考 え て い る 。
・た だ 、こ こ で 一 つ だ け 、こ の よ う な 東 北 の 片 田 舎 の 、し か も あ ば ら 家 の よ う な
「 ブ タ 小 屋 」も ま た 、日 本( と 世 界 ! )の 歴 史 と 無 縁 で は な か っ た と い う 思 い
出 話 を こ こ で 唯 一 つ だ け( 上 記「 神 の 子 」と い う 言 葉 の 連 想 ― ― そ れ も こ こ で
は 、「 神 の 子 」 イ エ ス で は な く 、 戦 時 中 ま で は 「 現 人 神 」 と さ れ た 昭 和 天 皇 ―
― で )。
ー ー そ れ は 、小 生 が た し か 小 学 校 低 学 年 の こ ろ 、昭 和 天 皇 の「 全 国巡 幸( 気
になって図書館で調べたら、かつて古代日本以来戦前までは、行啓といい御
幸・御 行 と も い っ た 。ち な み に お 相 撲 さ ん の 方 は 巡 業 で 、船 は 巡 航 で す ー ー ホ
ン に 日 本 語 は む つ か し い ! )と い う も の が あ っ て 、そ れ が こ の 東 北 の 片 田 舎 の
山 田 線 ま で 通 過 す る こ と と な り 、ま さ に わ が「 ブ タ 小 屋 」の 目 の 前 を「 お 召 し
列 車 」が 通 っ て 行 っ た こ と で 、そ の と き 小 生 の 幼 い 目 に は 、列 車 の 中 に 皇 后 と
一 緒 に た っ て 手 を 振 る 天 皇 の 例 の 姿 と 、ブ タ 小 屋 の 周 り に ゴ ザ を し い て 座 っ て
待ち構えていた沢山の老人たちが列車が通過する瞬間一斉に手を合わせて拝
ん で い た 様 子 が 、な に か し ら 不 思 議 な 光 景 を フ ラ ッ シ ュ カ メ ラ で 写 し た と き の
よ う に 網 膜 に 焼 き つ い て 残 っ た( す で に 昭 和 2 1 年 初 頭 に 天 皇 は「 現 人 神 」で
は な い と 人 間 宣 言 を し 、翌 年 5 月 に は 象 徴 天 皇 を 柱 と す る 日 本 国 憲 法 も 発 布 さ
れ て い た の に 、 田 舎 で は ま だ 「 現 人 神 」 は 生 き て い た ー ー 。)
・ ち な み に 、『 山 田 町 史 』 別 冊 ・ 年 表 に よ る と 、 そ れ は 昭 和 22 年 8 月 8 日 の こ
と で あ り 、 昭 和 21 年 の 神 奈 川 県 か ら は じ ま っ て 26 年 の 北 海 道 の そ れ で 終 わ
っ た の だ と い う 。「 ち な み 」 つ い で に 、 上 記 年 表 に は 、 こ の 年 ( 22 年 ) 4 月
25 日 の 戦 後 初 の 衆 議 院 選 挙 で 37 歳 の 鈴 木 善 幸 氏 が 社 会 党 か ら 立 候 補 し て 初
112
当 選 を 果 た し た こ と 、 12 月 28 日 午 後 3 時 半 に 出 火 し た 火 事 は 折 か ら の 強 風
に 煽 ら れ て 全 町 の 約 半 分 に あ た る 520 戸 を 焼 失 し 9 時 頃 鎮 火 し た と の 記 事 を
同 時 に 載 せ て い る ー ー 後 者 の 大 火 の こ と は 、小 生 も よ く 覚 え て い て 、小 生 ら の
ブ タ 小 屋 に ま で は 延 焼 し て 来 な か っ た が 、避 難 し て き た 桶 屋 の ジ イ サ ン 兄 弟 み
な が コ タ ツ で 震 え な が ら 正 月 用 の 餅 を 食 べ た こ と 、翌 日 朝 被 災 し た 地 域 に「 巡
行 」に 出 か け て 、地 べ た に 埋 ま っ た イ カ の 塩 辛 が イ ッ パ イ 入 っ た 樽 か ら 湯 気 が
立っていた光景など覚えているーー昭和 8 年の津波、そして戦争の傷跡、そ
れ ら の 被 害 も 癒 え る 間 も な い 戦 後 す ぐ の こ ろ 、町 の 人 々 の 窮 状・苦 し さ は 、い
か ば か り で あ っ た か 、と 思 う 。た だ 、そ の 大 火 で 焼 失 し た の は 町 の 西 半 分 だ け
で 、そ の 点 今 回 の 3・1 1 で は 、こ の 航 空 写 真 で 見 る 限 り で も 、海 岸 に 近 い 部
分 は ほ ぼ 全 滅 と い う こ と で 、そ の 被 害 の 大 き さ が 偲 ば れ る ー ー た だ 、湖 の よ う
な地形が幸いしてか、隣町の大槌町と比べても、津波そのものの被害よりも、
そ の 後 の 火 災 に よ る 被 害 が 大 き か っ た と 聞 く )。
・山がすぐ前後に迫る地形なので、ここまでは流石に津波は来なかった、らし
い。
②´海苔屋さんのこと:
・小 生 の 上 記 ブ タ 小 屋 の 一 軒 置 い て 西 隣 り に は 、山 田 で も「 海 苔 屋 」さ ん の 屋 号
で 知 ら れ る 親 戚 の 家 が あ り 、小 生 が 子 供 の 頃 は ま さ に( そ の 屋 号 の 通 り )海 苔
専 業 漁 家 と い う 感 じ で 、そ の 後 、後 述 の よ う に 海 苔 が 海 岸 の 埋 め 立 て 等 で 作 れ
な く な っ て * 、牡 蠣・ホ タ テ 等 の 養 殖 に 転 じ 、今 の 三 代 目 当 主 YT さ ん の 代 に
な っ て 、役 場 の 職 員 に な っ て か ら は 、そ れ も 廃 業 し た が 、今 も 吾 々 は 、あ る 種
の な つ か し さ を 込 め て「 海 苔 屋 」と 呼 ん で い る 。小 生 ら 親 子 が 上 記・ブ タ 小 屋
に 移 住 し て き た 戦 後 す ぐ の こ ろ 、そ こ で は 母 チ ヤ の 姉( つ ま り 小 生 の 叔 母 ― ―
わ れ わ れ は「 ノ リ 屋 の バ ッ パ ー 」と 呼 ん で い た )が 嫁 と し て 采 配 を ふ る っ て い
て 、そ の 息 子・娘( 小 生 に と っ て は 従 兄 弟 )も 5,6 人 は い た * * が 、そ の バ
ッパーもジイサンも、小生ら兄弟 4 人を、実の子供のように可愛がり育てて
く れ た し 、ま た そ の 従 兄 弟 と は 実 の 親 子 か 兄 弟 同 様 に 可 愛 が っ て く れ た( ノ リ
屋 の 方 が 、わ れ わ れ の ブ タ 小 屋 の よ う な 狭 い 家 と は こ と な り 、漁 師 さ ん の 家 ら
し く 、広 い 庭 と 家 屋・作 業 場 が あ っ て 、小 生 も 第 二 の 自 分 の イ エ の よ う に 出 入
り し て い た )。 同 時 に ま た 、 わ れ わ れ も 子 供 な が ら も ノ リ 作 り に は い ろ い ろ な
過 程 で 手 伝 っ た の で 、そ の 製 品 に 仕 上 げ る ま で の 大 変 さ は 身 体 を 通 じ て 記 憶 に
残 っ て い る( な ぜ か 寒 い 季 節 、朝 暗 い う ち か ら の 作 業 で あ り 、天 日 乾 燥 な の で
お 天 気 に 左 右 さ れ 、と く に 雨 が 一 番 の 大 敵 で 、雨 が 降 っ て き た と き の ー 方 言 で
「 カ ガ リ が 来 た あ ー ぞ ー 」と ジ イ さ ん の 叫 ぶ 声 が 耳 に 残 っ て い る ー ー パ ニ ッ ク
の よ う な 忙 し さ が 鮮 明 な 記 憶 と し て あ る )。
113
*小生の子供の頃の山田では、湾内の穏やかな海を利用して、そのノリ屋さん以
外にもノリの養殖・生産をする漁師さんが何軒かあって、湾内の両脇には「ノ
リひび」が沢山並んでいた。
しかしそのノリヒビも、或る時期から(海岸の整備・埋め立てか何かその原
因は小生にはよく分からないが、高度経済成長期の 1960 年代以降であろう)
完全に姿を消してしまい、山田での海苔の生産は全く行われることはなくなっ
た(それに代わって、それまであった牡蠣の養殖とならんで、ホタテやワカメ
の養殖が主流となった。と同時に、山田の海岸も、車の行きかう道路、漁船の
出入りする岸壁、そして分厚い津波用防波堤――それをも今回の津波は軽々と
乗り越えて来た!――と、完全にコンクリートで固められしまい、木の桟橋と
か砂浜の海岸とかの、子供のころの、魚と重油の臭いがただよう、あまり衛生
的とはいえないが、風情ある海岸は、完全に姿を消した)。その当時、ノリ屋の
バッパーがたしか選挙が近い日に「なに、あのゼンコーが!」と吐き捨てるよ
うに怒って言っていたこと、その理由は、どうやら、上記ノリの生産が中止に
なったのは、政治のせいだということらしく、大分後になって小生も、学会で
の議論とか社会問題として、日本中の海岸が補助金の獲得―バラマキ、公共工
事に群がる土建業者など、政治と経済の論理で、不必要なまでにコンクリート
で埋め尽くされ、風情ある海岸・浜の風景が姿を消し、生態系が破壊され、そ
こでの伝統的生業や釣り等のための「入浜」慣行(それを「――権」と呼ぶか
どうかはともかくも)が壊滅的影響をこうむったことを知り、ノリ屋のバッパ
ーの怒りにも得心がいったという次第であるーーただし、山田湾で海苔の生産
が完全中止に追い込まれたことと、ゼンコウさんがそのことについてどう絡ん
でいたのか、現時点では小生には不明である。ただ、ゼンコウさんの栄光の陰
には、このノリ屋のバッパーのように、岩手の漁村の片隅で沢山の子を産み育
て、働き詰めの毎日とあれこれのしがらみの中で「喜びも悲しみも幾年月」の
生涯を送った、沢山の名もなき庶民の「声なき声」もあるということ、それを
忘れては、まさに片手落ちと思うからである(すくなくとも銅像を残すと同じ
くらいに、これら庶民の声も記録として残す意義はある)。
ちなみにまた、余談ついでに、ノリ屋のバッパーの思い出話をもう一つーー
それは戦争末期、中学校かなにかの先生が「お宅の○○君を海軍の特攻隊にや
らせてくれないか」とお願いにきて、ノリ屋のバッパーは即座に「とんでもな
い」といって追い返したのだという。このエピソードを聞いて小生は(戦争末
期には、学校の先生までこういう形での戦争協力に借り出されていたという歴
史的事実を知るとともに)なによりも(あれこれの観念に惑わされぬ母性ゆえ
に)
「母は強し」と思った次第である(もっともノリ屋のバッパーは、その妹で
ある小生の母チヤが、前述のように極く涙もろいのとは大違いで、そして小生
114
が知っているだけでもノリ屋の子供たちにも本当にいろいろな人生ドラマがあ
ったにも拘わらず、すくなくとも小生の目には、このバッパーが涙を流してい
るのを見たことがない位、気丈で勝気な人であった)。
**海苔屋さんの沢山いた兄弟姉妹には皆さんにお世話になり、またいろいろ
な・語りつくせぬほどのなつかしい思い出があるのであるが、そのうち末子
の T さんは、小生らとも比較的年が近かったせいか、最も思い出が多い ーー
以下、本趣意書とも 無理すればつながらないでもない、T さんにまつわる思
い出話少々――:
・戦中・戦後の体験談 ― ― 飛行機の燃料(松根油)を製造するために山に行っ
て松の根堀をさせられたこと、山田湾で海軍の水上航空機が米軍の攻撃をう
けて海に沈められたときのこと、戦後すぐのころには、学校では毎日のよう
に教科書のスミ塗りをさせられたこと、 など。 ・朝鮮戦争勃発のときのこと ー ー 海苔屋の畳の部屋で新聞を広げていた T さん
が、「38 度線をこえて北鮮軍がーー」という一面トップにおどる新聞記事を
見て、
「また戦争かーー」と、慨嘆ともため息ともつかぬ大きな声で叫んだの
を小生は覚えている。いうまでもなく、この戦争が敗戦後の日本の政治・経
済状況を一変させたほどにインパクトがあったこというまでもなく、そして
今、本・趣意書第八版のとりまとめ最中の 2013 年 2 月北朝鮮による三度目
の核実験が成功したというニュウスが飛び込んできて、それが北主導での朝
鮮半島統一という戦略の一環として追求されたものであるらしいことなど、
あらためて、日本の安全をめぐるただならぬ情勢の進展に不安をおぼえつつ、
あのときの T さんの声を思い出した次第である。
・町の映画館にかかったドサまわりのストリップ(たしか「百万ドルのポポ」
とか宣伝しえいたのを覚えているーーほんとに碌でもないことは良く記憶し
ているもので!)を一緒に見に連れて行かれたことーー深刻な話題につづけ
ていきなりこういう思い出話をもちだすのは不謹慎かつ分裂症的であるとし
かられそうであるが、T さんはそのころ思春期から大人にさしかかっていた
ころだけに、T さんからはいろいろと大分露骨な「女の話」の「教育」を受
けたーー極め付きは、町の映画館にかかったドサまわりのストリップにまで 、
一人でいくのが憚られたせいか、小6の小生は一緒にお供して連れて行かれ
たことであり、しかもその後の後日譚の方が漫画みたいにおもしろいーー当
時、小生が新聞配達をしていた新聞屋の奥さんーー戦争未亡人だったと後で
聞いたーーが何故か警察署長――(泥棒ではなく)町の女の尻を追いかける
ことで有名であったらしいこと、これまた海苔屋の末娘の O さんから後日聞
いたーーと一緒に後ろの席で見ていたので、翌日新聞配達のとき皆のまえで
「昨日いとこの T さんに連れられて映画館でストリップを見にいったけど、
115
奥さんもきていましたねーー」といった途端、その場の空気が一瞬凍りつい
たこと、そして新聞配達は即日「解雇」となったこと、まさに(小学生でな
にも分からなかったとはいえ、ストリップをみることはホントはいけないこ
とらしいこと、またそれを見ていた人のことを「あなた見てましたね」とい
うのもいけないらしいこと、も分からず、いわんや何で新聞配達を「解雇」
されなくてはならないのかもよく分からずーー)今頃の若者言葉でいえば
「KY」人間――空気を読まないのではなく、読めないーーの典型の兆候ここ
にあり、のエピソード;そ れ は ま た 、
「 娯 楽 」と い え ば セ ッ ク ス く ら い し か な
かった戦後の田舎、そして「性の解放」という戦後の風潮の田舎版ともいえ
る、まさに漫画か映画のような、ウ ソ の様 な ホン トのハナシゆえ、そ し て 60
年前の時効にかかったハナシゆえ、ついー。その、一緒にストリップをみに
行った T さんも、50 代で脳梗塞にかかり、まさに植物人間のような状態を
何年も続けて、悲惨な最期を遂げたーー嗚呼、合掌(生前のプライバシーを
暴いて御免なさいーー)。
③( 小 生 が 通 っ た )山 田 小 学 校 の あ っ た と こ ろ ― ― 隣 が 町 役 場 で 、い ず れ も 山 側
の 高 台 に あ り 、こ こ ま で は 津 波 は こ な か っ た も よ う 。左 上・小 写 真 は 町 役 場 の
前の被災した町の様子:
・木 造 二 階 建 て の コ の 字 型 の 大 き な 校 舎 。そ れ ぞ れ の 教 室 で の 学 年 の 担 任 の 先 生
と 結 び つ い た あ れ こ れ の 記 憶 。と く に そ の 校 庭 で は 、朝 礼 と か 運 動 会 等 の い ろ
い ろ な 学 校 行 事 や 昼 や 放 課 後 な ど の 同 級 生 等 と の 遊 び 、校 庭 か ら 見 え る 山 田 湾
の 景 色 、春 の 桜 の 光 景 、夏 休 み の 宿 題 で グ ラ イ ダ ー を つ く っ て 飛 ば し た り 、校
庭 の す ぐ 脇 の 防 火 槽 で 船 を 作 っ て 浮 か べ て 遊 ん だ り ー ー な ど 、い ろ い ろ な 思 い
出 が 詰 ま っ て い る 。そ し て な に よ り も 、本 文 で も 書 い た よ う に 、そ の 卒 業 後 中
学に入るまでの春休みの期間中、先生にたのんでその図書館を空けてもらい、
( 吉 田 松 陰 伝 の 影 響 か )そ こ の「 偉 人 伝 」関 係 の 本 を 全 部 読 ん で や ろ う と 思 っ
て 、だ れ も い な い 校 舎 で 一 人 サ ツ マ イ モ の 昼 飯 を か じ り な が ら 本 を 読 み ふ け っ
た 記 憶 に つ な が る( な お 、木 造 の「 分 校 」と か「 学 舎 」と い う コ ト バ に 拘 る 小
生 の 思 い に つ き 、【 0 - 2 】 参 照 )。
・ 校 舎 の 玄 関 の 大 き な 松 の 木 の 脇 に は 二 宮 金 次 郎 の ( 以 前 は ど こ の 小 学 校 に も
あった)例の銅像が立っていた。しかしこれも、校舎の取り壊しー公民館建
設の過程で片付けられたらしくその跡形もなく、公民館の近くには(代わり
に?)わが郷里の生んだ総理大臣・鈴木善幸氏(山田では「ゼンコウさん」
で通っていて、山田の天皇陛下みたいな超有名人で、従ってその悪口をいう
のは町民であるなら第一級タブー)の像が立っているーー小生、自称「山田
の二宮金次郎」のつもりでいたので、かねがねその銅像を本物・金次郎の像
116
の 傍 に 、 小 さ く て い い か ら (「 小 型 ・ 金 次 郎 」) 立 て て 欲 し い と ( 勝 手 に 図 々
し く も ) 思 っ て い た ( 無 名 の 旧 人 類 で 終 わ り そ う な の で こ れ も ダ メ か ー ー ! そ れ と も 、今 や 、薪 を 子 供 が 背 中 に 背 負 う 光 景 じ た い 博 物 館 で し か 見 ら れ ず 、
他方ケータイ金次郎は町のどこにでもあふれていて、教育的効果ゼロで、ダ
メか?(小生がよく行く札幌駅前の大きな本屋の入り口には、今時めずらし
く二宮金次郎の像が建っているが、ただしよく見たら、手にしているのは電
子書籍の「スマホ金次郎」!)
― ― と も あ れ 小 生 と し て は 、こ れ ら 世 の 有 為 転 変 へ の 、せ め て も の 抵 抗 の 証
し と し て 、在 り し 日 の「 山 田 の 二 宮 金 次 郎 」の 像 を か の 有 名 な る 水 沢・南 部 鉄
器 で 作 っ て も ら っ て 、小 生 の 優 秀 な 頭 脳( ! )を 格 納 し て い た 頭 蓋 骨 と 一 緒 に
ー ー そ の「 優 秀 さ 」を 作 っ た の は 9 9 パ ー セ ン ト 本 人 の「 二 宮 金 次 郎 」的 努 力
の 賜 物 で あ る と は い え 、 そ の 出 発 点 と し て の 「 素 材 」 は 両 親 の 「 合 作 」( ! )
であること紛れもない事実である以上――その両親の眠るお墓に返してもら
う こ と に し て い る 。な お 小 生 と し て は さ ら に 、6 0 歳 の 還 暦 を 前 に し て 、脳 梗
塞 の た め 上 記・水 沢 の 病 院 で 小 生 ら の 眼 前 で 息 を 引 き 取 っ た 末 弟・淳 の 、新 聞
配 達 少 年 の 像 も 同 じ 水 沢・南 部 鉄 器 で 作 っ て も ら っ て 、一 緒 に 両 親 の お 墓 に 入
れてもらいたいと思っているーーそれは小生の、その早すぎる無念の死への、
何もしてやれなかった兄としてのせめてもの償いの証でもある――これらの
ことは、後日上記・自分史の別冊「遺言」に正式に書き残すつもりであるが、
今の段階で、さしあたりこの機会に予告しておく。
④山田中学校――今もほぼ当時のまま、奥まった山側の高台にある。
・中学 1 年の夏休みに近くの山のイチョウの木からターザンごっこをしていて
左 脚 を 骨 折 し そ の 秋 の 二 学 期 は ほ ぼ 完 全 に 休 学 し た (「 タ ー ザ ン ご っ こ 」 と は
い え 、要 す る に 計 算 も な し に 思 い 切 っ た 言 説・行 動 に で る 傾 向 、つ ま り 小 生 の
その後の人生の失敗を暗示するような行動パターンの思春期ゆえの発芽とい
う こ と で 、 よ く 言 え ば 体 に 似 合 わ ず 大 胆 不 敵 ・ 勇 気 が あ る (『 坊 ち ゃ ん 』 的 に
い え ば 愛 す べ き 無 鉄 砲 )、 と い う こ と で 、 悪 く 言 え ば 単 に 軽 挙 妄 動 、 後 先 を 考
え な い 冒 険 主 義 の 現 わ れ 、 と い う こ と で も あ る )。
しかし、級友たちが、毎日のように来てくれてあのブタ小屋の窓から顔を出
して「今日の英語はここからここまで進んだよーー」とかとその日の授業の進
度を教えてくれて*、小生はそれをもとに自分で(ギプスをはめて他にするこ
ともないこともあって)教科書の自習を一生懸命にして、その年一杯は学校を
休んだにも関わらず、翌年の学年末試験では学年で一位という成績で、担任の
I 先 生 も 通 信 簿 に ベ タ 褒 め の 賛 辞 を 書 い て く れ た( こ こ で ま た エ ヘ ン ! )。そ れ
は、学校なんか行かなくても自分でなんとか自習独学でもやれる、ということ
117
で、小生にとってもそのことでへんな自信がもてたようにも思うーーそしてこ
のことはさらに、より一般化すれば、制度としての学校とは何ぞや、という根
源的な問題にもつながる可能性も秘めているはずのことで、後年、後述【Ⅴ―
参考6】の鹿児島の父―子の一対一の自宅学習の驚くべき成果の記事を奇妙に
もよく記憶していたことともつながり、その後さらに、現在の大学教育からみ
た現代日本の制度化された教育のありように対する根本的な問題意識という形
で 、 本 NPO の 立 ち 上 げ の 背 景 に も つ な が る の か も し れ な い ー ー む ろ ん そ の 当
時はそんなことなど考えるはずもなく、むしろ、体は不自由でもなんとか負け
まい、追いつこうと、そればかり考えていた、あるいはまた、体の自由がきか
ず何もすることがないので、本だけを読んでいればよい生活が気に入ってもい
た ! )。
*当時の田舎では少なくとも子ども達は皆、食べること働くこと遊ぶことで精一杯
で、受験競争とかのストレスもなく、したがってこのように骨折して休んでいる
小生を毎日のように見舞ってくれ、さらに学校での勉強のことまで教えてくれた
友人も、少な くな かっ た の で ある。ち なみ に 、いじ めと か 足 の引 っ 張 り あい とか
は、すくなくとも小生はあまり感じたことはないが、ただ一人だけ近 所の K から
だけは、その母親とともに、小学 1 年のときから高校まで実に陰湿な「いじめ」
「いやがらせ」を受けたこと、いつもお人よしでぼんやりの小生は 、その時点で
は気が付かなくて、後年大分経ってから、あれは(多くは小生の成績がいいこと
を妬んでの)いじめだったのかーーと、思い当たることが少なくないーーそれに
しても、いじめられる側になることはあってもいじめる側にはならないこと、そ
れが年取って人生を振り返ってみて後悔しないための、少なくとも最低限の必要
条件であること、子ども達に伝えたいことの一つの人生訓としてある 。
・そ し て 思 春 期 特 有 の 、体 だ け は 子 ど も か ら 大 人 へ の 脱 皮 の 時 季 特 有 の 、あ の な
んともいえない多感多情の不安定さ危うさを抱えた心身状況――そしてあの
TM さ ん へ の 淡 い 恋 心 = 第 一 の 初 恋 ! そ し て 上 記・骨 折 事 件 も そ う し た 不 安 定
さ 、こ ど も 特 有 の こ わ い も の 知 ら ず 、な ど 、い ま で も 時 々 少 年 犯 罪 事 件 の ニ ュ
ウスなどみると、そうした思春期のこころの揺れ・危うさなど、を思い出す。
他 方 ま た 、親 父 が 大 切 に 残 し て く れ た 小 生 の 当 時 の 書 き 残 し た も の な ど を み
て も 改 め て「 あ れ も こ れ も 」と い う 膨 大 な 勉 強 計 画・読 書 計 画 を 自 分 で 建 て て
自 分 で 苦 し ん で い た 感 の あ る 中 学 校 時 代 、そ し て 三 年 生 の と き の 生 徒 会 長 と し
て の 反 省 は ( も ? )「 観 念 の 空 回 り 」 的 一 人 芝 居 を 演 じ て い た の で は ー ー と い
う 苦 い 思 い( 今 は 亡 き 末 弟・淳 の 方 が 同 じ 生 徒 会 長 と し て も こ の 点 も っ と 現 実
感 覚 の あ る 良 い 文 章 を 残 し て い る ! )ー ー そ れ ら の 意 味 で は ま さ に 現 在 の 小 生
の原点を見るような、あの中学生時代。
118
⑤( 旧 )山 田 高 校・校 舎 跡 ― ― 海 岸 か ら は 少 し 奥 に 入 っ た 山 の 中 、上 記 関 口 川 の
ほとりに建っていたが、その後、上記写真向かって左側の高台に移転:
・山 田 高 校 の こ と ー ー 当 時 進 学 希 望 者 は 、町 の 大 金 も ち の 子 の 場 合 は 中 学 生 あ た
り か ら 盛 岡 へ 、ま た そ こ そ こ の 小 金 も ち の 子 は 汽 車 通 学 で 近 く の 釜 石 か 宮 古 の
普 通 高 校 へ と い う の が 、「 常 識 」で あ っ た が 、男 の 兄 弟 4 人 で 父 の 薄 給 で は そ
れ も 適 わ ず 、な に よ り も 小 生 じ し ん「 進 学 校 」か ど う か な ど 全 く 無 頓 着 で 、
「ど
こ に い て も や る 気 さ え あ れ ば 勉 強 は で き る さ ー ー 」と い う ふ う に 漠 然 と 思 っ て
い て 、地 元 の こ の 高 校 に ほ と ん ど 何 の 躊 躇 い も な く 進 ん だ( と い う よ り そ れ 以
外 の 選 択 肢 は 考 え ら れ な か っ た )。 た だ 少 な く と も 当 時 は 、 こ の 高 校 は 、 ほ と
ん ど の 卒 業 生 が 就 職 組 み か 私 学 へ の 進 学 で 、国 立 大 学 に 合 格 す る の は 10 年 に
一人でれば御の字という状態(今は後輩もがんばってもっと多くなったか
な ? ) で 、 そ の よ う な 意 味 で も 「 有 名 進 学 校 」 の 範 疇 内 に は 全 く な く 、( ま た
今 や 天 下 の 有 名 校 と な っ た 「 青 森 山 田 高 校 」 と の 比 較 で も )「 天 下 の 無 名 校 」
あったことは否定できない(今は大分状況が変わったらしいこと、今回の3.
1 1 に 関 連 し た 情 報 で も 窺 わ れ る し 、後 輩 も あ ち こ ち で 大 分 が ん ば っ て い る 様
子 で 心 強 い )。 こ の こ と は 、 後 に と く に 東 北 大 学 に す す み 、 ま た 北 大 に 教 官 と
して赴任してみて、
「 ○ ○ 一 高 」と か の「 有 名・一 流・進 学 校 」と か の「 序 列 」
の 存 在 を 、多 く の 同 級 生・学 生・同 僚・教 官 等 を 通 じ て 感 じ さ せ ら れ る こ と も
多 く 、情 報 量 と か 刺 激 と か の 点 で は た し か に 劣 悪 な 環 境 で あ っ た こ と は 事 実 で
あ り 、そ う し た 中 で も 、貧 乏 生 活 か ら の 脱 却 、そ し て 狭 い 町 の あ れ こ れ の 共 同
体 的 し が ら み か ら の 脱 却 の た め に は 、な ん と し て で も 大 学 進 学 あ る の み ー ー と 、
負 け て た ま る か ー ー と 負 け 意 地 を 発 揮 し 、旺 文 社 の ラ ジ オ 講 座 を 毎 晩 12 時 ま
で 聞 い て 復 習 し て 寝 る の は 午 前 様 と か 、田 ん ぼ の あ ぜ 道 を ワ ザ ワ ザ 遠 回 り し て
の 英 単 語 の 暗 記 な ど 、寝 る 間 を 惜 し ん で の 猛 勉 強 の 日 々 。そ の 努 力 の 甲 斐 あ っ
て か 、当 時 東 北 地 方 で は 、東 北 大 学 と な ら ん で 唯 一 の「 国 立 一 期 校 」で あ っ た
岩 手 大 学 ― ― す ぐ 下 に も 弟 二 人 が い て 家 の 経 済 状 態 で は 、私 学 は は じ め か ら 除
外、他方、東北大学は浪人は許されそうもなく安全を考えて、これまた除外、
必然的に選択肢はここにしかなかったというのがホントのところーーの入試
で は 、大 学 始 ま っ て 以 来 と い う 高 得 点・一 番 の 成 績 で 入 学( こ こ で ま た 、エ ヘ
ン ! )― ― し か し 、受 験 勉 強 だ け し て い た の で は な く 、と く に 政 治 へ の 関 心 か
ら 弁 論 大 会 と か 、一 時 は 小 説 家 に な ろ う か と 考 え た ほ ど に 文 学 関 係 の 本 の 濫 読
と か の 日 々 で も あ っ た( と く に な ぜ か 島 崎 藤 村 の 詩 と か 小 説 に 傾 倒 し た 記 憶 が
あ る )。
⑥山田町・中心部全景と山田湾:
・我懐かしき故郷の町(ほぼ中心部全域)の遠景――当然のことながら、この
119
小 さ な 漁 村 に も 小 生 が 知 っ て い る 範 囲 で も さ ま ざ ま な 人 々・家 族 の 織 り 成 す 、
喜怒哀楽そのもののドラマと歴史がある。しかしこの郷里に小生が住んだの
は 昭 和 2 、30 年 代 、5 歳 く ら い か ら 高 校 生( プ ラ ス ー ー 再 度 の 受 験 勉 強 の た
め に 岩 手 大 学 を 中 退 し て 帰 っ た ー ー 10 ヶ 月 ) ま で の 13、 4 年 の 間 だ け で 、
い ま や 故 郷 を 出 て か ら す で に 50 年 以 上 の 歳 月 が 経 っ て い て 、 も は や 「 遠 く
にありて思う」存在でしかなく、とくに最近の町の様子――および、その他
近隣の三陸沿岸一帯の町や村の情報――など、むしろ(今回の3.11のお
かげで!)テレビや新聞等をつうじて「そんなこともあったのかーー」と初
めて知ることも多い。とはいえ、多感な少年時代を過ごしたイエと郷里の思
い出は、この趣意書を書いていても、尽きることなく次から次へと湧き出し
てきて、ついあれこれと筆が止まらない感じであるーーそれは、この町とそ
の 周 辺 地 域 が 、 小 生 の 両 親 の 親 族 的 ル ー ツ で も あ り 、 小 生 自 身 の 10 代 ま で
の人間形成の場でもあるが故に、この町を語ることは小生という人間の原点
を 語 る こ と で も あ り 、 故 に ま た 、 ひ い て 本 NPO 立 ち 上 げ へ の 自 分 史 的 な 背
景・動機をより深く知っていただくためにも有益であると考え、さらにはま
さに3.11のこの時点であればこそ自分史の一環として書き残しておきた
い事どももあれこれあって、ついついーー。
・た だ し 、そ の ま わ り と 西 端 に は 、戦後 の 町 村 合 併 前 は 、こ の 山 田 町 以 外 に も 、
4つの独立の行政単位としての村が点在し、また湾に注ぐ川筋に沿って山奥
深くにも幾つかの集落がある。いずれも、徒歩だけではかなりの距離の、し
かし最も近い通行・通易・通婚圏内の集落であり、町村合併でみな山田町に
なったけれども、それぞれに独自の伝統・民俗・風習・歴史を残すことも忘
れてはならない。いずれにしても、地名とか風景風土といったものは、そこ
に住む、あるいはそこに住んだことのある人間にとっては、生活とか人生の
一部であり、決して単なる記号とか物理的自然に尽きない、長い生活の積み
重なった質的個性ないし時間的重層性をもつものであるのだということであ
ろ う ( 後 述 の 【 Ⅴ ― 参 考 3 及 び 4 】 参 照 )。
・ ま た こ の 山 田 湾 は 、( 北 海 道 の 洞 爺 湖 に 似 た )湖 の よ う な 、( 台 風 と 津 波 の と
き以外は!)おだやかな湾で、湾の中には(これまた洞爺湖に似て)大島・
小 島 が あ り 、夏 に は 小 舟 を 漕 い で 行 っ て よ く 海 水 浴 に 興 じ た 。な お 、上 記 大
島は、江戸後期にはオランダ船が例によって黄金を求めてとかで島に上陸、
南部藩―幕府―長崎送付という一件以来、
「 オ ラ ン ダ 島 」と の 別 称 ま で 残 り 、
そのオランダ船の縁で某オランダの町との姉妹関係あり*。
*当[HP150403]「特集」としてコピー・掲載するにあたっての追記――この「オラン
ダ島」一件(と、その後日譚 等)についてのやや詳しいコメントは、当[HP150403]
中の「コラム・その1:研究余滴」前半部にコピー・掲載しておいた「札幌歴史懇
120
話会・通信」第一回投稿文を参照。なおまた、本「特集」末尾の「村岡崇光先生へ
の手紙」もこれに関連して参照。
・ ま た 湾 の 周 囲 に は 十 二 神 山 ― 霞 露 ヶ 岳 ― 鯨 山 等 の 由 緒 あ り げ な 雄 大 な 山 々
が 湾 を 取 り 囲 む よ う に 連 な っ て い て 、と き お り 帰 郷 の と き 車 窓 か ら み え る 故
郷 の 山 は い つ も 変 わ ら ず 吾 を 迎 え て く れ る 。と も あ れ 、す べ て 我 懐 か し き 海
― 島 ― 山 。た だ し 、湾 の 外 に 出 る と そ こ は 荒 波 の 逆 巻 く 茫 々 た る 太 平 洋 。と
く に そ の 湾 の 北 東 側 に 連 な る 重 茂 半 島 に は 、若 き 日 の 小 生 の 思 い 出 に 繋 が る
漁 村 集 落 、ま た 突 端 に は わ が 来 世 の「 約 束 の 海 」た る「 鯔 ヶ 崎 灯 台 」の 雄 姿
がそびえる。
〔M´2〕三陸沿岸(A3・右側地図)ないし日本全土(同・左側地図)
― 小 生 の・い く つ か の「 足 跡 」を 、そ の 地 図 上 の わ ず か の「 点 」で 辿 っ
て:
( M ´ 2 - 1 ) 陸 中 大 橋 ・ 釜 石 鉱 山 ・ 仙 人 峠 = わ が 生 誕 の 地 ( 地 図 1 ) ― ― 釜 石
市 ( 2 ) ― 小 佐 野 ( 3 ); 遠 野 ( 4 ) ― 花 巻 ( 5 ) の こ と な ど :
・1の陸中大橋を基点にしてこれらの地域・地名は、小生にとってなによりも、
以下のような意味で小生の出生―幼児時代とつながる思い出の地である:
・ 陸 中 大 橋 ― ― こ こ は 何 よ り も 小 生 に と っ て 出 生 の 地 で あ り 、( オ ヤ ジ が こ こ の
会社=日鉄鉱業釜石事務所?の事務系従業員として働いていた関係で)昭和
16 年 日 米 開 戦 の 年 の 三 ヶ 月 近 く 前 に そ の 小 さ な 社 宅 で 生 ま れ 、終 戦 の 翌 年( 両
親の郷里の)山田町に「引き揚げる」まで5年近く住んだ土地。
釜 石 か ら 花 巻 方 面 に 行 く 列 車 で 狭 い 谷 あ い を 30 分 近 く 登 っ て い く と 、す ぐ
後ろの四方を険しい山山に囲まれた陸中大橋駅に列車は息を一息継ぐように
一休みしたあと、駅のすぐ傍に穴を開けている仙人トンネルの長い入り口か
ら蛇行をくりかえし急な勾配をあえぐように上って峠をこえ、やっと平坦な
山間の地を通って遠野に着く。
か つ て 鉄 道 開 通 前 は 、こ こ は 釜 石・沿 岸 部 と 遠 野 ― 花 巻 方 面 の 内 陸 部 を 結 ぶ
「 仙 人 街 道・峠 」の 南 端 に 位 置 し 、こ こ か ら の 文 字 通 り の 深 山 幽 谷 の 険 し い 山
道 を 往 時 は 、馬 と か 牛 と か で 人 と か 、海 の 幸 、山 の 幸 な ど を 運 ん だ の で あ ろ う
( 釜 石 よ り も 北 の 大 槌 方 面 と 遠 野 を 結 ぶ 、よ り 険 阻 な 近 道 が「 笛 吹 峠 」で 、小
生 も こ こ も 車 を 運 転 し て 何 度 か 通 っ た こ と が あ る が 、仙 人 峠 以 上 に 文 字 通 り 九
十 九 折 の 連 続 す る 危 険 な 道 で あ り 、柳 田 国 男 の 有 名 な『 遠 野 物 語 』に も 仙 人 峠
と 同 様 に 何 度 か 登 場 す る 地 名 で あ る )。 小 生 も 何 度 も 仙 台 等 へ の 行 き 帰 り 列 車
で 、ま た 後 年 は 車 を 運 転 し て こ の 仙 人 峠 を 行 き 帰 り し て い る が 、列 車 の ト ン ネ
ル は い う ま で も な く 、車 の ト ン ネ ル も 、往 時 の 交 通 の 険 し さ 厳 し さ の 一 端 が 偲
121
ば れ 、よ く も ま あ こ れ だ け の ト ン ネ ル を 掘 っ た も の だ ー ー と 感 心 し た も の で あ
る 。 上 記 『 遠 野 物 語 』 に も 、 こ の 仙 人 峠 は ( 上 記 笛 吹 峠 と 同 様 )、 ま さ に そ の
仙 人 を は じ め 、異 形 の 山 男・山 女 、旅 人 を 騙 す 狐 の は な し 、人 攫 い な ど 、の 民
話・民 俗 伝 承 の 宝 庫 と い う 感 じ で あ る 。― ― 要 す る に 、沿 岸 部 の 漁 村 と 遠 野 を
中 核 と す る 平 担 な 農 業 地 域 と の 間 に は 、1000 メ ー ト ル ク ラ ス の 険 し い 山 塊 が
壁 の よ う に 立 ち は だ か っ て い て 、そ れ を 越 え る 峠 が 上 記 の 仙 人 峠 で あ り 笛 吹 峠
で あ る と い う わ け で あ る 。そ し て 、小 生 が 、遠 野 物 語 を は じ め と し て 民 俗 学 に
少 な か ら ぬ 興 味 を も っ て 、多 少 の 勉 強 も し 、少 な か ら ぬ 本 も 読 み 漁 り 、ひ い て
さ ら に 人 類 学 等 に も 関 心 を 広 げ 、そ し て 出 来 れ ば そ れ ら に つ い て の 多 少 の 問 題
関 心 を 自 ら の 研 究 テ ー マ に 活 か せ な い か 、今 日 も な お い さ さ か 模 索 し 続 け て い
る 、そ の 原 点 は 、小 生 の こ の 出 生 地 、そ し て そ の 後 の 沿 岸 漁 村 で の 成 長 と い う
こ と に ( も )、 あ る の で は な い か 、 と 思 う 。
と も あ れ 、 こ の 生 地 ・ 陸 中 大 橋 は 、 今 行 っ て み て も ( よ く も こ の よ う な と
ころに人が住んでいたものだと、本当にびっくりするくらい)四方を高く険
し い 山 に 囲 ま れ 狭 い 谷 あ い の 、ほ と ん ど 平 地 ら し い 平 地 と て 存 在 し な い 地 形 。
し か し こ こ は 、 と く に 明 治 以 降 、 釜 石 製 鉄 所 閉 鎖 の 戦 後 昭 和 50 年 代 ま で は 、
その製鉄所に供給する鉄鉱石を掘っていた釜石鉱山を後ろに控え、とくに戦
時中と戦後復興の異常なほどの鉄への需要のあった時期には、沢山の社宅が
立ち並んでいて殷賑を極めたものらしいこと、小生はそれを下記の戦時中の
収容所周辺を写した当時の写真で知った次第である。
そ し て こ の 地 域 一 帯 に は 鉄 を 中 心 と す る 鉱 石 の 採 掘・試 掘 、そ の 製 鉄 等 の 加
工・冶 金 の た め の い く つ か の 史 跡 が 残 っ て い て 、久 慈 か ら こ の 地 域 一 帯 の 三 陸
沿 岸 地 域 と か 北 上 川 流 域 が 、古 来 鉄 鉱 石 や 砂 鉄 等 に よ る 製 鉄 産 業 が 盛 ん で あ っ
た こ と 、と く に 大 槌 で の 金 の 採 掘 と か 釜 石 周 辺 の 製 鉄 は 藩 政 時 代 か ら 南 部 藩 に
よ っ て 盛 ん に 試 み ら れ て い た こ と( 幕 末 の 有 名 な 大 島 高 遠 の 反 射 式 溶 鉱 炉 も こ
こ に あ り そ の 跡 も 残 っ て い る )、 そ の 痕 跡 が 「 山 男 」 関 連 の 遠 野 物 語 の 記 述 に
よ っ て も 裏 付 け ら れ る と さ れ て お り 、と く に 最 後 の 点 に つ い て は 、小 生 は 、
(東
北大学助手時代に民俗学や村落研究等で大いに刺激・薫陶を受けたことのあ
る)の岩本由輝氏(元東北学院大学教授・近世経済史・民俗学研究者)による、
遠 野 で 数 年 ま え に 開 か れ た 家 族 史 関 連 の 某 学 会 で の 、極 め て 興 味 深 い 研 究 報 告
を通じて知った。いずれにせよ、釜石製鉄所はいうまでもないことであるが、
そ こ の 鉄 鉱 石 を 供 給 し て い た こ の 鉱 山 は 、明 治 政 府 直 営 か ら 民 間 に 払 い 下 げ ら
れ て 以 降 、経 営 者 は 何 度 か 変 わ っ て い る が 、鉱 山 経 営 史 な い し 日 本 経 済 史 的 に
は比較的重要な位置づけのようである。上記のように3.11の前の年の 9
月 の「 自 分 史 調 査 紀 行 」の 途 次 立 ち 寄 っ た( オ ヤ ジ が 働 い て い た か も し れ な い 、
往 時 の・そ れ 相 応 の た た ず ま い を 見 せ る )鉱 山 事 務 所 は 今 は 博 物 館 に な っ て い
122
て 、元・鉱 山 の 跡 は「 仙 人 秘 水 」と い う ま さ に 言 い え て 妙 の ネ ー ミ ン グ の ミ ネ
ラルウオーターを産するだけになっているようであった。
そ し て ま た 、こ こ に 車 の 道 路 を 通 し 鉄 道 の 線 路 を 開 通 さ せ る 原 動 力 と な っ た
も の 、そ れ は な に よ り も と く に 戦 時 中 の・釜 石 の 鉄 に た い す る 軍 事 的 需 要 で あ
っ た と 思 わ れ る の で あ り 、現 に 釜 石 ― 花 巻 間 が 全 線 開 通 す る の は や っ と 戦 時 中
のことである*。――それまでは、花巻から遠野までの間は「岩手軽便鉄道」
と い う 民 間 資 本 に よ る 鉄 道 が 走 っ て い た ー ー ち な み に 、こ の( い ま 写 真 で み て
も お も ち ゃ の よ う な )鉄 道 へ の 夢 想( と 妹 ト シ の 死 へ の 悼 み の 思 い )が 、あ の
宮 沢 賢 治 の「 銀 河 鉄 道 の 夜 」を 生 み 出 し た こ と 、周 知 の 通 り で あ る 。ま た 、大
橋―釜石間にはもともとその掘り出した鉱石を製鉄所に運ぶトロッコに並行
し て 小 さ な 乗 客 用 の 列 車 が 走 っ て い た 。そ し て 釜 石 鉱 山 で で き た 鉄 は 釜 石 港 か
ら 船 で 京 浜 地 区 に 運 ん で い た 。そ し て 戦 時 下 、鉄 を 陸 路 で 釜 石 ― 花 巻 を 経 て 東
北 本 線 で 運 ぶ と い う 軍 事 的 至 上 命 令 の も と 、そ の た め の 最 大 の 難 工 事 で あ っ た
仙 人 ト ン ネ ル の 開 通 に は 、朝 鮮 半 島・中 国 大 陸 か ら( 強 制 的 に か 否 か は 今 断 定
で き な い が )連 れ て こ ら れ た 労 働 者 が 、鉱 山 労 働 と と も に 使 役 さ れ 、落 盤 事 故
等 で 落 命 し た 人 も 多 か っ た こ と 、下 記 の オ ラ ン ダ 人 捕 虜 の 手 記 か ら も 、ま た 直
接オフクロが語っていたことからも、事実であったらしいこと、何度も仙台・
東 京 方 面 へ の 交 通 手 段 と し て こ の 線 路 を 通 っ た 者 の 一 人 と し て 、こ こ で 敢 え て
それらの陰の歴史も記しておきたく思う。
*それまでは、花巻方面に出るには、昭和に入ってからもなお、徒歩―駕籠・馬、
さらにはロープウエーのようなものにまで頼った難所であったもののようであ
る。なお、この線路と並行して岩手・北部、宮古―盛岡間をつなぐのが山田線
である(なぜか、わが郷里・山田の名を冠しているーーその事情については、
その郷里の町長であり作家でもあった佐藤氏の、この線路の開通までの話を扱
っ た 新 聞 連 載 小 説 で 読 ん だ 記 憶 が あ る が 、 今 は 思 い 出 せ な い )。 こ ち ら の 方 は 、
すでに昭和初年には開通していて、上記・仙人トンネル開通までは、沿岸部か
ら東北本線方面にでるには、むしろこちらの方がよく用いられたもののようで
ある(オヤジが弘前の兵営に入隊するときも、生まれたばかりの小生はオフク
ロに連れられて宮古の駅まで見送りにいったことになっているが、小生には当
然全く何の記憶もない)。ともあれこの山田線を企画し推し進めた原敬(当時は
総理大臣ではなく、鉄道大臣かなにか?)に対して、その予算案等を審議した
貴族院だったかでは、或る議員は「山猿を乗せる鉄道はいらん」という趣旨の
いじわる発言をしたとされているが、当時の東北地方にたいする意識の一端を
示すものであろう。この路 線は、上記仙人峠ほどの難所はないにしても、
「区界
峠」という高地にでるまでの線路は深い山の中を川沿いに縫うように走ってい
て、到るところトンネルの連続で、かつて小生も盛岡方面への旅では何度か乗
123
ったことのある SL では「カラス列車」と呼ばれるくらいに噴煙が酷かった(サ
ルもこんなカラス列車は敬遠?)ことからも窺われるように、やはり難工事で
あったことは十分推察される。とはいえ、交通の容易さという点では、盛岡―
宮古間の方がより楽であることは否定できず、藩政時代に宮古がこの沿岸部で
は重要な政治・経済の中心であったことがここ からも推察できる。
― ― と も あ れ 、小 生 に と っ て こ の 大 橋 で の か す か に 記 憶 に 残 る 思 い 出 と し て は 、
とくに戦争末期、あの「空襲警報発令」と誰かがメガホンで近所を叫んで廻る
と、皆で社宅の近くの防空壕に逃げたこと(兄とふざけて押入れに隠れて怒ら
れ て た こ と )、そ し て 釜 石 製 鉄 所 を 標 的 に す る 艦 砲 射 撃 の 音 と 上 空 を 旋 回 す る 飛
行 機 の 音 を 、暗 い 防 空 壕 の 中 で じ っ と し て 聞 い て い た こ と ー ー く ら い で あ る( 釜
石のこの艦砲射撃のあとオヤジが釜石で拾った砲弾の欠片を文鎮に作り直した
も の が オ ヤ ジ の 数 少 な い 遺 品 と し て 、 今 小 生 の 目 の 前 の 机 の 上 に あ る )。
ところでこの大橋には、
( 釜 石 の 捕 虜 収 容 所 か ら 移 さ れ た オ ラ ン ダ 人 等 の )欧
米人捕虜を収容する)収容所と上記鉱山・トンネル工事のために連れてこられ
た朝鮮人・中国人用の「収容所」の二つが戦時中あった。そのいずれについて
も、上記「自分史調査旅行」のおり、すくなくとも小生が立ち寄った釜石・大
橋・盛岡等の関係博物館・図書館等には何一つ記録らしいものも残されていな
か っ た ( こ こ で も ま た 歴 史 の 抹 殺 ・ 隠 蔽 ? )。 た だ し 、 そ の 代 わ り ( ? )、 オ ラ
ンダ人をはじめ、アメリカ人等の欧米人が収容されていた収容所については、
釜石の図書館かで何冊かの関連書籍の記載を発見したし、それ以上になにより
もすでにそれ以前数年前に出版された、E.W。リンダイア、村岡崇光監訳*
『ネルと子供達にキスをーー日本の捕虜収容所から』
( み す ず 書 房 、2 0 0 0 年 )
は、日本軍占領後のインドネシアから連行されてきてこの大橋の収容所で終戦
をむかえ祖国に帰ったオランダ人・化学教師が、この大橋の収容所から祖国の
妻や子に宛てた手紙をまとめたもの、という広告を見て買って「ツンドク」し
ておいたもので、今度自分史をまとめる過程ではじめて読んでみて、戦時下の
捕虜の待遇等についても貴重な資料であると感じた。なによりも小生が生後5
年近くいたあの大橋にそういうものがあったことは、この本を通じて初めて知
っ た 次 第 で あ り 、そ の 手 紙 か ら 得 ら れ る 情 報 の う ち 重 要 と 考 え た 要 点 と と も に 、
記録として残しておかなくてはと思っている。ちなみに、その本のなかで一箇
所だけ翻訳を省いたと断っていてそれ以上はなにか奥歯にものが挟まった感の
記述があり「オヤ」と思った箇所があって、それは、陸軍将校がこの捕虜に対
し、欧米での原爆開発のことなどを聴取していたらしい部分であり、その後の
新聞記事で、当時、陸海軍は核爆弾開発研究を理研等と共同で秘密裡に進めて
いたことを知り、合点がいった次第である。
* 上 記 訳 本 の 翻 訳 者・村 岡 崇 光 氏( オ ウ ス ト ラ リ ア ー イ ス ラ エ ル ー オ ラ ン ダ の
124
各 大 学 を 経 て 、在・オ ラ ン ダ の 、ヘ ブ ラ イ 語 研 究 者 )と は 、出 版 社 の 好 意 に
よ り 、そ の 連 絡 先 が わ か り 、収 容 所 の こ と な ど を 質 問 し た 手 紙 を 出 し た と こ
ろ 、こ の 種 の 手 紙 に た い す る も の と し て は 異 例 に も( ! )温 か い ご 返 事 を い
た だ い た 。そ の・小 生 の・村 岡 崇 光 先 生 宛 て 手 紙( 2014 年 6 月 22 日 )は 、
小 生 の 出 生 地 に あ っ た 上 記・捕 虜 収 容 所 ― そ こ の 捕 虜 の オ ラ ン ダ 人 が 遺 し た
手 紙 ― そ の 翻 訳 を し た オ ラ ン ダ 在 住 日 本 人 研 究 者 ― 小 生 の・オ ラ ン ダ 法・グ
ロ チ ウ ス・ユ ダ ヤ 教・ヘ ブ ラ イ 語 へ の 関 心 等 、さ ま ざ ま の「 奇 遇 」が 重 な っ
て の 手 紙 で あ り 、そ し て 現 在 の「 志 」の「 あ り か 」の よ う な も の を 示 す 資 料
と し て も 参 考 に な る の で は ー ー と 考 え 、そ の ま ま 、本「 特 集 」の末 尾 に【 参
考】としてコピーしておいた。
・釜 石 の こ と ー ー 何 よ り も 戦 後 あ る 時 期 ま で の 戦 後 日 本 資 本 主 義 の 奇 跡 の 復 興 を
象 徴 す る よ う な( 24 時 間 燃 え 続 け る 溶 鉱 炉 の 火 に 象 徴 さ れ る よ う な )製 鉄 所 の
町としての賑わい(山田町からも沢山の人が山田線で通勤し、付近町村にとっ
ても経済的な潤いを齎していたことは疑いないーーと同時に、その山田からの
労働者の一人が溶鉱炉の火を浴びて亡くなったというニュウスとか、狭く細長
い 谷 あ い の 町 で あ る だ け に 粉 塵 公 害 に 悩 ま さ れ た 話 な ど 、今 も 覚 え て い る )。鉄
鋼 不 況 と な る や 、完 全 に 溶 鉱 炉 の 火 が 消 え て し ま い 、
(若干の採算部門だけを残
して)会社ごとバイバイ(それと同時に、鉱山としての上記・大橋も閉鎖し、
いまや建物としては鉄道の駅とか上記・鉱山博物館等のわずかのものが残るの
み)ーー月並みながら、そこに企業の論理の冷たさ、そして(製鉄以外何もな
い)企業城下町の悲哀というものを、だれもが肌で感じ取らざるを得なかった
のも事実。
・小 佐 野 の こ と ー ー 釜 石 と 大 橋 と の 中 間 の 小 駅 で 、と く に 鮮 明 に 記 憶 に 残 っ て い
る 理 由 は 、以 下 の ご と し:わ れ わ れ 一 家 が 戦 後 、大 橋 か ら 山 田 に 引 っ 越 し て 小
生 が 小 学 校 に 上 が る ま え の こ と 。オ フ ク ロ が 内 職 の 一 環 と し て 、近 所 の 親 戚 の
「ノリ屋」さんがとってきた生牡蠣を海水と一緒にブリキ缶にいれて背負い、
乾 ノ リ も 一 緒 に も っ て 、列 車 に 乗 っ て こ の 小 佐 野 周 辺 に 散 在 す る 家 々 に 売 り に
出 か け る 行 商 に 、小 生 も 一 緒 に く っ つ い て い っ て 、オ フ ク ロ が 付 近 の 農 家 な ど
を 一 回 り し て く る 間 、そ の ブ リ キ 缶 の 番 兵 * を し な が ら 、駅 員 以 外 ほ と ん ど 誰
も く る こ と の な い 小 さ な 駅 舎 で 一 人 ポ ツ ネ ン と し て 、駅 の ス ト ー ブ に 手 を 伸 ば
し て 暖 を と り な が ら 、オ フ ク ロ の 帰 り を 未 だ か 未 だ か と 窓 の 方 を 何 度 も み な が
ら 、じ っ と 所 在 な さ げ に 、と い う よ り もた だ ボ ー と し て 、俟 ち 続 け て い た 、あ
の幼いころの記憶――。
*オフクロは、その ブリキ缶の番兵をさせるために小生を連れて行ったのだという
125
ことを、実はこれを書いていて、ふと気が付いたという次第ーー 5歳ころの子ど
ものときのこととはいえ、何たる(いつもながらボウとしていて)カンの悪さ!
ちなみに、この小佐野には結核関係の療養所があって、そこには井上やすしが、
一時病院事務をとって勤務していたこと を、小生も後日知ったのであるが、彼の
『新釈・遠野物語』は 、か れ がこ の 小 佐野 勤 務時 代 に何 度 か 行 き来 した であ ろ う
仙人峠等の付近の地理感が背景としてあるように思われるーーそれは、いうまで
もなく、柳田国男『遠野物語』中の河童のはなし等、その一部の民話の彼一流の
翻案であるが、原作よりはよほどゾクゾク・ワ クワ ク感(?)という点ではひき
つけるおもしろさがあるように思われる(そもそも、原作の遠野物語の方は、民
俗学的ないし歴史学的資料としての価値は 、未だに掘りつくされていない宝の山
という感じは非常にするが、しかし世上いわれるほどのたかい文学的価値とかは
認 め 難 い と お も う の だ が 、 ど う だ ろ う か )。 と も あ れ 、 井 上 ひ さ し に つ い て は 、
小生にとって、かれが山形の出身であること、仙台一高での上記豪傑譚、そして
「青葉繁れる」などの仙台にまつわる話し、そして彼のカトリック系の児童擁護
施設のようなところにいたという出自などをつうじて、かねがね親近感をもって
いたのであるが、なによりも、かれが小説家として世に出る前、かれの肝っ玉母
さんが働いていた釜石でしばらく一緒に働いて釜石周辺をあちこちまわって歩
いたらしいこと、を知って親近感が一層ましたという次第――かれのその時の生
活 体 験 は 、 後 年 あ の ( 小 生 も 山 田 に も テ レ ビ が 入 り 始 め た こ ろ 、 見 た )「 ひ ょ っ
こりひょうたん島」とかにも生かされたも言われており、そして小生にとっては、
彼のそのような・この釜石周辺との地理的つながりゆえの彼への親近感が、あの
大冊『吉里吉里国』なんとか読み通させた「原動力」であったようにも思うーー
そもそも吉里吉里の地名は小生のような三陸海岸で育った者にとってはその名
を冠した豪商・吉里吉里善兵衛の方が親近感があり、井上のこの本の標題は単に
地名を借りたにすぎないと思われ、内容的にはいささか饒舌駄弁に堕していなく
もないが、なによりも「国家とは何ぞや」という問を、面白おかしく提起し、そ
の後の「独立国」ブームを惹き起こしたという意味でも、記憶に残る。
・ 遠 野 は 、な に よ り も 、東 北 内 陸 部 と わ が 三 陸 沿 岸 部 と を 結 ぶ 交 通 上 の 要 衝 の 地
で あ り 、経 済 的 に は な に よ り も 、海 の 幸 と 山 の 幸 と の 交 易 、ま た 馬 産 地 と し て 、
そ れ ゆ え に ま た 政 治 的 に も 藩 政 時 代 か ら 重 要 な 土 地 で あ る 、北 上 川 沿 い に 北 上
し た ヤ マ ト の 文 化 は 花 巻 を 経 由 し て こ の 地 に 伝 え ら れ た も の の よ う で 、以 上 の
よ う な 意 味 で も 郷 里・山 田 と の 繋 が り の 深 さ を 思 わ せ る も の も 多 く 、と く に 小
生にとっては『遠野物語』に出てくるわが町・山田周辺の記事に興味を覚え、
柳 田 や 民 俗 学 に 一 方 な ら ぬ 関 心 を 抱 い て き た の も 、そ う し た 機 縁 が あ れ ば こ そ
であったようにおもうーー都会人の民俗学にたいし小生がなにかしらある種
126
の違和感を覚えるのもそうした背景があるのかもしれない。
・ ・ 花 巻 は 、小 生 に と っ て は 何 よ り も 、賢 治 と 光 太 郎 に つ な が る が 故 に 、親 近 感 の
あ る 土 地 と な っ た ー ー た だ し 、沿 岸 部 の 風 土・人 情 と 、盛 岡 ― 花 巻 の 北 上 川 流
域 の そ れ と で は 、漁 村 と 農 村 と の 差 を ふ く め い さ さ か の 差 異 が あ り 、ま た 後 者
は 沿 岸 部 に 比 較 し て「 文 化 的 先 進 地 域 」で あ る と の コ ン プ レ ッ ク ス は 、拭 え ぬ
ものがあるが。
( M ´ 2 - 2 )重 茂 半 島( ⑥ ´ )― 重 茂 集 落 *( ⑥ )
( な お 次 ペ ー ジ に 別 紙 添 付 の〔 M
´3〕参照)―トドヶ崎灯台(⑦)―津軽石・高島集落(11)の
ことなど:
・ こ の 重 茂 半 島 は 地 図 か ら も わ か る よ う に 山 田 湾 と は 地 続 き で あ る が 、陸 路 で の
交 通 は こ れ ま た 険 し い 地 形 に 阻 ま れ て 困 難 で あ り 、山 田 と の 行 き 来 は せ い ぜ い
漁 師 達 が 小 船 で 交 易 す る 程 度 で あ っ た と 想 像 さ れ る が 、た だ 、こ こ は 目 の 前 に
ひ ろ が る 太 平 洋 の 荒 波 に 洗 わ れ た( ア ワ ビ・ウ ニ・ワ カ メ 等 の )磯 物 の 宝 庫 で
あ り 、と く に 江 戸 期 か ら 長 崎 俵 物 の 代 表 的 産 品 の 一 つ の 三 陸 ア ワ ビ を 産 す る こ
と で も 有 名 で あ り 、南 部 藩 の 宮 古 代 官 所 の 支 配 が 及 ん で い て 宮 古 と の 交 易 の 方
が重要であったもののようで、町村合併後は宮古市に編入された。
そしてその半島の磯伝いに点在する重茂の漁村集落は、とくに戦後の困難な
時代に漁協を中心に結束した村民による近海・磯モノ漁業で成功を収めて注目
され、今回の3.11でも大きな被害を受けつつも、ワカメの養殖を中心とし
た 復 興 の 過 程 は NHK テ レ ビ の 特 集 で も 二 度 ほ ど 取 り 上 げ ら れ る な ど し た 。 そ
してなによりも小生にとってはここは、東北大学助手時代に学生諸君と組織し
た自主ゼミ「法社会学研究会」を中心に、夏休みを利用して一緒に漁業権紛争
とか里子慣行の「法社会学」的調査に入った思い出の土地であり、そこの西舘
組合長をはじめ組合の人たちにお世話になったこと、漁師の人たちと定置網網
お越しの前の晩に泊り込んだ番屋で酌み交わした「ビーチュウ(=ビール+焼
酎 )」の 味 な ど 、忘 れ 難 い 記 憶 の 残 る 土 地 で も あ る 。そ し て そ の 調 査 結 果 を 学 友
会雑誌「萩群」に投稿したところ、思いがけずもそれが(当時は定年後、学習
院大学に転じていて、
「 法 学 セ ミ ナ ー 」と い う 学 生 向 け 雑 誌 の 責 任 編 集 を 担 当 し
ていた)中川先生の目に留まって、そのいささか面映いほどのお褒めの言葉と
ともに、その縮約版の一文を同誌に掲載させていただいたことも思い出として
残 る ー ー ー そ の 学 友 会 雑 誌「 萩 群 」の 方 は 小 生 の 手 元 に 保 管 し て い た の で 、
(今
からみれば学問的にはむろん研究者として出発したばかりの小生と学生諸君と
の合作ゆえ稚拙きわまりないもので、いささか恥ずかしいが)わが若き日の記
念碑として、その目次と最初の論考部分だけをコピーして〔M´3〕として別
127
紙添付した次第である。
・ 津 軽 石・高 島 集 落 と い う の は 、小 生 が 上 記・岩 手 大 学 に 入 学 し た て の 5 月 に 発
生 し た チ リ 地 震 津 波 発 生 の 報 を 受 け て 、列 車 で 宮 古 ま で 行 っ て 、そ の 先 は 不 通
で あ っ た た め 、徒 歩 と ヒ ッ チ ハ イ ク で 海 岸 沿 い に 行 っ た 途 中 、宮 古 湾 が 一 番 奥
ま っ た あ た り = 重 茂 半 島 の 付 け 根 に あ る 、上 記 の 津 軽 石 と い う 町 の 一 集 落 で あ
る 高 島 集 落 が 、一 軒 の 家 も 全 く 残 ら ず に 土 台 だ け 残 し て ま さ に き れ い さ っ ぱ り
流 失 し て い た 光 景 、そ の 近 く の 線 路 も ぐ に ゃ ぐ に ゃ に 折 れ 曲 が っ て 電 柱 に 海 草
が こ び り つ い て い た 光 景 が 忘 れ ら れ ず 、小 生 に と っ て 津 波 の 威 力 を ま ざ ま ざ と
見 せ 付 け ら れ た 始 め て の 経 験 で あ っ た の で 、そ の 地 名 と と も に よ く 覚 え て い る
の で あ る( 夕 方 や っ と の 思 い で 着 い た 山 田 の 方 の 被 害 は 思 っ た ほ ど で は な か っ
た )。 こ の よ う に わ が 三 陸 海 岸 は 忘 れ た 頃 に 津 波 の 被 害 を 何 度 も 受 け て い た 地
域 で あ っ た ー ー( そ う で あ る だ け に 、今 回 の 3 .1 1 に も 、津 波 の 怖 さ を 全 く
見 た こ と も な い 人 か ら 比 べ る と 、あ る 程 度 の 免 疫 は で き て い た と は い え る 。し
か し そ れ に し て も 、 そ の 規 模 ・ 被 害 の 範 囲 は そ の 比 で は な い こ と も 事 実 )。
(M´2-3)船越半島―船越・田の浜(⑤´)―四十八坂―波板海岸―吉里吉里
( ⑧ ) ― 鵜 住 居 ( ⑨ )( 省 略 )
(M´2-4)盛岡(10)は、上述のように小生が、山田高校を出てまず入った
大学のあった岩手大学の所在地であり、たった一年二ヶ月あまりの期間の学
生 時 代 で あ る が 、受 験 勉 強 か ら 解 放 さ れ て す ぐ 6 0 年 安 保 の 浪 に 飲 み 込 ま れ 、
そして小繋部落の農村調査―F さんへの第二の初恋―そして退学と、非常に
濃密な青春の一時期を過ごした忘れがたい町であり、なによりも、岩手山と
二つの川の織り成す素朴な風景(とくに大学構内から夕顔瀬橋という風情あ
る名の橋のあたりにかけて、当時流行っていた北上川夜曲など口ずさみなが
ら、岩手山のシルエットをバックにした夕焼けの中を、F さんのつぶらな瞳
を思い出しつつ散歩したころ、そして講義をさぼってひとりあの不来方城の
城 跡 に ね こ ろ び て 、F さ ん の こ と を 想 い つ つ 啄 木 歌 集 を 読 ん だ こ と な ど 、の 、
あ の な ん と も 甘 酸 っ ぱ い 思 い 出 ! )、そ し て な ん と も 素 朴 な 方 言 と 人 情 の 残 る
町として、とくに、その後8年もいた仙台に比べて、なつかしさの残る町で
ある。
( M ´ 2 - 5 )水 沢( 1 1 ):ア テ ル イ の 反 乱 の あ っ た 胆 沢 城 跡 も 近 く に あ り 、南 に
は衣川近くの平泉もあり、仙台以北では軍事的にも政治的にも要衝の地であ
り、幕末の高野長英とか、明治以降の後藤新平、斉藤実等の歴史的人物を産
んだ地としても有名である(これら三人の記念館は、幕末から戦前日本の生
128
きた歴史的題材として教えられること多い必見の場所といえるが、小生も後
述・故・淳 の お か げ で 見 さ せ て い た だ い た )が 、小 生 に と っ て は な に よ り も 、
小生とは兄弟三人のなかでも性格的にも思想的にも最もウマが合った末弟・
淳が、養子としてここの古い農家に入り慣れない農業に精をだし、そして、
還暦を目前に脳溢血に襲われ、ほんとにあっという間に小生らの目前で息を
引き取ったという意味で、忘れることのできぬ土地となった(地名や歴史に
た い す る 彼 の ラ イ フ ワ ー ク 的 興 味 に つ い て 、 後 述 【 Ⅴ ― 4 】 参 照 )。
( M ´ 2 - 6 )仙 台( 1 2 )― 石 巻( 1 3 )― 女 川( 1 4 )― 気 仙 沼( 1 5 );福 島
― 松 川 ( 1 6 ):
・ 仙 台 は 学 生 時 代 4 年 間 ― 助 手 時 代 4 年 間 と 、2 0 代 の ほ と ん ど を 過 ご し た 町 な
の に 、正 直 の と こ ろ 、す く な く と も 上 記・盛 岡 と 比 較 し て あ ま り 良 い 思 い 出 が
な い( た っ た 一 年 し か 暮 ら し た こ と の な い 盛 岡 が 東 北 の 地 方 都 市 と し て の ほ ん
わ り と し た 純 朴 な や さ し さ に 包 ま れ て い た の に 対 し 、仙 台 の 8 年 は な に か し ら 、
ささくれ立った、思い出したくないもない厭な思い出が多いのはなぜだろう)
の は 、お な じ 東 北 で も 水 と 空 気 が 違 っ て い た せ い 、と 思 わ な い 、で も な い ー ー 。
む ろ ん 、前 述 し た よ う な す ぐ れ た 学 問 上 な い し 魂 の 恩 師 と の 出 会 い は 、小 生 に
とっての生涯の宝となっていることは否定できないがーー。
・ 気 仙 沼 に も 小 生 は 一 度 も 足 を 踏 み 入 れ た こ と は な い が 、た だ 、柳 田 国 男 が 官 を
辞 し て 最 初 の 民 俗 学 的 調 査 紀 行 が 三 陸 沿 岸 を 北 上 す る 旅( 小 生 の 山 田 に も 立 ち
寄 り 関 嘉 屋 と い う 旅 館 に 泊 ま っ て 、宿 の 主 人 に せ が ま れ て 、書 を 書 い た と 柳 田
は 書 い て い る )で あ り 、そ の 折 こ の 地 の 離 島( 今 回 の 震 災 で も 報 道 さ れ た「 大
島 」? )を 訪 問 し 、そ の 地 の 古 老 に オ シ ラ サ マ か 何 か の こ と を 聞 い た ら 、その
古 老 に 柳 田 は 、「 帝 大 出 の 若 者 が 、 国 家 の 大 事 で は な く 、 そ ん な く だ ら な い 民
俗 慣 行 の こ と な ど 調 べ て 何 に な る ー ー 」と い っ て 怒 鳴 ら れ た 、と い う エ ピ ソ ー
ド が 小 生 に は な ぜ か 面 白 く 心 に 残 っ た こ と を 記 憶 し て い る( こ れ ま た 一 個 の 興
味 深 い 歴 史 的 意 味 を も っ た 「 事 件 」 と い え よ う ! )。
・ 福 島 と の 直 接 の 繋 が り は 小 生 に は あ ま り な い が 、た だ 一 つ 、い つ も 東 北 本 線 で
列 車 が 福 島 を 出 て 二 本 松 に 到 着 す る 途 中 で 通 過 す る 松 川 周 辺 で は 、読 み か け の
本 も 閉 じ て 、「 松 川 事 件 」 の 有 っ た あ た り は こ の 辺 か ー ー と 、 車 窓 を 眺 め る の
が ク セ に な っ て い た 。そ の こ と を 、こ の 辺 の 地 名 が 、原 発 事 故 等 で 報 道 さ れ る
と き 、い つ も 思 い 出 す 。そ し て 、助 手 時 代 に 助 手 会 の 幹 事 と し て 主 催 し た 東 北
法 学 会 だ っ た か の 内 輪 の 会 で 、当 時 の 仙 台 地 方 裁 判 所 の 某 所 長 を 呼 ん で 話 を し
て も ら っ た と き 、某 所 長 は 、日 本 の 裁 判 官 が 如 何 に 清 廉 潔 白 か を 、当 事 者 か ら
の贈り物を突き返した話とかのいろいろの経験談的事例をあげて強調したな
か で 、一 つ だ け「 オ ヤ 」と 思 っ た 重 大 発 言 ― ― そ れ は 、占 領 軍 が ま だ 日 本 を 間
129
接 統 治 し て い た 時 代 、例 の 松 川 事 件( 所 長 は 事 件 名 を い わ な か っ た が 、所 長 が
担 当 し た 事 件 が そ う で あ る こ と は 前 後 の 脈 絡 か ら 分 か っ た )に 関 連 し て 、占 領
軍 か ら の 圧 力 ら し き も の( そ の 内 容 も む ろ ん は っ き り は い わ な か っ た が 、た し
か、裁判官室に占領軍の関係者が訪問したとかということであったかと思う)
が あ っ た と い う こ と 、を は っ き り 述 べ て い た こ と で あ り 、松 川 事 件 が 当 時 も っ
とも注目をあつめた裁判事件だっただけに、やっぱりそうだったのかーーと、
思 っ た 記 憶 が あ り 、こ れ ま た 、記 録 と し て 残 し て お く 意 味 が あ る と 考 え 、こ の
機会に敢えて言及した次第である。
〔( 上 記 ) 郷 里 ・ 東 北 三 県 の 個 別 コ メ ン ト へ の 、小括的コメント〕
(1)小生にとっての東北(三陸)沿岸とは
ー ー 灯 台 下 暗 し 、東 北 地 方 の 多 様 性 、「 奇 形 的 三 陸 出 身 者 」と し て の
小生:
・地 図 か ら も 一 見 し て 明 ら か な よ う に 、東 北 沿 岸 と い っ て も 南 北 に 長 く 海 岸 線 が
連 な っ て い て 、す く な く と も 小 生 に と っ て の 行 動 圏 は つ い 最 近 ま で は 、そ の 北
部 の 、そ の ま た 一 部 の 、宮 古 と 釜 石 の 間 だ け で あ り 、宮 古 以 北 を 旅 し た の は 60
代 過 ぎ て か ら 、し か も 二 度 だ け の こ と で あ り 、ま た 釜 石 以 南 は 正 直 の と こ ろ 全
く足を踏みいれたこともない!従って郷里の知識も伝聞形のごく部分的なも
の に と ど ま る 。こ の 点 に つ い て も む し ろ 今 回 の( ま さ に 東 北 沿 岸 全 体 を 洗 う よ
う に 襲 っ た ) 3 . 1 1 の お か げ で ( ! )、 他 の 沿 岸 地 域 の こ と に つ い て メ デ ア
の 情 報 を 通 じ て 初 耳 と い う こ と も 多 く 、ま さ に「 灯 台 も と 暗 し 」を 実 感 し て い
る次第である。
・た だ 全 体 と し て こ の 三 陸 沿 岸 地 域 に つ い て い え る こ と は 、本 州 全 体 で は「 周 辺 」
的地域といわれる東北地方・太平洋側の地域も、とくに北上川流域という奈
良・平 安 の 時 代 か ら 河 川 の 水 運 を 通 じ て 開 け た 地 域 を「(「 周 辺 」の な か の )中
心」とすれば、その後者の「中央」からみれば、さらにその「周辺」であり、
両 者 の 間 に は 経 済 的 文 化 的 気 質 的 に も か な り の 差 異 が あ る こ と 、大 学 生 時 期 以
降 、盛 岡 ― 仙 台 で 暮 ら し て み て の 実 感 で も あ り 、し か も 後 者 の 沿 岸 地 域 じ た い
も 、「 東 北 ( 太 平 洋 ) 沿 岸 」 と し て 一 括 す る の は い さ さ か 乱 暴 な 抽 象 化 一 般 化
で あ っ て 、小 生 の 経 験 的 知 識・印 象 と し て も 、福 島 ― 宮 城 ― 岩 手 ― 青 森 の 沿 岸
地 域 の 間 に は 、そ れ ぞ れ 気 候 的 に も 風 土 的 に も 経 済 的 に も い さ さ か の 差 異 * が
あ り 、歴 史 的 に も 、と く に 鎌 倉・南 北 朝 時 代 以 降 海 運 を つ う じ て 少 し ず つ 上 方・
江 戸 の 政 治・経 済・文 化 の 影 響 が 及 び つ つ あ っ た と は い え 、そ れ は 南 の 方 か ら
徐 々 に 北 進 す る と い う 形 で あ っ た ろ う と 想 像 さ れ 、今 回 の 震 災 報 道 等 で も す く
な く と も 全 国 紙 で は 仙 台 周 辺 の 報 道 が 圧 倒 的 に 多 く 、し か も 、鉄 道 が 主 た る 交
通 手 段 と な っ て 以 降 は 、こ の 地 域 も 東 北 本 線 ― 新 幹 線 を 通 じ て の 中 央 方 面 へ の
130
ア ク セ ス が 主 た る ル ー ト と な っ て 、小 生 の よ う に 盛 岡 と か 仙 台 等 の い わ ば 中 央
へ の 垂 直 的 方 向 へ は 足 を 伸 ば す が 、横 の 沿 岸 地 域 と い う 水 平 的 方 向 に は す ぐ 近
く に も 行 っ た こ と が な い と い う「 部 分 的 か つ 奇 形 的( ? )な 三 陸 * 出 身 者 」が
生まれることとなる。
*このこととは若干話題が逸れるが、岩手県出身者としては、とくに青森(津軽
地方?)との文化・気質的違いを感じることが多い(例――祭りにおける「ね
ぷ た 」、 民 謡 に お け る 「 津 軽 三 味 線 」、 美 術 に お け る 「 棟 方 志 功 」 の 世 界 な ど 、
岩手(人)にはない、地の底から湧き出てくるような、縄文人的生のエネルギ
ーのようなもの)。むろん、このことは、明治維新以降の、有名な「南部」vs
「津軽」の仲の悪さとは、無縁のことと思うがーー。
(2)故郷離れて「旅がらす」
・ と も あ れ 、 小 生 の 人 生 は 、 三 陸 沿 岸 の 釜 石 鉱 山 ― 山 田 で の 20 年 近 い 幼 少 年 時
代 を 経 て 、そ の 後 、こ の 盛 岡 で の 一 年 余 の「 寄 り 道 」の あ と 、仙 台 8 年 ― 大 宮
( 埼 玉 ) 2 年 - 金 沢 7 年 と 、「 放 浪 」 の 旅 を 重 ね 、 最 後 に こ の 札 幌 の 地 に 居 を
定 め て す で に 30 数 年 、
( そ し て 定 年 後 は 、東 京 と の 二 年 間 の 二 重 生 活 が あ っ た
も の の )札 幌 の 地 が 最 も 長 い 、し か も ど う や ら わ が「 終 の 棲 家 」と な り そ う な
街となってしまったようである。
・ い ず れ に し て も 、こ の 狭 い 日 本 の 国 土 で す ら 、小 生 が 多 少 と も 住 ん で き た の は 、
20 代 以 降 は こ れ ら の 都 市 と い う 、 い く つ か の 「 点 」 だ け で あ っ て 、 し か も そ
の「 点 」で す ら 、研 究 室 の な か で 活 字 を お う こ と に 追 わ れ 、生 活 者 と し て 根 を
下 し て き た と は 言 い が た く 、い わ ん や 、そ の 周 囲 に 広 が る「 面 」と し て の 地 域
と自然については、何度か旅人として通り過ぎてきた、だけという感がする。
― ― そ の よ う な 意 味 で は 、三 陸 海 岸 の 郷 里 を 出 て の ち の( わ た る 世 間 は 鬼 ば か
り の )わ が 人 生 は 、根 無 し 草 の よ う な( 浪 曲 や 演 歌 で も 出 て き そ う な )
「旅烏」
の人生でもあったのかもしれない。
(3)さはさりながら、以上が、他ならぬ、この己と己の人生を規定した
「時間と空間」なれば――:
・以 上 、な に よ り も 今 回 の 3 .1 1 に 喚 起 さ れ る よ う に し て 、己 の 人 生 に お け る 、
( こ れ ま で の 人 生 に 関 わ る 日 本 と 世 界 の メ モ リ ア ル デ ー に 象 徴 さ れ る )あ れ こ
れ の 時 間 = 歴 史 と 、( 写 真 や 地 図 に 刻 印 さ れ た ) 己 が 生 ま れ 育 ち 、 そ し て 歩 ん
で き た 村 や 町・都 市 と を 、あ れ こ れ の 思 い 出 を 交 え な が ら 辿 っ て き た 。そ し て
改 め て 、人 は そ の 人 の 生 き た 歴 史 = 時 間 的 要 因 と 歴 史 = 地 理 的 要 因 と い う 二 つ
の 基 本 的 要 因 に 規 定 さ れ 、そ れ ら に 制 約 さ れ て 行 為 し 思 考 す る 存 在 で あ る こ と 、
そ の よ う な 意 味 で ま さ に 「 時 」「 空 」 的 地 平 を 乗 り 越 え ら れ な い 存 在 で あ る こ
131
と に 気 付 か さ れ る と と も に 、そ れ を 通 じ て の 自 己 の 再 発 見 、自 己 自 身 と そ れ を
規 定 す る 時・空 が 如 何 に 深 い 問 題 性 を も ち 、そ れ が 如 何 に 自 分 自 身 に よ っ て 知
ら れ て い な い か 、そ の よ う な 意 味 で 自 分 を 含 め た 人 間 こ そ が 最 大 の「 教 材 」な
の で は な い か 、そ の よ う な 意 味 で の「 汝 自 身 を 知 れ 」と い う 箴 言 の 重 さ を 実 感
す る「 旅 」で も あ っ た( そ の こ と を 更 に 小 生 な り に「 理 論 的 」に 敷 衍 し 掘 り 下
げ た の が ー ー 従 っ て い さ さ か 抽 象 的 に な る が ー ー 、下 記 の【 Ⅴ ― 参 考 3 】に 別
記 し た も の で あ る )。
・と 同 時 に ま た 、す べ て の 個 個 人 の 人 生 は そ れ ぞ れ の 意 味 に お い て ド ラ マ で あ り 、
と 同 様 に 、そ れ ぞ れ の 家 族 も そ れ ぞ れ の 過 去 に あ れ こ れ の ド ラ マ を 秘 め 、ま た 、
小 生 の 郷 里・山 田 を は じ め と し て 、そ れ ぞ れ の 町 も 村 も 、ど ん な に 小 さ な 町 や
村 で あ っ て も 、そ れ ぞ れ の ド ラ マ を 背 後 に 秘 め て い る 、と い う こ と を 、自 分 自
身 が そ の 中 で す ご し た 上 記 の よ う な 家 族 や 親 戚 と か 村・町 の あ れ こ れ の「 喜 怒
哀 楽・栄 枯 盛 衰 」の ド ラ マ を 思 い 出 す 度 に 、あ ら た め て 痛 感 せ ざ る を え な い * 。
そ の よ う な 意 味 で も 、「 事 実 は 小 説 よ り も 奇 な り 」 で あ り 、 下 手 な フ ィ ク シ ョ
ン よ り も 、歴 史 や ド キ ュ メ ン タ リ ー・ノ ン フ ィ ク シ ョ ン が よ ほ ど に 面 白 い と い
うことでもあろう。
*そのような意味でも、NHK の TV 番組「ファミリーヒストリー」が毎回とりあ
げていたそれぞれの家族のルーツー先祖の話は、人世=事実のドラマ性という
意味でも、小生も興味深く見た。
・ と も あ れ 、他 人 の「 思 い 出 話 」な る も の は 、そ も そ も 、よ ほ ど 近 し い 関 係 者 で
も な け れ ば 、多 く の 場 合 、聞 い て い て も 退 屈 な も の で あ る 。し か も 、老 人 性 の
思 い 出 話 ― ― 文 字 通 り の「 繰 言 」― ― と い う も の は 、聞 く 側 に と っ て は あ ま り
興 味 が な い こ と を 一 方 的 に 長 々 と 、と き に 同 じ こ と を グ ダ グ ダ と 繰 言 的 に 、そ
し て 大 体 に お い て は 自 分 の 自 慢 話 を と う と う と 、ま た 嘆 き 節・恨 み 節 も 大 体 に
お い て 自 分 に 有 利 に 、話 し た が る 、と い う 一 連 の 傾 向 を 免 れ ず 、而 し て 小 生 の
上 記 思 い 出 話 も 、そ の 傾 向 を 免 れ て い な い か も し れ な い が 、そ の 点 に つ い て は 、
上 記【 Ⅴ ― 本 文 】で 縷 々 述 べ た よ う な 本 NPO 立 ち 上 げ に む け て の 小 生 自 身 の
個 人 的 動 機・背 景 を 、さ ら に よ り 具 体 的 に 、そ の 生 ま れ 育 っ た 時 代 と 家 族・土
地 な ど と 結 び つ け て 説 明 し 、よ り 深 い ご 理 解 を い た だ き た い 、と の 、小 生 の ま
さに「老婆心」に免じて,御赦しをーー。
〔M´4〕「それでも家は建つーー た だ し 、 第 二 書 庫 兼 第 二 研 究 室 と し て 、 札 幌
郊外・パラトの地に、ゆえに、自称「 バラト庵」=他称「中型ウサギ小屋」
として」(右側・S 建築士撮影・小型写真二葉)( 省 略 )
〔 M ´ 4 ´ 〕 参考資料:
「シャトレーゼ・ガトーキングダム」@茨戸= 通 称
「 ガ ト キ ン 」 = 上 記 「 ウ サ ギ 小 屋 」 の 傍 に 巨 象 の 如 く に 建 つ 「大ホテル
132
+スパ・リゾート」( 宣 伝 用 パ ン フ レ ッ ト か ら の コ ピ ー )( 省 略 )
〔M´5〕小生のプロフィル ( 北 大・定 年 退 官 時 )( 左 側:ネ ッ ト 上 の 北 大 時 報
か ら の コ ピ ー ) +東北大学法学部(昭和37年入学)同窓生の
思い出 ( 右 側 : 3 7 J 同 窓 会 ・ 古 希 記 念 の 集 い 報 告 書 か ら の コ ピ ー )
・前者は、小生の名刺代わりの自己紹介用にというつもりで、本・趣意書の最後に
参考資料的に添付するもので、もともとはそこに書いてある通り平成17年三月
に(25年近く勤務した)北海道大学を定年退官するにあたり、恒例により大学
の定期広報誌「北大時報」に書かされたものであるが、小生の顔写真・略歴、そ
して何よりも、その時点での小生の率直な気持ちが比較的よく表現されている、
と 考 え 、( そ の オ リ ジ ナ ル が 手 元 に 見 つ か ら ず )北 大・法 の 庶 務 掛 長 さ ん に 電 話 で
お願いしてネット送信してもらったもののコピーであり、その点この場をかりて
掛長さんにお礼を申し上げたい。――それにしても、お読みいただければ分かる
ように、定年後はほんとに研究一筋の覚悟であったし、一時はまさにその生活を
楽しんでいた小生のはずであるが、3.11以後かかる次第に相成り、二足のわ
らじを履く方向に方向転換しそうで、人生なかなか予定通りにはいかないようで
ーー。
・ 後 者 は 、昨 年 1 0 月 仙 台 で あ っ た 東 北 大 学 法 学 部( 昭 和 3 7 年 入 学 )同 窓 生・古 希
記 念 会 の 折 に 、な に よ り も 、本 NP0 立 ち 上 げ に 際 し て 、同 じ 東 北 の 地 に 青 春 の 一
時期を過ごした彼ら同窓生にも協力を呼びかけたかったこと、そしてまた小生の
( こ れ ま で 誰 に も 言 っ て な か っ た )出 身 地・出 身 校 等 の 来 歴 を( ひ ょ っ と す る と こ
れ が 最 後 に な る か も し れ な い )こ の 機 会 に 彼 ら に も「 公 開 」し て お き た か っ た こ と 、
な ど の 動 機 か ら 、そ の 日 程 に あ わ せ て 東 京 ― 仙 台 と 関 連 情 報 収 集 を 第 一 の 目 的 と し
た 最 初 の「 勧 進 行 脚 」を し て き て 、東 北 大 の 、あ の 川 内 キ ャ ン パ ス で 、上 記 同 窓 会
に 参 集 し た 同 級 生 と「 や あ や あ ー 」と 握 手 を し 久 闊 を 叙 し た わ け で あ る( そ の 中 に
は ま さ に 50 年 ぶ り の 顔 も あ り 、 そ れ ぞ れ の 50 年 の 歳 月 を 思 い 、 人 生 お 互 い に 年
を と っ た な ー と い う 思 い で あ っ た が )が 、当 の 同 窓 会 に は 、と て も 会 場 の 温 泉 に ま
で 付 い て い く 余 裕 は な く 、そ の 場 で お 別 れ と な っ た が 、そ の 後 、幹 事 の 寺 島 さ ん か
ら そ の 報 告 の 便 り が 届 い た 、そ の 中 で と く に 小 生 の 目 を 惹 い た の は 、彼 が 保 管 し て
い た 河 北 新 報 の 上 記・同 窓 生 達 の「 東 北 大 学 合 格 発 表 」の 記 事 で あ り( 小 生 の 名 前
も 「 山 田 」 と い う 名 と と も に 見 え る ! )、 だ れ か れ の 名 前 が そ の 顔 と と も に 思 い 出
さ れ 、こ れ を き ち ん と 保 管 し か つ こ の 機 会 に「 公 開 」し て く れ た 気 配 り に 感 謝 し た
く思う次第である。
ーーと同時に小生は、その名簿の中に、H(K 市出身)の名前を見つけた
とき、50年前の悪夢のような事件が突如として小生の目の前に蘇ったこともこ
こ で 告 白 せ ざ る を 得 な い ー ー か れ は 、「 平 和 運 動 」に「 熱 中 し す ぎ て 」学 部 進 学 試
133
験に失敗し、郷里の親に申し訳ないーーという趣旨の遺書を残して、寮の一室で
首を吊って亡くなっていた、のだという。彼と小生との接点は小生の記憶でもご
く浅く一時的なものでしかなく、ただ、非常に一途で純粋な若者という印象が残
るのみであるーーそれだけに、小生には彼の自殺は、単にうつ状態になったがゆ
えの個人の問題だと葬り去るには、あまりにも彼がかわいそうであり(折角入っ
た 大 学 も 中 途 で 、20 代 そ こ そ こ の 若 さ で 、自 ら 命 を 絶 た な く て は な ら な か っ た 彼
の無念、そして K 市で床屋さんをしていたという老父の無念は、如何ばかりであ
ったろうーー;あのオウムなどのオカルトに巻き込まれる純真な若者のことを笑
えない事例がここにもあったのである!それにしても人ひとり生きていく人生の
行 程 に は な ん と 多 く の 落 し 穴 が 待 ち 構 え て い る こ と だ ろ う ! )、所 詮「 組 織 」に よ
って初年兵のようにこき使われての結末であり、そして誰もその結末にたいし責
任をとらないことに、小生はあらためて政治組織のこわさ・非情さ・病理といっ
た も の( そ の 意 味 で は 誰 そ れ の 個 人 が 悪 い 、と い う の で は な い )を 感 じ て き た し 、
いつも心のどこかに引っかかり続けてきた事件であった(それ故、それは、小生
の 、 上 記 の よ う な 政 治 的 集 団 ・ 組 織 と い う も の へ の PTSD 的 見 方 を 規 定 し て い る
一つの具体的事件・経験でもある)ーーおそらくは小生などがここではっきりと
こ の こ と を 記 録 と し て 残 し て お か な く て は 、こ の 事 件 も 、「 平 和 」運 動・組 織 と か
の美名のもと、永遠の闇の中に葬られてしまうのであろう、それでは彼の霊も浮
かばれまい、との思いから、敢えてこの件についても、いわば小生から未来世代
へ の・一 つ の「 遺 言 的 教 訓 」( 大 人 が 、一 定 の 善 意 と か 教 義・理 論 の も と で つ く っ
た組織が、その「組織の病理」のゆえに、世間も人生もほとんど白紙の若者にと
って、組織の論理に振り回された挙句、人生を狂わす落とし穴になりうる)の意
味でも、ここで誤解・曲解をおそれず、敢えて言及した次第である。
――――――――――――――――――――
【Ⅴ―参考3】
:
(以上の)
「自分史的時間・空間」を踏まえての・若干の「哲
学 」 的 省 察 な い し 断 想 ― ― ( 1 )「 個 別 性 v s 普 遍 性 」、( 2 )
「 周 辺 v s 中 央 」、
(3)
「 前 近 代 ― 近 代 ― ポ ス ト モ ダ ン 」、
(4)
「〈 し
が ら み 〉と し て の 共 同 体 v s〈 絆 〉と し て の 共 同 体 」、( 5 )「 庶 民
v s 市 民 」:
― ― 以 上 に お い て 小 生 は 、 今 回 の 3 . 1 1 な い し 本 NPO の 立 ち 上 げ を 契 機 と
し て 、そ れ に 関 連 し て こ の 際 ど う し て も 説 明 し て お き た い と 考 え た 、小 生 個 人 の
自 分 史 に 関 わ る 、( メ モ リ ア ル デ ー と し て の )時 間(【 参 考 1 】)と 、( わ が 人 生 の
足 跡 と い う 意 味 で の ) 地 理 的 空 間 ((【 参 考 2 】) と を 、 い さ さ か 長 々 と 説 明 し て
きたわけであるが、ここでは、それらの説明をしていく過程で小生が(改めて)
感じ考えたことを、思いつくままに、まさに断片的で、一見脈絡のなさそうな、
134
あ れ こ れ の 小 論 集 ( 強 い て ま と め れ ば 、( 1 ) は や や 総 論 的 抽 象 的 小 論 で あ る の
に 対 し 、他 の 4 編 は 、そ れ を や や 具 体 的 に 敷 衍 し た ー ー た だ し 、内 容 的 に は 、
(1)
の対抗軸とは質的にややずれた対抗軸を基軸とするーー各論的断片集ともいえ
よ う )と し て 、標 題 の よ う に( い さ さ か 仰 仰 し い が 、し か し 、小 生 個 人 の 自 分 史
と い う 、い さ さ か 生 々 し い ほ ど の 具 体 性 を も っ た 事 象 か ら の 理 論 的 考 察 と い う 意
味では、決してでき合いの権威的抽象理論からの言葉だけの思弁ではないのだ、
と の 、 小 生 な り の 自 負 を 込 め て 、 カ ッ コ 付 き の )「 哲 学 」 的 省 察 な い し 断 想 と し
て 小 括 し て お き た い 。 そ れ は 、 い ず れ も 、 多 少 な り と も 、 本 NPO に お け る 教 育
と 研 究 の 姿 勢・方 向 性 に も 関 わ る 意 味 を も つ と 考 え る か ら で も あ る( な お 、言 葉
と か 地 名 等 へ の こ だ わ り ー ー と い う 論 点 も こ こ に 関 わ る が 、こ れ は や や 趣 を 異 に
す る 面 も あ り 、な に よ り も「 小 括 」が ふ く ら み 過 ぎ る の も ど う か と 考 え 、次 の【 Ⅴ
― 参 考 4 】 と し て 独 立 の 項 目 を 立 て る こ と と し た )。
(1)「個別性vs普遍性」
(1-1)「個別性」志向:
・上記の自分史的「時間と空間」についてのいささかの省察を通じて小生自身、言
い古されたことながら今あらためて、人間個々人の(認識・思想・行動等を含め
ての)人間形成にとって、家族とか郷里とかのもつ意味というものが、如何に大
きいかを痛感し、一人ひとりの人間がその歩いてきた人生のなかでそれまでに記
した足跡、それと分かち難く結びついているそれぞれの時間と土地・家族、のも
つ意味の、その大きさ・重さ、というものを思う。これは、人間いかなる形であ
れ、生まれ育った家族や土地なくして存在しえない以上ごく当たり前のことであ
って、ある特定の具体的な歴史的時間のなかで生まれ育った家族(的関係)とか
土地――換言すれば、一個の生身の人間として諸諸の人間関係と自然との関わり
のなかで生きた時間、
( ナ チ ス 的 ス ロ ー ガ ン を 、誤 解 を 気 に し つ つ 借 用 す れ ば )
「血
と土」――とかと、切り離して、何か抽象的一般的な個人・人間が存在するわけ
はでないのだ、ということ、而してまた、それはまさにその個人を最終的に定義
する「核」ともいえる部分であって、その他のものによっては決して代えること
の 出 来 な い 、ま さ に そ う い う 意 味 で「 か け が え の な い も の 」「 絶 対 的 に 個 性 的 な も
の」であり、そうであればこそ、それは所詮(たとい血のつながった親子であっ
ても、当該個人以外の)他人によっては「追体験」することの不可能な、せいぜ
い想像力によってしか(従って、それがたとい極めて誠実・真摯な想像であった
としても、極めて不十分にしか)認識・理解することのできないものであり、ひ
いてまた、そのような意味においても人間存在の絶対的孤独性(の一面)を規定
するものであること、に想到せざるをえない。
・同 時 に そ の こ と は ま た 、無 数 の 個 々 人 と 個 個 の 事 件 と の 集 積 と し て の 社 会・民 族 ・
135
国家等の人間集団というもののの個別の〔歴史〕についても言えることであり、
普遍的な社会一般が存在するわけではなく、一定の地理的自然的風土的ないし文
化的社会的歴史的に規定された個別・多様な社会・民族が存在するだけであり、
人もまた、それらから切り離された抽象的普遍的な人類一般とかコスモポリタン
なるものは単に理論か空想が作り出した観念でしかないし、いわんや一定の歴史
的社会のみを理念的モデル=座標軸として他を規定・評価・判断することも、特
定の価値観を絶対的前提としてのみ可能なことであるーー逆にそれは、われわれ
がむしろ人類史と民族・俗誌の多様性をこそ、まずもって謙虚に学ぶ必要がある
ことを示唆するものでもあるーーすくなくとも我々は、その思考と学問を、今日
の知的文化的パラダイムがそうするような一般的抽象的な「天下・国家」から出
発させるのではなく(かくいう小生自身がこれまでそういう傾向を免れていなか
っ た ! )、む し ろ 反 対 に 、泥 臭 い 具 体 的 な 生・生 活 の 単 位 た る 家 族・地 域・民 族 か
らこそ出発させるべきなのである。*
* 逆 に ま た 、 吾 々 の 身 の 周 り の 自 然 ( 環 境 ・ 生 態 系 ・ 動 植 物 等 ) の 見 方 と し て も
(自然科学的分析・理解の対象としてではなく、あくまでも、人間と社会との
かかわりにおいて見る限り、当然至極のことながら、それはなによりも)人々
の《生》(=生活空間+生活時間)の総体の痕跡・軌跡・「産物」(そのような意
味での、正負双方の意味での「文化」)として見ることが出来るし、見るべきな
のであるーー各種遺跡・建造物とか風景・地理はいうまでもなく、各種自然産
物・動植物、生態系等然りである(そのような意味での人文科学の一分野とし
ての考古学・地理学・生態学・科 学 技 術史・「 衣 食住・史 学 ? 」等の重要性への
気付き・促しを、小生はあらためて感じてもいるーーもっとも、ナマコからみ
た世界史とか、アホウドリの絶滅の原因とか、中南米原産の食品等の拡散過程
とか、先住民族の各種薬草等の「生活の知恵」と近代世界における資本制所有
体制下での〈特許化〉との相克とか、以前から「モノ・自然からみた社会・歴
史」とでもいうべき研究テーマとして、興味を覚えていた論点は少なくはない
のだが)。
・以 上 要 す る に 、こ こ で の 、す く な く と も 小 生 自 身 に と っ て の 大 き な 気 付 き と 学 び 、
それは、個個の人間と生活共同体と社会というものの具体的存在は、なによりも
第一次的には、具体的な(社会的)生活時間と具体的な(社会的)生活空間の重
層的構造として存在し、そのようなものとして記憶され、理解されなくてはなら
ない、という至極あたりまえのことであり、すくなくとも、そのような歴史的時
間と地理的空間とをヌキにした抽象的な歴史も社会も個人も存在し得ないという
ことの再確認である。と同時にまた、如何に、自分は自分の生きてきた時間と空
間について何もしらなかったか、すくなくともその気付きを促してくれた日とし
ても、3.11は記憶されるであろう。――このことを、小生の好きな言葉を小
136
生なりに再解釈=換骨奪胎していわば一般的抽象的に表現すれば、
「神は細部に宿
り 給 う 」と い う こ と で あ り 、ま た 古 来 い わ れ る よ う に ま ず も っ て「 汝 自 身 を 知 れ 」
という箴言の重さを示唆するものでもある。
――換言すれば、なによりもこの小生自身、このような人間と社会の存在論的個
別性、それゆえの多様性にたいし、これまで生活者としても理論的にも、十分に
誠実かつ真摯に対応してきたとはいえないということ、やや具体的には、一番よ
く知っているはずのこの自分自身が一体(自分という人間を規定した家族等の人
間関係、郷里、自分が生きた時代・時間との関係において)何者なのか、という
一 番 肝 心 の こ と す ら( あ る い は 自 分 の こ と だ か ら こ そ )、対 自 的 自 覚 的 に 深 く 認 識
し理解することを怠ってきたということ、今回、この歳になってみて、そして何
よ り も こ の 3 .1 1 に 遭 遇 し 、そ し て こ の NPO 立 ち 上 げ と い う さ さ や か な 社 会 的
アクションに一歩踏み出して(上記・趣意書にその思いを具体的に表現して)み
て 、あ ら た め て 痛 感 せ ざ る を 得 な い( そ の よ う な 意 味 で は 、70 歳 を 過 ぎ た こ の 歳
になってはじめて自分は自分の学問の原点に自覚的に立ち戻ったとの思いもあ
る )。こ れ ま で は 、ど ち ら か と い え ば 、小 生 自 身 、物 心 つ い て こ の 方 、家 族 や ム ラ
共同体のあれこれのどろどろした「しがらみ」のようなものを煩わしいと感じ、
嫌悪感すらいだき、そうしたものから自由になろうとして、一生懸命勉強もし、
その「共同体的しがらみ」からの「脱出」を果たしてのちは、都市的で脱・個性
的 な「 顔 の な い 」、そ の 意 味 に お い て 自 由 で 抽 象 的 な 関 係 性 に 、長 年 慣 れ 親 し ん で
き た 人 間 で あ り( そ の 意 味 で も も は や「 ふ る さ と 」は「 遠 き に あ り て お も う も の 」
で あ っ て 、帰 ろ う に も 帰 れ な い 、観 念 の 世 界 に し か な い も の か も し れ な い )、し か
も、子どものころからの(読書好き、勉強大好き人間で、目前の瑣末な現実に向
き合うよりも空想・夢想の世界を好むといった)性格的志向としても、またとり
わけ職業的研究者としての道を歩むようになってますます、あれこれの「身の上
話」的個別事例・紛争事例等に耳を傾けることを煩わしいと感じ、個別の生・事
件の具体性を軽視する傾向があって、むしろ、すぐに理論的に一般化抽象化して
総括し結論を急いだり、すぐに一般原理・公理・原則を求めたがる傾向、または
すぐに天下国家論に走る傾向があったことは否めない*。
*とはいえ、個人的には、生活の匂い、経験の重み、を感じさせない言説・芸術表
現等いっさいのものへの本能的拒否反応・懐疑、さらには、歴史や社会の問題に
かんしては、(後述のような)「中央」にたいする「周辺」、近代中央集権国家の画
一性にたいする民族的地域的多様性、上流支配階層・統治権力の人為的意図的に
持ち込まれ創作された法・文化にたいする民衆の自生的文化・習俗・慣行、生活
や労働のなかから生まれた道具とか技能・芸術、抽象的個人とか近代的市民にた
いする具体的生活者=庶民ないし民族、音楽の分野に関しては、人々の生活に根
差し生の息吹を伝える民謡とか民族音楽・ワールドミュウジック等、また言語に
137
かんしては、方言・少数言語、支配的宗教教義とか教団組織にたいする素朴な民
俗信仰・習俗、等々、下記でも若干言及するような小生の志向・嗜好のいくつか
は、なによりも、小生の戦後すぐの三陸漁村での貧乏生活にその原点的背景があ
ることも、この際、上記本文とバランスをとる意味でもあえて強調しておきたい。
・しかし、こうした「脱・個別化」とでもいうべき志向・傾向は小生自身の個人的
性向に還元しただけで済む話ではなく、そもそも理論的理性的であろうとするこ
とはそうした個別性を捨象・抽象して一般化することであり、とくに近代の合理
主義的知のパラダイムが一般的にはそうした認識論的前提から成り立っているこ
とは否定できないように思われるし、そもそもより一般的な文明論の次元では、
人間が四足歩行から立って二足歩行へと「進化」し、と同時に言語、とりわけ文
字言語を「発明」して以降、ヴァーチャル化の進行、つまり、脱・物的現実性、
脱・身体性、それゆえにまた、脱・個別性、脱・多様性、等の加速度的「進化」
が、取りも直さず文明の進歩でもあった、ことも否定できない。
而して他方、より具体的には、今日の社会的動向としてよく指摘されるように、
「 家 郷 の 喪 失 」、 つ ま り 家 族 の 絆 、 地 縁 的 結 び つ き 、 双 方 に お け る 希 薄 化 ・ 崩 壊 、
さ ら に は ロ ー カ ル な も の 、個 別 的 な も の が 、よ り 普 遍 的 一 般 的 な も の に 飲 み 込 ま れ
て い く と い う 社 会 的 傾 向 は( そ の 反 流 も 叫 ば れ つ つ も 基 本 的 傾 向 と し て は )否 定 し
が た い も の が あ り 、近 代 国 家 と か 市 場 経 済 と か 情 報 化 、さ ら に は 地 球 的 規 模 で の グ
ローバル化という押し止めようのない滔滔たる社会の流れがこれを加速している
よ う に 思 わ れ る( 後 述 の「 地 名 」と い う 小 さ な 問 題 は そ の 一 端 で あ り 、経 済 ― 金 融
― 消 費 生 活 、そ し て 服 装 等 の 嗜 好 の 流 行 、の 世 界 的 画 一 化 は そ の 大 き な 一 端 で あ り 、
個性的であろうとすることは余程の抵抗を覚悟しなくてはならないーー宗教的原
理 主 義 が 、現 代 世 界 に お い て 今 や 、そ の よ う な「 抵 抗 の 拠 点 」と な っ て い る こ と も
否 定 で き な い 事 実 で あ る が 、そ の 抵 抗 の 方 法 が テ ロ 的 暴 力 を 伴 う こ と に 最 大 の 問 題
が あ る の で あ ろ う )。
(1-2)「普遍性」志向(というよりも、「個別性」への懐疑):
・ し か し ま た 、 一 個 人 一 社 会 の あ る 時 点 で の 個 別 的 経 験 な る も の は 、 当 然 の こ と
な が ら 所 詮 は ま さ に 一 回 的 個 別 的 な も の に す ぎ ず 、而 し て ま た 、( 世 上 よ く い わ
れるように「一度起きたことは二度起きる」ことはなく、すくなくとも人間と
か 社 会 の 事 柄 に 関 す る 限 り 、む し ろ )「 一 度 起 き た こ と は 二 度 起 き な い 」と い う
こと、つまりわれわれは歴史的事件の(一定の変数的条件下での量的傾向性と
いうことは語りえても、本質的には)一回性偶然性・非法則性から出発せざる
を得ないーーそのような意味では、世上よく言われるような「失敗から学ぶ」
とか「歴史に学ぶ」ということも、かなりの仮定条件のもとでのみ成立可能な
こととして、まずもって眉に唾して聞くが賢明という姿勢で慎重に受止める必
138
要がある、ということでもあり、いわんや個々人の認識・思考力の、上記のよ
うな時間的空間的規定性・被制約性という本質的限界に想いを致すとき、その
「先例」としての経験と知見の普遍的妥当性には自ずから限界があるというこ
と、要するに、人間と社会の事柄にかんしては――一般論とか抽象論に振り回
さ れ る こ と の 危 う さ 愚 か さ( こ ち ら の 方 が 学 校 秀 才 と か 、い わ ゆ る 啓 蒙 モ デ ル 、
上から目線の知識人・文化人の陥りやすい陥穽として自戒すべきことではある
がーー)と同様――、個別の個人的ないし歴史的「経験」=先例に振り回され
る こ と も 、危 険 な 陥 穽・罠 と な り う る と い う こ と 、有 態 に い え ば 要 す る に 、「 過
去にこうであったから現在と将来の問題もそのように解決されるべきだという
こ と 、は 必 ず し も い え な い 」、い う こ と で も あ る 。別 言 す れ ば 、一 定 の 個 別( 個
人と社会)の経験が、正義と真理の体現者であるとか普遍的絶対的価値をもつ
保証は何もない(むしろ、天文学的世界はいうまでもなく、この地球上の世界
と歴史じたいも、まさに「事実は小説よりも奇」なる複雑多様な、それゆえに
またわれわれの知的好奇心を刺激してやまない、現実に満ち溢れていること、
あれこれの人類学的ないし人類史的博物誌を紐解けば思い半ばに過ぎるものが
あ ろ う )。逆 に 言 え ば 、特 定 の 個 別( 個 人 と 社 会 )の 経 験 に の み 自 足 し 拘 泥・執
着することは、しばしば、当該個人・社会にとっては、己の個別経験のみを絶
対視し、変化を拒む旧弊墨守の退嬰的保守主義、進歩なき停滞と思考停止・思
考怠慢、外部から見れば、故なき井の中の蛙的幻想、嘲笑すべき野郎自大的自
己満足、退屈さーー等々の、負の傾向的現象を帰結するであろう(この種の世
界的歴史的事例は古今東西、自覚的保守主義経験主義の事例から、無自覚的慣
行 ・ 信 仰 ・ 風 習 の 類 に い た る ま で 、 こ れ ま た 枚 挙 に い と ま な い )。 し か も 、「 川
の流れは絶えることなき」が如くに、時間は過去から未来へと流れ着たり流れ
去っていくものであり、しかも元に戻るということもありえない(とくに、歴
史における不可逆性――わが縄文的世界を、現代文明との対比においてはいう
ま で も な く 、 稲 作 一 辺 倒 の 弥 生 以 降 の 時 代 と の 対 比 に お い て 、「 良 き 古 き 時 代 」
と渇仰してみても、縄文の世界に戻りたいと思う人はいないし、戻れるもので
もない。また、ブッシュマンの、無所有・自給自足の、ゆったりと時間が流れ
る、世界に、現代文明の病理を逆投射させてみても、都会生活にどっぷり嵌っ
た現代人がカラハリ砂漠にいってかれらと一緒に生活しても、退屈さと厳しさ
に 辟 易 し て 二 日 と 居 れ な い こ と だ ろ う ! )。翻 っ て 自 分 自 身 の 問 題 と し て 考 え て
みても、都市的個人主義的生活に心身ともに慣れ(狎れ?)きった小生にとっ
て、すくなくとも子供の頃の郷里の、あの共同体的しがらみ、プライバシーの
なさ、無いモノ尽くしの退屈さなどのことを考えると、時々の感傷的帰郷と、
遠く離れての演歌的回顧の対象としてならともかくも、そこに腰をすえて生活
で き る か 、 と 問 わ れ れ ば ー ー 「 帰 り た い け ど 帰 れ な い 」。
139
・そ も そ も 、一 個 人 の 回 顧 談 な ど 、研 究 的 価 値 あ る 誰 彼 の「 自 伝 」と か 、な ん ら か
の 特 殊 な 人 的 関 係 性 と か 、他 人 の プ ラ イ バ シ ー の 覗 き 的 趣 味・興 味 で も な い か ぎ
り 、 田 舎 の ば あ さ ん の 「 口 説 き 」( 道 南 口 説 き と か の 民 謡 の 一 ジ ャ ン ル と か 、 フ
ラ ン ス 男 性 の す き な 口 説 き 、等 と は 違 う 意 味 で の )と 似 た よ う な も の で 、本 人 に
と っ て は 切 実 で 言 わ ず に は 腹 膨 れ る 感 の「 語 り 」で あ っ た と し て も 、他 人 に と っ
て は お よ そ 興 味 が な く 、ゆ え に ま た 聞 く に 堪 え な い 退 屈 な も の で あ る こ と が 多 い
こ と も 事 実 で あ る 。そ し て そ れ 以 上 の「 そ も そ も 」論 と し て は 、お よ そ 個 別 的 な
も の は 、他 の「 個 別 」と の 対 比・比 較 を 通 し て 、ま た は 抽 象 概 念・理 論 と の 関 係
性 に お い て 、そ の 意 味・質 量 を 獲 得 す る( 上 記・田 舎 の ば あ さ ん の「 口 説 き 」が
退 屈 な の は 、得 て し て そ う し た「 広 が り 」と か「 深 み 」を も た な い こ と が 多 い か
ら で あ ろ う ー ー と は い え 、小 生 は 、客 観 的 一 般 論 と し て 、自 分 史 を 書 く こ と の 意
義 、ま た 古 老 か ら の そ の 体 験 談 等 の 聞 き 書 き・録 音 は 、貴 重 な 歴 史 的 記 録 と し て
の 意 味 を も つ こ と が 多 い こ と を 、 お お い に 認 め る も の で あ る が )。
(1-3)両志向の止揚?
・ 以 上 要 す る に 、 個 別 的 経 験 ( 個 人 な い し 社 会 の 個 別 的 経 験 ・ 事 件 ) の 重 み ・ 重
要 性 と 、 そ れ を 無 化 す る 時 代 的 文 明 論 的 趨 勢 ( の 病 理 ) を 強 調 す る 一 方
で、舌の根も乾かぬうちに、他方における個別的経験の本質的限界を強調し、
一般論抽象論レベルながら、いささか分裂症的な思考・嗜好という感を抱かれ
かねない、かもしれない。但しこの問題は、ものの見方・考え方、人間観・世
界 観 に お け る 、「 個 別 性 v s 普 遍 性 一 般 性 」、「 具 体 性 v s 抽 象 性 」、「 経 験・歴 史
v s 一 般 理 論 ・ 原 理 ・ 教 義 」、「 感 性 v s 知 性 ・ 理 性 」 等 の 、 古 来 、 哲 学 的 神 学
的言語学的等における存在論・認識論次元での二項対立的アポリアが潜み、而
してそれは今日においてもなお人は、その間のいずれかに偏向し揺らぎつつ思
考し行動し、そのバランスをとることがむつかしい類の大問題であることもじ
じつであり、しかも現代世界における、一方におけるグローバルな画一化とい
う求心的ベクトルと、他方における多様化相対化という遠心的ベクトルとのせ
めぎあいという、きわめて今日的でアクチャルな重要性をもつ対立軸でもある
( ゆ え に ま た 次 世 代 の 教 育 に お け る 基 本 的 哲 学 ・ ス タ ン ス の 問 題 に も 関 わ る )。
・し た が っ て ま た 、こ こ は 、こ れ ら の 大 問 題 に 対 し 一 定 の 解 を 出 せ る 場 で も な く 、
その能力も準備も不十分というほかないし、その際のスタンスの取り方も論者
それぞれのもつ価値観世界観によって微妙に異なるものあろうが、すくなくと
も 、( ど ち ら の 方 向 に も バ ラ ン ス よ く 配 慮 し て ー ー な ど と い う 優 等 生 的 解 が 、無
内 容 で あ っ て 採 る こ と が で き な い の は い う ま で も な い が )、現 代 世 界 な い し 近 未
来世界における指向として、上記対立軸のいずれの一方がより強調されるべき
か 、逆 に ま た 、い ず れ の 側 の 志 向 性 の 欠 落・弱 化 に 、現 代 社 会・文 明 の 重 篤 性 ・
140
危険性が潜んでいるのか、と小生が問われたときには、小生としては、その秤
は 、「 個 別 」性 の・ま す ま す の 弱 化( 別 言 す れ ば 、画 一 性 の 病 理 の 拡 大 )と い う
方向にこそ傾いているように思われるのであり、それゆえにこそ、小生が、恥
をかえりみず、上記に長々と自分史的時空紹介を試みたともいえるのである。
(2)「周辺vs中央」
・ こ こ で 、
「 周 辺 」と い う こ と に 寄 せ る 小 生 な り の 個 人 的 思 索・思 い に 関 し て も 、
参 考・補 足 的 に 、説 明 を く わ え て お き た い 。そ れ は 、本 NPO 立 ち 上 げ の 趣 旨 な
い し 本 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ の 趣 旨・背 景 を ヨ リ 深 く ご 理 解 い た だ く た め に も 有 益 で あ
ると考えるからでもある(とくに、本プロジェクトが上記のように 6 分校体制
という人的組織的体制をとることとの関係でもこの点は実際的レレバンシーを
も つ )。
・ 小 生 が 中 央 で は な く 、「 辺 境 」 と か 「 周 辺 」 に 拘 る の は 、 な ん と 言 っ て も 、 小 生
が 生 ま れ 、1 8 歳( + 1 )ま で の 幼 少 年 時 代 を 過 ご し た 郷 里 が 、岩 手 の 三 陸 海 岸
の 小 漁 村 で あ り 、そ し て そ の 後 、学 生 と し て は 盛 岡 - 仙 台 、教 官 と し て は 金 沢 ―
札幌と、いずれも、すくなくとも、東京・関西という日本の中心からは「周辺」
( の 漂 白 の 旅 )で あ り 、と く に 郷 里 の 三 陸 海 岸 * は 、北 上 川 流 域 ― 東 北 本 線 地 域
と の 対 比 で も 周 辺 で あ り 、東 北 は 古 来 征 夷 の 対 象 で あ り 、い わ ん や 北 海 道 は 蝦 夷
地 と し て 収 奪・海 防 の 対 象 で し か な か っ た ー ー 等 、小 生 は 所 詮「 周 辺 」の み を 漂
流する宿命(別言すれば所詮中枢・中央とは無縁の衆生)か?
*「陸の奥(むつ=「みちのおく」の音韻変化+省略形?)」という中央からの単純
な距離関係で東北一帯が一括され、その後になぜか沿岸部にだけ「陸前」がうま
れ、その中間だからということで「陸中」になり、小生の生まれた山田はかつて
は、その平凡な地名ゆえに他にも日本全国に「山田」という地名があり、それと
の混同を避けるためか「陸中山田」と呼ばれていた。つまり三陸沿岸は日本国全
体からみれば、周辺の・そのまた周辺であって、わが山田あたりはその最後の周
辺の、中くらいの周辺――というわけである。明治以降も中央との関係では所詮
は漁業資源・鉱物資源そして兵隊の供給源というこの周辺地域の位置づけであり、
盛岡・花巻とか水沢等の北上川流域との、とくにその文化的格差を、小生は、そ
れぞれの郷土・歴史博物館等を見学して実感せざるをえなかったことも事実であ
る。いずれにしても、小生が中央―周辺という対立軸・視点に拘るのはこうした
個人的人生体験・知見がその背景にあることを、告白的にここで再確認しておき
たいと思う。
・し か し ま た 、周 辺 に い る か ら こ そ 見 え て く る 、中 央 の 病 理・問 題 性 と い う も の も
あ る し 、ま た そ う し た も の に 対 し 鋭 敏 に な ら ざ る を 得 な い こ と も ま た 事 実 で あ る
( そ も そ も 一 般 的 に も 、物 事 は 、と く に そ の 病 理・問 題 性 な る も の は 、そ の 渦 中・
141
中 心 部 に い て は な か な か 見 え て こ な い も の で あ っ て 、む し ろ 、空 間 的 に も 時 間 的
に も 少 し 離 れ た と こ ろ に い た 方 が 、よ く 見 え る こ と が 少 な く な い こ と 、と い う よ
り も 、周 辺 か ら こ そ 中 央 の 真 実 が 見 え て く る こ と 、離 れ す ぎ て は 見 え な い が 、逆
に 近 す ぎ て も 見 え な い こ と 、な に よ り も 小 生 自 身 の 人 生 経 験 か ら す る「 も の の 見
方 」 論 と し て あ る )。 ま た 、 小 生 が 注 目 し て い る 北 大 の 文 化 人 類 学 ・ 民 俗 学 担 当
の 某 先 生 が そ の 著 書 の な か で 、中 央 に い る 者 は 周 辺 を 見 な く て も 済 む し 、多 く は
本 当 に は 周 辺 の こ と を 知 ら な い 、し か し 、周 辺 の 者 は 中 央 を 知 ら ず に は 済 ま さ れ
な い ー ー と い う 趣 旨 の 、 中 央 ― 周 辺 に つ い て の 人 類 学 者 と し て の ( 体 験 的 )「 知
の 力 学 」を 力 説 し て い る こ と も こ の 点 と の 関 連 で 注 意 を ひ く( 周辺にいるものは、
多くの場合、明治以降の日本ではとくに、中央のことを知ることなしには、または
中央との何らかの関係を維持することなしには)生きてすらいけないが、その逆必
ずしも真ならず、ということ)し、日本史学の分野での(小生もそのファンの一
人である)
「網野史学」
( た だ し 時 と し て 、論 理 の 飛 躍 、そ の 実 証 性 等 に 、疑 問 を
感 じ る こ と が あ る こ と も 事 実 だ が ー ー )、 人 類 学 の 山 口 昌 男 の 仕 事 な ど 、 の 魅 力
も 、小 生 に と っ て そ う し た 複 眼 的 視 点 の 重 要 性 を 教 え て く れ る か ら で あ ろ う 。ま
た 小 生 が か ね て か ら 、学 問 分 野 と し て 、専 門 分 野 の 法 律 学 と の 関 連 で も 、ま た そ
の 限 界 を 乗 り 越 え る 契 機 と し て も 、人 類 学 な い し 民 俗 学 の 諸 知 見 に た い し 、少 な
か ら ぬ 関 心 を 寄 せ て き た の も 、ま た 、近 代 国 民 国 家 の 限 界・問 題 性 を え っ 決 す る
鋭 利 な メ ス と し て の( 国 民 と か 人 種 で は な く )民 族・部 族 と い う 歴 史 と 社 会 の 分
析単位の決定的重要性(例、遊牧民族、先住民族)に興味をもつのも、さらに、
音 楽 に つ い て は ( 一 時 は 趣 味 と し て CD 等 の 収 集 も 始 め つ つ も 時 間 的 余 裕 が な
い ま ま に 中 断 し て い る )と く に 民 謡 と か ワ ー ル ド ミ ュ ウ ジ ッ ク と か と い う ジ ャ ン
ル 、 ひ い て ま た 伝 統 芸 能 と か 民 芸 ( 柳 宋 悦 )、 本 ・ 趣 意 書 執 筆 の 最 中 に 亡 く な っ
た 小 沢 昭 一 が 掘 り 起 こ し 遺 そ う と し た 各 地 の「 大 道 芸 」そ の 他 の 民 衆 芸 能 、方 言
を ふ く め た 地 域 少 数 言 語 の 問 題 等 々 ― ― い ず れ に せ よ 、今 は む し ろ 、そ う し た 周
辺 か ら の 視 点 、哲 学 、学 問 、文 化 と い っ た も の の 重 要 性( 逆 に ま た 、東 京 発 の 学
問・思 想 等 の 文 化 的 言 説 、さ ら に は 政 治・報 道 等 へ の 、根 源 的 不 信 、違 和 感 )を 、
体 質 的 経 験 的 に 感 得 し 認 識 せ ざ る を え な か っ た 、そ の 原 点 た る 我 生 涯 お よ び 郷 里
に感謝!。
・ ち な み に 、 司 馬 遼 太 郎 『 街 道 を ゆ く 』 シ リ ー ズ は 、( 全 部 を 読 み き っ て い る わ け
ではないが)まさに国民的文化遺産とも言うべきものと考える。小生もこれま
で、四国・徳島、三浦半島、小諸などは、該当巻を抱え、ついでに(!)他の
用事も抱えて、非常に印象深い一人旅を味わった記憶があり、今後も残された
巻を抱えてそうした旅をしたいものだと念願しているが、さしあたり、「中央―
周 辺 」論 で い え ば 、こ れ ら の 街 道 も の で 司 馬 さ ん が 注 い で い る 、
「 周 辺 」の 土 地 ・
人々への実に温かな目というものを、小生は感じる:北海道については二巻も
142
書いているし、それらは北海道に住んでいるものとして、こんなすばらしい生
き方をした人人がいたのかーーと感銘を受けることもしばしばであった。また、
青森・旧南部藩領地域、そして特に沖縄(本島ではなく、石垣島等の南部先端
地域――司馬さんは沖縄本島のことは戦友に聞いた話が余りに悲惨すぎて書け
な か っ た の で は な い か ? )、 奄 美 の 各 紀 行 文 、 さ ら に 既 に 触 れ た 、 対 馬 ・ 壱 岐 、
など。また海外に目を転じれば、なんといってもあのモンゴル紀行、さらに済
州島、朝鮮半島、そして、スペイン・ポルトガル紀行、最後になったが(イン
グランドの政治的宗教的抑圧を耐え抜いた民族の歴史とそれが生み出した文学
への共感のゆえか)小生がなぜか目がうるんでしようがなかった、
『愛蘭土紀行』
二巻。
・ 小 生 が 短 期 間 な が ら 留 学 し た 経 験 の あ る ア メ リ カ や ド イ ツ は 、( そ の 中 味 と か 規
模 に は 当 然 違 い は あ る も の の )連 邦 制 と い う 制 度 の 面 で も 、そ の 他 の 実 質 的 な 面
で の 地 方 的 多 様 性( 例 、「 お ら が 国 」の「 お ら が 大 学 」)に は 、行 っ て み て 実 感 し
た 面 も 少 な く な い 。こ の 地 方 的 社 会 的 多 様 性 は 、短 期 的 に は そ の た め に 払 わ な け
れ ば な ら な い 社 会 的 コ ス ト は 少 な く な い だ ろ う ー ー 例 え ば 、小 生 が 行 っ た 頃 の ド
イツは東西統一でベルリンが連邦首都として移転が進みつつあったというもの
の 、ど こ が 国 の 中 心 な の か 、政 治 の 中 心 、経 済 セ ン タ ー 、司 法 、み な 意 識 的 に 分
散 さ せ て い る 感 じ で 、ー ー 東 京 に い け ば「 ワ ン ス ト ッ プ・サ ー ビ ス 」さ な が ら に 、
す べ て 用 事 が す む の と 違 っ て ー ー 非 常 に 不 便 こ の う え な い 、と も 思 っ た し 、そ し
て 大 学 は そ れ ぞ れ の 伝 統 を も っ て 割 拠 し て い る ー ー 。わ れ わ れ は 、ド イ ツ や イ タ
リ ア の「 後 進 国 」性 は 、そ の 国 家 的 統 一 が お く れ た こ と に 起 因 す る 、と 教 科 書 で
習 っ た 記 憶 が あ る が 、む し ろ 、こ の 地 方 的 社 会 的 多 様 性 は 長 い 目 で み る と 、力 の
差 と な っ て じ わ じ わ と 利 い て く る の で は ー ー と 、思 っ た( 他 方 ア メ リ カ も 、人 種
的民族的宗教的多様性に多大の社会的コストを払いつつ今日に至っていること、
周 知 の と お り で あ り 、そ の こ と が 生 み 出 す 緊 張 感 と 活 気 の よ う な も の も 今 と な っ
て は な つ か し い 思 い 出 と し て あ る )し 、む し ろ 、明 治 以 降 の 日 本 の よ う に 、東 京
一 極 集 中 の 異 常 さ 、( 効 率 と 紙 一 重 の ) 危 う さ ・ 弱 さ を あ ら た め て 考 え さ せ ら れ
た( 日 本 独 特 の 画 一 性 、同 質 性 、過 剰 同 調 性 ― ― 帰 国 早 々 大 学 時 代 の 同 級 生 が 開
い て く れ た 帰 国 歓 迎 の 同 窓 会 で 、小 生 は 、ド イ ツ で 感 じ た 地 方 割 拠 の 印 象 を も と
に 、半 分 冗 談 に「 東 京 に 原 爆 が 一 発 で も 落 と さ れ た ら 日 本 沈 没 で は な い の か 」と
い っ て 顰 蹙 を 買 っ た 記 憶 が あ る ー ー し か し そ の 後 、核 を 持 つ に 至 っ た 某・隣 国 の
狂 気 の 独 裁 者 は 我 国 を 名 指 し で「 東 京 を 火 の 海 に し て や る 」と 息 巻 い た こ と 、記
憶 に 新 し い )。
・な お ま た 、話 題 が 突 然 飛 ぶ よ う で あ る が ー ー 本 年( 2 0 1 3 年 )5 月 の 筑 波 地 方
で 発 生 し た 竜 巻 に 関 す る テ レ ビ の 報 道 等 で は 、「 わ が 国 で は こ の よ う な 規 模 の 竜
巻 は 過 去 に は な か っ た 」趣 旨 の「 解 説 」が ほ と ん ど で あ っ た よ う に お も う 。こ れ
143
はわずか数年前に北海道オホーツク海側・北見地方を襲った竜巻で工事現場の
人 々 7 、8 名 近 く が 亡 く な る 等 お お き な 被 害 が あ っ た こ と は 完 全 に 忘 れ ら( 無 視
さ)れている。札幌の(世事に疎い)小生ですらそう思ったくらいであるから、
北 見 の 人 た ち は そ の 報 道 に 接 し て ど う 思 っ た こ と で あ ろ う か * 。ー ー そ れ は 、ま
さ に 、地 方 の 復 権・分 権 、中 央 集 権 体 制 の 打 破 等 が 叫 ば れ る 今 日 の 日 本 で も な お 、
各 種 メ デ ア の 流 す 情 報( ひ い て ま た 人 々 の 認 識・感 覚・判 断 等 )が 如 何 に 東 京( な
い し 関 西 圏 )中 心 の 偏 り を も っ て い る か 、ま さ に あ ら た め て 、小 生 に と っ て も 非
常 に つ よ く 印 象 づ け ら れ た 最 近 の 事 件 で あ っ た こ と 、余 談 な が ら こ こ で と く に 言
及 し て お き た い 。い ず れ に せ よ 、こ れ ら の「 印 象 」も 、3 0 数 年 ま え に 不 安 と 期
待 を も っ て 津 軽 海 峡 を 越 え (「 本 州 」 に 生 ま れ 育 っ た 人 間 に と っ て そ れ は 正 直 な
と こ ろ 「 異 国 」 に 旅 た つ 者 に も 似 た 感 慨 を 抱 か せ る も の で あ っ た よ う に 思 う )、
い ま ま た こ の 地 を「 終 の 棲 家 」と 定 め よ う と し て い る 者 で あ る が 故 に 鋭 敏 に な ら
ざ る を 得 な く な っ て い る「 中 央 ― 周 辺 」の 格 差・断 絶 へ の 感 覚 、の ゆ え の 、一 片
のエピソードであるのかもしれない。
*なお本・第八版と取り組んでいる最中の 2012 年 12 月初旬に起きた山梨県・中
央自動車道・笹子トンネルで発生した天板落下死亡事故との関連でも、少なく
とも小生が見ていたテレビ・新聞等で、10 数年前に札幌の近くの「古平トンネ
ル」で起きた、朝の通勤バスへの落盤事故のことを報じたメデアはなかったよ
うに思う。これは救出作業が何日もかかった痛ましい事故であっただけに、北
海道の人は真っ先にこの事故の記憶を呼び覚ましたであろうと思われるだけに、
あらためて、地方と中央発の情報発信における落差を感じたのは小生だけでは
あるまい。
・最 後 に な お ま た 注 意 的 に 付 け 加 え る べ き は( と い う よ り も 、誤 解 を 恐 れ ず に 付 け
加 え ず に は お れ な い の は )、
「 周 辺 」の 内 部 に は さ ら に「 中 央 ― 周 辺 」が 入 れ 子 構
造 に な っ て い て 「 下 に は 下 が あ る 」 と い う こ と 、( 以 前 と 比 べ る と 大 分 改 善 さ れ
た と は い え 、現 役 時 代 、依 然 と し て 感 じ ざ る を 得 な か っ た 、大 学 の 内 外 で の 、大
学 間 序 列 意 識 と い う 負 の 遺 産 の 数 々 と と も に )こ れ ま た 、小 生 自 身 の 幾 つ か の 痛
み・反 省 を 伴 う( 思 い 出 し た く も な い )思 い 出 と と も に 経 験 知 的 教 訓 で あ る 。ま
た さ ら に 誤 解 を 恐 れ ず に い え ば 、「 周 辺 」 と か 「 周 縁 」 と 少 数 者 ・ 敗 者 の 側 、 さ
ら に は 、差 別 さ れ 抑 圧 さ れ 支 配 さ れ 排 除 さ れ る 側 に 、い つ で も 常 に 正 義 が 存 す る 、
と い う 命 題 ー ー し ば し ば と く に マ ス コ ミ 的 大 衆 的 に は「 判 官 贔 屓 」的 に 無 検 証 の
前 提 と さ れ や す い 命 題 ― ― が 、常 に 成 り 立 つ わ け で は な く 、む し ろ そ の 逆 に 容 易
に 転 化 し や す い と い う こ と 、( 抵 抗 者 批 判 者 が マ ク ロ か つ 長 い 歴 史 の 中 で み た と
き 政 治 的 に は 真 の 改 革 の た め の 抵 抗 勢 力 と も な り う る の だ 、と い う 、小 生 じ し ん
も こ れ ま で 少 な か ら ず 見 て き た こ と 、と と も に )こ れ ま た 歴 史 と 個 人 的 経 験 の 教
える真理でもあり、心すべきこと、でもある。
144
(3)
「 前 近 代 ― 近 代 ― ポ ス ト モ ダ ン 」― ― 反・前近代―半・近代―半・ポストモダン
( 4 )「〈 し が ら み 〉 と し て の ( 血 縁 的 な い し 地 縁 的 ) 共 同 体 v s 〈 絆 ・ 縁 〉 と し て
の 共 同 体 」 ― ― 「 脱 ( な い し 反 )・ 共 同 体 的 志 向 」 + 「 親 ・ 共 同 体 的 志 向 」 と の
同居(または、首から上は「脱」、首から下は「親」という分裂状態):
(5)
「 庶 民 v s 市 民 」― ― 庶民派(=脱・市民派)宣言(はしてみたものの、所詮「庶
民」には成り切れぬ小生――)
――以上(3)ないし(5)の三つのテーマについては、そのコメントは趣意書第
八版・本体段階でも未完であったが、それらは全体として相互に関連しており、一
体 と し て 、現 在 も 当 HP[便 り ]で 連 載 中 の「 広 中 法 学 ― ― 」の 中 で 、と り あ げ よ う と
考えているテーマでもあるので、そこで再度挑戦してみたい、と考えている。
――――――――――――――――――
【Ⅴ-参考4】コトバへのこだわり、「ガレキ」ということば、地名のこ
と、末弟・故・淳のこと な ど 、「 連 想 ゲ ー ム 」 的 余 談 あ れ こ
れ:
( 1 )「 コ ト バ 」 へ の こ だ わ り ― ― 本 趣 意 書 で は 、( 上 記 の 「 高 志 」「 学 舎 」 を は じ
め と し て )い た る と こ ろ で 、言 葉・用 語 の 使 い 方 に 、独 自 の 意 味 を こ め た り 、独
自 の 用 語 に こ だ わ っ た り と 、や や コ ト バ に た い す る パ ラ ノ イ ア 的 こ だ わ り 、を 感
じ ら れ る か も し れ な い が 、そ れ は 、近 時 に お い て も 、以 下 の よ う な 個 人 的 な 事 例
に 遭 遇 し 、あ ら た め て 具 体 的 な 形 で 、コ ト バ の も つ 問 題 性 に い さ さ か 思 い を 致 さ
ざるを得なかったこととも、関係があるからである:
( 2 )「 ガ レ キ 」 と い う コ ト バ に つ い て ー ー つ ま り 、 と く に 、 今 回 の 3 . 1 1 で 盛
ん に 使 わ れ た「 ガ レ キ 」と い う 表 現 に は 、そ れ 以 外 に 適 切 簡 便 な 日 本 語 が な い だ
ろ う か ら 、こ の 際 万 止 む 得 な い こ と か ー ー と は 思 い つ つ も 、正 直 な 感 じ と し て は
非 常 に 違 和 感・抵 抗 感 を 覚 え て き て い る 。ー ー 小 生 の 実 家 が 跡 形 も な く 流 失 し た
こ と は 添 付 写 真 で お 見 せ し た と お り で あ る が 、そ こ で 過 ご し た 何 年 間 か の 少 年 時
代 の あ れ こ れ の 思 い 出 、ま た 大 学 進 学・就 職 後 も 何 か の 旅 行 の 度 ご と に 両 親 に 買
っ て 帰 っ た お み や げ ー ー そ の 中 に は 、 昭 和 37 年 東 北 大 学 一 年 の と き 寮 の 仲 間 と
夏 休 み に 敢 行 し た 「 一 万 円 10 日 間 北 海 道 一 周 旅 行 」 の 折 、 阿 寒 湖 畔 で 買 っ て 帰
っ た ア イ ヌ の 熊 の 木 彫 り も 含 ま れ て い た ー ー な ど な ど 、「 あ れ も こ れ も み ん な ガ
レ キ か ! 」と い う 詠 嘆 と あ る 種 の 憤 り の 思 い が あ る( 本 来 の ガ レ キ の 意 味 は 瓦 と
か 礫 の よ う な ま さ に 無 機 質 な 物 体 の 塊 の 意 で あ っ た と い う )。
( 3 )地 名 に つ い て ー ー 地 名 に 関 し て も 、震 災 報 道 と の 絡 み だ け に 限 定 し て い え ば 、
145
小 生 な ど 、「 釜 石 の 奇 跡 」 と か 「 宮 古 の 悲 劇 」 な ど と い わ れ た り す る と 、 非 常 な
違 和 感 が あ っ て 、そ の・問 題 と な っ て い る 地 域 の 正 確 な 地 名 に 幼 少 の こ ろ か ら 慣
れ 親 し ん で き た も の に と っ て 、前 者 は な に よ り も「 鵜 住 居 」と い う な ん と も 優 雅
な 名 前 で な け れ ば い け な い し 、ま た 後 者 は「 田 老 」で な け れ ば 、全 く 乱 暴 な 言 い
方 と し か 聞 こ え な い( つ い で に い え ば 、最 近 の 新 聞 に の っ て い た「 大 槌 町 吉 里 吉
里 」と い う の も 、す く な く と も 小 生 の 地 理 的 感 覚 で は 、両 者 は 全 く 別 の 集 落 で あ
っ て 、 吉 里 吉 里 は そ の 意 味 で も 「 独 立 国 」 で な く て は な ら ん の で あ る ! )。 そ れ
は ま さ に 町 村 合 併 が 生 み 出 し た 負 の 遺 産 と も い う べ き も の で あ っ て 、地 名 が 単 に
無 機 質 の 手 段 的 記 号 と し て ば か り で ば な く 、な に よ り も そ こ に 生 活 を 営 ん で き た
人々の記憶とともにある歴史的文化遺産であるということを完全に無視した言
い方というほかないーー一体、奈良と京都を合併して「古都市」などと一括し、
しかもその奈良とか京都とかの地名をこの世から抹消して平然としていられる
日 本 人 が い る だ ろ う か ! ? た し か に「 廃 藩 ― 置 県 」も 100 数 十 年 も た て ば す っ か
り 定 着 ― ― と い う こ と で 所 詮 は「 慣 れ = 狎 れ の 問 題 」な の か も し れ な い が 、し か
し 、言 葉 一 般 へ の こ だ わ り と い う 冒 頭 の 問 題 意 識 に か え れ ば 、要 す る に 言 葉・言
語 へ の デ リ カ シ ー・セ ン シ テ イ ヴ ィ テ の 有 無・程 度 と い っ た こ と こ そ 、民 族 と 文
化 の 品 格 の ( す く な く と も 効 率 性 を 多 少 犠 牲 に し て て も 「 守 る べ き 何 か 」) を 規
定 す る( す く な く と も 不 可 欠 の 一 )要 因 な の だ と い う こ と 、そ し て 生 活 の 単 位 と
し て の 地 域 = ロ ー カ ル な も の( 地 域 の 生 活 と 歴 史 に 深 く 根 ざ し た 地 名 も ま た そ の
一 つ )に 拘 る こ と 、す く な く と も そ れ を 超 越 し 抹 消 し よ う と す る も ろ も ろ の 抽 象
化・普 遍 化 へ の ベ ク ト ル を も っ た あ れ こ れ の 政 治 的 経 済 的 文 化 的 思 想 的 な も の に
抵 抗 す る こ と の 現 代 的 重 要 性 を 、こ こ で あ ら た め て 強 調 し た い 、と い う の が こ こ
での小生の真意である。
( 4 )言 葉 の 質 量・重 さ と い う こ と に つ い て ー ー 以 上 、言 葉 と か 地 名 と か を め ぐ る
3 .1 1 を 契 機 と す る 断 想 め い た こ と を 書 い て き た が 、よ う す る に 、そ れ を 総 括
す れ ば 、言 葉 は 単 な る 無 機 質 の 道 具 的 記 号 以 上 の も の で あ っ て 、そ こ に 込 め ら れ
た 個 人 と 社 会 の 、あ れ こ れ の 生 活 そ の も の・身 体 感 覚・経 験・時 間 の な が れ な ど 、
が 込 め ら れ た 、ま さ に 代 替 不 可 能 で 追 体 験 不 可 能 で そ れ ゆ え 真 の 理 解 可 能 性 を 越
え た さ ま ざ ま な「 思 い 」の つ ま っ た も の で あ り 、そ れ ゆ え に そ れ が 発 せ ら れ る 経
験 的 背 景 如 何 に よ っ て 、コ ト バ と い う も の に は 重 さ ー 軽 さ と い う も の が あ る の だ
と い う こ と( 森 有 正 氏 の「 経 験 論 」を 小 生 な り に 解 釈 す れ ば 、個 人 の 内 面 の「 玉
ね ぎ の 皮 」の 中 核 に あ る も の = 個 人 的 経 験 が 個 人 を 定 義 す る 、し か し て そ れ は 他
者 に よ る 追 体 験 不 能 で あ り 、ゆ え に ま た 本 来 的 に 個 人 と は 絶 対 的 に 孤 独 な 存 在 と
し て あ る 、 と い う こ と で も あ る の だ ろ う )、 漱 石 風 に い え ば 「 現 実 の 波 濤 に 洗 わ
れ な い 言 葉 」の む な し さ・う つ ろ さ と い う も の が あ る と い う こ と を 、言 わ ず も が
146
な の こ と な が ら 、小 生 自 身 あ ら た め て 今 回 実 感 す る こ と 多 く 、ま た 、そ の 点 も ふ
く め 、言 葉 へ の セ ン シ テ イ ヴ ィ テ こ そ が 、文 化 の 成 熟 度 を 測 る バ ロ メ ー タ ー で あ
る と の 小 生 自 身 の 日 ご ろ の 思 い と 、ま さ に そ れ こ そ が 本 プ ロ ジ ェ ク ト Ⅰ が 主 た る
支 援 活 動 内 容 と す る も の を 支 え る 哲 学 で も あ る と の 思 い か ら 、こ こ に 敢 え て こ の
こ と を 書 き 加 え た 次 第 で あ る( ― ― そ れ に し て も 、現 代 社 会 は ま す ま す 、血 と 土
か ら 成 る 生 の 時 間 と 生 の 空 間 か ら 抽 象 化 さ れ 、そ の よ う な 意 味 で ま さ に 地 に 足 が
つ い て い な い 、リ ア リ テ な き 宇 宙 人 的 言 説 に あ ふ れ 、そ れ に 踊 ら さ れ 、虚 栄 の 市
に 群 が る 人 々 で あ ふ れ て は 、い な い だ ろ う か 。現 代 文 明 の も つ 危 う さ が あ る と す
れ ば 、 そ れ は ま ず も っ て そ の よ う な 病 理 で あ る だ ろ う )。
( 5 )末 弟・故・淳 の こ と ー ー と も あ れ 、小 生 は こ こ で 、ま た し て も 唐 突 の よ う で
あ る が 、わ が 末 弟・淳 の こ と 、つ ま り 、こ の 地 名 と か 地 方 の 歴 史 へ の こ だ わ り と
い う 点 で な ぜ か 共 鳴 す る 志 向 を も っ て( も っ と も 彼 は 、な ぜ か 地 理 や 歴 史 に は 特
別 の 興 味 ・ 関 心 を 子 ど も の こ ろ か ら 持 っ て い た こ と を 、 小 生 は 覚 え て い る )、 そ
の 研 究 を 定 年 後 の 楽 し み の 研 究 課 題 と し て い て 、そ れ に 関 す る 多 少 の 遺 作 も 残 し
な が ら * 、 還 暦 を 目 の 前 に し て 、 ま さ に 小 生 ら の 目 の 前 で 、( 脳 溢 血 に よ る ) 全
く 突 然 の 死 を 死 な な く て は な ら な か っ た 末 弟・淳 の 無 念 の 死( 癌 と か で 予 て か ら
治 療 等 を し て き て の 覚 悟 の 上 の 死 な ら と も か く も 、全 く 突 然 の 予 期 せ ぬ 死 で あ っ
た だ け に そ の 無 念 の 思 い は 如 何 許 り で あ っ た ろ う )― ― を 思 っ て 、目 が 潤 ん で く
る の で あ る( 小 生 の よ う な 脱・宗 教 論 者 に し て 合 理 主 義 志 向 の 人 間 で も 、四 国 遍
路 を 思 い 立 ち 、恐 山 に ま で い っ て イ タ コ を 通 じ て 彼 の 声 を 聞 き た い と 思 っ て 行 っ
た の も 、 そ の 死 を 悼 む 、 ど う し て も 抑 え よ う の な い 気 持 ち の 延 長 線 に あ っ た )。
そ し て( 子 供 の 頃 か ら 、自 分 の こ と よ り も 他 人 の 心 配 ば か り し て 、オ ヤ ジ に も「 人
の こ と よ り も 自 分 の こ と を も っ と 心 配 し ろ 」と 叱 ら れ た り し て い た 、そ れ だ け に
純 粋 で 正 義 感 の 強 か っ た 、そ し て 長 じ て は 、養 子 と し て 他 家 の 姓 を 名 乗 り 、慣 れ
な い 土 地 で 慣 れ な い 農 業 に 精 を だ し 、そ し て 生 ま れ て 間 も な い 孫 を 残 し て 、目 の
前 で 死 ん で い っ た )淳 へ の 、兄 と し て 何 も し て や れ な か っ た ど こ ろ か 、迷 惑 ば か
り か け て い た 小 生 な り の 、悼 み の 心 ― ― そ の 悼 み の 心 、彼 が 果 た そ う と し て 果 た
せ な か っ た 無 念 の 思 い を 、こ う し て 馬 齢 を 重 ね て 生 き 残 っ て い る 小 生 が 、代 わ っ
て で も な に か し て や れ な い か ー ー と い う 切 な い 思 い 、そ れ が ま た 、本 N P O の 立
ち上げへと小生を無意識のうちに突き動かしているものの一つであるように思
われるのである。
*とくに、養子に入った農家のある水沢・胆沢地方は、その南の平泉・衣 川周辺とな
らんで、奈良末期・平安初期の大和朝廷vs蝦夷との闘いをはじめ、古来政治・経
済の表舞台に登場することも多く、地名とか習俗・歴史の素材には事欠かないこと
もあったのか、かれは周辺の地名についてかなり立ち入った検討を予兆させる良い
147
論稿も残していたし、また周辺の同好の人たちとともに「延暦8年(蝦夷側の首領
アテルイが桓武天皇側の大群に勝利した闘いの年を記念するアテルイ研究)の会」
でいろいろ活動もし、京都・清水寺でのアテルイ墓碑の記念式典にも参加したこと
を 小 生 に も 語 っ て い た 。( そ の 他 、 胆 沢 城 柵 の こ と 、 蘇 民 祭 の こ と な ど 、 沿 岸 地 方
とはまた一味ちがった北上川地方の歴史・習俗に目を開かせてくれたのも彼であっ
た。)本・趣意書執筆中の本年1月 NHK・BS テレビでアテルイ伝が四回シリーズ
で放映され、それを見ながらあらためてこれらのことを書き加えたいと思ったしだ
いである。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
【Ⅴ―参考5】小生の外国語学習・小遍歴録:( 省 略 )
【Ⅴ―参考6】「学校制度クソ食らえ」の一エピソード( 父 子 相 対 の 家 庭 教
育だけで、子供を司法試験に合格させ、剰え、ラテン語まで教えた父
親の話:近代国民国家における義務的公教育制度の実質的正当性如何
を問う好個の事例として――とくに、上記ラテン語の話しとの連想か
ら、はるか数十年前の新聞記事についての、小生の記憶の片隅への飛
躍)
:
・小生が10代のころの何時かの新聞社会面の左下の小さなコラムに載った記事
( 小 生 は な ぜ か そ の 内 容 が 面 白 く て 今 も 覚 え て い る )の 話 ― ― そ の 記 事 に よ れ ば 、
鹿 児 島 の あ る 子 が 司 法 試 験 に 大 学 に も 行 か ず に 10 代 で 合 格 し た が 、そ れ は 父 親
が 学 校 に も ろ く に( あ る い は 全 く ? )通 わ せ ず 一 対 一 で 個 人 講 義 を し て そ れ で 合
格 し た 、し か も そ れ と 並 行 し て 語 学 は ラ テ ン 語 を 教 え た と い う 。こ の 話 の 真 偽 や
詳 細 は そ れ 以 上 の こ と は 調 べ て は い な い( 戦 後 す ぐ の こ ろ の 、し か も あ の 旧 薩 摩
藩 内 な ら 、あ り え た 話 ? 一 般 的 に は 、旧 幕 時 代 の 武 士 階 級 の 教 育 方 法 と し て の 家
庭 に お け る 漢 文 素 読 な ど の 伝 統 的 背 景 あ り か ? )し 、ま た そ の( 公 教 育 に よ る 集
団 社 会 性 の 陶 冶 過 程 の 欠 如 の 問 題 性 と か と い う )当 否 に つ い て も 論 議 は あ ろ う が 、
なによりも司法試験に関してはその後の法科大学院騒ぎのこととかと対比して
も 、そ れ を 可 能 に し た 当 時 の 試 験 制 度 の 自 由 度( 大 学 の 講 義 す ら 不 要 ! ? )、
「学
校 に 行 っ て 当 た り 前 」で 不 登 校 を 病 理 視・危 険 視 す る こ の 国 現 代 の 風 潮 の 、逆 に
公教育制度観念のアメリカのフリースクール運動等の動向と対比しての異常さ
ー ー ア メ リ カ 留 学 の お り 、マ ン ハ ッ タ ン か ら 列 車 で( 以 前 か ら 興 味 を も っ て い た )
ラ ン カ ス タ ー の ア ー ミ ッ シ ュ・コ ミ ュ ニ テ ー を 訪 問 し た こ と が あ る が 、そ の 独 自
の 信 仰 を 教 育 に も 貫 い て い る こ と な ど 、こ の 事 例 も ふ く め て 、ア メ リ カ 社 会 の 多
様 性 、ふ と こ ろ の 深 さ を 示 す 一 端 と し て な お 研 究 の 余 地 あ り と 思 っ て い る ー ー そ
し て 何 よ り も 、近 代 公 教 育 が も た ら し た 機 械 的 規 律 の も と で の 画 一 主 義 平 等 主 義
148
の 負 の 側 面( 旧 幕 時 代 の 各 藩 藩 校 と か 各 地 に 叢 生 し た 私 塾 、庶 民 の た め の 自 生 的
教 育 組 織 な ど と の 対 比 に お い て す ら 、そ の 異 常 さ は 際 立 つ も の が あ り 、而 し て そ
れ が 近 代 国 民 国 家 に お け る 画 一 的 国 民 の 育 成 、そ れ を つ う じ て の 労 働 力 育 成 と 国
民 皆 兵 の 実 現 に あ っ た こ と は 紛 れ も な い 事 実 で あ り 、我 国 が い ち 早 く そ れ に 成 功
し た の も 事 実 で あ る が 、現 代 日 本 の 教 育 の 荒 廃 状 況・問 題 状 況 を 考 え る と き 、そ
の 負 の 側 面 が 小 生 に は 気 に な る こ と す で に 何 度 か 言 及 し た と お り で あ る )を 考 え
る と き 、小 生 と し て は 、快 哉 を 叫 び た い く ら い に 思 う( そ れ は ま た 本 NPO 立 ち
上 げ へ と 小 生 を 動 機 づ け て い る も の の 根 底 に あ る も の で も あ る )。
【Ⅴ―参考7】わが自分史のなかの読書遍歴・その断片的記憶から ― ― と
く に 、『 吉 田 松 陰 伝 』 の こ と 、 小 学 校 の 図 書 館 の ( と く に 偉 人 伝 関 係
の)本を読んでやろうと春休みで休館中の図書館を空けてもらって、
誰もいないところで一人読書に耽った思い出など:
・ 記憶・その1―― 小 生 自 身 の 、 と く に 小 学 校 時 代 に 読 ん で 、 何 時 ま で も 記 憶
に 残 る 幾 つ か の 本 は 、例 、
「 フ ラ ン ダ ー ス の 犬 」、
「家なき子」
「 母 を 尋 ね て 三 千 里 」、
「 に ん じ ん 」「 次 郎 物 語 」 な ど 、 な ぜ か 、 孤 児 と か の 悲 し い 物 語 と か 、 乳 母 と の
わ か れ 、親 を も と め て ー ー と 言 っ た 物 語 が 多 く 、そ れ ら の 中 の( く わ し い ス ト ー
リ ー は 全 部 忘 れ て し ま っ て い る が )、 主 人 公 の 子 供 の 、 せ つ な い ま で に 悲 し い 心
情 だ け は 小 生 の 子 供 心 に も せ つ せ つ と 迫 る も の が あ っ た 、そ の「 せ つ な さ 」の 感
覚だけは、記憶として残っているように思う。
・ 記憶・その2―― と く に 『 吉 田 松 陰 』( 偕 成 社 か ポ プ ラ 社 か の 少 年 物 伝 記 シ
リ ー ズ の 一 冊 )は 、小 生 が 小 6 の と き 、父・篤 造 が 盛 岡 出 張 の お り 買 っ て き て
く れ た も の で 、小 生 に と っ て は 初 め て 一 冊 の 単 行 本 を 買 っ て も ら っ て 、う れ し
か っ た せ い か 、5 ,6 回 繰 り 返 し 表 紙 が ぼ ろ ぼ ろ に な る ま で 読 ん で 、そ の 中 の
松 蔭 の 短 歌 な ど は ほ と ん ど 全 部 そ ら で 復 唱 で き る く ら い で 、親 達 は び っ く り し
て い た こ と を 今 で も お ぼ え て い る( 短 歌 へ の 興 味 は そ の 影 響 も あ っ た の か 、そ
の 後 、石 川 啄 木 ― 万 葉 集 ― 茂 吉 な ど 旅 の 道 連 れ に も な り 、ま た 自 ら 作 歌 だ け で
も な に か 文 学 的 創 作 活 動 を ー ー と 一 念 発 起 し て み た が 、こ れ ま た 研 究 な ど の 日
常 に か ま け て そ の 余 裕 が な い ま ま に 推 移 し て い る )。 小 6 で 、 そ の 歴 史 的 背 景
と か な ん に も 分 か ら な か っ た は ず な の に 、そ の 後 大 人 に な っ て 何 で あ ん な に 夢
中 に な っ て 繰 り 返 し 読 ん だ の か 、不 思 議 な く ら い で あ る が 、た だ 、そ こ に 何 度
も で て く る「 至 誠 」と い う こ と ば と か 、松 下 村 塾 で の・ま さ に 情 熱 的 な 至 誠 あ
ふ れ る 子 弟 へ の 教 育 、そ し て 国 の 行 く 末 を 憂 え て 行 動 す る 姿( 小 生 が 6 0 歳 す
ぎて弘前を訪問したおり、松蔭が、はるばる雪の越後を越えて弘前まできて、
ロ シ ア の 動 向 等 を 知 ろ う と し た と 知 り 、驚 い た 次 第 で あ る )な ど に 、幼 い な が
ら も 、何 か し ら 感 動 す る も の が あ っ た と い う こ と で あ ろ う 。そ の 後 、3 0 代 後
149
半 、金 沢 か ら 北 海 道 に 移 る こ と に な っ て 、萩 を 訪 ね る 機 会 も も う な く な る か も
し れ な い 、と 考 え て 、学 会 出 張 の 帰 り 、大 阪 発 の 寝 台 特 急「 出 雲 」で 山 陰 を ま
わ っ て 、わ ざ わ ざ 萩 を は じ め て 訪 れ 、自 分 が 読 ん で 想 像 し て い た 松 下 村 塾 が 意
外 と こ じ ん ま り と 粗 末 で 小 さ か っ た こ と 、ま た 彼 の お 墓 か ら み た 、海 に 浮 か ぶ
「 秋 月 城 」( ? ) 跡 の 三 角 山 な ど 、 が 記 憶 に 残 っ て い る 。 ― ― と も あ れ 、 子 供
の頃の読書の記憶とは斯くも鮮明に残り人を動かすもののようである*。
* 本 [HP : 特 集 ]に コ ピ ー ・ 掲 載 す る に あ た っ て : 本 「 特 集 」 で す で に 上 記 の よ う に 、 こ の
吉田松陰にかんしては、現在 NHK 大河ドラマとして放映中でもあり、その歴史的評価に
ついては、現時点ではなお、批判的検証・検討の余地あり、と判断し、その放映が最終回
に近づいた段階の本年末を目標に、あらためて、わが「高志」との関連でも論じてみたい、
と考えている。
・ 記憶・その3―― 小 学 校 の 図 書 館 の 本 を 全 部 読 も う と お も っ た 小 6 春 休 み の
思 い 出:こ れ は 、小 学 校 卒 業 後 、中 学 に あ が る 前 の 春 休 み 、上 記 わ が「 ブ タ 小 屋 」
の す ぐ 近 く に あ っ た 小 学 校 の 春 休 み 期 間 中 、先 生 の 許 可 を 得 て 、誰 も い な い 図 書
室 に 、 一 人 、 毎 日 か よ い 、( 上 記 ・ 松 蔭 伝 に 影 響 さ れ た の か ) と く に 偉 人 伝 を 全
部 よ ん で し ま お う と 、昼 飯 に サ ツ マ イ モ を か じ り な が ら 、本 に よ み ふ け っ た こ と
も あ っ た( そ れ を や ろ う と す る 小 生 も 小 生 な ら 、そ れ を 自 由 に 許 し て く れ た 先 生
― ― あ ら た め て 、そ う し た 自 由 を 許 し て く れ た 当 時 の の び の び し た 空 気 が な つ か
し く 思 う );
――ところが後年、あの井上ひさしが、仙台一高で、授業に出ないで、午前
は 毎 日 図 書 館 の 本 、午 後 は 映 画 を 全 部 見 て や ろ う と し て 、そ れ が 担 任 の 先 生 に 申
し出たら許可されて実行したということをどこかで書いていたーーそれを願い
出 る ほ う も 、そ れ を 許 し た 方 も 、ほ ん と に す ご い 人 が 居 て 、そ れ を 許 容 し た 良 き
古き時代があった、上には上がある!と、感心したことを思い出す。
・記憶・その4―― 友 人 か ら 借 り た 本 の 濫 読 の 日 々 : 以 上 、 小 生 の 少 ・ 青 年 時
代の読書経験を記すと、さなきだに長くなってしまっている本・趣意書のペー
ジ数が膨らむので、これにて打ち止めということにするが、全体として今にし
ておもえば、非常に本好きな少年であったにも拘わらず、戦後の田舎ゆえ碌な
図書もなく家が貧乏で碌な本も買ってもらえず、それだけに、上記のようなア
テガイぶちの本とかはボロボロになるまで精読する(今は逆に、子ども達も大
人も、あまりに読むべき本の数が多すぎて選択に迷い、情報の洪水に溺れ押し
流されかねない状況――数の多さは必ずしも質的豊かさを保障しないというと
こ ろ か )、他 方 、友 達 か ら 借 り た 本 は 文 字 通 り の 手 当 た り 次 第 の 濫 読 で ー ー 講 談
社の講談本は友人 MM 君から借りて結構読んだが、中学生時代『国定忠治』あ
た り は と も か く『 お 富 与 三 郎 』ま で 読 ん で い て 、お や じ に 、「 こ ん な も の ま で 読
んでるのか」と心配気にいわれた(といわれて、そんなものかと思った)記憶
150
が あ る ー ー 、お よ そ「 古 典 の 系 統 立 っ た 読 書 」な ど 、「 夢 の ま た 夢 」で あ っ た と
思 う 。そ れ だ け に ま た 、行 き 当 た り ば っ た り の 読 書 の 限 界 も 痛 感 す る の で あ る 。
・記憶・その5 ― ― 文 学 ( 書 ) へ の 傾 倒 ( 打 ち 止 め に す る 、 と い い な が ら 、 つ
い ー ー ):一 時 期( 大 学 生 初 期 の こ ろ ま で )と く に 凝 っ た の は 島 崎 藤 村 で 、と く
に 彼 の 詩 集 以 外 に 、『 破 戒 』『 夜 明 け 前 』 な ど 感 銘 を 受 け た 記 憶 が あ る ( 日 大 に
通っていたころ、軽井沢での合宿を終えて帰りに、追分――これは嘗て山中温
泉で聞いた中川善之助先生の民謡「小諸馬子唄」の記憶を訪ねてという意味も
あ っ た ー ー を 経 て 小 諸 懐 古 園 を 訪 れ た の も 、そ の「 小 諸 な る 古 城 の ほ と り ー ー 」
等の藤村の詩への懐旧の念のなせる業でもある(ちなみに、たしかその懐古園
の入り口だったかに、
「 惜 別 の 歌 」の 歌 碑 が 立 っ て い て 、小 生 も 学 生 時 代 学 友 達
とよく歌ったわが青春歌の一つ、この何ともロマンチックな響きの叙情歌「遠
き別れに耐えかねてーー」が、実は、戦時中、学徒動員の学生たちが戦地に赴
く前に皆で密かに歌って別れた学生歌であったということを始めて知って、感
慨深いものがあったことを思い出す)ーーもっとも柳田国男や芥川の藤村批判
を 読 ん で か ら は 、あ ま り 藤 村 を 読 む 気 は し な く な っ て い る が )。大 学 に 入 っ て か
らは、どうしても社会科学関係とか(分からぬながらも)哲学関係の読書が増
えたが、同時に、ドストエフスキーとかにも傾倒し、仙台に移ってからは、講
義をさぼって青葉山のふもとに広がる植物園の緑に囲まれて一人リルケ詩集な
どを読む文学青年でもあった。そして高校のころから一時は、できるものなら
文学者になりたい、または文学の研究に進みたいとさえ思ったほどであり、い
までも、既述のように、文学的感性はすべての知的営為の原点にすらあると思
うほど、その重要性への思い入れは変わっていないが、同郷人でいえば、啄木
とか賢治とかほどの才能にも恵まれなかったし、なによりも、文学に遊ぶだけ
の精神的経済的余裕とはほど遠い生活環境であった(と、環境のせいにしてお
こ う )。( し か し な お ま た 、 文 学 は 所 詮 文 学 で し か な い し 、 そ れ 以 上 で も そ れ 以
下でもなく、すくなくとも社会的政治的発言等に関しては、それ以上のものだ
と思ってはならない、との思いもあるーーとくにどうして文学にまでノーベル
賞をださなくてならないのか、これまた小生にとっては世界七不思議のひと
つ 。)
――――――― 完 ―――――――――
【参考付録――村岡崇光先生宛て手紙( 2014 年 6 月 22 日)(のコピー)*】
*これをここで「参考」としてコピー・掲載する趣旨については、上記【Ⅴ―参考2:M´2】
中の(小生の出生地・釜石・大橋鉱山跡のコメント・註参照)
151
村岡崇光先生
謹啓
初めての、かつ突然の、お便り申し上げますこと、ご免ください。私儀、
東海林(ショウジ)邦彦と申しますが、昭和 16 年 9 月 11 日、東海林篤
造-チヤの間の次男として岩手県・釜石・大橋町の釜石鉱山社宅にて出生、
終戦とともに、両親の故郷、三陸沿岸・山田町に「引き揚げ」てきて、山
田小・中・高で学び、一年ばかり岩手大学にいて、仙台の東北大学法学部
に移り、卒業後そこでの 4 年間の助手のあと、埼玉大学―金沢大学―北海
道大学にて教官として法律学関係の研究・教育に携わってきて、10 年近
く前に北大を定年退官し、ここ札幌にて残された人生を、遣り残した研究
に日々打ち込んでいるものです。
上記・定年退官後の 2010 年正月、思うところあって、研究の傍ら「自分
史」を書き始めたのですが、その過程で、先生が監訳された E.ウィレム・
リンダイヤ『ネルと子どもたちにキスをーー日本の捕虜収容所から』とい
う「みすず書房」から出た本(以前、新聞書評欄で知って買っておいたの
ですが、例によってーー序文とあとがきだけを読んだだけのーーツンドク
状態になっていた本)のことを思い出し、やや詳しく読み込んでみて、あ
らためて、自分が生まれ、4-5 歳までの幼児期をすごした、あの(仙人
峠の切り立つような高い山々に挟まれた、猫の額のように狭小な)鉱山
町・社宅のすぐ傍で、そのような収容所生活を送っていた「外国人捕虜」
の人々がいたこと、に、出生の地であるだけに、いささか特別の感慨を覚
えた次第です*。
* も っ と も 、朝 鮮 半 島 や 大 陸 か ら の( 強 制 連 行 さ れ て き た ? )鉱 山 等 労 務 者 の「 収
容所」があったこと、そこで落盤事故とかで亡くなった人の葬式をおフクロ・
チ ヤ は 何 度 か 目 撃 し た こ と(「 可 哀 想 だ 」と す ら 口 外 で き な か っ た こ と )、ま た 、
オヤジ・篤造は、終戦後すぐ、その労務者たちを本国に送還するために、下関
まで列車で送り届けるという会社の仕事の責任(収容所所長代理か何かの肩書
き )を 任 さ れ て 、無 事 果 た し て き ま し た 。当 時 4- 5 歳 の 幼 い 小 生 に お 土 産 を 買
ってきてくれたこと、
「 暴 動 を 起 こ さ れ る の で は ー ー 」と ビ ク ビ ク し な が ら の 長
旅であったこと、原爆で一望焼け野原の広島――オヤジは戦中そこの宇品港か
ら一兵卒として三度(または一度は下関?)満州や北支に出征していっただけ
にーーを通過したときの強烈な印象のことなど、語っていたことなど、幼児期
の 記 憶 と し て 、思 い 出 し ま す 。た だ 、欧 米 系 外 国 人 捕 虜 収 容 所 が あ っ た こ と は 、
先生の翻訳ではじめて知った次第です。
152
そしてその年(2010 年)の秋には、(上記・自分史にとりかかる過程で、
あらためて「自分が如何に郷土・三陸沿岸のこと、岩手県や東北の地域の
歴史について、何も知らなかったか」を痛感したこともあり、そして何よ
りも)郷里・山田の八幡神社・大杉神社の秋祭りが見たくなって久しぶり
で山田に帰った際に、序でに釜石・大橋方面にも足を伸ばし、収容所関係
の「遺跡」ないし資料等を探したりもしたのですが、釜石の郷土資料館に
一冊、写真集らしきものが置いてあったのみで、(新日鉄は中国人労務者
から損害賠償訴訟を起こされていることもあってか)、まさに「負の・都
合の悪い歴史遺産=クサイものには、フタをーー」という扱いではないか
との感じを受けた次第です。
そして翌年2011年のあの思いも寄らぬ「3.11」――小生の実家も
跡形もなく流出し(ただし上記・両親はーー幸か不幸か?――すでに十数
年まえに亡くなっていて無人の空き家でしたが)、無くなった知人・親戚
の者、そしてなによりも、人生一変して今だに仮設暮らしの同級生も少な
くないという次第です。小生も自分の郷里のために見舞金をおくるだけで
はなく、何か出来ないか、との思いもあり、いささか遅まきながら 12 年
9 月の誕生日を期して、NPO 法人「高志学者舎」の立ち上げを決意し、
子どもたちに古典の読書を系統的継続的に読ませるという企画を中心と
した活動組織のための情報収集に乗り出し、同時に、図書館を完全流出し
てゼロから再整備せざるを得ない被災学校(小中高ふくめて 16 校)にし
ぼって、図書カードを寄贈するための募金活動をはじめ、わずか 35 万円
余しか集まらなかったのですが、それを図書カードに代えて、この4月に
郷里の山田町と 隣町の大槌町の小学校の二校に、届けて来た次第です。
話は前後しますが、小生の郷里・山田町を取り囲むようにして広がる、
美しくも懐かしい山田湾には、「オランダ島」ともよばれる大島が浮んで
おりますが、その「オランダ島」の名の由来は、江戸時代の(後年の知識で
すが、この山田湾にも江戸時代初期にオランダ・東インド会社の船が日本
近海の探査のためしばしば来航して、そのうちのブレスケンス号の船員が
この島で捕らえられて、盛岡―江戸に送還され、無事長崎を得て帰国した
という)歴史的事件に由来するもので、小生も子供の頃から、そうした話
は断片的に聞いておりました。
今回、上記 NPO の図書カード寄贈の際に、挨拶に立ち寄った山田町教
育委員会で、前教育委員長・木村悌郎氏(その兄にあたる木村太郎氏は、
153
上記小生のオヤジ・篤造の親友で、山田で水産加工業者として、ヒット商
品「イカ・トックリ」で有名になった方でした)の著書『時空を超えた絆
――山田浦から始まるオランダ交流物語』の寄贈を受け、帰りの列車や飛
行機で読んで、小生の郷里とオランダ(とくにザイスト市との姉妹関係を
中心として)との間にすでに長期にわたって非常に親密な友好的関係が続
いていることを知り、感動する(その間の経緯・事情等については、なお、
同封の・木村先生宛て手紙のコピーをお読みいただければ幸いです)と同
時に、改めて、生地釜石・大橋の方の上記・捕虜収容所のことについても
もっと調べてみたいという気持ちになった次第です*。
* 丁 度 数 週 間 前 に 、 新 聞 の 「 ひ と 」 欄 で 、「 オ ラ ン ダ の NGO・ 対 日 道 義 的 債 務 基
金 ・ 会 長 ヤ ン ・ フ ァ ン ・ ワ ハ テ ン ド ン ク さ ん 」 の 紹 介 が な さ れ た り 、 ま た 、
在オランダ日系二世についての特集記事もあり、これまた小生にとっては、初
耳のことでした。
な お ま た 、 話 は 飛 び ま す が 、 以 前 、 た ま た ま 徳 島 市 郊 外 の ・ 第 一 次 大 戦 で の
ドイツ人捕虜収容所の一つであった坂東収容所(+記念館)を見学する機会が
あ り 、意 外 と 紳 士 的 な 捕 虜 待 遇 で よ う な 印 象 を 受 け た 次 第 で す 。そ の 他 、文 献 ・
映 画 等 で 、九 州 大 学・生 体 解 剖 事 件 と か 日 清 日 露 戦 役 当 時 の こ と と か 、他 方 で 、
第二次大戦での日本軍による敵国兵士にたいする、または逆に敵国の日本軍兵
士にたいする、捕虜の扱いのことなど、後述のグロチウス『戦争と平和の法』
の記述することなどとの対比において、専門外ながら、これまた、いろいろ歴
史的関心を惹く、広い問題につながりそうです。
このように小生のオランダへの関心は、上記のような出生地にあった捕
虜収容所とか、郷里の「オランダ島」一件(それを背景とする郷里とオラ
ンダとの交流)等の、やや個人史的なことに加えて、以下のような、あれ
これの学問的な背景も重なることになりました。
つまり、オランダ(私)私法への関心は、第一次的には、
(同封の北大・
加藤先生への手紙のなかで自己紹介的に述べたような)小生の研究構想・
関心中の、とくに「一般秩序論」との関連で私法の基礎的体系・概念枠組
みの再構築という観点から、オランダ法の行き方は、ヨーロッパ大陸法全
体のなかでも、その法学史ないし法理論史的側面とか比較法的位置づけと
いう点でも、そしてーー当面のイッシュウとの関連ではーーEU 統一私法
立法論動向の点でも、とくに、(日本では「ほとんど専ら」といってよい
ほどの紹介をつうじて)圧倒的に情報量の多いイギリス・ドイツ・フラン
スの場合とはいささか異なる、独自のものがあり、とくに、戦後数十年と
154
いう長い期間をかけて成立した Burgerlijk Wetboek は、そういう観点か
らも研究してみる価値がありそうだ、ということで小生も以前から注目し
ていて、現役時代(20 年くらい前)に一年間余ドイツに留学した際にも、
オランダに足を伸ばしてライデンの本屋さんで、その(時点で成立してい
た)法典じたいとか(van Dale 社の、厚い)英欄辞典とかを買って帰っ
たのも、そうした関心からでした。そして、定年後、上記・研究構想との
関係で、以前からオランダ(新)民法に注目していて、オランダ語の独習
のうえで、その部分訳にも取り掛かっていたところでした。
さらにとくに今年に入って、かつて「オランダの奇跡」ともいわれた
HUGO GROTIUS の『オランダ法入門』を中心として、その主著『DE
JURE PACIS ET BELLI』(ないしその法学ないし国際法理論全体)と
対比させながら、「グロチウスの私法理論」とでも題すべき研究課題を当
面の中心的研究課題として取り組みつつあり、それとの関連で、オランダ
の歴史・文化(とくにルネッサンス期ないし宗教改革期オランダ)等につ
いても、関連するかぎりですこしづつ、日本語文献を読みつつあるところ
でした*。
* な お ま た 、い さ さ か 話 題 は 飛 躍 し ま す が 、5 0 年 近 く ま え 、小 生 が 研 究 者 人 生 を
ス タ ー ト さ せ た 仙 台 の 東 北 大 学 の 「 私 法 合 同 研 究 室 」 の 一 角 に 、「 ア ダ ッ ト ・ レ
ヒ ト 」に つ い て の( 誰 も 読 ん で い そ う も な い )膨 大 な 書 籍 の 棚 が あ っ た こ と を 記
憶 し て い ま す( そ れ は お そ ら く 、日 本 が オ ラ ン ダ 領 イ ン ド ネ シ ア を 占 領 し た と き
の「 戦 利 品 」が 東 北 大 学 に 寄 贈 さ れ 戦 後 も そ の ま ま 残 った の で は な い か 、と 推 測
さ れ る の で す が 、あ れ は そ の 後 ど う な っ た の か 、小 生 に は 知 る 由 も あ り ま せ ん ー
ー )。 そ し て 後 年 、 小 生 じ し ん 、 ア ジ ア の 法 制 の な か で も 、 と く に イ ン ド ネ シ ア
の そ れ は 、ヒ ン ド ゥ 文 化 、中 国 文 化 、そ し て オ セ ア ニ ア 文 化 等 の 諸 文 明・文 化 と
の 混 交 と い う 意 味 で も 、ま た( 上 記 ア ダ ッ ト・レ ヒ ト と し て 有 名 な )オ ラ ン ダ 法
と 現 地 慣 習 法 と の ク レ オ ー ル 的 混 交( ? )と い う 意 味 で も 、さ ら に は 、日 本 の「 南
洋 植 民 地 統 治 法 制 」の 関 連 で も 、研 究 対 象 と し て お も し ろ そ う だ 、と い う 気 持 ち
は、今でも懐いておる次第です。
ち な み に ま た 、そ の ド イ ツ 留 学 の 一 年 ま え に 、オ ラ ン ダ の Nijm egen で 開 催 さ
れ た ヨ ー ロ ッ パ 生 命 倫 理 セ ミ ナ ー に 参 加 し た お り 、( こ れ ま た 、 以 前 か ら 小 生 も
関 心 が あ っ て 会 員 に な っ て い た )法 人 類 学 会 の 事 務 局 が 当 地 に あ り 、そ の チ ー フ
を し て い た オ ラ ン ダ の 大 学 の 先 生 と 、 W aal 河 畔 の イ ン ド ネ シ ア 料 理 店 で 一 緒 に
食 事 を し て 、上 記 の よ う な 話 題 を 交 わ し た こ と な ど を 、な つ か し く 思 い 出 し ま す
( そ の 後 、そ の 学 会 と の 縁 も 切 れ 、そ の 先 生 と も 音 信 不 通 に な っ て 、現 在 に 至
っ て い る 、 と い う 次 第 で す )。
155
さらにまた、上記研究課題の根底にある小生の所謂「一般秩序論」構築
のための基礎的作業の一環としての宗教学・神話学等の研究、その一部と
してのユダヤ・キリスト教研究もすこしづつ進めてきていたのですが、上
記グロチウス研究上も、その重要性をあらためて認識せざるを得ず、(そ
のために必要な範囲でという限定つきながら)やや本腰を入れて、旧約聖
書にも取り組もうと考えているところでした。
以上、いささか、自己紹介を兼ねての、自分史的ないし研究史的な紹介
を中心とする前置きが長くなってしまいましたが、以上のような種々の問
題関心的背景のもと、あらためて、上記・先生の監訳書・奥書に載ってい
る先生のプロフィルを見てみて、思い切って先生に手紙を出して、小生の
(上記問題関心のもとでの)幾つかの疑問・質問につき、先生のご教示を
仰いでみたい、と、思いまして、意を決して、みすず書房編集部の担当者
(栗山さま)に電話しましたところ、先生に取り次いでいただけるとの、
ありがたいお言葉をいただきましたので、いささか図々しいかとおもった
のですが、こうしてお手紙を差し上げる次第です。今後お許しいただける
ようでしたら、メール等での*ご教示をいただくことができれば、幸いに
存じます。
* 正 直 の と こ ろ 、上 記・グ ロ チ ウ ス 研 究 に 関 し て も ヨ ウ ロ ッ パ の セ ン タ ー 的 存 在 と
推 測 さ れ る ラ イ デ ン 大 学 を は じ め 、 以 前 ド イ ツ 留 学 の 折 、( 小 生 の 学 生 時 代 、 国
際法の講義を聴講したこともある)国際司法裁判所の小田滋先生を「表敬訪問」
す る た め に 、一 度 だ け 立 ち 寄 っ た こ と の あ る ハ ー グ や 、グ ロ チ ウ ス ゆ か り の 地 デ
ルフトなどにも、文献探索等のために、直接出向きたい気持ちもあるのですが、
い ま や 、年 金 収 入 だ け が 頼 り の 貧 乏 学 者 の 悲 し さ 、な か な か 気 軽 に 海 外 旅 行 と い
うわけにはいきません。
先生のご教示をお願いしたいと考えております点は、やや具体的かつ箇条
書き的に列記しますと、以下の通りです:
Ⅰ:大橋捕虜収容所関係の件:
1. 先生の監訳書をよんでみての全体的印象としては、
( あくまでも上
記・朝鮮人や中国人捕虜との対比・比較でということですが)小
生としては、意外と欧米系捕虜の待遇は、それほどひどいもので
はなかったのでは(意外と友好的?)ーーとの印象が残ったので
すが、この印象については先生はどのようにお考えでしょうか?
156
2. (仮にその印象が許されるとして)その背景・原因として、小生
は、この収容所を実質的に管理していたと思われる日本軍の方針
として、欧米系捕虜、とくに特別の知識・技能をもった捕虜につ
いては、その知識・技能を活かす方向での扱いとする、との方針
があったのではーーと、勝手に推測するのです(このことを小生
は、先生が 105 ページ註で付記しておられる、原爆情報聴取(?)
等の記事を読んで、とくに気になった点でした)が、如何でしょ
うか?
Ⅱ:宗教学ないしヘブライ学・語関係一般文献の件*:
*以下の質問・お願いにつきましては、上記の自己紹介的研究史・研究関心等
にもある程度のべたことに関連するのですが、やや補足・敷衍して説明させて
いただきますとーー
小 生 の 上 記 ・ 小 生 の 「 一 般 秩 序 論 」 的 問 題 関 心 の 延 長 線 上 で 、 小 生 は 、 と
く に 上 記・グ ロ チ ウ ス 研 究 と の 関 連 で 、
( い さ さ か 遅 ま き な が ら )最 近 あ ら た め
て、宗教(学)の重要性に気付き、これまで、どちらかといえば、欧米系言語
の・現在進行形ないし将来的研究計画との関連で細々と続けてきた、英独仏蘭
伊ないしスペイン語(ラテン語+コイネーギリシャ語)の語学の勉強のための
新 約 聖 書 の 勉 強 に 加 え て 、旧 約 、さ ら に は そ の 他 の 主 要 宗 教 の 、と く に 上 記「 一
般秩序論」的問題意識からの、批判的検討という、方向にも研究を広げていき
たいと考えるに至っております。むろんその・小生自身の研究史的背景として
は 、あ の 60 年 代 か ら 70 年 代 に か け て の 大 学 内( だ け ? )の「 政 治 の 季 節 」の
な か で 、小 生 な り の 思 想・研 究 と 行 動 の 彷 徨 迷 走 の 過 程 な か で の 、
「マルクスと
ウエーバー」的問題との取り組み、とくにウェーバーの影響、さらに個人的に
は 、東 北 大 学 の 政 治 思 想 史 の M 先 生 が 主 宰 す る 聖 書 研 究 会 へ の( 短 期 間 な が ら
の )参 加 、そ こ で の M 先 生 か ら の 思 想 的 影 響 、後 年 、ド イ ツ 留 学 の 折 に イ ギ リ
ス・カーヂィフで開催された世界家族法会議に参加の折に知り合ったイスラエ
ル・ヘブライ大学のファルク先生を、これまたそのドイツ留学中に、その後、
意エルサレムで開かれた世界医事法学会参加の機会を利用しての、ファルク先
生との再会(ご自宅に訪問しての記念写真も残っていますーー日本に帰国して
からも先生を札幌に招待して講演してもらうべく、ミッション系の先生方にも
大 分 働 き か け た の で す が 、結 局 実 現 し ま せ ん で し た )、先 生 の 情 報 提 供 等 に よ る 、
イエルサレム市(旧市街と最高裁判所)ないしベツレヘム・マサダ砦等のツア
ー客としての参加など、おそらくドイツ留学中のもっとも強烈な印象をもった
旅の思い出などがあり、その他、神話とか民族・民俗学等への関心と重なるも
のもあるのですがーー。
157
いずれにしましても、上記捕虜収容所関連の質問とはかなり離れた事項ばか
りで、いささか勝手なお願いになりますが、身辺にお聞きできる専門家も居ら
ず、他方しかし、独学での他分野の初学生にとって(とりわけ小生のように、
残された人生の時間的資源の希少性をかこつものにとっては)拠るべき学習文
献の選択は非常に重要であることを、最近ではとくに古典ギリシャ語文法書の
ことで、あらためて「あらまほしきは先達」の助言であると痛感したこともあ
りまして、小生としてはこの貴重な機会を利用させていただき、あえて付記さ
せていただく次第です。
1.最新の宗教学の教科書的基本書のなかで、世界の主要諸宗教・宗派
(現存するものだけでなく歴史的なものもふくめ)の基本的教義(と
くに、家族法秩序とか経済活動秩序とか政治・統治関連秩序とかに関
連した教義内容)を、
(特定の宗教内ではなく、できるだけメタ宗教・
神話・民間信仰等もカバーしたような)宗教的社会現象の社会学的文
明論的人類学的観点から、比較的公平かつ信頼しうる学問的水準をも
って概観し、かつ、とくに文献案内の充実していると思われる標準的
基本書(英独仏いずれかの言語での、値段的にもアプローチしやすい
もの)を何か一、二冊推薦するとしたら、どのような本があるでしょ
うか?
2.ユダヤ教ないしユダヤ民族の歴史について、比較的公平かつ信頼し
うる学問的水準をもって概観し、かつ、とくに文献案内の充実してい
ると思われる標準的基本書(英独仏いずれかの言語での、値段的にも
アプローチしやすいもの)を何か一、二冊推薦するとしたら、どのよ
うな本があるでしょうか?
3.ヘブライ語*の、信頼しうる英語での(値段等の点でも入手しやす
い)初等文法書および辞書として推奨できる本としては、どのような
本があるでしょうか?
*ヘブライ語で旧約聖書を読むということにもなんとか来年には挑戦してみ
よ う か と 考 え て い る の で す が 、こ れ は 、上 記 の よ う な・小 生 の 所 謂「 一 般 秩
序 論 」か ら す る 宗 教 学 的 関 心 の 延 長 線 上 に あ る こ と い う ま で も な い の で す が 、
他 方 、実 は 数 年 前 に 、小 生 、ア ラ ビ ア 語 で コ ー ラ ン に 挑 戦 し よ う と し た の で
したが、やはり独学ではむりとして挫折し中断したままになっていますが、
上 記 イ エ ル サ レ ム 訪 問 の お り 、近 郊 の キ ブ ツ を 見 学 し た お り に ガ イ ド を つ と
めてくれたヘブライ大学の日本人留学生の人がヘブライ語とアラビア語の
158
近親性にふれていたことを思い出し、後日のアラビア語の勉強のためにも、
ヘ ブ ラ イ 語 に ま ず も っ て 挑 戦 し よ う 、と 考 え た 次 第 で す 。上 記 イ エ ル サ レ ム
訪問の際に本屋で買ってきたヘブライ語の旧約聖書(トーラー部分のみ?)
は 旅 行 記 念 の つ も り だ っ た の で す が 、な ん と か 勉 強 の 対 象 と し た い も の だ と
思っている次第です。
以上、突然の、いささか勝手なお願いとなりますが、小生の学問的情熱
に免じて、失礼の段、重ねてご海容のほど、お願い申し上げる次第です。
敬具
2014 年 6 月 22 日 東海林邦彦拝
159
Fly UP