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第14巻・第2号 2014年5月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会

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第14巻・第2号 2014年5月 - 15年戦争と日本の医学医療研究会
Vol. 14 No.2 ISSN 1346 – 0463
May, 2014
Journal of Research Society for
15 years War and Japanese Medical Science and Service
15年戦争と日本の医学医療
研究会会誌
第14巻・第2号
2014年5月
目
次
東学農民戦争 120 年と日本―「今様日本の歴史認識」と知識人の責任―・・・・・中塚 明
戦争と看護-赤十字救護看護活動の一端から・・・・・・・・・・・・・・・・川島 みどり
鹽入圓祐・岩佐金次郎による空襲生活調査・・・・・・・・・・・・・・・・・岡田 靖雄
陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部 715 号の解題・・・・・・・・・・・・・・・西山 勝夫
第 10 次訪中調査団報告 2013 年 9 月 3 日~7 日・・・・・・・・・・・・・第 10 次訪中調査団
1
6
10
17
31
報告
15年戦争と日本の医学医療研究会会務総会(第15回)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 49
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
15年戦争と日本の医学医療研究会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・57
投稿規定など ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・58
Contents
120 Years since Donghak Peasant Revolution and Japan-Commonly Accepted History Understanding and
the Responsibility of Japanese Intellectuals-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・NAKATSUKA Akira 1
War and the nursing - Japanese Red Cross Nursing care activity ・・・・・・・・・・・・・・・・・KAWASHIMA Midori 6
Investigation of Physical and Mental changes under Air Attack, by En-yū Shioiri and Kinjiro Iwasa
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・OKADA Yasuo
10
Annotation for the Army Medical School Research Report of Epidemic Prevention 2(715)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・NISHIYAMA Katsuo 17
Report of the 10th Delegation to China from the Research Society for the 15 years War and Japanese Medical
Science and Service・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
Information
Report of the 15th Assembly of the Research Society for the 15 years War and Japanese Medical Science and
Service ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
Editorial Note ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・56
15年戦争と日本の医学医療研究会
Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science and Service
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
第 35 回研究会特別講演
東学農民戦争 120 年と日本
─╴「今様日本の歴史認識」と知識人の責任╶─╴
中塚 明
奈良女子大学名誉教授
120 Years since Donghak Peasant Revolution and Japan
--Commonly Accepted History Understanding and the Responsibility of Japanese Intellectuals--
NAKATSUKA Akira
Professor Emeritus, Nara Women’s University
キーワード Keywords: 日清戦争 the Sino-Japanese war,日露戦争 the Russo-Japanese war、日本の知識人の歴史
認識 History Understanding of Japanese Intellectuals、東学農民戦争 Donghak Peasant Revolution
私の話に批判、質問が大いに出て、議論が展開
することを願っています。
はじめに
2000 年 6 月 17 日(土曜日)
、同志社大学で「15
年戦争と日本の医学医療研究会」の創立総会が行
われました。結成のための集まりでしたから当然、
研究会の名称をどうするかということが議題にな
りました。私は「 "15 年戦争" と……という名称
でよいのか? 明治に遡り近代日本の戦争をすべ
て視野に入れての名称の方がよいのではないか」
と、問題提起的な質問をしました。
すると間髪をおかず、座席からきっと立ち上が
ったある先生から、
「15 年戦争と日清・日露戦争と
は全然違う。日清・日露戦争は "火の粉を振り払
う面もあった" 、日露戦争では俘虜も優遇した」、
つまり日清戦争や日露戦争は、日本にとって「火
の粉を振り払う」
、いいかえれば「防衛戦争」とい
う面があった、日本は国際法をよく守り、捕虜は
優遇していた、お前は何を血迷ったことを言うの
か、と言わんばかりの発言がありました。
私は大学時代の先輩であり友人でもある細川汀
さんや莇昭三先生から、新しく結成されるこの研
究会で歴史研究者として協力するように勧められ
て参加したのですが、もとより医学関係の者では
ありませんので、議事運営を混乱させてはいけな
いと思い、この会場からの「お叱り」に、あえて
意見は述べませんでした。
しかし、こういういわば日本の世の中ではずい
ぶん先進的な、近代日本の医学・医療の世界での
戦争責任を問題にしようとしている方々でも、日
本近代史をこのように見ているのかと、日本人の
歴史認識の危うさを、改めて痛感したことでした。
それ以来、機会があれば、
「二の矢」の質問をし
て、議論したいものだ、とずっと思っていました
が、今日、機会を与えていただいて、大変感謝し
ております。
Ⅰ:
「日清・日露戦争で日本は国際法をよく守った」
というのは大ウソ
私は「日本人の歴史認識の危うさ」と言いまし
たが、なぜそう言うのか、まず結論を最初に申し
上げておきます。
「日清戦争や日露戦争で捕虜の虐
待などしなかった、日本は国際法をよく守った」
というのは、大ウソだということです。
会場から私の発言を批判された先生をはじめ、
今日の日本で、
「日清戦争や日露戦争で捕虜の虐待
などしなかった、当時の日本は軍事小国であって
国際法をよく守った」という話は、いわゆる「進
歩的」と思われている知識人・文化人も含めて、
そう公言する人が少なくありません。結構たくさ
んおられます。
こういうことを言う人たちは、明治以後の日本
が、朝鮮でなにをしたのか、日本が朝鮮を植民地
にしたことはご存じないはずはないと思いますが、
その朝鮮を制圧する過程で、日本は朝鮮でどんな
振る舞いをしたのか―それについては、ご存じな
いのではありませんか。その方々の学問的知識に
は残念ながら朝鮮は入っていないのではないか、
と思わざるをえません。
Ⅱ:現代日本の知識人の歴史認識╶╴3・11 以後の原
発批判派の論調から
3・11 から 3 年がたちました。東日本大震災直後
には、福島の東京電力原発崩壊で、政府や東京電
力に対してきびしい批判が相次いだことは皆さん
もご承知の通りです。
その際、
「東電・政府を満州事変以後の政府・軍
部、大本営になぞらえて批判する」議論がたくさ
連絡先:〒619-0224 京都府木津川市兜台 4-11-16
Adress:4-11-16 Kabutodai Kizugawa-shi Kyoto 619-0244,Japan
E-mail: [email protected]
-1-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
らに明治 37、38 年(1904、05)
、日本は当時、
世界の五大強国の一つといわれていた帝政ロ
シアと戦争(日露戦争)をして、かろうじて
勝つことができた。そして世界の国々から、
アジアに日本という立派な国があることを認
めてもらうことができました。つまり国を開
いてからちょうど四十年間かかって、日本は
近代国家を完成させたということになるわけ
です。
んありました。
地震学者で日本列島に原発などはもってのほか
と主張されてきた神戸大学名誉教授の石橋克彦さ
んが、東日本大震災以後、最初に出た『世界』
(2011
年 5 月号)に「まさに「原発震災」だ╶╴「根拠な
き自己過信」の果てに」という論文を書かれまし
た。そのなかに次のような文章があります。
私は、原発震災が起こる前になんとかしてイ
メージを変えたいと思い、1945 年の敗戦まで
日本を重く暗く覆っていた「軍国主義の時代」
になぞらえて、いま私たちは不条理な「原発
主義の時代」にいると言おうとしていたが、
残念なことに、今回の事態をむかえてしまっ
た。
半藤一利氏の『昭和史 1926-1945』
(平凡
社)を読むと、日本がアジア太平洋戦争を引
きおこして敗戦に突き進んでいった過程が、
現在の日本の「原発と地震」の問題にあまり
にも似ていることに驚かされる。
「根拠のない
自己過信」と「失敗したときの底の知れない
無責任さ」によって節目節目の重要な局面で
判断を誤り、
「起きては困ることは起こらない
ことにする」意識と、失敗を率直に認めない
態度によって、戦争も原発も、さらなる失敗
を重ねた。そして、多くの国民を不幸と苦難
の底に突き落とした(落としつつある)
。
(9~10 ページ)
そして、大正・昭和になると、どうなるか
─╴
─
さてここから大正、昭和になるのですが、自
分たちは世界の堂々たる強国なのだ、強国の
仲間に入れるのだ、と日本人はたいへんいい
気になり、自惚れ、のぼせ、世界じゅうを相
手にするような戦争をはじめ、明治の父祖が
一所懸命つくった国を、滅ぼしてしまう結果
になる、これが昭和 20 年(1945)8月 15 日
の敗戦というわけです。
(10 ページ)
これが、半藤さんの日本近代史の基本的な見方
です。このように、日露戦争以後、日本はおかし
くなったというように日本の歴史を見る主張は、
この日本にいっぱいあります。こういう見方は、
敗戦の責任を陸軍の一部幹部に負わせて、日本の
近代史についての歴史的批判をまったくおろそか
にしてきた戦後日本に一貫してありました。
こういう見方は、皆さんの学会の創立総会で、
私をきびしく批判された先生のご意見にあるよう、
ひろく現代日本の知識人の歴史認識のなかに流れ
ているのです。その詳細を議論するには、たくさ
んの時間が必要ですので、そのことについては私
の『現代日本の歴史認識』
(高文研、2007 年)を読
んでいただくことを期待して、今日はこのことに
ついてはこれ以上申し上げません。
今日は、私が「昭和」は「明治」とつながって
いる、すなわち「起きては困ることは起こらない
ことにする意識と、失敗を率直に認めない態度に
よって、戦争も原発も、さらなる失敗を重ねた。
そして、多くの国民を不幸と苦難の底に突き落と
した」╶―そういう日本は、決して昭和の「満州事
変以後」に現れたのではなく、
「明治の日本」その
ものから考えないとわからないのではないか―と
いうことを、具体的な事実をあげながらお話した
いと思います。
╶─╴こう述べておられます。
地震列島に原発を造ることを批判し続けてきた
学者の言葉だけに、3・11 以後原発批判のたくさん
の文章に、この「昭和の満州事変以後の政府・軍
部、大本営になぞらえていう議論」がどれだけた
くさんあったことでしょう。
こういう原発批判をしておられる方々は、日本
の現状を批判し、将来に向かって理性的な提言を
されている方々だと私は思っておりますが、そう
いう人たちにも、
「満州事変以後の日本」は批判の
対象にされても、それと対比される時代として「明
治の日本」を頭に描いておられるのではないでし
ょうか。すなわち「満州事変以後、敗戦に至る日
本」は、非難するに値するけれども、
「明治の日本」
というのは、言わず語らずのうちに「よき時代と
して」頭の中にあるのではないでしょうか。
半藤さんの『昭和史』は、
「昭和史の根底には "
赤い夕日の満州" があった」という題の「はじめ
の章」から話がはじまります。
□半藤さんは「明治の日本」をどう見ているのか
Ⅲ:今年は日清戦争から 120 年、東学農民戦争の
120 年の年
今年は第一次世界大戦が始まってから 100 周年
にあたりますが、日本が本当に平和を願い近隣諸
国との平和的・友好的な関係をつくり、アジアを
はじめ世界に信用を得ようとするなら、今年は日
┄┄明治の日本の人たちが、とにかく一人前の
しっかりした国をつくろうとがんばったこと
は確かなんです。
その成果が表れて、明治 27、28 年(1894、
95)の "眠れる獅子" といわれたアジア随一
の強国清国との戦争(日清戦争)に勝ち、さ
-2-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
した。
そして私と朴孟洙さん・井上勝生さんとの交流
も始まりました。私は朝鮮王宮占領事件について
『歴史の偽造をただす』
(高文研)という本を 1997
年に出版しましたが、これは朴孟洙さんによって
韓国語に翻訳され『景福宮を占領せよ』
(プルンヨ
クサ社)という題で 2002 年にソウルで出版されま
した。
この日清戦争最初の日本軍の武力行使である朝
鮮王宮占領については、当時の大本営参謀であっ
た東条英教のあからさまで包み隠さない記述が、
私の本の出版後 、近年になって明らかにされてい
ます。
東条英教は太平洋戦争開戦時の首相東条英機の
父親です。日清戦争当時、 大本営の参謀となって
いました。当時 39 歳で陸軍少佐、陸軍大学校一期
生を首席で卒業し、日清戦争のとき、軍事指導の
最高実力者であった川上操六参謀次長にとりたて
られて、日清戦争の戦争指導の中枢で働いていた
のです。
彼は個人の著作として『征清用兵隔壁聴談』と
題する簡潔な日清戦史を遺しました。防衛省の防
衛研究所の図書館に所蔵され公開されています。
その『征清用兵隔壁聴談』に朝鮮の王宮占領に
ついて、あからさまな記述があります。いまの言
葉になおして、一部を紹介しましょう。
清戦争 120 年目の年であり、同時に韓国で起こっ
た東学農民戦争 120 年の年であることを自覚しな
ければならないのではないかと思います。
なぜなら日清戦争は日本がアジアの圧迫国に転
じる画期になった戦争だったからです。
Ⅳ:日清戦争で日本は朝鮮でなにをしたのか、事
実を隠し続けてきた日本
日清戦争や日露戦争は、日本にとって「火の粉
を振り払う」という面もあった、つまり清国(中
国)やロシアの圧力に対して「防衛戦争」的な側
面もあった、と言いますが、日清戦争は日本と清
国との戦争、日露戦争は日本とロシアの戦争、と
だけ見るのでは事実をありのまま見たことにはな
りません。二つの戦争とも、日本はまず軍隊を朝
鮮に上陸させ朝鮮を制圧することから戦争をはじ
めています。
近代の日本が国家の政策として朝鮮にはじめて
武力を行使したのは 1875 年(明治 8 年)の江華島
事件からです。
この江華島事件以来、日本の公権力(政府・軍
部)は、日本が朝鮮になにをしたのか、その事実
を曲げて隠して、国の内外にウソの情報を流し続
けてきました。
今日は、⑴日清戦争がどうして始まったのかと
いうことと、⑵その日本軍に対して朝鮮人民の抗
日闘争が起こりますが、それに対して日本政府・
日本軍はどうしたのか、というその二つの問題に
限って、少し立ち入ってお話します。
……日本軍がソウルから南進して清国軍と交
戦することになると、大鳥圭介(朝鮮駐在)
公使は外交官としての職責上心配なことがあ
った。それは日本軍が清国兵と衝突するのに
適当な口実を得ることであった。……
最も穏当で日本の責任を免れるには、朝鮮
政府の方から清国兵の撃退を日本に依頼させ
るのがいちばん良い。それを朝鮮政府から依
頼させるには武力をもって朝鮮政府を脅かす
のが一番だ。日本の兵力を用いるには、朝鮮
政府がどう答えたらよいか困惑するような難
問を突きつけ、短い日数を決めて確答を求め、
不満足な回答をよこしたり、または答えてこ
ないときに、武力で脅迫を実行するのが最も
よい。
Ⅳ-⑴日清戦争は朝鮮の王宮占領からはじまる
「朝鮮の独立のために戦う」というのが日本政府
が内外に宣言した日清戦争の戦争目的でした。
しかし、この日清戦争での日本軍の武力行使の
第一撃は、朝鮮の都、ソウルの王宮、景福宮を占
領し、国王を事実上日本の擒にすることから始ま
りました。皆さんはこの事実をご存じですか?
1994 年、ちょうど日清戦争開戦から 100 年目の
年に、私は福島県立図書館の「佐藤文庫」 に所蔵
されている参謀本部で書かれた日清戦史の草案か
ら、朝鮮王宮占領についての詳細な記録を見つけ
ました。
一方、それとは関係なく、翌年、1995 年、
「東学
指導者のドクロ」が北海道大学文学部のある教室
で見つかりました。遺骨は韓国に奉還されました
が、この「東学指導者のドクロ」が日本の国立大
学の研究室に粗末に放置されていた問題は、日本
の学問・学知にとって、大きな反省を迫る問題で
あり、その後の歴史研究にも大きな影響をもたら
しました。
「東学農民革命軍指導者遺骸奉還委員会」の主
要なメンバーであった朴孟洙さん(韓国円光大学
校教学大学教授)が 1997 年から北海道大学に留学
して来られ、北海道大学文学部の井上勝生さんた
ちと共に、東学農民軍に対して日本政府・日本軍
はなにをしたのか、その究明が本格的に始まりま
日清開戦の正当な口実が見つからず、
「最も穏当
で日本の責任を免れる」ためにと計画、実行され
たのが朝鮮王宮占領だったことを、大本営の参謀
が語っているのです。
宣戦布告もしていない国の、しかもその政治の
中枢を武力攻撃し、国王を事実上擒にしたことを
世界に向ってどう説明するのか、日本政府・日本
軍はこの王宮に対する武力攻撃を「日韓兵士の偶
然の衝突事件」とし、朝鮮政府にもこの事件の究
明は行わない旨、約束させました。
こういう行為が、いかに帝国主義列強がほしい
ままな侵略行為を世界各地で繰りひろげていた時
代でも、公然と口に出して正当化できない不法な
-3-
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
伊藤博文首相も直々に参画した、天皇に直属し
ていた戦時下日本の最高機関、大本営が決定した
軍事作戦によって、3 万ないし 5 万ともいわれる朝
鮮人民を殺したのです。これが「朝鮮の独立のた
め」と日本政府が進めた日清戦争の重要な一面で
す。
「日清戦争が近代日本の過ちの大きな第一歩だっ
た」という歴史認識が必要だと私は考えています
が、それを確認するために、この作戦で、注目す
べき第二番目の問題を指摘しておきます 。
それは、この作戦の実相を明らかにする兵士の
従軍記録が見つかり、昭和の戦争で多発する日本
軍の不法行為が日清戦争のこの時に、すでに日本
軍の中で組織的に実行されていたことが明らかに
なったことです。
北海道大学の井上勝生さんは朴孟洙さんや韓国
の研究者たちと、日本軍による東学農民軍へのジ
ェノサイド作戦の実態を韓国の現地で調査すると
共に、この弾圧部隊の出身地である日本の四国の
四つの県(愛媛県、香川県・徳島県・高知県)の
調査を懸命にされました。そして一昨年、この作
戦の実相を明らかにする記録と出会われたのです。
この作戦でただ一人、戦死した徳島県出身の「杉
野虎吉」という兵士がいましたが、井上勝生さん
はその墓などを丹念に調査されました。そして郷
土史家の協力で作戦の実態を詳細に記録したある
兵士の「陣中日誌」に出会われたのです。東学農
民軍殲滅の戦慄すべき様相が毎日克明に書かれて
います。
その記録から、一つの事例だけを紹介しておき
ます。╶─╴朝鮮南部に追いつめられた東学農民を
一人残らず探し出す現在の全羅南道海南郡での作
戦の記述です。
行為であることを日本政府が知っていたからこそ、
事件にフタをして隠してしまったのです。
Ⅳ-⑵抗日にたち上がった朝鮮人皆殺し作戦
しかし、この王宮占領にはじまる日本軍の朝鮮
への侵攻に対して、春の第一次蜂起(日本ではか
つては「東学党の乱」と言われ、日・清両国の朝
鮮出兵の口実とされ日清戦争の発端となった朝鮮
の農民蜂起です)とは比較にならない大規模な、
「全朝鮮的」といってよいほど地域もずっと広が
り、東学農民軍を主力とし地方の官民も加わり、
かつ抗日の旗印を鮮明にした蜂起が起こります。
東学農民軍の第二次蜂起です。
この東学農民の第二次蜂起、朝鮮の大規模な抗
日闘争については、日本の学校教育で使われてい
る歴史教科書のほとんどは無視しています。
日本政府(文部科学省)は、家永三郎東京教育
大学教授が自著の高校日本史の教科書に、日清戦
争中の朝鮮における抗日闘争の記述をしたところ、
教科書検定で削除を命じ、いわゆる家永教科書裁
判の第三次訴訟(1984~97 年)の争点の一つにな
りました。しかし、最高裁で原告(家永)の敗訴
に終わっています。すなわち現在の日本は国家の
意志として、この日清戦争中の朝鮮における抗日
闘争を認めないのです。そして最高裁もそれに軍
配をあげたのです。
日本国家の意志にかかわらず、実際には大規模
な抗日闘争が朝鮮では起こっていたのです。そし
てこの朝鮮人民の抗日闘争に対し、日本軍大本営
は「悉く殺戮すべし」と、日本から弾圧部隊を派
遣し、1894 年の 11 月から翌年にかけてジェノサイ
ド作戦を展開、朝鮮の西南端、珍島に追いつめて
文字通り皆殺しにしたのです。
朴孟洙さんと北海道大学名誉教授の井上勝生さ
んと私の三人による『東学農民戦争と日本―もう
一つの日清戦争』
(高文研、2013 年)と、井上勝生
さんの力作『明治日本の植民地支配』(岩波書店、
2013 年)は、そのもっとも新しい研究成果です。
前者は韓国でも翻訳され、まもなく出版されます。
この本を読んでいただくことを期待して、ここ
では二つのことだけ申し上げます。
第一に、この作戦は日本の軍部が独走して勝手
にやったことではなく、首相伊藤博文も参画して
決めた作戦であることです。
伊藤博文が江戸幕府を倒す運動のときから一緒
に活動してきた盟友に、同じ長州藩出身の井上馨
という人物がいます。彼は日清戦争が始まったと
き伊藤博文内閣の内務大臣でした。その内務大臣
を辞め朝鮮駐在公使を買って出るのですが、朝鮮
に着任早々、東学農民の第二次蜂起に直面しまし
た。それで彼は直接に首相の伊藤博文に弾圧部隊
の派遣を要請しました。広島の大本営で、伊藤博
文首相(文官でしたが天皇の親任を得て大本営に
参画していました)が参謀次長の川上操六らと相
談して、この「悉く殺戮すべし」という作戦を決
めたのです。
本日(1895 年 1 月 31 日)東徒(東学農民軍)
の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中
に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等
軍曹の号令にて一斉の動作、これを突き殺せ
り、見物せし韓人及び統営兵(日本軍の指揮
下にいた朝鮮の政府軍兵士)等、驚愕最も甚
し。
(前掲、『東学農民戦争と日本』102 ページ)
抗日に立ち上がった捕虜を銃剣で、号令一下、
突き殺すというのは、昭和の戦争、日中全面戦争
で多発しました。それが明治の戦争、日清戦争の
ときすでに始まっていたのです。
この事実を、私たち、日本人は忘れてはなりま
せん。
『靖国神社忠魂史』
(第一巻、1935 年)では、こ
の作戦での唯一の戦死者「杉野虎吉上等兵」は、
日本軍が日清戦争で最初に清国軍と交戦した成歓
の戦い(1894 年 7 月 29 日)で戦死したことになっ
ています。杉野はその頃は後備兵の召集を受けま
だ四国の愛媛県、松山にいました。
「靖国神社」による歴史の改竄は明らかです。
「朝
-4-
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
で終始しています。
日本の近代史で、日本が韓国(朝鮮)や中国に
どういう振る舞いをしてきたのか、日本のマスコ
ミとして自己検証する立場が微塵もありません。
問題の本質は、中国や韓国の外交政策にあるの
ではなく、日本の政界・マスコミ、そして私たち
も含めて日本人の「歴史認識」が問われているの
ではありませんか。
私は、日本の近代史で行われた韓国(朝鮮)や中
国への侵略の事実をことさらに言いたてているの
ではありません。日本が帝国主義国の一つとして
台頭する過程で、瑣末なことではなく歴史の節目
となるような重大な局面で、帝国主義時代とはい
え、公然と世界に言えないようなことをしてきて、
それを自国民にも隠し続けてきたこと、―そして
そのことが今の日本にとって「大きな負の遺産」
としてのしかかっていることの自覚をもつことの
必要を言っているのです。
鮮独立のために戦った天皇の軍隊に朝鮮人の抗日
闘争などあるはずなし、従って抗日の朝鮮人に撃
たれて死んだ日本兵などいるはずもなし」と言わ
んばかりです。
Ⅴ:むすび 歪んだ「歴史認識」をどう立て直す
か
日清戦争からわずか半世紀で天皇専制の日本帝
国は崩壊しました。その敗戦のとき、明治に遡っ
て、歴史の清算をすべきでしたが、天皇の戦争責
任を免責したことが最大の原因となって、日本は
朝鮮をはじめアジア諸国への侵略の問題を、自分
たち自身の問題として清算しませんでした。╶─╴
そして、いまその日本はどうなっていますか?
ここで明治以後の日本のしてきたことを整理し
ておきます。
①帝国主義の時代、朝鮮に対して当時の国際的
な常識から言っても不法・無法を働きました。
(よく日本だけでなく帝国主義国はどこでもやっ
ている―と言う話をされる方がおられますが、こ
んな話は本当でしょうか。ペリーの来航と江華島
事件をくらべたことがありますか? どこの帝国
主義国が、宣戦布告をしてもいない独立国の王宮
を占領しましたか。 どこの帝国主義国が独立国
の王宮に侵入して、王妃の寝室にまで押し入り、
王妃を惨殺しその上死体を凌辱するというような
ことをしましたか。
)
②その日本がしたことを内外に公表できないか
ら事実を隠してきました。
③あげくの果てに日本のしてきた所業を日本人
は忘れしてまっています。
④その上で日本は「世界で一番美しい国」など
という政治家や言論人がいっぱいいる国になりま
した。
╶─、つまり、日本という国は、二重にも三重にも、
不義・不法を重ねているのではありませんか。国
家としてはもちろん、日本人の一人ひとり、人間
として、恥ずかしいことではありませんか。
今やこの日本という国は、そういう歴史に暗い
人びとが政権を掌握しています。
しかし、
「日本よ、世界の真ん中で美しく咲き誇
れ」などと「自己陶酔」するのは勝手ですが、そ
んな日本を心の底からまともに信用してくれる国
ははたしてあるのでしょうか。
日清戦争以来顕著になった明治日本の歴史の偽
造が、いまだに清算されず、今日の日本の頽廃、
頽廃を頽廃ともみずから認めることもできない歴
史的無知、国際感覚不感症の根源になっていると
私は考えています。
政治家だけではなく、その病はひろく日本のマ
スコミをも覆っています。
今日、
「歴史問題」が新聞紙上に登場することは
珍しいことではありませんが、日本の大新聞を読
んでいますと、韓国や中国が日本に対して「歴史
問題」を提起してくるのは、なにか「外交的な策
略」にもとづいている結果であるかのような議論
どの国にも他国に誇れない歴史がある。米国
人はベトナム戦争やインディアン虐殺や黒人
差別を誇れない。だがいま学校で教えている。
近年、歴史を直視し次世代に継承する重要性
が強く意識されるようになった。日本はこの
点で遅れている。
「自分が誇れない過去を認め
ることにプライドを持とう」。それが助言だ。
(「揺れる日中韓 海外識者の目」①、ジェラルド・
カーティス米コロンビア大教授の意見。
『琉球新報』
2014 年 1 月 6 日、所載)
歪んだ「歴史認識」をどう立て直すか、傾聴す
べき助言ではないでしょうか。これで私の話は終
わります。ありがとうございました。
著者プロフィール
中塚 明
1929 年、大阪府生。1953 年、京都大学文学部卒。
1958~93 年、奈良女子大学文学部教員。1991~
2000 年、日本学術会議会員。
著書
『日清戦争の研究』青木書店、1968 年。
『「蹇蹇録」
の世界』みすず書房、1992 年。『歴史の偽造をた
だす』高文研、1997 年。井上勝生・朴孟洙と共著
『東学農民戦争と日本╶╴もう一つの日清戦争』高
文研、2012 年、ほか。
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
第 34 回研究会特別講演
戦争と看護-赤十字救護看護活動の一端から
川嶋 みどり
健和会臨床看護学研究所 所長
War and the nursing - Japanese Red Cross Nursing care activity
KAWASHIMA Midori
Director Institute of Clinical Nursing Research of Kensakai
キーワード Keywords: 赤十字看護婦 nurse of Japanese redcross、精神的支柱 moral support、
看護婦養成 train for the nurse、 戦争による殉職者 victim to duty by the war
はじめに
古くから戦争は、その時代の看護師それぞれの運
命と、職業としての看護に大きな影響をもたらした。
クリミア戦争(1853-56 年)でのナイチンゲールの
偉業は全世界に女性の力と看護の価値を発信し、日
本でもまた、50 年にわたる戦争を抜きに看護と看護
師の歩みを辿るわけには行かない。戦争は、時々の
看護教育制度、資格、看護の内容に深い影響を及ぼ
したからである。日本における戦争と看護を語ると
すれば、日清戦争から太平洋戦争の終結まで、戦時
救護活動の中心として働いた赤十字看護師の活動を
抜きにはできないだろう。赤十字看護と言えば、今
でも戦時や災害時の看護をイメージしがちである。
それは、赤十字看護師の養成自体が、戦時救護を意
図して開始されたことからも当然であろう。そこで、
赤十字における看護師養成前後の経緯と、赤十字看
護婦の戦時救護看護活動から、戦争と看護について
考える素材を提供したい。
を経て、看護法修業証書を与えられ、日露戦争の終
わりまで 278 名が養成されている。
このような経過をふまえ赤十字の看護婦養成は
1890 年に始まった。後述するように、戦時救護を意
図して海外派遣可能な看護婦の養成である。これに
先立って、既に有志共立(現在の慈恵)や同志社,櫻
井、帝国大学等での看護婦養成が開始されており、
ナイチンゲールの影響を受けた外国人教師らが教鞭
をとっていた。彼女らは、キリスト教の布教をかね
て来日していたこともあり、
「看護は看護であって看
護以外のなにものでもない」として、リベラルで自
立した看護の教育をしていた。すなわち、赤十字看
護婦養成の意図する忠君愛国につながる報国恤兵と
は相容れない校風であったことは容易に想像できる。
そこで、赤十字では、先行の看護婦養成校とは違っ
て、軍医らの執筆した教科書により、軍医らの授業
が組まれた。このように、看護を医師が教えるとい
う態様は、1945 年の敗戦まで続いた。
2.赤十字看護の精神的支柱
1. 赤十字における看護婦養成の意図
明治政府の海外派兵の意図を間近に、無給有志の
篤志婦人会が結成されたのは 1887 年のことである。
発起人が、有栖川宮夫人ほか、親王、公爵、伯爵、
子爵、男爵夫人ら何れも当時の皇族や華族夫人であ
った。それは、上流階級夫人らの名を借りて、その
頃の世間一般の、
「看護」の仕事の賎業視を改める必
要からであった。やがて帝国軍人の救護活動に従事
する看護師のイメージアップを何としても図る必要
があったのだ。
従ってその趣意書には、
「看護事業はこれを金銭の
ためにせず、高尚なる道徳心を以てすれば、王公の
子女と雖もその一身を投ずるに足るべき尊貴にして
名誉ある事業なり」1)とある。こうして、呼びかけ
に応じた篤志夫人は毎月 2 回ほどの救護活動の学習
ところで、戦場で男性兵士に伍して働く看護婦に
対して、養成機関である赤十字がどのような意図を
持っていたかは、養成開始時の規則 2)の中の下記の
2 項からも明らかである。
イ.養成の主旨-卒業後戦時において患者を看護
せしむるにあり。
ロ.生徒志願者誓約条件-卒業後 2 年間病院にお
いて看護業務に従事し、後 20 年間は国家有事
の日に際せば速に本社の召集に応ずべきこと。
また、当初から戦時救護に耐え得る強靱な精神教
育も1つの特徴であった。当時の赤十字の佐野常民
社長が、看護婦と看護婦生徒に対して発した”看護婦
訓戒”は、20 項目に及んだ。
連絡先:〒168-0062 東京都杉並区永福 4-8-19-102
Address:4-8-19-102 Eifuku.Suginami-ku.Tokyo 168-0064 Japan
E-mail:[email protected]
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
<日本赤十字社看護婦訓戒>3)一部抜粋
救護班総数:960 班 救護班人員数:33、156
名 (医師:324 名 薬剤師:55 名 書記:593
名 婦長:1、888 名 看護婦:29、562 名 使
丁 734 名。
・傷病者を看護するは国家に対する義務にして、す
なわち義勇奉公なり。
・先輩の指導に服従して階級秩序を守り、職課の好
悪、勤務の繁緩等に付す不平を起こすべからず。
・艱苦を忍び欠乏に堪うるは救護員の本分なれば宿
舎、被服…激務の夜を徹する等-決して不平を鳴ら
すべからず。
・およそ軍人たる者は有事の日においては父母妻子
に別れ…すなわち国家の干城なり日本赤十字者看護
婦はこれら軍人の傷病者を看護して、その苦患を軽
減する任にある。
すなわち婦人の名誉にして、これを保つは平素の覚
悟と学術精練を必要とする。
以来、この訓戒は、赤十字看護婦の精神的支柱の
みならず服務規程でもあったが、これを抜粋した救
護員 10 訓が、
太平洋戦争の終結まで暗誦され続け、
敗戦後の教室にも当分のあいだ掲げられていたこと
を記憶している。その 10 訓の 3 要件とは、至誠を
以て救護に従事、奮勉を以て難苦を堪え、節操を以
て品行を慎むこととあり、
「戦時の看護者たらんには、
手腕の熟練よりも、これを支配する自己の品性と千
艱万難に屈せず、たゆまざる覚悟のあるや否やを先
ず問う」としている。この考え方が、自己犠牲を伴
う奉仕の精神として、戦時救護活動を支えたと言え
よう。
こうした精神主義的な看護婦のありようを、日露
戦争当時万国赤十字社の代表として来日して日本の
赤十字看護師とともに行動したマギー夫人は、やや
皮肉交じりに次のように語っている。
「日本では技術
よりも精神を重んじているが、これはアメリカとは
逆である。戦時の看護婦養成よりも一般の看護婦の
地位を高めるべきではないか。だが、欧米看護婦の
及ばない長所を挙げて、①如何なることも厭わず
②規律を重んじ不平少なく ③患者を家人の如く扱
い ④物品の経済的使用を図り ⑤長時間労働に耐
える体力を持っている」4)と。
1937 年 7 月 7 日の盧溝橋事件後間もなく、7 月
28 日に陸軍大臣から赤十字社へ最初の救護員派遣
要請があった。この年には病院船に 50 班、内地陸
海軍病院 55 班、外地陸海軍病院:満州 3 班、華北
26 班、華中 21 班,計 149 班が派遣され、傷病兵の
輸送、看護に当たった。以後、経年的に救護班の派
遣状況が敗戦の年まで記録されているが、字数の関
係で省略する。
なお、第二次世界大戦中の戦時救護班業務報告書
(日本赤十字社本社所蔵)は、厚さ約7cmのB5版
ファイルで約 200 冊に及ぶ。内容は、第 1 班から第
934救護班までの業務報告と、臨時救護班 11 班
と本部、各支部の報告書がある。項目は、当該団体
の行動に関する事項-患者に関する事項(省略す)、
給養及衛生に関する事項、材料及寄贈品に関する事
項、人事に関する事項、患者表(輸普第2005号
通牒により省略 )といった内容であり、それぞれの
救護班の編成支部(都道府県名)や配属先が記されて
いる。項目に見るように、この報告書からは、患者
に関する情報は全く得られない。戦況の悪化によっ
て記載内容も書かれている量も変化しているが、何
れの班も,毎朝点呼後、救護員 10 訓の唱和、ラジ
オ体操、宮城遙拝を行い,毎月大詔奉戴日には、詔
勅の奉読等が行われていたようである。
4. 数字から見た第二次世界大戦犠牲者数(表1)
3.第二次世界大戦における日本赤十字社の救護活
動
日本赤十字社『社史稿』第 5 巻によれば、1937
年~1945 年の救護活動,すなわち日中戦争の始まり
から敗戦までの救護を大東亜戦争救護としてまとめ、
大東亜戦争救護は、赤十字社創設以来最大規模の救
護であったとしている。派遣救護班の概要は下記の
通りである。
-7-
日本
戦死者数
230 万人
米国
ソ連
中国
29 万 2 千人
1450 万人
132 万 4 千人
民間犠牲者数
80 万人
700 万人以上
1000 万人以
上
230 万人
577 万 8 千人
600 万人
ドイツ
285 万人
ポーランド
85 万人
ホロコーストに
よるユダヤ人犠
牲者
厚生省労働省資料(2006) 日本以外は英国タイム
ス社「第二次世界大戦歴史地図(2001)」より
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
5. 赤十字における戦時救護の派遣救護員数と殉職者数(表2)
救護員
殉職者数
医師
日清戦争
1396
25
2
日露戦争
5170
101
5
第一次世界大戦
291
シベリア事変
361
満州事変 上海事変
685
1937~45
日華事変第二次世界大戦
合計
薬剤師
3
書記
看護婦
看護人
4
19
39
39
2
3
使丁
13
2
1
20
35785
1187
8
1
38
1120
44273
1317
15
4
40
1165
59
34
されつつ 80 回通った玄界灘の激浪に、木の葉の様に
翻弄された病院船勤務であった。激務の広島陸軍病
院結核病棟、東京空襲下の海軍軍医学校勤務をした。
生命の危険にさらされながら「月月火水木金金」勤
務を支えたのは、「赤十字精神」でもなく「祖国愛」
でも「若さと健康」でもなかった。ただただ激浪に
ながされるままの一粒の砂だった。声を大にして言
いたい!「戦争は勝利にしろ 敗北にしろあらゆる犠
牲と損失と悲しみと苦しみがあること」を。「再び繰
り返すな!」
6. 赤十字救護看護婦の記録
1)伊勢タネの場合 4)1944 年3月 旧満州遼陽第
1陸軍病院にて 100 床の伝染病棟 夜勤 2 名
患者は、腸チフス パラチフス 赤痢等で殆どが有
熱患者である。氷を砕き 1 度に 20~30 個の氷枕をつ
くって両手の感覚が麻痺、食事の世話、便・尿器の
始末、与薬・注射、一時の暇もなく立働き、病床日誌
を書く。長靴の中の足は腫れて重く… とある。
連日の激務に耐えた 19 歳の看護婦であった。敗戦に
より、ソ連領から 800 名の傷病兵を受け入れたが、
氏名、年齢不明のまま死亡した。ソ連軍、八路軍、
政府軍のもとで働き最後 4 名で逃亡し 4 キロの道を
走り民家にかくまってもらって帰国した。
4) 林民子の証言 7)
フィリピンムニオス分院での飢餓地獄、コレラ患
者が骨と皮だけの便だらけの手で重湯やスープのバ
ケツをひっくり返しそう…敗色濃い前線からの撤退
中に、ジャングルの重症患者に対して「この注射を
すると元気になるのよ」と、昇汞水やモルヒネを打
った。さながら、虜囚の辱めを受けないための地獄
図の連日であった。投降して 3 ヶ月間の捕虜生活の
後帰国した。報告に行った赤十字本社で言われたこ
と、「制服はどうした?飯盒や水筒は?」と。生命
は水筒よりも軽かった。
2)花田ミキの場合 5)
生まれは弘前 父は役場勤め 姉弟8人の長女
経済的自立を目ざして昭和 6 年女学校卒後、盛岡赤
十字で看護婦になる道を選ぶ。この道は、当時、よ
ほど貧しい家の娘か、嫁のもらい手のない事情があ
るのかと思われた時代であった。女が仕事を持つの
は、教師か紡績工場の女工か看護婦しかなく、看護
の道を選んだが、朝 4 時起床で文字通り看護婦哀史
の生活であった。
7.もう 1 つの 問題意識
1)戦死者の死因分析
第二次世界大戦による多くの戦死者の死因は未解
明のまま70年が過ぎようとしている。一括して戦
死というが、弾丸・銃剣による死のみではなく、急
性伝染病始め結核等による病死の他、餓死 拷問等
によって生命を落とした兵士らが多く存在するはず
である。19 世紀のクリミア戦争時のナイチンゲール
の働きは有名であるが、彼女は、帰国後、スクタリ
の陸軍病院での兵士の死亡率の高さが、単なる治療
の遅れや物資の欠乏ではないとして、統計学者とと
もに死因の追跡を図った 8)。結果は、英国の王室と
陸軍省の猛反対のためにその時は発表できなかった
が、狭い空間と不潔な環境による院内感染による死
昭和 9 年~青森赤十字病院勤務 4 年間無医村診
療に従事した。農村は大凶作のため娘を売って一家
は食いつなぐといったことも多く、胸を病む少女が
隠されていた時代であった。日中戦争の始まった年
に1回目の召集、その後、計 3 回応召し、チフスと
結核で瀕死の状態で広島の病院へ帰還したが、20 歳
代で地獄を見て、戦争体験を風化させないためにと
幾つも手記を書き残した。
3)のぐちたいの場合 6)
1937 年から 3 回の召集令状敗戦まで従軍上海海軍
特別陸戦隊本部のコレラ病舎。激しい船酔いに悩ま
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
亡であったと言う。当時とは違って疫学研究の方法
も進歩している現代において、戦中の死因分析もな
されていないことをどう考えるべきだろうか。
<参考文献>
1)日本赤十字社養成史料稿 1927
2)戦争と医の倫理を検証する会の調査をふまえて
2)同上
日本の医師たちが軍医として海外に派遣され、そ
こでの非人道的な行為の数々が立証された。医学の
名のもとに行われた人体実験は、人間の尊厳からも
許すことのできない行為である。検証のプロセスで
余り明らかにされなかったが、医師のそばには看護
婦が存在したはずで、その時看護師は何をしたの
か?どのような立場で何を思ったのか。極限状況下
であったにせよ、軍との共同行動で加害の意識はな
かったのか。救護看護婦として従軍した者の多くは
高齢であり、聞き書きも限界があるが、これまで数
名の元救護看護婦に聞いた範囲では、先にも紹介し
たように敗戦直前の撤退中の日本軍兵士への,死を
早める行為であった。
3)赤十字看護婦訓戒 1898
4)伊勢タネ:終戦前後の遼陽の表情 「殉職従軍赤
十字看護婦追悼記 ほづつのあとに」に所収 アン
リーデュナン教育研究所 1977
5)花田ミキ:巻き戻すフィルム
1985
日赤県支部青桐会
6)のぐちたい:たたかいの白衣は遠く「日本赤十字看
護婦の従軍記」に所収 戦誌刊行会 1985
7)林民子:いのちは水筒より軽かった 「白の青春」
に所収 東邦出版社 1977
8)ヒュー・スモール著田中京子訳: ナイチンゲール
神話と真実 みすず書房 2003
赤十字の理念は、戦争の動機や政治的対立構造を
抜きに、敵味方の別なく傷病者のいのちを助けると
いうことである。ところが、戦場でこれを行動化す
べき救護看護婦らは、戦時下の軍の補助機関として
の赤十字救護活動に際して、国(軍)の方針のもとに
活動せざるを得ず、看護の根本理念との狭間で矛盾
と葛藤に悩まされたことは想像に難くない。戦場で
の救護看護師が、非人道的行為に手を貸した具体的
事実がなかったのか、それとも意識化されていない
のかは、これまでの聞き取りでは明らかにできず、
今後の研究の課題である。
著者プロフィール
川嶋 みどり
1951 年日本赤十字女子専門学校卒 1971 年まで日
本赤十字社中央病院に勤務、1965 年より東京看護学
セミナー世話人代表 2003 年日本赤十字看護大学
教授、学部長を経て現在:日本赤十字看護大学名誉
教授 健和会臨床看護学研究所長 日本看護歴史学
会理事長
おわりに
安倍首相は、憲法 9 条の事実上の削除となる改憲
解釈を正当化し、海外派兵に道を開く集団的自衛権
行使容認のために躍起となっているが、如何なるこ
とがあっても戦争に通じる道への暴走だけは絶対に
許してはならないと思う。それにつけても、赤十字
は、起きてしまってからの戦争被害への救助よりも、
戦争に反対する活動を強めるべきではないかとの思
いを強くしている。
(本稿は、2013 年 12 月,東京で開催された戦医研で、
話題提供の資料として発表した内容を文章化したも
のである。)。
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May,2014
鹽入圓祐・岩佐金次郎による空襲生活調査
岡田 靖雄
青柿舎(精神科医療史資料室)
Investigation of Physical and Mental changes under Air Attack, by En-yū Shioiri and Kinjiro Iwasa
OKADA Yasuo
Seishisha (the Archive of Psychiatric History)
キーワード Keywords: 東京都民 Citisens of Tokyo、空襲 Air Attack、身心の変化 Physical and Mental
Changes、直接被災者 Direct Sufferes、性格による差異 Characterological Peculiarities
1.はじめに
戦争は戦場だけでたたかわれるものではない。
近代の総力戦においては市民生活のすべてが戦争
遂行にむけられ、戦況によっては“銃後”の市民
も戦闘の被害をうける。
戦後第 1 回となる第 43 回日本精神神経学会総会
は、1946 年(昭和 21 年)6 月 1 日、2 日におこな
われた。6 月 1 日には 11 題の戦争体験に関する報
告があり、そのうち 6 題は一般国民の戦争体験に
関するものであった(うち 2 題は原子爆弾による
脳病変に関するもの)。その一つ植松七九郎・鹽入
圓祐「空襲時精神病」は『慶應医学』に掲載され
たが、その原資料を古書店から入手したので、原
資料の内容を本誌に発表した。1)
ところで、植松・鹽入資料には、今回報告する、
鹽入圓祐および岩佐金次郎により 1946 年 8 月(敗
戦から 1 年後)におこなわれた空襲生活調査の資
料がはいっていた。調査票の文案、未記入の調査
票数枚、記入ずみ調査票 2 枚、各項目をかぞえあ
げた表(実数でなくて%表示)が何枚か、既往者 3
名の回答の抜き書き、また二人によるまとめの文
章 3 種である。鹽入は当時慶應義塾大学神経科教
室の講師、岩佐はその助手であった。まえの植松
(教授)
・鹽入報告は、いわば突出した空襲精神病
をしらべ、鹽入・岩佐調査はその基盤にある空襲
体験を並行してみきわめようとするもので、その
構想はすばらしいものであった。
く御願ひ申上げます。
昭和 21 年 8 月
調査者 慶應義塾大学医学部神経科教室
鹽入圓祐 岩佐金次郎
次の事を予めご記入下さい。
1.記入者の性別、男・女。2.年齢 歳。3.学歴
学校卒業、中退 4.空襲当時住所
5.空襲当時職業(及前職業) 6.職場では責任
者であったか
7.家族の人数
その中、
老幼病弱者等要保護者の数
8.家族内で扶
養責任者であつたか 9.疎開の有無
その場
所
その程度 疎開は家の誰と誰か
10.空襲による被害、爆弾、焼夷弾、機銃掃射、
家屋焼失(直撃、延焼)焼失家屋は自己の所
有か、自身並に家族の負傷、死亡の有無
被
害月日 月 日 11.空襲をうけた回数は一回
きりか、2 回から 5,6 回迄の間か、それ以上か。
一回の場合は爆弾か、焼夷弾か、機銃掃射か。
12.今迄に罹った主な疾患、殊に神経衰弱其他
精神疾患に関して
13.性質は朗か、内気、或ひはその中間。交際
好き、交際嫌い、その中間。几帳面、投げ遣
り、その中間。過敏で神経を使ふ、無頓着、
その中間。勝気、気が弱い、その中間。動作
機敏、動作緩慢、その中間。思い立つた事を
すぐ実行する方か、億劫で容易に実行出来な
い方か、その中間。理想主義、現実主義、そ
の中間。其他、大袈裟であるか、我侭である
2.調査票と調査対象
か、体裁、体面を気にするか。
まず調査票をみておこう(人名をのぞいては、
(注意)
旧字体は当用漢字にあらためる)
、―
1. 本調査は東京都民に就いて行ひたいと思
終戦後早くも一年を経過しました。当時を
ひます。
追想しますと誠に感慨無量なるものがありま
2. 疎開して了つた方でも、疎開先(場所を
す。あの惨烈を極めた空襲は我々都民の心身
記載して下さい)に於ける体験並びに感
連絡先:〒168-0072 東京都杉並区高井戸東 3-36-13 ライオンズマンション
201 青柿舎
の上に如何なる影響をおよぼしたでありませ
想に就て大体上記の項目に就き御記入下
Address:
Seishisha,
Lions
Mansion
201,Takaido-Higashi
3-36-13,
Suginamiku,
Tokyo,
168-0072 Japan
うか。此の未曾有の体験に対して、都民各位
さい。
は身心の何程かの変化を自覚されましたなら
3. 15 歳以上の方は誰方でも一人が一枚宛御
ば、それを次の項目に就いてご記入下され度
記載を願ひます。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
4. 尚 8 歳から 15 歳迄(何れも空襲当時の年
齢)の児童に就いても調べたいと思ひま
すが、その年齢に該当される児童に就て
は保護者が代ってご記入下さい。
5. 記入の仕方は空襲をうけてから、後にな
つて、下記のような変化が認められまし
たならば、該当事項の下に―を附して下
さい。但しその変化は一時的なものでよ
く今日迄続いてゐる必要はありません。
尚変化が殊に著明な場合は=を附して下
さい。例 23.忘れ易く、計算其他間違へ
易く、或は気が散りやすくなつた。
(之は
忘れ易くなり、非常に計算其他を間違ひ
易くなつたが、気が散りやすくはならな
かつたことを表します)
23.
24.
25.
26.
27.
1. 行動が敏捷になつた、或は緩慢になつた。
2. そはそはして落着けない様になつた。
3. 睡眠時間が少なくなつた、或は多くなつた。
(何時間位?)
4. 空襲の夢或は其他の悲しい夢を見る様に
なつた。
5. 排尿回数が増した(1 日何回から何回位
に?)或は少くなつた。
6. 空襲に際して素早く退避したか、ゆつくり
したか、せずにゐたか、敵機を見物してゐ
たか、仕事をしてゐたか。
(主にその中の
どれであつたか)
7. 退避中、度々睡くなつた。
8. 警報が鳴ると、体が震へ、動悸がし、又冷
汗が出るやうになつた。
9. 警報が鳴ると、小用がはづむやうになり、
又大便を催すやうになつた。
10. 警報が鳴ると、物がよく見えず、よく聞え
ず、手や足に力が入らず、或は腰が立たな
くなった、又言語がしどろもどろとなり、
或は口が利けなくなつた。
11. 総ての光や物音に対し敏感になつた。
12. 食欲が無くなり、或は食物に対する嗜好が
変わつた。
13. 体が疲れ易くなり、体重が減り、浮腫(む
くみ)が出た。
14. 性欲が減退し、又陰萎となつた。
15. 無月経、又、月経不順となつた。
16. 感情が過敏となり、特に驚き易く、臆病と
なつた。
17. 怒り易く、泣き易く、性急(せつかち)と
なつた。
18. 感傷的、懐古的、望郷的(ふるさとにかへ
りたし)となつた。
19. 狐疑逡巡したり、決断がつかなくなつた。
20. 邪推深く、気を廻すやうになつた。
21. 音がないのに音が聞え、人声が聞えること
があつた。又物がないのに物(或は人の姿
など)が見える事があつた。
22. 音を聞き間違へ(サイレンと誤つたり)物
- 11 -
28.
29.
30.
31.
32.
33.
34.
35.
36.
を見間違へる事が屡々あつた。或は 1,2 度
或は非常に度々あつた。
忘れ易く、計算其他を間違へ易く、或は気
が散り易くなつた(落着いて仕事や読書が
出来なくなつた)。
誰かに後をつけられてゐるような気がし
たり、誰かが自分をねらつてゐる、危害を
加へやうとしてゐると言つた気がした。
常に恐怖に襲はれてゐる様になり、殊に空
襲に対する恐怖が強く、又その為め仕事も
手につかず、或は之を抛棄した。
全く絶望的であり、再起不能と思ひ込む様
になり或は総て自分に罪があり、何もかも
自分が悪い、又人が自分をとがめてゐると
思ふようになつた。
全く自信がなくなり、自分の行為が間違つ
てゐる様に思はれ、何回もやり直ほして見
ても未だ安心が出来ない様になつた。又病
的と思はれる不愉快な考が、繰返し頭に浮
んで来て、追払はうとすればする程強くな
り、その為めに悩まされるやうになつた。
人に逢ふのが厭はしく、殊に知人に逢ふの
を避けるやうになつた。
戦闘意識が益々旺盛になつた。或は敗戦感
に襲はれ、元気がなくなつた。
空襲に際し何を一番心配したか、自分の生
命・家族の安全、家財、勤務先、東京都或
は日本の運命を心配した。
人生は果敢(はか)なく、無常と観ずるや
うになつた。或は人生は力であり、闘争で
あると考へるやうになつた。
家が焼けた場合、その当時失望した、或は
失望せず、又は却つてさばさばしたと感じ
た。其後(数ケ月も経つてから家屋や家財
の焼失をくよくよと考へ、深刻に感じるや
うになつた。
以上の諸種の変化があつた場合医者に診
て貰つた。入院した(何病院に)。或はそ
の変化は 1 ヶ月以内で消え、或は数ヶ月
も続き、或は現在迄も続いてゐる。(それ
は何番と何番か)。
(其他種々の身心の変化或は人生観の変
化に就きご記入下さい)
空襲当時の戦争に対する見透しは、悲観的
であつたか、楽観的であつたか、或は一部
分悲観的であり。一部分楽観的であつたか。
終戦の詔書を開いた時の感想は、意外に感
じたか、当然に感じたか、或は呆然として
何の感想もなかつたか。
以上
この調査票が B4 判のワラ半紙 1 枚に印刷され
ていた。
この調査の狙いの一つは、性格による身心の変
化の違いをあきらかにすることがある。性格は循
環型(Z)、分裂型(S)、てんかん型(E)、ヒステ
リー的性格(H)、その他とわけられている。調査
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
や 2.8%
知的能力 わすれやすい 10.4%、計算などま
ちがいやすい 4.5%
4. 空襲への身体的反応
震え 9.6%、動悸 13.0%、冷や汗 3.1%、小用
20.3%、便意 20.3%、脱力 0.4%
心因性視力低下 1.2%、心因性聴覚低下 1.1%
5. 異常知覚変化
錯聴 36.7%、錯視 5.7%、幻聴 11.5%(人声
3.8%)、幻視 1.6%
6. 人生観・社会観(戦争への態度をふくむ)
第 1 の心配 自分の命・家族の安全 67.1%、
家財 10.0%、勤め先 17.3%、日本の運命 46.5%
戦闘意識 旺盛 26.9%、敗戦感 11.1%
戦局について 悲観的 31.5%、楽観的 15.8%、
一部悲観的 40.7%、一部楽観的 32.5%
終戦詔書 意外 40.0%、当然 22.7%、呆然
39.2%
7. 諸種変化の程度および持続(質問 33 への答
え)
医師にみてもらった 1.2%、そのため入院
1.2%、一か月以内できえた 4.5%、数か月つづ
いた 4.5%、今もつづいている 5.2%〈何番の変
化かの数字はのこされていない、時間的経過の
数字を合計すると 13.2%にすぎないので、ここ
にあげられているのは、上記変化のうちごく一
部分のものだろう。
〉
Ⅱ.調査者によるまとめ(その 1)
内容の重複する 3 種のまとめがはいっていた。
その一つは 1948 年 5 月の応用心理学会で発表した
もののようである。このまとめにつかわれている
数字はⅠ.におけるものとちがっている。戦災者・
非戦災者の違い、性格類型による違いをはっきり
させるために、記載のあいまいなものを除外した
と想像される。ここの数字は戦災者・非戦災者別、
性格類型別比率だけのこっていて、しかも一部分
かけているので、まとめの 3 種の文章からまとめ
ておく。
1. 一般に身体的変化は比較的低率にみとめら
れるにすぎなかった。睡眠減少は戦災者女に
40.3%とおおく非戦災者女では 28.3%(男ではそ
れぞれ 31.3%と 34.3%)
、睡眠増加は戦災者女で
15.5%とすくなく、非戦災者女では 25.8%、苦悶
夢は戦災者で 14.1%、非戦災者で 2.6%。つまり、
戦災者の睡眠は不良になっている。また睡眠不良
はヒステリー的性格者、とくに女でおおい。
食欲不振は戦災者で 11.8%(男 3.6%、
女 20.0%)
、
非戦災者で 4.0%(男 5.6%、女 2.3%)
。また食欲
不振はヒステリー的性格者におおく、てんかん型
者がそれにつぐ。体重減少は戦災者で 18.6%(男
12.0%、女 25.1%)、非戦災者で 17.2%(男 18.2%、
女 11.3%)。またてんかん型者におおい。
排尿回数増加は戦災者女(25.7%)で非戦災者
女(4.8%)よりおおい(男はそれぞれ 10.4%、
16.3%)。その減少はやはり戦災者女(9.9%)が
非戦災者(1.3%)よりおおい。排尿回数の異常を
票前半の個人属性部分の項目 13.が性格票である
が、のこされているメモによると、13.にあげられ
ている項目はつぎのような性質をあらわすもので
ある。
朗か(Z)、内気(S)、交際好き(Z)、交際嫌い(S)、几
帳面(E)、過敏で神経を使ふ(S)、凝り症(E)、勝気
(Z)、気が弱い(S)、動作機敏(Z)、緩慢(E)、思ひ立
つたことをすぐ実行する(Z)、理想主義(S)、現実主
義(Z)、大袈裟(H)、我侭(H)、体裁・体面を気にす
る(H)。投げ遣り、無頓着、移り気、はかきだされ
ているが、性格との関連づけはしるされていない。
一人の性格に、上記 Z、S、E、H、の要素が混
在することがおおいが、何項目該当すれば、Z、S、
E、H、あるいはその中間(その他)と評価するか、
その基準はしるされていない(項目数がすくない
ので、Z なら Z でそろったものを循環型としてい
るのかもしれない)
。
調査への回答者は、東京都にすむ慶應義塾普通
部および都立第十高等女学校の生徒・父兄の計 739
名である。男 375 名、女 364 名、また家屋焼失者
323 名、非焼失者 416 名〈年齢構成、とくに生徒・
父兄の別はのこされていない、―これからも筆者
による意見は〈 〉によりいれる〉。
上記による性格分類は、循環型 277 名、分裂型
83 名、てんかん型 37 名、
ヒステリー的性格 40 名、
その他 299 名である〈不明 1 名がのこる、男女別
はしるされていない、この数字は循環型がおおす
ぎるという印象をあたえる〉。また、
“てんかん型、
ヒステリー的性格を除くと戦災者 180 名、非戦災
者 178 名”との記載があるが、それは上記の数字
とあわない。この点にはのちにもふれる。
なお、これまで、またこれからの記述で、用語
は当時のものをもちいる。
3.回答結果
Ⅰ.全体の数字〈調査者のまとめによる〉
1. 持続的な身体的変化
睡眠時間減少 35.6%、増加 18.0%、空襲など
のこわい夢 18.0%
食欲不振 3.9%、体重減少 15.7%、疲れやす
さ 24.6%
排尿回数増加 10.9%、減少 4.1%
性欲減退 3.1%、陰萎 0.7%
無月経 2.7%、月経不順 3.2%
2. 行動面の変化
敏捷 42.9%、緩慢 7.7%、おちつかず 15.4%
待避 速 48.9%、緩 24.8%、せず 10.3%、敵機
見物 32.8%、仕事つづける 10.3%、ときどきね
むくなる 27.2%
3. 感受性、感情性、気分などの変化
音・光に敏感 52.8%、
感情 敏感 18.8%、臆病 5.5%、易怒 17.3%、
易泣 8.8%、恐怖 2.3%;対空襲恐怖 7,7%
元気なし 8.3%、気がちりやすい 24.1%、
気分 絶望的 3.4%、再起不能 2.7%;自信な
し 3.4%、自分がまちがっている 2.8%;人がい
- 12 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
きたす自律神経障害がことに女におおいのである。
またヒステリー的性格者に排尿回数の異常がおお
い。
性欲障害(減少、陰萎)は戦災者で 6.3%(男
7.6%、女 4.9%)で非戦災者の 1.6%(男 2.6%、
女 0.6%)よりおおい〈女も性欲減退を記入してい
るのである〉
。月経減少・不順は戦災者で 17.1%、
非戦災者で 7.5%である。
上記身体的変化比率の平均は、戦災者で 16.1%
(男 10.7%、女 19.6%)
、非戦災者で 13.1%(男
13.8%、女 10.9%)。つまり、戦災者女、非戦災者
男、非戦災者女、戦災者男の順になっていて、戦
災者女で変化がもっともいちじるしかった。
2. 行動面の変化をみると、敏捷・緩慢ともに
戦災者の男がややおおく影響をうけている。敏捷
は戦災者平均 41.6%(男 48.1%、女 35.0%)、非
戦災者 45.1%(男 44.3%、女 45.8%)。緩慢は戦
災者 6.7%(男 8.8%、女 4.6%)、非戦災者で 6.4%
(男 3.4%、女 9.4%)。一般に女のほうが、おおく
影響をうけるが、非戦災者では一般通則に一致し
て女の変化がおおい。敏捷には性格による差はみ
とめられないが、緩慢はヒステリー的性格者にお
おい。行動の落ち着かなさ(不安)は、戦災者で
15.8%、非戦災者で 17.3%で、男女にわけてもあ
まり差はみとめない。だが、ヒステリー的性格者
はおおく、これは戦災の影響ではなく性格の影響
である。
待 避 の 敏捷 さ は 戦 災者 に お お く 55.0% ( 男
49.9%、女 60.0%)。非戦災者で 42.7%(男 32.7%、
女 52.5%)。緩慢は戦災者で 18.9%で、非戦災者
の 24.7%よりすくない。戦災者の一般行動はさほ
ど敏捷にならないのに待避は敏捷なのは、虚脱の
萌芽がみられるのかもしれない。また待避ではて
んかん型者に緩慢がおおかったほかには、性格に
よる特徴はない。
待避中の観戦は、
戦災者 36.2%、非戦災者 33.9%
で、ほとんど差をみとめないが、性格では循環型
者とヒステリー的性格者とにおおく、また男にお
おい。待避中の眠気は戦災者で 22.5%(男 16.5%、
女 28.4%)、非戦災者で 30.8%(男 36.8%、女
24.8%)で、戦災者男ですくない。またヒステリ
ー的性格者にわずかにおおいほかには、性格によ
る特徴はない。
仕事不能は戦災者で 5.9%、非戦災者で 3.4%で
あるが、これは職場焼失によるか。仕事放棄はそ
れぞれ 0.4%および 0.3%であるが、不能・放棄と
もてんかん型者にはなく、ヒステリー的性格者に
おおい。
行動面の変化比率の平均は、戦災者で 22.4%(男
22.7%、女 22.1%)、非戦災者で 22.7%(男 22.9%、
女 22.4%)で、全体としてはほぼ同様なわずかの
変化であった。そして、性格との関連で著明な差
がみられた。
3. 感受性・感情性での変化をみると、聴視覚
過敏はもっともおおくみとめられる変化の一つで、
戦災者で 58.2%(男 58.3%、女 58.1%)、非戦災
- 13 -
者で 46.3%(男 47.7%、女 44.8%)
。性格面では
てんかん型者にわずかにおおい。
感情過敏は戦災者で 22.3%、非戦災者で 22.1%。
臆病は戦災者で 7.7%、非戦災者で 4.3%。ところ
が易怒は戦災者で 11.3%、非戦災者で 19.9%で、
非戦災者におおい。号泣はそれぞれ 4.9%、4.8%
で両者に差はない。性格との関連では、感情過敏
は循環型者、分裂型者、ヒステリー的性格者にお
おく、てんかん型者にすくない。号泣、臆病はと
もに分裂型者、ヒステリー的性格者におおく、て
んかん型者にはない。易怒はてんかん型者にすこ
しくすくないだけで、各性格者にほぼ同様。
つねに恐怖的は戦災者に 4.9%(男 0.8%、女
8.9%)、非戦災者で 0.8%(男 0.9%、女 0.7%)
で、戦災者女におおい。またヒステリー的性格者
におおく、てんかん型者にはない。対空襲恐怖は
戦災者に 12.8%(男 13.5%、女 12.1%)で、非戦
災者で 4.0%(男 0.9%、女 7.1%)。性格面ではヒ
ステリー的性格者にわずかにおおいだけで、性格
的特徴はない。
元気なしは戦災者で 15.7%(男 6.0%、
女 25.4%)、
非戦災者で 16.3%(男 13.7%、女 18.8%)で、戦
災者男にすくない。易疲労はそれぞれ 26.9%、
28.9%で、両者にほとんど差はない。
上記変化比率の平均は、戦災者で 18.3%(男
14.6%、女 22.0%)、非戦災者で 16.4%(男 13.4%、
女 19.3%)であった。聴視覚過敏、感情過敏がも
っともおおくみとめられたが、戦災による影響は
すくない。戦災者には臆病、対空襲恐怖がおおく、
易怒は非戦災者におおかった。
〈気分、知的能力の変化は、まとめてはとりあ
げられていない。〉
4. 警報による変化では、震えは戦災者で
12.5%(男 6.4%、女 18.6%)、非戦災者で 8.4%
(男 7.4%、女 9.5%)で、戦災者女におおい。動
悸は戦災者で 22.2%(男 12.7%、女 31.7%)、非
戦災者で 9.4%(男 8.1%、女 10.7%)で、やはり
戦災者女におおい。冷や汗は戦災者で 8.1%、非戦
災者で 4.3%。小用は戦災者で 26.0%(男 21.5%、
女 30.4%)、非戦災者で 19.6%(男 21.0%、女
18.1%)であった。大便は戦災者で 3.2%(男 0.5%、
女 5.5%)、非戦災者で 0.9%(男 1.8%、女 0%)。
つまり、戦災者は警戒警報による影響を多分にう
け、自律神経不安定の症状を生じたと理解される。
とくに女に影響はいちじるしい。性格面ではヒス
テリー的性格者におおく、ついで分裂型者、そし
ててんかん型者にはすくない。
心因性盲は戦災者で 1.1%、非戦災者で 1.2%、
心因聾はそれぞれ 0.3%、0.3%であるが、ヒステ
リー的性格者には顕著にみる。脱力は戦災者で
2.8%(男 0.8%、女 4.9%)
、非戦災者で 0.3%(男
0%、女 0.6%)で、これもヒステリー的性格者に
顕著であった。
幻聴は戦災者で 13.7%(男 3.2%、女 24.5%)、
非戦災者で 9.9%(男 5.7%、女 14.0%)。錯聴は
戦災者で 39.8%(男 25.9%、女 53.6%)、非戦災
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
。錯視は戦災者
者で 14.1%(男 23.9%、女 4.2%)
で 6.3%(男 2,4%、女 10.2%)、非戦災者で 4.3%
(男 4.1%、女 4.4%)であった。いずれも戦災者
女におおい。性格は幻聴にはあまり影響なく、錯
聴、錯視は分裂型者、ヒステリー的性格者におお
く、てんかん型者にすくない。
これらの変化の比率平均は、戦災者で 12.4%(男
7.4%、女 17.3%)、非戦災者で 6.6%(男 7.0%、
女 6.2%)
。これらはもっとも顕著に被災の影響を
しめすものであるが、その比率差はちいさい。つ
まり、素質を有する少数の者だけが顕著な反応を
呈したということができ、それもおおくは女であ
り、ヒステリー的性格者である。心因盲、心因聾
に戦災の影響がないことは、病的変質がもっとも
高度なもの(ヒステリー的性格者が圧倒的)が戦
災にあわないでも、空襲の体験だけで病的反応を
呈しうることをしめすものだろう。なお、ここに
みとめられる変化は、主として恐怖的感動にもと
づく精神症状であり、また自律神経不安定の症状
である。
5. 人生観・社会観の変化
自 己 の 生命 へ の 関 心は 戦 災 者 で 65.7% ( 男
62.8%、女 68.5%)、非戦災者で 57.0%(男 55.6%、
女 58.3%)である。勤務先への関心は戦災者で
8.6%(男 14.5%、女 2.7%)、非戦災者で 9.4%(男
13.2%、女 5.5%)。日本の運命への関心は戦災者
で 42.9%(男 35.3%、女 50.4%)、非戦災者で 56.2%
(男 55.6%、女 56.7%)
。戦災者の関心はまず自
己に関するもので、勤務先、日本の運命にはすく
ない傾向をしめす。ヒステリー的性格者、てんか
ん型者は自己の生命に関心がたかく、日本の運命
には循環型者がもっとも関心がつよく、一般に分
裂型者は関心がうすい。
戦闘意識旺盛は戦災者で 33.2%、非戦災者で
29.5%、敗戦感はそれぞれ 20.2%(男 15.9%、女
24.5%)、10.5%(男 10.7%、女 10.2%)、ここに
性格の影響はみとめない。戦局悲観は戦災者で
37.5%、非戦災者で 31.8%、楽観はそれぞれ 9.1%、
16.2%、中間は 35.6%、35.4%。またてんかん型
者がもっとも悲観的でヒステリー的性格者および
循環型者がもっとも楽観的。
詔書をきいて意外に感じたのは戦災者で 40.8%、
非戦災者で 38.9%とほぼ同率であったが、当然と
感じたのは戦災者で 33.5%、非戦災者で 22.7%と
戦災者におおかった。呆然としたものはそれぞれ
33.4%、35.5%で両者ほぼ同率であった。意外は
てんかん型者にすくなく当然はてんかん型者、つ
いで分裂型者におおく、呆然はヒステリー的性格
者、ついで循環型者におおい。
戦災者は関心が自己に限局される傾向をしめし、
男女ともに敗北感がつよく、戦局悲観にかたむい
ていた。証書を当然と感じたのは戦災者におおく
みとめられ、これらの変化は戦災なる環境がおよ
ぼした影響とかんがえられる。
Ⅲ.調査者によるまとめ(その 2)―性格的分類に
よる変化の傾向 まとめのなかから、性格的分類
- 14 -
May, 2014
による記述をと
りだしてみる、―
上記の変化を性格的分類にしたがってみるとき
顕著なことは、ヒステリー的性格者が他に比し断
然つよい反応をしめしている、つまり、空襲によ
ってつよい影響をうけている点であって、これに
反し残余群あるいは中間群はもっとも過不足のな
い中庸的な反応をしめしている。しかし、質的な
特異性がよくみとめられるのは、このほかの 3 類
型、すなわち循環、分裂、てんかんの 3 型である。
これらは調査項目にしたがって、あるいは最高率
の反応をしめし、あるいは最低率の反応をしめし
つつ、よくこれら3型のあいだの性格的特異性を
えがきだしているのである。
循環型者が他に比して目だつ点は、待避中に敵
機を見物し(39%)、比較的感情過敏であり(21%)、
日本の運命につよい関心をしめし(50%)、戦局見
通しは楽観的であり(18%)、詔書をきいて呆然と
している(41%)。
分裂型者は無月経が他に比しておおく(8.4%)、
循環型者では 1.4%、てんかん型者では 0(ただし
ヒステリー的性格者では 10%)。警報によって震
え(12%)
、冷や汗(7%)
、尿意促迫(19%)など
のつよい反応をしめし、感情過敏(25%)、臆病
(7%)、なきやすく(9.6%)、つよい疲労感(35%)
をしめし、錯聴ももっとも高率である(47%)。自
己および家族に対しまた勤務先、日本の運命に対
する関心はもっともひくい(51%、7%、43%)。
てんかん型者は苦悶性の夢(18%)、食欲不振
(13%)、体重減少(24%)においてたかい率をし
めすが、無月経は 0 であり、警報による動悸
(5%)、尿意促迫(21%)はもっともひくく、錯
聴もすくなく(26%)、錯視は 0 で、一般にかかる
病的現象はすくない。行動面ではその緩慢(41%)
が目だち仕事不能および放棄は 0 で、聴視覚過敏
(71%)であるが、感情敏感はすくなく(13%)
、
臆病(0)、易泣(0)、易怒(13%)、恐怖(0)、はと
もに最低値をしめしている。自己ならびに家屋に
対する関心はつよく(71%)、敗戦感が比較的おお
く(16%)、戦局見通しは悲観的(42%)で、証書
をきいて当然とおもっている。
ヒステリー的性格者はすべてに敏感で、空襲に
よる影響がつよいのであるが、なかでも睡眠時間
減少(53%)
、排尿回数増加(20%)ならびに減少
(10%)、陰萎(5%)がおおく、それよりもなお、
警報による震え(23%)、動悸(28%)、冷や汗
(13%)
、便意をもよおす(13%)
、目がみえなく
なる(8%)、きこえなくなる(10%)、手足の力が
ぬける(10%)、などは、断然高率にみとめられる。
行動では不安で落ち着きなく(28%)
、仕事を放棄
し(5%)、なきやすく(18%)、つねに恐怖性であ
る(5%)。戦局見通しは楽観的であった(30%)。
ヒステリー的性格者が他型に比し比較的すくない
率あるいは同率をしめしたものは、待避敏速
(40%)と易怒性(23%)
、つぎに日本の運命にた
いする関心(45%)
、戦闘意識旺盛(28%)
、戦局
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
悲観(33%)
、詔書をきいての意外(28%)および
当然である(23%)である。すなわち、一般的に
はなはだ敏感で、ことに警報の際の病的現象など
はことに高率であるが、これに反し、社会に対す
る関心事は大半が低率をしめしているところに、
その特異性がみとめられる。
残余群あるいは中間群は前述のように、過不足
なく中庸をえた反応をしめし、ほとんどすべて平
均値よりもわずかに低率をしめし、かつ、大部分
が循環、分裂、てんかんの各型がしめす数値の範
囲内にはいるのである。その 3 型よりもわずかに
たかい率をしめすものとしては、睡眠時間の減少
(36%)があり、月経不順(3.2%)、警報による
動悸(14%)
、待避敏速(49%)
、戦局見通しの中
間的態度(46%)
、詔書に対して意外(41%)
、戦
局見通しの中間的態度(46%)
、詔書にたいして意
外(41%)があり、わずかに低率をしめすものと
しては、体重減少(13%)
、性欲減退(1.4%)、警
報による冷や汗(0.4%)、聴視覚過敏(50%)、元
気欠乏(5%)
、疲労感高進(21%)、戦闘意識旺盛
(23%)、敗戦感(8%)、戦局楽観(9%)がある。こ
れらも高率も低率もどちらも僅差であった。ここ
にあらわれたことから察するに、本群はもっとも
正常なものとみなすことができるとともに、鈍感
な型とみなすこともできるのである。
つぎに性別をみれば、一般に女性は男性に比し
て敏感であるが、それは身体的変化ならびに行動
面の変化においてわずかに過敏であるにすぎない。
これに反して、感受性変化ならびに病的現象にお
いては著明な差をもって過敏をしめすにいたる。
たとえば、感情過敏(25%対 12%)、臆病(8.5%
対 3%)
、なきやすい(7%対 1%)、空襲に対する
恐怖(12%対 4%)、警報による震え
(15%対 5%)、
動悸(22%対 5%)、尿意促迫(27%対 14%)
、目
がみえなくなる(2%対 0.5%)、脱力(4%対 2%)、
幻聴(18%対 6%)、錯聴(52%対 22%)、錯視(9%
対 3%)のごとくである。待避中に眠気をおぼえ
るもの(32%対 23%)、自己ならびに家族への関
心(81%対 54%)、戦局楽観(20%対 12%)、詔
書意外(47%対 34%)も比較的おおく、ことに証
書に呆然としたものは高率(48%対 27%)である。
これに反し、男性に高率をしめすものとしては、
性欲減退(2.7%対 2.5%)、待避中観戦(38%対
27%)、仕事放棄(1.1%対 0.6%)、戦闘意識旺盛
(29%対 25%)
、詔書に対し当然と反応するもの
(28%対 17%)であって、これらの結果は、男性
の理知的、積極的なのに対し女性は感情的で病的
現象を生じやすく、比較的楽観的であることをし
めすものである。
4.考察
Ⅰ.調査結果について
第 3 章において調査でえられた結果をほぼその
ままに紹介した。ここで、
「Ⅰ.全体の数字」にあげ
た数字と「Ⅱ. Ⅲ.調査者によるまとめ」にあげた
数字とが、同傾向ではあるが、くいちがうことが
- 15 -
気になる。Ⅰ.のほうは被調査者 739 名を分母とし
てえられた数字である。Ⅱ.では戦災者・非戦災者
の違い、また性格による違いを明確にするために、
記載に不備のあるものをのぞいたものと推定され
るが、どういう基準でその基礎になる人達がえら
ばれたのか、またその実人数が何名であったか、
あきらかでない。かきこまれていた“てんかん型・
ヒステリー的性格をのぞく戦災者 186 名、非戦災
者 174 名”との記載が、Ⅱ.の対象者をさすとする
と、Ⅱ.では全体の 54.5%ほどがえらばれたことに
なる。
第1章でものべたように、空襲精神病という突
出したものと、その基盤にある市民の空襲体験と
を並行してしらべてみようという、慶應義塾大学
医学部神経科教室の研究構想はまことにすぐれた
ものであった。しかも、空襲体験としての身心の
変化を比率としてとらえようとしているだけでな
く、性格類型による変化比率の違いもとらえよう
としている。ここにつかわれた性格質問表は、今
日の目からすると、あまりにおおざっぱにすぎる
ものではあるが、それでも性格類型による差まで
つかみとっている点には注目しておきたい。
ところで、調査結果をみると、調査者たちも指
摘しているように、持続的な身心の変化が比較的
低率であったことが目につく。とくに、体重減少
が全体の 15.7%にすぎなかったことにおどろく。
わたしは立津政順の「戦争中の松沢病院入院患者
の死亡率」(1958) 2) に,1945 年の患者死亡率が
40.9%であったことに衝撃をうけ、その後戦争中
の各施設における死亡率をさぐってきた。3)4)5)立津
の記載によれば、1944 年 4 月にある男病棟の患者
の平均体重は 42.05Kgであったが、1957 年 7 月に
は 52.6Kgに回復していた。わたしが同病院の北島
治雄看護長からききとったところでは、べつの病
棟で“
〈昭和〉二十年になると浮腫もこなくなりま
した。やせる一方ですよ。その時分には男の平均
体重が四十一キロぐらいでしたでしょう。体温は
三十六度以下になり、脈も六十あればいいほうで
した”
。6)
つまり、体重減少は 100%の患者にみられ、成人
男の平均体重を 52Kg だったとしても、体重減少
は 23%に達する。
調査票前半の個人属性調査のなかに負傷、死亡
についての設問はあるが、調査者はそれをかぞえ
ていない(おそらく、かぞえあげるだけの数値に
達しなかったのだろう)。そして結果の全体には、
空襲被害報告にただよっている、やけこげた屍体
の臭いはまったくただよっていない。
慶應義塾普通部の所在地は芝区三田網町(現芝
区三田二丁目)、都立第十高等女学校の所在地は豊
島区千早四丁目(現在もおなじ、現在は豊島高等
学校)である。慶應義塾普通部の周辺は 3 分の 1
ほどが戦災にあっていたろうが、ここに通学して
いた生徒は東京の山の手にすむ人がおおかったろ
うし、その居住地の半分あまりが戦災にあってい
ただろう。しかし、下町のように絨緞爆撃で区の
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
響は当然想定されるが、はっきりそれをいうには、
1966 年以降の患者統計などによって裏づける必
要がある。
(この内容は、
「戦争と精神科医療、精神医学、そ
して精神医学者」シリーズの一環として、2007 年
10 月 28 日の第 11 回精神医学史学会および 2013
年 12 月 8 日第 34 回 15 年戦争と日本の医学医療
研究会で発表した。
)
ほとんどがやきつくされることはなかったろう。
都立第十高等女学校の所在地は豊島区の北端で、
北に板橋区(現在の板橋区および練馬区)が接し
ており、この周辺はほとんど戦災にあっていない。
7) そこで、この調査結果にでているものは、比較
的おだやかな空襲体験になっているのだろう。
もう一つの問題は、敗戦後 1 年という調査時点
である。つらかった体験の回想に時間がどう影響
するか。この点についてどういう研究がなされて
いるか、しらない。敗戦を機に抑圧されていたも
のが解放され、回想も解放感にいろどられるが、
ある期間をへて比較的客観的な回想におちつくと
いった経過が想定される。とすれば、満 1 年とい
う時期は回想にどう影響していただろうか。戦争
中の気分、戦闘意識、戦局観などはさまざまな変
化をたどっていただろう。それを 1 語で評価でき
るかどうか。
回答結果には、こりかたまったはげしい聖戦意
識は感じられない。子供に中等教育をうけさせる
家庭は中産家庭であったし、知識階級に属する人
もおおかったろう。国民一般よりは、戦争に対し
冷静であったかもしれない。また、中産家庭であ
れば、配給外の食糧入手についてもいくらか途は
あっただろう(すくなくとも、精神病院入院患者
とはちがっていた)
。都立第十高等女学校周辺には
まだかなり農地もあった。食糧事情は身心状態の
変化だけでなく、戦局観にもかなり影響していた
はずである。
Ⅱ.後遺症はあったか
調査票の第 33 問への回答には、各種変化が 1 か
月以内にきえたのが 4.5%、数か月つづいたのが
4.5%、今もつづくのが 5.2%とあり、約 10%の人
で各種変化がその発生後かなりながくつづいたこ
とになる。その変化が何番のものであったか、身
体的変化か精神面の変化か、はのこされていない。
おそらく何人かは、今日“外傷後ストレス症候
(PTSD)”とよばれる状態であったろう。
沖縄戦を体験した沖縄県民についての當山冨士
子8)・蟻塚亮二9)らの調査、また前報でもふれた東
京大空襲(主として 3.10 空襲)体験者についての
野田正彰の調査10)は、老年になって不眠、当時の体
験の悪夢、魚をやく匂いによる屍体のこげた匂い
のよみがえりなどの、いわば遠隔外傷後ストレス
症候というべきものをみいだしている。
わたしは 1966 年に、日本政府援助による琉球政
府の精神衛生実態調査に参加した。11),12) それは、
1963 年本土の精神衛生実態調査に準じておこな
われたが、でた結果は、沖縄における精神疾患有
病率は本土に倍するというものであった。本土か
ら参加した調査員(精神科医)は社会的関心のつ
よい人ばかりであったが、はっきり沖縄戦に直接
むすびつく事例をみいださなかった。沖縄調査で
は調査精度が本土よりたかかったことはたしかで
あるが、それだけで説明できるのか。沖縄戦の影
文献
1)岡田靖雄:空襲時精神病―植松七九郎・鹽入圓
祐の資料から。15 年戦争と日本の医学医療研究会
会誌 10(2):10-14,2010
2)立津政順:戦争中の松沢病院入院患者の死亡率
―。精神神経学雑誌 60(5):596-605,1958
3)岡田靖雄:戦時下の精神科病院での死亡率。15
年 戦 争 と 日 本 の 医 学 医 療 研 究 会 会 誌 4(2) :
25-18,2004
4)岡田靖雄:戦争のなかの精神障害者(青人冗言 7)
。
青柿舎,2011
5)岡田靖雄:ハンセン病患者および精神病患者の
比較法則・処遇史(青人冗言 8)。青柿舎,2012
6)(岡田靖雄):癒えざる者の声。日本残酷物語.
現代編 1.引き裂かれた時代:299-330、平凡社・東
京,1960
7)コンサイス東京都 35 区区分地図帖・戦災焼失区
域表示[復刻版、元版 1946]。日地出版株式会社・
東京,1985
8)沖縄戦トラウマ研究会(代表當山冨士子)
:終戦
からの 67 年目にみる沖縄戦体験者の精神保健.沖
縄戦トラウマ研究会。沖縄県浦添市,2013
9)蟻塚亮二:沖縄戦によるストレス症候群(PTSD)。
病院・地域精神医学 54(4):383-387,2011
10)野田正彰:
(東京大空襲)意見書[裁判所提出]。
野田正彰・京都市,2008
11)琉球政府厚生局公衆衛生部予防課編:1966 年沖
縄の精神衛生実態調査報告書。沖縄精神衛生協
会,1969
12)岡田靖雄:沖縄行(1966 年)
(青人冗言 9)。青
柿舎,2012
著者プロフィール
岡田靖雄(おかだ・やすお)
1955 年医学部卒業。精神科医で東京都立松沢病
院、東京大学医学部、荒川生協病院などに勤務。
現在青柿舎(精神科医療史資料室)主人。
著 書 に 『 精 神 科 慢 性 病 棟 』( 岩 崎 学 術 出 版
社 ,1971 )、『 私 説 松 沢 病 院 史 』( 岩 崎 学 術 出 版
社,1981)、『呉秀三 その生涯と業績』(思文閣出
版,1982)、『精神病医齋藤茂吉の生涯』(思文閣出
版,2000)、
『日本精神科医療史』
(医学書院,2002)、
編集『精神障害者問題資料集成』
(六花出版、2010
~)
、
『吹き来る風に 精神科の臨床・社会・歴史』
(中山書店,2011)ほか。
- 16 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部 715 号の解題
西山勝夫
滋賀医科大学
Annotation for the Army Medical School Research Report of Epidemic Prevention 2(715)
NISHIYAMA Katsuo
Shiga University of Medical Science
1.
利用機関としての機能と国立国会図書館支部農林水
はじめに
陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部1) については、
産省図書館の分館として、国内外の農林水産分野の
15 年戦争と日本の医学医療研究会のプロジェクト
学術情報を幅広く収集し、提供・保存を行っていま
チームが行った解題結果が、15 年戦争と日本の医学
す。また、全国にまたがる農林水産省試験研究機関
医療研究会のホームページ2) 上に公開されている。
等(1 国立研究所及び 6 独立行政法人研究所等合わせ
その際に明らかになっていた 700 番台の号数は下 2
56 研究拠点)に設置された図書室と連携し、総合目
桁で示すと、02, 06, 07, 10, 11, 14, 23, 25, 36, 41, 44,
録の構築、文献複写、相互貸借、レファレンス等、
54, 63, 67, 68, 78, 80, 87, 88, 89, 90 であった。その
所属の研究者への情報サービスを提供しています」
後、奈須3) が見出した金子順一の学位論文中の参考
と説明されている。電話番号:029-838-7284 に電話
論文に、791 号が見出された。また、西山による 731
し、用件を述べると、レファレンス係員が電話口に
部隊関係者等の京都大学医学部における博士論文の
出てこられた。そのやり取りで、陸軍軍医学校防疫
検証4, 5) では、758 号が見出された。
研究報告は第 2 部 715 号のみが収蔵されていること
今回は、新たに 715 号6) を見出したので、その解
が判明した。滋賀医科大学附属図書館を通じて相互
貸借ができるとのことであったので、同図書館の図
題結果を紹介したい。
書課情報サービス係を経て貸出を受けることにした。
2.
図 1 は、手元に届いた文献の表紙の画像である。
発見の経緯
筆者は随時 NACSIS Webcat - CiNii Articles - 国
表紙には、表題「血清等ノ凍結眞空乾燥法」、著者
立 情 報学 研究 所 の文 献デ ー タベ ース ( 現在 は、
「陸軍軍醫學校防疫研究室(部長 石井少将)内藤良
http://ci.nii.ac.jp/)などを通じて、
「陸軍軍医学校防
一」
、陸軍軍醫學校防疫研究報告の他の号の多くと同
疫研究報告」などキーワードとして検索して検索を
じように、㊙が印刷され、書誌情報には、陸軍軍醫
行っている。2013 年 9 月の検索で同キーワードで
學校防疫研究報告のルールに基づいて、第 2 部↲総
新しいヒット(陸軍軍醫學校防疫研究報告. 第 2 部
説↲分類↲358-004↲374-↲375-↲395-001↲570-96↲受付
陸軍軍醫學校防疫研究室 陸軍軍醫學校 所蔵館 1
昭和 18. 11. 22 が印刷されている。表紙、目次をふ
館)があった。所蔵情報には、「農林水産省 農林水
くむ総ページ数は 116 の装丁である。
1943-1943 715 と
表題の下部には、朱肉で根井蔵書の印判があり、
あった。同センターの住所は、〒305-8601 茨城県
その朱印の右端部に上から○囲いの消が押印されて
つくば市観音台 2-1-9 で、同センターのホームペー
いるのは、個人の蔵書から所蔵先に所有変更があっ
ジによれば「農林水産研究情報総合センターは、農
たことを示すものと思われた。
産研究情報総合センター
林水産省試験研究機関等の文献情報サービスの共同
- 17 -
連絡先: 〒520-2192 大津市瀬田月輪町 滋賀医科大学社会医学講座衛生学部門
Address: Division of Hygiene, Department of Social Medicine, Shiga University of Medical Science,
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
図 2. 陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部 715 号の
最後のページのスタンプとラベル
たが、
「わからない」という返事であった。
図 1. 陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部 715 号の
以下、同書を防研報告 2(715)と称することにする。
表紙
3.
最後のページには、図 2 のようなスタンプとラ
防研報告 2(715)の目次
防研報告 2(715)の目次の翻刻結果を表 1 に記す。
ベルがあった。
目次からは、本報告が、高性能の凍結眞空乾燥装
置の製作をめざして、必要な物理学的側面の基礎か
同書が手元に届いてから、あらためて農林水産研
ら応用にいたるまでの事項を体系的に検討した総説
究情報総合センターレファレンス係に、同センター
であることが伺える。
が当該書を収蔵した時期や経過、根井蔵書のいわれ
や他に根井蔵書が収蔵されているのかを問い合わせ
表 1.目次(右端の数字は、著者がつけたページ番号)
0.0.0.
緒言
6
1.0.0.
概説
6
2.0.0.
1.1.0.
一般乾燥方法ノ種類
6
1.2.0.
凍結眞空乾燥法ノ歴史
7
1.3.0.
凍結眞空乾燥行程ノ概要
8
1.4.0.
凍結眞空乾燥ノ輿フル利益
8
1.5.0.
装置ノ概要
9
1.6.0.
凍結眞空乾燥法ニ關スル本篇記述ノ限定
9
10
乾燥及蒸發ノ基礎物理學
- 18 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
2014 年 5 月
2.1.0.
気化及凝結ノ物理學的定義
10
2.2.0.
蒸気張力ト蒸發及乾燥
11
2.3.0.
乾燥ノ終末トハ何カ、「平衡水分」及「自由水分」
11
2.4.0.
乾燥程度ノ數的取扱、「含水率」
13
2.5.0.
水及氷ノ最大燕汽張力(飽和壓)及夫ト温度トノ關係
14
2:6.0.
溶液ノ燕汽張力、Raoult ノ法則
16
2.7.0.
蒸發ニ於ケル「眞空」叉ハ空気混在ノ意義
17
2.8.0.
沸点、其ノ燕汽トノ關係
18
2.9.0.
蒸發ノ潜熱
18
2.10.0.
乾燥ノ機構
18
2.11.0.
乾燥速度ノ段階
19
2.12.0.
3.0.0.
第 14 巻 2 号
2.11.1.
恒率乾燥
20
2.11.2.
減率乾燥第一段
20
2.11.3.
減率乾燥第二段
22
24
溶液ノ液状ニ於ケル乾燥
26
眞空
3.1.0.
3.2.0.
3.3.0.
3.4.0.
27
気體及気體分子ノ性質
3.1.1.
気體ノ壓力、體積並ニ温度ニ關スル基本法則
27
3.1.2.
気體ノ単位體積中ノ分子數
27
3.1.3.
気體運動説ニ於ケル壓力ト温度
28
3.1.4.
気體分子ノ運動速度
29
3.1.5.
気 體分子ノ自由行程
29
3.1.6.
容器壁ニ衝突スル分子數
29
3.1.7.
粘性
30
3.1.8.
熱傳導率
30
3.1.9.
擴散
30
3.1.10.
気體分子ノ性質一覧表
31
31
眞空ノ概念及単位
3.2.1.
眞空ノ概念
31
3.2.2.
気壓の単位
31
3.2.3.
眞空度ノ表示方法
32
3.2.4.
眞空中二於ケル気 體分子ノ状態
32
33
眞空度測定法
3.3.1.
測定法ノ種類
33
3.3.2.
単純ナル水銀柱ニヨル測定法
33
3.3.3.
Boyle ノ法則ニヨルモノ Me-Leod 眞空計
34
3.3.4.
気體ノ輸送現象ヲ應用セルモノ
35
3.3.5.
気體ノ電気的性質ヲ應用セルモノ
36
39
「 眞空ポンプ」
- 19 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
4.0.0.
3.4.1.
眞空ポンプ」ノ性能表示
39
3.4.2.
眞空ポンプ」ノ複合、組ミ合ハセ
40
3.4.3.
実用眞空ポンプノ種類
40
3.4.4.
凍結眞空乾燥ニ於ケル眞空ポンプ」ノ選定
44
3.4.5.
Cenco 型廻転油ポンプ」
46
3.4.6.
水銀蒸汽ポンプ」
47
3.4.7.
油擴散ポンプ」
48
3.5.0.
眞空中ニ於ケル水蒸汽ノ容積
49
3.6.0.
眞空導管
50
3.6.1.
導管ノ抵抗
50
3.6.2.
眞空ポンプ」ノ有効速度ト眞空導管ノ太サ及長サトノ開係
50
3.7.0.
眞空間際ノ被覆膏劑
51
3.8.0.
再ビ凍結眞空乾燥法ニ於ケル高眞空ノ効用
52
53
凍結
4.1.0.
4.2.0.
5.0.0.
May, 2014
53
溶液ノ氷結
4.1.1.
氷點氷点降下
53
4.1.2.
含氷體ノ生成及完全凍結
53
4.1.3.
血清等生物學的材料ノ氷結
56
56
寒劑
4.2.1.
「ドライ・アイス」
56
4.2.2.
「ドライ・アイス」ノ媒熱液
57
4.2.3.
鹽氷寒劑
60
4.3.0.
氷ノ蒸發
61
4.4.0.
氷ノ融解
62
4.5.0.
凍結眞空乾燥法ニ於ケル蒸発及融解ノ熱平衡、自動凍結
64
4.6.0.
血清等ノ凍結篠紋
65
4.7.0.
凍結ニヨル血清効價減弱
65
65
吸濕劑及吸濕装置
5.1.0.
吸濕劑ノ必要ナル理由
65
5.2.0.
吸濕劑ノ種類
66
5.3.0.
凍結眞空乾燥法ニ於ケル吸濕劑ノ選定
67
5.4.0.
5.3.1.
凍結眞空乾燥吸濕劑ノ具備スベキ性能條件
67
5.3.2.
一般吸濕劑ノ乾燥時ノ水蒸汽張力
68
5.3.3.
「 寒冷トラップ」ノ水蒸汽張力
69
5.3.4.
硫酸ノ水蒸汽張力
69
5.3.5.
一定ノ水蒸汽張力中ニ於ケル除濕劑ノ吸濕量ノ測定方法
72
5.3.6.
各種吸濕劑ノ低水蒸汽張力中ニ於ケル吸濕量
72
5.3.7.
其ノ他ノ選定資料
75
75
石膏
- 20 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
一般性状
75
5.4.2.
除濕劑トシテノ性能
76
5.4.3.
石膏ヲ容ルル除濕槽ノ設計資料
76
寒冷トラップ」ニ消費スル「ドライ・アイス」ノ量
79
80
「アンプラ」
6.1.0.
乾燥速度ヲ大ナラシムルガ如キ形状、並ニ液ノ入レ方
81
6.2.0.
蒸汽ノ通過ヲ妨ゲザルゴトキ頸管ノ寸法
82
6.3.0.
眞空熔封ヲ容易ナラシムルガ如キ頸管ノ寸法及質
93
6.4.0.
注水ヲ容易且便利ナラシムル構造
84
6.5.0.
「アンプラ」ノ設計例
84
6.5.1.
20cc 血清用「 アンプラ」
84
6.5.2.
120cc 用血清アンプラ」
85
6.5.3.
120cc 用類橢圓體アンプラ」
86
6.5.4.
輸血用乾燥人血清ニ用フル「アンプラ」(200cc〉
86
6.5.5.
其ノ他
90
90
乾燥装置全般
7.1.0.
7.2.0.
7.3.0.
8.0.0.
77
寒冷トラップ
5.5.1.
7.0.0.
2014 年 5 月
5.4.1.
5.5.0.
6.0.0.
第 14 巻 2 号
90
乾燥装置
7.1.1.
眞空コック」
91
7.1.2.
眞空導管
92
7.1.3.
架
92
7.1.4.
接置全般トシテノ釣合
92
92
其ノ他ノ附属器具
7.2.1.
ゴム栓抜去具
92
7.2.2.
頸管壓除具
93
7.2.3.
「アンプラ」支持金具
94
7.2.4.
頸管熔封具
97
多岐管ヲ用ヒザル乾燥器ノ形式
98
99
乾燥工程
8.1.0.
被乾燥體
99
8.2.0.
凍結
99
8.3.0.
乾燥ノ進行
100
8.4.0.
8.3.1.
脱水ノ量ノ経過、乾燥ニ於ケル内藤係數
100
8.3.2.
乾燥中ニ於ケル単位時間蒸発量
102
8.3.3.
乾燥速度ニ影響ヲ及ボス因子
102
8.3.4.
乾燥「アンプラ」ノ外部ョリ内部ヘノ熱傳導
103
8.3.5
乾燥中ニ於ケル眞空ノ低下及眞空漏出部位ノ検出法
103
乾燥ノ終末
104
8.4.1.
105
某乾燥時間ニ於ケル残水準ヨリ内藤係數ヲ求ムル表、某乾燥時間
- 21 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
ニ於ケル残水率ヨリ他ノ任意ノ時間ニ於ケル残水率ヲ求ムル表,並
ニ内藤係數ノ各種ノ値ヨリ任意ノ時間ニ於ケル残水率ヲ求ムル表
8.5.0.
9.0.0.
8.4.2
向上目的ノ計算絵圖
105
8.4.3.
「 鹽化コバルト」ヲ以テスル乾燥度ノ概測
107
108
仕上ゲ
109
乾燥成品ノ性状及本乾燥法ノ効用用途
9.1.0.
9.2.0.
乾燥成品ノ物理學的性状
109
9.1.1.
乾燥成品ノ形態
109
9.1.2.
溶解
110
本乾燥法ノ用途及効用
111
9.2.1.
111
乾燥操作ニヨル効價損失
10.1.0.
記號表
112
10.2.0.
引用文献
113
挿圖
42
表
40
110
數式
4.
たる。
防研報告 2(715)の内容の概要
緒言(翻刻)は以下のとおりである。
「近時我ガ細菌學血清學ノ領域ニ凍結眞空乾燥法
「1.2.0. 凍結眞空乾燥法ノ歴史」では、海外の文
ガ廣ク試ミラレ、各種ノ利益ヲ認メラレ来レリ。余
献レビューの結果について、
「大量ノ乾燥ニ適スベキ
ハ昭和 14 年来本乾燥法ノ研究ニ従事シ其ノ原理、
装置ヲ大成シ工業化ノ分野ヲ開拓」、「装置ノ改善ヲ
設備、効果等各般ニ亘リテ研究成果ヲ報告スルコト
ナシ擧ゲテ」の「工業化」は、
「殆ド全テ米國學派ニ
36 篇ニ及ビタルモ、近時本乾燥法ノ應用益々繁キヲ
於テ行ハレ、獨、英、佛、
「ソ」等ニ於テハ此ノ間見
加フルニ及ビ竝ニ之ヲ一度總括スルノ必要ヲ生ジタ
ルベキ文献ナカリキ。」と述べ、引き続き、以下のよ
リ。
うに述べている(尚、文中の文献番号は翻刻した文
献番号を指す)。
本研究ハ素ヨリ未ダ完成ノ域ニ非ズ現在ノ進度ハ
余自身ノ期セル所ノ半バニ達セザルモ敢テ竝ニ本總
「本邦ニ於テハ、村上(28, 29) (昭 13)ハ血清補體、免
括的記述ヲ試ミル所以ハ之ヲ以テ後續研究者ノ利便
疫血清及若干ノ細菌ニ閥シ實験シ優秀ナルヲ認メタ
ニ供セントスルニ他ナラザルナリ。
リ。
本篇ニ於テハ主トシテ血清ニ關スル事項ヲ述ブ」。
以上ノ業績ハ全テ「某方法ヲ以テ乾燥セバ其ノ成
緒言には、
「研究成果ヲ報告スルコト 36 篇ニ及ビ
果ヲ得タリ」トナスニ止マリアリテ其ノ中間ノ過程、
タル」とあるが、後述の翻刻した引用文献では、著
各種ノ基礎條件ヲ求ムルニ由ナキモノアリシガ、内
者に内藤が含まれる論文は 17 篇のみである。引用
藤ハ昭和 14 年米国ニ於テ實際ノ進度ヲ目認シ帝国
文献(12)では 2 篇が一括してあげられているので、
ノタメ心安ンズルトコロアリ、同年来安東、三谷、
これを 2 篇とすると陸軍軍医学校防疫研究報告の引
平野、久保田、野口、岡部、若月、小泉、川叉等ト
用篇数は 36 篇となり、内藤のあげている 36 篇とち
協同シ本乾燥法ト其ノ應用ノ飛躍的躍進ニ資スルタ
ょうど一致するので、本総説はそれらの集大成に当
メ基礎的各種條件ノ探求ニ努メ、其ノ間報告ヲ提出
- 22 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
スルコト 36 篇ニ及ビ、略々所期ノ概ネ半バヲ達成
に送るまでになっている。
スルニ至レリ。
4-6. 真空乾燥の工業化の飛躍的躍進のためは優秀
な機械製作者の協力が必要である。
此ノ間敵米國ニ於テハ着々進歩ヲ見アルモノノ如
ク、輸血代用トシテ乾燥人血清ノ大量生産ヲナシ各
p8 から p111 までは本論である。p72 の段落番号
戦線ニ迭リアリ、特ニ優秀ナル機械製作者ノ協力ハ
は本来 3.5.5 および 3.5.6.であるべきだが、5.5.5 お
之ヲ促進アルモノト考ヘラル」。
よび 5.5.6.と誤っている。
以上ノ要旨は以下のとおりである。
4-1.文献レビューによれば、海外での真空乾燥の工
7.0.0. 乾燥装置全般の項では、東京市日本特殊工
業化は米国がもっとも進んでいる。
4-2.その米国における真空乾燥過程に関する 1939
業株式会社の製作による、第一次製造小型品(p90)、
年の実態調査に基づけば、米国も日本としては安心
第 2 次製作大型品(p91)の写真が掲載されている
(参
できる程度である。
図 1、2)。
4-3.帰国後、真空乾燥の工業化の飛躍的躍進に努め、
漸く道半ばに達した。
4-5.米国では早くも乾燥人血清を大量生産し各戦線
- 23 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
図1
May, 2014
第 32 圖 第一次製造小型品
0.38 m3
除濕機容量
除濕劑容量
CaSO 4
24 kg
コック内径
1.5 cm
コック數
56 個
- 24 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
図2
2014 年 5 月
第 33 圖 第二次製造大型品
480
コック數
除濕槽
2 個
真空ポンプ
3 台
内藤は、本論を以下のようにまとめている。
シテ徴生物、血清ノ領域ニ於テ小規模ニ行ハレアル
すなわち、本文の最後のページ(p111)の「本乾燥
ニ過ギズ。第 40 表(表 2 に翻刻結果を示す)ヲ以
テ表示ス」。
法ノ用途及効用」において、
「凡ユル用途ニ供シ得ベキモ今日迄ノトコロ主ト
表 2. 防研報告 2(715)の第 40 表(翻刻)
品種
血清
補體血清
診断用(凝集素)血
清
血清抗體
血型診定用標準
治療(免疫)血清
著者
効用其ノ他
Boernor-Lukens(8)
保存極めて長期に亘る
29
村上( )
内藤―平野―若槻(31)
内藤―渡邊(30)
内藤―若槻(41)
太田(58)
- 25 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
Karsner & Collins(20)
輸血用代用人血清
Mudd, Flosdorf, Eagle(27)
内藤―村田―久保(43)
血液
内藤(35) 津山―久保(63)(64)
極めて易溶性ノモノヲ得
平野(12)(13)(14)(15)
Brown(4) Elser & Thomas(6)
久保田~小泉(22)
細菌(保存菌株)
Morton-Pulaski(26)
村上(23) 野口(47)-(52)
微生物
Rake(54) Rogers(55) 下間(59)
Stark(60) Swift(62)(61)
黄熱病毒
痘苗
其ノ他ノ病毒
食糧品ヲ主トスル生蛋白
5.
長期ニ亘リ生存セシメ得。
Sawyer(57)
Gibbus(11)
Rivers-Thomas-Ward(50)
安東(1) Kaiser(18)
Gibbus(11)
傳染性 Laryngotracheitis virus ノ良好ナル保存
17
Harris-Shackell( )
狂犬病毒
21
小山―茂貫―村上( )
conditions. J. of exp. Med. Vol. 71. p. 83. 1940
引用文献
引用文献の翻刻結果は表 3 に示す。
(3) Boerner, F. & Lukens,M.:The advantages of
引用文献番号は 75 まで、文献総数は(12)で 2
vacuum dried complement for use in the routine
文献が一括してあげられているので、76 文献である。
Wassermann reaction. Am. med. Ass,1922 p.272
64 番目までは第一著者のアルファベット順にあげ
1936
(4). Brown, J. H.:The preservation of bacteria in vacuo.
られている。
日本語文献総数は 47 文献であり、その内陸軍軍
J. Back. vol. 23. p.44. 1932
医学校防疫研究報告が 36 文献である。陸軍軍医学
(5) Dunoyer, L.:Vacuum practice. G. Bell. & Sons Ltd.
校防疫研究報告の中には、第 1 部の 10 号が(36)、
18 号が(13)
、93、142 号が(12)にあげられてい
London, 1926, p.125
(6) Elser, W.J.,Thomas. B. A. & Steffen, G.I.:The
る。これらは、陸軍軍医学校防疫研究報告(復刻版) 1)、
dessication of sera and other biological products
先行研究4) と照合した結果、今回初めてその著者、
(including microorganisms) in the frozen state with
表題、発行年を確認できたものといえる。
the original qualities of product so treated. J. of Imm.
V.28,p.433. 1935
表 3. 引用文献(翻刻)
(7) Eyer, H. & Rohrmann. A.:Zsch. Hyg. u. Inf. 122.
p.584. 1940
(1) 安東:乾燥痘苗ニ關スル研究 昭 16. 陸醫校防疫
(8) Flosdorf, K W. & Mudd, S. : Procedure and
研究報告第 2 部第 198 號
apparatus for preservation in “Lyophile” form of
(2) Bauel, J.H. & Pickels,E. G.:Apparatus for freezing
serum and other biological substances. J. of. Imm.
and,drying virus in large quantities under uniform
Vol. 29. p.389 1935;
- 26 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
266 蹴
(9.) Flosdorf, E.W. & Mudd. S. : .An improved
(24) 久保問、小泉、石崎:凍結眞空乾燥法ニ於ケル
procedure and apparatus for. preservation of sera,
microorganisms
and
othor
substances.
The
冷却温度ト乾燥後ノ内部構造トノ開係 昭 17. 陸
Chryochem-Process. J. of Imm. 34. p.569. 1938
醫校防疫研究報告 第 2 部 第 301 號
(10) Hammond, W.A.,and Withrow, J. R.:Soluble
(25) 久保田、小泉:凍結眞空乾燥菌ニ封スル無電極
anhydrite as a Dessicating Agent. Ind. Eng. Chem.,
放電ノ影響 昭 17. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部
Vo1. 25. p.652 1933,
第 335 號
(11) Gibb, C. S.:The dessication and preservation of
(26) Morton, H.E., Pulaski, E. J.:The preservation of
infectious laryngotracheitis virus, J. Bact. 25. p.245.
bacterial cultures. J. Bakt. 35. p.163. 1938
1933
(27) Mudd, S., Flosdorf, E., W., Eagle. H. The
(12) 平野 晟:凍結乾燥ニ依ル保存法ニ關スル研究
preservation and concentration of human serums
第 1 報 陸醫校防研報、第 1 部 93 號第 2 報 142
for.c1inical use. J. Am. Med. As. Vol. 107. p. 956.
號 昭 15
1936.
(13) 平野:凍結乾燥ニ依ル保存法ニ關スル研究 第 5
(28) 村上廣子:高度眞空ニオケル細菌ノ乾燥及乾燥
報 鹽類ノ影響 昭 16、陸醫校防疫研究報告、第 1
ニヨル菌株保存ニ就テ 日徴生誌、32 巻 1045 號
部第 18 號
昭 13
(29) 村上廣子:高度眞空ニヨル補髄ノ乾燥及長期保
(14) 平野:凍結乾燥ニ依ル保存法ニ關スル研究 昭
存 日本微生物誌、第 32 巻 115 頁 昭 13
16、陸醫校防疫研究報台 第 2 部第 128 號
(30) 内藤、渡邊:凍結乾燥法ニヨル人血型診断用乾
(15) 平野、小泉:凍結乾燥ニ依ル保存法ニ關スル研
燥標準血清ノ製造 昭 14. 陸醫校防疫研究報告
究 昭 17、陸醫校防疫研究報告 第 2 部第 325 號
(16) 星合正治:眞空學学、電気工學講座、昭 11 オ
第 2 部第 5 號
(31) 内藤、平野、若月:凍結乾燥法ノ研究 (其ノ 2)
ーム・
(17) Harris, D.L. & Shackell,J.F.:The effect of
凍結乾燥法ニヨル診断用乾燥免疫血清ノ製造 昭
vacuum desication upon the virus of rabies with
14. 陸醫校妨疫研究報告第 2 部第 22 號
remarks upon a new method. J. Amer. Pub. Health
(32) 内藤、若月:凝集素血清ノ耐凍結性 昭 14. 陸
Ass. Vo1. 52. p.1. 1911
醫校防疫研究報告 第 2 部第 25 號
(18) Kaiser, S.F.:Zbl. Bakt. Ⅰ. (orig.) 139. p.405. 1937
(33) 内藤、山内:凍結乾燥法ノ研究 (其ノ 1) 凍結
(19) 亀井三郎:空気ノ調濕、乾燥、抽出、化学工學
乾燥法ニヨル乾燥血清ノ内部構造ニ就テ 昭 15.
講座 昭 10 共立・
陸醫校防疫研究報告 第 2 部第 21 號
(20) Karsnor, H.T., & Collins. K. R.:The influence of
(34) 内藤、若月、川叉:「ゴム栓ヲ施シタル硝子瓶
dessication on certain normal immune bodies. J. of.
ノ眞空保持 昭 15. 陸醫校防疫研究報告 第 45 號
Inf. Dis. Vol. 25. p.427. 1919
(35) 内藤:水ニ對シ容易ニ且平等ニ溶解スル乾燥血
ノ製造法 昭 15. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第
(21) 小山榮二、茂貫利次、村上忠夫:流髄物質ノ低
温乾燥 日新醫學、31 年 6 號、p.419. 昭 17
49 號
(22) 久保問、小泉:凍結眞空乾燥法ニ依ル生存保存
(36) 内藤:凍結眞空乾燥法ノ研究 (其ノ 6) 「アン
ニ於ケル乾燥度ノ菌生存ニ及ボス影響 昭 17. 陸
プラノ頸管及「コツク」ノ内径ト蒸汽通過量トノ
醫校防疫研究報告 第 2 部第 261 號
関係ニ闘スル計算 昭 15. 陸醫校研究報告 第 1
(23) 久保田、小泉:凍結眞空乾燥法ニ使用スル二、
三ノ器具 昭 15. 陸醫校防疫研究報告第 2 部第
部第 10 號
(37) 内藤、若月、川叉:「ゴム栓ヲ施シタル硝子瓶
- 27 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
ノ眞空保持 昭 15. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部
May, 2014
(50) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニ於ケ
第 45 號
ル生存保存方法ノ研究 第 5 篇 乾操時間ト生菌
(38) 内藤、若月:凍結眞空乾燥法ニ於ケル脱水経過
数トノ閥係 昭 17. 陸醫校防疫研先報告 第 2 部
x
y=e 昭 15. 陸醫校防疫研報告 第 2 部第 69 號
第 444 號
(39) 内藤、若月:凍結眞空乾燥法ノ研先 第 5 報 凍
(51) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニヨル
結眞空乾燥用血清アンプラ」ノ表面ヨリ内部へノ
生存保存方法ノ研究 第 6 篇 分注菌液量ト乾燥
熱傳導 昭 15. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第 39
後ノ生菌数トノ関係、昭 17. 睦醫校防疫研完報告
號
第 2 部第 445 號
(40) 内藤:凍結眞空乾燥法ノ研究 第 7 報 凍結眞空
(52) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニヨル
乾燥法ニ於ケル乾燥度早見表 昭 16. 陸醫校防疫
生存保存方法ノ研究 第 7 篇 保存温度竝ニ日光
研究報告 第 2 部第 117 號
ノ凍結眞空乾燥菌ニ及ボス影響 昭 17. 陸醫校防
(41) 内藤、若月:凍結乾燥法ノ研究 (其ノ 6) 治療
疫研究報管 第 2 部第 464 號
用血清ノ乾燥 昭 16. 陸醫校防疫研究 報告 第 2
(53) 太田(藤〕
:瓦斯壊疽血清ノ精製濃縮及凍結乾燥
部第 133 號
操作ニヨル抗毒素價ノ動揺ニ就テ 昭 18. 陸醫校
(42) 内藤、苓野、小泉:生存乾燥用「アンプラ」ノ
妨疫研究報告 第 2 部第 481 號
規格決定 昭 16. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第
(54) Rake, G.:Variability and virulence of frozen and
dried cultures of meningococcus. Proc. Soc. Biol.
166 號
Med. Vol. 32,p.975, 1935
(43) 内藤、村田、久保:米國及「ソ」聯邦ニ於ケル
(55) Rogers, L. A., The preparation of dried cultures. J.
輸血用乾燥血清ノ研究製造竝ニ補給ノ趨勢 (昭
Inf. Dis. Vol. 14. p.100. 1914
和 11 年 12 月) 昭 17. 陸醫校防疫研究報告 第 2
(56) Rivers, N.D., Thomas,M., Ward, S.M.:
部第 272 號
Jennennean prophylaxis by means of intradermal
(44) 内藤:凍結眞空乾燥ニ於ケル脱水経過ノ乾燥機
構見地ヨリスル理論的考察 昭 18. 陸醫校防疫研
injections of cultures vaccine virus. J. of exp. Med.
究報告 第 2 部第 662 號
Vol. 62. p.549, 1935
(57) Sawyer, W. A., Lloyd, W., & Kitchen. S.F.:The
(45) 内藤、井澤:血清等ノ含氷體成生温度 陸醫校
preservation of Yellow Fever Virus. J. exp. M. Vol. 50.
防研報 第 645 號
p.1. 1929
(46) 内藤、宮内:低壓ニ於テ使用スル吸濕剤ノ選定
(58) Shakell. L.F.:An improved method of dessication
昭 18. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第 665 蹴
with some applications to biological problems. Am. J.
(47) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニヨル
physiol. Vol. 24 p.325. 1909
生存保存法ノ研究 第 1 篇 好適メヂウム」ノ選定
(59) 舌間慶太郎:冷凍乾燥法ニヨル菌株保存 日本
昭 17. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第 208 號,
微生物誌、37 巻、475 頁 昭 18
(48) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニヨル
(60) Stark, S.N. and Herrington, B.L.:The drying of
生保存存ノ研究 第 2 篇 各種凍結温度竝ニ乾燥
温度ノ影響 昭 17. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部
bacteria aud the viability of dry bacterial cells. J. Bact.
第 216 號
21. p.13. 1931
(61) Swift, H.F., Preservation of stock cultures of
(49) 野口:弱毒「ペスト菌ノ凍結眞空乾燥法ニヨル
生存保存方法ノ研究 第 3 篇 乾燥菌ノ溶解ニ闘
bacteria by freezing and drying. J. exp. Med. 33. p.69.
スル實験 昭 17. 陸醫校防疫研究報告 第 2 部第
1921
(62) Swift, H.F., A simple method for preserving
262 號
- 28 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
bacterial cultures by freezing and drying. J. Bakt.
科学研究所が刊行する雑誌である。根井外喜男で検
Vol.33. p.411. 1937
索すると、低温生物工学会刊行の学術雑誌『凍結及
(63) 津山、三谷:特殊乾燥血輸血ニ於ケル家兎血壓
び乾燥研究会会誌(現在の継承雑誌は『低温生物工
ノ消長ニ就テ 昭 16. 陸醫校防疫研究報告 第 2
学会誌』)
』の第 31 巻が故根井外喜男先生追悼号であ
部第 93 號
ることがわかった。同号にはその略歴が掲載されて
(64) 津山、三谷:特殊乾堤血輸血ニ於ケル家兎赤血
いる(表 4 に翻刻)
。
以下の略歴より、1981 年 4
球、白血球、血色素、血液粘稠度竝ニ血液瓦斯等
月に農林水産省家畜衛生試験場客員研究員になって
ノ消長ニ就テ 昭 16. 陸醫校防疫研究報告 第 2
いることがわかり、この繋がりの関係で、陸軍軍医
部第 94 號
学校防疫研究報告第 2 部 715 号は根井蔵書が移管さ
(65) Chemical Engineers Handbook. Perry. J. H. Mc
れたと無理なく推察できる。同書を、根井が低温生
Graw-Hill Co. New york. 1934,p.674
物学の専門家としてたまたま収集し所蔵していたの
(66) Chemical Engineers Handbook,J. H. Perry. p.1261.
か、あるいは内藤らともっと深いつながりがあった
(The drying of Gases)
かどうかを調べてみるために、略歴に記されている
(67) 機械工學便覧、昭 12. 岩波書店
医学博士(北海道帝国大学〉を手がかりに、学位授与
(68) 緒方、近藤:化學實験操作法 昭 12. 南江堂
記録を調べた。その結果、学位論文の表題は「痘毒
(69) 日本電球工業株式会社型録 昭和 16 年(東京. 銀
感染組織における抗原性獲得機転に就て」で、同論
座 1 ノ 5)
文は国会図書館関西館に所蔵(請求記号
(70) Lndolt-Börnstein, Both Scheel:Physikal- Chemisch
UT51-57-A81)されていることがわかった。学位論文
Tabellen. Bd. I. S. 626. Kryohydrat.(1923)
の主論文の所属は北海道帝国大学医学部細菌学教室、
(71) 同上、Ⅱ. S. 1315. Dampf. u. Sättigungsdruck d.
参考論文の所属は、同仁会華中中央防疫處であった。
Eis.
国立公文書館デジタルアーカイブでは、根井の学位
(72) 同上、Hw. I. S. 629. Schmelzwärme d. Kryohydrat.
授与記録は見あたらなった
(2014 年 3 月31日迄)。
(73) 同上、Hw. I. S 1469:Schmelzwärme des Wassers.
根井の学位論文については別の機会に論じたい。
(74)同 I. S. Schmelzpunkte, Siedepunkte, u. enantiotrop
表 4. 故根井外喜男先生略歴
Umwandlugspunke n organischer Verbindungen,
1913 年 5 月
北海道芦別市にて出生
(Polymolphie)
1937 年 3 月
北海道帝国大学医学部卒業
1937 年 4 月
北海道帝国大学副手(医学部細菌学
(75) 實用化學便覧、工業化學、化學工業時報・ 昭 17.
教室〉
6.
根井蔵書
1941 年 5 月
発見の経緯で述べたように、陸軍軍医学校防疫研
北海道帝国大学助手(医学部細菌学
教室〉
究報告第 2 部 715 号は根井蔵書が移管されたもので
1943 年 10 月
医学博士(北海道帝国大学〉
あるが、農林水産省 農林水産研究情報総合センター
1944 年 2 月
北海道帝国大学助教授
〈低温科学研
のレファレンス係は根井が誰かはわからないという
究所〉
ことであった。そこで、根井について様々な検索を
1948 年 12 月
行って調べた結果、根井外喜男「凍結乾燥に関する
北海道帝国大学教授(低温科学研究
所〉
文献集」7)が見つかった。同文献集の 22 番目の文献
1956 年 10 月
に、同報告は「内藤良一 (1943) 血清等の凍結真空
北海道大学低温科学研究所長(1959
年 10 月まで〉
乾燥法. 陸医校防研報告, 2,No. 715.」とあげられ
1959 年 4 月
ていた。Low temperature Scienceは、北海道大学低温
凍結及び乾燥研究会(創立)幹事
(1969 年 3 月まで〉
- 29 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
凍結及び乾燥研究会会長(1975 年 3
に所載されている論文について、第 2 部 715 号が見
月まで〉
出されたことにより、その目次から、内藤が真空凍
瀬藤賞(日本電子顕徴鏡学会賞)受
結乾燥の工業化の開発構想の下に研究を行っていた
賞
ものの一部が報告として出版されていたことが推察
Doctor of Science 名誉学位(Lewis
される。
and Clark College,U. S. A.)
7-2.「凡ユル用途ニ供シ得ベキモ今日迄ノトコロ主
凍結及び乾燥研究会総務幹事(1984
トシテ徴生物、血清ノ領域ニ於テ小規模ニ行ハレア
年 8 月まで〉
ルニ過ギズ」というまとめには、細菌兵器開発のた
1976 年 11 月
北海道新聞文化賞受賞
めの細菌の真空凍結保存も含意されているであろう。
1977 年 4 月
北海道大学定年退官北海道大学名
1969 年 4 月
1969 年 5 月
1969 年 8 月
1974 年 4 月
ところで、第 2 部 715 号を見る限り、物理学の応
誉教授
用に基づく生物由来物の大量製造装置の開発に焦点
東日本学園大学教授
〈薬学部徴生物
が当てられており、純度や不純物の混在・汚染など
薬品化学教室〉
については全く言及されていない。本来のあるいは
日本電子顕徴鏡学会会長(1978 年 3
主な目的が細菌兵器開発であれば、兵器開発に障害
月まで〉
がない限り純度や不純物の混在・汚染などについて
1977 年 11 月
紫綬褒章受章
はそもそも問題外であったので、構想にはなかった
1978 年 4 月
東日本学園大学大学院薬学研究科
のかもしれない。
1977 年 4 月
1977 年 4 月
1943 年 11 月以降にも陸軍軍医学校防疫研究報告
教授併任
1978 年 8 月
1978 年
国際低温生物学会(Society for
第 2 部には真空凍結乾燥に関する報告が散見される
Cryobiology)第 15 回大会(東京〉会
9-18)
長
に発行したかどうかは目下のところ不明である。
が、内藤がその後の戦中に、総説としてどこか
内藤は、細菌戦に関する免責を米国より 1946 年
国立台湾大学客員教授(1979 年ま
で〉
に受け、1950 年に株式会社日本ブラッド・バンクを
筑波大学講師(医学専門学群)
設立した。同社が、乾燥人血漿を販売したことによ
(1983 年 3 月まで〉
って、多くの患者さんに肝炎に罹らせたことについ
農林水産省家畜衛生試験場客員研
て、内藤19) は、同社の専務取締役・医学博士の肩書
究員
きで謝罪した。同謝罪文において、「日本では昭和
1983 年 4 月
国立公害研究所客員研究員
18 年から、アメリカの模倣で、陸軍軍医学校で乾燥
1984 年 7 月
日本細菌学会名誉会員
血漿の製造を初めました。私の罪行ともうしますの
1984 年 8 月
逝去
は、実は陸軍軍医学校教官で、戦争直前米国フイラ
1984 年 9 月
勲二等瑞宝章受章
デルフイアにおいて凍結真空乾燥の技術を学んだこ
1980 年 5 月
1981 年 4 月
とが契機となって、この日本における乾燥血漿の製
他に国際冷凍会議
(International Institute of
造を開発したことであり、その結果多くの患者さん」
Refrigeration) C1 部会長, 日本
「肝炎に罹らせたことであります」述べているが、
電子顕徴鏡学会
「しかし、乾燥人血漿の利点は残っている」と主張
しつつ、
「思い切って人血漿(乾燥)の製造を中止し
顧問, Cryobiology 編集委員,
ました。」と告げている。
Cryo-Letter 編集委員などを歴任.
7.
同謝罪文で、内藤は、乾燥血漿はその高度の無水
考察
7-1.陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部に一見順不同
性から、
「保存血液の保存中に、採血時迷入した細菌
- 30 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
1)
が増殖して濃厚な細菌汚染を形成し、それによって
不二出版『陸軍軍医学校防疫研究報告
第 2 部[復刻版]』2004.5-2005.12.
起こった重篤な副作用や死亡」の危険は起こりえな
2)
いとしている。しかし、乾燥人血漿の場合の肝炎発
15 年 戦 争 と 日 本 の 医 学 医 療 研 究 会
生率は輸血肝炎発生率よりずっと高くなっているこ
url:
とを明らかにしている。その中には、Spurling(英)
//war-medicine-ethics.com/Seniken/J
が 1944 年に示した肝炎発生率が 7.3 %というデー
apan
タもある。このことから、陸軍軍医学校時代に、真
ArmyMedicineReport/JapanArmyMe
空凍結乾燥の危険性について、内藤は知り得たと考
dicineReportAuthorsIndex.htm
3)
えられる。
http:
奈須重雄. 新発見の金子順一論文を読
7-3. 内藤は、「更にブラッド・バンクのモツトーで
み解く. NPO 法人 731 資料センター,
ある『最善の良心による奉仕』と輸血の発展のため
会報第 2 号, 2011.
4)
に、吾国初の人血漿蛋白分画工場を 1 億円余りの設
西山勝夫. 731 部隊関係者等の京都大
備費を投じて完成しました」として、自社製品を宣
学医学部における博士論文の検証. 社
伝している。
会医学研究 30(1), 77-83, 2012.
5)
「最善の良心による奉仕」を標榜した日本ブラッ
西山勝夫. 731 部隊関係者等の京都大
ド・バンクは、社名をミドリ十字に変更した後、薬
学医学博士論文の構成. 15 年戦争と日
害エイズ事件を引き起こすに至った。
本の医学医療研究会会誌 13(1), 9-40,
7-4.これまでの報告の存在確認状況を整理すると、
2012.
6)
第 1 部の報告については、復刻版1) において7、64、
内藤良一. 血清等ノ凍結眞空乾燥法.
65、73、74、奈須3) により 41、42、60、62、63、
陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部第
81、82、本稿において書誌情報のみであるが 10、
715 号. 全 116 頁. 1943.
18、93、142、第 2 部にの 700 番台、900 番台につい
7)
根井外喜男. 凍結乾燥に関する文献集.
ては、復刻版1) において 702、706、707、710、711、
Low
714、723、725、736、739、741、744、754、763、
Biological Science 12, 87-113, 1954.
767、768、778、780、787、788、789、790、918、
8)
929、933、947、奈須3) により 791、西山4) により
temperature
Science,
Ser.
B,
低温生物工学会. 凍結及び乾燥研究会
会誌. 第 31 巻. 1985.
743、758、910、920 となる。また、900 以下で確
9)
野口圭一, 井上隆朝, 内藤良一. 弱毒
認されていないのはは、8、18、19、95、116、124、
ペスト菌の凍結真空乾燥法による生存
139、191、321、351、364 の各号である。
保存方法の研究 第 12 編 被乾燥菌の
7-5. 第一次製造小型品および第二次製造大型品を
培養温度について(乾燥時におけるエ
製造したとされる東京市日本特殊工業株式会社の所
ンヴェローブ物質の影響. 陸軍軍医学
在、変遷について調べたが、解明はできなかった。
校防疫研究報告第 2 部第 787 号. 全 11
頁. 1944.
10)
謝辞
同上. 同上 第 13 編 凍結真空乾燥(保
東京市日本特殊工業株式会社の所在、変遷の調査
存)菌の生物学的ならびに免疫学的性
について色部祐(働くもののいのちと健康を守る東
状. 陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部
京センター)氏から協力を得たことを深謝する。
第 788 号. 全 40 頁. 1944.
11)
同上. 同上 第 14 編 全研究を通じたる
総括. 陸軍軍医学校防疫研究報告第 2
文献
- 31 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
12)
部第 789 号. 全 8 頁. 1944.
本の医学医療研究会第 34 回研究会 [2013 年 12 月 8
上床伝. 結核菌の凍結真空乾燥に依る
日] において発表した。)
生存保存法に関する研究 第 1 報 人型
(F 株)菌に於ける其のメヂウム凍結温
度の好適条件. 陸軍軍医学校防疫研究
報告第 2 部第 818 号. 全 11 頁. 1944.
13)
同上. 同上 第 2 報 B.C.G.に於ける其の
メヂウム凍結温度の好適条件 陸軍軍
医学校防疫研究報告第 2 部第 823 号.
全 8 頁. 1944.
14)
同上. 同上 第 2 編 凍結温度及感想
時間と病毒量との関係. 陸軍軍医学
校防疫研究報告第 2 部第 831 号. 全 10
頁. 1944.
15)
同上. 同上 第 3 編 乾燥各種リケッチ
ア病毒の生存期間. 陸軍軍医学校防疫
研究報告第 2 部第 833 号. 全 10 頁.
1944.
16)
林武夫. B.C.G.ニ関スル実験的研究第 4
編 乾燥ワクチン」ニ依ル免疫試験.
陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部第
843 号. 全 20 頁. 1944.
17)
同上. 同上 第 2 編 免疫試験. 陸軍軍
医学校防疫研究報告第 2 部第 846 号.
全 18 頁. 1944.
18)
帆刈喜四男. 凍結真空乾燥法による
リケッチア病毒(恙虫病毒)の生存
保存法の研究第1報
至滴メデウ
ムの選定. 陸軍軍医学校防疫研究報
告第 2 部第 881 号. 全 17 頁. 1944.
19)
May, 2014
内藤良一. 乾燥人血漿についての私の
お詫び. 日本産科婦人科学会雑誌
15(11), 1-4, 1968.
(本稿は、平成 25 年度科学研究費補助金[基盤研究
(B)]「感染症政策における患者の人権保障―日中諾
法制比較調査」
(研究代表者・鈴木静・愛媛大学法文
学部准教授、課題番号 25285017)の成果の一部で
ある。また、本稿の一部については、15 年戦争と日
- 32 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
著者のプロフィール
西山 勝夫
関西医大衛生学助手、滋賀医大予防医学助手・助教
授・教授を経て名誉教授。スイス連邦立工科大学、
米国ジョンズホプキンス大学公衆衛生学部に留学。
専門:社会医学、労働衛生学。所属学会:米国公衆
衛生学会、日本産業衛生学会、日本社会医学会、日
本科学者会議等。
「戦争と医の倫理」の検証を進める
会代表世話人、日本科学者会議滋賀支部代表幹事、
大阪労災職業病対策連絡会会長、働くもののいのち
と健康を守る滋賀県センター理事長など
- 33 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会
「戦争と医学」第 10 次訪中調査
2013 年 9 月 3 日~9 月 7 日
団長:西山勝夫、副団長:井沢宏夫、団員:秋山暁子、木村恵子、木村利人、黒部信也、齋藤紀彦、横山隆
Report of the 10th Delegation to China from the Research Society for
the 15 years War and Japanese Medical Science and Service
September 3-7, 2013
Leader: NISHIYAMA Katsuo, Deputy Leader: IZAWA Hiroo, Members: AKIYAMA Akiko, KIMURA Keiko,
KIMURA Rihito, KUROBE Shinya, SAITO Norihiko, YOKOYAMA Takashi
2013 年 9 月 3 日(火)
9月 4 日(水)
7:40 関空出発組は 4F G ゲート前に集合。関空からは 5
7:50 全員、ホテルロビーに集合。
8:32 迎えの車がラッシュのため遅れて到着しすぐに出発
人(西山、井沢、齋藤、秋山、黒部)
11:50 発、中国国際航空 CA162 便で北京へ。
9:30 侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館に到着、金成民館
11:30 (現地時間)に北京到着。成田からは木村恵子、利
長が本部棟前で待ってくれていた。2F の会議室に荷物
を置き、展示を見学。
人夫妻がほぼ同時刻の到着。トランジットの間に、自己
11:05 陳列館1階の犠牲者の黒い銘板が両側の壁にぎ
紹介と打合せを行った。
16:35 北京発の中国国際航空 CA161 便で哈尔滨(ハル
っしり貼られた廊下で、全員にて献花・黙祷 その後、
屋外の見学:二木班(結核菌)の研究棟、黄ネズミの飼
ビン)へ。
18:23 ハルビン太平空港到着。先に到着していた、横山
育場所、凍傷実験棟、ABC 企画の贈呈した記念碑、ボ
が合流。迎えに来ていた侵華日軍 731 部隊罪証陳列館
イラーの跡、引き込み線路、
通訳の王 艶さんその他 2 人の職員が運転する車でハ
11:45 資料センターへ。ここでは、製本化された資料と
DVD が販売されていた。
ルビン市内へ。
20:00 モダンホテルハルビン(通称マデルンホテル ハル
12:00 2 台の車に分乗し資料館を出発して、航空班の司
ビン市道里区中央大街 89 号)に到着。一旦、部屋に荷
令部跡へ。見学と 2 階食堂(普段は陳列館職員の食堂)
物を置く。
で昼食。
20:30 徒歩で「東方餃子」という店へ行き、夕食をとる。
12:50 昼食後、屋上まで行き周囲の状況を確認。飛行場
21:30 夕食が終わる。その後、ホテルに戻る。
のあったところにはアパートのような建物があった。遠く
21:50 ホテルロビーで打合せの会議。宿泊食事費用の徴
にはボイラー跡の煙突も見えた。
収と翌 4 日の日程の変更を確認。
13:15 731 陳列館 2F 会議室へ戻る。既に、ソウル大学の
22:30 会議終了
徐二鐘教授も来ていた。
13:45 懇談会開始。出席者は、中国:金成民館長、ハル
1
ビン市社会科学院 731 問題研究センター所長 楊 彦
ンター長 楊 彦君、金 成民 731 罪証陳列館館長、陳
君、731 部隊研究センター長。韓国:ソウル大学の徐教
列館の通訳、王、楊、
12:00 医史学教研室との懇談会終了。車でレストランまで
授、日本:戦医研のメンバー8人、通訳が王さんを入れ
て 3 人。
移動。
12:30 「経淘沙」(セントウサ)というレストランで昼食、ここ
まず、戦医研側より、「戦争と医学」の冊子、全会誌と
冊子の入った DVD を金館長に贈呈。挨拶と自己紹介
には、新たに、副校長の孫 殿軍氏と基礎医学院の院
15:30 懇談会終了 動物焼却炉などの見学のために車
長 張 鳳民氏が参加し懇談した。
14:35 昼食終了し医科大へ戻る。
で陳列館を出発
15:40 「東金工業」内にある動物焼却炉を見学。以前は
14:50 図書館の見学 1階には、設立者の伍連徳の銅像
工場の食堂の厨房として使われたこともあったとのこと。
があった。2階の古書のコーナーで「戦争と医学」を寄
15:50 さらに車で移動し、兵器班倉庫跡を見学。ここは爆
贈。 5 階には解剖展示室、6階は哈尔滨医科大学の
歴史コーナー。16:15 5階の骨格解剖標本室に 3 体の
弾に細菌を装填した場所。
16:05 見学終了し、街中に残っている給水塔跡へ移動
プラスティネーションの展示。プラスティネーションは、
16:10 給水塔跡に到着。通りを挟んで 3 階建ての隊員宿
大連で制作されたものを購入したと学生は説明してい
舎の跡があり、現在も人がたくさん住んでいた。全部で
た。(第 9 次訪中調査団報告では哈尔滨医大で製造と
17棟あったそうだ。
報告されている)
16:35 陳列館へ戻る
17:15 哈尔滨医大を出発し、夕食のレストランへ。
16:40 2F 会議室では、早稲田大学政経学部の野中教授
18:00 「神農」という郊外(平房から西南西へ約 10km新城
率いる 19 人の学生との懇談中。全員、ジャーナリスト志
村と南溝村の境界の道路、徐家路沿)のレストランで金
望で、彼らに木村利人、西山団長が挨拶。
館長と会食。
17:05 陳列館本部前で平房区長があいさつに訪れる。
20:30 夕食終了
17:10 陳列館を出発
21:00 レストラン出発
17:20 夕飯のレストラン「欽点小厨」に到着
21:50 ホテルに戻る。
19:20 夕食終了しホテルへ
21:55 ミーティング 本日の感想と日程の確認
20:00 モデルンホテルに到着
22:50 ミーティング終了
20:15 ミーティング
9 月 6 日(金)
①翌日の予定の確認:午前中の医療倫理学教室との交
流が、基礎医学院 医史教研室との交流に変更と
8:25 ホテルロビー集合
②
8:30 2 台の車で出発
本日の感想
9:50 旧大和ホテルに到着。ハルビン駅のほぼ正面にあり、
9月5日(木)
現在は、龍門貴賓楼酒店というホテル。通りを隔てた反
8:30 ホテルロビー集合 2 台の車に分乗し、哈尔滨医科
対側に見える黄色の建物が旧日本領事館。
車がパンクしたのでタイヤ交換にしばらく時間を費やす。
大学へ。
9:15 旧大和旅館前を出発
9:00 哈尔滨医科大学図書館正面に到着、医史学教研室
の会議室へ。2 階の会議室で会談。出席者は李 志平
9:30 花園小学校着 ここの建物の一部は、旧在ハルビン
医史学教室主任を含め教室員 11人、731 問題研究セ
日本領事館で伊藤博文を暗殺した安重根が一時、拘
2
16:20 紀念館出発
禁されていた。
9:55 ハルビンを出発
16:45 ホテル到着 以後、夕食まで自由行動。
10:13 東北烈士紀念館に到着、建物は旧(偽)満州警察
17:30 「華梅」にて夕食
19:30 ホテルへ戻る。
庁。
20:15-費用の清算 お土産の清算
10:35 解説者到着し、見学開始。抗日戦の歴史が詳細に
20:40-最後の総括会議
展示。
11:55 東北烈士紀念館を出発。
12:20 昼食のレストラン「鑫鵬(Xinpen)」に到着
9 月 7 日(土)
13:30 レストラン出発、伍連徳紀念館へ。
6:30 ロビーに集合
14:00 伍連徳紀念館到着。紀念館は伍連徳の旧邸。横の
7:00 朝食
7:30 ほとんどの団員が太平空港へ出発。ハルビン 09:30
同色の古い建物は旧哈尔滨医科大学。
15:00 伍連徳紀念館を出発
発 北京 11:20 着 中国国際航空 CA1604 便に搭乗。
15:30 開設されたばかりの安重根紀念館着。予定では、
その後、西山、齋藤、井沢、黒部は、北京 16:25 発 関
ハルビン駅構内の安重根による伊藤博文の暗殺現場
西空港 20:30 着
の確認は、同場所一体が紀念館として整備中ということ
の途に。
中国国際航空 CA161 便 で帰国
で行けなかった代わりの訪問先。同じ建物の中に、ハル
一部の団員は 1 泊延泊し 9 月 8 日(日) ハルビン 08:05
ビン朝鮮族民俗博物館があり、隣には朝鮮族の学校が
発 新潟 11:15 着 中国南方航空 CZ615 便で帰国
あった。
「戦争と医学」第 10 次訪中調査報告
横山 隆
2013 年9月 4 日(水)
:第 1 日目
引き込み線路、などを見学。資料館で購入できる資料も以
前より増えていた。CD や DVD などの資料も多かった。航
この日は午前に罪証陳列館の見学と献花、午後は研究
者との懇談と周辺施設の見学をおこなった。
空班の司令部跡建物は、外から訪れて長期に滞在する研
①侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館の展示では、1 週間前
究者の宿舎、陳列館職員の食堂に内装が改築されてい
に日本から届いた「戦争と医の倫理」の検証を進める会制
た。
作の「戦争と医の倫理」のパネル 120 枚も2室に亘って展
②午後の陳列館職員との懇談では、韓国から来ていた倫
示、また 1 階に新たに、残留孤児の展示コーナーが設置さ
理学者の徐二鐘ソウル大学教授も参加。この日の会議の
れていた。化学戦の展示では日本国内で毒ガスを製造し
特記すべきこととしては
ていた大久野島についても詳細な展示がなされていた。
・24 年間 731 部隊の研究に携わった金館長のもとで6人の
陳列館1階の犠牲者の黒い銘板が両側の壁にぎっしり貼
若い研究者が育ってきている。
られた廊下で、全員にて献花・黙祷を行った。構内の見学
・2011 年 3 月に、731 関連の研究が国家重点課題になっ
では見学用の電動車両が用意されていた。2 台に分乗し
た事。
て移動。二木班(結核菌)の研究棟、黄ネズミの飼育場所、
・日本の学者との交流協力以外にこの間、アメリカ、カナダ、
凍傷実験棟、ABC 企画の贈呈した記念碑、ボイラーの跡、
ドイツ、韓国の研究者と交流し、異なった角度、異なった
3
専門から 731 部隊の問題について研究をした。
人、大学院生4人、731 問題研究センター長 楊 彦君、
・早稲田大学の院生 19 名が偶然同じ日に陳列館を見学し
金成民罪証陳列館館長、陳列館の通訳、王さん、楊さん、
ていた。
医史学教研室とは、第 9 次訪中調査(2011 年)の時も会談
・学生に対する教育を目的に宣伝教育部が作られていた。
している。
四川省、哈尔滨医科大学で教育。今年の 10 月から 11 月
にかけて、ソウル大学での教育を予定。
・若い研究者から、木村利人の論文への興味と中国語へ
の翻訳希望があった。
・731 遺跡博や 731 世界戦争遺跡公園、本部棟近くに新し
い博物館建築などの構想表明
・731 研究の保護のため条例も出された。
・陳列館訪問者数は年間 30 万人、以前は、日本人訪問者
数は 4000 人で最も多かったが、今は韓国が最も多く日本
は年間 2000 人くらいになる予定。
・日本軍の遺残毒ガス被害対策ではハルビン市第 2 医院
犠牲者への献花
の曾医師だけが、取り組んでいる。
懇談の後、「東金工業」内にある動物焼却炉、兵器班跡、
今回の会談で特記すべきこと。
給水塔、隊員宿舎跡を見学した。兵器班跡の近くに、小動
李主任の発言より。
物、馬などの飼育棟が現存していることが判明し、ここの調
*1910 年のペスト流行時に、日本の細菌学者が来て援助
査は次回の課題とした。この後、陳列館に戻り、会議室で
してくれた。その後、日本から現代細菌学を学んだ。なの
早稲田大学政経学部のゼミの学生 19 人に挨拶した。
にどうして、戦争政策に細菌学が使われたか。
*私たちは歴史を研究して、仲を分かつためではなく
平和のために頑張っている。
*日本の細菌学が戦争に利用された理由としては、国
の力で、国の政策として科学を戦争に導いた。心理学
的にみると、731 の細菌実験は大衆脅迫行為。すなわ
ち、強迫観念。そのことが正しいかどうか考えず、みん
なやっているからやる。プロレタリア文化革命の時もこの
ようなことが多発した。
*日本政府の今のやり方を見ていると交流も心配にな
るが、だからこそ、歴史的研究、民間交流が重要。交流
兵器班跡近くにあった小動物・馬の飼育棟
をどんどん進めていきましょう。
その他
9月5日(木)
*出席した研究者の中には、1945 年のペスト流行で論文
午前中は哈尔滨医科大学 医史学教研室との会議。出
を書いている研究者や、パスツール研究所の中国での歴
席者は、李 志平主任、張 艶栄副主任、その他、教師 5
史を研究している研究者がいた。
4
*1945-54 年の第 3 回のペスト感染について、昨年、研
が、731 に関しては目をつむって倫理綱領を作ったところ
究成果を中華医史雑誌に発表。
に問題が出て来ている。それを 731 問題を踏まえて作るよ
*2010 年中国・韓国のシンポジウム開催。中国の現在(近
うにただす運動を我々はしている。
動物実験の倫理に関する質問に対しては、
代)の細菌学についてのシンポジウム。一部日本のことも
述べている。1931 年までは積極的な研究していたが、
木村利人の意見:厚生労働省の基準に沿って行われてい
1930 年以降は戦争に用いられた。日本の細菌学は 1930
るが、動物実験に反対する人も一部にいる。
年前後で異なるのでそれを調べるのにプロジェクトチーム
を作った。ここ 2-3 年、陳列館と共同で研究。現在はいろ
午後は図書館の見学。地下一階から7階まであり、2 階、
いろな歴史資料が公開されて有用である。
6 階(医科大学の歴史展示館)、5 階(解剖標本展示)を見学
*第 3 回目のペスト流行に関する論文の概要は、1945-
*2階の古書のコーナーでパネル冊子「戦争と医の倫理」
54 年の歴史事実と原因分析 自然発生ではなく人工的
と 15 年戦争と日本の医学医療研究会誌のバックナンバー
(731 部隊が原因)。その証拠は黒竜江省、哈尔滨市の資
等を収録した CD を寄贈。
料館から発見。
*医学部の日本語に堪能な学生が解剖標本室で説明。3
*「正山 勝」という 731 と関連のある人物が哈尔滨医科大
体のプラスティネーションの展示があったが、本人の承諾
学にかつて在籍。その人に関する資料を手に入れる努力
をとったという記述は見られなかった。また、当大学で最初
をしている。
に心臓移植をうけ、切除された拡張型心筋症と思える心臓
*731 部隊は当時の医科大学とつながりあると思うが、具
標本があった。これも、第9次訪中調査団報告に書かれて
体的な証拠は無い。歴史事実としては、①人為的と言わ
いたが、本人の許可を得たという記述なく患者の名前とと
れている第 1 次と第 2 次のペスト流行の際、防疫で 731 の
もに展示されていた。プラスティネーションは、大連で制作
部隊と一緒に大学の関係者が行った。②日本での 731 部
されたものを購入したと学生は説明。(第 9 次訪中調査団
隊関係者からの聞き取りでも、哈尔滨医大関係者がよく来
報告では哈尔滨医大で製造)
夕食での金館長の話:731 陳列館の職員数は 6 年前 20
ていたと言っていた(金館長)
数人で今は 60 数人、毎年 50 万元の予算が下りる。1000
戦医研の倫理に関する研究の動向に関する質問に対
万元の予算で 731 档案館を建設する予定。
し、歴史的資料に基づいていて明らかにしていきたい。西
洋医学が入ってきた江戸時代末期、緒方洪庵が適塾を開
き、フーヘラントの倫理の考え方を教えた。これが、その後、
どうつながっていったかは未解明。当時は、天皇への忠誠
心が強く、軍隊でも、生体解剖を命じられればいやでもや
ったかもしれない。このことと倫理的問題との関連の究明
が必要。
木村利人氏の意見:日本は中国の医の倫理が支配的であ
った。儒教の倫理が基本。医は仁術という考え。
現在の日本における医学実験倫理に関する質問に対し、
木村利人は、現在、日本では倫理委員会をとうして医学実
験をすることになっている。このもとはヘルシンキ宣言にし
医史学教研室との懇談:右端が李主任
たがっておこなわれる。ナチスのことに関しては言及する
5
ちから、ハルビンの事件までを詳細に、時系列で展示。朝
鮮語を話す見学者が多かった。
解剖標本室入口
9 月 6 日(金)
旧日本領事館跡(花園小学校)のパネル
この日は 1 日中、ハルビン市内の遺跡及び紀念館の見
学。
第 10 次訪中調査の総括
*旧大和ホテル:満州鉄道が建設した近代ホテル。ハル
①少人数の個人旅行となり、かつ戦医研の世話人が複数
ビン駅のほぼ正面にあり、現在は、龍門貴賓楼酒店という
参加できなかったため一般参加の人に役割を分担して
ホテルになっている。
いただいた。
*花園小学校:この建物の一部は、旧在哈尔滨日本領事
②生命倫理学の日本でのパイオニアであり、その立場から
館で、伊藤博文を暗殺した安重根が一時、拘禁されてい
731 問題を長年研究してこられた木村利人氏の参加があり、
た。プレートには「日本領事館原址」とあり、1907 年3月4
中国側へのインパクトは大きかった。生命倫理の分野では、
日にこの地に設立され、1909 年 10 月 26 日から 11 月 1 日
人体実験に触れる場合、731 の問題は今後ますます重要
まで安重根が拘禁されていた、と記載あり。
性が増し、この分野における若手の参加が期待される。木
*東北烈士紀念館:この建物は旧(偽)満州警察庁。地下
村氏のホームグランドである、早稲田大学の学生 19 名が
には、牢屋が再現されていた。
*伍連徳紀念館:哈尔滨医科大学の創設者でもある伍連
徳の出生から業績まで展示。伍連徳の業績は、①1910 年
の中国東北地方のペスト流行を食い止めたこと。当時ほと
んどが土葬であったのを、清朝の皇帝の許可を得てペスト
患者を火葬にして防疫した。また、腺ペストと肺ペストの感
染経路の違いを認識した防疫を行った。②哈尔滨医科大
学の創設
③中華医学会の創設④3 つの病院の建設:哈尔滨医科大
学第 2・3 医院、高等医学校
など。
*安重根紀念館: 2006 年に設立され、安重根の生い立
伍連徳紀念館(旧哈爾濱医科大学跡)
6
ゼミの教授とともに陳列館の見学に来ており、今後の連携
ったが、さらに交流を深め、ペスト流行に関する資料の交
に期待したい。
換など今後期待できる。
③戦前、満州で生まれあるいは育ち、731 問題に関心のあ
⑤今回は青年の参加がなく、今後、基金を利用した学生
る平和運動家の参加があり、今後、運動の広がりが期待で
への働きかけが重要と思われる。
きる。
⑥韓国の 731 問題に関心のある倫理学者とのつながりが
④当初予定された、哈尔滨医科大学倫理学教室との懇談
でき、東アジアにおける研究交流の広がりがあった。
が中止となった。前回と同じく医史学教研室との懇談とな
ハルビンを訪ねて思うこと
秋山 暁子
25 年ほど前の事ですが、私の父の教え子だという広島
「これは現地へ行くしかない」と思ったのです。
県在住の方から、父の教師時代の写真を送っていただい
到着して 2 日目の 9 月 4 日にはハルビン郊外の平房地区
たことがあります。
にある731部隊の罪証陳列館を訪問しました。
父はハルビンの桃山小学校に勤務していたのですが、
広い敷地の中には、冷凍室やペスト菌増殖に使った黄
人数が増えすぎた為分離してできた桜小学校に一時移っ
ねずみなどの飼育棟などが残っていて、見学することがで
ていたそうで、写真はその時のものでした。まだ独身の頃
きました。抗日活動をして捕まった捕虜(中には抗日組織
で、同僚の先生方と肩を組んで楽しそうに笑っているもの
とは無関係な住民や赤ん坊まで含まれていたと聞きまし
など数枚ありました。これらの写真は同僚の先生がこっそり
た)を「特移扱」マルタとして部隊に送った鉄道の引き込み
と日本に持ち帰られたものを拝借し、複写したものだという
線も残っていました。映画で見たドイツのアウシュビッツの
ことでした。
捕虜収容所を思い出しました。
引き揚げ当時は、写真類を持って帰るとスパイと見なさ
マルタと呼ばれる生体実験の被験者に対して、ペスト・
れ抑留されるというデマのおかげで殆ど持ち帰った人がい
コレラ菌による生体実験、凍傷実験など考え付くあらゆる
ない中、とても貴重な写真だと手紙には書いてありました。
残酷な実験をした後殺害する、こんな行為が人間としてで
きるものだろうかと思いました。
手紙の最後に娘の私に「写真を見ると先生方が偲ばれ
学校に通った幼い日に帰ります。今は異国となったハルビ
また専用の滑走路もあったそうで、終戦時には 731 部隊
ンへの思いはやみません。若くして亡くなったお父さんの
の幹部はいち早く飛行機で逃げ帰ったと聞きました。その
分も、元気で幸せな日々を過ごされますことを心より願っ
際に部隊の施設を爆破し、ペスト菌で汚染されたノミやネ
ています」と書かれていました。
ズミなどの小動物を放置したり、逃がしたりし、また証拠と
私の今度の旅の目的は父の故郷でありまた父と母が出
なるもの(例えば毒液の入ったドラム缶、マルタの死体な
会った土地「ハルビン」がどんな町か知りたいということ、又、
ど)を松花江に投げ捨てたり、地中に埋めたり、焼いたりし
731 部隊の中で実際にどんなことが行われていたのか知り
たそうです。そのため、戦後 70 年近く過ぎた今でも傷つき、
たいということでした。以前に作家の森村誠一さんが書い
苦しんでいる人が中国には大勢いるそうです。
た「悪魔の飽食」を読みましたが、わたしの持っているハル
陳列館の一階奥の廊下の壁には 3000 名を超える犠牲
ビンのイメージと 731 部隊の残虐な行為が結びつかず、
者の銘板がぎっしりと貼られていましたが、ここを通るとき、
7
犠牲者の皆さんの怒りと悲しみの心の声を聞いたような気
た。特に旧桃山小学校を訪ねたときは、解体工事の最中
がしました。
で、まだ形ある時に間にあって良かったと思いました。
最も怒りを感じたことは、戦後、石井四郎をはじめとする
約 4 日間の旅でハルビンを語ることはむずかしいです。
元 731 部隊員がアメリカ政府との取引によって、東京裁判
高層ビルが立ち並ぶ近代的できれいな街である反面、
においても関係者の誰一人として戦犯として裁かれなかっ
ハルビン駅近くの道路には道ゆく人に頭を下げて物乞い
たということです。それだけではなく、その多くが日本の医
をする人がいる現実、中心部のものすごい交通渋滞など
学界の重鎮として君臨し続けたり、製薬会社(ミドリ十字)を
いろいろな面を合わせ持つ町でした。母からよく聞かされ
設立してさらに悲劇を生み出すことになりました。
たロシア人街は中央大街のことかと懐かしい気がしまし
た。
ハルビンに滞在中いろいろ訪問、見学しましたが、その
中で印象的だったのは哈尔滨医科大学の人体解剖標本
でも、父も母も当時住んでいたハルビンの地で日本軍が
の展示室でした。同行した黒部先生が何回も言われた『ご
こんな残虐な行為をしていたとは夢にも思っていなかった
遺体本人の承諾は得たのか、尊厳は守られているか』とい
ことでしょう。
罪証陳列館での懇談会で「私たちは 731 部隊のことをも
う言葉が心に残っています。
その他東北烈士紀念館、伍連徳紀念館などいろいろ見
っと知らなければならない。なぜこんな犯罪が行われたの
学の時間がありました。その中のひとつ安重根紀念館を訪
か、その責任はどこにあるのか、私たち国民自身が究明し
ねましたが、私は安重根に対する知識がなく「彼は伊藤博
なければならない問題です。それを通じて私たちは戦後
文を暗殺したテロリストではないか。なぜ英雄として評価さ
の日本の、現在の日本のあり方を見つめ直し考え直して
れているのか」と、とても疑問を持ちました。
みたい」という発言がありましたが、その通りだと思います。
帰国してから、新聞に安重根について書いた記事が載
今、憲法を変えて“集団的自衛権の行使”“国防軍の創
っていて読みましたが、安は韓国では「祖国の独立防衛に
設”“秘密保護法制定”などの動きが急ですが、今私たちが
命を賭けた英雄」と評価されている人物で、伊藤博文を射
しなければならないことは今までの歴史をふり返り、次世
殺したあと旅順監獄に投獄され、獄中で未完の「東洋平和
代に語り継ぎ、二度と同じ過ちを繰り返さないようにするこ
論」を書き東アジアの平和と共同のための具体的な構想を
とではないでしょうか。
提示したそうです。(紀念館にもそのことは展示してあった
実際に現地で731部隊の施設のあとに立ってみて、歴
かもしれませんが、私は気が付きませんでした。)
史を学ぶことの大切さを感じました。
彼の構想の一端には日韓中(清)3国の対等な提携によ
いろいろと考えさせられ、刺激も受けたハルビン訪問で
る欧米帝国主義列強の侵略への対抗の論理が明示され
した。皆さんとごいっしょできたこととても幸せでした。あり
ているそうで、それが現在の EU のような体制の先行思想
がとうございました。
であったという評価が韓国ではあると言われています。
往路は関西空港から北京経由でハルビンに行きました
また、その新聞記事では近年の日韓・日中関係の悪化
が、待ち時間もあり相当時間がかかりました。帰りは新潟へ
の中で東アジアの和解と平和のために日本の植民地支
の直行便があり、2 時間ほどで帰ってこられました。改めて、
配・侵略戦争に関する歴史教育が大切だとか書いてありま
ハルビンと私たちの間は遠くて近いと感じ、この距離とをこ
したが、私も自分の知識不足、勉強不足を反省させられま
れからもっと埋めていく取り組みが大切と思いました。
した。
その中で母が勤務していた花園小学校と父が勤務して
いた旧桃山小学校に出会えたことは本当に嬉しいことでし
8
第 10 次訪中調査団に参加して 〝百聞不如一見″
井沢 宏夫(戦医研北陸支部)
2000 年中頃、井上英夫・金沢大教授(社会保障法・現
次訪中調査団」は、研究者ばかりでなく見学訪問者も随行
名誉教授)に指導していただき、保険医協会会員を対象
してくれたため、かねてより一度は実際に現地に立ちたい
に「人権ゼミ」を企画した。主として医師や医学者が関わっ
という希望がかなう機会となった。
た“人権侵害”事例を取り上げ、交互にレポートを作り数か
平房の 731 部隊の本部施設は広大な敷地の中にあり、
月に 1 回討議した。スモン薬害、薬害エイズ、ハンセン病
正面に 731 部隊第 1 党(総務、診療)の建物があり、現在
強制隔離政策など、なお記憶に新しい課題を取り上げ、
は「罪証陳列館」の主陳列場になっている。敗戦直前、証
患者の人権侵害が発生した社会的状況や“医師の果たし
拠隠滅のため破壊していった廃墟からひとつひとつ探し
た役割”を討論しあった。医師の犯した「患者に対する人
当てたと思われる数々の証拠品、細菌培養などの実験に
権侵害」を掘り起こすのは、極めて重苦しい作業ではあっ
使った器具などの展示。衝撃的だったのは左右に 3 個宛
たが各人各様の“倫理観”ではなくて、“患者の人権を守
て釣り針状の金属の大型フックで、剖検した人体臓器を左
る”という視点は新鮮で確信に満ちていた。ゼミの課題に
右に分けてぶら下げて吊ったという。展示室で人気も少な
「731 部隊の医学犯罪」が取り上げられたのはゼミの後半
かったせいもあったが、凄惨な解剖現場に臨場しているよ
であった。戦医研の先輩たちが「731 部隊の人体細菌実験
うな気分に襲われ立ちすくんでしまった。医者として目を
や生体解剖」などの実態を、困難な現地調査や国内外の
背けたくなる陳列品も幾つもあったが観念して見学した。
文献資料などで明らかにしていった経過を、莇昭三先生
第 1 棟の後に、3000 人以上の犠牲者が二度と戻ること
に報告してもらい「戦争と医の倫理」への関心が高まるきっ
なく引かれて行った窓のないトンネル状の通路がロ号棟
かけとなった。その後も、毎年の如く新知見を加えて研究
(実験棟・監獄)へと通ずる。通路の壁一面に犠牲者の名
成果を莇先生から講演をうけた。その過程で、旧制金沢医
字が刻んだあり、我々は謹んで哀悼の意を表し献花した。
科大学、現金沢大学医学部が 731 部隊との直接間接の人
犠牲者の無念を思うと慙愧に耐えない。
的繋がりがあった事が分かった。金沢大学の初代学長が
実験棟であり監獄だったロ号棟は、敗戦直前に証拠隠
戸田正三であり、学生時代に講義を受けた病理学・石川
滅のために爆破され瓦礫と化し現在もなお廃墟のまま保
太刀雄丸、生理学・斉藤幸一郎は 731 部隊で「医学犯罪」
管されているが、廃墟の方が抹消された過去をより強烈に
に手を染めていたメンバーだった事を知った。また今回の
感じさせてくれた。
ハルピン訪問時、哈尔滨医科大学で「昭和 15 年卒業生記
[前事不忘、后事之師]
念アルバム」を見る機会があったが、学生たちが農安の防
日本の医師・医学者がかくも残虐な「医学犯罪」に手を
疫活動(731 部隊が細菌散布した。)に参加しているスナッ
染めていったのか、戦後多くの識者や良心的医師・医学
プ写真があり上部に教授の写真が掲載されていたが、自
者が探究してきた課題である。
分が在学していた高校の当時の校長村上賢三氏(金沢大
戦争時の殺戮を目的とする軍隊組織の「命令」を拒否す
教授兼任)だったので驚いた。「哈尔滨医科大と 731 部隊
ることは、自己の生命を賭しての反抗になるため、生半可
は密接な関係にあった。」と言われる。
な「倫理観」「ヒューマニズム」では耐えられず犯罪に加担
[百聞不如一見]
したと推定されるし、又当時の中国人は魯迅の小説のよう
2013 年秋、「15 年戦争と日本の医学医療研究会・第 10
に“無知,文盲、無気力、貧窮”ですべて「没法子」で、日
9
[往前走]
本人からは劣等民族と蔑まれ、反抗した農民や兵隊が捕
虜として処刑される事も多く、731 部隊にマルタとして運ば
戦医研発足以来 10 余年、日中両国の研究者の尽力に
れてくれば、医師・医学者は自ら手を下す犯罪をいささか
より、実際に行われた中国での細菌戦の実態なども実証さ
免罪されていると感じたのかもしれない。731 部隊全体の
れ、「731 部隊の医学犯罪」の実態はかなり明かにされ集
中へ個人の責任を転嫁してしまうと考えたとも思われる。
積されてきた。また、現地・平房の「七三一部隊罪証陳列
又、国内では観察できない実験データを得る機会として自
館」を中心にした施設も整備され、広大な敷地内はカート
己の医学的探究心、功名心から手を下した側面も大きい
で移動できるようにもなっている。金成民館長を始め 60 名
のではないか。生命倫理学者の木村利人は、731 部隊関
近くの研究者・職員が「遺跡」の発掘、検証、展示などを進
連や九大生体解剖事件に関連して「日本人的特性」や「日
めている。
本的心情」を示唆しているが、その特性の一つには、「日
ハルビンの「731 部隊罪証陳列館」は、今後とも歴史に
本人の使命感は集団に対する忠誠から発する事が多い」
残る「医学犯罪」の現場であり、「731 部隊の罪業」に真正
と森村誠一は指摘するが、このような日本人の“素地”は、
面から向き合い、日本人医師として倫理観を真剣に考える
戦後も引き継がれ企業をはじめあらゆる団体、組織で生き
礎になる「忌まわしき記念塔」だと思う。
ている。医学会を頂点とする大学医学部の医局制度や、
多くの日本人医師や医療従事者、医療に関心のある
医師の団体の多くもこの系図の中に当然組み込まれてお
人々に、一人でも多く「731 部隊罪証陳列館」を訪れてほし
り、あらたな「医学犯罪」を引き起こすかもしれない“素地”
い。より多くの医師や医療人が倫理観を考える素材として
を温存し続けている。
「731 部隊の医学犯罪」を取り上げ討論する機会を作って
ハルビンの「731 部隊罪証陳列館」の壁に刻まれている
ほしい。
“前事不忘、后事之師”(前事を忘れざれば、後事の師な
2014 年 1 月、その一助となればと「15 年戦争と日本の医
り)を繰り返しつぶやき銘記した。
学医療研究会」北陸支部の立ち上げに参加した。
ハルビンで思ったこと
木村 恵子
昭和 20 年生まれの私に、戦争の記憶はない。戦後の民
文書館の資料室で「極秘」のスタンプが押された重要書類
主主義教育?で、戦争中の出来事について触れることは
を発見したことに始まる。その文書は敗戦直後、米国軍部
なかったので、日本軍が残した爪痕についてずっと知らず
へすべての情報を提供することを条件に「関東軍防疫給
に過ごしていた。
水本部満州第 731 部隊」を不起訴に決定するという旨が書
かれたものだったのだ。
ところが、結婚した相手が学童疎開の経験者で、その半
生におけるさまざまな戦争にまつわる経験を聴くうちに興
ドイツではナチスがユダヤ人捕虜を対象に行った人体
味をもち、それをまとめ「キーフさん」という拙著を上梓した
実験については、きわめて非人道的であるとして 23 人が
(近代文芸社 2006)。
ニュールンベルグ国際軍事裁判で訴追され 4 名の医師が
その内容のひとつに 731 部隊に関するものがあった。そ
絞首刑になったのに対し、731 部隊関係者は誰も訴追され
れは、アメリカに住んでいた 1980 年代のことだが、夫が公
なかった。何故なのか、それは資料が公開され、ソ連の目
10
に触れるのを阻むために、アメリカがその貴重な実験結果
がら、そこに暮らした家族のことも思った。愛する夫、ある
の成果と引き換えに免責にしたことが判明したのだ。
いは父親の仕事の内容に家族は気が付いていたのだろう
この章を書くために私も 731 部隊について調査したこと
か・・・。命令だから仕方なく従ったのだろう。しかし、人間
があるので、実際に現場を見てみたいという気持ちで調査
は置かれた環境により、こうも冷酷になれるのだろうか・・・、
団に参加させていただいた。
広大な敷地をあるきながら、ずっとそのことを考えたのだっ
た。
目を覆いたくなるような、耳をふさぎたくなるような、残忍
な展示をみながら、手を下した人たちのことを思った。そし
て、公団の団地のように大きな家族用のアパート群をみな
平和への祈りと行動−未来への誓い
木村 利人
去る 2013 年 9 月 4 日、筆者は「戦争と医学を考える会」
さまざまな毒ガス作戦用の機材の実物の展示室から外
第 10 次訪中調査団一行の一人として、中国東北部哈爾
に出ると、廊下の壁一面に埋め込まれた名札のような横長
賓郊外の平房にある 「侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館」
のそれぞれの板に、ビッシリと地名や日付のデータが 1800
を訪問し、金成民館長による特別講義を始め、質疑応答
例も書き込まれていた。これらの作戦の証拠文書などと厖
など、研究スタッフ皆さん方と親しく懇談する機会が与えら
大な化学兵器作戦の記録を目の当たりにして改めて大き
れたことに心から感謝申し上げたい。
なショックを受けたのだった。
私は、専門のバイオエシックスの視座から 731 部隊の医
残虐な化学兵器としての毒ガスを旧日本軍は中国戦線
学人体実験等の犯罪性について検討と分析を重ね、1980
で広範に使用し、多くの人々を殺戮した事実を私たちは
年代から英文、独文、邦語などにより研究成果を国の内外
忘れてはならない。しかも、このような旧日本軍による弾薬
で発表してきた。(その一部をご参考までに、本稿末尾に
や毒ガス弾などの残留軍事廃棄物による事故が、現在も
文献資料として記載)
中国の各地で発生し、その被害者がかなりおられることに
筆者が米国居住中の 1980 年には、米国立公文書館(メ
は心が痛む。
リーランド州スートランドにある国立公文書館文館)におい
日本の敗戦後、中国の研究者たちが約 70 年に及ぶ歳
て閲覧可能となった公開直後の旧極秘文書には、ワシント
月を経て、漸く 2012 年にこのような日本軍による毒ガス作
ンと東京との交信電報原文(TOP SECRET の捺印文書)や
戦のデータの蓄積がそれぞれ何時何処でどのような毒ガ
旧日本軍の毒ガス作戦についての膨大な資料などもあっ
ス作戦が行われたかについてのほぼ全貌を明らかにし、
たことから、731 部隊の本部跡を訪れ現地調査をするととも
今回その最新情報が掲示されたばかりということであった。
に、特に毒ガスについてもより詳細な情報を得たいという
私が、今回初めて 731 部隊本部のある現地を訪れて驚
いたのは、その研究所の広大な敷地であった。飛行場を
のが私の長年の念願であった。
そして,本部棟内の陳列館 2 階展示室には、大日本帝
含む広大な石井部隊の敷地は約25万坪に及ぶということ
国陸軍の関東軍防疫給水部隊による毒ガス作戦の実写
で、本部棟、凍傷実験棟などの実験室やその跡地、パワ
の記録が展示されており、遠くに山の見える 広い高原の
ー・センター、実験設備の一部や馬小屋、そしてネズミ、蚤
ような風景の土地に真っ黒な煙幕が立ち込め、日本兵が
などの飼育場も残っていた。
防毒マスクをつけていたのを確認することが出来た。
医学人体実験(ペスト菌などの細菌の注射やガラス張り
11
の実験室に毒ガスを注入して犠牲者の死亡のプロセスを
おわりにあたって、今回の訪中を可能にして下さり、訪
観察するなど)や生体解剖、凍傷実験などについても、抗
問先との緊密な連絡や日程など色々と綿密なご配慮を頂
日運動をしていた中国人やロシア人に対して行われた事
いた西山勝夫団長はじめ、参加者、関係者の皆様、そし
実を証明する証拠やその任務についた元憲兵や中隊長
て「侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館」の金成民館長及び
など当事者による具体的な証言も実在していた。それらの
同陳列館スタッフの先生方、更にご多忙の中、私たちのた
人々による貴重な証言の重要箇所は日本語でそのまま録
めに特別講義をして下さった哈爾賓医科大学の李志平先
音されてあり、この展示館内のコーナーに設置してあるモ
生、暖かい歓迎会をして下さった哈爾賓医科大学副校長
ニターにあるタッチパネルにより、証言者本人の映像ともど
Sun Dianjun 先生と基礎医学院院長の張鳳民先生に心か
も何回も聞いたり見たりする事が出来るようになっていた。
ら深く御礼申し上げる次第である。
これらの犠牲者は例えば「哈爾賓警察庁」の地下牢から
「マルタ」という呼称で 731 部隊に移送された。実際に拷問
<参考資料>
や移送に携わった 3 人の日本人の生々しい証言記録も旧
① 木村利人「いのちを考える」p.267~268, 日本評論
警察庁地下の展示室には展示されてあった。
社(1987)
日本が中国東北部につくった「偽満州国」の中で、現地
②Kimura, Rihito: History of Medical Ethics, Contemporary
の多くの人々は人間性を否定され、いのちを抹殺された。
Japan, In “Encyclopedia of Bioethics” pp.1498~99, p.1505,
しかし、日本の敗退直後から、弾圧の根拠地であったこの
Ed., by Reich, W. T.,Macmillan (New York, 1995)
「哈爾賓警察庁」が中国東北部の日本軍閥の犠牲者たち
(上記 HP http://www.bioethics.jp/bios-japonics.html )
を顕彰する「東北烈士館」となったことによる正義の勝利の
③ Kimura, Rihito: Asian Perspectives: Experimentation on
場となったことに歴史的な大きな意義を感じざるを得なか
Human Subjects in Japan — Bioethical Perspectives in A
った。
Cultural Context, In “Ethics and Research on Human
人間を狂気に駆り立て、人間性の破壊をもたらした「大
Subjects : International Guidelines” pp.181~187, Council of
日本帝国」と「偽満州国」による多くの弾圧、拷問、虐殺、
International Organizations of Medical Sciences (Geneve,
そして悲惨な戦争により尊いいのちを失った多くの方々の
1993)
ことに思いをはせ、静かに頭をたれ再びこのようなことを起
④ Kimura, Rihito: Verbrechen gegen die Menschlichkeit.
こさないようにと祈らざるを得なかった。
Die vergessene Geschichte Japans, In “Ethik und Medizin
1947-1997“, pp.161~170, Hrsg.von Troehler, U und
わたしたちが中国訪問中に、シリアでの毒ガスを含む化
学兵器の使用が大きくマスメデイアで国際的に報道され、
Reiter-Theil, S. (Wallstein, Goettingen, 1997)
この 731 部隊による毒ガス軍事攻撃の残虐さと私の中での
⑤ Kimura, Rihito: Bioethical “Norms” after Nuremberg
イメージが直接に重なり合った。まだ、現在進行中の軍事
Military Tribunal and Medical Crime of the Unit 731,
作戦で毒ガスが使用されていることの悲劇をひしひしと感
Japanese Imperial Army, In “Journal of Human Sciences,
じた。
vol.16 No.1, pp. 41~47, Waseda University Institute of
Advanced Studies (Tokyo, 2004)
中国訪問からの帰途、飛行機の中で「平和を祈り、その
ために未来に向けて行動するものとなりたい」と固く心に誓
⑥日野原重明、A. デーケン、木村利人「いのちを語る」
ったのだった。
pp.95〜102, 集英社 (2009)
12
731 部隊遺址を尋ねて
黒部信也 (富山協立病院)
う思いが心を過ぎり、色々考えさせられましたが、今の日
私は民医連参加の冨山協立病院で働いている医師の
一人です。この度念願だった 731 部隊の遺址を訪ねる訪
常的な医療の政・官・財による歪みを正すため、周囲の抵
中の旅に参加させて頂きました。念願だと言いますのは、
抗があってももっと真剣に取り組もうという思いにもさせら
1930 年生まれですから15年戦争に軍国少年として参加し、
れました。
哈尔滨医科大学では、戦後も 731 部隊の扱った病原菌
中国の人々に耐えがたい苦難をお与えしたことを申し訳な
く思っていて、今回お詫びする機会が持てたことを嬉しく
や毒ガスが中国の人々を苦しめたことを教えられ、陳謝の
思ったからです。
念を新たにさせられました。それと同時に私が富山大学医
731 部隊の人道上許せない蛮行は医師が大きな役割を
学部の篤志献体の会(しらゆり会)の理事長をしているた
担ったということで、格別心に重く受け取らされて来ました。
め、今の中国の医学教育の系統解剖について尋ねた所、
そこで現地を訪れ、その遺址であれ悪行に身近に触れ、
御遺体の不足のため一人の御遺体を10人の医学生で解
中国の人々に一層深くお詫びすることが出来、長い間担
剖せざるを得ない実態を知りました。
そこで日本で多くの善意ある人々の努力で篤志解剖の
ってきた重荷を少し軽くすることが出来た気がしました。
加えて私達を中国の人々が心から歓迎して下さり、遺址
献体運動が成果を挙げ、医学生4人に一体の水準まで達
を2度と戦争を起こさないための「平和の礎」として「世界遺
したことを紹介し、系統解剖が感謝と尊敬の念を持って行
産」に登録する努力をしておられるのには感銘を受けまし
われ、医師としての生命倫理感を養成する機会として生か
た。
されるよう、中国の取り組みを期待させて貰いました。
それにしても 731 部隊の多くの医師が明らかに人道に
最後に今回の旅に参加下さった皆さんの温かい御配慮
により無事楽しく過ごせたことを心からお礼申し上げます。
反する蛮行だと分かっているのに、自分の良心を押し殺し
て参加したことを他人事として済まされるのだろうか?とい
「戦争と医学」第 10 次訪中調査団に参加して
齋藤 紀彦
担したものであることを知りました。私自身 0 歳から 5 歳
1. 調査団参加の動機
(1940~1945)まで、黒龍江省寧安で育ちました。
私の職業人生は、鉄鋼企業でのシステムエンジニアと、
私立大学でのシステム工学に関する教育研究でした。医
1981 年に出版された森村誠一氏の「悪魔の飽食」など
学・医療との関わりは、自分ないし身近な関係者の健康と
「731 部隊」関係の書籍を読み、731 部隊の蛮行、「戦争と
病気の時に受ける医療、広島・長崎の原爆、水俣病などの
医学」の問題に触れて、15 年戦争時に日本が中国で行っ
公害が引き起こした健康被害や病気などについて一市民
た罪状に、父の問題をも含めて、強い関心を持つようにな
としての関心の域を出るものではありませんでした。
りました。
私は長じて、日本の近現代史を部分的に学び、父の前
今回、訪中調査団のことを知り、731 遺跡を直に見て、
半生が、旧満州国の下級軍人として日本の中国侵略に加
日本の侵略の罪状を確認し、気持ちだけに過ぎないけれ
13
ど贖罪をしたいと思い、参加させていただきました。
4. 哈尔滨医科大学訪問
2. 731 部隊罪証陳列館訪問
(1) 李教授(医史学教研室)、教研室スタッフ、学生との交
(1) 展示史料の閲覧
流
特に印象に刻まれたのは、内蔵の吊り下げ具、凍傷試
李教授の講演で印象に残ったことは次の事でした。
験など人体実験の様子を蝋人形で作ったジオラマでした。
• 中日関係で特に問題(尖閣諸島)がある今の時期に、歴
亡くなった中国の人たちの悲痛な叫びが聞こえてくるよう
史問題(731 部隊)で交流できることを歓迎、歴史を学び
でした。殉難者名を刻んだ長い廊下を進んで、献花して
未来志向で友好関係を築きたい。
• 科学の成果を戦争への応用(細菌学を 731 部隊のように
参加者全員で謝罪とご冥福をお祈りすることができまし
た。
細菌戦に応用)を進めたのは政府である。大衆は「皆が
(2) 金成民館長、スタッフとの交流座談会
やるから、自分もやる」、街で「彼はドロボーだ」と言うと、
特に印象深く残ったことは、①2013 年から、韓国、アメリ
他の人もそう言う。ここに心理学的な問題がある。
カ、カナダが 731 研究に参加している、②日本の若い世代
• 中日関係について日本政府の動向を心配している。こ
の 731 研究への参加の期待が表明された、③731 部隊遺
のような時、歴史研究と交流が重要であり、今後も引き続
跡を世界遺産登録の準備を進めている、ことなどです。
いて進めていくことが大切である。
(3) 「中国養父母の広い心」展示の閲覧
交流に参加したスタッフはほとんどが女性で、男性は李
日本敗戦時の「残留孤児」「残留婦人」「中国の養父母」
教授と学生一人でした。
に関する展示が最近できたとのことで見ることができました。
スタッフに女性が多いことについての質問に対して、男
残留孤児と養父母の写真、日本に帰国した残留孤児と養
性医学生は研究者になるよりも、医師になることを希望す
父母とが交換した手紙などが展示されていました。
る者が多いとの回答でした。
(4) 早稲田大学院生の来館
(2) 図書館、大学歴史展示ホール、人体標本展示ホール
遺跡見学の後、陳列館に戻ると、早稲田大学のジャー
見学
ナリズム大学院の院生約 20 名が、指導教官の引率で陳列
人体標本展示ホールには、プラスティネーションで作製
館スタッフと交流しているところに遭遇しました。日本の若
されたゴルフスイングのポーズをした標本が展示されてい
い世代がこのような体験をしていることに、大いに感動しま
た。大連医科大学の教授が、ドイツでプラスティネーション
した。
技術を学び、帰国後大連で製作した標本を購入したもの
であるとの説明でした。初めて見たので、衝撃的でした。ま
3. 旧 731 部隊跡敷地内の遺跡の見学
た、ゴルフのスイングポーズの標本が教材として適切かど
うか疑問に感じました。
特に印象に残っている施設は①凍傷実験室 ②黄鼠飼
育施設 ③小動物、犠牲者焼却炉の長い煙突 ④ボイラ
5. 東北烈士紀念館見学
ー跡と巨大煙突 ⑤隊員宿舎跡(市民の住居として活用さ
れている)などでした。
東北(旧満州)抗日戦争期と解放戦争期の烈士たちの
広大な敷地内のいろいろな遺跡はまだ十分整備されて
写真、経歴、遺品などが展示されていました。旧警務庁特
いるようには見受けられず、また市民が現在利用している
務科の建物をそのまま利用して建てられたもの。ここに二
施設もあって、世界遺産登録の準備の大変さを感じまし
人の日本人が烈士としての顕彰展示を見ることができまし
た。
た。一人は、伊田助男で、日本軍の討伐隊の兵士で、自
14
動車に積んだ歩兵銃と弾薬を、中国の抗日部隊に提供し
むしろ一層反動的な動きを強めています。今後これらの問
自らは自死した。松林の中に武器を積んだトラックがジオ
題を解決していくためには、若い世代の関わりが重要であ
ラマで展示されていた。もう一人は長谷川テルでした。中
る。今回の訪中で、早稲田大学の大学院生が 731 遺跡を
国に渡ってからは緑川英子と称しました。エスペランテイス
訪れ、陳列館のスタッフと交流していたことに遭遇し、いく
トで、上海で抗日運動に参加、また中国放送の対日放送
らかの希望を見たように思いました。
に加わった。1945 年以降蒋介石軍との解放戦争に参加、
私個人はこれからそれほど先の長い人生ではありませ
1947 年中華人民共和国成立の 2 年前に 37 歳で病没しま
んが、草の根の一部として、平和の問題に関わっていきた
した。写真と経歴が展示されていました。厳粛な気持ちで
いです。
医療医学について門外漢な私が参加させていただきま
拝観しました。
したが、多彩な経歴の団員の皆さんから沢山の刺激とご教
6. 終わりに
示をいただきました。感謝申し上げます。団長の西山勝夫
日中間の歴史問題は 731 だけでなく、遺棄化学兵器、
さまには終始懇切なご案内とご指導をいただき御礼申し上
げます。
南京虐殺論争など未解決な問題が多く残っています。基
本的には、日本が中国への侵略戦争の中で引き起こした
問題であり、日本が歴史事実を認め、謝罪し、誠実に補償
注: 伍連徳紀念館とハルビン朝鮮民族博物館の見学に
などを行うべきであると思います。しかしながら、戦後 70 年
ついては報告を割愛しました。
にならんとしてなお、日本の支配層は誠実に対応せず、
第 10 次「戦争と医学」訪中調査結果の概要
西山勝夫
路で偶然に全員遭遇することができ、先ず事なきを得た
はじめに
第 10 次訪中調査に参加できる 15 年戦争と日本の
ことに安堵した。第 9 次の際には、ハルビン行の便の出
医学医療研究会の役員は私だけとなったために、は
発が原因も理解できないまま 1 時間以上遅れやきもきし
からずも初めて調査団長の大任を幹事会から付託さ
たが、今回はそのようなこともなく、ハルビン空港に到着
れた。今回の団派遣も日本国内の旅行代理店の団体
でき、全員が予定時間に集合し、731 部隊陳列館職員
旅行の条件を満たすことができなかったために、現
の歓迎を受けることができた。
地の宿泊や移動の手配など何から何まで、侵華日軍
1 日目の夕食後の団会議では、私からのお願いと
第 731 部隊罪証陳列館(以下、731 部隊陳列館)の金成
いうことで、団長一人の微力をサポートしていただ
民館長に段取りをしていただいた。
く分担を初参加の団員の方々も含めて全員で、相談
参加者は分散的にハルビン空港に集合することにし
して決めていただいた。副団長には井沢、会計には
たが、北京国際空港経由者は同空港で落ち合い、待ち
齋藤、土産管理には秋山、記録には横山という具合
時間の間に団会議の開催という予定をたてた。お互い
に、本来なら役員や戦医研の会員が負うべき負担を
に面識がなかったのだが北京空港で中国入国前の通
今回は担っていただくことにして、調査・訪問はスタ
15
侵華日軍細菌戦炭疽、鼻疽受害幸存者実録(中央文
ートした。
献出版社)掲載写真の再掲と思われるものがある。
731 部隊陳列館
日本軍の細菌戦に焦点を当てた写真が豊富に掲載
731 国際資料図書インフォメーション展示センタ
されているが、以上述べたように出典が明らかでな
いのが惜しまれる。
ーでは、金成民主編『日本軍細菌戦写真集』
(内蒙古
文化出版社、全 113 頁 2010 年)、731 部隊陳列館制
『731 部隊』
『七三一部隊原隊員証言集』は、これ
作の DVD で日本語字幕がある『731 部隊』『七三一
まで 731 部隊陳列館でビデオ展示されていたものを
部隊原隊員証言集』や黒龍江省電子台摂制『不忘的
DVD に収めたものであった。
記憶』(中国广播音像社)
、731 部隊陳列館等制作の
『不忘的記憶』は、2008 年 3 月に金成民館長(当
CDROM『侵華日軍第七三一部隊本部遺跡址数字復
時、ハルビン市社会科学院・七三一研究所所長)が
元』を購入した。
黒龍江省電視台(テレビ局)員 3 名をつれて来日し、
各地で証言や資料を収集した際の映像が 1 時間弱に
『日本軍細菌戦写真集』は
第1章
細菌研究基地
編集され、全国放送されたものの保存版であった。
第2章
細菌戦部隊の設立
2007 年の国際シンポジウムに 731 部隊員であったと
第3章
特別移送扱い
して自身の罪行を述べた三重県尾鷲に在住の大川福
第4章
細菌研究の実験と生産
松取材(208 年 3 月筆者引率)の場面も収められて
第5章
実施細菌戦
いた。
第6章
731 部隊の逃走
第7章
細菌戦犯罪者の裁判
CDROM は、731 部隊遺跡の全体を、コンピュー
タ画像技術を用いて画面上に立体復元(ただし 3 次
元映像ではない)したもので、2010 年訪問時に紹介
から成っている。
第 2 章 細菌戦部隊の設立では、ハイラル 543 支部
された試作品の市販版であった。地図に示されたポ
隊、孫呉 673 支隊、林口 162 支隊、牡丹江 643 支隊、
イントをクリックするとその周辺の建物・構造物の
大連衛生研究所(319 部隊、関東軍満洲第 100 部隊、
概観や室内が立体的に動画的に表示できるようにな
北平北氏 855 部隊、済南防疫給水部、太原防疫給水
っている。
支部、1855 部隊凍傷実験、南京栄字第 1644 部隊、
資料センターに収容されている文書類の原本や遺
広州波字第 8604 部隊、南方軍(シンガポール)岡字
物の調査は時間がないため今回はできなかった。
第 9420 部隊別に資料が掲載されている。この内、855
哈尔滨医科大学
部隊凍傷実験の写真は、日本で中国語教育史の研究
者・鱒沢彰夫さんが東京の古書店で見つけ、現代書
医史学教研室での意見交換で、最近出版されたペ
館が復刻した冬期衛生研究班『駐蒙軍冬季衛生研究
スト感染に関する論文についての意見交換では、
成績』のものと同一であるが出典は記載されていな
2009 年に著者の楊彦君から寄贈された『731 部隊細
い。また、何ゆえに 1855 部隊の凍傷実験とされたの
菌戦贈害研究―哈尔滨鼠疫流行為例』
(黒龍江省人民
かも同書では記載されていない。
出版社、全 251 頁、2009 年)をベースにしたもので、
第 5 章 実施細菌戦では、炭疽菌受害者の存命中の
新発見は特に盛り込まれていないということがわか
写真が 5 枚実名とともに示されている。泣血控訴―
った。
16
特移扱の人々を収容
したとされる領事館の
建物は残っていないこ
とがわかった。外見か
らはいつのことかはわ
からないが日本領事館
跡の撤去後に新築の
建築物が建てられてい
ると考えられた。
東北烈士紀念館、伍
連徳紀念館は、前回訪
問以降若干の展示の
模様替えが見受けら
れたが、新しい資料等
は確認できなかった。
旧石井四郎邸や白樺
戦中の旧哈爾濱医科大学で地下活動をやっていた中国共産党員の学生の顕彰パネル
寮の跡も確認できな
かった。細菌爆弾の陶
人文社会科学学院の医学医療倫理学教
研室の教授、大学院生、学生との意見交換
会は、
「大学側から中止が伝えられてきた」
とのことで残念なことになった。その理由
は結局、わからずじまいであった。
同大学の歴史展示室では、戦中の旧哈爾
濱医科大学で地下活動をやっていた中国
共産党員の学生が、尊名であることを説明
担当者からうかがい、紹介をお願いした。
ハルビン市中心部の調査
旧大和旅館は重要会議の開催中とのこと
でロビー入口付近までしか入館できなかった
ので展示物などを確認することはできなかっ
た。ハルビン駅前から出ている道の一つの紅
軍街の 108 号にある旧・在哈爾濱日本国総
領事館はこれまでの調査のたびに訪れたが、
今回初めて、その前の領事館跡を訪れた。
旧花園小学校の南東角側を西に沿って少し
行った所に 1936 年まで日本領事館があった
とする銘板(参:右写真)が貼られているのみ
旧花園小学校の南東角と日本領事館跡であることを示す銘板
で、安重根だけでなく、平房に送られる前に
17
攻撃し、西部の怒江から西の地域を約 2 年占領した。
器製弾殻の倉庫跡といわれていた場所には、今回は
時間不足で調査に行けなかった。
おわりに
航空班の建物については、2011 年調査時に初めて、
ハルビン市社会科学院・七三一問題国際研究センタ
出入口から建物の中へ入ることができたが、廊下や
ー
楊彦君副主任や魯丹研究員と今回の調査では懇談
階段は真っ暗であった。今回の訪問では、同出入口
できる機会があった。その際に中支那派遣軍軍医部
は玄関らしく改装され、内装も白を基調とした、事
『第一線戦傷外科学研究会記事(別冊)』
(全 609 頁、
務所風の建築に転用され、屋上などの外装も含めて
1939 年 3 月)
を紹介され、
貸して頂くことになった。
改装工事がまだ進められていた。ソウル大学の徐二
表紙見開きには、
「本別冊は第一線戦傷外科学研究会
鐘教授もここを宿舎にして長期滞在しているという
に際し書く舞台より提出せる書類並研究会会場に於
ことなので、その区画に案内してもらった。良質の
て配布せる参考書類を蒐録せるものなり」と活版印
ホテル並みの内装でバストイレ付の部屋が何室かあ
刷されてる。目次頁の最初には、武漢陸軍病院図書
った。客員研究員も安心して安価でサービスを受け
編 外 608、類 1308 の印判が捺されている(但
られるようにするという構想のようだ。731 部隊陳
し、参数字はペン書き)。全部で 15 編の書類と附録
列館の職員の食堂で、客員研究員も 3 食を済ませる
2 編、附表 1 編からなっている。裏表紙の見開きに
ことができる。今後の長期滞在研究には最適である
は、中国人民解放軍第六十一陸軍医院 図書室
と金成民館長からは勧められた。
室
医
地下鉄は、ハルビン市にはなかったが、オリンピ
図字第四号と印刷した薄手のカードが糊付けされて
ック前の高度成長の勢いで、2012 年末に完成予定と
いる。
聞いていたハルビン市中心から平房までの地下鉄は
内容を見る限り、細菌戦や化学兵器戦にかかわる
2016 年まで延期されたらしい。地下鉄ができていれ
外傷にかかわるものは無いように見受けられた。
楊彦君からは「掩盖与交易:二戦後美軍対石井四
ば、航空班跡の宿舎を根拠地にして、市内にも容易
郎的調査」
(抗日戦争研究、2013 年第 2 号: p99-111)、
にアクセスでき、調査研究もはかどると考えたが、
「・ 于 731 部隊鼠疫報告書的初歩解読(医学与哲
少し先になりそうだということもわかった。
学 34 巻 6A 号、2013 年第 6 号:p87-90)、
「美国保
はじめに述べたように、本来なら役員や戦医研の
存的日本細菌戦档案主要内容史料価値及利用建
会員が負うべき負担を今回初参加の団員に担ってい
議」(北方文物、中国人文社会科学核心期刊・中
ただいたおかげで、全員が無事に帰国まで滞在する
文核心期刊、2013 年第 2 号:p106-9)、
「関東軍第
ことができた。また、それは金成民館長や同館の職
七三一部隊正式設立時間考証」(仝上、2013 年第
員なかんずく、新卒で就労したばかりで、初めての
3 号:p105-7)を、芻魯丹からは「芻議東寧地区日
日本人団体の接遇ということで、緊張の連続であっ
本”開拓団”的殖民入侵」
(長白学刊 2013 年第 1 号、
た 731 部隊陳列館の通訳の王さんが、良くして頂い
RCCSE 中国核心学術期刊・全国高校百強社科期
たお陰もあげておきたい。ここにそのことを記して
刊・吉林名刊: p122-5)の論文コピーを頂いた。
謝意を表する。
楊彦君は、
「(同)センターの雲南省西部抗日戦争
史調査研究課題グループが 2013 年に、初めて雲南省
(本稿は、平成 25 年度科学研究費補助金[基盤研究
に出向き、大日本帝国陸軍が雲南省西部で行った細
(B)]「感染症政策における患者の人権保障―日中諾
菌戦の調査を実施し、実際に細菌戦や毒ガス戦が行
法制比較調査」
(研究代表者・鈴木静・愛媛大学法文
われたことを示す大量の証拠を発見した」
「近々詳細
学部准教授、課題番号 25285017)の成果の一部であ
が明らかにされる予定と述べていた。なお、楊彦君
る。
によれば、日本南方軍は 1942 年 5 月 3 日、雲南省を
18
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
15 年戦争と日本の医学医療研究会
定期会務総会(第 15 回)報告
(2014 年 3 月 23 日)
(2) 会報の発行
No.24 2013 年 9 月 25 日
第 1 号議事 2013 年度事業報告
1. 会務総会の開催
・第 14 回会務総会 2013 年 3 月 24 日
京都大学医学部先端科学研究棟 1 階大セミナー室
2. 幹事会
・2013 年 3 月 24 日 京都大学医学部先端科学研究棟 1
階大セミナー室、莇、刈田、末永、土屋、西山、吉中、
若田、監事:原
2013 年 12 月 8 日、東京大学医学図書館 3 階 333 号室、
莇、刈田、末永、西山、吉中、若田、監事:色部、原
事務局長より 2013 年度事業方針に基づき、事業報
告を行った。審議は、① 2014 年 3 月 例会、会務総
会 ② 商業データベースの活用による会誌公開、③
会誌の編集、④ 次年度訪中、⑤ 「平和と医学」調査
助成金基金のための寄付、⑥ 次回幹事会について行
った。
3. 研究交流事業
(1) 研究会の開催
・第 33 回研究会 2013 年 3 月 24 日、京都大学医学
部先端科学研究棟 1 階大セミナー室
記念講演
平岡諦:日本医師会の、医の倫理の問題点と歴史的
経過
一般演題
原 文夫:元 731 部隊員 池田苗夫の戦後の軌跡よ
り
莇 昭三:731 部隊の農安での PX(ペスト感染蚤)
撒布「細菌戦」戦果の実相 ―「陸軍軍医学校防疫研
究報告」掲載の高橋正彦論文からー
西山勝夫:立命館大学国際平和ミュージアム所蔵
731 部隊関係資料について―主に東郷村の実態につ
いて
(3) 会誌の発行
・会誌第 13 巻第 2 号 2013 年 5 月 27 日発行
・会誌第 14 巻第 1 号 2013 年 11 月 7 日発行
(4) 15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌の選集
出版を目指す。 西山勝夫:戦争と医学(仮題)編集中
(5) ホームページ
会誌について創刊号から閲覧できるようにした。月 1 回
程度の更新を行った。
(6) 第 54 回日本社会医学会(2013 年 7 月 6~7日、首都
大学)
基調講演 土屋貴志
15 年戦争期における日本の医学犯罪
一般演題
莇 昭三:金沢医科大学と 731 部隊
刈田啓史郎:東北大学医学部教官の15年戦争への加
担
西山勝夫:731 部隊関係者の京都大学の医学博士の
学位授与
4. 調査研究事業:
(1)「戦争と医の倫理」の検証を進める会
引き続き、賛同団体として、2015 年春に京都で開催さ
れる日本医学会総会に対する取り組みなどに協力する。
世話人会:3 月 20 日、7 月 1 日、12 月 15 日
代表世話人、事務局長、事務局(スカイプ)会議:11 月
18 日
1 月 8 日 高久史麿日本医学会会長との懇談
1 月 18 日 酒井シヅ日本医史学会理事長宛「戦争と
医の倫理」の検証などに関する懇談のお願い
3 月 28 日日本医史学会理事長酒井シヅ順天堂大学名
誉教授との懇談会
・第 34 回研究会 2013 年 12 月 8 日、東京大学医学図
書館 3 階 333 号室
特別講演
川嶋みどり:戦争と看護師-赤十字救護看護活動の
一端から
木村利人:日本の生命倫理学の課題と方向性
一般演題
横山隆:
「戦争と医療」第 10 次訪中調査報告
岡田靖雄:鹽入圓祐、岩佐金次郎による空襲生活調
査
西山勝夫:陸軍軍医学校防疫研究報告第 2 部 715
号の解題
第 29 回医学会総会 2015 関西組織委員会
4 月 10 日 井村裕夫会頭宛第 29 回医学会総会の企
画に関するご提案
4 月 18 日 会頭、副会頭、各委員会委員長宛パネル
集「戦争と医の倫理」の送付及び、第 29 回日本医学
会総会での企画の検討に関するお願い
4 月 22 日 中村泰三事務局長と面談
9 月 17 日 会頭、事務局長より文書回答
- 53 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
11 月 20 日 代表世話人による会頭への文書要請
12 月 26 日第 29 回日本医学会総会 2015 関西関係者:
中村泰三事務局長、小泉昭夫展示委員会副委員長(京
大教授)、大野照文京都大学総合博物館館長(京大教授)
との懇談
2014 年 1 月 12 日 医の倫理―過去・現在・未来―
企画実行委員会~日本医学会総会 2015 関西にむけて
~(略称:「医の倫理」実行委員会)設立
代表:垣田さち子(京都府保険医協会理事長)、副
代表:西山勝夫(「戦争と医の倫理」の検証を進める
会代表世話人、吉中丈志(全日本民医連副会長)、住
江憲勇(全国保険医団体連合会会長)、飯田哲夫(保
団連近畿ブロック協議会担当理事)、山口研一郎(現
代医療を考える会代表)
2 月 23 日 第 2 回「医の倫理」実行委員会
3 月 6 日 「医の倫理」実行委員会趣意書確定
(2) 「戦争と医学」訪中調査団の派遣
・第 10 次(夏)
学生・大学院生・新人の参加をめざす。参加する学
生・大学院生には「平和と医学」調査助成基金より助
成を行う。申し込み締切は 8 月上旬迄とした。
6 月 19 日 募集要項「日本軍第 731 部隊遺址を巡る
5日間」(第 1 次締切 7 月 15 日)完成、第 54 回社会医
学会事務局宛 500 枚送付、戦医研登録者宅配メール便
6 月 30 日 初参加者 8 名の応募(内大学院生 1 名)
があった。
9 月 3~7 日 訪日団の構成は西山団長、初参加者 7
名(内北陸地区から 4 名。学生・大学院生の参加者は
無し)であった。主な訪問先は、侵華日軍七三一部隊
遺址、哈尓浜医科大学、東北烈士紀念館、旧大和旅館、
旧哈爾濱医科大学跡、伍連徳記念館、旧日本領事館跡、
安重根記念館であった。
侵華日軍七三一部隊遺址では、2012 年 11 月に京大
で展示した展示パネルの縮小版が訪問直前に展示さ
れた。残留孤児問題に関する展示スペースが新設され
ていた。旧航空司令部が改装され、研究者の長期宿泊
も可能な施設が整えられていた。
・「平和と医学」調査助成基金
学生・大学院生の応募の見通しが立たないので、寄
付の積極的な促進は停止した。同基金への寄付金の扱
いの検討が必要となった。
(3) 史料・証言などの収集
新たな収集はなかった。
May, 2014
(4) 日本の科学者への寄稿
西山・原: 『戦争と医の倫理』の日独における検証
の歴史―国際シンポジウム開催. 日本の科学者 48(5),
54-57, 2013
<特集>戦争と医の倫理─ドイツと日本の検証史の
比較. 日本の科学者 48(8), 2013
刈田:日本における戦争と医の倫理─過去,現在,未
来.ibid, 12-17.
西山:国際シンポジウムを通じて明らかになった今後
の課題と方向.ibid, 24-31.
(5) 文部科学省科学研究費助成事業研究の申請
基盤研究(B)
(海外学術調査)医学部における臨床研
究に関する倫理教育の国際比較調査―対象国:米・
独・中・韓・日、(研究期間 平成 26 年度~平成 28
年度)、研究代表者:東京医科大学・医学部・教授・
黒須三惠に末永恵子、土屋貴志、長島隆、西山勝夫が
研究分担者として参加
5. 支部活動、会員のいる地方における支部結成や研究
交流、会員拡大
5-1. 東北支部
研究会の開催はできなかったが、会員の個別的活動
により、東北メデイカル・メガバンクについての取り組みを
進めた。
5-2. 北陸支部
「莇昭三業績集」出版記念行事が開催された 10 月 26
日に北陸地方の会員による集会が持たれ、2014 年 1 月
に支部結成総会を開催することが確認された。また、
2014 年に訪中団を派遣することも検討された。この日に
は同行事参加者 17 名から入会の申し出があった。
会全体の正会員数を 120 名とする目標については、北
陸支部の結成とそれに伴う会員拡大により、達成が間近
となった。
6. 日本学術会議
日本学術会議協力学術研究団体宛として送られてき
たメールをメールアドレスを有する会員に配信した。
7. 事務局体制
事務局員の 2013 年 3 月末退職に備えて後任を、試
用期間を経て、新規採用した。
貸与プリンターが破損したため、プリンター(複合
機)を新規購入した。
- 54 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
第 2 号議事 2013 年度(2013 年 1 月 1 日~12 月 31 日)決算
一般会計
収入
項目
内容 予算
決算
内訳
前年度繰入金
会費収入
正会員会費
246,182
633,000
学生会員会費
会誌会員会費
事業収入
第33回研究会
第34回研究会
会誌売上
その他
財務運用益
合計
備 考
内訳
246,182
353,000
600,000
335,000
6,000
27,000
0
18,000
82,000
会員数109名
2012年度6名、2013年度57名
2014年度3名
会員数0名 会員数6、2013年度4団体、1名 442,500
30,000
30,000
20,000
2,000
50
961,232
28,000
26,000
388,500
0
3/24 京都(参加者28名)
12/8 東京(参加者26名)
第13巻第2号のみの売上150冊を含む
123
1,041,805
支 出
項目
内容 予算
決算
内訳
事業費
134,000
研究会
70,000
会務総会
調査研究費
幹事会
事務局費
印刷費
255,000
23,740
0
0
0
5,000
126,000
91,139
40,000
16,000
11,000
195,000
184,232
961,232
57,279 郵送費・発送費・通信費
25,410 ホームページ運営費
8,450 731部隊罪証館 会誌送料
38,882
9,120
10,370
192,400
137,418
1,041,805
特別会計(基金積立)
収入
項目
内容 前年度繰入金
寄付金
合計
予算
230,860
200,000
430,860
決算
230,860
247,000
477,860
支 出
項目
内容 事業費
寄付
パネル購入
パネル寄贈
一般会計
次年度繰越金
合計
予算
300,000
100,000
30,860
430,860
413,910 第13巻第2号、第14巻第1号印刷
第13巻第2号のみ150冊超過印刷
4,420 案内印刷、紙・コピー代
100,000
26,000
設備費
消耗事務用品
振替手数料
人件費
次年度繰越金
合計
53,191 第33回 67,215 第34回 第14回
418,330
250,000
会報・研究会
詳細
120,406
24,000
10,000
10,000
20,000
会誌
通信費
内訳
144,146
内訳
決算
50,000
200,000
50,000
50,000
87,234
9,050
0
331,576
477,860
- 55 -
封筒・ラベル紙等
口座徴収料金・振込手数料
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
特別会計(「平和と医学」調査助成金基金積立)
収入
項目 内容 前年度繰入金
助成寄付金
合計
予算
612,000
400,000
1,012,000
決算
612,000
197,000
809,000
予算
500,000
512,000
1,012,000
決算
支出
項目 内容 助成金基金
次年度繰越金
合計
第 3 号議事 2014 年度事業計画
1. 会務総会の開催
・第 15 回会務総会 2014 年 3 月 23 日
京都大学医学部構内 G 棟 2 階セミナー室 A
2. 幹事会
・2014 年 3 月 23 日 京都大学医学部構内 G 棟 2 階セ
ミナー室 A
・適時の回議も含み 2~3 回開催し、総会決定に基づ
く会務の調整並びに諸事業計画を推進する。
3. 研究交流事業
(1) 研究会の開催
・第 35 回研究会 2014 年 3 月 23 日、京都大学医学
部構内 G 棟 2 階セミナー室 A
・第 36 回研究会 2014 年秋、東京
(2) 会報の発行
随時発行する
(3) 会誌の発行
・会誌第 14 巻第 2 号 2014 年 5 月発行
・会誌第 15 巻第 1 号 2014 年 11 月発行
(4) ホームページ
改善をはかる
(5) 第 55 回日本社会医学会(2014 年 7 月 12~13 日)
参加を目指して企画する。
4. 調査事業
(1) 資料・証言などの収集
(2) 「戦争と医学」海外調査団の派遣
今年度は行わない。
(3) 中国内の遺棄化学兵器の被害と廃絶の実態調査
5. 医学会・医師会・政府などに対する活動
(1) 「戦争と医の倫理」の検証を進める会
引き続き、賛同団体として、諸活動に協力する。
(2) 「医の倫理」実行委員会
賛同団体として参加し、2015 年春に京都で開催される
日本医学会総会に向けての取り組みに協力する。
0
809,000
809,000
6. 支部活動、会員のいる地方における支部結成や研究
交流、会員拡大
6-1. 東北支部
(1) 研究会の開催
(2) 東北メデイカル・メガバンクにおける医の倫理問題を
深める
(3) 会員の拡大
6-2. 北陸支部
(1) 支部の結成
支部結成総会を 1 月 11 日(土)に開催した。
参加者12名 会則と役員体制を確認した。
支部長:井沢宏夫、事務局長:横山隆、専任事務:池田
治夫
事務所:金沢医療事業協同組合内
(2) 公開講演会を 1 月 11 日(土)に開催した。
「七三一部隊と金沢 『莇業績集』より」 講師 莇昭三
司会 横山隆、参加者 26 名
(3) 世話人会が中心になって会を運営する。
第 1 回世話人会 2 月 5 日
第 2 回世話人会 3 月 5 日
(4) 世話人会が中心になって運営し、年2回の研究会を
開催する。
第2回北陸支部研究会を 6 月 14 日に開催する
「ハルピン研修旅行の参加報告」(参加者)
「形成外科学会の自衛隊関連の報告の研究-中間報
告」(横山隆)
「昭和 5 年~11 年卒業の旧制金澤医科大学同窓会名
簿にみる 731 部隊関係者」(莇昭三)
6-3. 東北、北陸以外での支部結成を目指す。
6-4. 会員拡大
正会員数 140 名、学生会員 3 名を目指す。
6. 日本学術会議
日本学術会議協力学術研究団体としての活動を進め
る。
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
第 4 号議事 2014 年度(2014 年 1 月 1 日~12 月 31 日)予算(案)
一般会計
収入
項目
内容 前年度繰入金
会費収入
正会員会費
予算
137,418
767,500
730,000
学生会員会費
会誌会員会費
事業収入
内訳
6,000
31,500
備 考
会員数140名
2012年度1名、2013年度8名
2014年度137名
会員数3名 会員数6
2013年度1名、2014年度6名
82,000
第35回研究会
第36回研究会
会誌売上
その他
財務運用益
合計
30,000
30,000
20,000
2,000
京都(参加者30名)
東京(参加者30名)
50
986,968
支 出
項目
内容 予算
内訳
事業費
144,000
研究会
80,000
会務総会
調査研究費
幹事会
事務局費
印刷費
24,000
10,000
10,000
20,000
第35回 40,000円
第36回 40,000円
第15回 会場費
325,000
会誌
会報・研究会
通信費
320,000
5,000
第14巻第2号、第15巻第1号印刷
案内印刷、紙・コピー代
100,000
26,000
8,000
郵送費・発送費・通信費
ホームページ運営費
731部隊罪証館 会誌送料
134,000
設備費
消耗事務用品
振替手数料
人件費
次年度繰越金
合計
20,000
16,000
11,000
195,000
141,968
986,968
封筒・ラベル紙等
口座徴収料金・振込手数料
特別会計(基金積立)
収入
項目
内容 前年度繰入金
寄付金
合計
予算
30,860
200,000
230,860
支出
項目
事業費
内容 進める会寄付
実行委員会寄付
次年度繰越金
合計
予算
150,000
内訳
50,000
100,000
80,860
230,860
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Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
特別会計(「平和と医学」調査助成金基金積立)
収入
項目
内容 前年度繰入金
助成寄付金
合計
予算
809,000
0
809,000
支出
項目
内容 返金
次年度繰越金
合計
予算
500,000
309,000
809,000
第 5 号議事 役員等
役員
名誉幹事長 莇 昭三
幹事長
刈田 啓史郎
副幹事長
吉中 丈志
事務局長
西山 勝夫
幹事
末永 恵子
住江 憲勇
土屋 貴志
長島 隆
横山 隆
若田 泰
監事
色部 祐
原 文夫
(城北病院)
(東北大学大学院歯学研究科)
(京都民医連中央病院)
(滋賀医科大学)
(福島県立医科大学)
(全国保険医団体連合会)
(大阪市立大学大学院文学研究科)
(東洋大学文学部)
(石川勤労者医療協会 羽咋診療所所長)
(近畿高等看護専門学校)
(働くもののいのちと健康を守る東京センター)
(大阪府保険医協会)
会誌編集委員会
委員長 若田 泰
委 員 大川 義弘、末永 恵子、土屋 貴志、長島 隆、原 文夫、若田 泰
- 58 -
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
- 59 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
編集後記
私が 15 年戦争下の日本による中国・朝鮮等への侵略や植民地支配の問題に関わるようになったのは、
2000 年の 4~5 月に、当時大阪府保険医協会副理事長だった故・竹内治一先生に誘われて、中国黒龍江
省・東寧県のロシア国境沿いにある旧関東軍要塞群の日中共同調査に参加したことからだった。
この時は、①アジア最大といわれた対ソ戦のための東寧要塞=多くは山中の地下要塞で、第1国境守
備隊を中心に一時は 10 万人余の部隊だった=の視察と調査、②要塞建設のために中国各地から徴用な
いし強制連行された労工たちの死体を埋めた労工墳(万人坑)の視察と、逃走して生き延びた元労工へ
のヒアリング、③要塞周辺の慰安所で慰安婦をさせられていた 4 人の朝鮮人女性へのヒアリング、④ハ
ルビン近郊の平房にある 731 部隊跡の視察、⑤黒龍江省社会科学院(当時は歩平副院長)への訪問と交
流が主なものだったが、いずれも私は強いインパクトを受けた。
あれから 15 年が経過した。2011 年の夏に撫順の奇跡を受け継ぐ会メンバーらによる黒龍江省の「万
人坑を知る旅」が取り組まれたが、その報告では、東寧要塞跡は 2006 年 5 月に中国政府により「全国
重点文物保護単位」に指定されて整備も進み、今は年間 18 万人が見学に訪れているという。私たちが
初めてヒアリングした元慰安婦の方々のうち 3 人はすでに他界され、1 人は故郷の韓国・釜山に帰った
とのことだ。731 部隊に関しては、2000 年に発足した当「15 年戦医研」をはじめ、大阪府保険医協会
(保団連)などにより、日本の医学・医療界に過去の検証を求める粘り強い取り組みが広がり、中国で
は跡地などをアウシュビッツ・広島原爆ドームに続く戦争遺跡としての世界遺産登録が目指されてい
る。また大阪府保険医協会と黒龍江省社会科学院との相互交流が 10 年を超えて今も続いている。
ところで、私が今改めて課題と感じているのが中国人労工の強制連行とその強いられた死者の実態、
責任などをめぐる問題である。
1942 年 11 月の東条内閣の「華人労務者内地移入に関する件」の閣議決定により、1945 年 8 月の敗戦
までに 3 万 8,935 人を日本国内に強制連行し、6,830 人が死んだ「内地強制連行」に関しては、日本政
府と日本企業を相手取った裁判が日本の裁判所に起こされ、最高裁は強制連行とその過酷な労働実態は
認めつつも、1972 年の日中共同声明を根拠にその責任を不問とする判決を下し確定している。また中
国国内でもこれまで当局は政治的考慮から戦争賠償問題には蓋をしてきた。
しかし最近になり、中国の裁判所が日本企業等による強制連行で、被害者や遺族の訴えを受理し、新
たな展開をみせてきた。背景には日本政府による歴史問題での揺り戻しがあるが、歴史に正義の光をあ
てる意味で大いに注目したい。そしてより大きな問題は、旧満州国への中国人強制連行問題である。
青木茂氏の『万人坑を尋ねる ―満州国の万人坑と中国人強制連行』(緑風出版)には、中国の遼寧
政治学院教授などを歴任し、中国における万人坑調査を進めてきた李乗剛氏の研究が紹介されている。
それによれば、1934 年から 45 年まで華北など中国各地から東北地区(満州国)に日本が強制連行した
中国人労工は 790 万人、東北地区内での割り当てや連行による労工が 850 万人で、計 1,640 万人が徴用
されている。そして膨大な死者を生み、一定数が万人坑として残されている。例えば撫順炭鉱に残され
ていた労務者統計では、3 か月で 6 割、半年で 8 割、1年では 9 割が死亡しており、1905 年から 45 年
までの 40 年間では実に 25 万人もの中国人労工が死んでいるという。
これらから推計すれば、恐らく何百万人という単位の中国人が強制連行・強制労働により死亡してお
り、その多くは当時の日本企業によるものだったのである。この桁外れの残虐と不正義が、歴史の闇に
埋められたままであってはならないと強く思う。
(原 文夫
元大阪府保険医協会事務局長)
本号より委員を増やして編集作業を分担して進めることとなりました。過重負担!との声を上げる
と、すぐに援助の手が差し伸べられるということでも、本会員の会への並々ならぬ思いと問題意識を知
らされます。2 月の都知事選挙で投票した 20 歳代の 4 人に 1 人が「我が国が侵略国家だったというの
は濡れ衣」と言ってはばからない元航空幕僚長に投票したというのは驚きです。
「戦争のできる国づく
り」にひた走っている現総理も 1954 年生まれで戦争を知らない世代である上、語られる家庭環境にも
めぐまれていなかった。そんなことを見るにつけても、過去の戦争を風化させずに記憶に刻んでおく私
たちの活動が大切なことを痛感します。
(若田 泰)
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15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌
第 14 巻 2 号
2014 年 5 月
15 年戦争と日本の医学医療研究会会則
第 1 条 本会は 15 年戦争と日本の医学医療研究会(Research Society for 15 years War and Japanese Medical
Science and Service)という。
第 2 条 本会は 15 年戦争をめぐる日本の医学医療界の責任の解明を目的とする。
第 3 条 本会はその目的達成のために次の事業を行う。
1.15 年戦争と日本の医学医療に関する史実・証言の収集調査とその研究
2.会務総会の開催
3.15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and
Japanese Medical Science and Service)などの発行
4.その他必要な事業
第4条
本会の目的・会則に賛成する個人は会員となることができる。入会を希望する者は氏名、連絡先を
添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。団体としての会員は認めない。
2) 学生会員、会誌会員、賛助会員、顧問をおくことができる。入会を希望する学生は氏名、連絡先
を添えて事務局に申し込めば入会の手続きがなされる。会誌会員、賛助会員については、希望する
者・団体は氏名あるいは団体名、連絡先を添えて事務局に申し込めばその手続きがなされる。顧問
は会務総会で決定する。
第5条
会員、学生会員、会誌会員、賛助会員は毎年,その年度の会費を収めなければならない。会費を払
わないときは,その資格は失われる。
第 6 条 会員、学生会員は総会に出席して研究調査の発表や史実の紹介・証言を行い,15 年戦争と日本の医
学医療研究会会誌(Journal of Research Society for 15 years War and Japanese Medical Science
and Service)上における発表の資格を持ち,また同誌の配布、諸行事の案内を受けることができる。
会員、学生会員は会務総会において会務を議決する。
2) 会誌会員、賛助会員、顧問には会誌が配布される。
第7条
本会の会務の遂行は、会務総会において会員、学生会員中より選出された若干名の幹事よりなる幹
事会がこれに当たる。幹事の任期は 2 年として再任を妨げない。
2)会には幹事の互選による幹事長、副幹事長をおく。幹事長は会を代表する。副幹事長は幹事長を
補佐し、幹事長にことある時はその代行を務める。
3)会には監査をおく。監査は会の会計その他の会務を監査しその結旺を会務総会に報告する
第8条
年次予算、会則変更等重要事項の決定は会務総会の議決を経なければならない。会務総会は委任状
を含め会員の過半数の出席で成立する。
第 9 条 本会の諸行事、出版物などは会員外に公開することができる。
第 10 条
本会の会計年度は、毎年 1 月に始まり、同年 12 月に終わる。
付則
第 1 条 本会則は 2000 年 6 月 17 日より発効する。
第 2 条 本会則によって世話人が決定されるまで現在の世話人がその会務を遂行する。
第 3 条 会費などは当分の間
会費 年度ごとに必要に応じてその額を定める(2000 年度は 5000 円)。
雑誌購読料 実費とする。
第 4 条 2002 年度の会計年度は 2002 年 3 月 17 日より同年 12 月 31 日までとする。
附記 2001 年 6 月 16 日改訂
附記 2002年3月17日改訂
- 57 -
Journal of 15-years War and Japanese Medical Science and Service 14(2)
May, 2014
本誌に掲載された論文等の扱い
1)論文等の著作権(著作権法 27 条翻訳権、翻案権等、28 条二次的著作物の利用に関する原著作者の権
利)は当研究会に帰属させていただきます。当研究会の許可無しに会誌の記事の全体または部分を転載
すること、複写して頒布・配布すること、あるいは公開のデータベース等に登録することを禁止します。
2)会誌に掲載された論文等を、執筆者本人がまたは執筆者の許可にもとづいて転載される場合には、事
前に「転載許可願」を当研究会に提出して下さい。
3)当研究会は、当該論文等の全部または一部を、当研究会ホームページ、当研究会が認めたネットワー
ク媒体、その他の媒体において任意の言語で掲載、出版(電子出版を含む)出来るものとします。この
場合、必要により当該論文の抄録等を作成して付することがあります。
2010 年 3 月 21 日
15 年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
投
稿
規
定
会員の皆さんからの、論文・総説・随想・書評・資料解題などの積極的なご寄稿をお待ちしております。ただし
内容は、本研究会に関係したものに限ります。論文掲載の可否は編集委員会で決定します。
掲載原稿の規格は以下のとおりとします。
①ファイルは Windows(あるいは Macintosh)のワードで作成し、印刷した原稿 1 部と FD、CD、USB のいずれかで
提出してください(メール輸送も可、送り先は戦医研事務局でアドレスは [email protected] )。図、表、写
真は表題、説明を明記しデジタルデータで提出してください。
②原稿の分量は、2 万字以内を目安にしてください。印刷は白黒印刷となります。
③原稿は、既刊号を参考にされた上、題目、キーワード、著者の氏名・肩書き・所属・連絡先住所(以上は邦文、
欧文)、電話・FAX・E-mail アドレスを記したものを先頭頁とし本文、文献、著者プロフィールを記して下さい。
④表記は、新仮名遣いを基本とし、句読点は明瞭に、英数文字は半角文字とします。外国語の人名、雑誌名は
原語を付記することが望ましい。
⑤度量衡は C,G,S 単位とし m,cm,mm,kg,ml,mg/dl 等を用い、数字は算用数字を使用します。
⑥文献は、本文の終わりにまとめて記載してください。本文中の引用順に 1),2)と番号を付し(上付きで)、下記の
順、要領で書いてください。
雑誌の場合 著者名:題名,雑誌名,巻数,頁-頁,西暦年号
単行本の場合 著者名:書名,版数,発行者,頁-頁,西暦年号
著者名は 1 人までとし、2 人目からは他(または et.al.)とする。
外国雑誌名を略する場合は、index medicus 所載のものに従う。
なお手書きしかかなわない場合は市販の400字詰原稿用紙に記入して下さい。なお図表はコピーしますので良
質のものをお願いします(手作りですので電子文書での寄稿にご協力の程を願います)。
2003 年 3 月 15 日 編集委員会
2010 年 3 月 21 日 改定
15年戦争と日本の医学医療研究会会誌編集委員会
委員長 若田 泰
委員 大川 義弘、末永 恵子、土屋 貴志、長島 隆、原 文夫
- 58 -
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