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ディアスポラからコスモポリタンへ ―田村(佐藤)俊子にみる日本‧北米‧中国

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ディアスポラからコスモポリタンへ ―田村(佐藤)俊子にみる日本‧北米‧中国
『台灣日本語文學報創刊 20 號紀念號』PDF版
PDF 版は、広く業績を共有するためにインターネットでの検索と個人の閲覧の便に供す
る目的で公開しています。インターネット、印刷物、その他いかなる形でも、許可なく転
載・複製・印刷・刊行・公開することを禁止します。
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遠離家國的漂泊者到世界人 :
田村俊子在日本、北美、中國
吳佩珍
東吳大學日本語文學系助理教授
摘要
至目前為止,日本女作家田村俊子以及其作品從未能從〈新女
性 /舊 女 性 〉這 樣 的 二 元 對 立 構 造 舊 巢 窠 中 跳 出。直到 八 ○ 年 代 女 性主
義 以 及 性 別 主 義 研 究 開 始 流 行 , 田 村 俊 子 研 究 才 有 新 的 視 點 以 及 重新
評 價 的 契 機 。 本 稿 目 的 不 只 有 器 途 解 構 原 來 的 田 村 俊 子 形 象 , 更 希望
透 過 新 視 點 重 新 構 築 新 的 田 村 俊 子 形 象 , 以 便 重 新 省 視 田 村 俊 子 的生
涯,研究動向以及今後的研究課題。
關鍵詞: 田村俊子,田村俊子研究,性別研究,女性主義研究,日本
女性作家研究。
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From diaspora to cosmopolitan:
Tamura Toshiko’s days in Japan, North America and China
Wu Pei-Chen
Associate Professor, Soochow University
Abstract
The woman writer Tamura Toshiko who had been improperly
treated as a writer until feminism study and gender study revalued her as
a feminist writer in 1980s.
However, Tamura’s stereotyped pictue--a
lonely woman wondered in floating world--was constructed through
Setouchi Harumi’s biographical novel Tamura Toshiko, which was
published in 1961 and won the first Tamura Toshiko Prize.
Not only re-constructed Tamura’s picture, This paper also
reexamines both how the feminism studies influenced on the study on
Tamura Toshiko and how the scholars in Japanese woman literature try to
shed light on Tamura Toshiko as a feminist.
Key words:Tamura Toshiko, The Study of Tamura Toshiko, Gender
Study, Feminism Studies, Japanese woman writer.
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ディアスポラからコスモポリタンへ
―田村(佐藤)俊子にみる日本‧ 北米‧ 中国―
呉佩珍
東呉大学日本語文学系助理教授
要旨
従 来 、 女 性 作 家 田 村 俊 子 お よ び そ の 作 品 は 、 〈 新 し い 女/旧 い 女 〉
と い う 二 項 対 立 の 枠 組 み の な か で 捉 わ れ て き た 。 八 〇 年 代 の フ ェミ
ニ ズ ム 研 究 お よ び ジ ェ ン ダ ー‧ス タ デ ィ ー が 盛 ん に な っ た こ と によ
っ て 、 新 た な 視 点 で 田 村 俊 子 を 再 検 討 す る こ と を 可 能 に し た だ けで
なく、田村俊子の可視性がようやく明らかにされたとも言えよう。
本稿の目的は、従来の田村俊子像の落とし穴を指摘したと同時に、
新 た な 視 点 を と お し て 、 新 た な 田 村 俊 子 像 を 構 築 す る こ と に あ る。
ま た 、 こ の 再 構 築 さ れ た 田 村 俊 子 像 を ふ ま え な が ら 、 彼 女 の 生 涯、
研究動向、今後の研究課題を再検討する。
キ ー ワ ー ド : 田 村 俊 子 、 田 村 俊 子 研 究 、 ジ ェ ン ダ ー ‧ ス タ デ ィ ー、
フェミニズム‧スタディー、日本女性作家研究
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ディアスポラからコスモポリタンへ
―田村俊子にみる日本‧ 北米‧ 中国―
呉佩珍
東呉大学日本語文学系助理教授
1. 従 来 の 作 家 ・ 田 村 俊 子 像
田 村 ( 佐 藤 ) 俊 子 ( 以 下 、 俊 子 ) は 1884年 4 月 、 東 京 ・ 浅 草 に
生 ま れ た 。1901年 、17歳 で 日本女 子 大学校 国 文学科 に 入学し た が、
心 臓 病 を 患 い 一 学 期 で 退 学 し た 。そ の 後 、幸 田 露 伴 の 門 下 生 と な り 、
そ の 関 係 で 最 初 の 夫 ・ 田 村 松 魚 と 出 会 う 。 彼 は 、 同 じ く 露 伴 の 門下
生 で 、 俊 子 の 兄 弟 子 で あ っ た 。 俊 子 は 、 露 伴 か ら 「 佐 藤 露 英 」 の筆
名 を も ら い 、一 葉 張 り の 文 体 で 小 説 を 発 表 し て い た 。しかし、当時、
流 行 し て い た 自 然 主 義 の 潮 流 に 接 し 、 自 分 の 作 風 に 疑 問 を 抱 き はじ
め 、 女 優 と し て 活 動 す る よ う に な り 一 時 期 文 壇 か ら 遠 の い た 。 1906
年 の 夏 頃 か ら 、 俊 子 は 、 毎 日 派 文 士 劇 の 女 優 に な り 、 舞 台 名 も 筆名
と 同 じ 「 佐 藤 露 英 」 を 用 い た 。 1907年 、 川 上 貞 奴 が 帝 国 女 優 養 成 所
を 成立 し た際、 第 一期生 と し て 入 所 し た が 、 1908年 、 創 作 意 欲 が 再
燃し、舞台から退く。
1909年5月、松魚 は、八年 間のア メ リカ滞 在 を終え 帰 国した 。俊子
は 、 未 入 籍 の ま ま 、 彼 と 結 婚 生 活 を は じ め た 。 と こ ろ が 、 松 魚 の文
筆 活 動 が 思 い ど お り に い か な か っ た た め 、 生 活 は 逼 迫 し て い た 。そ
こ で 松 魚 に 強 制 さ れ て 、 俊 子 は 、 1910年に 「 町 田 と し 子 」 の 筆 名 で
「 あ き ら め 」 を 『 大 阪 朝 日 新 聞 』 懸 賞 小 説 に 応 募 し た 。 そ れ は 、二
等 ( 一 等 に 該 当 な し ) に 入 選 し た 。 こ れ が き っ か け で 、 「 作 家 ・田
村 俊 子 」 が 正 式 に 誕 生 し た 。 同 年 、 中 村 吉 蔵 主 催 の 「 新 社 会 劇 団」
の『 波 』に 女 優「 花 房 露 子 」と し て 出 演 し 、好 評 を 博 す 。だが 、「 新
社 会 劇 団 」 は 、 興 行 成 績 不 振 の た め 解 散 を 余 儀 な く さ れ 、 そ の 後、
俊子が舞台に立つことは二度となかった。
作 家「 田 村 俊 子 」と し て 出 発 し た 俊 子 は 、同 時 期 に 設 立 さ れ た「 青
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鞜 社 」 に 参 加 し 、 機 関 誌 『 青 鞜 』 創 刊 号 に 「 生 血 」 を 寄 稿 し た 。こ
の 時 期 、「 青 鞜 」同 人 で あ っ た 長 沼( 高 村 )智 恵 子 、平 塚 ら い て う 、
そ し て 尾 竹 紅 吉 等 と 交 遊 関 係 に あ っ た 。 彼 女 た ち と の 交 遊 に つ いて
は、「 悪 寒」( 1912年10月) 、「平 塚 さん」 (1913年7月 )「日 記」
( 1913年7月)など の作品 か ら窺い 知 ること が できる 。また 、『 あき
ら め 』に 表 れ て い る 同 性 愛 の 雰 囲 気 も 、こ れ ら の 作 品 に 見 て と れ る 。
その 後 、「 女 作 者 」( 初 出 原 題「 遊 女 」1913年 1月 )、「 木 乃 伊 の
口 紅」 (1913年4月 )、「 炮 烙の刑 」 (1914年4月)な ど の代表 作 を
発 表 し た が 、 こ れ ら の 作 品 は 、 い ず れ も 「 両 性 間 の 相 剋 」 を 主 題に
し 、 官 能 的 雰 囲 気 の 漂 う も の で あ っ た 。 ま た 、 そ こ に 表 れ て い る夫
婦 間 の 確 執 は 、 そ の ま ま 松 魚 と 俊 子 夫 婦 の 実 生 活 を 反 映 し た も のだ
と 思 わ れ て い た 。 こ の よ う な 作 風 は 長 く つ づ く こ と が な く 、 1915年
頃 に な る と 、 創 作 力 は 徐 々 に 衰 え は じ め る 。 実 生 活 で は 、 夫 ・ 松魚
と の 諍 い が 絶 え な か っ た た め 、1916年 の 年 末 か ら 翌 年 の 春 に か け て、
別 居 生 活 に 入 り 、湯 浅 芳 子 と 同 居 し は じ め た 。1917年 に 入 っ て か ら 、
創 作 力 の 衰 退 と 借 金 と に よ っ て 経 済 的 行 き 詰 ま り を 見 せ 、 生 活 に破
綻 が 生 じ は じ め た 。 さ ら に 春 頃 か ら 、 鈴 木 悦 と の 恋 愛 関 係 に 入 り、
行方をくらませて、二人で隠れて住みはじめた。
この 時 期 、 俊 子 は 、 人 形 作 り に よ っ て 生 計 を 立 て て い た 。 翌 年、
鈴 木 悦 は 、 カ ナ ダ の バ ン ク ー バ ー の 日 系 紙 『 大 陸 日 報 』 の 社 主 ・山
崎 寧 の 招 聘 に 応 じ 、 編 集 長 と し て カ ナ ダ に 赴 く こ と に な っ た 。 鈴木
悦 が 、 1918年5月 30日 に 横 浜 を 出 発 し た 際 、 見 送 り に 行 っ た 俊 子 は 、
後 日 バ ン ク ー バ ー に 行 く こ と を 約 束 し た 。 カ ナ ダ 行 き の 資 金 作 りの
た め 、俊 子 は 原 稿 を 書 き ま く り 、ま た 、借 金 に 駆 け ず り 回 っ て い た 。
同 年 10月 11日 に 、 横 浜 か ら メ キ シ コ 丸 で 出 発 し 、 10月 26日 に カ ナ ダ
のヴィクトリアに到着した。
1932年2月、鈴木 悦は一 時 帰国し た 。そ のた め、『日 刊民衆 』の編
集やそれに関係する活動は、すべて俊子によって行われていた。
1936年3月31日 、 バンク ー バーか ら 帰国し た 俊子は 、 小説、 随 筆、
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評 論 を 多 く 発 表 す る 。 小 説 の ほ と ん ど は 、 日 系 二 世 を 題 材 に し てい
た 。 た と えば、 「 カリホ ル ニ ア 物 語 」 ( 『 中 央 公 論 』 1938年 7月 )、
「 侮 蔑 」 ( 『 文 芸 春 秋 』 1938年 12月 ) な ど を 発 表 す る が 、 そ れ は ロ
サンゼルス滞在中の見聞に基づくものだと思われる。
1938年12月、 俊子 は、『 中 央公論 』 社の特 派 員とし て 北京に 向 け
て 日 本 を 発 っ た 。 当 時 、 俊 子 が 日 本 を 離 れ た の は 、 そ の 創 作 力 の衰
退 、 借 金 に よ る 経 済 的 破 綻 、 そ し て 佐 多 稲 子 の 夫 ・ 窪 川 鶴 次 郎 との
恋 愛 関 係 が 原 因 で は な い か と と り ざ た さ れ た 。 こ の よ う に 、 バ ンク
ー バ ー に 渡 っ た と き と 同 じ よ う に 、 そ の 渡 中 の 原 因 は 、 ス キ ャ ンダ
ルがらみのものとして取り沙汰されたのである。
俊 子 は 、1939年1月、揚 州、蘇州、鎮 江、杭 州 を回り 、上海に 戻 り、
月 末 に 北 京 に 向 け て 発 っ た 。 途 中 、 青 島 、 天 津 な ど に 立 ち 寄 る 。北
京 に は 滞 在 し 、そ し て 蒙 彊 方 面 へ 旅 行 に 出 か け た 。1939年 6月 に『 改
造 』 に 発 表 し た 「 雪 の 京 包 線 」 は 、 こ の 旅 行 の 見 聞 記 で あ る 。 その
中 で 俊 子 は 、大 同 や そ の 炭 鉱 を 訪 問 し た こ と を 詳 細 に 記 述 し て い る 。
1945年4月13日 、 陶晶孫 の 晩 餐 に 出 か け た あ と 、 帰 路 に つ く 人 力車
の な か で 脳 溢 血 で 倒 れ た 。病 院 に 搬 送 さ れ た の ち 、昏 睡 状 態 の ま ま 、
三 日 後 の1945年4月16日帰 ら ぬ 人とな っ た。享 年61歳で あっ た。
2 .田 村 俊 子 像 の 欠 落 ― デ ィ ア ス ポラ か ら コ ス モ ポ リ タ ン へ の田 村
俊子の道程―
悲 惨 と 寂 寥 に き わ め て 、流 離 な 生 活 に 余 儀 な く さ れ た「 漂 泊 の 女」
で あ る 田 村 俊 子 像 は 、 瀬 戸 内 晴 美 ( 寂 聴 ) の 伝 記 小 説 『 田 村 俊 子』
に よ っ て 構 築 さ れ た と い え よ う 。 特 に 上 海 時 代 に お け る 田 村 俊 子像
は 、「 何 れ に し て も 、ささ や か な 、取 る に た ら な い こ ん な 雑 誌 [筆 者
注:中 国 語 女 性 雑 誌『 女 聲 』]に、俊 子 が 晩 年 の 貴 重 な 時 間 と 情 熱 と
心 血 を な ぜ こ れ ほ ど ま で に そ そ い だ の だ ろ う か 。 私 は そ こ に 古 里を
見 失 っ た 異 邦 人 と し て の 俊 子 の 流 離 の 孤 愁 を 見 出 さ ず に は い ら れな
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い 」1 と い う ふ う に 描 か れ て い た 。そ れ は い ま ま で の 田 村 俊 子 研 究 の
定説となり、さらなる研究のネックとなった原因でもある。
田村俊子を、単なる時代の潮流の浮き沈みに身を任せる「漂泊の
女」として捉えてしまうステレオ‧ タイプから脱出するために、や
は り 彼 女 の 日 本 、 北 米 そ し て 中 国 へ の 「 越 境 」 と 対 照 し な が ら 、そ
の思想的変遷の道程を並行的に探究しなければならないと思う。
俊子と鈴木悦がバンクーバーへ行ったのは、従来の俊子の伝記研
究 で は 、 ダ ブ ル 不 倫 と い う 困 境 か ら 、 ま た 、 当 時 の 日 本 に 依 然 存在
し て い た「姦通罪」か ら 逃 れ る た め で あ っ た と さ れ て き た 。し か し 、
鈴 木 悦 の 当 時 の 日 記 と 文 章 、 そ し て 俊 子 が こ の 「 逃 避 行 」 を 回 顧し
書 い た エ ッ セ ー を 読 め ば 、 決 し て 単 純 に 「 駆 け 落 ち 」 を 目 的 と する
「 逃 避 行 」 で は な い こ と が わ か る 。 俊 子 は 、 樋 口 一 葉 以 後 、 筆 一本
で 自 立 で き る 最 初 の 女 性 作 家 と 讃 え ら れ て き た 。 女 性 作 家 と し ての
重 圧 、 さ ら に 創 作 力 が 枯 渇 し て ゆ く こ と に つ い て 、 後 年 、 彼 女 はこ
う述懐している―「真の芸術は独創でなければならぬといふ信念
を 抱 い て い た 私 は 、 創 作 を す る よ う に な つ て も 、 他 の 追 随 を 許 さぬ
と い ふ 見 識 で 、 男 性 の 持 た ぬ 境 地 、 彼 等 の 知 ら ぬ 世 界 を 書 く こ とに
ば か り 一 生 懸 命 に な つ て い た し ( 中 略 ) 自 然 頽 廃 的 な 女 の 官 能 、女
の 感 覚 、 女 の 悩 み 、 女 の 恋 愛 と 云 ふ よ う な も の ば か り を 書 い た もの
で あ る 。 や が て 私 の 芸 術 は 行 き 詰 ま つ て 了 つ た 。 ( 中 略 ) 私 の 筆は
鋭 い 神 経 と 爛 れ た 官 能 に だ ん へ 疲 れ て き た 。残 る も の は 腐 つ た 感 情
ば か り で あ る 。こ れ が 私 を 苦 し め 、自 分 の 芸 術 に 疑 い が 起 つ て か ら 、
全 く 自 暴 自 棄 に な つ た 自 分 の 生 活 を 打 ち 壊 し て 日 本 に 暫 く お 別 れを
し た が ( 中 略 ) そ の 時 の 私 は 、 価 値 の な い 生 活 、 信 念 の な い 生 活を
続 け 、 自 分 の 習 っ た 芸 術 の 屍 を 守 り な が ら 生 き て 行 く こ と の 方 が嘘
ママ
で、これを潔く打ち壊していう方が本当だと固く信じていたもので
あ る 」 2。
1
2
瀬 戸 内 晴 美 『 田 村 俊 子 』( 文 藝 春 秋 新 社 、 1961 年 )、 301 頁 。
佐 藤 俊 子 「 一 つ の 夢 ― 或 る 若 き プ ロ レ タ リ ア 婦 人 作 家 に 送 る ― 」( 『 文 芸
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この俊子の回想からわかるように、彼女のバンクーバー行きは、
単 に 鈴 木 悦 と の 恋 愛 関 係 を 維 持 す る た め だ け で は な か っ た 。 創 作の
行 き 詰 ま り と 、 そ れ に よ っ て 破 綻 が 生 じ た 生 活 も 、 バ ン ク ー バ ー行
き の 要 因 の 一 つ で あ っ た し 、 ま た 、 思 想 面 に 生 じ た 変 化 も 、 そ のも
う 一 つ の 要 因 で あ っ た と 考 え ら れ る 。こ の 時 期 の 鈴 木 悦 の 日 記 か ら、
そ の こ と が 窺 い 知 れ る ― ― 「 日 本 文 壇 は 正 に 混 乱 の 状 態 に あ る 、一
つ の 権 威 あ る 批 評 も な け れ ば 、 一 つ の 優 れ た 芸 術 も な い 。 ( 中 略)
危 険 な 毒 悪 な 流 行 の 波 を 、 力 強 い 、 本 然 的 な 思 想 の 奔 流 に ま で 導く
人 が ゐ な い 。 あ と 二 年 、 さ う だ 今 は 待 て 。 力 を 養 は な く て は な らな
い 。 そ れ か ら だ 。 私 が 私 の 生 活 を 主 張 す る の は 。 私 と 、 あ の 人 〔筆
者 注 : 俊 子 〕 と が 自 分 の 生 活 を 主 張 す る の は 。 ( 中 略 ) 今 は 、 山に
閉 じ た 気 持 ち で ゐ べ き で あ る 。苦 難 の 修 行 で あ る 」3 。こ の 引 用 を見
れ ば 、 こ の 時 期 、 鈴 木 悦 の 思 想 面 に 、 ア ナ ー キ ズ ム の 雰 囲 気 が 漂っ
て い た こ と が わ か る 。 鈴 木 悦 の ア ナ ー キ ス ト 的 な 傾 向 は 、 お そ らく
ト ル ス ト イ か ら の 影 響 で あ ろ う 。 彼 は 、 1917年 初 夏 、 島 村 抱 月 と ト
ル ス ト イ の 『 戦 争 と 平 和 』 を 共 訳 し て い た 。 島 村 抱 月 と 共 訳 し たと
は い え 、 そ れ は 形 の 上 の だ け の こ と で あ っ た 。 実 際 は 、 鈴 木 悦 が独
力 で 翻 訳 し た も の で あ る 。 そ の 翌 年 、 日 本 初 の 『 ト ル ス ト イ 全 集』
も 完 訳 さ れ た 4 。大 正 期 に お け る ト ル ス ト イ は 、知 識 人 に 大 い な る 影
響 を 及 ぼ し た 。 大 正 期 に 打 ち 出 さ れ た 「 人 道 主 義 」 や 「 自 由 主 義」
は 、 ト ル ス ト イ か ら の 影 響 と い え よ う 。 一 方 、 知 識 人 の 間 で は 、ト
ル ス ト イ を 介 し て マ ル ク ス 主 義 の 勉 強 も は じ ま っ て い た 5 。「危 険な
毒 悪 な 流 行 の 波 を 、 力 強 い 、 本 然 的 な 思 想 の 奔 流 に ま で 導 く 人 がゐ
な い 。あ と 二 年 、さ う だ 今 は 待 て 。力 を 養 は な く て は な ら な い 」と 、
春 秋 』、 1936 年 6 月 )、 265 頁 。
3
「 鈴 木 悦 日 記 」( 1918 年 10 月 9 日 付 )」『 田 村 俊 子 作 品 集 第 3 巻 』 オ リ ジ ン 出
版 セ ン タ ー 、 1988 年 9 月 )
4
田 村 紀 雄 『 鈴 木 悦 日 本 と カ ナ ダ を 結 ん だ ジ ャ ー ナ リ ス ト 』( リ ブ ロ ポ ー ト 、
1992 年 )、 73-100 頁 。
5
柳 田 泉 、 勝 本 清 一 郎 等 編 『 座 談 会 明 治 ・ 大 正 文 学 史 3』( 岩 波 書 店 、 2000
年 5 月 )、 182-254 頁 。
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鈴 木 は い う 。 彼 は 、 社 会 主 義 の 到 来 を 期 待 し て い た の で あ る 。 そし
て 同 時 に 、 そ の 到 来 時 期 を 迎 え る た め 、 自 分 た ち が ま ず 外 国 で 「力
を養わなければならない」、としたのであった。
鈴木 悦 の 社 会 主 義 の 思 想 的 立 場 は 、 俊 子 の 創 作 姿 勢 に つ い て 書か
れ た 次 の 文 に 一 層 鮮 明 に 表 れ て い る ― ― 「 真 剣 が 欠 け た ら 、 も う私
た ち の 生 活 は 無 い 。 急 転 直 下 の 破 滅 で あ る 。 あ ら ゆ る 革 命 者 の 陥る
危 険 は 、何 物 よ り も 先 づ 第 一 に 夫 れ で あ る 。あ の 人〔 筆 者 注:俊 子 〕
の 創 作 態 度 は 、 い つ も 此 の 危 険 に 片 足 を 入 れ て ゐ た 。 此 の 革 命 者的
態 度 に 徹 底 し な い う ち は 、 と て も よ い 創 作 は 出 来 な い 。 之 が 真 の人
道 的 態 度 で あ り 、 人 道 主 義 で あ る 」 6。 こ の 時 期 に 鈴 木 悦 が 書 い た 、
俊 子 に 関 す る 記 述 か ら す れ ば 、 二 人 の 恋 愛 関 係 は 、 思 想 面 と 芸 術面
に お い て 二 人 に 共 鳴 し あ う 部 分 が あ っ た か ら こ そ 成 立 し え た と いえ
よ う 。上 海 時 代 、俊 子 と 緊 密 な 連 帯 関 係 を 持 っ て い た 中 国 女 性 作 家・
関露は、渡加前後の俊子の思想の変化についてこう語っていた―
「 武 者 小 路 実 篤 が 代 表 し て い た ト ル ス ト イ 主 義 は 、 日 本 文 壇 に 影響
を 与 え て い た 。 女 史 も 多 く 影 響 を 受 け て い た 。 彼 女 の 作 品 も 人 道主
義 に 傾 い て い た 」7 。こ こ か ら 当 時 の 俊 子 は 、ト ル ス ト イ 主 義 の 影 響
を 受 け て い た と い え よ う が 、 俊 子 は 、 白 樺 派 よ り 、 鈴 木 悦 か ら 直接
影響を受けたのではないかと思える。
バン ク ー バ ー の 『 大 陸 日 報 』 入 社 直 前 、 鈴 木 悦 は 、 日 本 か ら バン
ク ー バ ー へ 向 か う 船 上 で ロ シ ア の 貴 族 青 年 に 出 会 っ た 。こ の 青 年 は、
1917年 2月 のロシ ア 革命以 後、ア メ リ カ へ 亡 命 す る た め 密 航 し て い た
の で あ る 。 青 年 は 、 ロ シ ア 革 命 に よ っ て 労 働 者 階 級 が 台 頭 し 、 ロシ
ア 全 体 を 混 乱 に 導 い た 、 と 告 げ た 。 こ の 時 の 体 験 を も と に 、 悦 は、
6
7
同注3。
関 露 「 日 本 女 性 作 家 の 印 象 ( 日 本 女 性 作 家 印 象 )」『 日 本 一 瞥 』( 中 日 文 化 叢 書
第 一 種 、中 日 文 化 協 会 上 海 分 会 、1994 年 3 月 )、39 頁 。原 文 は :「 武 者 小 路 実
篤 先 生 所 代 表 的 托 爾 斯 泰 主 義 影 響 了 日 本 文 壇 、田 村 女 士 也 受 了 許 多 影 響 、
(女
+ 也 ) 的 作 品 也 傾 向 人 道 主 義 」。
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ロ シ ア 革 命 の 現 状 と 社 会 改 革 に つ い て 、書 簡 形 式 の「 亡 命 の 人 」8 を
書 い た 。 ロ シ ア の 貴 族 や 資 産 家 階 級 に は 、 「 同 情 す べ き 何 物 を も見
出 す こ と は 出 来 な い 」 と い い 、 そ の 一 方 で 「 露 国 に お け る 民 衆 意志
の 奮 起 を 祝 福 す る 」 と し て い る 。 と は い え 、 ロ シ ア 国 内 の 混 乱 状態
を 懸 念 し 、 そ れ に 導 い た の は 最 早 「 民 衆 」 で は な く 、 「 モ ッ ブ 」で
あ り 、 「 単 な る 群 衆 で あ る 衆 愚 で あ る 」 と 指 摘 し た 。 こ の 指 摘 をふ
ま え な が ら 彼 は 、 社 会 改 革 の 理 想 に つ い て 、 次 の よ う に 述 べ て いる
― ― 「 私 た ち の 戦 ひ は 、 官 僚 思 想 を 絶 滅 し 、 衆 愚 を 開 拓 し て 民 衆に
迄引き上げることに其の努力の総てを置くものでなくてはならない。
目 覚 め た る 個 性 の 総 合 よ り 成 る 政 治 に し て 、 初 め て 私 た ち の 生 活は
善 良 な る 保 証 を 得 る の で あ る 」9 。こ の 引 用 か ら わ か る よ う に 、渡加
前 後 、鈴 木 悦 は 、す で に 社 会 主 義 的 立 場 に 傾 い て い た 。し た が っ て 、
こ の 時 期 、 思 想 面 に お い て 、 悦 と 相 通 じ 合 う 俊 子 の 内 面 に は 、 社会
主義的思想が徐々に萌芽え始めていたのではないかと思われる。
1919年1月1日 、俊 子は、 「 鳥の子 」 の筆名 で 、旧約 聖 書「サ ム エ
ル 記 」 を も と に し た 「 牧 羊 者 」 と い う 短 編 小 説 を 書 い た 。 こ れ は、
俊 子 の バ ン ク ー バ ー 時 代 の 最 初 で 最 後 の 小 説 で あ る 。 ま た 、 バ ンク
ー バ ー 時 代 の 俊 子 は 、 『 大 陸 日 報 』 に 文 章 を 発 表 す る 際 、 必 ず 「鳥
の 子 」 と い う 筆 名 を 用 い て い た 。 同 年 8月 2日 、 俊 子 は 、 婦 人 問 題を
扱 っ た 論 説「 こ の 町 に 住 む 婦 人 達 に 」を『 大 陸 日 報 』「 土 曜 婦 人 欄 」
に 発 表 し た 。 こ の 『 大 陸 日 報 』 「 土 曜 婦 人 欄 」 は 、 俊 子 に よ っ て設
け ら れ た も の で 、そ の 間 の 経 緯 は こ の 論 説 か ら 明 ら か に な る ― ―「 私
は こ こ へ 新 た に こ の 欄 を 設 け ら れ た に つ い て 、 こ れ か ら 引 続 き 、出
来 る だ け こ の 町 に 住 む 婦 人 達 の よ き 伴 侶 と な つ て 、 自 分 の 心 づ いた
事 、 考 へ 付 い た 事 を お 知 ら せ し 、 お 話 し や う と 思 ふ そ し て こ れ は其
の最初のお話の一つである」。
「 こ の 町 に 住 む 婦 人 達 に 」 ( 1919年8月2日 ) を は じ め 、 「 自 ら 働
8
9
「 亡 命 の 人 」『 大 陸 日 報 』( 1918 年 7 月 23-27 日 、 7 月 29-31 日 、 8 月 1-2 日 )
鈴 木 悦 「 亡 命 の 人 ▲第 一 信 ( 八 )」( 『 大 陸 日 報 』 1918 年 7 月 31 日 )
174
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け る 婦 人 達に」(1919年8月9日 )、「 美 の 憧 憬 」( 1919年 8月 16日 )、
「 真 の 誇 り 」(1919年8月23日 )、「 自 己 の 権 利 」( 1919年 8月 30日 )、
「 自 己 の 権利 二」 (1919年9月13日 ) などを 、 続々と 俊 子は『 大 陸
日 報』 「 土曜婦 人 欄」に 発 表 し た 。 1900年 代 か ら 「 写 真 結 婚 」 制 度
の 流 行 に よ っ て 、 男 性 日 系 移 民 と 結 婚 す る 目 的 で 北 米 に 渡 る 女 性、
い わ ゆ る 「 写 婚 妻 」 が 現 れ て い た 。 そ の た め 、 こ の 時 期 の 日 系 社会
の 女 性 移 民 の 多 く は 、 「 写 婚 妻 」 だ と 推 測 で き る 。 当 時 、 日 本 及び
日 系 社 会 に お い て 、 「 写 婚 妻 」 の イ メ ー ジ は 、 「 堕 落 女 学 生 」 言説
の 延 長 線 上 に あ る も の で あ っ た 。 実 際 、 多 く の 女 学 生 出 身 者 が 「写
婚 妻 」 に な っ た こ と も 事 実 で あ る 。 こ れ ら の 女 性 た ち は 、 日 本 社会
内 部 で 自 分 の 居 場 所 を 見 つ け る こ と が で き な か っ た た め 、 そ の 居場
所 を 海 外 に 求 め た の で あ る 。 こ れ ら の 女 性 た ち を 読 者 に 想 定 し 、俊
子 は 、 彼 女 た ち に 「 働 く こ と 」 以 外 に 、 「 知 識 」 を 身 に つ け な けれ
ば な ら な い と 呼 び か け た ― ― 「 私 た ち は 狭 い 天 地 を 出 て 、 広 い 天地
へ と 入 つ て 来 た も の で あ る 。 狭 い 天 地 の 下 に 居 て 十 の 智 識 を 得 るも
の な ら ば 、 私 た ち は 、 二 十 を も 百 を も 千 を も 、 無 限 な 智 識 を 得 られ
る や う な 広 い 天 地 へ と 入 つ て 来 た の で あ る 」 10 。 さ ら に 、 知 識 の 獲
得 に よ っ て 、自 身 の「 真 の 思 想 」そ し て「 真 の 生 活 観 」を 築 き あ げ、
「 日 本 の 国 内 に 眠 れ る 婦 人 を 呼 び 覚 ま し 、 陳 腐 な 思 想 に 遮 ら れ て家
庭 に 埋 ま つ て ゐ る 婦 人 た ち の 思 想 を 転 換 さ せ 」 よ う と し た 俊 子 は、
移 民 地 の 日 本 人 女 性 達 こ そ 、 日 本 女 性 解 放 運 動 を 担 う 先 駆 者 で ある
と考えていた。
「 自 己 の 権 利 」(『 大 陸 日 報 』1919年 8月 30日)を見 る と 、彼 女 の
〈 ジ ェ ン ダ ー 〉 問 題 に 対 す る 意 識 が 、 徐 々 に 変 化 し て い っ た こ とが
わかる―「自分も同じ人間であるといふ悲惨な個人的自覚は、常
に 他 か ら 圧 迫 さ れ 虐 げ ら れ つ つ 生 存 す る 弱 者 の 階 級 の 中 に あ っ たの
で あ る 。 こ の 弱 者 の 中 に 婦 人 の 階 級 が あ る 。 特 に 自 己 の 権 利 を 主張
す る 為 に 世 界 の 彼 女 等 は 絶 え ず 奮 闘 し つ づ け て ゐ る 。 現 在 こ の 世界
10
鳥 の 子 「 自 ら 働 け る 婦 人 達 に 」( 『 大 陸 日 報 』 1919 年 8 月 9 日 )
175
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の 内 に 一 と つ の 革 命 の 発 端 を 起 こ し つ つ あ る 階 級 戦 争 に 於 て も 、私
た ち に と つ て 一 層 適 切 に 感 じ ら れ 、 そ し て 注 意 を 惹 か れ る の は この
婦 人 の 運 動 で あ る 」 。 俊 子 が 「 婦 人 」 を 一 つ の 「 階 級 」 と 見 、 そし
て 「 婦 人 問 題 」 を 「 階 級 戦 争 」 と 考 え て い た こ と は 、 俊 子 が 〈 女性
問 題 〉 を 「 社 会 主 義 」 の 枠 組 み の 中 で 捉 え る よ う に な っ た こ と を裏
付けるものである。
「 自 己 の 権 利 二 」 ( 1919年 9月 13日 ) 」 は 、 『 大 陸 日 報 』 「 土 曜
婦 人 欄 」 に 発 表 さ れ た 俊 子 の 最 後 の 婦 人 論 だ と 思 わ れ る 。 た だ し、
そ の 後 、『 大 陸 日 報 』「婦 人 欄 」に も 変 化 が 見 ら れ 、「 家 庭 」や「 婦
人 論 壇 」 な ど の コ ラ ム が 、 「 婦 人 欄 」 と し て 『 大 陸 日 報 』 の 第 三面
に 常 設 さ れ る よ う に な っ た 。 日 本 の 作 家 や 論 者 の 文 章 を 引 用 す る場
合 以 外 は 、 「 婦 人 欄 」 に 発 表 さ れ た 文 章 の ほ と ん ど は 無 署 名 で あっ
た 。 そ の た め 、 俊 子 が 、 1919年 9月 13日 以 降 、 ど れ だ け 『 大 陸 日 報 』
「 婦 人 欄 」 に 関 わ っ て い た か に つ い て は 、 今 後 の 調 査 を 待 た な けれ
ばならない。
俊子 と 悦 が バ ン ク ー バ ー に 長 期 滞 在 を し た 要 因 の 一 つ に 、 当 時、
盛 ん に な っ て い た 排 日 運 動 が あ げ ら れ る 。 俊 子 と 悦 が バ ン ク ー バー
に 到 着 し た と き 、 北 米 全 体 で 排 日 運 動 が 熾 烈 に な っ て い た 。 当 時、
労 働 者 が 多 く を 占 め て い た 日 系 移 民 は 、 長 時 間 低 賃 金 で 働 い て いた
の で 、 白 人 労 働 者 の 手 か ら 仕 事 を 奪 い 取 っ て い た 。 こ の こ と が 、排
日 運 動 の 原 因 の 一 つ と な っ て い た 。 ま た 、 日 系 人 労 働 者 が ス ト 破り
を し が ち と い う 傾 向 も 、 日 系 人 労 働 者 排 斥 の 主 因 の 一 つ と さ れ てい
た 。 1919か ら 20年 に か け て 、 悦 や 駐 在 日 本 領 事 ・ 浮 田 郷 次 は 、 懸 命
に 『 大 陸 日 報 』 で 、 白 人 労 働 者 と 連 携 し 白 人 社 会 に 同 化 す る よ う、
日 系 移 民 に 呼 び か け て い た 。 そ の 結 果 、 日 系 人 労 働 者 啓 蒙 の 効 果が
現 れ た 。1920年5月 、カ ナダ の 労 働 運 動 の 中 で 、白 人 、中 国 人 そ し て
日 本 人 労 働 者 が 、初 め て 連 合 し て ス ト ラ イ キ を 起 こ し た 。そ れ は「ス
ワ ン ソ ン 湾 盟 休 〔 筆 者 注 : ス ト ラ イ キ 〕 」 で あ っ た 。 こ の ス ト ライ
キ は 、 白 人 労 働 者 や 日 本 人 労 働 者 の 中 に ス ト 破 り が 出 て 、 失 敗 に終
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わ っ た 。 と は い え 、 こ の ス ト を と お し て 、 各 エ ス ニ ッ ク グ ル ー プ間
の 距 離 が 縮 ま っ た こ と は 事 実 で あ っ た 。 ま た 、 こ の ス ト ラ イ キ は、
カ ナ ダ の 急 進 的 な 労 働 組 合 OBUが主 催 し た た め 、結 局 、左 傾 的 な 思 想
が、一層、日系人労働者の間に拡った。
このストライキの失敗がきっかけで、日系人労働者に対する教
育 ・ 組 織 化 の 必 要 が 、 日 系 社 会 に お い て 痛 感 さ れ は じ め た 。 ス トラ
イ キ の 間 、 日 系 人 労 働 者 か ら ア ド バ イ ス を 求 め ら れ 、 彼 ら の た め奔
走 し て い た鈴木 悦 は、『 大 陸日報 』 を退社 し 、1920年7月1日 、「 加
奈 陀 日 本 人労働 者 組合 」を 立 ち 上 げ た 。さ ら に 1920年 8月 11日 、そ の
機 関 誌 『 労 働 週 報 』 を 発 刊 し た 。 そ れ は 、 1924年 3月 1日 か ら 『 日 刊
民 衆 』 に 名を改 め 、1941年10月ま で続 く。
俊子 は 、 悦 と と も に 労 働 組 合 運 動 に 深 く 関 与 し 、 社 会 主 義 的 な立
場 に 傾 斜 し て い た こ と は 容 易に推 測 できる 。1922年3月31日、湯 浅 芳
子 宛 の 書 簡 の 中 で 俊 子 は 、 次 の よ う に 述 べ て い る ― ― 「 私 は 大 分社
会 主 義 者 の 傾 向 を 持 ち 始 め て ゐ ま す 。 然 し 、 ア ナ キ ー ズ ム で も なし
コンミユニズムでもなし、何ズムかまだ分からない」。
鈴木 悦 は 、 労 働 組 合 運 動 に 全 力 を 尽 く し て い た が 、 そ の 一 方 で俊
子 は 、日 系 女 性 移 民 を 啓 蒙 す る た め 、1924年2月、「通 俗 説 話 会 」を
設立し た 。俊子 が 日系女 性 達に対 し て抱い た 期待は 、1924年1月1日
に 発 表 さ れ た 詩 「 婦 人 よ 」 か ら 窺 い 知 る こ と が で き る ― ― 「 婦 人の
幸 福 の 為 に / 婦 人 の 生 活 の 為 に / 婦 人 の 権 利 の 為 に / も つ と も 愉快
に 笑 つ て く だ さ い 。 / 其 れ に は / 貞 淑 な る / 美 徳 の 重 き 冠 を / あな
た の 頭 上 よ り / 取 り 去 ら ね ば な ら ぬ 。 ( 中 略 ) 婦 人 よ 。 あ な た は今
に / そ の 冠 の 重 さ を 感 じ る で あ ら う 。 / そ し て 祖 母 の 記 念 の / 内裏
雛 の 冠 の よ う に / 錆 び た る 金 属 の / 美 徳 の 冠 を ば / わ が 頭 上 に 頂き
つ つ あ る こ と を / あ な た は 自 ら / 笑 止 に 感 ず る 時 が あ る で あ ら う」
11
。この詩からわかることは、〈ジェンダー〉問題に対して、俊子
が い か な る 意 識 を 持 っ て い た か と い う こ と だ け で な く 、 移 民 地 の日
11
鳥 の 子 「 婦 人 よ 」( 『 大 陸 日 報 』 1924 年 1 月 1 日 )
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系 社 会 の 女 性 た ち が 、 伝 統 的 な 「 婦 徳 」 概 念 の 束 縛 か ら 、 依 然 、逃
れえなかったということでもある。
1924年3月、サ ン フラン シ スコの 新 世界新 聞 社副社 長・山県 繁 三の
招 聘 に 応 じ 、俊 子 は 単 身 サ ン フ ラ ン シ ス コ に 赴 い た 。こ の と き 、『新
世 界 新 聞 』に「 二 重 生 活 の ヂ レ ン マ 」( 1924年4月20日 )、「 美 人の
話 」 ( 同 前 ) 、 「 カ リ ホ ル ニ ア の 空 を 眺 め な が ら 」 ( 同 年 4月 30日、
5月2-3日 ) 、 「 日 本 語 教 育 に つ い て 」 ( 同 年 5月 4日 ) 、 「 婦 人 の 弱
点」( 同 前)、「『 女らし い 』とい ふ 言葉の 意 義」( 同 年5月11日 )、
「 婦 女 解 放 運 動 の 先 駆 た ち 」 ( 同 前 ) な ど の 、 「 婦 人 問 題 」 を めぐ
る 論 説 を 発 表 し た 。 「 『 女 ら し い 』 と い ふ 意 義 」 の 中 で 俊 子 は 、つ
ね に 圧 迫 さ れ る 「 弱 者 の 階 級 」 は 、 「 劣 等 観 さ れ る 或 る 種 の 民 族・
労 働 者 ・ 婦 人 」 の 三 つ の 階 級 で あ る と し て い る 。 社 会 主 義 的 立 場か
ら 「 婦 人 問 題 」 を 捉 え る 彼 女 の 傾 向 は 、 こ れ ら の 論 説 の な か で より
端 的 に 表 れ て い る 。ま た 、俊 子 が「 婦 人 問 題 」、そし て〈 人 種 差 別 〉
問 題 の 解 決 策 を 「 社 会 主 義 」 に 求 め る よ う に な っ た 姿 勢 も 、 こ の時
期の論説から窺い知れる。
とは い え 、 俊 子 と 悦 は 、 結 局 、 サ ン フ ラ ン シ ス コ の 新 世 界 新 聞社
に 入 社 す る こ と は な か っ た 。 こ の 間 の 経 緯 に つ い て 、 俊 子 は 、 サン
フ ラ ン シ ス コ よ り 悦 に 宛 て た 書 簡 の な か で 、 こ の よ う に 語 っ て いる
―「あなたは初めの自分の手紙に、民衆をやり出してから、初め
て 生 き 甲 斐 の あ る や う な 愉 快 さ を 感 じ る と 云 つ て も よ こ し た が 、そ
れ は 確 に 然 う に 違 ひ な い 。 ( 中 略 ) た と へ 物 質 的 に は 少 し は 余 裕が
出 来 た に し た と こ ろ で 、 決 し て い い 生 活 に 入 れ た と い へ な い わ けで
す 。 こ れ は よ く お 考 へ に な つ て 、 も し も い や な ら 、 も う 止 め て しま
つ て 、 民 衆 の た め に 尽 く し て や る 方 が い い と 思 ひ ま す 」 12 。
この 決 定 に よ り 、 鈴 木 悦 だ け で な く 俊 子 自 身 が 、 一 層 カ ナ ダ の日
系 人 労 働 運 動 に 深 く 関 与 し て い く こ と と な っ た 。 1924年10月 、 悦 は
12
「 俊 子 書 簡( 日 付 不 明 、鈴 木 悦 宛 )」『 田 村 俊 子 作 品 集
版 セ ン タ ー )、 1988 年 9 月 。
178
第 3 巻 』( オ リ ジ ン 出
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鴨 撃 ち に 行 き 負 傷 し た た め 、 俊 子 は 民 衆 社 に 出 社 し 、 彼 に 代 わ って
執 筆 す る こ と に な っ た 。 1925年か ら は 、 俊 子 も 民 衆 社 に 出 社 す る よ
う に な り 、翻 訳 部 門 を 担 当 し た 。さ ら に 、『 日 刊 民 衆 』に「 婦 人 欄」
が 設 け ら れ 、ここ に 多 く の 婦 人 論 説 を 書 い た 。1930年3月12日 、労働
組 合 の 婦 人 部 が 発 足 し 、 俊 子 は そ の 部 長 と な り 、 労 働 婦 人 運 動 にさ
ら に 積 極 的 に 関 わ っ て い く 13 。『 日 刊 民 衆 』は 戦 争 の た め 、1941年 5
月 2日 か ら 1941年 10月 17日 ま で 14 の バ ッ ク ナ ン バ ー を の ぞ く 他 の す
べ て は 、 散 逸 し て し ま っ て い る 。 そ の た め 、 俊 子 の 『 日 刊 民 衆 』の
文 章 は 、 今 日 、 見 る こ と は で き な い 。 バ ン ク ー バ ー 時 代 の 俊 子 の足
跡 を 辿 り 紹 介 し た 『 晩 香 坡 の 愛 』 ( ド メ ス 出 版 、 1982年 ) の 著 者 ・
工 藤 美 代 子 は 、 当 時 の 日 系 人 女 性 を 訪 問 し 、 俊 子 が 、 婦 人 労 働 組合
の リ ー ダ ー 的 な 存 在 で あ っ た こ と を 知 る 。 ま た 、 「 労 働 婦 人 」 との
国際的共闘の経験について、俊子は、「一つの夢―或る若きプロ
レ タ リ ア 婦 人 作 家 に 送 る ―」(『 文 芸 春 秋 』1936年6月)の なかで
このように回顧している―「鐵のような意志を持つた加奈陀の無
産 婦 人 闘 士 た ち が 、 文 字 通 り の 親 愛 の 手 を 日 本 人 の 婦 人 労 働 者 に向
か つ て 差 延 べ る の で あ る 。 私 が 初 め て 経 験 し た も の は 、 斯 う し た国
は異にしても同じ階級者としてその血の上に感じ合う友愛であっ
た」。
その 時 期 は 、 1932年1月 か ら 2月 に か け て 上 海 事 変 が 起 こ り 、 日 本
は 上 海 に 総 攻 撃 を か け て い た 時 で あ っ た 。 こ こ で 注 目 し た い の は、
『 日 刊 民 衆 』 の 立 場 で あ る 。 そ れ は 、 北 米 各 地 で 発 行 さ れ て い た日
本 語 新 聞 の 日 本 語 欄 と は 際 だ っ て 異 っ て い た 。 『 日 刊 民 衆 』 は 中国
側 の 立 場 に 立 ち 、 日 中 間 の 戦 争 を 報 道 し て い た 。 「 胸 襟 を 開 い て語
13
14
工 藤 美 代 子 『 晩 香 坡 の 愛 』( ド メ ス 出 版 、 1982 年 7 月 )、 184-9 頁 。
こ の な か で も 、1941 年 5 月 28 日 と 1941 年 10 月 17 日 の 部 分 が 散 逸 し て い る 。
Kanada Shinbun (The Canada daily News) and Nikkan Minshu (The Daily People)
for 1941 on Micofilm: A Presentation Microfilming Project at the University of
British Columbia Library: (http://www.library ubc.ca/kanada95.html、 2000 年 7 月
7 日確認)
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る 支 那 軍 首 領 」や「 日 本 に 責 任 が あ る と 、英 国 労 働 組 合 会 議 言 明 」15
と い う 見 出 し は 、 『 日 刊 民 衆 』 が 中 国 に 同 情 的 な 立 場 に 立 っ て いた
こ と を 裏 付 け る も の で あ ろ う 。 後 年 、 俊 子 が 中 国 に 対 し て 示 し た好
感 情 16 、 そ し て 晩 年 、 上 海 で 中 国 語 女 性 雑 誌 『 女 聲 』 に 全 力 を 尽 く
し た の は 、『 日 刊 民 衆 』時 代 と 深 く 関 わ る こ と で あ っ た と 思 わ れ る 。
こ う し た 中 国 に 対 す る 感 情 は 、 い う ま で も な く 移 民 地 の バ ン ク ーバ
ー で 、 「 人 種 を 越 え 」 た 国 際 的 な 共 闘 を お こ な っ た 経 験 に 基 づ いて
いる。
1936年 、北米 よ り帰国 し たのち 、 創作し た 「小さ き 歩み」 三 部作
(『 改造 』1936年 10月、12月 、1937年 3月)は、カナダ の 日系二 世 を
め ぐ る 話 で あ る が 、 そ の 後 の 「 カ リ ホ ル ニ ア 物 語 」 と 「 侮 蔑 」 は、
カ リ フ ォ ル ニ ア の 日 系 二 世 に 題 材 を 取 っ た 作 品 で あ る 。 こ の 一 連の
作 品 群 は 、 日 系 一 世 と 二 世 と の 間 の 確 執 、 そ し て 日 系 二 世 た ち が社
会 主 義 へ 傾 く 過 程 を 描 写 し て い る た め 、 当 時 の 日 系 社 会 の 状 況 だけ
で な く 、 俊 子 の 北 米 に お け る 思 想 遍 歴 を 窺 い 知 る た め の 好 材 料 とな
っている。
また、随筆「一つの夢―或る若きプロレタリア婦人作家に送る
― 」(『 文 芸 春 秋 』1936年6月 )は 、俊 子 が 、自 ら の 思 想 遍 歴 を 語
っ た 文 章 で も あ る 。 さ ら に 、 カ ナ ダ の 女 性 詩 人 ポ ー リ ン ・ ジ ョ ンソ
ン ( E. Paulin Johson)の 紹 介とそ の 作品の 翻 訳(『 明 日香』 1938
15
16
田 村 紀 雄 「 梅 月 高 市 と 『 日 刊 民 衆 』 ―カ ナ ダ 日 系 人 「 キ ャ ン プ ミ ル 労 組 」 の
機 関 誌 活 動 ―」(『 東 京 経 大 学 学 会 誌 』151 号 1987 年 )。1932 年 部 分 の『 日 刊
民 衆 』は 散 逸 し て い る た め 、こ の 部 分 の 言 及 は 、鈴 木 悦 と と も に『 日 刊 民 衆 』
に関わっていた梅月高市の「労働組合十年史」からの引用。
1936 年 3 月 31 日 、 帰 国 後 発 表 し た 「 イ ー ス ト ・ イ ズ ・ イ ー ス ト 」( 『 改 造 』
1938 年 8 月 ) や 、 1938 年 12 月 に 『 中 央 公 論 』 社 の 特 派 員 と し て 中 国 に 出 発
し た あ と で 書 い た 、一 連 の 中 国 女 性 に 関 す る ル ポ ル タ ー ジ ュ 、た と え ば 、「 上
海 に 於 け る 支 那 の 働 く 婦 人 」(『 婦 人 公 論 』1939 年 3 月 )、「 日 本 婦 人 を 嗤 ふ 支
那 の 婦 人 」(『 婦 人 公 論 』1939 年 9 月 )か ら 見 れ ば 、俊 子 は 、中 国 や 中 国 女 性
に親密な感情を抱いていたことがわかる。俊子のバンクーバー時代の体験を
ふまえなければ、この時期における彼女の言動は、単なる大東亜共栄圏政策
に迎合していたにすぎないと解釈されてしまうおそれがある。
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年 1-2月、5月、7月)やユー ジ ン・オ ニ ール(Eugene O'Neill)の『ア
ン ナ・ク リスチ 』(Anna Christie)の翻訳 を 行って お り、ここ から
俊子がいかなる西洋思潮の影響を受けていたかがわかる。
カナ ダ か ら 帰 国 後 の 俊 子 と 親 交 を 交 わ し は じ め た 丸 岡 秀 子 は 、俊
子 が 中 国 に 赴 く ま で 二 人 の 交 遊 が ど の よ う な も の で あ っ た か 、ま た、
こ の 時 期 、 俊 子 の 思 想 的 立 場 が い か な る も の で あ っ た か に つ い て、
『 田 村 俊 子 と わ た し 』 の 中 で 詳 し く 述 べ て い る 。 し た が っ て 、 この
本 は 、 窪 川 鶴 次 郎 と の 恋 愛 関 係 の 経 緯 を 含 め て 、 俊 子 が 中 国 に 渡る
ま で の 様 子 を 知 る 手 が か り を 与 え て く れ る 。 当 時 、 丸 岡 秀 子 は 俊子
の創作力の衰退について、このように述べている―「俊子の筆力
は け っ し て お と ろ え て い な か っ た 。む し ろ 冴 え て い る く ら い だ っ た。
( 中 略 ) し か し 、 俊 子 の 中 の 絶 望 の 吐 息 は 、 底 の 奥 深 く 隠 さ れ てい
た か ら 、 な か な か つ か め な い の が 本 当 だ っ た と 思 う 。 こ の 年 〔 筆者
注 : 1938年 〕 を 境 と し て 文 壇 は 、 次 第 に “ 戦 争 も の ” に 占 め ら れ て
い っ た 」 17 。 ま た 、 俊 子 が 中 国 に 赴 い た こ と に つ い て は 、 次 の よ う
に 述 べ て い る ― ― 「 外 装 だ け で は 、 そ ん な 真 実 を 内 面 に 置 い て いた
と は 誰 も 信 じ な い で あ ろ う 。 こ れ ま で 浴 び て き た 風 評 や 非 難 か らす
れ ば 、 彼 女 の 行 動 を 逃 避 と し か 見 な い だ ろ う し 、 一 片 の 評 価 も 置き
は し な い で あ ろ う 。 ま た 俊 子 は 俊 子 で 、 そ ん な こ と に は 見 向 き もし
な い で あ ろ う 。 そ し て と う と う 独 り で 、 今 後 の 自 分 の 歩 み を 決 めし
ま っ た 。 恋 愛 事 件 も 、 お し ゃ れ も 、 浪 費 も 、 み ん な 一 つ に 束 ね てみ
せ て し ま っ た 。 だ が 、 初 老 の 域 に 入 り か け た 孤 独 の 女 の 内 面 は 、も
っ と 澄 ん だ 苦 悶 を 秘 め て い た で あ ろ う 。 作 家 と し て 泉 が 涸 れ た こと
を 嘆 き、そ の な か で 時 代 を 見 、何 が 真 実 か を 探 ろ う と 努 め て い た 」。
18
前述 の 引 用 か ら わ か る よ う に 、 俊 子 の 中 国 行 き は 、 単 な る 「 逃避
行 」 で は な か っ た 。 言 論 統 制 が 厳 し く な り つ つ あ っ た 、 フ ァ ッ ショ
17
18
丸 岡 秀 子 『 田 村 俊 子 と わ た し 』( 中 央 公 論 社 、 1973 年 4 月 )、 186 頁 。
同 前 、 225 頁 。
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的 風 潮 の 圧 迫 が 強 ま る 当 時 の 日 本 に 、 自 分 の 居 場 所 を 見 い だ す こと
が で き な く な っ た か ら だ 、 そ う 丸 岡 は 指 摘 し て い る 。 「 彼 女 に おく
れ を と っ て し ま っ た 」 と 、 丸 岡 氏 は い う 。 こ れ は 、 俊 子 の 中 国 行に
対 す る 反 応 で あ る 。丸 岡 は 、当 時 、勤 め 先 で「 国 民 精 神 総 動 員 運 動 」
委 員 に さ れ た こ と で 、 も は や 自 分 は そ の 職 場 を 去 る し か な い と 考え
て い た 。 た だ し 、 俊 子 に 相 談 し 、 「 同 意 」 し て も ら い た か っ た 。だ
が 、 俊 子 が す で に 日 本 を 去 る こ と を 決 め た の で 、 「 先 を 越 さ れ てし
ま っ た 」 と 、 丸 岡 は い っ て い る の で あ る 。 『 田 村 俊 子 と わ た し 』の
結 末 で 、 丸岡は 、 南京陥 落 の1938年12月13日、 辞表を 書 き、「 書 き
終 え た と き 、 ま た 俊 子 を 想 っ て い た 」 と し て い る 。 こ の 結 末 か らわ
か る よ う に 、 俊 子 と 丸 岡 は 、 戦 争 協 力 者 に な ら な い よ う に 、 そ れぞ
れ日本と職場を去っていくことを選択したのである。
中 国 に 渡る以 降 、1940年 5月、『 改 造』で 発 表した 「 南京の 感 情」
は 、 汪 精 衛 の 南 京 政 府 が 発 足 し た 当 時 の 状 況 を 窺 わ せ て い る 。 1940
年 か ら 翌 年 に か け て 、 彼 女 は 、 つ づ け て 北 京 に 滞 在 し 、 ホ テ ル 生活
か ら 西 城 闢 才 胡 同 の 平 等 俊 成 の 家 に 移 り 住 ん だ 。 こ の 平 等 俊 成 は、
仏 教 学 者 ・ 平 等 通 昭 の 弟 で あ り 、 「 東 大 出 の 左 翼 活 動 家 で 、 日 本共
産 党 の 地 下 組 織 の 一 員 」 と い う 噂 が あ っ た 19 。 ま た 、 こ の 時 期 、 俊
子 は 中 国 人 に よ る 「 婦 女 連 合 会 」 を 創 設 す る た め 、 北 京 で 興 亜 院の
在 北 京 華 北 連 絡 部 長 官 ・ 森 岡 皐 に 出 資 を し て く れ る よ う に 依 頼 して
い る 20 。
こ の 計 画 は 実 現 で き な か っ た 。そ こ で 、1942年2月 、俊 子 は 、南京
19
「 北 京 時 代 の 田 村 俊 子 」『 田 村 俊 子 作 品 集 月 報 1』( オ リ ジ ン 出 版 セ ン タ ー 、
1987 年 11 月 )
20
1940 年 、改 造 社 が 経 営 不 振 に 陥 っ た た め 、編 集 長 で あ っ た 水 島 治 男 は 、中 国
に行くことを決めた。当時、漢口陸軍大将特務部長・森岡皐が、興亜院の在
北京華北連絡部長官に転任し、水島は、興亜院華北連絡部政務局嘱託という
任 務 を 与 え ら れ 、森 岡 に 直 属 す る 上 海 駐 在 員 と な っ た 。1940 年 10 月 末 、水 島
は、森岡に面会するため、北京に赴いた。その際、森岡長官から俊子が北京
に滞在していたこと、そして「中国婦人連合会」の話を聞き、病中の俊子を
訪 ね た 。水 島 治 男『 改 造 社 の 時 代 戦 中 編 』( 図 書 出 版 社 、1976 年 6 月 )、175-196
頁。
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政 府 宣 伝 部 顧 問 を 務 め て い た 草 野 心 平 に 就 職 の 斡 旋 を 依 頼 し た 。太
平 洋 戦 争 の 勃 発 後 、 日 本 軍 は 、 共 同 租 界 に あ っ た ミ リ ン ト ン ・ プレ
ス を 接 収 し 、 名 称 を 太 平 洋 印 刷 公 司 に 改 め た 。 そ の 責 任 者 ・ 名 取洋
之 助 は 、 子 供 向 け の 月 刊 誌 『 新 少 年 』 と 女 性 月 刊 誌 『 女 聲 』 を 出版
す る こ と を 計 画 し て い た 。 俊 子 は 、 『 女 聲 』 の 編 集 長 に 就 任 し 、同
年 5月 15日 、 中 国 語 女 性 雑 誌 『 女 聲 』 が 、 出 版 さ れ は じ め た 。 同 年 5
月 か ら 6月 に か け て 、佐 多 稲 子 と 真 杉 静 枝 は 、戦 地 慰 問 の た め 中 国 各
地 を 回 り 、 そ し て 上 海 に 立 ち 寄 り 俊 子 を 訪 問 し て い る 21 。
1943年3月、日 華 協定に よ る租界 返 還がき っ かけと な り、太 平 洋出
版 印 刷 公 司 は 、 陸 軍 か ら 海 軍 の 管 轄 下 に 入 っ た 。 俊 子 は 、 こ の 機会
を 借 り て 、事 務 所 を 上 海 の 虎 丘 路 142号 に 移 し 、「 女 聲 社 」とし て 太
平洋出版印刷公司から独立した。
『女 聲 』 創 刊 の 際 、 中 国 人 女 性 作 家 ・ 関 露 は 、 ア シ ス タ ン ト とし
て 中 国 語 が 分 か ら な い 俊 子 を 補 佐 し 、 俊 子 と と も に 『 女 聲 』 を 編集
し て い た 。 し か し な が ら 、 中 共 の 地 下 工 作 員 で あ っ た 関 露 は 、 「佐
藤 俊 子 を と お し て 、 日 本 の 左 翼 あ る い は 日 本 共 産 党 党 員 と 連 絡 を取
り 、 情 報 を 獲 得 す る 」 22 と い う 任 務 を 帯 び て い た 。 そ の た め 、 『 女
聲 』 は 、 多 く の 中 共 地 下 工 作 員 に よ る 主 な 投 稿 誌 の 一 つ に な っ ただ
け で な く 、 「 華 中 淪 陥 期 に お い て 刊 行 時 間 が 最 も 長 く 、 そ し て 最も
重 要 な 女 性 誌 」 23 と な っ た 。 こ の こ と は 、 関 露 の 存 在 に よ る こ と は
いうまでもないが、俊子の協力も決して見逃すわけにはいかない。
1944年 の年末 か ら45年 に かけて 、 戦局が 緊 迫して い たため 、 『女
聲 』 の 発 刊 が 益 々 困 難 に な り 、 俊 子 は 紙 の 確 保 と 金 策 の た め 奔 走し
た 。 俊 子 は 、 『 女 聲 』 発 刊 に 向 け て の 強 い 意 志 を 、 次 の よ う に 表し
21
22
23
上 海 で 俊 子 と の 面 会 を も と に 、戦 後 、佐 多 稲 子 が 書 い た「『 女 作 者 』」(『 評 論 』
1946 年 6 月 、 の ち に 『 佐 多 稲 子 全 集 第 4 巻 』 に 収 録 さ れ て い る ) は 、 上 海
時代の俊子を窺い知れる作品の一つである。
柯 興 『 魂 帰 京 都 ―関 露 伝 』( 群 衆 出 版 、 1999 年 )、 275-299 頁 。
銭 理 群 編 『 中 国 淪 陥 区 文 学 大 系 史 料 巻 』( 広 西 教 育 出 版 社 、 2004 年 4 月 )、
119 頁 。
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て い る ― ― 「 雑 誌 も 紙 も 印 刷 費 の 高 価 、 生 活 費 の 膨 張 等 で 到 底 やり
き り ま せ ん が 玉 砕 の 覚 悟 し て や れ る と こ ろ ま で 頑 張 つ て ゐ ま す 」24 。
おそ ら く 倒 れ る 直 前 の 田 村 俊 子 に 最 後 に 会 っ た 陶 晶 孫 は 、『女聲』
の 田 村 俊 子 の 追 悼 号 で 次 の よ う に 彼 女 を 評 価 し て い た ― ― 「 [俊 子
の ]態 度 は 、遅 れ て い る 時 代 と 常 に 不 一 致 し 、最 後 ま で 貫 い た 。(中
略 ) 思 想 が 進 歩 し 、 孤 独 で 強 く 、 男 女 社 会 に 誇 る 、 い い 見 本 」 25 。
こ の 評 価 は 、 お そ ら く 晩 年 の 田 村 俊 子 像 に 対 し て 適 切 な 解 釈 で はな
いかと思われる。
3.現在に至る田村俊子研究
田 村 俊 子 研 究 が 本 格 化 し 始 め た の は 、 1961年 に 瀬 戸 内 晴 美 の 『 田
村 俊 子 』 と い う 、 第 一 回 「 田 村 俊 子 賞 」 を 受 賞 し た 伝 記 的 小 説 の出
版 以 降 の こ と で あ る 。 そ の 小 説 出 版 前 後 の 田 村 俊 子 研 究 の 焦 点 は、
俊 子 を め ぐ る 〈 新 し い 女 / 旧 い 女 〉 と い う 言 説 に あ っ た 。 こ の 問題
に 関 す る 研 究 は 、 人 物 批 評 、 逸 話 紹 介 、 印 象 批 評 の 域 を 出 る も ので
は な く 、 同 時 代 評 は 充 分 な 資 料 価 値 を も っ て は い た が 、 人 物 と その
作 品 を 同 一 視 し す ぎ る き ら い が あ り 、 俊 子 の 作 品 は 「 官 能 的 / 感覚
的描写」であるという視点からしか見られることはなかった。
「 フ ェ ミ ニ ズ ム 批 評 が 導 入 さ れ 、 『 田 村 俊 子 作 品 集 』 全 三 巻 26 の
刊 行 が 為 さ れ た 、 八 十 年 代 後 半 以 降 」 27 、 俊 子 の 作 品 を 作 家 論 か ら
自立させ、解読することが可能になった。
80年 代 か ら 90年 代 に か け て の 研 究 は 、 主 に 『 田 村 俊 子 作 品 集 』 の
編 輯 者 、 長 谷 川 啓 と 黒 沢 亜 里 子 に よ っ て 行 わ れ て き た 。 こ の 時 期の
代表的な研究は、長谷川啓の「初出「あきらめ」を読む―三輪の
24
「 佐 多 稲 子 宛 書 簡 」( 1944 年 12 月 26 日 付 )『 作 家 の 自 伝 田 村 俊 子 』( 日 本
図 書 セ ン タ ー 、 1999 年 4 月 )
25
陶 晶 孫 「 従 日 本 到 美 国 到 中 国 」( 『 女 聲 』 第 4 巻 第 1 期 、 1945 年 6 月 )
26
長 谷 川 啓 編 『 田 村 俊 子 作 品 集 』 三 巻 ( 1987 年 12 月 、 1988 年 5 月 、 1988 年 9
月、オリジン出版センター)
27
鈴 木 正 和 「 研 究 動 向 」(『 昭 和 文 学 研 究 』 40 号 2000 年 3 月 )
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存 在 を め ぐ っ て 」 ( 『 社 会 文 学 』 1988年7月 ) 、 「 書 く こ と の 〈 狂 〉
―田村俊子の『女作者』」(『フェミニズム批評への招待―近
代 女 性 文 学 を 読 む 』学 芸 書 林 、1985年 5月 )、そ し て 黒 沢 亜 里 子 の「『遊
女』から『女作者』へ―田村俊子における自己定位の位置をめぐ
っ て ― 」(『 法 政大学 大 学 院紀 要 』1985年3月)な ど がある 。制度
や 夫 に 逆 ら う 妻 や「遊女」と い う 田 村 俊 子 が 描 く 作 中 人 物 は 、従 来 、
悪 女 も し く は 旧 い 女 と し て 扱 わ れ て き た が 、 前 述 の 論 者 た ち に よっ
て、この時期、フェミニズムの視点から再評価されはじめた。
九〇 年 代 後 半 か ら 今 日 ま で は 、 そ の 間 に 隆 盛 に な り つ つ あ っ たジ
ェ ン ダ ー 論 を 反 映 し た も の が 多 く 、 た と え ば 、 小 平 麻 衣 子 「 女 が女
を演じる―明治四十年代の化粧と演劇・田村俊子「あきらめ」に
ふ れ て 」(『 埼 玉 大 学 紀 要( 人 文・社 会 )』1998 年 9 月 )と「再 演す
る〈 女 〉―田 村 俊 子「 あ き ら め 」の ジ ェ ン ダ ー・パ フ ォ ー マ ン ス 」
(『 国 語 と 国 文 学 』 2000 年 5 月 )、 そ し て 平 石 典 子 「「 新 し い 女 」 か
ら の 発 信 ―『 あ き ら め 』再 読 」(『 人 文 論 叢 』( 三 重 大 学 )2000 年
3 月)は、同時代の女優問題と女学生同性愛問題を射程に入れて、
両 性 間 の 問 題 に 焦 点 を 置 い て き た 従 来 の 研 究 を 、 ジ ェ ン ダ ー の みな
ら ず 、 異 性 愛 / 非 異 性 愛 の 領 域 に ま で 拡 大 し た 。 ま た 、 同 時 代 のジ
ェ ン ダ ー や セ ク シ ュ ア リ テ ィ 研 究 に 影 響 さ れ 、 九 〇 年 代 以 後 、 少し
ず つ 注 目 さ れ て き た 田 村 俊 子 の 作 品 世 界 に お け る 「 女 性 同 性 愛 」の
課 題 も 、「 女 学 生 の 恋 愛 ご っ こ 」や「 演 技 性 」と い う 従 来 の 視 点 か ら
で は な く 、 強 制 的 異 性 愛 の 秩 序 へ の 挑 戦 を 通 じ て 女 性 が い か に 主体
性 確 立 を 実 現 す る か 、 と い う 観 点 か ら な さ れ る よ う に な っ た 。 前者
の 論 点 か ら 書 か れ た も の に 次 の も の が あ る ―吉 川 豊 子 「 近 代 日 本
の「レズビアニズム」―一九一〇年代の小説に描かれたレズビア
ン た ち ―」(『 性 幻 想 を 語 る 』三 一 書 房 、1998 年 3 月 )。また 、後
. . . . . . ..
者 の 論 点 に よ る も の は 、 浅 野 正 道 「 や が て 終 わ る べ き 同 性 愛 と 田村
..
俊 子 ― 『 あ き ら め 』 を 中 心 に ― 」( 『 日 本 近 代 文 学 』 65 号 2001
年 10 月)、 拙 論 「 一 九 一 〇 年 代 の 日 本 に お け る レ ズ ビ ア ニ ズ ム ―
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「 青 鞜 」同 人 を 中 心 に― 」(『 稿 本 近 代 文 学 』第 二 六 集 2001 年 12
月 )、 "Performing Gender Along the Lesbian Continuum: The Politics
of Sexual Identity in the Seito Society, "( U.S-Japan Women's Journal
22: 64-86) な ど が あ る 。
俊子 の 作 品 中 人 物 を 俊 子 本 人 と 見 な し 、 作 品 を 作 家 の 私 生 活 をそ
の ま ま 反 映 し た も の と し て 扱 う 研 究 手 法 は 、 現 在 も 依 然 と し て 根強
く 存 在 し ている 。2003年4月 に 出 版 さ れ た 田 村 俊 子 の 伝 記 、『 田 村俊
子
谷 中 天 王 寺 町 の 日 々 』 28 は 、 「 こ の 書 が 松 魚 の い さ さ か の 復 権
の 役 に 立 て ば 、 そ れ も ま た 幸 い で あ る 」 と い う が 、 俊 子 に 関 す る記
述は、依然、前述したステレオ• タイプから逃れえていないといえ
よう。
カナ ダ の バ ン ク ー バ ー 時 代 の 田 村 俊 子 の 足 跡 を 辿 る 工 藤 美 代 子と
S.フ ィ リ ッ プ ス の『 晩 香 坡 の 愛 』( ド メ ス 出 版 、1982年7月)、工藤
美代子の『旅人たちのバンクーバー
我 が 青 春 の 田 村 俊 子 』 ( 筑摩
書 房 、 1985年) 、 そ し て 晩 年 の 俊 子 が 取 り 組 ん で い た 中 国 女 性 雑 誌
『 女 聲 』 に つ い て の 渡 邊 澄 子 の 一 連 の 紹 介 は 、 貴 重 な 資 料 を 発 掘し
た も の と い え よ う 。 こ れ ら の 資 料 を ふ ま え て 、 岸 陽 子 の 「 夜 に 鳴く
鳥 ― 大 東 亜 文 学 者 大 会 と 一 人 の 中 国 女 性 作 家 」 ( 『 人 文 論 集 』 19
97年 2月 )な ど の 論 文 が 書 か れ 、中国 女 性 作 家・関 露 が 探 求 の 対 象 と
さ れ た 。 現 時 点 に お け る カ ナ ダ と 上 海 時 代 の 佐 藤 ( 田 村 ) 俊 子 研究
は 、 よ う や く 資 料 紹 介 の 段 階 か ら 一 歩 進 み 、 研 究 さ れ 始 め た の であ
る 。そ の 新 た な 研 究 動 向 に つ い て 、拙 稿「 ナ シ ョ ナ ル・ア イ デ ン テ
ィ テ ィ と ジ ェ ン ダ ー の 揺 ら ぎ ─ 佐 藤 俊 子 の 日 系 二 世 を 描 く 小 説 群に
み る 二 重 差 別 構 造 ─ 」 29 、そ してAnne Sokolsky ”No place to Cal
l Home: Negotiating the “ Third Space”for Returned Japanese
28
福 田 は る か 『 田 村 俊 子 谷 中 天 王 寺 町 の 日 々 』( 図 書 新 聞 出 版 、 2003 年 4 月 )
呉 佩珍「ナショナル・アイデンティティとジェンダーの揺らぎ─佐藤俊子
の 日 系 二 世 を 描 く 小 説 群 に み る 二 重 差 別 構 造 ─ 」『〈 翻 訳 〉の 圏 域 ─ 文 化・植 民
地 ・ ア イ デ ン テ ィ テ ィ ─ 』( (筑 波 大 学 文 化 批 評 研 究 会 、 2004 年 3 月 )
29
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Americans in Tamura Toshiko’s “ Bubetsu(Scorn)” 30 な ど の 論 文
がある。
2005年 の現在 に 至って 、 新たな 田 村俊子 の 研究動 向 が見ら れ るよ
う に な っ た 。今 年 7月 に『 国 文 学
解 釈 と 鑑 賞 』よ り 、別 冊 と し て『今
と い う 時 代 の 田 村 俊 子 ─ 俊 子 新 論 ─ 』 が 出 版 さ れ た 。 こ れ は 、 日本
か ら 北 米 へ 、 さ ら に 中 国 を 渡 る 田 村 俊 子 の ト レ ー シ ズ を 全 体 的 に捉
え よ う と し た 初 め て の 試 み で あ る 。 こ れ は 、 今 後 の 田 村 俊 子 研 究に
新たな視野と射程を示唆してくれる一冊ともいえよう。
4.今後の研究課題
田村 俊 子 は 、 日 本 か ら 北 米 、 そ し て 中 国 へ と 移 動 し 、 そ れ ぞ れの
土 地 に さ ま ざ ま な 足 跡 を 残 し た 。 こ の よ う な 俊 子 の 半 生 を 一 言 でい
う な ら 、 「 コ ス モ ポ リ タ ン 」 田 村 ( 佐 藤 ) 俊 子 と な ろ う 。 彼 女 はい
かなる道程を辿って、ここに至ったのであろうか。
先 述 の と お り 、 従 来 の 田 村 俊 子 研 究 は、 そ の 焦 点 を 彼 女 の 1918年
以 前 の 日 本 に お け る 文 学 活 動 に 置 い て きた 。 1990年 代 以 降 、 フ ェ ミ
ニ ズ ム 研 究 が 盛 ん に な り つ つ あ る に つ れ て 、と く に「 両 性 間 の 問 題 」
を め ぐ る 俊 子 の 考 え の 再 評 価 が行 わ れ た こ と に よ り 、 彼 女 は フ ェ ミ
ニ ス ト の 先 駆 者 と い う 座 を 獲 得す る こ と と な っ た 。 こ の 時 期 に は 、
ジ ェ ン ダ ー や セ ク シ ュ ア リ テ ィ研 究 、 そ し て 女 性 の 自 立 問 題 な ど を
別 個 に 取 り 扱 う 研 究 が 散 見 さ れる が 、 ジ ェ ン ダ ー と セ ク シ ュ ア リ テ
ィ か ら の 視 点 と 女 性 た ち の 社 会進 出 と の 関 係 性 の 研 究 が 見 あ た ら な
い 。 し か し 、 そ れ は 、 時 代 に 先駆 け て 萌 芽 し た 俊 子 の フ ェ ミ ニ ズ ム
思 想 を 解 明 す る た め に は 不 可 欠な プ ロ セ ス で あ る 。 ま た 、 彼 女 の 晩
年 の 思 想 的 立 場 は 、 ま だ 明 ら かに な っ て い な い 。 そ れ は 、 こ の 問 題
の 重 要 な 手 が か り と な る 、 1936年 か ら 38年 に か け て 書 か れ た 日 系 二
世 を 描 く 一 連 の 作 品 が 、 ほ ぼ 見過 ご さ れ た ま ま に な っ て い る か ら で
30
Anne Sokolsky ”No place to Call Home: Negotiating the “Third Space” for
Returned Japanese Americans in Tamura Toshiko’s “Bubetsu(Scorn)” Nichibunken
Japan Review 17( 2005) : 121-148.
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あ る 。 そ の た め 、 俊 子 が 、 上 海時 代 に 中 国 女 性 作 家 ・ 関 露 と ど の よ
う な 連 帯 関 係 に あ っ た か が 論 じら れ る と き 、 俊 子 の 思 想 的 立 場 の 問
題 は 、 つ ね に ア ポ リ ア と さ れ て き た 31 。
無国境、無国籍的に活動していた田村(佐藤)俊子像を理解す
る た め に は 、 グ ロ バ ラ イ ゼ ー シ ョ ン と い う 視 点 が 必 要 と さ れ た 。い
ま ま で 、 こ の よ う な 田 村 ( 佐 藤 ) 俊 子 像 を 解 読 し え な か っ た 原 因の
ひ と つ は 、「 作 家 ・田 村 俊 子 」を 日 本 内 部 に 限 定 し と ら え よ う と した
限 界 性 に あ っ た と 思 わ れ る 。従 来 の 研 究 で は 、作 家・田 村 俊 子 の「両
性 相 克 」 を 主 題 に す る 作 品 の み が 注 目 さ れ 、 〈 海 外 に 向 け る ま なざ
し 〉 を 主 題 に し て い た 作 品 は 対 象 と さ れ な か っ た 。 実 際 に は 、 海外
へ の 関 心 は 、 ジ ェ ン ダ ー 問 題 へ の そ れ と は 、 ほ ぼ 同 時 期 に 萌 芽 した
と い え る よ う に 、 『 あ き ら め 』 以 後 の 俊 子 の 作 品 に は 、 彼 女 の 問題
意 識 が 端 的 に 現 れ て い る 32 。
たとえば、「静岡の友」(『新小説』一九一一年二月)には、雑
誌 の 編 集 長 を つ と め な が ら 、 「 日 本 が 厭 に な つ て 殖 民 地 生 活 が し度
い 」Kさん 、「 海 坊 主 」(『 新 潮 』、一 九 一 三 年 一 〇 月 )は 、台 湾 に
出 稼 ぎ に 出 か け て き た 母 親 の 話 、 「 暗 い 空 」 ( 『 読 売 新 聞 』 、 一九
一 四 年 四 月 九 日 ~ 八 月 二 九 日 ) に は 、 台 湾 で 事 業 に 失 敗 し 日 本 に帰
国 し た 父 親 が 登 場 し 、 そ し て 「 前 途 」 ( 『 太 陽 』 一 九 一 五 年 九 月)
に は 、 朝 鮮 人 女 学 生 が 登 場 し て く る 。 こ れ ら の 作 品 は 、 い ず れ も作
家 ・ 田 村 俊 子 が 、 い ち 早 く 海 外 や 植 民 地 に 関 心 を 示 し て い た 証 左と
な る 。 こ う し た 作 品 が 、 将 来 の 研 究 対 象 と な る こ と は い う ま で もな
い。
31
田 村 俊 子 と 関 露 の 連 帯 関 係 に つ い て 、 拙 稿 「 上 海 ( 1942-45) の 佐 藤 ( 田 村 )
俊 子 と 中 国 女 性 作 家 関 露 ― 中 国 女 性 雑 誌 『 女 聲 』 を め ぐ っ て ― 」( 『 比 較 文 学 』
第 45 巻 (日 本 比 較 文 学 会 )、 125-139 頁 ) を 参 照 。
32
この部分に関する研究は、拙稿「家国意識形態的逃亡者:由田村俊子的初期
作 品 看 明 治 期 「 女 作 家 」 及 「 女 優 」 的 定 位 」( 『 中 外 文 学 』 401 期 、 2005 年 10
月 、 88- 106 頁 ) を 参 照 。
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参考文献
工 藤 美 代 子 『 晩 香 坡 の 愛 』( ド メ ス 出 版 、 1982 年 7 月 )
佐 多 稲 子 「『 女 作 者 』」『 佐 多 稲 子 全 集 第 4 巻 』( 講 談 社 、 1979 年 )
鈴 木 悦 「 亡 命 の 人 ▲ 第 一 信 ( 八 )」( 『 大 陸 日 報 』 1918 年 7 月 31
日)
瀬戸内晴美『田村俊子』
田 村 俊 子 『 田 村 俊 子 作 品 集 第 3 巻 』( オ リ ジ ン 出 版 セ ン タ ー 、 1988
年 9 月 )。
田 村 俊 子『 作 家 の 自 伝 田 村 俊 子 』( 日 本 図 書 セ ン タ ー 、1999 年 4 月 )
田 村 紀 雄 「 梅 月 高 市 と 『 日 刊 民 衆 』 ― カ ナ ダ 日 系 人 「 キ ャ ン プ ミル
労組」の 機 関 誌 活 動 ― 」(『 東 京 経 大 学 学 会 誌 』151 号 1987
年)
鳥 の 子 「 自 ら 働 け る 婦 人 達 に 」( 『 大 陸 日 報 』 1919 年 8 月 9 日 )
鳥 の 子 「 婦 人 よ 」( 『 大 陸 日 報 』 1924 年 1 月 1 日 )
田 村 紀 雄『 鈴 木 悦 日 本 と カ ナ ダ を 結 ん だ ジ ャ ー ナ リ ス ト 』( リ ブ ロ
ポ ー ト 、 1992 年 )
丸 岡 秀 子 『 田 村 俊 子 と わ た し 』( 中 央 公 論 社 、 1973 年 4 月 )
水 島 治 男 『 改 造 社 の 時 代 戦 中 編 』( 図 書 出 版 社 、 1976 年 6 月 )
柳 田 泉 、 勝 本 清 一 郎 等 編 『 座 談 会 明 治 ・ 大 正 文 学 史 3』( 岩 波 書 店 、
2000 年 5 月)
柯 興 『 魂 帰 京 都 ― 関 露 伝 』( 群 衆 出 版 、 1999 年 )
銭 理 群 編 『 中 国 淪 陥 区 文 学 大 系 史 料 巻 』( 広 西 教 育 出 版 社 、 2004
年4月)
中 日 文 化 協 会 上 海 分 会 編『 日 本 一 瞥 』( 中 日 文 化 叢 書 第 一 種、中 日文
化 協 会 上 海 分 会 、 1994 年 3 月 )
Kanada Shinbun (The Canada daily News) and Nikkan Minshu (The
Daily People) for 1941 on Micofilm: A Presentation
Microfilming Project at the University of British
Columbia Library: (http://www.library
ubc.ca/kanada95.html)
189
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