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扶 助 者 - サレジオ会 日本管区 Salesians of Don Bosco
Joyful Communication ! SALESIAN BULLETIN J A PA N January 2014 12 No. Ciao! サレジオ家族探訪 連 載 インタビュー 星美学園 (幼稚園・小学校・中学校・高等学校・短期大学) 時を超えて紡ぐショートストーリー 「お母さんですよ」 DBの教え子たち 大熊理津子さん 山田耕民さん 扶助者 特 聖マリア 集 新コーナー タイ もっとキミに伝え隊!! 今回の応援隊員 古木涼子 シスター ハンガリーの若きサレジオ会修道士 ステファン・サンドル 列福 Message サレジオ家族の皆様へ 「マリアさま、 さあ始めましょうか」 Joyful Communication ! Contents もくじ 3 Message ●「マリアさま、さあ始めましょうか」~ドン・ボスコの心、扶助者聖マリア大聖堂~ ~ドン・ボスコの心、扶助者聖マリア大聖堂~ 4 サレジオ会日本管区長 6 アルド・チプリアニ神父 特集 ● Essay 扶助者聖マリア SALESIAN No. BULLETIN J A P A N 12 January 2014 「ドン・ボスコと聖マリア」 ● 8 ドン・ボスコゆかりの地を巡る ●トリノ 扶助者聖マリア大聖堂 10 Miracle story 「あの声は…」語り手:アンドリュー・ウォン ● 11 Book Review ● 本のひととき 12 ドン・ボスコの教え子たち インタビュー ● 大熊理津子さん from 星美学園(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・短期大学) 山田耕民さん from サレジオ工業高等専門学校 16 世界のサレジオ家族ニュース 20 時を超えて紡ぐ ● ショートストーリー Photo by Chihiro Okawa 1 879 年、ドン・ボスコはフランスを訪れ、開設されて間もないマルセイユのサレジオ会の施設に滞在しました。貧しい子どもた ちの教育事業のために資金が必要でしたが、寄付を呼びかける手立てもなく、何も道が開けないように見えたとき、ドン・ボ スコは聖母に語りかけました。 「マリアさま、さあ始めましょうか。 」ほどなくイタリア・アスティ出身の女性が、故郷で有名な司祭 がマルセイユに来ていると聞きつけ、生まれつき足の不自由な息子を連れてドン・ボスコに会いに来ました。ドン・ボスコはその少 年に扶助者聖マリアの祝福を与え、立って歩きなさいと励ましました。すると少年は立ち上がり、駆け出しました。聖なる司祭ドン ・ お母さんですよ 22 Ciao! サレジオ家族探訪 ● 星美学園(幼稚園・小学校・中学校・高等学校・短期大学) 24 News ● ハンガリーの若きサレジオ会修道士 ステファン・サンドル列福 26 ドン・ボスコの聖母への全面的信頼は、その出来事の 10 年以上前に献堂されたイタリア・トリノの扶助者聖マリア大聖堂に め ど 象徴されます。夢で示され、大聖堂の建立を聖母がお望みだと確信したドン・ボスコは、資金の目途が全く立たない中、計画 に取り掛かりました。ドン・ボスコは聖母の道具となって建設を推進しましたが、多くの民衆が、聖母の恵みに応えて支え、協力 れん が 27 サレジアンが心を込めて贈るあなたへ応援メッセージ ドン ・ ボスコとは? タイ ● もっとキミに伝え隊!! ありがとう !山口哲郎神父 サレジオ会員の誇りを胸に サレジアン小伝 ● の したのです。 「大聖堂の煉瓦一つひとつが恵みへの感謝のしるし」だとドン・ボスコが述べたほど、日に日に恵みの報告は増え、 お金持ちから貧しい人に至るまで、数多くの人がマリアさまへの愛を表すために犠牲を払いながら協力し、この見事な大聖堂は完 成しました。 2015 年のドン・ボスコ生誕 200 周年に向け、このマリアさまの大聖堂の、正面壁の修復のため、ドン・ボスコの後継者チャー 28 Info ● お知らせ 31 読者プレゼント スコのように、決して希望を失わず、信頼をこめて聖母に呼びかけたいと思います。 「マリアさま、さあ始めましょうか!」 *本誌とじ込みの払込用紙にて、ご寄付を受け付けています。 03 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 2014 年 1 月 1 日 神の母聖マリアの祭日に 「青少年の友」と呼ばれ、見す てられた若者たちのために生涯 を献げた神父。1815 年イタリア 生まれ、名前はヨハネ(イタリア 語でジョヴァンニ。ドン ・ ボスコは 「ボスコ神父」 の意味)。青少 年教育に献身するサレジオ会を 創立。1888 年帰天。 サレジオ家族とは? ドン ・ ボスコの精神を受け継ぐ修 道者・信徒・協力者たち。世 ベス総長より献金が呼びかけられています。* 教会も、人類社会も、多くの困難や危機の中にある現代、聖母は変わらず私たちと共にいて助けてくださる方です。ドン・ボ 星美学園(東京・赤羽)正 門前の扶助者聖マリア像のもと に集まった、幼稚園から短大ま での生徒と先生、サレジアン・ シスターたち。賑やかな雰囲気 が微笑みを誘う。 文:ノゾエ 征爾 絵:おむらまりこ ボスコの評判は、瞬く間にフランス中に火のように燃え広がり、その後、フランスの人々を魅了したドン・ボスコはたくさんの支援 を受けることとなりました。 表紙の写真 界 130 以上の国で、30 団体、 「ドン・ボスコの風」 について ─ 「ドン ・ ボスコの風」は、喜びを共にし、サレジオ家族 の原点を見つめ、絆を深め、社会・世界に羽ばたいて、その実りを分かち合うためのコミュニケーショ ン誌を目指しています。ドン・ボスコの精神を多くの方々と共有し、新しいつながりに広げていくきっ かけとしてご活用いただければ幸いです。皆様からの情報提供とご支援をよろしくお願いいたします。 40 万人以上のメンバーが、学 校、教会、社会生活のさまざま な場面で青少年や貧しい人びと のために奉仕している。サレジア ンファミリーとも呼ばれる。 その姿に込められた意味は? 河口湖から富士山五合目に向かう 聖マリアの聖画やご像は様々な種類がある。 富士山有料道路「富士スバルライン」。 扶助者聖マリアの姿の特徴はどういうものか見てみよう。 特集 そ の 途 中 の 2 合 目( 海 抜 1,800m) に扶助者聖マリア像がひっそりと かんむり 冠 建っている。 今から 50 年ほど前の 1963 年 8 おさな 勝利者に与えられる栄誉の象徴である冠。 月 24 日、数名のサレジオ会司祭と ひ しょう てん マリアは被 昇 天(神によって天に上げら サレジアン・シスターは、小さな聖 れた)の後、救い主イエス・キリストによっ 母像を富士山五合目に安置した。そ げん こう て冠を与えられ、天の元后と呼ばれる。子 れは第二次大戦中、50 数名の子ども であるキリストの冠は王としての権威を示 たちと共に山中湖畔に疎開し、戦禍 している。 を免れたことを聖母に感謝すると同 その後、1965 年 9 月に聖マリア 笏 像建立の正式認可が厚生省からおり、 笏は力や支配権の象徴である。聖マリアは 3m、重さ 2.5 トンもある大理石のイ タリア製ご像である。後ろの壁には 世界平和の記念として各国から集め れるのは救い主イエスの母だから。子であ るイエスが神であるゆえに聖マリアは「神 の母」と呼ばれる。優しい母を通して子 天の元后として権威を持つ方であることを 赤い服と青いマント 表している。しかし聖マリアの力と権威は、 赤や青は聖マリアを象徴する色で、赤は 神に近い者であることから来る。そして聖 神の慈愛、そして青は空※、すなわち天国 マリアの“力”は願いを取り次ぐ力である。 =信仰を表している。(※諸説あり) 無原罪の聖母 ルルドの聖母 ファティマの聖母 ◀イエスのカリタス修 誰の「扶助者」なのか? 道女会日本管区本部修 道院(東京・杉並)の 玄関にある扶助者聖マ ドン・ボスコの時代に起きた 2 つの出来事。 リ ア の、2m 程 あ る 大 ドン・ボスコが「扶助者」に助けを願ったのは? リアのデメッツ社製。 ふ じょ しゃ 「扶助者」の由来は? その呼び方自体は 4 世紀から存在していた ようだが、 1571 年のレパントの海戦の際に、 ● 時の教皇ピオ 5 世が 「キリスト信者の助け手」 取材・文・写真 の呼び名で保護を祈り求めたことから大きく 編集部 「 扶 助 者 」 という 呼び方は以 前か ら存 在したが、ドン・ボスコの生 きた 19 世 紀の二つの出 来 事を通してより 大きな意 味をもつものになった。 一つ 目は教 皇ピオ7世が1815年(ドン・ ボスコの生まれた年 )にナポレオンによ 日を扶 助 者 聖マリア る幽 閉から解 放されたことを 聖 母に 感 謝して5月 の記 念 日に指 定 したこと。 もう 一つ は1862年に、イタリア中 部のスポ レートという町の古い教 会の聖 母 像が 5歳の少 年に話しかけ、特 別な奇 跡 や恵みが与えられたという出 来 事だっ た。その話は急 速に広がり、 大 勢の 巡 礼 者が詰めかけた様 子を見て、時 の教 皇ピオ9世がその像に 「 扶 助 者 聖マリア」 の称 号を与えたのだ。 実はスポレートはピオ9世がかつて司 教を務めていた場 所であり、まさにそ のころ、カトリック教 会と国 家の対 立 が強 まり、 教 皇の力は弱められよう としていた 時 だった。この出 来 事は、 聖 母が困 難にある教 会を助けるとい う象 徴としてとらえられた。 そしてピオ9世はドン・ボスコを 理 解 し、サレジオ会 を 承 認 した 教 皇で ある。「 困 難にある 教 会 を 助ける 聖 母 」 と 「 苦しみにある青 少 年たちを 助ける聖 母 」 がドン・ボスコの中で一 つになった称 号がこの 「 扶 助 者 聖マリ ア」 だったのだ。 24 きな木彫のご像。イタ スポレートの聖母 広まったと言われる。 カトリックの学校や教会で必ず見かける聖マリアのご像。 「ファティマの聖母」などがある。 様々な姿で表されている中でも、ドン・ボスコは特に む げんざい 「無原罪の聖母」、「ルルドの聖母」、 扶助者聖マリアの姿に親しみ、信頼し、祈っていた。 その他の有名なマリア像は、 「扶助者」にはどんな意味が込められているのだろうか。 られた石がはめ込まれている。 聖マリアが人々から特別に愛され、尊敬さ 願いが、聖画やご像に込められている。 しゃく 同 年 10 月 7 日 に 設 置 完 了。 高 さ 幼子イエス であるイエスに近づきたいという人々の 時に、全世界の子どもたちの幸せと 世界平和を願うためであった。 ご 聖マリア 扶助者 富士の聖母を知ってる? レパントの海戦 05 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 04 「 すべての危 険において聖 母のお助けを願いなさい。 必 ず 聞き 入れられることを私は保 証します 」 ことが大 好 きだった 」 と 言っても 問 るようになるとすぐ、 朝 夕 、 母はわ 身でした。 兄たちの仲 間 入りができ 切にし た 人 として 知 られていま す。 「 わたしがまだほんの子 どもだった ころ、 祈りを 教 えてくれたのは母 自 多 くの 聖 人 がそ うであるように、 くしたドン・ボスコにとって、母の教え ドン・ボスコも 聖 母マリアを 特 別に大 はとても大 切なものでした。 てみましょう。 幼い時にお父さんをな 」 を見 リオ回 想 録 (ドン・ボスコ自 叙 伝 ) が聖 母マリアであることは明 白です。 して紹 介 するのです。この女の先 生 い姿の女の人 」 を 彼の 「 先 生 」 と をつけてあげよう 」 と言い、「けだか さらに夢の中で、このイエスらしき 人 物はジョヴァンニに、「 君に女の先 生 る」とは、 「お告げの祈り」のことです。 この 「日に三 度あの婦 人にあいさつす びに出 会っているということです。 の導きで周 囲の人や人 生の様々な学 教 会・ 施 設に入る人は皆 、 聖マリア 念 を 受け 継 ぐサレジオ家 族の学 校・ 学 校に入ってきているのですよ!」 と は、 必 ずマリアさまのお導 きによって その婦 人の息 子なのだ」。もちろん、 入ってくる 子 どもたちの一 人ひとり ドン・ボスコのことば 題はないでしょう。それほどドン・ボ たしを 兄 たちといっしょにひざまずか ドン・ボスコは 「マリアさまは、 私 たちが困 難にあったとき、 道 を 見 失 たのです」。 母への特 別な意 識を少しずつ育んでい ら、『 扶 助 者 聖マリア、私たちのため 助 けてく ださる 方 ( 扶 助 者 ) だか わずに神に向かって歩んでいけるよう 言っていました。ドン・ボスコの教 育 理 スコは 聖 母マリアに信 頼 し、 自 分 た せました。 わたしたちはこうやって祈 もちろん、 彼は聖 母を神 (そしてイ きます。 にお祈りください! 』 と祈るように」 エス) と 同 列に置いているわけではな いのですが。 さまですか?」 それに対 し、その人 コ) は質 問 します。「いったいどなた ズ)を創 立した後 、ドン・ボスコはこ と扶 助 者 聖 母 会(サレジアン・シスター 司 祭になって、貧しい子どもたちの ためのオラトリオを始め、サレジオ会 とになるのです。 ている 安 心 感 を 素 直に受け入れるこ 扶 助 者 聖マリアに信 頼 して祈るこ とは、私たちが 「 母 親 」 に見 守られ と皆に勧めていました。 ドン・ボスコのこの聖 母への信 心はど こから生まれたのでしょうか。おそら 物はこう答えるのです。「日に三 度あ う言っていました。「おとめマリアこそ レジ オ 会の 「 創 立 者 」 聖 母 サ くそれは彼の幼 少 期の体 験から出 発 の婦 人にあいさつするよう 君はお母さ 思 われる人 物に幼いジョヴァンニ(ボス しています。ドン・ボスコが自 分の半 が創 立 者であり、私たちの事 業の支 ドン・ボスコはいつも、「 私の学 校に 私 た ち にとっての 「 母 親 」 まり、進んでいくものなのです。 オ会の事 業は聖 母が先 頭に立って始 という 強い意 識がありました。サレジ が自 分たちを導いてくれた方である、 を 導いた、というよりも、 聖 母こそ えなのです 」。 彼の中で、 自 分が皆 んから教 わっているだろう。 わたしは 聖母に祈るドン・ボスコ 1880 年 トリノにて 生 を 振り返って書 き 残 した 「オラト 幼 少 期 に学 ん だ こ と 名 な 「9歳の夢 」 の中で、イエスと その祈りの中には、聖 母への 「お告 げの祈り」 も 含 まれていました。 有 だ、という意 識がいつでもありました。 りやロザリオの一 環をみなで唱えてい 単 純に 「ドン・ボスコは聖 母マリアの ちの事 業の先 頭に立っているのは聖 母 聖 母 が 大 好 き な ド ン・ボスコ 浦田慎二郎 ● 文 こういった 小さいころからの教 えと 体 験から出 発して、ドン・ボスコは聖 「ドン・ボスコと聖母マリア」 浦田慎二郎 うらた しんじろう サレジオ会司祭。サイテック館長。 「ドン・ボスコの夢に現れた聖母」 ドン・ボスコの研究家。 06 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 07 Essay 1868 年建設当初の大聖堂 ★ イタリア北部ピエモンテ州 トリノ ★ ● ガエタノ・コンプリ 象の根 はフランス革 命にまでさかの する法 律が制 定されている。この現 者は少 数であり、 教 会の教 えに反 ダ、イギリスな どで 教 会に通 う 信 今 、ヨーロッパでは 教 会 離 れの現 象が起こっている。フランス、オラン 教 会 に とっての 困 難 な 時 代 聖 堂に関 する 預 言 的 な 夢 を 見てい た。ドン・ボスコは1844年にこの られた 聖 堂 を 建てることを 計 画 し し、トリノに扶 助 者 聖マリアに献げ リアの特 別 な 保 護が必 要 だと 判 断 そんな時 代の流れの中 、ドン・ボ スコは教 会 と 青 少 年のために、 聖マ 扶 助 者 聖マリアに 献 げ る 大 聖 堂 文 ぼる。 当 時 、 多 くの聖 職 者が殺さ る。「 羊 飼いの身なりをした貴 婦 人 ていた教 皇 領 土の存 在であった。そ つは、イタリア統 一 運 動の妨げとなっ はイタリアにも 広 まった。 理 由の一 し、 修 道 院を 没 収した。この運 動 設 立した大 学 、教 育 施 設を国 有 化 に連 行 、 幽 閉 した。 また、 教 会が は白い垂 幕がさがっており、 大 きな を促すのでした。その聖 堂の内 部に 調べが、 歌ミサを捧げるようわたし ストラの調べと、 楽 器や 歌 声による 派な聖 堂が目に映りました。オーケ 示す。すると、「 高くそびえたつ立 どもたちを 導 き、ある 場 所 を 指 し たれ まく の中 心は、ドン・ボスコが住んでいた 文 字 で“ 1870年 、イタリア軍がローマに侵 。 スコ自 叙 伝 」 より) る)” と書かれていました」 (「ドン・ボ 聖マリアの助けを 表 すふさわしい絵 アの聖 堂 」 と答えた。 当 時の王 国 すか」 と聞かれて、「 扶 助 者 聖マリ 役 所に提 出した。「 名 称は何にしま 設 計 を 準 備 したドン・ボスコは、 承 認を得るためにそれをトリノ市の まな歴 史 的 出 来 事 」 など、構 想を 人 たち、また 地 上の教 会のさまざ リアを囲む使 徒 たち、 預 言 者 、 聖 ドン・ボスコが 「 天 上の教 会 、 聖マ 家 、ロレンツォーネに描かせたもの。 を」 と、当 時トリノで評 判だった画 の政 治に対 する 教 会からの挑 戦 だ 説 明したとき、ロレンツォーネは驚い 摂 理に信 頼して」 度 重なる苦 難を コの手 元には資 金が無かったが、「み いた。 工 事 を 始めた 時 、ドン・ボス しょう」 と言って、そのままにしてお してく ださい。 名 称 は 私 が 考 えま ドン・ボスコは 「 まず、 設 計を承 認 した」 とロレンツォーネは語っている。 いてくれるどなたかがいると 感 じま 大きな部 屋を借りた。 「 私の手を導 めに、3年 間 、トリノ市の城の一 番 ている高さ7m、幅4mの絵を描くた 結 局 、構 図を縮 小し、現 在 飾られ 描き、 どこに飾るのですか」と言った。 書かれている。 」(キリスト者の助け聖マ pro nobis リア、我らのために祈りたまえ)と 冠を捧げ、後 者は 「レパント」 と書 るように立ち、 前 者は聖マリアに王 ガブリエルとミカエルの像が聖 母を守 像が置かれ、両 脇の鐘 楼には大天 使 に、扶 助 者 聖マリアの庇 護の下 、そ 時 代に置き去りにされた貧しい青 少 ドン・ボスコとサレジオ会は、 混 迷の など次々に必 要とされる取り組みを スターズ)の創 立、 宣 教 師の派 遣 く、 扶 助 者 聖 母 会 (サレジアン・シ この大 聖 堂 建 設の後にも、ドン・ ボスコとサレジオ 会 員 は 休 むことな 混 迷の 時 代の 支 え また、聖 堂 内の正 面 祭 壇 上に飾 られた 大 き な 扶 助 者 聖マリアの 絵 の事 業を広げていったのである。 ひ ご 年たちのために、そして教 会のため かれた旗を持つ。 正 面 上に「 Maria 実 現していく。その事 業のすべてに A u x ilium c hr is t ia no r um o r a 扶 助 者 聖マリアの信心が息づき、今 やその信心は世 界 中に広まっている。 は、ドン・ボスコが 「 教 会に対 する ドン・ボスコがこだわったという 大 きなクーポラ ( 丸天 井 )上には聖マリア 事 、献 堂された。 乗り越え、1868年6月9日に無 称だ。替えたほうがよい」と言うと、 て、「それほどの大 きな 絵をどこで と 感 じた 担 当 者が 「 古めかしい名 大 聖 堂の 設 計 と 実 現 攻した。 トリノにあった。1861 年に教 皇 (これこそわたしの家 。 Gloria mea 領の大 部 分がイタリアに統 合され、 この 家 から わたしの 栄 光 が 生 まれ Hic Domus mea, inde ピエモンテ・サルディニア王 国の首 都 ポレオンは、 教 皇ピオ7世をフランス ( 聖マリア )」 が、ドン・ボスコと 子 れ、修 道 院が閉 鎖された。 次いでナ サレジオ会司祭 チマッティ資料館館長 Gaetano Compri ─ 扶助者聖マリアを支えとするサレジオ会の中心地 ─ トリノ 扶助者聖マリア大聖堂 1934年に本祭壇とその上のもう一つクーポラ(丸天井) 、元のクーポラ両側の部分が増築、内部は大理石で飾られて現在に至る 聖堂内。奥に「扶助者聖マリア」の絵が見える 08 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 09 荒波の中を進むドン・ボスコ 聖堂内の「扶助者聖マリア」像。 と青少年たちの絵 聖母月(5 月)のみ装飾展示される 二つのクーポラ(丸天井)のうち一つが見える。 正面上に「Maria Auxilium christianorum ora pro nobis」の金色の文字が見える。 正面の祭壇上にある「扶助者聖マリア」の絵。 ロレンツォーネ作 Roma ドン・ボスコゆかりの地を巡る Torino 宣 言する国 民とインドネシア軍との で 活 動 していた 私 たちは、 独 立 を それは1999年9月 初め頃のこ とでした。 東ティモールの首 都ディリ と 神 さまが 計 らってくださるさ!」 食 事は喉を通りませんでした。 「きっ た。 思い思いに食 卓についたものの 夕 方 、 院 長が皆を 集めて一 緒に 祈り、全 員に罪のゆるしを与えまし で、 今 もはっき りおぼえていま す。 た。 私はインドネシア語がわかるの りなさい!)」 それは女 性の声でし うたくさん、たくさんです、皆 、帰 ク、プラム、プラム、サチャン!( も 伝えました。 たちは学 校に戻って皆にこのことを れはマリアさまの声だったのだ。」 私 は互いに顔を見 合 わせました。「あ 部 屋に隠れていたのです。」 私 たち 間で起こった激しい内 戦に巻き 込ま と 言 う 人 もいましたが、 私 は 「 も ういうのが聞こえました。 「チュク、 チュ れていました。サレジオ会 員はフィリ すると、 発 砲が止み、 大 勢が足 早 … ピン人の神 父3人 と、 私の秘 書の、 う終わりだ」 と思っていました。 戦 乱で行 き 場 をなくした2 万 人の スラ会のインドネシア人シスターたち その夜 、 私 ともう 一 人の神 父が 見 張りに立っていました。 近くのウル を見 合わせました。 た。 私 たち2 人 は 倒 れたままで顔 がてトラックも 引 き 上げて行 きまし に立 ち 去 るのが 聞 こえ ま し た。 や を 広めることを、マリアさまに約 束 日には扶 助 者 聖マリアを記 念し信 心 ださることも 知っています。 毎 月 私はマリアさまを心から 愛 してい ますし、マリアさまが私を 愛してく 倒れたりしたら、急いで学 校の壁を ろで祈り続け、私たちが撃たれたり 交 渉する。ほかの人々は離れたとこ ちが来たら、私たち神 父が門へ行き 段 取 りを 相 談 しました。「 兵 士 た このとき、私たちに抵 抗する術の ないことは明らかでした。 私 たちは な部 隊がこの学 校を襲 撃します。」 部の決 定で、 今 晩 、 軍で最 も残 忍 ある朝 、友 人のインドネシア人 兵 士が忠 告してくれました。「 軍 上 層 おらず、門の鉄 扉に弾が当たった衝 れたかと思いましたが、 出 血はして その場に倒れてしまいました。 撃た 機 関 銃が発 射され、 私 たち2 人は されていて、真っ暗でした。いきなり の家を除きすべての家が焼き 打ちに えました。 周 囲は、インドネシア人 り、 息を 殺して走ってくるのが聞こ 停 まったトラックから 大 勢が飛 び 降 い込んでいました。 私たちはウルスラ 朝 、明るくなって門を開けてみる と、門には夕べの発 砲の時の弾が食 ていたからです。 もう」 と言いました。 皆 、疲れきっ うとしましたが、 院 長は 「 今は休 すぐシスターたちにお礼を言いに行こ たのだ。 神に感 謝! でなければ今 頃 私たちは皆 殺しだった。」 私は今 クの 走ってくる 音 が 聞こえました。 シスターたちがやめるよう言ってくれ こうの道 路から、門へ向かってトラッ 会の修 道 院へ行き、 院 長シスターに 言いました。「 夕べは 私 たちを 救っ ケネス・スティーブン 文 メラニー・ミッチェル 絵 なかだくみこ 訳 2012年 ドン・ボスコ社 32頁 987円 ティモール)、イタリア語を話す。 た。この体 験は私にとって大きな恵 タガログ語、英語、インドネシア語、テトゥン語(東 み、神さまからのメッセージです。 修練長などを歴任、1998‐2004 年、 インドネシア‐ティ 父 一 人でした。 運 営する学 校には、 乗り越えて裏 山へ逃げる。」山には東 撃で 倒 れたようでした。 手 榴 弾が てくださってありがとう。」 すると、 私たちも “あの声 ” を聞きました。 モール管区長、 2005‐2008 年、 フィリピン北管区長。 躍した聖フランシスコ・サレジオ。 教 改 革 の時 代 に 司 牧 者 と し て 活 1952 年生まれ。サレジオ会フィリピン北管区会員と けてくれます。 (編集部評) ぐすように、心を軽くして神さまへと向 ますが、この本を読めば、 凝った肩をほ 「 そんな恐 れ 多い」 なんて思ってしまい えます。「神への道のり」なんて聞くと、 想のヒントもあり、黙想の手引きにも使 して く れ ていま す。 そ れ ぞ れ の項 に 黙 ジ オ 会 司 祭 で あ る 浦 田 師 が優 し く 解 説 日常で神に近づくためのポイントをサレ て著した『 信 心 生 活の入 門 』。 この中の ジ オ が、 一 般 社 会 に 生 き る 人 々 に 向 け す。 ドン・ボスコにも影 響を与えたサレ 彼 は 柔 和 の聖 人 とし て も 知 ら れ ていま 宗 女 性の声でした。 私 たちは 怖 くて 神への道のり 浦田慎二郎 して 1972 年初誓願、1979 年司祭叙階。院長、 い さ な こ ぐ ま は、 お か あ さ ん と 一 緒 に 世 界 でいち ば ん 大 き な も ます。 (関谷義樹評) の自 分 の愛 情 を 確 認 す る 絵 本 で も あ り された自分を思い出しながら、こどもへ だり 迷ったりしているおかあ さんが、 愛 す。 そして子育てのなかでいろいろ悩ん 子 ど も に 「 世 界 でい ち ば ん 大 好 き 」 を伝える、愛にあふれたかわいい絵本で おかあさんの こころよ」 な たのことが だーいす き って おも う す。 で もいち ば ん 大 き な ものは … 「 あ らなどつぎつぎに大きなものに出 会いま のを 探 し て、 動 物 た ち や 高い 山、 く じ ち せかいで いちばん おおきなもの 2013年 ドン ボ・スコ新書 237頁 735円 サレジオ会司祭。東アジア‐オセアニア地域顧問。 叙 階されたばかりのティモール人 神 避 難 民を受け入れていました。 ティモールのゲリラが潜んでいて、 兵 投げ込まれて私の頭のすぐ横に落ち 院 長シスターは言いました。「いいえ、 しました。 その後 、 私 たちの学 校 こうして私たちは、壁を越えるた ましたが、爆 発しませんでした。 何 めのはしご作りに追われました。皆 、 もできないまま 私 たちが倒れている 士たちは山に入りたがらないのです。 のを見て、皆はパニックに陥り、泣き 私 たちではありません、 神 父さま。 の修 道 院 は 静 まり 返っていました。 不 安と悲しみに沈んでいました。そ 出す人もいました。 すると突 然 、500メートルほど向 24 しばらく 静 寂の時が流れてから、 は焼かれ、私たちは難 民になりまし 私たちは話しました。「ウルスラ会の たが、誰 一 人 命を落としませんでし んな 状 況の中でも 皆が 「 神 父さま たちと一 緒に、 皆 一つでいたい」 と 佐々木正美 Book Review 2011年 福音館書店 376頁 1890円 フランシスコ・サレジオと共に歩む 突 然 、 誰かがインドネシア語でこ 柳田邦男 2006年 平凡社 大人が絵本に 涙するとき 願っていたことに心を打たれました。 書 の中 で 紹 介 さ れ ている 絵 本 の うち、いくつかを手に取ってみま と 一 緒 に 流 れ 出 る 感 じ がし まし た。 子 224頁 1470円 一 冊の絵 本 』 柳田邦 男 2004年 岩 こちらもお薦 めです。『 砂 漠で見つけた くことでしょう。 本 書 が気になる 方は、 して読めば、 作 者 からのメッセージが届 け ま す。 大 人 のあ な た も 絵 本 を 声 に だ 霊 = こ と だ ま 」 に し て 子 ど もの 心 に 届 かれている文字に 「魂」 を込めて、「言 れ る こ と ばに 耳 を 傾 け ま す。 大 人 は 書 ど も は 絵 を 見 な が ら、 大 人 が 読 んで く りでした。 心の中の汚いものが全部、涙 したが、 涙せずにはいられないものばか 本 こ の 完 子どもへの まなざし (田中直美評) して、1、 2巻 と愛 読してき まし 者の温 かな 「 まな ざし」 に共 感 波書店。 著 たが、この3巻 目が出たとき、「 完 」 と いう 言 葉 に 一 瞬 どき り とし ま し た。 年 以 上、 児 童 精 神 科 医 として 子 ど も た ち に 寄 り 添ってい た 著 者 の 生 涯 の ま と めとしての思いがたく さん詰 まっていま す。 4章 以 降 では、 発 達 障 害 を 抱 え る 子どもたちとご家族、保育・教育の現場 の先 生 た ち に 注 が れ る 「 ま な ざ し 」 に 心 がほ ぐ れ ま す 。 キ リ ス ト 者 と し て の 生きざまの反映なのでしょう。 子育てや 保 育・教 育で悩 んでいる人や、 すべての 人 と 「 共 に生 き たい」 と 望 む 人 にぜひ 読んで欲しい一冊です。 (田中直美評) ひととき ほん は Andrew Wong アンドリュー・ウォン あ 40 10 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 11 アンドリュー・ウォン 本の え 「あの声は…」 Miracle story マリンバは木 製 音 板 を 持つ鍵 盤 打 木 琴のお稽 古がしたい」 と。 両 親 たらしいんです。「 叩いて音が出る すね。 るときの自 分が一 番 好きだったんで が 特 徴 で あ り、 同 時 に 打 楽 器 ゆ にたまたまマリンバの教 室があって、 が調べたら、家から3つ先の駅 近く 音 大に入って もっと 上 手にな ら な け れば と 思って 努 力 し ま し た。 けい こ 楽器のひとつ。 木の柔らかい音色 え の 激 し さ を も あ わ せ 持 つ。 星 界コンクールで優 勝 したときに、 音 2005年スロベニアで開 催された世 楽 家 としてやっていくぞという 覚 悟 木 琴のコロコロした音 色と、共 鳴パイ プに響く低い音の余 韻 。そういう倍 が決 まったといっていいかもしれませ そこに通い始めたのがきっかけです。 音 、共 鳴 、共 振が心地よかったので ん。 今 、こうして演 奏することでい 美 学 園 小 中 高OGで、2005年 ティション優 勝の大 熊 理 津 子 さ ん しょうね。あとは純 粋に操 作するの ろんな人と濃 密な時 間と空 間を共 世 界マリ ン バコン チェルトコン ペ に話を聞いた。 が楽しかったのだと思います。 有できるというのは幸せなことだな と思います。 ★ ★ ★ ただ、勉 強が忙しくなってくる高 校1年 生の終わりにレッスンを一 度や ─ 星美での思い出は? 期はありましたけど( 笑 )。 べたのです。そこにたどり着けたの と。 吹っ切れたときに音 楽の道が選 と思っています。 あれば、いつも全 身 全 霊でなければ、 理 津 子 ” という 人 間 性が出るので 読 書 とか友だちとしゃべることでも ほしい」。 音 楽 とか絵 を 描 くこと、 ─ 後輩へのメッセージを。 は嬉しかったです。 口になさっていたのを思い出します。 中 学 生のときはどんな意 味かわから なんでもいいです。それを大 切にし ていればきっと 喜 びにもつながるし、 揺るがないものでないと周りも 幸せ 人の幸せのもとになっていて、それが た意 識が芽 生えます( もちろん準 なければ、自 分のなかにきちんとし 「こなす 」 という 言 葉を使いさえし トリーはたくさんありますが、私が こなし 仕 事 をしない。 特に演 奏 は。 準 備をしなくても 弾けるレパー かってくるはずです。 る愛 情にも気づいていろんなことがわ きもあるし、周りの人の自 分に対す わかってきます。 自 分からわかると あると 思います。けれどいつか必 ず 「いつか必ずわかるから頑 張って生 きてほしい」。 悩みとかはたくさん てほしいですね。★ れを好きだという 自 分に素 直であっ 悩んでいるときの助けにもなります。 にできないということがなんとなく 備や練 習は一 所 懸 命します。 笑 )。 きていればもういいやと考えているよ そして 「がむしゃらであれ」。 今 の子はハードルが低く、この辺までで たちが聞いて幸せ。だからそれでい した。「りっちゃんが弾いて幸せ。 私 くれたのは 星 美の学 校の友 だちで ているときにきっかけの言 葉をかけて な “ 音 楽 ” をやっていいのかと。迷っ という葛 藤がありました。私の好き す。技 術は既にたくさん練 習して身 私は明日死んでもいいというつもりで んだ 」 と 感 じる 人がいらっしゃれば とか 「 音 楽って気 持 ちがいいものな の中の一 人でも、「マリンバが好き」 場 所でも、私の演 奏を聴いている人 違ってはいけないと思います。どんな 頑 張れます。 勉 強 とか練 習の根 本にあると絶 対 「コンチクショー!」 という 気 持 ちが 絶対あいつよりうまくなってやるとか、 でも 昇 華 すればプラスになります。 いのではないでしょうか。 負の感 情 うです。もう少し負けず嫌いでもい 職業や進路として選ばなくても、そ 見えてきました。 大ホールでソロを 弾 くのと、 小さな 自分に課していることは? カトリックの学 校ですから、自 己 犠 牲や隣 人 愛の大 切さはずっと教え 公 民 館で弾くのとで、込める思いが いじゃない」 と。そうか、 私のアイ あとは 「 好きなことを大 切にして 最大 6 本のマレットを巧みに操り、 豊かな和音が響く。 幅 2 メートル以上あるマリンバが小さく見えた 左 は 2009 年リリースの ファーストアルバム 「全速 力ウーマン」。オリジナル を含む全 8 曲を収録。様々 な表情を見せるマリンバの 魅力が満載。 右 は 2011 年リリースの マリン バ デュオア ル バ ム 「Gold'n Bear」。 自 分をどう 確 立 するかが結 局は個 られてきましたが、そうすると自 分 ─ 仕事、音楽で 朝 礼で「ア 校 長の大 槇シスターが、 イデンティティ」 という 言 葉 をよく プロフィール 「好きなことを大切に そして、 がむしゃらであれ。 」 が幸せになってはダメなんじゃないか ず過ごしましたが、高 校2年のとき、 12 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 13 につけてきましたが、最 後に“ 大 熊 www.seibi.ac.jp 教え子たち ドン・ボスコ デンティティの中に音 楽もあったんだ ばち マレットと呼ばれるマリンバの枹。 ゴムにかぶせる素材の違いで、 音色が変わる 1978 年生まれ。星美学園高等学校を卒業後、 桐朋学園大学にて世界的マリンバ奏者・安 倍圭子氏、ドイツベルリンオペラ元副首席打楽器奏者・佐野恭一氏に師事。 同大学研究科 及びオーケストラアカデミー修了。国内外多数のコンクール入賞を経て 2005 年世界マリン バコンチェルトコンペティション優勝。現在はソロ活動に加え、オーケストラ、 室内楽、 映画 音楽、レコーディング等精力的に活動する傍ら、 母校の音楽科講師を務め、 後進の指導に あたる。リリースCD「全速力ウーマン」(2009)、「Gold'n Bear」(2011)など。 公式ホームページ http://ritzy.biz/ 東京都北区赤羽台4-2-14 ★サレジオ歴★ ─ マリンバを始めたきっかけは? めました。でも1 年 経たないうちに やはりマリンバがしたい、そうだ音 楽 星美学園小学校・中学校・高等学校 幼 稚 園のとき小さな卓 上 木 琴が 大 好 きで、 覚 えていないのですが、 大熊 理津子 さん 楽しかったですね。人 並みな反 抗 マリンバ奏者・打楽器奏者 大 学に行こうと。マリンバを弾いてい りつこ おおくま No. の DB どうも6歳の私が両 親にお願いをし 小柄だが、とてもエネルギッシュ。マリ ンバを弾きはじめると、 周りを圧倒する ような存在感で聴く人を惹きつける 13 星美学園小学校・中学校・高等学校 連載インタビュー 「自分を信じること。 それから、 心に響くことを大切にする。 」 無骨な風 貌と朴 訥 な姿の 中に穏やかさと優しさを感 じさせる。 紙にイメージを スケッチしながら話すのが 印象的だった こう みん 山田 耕民 やま だ ぼく とつ ふう ぼう プロダクト・デザイナー さん 世 界 で 愛 さ れ て い る 包 丁、「 グ こなければ絶対に始めない」。 「 六 感 に響 くいいアイ デアが 出 て ね。それでいつかは車のデザイナーに 作るということに関 心はありました 動 車と合 併 )に勤めていたので、物を 見 守ってくれました。 僕はいわゆる 僕みたいな 無 宗 教 な 学 生 も 温かく に対してとても 偏 見の少 ない人で、 は、彼は芸 術 、技 術、文 化、宗 教 ね。学 校を休んで家で看 板を作って しょっちゅう隠れてバイトしてました どちらかって言ったら悪いほう。う ちはそんなに裕 福 でなかったから、 かなり勉 強し、 大日本 印 刷の関 係 その縁で大日本 印 刷でパッケージを され、そこの工 房 助 手をしました。 そういうことで僕は千 葉 大 学に推 薦 くれたし、客 観 的に見てくれました。 彼は僕の感 性 を 非 常に大 切にして 優 秀 な 学 生ではなかったのですが、 なりたいなと思っていました。 などをデザインした日本を代表 する プロダク ト デザ イ ナー・山田 耕民さんに話を伺った。 ★ ★ ★ いたことがあるんです。そしたらヘン で新 潟での雑 貨のデザインの仕 事を しれないなあって。もう時 効だからい デザインされていますか? ─ ど ん なこ と を 考 え な がら ドリックス神 父が、英 語の坂口先 生 昔は遊 び道 具が少 なかったので、 小さい頃から兄の真 似をしてナイフ いか( 笑 )。 始めました。 一 本で工作していました。それに父 ヘンドリックス神 父の思い出として と一 緒に訪 ねてきてね。ばれたかも がプリンス自 動 車 (1966年に日産 自 大切にしていることは? ─ 仕 事 を する上 で 一つだけ鉄 則があるんですよ。 自 分に響かなければその仕 事はやらな ますが、僕はなかなか仕 事を始めま い。 自 分の天 職は作ることだと思い せん。なぜなら作るという行 為はと ても根 源 的でつらいことですから、い いアイデアが出るまで絶 対 作らない。 わかるんですよ、感 性で。焦 点が絞 られて、 無 駄なものが省かれていく んです。 描いているうちに 「あ、こ 雑 貨のデザインの世 界というのは、 完全にオリジナリティのあるものはな かなか作れません。自 分が感 激する ようなデザインを見て、何がいいんだ ろうとつき 詰めていくと、 使いやす さだったりシンプルさだったりするんで す。スプーンでいえば、持ちやすさ、 口にいれるときの角 度 。それから置 いたときに形がきれいかどうか。 そして最 初にあるのは、どんなも のが欲しいかということ。まず 自 分 が欲しいかどうか。でも逆に個 人 的 に自 分が好きというだけでなく、こ ういうのがあってもいいはずだという 考えを大 切にしています。 それから、自 分が物を作るときの ら帰ってくるってわけではないけれど も、 誰かからその実りが返ってきま す。でも大 事なのは実ることを期 待 しないで耕すことだと思います。ヘン 4 4 4 4 4 4 4 4 ドリックス神 父がそうだったと思いま すが、人 間が出 来ている人は、実り を期 待していないんですね。 ─ 若い世代へのメッセージを 自 分を信じること、それから心に 響くことを大 切にすること。何かかっ こいいと思ったら、それはなぜか、な ぜ心に響くのかを突き詰める。 実は 単 純なものほど、それは仕 上げだっ たり考え方だったりします。 デザインをする人に言いたいのは、 “ 作る” ということが前 提にならな と。そう考えると、自 分なりのオリ けです。それが自 然の偉 大さである 然が一つのパターン作りをしているわ いま す。 そ ういう 意 味では、 大 自 生きていくのに都 合のいい形になって にある物はどんなに異 形であっても これって魚の形じゃないかって。 自 然 分しか実らないと思っています。 人 ンでも 人 間 関 係でも、 耕 作した 部 うことかもしれません。 僕はデザイ ら回ってくるチャンスに巡り合うとい るけど、それまで培った人 間 関 係か ただ物が売れたりヒットしたりす るのは、 多 分にその人の才 能 もあ デザインになっています。 てほしいなと思います。★ 考え、“ 作る”ことに責 任を負っていっ のではなく、“ 作る” ことを真 剣に こと。 表 面 的なことをデザインする 到 達できるものだと思います。けれ 技 術 というのは努 力 次 第で人 格 的 れだな 」って。それから 始めます。 プロフィール ければ、デザインは出 発しないという に良かろうが悪かろうが、ある程 度 ★サレジオ歴★ ども 感 性 はもともと 悪ければ 磨い ても伸びません。デザインの世 界は %は努 力だけど、最 後の1%は六 感 (計り知れないものを感じる力)だと思 かないといいものが出てきません。六 (1983 ります。包 丁の「グローバル」 モチーフは必 ずどこか自 然の中にあ ジナルの形を作ろうというのは傲 慢 間 関 係だったら人を耕すということ www.salesio-sp.ac.jp います。その六感みたいなものが働 年に吉田金 属工業 株 式 会 社が製 造・発 売し な考え方で、人 間の作るものなんて ですが、 耕 した 分 だけその本 人か 感を満 足させるようなものは、いい た世 界 初のステンレス製 一 体 構 造 包 丁 )だっ 非 常に小さなものだなと思います。 つちか て、私 自 身も後で気 付いたんですが、 東京都町田市小山ヶ丘 4-6-8 ─ いつから、デザインに興味が 1947 年東京都生まれ。育英工業高等専門学校(現サレジオ高専)工業意匠学科卒業。故 ヘンドリックス神父の紹介により、 千葉大学工業意匠学科意匠科に助手として入職し、 デザ インコンセプト・モデリング等を学ぶ。1983 年発表の 「グローバル」 は世界的に評価され、 今も世界で愛され続けている。 【デザインした主な製品】[野田琺瑯]カマド、ノマク、[吉田金属工業]グローバル、[ロー ゼンダール]ツール、 [KOMIN]ケトル、ナベ、フライパン、イモノ、 [モリイ]炭器 スミキ、 [シャラクモノ]カトラリー、ミキシングボール、[ST 化学]芳香剤 他 【受賞歴】日本グッドデザイン賞、ロングライフデザイン賞 他 サレジオ工業高等専門学校 ─ どんな学生でしたか? ロ ー バル 」 ( 吉 田 金 属 工 業 株 式 会 社 ) No. 99 あったのですか? サレジオ工業高等専門学校(旧育英工業高等専門学校) 14 左奥が 「GLOBAL」 最新モデル。隣の白いのはその試作木製モデル。右の 2 つの白いケトルは野田琺瑯製。一番手前の 2 つの鍋は新潟県燕市のメーカーとの共同ブランド「シャラクモノ」。使い勝手がそのまま形になったかのよう 14 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 15 ステンレス製 一体構造包丁 「GLOBAL」 ブラジル ニテロイ社会スポーツ学校、 代 か ら 上 の若 者 た ち き だったのは、レアル・マドリード 所 属 のブ ラ ジル代 表 で、 最 近、コ ンフェデレーション・カップで も 優 勝 し たマルセロ・ヴィエ イ ラ・ダ・ シルバ2 世 が 参 加 し、 証 し を し て くれたこと。 マルセロが来ることを知らなかっ た子 ど も たち は興 奮 からひとまず 落 ち 着 く と、 カ ポエイ ラ やマク レ レな どの武 術 や ダンスを 披 露、 拍 手を浴びた。 マルセロはいつも の よ う に 笑 顔 で 愛 想 よ く サ イ ンや 記 念 写 真 に 応 じ、 子 ど も た ち と 一 緒 にダンスを し、パーカッション楽器を演奏した り、 サッカー に 興 じ た り し た。 同 校 は 「 平 和のためのスポーツ」 学 校と命名された。 ニテロイ 社 会 スポ ーツ 学 校 プロ ジェク ト は、 授 業 時 間 外 に 子 ど も た ち が サッカー を で き る よ う に す カーを 楽 しみ、 教 育 す る 」 プログ る。 レアル・マドリード基金の「サッ ラ ムの 資 格 を 持つコー チ が 指 導 す る。 200人 の子 ど も た ち は、 勉 強 と食 事の支 援、 定 期 的 な健 康 診 断、 家 庭 や 心 理 的 な面の支 援 を受 け、 体 操、 工 芸、 カポエイ ラ、 読 書、 社 会 教 育 な ど さ ま ざ ま な 社 会 的・教 育 的 ワー ク ショップ、 ま た、 健 康、 衛 生、 道 徳 教 育、アルコー ル・タバコ・麻薬予防などさまざま なテーマの養成プログラムに参加す シリア アレッポのWYD 2013年7月 日、リオデジャ ネ イロの世 界 青 年 の日 大 会 (WY シリアのアレッポで もWYDが開か D) に合 わ せ、 戦 禍に見 舞 わ れ た れ、850人の若者がサレジオ会の 支 部 に集った。 若 者 た ち は 全 世 界 り 越 え、 教 会 と社 会に希 望 を も た の若 者 と一 致 し、 困 難 や 恐 れ を乗 らしたいと望んだ。 集いはリオ大会の祈りで始まり、 ペトロの召 命 の福 音 朗 読 に 耳 を 傾 け、マラ ヤ ティ大 司 教 や サレ ジ オ 会 中 東 管 区の青 少 年 司 牧 担 当シモ 講 師 た ち がキリストの弟 子、 証 し ン・ザカリアン神父をはじめとする 人になる、というテーマを深めた。 若 者 たち は体 験 している恐 れ や 心 配について語り合い、その中で、自 思 い 出 し、 祈った。 ムルグ イ ーア ンザレスさ ん を ミ サの中 で 特 別 に んの被 害 者で あるイツァチェル・ゴ を讃えます。」 ホセ神父は、いちば レバノン山や北部の村々では米やバ エル・フッスーンのサレジオ 会 共 同 体 の 家 か ら 出 発 し た 聖 遺 物 は、 紹介した。 寄せ、ドン・ボスコと聖遺物巡礼を ることができる。 管区長は支えてくれた多くの人々、 サ レ ジ オ 会 メ キ シコ・グァダ ラ ハラ管 区のホセ=カルロス・コント 決 を 受 け 、4年 ぶ り に 自 由 の身 と 日にメキシコ最 高 裁 判 所 の無 罪 判 害 の中 で 信 仰 を 守って き た おか げ に気 付いた。 苦 しみの中 で も キリ レラ ス 神 父 が、2013 年 8 月 28 ストの愛 に踏 み と ど まる よ う 若 者 で 今の自 分 た ち があ る というこ と 開 校 式 に参 加 し た200人の子 ど も と 若 者 た ち にとって 大 き な 驚 のために開設された。 の子 ど も と 町 の最 も 貧 しい地 区 の約200人 学校の開校式を主催した。同校は、 ラ ジルに 開 設 さ れ た 社 会 スポーツ レアル・マドリード基 金によって ブ ドリードのサレジ オ 宣 教 事 務 局 と 2013年7月6日、スペイン・マ リオデジャネイロに近いニテロイ 市 のサレ ジ オ 会ユー スセン タ ー は サッカーのスター選手を迎え開校 World Salesian Family NEWS 分 た ち の先 祖 が 多 く の苦 し み や 迫 スーパースターの登場に喜ぶニテロイの子どもたち ア 聖 歌 隊の合 唱に耳 を 傾 け、 洗 礼 ざ ま な ゲ ームを 楽 しみ、 聖 テレジ 後、 若 者 た ち 自 身 の 用 意 し た さ ま み取 ら れ て は な り ませ ん!」 ミ サ 「 何 も のに も、 あ な たの 希 望 を 盗 繰り返しているメッセージを語った。 れ、 大 司 教 は 教 皇 フランシスコが 司 祭 の 共 同 司 式 に よる ミ サ が 行 わ 夕 食 の 後、 ギ リ シャ・メルカ イ ト 派 ジャンバール大 司 教 と 大 勢 の たちは勇気づけられた。 を 司 式、 会 場 は喜びと熱 意に包 ま 協力者など2000人が集ったミサ 日、 ホセ 神 父 は、 両 親、 サレ ジオ会員をはじめ、生徒や教職員、 支えられた。 レジ オ 会 共 同 体 と 多 く の支 援 者 に 判 手 続 き・審 理 に も く じ け ず、 サ 害 容 疑で 逮 捕 され たが、 不 当 な裁 ていた当 時、 同 学 院の女 子 生 徒 殺 ホセ神父はサン・ルイス・ポトシ のサレジ オ 学 院の小 学 校 長 を 務 め なった。 ものです」 と喜びを伝えた。 ジを送り、「聖母からの最高の贈り ジオ 会のチャーベス総 長はメッセー ることを願っていると語った。 サレ 犯 人 が 見つか り、 法の下 に裁 か れ 特にカトリック弁護士会に感謝し、 オの雰 囲 気 に満 ち た 若 者 との集い バノンの 聖 母 大 聖 堂 」 へ、 サレ ジ 日から8日にかけ、ハリッサの 「レ フデン、カハレの町を回り、9月7 や 松 明 を と もして 迎 え られ た。 エ ラの花 を 投 げ か け ら れ、 ランタン マラ ヤ ティ大 司 教 は 「 こ れ ほ ど 多 く の若 者 が 恐 れ ず に 平 和 を 証 し 安らかに一日は終わった。 す。 こ れほど多 くの子 ど も、 若 者 謝した。「命は神からの贈りもので は聖 母の特 別 なご 加 護 を 感 じ、 感 天の元 后の祝 日で あ り、 ホセ神 父 ドン・ボスコ聖遺物、レバノンへ 平和と希望の巡礼者 隣 国 シリアの内 戦 を 逃 れて 多 く の難 民 が流 入 す る なか、 平 和 と 希 望 の 巡 礼 者 が レバノン を 訪 れ た。 2013年8月 日、世界の5大陸 を巡ってきたドン・ボスコ聖遺物は 大きな喜びのうちにレバノンのキリ スト者共同体に迎えられた。 「ドン・ ボスコを 迎 え るこ と は、 私 た ち サ レジ オ 家 族 だ けで な く、 すべて の 人にとって大きな出来事です」。 レ て 活 動の生 涯 をさ さ げた聖 人 がこ 涯 をささ げた聖 人 と、 若 者に仕 え を受 けた。 隠 遁 者 として 祈 りに生 ささ げられ た教 会で、 信 徒の崇 敬 集める聖人の一人、聖シャーベルに ルにおいて、レバノンで最も崇敬を りに心を合わせた。9日にはフィダ ンシスコ教 皇 との平 和 と 希 望 の祈 ローマのサン・ピエトロ広 場のフラ 執り行われ、その後の夕の祈りは、 イ 枢 機 卿 司 式による 荘 厳 な 祝いが の後、マロン派 大 主 教ベシャラ・ラ の 約 束 の 更 新、 聖 母 の 汚 れ な き み れ た。 逮 捕 が聖 母の祝 日、 解 放 も す るのを 見 て、 驚 き まし た。 こ れ が信 仰 を 生 き ている 姿 を 見 て、 神 レバノン 心への奉献をもって、喜びに包まれ 21 は神 様 からの贈 り もので す。 困 難 の中で 若 者 たち は、 自 分 たち を 救 う ものは 何 で あ るかに目 覚 め、 一 人ひとりへのイエスのいつくしみを 感 じています。 多 くの若 者 が祈 り ミ・サマーン神父は語った。 バノンのサレジオ会共同体院長カル ドン・ボスコが到着すると国民の 間に安堵感が広がり、ドン・ボスコ から、 シリアからさ え も 崇 敬 を 捧 の友 人 たち は危 険 を 顧みず、 各 地 げに 来 た。 地 元メディア も 関 心 を レバノンの聖母大聖堂での祝いの様子 と 兄 弟 姉 妹への奉 仕 のう ち に自 分 ます」 と、感動しつつ、語った。 を 主 に捧 げ たいと 考 え はじ めてい メキシコ サレジオ会員、無罪判決! 4年ぶりに釈放 解放されたホセ神父 31 22 16 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 17 アレッポの街とWYD in リオの公式ロゴマーク 世界の サレジオ家族 ニュース 10 開校式の様子 ニテロイのユースセンターの子どもたちとマルセロ選手 SFN World Salesian Family NEWS World Salesian Family NEWS し く 整 え る 準 備 に 参 加 し、 聖 人・ ルー プの人 た ち が会 場 や 典 礼 を 美 家 族 だ けで な く、 ほ かの多 くのグ ジアニ・コオペラトーリのサレジオ め、サレジアン・シスターズやサレ 近 く のサレジ オ 会 のオ ラ ト リ オ と 学 校 で は、200人 の児 童 と 拠りどころになっている。 る。 不 安 な情 勢 が続 く 中、 人々の 2013年に100周年を迎えてい 創 立、 激 動 の 歴 史 を く ぐ り ぬ け、 プト学 者スキアッパレッリによって スカルセッラは語った。 病 院はエジ 様 だけだよ 』 と言います。 若 者 た 様、わかったよ。 変わらないのは神 だった子 ど もがやって 来て、『 神 父 人 もいま す が、 長 く オ ラ トリ オ に こ ん なこ と を ゆ る すの?』 と 問 う にあって、『 神 様 がいるなら、 なぜ 亡 く していま す。 このよう な 状 況 友 人、 近 所の人 な ど、 皆、 誰 かを 込まれたこともありました。 家族、 たバスのす ぐ そ ばに迫 撃 砲 が 撃 ち 教育者ドン・ボスコと出会った。 300人の青 年 た ち が通 う。 困 窮 ちの信仰は深まり、福音に立ち帰っ ます」 と院長シスター・アナマリア・ 「ドン・ボスコはシリアの危 機 が 最 も 高 まった と き に 平 和 と 希 望 の する家庭への食料配布、心の支え、 こ に 出 会った。 サレジ オ 会 を は じ 巡 礼 者 として 私 た ち を 訪 れ 、 希 望 教育支援、職業訓練を行っている。 通っていて 以 前 は 遊 ん でいる だ け と サマーン神 父 は 感 動 のう ち に 述 ています。」 ます 高 まり、 全 教 会に 致 して 行 わ れ る サレ ジ オ 家 族 の 奉 仕 に よっ け、 聖 骸 布 が 公 開 さ れ る200周 教 区 とサレジ オ 会 からの招 待 を 受 て 引 き 継 が れ てい ま す。」 ト リ ノ ドン・ボスコ生誕200周年 年の期間中、教皇フランシスコがト イタリア 館 に勤 めていた 家 庭の大 黒 柱 は内 期間中、聖骸布公開へ ま す 」 と 語 る。「 観 光 産 業 や 大 使 り なく 子 ど も たち を受 け入 れてい ロ・レ オ ン 神 父 は 「 宗 派 に か か わ ベネズエラ出身の宣教師アレハンド の 光 を 残 し て いって く れ ま し た 」 べた。 その後、ドン・ボスコの巡礼はイ スラエル、聖地へと続いた。 戦の影 響で 職 を 失いまし た。 そ れ リノを訪問する可能性 も高まった。 も 開 催 さ れ、 イ タリア内 外 から北 若者のために尽力し続けている。 て、 悲 惨 な状 況に直 面 す る 多 くの 最 も 助 けを 必 要 とする人々、 そし う に 語った。「 先 ご ろ、 聖ヨハネ・ たトリノのノシリア大司教は次のよ んだと伝えられる麻布。発表を行っ なったイエス・キリストの遺体を包 した。 聖 骸 布は、 十 字 架 上で 亡 く 2万人の避難民を庇護 サレジオ会センター、 伝 え ら れ まし た。 若 者の父・師 で 教 皇の賛 同 がバチカン国 務 省 よ り 1993年 に民 主 的 選 挙 が 行 わ れ 南スーダンやカメルーンなどと国 境 を 接 す る 中 央アフリカ共 和 国 は クーデターに見舞われた。2007 かけ、 再 び混 乱 し た 情 勢 が続いて ず、2012年末から2013年に 続 く 合 意 の実 施 が 遅 々 と し て 進 ま 政 府 勢 力 の間 の平 和 協 定 の締 結 に 復 讐 や 分 裂の思いを 心 から 追い出 は言う。「苦しみはもうたくさん。 開 く こ と も で き る 」 とベルナール れ ば。 平 和 の た めのフォー ラ ムを 対 話 し た り 平 和のた めに祈 ら な け 堂に帰り着く。 聖 人の祝 日前 夜、 扶 助 者 聖 母 大 聖 の 聖マリアの 祭 日のミ サ が 祝 わ れ は、 避 難 民の人 々のた め、 無 原 罪 年 以 降、 度 重 なる反 乱 や たが、 スマ( 奉 仕 す る た めに神 か ら 与 え 年から2012年にかけ、政府・反 いる。 国 民の多 く が農 業 を 生 業 と して、キリスト者 もムスリムも一緒 陥っている。 た。いくつかのNGOや世界食糧計 中央アフリカ サレジアン・シスターズは首都ダ マスコでイタリア病院を運営してい ボ スコ生 誕 200 周 年 の 祝いの 一 2015年 は 同 時 期 にミ ラ ノ万 博 2 0 1 3 年 月 5 日、 イ タ リ ア・トリノ教区はドン・ボスコ生誕 イ タ リア を 訪 れ る 人 々 がキリスト く は 郊 外 の労 働 者 階 級 の町 に 住 ん でいま す。 移 送のバスを 出 す か ど 200周年に合わせ、2015年春 と出会う機会になるかもしれない。 に日常 的 な危 険。 子 ど も たちの多 う か、 毎 日判 断 し なけれ ばなり ま に聖 骸 布の特 別 公 開 を行 う と発 表 サレジオ家族、最も助けを必要と せん。 一 度は、 子 ど も たち を乗 せ する人々とともに シリア ドン・ボスコと聖骸布 あるドン・ボスコの実り豊かなカリ 環 としての聖 骸 布の公 開について、 月 8日 現 在 ま で る。 2013年 のこの2年、 砲 撃 や 自 動 車 爆 弾 で 負 傷 し た 人 々 が 運 び 込 ま れ、 無 料 一 られる賜 物 ) の重 要 性は現 代 ます が届きはじめている。 イタリア 2009 年 の サ レ ジ オ 会 創 立 1 50 周 年 に 始 まった ド ン・ボ ス ドン・ボスコ聖遺物、帰途につく える た めに奮 闘 し、 サレジ オ 会 宣 コ聖 遺 物 の 世 界 巡 礼、 ドン・ボ ス し てい る が 内 戦 の た め 畑 は 放 棄 さ に 生 き てい く 道 を 求 め な け れ ば 」 2013年 月5日、3月のクー デターで政権を奪ったセレカと敵対 画 (WFP) な どから も 救 援 物 資 96 で治療してきた。「多いときは日に 人 負 傷 者を受 け入 れ ました。 廊 下にもベッドを並べ、医師、看護師、 シスターたち皆で世話にあたってい スカレートし、首都バンギのサレジ オ会の2つの支部、ガラバジャとダ マラ は 合 わ せて2 万 人の避 難 民 を 受 け入 れ た。 中には負 傷 者 もいた が、 燃 料 不 足のため赤 十 字で 手 当 て で き ず、 数 名 が 命 を 落 と し た。 教事務局もチャーベス総長の要請を コの旅 はいよいよ最 終 章に入った。 現 地のサレジオ 会 員 は避 難 民 を 支 受 けて 緊 急 支 援に動 き 出 し、 医 薬 2013年9月末からイタリア中・ 月中 品などを発送した。 旬、ピエモンテに入ったドン・ボス 南 部 を 巡 り 北 イ タ リアへ、 UNICEFに よ る と 避 難 民 は 推 計 万 人 に 達 し て い る( 人 口 スターズの共同創立者マリア・ドメ ニカ・マザレロの 故 郷 モルネ ー ゼ、 コは、クリスマスにサレジアン・シ 解除を始めている。 リータの故 郷 カ プリ リ オ な ど、 ゆ カステルヌオ ヴォ、マンマ・マルゲ 治 安 部 隊 が入 り、 武 装 勢 力の武 装 避 難 民の中には悲 惨 な体 験 から 逃 がれ て き た人 も 多い。 あ る 若い 日、トリノに入り、リジーナ・マ かりの地を巡った。 2014年1月 その後、 キエリ、 故 郷のベッキ 村、 父 親 は、 妻 と 妻の妹、 上の子 ど も た ち が 殺 害 さ れ て い る の を 発 見、 末 の 子 ど も を 連 れ て 逃 げ て き た。 ンナ産 婦 人 科 病 院 を 訪 れ、 ルゲリータ子ども病院やサンタ・ア 日の 悲 惨 さの中 で、 若 者 た ちの強い信 れ、 武 装 勢 力の略 奪・破 壊 行 為 も とオディールも語った。 月8日に 続 き、 人 々の生 活 は危 機 的 状 況に す る 勢 力 との間の新 た な 衝 突 がエ 12 ヴェニスに到着したドン・ボスコ サンテーラモにて 現 在 も 内 戦 が続 く シリアのサレ ジオ会とサレジアン・シスターズは、 12 450万 人 )。 その後、フランスの 12 30 ダマラのドン·ボスコ職業センターに避難した人たち サレジオ会が受け入れたガラバジャの避難民たち シリアの子どもたち 仰 は 希 望 を 与 え る。「 若 者 た ち は 29 11 18 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 19 12 シチリアにて 福者マッダレーナ・モラーノ (奥) とドン・ボスコ 48 30 大人になってからも、辛いことたくさん ていません。その後、髪の毛は無事生え 髪の毛はずっと薄くて、まだあまり生え がちょこちょこ生えてきました。でも、 ばかりです。とってもかわいいです。歯 このビデオの中の陽一は、1歳を迎えた お母さんは永遠に陽一のお母さんです。 より年上なのかもしれませんね。でも、 子で腰かけていた。弱弱しい声で、でも 女の人は、病室のベッドに、やっとの様 僕はその日、友人の結婚披露宴で、一 本のビデオレターを見た。ビデオの中の はしたのよ。許してくださいね…。」 晴れやかな席に、こんな格好でごめん なさい。でも、無理言って、お化粧だけ 心より、おめでとうございます。 た 結婚、おめでとうございます。そし て、陽一の奥さんになってくださる方、 「 陽一。こんにちは。お母さんです。 る程度は、我慢、してね。そして、たま い。簡単に、離婚なんてしないでね。あ くちゃな陽一の顔を見てたらね、やっぱ でもね、生まれた、生まれたてのしわ ら、産めたらそれで十分だと思ってた。 お母さんね、陽一さえ産めたら思い残 すことはないと思ってた。こんな体だか ありがとうね。どうもありがとう。 てくれた。陽一、生まれてきてくれて、 張った。そして陽一も本当によく頑張っ どね、お母さん頑張った。お父さんも頑 しい命だもの。すっごく大変だったけ の。お母さんとお父さんからできた輝か でもね、陽一、お母さんね、あなたを 産みたかったの。せっかくできた命だも した。 からです。皆、私の命が大事だと言いま た。母子共に助からない可能性があった 赤ちゃんを諦めた方がいいと言われまし 薬も投入できないから、お医者さんには かりました。お腹に赤ちゃんがいると、 お母さんは、残念ながら、長く生き ることができませんでした。陽一がお ん。健康に勝るものはありません。 ているなら、それ以上のことはありませ とえ禿げていたとしても、健康に過ごせ が、陽一に向かってハゲ~!と言い放っ 陽一は、人目をはばからず泣きじゃ くっていた。走り回っていた子供の一人 色々と辛かったよ。大人になるまでも、 お母さんもね、強い人間ではないから、 陽一、これまで、色々大変だったで そば しょ。傍にいてあげられなくてごめんね。 さんと殴り合ったりするのかな……。 な。未成年で煙草とか吸うのかな。お父 いかな。苛められないかな。苛めないか かな。モテるかな。スケベ野郎にならな 本は無事かな。どんな子を好きになるの んは育児ノイローゼにならないかな。日 をたくさん困らせるんだろうな。お父さ ないかな。将来は何になりたいと言うの はじめて喋る言葉は何かな。いつ歩き 出すかな。滑り台から落ちて骨折とかし ずーーっと見てた。 かった。陽一の顔をずっと見てたよ。 楽しかったあ。この一年、すごく楽 しかった。毎日毎日がね、本当に楽し きてるのよ。すごいでしょ。 さんたくさん生きたいと思った。そした 思った。お父さんと陽一と三人で、たく り生きたいと思った。一緒に生きたいと 絵・おむらまりこ あって、死んじゃいたいと思ったことも にでいいから、お父さんのことも、気に た。陽一は、テカテカの頭でさらに泣い 文・ノゾエ征爾 何度かあったよ。人生の9割は大変。だ かけてあげてください…寂しんぼだから た。泣きながら爆笑するお嫁さんを見 力強く、絞り出すように、話していた。 「 陽一は今何歳ですか? お母さんは今 歳です。もしかしたらもう、お母さん は あきら しゃべ かな。大病を患わないかな。お父さん いじ 私も一緒に殴り合いたかったなあ…。 目黒星美学園小学校 図工科教諭。武蔵野美術大 学大学院修了。絵本に『はいいろのこひつじ』『たい せつなおく りもの』 『ヨハネ・ボスコのたいせつなゆめ』 『ク リスマス マリアさまからのプレゼント』。イラストに『森本 千絵うたう作品集』。 ましたか? 禿げてはいませんか? らね、もう余命宣告より、一年も長く生 けど、残りの1割が、それはそれは輝か (笑)…。 サレジオ学院中学校・高等学校卒業。脚本家、 演出家、 俳優。大学在学中より劇団「はえぎわ」を主宰。2012 年『◯◯トアル風景』で岸田國士戯曲賞受賞。舞台、 映画、テレビ、ラジオ等で活躍中。www.haegiwa.net て、二人の門出に立ち会えたことを、心 おむらまりこ せい じ どうもありがとうございます。ご結婚、 しいの。1割の輝きのために9割踏ん張 の底から嬉しく感じた。 ノゾエ征爾 腹に誕生した時に、お母さんの病気がわ るの。私の1割は、本当に幸せだった。 お母さんは、とっっても、幸せでし た。そして、お母さんは、今もみんなの ドン・ボスコの言葉 〜『心が強く優しくなるドン・ボスコのことば100』P.84~ そばで、幸せにしています。 バイバイ。お母さんでした…。」 聖母に話しかけてごらん。聖母は海の星だから。 お父さんがいて、陽一がいて…。 陽一、お嫁さま、楽しいことも、辛 いことも、二人で力を合わせてくださ 嵐の中にいるような気分なのかい? 29 20 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 21 「お母さんですよ」 時を超えて紡ぐ ショートストーリー Vol.6 共に喜び、 共に生きる 東京都北区赤羽台 星美学園のルーツ 周 年を記 念して上 京し、 サレジオ会チマッティ神 父の要 請により、 昭和4年サレジアン・シスターズ6名が宮崎 に到 着。 来日 寄 付を募って三河 島に園 舎を建て、保 育 所やオラトリオ、学習塾を始めました。 年 年に星美学園が誕生しました。昭 美しく清らかなマリア様を保 護 者と仰 ぎ、 園の名称を「美しい星=星美」と決め、 昭和 年、太 平 洋 戦 争が勃 発。昭 和 年6月に赤羽台工兵隊跡の兵舎を 赤羽台に星美学園 (総合学園) を開校 33 (幼稚園・小学校・中学校・高等学校・短期大学) 和 昭和 年3月の東京大空襲では星美学園 年8月終戦。 の園舎が全焼してしまいました。 そして、――昭和 シスターが家 探しのため ヶ月 毎日歩き、 シスターや児童たちは東京に戻る家がな く、焼け野原と化した東京都内を2人の 20 借用することができました。 昭和 10 昭和 年から 年まで 年かけて教育 環境が整えられた矢先に、新幹線問題が 55 正門を入ると、マリア様が迎えてくださ います。マリア様は学園で学ぶ一人ひとり マリア様に見守られて 育の根幹であり、学園の教職員は年間を このモットーは、設立母体であるサレジア ン・シスターズの創 立者 聖ドン・ボスコの教 「共に喜び、共に生きる」 1年を通して行われる学 校 行 事の一つ ひとつを先生と子どもたちが一緒になって 幼・ 小・ 中・ 高・ 短 大・ 同 窓 生・ 保 ど、学 校 全 体にドン・ボスコの精 神が活き 育を目指して努力しています。 被災地へのボランティア活動、おにぎり献 金、お手 伝い献 金など、共に助け合うこ られないパワーを受けます。 活きと展開されています。 短大は、ベリアッティ初代学長がサレジア ン・シスターズ来日 周年を記念して、女 リア 様 を 讃 歌いながらマ せて 聖 歌 を が心 を 合 わ 2500人) 学園内には、幼稚園と養護施設がある まらず、韓国、香港、フィリピン、ヨーロッ ので、日常的に幼児と触れ合うことができ、 パの姉 妹 校と交 流して世 界を変えていく、 が得られます。 保 育 士、特 別 支 援 学 校 教 諭の国 家 資 格 始まりです。後に時代のニーズに応えて改 中学・高校では 「アカバネからセカイへ」 変し、学 生たちは3年 間で幼 稚 園 教 諭、 のキャッチフレーズの下、ドン・ボスコがイタ 性の育 成のために家 政 科を創 立したのが 護 者( 約 え、 感 謝 の 聡明でたくましい女性を社会に送り出した を実施しています。 教 師を派 遣したように、日本だけにとど リアだけにとどまらず、世 界に向かって宣 との大切さを体験しています。 祈 りを 捧 げ 「テアトロ・SEIBI」 には全 園 児を招 たた ます。 いと 「星美スタディー・サポート・プログラム」 とときを過ごしています。 (文・写真/星美学園提供) (幼稚園・小学校・中学校・高等学校・短期大学) 幼 稚 園の裏には、古 墳 群の発 掘された 森があり、恵まれた自然環境の中で園児 たちは体も心も健やかに成長し、命あるす べてのものと関わり、神 様、マリア様に祈 東京都北区赤羽台4-2-14 www.jsh.seibi.ac.jp り、自 分から進んで行 動する気 持ちを育 てるようにしています。ある年輩の卒園生 は、「幼稚園で聞いたドン・ボスコの話は一 生忘れない」 と語ってくれました。 小 学 校では、朝 礼 前からグラウンドで 朝練をしている子どもと先生が駆け回り、 星美学園 24 校内から聞こえる澄み切ったコーラスの声な を見 守り、学 園が困 難に直 面したときに 通してドン・ボスコの教 育 法を研 究し、明 総合学園でもあります。 また、国内唯一のイタリア系の短大をもつ 下を通る日本 唯 一の学 園となりました。 続するために必 死で交 渉し、新 幹 線が地 の精神で子どもたちを教育する学園を継 が立てられていたようですが、ドン・ボスコ 発生。星美学園の土地は公園にする計画 22 星美学園 10 から児 童たちは静 岡や山 中 湖 村に疎 開。 18 15 16 20 21 小学校の先生と児童たち も見守り、助けてくださいました。 献金を被災地に届けました。特に大船渡北小学校や老人ホームを訪問して、 聖歌隊がコーラスを歌い、 今で 精一杯発表している姿に、感動せずにはい も交流を続けています るく楽しい雰 囲 気の中で生 徒の全 人間 教 3.11 の東日本大震災の後、 一日も早い復興を願って横断幕を作り、 屋上に掲げました。 そして全校児童の 開校記念日の5月 日には、星美学園 挙げての聖母行列が盛大に行われます。 行列の前、 大聖堂前でマリア様に花を捧げる 幼稚園児たちは、自然の中でのびのびと遊ぶ 小学校学習発表会(4 年生の英語劇) 中学・高校一貫で行事やクラブに取り組む 「テアトロ・SEIBI」 終了後、 学生と園児のタッチ 30 いて、学生と園児が一体となって楽しいひ 毎年 5 月 24 日に行われる、 聖母行列 日本各地のドン・ボスコの仲間を紹介します Salesian Family Visit 短大のサークル 「マリア救援隊」 の募金活動 (全額 「国境なき医師団」 などへ寄付) 22 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 23 ! o a Ci Salesian Family Visit ! オ チャ サレジオ家族探訪 首都ブダペスト、 聖ステファノ大聖堂 前の美しい広場に、 60 年前 39 歳の うため、8, 000人が集まりました。 ステファン・サンドル 信仰深い好青年 ステファン・サンドルは、1914年 月 日、ハンガリーの中 央 部に位 ジオ会の霊 性に出 会い、 引きつけら スコの風 )を通して、ドン・ボスコとサレ ステファンは国 内で配 布されていた サレジオ会 会 報 誌( ハンガリー版ドン・ボ 愛を教えました。 行き、信 仰、祖 国への愛、家 族への 息 子たちを日曜日毎に教 会へ連れて 的な家 庭で、父はステファンら3人の は国 鉄 職 員、 母は主 婦 という 一 般 解 散させられるまで、ハンガリーにお 1950年に国 中の修 道 会がすべて 寮 制の印 刷 技 術 学 校、教 会があり、 ました。ここには他に、出 版 社や全 ボスコ印 刷 所の印 刷 技 術コースで学び した。2年 間の志 願 期の後、ドン・ ブダペストのサレジオ志 願 院に入りま を受け入れ、ステファンは1936年 せんでしたが、 最 後には息 子の望み う 望みを抱き、霊 的 指 導 者と両 親 に話しました。 両 親は初めは許しま 「 愛するお父さん、……ただ一 人 の息 子であるかのように私を愛して くれましたね。あの待 降 節の日、志 願 院に入る許 可の手 紙にお父さんが 署名をするとき、一方では別離の悲 しみ、もう一 方では私への愛のため、 私の幸せを願って犠 牲をささげる用 意のあることがはっきり見て取れまし た。 …… 犠 牲の痛みが大 きいほど、 神様にとっては尊いものとなります。 せっ ぷん お父さんの犠 牲は、アブラハムの犠 牲( 創世記 ・1~ 参照)にも似たも のです。 ……お父さんの手に接 吻し ます、多くの労 働に耐えた手を、そ なら した。 誓 願 を 立てた 後、 志 願 院で ジオ会修道士として初誓願を立てま ステファンは印 刷 技 術を学 び、 修 練期途中で徴兵されましたが、一時 サレジオ会修道士として できますように。 …… 私が神に愛さ たちの問題を知り、前向きなメッセー 「 彼はとても情 熱があり、若 者に 対する深い理 解がありました。 若 者 できました。ある友人が語っています。 も一 流の印 刷 会 社に就 職することが 身に付けた生 徒たちは、ハンガリーで 生徒を指導しました。優れた技能を れるよう、 お祈りください。」(1938年) 教 的 成 長にも心をかけつつ、 熱 心に れ、み心に深く帰依する修道者とな ジで共に歩み、 困 難 な 状 況にあって の責 任 者に任 命され、 人 間 的・ 宗 1946年に終 生 誓 願を立てたス テファンは、1948年には印 刷 部 門 た時代でした。 ク教会” が創設されるなど、混乱し 教育は廃止され、 独立した“カトリッ オロギーが学 校に持ち込まれ、宗 教 国外追放されました。共産主義イデ 刑、 万 人が 府に反 対する者2000人以上が処 ク学校は弾圧を受け始めました。政 には教会が資産を没収され、カトリッ る恐 怖 政 治が始まると、1949年 シ・マーチャーシュ共 産 党 書 記 長によ スターリン主 義の影 響を受けたラーコ りません」 と語りました。 な行 為は、即 興でできることではあ への忠 実を生きるものです。 英 雄 的 福音と修道会のカリスマ(神からの賜物) を流さずに命をささげること)です。日々、 す。…奉献生活は、 実に白い殉教(血 兄弟愛、ゆるし、受容の橋を築きま し 殉 教 者 たちはその犠 牲によって、 の間に深い溝を作り出します。しか 列 福 式の中で 「 信 仰への迫 害は人々 皇 庁 列 聖 省 長 官アマート枢 機 卿は、 となった」 と語っています。また、教 ク要 理の教 師 )として素 晴らしい模 範 的に戻った1940年9月8日、サレ え 職 業 教 育のために働 き、 第 二 次 大 も粘り強く、くじけずに仕 事に取り そのような時 代の流れの中でハンガ リーのサレジオ会は、ほぼ一 夜にして き 戦 後は貧しい青 少 年たちが手に職を 組むよう導きました。 彼はいつも理 ステファン・サンドルは、殉教によって、 献身的な教育者の姿、そして信仰・ 万 人が刑 務 所へ、 つけて働けるよう、尽力しました。 すべてを失い、解 散させられました。 生活を送る人たちのこと。 修道女(シスター)に対 想に忠 実な本 物のサレジオ会 員でし して修道士(ブラザー)と呼ばれる。 してくれたのです。 門的技能をもって社会や修道会内で働きつつ奉献 てハンガリーの若 者のために働き続け の位に列すること。 列聖(聖人の位に列すること) ました。ブダペストで洗剤工場に職を カトリック教会が公式に、模範的な信者を「福 者 」 見つけ、 厳しく禁じられていた宗 教 活動を密かに続けていました。 1952年7月、ステファンは、情 報を聞きつけた秘 密 警 察によって職 ふく しゃ 【列福 れっぷく】 場で拘 束されてしまいます。そして ミサなどの秘跡を執り行う司祭と役割が異なり、専 希 望・愛の最 高の証しを私たちに示 1949 年 10 月 9 日、 ハンガリーのサレジオ会ブラザーたちと。 一番上左がステファン 20 1953年6月8日、絞 首 刑により 殉教しました。 信・望・愛を証しした ステファン 【修道士 しゅうどうし】 それでもステファンは、国内にとどまっ ミサの侍者をする子どもたちと一緒に 10 教皇フランシスコは、使徒的書簡の 中で、福 者ステファン・サンドルについ の一つ前の段階。 た…。」 しかし、希 望に満ちたステファンの て 「ドン・ボスコの慈愛の教育に倣い、 前には恐ろしい時代が待っていました。 若 者の教 育 者・カテキスタ( カトリッ サンドル一家。右奥がステファン 両親に宛てた手紙 (抜粋) けるサレジオ会の活動の中心でした。 幼いころのステファン れました。サレジオ会に入りたいとい 深い両 親のもとに生まれました。 父 置するソルノクという町の素 朴で信心 26 仲 間 うちでは謙 遜 と従 順の模 範 でした。 若者のために最後まで 10 サレジオ会編 ● 文・写真 列福 生 活され、私たち皆が永 遠の幸いに 19 士、 ステファン・サンドルの列福を祝 してお父さんが神のみ旨にしたがって 2013年 10 月 19 日、 ハンガリーの 至り、いつまでも神を礼拝することが 22 若さで 信 仰に殉じたサレジオ会 修 道 ハンガリーの若きサレジオ会修道士 24 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 25 ニュース News ドン・ボスコのように生きた人たち な体験を経て、司祭となった山口哲郎神父。司祭とし の総本部所属。 作詞作曲した たの道は必ずある』(青春出 版社)が昨年話題に。 れ が ネ ガ ティ ブ な も の ば か り があるんで すよ。 それに気づい なたはそのままで 愛される価 値 ある日のこと、 こんなことを りました。 私 は 行 き 詰 まってしまい、 も う ど うでもいいと 思 う よ うにな く て も、 変 わ ら な く て も、 あ かを 気 にし ないで もっと 自 信 を て ほ し い で す。 大 人 の 反 応 と 言われました。 変 「わらないでい いよ。 そのままの君 が好 きだ か 持って く ださい。 いろ ん な 欠 点 とか、 足 り ないところとかある も愛されていいのです。 ら ないでいいよ ♪ 変 わ ら ない でいいよ ♪・・・そのままの君 が 「 わらないでいいよ♪ 変わ 変 ら 」この言 葉は、 心 地よい音 楽 のように私の耳に響きました。 あ なたを愛している人 がいま す。 ただそ れに気 づいていない かもしれ ないけど、そのままで だ け か も し れ ま せ ん。 仮 に 周 好きだから♪ 」 肩の力 が抜 けて、 こころが軽 くなりました。 生 き返ったよ う り にそ ういう 人 がいな かった と して も、 神さまが愛しているの に 感 じ ま し た。 そ し て、 私 は 変わることができたのだと。” る 誰 かを 見つけたときに、 私は 今 、 私 に は わ か り ま す。 自 分 が変わらな くても愛 してくれ 変わったのです。 です。 かつて フィリ ピンにい た と き に出会ったお話を紹 介します。 ゆう うつ “ 私 は、 数 年 間ノイローゼ 気 味 でした。 心 配 症、 憂 鬱が続き、 そろ あなたの道は必 ずある』 自 分のこと し か 考 えていません でした。 みんなが口を 揃 えて言 いました。 「 あ な た は 変 わ ら ないと ダメ だ!」 私は腹を立てたけれども、 同 意もしました。 本 当に変わりた だった ら、 自 分 を ネ ガ テ ィ ブ や 先 生 か ら 「 もっと が ん ば れ 」 てもだめでした。 私の親 友 まで に 見 て し ま い ま す。 そ し て 親 に な ら な け れ ば 愛 さ れ ない 」 が、 他の人と同じように 「 変わ できな かった。 どんなに努 力 し という 条 件 付 きの愛に閉じ込 め ら ないと ダメ」 と 言って、 私に いと 思ったので す。 でも そ れ が ら れ、「 私 は愛 さ れ るよう な 人 背を向けた時、 私は深 く傷つき と 言 わ れ 続 け、「 もっといい 子 間じゃない」 と思っています。 ました。 昨年国内で話題の著書と 青春出版社より絶賛発売 中!「 い の ち 」 他 10 曲 年に及ぶ司 祭 生 活で出 会っ に生 ま れた。 幼くして父 を 亡くした 哲 郎 少 年 や地域の女子修道会のため、深い霊性をもった 劇に終わった。失望させ、叱られると思いき や、 せり ふを すっか り 忘 れ、 沈 黙のま ま 芝 居は 喜 要 な 役 を 割 り 当てられたが、 本 番で緊 張して ルコ漁 師 」 を 上 演し た と きのこと、 哲 郎 も 重 エピソードがある。志願生たちがオペレッタ「マ にいよ うと決 心 する。この父への信 頼 を 深めた の父、チマッティ師と 出 会い、 生 涯この父と 共 た聖母に感謝は尽きなかった。 ことの喜び、誇りを語り、いつも助けてくださっ のように、司祭、修道者、サレジオ会員である 地上での最後の闘いのため入院した山口神父 は、見舞いに来た兄弟会員に、まるで信仰告白 の世話をし、会報のために執筆した。 マリア運動」の会員としてチェナクルム(祈りの集い) れた 熱い聖 母 信 心 を もつ山口神 父は、 「 司 祭の 節の「 見よ、 わたしは あ な た を わたし らない慈しみを 注いでくれたのだった。こうし 章 チマッティ師は 何 事 も なかったかのよ うに変 わ た 志 願 院での喜 び あふれる 落 ち 着いた 雰 囲 気 の中、サレジオ会員として歩み始めていた。 ている。これは、修道者、司祭として過ごした の手のひらに刻みつける」という言葉が記され ア抑 留 を 体 験、 語 学ができ た ため捕 虜の代 表 兵、満州で終戦を迎える。4年半に及ぶシベリ 戦 争は 修 道 院にも 暗い影 を 落とした。 山口 神 学 生 は1941年に 誓 願 を 立てた 翌 年、 徴 の思いの込められた言葉である。 が私と一 緒に天国にいてほしいという 山口神 父 皆さんは私の心と祈 りの中にいま す、いつか皆 歳月に宝として大切にした すべての人にあてて、 とな り、 仲 間のために苦 労 を 背 負った。“ 地 獄 は、 修 道 院に戻る 勇 気がなかったそ うである。 のよ う な ”日々が 終 わ り 復 員した 山口神 学 生 故 郷の大 浦天主 堂の聖 母 像の前で祈っていたと 待っているとの伝言を受ける。ようやく修道会 き 、 幼 なじみの神 父に再 会し、チマッティ師が に戻った 山口神 学 生は、「 過 去 を 振 り 返っては いけ ま せん、 将 来に目 を 向 け、 善いわ ざには サレジオ会司祭。1921 年長崎市生 まれ。1955 年司祭叙階。1956 年よ り中津聖ヨゼフ寮を始め、1973 年ま で長く大分教区にて司牧。大阪・天 王寺教会主任・聴罪司祭を経て、 2013 年 2 月、 大阪にて92 歳で帰天。 山口神父を通して私たちに与えられた数多く の祝福を、 主に感謝します。 (文/サレジオ会) ● シベリア抑留を経て司祭へ 49 葬儀で配られた記念カードには、山口神父が 2013年の年 賀 状に使ったみ 言 葉、イザヤ書 は 聴罪司祭として奉仕した。苦難の体験に深めら た多くの人びとに慕われた。サレジオ会志願生 の魅 力によって、 1955年に司 祭に叙 階 さ れた 山口神 父は、 いつも貧しい人、困っている人の側に立ち、独特 いいえ違います。 がんばらな ● チマッティ師を父と慕い 歳。山口神父は1921年、長崎の浦上 なった『まだ見えなくても 歳で宮崎のサレジオ会志願院に入り、第二 享年 2013年2月 日、 激 動の時 代を 生き 抜い た 一 人の日本 人サレジオ会 員が天に召された。 20 げ み な さい」という 師の言 葉に支 え られ、 年 やま ぐち てつ お 92 年から 12 年間フィリピン 子 ど もたちは大 人 や周 りの 評 価 で 自 分 を 見 て い ま す。 そ とめた『まだ見えなくてもあな 92 58 「いのち」 をめぐる物語をま 13 こ う ょ り き る ふ て生きた 58 年は、第二の父と慕うチマッティ師の「将 26 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 27 16 福岡県出身。1986 年初誓願、 いつもお茶を飲みながら、 人生や信仰について語り合っていた マリアへの篤い信心によって支えられていた。 古木・涼子 そのままの君が好きだから♪」 徴兵されて満州で終戦を迎え、シベリア抑留という過酷 あなたへ応援メッセージ キミに あなたはそのままで 愛されていいのです ありがとう!山口哲郎神父 サレジオ会員の 誇りを胸に に派遣される。 現在はローマ 下の神学生たちの中で勉強を再開した。 ヨセフ 山口哲郎 イエスのカリタス修道女会 来に目を向け、善いわざに励みなさい」という言葉と聖 今回の応援隊員 「変わらないでいいよ♪… サレジアンが心を込めて贈る !! タイ Salesian Life Storyサレジアン小伝 が収録された CD 付。 サレジ オ 同 窓 会 日 本 連 合 の 手 伝 い、 進 路 ガ イ ダ ンス・講 演 、 就 学 校 の設 備 拡 張 、 奨 学 金 支 援 、 部 合 宿 て い る こ と に 感 謝 の 念 が 伝 え ら れ た。 流 、 職 業 別 グ ルー プ で の 交 流 、 会 報・ ま た、 各 同 窓 会 か ら は、 現 役 生 の支 援 のほ か、 総 会・懇 親 会 な ど 会 員 の 交 う な ど 、 和 気 あい あい と し た 雰 囲 気 の い、 全 員 で 「 聖 者 ドン・ボ スコ」 を 歌 サレ ジ オ 学 院 、 サレ ジ オ 小・中 学 校 の 英 高 専 )、 日 向 学 院 、 大 阪 星 光 学 院 、 テルにて 行 わ れ た 。 サレ ジ オ 高 専 ( 育 の交 流 が 紹 介 さ れ た 。 職 支 援 な ど 、 各 校 で の同 窓 生 と 現 役 生 で は、 世 代 間 の交 流 や 男 女 共 同 参 画 な 在 地 が移 転 し た り 男 女 共 学 化 し た 学 校 す る 必 要 の あ る 学 校・団 体 も あ り 、 所 活 動 が紹 介 さ れ た。 今 後 同 窓 会 を 組 織 展・協 賛 、 追 悼 ミ サ 開 催 な ど 、 多 様 な ホ ー ムペー ジ で の 広 報 、 文 化 祭への 出 ソロモ ンに7名 を 派 遣 DBVGが 今 年 も 合いつつ閉 会 し た 。 本 連 合 の 今 後 の 展 開への 希 望 を 分 か ち 中 で 親 睦 を 深 め た 。 サレ ジ オ 同 窓 会 日 校 歌 を 同 窓 生 と 校 長 が一緒 に 披 露 し あ 横浜で初会合 各 同 窓 会 役 員 ( ま たは 同 窓 生 代 表 ) と どの課 題 も 挙 げ ら れ た 。 なつな が り に 加 わ りつつ、 国 内 の 同 窓 報 告 を ふ ま え 、 今 後 サレ ジ オ の 世 界 的 2013 年2 月 の 「 同 窓 会 世 界 連 合 ア ジア・オ ー スト ラ リア 地 域 大 会 」 の 担 当 するテテレ小 教 区 と農 業 学 校(ルー 諸 島 に 派 遣 し た 。 現 地 の サレ ジ オ 会 が プ (DBVG) は7人の青 年 をソロモン 2 013 年 8 月 日〜9 月 7 日、 ド ン・ボスコ海 外 青 年 ボランティアグルー 人 が 出 席 し 交 流・親 睦 を 深 め た 。 こ の 会 合 は 、 2 013 年 2 月 に 会 が 連 携・協 力 し な が ら 活 動 で き る よ ラル・トレーニングセンター : RTC) 生代表ら タ イ で 行 わ れ た 「 サレジ オ 同 窓 会 世 界 う に、 日 本 の 同 窓 会 連 合 を 組 織 す る こ 流 を 行 い、 ま た 現 地 シ ス タ ー 修 道 院 の を 拠 点 に 学 生 た ち との 交 わ り や 文 化 交 にて 、 各 国 の 同 窓 会 連 合 で 若 者 の 支 援 活 動 を 立 ち 上 げ 、 同 窓 生 の連 帯 を 深 め 共 に 課 題 に 取 り 組 む ネット ワ ー ク を 構 築 す る よ う に との 決 議 を 受 け て 開 催 さ れ た も の。 日 本 の サ レ ジ オ 同 窓 生 の 数 は3万 人 を 超 える 。 ま ず 、 サレ ジ オ 会 日 本 管 区 長 のチ プ リアニ神 父 が、 同 窓 会 日 本 連 合 の 結 成 を 望 ん で い た 故ヘン ド リック ス 神 父 の 帰 天 か ら ちょう ど1 年 に あ た る こ と を 紹 介 。 今 回 の 会 合 で 互 い に 知 り 合 い、 各 同 窓 会 の 現 状 を 分 か ち 合 い な が ら、 日 本 に お け る サ レ ジ オ 同 窓 会 の 横 のつ な が り を 作 る こ と 、 ま た 2 01 5 年 の 共 に 何 が で き る か 検 討 し たい と 呼 び か ド ン・ボ スコ生 誕 2 00 周 年 に 向 け て 若 者 た ち が 派 遣 さ れ 学 校 の建 設 作 業 な VGの 関 わ り は 深 く 、 こ れ ま で 多 く の た ち が 集 まった。 テ テ レ 共 同 体 と DB TCで 初 めて の 同 窓 会 が 行 わ れ 卒 業 生 を よ り 深 め る こ と が で き た 。 今 回 はR ち 合 う こ と で 海 外 ボ ラ ン ティア の 体 験 た。 本 大 会 決 勝 で は 駿 台 学 園 中 学 校 ジ オ 中 学 校 の2 校 で 決 勝 進 出 を 果 た し 関 東 大 会 で は 駿 台 学 園 中 学 校 と サレ 園 中 学 校 、 淵 江 中 学 校 に 続いて 出 場 、 日の 東 京 都 内 決 勝 リ ー グ で は 、 駿 台 学 れ る 中 、 準 優 勝 を 勝 ち 取った 。 7 月 岡 崎 市 ) で、 全 国 の 代 表 レー ボール選 手 権 大 会 ( 会 場 / 愛 知 県 に果 敢 に挑 ん だが、 惜 し く も 敗 れ 、 準 優 勝 と なった 。 回総会が終了 イエスのカ リ タス修 道 女 会 第 回総 回総 2 013 年 9 月 日 か ら 月 日 ま で の1か 月 間 、 大 分 県 の 亀 川 修 道 院 に て イエス の カ リ タ ス 修 道 女 会 第 会 が 行 わ れ た 。 2004 年 の 第 管 区 本 部 に 置 き 、 規 約 の素 案 作 成 や 今 ち は 慣 れ ない 作 業 に 苦 労 し な が ら も 現 チャペル改 修 工 事 に 従 事 し た。 青 年 た 会 合 終 了 後 は 懇 親 会 を 開 催 。 各 校の の 職 員 に よ る 文 化 箏 ( 従 来 の 箏 の1 / 2 サ イ ズ) の 演 奏 が 好 評 を 博 し た 。 その後 も 練 習 に 励 み、 施 設 内 で 月 に 披 露 さ れ た ク リ スマス 聖 劇 で 日 本 伝 統の美 しい音 色 を 響 かせた とのこ と 。 が 言 わ れ た よ う に、 子 ど も た ち に とっ あ る 職 員 は 「『 音 楽 は 心 か ら の 喜 ば し い 一 致 を 生 み 出 す 』 と ド ン・ボ スコ て 演 奏 会 を 目 標に練 習 を 続 けるこ と は、 一つのこ と を や り 遂 げ る た めの 努 力 や 、集 団の中 で 協 調 す るこ とを 学び、 同 時 に喜 びや 楽 し さ を 体 験 し 、 自 信 や 自 己 肯 定 感 を 強 め る よい 機 会 と なって ゲ ー ムな ど を 通 し て 、 家 族 的 な 交 わ り さ れ た 有 志 グ ルー プ に よ る 歌 や 踊 り 、 じ 、 子 ど も た ち の健 全 育 成 の支 援 を 続 育 成 」 を 養 護 目 標 に掲 げ 、 文 化 箏 を 通 今 後 も 星 美 ホ ー ムで は、「 自 己 の 可 能 性 を 啓 発 す る、 調 和 のと れ た 市 民 の いる 」 と 語 る 。 の時 を 過 ご し た 。「 あ た り ま え 体 操‐総 ける 。 どについて 意 見 が交 わ さ れ た 。 性 、 同 窓 会 世 界 連 合 の 大 会への 参 加 な いく こ と、 若 者 た ち の支 援 活 動 の可 能 な が り を 強 めるツールと し て 活 用 し て 誌 「 ド ン・ボ スコの 風 」 を 同 窓 生 のつ 今 後 の 検 討 課 題 と し て 、 ド ン・ボ ス コ生 誕 2 00 周 年 記 念 行 事 の ほ か 、 本 も 視 野に入 れ ている 。 同 窓 生 も 含 め たつな が り を 目 指 す こ と だ けで な く 、 教 会 学 校 や 福 祉 施 設 等の と 定 義 し て お り 、 今 後 は 学 校 の同 窓 生 サレ ジ オ 同 窓 会 世 界 連 合 で は 、 同 窓 生 を 「 ドン・ボスコの教 育 を 受 け た 者 」 なった 。 後 の 活 動 内 容 について 検 討 す る こ と と 17 会 議 バー ジョン 」 も 誕 生 し 、 遅 れ ば せ ながら 、 ちょっとし た ブームに。 シ ス タ ー 方 か ら サ レ ジ オ 家 族への 感 謝 の メッセ ー ジ が 届 い て い る 。「 総 会 議 中 は サレ ジ オ 会 を は じ め、 サレ ジ オ で き ま し た。 心 よ り 感 謝 申 し 上 げ ま 家 族 の 皆 様 の 熱い 祈 り を 感 じ る こ と が 者 た ち は大 き な 喜びに満 たさ れ た 。 す!」 会 か ら 着 手 さ れ た 会 憲・会 則 の 改 定 作 総 本 部のあ る イ タリア 、そ して 日本 、 韓 国 、 ブ ラ ジ ル、 ペルー 、 ボ リ ビア か 星 美 ホ ーム児 童・職 員 に よ る 業 がこ の 度 の 総 会 で ほ ぼ 終 了 し 、 参 加 ら 集 まった シ ス タ ー た ち は、 そ れ ぞ れ 文 化 箏の披 露 こと の 国 の 実 情 を 分 か ち 合い な が ら、 互い よ り 普 遍 的 な 会 憲・会 則 と な る よ う 努 の 理 解 を 深 め、 そ れ ら を 考 慮 に 入 れ た 2 013 年 月 に 開 催 さ れ た 恒 例 の 関東近県合同児童養護施設文化祭 (第 いの友 情 を 深 めた 。 2 回 子 ど も キ ラット! 楽 演 祭 ) で 、 星 名 の 子 ど も た ち と3 名 美 ホ ー ム ( 東 京・赤 羽 ) の 小 学 生 か ら 高 校 生 までの め、 そ の 努 力 と 思 い や り に よって 、 互 テテレの空港にて けた。 続いて 、 自 己 紹 介 を し な が ら 各 同 窓 会・各 校 の報 告 が 行 わ れ た 。 各 学 校 長 か ら は、 各 校 の 取 り 組 みのほ か、 同 窓 会 が物 心 両 面 で 現 役 生 を 手 厚 く 支 援 し ど に 携 わって い る こ と も あ り 、 今 年 の と 再 び 対 決 、 ス タ メン 選 手 6 名 中 、 3 回 全 国 中 学 校バ メンバー も 多 くの卒 業 生 、スタッフから 名 が 身 長 160㎝台 と 小 柄 な サ レ ジ オ 地 の人 々 と 一 緒 に汗 を 流 し 活 動 を 分 か 歓 迎 さ れ 、 DBVG が こ れ ま で 築 い て チ ー ム、 身 長 の大 き な 駿 台 学 園 中 学 校 日、 猛 暑 校で争わ 周 年 が予 定 されている。 来 年はRTC いた 貢 献 を 改 めて 感 じる 機 会 と なった。 サレジ オ 中 学 校バレー 部 、 全 国 大 会 準 優 勝! 2 00 5 年 に は 全 国 優 勝 し た こ と も あ る サレ ジ オ 中 学 校 ( 東 京 都 小 平 市 、 日~ 名 の 男 子 校 ) バレー ボ ール部 25 12 第2回子どもキラット楽演祭での演奏の様子 31 12 15 在校生 21 閉会ミサを司式したサレジオ会日本管区長チプリアニ神父と共に 連 合ア ジア・オーストラ リア 地 域 大 会 」 と で 合 意。 正 式 な 組 織 発 足 に 向 け て 43 事 務 局 を 東 京・四 谷 のサレ ジ オ 会 日 本 の中 開 催 さ れ た第 各 学 校 長 、 サレ ジ オ 教 会 青 年 会 の 同 窓 2 013 年 8 月 日 、 サ レ ジ オ 同 窓 会 日 本 連 合 の 会 合 が 新 横 浜 プ リ ンス ホ 10 18 36 10 10 が 、 2 013 年 8 月 大会での一コマ 30 週 末 は リ ラック ス タ イ ムと し て 夕 食 後 に 分 ほ ど、 各 管 区 や 自 発 的 に結 成 11 14 28 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 No.12 29 サレジオ同窓会日本連合 会合の様子 懇親会で各校の校歌を披露 18 72 15 30 お知らせ Info サレジ オ 会・岡 本 大 二 郎 新 司 祭 誕 生! 2013年9月 日、 東 京のカトリッ ク 下 井 草 教 会 にて 、 岡 田 武 夫 大 司 教 の 司 式 に よ り 、 フ ラ ン シ スコ・サ レ ジ オ 岡 本 大 二 郎 の 司 祭 叙 階 式 が 行 わ れ た。 教育者ドン・ボスコの「ローマからの手紙」全文。 この中には彼の教育理念のエッセンスが詰まっています。 実践的に理解するための「読み解きガイド」収載。 ネットショップ 学校・家庭・職場で、教育に関わる 四六判並製 頁 ドン・ボスコ社 多 く の参 列 者 で 聖 堂 はいっぱいに な り 、 ぜひあなたもドン・ボスコ生誕200周年のお祝いムード満点の www.donboscosha.com/ 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 TEL. 03-3351-7041 FAX. 03-3351-5430 添乗員/ 全行程同行 フランス 月日 アヌシー ミラノ 写真: トリノ ドン・ボスコの 事業発祥の地 トリノ ファエンツァ 1 イタリア アッシジ ローマ 写真:ローマ/バチカン サン・ピエトロ大聖堂 写真:コッレ・ドン・ボスコ周辺の田園風景 9 11 木 20日 2014年 月 日~ 旅行代金/ 336,000 円~369,000 円 旅行日程/ 2 9月11日 (木) 9月12日 (金) 3 9月13日 (土) 4 9月14日 (日) 5 9月15日 (月) 土 (参加人数によって変更があります) ●一人部屋追加代金/75,000円 6 9月16日 (火) 7 9月17日 (水) 8 9月18日 (木) 9 9月19日 (金) ※成田空港施設使用料、現地空港諸税、運送機関の課す付加運賃・料金(燃油サーチャージ等)が別途かかります。 お申込締切日/ 2014年7月10日 木 お申し込み・お問い合わせは下記まで 03-3407-1218 FAX. 03-3407-1582 E-mail [email protected]/ 〒150-0002 東京都渋谷区渋谷1-12-12 宮益坂東豊エステートビル303 営業時間/平日10:00~18:00 営業所長/小池俊子 総合旅行業務取扱管理者/中村典子 都市名 交通機関 成田発 ミラノ着 トリノ着 トリノ トリノ 食事条件 摘要 朝 昼 夜 航空機 直行便またはヨーロッパ経由ミラノへ 専用バス 機 (トリノ泊) 専用バス ヴァルドッコ(扶助者聖マリア大聖堂)、アッシジの聖 フランシスコ教会、コンソラータ、ドゥオーモなど ○ ○ ○ (トリノ泊) トリノ 専用バス アヌシー 聖母訪問修道会のバジリカ、旧市街(聖フランシスコ・ サレジオのゆかりの教会と修道会) ○ ○ ○ (トリノ泊) トリノ トリノ 専用バス カステルヌオヴォ、モンドニオ(聖ドメニコ・サヴィオ の故郷)、キエリ周辺、モルネーゼ(マリア・マザレロゆ ○ ○ ○ かりの地)、コッレ・ドン・ボスコなど (トリノ泊) トリノ 専用バス ファエンツァ チマッティ神父の故郷 アッシジ 聖フランシスコゆかりの地など アッシジ ローマ ローマ ○ ○ ○ (アッシジ泊) 専用バス 聖フランシスコ教会、サンタ・キアーラ、サン・ダミ アーノ、カルチェリなど ○ ○ ○ サクロ・クオーレ (ローマ「サレジオ会サクロ・クオーレ」泊) 専用バス 終日:ローマ 教皇謁見(予定)、サレジオ会本部訪問、トレビの泉、スペ ○ ○ ○ イン広場、ショッピングなど (ローマ泊) ローマ 東京都知事登録旅行業 株式会社 ステラ コーポレーション 第3-4308 社団法人 日本旅行業協会正会員 TEL. ツアーNo.1902 旅行日程 「若者が愛されていると感じるように、愛してください」 いつも よいものを─ 全 員 で 新 司 祭 誕 生 の 喜 び を 共 に し た。 団 長/ロロピアナ・アキレ神父(カトリック碑文谷教会) どなたでもご参加いただけます。 「ローマからの手紙」 サレジオ会日本管区 編 浦田慎二郎 改訳・監修 本誌掲載の記事、写真、 イラストの無断転載を禁じます。 © カトリック・サレジオ修道会 2014 サレジアニ・コオペラトーリによる 企画旅行 のお知らせ ドン・ボスコ ゆかりの地を 訪ねて 10日間 こころの教育者ドン・ボスコの 定価(本体200円+税) 編集・デザイン制作 ドン・ボスコ社 印刷所 日之出印刷株式会社 ドン・ボスコ生誕200周年記念 イタリアで、 ドン・ボスコの足跡を辿ってみませんか。 60 岡 本 新 司 祭はあいさつのなかで 、「 人々 次号No.13は2014年7月発行予定です。 「ドン・ボスコの風」バックナンバーは、 サレジオ会ホームページ http://salesians.jpでご覧いただけます。 トップページの「ライブラリー」→「ドン・ボスコの風」 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 2014 年 1月31日発行(年2回発行) 「ドン・ボスコの風」編集事務局 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社内 電話:03-3351-7041 F a x:03-3351-7042 Eメール:[email protected] 5名様 (いずれもドン・ボスコ社提供 www.donboscosha.com) 12 の 渇 き を い や す の は イエス 様 。 私 は イ 5名様 No. 編集人 山野内 倫昭 発行人 アルド・チプリアニ 発行所 カトリック・サレジオ修道会 左からチプリアニ管区長、 新司祭のお母さん、 岡本新 司祭、 新司祭のお父さん 岡本大二郎新司祭 14 イタリア製 メダル部分 44×33mm すべての人にお薦めです。 マリアゆかりの場所や歴史を紹介することで、ます ます皆さまの聖母への信頼が深まることを願ってや みません。そして共に「扶助者聖マリア、わたしたち のためにお祈りください」 と祈りましょう。 (M) トリノの扶助者聖マリア大聖堂 の聖母子画をはめ込んだ、存 在感のあるキーホルダー。いつ も扶助者聖マリアのご保護を思 い起こして携帯しよう。 エス 様 か ら 頂 い た 水 を 皆 さ ん に 運 ぶ 役 聖母マリアは全ての人々の母です。小さい時から聖 母に導かれた聖ヨハネ・ボスコは、神父になって神 さまから与えられた使命を果たすため、 トリノの街に 「扶助者聖マリア大聖堂」を1868年に献堂しまし た。その2年後、多くの人々が聖母の助けを知り、証 しするための「扶助者聖マリアの会」 ( ADMA) を設 立しました。 ドン・ボスコにとって導き手である聖母 浦田慎二郎著 新書判並製 237頁 5名様 当選者の発表は、賞品の発送をもってかえさせていただきます。 ご応募いただいた方の個人情報は賞品の発送のみに使用し、 その他には一切使用致しません。 編集後記 「カトリック生活 」人気連載を 加筆・修正、新書判に。聖フ ランシスコ・サレジオの霊性か ら日常を神に向けるヒントが満 載。黙想の手引きに最適。 扶助者聖マリア キーホルダー を 果 た し て い き た い で す 」 と 語った。 サレジオ会日本管区編 浦田慎二郎監修 文庫判並製 207 頁 神への道のり C こ の と き 配 布 さ れ た 叙 階 記 念 誌 「 よろ 応募締切:2014年3月31日消印有効 青少年の心に、生きたイエス のリアルな姿が伝わることばを 厳選して分かりやすく解説。キ リスト教に初めてふれる人にも おすすめ。 フランシスコ・サレ ジオと共に歩む 」 は サレ ジ オ 会 日 本 管 区 Vol.21 【Eメールの場合】 [email protected] 【ハガキの場合】 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 ドン・ボスコ社内 「ドン・ボスコの風」 編集事務局 B こび 応募方法: お名前 (フルネーム) ・住所・年齢・ご職業とご希望のプレ ゼント(A・B・C)いずれか一つを明記し、本誌のご感 想・ご要望をお書き添えの上、Eメールまたはハガキで下 記宛先までお送りください。 いつでも共にいてくれる イエスの ことば100 お知らせ (トッ 公 式 サイト http://salesians.jp プ ペー ジ 右 上 の 検 索 窓 で 「 よ ろ こ び 」 A Info で 検 索 ) より 閲 覧 で き る 。 PRESENT ドン・ボスコの風 読者プレゼント 10 9月20日 (土) 専用バス 終日:ローマ ヴァチカン:聖ペトロ大聖堂、バチカン美術館、シス ティーナ礼拝堂、サンタ・マリア・マッジョーレ、カタコ ○ ○ ○ ンベ・サン・カリストなど (ローマ泊) ローマ 専用バス 直行またはヨーロッパの都市経由 ローマ発 航空機 帰国の途へ ○ 機 (機内泊) 成田着 航空機 着後、解散 機 ※航空機・航空機関などの事情により行程を変更する場合があります。予めご了承ください。 30 12 No. 2014年1月 SALESIAN BULLETIN JAPAN January 2014 年2回発行 発行:カトリック・サレジオ修道会 「ドン・ボスコの風」編集事務局 〒160-0004 東京都新宿区四谷1-9-7 TEL: 03-3351-7041 FAX: 03-3351-7042 E メール:[email protected] ドン・ボスコの生き方にならい 神さまの呼びかけに応えて歩もう Da mihi animas, cetera tolle ─ 我に魂を与え、 他のものは取り去りたまえ ─ 神の栄光と人々の救いのため 2014 年のサレジオ家族のストレンナ(年間目標)は、2015 年にドン・ボスコ生誕 200 周年 を迎えるにあたり、ドン・ボスコの活動を支えたドン・ボスコの心、その生き方に学ぼうとする ものです。ドン・ボスコの存在の中心には、神に深く結ばれて生きるいのちがありました。神は 善き牧者キリストの愛をドン・ボスコの心に豊かに注ぎました。それは人々、特に若者を危険か ら救い、幸せへと教え導くために自分をささげて生きる愛であり、ドン・ボスコのモットー「Da mihi animas, cetera tolle 我に魂を与え、ほかは取り去りたまえ」に表れています。ドン・ボス コは、だれでも神の恵みに応え、協力して生きることができると言います。すべての人の幸せを 願い、働くために、司祭、修道者、信徒、すべての人が、一人ひとり神様に呼ばれた道を歩む ための恵みを受けることができるのです。 サレジオ会総長 パスクアール・チャーベス神父 2014 ストレンナ解説より Strenna 2014 サレジオ家族年間目標