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被害大きくした国の防空政策

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被害大きくした国の防空政策
2009 年7月 10 日 大阪空襲訴訟ニュース第3号 ( 1 )
2009 年7月 1 0日 ( )
第 3 号
インターネットでも随時
原告団・支える会 http://www.osaka-kusyu.org/blog/ 弁 護 団 http://o-bengosi.hp.infoseek.co.jp/osaka-kusyu/
情報を提供しています。
被害大きくした国の防空政策
6月3日に第2回口頭弁論
弁護団が詳しく論証
大阪大空襲の被災者や遺族らが国に謝罪
と賠償を求めた「大阪空襲訴訟」の第2
回口頭弁論が6月3日午後、大阪地裁の
202号法廷(大法廷)で開かれました。
原告側を代表して、高木吉朗弁護士と大前
治弁護士が、当時の政府が無謀な戦争へ突
入し終戦時期を遅らせたこと、さらには国
民に対する防空義務を課したことが空襲惨
禍を招いたと主張し、「政府は民間の戦災
者を救済すべき作為義務を負っている」と
訴えました。
■空襲は避けられた
裁判では、生まれてわずか2時間後に
空襲遭って被災した原告の藤原まり子さ
ん(64)が意見陳述を行ったあと(4ペー
ジに要旨)、「大阪空襲訴訟弁護団」事務局
長の高木弁護士が、避けられたはずの空襲
を政府自らが招き寄せた事実を説明しまし
た。
特にターニングポイントとなった3つの
時点—①1941年、無謀な太平洋戦争の
第3回 口 頭 弁 論 日 程 は
■7月 27 日(月)午後2時
=大阪地裁大法廷(202号)=
傍聴者希望の方は抽選のために、1 時
30 分までに裁判所にお越し下さい。
開戦に踏み切ったこと、②44年夏、マリ
アナ諸島が陥落して本土空襲の危険が現実
化したこと、③45年2月、近衛文麿元首
相が昭和天皇に戦争終結を上奏したにもか
かわらず、戦争継続の方針が採られたこと
に触れ、「もしこの時点で休戦が実現して
いれば、大阪空襲を含むあとの本土空襲も
避けられたはずです」と主張しました。
■退去を禁じた防空法
続いて、大前弁護士は当時の日本政府が
「防空法」を改定し、一般市民に退去を禁
止した上に消火活動を義務づけ、違反者に
は罰金(当時の教員の初任給が55円だっ
た時代に500円)が課せられていたこと
などを、スクリーンを使ってわかりやすく
説明しました。 また、各家庭で設置されていた防空壕に
ついて、「政府はもともと、爆弾に耐える
堅固な防空壕を推進していましたが、『防
空法改正』に
よ り、 空 襲 か
らの退去禁止
や消火義務が
裁判所の付近で訴
訟の訴えを載せた
ビラを配布する藤
原まりこさん。身
を乗り出しながら
必死にビラを渡し
ました。
( 2 ) 大阪空襲訴訟ニュース第3号 2009 年7月 10 日
明記された以降は、それに見合うよう変化
します」と切り出し、当時の内務省が発表
した「防空待避所の作り方」の中の一文を
紹介しました。
一般には家の中に作った方が、雨
水の流入の虞(おそ)れがなく、夜間
や厳冬時の使用を考えても一層便利
であると思ひます。なほまた外にいる
よりも家の中にいる方が、自家に落下
する焼夷弾がよく分かり、応急防火の
ための出動も容易であると考へます。
裁判を傍聴して
イラク訴訟と同じ流れ
大阪市西淀川区 大垣さなゑ
2004年1月から5年半、全国各地で
たたかわれた自衛隊イラク派兵違憲訴訟
は、約5700人が原告となった市民訴訟
でした。原告の資格は限られるけれど、民
間人の戦災補償を求める大阪空襲訴訟もま
た同じ流れをくむ訴訟だととらえ、応援し
ています。戦争で無差別大量破壊兵器の使
用を回避することが困難になりつつあるい
ま、平和的生存権の獲得・確立はさし迫っ
た課題だと考えます。
第二回口頭弁論では、請求の根拠のひと
つとして『時局防空必携』が示されまし
た。内務省以下各省・防衛總司令部が発行
し、隣組などを通じて指導徹底されたもの
で、
「全國民が國土防衛の戦士である」こと、
防空のために「命を投げ出して」戦うこと
などが説かれています。つまり、空襲にあ
っても「逃げるな、戻って火を消せ」とい
うことです。
戦災補償の平等主義の立場からはもちろ
ん、「戦士」として防空の任務を負わされ
た市民は、軍人・軍属と区別のない補償を
■消火活動するための「待避所」
大前弁護士は、「空襲時に長時間にわた
り滞在できる安全な防空壕を作ってしまう
と、外で消火活動をする者がいなくなるの
で、このように『すぐに飛び出せる待避所』、
より正確にいえば『危険だから、すぐに飛
び出さざるを得なくなる待避所』の設置を
推奨・義務付けすることが国家の方針とさ
れたのです」と述べ、「空襲被害は避けら
れなかった偶然の災害ではなく、国が選ん
だ政策の結果として生じたものだ」と訴え
ました。
受けられるべきだという思いをいっそう強
くしました。
私
の
決
意
第2次訴訟では原告に
大阪市住吉区 田中正枝
私はこの歳(70 歳です)になって初め
て裁判所なるものに足を踏み入れ、裁判を
傍聴しました。昨 12 月の新聞記事でこの
訴訟を知ったときは、私も原告に加えてい
ただこうと思いましたが、他の原告の方々
の被られた被害の程度との差の大きさに他
の方々の足引っ張りになることを恐れ、と
りあえず「支える会」に加盟させていただ
きました。
しかし、家族の中から重傷者も死者も出
さなかったとはいえ、祖父・父が二代に亙
って営々と築きあげてきた全財産を失い、
戦後の生活は困窮を極めたこと、祖父母と
両親が引き揚げ者と空襲被災者に対する処
遇に差が有り過ぎることを、死ぬまで言っ
ていたことが耳から離れませんので、もし、
第二次訴訟が行われるならば、祖父母と両
親になり代わって原告に加えていただきた
いと思っております。
2009 年7月 10 日 大阪空襲訴訟ニュース第3号 報告集会
( 3 )
図書館にこもって資料を発掘
「裁判は空襲の犯罪性を暴露するもの」
ジャーナリスト
西谷文和さん
「まさかこんなテーマで大弁論をすると
は思ってもみませんでした」。中之島公会
堂で開かれた報告集会(参加者約110人)
で、大前治弁護士はユーモアを交えながら
法廷に立った感想を明かしました。
大前弁護士は口頭弁論で、当時の日本政
府が一般市民に「空襲時の防火義務」を課
し、逃げ遅れを招いたことを指摘しました
が、その根拠法令や運用実態を調べるため、
図書館にこもって資料を発掘した秘話を披
露。埋もれていた事実を法廷に引き出した
ことで、「国の援護が軍人・軍属だけとい
東京訴訟が結審
力こもった最終意見陳述
判決は今年の秋頃の予定
2007年3月に提訴された東京大空襲
訴訟は、東京地裁での約2年の審理を経て、
2009年5月21日、最終弁論を終えて
結審しました。判決言い渡しは今年の秋こ
ろと予想されます。
東京訴訟は132名の原告の方が参加さ
れていますが、このうち13名が法廷で自
身の体験を証言したほか、5名の専門家証
人の証言もありました。
これらの成果を踏まえて、5月21日の
最終弁論では、まず弁護団から7名の弁護
うのはいかに不平等か、具体的に示せたは
ず」と語りました。
これに対し、初めて傍聴したという元高
校教諭の佐伯洋さんは「拍手をしたかった
のに(法廷なので)できなかったのが残念」
という表現で弁護団の奮闘ぶりを称賛。堺
空襲を題材にしたミュージカル「炎の街か
ら」の脚本担当でもある佐伯さんは、この
日の感動を詩にすると約束しました。
報告集会には、数日後にアフガニスタン
の取材に向かうフリージャーナリストの西
谷文和さんも参加。空爆によっていまなお
アフガンやイラクで多くの命が奪われてい
る実態を強調し、「この裁判は空襲、空爆
の犯罪性を暴露する闘いでもある」と意義
を語りました。5月21日に結審した東京
大空襲訴訟の原告団事務局の牛山玲子さん
も駆けつけ、「裁判は2度と戦争を起こさ
ないための、歴史を賭けた闘い」とエール
を送りました。写真=入院先の病院から参
加した原告の小見山さん
士が、原告最終準備書面の内容を分かりや
すく、かつ力強く、法廷で述べました。弁
護団が心血を注いで作成した最終準備書面
は、弁護団会議で詳細な検討を重ね、執筆
者も何度も書き直しをして出来上がったも
のです。
続いて、原告団副団長の城森さんと、原
告団長の星野さんによる意見陳述で締めく
くられました。お二人の意見陳述は、この
訴訟に絶対勝つという信念と、勝たねばな
らぬという使命感に溢れていました。
最終弁論終了後、報告集会が開かれまし
たが、この訴訟での勝訴と救済立法の実現
を目指して運動を緩めることなく継続して
いくことが確認されました。(高木吉朗)
( 4 ) 大阪空襲訴訟ニュース第3号 2009 年7月 10 日
藤原まり子さんの意見陳述(要旨)
私たち戦争被害者の声を聞いて下さい
私には空襲の記憶は直接にはありませ
ん。でも、私の身に降りかかった戦争の苦
しみは、一日も忘れたことはありません。
◇ ◇ ◇
私は昭和 20 年3月 13 日の夜、大阪市
阿倍野区の自宅で生まれました。その2時
間後、上空にB 29 爆撃機が270機も現
れました。父は、母と私を布団ごと引きず
るようにして防空壕に運んでくれたそうで
す。ところが、その中に焼夷弾が落ち、私
の産着にも火が燃え広がりました。母の叫
び声を聞きつけた通りがかりの男性が飛び
込んで、私を助けてくれましたが、私の左
足は焼けただれ、膝の関節から下が内側に
ぐにゃりと曲がってしまいました。
自分の足が「みんなとは違う」と気づい
たのは6歳のころでした。母に連れられて
夜遅くの銭湯に行ったら、小さな男の子が
いました。その子は「あの子の足、変な形
して気持ち悪い」と言い、その子のお母さ
んは「悪いことをしたら、あんなんになる
から」と応えたのです。
母に「なんで私の足、みんなと違うの?」
藤原さんの意見陳述を読む
と尋ねたことがあります。母は「戦争のせ
いや」と悲しそうな目で教えてくれました。
左足をはめ込む補装助具をつけるため、
太めの長ズボンをはいていました。でも、
どうしてもスカートがはきたくて、中学2
年のとき、大腿部から下を切断する手術を
受け、義足をつけました。念願はかないま
したが、義足が擦れて痛みが襲う日々です。
もう 20 年以上前ですが、長女が中学生
のときに私が義足をしていることで、友だ
ちにからかわれたりしていないかと聞いた
ことがあります。長女は「お母ちゃん、そ
んなん本当のことやから仕方ないやん。気
にしてへんよ」と応えてくれました。
◇ ◇ ◇
あの戦争を風化させないために、またこ
れからの子どもたちの平和のために裁判を
決意しました。私の人生は、この先、あま
りありません。どうか、私たち戦争被害者
の声を、生き残った人はもちろん、死んで
もう声をあげることのできない人たちの声
を聞いて下さい。 した。
まり子さんを支えつづけた両親や、夫・
堺市北区 小松すがお
子どもたち、みなさん、すばらしい!!
大阪空襲の3月13日に生まれ、防空
勇気と愛をもって明るく生きている藤原
壕で被災し、左足を奪われたという藤原
さんの訴えが裁判官の人間的な感性をゆ
さんの陳述に涙涙でした。
さぶることを信じます。
義足でたくましく生き、国会まで行っ
長谷堂さんの「原告の方たちの勇気は
て訴え、裁判でたたかう勇気のもとに、 歴史の証人としてとても気高く、法廷と
どれだけの深い悲しみやつらさがあった
いう場がこんなにも言葉にならない感動
か、想像できていなかった自分がはずか
をみなに訴えるところだと初めて知りま
しいです。
した」という発言に納得です。 やはり義足で生きてきた安野さんの半
偶然ですが、私は藤原さんの3年後の
生を歌にした杉村さんが「有気なびか
3月 13 日生まれです。
せ」と題名をつけた意味がよくわかりま (「炎の街から」上演実行委員会事務局長)
2009 年7月 10 日 大阪空襲訴訟ニュース第3号 ( 5 )
*ブックレット「大阪空襲訴訟を知っ
ていますか」に寄せられた感想文など
から掲載させていただいた分です。
の
支援者の皆さん
励ましの言葉
*郵便払い込み用紙や 6 月 3 日の報告
集会のアンケート用紙に記入された貴重
な励ましのメッセージの中から一部を掲
載させていただきました。
村川外喜夫さん
住吉区
最高裁が「受忍論」を出しているので
それをつき崩すのは難しいとは思います
が、空襲で亡くなった方の無念さを少し
でもはらすためにもがんばりたい。日本
が優しい国なのか冷たい国なのか民主主
義の民が主なのか、平和を愛するか問わ
れていると思います。 奥村好子さん
高石市
3 月 5 日の新聞記事(安野さんの意見
陳述の記事)を使わせていただいて、子
育てサークルで若い人たちと話していま
す。10 ヶ月の戦中派としてできる事を
しなければと思っています。 藤元チズ子さん 尼崎市
尊い生き証人の一人として、どうぞ、
元気に。この様な活動は大切な事です。
末長く続けて下さい。
寝屋川市
南みつぐさん
私の父は、6月1日の大空襲の犠牲者
です。東区東雲町へ疎開の荷物を。牛の
車で運びに行って遭難したのです。
農業が家業の父は、子供9人と地域で
は大きめの農家で、国策であった「産め
よ増やせよ」を忠実に実践した当時の模
範的な人でした。
ところが、敗戦になって政府は、その
家族に何をしてくれたでしょうか。政府
主催の戦争犠牲者慰霊祭にもお呼びがか
からず、私の母をどれだけ悲しませたこ
とか、戦争犠牲者の名簿も行政の責任で
作らず、一法人に委託するいう無責任な
やり方です。
「大阪空襲訴訟を知っていますか」の
ブックレットを読ませて頂き、民間戦災
者・遺族だけが何の救済策もないことを
知り、改めて強い怒りを感じました。
A・M さん
高槻市
私も 1945 年3月13日大阪市東区南
本町に住んでいました。愛日小学校2年
の時です。幸い私は㈱イトマンの地下2
階に入っていましたが、焼死の危険より
救われました。出てきた時には黒くやけ
た死体がゴロゴロしていましたが、何も
感じませんでした。幸いにして家族全員
死者はありませんでした。
その後、病気と栄養失調で生死をさま
よいました。船場のボンボンより〝どん
底〟の生活に入りました。これが一貫し
て反戦平和を求める原動力になっていま
す。
( 6 ) 大阪空襲訴訟ニュース第3号 2009 年7月 10 日
孤児になって、親せきを転々と はえこ
原告 吉田栄子(泉南郡田尻町在住) 私 は 昭 和 20
年 3 月 13、14
日の第1次大阪
大空襲の時、10
歳でした。家族
と離れ、疎開先
の大阪府泉南郡
岬町の親せきの
家で暮らしてい
ました。
一夜にして9人を亡くし、孤児に
実家は難波にありましたが、第1次大空
襲で、父、母、二人の姉、弟そして同居し
ていた父の弟の家族、合わせて9人を一夜
にして亡くしていまいました。
父は地元で警防団のリーダーをしてい
て、近所の家族を避難場所に誘導した後に、
逃げたので私の家族は逃げ遅れてしまった
と後年知りました。
ひとりぼっちになった私は、その後、親
せきの家を転々としました。
最初は今の阪南市箱作の母の姉の家。次
は西成区玉出へ。そして阿倍野区の父の妹
の家。それから泉南市和泉砂川の母の弟の
家。
親戚の家で手伝いに明け暮れる
和泉砂川には、中学2年からおよそ2年
間お世話になりました。そこで、私は学校
に行く前も、学校から帰ってきてからも家
の手伝いをたくさんしました。
井戸からバケツ 30 杯分の水をくみ、風
呂に入れ、薪で沸かしたり、少し離れたと
ころに行って飲料用の水をもらいに行きま
した。夜は早めの家族の布団をひいて、蚊
帳をつりました。これが毎日の日課でした。
また、幼い子どもが3人、そして赤ちゃ
んが一人いて、その身の回りの世話、洗濯
や足袋の修繕なども私の仕事でした。
この時、私は「親せきのおばさんに気に
入られなあかん!」と常に思いながら、頭
をフル回転させ、おばさんに言われる前に
仕事をしました。嫌われたらどうしよう、
という無言のプレッシャーを感じていたの
です。
なかった青春という時代
親せきの家を転々とした 10 歳から 18
歳まで、私は青春といいう時代がないので
す。この時にどんな映画が流行していたか
知らないのです。
私は中学卒業後、この和泉砂川の家から
美容学校に通い、その後、美容師となり、
22 歳で結婚。今も現役で働き続けていま
す。
裁判は去年の冬、新聞で知りました。
父、母のお骨は拾えていません。亡くなっ
た人はどんな無念な思いで亡くなったのか
と思うと裁判にぜひとも参加したいと思い
ました。
国は謝罪してほしい、間違ったことをし
たと認めてほしい、そう思います。
(聞き手 文箭)
2009 年7月 10 日 大阪空襲訴訟ニュース第3号 ( 7 )
原告と話し込む若者や空襲体験を語る人も
天王寺駅北口 25人で街頭宣伝活動
6 月 15 日夕方 6 時半より 1 時間にわたっ
て JR 天王寺駅北口で原告団、弁護団や支
える会のメンバー 25 名が参加して大阪空
襲訴訟の宣伝行動を行いました。
64 年 前 の こ の 日 は 大 阪 で の 4 回 目 の
大空襲の日であり、444 機の爆撃機が来
襲し天王寺区、生野区、東成区などで約
477 名の人が無差別に殺されました。
夕方足早に帰宅する通勤者に宣伝隊の訴
える声が大きく響きました。戦争の歴史が
薄らぎ無関心な人も多いですが、ビラを取
って読む若者や、「空襲の被害に遭ったよ」
と語る年配男性や、「ナンバに住んでいて
店も実家も焼けてしまった…」と語りかけ
る女性もいたり、ビラを配る原告と話し込
む若者もいました。
大阪に空襲があったことを初めて知った
若者もいたでしょう。今も苦しみを背負っ
た被害者が原告となり訴えていることに、
心を動かされた人は多かったと思います。
ビラは約 1300 枚が配布できました。
東住吉
平和展で体験を語る
地域や職場の催しに参加します
大阪大空襲の被災実態やなぜ訴訟したの
か知ってほしい、と大阪空襲訴訟関係者が
地域や職場、学校での平和学習やミニ講演
などで訴える機会が増えています。
原告団、弁護団、支える会のメンバー、
宣伝行動に参加協力していただいた平和委
員会の若い方も代わる代わるマイクを手に
して訴えました。「64 年前の今日 6 月 15
日に、雨のように焼夷弾が落とされ大阪の
街が火の海につつまれたのです ......」
「戦後、
民間の被災者が何の救済もされないのは日
本だけ、こんなひどい国があるでしょうか
……」。もっともっと訴え広げなければと
思う一日でした。次回は 8 月 14 日、大阪
京橋での空襲に合せて宣伝を行う予定で
す。
7月4日、東住吉の女性団体が開いた
「親子で考える平和展」で原告の藤原まり
子さんと小林英子さんが体験談を集まった
約 60 人の皆さんに語りました。この催し
では前段にピースおおさかの企画したアニ
メ「消えさえらぬ傷あと 火の海・大阪」
の上映のあと、藤原さんが戦後の辛かった
体験を、小林さんが6月7日の空襲当日の
生々しい出来事を話しました。
参加には年配の女性の他、子育て中の若
い母親や学童保育の子どもたちも参加し、
熱心にお二人の体験を聞いていました。
訴訟関係者は、このような比較的小規模
な催しにも積極的に参加していくことにし
ています。(写真は藤原さんと小林さん)
( 8 ) 大阪空襲訴訟ニュース第3号 2009 年7月 10 日
書 評
ブーメランを投げたのは日本
「重慶爆撃とは何だったのか~もうひとつの日中戦争」
戦争と空爆問題研究会編
重慶空襲とは、日中戦争中の1938
(昭和13)年から43(同18)年、日
本軍が中国の臨時首都だった四川省重慶に
繰り返した無差別爆撃です。中国側のまと
めでは、周辺都市を含めて218回に及
び、直接の死者だけで
1万1885人に上り
ます。まず、本書で引
用されている被災者の
手記を紹介します。
「 警 報! 五 時、 ま
た警報! みはな一緒
に地下の防空壕へ、私
は脚本を抱えて。六時
過ぎにドーンドーン
という音を聞きなが
ら、それは死の信号だ
と知って、歯を食いし
ばった。七時になって、
警報解除。壕から出る。
空は明るい。赤い炎が
あちこちで上がり、空
中が赤い。人の骨、家財、書物を燃やす激
しい炎、焼け焦げた骨と肉……」
数年後、東京や大阪などで米軍が繰り返
した無差別爆撃の惨状とあまりに似ている
ことに驚かされます。書いたのは中国近代
文学の第一人者として知られる劇作家の老
舎です。
戦場と銃後の区別をなくし、住民もろと
も焼き尽くす無差別爆撃は、第1次大戦末
期に欧州で始まり、37年にはピカソの作
品で知られるスペイン・ゲルニカへのドイ
ツ軍の爆撃が実行されました。だが、重慶
への爆撃は、規模も期間もけた違いでし
た。本書によると、重慶爆撃は都市爆撃の
「効果」を米国に意識させ、強力な油脂焼
夷弾による日本本土空襲の原型になりまし
た。つまり重慶爆撃と大阪大空襲は「投げ
たブーメランが戻ってき
た」というつながりを持
つのです。
重慶爆撃の実態が日本
で十分知られているとは
言えないのは、これまで
発表されてきた写真の多
くが爆撃する日本軍機か
ら撮影されたものだった
ことと無関係でないとみ
られます。多くの米国人
にとって原爆のイメージ
が「キノコ雲」であるの
と同じように、私たちに
湾岸戦争やイラク戦争の
映像がテレビゲームの画
像のように見えたよう
に、空襲を「空の上からの視点」でとらえ
る限り、地上の市民に起きた苦しみは想像
できません。
大阪空襲訴訟は「空からのテロル」とい
うべき無差別爆撃が人間にもたらした惨状
をあえて再現し、為政者が封印してきた責
任を追及することです。重慶爆撃の被災者
もいま東京地裁で日本政府に賠償を求める
裁判を進めています。加害と被害の連鎖を
踏まえながら連携を模索することは、今後
の検討課題と考えます。(H・T)
(高文研 1800 円 + 税)
2009 年7月 10 日 大阪空襲訴訟ニュース第3号 ( 9 )
大阪空襲訴訟・関係団体の主な活動記録
2009 年5月 15 日〜7月5日の主要な取り組みを掲載しました
平野中学校で体験談(安野)
5月15日
弁護団全体会議
5月18日
東京訴訟結審に参加(高木弁護士、濱田)が参加
5月21日
5月25日
3者(原告団、弁護団、支える会)合同会議
コスモス9条の会総会で講演(矢野)
5月26日
弁護団全体会議
5月27日
引き続き、弁護団・違法論班会議
進行協議期日(大阪地裁)
5月28日
尼崎医療生協で体験談(安野)
堺市新金岡9条の会で体験談(安野、杉村)
5月31日
第2回口頭弁論(原告団 13 名、弁護団9名、傍聴者 90 名)
6月 3日
引き続き、同報告集会(約 110 名が参加)
引き続き、訴訟ニュース編集会議
大阪府機関紙協会総会で挨拶(矢野)
6月 5日
大阪母親大会(小林、藤原、安野、谷口、吉貞、米澤、新野)
6月 7日
弁護団・違法論A班会議
6月 9日
9の日パレードで挨拶(谷口、米澤)
憲法ミュージカル出演者に体験談(安野、藤原、米澤)
6月14日
天王寺街頭宣伝に参加(25 名参加)
6月15日
提訴1周年記念イベント企画準備会(12 名参加)
弁護団全体会議
6月17日
弁護団・違法論A班会議
6月18日
住之江中学校で体験談(吉田)
6月23日
弁護団・違法論B班会議
大阪民衆史研究会で講演(谷川)
堺泉北ニュータウン茶山台9条の会で体験談(安野、杉村、新野)
6月28日
弁護団・違法論A班会議
6月29日
都島小学校で体験談(小林、藤原)
6月30日
弁護団全体会議
7月 1日
3者合同会議
7月 2日
弁護団・違法論B班会議
大阪空襲訴訟と平和を考えるつどい(高木、安野、小林、藤原)
7月 3日
東住吉親子で考える平和展(藤原、小林、谷川)
7月 4日
堺憲法講演会 会場ロビーで宣伝活動(安野、浅井、谷川、新野)
7月 5日
< =原告団の取り組み =弁護団の取り組み =支える会の取り組み>
=原 告 団
=弁 護 団
=支える会
( 10 ) 大阪空襲訴訟ニュース第3号 2009 年7月 10 日
裁判での勝利と政治解決への道筋を切り開くために
会 の 目 的 原告の法廷内外での運動を物心両面で支え、訴訟の意義を社会に広め、将来
の政治解決(援護法の制定など)を引き出す基礎を担うべく、訴訟にあわせ
て設立された市民団体です。
会 費 個人会員 一口 3000 円
募 金 一口 1000 円 何口でも。(募金だけのご協力も歓迎致します)
会員のみなさまには
1)裁判の進行状況をニュースでお知らせします。
2)裁判の日程、政府、国会などの要請行動などの日程を連絡します。
3)ご都合のつく範囲内で、集会や署名活動、裁判傍聴への参加をお願します。
■会費・募金は郵便振替口座でお願いします■
<口座番号>00900—3—170557
<加入者名>大阪空襲訴訟を支える会
(原告団、支える会にご連絡いただければ、振込手数のかからない専用の用紙を
お送りします)
大 阪 空 襲 訴 訟 を 支 える 会 呼 び か け 人 の み な さ ん
足立こずえ(日本キリスト教団牧師)
網 信二(「堺大空襲をさぐる」著者、元中学教師)
荒井 信一(「空爆の歴史」著者、 城大学名誉教授)
安斎 育郎(立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長)
木戸 衛一(大阪大学大学院准教授)
久保三也子(大阪空襲の体験を語る会代表)
早乙女勝元(作家、東京大空襲戦災資料センター館長)
田島 征彦(絵本作家、「ななしのごんべさん」ほか)
多幡 達夫(福泉・鳳 9 条の会代表、大阪府立大学名誉教授)
玉本 英子(ジャーナリストアジアプレス関西所属)
西谷 文和(ジャーナリストイラクの子どもを救う会代表)
平塚淳次郎(アレン・ネルソンネットワーク関西代表)
藤永のぶよ(おおさか市民ネットワーク代表)
藤本 義一(作家)
50音順 2008年12月20日現在
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