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ステュアート、スミス、マルサスと《需要定義論争》 - 経済学部

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ステュアート、スミス、マルサスと《需要定義論争》 - 経済学部
京阪経済研究会(2007 年 10 月 8 日、於龍谷大学)
ステュアート、スミス、マルサスと《需要定義論争》*
(Steuart, Smith, Malthus and the Hidden Controversy over the Definition of Demand)
中澤信彦 **
(NAKAZAWA, Nobuhiko)
【目次】
はじめに
Ⅰ スミスの自然価格論(1)――狭義の自然価格論――
Ⅱ スミスの自然価格論(2)――広義の自然価格論――
Ⅲ ステュアートからスミスへ――《需要定義論争》の提起と消去――
Ⅳ スミスからマルサスへ(1)――《需要定義論争》の復活――
Ⅴ スミスからマルサスへ(2)――「有効需要」概念の再定義――
むすび
はじめに
「需要が増え れば価格は上がる」も「価格が上がれば需要は減る」も、人口に膾炙した命
題であり、ともに真理であるように思われる。ところが、この 2 つの命題を直接結びつけると、
どうなるだろうか? 需要が増えて価格が上がり、価格が上がったことで需要が減る。これで
は話が元に戻ってし まい、まったく何も説明できて いない。こうした混乱が起こるのは、両命
題において「需要」という語が異なる意味で使われていることに、十分な注意が払われてい
ないからで ある。「需要が増えれば価格は上がる」とは、「需要曲線が右側にシ フトし 、供給
曲線がもとのままだと均衡価格は上がる」という意味である。ここでの「需要」は(需要量を価
格の関数として表現する)「需要曲線」を意味し、「需要曲線が右にシ フトする」を簡略化して
「需要が増える」と表現しているわけである。他方、「価格が上がれば需要は減る」とは、「財
の価格が上がった場合には、経済主体はそれに対する適応行動として その財の使用を節
約する」という意味であり、同一の需要曲線の上での動きを問題にしている。ここでの「需要」
は(ある特定の価格のもとで提示される)「需要量」を意味して いる 1 。この事例が端的に示し
ているように、経済学を学び理解する際の困難の一つとして、同一の用語が文脈に応じて
異なる意味で使用されることが指摘できよう。それが「需要」のように半ば日常用語でありな
*
未定稿なので無断引用はご遠慮下さい。
関西大学経済学部准教授
三土 [1999] 172-3 ページ。スティグリッツ [1999] 第 4 章、特に 123 ページも参照のこと。
**
1
1
がら経済学の理解の根幹に関わる基本概念でもある場合には尚更そうである。
「需要」という用語の多義性が問題視されるようになったのは決して最近のことではない。
1830-40 年代は経済学が学として自立しつつある時期にあたり 2 、演繹的方法の要諦として
の基本用語の定義の必要性が強く主張された(用語論争 3 )が、「需要」という用語の多義性
については、いちはやく 1810-20 年代にすでに経済学者たちの論争対象になっていたことが
知られている。この「需要」の多義性をめ ぐる論争――本稿ではこれを《需要定義論争》と名
づける――は、非常に興味深いことに、『国富論』の「有効需要」概念の正し い理解をめ ぐる
論争としての性格も有していた。例えば、論争の主要な登場人物であったジェイムズ・ミルも
マルサスも、自らの「需要」理解がスミスの「有効需要」理解に従ったものであることを、以下
のように表明している。
..
.
..
需要という言葉の使用にかんしては、それが購買する力 と結びついた購買する意思
....
を意味するさ いにはそれを有効需要とよぶと いうス ミス博士の規則に従っています。(ミ
ルからリカードウへの手紙)。 4
.
生産物の価格が生産の経費に比較して 下落すると いうこと 、言葉をかえて いえば有
.
効需要の減少・・・。私は有効需要と いう言葉をこのように理解しておりますし 、またアダ
ム・スミスがこの言葉にあたえた説明もこうだと考えるからです。(マルサスからリカードウ
への手紙)5
ミルもマルサスも、スミスの「有効需要」概念の権威に訴えることで、自らの見解の正当性
を主張している。この事実は、この時期における『国富論』の権威の大きさを伝える一方で、
『国富論』の読まれ方が一通りでなかったことも照射している。
本稿は、マルサスの経済学の方法論的特質の一側面に光をあて ることを主題と するが、
その際、彼が『国富論』をどう読んだのか、と りわけ『国富論』の「有効需要」概念をどのよう
に継承し改変したのかに着目する。スミスは「有効需要」の考え方を自然価格論の一部とし
て展開しているので 、後者の十分な検討なしに前者を正し く理解することは不可能である。
したがって 、ス ミスの自然価格論の論理と方法を「有効需要」概念との関連で精査すること
が予備的作業として 不可欠で ある。そこでまず 第Ⅰ節・第Ⅱ節がこの予備的作業に充てら
れる。スミスの自然価格論については内外に膨大な研究蓄積が存在するが 6 、《需要定義論
争》との関連を明確に意識した先行研究は意外に少なく7 、まして、スミスに先駆けて「有効需
要」という用語をおそらく初めて自覚的に使用したジェイムズ・ステュアートとの関連まで視野
2
3
4
5
6
7
只腰 [2007]。
柳沢 [1991] 。
1811 年 10 月 15 日。R , VI, p.58. 邦訳 66 ページ。強調はミル。
1814 年 10 月 9 日。R , VI, p.141. 邦訳 164 ページ。強調はマルサス。
大森 [1996] の 137-8 ページが膨大な先行研究の概観を与えてくれている。
V・E・スミスの古典的論文(Smith [1951])が知られる程度である。
2
に含めた先行研究は皆無と言ってよい。そこで 第Ⅲ節では、このような研究史上の空白に
留意しつつ、需要の多義性をめぐるステュアートとスミスとの知られざる対立関係を浮き彫り
にし、いちはやくステュアートによって提起された《需要定義論争》がスミスによって消去され
るに至った次第をたどる。それによってス ミスの自然価格論の論理と方法がいっそう明確に
理解されるだろう。第Ⅳ節では、マルサスによる《需要定義論争》の復活が、ス テュア ートの
再評価としてではなく、あくまでスミスの再評価としてなされた事情をやや詳しく考察する。第
Ⅴ節では、これまでの議論を踏まえながら、マルサスがスミスの「有効需要」概念をどのよう
に継承・改変・再定義したのかを明らかにする。あわせて、再定義された「有効需要」概念と
関連づけながら、マルサスに独自の理論で ある一般的供給過剰の理論の基本構造を提示
する。
以上の考察を総合することによって、「抽象的で先験的なリカ ードウ経済学」対「帰納的で
直感的なマルサス経済学」という古典的図式 8 に収まりきらな いマルサス経済学の方法論的
特質の一端が浮き彫りにされるはずである。
Ⅰ スミスの自然価格論(1)――狭義の自然価格論――
自然価格論とは、狭義には、『国富論』第 1 編第 7 章「商品の自然価格と市場価格につい
て」で展開されている一連の議論のことを指す。この章でスミスは、現実の市場価格と、それ
がたえず引き寄せられる中心価格としての自然価格との関係について論じて いる。この章
は以下のような文章から始まる。
ストック
およそ一つの社会、一つの地域には、労働と 資本の異なる用途ごとに、賃銀ならびに
利潤についての通常率または平均率というものがある。のちに明らかにするように、こ
の率は、一つにはその社会の一般的事情によって、すなわちその貧富によって、その進
歩、停滞または衰退の状態によって 、また一つには労働と資本の各用途の性質によっ
て、おのずから規制されているのである。
同じように、およそ一つの社会、一つの地域には、地代の通常率あるいは平均率とい
うべきものがあって、のちに明らかにするように、この率も、一つにはその土地が位置し
ている社会や地域の一般的事情によって 、また一つには土地本来の豊度や改良された
豊度によって規制されている。
これらの通常率または平均率は、ふつうそれが相場になっている時と所での、賃銀、
利潤、地代の自然率とよぶことができる。
ある商品の価格が、それを産出し調整し市場に運ぶのに用いられた土地の地代は、
ストック
労働の賃銀、資本の利潤を、それらの自然率にしたがって支払うのにちょうど過不足の
8
ケインズ父子の理解がその代表と言えよう。
3
ない場合には、その商品は、自然価格ともいうべき価格で売られているのである。 9
商品の自然価格なるものは、直接にその商品に対する需給関係によって定まるわけでは
なく、価格の構成要素とされた賃銀・利潤・地代のそれぞれの自然率の合計として定まる 10 。
それは広義の生産費を意味している。
続いてスミスは次のように述べる。
どんな商品で も、それがふつうに売られる現実の価格は、その市場価格とよばれる。
市場価格は、自然価格を上回るか、下回るか、ちょうどそれと一致するか、のいずれか
である。
すべての商品の市場価格は、それが現実に市場にもたらさ れる数量と、その商品の
自然価格、すなわちそれをそこへもたらすのに支払わな ければならない地代と労働と利
潤との全価値を支払う意志のある人たちの需要と の割合によって規制される。このよう
な人々は有効需要者と よんで よいし 、かれらの需要は有効需要とよんでよい。と いうの
は、このような人々の需要は、この商品を市場にもたらすことを十分可能にするからであ
る。だがこれは絶対需要とは異なる。たいへん貧しい人も、ある意味では六頭立ての馬
車にたいする需要をもっているともいえるし、かれはそれを持ちたいと思うかもしれない
が、かれの需要を満足させるためにこの商品が市場にもたらされることはけっしてありえ
ないから、かれの需要は有効需要とはいえないのである。
およそ市場にもたらされる商品の数量が有効需要に足りな い場合には、その数量を
そこへもたらすために支払われなければな らない地代と賃銀と利潤との全価値を支払う
意志のある人々すべてに、かれらの欲するだけの数量が供給できない。そこでかれらの
9
WN , I., p.72. 邦訳第 1 巻 94-95 ページ。
10
賃銀・利潤・地代の自然率が市場(経済的要因)で決まるのか、社会的・歴史的条件(経済外的要因)によ
っ て 決ま るのかについて は、スミス の叙述だけからで は判然としな い。後者を強く主張す る立場( 佐伯
[1999] 45-51 ページ)もあるが、本稿の立場としては、スミスが賃銀・利潤・地代の自然率をただ一つの理論
で説明できるとは考えて おらず、いくつかの原因の複合によるものと考えて いたように思われる。それは以
...
下に引用する小林昇の見解に近い。「商品の自然価格は直接に その商品に対する需給関係によって定ま
る価値ではない・・・。これは価格の構成要素とされた賃金・利潤・地代のそれぞれの自然率の合計として、
.........
つまり労働力・資本・土地のそれぞれの需給関係が安定したときに、成立するものなのである。このばあい、
賃金と利潤との自然率の決定には・・・労資のあいだの経済的・政治的な勢力関係がはたらくであろうし、ま
た同様に、資本の蓄積率と人口の増加率のど ちらが大きいかという事情も、その決定を左右するであろう。
また地代についていえば、その大きさは一般には土地ないし土地生産物に対する需給関係によってきまる
わけで あるが、その自然率は現実には、土地生産物ことに穀物に対す る需要がつねに十分である――な
ぜなら穀物は第一級の必需品であるから――ために、土地の使用に対して 要求される「ひ とつの独占価
格」にほかなら ぬばあいが多いとされる。しかし結局のところ、自然価格は広義の生産費がこれを決定し、
広義の生産費は生産諸要素に対する需給関係がそれぞれ安定したばあいにそれらの合計として確定する、
とされて いるので あって 、こ れが『国富論』における自然価格論の特徴的構造なので ある」( 小林 [1976]
230-231 ページ、強調は小林)。スミスにとって大事だったのは、賃銀・利潤・地代の自然率が市場で決まる
のか、社会的・歴史的条件によって決まるのかではなく、それらが安定しているのかどうか、だったように思
われる。それらの不安定は、自然価格の不安定につながり、「見えない手」の健全な機能を阻害するからで
あろう。
4
あるものは、それがぜんぜん得られな いくらいなら、もっと多くを払って もよいと いう気に
なるだろう。たちまち競争がかれらのあいだに始まるだろう。そして市場価格は、たまた
ま不足の度合か、または競争者たちの富や気まぐれな贅沢か競争熱をかき立てる程度
におうじて、自然価格を多かれ少なかれ上回ることになるだろう。・・・。
もし も市場にもたらさ れる数量が有効需要を超過する場合には、その数量をそこへも
たらすため に支払わなければな らない地代、賃銀、利潤の全価値を支払う意志のある
人々に、その全部が売りさばかれることにはならない。つまり一部分は、それ以下でなら
支払う意志のある人々に売られるにちがいな い。そして 、その人たちがそれに与える価
格は低いから、そのために全体の価格は引き下げ られるにちがいない。超過の度合が
売手の競争を増減させるのにおうじて、あるいはまたその商品を即刻処分することが売
手にとってどの程度さしせまっているかにおうじて、市場価格は多かれ少なかれ自然価
格以下に下落するだろう。・・・。
市場にもたらされる数量がちょうどうまく有効需要を満たしている場合は、市場価格は
とうぜん、自然価格と同一になるか、そうでなくても、ぎりぎりまでそれに近くなる。手持ち
の全量は、この価格で売りさばくこと ができるが、それ以上の価格では売りさばけない。
さまざまな商人のあいだでの競争によって 、かれらはみないやおうなし にこの価格を承
認せざるをえなくなるが、しかしそれ以下の価格で承認するという必要もない11 。
スミスにと って、需要とは、所与の価格で有効とな る需要量(所与の価格を支払う意志の
ある需要者の需要量)を意味しており、有効需要とは、自然価格で有効となる需要量(自然価
格を支払う意志のある需要者の需要量)を意味している 12 。有効需要は一定の数量であると
されるが、その大きさを供給者は事前にある程度推測することはできても正確に知ることは
できないから、供給された商品の数量は結果的に有効需要と比べて小さい場合もあるし、大
きい場合もあるし、たまたま同じ場合もある。それぞれの場合、市場価格と自然価格の関係
は以下のようになる。
供給<有効需要の場合、買手間で競争がおこり、市場価格は自然価格を上回る。
供給>有効需要の場合、売手間で競争がおこり、市場価格は自然価格を下回る。
供給=有効需要の場合、市場価格は自然価格に一致する。
有効需要がこのように数量として定義された最大の理由は、スミスが供給と有効需要との
比較によって市場価格の変動を説明しようとしたからである。数量と比較可能なのは数量で
ある。スミスは販売目的で市場に出されている生産物の数量として供給を把握しており13 、そ
11
WN , I, pp.73-74. 邦訳第 1 巻 96-98 ページ。
12
したがって、「実際の貨幣的支出に裏づけられた需要」の意味で その言葉を使っ たJ・ステュアートやJ・
M・ケインズの用語法とは異なるが、この点については後段で詳しく論じる。
13
したがって供給曲線としては価格軸と平行な垂直線で示される。
5
の結果として有効需要も数量として把握する必要が生じたわけである。
さらにスミスは次のように述べる。
市場にもたらされるすべての商品の数量は、自然に、その有効需要に適合するもの
である。その数量が有効需要をけっして超過しないということは、およそ商品を市場にも
ストック
たらすため に土地、労働または資本を用いるすべての人々にとって の利益であり、また
数量がその需要を満たすに足りるということは、他のすべての人々にとっての利益なの
である。
もし数量が有効需要を超過するというような場合は、その価格の構成部分のあるもの
は、自然率以下で支払われざるをえない。もしそれが地代で あるなら、地主たちの利益
への関心がただちにかれらをうながして、土地の一部をこの事業から引き上げさせるで
あろうし、もしそれが賃銀か利潤で あるなら、前者の場合は労働者たちの利益への関心
が、後者の場合にはその雇主たちの利益への関心が、かれらをうな がして労働または
ストック
資本の一部をこの事業から引き上げさせるであろう。こうして市場にもたらされる数量は、
やがて有効需要を満たすのにちょうど足りるだけになるだろう。その価格の種々な部分
はいっせいに、その自然率まで上昇し、また価格全体はその自然価格まで上昇するで
あろう。
もし 反対に、市場にもたらされる数量が有効需要に足りな いような 場合は、価格の構
成部分のあるものは、その自然率以上に上昇するにちがいない。もしそれが地代である
なら、他の地主たちの利益への関心が自然にかれらをうながして、こうした商品をつくる
ためにいっそう多くの土地を提供させるで あろう。もしそれが賃銀や利潤であるな ら、他
のすべての労働者や商人の利益への関心が、まもなくかれらをうながして 、それを調整
ストック
し市場にもたらすためにいっそう多くの労働と 資本を用いさせるであろう。市場へもたらさ
れる数量は、まもな く有効需要を満たすのに十分となるだろう。その価格のぞれぞれの
部分はすべて、まもなくその自然率へと下り、価格全体として はその自然価格まで下る
であろう。
セントラル・プライス
それゆえ、自然価格というのは、いわば 中 心 価 格 であって、そこに向けてすべての商
品の価格がたえずひきつけられるものなのである。 14
供給≠有効需要の場合、生産要素(土地・労働・資本)の自由な移動(競争)を通じて、供給
が有効需要に一致するように調整されるから、結局市場価格は自然価格にたえず引き寄せ
られる傾向を持つこと になる。この自然的な傾向をやや擬人的に表現した言葉が有名な「見
えない手」である。だが、「見えない手」の論理の構築のためにスミスが削ぎ落としてしまった
ものにも、我々は目を向ける必要があるだろう。スミスのように「需要」を(ある特定の価格の
もとで提示される)「需要量」と いう意味で理解すると 、需要と供給に差がある時に価格が上
14
WN , I, pp.74-75. 邦訳第 1 巻 98-99 ページ。
6
下どちらにぶれるかについては説明できても、需要と供給が一致した時に価格がどの高さで
落ち着くのかについては説明できない。
市場価格は現代の経済学で言えば短期均衡価格に相当し、自然価格は長期均衡価格に
相当すると考えられるが、スミスは自然価格のもとでのみ需給が一致するかのように――市
場価格はそこにいたる前の一時的な不均衡状態における価格であるかのように――イメー
ジしており15 、市場価格がどの高さ に定まるのかについては関心を示さない。市場価格が自
然価格にたえず引き寄せられる傾向を持つという論理の構築がス ミスの本章における主題
であったため 16 、彼が説明の必要を感じたのは自然価格の決定原理だけで あった。その自
然価格は生産サイドの事情だけで決まるものとされ、賃銀・地代・利潤の自然率から商品の
自然価格への一方的な因果関係が強調される。供給量の大小は自然価格に影響を与えな
いものとされて いる。長期平均費用曲線=長期限界費用曲線が水平が暗黙に前提されて
いる、と言ってよいだろう17 。
供給量に比しての有効需要の大小も自然価格に影響を与えな い。有効需要の変動(増
....
減)については、「有効需要が増加して、ある特定商品の市場価格がたまたま自然価格を大
きく上回って 上昇する」こと 、それが「長期にわたって 」続くこともあることを、スミスは一応認
めている18 。しかし、そのような事態は、情報の伝播の遅れや企業秘密など「明らかに特殊な
偶然の出来事の結果である」19 として、考察はそれ以上進められない。有効需要の増減への
スミスの関心はこれほどまでに乏しい。有効需要の増減に関わる議論は事実上存在しない、
と言ってよい。有効需要一定が暗黙の前提とされている、と言ってもよいであろう。
しかし、それはあくまで『国富論』第1編第 7 章に考察が限定された場合の話である。自然
価格および有効需要に関する議論は同編同章以外にも散見されるのであり、それらをも視
野に含めた広義の自然価格論な るものが考察の対象とされるならば、スミスは有効需要の
増減に必ずしも無関心でなかったように見える。節を変えて考察を続けよう。
Ⅱ スミスの自然価格論(2)――広義の自然価格論――
スミスが有効需要の増減に必ずしも無関心でなかったことの証左と おぼしき議論は、非常
に興味深いことに、そして意外なことに、いわゆる財政論である『国富論』第 5 編第 1 章にお
いて見られる。そこでは、第 1 編第 7 章では見られなかった、需要の増加が自然価格に影響
15
三土 [1993] 74 ページ。
「アダム・スミスが市場価格と自然価格とを概念的に区別したのは、両者を対等に扱うためではない。逆
にそれは市場価格は自然価格から乖離す ることはあっても、それは単に一時的なものにすぎないことを示
し、両者の間に概念的な主従関係を確立するためなのである」(岩井 [1992] 199 ページ)。このような論理の
構築は単なる理論的関心だけからなされたわけではない。スミスはこれを理論的武器として、市場価格を自
然価格から乖離させる様々な重商主義政策を『国富論』第4編で批判するわけである。
17
三土 [1993] 74-75 ページ。
18
WN , I, p.77. 邦訳第 1 巻、102 ページ。傍点は引用者。なお、有効需要の減少については一言も費やされ
ていない。
19
WN , I, p.78. 邦訳第 1 巻 103 ページ。
16
7
を及ぼしている――自然価格を低下させる――議論が展開されている20 。
インド市場における需要の増加のためにイ ンド産品の価格が大幅に引き上げ られた、と
東インド会社は主張するが、それに対してスミスは次のように反論している。
需要の増加というものは、初めのうち、時には財貨の価格を引き上げ ること もあるけ
れども、長いあいだには、かな らずそれを引き下げずにはおかない。なぜな ら、需要の
増加は生産を奨励し、それによって生産者の競争は激しくなるが、かれらは互いに他よ
り安く売るために、そうで もなければとても思いつきもしない新しい分業や技術の改良に
訴えるからである。21
ここで述べられて いることを現代経済学の用語で説明すればこうなるだろう。財貨の供給
量が所与(供給曲線が垂直)の場合、負の傾きを持つ需要曲線が右シフトすれば、財貨の市
場価格は上昇する。しかし 、高い市場価格に反応して生産が奨励さ れるから、供給曲線は
次第に右にシフトしていき、それに伴って市場価格も低下していく。ところが、市場価格が引
き寄せられるはずの自然価格は最終的には以前よりも低下する、つまり、生産費は以前よ
りも低下する。その生産費の低下は以前には「思いつきもしない新し い分業や技術の改良」
の結果で ある。市場の拡大(需要の増加、需要曲線の右シ フト)が「新し い分業や技術の改
良」[=生産性の上昇]を引き起こし 22 、自然価格を低下させた、というわけである。これは第
1 編第 7 章――有効需要一定が暗黙に前提され、自然価格も供給量にかかわらず一定であ
ると暗黙に仮定された――には見られなかった新しい議論である23 。
かなり異なる印象を与える第 1 編第 7 章の議論と第 5 編第 1 章とのそれとの関係を我々
はどのように理解すればよいのだろうか。本稿はこのずれをスミスの「有効需要」概念の真
意を理解するための鍵として積極的に評価したい。すでに指摘したように、第 1 編第 7 章に
おいて需要の増加に関する議論は皆無でなかった。ス ミスは「有効需要が増加して、ある特
....
定商品の市場価格がたまたま自然価格を大きく上回って上昇する」こと、それが「長期にわ
たって」続くこと もあること を認めて いた。し かし、需要の増加が供給サイドに及ぼす影響に
関する議論はそこでそれ以上展開されなかった。そこにそのまま第 5 編第 1 章で展開した議
論を接続・挿入することも可能であったのに、そうしなかったのである。そうしなかった第一の
理由として考え られるのは、スミス 自身が、自然的自由の制度のもとでの国富の継続的増
進の一般理論の中に、需要の積極的・直接的役割を含めたくなかったからであろう。なるほ
20
Hollander [1973] p.143. 邦訳 196 ページ。根岸 [2004] 17-18 ページ。
WN , II, p.748. 邦訳第 3 巻 94 ページ。
22
アメリカの発見に代表される市場の拡大が「新しい分業と技術の改良」を引き起こしたことをスミスは別の
箇所で指摘している。WN, I, p.448. 邦訳第 2 巻 109 ページ。
23
とはいえ、第 1 編第 7 章での議論と同様に、スミスは市場価格の変動に関心を示しても、市場価格がどの
高さに定まるのかについて関心を示さない。彼は需要曲線の右シフトがもたらす事態[=財貨の価格の上
昇]を記述してはいるが、それをもって、需要量を価格の関数として表現する「需要曲線」の意味としての「需
要」観に到達していた、と認めることはできない。
21
8
ど、市場の拡大が需要の拡大を含意している以上、「分業は市場の大きさによって制限され
る」という著名な命題は、需要の意義を全面的に否定するものではない。しかし、それにもか
かわらず、需要の拡大は供給能力の強化に間接的に寄与するにすぎず、直接的には節倹
にもとづく貯蓄が投資へと向かうことによって供給能力は強化される、というのがスミスの基
本的立場であろう 24 。需要の増加(市場の拡大、需要曲線の右シフト)が「新しい分業や技術
の改良」を引き起こし自然価格を低下させるという議論は、彼の基本的立場を読者に誤解さ
せる危険を孕むため、『国富論』第 1 編第 7 章の中に含まれなかった、と解釈するのが妥当
であるように思われる25 。しかも、第 5 編第 1 章の需要の増加が自然価格を低下させる議論
は、(国王の特許状にもとづいて設立され排他的特権を有する)合本会社の是非をめ ぐる長
大な議論のなかに挿入された数行足らずの小論である。それを第 1 編第 7 章の議論全体と
同等の資格を有するものとして扱うことには物理的に無理があるだろう。
Ⅲ ステュアートからスミスへ――《需要定義論争》の提起と消去――
広義の自然価格論を考える場合には、『国富論』第 4 篇第 1 章「商業主義または重商主義
の原理について」における「貨幣に対する有効需要」をめ ぐる議論も、先の自然価格低下の
議論と同様に、無視することができない。
貨幣と有効需要との関係をめぐって、スミスは以下のように述べている。
自国に葡萄園のない国は、葡萄酒を外国からもって 来なければな らない。同じことで、
自国に鉱山のない国が、金銀を外国から得なければならないことは明らかである。けれ
ども、政府の配慮が、葡萄酒よりも金銀により多く向けられる必要があるとは思えない。
かね
葡萄酒を買う金のある国は、必要な葡萄酒をいつで も買うことができるだろう。また同様
に、金銀を買うのに必要な手段を有している国は、金銀に不足することはけっしてないだ
ろう。金銀も、他のすべての商品と同様に、一定の価格で買うことができるし 、金銀がそ
の他すべての商品の対価であるように、他のあらゆる商品はこれら金銀の対価な ので
ある。政府の配慮がな んらなくて も、貿易が自由であれば、われわれが必要と する葡萄
酒はいつでも供給さ れること を、われわれは信じて疑わないので ある。そうであるなら、
これと同じ安心さをもって、貿易の自由は、商品流通やその他の用途のために買い入れ
たり用いたりする金銀の全部について も、いつでもわれわれにそれを供給しうるだろうと
いうことも、信頼してもよいのではないか。
24
「勤勉ではなく節約が、資本増加の直接の原因である。なるほど勤勉は、節約によって蓄積される対象物
を提供する。だが、勤勉によってどれだけ多くが獲得されようと、もし節約がそれを貯蓄し貯蔵することがな
かったならば、資本はけっして大きくはならないだろう」( WN , I, p.337. 邦訳第 1 巻 528-529 ページ)。
25
ホランダーは「スミスが需要分析を「軽視した」という伝統的解釈は・・・「商品の自然価格と市場価格につ
いて」の章(第 1 編第 7 章)だけにもっぱら注目することからきている」と評する一方で、自然価格低下に関す
る第 5 編第 1 章での議論を「特別の重要性をおびる」と示唆するが、本稿はホランダーの示唆を受け容れた
うえで「伝統的解釈」に回帰した、と言ってもよいだろう。Hollander [1973] ch.4.
9
人間の勤労をもって購入または生産できる商品の量は、どこの国でも、有効需要に、
つまり、その商品をつくり、市場に出すため に支払わねばならな い地代、労働および利
潤の全部をすすんで支払おうと する人々からの需要に、おのずと対応している。けれど
も、金銀より容易に、あるいは正確に、この有効需要に対応する商品はない。なぜなら、
銀は嵩が小さくて価値が大きいからである。一つの場所から別の場所へ、その価格の安
い場所から高い場所へ、その有効需要の超過する場所からそれに満たない場所へ、金
銀ほど容易に運べる商品はほかにはないのである。 26
貨幣(金銀)も一つの商品であって、貨幣に対する(有効)需要 27 は貨幣以外の商品の供給
に他ならない、とスミスは主張する。商品生産の増加と貨幣需要の高まりとの前後(因果)関
係について彼がどのように考えていたのか、上の引用だけでは判然としないが、彼は『国富
論』の別の箇所で、浪費家が国家を貧困化させることを嘆きつつ、次のようにも述べている。
・・・どこの国でも、年々の生産物の価値が増加するにつれて 、貨幣の量は自然に増
加するにちがいない。その社会の内部で年々流通する消費財の価値が大きくなるのだ
から、それらを流通させる貨幣の量も、大きくなる必要がある。したがって、増加した生産
物の一部は、残りの部分を流通させるのに必要な金銀の追加量を購買するために、ど
こであろうとそれが入手できるところへおのずから向うであろう。そうした金属の増加は、
この場合には、公共社会の繁栄の結果であって、原因ではないだろう。28
つまり、商品生産の増加が先行し 、貨幣需要の高まりがそれに続いて起こる、ということ
である。このような考えを持っているからこそ、「金銀を買うのに必要な手段を有している国
は、金銀に不足することはけっしてない」とスミスは断定することができた 29 。国富の増進にと
って貨幣不足は本質的な問題ではない。供給能力の不足、浪費による貯蓄不足のほうが本
質的な問題なのである。節倹にもと づく貯蓄が投資へと向かうこと によって供給能力は強化
される、というスミスの基本的立場はここにおいても貫かれている。
しかし、「貨幣に対する有効需要」をめ ぐる以上のような議論は、スミス 研究史上、『国富
論』における貨幣的経済分析の軽視と合わせて、スミスの経済理論の根本的欠陥を示すも
........
のとして評価されてきた。小林昇は、「スミスは・・・金銀すなわち貨幣商品に対する有効需要
のことを語っているのである。・・・ここにはあきらかに、有効需要ということばの不適切な使
26
WN , I, p.435. 邦訳第 2 巻、88-89 ページ。
27
ここでは「貨幣に対する有効需要」と「貨幣に対する需要」とは明確に区別されていない。貨幣の自然価
格なるものが考慮されていないためであろうか。
28
WN , I, p.340. 邦訳第 1 巻 532-533 ページ。
29
「財貨は、貨幣が財貨を引き寄せるほどすぐには、貨幣を引き寄せるとはかぎらないが、長い目でみれば、
貨幣が財貨を引き寄せるのに比べてさえも、いっそう必然的に、財貨は貨幣を引き寄せるものである。財貨
は、貨幣を買うことのほかにも、他のさまざまな目的に役だつが、これにたいして貨幣は、財貨を買うことの
ほかは、なんの役にもたたない。したがって、貨幣は財貨のあとを追いかけざるをえないが、財貨はかなら
ずしも貨幣を追い回さないし、本来、その必然性もないのである」( WN , I, p.439. 邦訳第 2 巻 94 ページ)。
10
用法と、このことばを先人のス テュアートが創出した際の意図のすりかえとがある」と否定的
に評している30 。
よく知られて いるように、ス ミスは『国富論』の中でジ ェイムズ・ス テュア ートおよびその著
書『経済の原理』に一度も言及して いな いが、友人ウィリアム・パルトニに宛てた手紙(1772
年 9 月 5 日)の中で、「その本[=『経済の原理』]の中の誤った原理のすべては、その本には
一度も言及しないで も、私の本のなかできわめて はっきりと 論破されて いることでしょう。わ
たくしはそう自負しています」 31 と記している。スミスが『経済の原理』を明確な批判対象として
意識して『国富論』を著したことは間違いない。ス テュア ートは、「貨幣に対する需要は・・・決
して需要とは呼ばれな い」 32 と断言し、おそらく経済学の歴史上はじめて 33 、「有効需要」とい
う用語を使用し 、「等価物で ある貨幣を伴う需要」としてそれを定義したけれども 34 、スミスは、
このようなステュアートの問題提起を、「有効需要」という用語に独自の意味内容(自然価格
を支払う意思のある需要)をこめること によって 黙殺し退けた。ジョン・ス テュア ート・ミルの
『経済学原理』が「有効需要」という用語の創始者をスミスだと誤記している事実(第 3 編第 2
章) 35 は、スミスのステュアートに対する黙殺および拒絶が完全犯罪に近い効果をあげたこと
を物語っている。その意味において先の小林の評価は正しい。
しかし、本稿がここで問題にしたいのは、スミス がステュアートを黙殺したことではな く、ス
ミスに黙殺されたステュアートの経済理論の中身のほうである。小林は、ステュアートの経済
理論をケインズへと つながる貨幣的経済理論の系譜上に理解しようとする向きが強く、スミ
スのステュアート黙殺を貨幣的経済分析の拒絶と結びつける嫌いがある。と ころが、スミス
が黙殺したのは必ずしも貨幣的経済分析に直接的に関係した内容ばかりでない。結論を先
取りするな らば、ス テュア ートは、マルサスたちよりも半世紀もはやく、需要と いう用語の多
義性を問題視していた――《需要用語論争》を提起していた――のに、スミス はそれをも黙
殺してしまったのである。
30
小林 [1976] 241 ページ。強調は小林。大森郁夫もほぼ同様の評価を下している(大森 [1996] 67、75 ペ
ージ)。他方、竹本洋はこの「貨幣に対する有効需要」をめぐる議論を評価対象から除外して いるようで、「ス
ミスも有効需要を貨幣に裏付けられた需要とみる点においてはステュアート と同じで あるが、くわえて有効
需要を自然価格を支払う意思のある需要と規定するこ とでステュアートの有効需要概念と決別す る」(竹本
[2005] 195 ページ)と論じている。
31
C, p.164.
32
S, I, p.193. 邦訳『第 1・2 編』163 ページ。
33
小林 [1976] 172、235、412 ページ。
34
「われわれは、住民を増殖させるファンドとなるものは、農業によって生産された剰余であると述べておい
た。ところで、この剰余に対しては需要がなければならない。腹が減っている者なら誰でも需要するものであ
るが、そういう類いの需要がすべてかなえられるわけではなく、したがって、すべてが有効というわけではな
...
い。需要する者は提供すべき等価物 をもたなければならない。全機構の起動力とな るのは、この等価物な
..
のである。なぜならこれがなければ農業者は剰余を少しも生産しな いし、そうなれば彼は、当面の生活のた
めに労働に励む人々と同じ階級に身を落とすことになるだけだろうからで ある。・・・ところで、農民を等価物
..
を目当とした労働に向かわせるものは有効需要と呼んでもよいものであるから、そして、この需要は提供す
べき等価物を所有する者の増殖によって増大するものであるから、私はしたがって、増殖が原因で あり、農
業はその結果であると言うのである」( S, I, p.134. 邦訳『第 1・2 編』107 ページ)。強調はステュアート。
35
小林 [1976] 241 ページ。
11
ステュア ートは、需要と いう用語に関して 「言語の貧困のため、用語は、それが使われる
はずの状況に応じて異なった意味に受け取られることがあるので、その曖昧さを避ける意味
で」36 この用語の分析が必要だと考えて、分析の結果を以下のようにまとめている。
..
われわれは本編全体を通じて需要という用語を新たに使うことにし、それによって、前
..
編で欲望という用語で伝えていた観念を表現することにした。また、主題がさ らに複雑に
..
なって、もっと多くの関係を導入しなければならないので、私は、この需要という用語のも
つさまざまな意味のすべてを要約する。
..
..
需要は、第 1 に、常に商品と関連をもつ。需要するものは買い手であり、売りに出すも
のは売り手である。第 2 に、二重の操作がある場合は、つまり最初に売り手であった者
...
が次に買い手になる場合を場合には、それは相互的であるといわれる。それから、この
...
2 つの操作を同時に観察して、高い価格を支払った人々の方をわれわれは需要者と呼
..
...
..
ぶ。第 3 に、需要は単一であるか、あるいは複合的である。[単一というのは、買い手の
...
あいだに競争が存在しない場合で ある。複合的というのは、それが存在する場合であ
.
...
...
る。]第 4 に、それは需要される量に応じて、大きい great か、あるいは小さい small 。
..
..
..
..
そして第 5 に、提供される価格に応じて高い high か、あるいは低い low 。需要の漸次
..
的な gradual 増大は、その性質上、供給を増大させることによって勤労を助長するが、
...
急激な 増大は、その性質上、価格を騰貴させる。37
この引用が意味するところは決して平易ではないが、簡単に説明すればこういうことであ
ろう38 。ステュア ートは、財貨の価格の上昇を買い手の間での競争の発生の結果として把握
し、この状態を「需要が高い」と 表現する。同様に、価格の低下を売り手の間での競争の発
生の結果として考え、この状態を「需要が低い」――「供給が高い」ではなく――と 表現する。
それぞれは「需要の急激な増大(あるいは減少)」とも呼ばれる。需要の増大(減少)――需要
曲線の右(左)シフト――が急激に発生した場合、供給サイドはすぐに反応できないため 、財
貨の価格の上昇(低下)が生じる。と ころが、需要曲線の右(左)シフトが規則的(漸次的)に行
なわれる場合、それに反応して供給曲線もまた同方向へ規則的にシフトするから、結果的に
価格は変化しない。この状態を彼は「需要が大きい(小さい)」と表現する。彼は、大きな販売
量を帰結する「大きい」需要と高い価格を帰結する「高い」需要とを区別することによって、多
義的で曖昧な需要という用語に対して一定の整理を試みたのである。
このことから「ス テュアートは、マ ルサスたちよりも半世紀もはやく、《需要用語論争》を提
起していた」と主張してもよいであろう。マルサスがコミットした 19 世紀の《需要定義論争》は、
18 世紀にその前史を持って いたわけで ある。しかし 、スミスは論争の存在を知りながら、そ
36
37
S, I, p.193. 邦訳『第 1・2 編』163 ページ。
S, II, pp.171-172. 邦訳『第 1・2 編』450-451 ページ。強調はステュアート。なお、 [・・・] は訳出の欠落部
分を引用者が補ったもの。
38
以下の説明は、竹本 [1995] 第 2 章、大森 [1996] 第 3 章に多くを負っている。
12
れをあたかも存在しないものとして黙殺した。それは戦略的かつ必然的な黙殺であった。ス
...
ミスの主要な関心は市場価格が自然価格に長期的 には必ず引き寄せられると いう論理の
...
構築にあり、一時的な価格としての市場価格の決定メカニズムは彼の関心の外にあった以
上、需要の「高低」に関する議論はス ミスの目に非本質的な ものとしてしか映らなかった 39 。
スミスは需要の「大小」のみを問題にした。需要の「高低」と「大小」の区別に拘泥することは
煩瑣な詮索でしかなかった。その結果、有効需要は明確に数量タームで定義され、同じく数
量タームで定義された供給と同一次元での比較が可能となった。市場価格が自然価格にた
えず引き寄せられる傾向を持つという論理の構築が容易にな った。ス テュア ートが提起しよ
うとした《需要定義論争》は経済学の表舞台からいったん消去されてしまったけれども、それ
はスミス自然価格論の論理と方法が必然的に要請するところであった。
Ⅳ スミスからマルサスへ(1)――《需要定義論争》の復活――
ステュア ートが着目し たにもかかわらずス ミスによって いったん切り捨てられた市場価格
への関心は、意外なことに、スミスの忠実な後継者たらんとしたマルサスによって復活させら
れた40 。市場価格の決定原理としての需要への関心は、やがて後年の「需要」の正確な定義
への関心へと膨らんでいく。その経過を本節ではたどってみたい。
デビュー作である『人口論』初版(1798)の 2 年後に公刊されたパンフレット『食料高価論』
(1800) 41 は、救貧法批判という論点をデビュー作と共有しながらも、スミス自身が決して主題
に据えなかった短期的な市場価格の決定メカニズムについて、詳細な検討を加えている。こ
のパンフレットは、当時のイギリスの食料がその欠乏度においてスウェーデンより軽微であ
ったにもかかわらず、その価格がス ウェーデンよりも著しく騰貴してしまった原因を解明しよ
うとして著された。当時、一般的に考えられていた見解の一つは、食料の高価格は農業者
や流通業者の制限的な取引慣行(買占め)の結果であるというものであった。しかしマルサス
は、「国内取引商の利害と国民大衆の利害と は、一見し たところどれほど相反するように見
えても、その実、大凶作の年にさえ まったく一致している」 42 というスミス の見解に与して 、こ
れを退けた。食料の高価格の主たる原因は、救貧法にもとづく所得補助(所得移転)によって
貧民の購買力が人為的に引き上げ られているからである、というのがマルサスの判断であ
った。その例証部分を引用しておこう。
39
大森郁夫は「需要の高低と大小の区別をとおして、かれ[=ステュアート]はこの前提を供給量の変化をと
もなわない短期と、それをともなう長期の視点にまで敷衍して いるように思え る」(大森 [1996] 76 ページ)と
評しているが、この大森の評価をそのまま裏返せば、スミスは短期の視点の犠牲によって長期の視点をク
ローズアップしたと評価できるだろう。
40
自然価格と市場価格に関するスミスの議論をリカードウも受けいれたが、リカードウが主として関心を注
いだのは自然価格であり、この点においてマルサスと対照的である。
41
以下に展開される『食料高価論』に関する説明は、小林 [1971] 第 1 章、森 [1982] 第 9 章、中西 [1997]
第 6 章、Hollander [1997] pp.225-227 にその多くを負っている。
42
WN , I, p.524. 邦訳第 2 巻 233-234 ページ。
13
アダム・スミスは、きわめて正当にも、次のように述べたことがある。すなわち、ある貨
物が売られる現実の価格は、その自然価格、すなわち適度の豊饒の時における通常利
潤を斟酌してそれが市場にもたらされえ るところの価格と 、需要に対する供給の比例と
によって形成されると。な んらかの商品が欠乏している時には、その自然価格は必然的
に忘れられ、その現実価格は供給をこえる需要の超過量によって左右される。 43
「現実の価格は供給をこえる需要の超過量によって左右される」と いう文言に注目したい。
供給を超える需要が現実価格[=市場価格]を規制するとマルサスは言っている。一定の供
給量と、特定価格における需要量とが比較され、供給量より需要量が大きければ、価格は上
昇し続ける。どこまで上昇するのかと 言えば、需要量と 供給量が一致するような価格まで上
昇する。ここまでの議論ならス ミスの(狭義の)自然価格論の中にもあるが、スミスがその需要
量と供給量とが一致するような 価格の決定メカニズムまで 考察しなかったのに対して 、マル
サスはその考察にまで進む。彼は次のように続ける。
ある貨物が、50 人の人びとによって非常に強く需要されているが、その生産上のある
失敗によって、40 人に供給するに足るだけしかない、と想定しよう。もしも上から第 40 番
目の人がこの貨物に費やしうる 2 シリングをもち、彼より上の 39 人は、種々な割合で、そ
れよりも多く、また彼より下の 10 人はみなそれよりも少なくもっていると すれば、その品
物の現実価格は、取引の真正原理に依拠して、2 シリングであるだろう。もしもそれ以上
が要求されるならば、全部は売られないだろう。なぜならば、その品物の費やすべき 2 シ
リングをもっているのは、40 人にすぎないからである。しかしてより以下を要求する理由
もなんらない。なぜならば、その全部がその額でおそらく処分されるであろうからである。
さて、ある人が、閉めだされていた 10 人の貧者に、1 人ごとに 1 シリングを与える、と想
定しよう。今や、50 人が全部、前に要求された価格たる、2 シリングを提供することがで
きる。公正な取引のどの真正原理に依拠しても、その貨物はただちに騰貴するにちがい
ない。もしもそうでないとすれば、私はたずねたい、誰もが 2 シリングを提供することがで
きる 50 人の中から、10 人が排除されることとなるのは、いったいいかなる原理にもとづ
いてなのであるか、と。けだし、想定によると、依然として、40 人に対してやっと足るもの
があるにすぎないからである。貧者の 2 シリングは富者の 2 シリングと同じ効力のあるも
のである。しかしてもしわれわれが、最も貧しい 10 人――彼らが誰であろうとも――の
手が届かな いまで に該貨物が騰貴するのを阻止するよう干渉するならば、われわれは
だれが閉めだされるべきかを決定するために、銭投げをするか、くじ引きをするか、富く
じ販売をするか、あるいは相争うかしなければな らない。これらの方法の中のどれかを
選ぶ方が、一国の諸貨物を分配するについて、浅ましい貨幣の差別に従うよりもよいの
43
H , p.7. 邦訳 19-20 ページ。
14
であろうか、の問題に立ち入ることは、私の現在の目的を越えるものであろう。44
ある財貨に対して 50 人の需要者がおり、各々の需要者はこの財貨に支出できる貨幣額
が異なっている――各々異なった需要価格(付け値)で需要する――場合、財貨が 40 人分し
か供給されなければ、現実の価格は需要者のうち 10 人が排除される価格まで上昇する。す
なわち、上位から 40 番目にあたる購買者がこの財貨のために犠牲にしうる貨幣額が、その
現実(市場)価格となる。現代の経済学の用語で言えば、マルサスは限界購買力による価格
決定について論じている。救貧法にもとづく所得補助(所得移転)によって限界購買者の購買
力が人為的に引き上げられたために、イギリスの食料価格はスウェーデンよりもはるかに高
騰してしまった。『人口論』初版でも、所得補助によって助長されたディマンド・プル・インフレ
ーションには分析のメスが加えられたが 45 、『食料高価論』では、どのようにして、どの点まで
価格が上昇するのか、そのメカニズムとプロセスまでが分析されたわけである。
このように、供給が需要に不足するという限定された状況においてではあるが、マルサス
は供給と比較し た需要によって 現実(市場)価格が決定されるという結論にたどりついた。こ
の場合の「需要」の意味はスミスのそれとは明らかに異な る。ス ミスにと って、需要とは、所
与の価格で有効となる需要量(所与の価格を支払う意志のある需要者の需要量)を意味する
が、『食料高価論』のマルサスにとっては、その財貨を獲得するために払ってもいいと考える
犠牲の大きさ――市場においてその犠牲の大きさは支払われる貨幣量で表現されるから、
需要価格(付け値)と言ってもよい――を意味する。しかも、50 人の需要者が 1 人 1 単位の財
貨を各々異なった価格で需要するわけだから、マルサスはここで初歩的な需要表(価格と需
要量を結びつけた表)を提示していること になる 46 。つまり、需要量を価格の関数として表現
する「需要曲線」の意味としての「需要」観に事実上到達しているわけである。もっと も、マル
サスは『食料高価論』段階では「需要量」と「需要価格」との区別を明確に意識するには至っ
ていない。少なくとも文言上ではそれが表現されていない。しかし、1810 年代になるとマルサ
スは需要という用語の曖昧さの問題性を明確に意識するようになる。「はじめに」で引用した
リカードウへの手紙がそれを立証している。そして 、晩年の『経済学原理』(1820、1936)およ
び『経済学における諸定義』(1827)では彼自身の見解が明確に定式化されるに至る。
『諸定義』において「需要」は以下のように定義されている47 。
商品の需要
47. 2 つの異なった意味がある。――1 つは需要の範囲、すなわち購買される諸商品の数
量に関するものであり、もう 1 つはそれの強度、すなわち需要者たちがその欲望をみたす
ために払うことができ、また払ってもいいと考える犠牲に関するものである。
44
H , pp.7-8. 邦訳 20-21 ページ。
45
中澤 [2003] 。
Smith [1951] p.32.
D, p.112. 玉野井訳 182 ページ。
46
47
15
範囲にかんしての需要
48. 一般に、供給の増加とと もに増加し 、供給の減少とと もに減少する購入商品の数量。
それは、諸商品が生産費以下で販売される場合にしばしば最大である。
強度にかんしての需要
49. 需要者たちがその欲望をみたすため に払うこと ができ、また払って もいいと 考える犠
牲。供給と比較されて、価格および価値を決定するのはこの種の需要のみである。
「範囲にかんしての需要」と「強度にかんしての需要」を区別するマルサスの精神は、彼が
師として仰ぎ続けたスミスの精神を飛び越えて、「需要」という用語の曖昧さを嫌ってその「大
小」と「高低」を区別したステュア ートの精神に遡ることができるように見える。しかし 、少なく
とも「需要」をめぐる諸問題に関する限り、ス テュア ートがマルサスに及ぼし た影響はほと ん
どなかったように思われる。
ステュアートの名前は『人口論』初版にも『食料高価論』にも登場しない。その名前がマル
サスの著作で初めて登場するのは、『人口論』第 2 版(1803)であり、それ以後、最終版である
第 6 版までその名前は登場している。『経済の原理』の引用ページ数――ただし初版の――
が併記されていることから、マルサスがこの大著を読んでいたことは間違いないし、1811 年
7 月 11 日付けのリカードウ宛の手紙では「もしお暇でしたらサー・ジェイムズ・ステュアートの
『経済の原理』の第 2 編第 18 章 48 を注意なさるようにお勧めしたいと思います」49 と記している。
ところが、マルサスがリカードウに読むことを勧めている『経済の原理』の第 2 編第 2 章は「需
要について」と題され、需要の多義性に関わる議論がかなり詳細に展開されているにもかか
わらず、ス テュア ートの名前は『経済学原理』にも『経済学における諸定義』にも一度も登場
していない。マルサスが『経済の原理』を――せめて第 2 編だけでも――通読しているので
あれば、ス テュア ートが「需要」の多義性にこだわっている事実を見落とすはずがない 50 。つ
まりマルサスは『経済の原理』を人口理論の本として断片的にしか読まなかった可能性がき
わめて高い。少なくとも経済理論の体系書として は読み損ねて いる 51 。したがって、「範囲に
48
その章は「製造品を国外市場で売れるようにするために、その価格を引き下げる方法」と題されている。
D, VI, p.34. 邦訳 39 ページ。訳文は必ずしも従っていない。
50
ステュアート『経済の原理』著作集版(1805)には初版と比べて相当な加筆・修正が施されているが、その
最も長大な加筆箇所の一つで、「最下層のそして最も人数の多い階級の能力」が食料価格を決定する次第
が論じられており( S, II, p.159f. 邦訳『第 1・2 編』437 ページ以下)、それは「粗いながらも限界的な手法を導入
している」ものとして評価されている(Sen [1955] p.54. 田添 [1990] 200 ページ。なお田添はセンの前掲書の
参照ページを p.56 と誤記)。マルサスは、『人口論』で『経済の原理』に言及する際に、初版から引用ページ
を記しているから、著作集ではなく初版を参照して いる可能性が高い。したがって、ステュアートが限界購買
力による価格決定理論を展開しているとしても、それをマルサスがステュアートから学んだ可能性は低い。
それにもかかわらず、マルサス がステュアート的な論理を用いて 市場価格を説明したのは、たいへん興味
深い符合である。
51
それゆえ、「マルサスは『原理』を人口論の書としてだけ読んだのではないので あって、この事実から、彼
の『経済学原理』(1820 年)が、そこにステュアートの名をあげてはいないながら、この先人の影響に浸透され
49
16
かんしての需要」と「強度にかんしての需要」を区別するマルサスの精神は、あくまでスミス
の精神(すなわち有効需要論)を起源にすると考えられるべきで ある 52 。それでは、マルサス
はスミスの有効需要をどのように継承・改変・再定義することによって、彼独自の理論である
一般的供給過剰の理論へとたどり着いたのか? 節を移して検討しよう。
Ⅴ スミスからマルサスへ(2)――「有効需要」概念の再定義――
スミスは有効需要を「範囲にかんしての需要」としてしか定義しなかった。その結果として
価格を決定する「強度にかんしての需要」概念は等閑に付されてし まった。そのこと にマル
サスは不満を抱いていた53 。彼は『経済学原理』(第 2 版)で次のように述べている。
アダム・スミスはこう述べた。「いかなる財貨であれ市場にもたらされる数量が有効需
要に足りな い場合、それを市場にもたらすために支払われな ければな らな い地代・労
賃・利潤の全価値を支払う意思のある全員に対して、彼らが欲する数量を供給すること
はできない。彼らのなかには、それをまったく欠くくらいなら、より多くを支払おうとする者
もいるだろう」と。さて、需要者の一部が示している、自分の欲求を満たすため に以前よ
りも大きな犠牲を払おうとするこの意思こそ、私がより大きな需要の強度と呼んできたも
のである。一定数の購買者の心中にこの種の需要を刺激するような性質を財貨が持た
ないかぎり、いかなる価格の騰貴も起こりえな いし、また、需要と供給が価格を決定す
ると我々が言う場合には、常にこの種の需要が意味されていなければならないから、私
はそれに名前を与えなければならな いと考えたのである。それは有効需要とは本質的
には異なる。有効需要と は、アダム ・スミスの定義によれば、自然価格を支払う意思と
能力を持つ者によって欲求される数量である。そして、至極当然のことながら、この需
要は自然価格が最低の時に最大であるだろう。しかし 、需要の強度の増大は、それが
..
..
現実に喚起さ れる時、供給された財貨の数量と比較して 、提供された価値の増大を一
様に意味する。それは、たまたま希少な物品に対しても、自然価格が騰貴した物品に
対しても、等しく適用さ れうる。財貨の価格は需要に正比例し供給に反比例して変動す
ると正確に言われる場合には、需要と は常にもっぱら有効需要ではな く需要の強度の
ことを意味している。54
ていたであろうことは、マルサスの経済理論の本質からして、十分に推測を許されるところであろう」という小
林昇の評価(小林 [1988] 122-123 ページ)に対して、本稿は一定の留保を付さざるをえないと考える。同様
の理由から、ステュアートからマルサスへの継承関係を積極的に評価する柳田 [2005] 第 7 章の議論にも
一定の留保を付したい。
52
「この需要の強度なる概念をマルサスがだれから示唆をうけたかについては明確ではない。シーニアか
ら示唆されたであろうという説もあるがたしかではない。しかも、この概念を、限界効用理論の発展史におい
て、どのように評価すべきについては積極的に支持する見解はないようで ある」(小林 [1971] 27 ページ)。
53
しかし、マルサスの主観では、スミス理論を批判したものではなく、スミスの原理にもとづきながら経験に
よって修正を施したものなのである。そういう自負を彼は終生保ち続けた。
54
P, II, pp.49-50. 吉田訳、上、116-117 ページ。強調はマルサス。ただし、訳文は必ずしも従っていない。
17
「有効需要とは、アダム・スミスの定義によれば、自然価格を支払う意思と能力を持つ者
によって欲求される数量で ある」と いう一節は、マルサスがス ミスの有効需要の考え方に精
通していたことを伺わせる。し かし、マ ルサスはス ミス理論を再述するにと どまらな かった。
彼はスミス自身が決して主張しなかった有効需要の強度という考え方へ歩みを進める。
有効需要は「強度」あるいは「(需要者の)犠牲」の観点からも検討される必要がある、とマ
ルサスは主張する。なぜなら、需要の強度いかんで市場価格は生産費(自然利潤を含む)以
上にも以下にもな りうるが、市場価格が生産費すら満たさないほどに低い場合、いかに巨大
な(可能的)生産力が存在しようと も、資本家の資本蓄積への動機が失われ、生産力が有効
に発揮される可能性はきわめて低くなるからである。生産費を十分に償うほどの高い市場価
格がもたらされて、初めて生産力は有効に発揮されるはずであるから、「強度」「犠牲」という
観点を抜きに生産力を有効に発揮させる需要を考えることはできな い。マ ルサス自身の説
明を『経済学原理』(第 2 版)から引用するならば、
・・・生産力がいかなる程度に存在しようとも、それはそれのみでは、それに比例する
程度の富の創造を確保するに足りない・・・。そのほかの何ものかが、この力を十分に
発揮させるために、必要であるように思われる。これは生産せられたすべてに対する有
効かつ妨げられざる需要(an effectual and unchecked demand)である。・・・一物の評価、
またはそれが獲得せられたる時に個人または社会がそれに付する価値が、それを獲
得するために払われた犠牲を適当に償わないかぎ り、かかる富は将来生産されないで
あろう。
個々の場合においては、特定貨物を生産する力は、それに対する有効需要の強度
に比例して、発揮せしめられる。そして生産の便宜と関係なきその増大に対する最大の
刺激は、より大なる価値の資本がそれに使用されるに先立っての、高き市場価格、また
はその交換価値の増大である。
同様にして、全体として見ての、貨物の継続的生産に対する最大の刺激は、より大な
る価値の資本がそれに使用されるに先立っての、その全量の交換価値の増大である。
55
以上の考察から、『経済学における諸定義』において、有効需要が「範囲にかんしての有
効需要」と「強度にかんしての有効需要」と に分けられて定義さ れている 56 理由も、明らかに
なったであろう。その定義は以下のようなものである。
55
56
P, I, pp.413-414. II, p.263. 吉田訳、下、275-276 ページ。
D, p.112. 玉野井訳 183 ページ。なお、玉野井は後者を「一商品の継続的供給を有効なものとするために、
.
需要者たちに払わねばならぬ犠牲」と誤訳しているので、訂正しておいた。
18
範囲にかんしての有効需要
50. 生産費を支払うことができ、また支払ってもいいと考えるひとびとによってもとめられる
一商品の数量。
強度にかんしての有効需要
51. 一商品の継続的供給を有効なものとするために、需要者たちが払わねばならぬ犠牲。
「一商品の継続的供給を有効なものと するために、需要者たちが払わねばならぬ犠牲」は、
市場において、支払われる貨幣量で表現される。貨幣の価値が不変であるな らば、需要の
強度を貨幣によって 表現しても問題は生じないが、貨幣の価値が不変であると一般に想定
することはできないから、貨幣以外の何かが、貨幣の価値が変化する場合にも需要の強度
を測ることができる尺度として求められねばならない。最終的にマルサスは支配労働をその
尺度として選んだ 57 。支配労働と は、ある商品を市場において販売して得た貨幣で雇用しう
る労働量である。そして、支配労働で測定された利潤の変動(大小)によって、生産量(および
雇用量)が決定される、とマルサスは考えている。
あらゆる国には、労働のみによって獲得せられる少数の貨物がある。そしてもし一定
量の労働の前払いが一特定貨物の供給の必要条件であるならば、かかる労働を支配
する貨幣はその貨物に対する有効需要を表現するであろう。それはすなわち供給をひ
きおこすごとき犠牲を払う能力と意思とをもつ需要者である。58
もし労働が価値の尺度であるならば――これはすでに証示したところと私は信じるが―
―これは、利潤は生産物の価値の中それを獲得した労働の支払に充てられる比例に
よって決定される、と言うのと同じことである。59
一般的富は、その特定部分と同様に、常に有効需要に従うものである。貨物に対す
る大なる需要がある時には常に、換言すれば、全量がそれを生産するに何程かのより
..
大なる価値の資本を必要とすることな くして 、以前よりもより大なる分量の標準労働を
支配する時には常に、貨物の一般的増大を期待すべき理由があり、これは特定貨物の
市場価格がその貨幣生産費の比例的騰貴を伴わずに騰貴する時にその貨物の増大
を期待する理由と 同一種類の理由である。そして 他方において 、それが支配すべき労
働で測定された一国の生産物の価値が下落し 、他方同一価値の前払が継続する時に
57
マルサスは、『経済学原理』初版(1820)の段階では、穀物と支配労働の中項(平均値)をもって価値尺度と
したが、『価値尺度論』(1823)および『経済学原理』第 2 版(1836)において、支配労働をもって価値尺度として
いる。
58
P, II, p.61. 吉田訳、上、140 ページ。
59
P, II, p.240. 吉田訳、下、140 ページ。
19
は常に、労働者を働かせる能力と意思と が減少されねばならず 、そして生産物の増大
は一時の間妨げられなければならぬ。60
これらの引用が意味すると ころもまた決して平易で はないが、簡単に説明すればこういう
ことであろう。有効需要の強度の増大(減少)は、財貨の価格の上昇(低下)を引き起こすが、
それは需要者たちがその欲望をみたすために払うことができ、また払って もいいと考える犠
牲[=支配労働]の増大(減少)を意味する。それを財貨の供給者の側から見れば、財貨の販
売によって購買できる労働量[=免除できる労苦の量]の増大(減少)を意味する。つまり、実
質賃金率の低下(上昇)、利潤の増大(減少)を意味し、雇用の増大(減少)を帰結する 61 。有効
需要の(強度の)減少による雇用の減少(失業の発生)こそ、マ ルサスが「供給過剰」と いう言
葉によって意味しているものであるが、それは部分的ではなく一般的に起こりうる。その理由
をマルサスは次のように説明する。
仮定された場合[=資本家・地主が以前よりも貯蓄を増加さ せた場合――引用者]に
おいては、明らかに以前には個人的奉仕に従事して いた者が、資本の蓄積によって、
生産的労働者に転換せられたため に、異常の分量の種類の貨物が市場にあるであろ
う。しかるに労働者の数は全体として同一であり、そして地主および資本家の間におけ
る消費のために購買せんとする能力および意思は仮定によって減少されて いるのであ
るから、貨物の価値は労働に比較して必然的に下落し、ひいては利潤をきわめて著しく
低め、そしてしばらくの間より以上の生産を妨げ るに至るであろう。しかしこれこそがま
さに供給過剰なる語の意味するところであり、しかもこの場合それは明らかに一般的で
あって部分的でないのである。62
「貨物の価値が労働に比較して・・・下落する」とは、有効需要の強度の減少に他な らない。
マルサスに独自のその「有効需要」概念は、一般的供給過剰の発生の論理の因果系列の
出発点に位置している。「有効需要」概念の再定義は、一般的供給過剰の発生の論理の構
築にとって、扇の要となる作業であった。したがって、《需要定義論争》こそがマルサスをして
独自の経済学体系を醸成せしめた、と言っても過言ではないだろう。
むすび
60
P, I, p.417. 吉田訳、下、280 ページ。
..
このように考えるならば、マ ルサスが『経済学における諸定義』で「一商品が通常支配す る労働量はまさ
しくそれの有効需要を表わす」( D, p.97. 玉野井 155 ページ。強調はマルサス)と記した真意も容易に理解で
きるだろう。彼は「一商品が通常支配す る労働量の増大(減少)はまさしくそれの有効需要の強度の増大(減
少)を表わす」と言いたかったのである。
62
P, I, p.354. 吉田訳、下、189 ページ。
61
20
「はじめに」で引用された「生産物の価格が生産の経費に比較して下落するということ、言
..
葉をかえていえば有効需要の減少・・・。私は有効需要と いう言葉をこのように理解しており
ますし 、またアダム・スミスがこの言葉にあたえた説明もこうだと考えるからです」と いうマル
サスの言葉をどう解釈すべきだろうか? その答えはもはや明らかであろう。マルサスにとっ
て、生産物の価格を生産の経費と比較するとは、前者を支配労働で測ることを意味する。ス
ミスは有効需要を「生産物の価格」[=市場価格?]と「生産の経費」[=自然価格?]との関
係で論じていないし、その減少についても言葉を費やしていな いから、ここでのマ ルサスの
有効需要理解はスミスのそれとは異なっている。それにもかかわらず、マルサスが「アダム・
ス ミス がこの言葉にあたえ た説明もこうだと考える」と 記して いるのは、この手紙を書いた
1814 年段階のマルサスが、スミス的な「範囲にかんしての有効需要」と彼独自の「強度にか
んしての有効需要」との明確な区別にまだ到達していなかったからであろう63 。
このようにマルサスは、『国富論』との飽くなき対話を通じて、独自の経済学体系を醸成さ
せていった。その対話の第一の目的は、『国富論』を読まれずに尊敬される「古典」としてで
はなく現役の経済分析書として活かし続けるために、そこに実際的精神を注入することであ
ったように思われる。若き日の作品である『食料高価論』は、実際に目の前にある食料の高
価格を説明できていない『国富論』の論理を補おうとするものであった点において、マルサス
の実際的精神を象徴する作品である。マルサスは『経済学原理』の公刊後も、『国富論』を自
分の東インド・カレッジでの講義の教科書に用い続けるほど、ス ミスの学説に大きな 敬意を
払っていた。マルサスの講義の受講者たちは、『国富論』の各ページに白紙を挟み込んで再
製本することを要求され、そこにマルサスが提出する質問や注釈を書き込んだのである 64 。
『経済学原理』に「その実際的適用の目的を考慮して」が副題を付されているのも、それがマ
ルサスの実際的精神と『国富論』と の飽くな き対話の成果だからで あろう。そのマ ルサスの
営為は、スミスの側から見れば、「主」ではない「従」の議論に焦点をしぼるものであったかも
しれない。それをマルサスのスミス読解のねじれと評すること もできよう。しかし、そのねじれ
が、期せずして 、一度は経済学の表舞台から消去されてし まった《需要定義論争》を復帰さ
せた。実際的適用への強烈な関心が、基本用語の定義と いう演繹的方法の基礎作業にマ
ルサスを向かわせた。このようなマルサスの知的営為は、「抽象的で先験的な リカードウ経
63
したがって、以下に引用す る根岸隆のスケッチ には一定の留保を必要がある。「日本語では単に時計と
いうが、英語ではクロックとウォッチがある。前者は置き時計や掛け時計のことで、後者は腕時計や懐中時
計のことだ。有効需要も同様で、エフェクテュアル・ディマンドとエフェクティブ・ディマンドとある。アダム・スミ
スの有効需要や人口論で有名なマルサスの有効需要は前者で あり、ケインズの有効需要は後者である。
スミスの有効需要とマルサスの有効需要は置き時計と掛け時計のようなもので同一視してもまず間違いは
ない。しかし、マルサスの有効需要とケインズの有効需要については意見が分かれるであろう。 / スミスに
とって有効需要とは自然価格での需要のことである。自然価格は賃金、地代、利潤の自然率から構成され
るから、有効需要は自然率での利潤、正常利潤を保証す る。もし供給にくらべて有効需要が不足するなら
ば、利潤率は正常以下にな る。マルサスにとってもまったく同様である。 / 一方ケインズが供給に比べて
有効需要が不足であるというのは、投資が貯蓄を下回ることを意味する。投資されな い貯蓄は退蔵されるこ
とになる。しかしマルサスは『経済学原理』(1820)においても『経済学における諸定義』(1827)においても、は
っきりと貯蓄は退蔵されずすべて投資されると述べている」(根岸 [1985] 136-137 ページ)。
64
プレン [1994] 23-24 ページ。
21
済学」対「帰納的で直感的なマルサス経済学」という古典的図式には収まりきらないこのよう
に経済学方法論の発展過程は決して一直線でない。《需要定義論争》はこの平凡だが重要
な事実を我々に教えてくれている。
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