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戦時体制下における塾風村家政教育

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戦時体制下における塾風村家政教育
愛知教育大学研究報告.
36 (芸術・保健体育・家政・技術科学編).
pp.61
66,
February,
戦時体制下における塾風農村家政教育
一一鳳末寺高等家政女学校の事例を中心としてー
野
田
満智子
Machiko NODA
(家政学教室)
Rural Home
―At
Economics Education under the Wartime Structure
Horaiji Girls'School of Home Economics―
Machiko Noda
(DepartmentofHome Economics)
序
1927 (昭和2)年の金融恐慌,
1929年の世界大恐慌の開始から1931
(昭和6)年9月の
いわゆる「満州事変」の勃発と,日本は非常時から一気に戦時体制に突入し,国民の生活
は苛酷な戦時経済にのみこまれていった。とりわけ農村では輸出の半減による生糸,繭価
の大暴落に加え冷害による大凶作が重なり,農民の疲弊は眼をおおうばかりにすさまじく,
政府は戦争遂行の絶対的な条件である国内自給体制の確立とより一層の食糧生産の増強を
はかるためにこの危機を乗り越える必要に強く迫られていた。農林省による「自力更生運
動」はこうした背景のなかで1932
(昭和7)年に同省に「経済更生部」が設置されること
に始まる。本来この運動は農民の生活安定をめざしたものではなく,彼等を更に盲目的
な勤倹力行にかり立てる農民精神の更生に非常な力点が置かれたものであった。
こうした農民精神の更生を極端に重視する傾向は,学科重視の学校教育批判にも拡大さ
れ,中堅農民,農村主婦の養成を目的に多様な塾風農民教育施設を各地に生んでいった。
このうち農村の女子青年を対象とするものに,たとえば山形県農会立農村女学校(1929年
創設),群馬県新田郡強戸農民組合婦人部経営強戸共愛女塾(1928年創設),佐賀県の国
民家政学園(1928年創設),千葉県農会立家政女学校(1929年創設)があげられる。これ
ら昭和初期の塾風農村女子青年教育の実践は自力更生運動や国民精神総動員体制を通じて
宣伝され,家庭寮,農村女塾,農村女学校,家政女学校などと呼ばれる多種多様な女子教
育機関を各地に普及させていった。
1935 (昭和10)年愛知県南設楽郡内の鳳来寺によって設立された鳳来寺高等家政女学校
もこうした農村主婦の養成を目的とする教育施設の1つで,戦時体制下の三河山間農村の
疲弊の救済と食糧生産の増強,国内自給体制の確立という軍部の強烈な要求を色濃く反映
して設立,経営された。
本研究は愛知県下で唯一比較的資料が整っている鳳来寺高等家政女学校の事例に焦点を
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1987
野
田
満智子
絞り,その設立事情や教育目標および家政教育の内容や実態を明らかにすることを直接的
な目的とし,戦時体制下における農村女子の家政教育の実態を明らかにする第一歩とした
い。
鳳来寺高等家政女学校の設立
1.その背景
すさまじい恐慌の嵐のなかで農村は巨大な負債にあえぎ,娘の身売りが相つぎ,欠食児
童であふれていた。客観的経済環境に起因するこうした農村の疲弊に対し,文部
省実業学務局は「積年の餘弊に慣れて自力更生といふも真に自からを興すの気力に欠け,
自治協同といふも猶-村一郷のために献身する底の自覚に乏しい」ことがその根本的原因
であるとして,「斯のやうな農村を匡救するものは只此の重荷に堪へて挺身力闘するに足
る身体と精神」であり,このような人物の養成こそが農村教育の目的でなければならない
としている。そしてこうした人物の養成を「教師と生徒とが精神的に一団となって祭祀,
作業,寝食を共にし苦楽を頒って共同の生活を営み,日常起居の間に絶えざる教化が行は
れる」家塾式農村教育機関で行うことを推奨し,その普及に助力している。1)
さてこうした塾風教育機関は主として中堅の男子農民の養成を目的としているが,女子
青年を対象としたものも少しづつ普及している。特に女子の塾風教育機関が必要とされた
理由をそれらの設立趣旨からみると,第一に農村振興を徹底させるうえで,女子の協力が
不可欠であること,第二に女子青年達のあいだで農村に嫁すことをきらい,都会生活にあ
こがれる傾向が増しているのに対して,重荷に耐えて勤労を尊び,質実貞淑の婦徳を備え
た農家主婦の養成が強く求められたことがあげられる。こうした問題意識は戦況が深
刻になるに従って,単に農村部の女子青年を対象とした塾風教育機関だけにとどまらす,
次第に都会地の高等女学校,女子師範学校にも波及し,戦時体制下の女子教育思潮の基調
となっていった。2)
2.設立の経緯
昭和初期の愛知県下の農家の51%は養蚕農家であり,その大部分が山間部に集中してい
たために, 1929年の世界大恐慌による繭価の大暴落は三河山間農村に現金収入の大部分を
絶つという経済的大打撃を与えた。その上米価,そ菜,鶏卵などの価格も軒なみに下落し,
愛知県下農家1戸あたりの生産額は1929年の1,000円から1931年の575円と著しく減少し,
その多くは兼業や副業,日雇労働などの農業外収入によって捕われていた。県農会による
農家経済調査によれば,農家所得に占める農業以外の所得の比率は1929年の35%から1930
年には41%に増大し,農民達は働けども報いの少い農業に対して次第に取り組む意欲をな
くし、三河山間部も疲弊の一途をたどっていた。4)
一方この頃南設楽郡鳳来寺村鳳来寺住職服部賢成は,千葉県成田山新勝寺住職石川照勤
大僧正の葬儀参列に際し当山の社会事業の一っである成田女学校を視察し深くこれに感銘
を受け,寺法の制定に際し女子の学校の設立を決意し,
画でその準備に当たることを決定した。
業であったが,
1933 (昭和8)年より10ヶ年の計
このように当初10ヶ年の計画で取り組まれた事
1933 (昭和8)年夏に同寺信徒総代丸山喜兵衛と親しい関係にあった豊橋
連隊区司令部予備役海軍大佐向坂清助か知るところとなり,同司令部に勤務する鈴木誉三
朗と共ににわかにこの計画が具体化されることになった。41
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5)
戦時体制下における塾風農村家政教育
この向坂を中心とするにわかな女子の学校設立の動機は,基本的には海軍大佐という立
場からの時局認識にあった。すなわち第1に満州事変を契機として「銃後の農山村の充実
振興が,聖戦目的達成に,絶対的必要条件」であることを悟り,その「根本的対策の一は,
実に『農山村家庭の良主婦』養成であるとの深い信念1)を持つに至ったわけである。第2
には当時の農村一般の,とりわけこの地方の「若き男女は,勤労を以て誇りとする農山村
の生活を厭うて都市に憧れ,放縦安逸を貪らんとするの風潮漸く高まり」,一たん都市に
出て中等教育を受けたものは郷里にもどることが少く,「農山村は次第に疲弊して前途益々
憂慮すべき状態となって来た」とする状況認識にある。4)
こうした問題意識のもとに彼等が当校設立に求めたものは,第1に「理論よりも実践躬
行の実際的生活に間に合う,而も教養ある(農村の)中堅婦人の養成」であり,第二に
「生徒を通じて或は学園直接に社会教化の中心となり,・……当地方文化の中心となって其
の発展に寄与貢献し,以て廃頽せる農山村の振興を促す」ことであった。4)
このようにして1934
(昭和9)年4月1日に向坂,鈴木の2名が実科女学校創立委員に
任命されてからわすか1年の後,
1935年4月1日第1期工事の騒音のなかで鳳来寺女子高
等学園を開校した。しかしこの時開校をあまりに急いだために,同学園は中等学校の認可
を得ることができす,ようやく第1回生の卒業直前の1939年に職業学校規程による中等学
校として認可され,校名を鳳来寺高等家政女学校と改称した。5)
鳳来寺高等家政女学校における家政教育
1.教育目標
本校はすでに述べたように「農山村家庭の良主婦養成」をめざして設立されたわけであ
るが,この「農山村家庭の良主婦」とは具体的にどういった内実を備えた人間像であろう
か。 1939 (昭和14)年2月に同校から文部省に提出された「鳳来寺高等家政女学校設置認
可申請書」は,ますその前提条件である同校の「設置区域内二於ケル当該実業ノ状況」に
ついて次のように述べている。
当地方ノ生業ハ主トシテ豊山林業ニシテ極メテ少数ノ商工業者其ノ他ノ営業者アルモ何レモ専業
二非ズシテ単二農山村地方又ハ外来者ノ便二供スル程度ノモノニシテ之ヲ以テ生計ヲ営ムモノナシ
従テ男子ハ最上層ノ階級ノ者ヲ除ク外各自作農又ハ小作農ニシテ労働二従事シ中流以下ノモノニ在
リテハ更二農閑ヲ利用シテ山林関係ノ事業二従事シテ得タル労役賃金或ハ山林ノ立木売却二依ル所
得又ハ少数ノ職人トシテ労働シタル所得等ニョリ生活ヲ営ミツヽヽアリ
中流以下ノ婦人二在リテハ各層階級共二或ハ男子ト共二農業二従事シ又ハ養蚕養鶏等ノ副業二従
事シテ男子ノ生計ヲ助ケ子女ノ養育二従事シテ内助ノ功ヲ為シツヽアリ
然ルニ現下農山村ノ実情八時勢ノ推移二伴ヒ当地方ノ如キ僻陬農山村迄ガ都市的風潮二浸潤シ勤
労ヲ厭ヒテ農山村ヲ忌避シ理論二趨リテ実践ヲ疎ンズルノ傾向ヲ生ジ前途寔二憂慮スベキ現情二在
リ
すなわち当地方が求める良主婦の条件はます第一に,男子と共に農業に従事し,養蚕,
-
養鶏等の副業にも従事できること,第二に,家事育児に従事し,内助の功をなすこと,第
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-
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三に,勤労を尊び,理論より実践のできること,第四に都市的傾向をきらい,農山村に定
住する覚悟を持っていること,の四点にまとめることができる。以トから同校はその教育
目標を,「農山村生活二最モ適応セル裁縫,家事,手芸,農林業,其ノ他実際的二役立ツ
知識技能」の教育をとおして,「勤労ヲ尚ビ質実温健,貞淑有為ニシテ農山村家庭ノ良主
婦トシテ実際的二活動シ得ルモノヲ養成スル」ことに置いている。7)
2.教育の実態
以上のような教育目標を達成するために同校は開校に際し、女子教育と農業教育にそれ
ぞれ長年の経験を持つ豊橋高等女学校教頭の河合七蔵,静岡県立三島高等女学校教諭中村
いう,愛媛県実践農学校教諭山本英三郎を迎え,農業実習用に畑15アール,水田15アール,
温室6坪,フレーム,花壇,20坪の農産加工室,農具室,堆肥舎,収納室,兎舎を、家政
実習用には農山村の家屋をそのまま模した家庭寮を10棟設ける計画で、徹底した実習主義,
実地訓練巾視の方針で出発した。
残念ながら当初の家庭寮10棟の計画は財政上の理由で大巾に縮少され,結局新城の医院
の廃屋を移築してこれに当てられたが,9)本校の家政教育の最も特色とするところは,この
家庭寮を中心として農村の良主婦養成の総仕上げをしようとしたところにある。当初の計
画によれば最終学年である第4学年50名に,1年間全員通学を禁じグループに分かれて
旧家庭寮
この写真の撮影された昭和40年代当時は愛知県
-
立鳳来寺高校の寄宿舎として使用されていた。
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戦時体制下における塾風農村家政教育
10棟の模擬農家である家庭寮に入寮させ一週間づつ交代で主婦としての勤めを果させて,
どこの農村家庭にも向くきびしい花嫁の躾を寮母の指導により完全に行うことになってい
るj)しかし実際には1棟の家屋での季節的な合宿となっており,また農村生活の経験のまっ
10)
たくない寮母丸山令子の指導に大きな限界があったとはいえ,基本的な方針はそのまま実
施されたものと思われる。創設時に制定された鳳来寺女子高等学園学則第10章は,家庭寮
に関する細則を別に定めることを述べているが,残念ながらその存在が確認できないため,
家庭寮教育の正確な実態はつかめない。しかしその他の残された記録から家庭寮における
教育内容の実態をみると,「農山村の家庭における行儀作法をはじめとし,炊事,洗濯,
雑巾掛その他供膳」等,7)また第3回卒業生下田つきさんからの聴取によれば「仏壇の作法,
たきものひろい,献立作り,校長の接待」も指導されていたという。これは当時全国に広
く普及していた高等女学校や女子師範学校等における良妻賢母教育の実施訓練施設である
家庭寮の教育内容と共通するが農村の実生活を基盤とすることが強く意識されている。
この意味で本校の家庭寮における家政教育は農林業科における農業実習と一体のものとし
てみる必要がある。この教科も「農村の良主婦養成」の中核の教科に位置付けられており,
「農村の中堅となって共に働き得る…勤労愛好の精神」養成を目的としている。農業実習
の時間は「その尊い修練時間」であり,実習内容には稲作を中心として「花卉,野菜の栽
培と小家畜,家禽の飼育並に家庭的農産加工」等農村婦人に期待される農作業が示されて
おり,「晴天である限り‥・青天井の広い自然の教場」に出て黙って働くことがモットーと
されている:)このように農業技術の習得以上に勤労精神の養成に重点が置かれているが,
これは家庭寮の実習でも共通するところである。木校の学校日誌抄やアルバムから推察す
ると,家庭寮における仏教講話の比重がかなり大きく,終極的には精神修養的な施設であっ
たともいえる。
結
語
鳳来寺女子高等家政女学校の塾風農村家政教育は干葉県農会立家政女学校をモデルにし
たもので,10棟の完全な農家を模した家屋を中核にした壮大な構想のもとに計画された。
戦争末期の日本農業の荒廃が,こうした極端な作業主義,精神主義重視の農村家政教育を
生み出す主因となったが,同時に戦時体制下のこの地方の財政的基盤の衰退と,教職員の
たび重なる徴用による移動はこの構想の完全な実現を許さなかった。
しかし戦争の長期化とともに極限に達した農村の疲弊に対して,日本農業を建て直す婦
人の養成をついに行政の側か乗り出さざるをえなくなり,愛知県においても県立女子農学
校の設置が急がれた。その結果1944年7月,本校は県下で最初の県立女子農学校として県
立に移管され,愛知県立鳳来寺女子農学校と改称された。
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(昭和61年8月1日受理)
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