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着任の挨拶 - 日本貿易会

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着任の挨拶 - 日本貿易会
貿易会だより
JFTCニューズレター
着任の挨拶
ー1095日の挑戦
社団法人日本貿易会 社会貢献グループ部長
特定非営利活動法人国際社会貢献センター(ABIC)常務理事 事務局長
い
じ
ち
のりひと
伊地知 紀仁
このたび日本貿易会に出向、社会貢献グループおよび NPO 法人国際社会貢献センター(ABIC)を担
当することになりました伊地知と申します。着任に際しまして自己紹介を兼ねまして挨拶させていただ
くと同時に、私自身のつたない商社マン経験を振り返って社会貢献への取り組みを考えていきたいと思
います。
私は 1982 年日綿実業に入社、社名はニチメン、双日と変わりましたが、一貫して自動車を中心とした
機械関連の仕事に携わってきました。
1. 海外に行ってみたい!
鹿児島生まれの私が生まれて初めて関門海峡を渡って本州に足を踏み入れたのは大阪での万博の時。
そこで見た信じられないぐらい多くの外国人ときらめく各国のパビリオンは、九州の片田舎の少年にとっ
て、外国に行ってみたいという夢を膨らませる一大イベントでした。当時都会に出てみたいというあこが
れはあっても、海外へ行くというのは途方もない夢物語で、海外を旅するテレビ番組や外国映画が世界を
見ることのできる唯一の方法でした。見掛ける外国人と言えば教会の日曜学校に来る宣教師ぐらいで、た
まに知らない外国人に出会うと、ちょっとした恐怖心と好奇心でじっと見てしまうような状況です。同じ
時代を東京や大阪で過ごされた方には信じられないかもしれませんが、日本の地方都市で年少期を送った
人は大抵同じような感じだったのではないでしょうか?
小中学校の社会科では、日本は資源が少なく、外国から資源を輸入し、加工貿易による輸出によって
国を支えていかなければならないと教わり、為替は変動相場制に移行、オイルショックによって石油価格
が暴騰して、物価も上昇するなど、貿易の重要性というのを意識はしないものの、日常生活に影響を与え
るものである、ということは少しずつ理解できてきた時期でもあったと思います。
2. 商社に入ろう!
では海外に行くにはどうしたらよいか?商社というのは当時いろいろ不祥事もあり、正直あまり印象
の良い業種ではありませんでした。大学でそろそろ就職を考えなければならない状況になった時に、部
活の先輩が商社に行っているということを知り、初めて業界の勉強をしたのですが、これが結構面白そう。
世界中に支店や事務所があるし、扱う商品も多岐にわたり(当時は「ラーメンからミサイルまで」とい
われていた)ここなら自分にも何かできる仕事があるのではないかと考え、縁あって今の会社に就職し
ました。
3. アフリカへ(1986 − 88 年)
東京自動車部に配属となり担当地域がアフリカ。最初に担当していたナイジェリアは石油産出国で、
86 日本貿易会 月報
貿易会だより
オイルマネーが潤沢にあり、一時は日本製の自動車が飛ぶように売れていたようですが、入社してからは
輸入制限が始まっており輸入許可がなかなか下りずに先輩社員たちは大変苦労していました。アフリカに
は「アフリカの水を飲んだものはアフリカに帰る」ということわざがあります。たまたま入社 3 年目にコー
トジボワール、ナイジェリア、アルジェリアに出張してしまい、アフリカの水を飲んでしまった私はこと
わざ通りにガーナに駐在を命ぜられ、アフリカに帰って来ました。
しゅうえん
ガーナと言えば日本人にとっては黄熱病研究者野口英世の終 焉の地、そしてガーナミルクチョコレー
ト程度しか思い浮かぶものはないでしょう。私の認識も同じようなものでしたが、1983 年にサハラ以南
諸国を襲った大干ばつから回復の途上にあり、世界銀行主導で道路建設や送電網整備のプロジェクトが進
み、資材運搬用トラックや人員輸送用バスの商談が主な業務でした。
4. ドバイへ、フィリピンへ(1989 − 91 年、1993 − 98 年)
2 年のガーナ勤務を終え、日本に帰国すると時代はバブル期の真っただ中。とはいえ輸出ビジネスは
1985 年のプラザ合意による円高で厳しい状況が続いていたため、人員削減でアフリカ・中東向けを同じ
チームで担当することになっており、今度は中東も担当することになりました。帰国から 1 年後に今度は
UAE のドバイへ駐在を命ぜられましたが、ここもまた私の世界地図にはなかった場所です。今でこそ、
ドバイは 300 社を超える日本企業が進出、世界一の高さを誇るビルや宇宙からも見える人工島のパームア
イランドなど巨大プロジェクトがめじろ押しで、世界中の旅行者が訪れるリゾートとして有名ですが、当
時は NOC と呼ばれるビザが必要で、入国制限があり、車で 10 分も走れば果てしない砂漠が広がる不毛の
都市でした。夏場になると最高気温が 42 度を超える日が続き、昼間はとても外を歩けません。不思議な
もので慣れてくると、ちょっと涼しいなと感じて温度計を見ると 38 度だったという具合です。生活にも
ぼっぱつ
仕事にもようやく慣れた時に発生したのがイラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争の勃 発でした。ク
ウェート侵攻直後にはいったん退避しましたが、湾岸戦争開戦時にはドバイに戻っており、ペルシャ湾は
戦争地域なので日本からの貨物船が入って来ず事務所は開店休業状態。イラン・イラク戦争でミサイルで
の爆撃を経験された方には及びませんが、毎日昼すぎに多国籍軍の空中給油機が飛び立つ様やドバイ空港
の厳戒態勢を見た時には多少なりとも戦時体制にあるのだなと実感したものでした。
湾岸戦争も終わり、帰国すると今度はフィリピン・ベトナムでの自動車組立販売事業を担当すること
になりました。仕事は、アフリカ・中東とは違って新鮮なものでした。ドバイから帰国して 2 年後にマニ
ラにある事業会社に出向、フィリピンでの自動車販売は先行した他の ASEAN 諸国には及ばないものの
年々増加をたどり、順調に進んでいるように思われました。しかし好事魔多しというのでしょうか、1997
年にタイから始まったアジア金融危機がフィリピンにも波及、自動車業界の世界的な合従連衡も進み、一
部の自動車メーカーからは商社機能に対する疑問も提示され、残念ながら事業縮小や撤退を強いられるこ
とになりました。しかしながら当時の海外での自動車組立事業は日本とは異なり機械化が進んでおらず、
労働集約的な面が強かったので、工場従業員の雇用やディーラーの販売店員など雇用創出を行っており、
これら従業員の家族も含めると一事業で数千人、場合によっては 1 万人以上の生活を支えるという、若年
労働者や失業者の多い国では大変有望な事業だったと今でも自負しています。
5. 商社マンの社会貢献ということ
21 世紀に入り、一度は営業から企画関連部署に配属されましたが、2004 年にまたドバイに赴任するこ
とになり、2006 年末に帰国してから約 3 年、今回貿易会の社会貢献に携わることになりました。青年海外
協力隊(JOCV)を表す言葉に 2 年間の活動ということで「730 日の青春」というのがあります。これまで
ABIC 創設から 10 年間の活動を支えてこられた諸先輩方のバトンを受けて、さらなる社会貢献活動の拡充
に努めるべく、これからの 3 年間を「1095 日の挑戦」としたいと考えます。青春というにはちょっと年が
行き過ぎているようですから。
JF
TC
2010年6月号 No.682 87
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