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>> 愛媛大学 - Ehime University Title Author(s) Citation Issue Date URL フランスの知的世界とミッテランの政策転換 長岡, 延孝 愛媛経済論集. vol.10, no.2, p.87-107 1990-12-03 http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/handle/iyokan/1956 Rights Note This document is downloaded at: 2017-03-31 03:10:28 IYOKAN - Institutional Repository : the EHIME area http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/ 愛媛経済誠集第10岩第2号 (1990) フランスの知的世界とミッテランの政策転換 長 岡 延 孝 〈La Fra皿。e est皿。tre pays. 1.E皿mpenOtreaV帥ir.〉 一F.Mittermnd 8 次 序 I 70年代における大知業人の変質 皿 左貫連合からミッテラン政権の羅生へ ㎜ 算門家的実機的知業人の登場 1V ミッテラン政権の初期の政策:その光と影 V 国家一市場の実藏的理解:ジから現実主義ヘ w ヨ’ロッパ主業への棚斜 結 甑 1981年5月のフランス大統領遺華でのF・ミッテランの勝利とそれ以降の長 期政権は,フランスにおいて社会の批判的算カにすぎなかった左貫が,構力を 業握して祉会を統治する算力へ登場してきたことを意味する。確かに,1924隼 一87‘ フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) の左翼カルテル,36年の人民戦線内閣など,左翼が権力を獲得し勤労者のため の実験を行ったという経験を持ってい机しかし所得の再分配の平等化を優先 した当時の経済政策は,生産性を向上させる有効な手を打つことができず,い ずれも二年足らずで崩壊してしまった。社会改革を真に成功させるためには, なによりもまず経済を良好に管理することが必要条件であって,国際競争が激 化した近年にあってはなおさらのことなのである。 ミッテラン政権は,需要の刺激政策に加えて,企業の国有化や経済の計画化 といった強力な国家介入政策を断行したが,うまくいかなかった。左翼は伝続 的に経済の迎営を得意としていないことを露呈し㍍夢想やドグマでは経済政策 を成功させることはできない。社会党の政策において・83・4年がその転換点 となった。経済運営のために現実をリアルに捉え対応する態度がしだいに醐成 された。それは社会党内では,J・ドロール(現EC委員長)やM・ロカール (現首相)ら右派グルーブによって代表される。86年から88年までのコアビタ シオン(シラク保守内閣とミッテラン大統領の保革共存)を経てロカール内閣 となったが,経済リアリズムヘの転換後の路線は一貫して踏襲されてきた。 ところで,旧来からフランスの知識人は大多数が体制に対する批判勢力であ り,ミッテラン政楮の誕生は・文化の国のリーダーを自認していたために,主 業知識人と政治的左翼の蜜月時代の到来ともみうけられた。しかし実は,両者 の間には70年代頃から仁裂が生まれ,80隼代にはそれが大きくなっていたの だっれかつてのフランス知識人は極めてラディカルな社会批判によって世界 の知識人をリードしていたが,専門化の進行や経済問題の深刻化などのために 専門的分野に足場を持つ知識人が進出してきれ経済学の分野でM・アグリ ェッタ,R・ボワイェ,A・リヒェツといった学者を中心とした,いわゆるレ ギュラシオン学派(レギュレーション・アプローチ)uが台頭し注目を浴びて いるが,それはこうした知識人内部の勢力の変容の文脈において理解し得る。 このグルーブは政権に近い立場から社会の改良を目指し・積極的に議論を展開 1〕M・アグリユッタの学位合文とその出版‘M.Agliot軌肋帥吻κ伽〃。{’““ψ舳。舳.CaI、 ㎜a㎜一LεW11976.jを出発点として生まれた,ネオ・マルクス主構の学者グルーブ。 一88一 愛媛経済論集第10巻第2号 (1990) している。こうして左翼の政治勢力とそれを支えてきた知識人との関係が,ミッ テラン政権の登場や政策転換と平行して変容した。社会党の政策転換は,左貫 の政治文化全体にわたる大規模な変動を伴っていたのである。 本稿ではまず,こうしたラディカルな批判論から体制の漸進的改革論へとい う,知的世界におけるディスクールの変化について歴史的に考察する。そして それを踏まえたのち,この知的変動とパラレルに,ミッテラン政権の経済政策 がイデオロギー過剰の政策から現実を踏まえた親ヨーロッパ政策へ転換して いったことを論じる。そして最後に,南欧のラテン的社会民主主義においてミン テランの政策転換がどのような意味を持つのかについて考察したい。 I 70年代における未知真人の菱貫 一般に「知識人」とか「知識階層」と言った場合,高等教育を受けて生まれ る行政エリート,エンジニア,教授団,科学者,作家,赦師団など広花な人々 を指すが,ここでは,文化的活動の領域で創造と普及の機能を果たし,学問, 思想,イデオロギーなどを通して民衆に影響力を与えてきた層を「大知識人」, 「高級知識人」あるいは単にr知識人」と呼ぶことにする。したがって技能者 や教員など(「準知識人」)は,さしあたり含めないでおく。 ところでフランスの知識人は,たとえばドイツの知識人が主として同じ知識 人層に対して議論したのとは異なって,特に大草命以降,直接的に民衆に向か い華麗なレトリックを駆使して語りかけてきた。啓蒙期のフィロゾフに始婁り, 19世紀中葉のラマルチーヌ,ユゴーといった文人,そしてドレフュス事件のゾ ラなど,フランスの知識人は名文と雄弁をもって民衆を啓蒙し指導してきた。 20世紀になってもこうした伝統カ鳴づいてきたことは,・よく知られている。フィ ロゾフは「理性」と「人間」に奉仕して神格化するとともに,それらを根拠に 蒙昧主義,迷信そして権力を批判した。他方,r伝続」,r宗赦」,r大地」,r死者」 などに価値を置く右買知識人が,特にフランス革命の反動で登場していた。し かし彼らは,かつてのファシストのような極右を除けば,本来的に保守的であっ 一89一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換{長岡) て社会改革の意志を余り持たない2〕。知識人の大部分は親友真であり,啓業の 普連主義の価値観を継承したのは左貫知識人であった,と言える。 戦後の左貫知識人を支配した思想は,何といってもマルクス主義であった。 一種の「マルクス主業ウルガタ」(E・モラン)が,戦後70年代頃まで知識人 に君臨していた。マルクス主義の革命的メンタリティに仕え行動することが, 知識人であることの証明であった。そして革命ソヴィエトこそが世界史上初め て,マルクス主修に基づく労働者の体制を現実化したと受けとめられたのであ 乱しかし祉会主義国による一連の事件が「革命」・「共産生簑」を脱神酸化 し,71−73年頃から知識人に幻滅を与え始めた,とE・モランは回噸してい る3㌧56年のスターリン批判,およびポーラシドとハンガリーへの草書介入に よって神話は動揺するが,プラハの春の弾圧(68年)さらにはソルジェニーツィ ンによるグラーグ(強制収容所)の告発(74年)が,決定的とも言える衝撃を 与えたのであったω。共産主業の権威失墜の原因1まひとりソヴィエトだけにと どまらず・その他の国々,すなわち毛沢東の中国における一連の事件一文化 大革命,林彪裏作,毛の死,四人組の陰謀一,さらにヴェトナムのポート. ピープル,カンボジアのポルポト派による虐殺などの読態も失望を増長した。 そして晩年のサルトルも,公式にマルクス主構を放奏することになった。 このあと一都の大知業人は・「社会主業」よりもむしろ「人権」と「民主主業J の再評価に向かっていっれこれには・68年の五月連動でサンキュ1コット的な 直接民主主業の伝統が康生したことが影,を与えた。五月連動にはさまざまな 思想構沈がみられたが・’つの貫貝なものとして・ジャコバン派による中央㌫ 権的伝統に意義を申し立てて広範な自主管理を主張する思想が登場し,地域達 業連動を刺激しれ彼らは伝統的なジャコバン主業が地域的な独自性を抹殺し, 普選的な人権を抑圧してきたことのマイナス面を重視した。これはジャコバン 2)19世紀末の「芸構のだbの芸構連動」は,調外的であったと言える。 3)昼舳〃㎜〃榊・C舳・〃町i斗1987・棚一”ヨー口・パ崎える・・触枠 出距局,1988年1186ぺ一ジ。 4) P Cκ㎜I00.L05II1目I0Et0■I9’1・80{■18徴。50‘=dII C0凹I3‘蜥^.oα89.一984 一90一 愛腸経済論集剃O巻第2号(1990) 主義に対して「第二の左真」と呼ばれているが,レギュラシオン派の論者たち もM・ロカールもこの流れに属する。 理想的な外国のイメージについて言うなら,社会主義諸国とくにソヴィェト ヘの信頼失墜に反比例して,アメリカ民主主荘の評価がB・H・レヴィ,A・ クリュッグスマンら「ヌヴォー・フィロゾフ(新哲学派)」によってなされた。 合衆国はヴェトナム戦争で非難を受けたけれども,とくにウォターゲイト事 件以後,権力のチェック・アンド・バランスが有効に侵能する民主主義の国と みなされはじめた引。知識人にとって,アメリカはダイナミズムと創造性を代 表する国へとイメージが変わっていった。それを最も集徴するのほ,P・ソレ ルスやJ・クリステヴァらのテル・ケル・グループが,唯物主簑と中国称普か ら神秘宝擁とアメリカ再評価へと,一夜にして転じたことであっがI。また哲 学者のボードリヤールも,アメリカをr現実化したユートピア」と林業してい るn。 1 左電建曾からミッテラン政標の口生へ 知識人層が変わろうとしていた70隼代,社会党や共産党といった既成左真政 党は,より親社会主業,左傾化を強めていった。60隼代の既成左貫の失業のな か,71年のエピネー合同大会において.党外のミッテランを集 警記に迎えて 新生社会党が種生した・I。ミッテランは,』・P・シュヴェヌマンが指導的立 場にある党内左派のCERES(祉会主着散育所兜センター)派と結び,さらに, 得票率が20%を割ることのない共産党と連合しない限り左貫政権が生まれな い,と判断した。他方フランス共産党の方も,南欧請圓の共産党と同機のエー コ1コミュニズムに沿った業敷路線を採り,72年,社共共同政府編領をとり結ん 5)匝舳・.M’洲榊・ioanisn“1、㎜舳8m州i&C㎜w舳伽.^皿tom01985. 6)R^市・….舳∼τ㎜∼州伽舳〃〃誠{1㎞.Vε帆㎞・d㎝.1983.P29. 7〕J跳“n11町‘.一榊.Gmss叱P8n甘1986 田中正人訳rアメリか,法業夫学出版局、1988 年。 8〕素山漫「左■の連合と左真の筆軌田代の電創{上〕1975年6月号{下)7月号。 一91一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換帳岡〕 だ。両党は革命という共通の理想,レジスタンス期の共8の追憶、反資本主奏, 反アメリカ,告量的なフランス文化を前提にした介入主奏的使命など,多くの 点で共通するものを持っていたのである93。 戦争直後の左貫知識人の多くは共産党員であり,現存祉会主義国が反モデル となった後も,一部はユーロコミュニズム路線のフランス共産党を支持し漬け た。だ力η7年頃から祉共両党が対立し・翌年に左真連合は大敗する。それを実 機に共産党は再びモスクワ寄りのスタンスに戻ってしまい,ユ・ロコミュこズ ム路線1ま行き詰まった。その失敗が明白になるにつれて・共産党支持の知美人 はまったく希望が持てなくなったm5.N・プーランザスやL・アルテュセー’し らのいくつかの悲劇は,このことと篠閃係ではないだろう。「希望が奏因であっ ただけに,幻績は一段と深い」(モラン)のであった。 すでに変節していた高線知識人と左重政党の間には,70年代の後半に腕Oか 生まれていたのであり,創製は徐々に拡大していた。そのために81年にミッテ ランが大統領選挙に勝利して。本格的な左貫政権力僕生したことに対して.旬 書人の多くは熱狂的に反応したが,それはかりそφに選ぎないことがすく’後に 判明する。大鏡領選挙後直後の議会選挙で,社会党は単独選手徴を占6る大島 利をおさめ・「散員と管理口の共和国」になったと言われるが・彼ら1ま「率対 業人」であり「大知業人」とはすでに黒質であった。後に見るように,膀史家 代書士であり当時政府のスポークスマンでもあったM・ガロは,たまりかねて 左貫政構への書カ0に消極的な大知議人への呼びかけを83年7月のル’そ…ンド、 上で行った。しかし和議人の反応は続く,菱着はかみあったとは言えない。ミ の書手は70隼代からの大知業人と左寛政党の構を浮き彩りにしたと同剛二.普 ■主業的知書人の限界を量呈したものであった。 0・ビントによれば.大知業人と左貫政権との開篠1ま復讐で,81年ミッテラ ン当選直侵の熱狂からしだいに債異的態皮に変り・ついに‘ま篠真心が漂うこと 9〕 C.MI.1■,ooo1Tk TI・8I.,dy o一心●『1●㎜:6し’糺〃“■レ卯^㎞‘■。oo・17し一988・ 10, P一^I■㎞◆.o竈一.帆75・7一 一92一 曇腸経済警集第10巻第2号{1990〕 になったI’1.81年5月の勝利直後,ミッテランは文化と文明の国のリーダーを 自認し,知識人の支持・参加は前提であると考えていた。知識人の方も,一部 戸惑う者{例えばA.グリュッグスマン)もいたとはいえ,総じて鉄迎の態度 を示した。ミッテラン政権は,rすべては文化的であり」かつ「文化的なもの は政治的である」と考え,数々のセレモニーで文化を保調する姿算を示した。 例えば,作家アラゴンヘのレジオン・ドヌール勲章の授与,革命記念日にエリ ゼ宮でのレセプションヘ知識人を招待したこと1きI,J・コルダザール(アルゼ ンチン出身)とM・クンデラ(チェコ出身)へのフランス国策の授与,アヴィ ニョン演劇フェスティヴ7ルヘの出席などである掘’。またJ・ラング文化相は, 「文化と芸術におけるアメリカ帝国主業」を批判し,コルベール主義的に国家 がフランス文化を保護すべきだと考えた。 ところカ㎎1年12月にポーランド連帯が非合法化された時,7ランス国内でも 様々な菱竃がかわされたが,社会党は共産党やCCT傍働僚同盟)ほどでは ないにしても,ヤルゼルスキ将軍への批判を建踏した。共産党のG・マルシェ 書記長は,ソ連のアフガニスタン侵攻やポーランド連帯の抑圧を公然と支持し, 知書人の失笑をかっていた。社会党は政府に共産党の聞僚を抱えていたことも あうて,シェイソン外相は不介入の方針を表明していた。知識人は社会党の集 業の態度に対しても批判的であり,むしろE・メール率いるCFDT{労働民主 連合)のポーランド政権批判を評価した。それ以後知業人は,社会党に対して 債讐的感産を示すことになる。きたちょうどこの頭から,ミッテランの経済政 業が漏刻な行き詰まりを見せ始めていた。 こうした中で,M・ガロの問題提起が行われたのである1出。彼1ま左貫知書人 が祉会主業政権を支援しないことを非難し,彼らの現政権への参加を冒議した。 n〕 D−PiII−o.T6●㎞糺丁1記1o−oI1㏄一、■I50od C111他r..i11G.R0950−oI.{∈d9.工.〃“㎞比炉一’■一. PdiIワ㎞C■■■6I■巾.1987. ⑭ G・トりル・ズ.P・シェロー.C・デュビー.P・エマニュエル.V・ジ午ンケレヴイヲチ などの人々である。 131ユM,r・・職州舳㎜“1“舳舳d“m・‘・i・.1“舳mm“K・■.25糾1981. 高ケ谷0三駅「フランソワ・ミ,チランとフランスの句■人」,逸∼業58機.1螂7編. I4,ユC伽㎞i・ω帥山1岬1i山W融1・㎜hm帆L〃舳.26j“1は1983. 一93一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) まずガロは「左貫は思想の闘争を放棄したのか」,「今日のジード,マルロー, アラン,ランジュヴァンはどこにいるのか」と問いかける。81年に左稟が政権 に着いたとき,左貫知識人は完全に粉砕の状態にあった。その原因は明白であ る。それは彼らがかつて共産主義の政治に生きアンガジェしたが,60年代から 眼を開いて現実の姿を直視した結果マルクス主義を非難し,あげくの果てには 研究室に閉じこもるようになった。そもそも戦争直後から70年頃までに,フラ ンスは経済成長によって変貌し,自らの過去を除去してきた(植民地放業,良 業革命)。68年はその不均衡の表現であった。70年代は不況にみまわれ,政治 と文化の伝統的なバイアラーキーがフランスの前進を止めた。左寛が政権の座 に着いたのは,こうした極めて困難な時期だったのである。この状況に対して, 知識人の参加と思想の対決なくしては成功を収めることができない。「左興の 成功,いやそれ以上にフランスの運命は,人々を自由に活気づける思想の運動 に大きく依存する,と言っても過言ではないだろう。」 だが皮肉なことに,ガロの訴えは知識人の困惑と反発を招き,彼らはさらに 沈黙してしまう。しかし蔵村信も指摘するように,この論争によって人文主簑 の伝統に培われてきたフランス知識人の限界が賃呈されてしまった1引。人文主 義的知議人は文学や哲学の激査は償えていても,経済(学)の知識にはほとん ど通じていなかったのである。 ■ 裏門家釣実構釣知■人の量4 知美人にかんして哲学者のJ・・F・リオタールは,ガロとの論争において次 のように述べている。「知識人とは,人同,人類,国民,人民,プロレタリアー ト,披造物,一ないしはこれに類する何らかの実体的存在の立場に身を置いたう えで,すなわち,普選的な価値をそなえた一個の主体の立場に自己を同一化し 15〕●村償Iバンと裏と三色標と』,岩波○店,198伸一249−50ぺ一ジ{眺itm山レ調嚇 _^o“‘‘‘54,・”腕。Oκ3.M05si’or.P3ri9.1984.o,3p.3・ 一94一 愛椴経済論集第10巻第2号 (1990〕 たうえで,その視点からある状況ないし状態を記述,分析し,その主体が自己 を実現するために,あるいは少なくともその自己実現が促進されるために,何 がなされなければならないかを指示するような精神の持ち主である。」旧ガロは, 政策立案者,専門家,決定枯の保持者に訴えかけているのであって,彼らは何 らかの普通的主体の理念を体現することを目的としていない。彼らは知的階層 には違いないけれども,できるかぎり最良のパフォーマンスを実現する融業人 :専門家であり,上に定義したような,18世紀の啓業主義者およびその後継者 はもはや存在しない,とリオタールは主張する。またM・フコーも,「左真」 知識人とは真理と正義の所有者として発言し,またそうする権利を醒められた 人たちである。そしてものを書く人問=作家が,普遍的良心を持った自由な主 体として活動したが,その時代は終わりつつあると考えるI71。 ただしリオタールもフコーも,ともに普選主奏的な知識人の終焉を指摘して いるのであって,あらゆる形態の知識人が存在しなくなったと言うのではない ことに,注意しなければならない。後に述べるような専門的な知識人が,代っ て登場してきたのである。 20世紀における普通主な的知識人の代表は,何といってもJ・P・サルトル であるが,文学史家のA・ボスケッティは,サルトルをフランスの知識人界に 置いて,彼の影響力・支配力を分析しているlm。「知識人とは普通的なるもの の専門家に他ならない」とみなした手ルトルほ、プロレタリアートこそが歴史 の真の担い手であり普連性であると考えた。そして「統一されたフランス,金 融業頭政治,政治家の衛敗と無能,言書の練属といった旧来の諸悪から清めら れたフランス」」を実現するために,1945年の選挙で策一党に踊り出た共産党に 対する知識人の支持を必然的なものと考え,行動したのである。サルトルは, 16)].F,Lyo肘d.Too比8山do riotGm舳凹d、レMω’.8㏄t.1983.原田佳産ほか訳「知真人の軽量’, 法政大学出版局,1988年,所収。 17) M.Fo皿020−t.Tr凹山一㎜d Po}町、in C.Gordoo{6d.}.P㎜!κ㎜㎞3■.P8nt,oo■Booヒ3,Now Yo沁。 1980. 18〕^一跳舳鮒i.勤巾‘’仏。↑舳μ〃ω‘舳3).危diti㎝d2Mi皿皿iしP8ris,1985.石崎晴己訳胸○ 人のU構』.続評書,1987年。 一95一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) 「教授貴族階級」への登龍門である超エリート校のエコル・ノルマル・シュペ リュール(高等師値学校)出身であり,教授団のなかで最も威信を保持する「哲 学の教授資格」の称号を持っていた。しかも彼はこれらの称号を以て哲学「界」 (cha岬)のみならず,文学「界」をも制覇することになった。これら二つの 「界」の絶大な支配こそが,サルトルの未曽有の成功を説明する,とボスケツ ティは主張する。このように「全体的知識人」(P・ブルデュー)の旗手サル トルは,50年代から60年代にかけてのフランス知識人界を支配したのであった。 人文主義的な知識人は,一見哲学の議論をしている時でも,その背後に政治 的な含意の隠されていることが多い。つまり彼らは,経済・政治・社会の諸問 題を語る時にでも,それらの学問の固有の言語によらずに,哲学の語業と用法 を用いて議論してきたのである。もちろんそれには,知識人界を支配してきた のが人文主義的,普遍主義的知識人であったという,社会学的な事実が関係し ている。 ところが,学問における哲学の相対的な衰退,科学・技術の進歩,政策にお ける経済・社会問題の重大化などのために,サルトルのような普遍主義的知識 人が衰退し,代わって専門家的知識人が発言力を増すようになった。フコーは 「『理論と実践の違舳の新しい様式が確立されてきた。知識人は,「普通的な もの’・『規範的なもの’・『すべての人のための正義と真理’という様式におい てではなく,特定の分野で,つまり生活や仕事の条件が彼らを位置付けるよう な拠点(住居,病院,精神病院,研究所,大学,家族,性関係)で働くことに 慣れてきた」と語り,専門的活動を拠点にして・知と知を横断的に結んで普 遍性を語る知識人の類型が登場してきたと言う19㌧この盛衰は第二次世界対残 以降,とくにオッペンハイマーのような物理学者の活動が大きかっれ彼は原 子物理学という専門領域を持っていたと同時に,原子爆弾が人類全体と世界の 違命にかかわるという事実ゆえに,彼の言説は普遍性を語る言語になったので ある.。 19) M.Fo凹。8o〃.oP.dし 一96一 愛媛経済論果第10巻第2号(1990) レギュラシオン派の経済学者もこうした知識人に属する。彼らの多くは68年 世代でアルチュセールや毛沢東の影響を受け,後にケインズ経済学をも学んだ。 そして多くは高等師帷学校,ENA(国立行政学院)と並んでグランド・ゼコ ル(専門大学校)の最高峰とされるエコル・ポリテクニック(理工科学校)の 出身者である。高等師帷学校がアカデミズムにおけるエリート校であるのに対 して,後の二校は権力ェリートの登龍門となっていて,極めて強力な勢力を形 成している。そこの出身者は,技術的,官僚的知識人を代表するのであって, 高等師範の人文主義的,普遍主義的知識人とは異なる。レギュラシオン派の学 者の多くはエコル・ポリテクニックにおいて,物理,化学,機械工学,情報処 理,数学などの自然科学を学び,経験主義的な方法論を身につけているのであ る。そして現在は大学と同時に政府系の研究機肝1に足場を置いている。この ことは彼らが,政府と同一ではないにしても官庁エコノミスト的性格を帯てい ることを意味し,例えばアメリカのラディカル派経済学者が大学に位置し,社 会連動のレヴェルで繁がりがあるのとは異なっているρである。 v ミッテラン政情の初期の軽清政業:その光と影 こうして知識人界において主役が交代し,政治や経済の問題をそれぞれの専 門家が論じるようになった。哲学や文学の話業をもってすると,普遍的でラ ディカルな議論はできるけれども,具体的に,社会の現実を踏まえていかに改 革して行くか,という問題に答えて実践することは困難なのである。ミッテラ ン政権の方向転換は,単に技術的なものではない。ミッテランは文筆家として も著名であることからも推測できるように,それは人文主義的な知性による統 治の限界とそこからの脱却の軌跡という,壮大な規模の変動だったのである。 以下こうした問題意識から,経済政策を見てみたい。 20)lNS眺{国立続計経済研究所〕、CEPREMAP倣理経清計画予測研究センター),CNRS(国立 科学研究所〕などである。 一97一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) 80年代の先進国経済の中で,ミッテラン政枯の初期の経済政策の経験ほど, 現実とドグマティックな理想とのギャップ,さらには明確な方向転換を劇的に 露呈したものはない。『社会主義ブロジェ』川に示されたように,ミッテランは あくまでも社会主義の実現は産業の国有化,計画化を通じて可能になるとし, 国家介入の強化を当然のことと考えれそれはもともと,71年のエピネー大会 での方針となった,「生活を変える」ための「資本主義からのリュブチュール (訣別)の戦略」をまさに実行しようとした,ということである。 周知のように81年5月の勝利以後,基幹産業の大胆な国有化,分配を重視し た需要刺激策,経済計画の策定などの積極的な拡大政策をすぐさま実行に移し た。しかし世界経済は予想したほどはのびず,景気刺激策はインフレの高進, 国際収支・財政の赤字,高夫葉率の持続をもたらした。そこで祉会党改措は, 82年6月,続いて83年3月の緊縮政策へと経済政策を急転換させていった。3 月の計画では,インフレ率の抑制,国際収支の均衡,若年層の載葉訓練などを 目的として,財政赤字の削減,公企業・自治体の財政の健全化,為替管理と金 融引き締め等の措置が採られた。転換後の政策は,ジスカール大統領の時の緊 縮政策であるパール・ブランに類似するものとなっれ ここでフランスの国家の介入生簑について一言指摘しなければならない。す なわちフランスでは,アンシャン・レジーム期から国家が経済を上から指導し てきたという伝統がある盟㌧その犠造はエタティスム(国家管理,国家主導生 身)と呼ばれ,中核の国家装置は,第五共和制で強化された大統領とグランド. ゼコル出身のエリートからなる官僚によって犠成される。こうした国家による 経済の指導といった側面は,後に述べるように,若干その性格が変わってきた とはいえ,依然としてこの国を特徴付けてい私この枠組の中で,とりわけ初 期の介入政策が実行されたのである。 では主に経済的観点からみて,初期の政策をどのように評価すぺきなのでも 21〕C1■b Sooia1ist.Pψ’㎜舳市、C1皿b S㏄ia1ist de Liwo.Pari軌1980.犬城貫作訳牝金主構ブ回 ジェ』.合同出版,1982年。 22)樹種「不況下の祉会民主主業」0経済碍創1988隼1月。 一98一 愛媛経済論集第10巻第2号 (1990) ろうか。残念ながら初期の積極的政策のなかで,フランスの経済を再建しうる ものは少なかったと言わざるをえない。重要な成果の一つとしては,恐らく, 当時の才ルー労働大臣の手による労使関係の近代化ではなかろうか困,。もう一 つはむしろ政治的なことだが,ドフェール内務・分権相による分権化政策を挙 げることができよう。これは経済的にも影響を及ぼした。 われわれが以前に述べたように,そもそもスケール・メリットを追求する基 幹産業を振興することは,戦後の大量生産・大量消費に基づく高成長の経済シ ステムを,それが終焉した後に実現しようとすることを意味していた酬。もは や不可能な歴史的現境のもとで,楽観的な理想を追求しようとしたのだった。 したがって,むしろ現在のようなより多様化した市均の動向に敏感に反応でき る,柔軟な生産システムを追求すべきだったのである。またしばしば指摘され るように,一国規模のケインズ主義的経済政策には限界がある。ミッテラン社 会党は,イギリスのストッブ・ゴー政策や人民伐繍の経済政策のいずれの失敗 からも教訓を得なかったのである葛,。 V 国重・市■の実働的理解:○から環貫主業へ 第五共和制ではもちろんのこと,19世紀以来の左貫の歴史においても,短期 間の実験(1924年の左真カルテル政権,36年のブルム人民戦線内閣)を除けば, これほど長く左貫が政権の座についたことはなかった。「二年目のジンクス」 と言われるように,かりに祝祭的な書いで政権の座についても,経済政策の連 営に持続して成功しない限り,祉会政草を実現することはできない。祉会党は 特に国際収支の蟹に突き当たってひから竈め,83年に根本的な転携を図らざる をえなくなった。 23〕 D・G3IIio・L8s Iois A凹ro皿■・i皿H・M8曲iII/V.Wri8M{ds.〕.&ω㎜必P“化リ‘〃屑dセリー肌続電σ 口}‘7舳慮〃“わ”o〃P”舳“‘ソ’98ユ.’984.Fl.8000s PiotoI’.Loo’oo.1985、 ω 最属伸一・便局組孝「『サッチャー以舳の祉会民主主業」0経済岬騎1990年8月。 25〕H軌F山mE卵1榊・・t舳舳i・㎞舳“α馬舳2・伽㎜け肋㎜伽.州.1O.㎜一4. 1986. 一g9一 フラノスの知的世界とミソテランの政策転換(長岡) 83年3月に,政府・与党内で十日間にわたる政策論争が繰り広げられた醐。 ミッテランは旧友のJ・リブーから,フランス経済を建て直すためにはEMS (ヨーロッパ通貨制度)から離脱してでも需要拡大を図って国内市場を守るべ きだ,と勧められていた。リブーによると,フランスはインフレーションと対 外的な損易赤字という二つの病を持つ。その病にレーガンやサッチャー流の「則 葉」を使用することは,その社会的費用が重すぎるために左真としてはできな い。そこで流れを好転させるために,ローマ条約によって規定されている保護 賀易の条項を政府は利用すべきである。さらに賃金と物価の悪循環を断ち,最 後に,EMSから離脱してフランスおよびフランの自由を確保すべきだ,と彼 は提案していた酬。党内左派のセレス派もこの路線に近い。すなわち強力な研 究開発,公共セクターの経済計画,国家と国有銀行に。よる公共役實などを実施 することを通じて,産業の再建を行うべきである。そして「社会主義ブロジェ』 の起草者らしくシュヴェヌマンも,やはりEMS離脱,選択的保証貿易の手段 で国際的制約からフランスを解放すべきだと主張する。これは極めて強い国家 介入,指導であることから,「左実コルベール主義」(ロス/ジェンスン)とも 特徴付けられる捌。 82年6月の緊縮計画が第一次ドロール・ブランと呼ばれることからも分かる ように,緊縮政策を当初から強硬に主張していたのは,当時のドロール大藏大 臣に他ならない。社会的正義感に貫かれ堅固な意志を備えたJ・ドロールは, ポンピドゥー政権下のシャハン・デルマス内閣に社会問題担当補佐官として参 加して「新しい社会」計画を構想したり,パリ大学教授やフランス銀行の副頭 取などを歴任したという経歴の持ち主である。彼が代表する党内右派や左裏カ トリックは,公共支出を減らしデフレ政策を採用して国際収支を改善する。そ してEMS内の通貨調整を行って,EC諸国と協力するという現実的な道を選ぶ。 「物価と所得の抑制によるインフレ政策を再重点に置いた・耐乏,国民的連帯, 26) .P.目a凹‘、ard、エ‘〃m4’o”舳蜆㎜’s,Cras5et.PaI’i5.1986.o,ap.一m, 27) 工‘㎜”’o6”㎜伽7,20㎜8i1983. 28〕C・R。・・/1・1e…皿.P1皿胞1i・㎜㎜d舳腕1i皿州M舳卿㎝y・舳舳舳∫舳いd・14.血α2 1985. 一100一 愛媛経済論集第10巻第2号(ユ990) 努力が必要である」と彼は訴えたのであった醐。 この深刻な路線対立のなかで,次第にミッテラン大統領はドロールのリアリ ズム路線に傾いていった。象徴的に表現すれば,経済・社会問題を最重要課題 にしてその合理的な変革を行うマンデス・フランス的な経済政策路線と,人文 主義的で理想主義に貫かれたレオン・ブルム的なそれの対立であり,前者の方 針が採用されたのだと言えよう。 経済危機がサプライ・サイドにあることは70年代末から認識されてはいたも のの,それを国家の企業への直接的介入を強化することによって解決する政策 が行き詰まり,むしろ企業の自主性と効率性を重視する方向へ向かう。転換後 まもなく,産業大臣がシュヴェヌマンからファビュスに交代し,新夫臣は国有 企業1に対して85年までに黒字に転換するよう要請した。さらに84年のモロワか らファピュスヘの首相の交代,共産党との連立内閉の終焉は,効率性重視への 政策転換の象徴的出来事であった。この事態を「カンカンの滑神」が「シリコ ン・ヴァレーの精神」に取って代られた,とピントは象徴的に表現している。 社会党にとって,公的所有に基づかない私企業を自由に活動させておくことは, 搾取のない社会を目指す以上,できることではなかったが,そうした経済シス テムは実現不可能であることが判明した。国際館争が激化した今日の経済社会 においては,企業による効率的生産が不可欠であり,そして経済の良好な管理 を維持しつつ社会改革を遂行すべきである,という醒識が広まっていった㎝コ。一 レギュラシオン学派のM・アグリェッタらも,「祉会に創造的な推進力を与え る」として企業の活性化の重要性を主張しているのである3I,。 国家の経済への介入の形態にかんしても,従来からの国有化,計画化,産業 政策という中央業権的な管理が弱められ,権力と良源の一部が分権化政策に よって強化された地方自治体に移った。介入生簑という・点は変らないが,地方 政府が企業家欄神を刺激して地域経済を活性化するようになったことは、注目 29〕緒方珊夫0フランス左真の実験j,大月○店,1987年,64ぺ一ジ。 30) P.Tbibo11d.L.≡tI・iomphe do1’ontI・ep1■onolIl・.一≡:柳‘.oo.96.1984. 31) M.^Oliotta/^。Bl・o皿dor、〃訓。,一・o榊ん㎞30識ω釦㎞■oκ.C8I回■11o−L∼リ.P8I・is.1984. 一101一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) してよい鋤。 企業家欄神についてのこうした認識は,C・ソルマン,Y・カナック,M. シキュレルなどの新自由主義者によって精力的に宣伝された。とくにソルマン はハイエクやフリードマンの所説に依拠して,国家の役割の縮小,企業の自由 競争の海獲を行った胆㌧すなわち社会士簑も全体主義も,さらに社会民主主簑 も混合経済も・「理性によって設計された秩序」(ハイエク)に属すんしかし現 在の先進工業国を作りあげたのは,長い年月を経て蓄積されてきた自然発生的 な個人のイニシアティヴにほかならない。日本の工業発展に通産省の指導が大 きな役割を果たしたと言われているけれども,それは欧米に追い付く60年代ま でめことであって,それ以後は有効とは言えず単なる「神誘」に過ぎない。し たがってミッテランによる研究・工業省の設置(82年)やアメリカのL・サ ローの主張す’る産業政策を批判する。やはり成長を生むのは,シュンペーター の言うような企業家,発明家,商人の才覚であるとして,企業家柵神の覚塵を 説くのである∴ソルマンのこの本は世俗的で平板な読論であるが,あるいはそ れゆえに84年にフランスでペスト・セラーになった。それと同じ時期にR.ア ロンやトクヴィルの再評価が行われたことからも・新自由主義がフランスに浸 透していったことが推測されよう。また「ケインズ主維国家の終焉」が議論さ れ,その翻識が広まった“㌧ しかしこうした識竈は,他の欧米先進国では70年 代から聞わされてきたものであり・少なくとも数年のタイム・ラグのある「壊 れてきた議着」であるという印象は否めない。 このように政策転換の後,フランス国民は援ればせながらも企業を再発見し 以後シラク内閣の時はもちろんのこと・ロカール内閣もこの路線を踏準してき た。しかしこのときフランスのエタテイズムの構造に留意しなければならない ○ 企業の経営者と政治家は,主としてENA(国立行政学院)などのグランド. 32) V.S凶I1Ii‘It.l11d・IgtI.i3I M3n㈹皿。ot lIndεr t吐。 Sooiali5ts iI1F固。o‘≡,Conμ塩商〃Pωi肋5、}oI.21 IIo.I.1988, 33〕舳・・㎜・^舳舳舳わ・LM舳・伽口舳〃d・P舳・1984・梱目舳舳’訳。帆自 由の}代)’,書秋祉,1986年。 34) 側え‘f. αCo,o日.L8fio’1I止。y皿69i80igmo,E桝‘.oo.96.1984. 一102一 愛姶経済論集第10巻第2号 (1990) ゼコルを通じて,密接な交友網を張りめぐらせている。レタスプレス紙の調査 によると,社会党の指導者たちは私生活や政治活動を通じて,(公・私企業を とわない)企業経営者や高級官僚と交友関係を広げてきた。シュヴェヌマンや ベレゴヴォワはさほど多くはないが,口ヵ一ル,フォルー,ファビユスらは広 範囲の人脈を持っている。「左臭のパトロン」のシンポル的存在であるJ・ヘ イルルヴアードは,「古い様々な図式は死に去り,企業の精神が至る所で勝ち 誇っている」と言う。社会主義者は企業と和解しただけでなく,投資まで行っ ている,と報じている鴉=。こうした人脈を利用して,国家はエリート主義の統 治を依然として貫徹させている。 また企業に対する知識人の態皮も変化した。それを数も象徴するのが,ロカー ル内閣の産業夫臣R・フォルーがパトロンになっている「サン・シモン財団」鳴一 である。これは82年に彼がサン・ゴバンの社長であった時,「第二の左貫」の 流れを組む知識人と企業家との交流を目的として設立したものである。毎月の 例会,セミナーの開催,本の出版等の活動を行い,83年の政策転換にも影響を 与えた。事務局長のP・ロザンヴアロンは,今まで「フランスには企業と知的 集団とのコンタクトの場がなかった」と述べている。 フランス経済の伝続的な文脈において,企業の自主性の尊重が持つ意味は何 だろうか。コンスタンやトクヴィルに代表される19世紀の古典的自由主義は, フランスに十分根付かなかったということがあげられる。確かにエタテイズム という伝統のもとで,国家による過熱とも言える介入が企業の自主的意欲をそ いできたことは,否めない。そこで社会党は介入の形態を分権化することに よって,新左貫の一部はサン・シモン主業を掲げることによって,そして新自 由主業者はアメリカ等の保守主裏を宣伝することによって,それぞれジャコバ ン主義を製材しようとしたのである。 こうしてフランスは,1983年頃から根本的な政策転換を実行し,企葉の主導 35〕 L㎞卵35.12ja、”i0f1990, 36) メンバーに1ま実素奏の^・マンク.F・メ・ル、,・し・ベッフ7.A・リブ■.歴史家のF・ フュレなどがいる。 一103一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) による経済再建を目指してきた。今だに経常収支や失業率などの面で停滞して いるものの,企業の業績や財政赤字率は好転した。また85,6年頃から企業収益率 と投資が確実に上向いた釧。88年に祉会党が政権に返り咲いてから以降,ミッ テランとロカールの問にはさしたる不和もなく,両者の支持率も安定している。 M ヨーロッパ主業への棚斜 ミッテラン政権は初期の一国だけの拡大政策の失敗に学んで,フランスの自 律性をヨーロッパ的規模において,つまりECでのイニシアティヴを維持しつ つフランスの自律性を確保しようと考えるようになった。ミッテランは,日本 やアメリカとの経済競争の激化やNIES諸国の追い上げに危機感を抱き,ヨー ロッパという経済的空間を再認識し始めたのである。85年1月.ドロール大臣 のEC委員長就任以後,彼は極めて積極的に委員長を支持している。 よく知られているように,ヨーロッパ統合についてはおおまかに言って二つ の伝統的な見方がある。第一は,各国の主格と独立を維持しながら政治・経済 の協力体制を築くという立場であり,かつてのド・ゴール,アデナウワー,そ してサッチャーによって代表される。ド・ゴールは,EC官僚(ユーロタラート) の拡大と権限の強化に猛反対した。第二は,シューマン・ブランやヨーロッパ 石炭鉄綱共同体の構想者であったJ・モネとかEEC委員会の初代委員長の W・ハルシュタインらの,一つの連邦国家を日指す立場であ㍍ドロールは後 者の熱心な推進者である。ドロール委員長の強力なイニシアティヴによって, 92年の日程を具体化した「域内市場白書」、さらにローマ条約を改正する「単 一欧州議定書」カ潮印され,政治的,社会的統合を射程にいれた市賜の統合計 画がスタートしたことは,周知のとおりである醐。 ジスカール前大統領はEMSに参加したり・ヨーロッパ議会の普通選挙を芝 37) 0ECD.&舳㎜由∫1‘〃ψ“F記㎜o,OECD.Pari3.1989.pp,20.58. 38)J。眈b・・ノCli舳m,〃∼舳州伽眺G胞・舳・P・{・1988・醐重業「ヨー回ツバ航合。 馬場宏こ■『世写経漬㎜:ヨーロッパ’,崎茶の水書房.1988隼,所収。 一104一 墾鰍蜥警第第10巻第2号(1990) 持した。ミッテランも先に述べたように,83年の論争の時に動揺したけれども, 結局EMSに残ることを決心した。それからは積極的なヨ’一ロッパ統合の立場 に進み,ヨーロッパ空間においてフランス経済を再建する道を選んだ。ミッテ ラン政権は単一欧州議定書を批准し,農民らの反対にもかかわらず,鉄綱や牛 乳の数量割り当てというブリュッセルからの直接的介入をも受け入れた。ミッ テランは情報分野の研究協力のためのESpRIT(ヨーロッパ情報技術研究戦略) 計画を支持し,ついで先端技術のすべてを網羅したユーレカ計画(パン・ヨー ロッパ先端技術研究プロジェクト)を85年に提案して,ハイテク分野でのヨーロソ パの遅れを取り戻すべくイニシァティヴを積極的に発揮している。88年からの ロカール内閣もEC統合を優先操題として挙げ,シラク内開に引き続き金融自 由化と規制緩和を推進している。この対EC政策は,国民からおおむね是認さ れている珊一。 このようにフランス社会党は変質し,ヨーロッパ主擁に傾いてきた。党内の セレス派も86年に「社会士簑と共和国」と改称し,同時にヨーロッパ統合に賛 同するようになった。UDF(フランス民主同盟)もRPR(共和国連合)も, 統合については異論を述べなくなった。そして左真では,共産党が衰退を続け た。ミッテランによる党の再建以降,7ランス社会党が静力を順請に拡大させ たのに対して,共産党は一貫して後退を続けた。70年代,総選挙の得票率は20% 以上を維持していたが,81年には16%にまで低落し,86年には9.7%となった。 これは極右の国民戦線(FN)とほぼ同じであった。88年は一応持ちなおしたが, 89年末からの東ヨーロッパの激動とソ連共産党自身の変化は決定的な打撃と なった。党員数は70隼代後半から比べると半減し,党内対立も激化した。こう した共産党の凋落は,党内左派の変貌とあいまって,社会党が共産主業イデオ ロギーから自由になる}要因を一与えたのであるω。 39) H−M80hio.Tuo Vi・wg of Mit㎏rm皿‘,PI・8si.Iεooy IIl Cω㎜㎜’o〃ρ榊■肋・・、”oI.23.I1o,2. 1988. 40〕 G.Rogg/,.JG0300,op.cit.1988. 一105一 フランスの知的世界とミッテランの政策転換(長岡) ○ 略 以上議論してきたように,ラディカルな体制批判によって他国をもリードし てきたフランスの知識人は,現実的な改革論割こ代替されてきた。それから遅 れをとったけれども,社会党も現実をリアルに見つめる政策を採るようになっ た。転換後の中道的な経済政策は,80隼代の芳しくない経済状況もあって,保 守政権のそれとあまり変わらないものであった。そこで「ロカールは,いった い左貫なのか」という疑問が提出されている。だが彼は首相に就任した直後, 「私の目的は,フランスに真の社会民主主義を打ちたてることにある」と語っ たセとがあるω。ロカールは,社会主義の詣価値を実現するために社会民主主 簑の方法が必要であると言うω。「社会民主主義」の言葉は,フランスでは否 定的に使われてきたが,ようやくそのイメージが払拭されようとしている。 今日,多様なニュアンスをもって社会民主主簑が議論されるようになった。 基本的には,北欧ないし中欧の社会民主主簑と南欧のそれとが,類型として区 別される。フランスにおける社会民主主簑の変容は,その示唆するところが大 きいであろう。総じて南欧経済およびその社会民主主義は,次のような共通の 特徴を持っている。すなわち第一に,左貫算力に共産党が強い影響力を持って いる。策二に国民経済において公企業が大きな役割を占め,したがって経済へ の国家の直接的介入の度合いが大きい。第三に支持基盤であるはずの労働組合 がイデオロギー的でしかも分裂している。80年代に政権を獲得した南欧の社会 民主主業政党は,中道真力を支持基盤にして当初から緊縮政策を採用した。共 産党やその支配下にある労働組合は,それに批判的であった。しかし80隼代の 経済状態を産みれば,そうせざるを得なかったのであるω。 今まで述べてきたような,フランス祉会党の政策幅換とそれをめぐるディス クールの変容は,南欧の社会民主主義諸政党の変化に先んじ,それを代表する 41) L’‘柳,,.22jlIi111990. 42)M Roo町’、レα““I一“”㎎o.Oωo犯。ob,P8n5.1988.p9313_7役の社会主業の踏価償と1ま, 自由,民主主業,選衛,自書.構利の優位性.人間と技術の聞俣,平和の操求であ㍍ 43〕真打億.納標○,業1軌 ・1㏄一 愛媛経済論集第10巻第2号 (1990) ものであった。北欧や中欧の社会民主主義政党は党員数も多く,しかも組織率 の高い労働組合の協力を得て政椎の座につき,社会改良を現実のものにしてき た。しかしフランス社会党はその条件を持たないために,まず共産党との連立 を目指し,その硬直化と衰退が明白になるやいなや,支持基盤を労動者だけで なくホワイト・カラーなどの新中間層に求めていった。それはミッテランの巧 みな政治戦略であった。 フランス社会党を始めとする南欧の社会民主主義政党は,80年代になって政 槍の座につき,現実を踏まえた経済政策を行わざるをえなくなった。経済生活 を良好に管理・辺営して初めて,本格的な社会改革をなし得るのだ,というこ とを彼らは学んだのである。こうしてラテン的社会民主主義が,現実的で実効 力のある勢力として,その意味で北欧社会民主主簑と同等のレヴェルで,よう やく歴史の表舞台に登場した。しかしその可能性はまだ未知である。 一107一