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平等主義的リベラリズムにおける責任概念

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平等主義的リベラリズムにおける責任概念
平等主義的リベラリズムにおける責任概念
The Concept of Responsibility in Egalitarian Liberalism
04M43266 保田幸子
Sachiko Yasuda
指導教員 宇佐美誠
Adviser Makoto Usami
ABSTRACT
Since Sen’s seminal essay on “Equality of What?” was published over two decades ago, in political
philosophy many egalitarian liberals have been engaged in a great controversy over basic terms of
equality: resource, equal opportunity for welfare, and equal access to advantage. These liberals,
however, share the supposition that the disadvantaged should be compensated only if their situation
cannot be reasonably attributed to their responsibility. This thesis argues that such a
responsibility-based approach to the concept of equality is objectionable for theoretical and practical
reasons, and proposes a human-rights-based approach as an alternative.
1.問題の所在
1.1.問題の背景
近年、不平等が拡大・維持される傾向にあり、機会の平
等の達成を阻害しているという現状分析とそれに対する批
判は多くなされている。しかし、どの程度不平等を解消す
るべきであるのかという規範的レベルでの議論は十分では
ない。本稿の目的は、こうした日本社会の現状に対して、
平等主義的リベラリズムにおける責任と補償の関係を考察
することである。これは、批判されるべき不平等が何かを
明確にするという実践的含意を持つものと考える。
1.2.平等主義的リベラリズム
他方、A・センの「何の平等か」という論文が提出され
て以降、英語圏の政治哲学において、いかなる平等を追求
するべきかを中心的なテーマとして扱う平等主義的リベラ
リズムが大きな論点となっている。平等主義的リベラリズ
ムの論者として、R・ドゥオーキン、R・アーネソン、G・
A・コーエンなどが挙げられる。彼らは共通して、自主的
な選択と不運を区別し、自主的な選択については各人は自
身の選択に対して責任を取らなければならないと述べた上
で、運による不利益のみの社会的補償を主張する。
彼らの議論は「各人に対する平等な配慮と尊重」という
キーワードからスタートしている。ドゥオーキンは、
「政府
は・・・このような市民全員の運命に対して平等な配慮を
示さないどのような政府も正当ではない」と述べる。しか
し、平等な配慮と尊重は、人々が同一の富を持つことを政
府が保障することではなく、
「各人の運命に鈍感に、各人が
行った選択に敏感」に反応するような分配体系であるべき
だとドゥオーキンは述べる。
1.3.内的一貫性への疑問
選択に伴う責任を取らせることは、各人に対して平等な
配慮と尊重を示しているとはいえず、むしろ残酷な結果を
強いることにつながる可能性もある。例えば、医療保険に
加入することを選ばなかったCは、高額な治療費の支払能
力がない場合、治療を受けられない可能性もある。
本稿では、すべての財や機会に関して責任に基づく補償
という原則を貫くことは、是正されるべき不平等が必ずし
も是正するわけではないと論じる。そして、平等主義的リ
ベラリズムの共通してみられる責任基底的補償の原則を批
判的に検討することで、責任に基づくのではなく、権利と
しての平等主義を再構成していくことが本稿の目的である。
1.4.本稿の構成
2 章では、責任基底的な平等主義の論者の議論を批判的
に検討し、責任を問わずに補償する範囲と責任を問う範囲
に区別することが「各人に対する平等な配慮と尊重」とい
う前提により合致することを述べる。
3 章では、責任を問わずに補償する範囲を考察するため
に、M・ヌスバウムや W・ギャルストンらの議論を検討す
ることで、いかなる財や機会が人権として補償されるべき
かを考察する。
4 章では、責任を問わずに補償する範囲を権利として位
置づけ、ゲワースの人権論を参照とした人権に基づく平等
主義を主張したい。
2.責任に基づく平等主義
2.1.資源の平等
ドゥオーキンは、厚生の平等を、単独では平等について
の理論となりえず、他の公正な分配に関する理論が必要で
あるとの理由により退け、ドゥオーキンが公正な分配に関
する理論として資源の平等論をあげる。彼は資源の平等論
を、無人島におけるオークションと仮想的保険市場のアイ
ディアを用いて描いていく。無人島におけるオークション
は、無人島に流れ着いた人々が同等の購買力を持ってその
島にある資源をオークションに掛け、その結果が羨望テス
トをクリアすれば平等が達成されたと考える思考実験であ
る。ドゥオーキンはこれに加え、運不運により自らの人生
設計を上首尾に進められる人とそうでない人の差を仮説的
保険市場で解消しようとする。
無人島におけるオークション
オオー
ーククシショョンン
同等の購買力を
持った参加者
羨
羨望
望の
のテテスストト
平等化達成
パスするまでオーク
シ ョン を 繰 り 返 す
本稿の問題関心からは、ドゥオーキンの資源の平等論の
要点は2点ある。ドゥオーキンの資源の平等論においては
「情況」と「人格」は厳密に区別される。そして、補償の
対象は「情況」に限られ、たとえ「人格」における本人に
帰責のない不利益であっても、あくまで嗜好や選好は当人
が責任を取るべき範囲であると考えられている。
もう一点は、選択の運(option luck)と自然の運(brute
luck)の区別である。前者は、ギャンブルのようにリスク
を承知の上で選択を行った結果、利得をえる人と損失を被
る人が生じるものであるのに対し、後者は、生まれながら
の障害や天候による作物の不作など自然による運をさす。
ドゥオーキンは、選択の運は自らの選択によるものである
から、各人が選択の責任を取るべきであり、補償対象とは
ならないと考えるのに対して、自然による運は補償される
べきであると考える。しかし、自然の運も、保険装置を導
入することによって、ある種の選択による運と読み替えら
れるのだとする。つまり、ドゥオーキンの資源の平等論は、
個人の責任を十分に問うた上で各人の不平等を是正しよう
とするものであるといえる。
2.2.厚生への機会の平等
アーネソンは、ドゥオーキンの「各人に対する平等な配
慮を尊重」という前提を引き継ぎながらも、資源の平等で
は各人に残酷な結果を強いる可能性があることを指摘する。
そして、補償するか否かは自主的な選択か否かで決定され
るべきであると厚生への機会の平等を主張する。つまり、
機会を自身の選択で失った場合は社会的な補償の対象には
ならないが、自身の選択に起因しない場合は補償対象とな
る。こうした自発的選択か非自発的な選択かは意思決定樹
により判別される。
したがって、厚生への機会の平等においては、高価な嗜
好への補償の有無は、嗜好形成に関して本人に責任がある
か否かに依存する。仮に、本人が自主的に選択したのであ
れば、彼は自身の高価な嗜好への補償を社会に要求するこ
とはできない。しかし、本人の自主的な選択の結果ではな
いと判断されれば、補償の対象となる。
2.3.利益へのアクセスの平等
コーエンはアーネソンの主張した厚生への機会の平等に
基本的には賛同を示すが、それだけでは不十分であると述
べる。貧しくて足が不自由だが自分の人生に満足している
個人 D に車椅子を支給するか否かという例で、コーエンの
厚生の平等、資源の平等、厚生への機会の平等への批判を
おこなった。詳細は表 2.3 でまとめられる。
表 2-1 平等の類型と受給の有無とその理由
平等の類型
受給の有無
厚生の平等
×
資源の平等
×
理由
D は車椅子がなくても人生に
満足しているから
D が車椅子を自分の選好充足
にとって必要な資源だと考え
ていないから
厚生の機会の平等
×
D は現在の生活に満足してい
るので、車椅子要求のための選
択肢が確保されている限り必
要はない
利益へのアクセス
の平等
○
必要な手段か否かは彼が満足
しているかどうかに関係なく
判断されるため
コーエンが利益という概念を用いる理由は、厚生不足か
資源不足かという二者択一ではなく、両者を包括しようと
いう試みからである。また、アーネソンが平等を達成する
レベルを機会に求めたのに対して、コーエンはアクセスに
おける平等を主張する。この理由は、アクセスの平等の方
がより実質的な平等を達成できると彼が考えるからである。
つまり、今、ある人が賢い人間であろうが愚かな人間であ
ろうが、その人の持つ機会は同じである。しかし、愚かな
人であった場合、機会をうまく利用することができないた
め、コーエンは機会ではなくアクセスの平等が主張される
べきであると考える。つまり、コーエンは、アーネソンの
議論では自発的な選択によらない不利益を完全に排除でき
ないと考え、より責任基底的な平等主義を目指すものであ
ると捉えることができる。
2.4.批判的検討
これまでみてきた資源の平等、厚生への機会の平等、利
益へのアクセスの平等を以下 2 つの観点から批判的検討を
おこなう。1つは、平等主義的リベラリズムにおける各人
の選好の扱われ方に関するもの、もう1つは補償の根拠と
して責任や選択が重視されている点に関してである。
平等主義的リベラリズムは不適切な選好に対する社会的
な補償をどのように取り決めるかという論争という一面が
ある。不適切な選好とは大きく 2 つに分けることが可能で
ある。1つは、高価な嗜好に代表される、高望みな選好、
もう1つは、適応的選好のような控えめな選好である。表
2.5 にみられるように、こうした問題に対して平等主義的
リベラリズムは、高価な嗜好と適応的選好の両方に対して
適切な指針を与えることができないない。
表 2-2 不適切な選好と平等主義の対応
平等主義的リベラリズムの類型
高価な嗜好
適応的選好
資源の平等
○
×
厚生の機会の平等
×
○
利益へのアクセスの平等
×
○
また、平等主義者たちは、個人間に格差が生じた場合に
財や厚生等が低い方がそうした状況に陥ったことに対して
責任があるかどうかにより分配の有無を決定する。ここで、
責任があるとは個人が自主的に選択した場合、責任がない
というのは本人に不可避な状況である場合をさす。
しかし、上記の見解にはいくつか問題点がある。まず、
T・スキャンロンが指摘したように、補償の有無は責任の
有無に依存、つまり、選択可能であったか否かで決定され
るため、選択の事実の重点を置きすぎて、選択の可謬性を
無視してしまっている。これにより、一見、自己責任を問
いつつ個人の意志を尊重した公正な分配システムのように
見える平等主義的リベラリズムは個人に残酷さを強いる可
能性をひめている。
第 2 に、平等主義的リベラリズムを実際の運用に移すと
きに、補償対象者に対してスティグマを押す可能性がある。
つまり、他者と比較して劣っているため補償を行うため、
公的に補償対象者を劣位に位置づけてしまう可能性がある。
第 3 に、平等主義的リベラリズムにおける財の性質への
軽視という問題が挙げられる。先に述べたように平等主義
的リベラリズムにおいては、不可避な状況で生じた財や厚
生の不足は本人に責任がないと判断し補償対象となる。し
たがって、当人の人生にとって致命的なダメージを与える
ような不平等が生じても、もしそれが当人の努力で回避で
きたのであれば補償はされないという結論を導きかねない。
また、逆に、当人にとって不可避であれば、たとえそれが
高価な嗜好であっても補償対象となってしまう可能性を秘
めている。
3.責任に基づかない平等主義へ
3.1.選好形成と補償
本稿では、責任に基づく補償は平等主義的リベラリズム
の前提である各人への平等な配慮と尊重に反していると考
える。不適当な選好の是正を求めることなく放置しておく
ことは社会的に認められないというのは、平等主義的リベ
ラリズムにおいては一致した意見であるといえる。しかし、
平等主義的リベラリズムは各人に平等な配慮と尊重を払い
ながら、不適切な選好に対処することができていない。こ
のような問題は、責任に基づく平等主義が、各人の選好を
主観主義的に捉え、その選好を社会的に満たすべきか否か
を責任の有無により判断している点に由来していると考え
る。したがって、この問題を本稿では補償を「権利」概念
を導入し、閾値で補償を考察することを提案したい。
以下では、各人の選好を主観主義的に捉えることを拒否
し、客観的なリストを作った理論家として、E・アンダー
ソン、M・ヌスバウムと W・ギャルストンを取り上げる。
3.2.民主的平等
ここまで取り上げた論者たちの議論を「運の平等主義」
であると批判し、アンダーソンは民主的な平等を主張する。
民主的平等とは社会的な抑圧の解消を目指す立場である。
各人がお互いに義務を負い、そのことを相互に了解するこ
とで人々は平等な存在であると規定される。ここでは、各
人が平等な存在であることを根拠に分配が行われるので、
補償対象者に劣った存在であるというスティグマを押すこ
ともないとアンダーソンは述べる。民主的平等の実現に際
して、アンダーソンはセンの潜在能力アプローチにならい、
各人が平等な市民として機能充足するために潜在能力が平
等化されなければならないと述べる。この機能充足は以下
の3つに分けられる。①人間としての機能充足、②協同生
産への参加者としての機能充足、③民主的国家の市民とし
ての機能充足などがそうである。こうした機能充足は各人
に責任があるか否かに関係なく保証される。なぜなら、こ
うした機能充足は市民としての義務であり、自由のための
社会的条件への移譲不可能な権利を持ち、他者の同様の権
利を尊重するという義務も同時に負っている。しかし、ど
のような財を利用するかは各人に依存するので、パターナ
リズムであるとの批判は免れているとアンダーソンは述べ
る。
こうした民主的平等は、最低ラインを超えた範囲の格差
を是正することができないとアーネソンは批判するが、
「運
の平等主義」で補償対象から除外された劣位にある人々に
対しても、最低限のセーフティーネットを補償しようとい
う、アンダーソンの狙いは十分に有意義なものであると本
稿は考える。
3.3.善のリベラルな構想
現代リベラリズムは各人の善き生の問題には中立の立場
をとっている。対して、ギャルストンの目的はロールズや
ドゥオーキンをはじめとする各人の善の構想の対しての中
立性を放棄することにある。
リベラリズムは、各人の善き生の問題に中立であるよう
にみえるが、実際にはいくつかの善(生命、利益と目的の
実現、合理性など)に関して市民たちの間に合意が見られ
ると述べる。加えて、ギャルストンが提示する善の構想は、
リベラルなの社会秩序が機能するための適切な基盤を与え
ることを目的とするものである。また逆に、ギャルストン
は、リベラルな国家を、それが多くの善を促進するという
理由から正当化している。
つまり、ギャルストンにとってリベラリズムとは多元主
義でありながら善に関する特定の理解を提供できる体制で
ある。したがって、リベラリズムにおいては当然、善に関
する完全に一致した理解を求めることはできないが、何が
善であるかに関する限定された観念は現に同意されている
し、人々は同意しなければならないと考えられている。
ギャルストンの善のリベラル的構想において、その人が
置かれている状態を評価するとき、当人の嗜好によらず、
客観的な基準を求める点については本稿では妥当であると
考える。しかし、I・M・ヤングが指摘したように、ギャル
ストンが現状の社会において合意が見られているものを前
提に善の構想をおこない、さらに社会秩序を機能させるた
めの基盤と考えている点に関しては、保守的傾向がみおら
れ妥当ではないと考えられる。
3.4.潜在能力アプローチ
ヌスバウムは、各人を選択する者としての個人の尊厳に
敬意を払わなければならないと述べる。そのためには、人々
の広い範囲の自由とその物質的条件を普遍的に護り、各人
に目的として敬意を払い、ひとりひとりが自由を持ち、自
己決定を行う前提条件が整っているかを問わなければなら
ない。ヌスバウムは国際開発研究の分野で生活の質を評価
する際に もっ ともよく 使わ れる三つ のア プローチ とし て
GDP を指標とするアプローチ、功利主義的アプローチ、基
本的資源に注目し、公正な社会的配分の基準を導き出そう
とするアプローチ、特にロールズのアプローチを検討した
後、自らの潜在能力アプローチの優位性を主張する。例え
ば、リストとして身体的健康・安全、思考、連帯などがあ
げられている。
潜在能力アプローチでは、各人がどれだけ満足している
か、どれだけ資源を持っているかではなく、リストに立脚
して各人にとってどれだけ実現可能かを問う。この人間的
な潜在能力のリストは、善き生に関して異なった見解を持
つ人々が憲法的保障の道徳的基礎として政治目的のために
合意しうるリストであるとヌスバウムは述べる。さらに、
この潜在能力のリストはさまざまな領域における社会的最
小限度を決定するための基礎であると想定されている。し
たがって、社会はこうした潜在能力の社会的基礎を提供す
るべきであるとヌスバウムは考えている。
ヌスバウムが潜在能力アプローチを閾値として位置づけ
る点に本稿は同意する。その理由は以下の通りである。
平等主義的リベラリズムの不適切な選好に対する失敗を
先に述べた。こうした問題は閾値を設定することで乗り越
えることが可能であると思われる。つまり、権利という観
点を取り入れることで、閾値を下回るもの(適応的選好)
に関しては選好形成過程に着目することなく社会的に補償
することができ、閾値を上回るものに関しては選好形成過
程に歪みが生じていても補償を要求することはできない。
4.人権に基づく平等主義
4.1.権利としての補償
ヌスバウムの潜在能力は権利として位置づけることがで
きると述べる。さらに、閾値といった概念として捉えるこ
とが適当であるとも述べている。以下では、ヌスバウムの
議論における権利と潜在能力の関係を見ていく。
ヌスバウムの考える潜在能力は人権と非常に近いが、両
者の違いを住居の権利を取り上げて説明する。もし私たち
が住居の権利を一定量の資源に対する権利として捉えるな
らば、異なった立場にいる人々に同じ資源を与えたとして
も同一の潜在能力をもたらすとは限らないという問題が生
じる。長期間、困窮した状況に置かれた人々は低い生活水
準であっても満足するかもしれない。しかし、潜在能力に
よる分析では人々が実際にどのような生活を送ることが可
能かに着目するため、控えめな選好を持った不遇な状況に
いる人々に対しても多くの支出を行うことが可能である。
しかし、
「権利」の用語は直接的に正当な要求であると主
張することができる点や人々の選択と自律性を強調してい
るという点で貴重である。
4.2.行為者性の権利論
ゲワースによる権利の概念は動態的な個人の行為者とし
ての主体性が注目される。ゲワースによると、こうした見
方には利点がある。人間は本来、社会の中で他の人々に対
して一定の要求を持って行為し、自己の生を構築する能動
的な存在である。その際に、権利の概念を用いることで各
人は自身の行為のための諸条件を確保することが可能とな
る。そして、この諸条件として自由と福利の権利が擁護さ
れることとなる。
自由の権利とは不干渉のことを指しているのだが、ここ
では、ゲワースが福利の権利としてあげているリストに着
目したい。リストは以下の通りである。
①基本的財:物理的安定、心理的安定、自信→行為の一般
的前提条件
②必要水準財:表現の自由、政治的自由権→目的達成のた
めの財
③付加的財:移住、教育への権利→達成しようとする生活
水準をさらに押し上げるもの
三つの財のカテゴリーは上記で述べたとおりに優先順位が
つけられている。
ゲワースの人権論は選択する個人の基盤として権利を考
え、さらに福利の権利としてリストが提示されている点に
おいて、人権に基づく平等主義を考えるときの参照になる。
つまり、人権に基づく平等主義における責任の有無を問わ
ずに補償する範囲がゲワースにおける福利の権利に相当す
る。しかし、ゲワースの福利の権利のリストを平等主義的
リベラリズムに当てはめることは適当ではない。
4.3.権利として補償する範囲
ゲワースの福利のリストにおいては、財のカテゴリーに
優先順位がつけられていた。それに対し、本稿では財のリ
ストに優先順位をつけることはしない。したがって、権利
として補償する範囲を考察するとき、ヌスバウムのリスト
が参照になると思われる。しかし、人権に基づく平等主義
は責任の有無を問わずに補償する範囲とそうでない範囲の
区分をすることである。したがって、金銭的に補償可能な
財に範囲を絞り込みたい。したがって、3 章で検討したア
ンダーソン、ギャルストン、ヌスバウムらに共通して見ら
れた連帯や承認を補償可能な財と位置づけることはおこな
わない。
4.4.優先主義と十分主義
優先主義は、再分配の原則を各人間の格差を是正するの
ではなく、劣位にある人々の地位を向上させることを重視
する立場のことである。十分主義は、再分配において、各
人が十分に財を持っているか否かを重視するべきであると
考える立場である両者の共通点は、平等主義の目的を達成
しようとするならば、他者との比較を行う「平等」という
理念を用いない方がよいということである。両者は、再分
配政策において、
「平等」という価値それ自体の重要性は自
明なものではなく、再吟味する必要があると指摘した点は
重要であったと本稿は考えるが、優先主義と十分主義には
それぞれ問題点がある。
優先主義は、2 億円の所得がある人と 1 億円の所得があ
る人で構成される社会では、1 億の人に優先権が与えられ
ることになる。しかし、上記の例においては、おのおのは
すでに十分な財を持っているものと考えられる。したがっ
て、こうした状態でもなお、政府が介入するべき問題が生
じているとは本稿は考えない。十分主義は、個人が十分に
持っているという状態を超えているか否かに焦点を当てて
おり、本稿における、閾値を超えているか否かを重視する
点と共通している。しかし、十分に持っているということ
を各人が自身の状態に満足しているということであると個
人の主観によって位置づけているのに対して、人権に基づ
く平等主義は閾値を個人の主観的な選好から離れて位置づ
けている。十分主義は閾値ラインの主観的位置づけは、2
章で述べた個人の不適切な選好に対して無防備であること
を考えると、閾値を客観的に定めることは妥当であると本
稿は考える。
5.結論
「各人に対する平等な配慮と尊重」という前提を維持す
るためには、責任に基づく平等主義ではなく権利に基づい
て平等を考えた方がよいと本稿では述べた。その理由は、
各人の権利として責任を問わずに補償することで、過度に
残酷な結果となる可能性をなくしている点にある。また、
補償する範囲を客観的に決定することで、不適切な選好を
適切に扱うことが可能となる。
また、本稿で考察した社会的補償を実際の運営レベルで
考えた場合、補償は再分配を意味する。したがって、今後
の課題としては租税根拠論が挙げられる。
表 5 平等の類型と不適切な選好
平等主義的リ ベラリズム
高価な嗜好
適応的嗜好
の類型
資源の平等
○
×
厚生の機会の平等
×
○
利益へのアクセスの平等
×
○
人権に基づく平等
○
○
・主要参考文献
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