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11月号(No.342)

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11月号(No.342)
ていよう
綴葉
'15
11
No.342
あなたが創る生協の書評誌
▶
話題の本棚
サリー・サテル、スコット・O・リリエンフェルド著『その〈脳科学〉にご用心 脳画像で心はわかるのか』
坂爪真吾著
『はじめての不倫学 「社会問題」
として考える』
特集/翻訳
新刊コーナー/新書コーナー/性愛への誘い/歴史考古学への誘い
〒606-8317 京都市左京区吉田本町
Tel:771-6211 / E-mail:[email protected]
綴葉HP: http://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/
京大生協綴葉編集委員会
話題の本棚
脳画像で心の本音はまだわからない
ということはほぼないのだ。よく提示される、活動の強い部分は赤
在論、つまりある特定の脳領域が特定の活動と一対一で対応する、
その〈脳科学〉にご用心
色で表示されるというような脳画像も、疑ってかかるべきだと著者
ているにすぎない。そこから「○○回路発見」「△△の脳内メカニ
の写真は、脳の血中の酸化ヘモグロビンが増減している場面を捉え
計的処理がすでに施されているし、しかも、もしfMRIならばそ
は述べる。あれはいわば解析結果の図のようなもので、いろんな統
脳画像で心はわかるのか
S・サテル著 S・ ・リリエンフェルド著
O
柴田裕之訳 紀伊國屋書店
できるはずだ、幸運にも現在の科学技術の進歩で脳を「見る」こと
心は魅力的で神秘的で、誰もが覗きたいと思っている。心は間違
いなく脳の活動によるものだ。だから、脳を調べることで心が解剖
と読者の皆さんは容易に想像できたであろう。
はさっき適当に考えたものなのだが、結構ありきたりなので、きっ
の比較図(詐欺師の脳はココが光るのだ!)付きである。この記事
わかった……」という記事が載る。キラキラ輝くカラフルな脳画像
脳を売りにするビジネス――どんな飲み物が快感情をよびおこす
のか、大統領立候補者の誰が最も投票者の心に訴えかけることがで
り、脳科学リテラシーの必要性を粘り強く説く。
怪しいと疑うのも難しい。その点で、本書はマスメディア論でもあ
科学や脳画像というブラックボックスを覗くような研究に関して言
とタイトルで、人々の注意を惹きつけなければならない。特に、脳
熟さではない。冒頭のように、ニュースサイトはもれなく短い文章
本書の前半からわかるように、脳画像法はまだまだ発展途上であ
る。しかしおそらく本書が最も強調したいのは、単なる脳科学の未
ズム」と断言する前に、慎重な解釈を経なければならない。
ができるのだし、という考えに辿りつく。これは間違いではないに
fMRIを動かすこと――は意外と存在するらしい。脳科学には素
Yahoo! ニュースに「脳内に『詐欺』回路発見 人を騙そう
とするときに特有の働き」「京都大教授率いるグループの研究で、
しろ、本書が指摘する、脳にまつわる疑似科学の根底にあるものだ。
晴らしい未来が約束されているが、使いようによっては、本書でも
恒常的に詐欺を働く人の脳は、普通の人とは違う活動をすることが
本書は研究例と実例を豊富に引用しつつ、脳科学の解釈の危険さ
を丁寧に語る。邦訳でバッサリ切られがちな引用文献・原注もちゃ
きているのか、そうした本音を知るために、かなりの費用をかけて
えば、ニュースリリースを見ただけでは、真偽を論じるのはおろか、
んと訳されている。本書でも繰り返されているとおり、ある精神が
代擬似科学になってしまうだろう。
エル)
(
(三二九頁 税込二一六〇円 月刊)
ある脳部位にイコールでつながることは、まずない(逆もしかり)。 登場するサブリミナル効果のような、しかも検証がより難しい次世
例えば扁桃体は恐怖によく反応することが有名だが、他の感情でも
やたら反応する。逆に、ある場面で活動を抑制する部位もある。局
7
2
話題の本棚
一夫多妻制等に言及しながら不倫を肯定することで問題を解消=
隠蔽する議論とは対照的に、本書は、不倫を、あくまでも防止され
「運命のもう一人」と出会う前に
はじめての不倫学
るべき問題として捉える。なぜなら、一夫一婦制を基礎とするこの
貧困の世襲など。離婚後、不倫相手と再婚しても、七五%の人が結
夫婦関係の不和、離婚、家庭崩壊、DVや殺人、子どもへの悪影響、
社会において、不倫はやはり様々な現実の不幸を生み出すからだ。
「社会問題」として考える
坂爪真吾著
光文社新書
や責任に転嫁しても、何も解決されない。
個人の力ではうまく対処できず、周囲の人々や社会に多大な損失
をもたらす点で、不倫は「社会問題」に他ならない。個人の精神力
局は分かれるという。不倫は、関わった人全員を不幸にするのだ。
私は絶対に大丈夫。そう言う人ほど、暗黒面に落ちやすい。初めは
「恋」は突然始まる。運命の人に心を奪われたり、身近な人があ
る日突然魅力的に見えたり。当然、それは既婚者にも起こりうる。
遊びのつもりが、徐々にのめり込んで泥沼にはまる人もいる。
んて全然、天国のものじゃない》(島本理生著『Red』)。
た。まるで地獄だ、と思った。肉体が離れられないことは。快楽な
るなんて、そんなことがこの身に起こるなんて想像もしていなかっ
志を超えて細胞から引きずられてしまう。そんな相手がこの世にい
てしまったら、この人と寝ないという選択肢なんてない。自分の意
員制交際クラブ、オープンマリッジ、スワッピング、ポリアモリー
認めることがやはり次善の策なのかもしれない。本書では、高級会
は戻れない。本気の不倫にのめり込んで自他を傷つけ尽くすくらい
う気になってくる。一度不倫ウィルスに感染したら、もう元の体に
ろう。だが、本書を読み進めるうちに、それしかないかも……とい
ことで、本気の不倫の芽を摘もうという議論だ。驚いた人もいるだ
では、不倫の誘惑にどう対処するか。本書のユニークな視点は、
毒をもって毒を制する点にある。つまり、疑似不倫体験を許容する
﹁ 減災﹂、あるいは﹁より小さな悪﹂という視点
笑えない。本書が例えるように不倫は、いくら気をつけてもその
発症を完全には防げないインフルエンザのような感染症として捉え
を活用した婚外セックスを通して、不倫の誘惑に抗しつつ夫婦関係
《一度会ってしまえば、したくなって、二人とも我慢できなくて、
ずるずる深入りして、まわりを巻き込んで。それでもいったん始め
るべきだ。「私には絶対にありえない」と目を背けるのではなく、
の維持と深化を実現する可能性が明らかにされている。物議を醸す
なら、現行の夫婦関係を維持し豊かにする限りで、婚外セックスを
知識と心構えを整えておく必要がある。「結婚はまだ先だからいい
3
「当然起こるべきもの」として認めた上で、いざという時のための
や」というそこのあなた。不倫ワクチンの注入は早いほどいい。
だろうが、全ての人に読んでもらいたい衝撃の一冊。 (れ
くた)
(二七二頁 税込八八六円 月刊)
﹁ 社会問題﹂としての不倫
8
福音書を読む
日本の、いや世界のベストセラー、聖書。
それは旧約聖書と新約聖書からなり、その後
イエスの言葉に対して違和感を覚えさせる箇
ていることは、キリスト者でなくても周知の
処され、そして甦ったイエスの生涯が記され
しのところに来なさい。わたしが安らぎを与
果てた者、重荷を背負う者は、だれでもわた
意を伝えるために、同じ箇所を「労働で疲れ
しかし、この「柔和で謙遜」は原意をふま
えていないと神父・本田哲郎は非難し、その
所さえある。
ことだろう。
えよう。わたしのくびきをつけ、わたしを見
者の収める四福音書に、降誕に始まり磔刑に
イエスの言葉の分からなさ
安らぎを得るだろう。わたしのくびきはむり
心底身分の低い者。それで、あなたたち自身
ならいなさい。わたしは、抑圧にめげない者、
現 在 日 本 で 最 も 流 通 し て い る 聖 書 は『 聖
書 新共同訳 』(日本聖書協会)であろうか。
その新約聖書を繙き福音書に目を通してみる
がなく、わたしの荷は軽いからである」(『小
さくされた人々のための福音』新世社)と訳
と、たとえ交じりの種々のイエスの説教が注
:
意 を 惹 く。 そ し て そ れ ら の 説 教 は、「 ブ ド ウ
園の労働者」のたとえ(マタイ福音書
1
)のように、寓意が取れないものが多い。 す。ここに、二つの異なるイエス像が存在す
20
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そ
あげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、
だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて
そ れ ど こ ろ か、「 疲 れ た 者、 重 荷 を 負 う 者 は、
読めない評者には自ら原文にあたって確かめ
輩を励ます本田訳のイエスだ。ギリシャ語を
同訳のイエスと、自身も貧困にあえぐなか同
る。苦しむ他者を包容する、余裕のある新共
:
个崎と福音』、本誌二〇一五年四月号)、文化
あったからという本田の告発に接すると(『釜
及しなくなるから」という聖書協会の思惑が
現が変えられると「せっかくの新共同訳が普
かの翻訳が採用された理由は慣れ親しんだ表
ることはできないけれども、「新共同訳」で
(マタイ福音書
)のように、
11
軽いからである」
すく、わたしの荷は
わたしの軛は負いや
うすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
-
16
28
-
30
2015. 11. 10
綴 葉
特 集
翻 訳
書店をのぞけば、店頭に並べてある本の大半が翻訳書であることに気づくでしょう。明治
以降、研究書から実用書まで翻訳を読みながら日本人の思考は鍛えられてきたといっても過
言ではないでしょう。でも翻訳の良し悪しって何だろう。意訳では正確さが欠けてしまうし、
直訳では物足りない。かといって超訳は読むに耐えない。今月は読者のリクエストにお応え
して、のぞいてみました翻訳の世界。
(砂ずり)
4
それなら、この石に一言、握飯になれと言い
神さまの我が子と慈しむお方でありなさる。
「そこで、憑き物が申すには、「そなたさまは
ここに現われるイエスは明るく朗らか、きわ
によって表わした、時代劇さながらの訳だ。
もその出身や階級にあわせて日本全国の方言
の出身地の方言)に、ほかの登場人物の言葉
エスの故郷ガリラヤの言葉をケセン語(山浦
いただきたい)。そればかりか山浦訳は、イ
「常識」まで天と地ほどの開きがある。また
を、
を改めて突きつけられるとともに、分からな
なされ。」イェシューさまはこう答えなさっ
めて豪放磊落である。
:
さの一因は翻訳にあるのではないかとの疑念
た。「尊き書き物にはこうある。『人は飯さえ
浦玄嗣は、たとえばルカ福音書
が生じてくるのである。
食っていれば幸せに活き活き生きるというも
いずれの翻訳にも訳者の理解という限界が
ある。だが、超えた壁の向こうに見えてくる
上の意義が政治的判断に左右されている現実
時空と言語の壁を超えて
のではない』とな」」と訳す(『ガリラヤのイ
ェ シ ュ ー』( イ ー・ ピ ッ ク ス 出 版 ))( 他 訳 が
新たな地平を、楽しみ逍遥されたい。 (
明)
実際、イエスの生きた当時の古代ローマ帝
国の辺境と現代日本社会では習慣風俗から
言語という点でも、名詞を表現主体とし、動
どうなっているか、気になる方は是非お調べ
少し話を広げてみよう。神の言葉の翻訳は、 ことに驚く読者も少
現代日本の翻訳者だけでなく、近代ドイツの
なくないだろう。あ
訳」とはいえ、この
れてきた。その一つが語彙選択である。一六
文豪にとっても頭を悩ませる問題だった。ゲ
そのような工夫は
現在にもある。岩手
したのである。
ウスの御大切」と訳
愛」の意味内容を伝えるために、それを「デ
慾 を 意 味 す る こ と を 知 っ た。 そ こ で「 神 の
その過程で当時の日本語における「愛」が肉
句の果てには「行為」と「超訳」してしまう。 い こ と な ど、 か な り 厳 し か っ た。「 超 訳 」 は
イツ語の「思い」あるいは「力」と訳し、挙
ギリシア語で書かれた聖書の「言葉」を、ド
書にいわゆる「超訳」を試していることだ。
(新約聖書)。ここで面白いのは、ゲーテが聖
る。それはこの一文だ。「初めに言葉ありき」
を/好きな独逸語に訳して見たい」と語らせ
で、ファウストに新約聖書の「神聖なる本文
活動に携わった宣教師たちは、日本語を学び、 ーテは『ファウスト』第一部「書斎」の場面
らには原典とは無関係な訳者の創作にすぎな
な文章によって文学的価値を損なうこと、さ
原典の文脈を無視して訳していること、稚拙
せられた批判は、原典を過度に意訳すること、
判 が 悪 い か ら だ。『 超 訳 ニ ー チ ェ の 言 葉 』
を思い出してほしい。「超訳」に対して浴び
を払う読者にとって、「超訳」はすこぶる評
を…という具合に。というのも、作者に敬意
の ゲ ー テ が「 超 訳 」
世紀後半、キリスト教伝来直後の日本で布教
これまでの内容で、神の言葉を日本語訳す
る難しさを理解できたのではないだろうか。
超訳とはなにか?
詞に種々の相を持つギリシャ語を、動詞を表
現主体とする日本語に単純に逐語的に置き換
えていくことはできない。したがって聖書に
限ったことではないが、その翻訳には高い壁
が立ちはだかる。
戯 曲 の な か の「 超
4
その壁を超えるために、日本にキリスト教
が伝来した初期の時分から種々の工夫がなさ
3
-
4
県気仙地方出身の山
5
綴 葉
No.342
2015. 11. 10
綴 葉
わざ
って読みやすいものにすることだ。つまり、
得られる利点もある。それは原典を読者にと
る。だが、原典の文体を犠牲にするからこそ
スト」というべき森
近代の「超訳ファウ
配慮がみえる。次に、
欲しいという訳者の
ルビふることで意味を余すところなく伝える
ラーになったが、いや、そうなったがゆえに、 力、業」とファウストが思い巡らした言葉に
鴎外訳を見てみよう。鴎外訳は当時ベストセ
工夫がされている。ここに二つの言語文化の
用 す る 様 が 読 者 に 伝 わ る。 次 に、「 語、 意、
イツ語、翻訳の日本語が一つのテクストで作
訳す。こうして聖書のギリシア語、原典のド
という言葉を補った上でドイツ語を日本語に
り き 』」。 ま ず、 鴎 外 は 原 典 に な い「 ロ ゴ ス 」
附 い て、 / 安 ん じ て こ う 書 く。『 初 め に 業 あ
読者の方に作者を無理やり歩み寄らせること
風当たりも厳しく、日常語を話す卑俗なファ
差異を認めつつ、両者に橋をかける媒介者=
容を簡潔に理解して
で作品のアウラを消し、同時代の読者に作品
ウ ス ト 訳 と 批 判 さ れ た(『 日 本 の 翻 訳 論 』)。
翻訳者の姿がみえる。
たしかに原典に忠実な直訳とはかけ離れてい
への格安チケットを提供できるということだ。
現代の「超訳」に似た批判を世間から受けた
こころ
多少苦しまぎれに聞こえるかもしれないが、
「超訳」のメリットを確認した上で、「超訳フ
翻訳だったが、読者がファウストの世界に親
ことば
ァウスト」といえる二つの日本語訳(池内紀
翻訳はオーケストラのようなもので、同じ
曲を異なる指揮者がそれぞれのスタイルで演
わざ
訳、森鴎外訳)を比較しよう。まず、池内紀
しむための細かな配慮があることが次の訳文
/[……]あらゆる物を造り成すものが意で
的であり、翻訳の一つのかたちとして認めら
うか。「超訳 」は少なくともこのことに意識
のように聞くのか、ということではないだろ
ちから
訳。これが「超訳」といえる最大の特徴は、
奏する。直訳、意訳、超訳などのスタイルで。
こ
からわかるだろう。「こう書いてある。『初に
だが、忘れてならないのは、聴衆=読者がど
こ
全編を通して韻文で書かれた原典を、柔らか
ロ ゴ ス あ り き。 語 あ り き。』 / も う 此 処 で 己
ことば
い散文で書いたことだ。先ほど紹介したファ
は仕える。誰の助けを借りて先へ進もう。/
こころ
ウストが新約聖書をギリシア語原典からドイ
ツ語に翻訳する箇所を池内訳で読んでみよう。 [ ……] こ う 書 い て あ る。『 初 に 意 あ り き。』
あろうか。一体こう書いてあるはずではない
こころ
くもこだわってしまうのだが、さて、どうし
「これは どうだ、『初めに言葉ありき』。はや
れてもよいだろう。 数多くの翻訳本を読破し、日夜翻訳技術を
洗練させている読者は少なくないことであろ
(砂ずり)
か。『 初 に 力 あ り き 』 /[ ……] 不 意 に 思 い
うが、翻訳を巡る思想に触れる機会は案外少
ての基本的な認識を押さえたい。複数の言語
翻訳と伝達
翻訳のポイエーシ
ま ず は、 湯 浅 博 雄 著『 ス 』(未来社)を参照し、翻訳の思想につい
翻訳の前に/翻訳の後に
ちから
た も の か。[ ……] べ つ の も の に 変 え な く て
は。 こ れ で ど う だ。『 初 め に 思 い あ り き 』。
[ ……] こ れ は ど う だ、『 初 め に 力 あ り き 』。
ら め い た ぞ、 つ ま り、 こ う だ、『 初 め に 行 為
ないのではないだろうか。本稿では、翻訳作
ついて扱った書籍を紹介したい。
ありき』」。どうだろう。この翻訳からは、ド
業の筆休めになるかもしれない、翻訳概念に
書いたとたんに、ぴったりしないのがよくわ
イツ語と日本語との言語構造の根本的違いを
かった。霊が助け舟を出してくれたのか、ひ
認めた上で、詩句をなぞる代わりに、詩の内
6
が相対的に使用され、単一の特別な言語が存
た原語の多義性ゆえに原文と訳文が等価に対
起点言語から目標言語へと意味を等価に対応
翻訳の基本である。しかしそうはいえども、
に可能な限り忠実に置き換えていく方法こそ
どを慎重に読み取り、それらを翻訳先の言語
に、原文の文法、語法、語彙、語句、比喩な
を理解するために翻訳は不可欠だ。そのため
能性を別の言語においても実現させていくこ
意味の再現ではなく、原文に内在している可
それらのテクストを翻訳する目的を、原文の
れを悪しきこととして斥けた上で、詩作品等
密さを欠くままに伝達すること」であり、こ
文庫 所収)において、伝達内容を単に運搬
するだけの翻訳とは、「非本質的な内容を厳
ならないとした。
訳するという不可能な試みがなされなければ
受け、原テキストを可能な限り無傷のまま翻
ということを強調した。そしてベンヤミンは、 を十分に意識しつつ、同時にこの暴力を引き
の本質は、伝達可能性や言明可能性ではない
ここまで、翻訳とは何かを考えてきたが、
暴力になりうる。それゆえ原テクストの他性
訳=変形する行為は、原文を歪曲する一つの
つまり、ある言語から別の言語へと文章を翻
不可能性を指摘し、翻訳に伴う倫理を説いた。
応することが難しいことを唱え、訳語の決定
させていくことで、オリジナルの記述を復元
とを通じて「純粋言語」――具体的な言語を
翻訳を主題化し、翻訳そのものについて考え
根本的に言えば、ジョン・サリスが『翻訳
に
ついて』(月曜社)において指摘したように、
︱︱エッセイの思想』ちくま学芸
するとい うような、思考を介さない「作業」
個々の言語に伏在している非可視的な言語で
誌、広告等、伝達するべき意味が明確であり、 通して不在のかたちで現れることができる、
へと翻訳を堕落させてはならない。新聞、雑
あり、それぞれの言語が究極的に意味し、志
クション
それらの意味をほとんど直接・正確に置換す
向しようとしているもの――という理想への
在しない以上、異なる言語を扱う他者の考え
ることが可能である文書を翻訳する際には、
性が出てくる。
限界があらわれ、翻訳について思考する必要
合、原文と訳文を一対一に対応させる作業の
ような不透明な対象を扱う文献を翻訳する場
言葉だけで内容を正確に表すことのできない
翻訳
の倫理
ロセスに、翻訳の可能性を見出していった。
れることで作品そのものが生き延びていくプ
にベンヤミンは、作品が多様な言語へ翻訳さ
みこそ、翻訳の本質であると考えたのだ。更
一つの絶対的な意味の表象へ接近していく試
本稿では、翻訳例を考慮せず、翻訳論のみ
を抽出し、様々な翻訳思想の表層を横断して
のの可能性を探っていく。
たかをあくまでも真摯に問い、翻訳論そのも
を引用しながら、翻訳がいかに思考されてき
ン、ニーチェ、ハイデガー等の哲学者の文献
は、このもどかしさを踏まえた上で、プラト
語における単一の語や文が、翻訳の際に複数
政 大 学 出 版 局 所 収 』) 等 に お い て、 翻 訳 の
不可能性を考察した。たとえばデリダは、原
訳「作業」の傍らに、少し引いた視点から翻
するべきか、という技術上の問題を忘れ、翻
みた。ときには、いかにして熟練した翻訳を
あったベンヤミンは、
訳について考えてみては。 (
ミン
ト)
デリダは「バベルの塔」(『他者の言語』法
「翻訳者の使命」
の語や文に翻訳されうる場合を挙げ、そうし
ボードレールやプ
ルーストの翻訳者で
翻訳
の可能性
であろうが、文学作品や思想のテクストなど、 接近に見た。つまり複数の言語が補完し合い、 「翻訳」する行為に過ぎない。しかしサリス
ることは、結局のところ「翻訳そのもの」を
「翻訳」そのものについて考える必要はない
2
(『ベン
ヤミン・コレ
7
綴 葉
No.342
新刊コーナー
レサークルでの「男って自分より低レベルの
女子大の女を選ぶもんじゃないのかなぁ」と
れ、逃亡するというのが本書の大きな筋だ。
その中でエルズは今までの人生を回想してい
各大学のあるあるネタを挟みつつも、登場
人 物 た ち は 一 枚 岩 で は な い。「 早 稲 女 」、「 慶
都心の洗練された男性の間で揺れ動く心。
洋楽まで作中で紹介される幅は広い。パワー
ー・ガガやリンキン・パークのような現代の
る。 バ ッ ハ の よ う な ク ラ シ ッ ク か ら レ デ ィ
ついている。そして、各章ごとには音楽や遺
いう言葉。田舎のキャンパスに残した彼氏と、 くが、その人生は様々な音楽と不可分に結び
應女子」といった各大学のイメージに振り回
ズ に は 他 に も『 わ れ ら が 歌 う 時 』 や 未 訳 の
うだ)。音楽に疎い読者にはとっつきにくく
者は本書同様音楽に遺伝子を絡めた作品のよ
伝子にまつわる意味深なエピグラフが配され
され、同一化したり距離をとったり、冷やや
早稲女、
女、
男
か な 視 線 を 送 っ て い た り。 そ れ で も 結 局、
作品があり、その愛着ぶりが伺える(特に後
『黄金虫変奏曲』のように音楽を主題にした
柚木麻子著
祥伝社文庫
姉御肌で頼れる
「早稲女」、その名も
く慕わしく感じてしまうのだ。大学生とは、
「○○大生」を演じてしまい、母校を何とな
自分の大学のイメージに同一化せざるを得な
早乙女香夏子。学習
した習子。コミュ力
院大在籍のおっとり
の高い立教大生、三千子……。
感 じ ら れ る が、 今 や YouTube
で原曲が確認
できる時代だ。気になった曲を聴きながら本
書を紐解いてみるのも一興だ。
しかし、個人的には紙の本には音楽には合
わないとも思う。たとえば、アニメなどでは
な社会人と付き合うべき?
か?」登場人物の一
ものが他にある
「 聴 く こ と の で き
ない音楽ほど美しい
うかもしれない、「聴くことのできない音楽
が弾かれだす瞬間には、読者はやはりこう思
音楽を主題とした作品が好評を博し、映像と
らない態度に、周囲はやきもきしたりドギマ
人はそう言う。帯で
リチャード・パワーズ著
木原善彦訳 新潮社
オルフェオ
い生き物なのだろうか。 (
貝殻)
二七八頁 税込六四八円 月刊)
(
大学の擬人化か、と色めき立つかもしれな
い。確かに本作は都内六大学をモチーフにし
た短編集だが、ストーリーは香夏子の恋愛を
軸とした女子大生達の成長物語だ。なんとい
ったって、不器用なのに気丈な早稲女である。
ギしたり。放っておけなくて、ついつい構っ
既にネタバレされているので躊躇なく述べる
ピグラフの隠れた意味が明かされ、最後に曲
ば、楽しみが増しそうなものだ。しかし、エ
しいメディアでより簡単に原曲を参照できれ
曲と物語の一体感を提供している。本書も新
てしまう三千子たち。本作でも、女性たちの
が、遺伝子を音楽に組み込もうとした老年の
ほど美しいものはない」と。 (投稿
・眼鏡)
(四二八頁 税込三一三二円 月刊)
恋の悩みは絶えない。彼氏はシナリオ作家を
絆を描く柚木節は健在だ。
音楽家エルズが、バイオテロの容疑をかけら
香夏子の煮え切
ただ、大学ネタということもあり、学生に
とって生々しいエピソードも満載だ。インカ
7
目指す八年生。冴えない彼氏を捨てて、素敵
9
2015. 11. 10
綴 葉
8
動物行動の観察入門
はあくまで相関関係しか分からない。因果関
階ではそれでいいのだが)。さらに、観察で
ってしまうかもしれない(もちろん最初の段
う室温下に置かれたマクロな物体に、量子力
響く主張ではないだろうか。一体、生物とい
ある。これは初めて聞くと、極めて胡散臭く
力学に特有の効果を利用しているというので
量子力学的効果が関係するのはあくまでミク
ここで、ミクロレベルの事象がマクロな帰
結をもつという生命現象の特質が重要となる。
学的効果が働くことなどあるのだろうか?
係解明には実験が望ましいことが多い。
い。しかし、調べたいことの他に、どんな種
ロな事象であるが、結局生物全体にその影響
-
計画から解析まで
マリアン・S・ドーキンス著
黒沢令子訳 白揚社
動物の観察法に関
する書籍は実は少な
を見たいのか、その種はどこにいて、昼行性
は及ぶ。例えば、葉緑体のエネルギー変換効
実験や観察の片方だけをしている人は、も
う一方についてあまりにも知らないことが多
い。井上英治・他著
なのか夜行性なのか、多種多様な事柄を、研
量子生物学への招待
量子力学で生命の謎を解く
-
ジム・アル カリーリ、ジョンジョー・マクファデン著
いう主張がなされる。どうやら、電子は複数
経路の重ね合わせ状態として移動しているら
しいのだ。もっと身近な例として、匂いの感
知という話題も紹介される。生物は鼻の中で
匂いの原因となる分子を感じる。実は、この
とき分子の形というよりも、むしろその分子
いので、バイアスのかかった場面を切り取っ
で、二四時間三六五日観察できるわけではな
を与えることが少ない、ということだ。一方
は見ているだけなので、動物に人為的な影響
あって、それは量子力学で記述されるべきも
と、生命現象は化学反応に依存しているので
よくよく考えてみる
心的な主張である。
というのが本書の中
生命は量子力学を
駆使して生きている、
できない。しかし、その点を補って余りある
の分野は現在発展途上で、内容を鵜呑みには
本書で扱われる例はそれなりに信用できる
理論や実験事実に基づいているようだが、こ
が吸収できるエネルギーの大きさが検知され
てしまう可能性がある。カラスが偶然フンを
のであるから、ある意味当然の意見だろう。
水谷淳訳 SBクリエイティブ
率の高さの秘密は、電子の移動経路にあると
究計画を立てるときに考えなければならない。
版会)は実践面に重きを置いた良書であるが、
本書はそんなときに有用だ。 (エル)
二二〇頁 税込三八八八円 月刊)
(
『 野生 動 物 の 行 動 観
察 法 』( 東 京 大 学 出
本書はその前の「どういうときに実験ではな
く観察手法を取るべきか」「観察で何が分か
り、何が分からないのか」という、研究計画
の部分にやや重点を置いている。
京大でカラスを見たことはあるだろうか。
日常的な場面に観察のネタは転がっている。
ヒトの上に落としたところを目撃したなら、
しかし、これは単に量子力学で何でも説明で
(四〇〇頁 税込二五九二円 が知られている。
(蕨餅)
月刊)
子を同位体で置き換えると匂いが変わること
ているのだという。その証拠に、分子中の原
そしてそのカラスがとりわけあくどそうな顔
ほど魅力的な一冊だ。 観察の良いところはコストが低く、基本的に
をしてい る気がしたなら、「ヒトを攻撃する
きるというだけの主張ではない。生命は量子
9
9
ために使っているのだ」という印象が強く残
9
綴 葉
No.342
心は他の時代に比し
朝~室町時代への関
に関心を示す著者にこそ新しい南北朝研究を
まり、史料集の『南北朝遺文』も続々刊行さ
れつつある。「あとがき」で高一族の全体像
昨年から岩波文庫で『太平記』の刊行が始
ローグも読み逃せない。
つての「足利尊氏像」について熱く語るエピ
まとめたプロローグや、本書の表紙を飾るか
りつくす。南北朝期に関する歴史観の変遷を
である「新秩序の創造者」としての師直を語
多くの文書を残した師直像が叙述され、副題
全編を通じ、足利幕府の機構整備に尽力し、
ニー』のアイデアを膨らませて独自の近未来
象的だったのは、意識=選択という『ハーモ
手たちの中に、伊藤計劃のミームが深く根付
見もあった。デビューして間もない若い書き
の罪が大とはいえ失望を禁じえない。だが発
不満はある。トリビュートと直接関係のな
い長編の一部を収録したのは作家より編集者
は実に複雑な体験だった。
かに眺めていた身にとって、本書を読むこと
の正当化に利用した。そうした流れを冷やや
高 師直 :
て高いとは言えない
皇国史観の時代も
遠く過ぎ去り、南北
室町新秩序の創造者 亀田俊和著 吉川弘文館
だろう。史料の欠乏や散逸もあるが、やはり
帝国』を思わせる世界でナイチンゲールと切
ディストピアを描いた王城夕紀と、『屍者の
いていることが確かめられたのだ。中でも印
南北朝期を通覧できるような歴史書に乏しい
り裂きジャックの奇妙な出会いを描いた伴名
練の作品だ。王城夕紀は文中にパロディを埋
め込む手癖まで再現する茶目っ気に、伴名練
は作者コメントの真摯な問いかけに、それぞ
れトリビュート対象への深い愛を感じた。
と死闘を演じた南朝の貴公子・北畠顕家が高
イメージは本書で揺らぐこととなろう。師直
の悪役にもなった北朝随一の悪役だが、その
師直と言えば浄瑠璃演目「仮名手本忠臣蔵」
の 願 い を「 Project Itoh
」 や「 伊 藤 計 劃 以 後 」
といったパッケージに包んで売り出した。つ
したことがある。無分別な出版社は、彼のそ
てそんな願いを吐露
──伊藤計劃はかつ
中で生き続けたい
のだろう。だがその時はまだ遠い。彼の作品
私たちは彼の物語と本当の意味で向き合える
王城夕紀他著
ハヤカワ文庫
伊藤計劃トリビュート
開拓していって欲しい。 (ヒス
トリア)
二二八頁 税込一八三六円 月刊)
(
ことがその一因といえよう。
そんな中、京大を拠点に南北朝期を研究す
る気鋭の研究者・亀田俊和が新著を上梓した。
著者は専門書に加え吉川弘文館歴史文化ライ
本書は二冊目の一般書となる。
ブラリーで『南朝
の真実』を出版しており、
作家が生き残るとは、彼の名がトークショ
ーのネタにされたり、S‐Fマガジンの表紙
師直と互角の残虐行為を繰り広げていること
を飾ることではおそらく、ない。むしろ彼の
に驚かされ、達筆の評を受ける書を中心とす
まらない批評家は、彼のその言説を商業主義
読むのだろうか。 (
投稿
・闇藤)
(七三一頁 税込一二三一円 月刊)
を愛する読者は、果たして本書をどのように
名が大っぴらに語られなくなったときにこそ、
る師直の教養の高さには意外の念を覚える。
内容は、足利尊氏の執事として初期の足利
自我が滅んでも、
幕府を率いた高師直を描いた伝記研究である。 物語となって他人の
8
8
2015. 11. 10
綴 葉
10
る文学教授。性欲、研究欲ともに斜陽がかっ
情として繋がり、相互の意識が透明に信頼で
いうことは、それ以
「 人 間 の 絶 対 的 な
幸福が服従にあると
がたい流れを前にして無力であること、さら
を通すと、ヨーロッパの人文知が社会の止め
イスラームへ「穏やかに」改宗する結末に目
識人「ぼく」さえも、特別なきっかけもなく
いる。露悪的でノンポリをきめこんでいた知
化される過程が冷静かつ滑稽に描きだされて
けでなくあらゆる制度が無力にもイスラーム
イスラーム政権誕生後のフランスで、信仰だ
や言語に頼っていく事を批判する。そのよう
ルソーは感覚を重要視し、思索にふけること
言葉にせずともわかり合える関係、伴に音
楽を聴きながら直接的な感覚を喜べる社会。
うか。
らも、今も持ち続けているからではないだろ
識として私達が透明性への憧れを否定しなが
の本が読まれ続けていることは、その問題意
の理想故に苦悩しているのだということ。こ
てきた中年だ。この「ぼく」の視線を通して、 きる社会を楽園として描いている。そしてそ
前にこれだけの力を
にはその「行き詰まり」さえもリアルに思え
服従
持って表明されたこ
ミシェル・ウエルベック著
大塚桃訳 河出書房新社
とはなかった。それがすべてを反転させる思
な行為は人間を分断していく行為だからだ。
想 な の で す。」 服 従 の 意 味 を こ う 主 張 し、 イ
ルソーが描く自然状態は、しかし現実には
到達できないことを彼は知っている。心と心
を開く享楽は必ずその終わりある哀愁と伴に
やってくる。祭りや音楽でどれだけ人々が繋
繋がったとしても、夢はいつか覚めるように。
ルソーは最終的に自分を孤独にすることを通
スでベストセラーにもなった。
ルソー研究の名著で
目散に読んでみた。
ずっと読みたいと
思っていた本が復刊
ルソーの理想は有限性と伴に重く響いてく
覚しながらも、孤立化してしまう社会の中で、
がりたい欲望を持っている。その限界性を自
して、繋がれない社会に抵抗していた。生ま
では話題性ありきの小説か、といえばそう
でもない。本書はイスラームのテロルに対す
あり、やや異端ともいえるこの本は一貫して
ジャン・スタロヴァンスキー著
山路昭訳 みすず書房
ルソー 透明と生涯
てならない。 (砂ず
り)
三○四頁 税込二五九二円 月刊)
(
スラームへの改宗を説くのは、二○二二年の
ソルボンヌ大学学長だ。フランス社会のイス
ラームへの服従というテーマをこれほどアク
チュアルな問題としてとりあげた本は、ウエ
ルベックのこの近未来小説をおいて他にない
だろう。しかも、本書はシャルリーエブド事
る恐怖心を煽っている訳ではない。むしろ、
捉えにくいルソーの問題意識を根源的な部分
る。 (きもの)
(四六三頁 税込四八六〇円 月刊)
したのだ。人間とはどこかで思索を超えて繋
く世界に、彼は孤立して文章を書くことで抗
れつき美しい人間が、社会の中で堕落してい
一人のシニカルな個人主義者が絶対的なもの
から描いている。
件と出版時期が重なったこともあり、フラン
に対してそれと気づかず「穏やかに」服従し
されたと聞いて、一
てゆく心理過程の見事な分析だといえよう。
その主張は至ってシンプルだ。ルソーは感
11
9
主人公の「ぼく」は、ユイスマンスを研究す
7
綴 葉
No.342
のあり方一般への、根底的な批判、等等。 界観の哲学や、生きることから遊離した学問
る試みの数々。価値相対主義に陥りがちな世
く、原始キリスト教の伝統を救い出そうとす
あるキリスト教神学のうちですら失われてゆ
ト派哲学との対決。或いは又、自らの出自で
学の巨人ヴェーバーの知的基盤である新カン
ったかのドキュメントである。例えば、社会
悪」に対する「赦し」の可能性を、償いとい
に否定する「時効不適用」という結末をも超
いう結末を超えて、そして「赦し」を絶対的
目的論的に設定された「和解」や「時効」と
ストなどの不可逆的な悪にデリダは言及し、
能にする条件の外部にある、戦争やホロコー
的思考が必然的に要請される。「赦し」を可
に直面したとき、「赦し」をめぐる形而上学
う行為がもはや不可能なほどに巨大な悪――
始まりのハイデガー
在の問い」によって
う混沌たる「交換」原理ではなく、不可能な
ハイデガーといえ
ば一般に、その「存
細川亮一・齋藤元紀・池田喬編
晃洋書房
「現代哲学」に最初
文集として本書は、現代を哲学的に考えるた
現代にも引き継がれる諸問題と格闘する
「始まりのハイデガー」に関する初の入門的
赦すこと ――赦し得ぬものと
時効にかかり得ぬもの
ジャック・デリダ著
守中高明訳 未来社
とのない「赦し」の可能性が開かれうる。
の外部にある、それでいて決して現前するこ
じられた秘密の領域において、あらゆる条件
者や法的な論理の介入し得ない、こうした閉
的・対面的な領域においてあらわれる。第三
「赦し」は根源的には、赦す者と赦される
者という特異=単独な二人の間における直接
ものとしての純粋な「贈与」に見出す。
え て、 決 し て「 赦 し 」 を 与 え 得 な い「 根 源
の胎動を与えた哲学
めの格好の入門書ともなろう。 (
犬)
一八五頁 税込二五九二円 月刊)
(
者として知られている。しかしハイデガー自
身のルーツは、一九世紀後半ドイツの知的状
況にあった。
一 九 世 紀 は 一 言 で 言 っ て、「 ニ ヒ リ ズ ム 」
が顕在化した最初の時代である。それは、政
治と産業の両面で数度の革命を経験し、社会
構造が根本的に変化した時代であった。およ
そ伝統的なものが軒並み失われ始め、「価値」
赦し得ないものについて赦す可能性がある
とすれば、そうした不可能なものとしての無
される」とは何か。
す 」 と は 何 か。「 赦
し」を考えれば、身近な他者との間の関係に
い て 思 索 す る。「 赦
歴史学や社会学が生まれた時代である。ハイ
そして「赦し」の可能性とは何か。
デリダは本書で、
「赦し」の概念につ
デガーが哲学修業を始めたのは、そんな時代
も良い変化をもたらすことだろう。(ミント)
月刊)
学が席巻して哲学や宗教の意味が見失われて
状況の中においてだった。
「根源悪」――赦す/赦さないという判断
そのものが無効になり、赦しを乞う者を救済
条件的な赦しの思考とその適用の可能性/不
本書の各論が提供するのは、時代の趨勢を
体現する複数の学問的諸派から出発して、ハ
しうる可逆的な応答、すなわち罪を償うとい
(一四〇頁 税込一九九四円 7
可能性にかかっている。デリダとともに「赦
イデガーがいかに自分の思考を練り上げてい
ゆき、或いはその穴を埋め合せるようにして
は多様化していった。学問においては自然科
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2015. 11. 10
綴 葉
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たのしいプロパガンダ
辻田真佐憲著
イースト新書Q
悪の力
姜尚中著
集英社新書
講談社ブルーバックス
現代数学の超難問
「P NP」問題
野崎昭弘著
冷静なコメンテーターの姿が印象的な姜尚
中。しかし彼は、悪の魅力に強く引きつけら
の範囲は日々狭まっているというのが率直な
てしまう。やはり、人間にしかできない仕事
の生活を思えば、「何でも」と答えたくなっ
コンピュータには何ができるのだろうか。
ゆりかごから墓場まで計算機に依存する現代
説教臭い過去の遺物だと思ったら大間違い。
れてきた一人であった――実際の「悪」が、
「私はずっと悪に憧れていました」。
「宣伝は楽しくなければならない」という理
いかに矮小で惨めなものか知るまでは。
してないけど既に帰りたい協会」のチグハグ
ラ ム 国 に よ る Twitter
使 用 の 事 例。 宣 伝 メ ッ
セージと、ハッシュタグの「全日本まだ登校
にか近くにやってくる。興味深いのは、イス
絵柄や熱い感動、親近感を装って、いつの間
う感覚の喪失だ。
にも通底する空洞観、自分が自分であるとい
を経由してあぶりだされるのは、どんな「悪」
等の古典、「システムとしての悪」資本主義
刑”。耳に新しい事件を皮切りに、文学作品
大義名分の下で執行されるイスラム国の“処
「人を殺してみたかった」という単純すぎ
る動機で行われた、日本国内での殺人事件。
悪の実態とは何なのか。
「
題 」 が 本 当 に 難 し い か ど う か を 問 う の が、
の と 大 差 な い の だ。 そ の よ う な「 難 し い 問
くのに時間がかかりすぎて、実用上解けない
いう概念である。つまり、ある種の問題は解
ら れ て い る。 鍵 と な る の は、「 計 算 時 間 」 と
タには実際的に解けない問題があることが知
る。原理的に人間にしかできないことがある
印象だろう。コンピュータは万能なのか。
念 は、 日 中 戦 争 時 か ら 現 在 ま で 続 く 世 界 の
ここで問題となるのは「原理的にできる」
ことと、「実 際的にできる」こ ととの差であ
さが人目を惹き、あっという間に話題となっ
NP問題」の内容である。
かどうかは定かでない。しかし、コンピュー
た。異様さに気づけるうちはいいのかもしれ
して、シュールなものからキモかわいいもの
少し気にかかる。いや、むしろ合理的な理由
考察が洞察的な反面、個別具体的な利害や
主義主張が勘案されないのが、評者としては
歩が丁寧に説明される。特にこの分野に初め
門的な内容には深入りせず、計算の理論の初
本書では「コンピュータにできること」の
定式化から「
NP問題」に至るまで、専
9
(二二四頁 税込九七二円 9
P
≠
て触れる人にはおすすめだ。 (蕨餅)
月刊)
を越えたところから生まれる闇――それこそ
ない。しかしプロパガンダの抜け目なさに対
やアニメ等、現代のポップカルチャ
You Tube
ーまで射程を広げている点である。かわいい
“伝統”なのだ――。
彼は自身の経験から、次のような問いを立
てる。道徳的には忌み嫌われながらも、人の
本書の見どころは、いま現在行われている
プロパガンダの検証だ。SNS、萌えキャラ、 心 を 魅 了 す る「 悪 」。 激 し い 二 面 性 を 持 つ、
しかつめらしい宣伝や秘密裏の情報戦を思
い浮かべるかもしれないが、プロパガンダが
≠
まで清濁併せ呑む寛容さは、どこまで通用す
が「悪」の本質なのかもしれない。 (貝殻)
月刊)
一八九頁 税込七五六円 (
13
P
≠
るのだろうか。軍靴の音は、案外こんなとこ
ろから聞こえてくるのかもしれない。
(貝
殻)
月刊)
二二三頁 税込八六四円 (
9
綴 葉
No.342
性愛への誘い
今あなたに必要なのは「モテる」
ことである。
敵な人とすれ違っているはずなのに、出会いを諦めている君に送り
命の出会いに変えて、日常生活を喜々と楽しんでいけるはずだ。素
しんでいく奴のことだ。そんな人になれれば、偶然的な出会いを運
「モテるためのマニュアル本?」そんなものはゴミ箱に棄ててし
まえ。本当にモテる人はマニュアル通りに行かない事態を笑顔で楽
薦めたい。
っさ逃げ出してしまう、そんな自分を変えたいあなたへ、この本を
プライドを守ることにうまくなり、「痛い部分」に触れられるにと
ンプレックスを見つめ、うまく付き合っていく作法を学んでいく。
に保障してほしいからだ。人はモテるということを通して自分のコ
いのかといえば、「あなたはそんなに、気持ち悪くないよ」と誰か
あなたが気持ち悪いから」と一刀両断する。そして人は何故モテた
たい。今こそ性愛の話をしよう。
上記二冊で準備はばっちりだ。しかし最後にもう一冊強烈なのを
まず紹介したいのはナンパ師であり、カウンセラーである高石宏
輔氏の本『あなたは、なぜ、つながれないのか』(春秋社)。本書は
上手い会話の技術書ではない、むしろそのような技術に頼っている
逆に人々を遠ざけてしまうのだ。著者は述べる。「思い浮かんだこ
ランド化のためのナンパ」なのだ。私達は常識を武器として他人を
らない日常を、無限の広がりのある非日常に変える「世界ワンダー
肯定のナンパ」をつまらないと批判する。むしろ今必要なのはつま
しぶりに言及した本だ。この本ではモテない自分を変えたい「自己
とを如何に自由に丁寧に伝えていくか。また相手のそれをどれだけ
批判する一方で、いつも常識に捕らわれてしまう自分をつまらない
薦 め た い。 そ れ は 宮 台 真 司 編 著『
﹁絶
望の時代﹂の希望の恋愛学』
(中継出版)。今や国家や運動をかたる宮台真司が、性愛について久
受け止められるか。それを楽しむことが会話である。」と。自由な
人間だと思ってしまう。しかしいつも通り過ぎていた出会いを、こ
だけでは実りある会話が出来ないことを指摘する。話を合わせよう
会話を楽しみたい人へ、ナンパとしてはもちろん、人とのコミュニ
とする焦り、無意識にやってしまう返答の仕方、そういったものが
ケーションに悩む全ての人にこの本を送りたい。
常に飽きてしまいながら、そこから踏み出す勇気がない君に、この
こにしかなかった出会いに変える時、世界は風景を一変させる。日
そしてこの業界ではもう古典とも言える本書、二村ヒトシ著『全
てはモテるためである』(文庫ぎんが堂)。一九九六年に出されて未
と唸らせた本書は、人間が「モテる」とい
を書き、國分功一郎に実践的な倫理学の本
いを、運命をかき変える瞬間にするために、今君に必要なのは「モ
にある出会いの不思議さが横たわっている。ふとした瞬間のすれ違
人生はからくりに満ちている。無数の人々のすれ違いながら、私
達は出会うことがない。しかしその根源的な哀しさの裏に、今ここ
だに重版を重ねている本書は、「モテる」ということを考える上で、 本を捧げたい。
う上で、自由になるための本と言ってもい
テる」ことである。 (
きも
の)
もはや欠かせない本だ。上野千鶴子が解説
い。 本 書 は モ テ な い 事 は ず ば り、「 そ れ は
14
歴史考古学への誘い
文字の時代をモノから見てみる
ノ」は一体いかなるものであるのか―を追求した同書は、言うは易
いのほか多いことであった。本企画では日本の歴史考古学に話題を
先史考古学でもなく、歴史時代(文字のある時代)の考古学者が思
した。しかし、大学入学後イメージと異なったのは、殊に京大では、
せ、森浩一や佐原真の本を読んで素人批評をするような十代を過ご
作を二冊紹介したい。
ても関心が高まり、専門家も急激に増えつつある山城についての著
さて、中世考古学の対象としては荘園・廃寺・中世都市など様々
な対象があろうが、ここでは近年町おこし資源や観光スポットとし
中近
世考古学︱山城の考古学
く行うは難い学際研究を単身で遂行した貴重な記録である。
絞り、読者諸賢に紹介したい。
千田嘉博他著『城から見た信長』(ナカニシヤ出版)は、山城考
古学の開拓者となった千田嘉博ら四人の専門家が執筆する奈良大学
読者の中には幼少の折、「考古少年」だったという人がおられる
かもしれない。かくいう評者もテレビで吉村作治の活躍に心を躍ら
古代考古学︱生産遺跡・寺院遺構
べている。書名や体裁は論文集風だが、講義録として読みやすい講
「解説」が掲載され、学史とその参考文献を思い出を交えながら述
した木器論は共に秀逸である。また、各篇には上原の学識を傾けた
う刺激的な論考を始めとする瓦論、新しい農具や工具の形態を発見
寺院論の三篇からなり、平安京の家屋が瓦葺であったのか否かとい
た考古学者・上原真人の最終講義録である。構成は瓦論・木器論・
者が昨年京大の教壇を去った。上原真人著『瓦・木器・寺院』(す
いれん舎)は木器と瓦という性格の全く異なる二種類の遺物を究め
遺構も収録する本格派である。遺跡件数が多く山城王国とも言える
などの現在進行形の研究成果も取り入れて、緊急発掘後に消滅した
である。旅行ガイドめいた書名とは裏腹に、京都府の中世城館調査
ある大山崎歴史資料館館長福島克彦らの手になる山城ガイドブック
抵 の 山 城 は 実 見 で き る。 仁 木 宏・ 福 島 克 彦 編『 近畿 の 名 城 を 歩 く
滋賀・京都・奈良編』(吉川弘文館)は京都府の山城研究の拠点で
地中にある遺構と異なり、特殊なスキルや展示施設が無くとも大
げ、価格に比して大変良質である。
攻略戦で拠点とした小牧山城の発掘など最新の研究テーマも取り上
ブックレットの一冊である。ブックレットながら、織田信長が美濃
演体の文章を中心に収録している。平仮名を多用する上原の柔かい
京都と滋賀の山城を多数収録し、一つ一つに実測した縄張り図を付
冒頭で著名な考古学者の名前を羅列したが、彼らに劣らぬ考古学
名文にも着目してほしい。
した編集方針には大変好感が持てる。
また、瓦論・木器論に加えて著者は近年寺院論にも手を広げ、専
近世以降の新しい時代を扱う考古学も流行を見せ、中韓などの東
アジア地域の考古学を扱う簡明な書籍も増えつつある。別の機会に
門的内容の一般書として同著『古代寺院の資産と経営』(すいれん
舎)を記している。寺院の遺構や遺物に関心を持つ考古学と、寺院
の組織や運営を文献から考察しようとする文献史学の谷間と言って
(ヒス
トリア)
異なる考古学への誘いをできればと思う。
も よ い 問 題 意 識 ― 寺 院 資 財 帳( 寺 院 の 財 産 目 録 ) に 記 さ れ る「 モ
15
綴 葉
2015. 11. 10
当てよう!図書カード
編集後記
みなさま、進捗いかがでしょうか。
日本人のノーベル賞ダブル受賞が世間を騒
卒論や修論を抱えて四苦八苦している方も
がせました。喜ばしいですね。それでは問題
いらっしゃると思います。これから提出日ま
です。「カミオカンデ」の設計に携わり、ニ
で、NF、クリスマス、初詣等々、心躍るイ
ュートリノの観測に成功してノーベル物理学
賞を受賞した人は、誰でしょう。
ベントが目白押しです。心を鬼にして執筆に
1. 村上春樹 2. 梶田隆章
打ち込むのもよし、息抜きに参加するのもよ
3. 山中伸弥 4. 小柴昌俊
し。まあ私は、イベント事など関係ないと開
(れくた)
き直っていましたが。とにかく、何かと忙し
《応募方法》読者カードに答えを書いて生
いこれからの季節、体調にはお気をつけくだ
協のひとことポストに入れてください(また
さい。体が働かないと、頭も働かないですか
はe-mail:[email protected])。 正 解 者 の 中 か ら
らね。
抽選で5名の方に図書カードを進呈いたしま
ところで、大きな締め切りを抱えると、何
す。締切りは12月15日です。
かほかのことで時間をつぶしたくなりません
説が急に読みたくなったり。時間が無い時に
7月号の解答
何かに打ち込むほど、充実感が得られる気が
正解について、作意は45年7月に対日宣戦布
します。焦りのぶん時間が凝縮されているの
告した「2.イタリア」でした。しかし、
「3.フ
か……。こんな濃密な読書の仕方も、アリな
ィンランド」も対ソ休戦後の44年9月に対日
のかもしれません。ということで、今年は高
宣戦しており、両方を正解とします。勉強不
校生の時にはまった、とある作家の本を読み
足で申し訳ありません。応募者9名中9名の方
返しています。何年か時間をおいて読み返す
が正解でした。図書カードの当選者は、菅野
と、意外な発見があるものです。しかし気晴
さん、前田さん、なまずさん、のんのんさん、
らしのはずが、いつしか本業を乗っ取りそう
佐間瀬勉さん(順不同)です。おめでとうご
か?
夜中なのに掃除をしたくなったり、小
(貝殻)
な気配です。
(ヒストリア)
ざいます。
読者からひとこと
○(七月号)特集「災害」は多面的な作品紹
介で大変参考になりました。読めていないけ
れどぜひ読んでみたいものが多く夏の楽しみ
ができま した。「津波の後の第 一講」は大学
の書評誌らしい選択で嬉しい限りです。
(職員・ヒマワリ)
―特集を三人で執筆する場合は、分量が多く
内容の棲み分けにとても苦労します。ですが、
このように褒めてくださると励みになります。
○「きもの」さんと「きものさん」さんは同
一 人 物 で す か? そ れ と も 編 集 に 余 裕 が な か
(匿名)
― ご 指 摘 あ り が と う ご ざ い ま す! 恥 ず か し
ったために生じた誤植ですか?
ながら、綴葉のメンバーもご指摘で初めて気
づきました。はい、同一人物で、誤植です。
元々は「きものさん」だったのを、文字数が
多いため削った結果の混乱でした。(き
もの)
○( 今 後 取 り 上 げ て ほ し い 本 ) Essential細
胞生物学 (理・
たみす)
―綴葉では基本的に安価な(五千円以下)の
(エル)
書籍を取り上げることになっていますので、
難しいかもしれません。ただ、その本は間違
いなく良い教科書です。 16
Fly UP