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ダウンロード - 日本近代文学会

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ダウンロード - 日本近代文学会
ISSN 0549-3749
第8
5集
論文
広津材l
Ii
良
.における小説と演劇
一一「畜生腹 JI あにき 」 の I~IJ 化上演をめ ぐっ て 一一
締
J
a
1
1
1
話tI訳からの 出発、あるいはね1
訳への 出発
ヂ│伏鱒二訳 『
父の罪j論
織
1
7
笹尾佳代
3
3
木田隆文
4
9
村
子
6
4
小平麻衣子
7
8
江種
子
8
7
千四洋幸
9
5
塩野
加
〈肖像〉への まなさし
一一紀元二千六百年奉祝美術展覧会と樋口 一葉一 一
武田泰淳「中秋節の頃 (
上)
Jの周辺
日本統治下上海における邦 人文学界の状況一一
体験を分有する試み
一一林京子 『
ギヤマンビードロ j論一一
研究
ノート
上
陽
田村 (
佐藤)俊 子 年 諸 の 隙 間
一一愛の 1!} ~1iと文学 的 動向一一
展望
健在です 、 フェ ミニズム / ジェンダーの研究
満
ポップカルチャ ー とジェンダ ー・ スタデイ ーズの行方
1
広津柳浪における小説と演劇
﹁畜生腹﹂﹁あにき﹂ の 劇 化 上 演 を め ぐ っ て │ │
上この頃に端を発している。明治三0年代後半になって新派は
本郷座時代と呼ばれる全盛期を迎え、小説劇の流行が一時代を
劃すことになるが、その濫鯵は三0年代初頭の﹁新演劇﹂にあっ
たといえる。
m
u
を標携しつつ本格的な演劇改良へ踏み出していくことになっ
た。その中で、尾崎紅葉らの小説の脚色上演が徐々に行われ始
4-m
・﹁恋の病﹂(紅葉)明治却 -U・1 市村座
・﹁金色夜叉﹂(紅葉)明治担・ 3 ・ お 市 村 座
・﹁畜生腹﹂(柳浪)明治担・
川上座
・﹁あにき﹂(柳浪)明治担・ 6 ・ お 浅 草 座
・﹁心の闇﹂(紅葉)明治担・ 9 ・ お 新 富 座
紅葉・柳浪の作に限らず、文壇作家の小説の劇化上演は事実
-﹁嘘実心冷熱﹂(紅葉﹁冷熱﹂)明治加・ 9 ・2 川上座
・﹁夏小袖﹂(紅葉)明治却・ 9 ・ 却 真 砂 座
聡
この時期に、柳浪の作品が特に舞台で取り上げられたのは何
故だろうか。明治三O年前後といえば柳浪の最盛期であり、文
壇随一の流行作家だったことは周知である。だがそれだけで、
明治三一年、広津柳浪の作品が相次いで舞台化されている。
﹁畜生腹﹂(五月、川上座)と﹁あにき﹂(六1七月、浅草座)で、
ともに問題の小説(後述)が原作である。前者は佐藤歳三の大
岡田に川上音二郎らが加わった一座、後者は佐藤・川上・高田
実・藤沢浅二郎らの合同一座によって演じられた。
今日の呼称でいえば﹁新派﹂の舞台だが、当時彼らは﹁新演
劇﹂と名乗っている。周知のように川上音二郎一派をはじめと
山
めた。明治一二O年前後のこの時期に舞台初演された作品には、
たとえば次のようなものがある。(年月日は初日)
・4 浅草座
・﹁瀧の白糸﹂(鏡花・紅葉﹁義血侠血﹂)明治
する﹁壮士劇﹂は、日清戦争劇の成功で旧劇(歌舞伎)を一時圧
倒したものの、間もなく次なる方向の摸索を迫られ、﹁新演劇﹂
梅
2
つまり一種の﹁はやり物﹂﹁際物﹂として舞台に掛けられたに過
ぎないのだろうか。上演は、柳浪の作家活動や創作意図とは
まったく無関係に行われたものだったのか。そうではない。こ
の頃、柳浪の方でも演劇や脚本へと関心を向けており、小説の
劇化上演は決してそれと無関係ではなかったのである。柳浪が
自作の上演を含めた新演劇の舞台にいくらか接していたらしい
ことも確認できる。
﹁畜生腹﹂(﹁太陽﹂明治m-mlU) も﹁あにき﹂(﹁新著月刊﹂
明治初・ 5)も、おそらく今日ほとんど読まれる機会のない小説
であり、管見では柳浪研究史において本格的に論じられたこと
がない。だがこれらは柳浪文学における﹁小説と演劇の接点﹂
という、あまり語られない重要な側面を考察する手掛かりにな
る作品だと思われる。特に﹁畜生腹﹂がそうで、まずこの作品
から次に見ていくことにしたい。
今日では理解の難しいことだが、かつて双生児などの一産多
ae& た ふ た と
(おもよ)が老蝉(お近)と次のように話す場面がある。
ふた 2 U
ぢ
﹃拝なんぞを生んぢや、恥辱だわねえ。いやな事だ。﹄
﹃それも貴女、男と女の存さへあるんですからね。﹄
ほんとう
﹃実事にあるのかね。﹄と、おもよは眉を墾めた。
﹃無い事はありませんよ。﹄
ょっゐしうまれかはり
島﹄ ahbu'
そんなあなた
﹃畜生の変生だツてね。﹄
﹃其様事を申しますよ。﹄
いやそんな
﹃あ¥可厭だ。其様事でもあらうものなら、私や死んで
愈・
﹃ほ、ほ、、、。其様事が、貴女、千人に一人も無い位な
了
u
'ふょ。﹄
んですもの。﹄(三)
﹁畜生腹﹂の筋は以下のようなものである。保険会社員・丹治
重三郎の若妻おもよが、夫の出張中の初産で男女の双子を産む。
︿畜生腹﹀と知って彼女は悲観するが、とっさに雇い婆のお近
が女児の方を絞め殺して始末してしまう。留守であった重三郎
はそんな事実をつゆ知らずに、生れた男児の重太郎を溺愛する。
おもよは真相を夫に隠し続けるうち心を病んでいく。お近は秘
密を強請りの種として増長し、家内の風紀が険悪になるが、重一
三郎には原因が全くわからない。ただ、愚直な下男の力造のみ
は一切の真実を知っている。
柳浪の作品としても相当に陰惨な題材と筋立てをもっ小説と
子を忌んで︿畜生腹﹀と称する風習が存在した。双子を産んだ
ことを恥じて隠したり、一方の子を殺してしまうといった習俗
があったとされる。ただしその行われた時代や地域について、
管見のかぎりでは今日でも詳細な研究は見当たらない。明治中
人も異議なきに庶幾し︾(角田浩々歌客)といった、きわめて高
いえる。だが発表当時この作品は︽柳浪が近業の傑作として何
期の東京ではすでに双子を甚だしく息むような風習はなかった
と思われるが(後述参照)、柳浪﹁畜生腹﹂では出産間近の女性
3
い評価を得ていた。高山樗牛は︽柳浪及び当代の傑作なり︾と
でなく、未完で投げ出された可能性が高い。つまり脚本執筆の
試みは結局、作品としては実を結ばなかったのである。柳浪の
三号に発表されたのは序幕部分のみで、続きに関しては明らか
m-5、7)という新脚本がそれである。ただし﹁新作文庫﹂て
ぶべき︾と評した。
し、︽複雑なる情事を繰縦し、紙聯縄牽、巧に脚色を構へ、又巧
に戯曲的活動を躍如たらしむるの手腕に於ては当代誰か彼に及
完成された劇作としては﹃目黒巷談﹄(明治犯・6、今古堂)一作
が今日知られているに止まる。
だが、脚本の研究や執筆に携わったことは柳浪の小説手法に
やや後にも岩城準太郎﹃明治文学史﹄(明治犯 -U、育英舎)は、
﹁畜生腹﹂を︽柳浪一代の傑作︾とまで称える。同書は柳浪に
ついて︽彼の長所は結構の戯曲的発展に在ると共に、対話を以
て始終すべき戯曲的形態に在り。此点に於て三十年﹃太陽﹄に
といった評も現れるのだが、後述するように﹁畜生腹﹂の劇化
上演はこうした評価の延長上に実現することになる。
従来の研究でも、ある時期以降の柳浪作品が著しく会話の多
い戯曲的形態をとることは早くから指摘されていた。ただしそ
れは作品をむしろ冗長散漫にしている欠点として言及するもの
あからさまな影響をもたらしたと見られる。明治三0 1三一年
頃の作品の無論すべてではないものの、明白に戯曲的な対話や
場面作りを指摘できるものが多い。その結果、︽全駄の布置結
構、書き換ふれば、直に戯曲となるべし。柳浪は戯曲の才を有
せるが如し。将来、大に其手腕を試みて可也︾(﹁七騎落﹂の評)
大正 7 ・
5)で︽余は当時紅葉眉山露伴諸家の雅俗文よりも迄に
柳浪先生が対話体の小説を好みしなり︾と回顧するように、﹁対
であり、その評価は必ずしも不当とはいえない所がある。戯曲
的筆法の採用があまり良い結果を生んでいない場合も多いから
掲げし﹁畜生腹﹂の如きは最よく作者の特色を現せる者といふ
べし︾と論じている。
評者たちが﹁畜生腹﹂の筋や題材よりも、その﹁戯曲的﹂手
法に揃って賞賛を贈っていることに注目したい。具体的にそれ
はどういう点を指すのか。まず﹁畜生腹﹂は全篇が﹁対話﹂(会
話文)を中心に進められる小説であり、それに関して﹁戯曲的
形態﹂は瞭然としている。永井荷風が﹁書かでもの記﹂(﹁花月﹂
話体﹂すなわち会話を多用する筆法は、当時から柳浪のトレー
ドマークになっていたと思われる。
それゆえ柳浪における戯曲志向は、作家の問題としてこれま
で重要視されて来たとは言いがたい。だが、それは少なくとも
次の二点において、あらためて検討されてよいと思われる。す
である。
﹁畜生腹﹂以外でもこの前後の柳浪作品はしばしば︽要するに
作者近日の筆、戯曲の傾向を帯び・:︾(﹁青大将﹂の評)のように
評されているが、事実、柳浪はこのころ演劇脚本に関心を寄せ、
v ひとはいちだいゆめのなにはづ
m
{
実作にも筆を染めていた。﹁人一代夢浪花津﹂(﹁新作文庫﹂明治
4
なわち戯曲的手法は単に表現形式のみの問題ではなく、作品の
内容面とも有機的な関連があること。および、作品が新演劇に
よって実際に舞台化されていたことである。
前者についてみれば﹁畜生腹﹂の同時代評は、会話の多用だ
けでなく︽人物の性格、布置の戯曲的なる︾(浩々歌客)こと、
︽結構布置の戯曲的客観素︾(樗牛)といった特徴をも指摘して
いた。次にそうした観点から﹁畜生腹﹂の内容を検討したい。
﹁畜生腹﹂は︿秘密﹀をめぐるサスペンスの劇として考えるこ
とができる。出産時、双子の片方を暗に葬ったという︿秘密﹀
がまずあり、その隠匿と暴露が筋の根幹をなす。︿畜生腹﹀の俗
信は、ある忌わしい、白目の下には出せぬ類の︿秘密﹀を最初
に設定するために(おそらくそのためにだけ)用いられた題材な
のである。
重要なのは、この︿秘密﹀に対して作中人物および読者がど
のようなスタンスをとるかである。﹁畜生腹﹂の登場人物は重
三郎・おもよ・お近・力造、この四人にほぼ限られるが、四人
の聞で︿秘密﹀への関与の仕方と、認識のあり方がそれぞれ異
なっている。整理すれば次のようにいえる。重三郎・:︿秘密﹀
に関して一切無知である。おもよ・:子殺しのことは承知、だが
出産時は人事不省で判明な記憶がない。自分がお近に命じて手
を下させたという、お近の言い分には疑問を感じている。お近
忌L Z U
:・嬰児を手にかけた人物だが、一部始終を力造が見ていたこと、
その後に彼の行った処置については何も知らない。力造:・実は
︿秘密﹀に関して最も全知に近い人物であるが、何も知らない
馬鹿者と見られている。
﹁畜生腹﹂の劇的興味は、要約すればこの四人が︿秘密﹀の周
闘を右往左往しながら衝突を繰り返すという所にある。葛藤を
生じさせるのは彼らの聞の︿秘密﹀をめぐる認識の差であり、
︿秘密﹀を﹁知らない/知っている﹂こと、すなわち演劇用語
アナグノリシス
でいう﹁認知﹂をめぐってドラマが回転するのである。
︽おもよは何とも云はれない様な気がした。重三郎が何も
かも知って居て、自分を試して居るのではあるまいかと、
何とも云はれず可怖し[く]なって、限を見合はして居ら
易、,。
O
れなくなって、
外した顔の所在がないのである。︾(一 O)
そん盆
︽﹃旦那、配院はね、何にも知らないで、其様事を云つてな
0
さるんだが・・・・・・ ﹄
あぎわらきっと
﹃なに、何も知らぬ。﹄と、重三郎はお近が冷笑ふ顔を吃度
見て、﹃恥 M仰
a が何にも知らぬと云ふのは、何を知らぬのだ。﹄︾
(十三)
では、読者は︿秘密﹀に関してどういう立場に置かれるか。
おもよ出産の場面(三、四章)で、子殺し自体は省筆によって
伏せられているものの、そこで何が行われたかはおぼろげなが
ら祭せられるように書かれている。前述の﹁認知﹂をめぐる劇
的葛藤は主に五章以降に始まるのだが、四章までの序盤部分で、
5
双子の出産にまつわる︿秘密﹀を読者は半ば知らされているの
である。
五章以下、話は出産からおよそ半年後の時点に飛び、五章の
冒頭は次のように重三郎の視点から叙述される。
ひとかど
︽おもよが産んだのは男の児で、此一廉ばかりでも、重三
U
かねてのぞみひとかたよろこ
郎は橡の望を達し得たと、一方ならぬ悦喜である。︾(五)
重三郎は産まれたのが男児ばかりであると信じて疑わない、す
なわち︿秘密﹀に関して完全に盲目な立場にいる。彼は出産後
のおもよが別人のように婆れ、涙脆く悲観的になってしまった
のを訴しんでいる。お近が隠れて酒を飲み、家の金を横領して
いるらしいのにも感づいている。そこに何らかの︿秘密﹀が隠
れていることは認識しながら、真実は到底想像の及ぶべきこと
でないため、結末近くまで彼は︿秘密﹀の真相を知ることがな
v
-
読者はその︿秘密﹀をすでに知っている。だが一方で、重三
郎の視点に主に同化しつつ物語を追ってゆく。読者はいわば
﹁知らないふり﹂をして重三郎の﹁無知﹂に寄り添うことにな
るのだ。同時に、︿秘密﹀を抱えて懐悩するおもよ・お近の心理
にも同化し得る。そうした二重の意識状態に置かれることで、
読者は人物聞の認識の差から生れる葛藤をより強く意識するこ
とになる。その効果は劇的アイロニーと呼ばれるものに他なら
ない。この小説を演劇的と感じさせる要因はそこにあり、﹁玄回
生腹﹂の読者は舞台上の人物たちの演技 H ﹁目隠しゲlム﹂を、
離れた観客席から見守るのに近い立場に置かれるのである。
︿秘密﹀をめぐるこの種のプロットはより小説的に物語るこ
とも可能であって、たとえば最初から﹁無知﹂な重三郎の視点
に沿って叙述していく推理小説的手法をとるならば、読者と重
三郎の認識は等しくなる。読者もまた最後になって︿秘密﹀の
真相を知るだろう。紅葉の﹁不言不語﹂(﹁読売新聞﹂明治犯・ 1
13)は、実は﹁畜生腹﹂と類似したシチュエーションを書いた
ものである。さる裕福な素封家の邸で、異様に仲の冷え切った
夫婦の背後には子供の死に纏わる︿秘密﹀が潜んでいる。何も
知らず奉公に上った娘の視点から︿秘密﹀を追ってゆくその叙
述は当時から﹁探偵小説﹂祝されていた。﹁畜生腹﹂をそれと比
べれば手法上の相違は明瞭である。﹁畜生腹﹂は読者に︿秘密﹀
を予め明かした上で、人物聞の演劇的葛藤を見せていくことに
主旨が置かれているからである。
柳浪の小説では︿秘密﹀や︿隠しごと﹀をめぐる劇的サスペ
ンスが山場として用いられる例が多いのだが(﹁浅瀬の波﹂や﹁雨﹂
などて﹁畜生腹﹂はそれを作品全体の趣向とし、戯曲的手法と
結びつけることで、高い完成度を獲得した作品であるように思
われる。
﹁畜生腹﹂舞台化の端緒となったのは、おそらく関根黙庵﹁小
説と脚本と﹂(﹁早稲田文学﹂明治担・2)という一文である。黙庵
6
の劇化を積極的に奨励するのである。柳浪﹁畜生腹﹂が好個の
え、旧套を脱し得ない。これを打開するため、黙庵は小説作品
おらず、芝居脚本は依然として幕の内の狂一一吉田作者の手になるゆ
にしている。当時、文学者の著す新脚本はほとんど上演を見て
はそこで劇壇の萎燦不振の原因を論じて、﹁脚本の欠乏﹂を問題
は当時の演劇としては、おそらく幾分か新しい試みだったと恩
案に比べればより原作に忠実な場面構成に脚色しており、これ
いくらか改変を加えねば当時の感覚では芝居にならなかったた
めだろう。柳外もそれを受け継いでいる。だが柳外は、黙庵の
殆んど(略)四人に限られて、面白からず︾といった点に関し、
和を図りて互に気脈を通ぜしめ、小説と脚本との連絡をつ
られ、それが黙庵には﹁新脚本﹂の可能性を示唆する作品と目
そもそも柳浪の原作は戯曲を意識して書かれた小説だと考え
ても充分成り立つものだったことを示すのではないか。
われる。それはまた︿秘密﹀をめぐる原作の物語構成が劇とし
けて新脚本を求めこれを舞台に歓迎するにあり、予は目下
劇改良の実現でもあったとすれば、柳浪は脚本執筆には挫折し
︽之れを要するに演劇改良の最捷径は文学者と俳優との調
例として挙げられる。
小説界の新産物に就きてこれが実例を示さんに、近刊太陽
所載の小説﹃畜生腹﹄は柳浪子の傑作にして比較的に他の
著作よりは劇詩的趣味を含蓄し戯曲的活動に豊かなるもの
と言えるのではないか(紅葉の小説﹁夏小袖﹂(明治お・ 9)や﹁恋
黙庵は︽もし予をして此小説を舞台に上すべき脚本となさし
めば、実に左の如く改鼠増補を要すべしと考ふるなり︾と、詳
的なものも多く、当時文界で議論されていた﹁劇と文学の調和﹂
の病﹂(同日1U) 等が新派の定番狂言となっていった経緯とも比較
できよう)。舞台﹁畜生腹﹂に関して、新聞雑誌の劇評には肯定
たものの、小説の形で事実上の﹁新脚本﹂を新演劇に提供した
された。かっ、新演劇による実地の上演が当時として一種の演
なり(後略)︾
細な脚色の腹案まで自ら提示していた。実際の舞台の脚色は花
において効ありと認めた評もあった。
稲田派である。遁造・平野栢蔭・網島梁川・佐藤迷羊﹁川上座
演劇﹁畜生腹﹂合評﹂(﹁早稲田文学﹂明治担・ 6、早稲田合評と略
その一方で、この舞台に批判的だったのが、坪内遁這らの早
房柳外の手になるが、彼が黙庵の脚色を参照して一部これをと
り入れていることは当時から指摘があり、事実とみてよい。と
すれば﹁畜生腹﹂の上演は黙庵の提案を発端として、新演劇側
があからさまに窺える冷評といってよい。中でも遁逢の批判は
す)は全体として、新演劇に対し殆ど好意を持っていないこと
がそれに応じたものだった可能性が高いといえる。
ところで、黙庵の脚色は旧劇式の複雑な作劇法をとり、筋や
最も厳しく粘着的であるが、その舞台評自体は、当時の新演劇・
内容の変更にまで及ぶものだった。これは原作の︽場面少しも
変化せず舞台は徹頭徹尾丹治重三郎の邸宅なり、登場の役者は
7
新俳優の抱えていた欠点や課題を如実に伝えている意味で演劇
史的価値をもっ。だが、遺迭の批判は舞台面のみならず原作小
逢はここで、性格の一貫性と合理的な筋運びという近代劇的な
たほどに﹁畜生腹﹂は演劇として無価値だったのだろうか。
理念にあくまで固執しているように見え、その限りでは彼の批
判は正しいのかもしれない。とはいえ、はたして遺逢が非難し
﹁畜生腹﹂の舞台がそれなりに観客の受けを取ったことにつ
いて遺逢は、︽此のたびの成功は、かく論じ来れば、まづ川上の
説にも及、ひ、︽予は其の出版の当時之れを激賞せし二三雑誌の
ふしぎ
批評家の所見を頗る異と感ぜしと同時に、之れを劇化して好台
帳をなすべしと唱へたりし黙庵子の所見をも頗る不思議と感じ
たりき︾とまで述べている。これについては是非の検討が必要
愛婿に帰するかた当然なるべし︾と片付けている。だがこの匹以
評は、むしろ遁造の意図を裏切る形で真相を衝いているように
恩われる。遁迄は川上の演じた力造という滑稽な道化役を単な
こそ、遺造の近代主義が見落とした﹁畜生腹﹂の主題と演劇的
意味があったのである。
る枝葉とみており、それゆえこの役こそが劇の要であり根幹で
ある所以を洞察するには至らなかったようである。だがそこに
になろう。
遺造が主に批判するのは筋の不自然さ、殊に悲劇の生ずる原
因に無理があるという点であり、その一つが︿畜生腹﹀の問題
なのである。︽旧時代の謬信たる甚しく畜生腹を嫌息する情を
鉄道会社員たる当世紳士の年わかき妻、而も当世紳士の家に小
間使たりし少女の情と倣せること、既に一の不自然、其の情を
して一大罪悪を犯さしむる誘因と倣せるは第二の不自然也︾。
すなわち︿畜生腹﹀の俗信自体が時代錯誤的である以上、真面
執劫に論難するのも同じ問題に関わっている。
かくして遣準は、﹁畜生腹﹂の筋と人物とを徹頭徹尾﹁不自然﹂
家を横領され露頭に迷っていた所を重三郎が憐れんで引き取
り、下男として使っている。一一一十を過ぎた男だが小児のように
力造という人物は原作によれば、︽所謂正直馬鹿と云ふので、
全く白痴と云ふのではない︾(二)。遣迭は︽半痴半魯ともいふ
人物︾と-評した。大宮の﹁相応な身代の総領﹂に生れたのだが、
目な悲劇の動因として機能するものではないという批判であ
る。お近の人物像や子殺しの﹁真動機﹂が不分明であることを
と断じ去ろうとする。その上で、︽旧劇の失は重に筋の不自然
及び散漫と性格の不自然及び不明とにあるゆゑ、所調新演劇は
無垢で、異様な容貌をしている。恩人の重三郎には忠義を尽す。
U)の主人公や、柳浪のやはりしばしば書いた一徹な老僕な
犯-
﹁変目伝﹂(﹁読売新聞﹂明治お・ 213)﹁亀さん﹂(﹃五調子﹄明治
此の失を補、って別に立脚する所あるならんと我々の心よりは期
望すなるに︾、筋と性格の不自然が︽新旧相異なる所無しとすれ
ば︾新演劇の価値は一体どこにあるのか、と問うのである。遁
四
8
力造は呪とおもよを見詰めた。
﹃おれ何にも知んねえでがすよ。﹄と、頭を振った。︾(十六)
どを思い出させる人物である。
力造の滑稽な言語動作が、この陰惨な劇においてコミック・
作品後半、重三郎は︿秘密﹀に関し再三おもよを問い質して
は一応、威厳ある家長であるが、この場合︿秘密﹀に対して盲
うつむ
レリーフの機能を果すことは指摘をまたない。おもよが産気づ
不審を晴らそうとするが、彼女はただ泣いて︽垂頭く︾ばかり
で玲があかず、お近の解雇一問題も常にうやむやに終る。重三郎
あはて{初)
いた際、︽﹃えツ、生れるだかね。おれ井戸の水浴るだから
すツぽ
:。﹄︾(三)などと言い出すおかしさや、酢を嘗めてみて︽酔映
目であらねばならないという作劇上の縛りがあるため、全く身
動きがとれず状況は延引を続ける。この聞に、力造だけが自由
である。ひとり真実を知り、意のままに振舞い、お近の暴慢無
礼を懲らしめようとする。ここはまさに道化の面目躍如といっ
た所で、舞台で見れば小説以上に痛快だったろう。舞台で、こ
さうな顔を︾する所などは、︽出産の場の周章加減︾(﹁都新聞﹂)、
︽出産の場にて狼狽の体をかしく︾(﹁中央新聞﹂)と、舞台でも
そのまま活かされたことがわかる。
だが力造は作劇上、さらに重要な役割を担う人物でもある。
それはこの痴愚者が、︿秘密﹀に関しては最も多くを知る立場に
いるという逆転構造から来るものである。五章以下では力造は
においてである。筋を追えば、お近は亡児の崇りを恐れるあま
り重三郎に洗いざらいをぶちまけ、丹治夫婦を強請ろうとする。
しかし結末における力造の役割として、より問題にすべきな
のは次の点であろう。力造の書置きにより、彼が床下に埋めら
ていたようだ。
摘かれており、舞台ではさらに輸をかけて旧劇的な人物にされ
に主人の仇を討ったという、勧善懲悪の物語に見えないことも
ない。原作にも力造の忠義や主従関係にうるさい旧式な性格が
そのお近を成敗(経殺)した力造は、書置きを遣し自首して出
る。それが一篇の結末だが、これはあたかも力造が報恩のため
の儲け役を演じた川上に喝采が集まるのは当然であった。
だが力造の存在がさらに決定的な意味をもつのは結末の解釈
単なる道化ではなく、むしろ意味深長な態度や神出鬼没ぶり(七
章、十二章、十六章の末尾など)が目立って描かれるようになる。
道化ではあってもワイズ・フ lル H ﹁智恵ある愚者﹂の印象が
強くなるのである。
︽先般からの力造の様子を見ると、何もかも知って居るら
しくも思はれる。知って居るならば知って居るで、今日の
様に不思議な事もあって見れば、真逆の時の相談相手にな
る事もあらうかと思ひ付いたので、おもよは小声になって、
そぼちかさ、や
力造の傍近く細語いた。
﹃お前、何か知ってる事があるんぢゃないかい。もしさう
ならね、私ばかしに云ってお呉れでないかえ、力ゃ、お前
知ってるのかえ。﹂
9
れた死児の遺骸を拾い、墓を立てて戒名を授けて貰っていたこ
とが明かされる。力造は、生れて間もなく殺されてしまった女
児の霊を弔おうとしていたのである。
対しておもよもお近も、真相を知った後の重三郎も、この場
合の嬰児殺しをあくまで犯罪という社会的リスクの問題として
原作のこの結末は遁遁が︽無明にはじまりて無明、無惨には
じまりて無惨︾といったように、まるで救いのないものに見え
る。舞台ではこれを︽﹁もよ、何も心配しなくってもよい、何も
お前が悪くない﹂の丹治の一言で夫婦問の雲晴れ、めでたし/¥
し﹂観の下にいるからであると考えられる。作品序盤で会話中
に﹁まびく﹂という語が伏線として何度か出て来るのだが、彼
らはそれを世にも忌わしい旧習のように語っている。近世の共
たということの意味を中心に考えるべきではないだろうか。子
殺しとは歴史的・社会的な問題であると同時に、生まれてきた
生命を無にすることの根源的な﹁罪﹂としても考えられる。そ
くの空回りにしかねない改変だともいえる。
この作品の結末はむしろ、力造だけが死児の霊の救済を行っ
になってゐる︾(早稲田合評・迷羊)と、夫婦の聞で無理やり道徳
的解決を付ける結末に変えたようで、無論そうしなければ芝居
の幕切れにはなるまい。だがそれで事の本質的な解決になって
いるかどうかは疑問であるし、ある意味で力造の犠牲をまった
同体における、いわゆる﹁子返し﹂﹁間引き﹂の慣行はきわめて
(忽)
複雑な問題であるが、﹁畜生腹﹂という作品は、堕胎罪の成立に
よって﹁子殺し﹂がまず法的処罰の対象となった近代の風土を
の問題に関して、﹁当世紳士﹂であるに過ぎない丹治らにはなす
所がなく、ゆえに彼らに本質的な救いは粛されない。おそらく
人間には背負いきれないその﹁罪﹂を引き受け、蹟うために、
思い煩ったように見える。彼らは死児の供養ということを真っ
先に案じはしなかった。それは、彼らがすでに近代的な﹁子殺
背景にしていると考えてよいだろう。
ゆえに丹治夫婦は子殺しによって法的、社会的な罪に問われ
ることをおそれる。そして力造の犠牲でお近が除かれること
で、法の制裁は一応免れたのであるが、にもかかわらず夫妻に
のだったのである。
力造という異人にして﹁聖なる患者﹂が犠牲となり象徴的な死
を遂げる必要があった。そう解釈すれば﹁畜生腹﹂の物語は、
宗教的・神話論的な次元である種の解決が与えられているとい
える。柳浪が書いたのは原初の罪をめぐる供犠の物語に近いも
稽な道化であると同時に聖性を帯びた存在でもあるこの人物
おいて子殺しの問題は依然何も解決していないのである。
︽力造は数月の後、有期徒刑の宣告を受けた。/おもよは
一時ヘステリl狂になったと云ふ事である。/夫婦の聞は
ただかすがひ
何となく以前の様ではなくなった。唯重太郎が鐙になって
居るのであるが、これが又涙を催させる種で、兎角涙にの
力造という道化役を物語が必要とした理由はそこにある。滑
み送らる、日が多かった。︾(十人)
1
0
が、﹁畜生腹﹂を劇として成り立たせる核なのである。力造を演
子の世話を︿あにき﹀の又吉に託す。又士口はやはり大工である
うつけもの
が、幼児のように無垢な性質ゆえ︽野目又と世に白痴にされ︾
話である。大工の穂坂富五郎は兵役に召集され、残していく妻
(七)ている人物である。三十を過ぎながら弟の家に養われ、
じた川上は、彼自身ほとんど意識しない所で柳浪作品のもつ劇
的可能性を体現していたのではないか。
その女房お新にも子の徳松にも愛されている。
だが又吉には自分も家を持ちたい、女房が欲しいという一面
続く﹁あにき﹂の上演においても事は同様であった。﹁あにき﹂
は、力造に類似する正直馬鹿の愚人、又士ロという人物を主役と
する。この又吉に自ら望んで扮した高田実(のち新派の頭領格と
もあった。鉄五郎という大工仲間にはお新に惚れているのだろ
うとからかわれる。富五郎はその又吉に、この身に万一のこと
があれば徳松を自分の子とし、一生お新の面倒をみてくれと頼
み置いて出征する。
して本郷座の全盛期を支えた俳優)の演技が舞台﹁あにき﹂を成功
させ、後年まで高田の当り芸として記憶されることにもなった。
(お)
以後、又吉は弟との約束を律儀に守って熱心に一家の世話を
みる。だがお新には彼が不気味に思えて仕方のない時がある。
富五郎の音信が絶え戦死がどうやら確実になると、又士ロはにわ
富五郎は太平山の戦に敵を追過ぎて付属の隊を見失った
が、三日自に立帰って、其後は蓋平城の守備に残され、今
かにお新に迫る。お新がついに屈して身を任せたらしい数日
後、富五郎の生還を報せる葉蓄が届けられる。結末は次のよう
なものである。
にあたって複雑な腹芸を要さず、癖のある一一一白語動作を写すだけ
度帰国の命があって、今日新橋の停車場へ着いた。
歓迎人は一同停車場へ待受けて、富五郎の姿がプラット
乗って居て、共に声を上げて喝采した。
ひとしくまっさき
で真に迫って見える。よって高田の成功は易きに就いたものだ
と青々園は断ずる。のみならず作品の理解についても、舞台﹁あ
ホlムに見えると、一斉喝采した。其先頭に立って居たの
は又吉で、其肩の上には、軍帽を冠り軍万を提げた徳松が
柳浪の﹁あにき﹂は基本的には、日清戦争に絡んだ破鏡の悲
にき﹂は︽確かに柳浪氏の原作を誤解せるもの︾だと批判した。
これに関しては原作の内容を検討する必要があろう。
演技面でいえば又吉は要するに︽一の痴漢︾であり、演じる
役者の団洲﹂などと激賞されたことを伝えている。だが青々国
自身はこの舞台および高田の演技に批判的であった。
の﹁舞台に上せたる﹃あにき﹄﹂(﹁早稲田文学﹂明治担・ 8)もほ
ぼ同趣旨の劇評だが、高田の又吉が当時﹁古今無類の芸﹂﹁壮士
舞台﹁あにき﹂は、伊原青々闘の﹁都新聞﹂劇評によれば会岡
田実が望みにて狂言に仕組みしもの︾であった。同じく青々園
五
1
1
又吉という特異な人物が、戦争による夫婦の悲運というあり
ひともとしきみ
けれども、横寺町の彼が家には、逆扉風の内に一本格に
ふれたメロドラマを異化し、悲劇とも喜劇ともつかない不条理
な結末へ持ち込む。これは非凡な着想である。︽素より同じ馬
たと非難しているわけである。
だが右の原作結末において、むしろ衝撃的な姿を見せている
のである。今日、演劇一般の伝統における道化的なるものの意
義をよく知る我々からすると、その演劇観にはかえって違和感
化の演劇的機能をよく察していたのだろう。青々闘がそれを認
めなかったのは、旧劇の﹁道外方﹂も含め、そもそも演劇の道
化的要素全般に当時の彼が全く価値を置いていなかったためな
舞台で又士口の滑稽を見せようとした高田の方が、むしろ柳浪
の意図を汲むものだったのではないか。高田はこのフl ル日道
ものであったように思われる。
ば、︽哀れなる世話女房︾の︽秋山嘆狂言︾に眼目を求めた青々園
の理解こそ古めかしいもので、かえって作品の本質を見誤った
家の意図が又吉の描出にあったことは明白であろう。とすれ
鹿を描くにも﹃亀さん﹄と﹃あにき﹄とは各々性格が異ってゐ
{缶)
るやうに描いたつもりです︾という柳浪本人の談話もあり、作
香の煙、白布の下には今朝井戸から引上げられたお新の死
骸が、無限の怨を飲んで、まだ白木の位牌ともならずに。
O)
(一
この作品を青々園は、︽原作に於て眼目とする所はお新の悲
劇なり︾と解した。﹁都新聞﹂の方から引けば、︽原作者柳浪氏
の眼目とする所はおしんが引くに引かれぬ場合に迫り兄貴に身
を任せて終に自殺するまでの間にあり(略)若しおしんを勤む
る藤沢の出し物として之れを仕組みしならば原作の眼目を失は
で見物は此の哀れなる世話女房の境遇に深き同情を寄せシンミ
のは又吉の方ではないだろうか。又吉も徳松もお新の死はまだ
知らないのだろうが、それにしても弟の妻と夫婦になっておい
を覚える。
リとしたる好き愁嘆狂言と為りしならんに︾、副人物であるべ
き高田の又吉が前面に出たため、単なる滑稽劇に堕してしまっ
て、その弟の帰還を(本心から)喜んで出迎えに行く又吉の行動
は異様である。彼は無垢であるがゆえにかえって社会的抑制の
に関わる問題ともなる。柳浪があのように、病者や異貌者や心
身に障害をもっ者たちを何度も描いたのは何故なのかという聞
いである。柳浪の描くこの種の人物に、かつて中丸宣明氏は当
{描)
時の見世物や下層の芸能に通じる要素を指摘した。現実に柳浪
の作品は、アンダーグラウンドな芸能に出自をもっ、新旧混合
﹁道化的なるもの﹂を広義に考えれば、それは柳浪文学の根本
きかない性衝動や模倣的欲望を抱えていたのであり、結果的に
一点の悪意なくして一切を破壊したのだが、当人は何一つ諒解
していないのである。この又士口の性格を説明的叙述で明示せ
ず、会話と挙動だけでその﹁異常さ﹂を暗示するにとどめてお
いたことが、かえって結末の衝撃を強めている。
1
2
の混沌たる新演劇として上演を見ていたのである。
﹁畜生腹﹂﹁あにき﹂の舞台は、一面で柳浪作品の苧む演劇性
や芸能的想像力をすくいとって可視化するものだったのではな
いだろうか。むろん実際の舞台を観られない以上、高田にしろ
川上にしろ俗受け狙いの芝居をしたに過ぎない可能性は否定で
きず、原作との霜離の程度についてもさらなる検討を要する。
これまで柳浪を論じてこの作風転換の問題に言及しなかった
ここから柳浪がある時期に﹁主観的﹂作風からの脱却を図り、
それによって文学史に名高い﹁悲惨小説・深刻小説﹂の手法に
到達したという径路が浮かび上がる。
者はないといってよい。だが、そこで柳浪が﹁主観の色﹂を没
しようと苦慮したこと、そのため地の文を排して会話文のみで
小説を書くといった、極端な考えすら持ったらしいことの意味
は、なお充分には論じられていないように思われる。
語りの主観性を消し去るため、会話と最小限の状況描写のみ
で小説を書く。これは実質的に戯曲やレーゼドラマに近いもの
ともなり、ならば柳浪が演劇脚本へ関心を向けたことも、当然
それと関連する問題である。すなわち作風転換の一環として捉
えられるのである。
柳浪研究史において、﹁残菊﹂(明治辺m
)、﹁おち椿﹂(明治
お
・ 718) といった初期の作品には従来から高い関心がもた
れてきた。柳浪は近代小説の始発期において言文一致、一人称
小説、口語の独自の使用等に関しきわめて先覚的な試みを行っ
す事に努めようと決心し、作風を一変するために、二三年
何も書けなくなった時代があったといふ。︾
これは柳浪自身の、︽作者の挿評、又は作中の人物の為に弁疏
柳浪作品は一人称による内面独自といったものとは対際的な手
法をとることになる。この作風転換を、初期の柳浪を重視する
ところが問題は、柳浪がそうした初期の作風を早々に捨てて
顧みなかったということにある。﹁悲惨小説・深刻小説﹂以降の
ていたのである。事実﹁残菊﹂は口語体一人称による内面表現
として同時代の水準を抜くものであった。
の辞をつらねるやうなことは、全くしない︾で︽人物の言語と
{泊)
挙動のみをかく主義︾を唱える著名な談話の内容と重なり合う。
﹃私﹄が色濃く出てしまふ。それは作者の説明が悪いのだ。
そこで説明を極力省いて、会話と状態の描写とで人物を現
なるので、どうかしてその主観の色を作から没したいと苦
心したらしかった。女を書いても男を書いても結局作者の
︽初期に﹃残菊﹄等を書いた時分、何を書いても主観的に
広津和郎﹁父柳浪について﹂の次の一節はよく知られたもの
である。
(百)
だが、彼らは俳優として、柳浪の描く道化が舞台で輝くことを
直感できたのだと考えたい。その点において彼らは、舞台化と
いう形で柳浪文学への正当な批評を行ったのである。
ぴ
結
3
1
効なのか。本稿はそれに関し、柳浪の戯曲的小説の意義を作家
後期柳浪の小説を積極的に評価するにはどのような視座が有
生じてくるのである。
観点からは、肯定的に意味づけるのが難しいというジレンマが
だがそうした柳浪作品の演劇性は、なおやはりトラデイシヨ
に有機的に組み込まれることで道化として機能し、前者は救済
者として、後者は破壊神としての面を最後に顕すのである。
しまうことがない。力造・又士ロという人物が、全体の劇的構成
ナルな芸能の方を向いていたともいえ、当時の﹁新演劇﹂の過
改良観に照らして中途半端な新演劇の試みを批判せざるを得な
渡的な性格とも照応するものだっただろう。遁迄は自身の演劇
史的・文学史的に見直すことを提案するものである。
文学史的にみると、柳浪の戯曲への傾斜が、遁迭における﹁小
の遣逢と柳浪の遜遁は、表面上のすれちがいを越えた史的意味
近代化のプロセスを考える上でも、また文学史と演劇史の交点
かったのである。だが﹁畜生腹﹂の上演は今日において、演劇
説から劇へ﹂の軌跡と並行して見えることは注目に値する。こ
(却)
のことは宇佐美毅氏が夙に指摘していたのだが、宇佐美氏は柳
浪の戯曲志向自体はこの作家の誤謬だとして評価しなかった。
だが柳浪が逢着していたのは、大きく見れば遺遁の﹁没理想﹂
をもっている。
としても、検討されてよいケl スの一つだと思われる。そこで
根本的につきまとう主観性への懐疑から、演劇のもつ客観性・
と同じ性質の問題ではなかっただろうか。すなわち小説形式に
それは、以後の小説史がどちらかといえば演劇的な対話性を没
却し、告白的モノローグへ収束していった流れとは逆行するも
彼らはともに、小説と演劇の境目で近代文学のあり方を摸索
していた。柳浪は小説の表現において演劇への接近を試みた。
のであるが、それゆえにかえって今日の関心を惹くものがある。
全体性にその解決を求めようとした。むろん柳浪の問題を遣準
のそれと同一視するわけにはいかないが、柳浪が小説において
浪の後期小説が湛えている冷厳でアイロニカルな客観性という
後続の作家へは、たとえば一時期柳浪に私淑した泉鏡花が、柳
彼独自の客観的手法に充分意識的であったのは確かである。柳
べきものの由来に、戯曲的方法があることは看過できない問題
戯曲的小説の試みは、近代小説表現史の中で小さくない意味を
浪の演劇的作風から影響を受けた可能性が考えられる。柳浪の
(却)
と思われる。
また一方で、愚者や障害者といった被差別的存在が、超越的
もつものだったのではないだろうか。
な相貌を示現するに至るという主題の表現においても、劇的な
物語構成は有効であったと思われる。その点で﹁あにき﹂﹁畜生
伝﹂のように題材としての障害者がナマな形で物語から浮いて
腹﹂は柳浪の技法上の進展を示す作品である。両作では﹁変目
1
4
m
m
注(
l) 一番目﹁畜生腹﹂四幕、二番目﹁可児大尉﹂四幕。諸資料が
4月凶日初日とするがおそらく誤り。﹁都新聞﹂﹁東京日日新
聞﹂によって 4月 日が初日の 5月奥行とみなす。出演は佐
藤歳三(重三郎)/日野健一郎(おもよ)/桃木吉之助(お近)
/川上音二郎(力造)ほか。脚色は花房柳外。辻番付・筋書・
絵役割等は現在未確認。
(2) 一番目﹁唐撫子﹂五幕、二番目﹁あにき﹂一二幕。出演は高田
実(又吉)/佐藤歳三(富五郎)/藤沢浅二郎(おしん)/小
織桂一郎(鉄五郎)ほか(川上は一番目にのみ出演)。脚色者
は未詳。なお﹃歌舞伎年表﹄、﹃続々歌舞伎年代記﹄では外題が
﹁売国奴﹂﹁貞か不貞か﹂となっており、内容・役名からみて同
演目なのは間違いないが、この題名の出所については不明で
ある。新聞雑誌では管見の限りすべて﹁唐撫子﹂﹁あにき﹂と
している。
(
3
) ﹁小説六佳選﹂(﹁文芸倶楽部﹂増刊、明治 ・日)所載の柳浪
﹁浅瀬の波﹂および中村芙蓉楼﹁ひと吹風﹂には揃って︽冷熱
しぼゐ
の演劇︾への言及があり(同時代評で榔撤されている)、彼ら
がともに川上座の﹁嘘実心冷熱﹂を観ていたことを示している。
﹁畜生腹﹂については広津和郎﹁﹃変目伝﹂の序﹂(﹃変目伝﹄、
大正7 ・
8、新潮社)に、︽議出掛可制起原同封制対側針居可
制引関川川、父は﹃何だって、こんな厭な、陰気なものを書いた
らう。見る人身も堪るまい。(後略)﹄かう思ったさうである。︾
という言及がある(波線引用者、以下同じ)。
﹁あにき﹂については﹁歌舞伎座大合同演劇の脚本選定会
附川上大気焔の事﹂(﹁読売新聞﹂明治出・ 7 ・5) という記事
中に、︽根本吐芳は此前日fI底吋広海側i 後藤宙外、小杉
苅州司射鎖椙叫判耕槻創期間倒謝料居城剖U針端凶種々協議す
m
m
u
w
m
)
る処ありしも・:︾とあり、これは﹁あにき﹂の舞台を原作者ら
関係者が打ち揃って観劇していたことを伝える。なお同記事
は同年8月歌舞伎座興行の演目選定会議の模様を報じるもの
だが、席上候補として鏡花﹁辰巳巷談﹂と柳浪﹁今戸心中﹂が
挙がったものの川上の反対で却下されている。しかし藤沢、
高田はむしろ︽新演劇も折角慈まで漕付けたるなれば是非文
学上の作をも演るべしと主張︾しており、﹁今戸心中﹂の上演
には未練を残していたようである。
、日・ 5、日
(
4
) ﹁太陽﹂ 3巻幻、辺、お号(明治初
に連載。﹃柳浪叢書﹄前篇(明治的悩・ロ、博文館)収録時に会話
部分等に手を入れているが、初出を採る。
(
5
) 特に男女の双生児を言うとする説明を載せる辞書もあるが、
詳らかにしない。
(
6
) 近世では西川如見﹁百姓嚢﹂(享保時)に︽制対別引制画制覇
d 叫討叫踊司刻 説ぷ叫叫
制村岡可辺倒対封同制割引叫廿可
蝿輯同瞬判官制樹割U制吋雇克樹制調側頭術面︾という記述が
あり、谷秦山﹁俗説資弁﹂続編(享保3) や大石千引﹁野之舎
随筆﹂(文政3) にも同様の事が見える。いずれも和漢籍に照
らして全く根拠のない迷信・蛮習とする。
また、恩賜財団母子愛育会編﹃日本産育習俗資料集成﹄(昭
和田・ 3、第一法規出版)の﹁出産に関する俗信・禁忌・呪法﹂
は、昭和凶年の時点での双子に関する各地方の俗信を記録し
ている。注(川口)も参照。
5
1
)
m
U
ω
)
m
u
-
) 浩々歌客﹁青眼白眼﹂(﹁国民之友﹂明治
7
(
) 樗牛﹁柳浪の﹃畜生腹﹄を読む﹂(﹁太陽﹂明治初
8
(
) 浩々歌客﹁新刊小説﹂(﹁国民之友﹂明治犯・ 9-m)。﹁青大
9
(
将﹂(﹁反省雑誌﹂明治初・ 8)。
(叩)﹁早稲田文学﹂(明治犯・ 4) の﹁文壇消息﹂欄に︽近頃諸方
にて新脚本起稿の噂あるは喜ばしきことなり(略)聞き得た
ま﹀を誌さんに、時婚時時升凶菊闘記封川斜叫剖剖園調械は
)
m
ω
耕輯引は可︾とあり、これは﹁人一代夢浪花津﹂を指すだろう。
また翌年の﹁早稲田文学﹂(明治訂・ 3)﹁文壇消息﹂欄には︽捌
樹刊同町有蝿引は閣制側劇珊掲桝目制パ川︾と見え、脚本研究が
継続されていたことがわかる。
。﹁七騎落﹂
(日)秋剣﹁短評一束﹂(﹁帝国文学﹂明治犯・
(﹁文芸倶楽部﹂明治犯・ 9)。
(ロ)岩城準太郎﹃自然主義以前の作家(下)│硯友社の人々!﹄
6、岩波書店)、吉田精一﹃自
(﹃岩波講座日本文学﹄、昭和7 ・
然主義の研究﹄上(昭和初・日、東京堂)など。
(日)公平庵﹁不言不語を読む﹂(﹁国民之友﹂明治お・ 3 ・3)、大
町桂月﹁﹃不言不語﹄を評す﹂(﹁帝国文学﹂明治犯・ 4) など。
(弘)高山樗牛がこれに注目し﹁畜生腹の脚本﹂(﹁太陽﹂明治訂・
2-m) で書いている。︽柳浪の畜生腹の筋の戯曲的なること
吾人既に注意しき。関根黙庵是を改鼠増補して脚本体に改め、
早稲田文学に掲ぐ。一読頗る興味あるを覚ゅ。(中略)独り柳
浪に詩劇の才あるの一事は其作の到る所に表はる、何んぞ自
ら筆を脚本に着けざるや︾(傍点省略)。
(日)花房柳外については藤木宏幸﹁花房柳外と洋式演劇﹂(﹁共立
3) に詳しい。三世河竹新七
女子大学文芸学部紀要﹂昭和U ・
門下でもと竹柴作造を名のり、趨迭にも師事していた。遺盗
らの﹁畜生腹﹂観劇は柳外の慾滋によるものではないだろうか。
(凶)後述の早稲田合評で遁逃が指摘している。なお松本伸子﹃明
治演劇論史﹄(昭和田・口、演劇出版社)が﹁畜生腹﹂上演の経
緯についてすでに考証しており、参照した。
(げ)川上座の場割は︽(序幕)大磯譲龍館、同客室。(二幕)丹治
重三郎宅、同門口出立、同奥座敷出産。(三幕)九段靖国神社
境内、丹治宅台所。(大詰)重三郎居間、同お近殺し、丹治夫婦
寝室、同裏門力蔵別れ。︾(﹁都新聞﹂明治泊・ 4-m) である。
(凶)佐藤橘香﹁劇と文学と﹂(﹁新声﹂明治虫・ 5) は︽劇と文学
とが、調和すべくして、相議離せしこと該に久し。而して頃者
漸く接近し来れるは、最も喜ぶ可きことならずや。去月市村
座に於いて、﹃金色夜叉﹄は川上等によりて演ぜられ、今亦大
問団の﹃畜生腹﹄を川上座に見る。而も前者の見事に失敗せし
に反して、這回は予想外に成功せり(後略)︾と評価している。
他には青軒居士(三宅青軒)﹁新演劇﹂(﹁文芸倶楽部﹂明治
。
・ 6) 等
出
やや後になるが、﹁劇としての﹃己が罪﹄について﹂(﹁小天
つ
﹄
,
。
命
"
傘
地﹂明治犯 -U) の冒頭に柳外の談話として︽:抑も東京で
さきのとし
先年広津柳浪君の﹃畜生腹﹄を生が脚色して、川上が演じた
それから、高田が同じ人の作﹃あにき﹄を演じた、此の頃は坪
・
いろJt
内趨塗氏を始め多くの文士達も皆見に来て下さって種身の批
しかのみ
評が有った。然而巳ならず其頃出来た青葉会などいふのも寧
ろ新演劇の方に左胆する者で有るといふ事で、謂はゆる劇と
1
6
文墳の調和も大いに行はるべく望みが有ったが、世の中の事
と云ふものは思ふ様に行かないで、急に事情あって川上は外
国に向かって去り高固また大阪に来たといふ様な訳で東京の
新演劇といふものが一時に衰退した︾云々とある。
(印)早稲田合評には︽剤制対嬬州制討剤用問吐耐桝叫嵩出品叫叫
鮒卦対端科別司副料引説司端判制調同村剖パ川、之れが悲劇の
主因となったとは益々合点往かず︾(迷羊)という評言もある。
また東帰坊(幸堂得知)﹁川上座劇評﹂(﹁東京朝日新聞﹂明治
出
・ 5-m) は、︽成べくは此話の中へお近が、額出願可川将凶
制倒制対出雷同制州都凶岩川廿といふ話をする、(中略)殊に
額出願倒謝料凶崩掛傾倒叫闘剖寸霞柑同封引制覇剖尉叫M
J勺
割引︾と記しており、これは川上座の観客にとって︿畜生腹﹀
の語が、すでに説明なしでは呑み込めないほど耳遠いものだっ
たことを示すのではないか。
(却)(無署名)﹁川上座の新演劇﹂(﹁都新聞﹂明治幻・ 5 ・4)。
(幻)此童﹁川上座略評﹂(﹁中央新聞﹂明治担・ 5 ・5)。
(辺)太田素子編﹃近世日本マピキ慣行資料集成﹂(平成9 ・
6、万
水害房)等参照。
(お)青々園﹁浅草の壮士芝居大一座(下)﹂(﹁都新聞﹂明治訂・
7
・ 9)
またうちこのご
(辺)﹁文芸倶楽部﹂(明治訂・ 5) の時報﹁新、旧俳優と文学﹂に
高田自身の談話が見えている。
︽こ冶に亦新俳優中の中、高田実なるもの、頃ろ人に語って日
く、私は劇と文学との調和といふ事が、大いに希望であります
から、以後は成るべく一奥行中には二幕三幕位づ﹀でも、文学
者の作を斡ってやる山都で、既に次回某座の二番目には、新著
月刊に出た柳浪子の﹁あにき﹂を演じ、あんな馬鹿な人物に扮
して見たいものだと思って居るのです︾。
なお高田は当時既に川上とはライバル的関係にあり、﹁畜生
腹﹂での川上の成功を意識していた可能性も考えられる。
(お)新声社編纂﹁創作苦心談﹂(明治引の・ 4、新声社)
(お)中丸宣明﹁供犠の文学│広津柳浪論﹂(﹁国語と国文学﹂昭和
日
・ 3) が、見世物興行との関係、および﹁亀さん﹂の亀麿が
芸能者としての側面をもつことなどを論じている。
(幻)﹃現代日本文学全集7 柳浪・眉山・緑雨集﹄(昭和4 ・3、
改造社)
(お)﹁作家苦心談其一(広津柳浪氏が近作の材料及び其の運
用こ(﹁新著月刊﹂明治犯・ 4)
(mU) 字佐美毅﹁︿悲劇﹀の行方上仏津柳浪論l﹂(﹁中央大学文学
部紀要﹂平成5 ・2)
(ぬ)吉田昌志﹁広津柳浪と泉鏡花│﹃親の因果﹄と﹁化銀杏﹂の
関係│﹂(﹁日本近代文学﹂平成ロ・ 5) 等参照。
*﹁畜生腹﹂﹁あにき﹂の引用には初出を用い、漢字については一部新
字体に改め、ルピは適宜省略した。
1
7
││井伏鱒二訳﹃父の罪﹄論
加
織
つ部分的なモチーフの指摘があるだけで、訳業の内実について
はほとんど顧みられることがなかったのである。
こうして訳文の検証が立ち遅れた一因には、﹃父の罪﹄が翻訳
様で、作中のモチーフ(﹁脱出﹂﹁川﹂﹁村﹂等)を抽出するものの、
肝心の訳文を取り上げてはいない。先行研究における﹃父の罪﹄
は、﹁井伏のズ lデルマン体験﹂(涌田)という言葉に変換されつ
れた﹃父の罪﹄(出向日目ロ ω
昆
叩
著、井伏鱒二訳)について
は、その多くが未詳である。とりわけ、底本はおおよそ判明し
ているが、本文細部の検討はほとんど手っかずの現状で、﹁工夫
の見られる抄訳﹂﹁かなり自由な訳﹂との指摘に止まったままで
ある。この傾向は﹃父の罪﹄の重要性を唯一論じた涌田佑も同
52
携わっていた。特に近年では前田貞昭の調査によって、井伏の
入社時期は一九二四年九月であることが新たに指摘されてお
り、取県芳閣時代の年譜的事実が徐々に明らかになりつつある。
しかしその一方で、この衆芳閣から一九二四年九月に出版さ
野
翻訳からの出発、 あるいは翻訳への出発
一、はじめに
井伏鱒二の名前が初めて﹃文芸年鑑﹄の﹁文士録﹂へ加わる
のは、一九二五年のことである。ただしこのときの肩書きは﹁作
家﹂や﹁小説家﹂ではない。﹁衆芳聞社員﹂、著作は﹁翻訳父
の罪﹂││これが﹃文芸年鑑﹄に最初に記載された彼の経歴だっ
た。このあと新人小説家として第一創作集﹁夜ふけと梅の花﹄
を出版するのが一九三O年であるから、﹁文士録﹂への加入はそ
れより五年先行していたことになる。したがって﹃父の罪﹄は、
習作期の井伏が手がけることになった自身初の刊行本なのであ
る
。
この﹁文士録﹂にもあるとおり、一九二四年から翌二五年に
かけて井伏鱒二が出版社衆芳閣へ断続的に勤務していたこと
は、既に広く知られている。当時の井伏は、作家を志して同人
誌上に細々と著作を載せる傍ら、取県芳閣に出入りし出版業務に
塩
1
8
井伏鱒二にとって翻訳がいかなる行為だったのかについても議
のである。この枠組みの中では、﹃父の罪﹄訳業はむろんのこと、
作を区分し、しかも小説より劣位なものとして位置づけてきた
り、﹃父の罪﹄を論じる側が、小説とは別の著作カテゴリーに本
れる。ここには井伏作品における著作の序列化が窺える。つま
小説であるがゆえに副次的著作とみなされてきたことが挙げら
係は、これから述べる先行邦訳を使用しても成立可能であり、
というのも、氏が挙げた﹃父の罪﹄とドイツ語原著との対応関
捉えるだけでは不十分であり、田口幹比古が主張したようほ井
伏のドイツ語原著使用についてもいま一度再考の余地がある。
可能だった。したがって、井伏訳を英訳本との単一的な関係で
刊行当時にはすでに原著・英訳・邦訳のいくつかが日本で入手
マン﹃猫橋﹄は井伏訳以外にも複数の邦訳が出ており、﹃父の罪﹄
見ても、他の邦訳は改めて注視する必要があるだろう。そして
必ずしも原著を使用したという論拠にはならない。この点だけ
論は決して十分ではなかった。
にすることで、井伏における本作の位置づけを検証していく。
何より重要なのは、井伏にとってこの訳業が、他の﹃猫橋﹄訳
と差別化していく試みでもあったという点である。英訳本だけ
そこで本稿では、﹃父の罪﹄本文の分析からその特質を明らか
とりわけ、井伏自身が翻訳をどのような言葉で語り、いかなる
訳文を施したのかという観点から、この書き手と翻訳とのあり
伏訳の輪郭は徐々に浮かび上がってくるはずだ。そこで、まず
はズ Iダl マン﹃猫橋﹄の翻訳状況について整理しておこう。
ではなくこれら種々の邦訳本文を相互に比較参照してこそ、井
ょうを再考するものである。ここにはおそらく、習作期井伏の
新たな文学的営みが見えてくることだろう。
も広く読まれた小説であった。これを英訳したもののうち、井
ベストセラーになったのみならず、海を越えて明治期の日本で
ドイツ語原著は一八八九年に発表されて以降、ドイツ圏内で
﹃父の罪﹄の原著にあたるのは、出RBBロωERgs回d R
二、訳者が表明する翻訳方針
烈呉855R(邦題﹃猫橋﹄)であるが、英訳本を経由した重訳で
ω50
あることは早くから指摘されてきた。現在では、井伏訳の底本
は有名であり、花袋は同書を契機にして﹃重右衛門の最後﹄を
書いたと述べてい的。そしてこのマーシャル訳がちょうど日本
田山花袋の間で、読後感に端を発した意見の応酬があったこと
同寸宮司担任叩円師事
伏訳の底本とみられる渇∞位ロ P 。門叶宮 ωEMO
は、明治末から大正初めにかけて日本で販売されていたことが
確認でき却。このマーシャル訳をE いに読んでいた夏目激石と
m
a
z
同、吋宮
はピ♂}トリス・マーシャル訳εmmm江戸旬、吋宮
司
由
民
戸
と言われ、この抄訳であることも併せて確認されてい
る
。
しかしながら、底本をめぐる従来の議論でほとんど重視され
てこなかったのが、他の邦訳の存在である。実際にはズ1ダl
1
9
いる。このうち井伏訳の刊行を挟んで前と後の時期に、二種類
邦訳の鴨矢は一九O四年の登張竹風訳で、このあと昭和初期
に至るまでの聞には、井伏を含む七名の訳者が翻訳を手がけて
に入ってきた頃から邦訳も試みられるようになる。
はつとに指摘されるとおりだが、木村毅によれば、この序文は
うにと注意を払った﹂との一節は、彼の代表的な翻訳論である。
ずることを避けて、幾分なりとも将来の大日本語を預定するや
支持していた。小宮の主張は、﹁もっと違った日本語を作り出
したい希望の下に﹂翻訳を行おうとした点で一貫している。彼
は﹁一つの纏まった、新しい様式﹂を作り出す目的のために、
変に東京化され﹂た訳ではなく﹁凹凸の多い耳馴れない﹂訳を
﹁出来るだけ日本化することを避けて﹂というのは小宮が翻訳
を語る際にしばしば用いる表現で、後年にも﹁変に日本化され、
方化することを避けて自由な然かも忠実な然かも印象を不
明瞭ならしめない程度に於いての直訳体を用ゐんとした点
にある。
ことを避けて│││換言すれば出来るだけ一時代化し一地
私が此翻訳に際して意図した処は、出来るだけ日本化する
たのだ。ではこのとき小宮は、﹃猫橋﹄の訳述にどのような方針
で臨んでいたのだろうか。彼は序文の中で次のように述べてい
る
。
名を挙げるのだが、それがこの長江ともう一人が小宮豊隆だっ
した訳文を、大日本語の名称の下に主張した新人群﹂は、﹁東京
帝国大学出であり、激石門下の文学士﹂だとして二人の人物の
この長江の訳文が横光利一の﹃日輪﹄に強い影響を与えたこと
の全訳が出ていることに注目したい。一つは小宮豊隆、もう一
当時﹁大胆なる挑戦として、非常に有名であった﹂という。加
えて木村は、この時期﹁もっと露骨に、忠実に西洋の語脈に即
つは生田春月によるものである。この二つに共通するのは、底
本がドイツ語原著であることと、削除や抄訳をせずに原著の章
構成をそのまま踏襲したことなのだが、井伏訳と比較したとき
に興味深いのは、両訳ともその序文の中で訳者が訳述方針を説
明している点である。同じ﹃猫橋﹄の物語を訳すことになった
彼らは、訳述において何をめざし、翻訳という行為をどのよう
に語っていたのだろうか。ここからは特にこの二つの全訳につ
いて、もう少し詳しく見ていこう。
まず一つ自の全訳は、小宮豊隆訳﹃罪(カツツエンシユテIヒ
)
﹄
で、一九一四年に刊行された。これは井伏訳が出るちょうど十
年前にあたる。当時日本ではすでに原著も英訳本も輸入販売さ
れてはいたが、邦訳で小説全体が読めるようになったのはこの
小宮訳が最初である。ここで重要なのは、小宮訳が博文館の﹃近
代西洋文芸叢書﹄の一冊として刊行されたことである。この叢
書は、収録された海外作品だけでなく、訳者の序文や訳文自体
﹃サラムボオ﹄(一九一一一一年六月)で、長江が序文に記した﹁出来
も注目された書物であった。有名なのは第二巻の生団長江訳
得る限りの普遍的なる日本語﹂を目指し﹁過去の小日本語に殉
2
0
﹁忠実﹂な﹁直訳﹂は、その先に新たな﹁日本語﹂を措定した
上で推進されるのである。二人の﹁新人群﹂訳者の序文は、単
に﹁忠実﹂や﹁直訳﹂という表現が呼応するのではなく、新し
﹁原本のまま﹂﹁忠実﹂に訳すことを提唱したのである。これは
先述の長江の序文にあった、翻訳が﹁普遍的なる日本一也巴を作
るための行為であるとの見方に通じている。つまり彼らの言う
ない。これは先の長江と小宮が、﹁普遍的﹂で﹁一つの纏まった﹂
﹁日本語﹂を獲得すぺく、﹁忠実﹂な﹁直訳﹂を推進したのと同
様である。つまり、ここで言われる﹁忠実﹂は、﹁原文﹂や﹁日
冒頭に﹁シユランデンの焼跡﹂とあるのはこの小説の舞台の
ことで、井伏は、自身の訳文をその﹁焼跡﹂へ﹁建築﹂する﹁城﹂
本の中に示したか何うか、疑問であるやうだ。けれどこの
原文が非常に面白いものであることだけは、私は時帰路し・な
いで断言出来るのである。十三年九月井伏鱒二
リンネルも光線の具合では取除くかもしれない。壁も、近
眼の私の眼に応はしい様に、灰色に塗るかもしれない。
だが、はたして私は今度、便利左官以上の働きをこの訳
ない。春月は、ズ lダl マンの﹃猫橋﹄を全訳するにあたって、
小宮の訳文の表現を参考にしたのと同時に、翻訳観についても
継承していたのである。
それでは一方の井伏は、自身の翻訳方針について何か言及し
ていただろうか。﹃父の罪﹄には、次のような短い序文が付いて
いる。
若し私の好むま冶に、シユランデンの焼跡へ城を建築さ
せてくれるならば、私は私好みに設計するであらう。窓の
本語﹂を単一的に措定した上で導かれる表現であり、この姿勢
こそ彼らに通底する翻訳観だったのだ。ちなみに春月は、長江
に師事して共訳書も刊行しており、翻訳界の﹁新人群﹂であっ
た長江と小宮の翻訳観から強い影響を受けていたことは疑いが
い﹁日本語﹂(それは﹁一つの纏まった﹂、﹁普遍的なる﹂もの)を目
指す点で一致していたのである。
では、もう一つの﹃猫橋﹄全訳を手がけた生田春月の場合は
どうだろうか。春月はその序文で使用文献を提示しており、訳
述時にはドイツ語原著を底本としながらもマーシャル訳と小宮
訳を参照したことを明記している。併せて彼は、﹁原文を遠ざ
かる事なくして、出来得る限り平明ならん事﹂を目指したと言
うのだが、それが先の小宮の言葉遣いと近接していることに気
づく。﹁原本のままに﹂﹁直訳体を用ゐんとした﹂小宮と、その
訳本を参照し﹁原文を遠ざかる事なく﹂訳すことを掲げた春月。
両者の言説は、﹁原文﹂と訳文との距離を問題にし、その近さに
価値を置く点で共通するのが見て取れる。
ただし注意しなければならないのは、そこで主張された﹁忠
実﹂な訳というのは確定した﹁原文﹂があって初めて成立する
ということである。彼らの語る﹁忠実﹂は、一見すると﹁原文﹂
を﹁尊重﹂する振る舞いのようなのだが、実のところそれは﹁原
文﹂と呼ばれるものを見定めて限定し固定化する行為に他なら
2
1
いる点である。これを具体例に即して見ていくことにしよう。
それは、井伏が作中の人間関係に細かな揺らぎを加えて訳して
作中には、登場人物の関をいくつもの手紙が往来しているが、
のまま﹂や﹁忠実﹂といった表現は一切登場しない。書き出し
の﹁建築﹂する﹁城﹂の比除に始まり、﹁私好み﹂﹁設計﹂﹁便利
レスラフが﹁殆んど暗諦してゐた﹂ほど惹かれるレギ lネから
井伏はこの手紙を訳述する際にある方向づけをする。まず、ポ
になぞらえて語っている。ここには小宮や春月が用いた﹁原本
左官﹂といった修辞からは、翻訳に対するこの訳者の焦点が、
の手紙は、傍線部のように加筆される。
(英訳)白 25 ﹃dE2BEg-色nFRRZBB
a
OM円匂円高山田mwmw・
円四円
ORR己可
手を加える行為それ自体の方へ向いていることがわかる。実際
に﹃父の罪﹄の抄訳方法を見ても、他の抄訳本のように章や段
落を単に省略するだけではなく、クライマックスのプロットを
(却}
(小宮訳)力のある字と綴り方や書き方なぞの正しい落つ
いた真面目な手紙であった。
入れ替えて物語の進行順序にも手を加えている。序文の表現が
単なる稲晦や比喰に止まるものでないことはもはや明白だろ
う。それはまるで、先の訳者たちとは全く別の観点から翻訳を
(井伏訳)それは筆勢の立派な、そして書法も正しい文字で
書いた倒刻州倒樹剖剰刺引引制明細であった。
目な手紙であった。
(春月訳)字に力があって、綴字の正しい、落着いた、真面
れた訳述とはいったいどのようなものだったのだろうか。
捉えようとする宣言であるかのようだ。ならば、そこで実践さ
三、揺れ動く人間関係をめぐって
との悲恋を描いている。小宮豊隆によれば、この小説の見せ場
な違いがある。それは、同一差出人による手紙でも場面に即し
り、これは各訳本にも共通である。しかし井伏訳には一つ顕著
差出人の心情を文面に仮託するこうした訳述は、以下に挙げる
手紙の引用場面の中で、より具体的に活用されている。
井伏訳だけが筆跡を書き手の性格に起因させているのだが、
は﹁ポレスラフとレギ lネとが段々近づいて行く処││精確に
云へば、ボレスラフが初めはレギ1ネを軽蔑し嫌悪し損斥して
ズlダl マンの﹃猫橋﹄は、解放戦争時のプロイセンを舞台
にして、城主の息子で貴族のボレスラフと、その召使レギlネ
ゐながら、日が立つに従って段々反対に夫に牽きつけられて行
て文体を訳し分けたことである。例えば、ポレスラフが幼なじ
みのへレ lネから受け取る手紙は計三通存在するのだが、注意
原作に登場する手紙は、いずれも全文が作中に提示されてお
く処﹂だと言うが、事実、物語の展開には人間関係の変化が重
したいのは、一通目とそれ以降とでは差出人ヘレ Iネと受取人
{EV
各訳文を比較してみると、井伏訳だけの特徴的な傾向に気づく。
要な機能を果たしている。そこでまずはこの点に注意しながら
2
2
て、ヘレ 1ネの立場はボレスラフの恋人から彼の宿敵のフィア
ボレスラフとの関係性が異なる点である。物語が進むにつれ
の 御 願 ひ に 存 候 。 必 ず 御 待 致 居 申 候 。 頓 首 ヘ レ lネより﹂
の境内横の門のところに御忍び寄り被下度、何卒何卒私事一生
(H
ンセへと大きく変化する。この変化を井伏訳は手紙の文体で表
始まり、結びには﹁私はいつまでも貴方を恋してゐることを書
開﹀何回 OF
開伊﹀︿)から
HFU
親密さは確実に消去されていく。へレ 1ネの気持ちがボレスラ
田}
フから遠ざかっていく過程が、引用された手紙の文体差として
それに替わって使用された結ぴも﹁かしこ﹂から﹁頓首﹂へと、
と訳し、二通目以降はあえて﹁貴方の﹂を訳し落としている。
表現斗
OR回目、問 Z円を、井伏は一通目で﹁貴方のへレ1ネ﹂
と、やはり候文で示される。しかも、この三通に共通する文末
可
EZS邑ロ阿倍同E
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d吾冊目同肴邑当島沙門司O戸│JPR出戸別Z開)
ひます。さよなら、貴方のヘレ lネより﹂(同島曲目阻害国官官同 O
昆
表象されるのである。つまり井伏は、物語に予め設定された人
まず、恋人同士だった頃のへレlネの手紙は、書き出しの﹁愛
すのである。
同戸別一白・)という文体が使用され
oqgーを省三回当
ているのを確認しておこう。これに対して、彼女と疎遠になっ
する愛するポレスラフさん!﹂宙開﹀
た後で久々に届く手紙では、冒頭﹁御なつかしく候ま温一筆し
でその変化をより段階的に細分化して描き出すのである。こう
間関係の変化に対して、この場合は手紙の文体差を用いること
作り出す方法は、また別の場面では、主人公ボレスラフの人物
A
めし参らせ候。此度御許様にはかしこきあたりより光栄ある面
造形にも新たな一面を加えることになる。
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同町叩回目同氏同H
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(英訳)
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一
回
ogao同任。σ-sassp当EnFE目指賞品沙門
べきは、井伏訳とそれ以外の訳文とで、ポレスラフが動揺した
の名前が出たことで思わず動揺する。この場面の本文で注意す
ボレスラフは召使レギlネとの会話中に、昔の恋人ヘレ lネ
した言葉の位相差によって登場人物聞の距離や心情に揺らぎを
処か格好の場所を御通知申すぺく候問、必ず庭の中へ入らざる
宮ペペ O C
寸
出
・-HE時停 冨宮径回ミozEszgzmEM
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σ可ORd﹃山田冊目R
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o
σ 宮内町M
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) に始まって、末尾の﹁いづれ他に何
原因が異なっている点である。
gZOR
白をお受給はり候由、妾の父上申居候。﹂宙開﹀同司呂田白 O司
やう御注意願上候。﹂(同省自由80釘ZEPR立
22z
gSEm・
R g同
a
H由m
R
a
m
p
) に至るまで、以前とは打って変わって候文で表記さ
れる。先の一通目と比較して生じる文体の落差は、現在のヘ
レlネが、ボレスラフの知るかつての彼女とは決定的に異なっ
たことを雄弁に伝えている。
続く三通目でも、すでに別の人物と婚約したヘレ lネが、あ
る策略からボレスラフをおびき出す内容が﹁今晩の九時、教会
3
2
時
け
OB Z
E与え担当E0・
(小宮訳)﹃あの││ヘレネが114 と女は行き詰まった。
何となれば彼は、恋してゐる人の名前の響きに、女の、
この様な女の口から初めて聞いた響きに、丁度鞭で縛
かれた様に飛上がったからである。
(春月訳)﹁あの人││へレエネさんが││﹂と女は云ひ淀
んだ。彼がこの女の、このやうな口から、はじめて聞
いた最愛の人の名前の響に、丁度鞭でひツばたかれた
やうに飛上ったからである。
(井伏訳)﹁あのへレ lネが:::﹂と女は言ひ詰った。何と
なれば彼が、恋してゐる女の名前をレギlネに剛間判
引叫剖利引、驚いて立ち上ったからである。
いずれの本文も、ボレスラフが驚いて立ち上がるという同一
の動作を描いてはいるものの、その動作を導く回路が井伏訳と
他訳では明らかに異なっている。まず、他訳のボレスラフが驚
く原因は、愛するヘレ lネ の 名 を レ ギ lネ か ら 聞 い た こ と
ι ﹂﹁響きに﹂﹁響に﹂)に由来する。﹁驚く﹂動作を直接的
5
8
(導いたのはヘレ lネの名前を聞いたという事実の方であり、
﹁
に
このとき呼び方自体は問題になっていない。しかし一方の井伏
訳は、﹁驚く﹂根拠を﹁呼ぴすて﹂という行為に起因させて説明
する。この表現によって前景化するのは、ボレスラフとレギ 1
ネとの間にある身分の差である。召使であるはずの彼女が主人
の恋人を﹁呼びすて﹂にすることは、主人と召使という社会的
関係を逸脱する行為に他ならない。井伏訳のボレスラフはその
行為自体に反応して﹁驚いて立ち上った﹂のである。つまりこ
の記述は、ボレスラフが社会的立場を重んじて行動する人物で
あることを示している。むろんそれは原作の物語に変更を迫る
ほどの影響力はないのだが、彼のこうした性質は前述の手紙文
体の例と同様に、既定の人間関係に微細な変化を与える効果を
確かに持っている。このことは、次の引用部分からも確かめら
れる。
ボレスラフは、亡父の愛人であったレギ!ネを当初は蔑視し
ていたが、その献身的な働きぶりを間近で見るうちに徐々に惹
かれ始める。本能的にはレギ 1ネに惹かれつつも理性で必死に
)E
O︿
目白区
RFRPB自色
同
出 04﹃n
C円ロ叩者門戸
oロロ何回同包者四RmOO
O仔
35
g一
抑えようとする彼の葛藤を軸にして物語は進むのだが、以下に
挙げるのは、彼がレギlネの新しい衣服を冷やかす場面である。
(英訳
σ自広円Zmq・ ﹀ ︿FS仏ぴ宮島田胃巾包
内
}
円
叩
ロ
(小宮訳)﹃お前はお前の新しい衣服が非常に嬉しいたらう
な﹄と彼が云った。女は頚の処まで紅くなった。
(春月訳)﹁おまへはその新しい着物が大変嬉しいだらう?﹂
と彼は云った。女は頚のところまでも真紅になった。
1H
(井伏訳)﹁お前は新しいスヱツターを着てほんとに・:・:﹂
割削刺州司1﹁嬉しいだらうな?﹂
日割削州ぺ社。女は又頬を真紅にした。
調U引制叫剖剖
2
4
う行為自体も記述する。その結果、直接話法内のボレスラフの
発言は、彼自身によって吟味され選別された産物であることが
井伏訳だけが、﹁言ひかけて﹂口には出さなかった内容(﹁美し
くなったな﹂)をあえて地の文に記し、さらに﹁言ひかへた﹂とい
(春月訳)﹁ひどく締麗だな。﹂と彼は驚嘆しながら考へた。
そして、眼をそらさうと骨折った。﹁ぇ、まだ何か用が
れは本文のさらなる細部の表現に見出すことができる。そして
実はここにこそ、翻訳に対するこの書き手の方法意識が現れて
いるように思われるのだ。
しかしながら、訳者としての井伏の独自性は、以上の点だけ
では説明することができない。なぜなら井伏訳には、いま挙げ
た人間関係の訳述の他にも興味深い特徴が存在するからだ。そ
伏訳独自の方法を指摘することができるだろう。
攻防こそが、二人の関係性を左右する要として描かれるのであ
る。先の手紙の例と同じく、登場人物聞の距離や心情に細かな
揺らぎを生み出す点で共通しており、ここには、他訳にない井
しかも今度は直接話法を伴う﹁美人だな﹂の記述は、彼の自制
を超えて﹁口まで出しかけた﹂ほどに強くレギ1ネに惹かれた
ことを示すものである。井伏訳ではこうした言葉遣いをめぐる
葉が壊したり生み出したりする関係性(主従関係/恋愛関係)へ
の諾否を意味しており、やはりここでもその葛藤が描かれる。
て、女をまともに見ないやうに傍を向いた。
井伏訳のボレスラフにとって口に出す/出さないは、その言
闘訓剖刈司、﹁何か忘れものでもしたのかい?﹂と言っ
あるのかい?﹂と彼は出来るだけの優しい調子で訊い
た
。
(井伏訳)﹁これは、美人だな。﹂と彼は同剖明削U州州制制
明示される。城主の息子であることに使命感と誇りを持つボレ
スラフにとって、﹁美しくなったな﹂と彼女に語りかけるのは確
かに厳禁である。なぜなら、蔑視すべきレギlネに対して自ら
好意を示すことは、主人としての社会的立場を彼自身が放棄す
ることに他ならないからだ。井伏訳は、ボレスラフが︿適切な﹀
言葉遣いを探し出す過程を書き込むことで、レギlネへの愛情
と自制心とがせめぎ合い混交する様子を表現するのである。他
訳と比較してみても、井伏訳だけがボレスラフに兆した感情の
揺らぎを描き出しているのがわかる。しかも別の場面には、こ
の感情がさらに高まる様子も読み取ることができる。彼がレ
ギ1ネの美しさに思わず自を奪われる一節は、次のように訳さ
れる。
(
某
訳)dodqFBEOB巾 凹ZE3zsocmFFB包 豆 任
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SOS巾吋回同門自問巾σSEq・ 自 仏g
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O件同OEO-向 丘 町 mw円・ 2204﹃ 長 巾Pd﹃}阿国ぺ間同町巾
ZZ= ぽ 目 的 宮 門 凶 宮Emm自己叩回同窓口
2・
目白同
(小宮訳)﹃馬鹿に締麗だ﹄と彼は驚嘆しながら考へた。さ
うして女を真面に見まいと試みた。﹃をい、何かまだ
用があるのか﹄彼は最も柔しい調子で聞いた。
5
2
四、選択された語義
﹃父の罪﹄では、単語や語尾といった一誼開業の基本要素において
も、固有の訳が施されている。ここでは二つの例からそれを見
ていこ、っ。
物語クライマックスで、レギlネは自身の父親ハツケルベル
クが放った銃弾によって落命する。この父親というのが、ボレ
スラフの生まれた城を放火した張本人である。それを知らない
ボレスラフは、レギlネの卦報を告げるためにこの父親の元へ
駆けつけるが、すでに錯乱状態となったハツケルベルクの独り
言を聞いて、この男の手によるレギ 1ネ殺しと放火の事実を初
めて理解する。以下は、ボレスラフが耳にしたハツケルベルク
の独り言の一節である。
(英訳)寸 OH﹃
田:-F5ZEEEmz一寸宮口同凹己叩.凹 O口同日一
邑
回
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一 己 仲 良 吾 巾 羽 毛 - 可ozσ回目回想│民百三島
出555
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1415 片 町 四 巳 昆 四 円 自 門 ご 宮 町
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巾 B
自 可 Oロ 巾 可
σロロ門出巾 O同出血ヘ
u
UN
UU刈朝剖UU捌刺
(小宮訳)﹃進め││ぽんと││刈割問
刈朝団1川朝間け││退け、阿魔め││貴
倒削剥
様が俺を見たと云ふんなら││海綿と麻の束で﹄
UU刈朝旭川U捌
(春月訳)﹁進め││ホイコラ││刈割問
州側同引けハ刈朝間1川割問け││退け、阿魔め││
火織と麻束とを持った││俺を見たなんぞと言はうも
麻縄の束で││﹂
のなら、﹂
-日・胡制
u
(井伏訳)﹁進めッ:::ゃあ!撃引た、撃ったl
域 別 刷 川 川 割 問 川l刈朝旭川退けッ、このすべたl
貴様は俺を見つけたことを言やがるなら││引火奴と
353 に相当する部分が、先二つの邦訳
(原著2
英訳の zm・
Hぺ
では﹁火事だ﹂と一貫するのに対し、井伏訳だけが﹁撃った﹂
と﹁火事だ﹂の二つの意味に訳し分けている。レギ Iネ殺しを
意味する﹁撃った﹂と、放火の記憶を呼び覚ます﹁火事だ﹂が
併存することで、この一節は、ハツケルベルクによる殺人と放
m﹃巾..の中に、
火の犯行が同時に露呈する構造になる。井伏は E
ハツケルベルクの︿譜言﹀の要素と、殺人・放火の︿証言﹀と
しての要素をそれぞれ読み取った上で、その単語の意味が変質
していく過程を訳文に埋め込んだのである。ここには、一つの
語の中に複数性を見出し、それを自らの訳文にも作り出そうと
する、訳者としての井伏鱒二の姿勢が明確に浮かび上がってく
る。前節で見た手紙の文体差や言い淀む行為の訳出も、実は、
こうした訳述姿勢によってこそ可能になる表現だったのだ。す
なわち、単語一語に対しても複数の意味を付与し、そこに変質
の契機を描き込むこと、さらにそれを起点にして物語を展開ま
たは焦点化させること││この営みが、﹃父の罪﹄では不断に行
なわれていたのである。
これと同様の例としていま一つ指摘したいのが、語尾のヴア
2
6
の発話のうち、過去形の否定文につく語尾﹁:・ませんでした﹂
の他に、﹁・:ませなんだ﹂というのがある。原作のレギlネは野
リエ lシヨンである。﹃父の罪﹄には、直接話法を伴うレギ1ネ
この変化を辿ってみれば、井伏訳の語尾﹁・:ませなんだ﹂は、
単にレギ 1ネの出自に由来する閏舎一言葉として括ることは決し
ませんでした﹂﹁村へ下りて行きませんでした﹂という具合に
徐々にその外見を変えていくのである。
び身なりを気にし始めると、語尾もまた、﹁何のかはりもござい
など、農村を舞台とする作品の中にもこの語尾は登場する。し
かも両作の舞台が、井伏の出身地である﹁福山﹂から程近い﹁辺
部な田舎﹂に設定されていることから、﹁:・ませなんだ﹂を含む
そしていま、﹁:・ませなんだ﹂からぜひとも思い起こしたいの
は、この語尾が﹃父の罪﹄以外の井伏作品にもしばしば使用さ
(訂){盟}
れることである。井伏の代表作である﹁谷間﹂や﹁丹下氏邸﹂
てできない。場面ごとの細かな使い分けからも明らかなとお
卑で素朴な人物として予め設定されているため、﹁・:ませなん
だ﹂の語尾は一見すると、低い身分で田舎者を徴づける表現の
ようなのだが、決してそれだけに止まるものではない。という
り、この語尾は、彼女がボレスラフに抱く恋愛感情の芽生えと
減退、さらに回復へと至る過程を表象する機能を担っている。
(剖)
まず物語序盤では﹁私、何うしても塀が越えられませなんだ﹂
のも、レギ1ネのこの語尾は、物語の進行に即して微妙な変化
を見せるからだ。
井伏は、こうした語尾の操作によっても、やはり登場人物の細
かな心情の揺れを描き出していたのである。
と一言うレギlネだが、ボレスラフとの共同生活によって二人の
距離が徐々に近づくにつれて﹁・:ませなんだ﹂は影を潜め、﹁・:
(描)
ませんでした﹂の語尾だけになる。ところが物語後半で、ボレ
スラフ出奔にショックを受けたレギlネが、彼と久々の再会を
{笛}
果たす場面を契機にして、﹁淋しくはございませなんだ﹂、﹁貴方
はいつまで経つでも帰つてはいらっしゃいませなんだ﹂と再び
登場している。恋しい主人はもう二度と戻らないと思い込んで
作中人物の言葉は﹁中国弁﹂や﹁ナマの土地ことば﹂との相違
{盟)(犯)
が指摘されてきた。そこでは﹁デフォルメした方言の一様式﹂
きたように、﹃父の罪﹄という外国が舞台の小説においても﹁:・
や﹁文芸体制における中国弁﹂などのように、実体化した﹁方
言﹂の中に回収されることが少なくない。しかしすでに述べて
かり様変わりする。井伏訳では、彼女のこうした﹁再び薄汚く﹂
なった風貌に付随するかのように、語尾﹁・:ませなんだ﹂も再
ませなんだ﹂は使われており、それが物語内に細かな差異を生
み出す装置であったことを踏まえてみれば、もはや﹁方言﹂と
絶望していたレギ!ネは、その風貌が﹁野蛮な気狂ひじみた様
子になって﹂﹁衣物は破け、美しく櫛を入れてゐた立派な髪の毛
も、再び薄汚く縮れて額や頬の上に乱れか、ってゐる﹂ほどすっ
び現れるのである。しかも、無事に再会した後の場面では、彼
女自身が﹁私、きれいになるやうにいたしませう﹂と言って再
7
2
して概括的に括ることはできない。むしろこれから必要なの
は、方言という線引き自体を個別の表現に即していま一度とら
え直していくことだろう。﹁:・ませなんだ﹂の語尾は、井伏が小
説の機能として作り出した表現手法であり、こうした彼の文体
は﹃父の罪﹄においてすでに実践されていたのである。
玉、おわりに
ここまで﹃父の罪﹄本文を中心に考察してきたが、最後に、
この翻訳書が刊行された当時の状況について若干の補足をして
(剖)
ちょうどこの時期である。ただし、発刊品目数はこの翌年を
ピlクにして一九二七年からは急激に減少していることから、
同社の盛衰は震災後から金融恐慌までのごく短期間のうちに推
移したようだ。つまり井伏がこの衆芳閣と関わったのは、創業
直後の束の間の活況時だったということになる。
さらに当時の刊行広告によれば、﹁緊芳閣の翻訳書﹂として﹃父
の罪﹄を含む十冊以上の書籍が紹介されており、﹁父の罪﹂以外
にも複数の翻訳書が並行して刊行されていたことがわかる。注
目したいのは、これらの訳者には、若手でしかも早稲田大学出
V
Z
A
身者が多く起用された点である。井伏の回想には小島徳弥が
﹃父の罪﹄訳業を﹁持ってきてくれた﹂とあったが、友人であ
る小島自身もまた翻訳を担当した一人だったのだ。訳者の顔ぶ
れからも、この一連の翻訳出版が早稲田の交友関係による人的
A
ネットワークを背景にしていたことが確かめられる。当時﹁驚
担)
嘆すべき能率﹂と言われた衆芳閣の出版事業は、こうした若手
訳者の起用によっても支えられていたにちがいない。この点か
ら言えば、﹃父の罪﹄は、当時の出版社側の都合によって偶然に
井伏のもとへ舞い込んだ可能性が高いのである。そしてそれが
結果的には、翌年の﹁文士録﹂登録へと至り、作家井伏鱒二の
(認)
って来てくれた﹂との記述に従えば、どうやらそれは友人に紹
介されたアルバイトだったらしい。
一方、﹁父の罪﹂版元である緊芳閣は、一九二四年三月に足立
欽一が設立した出版社で、震災後に族出した新興出版社のうち
最初の刊行本となるのである。
これを踏まえた上で改めて強調したいのは、﹃父の罪﹄がたと
え偶然の遭遇だったとしても、そこには翻訳に対する井伏の明
確な方法意識が読み取れるという事実である。本稿で明らかに
おきたい。﹃父の罪﹄が出版されたのは一九二四年九月、すなわ
ち関東大震災の翌年である。本稿冒頭の﹁文士録﹂でも述べた
とおり、これが井伏初の刊行本となるのだが、彼がこの訳業を
引き受けた経緯については不明な部分が多い。井伏の回想にあ
る﹁学校時代の友人小島徳弥は私のために大いに気を採んで、
一つ儒夫をして立たしめてやるといふので私に翻訳の仕事を持
の一つであった。前田貞昭の前掲論にも指摘があるが、同社は
創立直後から多数の書籍を刊行しており、その勢いは﹁此一箇
月中の新刊だけが十余種にも達して居り創業以来約半歳に既に
{担}
四十余種を刊行してゐる﹂とも報じられた。﹃父の罪﹄刊行も
2
8
としやかに訳す﹂のを拒む﹃初秋一挿話﹄や、﹁田舎一言葉﹂を﹁訳
述﹂するうちに発言内容が変質していく﹃一一言葉について﹄など、
(崎)
してきたように、訳者としての井伏は、言葉の中に複数の異な
る相を読み取りそれを自ら描き出すことで物語を組み立ててい
﹁翻訳﹂にまつわる行為は複数の著作に繰返し描かれていく。
井伏が創作において、﹁翻訳﹂を意図的に取り入れていたことは
井伏の翻訳に関する最も重要な部分を取り逃がすことになって
しまう。なぜなら、この書き手における翻訳は、著作の形式を
背景には、﹁父の罪﹂に通底する訳者の姿勢が窺えるだろう。
ただし、これを同一の著作ジャンルの中で比較するだけでは、
それが彼の創作行為において一つの本質的な要素であったこと
を確かに物語っているのである。﹃父の罪﹄には、﹁創作ではな
するのかについては、改めて検討しなくてはならない。とはい
え、著作ジャンルを跨いで多くの﹁翻訳﹂が描かれた事実は、
つまり、言葉の取捨選択には必ず作為性が付いて回ることを、
この書き手は﹁翻訳﹂という言葉で語り、あるいは描こうとし
たのではないだろうか。むろんそれが表現様式としてどう発展
こうして見てくると、井伏鱒二の捉えた翻訳とは、一一言葉を選
び取る行為それ自体にまで及ぶ概念だったようにも思われる。
である。
象される点である。これは﹃父の罪﹂序文で﹁灰色に塗る﹂﹁取
除く﹂と形容された﹁翻訳﹂と確実に繋がっている。どちらの
﹁翻訳﹂も、人為的な側面があえて強調されながら描かれるの
もはや明白だろう。とりわけ重要なのは、いま挙げた作中の﹁翻
訳﹂が、いずれも不透明で恋意的な行為として自己言及的に表
た。他の﹃猫橋﹄訳者である小宮や春月が、﹁忠実﹂を謡うこと
で﹁原文﹂を単一的に措定したのとは対照的である。井伏は﹁原
文﹂を固定的に扱おうとはせず、むしろ原作の物語の中へ様々
な起伏を作り出していく。この点で、﹃父の罪﹂が他の邦訳とは
一一線を画した翻訳観に基づいていたことがわかる。しかもこう
した姿勢は、その後の文学活動においても持続していたようだ。
例えば、﹃父の罪﹄で﹁私好みに設計するであらう﹂と記した井
伏が、このあと再び﹁自分の好みのままの文章に改めました﹂
と語って、今度はドリトル先生シリーズの翻訳を手がけること
問わず遍在するテ l マでもあるからだ。いま挙げた海外小説や
他の漢詩訳はもとより、彼の小説の中にも﹁翻訳﹂はしばしば
いにしても﹂といった前提自体がもはや無効であるだろうし、
まして副次的著作などでは決してない。それは当時の井伏が文
になる。その訳文の﹁どこまでがロフテイングのもので、どこ
︹担}
までが井伏さんのものなのか、見当もつけにくい﹂と言われる
登場している。例えば、初期の小説﹃炭鉱地帯病院ーーその訪
却)
問記││﹄に出てくる、﹁私は彼の田舎の言葉を雑報的な文章に
体を試行した貴重な場だったのであり、また同時に、以後展開
する表現としての翻訳の出発点でもあったのだ。より正確に言
A
翻訳してみよう﹂との一節は、井伏が小説の中で﹁翻訳﹂とい
う語を用いた最も早い時期の例である。他にも、英詩を﹁まこ
9
2
うなら、このときの文体実践は、翻訳に対する彼の方法意識と
罪﹄という翻訳小説は、作家井伏鱒二の重要な基点として、い
すでに分かち難く結びついていたのである。したがって﹃父の
ま新たに位置づけられるのである。
注(
l) 日本年鑑協会編﹃文芸年鑑一九二五年版﹄(二松堂書庖、
一九二五年三月)収録の﹁文士録﹂および﹁著刊目録﹂を参照。
) 前田貞昭﹁井伏鱒二衆芳閤入社は大正十三年十一月か││
2
(
井伏衆芳間勤務時代の検証││﹂(﹃言語表現研究﹂二 O O一年
三月)、﹁﹃文学界﹄(衆芳閤)細目稿﹂(﹃兵庫教育大学近代文学
雑志﹄二O O一年一月)、﹁﹃文拳界﹄(衆芳閣)細目稿補遺﹂(問、
二O O二年二月)の各論参照。前田氏作成の﹃文学界﹄雑誌細
目一覧からは多くの恩恵と示唆を受けた。
) 田口幹比古﹁井伏訳﹃父の罪﹄に関する諸問題﹂(﹃湘南英語
3
(
英文学研究﹄一九八七年七月)。
(4) 東郷克美﹁父の罪﹂解題(﹃井伏鱒二全集第二十八巻﹄筑摩書
房、一九九九年二月)。
) 涌田佑﹁私注・井伏鱒二﹄(明治書院、一九八一年一月)およ
5
(
び﹃井伏鱒二の世界小説の構造と成立﹄(集英社、一九八三
年一一月)。
(6) 例えば先の涌回論(一九八こも、﹁﹃父の罪﹄は創作ではな
川叫U廿制叶例制引剖削著述家にとっての処女出版である﹂(傍
線引用者)と、あえて断りを入れた上でこの著作を論じている。
野謙介﹁井伏鱒二のフエティシズム││翻訳・言葉・植民地
) なお、井伏の他作品から翻訳の問題を取り上げた論には、紅
7
(
││﹂(東郷克美編﹃井伏鱒二の風貌姿勢﹄至文堂、一九九八年
二月)や、宮崎靖士﹁井伏鱒二﹃言葉について﹄の﹁訳述﹂を
めぐって││小説における方言{翻訳︾﹂(﹃昭和文学研究﹄二
0 0二年三月)がある。
) 酒井直樹は、﹁翻訳﹂が二言語聞の移行伝達行為ではなく、
8
(
言語を分節化する行為であり、﹁もともとあった非連続性を連
続化し、認知可能なものとする実践なのである﹂と指摘する
(﹃日本思想という問題翻訳と主体﹄岩波書底、二O O七年
一一月三本稿では、この酒井の翻訳概念を踏まえた上で、実
際に現場の訳者たちそれぞれが捉えていた連続/非連続性(あ
るいは﹁(非)共約性﹂)のありように注目する。とりわけ、﹃父
の罪﹄に関係する複数の訳者について、彼らが翻訳という行為
をいかに意味づけまた実行したのかを具体的に辿りながら、
その翻訳観を読み取っていく。そしてこの検証を踏まえるこ
とで、﹃父の罪﹄を経て展開する井伏の方法意識に迫ってみた
)
ω
(
(9) 出RBEロω包巾円BBPU問、同白言語切な明ωg芹岡田ユ・の2F局窓
回目け以下、本稿で用いる原著および原著者名の表記は、それぞ
れ﹁猫橋﹄およびズ l ダl マンとする。
g
田円与問戸河町hsp 口、同︼と'阻まミけど匂ミ﹄ HhRF
回 E8 呂
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同
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四
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日
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田
、
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﹄ oF
・
ロ
ロ
四
円
ロ
(日)前掲、田口幹比古。
(ロ)現時点までの調査の結果、﹃父の罪﹄刊行時にはマーシャル
内 hH kyq
訳とは別の英訳本(同市豆町開冨E
苦こどの白下
-河
R
昌
司
も
)
・
。Egmo一回巾
詰
詰
白
き
、
町
同
ロロ巾﹃巾同門司の 0
さ白昌ミ同町、遠白詰苫め Eh
3
0
あったと推定できるが、日本への輸入実績がないのと、本文に
井伏訳との顕著な対応関係が見られないことから﹃父の罪﹄と
の直接的な関係は排除できる。一方で井伏訳には、他の英訳
本にはないマーシャル訳固有の表現(例えば数調表記や動植
物名等)に依拠した記述が数多く確認できることから、﹃父の
罪﹄の英訳底本はマーシャル訳と見てまず間違いない。
(日)田山花袋﹁事実の人生﹂(﹃新潮﹄一九O六年一 O月
)
。
(
M
) 刊行順に、登張竹風﹁売国奴﹄(金港堂書籍、一九O四年九
月)、田山花袋﹁戦後﹂(﹁太陽﹄一九O六年六月)他数篇、小宮
豊隆﹃罪(カツツエンシユテ1ヒ)﹄(博文館、一九一四年=一
月)、村上静人﹃猫橋﹄(佐藤出版部、一九一八年二一月)、井伏
鱒二﹃父の罪﹄(衆芳閥、一九二四年九月)、秦野楊吉﹃罪の桟
橋物語﹄(課外読物刊行会、一九二六年八月)、生田春月﹃猫橋・
憂愁夫人﹄(新潮社、一九三O年六月)。このうち、登張訳は翻
案の要素が強く、花袋訳は断章訳、村上訳および秦野訳は全体
の分量を大幅に削減したものになっている。
(日)一九一二年から刊行が始まったこの叢書は、各巻に一人の
海外作家の作品を収録し、巻頭に詳細な作家解説と肖像写真
を付けた点に特色がある。
(凶)木村毅﹁日本翻訳史概説﹂(﹃明治翻訳文学集明治文学全集
七﹄筑摩書房、一九七二年一 O月
)
。
(げ)小宮豊隆﹁序﹂(﹃罪(カツツエンシユテ lヒ)﹄博文館、一九
一四年二一月)。
(同)小宮豊隆訳﹃ヴイルヘルム・マイステルの徒弟時代(下)﹄
(岩波書庖、一九五三年二一月)。
、
句
z
g
)
(
m
u
) 生団長江・生田春月訳﹃全訳 罪と罰﹄(三星社出版部、一九
二四年一一一月)。
(初)ドイツ語原著は全二O章構成(および
で、マ lシヤ
ル訳と小宮・春月両訳もこの構成を踏襲した。これに対し井
伏訳は全一一章構成で、底本にある複数の章を一章分にまと
めるほか、底本第一九章に相当する部分を二つに分割して語
りの順序を入れ替えている。
(忽)前掲、小宮豊隆(一九一四)。
(辺)対訳使用文献は以下の通り。同RBBロω
邑RBgpb
、
問
Enmg健闘宮色-・同市hhER也、刊と
a
N
S
M
Fh (のORP50ω)、∞g
同
町
同
J
F Qど
句
、aq¥同
H
S由)、小宮豊隆﹃罪﹄(博文
H 3CogF
自
巾館、一九一四年二一月)、生田春月﹃猫橋・憂愁夫人﹄(新潮社、
一九三O年六月)。本文引用も以上の文献に拠った。なお、引
用部にある傍線はすべて引用者による。
(お)むろん厳密には、︿全文をそのまま引用した手紙﹀というよ
りは︿全文をそのまま引用しているかのように表現した手紙﹀
である。手紙の文面にあえて文体差をつくって読者に提示し、
しかもそれが差出人の心情を表象する点は、井伏が引用とい
う方法にいかに意識的であったかを物語っている。これは敷
街すると、井伏作品にしばしば登場する歴史資料等の引用手
法にも通じる特徴である。涌田佑前掲害、および松本鶴雄﹃井
伏 塑 丁 │ 日 常 の モ テ ィ lフ﹄(沖積舎、一九九二年二月)
ほか参照。
って行くことが何うしても出来ませんでした﹂/春月訳﹁登つ
a
/小宮訳﹁登
(
M
) 英訳 a
忌
叩542
eEQD同問叩区ロ阿見宮門印
ロ Oo
匂 g
1
3
)
m
(
o
z
v
=
.
て行く事がどうしても出来ませんでした﹂。
ロ匹見回目・3/小宮訳﹁寂しかったからで
(お)英訳 J件
ロ
的
国
当
はございません﹂/春月訳﹁寂しかったからではございません、
旦那様﹂。
ε
(mm) 英訳 ヨ
ロ&円四ロバgB巾・ョ/小宮訳﹁帰ってお出になりません
でした﹂/春月訳﹁帰っておいでにはなりませんでした﹂。
(幻)初出﹃文芸都市﹄一九二九年一 1四月。
(お)初出﹃改造﹄一九二二年二月。
野地潤家﹁井伏鱒二の作品の中国弁﹂(﹁言語生活﹄一九五六
一 O月)、藤本千鶴子﹁井伏鱒二の方言表現llt﹁朽助のゐ
年
る谷間﹂の場合│l﹂(磯貝英夫編﹃井伏鱒二研究﹄渓水社、一
九八四年七月)。
(初)前掲、藤本千鶴子。
(剖)前掲、野地潤家。
(辺)﹁牛込鶴巻町﹂初出未詳、﹃山川草木﹄一九三七年九月所収。
(お)﹁読書界出版界盲人が杖無しで閣を歩くやうだ﹂(﹃読売新
聞﹄一九二四年一 O月一二日第七面 ) 0文芸雑誌の他に﹃万有
叢書﹄(一九二四年、第一一編l九編まで確認)や﹁海外芸術評論
叢書﹄(一九二五年、第一一編1九編まで確認)など複数の叢書
も同時期に出版していた。
(鈍)大正末から昭和初めに至る不景気の内実を円本ブlムとの
関わりから論証した山本芳明は、当時の出版不況で﹁もっとも
割りを食らったのは、所謂新進作家たちだった﹂と指摘してい
る(山本芳明﹃文学者はつくられる﹄ひつじ書房、二OOO年
一一一月)。緊芳閣もまた、社長含め﹁営業局の総員悉く新進の
。
ゐ
司
青年文士揃いで﹂﹁主として新人の力作のみを扱ふ﹂(前掲、﹃読
売新聞﹄)出版社であった点で、不況のあおりは免れ得なかっ
たことが窺える。
(お)光成信男訳﹃ヱンセン著世界の始め﹄(一九二四年六月)、
下村千秋訳﹁ゴオルキイ著ワアレンカ・オレソウ﹄(一九二
四年七月)、川添利基訳﹃チエネヱ著劇場革命﹂(一九二四年
九月)、小鳥徳弥訳﹃ローレンス著大尉の人形﹄(一九二四年
九月)、井伏鱒二訳﹃ズウデルマン著父の罪﹂(一九二四年九
月)、古賀龍視訳﹃ハイネ著ハルツの旅﹄(一九二五年五月)
等、いずれも同年代の早稲田大学出身者が翻訳を担当してい
一
(お)前掲、﹃読売新聞﹄。いま挙げた一連の翻訳書籍の刊行も、衆
芳閣の創業初年度にあたる一九二四年l二五年の一時期に集
中している。
(幻)ロフテイング著、井伏鱒二訳﹃ドリトル先生﹁アフリカ行き﹂﹄
あとがき(白林少年館出版部、一九四一年一月)。
(お)阿川弘之﹁ドリトル先生物語について﹂(﹃図書﹄一九六一年
。
)
O月
(お)初出﹃文芸都市﹄一九二九年八月。
(羽)初出﹃婦人サロン﹂一九二九年九月。
(引)初出﹃新潮﹄一九一一一一一一年一月。
(必)例えば一九四二年発表の徴用小説﹃花の町﹄には、﹁翻訳﹂を
めぐる手法が井伏の言語観と接続し展開していったことが確
認できる(拙論﹁問われ続ける﹁日常﹂の地平││井伏鱒二﹁花
O年九月)。
の町﹂論││﹂、﹃日本文学﹄一一O 一
3
2
*井伏鱒二著作の本文引用は、すべて﹃井伏鱒二全集﹄(筑摩書一房、一
九九六i二OOO年)に拠り、その他の引用に際しては旧字を新字
に改めルピは省略した。本稿の一部は、ニO 一
0年度早稲田大学
国文学会秋季大会の口頭発表に基づくものである。発表時に貴重
なご教一ホを下さった方々に、改めて感謝を申し上げたい。
なお、本論文は日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨
励費)による研究成果の一部である。
3
3
代
︿肖像﹀ へのまなざし
佳
いた。他にも、多くの絵画評が存在するなど、多数の一言説を呼
び寄せている。
一九四二・八・この巻頭にも著者が﹁非常な喜ぴ﹂を持って迎
えるなど、一葉の︿真実﹀を求める言説とともに広く流通して
して収録されて以降、板垣直子﹃評伝樋口一葉﹂(桃践書房、
一九四O年一一月に発表されたこの絵画は、一九四一年八月
一日刊行の和田芳恵﹃樋口一葉﹄(十字屋書房)に初めて口絵と
の肖像画の存在を見逃すことができない。今日なお、最もポ
ピュラーな一葉の肖像画として流通している、鏑木清方によっ
て描かれた︽一葉︾である(以下、清方︽一葉︾)[図11
この時期の一葉受容の動きを見渡す時、そこに存在する一枚
タイルであった。それは、虚構に傾き過ぎたことからの反動と、
ひとまずは捉えることができよう。
それに対して、新世社版全集刊行という動きの中で選択された
のは、一葉の︿真実﹀を探究しようとする研究・評伝というス
尾
││紀元二千六百年奉祝美術展覧会と樋口一葉││
全集という書物が﹁尋ねがたい﹁偉人の一代記﹂を偲ぶよす
がとして建てられる紙の碑﹂という特質を持っとするならば、
その刊行の周辺に、作家をめぐる言説が多数呼び起こされるこ
とは了解される事態であろう。一九四一年七月から一九四二年
四月にかけて新世社から刊行された﹁樋口一葉全集﹄(全五巻・
別巻)もまた例外ではなかった。未発表作品や草稿、手紙といっ
た遺稿の多くをはじめて収録したこの全集の周辺では、評伝や
作品評釈などの単行本が次々に刊行されるなど、一葉研究のエ
ポツクともいうべき現象が巻き起こったのである。
︿一葉像﹀をめぐる言説そのものは、一九三0年代の一葉ブー
ムともよぶべき状況の中で多数流通していた。この時のブ1ム
の特徴は、一葉を主人公とする物語が多数登場したことであり、
積極的にフイクショナルな︿一葉像﹀を創出するものであった。
笹
3
4
として刊行された。
清方︽一葉︾と一葉を探究する言説との、親密な関わりを顕
著に示す事象は、小出節子によって描かれた小説﹁雨の夜﹂で
ある。﹁清方の﹃一葉﹄をきっかけに、或る雨の夜の彼女の述懐
を、日記によって窺ってみようと思ひ立った﹂という小出のこ
の小説は、一葉の﹁日記﹂の記述をかなりの部分なぞりながら、
一葉自らが︿告白﹀するという物語形式を取っている。それは、
一葉の︿真実﹀に近づこうという意識において、評伝と同じ志
向性を持つものとみてよい。小説﹁雨の夜﹂は、一九四一年五
月一五日に、小出が参加していた同人組織、妙齢会刊行の﹃作
家を描いた短編七つ﹄に発表された後、大幅な加筆と改稿が施
されて、一九四二年一一月二O日に三笠書房から﹃樋口一葉﹄
非公開
数多くの遺稿を初めて収録し、﹁一代記﹂へのアクセスを容易
にした新世社版全集の刊行が、一葉を語る言説を変質させたこ
とは見やすいが、清方︽一葉︾がこの時直面したのはいかなる
事態だったのだろうか。
詳細は後述するが、一九四O年に描かれた清方︽一葉︾は、
一葉の随筆﹁雨の夜﹂を題材とし、その夜の一葉の姿を表して
いる。そして興味深いことに、新世社版全集の、清方によって
葉︾は話題を呼ぶには充分であり、新世社版全集の扉絵もまた
一葉の文学世界の視覚化を担ってきたという一連の成果の先に
ぞれ﹁美登利像﹂を寄せるなど、一葉文学享受の場にも寄与し
てい的。そうした清方が一葉その人を本格的に描いた清方︽一
と﹁響き合っている﹂意匠なのだ[図2]。
もちろん、清方が早くから、一葉文学と深い関わりがあった
ことがこうした受容の背景にあることはいうまでもない。一葉
の墓に寄りかかる美登利の姿を描いた︽一葉の墓︾(一九O二)
ゃ、朝湯帰りの姿を描いた︽たけくらべの美登利︾(一九O八)
など、一葉作品に材をとった作品のみならず、例えば﹃真筆版
たけくらべ﹄(博文館、一九一八・二・二三)や、鈴木敏也﹃た
けくらべ評釈﹄(目黒書庖、一九三二・一-一一一一)の口絵に、それ
描かれた扉絵もまた、芭蕉葉に雨州鳴り注ぐという、同じく﹁雨
の夜﹂に材がとられたものであった。さらには、扉の囲み部分
の図柄は、清方︽一葉︾で一棄のひざ近くに描かれている小切
れとほぼ同じ色彩と模様で描かれており、まさに清方︽一葉︾
[図日鏑木清方《一葉}
3
5
扉
あったことは確かである。
清方が初めて一葉を描いたのは、一九三二年一月に﹃東京朝
[
図2
] 新世社版『樋口一葉全集』
いだろう。
しかし、以上のような要素は、なぜ清方︽一葉︾が、多くの
言説を呼び込んだのかという聞いを解き明かすことにはならな
本論は、清方︽一葉︾という表象と、小出節子の創作を中心
に検討することを通して、新世社版全集刊行周辺で巻き起こっ
ていた一棄を顕彰する動きの内実を明らかにしようとするもの
である。それは一九四0年代前半期という時空間に置かれた清
方︽一葉︾が、その表象を通して物語ってしまったものを記述
することでもある。清方︽一葉︾と、その下に集束する言説と
の相互作用の中で立ち現れていた︿一葉像﹀の特質を捉えてみ
たい。
一葉死後から四O年以上が経ったこの時になぜ、一葉の肖像
は描かれたのであろうか。はじめに、清方︽一葉︾の創作をめ
ない不満﹂という清方は、この挿絵の一葉について鏡花から﹁気
葉に会う機会がなかったことを﹁﹃一葉﹄制作に一つの充たされ
ぎつぎに新作を発表してゐた時から熱心に読みつずけて、
一葉を描かうといふところに落ちついた(中略)一葉がつ
奉祝展が極った時、他に題材も有ったのだけれど、結局
ぐる、画家自身の発言を確認しておこう。
味の惑いほどよく肖てゐる﹂と一言ロわれたことと、﹁写真で見る一
今でもその時分と変らない感興を保ち自分の胸裡にいつし
か形づくってゐる女史の悌を唯一の的にして、夏にはひっ
創作の支えにしたと述べている。一葉の写真を参考にしたこと
の一葉研究の動きと通底していた。
も明かすなど、︿真実﹀の一葉に近づこうとする姿勢は、この頃
た頃から毎晩日課のやうにして、手摺れのした全集をずっ
と読みかへした。
葉女史にソツクリ﹂な妹邦子には何度も会ったという体験とを、
日新聞﹄﹃大阪朝日新聞﹄で連載された泉鏡花﹁簿紅梅﹂の中に
登場する、一葉をモデルとした女性の挿絵であった。生前の一
2
非公開
3
6
さうして模索したものは、随筆﹁雨の夜﹂の成れる一夜
の女史の心境なり姿であった。
まず留意したいのは、﹁奉祝展﹂に応じた題材として、随筆﹁雨
の夜﹂の一葉の姿が選択されていることである。﹁奉祝展﹂とは、
一九四O年の一一月三日から二四日まで、上野公園内の東京府
美術館で開推された、紀元二千六百年奉祝美術展覧会の後期展
を指している。周知の通り、建国神話に基づいて、神武天皇の
即位から二千六百年目と定められたこの年には、さまざまな奉
祝行事が行われた。帝国芸術院会員であった清方は、一月二四
日に開催された第一回準備委員会に招聴され、出品を要請され
ていたのだ。しかし、こうした事情から、国家統制の影響下で
の創作と判断するのは尚早である。
従来、﹁﹁大日本帝国﹂の国運を誇示する一大イベン同﹂、﹁国
家統制の影響を直接的に体現した展覧斜﹂などと評されてきた
紀元二千六百年奉祝美術展覧会だが、近年、その性質は見直さ
れている。一連の奉祝行事を分析した古川隆久は、国家主導の
プロパガンダは徹底されたものではなかったと述べた上で、奉
祝展については、奉祝に直接関わる作品は全体の一割ほど、多
少とも関連あるものを合わせても全部で三割ほどであったと指
摘する。そして、﹁当時の日本美術界の水準の高さを示し、その
結果として日本の国威投国民に印象づけようとした美術展﹂で
あったと位置づけている。
だが、今日までの﹁検閲﹂をめぐる考察が明らかにしてきた
ように、体制の管理下では﹁鵡百の行使・被行使の問題にとど
まら﹂ない、﹁表現者の内的規制﹂の存在を看過することができ
ない。意識的かどうかに関わらず、人々の内面に生じる自己規
制こそが複雑な問題として横たわっているのだ。紀元二千六百
年奉祝美術展覧会という︿場﹀にも、同様の問題が指摘される
だろう。国家主導の徹底はなくても一定の志向性があったこと
は、形式的であったとはいえすべての増田作に審査が加えられ
るという展覧会のあり方にも表れている。さらには、﹁結果と
して﹂の﹁国威﹂の高揚が期待されたからこそ、紀元二千六百
年のもとに集束する言説は、出品作を奉祝という文脈に接続し
ようという力を帯びていたといえよう。では、奉祝展の中でも
とりわけ多くの評を集め、﹁前に頻りに人だかりがしてゐ﹂たと
いうほどの人気を博していた清方︽一葉︾は、この時、どのよ
うな位置に据えられようとしていたのだろうか。
っ、ましやかに坐して、思索する一女性を中心に、ラン
プ畳紙に小裂類其の他の小道具に依って、一葉その人の環
境と明治色とは、可なり濃く出てゐる。勿論、清方は一葉
の肖像を描く意図よりも、明樹剛側側刷倒剖↓剰刺刻刻樹
何割剖刺引司表現することを目的としたのであらう。
(回津田軒﹁奉祝展の日本画を見て﹂
﹃美之国﹄二ハ│一一一一九四0 ・一二)
人物を扱った作品のうちでは、鏑木清方の﹁一葉﹂と中村
貞次の﹁秋の色種﹂が圧巻である。この両作はともに斗樹
3
7
のは桃山風の古代ぷりである。
州刷倒圃と見るべく、滑対のものは明出の
(荒城季夫﹁奉祝展の日本画を観る﹂
降、貞次のも
﹃アトリエ﹄一七│一四一九四0 ・二一)
今日の評価からは意外な印象もあるが、一葉の肖像であるこ
と以上に﹁明治の風俗﹂に注目が集まり、﹁風俗画﹂として評価
されていることは留意すべきであろう。こうした評価の背景を
知るためには、この頃の﹁明治時代﹂へのまなざしを捉えてお
除くために賛沢品を指定して、その製造販売を禁止した、いわ
ゆる賛沢禁止令であった。日中戦争開戦後の一九三七年、戦争
遂行のための消費節約、勤労促進を目指した国家総動員運動の
開始を告げる内閣訓令が発せられたものの、充分な成果をあげ
ていなかった精神総動員運動は、紀元二千六百年奉祝の動きに
乗じて促進されていたのだ。
奉祝展準備委員として招聴され、会期には展覧会委員も務め
た清方もまた、奉祝展をとりまく磁場から自由ではいられな
かったはずである。そうした時、創作を振り返る清方が、小裂
や羽織、帯、前掛、畳紙などの選択に注意を払い、﹁明治の織物﹂
︹盟}
の再現をめざしたと綴っていることは注目されよう。﹁禁止令
の︿神話﹀に端的にあらわされている。日清戦争時の明治天皇
が、寝食も政務も粗末なペンキ塗りの建物の一室で済まし、冬
も火鉢一つで凌いだことが﹁精励﹂・﹁勤倹﹂の精神を物語る﹁御
逸事﹂として喧伝されるように、倣うべき︿明治﹀として称揚
︻却)
されたのは﹁倹約﹂の精神であった。清方︽一葉︾と並び評さ
化することはできない。一九四O年の第二次近衛文麿内閣の成
立とともに唱えられた﹁新体制運動﹂が革新派による﹁変革﹂
しかし、こうした事情もまた、戦時体制への加担として短絡
く必要がある。
佐藤一伯は、一九二0年代の末頃から﹁明治天皇や明治[時
代]を理想化する﹂動きが起きていたと指摘する。そうした動
きが含意したものは、この時期、数多く流通していた明治天皇
れている中村貞次︽秋の色種︾は、﹁桃山風の古代﹂の風俗を描
いたものであり、﹁倹約﹂が旨とされた時代の風俗という共通点
にその中で制定されたのが、日常生活に関わる七・七禁令であっ
たことはよく知られている。近衛の人気も相まって、挙国一致
体制への参画と生活革新とが同一線上にあると信じられたまさ
下で、新しく構成して来る美しさ﹂を考察した﹁美と賛沢﹂と
いう文章の中で、明治時代の織物を﹁最も時代に適ったものと
A
E
}
なるであらう﹂と位置づけていることからも、紀元二千六百年
現在に通じる風俗を提示しようという意識が清方の側にもあっ
たことがわかる。
が見出された上での評価であることがわかる。
ここには、一九四O年の﹁風俗﹂をめぐる規制の存在も浮か
びあがってくる。一九四O年七月七日に施行された﹁宥修品等
が目指されたものであり、社会の再編成への期待とともにあっ
製造販売制限規則﹂(七・七禁令)は、生活から者修や虚飾を取り
8
3
た。長引く戦局によって重圧が増す一方で、戦前最高の好景気
でもあった一九四O年は、﹁新体制﹂の名の下によりよい社会の
れた清方の﹁奉祝展自作の莱﹁一葉﹂﹂において、第一の情報
として示されていたのは、随筆﹁雨の夜﹂のことではなく、一
(剖)
実現が信じられた最後の時であったのだ。しかし、それはあっ
と言う間に革新性を失い、その変革への思いが太平洋戦争開戦
に向かう中で、戦時体制の強化へとすり替えられたことは後の
と画面上の︿一葉﹀を、優れた作家の姿として賞賛する。
清方自身も、のちに新世社版全集の一扉絵の枠にも描くことに
描
A )
が完成された事を示した上で、﹁﹃たけくらべ﹄もその腹案中の
ものであったであらう﹂とし、﹁その生涯中最も深く物の哀れを
知り味って、人生の秘奥境に到り着いた時であったに違ひない﹂
ある。
少し赤毛でくせのあったといふ髪は銀杏返し、左眉は写
真で見るやうにや、つり上って不屈の作家魂がしのばれ
る。文机の上に肘っきと並んで原稿紙と筆が置かれてゐる
のは、すでに次の作﹁やみ夜﹂﹁十三夜﹂(十二月文芸倶楽部
所載)の想が成ってゐるのであらうか。
留意したいのは、﹁畳紙﹂を前に座る一葉の姿が、想を練る様
子として受けとられていることである。清方︽一葉︾に鑑賞文
を寄せた本間久雄もまた、明治二八年一二月に﹁たけくらべ﹂
葉が死ぬ前年の﹁秋十月の或る夜を題材とした﹂という、一葉
の短い人生の中でのこの夜の位置づけであった。奉祝展での展
示に添えられたと思われるこの莱の情報は、例えば、美術評論
(田)
家の水沢澄夫には次のように響いている。
明治二十八年十月の一夜、この年は一月から文学界に名
作﹁たけくらべ﹂を連載して文名頓にあがり、九月には﹁に
ごりえ﹂を文芸倶楽部に寄せた。一葉女史二十四歳の秋で
展開に明らかであろう。
﹁風俗画﹂として賞賛する展覧会評や清方の言葉が伝えてい
たのは、イデオロギーと呼ぶには微温的な紀元二千六百年とい
う背景の中で、清方︽一葉︾の意義が見出されようとしていた
ことであった。では、描かれた女性が︿一葉﹀であることは、
どのような意味を持ち得ていたのだろうか。
れて閉じられる。清方︽一葉︾の、一葉の膝元にある小切れの
入った﹁畳紙﹂と裁縫道具は、この随筆に拠るものである。
しかし、一九四O年一一月六日の﹃朝日新聞﹄夕刊に掲載さ
とることも出来ず、むかし恋しさに﹁袖もぬれそふ心地﹂となっ
たという心の動きである。そして、﹁親の痩せたる肩﹂にその老
いを感じとったことからの、やる方のない﹁心細さ﹂が吐露さ
清方︽一葉︾の題材になった随筆﹁雨の夜﹂に表されている
のは、芭蕉葉に降り注ぐ秋雨の音がいつにもまして﹁哀れ﹂を
誘い、眠れなくなったために小切れを入れた﹁畳紙﹂をとり出
すものの、裁縫を教えてくれた亡き伯母への追懐の情から針を
3
9
3
なる、一葉の膝近くの﹁冴えたなんど色に深紅の紅葉と小菊の
模様﹂の小切れについて、﹁彼の﹃たけくらべ﹄の美登利と雨の
日に下駄の鼻緒を踏み切った信知との間に、いつまでも美しい
色どりになって残る紅入友禅、多分一葉の畳のなかには、こん
な締麗な小裂が在って、それがあの一輸の趣にまで幻影を広げ
て行ったのではあるまいか、そんな想像を駆らせてみた﹂と述
(訂)
べている。すなわち、﹁明治二八年の秋﹂の一夜とは、一葉の文
学的営為を知る者にとって、その文学的想像力が喚起されるも
のなのだ。随筆﹁雨の夜﹂には登場しないはずの文机や原稿用
紙が捕かれたことは、そうした鏡賞を助けたであろう。
さらに、閲筆﹁雨の夜﹂と画面上の表象との相互作用を捉え
てみたい。先の、本聞による鑑賞文の結末部分を見てみよう。
清方作﹃一葉﹄の前に立つ時、私はあの両手を膝の上に
組み合せた何となくしょんぼりとした姿の中に、淋しき人
一葉を見ると共に、あの、物をぢっと見詰めてゐるやうな
考へ深い眼ざしの中に、詩人としての自信と覚悟とを胸に
包んでゐる強き人一葉を見る。
﹃一葉﹂は性格描写のいみじき作品である。
水沢澄夫が、﹁不屈の作家魂がしのばれる﹂としていたのに対
して、﹁淋しき人一葉﹂を見ている本聞の意識の中にあるのは、
随筆﹁雨の夜﹂であった。清方︽一葉︾を前に﹁﹃雨の夜﹄の中
の一葉の面影を偲んで﹂いたという本聞は、画面上の︿一葉﹀
の﹁考へ深い眼ざし﹂に、心情を押し隠した﹁強き人一葉﹂と
いう評価を与えているのだ。随筆﹁雨の夜﹂と不釣り合いな︿一
葉﹀の表情が、﹁性格描写のいみじき作品﹂という評価を呼び起
こしているのである。
ここまで見てきた︿一葉﹀に向けられたまなざしには、﹁たけ
くらべ﹂などで名声を得た後の地点から、遡及的に鑑賞しよう
という共通点が認められる。﹁不屈の作家魂﹂という、貫かれた
先を多分に示す水沢の評をはじめ、﹁淋しき人一葉﹂の胸の奥に
﹁詩人としての自信と覚悟﹂を見出す本間も、その自信と覚悟
が結実する先、すなわち作家としての成功を意識した上で捉え
ていることがわかる。新世社版全集の扉絵に、﹁雨の夜﹂と﹁た
けくらべ﹂を想起させる図案が同時に描かれていたことが端的
に示すように、清方︽一葉︾の構造からは、随筆﹁雨の夜﹂の
﹁哀れ﹂とともに、その後の文学的営為の成功もすでに約束さ
れたものとして了解されるのだ。清方︽一葉︾に、一葉の過去
を見ることは、同時に、それをくぐり抜けた上での成功を言祝
ぐことを可能にする。そうした意味で、清方︽一葉︾と同じ構
造を持った新世社版全集の一扉一絵は、創作成果が集められた全集
の世界に誘うものとしてふさわしいものであったといえるだろ
観る者の一葉文学体験が投影されることによって深化する清
。
ノ
﹁
、
方︽一葉︾の鑑賞は、そのために、以上捉えてきたような作家
としての成功から遡及するまなざしとは異なる回路も生みだし
ていた。清方︽一葉︾をきっかけに創作を行った小出節子が、
4
0
奉祝展での出会いについて描いたプロローグからは、その体験
の質を窺うことができる。次に、その冒頭部分をみてみよう。
性たちに﹁深い理解と厚い同情とを以﹂って接していた人物と
れを通して﹁作者に十分なる親愛の情と、尊敬の念とを特たせ﹂
ることであった。その作者の姿もまた、様々な境遇にあった女
のあがった怜例さうな澄んだ限の奥から、私には雨の音を
き、ながらす﹀り泣いてゐる樋口一葉のさみしさが伝はっ
絵を見ながら主観的な自分だけの想ひにとらはれること
はよくあるが、画面の人のふつくりとふくらんだ柔かい胸
の裡から、白く前方を向いた面の一重まぶたの心もち目尻
さへなってくるのであった。(中略)
ば、若しもこれが硝子に被はれた絵であったならば、私は
そうっとその上から静かにさすってやりたいやう・な気持に
針箱や小布などを前にして、きちんと座ってゐるこの若
い一葉の姿が、私には耐らなくあはれに思はれて、この絵
が皇紀二千六百年泰祝展覧会出品の栄えある作でなけれ
て行くのを感じ始めた﹂と続けられたプロローグにおいて、小
出はさらに、その心の動きを次のように記している。
清方︽一葉︾の前に立って﹁何か直ぐには立ち去りがたいや
うな心持に惹かれて眺めてゐ﹂るうちに﹁次第に自分が滅入っ
たのだ。
して教授されようとしている。すなわち、随筆﹁雨の夜﹂は、
一葉の心情に触れ、同情を知るという、感情の教化とともにあっ
私は急ぎ足で人波を逆に泳ぎながら、先程の絵の前に戻
って行った。もう一度、清方の﹁一葉﹂を見ておきたかっ
ぼうっと淡明るいランプの下で、可愛らしい小布の入っ
たのである。
た畳紙をひろげて、静かに物思ひにふけってゐる画面は、
↓引叶剖d剖叶州刑叫寸耐叫樹叶州叫刻引刈出制州制割引
引剖尉凶判剖。
(中略一随筆﹁雨の夜﹂ほほ全文の掲載一引用者注)
この随筆は、刻明樹州制利劃明朝刈司州川町今でも、秋の雨
の夜ふと思ひ出す文章である。
ここからは、一葉の随筆﹁雨の夜﹂(以下、随筆﹁雨の夜﹂)の
場面であることが、絵画に描かれた内容から了解されているこ
とがわかる。その理由は、女学校の教科書で学んだ経験である
という。随筆﹁雨の夜﹂は、早くから高等女学校教科書に掲載
(盟}
され、昭和初年代の教科書の大多数にも収録されるなど、女学
校の定番教材ともいうべき存在であった。
一九三人・六・五)などが伝えている。ここで﹁教授案﹂として
て来るやうな気持がしたのであった。
先に見た、作家の成功から遡及していくまなざしと異なるの
随筆﹁雨の夜﹂の女学校での読まれ方は、今日の学習指導書
に当たる﹃新制女子国語読本四年生用教授参考書﹄(修文館、
掲げられているのは、﹁あはれさ・さびしさ・心細き﹂という﹁心
理変化の微妙﹂に注視して﹁感銘をもたせ﹂ることであり、そ
1
4
は、﹁雨の夜﹂の一葉の心情を直接感じ取っている点である。﹁樋
口一葉のさみしさが伝はって来る﹂といい、﹁静かにさすってや
りたい﹂とまで言う、いささか過剰な清方︽一葉︾との共振は、
随筆﹁雨の夜﹂を通した、規範的な一葉理解の延長にあったと
言うことができよう。では、こうした先に描かれた︿一葉﹀は、
どのような姿であったのだろうか。
t
はたらいて、私は一葉の生涯の記録の中に入って行かうと
したのであった。さうして書きつずけた何日かの聞に、疲
れてぽうっとのぼせたやうになってしまった私は、一葉廿
﹃作家を描いた短編七つ﹂に発表された初出時の小説﹁雨の夜﹂
は、次のようなエピローグによって閉じられている。
(清方︽一葉︾を見たことから・引用者注)雨の夜の感傷が
された、同人七人によるアンソロジ1 ﹃作家を描いた短編七つ﹄
(妙齢会)に収録された後、妙齢会の一員であった三笠書房創
(四)
立者の竹内道之助の勧めもあって、大幅な加筆と改稿を経た後
に、一九四二年一一月に小出の単著である﹃樋口一葉﹄(以下、
単行本﹃樋口一葉﹄)として三笠書房から刊行された。
清方︽一葉︾との感情の共振をきっかけに、﹁ 幽面の人﹂の﹁胸
の裡﹂や﹁眼の奥﹂にある感情を描き出そうとした小出節子の
創作は、一度目は失敗に終わっていた。
先述したように、小説﹁雨の夜﹂は、一九四一年五月に刊行
4
一歳の或雨の夜の述懐をこんな風に終へると(中略)先に
淋しい雨の夜である。
筆をつずける気力は失せて、私は次第に一葉との距離を今
度ははっきりと感じはじめてくるのであった。ーーム7宵も
清方︽一葉︾を前に、強い感情の共振を覚えていた小出であっ
たが、小説﹁雨の夜﹂を書き終えた後には、﹁一葉との距離を今
度ははっきりと感じはじめてくる﹂と、隔たりを強く意識して
いる。小出はそのために筆を置いたという。
だが、この後、再び筆は進められた。翌年、刊行された単行
本﹃樋口一葉﹄には、清方︽一葉︾を前にした感情の動きが記
されたプロローグは、改稿されることなく収録されている。し
かし、そのプロローグに対応するものともなる、新たに加えら
れた﹁政文﹂では次にように述べられていた。
一葉が胸に抱いたであらう夢もあきらめも、ひそかに洩し
たであらういきづきも、幾度も繰返したであらう反省や発
憤も、私の心に移しとることが出来さうに思へたのでした。
(中略)一一ヶ月の間といふもの、或る時は夢の中にまで一
葉と語りつづけ、或る時は一葉か自分かわからないやうな
錯覚をおこしたりして、夜となく昼となく、彼女の語る話
を聴くやうな気持ちで綴りましたのが、この小著です。
単行本﹃樋口一葉﹄は、一葉の心を﹁移しと﹂り﹁一葉か自
分かわからないような錯覚﹂に陥るほどの、感情の共振を通し
て描かれたという。すなわち、単行本﹃樋口一葉﹂は、冒頭に
4
2
おかれた清方︽一葉︾を前にした時の小出の心の動きが損なわ
れないまま結実したものとみてよいのだ。
そこで注目したいのが、小出の二つの創作聞の差異である。
﹃作家を描いた短編七つ﹄に発表された初出﹁雨の夜﹂(以下、
の結末部で明らかとなる。妙齢会版﹁雨の夜﹂の結末部と比較
してみたい。
妙齢会版﹁雨の夜﹂の結末部では、桃水に惹かれていく自ら
の思いを自覚した一葉が、﹁善も悪も取捨の分別がなくなり、人
はづれた道にもとる人間になるかも知れません﹂と怯えている。
それほどまでに、桃水への思いが募っていることが分かるのだ
が、その後、﹁すべて夢と思ってあきらめませう﹂という嘆きの
fかりも見かへりもしなくなって、果は徳に
られた。ここでの加筆と改稿は感情の共振を可能にするための
修正とみてよく、それらの検討からは、清方︽一葉︾と親和性
言葉とともに絶縁を受け入れていく。そして最後には、次の一
葉の歌が置かれる。
のそしりや世のは
のある︿一葉像﹀の特徴が見えてくるだろう。それは、何を語
るものであったのだろうか。
妙齢会版﹁雨の夜﹂)は、加筆と改稿が加えられ、単行本﹃樋口一
葉﹄の第一章﹁雨の夜﹂(以下、三笠書房版﹁雨の夜﹂)として収め
妙齢会版﹁雨の夜﹂の内容は、桃水と絶縁した明治二五年六
(却)
月二二日の後に書かれた﹁につ記﹂の記述をもとに描かれてい
いとずしくつらかりぬベき別路を
あはぬ今よりしのばるる哉
一葉の﹁につ記﹂によると、この歌は、桃水との絶縁を決め、
られている。桃水のもとを訪れた日は雨が多かったことを受け
て、桃水を思う雨の日の感傷が描かれたものであった。
三笠書一房版﹁雨の夜﹂は、同じ﹁につ記﹂の記述を骨格に持
初めからあの方を恋しい床しいなどと思ったこともござい
ませんでした││、と申しはいたしましたが、わたくしは
表現がわずかに改稿されるのみなのだが、不安に怯える思いが
語られる部分に、次のような加筆がなされている。
﹁今日を限りとおもひ定めてうしのもとをとはんといふ日よめ
る﹂ものである。つまり、別れの悲しみにつつまれたままに物
語は閉じられるのだ。
それに対して、三笠書房版﹁雨の夜﹂は、先の述懐の部分は
ちながら、いくつかのエピソードがさらに加えられている。そ
れらのほとんどは、桃水との親交をより詳細に描くためのもの
ずっと自分の心をも、その自分の言葉で打ち消し打ち消し
しながら、まことの気持ちをのぞいてみるのを避けてゐた
る。別れを迎えた﹁今﹂から語り始められ、桃水と過ごした日々
を回想し、再び﹁今﹂の心境が綴られた﹁につ記﹂を軸に、初
めて会った日や小説の指導を受けるために訪れた日々、二人の
距離が最も接近した日ともいうべき雪の日の出来事などが加え
であり、一葉の桃水への恋心をより強く伝えるものとなってい
た。そのことがここに描かれた︿一葉像﹀に与えた意味は、章
3
4
のでございます。でもそんな言葉などで、これほどまでに
あの方をお懐しくお慕ひする心を抑へることがどうして出
来ませう。世の義理や、家のことも親兄弟のことも忘れて、
ただ一僚に自分の思ひにだけ走ることが出来ましたなら
ば、今迄のつれないまでに頑くなでぎごちなかったわたく
しを捨てて、その時こそ堰の切れた流れのやうに、強くた
だあの方に惹かれてまゐることでございませう。
ここでは、﹁白分の心﹂を打ち消すことから、桃水ヘの思いを
抑え込んで来たことが繰り返し語られている。そしてその抑制
は﹁世の義理や、家のこと﹂﹁親兄弟のこと﹂を忘れると、消え
去るというのだ。さらに、章末に向かう中で、﹁どのやうなこと
を思ひましたとて、恩愛のため、義理のため、自分の環境大事
と、何事もすべてしのんでまゐらなければならないのでござい
ますから:::﹂という描写も加えられ、﹁恩恵﹂や﹁義理﹂、﹁家﹂
のために忍ぶことが繰り返し吐露されているのである。桃水と
のエピソードの加筆とそれが同時に示していた一葉の思いの強
さは、ここに来て、忍ぶ思いの強さへと反転されるだろう。
この後は、妙齢会版﹁雨の夜﹂と同様に、﹁すべては夢とあき
らめませう﹂と続くのだが、結末部に置かれた歌は、次のもの
に改められていた。
行水のうきなも何か木の葉舟
ながるるままにまかせてぞみん
妙齢会版﹁雨の夜﹂が桃水との別れの悲しみの中で閉じられ
ιZ
たのに対して、﹁ながるるまま﹂に身を任せようという歌に置き
換えられた三笠書房版﹁雨の夜﹂では、別れを受け入れ、消極
的ながらもそれを選択として受け止めていることがわかる。
しかし、﹁雨の夜﹂から始まり、﹁しのぶぐさ﹂﹁雪の日﹂﹁塵
のなか﹂﹁ゆく雲﹂﹁水の上﹂という全六章で構成されている単
行本﹃樋口一葉﹄は、第一章以降も、桃水への募る思いが描か
れていく。例えば第三章﹁雪の日﹂では、第一章での雪の日の
出来事を回想し、降る雪の強さから泊まっていくよう勧められ
たあの時﹁あの方の許に俸をかへして行ったならば:::﹂と述
懐する。第五章﹁ゆく雲﹂でも、訪れた﹃文学界﹄のメンバー
との会話の中で、﹁源氏物語﹂に仮託して﹁恋する身﹂の苦しみ
が語られるなど、桃水への思いが︿一葉﹀の心の大部分を占め
るものとして描かれるのだ。桃水との恋愛が軸に置かれ続ける
ことは、桃水との絶縁が描かれないことも示している。
留意すべきなのは、桃水への秘めた思いの 甲臼と常に同時に
なされている、現状の自己承認ともいうべき姿である。﹁周囲
の人達を裏切ってまで恋しい方の幻を追ふことが真の仕合せ
か、それはわからないことでございます﹂(第三章)、﹁他人はこ
のわたくしを恋に破れた身とおもふことでございませう﹂﹁我
一生を何のための犠牲などとわらふ人もございますけれど、わ
たくしにはわたくしらしく過ぎてゆくべき一生があることでご
ざいませう﹂(第五章)などというように、他者からは﹁犠牲﹂
とも見える﹁恩恵﹂や﹁家﹂のために生きる一生が﹁わたくし
44
以上捉えてきたような︿一葉像﹀が、小出の﹁一葉か自分か
らしく過ぎてゆくべき一生﹂として認識されている。このこと
が象徴するように、自らの強い覚悟で﹁恩恵﹂﹁義理﹂﹁家﹂を
重んじ、それを守りながら耐え忍ぶ︿一葉﹀の姿が創出されて
いるのだ。
わからないような錯覚﹂の中で創出されたということが示す意
味は、﹁政﹂の次の部分から窺うことができよう。
樋口一葉といふ女性作家の芸術家としての内面的心理の
発展を探求しながら、日清戦争前後の時代的な環境を背景
に、貧困と闘ひっつ芸道に生き抜いた、情熱的でしかも日
本的性格に徹した天才女性の純粋な姿を、と願ひっつ努め
ました
桃水への思いの抑制を中心にして描かれた﹁内面的心理の発
展﹂は、戦争という﹁環境﹂の中で﹁貧困と闘ひっつ芸術に生
き抜いた﹂という﹁天才女性の純粋な姿﹂として、奨励されて
いる。﹁恩恵﹂を重んじ﹁家﹂を守るという︿一葉﹀の心理││
﹁家﹂を守ることとはいうまでもなく比職としての﹁国﹂を守
ることに通じる ll!
と、﹁貧困と闘ひつつ芸術に生きる﹂ことと
は、前年にすでに太平洋戦争が開戦し、戦局が深刻化する中に
あった小出自身の心境を映し出すものであっただろう。
紀元二千六百年奉祝美術展覧会における小出のまなざしは、
清方︽一葉︾に描かれたその時の︿一葉﹀への﹁同情﹂であり、
共感を得ょうとするものであった。それは、女学校教育での随
筆﹁雨の夜﹂との出会いから、約束されていた感情の動きであっ
ただろう。妙齢会版﹁雨の夜﹂では成し遂げられなかった、清
方︽一葉︾を通した感情の共振は、反転して、自らの感情と融
合した︿一葉像﹀の創出として、単行本﹃樋口一葉﹄で結実し
たのである。﹁耐え忍んでいる今﹂が前景化される時、文学的成
功は未来におかれることになる。
ヲ心。
こうした︿一葉像﹀創出の背景には、清方︽一葉︾が置かれ
た奉祝展という場の性質を、再ぴ見ておく必要がある。むらき
数子が述べるように、今日の白から捉えた時、﹁結果から見れば、
弛緩した銃後を、翌年の日米開戦に向けて奮い立たせる﹁戦障
の祭﹂﹂であった奉祝行事は、銃後の主体である女性に照準が合
わされていた。ここからは、紀元二千六百年が戦局の進行とと
もにより重要な意味を持たされていったこと、その重要性の理
解と奉祝の推進がとりわけ女性に求められていたことがわか
小出の二つの小説﹁雨の夜﹂の差異の背景には、変容する紀
元二千六百年という記号の強度が清方︽一葉︾へのまなざしに
作用していく様を見出すことができる。戦局が深刻化する中
で、小出は、強いまなざしを持った表情と随筆﹁雨の夜﹂との
随婚という清方︽一葉︾の表象のゆらぎに対して、銃後にある
自らを接続した上で言葉を与えていた。それは、強度を増して
いく紀元二千六百年という磁場と、銃後に主体化される女性た
ちによって、清方︽一葉︾の解釈の多様性が、一つのプロット
5
4
︺
担
{
に集束されていく様であっただろう。
以上捉えてきたような、清方︽一葉︾のもとに集積した言説
の変質は、絵画という表象の特質を顕著に表していると考える
ことができる。同一平面上に捕かれた表象を︿読む﹀行為は、
そこに時間性を与え、因果関係を生じさせることになる。紀元
二千六百年奉祝美術展覧会において現れていた、作家としての
名声を得た地点から遡及するまなさしは、創作に通じる徴候を
見出すことを通して、﹁苦労の結果としての成功﹂、すなわち文
学的成果を顕彰することに重点があった。それに対して、﹁同
情﹂を持って一葉の心情を自らのもとへと引き寄せるまなざし
は、﹁未来の成功のために耐え忍ぶ﹂という︿一葉像﹀そのもの
を称揚するものであったのだ。
紀元二千六百年を奉祝し、入場者数二O万人を超えた一大イ
(担)
ベントの中での清方︽一葉︾は、結果として、紀元二千六百年
の女性史に︿一葉﹀を連ね、皇紀という暦が特別な意味をもっ
中での一葉評価を決定づけたといってよい。日本出版配給株式
会社が設立された一九四二年五月以降、徹底した統制のもとで
の一葉研究図書の相次ぐ出版が、国益に供すると認められたた
(担)
めであったことは疑いの余地がない。そうした書物に清方︽一
葉︾が取り込まれることは、皇紀における歴史的な︿正当性﹀
(担}
を獲得しようという動きであっただろう。
一九四0年代前半期という時空間の中での清方︽一葉︾の流
通の検討から明らかとなったことは、繰り返される意味づけに
耐えうるテクストそのものの強度と、その国家的な意味づけへ
の牽引であった。それは、絵画と文学という異なるレベルの表
象が交差するところに生じた、︿一葉文学﹀の再文脈化であった
ということができる。清方︽一葉︾へのまなざしは、そのテク
ストの多義性を浮かび上がらせていたとともに、戦時下におけ
る一葉評価の変容を映しだしていたのだ。
繰り返される意味づけに耐えうる表象が、正典という評価を
築くとするならば、紀元二千六百年というコンテクストにおい
て、清方︽一葉︾は多様に意味づけられ、それを通して、一葉
の肖像として正典ともいうべき位置に押し上げられていったと
いえるだろう。そして、今日もなお、その位置にあることは、
Q
ヲ
。
清方︽一葉︾の幅広い流通が示している。それは、清方︽一葉︾
が幾通りもの文脈にひらかれてきたことを伝えているのであ
1) 宗像和重﹁﹃一薬会集﹄という書物﹂(﹃文学﹄一 O │一、一九
注(
九九・こ
) それまでの樋口一葉の全集には、一葉死後間もなく博文館
2
(
から刊行された﹃一葉全集﹄(明治三0 ・ごとその校訂版(明
治三0 ・六)、はじめて日記が収録された﹃一葉全集﹄(前後編、
明治四五・五1六、博文館)、文庫版として﹁一葉全集﹄(全五
巻、一九三三・四、春陽堂文庫)があった。新世社版全集は、
一万五千部を刷ったという。
4
6
(
3
) 詳細は拙稿﹁ドラマの中の︿樋口一葉VIII-九三0年代に
おけるイメージの創出と変容目││﹂(﹃日本文学﹄五六│一一一、
二O O七・一二)を参照されたい。
(
4
) 奥付によると、発行部数は三000部である。妙齢会は﹃七
人集﹂(一九四一・一 0 ・七)刊行時から霜月会と名称を変えて
いる。他の同人には、﹁風と共に去りぬ﹂の翻訳で名を馳せて
いた翻訳家の大久保康雄、三笠告官房総務部長の庚瀬進らがい
た。妙齢会については、杉岡歩美﹁中島敦︿南洋行﹀と大久保
康雄﹁妙齢﹂﹂(﹃日本文学﹄五九│二一、二O 一0 ・一二)に詳
しい。管見の限りでは、小出は妙齢会、霜月会がそれぞれ四冊
刊行している図書のすべてと、三笠書房発行雑誌﹃文庫﹄に創
作を寄せているが、戦後の創作は確認されない。
(
5
) 新世社版全集第二巻付録、﹃一葉ふね﹄(一九四一・七)に掲
載された木村在八﹁装臓について﹂では、清方の扉絵が荘入の
依頼によるものであったこと、その他の装臓を荘八が担当し
たことが明かされている。表紙と箱の意匠は、一葉家に残さ
れていた﹁下着小袖﹂の文様がそのまま描かれたという。
(
6
) ﹃全集樋口一葉第一巻﹄(小学館、一九七九・一一・一)に
は、口絵として清方︽一葉︾収録されており、その解説で指摘
されている。
(7) ﹃一葉﹄発表直後にも︽たけくらべの美登利︾(一九四O) を
創作している。清方は展覧会用の﹁本画﹂ではなく、卓上に伸
べて見る芸術形式を持つ﹁卓上芸術﹂を提唱したが、その一連
の作品の中にも︽にごりえ︾(一九三四)を数えることができ
る
。
(
8
) 新世社版会集刊行以前の数少ない一葉研究図書である。そ
の他には、湯地孝の﹃樋口一葉﹄(至文堂、一九二六・一 0 ・
五)、﹃岩波講座日本文学樋口一葉﹄(岩波書庖、一九一一一一七・一五)があった。
(
9
) 一葉関連図書と清方の関わりは、駆け出しのころの清方が
﹃通俗書簡文﹂(博文館、一八九六・五・一一一一)にコマ絵を描い
たことから始まっていた。また、鑓田研一﹃小説樋口一葉﹄
mm
mlm
(第一書房、一九四0 ・六・五)の表紙には、︽築地明石町︾(一
九二七)に描かれた女性の顔の﹁素描﹂が用いられている。美
登利像を数多く描いた清方であるが、戦前に描かれた美登利
像は、手に水仙の花を持っている姿と、朝湯帰りの姿という二
系統に分類することができる。
(叩)鏑木清方﹁﹃一葉﹄﹂(初出不明、一九四一・一 O、引用は﹃鏑
木清方文集l﹄白鳳社、一九七九・八・一五、
頁)
(日)鏑木清方(前掲 、 頁)
(ロ)一 O月一日から一一一一日まで催された前期展では西洋画と彫
塑が、後期展では日本画と芸術工芸が展示された。
(日)山野英嗣﹁紀元二千六百年奉祝美術展覧会とその周辺﹂(﹃戦
時期日本のメディア・イベント﹄世界思想社、一九九八・九・
一、防頁)
(
M
) 林洋子﹁二千六百年奉祝美術展覧会││寸帝展改組﹂と﹁東
京美術学校改革﹂のはざまで﹂(図録﹃東京府美術館の時代
﹄東京都現代美術館、二O O五・九、胤頁)
中 lHSO
SN
(日)古川隆久﹃皇紀・万博・オリンピック﹄(中公新書、一九九
八・三・二五、制頁)。﹃紀元二千六百年奉祝美術展覧会図録﹄
7
4
m
(文部省、一九四0 ・一二・二五)からも、様式や題材の多様
性を認めることができる。なお、奉祝展と戦時国家の関係を
多元的に捉えた金子牧﹁﹁宮展改革の夢﹂││紀元二千六百年
奉祝美術展覧会・戦争・﹁新体制﹂﹂(﹃近代画説﹄一六、二 0 0
七・二一)から示唆を得た。
(凶)菅聡子﹁︿安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノ﹀とし
0 ・一一)
ての文学﹂(﹃日本近代文学﹄八三、二O 一
(げ)田津田軒﹁奉祝総合展の核心を衝く﹂(﹃美之国﹂一六│四
一九四0 ・四)に、﹁公平な鐙衡を万人一様に行わんとする意
図﹂があったと述べられている。
(時)その他、評価の高かった作品には、富士山を描いた横山大観
︽日出処之日本︾、安田叙彦︽義経参着︾などがあった。
(凶)平田禿木﹁勇往この挙に参加﹂(新世社版全集第二巻付録﹁一
葉ふね﹄て一九四一・七)
(初)佐藤一伯﹁昭和期の明治天皇論││渡辺幾治郎・木村毅を中
心に││﹂(﹃日本研究﹄三、二O O五 ・ 二 )
(幻)ケルス・ルオフ﹃紀元二千六百年消費と環境のナシヨナリ
ズム﹄(木村剛久訳、朝日新聞出版社、二O 一0 ・一二・二五)
によれば、百貨庖などの小売業や観光事業、出版業は売り上げ
を伸ばしつづけ、その景気は一九四O年にピ lクを迎えた。
頁)
(忽)鏑木清方(前掲叩、
(お)鏑木清方﹁美と賛沢﹂(一九四0 ・二一、初出不明、引用は
﹃鏑木清方文集六時粧風俗﹂白鳳社、一九人0 ・二・一五、
四頁 )oここに収録された﹁美と賛沢﹂の挿絵には、清方︽一
葉︾の一部が使われている。
mm
) 今井清一﹁﹁八紘ニチ﹂のかげで・紀元二千六百年││昭和
M
(
史の瞬間﹂(﹃朝日ジャーナル﹄七│三九、一九六五・九)、米谷
匡史﹁戦時期日本の社会恩相子│l現代化と戦時変革﹂(﹁思想﹄
八八二、一九九七・二一)参照。
(お)水沢澄夫﹁一葉鏑木清方﹂(写真版の解説、﹃造形装術﹄一一
- 一 二 一 九 四0 ・一二)
(お)本間久雄﹁﹃彩雨﹄と﹃一葉﹄││奉祝展鑑賞二題﹂(﹃塔影﹄
一六│一一一一九四0 ・二一)
(幻)鏑木清方(前掲 、 頁)
(お)昭和初年代の﹁雨の夜﹂掲載教科書は、﹃女子園文選﹄(明治
書院、一九二七・一 O)、﹃女子国文大綱﹄(立川書庖、一九二
九・一 O
)、﹃帝国女子新国文﹄(帝国書院、一九三一一・一一)、
﹃日本女子読本﹄(中文館、一九一一一一二・五)、﹃純正女子国語読
本﹄(早稲田大学、一九三三・八)、﹃女子新国文﹂(至文堂、一
九三五・七)、﹃女子大日本読本﹄(大日本図書、一九三五・七)、
﹃女子新国文・改訂新版﹄(冨山一房、一九三七・七)、﹃聖代女子
園語読本﹄(星野書脂、一九三七・七)など、多数。
(mm) 単行本﹃樋口一葉﹄のあとがきで明らかにされている。竹内
道之助は戦後レッド・パージの対象者となった。
(初)明治二五年五月一一一一日から二九日までが綴じられている﹁に
つ記﹂の空白に書き加えられている。
(訂)むらき数子﹁﹁紀元二千六百年﹂││まつりと女││﹂(﹃銃
後史ノ lト ﹄ 六 一 九 八 二 ・ 四 )
(沼)銃後に主体化することがとりわけ期待されたのが、女学校
教育を経た女性であったことは本論の文脈において留意した
4
8
い点である。また、田中励儀﹁樋口一葉と同時代作家││北田
薄氷・泉鏡花を中心に﹂(樋口一葉研究会編﹃論集樋口一葉即日﹄
おうふう、二O O六・一一・二五、所収)の詳細な調査は、﹁雨
の夜﹂をはじめとする一葉の随筆が明治・大正の文範集に数多
く収められていたことを明らかにしている。
(お)林洋子(前掲凶)参照。
(鈍)一九四三年には、﹁決戦下婦人が煩雑な家庭の仕事や職場の
なかから生み出す﹂文学を﹁顕彰﹂することを目的に、日本文
学報国会に提供された資金の一部を賞金とした﹁一葉賞﹂が設
定された(﹁女流文学に一葉賞﹂﹃読売新聞﹄一九四三・二・七)。
(お)たとえば、板垣直子﹃評伝樋口一葉﹄(桃際書一房、一九四
ニ・人・こは、自著を﹁国家の偉大な歴史的時期を紀念する
仕事の一つ﹂と位置づけている。
︻付記︼本稿は日本近代文学会関西支部二O O八年度秋期大会(於・
近畿大学)での口頭発表に、大幅な加筆と修正を施したもので
ある。席上および発表後にご教示くださった方々に感謝申し
上げたい。引用文中の傍線は、すべて引用者によるものであ
る
。
4
9
ーー日本統治下上海における邦人文学界の状況││
文
誌﹃上海文学(春作品・小説特集)﹄(第五号一九四五・五)に、
泰淳が﹁月光都市﹂前半部とほぼ同内容を持つ小説﹁中秋節の
都市﹂と同等の完成度を有していた事実は、泰淳の上海体験の
位置づけに敗戦以前をふまえた再検討を要請することになるで
しかし戦時下に発表された﹁中秋節の頃﹂が戦後発表の﹁月光
一九五一・一 O)は、その国家/国籍に対する先見的な批評性が
再評価されている。いわば﹁上海もの﹂の基底にある︿敗戦体
験﹀は、泰淳の作家的転回点として理解されてきたのであ却。
ゑ﹂(﹃進路﹄一九四七・八i 一O)は発表当時より泰淳独自の滅亡
観や罪意識をめぐって議論が重ねられ、﹁女の国籍﹂(﹃小説新潮﹄
たことも確認させる。
しかし敗戦以前の上海体験を描いた﹁月光都市﹂は、これま
で松本陽子の論考を除いてほとんど問題にされることはなかっ
た。一方、敗戦以後の上海体験を素材とする﹁上海もの﹂には
論が集中し、たとえば﹁審判﹂(﹃批評﹄一九四七・四)、﹁媛のす
表経緯を有していたことを示すとともに、戦後派作家とされる
泰淳が、敗戦以前の上海ですでに実質的な作家活動を始めてい
隆
武田泰淳 ﹁中秋節の頃 (
上こ の周辺
はじめに
田
頃(上)﹂(以下﹁中秋節の頃﹂と略)を発表していたことが確認で
きた。この事実は、﹁月光都市﹂が現在知られる以上に複雑な発
武田泰淳﹁月光都市﹂(﹃人間美学﹄一九四八・一二)は、泰淳が
上海に到着した一九三九年六月直後の体験が記された作品とし
て知られる。その成立に関しては、これまで﹁初稿は昭和一九
年に書きあげられているが、当時の社会情勢から、発表するあ
てもないままに陸底ふかく秘蔵されていた。それが全面的に加
筆訂正のうえ﹂初出雑誌に発表されたと理解されてきた。この
見解は﹁月光都市﹂のプレテクストにあたる﹁中秋明月(壱こ
(以下﹁中秋明月﹂と略)と題する草稿が存在することからも首
肯できよう。だが最近趨夢雲の尽力によって発見された文芸雑
木
0
5
あろう。また泰淳が﹃上海文学﹄に参加していた事実も、伝記
的事実の解明に寄与するだけではなく、日本統治下上海の文学
状況を確認させる手がかりになるはずである。近年の外地文学
研究の隆盛によって、旧満州、朝鮮、台湾地域の日本語文学活
動はニ疋の究明を見た。一方上海・南京を中心とした圧兆銘政
権支配地域の文学状況は、大橋毅彦・越夢雲らの論考がようや
くその端緒を聞いたところである。後述するが、﹃上海文学﹄を
発行した上海文学研究会は、同時期の上海におけるほぼ唯一の
日本側文芸団体であった。そこでの泰淳の言説活動を確認する
ことは、同時に彼の周囲に存在した上海邦人社会の文学状況を
垣間見ることにもつながってゆくであろう。
﹃上海文学﹄ への加入
﹁中秋節の頃﹂が掲載された﹃上海文学﹄は、一九四三年四月
から敗戦直前の一九四五年五月までおよそ半年間隔で刊行され
た文芸雑誌である。全五冊。これまで同誌の存在は日本近代文
学館所蔵の﹁春季作品(創刊号こ(一九四三・四)一冊のみが知
られるにすぎなかったが、昨年越夢雲によって﹁冬春作品(第
三号)﹂(一九四四・四)、﹁春作品・小説特集(第五号こ(一九四五・
い幻の雑誌であった。
五)が上海図書館徐家漉蔵書楼に所蔵されていることが確認さ
れ、前後して﹁秋冬作品(第四号)﹂(一九四四・二一)が日本近代
文学館に蔵された。いわばごく最近までその実像が確認できな
同誌を刊行した上海文学研究会は、在混邦人文学者および和
平文壇に属する中国人作家によって結成された上海現地の文芸
団体で、その前身は一九四O年九月に結成された長江文学会で
あった。同会は現地発行の邦字新聞﹃大陸新報﹄紙上に掲載さ
れた﹁土曜文芸﹂欄を主要な発表媒体とし、また雑誌﹃長江文
学﹄を一九四二年五月まで五冊発行したが、その直後種々の事
情により解散した。そしてその長江文学会の後を受け、同会会
員の小泉譲、野中愛三、猛田章らを中心に結成されたのが上海
文学研究会であった。会長には内山完造が就任し、その関係か
らか創刊号﹁春季作品﹂は内山書庖から発行されている。だが
内山の会長就任は、彼が長江文学会に参加していなかった点か
らも形式的なものであったと思われ、実質的な運営を行った気
配はない。それを示すように以後の発行所は大陸新報社へと移
され、印刷も主に大陸新報社の関連企業である大陸印刷所が
行っている。また発行兼編輯人も創刊号は同人の武田芳一(猛
田章)であったが、以後は大陸新報社編集長である清水投鬼(第
三一・四号)、日高清磨瑳(第五号)が担当し、さらには﹁冬春作品
(第三号こ掲載の﹁編集記﹂には、﹁本号から経営の一切が大陸
新報社に移され﹂たとの記述もあるように、上海文学研究会お
よび﹃上海文学﹄は、大陸新報社の強い影響のもとで運営され
ていたことがわかるのである。ちなみに大陸新報社は、陸軍・
海軍・外務三省と興亜院の後援によって設立された﹁御用新聞
社﹂であった。したがって﹁上海文学﹄にもその国策媒体とし
5
1
ての性格は濃厚に反映しており、創刊の辞に当たる﹁出版に際
して﹂でも、﹁大東亜戦争は総力戦であると謂ふ。武力戦に撮る
大戦果を文化戦によって一層その効果を発揮させねばならな
い。(中略)文学による報国の真を身を以て実践するために、わ
れわれは上海文学研究会を組織しました﹂と、その文芸国策へ
の使命を強く表明している。
そしていうまでもなく、これまで泰淳が上海文学研究会に参
加していた事実は確認されておらず、また泰淳自身もその関与
を語っていない。そのため入会経緯は判然としないが、入会時
期については第四号(一九四四・二一)の﹁同人消息﹂榔に﹁武
田泰淳 A同人加盟、中国文学研究家、﹁司馬遷﹂﹁揚子江文学風
土記﹂その他の著あり﹂と示されていることから推定できる。
この第四号が一九四四年六月の泰淳到着以後最初に発行された
号であることを勘案すると、泰淳は来一泡後すぐに参加を果たし
たのであろう。また来橿直後の泰淳は研究会を後援する﹃大陸
新報﹄に評論﹁上海化﹂(一九四四・入・九)を掲載し、同年十一
月の大東亜文学者大会前後からは盛んに同社のイベントに参加
してゆく。それらの動向からは、大陸新報社での活動が入会の
端緒を開いたことを想像させ、一方泰淳が所属した中日文化協
会上海分会に長江文学会向人の高橋良三がいたことからは、高
橋の紹介による入会だったとも考えられる。
このように来橿後の泰淳がすぐに人脈を手繰るようにして上
海文学研究会に参加したことからは、泰淳の文学活動に対する
積極的な意志を感じることができる。だが上海文学研究会が翼
賛体制への迎合をあからさまに誇示する団体であることを考え
るとき、それまで中国文学研究会同人として戦時下の日中関係
に批判的視線を投げかけていた泰淳が加入したことには奇妙な
随額を覚えずにはいられない。そこで以下﹁中秋節の頃﹂の問
題意識を析出しつつ、泰淳が同会に加わった意図を推測したい。
それは上海文学研究会を中心とする上海邦人文学界の言説配置
と、そこでの泰淳の位置を考察するためでもある。ただ﹁中秋
節の頃﹂は、﹃上海文学﹄の廃刊によって前半部のみで中断して
いる。一昨一こで作品全体の構想を検討する際には、﹁月光都市﹂後
半の本文を代入することとしたい。それは﹁中秋節の頃﹂と﹁月
光都市﹂の前半部の間に異同がほとんど存在しておらず、未発
表の﹁中秋節の頃﹂後半部の構想も﹁月光都市﹂後半とほぼ同
内容であったと想定できるためである。
﹁中秋節の頃﹂の批評性
﹁中秋節の頃﹂は、対支文化機関の職員として赴任した﹁杉﹂
が、上海の風物や人々と接するところから始まる。
支那文化の研究をつづけてゐた杉は上海に居留して見る
U
と、暫くはとりつくしまもなく呆然としてゐなければなら
なかった。半ズボンや黒眼鏡の人々が往来する夏の上海に
暮し、毎日様々な中国人に接触してゐると、剤剖明劇叫叫
州司刷出剣H州可制利剖刑剖矧叫刻剖州出制剖引淵 剖
5
2
て 行 く 感 じ だ っ た 。 那j fに対して抱いてゐた僅かな思
調1引引制引叫叫てつ州制制対削剥叫引創出制ぺ対側刷劇
剖司制剤凶劃制調淵U引1倒叫削剥剖到剛倒綱川州劇剣苅
州制剤叫引制剖叫│(中略)﹁しかし自分は何物かを求めなけ
と明らかに連続している。そしてそれはそのまま泰淳の来握直
後の文学的課題に、自己そして旧来の日本文学が抱えた中国観
の超克があったことを示唆していよう。
しかしその一方で、﹁中秋節の頃﹂で描かれる杉は、泰淳の文
学的課題を直裁に克服するようには描かれていない。むしろ物
語の進行に即して中国、特に中国人との相互理解の困難さを抱
いつも事業的下心がブレーキをかけ、本心の発露をさまた
げ、単純に人間が見られなくなってゐるのかな、とも思ふ
u
ればならない。研究が無用だったのなら、旅人の感覚で感
じるだけでもよい。剤剖司副割削刻明朝州刷出U伺剖州吋
剖削州剖1副矧明則刷剖剖州制閣制引制川ォ側州制川劃
川劇倒司1斗叶州訓樹剖刺U引到則明剖創刊明割引引制。何
か身にしみわたる啓示がこの町に足をとどめた自分の上に
降りか注つては来ないであらうか﹂
この作品で描かれる杉の姿に、泰淳の自己認識が反映している
ことはいうまでもない。ここで上海到着直後の杉が感じる﹁支
那文化の研究﹂の無力さや、日本人文学者が生み出した上海像
の無効性は、すでに従軍中の泰淳が中国文学研究会同人に発信
した書簡にも見出される問題意識だからである。特に除隊直後
の泰淳が﹁M君
﹂ (H竹内好)に向けて発信した﹁支那文化に関
する手紙﹂(﹃中国文学月報﹄一九四0 ・ニにおいて、﹁生きた支
那人を兵士たちが見て来たこと、それに反して内地の研究者の
方が生きた支那人を見ていないのではないかという疑問、及び
事があった。
この杉の内面は、中国人少女・閣の蹴首を決定する会議の場面
えこんでゆくこととなる。
杉は人物の批評となると、いつも心が重くなり、口をつ
ぐんでしまふたちであった。何か決定的に人を論断する能
力が自分には欠けてゐるのではないかと疑ひたくなる程で
あった。司副叫桐明制刷岡刈司副剖樹制可斜剖副剣叫判制
叫副伺刑制引制叫剖。好悪はかなりはげしい方であるの
支那人を書くことの重要性﹂を訴えかけ、﹁現在行われる支那に
関する評論研究﹂より、パール・パック﹁大地﹂のような﹁支
創射訓制州司割引。矧刻対側朝剰叫開倒U司副副剖刷叫、
川叫矧U引剛倒叫剖剛剛凶剃U制川制鋼嗣制矧叫明川川倒
剖可制周コ劃叫嗣司桐明剖則引制剖州制凶創刊刺剖可制叫
に、対人関係では煮えきらぬ態度になりやすい自分をもど
かしく思ふ事がしばしばであった。そして斗刈↓刈州刑園
那人を書いた優れた小説の一編の方が﹂中国に関する文化政策
で描かれている。杉と同じ﹁対支文化事業﹂事務所で働く聞は、
漢訳聖書を読む杉を自身と同じキリスト教徒だと思い込み、好
に意味を持つと主張していることは、この冒頭部での杉の独自
5
3
暖昧な態度しか取れずにいるのである。杉はこの﹁二重の限﹂
疑いを含んだ﹁二重の限﹂を働かせざるを得ず、閣の蹴首にも
意をもって接してくる。しかし杉は、その聞に対しても同情と
品結末部にいたるまで決して解消されることはない。
も物語るからである。しかもこの杉の硬直化した中国観は、作
いまだ内地で培った中国観に無意識に拘束され続けていること
文学者の見出し得なかった﹂中国を発見することを目指す杉が、
思い込みによって発生していることを示し、さらには﹁日本の
﹁しかし、中秋節には、君のところでも紙銭を焚いたり、
を抱く要因を、自身が﹁対支文化事業﹂に従事していることに
月宮殿を祭ったりするんじゃないの﹂/杉は念のため彼女
求めているが、これはいうまでもなく、泰淳の中日文化協会で
の勤務体験が反映された設定である。越夢雲によれば、同協会
た
。
制
リ14 劇倒刑4
判 4 州司劇州割引剣矧刺U
りません﹂/彼女がやや高い声でそう答えるのを、父なる
男は賛成するように首うなずかせて聞いていた。樹凶倒州
にたずねた。/﹁いいえ、キリスト教徒はそんなことはや
は在兆銘政権樹立後の一九四O年七月、日本大使阿部信行の後
援により南京で発足。名誉理事に在兆銘と阿部が就き、以下理
事長に補民誼(行政院副院長兼外交部長)、常務理事に圧政権の宣
伝部長・内政部長・教育部長などが顔をそろえている。また泰
淳所属の上海分会は、その事業目的を、南京の﹁総会ヲ協翼シ
﹁中秋節の頃﹂には、邸宅の意匠や漢訳聖書、徐光啓の墓など中
中日両国文化ノ疎通、双方朝野人士ノ感情融和及東洋文明ノ発
揚ヲ図リ善隣友好ノ目的ニ到達センコトヲ期スルヲ以テ趣旨ト
西融合を示す場面が意識的に配されている。閣のキリスト教徒
化事業﹂に携わる杉は、中国人にとって文化的侵略者に他なら
実のところ大東亜共栄圏の確立にあったことを明らかに示すだ
ろう。こうした事情を作品に当てはめるのであれば、﹁対支文
国(人)像を当てはめて理解することしかできなかった。それ
教徒である闘に対して、最後まで儒教信仰者という典型的な中
合の空間をとらえる柔軟なまなざしを有しながらも、キリスト
海の文化的独自性の暗喰なのであろう。だが杉は上海に中西融
の中国人という設定もまた、中国文化と西洋文化が併存する上
スル﹂としている。だが団体の首脳部に証兆銘政権の要人が並
んでいることは、この事業目的が謡う﹁善隣友好ノ目的﹂が、
ないのである。だからこそ杉は文化機関職員という自身の立場
身が絡め取られていたことに他ならない。だからこそ杉は閣の
言葉によって﹁強いショック﹂と顔の﹁ほてり﹂を覚えるので
ある。これらは否定したはずの定型的な中国理解がなお自身の
は杉自身が否定したはずの内地の硬直化した中国理解に、彼自
を過剰に意識し、﹁二重の眼﹂を抱くことになったのである。し
かし杉が中国人に対して﹁二重の眼﹂を抱く一方で、杉を敵対
的な文化侵略者として眺める中国人が一人も描かれないことに
は注意が必要である。それは杉の感じる交流の困難さが、杉の
5
4
うちに根深く存在していた衝撃と、それこそが日中間の相互理
解の障壁を生んでいたことに気付いた甑俸を表していよう。つ
まり﹁中秋節の頃﹂は、来橿後の泰淳が再認識した対中国理解
原稿用紙の欄外には﹁善篤士者武不/回車既好﹂の文字が印刷
されている。上海時代の泰淳がこの用紙を使用していたことを
﹁(壱こと補筆があるが、それは当初独立した短編として構想
されたものの、後に続稿を執筆する意志が芽生え、﹁中秋節の頃﹂
へと収敬されたことを想像させる。またこの草稿に使用された
ダスカ
である。八仙橋から此処までその月は金紙でこしらへた物
電車の窓から月下の街に眺め入ってゐた私も、その男に、つ
ながされるやうに皆につれて立ち上った。福開森路は終点
電車内の場面で始まる。
ツエウエ
福関森路まで来ると隣の男は﹁再会﹂と一言って立ち上った。
その﹁中秋明月﹂の冒頭は、岡田が大世界(娯楽場)から帰る
示していよう。
欄外に﹁十月一日が中秋節にあたると禍があるといひ、それが
日曜だとまた禍ひが有るといふ。今年の中秋節は十月一日の日
曜だった﹂という断片が記されていることからは、作中時間が
一九四四年十月一日であり、そこからそう遅れることなく脱稿
されたと推測できる。そしてこの草稿で最も注目すべきは、﹁中
秋節の頃﹂で﹁杉﹂とされる人物が﹁岡目﹂と称されているこ
とである。泰淳の﹁上海もの﹂の主人公は共通して﹁杉﹂の名
が与えられるが、それがまだ確定していないこの草稿は、武田
の﹁上海もの﹂全体の最初期の形態を有したものであることを
堀田善衛が﹁対談・上海時代﹂で証言しており、﹁中秋明月﹂の
執筆が上海でなされたことは間違いない。また同草稿の三枚目
の困難さと、文化統治政策への懐疑を表明した作品だったと考
えられるのである。
草稿﹁中秋明月﹂との差異
この﹁中秋節の頃﹂に見られた日中関係に対する省察は、や
がて泰淳最晩年の小説﹁上海の畿﹂(﹃海﹄一九七六・二 1九)で
も繰り返されていくこととなる。したがってその萌芽がみえる
本作は、ひとまず泰淳の対中国認識の生成過程を考えるうえで
注目すべき作品であると意味づけられよう。だが改めてこの作
品の生成過程を考察すると、作品が批判の矛先を向けたのは、
泰淳自身はもちろん上海文学研究会を中心とする現地文壇でも
あったように思われる。
本稿冒頭で紹介したように、﹁中秋節の頃﹂には﹁中秋明月﹂
と題する草稿が存在している。旧来この原稿の実在は知られて
いなかったが、今回論者が日本近代文学館武田泰淳コレクショ
ンに含まれていることを確認した。新出資料であるため、まず
は論の前提もかねて内容紹介を行っておきたい。
g
N
) は、四O O字詰
﹁中秋明月﹂・(日本近代文学館資料番号叶g
原稿用紙 (B4・
二 OX二O)十四枚(完)。ペン書き。随所にペ
ンおよび鉛筆による加筆訂正が見られる。題名の下に鉛筆にて
5
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話
﹁中秋明月﹂・﹁中秋節の頃(上)﹂
【
の如く、くっきりと空にかかってゐた。
これ以後原稿は、岡田が大世界で見た軽演劇や映画の様子を回
想する場面が続き、下車後、中国入居住区で﹁私の事務所で使
ってゐる給仕﹂の﹁少女﹂に出会う場面で閉じられる。現在の
﹁月光都市﹂は原稿用紙換算でおよそ四十九枚であるが、﹁中秋
明月﹂は原稿用紙十四枚弱しかなく、その内容はほとんどが大
世界の描写で費やされている。つまりここには、﹁中秋節の頃﹂
が問題とした中国人理解の困難さや、その契機となった閣の融
首をめぐる場面、あるいは徐光一容の墳墓など、中西融合という
上海の文化的独自性を象徴する場面が描かれてはいないのであ
る(﹁場面対照表﹂参照)。しかも﹁中秋節の頃﹂の杉が﹁対支文
化機関﹂の職員とされたことに対し、岡田の勤務先は単なる﹁事
務所﹂と踊化されている。それは﹁中秋節の頃﹂で示された批
評的主題が、﹁中秋明月﹂の時点ではいまだ着想されていなかっ
たことを暗示しているだろう。実際﹁中秋明月﹂二枚目欄外に
は、主題を一不すかのように朱筆で﹁幻境﹂と書き入れがあり、
この作品が上海風物を幻想的に描き出す試みであったことを匂
わせている。そしてそれに呼応するように﹁中秋節の頃﹂(﹁月
光都市﹂)でその批評性を鮮明に主張した末尾の箇所も、﹁中秋
明月﹂では客観描写に留まってしまっている。
﹁しかし、中秋節には君の所でも紙銭を焚いたり、月宮殿
を祭ったりするんぢゃないの﹂/私は念のため彼女にたづ
ねた。/﹁いいえ、キリスト教徒はそんなことはやりませ
5
6
小泉線
佐藤政太郎「阿婿」
関屋牧「ロカスタ・ミグラトリア」
ん﹂/彼女はやや高き声でさう答へるのを、父なる男は賛
成するやうに首うなづかせて聞いてゐた。
│
寓
話
前節で述べたように、改稿後の﹁中秋節の頃﹂(﹁月光都市﹂)では
この直後に﹁杉は何か強いショックで身体がすくみ、やがて顔
がほてる気持がした﹂という一文が加えられた。﹁中秋明月﹂に
この一文が見えないことは、﹁中秋節の頃﹂で表現された対中国
認識とその根底にある文化政策への批判的視点が、いまだこの
時点で小説的主題として醸成されていなかったことを示してい
よう。従軍体験を経た泰淳は、中国の現実を描く日本文学の必
要を痛感していた。しかし来橿当初の彼は、眼前に存在する上
海を描こうとしても、これまでの日本文学が生産してきた異国
的幻想的な上海像に準拠せざるを得なかったのである。
上海文学研究会言説配置
〔付図〕
﹃上海文学﹄との言説的差異
武田泰淳「中秋節の頃(上 )
J を中心にした場合
※
ところで﹁中秋明月﹂のような現地体験の作品化は、長江文
学会の時点から﹁現地文学﹂のなすべき創作的課題として提言
されており、﹃上海文学﹂においても主要な作品傾向となってい
た(︹付図︺参照)。﹁中秋明月﹂が内容のほとんどを大世界や中
国人街の描写で費やしたのは、あるいはこれら上海文壇の傾向
に迎合した結果であったのかもしれない。
しかし泰淳は、上海文学界の創作的期待に一定程度合致する
﹁中秋明月﹂を、そのまま﹃上海文学﹄に掲載せず、日本側の
中国認識と現地文化政策への批判意識を先鋭化した﹁中秋節の
黒木清次「棉花記j
「呉中尉J
「中秋節の頃{上)J
黒木清次
武田泰淳
猛田章「東洋人」
小泉譲「桑園地帯J
日の丸を J
池田克己「素木の街J
「ほおぴんぱお J
「お前町胸に
月山雄「支那街に育つJ
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1
1
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国策推進1<
ニ
ニ
二
二>1国策への懐疑I
中奥牒
四
『上海文学』娼載小説
7
5
頃﹂へと改稿した。その改稿を促した要因を、たとえば泰淳の
伝記的事実に求めるのであれば、﹁中秋明月﹂脱稿前後の一九四
四年十一月に開催され、泰淳も参加した第三回大東亜文学者大
会を挙げることができるかもしれない。当時の様子を回想した
﹁上海の後﹂には、﹁私にとっても、南京は空っぽだった﹂﹁そ
こで開催された大会が、どれほどの無力なものだったかは、参
加者たちの、どこにも遣り場のない、不安と不満の入りまじっ
た虚ろなおしゃべりに、よくあらわれていた﹂といった表現が
ある。この大東亜文学者大会という国策文化事業への冷ややか
な視線と、﹁中秋節の頃﹂で描かれる対支文化事業の欺臓が同一
線上にあること、さらには第一回大東亜文学者大会に対して泰
(却)
淳ら中国文学研究会が取った態度も勘案すると、﹁中秋節の頃﹂
の執筆動機にこの大会の影響があったことを感じさせもする。
だが改めて﹁中秋節の頃﹂の持つ批評性が、上海の現実を目
の当たりにしつつ、なお内地の﹁日本文学﹂や﹁研究﹂が構築
した上海理解から脱却できない杉の姿を通して描き出されてい
たことを思い返すとき、この作品の批評の矛先は、上海現地で
文学に携わる上海文学研究会に向けられていたと思われる。
泰淳が上海文学研究会に加盟した時期、同会は主要同人の小
泉譲、池田克己、黒木清次の中篇を集めた﹃新風土大陸作品
選﹄(一九四四・七大陸往来社)を刊行した。その﹁あとがき﹂
において、池田克己は同書の意義を次のように説明している。
われわれが、昭和十七年末、現地上海において、文学研
究会を結成以来、今日に至る問の、作品的成果の一部とし
て、単行本﹁新風土﹂を上梓することとなった。こ冶に納
められた三つの作品は、右期間に発行された三冊の﹁上海
文学﹂に発表され、それぞれ本国の文学界に、予期しなかっ
た反響をもって迎へられたものであった。
研究会結成以来の文学的成果を示し、内地文壇に反響を起こし
たとされる﹃新風土﹄は、上海文学研究会および上海現地文壇
において、その方向性と理想を示す一種の正典と意味付けられ
ていたといえよう。実際、同書の収録作品のうち、小泉譲﹁桑
園地帯﹂(﹃上海文学﹄一九四三・四)、黒木清次﹁棉花記﹂(﹃上海
文学﹄一九四三・一 0 1一九四四・四)は芥川賞候補となっており、
いずれもその素材とその方向性に共通性を有している。
スパイド
小泉譲の﹁桑園地帯﹂は鎮江付近の四操渡桑園で、匪賊の襲
撃を受けつつも養蚕場を建設する日中の職員と、彼らの師弟関
係にも似た連帯が描かれる。また池田克己﹁素木の街﹂(﹃上海
文学﹄一九四三・一 O) は、中国へ渡った建築技術者が野戦建築
に従事する強い使命感が打ち出され、黒木清次の﹁棉花記﹂で
は綿業地帯の開発と栽培指導を通じて達成される、日本人技術
者と中国職員・農民の協同が語いあげられる。これらはいずれ
も大陸の開発・生産に携わる人物が、万難を排して事業の達成
に遜進する姿を描き、その事業を通じて芽生える日中両国人の
融和が語られているといえよう。しかしここに見られる農業指
導や建築工作といった大陸開拓のモチーフが、生産報国を推進
5
8
する内地の翼賛文学と共同歩調をとっていることは明白であ
り、それら生産事業を通じて果たされる日中両民族の融和もま
V
た、日本文学報国会が先導した大陸文芸政策や、大東亜文学者
(
回
大会大会宣言などの理念をそのままなぞったものでしかない。
ヲ匂。
つまり﹁新風土﹄収録作品は、池田克己が﹁あとがき﹂で称揚
するような﹁現地上海﹂の﹁作品的成果﹂などではなく、あく
まで外地における内地文芸政策の実践例に過ぎなかったのであ
そもそも上海文学研究会は、その前身である長江文学会の時
{昂)
点から内地の翼賛文学の動向を強く意識していた。それは、両
会通じて中心的な役割を果たした小泉譲が、日本文学報国会創
立総会での奥村喜和男(情報局次長)の発言を受け、﹁われわれ
現地において文学するものは、この点(注・大東亜共栄圏理念の
正しい把握)を十分考慮に入れて、国家目的の達成のため支那
における文化尖兵として、日本文学の大東亜的性格を文学的方
向において、創造し以て日本文学本流の実践に遁進しなければ
ならないと思ふ﹂などと主張したところからも明白であろう。
そして実際﹁上海文学﹄は、その内地翼賛文芸理論の実作化を
臆面もなく展開し、翼賛色の濃厚な作品を毎号掲載していた。
たとえば現地邦字新聞社を舞台にした池田克己﹁ほおぴんぱ
お﹂(一九四五・五)では、﹁日華合作﹂は中国人職員に正しい日
本観を示すことで達成されるという論理が展開される。
採訪部記者兼編輯見習といふやうな分担を与へられた壮
吉は、入社の際に編輯局長から、﹁耕一回4は日華合何の一つ
叫樹到明刻刷出叶副剣凶周寸寸剖刻。こ、の華人の中には、
上海がまだ硝煙で包まれてゐる時から、好漢と言はれなが
ら、この新聞工作に飛び込んできた人もゐる。(中略)われ
われはこの立場を充分理解してやらねばならない。さうす
ることによって新橿報を彼らの最も働き易い場所たらし
め、彼等の心に応へねばならない。そしてその為には、何
よりも先ず、制判制利刑囚リ川町桐川明刻削制同制引制剖
川判叶叫叫引制副司引制割州制例制引叫副桐鯛剖国Uり割
1 この仕事への自信を強めさせると思ふ。制判制判例司
引
副司叫封制剖聞朝創倒刻刻U剖刑制州国引制剖川判司叫凶叶
削剥剖制国剖川判斗吋州国剰刺同州剖引叫樹掛U廿例州刻
州出引制剖川剥司副叫↓寸州到剖出則桐剖掴倒引副司副叫
なると思ふ。われわれには単に新聞を作るといふことの以
外に、かうした大きな責任があるのだ﹂と云はれた言葉を、
ワクワクする心のときめきで聴いた。
この作品が﹁中秋節の頃﹂と同じ号に掲載されていること、そ
して杉と壮吉とが、ともに日本側の言論文化政策を遂行する現
場に勤務していることには留意しておきたい。日本による文化
統治政策の一方的な押し付けを﹁日華合作﹂と言い切る﹁ほお
ぴんぱお﹂と同じ誌面に、日本の文化政策の虚妄性と対中国理
解の困難さを突きつける﹁中秋節の頃﹂が配されるとき、﹃上海
文学﹂の言説的方向性には揺らぎが生じる。そしてこの上海文
9
5
学研究会主要同人たちの一枚岩的な翼賛文芸体制に裂綜を生じ
させること、それこそが泰淳が﹁中秋節の頃﹂に込めた批評的
戦略だったと考えられないだろうか。以後の﹃上海文学﹄が刊
行されなかった以上、この作品に対する同人の反応を知るすべ
はない。ただ先に見たように、泰淳は﹁中秋明月﹂を﹁中秋節
の頃﹂に改稿するに当たり、あらためて主要同人とおなじ国策
的文化事業をめぐるモチーフを追加しつつも、それらによる日
中相互理解には疑問を呈した。それが﹃上海文学﹄の作品傾向
を意識したうえでなされたものであったとするならば、泰淳が
﹁中秋節の頃﹂で文化政策を扱い、日中理解の困難さを描いた
のは、内地の文学的欲求を無批判に﹁現地文壇﹂の使命と読み
替える上海文学研究会の無批評性を衝き、中国人との葛藤を描
くことなく﹁日華合作﹂を安易に妄想する彼らの対中国人認識
を批判するためであったと考えられるのである。
おわりに
日華文学交流の声ゃうやく騒然とし、昨年以来来華した日
本作家は十指を数へる状態である。われわれはこれら来華
作家の信念と成果に対しては、良きにつけ悪しきにつけ、
何等腐を入れるものではない。/しかしながら、われわれ
現地文学青年が、中国の面前に於て、正しい日本文学の創
作を念じてゐる事実が、良心的な中国作家に刺激を与へ、
地味ではあるが極めて自然な交流状態を生じっ、あること
をよろこびをもって報告しておきたい。/制判制判凶斗州
司剖剖鯛剖刷剖叫対制剤耐剖剛刈寸刻刻。(中略)/中国文
学の理念が如何にあらねばならぬかといふ問題は、日本人
の側から観念的な言葉を投げかけることによって解決され
るものではなく、回利州国U川対朝到矧剖到剖副司叫叫判
寸寸町制1制国側叫州司副刷出劇剖州制ぺ剖叫州寸刻刻剖
副州判叫司副判例。
﹃上海文学(冬春作品)﹄(一九四四・四)の﹁編集記﹂として書か
れたこの文章は、泰淳来一櫨当初の上海文学研究会および、それ
に代表される現地邦人文学界の目指す方向性を示しているだろ
う。ここに見られる﹁日本の正しい文学姿勢﹂が﹁中国文学の
理念﹂の生成に益するという﹁解説ぬきの文学交流﹂の方法に
は、日本人文学者の優越性と支配性を透かし見ることができる。
そしてこの﹁解説ぬきの文学交流﹂を疑うことなく正しく作品
化したのが先の池田克己であった。﹁ほおぴんぱお﹂の﹁編輯局
長﹂の言葉と﹁解説ぬきの文学交流﹂の態度はあまりに近いの
である。だが従軍体験以来、硬直化した中国理解に限界を感じ
ていた泰淳にとって、池田をはじめとする上海文学研究会同人
らの日中交流のあり方は承服できなかったのではないか。だか
らこそ泰淳は﹁中秋節の頃﹂に日中交流を阻む様々な障壁を描
出したのであろうし、それによって上海文学研究会の方向性に
異議を呈していたと思われるのである。
しかし当たり前のことながら、こうした体制への追随/離反
6
0
たことである(前掲︹付図︺参照)。たとえば﹃上海文学﹄誌上で
も、関屋牧は擬人化されたイナゴの大群を描く﹁ロカスタ・ミ
ここで確認すべきは、この翼賛文学を推進する主要同人の周辺
に、彼らの方針とは必ずしも一致しない多様な文学活動があっ
の正否を今目的視点で裁断することの意味は薄い。それよりも
た最後の内省でもあった。
海統治体制は瓦解した。﹁中秋節の頃﹂は上海邦人文学界最後
の文学的収穫であり、また日本の文化統治政策に対して示され
りではおそらく泰淳だけであった。
泰淳が作品を発表したわずか三ヶ月後、敗戦により日本の上
上海でそのような創作活動を展開した日本人作家は、管見の限
(
3
) 松本陽子﹁武田泰淳﹃月光都市﹄論﹂(﹃阪大近代文学研究﹄
二O O四・三)。松本はこの論考で、﹁月光都市﹂が注目されな
かった理由に、他の﹁上海もの﹂のように﹁武田の戦後の文学
注(
I) 古林尚﹁解題﹂(﹃増補版武田泰淳全集﹄第一巻 一九七人・
一筑摩書一房)
(2) ﹃上海文学﹄の発見および﹁中秋節の頃(上この存在につい
ては、日本近代文学会二 O 一0年度秋季大会(同一 O月二四日
於・三重大学)パネル発表﹁﹃上海文学﹄のポテンシャルエネル
ギーーー日本統治下の上海文学界を考える﹂において報告さ
れた。同パネルには論者もパネリストとして参加しており、
本論考はその折の報告を基としたものである。なお同パネル
の報告題目とパネリストは以下の通り。﹁戦争末期上海邦人文
学活動を把握するキーワード│同人誌﹁上海文学﹂一瞥﹂(越
夢雲)、﹁上海文学界における武田泰淳の位置│﹁中秋節の頃
(上)﹂が示すこと﹂(木田隆文)、﹁﹃上海文学﹄と中国人文学
者﹂(鈴木将久)、デイスカツサント(大橋毅彦)、育会(竹松良
明
)
。
グラトリア﹂(一九四四・一二 z
i
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-九四五・五)のような、内地な
らば﹁不要不急﹂と判断されかねない作品を延々と掲載してゆ
(
E
V
く。また上海の文化統治政策に冷ややかな態度をとり続けた内
山完造は、自身の方向とは逆の上海文学研究会の会長に就任し
た。そして同人支援のために私財を郷って上海文学賞を設立
し、その受賞作に翼賛色の薄い月山雅﹁支那街に育つ﹂(﹃上海文
学(春季作品)﹄一九四三・四)を選出する。さらに内山に関して
言えば、上海文学研究会会長を務めながら、その裏で上海芸文
(昂)
会を起こし、島津四十起ら翼賛文芸政策から距離を置く老上海
文学者を結集してゆく││これらの動向からは、上海にも翼賛
文芸政策に与しないグループがいたことや、一定の文学的自由
を許容する空気があったことが見えてくる。だが泰淳はそれら
の自由さを謡歌することなく、あえて翼賛文学を標祷する上海
文学研究会に参加し、そこで彼らの理念と抗うかのように、文
化統治の無効性や日中相互理解の困難さを問う作品を発表した
のである。﹁中秋節の頃﹂は、日本統治下上海において、その文
化統治政策の歎備にきわめて自覚的に向き合おうとした日本人
作家がいたことを証言した作品でもあるのだ。そして同時期の
1
6
活動の出発と中国への罪意識を結び付ける捉え方に本作が当
てはまらない﹂ことを確認し、この作品を上海﹁︿発見﹀の物語
と、杉と閥の交流の物語﹂として読み解いている。
) たとえば近年でも渡謹一一民は﹁戦後の小説家としての武田
4
(
泰淳の出発は、四七年四月の﹃批評﹄掲載の﹁審判 Lからだと
みてよかろう﹂といった見解を示している。(﹃武田泰淳と竹
内 好 近 代 日 本 に と っ て の 中 国 ﹄ 二 O 一0 ・二みすず書一一房
九五頁)
) 大橋毅彦は﹁︿資料紹介﹀邦字新聞﹁大陸新報﹄瞥見﹂(﹃昭和
5
(
文学研究﹄一九九九・九)において、﹃大陸新報﹄記事中に現れ
る現地日本語文壇の動向について紹介を行い、迂兆銘政権下
の日本文学状況を確認する端緒を開いた。以後越夢雲ととも
に同紙掲載の中日文化協会関連記事を集めた﹃上海中日文化
協会研究・序説│現地新聞メディア掲載の協会関連記事一覧﹄
二O O四・三私家版)や﹃上海忌念15合武田泰淳﹃上海
(
の祭﹄注釈﹄(二O O八・六双文社出版)を出版し、他にも戦
時下上海の文芸文化を見通す多様な論考を発表している。
) ﹃上海文学(冬春作品)﹄(一九四四・四)掲載の﹁同人住所
6
(
録﹂には、池田克己、多国裕計、内山完造、黒木清次、小泉譲、
朝島雨之助他人名の日本人作家の名前が掲載されており、在
濯日本人作家の主要な顔ぶれが揃っていたことがわかる。ま
たそこに加え創刊号の﹁春季作品﹂(一九四三・四)には、予
且、陶充徳、柳雨生、劉守華ら和平文壇に属する中国人作家が
寄稿し、他の号にも陶日間孫、査士元、路易士、萩崖らの名が見
える。ここからは、上海文学研究会が現地日本側文壇におけ
る最有力の文芸団体であったことをうかがわせる。
(7) 長江文学会、上海文学研究会双方の同人であった猛田章(武
田芳こは﹁この﹁長江文学﹂が例のゾルゲ事件の関係者がい
て潰れ、次に生れたのが﹃上海文学﹄であった﹂(武田芳一﹃黒
い米﹄一九六三・六のじぎく文庫)と証言している。ただし
事実関係は未詳。
) ﹁上海文化界消息﹂(﹃上海文学(秋冬作品)﹄一九四四・一一一)
8
(
の記述に拠る。
) 大陸新報社の設立経緯およびその評価は、山本武利﹃朝日新
9
(
聞の中国侵略﹄(二 O 一一・二文芸春秋)を参照した。
(叩)同人一同﹁創刊の辞﹂(﹃上海文学(春季作品)﹄一九四三・
四)
(日)たとえば一九四四年十一月には大陸新報主催の﹁神鷲特攻
隊文学奉賛﹂の選考・編集委員を務めている。その他泰淳と大
陸新報社との接点については、拙稿﹁武田泰淳の上海体験│現
地日本語媒体とのかかわりから﹂(﹃奈良大学紀要﹄第三九号
二O 一一・一二)を参照されたい。
(ロ)高橋良三は長江文学会の編集委員に名を連ね、同会の発表
媒体であった﹁土曜文芸﹂欄の第一回(﹃大陸新報﹄一九四0 ・
九・一四第八面)巻頭に、高木喬の筆名で﹁現地文学の課題﹂
と題する評論を掲載している。ただし﹃上海文学(冬春作品)﹄
(一九四四・四)掲載の﹁同人住所録﹂にその名はなく、上海
文学研究会には参加しなかったと考えられる。
(日)これまで泰淳の渡航理由は、たとえば古林尚﹁年譜﹂(埴谷
雄高編﹃増補武田泰淳研究﹄一九八0 ・三、筑摩書一房)のよう
6
2
に﹁徴用のがれ﹂の意味合いが強いとされてきた。だが泰淳の
渡航直後の動きからは、戦争末期の内地の出版状況では罰難
になりつつあった小説発表の欲求を上海で達成しようとした
ことがその理由にあったとも想像させよう。
(凶)﹁中秋節の頃(上この内容は、﹃増補版武田泰淳全集﹄第一巻
(一九七人・一筑摩書房)所収の﹁月光都市﹂を例にとれば、
一
五O頁上段二ハ行自﹁それは上海のある中秋節のことであっ
た。﹂から一五九頁上段二一行目﹁まぎれて行く心をさそった
のであった。﹂までの箇所が該当する。
(日)﹁中秋節の頃﹂は一九四四年を作中現在としているが、戦後
発表の﹁月光都市﹂は発表時から出来事を回想する形式を取っ
ている。したがってその回想体を示す冒頭の一段落(﹃武田泰
淳全集﹄第一巻一五O頁上段一 1 一四行目)は﹁中秋節の頃﹂
には存在しない。
(凶)趨夢雲﹁武田泰淳﹃上海の蛍﹄からみた﹁中日文化協会﹂﹂
(﹃東大阪大学・東大阪大学短期大学部教育研究紀要﹄二 0 0
五・一二)
(げ)﹁中日文化協会上海分会章程﹂第二条。引用は(お)に拠る。
(山崎)掘田善衛・開高健﹁対談・上海時代﹂(﹃海﹄一九七六・二一)
において、堀田善衛は以下のように証言している。
堀回あの頃(注・上海時代)から武田さんは、ちゃんと自
分の名前の入った原稿用紙を持っていました。(中略)頭文字
に﹁武田泰淳﹂というのが入るような、バラバラな詩を使った
ものです。武田の回のところしか憶えていないんですが、﹁回
車也好﹂っていうんです。この﹁田車也好﹂っていうのはどこ
からきたものかぼくは知りませんけど、頭文字を拾ってゆく
と﹁武田泰淳﹂になる原稿用紙を持ってましたね。
(印)たとえば高木喬﹁現地作品の性格﹂(﹃大陸新報﹄一九四0 ・
九・二人﹁土曜文芸﹂第三国)は、﹁ここ(注・上海)に生産さ
れる作品は飽くまで現地的現実に徹したもので﹂、﹁よりリア
ルに限定せられた民族乃至国民的リアリズムの作品でなけれ
ばならない。右の規定から当然に導き出される現地作品の性
格は、それが記録文学若しくは報告文としての意義を有すべ
きことである﹂としている。なお問評論は長江文学会﹁土曜文
芸﹂第一回巻頭評論である﹁現地文学の課題﹂の続稿であり、
そこで示された長江文学会の理念をいかに実作化するかを提
言したものである。
(却)泰淳とともに中国文学研究会を牽引した竹内好は、﹁大東亜
文学者大会について﹂(﹃中国文学﹄一九四二・一一)において、
﹁はっきり云えば、大東亜文学者大会は、日本文学報国会にと
って恰好な催しであるかもしれぬが、中国文学研究会の出る
幕ではないと恩ふ﹂﹁少なくとも公的な立場を持った中国文学
研究会としては、役人ぶった歓迎の片榛を担ぐことは伝統が
許さぬのである﹂と、その拒否の方針を明言している。
(幻)小泉譲﹁桑園地帯﹂は第一七回(昭和一八年上半期)芥川賞
候補。黒木清次﹁棉花記﹂は第一入国(昭和一八年下半期)芥
川賞候補として推されている。
(辺)たとえば第三回大東亜文学者大会﹁大会宣言﹂の﹁我等は大
東亜共栄圏内各民族の文化を高め且つその大調和の達成に貢
献せんことを期す﹂で示された、日本文芸による東亜各地域の
3
6
文化指導・連携の意図と相似している。
(お)長江文学会同人の内地寄りの傾向は、上海文化界の中でも
一つの特徴として認識されていた。﹁大陸新報﹄掲載のコラム
﹁南船北馬・新上海の文化﹂(一九四一・二・一五)は、内山完
造らの上海芸文会を﹁旧上海文化﹂、長江文学会を﹁新上海文
化﹂と規定し、﹁新上海文化はある意味で旧上海文化の古いロー
カル色を揚棄し、これに時代的な、同時に中央的な性格を吹き
込んだ点に第一の特色がある。それは、これを形成する新上
海人が東京の文化的空気の中で育ったものが、圧倒的多数で
あるといふ理由に基づく﹂としている。
また長江文学会﹁土曜文芸﹂欄第一回が掲載されたのと同じ、
一九四O年九月一四日の﹃大陸新報﹄文化欄(第四面)は、佐
波甫﹁美術界の新陣容﹂、五橋生﹁映画工作の問題﹂、井上友一
郎﹁新体制と文学者﹂など内地で議論し始められた新体制文化
運動を現地に移入する言論が満ちていた。﹃大陸新報﹄文化欄
は上海および中支各地の文化動向をかなり詳細に論じている
が、﹁土曜文芸﹂第一回掲載以前に長江文学会に関する動向を
報じた記事がない。私見ながら長江文学会は、大陸新報社が
新体制文化運動の現地推進機関として編成した文芸団体で
あったと思われ、それはまた長江文学会l 上海文学研究会の
主要同人に内地への協力的性質が抜き難く存在していること
を暗示している。
) 小泉譲﹁現地文学の一考察﹂(﹃大陸新報﹄一九四二・七・一
M
(
O 第四面)
(お)内山完造の上海文学賞設立については﹁月山、積田両氏に上
海文学賞授与﹂(﹃大陸新報﹄ 一九四四・一・一三 夕刊)に拠
。
る
(お)内山完造は、大正期以後日中の文学者が集うサロン・上海漫
談会を主催していた。だが日本の上海統治が本格化し始めた
一九四O年一 O月一七日に、漫談会を再編成した上海芸文会
を結成している。﹁文化人の親睦を促進漫談会を芸文会と改
名﹂(﹃大陸新報﹄一九三九・十一・一二第七面)に拠れば、
芸文会は定例会の開催や積極的な会員募集を行っており、漫
談会より組織化された性格を持つ団体であった。この再編成
には日本の国策文化政策に対抗しようとした内山の意図が
あったのかも知れない。
付記武田泰淳草稿﹁中秋名月﹂の紹介は日本近代文学館の許可を
得た。また公開に際しては、武田花様(武田泰淳ご令嬢・著作
権継承者)に格別のご配慮を賜った。記して謝意を示したい。
なお本稿は、日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究B)
﹁戦時上海の文芸文化と邦字新聞﹃大陸新報﹄に関する多角的
研究﹂の成果の一部である。
64
││林京子﹃ギヤマン
論
村
上
陽
子
﹃ギヤマンビードロ﹄(﹃群像﹄一九七七年三月号i 一九七八年二
月号)は﹁空健﹂、﹁金比羅山﹂、﹁ギヤマンビードロ﹂、﹁青年た
ち﹂、﹁黄砂﹂、﹁響﹂、﹁帰る﹂、﹁記録﹂、﹁友よ﹂、﹁影﹂、﹁無明﹂、
﹁野に﹂の十二の短篇で構成される短篇連作である。作者自身
文学活動を開始し、﹁祭りの場﹂(﹃群像﹂一九七五年六月号)で第
一八回群像新人文学賞、第七三回芥川賞を受賞した。
林京子は一九三O年八月二九日に長崎に生まれ、一歳を迎え
る前に一家で上海に移住し、一四歳まで上海で過ごした。一九
四五年二月に日本に引き揚げた林は、同年八月九日、学徒動員
中に爆心地から一・四キロ離れた三菱兵器工場で被爆した。一
九六二年より保高徳蔵主宰の﹁文芸首都﹂の同人となった林は
一、先行批評の論点整理
一のもたらした傷とともにいかに生きるかを問い直すことにつ
ながっている。
ロ
体験を分有する試み
はじめに
生々しい傷として存在している。文学作品を通して終わらない
出来事を再審し、受けた傷を生き直そうとする試みは、三・一
を生き、常に不安に揺らいでいる。本稿はそのような不確定な
足場から、長崎で被爆した作家、林京子の﹁ギヤマンビードロ﹄
を取り上げ、体験の当事者性と出来事の分有について論じるも
のである。長崎の被爆体験もまた、当事者にとっていまだに
聞をゆっくりと、しかし確実に被曝させていく。直接の被災を
免れた者も、もはや自分自身を三・一一に起因する出来事の当
事者/非当事者のどちらか一方に振り分けることが困難な状況
二O 一一年三月一一日という日付は、生々しい傷となって刻
み込まれている。地震と津波による死者は確定することの不可
能な唆昧さをはらんだまま膨大な数にのぼり、原発事故は収束
の兆しすら見せない。漏れ続ける放射能はあまりにも多くの人
ピ
5
6
とほとんど同じ生い立ちを持つ﹁私﹂を語り手とし、﹁私﹂や友
平山三男は﹁原爆投下は被爆者と﹁非﹂被爆者、被爆以前と
人たちの被爆体験を中心に物語が展開していく。
それ以後、また、被爆者を死者と生者、重傷者と軽傷者と分け
るように様々に、しかし裁然と括り分け、さらに以前から存在
験の当事者と非当事者の根本的な違いの両方を視野に入れた作
品、だとまとめている。このとき三木が評価した西田という非当
事者の重要性は佐佐木幸網や金井景子らにも取り上げられ、肯
しかし、中上健次は、 ﹁ギヤマン ビードロ﹄を次のように痛
定的に評価されている。
皮肉だけど、日本の小説にとって、被爆小説ほど害毒を流
烈に批判した。
があらわになることを示した。また、青木陽子は、被爆による
すものはないと思うほど、戦争を後悔している日本人に
ぴったりの小説はないね。こんなにわたしはやられたと。
していた様々な差異を拡大する﹂と指摘し、個々の生に着目す
るとき、被爆体験の当事者同士の聞に存在する越えがたい差異
﹁負い目の少ないものから多いものへと﹂連ねられていく構図
をこの作品に見いだすと同時に、﹁長崎にも広島にもいあわせ
なくて被爆していない人間はどれほどの負い目を持てばいいの
子の﹁ギヤマンビードロ﹂で、人は被害者の小説だから身
につまされ、甘い涙を流すよ。﹁ギヤマンビードロ﹂は手品
で成り立っている小説だね。戦争や悪をやった毅が口をぬ
w
-
誰もが唯々諾々と従った結果が﹁ヒロシマ・ナガサキ
L
に他な
トリlトは中上の批判を踏まえた上
黒古一夫やジョン
で論を展開している。黒古は﹁総動員体制に、小学生を含めた
くことにする。
中上は﹁日本人﹂が被害者に同一化することを可能にする作
品として﹁ギヤマンビードロ﹄を捉えているのである。この中
上の批判については第四節であらためて取り上げ、検討してい
ぐったまま甘い後悔にひたるには丁度いい小説だね。
ところがやったことは小説にないじゃない。︹中略︺林京
だろう﹂と問うている。青木は非当事者の安易な共感をはねつ
ける厳しさをこの作品から読み取っていた。
非当事者の視点については、木下順二、高橋英夫、三木卓に
よる﹃ギヤマンビードロ﹄をめぐる鼎談でも議論されている。
ここでは被爆体験を持たない終戦後の転校生として設定されて
いる西田という登場人物が注目され、高橋は西田が﹁一歩わき
へそれようとする気持ち﹂を持つ人物として描かれており、体
験の程度によって発言力の序列が決まってしまうのではないか
という危倶を示した。それに対して三木は、西国には﹁私﹂を
相対化する﹁鏡的な役割﹂が付与されており、﹁逆転して被爆者
に対して強い意味を持つ﹂人間であると評価した。木下は両氏
の発言を受けて、体験の当事者同士の間に存在する差異と、体
前
二、体験の分有の契機
当事者が当事者と同じように出来事を体験することはできな
い。また、たとえ﹁同じ被爆者﹂であったとしても同様の体験
出来事の体験は、厳密に言えば共有不可能なものである。非
摘した。また、トリlトは、﹁長崎の歴史は、ちょうど林自身の
人生のように、日本と中国ゃ、それに続く日本と西洋列強とめ
を有しているわけではなく、記憶や身体感覚に密接に結び付く
個々の体験はそれぞれ異なるものである。
らなかった﹂という意識をこの作品に読み取り、上海での体験
に根ざして﹁日本人﹂の加害性への視点を有していることを指
騒然とした関係と緊密に結びついた歴史であり、現在から未来
に続く一つの暴力をすでに証明している﹂と述べ、﹃ギヤマン
ビードロ﹄を含む林の諸作品が帝国日本の辿ってきた歴史から
価している。
また、﹁私﹂と西国の関係に、被爆という出来事の当事者/非
当事者という固定化した振り分けを適用することの困難を指摘
する論もすでにあらわれている。深津謙一郎は︿亡霊﹀という
観点を導入して﹃ギヤマンビードロ﹄を論じ、体験の核心部に
言葉を発することのできない﹁死者の領域﹂が存在しており、
題として向かい合うことで、﹁当事者性﹂をとらえ返し拡猿
問題として考えることの重要性への認識である。それは、
非体験者である私たちが、﹁集団自決﹂の出来事に自らの問
沖縄戦や﹁集団自決﹂に向き合うことは、﹁集団自決﹂を客
観的実証的な視点から対象化するあり方だけでなく、論じ
る主体が﹁わたし自身が起こすかも知れぬ﹂という自らの
では、共有不可能な体験はいかにして分有されうるのだろう
か。屋嘉比収は沖縄戦の体験者の高齢化が進む現状にあって、
﹁死者の領域﹂との隔たりを埋めきれない不安が︿亡霊﹀とし
て回帰してくると述べている。︿亡霊﹀に漉依され、主体を壊乱
人類の未来までをつなぐ強いメッセージ性を持ち得ていると評
する不条理な負債を引き受ける可能性は被爆体験の有無を越え
していく行為主体につながる視点でもあるように思う。そ
の﹁わたし自身が起こすかも知れぬ﹂という自らへの問い
かけは、矛盾を抱えながら﹁集団自決﹂で亡くなった個々
み込んだ﹁応答するエイジエンシ l﹂として位置付けられ
るものではなかろうか。
の住民に対する、戦後世代による自らの発話の位置をも組
非当事者が戦争体験を分有する可能性を思考していた。
て存在することを指摘した点で重要な論考である。本稿ではこ
の指摘を踏まえた上で、﹃ギヤマンビードロ﹄という作品にお
いては被爆者/非被爆者を被爆体験の当事者/非当事者に安易
に振り分けることが困難であること、それでもなお当事者の体
験を分有しようとする試みが模索されていることをテクストに
沿って明らかにしていく。
7
6
一九五七年生まれの屋嘉比は、沖縄戦の体験を聞く立場にあ
ると同時により若い世代に沖縄戦の体験を伝えるという立場に
思い出す場面がある。当時不満、だらけの生活を送っていた﹁私﹂
は、命が助かっただけで満足していた八月九日から出直す必要
﹁無明﹂では、三十三回思にあたる年に長崎の原爆追悼式典に
参加した﹁私﹂が、十年前にやはり同じ式典に参加したことを
になってしまう。友人の中田が﹁あの苦しさが忘れられないか
ら、せめて半日だけでも水を断つのだ﹂と語る言葉を聞いて、
らも、自分自身が感傷によって体験を変化させることに抗う当
事者の格闘がある。だが、﹁粉飾のない九日﹂に立ち戻ろうとす
れば、それは﹁私﹂が体験していない痛みをも削ぎ落とすもの
落とし、﹁粉飾のない九日﹂に立ち戻ろうとする﹁私﹂の態度は
きわめて峻厳である。そこには、時の流れとともに体験の生々
しきが失われていくのをやむを得ないこととして受け止めなが
﹁昭和二十年の八月九日﹂にはなかったものを徹底して削ぎ
和二十年に立ち戻れる﹂と考える。
九日は、感傷の底で曇ってしまっているのかもしれない。感傷
を一段ずつはい登って抜け出したときに、私の八月九日は、昭
そのとき﹁私﹂は若者に理解されたと感じ、涙をこほした。し
かし、さらに十年が経っとそれすらも感傷のように思える。
﹁私﹂は﹁もやもやとした、自分でも処理できないでいる八月
の若者の﹁もっと暑かったんだよなあ﹂という肢きを耳にする。
かし実際に式場に立ってみると、そこには花輪と生花で整えら
れた﹁華やいだ八月九日﹂があった。幻滅した﹁私﹂は、一人
があると感じ、﹁粉飾のない九日﹂を求めて式典に参加した。し
もあった。屋嘉比は、戦後世代は体験者にはなりえないが、体
験者の語りを繰り返し聞く作業を積み重ねることで当事者性を
獲得することが可能であるという立場から、戦後世代による想
像/創造的な沖縄戦体験の分有の可能性を追求したのだと言え
。
る
出来事の非当事者は、出来事を語る言葉すべてを同じ強度で
受け止めることができるわけではない。出来事を語る言葉を解
釈し、細部をつなぎ止め、再構成していくのである。そのよう
な分有のあり方においては、非当事者が当事者の語りを受け止
めながら出来事を想像し、いかに自らがそれを語る言葉を創造
していくかということ、すなわちその出来事にいかに応答する
かが常仁問われている。しかし、当事者もまた、出来事を語る
時点から出来事を再審し、それを語る言葉を紡ぎ出すのである。
特に被爆という前例のない出来事は、当事者が事後的に知りえ
た事実と照らし合わせることによってはじめて説明可能とな
り、整合的な意味を持ちうるものであった。原爆の威力や性質、
放射能に対する知識、戦時中の帝国日本のあり方など、体験当
時には知り得なかった事実を知った後に芽生える心情と体験し
いう危倶を当事者にもたらすものでもある。
た当時の心情との聞には当然差異が生まれる。そのような差異
は体験した当時の心情が失われ、変化していくのではないかと
回
知らない。反面、閃光の熱さと、太陽と炎の熱さが印象に
強い。それも厳密にいうならば、私は火傷を負っていない
火傷をしなかった私は、中国たちのようなのどの渇きは
より明瞭にあらわれている。長崎に帰省中の﹁私﹂は、中国の
語りの中に存在する死者の声なき声である。
﹁友よ﹂では、語りの中から唐突に生起してくる死者の存在が
九日の出来事を別のかたちで体験した中田の語りであり、その
﹁私﹂はそれに気づいている。
から、瞬時の閃光の熱さを知らないことになる。その後で
るとき、そこには体験を当事者に固有のものとして自閉させて
いきかねない危うさがある。その危うさを押しとどめるのは、
吹いてきた熱風は、力まかせの平手打ちをくったような、
ぴりぴりした熱きだった。熱さは肌の奥深くに吹き込ん
被爆した瞬間に意識を失い、助け出されて汽車で運ばれた中
がもれた。それは悲鳴だった。(﹁友よ﹂一一二三頁)
中田は両手で口を押さえると、声をころして泣いた。肩
をしぼめて、しっかり唇を押さえている指の聞から、鳴咽
に、白い煙が昇っている。中国がいう、﹁家﹂はみあたらな
いが、確かに、何かが燃えている。それを中田は、あたし
のうち、と指をきして言った。
中田は黙って、白い壁と、説明文を指した。そして、﹁うち
が燃えてる﹂と震える声で言った。見ると、白い壁の後方
母校城山小学校の追悼式に中田とともに参加した。式の終了
後、被爆直後の浦上を撮った写真を見ていた中田は、一枚の写
真の中に一筋の煙を見出す。その煙は、同じ写真を二、三回見
ていた﹁私﹂には、決して見出すことのできない意味を持って
いた。写真は、爆心地に向いた二面の壁と屋根が吹き飛び、両
側の二面の壁だけが残った様子を撮したものである。
(﹁無明﹂二四四頁)
で、残っている。私が、テントの外で光を全身に受けて、
あの日と同じ状態に自分を置きたかったのは、熱さ以外に
九日はないからである。中田は水を断って、のどの渇きを
知ろうとしている。
私たちは、それぞれが経験した苦しみにこだわって、中
国は光に疎い、私は水に疎い八月九日を送ろうとしていた。
﹁私﹂が光に身をさらし、中田が水を断つのは、自身の身体を
当時と似た状況にさらすことによって﹁粉飾のない九日﹂に近
づこうとする試みであると言えるだろう。火傷を負った人々が
狂おしく水を求めたことを知りながら、﹁私﹂の﹁粉飾のない九
日﹂は光に収飲していこうとしていた。その収放が完全なもの
とならないのは、中田の体験と﹁私﹂の体験の聞に断層が存在
するためである。﹁私﹂が﹁粉飾のない九日﹂に立ち戻ろうとす
9
6
田は、自分の家の焼け跡を目にしたことがなかった。白壁の研
究所の真裏にあった中田の家の焼け跡から立ち上る煙が﹁あた
しのうち﹂とそこに住む六人の家族を燃やし尽くした痕跡であ
ることは、中国の言葉によってはじめて﹁私﹂に認識される。
﹁私﹂は中田に一百うべき言葉を持たず、泣いている彼女の横に
ただ立ちつくしている。この短篇はそこで幕を閉じている。
中田は、その写真に写し撮られた光景から語り手のいない体
験の痕跡を読み取ることができるただ一人の人物である。写真
が撮られたまさにその瞬間に自分の家が燃え、煙を上げていた
という生々しい時間が生起し、中国が生きる現在の時間に出来
事が侵入してくる。そのような場に立ち会って、﹁私﹂は中田の
切れ切れの語りを聞き取ることしかできない。
焼け跡の灰にくすぶる多くの、個別の死者への想像力が喚起さ
れるのである。写真の中に煙を見出し、自分自身の記憶と体験、
家族の喪失という出来事に取り惣かれた中田は、まだ顔を上げ
ることができない。写真の内部に存在する無数の死者と無言の
証言を感得するのは、中田の語りから断片的な言葉を受け取っ
た者の役目である。
光に身をさらすということによって﹁粉飾のない九日﹂に向
かおうとする﹁私﹂の行為は、自分の体験とは異なる体験を有
する語り手の語りを聞き取ることによって頓挫する。それでも
なお、﹁粉飾のない九日﹂に到達すること自体があきらめられて
いるわけではない。﹁私﹂にとっての﹁粉飾のない九日﹂は、﹁私﹂
が感傷を抜け出し、無心になった先にある。﹁抜け出した先に
のものに純粋に立ち返ることが困難であるのは、被爆という体
何があるのか、私にはわからない。もっと、曇って重い八月九
日が現れるかもしれない﹂と語られるそれに近接していく過程
において、﹁私﹂の体験の中に存在する多くの無言の死者の存在
解釈する可能性が聞かれる。中国の働突を見つめて横にたたず
む﹁私﹂の前には、中田の指差した煙のみではなく、それまで
平静に見ることができていた他の写真の中にくすぶる煙までも
のような困難に直面しながら、出来事を想像/創造的に捉え直
験が当事者に固有のものでありながら、当事者性にのみ帰せら
れるものではないことを幾度も突きつけられるためである。そ
しかし、個々の当事者の身に到来した出来事ゃ、それを語る
言葉を聞き取ってしまったとき、非当事者には語られた体験を
が、無数の家や人聞を焼き尽くした痕跡として迫ってくるので
はないか。非当事者は、語られた体験を別の体験に接続させる
いる。
そうとする再審と分有の試みの中に、体験を当事者と非当事者
にともに押し開いていく契機が生み出される可能性が潜勢して
はあらためて生々しく立ち現れてくるのではないか。出来事そ
想像力を有している。体験を聞き取る非当事者が体験を解釈
し、想像することは、﹁粉飾のない九日﹂を変貌させることにな
るのかもしれない。しかし、体験を粉飾のない、純粋なものに
留めておくことと引き換えに、いまだ語り出されることのない
7
0
いて、西国と、﹁青年たち﹂に登場する Yという青年に着目して
考えていきたい。
﹃ギヤマンビードロ﹄には﹁私﹂の同期生が多く登場するが、
ていない者がどのように体験に向き合おうとしているのかにつ
験を持たない者にとってその問いがより重くのしかかってくる
ことは一吉うまでもない。本節では、被爆という出来事を体験し
とが繰り返し問われている。すでに前節で指摘した通り、当事
者であってもその聞いから逃れることはできない。しかし、体
事をどのように受け止め、分有することができるのかというこ
﹃ギヤマンビードロ﹄では、自分自身が体験していない出来
よ﹂と言う。
堂の前で﹁私﹂たちが被爆死した生徒の追悼会を想起している
と、被爆を体験していない西田は﹁原爆の話になると、弱いの
﹁空維﹂は、大木と西田、﹁私﹂を含む五人の同期生が取壊さ
れることになるかつての N高女の校舎を訪れる短篇である。講
てきた友人たちの個々の体験が浮かび上がり、一括りにするこ
とができない八月九日が姿を現す。友人たちの体験には、家族
の死、傷や火傷など、﹁同じ被爆者﹂である﹁私﹂が体験してい
する悩みは多い。しかし、﹁私﹂が長崎を訪れ、大木から友人た
ちの体験や消息を伝え聞くとき、﹁同じ被爆者﹂として心を寄せ
生き方、結婚や出産をめぐる不安など、﹁私﹂と友人たちに共通
は、大木と西国の中間に位置している。転入生であり、長く長
崎を離れて暮らしている﹁私﹂は、大木に比べて友人たちとの
関わりが淡い。健康に対する心許なきゃ八月九日を原点とする
るやかね、と笑って言った。西国は、そうじゃないのよ、
いい、わるいじゃなくって、心情的にそうありたい、と思
んげん事のあるもんね、被爆は、せん方がよかに決まっと
、被爆という出来事の当事者性をめぐって
中でも繰り返し登場する二人の人物がいる。一人は、入学試験
で選抜されたはえぬきの N高女生としての誇りを持ち、長崎で
ない痛みがある。
教師をしている大木である。大木は独身の寂しきゃ原爆症の再
発への不安を抱えながらも、明朗さを失わない女性として描か
れている。また、大木は同期生の消息に詳しく、﹁私﹂に友人た
ちの被爆体験を語り聞かせる存在でもある。いま一人は、終戦
後に N高女に転校してきた西田である。西国は東京でデザイ
うのよ、と言った。更に、
西田が、弱い、というのは結びつき方で、弱さの原因は
被爆したかしないかにある、と西田は言った。大木が、そ
ナーとして働き、﹁私﹂とは長崎、東京の両方の土地で顔を合わ
せる。被爆体験を持たない西田は、被爆した友人たちとの関係
﹁例えばね、あなたもわたしも転校生だから長崎弁をうま
性において、自らの非当事者性を強く意識している。
昭和二十年三月にN高女に転入し、動員中に被爆した﹁私﹂
1
7
ぎこちなさよ﹂わかるでしょう、と私に言った。(﹁空健﹂一
く使えない、無理に使えばギクシャクとぎこちない、その
に戻り、﹁部外者がいるようで﹂と出席を断った西国に会の様子
や友人たちの近況報告をする短篇であるが、そこでは被爆とい
﹁野に﹂は、同期生たちの三十三回忌に出席した﹁私﹂が東京
う出来事の当事者性と、未来に向けて生きることの意味がより
深く追求されている。被爆死した妹の遺族として会に参加して
一五頁)
西田は被爆直後の長崎に暮らし、被爆した生徒たちと机を並
は死の間際にサイダーをねだり、母親が水に砂糖と重層を混ぜ
いた一人の男性が、出席者に向けて妹の死の様子を話した。妹
べて学んだ過去を持ちながら、現在に至るまで﹁ぎこちなさ﹂
を感じ続けている。その﹁ぎこちなさ﹂が﹁長崎弁﹂という比
あなたたちと付き合っていると、あたしたちも心情的には
。
〆
つ
、
て飲ませたという。その話を聞きながら、﹁私﹂たちは一保を流し
ながらサイダーを飲んだ。それを聞いて、西国は次のように言
とすれば﹁ぎこちなさ﹂がにじみ出す言葉。そのような言葉と
して西田は﹁長崎弁﹂を捉え、非当事者として被爆体験に接す
被爆者になってしまっている、でも体験はない、だから体
験を犯してはいけないと思う、そこにいるのは死者だから、
だから余計にあなたたちの行動を辛嫌にみてしまう、と西
喰を用いて語られていることは注目されてよい。方言は、削ぎ
落とすことも習得することも困難な言葉である。その土地で暮
らしていれば日常的に耳にする言葉。しかし自分自身が語ろう
ることの﹁ぎこちなさ﹂になぞらえている。その喰えは、上海
で育った﹁私﹂にもよく理解できるものであっただろう。
西国は原爆病の発症を気にして離島への赴任をためらう大木
田が言った。泣きながらサイダーが飲める神経の太さは、
自分たちにはとてもない、と言った。(﹁野に﹂二五九頁)
んだ友人の体験は、被爆者として生きてきた友人たちにとって
も自らの当事者性に回収できるものではない。生き延びてサイ
ダーを飲んでいる被爆者もまた、この体験の非当事者なのであ
できない領域を明確に感じ取っている。サイダーを飲めずに死
西田は、友人たちの体験に寄り添いながら、踏み込むことの
に対して﹁同じ場所に踏みとどまっている訳にはいかないのだ、
立っている現在が、常に出発点なのだ﹂と諭す。そのような西
田の考え方は、現在に立っているつもりでも常に八月九日に舞
い戻ってしまい、そこを原点として生きざるをえない大木や
﹁私﹂との大きな違いである。西田の言葉は、大木から﹁うち
九日から踏み出すことの重要性を訴え続けている。
たちは原爆にこだわりすぎるとやろうか﹂というつぶやきを引
き出す。西国は、友人たちが被爆以後の生を生きること、八月
7
2
る。非当事者性を常に自覚してきた西国には、涙を流しつつサ
として、西国は友人たちと並び立つことができる。西田は被爆
以後の時空間を友人たちと共有することに、体験の有無を越え
てともに生きる未来を見ょうとしていると言えるだろう。
る点であり、未来に向けて生きようとする点にあるのではない。
被爆という出来事をどのように捉え直し、問い返し、未来につ
イダーを飲む友人たちの姿が無神経なものに見える。
西国は体験に立ち入らないという節度を保ち、当事者の体験
八月六日、九日に限らず、核への恐怖は現代人の誰もが抱
いている。考えると不安になる。だが、誰もそのために自
なげていくのかという点が問われているのである。ともに生き
る未来を志向しようとするならば、過去の出来事の克服は体験
﹁私﹂は、当事者が神や仏や自然の摂理といった﹁人間の力量
からはみだした部分﹂を見つけ出し、過去から救われるべきだ
殺はしない。何かに希望をみつけて、信じているからだ。
安易かもしれないけれど、と西国が一言った。わざわざ同期
にとらわれ続けている当事者のみに求められるべきではない。
人間という存在に留まり、語ることのできない死者の声のかす
を領有することがないよう努めている。大木は友人たちの体験
を﹁私﹂に語って聞かせるが、西国は自分が聞き取った体験を
会にまで出席して、妹の死を話す山本の兄の心の底にも、
話して救われたい気持ちがある。話しているうちに、人間
かな残響を聞き取りながら、被爆という出来事に幾度も立ち返
ることは当事者と非当事者の双方に求められている。未来を過
という西国の主張に強く反発する。原爆は﹁人聞が綴密に計算
してつけた必然的な傷﹂であり、﹁自然の摂理からはみだした行
の力量からはみだした部分を見つけて、抗しがたい何かに
救われていくのではないか、と言った。(﹁野に﹂二五九頁)
去との断絶によって関かれうるものとしてではなく、一連の時
間の先に存在するものとして捉え直すとき、はじめて西田が考
語ることはない。体験に立ち入らないという態度を貫く西田が
当事者と関わろうとするとき、未来という時間に目を向けるこ
西国は、不確実な未来への時間を生きることに被爆体験を持
えている未来への可能性が開けてくるのだと言える。
西国とは異なる方法で被爆体験と向き合おうとした人物が
とが必要になる。
つ友人たちと自分との共通点を見いだそうとしているのであ
る。友人たちがこだわる被爆という出来事は、西国にとって立
﹁青年たち﹂に登場する青年、 Yである。 Yは﹁私﹂の著作を
読んで﹁私﹂に電話をかけ、その後、二通の手紙を書き送る。
為﹂であるというのが﹁私﹂の立場である。しかし、﹁私﹂が反
発しているのは西田が人間を超えたものに救いを求めようとす
ち入ることのできない領域であり続けている。しかし、現在を
出発点と考えれば、﹁核への恐怖﹂を抱きながら未来へ向かう者
3
7
一通目には、日々自分が目にしているものが虚偽の平和の上に
輸血が受けられるように自分の献血手帳を送りつける。それを
一方的な行為だと切り捨てることはたやすい。だが、それはす
でに起こってしまった取り返しのつかない出来事を現在の自分
かったYは、﹁私﹂が白血病を患っていると思い込み、優先的に
う聞いに根ざしている。この二人の非当事者は、出来事を語る
言葉を聞き取ってしまったことによって、自らの被傷性を強く
感じ取っている。ここでは、語られる出来事をすでに完結した
する西田のあり方、記録や資料から受け取る出来事の悲惨さに
打ちのめされながら自らにできることを探ろうとする Y のあり
方、それはどちらも非当事者が出来事といかに向き合うかとい
じさせるものである。
当事者の体験を領有することを恐れて過去に立ち入らず、未
来への時間に当事者と非当事者が共生する希望を見いだそうと
の身に引き受けようとして取られた行動である。それは、出来
事を書く行為、出来事について書かれたものを読む行為から、
過去の出来事を現在に接続させる可能性が生まれうることを感
築かれたように思えてアウシユピッッ、南京虐殺、長崎、広島
などの記録を読んでいると記されていた。二通自にはアウシユ
ピツツの資料展を見て感じた不快感を記し、知ることで超えた
い、という思いと、悲惨な出来事を知らされたことで知った者
が不幸になる、その責任を知らせた者は取るべきではないか、
という思いを綴り、﹁私﹂に返事を求めた。返事を書けずにいる
﹁私﹂に、 Yは輸血の際に役立ててほしいと自分の献血手帳を
送ってくる。
西国が未来を目指そうとするのとは対照的に、 Yの目は過去
に向いている。戦争体験を持たない Yにとって、それらはすで
に起こってしまった出来事であり、遡って知ることしかできな
いものである。出来事の記録に触れ、死者が残した資料の展示
を見ることは、死者の体験に思いをはせ、失われた言葉を聞こ
うとする試みである。原爆やアウシユビツツで死に至った人々
の声は、残された物や、生存者によって語り出される証言、伝
ものとして対象化し、体験を理解可能なものとして客観的に捉
えようとするあり方こそが拒まれている。出来事を語る言葉を
自らに向けられたものとして受け取るとき、非当事者もまた出
来事がもたらす苦痛から逃れることはできず、傷付くことを免
聞の集積によって、断片的に非当事者のもとへ到来する。しか
り、言葉を交わすことができる生存者である﹁私﹂から性急に
れない。出来事を語る言葉の聞き手となるとは、そのような傷
を当事者とともに生きることにほかならない。出来事を語る言
葉を聞き取った非当事者は、語り尽くせぬ領域があること、語
葉の宛先を探しあぐねている。そのため、出来事の当事者であ
しYは、それらから受け取った衝撃について語る自分自身の言
応答を求めようとしている。それは短絡的で自己中心的な行為
であるが、 Yが﹁私﹂に献血手帳を送ってきたことには留意し
ておく必要がある。﹁私﹂との対話を成立させることができな
7
4
れた位置から出来事を再審する必要があるのだと思われる。そ
のような試みからは、出来事を語る一=白士宮市の中に証言すら残らな
られた言葉を理解しきれないことを絶えず突きつけられなが
ら、出来事を語る言葉に幾度も出会い直し、現在の自分が置か
﹁私﹂は、戦禍が上海に及びそうになると鍋釜を背負って避難
する中国人の姿を﹁戦争という季節のはじまりに起こる、風景﹂
﹁響﹂では、上海で少女時代を過ごした﹁私﹂の体験と、被爆
の体験が結び付けられている。上海で生活していた頃、幼い
起してくるとき、﹁私﹂の語りに共感する﹁日本人﹂という主体
は撹乱されはじめるのではないか。
﹁私﹂が想起する中国人避難民という存在は、被爆という出来
事の体験に日本の植民地支配の歴史を接続させるものである。
もはや﹁私﹂は﹁中国人、即ち避難民﹂という構図を受け入れ
ることはできない。﹁中国人とおんなじ﹂避難民の位置にあっ
行く同胞を眺めて、かつて上海の街を、戦禍に追われて逃
げて行った中国人の姿を、想い出していたのである。避難
民のようね、ではなく、私たち自身が避難民だった。(﹁響﹂
一七七頁)
中国人とおんなじ、避難民のようね、と母が言った。つ
い二、三分前に吐いた、鍋や釜を背負って││と一言、つ母の
一言葉も、中国人たちを連想した言葉だった。母は、逃げて
早に帰る際に自にしたのは、血膿の匂いが漂う中、家財道具を
背負って逃げていく被爆者たちの姿であった。
として眺めていた。戦勝国の国民である日本人は逃げる必要が
なかった。しかし、﹁私﹂が被爆から四日目に母に連れられて諌
かった幾多の死者の体験が埋もれている気配を感じ取る回路が
関かれうるのではないだろうか。
四、語りの中に生起する他者
当事者が体験を語ろうと試み、体験を掘り下げていくとき、
一人の人間の体験の中にすでに語り手のいない別の出来事の体
験が生起してくる瞬間がある。語る行為は、不可避的に自らに
かかわる他者の存在を抱え込まざるを得ないし、語る主体その
ものが主体化されない残余としての他者をつねに含み込んでい
る。そのような他者の声が、体験を語る際にどのように浮かび
あがってくるのか。本節では、﹁私﹂の語りを媒体として読者の
前に呈示される他者の体験に着目していきたい。
まず、中上健次が﹃ギヤマンビードロ﹄を﹁日本の小説にとっ
て、被爆小説ほど害毒を流すものはないと思うほど、戦争を後
悔している日本人にぴったりの小説はない﹂と批判をしたこと
をここで思い出しておこう。中上は戦争に荷担した世代が自ら
の戦争責任を棚上げにしたまま、戦争の被害者としての面にの
み目を向けることを厳しく戒めていた。しかし、占領者と被占
領者の両方の立場を経験した﹁私﹂の語りの中に他者の声が生
5
7
て、避難していく中国人を眺めてさえいればよかった戦勝国民
としてのかつての自分自身の姿をとらえ直すことを余儀なくさ
島は、長崎の原爆によって生み出されたもう一人のお清さん
であった。﹃ギヤマンビードロ﹄の主要な登場人物の多くは、
強姦の対象となりうるという被傷性を露呈させるものであっ
た。二人の身体は娼婦性を刻印され、共同体から排除されると
のくせに国辱もの﹂だと言われ、﹁日本人﹂の誇りを汚す者とし
て共同体から弾き出され、孤立していた。お清さんや島の痛み
は、娼婦という生き方を選ばずにすむ階層にある女性たちから
は切り捨てられてしまう。彼女たちにとってお清さんや島の存
在は、自分自身の身体が異国人の男性に対する商品、あるいは
島は、﹁私﹂と同等の階層に留まることができなかった。
戦後の島の生活を支えたのがGーであることは、事情を知ら
ない友人を反発させた。家族が原爆で死んだにもかかわらずG
Iに身を売る島を、友人は﹁あんなんはもう駄目さ﹂と切り捨
てる。自らの身体を商品として外国人男性から支払われる金銭
と交換する島の生き方は、かつて上海で中国人を相手に売春を
していたお清さんの生と死を想起させる。お清さんも﹁日本人
金持ちの一人娘﹂や﹁旧家﹂の者もいた。彼女らやその家族は、
戦中から戦後にかけても一定の生活水準を保つことができてい
た階層だと思われる。そのような階層に属する女性たちにとっ
て、娼婦という存在は遠いものであり、他者的な位相を帯びて
いた。だが、原爆によって生活の基盤を根こそぎ奪い取られた
ることができたのは比較的ゆとりのある家庭であり、中には﹁お
N高女の卒業生やその家族である。当時、娘を女学校に通わせ
他者の声は﹁黄砂﹂と﹁帰る﹂の二篇にも見出すことができ
れている。
る。﹁黄砂﹂は﹃ギヤマンビードロ﹂を構成する十二篇の中で
長崎への原爆投下に触れていない唯一の作品である。日中戦争
開戦を前にした昭和十二年の上海で、﹁私﹂はお清さんという、
中国人を相手に身を売る日本人女性と交流を持つ。やがて抗日
分子の活動が活発になり、﹁私﹂の一家は内地に一時帰国するこ
とを決める。帰国の二日前に、お清さんは﹁私﹂に遊びに来る
よう声をかけるが、その二時間後に首吊り自殺を遂げてしまう。
﹁黄砂﹂については﹁原爆とは直接関係のない作品が、どうし
てここにポンと一つ入ってきたのかということがよくわからな
い﹂(三木卓)という指摘もある。しかし、一見原爆とはなんの
つながりもないように見えるお清さんは、﹁帰る﹂に登場する島
という女性の姿と重なってくるのである。
浦上の旧家出身の島は、﹁私﹂と同じように動員中に被爆して
いる。原爆は島の家族と家を焼き尽くし、生き残ったのは狂気
の父親と島だけだった。島は卒業と同時に長崎から姿を消し、
米兵相手に身を売って父親に仕送りを続けた。十年後、﹁私﹂は
横浜の伊勢佐木町でG Iとともに歩く島に出会う。島は結婚し
てG Iの故郷であるコロラドに帰り、ともに炭坑で働くのだと
語ったが、それ以来、島の消息は不明なままである。
7
6
められている。
境遇を越えて強く結び付く。島は長崎に戻らないまま消息を断
ち、お清さんは上海で死を選ぶ。彼女らの存在をかき消す暴力
本人﹂の性と生殖を脅かす存在として位置づけられる二人の女
性は、彼女たちが置かれていた占領者/被占領者という異なる
捉え直そうとする再審と分有の試みは、当事者と非当事者の双
方に求められている。出来事がもたらす傷はその試みを通して
の他者の体験を含み込んでおり、せめぎ合う語りの実践によっ
て分有の契機を押し開くものである。出来事を想像/創造的に
出来事の体験は当事者にのみ帰せられるものではなく、多く
おわりに
は﹁日本人﹂という共同体の内部において発動されたのである。
﹁私﹂の語りの中に生起してくる中国人避難民、そしてお清さ
同時に、﹁日本人﹂の身体を商品化することを糾弾されるという
言説の構造において、﹁日本人﹂に回収されてきたのである。﹁日
んと島という二人の女性は、﹁日本人﹂という主体が占領者/被
占領者の双方に引き裂かれていること、そのどちらの位置に
大学文学部紀要﹄第四三号、一九八五年三月
(
2
) 平山三男﹁林京子論l │意味としての原爆文学﹂、﹃関東学院
注(
l) 金井景子﹁作家案内ll林京子﹂、林京子﹃祭りの場・ギヤマ
ンビードロ﹄講談社文芸文庫、一九八八年
を生み出す。そのような可能性に希望をかけ、痛みをもたらす
傷とともに生きる道もまた、語り/聞くことの絶えざる実践に
よって切り開かれるのである。
対して決定的に遅れをとっている。しかし、出来事を語る言葉
を聞き取ることは、出来事に対する応答が紡ぎ出される可能性
出来事を語る言葉は、出来事に先立って紡ぎ出されることは
ない。出来事を語る一一吉田葉を開くとき、すでに私たちは出来事に
分有される。傷は出来事の未了性を痛みとして生起させ、出来
事を安易な共感を投影するための物語として領有することを拒
んでいる。
あっても女性身体が過剰に性的な記号として構築され、女性た
ち自身がそれを深く内在化していたことを露呈させている。言
うまでもなく、そのような異性愛的なセクシユアリティの規範
化が徹底されるとき、占領者/被占領者の男性たちはともに自
らの身体が性的なまなざしにさらされることを免れている。
中上が指摘したような﹁甘い涙を流す﹂共感の共同体として
の﹁日本人﹂が存在するとしたら、そのような﹁日本人﹂主体
の内部には、取り込み切れぬ異物として、無数の中国人避難民
や烏やお清さんがつねにすでに沈殿している。﹁日本人﹂とい
う主体を立ち上げる際に抑圧された、主体が取り込むことので
きない他者の回帰によって、﹁日本人﹂という主体の同一性には
亀裂が生じるだろう。体験を語る言葉の中に砂のように沈む他
者の存在と不在、それらのざらつく手触りを感じ取ることが求
7
7
w
) 青木陽子﹁八月九日に収飲される思い 林京子﹃ギヤマン
3
(
ビードロ﹄﹂、﹃民主文学﹄一九九五年六月
(4) 木下順二、高橋英夫、三木卓﹁。未清算の過去。について﹂、
﹁群像﹄一九七八年三月号
(5) 佐佐木幸綱﹁鎮めきれない︿過去﹀﹂、﹁文皐界﹄一九七八年八
月号
) 前掲、金井﹁作家案内││林京子﹂
6
(
) 中上健次、津島佑子、三田誠広、高橋三千綱、高城修三﹁わ
7
(
れらの文学的立場││世代論を超えて││﹂、﹁文事界﹄一九七
八年十月号
) 黒古一夫﹃林京子論││﹁ナガサキ﹂・上海・アメリカ﹄日本
8
(
図書センター、二O O七年、三一 l 一二三頁
トリ lト﹃グラウンド・ゼロを書く││日本文
) ジョン・
9
(
学と原爆﹄水島裕雅、成定葉、野坂昭雄監訳、法政大学出版局、
二O 一O年、限四八頁
(叩)深津謙一郎﹁﹁八月九日﹂の︿亡霊﹀││林京子﹃ギヤマン
ビードロ﹄論﹂、﹃共立女子大文芸学部紀要﹄第五七集、二O 一
一年一月
(日)屋嘉比収﹁沖縄戦、米軍占領史を学びなおす││記憶をいか
に継承するか﹄世織書一一房、二O O九年、三九頁
(ロ)小森陽一は﹃ギヤマンビードロ﹄の中に類型を壊して現実
そのものに向かう力を備えた方法を見出し、同じ場面を取り
上げて次のように指摘している。﹁原爆の爆風は大学の研究室
のコンクリートの墜を二面全部を吹っ飛ばしてしまう威力で
す。そういう類型として、見せられてきた写真の中に、他の誰
も見ょうとしない煙の出ているところを指して、﹁これが、私
の家だ﹂と言う。この転換の瞬間があるんです﹂(井上ひさし、
小森陽一一編著﹃座談会昭和文学史第五巻﹄集英社、二O O四
。
)
年
(日)前掲つ未清算の過去。について﹂
(凶)林京子は﹁長い時間をかけた人間の経験﹂(一九九九年)で、
社会的な階層について以下のように言及している。﹁同級生た
ちのその後は、私も知っている。そして、その生活と心と体の
病いを、一般的な被爆者の戦後として、みてきた。九日を機に、
友人たちが遭遇した人生の転変だけでも、十分に悲惨だった。
が、私が知っているのは、同列にいる娘たちの浮き沈みである。
浮沈の幅も、一定の生活水準の枠内でのことである。階級の
差が当然とされていた戦前の、その落差から脱出できないで、
戦後の半世紀を生きてきた人たちが、現在もいるのではない
か。経済成長にもバブルの流れにも手が届かなかった、人び
とが││﹂(﹁長い時間をかけた人間の経験﹂、﹁林京子全集第
六巻﹄日本図書センター、二O O五年)。
※﹃ギヤマンビードロ﹂の引用は﹁林京子全集 第一巻﹄(日本図書
センター、二O O五年)に拠った。
※本稿は日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費)によ
る研究成果の一部である。
7
8
研究ノー ト
(佐藤)俊子・年譜の隙間
││愛の書簡と文学的動向││
研究動向と新出資料
麻衣子
二000年代には、俊子に関する資料の出版が相次いだ。出版状況の変化と、研究方法のシフトに挟まれ、基礎的な
資料の整備に至れない作家は、何も俊子に限ったことではないであろうが、俊子の場合、﹁田村俊子作品集﹄が研究の活
特に断らない場合﹃田村俊子作品集﹄(全三巻、オリジン出版センター、一九八七i 一九八八年)を使用する)、確かに類例のない
この手紙を、フェミニストは、憤りと無念を抑制しなければ論じられないだろう。
に向けられるのは言うまでもない。俊子は﹁私たちが死んだら二人のこの日記を発表して貰ひませうね。恐らくこんな
恋愛は日本の文撞初まっての事ぢゃない?﹂と日記に記したが(一九一八年七月一一一一一目。俊子の作品、日記、書簡の引用は、
足らぬ人l﹂と数えきれないほど繰り返される甘い言葉は、先行研究が指摘してきた︿愛という拘束﹀の、全くよくで
きたお手本であり、悦は、俊子の思考を堕落と決めつけ、凡庸な詩作を称賛し、俊子の交友関係に嫉妬していちいち問
い詰める、無邪気な暴君であった。ため息は、俊子が彼をあやすふうをしながらも、嬉々としてそれに応えていたこと
紙│平塚らいてう/茅野雅子・粛々/網野菊/田村俊子・鈴木悦/たち﹄(日本女子大学叢書五、翰林書房、ニ O 一O年)で
読 るようになったことは、研究の進展への期待とともに、深いため息を漏らさせるものでもあった。
め
﹁あなたに感謝する。私のあなた、私の美しいあなた、神の与へて下すったあなたl﹂﹁美しい人、愛しても愛しても
鈴木悦が単身パンクlパlに渡り、後から来るはずの田村(佐藤)俊子に宛てた数々の手紙が、﹃阿部次郎をめぐる手
平
田
村
7
9
研究ノー 卜
性化に果たした役割の大きさは計り知れないとはいえ、その収録作品が、発表時期の面でも、官能性を中心とした傾向
の面でも限定されており、不便を強いていた。この間の出版や研究は、それに多くをつけ加えてきた。
俊子の書簡が﹃文学者の手紙︿五﹀近代の女性文学者たち﹄﹃文学者の手紙︿七﹀佐多稲子﹄(ともに日本近代文学館資
料叢書第二期、博文館新社、二 O O七年・ニ O O六年)に収録され、あるいは上海時代の俊子については渡辺澄子氏の精力的
な調査があり、同氏編集の﹃今という時代の田村俊子l│佳子新論﹄(﹃国文学解釈と鑑差別冊、至文堂、二 O O五年七月)
にも多くの成果が集められたことなどは、第一に挙げられる。俊子に関わった人物の方面からも、黒津亜里子氏が﹁田
村俊子と女弟子││新発見の湯浅芳子日記・書簡をめぐって﹂(﹃沖縄国際文学部紀要(国文学篇)﹄一九九一年一一一月)以来、
湯浅芳子研究に取り組まれてきたことは、女性同士の関係性を考える上でも大変重要であり、また﹃高村光太郎新出書
ll
大正期田村松魚宛﹄(間宮厚司編集、田村松魚研究会、笠間書院、ニ O O六年)にも多少は俊子の生活の傍証がある。
簡
冒頭に述べた鈴木悦書簡も、これらに続く大きな進展である。
もっとも、書簡のような、所有が限定された資料にアプローチする興味の一方で、より一般的な資料が活用されてい
ないという現状もある。新聞・雑誌などの電子化による検索の便利さや、索引・目録類の整備により、資料の探索が容
易になったことは、かえって作家の著作目録増補の必要を希薄にしているかもしれない。例えば俊子日記の一九一八年
六月一五日・一七日には、渡加の費用を稼ぐため、短歌の評釈を書いていることが見受けられ、しかし、著作年譜など
では取り上げられないのだが、これは、﹃文章倶楽部﹄一九一八年八月から一一月に連載されていることが容易に確認で
八年二一月に中国へ向かうまでの期間も、すでに池田利夫編﹃雑誌﹃むらさき﹄戦前版・戦後版総目次と執筆者索引﹄
きる。また、文学的な活動の少ないカナダ・アメリカ時代には限界はあるとはいえ、一九三六年三月に帰国し、一九三
(武蔵野書院、一九九三年)といった総目次や、﹃婦人運動﹄(不二出版、一九九0 1一九九一年)、﹃人民文庫﹄(不二出版、一
九九六年)などの復刻版によって、俊子の掲載がわかり、その動向や人的つながりについても推測することができるよう
になっている。
だが、俊子研究のまとまりとしては、あまり認識・活用されておらず、資料閲覧の一般的な利便化と、ある枠組みに
沿った整理の蓄積が同伴していないといえる。作家研究が文化研究に席を譲ったからとも考えにくい。それについて議
論を尽くしたからというよりも、蓄積・分類の技術がなし崩し的に後退したのではないかと思えるのは、俊子の限定さ
8
0
研究ノー ト
れた作品についての研究が、ニ疋量生産され続けているからである。当然過ぎて言うのがためらわれるが、当面、俊子
研究に関する課題は二つある。一つには、資料の発掘と整理がさらに進められるべきことである。二つ目は、これらの
資料、特に書簡など、作家の私生活への興味をダイレクトに表明しにくい研究状況から別置されている感のあるものを、
文化状況の分析の中に位置づけるということである。
一つ目について、あまり使われない俊子の文章をいくつか紹介すると、例えば、渡加の直前に発表された﹁閣の中に﹂
がある。﹃田村俊子作品集﹄年譜では、﹁破壊する前﹂(﹃大観﹄一九一八年九月)を最後に、﹁﹃三田文学﹄掲載予定の﹁閣
の中﹂は完成しなかった﹂とされているが、﹃中外新論﹄一九一八年一 O月号に掲載されたものである。四十年生きてき
た富士の、嫁に来てから﹁つるや﹂旅館を大きくしてきた自負と共に、一方では発展ということを知らない夫ゃ、山師
らしい義弟、ホテル経営の困難に向かい、もう何もする気にならない弛緩を描いたものである。つるやに縁のある青年
が、その寂しい性質と美しい空想を保って一人身でいるのに心を寄せ、息子だと考えようとし、あるいは旅館を手放し
て夫に慰籍を求めようとするなど、安息を得ょうとしながら、旅館に戻るところで物語は終わっている。渡加前の最後
の作品であり、動向の把握に欠かせないであろう(後述)。
帰国後の時期では、﹃日本読書新聞﹄一九三七年二一月五日﹁婦人の因循性﹂、二五日﹁或るプログラム﹂、一九三八年
一月五日﹁小春日和﹂(﹃むらさき﹄掲載の﹁豪容な日光﹂の転載)、二五日﹁銘仙を着せたところで﹂のようなエッセイ、﹁佐
藤俊子嘉悦孝対談会(その二)﹂(﹃婦人﹄婦人社、一九三八年九月。﹁そのこは未見)の他、小説にも﹁西班牙踊り﹂(﹃週
刊朝日﹄一九三人年一 O月二日、九日、二ハ目、二三日)がある。ストーリーを紹介すると、西班牙踊りのダンサー・銀子は、
かつて母の男に探聞された不幸な過去を持つが、彼女の踊りを愛する村尾と出会い、初めて純愛を感じる。銀子を一人
占めしないと気が済まない村尾のために、観客の前に立つこともやめてしまうが、村尾にはすぐ別の女ができ、愛情の
渇えと生活の困窮に悩む。村尾と別れ、もう一度ダンサーとして立とうと決心した銀子だが、村尾からの接触で気持ち
が揺れ動く。銀子がようやく村尾と会うことを決心した頃、行き詰った村尾は、第三の女性と心中していた。
通俗的な展開であるが、俊子の境遇を初御とさせるだけでなく、銀子と村尾の姉との女性同士の同情や、母の現在の
若い恋人への愛ともつかない淡い思いなど、大正期の俊子におなじみのモチーフもある。松坂屋の P R誌﹃新装﹄(一九
三五年創刊)の一九三八年一月号に寄せた﹁三枚襲ね﹂と共に、渡加以前からのこだわりや興味に続くものであろう。こ
8
1
研究ノー 卜
の時期の作品としては、近年のポストコロニアル研究的興味から﹁カリホルニヤ物語﹂﹁侮蔑﹂などが注目されているが、
以前とは文体の変化が著しいことを考えても、合わせて考察するべきである。資料の発掘・分類が、基礎的な作業であ
るだけではなく、作家研究という枠組み自体の再編をはらんだ思考方法である以上、既知の作品に、研究の流行りに従っ
た話題を見出すだけでなく、広がりを確保することは必要である。
その意味で次に、二つ自の課題の一例として、渡加直前の俊子について再考してみたい。この時期には、書簡が、単
にプライベートを意味しないという文学状況があり、点々と存在する資料を、人生の瑛末な一エピソード以上に意味づ
けられるかもしれないからである。
私的な書きものの小説化││﹁青轄﹄ に ふ れ て
俊子は、悦がパンクlパlに渡り、一人東京に残っている問、﹁岡田八千代氏に﹂(﹃読売新聞﹄一九一八年五月二六日)
で、かつて親しかった八千代の﹁紙人形﹂(﹃読売新聞﹄同年五月一九日)に対し、怒りをあらわにした。俊子は、経済の足
しにするために、趣味の紙人形を作って売っていたが、八千代が自分を主人公として事実と異なることを書いた、とい
うのである。八千代の反論は、当然、虚構の小説に何を怒るのだ、というものであった(﹁俊子さんに﹂﹃読売新聞﹄同年六
)0
月二日)。俊子が訂正しなければならなかったのは、﹁紙人形﹂にはたった一行だが、語り手﹁わたし﹂と、俊子を訪併と
させる友人が、同じ男性と関係を持ったかのような記述があるからであろう。田村松魚は別れた俊子との生活を暴露的
に描いた﹁歩んで来た道﹂で、俊子と八千代(作中では豊子と八百枝)が争って中村吉右衛門を買ったと書いたばかりで
あった(﹃やまと新聞﹄一九一八年五月五日・六日
鈴木悦が六月一一一一日に書いた書簡には(以後引用は、﹃阿部次郎をめぐる手紙﹄)、自分のパンクlパ1での観劇にことよ
せて、芸術的鑑賞と、俳優に熱を上げる低級な愉しみ方の違いを戒めてあり、その後、文脈は続かぬながら、﹁紙人形﹂
に関連して八千代を庇める発言がある。悦の生真面目な芸術観は、個人的感情と無縁ではなく、嫉妬に隣接しているこ
とが窺えるが、俊子は悦の手前も、過去の生活との決別を表明しなくてはならなかったのであろう。
ただしこれは、一般化されがちな男女の愛の問題とばかりはいえない。﹁微弱な権力﹂が、新時代の文学の顔をしてい
るところに、作家として抗えない影響力があった。悦の書簡から窺えるのは、俊子の八千代への批判の発表、つまり作
8
2
研究ノー 卜
おいても、題材が遊惰でも作家の態度が観照的ならよいという意見は、現状に満足するものとして淘汰されたが、阿部
家自身の態度表明を勧める彼の論理が、同時に作家の行動内容の道徳的高さをも求めるものであったことである。俊子
も批判の射程内だと言ってもよい赤木桁平﹁﹃遊務文学﹄の撲滅﹂(﹃読売新聞﹄一九一六年八月六日、入日)と一連の論争に
次郎に私淑し、小山内薫や長田幹彦を批判する悦は、赤木桁平のような新世代の傾向を持っていたのである。これまで
俊子は、演劇をめぐる三角関係や複雑な感情を創作に転じて来たが、文学界で継続的に位置を確保しようとするほど、
作品において作家自身の人格的向上を表白する新傾向に乗り換えなければならなかったのであろう。
加えて、﹁紙人形﹂の三角関係が、俊子にあたる人物の手紙の引用という体裁で書かれていたことが、俊子の、読者の
誤解への危倶を強めていると思われる。その点、このやりとりで小説が実物と取り違えられるのは、思ったより単純で
ない前提がある。例えば、すでに終刊してしばらく経つが、俊子と八千代の交友の舞台になった﹃青結﹄(一九二年九月
創刊)を参照項とすれば、その終わりごろ、自分の実体験を書くことは、女性の受難を訴えることを超えて、既に書き方
をめぐる強固な規範となっていた。そしてその場合、自分の手紙のみならず、自分への来信をも直接引用したものは多
く、おのれの解釈を通して語るより引用する方が、その時々の相手の心情を尊重した誠実な態度として捉えられていた
ふしがある(例えば伊藤野枝の﹁動揺﹂三巻八号や生田花世﹁得たる﹃いのち﹄﹂四巻五号)。そして自分の体験を書く際、具
体的な﹃青緒﹄同人に宛てた手紙の形態や、一人称の﹁感想﹂でのみ書かれるわけではなく、﹃青緒﹄の終刊ごろでは、
いくつかの理由によって、むしろ(書き手本人とおぼしき女性だけに焦点化した)三人称の小説体のものも増えていた。
理由の一つには、事実を書けばこそ、登場人物を虚構の名前にすることやイニシャルで語ることが、書き手のペンネー
され、ペンネームにもかかわらず、本人は﹁本統の事﹂を書くための再出発と位置づけていた(岡田人千代﹁伊達虫子の
ム使用と共に、許容されていたことが挙げられる。それは、例えば柴田かよ﹁美濃より﹂(三巻九号)が、周囲への気兼
ねから﹃青糖﹄には書けないことを詫びるように、新しい女がパッシングを受ける中で、執筆の自由を確保するためで
もあった。八千代についていえば、一九一四年四月の﹃青緒﹄﹁編集室より﹂で、﹁伊達虫子﹂に名を変えたことが報告
御紹介﹂﹃番紅花﹄一九一四年四月。﹁虫子﹂の署名は、一九一四年六月ごろまでに限られる)。
二つには、虫子の名で出した﹁お前の日記﹂(四巻五号)が、日記をつける自らを﹁お前﹂と呼ぴ、また﹁俊子さんに﹂
では、﹁紙人形﹂が虚構である証拠として引用した自分の日記が、﹁彼女﹂を主語にして書かれているように、自らの実
8
3
研究ノー ト
体験でも文章上の主体を意識しようとする要求がある。
そして第三に、一人称による自己語りが、訴える相手に対して対立的主体を立ちあげるための仮構性を持つことが自
覚され、自分なりの事実をさらに追求するために、むしろ三人称などの別の形態に目が向けられたことも挙げられる。
﹃青緒﹄では三巻ごろから平塚らいでうや伊藤野枝が、外部との論争や対立を通し、小説を拒否した一人称を強調して、
﹃青鞘﹂や︿女性﹀の立場を代表していくが、後半の﹃青鞘﹄では、世代的にはらいてうの先輩であれ後輩であれ、自
らの体験の執筆には、﹁婦人問題とかなんとかいふような有益なことでもない﹂(奈々子(長谷川時雨)﹁石のをんな﹂五巻五
号)というように、中心メンバーが推進する代表性への違和感が表れていることも多く、三人称の小説形式の増加は、そ
の傾向と歩調を合わせた新たな形式の模索となっているようなのである。つまり、小説という領域から排除され、散文
や手紙や日記といった二流の位置を自らも引き受けて来た女性が、異なるル lトを通ってであるが、小説で自分を告白
するという、男性には既に浸透した作法に行きついたことで、俊子は新たに、小説中に引用された手紙が実物と見なさ
れることを恐れなければならなかった。
それまでの俊子は、小説を直接自分の見た事実として提示する方法をとっていない。多くは創作度の高い主人公を三
人称で描き、男性の作中人物への内的焦点化も顕著である。女性の立場は相対的に捉えられることも多いのである。む
ろん、自己語りはある。例えば、八千代と親しくしていた頃の俊子の八千代宛て書簡には、封筒を欠き年月日が確定で
きない抗、煩悶を長文に記したものがある(日本近代文学館所蔵、所蔵番号、
Hoggg。自らを﹁虫太郎﹂と呼び、母親や
m(松魚の本名・昌新か)の板挟みの感情を綴ったやり方は、八千代が﹁虫子﹂と名乗り、あるいは自らの体験とも受け
とれる作品を発表したこと(﹁初恋のなりゆき﹂﹃背締﹄五巻八号1六巻二号)との相関も考えられる。鉛筆の走り書きのよ
うなこの文章には、内容的な混乱もあるものの、その点で一層、﹃青鞘﹄後期の書き手たちが、混乱もそのままに記した
書き方との類似も見られ、青鞍社の原稿用紙を使用していることからも、このまま﹁青鞘﹄に掲載されていても不思議
でないような一文である。しかし、実際にはこれは、他の同人と違い、私的な書簡にのみとどまった。そのような切り
分けを行ったからこそ、俊子は﹃青鞘﹄の若い世代からは旧世代として区別され、同時に﹃青鞘﹄以外の幅広い雑誌で
承認されていたともいえるのである。その俊子が、渡加直前にエッセイや詩のみを発表し、半分は戯れでも書簡(日記)
の公開を考え、小説においても事実を語るべきと述べるのは、よく言われる創作力の枯渇というよりは、以上の複合的
4
8
研究ノー ト
な動向への対応である。そしてそれゆえに、男性と女性の不均衡な関係は、それとして認識されない。
渡加直前の闇
悦は書簡で、俊子の日記(俊子日記は、手紙に封入して悦に送られたものである)の﹁私は過去なんか書き度くない﹂、﹁漸
悔すべきものを一とつも持たない。私が一層善良に一層美しく、一一層真実に生きると云ふ事を獲得しただけ﹂(一九一八
年六月一一一一日)という部分について、﹁危険﹂な﹁自己弁護﹂であるとし、また彼女が、﹁無邪気な遊戯﹂が過去を﹁飾っ
てゐる﹂と肯定的に表現したことを悔恨がないと厳しく糾弾している(一九一八年七月一九日執筆分)。
現在が美しくなるのは、徹底的な過去の悔恨と破壊によってのみであるという、大正的﹁思考の登山﹂は、自らの恋
愛の絶対性を引き連れている。悦は、﹁あなたは、此の恋が、あなたを﹁一層よくした﹂と云ふ、それなら他に又﹁専ら
にあなたを一層よくする﹂恋が生じることを予想させるやうに私は思ふ﹂と言う(問七月一九日)。もし俊子の段階的な
成長を許すのなら、自らも階梯の一つにすぎなくなってしまう。すべて否定される過去(の男性)と、肯定される現在と
のこ項だけからなる認識が、許容される人間的成長なのである。俊子は、この悦の助言を受けて﹁破壊する前﹂を書い
た
そして、このように見て来た場合、﹁破壊する前﹂は、主人公の心情以上に、叙法の不整合に改めて注呂すべきであろ
う。結末に近く、﹁何うして人生がこんなに優しく美しいものにみえるのだらう﹂以下、語り手の語りとゆるやかにつな
がる道子の思念が、唐突に彼女の書いたものであると示される部分がある。おそらく、新動向への叙法的折衝を示す痕
跡ととらえてもいいであろう。そもそも﹁破壊する前﹂では、主人公の道子は、男性の Rに導かれるようにして、 Fと
呼ばれる夫との生活と、これまでのすさんだ芸術を﹁否定﹂し、﹁ほんとにい、生活をしたい﹂と考えるに至るものの、
Rとのやりとり自体も過去の回想になっている。つまり、悦の過去/現在の認識と異なり、作中の道子にとっては、彼
女がもともと持っていた幼時の﹁愛らしい心と無垢な感情﹂への回帰が、 Rとの恋を夢のような別世界にしつらえる装
置となっているのである。 F への﹁骨肉﹂の愛で物語が閉じられるのも、新たな目覚めが、 F への怨恨を美しい感情に
変えたのに他ならない。確かに﹁断悔﹂すべき﹁過去﹂はない。
すると、同時期の﹁閤の中に﹂も、過去の否定や﹁簡﹂としての現状認識など、﹁破壊する前﹂とモチーフの共通点を
8
5
研究ノー ト
持つが、それ以上に、主人公がこれまでの仕事に粉持も持ち、最後は夫との生活にとりあえず帰るという、反動と見え
る点すら、むしろ﹁破壊する前﹂との連続性において捉えられる。そしてここからは、過去を間違っていたとする主人
公の認識は描けても、それがどのように良くなるのかについては、具体的に展開しにくかったのではないかと推測され
る。それは、﹁ぃ、生活﹂の内容ではなく、否定/肯定の運動のみによって価値が決定される悦の論理がもともとはらん
でいる問題でもあるし、時間の漸層的流れを前提とする小説が、思念の切断的否定そのものの描出には不向きであると
いう理由もあろう。
﹁破壊する前﹂の結末では、美しい思念への突然の飛躍は、道子の作品ともプライベートとも判断できない書きものの
開示という、異なる位相によって実現され、また、それが完結せず、書きつつある現在の持続として一不されることで、
一定の解決が図られている。ただし、これが、テクストによって俊子自身の位置を演出するパフォーマンスととらえら
れるとすれば、自己の見せ方に気をとられている点で、要求されている︿高潔な態度﹀ではないことになる。新動向へ
の折衝は、まだ過程であり、この潮流に乗れない前に、俊子の創作は中断されてしまう。追跡もここで断念せざるを得
ない。とはいえ、書きつつある私を書く、という方法の萌芽には、態度の誠実さを重視する変化が見てとれ、﹃青緒﹄後
期の書き手たちとの類似とともに、次世代にようやく(雑文家でも逐動家でもなく)女性作家が認知される場合の枠組み
の変化をみることも可能であろう。その意味で、俊子が小説形式に執着し続けたことへの着目は必要である。この帰結
については、別に論じなければならない。女性の営為と彼女たちに用意された舞台の解明のためにも、資料へのこだわ
りがさらに必要なのではないかと考える。
注(
1) ﹃週刊朝日﹄には、一九三九年一月八日号にも、モルガンお雪について書いたニュース小説﹁お雪さん﹂がある。
(
2
) 論争については、中山昭彦つ遊蕩文学撲滅論争。の問題系﹂(﹃日本文学﹄二 000年一一月)を参照した。
(
3
) 徳永夏子﹁﹃青鞘﹄における主体の仮構││小説をめぐる形式と応答性││﹂(日本近代文学会二 O 一一年度春季大会二日
自発表)で言及された。
(4) イニシャルについては五巻七号の浜野雪﹁真実の心より﹂や五巻三号の有国勢伊﹁ AとK子﹂。ペンネームについては、山
ノ井みね子や、千原代志が五巻六号で﹁さくら子﹂と名乗ることなど。
6
8
研究ノー 卜
) 拙著﹃女が女を演じる﹄(新曜社、二O O八年)第四章・第五章に記した。
5
(
) この時期の書簡体と小説の関係については、山口直孝﹃﹁私﹂を語る小説の誕生│近松秋江・志賀直哉の出発期﹄(翰林書
6
(
二O 一一年)第二章にくわしい。
、
房
一
一
) 近代文学館所蔵の岡田八千代宛て書簡は、一九一二年から一九一五年を中心としているので、同時期とは推測できる。
7
(
) 注(2) に同じ。
8
(
) 再ぴ﹃育絡﹄の後期において、時間の流れをわざとぶつ切りにするような雑文が増加し、それが小説にも流入し、時制が
9
(
混乱したもの、または永遠の現在が持続するかのようなもの、いずれも時間の図果的遠近法を逸脱した小説が現れることと
も対応しよう。
*資料の閲覧に関して、日本近代文学館に対し謝意を記したい。
望
健在です、 フェミニズム/ジェンダ l の研究
満
子
集中的に出ているので、﹁展望﹂欄になにか書くようにとの編集
委員会からのおすすめである。大いに迷ったのち、自身の立ち
き手が含まれているけれども、黙過できない存在感であろう。
今年三月、これまでフェミニズムの旗手であり続けた上野千
ると相当賑やかになる。
鶴子は、定年前にアカデミズムを去って社会活動の場へ転身し、
エッセイ集﹃不惑のフェミニズム﹄(岩波文庫)を出した。序文
にいわく、第二派フェミニズムは四O年を迎え、﹁不惑﹂の﹁成
--2
日本近代文学の研究者としてフェミニズムに関心をもってきた
ら、次世代の﹁あなたにバトンを受けとってもらいたい﹂と。
く、﹁フェミニズムはまだまだわくわく育ちつづけるだろう﹂か
熟期﹂に入ったかに見えるかもしれないが、実態はそれより若
どれも先年末から今年初めにかけて出版された共編著形式の
恩文閤出版)
論文集である。原則的に共編著論文集は本学会機関誌の書評対
(2OIl-2 翰林書房)
・増田裕美子・佐伯順子編﹃日本文学の﹁女性性﹂﹄ (2ol
・﹁新しい女﹂研究会編﹃﹃青締﹄と世界の﹁新しい女﹂たち﹄
U 翰林書一一房)
あげられていたのはつぎの三冊である。
-新フェミニズム批評の会編﹃大正女性文学論﹄ (2010・
しかもこの二、三年くらいの聞には、ジエンダ lに関係した他
の論文集や単著も一 O冊くらいはあるはずで、これらを合わせ
このところフェミニズム/ジエンダlの視点による研究書が
種
象にはなりにくいのだろうが、それでも三冊を合わせると執筆
者総数は延べ五五人となり、ここには近代文学会会員以外の書
江
位置を確認し直すために勉強する機会と考え、引き受けること
にした。
展
・
-
8
7
8
8
私も、同じ思いを抱いている。
だがここまでのフェミニズムの道のりは平坦ではなかった。
、
﹁
ノ
。
**
しては四冊目にあたり、三二人による同数の論考を収める。私
はこの会の会員であり、このたびの本の編者としても末端につ
﹃大正女性文学論﹄は新フェミニズム批評の会による論集と
(1999) が成立し、﹁ジエンダl論﹂も官許の研究領域とし
らなり、三年間を超える研究会の実態や本の企画出版時の経緯
も知る内輪の立場にあった。本欄の担当にあたっては可能な限
り客観性を保つよう心がけたい。
研究会では、男性作家の仕事についても、里見穿や佐藤春夫、
芥川龍之介などの女性表象に関する発表があったが、本の企画
た菅聡子は、八面六管の奮闘ぶりでジエンダ l研究の灯火を激
しく燃やした。もちろん、最初に上げた三つの論文集を生んだ
ロンティア﹂ (2003i2008)を採択され、国内外に向けて
活発な活動を展開した功績も大きい。プログラムの一角を担っ
評がごく初期に着手した領域だが、実現するには共同研究の取
り組みが求められる困難さもあって、少なくとも日本ではいま
こなって文学史に適正な位置を回復することを図る、という遠
大なねらいであった。この種の研究は、世界のフェミニズム批
たとおり、これまでの文学史が男性によって書かれ、ために女
性作家の仕事に配慮が届かず、多くの女性文学が過小に評価さ
れてきたとの認識により、女性作家の仕事の発掘と再評価をお
段階で先行の﹃明治女性文学論﹄との連続性を配慮し、女性作
家に対象を限定した経緯がある。企画の趣旨は、序文に書かれ
このような歴史を経てフェミニズム/ジエンダ l研究の今日
の健在ぶりはある。
なるものと女性文学なるものをクロスさせる研究が行われなけ
ればなるまい。
各研究会もまた、城西国際大学やお茶の水女子大学などと直接
的間接的に接点をもって連携していた。
以下では編集委員会から提示された三つの論文集を順次紹介
し、現況の彼方にすこしでも目を向けることができるならと願
だに十分に進捗しているとは言い難い。ただし、ほんとうに文
学史の修正を目指すのであれば、将来的にはいわゆる男性文学
づよい運営などである。けれども個人的な実感としては、お茶
の水女子大学が幻世紀C O Eプログラム﹁ジエンダl研究のフ
女性学で博士課程を持つ城西国際大学はじめ各大学の担当者の
活動ゃ、 NPO現代女性文化研究所のような民間の機関の粘り
性の流行にすぎなかったとの声も時には聞いた。
そんな時期を近代文学研究の世界で持ちこたえさせたのは、
て認知されると、逆に社会的なパックラッシュが多発するよう
になった。わが日本近代文学研究界でも、フェミニズムは一過
一九九0年代後半からウーマン・リブやフェミニズムの創始者
たちがいっせいに総括モ 1ドに入り、男女共同参画社会基本法
*
9
8
7)。西川は、本書の七部構成による大部な全容に見通しを立
本書に対しては、フェミニズムの先駆者西川祐子によって、
紙背に届く書評がすでに発表されている(﹃日本文学﹄ 2011・
ょうとしている。個々の論考をつぶさに読むと、地道な資料の
収集による実証にもとづき、洞察を効かせた読みを立ち上げ、
まず最初に、章をまたいで点在する三つの歌人論がある。遠
藤郁子﹁原因琴子短歌論│つばさを持つ︿少女﹀﹂、沼田真理﹁一ニケ
たし。
女性作家たちの仕事を文学史に魁らせようとする意志をはたら
かせていることがわかる。以下では、西川の書評となるべく重
複しないように、また次世代への研究の継承を期して、若い書
き手を中心に、時にはその仕事の細部まで入ってみることにし
てるため、﹁強制的異性愛制度と日本型近代家族﹂をめぐる女性
たちの葛藤という補助線を引き、全体を、葛藤の諸相、葛藤か
ら﹁転機﹂への踏み出し、そして社会的な視点の獲得と脱出、
さいごに外部(アメリカ、植民地朝鮮、満州)からの視点をもって
する日本という国の文化の対象化へと、大きなストーリーに仕
立てて理解に供している。とくに﹁転機﹂以後の社会化と国際
化を問、つ第羽、四部に対するコメントでは、時代区分や﹁女性
文学﹂概念の再検討を今後の課題として促しており、有益であ
ちなみに、今からちょうど一世紀前に米国留学から帰国した
有島武郎は、これから始まる二O世紀の課題が﹁労働問題と婦
人問題と小児問題﹂だと繰り返し発言した。これら三つは、明
治末から大正期に及ぶ日本の資本主義社会化を基層で支えた近
る称賛が男性好みに偏し、じっさいはもっと醒めた主題と技法
を保持していた点を見落としていたと指摘。一時は与謝野日間子
に迫る人気を得ながら忘れられて久しい琴子が、地方の小旅館
の女将となっても続けた歌は、アララギ全盛期にもかかわらず
派の支配的な言説に抗して独自の歌境を闘いていく経緯を解明
している。
遠藤は、原因琴子の初期短歌について、当時の男性評者によ
島慶子論│月を生き、われを詠う﹂、小林とし子﹁九傑武子の挑
戦よ具実の我を求めて﹂。これらは、﹁アララギ﹄対﹃明星(第二
期)﹄及、び﹃心の花﹂が競り合う大正歌壇に身を置いた三人の女
性歌人が、それぞれに異なる生活環境を直視する中で、歌壇各
代家族の構成者│家庭における父・妻母・次世代の子供│を意
味し、それぞれの立場からそれぞれの人権問題が発生したこと
を指している。閉じ時、文壇を含む論壇は武者小路実篤を突出
例とする﹁自己本位﹂の思潮に染められ、やがて政治思想とし
出発期からの﹁好情表現﹂を棄てず、﹁詠う主体としての自己へ
の懐疑を﹂主題化して成熟していく点に、のちに折口が女性歌
人に要請するところとなる﹁女歌﹂につながる歌の精神が認め
。
る
ての民本主義が唱道され、支持を得るようになる。
このような大正期の空気のなかで生きる女性たちの姿を女性
作家たちはどのように表象したのか、本書の論考は明らかにし
9
0
られると、位置づける。沼田は、アララギの男性評者でさえ目
を背けたリアルすぎる題材 H夫の暴力をなぜ一一一ヶ島霞子は執効
に詠いつづけたのかと問い、﹁稜子はただ堪えるだけでなく、決
然と詠みあげ、自己の︿女の苦悩﹀を社会化させ﹂ることをと
おして、﹁多くの女が経た苦悩﹂に言葉 H解放をもたらそうとし
たからだ、と応える。最晩年には、らいてうの太陽に対抗する
かのように、月の青白い澄明さを帯びて、アララギにとらわれ
ない象徴的な歌境に達したと評し、﹁青鞘﹄グループにおいて、
また写実と行情の対立する歌壇の体制においても、独自の位置
づけを図ろうとする。小林は、西本願寺のお姫さまゆえの不如
意な結婚に翻弄された九僚武子が、﹁本当の吾﹂をアイデンティ
ティの追及として主題化したこと、その作歌技法に対して歌壇
の大御所与謝野品子が加えた批判に抗し、﹁歌い上げる﹂のでは
なく﹁自分の思いを心理過程そのままに表﹂す﹁口語文脈﹂に
こだわった作歌精神を、後世の新しい短歌観に繋いで、評価す
る
。
らかに﹃或る女﹄も)サブテクストとしてちりばめてはいるが、
男性作家たちがヒロインを最終的には処罰するのに対して、自
由を求めてやまない遅しい女性として描き、未亡人の解放を志
向するテクストに仕組んでいると読む。近藤華子の﹁岡本かの
子﹃夫人と画家﹄│青い絵の相克﹂もまた、中心人物の設定は
準未亡人と見なすことができよう。これまで失敗作として顧み
られなかったこの戯曲作品の女性表象に、白樺派が展開した絵
画論を夫人の個性の中核に読み取ることによって、沈黙のうち
にも男を怯えさせる強い自負を秘めた女性を描いた作品とし
て、かの子文学の一連の系譜の中に正当な位置を探っている。
メジャー作家の宮本百合子には、これまで多くの百合子研究
者が公式に明言することを避けてきた湯浅芳子とのレズピア
ン・ラプの問題があるが、北田幸恵は、﹁宮本百合子の﹁セクシユ
アリティLと﹁文学L││﹁伸子﹄時代の湯浅芳子との往復書
簡を読む﹂にいたって、ようやくにして二人の愛を﹁レズピア
ン﹂という三言葉を使って明記した。ただし、レズピアンの定義
においては、それは﹁生まれながらの特性﹂ではなく、また異
ここまでは強い個性の女性像を描いたテクストを扱う論考を
見てきたが、大正期の女性文学の中には、このほかに、家庭内
つづいて女性の書く未亡人を論じたものも岡本かの子論を含
めると三本ある。羽矢みずき﹁深尾須磨子論l 解放された性の
表象﹂、矢津美佐紀﹁三宅やす子﹃奔流﹄論│﹁未亡人﹂からの
脱出﹂は、夫の死によって妻役割から自由になったはずの未亡
人に対する社会の監視、それに対する未亡人たちの抵抗、そし
の妻母たちの微妙に危うい立場を、彼女たちの自己抑制的な心
のはたらきをとおして見つめる領域がある。夫や子供との関係
性愛と同性愛にはあらかじめ裁然たる境界はないと、セクシユ
アリティ構築論によって釘を刺している。
て解放への曲折ある道のりを、二人の未亡人作家のテクストに
追う。矢調停は三宅の﹃奔流﹄が、男性作家の﹃真珠夫人﹄を(明
1
9
性を生きる主婦や妻の日常の振る舞いから掘り起こされるジエ
ンダ l化された生活空間、男性作家たちは書かなかった、とい
うよりも書けなかった世界である。中島佐和子﹁鷹野つぎ・︿作
家﹀のまなざし│﹁悲しき配分﹂を中心にして﹂、伊原美好﹁﹁神
楽坂の半襟﹂から見えてくるもの﹂はそんな女性作家の認知を
****
要求している。
さいごに藤田和美﹁砂川捨丸﹃金色夜叉﹄﹃男女同権﹂におけ
るパロディとジェンダ 1﹂は、漫才という大衆芸能に取材し、
古いレコードを聞き比べて文字起こしをし解析するというオー
ソドックスな実証研究を徹底し、ジエンダ l研究の新生面を拓
いている。
﹁新しい女﹂研究会編﹁﹃青鞍﹄と世界の﹁新しい女﹂たち﹂
は、日本女子大学総合研究所の研究プロジェクトに集った研究
員による一四本(延べ一四人)の論考を収める。そのうち四人が
前述の﹃大正女性文学論﹄の執筆者を兼ねている。
研究会を代表した岩淵宏子が二つの観点から適切に要約した
趣旨には、﹁草創期の日本女子大学校の教育が、本学同窓生であ
る﹃青騎﹄社員や﹃青緒﹄運動にどのような影響を与えたのか﹂、
﹁世界の﹃新しい女﹄たちの動向や特性が、日本の﹃新しい女﹄
たちにどのような影響を与えたのか﹂、と二つのねらいがあげ
である。
すべての論考を読んで、未知の情報をたくさん得ることがで
きた。渡辺麻美﹁﹃青鞘﹄とブルl・ストッキング﹂は、﹁ブルl・
ストッキング﹂という呼称の本場イギリスでの由来に始まり、
日本の﹃青緒﹂誕生以前にはどのような意味づけで移入され、
そして変遷を辿ったのか、綴密な追跡をおこなう。そのうえで、
﹁﹃青緒﹄はブル l ・ストッキングの支流でも亜流でもな﹂く、
正当な評価のし直しを要すると主張し、説得力がある。
鬼頭七美﹁リベラル・ア l ツとしての家政学│﹃青緒﹂を育
む場﹂は、日本女子大学校の創設者成瀬仁蔵がアメリカの複数
の女子大学を視察してカリキュラムをアレンジし、同校のカリ
キュラムができあがる過程を詳細に調査している。そのカリ
キュラムは﹃青鯖﹄参加者たちが受けたものとなるが、﹁専門的
で幅が広く、水準の高い教育を、高等教育として敢行しようと
していた﹂と高く評価。つづけて、成瀬が掲げた﹁良妻賢母﹂
という言葉をめぐり、﹁アメリカのジエンダ l観を示す﹁女性の
.曲者Z5) という謹巴を﹁日本語の﹁良妻賢
B
B
O
q
d
真の領域﹂ (
母﹂という語を以て説明に変えてきた﹂と﹁推測﹂し、﹁翻訳に
伴う意味のズレ﹂によってこの言葉に対する﹁誤解﹂が生じた
という。このスリリングな指摘にはあとで触れたい。菅井かを
る﹁日本女子大学校と演劇│林千歳の軌跡を手がかりにして﹂
は、﹁世に文芸に対する弊害が懸念されるなか、敢えて文芸をカ
リキュラムに組み込んだ日本女子大学校に学んだことは、女優
や劇作家を志す女性たちを育む土壌となったといえるのではな
いだろうか﹂と結論づけ、橋本のぞみ﹁﹃新しい女﹂の平和思想
9
2
-斎賀琴に見る富田備、成瀬仁蔵の影響﹂は、富田と成瀬の平
和教育が﹃青鞘﹄唯一の反戦小説である斎賀琴の﹁﹁戦禍﹂の誕
生にいかに影響を与えたかは想像に難くない﹂と結論づける。
溝部優美子﹁﹃青鞘﹄草創期を支えた日本女子大学校卒業生│﹃家
事(らいてう﹁世の婦人たちに﹂﹃青締﹄ 1913・4)を想起する
なら、そのとき二人は﹁良妻賢母﹂という一つの日本語をめぐっ
て意味をズラしたままで論争していたことになるのだろうか。
究よりも﹃青締﹄の参加者を輩出した日本女子大学校の教育を
顕彰することに主限があるのであれば、このような﹃青絡﹄サ
イドからの違和感を述べること自体が、見当違いかもしれない。
しかし、佐々井啓﹁﹁新しい女﹂の服飾│らいてうの装いとモ
そのあたりまで視野に入れた検証を聞けるとありがたい。
もっとも、岩淵が序に述べていたように、本書が﹃青鞘﹄研
これらの日本文学分野の執筆者は、日本女子大学校の卒業生
が同人として多く参加した﹃青鞘﹄の諸々の言説につき、日本
ダンガ lル﹂以下の、イギリス、フランス、アメリカの﹁新し
い女﹂をめぐる五つの論考は、日本女子大学校の教育理念への
関係づけから自由に各国の状況を書いていて、専門外の者は啓
庭週報﹄にみる︿潜在力﹀﹂は、校長成瀬の提唱で始められた同
窓会機関紙﹃家庭週報﹄が﹃青緒﹄誕生の磁場となり潜在カと
なったとする。
女子大学校にかかわるデlタを各方面から収集したうえで、結
論において日本女子大学校創立者成瀬の教育理念の先見性や誠
実さの功績へと回収する傾向を徐々に強める風である。小林美
式発言にもまして時代や社会とともに生きる人びとの姿を濃密
に表象する事実はいまや自明であり、ますますこのような多領
域にわたる共同研究の意義は高まるにちがいない。
三人が発表し、本書には九人による九本の論考が収められる。
うち一人は﹃大正女性文学論﹄にも参加している。メンバーの
舎大学東アジア学術総合研究所の共同研究プロジェクトの研究
成果である。三年間に六回のワークショップが関かれ、延べ一
増田裕美子・佐伯順子編﹃日本文学の﹁女性性﹂﹄は、二松学
****
蒙されるところが多かった。これからの文学研究において、人
びとの日常生活の衣・食・住のいとなみが、公的な場面での公
恵子﹁日本女子大学校が生んだもう一つの﹁新しい女﹂たち│
小橋三四と﹃青鞘﹄内外の合流﹂の結論はその典型ではなかろ
うか。﹁官一丹精﹂と小橋三四による学内誌﹁家庭週報﹄が合流して
日本の女性解放運動に向ったことは、﹁創立者成瀬仁蔵の教育
理念をみごとに結実させた成果といってよいだろう﹂と総括す
るが、ここには第一波フェミニズム時代の、実践としての女性
解放言説が社会全体の動向の中で盛り上がっていく複合的な機
微に対する目配りが少ない。
そこでもういちど鬼頭論文に一戻るのだが、指摘のように﹁良
妻賢母﹂という一言葉の翻訳にズレがあったとして、平塚らいて
うが﹁新しい女﹂論争において成瀬仁蔵と対立した有名な出来
3
9
半数以上が比較文学または比較文化学に拠点をおき、他はアメ
リカ文学と日本近代文学の研究者である。
本書は、菅聡子﹁︿母の涙﹀の二重性l敗戦後文学としての﹃二
十四の瞳﹄﹂や佐伯順子﹁一葉・ウルフ・デユラス│近代女性文
学の国際性﹂、杉山直子﹁一九八0年代の﹁少女小説﹂と女性文
化の伝統│氷室冴子を中心に﹂、藤木直実﹁少年同士の緋│あさ
のあっこ﹁バッテリー﹂をめぐる欲望と暴力﹂などの多彩な力
作論文のほか、大貫徹﹁松浦理英子論│魅惑する鈍感さ﹂が﹁ナ
チユラル・ウーマン﹂のレズピアン・ラブについて、若い女性
の容子の﹁他者など願りみない鈍感さ﹂が魔術的に年上の花世
を支配する仕組みを明らかにし、達者なテクスト分析をくり広
げて快読できた。
ただし本書には、いくつかとまどいを誘う点があった。一つ
は、タイトルにも使われている﹁女性性﹂の概念規定が、三年
間のプロジェクトの聞に執筆者間に合意形成されていたのかど
うかである。代表研究者の増田裕美子による﹁はじめに﹂は、
冒頭から﹃土佐日記﹄の有名な書き出しを引用し、男性が﹁女
性を装って﹂書くとはどういうことかと諸見を経巡り、とどの
、︻傍点ママ}
つまり、﹁日本文学が本質的に女流文学であること、﹁女性性﹂
の強い文学であること﹂という結論を導く。それをそのまま前
提にして、﹁日本文学の根底にある﹁女性性﹂﹂は、本書の論文
群が証明するであろう、と言う。けれども現実には、一口に﹁女
性性﹂といっても女性自身が考える﹁女性性﹂と男性が考える
﹁女性性﹂は必ずしも一致しない。この落差への気づきがジエ
ンダl問題の機縁であり、また女性が自己を表象する言葉を探
究し始めるゆえんではないだろうか。
六O年以上も前の一九四九年にボーヴォワールは、﹁人は女
に生まれるのではない、女になるのだ。﹂(﹃第二の性﹄第二の性を
原文で読み直す会訳)と看破したが、意味するところは、生得的
で永遠普遍の﹁女性性﹂というものは存在せず、生まれた瞬間
から社会的に教化されて﹁女になる﹂との考え方である。﹁女性
性﹂は女に課される強制的な﹁女装﹂であるとともに、それに
抗して女が主体的に選び取る﹁女装﹂でもある。本書でもほと
んどの論考は﹁女性性﹂をこのようなジェンダ 1の構築による
ととらえている。
もう一つは、菅聡子の﹃二十四の瞳﹄論の後段部分に感じる
当惑である。前段では、戦時下のヒロインがよく泣く教師/母
親に設定されている理由を、同時代の母親たちが雄々しく︿軍
国の母﹀を演ずるべく日本の国家から涙を禁じられていた姿に
対置することにより、私的な感情領域にまで国家が介入し統制
することに対する﹁告発、抵抗﹂の表明だと説く。けれども後
段では一転し、ヒロインの涙が敗戦後になっても﹁戦時下の国
家的母性に対する自覚と反省を欠落させたまま﹂流され、その
ような一面的な語りに止まっているときぴしく批判する。
この批判は、上野千鶴子の第一回母親大会 (1955) のス
ローガンに対する長文の批判文を引用しておこなわれる。上野
9
4
は、敗戦後一 O年たって組織された母親大会のスローガンに対
し、﹁女性 H母親 H平和主義者という強固な本質主義に貢献﹂し
たばかりでなく、歴史を遡って、﹁﹁母親 H (
歴史の)無力な受難
者﹂という図式﹂により、かつて日本の総力戦に﹁﹁母性﹂が積
極的に動員された事実を忘れ去る﹂という﹁歴史的健忘症﹂に
陥っていると、弾劾する。すなわち、母親大会に参加した母親
たちの精神構造は、戦時下に我が子を戦争に差し出した︿軍国
の母﹀となんら変っていないと上野はとらえ、菅はそれを受け
て﹃二十四の瞳﹄のヒロインも同じだと一言っている。
しかし私は、上野流の勇ましい論理をいったん反転させてみ
る手続きがあったらどうだつただろうかと思う。さきに平和を
説いた母親が、そのあとになって子供の生命を総力戦に供した
のではないという歴史の事実を、一度想像の中に組み込んでみ
てもらいたい。それでもダメなら、上野のみるように母親とは
度し難い存在なのだ。それとは別に、母親大会が組織された経
緯や国際情勢も視野に入れる必要はなかったろうか。
反論できない菅さんに問うことは非礼ではあるが、母親大会
の母親観を批判する脈流がフェミニズムの中にあることを私は
承知している。おそらく私の発言は反論を誘うであろうと思っ
ている。そうなればそれはそれで菅さんの発言が機縁となって
質疑応答の場が開けたことになり、有意義なことではないか。
****
近代家族とその中の妻母の創出、軍国の母、平和を掲げて集
結した母親大会の母、そして第二派フェミニズムによって脱構
築され、責任ある個人の女性として立った母。およそ一世紀の
聞に日本の女性史はこれらの大きな結節点を経てきたのであ
る。しかし、母親観を含む女性観はここで終わらないだろう。
いま私たちは、菅発言にある﹁自覚と反省﹂を踏まえて、せめ
て向こう五0年間の女性像の変貌を、さまざまな角度から総合
的に想像し、そこから現在をとらえ返す目を持つことも必要な
のではないか。
5
9
望
郎から村上春樹にいたる男性作家の作品を取りあげ、ジエン
. .展
ス タ デ ィ1ズの行方
ダ1理論にもとづいたテクスト分析を行う、というオーソドッ
ポップカルチャーとジェンダ i
授業でジェンダ l の 問 題 を 取 り あ げ な く な っ て か ら 、 も う な
幸
がい時聞が経ってしまった。べつの分野の研究に首を突っ込ま
な姿勢が目立った。ところが後年になると、ほとんど同じ授業
ジティブで、とくに日本文学を専門としない学生たちの意欲的
応がまったく鈍くなってしまった、ということにつきる。すく
なくとも、私が現在担当している近現代文学や国語教育の授業
心は日に見えて衰えていった。彼らがあからさまにジエン
目の積極的な反応は徐々に消え失せ、﹁文学作品をジエンダ l
方法、同じ題材を使用しているにもかかわらず、学生たちの関
において、受講生は、ジエンダl の問題についてふかく追究す
ダl ・スタディ lズへの懐疑を口にするわけではないが、一年
の人生とは何ら関係がない﹂と言いたげな冷ややかな態度が蔓
理論で読むことに何か意味があるのか﹂﹁フェミニズムは自分
延していった。私の授業技術の拙さもあったのだろうが、教室
でもっともアクチュアルな主体であるべき女子学生の意欲の減
学﹂の授業だったが、教室はなかなか熱気に満ちたものであっ
退がとくに目立ったことにも、落胆せざるをえなかった。
た。授業自体は、フェミニズム批評の基本的な概念や理論を説
美、吉本ばなな、松浦理英子等々の女性作家の作品、大江健三
明しながら、﹃こ﹀ろ﹄﹁舞妓﹂といったカノン的作品、山田詠
九0年代半ばに非常勤講師を務めたある大学の﹁共通科目・文
は じ め て ジ エ ン ダ ー を テ l マとした授業を行ったのは、一九
ることをほとんど期待してはいない。
クスかつ凡庸な方法であったが、学生たちの反応はきわめてポ
洋
ざるをえなくなった、という個人的な事情もあったのだが、最
田
大の理由は、ジエンダl ・スタディ lズに対する学生たちの反
千
9
6
的志向、それにともなう教室全体の意思に、ひとつの転換が生
じたように思う。この頃は、ジエンダ1理論をふくむ﹁文学理
ついては、もちろん慎重でなければならないだろう。だが、一
九九0年代後半から二000年代初めにかけて、学生たちの知
授業という、教室の内部でのみ形成される学生と教員の問主
体的な経験を、どこまで一般化(歴史化・社会化)できるのかに
したい﹂人の悩みは一向につきることが・ないし、﹁結婚したい﹂
願望が消滅する気配はまったくないし、﹁産むこと﹂にまつわる
こんだすべての人々の悩みは﹁理論的に﹂解決されるはずだと、
ーーー能天気にも││本気で信じていた。だが実際には、﹁恋愛
取りつかれた人々、﹁もてない﹂劣等感に悩む人々、﹁産みたい﹂
呪縛に悩む人々など、恋愛・結婚・性にかかわる問題をかかえ
ラブ・イデオロギーや強制的異性愛の制度が社会のなかで自覚
化され、ひとつの常識として共有されれば、恋愛・結婚願望に
ないのだ。
研究、社会学、歴史学、哲学といった種々の知の領域において
一定の役割を果たしはしたものの、個々の人間の内部にかかえ
こまれた、いわば実存の悩みにまで手を届かせるには至ってい
さまざまな葛藤が克服される気配もまったくない。フェミニズ
ム/ジェンダ l ・スタディ 1ズが提唱した理論の数々は、文学
論﹂全般を取りあげ、受講者に各々の理論のエッセンスを理解
してもらうといったタイプの授業を試みることも多かったが、
九0年代には一定の積極的な反応を得ていた理論が、次第に学
生たちにリアルに受け止められなくなり、﹁理論の季節﹂のあき
らかな終駕を感じさせられた。まして、近代文学にかつて与え
られていた役割がほとんど消滅した現在にいたっては、﹁文学
理論﹂の有効性を無条件で信じている学生は皆無といっていい。
こういう問題は、むろん目新しいものではない。大塚英志
﹃﹁彼女たち﹂の連合赤軍﹄﹃﹁おたく﹂の精神史﹄中に紹介され
てよく知られるようになった、与那原恵のルポルタージュ﹁フェ
ジェンダ l ・スタディ lズにもとづく文学解釈の理論は、こう
した状況のなかで、学生たちの関心の凋落にさらされ、見捨て
られていったのだ。
そ も そ も 、 一 九 八0 1九0 年 代 の フ ェ ミ ニ ズ ム / ジ エ ン
ミニズムは何も答えてくれなかった││オウムの女性信者た
ち﹂(﹃物語の海、揺れる島﹄一九九七・四、小学館)に登場する、
の本を読み漁った﹂オウム真理教の女性信者は、与那原のイン
タビューに応えてつぎのように語っていた。
﹁かつて上野千鶴子の著作やドイツ、アメリカのフェミニスト
ダl ・スタディ lズの理論は、ジェンダl /セクシユアリティ
に内包された諸々の権力を顕在化させ、性の制度の内実を徹底
的に問い直すとともに、その解体と再編を、現実を生きる主体
の内側から行うこと││すなわち、理論の現実的な有効性を担
保することによって成立していたはずだ。私自身、かつてジエ
ンダ!と資本制をめぐる理論に出会った折、ロマンティック・
9
7
﹁女性を解放することで私自身の幸福があるのかどうか疑
問だった。自分とは何か、自分はどこに行くのかを知りた
*
として見てはいけない。男性と女性の差もない。ひいては
わけだけど、ここ(注・オウム真理教の道場)では異性を異性
﹁私は、男性と女性の在り方をずっと考えさせられてきた
かった﹂
とくにその中核をなしているキャラクター文化の多様性を分析
ル、イラスト、ボlカロイドといったさまざまな表象ジャンル、
ルチャーの隆盛がある。アニメ、マンガ、ゲ Iム、ライトノベ
まっているもうひとつの要因として、いわずと知れたポップカ
通用しない理論、﹁リアル﹂ではない理論として認識されてし
方 法 た り え て い な い 。 理 由 の ひ と つ に は 、 ジ エ ン ダ1 ・スタ
ディ 1ズがこれまで当然のごとくに担ってきた﹁社会性﹂の問
自分と他人の区別もない。自分のおんな性に悩む必要はな
女性の﹁解放﹂というイデオロギーに対する不信と、自己が
つかしいテlゼがよく示しているように、たとえば文学に描か
題がある。﹁個人的なことは政治的なことである﹂という昔な
会的コンテクストに位置づけられながら解釈されなければなら
れた、一見嬢小にみえる個人的な恋愛や性の問題は、たえず社
性の主体であることを抹殺してくれる﹁修行﹂へのふかい信頼。
たく無縁だと言い切れるだろうか。﹃男流文学論﹄(上野千鶴子・
のであり、だからイデオロギーの内実は暴かれなければならず、
なかった。虚構世界が創出しているイデオロギーこそが、ジエ
ンダl /セクシユアリティをめぐる我々の現実を構築している
理論の強度もそこに賭けられていた。だが、このような形で虚
富岡多恵子・小倉千加子一九九二・一、筑摩書房)のあたりをピー
実践が、きわめてたかい水準を獲得しながらも、後続の世代か
のあいだに連続性を想定しようとする態度は、虚構と現実の関
構から現実へと接近しようとする態度、虚構世界の受容と現実
るをえない。
係、虚構と社会の関係が変容してしまったとき、無効とならざ
らは無用と疎外の感覚しか抱かれていないという事実。それを
命を共にしそうな危機﹂をまぬがれることはできないだろう。
克服しなければ、ジエンダl ・スタディ lズは、﹁文化左翼と運
クとして蓄積されていったジェンダl ・スタディ lズの理論と
たないが、この信者の発言が、ジエンダl ・スタディ lズ(にも
とづく文学研究の方法)にそっぽを向く学生たちの意識と、まっ
もちろん、この事例がある極限的なケl スであることは言をま
することに関して、既成のジエンダl ・スタディ lズは有効な
現在のジエンダl ・スタディ lズが、ある特定の領域にしか
*
いんです。セックスしなくていいなんてラクですよ﹂
かったわけだけど、フェミニズムはそれに答えてくれな
*
9
8
の関係は、﹁文学﹂の社会的価値の失墜とともに、あきらかに変
我々が想像力の領域で受容する虚構世界と、外部の現実世界と
方法的に解離することを前提として創造され、消費されている。
だすような批評を無化する形で、すなわち、現実から意図的・
現代ポップカルチャーは、まさに、作品に﹁社会性﹂を見い
ぜ﹂なるスレッドが立ち、多くのイラストが投稿され、その後、
板で﹁日本鬼子って萌えキヤラ作って中国人を萌え豚にしよう
事件が問題となっていた折、 2ちゃんねるのニュース速報 iu
性を必須とするライトノベル等の文化に接近していくことは不
可能だ。昨年十月、尖閤諸島での中国漁船と日本巡視船の衝突
けるキャラクター文化や二次i n次創作文化、イラストの視覚
どにキャラクターを増殖させていくような││ナショナリズム
も自虐史観もへったくれもない││放恋に拡大する想像力(妄
換え、ネット環境を利用しつつ、発生の経緯も解らなくなるほ
最大限の蔑称である﹁日本鬼子﹂を、﹁日本鬼子﹂と勝手に読み
リーベンクイズひのもとおにこ
ションがネット上で大量生産されていった(匂区︿あるいはペ
g
l
寸吾冊一等を検索されたい)。中国人が日本人に対して投げつける
角を生やし薙万をたずさえた美少女キャラクターの、ヴァリエー
ひのもとおにこ
わってしまった。とめどない﹁ジエンダi の娯楽化﹂の欲望に
したがって生み出される大量の作品たちに対し、既成のジェン
ダl ・スタディ lズの方法では到底まともに太万打ちできない。
たとえばB L作品を分析しようとするとき、代表的なホモソ l
シヤル理論であるイヴ -K・セジウイツク﹃男同士の緋││イ
ギリス文学とホモソ1シヤルな欲望﹄(日本語訳二OO--二、名
古屋大学出版会)の存在がとりあえず思い浮かぶだろうが、 B L
せめうけ
想力)の仕組みを、かりにジェンダl ・スタディ lズの視点か
ら批判せよといわれたところで、まったくお手上げというもの
群が生成する膨大な攻/受のヴァリエーションすべてに射程が
届くはずもなく、ホモソ!シヤル概念についての基本的かつ暫
定的な知識を提供してくれるのが精一杯だ。上野千鶴子の論に
作品に対して﹁レイプ・ファンタジー﹂というステレオタイプ
から﹁歴史﹂を語ることしかできない。宇野常寛が、セカイ系
えという消費行動の背後に、﹁キャラクター(シミユラ lクル)
ら見た日本社会﹄(二OO-- 二、講談社現代新書)である。萌
ためしのない、東浩紀﹃動物化するポストモダン││オタクか
ひとつは、近代文学研究者からはほとんど肯定的に評価された
こうした事態を分析するに際して、現実的に役に立つ理論の
だろう。
な否定的呼称しか与えることができていないのも、素朴な社会
と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復すること
たな意味を付与するような分析は不可能であり、せいぜい外部
典型的なように、社会学的な方法では、 B L作品それ自体に新
の﹁あらわれ﹂を見るとか、逆に虚構こそが現実を決定するだ
で支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動﹂﹁より広大
反映論の方法にしがみついていることに帰国する。虚構に現実
とかいった単調な論理では、ネット空間内で無限に肥大しつづ
9
9
なオタク系文化全体のデータベースを消費すること﹂を想定す
る東の論理は、ジエンダ1 の問題に直接的にコミットしている
(としてのジエンダ l) と現実(としてのジエンダ l) のあいだに
が生産するジエンダ1表象に対応できなくなってしまった既成
おもに九0年代以降のやおい小説を取りあげ、作品を構成する
﹃やおい小説論│l女性のためのエロス表現﹄(注2に前掲)は、
そういう試みは、すでにいくつか存在している。永久保陽子
新たな関係を見いだす物語分析、を実践することなのだ。
のジエンダl ・スタディ lズを克服する視点として、いまだに
キャラクターの諸要素、恋愛形態、攻/受の身体・セックス・
わけではないが、﹁社会性﹂に固執するあまり、ポップカルチャー
有効なものだ。二OOO年以降、東と重なりあう認識をもっ著
この方面における先駆的な研究となっている。東園子﹁妄想の
快楽の表現についてきわめて精密な整理と分析を行っており、
せめうけ
書として、斎藤環﹃戦闘美少女の精神分析﹄(二000・四、太田
コミュニティにおける恋愛コ lドの機能﹂
L
0 ・一二)は、やおい作品の読者に、デー
(﹃思想地図﹄ 5 二O 一
共同体││﹁やおい
ひらかれたマンガ表
出版)、伊藤剛﹁テヅカ・イズ・デツド 111
現論へ﹄(二O O五・九、 NTT出版)、四方田犬彦﹃﹁かわいい﹂
タベース消費とは異なる﹁相関図消費﹂ H複数のキャラクター
論﹄ニO O六・一、ちくま新書)などが刊行され、いずれも、
ポップカルチャーが構成するジエンダl の問題に関して重要な
い合う解釈ゲl ム﹂への晴好を見いだしつつ、妄想 H解釈が増
の人間関係に関心をむける作品消費と、﹁人間関係の解釈を競
ただし、東浩紀の論理は、九0年 代1 二000年代のポップ
視点を提示している。
あげてみたところ、女子学生たちの受けは抜群であった)。また、文
について考察を展開している(ちなみに、この論文を授業で取り
しまったため、物語それ自体が主体に対して果たす役割を媛小
学研究のジャンルではないが、守如子﹃女はポルノを読む││
殖していく腐女子のコミュニケーション/コミュニティの様態
化してしまう弊をまぬがれていなかった。キャラクターの記号
グラフイを性差別の表現としてきた過去のフェミニズムの議論
女性の性欲とフェミニズム﹄(二 O 一0 ・二、青弓社)は、ポルノ
カルチャーに関して広い射程を有するものの、データベースを
性・図像性の水準が萌え Hデータベース消費の対象となる一方、
背後に抱えたキャラクターと、小さな物語との切断を強調して
物語のコンテクストとキャラクターが一体となった意味性の水
しながら、ポルノグラフィの表現を安易に現実と直結させては
を慎重に検討し、ポルノコミックの表現上の工夫をあきらかに
ファンタジーをフィクションとして正しく理解する能力を身に
ならないこと、﹁ポルノグラフィとい、っマスターベーション・
後者を無視したポップカルチャーの分析などありえない。だか
ら、現在必要とされているのは、たんにジエンダ1 ・スタディ l
準は、読者・視聴者によってかならず受容されていくのであり、
ズの視点から作品を﹁社会化﹂するのではない物語分析、虚構
1
0
0
つけること、いわば、ポルノリテラシ lが私たちに必要とされ
ている﹂こと、女性読者もポルノグラフイを楽しむ権利をもつ
こと、を説く。
これらの論に共通しているのは、作品が創り出す妄想や﹁ファ
B Lやポルノコミッ
ンタジー﹂に、現実と安易に短絡できないからこそのアクチユ
アリティを見いだしていること、そして、
の読み換えを試みていることだ。作品の﹁社会性﹂を顕在化さ
クといった小さな物語を焦点化し、新たな価値を見いだすため
せるための大文字の思想であったフェミニズムが、もはや有効
な方法ではなくなったとき、その理論自体がもう一度編み直さ
れなければならない。現実を超えて溢れ出る妄想を主限とする
語りうるのか、という聞いへの回答が、これらの論には些かな
作品を、ジェンダl ・スタディlズ の 方 法 を 用 い て ど の よ う に
りとも示されているのではないか。と同時に、大文字の思想の
公共性が、個々の人間のアイデンティティを保障することがで
べき小さな物語が、たとえばオウム真理教的な共同体であって
きないとき(ある意味で当然のことでもある)、その受け皿となる
はならないだろう。だからこそ、さまざまなジャンルの文化が
生み出す小さな物語の多様化と卓越化が必要なのだ。ジエン
ダl ・スタディ lズをふくむ﹁文学理論﹂のコ 1ドは、そうい
う小さな物語の可能性を引き出すことに貢献することで、かろ
うじて存在を主張しうるのではないか。二000年代以降にお
ける理論の﹁社会的﹂な意義とは、そういう役割の謂にほかな
らないだろう。
注(
l) 大湾真幸・長谷正人﹁対話・虚構とアイロニーの入0年代﹂
(﹃大航海﹄二O O八・一 O) における大津の発言。大津は、
﹁我々の性が全部社会的に構築されたものであるという線で
考えていったとき、それはそれなりの説得力もあるけれけど
も、同時にそういう構築に対して頑固に抵抗する部分がどう
しても現実として出てくる。つまり八0年代的なるものの限
界みたいなものも、またそこでいちばん出てきてしまう﹂と、
人0年代以降のフェミニズムがかかえこんだ問題を指摘して
いる。
(
2
) 永久保陽子﹃やおい小説論││女性のためのエロス表現﹄(二
0 0五・三、専修大学出版局)。
(
3
) 上野千鶴子﹁腐女子とはだれか?││サプカルのジエンダ l
・
分析のための覚え書き﹂(﹁ユリイカ﹄臨時増刊号二O O七
ム
ハ
)
。
(
4
) 宇野常寛﹃ゼロ年代の想像力﹄(二 O O八・七、早川書房)。
(
5
) これらに対して、斎藤美奈子﹃紅一点論││アニメ・特撮・
伝記のヒロイン像﹄(一九九人・七、ピレッジセンター出版局)
は、ポップカルチャーのヒロイン像に対し、時おり筆者の﹁社
会化された憤り﹂が思わず表明されてしまうことによって、九
0年代的な方法の限界を露呈してしまっている。
(
6
) だから、日本のポップカルチャーの特質を﹁社会的文脈を無
関連化する機能﹂(宮台真司三九九二年以降の日本のサプカ
ルチャー史における意味論の変遷﹂東浩紀編﹁日本的想像力の
1
0
1
ことに関連するつぎのような一節がある。少々長くなるが、
未来││クール・ジヤパノロジl の可能性﹄日本放送出版協会、
二O 一0 ・人)と単純に断定してしまうことも正しくない。
) 本国透﹃萌える男﹄(二O O五・一一、ちくま新書)に、この
7
(
引用しておこう。
︽思春期において、この﹁恋愛できない﹂﹁女性が恐怖と嫌
悪の対象でしかない﹂という発見はかなり絶望的なもので、
僕は真面目に自殺を考えたりもしたのだった。ここで宗教
や国家のような巨大な共同幻想に救いを見出すという方法
もあったのだが、幸か不幸か僕にはそれはできなかった。
なぜなら、当時すでに時代は八0年代に突入しており、ま
さにバブル経済と恋愛資本主義システムの肥大化の真つ只
中だったのだ。共同幻想に参入することができず、対幻想
を構築することもできない。そのような僕が死なないで自
我の崩壊を防ぎつつ生きていくには、自己幻想││つまり
﹁萌え﹂によって自分の自我を無理やりにでも安定させる
しか方法がなかったわけである。
具体的にはアニメや漫画に登場する萌えキャラクターと
脳内で恋愛したり、そのような妄想を自分で漫画や小説と
して書き出してみたり、といった作業によって、僕は何度か
やってきた精神的危機と自殺への誘惑を、なんとか払いの
けることができたのだった。つまり、他者(異性)に救いを
たのである。
求めても救われないどころか、かえって悲惨なことにしか
ならないので、自己治癒能力を最大限に活用するしかなかっ
当時はまだ﹁萌え﹂という言葉は発明されていなかったの
だが、﹁萌え﹂が家族や恋愛というシステムによって救われ
ない人聞を救うという発見は、このようにして若い頃の僕
自身が身をもって体験したことなのだ。︾
(付記)一一一月十一日の震災、および原発問題に代表される社会シ
ステムそのものの動揺によって、多くの人々に公共性の問題
が突きつけられ、小さな物語が林立する現在の状況に模が打
ち込まれたことは確かである。だが、二 000年代以降に形
づくられた認識に、今後どのよう-な変化が生じるのかについ
て、現段階で性急に判断するべきではないと思う。
1
0
2
西田谷
良
ベルでの分析を中心とする現状での認知言語学が、高度に複雑
言語観は過去のものとなりつつある。だが、語集や句、構文レ
になる。著者の精力的な仕事ぶりと博識には、率直に感歎する
オロギー﹄の奥付には同年一一一月の日付があるので、著者は同書
の上梓と同時期に、それとは別に学位論文を完成していたこと
本書の刊行について著者は、﹁未収録の旧稿の誤りを正して
ばかりである。
すれば、﹃認知物語論とは何か?﹄を理論的探究の到達点と見な
公刊することは私の責務﹂と述べているが、やはり時系列から
一冊の共著を公にしている。題名が示す通り、本書は政治小説
﹃宮崎夢柳論﹄ (
N
O
R
∞)﹃認知物語論とは何か?﹄ (
N
o
g
斗)﹃認知
物語論キーワード﹄(共著、 N
O
H
O
品)と、約十年間に三冊の単著と
でなければ、公正さを欠くようにも思われる。本書を単独に評
いって、その業績全体を考慮しつつ総合的に本書を評価するの
研究との二系列に分断して捉えては、当を失するであろう。前
価する困難は、そうした事情にも起因している。
すべきであろうから、著者自身が﹁旧稿﹂と述べているからと
者は、基本的に、﹁認知的アプローチ﹂(﹃語り寓意イデオロギー﹄
研究に連なるが、著者の業績を政治小説研究と﹁認知物語論﹂
N
o
g
ω
)
本書の著者西田谷洋氏は、﹃語り寓意イデオロギー﹄ (
な文学テクストをどのように扱い得るか。
学位請求論文を改稿・再構成したものであるが、﹃語り寓意イデ
は、一九九九年一 O月に提出、翌年三月に博士号を授与された
﹁はじめに﹂)ないしはその前段階としての構造主義的アプロー
チによるテクスト解釈編だからである。あとがきによれば本書
﹃政治小説の形成││始まりの近代とその表現思想﹄
認知一言語学は、人間の言語能力の基盤を身体性に置き、言語
能力を、環境と身体性との相互作用を反映する一般的認知能力
本
i
評i
洋
から独立した自律的モジュールとは捉えない点で、記号論や構
造主義言語学の限界を超える、という。科学としての言語学が
再ぴ経験的基盤を獲得したことで、ソシュ I ル以後の関係論的
山
著
j
書i
3
0
1
本書は I ・Eの二部構成で、ーー7、El2、6、7、8は
九九1 0二年に発表された論文、 E13は書き下ろし、それ以
外は八九1九三年に発表されている。他方、﹃語り寓意イデオ
ロギー﹄収録論文は、九五1九八年に集中的に発表されている。
すなわち本書は、著者の業績の最初期に位置する論考と、﹃垣間り
から本書に至るまで、著者の姿勢はこのように一貫している。
基本的に本書は、基礎研究およびジャンル論の性格が強いが、
しかし、ここでの﹁ジャンル論﹂は従来のそれではなく、認知
言語学的観点から再構築されたジャンル認知モデルを指す。具
従来の研究が見落としがちであった、啓蒙思想・実録・民権詩
歌・民権戯曲・フランス革命史の分析に、各一章が割かれてい
本書では、 I │ 7やEl2、Eー7 ﹁︿政治小説﹀の成立﹂ E
│8﹁引用される︿政治小説﹀﹂が、このジャンル認知を扱い、
政治小説のカテゴリー編制の再検討を試みている。 Eー7は
周辺を拡張し、徐々に典型性 qHUW佐々を低下していく。すな
わちカテゴリーの領域はあいまいである。ーーーをジャンル認知
に援用したものである。
111
体的には、カテゴリーのプロトタイプ効果買223 巾F
叩2
カテゴリーにおける典型事例をプロトタイプとすると、他の事
例は中心となるプロトタイプからその類似性によって放射状に
る。これら最初期の論考は、基本的に歴史的事実を基盤とした
手堅い実証ともいえる内容で、とくにI│2、実録の語る︿事
実﹀がその物語性と政治性からの創造物であることを、事実と
﹁政治小説﹂という角書を持つテキストに限定し、 Eー8では
末広鉄腸﹃雪中梅﹄の偽版をめぐって、いずれも﹃雪中梅﹄の
プロトタイプ効果を論証して説得力がある。
寓意イデオロギー﹄から﹁認知物語論﹂研究への橋渡しをする
論考との、二部構成ともいえるわけである。
I ﹁政治的物語と隣接ジャンル﹂では、民権小説に偏重した
の比較から実証する章などに、それが顕著である。これらの章
は、資料を幅広く渉猟し、研究対象となることすらほとんどな
かった作品をも取り上げ、基礎研究としての功績も少なくない
E│2﹁写像と融合﹂における、ジル・フォコニエのメンタル・
より精微さを増した﹃認知物語論とは何か?﹂では、福島事件
を示唆する寓意の危険性が宮崎夢柳﹁夢の通路﹂中絶の原因に
なった、という結論が導き出されているが、実際のところ、こ
スペース理論に依拠した寓意分析に昇華していると思われる。
本書E12ではまた、政治小説や同時代の政論における寓意
の分析がなされているが、この論考は、﹁認知物語論とは何か?﹄
上、物語論の探求にもつながるような、言説分析の新鮮な切り
口を示す。だが、 Il7 ﹁自己表象﹂の章、だけは、題名にジャ
ンル名・固有名を含まず、論の方向性が若干異なっている。こ
れについては著者自身が、同章とE12は﹃認知物語論とは何
か?﹄に接続する内容である、とあとがきで述べている。﹁政治
小説研究/物語論の認知的転回に向けて語り論をバージョン
アップする﹂という帯の文句を持つ﹃語り寓意イデオロギー﹄
1
0
4
れは結論というよりむしろ論の前提である。しかし、その点を
批判しても意味はないだろう。なぜなら、寓意の生成に関する
モデルの記述によって、物語主体の認知システムを明らかにし
中絶の先を予測しうる、とする記述の過程そのものが、この論
証のいわば結論であり、有意義であると認められるからである。
さらにいえば、もしこの中絶後の稿本なり中絶の原因を明らか
にする文書なりが発見され、それが予測と合致すれば、与えら
れた初期条件と認知プロセスから導出された理論的帰結が、具
体的テクストという個別の事象を説明し得たことにもなる。そ
れは驚くべきことである。
このように、認知的アプローチによる小説研究は、物語とい
うシステムに組み込まれたテクスト生成主体の認知システム
ゃ、受容主体のもつ一般的な認知能力による複雑な認知過程を、
そのごく一端ではあれ、明らかにする可能性を持っている。
しかしながら、私には、そもそもなぜ政治小説が分析対象に
選ばれているのかという、かつて﹃語り寓意イデオロギー﹄に
対して抱いたのと同じ根本的な疑問を、本書読了後も解消する
ことができなかった。﹃諮問り寓意イデオロギー﹄で認知的アプ
政治﹂
メタファl
呂
田HS器吋)がある。米国の保守とリベラルそれぞれ
(H
の言説が﹁国家は家族であるというメタファ l﹂(二三頁)と
メタファ l
いう共通の概念比聡から成り立っていること、そしてそ
の比聡が、一方はキリスト教原理主義的な厳しい父親モデル、
他方は慈しむ親のモデル、という対立的な二つのモデルを政治
の領域に投射して、対立する世界観を形成することを論証する。
やや単純化しすぎているように見えるが、それは理論的分析の
メタファー
常であって問題ではない。それどころか、認知モデルを構築す
ることにより、人々が字義通りの政治論と思いこんでいるもの
が、実際には比除であることが明らかになる。いわば政治的無
意識が露呈する。と同時に、保守が数十年聞を費やして磨き上
げてきた神話的言説戦略の実体や、合理的で一義的な言語を建
前とするリベラルの言説がそれに対抗し得ない原因を解明でき
れば、現実の世界において、たとえばリベラル側に言説戦略の
練り直しを促したり││レイコフ自身が同書でリベラルである
べきという自己の信条を明らかにしている││、有権者の投票
行動に影響を及ぼしたり、という可能性が生まれる。すなわち、
一頁)であることを標祷しているが、この言葉は、モデルの構
築│予測l 制御という、いわば未来へ向けての志向を示してい
理論による︿予測﹀と︿制御﹀である。
レイコフはまた、同書が﹁認知社会科学の発展の第一歩﹂(二
であった。
ると思う。だが、これは認知言語学が批判する構造主義とて同
様であったし(構造の記述│予測│制御)、そもそもすべての社会
ローチから分析されているテクストの一つが激石﹁夢十夜﹂で
あり、それが他より以上に有効性を示していたからなおのこと
認知言語学の立場から政治を分析した研究に、本書E12で
メタファ i
も言及されているジョージ・レイコフの﹁比聡によるモラルと
5
0
1
従来の理解では、政治小説は、検閲逃れのために隠聡と寓意
近代文学研究、その歴史学的側面はどうか。これは自戒をこめ
て書くのだが、はたして︿制御﹀モデルたり得ているか。
科学は同様の動機によって支えられているはずだ。翻って日本
テムにあるからであって、いまでは古臭くもある問題、すなわ
ち歴史的社会的な︿存在の被拘束性﹀にはないからである。
ないが、それも当然正しい。なぜなら、﹁認知物語論﹂の確立を
めざす著者の問題意識は、テクストを受容する主体の認知シス
方、それらの言説を生成する歴史性については一切言及してい
それにしても著者は、歴史性の導入について、あまりにも禁
欲的ではあるまいか。その点について、著者は﹁歴史や思想を
で特定の政治思想を喧伝することを目的としており、それが寓
も自明のことである。だから、その寓意が寓意たり得る認知シ
テクスト解釈に導入することは、作者と同じく超越的な立場に
よってテクスト解釈の持続を停止させることだ﹂と述べている。
意に支えられていることは当時の読者にも、また現在の読者に
ステムを明らかにしたとしても、政治的無意識を明るみに出す
ことにはならないのではないか。また、認知的アプローチが政
しかし、私などは、﹁序﹂で見事に整理されている、二O世紀後
半からの︿政治﹀と︿国家﹀概念をめぐる思想史的概略││ア
ルチユセ l ルからプ l ラ ン ザ ス 、 ラ ク ラ ウ & 今 の ポ ス ト マ ル
二 O 一O年一一月一一日世織書一房
(
=
一
二六九頁
000円+税)
てしまう。そこに結節点があるとすれば、あの古臭い︿歴史﹀
がまた蘇るはずだからである。
クス主義の潮流とパ l ソンズ以降の社会システム、政治システ
ム論の潮流ーーが、本論で様々に用いられている︿政治﹀概念
や諸論点とどのように切り結ぶのかという、あらぬ興味を抱い
治小説研究をどれほど前進させ、またどのような方向に前進さ
せるのか、認知科学とトンデモ脳科学の区別さえおぼつかない
私には、いまだ明瞭に見えてこない。
バルトが﹃S/Z﹄で、テクストを断片化しシニアイアンの
無限後退という戦略を示したのに対し、日本近代文学研究が、
し続ける方向へと進んだからには、われわれがテクスト分析と
ゲシュタルトとしてのテクストを維持しつつ新たな解釈を提出
呼んできたものは厳密な意味でいささかもテクスト分析ではな
かった、などど今さら指摘するのも気恥ずかしいが、その限り
において、﹁文学テクストの表現がいかに組織されているかは、
構造主義の恋意性ではなく、有契性の観点がなければ説明でき
ない﹂(﹁認知物語論とは何か?﹄﹁あとがき﹂)という著者の指摘は、
正しい。また、著者は本書I│7で、福田英子﹃妾の半生涯﹄
の同時代評や文学史的評価のジャンル認知を分析している一
1
0
6
i
﹃谷崎潤一郎
著:
型と表現﹄
谷崎文学を論じたものである。関西移住後の谷崎の人形浄瑠璃
への傾倒を云々する論は数多あるが、古典芸能の根底にある
︿型﹀に注目し、そこに︿個別的で具体的な規範と普遍的な美
田
いる虚構の空間が︿現実﹀と通い合うことなくすれ違っていく
様子を照射していく存在であるとも一宮ヲん﹀、︿こうした二つの位
によって構築される複相的な表現空間である﹀と分析した上で、
︿リリーはその移動によって作中人物の心情やそれを表現して
論じた第四章﹁複相化された表現空間﹂を興味深く読んだ。こ
の作品は、︿会話表現と地の文における作中人物に即した表現
ふ最﹂を対象に据え、谷崎が人形浄瑠璃や古典芸能を通じて発
見した︿型﹀について論じる。
しかし、なんと言っても本書の独創は、︿型﹀という概念から
谷崎文学に切り込もうとした点にある。本書第一章は、﹁審喰
面から﹁鍵﹂に迫った第八章も、作品の捉え方が私と違うので、
著者の説に俄に賛同する気はないが、固定化した自分の考えに
揺さぶりをかけてもらえたという意味で刺戟的だった。
説明する。この作品の捉え処のない、そのくせ奇妙な魅力を
もっている点が気に掛かっていたのだが、そのもどかしきを本
書で解き明かしてもらえたのがありがたかった。同じく、表現
かを把握できる読者は、その感情が︿現実﹀にほとんど影響を
与えない可笑しさやもどかしきにかき立てられていく﹀のだと
相で繰り広げられるすれ違いを意識させられることによって、
読者は﹁猫と庄造と二人のをんな﹂の物語世界へ引き込まれて
いく。︿作中人物のリリ lに対する感情がどのようなものなの
徳
H
的価値との通路﹀を見る著者の見解は、きわめて独創的なもの
であり、本書の性格を特徴づけている。
久
・ ・
また、︿型﹀からの分析に関連させながら、主に﹁源氏﹂の﹁旧
訳﹂﹁新訳﹂を通して谷崎が切り開いていった表現技法の視点か
らも光が当てられる。このうち﹁猫と庄造と二人のをんな﹂を
前
--:評 j
本書は、書名が示すとおり、︿型﹀と︿表現﹀という視点から
佐 雪
.
,
藤 i
7
0
1
著者はこの作品について、伊藤整の言、っ﹁三つの要素﹂(離婚
の危機をはらんだ要と美佐子の生活、人形浄瑠璃を中心とした古典
芸能の世界、外国人娼婦ルイズとの関わり)の関係を、︿これらの
要素はすべて、要が様式的なふるまいが自分の感性に適うもの
を引き寄せうるものなのだということを実感していく様を描き
出すために必要な諸相であったと捉え直すことができるのでは
ないだろうか﹀と整理してみせる。
︿定型的な様式を優先させる義父と自身の内面の省察を重視
する要とは明らかな対照をなしているが、それは自らの拠るべ
き規範的な様式を知悉しそれを積極的に利用している義父と、
それを見出すことのなかった要との違いであると言えるのであ
る。このように、要と美佐子の離婚問題は、︿型﹀が示している
ような規範性と人の生き方がどのように交錯しうるものである
かを暗示してみせている﹀ことを指摘され、さらにルイズとの
触れ合いも︿芝居﹀の上に築かれており、︿人の感情や愛欲といっ
たものが様式と強く結びついていることを示唆する場面であ
る﹀と説明されると、上のような作品把握は妥当で、首肯でき
る見解であろう。著者の一言うように、要は︿自らの感性や美意
識、あるいはそれに基づく性的欲求といったものが確固として
存在することを疑わ﹀ないのだとすれば、要の︿性的欲求﹀の
面や、作品に語られている要の理想の女性像の面から、美佐子、
お久、ルイズを照射して三人の女の位相差をもう少し詳細に論
じてくれれば、この作品の奥行きが明らかになったような気が
する。要のルイズに対する感情一つとっても、彼女に強く惹か
れながらも、一方でそれから覚めつつ・あるのだから、︿人の感情
や愛欲といったものが様式と強く結びついていることを示唆す
る場面﹀と言うだけで片付けるわけにもいかないだろうし、様
式の中で生きるお久と、要が理想とする女性像との差異も気に
なる。しかし、本書では、これ以上の作品への深入りは控えら
れ、論の方向は要が見出した︿型﹀へと向かい、以下のように
説明する。
﹁夢喰ふ轟﹂は要という一人の人間が感受した様式的な表
現行為が﹁永遠女性﹂に代表されるような美的価値を導き
得るということを描き出そうとしていると考えられるので
はないか。そこでは、淡路の人形浄瑠璃において確認され
るように、あくまでも個別的で具体的な規範と普遍的な美
的価値との通路が見出されようとしているのであり、その
通路を切り開くものとして、︿型﹀が注目されているのであ
ヲ。。
この見解は、刺戟的という以上に、私にとっては衝撃的です
らある。﹁琴喰ふ議﹂以前の谷崎には、個別具体の存在と普遍的
美的観念との議離をいかに超えるかが最大の文学的課題だった
はずで、たとえば﹁痴人の愛﹂における個別具体的存在である
生身のナオミで作中﹁白﹂と呼ばれる普遍的な美的観念を形象
化しようとして果たせなかったというのが私の理解だが、この
谷崎文学前半期の最大のアポリアを解消する魔法の杖が、本書
1
0
8
作品が形象化して読者に実感的に提示し得ていない以上、結果とし
てそれは譲治の錯覚と言わざるを得まい。だからこの作品完結が作
つけているが、仮に譲治がナオミとの生活を再開した後もなお彼女
に超越的な白さを実感していたとしても、彼が見ているその﹁白﹂を
に触れて︿ナオミが実践的に形態の美を生み出していくことで、普遍
的な美的価値を引き寄せている﹀として要が見出す︿型﹀への脈絡を
の説く︿型﹀ということになるからである。(序章で、﹁痴人の愛﹂
的美への通路として機能する︿型﹀の効力が実感的に把握でき
ないということである。それに、あの長い物語は花見以外にも
しかし、そこから作品内に定着されているはずの︿普遍として
の美﹀が感知できないとなれば、著者の言う具体個別から普遍
見体験が︿多重に循環する時間に位置づけ﹀られ、︿その固有性
を複数性と重ね合わせて把握﹀されていることは、よくわかる。
美を見出そうとしている﹀という肝心要の著者が力説する︿普
遍としての美﹀が、私には実感的に伝わってこない。幸子の花
中に位置づけることで、そこにおいて獲得される普遍としての
多くのエピソードを持っているわけで、それらがどう機能し
あって︿普遍としての美﹀の世界を創り出しているのかも今一
者に突きつけたのは、個別具体的な存在(生身のナオミ)と普遍的観
念(白)との話離の問題、だったと私には恩われる。)
さて、著者は、谷崎が手に入れた︿型﹀の成果を﹁細雪﹂に
みる(第五章)。平安神宮の垂れ桜を幸子たちが訪れる有名な場
面を引きながら、︿年中行事を代表とする﹁定式﹂化された生活
いる﹀のだと説く。そして、それを可能にしているのは、源氏
の旧訳の翻訳作業や﹁猫と庄造と二人のをんな﹂で手に入れた
の体験﹀を、例年体験してきた︿連続性の中に位置づけること
で、そこにおいて獲得される普遍としての美を見出そうとして
れば、滋幹はその場の視線に止まらないまなざしを獲得し
ていたと考えられる。それがその八で描かれている、四十
て十全に捉えられないものとして現出していたのであっ
た。その上で、滋幹が母の顔を捉え受けとめえたのだとす
ここには滋幹の母の相貌の具体的な描写はない。しかし、
夕桜とその下にある母の姿は、その時その場の視点によっ
+
﹂
阜
、
つ不分明である。それは私の感性の鈍さと読解力不足のせいだ
と言われればそれまでだが、この事情は﹁少将滋幹の母﹂でも
変わらない。作品最終部の滋幹と母の再会場面について本書
表現方法だと論じる。(源氏の訳業と﹁猫と庄造と二人のをんな﹂
については、第三、四章でそれぞれ詳細に論じられている。)
年前の春のひざしにみた母の姿を現在の姿に重ね合わせる
まなざしであり、あるいはまた、人知れず妖艶に咲いてい
とは、桜見において見られるように、固有の機会における一図
的な体験を時間的な重なりを持ったものへと昇華させる行動様
式だ﹀と述べ、幸子は現在只今経験している花見という︿一つ
ある意味、本書の中核をなす部分で、力のこもった部分であ
ることは充分伝わってくるが、︿幸子は一つの体験を連続性の
9
0
1
るタ桜と母の姿を重ね合わせるまなざしであったと一言守えよ
う。滋幹の母の美しさは、そうした︿型﹀を把握する複相
的な認識の重なりの中によってこそ、表現されるもので
あったのである。
と説明する。夢幻的状況の中で現実の母を四十年前の春の日差
しに見た母の美しさの記憶、あるいはその時の感銘に重ねて行
く場面だから、最後の一文以外は著者の言、っとおりで何の疑問
もない。これを﹁重層的認識の中で表現されている﹂というの
ならわかるが、﹁︿型﹀を把握する﹂という修飾部が付くと私の
理解を超えてしまう。ここに敢えて︿型﹀という概念を介在さ
せねばならない必然性がうまく呑み込めず、この言葉が本書の
最重要なキーワードなだけに、この事態に困惑するというのが
率直なところである。
さらに言えば、﹁ア豆・マリア﹂の主人公が︿私の生命が永久
に焦がれ慕って己まないところの、或る一つの完全な美の標的﹀
を︿白﹀と呼び、︿どうかしてその姿を目の前に見、手を以て触
れてみたいと願﹀ったように、谷崎もまた︿たず一つの﹁白﹂﹀
Tんば、それはこの作家固有の心性が見出した毒婦的女性
E
(端的に4
に顕現する美)に憧れ続けたというのが私の理解なのだが、本書
の説く︿型﹀を通路に開ける普遍的美が、ある時は︿永遠女性﹀、
ある時は循環する時間の彼方に浮かび上がる桜の美、ある時は
︿母﹀であるとすると、これらの関係が著者の中でどのように
意識されているのか、これらの背後に︿たず一つの﹁白﹂﹀に相
当するものを想定しているのか否か、この辺が不分明だったの
も気に掛かった。
ことのついでにもう一つ。﹁務者喰ふ議﹂以後、谷崎は、﹁陰臨調
礼讃﹂を理論的支柱とする方法で、︿その姿を自の前に見、手を
以て触れてみたい﹀という欲望を封じ込めることを代償に、こ
の﹁白﹂の形象化を果たしていく。だから所謂古典期の作品群
では、女から肉体が剥奪され、︿閤﹀の中に置かれるという共通
性が見られると思うのだが、著者の言う︿型﹀の観点からすれ
ば、肉体の消去も︿関﹀も不要になる。とするとこの共通性を
著者はどのように考えておられるのかも是非教えて欲しい一つ
である。
理解と感性不足の読者が抱いた疑問が中心になったが、本書
の提示する︿型﹀という視点は、谷崎研究に新局面を切り拓く
可能性を強く感じさせる魅力的な視点であると思う。著者は今
後もこの独創的な視点を武器に谷崎作品を論じていくだろうか
ら、それを通してこれらの疑問を解消してくれることを、また
︿型﹀を通路として出現する︿普遍的美﹀が、作品にいかに形
象化されているかを、感性不足の読者にも実感できるように今
少し詳細に説き明かしてくれることを期待する。
(一一 O 一O年二一月一 O日 青 筒 舎 二 九 = 貝 三 八O O円+税)
1
1
0
橋(貴j
﹃樋口一葉 初期小説の展開﹂
の期間と作品を中心に研究が行われてきたといってよい。
これに対して、本書は、最初の三年間の作品群に目を向けた
ものである。著者は、﹁序﹂において、ジエンダ l論を意識しつ
つ、﹁これまで論じられることの少なかった﹂﹁初期小説を対象
とし、小説家となってまもない一葉の軌跡を明らかにしたい﹂
と述べている。これまでの研究の補完を明確に意識したものと
いえる。
子
まず第一部﹁︿死にゆく女﹀からの出発﹂では、第一作の﹃閤
桜﹄から﹃うもれ木﹄までが扱われている。第一章の﹃闇桜﹄
では、主人公の千代の美しさを、﹁行末さぞと世の人のほめもの
る小説が再び描かれるようになる﹂時期の三期に分けて論じら
れている。
本書に取り上げられているのは、﹃閤桜﹄から﹃やみ夜﹂まで
のほか、後の作品である﹃軒もる月﹄を加えた一一作品である。
それらの作品が、﹁自死する女の物語をもっぱらとしていた﹂時
期、﹁東京からその外部へ逃れ出て行く、いわば︿都落ちする女﹀
を描出した﹂時期、﹁一転して都市部に住まう女性を主人公とす
れてはいないが、﹁古典的レトリック﹂は、女を外面的にのみ捉
え、主体的な内面を持たないよう強制する因習の象徴と捉えら
れているように思われる。それと対比的に主体性を意識し始め
た女が主題として描かれているという見方である。
トリックとして用いられていると見ているようである。明言さ
峰
著
初期の小説は、従来、王朝文学的で古典文学の影響が基調と
知
み:…
なっているとされてきた。だが、橋本氏は、むしろ主人公が古
典的でない人物像であることを示すために、古典文学は単にレ
愛
の i
一
一
一
:
ぞ i
評j
樋口一葉が小説家として活動したのは、明治二五年三月の﹃閤
桜﹄発表から明治二九年五月の﹃われから﹄発表までのわずか
四年あまりであった。そのうち最後のおよそ一年間(明治二八
年を中心とした一四ヶ月)に、﹃たけくらべ﹄、﹃にごりえ﹄、﹃十三
夜﹄といった名作を集中して執筆した。それゆえ、従来は、こ
本 i
I
I
I
にせし姿の花﹂﹁ほころぴ初めしつぼみ﹂といった﹁桜をはじめ
花にまつわるレトリック﹂﹁古典的常套句﹂が形容していると指
摘する。著者は、その﹁﹃花﹄レトリック﹂が、美しい外形だけ
に目を向け、女は恋心すら抱かないかのように考える固定観念、
﹁前時代の価値観﹂を表しており、主人公の少女が恋したこと
を否定するように作用していると捉える。千代の、告白したい
と思うほど一途な恋に﹁主体性﹂を見出そうとし、﹁﹃花﹄レト
リック﹂はその﹁主体性﹂を抑圧する価値観として、千代を﹁死
へと追いや﹂ったと読み込んでいる。
第二章の﹁﹃たま禄﹄から﹃五月雨﹄へ﹂では、二作品を連続
的に取り上げている。﹃たま棒﹄の糸子は竹村緑に恋をするが、
元家臣の雪三が彼女を妻にしたいと考え、竹村家からの縁談を
断ってしまったことを知って死を選ぶ。著者は、﹁菟原処女﹂の
ような二人の男に求愛されて死を選ぶ女の伝説と比較し、古典
的枠組みとは異なり、糸子が﹁女子を雪月花の美として愛でる﹂
だけの男に対し、﹁姿形﹂や﹁力﹂ではなく﹁志﹂、﹁心ろ根﹂を
受け止める﹁心﹂を持っていたと指摘する。また、糸子は、﹁花
垣﹂に閉まれ﹁花で覆い尽く﹂されて、﹁閤桜﹄の千代と同様に、
花のように美しい外見だけであることを要求する﹁女性を取り
巻く規範意識﹂に縛られ、恋心の表白どころか緑の元へ行くこ
とも阻まれていたと分析している。続いて発表された﹃五月雨﹄
は、逆に、二人の女が一人の男に思いを寄せる物語である。優
子とお八重も、﹁ともに、﹁花﹄レトリックにより語られ﹂るが、
﹃源氏物語﹄帯木巻とは逆に、男のことを語り合い、﹁選ぶ男性・
選ばれる女性という関係性が、反転される﹂と指摘している。
女たちは、﹁﹃花の心﹄を訴え、その表白に力を尽く﹂し、﹁女性
主体の確立﹂が﹁推し進められていった﹂物語であると述べて
いる。
第三章﹃別れ霜﹂は、相愛の男女が家のために仲を裂かれて
しまう物語であるが、著者は、﹃伊勢物一証巴第六段をふまえるこ
とで、別れた二人の﹁﹃心﹄通わぬ﹂ことが描かれていると指摘
する。ただ、﹃伊勢物語﹄という﹁古典の型﹂とは異なり、﹃別
れ霜﹄の女は、男に通わぬ﹁心﹂を伝えたくて会って話そうと
行動を起こし、﹁心の表出へ向け﹂﹁行動する主体﹂となったと
読み解いている。結局悲恋となって女は死を選ぶが、古典文学
の女性とは異なり、﹁心﹂、主体性を持った女が描かれている、
と捉えているものであろう。
第四章の﹃うもれ木﹄では、﹁国民﹂として﹁国利国益﹂のた
めに貢献するという意識を績三や辰雄に見出し、それが女性を
束縛する規範になったと読み込むもののようである。著者は、
績三の妹お蝶が、やはり美しい外商だけを見られる存在だとす
る。だが、自らの恋心を捨てず、﹁国家﹂のために﹁貴顕の妾﹂
となることを拒み、死を選んだと分析する。自分の﹁心﹂を大
切にし、男の思い通りにならなかったところに﹁主体性﹂を見
出そうとしたものと思われる。
第二部では、﹁︿都落ちする女﹀の創出﹂として、﹁暁月夜﹂と
1
1
2
﹃雪の日﹄が取り上げられている。第一章では、﹃暁月夜﹂が、
﹃伊勢物語﹄第六四段や﹃源氏物語﹄花宴巻をふまえた物語で
あるとし、それが﹁王朝物語的レトリック﹂となって﹁男性の
現実にそぐわぬ女性幻想﹂を示していると指摘する。敏は、王
朝物諾の男のように、美しい外見だけに惹かれて一重に接近す
るが、一品患一は恋も結婚も否定して敏の前から去っていくと読み
込み、男の求愛を拒む一重に、﹁女性の強い意志﹂、﹁主体性﹂を
見出そうとしている。
第二章の﹁雪の日﹂は、主人公の珠が、男性教師のもとへ奔っ
て結婚したもののうまくいかず、後悔する物語である。珠は、
自身の言葉ではなく﹁無き名とり川波かけ衣、ぬれにし袖の相
手といふは﹂といった﹁古典的レトリック﹂によって、みずか
らの﹁心﹂を﹁恋愛感情へと変形﹂させてしまったと、著者は
分析する。ここでは、﹁古典的レトリック﹂は本当の﹁心﹂を見
えなくしたものとされ、珠の後悔が、男の身勝手な行動を許す
﹁家父長制への違和﹂につながると指摘している。
第三部﹁︿都心部へと舞い戻る女﹀のゆくえ﹂では、﹃琴の音﹄
から﹁やみ夜﹂までの三作品に、﹁軒もる月﹄を加えて論じられ
ている。第一章﹁琴の音﹄では、わび住まいの森江しづが﹁恋
愛や結婚に背を向け、自律を志﹂しており、その﹁他者と立ち
交わることを避ける﹂生き方を﹁評価﹂する物語であると指摘
する。男性を避けるような﹁ひとり住み﹂に﹁主体性﹂を見出
す捉え方が提示されているといえよう。
第二章﹃花ごもり﹄は、ふたたび明治の﹁国民国家﹂という
視点から作品を読解しようとしている。お近は、﹁貞婦孝女﹂と
いった女性﹁国民﹂に求められた生き方に﹁息詰まりそうなほ
どに拘束され﹂、女ゆえに立身出世のような自己実現が叶わな
いと分析している。お近に、﹁自己を思うさま花開かせ﹂たいと
思う﹁主体﹂的な内面を見出すものであろう。なお、与之助へ
の思いを胸に甲州へ下る道を選ぶお新にはとくに注目されてい
ないが、また重要な登場人物であるだけに、彼女にも第二部ま
での分析視点からの言及がなされ、お近との対比的分析がなさ
れたらさらに面白かったかもしれない。
第三章﹃やみ夜﹄では、美しい外面、だけの存在と見られてい
るお蘭が、父を陥れて彼女を妾にしようとするなど、女の﹁人
格を認めない﹂波崎への﹁私怨﹂・﹁﹃女子心﹄の反逆﹂を露わに
して、﹁女夜叉の本性﹂を自覚していく物語だと分析している。
そうした﹁女夜叉﹂描写は、﹁女性の﹃外面﹄を偏重する︿女菩
薩﹀幻想に向き合﹂い﹁男性中心社会﹂を告発するものだと解
釈されている。
第四章の﹃軒もる月﹄は、主人公が高貴な男性からの求愛を
退け、平凡な夫との家庭を選ぶという物語である。著者は、﹁美
女が月夜に今後を決した﹂羽衣伝説と比較し、美しい主人公が、
月夜に決したのは、妾にと望む桜町の殿への未練を断ち、貧し
い夫との家庭を選択して﹁良妻賢母﹂をめざすことだったと読
み解く。彼女が、思いを寄せてくる殿のもとで妾として暮らし
1
1
3
ならず、彼女は、結局﹁心を持たぬ女として地上に残される﹂
当時の委・母像の規範から﹁大きく逸脱している﹂と、著者は
貞﹂であって、ましてそのために家政をおろそかにするのは、
たいと望むことは、たとえ心の内だけであっても夫を裏切る﹁不
れられていたら、より理解しやすく説得力に富むものになった
けられるのか、それが明治らしい逸脱なのかといった点にも触
という逸脱が、明治の文学状況のなかでは、どのように位置づ
た﹂と記されている。確かに、女性の﹁自己の内面に気づく﹂
口問との関連性という広い視野からの一言及が十分にできなかっ
のではないかとも思う。また、最も注目されてきた後期の作品
分析する。その修正のためには、桜町の殿への思いを断たねば
﹁天女﹂だったと論じられている。彼女の葛藤に、﹁心﹂を持と
作品については、そのことと主体的な﹁新しい女性﹂像の形成
か。さらに、執筆時に半井桃水という男性の指導下にあった諸
されると、読者の期待と関心をいっそう高めたのではなかろう
群についても、本研究の視点からの展望についていくらか言及
の﹁王朝物語的レトリック﹂を使った女主人公たちの外形描写
こうして、本書では、多少の濃淡はあれ一貫して、初期小説
うとする女の主体性を見出す視角からの解析であろうか。
のであると捉え、彼女たちがそれに逆らって恋心などを抱き、
などが、女性の内面を認めない男性の一方的な価値観を示すも
たことを強く漂わせている。平明な文章であり、新鮮な清涼感
ともあれ、本書は、著者が意欲的に研究に向き合ってこられ
という読みとの関連について、もう少し言及されてもよかった
かもしれない。
調として理解する従来の読みと訣別する試みは斬新で、とても
とともに、一気に読み進めることができた。充実した索引、詳
﹁自己の内面に目をこらすようになっていく﹂ところに主体性
を見出す読解をしているように思われる。王朝文学的色彩を基
興味深い。一葉文学全体の理解にも一定の見直しなどの影響が
六O O円+税)
細な文献リストが添えられているのも魅力的である。ご研究の
さらなる発展を願うものである。
(
二 O 一O年二一月二 O日 翰 林 書 房 二四六頁
及ぶ可能性があり、今後の進展が期待される。なお、本書での
読解の前提には、古典文学における女性の恋の位置づけ、また
ことと外面だけの存在と見なすこととの関係づけなどについて
古典文学にしても明治の社会通念にしても、容姿に目を向ける
一定の理解があると思われる。些細なことかもしれないが、そ
の理解のしかたに関連する言及の少なさが、やや気にかかる。
次の機会にご教示いただけたらと念じる。
本書の﹁あとがき﹂には﹁同時代の文学状況や一葉の後期作
1
1
4
林
主L
住圭君
之
である。一時代の文学者ではなく、普遍的な文学者であること
を目指したのである。﹂と結んでいる。
小林氏は、時代精神が前提としであって、それに高見がいわ
負おうとしていたのではない。過渡期の﹃挫折﹄の体現者たろ
うとしていたのではない。ただ彼固有の芸術の成就を願ったの
に対して根本的な疑問を呈し、異議申し立てをしている。
また﹁結﹂においては﹁﹃文学の思想﹄が、鮮やかに生成して
ゆく姿が、高見順という一人の作家の歩みであったと言ってよ
い。それは半世紀をかけて、時代の問題から普遍の問題へと抜
けて行く道程でもあった。﹂と述べ、﹁彼は時代の苦悩などを背
として、一時代のふさわしい体現者とみなすことは、彼を時代
時代の精神の一部に過ぎないとみなすことでもある。(略)高
見に向けられた﹃分裂﹄という言葉は、ほぼすべて、彼個人よ
りも先に、彼の外部の何ものかを前提として告げられていたよ
うに思われる。﹂と、従来の高見順評価の観点あるいは位置づけ
本
敦子著
﹃生としての文学││高見順論﹄
氏の﹃生としての文学│高見順論﹄は、そんななかで久しぶり
に出現した本格的な高見順論であり、高見順の文学的営為を全
円的に論じた著書として注目に値するものである。
同著における小林氏の研究のスタンスなり目的意識は、﹁序
論﹂および﹁結﹂で明瞭に語られている。すなわち﹁序論﹂に
おいては﹁﹃昭和知識人﹄の典型として、大正末から太平洋戦争、
そして戦後に至る激しい思想の転換期を生きた﹃時代の子﹄と
して、高見は語られてきや九﹂と述べた上で﹁高見を﹃時代の子﹄
梅
評
:
i
十年近く前、私は拙著﹃高見順研究﹄の後書きで、﹁高見順と
いう作家は、一時期﹃高見順という時代があった﹄と称せられ
るほど注目され﹂たにもかかわらず、﹁今までのところ本格的な
研究はさほど進んでいるとはいえないのが現状である﹂と述べ
たが、その後も百瀬久氏、桑尾光太郎氏等、二、三の例外を除
いて、高見順を対象とした持続的な研究を試みている論者は甚
だ少ない、という状況が続いていた。今回上梓された小林敦子
i
書j
1
1
5
得するに至った、と結論付ける。これは、従来の高見順文学に
体的に彼に固有の思想と文学を追求し、その結果、普遍性を獲
い時代の変化の中にあったにもかかわらず、高見は一貫して主
ば受動的に翻弄されていた、という見解はとらず、めまぐるし
して認識されていた、というのである。そしてこのことは、﹁故
然的な内的関連がある﹂と指摘する。高見にとって革命とは、
高見が、アナーキズムに近づき、前衛文学に向かったのは、必
いう。そして、﹁自我と文学を不可分のものとして考えてきた
我の拡充﹂を、マルキシズムから﹁自我の否定﹂を学んだ、と
旧﹂以前の高見にとって決定的に重大な問題が、従来言われて
外在的政治的思想としてではなく、何よりもまず文学の問題と
きたようないわゆる転向体験ではないことを意味している、と
ついての一般的な理解とは根本的に異なる発想であり、高見順
的な論考であると思われる。のみならず、氏の論考は、高見順
の文学の内実を真正面から聞い直そうとした、その意味で画期
という一人の作家についての考察を超えて、文学にとって思想
の論者によって様々な指摘がなされているわけで(小林もこの
いう。この見解について、私は否定するものではないが、高見
本著は、序論と結を除くと五章からなっており、それぞれ﹁選
にとっての転肉体験の持つ意味合いについては、従来から多く
ばれた文学﹂﹁現実としての文学﹂﹁戦争と文学﹂﹁思想としての
ことは本文中で触れている)、それらを批判的に乗り越え、自説に
より一段の説得性を持たせるためには、先行研究に対する具体
的分析が必要であろうと思われる。また、アナーキズムと高見
とは何か、という、より根源的普遍的な問題提起にまで及ぶも
ら晩年に至るまで、ほほ時間軸に沿って、約三十年に及ぶ高見
の関連についても、﹁アナーキズムの問題は、驚くほど問われて
のになっているように思う。
順の文学的営為の意味が、主に彼の作品分析を通して詳細に跡
いない﹂と述べ、白樺派との関連についても﹁白樺派をあくま
で自我の問題として読んでいたということは、同世代の知識人
らについても同様であって、例えば後者の場合だと、﹁同世代の
と歩みを異にしていた部分だと考える﹂と述べているが、これ
てみたい。
文学﹂﹁生としての文学﹂という章題が付けられていて、初期か
づけられ、論じられている。以下、章を追って具体的に検証し
まず、第一章﹁選ばれた文学﹂では、﹁故旧忘れ得べき﹂以前
知識人﹂の白樺派受容と高見のそれがどのように異なっている
の作品に焦点が当てられており、高見にとって、白樺派、アナー
キズム、マルキシズム、前衛文学などとの出会いがそれぞれい
か、実証的分析と比較という手続きが必要なのではないか。
何なる星の下に﹂を中心に論じている。まず﹁故旧﹂について、
第二章﹁現実としての文学﹂では、﹁故旧忘れ得べき﹂と﹁知
かなる意味を有していたか、といった問題についての筆者の見
解が述べられる。
高見は白樺派から﹁自我の尊厳﹂を、アナーキズムから﹁自
1
1
6
﹁この小説は転向文学であろうか﹂という、甚だ大胆な問題提
起をしている。﹁転向文学﹂とは何か、という聞い自体、解答が
困難な問題ではあるのだろうが、ともかくこの問題提起は面白
い。小林によると、他の転向文学に比して﹁故旧﹂では、﹁転向﹂
は作品の後景に退いているという。ここでも他の転向文学と
﹁故旧﹂との具体的比較検証という手続きが省かれている点は
気になるが、﹁故旧﹂では登場人物のそれぞれが見た世界が互い
に異なり、世界が混迷している、すなわち、この作品で描かれ
ているのは自他の世界間にある飽簡である、という指摘は鋭い。
鏡舌体と作品世界の必然的関連についての言及も説得的であ
る
。
﹁如何なる星の下に﹂については、﹁現実と文学をめぐる聞い
から高度に構成された(略)戦後へ続く思想展開への契機をも
苧ん﹂だ重要な作品ととらえている。これも﹁如何なる﹂の本
質に迫る注目すべき言及である。現実と文学の関係について、
高見は日本浪漫派の見解と通ずる点を持ちながらも、結局は認
めなかった、という指摘や、高見がリアリズムを単なる手法の
問題としてではなく、思想としてとらえていた、といった指摘
も興味深い。
第三章﹁戦争と文学﹂では、戦時下の小説、評論、日記を考
察の対象にしている。ここでも、例えばいわゆる﹁文学非力説﹂
を、戦時下という特殊な状況との関係でのみ意味づけるのでは
なく、﹁現実﹂と﹁文学﹂という大きな文脈の中でとらえるべき
である、とするなど、戦時下といえども高見の問題意識が戦前
から継続して追求されているものであることを引き続き述べ
る。﹁近代の超克﹂と高見の文学観が、ある意味で相通じるもの
であることを認めつつも、観点を変えれば相容れない側面が見
えてくる、なども重要な指摘である。
第四章﹁思想としての文学﹂では、戦後思想の潮流の見取り
図を手際よく整理したうえで、それらと高見の距離を測定しつ
つ、高見における﹁政治﹂と﹁文学﹂の問題を戦前からの連続
の相のもとに丁寧に分析している。この章で特に注目すべき
は、﹁文学の思想﹂に関する考察である。小林は、ドストエフス
キーを介在させながら、高見の﹁文学的思想﹂の内実を明らか
にしようとしている。そして、﹁現実的現実﹂とは質の異なるも
のとしての﹁文学的現実﹂の存在に言及し、それは﹁自分の実
感﹂においてつかまえるべきものだ、と説く。高見は具象から
普遍的真実を見出そうとし、例えば、﹁私﹂を書く場合も、現実
的存在としての﹁私﹂を描くのではなく、﹁私ならざる私﹂を描
くことで普遍性を獲得する、と言う。
第五章﹁生としての文学﹂では、高見のアナーキズム理解か
ら見えてくるもの、およびその集大成としての﹁いやな感じ﹂
について論じている。小林は、高見と他者との論争を通じて、
高見の思想を浮き彫りにすることに成功しており、﹁高見にとっ
て反リアリズムとは(略)既存の価値規範に反逆することで、
真の現実に至ろうとする、あくまで普遍的な現実追究の姿勢で
7
1
1
あって、言わば反リアリズムであることが、リアリズムである
ような﹂あり方を高見は求めていた、と、一見逆説的な表現で、
はなはだ興味深い問題提起を行っている。
また、小林によれば、高見にとってアナーキズムとは、大杉
栄のいわゆる﹁自我の拡充﹂を意味すると同時に自我の消去を
も意味しており、そのことによって、普遍的自我を確立し得た、
と述べる。第四章との関連でいえば、﹁いやな感じ﹂は﹁この神
のへど﹂の主題を発展させた作品であり、﹁文学の思想﹂の核心
が、知何なるものとして実践されるべきかを問、った作品である、
と評価し、結論付ける。非常に筋の通った高見理解であり、﹁い
やな感じ﹂の達成したものを明快に述べている点は評価するが、
例えば大杉のアナーキズム理解と高見のそれの内実の比較な
ど、さらに踏み込んで実証的に論じる必要がある部分が、いく
らか残されていることは今後の課題と言えるだろう。
以上、本書の内容を論の展開に沿って整理してみたが、全体
として従来の高見研究にはなかった、あるいは乏しかった論点
が随所に見られ、時に大胆とさえ思われる問題提起がなされて
いて、今後の高見研究に資するところの多い著書であると感じ
られた。その一方、重要と思われる事柄についても、結論をや
や急ぎすぎたためか、具体的な論証が今少し必要ではないかと
思われる箇所があったことも偽らざる感想である。また、多く
ないとはいえ、桑尾氏や百瀬氏、また木村一信氏などによる近
年の高見研究の成果もあるのだから、そういった先行研究を小
林氏がどのように参照し、自身の研究成果にどのように反映さ
(一一 O 一O年 二 一 月 二 五 日 笠 間 書 院 二 七 九 頁 二五O O円+税)
れているのか、訊いてみたいとも思った。
1
1
8
﹃
1950年代
﹁記録﹂ の時代﹄
五成
ところで、この﹁二つの側面﹂に対しては、さらに﹁対極に
あると一一一白つでもよい﹂別の﹁二つの側面﹂が考えられる。すな
わち、 x軸を︿文学(芸術)的﹀ 3 ︿非文学(芸術)的﹀、 v軸を
サークルの文化﹂という例をあげている。本書で扱われる﹁闘
争
﹂ H ﹁記録﹂の場は、およそ後者にあたるらしい。
凡﹄﹂に象徴される﹁大衆向け消費文化﹂と、それとは﹁対極に
あると言ってもよい﹃人民文学﹄﹂に象徴される﹁サークル運動、
析を通じて、いわば︿文学(芸術)的﹀と︿政治的﹀という、二
つの文脈がせめぎあう﹁闘争﹂の諸相を考察している。第二に、
本書のそうした分析 (
I
)は、近年、歴史学の領域などで推し進
右の簡単な整理をふまえるなら、本書の問題機制は、以下の
二点にまとめられる。第一に、本書はさまざまな﹁記録﹂の分
当するであろう。
できる。それらを、やはり戦後に創刊された雑誌によって、強
いて象徴させるとしたら、前者には日本共産党の理論誌﹁前衛﹂
あたりが、後者には﹁群像﹂(﹁美術手帖﹂)あたりが、さしずめ該
︿政治的﹀ O ︿非政治的﹀とする、おおまかな四象限図を思い
描くなら、﹁人民文学﹂は︿文学(芸術)的﹀かつ︿政治的﹀な
第I象限に、﹁平凡﹂は︿非文学(芸術)的﹀かつ︿非政治的﹀
な第E象限に位置づけられ、さらに︿非文学(芸術)的﹀かっ
︿政治的﹀な第E象限と、︿文学(芸術)的﹀かつ︿非政治的﹀
な第N象限という﹁二つの側面﹂を、あらたに想定することが
田
著:
その第一章﹁﹁記録﹂の時代としての 1950年代﹂において、
著者は﹁一九五0年代の文化状況を考える時、二つの側面を考
えざるを得ない﹂としたうえで、具体的に﹁大衆娯楽雑誌﹃平
浦
史:評 i
耕;…一
本書の本文は全六章からなるが、第一、六章は、第二章から
五章までの内容をふまえた、序論と結論に相当する。おおむね
前者は﹁﹁記録﹂の時代﹂を論じるに際しての問題機制を述べ、
後者は﹁1950年代﹂を論じたことの現在的な意義を述べて
いる。
鳥
j
雪j
3
羽
3
9
1
1
)とも
E
められているとおぼしい﹁大衆向け消費文化﹂の分析 (
あいまって、﹁一九五0年代の文化状況﹂の総体的な考察のなか
)な
N
で、狭義の︿政治的﹀(E)もしくは︿文学(芸術)的﹀ (
領域の考察を補完すると同時に、それらを相対化する視座を提
供している。やや別の観点を重ねていいかえるなら、それは当
時﹁前衛﹂や﹁群像﹂(﹁美術手帖﹂)の目次に掲げられたような個
人の営為 (E-N、いわば︿政治的﹀もしくは︿文学(芸術)的﹀前
衛)のみならず、﹁人民文学﹂に集約されるサークル誌にかかわっ
たり (I、いわば︿政治的﹀大衆)、あるいは芸能雑誌﹁平凡﹂を
享受したり (E、いわば︿非政治的﹀大衆)したような、今日まで
よく注目されてきたとはいいがたい、潜在的かっ匿名的な集団
の動向に立脚しようとする視座にほかならない。
ちなみに、つとに著者は﹃運動体・安部公房﹄(二 O O七)に
おいて、安部の︿文学(芸術)的﹀なテクストに未発の︿政治的﹀
な可能性をみいだし、さらにその固有名が冠された営為を、集
団による﹁運動体﹂の一環として(も)とらえていた。また、そ
うした﹁運動体﹂にかかわる資料の紹介にも、精力的に取り組
んでいた。本書に﹁1950年代﹂﹁時代﹂という匿名的な題が
冠されたことを、こうした試みの延長として理解するなら、い
わば自らの研究に対すると同時に、作家の固有名に依存した文
学研究一般に対する補完、相対化の意図が、そこには強く働い
ていたとみなされる。
第一章に触れたばかりで、いささか前置きが長くなりすぎた。
では、右にみてきたような問題機制の実践という観点から、以
下の章について順に言及する。
第二章﹁サークル運動と生活記録﹂は、サークル運動によっ
て産み出された膨大な﹁記録﹂のなかで、圧倒的な割合を占め
ていたという詩、及び生活記録に注目する。
前者については、サークル詩の運動が、療養所、シユルレア
リスム、東アジアにおける反体制運動といった、いわば主題、
思想、目的にわたる﹁様々な文脈﹂をふまえていたことを指摘
している。一般書ゆえの紙幅の制限もあってか、それらの個別
的な分析にまでは至らなかったものの、ここで﹁文脈﹂が明示
されたことの意義は大きい。
後者の生活記録については、戦前からの生活綴方の流れを汲
み、同時代の国民文学論に裏付けられたその運動が、しばしば
貧困や工場労働の過酷さを題材としていたこと、また﹁今日で
一吉田うメディアミックス的な展開﹂を示していたこと、そして﹁記
述主体の自己変革﹂を促すという目的意識において、石母国正
が唱導した国民的歴史学運動に通じていたことなどを述べてい
L
る。個人的には、工場労働の生活記録などにおいて顕著であっ
たという﹁記録﹂のジエンダ l ・バイアスの指摘が、とりわけ
興味深く思われた。
のアヴアンギヤルド﹂は、﹁夜の会﹂﹁世紀﹂
第三章﹁﹁記録
﹁青年美術家連合﹂などのグループに集った文学者、芸術家ら
が、文化工作者として下丸子の工場、小河内ダムの建設現場と
1
2
0
いった﹁闘争﹂の﹁現場﹂に赴き、おもにシユルレアリスムに
触発された新しい﹁記録﹂の方法(たとえば安部公房の提起した
﹁サプ・リアリズム﹂)を実践していたことを述べ、その産物たる
数々のルポルタージュ絵画を取り上げている。さらに﹁現在の
会﹂の編集によるルポルタージュ﹁日本の証言﹄のシリーズを、
絵画と文字テクストの﹁交響﹂を実現し、﹁独立後も続くアメリ
カ支配﹂を可視化したという点で、高く評価している。
こうした評価に、異存があるわけではない。しかし、それほ
ど有意義であったはずのルポルタージュが、運動としては比較
的短命に終わり、ルポルタージュ絵画の描き手の多くは、六0
年代に入ると狭義の﹁記録﹂の方法から脱却していた(とはい
え、河原湿の﹁日付絵画﹂や中村宏の﹁観光芸術﹂のように、独自に
﹁記録﹂の極北をめざしたかのような試みも散見されるのだが)。こ
うした退潮の局面について、﹁︿記録﹀運動立ち上げにあたって
のモチベ lシヨンは(中略)一九五七年の︿記録芸術の会﹀以降
においては次第に失われていった﹂といった程度の言及にとど
まっているのは、いささか物足りなく思われた。たとえば、米
軍基地に取材した池田龍雄らのルポルタージュに、﹁火炎ピン
闘争を産んで悪名高い一九五一年の日本共産党の新綱領が影響
してい﹂たというのなら、それが五五年の第六回全国協議会で
正式に撤回されたことなども、やはり﹁影響﹂していなかった
はずはなかろう。
第四章﹁ドキュメンタリーとテレピの始まり﹂は、まず戦前
の文化映画から戦後の岩波映画に至る、ドキュメンタリー映画
の系譜をたどり、ついで戦後のテレビ・ドキュメンタリー繁明
期における、いくつかの興味深い事実 (CIAと正力松太郎の、
原子力平和利用の﹁啓蒙的プロパガンダ﹂における結託など)を紹介
する。そして、同じくB C級戦犯の手記を原作とした劇映画﹃壁
あっき部屋﹄(脚本は安部公房による)とテレビドラマ﹃私は貝に
なりたい﹄とを対比し、再一一一の手直しを強いられたにもかかわ
らず、かろうじて﹁朝鮮戦争と圏内の再軍備、共産党の武力闘
争に継続する﹁戦時﹂﹂を描きえた前者に対して、後者が﹁﹁平
和﹂な﹁戦後﹂﹂に安住し、圏内の﹁庶民﹂向けに﹁関、ざされた
被害者の共同体﹂を立ち上げてしまっていたことを、周到な調
査に基づいて明らかにしている。
第五章﹁﹁闘争﹂の記録/﹁記
録
﹂
の
闘
争
﹂
は
、
ダ
ム
、
基
地
、
炭坑・鉱山、裁判といった﹁現場﹂に即した、︿政治的﹀ H ︿
文
学(芸術)的﹀な﹁闘争﹂ H ﹁記録﹂の事例研究である。﹁深く
分析することよりも、広く問題の所在を示すことを心がけた﹂
という﹁あとがき﹂が記す本書の企図にそむかず、事例ごとに
紹介された貴重な資料は、大変な数にのぼる。しかし、とはい
え﹁深く分析すること﹂が、けっしてなおざりにされているわ
けではない。たとえば、ダムをめぐる﹁記録﹂について、(まさ
に原発をめぐるのと同様に)﹁現実を物語化し構成する力﹂の対決
によって﹁あるべき未来を奪い合う﹂﹁闘争﹂をみいだし、また
杉浦明平﹁ノリソダ騒動記﹄の﹁省略と戯画化﹂の方法を解明
1
2
1
する著者の分析は、ここで充分な深度に達している。
以上の第二章から五章までをふまえて、第六章﹁﹁記録﹂は現
実をどう変えたか﹂は、最初に触れたように、本書の意義を総
括している。章題に明らかなとおり、それは一九五0年代の﹁闘
﹂ H ﹁記録﹂がどのように現実を変革し、その﹁現場﹂がど
争
のように現在と地続きであるかということの検証に基づく。す
なわち、ここで﹁闘争﹂ H ﹁記録﹂(を論じること)は、おもに現
在の現実に対する︿政治的﹀有効性という文脈から評価されて
いる。
もちろん、そうした文脈を認めるにやぶさかではない。しか
し、それを明示するのなら、﹁記録﹂の運動と狭義の︿政治的﹀
な動向との照応について、さらに限定していえば、先に第三章
に触れて述べたとおり、日本共産党に代表される反体制勢力の
現在に至る﹁闘争﹂との照応について、もう少し言及して欲し
かったようにも思う。
ところで、こうした著者の総括の文脈とは、あるいは裏腹に
あたるかもしれないが、一方で﹁記録﹂の運動は、同時代の︿非
政治的﹀ H ︿文学(芸術)的﹀な文脈とも、それなりに照応して
いた。たとえば、ルポルタージュ絵画と通底するような傾向は、
第三章で著者が限定的に言及した︿政治的﹀な範囲を超えて(一
部にメンバーの重複はみられるものの)、﹁デモクラ lト﹂﹁実験工
房﹂﹁具体美術協会﹂といった前衛芸術のグループにも、しばし
ばみられた。また、土門拳の唱導によるリアリズム写真運動は、
ときに﹁乞食写真﹂などと榔捻されながら、復興から取り残さ
れた人々の生活の﹁記録﹂に取り組んでいたが、当初のおもな
担い手は、雑誌﹁カメラ﹂の投稿写真欄に集った︿非政治的﹀
なアマチュア写真家達であった。
こうしたわずかな例からさえうかがわれるように、︿政治的﹀
と︿文学(芸術)的﹀という文脈の﹁闘争﹂には、なかなか平衡
点をみいだしがたい。本書の議論には、それぞれの方向に向け
て、さらには冒頭でみた四つの象限のすべてに向けて、まだま
だ展開できる余地があるように思われた。そもそも著者自身
が、﹁生々しく野蛮な﹁新しい過去﹂への扉を開く鍵に、本書が
なることを願っている﹂と、第六章を結んでいる。すなわち本
書は、一九五0年代の﹁記録﹂が、今日なお汎用性の高い﹁鍵﹂
であることを明らかにしつつ、さらなる﹁闘争﹂への﹁扉を聞
く﹂ことを、私達に促している。
三 O O円
一
二O 一O年二一月一一一 O日河出書房新社
(
+税)
頁
1
2
2
現在、学際化の傾向を一途にたどる日本の近現代文学研究だ
が、テクスト論以来はや四半世紀が経過した。およそ言語を使
著者によれば、日本の障害者運動は、脳性麻療をもっ障害者
によって、一九五0年代から始まり、一九七0年代に結実して
者たちにもインタビューすることで、障害者における文学活動
の意義を肌身で理解しようと努めた労作となっている。
﹁車問いザ之のふ?と
用する人間の営みで言語表象と無縁のものはなく、その意味で
文学研究が対象とする外縁は更に拡大・延長していくのであろ
いるが、その母胎となった文学活動は、﹁綴る・まじわり﹂(岡知
史)と評されるように、機関誌や同人誌を舞台に個人的な感情
﹁しののめ﹂
うが、脳性麻樺の障害者とその文学活動を扱った本書も、そう
した動向が生み出した成果の一つといえよう。
のように表象し、障害者としての主体性を発見していったかを
誌面にたどる、いわば障害者の内面史である。本書では、一九
五0年代から七0年代における文学活動と障害者運動の二本柱
を中心に記述されているが、文献だけでなく運動を担った当事
されたことで語り得ぬ者となっていた可能性がないではない。
デューサーとして自己形成を遂げる事が出来たが、その一方で
横田弘(一九三三1
) は就学免除されており、学校教育から隔離
を綴ることで展開された特徴を持つ。障害者たちは、文学活動
を通じて社会と接続し、綴ることを通じて自己表現する文化を
功
本書で最初に注目すべき点は、障害を従来の身体的な障害と
捉えるのではなく、社会によって特定の身体を排除する形で構
す
キ
有していたのである(花田春兆三言うまでもなく、彼等は自己
表現が容易にできる身体的・社会的状況下にあったわけではな
木
著 i
﹃障害と文学│-
"
も=
、.
u
築された制度・文化と考える﹁障害学﹂との融合が企図されて
いる点である。そこで対象に据えられたのは、文学作品に表象
か
ら
樹 i評 i
い。本書で紹介されている代表的な障害者の一人である花田春
兆(一九二五 j)こそ教育環境に恵まれてオ lガナイザ l兼プロ
荒(雪j
された障害者像ではなく、障害者が文学活動の中で、自らをど
井 i
3
2
1
そんな彼等を通して、障害者の言説が社会へ直接に紹介された
ことの意義は浅からぬものがある。社会的に語り得ぬ者をして
語らしめるサパルタン・スタディ lズに倣えば、もちろん語り
得た障害者の背後には、障害ゆえに語り得ぬ者もいる現実が控
えており、あくまで本書は語り得た者の言説を対象とした研究
であるという点で、対象化しうる﹁限界﹂があるということを
読者側は意識しておかなければならない。
第一章﹁文学が紡ぐネットワーク﹂では、肢体不自由児を対
象に一九三二年に公立学校として初めて開校した東京市立光明
学校と、その卒業生から生まれた回覧誌﹁しののめ﹂(一九四七
年五月創刊)が果たした文学的意義と社会的意義、すなわち障
害者間の感情の共有を形成する役割や﹁青い芝の会﹂神奈川県
連合会の母胎となったことが概説された。
第二章﹁反抗する﹃人間﹂たち﹂では、﹁しののめ﹂掲載の文
章から、在宅障害者が、同居する親への不満を記した文章が検
討される。障害者たちは、身近な私的権力である親への反抗を
通じて一個の人間化を果たすのであるが、そこには親に依存し
なければ生存できない条件下の中での厳しい葛藤状況が析出さ
れている。障害者たちが禁じられていた﹁性﹂の獲得を通じて、
自己同一性を確立するという指摘は肯われるものであったが、
作品分析においては、障害ゆえに被支配の立場にある男性障害
者が、親の支配圏外で性関係を得ょうとし、そこに存在意義を
かけていたことが述べられる。﹁親から禁じられた︿性﹀を獲得
し、その対象となり得る異性を手に入れることは、親の支配圏
外に新たな関係性を築くことに他ならない﹂(八七頁)とあるが、
その︿新たな関係性﹀とは障害者(男性)が︿異性を手に入れる﹀
こと、すなわち女性を所有することで自らも支配する側に立ち、
﹁人間﹂化日﹁男性﹂化を果たすということを意味しているの
ではないだろうか。ここに性を起点に自己同一性を果たそうと
する障害者(男性)が、人間 l男性中心主義に回収されてしまう
問題が見て取れるように思う。障害者による自身の内面の発見
を評価する方向性は妥当なものだが、発見されたものをどう評
価するのかという点で課題が残った。
ついでながら本書では、障害者の文学活動の中心的な担い手
が男性であったことからか、第二章を除けば女性の障害者とそ
の言語表現に関する言及が少ない。﹁しののめ﹂では、女性が短
歌・俳句などの韻文を多く発表していた一方で、男性は散文と
いう傾向をしめしていたことが二章の注記で言及されている。
和歌・俳句から著者の求めるイデオロギーの要素の抽出が難し
いのは推測できるが、それではなぜ女性の障害者が短歌・俳句
を選択するのか、言い換えれば言語表現・一言語文化の選択、さ
らには発表機会そのものにジエンダ lバイアスがなかったのか
どうか、差別構造を扱う本書は、同時に考える必要があるよう
に思ったところである。それは翻って、第五・六章とも関連す
るが、障害者における﹁父﹂の存在という課題とも関わるだろ
。
ノ
司
、
1
2
4
第三章﹁﹃安楽死﹄を語るのは誰の言葉か﹂で、障害者にとっ
ての﹁安楽死﹂の意義が取り上げられた。一般に深甚な病苦か
九六二)の安楽死特集号では、障害者自身が安楽死について語っ
ており、家族から抑圧を受ける在宅障害者の言説の中には、安
害者にとっての安楽死の意味は異なる。﹁しののめ﹂四七号ご
﹁︿母﹀なる障壁﹂では主に障害者(男性)における母の問題を、
横田の初期詩の分析を通して論じた。そこでは本来性欲の発動
第五章、第六章は、六O、七0年代に日本脳性マヒ者協会﹁青
い芝の会﹂で活動した横田弘にスポットが当てられる。第五章
めぐって﹂という特集号が組まれた中の言説にも認められ、安
楽死は他者によって強いられるものへと変容している。
り、﹁青い芝の会﹂を先頭に生存権を主張していく姿勢へと転換
していく。その危機感は、﹁しののめ﹂七五号で﹁再び安楽死を
楽死という自己否定を媒介することで、自己の生命を所有する
自由を発見し、主体性を獲得することが出来るという、転倒し
が母子分離の契機となるのだが、障害者の場合は母親への母胎
回帰への欲望に重なってしまうという心理の機制が明らかにさ
ら患者を救うための窮余の策として想定される安楽死だが、障
た自己表現を採用する者がいることが紹介された。﹁安楽死﹂
とは、家庭内で抑圧される在宅障害者がたどらざるを得ない屈
第六章﹁告発の詩学﹂では、七0年代の優生保護法改定反対
れている。
第四章﹁文芸同人誌﹃しののめ﹄に見る生命観の変遷﹂は第
折した自己表現とされ、在宅障害者の家庭生活の内実を垣間見
ることが出来る。
運動を通じて、﹁青い芝の会﹂の運動を主導することになる横田
の母性観が、詩を通じて考察された。障害者の困難は、自立生
活が困難なところにあるが、それは身体的・精神的な問題から
経済的自立が図難であるという社会的な理由が一つ。そして介
三章の補説であり、五0年代から七0年代までの安楽死の議論
を取り上げることで、﹁しののめ﹂上で展開された生命観の変遷
を追っている。戦後民主主義の中で、主体性の確立は重要な
介護者としての母、さらには社会としての母の問題がある。特
中絶規制の強化を盛り込んだ優生保護法改定案は、ウーマン
告発して見せたのである。
値観に影響を与え、自立を困難にする。著者によれば、横田は
そのような母を障害者の主体性を抑圧する象徴的バリアとして
に詳述された社会としての母は、成長過程において障害者の価
護を家族、とくに母親に委ねなければならないところからくる、
テl マであったが、障害者の中で安楽死は国家・社会への犠牲
的な配慮を行うような主体の形成を意味しており、著者はそこ
に優生思想との相似形を見出している。安楽死問題において
は、安楽死を肯一定するという自己否定を通じて、自らが自分の
生死の決定権を有する主体性を獲得することを宣言している
が、優生保護法改定案(一九七二)に見られるように優生思想が
台頭してきたことで、障害者自身の生命が脅かされるようにな
5
2
1
リブ運動の側からは女性を産む性として固定化して家制度の中
へ再配置を目論むものとして批判されたが、一方﹁青い芝の会﹂
害者の生を﹁健全者﹂との闘争と捉えていた。共生やバリア・
フリーなどと﹁健全者﹂の側から障害者へ降りて来る口当たり
の良い施策に対して、絶対的な拒絶を宣言する横田の姿勢は、
がある。﹁健全者﹂の価値観と異なる障害者の独自性や可能性
を強調する横塚晃一(一九三五│一九七八)に対して、横田は障
張してやまない、したたかで魅力的な人間の存在を示してくれ
たことにあるだろう。
二 O 一一年二月一 O日 現代書館 二五六頁 二二 O O円+税)
(
その峻拒の姿勢で﹁健全者﹂社会の不可視の暴力性を浮かび上
がらせる。おそらく本書の最大の収穫は、﹁健全者﹂との融和や
共生などを拒み続けることで、﹁健全者エゴイズム﹂を可視化す
るとともに、健全者の価値観に染め上げられた自身の価値観を
リセットし、自身の生命に執着する﹁障害者エゴイズム﹂を主
は、リブの中絶規制反対の主張に反対し、女性の中絶への主張
が障害者の生存権を脅かすものとして強く反発している。著者
はここで、﹁青い芝の会﹂の運動が男性の運動であり、男性とし
ての存在証明の意味があったこと、また優生思想を批判する上
で、障害者自身も社会と接続した母を経由して優生思想や健全
者エゴイズムに同化しており、自身の価値観を相対化する困難
を指摘している。障害者(男性)の世界が構造的に抱え込んで
いる問題点が示された。
障害者自身の言説を参照しながら、その主体性の確立を説く
著者の論究は説得的である一方で、求心的な姿勢も印象に残る。
例えば横田の詩の分析においても、時折その傾向が強く出るよ
うだ。第五章で横田の詩が詳細に分析されているが、性欲の燃
焼をテ l マにしたと解説された﹁消えた微笑﹂の詩は、﹁性﹂の
隠聡である﹁裸婦の群像﹂に﹁きみ﹂を含む﹁ぼくら﹂が冷た
く見おろされているのであり、﹁ぼく﹂なのではない。﹁ぼく﹂
とすることで横田を意識させることができるが、ここでは異性
におののく青年たちという普遍的な形象を読みとることもでき
るだろう。横田の詩を起点に、障害者運動の政治的・実践の場
へ知的領野を広げるという展望が説得力を持つためにも、﹁文
学﹂とのバランスは意識されるべきである。
それにしても横田弘の存在感は、今日でもなお白を惹くもの
1
2
6
)
1
﹃志賀直哉の ︿家庭﹀
岡
友
加
といった、研究史上長く等閑祝されてきた小説を分析対象とし
て取りあげ、後述するように志賀の文学表象に新たな相貌を見
出し、指摘したという点で独創的なのである。
第二に、本書の特徴として、同時代言説と志賀文学との関わ
行路﹂を中心とし、﹁暗夜行路﹂との深い関わりのなかにある﹁城
の崎にて﹂﹁和解﹂といった作品系列を辿るなかで専ら展開され
てきたからである。或いは、そうした系譜とは別の試みとして
も、優れた客観小説である﹁小僧の神様﹂や﹁真鶴﹂﹁赤西嘱太﹂
等について個別に論考が重ねられるというアプローチが主で
あった。そこを本書の著者はあえて﹁佐々木の場合﹂や﹁邦子﹂
目新しさも感じられず、ごく当たり前のアプローチにしか見え
ないかもしれない。が、志賀の研究史上では、きわめて新鮮で
冒険的な試みであると位置づけられる。その理由は二つある。
第一に、従来の志賀研究の分析対象は圧倒的に初期作品に集
中しており、中期を論じるとしても、それは完成された﹁暗夜
││女中・不良・主婦﹄
である志賀直哉の﹁中期作品の課題﹂が述べられた上、本章(第
1章1第叩章)では、﹁大津順吉﹂﹁佐々木の場合﹂﹁暗夜行路﹂
﹁邦子﹂﹁焚火﹂﹁菰野﹂に関する考察、及、ぴ他作家の小説の分
析も踏まえての女中、不良の表象の検討が行われている。さら
に終章で﹁研究主題・研究方針・研究展望﹂について述べられ、
結ぼれるという構成である。
本書のねらいは明確であり、序章の説明に拠れば、明治末か
ら昭和まで長く作家として活躍した志賀直哉の﹁中期作品の持
つ可能性を、同時代の文学や社会との関連を視野に入れて、考
察﹂し、﹁﹃白樺﹄派および私小説作家という、その二つのイメー
ジとは異なる部分に光を当てることによって、志賀直哉作品を
再検討する可能性を探りたい﹂(七頁)というものである。
右のようなねらいは、志賀を論じたことのない者にはさして
下
裕.~-----.
佳 i
評:
著. •
本書は全一二章から成る。序章では、本書の主たる分析対象
古;青j
7
2
1
りを明白にしたという点が挙げられる。実は、志賀の小説から
時代との連関を指摘するのは容易ではない。なぜなら、志賀は
れている女中・富の立場が、同時代の女中言説の検討のなかで
鮮明にされた。かつ軍人になった佐々木についても、彼が﹁日
清戦争以降の大量採用の流れを受けている﹂(六九頁)世代であ
ることをふまえて、富への求婚理由を探っている点はこれまで
にない佐々木理解であり、興味深い視点の提供であった。ほほ
れたのであり、その点だけでもきわめて画期的な成果である。
さらには、小説の主人公佐々木を相対化する人物として配置さ
志賀直哉批判(同時代の文壇と積極的に関わることのない、独善的
な作家であるとの批判)の言が取り込まれているが、彼らが望む
作家像を戯画化してみせたのが、小説の﹁私﹂だというのであ
る。文壇に対するアクチュアルな関係性を持たない作家とされ
てきた志賀が、実際には挑発的に小説を通じて時代の言葉と応
とが論じられている。﹁芸術至上主義﹂者を標携する主人公・作
家の﹁私﹂は、夫とは反対に﹁家庭の平和﹂を強く望んだ妻・
邦子に自殺されてしまう。妻の理想との対立項のなかで成立し
ていた﹁私﹂の﹁芸術至上主義﹂は、妻の死によってもろくも
瓦解する。著者に拠れば、小説には広津和郎や森本巌夫による
次に、 5章の﹁文壇小説としての﹁邦子﹂﹂では、小説﹁邦子﹂
が同時代の志賀直哉批判に対する反批判としての要素を持つこ
同時に発表された﹁城の崎にて﹂の陰に隠れてきたこの小説が、
実は中期小説のはじまりを飾るにふさわしい質量をそなえた小
説であること、そして同時代の女中・軍人のあり方と深い関わ
りのなかにあることを証した出色の論である。
流行語の使用にも警戒を示した作家であり、小説化にあたり、
その背景たる時代の情報は極度に切りつめられていることが常
だったからである。また、志賀直哉は自身の意に沿わない作品
をあえて発表する必要の・なかった作家であり、ゆえに完成され
た小説の多くが、既にその小説の背景となった時代から大きく
遅れて発表されるということも決して珍しくなかった。そこで
は必然的に小説を生み出した時代状況とのアクチュアルな関係
性が失われがちである。よって、本書で試みられているように、
小説とその背景としての時代言説との密な関わりを抽出するこ
とは、きわめて困難な課題だったのである。
以上のような困難を排して本書は書かれた良書であるという
ことをまずは確認した上で、次に個々の論の成果について述べ
たし。
本章の考察のなかで、特に着目すべき論考は第2章と第5章
における﹁佐々木の場合﹂と﹁邦子﹂を論じた箇所である。ま
ず、第2章﹁女中は軍人と結婚すべきか│﹁佐々木の場合﹂﹂で
は小説で語られる事件のモデルになったと考えられる、新聞記
事の所在が明らかにされた。この小説の成立については志賀自
身が﹁新聞の三面記事から想ひついた﹂(﹁創作余談﹂)と明言し
ていたのだが、本論の登場をもってはじめて該当記事が発見さ
1
2
8
酬していたことを自証した論であり、志賀直哉という作家の把握
自体を根底から考え直す契機を与える秀れた論考と評価でき
る
。
その他にも、連載小説としての﹁暗夜行路﹂がいかに読まれ、
いかなる物語が同時代読者に期待されていたかを論じた第3章
ゃ、連載当時﹃改造﹄に掲載された新聞広告をもとに﹁暗夜行
路﹂にあり得た展開を考察した第4章、小説らしさを脱色し、
︿期待の地平﹀をあえて裏切る﹁菰野﹂の方法など、小説が発
表された現場、同時代の動向に目配りしながら、動態としての
小説を捉えようとする、周到な調査と考察に支えられた手堅い
論が並んでいる。
ただし、このようにすぐれた考察が含まれていることは重々
承知した上で、それにもかかわらず、本書の読後に総体として
結ぼれるはずの志賀文学の像が、甚だ暖味模糊としたイメージ
に止まるのは、私だけだろうか。おそらく、この原因には本書
の構成が深く関与していると考えられる。たとえば、読者を本
章へと導く案内がなされているはずの序章では﹁各章の見通し﹂
として第l、2章を﹁女中小説の部﹂、第315章を﹁主婦と夫
の関係性と家庭の部﹂、第6、7章を﹁表現的可能性の部﹂、第
8章im章を﹁家庭の境界的存在の部﹂と大きく四つに分類し
てみせる。しかしながら、女中の登場する小説は第l、2章に
とどまらず、第5章や第8掌にも存する上、﹁主婦と夫の関係性﹂
と﹁家庭﹂がなぜ並列にされるのか(主婦と夫は﹁家庭﹂の構成要
員ではないのか?)といった疑問も生じさせる区分けとなって
いる。また、﹁表現的可能性﹂という言葉は他章の把握と全く異
なる位相の言葉であり、それは﹁表現の可能性﹂とそのまま了
解してよいのなら、他章でも当然追究されている問題のはずで
あり、この四つの区分けをわざわざ行った必然性や有効性は疑
わしい。少なくともこれから本章を読もうとする者にとって、
決して親切な案内とは言えないだろう。
また、終章でも本章のまとめが再度行われているが、そこで
は8章
、 l章
、 9章、叩章、 5章
、 2章
、 6章
、 7章という順
序で内容が語られている。このように、著者自身も章立て通り
に語ら(れ)ない内容であることからすれば、果たして、本書の
構成は現行の在り方が最良だったのか、やはり疑問である。あ
えて愚直に、扱う作品ごとに発表された年代に沿って、或いは
右終章での把握に基づいて論じた方が、﹁︿女中﹀︿不良﹀︿主婦﹀
の表象に注目して志賀作品の展開を捉えよう﹂(三O六頁)とし
た本書の特徴をより明白に読者に伝えられたのではないか。こ
れはもちろん、様々な時期に様々な要請から書かれた論考を一
書にまとめる際の誰もがまぬがれがたい事象であるが、今少し
工夫の余地があったのではないかという憾みが残る。
さらに細かな点で気になった点をあげる。第l章では﹁大津
順士口﹂執筆により、志賀直哉が生まれて初めて得た原稿料が﹁五
O円﹂(一二一頁)とされているが、﹁百円﹂の誤りではなかろう
1
2
9
か。﹁五O円﹂とするのであれば、これまで踏襲されてきた志賀
の年譜事項に抵触する情報であり、根拠を挙げて訂正する必要
があろう。また、第3章で﹁暗夜行路﹂の本篇の時任謙作の年
齢が﹁二五、六歳﹂(九O頁)とされているが、これはあくまで
﹁暗夜行路﹂連載前に単独の作品として発表された﹁謙作の追
憶﹂の情報であり、﹁暗夜行路﹂の﹁序詞(主人公の追憶こ発表
の際には、その情報はわざわざ削除されたのではなかったか。
﹁暗夜行路﹂はこの削除(年齢が記載されていないこと)により、
あくまで推定でしか時任謙作の年齢を語れないはずである。実
際、本書第叩章で﹁暗夜行路﹂について再ぴ論じた箇所では﹁年
齢に関しては主人公の生年は作者のそれよりもやや若く設定さ
れており、作品冒頭では二O半ばと見られる﹂(二八七頁)と推
定のかたちで閉じことが記述されている。一書のなかでの整合
性を持たせてほしい。また、叩章で謙作が放蕩をはじめた場所
が﹁品川﹂(ニ九二頁)とされているが、﹁深川﹂の誤りであろう。
以上、甚だ瑛末な指摘に止まったが、本書が新たな志賀直哉
研究の領域を切り開いた労作であることはいくら強調しても足
りない。志賀直哉の︿家庭﹀表象が織りなす劇が、中期のみな
らず、前期や後期においていかに展開したのか、引き続き著者
の手によりつまびらかにされることを期待している。
(二 O 一一年二月二 O日 森 話 社 三 二 五 頁 三 二 O O円+税)
1
3
0
藤尾
健剛著
﹃激石の近代日本﹄
藤尾健闘氏の﹃激石の近代日本﹄は、著者の長年にわたる激
石文学に関する研究を、激石における歴史の表象や思想的文脈
の受容といった観点を中心としてまとめた、 A 5版四百頁に及
ぶ大冊である。内容は﹃吾輩は猫である﹄﹃坊っちゃん﹄におけ
る時局性の表出、﹃草枕﹄﹃虞美人草﹄に見られる朱子学の影響、
﹃それから﹄における無意識の思想的文脈、﹃三四郎﹄﹃行人﹄
﹃明暗﹄などの主人公がはらむ時代的暗喰性、﹃こ‘ろ﹄におけ
る集合意識としての﹁明治の精神﹂の意味、﹃道草﹄のはらむ物
語図式などを論じたI部と、トルストィ、ル・ポン、トゥルノー
ら、激石に影響を与えていることが想定される文学者、思想家
との関連や、﹃夢十夜﹄と﹃三四郎﹄、激石と鈴木三重吉といっ
た、テクスト、作者聞の関連を論じたE部とによって構成され
ている。
勝
たかという問題性は、必ずしも全体にわたる論点となってはい
ない。むしろ東洋、西洋の思想・哲学的な文脈が激石文学にど
のように入り込み、作品形成を左右しているかという問題性の
方に重きが置かれている。たとえば朱子学との連関については
﹃草枕﹄の末尾で、﹁余﹂が出征する青年を、那美が元夫を見送
る場面で、﹁余﹂と那美がそれぞれ﹁側隠の情﹂いいかえれば﹁仁﹂
という朱子学的な価値観を発動させ、それが利己的な﹁情﹂を
脱落させて﹁非人情﹂の境地を現出させるのだとされる。また
﹃虞美人草﹄においても、主人公の小野が﹁私欲﹂によって藤
尾との結婚話を進めようとしていたのが、急転直下の形で藤尾
を捨てて恩師の娘の小夜子に向かおうとするのは、恩師の現在
の落暁した境遇への﹁側隠の情﹂の発動によるものだとされる。
さらにこの章で言及される﹃それから﹄の代助が、友人平岡の
妻となっている三千代に接近しようとするのも、彼女の現在の
境涯が同情に値するものとなっていたからであるという。
田
評
;i
したがって﹁激石の近代日本﹂という表題が想起させる、激
石が捉え、表現した﹁近代日本﹂の像がどのようなものであっ
柴
:
書i
1
3
1
一方ウィリアム・ジェ lムズやル・ポンの言説に言及しつつ、
念的な産物として、批判的に眺められることが多かったといえ
人草﹄で、むしろそれゆえにこの作品は小説としては生硬で観
は作品のなかからもある程度読みとられるものであり、一一一千代
の存在が代助のなかで肥大していく過程が、対象が意識の辺縁
朱子学の文脈に比べれば、﹃それから﹄における無意識の作用
であり、﹁仁﹂的な美徳を体現しているとは到底いい難いのであ
る
。
して、友人と家に背き、三千代も姦通罪の主体にしてしまうの
自身の内にせり上がってくる﹁自然﹂の欲求に忠実であろうと
ある。また最後の場面で那美が元夫の姿によって喚起されたも
のが﹁側隠の情﹂であるかどうかも、一瞬の表情を対象として
は確定しえない。また﹃それから﹄の代助が三千代に対してお
こなう行為の起点に﹁側隠の情﹂があることは否定しえないが、
総体として彼の所行が﹁朱子学的﹂であるわけではない。彼は
州に発とうとする元夫の姿に那美が覚える﹁動的﹁非人情﹂﹂は、
それが著者の用語であるようにすでに朱子学とは別個の観念で
いう﹁動的﹁非人情﹂﹂が作品のクライマックスを構成している
とされる。しかし﹁朱子学では、﹁仁﹂をもっとも重視し、他の
﹁性﹂はこれに従属する関係にあると考える﹂のであれば、満
﹃草枕﹄については、対象に対する﹁側隠の情﹂に動かされた
主体が、対象との同調・共振のなかで感情を対象に移入すると
トでつ。
﹃それから﹄を中心として人聞を動かす無意識の力や、ボール
ドウインの﹃社会的倫理的解釈﹄の内容を踏まえて、﹃こ、ろ﹄
に見られる﹁集合意識﹂と人物の関わりを論じた章では、こう
した西洋思想の受容が作中人物の行動のあり方を左右する機構
が考究されている。﹃それから﹄の眼目となる、三千代の存在が
代助のなかで比重を増してくる展開には、意識の周縁的位置に
あった三千代が焦点的存在へと変じていくというジェ lムズ的
な意識観や、幼少期に親しんだ儒教的な価値観が意識の中心部
分に移行していくことで、代助の三千代への共感が強まってい
くという、過去の経験を重視するル・ボン的な意識観が写し出
されているとされる。﹃こ注ろ﹄には﹁人はもっとも大きな部分
においてだれか他の人間である﹂というボールドウインの言説
が反映される形で﹁集合意識﹂としての﹁明治の精神﹂を﹁先
生﹂と﹁K﹂が分かち持つ様相が現れているという。
こうした考察は、作品にはらまれている力学を明るみに出す
試みとして興味深く、漠然と激石が中国や西洋の思想に惹かれ、
影響されていたと見なされがちな評価に、具体的な内実を与え
る意味をもっている。けれどももちろん作品は思想的言説のプ
ロパガンダではなく、現実的な局面に置かれた人間同士の織り
見れば、﹃草枕﹄﹃虞美人草﹄﹃それから﹄のうち、その価値観が
から焦点へと移行していく変化として意味づけられることは理
なす行動と感情の織物である。たとえば朱子学の文脈について
作品造形の力学としてもっとも明瞭に機能しているのは﹃虞美
1
3
2
政略結婚を強いる父親に対峠する自己の居場所を明確化してい
るとも考えられる。むしろ代助における無意識は﹁集合意識﹂
解しやすい。けれどもそうであれば、三千代への愛の自覚はむ
しろきわめて意識的な選択としてなされており、それによって
述べるように、過酷な生存競争をもたらす臆面もない功利主義
が、明治時代の潮流として存在していた。志賀直哉の内村から
ば内村鑑三が挙げられるだろうが、内村の禁欲的な精神が明治
期の日本に行き渡っていたわけではない。著者自身も別の章で
の勝利に湧く情勢への榔撒であると同時に、ロシア軍を鼠に媛
小化する表象がナショナリズムと無縁であるとはいえないはず
輩﹂が、ロシア兵の倭小化された寓意である鼠を捕ろうと台所
で奮闘するものの空振りに終わってしまう挿話は、日本海海戦
が考究されている。﹃猶﹄における激石は﹁日露戦争に対して、
あえてこれを無視する態度をとることで、批判的な立場を暗に
示している﹂とされるが、日本海海戦の勝利に刺激された﹁吾
いることと、この作品が日露戦争を表象する文脈をはらむこと
こうした思想的文脈への考察に多くの頁が割かれているのに
比して、著書の表題にある激石における﹁近代日本﹂の歴史的
文脈への考察はさほど大きな比重を占めていない。それがなさ
れるのは主として﹃吾輩は猶である﹄﹃坊っちゃん﹄という初期
作品についてであり、前者については日露戦争を背景にして書
かれているにもかかわらず、激石がこの戦争を作中にきして取
り込んでいないという姿勢が問題化され、後者については主人
公の坊っちゃんが武士ないし侠客の寓意として輪郭付けられて
ゑりヲ@。
の離反にも見られるように、むしろ内村的な精神からの落差の
なかに﹁明治の精神﹂が営まれていたという見方もできるので
の﹁集合意識﹂に︿無意識﹀のうちに浸透されることで、恋人
と関わる形で三年前の三千代の平岡への﹁周旋﹂にあったとも
いえるだろう。すなわち三年前の明治三九年はまだ日露戦争の
勝利の余韻が残存する時期であり、それを分けもっている国民
を友人に譲るという行為を、代助が一種の英雄主義の発露とし
て遂行してしまったとも見なされるのである。
この﹁集合意識﹂を中心的な論点として﹃こ、ろ﹄を論じて
いる章では、ボールドウインの一言説を踏まえつつ、﹁個人と社会、
個人と他者たちを結ぶ粋であると同時に、個人と祖先たちを結
ぶ緋﹂でもある﹁集合意識﹂としての﹁明治の精神﹂のあり方
が焦点化されている。著者によれば﹁明治の精神﹂とは、第一
に先生とKが共有していたという﹁欲望を罪悪視する古風な倫
理観﹂であり、さらに作中に語られる﹁自由と独立と己れ﹂の
尊重もその現れであるとされる。したがって両者を統合した
﹁厳格な戒律に裏打ちされた自由と独立の精神﹂こそが﹁明治
の精神﹂の内実であることになる。もしそれがこの時代の﹁集
合意識﹂であるとすれば、当然それは明治の人びとによって︿集
合的﹀に担われたものでないとならないが、その論証はなされ
ていない。こうした内実に沿った精神の担い手としてはたとえ
3
3
1
比べれば、激石の﹃猫﹄が日露戦争を﹁無視﹂していることに
はならないだろう。
島崎藤村の﹃破戒﹄が日露戦争と無縁に成り立っていることと
の毒﹂に思う心が彼女への接近の契機となるとされるが、同じ
年の日記に激石は﹁余韓人は気の毒なりといふ﹂と記している
時の日本が持っていた対外的な関係も考慮されてもよかったの
ではないだろうか。たとえば﹃それから﹄の代助が三千代を﹁気
近代と前近代の狭間で揺れ動いている日本を象っているという
見方はまったく妥当なものと思われ、異論はないが、全般に当
である。少なくとも同時期に発表された小栗風葉の﹃青春﹂や
﹁﹃坊っちゃん﹄と日露戦争﹂と題された章では、坊っちゃん
に込められているという武士・侠客の文脈には教えられるとこ
のであり、こうした隣国への感情が作品に投影されている可能
性もある。それによって代助の行為が﹁仁﹂の実践であると同
(一一 O 一一年二月二 O日 勉誠出版
四O三頁
六五O O円+税)
を推し進める上で重要な一石を投じるものであるといえるだろ
。
ノ
司
、
時に利己的な自己拡張でもある二面性も説明できるように思わ
れる。しかしいずれにしても本書における思想・歴史的文脈へ
の綴密な考究は、激石研究に豊富な材料を提供しており、それ
ろが大きかったにもかかわらず、その一方で日露戦争と結びつ
けられる論述の整合性には、了解し難いものが感じられた。す
なわち著者はこの作品において日露戦争が、その祝勝会におい
て﹁野だたちが坊っちゃん・山嵐に対して遂行した方の復讐﹂
として表象されているとしている。﹁野だたち﹂は﹁卑劣な陰謀
と称するしかない赤シャツ一党﹂とも言い換えられているが、
その場合当然近代日本は坊っちゃんを追放しようとしている赤
シャツ・野だいこに相当し、﹁復讐﹂の対象である坊っちゃんは
ロシアの寓意であることになる。けれどもこれは坊っちゃんを
武士・侠客の寓意であるとする章の趣旨に矛盾することになる。
評者も坊っちゃんを武士の寓意であるとする立場を取るが、そ
れはむしろ幕末に西洋列強に単独で挑んで粉砕されるという
国家としての日本を表象する存在として読者の共感を呼んでき
﹁無鉄砲﹂な前歴を持つ薩長の倒幕派になぞらえられるもので
あり、だからこそその流れを汲む坊っちゃんは、未成熟な近代
﹃三四郎﹄﹃行人﹄﹃明暗﹂を論じた章で提示される、主人公が
たはずである。
1
3
4
百
? i
第一章は、ダダ詩の検討である。中也の詩的影響は、短歌←
﹁中原中也の時代﹄
ダダイズムL象徴詩という理解が通常であるが、意味的にも形
ていたことは、研究史上よく注目される点である。
の意識など均整を目指そうとする象徴詩のあり方が矛盾するた
め、中也が象徴詩と出逢った後でも、ダダイストを自称し続け
の両方がはじめから混在するあり方に中也のダダイズムの独自
ではなく、むしろ、ダダ的な破壊と均整を目指そうとする志向
氏は、中也のダダ詩の分析を通じて、ダダイズムの不徹底さ
のそれと重なっており、またその対象が二冊ある中也の詩集の
うち﹃山羊の歌﹄の方にその関心の中心がある点においても非
体像を確認しておこう。
する今回の批評に繋がっているとも言える。まずは、著書の全
た点であったが、同時にその勝手な﹁期待の地平﹂が本書に対
よって中也詩の相対化が期待される点は、個人的に最も魅かれ
ある!)というタイトルが端的に示している様に、一一吉田説研究に
あげ、ダダ詩以降の中也の詩業に対する意義を見出している。
から学んだ叙情性や、認識以前をめぐる問題系を議論の組上に
叙情性を立ち上げる契機を得たと指摘する。そこに当時の恋愛
そこに反することも与することも出来なかった位置から独自の
性を見出そうとする。
さらに同時代の﹁センチメンタリズム﹂関連の言説にふれ、
た。特に﹁・:の時代﹂(このタイトルは私の博士論文と偶然同じで
常に多くの問題意識を共有しており、色々と教・わる点も多かっ
氏がこれまで研究に着手してきた時期は、ちょうど私の研究
ら、第一詩集﹃山羊の歌﹄収録の主たる詩が作成されたと思わ
れる一九三O年頃までを対象としたものである。
九十年代後期から精力的に中也論に取り組んでこられた長招
百
日
式的にも破壊を目指そうとするダダのあり方と、ソネットや韻
雅
著 i
である。主たる考察は中也が詩人として出発した一九二四年か
田
一
彦!評 i
氏のこれまでの論考に加え、多くの書き下しが加えられたもの
疋
j
貴!
長
5
3
1
存在を最初に中也に教えたのは、富永太郎であったろうが、そ
めぐる諸問題:・と、中也研究に関心のあるものならば、この目
クスである。ダダイズム、富永、小林、象徴詩、生活と芸術を
氏の研究スタイルは、よい意味でも悪い意味でもオーソドッ
る構成である。
の富永からの強い影響を中也がいかに断ち切っていったのか、
第二章は、象徴詩との関係についての検討である。象徴詩の
その軌跡を﹁天折した富永﹂や﹁或る心の一季節﹂そして﹁朝
されるだろう。逆に言えば、﹁中原中也の詩人としての原点﹂に
次の構成が典型的な中也物語の軌跡であることは、すぐに了解
しろ必然であったとも言える。
拘る氏の研究スタイルから考えれば、こうした考察の手順はむ
さらに、富永を﹁帰納的﹂と評し、対して自己を﹁演緯的﹂
の歌﹂に見出す。
小林の鑑賞者としての理論に抗する形で、中也が自己の理論を
とみなす中也の見方を小林秀雄やランボ I の影響下に考察し、
こうとする論考には教わる点が多い。従来は、意味不明な箇所
そして氏のもう一つの特徴は、作品自体の詳細な検討である。
中也のダダ詩自体の詳細な分析を通して、その様相を導いてゆ
構築して来た過程を明らかにしようとしている。
第三章では、ダダイズムが形成した精神的支柱を象徴という
をダダ的であるなどと述べておけば、事足りるであろうという
フオルムによって表現してゆくという中也のスタイルが確立さ
れてゆく過程において、最も重要なキーワードとして氏は﹁生
風潮がなきにしもあらずであったこの時代の諸作品を意識的に
取り上げ、そのダダ的な観念や詩を同時代の﹁サンチマンタリ
スム﹂や﹁生活﹂という言葉のあり方と対置して考えてゆく手
活﹂という語集に注目する。
ただし、中也の﹁生活﹂という語実は、同時代言説の﹁生活﹂
つまりはプロレタリア的なそれとは全く意を異にしている。む
能性をも感じさせるものだと思う。
終章は晩年の中也の動向について論じている。ここでの﹁自
ぎないという指摘は、大岡昇平ら先行論者たちと同じ思考形態
を共有していたことでもあり、氏が本書では扱うことの無かっ
あり、後の影響はそうした生得的なものを具現化したものにす
チーフが同時代言説の影響を受ける以前からの生得的なもので
しかし、こうした分析自体は詳細であっても、中也の詩的モ
つきなどは、当時の中也詩のあり方を相対化する契機となる可
しろその異質ぶりこそが、中也の思想の根幹にあるとも言える。
そうした同時代的な異質性ゃ、それを中也の残している読書
記録の中から検証しようとする過程は、大変興味深く、学んだ
れるキーワードである。それぞれの時期の中也において、触れ
力﹂﹁他力﹂という語棄も、この時期の中也研究ではよく論じら
た初期短歌などの問題をここに加えても、同時代言説との関係
ことも多かった。
るべきテ l マなりキーワードなりが、きっちり押さえられてい
1
3
6
し得ない。
性は、現在に至るまで、なかなか中也詩という言説群を相対化
記録しようとする行為そのものは、研究の組上にのぼらせるべ
れる。特に﹃山羊の歌﹄の構成意識を論じる箇所では、従来の
解釈の域を出ていないのではないだろうか。この後に続く﹁生
同時期の読書記録の内容から指摘しうるといった点は、非常に
興味深いものであった。
しかしながら、論が後半に進むにつれて、徐々にいわゆる定
番の中也史に則した物語に安易にはまってゆくきらいが感じら
に対する﹁生﹂の重視、中原の富永評における﹁演縁﹂﹁帰納﹂
という語の使用法など、中也の詩論に通底した思考や用語が、
きであるという指摘は正鵠を得ていると恩われる。
論中における﹃近代文学十講﹄における科学や物質至上主義
これは単に氏の方法の不徹底を糾弾しようとしているのでは
ない。そもそも言説研究がある特定の言説を特権化せずに、む
しろその相対化をもくろんでいるという認識が私の一方的な理
解に過ぎないかもしれないか広だ。(そもそも氏は、白書に関し
て﹁言説研究﹂であると述べているわけでもない。)
既に歴史化された観のあるニュ lクリティックの詩観の一つ
に、文学的表現は﹁パラドックス﹂を含むものであることが指
摘されている。中也の詩に矛盾する要素の存在を指摘し、それ
を固定化した概念への抵抗とみる氏の中也観も、中也詩に内在
するパラドックスを肯定的に評価しようとするものであり、そ
れは中也詩の称揚の仕方のいわば﹁王道﹂である。
活﹂を論じ﹃在りし日の歌﹄へと接続してゆく部分は、そうし
た論証パターンに従来から付随している﹁物翠巴に魅力がある
ため、中也の伝記解釈の説としては面白いと感じたが、これま
での中也論が、こうした魅力的な﹁物語﹂に牽引される形で形
成されて来たことも事実である。そこでやはり、読書や﹁生活﹂
いと、私を含め、言説研究による中也詩の相対化は困難である
というのが、現在の私の率直な感想である。
後者は、中也の詩論の体系を論じてきた本書において、終章
の後に﹁付﹂として付け加えられている章である。氏の詩論分
うか・::。
に関する言説群の調査が、中也詩を時代的に相対化する様相が
見たかったと思うのは、私の個人的な期待値に過ぎないのだろ
本書において、こうした思いを強くさせられたのが、﹁読書﹂
及び﹁芸術論覚え書﹂についての二つの論考である。
析には、領かされる点も多く、特に﹁象徴とフォルム﹂の章で
論じられた﹁暗示﹂と当時の象徴理解の水準との関係、そこか
しかし、こうしたパラドックスが中也詩に内在しそれは評価
すべきものであるということ、もしくは、そうしたパラドック
スを生み出す詩法が、どの様な言説群にも先立って中也に生得
的なものであったという論証パターン、このどちらかを崩さな
氏も指摘しているように、中也は一九二七年に突然読書を始
めたわけではない。しかしながら、己の読書体験を系統立てて
7
3
1
多くの中也詩の解釈に敷術出来る重要な指摘だろうと思う。一
方で、私の論に対して、﹁生と歌﹂と﹁芸術論覚え書﹂の聞に断
ら導かれる象徴と意味が循環するという中也の詩観の指摘は、
そもそも逆のベクトルを有している可能性は否定できない。最
後に本書と関係する事項を記載した年譜が付いていることも、
言説を微分化してゆく作業は、中也の思考原理を抽出しそれを
言説空間に解き放ち相対化したいという私の個人的欲望とは、
むろん、氏が本書で提唱する各時期の詩論、詩篇、日記等の
楽しみに待たれるところである。
でもない。むろん、氏の中也論は今後も継続してゆくわけで本
書はその出発点に過ぎない。これらについては、今後の論考が
組上に置かなかったという点である。これらの問題がこれまで
述べてきた氏の方法意識と直結すべき問題であることは言うま
為を時系列に問題化し、その意識の変遷を探ろうとしながら、
それらが﹃山羊の歌﹄という詩集に収飲してゆく過程における
問題、例えばバリアント検証とか、編集意識の問題などを論の
もう一つ氏の手法で気になったのが、ここまで中也の詩的営
何なのか:::気になるところである。
それをはっきりと示しているのかもしれない。しかし、もしそ
うであるのならば、中也の言説に﹁時代﹂が召喚される理由は
絶線を引き、その問題意識が異なることを主張している。つま
り、前者にあった主客一致(不一致)の問題系とは異なる議論
が、後者では展開されているというのであるが、こちらには私
にも異論がある。
私が中也の詩論に一貫して主客一致(不一致)の問題を指摘
し、その連続性を指摘しているのは、その主張が同時代的言説
(特に現象学をめぐるそれ)と様々な形で接続されてしまうこと
を重視しているからであり、そこに中也の独自性を認める以上
に、同時代的な言説空間の付置に相対化したいと考えているか
また一見飛躍の多い中也の詩論の理論展開は、現代の言語学
らである。
的な論理の範鴎で一定の理解が可能なこと、さらには、中也の
詩論には自説の正当化の手段として常に芸術家と対比する概念
(例えば﹁生活者﹂)などが用いられることなども、﹁芸術論覚え
最後に、そそっかしい私は誤植に関して人の事を到底一言える
立場では無いが、数カ所引用されている私の名前が全て間違っ
書﹂以前から指摘しうる中也の詩論の特徴であることは拙書で
も再三指摘している。だからこそ、ある詩論を特権的な箇所と
して論じることは中也の詩法のビルディングストーリーを形成
ている。そのことを中也風に﹁なにゆゑにこ﹀はかくは差ぢ
らふ﹂と自戒を込めながら、指摘させて頂こうと思う。
(一一 O 一 一 年 二 月 二 五 日 笠 間 書 院 三 人 四 頁 三 人O O円+税)
つある批判を想起してしまう。
してしまい、結果的に中也詩(または詩論)のいわゆる﹁神話化﹂
を補強してしまう、といった最早それ自体がクリシェと化しつ
1
3
8
美佳著
肇
第I部第一章の﹃風流京人形﹄論では、主人公の女学生・辰
巳永代について、﹃女学雑誌﹄で展開された欧化風俗による女子
の小説の一つひとつに見出そうとするのである。そして紅葉の
企ての意義を検証するために、同時代の小説や評論・学術書な
どを幅広く参照し、社会的文化的なコンテクストの中で丹念に
考察しているところに本書の特色がある。
戸的な﹁世界﹂に愛用された﹁趣向﹂が、新しい明治の﹁世界﹂
を表現するための﹁趣向﹂として機能していく状況﹂を、紅葉
よび各論を踏まえての総括的な終章が付されている。
まず序章において著者は、先行研究が紅葉の小説を正当に評
価できていないことを概観し、その小説を読み解くための枠組
みとして﹁世界﹂と﹁趣向﹂という観点に着目する。それらは
ともに歌舞伎や浄瑠璃の作劇法に由来する用語であり、﹁世界﹂
が特定の時代・場所・人物の類型をいうのに対し、それに新味
をもたせる創作上の工夫を意味するのが﹁趣向﹂であるが、﹁江
﹃﹁小説家﹂ 登場││尾崎紅葉の明治二0年代﹄
が、岩波書庖から刊行されてから二十年近くになる。それまで
散在していた紅葉の諸テクストが全集に収められ、手軽に読め
るようになったことで、紅葉研究はようやく活性化し、論文も
発表されることが多くなった。しかし、一冊の書物としてまる
ごと紅葉を論じたものは、まだごくわずかにすぎない。そのよ
うな中で、本書は正面から紅葉の小説の内実に切り込んだ意欲
作であるといえる。
副題に﹁尾崎紅葉の明治二0年代﹂とあるとおり、本書は、
紅葉が活躍した最初の十年を一括りとし、その時期の主要な小
説について三部構成で論じている。取りあげられているのは、
第I部﹁﹁小説家 への過程﹂が﹁風流京人形﹄﹁二人比丘尼色
L
俄悔﹄、第E部﹁﹁小説家﹂という方法﹂が﹃夏痩﹄﹃伽羅枕﹄﹃む
き王子﹄、第E部﹁﹁新世界﹂を仮構する﹂が﹃三人妻﹄﹃心の閤﹄
﹃多情多恨﹄であり、ほかに著者の問題意識を表明した序章お
関
評
:
j
長らくの閉まとまった個人全集のなかった尾崎紅葉のそれ
書j
馬 j
場
9
3
1
改良の言説とのずれを手がかりに、﹁永代に近代小説的な人物
造型を求めると矛盾が生じよう。むしろ当代の欧化による改良
の﹁世界 Lを縦軸に、﹁京人形 Lが趣向として仕組まれたのが永
代であったと考えてみれば、その人形の如き︿あどけなき﹀も
理解できる﹂とし、またそうした永代に恋する二人の青年たち
には、政治小説に仕組まれた﹁趣向﹂との類似性があり、﹁当代
流行の政治小説の趣向が滑稽化されたもの﹂であることが指摘
される。文学的出発期の紅葉が、欧化風俗のスケッチにとど
まっていたのではなく、同時代の改良小説群、とりわけ政治小
説に対する批判意識をもち、それらへの違和感から︿文学的主
体﹀を立ち上げていこうとしたことが跡づけられている。続く
第二章の﹃二人比丘尼色機悔﹄では、先行する俄悔物語を前提
としつつも、物語展開の連続性を断ち切り、場面と場面を対照
させる構成上の﹁趣向﹂の新しきゃ、同時代の小説に流通して
いた﹁夫を妻が見送るという趣向﹂などに注目し、それらが﹁涙
を主眼﹂とするこの小説の悲哀を重層化する効果をあげている
ことが詳細に示されていて説得力がある。
これに対して、紅葉が﹃読売新聞﹄に入社した直後の小説を
対象とする第E部は、﹁世界﹂や﹁趣向﹂という観点が後退し、
その分だけ各論のモチーフが拡散している傾きがありはしない
だろうか。第一章の﹁夏痩﹄論では、近世以来の女訓書および
西洋から移入された倫理学・心理学の言説に依拠して、﹁嫉妬﹂
と﹁愛情﹂の問題をめぐる登場人物たちの対立の構図を捉え、
さらに当時の﹃読売新聞﹄における女学生の醜聞に関する報道
との差異を追究している。その綿密な読みには、多くの新見が
含まれているが、次の﹃伽羅枕﹄を論じた第二・三章には、疑
問点が少なくない。﹁﹁小説家﹂のパフォーマンス﹂と題された
われ
第二章では、﹃伽羅枕﹄の作中に登場する︿著者﹀と名乗る人物
の存在意味を検討し、この時期の紅葉は、小説や随筆を通して
︿元禄狂﹀としての﹁小説家﹂の自己イメージを創出しようと
していたことを述べて、﹁﹁伽羅枕 Lが、﹁小説家﹂・紅葉と、作
中の︿著者﹀とが完全な等号で結ぼれた地点で書かれたもの﹂
であり、﹁そうした﹁小説家﹂イメージが形成された時点で、そ
の態度によって書かれた︿快話﹀(広告文)といった方がより適
切﹂であると論じている。そしてその頃の江戸考証プ lムとい
う時代のコンテクストの中で、主人公・佐太夫の話を︿著者﹀
H紅葉が考証し再編したことにより、江戸の美意識が明治の美
意識へと変容しているとする。しかし、小説世界の内部におけ
るフィクシヨナルな機能としての︿著者﹀とその外部にある現
実を生きる作者とは、いったいどのような関係にあるのだろう
か。さらに、﹁︿心理学﹀的一代記﹂と題された第三章では、﹃伽
羅枕﹄が西洋の近代科学的な知としての心理学を援用している
とされるが、主人公や語り手の叙述を当時の心理学の一一言一一口説と直
接的に類比するのではなく、両者を媒介する何らかの補助線が
必要だったはずである。また、﹃むき王子﹂を論じた第四章では、
つ淑徳。という。和魂。(お喜代)と裸体画芸術という。洋才。
1
4
0
のだが、紅葉が裸体面を題材とする小説を書くことができたの
は、﹁︿絶対的にいふ美術の美﹀と対峠し得る、相対的な芸術観
の存在を立ち上げているからである﹂と結論づけるためには、
(蘭絡)の融和の物語﹂として読む可能性を提示しようとする
葉が考えていたものが、あくまでも小説の文としての、虚構と
しての言文一致体﹂であって、欧文式の構造にもとづく﹃多情
えがある。最後の﹃多情多恨﹄を論じた第三章では、日清戦争
後に紅葉が描こうとする﹁新世界﹂や﹁趣向﹂と不可分の関係
術書、劇評、図像分析などを駆使して検討されていて読みごた
た個人の金銭に対する欲望は、もはや道義的な善悪の価値判断
とは無関係であることを同時代の多様な言説から浮き彫りにし
する﹂(序章)ためであるという。すなわち、﹃金色夜叉﹄に代表
される、幅広い読者の支持を集めた通俗的大衆的な側面につい
の主要作が取りあげられている。それは著者によれば、﹁﹁金色
夜叉﹂よりも、文体模索の集大成といえる﹁多情多恨﹂を、日
清戦後から見たときのピ lクと捉え、紅葉の通時的変化を検討
にあるものとして、その言文一致体の独自性がさぐられる。﹁紅
さて、日清戦争前後の小説を論じた第E部で、第一章に取り
その﹁相対的な芸術観﹂の中身を明らかにしなければならない
だろ、っ。
多恨﹄のデアル体が、主人公・柳之助の特異な︽妻ハ朋友デア
ル︾という論理と響き合っているとする見方は新鮮である。
以上のように、本書では明治二0年代の紅葉に限定して、そ
ている。ただ、その﹁拝金世界﹂を体現する主人公・葛城余五
郎に配合される女性たちについては、﹁趣向﹂の解明が不足して
の積極的な再評価の姿勢には大いに共感できるとしても、関わ
てはいったん保留して、従来の無思想・旧道徳の作家というイ
メージから紅葉を救い出し、近代主義的な価値観に立ち向かお
うとする新しい側面に光を当てようとするのである。ただ、そ
あげられているのは﹃三人妻﹄である。ここでは、富国強兵の
スローガンのもとで重商主義が推し進められたことによって
﹁拝金世界﹂が到来し、その新しい﹁世界﹂において解放され
で、盲目であるがゆえに﹁宇都宮の繁盛が生み出す快楽幻想か
れなければならないのは、本書で紅葉が描いたとされる近代を
撃つための価値には、はたしてそれに見合う十分な強度がある
いるのではないだろうか。一方、﹃心の闇﹄を論じた第二章では、
小説の舞台となる宇都宮が、明治以降に急激に膨張した新興都
市であることが示され、その近代化を凝縮した特異な空間の中
ら目覚めることのできない者﹂として主人公の佐の市を捉え、
彼が恋慕するお久米との関係に、浄瑠璃・歌舞伎の清玄桜姫も
のからの借用を見るとともに、それが劇的な行動に帰結するの
たとえば、終章には、﹁おそらく紅葉の小説が、近代的リアリ
ズムと無縁なのは、それが成立していなかったというだけでは
のかどうか、という点である。
ではなく、語られることのない﹁心の闇﹂を新たな﹁世界﹂と
して提示したものであることが、地誌や同時代小説、評論、学
1
4
1
なく、そもそもそうした絶対的・普遍的価値を前提とする発想
を確保しえたのかも気になるところである。
もっとも、紅葉文学を支える制度やメディアの規制力につい
かにして﹁自律的な小説家﹂としての自己のアイデンティティ
本書によって紅葉研究が着実な進展をみせたことは確かだろ
。
ノ
守
、
ものを﹁読む﹂ことに挑み、同時代の言説を博捜するだけでな
く、初出と単行本の本文の異同を丁寧に確認し、口絵や挿絵の
図像をも分析するなど、多彩なアプローチによって解釈を積み
重ねていくその姿勢は、近年には数少ない貴重なものであり、
のの水準を明らかにする試みとは、別の視座を用意する必要が
あることは言うまでもない。しかも、徹底して紅葉の小説その
て検討するためには、本書のように小説世界の奥深くに測鉛を
下ろし、その根底から読み解くことによって紅葉が達成したも
や思考の相対化こそが、複数の価値を存在させるために必要
だったからではなかったか﹂、あるいは﹁紅葉にとって喫緊の課
題だったのは、西洋列強の価値の存在を受け入れつつ、一方で
異なる価値を存在させるための思考であり、いわば相対的に価
値を認め合う立ち位置を保持することだったものと思われる﹂
と説かれているが、紅葉が描いた﹁粋﹂や﹁色﹂が﹁功利的か
っ合理的な判断からは理解不可能なもの﹂だからといって、近
代主義的な価値観に真っ向から対峠し、それを相対化する力を
真に持ちえたかどうかは疑わしい。
また、本書のタイトルにあり、本文中でも繰り返し鈎括弧付
きで表記される﹁小説家﹂が、一般的な小説家とはどのように
異なるのかも明瞭とは言い難い。第I部第二章には、﹁紅葉に
とっては、﹁小説家﹂とはそれを職業として引き受ける専門家の
なお、著者には、本書に未収録の論考として、﹃青菊萄﹄﹃多
情多恨﹄から﹃金色夜叉﹂への文体の変遷を分析した﹁︿調和﹀
への挑戦││尾崎紅葉の小説文││﹂(﹃日本近代文学﹄一一 O 一0 ・
五)があることを言い添えておく。
本体四二 O O円 +
二 O 一一年二月二八日笠間書院
(
税)
頁
ことを指した。過渡的な身分ではなく、それ自体が価値を持つ
身分を作り出すこと﹂とあり、終章は﹁﹁小説家 Lを引き受ける﹂
と題されてもいるのだが、そこで言及される﹁明治の新しき事
業としての小説家という存在に自己同一化すること、そのこと
自体を自らの問題として引き受けた紅葉﹂の﹁自律的な小説家
のあり方﹂とは、後に紅葉文学の価値を否定した自然主義の小
説家たちゃ夏目激石などとは一線を画する意味を持つのだろう
か。さらに、新聞というメディアの中で不特定多数の読者に読
んでもらうことを前提として文学活動を行った紅葉自身が、い
九
1
4
2
﹃岡本かの子
華
子
(仏教研究の側面に触れた論考は僅少である)対象とされ、集中的
に論じられる傾向にある。両者の影響関係に言及されることは
両書を併せた改訂版を刊行する計画があるとのことで、かの子
文学の世界の総体を捉えんとする壮大な試みとなる。短歌・宗
歌にまで及ぶ。第二篇では、小説﹃過去世﹄、﹃家霊﹄、﹃老妓抄﹄、
﹃鮪﹄、﹃生々流転﹄、﹃女体関顕﹄が論じられ、前書から本書に
至り、代表的な小説作品はほぼ網羅されたことになる。今後は
そういった研究状況にあって、外村氏の業績は際立っている。
先行書である﹃岡本かの子の小説︿ひたごころ﹀の形象﹄(二O
O五・九おうふう)では、内在する仏教性を主軸に小説を読み
解いた。続編である本書で対象とされたのは、短歌と小説であ
る。三篇の構成になっており、第一篇は短歌、第二篇は小説だ。
小説は前書で既に論じられているせいか、短歌により比重がか
けられている印象を受けた。第一篇で怨上に載せられたのは、
﹃かろきねたみ﹄、﹃愛のなやみで﹃浴身﹄、﹁わが最終歌集﹄と
いう主要な歌集に留まらず、没後、一平によって上梓された歌
集﹃深見草﹄、小説﹃母子叙情﹄や﹃老妓抄﹄に詠み込まれた短
短歌と小説││主我と没我と││﹂
一人で三つもやって、(中略)頭に浮かぶのは賠舵である﹂、﹁自
分で不自然な気がしないうちは、三つの癒を背負って行くつも
りである﹂というかの子本人の言説に基くものだ。その活動は、
歌から出発した後、仏教研究に執心し、それらの素養が小説に
結実したと看倣されるのが一般的である。歌人として評価する
か、小説家として評価するかについては、見解の相違があれど、
歌・宗教・小説が分かちがたく結び付いて﹁岡本かの子﹂が成っ
藤
あっても、一人の論者によって短歌と小説が横断される機会は
少ない。
ていることに異論は出ないだろう。しかし、研究を顧みると、
明らかなジャンルの棲み分けがある。歌か、小説のいずれかが
近
著
j
評j
彰
i
書j
外
岡本かの子は、しばしば﹁三つの癒﹂をもっ﹁賂舵﹂に聡え
られる。著者の外村氏も引用しているが、﹁歌と小説と宗教と、
村
3
4
1
教・小説という全てのジャンル、さらに歌集・小説の全ての作
品に挑むという偉業には、ただただ圧倒された。
さて、前書の︿ひたごころ﹀に引き続き、本書の副題である
﹁主我と没我﹂も外村氏独自のクリティカル・タームである。
これが、短歌から小説へと地続きに論じていく上での鍵となる。
外村氏は、﹁短歌を﹁主我﹂、小説を﹁没我﹂﹂とし、﹁短歌は強
い自我意識の表出、小説は没我(脱自我)を契機とする意識変容
を焦点としている﹂と述べる。
﹁第一篇短歌﹂には、﹁短歌論・序説│自己表現に執した誠
直な歌ひと│﹂が付され、主にかの子の人生と短歌のかかわり
について述べられる。﹁芸術による自己表現をまっとうするた
めには、かの子は短歌の形をとるだけでは満足できなかった﹂、
﹁かの子の短歌は、生涯にわたって人間・かの子の心を象徴的
に写す鏡﹂といった位置付けは必ずしも目新しいものではない
が、論拠としてかの子の証一吉田が示されているので、説得力のあ
るものとして改めて受け取った。特に全集未収録の新資料﹁芸
術に対する不断の悩み﹂では、終始﹁歌という形式に無頓着﹂
であったことが語られており、評伝研究においても注目に値す
。
る
全ての歌集を通して、表現上の特徴、特に﹁われ﹂の語を軸
にして、短歌に表出する詠み手の﹁主我﹂(自意識)が検証され
ていくわけだが、﹁主我﹂という言葉からは、かの子の文学に対
するステレオタイプの批評、﹁ナルシシズム﹂の語が想起させら
れる。﹁主我﹂と﹁ナルシシズム﹂の差異化が重要な観点となる
だろう。最初の章﹁前期短歌の内面表出│﹃かろきねたみ﹄か
ら﹁愛のなやみ﹄へl ﹂では、﹁われ﹂と﹁君﹂の呼称が着目さ
れる。﹃かろきねたみ﹄では、強烈な﹁われ﹂がほとんど見られ
ず、対になる﹁君﹂を理想的な恋人としてシンボライズさせる
と、自己の想念の内にとり込み、主観に内面化させていると指
摘される。しかし、﹁愛のなやみ﹄に至ると、﹁君﹂は詠み手を
悩ます他者として立ち現れ、それに伴い﹁われ﹂の語も頻出し
始める。﹁君﹂と﹁われ﹂の自意識が措抗している中で、新たに
登場してきた表現が﹁かの子﹂と捉えられる。﹁かの子よなが枇
杷の実のごと明るき瞳このごろやせて何かなげける﹂や﹁かの
子かの子はや泣きやめて淋しげに添ひ臥す雛に子守唄せよ﹂な
どは、かの子のナルシシズムの典型として否定的な文脈でしば
しば引き合いに出される歌なのだが、外村氏は、﹁かの子﹂とい
う表現をつなやみ﹂を客観視しながら包容しようとする内的他
者﹂と肯定的に評価した。続く章﹁﹃浴身﹄の自意識像│﹁われ﹂
と﹁おのづから Lの交感│﹂では、﹁おのづから﹂という表現に
着目がなされ、ありのままの自己を生かしたいとする、理想を
求める詠み手の自意識が浮き彫りにされる。しかし、外村氏は、
﹁かの子﹂同様、詠み手の自意識に、内省の姿勢が見られるこ
とを見逃さない。理想を追求するがゆえに抱えざるを得ない
﹁自己の矛盾を強く凝視する特徴が顕著﹂とする。
﹁ナルシシズム﹂の評価に真向から疑問を呈しているのは、
1
4
4
﹁﹃浴身﹄にみる自責と自己愛│石川啄木を合わせ鏡として│﹂
の章である。外村氏は、かの子の短歌に見られる﹁自己愛﹂は、
決して手放しの自己陶酔に留まるばかりの浅薄な心情ではない
とし、その内実を、啄木を補助線に読み解いていく。啄木の自
己問答歌と、かの子の短唱﹁誰が誰をば云ひ得るものぞ/われ
よ/あまりにわれをも/責むるなかれ﹂とを並べ、﹁分裂した自
我による問答からは、自意識の強さと自己阿責﹂がうかがわれ
るとし、かの子における﹁自己愛﹂は、自己凝視による自賓と
表裏一体であるとした。まとめの章となる﹁﹃わが最終歌集﹄と
﹃深見草﹄の位置│歌風の変遷と貫流するもの│﹂で、﹁﹁われ﹂
H自我の表出が後年になるほど人事自然を通して肯定的に詠ま
れている﹂、﹁﹃わが最終歌集﹄で生命の向日性とも評しうる境涯
に至つ﹂たと結論付けられた。
かの子の短歌は、小説以上にその劇的な人生と重ね合わされ
て読まれがちであったが、外村氏の短歌論で射程に入れられる
のは、短歌の背景にあるかの子の人生ではなく、あくまでも短
歌そのものである。使用される表現を丹念に追っていくスト
イックな方法で、第一歌集から最後の歌集に至るまで、一貫し
て﹁主我﹂のあり様を見つめ、変遷を辿った。その過程におい
て、氏自身が﹁各歌集の自我意識の表出に拘ってきたため、各
歌の﹁意味﹂の奥にある詩情の考究は未だし﹂と述べられてい
るように、捨象された側面も少なくはなかったと想像する。続
くつ母子叙情﹂の短歌﹂、﹁晶子とかの子│晩年の歌から│﹂の
章を読むと、外村氏による各歌のさらなる考察に一層期待が高
まる。
﹁第二篇小説﹂では、﹁登場人物の心機の転換において、没
我ないし忘我、脱我といった契機が介される﹂ことに着目がな
される。前書で明らかにされた作品における仏教性の内在とい
う観点が生かされる。﹁煩悩﹂(﹁強い自意識﹂)から、﹁没我﹂を経
て﹁菩薩﹂﹁空﹂へ。﹁﹁過去世﹂﹁家霊﹂│︿家﹀を継ぐ女性│﹂
の章では、﹁没我﹂を経ての心的転固という点は鮮明に示される
が、作品論としてみた場合には、﹁。家霊。とみなされる代々の
﹁命の流れ﹂﹂が主人公たちの﹁自意識からの遊離という神秘的
な体験を経て感受されていた﹂、﹁﹁生命﹂の因縁を感得する﹂と
いう結論に、これまでの読みが覆される新しさは見出しづらい。
同じく﹁鰭﹂の主題を﹁自意識の放念と無我の法悦がもたらし
た母子の一体化の時﹂とする点(﹁﹁鮪﹂│﹁時 Lを超える母の鰭
│﹂)や、﹁生々流転﹂を﹁近代的自我という人界の﹁偽装 Lを脱
して﹁根元の父母﹂的な無我の境涯へと遡及していく﹂と読む
点(﹁寸生々流転﹂│﹁水の性﹂の在処│﹂)など、最終的に﹁主我﹂
と﹁没我﹂に還元されるがゆえに、かえって従来の読みへと収
束していくきらいがある。特に﹁生々流転﹂論では、新たにマ
ルグリット・オlドゥ lの長編小説﹃孤児マリイ﹄との関連性
が指摘されているので尚更残念に思った。第二篇中で最も心を
惹かれた論考は、﹁﹁老妓抄﹂│発明と家出の意味するもの│﹂
である。老妓に援助を受ける若者の志していた﹁発明﹂が、同
1
4
5
時代の文脈に位置付けられる。日中戦争下、発明家に対する国
家的な期待が高揚し、周囲からの注目や理解があったという社
会的背景から、作品末尾で失われている若者の発明に対する情
時代相の中に作品が浮き上がり、他の作家や作品が補助線にさ
の言説は恰好の材料になり、同時代の文脈が導入されることで、
ない。しかし、外村氏の考証によってかの子が読書や旅行に
第三篇の補説では、﹁かの子文学と︿京都﹀│旅の所産と古典
受容から│﹂、﹁岡本かの子の人物印象﹂と、人間・岡本かの子
が外村氏の実証主義によって切り取られていて、大変興味深い。
京都は特別かの子とかかわりの深い土地とされてきたわけでは
勢の下での多方面からの綿密な実証は説得力がある。作品その
ものに真撃に向き合い、実証を積み重ねていくことのほかに、
研究を取り巻く﹁かの子神話﹂を解体する術はあるのだろうか。
歌人﹁岡本かの子﹂でもなく、小説家﹁岡本かの子﹂でもなく、
﹁三つの癌﹂を持つ﹁岡本かの子﹂を誠実に追求した良書であ
る
。
終始一貫した実証主義である。書誌の分野においても成果を上
げている氏だからこそ拾い上げられたかの子本人や周囲の人々
れによって、﹁いよよ華やぐ命なりけり﹂の歌が、老妓の若者に
熱が、迷いの時期を経てその後再燃する可能性が示された。そ
れることで作品に新たな光があてられる。同時代評や先行研究
への目配りも大変細やかである。とにかく作品本文ありきの姿
対する長期的な﹁憧僚﹂の継承への希望と解釈されている。﹁﹁女
体関顕﹂ほか﹁遺作﹂考│モチーフの所在、一平加筆の可能性
│﹂の章では、外村氏のこれまでの書誌研究の成果と、鍛密な
実証の手法がいかんなく発揮される。
さて、短歌の第一篇から小説の第二篇へ、﹁主我﹂から﹁没我﹂
へ、という展開があまりに順調なためか、本書を通読した後、
短歌 H ﹁主我﹂、小説 H ﹁没我﹂と規定してしまうことに、一抹
の不安を抱いた。繰り返し強調される﹁主我﹂・﹁没我﹂の枠組
みに全てをあてはめたいとの誘惑に駆られるのだが、それは
せっかくの横断的な視野が﹁短歌﹂と﹁小説﹂の間で再び分断
されてしまう危険性をも苧む。また﹁主我﹂・﹁没我﹂への拘泥
によって、かの子文学のもつ奥行きを必要以上に狭めてしまう
ことに繋がるのではないか、との懸念が生まれる。
よって、間接・直接的に京都と往還していたこと、それがかの
子文学の幅を拡げ得たことが明らかにされた。また、かの子の
七八O O円+税)
しかし、そもそもかの子の自意識の問題に(一平の加筆の問題
おうふう 二人二頁
人物印象をめぐっては、新たにかの子と実際に対面した人物か
らの証言を得ている。
(
二 O 一一年三月一日
も同様だが)挑むことは、いわゆる﹁かの子神話﹂を打ち破らな
ければならないことを意味し、跨賭されるものだ。外村氏は、
それに正面から向き合うのみならず、論じ尽くされた観のある
有名な歌や、小説の引用箇所をあえて取り上げて検証していく。
6
4
1
田!
治
ことが多かった。
る。また安成貞雄は、﹁科学的精神﹂というものを語ることに
よって﹁明治初期社会主義とプロレタリア文学を架橋した﹂人
物でもあったと、氏は述べる。おそらく、安成貞雄は﹃近代思
想﹄が持っていた可能性の一端を担った人物と言え、安成貞雄
のことをほとんど知らなかった私は、この論考から教えられる
判の対象とした﹁大正期ナショナリズム﹂についても考察した
い、と。それらが本書を貫くモチーフである。
﹁大杉栄一人を中心化しない﹂という観点で書かれた論考で
興味深いのは、﹁漂泊する知識人の自画像││安成貞雄と実業
の時代﹂である。﹁伝統的﹁故郷﹂に拠り所を求めない身体性を
獲得するために、移動する労働者たちに重ね合わせてみずから
を﹁漂泊児﹂と呼んだ﹂安成貞雄は、﹁第一次大戦期を中心とす
る国民性論の流行﹂の中で、そういう風潮に対して批判的な姿
勢を持った人物であったことを、氏の論述から知ることができ
﹁近代思想社と大正期ナショナリズムの時代﹄
のである。そしてその場合、﹁近代思想﹂は、常に大杉栄や荒畑
寒村を中心にして理解されていた。村田氏もそのような理解の
広
著 i
仕方を否定しているのではない。しかし本書は、﹁大杉栄一人
を中心化しない﹂という観点から﹃近代思想﹄を見ょうとする
目
評i
和 i
のである。そのために一つには、その発行母体である﹁近代思
想社﹂というフィルターを通して同時代の文学を挑めてみたい、
と氏は述べる。そしてもう一つは、﹁近代思想社﹂の人たちが批
綾
.
ム九
雑誌﹃近代思想﹄について荒畑寒村は、大逆事件後の︿冬の
時代﹀にただ雌伏隠忍しているのではなく、離散隠遁している
同志たちが再起する中心を作ろうとして創刊したのが﹃近代思
想﹄であった、ということを﹃寒村自伝﹄で述べている。﹃近代
思想﹄についてのこれまでの一般の理解も、この﹃寒村自伝﹄
に沿ったものであったと言えよう。その理解とは、社会主義者
たちが︿冬の時代﹀を耐えて生き抜くために一時的に文学の方
に身を寄せた雑誌が、すなわち﹃近代思想﹄であったというも
村!貴-.
1
4
7
本書は﹃近代思想﹄に焦点があることは言、つまでもないが、
それだけでなく他の大正時代の文化事象にも眼を向ける。﹁文
命﹂というものがどのようなものであったかということについ
ただ、﹁生﹂や﹁生命﹂は大正期では絵画に止まらず文学や哲
ても論及している。
人物である大杉栄の思想においてもまさに重要概念であったと
学の領域においても鍵概念であったわけで、﹃近代思想﹄の中心
化空間としての︿自然﹀││島村抱月の自然主義論を中心とし
て﹂の論考や﹁ローカル・カラ l、生命、公衆│ l﹁生の芸術﹂
前者では、島村抱月の意図した自然主義とは、﹁文明国にふさ
思われる。北一輝は、明治三九年に﹃国体論及び純正社会主義﹄
正時代の北一輝などの思想家をも視野に入れるべきであったと
大正期ナショナリズムを論じるのならば、それについての包括
的な論述がもっとなされるべきではないだろうか。たとえば大
れはまた可能性を苧んだ時代でもあったと言えよう。本書は
﹃近代思想﹄を中心に考察しているために大正期ナショナリズ
ムへの論及が限定された範囲に止まったのであろうが、しかし
あり、おそらくその反措定は延いてはナショナリズムの問題に
も繋がってくると考えられる(いわゆる生の哲学の潮流に樟差し
た人たちの多くは、後にナショナルなものに傾いていくのである)。
﹁生﹂や﹁生命﹂は大正期のナショナリズムと関係が有ったの
か、それとも無かったのか、ということに関しての論及があっ
て良かったのではないかと思われる。
大正期というのは思想的には混沌とした時代であったが、そ
ころ近代合理主義に対しての反措定を提出しようとすることで
言えるのだから、もっと広い視野から、﹁生﹂や﹁生命﹂の概念
についての考察を進めるべきだったのではないかと思われる。
また、﹁生﹂や﹁生命﹂に限を向けようとすることは、つまると
論争と石井柏亭﹂の論考である。
わしい﹁問題﹂を表現する文芸の形式のこと﹂であり、抱月は
﹁常に﹁東洋﹂と﹁文明﹂を意識していた﹂ことが述べられ、
そして氏は﹁文学が日本特殊の文明をいかに発見し、再現する
かということが、自然主義文学の論議を立ち上げる原動力と
なっていた﹂と述べる。そうであるならば、自然主義論は本書
の題目でありテl マでもある﹁大正期ナショナリズム﹂の問題
と接合してくるはずである。自然主義論がそういう﹁日本特殊
の文明﹂論とも言うべきものと大いに関わっているという論点
は、斬新であってさらに突っ込んだ見解を聞きたかったのであ
るが、残念ながら論はそれ以上に展開されていない。
後者では、山脇信徳の油彩画﹁停車場の朝﹂をきっかけとし
て起った﹁生の芸術﹂論争を、この絵画に対して否定的に評価
した人物とされている石井柏亭の側から読み直すことを通し
て、この論争が﹁絵画(芸術)は誰のものか、誰がその価値の高
下を判断するのか、その判断基準は何なのかという問題を、一
九一 0年代初期において先駆的に提出していた﹂ものであった
ことを論じている。その際、氏は大正期において﹁生﹂や﹁生
1
4
8
﹃支那革命外史﹄を出しているが、これも同様である。その中
また実際に内容もそうであった。さらに彼は大正一 O年には
目からはそれが右翼の本なのか左翼の本なのか判別しがたく、
という処女作を出して思想界にデビューしたが、その著書の題
はり大杉栄についてもっと論じてほしかった。
に﹁大杉栄一人を中心化しない﹂という方針があるにせよ、や
﹁大杉栄の批評の実践性について﹂とある以上、たとえ氏の中
批評﹂についてはわずかな論及に止まっている。論考の題目が
姿勢を論じていて興味深かったが、しかし、肝心の﹁大杉栄の
多くの言説に対して批判的に対持しようとした﹃近代思想﹄の
大杉栄は、理性を過重に見る主知主義的なものの見方に一貫
で北一輝は、アジアの弱い国家と欧米列強との関係を、プロレ
アジアを解放しようとするのは国家間の階級闘争である、とい
タリアートとブルジヨワジ!との関係に準えて、欧米列強から
うことを語っている。その国家主義的な発想は右翼的である
して反対し、﹁書物を読むよりもまず、みずからの身辺の生きて
いる事実に眼を転ぜよ﹂(﹁個人的思索﹂)と語り、したがって理
この北一輝の場合に見られるように、大正時代というのは後
が、しかし弱者解放の階級闘争観は左翼的なのである。
論偏重主義にも批判的であった。また革命運動や労働運動には
﹁一兵卒としてはいっていくのだ﹂(﹁労働運動の精神﹂)、﹁指導
者や首領になるつもりではいって行くんでは駄目だ﹂(﹁労働運
とは、有島武郎のように徹底した反ナショナリズムの人物も活
代思想﹄を論じるのならば、やはりそういう大杉栄の持ってい
は、それらに対しての批判を先取りしてもいたわけである。﹃近
後の戦前昭和の革命運動に抜きがたくある特質であった。おそ
らく、それらへの偏向が戦前昭和の革命運動を潰えさせた理由
の一つであろう。そのことを考えると大杉栄の﹁批評の実践性﹂
動と労働文学﹂)と語っていて、前衛主義的な発想に対しても批
判的であった。理論偏重主義にしろ前衛主義にしろ、これらは
躍した時代でもあった。このように思想的に複雑さを持った大
の戦前昭和期のように左右がはっきりと分化されていない、混
沌とした要素を持った時代だったのではないかと考えられる。
また、大正期ナショナリズムにはまだ言わば健全さの要素が
あったので、それは竹内好的に言えば﹁﹁正しい﹂ナショナリズ
正時代において、﹃近代思想﹄にはどのような可能性を見ること
た可能性について論及してほしかったと思われる。また、その
ム﹂であったのであり、昭和期のように侵略的ナショナリズム
に収数されきってはいなかったと考えられる。あるいは大正期
ができるのかということについて、氏にもっと明示的に述べて
論及によって﹃近代思想﹄さらには大正期の思想の様相、そし
てその可能性がよりいっそう明らかになったのではないかと思
﹁大杉栄の批評の実践性について﹂の論考は、乃木希典殉死を
われる。
もらいたかった。
めぐって、それに関する言説の分析を通して、とりわけ当時の
1
4
9
以上、私自身の意見(異見)を少々述べすぎてしまったきらい
があるが、しかし本書にはこれまで暖昧にしか理解されてこな
る﹁伝統主義的精神﹂﹂の論考では、﹃新生﹄における告白は、
かった事柄をはっきりさせる論述が多々有ることも言っておき
たい。たとえば、﹁告白と故国の言説空間││島崎藤村におけ
ていわば郷土ロマン主義的な主体の構築を果たしていくような
﹁個人主義的で透明・均質な内面を発見するのではなく、危機
に陥った主体が﹁故国﹂をその﹁内部﹂に生産し、それによっ
言説である﹂ことを、氏は説得的に論じている。また、﹁逆徒の
﹁名﹂││管野須賀子という喰法﹂では、管野須賀子という女
性一人の問題に止まらず、大逆事件以後の労働運動や革命運動
においても、女性の言論の自由、活動の自由への﹁複合的な抑
圧が関与している﹂ことが浮かび上がってくるような論述に
なっていて示唆的である。
本書が資料の博捜に基いた力作であることに間違いはなく、
これまであまり眼が向けられることがなかったと言える﹃近代
(
二O 一一年一二月一一一日双文社出版二五三頁三人OO円+税)
思想﹄についてのまずは本格的な研究書である。さらに氏に望
みたいのは、今度は荒畑寒村や大杉栄を中心にした論述である。
1
5
0
佐藤
伸宏著
﹃詩の在りか││口語自由詩をめぐる問い﹄
成立﹂は以上の諸点を簡潔に指摘する。
第一章﹁︿口語自由詩﹀というアポリア﹂は、有明が受けた徹
期に、独自の先駆的業績を達成した四人の詩人たち、高村光太
体詩抄﹄(一人八二年刊)の編者は︿行換え・連構成が担う詩的機
して新体詩は発生した。にもかかわらず、その原点にある﹃新
行分け、連構成という形式の新しきそれ自体を存立の基盤と
に沿って口語自由詩発生期の詩篇の具体的な検証を進め、一九
存在するのか、という問題を、(先行文献として拙著﹃萩原朔太郎
というメディア﹄も引用しつつ)指摘する。本章はこの問題意識
文から区別し、ジャンルの独立性を保証する基準となるものは
概観し、その根底にあるアポリア、すなわち、詩が、音数律と
雅語とを失ってしまったとき、それをたんなる行分けされた散
能について理解が及んではいなかった﹀ことを、収録の﹁グレー
ただ、口語詩がその呼び名以前から、理論先行のかたちで生
をめぐる状況を簡潔かつ的確に概観している章である。
一
O年の後半期には、口語詩提唱においてもっとも強力な影響
氏墳上感懐の詩﹂とその原文を比較し、指摘するところから本
書ははじまる。しかし、やがて日本近代詩は、明治末に一つの
に陥っていたことが示される。明治末詩壇における初期口語詩
力を有していた島村抱月からも、批判にさらされるほどの混迷
達成を、すべて、いったん排除した地点から、日本の口語自由
の文語定型による重層的な探求に見る。それら、文語定型詩の
極点に達する。本書はそれを蒲原有明﹃有明集﹄(一九O八年刊)
O五年刊﹀に続くものであろう。
末象徴主義詩を論じた﹃日本近代象徴詩の研究﹄(翰林書房ニ O
底した批判と、それに連動した口語自由詩への時代的な要求を
日本近代詩の
史
郎、室生犀星、萩原朔太郎、三富朽葉を中心に論じたものであ
る。著者の佐藤氏にとっては、上回敏、蒲原有明を中心に明治
詩は出発しなければならなかった。﹁はじめに
智
評
:i
本書は、日本の口語自由詩の発生まもない明治末から大正前
安
i
書
;
1
5
1
るが、それ以前から﹁言文一致詩﹂の提唱は行われていた。そ
という言葉の提唱される以前の登場であることを本書は指摘す
れない。たとえば最初の口語詩、川路柳虹﹁塵溜﹂が、﹁口語詩﹂
み出されてきたことには、より綴密に論究した方が良いかもし
に歩みを始めた詩人たち、たとえば、福士幸次郎、大手拓次、
うな本書の身振りには疑問も感じる。本書は、光太郎と同時代
る口語自由詩の確立者と見倣す定説﹀とし、それを肯定するよ
一方で光太郎の孤立した筋道を︿光太郎を日本近代詩におけ
これらの詩人たちは萩原朔太郎が、自らの口語詩の先駆者とし
て言及する詩人たちでもある。それら、光太郎口語詩にたいす
あるいは山村暮鳥といった詩人たちに言及していない。しかし
ばならなかったとはとても思えないものであろう。にもかかわ
る、もう一つの口語詩擁立者たちの道筋を見ない︿定説﹀には
再検証の必要があるのではないだろうか。
もそも初期口語詩の実作群はその完成度において、蒲原有明の
らず、なお、実践が続けられなければならなかった理由││当
文語定型詩の達成を、わざわざ無にしてまで生み出されなけれ
時の人々の無知・無理解というだけでは済まされないところの
本書がその、もう一つの道筋を、いわば異なる角度から視野
におさめようとしていることは、つづく第三章の室生犀星論、
ーーーも、より鮮明になったのではないだろうか。
よる俳句的様式を指摘する。﹁口語自由詩をめぐる聞い﹂をサ
﹁小曲﹂すなわち︿文語による自由詩の形式を備えた短小な詩﹀
に検討をくわえ、瞬間ごとに生滅を繰り返す特異な表現主体に
﹃持情小曲集﹄に収録される一九一一一年から一四年にかけての
第三章﹁小曲の可能性││室生犀星﹃好情小曲集﹄﹂は、犀星
第四章の萩原朔太郎論に暗示されている。
v
i
l
-高村光太郎﹃道程﹄﹂では、
第二章﹁口語自由詩と︿声
一九O九年七月に帰国し、混乱に満ちた詩壇状況に足を踏み入
れた高村光太郎の軌跡が検証される。
文語/口語の二者択一的な状況から逃れ、文語自由詩/口語
二年末より﹁あなた﹂に呼びかける主体としての語り手が確立
ブタイトルとする本書が、口語詩をふくむさまざまな詩形を
自由詩/小曲の制作を並行して進めていた光太郎詩に、一九一
され、以後光太郎は口語自由詩へと一元的な傾斜を見せる。﹁あ
いったん経たうえで制作された、厚星の小曲を主対象に据えた
ただ、なぜ犀星自身は自らの第一詩集として口語詩集﹃愛の
なた﹂とコミュニケーションする、直接的な意味指向性の徹底
詩集﹄を選択し、しかる後に、それ以前の制作詩篇による﹃持
見識を高く評価したい。
て、口語自由詩の歴史を辿り直しつつそのアポリアに改めて対
情小曲集﹄を刊行したのか、という問題はのこるだろう。また、
によってこそ、光太郎の口語自由詩は完成した。たいして萩原
峠することに他なら﹀なかったという指摘の重みを受け止めた
朔太郎の歩みが︿光太郎の自由詩に対する反措定的な営為とし
ν
・
1
5
2
九0年代に北川透﹃萩原朔太郎︿言語草命﹀論﹄(筑摩書房一九
九五年刊)が展開した﹃持情小曲集﹄第三部の詩篇の問題。すな
わち形式としても﹁小曲﹂の範囲を逸脱する︿禍々しい未知の
言語の関係を突出﹀(北川二三二頁)させた詩・散文詩群の問題
は、本書においては触れられない。犀星における﹁口語自由詩
をめぐる聞い﹂として、もっともクリティカルな側面であるは
ずだ。それらの先行研究に論及していれば、本書の射程も深
まったのではないかと惜しまれる。
第四章﹁散文の詩学││萩原朔太郎﹃青猫﹄﹂も同様である。
この章の前半を占める、﹃月に吠える﹄期の詩篇の問題について
は、やはり北川前掲書およびその先行研究である菅谷規矩雄﹃萩
だろうか。私は︿萩原朔太郎の詩作の営為は、口語自由詩をめ
ぐる多様な聞いへの応接のなかで、大きな曲折を強いられ、﹁い
かがわしさ﹂さえ感じさせる変転と錯綜を見せている。しかし
と指摘する。朔太郎における﹁詩﹂の領域を、いわゆる行分け
原朔太郎1914﹄(大和書房一九七九年刊)への論究が不可欠
ではなかったか。そうすれば、本書第五章で論じられる三富朽
葉の散文詩に並行する事態が、本書が論じない萩原朔太郎の同
時期の臨界的散文 H散文詩にも進行していたことが、明らかに
なったはずである。
また、この章で参照される栗原敦論文も初出は一九八O年で
あるが、その他人O i九0年代の朔太郎研究論文にたいする、
ほとんど全面的な黙殺にはやはり疑問を禁じ得ない。たとえば
詩に限定すれば、本書の指摘の通りであろう。
しかし、右記の引用中に登場する朔太郎の言葉が﹃猫町﹄と
それは口語自由詩のアポリアとの直接的な対峠において進捗さ
れた詩的歴程に他ならなかった﹀という本書の指摘に全面的に
賛同する。だからこそ、本書が﹁口語自由詩をめぐる聞い﹂を
サブタイトルとし、正面から朔太郎を扱う以上は、外せない問
題を論じた先行研究論文群ーーその多くは一九人0年代、本書
の著者佐藤氏とほぼ同世代の人々によって発表されたのではな
かったか││のもたらした成果をこぼれ落としてしまったこと
を、惜しまずにいられない。
また本書は︿︿景色の裏側﹀(﹃猫街﹄版画荘、昭和一 O、 二 )
と名付ける外ない領域こそが、朔太郎の行き着いた詩の成立の
場所であった。言語によって喚起しうるそうした﹁裏側﹂の世
界の生成に、朔太郎の口語自由詩の存立が託されていたのであ
る。そうしてその両極的なベクトルが交差ならぬ謝礼様を生じる
に至った時、朔太郎の口語自由詩はその存立の場を失い、﹃氷島﹄
の文語詩への転換と傾斜を余儀なくされることになるだろう﹀
﹁竹﹂にかんする指摘に大塚常樹﹁下降する萩原朔太郎
向
日と背日のアンピパレンス﹂(﹃国語と国文学﹄一九八五年六月)、
いう、﹃氷島﹄刊行後の彼の小説から取られていることにも暗示
されるように、朔太郎における﹁詩﹂の試みはポスト﹃氷島﹄
ll
﹁艶めかしい墓場﹂に坪井秀人﹃萩原朔太郎論︿詩﹀をひらく﹄
(和泉書院一九八九年刊)所収論文が重なっている部分はない
3
5
1
期においても、小説、エッセイそうして詩集﹃宿命﹂(一九三九
年刊)の前半を占める、散文詩・アフォリズムなどにおいて持
続していったのではないだろうか。これも八0年代に山田兼士
﹁萩原朔太郎・詩の︿宿命﹀﹂(長野隆編﹃萩原朔太郎の世界﹄砂子
屋書房一九八七年刊収録)が提起した問題であるが、現在におい
ても解決してはいない。
私は本書の︿朔太郎は、口語自由詩が不可避的に字み込む散
文的性格への徹底した認識の下で、むしろそうした散文として
の自由詩を︿詩﹀たらしめる方途を自覚的に追求しつづけた詩
人であった﹀︿超越的モチーフの不可能性において︿詩﹀の獲得
を試みる萩原朔太郎の散文の詩学は、金子光晴や西脇順三郎等、
朔太郎以後の詩人たちによって持続的に追求されることになる
はずである﹀という指摘に、全面的な共感を覚える。それは、
この引用中に挙げられる物故詩人だけではなノ¥現在、二一世
紀の私たちにとってもなお、朔太郎が問題的な詩人でありつづ
けていることを、本書が示そうとしているからに他ならない。
その試みを更に有効とするためにも、佐藤氏には、八0年代以
降の朔太郎研究史への対峠を求めたい。(なお、﹃青猫﹄が︿否定
的な評価に摘されてきた詩集であると言ってよい﹀(一七一頁)とい
うのも、研究史に照らし合わせれば誤認である。)
一九一四年後半期の日本詩壊における散文詩の問題はつづく
第五章﹁散文詩という領域││一一一富朽葉﹃生活表﹂﹂において展
開する。本章は比較文学的志向を濃厚に帯びており、朽葉の受
容したマラルメ、ランボl論として魅力的なものである。
このあと本書は﹁おわりに大正末期││口語自由詩をめぐ
る新たな状況﹂と題された短い章で、北原白秋と白鳥省吾ら民
衆派との論争をめぐる状況に触れて終わる。この問題について
は、拙論﹁論争する民衆詩派﹂(﹃日本近代文学﹄二 O O二年一 O
月)や、勝原晴希編﹃﹃日本詩人﹄と大正詩﹄(森話社二 O O六年
刊)など、今世紀に入って発表された先行論の成果も参照願い
たい。のちにはストレートな批判へも向か、つけれど、一九二0
年代の朔太郎は︿自分は、白秋氏によって散文書体に書き換へ
られえた白鳥君の自由詩を見て、その原作からは受けられなか
った、ずっと新しい別の芸術的感動を得た。すなわち白鳥君の
詩は、その書き換へられた書体によって、始めてその真の文学
的価値を現はしたのだ﹀(﹁有詩以前の詩垣﹂一九二九年)と、白
鳥・民衆派側に逆説的な擁護と読める言説も残している。これ
も本書の指摘する︿旧来の詩の規範の一切からの脱却を試みる
民衆詩派の立場﹀への、朔太郎なりの支持のまなざしであった
のかもしれない。
笠間書院 一一六一頁
三二 O O円+税)
本書も言及するように、口語自由詩は、散文とも韻文ともつ
かない﹁いかがわしさ﹂を起源としている。それを、むしろ﹁い
かがわしさ﹂ゆえの可能性を秘めた歴史として、聞い直すこと
も求められているだろう。今後の佐藤氏の論の展開を期待した
二 O 一一年三月一五日
(
LV
1
5
4
山(雪j
﹃﹁私﹂
を語る小説の誕生││近松秋江・志賀直哉の出発期﹄
を、近松秋江、志賀直哉といういずれも私小説・心境小説を論
じる上では欠かせない作家二人を取り上げながら、文学史的に
考察を試みた論文集である。
嘉
以上からも明瞭だが、本書の内容はおおむね三つに大別でき
る。一つは﹁﹁私﹂を語る小説﹂の登場をめぐる文学史的な考察。
一つは、近松秋江の作品(史)研究。一つは、志賀直哉の作品
(史)研究である。
記﹄論 111
敵対する日記﹂である。そして終寧﹁近松秋江と志
賀直哉l│﹁﹁私﹂を語る小説﹂をめぐる交錯﹂が、この二人の
作家の軌跡がどうまじわるかを示している。
達成│l逸脱としての書簡﹂、第二節﹁﹃途中﹄・﹃見ぬ女の手紙﹄
の可能性││近代書簡体小説の水脈の中で﹂、第三節﹁﹁大阪の
遊女もの﹂の意義l│叙法の形成と確立﹂、第四節﹁有島武郎﹁平
凡人の手紙﹄論││第三者への気づき﹂から構成される。第三
章﹁志賀直哉における﹁﹁私﹂を語る小説﹂の展開﹂は四本の論
文が収められ、第一節﹁初期作品の軌跡││家族への接近﹂、第
二節﹁﹃濁った頭﹄論││山山口のない告白﹂、第三節﹁﹃大津順吉﹄
論
│l小説家﹁自分﹂の変容﹂、第四節﹁﹃クロlデイアスの日
高
著!
まずは本書の構成から示そう。序章は﹁﹁自己表象テクスト﹂
から﹁﹁私﹂を語る小説﹂へ﹂とし、全体の見取り図と問題設定
を述べる。第一章﹁﹁﹁私﹂を語る小説﹂の登場﹂は、論文にし
て二本からなり、第一節﹁語られるべき﹁私﹂の生成││日露
戦争後の﹃太陽﹄に却して﹂と第二節﹁﹁﹁私﹂を語る小説﹂を
比
i
一
一
.
育
めぐる試行││﹁私﹂が﹁私﹂を語るまで﹂。第二章からは個別
作家を取り上げての論述となり、第二章が﹁近松秋江における
﹁﹁私﹂を語る小説﹂の展開﹂で、第一節﹁﹁別れた萎もの L の
日
孝 j
評j
私小説がどのようにして成立したのかということは、文学史
的な発問としては古い聞いだが、なおそれへの確定的な答えは
出ていない。本書は、﹁私小説﹂という言葉が誕生する以前にさ
かのぼり、﹁﹁私﹂を語る小説﹂がいかにして登場してきたのか
口
5
5
1
﹁﹁私﹂を語る小説﹂の登場をめぐる考察では、﹃︿自己表象﹀
の文学史﹄(翰林書房、二 O O二年五月)において日比の用いた﹁自
己表象テクスト﹂という用語を受けながら、その﹁下位区分﹂
(げ頁)である﹁作家が自分自身を主人公兼語り手に設定した
︹評者注・一人称の︺小説﹂としての﹁﹁私﹂を語る小説﹂が、
いかにして現れたのかを追い、さらには﹁作品そのものの誕生
過程﹂を提示する﹁自己生成小説﹂(口頁)へとつながっていく
様相を検討している。
近松秋江の作品の考察では、書簡体小説の流行を背景におき
ながら、秋江の書簡体の独自性と卓越性を指摘し、彼が﹁﹁私﹂
を語る小説﹂を実現させていく道筋を描き出す。
志賀直哉についての考察では、初期小説を幅広く検討しなが
ら、彼の小説の展開を﹁﹁私﹂を語る小説﹂へ、そして﹁自己生
成小説﹂へという見取り図の中で整理している。
本書の達成への評価は、複数の角度から可能だろう。まずは
近松秋江と志賀直哉についての個人作家研究の角度から、高く
評価されてよい。著者の論述のスタイルは、多くの作品と先行
研究を網羅的かつ適切に目配りしながら、作品の展開の連鎖を
論述していく。作品の発展史をペ lスに据えながら文学史への
接続を試みるというのがその基本の枠組みであり、綿密な論証
の積み重ねによって示された作品分析は、それぞれの作家につ
いての作家研究、作品研究のなかで今後長く参照されていくだ
。
っ
、
ろ
さらに、本書の考察には、一九001一九一 0年代における
書簡体小説と日記体小説についての幅広い調査に基づいた報告
(一覧表もある)が含まれている。これは上記の作家研究、また
﹁﹁私﹂を語る小説﹂についての研究から離れたとしても、独立
した考察として、広く参照されるべき成果であると考えられる。
本書の骨格をなす、﹁﹁私﹂を語る小説﹂についての考察に目
を向けよう。﹁自己表象テクスト﹂の考察が描かれる素材への
注目に偏していたことを指摘し、﹁表現形式﹂(時頁)や﹁叙述形
態﹂(凶頁)を考察することの必要性を説いたこと、そして﹁自
己表象テクスト﹂﹁﹁私 Lを語る小説﹂の主人公と周囲の仲間た
ちがホモソ lシヤルな関係性を結ぶ傾向にあったと述べたこと
(第一章第一節)は、大切な指摘だろう。
前者に関しては、﹁自己表象テクスト﹂が当初三人称で書かれ
私 Lを語る
﹁
ることが多く、そのあと一人称が増えていった H ﹁
小説﹂が登場した、という語りの菌に注目してなされた史的見
取り図が興味深い。
ただし、この一人称作品の増加の動因として、第一章第二節
においては自然主義論壇の実行/観照の対立が実行側へ振れた
ことを指摘し、また第三章においては志賀の作品に対し、次の
ような指摘を重ねている点についてはどうだろうか。﹁﹃網走ま
で﹄の﹁自分﹂は、まだ﹁私﹂を語る段階には到達できていな
い﹂(邸頁)。﹁﹁祖母の為に﹂﹁私﹂が創造した物語と言える本編
は、しかし、モチーフまでを対象化することはできず、﹁自己生
1
5
6
成小説﹂の手前で止まっている﹂(
m頁)。﹁作品の伏流にあるも
う一つの物語、すなわち一人の書き手が独自の表現方法を獲得
していく物語を見出すことができよう﹂ (
m
l
m頁)。
はたして﹁人称﹂の問題を、文芸思潮の動向ゃ、作家の語り
の認識への深まりの観点から説明してよいだろうか。むろん、
それが的外れだとは言わない。説明が可能な部分もあるだろ
う。だが、せっかく﹁表現形式﹂を検討することの重要さを指
摘したならば、﹁人称﹂の問題は語りの技術的な問題としても追
求される可能性があったのではないか。もちろん、この批判は
著者の本来の考察意図を外したものであることは理解している
が、﹁三人称﹂から﹁一人称﹂への移行の指摘が関心をひくもの
であるだけに││﹁移行﹂(日頁)という把握そのものの当否も
検証されねばなるまいが││、そのように思わずにはいられな
もともと、近代小説の語りは、作者が口上を述べたり、融通
l
v
無碍に口を挟んで評言を行ったりする戯作的な﹁一人称﹂を起
源の一つに持っていたのではなかったか。そこからスタート
し、﹁三人称﹂こそが、むしろ﹁発見﹂されねばならなかったと
するならば(野口武彦﹃三人称の発見まで﹄筑摩書房、一九九四年六
月)、コ二人称﹂の語りが安定的な文体を獲得して以降の﹁一人
称﹂││とりわけ作者語りとしてのそれ││は、作者の声を響
かせる語りへのフイクシヨナルな回帰という面ももっていはし
ないか。
さらに語りの問題についていえば、そもそも﹁人称﹂によっ
て肪分けを行うことは適切だろうか。永井聖剛﹃自然主義のレ
トリック﹄(双文社出版、二 O O八年二月)が明治後期の田山花袋
を例にとって明らかにした、自由間接話法の確立の問題がある。
語りと視点を分離的に扱うことのできる││すなわち﹁人称﹂
という用語の不十分さが露呈してしまう││自由間接話法の確
立は、﹁三人称﹂のなかに﹁一人称﹂を登場させることを可能に
する。たしかに同時代的には﹁三人称﹂/﹁一人称﹂││客観
的/主観的という対比構図が、小説作法の認識として存在した
が、実際の創作において、たとえば﹁﹁私﹂を対象とし、自己と
向き合うことで再帰的に生じてくる意識や知覚を描く﹂(問頁)
ことが、いわゆる﹁三人称﹂では不可能だっただろうか?(たと
えば島崎藤村﹁春﹂[百二十五]などどうだろう)
﹁自己表象テクスト﹂ l ﹁﹁私﹂を描く小説﹂│﹁自己生成小
説﹂という見取り図は触発的だが、﹁数年の聞に起こった﹂(矧
頁)とされるこの変化を、変化として捉える根拠のうちには、
人称とテ 1 マ(創作行為自体の主題化)という二つの問題が含ま
れている。﹁数年﹂という短い問で起こったという一筋の展開
の中にこの二つを入れるためには、語り、テーマ、いずれの考
察においてもより丁寧な論理立てと広汎な調査が必要とされる
だろう。もちろん、もとよりそれは一冊の著書、単独の研究者
のみに課せられる課題ではないだろう。私小説の歴史的研究そ
のものへの、著者からの重要な提言として、我々は受けとめね
7
5
1
ばならない。
フォルトは︿私 H作者﹀というのが実は一般読者の読みの基本
であって﹁私小説﹂的読書は文化的構成の産物なんだとかふん
ぞり返るよりそれはそもそもヒトの言語運用が要請する基本的
かつ王道的読みなんじゃないですかという疑念とか、いろいろ
わっていないのだと思う。﹁私小説作家﹂というキャラ(の歴史)
の問題、私小説読者(の歴史)の問題、私小説的読解枠の関連で
言えば大正期のものとされている︿人格主義コ lド﹀は本当に
大正期からなのか、とか、あるいは一般のヒトの発話で﹁私﹂
と言ったら発話者のことである以上、一人称小説の読みのデ
安英姫著・梅沢亜由美訳﹃韓国から見る日本の私小説﹄(鼎書房、
二O 一一年二月)があり、もちろん西村賢太の芥川賞の受賞が
あって、﹃解釈と鑑賞﹄までもが﹁私小説のポストモダン﹂とい
う目次をみてもどの辺がポストモダンなのかイマイチわからな
い特集を組んでいたりして(二 O 一一年六月)、もちろん声が掛
からなかったために私はやっかんでこんな言いがかりを言って
いるわけだが、ともあれ私小説の研究は、実はまだまったく終
に関する研究・批評は実はここ数年地味に盛況で、小谷野敦の
﹃私小説のすすめ﹄(平凡社、二 O O九年七月)があり、坂本満津
一 O月)があり、
夫﹃私小説の﹁嘘﹂を読む﹄(烏影社、二 O 一O年
最後に蛇足的に私語を付け加えさせてもらうならば、私小説
*
あるような気がしている。卒論・修論のテl マに迷っている学
生のみなさんには、まずは本書を手に取り、この道に踏み込ま
れんことを望みます。
二 O 一一年三月二五日 翰林書房 二七九頁 二人O O円+税)
(
1
5
8
和(雪j
﹃資生堂という文化装置
一戸∞吋Nl]石 仏 印 ﹄
ガl ルと職業婦人│資生堂化粧品部﹂、﹁ア lル・ヌ lヴォ!と
商業美術│資生堂意匠部﹂、﹁ア 1 ト の 空 間 │ 資 生 堂 ギ ャ ラ
年代の都市文化が詳述される。第二章から第五章までは、資生
堂の事業部の動向を中心に整理されており、それぞれ、﹁モダン
動向が﹁文化装置の誕生﹂というプロローグにまとめられた後、
第一章では資生堂の刊行雑誌﹃資生堂月報﹄を中心に一九二0
れぞれのテ l マをさらに詳細に論じていくことでその総体を捉
えようとする構成を採用している。関東大震災以前の資生堂の
と﹃資生堂月報﹄﹂と、第六章の﹁一九三0年代の都市文化と﹃資
生堂グラフ﹄﹃花椿﹂﹂が、資生堂各事業部の動向を中心に紹介
1三0年代の資生堂をめぐる状況とその事業の総体についての
記述を挟み込み、さらに、第一章の﹁一九二0年代の都市文化
つまり、本書は、巻頭と巻末にある本書の付録的要素が論述
部分を挟み込み、そして、プロローグとエピローグが一九二 0
﹁文化装置﹂が崩壊していく様子を語ったエピローグによって
本書の記述は閉じられている。付録的な要素として、巻頭のカ
ラ1 ページで資生堂の包装紙や刊行雑誌の表紙、マッチラベル
等の図版が掲げられ、巻末には関連年表が付されてもいる。
生堂グラフ﹄と﹃花椿﹄を軸にして一九三0年代の都市文化の
内実が語られ、一九三七年の日中戦争勃発以後、資生堂という
イトル/サブタイトルのもと、資生堂文化の動向やそれを取り
巻いた文化的状況が解説されている。第六章では再び雑誌﹃資
リl﹂、﹁銀ブラとグルメの楽しみl資生堂パーラー﹂というタ
圭
著 i
物語│福原義春と資生堂文化│﹄(一九九六・五毎日新聞社)な
どや、資生堂による数種類の社史によって知ることができては
いたが、人文科学の研究対象としてそれを体系的に捉えようと
崎
=
した試みは本書以前にはなかったと言って良い。その意味での
本書に対する評価は充分になされるべきであろう。
本書は、戦前の資生堂文化を時代と事業によって分割し、そ
瀬
文 j評
;
資生堂の文化事業については、これまでにも島森路子﹃銀座
田 i
9
5
1
裁となっているのである。そのような体裁が、多岐にわたる資
おける多くの文学者、芸術家たちのかかわりを知ったり、一九
本書に掲載された多くの図版資料に目を奪われたり、資生堂に
資料の引用によって編まれた本書の記述は、多少読みにくいも
二0 1 0年代の都市文化を半ばノスタルジツクに回顧したり
一
一
するのであろうが、そのような読者を想定したときに、同時代
した第二章から第五章を挟み込むという構成的美観を備えた体
生堂の文化事業の総体とその時代背景とを極めて明瞭な形で読
者に伝えていく効果を与えることになろう。
このように配置された各章における資生堂の文化事業の紹介
なり得る。少なくとも私は、研究者や専門家ではない一般の方
一般参加型の授業等を経験する者にとっての日常的な聞いとも
これは本書を批判しているというわけではなく、公開講座や
のとなっていはしないだろうか。
図版資料が視覚的な刺激をもたらし、読者は自ずと一九二0 1
用によって成り立っており、その記述と共に全頁に掲載された
している方法がその﹁語り口﹂の一つであるとするならば、そ
への語り口について模索することが多く、﹁一般書﹂として書か
れた本書であるが故にそうした聞いを禁じ得ない。本書が採用
述は、概して、資生堂刊行雑誌を中心とした同時代の記述の引
は、移しい数の同時代資料によって支えられている。本書の記
三0年代の都市文化の時空の中に引き込まれていくことになる
のである。むろん、記述や図版によって紹介される資料は資生
の是非も含めてそれには留意すべきであろう。
しかし、著者が言うように本書が﹁一般書﹂であるにしろ、
堂のものだけではなく、それに関連した同時代の文学、文化、
芸術、写真資料等々に及んでおり、そのことが結果的に、資生
堂という一つの﹁文化装置﹂を越えた、幅のある記述と資料紹
そうした膨大な一次資料の利用が本書を支えているという意味
ことは否定できないだろう。率直に言えば、本書の価格設定や
において、到底一般書の範礁に収まらない要素が含まれている
介を可能にしていると言えよう。
が、﹁あとがき﹂によると、本書は﹁一次資料に基づく一般書﹂
本書がそのように評価すべき力作であることは確かなのだ
をイメージして書かれたものであるという。つまり、研究者を
岩波書店という出版社から言っても、少なくとも読書と消費と
が同義であるような一般読者は想定されにくく、文学、文化、
想定されるであろうし、その意味での研究成果報告としても本
芸術、歴史に関する一定の知識の保有を前提とした一般読者が
﹁研究書﹂の記述と大きな遠いを持っているわけではないし、
書は受け止められ得る。ましてや、本書は、著者のこれまでの
対象とした専門書の類ではなく、読書を趣味とするような一般
の読者が著者の想定した読者であるらしい。仮にこれが一般書
ろうか。同時代の資料の引用の連続によって成り立っているよ
であるとするならば、読者に対して本書は何を与えているのだ
うな記述から、一般の読者は何を得るのだろうか。おそらく、
1
6
0
著者が監修している﹃コレクション・モダン都市文化﹂(二 O O
四1ゆまに書房)等の研究成果を鐙みても、著者にとっての研究
は同時代資料の紹介を重要視するスタンスによって可能になっ
ているからだ。
そのような︿研究書﹀として本書を捉えたとき、そこに明ら
かに不足しているのは分析性であろう。本書に引用、掲載され
ている同時代資料は単に資料としてそこに紹介されているだけ
は、日本近現代文学を対象に研究を開始し、その地点から︿文
化研究﹀へと対象を拡大していったとき必然的に生じる、ある
限界であるように思われる。何よりも、著者と同じく文化研究、
文化史的な研究を試みている私自身がそうした限界に対して明
確な解決策もないまま膨大な資料/史料の海を漂い、溺れかけ
ているのであり、本書を批判できるような立場にはない。むし
ろ、前述したように、膨大な資料/史料を鮮やかに統御し、一
九二0 1三0年代というある時代的区分における資生堂という
とは不可能であるし、関東大震災以前の動向についてもプロ
ローグという形で周縁化されており、一九二0 1三0年代のモ
E自﹄というタイトル/サブタイトルに如実に表れているよう
に、戦後の資生堂文化の動向については本書から知識を得るこ
し、そうであるが故にレトロスペクテイヴな書として受け止め
られる可能性もある。また、﹁資生堂という文化装置広芯 i
述することではなく、それを現在に取り戻すことだが、扱う対
象に対するそのような問題意識の欠如も本書を深く覆っている
性/批評性の欠如が、資生堂の文化史を記述する本書の決定的
な欠損となっているのである。歴史とはかつであったことを記
性が、資本の欲望する﹁不在﹂の対象として、﹁モダンガ 1ルと
いう表象﹂を生み出した過程﹂を概観し、そのようなスタンス
鹸﹂は、本書に欠けている論点を補填している。この論文は、
﹁資生堂という企業の変遷をたどりつつ、日本資本主義の後発
における帝国・資本・ジエンダl﹄(二 O 一0 ・二岩波書底)所
収の足立岡県理子﹁脊修と資本とモダンガ l ル│資生堂と香料石
一年前に同じ岩波書店から刊行された伊藤るり・坂元ひろ子・
タニ・ E ・
パ l ロウ編﹁モダンガ lルと植民地近代│東アジア
また、本書が抱えているような限界を他の研究成果を参照す
ることで補ってみることもできよう。例えば、本書よりおよそ
である。
であって、例えばそれぞれの記述が苧む力学ゃ、その表現が細
かく吟味されることはない。そうした資料/史料に対する批判
ダン都市文化と資生堂とのかかわりだけを重視するような、あ
るまなざしの類型の中に資生堂が置かれているような印象もあ
文化装置の総体を描き出した著者の手腕は、私が感じているそ
のような限界に対して一つの解決案を与えてくれでもいるよう
る
。
から、資生堂のポスター等のモダンガ 1ル像が、どこにも存在
しない、不在の表象であることを指摘する。こうした論点を本
ただし、これらの点も、本書に限定された問題点というより
1
6
1
書の研究成果に接続していったとき、資生堂という文化装置を
演出する資本の欲望や、膨大な資料/史料に潜んでいる表象の
のような出来事のことなのだろうと思う。
帰路に着いた。
二O 一一年四月一一六日岩波書庖四四三頁
(
五二O O円+税)
聡えて言えば、本書が取り上げた資生堂の。文化。とは、こ
メカニズムがより精微に描出されるのであろう。それらの課題
は、今後の研究へと委ねられていると言える。
以上、﹁書評﹂という記述に努めてきたが、最後に、私と資生
堂をめぐる余計なエピソードを書き添えることをお許しいただ
きたい。本書の第五章、資生堂パーラーについての論述に目を
通していたとき、七年ほど前に自分が経験したある出来事を思
い出した。兄夫婦とその三人の子どもたちが東京に遊びにきた
とき、当時東京に住んでいた私は、幼い子どもたちでも気軽に
食事ができるだろうと思い、資生堂パーラーに案内したのだっ
た。前日の東京ディズニーランドゃ、慣れない東京の人ごみで
子どもたちの疲れはピークに達していたのであろう、資生堂
パーラーでの子どもたちのご機嫌は非常に悪かった。一番幼い
当時未就学児の姪は、子ども向けのメニューについていたプリ
ンが気に入らないことを大声で訴え、デザートがついていない
メニューを注文したその姉は、自分だけデザートがないことを
不足に感じていたようだつた。おそらくパーラーの庖員は、子
どもたちが地方から東京見物にやってきたことや、疲れて機嫌
が悪いことを察してくれていたのであろう。気に入らないと我
侭を言ったプリンをアイスクリームに変え、デザートがない姉
にはそれを特別に説えてくれた。全て無償のサービスであっ
た。結果、子どもたちは元気に手をつないで夜の銀座を駆け、
1
6
2
相馬明文
著
﹃太宰治の表現空間﹄
本書は、太宰治の表現特性、文体的特徴
を中心に、太宰文学の解明を試みたもので
ある。膨大な用例に基づく精査は圧巻で、
調査対象は、日本の作家だけではなく、中
園、欧州の作家にも及ぶ。
第一部では、最も前衛的・実験的だとされ
る﹁道化の華﹂を例に、語り手等の作品構造
を分析する。﹁ひとりごとのやうに﹂﹁月の
ない夜﹂等の多くは、自閉する発話空間だと
し、女性一人称形式(女性独自体)の語りに
文体的特徴を見る。その発話は感覚的に訴
え、ある場面や状況を深く印象づけ、そこに
発話者の対他意識・自意識を説く。﹁月﹂の
用例は一五七例にも及、ぴ、﹁女生徒﹂では、
﹁お月様﹂が五回も擬人化され、同語反復に
子
には︿懐古の
も﹁地獄変﹂も、同じ一人称視点の作品構
性・真実性を与えるとする。﹁右大臣実朝﹂
れないことが、作品成立の重要な装置だと
造を持ち、﹁語り手が主要人物の心理を語﹂
する。また、太宰が原﹁竹青﹂に付加した
が、太宰の﹁月﹂
は、異常・非日
情﹀が描かれる
常のイメージを
人間界への執着にめざめ、平和に暮らすと
設定は、全て芥川の﹁杜子春﹂に見られ、
いう﹁竹青﹂の構想は、﹁杜子春﹂と等価だ
内包し、それが
独創性だとする。﹁有明淑日記﹂に﹁月﹂は
とする。太宰は芥川の﹁文体﹂だけではな
太宰の戦略を見る。﹁津島修治﹂﹁太宰治﹂等
り手の遼巡、揺れる自意識を写し、そこに、
だとし、﹁走れメロス﹂を題材に主人公、語
暮れ﹀に替わる太宰の表現特性は、﹁タ閤﹂
した状況時に使用されるとする。芥川の︿夕
て、読者に受け取られることは、我が園小
物の﹃私﹄が、作者の実生活に枠取りされ
材となるが、﹁作者らしい語り手や主要人
の関わり、非合法活動、自殺は、格好の素
を追究することの危険性﹂を説く。生家と
のではなく、作品だけで作者の人間と生涯
中の主人公や語り手がただちに作者そのも
第三部の太宰治へのアプローチでは、﹁作
く、﹁構想﹂をも受容しているとする。
の多用も太宰の表現特性で、﹁潜在二人称﹂
(
二 O 一O年一一月二五日 和泉書院
る一冊であった。
総じて、論証が確実で、どの説にも領け
説家の避けがたい宿命﹂だと嘆く。
いまい﹂の副詞語群は、その半数が腕曲表
四OOO円+税)
容について言及する。﹁右大臣実朝﹂の﹁あ
表現について論じ、太宰治の芥川龍之介受
第二部は、﹁右大臣実朝﹂の﹁あいまい﹂
の顕在化を指摘する。
うい比除﹂だとし、作中人物が﹁死﹂と密着
神﹂に一例見られる﹁死人のやうに﹂は﹁危
に残像としての効果を看取する。﹁狂言の
尽
見られないが、﹁女生徒﹂には表記され、﹁月﹂
木
現で、唆味に表現することで展開に迫真
J
¥
より﹁可哀想な寂しい娘﹂の心理感覚が効果
的に表出されるとする。李自の漢詩の﹁月﹂
頁
九
青
1
6
3
﹁文語詩稿五十篇﹂
治
読み、どう解釈したらよいかという問題が
︿文語詩﹀の場合、まず、一語一語をどう
に、私は大いに意義を認めたい。
ようなかたちできちんと世に関われたこと
する︿文語詩﹀の研究が、信時氏の著書の
るように思う。論ずることに最も慎重を要
時氏の誠実な研究態度はきわめて貴重であ
かって仕方がなかった。そのような中、信
雰囲気の存することが私にとって、気にか
とを言い放ちそれで許されてしまうという
が、良識のレヴェルを超え、好き勝手なこ
うになったことは結構なことにちがいない
昨今、誰でも自由に賢治を論じられるよ
篇﹂評釈﹄は、好感の持てる著である。
信時哲郎氏の﹃宮沢賢治﹁文語詩稿五十
』
盗
著
先行し、実質的な内容に踏み込めない事情
これも形式論的
を書いたのか。
治は︿文語詩﹀
がある。なぜ賢
は﹁朗読﹂に適する書きかえといえるだろ
ているようだが、そもそも賢治の︿文語詩﹀
化の理由を﹁朗読のため﹂に見出そうとし
信時氏は︿口語詩﹀から︿文語詩﹀への変
で、どうしても、
語として﹁フェノ lル﹂と記した可能性を
氏は賢治が﹁フェノ l ルフタレイン﹂の略
ル︺﹂の﹁フェノ lル﹂の解釈である。信時
が。二点目は、﹁︹期けりゆく冬のフエノ 1
賢治の書いた︿文語詩﹀の内実に迫る必要
主張しているが、化学を専門とした賢治が
うか。私にはきわめて朗読しにくいのだ
がある。私などは、その作業を半ば諦めて
そのような略し方をするとは思えない。他
には解くことの
しまっている方で、︿文語詩﹀が理解できな
できない問題
くとも宮沢賢治作品は十分研究対象として
ノ1 ルフタレイン﹂とは基本的に全く違う
が、化学者にとって﹁フエノ lル﹂と﹁フエ
頁 六 000円+税)
(
二 O 一O年一二月一二日朝文社
物質であることを無視はできないと忍う。
︿文語詩﹀も本格的な研究対象として捉え
価値を何ら反めるものではないので、二点
さて、︿文語詩﹀の解釈の異なりは本著の
価する以上に大切なことだと考えている。
とは︿文語詩﹀の一々の解釈の斬新さを評
究に対する敬意にあるように思う。このこ
丁寧な洗い出しと、その底に流れる先行研
てみた場合、信時氏の功績は、先行研究の
返さねばならないのだが、その文脈で考え
のテクストを援用し状況証拠的に推定した
司
信時氏の解釈も分からないわけではない
健
いる。むろん本来それでよいはずはなく、
木
楽しめるという、ふとどきな立場をとって
鈴
だけ、疑問を呈しておきたい。一点目だが、
四
五
E
評「
釈宮藤
1
6
4
島島竺
崎崎郎
藤藤著
村村
研研
究究
両巻の冒頭には文学理論や方法に関する
子、仕草などが思い起こされてくる。
作を読み返しながら、畏師の面影、声の調
氏の藤村観の基底をなす。今改めて氏の遺
氏が好んで引用しておられた字句であり、
あたった。帯の﹁湿れる松明のごとく﹂は、
代に教えを受けた者たちで﹂編集と校正に
ぐため、中原豊氏が世話人となり、﹁学生時
藤村研究をまとめたいという氏の遺志を継
も氏は懸命にリハビリを続けられていた。
その一年ほど前、入退院を繰り返しながら
究一八編を抽出し、ニ巻の論文集となった。
群から島崎藤村の詩の研究八編、小説の研
七回忌に合わせ、およそ四O年に亘る著作
二O O四年に永眠された水本精一郎氏の
水
論が置かれる。夫人の証言﹁病的な発作や
狂気﹂は藤村が
がりと深まりにおいて捉えられた。そのこ
氏は島崎藤村の作家的営為を一貫して広
﹁凝縮される﹂のを読み取ろうとされた。
一的な把握し得るような方向﹂を可能とし
﹁常に己が狂気
て始めて、散文へと向かったとする。ある
にすれすれのも
た﹂ためとする。
いは﹃破戒﹄における﹁告白﹂と﹁社会﹂
る考察に顕著で、藤村は﹁散文と詩とを統
浪漫詩人の内に
の問題もその重層性において捉え、それ故
とは藤村の、︿詩から散文へ﹀の移行に関す
潜む﹁魔﹂的なものを氏は藤村独自の手法
次作の﹃春﹄を、﹁客観小説﹂から﹁自伝小
のと、その最深
として捉える。また﹃夜明け前﹄執筆後も
部で闘ってい
なお半蔵を﹁狂死﹂か﹁悶死﹂かと、問い
とに対し、一九三0年代の﹁ファシズムが、
﹃話し手﹄﹃語る主体﹄を捨象してきた﹂こ
る。﹃東方の門﹄あるいは﹁魯迅﹂に関する
界が脆気に遠望されるような思いに駆られ
氏が思い描いておられた﹃夜明け前﹄の世
残念であるが、両巻を通読し、その彼方に
本書に氏の﹃夜明け前﹄論がないことは
﹁虚無思想・アナーキズムの地ならしの上
一朝一夕にして成るものにあらず﹂と思わ
ない。巻末の著作目録を前に﹁文芸の事は
元より氏のご研究は藤村だけにとどまら
論にもその一端は窺える。
の書き出しが﹁木曽路名所図会﹂や﹁木曽
近代文醤社
ざるをえない。
二人OO円+税)
(
二 O 一O年二一月一六日
路之記﹂を踏まえて書かれたとされること
の問題として捉えるのではなく、﹁創作主
についても、所謂先行テクストからの引用
強い疑義を呈される。名高い﹃夜明け前﹄
に、頭を撞げて来たことを想起﹂させると、
人間主体の解体や故郷喪失の意識を含め﹂
氏は昨今の研究の主流が﹁研究対象から
説﹂への転換とは短絡しない。
高
なおす藤村の一貫した姿勢を見出された。
金小詩
説の
戸 の世
世界
清界』
体の志向作用が﹂﹁エネルギーの束として﹂
各
=
=
=
0=
=
=
0
査
1
6
5
聡子著
矢津
美佐紀
の学問の表象を
女子教育・女性
明治二0年代の
の軌跡﹂では、
明治期女子教育
の学習において和歌が果たした機能の内実
連関性にスポットをあてることで、共同性
ことのなかった日清戦争と一葉の和歌との
らかにされる。特に従来あまり評価される
されつつ同時に階層化されていく過程も明
アリティとしての身体﹂が、一方では疎外
る。一葉、紫琴などの女性作家は勿論、遁
る﹂ときの﹁言語構造のレトリック﹂に迫
に国家の欲望に回収されていったのかが読
おいて読者に共有された︿感傷﹀性がいか
語られる吉屋の従軍記に着目し、戦時下に
信子と大東亜戦争﹂では、︿感傷﹀の言葉で
第三部﹁女の友情、そのゆくえ││吉屋
を解析した点は興味深い。
解析し、﹁家父
長制度から疎外
から逸脱する男たちの姿も透けて見える。
遥、鏡花といった男性作家の多種多様な言
されていた女性たち﹂が、﹁国家に編成され
本書は、惜しまれながらこの春急逝した著
説分析を通して、公教育の領域で︿学問﹀
現代における﹁泣ける﹂物語の氾濫や、
ここで語られる国家にまつわる︿感傷﹀の
み解かれる。 3 - U以降の情況にあって、
危うさは今こそ切実に我キの胸をうっ。
が女性エリートたちを﹁規定する一つの記
﹁文学的感傷のカに抗うことそれ自体も、
多層的なメディアミックスの状況を視野に
読者の営為、︿読むこと﹀に懸けられている
の女性を隠蔽していく﹂道筋が開示される。
この問題は、第二部﹁女が︿和歌﹀を詠
に違いない﹂(﹁終章﹂)と結ぶ著者の、文学
号として機能﹂し、その表象が﹁個として
眼差しは、その﹁暴力の蔓延に、︿文学﹀は
むときll樋口一葉と日清戦争﹂で深めら
的営為が突然絶たれたことの不条理と哀し
にあふれでいる﹂と語り出す著者の怜倒な
どのように関与している/してきたのか﹂
れる。﹁︿暴力﹀と︿感傷﹀の交差﹂の場に
みを思わずにはいられない。
おいて、女たちが︿国民化﹀に背きながら
もいつしか国家との共犯関係を結ぶに至る
は、特に日本近代における女性表現に着目
物語からは、︿国民﹀から意図的に排除され
二八OO+税)
(
二 O 一一年一月二七日岩波書庖
心からご冥福をお祈りしたい。
﹁文学的︿感傷﹀の力学﹂を解き明かすこ
地におけるアジアの女性たちの﹁セクシユ
ていた﹁芸妓・娼妓﹂たち、あるいは植民
し、国家的暴力を隠蔽してきた(している)
第一部﹁国民化する/される女たち││
とにある。
頁
二八O
という難問へと向けられる。本書の目的
収めつつ﹁日本の︿いま・ここ﹀は、暴力
者の生前最後の著書である。
挑発的なタイトルの裏側には、国民国家
││女学生、一葉、吉屋信子﹄
﹃女が国家を裏切るとき
菅
6
6
1
関谷博著
﹃幸田露伴の非戦思想
ただし、。非戦。という一貫したテ l マで
いう作業)。
作品が解釈されているため、そのテ l マで
一体どのような
襲うかについて
悲しみが人々を
違和感を覚える部分もあった(例えば﹁宝の
蔵﹄の解釈など)。しかし、著者もそこは意
全てを読み解くことができるのか、若干、
な不断の努力と
て読む試みに対して、違和感を覚える人も
識的で﹁これほど政治的なテ l マに特化し
ておく::・そん
心掛け﹂をする
の想像力も鍛え
者であり、こうした思想こそが、露伴の。非
西川貴子
人権・国家・文明││︿少年文学﹀を中心に﹄
前著﹃幸田露伴論﹄で、露伴の謎に迫り
ように、露伴が深く﹁問ひ﹂﹁思考へ﹂﹁悟
かんが
あろう﹂と留保も加えている。著者がいう
︿少年文学﹀を児童文学の単なる前史と捉
えるならば、むしろ本書もまた、私たちに、
戦。思想だと著者は説くのである。
年文学﹀に焦点をあて。非戦 e思想の作家・
えずに、﹁︿少年﹀および︿文学﹀という前
、、、、、
近代的なものによって、明治国家の将来を
とを努めるよう促しているといえよう。
立ち止まって﹁問ひ﹂﹁思考へ﹂﹁悟る﹂こ
独自の作家像を提示した著者は、今度は︿少
露伴という山円像を大胆かつ明快に私達の目
ものの創造を目指す、企て自体の裡に対
担う最良の国民 H ︿少国民﹀なる近代的な
る点が興味深く、また従来ほとんど論じら
立・矛盾をはらんだ運動﹂と捉え直してい
で、私たちはどう処すべきなのか。本書は、
要な訓練・学びの機会﹂を失った現代社会
﹁自分自身の︿声﹀を手に入れるために必
る﹂ことの大切さを主張していたことを考
著者は、まず露伴の︿少年文学﹀の試み
の。臣民。作りに対抗し、理想の。国民。
れてこなかった露伴の︿少年文学﹀を、同
の前に提示した。
を、憲法発布や教育勅語などによる上から
を創造しようとした試みと捉える。この理
時代の他作家の作品ゃ、露伴の︿少年文学﹀
露伴の思想を通して私たちの﹁知﹂のあり
力を養い、日々の平和な暮らしの有り難さ
想の。国民 ψとは、﹁ひとりひとりが考える
の持つアクチユアリティーについて考えさ
方自体を聞い直したものであり、露伴作品
二四三頁
でも刺激的な書だといえるだろう(例えば
平凡社
以外の作品との関わりの中で論じている点
二二 O O円+税)
(一一 O 一一年二月一一一日
せられる書でもある。
(幸福は、一つの由江である)を自らの裡に
学﹀を書くに至る道筋。また第即日部の︿少年文
第I部における。学制。の世代露伴が︿少年文
発見し、幸福の質をいかに維持し向上させ
るか、またその幸福をおびやかそうとする
学﹀以外の作品から。非戦。思想を縫認すると
動きに対しては断固として反対しようとす
る、そしてもし戦争が起こってしまったら、
7
6
1
日本近代文学会関西支部編
論じた。﹁ロ l
分析、実は春樹作品のオリジナリティを誰
作品を手放しで認めない評論が多い理由を
れほど読まれている作家であるのに、春樹
なカ H ﹁父﹂の一部を破壊し、﹃ H C∞ こ
カリテイの解像
の王殺しの問題を捉えた。日高佳紀は時間
も把握していないと指定した。佐藤秀明
神戸表象分析の
と記憶の物語化を、安田孝は﹁眺める﹂方
度﹂を上げる方
を世界文学として読み、石原千秋は作品中
新しい道標となった。中川成美は春樹作品
開して読みごたえがある。木村功は﹃沈黙﹄
法に着目し、青木亮人は斬新な羊男論を展
は、﹃羊をめぐる冒険﹂など長編小説で巨大
村上春樹の初期作品群は神戸と切り離せ
で使われる﹁正しさ﹂に注目する。社会基
上春樹における
ない。日本近代文学会関西支部による村上
準においてのみ判断が下せるとした﹁正し
法論を提唱、村
春樹シンポジウムが行われると知り、羊男
﹃ノルウェイの森﹄における﹁聞く﹂行為
で学校システムへの表現方法を、越柱喜は
員紀子
の住む北海道から私は神戸に向かった。二
さ﹂は、自分自身のこととなると下せない
おける自己が他者に侵されているさまを内
に焦点化し、孫軍悦は中国での春樹受容の
表の後に全体討議があり、フロアからの発
した。黒田大河、飯田祐子、平野芳信はと
戦と名付け、それを隠蔽している点を指摘
変遷を、深津謙一郎は﹃海辺のカフカ﹂に
このシンポジウムの成果である。巻末には
言がなされ、ぎっしり詰まった会場で熱く
よって磨き上げられた鏡で﹃H
ρ ∞品﹄ B
明里千章の手による村上春樹出版年譜もあ
交わされた議論が採録されている。だが、
タフィクションとして、飯田は牛河に注目
もに﹃目。∞とを論じている。黒田はメ
OOK3の欠点を指摘した。以上四人の発
り、現在の村上春樹研究を一望でき収穫も
フロアの熱意にもかかわらず、共同討議で
し、平野は天吾の父は深田保であると読む。
シピリテイ﹂が開かれた。本書の第I部は
大きい。何よりも日本近代文学会における
は村上春樹を熱く積極的に評価する評者は
春樹研究の新たな展望を喜びたい。
記憶・拠点・レスポン
樹と小説の現在││4
現在の村上春樹研究の水準がうかがえ、画
いなかった。この点を司会に立った黒田大
二四OO円+税)
二 O 一一年三月一 O日 和 泉 書 院
(
河と飯田祐子が問いかける。なぜこれほど
この不満を第E部の清水良典が補う。こ
村上春樹は読まれるのか。
期的である。いよいよ村上春樹も﹁近代文
学﹂の中に殿堂入りしたのだ。
まず、第I部である。高木彬は建築専攻
の視点で、文学を空間的に捉えた視点から
頁
五
との結論を導き、千野帽子は仏文学研究に
互
崎
る甲南女子大学で﹁シンポジウム・村上春
説
の
山現
O 一O年六月十二日、神戸の街を一望でき
村
上
春
樹
と
1
6
8
J
ι
普
目
図
書
増田裕美子・佐伯順子編﹃日本文学の﹁女
書房)
芸術史的転回﹄(二 O 一一年二月、ひつじ
中村三春﹃新編言葉の意志│有島武郎と
龍書一一房)
﹁自虐﹂と﹁暢気﹂﹄(二 O 一一年二月、
森晴雄・須田久美編﹃嘉村磯多と尾崎一雄
年二月、平凡社)
一
文明│︿少年文学﹀を中心に﹄(二O 一
関谷博﹃幸田露伴の非戦思想人権・国家・
月、勉誠出版)
藤尾健剛﹃激石の近代日本﹄(一一O 一一年二
房)
しい女﹂たち﹄(二 O 一一年二月、翰林書
﹁新しい女﹂研究会編﹃﹃背踏﹄と世界の﹁新
年二月、翰林萱一房)
一
原仁司編﹃柳美皇居包│MOHO﹄(二O 一
O 一O年一二月、笠間書院)
小林敦子﹃生としての文学高見順論﹄(二
O 一O年一一一月、ワイズ出版)
藤田明﹃平野の思想小津安二郎私論﹄(二
声Z
性性﹂﹄(二O 一一年二月、恩文閑出版)
金雪梅﹃金子光晴の詩法の変遷ーその契機
と文学│﹁福田清人文庫の集い﹂講演集﹄
立教女学院短期大学図書館﹃福田清人・人
と軌跡﹄(二 O 二年三月、花書院)
二0年代﹄(ニO 一一年二月、笠間書院)
馬場美佳﹃﹁小説家﹂登場尾崎紅葉の明治
外村彰﹃岡本かの子短歌と小説│主我と
(
二O 二年三月、鼎書房)
和田敦彦編﹃固定教科書はいかに売られた
没我とl﹄
(
一
一O 一一年三月、おうふう)
日本近代文学会関西支部編﹃村上春樹と小
か﹄(ニ O 一一年三月、近代出版流通の形
一
﹃同時代の証言三島由紀夫﹄(二 O 一
松本徹・佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編
日本語文学選﹄(二 O 一一年五月、亀鳴屋)
木村一信・外村彰編﹃外地の人々│︿外地﹀
像力﹄(二O 一一年四月、蒼丘書林)
鈴木健司﹃宮沢賢治文学における地学的想
一年四月、岩波書庖)
和田博文﹃資生堂という文化装置﹂(一一O 一
歌研究社)
継承できるか?│﹄(二O 一一年四月、短
小林幹也﹃短歌定型との戦いl塚本邦雄を
文芸の検閲﹄(二O 一一年四月、世織輩一房)
ジエイ・ル 1ピン﹃風俗壊乱│明治国家と
O 二年四月、逸翁美術館)
伊井春樹監修﹃与謝野晶子と小林一三﹄(二
成ひつじ書房)
説の現在﹄(二O 二年三月、和泉書院)
村田裕和﹃近代思想社と大正期ナシヨナリ
版)
ズムの時代﹄(二O 一一年一一一月、双文社出
断層﹄(二O 一一年三月、和泉書院)
棋林混二﹃日本近代文学の内景犠々なる
末圏普己﹃時代小説で読む日本史﹄(二O 一
一年一一一月、文議春秋)
佐藤伸宏﹃詩の在りか│口語自由詩をめぐ
る聞い﹄(二O 一一年一一一月、笠間書院)
金子幸代﹃鴎外と近代劇﹄(ニO 二年三月、
大東出版社)
山口直孝﹁﹁私﹂を語る小説の誕生近松秋
江・志賀直哉の出発期﹄(一一O 一一年三月、
翰林書房)
(
二O 一一年一一一月、思文閤出版)
伊井春樹﹃与謝野晶子の﹁源氏物語礼賛歌﹂﹄
9
6
1
年五月、鼎書房)
一
亀井俊介﹃英文学者 夏目激石﹄(二O 一
年六月、松柏社)
江藤茂博・小嶋知善・内藤寿子・山本幸正
編﹃大学生のための文学レッスン近代
編﹄(二O 一一年六月、三省堂)
日本比較文学会編﹃越境する言の葉│世界
と出会う日本文学﹄(一一 O 二年六月、彩
春樹﹄(二O 一一年八月、ひつじ書房)
和田敦彦﹃越境する書物変容する読書環
境のなかで﹄(二O 一一年八月、新曜社)
伊藤博﹃貧困の逆説│葛西善蔵の文学│﹄
(一一 O 一一年九月、晃洋書一一房)
吉川豊子編﹃新編日本女性文学全集3﹄
光文学研究会)
﹃雪口語文化二八号﹄(二O 一一年一一一月、明
治学院大学言語文化研究所)
﹃層│映像と表現四号﹄(一一 O 一一年三
月、北海道大学大学院文学研究科)
﹃江古田文学七六号﹄(二O 一一年一一一月、
星雲社)
﹃安田女子大学大学院文学研究科紀要一
﹃近代文学合同研究会論集第7号 高 度 成
館大学文学部教育学部)
﹃皇学館大学紀要﹄(二O 二年三月、皇学
学院文学研究科)
六集﹂(二 O 一一年三月、安田女子大学大
塚本章子﹃樋口一葉と斎藤緑雨│共振する
合同研究会)
長と文学﹄(二 O 一O年二一月、近代文学
(一一 O 二年一月、脊柿堂)
ふたつの世界﹄(二 O 一一年六月、笠間書
流社)
院)
一
一
一
﹃日本文芸論叢二 O号﹄(一一O 一
年
一
月、東北大学文学部国文学研究室)
O 一一年二月、日本大
戸﹄(二
NO
﹃現代文学史研究二ハ集﹄(二 O 一一年
﹃義文孜
尚子大学院芸術学研究科文芸学専攻)
六月、現代文学史研究所)
川本陪嗣・上垣外憲一一編﹃一九二0年代東
アジアの文化交流 E﹄(二 O 一一年六月、
古屋大学大学院文学研究科附属日本近現
ヨロロの吉円四一一号﹄(一一 O 一一年一一一月、名
代文化研究センター)
ニO 二年度(前半期)
大会・例会における発表の記録
年三月、武庫川女子大学大学院文学研究
一
﹃日本語日本文学論叢六号﹄(一一O 一
科日本語日本文学専攻)
事務局より
恩文閤出版)
吉岡栄一﹃単独者のつぶやき書評と紀行﹄
二 O 一一年六月、鼎書房)
(
小埜裕二﹃童話論宮沢賢治順化と浄化﹄
﹃文芸思潮四O号﹄(二O 一一年一一一月、ア
。春季大会五月二八日(土)午後二時よ
(一一 O 一一年七月、蒼丘書林)
ジア文化社)
出口智之﹃幸四露伴と根岸党の文人たち
もうひとつの明治﹄(二O 一一年七月、教
﹃懇相二巻一号﹄(二 O 一一年三月、今東
育評論社)
馬場重行・佐野正俊編﹃︿教室﹀の中の村上
り
1
7
0
日本大学文理学部三号館五階
ぐる形式と応答性││徳、氷夏子
メのあいだ││久米依子
.二つの分断と越境││﹁文学﹂とエンタ
同午後一時より
第 一 会 場 三 五O七教室
継続テ1 マ 文 学 を 教 え る │ │ 研 究 環
神山彰
阿部由香子
(デイスカツサント)吉田昌志
・若き日の喜多村緑郎
-﹃新派再考﹄
・﹁岸田園士と﹃築地座﹄と喜多村緑郎﹂
(司会)森井マスミ
・﹁新派﹂再考│喜多村緑郎を中心に
中心に
fl喜多村緑郎を
パネル発表﹁新派﹂再者
第 一 会 場 三 五O三教室
境・研究方法の前線(一一一)
跡上史郎
・読みたかったのはこれじゃなlい H
か?﹂島村輝
・﹁文学を勉強するって、どういうことです
・崇高なものとの出会い方助川幸逸郎
第 二 会 場 三 五O五教室
特集歴史の創出と消費
-歴史の創出と消費・松本清張の場合
松本常彦
・﹁風太郎忍法帖﹂という歴史谷口基
戦間期の上海を中心に
パネル発表上海表象文化研究の試み│
第 二 会 場 三 五O七教室
五月二九日(日)午前一 O時 よ り 三 五
後の大悌次郎││小川和也
忍・劉建輝
(司会)松村良(デイスカツサント)土屋
・﹁戦争協力﹂と﹁鞍馬天狗﹂ 1 1戦中・戦
研究発表
O七教室
-横光利一﹃上海﹄と映画表象
パネル発表疎開と文学
第 三 会 場 三 五O五教室
疎開の意味山口直孝
中沢弥
-探偵小説の再定位││横溝正史における
嶋田直哉
・永井荷風と﹁疎開﹂││岡山時代を中心
六月二五日(土)午後二時よ
山崎正純
・︿疎開者小説﹀の検討 │ 1 1
太宰治の場合
。六月例会
大妻女子大学 千代田キャンパス
六六教室
継続テlマ戦後文学・トランスナショ
ナル││研究環境・研究方法の前線(四)
録する大田洋子││川口隆行
.方法としての原爆文学│lム仏烏の街を記
民地的身体を解き放っために我部聖
・いま﹃琉大文学﹄を読むということ│植
ルな再評価マイケル・ボlダッシュ
.﹁政治と文学﹂論争のトランスナショナ
利一﹁上海﹄を軸に││田口律男
.戦間期における上海表象の諸相││横光
アリティ上衣象の論理石田仁志
野網磨利子
・横光利一﹃上海﹄のインターテクスチユ
﹃青踏﹄における主体の仮構││小説をめ
取り込む世界との関わりから││
・棄却した問題の回帰1io﹃それから﹄の
A
り
1
7
1
集
後
日u
ロ
z=
の初歩的なミスも目立ちますが、今回は立論の狭さ、研究
史のアンバランスな整理、論証の不十分さ、用語の意味の
不明確さ、方法論的な不備など、論文の内容そのものに関
方にセカンド・オピニオンを尋ねてみるなどの工夫も必要
わる大きな問題が散見されました。投稿者が自分で見直す
ことは当然として、場合によっては、投稿前に信頼できる
論文として五編を採用しました。採用率は約一一%で、約
一七%だった第八四集よりも一層低下する結果となりまし
であるように思われます。投稿者の一層の努力を期待しま
。
す
た
投稿論文の数が少なかったということにつきます。編集委
員会では、審査基準にあるように、まず、﹁投稿者に対して
客観的な立場をとり得る﹂三名の委員がそれぞれ別個に四
段階で投稿論文の評価をします。今回、最低のD評価の割
合が全体の約四九パーセントを占めるに至りました(なお、
第八四集の場合は約四三パーセントでした)。一方、二名
以上の委員が当該集に掲載する水準に達していると-評価し
た投稿論文は七編しかありませんでした。もちろん、これ
はあくまで第一次の評価で、この後に開催される会議で議
論したうえで最終的な評価が決定されますので、この時点
下を物語っています。
での評価によってすべてが決まるわけではありません。し
かし、 D評価の割合の高さは投稿論文の水準の全体的な低
第八四集の﹁編集後記﹂に述べたような、表記のうえで
に、経費削減と、予算を守つての刊行を意識して編集し刊
行されています。二O 一O年五月二十二日の理事会・評議
員会・総会で報告され、﹁会報﹂第一一三、四、五号にあり
贈される際には、巻末の﹁学会宛送付物に関して﹂をご覧
ください。
本集も日本近代文学会の財政状態の悪化に対応するため
会員の新刊の中で、刊行時から一年前後で書評・紹介を掲
載できる書籍を対象として審議の上で選定しています。寄
なお、書評・紹介欄は、現在、編集委員会に寄贈された
ます。
特集を企画しました。編集委員会の意図をくみ取って、興
味深い貴重なご論稿をお寄せいただいたことに感謝いたし
︽研究ノ lト︾︽展望︾欄は、二O 一一年が﹁青鞘﹂一 O
O年であることを鑑みて、ジエンダl ・スタディ lズの小
この原因は、第八四集と同様、採用できる水準に達した
第八五集をお届けします。
本集は四五編の投稿論文(うち一編は︿資料室﹀)があり、
編
1
7
2
ましたように、日本近代文学会の財政状態は、過去四年に
わたって支出が収入を上回るという不健全な状態にありま
す。この状態から脱するために、来年度より会費が値上げ
されることになったのは会報第一一五号に報じられていま
す
。
このような状況をふまえて、編集委員会は、第八三集の
﹁編集後記﹂でも述べましたが、全国学会誌の原点に立ち
返って、二疋のレベルに達した投稿論文を掲載することを
第一の目標として編集していきたいと考えております。学
会誌の役目の中で、もっとも重要なことは、水準の高い投
稿論文を掲載することにあるのは明らかです。そのことを
優先するために、第八三集以来、さまざまな工夫をしてき
ました。意欲的な論文が数多く投稿されることを期待して
おります。
光石亜由美
平津信一
篠崎美生子
奥山文幸
山本芳明(編集長)
山岸都子山口直孝
深津謙一郎藤森清
田口律男棚田輝嘉
木股知史久米依子
音田司雄
松下浩幸
中山昭彦
五味測典嗣
本集の編集は以下の委員が担当しました。
和田敦彦
3
7
1
委文
。
﹂
シ
ニ
﹃日本近代文学﹄の査読及び審査基準
︻査読方法}
原則として三名以上の委員が査読し、さらに編集委員会
での審議を経て、当該論文の採否を決定する。投稿者に対
して客観的な立場をとり得る委員が査読を担当する。なお、
掲載に関しては、論文の充実をはかるため、投稿者に加筆・
訂正を依頼する場合がある。
︻審査基準}
以下のいずれかに該当する論文であることが審査におい
ては重視される。
①当該領域の研究史及ぴ研究状況をふまえ、その領域で新
しい地平を開拓する論文であること。
②新しい研究領域・新しい研究方法を切り開く問題提起的
な論文であること。
@研究上有益な資料を発掘し、意味づけている論文である
こと。
④研究の発展に貢献すると見なすことができる論文である
︻採否及、ぴその通知について︼
採否とその通知にあたっては、以下の通り対応する。
る
)O
A 一採用(ただし字句・表現などの修正を求める場合があ
す(再審査を行う)。
B 一改稿を求めるコメントを付け、当該集への再投稿を促
編近
本
集代
委文
員学
会会
﹃日本近代文学﹄投稿規定
集代
C 一不採用。コメントを付けて次集以降への再投稿を促す。
D ・不採用。
日
ーー
A
、
A
l醐 東 京 都 豊 島 区 目 白l│5
m
〒
コ ""
,
z
一、日本近代文学会の機関誌として、広く会員の意欲的な投
稿を歓迎します。
一、論文は四O O字詰原稿用紙換算で四O枚前後(タイト
ル・図版・注を含む)を原則とし、二八字一行で七二O行
を上限とします。また、注も本文と同じ行数・字数でご執
筆下さい。
一、︿研究ノlト﹀︿資料室﹀は四O O字詰原稿用紙換算で一
五i 二O枚程度を原則とします。
一、ワープロ原稿の場合、用紙は A 4を使用し、冒頭に四O
O字詰原稿用紙換算枚数を必ず明記して下さい。
一、原文の引用は、新字のあるものはなるべく新字を用い、
注の記号・配列なども本誌のスタイルにお合わせ下さい
ますよう、お願い致します。
一、投稿に際しては、必ず原稿にコピーを添え、つごう四部
をお送り下さい。原稿はホチキスなどで、必ずとめてく
ださい。また、原稿は返却致しませんので、お手許に控え
をお残し下さい。
一、三O O字程度のわかりやすい表現による要約四部をあ
わせてお送り下さい。用紙は A 4かB 5を使用し、タイ
トル・投稿者名を明記して下さい。
一、お名前にはアルファベット表記を必ずお付け下さい。
一、投稿者の連絡先(氏名・郵便番号・住所・電話番号・メー
ルアドレス)と略歴(大学院入学以降が望ましい)を一部
ご提出下さい。なお、略歴は査読者の公正な選定のため
にのみ使用し、審査終了後に破棄いたします。
一、第八七集の締切は、二O 一二年四月五日必着です。第八
人集の締切は、二O 一二年一 O月一日必着です。締切日・
投稿先をお間違いにならないようにご注意下さい。
投稿先
員学
学習院大学文学部日本語日本文学科
山本芳明研究室内
日本
編近
1
7
4
入会手続きのご案内
日 投
O 入・退会の手続き(入会の場合は、お茶の水学術事業会へ
誌
関
連絡すると申込書が送られてきます。退会の場合は、そ
の旨を葉書でお届けください)、住所・所属などの変更、
その他の会員としての通知や連絡は、﹁お茶の水学術事業
の自筆でお願いいたします。
会日本近代文学会係﹂宛にお願いいたします。入会届
けに記載する二名の推薦人の姓名は必ず、それぞれの方
込みください。
O会費、機関誌購入代金などは、左記の郵便振替口座にお振
日本近代文学会係
特定非営利活動法人・お茶の水学術事業会
一T山 l捌東京都文京区大塚二│一l 一
お茶の水女子大学理学部三号館二O四
電話・ファックス O三(五九七六)一四七八
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第二条
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目
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一
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日本近代文学会会則
るここ
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本本
近近
代代
文文
学学
の会
研と
究称
をす
推る
進
す
る
日日
と
を
目
的
と
役員
第六条
0
理事若干名
監事若干名
評議員
若干名
は、理事会を構成し、総会および評議員会の議決に従っ
2、 代 表 理 事 は 、 こ の 会 を 代 表 し 、 会 務 を 総 括 す る 。 理 事
常任理事は、それぞれ総務、財務、運営、編集、海外
て、会務の執行に当る。
交流を担当し、代表理事を常時補佐する。代表理事に事
担当理事がこれを代理し、その職務を行う。
故があるとき、または代表理事が欠けたときには、総務
評議員は、評議員会を構成し、この会の重要事項につ
いて審議決定する。
監事は、この会の財務を監査する。
3、 評 議 員 は 、 別 に 定 め る 内 規 に 従 っ て 候 補 を 選 出 し 、 総
理事は、別に定める内規に従って評議員の互選により
会において承認を得る。
り選出する。ただし運営担当理事(運営委員長)、編集担
選出する。代表理事および常任理事は、理事の互選によ
理事会の承認を得なければならない。
代表理事
常任理事
ー、この会に次の役員をおく。
名
若干名
いものとする。
ただし、理事および監事の任期は、継続四年を越えな
4、役員の任期は、二年とする。再選を妨げない。
において承認を得る。
監事は、別に定める内規に従って候補を選出し、総会
る内規に従って選出する。
当理事(編集委員長)は、第七条第三項および別に定め
この会の会員は、日本近代文学の研究者、およびその関
担するものとする。
係機関をもって構成する。会員は、付則に定める会費を負
4、その他、評議員会において特に必要と認めた事業。
日本文学研究者との連絡・交流
3、 海 外 に お け る 日 本 文 学 に 関 す る 研 究 機 関 ・ 団 体 お よ び
2、機関誌、会報、パンフレットなどの刊行。
l、研究発表会、講演会、展覧会などの開催。
。
ノ
﹁
、
この会は、第二条の目的を達成するために次の事業を行
す
第五条この会への入会には、原則として会員二名の推薦を受け、
第四条
条
条
第総
一則
第
1
7
6
組織
000円とする。入会金は、一、 000円とする。
会費は入会後五年間、また海外在住会員はその在住期間、年額五、
ー、支部の設立に賛同する会員の名簿
事会に提出し、評議員会の承認を得なければならない。
一、会則第七条一項にもとづき、支部を設けるには以下の書類を理
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のと見なす。
二、会費をつづけて二年分滞納した場合は、原則として退会したも
第七条
l、 会 務 を 遂 行 す る た め に 理 事 会 の も と に 本 部 事 務 局 を お
く。ただし、別則に従って支部を設けることができる。
2、理事会のもとに、運山(号委員会、編集委員会を設ける。
3、運営委員長、編集委員長並びに運営委員、編集委員は、
理事会がこれを委嘱する。運営委員長、編集委員長の任
期は、二年とする。
第八条この会は、毎年一回通常総会を開催する。臨時総会は、
2、 支 部 会 則
二、支部には、支部長一名をおく。
理事会が必要と認めたとき、あるいは会員の十分の一以上
から会議の目的とする事項を示して要求があったとき、こ
三、支部長は、支部の推薦にもとづき、代表理事がこれを委嘱し、
正承認、施行]
[
二O O八(平成二O
) 年五月二十四日の総会において改
承認を得なければならない。
五、支部は、少なくとも年一回事業報告書を理事会に提出し、その
ることができる。
四、支部は、会則第三条の事業を行うのに必要な援助を本部に求め
その在任中、この会の評議員となる。
れを開催する。
この会の経費は、会費その他をもってあてる。
会計
第九条
この会の会計年度は、毎年四月一日にはじまり、翌年三
この会の会計報告は、監事の監査を受け、評議員会の識
月三十一日におわる。
第十条
第十一条
000円 と す る 。 た だ し 、 大 学 院 在 籍 会 員 の
会則の変更は、総会の議決を経なければならない。
を経て、総会において承認する。
会則の変更
第十二条
付則
一、会費は、年額入、
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東日本大震災で被災された方々の会費減免について
東 日 本 大 震 災 で 被 害 に遭われた会員の方々には、
心 よ り お 見 舞 い 申 し 上 げ ま す。
日本近代文学会では、少しでも被災された方々のお力になれればと思
O 月 一五 日 の 理 事 会 、 評 議 員 会 で 、 こ の た び の 震 災 で 被 災 さ
い、去る 一
れた会員に対して、 二年 間 の会 費 を 免 除 す る こ と を 決 定 い た し ま し た 。
被 災 さ れ て 会費 の 支 払 い に 支 障 が あ る 方 は 、 お 手 数 で す が 、 お 茶 の 水
学術 事 業 会 ま で 、 念 の た め 書 面 (
メl ル可 ) で お 知 ら せ 下 さ い 。 書 式は
自 由 で す。
なお 、 す で に 納 入 さ れ た 方 や 未 納 分 が あ る 方 な ど 、 様 々 な ケl スが想
定 さ れ ま す の で 、 お 知 ら せ のあった方々には改めて 刷 り 物 を お 送 り し、
早急 に 会 費 減 免 の措 置 を 行 い ま す。
申し上げます。
被 災 さ れ た 皆 様 の 、 一日も 早 いご回復を 心 よ り 祈 念 ・
日 本 近 代 文 学会
書
評
西田谷洋型fr
政治小説の形成一一始まりの近代とその表現思想j
佐藤淳一帯fr
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橋本のぞみ若 『
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初期小説の展開j
小林敦子若『生としての文学一一阿見順論j
鳥羽根l
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「記録」の時代j
荒井裕樹若 『
障害と文学
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山本
「しののめ」から「干「い芝の会 jへ
』
古川裕佳箸 『
志賀直哉の(家庭)一一女中不良主婦j
藤尾世l!問J
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著
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私石の近代日本j
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時代j
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馬場美佳著 r
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小説家 J受場一一尾崎紅葉の明治二0年代j
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肇
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岡本かの子 短歌と小説
主我と没伐と
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近藤恭子
村旧総刑 l
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近代思想1
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綾目広治
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宏若 『
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資生堂という文化装置
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一郎著『島崎藤村研究一一時の世界J.
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均的藤村研究一一小説の世界j
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君子治二 『
女が国家を裏切るとき
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戸 日本近代文学
編集者
「日本近代文学会」編集委員会
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第8
5集
発行者 日本近代文学会
代表理事
発行所日本近代文学会
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山本芳明研究室内
中島国彦
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2 東 京 都 千 代 凹 区 岩 本 町 1-1-6
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201 1年 (平成 2
3年)
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5日 発行
印刷所
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三美印刷株式会社
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