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2000年春号 - 一般財団法人住総研

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2000年春号 - 一般財団法人住総研
ISSN 0916-0671
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(通巻第日号) 二OOO年四月 二 日発行。
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特集 H
再検証 地
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春号
季
刊
財団法人 住宅総合研究
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礼拝所を西 端に 、住棟と 暦房が中庭を囲むインドネンア・
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均 貯 藤 井 明 :::2
地域か らのまち,っくム引か認唱が起した一一一井所清興
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HOPE計画﹀を検証する
会 H片山和俊 (
鵬護大)
臨諮究所) 司
林寛治 (建築家)+岩田司 (
伝建一地区今井町 の試み 課 程 裟 肝 駐UV修する 育村佳子
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マドゥラ品は、ジャワ 拘
h 束 北 郊 の 部 市 ス ラ パ ヤ の 京 に 速 な る 東 西 一 五O
刷、南北一二O い酬の納長い小島である。スラパヤとを隔てるマドゥラ海峡は
狭山崎で、フェリーで約一一一O 分の行躍である。
マドゥラ烏を中心とする東ジャワ一帯に食むマドゥラ族は、ジャワ族、
スンダ践に次ぐインド、不シア第一一一位の人口を擁し、勇猛果敢な部族として
その名を馳せている。続午や喧疎開削などの特異な習俗で有名な品であるが、
石氏お授の土壌は痩せていて、南部や凶郊では稲作が行なわれているが、
その他の地域では託陵地で焼き燭を行ない、キャッサパやトウモロコシな
ど を 作 三、
r いる。民業と牧十品川の他に、漁業と裂塩業が、宅前官な生業である。
マドゥラ族の住居は極めて様式的な配叩ぽになっている。彼らは敬ぃ援なイ
ス ラ ム 教 徒 で 、 各 校 底 に 専 有 の 礼 拝 所 ラ ン ガi が あ る 。 ラ ン ガ ー は 必 ず 敷
地の西端部に設けられる。この建物は北、湖、南の一二十々が挫で、東側に開
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付審f,、住僚の内部、
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いている。前面に末時方向に納長い広場がある。この広場を南北から取り
悶むように柱棟や厨一切棟、京市小屋などがリニア l に 配 さ れ 、 会 体 と し て
の建物配間はコ字型になっている。一つの敷地にほ系の繋がりを持つ大家
絞が住んでいる。山ヤ庭を介して⋮つの家族の枚械と版,W隙 が 対 掃 す る の が
が一般別である。そのためコ字型の建物配読の原引がおに持たれている。
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基本形である。家政が明加するに従い、簡を米関方向に依列に連結するの
ランガ!のみがいけ川床で、他の建物は地床で、土や行で築かれた基改の上
に建っている。一フンガーは刻竹の床で、前ナ聞に縁台がある。内部は建が敷
かれている他は何もないがらんどうである。住棟は広場概に竹を編んだ抵
い腰吋況を持ち、その内側がベランダになっている。ここは作業場兼物援と
して日常的に広く使用される。特徴的なのは粁の深い大きな綴訴さの印税制似
で、数京伎の住棟が述なる場合、思恨樹を連続耐として蒋くために、一一速
から関連の述結した鞍型の大尾根が形成される。床は上関で、経は竹の網
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代である。天井が張られてなく、瓦芹きの尽般実がんゑ内に広に見えている。
住憶の内部は巨大なベッドの他には統訪があるだけでガランとしている合
各様を結ぶように設かれている縁右は降雨時の通路である。
(ふじい・あきら/東京大学生成技術研究所教佼)
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翠図
域からのちづくり
ilHGPE計画が起した大きな波
一二井所 靖 典
たちの、わが国の住宅やまちづくりに対する深い思いに心打たれる。渡辺定
OPE計画策定が始まる前年のある日、当時、建設省住宅局住宅建設課長で
べきエピソードを伺ったことがある?。それは一九八二(昭和五七)年、 H
かつて、福島県三春町の伊藤寛町長から、﹁HOPE前 夜 の 話 ﹂ と も い う
地域ごとに再構築すること、それがHOPEの本質的な狙いであった。その
する現代版住宅や現代版町並み整備、すなわち現代版まちづくりの手法を、
その地域の住宅とまちづくり計画の基本に取り入れ、それらストックに匹敵
初の思いとして、それぞれの地域に残っているさまざまな良好なストックを、
夫さんは当時のことを、概ね次のように表現している;oHOPE計 画 の 当
あった高橋徹さんと東京大学工学部都市工学科教授であった渡辺定夫さんと
ためには、単に住宅を設計するのではなく、地域の産業形態から人びとの生
HOPE計画の誕生
伊藤寛さんの三人が、ある山荘に諮り、夜を徹して議論した話で、伊藤寛さ
活までを幅広く扱い、地域の文化、個性、景観を最大限活用する。しかもそ
地域で具体的な住宅計画をつくり、事業として実施するという住宅政策は
んは手に、汗を握る思いであったと語る口調にも熱が入っていた。話の内容は、
画期的なもので、これを国の政策として確立するためには、陰ではさぞ多く
のような計画は、閉山や都道府県ではなく、市区町村やそこに生きる人びとが
いい関係を結ぶ必要があること、第四に住まいの質だけでなく、地域の産業
にそれは行政だけで取り組める問題ではなく、行政と民間と専門家の三者が
の人の努力があったであろう。そういう先知先覚の人びとの努力で実現した
第一が住宅政策は量の供給より住宅の質の向上に重点を置き換えること、第
政策を重要な柱とし、同時に公共事業だけでなく、規模の大きい民間の建設
﹁
HHOPE計画﹂は国の制度上では、地域に根ざした総合的な住宅政策の展
計画の主体にならなければならない。まさに伊藤寛さんの狂OPE前夜のエ
事業を視野に入れること、第五にそのようにして建設された住宅を個別的に
開に資する﹃良好な住宅市街地の形成、地域住文化の育成、地域住宅生産の
二にそのためには全国標準的施策を変え、地域の生活文化を重視する観点か
みるのではなく、良質な住宅のストックとして集積させ、住まいづくりを通
振奥等に関する長期的な住宅整備の基本方針およぴ推進すべき具体的な施策﹂
ピソードと符合する先覚者の弁である。
したまちづくりとする、ということだった。私は、今でもこの話を思い出す
を内容とするものとされている。
ら、地域が主体的に知恵を出す、新しい行政的取り組みが必要なこと、第三
とき、 HOPE計 画 を 施 策 と し て 創 出 し 、 事 業 の 実 践 と 推 進 を 図 っ た 先 覚 者
翠
H O P E計商の多機な展開
画、⑨高齢社会に対応した地域住宅整備に係る住宅計画、などに拡がり、そ
の中より⋮つ以上を内存として策定するとなっている。これは一九九五(一平
殆どが、市区町村自らの意志で決定することができ、そこでは、住民と専門
このように五OPE計画が拡充されると、地域の住宅政策の重要なことは
成七)年より呉体的卒業として胞行されている。
方都市だけでなく、京都市や神戸市などの大都市を合む一二市町でHOPE
家の参加する組織によって計画を策定することも卒業を推進することもでき
一九八一二(昭和五八)年、三春町(福島県)や天竜市(静岡県)などの地
計尚策定が始まった。次いで八四年度には有田町(佐賀県)、島原市(長崎
るわけである。
あすけぬれみ、
県)、脇町(徳島県)、足助町(愛知県)、令山川(山形県)などの地方小
され、各地でいっそう呉体的な仕様策定や試設計など、 HOPE計一間の展開
からは計画に基づき三か年まで継続可能な推進事業が補助卒業として手当て
八市尻町村(うち七市町が二同日の策定)で計耐策定が実施され、九九(一平
画を含む性絡の施策に発展し、一九九八(平成一 O) 年度までに全国で三間
新しい﹁地域住宅計画﹂が、住宅マスタiプランという従来の HOPE計
HOPξ 計 画 の 実 施 状 涜 と 波 及
都市および北九州市や川崎市、東京都荒川区や位田谷区などの大都市地域を
含むニO市区町でHOPE計画策定が行なわれた。以後八五年度には大野市
(福井県)や大阪市など一 O市町で、八六年度には八尾町(富山県)や笠間
を磁成するような運動、さらにモデル設計や公営住宅によるモデル的設計と
成一二年度には一一ご市町村(うち四市町村が九八年度より継続)が加わる
市(茨城県)など一山市町でHOPE計画策定が行なわれた。また八六年度
感設が実施された。
到の策定と推進事業は、地域の特性を十分に活かし倒性的な施策を実践でき
このように一六年の長期にわたって多数の市区町村が展開する託OPE計
子定で、九九年度中には三七五市区町村が HOPE計画を策定したことにな
さらに一九九四(平成六)年度から、地域住宅計闘の制度が拡充され、市
るので、地域それぞれにかなり異なったものになっている。しかも参加した
なお一九九二(平成四)年度には地球温暖化防止や資源の枯渇対策など環
区町村における住宅マスタープランの策定が推進されることになった。これ
数万人の人ぴとが、行政、住民および専門家と、立場を異にする人びとが一
る。なお計的策定後、すでに推進卒業を一応終了したかあるいは実施中の市
は従来の HOPE計画を包含するもので、地域に根ざした総合的な住宅政策
緒になってそれぞれの地域の住宅問題を総合的な視点で考え、討論し、協議
境問題を総合的に配慮した環境共生住宅を普及するため、環境共生住宅田地
を行なうために基本的な事項として、地域の住宅事情等の現状分析、住宅対
したことを想像すると、 HOPE計画がいかに良策であったか明らかであろ
区町村は二一二七に達し、計画策定した六一一一%の市区町村?で、具体的な事業
策の課題の設定と基本的方向を定めるなど、地域が独自に住宅政策の目標を
う。私はかつて、 HOPE計画をコペルニクス的転出とか、建設省の放った
建設の基本計画策定;がHOPE計的推進事業の一つとして補助対象事業と
定めた上で個別的な計画策定を行なう。すなわち、①大都市地域の住宅供給
が倒性的に展開されているのである。
促進、②特定優良賃貸住宅等の供給、③段階的な分譲住宅の誘導、④地方住
大ホームランとか表現したことがあるが;、そんなに的はずれたものではな
なった。
宅供給公社の優良な分譲住宅の供給、⑤地方定住促進に資する住宅供給、⑥
かったと忠っている。
しかし、なんといっても市区町村の地方自治体ごとに地域独自の住宅問題
生涯学習のむらの堅備に資する住宅供給、⑦地域の出有の環境に配慮した住
文化の育成に係る住宅計画、⑧多雪地域の住まい・まちづくりに係る住宅計
を地域が主体的に解決していくことは、わが国では殆ど未経験の分野で、そ
れ ほ ど 順 調 に 、 う ま く 実 践 さ れ る と は 考 え ら れ な い 。 ま た 、 一 度HOPE計
画を策定したからといって、地域の住宅問題がなくなったわけではなく、ま
た、一二年間の推進事業を実施したからといって、その問題に限ってみても十
分な手立てが施されたとはいえないだろう。幸い、住宅マスタープランでの
個別のテi マは、別々に取り組むことも可能であり、何回も挑むことができ
る。また、本来は補助金がなくても、 NPOなどの新しい組織を開発したり、
民間の事業をうまく取り込んでHOPE的 解 決 を 図 る こ と が 重 要 で 、 継 続 的
な運動と計画策定および事業の実施を結びつける知恵と忍耐も重要となって
くる。さらに地域ごとに問題が異なる対象に向かう点で大切なことは、先駆
的問題解決の精神であり、格好の先例などどこにもないものと息わねばなら
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HOPE計 画 の 動 き は 、 一 般 に 抽 象 的 に な り が ち な 社 会 問 題 を 具 体 的 な 住
まいづくりの話として人びとの心に訴えるため、次第にその手法は他の領域
に広がっている。たとえば、建築士会の活動であるが、全国の支部でまちづ
く り 運 動 と し て 行 な わ れ る よ う に な り 、 そ れ が B本 建 築 士 会 連 合 会 の ま ち づ
くり委員会の場に発表され、各地の活動が相互に刺激し、触発しあっている。
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も各地で生まれている。こ
もある。また、地域工務庖の供給する木造住宅の分野では、製材業や林業と
環境共生住宅づくりも、居住者を合む関係者の参加する学習が始まった例;
一貫した体系の中で問題解決を試みる研究集団
れらは、いうならHOPE計 画 の 特 に ソ フ ト 面 の 経 験 が う ま く 影 響 し て い る
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今後は、地域主体の問題への取り組みがますます活発になると予想される
が、特に、住まいづくり・まちづくりの概念の普及と適切な技術や技能の認
識のために、職人を合む地域の専門家たちと一般の人ぴとの関係づくりが重
要な鍵となるだろう。
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1 一九九一ニ(平成五)年に神戸市で開催された HOPE計画会国シンポジウム﹁日 O P
E計画一 O周年にあたって﹂で、コーディネーターを務めた筆者の質問に、パネリスト
として出席された伊藤克三春町長が応えて。
2 ﹃
HOPEREPORT02﹄HOPE計画推進協議会編集・発行、一九九一年。
3 採択条件の一つとして、﹁環境共生住宅市街地ガイドライン﹂の研究件を満たす必要が
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4 H O P E町一一川闘を策定・推進した市区町村の名前や数は、﹃ mmHOPE計画﹄(監修一
建設省住宅局住宅護協謀、編集一 ROPE計画推進協議会)の﹁ HOPE計画策定市区
町村一覧﹂より分析。
5 一九八八(昭和六一一一)年一 O月一日、水戸市常磐大学における J I A関東甲信越支部
セミナー。 JIA発行﹁領域を越、えて﹂に記録。および﹃住宅建築 h 一九九O年二一月
号、筆者若﹁群の地域建築活動 111
継続する佐賀石田の HOPE
﹂
) 年、フォレストタウン熊野環境。
共生住宅における﹁街
6 一九九七、九八(平成九、一 O
なみ街つくり塾﹂﹁街なみ家づくり塾﹂。
など。
7 たとえば、富山県優良住宅協会の近代化促進事業や島根県﹁石見流の住まい﹂研究会
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三井所清典/みいしょ・きよのり
芝浦工業大学建築工学科教授、アルセッド建
築研究所代表。
一九六三年、東京大学工学部建築学科卒業、
六八年、同大学院博士認程修了。芝浦工業大
学講師を絞て現戦。七 O年、アルセッド建築
研究所設定、設計作品に、佐賀県立九州掬磁
文化館(日本建築学会賞作品件以、 BCS伐 受
性)、有問窯業大学校、有間然業技術センタ
ー、東京都立晴海総合高等学校・都支短期大
学などがある。有田町 HOPE計画策定委員・
市 HHOPE計画策
閃コンサルをはじめ、昭 崎
定委員、上平村克雪タウン計嗣策定委員、下
関熊野環境共生住宅策定委員、石見流のすま
い研究会アドバイザ iなど、地域からの住ま
いづくり・まちづくりを支、える活動に取り組
んでいる。
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総市計的宗まちつくり出寸門委リリ((似日中山桃川口)
を総て、山也ぷ引け建築研究所入所。時叫凡品目制済研
究京、日以出祝日向的研究一引を絞て、九じ作年T、
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山中 z い川トにと
hLo-Li
長 か
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こ の ミ ニ シ ン ポ ジ ウ ム は 、 最 近 聞 か な く な っ た H O P E計 画 の 動
向を採りながら、果たした役割と今後の展望を考えようという会で
で、﹁地域の闘有な環境│自然環境、資源的環境、文化的環境など、
す
。 H O P Eとは、﹁工055m 君主刀﹁ D古
Z︿弓 Oコヨ冊五百﹁ D﹂田口同﹂の訳
田
﹁ m
広義の環境を備えたまちづくり﹂の略称で、目指しているところは
とても明快です。﹁地域性というのは育成されるべきだ。その地域性
を育むためには、住まいが地域ごとにもっと細かく計画されるべき
だ﹂﹁住まいは可の重姿な檎成要素であって、私有財産ではあるが、
家並みとか町のたたずまいのなかで社会的資任がある﹂﹁住まいには
さまぶまな側面があって、たとえば建設の経済的な活動、地域文化
ど 高 度 経 済 成 長 が 終 わ っ た 八0 年代、
H O P E計画は一九八一一一(昭和五八)年に始まりました。ちょう
の形成と深い関係がある﹂という一ニつの意味も共感できる施策です。
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盟国国欝調官署塾翠にしなくなったのは、九四年ごろに住宅
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昌弘 町、 3 B F ; e ︾ 守 、 ﹀ ﹁ 地 方 の 時 代 ﹂ と 呼 ば れ た こ ろ に タ イ ム
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林完治凡品川山川事務所ル叫ん叱。九六年に林山川治十ス
タジオKAに改休、山叫ん忙に一やるむ令山町にお
いては、金山内HOPE汁川耐門策定委日以、住宅
コンクール待先委久長、街技みは札制同山併吋総会山守
門委口氏などを務める。
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ですから、実は結構活動は続いているということがわかりました。
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す で に 三O Oを 超 え る 市 町 村 で 策 定 し て お り ま し て 、 ま ず は そ う い
に、将来のまちづくりにつなげるためにはどうしたらいいのだろう
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大学常勤叫山下、品川仰を紙て引間判。ハれ ℃
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う 状 況 を 知 る こ と が 大 切 だ と 患 い ま す 。 そ こ か ら 、 H O P Eを タ ネ
今B の講師の岩田さんは施策の立案者側でもあり、一一士一替などで実
か、というような話にしたいと思います。
際 に 計 函 に 参 加 さ れ な が ら 、 H O P Eを 総 括 的 に み て こ ら れ て い ま
す 。 一 方 、 林 さ ん は む し ろ H O P Eの 受 け 手 側 と し て 、 一 つ の 町 を
同じ一六年の歩みですが、守儀範囲はずいぶん違っていると患いま
長くみてきた立場からお話しいただけると思います。
ています。(片山和俊)
すので、そのなかから今後の町づくりの視点が発見できればと思っ
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建
めるに先立つこと一一O年、先々代の町長が戦後の苦しい時期に町政の主根に
したのは、産業振興と保健衛生でした。まちづくりというところまではまだ
築かれていませんでした。
約四O年前の一九五八(昭和三一二)年に先々代の町長が、山林とか教育問
題の祝祭のために欧米を訪問したときに、欧米の町の美しさに非常にうたれ、
金山町は山形県の東北部、秋田山境にあり、奥州街道に沿った古い宿場町
卒業への投資はあまり行なわれず、新制中学校校舎と公民館を建てたのが一
その時期、人口一万未満の町で、財政的にも大きくありませんから、建設
山形県金山町
単に産業振興とか保健衛生だけを追いかけていては、町民が住み続けていく
環境をつくれないということで、欧米視察の五年後の一九六一二年に﹁全町美
でした。一九二五(大正一間)年に町政が施行され、その後今日までまった
九五八年と七O年 で す 。 そ の こ つ だ け が 先 々 代 の 町 長 が 必 要 不 可 欠 な も の と
化運動﹂を提唱しました。
く町村合併を行なわずに問分の三佐紀続いてきている。非常にまとまりがい
して町につくったものでした。
そのときにつくられた金山中学校は、設計者として東京からアルコムの掛
越徹さんが呼ばれ、﹁どこにもない金山らしい木の中学校をつくってほしい﹂
ということで、すでに町長のまちづくりへの独自性がありました。
一九七一年に町長が詳わりましたが、すぐそのあとに石油ショックがあり、
﹁全町美化運動﹂は、町を美しく保つという精神的なスローガンとして続け
ら れ ま し た 。 石 油 シ ョ ッ ク を 経 て 、 あ ら た め て 町 の 児 童 保 育 が テi マになり、
一九七七年に千葉県の我孫子から私立幼稚園を誘致することになって、その
建設がまちづくりのきっかけとなりました。
パスが開通して五年後の一九二五(大正一間)年に町政が施行され、その
郷であることと、私は戦時中、東京から金山に疎開しまして、小学校に二年
つながりがあらためでできたわけです。と市中しますのは、金山が私の母の故
そのめばえ幼株閣の誘致建設の際に私が設計者として推薦され、金山との
ときの人口が八二一個人。それから約七五年を経て、現在の人口が七六五O
ほど在学したものですから、そういう意味でも縁があったのです。
ことが非常に幸いしました。なぜかと中しますと、一九七O年までに建てた
それまで、先々代の町長から先代の町長まで、金山で建設運動がなかった
人を超しました。これが金山町の地理的状況です。七五%ぐらいは山林で、
ど地方に没透しない戦後半い時期に、都市づくりの観点が不在のままに庁合
建物は中学校と公民館だけでしたが、周辺の市町村はまだ建築技術がそれほ
さて、きょうのテl マになっているHOPE計 画 に 沿 っ た ま ち づ く り を 始
一五%ぐらいが田畑ですから、大部分は山に閤まれた町とお考えください。
だと思います。終戦をはさんで疎開とか引き揚げがあったときに、一時一万
人ぐらいですから、しハO O人 ぐ ら い 減 っ た 程 度 で 、 人 口 減 少 率 は 少 な い ほ う
ければ中核都市に出られないという状況にありました。
間のパスが開通しました。それまではまったくの山の中で、二ハキロ歩かな
新庄に鉄道が開通してから二O年後の一九二O年に、ようやく新庄i金山
ます。
共和国的な落ち着きというか、まとまりを保ち続けてきたという事情があり
抜けていくのですが、鉄道が通らなかったために、国道沿いにありながら、
鉄道は新庄から金山を迂出して真室川に至り、さらに湯沢、大館のほうに
田寄りに入った山の中の何です。
すでに一位紀を経たのですが、新庄からさらに濡州街道を二ハキロぐらい秋
い町です。了八九九年に最上郡の中核都市・新庄まで奥羽線が開通してから、
へ
な ど を つ く っ て お り 、 一 九 七O年 ご ろ に は そ の 建 物 が か な り 老 朽 化 し 、 環 境
としては非常に難しい状況になっていたところが方々にあったわけです。そ
の点、金山は戦前からほとんど変わらない状況のままに建設事業を遅らせた
ということが、結果として金山の自然というか、ありのままの姿を維持して
きたのです。
その時期、毎年、冬季の出稼ぎ労働者がこの町からかなり出ておりまして、
出稼ぎから帰ってきた農家の人たちが、ようやく周辺の集落部の住宅を建て
替えるという動きが、一九七七年を境に非常に活発になりました。それが金
山 の 全 町 美 化 運 動 に ち ょ っ と 刺 激 を 与 え た こ と で 、 何 か し ら の コ iド を つ く
って金山のまちづくりを始めてはどうかという動きが、町民と行政サイドか
ら自然に発生してきたわけです。これは非常に珍しいプロセスをたどったと
いえます。建築家サイドや上級官庁から指示を受けたのではなくて、こうい
いう点で非常によかったと思うんですね。そのときに、私どもは幼稚園の設
う山の中の町民が金町美化運動と住宅を結びつけて、自主的に考え出したと
計監理にかかっておりまして、相談を受けたのが、今日まで続くまちづくり
のきっかけとなったわけです。
一九七八年には、﹁大工さんたちの技術の向上と地元産材を振興させるた
めに、金山町の住宅コンクールをやったらどうか﹂という話が出て、叩実行
しました。実行した理由は、技術の向上とか、杉村の振興とか、まちづくり
と、金山大工が外に出ていっても仕事を得られるようにということと、地元
産材を外に売り出すという、金山中心に一挙両得をねらったいくつかの目的
があったわけです。その機会に、そのモデルとなるべき住宅をつくっておか
ないと、金山住宅を金山大工によってつくってもらうというメリットがない
ものですから、それを一つの形として実現させようと、金山町の行政と商工
会によって大工さんたちに働きかけ、住宅建築コンクールをしようという話
になったわけです。
それはHOPE計 画 策 定 の 指 名 を 受 け る 五 年 前 の こ と で す 。 ま ち づ く り と
住 宅 コ ン ク ー ル が 重 な っ てHOPEは あ と か ら き た も の で す 。 そ う い う 動 き
E
一九八五年制定の街時点み 京
H総
e
イントとしたのは、ま
条例で ホ
ず M
周知山の色と勾配、道路からの
後退路隊、や一け認をどうすると
いうことで、点目とか赤茶色の日間
以になってしまっているのを、
この色が街枚みの絞⋮感をなく
すということで、こげ茶か川公と
指定しました。できるだけ台か
らあった杉皮の色に近いものに
統一していこうというのが対観
条例の必旨でした。外燃も、し
っくいなどの災疑で臼または太
町守仕上の風公と調和するP
M然 色
と、杉絞間以リとしています。法
敢に合致した往物に対しては助
成があります。右板も、できる
だけ減らすような指導をしてい
ます。
③は、いまでも残る師耐熱的な大
きな日閣制叫の絞った往ん吃で、こう
したものが、いま少しずつもと
の姿に一反りつつあります。
③は、令一山辺住宅の一つのモテ
一
。
寸ヲ
@特別使から一六い刷、峠を越すと、
特徴的な一一一つのピラミソド烈の
山ふところに金山町の小心部を
丸山政すことができる。この町の
川辺に一一の集落が点在してい
ます。
@l@は、いまから一五年ほど
前の山中心郊の町並み。もともと
桜恨はスギの皮を数き、その 仁
にγ
仰を絞せる。絞もった討はそ
のままにしておいて、一・五 m
ぐらいになると下ろすというの
がんすからの波川別でした。それが
戦後には欽縦一すさに雪止めがつ
いた形にほとんど変わっていま
金山のまちゃつくり
@15年ほど前の中心部の町並み
@
毘Tで一主宰古い建物「長屋門」
@錦章皇が放流されている大壌
を県が察知してくれて、﹁金山でHOPEを や っ た ら ど う だ ﹂ と い う 話 に な
ったと思うのですが、その問、住宅コンクi ルはかなりエキサイトしまして、
最初の五年ぐらいは、いままで見たこともない住宅の専門誌を大工さんたち
が購読したりして、特に﹃住宅建築﹄誌などを通じて、木造住宅とは何かと
いうことをだいぶ研究した風がみられました。
このコンクールは、白主的なコンクールを前提としたために、二段階コン
クi ル に し ま し た 。 大 工 さ ん た ち の 大 工 さ ん た ち に よ る 住 宅 運 動 と し て 、 第
一段階は技術者の組合が選び出して、その選び出した住宅を町民代表と専門
家であるわれわれが審査するという形でコンクールを始めたのです。ところ
が最初のうちに連戦連勝の大工さんたちが出てきますと、やはり地方性とい
うか、みんなにそれを与えたいという意見が出て、結局、﹁すでに賞をとっ
た人は出品するな﹂という動きになりまして、五年ぐらいで競い合うレベル
を維持できなくなる危険が出てきました。
五年ぐらいたった一九八三年、 HOPE計一関策定の指定を受けまして、
﹁金山町地域住宅計画﹂の策定の作業をすることになり、コンクールとか住
宅の見亘しをしようということになりました。いままでは大工さんたちの自
主的意思にあったものを、﹁どういう建物をあなたたちは建てているのか﹂
ということを、体系化してまとめてみせる必要があるということで、その作
業 を 私 ど も はHOPE策 定 の 一 部 に 入 れ ま し た 。 そ の 時 期 ま で の 住 宅 コ ン ク
ールの入選作を、集落型と町家型住宅として体系化したのです。
これについて、専門的な立場で物をいうのではなく、彼らに自主的に方向
性をつかんでもらおうということで、モデル住宅の考え方の。フランも出しま
した。町としてはそれを強制するわけにいかないものですから、出平にモデル
プ ラ ン と い う だ け に と ど ま り ま し た が 、 町 営 住 宅 と か 、 二O Mぐ ら い 奥 の 冬
は閉ざされてしまう村から移住してもらった住宅を、サンプルとして片山先
生と私どもが、﹁たとえばこういうのはどうだ﹂という形で一つの例をつくっ
たのです。
こんな形でHHOPE計画と金山の住宅コンクールがダブったことによって、
ル例としてつくった五僚の町営
役 宅 ( 設 計1片山和俊)。
③⑮は、冬季に完全に閉鎖され
てしまう山奥の集落を、町が土
地を斡旋して移住を勧める機会
に 、 一 つ の モ デ ル ゾl ンをつく
ろうということで、五械の移住
用の住宅を設計したもの(設計
は全部建主の絞済状態、返済能
l林 完 治 十 片 山 和 俊 ) 。 こ れ
力も全部遠うわけですから、微
妙に規模も迷わざるを得ないの
の後つくった独身者約教職員什叫
ですが、できるだけ統一してこ
ういうものをつくろうというモ
デルです。奥に見えるのは、そ
これらのモデル例は、会山泡
ぷ什1林汗也)です。
t
ん(
住宅というのは、金山大工さん
たちが創出したものだという自
党をできるだけ尊重することと、
デザインの幅など、まだまだや
り方があるよというサインを送
るための住宅設計だったわけで
す
。
日
υ
、
・しっくい、プラス空
モJレヲル等の主主り壁
一 挙 に 町 並 み 美 観 に 対 す る 感 情 が 町 民 の な か に も 芽 生 え 、 そ う い う 点 がH O
P E計 画 と し て は 非 常 に う ま い 調 和 を 町 に 与 え た の で は な い か 。 町 そ の も の
と し て と い う よ り も 、 運 動 と し て い い 刺 激 をHOPE計 画 が 与 え て く れ た と
思います。
一九八三年にHOPE計 画 を 策 定 し た す ぐ あ と 、 一 九 八 五 年 に 、 町 は 大 工
さんたちに町並み美観を意識してもらおうと、﹁街並み景観条例﹂を制定し
ま し た 。 こ の 条 例 は 、 初 期 の 住 宅 コ ン クi ル入選作をべi スに、大工さんた
ちによって編み出された金山型住宅というものを一つにしぼって、外観や内
観を地元産材を使っていかに質のいい建物と快適な住環境をつくるかという
のが目的でした。しかし金山型住宅が義務的なものという形ではとらえられ
ずに、出稼ぎなどで大都市の現状をみてきた大工さんたちは、どうしても都
市型住宅に魅力を感じてしまい、地方性の感じられない性宅をつくりたがる
傾向がありました。若い人たちはテレビドラマでみるような、田舎からみれ
ばモダンな住宅をどうしてもつくりたがる傾向があります。強制するわけに
HOPEか ら 連 続 し て い る 町 並 み づ く り の 運 動 と
いきませんでしたので、街並み景観については、罰則規定はありません。
それを奨励する意味で、
いう形を生み出し、町が補助金を出すことにしました。町並みに調和した屋
根 や 壁 、 そ の ほ か 住 宅 コ ン クi ル で 実 施 し た 地 元 産 材 を 多 く 使 っ た 住 宅 に 対
して奨励金を出すことによって、住み子、または建主の協力を得るという形
で、補助の仕掛けをつくったわけです。
この仕掛けをつくって今日まで続いているわけです。しかし、まちづくり
の考え方は、都市の構造までには至りませんから、金山町という都市のイン
フラの美化をやらないで住宅という単体に任せておくと、自然に町の端部に
おいて崩れていく危険が出てきましたので、役所としては一九九五年からイ
ンフラ整備を始め、その策定をして、今日では﹁くらしのみちづくり﹂を片
山先生を中心に行なっております。
ざ っ と 全 町 美 化 運 動 に 始 ま り 豆OPE周 辺 の 流 れ と 今 日 に 続 く ま ち づ く り
についてお話ししました。
度根・
・切り姿
•1
3
1
まこげ茶または累で統一
外壁:
・5
喜怒 i
草り
向山中でも、誠二棟を改造して
コンサートなどの集まりができ
る場所(必史館@)にしたりし
ました。そういう運動が山山てき
ますと、隊出が自主的にもう一
度もとの彩に近いものに一反そう
ということで、小川山一点をしてファ
サードを凶したりする例が、次
々でるようになってきました。
HOPE計州をやるにあたっ
て、われわれはまず町の姿阪を
つくり、この灯のどこを氏側叫と
して保持していかなければだめ
って、このへんをシンボリック
だという栄町倒特性簡をつくりま
した。伝統的な建物とか公共施
設、相伐山介のポイントはどこにあ
これが発日出して、道路の美的
に筏そうという、または市街地
のかたまりをどういうふうにす
るか、というのをレポートとし
てつくったのです。
インフラをスタートさせたのが、
水路と道の絞術﹁くらしのみち
づくり﹂。幹線道路の批判協と併
せ、錦純一が放流されている川の
されています。(林)
シンボルでもある従業別水路
﹁大機﹂や、金山で故も十日い山地
造物である長屋門などを給ぶ
﹁まち歩き日間遊ルi ト﹂などが、
帥抑制ω
HGP臣副一日制覇一
どんなものができたのか
一
H Q P Z O年毘の全国調査をもとに
の 名 前 は 消 え 、 一 九 九 四 年 度 か ら ﹁ 住 宅 マ ス タiプラン﹂となっていますが、
地域の住文化に関する項毘ということで、いまでも住宅マスタープランの中
で位置づけられており、多くの自治体で策定されています。
一九九三年までに一九七市区町村で策定されています。区切りの年だとい
うことで、実際にどういうものができたのかを調査しました。現地に視察に
具体事例を一不しながらお話ししていきたいと思います。
行き、丸二年かかって三万枚の写真を撒ってきました。きょうは、これらの
まちづくりをやりなさい。そのための計画を立てなさい﹂というのが大命題
HOPE計画というのは、﹁地域国有の発意で地域固有の住まいづくり、
反省され始めたころです。馬込宿とか白川郷など、いろいろなところで、伝
年というと、地方の時代がぼちぼち訪れようとしたころ、東京の一極集中が
ちばん地元住民に近い自治体が策定をしなさい、というものです。一九八三
HOPE計 画 は 、 地 域 国 有 の 発 意 日 自 分 た ち の 発 意 で 、 地 方 公 共 団 体1 い
だったのですが、それが実際にどういうふうにできたかというのを、私の役
です。そういうなかで、自分たちの足元の住文化を見亘そうという連動が起
こりかけていた時代でもありました。
ではこの HOPE計 同 の 中 で 、 実 際 に ど ん な も の が で き て き た の か を 見 て
いくことにしましょう(下段写真参照)。
まず北海道の公営住宅です。岩見沢の例ですが、雁木がずっと住棟の周り
を悶っています。雁木をったって駐車場とか集会場とか隣りの住棟に行く。
だったことから、﹁こういう元気がよくておもしろいまちづくりをバックア
当時建設省住宅局の住宅建設課長であった高橋徹さんと渡辺先生が同級生
室は全部ガラス張りになっています。マイナス一一O度 ぐ ら い ま で 下 が り ま す
落ちてくると危ないからです。みんな陸屋根になっています。そして、階段
宅はいっさい傾斜屋根をかけません。なぜかというと、一二階から凍った雪が
日本の住宅では、切妻屋根がオーソドックスなのですが、北海道の公営住
ッ プ す る 計 画 制 度 を や ろ う ﹂ と 。 寄 っ て た か つ て ﹁HOPE﹂ と い う 名 前 を
超えるそうです。その中標津町の公営住宅です。一階はブロックの組積造で
人 口 が 増 え て 標 津 町 か ら 分 村 し た 町 で す 。 農 家 の 平 均 年 収 が 二000万 円 を
小
川 M沖は結構元れな町でして、いまは町村合併が大流行りの時代ですが、
なされています。
環境を担保できるよう、安全で快適な住まいをつくれるようにという工夫が
から、大間隔の光を入れて、そこに砂場があったりして、冬でもきちっとした
HOPE計画は、一九八三年から始まって、一九九一一一年度でHOPE計同
まで建設省の事業の中でも、人気のある事業になっています。
す。その意味でいえば、かなり成功したのではないかと思います。おかげさ
支援しよう﹂というのが基本的な立場だったというふうに私は理解していま
そのときの思惑は、﹁地方がお分たちの力で計画を立てることを側面から
考え出したのが始まりだと聞いています。
そのなかでしかできないような姿になっていたんですね。
うと、結局、公営住宅や道路といった箱もので、それも椋準設計が示されて、
が現れ始めたころでした。ところが、建設省がバックアップできることとい
で、この二つの町をはじめ、非常におもしろい試みを行なおうという市町村
た。当時、地方がいろいろ白、王性をもち始めて意識改革が始まっていたころ
の三春町と香川県の東住町からまちづくりについて相談を受けておられまし
私の恩師である、東京大学の当時助教授であった渡辺定夫先生が、福島県
統的な建築物による街並みが評価されて、信建地阪の指定が端を発したころ
田
司
目として、はじめにお話ししたいと思います。
石
つくって雪に埋もれても腐らないようにして、二階以上を木構造でつくって
いる。これは東京の若い女性が設計されたのですが、牛小屋風につくって、
﹁俺らは午と一緒か﹂と怒られたそうです。
旭川のウッドタウンでは、岩見沢の公営住宅とは逆に、雪を落とすように、
屋線はきつく勾配をとっています。ただ屋桜の向きに配慮して、広場をつく
ってそこに落とす。雪の仕舞い方をきちっと処理する工夫がされています。
津別町は金山と向じく木の町です。とにかく津別産の水を使おうというこ
とで、公営住宅は全部木が張つであります。町のなかに入ると、レストラン、
法誌など、地元の木で彫刻をつくって町の看板にしようという試みなどもや
なカしんで人
っています。地場産材をいかに有効に利用するかという工夫も大切です。
宮 城 県 の 中 新 田 は バ ッ ハ ホl ル で 有 名 で す が 、 バ ッ ハ ホi ル以外にもいろ
いろなまちづくりの事業を行なっています。石畳の道﹁花楽小路﹂という中
央の萌庖街では、高齢者のことを考え、側溝を真ん中にとって歩道と車道に
段差のない状態にし、歩きやすい道をつくっています。それから、道路に対
して横翫歩道がハンブ状に蝶つであるのです。歩道と横断歩道が同じ而にな
っていて、率道が少し下がっている。水はだいたい交差点に集まってきて次
一つの提案だと思います。
に流れてゆくので、水仕舞は大変かと思いますが、歩きやすいまちをつくる。
南へ下って、山本理顕さん設計の熊本市営住宅保田窪団地。これは完全に
中庭になっています。不思議なことに、都会にいくと中庭型の集合住宅が多
いですね。プライバシーの問題とか、子どもが安心して遊べるという理由で
しょう。同じ強本市でも、都心にはこういう中庭を閥いこんだ空間をつくっ
てそういうものを担保していますが、周辺の御船町にいくと、山小屋風の公
営住宅をつくったりしています。それぞれの地域の特質というのは、プライ
バシーであったり、その場の雰囲気であったり、材料であったりするわけで
すが、それらをきちんと意識して設計された好例であるといえます。
一九九九年の初めに伝建地区になった宮崎県椎葉村の新しい公営住宅。こ
こはかなり急傾斜地で段々の地形になっていますが、地形の制約によって敷
経木のある岩見沢市の公営住宅
落雪処王室に配慮した旭川のウッドタウン
宮城県中新田町の歩きやすい道づくり
デザインにおける地域性とは
棚田を利用した談早市主主野けやき団地
地を取ろうとすると、どうしても等高線に沿って平行に取ることになる。そ
れでこのような建物の配置の仕方になるのですが、結局、これが伝統的でか
つ自然な住まい方になっているのだと思います。ですから公営住宅も、ふつ
うの集落と同じようになるのです。
同じ斜面地の例でも、椎葉村の手前の諸塚村は川と山の慌に国道が通って
いて、公営住宅は崖に張りついています。こういうところはきっと平地とは
違った別のシステムがあるのでしょう。
藤本昌也さんが設計された長崎県諌早の本野けやき団地は、機田を利用し
たものです。一戸建ての公営住宅ですが、段差を利用して、うまく居住環境を
つくっています。こういう地形的な要素は非常に大切なものだと忠います。
高 知 県 の 梼 原 町 。 こ れ は 梼 原 町 の 中 心 部 か ら さ ら に 四O 分 ぐ ら 入 っ た 集 落
につくったものなのですが、一極集中はどこでも同じで、梼原町は梼原町の
中心部に人が集まってくるんですね。周辺では過疎化が激しくて、だんだん
小学校が成り立たなくなっています。そういうところへあえて公営住宅をも
っていって、環境のいいところに住んでもらおうという作戦。一戸だけつく
ったのです。単純に家を建てるということではなくて、どこに建てるか、そ
れをどうするか。ここに土地があるからといって、一二階建てのペンシルビル
みたいなものを建てれば、世帯は三つ入るかもしれませんが、それは集落の
住まい方とはまた別の住まい方であって、決してこの集落に合った住まい方
とはいえません。
さらに南へとんで、沖縄県平良市の馬場開地です。一掠一棟が小さな中庭
を挟んで二つの棟からできています。暑いところですと、日当たりは求めま
せん。逆に、陰をつくって通風をとろうという工夫をします。真ん中に中躍
をはさみ、。ホi チ か ら エ ン ト ラ ン ス コ lト に 入 っ て 、 直 接LDKに入ります。
沖縄では、過去には玄関という風習はなかった。玄関をつくることによっ
て 通 風 を 妨 げ る と い う こ と で 、 ツl ッ ー に な る よ う に つ く ら れ て い ま す 。 特
に中庭部分は日捨になって、ここの空気と外の暑い空気との間で熱交換とい
うか、風が生じるわけです。
地域性与気候の差
材を使おうということ。この大きな二つの要素がそれぞれの地域のアイデン
そのデザインが大きく左右されていることがわかります。それから、地場産
理してみますと、基本的に、雪、暑さ、風の抜き方、要するに気候によって
このように、 HOPE計 画 に よ っ て で き た も の を 、 住 環 境 と い う 側 面 で 整
屋根
工夫が今でも行なわれています。
ようになって、結局、全国的に続き間とか広い空間をうまくとる昔ながらの
使う灯油の少ないそうです。そういうことで大きな吹抜け空間ができる
そういう配置計画とか、地形といった要素が、実は細かい要素としてその中
くるときに、ある集落に人をもっていこうという政策的な面もありますが、
けかたについては結構気にします。
無落雪屋根を採用します。東北も雪仕舞いのために庭根の方向等の屋根のか
はなるべく急傾斜にして雪を落とそうとしますが、一二階建ての集合住宅では
めに有効な手法です。北海道では、戸建て住宅や二階建てまでの集合住宅で
傾斜屋根で軒が出ている。これは全国的なもので、基本的に雨仕舞いのた
に散りばめられています。以下に、住まいのデザインの工夫を項目ごとにま
ティティを規定しているということがいえます。それ以外に、まち並みをつ
とめてみます。
雨仕舞いの関係で昔は軒を出していたのですが、風で軒をもっていかれると
南九州から南西諸島ですが、台風の米襲が頻繁に起こります。そのために、
北海道から九州まで基本的には南国一平行配量。ところが、都市部を中心に
いうことで、アルミサッシュとか雨戸が発達したときに、一時軒の出が六
住諌や住一戸の配置
して中庭型への挑戦が行なわれています。街区型といったほ、つがいいのかも
mぐ ら い ま で 短 く さ れ て い き ま す 。 し か し 日 が 部 屋 の 中 に 入 っ て き て 非 常 に
一方、北海道では、基本的には南面平行配置ですが、西日をものすごく好
リートブロックですと、通風に有効な花ブロックを積んだきれいなベランダ
暑いということで、最近はまた粁を出すようになっています。また、コンク
o
しれませんが、そういうものが試されています。
みます。東北も一般にそうです。ところが、九州は西日を嫌います。これは
を大きくとる工夫がなされています。
ません。その意味でいうと、布基隠は不利です。ベタ基礎で布の部分をつく
南部諸島では、土台の下はとにかく床下換気をきちんととらなければなり
土台
極端に尖、ぃ暑いという、二つの地域の本質的な違いからきているものです。
南西諸島では中庭型を多用していまして、コロニアルスタイルで、南面に
はあまりこだわりません。冬至の時期でもものすごく太陽高度が高い。一平良
市の緯度は台北より南なんです。夏至の南中高度は八九・八度です。
を行なっている設計士さんもいますが、そういう通風をうまくとっていくこ
ら ず 、 捜 部 め を 屈 し て 、 床 下 が ツi ッ ー の も の を つ く っ て み よ う と い う 工 夫
雁木を回して雪仕舞いを図ろうという工夫があります。
とが必要になります。
北海道ですと、滞雪空簡をとるために、敷地が広くなります。あるいは、
ブラン
の圏第﹂ということをおっしゃいます。そのなかで、北海道だけは極端に寒
ただ、南のほうは﹁通風﹂ということをおっしゃいます。北のほうは﹁家族
根で﹂と。これは基本的に日本全国一緒ですね。皆さん続き聞を好みます。
ず土問入りというか、リビング入りが考えられています。
が、公営住宅の一部で、通風を考えたプランニングのなかで、玄関をつくら
います。南西諸烏は、先ほど述べたように、歴史的にみて玄関はないのです
るものとして階段室などをうまく利用して、ベンチとか遊具なんかを置いて
北海道では、当然風除室がついてきます。公営住宅ですと、風徐室に代わ
玄寵
い の で 、 昔 は 個 室 に 仕 切 っ て 石 炭 ス トiブを焚いていた歴史がありますが、
﹁おたくの町の住宅の特徴は?﹂と開くと、﹁続き間で、木造で、傾斜屋
最近は新熱性を非常に上げることに成功し、福島県や茨城県よりもひと冬に
建異
北海道にいきますと、寒いのです川断熱・高気密の追求ということでいろい
、
η立
実は気候の差の反映、 地一肢の性格の反映だろうということ
それに地場注材が合わさって、 それぞれ同有の山内放み治組ができてい
MV
醤とハう
11'l((
でムす。
しまう。だから、がっちりとした枠でビシャツと押さえつけるサッシが開発
だそうです。外の温度と内の瓶皮が違うので、ガラスが歪んで安気が流れて
す。アルミサッシュはベアガラスを入れると、決して気密性能はよくないん
ク製サッシュが使われます。金属ですと、冬に予で触ると凍傷を起こすので
宅あるいは住宅地をみていくと、デザインの違いがわかります。これにたぶ
沖縄にかけての地域。そしてそれ以外の地域。だいたいこの間つに分けて住
は克一台型といえるでしょう。台風の常襲に備えなければいけない市九州から
く圧倒的に夫、ぃ北海道。古の仕舞いを考えなければいけない日本海側、これ
そ れ を 大 き く 分 け て み ま す と 、 間 つ ぐ ら い の パ タ ー ン に な り ま す 。 とにか
るのだろうと思います。
されています。また名山路から同では雨一戸をきちんとつける刊慣があります。
ん地場産材とか、町家であるとか民家であるという、住宅の別途が合わさっ
ろな工夫が行なわれています。基本的に北海道は木製サッシュかプラスチッ
外講
ですから、目隠しをほどこし、町並み景観を守ろうという工夫がされていま
昧明ですが、自分が関わったところを例にしてしかなかなか話ができないの
では、実際に、それぞれの地峡でどんなふうにつくられていくのか、子前
て、たぶんその地阪の凶有の景観ができているといえます。
す。それから、凍傷対策で、遊具なども全部木製になっています。南西諸お
で、以下に、喜界品と三存、二つの地域についてお話しします(ディスカッショ
北海道では滞雪空間をとるのですが、灯油タンクがものすごく大きいもの
ですと、古川い生け垣とか植栽をつくって、台風、暴風雨を防ぐ工夫をしてい
ンの部分の下段記事参照)。
ミ
ー
結時どういうことが一三いたかったかというと、雪と台風と暑さは、 カ六7
d
vノ
ます。
このように、土ム口、建問けーから屋根の形まで話しましたが、実はかなりの部
んと積み重なった結来、違っているのだなということがおわかりいただけた
建物の形に影響しているなと。だから、北海道の建物と沖縄の娃物を比べる
それ以外に、地場庄村というのがあり、﹁木村振興のために県産材を利用
と思います。それと、北のほう、自のほうという大きな地域性だけではなく
分で気候風土が建物の形を規定しているということがおわかりいただけたと
しましょう﹂というフォレストタウン等の事業もありますが、地元の木材を
て、一つの町をとると、町家とか住宅凶地、あるいは町家の哀のゴチャゴチ
と、当然追う。それは全体が感覚として違うのではなくて、部分部分がきち
使おうという動き。それから、有田とか石州赤瓦の江津とか、三州瓦の西尾
ャした住宅地とか、漁村であるとか、農村集落であるとか、すべて住まい方
思います。
とか、そういうところでの陶磁器類。一二春は紳影石の産地ですが、石も一つ
が違うわけです。これが開有の景観をつくっているのです。
﹁景観の統一﹂というのですが、んけ川密閉住を考えてみますと、イタリアの
の大きなキl ワi ド に な り ま す 。 こ れ 以 外 に も 、 竹 、 紙 、 そ れ ぞ れ の 地 域 の
建築に使われる地場産材がみられます。これに地形が合わさって一つの住空
簡単にまとめてみますと、全倒的には、日本の住まいの特徴ということで
階娃てにしておかないと、突然四階建てが往っと、そこだけ日間がなくなる。
分的に不公平が生じるわけです。要するに、二階建てだったら、みんなが二
ティポロジアに尽きると思うのですが、同じような建物が集まらないと、部
﹁木造で、傾斜屋根で、続き間﹂というのがあります。そして、地域性とい
不公平なんです。山叫物を建てるということは、隣り近所に影響を与える。そ
間が形成されていくことになります。
うのはほとんど気候の去によるものであるということができます。伝統的な
lρHU
うのはない。すなわち、居住環境をきちんと守れば、どうしても形態規制を
共有することを考えるわけです。このロジックがない眠りは景観の統一とい
る、日をさえぎるという行為はあるわけです。その結果、同じような環境を
て、たぶん同じにするということなんですね。建物が建つ以上、風をさえぎ
の影響を最小限にくい止めるということは、何もなくすということではなく
らくるのでしょうか。
ても、うまくいかないところもあると思うのですが、そのへんの差はどこか
それをみると、非常に成功しているという感じがするのですが、そうはいっ
片 山 五 年 か ら 一 O年 く ら い の と き に ﹃ 十 町 十 色 ﹄ と い う 本 を ま と め ら れ て 、
要なファクターだったと思っております。
ったのが狂OPEで、この中で地方の白、一土佐に任せるということがかなり重
お叱りを党情で中しますと、役場の担当者がかなり頑
張ること。住民のなかにパカがいること、頑張る入がいるこ
岩田
るかどうかを教えて下さい。
ものが今後もどんどんふくらんできて、当初イメージしたとおりにいってい
すが、実際にはどういう形で答えが出ることを期待したのか、その期待した
林 HOPE計画が始まって一 0年 間 で 一 九 七 も の 市 町 村 が そ れ に 関 わ っ た
HOPE計画の発案は建設省、住宅局のヒット作品だと思いま
んでいるかということを、伺いたいと思います。
画が始まって一六年の変選、あるいは現在どういう状況で進
田さんから大変分析的なお話をいただきました。
片 山 ( 司 会) H O P E計 画 の 地 方 性 と か 偶 性 に つ い て 、 岩
HOPEの成功と一一一すくみ構造
HOPE計
片 山 こ れ ま で 計 画 策 定 し た の が 三 七O市 区 町 村 あ り ま す ね 。 数 字 で は 簡 単
しないのではないか。
が頑張れば、物はできると思いますが、たぶん一般の住宅までなかなか普及
よくみて歩かれます。それがいちばん大事なんじゃないでしょうか。担当者
その結果何が起こるかというと、そういうところの町の方々は、外へ出て
とだと忠います。
です。それといちばん大事なことは、それを首長さんがよく理解しているこ
人 部 隊 と は 言 い に く い の で す がlii外 か ら 応 援 す る 応 援 団 が い る と い う こ と
諮 役 が あ っ て 、 か つ ア ル セ ッ ド の 清 ぷ さ ん l 1 1い ま は 住 ん で い ま す か ら 、 外
岩田一二春もそうですし、有田も地元の人たちが頑張って、それを支える調
片山一一一パカトリオですね(笑)。
HO?Eのここ一 O 年 ぐ ら い の 研 究 の な か で み
やらざるを得なくて、形態規制の結果、景観が守られるという構造が非常に
えてきたことです。
大事なのだろうというのが、
と。特に大工さん系、設計士など、建設関連業者にとにかく
パカみたいに引っ張る人がいるということですね。それと、
林さんや私みたいに、タダでも米てくれるパカが外にいるということです。
山菊田ただ、ゃった結果をみておりますと、はじめの五年間仰ぐらいにやった
にいえないでしょうけれども、どのぐらい成功して、どのぐらいうまくいか
ディスカッション
市町村がかなりおもしろかった。何がよかったかというと、横の連絡を密に
これは﹁一一一すくみの構造﹂といっていいのかどうかわかりませんが:::。
するために、コンサルタントの集まりをつくった記憶があります。暇をみつ
というあたりを伺いたいのでじが。
な か っ た か と い う こ と と 、 う ま く い か な い 場 合 は ど う い う ケi スが多いのか、
岩間ここ二、三年、
ということで、
けてはみんなが東京に出てきたときに飲める場所を設けたり、一一一春はこうや
っているから見に行こうかとか、いろいろ切碓琢磨のなかでいい計画ができ
忠ってリストアップしたところが、一一一O ぐらいありました。その一ニOぐらい
HOPE計 画 の 全 国 大 会 を ど こ に や っ て も ら お う か と
てきたのではないかと思っています。はじめの思惑を越えてかなり輪が広が
の市町村は三七O の な か で お も し ろ い と い う こ と じ ゃ な い で し ょ う か 。 と い
うことは、一割成功ともいえる。それでも私がいまいった三すくみの構造で、
ケンカはっきものですが、なんだかんだといいながらうまくいっているのは
Oぐ ら い で 、 残 り の ニO は 担 当 者 が 頑 張 っ て 公 営 住 宅 の い い の が で き た と
一
う ま く い か な い 、 長 続 き し な い ケl ス は 、 何 か 共 通 の 原 因 が あ る の で
か、大先生に設計してもらってというのが結構多いのではないでしょうか。
片山
すか。
岩田一年でやめる場合は、はじめから意識がなかったということでしょう。
しばらく続いたのに消滅するというのは、担当者が替わってしまったという
の が 大 き な 原 因 じ ゃ な い で し ょ う か 。 三 春 町 はHOPE計 画 を 始 め た と き に
都市整備課というのをつくったのですが、宗像さんという人が一七、八年都
市整備課にいてくれました。そういう人がいると強いんでしょうね。
林後任は育っているわけですか。
岩田大丈夫です。彼も年ですから、ぽちぽち修行に出てもらって、米るべ
き課長をやってもらわないといけない人材の一人だと思います。
HOPEの 最 初 の 趣 旨 を 読 む と 、 ﹁ 住 民 が 自 ら 参 加 し て 、 そ の 発 意 を
HOPEと転鎮
片山
期 待 す る ﹂ と 書 い て あ る の で す が 、 全 体 のHOPE計 画 を 見 渡 し て 、 う ま く
機能したといえるのでしょうか。
岩国有田とか三春、あるいは福岡県山田市とか猪苗代町など、公営住宅や
住宅団地といったものを研究会をつくって地元の人たちで設計したり、とい
った芽生えはあるのだと思います。
ただ、ここ数年の流れで、ワークショップというのが流行ってきまして、
そ れ は い い こ と な ん で す が 、 ワi ク シ ョ ッ プ 自 体 が 型 に は ま り す ぎ て い る よ
うな気もします。僕らがここ十数年、みんなでワイワイいいながら三春でや
ってきたのもワークショップだと忠うのですが:::。だから一年でまとまら
なかったこともあるのですが。結局、僕も若かったし、一二春大工は﹁岩田の
建築は俺らが教えた﹂という自主があるような関係でやっていますから、お
景観条例制定後の罰Tなみ
蔵のある察道を繁備
一一一審の場合
一一一春判は、旧山遊山仰の建物が残
現存している旧械下町です。
り 、 袋 道 に 人 る と 殺 が 二O O棟
敷 地 形 状 と 町 の イ メi ジは凶
のとおりで、表通りは短冊型の
数地に臨んゑが並んでいます。出向
山総で区凶謎理をやって真四角
に割ってしまったら、隊出街は
成立しない。それをきちっと務
唆して三存の附づくりをやろう、
ということで進んできました。
今後とも木造が主流であろ、つ
こと、雨仕舞い・営の洛下防止
から叶傾斜様相似をかけて、一二す
勾配程皮﹂。間口が狭いことか
ら﹁乎入りい(妻人りの山内にす
ると、隣地境界に凍った雪がガ
サッと漆ち生活に支障が出る)。
歩道に営が務ちないよう﹁一階
部分のセソトパックヘ日間の
確保のため﹁中庭を設けるい。
背景の山のり械を兄せるため﹁三
隊部分のセソトパックいなどを
決めています。背景の山にはす
べて風致地区がかかっています
から、﹁三春の町の風設を守る
ために裏山の人は権利制限を受
けているのに、表通りが勝手な
ものを建てていいわけないだろ
う﹂というがんじがらめの則合
のロジソクです。
これらは、住宅研究会として、
地元の大工さんたちが集まって、
議論しあって形をつくり、模型
をつくってシミュレーションし、
その結泉やっています。模川才を
兄て喜んだ子どもたちが、いま
大人になって阿の主力になって
きました。(山石閃)
*詳しくは、本誌九八年春号参照
互いの相互理解、相互討論が本気でできたのだと思うんです。
いまはワークショップという手法がかなり確立されてきて、全部テーブル
に座らされて、小道具が用意してある。それはそれでおもしろいのですが:・
・。やはりお膳立てがないと、なかなかできないかなという気は最近若干し
片山
そういうと、また怒られそうなんですけれども(笑)。
ワークショップが少し形式化しているというか::・。
ております。
山
沼
田
片山もう一つ気になったのは、昨年の大野大会に伺ったら、非常に大勢の
方がおられたのですが、行政の人が多くて、﹁横のネットワーク﹂といわれ
ましたけれども、民間のコンサルタントの人とか大学関係者が少なかった印
象 が あ り ま す 。 そ れ は 、 い ま もHOPE計 画 が あ る の だ け れ ど も み え な い と
O O人 か ら 六O O人 の 大 会 を や ろ う と す る と 、 大 都 市 に 任 せ る と
いうことと関係があるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。
岩田五
楽なんですね。という言い方はいけないけれど、そっちに偏重していたよう
な気がします。お国自慢、大先生の講演を開いて帰っても、自分の町にとっ
て役立ったという気がしないのではないかと思い始めています。何かもう少
しテi マ を し ぼ っ て 、 み ん な が き ち ん と 議 論 が で き る よ う な 舞 台 を し つ ら え
ないといけない。
大野の場合、ワークショップ形式にしたのは、一つは大野市民が昔からワ
ークショップに慣れておりまして、あのワークショップをやってくれたコー
ディネータ!は、実は僕ら専門家ではなくて、大野市民なんですね。やっぱ
り来ていただいたら、町をみて伺か意見を言って帰ってもらうというのが大
HOPE計 画 の 全 国 大 会 は コ ン サ
事だろうということから、今回はワークショップにしたのです。
アルセッドの清水さんからも、﹁最近、
ルが行きにくくなっている。行ってもおもしろくない﹂とはっきりいわれま
したけれども、これはオフレコにしてください。
片山いや、そこは書かなくちゃ(笑)。
HOPEは住宅マスター。フランに併合されたわけですよね。そうなると、
瑚搬の石垣で守られた住宅
開放的につくられたその内部
押入れの下に飼いた通風熔のガラリ
喜界島の場合
0
市国美群島の喜界島で伎まいづ
くりを、 HOPR一一前回附で一生懸
命やっています。瑚瑚の石抱一で
M
mみ、ガジュマルを櫛えて防風
をした伝統的な住宅は、暑さを
防ぐと同時に台風に餓えたつく
りです。ガジュマルの大きな木
は風を紡ぐだけでなく、日陰を
提供する。紅引を深く出し、恭風
でもっていかれないよう、米を・
立て縁側が周りに回る。その縁
側に悠口一(が入って、屋内は問欲
的になる。天井は張らず、天井
に向かって空気を抜いていくの
で、どうしても寄機系の段根に
なる。訪問似のため床下をおくし、
布恭後ではなく米基礎である。
こうした伝統的な伎宅形式の
なかに、現代にも通用する居住
深境の要素があるだろうという
ことをきちんと整理したうえで、
在界島の住宅コンペをやりまし
た。大きな屋根がかかっていて、
その中を風が回って上へ抜けて
いくという﹁風車の家﹂のデザ
インが一等楽になりました。こ
ういうのを機会に地元のな識改
革を図ろうということです。
﹁コーラル双山田介﹂という住宅
団地ができています。これの特
徴は、玄関に入るとリビングが
あって、全部続いて開け放てる
ようになっている。こういう フ
ランがいちばんいいのだろうと
思います。土台が一二尺奥へ引っ
込んでいることによって、押入
れの下にガラリが開いていて、
土自の下から印刷が流れ込んで、
台風の臼でも風が通るという工
夫をしています。(山校関)
HOPE計 画 の 趣 旨 は 入 っ て い る の で し ょ う が 、 旗 印 が な く な っ ち ゃ っ た と
していたのは、私たちのグループと三井所さんのグループだったんですね。
れで、使っていない卒業がたくさんあって、あまり無駄な計画をズルズル引
を生んでいったんですね。ところが、つくってばかりでリストラがない。そ
岩 田 高 齢 者 住 宅 計 画 と か 、 克 雪 ニ ュ l タウンなど、 HOPE計一闘が子ども
という議論はどんな形で進んだのですか。
ニュメンタルなものがまちづくりということにならないように非常に注意し
べきだという考えがあったものですから、看板とか、石碑とか、そういうモ
て、物をつくることより、いまあるものをどう片付けるかという発想をもつ
くり子の立場とすると、よけいなものをつくるという責任のほうが重大でし
ウ ン ド を み た あ と に 、 付 け 足 し 的 に 物 を 置 く こ と が テi マに入っている。つ
都市計画の方々がもってくるのは、都市の分析とか、そういうバックグラ
っ張っていてもしょうがないので、﹁いいものは残して、整理統合しましょ
た わ け で す ね 。 住 ま い が あ っ て 都 市 だ と い う 、 あ く ま で もHOPE計 同 は そ
いう気がすごくするんです。﹁住宅マスタープランに含めようじゃないか﹂
う﹂というのが当時の建設省の議論だったと思います。
それから、その間に問の公共建築をやらせていただいた発想としては、と
ういう趣旨だろうというふうに読み込んだということですね。
にかく町の構造とか町の景観、町全体の美を設計者が壊すことの危険性を常
ちょうどそのときに東京都が、 HOPE計 画 を 利 用 し て 、 調 布 と か 港 毘 と
かで若干ゃったのですが、こういういい計画はぜひ全部やらなきゃいかんと
に意識していなければいけないということ。県立高校がボコッと建っちゃっ
たんですが、県のほうは金山町の景観を特に気にしていないので、ああいう
い う の で 、 ﹁ 東 京 都 住 宅 マ ス タiプランに関する条例﹂というのができて、
それと、﹁都市マスター。フラン﹂というのが出てきまして、そのなかで
都下全部の市区町村がやらなければいけないことになったのです。
ものを入札の設計業者にやらせてしまうということをわれわれは注意しなく
てはだめだなという意味で、﹁つくることを急ぐな﹂という発想をずっと町に
﹁住宅マスタープラン﹂という名前に落ち着いたのだと忠っております。時
代だったんでしょうね。
片山林さんは﹁まちづくりでゴミをつくるな﹂ということを一言われていま
くくなってきている。
っと手慣れてきたというところもあるのではないでしょうか。差別化がしに
山お田形骸化してきでいるなという感じはしていました。コンサル側がちょ
片山むしろそっちのほうの認識が強いと。
もいいのかな﹂という議論が一方であったのも事実です。
マオリンピックまでのイタリアの現代建築が輝いてみえたん
し い と 感 じ た か ら で す 。 一 九 五 五 年 ぐ ら い か ら 六O年 の ロ ー
学生時代に雑誌で見ていたイタリア現代建築を非常にすばら
林私がイタリアに櫨れたのは、﹃ドムス﹄﹃カサベラ﹄など
づくりはどうなんでしょう。
アの町も視野にあると忠、つんです。そういうところと比較して、け本のまち
片山林さんの町をみる目は、日本の町をみているだけではなくて、イタリ
言い続けてきたことが根底にあります。
す。日opE計 画 の 初 期 は 、 報 告 書 を つ く る と か 、 運 動 そ の も の に す ご く 魅
ですね。
そ の と き 、 ﹁ 最 近 、 お も し ろ い の が な い よ な 。 ぼ ち ぼ ち ROPEを や め て
力があったと思いますが、だんだん呉体的な空間になってきた時に、そうい
それで、いざイタリアに行ってみると、新建築のデザインの持続性のなさ
というか、時間的な生命力をもたないことにすぐ気がついたんです。結局、
うことをいわれているのではないかと忠うのです。町づくりのなかで果たす
建築家の役割を含めて、お考えを山聞かせていただけないでしょうか。
てはほとんどゴミになるということを直観的に感じました。それで、いまま
つくるものがファッショナブルな建築であると、流行りがすたると都市とし
林 HOPE計 画 の と き に い ろ い ろ な 報 告 を 聞 い た の で す が 、 第 ニ 年 度 の 二
O か町村で、 HOPEに 参 加 し た 発 表 の 集 ま り の と き に 、 建 築 家 と し て 参 加
司/-
日
υ
というふうに思い至ったわけです。いま現代建築がどんどん出ていますけれ
言い方かもしれないですが、﹁古典にならない新しいものは本物ではない﹂
てだいぶ慎重になったというか、感覚的には退化したといったほうが謙虚な
てしまったものですから、それから自分の中で表培的な建築や建築群に関し
で見ていたのは単なるグラフィカルな幻想であったということを最初に感じ
新明(新環境建築研究所)いわゆるコンサルで、出身地は多
質簸ーまち。つくりと支援方法
と思います。
片山会場にお越しの皆さんからも、ご質問なりご意見なりをいただきたい
うなことです。
ち が 感 じ て く れ る こ と を 望 ん で い ま す 。 私 の ま ち づ く り の べ l スは以上のよ
金山でROPE計画を導入し、街並み景観条例を策定した調隣人プ、縦叫す
ときに、それを推進するために、技術的な支援と資金的な支縄問、
横浜です。験畿湾奇援護翻町
ど、それが古典となるかならないかで、いい建築かどうかの判断が分かれる
ので、ヨーロッパでは古典に留まれた都市が残るわけです。
そ れ で 、 昨 年 二 度 ほ ど ト ス カl ナ の 都 市 を 由 っ て 、 市 の 建 築 局 な ど を 訪 ね
ま す と 、 ち ょ う ど 私 が 行 っ た 一 九 六0年 代 前 半 の 、 輝 い て み え た と 思 っ た 時
援もなさっているのですか。
がありまして、始まって一 O年ぐらいたつのですが、いままで一二三三件、ト
期のものがイタリアではいちばんだめな建築で町を帰依しているといって、い
﹁たとえばモンツアの歴史的中心市街地は全部中佐に戻せ﹂というぐらい都
i タルで七八O O万 円 ぐ ら い 出 て い ま す 。 最 初 の 年 度 は 、 年 間 に 建 つ 助 成 対
林金山町に関していいますと、街並み景観条例に基づく助成制度というの
市計画上の危機論を吐いているわけです。なぜかといいますと、﹁都市の構
まそれらの見直しが進んでいるそうです。ベネヴォロという建築史家は、
造というのは普遍のものであって、中はいくらでも変えられるのだ﹂と。そ
した。屋根に協力してもらえばいくら、外観に協力してもら、えばいくら、と
いう形でチェックをして、満額いくらまでという形でやりました。増築の場
象 は だ い た い こO軒 ぐ ら い と 想 定 し て 、 全 部 で 五O O万 ぐ ら い 予 算 計 上 し ま
しているということは、持続性をもつことによって、人間に逆に新しい発想
合でも、改築の場合でも、部分的な補修でも、二分の一までの限度、一一一分の
れは建築工法が日本とは違うからだと思うのですけれど、﹁都市として安定
が生まれる。消えてしまうと何もないから、それはだめなんだ﹂ということ
一までの限度ということで続けまして、三年前からは満額五O 万 ま で 助 成 金
本当は、住宅建築コンクールと並行して、その年度に建ったものすべてを
が根底にあったので、金山についても、新しいものをつくるときは非常に注
ですから、 大 工 さ ん た ち が 地 元 の 力 で 出 て く る こ と を 期 待 し て 、 初 め は 向
対象にしたいのですが、一応は申し込みを受けて、屋根の勾配とか、軒の出
を出しています。
こうのスライドなどもみせたのですが、写真だけでは実感できないので、ド
とか、どこまで協力しているかという点で評価するわけです。それは奨励の
意をしました。
イツに行かれた都市企画工房の住吉さんが主導して、毎年ドイツの中世の都
藤山(金山町役場企画課)町づくりのいちばんの目玉とし
市を開るという制度を町にお騒いしてつくってもらい、町から毎年農協とか
いています。やはり﹁百間は一見に如かず﹂で、西欧の農村がどんなふうに
て、﹁街並みづくり一 O O年 運 動 ﹂ と い う こ と で 、 一 九 八 四
では年間一 000万の予算を組んで、景観条例に基づく助成をやっています。
生きているか、﹁確かに違う﹂ということを実感してもらうためです。最初
(昭和五九)年ぐらいから、重点をおいていろいろな施策を
意 味 で や っ て い て 、 建 主 に 出 す わ け で す 。 そ れ が 満 額 で 五O 万 で す 。 現 在 阿
に話しました先々代の町長が昭和三一一一年に行かれたときに美化運動を提唱し
展開しています。町民が住んでよかったと思える町、ほかの
役 場 、 婦 人 間 体 の 人 た ち が ド イ ツ の 都 市 を 困 る こ と が 今 日 ま で 一 O年 以 上 続
たきっかけと同じものを、いま若い一一一O代 前 後 の 人 た ち が 行 っ て 、 そ の 人 た
本来の、いまみたいな単体の話よりは、町並みの話が多いと思いますし、
林 HOPE計 画 が 一 九 八 三 年 で 、 街 並 み 景 観 条 例 が 一 九 八 五 年 で す ね 。 す
いう姿勢で、﹁こだわりのまちづくり﹂ということでやっています。
その部分から足が出ても、それについてはいくら補正をしてもかまわないと
で、一二年前から五O O万から一 000万の当初予算ではありますけれども、
景観づくり、住みやすい環境づくりには惜しまず金を注ぎ込もうということ
な判断で、ちょっときっかろうということで、﹁二軒寄って建築協定をつく
の論理を構築したのはその当時なんですね。いざ条例化するときに、政治的
まいますが、三春町のやり方は、景観条例もつくったのですが、まちづくり
岩田僕の知っている範囲のことしかいえないので、三春のことになってし
みづくりみたいなものはあるのでしょうか。
新明住民側がそれを維持していくといいますか、支持していくような仕競
部は伝建保存のほうに流れがいっているところが多いかと思います。
ぐに一九八六年に街並み景観審議会というのをつくったのです。町のそれぞ
いでおつくりください﹂という条例にしちゃったんです。
れば、その協定書を受理します。その町づくり協定を向こう一二軒両隣りぐら
それで、首長の考え方も歴代変わっておりませんで、まちづくり、住民、
町の人も住みたくなるようなまちづくりということに重点をおいた施策です。
ですが、町に関する助成の問題も、ご﹂れでは足りない﹂という問題が討議
れの分野からと専門委員として町づくりのコンサルがみんな参加しているの
それに緑化協定に対しての補助をくっつけるのと、大工さん、設計士自ら
が﹁こういうのが住まいやすいのだ、協定を結ぶのはこういう意味だ﹂とい
されますと、九割が町民代表ですから、当然、町としてはそれに対宿する方
向に向かいます。
う教育をし、大工さんたちが集まって、住民が参加して、こういうのをつく
そのときに、町側も、その協定を積極的に推進しようとしたところへ、街
岩沼街並み景観賞とか、なんとか建築賞という類は、さっきよくやってい
気がします。ただ、金山町みたいに本格的に建物それ自体に補助を入れてい
並み環境整備事業というものが創設されまして、そこの地域の人たちが協定
りましょうと。
るという話は、日必助でやったかな、というぐらいの記憶しかないんです。震
を結べば、通りを石川日化するなどグレードアップ分を負担してあげようとい
る町が三Oとか五Oと い い ま し た け れ ど も 、 そ の オi ダ ー で は あ っ た よ う な
災とか災害の自的も含めて、大都市部で椋化に対しては手当てしているとこ
う事業がきたもので、すぐにそれに飛びついて、道路はきれいになるし、み
あすけ
ろがあると思いますが、金山ほど本絡的にやっているところは、私は聞いた
んなも﹁塀をきちんとしましょう﹂という協定をつくって、裏道の町づくり
藤 山 金 山 型 住 宅 融 資 は 特 例 で 、 今 年 の 春 か ら 一 OO%です。
ます。
すので、その制度を利用して融資を増やしているところはかなりあると思い
庫のほうで一二O O万 ぐ ら い ま で 上 乗 せ 融 資 を し て く れ る と い う こ と が あ り ま
永 橋 ( 中 央 設 計 ) 逗 子 で 一 O年以上、コ逗子まちづくり研
翼競iまち柿つくりの継続法
重要ではないかと思います。産接的な答えにはなっていないですが。
全体としてある作戦をもっていって、一つに仕上げていくというのも非常に
だから、一つだけを取り上げてほめるということも大事でしょうけれど、
ただ、たとえば金山型住宅とかという仕様を決めてもら、えば、住宅金融公
新 明 事 業 計 画 と し てHOPEがあったとして、地方自治体に落ちたときに、
究会﹂というのをやっていまして、軒並みのなかで景観賞と
をやったという経緯はあります。
ことがありません。
景観条例以外にもいろいろな条例に展開していくという動きはあまりないも
のプレートをラブレターとして差し上げて、いま四十いくつ、
いうのを自分たちで勝手に決めて、一枚一万円のステンレス
いや、多くの町で条例化されていると思います。ただ、住まいづくり
のなんですか。
岩田
門の前に貼ったりしている。
あるいは町の人の意識も、みんなディズニーランドなんですよ。でかい金を
ただけで、四人ついてくれば、それでコンマ一%の勢力なんです。それを大
二 人 は い る ん で す よ 。 た と え ば 三000人の町に一人が﹁俺は住む﹂といっ
東京から引っ張ってきて、何万人もくることだけ夢見ている。自先の一入、
本当に住みやすい、しかも美しい魅力的な町をつくるのに、継続的にどうし
実は一辺子でまちづくり条例を今年の一二月に決めるというので、それには
ていったらいいのだろうかと。さっき岩田先生がおっしゃったように、一二パ
っと語弊があると思うのですが、結果、桁ものを外に出したことによる無意
心おとしてこずに、外へ外へと:::。符もの行政という言われ方は、僕はちょ
町のなかで、どういう単位で、何を落としていくか、ということを総合計
識の行為ですか。それが結局すべてを招いているような気がします。
カがいるとか、林さんがおっしゃったように、しっかりした考えをもった
のなかで法郎性があると忠、つんですね。それから、それぞれの町並み、ある
げ長さんと実際のスタッフの庁がいらっしゃるとか、九 K M
川のいろいろな経験
いは住まいがもっている景観を生み出していく法則性みたいなものを、きち
ただ、私自身の仕事としては、本当に住みやすい町をつくるというのは、
かも、人口が移動したら町が発展するのかといったら、むこうの農業はつぶ
﹁絵に描いた餅﹂で、土地ができたときにそこへ人口が移動してしまう。し
画なりあるいは住宅マスタープランのなかできちんと語っていないと、結局、
子どもの問題とか高齢者の開題、障害者の問題、健康の問題、のつぴきなら
れるし、こっちはすたれるということの繰り返しだと思、つんです。
っと常識としてみんなが認識するというのが大事だろうと思うんです。
ない課題があるわけです。景観もとても大事だと思うのですが、その町が住
とですね。そういうのも非常に興味があります。
ことを考えながら町をつくっていくことが重要なんだろうと思います。
と。人の顔がみえるということを考えながら、あるいは人が移動するという
一昨年、伝建地区である徳島県の脇町でHOPEの大会をやったときに、
林 先 々 代 の 町 長 が 全 町 美 化 運 動 を 提 唱 す る ま で の テl マは、産業振興と保
最勝寺(工学院専門学校)これからの社会は、つくる時代襲撃言
みやすいというか、住み続けられる町であるというところを見つけ出してい
健衛生、老人医療福祉ということがべ i ス に あ り ま し て 、 そ れ は 現 在 ま で 続
一八軒空き家があるということが話題になった。それで、町役場が一軒ずつ
いています。そちらのほうは特養主人ホ!ムの施設も合めてかなり充実して
ではないと思うんですよ。あるものを有効に活用していく、額務懇透滋
あるいはそれに付加価値をつけていく。メンテナンスの経済機⋮みで一三轡
借りればいいじゃないかと。﹁町長はどこですか﹂というと、﹁三軒先です﹂
おります。ですから、住み続けられるというべ i ス、持続するという思想は
学といいますか、そういうものが模索されなければいけない
が田舎の町でありながら長い間人口が減らなかったのはどうしてかというこ
金山町の行政は非常に強くもっています。
か。同時に、空き家の問題がどこも出てきています。高齢化のなかで、空き
と 思 い ま す 。 そ れ が こ れ か らHOPE計 画 と ど の よ う に 関 わ る 視 点 が あ る の
く必要があるのかなと。だから、さっき林さんがおっしゃったように、金山
岩田いままでのまちづくりは、高齢者間の施設をつくるときに、バイパス
ん拡散させているんですね。それが発展だと思っていた。まだその延長線上
ちにつくると。公営住宅も外につくる。役所も外へ移転する。都市をどんど
岩間私のほうでマンション総合プロジェクトというのをやっていまして、
の観点をどのようにお考えになっているのでしょうか。
家予備寧がかなり出てきます。建てることと空き家になっているというニつ
J
議
殺滝川ペ
沿いに土地があるからあっちにつくるとか、山のなかがあいているからあっ
でお年寄りの施設もつくられていると思います。僕もよく高底街の活性化を
スケルトン・インフィル型のマンションを普及させよう、綴体は一 O O年も
たせて、内装は変えようと。奄美大島に行きますと、実は木がない文化だっ
やらされますが、これでは商底街は死ぬ一方です。
いろいろなところに、まちづくりで呼ばれますが、首長さんも、担当者も、
んでいるおばあちゃんにご﹂れはいつごろ建ったの?﹂と聞いたら、﹁わし
のほうが大変でして、そういう予算のシステムが白治体にはないということ
それから、古い建物のメンテナンスよりも、むしろ新建築のメンテナンス
する意味もあったわけです。
0 0村 か ら も っ て き た ﹂ と い う 表 現 を す る ん で す 。 か な り ガ
たので、構造体は使い田しているんです。ある立派な棟があって、そこに住
が小さいころ、
を開き及んでおりましたので、今度町長が改選されて、私は景観審議会の立
を出しました。個人的な要求ですので、その返事がどういう形で出てくるか
ツチリした造りで、引き門構造といいますが、土日から使い回すという感覚が
いまの質問に直接答えになるかどうかわかりませんが、骨組みをしっかり
はわかりません。いまのところ拠点施設というか、公共施設でメンテナンス
場 と し て 、 ﹁ メ ン テ ナ ン ス 予 算 の シ ス テ ム を つ く っ て く れ ﹂ と い う レ ポi ト
つくるということが大事なんじゃないでしょうか。昔の民家のように、がた
予算を計上するという段階までのものはないので、町としては、本当に残り
あったようです。
いがきっちりして、下屋に水廻りを入れて、それは取り替えやすくするとい
その予算のシステムを行政のほうで考えてもらいたいと思っています。
には向かっております。メンテナンスについての発信はしておりますから、
少ない文化財として、古くて壊れそうな建物は土地ごと買い取るような方向
ただ、木の文化である以上、長もちする石造りの町とは、感覚がたぶん違
う発想がないと、大きな木自体がなくなっているということがあります。
うと忠、つんです。木のどこをもたせるか。やっぱり骨組みだと忠うんです。
のは、実際はかなりわれわれ設計者の責任、設計者の考え方ですけれども、
それから、いま岩田さんがおっしゃったように、しっかりした建物という
きちんと使い回していくという方向に今後もっていかないと、地球環境とい
耐 積 雪 強 度 の 場 合 、 山 形 県 の 基 準 法 に よ る 基 準 は 、 積 雪 一 mま で を カ バ ー す
その空間をきちんともたせたうえで、自分たちのライフサイクルに合わせて
われている時代にかなりまずいのではないかと思います。
議雪ができるという条件でつくってきました。ですが、﹁雪の落ちるこわさ
県 の 基 準 に は 関 係 な く 積 雪 二 mの 基 準 で つ く り ま し て 、 し か も 、 す べ て 自 然
る こ と な ん で す ね 。 私 は 、 い ま ま で 二O年以上たっている公共建築は全部、
を僕らはしていかなければいけないのではないかと忠っています。一二春町に
を林は知らないのじゃないか﹂ということで、私は積もらないで落ちるとい
その意味でいうと、空き家を使いまわす方法をもう少し習練していく努力
二O O棟 ほ ど あ っ た 土 蔵 が 、 当 時 、 壊 さ れ 始 め て い た の で す 。 こ れ は ま ず い
う設計を全部してきたのですが、途中で雪止めをつけられちゃうんですね。
mという設計なので、つけられでも大丈夫なんです。
一
一
片山さっき多少ワークショップの批判が出ましたけれども、まちづくりセ
ということで、町のほうでいいものをこ、三買いまして、それを三春人形鉛
しい。で、最近は、いい蔵はつくり替えておじいちゃん、おばあちゃんの離
ンターの坂本さん、サ⋮田谷区はどうですか。
として残したのです。そのいい蔵は実は康敷蔵だったのです。そうしたら、
れになります。そういう感覚を養うようなことを行政なり、われわれ建築関
坂本(世間谷まちづくりセンター)まちづくりセンターで、韓議問い
﹁そうだ。昔、蔵のなかに住んでいたよな﹂と。冬はあったかいし、夏は涼
連業者も含めて、やっていく努力が必要だし、それをやれば、一二春の蔵のよ
林﹁リサイクル﹂という一言葉はあまり好きではないんですけれども、写真
いうことなのではないかと忠います。
が、一二春とかの場合は、逆にスケi ル メ リ ッ ト が あ る の か ど う か と い う の を
った計画をやっていく場合、あまり波及していかないのです選欝育
いまこういった住宅地計画とかに関する仕事があまりないの譲繋沼山ぷ議
が現状ではあるのですが、世田谷でワークショップでこうい鍾欝震い 縫
L
でもみていただいた蔵の改造みたいな形でできるだけ残そうとしたのは、景
知りたいのですが。
うに、つぶされる運命にあるものが、たと、ぇ一 O棟 の う ち 一 棟 で も 助 か る と
観審議会でこういうものを残して、十口い建物の生命力・再生力を町民に発信
山羽白
一春では、どこの誰が何人家族で、どれぐらい金をもっていて、何の
ていく﹂とおっしゃいましたが、 がたいがしっかりしているのだと忠、つんで
だから、設計できるんですね。それと、﹁袋山は風致地区がかかっているか
建て替わっていると思います。だから、そういうまちづくりをやったのでは
では、新建材の三春の町が一二O年 た っ た ら ど う な る か と い う と 、 ほ と ん ど
すね。丁寧につくっている。
ら、一一一階に建てたらみえないから、具合が惑いゃないか﹂といったら、田舎
だめで、﹁いままで自分たちがつくっていた普通のまちづくりをやる。普通
商売をしていて、どんな住まい方をしていると、みんな知っているわけです。
ですから、ききますよね。でも、都会ではそういうのはきかないですよね。
の建物を建てるというのがいちばん大事だろう﹂といったら、一一一井所先生が
が、本当のまちづくりではないでしょうか。
﹁普通のというのと、手を抜くというのを勘違いするなよ﹂といっていたの
スケールメリットというより、村社会体質というか、そういうのはやっぱり
あるのじゃないでしょうか。
ただ、計画を立てるときに、さっきは別にワークショップを非難したわけ
ではいえないところがあります。そのへんを気をつけながら、都会は都会の
ちがやると、自分たちはわかっていますし、遠慮がありますから、彼ら同士
の場合には、比較的両方もってやっているので、町にも助けてもらったりし
ということは、イデ!とプロジェクトはちょっとずれがあるんですね。金山
ちにも、具体性をもっていいことがいえるのではないかと自食しています。
ではなくて、住民がのってくるかのってこないかというのは、都会のほうが
やり方をみつけていかなければいけないのではないか。きっとそれをいまま
て具現化することが多いし、設計者としても考え方を勉強することができる
林設計者がまちづくりに参加すると、町当局に対しても、都市の専門家た
ちづくりセンターは苦労なさっているんですね。
わけです。ですから、皆さん、自分と縁故のあるような町にはそういう働き
建築家のまちづくりへの参加
片山最後に、先生方、二一日ずつ住宅地計画について提言を:::。
かけをして、自然発生的なワークショップみたいな形で、建築家自身も都市
おもしろい結果になる素地はもっているのではないでしょうか。田舎の人た
岩田昨年の大野大会の最後の三井所先生の締めを繰り返しますが、僕の言
ふつうのまち"つくりへ
と し た 住 ま い を 基 本 に し て 町 づ く り を す る 、 一 つ ひ と つ を 了 筑 zに す る 。 い ま
ういうのもたまにはつくりますけれども、さっさいったがたいの強いきちん
田、おまえの設計は全然普通じゃない﹂といわれるのですが:::(笑)。そ
です、﹁どうして普通に設計しないんだ﹂と。そうしたら、返す言葉で﹁山石
が大きくなりすぎてずれてしまう危険もあるのですが、全体的なバランスの
て 参 加 し て い る わ け で す よ ね 。 そ れ が 都 市 レ ベ ル で い く と 、 ち ょ っ と テi マ
永橋さんがおっしゃったいろいろな福祉関係のことも、やっぱり設計者とし
みんな設計者なんですね。それで具体的なビジョンが出てきている。さっき
も っ と 意 識 す べ き だ と 考 え ま す 。 有 国 のHOPEの 三 井 所 さ ん と 清 水 さ ん も
都市は都市計画者のみに任せるのではなくて、設計者も都市というものを
について自分を教育するような機会をつくったほうが良いと思います。
の新建材の町というのは、あまりにも丁寧につくっていないというか、ベタ
ときに、景観ではなく福祉という切り方ではなくて、景観と福祉は同時にあ
葉尻をつかまえて、﹁普通のまち‘つくりをやりなさい﹂と。僕もよくいうん
ベタ建て込めばいいという感じになっている。
るべきことで、それを分けてはいけないと忠います。
片山﹁
いま大正時代ぐらいの提洋風の建物をどうしようかと思って悩んでいる町
はたくさんあると思います。あれもまったく新しい技術というわけではなく
心としたまちづくりについては、大事な考え方が山山たように思います。どう
HOPEの 検 証 ﹂ か ら は 少 し 離 れ た か も し れ ま せ ん が 、 住 ま い を 中
て、日本の伝統工法のなかでつくってきた部分もありますが、デザインとし
もありがとうございました。これで終わらせていただきます。
(文素 H 編集部)
ては異質だったのだけれども、いまになれば、先ほど﹁古典的なものは残つ
伝撞地区今井町(奈良県橿原市)の試み
町家再生のモデルとして一七世紀の老朽町家を改修する
子
桂
初めまでは、その経済力を保っていたが、鉄道の開通などにより、町として
私が奈良県附叫市今井町をけ以初に訪ねたのは、一九五九年の秋であった。
もの一oi一五%、大正時代のもの一Oi一五%の民家群が、その美しい町
一六五O年の民家をはじめとして、明治時代以前のもの五O%、明治時代の
のにぎわいが八木町周辺に移った。一九七八(昭和五一二)年当時の調査では、
当時、三重県松阪高校の学生であった私は、美術の先生の、遊びにこないかと
﹁このような古くて美しい町並みはみんなで住んで守っていかなければ、い
いの家も、薄暗さはあっても美しく、そのことを先生に伝えると、先生は、
初めてきて、その町並みの美しさに私は息をのむ思いをした。先生がお住ま
約七六O析の建造物があるが、そのうち五O四軒の町家、蔵および一一九軒
応舗矧用住宅、零細工場併用住宅、作業所などもある。六か所に寺社がある。
旧環濠内は高密な住宅地であり、専用住宅がそのほとんどであるが、一部、
南北三OOm、面積一七・四凶。約一八OO人、六八O世帯が住んでいる。
今井町はかつて四周を環濠に国まれた﹁環濠集落﹂である。東西六一Om、
並みを構成していた。
けないんだよ﹂とおっしゃったことを思い出す。当時先生は、松阪市へ電車で
の工作物が、伝統的建造物に特定されている。一九九三(平成五)年に国の
﹁重要伝統的建造物群保存地区﹂に選定された。このうち、一九五七(昭和
三二)年に指定された﹁今西家﹂住宅をはじめとする八件の重要文化財、一一
今井町は、室町時代天丈年間に、今井兵部という入が、血(福ナ刊の荘閏であ
街区、敷地割りは、町が成立した室町時代後期の骨格を、現在も残してい
件の県指定文化財、四件の市指定文化財が含まれている。
ったこの地に、一向宗道場を聞いたのがその始まりといわれている。この地
ている。背割り側には空き地があり、水路が設けられている。町全体では日
間や通風に配底した構造になっているが、平入り切妻形式で通り庭を持つ形
る。中心部の主要街路は東西に通り、町家の主家はこの道に接して建てられ
造尚が中心であり、江戸中期からは、木綿業も盛んとなっていた。明治時代
がいち、はん栄えたのは、一七世紀末頃とされ、両替商、肥料商、古物商、調
今井晦と拡こんなところ
しゃったのだ。
二時出かけて通勤する距離の今井町に、確国たる考えをもって住んでいらっ
の松阪市は戦災を免れ古い美しい町並みが残された町であったが、今井町に
いう誘いに甘えて、今井町に住んでいた先生のお宅を訪れたのだった。当時
今井晦との出会い
有
村
円/嗣
ρnu
察側
表側
式が基本となっており、庖の問、中の間、奥の賠と続く住居の﹁中の間﹂には、
光も風もなかなか入りにくい構造になっている。通り庭、土問の多くは、改
造により、台所の近代化や居間の拡充などがなされているが、まだまだ、現
代的な快適な生活ができるようになっている町家は少ないように思われた。
それ故、今井町の町家を空き家にして、近くに、近代的な家を建てて住む人
びとも出始めている状況があった。伝統的建造物の外観のデザインは重厚な
本瓦葺きの屋根を持ち、一千屋または﹁つし﹂二階の町家が軒を連ねている。そ
れぞれの建物には、﹁むしこまど﹂﹁家紋﹂の装飾がなされ、下応部分には太
格子が取り付けられている。この地方の町家群の盟かな件まいが残されている。
町家再生のモデルとしてまちづくりセンターを提案
一九九六年一二月、橿原市は、今井町伝統的建造物群保存地底内・住民活動
センターの設計を公募した。それはかなり傷んだ一七世紀前後の建物をリノ
ヴェイシヨンして、町、つくりのための住民活動センターをつくるというプロ
ジェクトであった。
私たちはこの課題を住宅改修模範としてとらえ、次のような提案を行なった。
町並みの復原のため、街路側の外観については江戸時代にさかのぼる完
全復原を行な、っ。
改修の可能性を示すため、軒高の低い﹁つし﹂一一階形式の町家であって
り水路を、木造住宅が建て込んでいるこの地域の二方向避難の道として位
植生緑化を行ない、水路の浄化や徴気象の調整を行なう。また、この背割
辺の空間とする。池の水面の気化熱を利用し、快適な環境をつくる。水辺
わち背割り水路を拡大し、冷却用に利用した地下水を排水して、楽しい水
敷地の特性や背割り水路を活かした環境共生型裏庭修景を行なう。すな
通風の悪化を招くおそれがある。
あることを示す。家庭への増築が一般化すると、町全体の住環境、採光、
も、町並み景観を壊さず、かっ、庭を狭めることなくニ階の増築が可能で
2
3
1
7世紀の町家を改修した
今井まちづくりセンターの外観
/
改修前の様子
﹁
U
円[んじ
TJ
m
hレ
集会ホールから光庭を望む
こ
一3 竺 議 〉 申 直 木 山
i階平面図
今井まちづくりセンターの
空間としかけ
2,皆平蔵凶
耐力格子
置づける。
伝統的建築様式を積極的に利用したパッシブシステムの家づくりを行な
m
h
w山間土され、それとともに地表が上がり、現在の生
て終え勾に約二01三O
し現在の位置におさまった。また、洪水による被害が度々あったためか、建
た。当初の建物は、現在の敷地より若干西側に寄っていたが、建て替えに際
一七世紀前後の建物ということ、二凶の建て替えと一度の屋内改造が判明し
一九九七年九月一日から一 O 月二日まで発掘調査が行なわれた。調査の結果、
るか設計集団の山本泰史が監理を担当した。解体後、橿原市文化財課によって
解体から完成まで、町づくり会館事いらかの林清三郎氏と米村博昭氏、い
して完成し、多くの人びとに利用されている。
このような提案が受け入れられ、一九九八年三月、まちづくりセンターと
用いることとした。
案した。その後いろいろな方たちのアドヴアイスを受け、耐震木造格子を
統的デザインモチーフによるスチール角パイプ製の﹁絡子型耐震壁﹂を提
私たちは、耐震壁量を確保しつつ十分な通風、採光をとることが可能な、伝
既存軸組や伝統のデザインを活かしながら、耐震性を向上させる。初め
ベクターとの併用により、常に快適で効率的な床暖房効果が得られる。
風の街を通じて床下に送りこみ、床暖房の熱源として用いる。フアンコン
熱をおさえる。冬にはこの熱空気を越屋根内に集め、循環ファンから光と
により効果的に越屋根から熱空気を抜くことで断熱性を確保し、天井一戦射
る。太践によって暖められた瓦は通気層内の空気を熱する。夏は重力換気
また、屋根土を下ろし、横桟木を浮かせて瓦と野地板の間に通気層を設け
伝統寸法、形に忠実に設け、屋内中央部の湿った熱気を迅速に換気する。
を室内に送りこむ。光の簡に沿って設けた階段吹抜けの宜上に、越屋根を
を深さ二 m入 れ て 蓄 熱 層 と し 、 井 戸 水 を 注 ぎ こ み 、 重 力 換 気 に よ っ て 冷 風
(二×二 m
) とし、すべての居室に通風と採光を確保する。光庭に砂利石
う。すなわち家の真ん中にある﹁なかみせ﹂を光と風の筒をもった光庭
4
5
彼にたまった忍かいささ気は
認潔に利用する
返筏ファンで沈下へと以気を
引き下ろす
併用する
もっと裂いとさはエアコノむ
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Z
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)弘フ 7 /で特にたまっ
た弘スそ外に:1',-;
i
泉氏モードで良い
エアコンは
に配慮した。パッシブシステムでは冷気、熱気の通るダクトの気密性が要求
される。レベルの高い施工性を結保することがなかなか底難であった。現在
のところ、六月で、井戸水の気化熱と送風のみで、室温が二五度から一九度
m下り、回復するのに二日から一二日かかるため、水道水の
まで下ったことを確認している。井戸水の水量があまり豊かでなく、一日使
用すると水深が一
併用も考、えておいたほうが使い勝手が良かったのではないかと思っている。
町家の室内は時くて住みにくいといわれている。私たちの計画では光の筒
から部屋の隅々まで光が入り明るく、また、色彩計画的にも若者に受け入れ
られるような明るい卵色を中心とした色使いを行なった。これは若者はもち
ろん御老人の方たちにも、とても良いと受け入れられた。
おわりに
伝統的建造物の町家や民家の廃屋化は今日的、一し般的な問題である。今後
の課題として、単なる技術論的な保存と碍生ばかりでなく、広く町づくりや
り し て い た が 、 自 に 見 え な い 所 は お 粗 末 な 材 、 例 え ば 八 Omlφ の柱などが使
クした後、洗いをかけて組み直した。自に見える漆喰、建具、造作はしっか
施工は次のような形で行なわれた。全解体を行ない、部材の腐りをチェッ
護ステーション、児叢館、地域子育て支援センターなど)として再生利用す
供 給 を 行 な っ た り 、 高 齢 化 や 少 子 化 対 策 と し て の 施 設 ( デ イ ホi ム、訪問看
少なくない。公的機関がリノヴェイションし、賃貸住宅や分譲住宅として、
今井町の大阪への通勤利便性を考えれば、この地反への住宅需要はけっして
都市居住環境の向上を目指したシステムづくりが必要と忠われる。例えば、
われていた。構造体では柱は八割入れ換えた。構架材は八割既存材を使った。
有村佐子/ありむら・けいこ
る可能性はないだろうか。
壁は土壁を使いたかったが、耐震性能を確保するため、構造用合板を使い、
U(
︿参考文獄﹀
b
火山州生まれ。
九六六司、川内ゾ大中仁川下部建
築山下利ルド業、川内ゾ大山下大山下院仁川下研究科修上
ぷ 科 修f。怖いるかぷ叶品川集州代衣、附加山刊火子
大学非常勤続師。主な作品に、山山術的合一弘道
小予防川、ひぽニホl ル 、 城 崎 町 立 内 品 川 地 な
ど、は引火に増加(人館山限的胤ハ L ( 仕 (uと
v がある。
構造用合板を用いた。町家の特徴である隣家とのゼロロットの境界壁は、限
MM
阪市、州開都市環境研究所。
-吋平成じ年度栃原市今井肝不一変伝統的往造物税保存地区総合初災計⋮削策定調資如抑止H
3
3
床 下 換 気 は 基 礎 上 に 基 礎 パ ッ キ ン グ を 別 い 、 伝 統 的 フ ァ サiドを守ること
O ×六O の心材に構造用合板を貼り、パネル化したものを内側から取り付けた。
町内の腕のある建呉屋さんにお願いした。屋根も一白内剛性を確保するために、
提案で材料にピl ラiを使い、よく乾燥したものを合欠き状態でつくった。
ラス、漆喰中途り仕上げとした。耐力裕子は構造アドバイザー
m版協 氏の
に は ホ ウ ル ダ ウ ン 金 物 を 用 い 、 四 面 柱 が 見 え る と こ ろ で はD ボルトを使った。
地耐力が悪い土地であるため、ベタ基礎をつくり、耐震援を設けた柱の足元
地震に強い町家をつくる
れた。
態を基本的に踏襲している。 胞衣査十五錦、 作 り 付 け 近 、 大 袈 な ど が 発 見 さ
活面となっている。しかし、 建て替えされても、 家 屋 の 間 取 り は 、 当 初 の 形
伝統的建築様式を利用したパッシブシステム
のまちづくb今昔
特集③再検証i 地域からのまちづくり
ふる宮と
知恵は住人にあり。 ワークショップで先気な住民参加
松井
はじめに
割街涯の背後には、下水路にあたる背割水路を備えていた。
町の建物は、明治の大火で、ほとんどが焼けたため、現在の建物は、 明治
三二年以降の建設である。約一 O O年を生き続けた町家は、豪雪地帯にもか
西に一大守閣が見えるの
か わ ら ず 軒 の 深 い 登 り 梁 構 造 に ﹁ せ が い づ く り ﹂ と な っ て い る 。 ( 写 真i l、
私のふるさと、福井県大野市もその例外ではない。明治時代から、越前刑判
が大野の原風景であっ
出会うことが多い。どの問も、かつての賑わいが失われて久しく見えるが、
二重と呼ばれる綿織物が盛んで、あちこちの家々から織機の音が響く活気の
た
図12) 陰影の深い町家が、碁盤の日の街路に軒を連ね、東に寺院の大屋根、
ある町であったのに、近頃は、すっかりさびれ、町を行交う人も少なくなっ
田0年代からの高度成
しかしながら、 刀
口
和
振り返れば、昭和一一一0年代頃が、大野の町が一番かがやいていた頃だった
長の波は、大野の町を
てしまった。
のではないだろうか。その頃までは、昔ながらの町並みに、風情ある年中行
呑み込んで、町中に街
路拡一組計画を促進し、
事や人情の残る、織物の阿であったと記寵している。
である。結路は、南北に一番(本町)通りから五番通りまで、東西に大鋸町
大野は、北睦の小京都と呼ばれる碁躍の目の町制が美しい城下町(図││)
めの車社会に対応する
みれば、経済発展のた
建設した。今になって
周聞にバイパス道路を
通りから石燈龍通りまでに何人街をつくり、周囲を寺院の建物で防御し、小
まちづくりということ
変貌する歴史の軒並み
高い亀山の上に天守閣を置いて、山のまわりに武家屋敷地を配していた。町
写繁一 1 せがいづくりの外観
一体いつの頃から地方の町が、こんなに殺伐としてきたのであろう。
最近地方を旅すると、古い町並みに隅散とした人気のない商応街の風景に
郁
夫
匂,飽絡調
M
匂
越す
ゐじいる@→福町一吾的
三畠鰐"‘側
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M 胡崎町、'"‘る
1 大聖子の町並みマップ
H9PE計画の導入
回
予
泣
ミ
σ
〕
反
省
T
r
っ
て
これから
一九八一二(昭和五八)年、﹁HOPE計 画 ﹂ が 建 設 省 の 事 業 と し て 施 行 さ
れた時期は、まさに時代を捉えた好機であったと思う。以降一七年、この事
業が、日本各地のまちづくりに与えた影響力は大きい。計画の主旨である池
域性の見直しは、今やまちづくりの前提条件である。
) 年 、 ﹁HOPE計 画 ﹂ を 策 定 、 続 く 八 六
大 野 市 で も 一 九 八 五 ( 昭 和 六O
年、八七年、八八年と継続、震史都市大野にとって大変新鮮な提案がなされ
た。当時の報告書を開くと、湧き水の広場への提案、北円割水銘への提案、木
造住宅づくりへの提案等々、独創的な提案が多い。さらには、市内の材木応、
工務底、設計者を巻き込んだ住宅研究会の設置など、当時としては、先進的
な事例も見られ、計闘の一部は実施に移された。
しかし、これらの提案や実施は、当時の大野市民にとって、どのように映
ったのであろうか。住民参加が必須となっている現在だから言えることかも
の扶返達何た会
え経未で済で
ま}民りはだ当 I
謡大て済だあ性あ
ち土、、つ l
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寺の野い発にっとつ
つーを地こたの町にな展「たいた
く核域のの都々限い」道。うが
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寺だ市をら。の路残名
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幻づ念のそ
臨 げ 史 を う │ 直i貌 、
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消 1 らし経
きと
でが
あで
母E
霊
ろき
うな
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っ
た
図
2 せがいづくり
土
雲
章E
塁を観光案内所に手写生
2 イ
写葵
3 七問返りの町並み再生イメージ図
図
しれないが、まちづくり等の計画ごとの難しさは、市民の意見をどれだけ反
映できるかにある。いわゆる﹁住民参加のまちづくり﹂は、市民のつぶやき
が真に実現できるか否かで真価が向われる。
また﹁協働のまちづくり﹂では、行政の思いも、専門家の力も、市民の戸
を実現するための支援手法として使われるべきであり、相互の意見交換の山中
から実現案が醸し出されることが大切である。従来の都市計画に見られる、
専門家主導型の予定調和の世界はなじまない。つまり﹁協働のまちづくり﹂
では、参加の手法を工夫して、行政、専門家、市民の三者が、相互の意見が
桔み重ねられるよう、まち、つくりのイメージを共有できるプロセスを踏むこ
とに意義がある。
一設計者としてのかかわり
HOPE計 耐 の 後 、 大 野 市 の 出 身 と い う こ と で 、 老 舗 の 並 ぶ 商 庖 街 か ら お
戸がかかり、市山街づくりのアドバイスを求められたり、集会場のつくり方
について相談を受けたりした。それが一九八九年に﹁七間通り商応街・ハイ
七山臨凶街は、老舗の並ぶ大野ではもっとも伝統ある尚応街である。信長
マl ト卒業﹂と呼ばれる福井県の補助卒業につながった。
も町の食卓を潤している。当初、
の昔、約問O O年も前かおり続く利市が、 A1
向 桁 結 と し て は 、 雪 や 雨 の 多 い 地 方 で も あ っ て 、 アl ケi ド街をつくること
も視野に入れた商応街づくりの相談であった。
しかしながら、毎間五O名 余 の 関 係 者 と 話 し 合 い を 重 ね て い く う ち に 、 歴
史的視点を大切に町を見れば、﹁大野の生きる道は、町並みの保存再生では
ないか﹂という意見も出始め、みんなで全国各地の先進例を祝祭に行こうと
いうことになった。当時の商目版、王たちの熱意には頭が下がる。事業が開始し
J
た 一 九 八 九 年 、 山 月 か ら 一 一 月 の 山 に 一 二 か 所 の 町 並 み を 視 怒したのである。
近くの町は日帰りし、婦人会の旅行も視察に変えて、一山は倉敷、竹原、東は
川越、栃木まで自家用車を飛ばして情報を集めた。まさに強行軍であったが、
みんな荘かった。
3 スーパーが赤い翠板を上げていたかつての返り
ワークショップと大野
硝応街の卒業がきっかけで、大野との関わりが筏になった頃、寝耳に水の
事件が持ち上がった。市民から屯山と呼ばれて親しまれている、お城の建っ
ている山にトンネルを掘るという計画が、時の市長から持ち上がったのであ
る。路史ある市街地を分断する一大事に町の人びとは驚いた。まさに町を二
分する論争に発展した。
もとをたどれば﹁道路づくり日経済発展﹂の思想がいまだ抜けされていな
い開発忠考の閉塞した状況の延長に、トンネル問題が浮上したのである。町
の中央部に、かつて防火帯として広げた通りを六開通りというが、昔は、松
つの間にか訴の広い車道となっていたのである。この通りに、福井からの幹
並木がきれいな公閣のような場所であった。しかし自動車社会となって、い
線道路をつなぐ話が、トンネル問題の発端である。
トンネル賛成派と反対派のしがらみの消えないそんな時期に、大野青年会
議 所 (JC) か ら ま ち づ く り の ア ド バ イ ス を し て く れ な い か と 持 ち か け ら れ
た。まさに火の中の栗を拾いに行く心境であったが、﹁知恵は住民にあり﹂で
業﹂の報告に沿い、﹁ふるさと創生資金﹂を使って、七開通りの石畳化を実
両方いる。そこで、両者入り交じった、いくつかのグループに分かれて、亀
主催は大野青年会議所。会員の中には、トンネル問題に賛成者も反対者も
ある。この時を、大野で住民参加のワークショップを実施する好機と考えた。
現 し た の で あ る 。 さ ら に 、 小 さ な 町 屋 の 仕 舞 麗 を 再 生 ( 写 真12) し て 、 商
各グルi。フが考えた案には、事業費の積算と財淑の確保まで考えてもらうこ
ムを考えた。みんなが都市計両をするのである。現実味を持たせるために、
とにした。これならば、真剣に考えてくれるはずである。
3) 瓦 毘 根 を 付 け
マ ー ケ ッ ト が 、 自 主 的 に 看 板 を 降 ろ し ( 写 真 123、 4、図
元し始めた。わずか三年間の間に通りは変わった。その結果、歴史的町並み
の一つである。みんなで一緒に現地を見ることによって同じテーブルに付く
ことができるのである。ただし漫然と現地を見ても、土地を読むことはでき
に耳を
私もこの事業に最初から参加したが、毎回の話し合いで驚いたのは、両府
あ る 。 こ ん な 場 合 は 、 ネ イ チ ャ l ゲl ム が 有 効 で あ る 。 木 々 や 為 の
ない。その土地が、どんな場所なのかを理解してもらうプログラムが必要で
ったことば﹁知恵は住民にあり﹂という一一一一一口が、今でも忘れられない。
主たちのバイタリティーであり、時代を生きる知恵である。老舗の主人が一一一一向
が、内外の人びとにも認められ、多くの客を集めるようになったのである。
まずは現地を見ることから始めた。現場第一主義もワークショップの原則
たことである。その効果は抜群で、各商応が競い合ってむかしの家並みを復
特筆すべき出米事は、通りの中心地に真っ赤な看紋を上げていたスーパー
山間辺のまちづくりを、模型を使ってシミュレーションしてもらうプログラ
写繁一 4 再生された町議み
届街の観光案内所にしたり、街灯を町の風陪に合わせて取り替えたりもした。
そ ん な い き さ つ の 中 、 大 野 市 の 行 政 支 援 が ま た 良 か っ た 。 ﹁ ハ イ マ i ト事
写爽
傾けるのである。さらに、町に出て
町の人びとの意見も集める必要があ
る。﹁突撃インタビュー﹂である。
ここで集めた意見は有意義である。
町の伎の声が開けるのであるから。
これらの意見の中からキi ワl ド
を探すべく、参加者の意見を重ね合
わせながら、立場を変えたロ l ルプ
レイングゲl ム を 行 な っ た 。 た と え
ば、もしあなたが市長だったら亀山
をどうするかとか、観光客だったら
どうするかとか、投げ掛けた聞いに
対して、建設的な言葉を見つけるの
である。
最近の大野
現市長になって以米、市の事業をお手伝いさせて項く機会が増えた。中で
も出織物組合の建物の再生は、印象深い仕事であった。建物の買い取りに際
して委員会が組織されたが、そのメンバ i で﹁ワークショップ﹂を実施した
のである。
当初、通常の委員会と違う進め方に、各委員の皆さんには戸惑いはあった
ものの、各委員が進んで利活用案を発表するあたりは、皆さん熱がこもって
楽しんでいただけたと思う。まとめの発表の際に、市民代表委員から拍手を
受 け た の が 大 変 嬉 し か っ た ( 図 │4)。 ワ ー ク シ ョ ッ プ は 工 夫 次 第 で ど ん な
で関わらせていただいたが、実施設計は市内の設計者によってなされた。現
場合にも使えるのだと感じた。その後、文化財登録制度の導入と基本計闘ま
在では﹁平成大野崖本庖﹂として親光客の休憩所として賑わっている。
また、縁あって七間商応街の老舗﹁ゃなぎや薬局﹂(築一OO年)も一九
6)。
さ ら に 最 近 の 出 来 事 と し て は 、 丘OPE全 国 大 会 が 開 催 さ れ た ( 一 九 九 九
九八年に再生することができた(写真
る 。 ま ち づ く り の 目 標 と 手 法 を 書 い た カl ド を 用 意 し て 、 グ ル iプ 内 の 意 見
年)。この大会が、大野の町にとっては大変有意義であった。大会当日はワ
見 を 集 め 、 さ ら に そ れ を 市 民 で あ る 大 野J Cのメンバーが進行するというユ
ークショップ形式を取り入れ、まち歩きから分科会まで、カードを使って意
発表は各グルiブ で 行 な う 。 予 算 の 計 上 が 義 務 づ け ら れ て い た の で み ん な
ニークな方法を実施したのである。このワークショップによって、全国から
は、これらの意見を無駄にすることなく、積み重ねていく努力をしなければ
置いていって下さったのである。ありがたいことと感謝している。大野市民
集まったまちづくりに関わる行政マンや専門家が、大野の町に多くの意見を
して、市民投票をすることとなった。結果は、トンネル賛成派が二四%、ト
は生活の表出という考えのもと、委員の方々と作業を進めている。大野に限
私は現在、大野市景観条例の策定作業に参加させていただいている。景観
おわりに
ならない。
亀山のトンネル問題は迂回案で決着しそうな様子である。
このワークショップが影響したとは思えないが、市長は交代した。さらに、
が六O%、トンネルも道路も要らないという人は二ハ%という結果となった。
ンネル不要派が七六%で、内訳は、トンネルは掘らないが道路を付け替える
四案並んだがこの日は結論を出さずに、文化祭の日に成果品をパネル展示
どが補助金を当てにしている。
真刺別である。当然トンネル派の予算は多い。どうするのかと思えば、ほとん
5)。
成派の図もできれはトンネル反対派の図もできてくる(写真i
を積み上げていく。図上に各手法に合ったアイテムを並べれば、トンネル賛
さていよいよ本番は、地図の上にシミュレーションする計画闘の作成であ
写繁一 5 機型を使って町づくりをシミュレーシ E ン
/ト
1
写雲喜一 8 老言語の薬局を再生
ワークショップで考えた 1
1
3審議物組合の怒物の再生計商
1
1
1
1
4
らず建物の建て方は、建築基準法さえ守れば自由である。
しかしその結果、まちづくりの視点に欠けた多くの建物が、
日本全国の町を埋め尽くしている。一体この傾向をどう考
えればよいのだろう。日本の町並みはこのままでよいのだ
い
、
え
守
合
。
ろうか。生活が景観であるならば、これはゆゆしき事態と
ヨーロッパの例を引き合いに出すまでもなく、日本で欠
落した町並みの思想を、ふるさと大野で再興できればと望
んでいる。長い道程となるであろうが、大野の町がこれか
らどのように変わっても大野らしさを失わない﹁仕組み﹂
や﹁ル!ル﹂づくりに努力したいと考えている。経済性と
都市化に揺れる一地方都市ではあるが、歴史の町としての
誇りと理念を持って、まちをつくれたらどんなにか素晴ら
しいことだろう。
さいわい昨年は、念願の問日本ナショナルトラストの町並
み調査﹁越前大野の城下町と町屋﹂(編集・若越建築文化研
究所、吉田純一、間京克巳)を実施していただいた。これで地
元の人たちが、自分自身の家や町を知る良い機会ができた
と思う。事実、調査報告会では、多くの市民が真剣な意見
のやりとりを交わしていたことが印象的であった。この波
を絶えることのないうねりに繋げられるように、これから
も市民の皆さんと共に努力したいと思う。
松井郁夫/まつい・いくお
一知井県大野市生まれ。東京芸術大栄美術学部
卒業、⋮九七九年、川大中大学院修了。
現代計同研究所、小川行中火山地築設計事務所を
総て、一九八瓦年、松井船犬建築設計事務所
設立、代表取締役。金沢美術工芸大学談倒。
著書に﹁木造住宅﹁私家版﹂仕様世一ど(共法制)
がある。
特集畿一再検証
地域からのまちづくり
1││
古河のまちづくb
町に誇りを持って定住する人の町にする
一
士口調 桂
合併をしていないため、市域が比較的小さく、農村部が少ないことも、合意
町づくりは、一 O 年、二O年 に も 及 ぶ 長 期 計 画 を 立 て て 、 そ れ に 従 っ て 進
J R来日本となって電車の本数が増大し、利能性をい口同めたこともベッドタウ
れてゆくと、市域もまた、その影響を受けざるを得ない。国鉄が民営化され、
形成には有利であったが、市域の周辺部が急速にベッドタウンとして開発さ
めてゆくものではない。その時、その時にでさることから柏み重ねてゆくも
ン化の要素として大きい。ベッドタウン化は商業など、第三次産業の衰退と
時のアイデンティティを明瞭化する
のだ。しかし、それが場当たり的、散発的にならないで、結果として重桔し
して顕著に現れてくる。
ベッドタウン化は町のアイデンティティの喪失を招かざるを待ない。危機
てゆくためには、やはり目標がなければならない。しかしまた、その目標は
具体的なものでない方がよい。具体的であることによって、対応が硬直化す
として地名が初見するほど、樫史は十日い。中世には足利市の古一川公方が所在
くぽう
感の中身はこれであった。古河市は古代、万葉集に﹁まくらがのこがの:::﹂
古河市の場合、行政が町づくりを大仰な言葉によって掲げたことは一度も
した。江戸期には土井藩の城下町であり、日光街道の宿駅でもあった。明治
るからである。
ない。行政施策が、住民の合意が形成されるものとして、ある目標を定めて
となった当初は古河県となった時期もあったが、在郷町として、広域の中心
目に見、えるものが印象的に堆積しているとはい、えない。しかし、断片として
実施してゆくことができれば、町づくりなどと敢えて語らずとも、 それで充
ここで私見を述べておくとすれば、町づくりを、行政主導、住民主導と穂
なら、かなりの註があるといってよいであろう。そうした断片を眼底に残し
部市として推移してきた。古河には、充分な膝史が堆積しているけれども、
別し、前者を不可、後者を可とする考え方では、どちらの場合でも町づくり
ながら阿を歩けば、この町のアイデンティティが見えてくる。今、町に進行
分である。
は不毛に終わるであろうことである。行政と住民の協働でなければ成果を得
町のベッドタウン化は、 個性的な町でありたいとする場合、 決 し て 望 ま し
日を追って消し去りつつあるということであった。
しつつあるベッドタウン化の様相とは、こうしたアイデンティティの断片を、
古河市の行政も住民も、町の現状に対して、共通して持っている危機感は、
ることはできないと忠う。
首都圏に飲み込まれることでのベッドタウン化の進行である。古河市は町村
い こ と で は な いし
。か
首
都聞という巨大なパワーがなす力学的現象の中
し、
で、小都市がこれを避けることは不可能といってよく、また、人口が流出し
て通疎化してゆく町と比較すれば、状況は悲観的どころか、羨むべき状況と
見ることさえできるであろう。ベッドタウンとなっても倒性を大わない道は
ある。鎌倉がその例ではないか。足利時代に鎌倉に鎌倉公方がおり、古河に
古河公方がいて、二人の公方が放立し抗争していた古事もある。古河は﹁北
の鎌倉﹂を目指すことだ。それには、断片として存在する町のアイデンティ
たかみせんせき
てんこく
い文化施設群を創出してきた。珍しい三階建ての石蔵を含む布戒の再生利用
古河市では、この脱史博物館を中核として、小さいながらも存在価値の高
ったけれど、歴問ができてよかった﹂という市民の言葉からも明瞭だ。
この博物館ができて後、﹁今までは家に米たお客さんを連れてゆく所がなか
アイデンティティを象徴するものとして娃設されたのである。このことは、
され、町の片隅に所在することが多いけれども、古河ではそうでなく、町の
歴史博物館などという韓類の公共施設は、多くの場合は不急の施設と見な
るなどして、市の中心部に歴史公開問的なエリアが現出した。
なっていた環誌を再生させ、周辺の学校・道路などの公共用地を緑化修景す
に対面して残っている際見泉石旧宅を復元して別館とし、小さな水溜まりに
古河歴史博物館は、市内中心部に僅かに残る出城時を買収用地とし、ここ
が受けたことが、⋮陪史博物館建設の契機となっている。
どが、代々、臆見家に伝えられてきていた。この膨大な資料の預託を古時市
いるが、地理学に精通していたこともあって、タグ口一民の手書きの地図・絵画な
江戸時代の末期、古河務の重臣であった臆見泉石は前学者として知られて
が抑制えられていた。
際見泉石記念館
でつくられた、日本ではこの一一館しかない築刻博物館。それに加えて街角芙
古汚文学館
ティを、顕在化させてゆくのが大きな目標となる。
歴博を中心とした文化施設群を中核化する
今 か ら 十 数 年 前 、 古 河 市 で 策 定 さ れ た リi ディングプロジェクト計同には、
さまざまな内容が盛り込まれていたが、内先日の中核には、歴史博物館の感設
古河歴史博物館
術館。古河出身の作家である永井路子さんの蔵書などを収蔵した古河文学館。
これらの文化施設群は、すべて歩行距離内にあるため、町に人が歩くことに
なる。今では、これらの文化施設群を一おかげて見るための大型パスが、東
京から来るようになった。
ちなみに言えば、こうした文化施設は、町の風景を修景する役割を持ち、
建築物自体も質の高いものでなければならない。古河市のこれらの文化施設
は、日本建築学会、茨城県その他、公共団体からの賞をいくつも受けている。
このことも市民が﹁古河はいい町なんだ﹂という自覚を喚起してゆくことに
なるはずである。
優れた環境の住宅地を整備してゆく
﹁北の鎌倉﹂であるためには、文化施設の充実化もさることながら、財力
のある入、あるいは文化人と目される人たちが定住するに足る、優れた環境
の住宅地が必要である。このことによって、第三次産業の活性化も期待する
ことができる。
しかし、道路・公固などの公共用地での環境整備は計画的に実施できるが、
住宅地は民地であるため、目標を達成してゆくのが極めて国難である。
できることは、住宅地の中に、相当規模を持った良質な住宅毘池を開発し、
これを市中に介在させてゆくことで、住宅地全体の質的向上を長期的に期待
してゆく以外にはないであろう。
古 河 市 住 宅 供 給 公 社 が 開 発 し た 、 四O区画の住宅団地﹁まくらがの郷﹂は、
この意味での試金石であった。
この開発は、地権者数人の土地を対象にして、これを住宅地として造成す
ることで土地の利用率を高め、区画の半分は地権者の所有、半分に公社の分
社のまわりに、子どもの遊び場やコミュニティセンターを建てる用地を残し
つつ、道路を生活道路として通過交通のない形でつくり、住宅一也画の全てが、
団地を取り巻く通過交通道路からでなく、内部の生活道路からアプローチす
るこ乙にした。しかし、このことは、用地内の必要道路面積の比率を上昇さ
せたことは否めない。
用地の中心に小さな神社があり、短いながらも参道の両側に杉の大樹が立
定し、数種類のタイプの住宅を配置してゆくのが常であるが、それでは団地
設する場合、住宅地の形をできるかぎり均等化して、道路付けのタイプを限
間O区 画 の 住 宅 地 は 、 一 つ と し て 同 じ 形 が な い も の に し た 。 住 宅 団 地 を 建
ち並ぶ環境は、住宅地の環境として絶好であった。住宅地の区分は、この神
譲住宅を建設して販売するものであった。
まくらカ《の怨日
的に統一感のある住宅地にはできるが、普通の状態でつくられてきた住宅地
の中にそれがある場合、団地だけが特別の存在になってしまう。そうならな
いためには、まず、敷地の形と面積を同じにしないことが肝要と考えた。
この三つに尽きるであろう。
し か し 、 ひ る が え っ て 考 え て み れ ば 、 こ の 三 つ の 目 標 は 、 ひとり古河のみ
のことではなく、あらゆる町の町づくりの目標であるに違いない。
という一言葉が多く登場する。人が多く集まれば活性化するため、イベント主
近年、町づくりはすこぶる普遍化したけれども、その中身には﹁活性化﹂
になる。各住戸がある種の調和を保ちながら、それぞれに違う、そんな住宅
義の様相も見られる。しかし、これでは、単なる剃那的な商業振興にしかな
一方、自然にできてゆく住宅地では、仰の調和感もない雑然たるありさま
地ができないものだろうか。雑然とした住宅地になってしまうのは、敷地の
らないのではないか。そのことを危倶しないではいられない。
京芸術大学の前身・東京美術学校建築科卒業、
例建設工学研究会池辺研究室を経て、五七年、
設計社設立。五九年に陶迷 An
設計松市
州
側
述 An
谷建築事務所に改組、主として住宅・公共建
築の設計に従事して現在に至る。﹁飛騨の院
文化館他一迷の修長計画﹂で土口剖五十入賞特
別賞、吋士口、州開問史博物館と周辺の修長計緬﹂
で日本建築学会賞作品賞受賞。著者多数。
全日間阿波み保亦述問削顧問、日本ナショナルト
ラスト保存治則委久などを務めている。
一
九
一
一
一 O年、岐阜市生まれ。一九五二年、京
古口同校二/よしだ・けいじ
建築家、刷附述 AH
設計羽市谷建築事務所取総役。
形も広さもさまざま、家を建てる人の資力も生活も皆違うことでそうなるの
だが、誰が住むか、まだ決まっていない分譲住宅の場合でも、同じような家
ばかり建てるのではなく、それぞれに違う家にして、その家に適合した人が
住めば、結果は同じだと考えた。
それぞれに違う家に調和感を与えるためには、各部の仕様や仕上げ材、色
彩などを、調和感ができる範囲で数多く指定しておき、その範囲の中で任意
に選べばよいのではないか。これを﹁造型一言語﹂と呼んでみた。造型一一一一同語が
古河の風土性に基づくならば、この団地は、古河にふさわしい家々が、それ
ぞれに個性的でありながら、調和感をもって建ち並ぶ住宅地となる。
﹁まくらがの郷﹂はこうした町づくりのコンセプトをもって造成された。
工事中から見学者が多く訪れてきたのは、このコンセプトが話題を呼んだか
らであったが、発売時が運悪くバブル崩壊の時期となったため、完売するま
でにかなりの時日を要したけれども、狙いは成功したといってよいであろう。
しかし、以後、これに類した住宅地の開発は後続していない。いわゆる、
長引く不況で、住宅の供給態勢が大きくゆらいでいるためだ。売れ残る危険
のある開発は見送らざるを得ないからである。
ク
古河のポケットパ
時に誇りを持って定住する入の町にする
古河の町づくりを、文化施設群と住宅地の開発の二回でとらえてみたが、
に足る生業が存在すること、優れた住環境と質のよい住宅の町にすること、
結論的に言えば、住む人が誇りを持てる町にすること、安定した生活を営む
古河のポケットパ…ク
特集多再検託!地域からのまちづくり
住文化の地静性というニと
文化の概念については、人それぞれがかなり勝手に用いていて、統一的な
概念規定は見られない。しかし、﹁人が歴史的・社会的に創り上げてきた生
住文化の地方性はあるのか否かといったことが論点となる。
伝統的な住居の地方性と地域性
と思う;。この概念規定によれば、住文化は、住生活様式、住居、これにか
とも務政期から戦前にかけてのわが国では、なかったのではないかと忠われ
えられた罰有性を持った住文明・住文化があったかという意味では、少なく
のような意味での住居の地方性であるが、異なる価値意識に支
かわる道具類などを含むこととなる。これだけ幅広く扱うことはできないの
る。このことはよく﹁日本文化の尚一性﹂という言葉で説明されるが、住民
さて
で、ここでは、筆者の専門でもある住居のかたち打開取りと構造物の姿(形
を身分や家産・経済力の象徴として構えるという怖髄意識、またこれをある
J
決まった形式日絡式 によって表現しようとする考え方は、共通であったよう
な気がする。
こういえば、そんなことはない、地域地域に応じて、たとえば山り屋、合
くるに違いない。もちろん、そのとおりであり、このことに異論を唱えるつ
ではもっと加の用い方をする場合が少なくない。たとえば、比較文明学会で
はこの解釈が気に入っており、両者を相互作用のある別次元のものと見る見
もりはないが、文化としての違いはなかったのではないかということを強調
り)など身分に応じた奥なる裂の住居があったではないかとの反論が返って
方をすべきだと考えている。こう考えると、ここでの課題は地域地域の住居
しておきたい。つまり、現代の住文化の画⋮性は、もともとわが間にあった
掌造り、本棟造りなど特色ある造りがあったし、農家、町家、武家(書院造
の聞取りゃ形態(住文明)に違いがあったのか、またどんな摘他意識(住文
ことであり、 地 域 性 す ら な く な る ほ ど 浸 透 し て き た の が 現 代 で は な い か と 考
は、生活システムのすべてを文明、その文明を支える心・価値意識を文化と
化)がこの違いを支えていたのか、ということがまず問題となり、それは現
定義して、そのダイナミズムを解明しようとする動きがある:。筆者として
ある。語滅的には都市的発展段階を文明、山氏耕的段階を文化というが、今日
さて、ここでもう一つ検討しておくべき言葉が、文明と文化という言葉で
態)に眼定して考えてみることにする。
活様式、生活の道具・ものの総体﹂といったところが一散的な用い方である
代ではどのように変容しているのか、どこへ行こうとしているのか、 そして
地域ごとの住文化が菅っとすれば、それはこれからの人びとの意識にかかっている
且~
住文化について
戸部
再
三
二
円Hu
d斗
1 現代住居の 3つの型等 G
図
マ
4看
地方続き間型
都 市 LDK型
集合住宅主主
え
なで
しら
わが国には伝統的に住居形態の地域的な速いがあった。身
があ
ら る。
成長期﹂﹁低成長期﹂の三期に分け、体験記述をもとに住陪がどのように変
M 現代史-f に 詳 し い 。 こ の 研 究 で は 、 戦 後 の 時 代 を ﹁ 戦 後 復 興 期 ﹂ コ ぬ 度
は、筆おも参加するハウジングスタディグループによる﹃体験記述による住
するのは第二次大戦後のことである。この変容の分析、呪代住居史について
似的な身分制度を形成し、住民の大きな変容を阻止する。住民が大きく変内令
人ってくるが、戦前までは家の制度が残り、それが﹁川家産﹂と結びついて擬
以降それまでの住文化を支えていた身分制度が崩壊し、洋風の造りや住宅が
では、我が凶の住文化は明治以降どのように変容したのであろうか。明治
住文化の変容と現代住題
のみならず地域の独白性が広く認められていたためではないかと忠われる。
といった側耐は、特に生産面での地域的限定性が働き、また務政期には政治
多かったことも要因になっているかもしれない。これに反して、造りや構え
強く働いていたためと思われるし、﹁絡式﹂として決められていた約束事が
ど、ごく担られた両でしか現れていない?。間取りには、文化的な共通性が
山止と四つ問問、前座敷型と鍵座敷型、また座敷・土問の広さ、延べ床面積な
みると、地域性は圧倒的に後者に多く現れている。間取りの側面では、広岡
こうした地域性を間取り(空間秩序)と造り・構え(架橋)の両から見て
に支、えられて形成されてきたといえるだろう。
地域性、③住民の生産形態の地域性、④伝統や地域牲をよしとする美意識、
の地域性は、①地域条件(気候・地形など)の多様性、②生活・就労形態の
美意識が働いて、地域の特色ある造りとして継承されてきた。つまり、住居
れてきた技・技術を使って組み立てられ、このこととその伝統をよしとする
れた:。もちろん、性問の生産形態も、地域に特有の材料と地域ごとに謄か
や芥あい地など)などによって、災なる間取りや造りの住民がいろいろ見ら
分による違いもあり、生産形式(馬の使関、養蚕など)、気候、地形(漁村
しる
かか
容してきたか、 そこに人びとの思いがどのようにかかわってきたかというこ
が多少みられる。また、農家、漁村、通称入母屋御殿など生業とかかわる独
(座敷正面の造り)などに漆政期以米の伝統を踏襲する部分があり、地域性
ち三つの型の分布割合によっているように忠われるきら
根材、雨戸の割合など外見的な違いの他の地域差は、都市化の状況、すなわ
特の形態がある。しかし、農家住宅、入母屋御殿などの全国差は少なく、屋
とを分析している。そして、現代住居には﹁集合住宅型﹂﹁都市LDK型
﹂
﹁地方続き間型﹂という三つの型が存在していることを示している:。
この三つの型は異なる住文化に属するのか、また地域性とどうかかわって
いるのかということが問題となるが、筆者は、一二つの型は一つの文化のある
少ない
いますか
8
0%
2
0
4
0
6
0
とをしているという光景がしばしば見られるようになっている。
つある。このため、居間には偶人の持ち物があふれ、居間で家族が別々のこ
揃って何かをする場というだけではなく、個人の生活の場の一部にもなりつ
るが、居間、食堂、時接聞などいわゆるパブリックスペースは、家族会員が
泊める場、何かの時にも使える空間などとして特別な意味を与えられてはい
をするという機会も少なくなっている。この結果、座敷だけは、接客・客を
クリスマス、子供の誕生日など特別の日を除くと、家族が端、っ、揃って何か
る。家族の生活時間がバラバラになり、偶室が充実される一方、盆・正月、
都市部では接客のために特別な空間や場を用意する必要はなくなってきてい
るようにみえる。社会的な意味・活動を伴う綾客の機会はどんどん減少し、
ず都市化し、住居からの生産活動の分離などによってますます同一化してい
活そのものは、核家族を中心とする家族形態の画一化を背景に、地域を問わ
域の伝統、③生産額での地域性、など以外では生じにくい。ところが、住生
このような見方に立つと、地域性は、①住生活のそのものの池域性、②地
とした)住民を模索してできたのが現代住居ではないかと解釈した;。
居﹂をモデルとして、自分らしい、民主主義時代にふさわしい(個人を基識
活をめざし、他方で前時代の﹁りっぱな住居﹂および欧米の﹁あこがれの住
では、この三つの裂に共通する住要求あるいは文化的な関心は何か。筆者
ほとんどそうである
条件でのバリエーションにすぎないのではないかとみている。ある条件とは、
o 20 40 60 80 100
y
,
は、﹁豊かに暮らしたい﹂﹁自己表現したい﹂ということではないかと考え
毎日
立地条件および生産条件である。地価の高い都市部では敷地を切りつめ、た
書在留答
ている。筆者の学位論文では、これを﹁盟かさ志向﹂とまとめた。すなわち、
避
!
こ 5-6[
9
]
くさんの住戸を収容する必要がある。そのためのいわば究極の姿が﹁集合住
ほとんどない
﹁豊かさ志向﹂という文化的関心に支えられた住居というのが、現代住民の
5
0
.
8
時々いる
家族揃ってすごすとき
│人で逢うことをしている人は
q
還に 3-4回
︽
来た
Mmro
避に 1-2
包
どの程度ありますか
4~.5
家族そろって夕食をとることは
40
30
20
1
0
。
祭回答
8
0
40
h
酬 J u r L
来ない
℃明﹂であり、限られた放地に必盟日以侭限の住袋小水をぷめ込んだ住℃が
変化なし
nUAUU
過去│年間に
改まった容はきましたか
共通性ではないかと考えた。戦後、身分や家産に応じた格式(形式の)の住
1
0年前と比べて
改まった容はふえましたか
4
0
.
9
﹁都市LDK型﹂、地方都市の伝統と要求に忠えた住居が﹁地方続き間担﹂
少なくなった
居を構える必要がなくなったために、一方では動きやすい、機能合理的な生
多くなった
ということではないかと思われる。地方続き間型は座敷の形態・産敷構え
女子大生の家族生活の調資から *9
E
図
居間や玄関を飾る行為はどこでも見られるが、他人・お客を意識するばか
れに適合した環境共生、環境負荷の少ない住宅・往生活を創造しようという
そうした場の一つとして利用している、家族内にそのぶつかり合いが出てき
る場合が増えている。自分にとって快適な空間を拡大し、パブリック空間も
豊かな食文化・貯蔵文化、動植物館脊と住まいの結合、生活道具の手づくり
え方や、雪処理などの地域独特の生活、ローカルエネルギーの利用、地域性
雪・雨・高温・多湿などの気候条件に対してパッシブに暮らそうとする考
潮流が生まれなければ、現状のままであるように思われる。
ているというのが、現代住居における新しい状況ではないだろうか。現在筆
文化など、地域に独特の暮らし方が育ってくれば、これらに柔軟に対応する
りでなく、自分の趣味や好みを活かした快適空間づくりの行為としてなされ
者の所属する大学の学生の住居および住生活について実態調査を行なってい
シフトに期待するところ大である。こうした時代になれば、構法・材料など
住文化もまた生まれてくるかもしれない。環境共生という現代のパラダイム
生産的な側面でも、地域を関わず大手のいわゆるハウジングメーカーの住
の生産面での地域性が生きてくる。その時こそ、 HOPE計 画 の よ う な 地 域
Jお 波 講 座 惚 学 日 巻 ・ 文 化 ﹄ 2頁など。
宅がそのシェアを拡げ、工業化材料・構法の普及に伴い、地域の工務応の系
︾しV
︿
註
﹀
1 たとえば、
Fトトノ
1tAマr
η
i
d
、0
2 伊 東 俊 太 郎 ﹁ 比 較 文 明 論 の 枠 組 み ﹂ ( ﹃ 比 較 文 明 第1巻﹄)刀水荒川版、
3-W津知日士﹃日本列お民家史﹄住まいの図書館出版局、⋮九八九年、など参照。
﹁現代制辺住居の解釈│体験記述にもとづくれ本住居現代史と住民論﹂腕住宅総合研究
6 同お報告書 2 1 5頁
。
財 団 助 成 研 究 治 89040
5
研究﹂﹁側新住宅普及会住宅建築研究所却し沿口、川川口所以、ないと。
4 たとえば、火山内敏昭﹁務域からみた民家住宅の地域的特徴と歴史的発展過程に関する
i
列化が進んでいる。この点からも、地域住が顕在化・拡大する方向にはない
ように見える。 HOPE計 画 は こ う し た 状 況 に 風 穴 を あ け る も の と し て 大 き
な期待を集めたのだが、上記のような流れの中で我が国の住文化を変えるよ
うなところまではいっていないように思われる。
地方の住文化のこれから
地方性といえるような、地域に独特の住文化は育たなかったことを機軸に、
現代の住民およびその状況を見てきたが、最後に、地域ごとの住文化が生ま
れ る と す れ ば 、 ど こ に 鍵 が あ る か と い う こ れ か ら の シi ズについて考えてみ
この鍵は、先に述べたかつて地域性が生まれたポイント、①住居の生産形
、﹂、。
j
L
8 加者九千位論文吋東北地方都市住居の摘、えかたに関する研究
b
7 鈴 木 成 文 ﹃ 住 ま い を 読 む 現 代 日 本 住 民 論 ﹄ 建 築 資 料 研 究 社 、 一 九 九 九 年 、 幻1
η 資。
却頁10
態の地域性、②地域条件(気候・地形など)の多様性への対応、③生活・就
三二票の有効薬を凶収したもの。
知山女学国大半生活科学部教授。⋮九七二年、
東京大学工学部処築学科卒業。州側日本部市開
発研究所、八一戸工業大半をは椛て現戦。工円ソナ同問
士。著書に、勺什はまいを読む i m
世代日本住民
論ら建築資料研究社、一九九九年(共者)、
ついま往築欽育はー大学における現状と剤師
題﹂丸善、一九九一一一年(共著)などがある。
戸部栄一/とべ・えいいち
この判例奈は、一九九九年皮に如畑山女学岡大学の学生・父付三四O 家族を対象とし、
9
れを変えることは難しいように忠われる。そして、地域の条件を見つめ、
生み出し、それを誇りに思い、次世代に伝えていこうとしなければ、この流
どうかではなかろうか。地域の人びとが他地域とは異なる生活や構法・美を
要なのは、④に示した伝統や地域性をよしとする美意識・価値意識が育つか
化がますます進む方向に動いているように見える。こうした中でとりわけ重
かっているように忠われる。しかしながら、状況は決して明るくなく、画一
労形態の地域住への対応、④伝統や地域性をよしとする美意識、の将米にか
明
TUe
、
一
i
寸
ー
ム
戸
ト
ー
、
一
一斗ノ一 FJ1ーとみ
型住宅の推進運動を、改めて展開しなければならないように思われてならな
、。
る が 、 こ う し た 現 象 を 裏 付 け る デi タがたくさん出てきている;。
」
帥村耕端鳳閉幕検畿地域からのまちづくり
す・まいのテクノロジー
化財から
A
まちづくb
在
登録文化財石名坂家住宅の保存修理事業
を関として
藤一揚
。地区を越えた国選定の重要伝統的建造物群保存
地区は、各地の地域文化を総合的に反映した武重
な資源として、まちづくりに活用され始めている。
曾登録文佑財制度の登場
しかし、最近さらに全国的な影響を、特に都市
部で与える可能性がおいと忠われる文化財の分野
として、国の登鉢文化財建造物があげられる。
﹁登鉢制度は、さまざまな建造物を自由に活用し
ながら保存する制度です。住宅・事務所・惜・ト
ンネル・煙突・塀::・。お持ちの建造物を資産と
して活かし、地域文化の継承・活性化にご協力く
ださい﹂というのが、担当の文化庁のチラシのコ
ピi で あ る 。 一 九 九 六 ( 平 成 八 ) 年 の 文 化 財 保 護
法改正で創設されたこの制度は、欧米では主流と
なっており、また従来国内では京都などの地方公
という、独自な仕組みが特徴となっている。これ
り、極めて緩やかな規制と補助金がほとんどない
共団体が独自に進めてきていた登録制度とは呉な
並み保存地区は、最近になってかなりまちづくり
が始まってきた。
らもまちづくりに果たす役鰐を意識した取り組み
かずつではあるが生まれ始め、また文化財の側か
な個性をまちづくりに活かそうとする施策がわず
最近になって都市計画等の開発側からも、際史的
ている役割は比較にならないほど小さい。しかし、
割の大きさを考えると、日本での文化財が果たし
どのモニュメントが都市のなかで果たしている役
性化のモデル的事例として、行政視察への対応に
応での小売り向業が盛んとなり、山中心市街地の活
また都内からの観光客の増加により土蔵造りの碍
と同時に現在の道路幅に縮小変更決定がなされ、
による町並みの破壊にかわって、保存地区の決定
つある。ここでは、都市計的道路は、従米の拡幅
まちづくりに確実に影響を与える事例が生まれつ
文化・建設・通産の三省庁の連携の成果として、
は、埼玉県川越市の土蔵造りの町北みのように、
九九年一 OHバの第二二回登銭までに、全国累計で
まりおなわれてから、毎月のように増加し、一九
第一間の鷲録が、一九九六年一二月末に百件あ
いってよい。
口を薄く広くつくるという効果は上げつつあると
れたものとも考えられるが、少なくとも保存の糸
ることが困難という財政構造から、必然的に生ま
行政の全予算が文部行政予算の一%程度から増え
と較べて過大とされる日本の状況と、文化財保護
) 年の文化財保護法改正で
一九七五(昭和五O
市が苦労するほどになっている。現在、全国で五
は、欧米と較べて私有財産権の保護が公共の利誌
の施策として活制されるようになってきた。側、え
石 名 坂E
史・修理後の茶の間
創設された伝統的建造物群保存地医、いわゆる町
ヨーロッパ諸国で、樫史的な町並みや大聖堂な
畿地域からの町づくり
議
国
場、交通、官公庁、学校、生活文化関連と多岐に
建築物では、住宅や商庖等が七割近くをよ口め、工
どの公共的な土木工作物が八五件と五%近くある。
築物がほとんどであるが、ダム・橋梁・トンネルな
昭和がそれぞれ五百件前後あり、種類としては建
別では江戸時代のものは一割弱で、明治・大正・
録文化財建造物は八五ての県で存在しており、時代
いる。その内訳をみると、北海道から沖縄まで登
一五六O件 と い う 速 い ス ピ ー ド で 作 業 が 進 行 し て
からは一番喜ばれているようである。
示をするプレートを交付しており、これが所有者
改修への低利融資があげられる。また、登録の表
敷地の地価税の半額減免、国定資産税の半額減免、
のメリットは、修理の設計監理費の半額の国補助、
する場合には、民け出が必要となっている。登録
状変更する場合、滅失投損の場合、所有者が変更
ないが、通常望見できる外観の四分の一以上を現
登録が解捺される仕組みとなっている。規制は少
に下位の位置づけなので、指定されると自動的に
という。明治中期になると、蒸気船などの大型船
めき、酒井藩内では酒田に次いで繁栄したところ
る商家や、廻船問屋、酒造業など約三百戸がひし
る風待港として、諸国の廻婦と鶴岡城下を中継す
江戸時代には年間三千般の北前船などが出入りす
である。加茂の町は、天然の深い入江に恵まれ、
(明治二)年に建てられた典型的な商家のつくり
市加茂町の歴史的な町並みの中にあり、一八六九
この建物は、日本海に一出した港町、山形県鶴同
建物の所有者の承諾書を添付して、比較的簡単な
ものや研究者による調査報告があるものについて、
ることがすでに学術的な報告書で立証されている
登録の具体的な手続きは簡単である。価値のあ
四万件弱にはいずれ追いつく可能性もあり得ょう。
は及ぶべくもないが、米国の五万件、フランスの
性が高い。英国イングランドの登鉢数四四万件に
身近な文化財としてまちづくりに活用できる可能
体の指定建造物の総数約一万件を山山大破し、かなり
川崎和彦)?に基づくも
坂家住宅保存修理工事報告書﹂(一九九九年三月、編
らである。なお、この報告は、﹁登録文化財石名
度の本来の機能が大いに活用されたことになるか
の特色あるまちづくりに役立つようなら、登録制
いただく一助になれば幸いである。それが、地域
計監理費補助をもらえるかもしれない、とご検討
前の建物を修理する場合には、この登持制度で設
くわしく報告をしてみたい。価値のありそうな戦
費の半額補助の仕組みについて、実例によりやや
家にとってとくに関わりが深い、修理の設計監却
ここでは、この登録文化財制度のなかでも建築
なった。一九五五年に加茂町が鶴岡市に合併した
五九歳で隠関して娘婿に家督を譲り六一歳で亡く
を 全 両 的 に 改 修 し て こ の 家 を 建 て た と き は 五O歳
。
に、それまであった古屋(嘉、永一一一・一八五O年)
繁擁していた時期である。一八六九(明治一二年
家して廻船商人として独立した。加茂の町が一番
この船を船、王から入手し、石名坂家の本家から分
﹁長保丸﹂の船頭、をつとめていたが、幕末期には
石名坂家の初代は、近江南人が所有する北前船
命脈を保つこととなる。
後は漁港として、また地域経済の中心の町として
の交易地としての加茂に決定的な打撃を与え、以
年の日本海を縦断する鉄道羽越線の開通は、物資
に乗れず、衰退を始める。一九二四(大正二二)
なり、港湾としての規模が小さい加茂はこの動き
の登場で日本海の交易は高速長距離輸送の時代と
争町と建物の盤史
わたり、宗教関係は八%程度しかない。登録の基
準は三項目あり、国土の聡史的景観に寄与してい
るもの、造形の焼範となっているもの、再現する
ことが存易でないもの、となっている。つまり、
相当幅広く登鉢できるようになっている、といえ
書式によって申請書類を作成でき、市町村と都道
集1 一 級 建 築 士 事 務 所 杢 和 設 計
よう。数年後には、登録数はこれまでの同と自治
府県の教育委員会を経由して文化庁(担当一文化
の
ときの最後の町長はその田代日に当たり、地域の
戸』
ので、設計監湖一と執筆をされた川崎さんには、多
」己
財保護部建造物課)に、申請することとなってい
主
イ
ために尽くされた。現在の当主は五代目で東京な
F 品開宮
大なご協力をいただいたことを感諜申し上げたい。
都
る。登録の性格は、市町村の指定文化財よりさら
{呆登
存録
修文
理化
事財
業石じ
名な
坂5
きたといえよう。
いたこの建物について、取り壊して新築するか否
最初は、一一O年近く協守宅で老朽化が遂行して
曾登録文化財としての修理
なわれることになった。
ぶりに一民られることになり、この建物の修理が行
の歴代の人ぴとが大切につくりあげてきた﹁風合
史的な建築遺産としての価値だけでなく、この家
みのある春慶色の艶をたたえた美しさは、単に歴
見事さや、内部の木材を全て生漆で拭きあげて赤
とした太い柱や梁で組み上げられた建物の構造の
いたのが強く印象に残っていたという。がっしり
過疎化と高齢化の進行する町の将来を案じられて
育委員会を経由して文化庁に提出した。一九九八
名坂家が登録申請書を作成するのを支援し、県教
鶴間市教育委員会の協力により、所有者である石
が半額減免になるメリットがある。そこで地元の
産としての評側額が上がった場合も、閤定資産税
保存が中心で規制が少なく、修理した後に固定資
補助を申請することとした。登録文化財は、外観
することとし、その修理の設計監理費の半額国庫
と相談し、できたばかりの登録文化財制度を活用
どで企業人として活動され、現役を退いた後、故
かが問題となったらしいが、今問の修理工事の設
い﹂を当時も感じさせるものであったのだろう。
修理の方法として、川崎氏はまず文化庁担当者
と即座に修現することを提案し、建物の持つ﹁風
計監理をされた川崎氏は、当主から相談を受ける
以後、その子息である五代目とのおつきあいが続
年一月一六日付けで主屋と蔵の二棟の登録文化財
いた田代目から全面的に調査協力をしてもらい、
合い﹂を活かし現況の雰毘気を残すよう説得した。
き、今回の嬉則一工事の設計監理を担当することと
としての原簿登録をし、二月一二日付けで官報告
どを担当した経験があり、当時は町長を引退して
川崎氏は、一九七九年頃に加茂の路史的な集落の
なったわけで、建物からまちづくりへと一貫する
示を受けた。最初の法的な手続きである、⋮九九
郷の町への愛着から、生まれ育った実家に問O年
悉皆調交をTEM研究所(代表日真島俊一氏)が
関心の共有と、息の長い取り組みがここで生きて
をもとに建設当初からの改造に伴うさまざまな痕
いる。前回調査の成果も活用しつつ、現状平面図
物の実測調査などを含む基本設計作業を行なって
は、官報告示の日以降の作業を対象とし、まず建
を経て、文化庁に提出している。補助事業として
これまた所有者から市教育委員会、県教育委員会
にあり、あらかじめ準備していた補助金申請書を、
原簿登鉢を受けた段階で補助金の内示が所有者宛
修理設計監理の国庫補助事業としての手続きは、
@設計監理費への国庫補助事業の利用
か丹聞で終了した。
毎月のように作業が進行し、手続き開始から約六
から、翠一 O月の向専門調査会での審議と答申と、
七年九月一六日の国の文化財保護審議会への諮問
行なったとき、その一員として建物実測や分析な
石名坂家・仲間T
小路に面する修理前の外観
修 選 前 の ス ケ ッ チ (1階)
所有者の住まい方や要望を反映させた基本設計を
つ建物の弱点や改善すべき所の状況の把握をして、
べて図化し、この建物の歴史的な変遷を知り、か
跡を、 全 て の 柱 や 染 、 建 具 な ど に つ い て 丹 念 に 調
設計事務では経験が少ないことがらについての技
に適合した構造補強や修景の方法など、一般建築
経費の一部に含まれている。実際には、その建物
要となるため、最低限のチェック経費も補助対象
の外観を四分の一以上変更する場合は届け出も必
術的な助言が、適切に与えられたと川崎氏は考え
行なっている。
一九九七年度と九八年度の二年間
ている。
補助卒業は、
にわたっており、九七年度は基本設計料、九八年
母鯵理工事の内容
修明工事自体は、一九九八年の六月から一O月
度は、実施設計料、設計監埋官、報告書作成費、
その他を対象とし、舘理工事費の二ハ%程度の設
主木、、
和一日一
具提
告書の作成まで含めると、設計監理補助事業期間
た柱下部分の根継ぎや新材での差し替え、混気で
ト布基礎を用いて床下換気を良くすること、腐っ
既三一
入内訳は、全体の五O%が悶庫補助、残りの半額
としては、九八年度末いっぱいまでかかり、全体
もろくなっている土壁に替わって筋違・ラスボー
までの哀を挟む五か月間で行なわれた。しかし、
(二五%)が県、さらに残りを市と所有者が同額
で一四か月となっている。この間、川崎氏は東京
ド・漆喰塗り仕上げの真壁、隣家に接する外壁は
計監理費が補助対象となっている。国庫補助要項
で一一了五%ずつの負担となっている。修理工事
から卒で片道八時間の山形県鶴岡市加茂町まで、
道路から望見されないことから発、泡コンクリート
基本設計から記録作成に基づく最後の鯵理工事報
費自体への補助ではないので、所有者の負担がそ
何度も往復しており、施工に当たった鶴岡市の工
板で耐火性能を高め、道路に面しては木製格子戸
では最大で工事費の二O%を上限としている。収
う軽減されるわけではないが、既存建物の調査な
い信頼関係がなければ、良好な工事はとうてい難
務庖等の各職人たちの伝統技術の高さと相互の厚
と呉なり、建築基準法が適用となることから、伝
いものとすること、が基本となった。重要文化財
守りながら、現代生活の場として安全で住みやす
修理工事の内容としては、全体の構造や外観を
けからのアクセスとなり、工事はかなりやりにく
回は上屋の修理だけなので、主屋の工事は前面だ
だけが道に面しており、後ろ寄り半分の土蔵は今
の敷地は、一内側が隣家の壁で挟まれ、前後の関口
関口四関、奥行きこO間近いうなぎの寝床状態
的仮
ど新築工事にはないさまざまな修埋の設計監理に
や下見板張りなどの伝統的意匠を再現している。
時宜
特有の項目について、良山口な作業を保証している
しかっただろう、と語っている。
この補助卒業のもう一つの特色は、設計監珂一作
統的工法と新しい技術とのせめぎ合いをどう調和
い。そこで今回の主屋工事は、まず屋根や躍をは
ので、設計事務所にとっては州航ある補助であり、
業の途中の段階で、重要文化財建造物修現の経験
させるかが苦労した点であるという。前回道路よ
センチ程度ジャッキアップで揚家しその下を歩け
ず し 仮 設 で カ バ ー し て か ら 、 軸 組 を 全 体 に 一 五0
ひいては所有者にとって価値ある文化財としての
が豊富な糊文化財建造物保存技術協会等の担当者
り敷地全体が低くなり湿気ている状況を改善する
接理ができる利点がある。
の助言を得て、登録文化財としての価値に支障が
ため、建物全体を約一二0 センチ近く揚げること、
るようにしたうえで、基礎工事等を行なっている。
このチェックは、出庫補助事業の条件として必要
石場建て基礎から土台敷きに変えて、
コンクリl
ないこと等のチェックを受けていることである。
な子続きの一つとなっており、とくに登録文化財
揚家工率の概要
図
面
平
踏
の以
修
gz
後
申
家
坂
名
石
y
y断麗[2]
基礎上に軸組を降ろしてから、屋根・
控・造作建具・設備等が行なわれた。
内部の平面は基本的に修理前後で大き
な変化はないが、台所や印刷呂などの水
趨りの改善、洗濯干し場の屋根上での
新設、前面車庫の新設に伴う座敷の変
更などが主な変更点である。
主屋本体ではないが、道路からの景
調和するものとなったが、全体として
的な下見板張り壁と黒い桟瓦で主屋と
わって建つ車庫の外観の修景は、伝統
動車は不可欠なものである。前庭にか
だった。この地域での現代生活に、自
観で苦感したのは、自動率車庫の新設
x
x断函 E
百
石名坂家・修理後の外観
落ち若いてくるには模生が育つまでの数年はかか
るのではなかろうか。
@工事報告書の作成
川崎氏が、補助事業を完了するに当たって意外
に苦労したのが、保存修理工事の内容を正確に記
銘した学術的な報告書の作成だった。修理前と後
を対比した平副・立面・断面等の国閣の作成、家
や建物の露出先の調査と記述は、かつてこの地域全
体の調査をしたことのある川崎氏でも、かなり時
聞がかかったらしい。しかし、文化財にとって修
理工事内容の記録は、いずれはやってくるはずの
次の時代の修理のときに、必要不可欠な情報であ
理前の破損状況、形式と技法、現状変更部分と修
り、それだけに責任の伴う重要な仕事である。修
時十刀法などの記述のほか、写真・図面も前後を手
際よく掲載している。全体で一一一O頁 あ ま り の カ ラ
ーコピーを交えた手づくりのこの報告書は、実は
登録文化防絡理工事の国庫補助事業では最初のも
のであり、その後の報告書のひとつの基準として
品位問兼-m/ま す だ ・ か ね ふ さ
役立っているらしい。
京京芸術大学大学院美術研究科教授(文化財
保存学・山地逃物保存修復初いお)。
横浜得点火山子[令部山地築学科卒業、京都大学
大学院博士謀総修了、工学浮士。文化庁文化
財川保護部建造物認で、則投み保存、市民姿文化
財の修現紛災、世界逃産等を初当。
ぷ弘録文化財お名絞家住宅保存修理工事抑制告書﹄一九
︿備考﹀
九九年三月(編集l ⋮ 級 建 築 士 事 務 所 変 和 設 計 川 崎 和
I
彦 京 京 都 民 野 市 平 山 二 一 i 八l 悶六)。
私のすまいろん
特集⑧再検証地域からのまちづくり
子
H
﹁住まいは人なり﹂ と言うことができる人、 r
は、京都市内に住む昔の女学校の附級生全員に、
次々と SOSの電話をかけてくれた。一週間自に、
しばらく誰も住んでいない古屋があるという清報
が入った。﹁ろうじのどんっき﹂にあり、荒れて
いるが、四O坪 の 敷 地 に 六 畳 が 三 つ の 平 屋 、 日 当
たり良好ということであった。結局貸すのははば
かられるほど荒れている、安くするから買えと言
っちょこちょいの評判の高かった母の最期の置き
われたそうである。これが行動力のある一面、お
みやげになった。母はその一か月後に急逝したか
らである。
古屋に住むのがどんなに大変なことか、そのと
きは知らなかった。引っ越し作業中に夫が床を踏
のか、 と い う 質 問 を 受 け る こ と に な っ た 。 京 都 の
下の湿気がひどい。話のとおり日当たりは良いの
その木箱を床下にあてがって応急処置とした。床
た。運んでいたのは本を詰め込んだ箱であった。
み抜いて落ちたとき初めて、何かおかしいと思っ
りという題名まで与、えられ、自分を語らなければ
語る資格なし、である。ところが吋借家と持ち家
ら、我ながらずいぶんいい加減、住まいについて
思い続けてこんなに長い歳月を過ごしたのだか
はじめたとき、ここは仮の宿と思っていた。そう
長屋、一一軒一棟のいわゆる二戸一の一戸分に住み
るのだろう。私の場合は三十数年前に、路地奥の
た。ほんとうのところは収入不安定とみなされた
間際にやっぱり赤ん坊はお針りと言われてしまっ
悦川沿いのアパ i ト に 決 ま っ て い た の だ が 、 入 居
立ち退く約束であったから、アパ iトを探した。
ところ、赤ん坊を生むことになった。そうなれば
結婚をして、大学の近くのお寺に下宿をしていた
そもそもこの長屋は緊急避難先であった。学生
ているらしかった。無人のはずの隣家から人声が
ながっているお隣の家族の一人、中学生がのぞい
越しの日に、板塀の節穴に人間の目があった。つ
家から聞こ、えてくるのか、よくわからない。引っ
隣接している家が五軒ほどありそう。物音がどの
ともい、えない多角形である。どんつきの家だから
不思議はいくつもあった。敷地は四角とも三角
である。なんだか変な家だなあというわけで改め
の文学史│﹁私﹂のうつわの物語し(⋮⋮否堂、一九
からであろう。じっさい家庭教師の月謝と奨学金
したのだから、びっくりさせたにちがいない。銘
ならなくなった。
九八年)という本を書いて、日本近代文学を、拙か
だけで、シンプルな生活をしていた。本箱以外の
地の向こうにやはりこ戸一の長屋があって、片方
て探検した。
れた住まいをとおして読むという試みをしたもの
家具はなかった。私の両親がみかね、とくに母親
こいち
だから、そういうあなたはどんな家に住んでいる
己表現としての家に住んでいる人はどのくらいあ
古い長屋に住んでいると答えると、長屋ものがた
2
7
3
2り
告が
なぜ長家に住むことになったか
酉用
?
も
?
の
祐
よ
長
長屋の町では肥え汲みの道は入り組んでいるので
みはうちの庭先を通らなければならないらしい。
らわなければならないとわかった。廃屋の肥え汲
後にそのうち一軒を通ってうちの肥えを汲んでも
があるらしい。あとニ軒とは背中あわせである。
茂り、塀の割れ目から見える彼方にテニスコート
ころが真後ろは広大なお屋敷でうっそうと樹木が
はこちらに劣らず廃屋寸前の荒れ方であった。と
メント瓦は見た目は惑いがたいへん丈夫である。
ず手始め、第一期工事は麗根の修理であった。セ
の上に傘をさしかけた。あいつづく修理工事のま
りではなかった。行李の中に寝かせていた赤ん坊
かま、洗面器、斑を並べてもおいつくような雨捕
んに瓦がないと、初めて気がついた。家中の鍋
庭に出て天をふりあおいだところ、屋根のてっぺ
てひどくない雨が降った。家の中にも雨が降る。
ばならないと古くからの住民たちに諭された。
言われ、路地に住むには人間関係を学習しなけれ
を通して届けを出すべきであるのに出しゃばりと
かった。こういう場合にも町内会の組長から会長
んぷの床下を吸い取ってもらった。これがいけな
き、バキュームカーに来てもらって路地の長屋ぜ
は大変だと思った。すぐ保健所に電話をかけにゆ
次に汲み取り式便所に水が入って不衛生だ、 これ
木造家屋の可塑性
それがここまで痛んだところを見ると、無人の期
あった。大揖除の日にはどぶさらいをすると知っ
入れがあったときに
17
後、この家でどぷろくの密造をしていたらしいと
っていたのも不思議であった。近所の人が戦争直
いた。その空き地を照らすための照明具が壁に残
て野生化したパセリと緑のオオパが一面に生えて
しかった。家の裏に三角形の小さな空き地があっ
を持っていて、あちらも子育て真っ最中であるら
た。母イタチは体長とおなじ長さの赤毛のしっぽ
からの勾配がようやく平地となる地点であって、
水路からも水が噴き出したらしい。ここは吉岡山
上がっていた。どぶが逆流しただけでなく、この
ら庭に出ると、水路のコンクリートのふたが跳ね
言であったことが妙に記憶に残る。水が引いてか
て水は引いたが、その関、赤ん坊も私も終始、無
いた。そこまでは水は届かなかった。しばらくし
坊を歩行器ごと抱き上げて掘り矩憶の櫓の上に置
てあっという間に床上浸水である。とっさに赤ん
ら突然、水が崎一き上がってきた。みるみる増水し
でいると、台所の土問の隅にあいている排水口か
頃、さらに大雨があった。茶の間に赤ん坊と一一人
た赤ん坊が歩行器を使うくらいの大きさになった
ったガラス一戸は天井まであって日当たりがよく、
込みに板をはって子ども部屋とした。格子のはま
いうところである。
ろは、釘を打とうが、床をはがそうが遠慮なしと
は隣とうちの⋮組だけになった。古家のょいとこ
ては建て片岡えがなされ、二軒がつながっているの
ちが住みついてから三十数年のあいだに切り離し
分の三役紀ということになる。近所の家々は私た
が修現を重ねた結果であるらしい。現夜では築四
の時代がちぐはぐであったが、結局、代々の住民
瓦、柱、壁の素材、窓にはまっているガラスなど
めてつくった長麗だったのではないかと思うほど、
正時代末期ということである。もともと廃材を集
路地の両脇にならぶニ一戸一住宅が建ったのは大
た。ところが敷地の中にもう一っこれはコンクリ
水路は山からの水を集めていたのだそうだ。京都
家の真ん中にあって白がよく届いたからである。
水は上からだけでなく、下からもくる。生まれ
間はほんとうに長かったにちがいない。
←めヲ。。
無人の家には動植物がはびこっていた。床下に
ート製のふたで覆われた水路が通っていた。どこ
市の下水道が完備するまでこの水路は生きていた。
出入りは縁側からすることになった。縁側の向こ
あった。
下水は路地の両脇にどぶがあって、板が渡しで
は、肥え汲みの道を通って逃げたのだろうか。
いう昔話を教えてくれた。
から来てどちらへ流れるのかよくわからない。そ
水が引いて最初に考えたのは、床下のイタチ一
うの六畳は、みんなの勉強部屋になった。みんな
水には悩まされた。まず引っ越し一一一日後にさし
屋根の修理の次には玄関を臨めきりにし、諮み
れが大問題とわかったのは、大雨が降ってからで
家はどこに避難しただろうということであった。
動物の気配があり、イタチが住んでいるとわかっ
2
かわや
筋手口
路地
1 二戸ーての長屋の一戸分
図
記憶にある最も古い形
代 六 年 間 が 終 わ る と 、 ち ょ う ど 戦 後 ベ ビl ブl ム
幼児二人を連れた合宿生活のごとき大学院生時
ち寄って食べつないだ。
ら送ってきた漬け物や干物がある人、それぞれ持
同級生のうち下宿にお米が残っている人、郷里か
なる。子どもたちはときどき月謝を忘れてくる。
に勉強を教えた。月末になるとみんなお金がなく
り矩健の上を机がわりにして、近所の子どもたち
んなの茶の間というわけである。私は茶の間の掘
たちの寝室とし、台所の土問に続く六畳もまたみ
ていた。奥の六畳には寝台をおいてここだけは私
がよかった。みんなで連日のように勉強会をやっ
私は一年休学をしたおかげで二年分の罰級生と仲
というのは、大学院の同級生たちのことであって、
つながっている
隣家
片道三時間では、保育園の送り迎えに差し支える。
大学教員の女性率は周辺へゆくほど高い。通勤に
になった。食事のたびに台所の土聞の上がり下り
の左官屋さんに次々と必要になる修理を頼むこと
この頃から長女の同級生のお父さんである近所
た気がした。桧の風呂桶はいい香りがした。薪を
夫の両親と閉居することにした。増築が必要にな
をし、茶の間の掘り矩熔に足を入れる動作をする
の世代の大学進学にあわせて大学新設一ブッシュが
った。大工さんは、首をかしげて思案していた。
のが不便なので、台所と茶の簡を同じ高さの板張
きた。
あげく﹁お神楽﹂にするという。つまり家の外側
りにし、テーブルを入れた。寝室も勉強部屋も結
焚くお風呂であった。燃えるゴミはここで始末で
に柱を立てて、二階をかぶせれば古屋に重力がか
局は板敷きになった。いたるところに械を吊り、
あり、同級生一問、全員無事に就職した。ところ
からない。第ニ期工事を行なって二階に六畳の部
本箱かつくりつけ本棚が間仕切り壁の代わりとな
が私の就職先がいちばん遠い。ちなみに現在でも
屋を二つつくった。やっぱり玄関がいるというこ
った。
然として人の出入りが激しい家だったから、エン
夫の勉強部屋をつくった。これは風呂小屋の上に
第四期工事として、二階にもう一つ五回目ほど、
かぐら
とになり、縁側をつぶして入り口をつくった。依
トランスが広いのはよかった。二階には両親、階
にという注文をだした。一一一方が窓で、四月には五
あたり、再度の﹁お神楽﹂式設計である。本をた
二O年 の あ い だ に 子 ど も た ち は 大 き く な る 、 私
軒あるお隣のうちの一軒にある桜の大木から花吹
下に私たち夫婦、子ども二人の六人構成でそれか
たちの蔵書は増え続ける。なんとか工夫して修理
雪が吹き込む小部屋ができあがったのだが、夏は
くさん入れるから重力に耐えるよう柱と床を丈夫
と増築を繰り返した。変な形に敷地が出っ張って
西日の照りつけに悩まされる。
らニO年住んだ。
いるおかげで建蔽率をクリヤーすることができた。
第五期工事として、階下にもう一つ、これも五
力に耐え得る基礎工事をした。同時に風呂小屋を
ある日、桧の立派な風呂桶を引き取ってほしいと
のことであった。ありがたく項き、裳の三角地帯
つぶし、屋内にトイレと風呂場をつくった。酬の
いう話があった。木製風呂桶は掃除がたいへんな
に風呂小屋を建てた。第三期工事である。玄関か
空間を使った。昔の長屋の閥は奥から便所、男性
ール製のスライド式一二重本棚を入れるために、重
ら履き物をはいて裳へまわって風呂場へ行かなけ
用便器の部屋、手洗い所の三部屋からなって、け
畳ほどの広さの、私の勉強部屋をつくった。スチ
ればならなかったが、それまでは子ども連れで銭
つこう広々としていたのである。桧の大きなお風
ので、タイル貼りに変えるにつき不要になったと
湯に通っていたのだから、ずいぶんと便利になっ
介してくれた建築家は、六人の住人それぞれのた
し、すっかり建て替える計画があった。友人が紹
た。実は、このとき古い長屋住宅を擁から切り離
第五期工事は、我が家の最大規模の鯵理であっ
を使う料理が得意である。
計したシステムキッチンを入れた。夫はオーブン
ル貼りになった。ついでに狭いムロマ間にあわせて設
呂が無くなって、こじんまりとしたがス風呂タイ
家は家の修理だけはしておいたほうがよい、修理
はあやまって、設計料を納めることにした。建築
の言い分であった。もっともであった。建築家に
などして今の平安を乱さんでくれ、というのが父
は大きくなって山山てゆく、それから考えろ、工事
らん、第三に母さんと僕はいずれ死ぬし、係たち
ような人間はこの先も家のために借金をしてはな
ま住める、第二に夢が多すぎるおまえたち二人の
上に建っている家を壊すとはなにごとだ、 このま
ってみごとな埋木細工を仕上げた。トイレの壁の
ある節をいちいち抜き、節穴に別の木材をあてが
工さんは額に背筋をたてながら、あらかじめ板に
よっぽどまし、と一一一一向う。喧嘩になったあげく、大
節穴ができる板なんぞ使えない、新建材のほうが
は桧の間伐材を使うことをすすめた。大工さんは、
うとした。新しく木材を入れる必要がある部分に
建築家は木の家というコンセプトを大切にしよ
違いがわかって面白かった。
めの部屋を考えたすてきな設計図を引いてくれた。
たちこめていた。建築家はまた風呂場は臼タイル
腰板に使ったので、数年間同はトイレに桧の香りが
今から考えると、 建 築 家 は よ く も 修 理 に 立 ち 会
に黒目地という注文を出した。左官は白タイルに
の監督をしてあげると言ってくださった。
数えてロ l ンを組むことができそうであった。と
ってくださったものだと思う。自分の設計ではま
は白目地と決まっとる、と不満をとなえながらも
今から十数年前のことなので、定年までの歳月を
ころが新しい家を建てて喜んでもらうつもりであ
ったくない台患の修繕、工事はいつもの左官屋さ
除という条件である。年輩の棟
動住み続けたままで工事をする
きには、京都も大揺れに揺れた。本箱は倒れ防止
まだ生きながら、えている。阪神・淡路大震災のと
その後も小規模の接現を繰り返しながら、家は
しない。
ていねいに仕上げた。十数年たっても、びくとも
った夫の父の反対にあった。第一にまだ立派に池
l
v
ゅんと彼が連れてくる大工の棟
伽。梁と左宮川原さんは、若い建築
具で固定していたので倒れなかったが、中の本は
代染、建具憶が行なう、住民は
妙味家の指揮下に入るのが不満で
一溺状に並べたように床に落ちていた。たびたび繰
ら剛山
川あって、指示がいちいち気に
仰は棚障るらしい。建築家はそれを
て立っているのかもしれない。修理の左官仕事、
り返した修理のおかげで、部屋と部屋が支え合っ
'
N
引辛抱強く説得していた。意地
Juuu
大工仕事はていねいであった。しかし、修理は部
と計葬
ろのこ
寸寸﹂ベノ小
こ渥のを張りあう両者の議論を問い
HU
験にもとづいて棟梁が行なう
生き物たち
人間たちだけで
コラージュとなる。健在だがみすぼらしい。
分、部分にとどまるから、度重なると全体はブリ
'1Jノ 明 月
4
地面にくっついている家には
3
築の
改て、
仰が
アい
ミまイメージにもとづく建築との
ので
紛比工事と、設計家の頭脳にある
臨- 2
,約束のようなものと長年の経
よ抗出ているうちに、地域の社会的
ml
主治
⋮
1階
家ではない。動物を怖がるたちである。それでも
なく、動物と植物も住み統ける。私はベット愛好
へビ、トカゲ、ムカデ、そしてデンデンムシもナ
イタチといっしょに、不ズミたちも消えてしまった。
豊作になり、実を食べに比叡山からメジロの大群
朱色の実がぶらさがる粧の木があった。ある年、
大学生になって下宿をしていた娘が木の命乞いの
がやってきた。メジロの糞からエンジュが芽を山
子紙を書いたので切られずにすんだ。エンジュは
メクジもいなくなった。アブラムシと蚊は出る。
植物にも栄枯盛衰がある。市街地の下水道が完
時が死んだ年に一度だけ白い花を咲かせた。葬式
一度、近所の子どもたちが公尉で拾った子犬をひ
かし植木屋さんは、水路はやっぱり竺きていると
備してからは庭の水路は枯れたようにみえる。し
の日におくりだした枯の上にはらはらと花が散っ
し、あっという間に大きくなった。組が生存競争
はオシッコという意味である。フランス人の友だ
一寸一口う。両親が同居するときの引っ越しトラックに
た
ヤモリとクモはひっそりと生きている。オンブバ
ちが、だから家の中では飼えない犬なんだと勝手
のせて、以前の家の庭にあったイチジクの杖をも
父の葬式のときに飾った白い萩の鉢植えを陸に
き と っ て 、 犬 が 死 ぬ ま で の 一 0年 間 、 六 人 と ⋮ 匹
に納得していたのがおかしかった。裂の三角地帯
ってきた。挿し木が根付いて、一二O 年 の う ち に 市
植え替えたら、次の年から紅い花が咲く。なぜだ
に負けて枯れてしまった。エンジュの校は伸びる、
息子はけもの、魚、昆虫と、生き物はなんでも好
街池には珍しい大樹になった。樹の盛りの時期に
ろう。無人だったときに生えていた緑のオオパは
ッタも発生する。秋になるとまだスズムシ、クツ
きな子どもであった。バケツの中のザリガニが共
は一定に一一O O掘の実を収穫したことがあった。
次 の 年 か ら 紫 の 紫 蘇 に 変 身 し た 。 庭 土 の P Hを 調
で暮らした。テレビの子ども番組の主人公の名前
食いをした、カメが逃げ出した、アゲハチョウの
路地の家々に配って歩いた。植木屋さんはイチジ
ョの水は何度も植えてみたが、根付かない。ワビ
べてみたら原悶がわかるのかもしれない。サンシ
病い葉が大量に散る。母が木を切ると言い出した。
卵がさなぎになり、羽化した、ヤドカリが鐸を食
クは旧水路にそって根を張って、水路のおかげで
ワムシ、ウマオイが鳴く。
べずにやせ細って巻き貝のお宿から抜け落ちた、
大きくなったと説明する。そのイチジクも老艇と
をとってビビと名付けた。フランス語ではビピと
ポケットいっぱいになるほど集めたテントウムシ
なって、今年はカミキリムシが大量発生し、幹が
穴だらけになった。
そうである。ジンチョウゲも土に人口うらしく花開
スケという名前の棒も枯れた。サザンカが根付き
がピどの領域だった。
った。長屋住宅には砂場をつくり池を掘り、小動
の幼虫をどうしよう、などそのたびに大騒動であ
物の居場所をつくることができる無駄な空間、あ
く。山吹も黄色の花を咲かせる。ヤツデは冬に地
リの餌食になっている。
がみつかる。羽化しそこねたセミは朝のうちにア
あいだ、毎日のように庭のどこかにセミの抜け殻
並木になっているのを見て以来、香り高い花を楽
ないと言っていた。私はモロッコでレモンの樹が
二階に属くおさになった。父は実がなるにちがい
そのうちどれの芽が出たのかよくわからないが、
ンと柑橘類を食べるごとに庭に磁を埋めていた。
くる。路地では夏はアサガオ、秋はキクの懸崖が
てはじけ、中から紅い実が糸をひきながら落ちて
をつくることにしている。ニガウリは朱色に熟れ
てくれる。毎夏、紐を張り巡らしてニガウリの簾
夏には修理のあとがちぐはぐな古屋を蔦が覆っ
犬の父はハッサク、ミカン、夏ミカン、キンカ
長屋住宅では害獣、害虫とも共生しなければな
しみに待った。しかし咲かない。葉っぱが黒アゲ
並んでいたものだが、最近は洋花の鉢植えが多い。
るいはいささかの余裕がそこここにあった。夏の
らない。イタチはネズミを退治してくれた。大き
ハ、ルリアゲハ、モンシロチョウの幼虫の食用に
味な白い花を咲かせる。
なドブネズミと小さなイエネズミがいた。彼らは
なっている。
もっと小さな生物もいる。庭には雑平に埋もれ
かっていたにちがいない。しかし十年ほど前から
隣家とつながっている天井袋や床下を自由にいき
めにした。家の空気の中で生きつづけてきた発酵
のに暖冬つづきで漬け物が酸っぱくなるので、や
すことが難しくなり、底冷えのするはずの京都だ
菜を漬けていた。日当たりが悪くなって野菜を干
酒だけしかやっていないが、以前は冬に大根と白
ある。漬け物石である。今では夏のぬか漬けと梅
て、私以外には見分けのつかない特別の石が数個
地域の小売商はきびしい競争にさらされている。
種チェーンストア、コンビニの進出があるから、
が大型スi パl に変身して生き残った。さらに各
ける範聞にかなり大きな市場が一一一つあった。それ
おり庖にして後継者を確保する。もともと歩いてゆ
がある場合は、ビルに建て替え、その一階を元ど
パン屋、理髪底のご主人たちである。表通りに庄
いるのは地域の小売応、酒屋、牛乳屋、喫茶応、
も一緒というわけではなかった。夫はフランスと
移動型の生活があったからである。家族はいつ
まだわからない。
ている。それにこのまま定住を続けるかどうか、
夫は定年を迎えた。私の残り時間もすでに限られ
し、建て直しはしないでこのまま住むであろう。
ぃ。本が増えすぎて、人間の居場所がない。しか
三十数年間、仮の宿に住み続けたのは、一方に
菌もまた、この家に住む微生物であった。息子が
はもっと大きい。五軒のお隣のうち一片付は三階建
三O年の間に我が家も変化したが、周囲の変化
住んでいた。現在は一人か二人ずつである。住民
屋が並んでいたころには、一一戸に平均五、六人が
た家々は石の塀やブロック塀に囲まれている。長
た道がアスファルト舗装となり、長屋を切り離し
路地はどぷが下水溝に、雨が降るとぬかってい
ての個室である。私の職場はいつも遠く、移動は
ちは別の都市で下宿生活を始めた。彼らには初め
という生活を一二年間続けた。同じ頃、子どもた
タウンの団地住宅に入居して、週末に京都に帰る
校よりもさらに遠く、私はその大学のあるニュー
であった。また私のニ番目の赴任校は最初の赴任
カナダで合計五年半、私は三年間、研究生活を送
てになった。木造一一一階建てが可能になる法律改正
は高齢化している。もっとも新たに一人暮らしの
職業生活の一部であった。しかし五年前に犬の両
﹁庖主老齢につき閉底﹂という張り紙を自にする
があったからである。裳にあった庭園と邸宅は四
女性、男性が空き屋を買って住むという例もニ、
親と私の閤番目の母と一一一人が問時に病気になり、
幼い頃には哨息のもとになる別の微生物もいたの
階建てのマンションになった。一軒分は有料駐車
一二ある。マンションよりも快適という判断がある
私はあわてて京都近くの新設校に移った。初めて
った。そのうち二年は二人暮らしだが、残りは別
場となった。イチジクの葉に排気ガスの田中山い染み
としたら、再開発前の一種のじタi ン現象である。
の職住接近である。この長屋の家に呼び戻された
ことも多くなった。
がついている、それだけ私たちが吸い込む量を防
人里離れた山の中ではなく町中で、さまざまな年
と言えるかもしれない。
かもしれない。
いでくれているのだろう。路地の入り口の家は小
齢の人ぴととともに老いたい、という人が増える
地域の変化
さな町工場で、医諜器具を製造していたが、騒音
哀住宅、つまり和風洋館の子ども部屋で育った。
て、祖父が思いどおりに設計した典型的な和洋折
私は子どものときに母方の祖父母の養女となっ
としたら、新しいタイプの再開発モデルが必要と
か守合。
問題で移転し、跡地に四軒の分譲住宅が建った。
角にあったお地蔵さんは数メートル先に引っ越
した。おかげで路地に事が入るようになった。地
り式便所、銭湯、そして賑やかな人間関係には長
ほんとうのところ、長居住宅の低い天井、汲み取
亡父の予言どおり、両親は亡くなり、子どもた
い問、なじめなかった。今でも戦前からあった古
移動型生活と定住生活
ちは独立して、この家に私たちだけが残った。十
いホテルの天井の高い部屋に入り、ドアを閉めて
蔵盆は今でも毎年、八月二五日前後に行なわれる。
が子連れで里帰りして遊ぶ日となっているらしい。
分な空簡を享受しているかというと、そうではな
子どもが減ったので、最近は地域住民の嫁いだ娘
外孫地蔵盆である。地域盆、祭、運動会を支、えて
5
4
こったようだ。
だが、修理と改築を繰り返すうちに、古屋は形を
両親も、京都の路地奥の文化とは異質であった。
い。植民地の官舎での暮らしが長かった夫とその
真鍛のノブを眺めるとほっとする。個室願望が強
校と地域の学校に通ったから、地域の人たちは今
うけた。子どもたちは保育問、小学校、中学、高
ちは話題の種であるらしく、しょっちゅう訪問を
の人ぴとにとっても変わった生活をしている私た
問が犬の両親が引っ越してくるまで続いた。路地
ったが、ご白分の住所は告げず、いつも突然の訪
構造は、世代交流、地域との交流、遠くに去った
まま古びると生命力を失う。その点、長居住宅の
を確保するかが問題であった。だが空間は閉じた
すぎる構造をいかに閉じ、いかにして自分の空間
を防ぐことが難しく、人の出入りも開放的であり
私にとっては長い間外部からの光、音、 におい
独身のおばであった。組母が戸籍上の母、早く死
どもの頃の私をかわいがってくれた、そのころは
入りびたりで、結局この家の三人目、四人自の子
った彼らと再会した。家庭教師を卒業してからも
を教えた。その後、いろいろなところで大きくな
家庭教師は六年間で一教室分くらいの数の生徒
とを始める前に、この家に捨てずに置いてあるさ
先で死ぬのかもしれない。いずれにしろ新しいこ
かな、と考えることがある。あるいは逆に私か旅
と彼は旅先で、私はこの廃屋で死ぬことになるの
場所は選ぶことができる﹂と犬は豪語する。する
﹁人は誕生の地を選ぶことはできないが、死に
友だちゃ子どもたちとの通信をなかば強制的に、つ
んだのが実母、いちばん長く一緒に暮らしたのが
どもと自称し、以後は若い友人になった人たちも
まざまながらくたを眺める。私たちの年齢にも記
でもこの家を子どもたちの名前でーちゃんの家と
変え、私たちも変化して一種のフュージョンが起
結昂、私は祖父母、実の両親、夫の両親の最終
夫の母、そして現在、継母は記憶障害をわずらい、
いる。そのまた子どもとのつきあいもある。放浪
ながす。
介護っきマンションに住んで介護を受けている。
の旅の途中の外国人が舞い込んできて、以後延々
乎ぶ。
この人たちとの縁が長く続いたのは、この長居住
憶の喪失は始まっており、モノを目にして初めて
晩年とつきあった。私の父が再婚した相手は、子
宅に住んだせいであるような気がする。年寄りた
と文通が続いている。日本の古い町にある長屋の
住宅の空間川が記憶装置、私の頭脳のようなもの
ちの家はそれぞれ京都市内のパスや電車で通える
入退院を操り返した夫の両親の最後の日々には、
だとしたら、好むと好まざるにかかわらず﹁家は
忠い川すことが増えているからである。この長居
があったものだから、つきあえるときにはっきあ
へルパーさんたち、学生アルバイトの人たち、遠
人なり﹂というのは本当であるのかもしれない。
生活はおもしろかったらしい。
わなければ、通えるときには通わなければ、とい
くからかけつけた子どもたちなど大勢の手を借り
距離にちらばっていた。私には一方に移動型生活
う気持ちが強かった。あげく長々と縁が続くこと
る必要が生じた。すったもんだのあげく、介護チ
でいると気持ちが安まると言ってくれた若い人も
JJH
一山川祐子/にしかわ・ゅうこ
東京生まれの京都育ち。京都大学大学院文学
研究科博土ぷ筏(フランス語フランス文リア専
攻)修γ。パリ大学大学博士。専攻は日本お
よびフランスの近現代文学とジェンダ│研究。
現花、京都文教大り一千人間学部教授(勺ジェン
ダ!と文化﹂初当)。
者 に、﹁いけ川部逸校森の家の淑女﹄(新潮
打、のち肝心文明付レグルス文山咋)、花の妹
ι ぷリ樋ハゐ川県伝
打)、 私
.日間俊f伝 L 新
( 制
L
(リフロボi卜)、ミ似'ふと日刊ち支の文干犯
﹁引払いのうつわの物ぷい(公 HWV)などがある。
になったのかもしれない。
年配の女性の訪問を、つけた。母の同級生だと名乗
あった。古屋が人間関係をつくりゃすくした場合
い家でおじいちゃん、おばあちゃんとお茶を飲ん
り、初めての子育てなのだからわからないことが
である。しかしそれも両親の人柄あつてのことで
i ムができてなんとかとぎれずに持続できた。古
多いだろうと、さまざまな子ほどきをされた。こ
あり、おなじ年をとるにしても私たちの場合は、
この長屋住宅のおかげで知り合った人たちとの
の家を紹介してくださった方のようであった。市
ああはいくまい。
縁はふしぎと長く続く。実母が亡くなった産後に、
場で会うことがあったから、近くに住む方らしか
か
ず3ろい
大宇陀実澱記
玉井タ海
来の野に陽炎の立つ見えてかえりみす
の一二日間、うち前半七泊八日を、大
川中十刀法をそのたびごとに伝授していく
よく粁を貸してくださった天益寺。し
にもかかわらず昨年に引き続きこころ
学生たちのわんぱくぶりは代々評判で、
こられたのは奇跡と一一一日っていいほど、
に取りかかった。毎年こうして絞けて
泊めていただいて、私たちは実減作業
古美術研究施設に移ってからになるの
的な段階に入るのは後半、京都市内の
を整えておく。インキングなど、本格
いつでも作業が始められるよう手はず
役務すると一反ってきて悶闘をひろげ、
じめ用意しておき、その日の測量が一
i スキャンブとなるい他社会館にあらか
また、それぞれの製間道同比二式はべ
数きっぱなしになった布凶の上へ
というかたちで指導が行なわれる。
かし一昨年の暮れに境内の一部が原因
だが、その前にやお々と進めていかない
宇陀町を見下ろす高台にある天益寺に
奈良県大宇陀町。(八日筋に位置する
不明の火災によって焼け落ちてしまっ
れば月傾きぬ
この前川は、北にのぼっていく宇陀川の
たため、昨年は焼け跡にテント村をつ
込んだ次の瞬間、また判がきている。
そのむかし柿本人麻討が万葉集の中
ながれを中央に抱いてひっそりとたた
ってしまって泣くはめにならないとも
と、あとで測り足りない場所が見つか
はあたまを量れ始めていた。
だ背く、しかし少し穏の寸前一くなった稲
どころに散らばった段々の問んぼはま
で詠んだ、師川騎野の地。盆地のところ
ずんでいる。
くって、域内とテントとに分かれての
ための伝統的なカリキュラムとして毎
測は、東京芸大建築科・学部二年生の
へ山かけていくところから一日は始ま
道を下り、郎んぽのあいだをぬって町
を手早く食べて、境内脇の急なけもの
当率が一足早く起きてつくった朝食
められない。五時をまわったころにま
ため、基本的に夜を徹しての作業は認
しかし、縞祉会館は町の施設である
一一日をかけて私たちは町並みの解説淡
実測にかかる前、大宇陀滞夜の初日
そんな長く絞い毎日の小で、私たち
合宿生活となった。
年行なわれ、今年度で問。刷討を迎、えた。
ず食当が、追って七時少し前あたりか
昭和一二五年から始まったこの建築実
長い年月を生き抜いてきた建築物や町
のは邸前門、福祉会館、天議寺、凶郎家
る。今回の実測対象建造物に選ばれた
らみんなが時間近でバラバラ帰り始め
かれ、地元の小学生を道案内に町を歩
ご﹂こに住んでいる人たちが誇りを持
判
明
H
を行なっていた。三人一組の破に分
方が一止しいのかもしれない。
いや、とけ込みかけていた、と一一一同った
たデi タ を 元 に 現 地 で 凶 而 化 を す る 作
並みと対面し、実際自分たちの予にし
の計問か所。宗門以外は一破五人から
て、川似点合に風刊行に人リながら食事を済
き回り、次の日の地域住民を招いて行
はいつの間にか町にとけ込んでいた。
業のなかで見えてくるのは、家の仕組
の編成となっており、ニ年生は全部で
ませ、また反ってきて同泌を拙く。
な わ れ る プ レ ゼ ン テi ションに向けて、
u
-
の作業が強いられる。
みであったり人のおもいであったりす
一八人。それに指導教 宮の前野菜先生、
そして一仕事を終、えた後、 4
X益 寺 に
この阿を元気にする方法をそれぞれが
限らないので、この時点でかなり必死
る。そのおもいのなかで気がつくとつ
野口日日夫先生、助手の欽矢悦朗氏の三
帰ってきた頃にはもう、昼間の炎天ド
、
u
o
ぶれそうになる自分がいたことを、私
人がばらばらになって主な持ち場をま
模索していたのである。
F
は忘れてしまうのだろうか。
の作業で熱っぽくなった体はすっかり
八月二八日から九月八日まで
ぐんにやりして、観点目様の前の座敷に
I
わり、ときに自ら厚相似にのぼったりし
"什
1μ1
,
ながら、水糸や分銅を使った実際の測
壌体を自前にま変えたさE
家
ってできることを、おら若い人たちに
考 え て ほ し い 。 僕 か 思 う に 、 あ と 五O
た小学生たちの感初心文に計かれていた
。
土地と人と生活のトムに往てられなけれ
相当教官である前野教授の﹁建築は
会
弘
、 J1口
⋮一一ド有卦ふ人
ります。この何には長い年月をかけて
この泌刊は、昨年度から始められたば
ばならない﹂という持論から生まれた
年も経ったら、古い、いいん本はなくな
そこで生きていくこと。わたしらはね、
かりの試みだが、今年退行を拾えた前
﹁大宇陀に住んでいるのに本当は判の
ではなかった。
は法った一一山を知ったように感じられ
ご}れまで撲が生まれ点けった大千陀と
¥たまい・ゅうみ / J
f
米ぷ京術大山γ美術宇部建築利二年¥
さいよ。そっからいきましょうや﹂
﹁私たちの生まれた川とくらべてみな
ぴていた。
あいだに、すっかり稲穂は黄金色を帯
そうしてひたすら家を測りつづける
る。むこうも﹁おおい﹂と応える。
やってくるちいさなともだちに子を振
頑をのぞかせて、川市り道を向こうから
制祉会館に飢まれた足場の隙間から
﹁おおい﹂
塙す。
ひとがいてはじめて処築はその光を
り、﹁ひと﹂ではなかった。
たのはかつて存在した人びとの拶であ
れたこともある。けれどもそこにあっ
版といった一時史的大物処築物が実測さ
かつて、京大与二バ位、小作日卜八社出
けではない。
てくれたらと、願っているのは先生だ
授業。そこで向かれた程が大きく育っ
ここで生きているんだから。その小で
いじなんです﹂
野教授にとっては二度目にして川以後の
ほってきた路史の重さつでもんがある。
引でなくてはならないのだとも思う。
大
'
I
"T
官の街路
際史をどう生かしていくか。それがだ
到着した日の夜に伺かれた公民館で
の特別川議議。旅の疲れからどうしょう
工育成を小心に抑えた﹁おいお、 7だいく﹂、
がわかる、と一二一円われでも致し方ない。
の成り立ちに耳を傾けていた私たち。
もなく襲ってくる眠さと戦い、大宇陀
そう言い出すと地球上のあらゆること
結局ひとごとなのだ。よそ者になに
を解決するには自分一人では不可能だ
さまざまな提案がなされ、集まってく
ふらっと訪れた
そ れ も し ょ せ ん は で UA
感銘を受けて下さった様子だった。が、
れた住民の方々も私たちの熱意に涼く
校長で町一番の際史家として名高い成
っそう波に食い込ませ、一五大宇陀古川校
瀬睦氏は一コ一同った。
しくなってしまう。
というところにまた行き着いて、かな
と結燃して、子供を淀むことですと、
ことをあんまり知らなかったこと、川町
けれど、なにも変わらなかったわけ
川山本の野口先生はビi ル片手に笑って
のことに無関心だったことにれがつき
思うなら、その夢すらも捨てて大宇陀一
しかし、もしも本気で町を変、えたいと一
いと恥ずかしい、と必うようになった﹂
た。もっと大宇陀のことを知っていな
中小!)h ﹂
の人間となって生きていこうとするは一
これらは、案内役をかつて山てくれ
ずである。もしくは、その生き方その一
ものが自分にとっての新たなる夢の実一
私の夢があり、やはりそうもできない二
たしかにそうなのだけれど、私には
三
一
川
つ
れ。
この町の役所に勤めて、この向のひと
そう思うなら、あなたがこの町にきて、
と、なんだかひとりしょげていた私に、
波み交換教家﹂﹁新山部門と一位日以﹂、大
アはないか。中学生を巻き込んだ﹁阿
や人の力をうまく使った良いアイディ
新 し く つ く る の で は な く 、 人 Iあ る 物
てきていた。
年々進む過疎化の波は、ここにもやっ
けた家々。人通りの少なくなった道路。
ぽつりぽつりと見かけられる壊れか
学生どもの戯言に過ぎないんだもんな
きゅっとしまった黒い平のベルトをい
成瀬先生
研 究 院 自804
研究地B895
m
m
年度の当財団の効成研究・会明日綴のうちお綴の要旨を掲毅しています。
詳しい内容をお読みになりたい方は、﹁研究年報開叫白ぎをご尉降下さい。
なお、研究MmB883は、次年度繰り越しとなったため、欠悉とします。
研究肱自80E
関年度
研究胤gB01
111パラ州トメ・アスl移住地を事例として
ブラジルにおける日系移民の住空間
の変遷について
a
111考古資料等から見た文化影響について
ョンに者百して
一七・一八世紀の 本とオランダの
都市住居生活と物質文化の実態比較
li!建築における奨文化交流の事例として
本研究ではブラジル、パラ州トメ・アス
主査日熊谷広子
委長日森弘山川、坂口大洋、森
l (吋Ggme﹀ち)移住地において日系家族
主 査 H小 林 克
委員日松井かおる、線内秀樹、ヤン・パート、
松崎一段砂子
七・一八世紀の臼本とオランダの都市
、主資 H前田昭彦
委 員 H笠原秀樹、円十防
住民生活と物質文化の実態、相互の彩終を、
2羽 位H
H
出山間同
イギワス・サソチヤ│政権以後の都市・
1
住宅政策について、統一都市再生補助
った。ここでは得られた住居平面のうち、
の住民の実測およびヒアリング調査を行な
Hl
区内コ
近代アメリカにおける日本建築およぴそ
江戸(東京)とアムステルダムの発縮デー
日
μ
司王乙、
υ 11
バ
中谷礼仁
主査 H委 員 グレゴリl ・クランシ l、内問育成、
の従事者についての認識の変迭を憐造的に
∞
)
など住環境箆備卒業と、ハウジングアソ
主にアムステルダムから発明制された泣物、
絞の祝点を研究委員会で決め、本論文では
構成要来、間取り、外観、材料、日本的要
らかな平岡六八例を用いて、住居規模、釜
後設年代・山地役者・室憐成・住居規模の明
ωHN
第二次位界大戦までのアメリカの建築関連
シエーション
逃帥怖の巾光州制限を掲載し分折した。ここでは、
ロ尚一巾刃向担巾ロ巾吋出件目。コロロ仏間巾門一
雑誌(購読府の異なる五誌を選定)に掲絞
由
コは
E﹀印)の動向を調べた。①H Aの 活 動
(ω{
された臼木関巡の記事を抜粋し、収集分析
ざまな地域再生活動を担う、支体となりつつ
伝統的な住宅供給・佼浬だけでなく、さま
ある。一一カテゴリーに及ぶ地峡再生活動
で一八股紀初頭のキソチンの誕生が確認さ
以下の成果が得られた。
らかにした。これらの変透明百悶についての
業といった項目についてその変遷過程を明
(ECC
巴口問﹀田町 O仏国立C
ら、各雑誌の興味の対象や日本に対するイ
を 試 み た 。 結 果 と し て 全 デl タニ七五件か
メージの速い、また、年代による記事量や
れた。
が壊れ記事数が激減するこO世紀初頭への
末から、日本の近代化によりそのイメージ
グラムを統合したS R Bは、競争原理をと
トしてきた。③多方市山にわたる統存のプロ
体、地域再生対策へのパ iトナl へとシフ
り、実際に物が移動していた。川間埋立ての
され、喫煙や茶等の筏徐にも相万一彩終があ
かの生活奈川俗にオランダからの彩響が想定
とする仮説が補強された。
った。
ながら変化してきでいることが明らかにな
池山以経済社会条件と川市桜なかかわりをもち
検討から、これらがブラジルの気候風土、
治体の補完的役割から、社会住宅の供給主
を 表 に 繋 理 し た 。 ②H Aの役割は、地方自
過程、さらに羽本建築が但岬附され米国内に
かになった。
工法や給水進協問符、生活泣構の器製(が明ら
りいれた卒業の係択、地域減退指標を用い
た地域の治山山方法に特徴がある。
内向化する過程を検証した。
ω その他いくつ
ω桟瓦がオランダの影響で誕生した
日本が﹁芸術の宿﹂と賞賛された一九世紀
内容の変化などの構造が明らかになった。
ω アムステルダム
デi タを兵体的に提示できたこととともに、
抱制限することを目的に、一八七0年代から
タに基づき比絞・分析した。陪パ体的には比
家、板間川怖三子
近代アメリカでの臼本建築ならびに
その従事者への認識の変遷と構造
W
三
字
イギリス・サッチャ i政権以後の都
市・住宅政策の動向
iii伎環境懇備とハウジングアソシエーシ
記号
的集落の現地調査を行ない、﹁コンバウン
リ中央部パンティアガラ高地における伝統
本研究は、カメル│ン北部山岳地借とマ
った屋外
デルの作成にあたっては、街路・中庭とい
たな再開発のモデルを作成・検討した。モ
によって初られた数日旦的なデl タ を 基 に 新
自 治 体 住 宅 マ ス タi プ ラ ン の 策 定 過
程と策定手法に関する研究
研 究 臨gB10
の空間特性を明らかにすることを日的とし
目指した。
可能性に者目し、これらを継承することを
を検討することである。対象とした室前市
え方を適用して、まちなか国住の検進方策
方中小都市に縮小均衡型のまちづくりの考
本研究の尽的は、人口が減少している地
ス・所有関係の有無に基づくグラフとして
平岡構成を、構成要素間の隣接・アクセ
関特性を把握するために、コンバウンドの
や部族の特性が顕著に表れている。その山工
成要素の形態・素材とその配列別には地域
ダンキなどによって構成されているが、問問
分断した要素と、それらを媒介する中庭や
査を行なった。調査対象は、今井町の御堂
隆史的変遂を考慮に入れて、現状の色彩調
日欧の新旧街並を取り上げ、それぞれの
111
日欧の新旧都市を比較して
街並色彩に関する研究
研 究 臨SBog
究者が深くかかわり、山総道府県の役制的と
を得た。
1 1
日口俊茶、波辺
勝川日臼樹
モ11;1;彦
ノ
川
喜
{
変
号
主
和l
美
策定主体とその役割、川住宅事情・日同住要
り、地方自治体の住宅政策の展開方向と条
求把握の現状、判住民参加の事例調査によ
件について検討した。その結果、住宅マス
0
ω コンサルタント・上位官庁・研
ター フ ラ ン 策 定 に お い て 、 次 の よ う な 結 果
ラスレイ、ザルツブルク(オーストリア)
り、国勢調州ふん況の項目拡充と地域にあう集計
怖や住民ニ l ズ の 全 体 構 造 把 握 が 重 要 で あ
自治体の住宅事情の位置づけが必裂である。
体制が求められ、同住宅市場闘の市中で基礎
調査の結果、日本でも欧州でも、保存体
間 ワ ー ク シ ョ ッ プ 等 の 住 民 参 加 製 予 法 とN
P Oは住宅政策股聞の一方向を一不し、行政
のアルタi マルクト、ウィi ン(オースト
とまりがあった。総じて、日本の街並の方
制が確定された際史的街並は色彩によるま
組織の活性化も刻待できる。
と再開発の進む北京において、優れた文化
の歴史をもっ欧州の街並色彩のあり方が参
街並の今後の保存や開発には、それと類似
が大きいこと、などの特徴がある。日本の
考になると考えられる。
泣産の継承、地域社会の温存を達成しつつ、
実態を詳制に明らかにした。その上で調小企
伝統的都市住宅である間合院の居住空間の
測調 11.ヒアリングなどの調交を行なって、
北京市議盛地区を事例としてとりあげ、申十六
ルを提案することである。このため、まず
ある程度の古川硫化を図る新たな同開発モテ
の訓合が多いこと、明度、彩皮のばらつき
が色如何が多岐にわたっていること、無彩色
リア)のマリアヒルフ通りである。
ト脊成が重要談怒となる。同地域の住宅半
主
同時に各市町村の地域密翁型コンサルタン
山雄
筋、川越市の一番街、日本総の中央通り、
本
渋谷の公開開通り、へント(ベルギ!)のグ
有正
本 研 究 は 、 州 市 町 村 住 宅 マ ス タi プラン
輪 問 地 区 で は 、 人 口 が 最 盛 期 の 二0000
表現し、ネットワーク理論の指標を用いて
君
i
l越 谷
本研究の目的は、近年急速な現代化のも
委主
良f
E
主査日乾
委員日出制
人から五七一一一O人 に 激 減 し た こ と か ら 、 コ
集落空間柏互の比較・分析を行なう。
広場づくりを起爆剤として、次の段階で傾
斜地の一戸建住宅から平地の集合住宅への住
伝統的都市の現代化における空題制
御技術に関する研究
み替えによって、まちなか居住を実現させ
る方向で合意形成ができた。くらしの広場
{
ら
北京を事例として
-i
;p
b
r 日当
A
J
4
A
E
-紅苦
、ヨオムl 誌 鼎 ポ ム 間 同 ノ
委員計及川清昭、出洲英邦、槻橋
一
口
nf革
u
pl
a旬
l
f
F
Jr1
f、
も
↓
コ ン バ ウ ン ド ( 複 合 住 農 ) の空間組
成に関する研究
-11
カメルl ン 北 部 、 お よ び 7リ・ドゴン
族の集落の空間構成
研 究 地95B7
題が未解決である。
地 の 扱 い と 緑 化 や パ ワ ア フ リl 対 策 等 の 課
とどまり、全面的な災前切に向けて、不姿宅
定したが、まちなか居住は部分的なものに
は一九九九(平成一二年六月に建設が決
研 究 臨gBOB
一連のワi ク シ ョ ッ プ を 通 じ て 、 く ら し の
倉、家←品川小屋といった空間的かつ機能的に
ている。コンバウンドは、寝室や厨一殿、殺
'MZ
間の制御技術が有する現代的な
地方中小都市における﹁まちなか居
住﹂の推進方策に関する研究
ド﹂という拡大家族制に対応した複合役庖
ー
N
o
.
9
8
B
B
ミュニティ山朋時恨の危機怠識が住民間に強い。
、主査日摂鴎二郎
委員リリ森本信明、 長 谷 川 洋 、 問 中 勝 、
北原啓司、 隊 問 忍 、 松 本 勝 子 、
大家売子、 鈴 木 治
li縮小均衡型のまちづくりの実現に向けて
7
u
"
'
"
主査日大坂谷吉行
委員日開村亨、古尚宏古川、 養父克哉、
荒井孝一日⋮
研
研究胤8811
町家・街並み景観整備による都心商
業・臨庖街活性化手法の研究
111
職住共存の町家街区の魅力と賑わ
いの演出
主査 H宗 前 好 史
委 員 H一二村治史、末機日護、持附附美、
11t己
d己主
仁、 1
、
ヨ
日f
月
、 1
間
ト!
aH
ノ如車J3 ・ 日ど時五小
ム HIHHI
3
西山を優、安政宏、物川τ
河めぐみ、
同村こず忠、中川史子、中村山呉市 γ
題であることを明らかにした。木造山山集市
国大都市の将米にとってぷ大ともい、える諜
けた。一氏災は、木造銃集市街地問題がわが
とりわけ木造銃集市街地が大きな被容を受
阪神・淡路大災災では、インナi シティ、
外に広く点犯し、川間人鎖山叫が住〆内に拡大
的な行動を支促する拠点が例入山中川町附以以
けられることが明らかになった。また、私
に移行したり、七八や必の例入山市川泌尿が設
別M Tの子供主を利山川して、ホ八い仰が別就犯
の似人的な時間の逃ごし小々が拡大したこと、
昭 和 二0 年 代 を 中 心 と し た 住 宅 計 一 翻
の史的研究
研究院9315
生活街路悠備烈の山山築事業の詳制な利点川、
公的住宅建替に擦し住民の偶人的記
憶を計画に生かす手法の時間究
三消火郎、
住民の記憶の栄引を収集する計尚
子法の検討
守
、 fド:
4
月
,七
49Fa
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Eq
{、
ペ
aH
主点HH荒 川 千 恵 子
委日以日三沢治、新介消防一
、
行 な う こ と で あ る 。 取 り 上 げ た テ1 7は
館市計同トしの話相時起について川公開・分析を
山とかかわりの深い戦小・戦後期の住宅・
山刊された治資料を治川することにより、尚
pj
した。本研究の目的はこの内山文咋で狭
のメンバーの子によって一九九じ年秋にん⋮ M
が﹁間山知一一⋮記念、ずまい・まち、つくり文派﹂
時以凶山州三氏が逃した膨大な資料の終却
H
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仁
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森本信明
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131p;i治
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表
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siJH,
八部川
倫小介主︿山 O﹃
ku
P]、以来胤希子、
川川友彦
凶山文時資料をもとにして
11
街地での市街地復興、住宅復興で問題にな
しているんた態が明らかになった。
業・市開応街治性化手法の構築を日的として、
および会問の追跡調査を行なうことによっ
研 究 組BB14
るのは、制街路を主とする法山政米捺印刷と狭
小宅地の奇心仕であり、制街路と住宅の一体
的な叫漁協が必市立とされる。本研究では、川氏
京都初心郊を対象に、町家治則川刑ム成織の評
て街集引業の汗側を試み、木造川島山条市街地
浦町などのまち、つくりで取り組まれている
災後、宗塚市、川r汁 市 、 淡 路 ・ 二 日 問 、 東
側
、 Jgタリアの都心再生手法として注目さ
の設備・改品中山口に来たす役刻を明らかにする
本研究では、校史的都心地阪に釘ける際
れるマイクロプランニング子法の京都都心
ことを討的とする。
削における住宅内的問住宅地の変貌、③戦後
住宅吸い同と一内山川知一一一の持家主義批判、③問問
①山川和一 0年代・二0年 代 の 住 宅 調 夜 、 ②
初めての円住宅九日計一
本研究は公的集合住宅の山地山九日時に、日川住
深山引の述続性を続押印するため、間住名から
住宅研究会と内山州市一一一・凶山川研究袋、⑥昭
研 究 助9813
部での応用、さらに、自動取交通弘、歩行
者通行設、通りの商業集駁の初五関係の解
明を試みた。その結果、新規参入卒業者の
州に生かす子法の従定である。ふるさとに
久口人の﹁エピソiド記憶﹂を聴き、佐川け叶一日川
知一一一、のしハつで、各委 以
H の呼門分貯の初子
和二O司 代 に お け る 住 宅 不 良 皮 内 定 と 閉 山
HJ
と住宅運動、③浜村
世帯への移行からみた住戸計画
ライフステージの展開に伴う非様準
│││集合住宅における出住地棋に閉する研究
町家活用の取り組みが京都の街並み彩成と
マイクロプランニング手法が京都都心のよ
Hん
で一段
等 し い 住 み 慣 れ た 河 地 に 、 彼 ら が hい
いの﹁空間川一品﹂を使い、山押し問のぷし怒し
JU
持っている。
1111
、
一
仁
品
川 H岡 山 良 時 子
村万山中、三宅九
委けは HA1
神(介川附子
MM集 合 住 宅 団 地 の 共 川 空 間 に お
心
け る口
人為的環境破段行為の実態
集合住宅におけるパンダリズムに関
する研究
研究臨SB1B
fh
則にん江沢付げられる文献・資料の悦砲を行
コ
、 -o
J
Y︾ザ乎ノ、
れる計尚子法がないからである。そこで間
同地を対象に利点目を行ない、﹁生活川羽川﹂
を子掛かりにして記憶を引き出し、かつれ
m記述で 外らしの状況をみた。加えて住ま
を聴いた。川和川本として、今までの討州では
本研究では、位都闘に山地役された築後約
主査 H沢 附 知 子
委 員 H内問主口歳、波辺秀俊、 谷口久美子、
九茂みゆき
初心商業活性化の両耐に文献していること、
うな燦史的都心地区の街放み対鋭的設備とそ
れによる商業活性化の有効な手法になりう
門家・街並
ること、都心商業の活性化には W
みの活用に加えて交通制御が近裂な役割を
二O年の集合住宅を対象にして、目的住者の
汗巡悦がないとして排昨附された例入の記憶
来たすことが開明らかになった。
家族問問成と、れはまい点の変化、環境移行の絞
4
態を明らかにした。実態調交のり如来、﹁本八
研 究 胤gaIE
た。このT法は馴染みある同地の川口山叫が期
を、建同日時に治川し川ねることが分かってき
るイ能性
待でき、かつ同住おに計品川への参加を広げ
婦と子供﹂の襟準社格として入居した当初
一は、退職を機に在宅時間が噌加し、仇八ゃい会
一般認された。また、壮年火焔のみの枇併で
のみ﹂の非総準社般に移行していることが
復興まちづくりにおける生活街路・
住宅の一体的整備に関する研究
稔
応住者同川が、子供の独立別居を絞て﹁夫婦
J
J
l
l l生 活 街 路 盤 備 担 密 集 卒 業 等 の 評 側
主
式
日
↑ H安藤一五夫
委 員 H佐藤圭二、松山
I
リ1
nhu
ハ
H
u
建物・外部空間の観祭調査では、政視性の
応、将来予測等を開明らかにすることにある。
発生状況とそれに問附する応住者の体験、反
人為的な器物破損行為等のパンダリズムの
本研究の日約は、集合住宅団地における
し た 。 そ の 後 、 梁 の な い 判 米の出現や、建
市くは家作規制を遵守していたことを隊認
銀茸きを特徴とする大阪府南部の町家は、
術導入が転換の姿国と推論した。さらに、
京町家との構造的類似から、織内からの技
る平入町家の光駅と刊討される本原ん系住宅の
l
i
1口 氏 家 の 地 域 内 保 全 と 民 家 展 示 施
古喪家の保存・活用のための方法論
的研究
研究胤BB12
術による生活環境の変化をシミュレーショ
応プロセスを明らかにする。削減境持絞技
3 つのレベルから山実態調査を行ない、環境
、五五日大原一興
委員リ大月紋刻、大野
民家展示施設、および地域内に存在する
民家を生淀川十湾施設として展開させてゆく
ためには、その日以一不平寸法や保全・治的の仕
研 究 臨EBE1
g
討住環境の持続可能性について検討した。
な環境の良好な総持・運営という視点から
の周辺地域に構築している物渡的・社会的
から検一社する。の二点を行ない、住居やそ
ンし、環境持続技術を生活に立脚した立場
の社会的・生活的変化に対する応住名の適
低い空間と、居住者の領域感の溶い空間に
築規制の失効を経でもなお、制判官斗きが踏襲
設の考察
環境破壊行為が多発することが確認された。
らかにした。
文京として怠庇化した過程を明
され、外観 -m
L
地では、務者き、削荷物の破損、物品の放置
研 究 臨gB13
また、居住者調査からは、一品目別集合住宅団
などの環境破壊行為が少なからずみられ、
間住者自身が体験したり、見附しているこ
方を地域的・総合的に計同する必要がある。
環境負荷低減を 指した住宅建材選
択システムの開発と適用研究
横田家大工文書における近世住宅の
EiiGAを 朋 い た 多 目 的 最 適 化 の 研 究
調査研究
のあり方、およびその方法論の確立に向け
そこで、本研究は、今後の氏家保全・旧民一一小
まな状況下で地域内保全されている民家の
住まい方事例を把握する一方で、阿武家間な
本研究は遺伝的アルコワズムを援用して、
m
本研究の目的は、横川家大工文書におけ
ど野外博物館における展示巡営手法とその
主査リ白井裕泰
委員リ木 和代、小島陽子
んを符ょうとするものである。さまざ
た知 H
こうした事象が起きうると居、住者は予測し
物・外部環境のデザインの質﹂﹁抗日現のき
合いの}出発さ﹂のバランスによって発生の
る住宅に役目して、その住宅生産の実態と
環境長荷の低減を目指した建築資材と工法
め細かさ﹂﹁居住者の近隣活動、近所付き
多寡が左右されるという仮説が符られた。
の民家の保全・治則川と展示子法についての
新たな動 同
f を考祭することによって、今後
知見をまとめた。
の平岡の分析を行なうことによって、核問
研究地BB17
近世町家の地方色の形成過程とその
ことである。考察の結果、まず住宅斗賢治文
研究臨B82B
同棟梁は庄原住宅の建設にとどまらず、庄
居住環境における持続可能性に関す
る研究
が汁伎座階日間の住宅であり、その山中に一一一機の
klijji
iil大 潟 村 に お け る ケi ス ス タ デ ィ
制頭庄原の住宅が合まれていたこと、制削凶
山居住環境に関して、住日凶・街以一・地域の
年前に建造された秋田県大潟村を対象とし、
本研究は、八郎潟干拓卒業により約一一一O
主査 H橘 弘 志
、
マ
ム
、
F
委川氏日山石佐川彦、山政辺能美、 ミ
叶貯m
O
L
AiF
f
氏 業 主 H、 行 訓 告
屋を通して村落の寺社の造営に私級的に間附
ける普前文書の作成と同じであること、繊
成立要因
しニろ刊山
書の作成過程は、相守建築の生産過程にお
主資 H大 場 修
委員日浜口直子
成過程を論じた。まず、九州北部の安入問
庄屋の住宅は柑一口通庄一肢の六間型形式と区別
けた住宅は一 O棟 の 内 一 僚 を 徐 い で す べ て
中泳が、間口が狭く活発な向業活動のドで独
与したと考えられること、叫似問仙川泌が手掛
h
して、より格式的な表現をもっていること
本研究は、妻入形式と綴芥き屋根にお
自に成立したことを指摘した。また、広
川
い
県の'日市の町が近世前期は主入の家並みで
などを明らかにした。
へと転換したことを示唆した。当地におけ
あることを明らかにした上で、その後平人
し、近枇町家の一一地方形式の成立要凶と形
Hn
lii町 家 の 地 方 形 式 に 関 す る 史 的 研 究 凶
棟梁の手掛けた住宅の特質を附明らかにする
その住宅およびこの地方における庄路住宅
主五日宗本順三
委川只日鉾井修一、毛谷村英治、古川州
大彩任史、州仰浮孝次
ている。人為的な環境破壊行為は、﹁縫
とが隊認された。さらに、将米においても、
年
文
を見いだした。
に低減させる悠築資材と工法の組み合わせ
ている。また、一一一つの前倒依すべてを同時
との比較により、システムの有効性を示し
わせの﹁一般的な住宅﹂
材と工法の紛み AH
探索を行なった。試行によって得られた資
小化する建築資材と工法の組み合わせの
HM
山崎楽物却にコストを合めた三つの評価似を
ライフサイクルを,必じての C 0 2川山川、
モデルに域別することを日的としている。
巡択のシステムを開発し、標準山題の住宅
初千
問や多様な地域行事等)、ボランティアに
くさんのチャンス(給食サービスや友愛訪
る。神戸市真野地区における地域カは、た
ティブタウンのモデルを捻起することにあ
らす地域カを明らかにすることと、コレク
して、高齢者の安心・自立民住の場をもた
本研究の目的は、創造的まちづくりを通
について採るため、政治体の事例分析及ぴ
モl ゲ ! ジ 制 度 に よ る ミ ク ロ 的 な 経 済 効 果
その現況を把擬した。最後に、リバース・
グ誠交を行ない、利用実態を開明らかにし、
度を'災施している自治体に対し、ヒアリン
それから、日本のリバース・モ│ゲ│ジ制
いて考察し、その示唆点を開明らかにした。
ア メ リ カ の リ バ ー ス ・ モi ゲi ジ制度につ
手法を独巴けに提案している。
るとともに、それらを補完する新たな解決
ついて、その現状と問題を包括的にまとめ
研 究 地282E
都市住宅における生活行動と日照環
境との賎わりに関する研究
よるコミュニケーション的行為や公的地域
公的年金の現状分析を通して、年金の補完
回
え
b
X
建築部品・構法の変遷に関する資料
の保存とりスト化に関する研究
f
今
、
一
五
資 H木 多 道 宏
委員日井上雅祐、 長 岡 弘 隆 、 福 井
三崎信顕
研 究 臨9825
組織や倒々の伎氏たちの多岡山の人的ネット
的な(上采せ)機能が期待されるワパ i
f
l
[
S
必要な資料の概略を示し、今後の資料保存
本研究は、建築部品・締法の変遂研究に
'IJ~
の五都市を対象として
jit札 幌 ・ 富 山 ・ 名 古 屋 ・ 大 阪 ・ 郊 裁
ワーク、たくさんの居場所(公図、銭湯、
ス・モl ゲ ー ジ 制 度 に よ る 高 齢 者 世 般 の 収
本研究では、日本における住宅デザイン
喫茶底、路地等)からなる。それは、これ
留
m
m
ケート、関連資料の収集により、変遷研究
における資料の収集、利用、保管方法の実
態と問題点を把握した。次に、今後の資料
保存とリスト化のあり方を考える会議を開
催した。以上の成果をもとに、資料の散
逸・滅失を防ぐための現災的なアーカイブ
ムの変革、アカウンタビリティ等が今日的
の保管場所を別途確保すべきであることを
資料散逸・滅失への緊急対応策として共有
イ ン タi ネット上で共有すること、また、
提案した。
諜題となっている。本研究では、公共なら
とし、資料の所在情報をデータベース化し、
主 査 H古阪秀一一一
委員計金多降、杉本一誠て
森本均、
隆雄、
とリスト化のあり方を示した。まず、既往
の多様性を狭めてきた日照鋭について再考
久l
E博
研 究 院8825
入増加の効巣を明らかにした。
スは、日拍住者のいろいろな相互関係を成立
1 1
研究論文からの読み取り、研究者へのアン
ふれあい住宅という公営コレクティブハウ
環境﹂について、居住者の意識や行動との
させており、それは、つづきパルコニ i の
殺事与恒
加l小 真
藤凶鏑
びに民間において住宅生産システムの諸課
調資し、その強穫を行なうこと、学際的原
題に対して現在取り組まれつつある動向を
ムの革新の可能性を検討すること、さらに
それらの考え方を呉体的に適用して住宅注
則一を持ち込むことによって住宅伎克服システ
済効果をミクロ的に分析することを目的と
釘的とした。さまざまな認題に対して、住
業の変革のシナリオを仮説的に描くことを
リバース・モi ゲl ジ 制 度 を 挙 げ 、 そ の 経
している。まず、高齢者世帯の経済生活状
宅生産システムに生じている新しい動きに
況と生活意識について考察した。次に、リ
バース・モi ゲージ制度の必要性をはじめ、
f
f
!]t
委主
を提案した。具体的には、資料は分散管理
f
下旬
一之
日本の住宅緩業は現在激動期にあり、生
:
p
産性の向よ、建設コスト縮減、生産システ
I
l
i
住宅生産システムの革新による住宅
産業構造の変革研究
ら一ニ側面の相友達郎向性に特徴がある。汽︿野
関係を把援することが目的である。このた
ような変間部の特徴と住み手間の対面状況
明るさ、綬かさ等も含めた総合的な﹁日開⋮
め、五都市でアンケートおよびヒヤリング
で話されるコミュニケーションが繁務に結
する手だてを得るため、日照のみならず、
調査を行ない、住宅内での日照環境の実態
び合わさっている。
に、居心地の良さや庖場所形成の要因を総
ー
主査日劉銑鐙
委 員 H小嶋勝街、 根上彩生
~t l
齢者の経淡約な生活安定を限る方策として
本研究は、高齢者の持家を利用して、高
字於崎勝也
l リ バ ー ス ・ モ │ ゲl ジ 制 度 の 経 済
効果分析
高齢者の持家を活用した生活安定に
関する研究
研 究 臨E824
や日照環境に対する欲求等を尋ねるととも
合的に尋ね、それらに占める日照環境の葉
姿性を分析した。地域性、生活様式、行為、
季節等により重要と意識される臼照環境が
異なること、北側でも涼しさ・利便性・広
さ・しつらえ等の要因により殿場所が形成
されること等が開明らかとなった。
研 究 胤S823
高齢者の﹁安心・自立居住﹂を﹁まち﹂
で支える﹁地域カ﹂の実践的研究
[ilコ レ ク テ ィ ブ タ ウ ン ・ モ デ ル の 提
案に向けて
主査 H延藤安弘
委員川け{悶凶悠司、乾官了、森永良一内、
森詳子、大森靖子
松
大
五十嵐太部
一思想・歴史 e解剖
を響え
住
16
羊
?
住について考えるための基本図寵
住総研図書室だより
ヴィク卜 J
(.,・ユーコー「幽霊屋敷」
アンソニー・ウィドラーイ、気味主主主築J
脱臼 t
l
!
,
J
日
正
会I
'
Jより
O
禽西洋の思想と住宅
住宅は最も入院に接近したビルディングタイプで
ある。当然、住宅は人間の身体や精神に大きな影響
を及ぼすだろう。Y-F・トゥアンは、西洋におい
て住宅の内面が重視された時代に精神分析家は登場
し、フロイトの考えた自我の構造に中産階級の家が
反映していると指摘した。なるほど、地下の貯蔵室
はエス、居間は自我、屋根裏部原は超自我に対応す
るし、ユングも家の垂直方向の断面を意識の階層と
︽態洋住宅史の本︾護本図書リスト
刊社・*印を付した凶ポげは住総統同問主主に所蔵しています。
*-Y-F・トゥアン吋個人笠間の誕生食卓・家屋・
L(
ふ入品切
劇場・世界﹂(阿部一訳)せりか書房、一九九一一一年。
政・滋{本洋一訳)山総丸山版会、一九九八年。
*・アンソニ l ・ヴィドラi 吋不気味な建築
*
・ J ・リクワ!ト﹁アダムの家建築の原裂とその展
関﹂(県石いずみ訳)鹿お山山版会、一九九五年。
五年。
西洋の都市住居
*-N・ショウナワ l ﹁世界の住まい六000年 3
L ( 三村治史監訳)彰司担、一九八
重 ね 合 わ せ て い る 。 パ シ ュ ラl ル も 地 下 室 の 非 合 理
一九八七年。
jI
ノ﹂﹄ノ白一ノー
LL-一cro
鹿島
L
4
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E
-ロツパの木造住宅 L駿々堂出版、一
*・太初邦夫 J
較研究﹂相"収書一版、一九八八年。
架橋形式の比
山小・大出邦夫守家ヨ i ロッパの木造建築 i
。
出版会、⋮九七O年
s ・カンタクシ iノ吋ヨーロッパの住宅建築
*
・
・川島小山次﹁絵で見るヨーロッパの民家﹂相撲さ一版、
*-M&A・。ホiタ│﹁絵でみるイギリス人の住まい
1 ・2巻 L ( 宮内怒訳)相模書一版、一九八四/八五
省賞、一九八八年。
太小屋からポストモダンまで﹂(小野木重勝訳)三
*・レスタ l ・ウォ lカ ! ﹁ 図 説 ア メ リ カ の 住 宅 1丸
幸一⋮他訳)鹿島出版会、一九八一年。
*-M・M-フォーレイ﹁絵で見る住宅様式史 μ ( 八木
性と屋根の合理性を対比する。とすれば、住宅が精
むしろ住宅をメタファ!として精神の構造が想像さ
神の構造に似ているから両者が符号するのではなく、
れているのではないか。フロイトと建築史家のヴィ
ドラlも ﹁ 不 気 味 な も の ﹂ の 概 念 を 考 察 し つ つ 、 気
楽な(国田昌にわ民)家の内部にこそ不気味な
(dZ出 盟 百 口 。 出 ) 場 所 が 現 れ る と み な し た 。 こ
れも壁の'災に塗り込められた秘密の部屋があると感
じさせる西洋の家屋構造に出米するかもしれない。
人類学的なアプローチはしばしば家屋に投影された
と住宅の交差も興味深いものだ。
共 同 体 の コ ス モ ロ ジlを 読 む が 、 こ う し た 精 神 分 析
古代ローマのウィトルウィウスやル、不サンス期の
アルベルティなどの主要な建築書をひもとけば、と
りあえず各時代の建築家による住宅像を知ることが
玄
︿阿見戸﹀の
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ついての記述が散見されるが、逆にジョセフ・リク
できる。それらには実一社性を伴わない原始の小屋に
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家
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∞ 閉山の開閉山'戸開︿閉山﹀白戸、吋(部品一部所蔵)
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ワ ! ト の メ タ ヒ ス ト リ ー ﹃ ア ダ ム の 家 ﹄ は 、 ロl ジ
エやル・コルビュジエらを合むこうした起源の家を
のペ d
nhu
住宅への想像力が米米の建築への推進力になったか
たどりながら、各時代の建築制慨を分析した。過去の
し、小屋組を木造にする溜慣は強く残っている。な
宅は激減し、石造や煉瓦造の建物に代わった。しか
3
J
お 、 住 総 研 図 書 室 は 、 パ ナ キ ュ ラi な 住 宅 を 記 録 し
閉
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E﹀Zわ民間
た時追わ自民2
らである。以下に西洋の住宅史を扱う書物を紹介す
るが、その数が多いために、モダニズム運動の後は
畿イギリスとアメリカ
、えていヲ hvo
cm﹀ HUO℃C戸﹀閉山閉山ω℃﹀ZOF﹀ などのシリーズを山州
Je
外して日本語で読める文献を中心にしたい。
勢ヨーロッパの住宅史
まずは大きな図版を特徴とする読みやすい入門書
を幾っか挙げよう。全体の通史的なものとしては、
5を ) ﹀
(U{
︺門戸﹀一戸]ミ zizt
*-R︾刃ρc一﹂,刊
mの
ベ C沼 ︾ 明UO刀C ﹁︾沼 mω
国﹂日本紙済新聞州任、⋮九八二年。
υ︾之O ﹁︾=(八i
明
・鈴木間之吋ジェントルマンの文化!建築から見た英
-N- ベブスナl ぷ美術・建築・デザインの研究 1 ・
L(
小野悦f以)仏文
2巻﹂(鈴木間之ぷ)鹿ね出版会、一九八O年
。
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e 冨のカントリー-ハウス│資族
英
-H・ブラウン﹁英題建築物語
小
、 41u:
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21
*-M・ジルア!ド
の生活と建築の鐙史上・下ら(森山川﹁訳)住まい
o
ネ -A-クワイ一一!τハウスの歴史・ホ l ムの物語 1l
イ
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L 尚武美術然、
館山山版川、一九八じ年。
イギリスの郊外住宅i中流箔級のユ lトピ
JVJ
アい住まいの凶
*・片ト念作
一九八じ年。
コフリティッシュ・スタイル一七O年
以)休まいのMAぬ出版川、一九九五年。
、
山杉山科、ゴシック・リパイパル、労働者階級の住宅な
鈴 木 博 之 とN ・ ペ ブ ス ナ ! の 著 作 は 、 パ ラ デ ィ オ の
、﹂こではイギリスとアメリカの住宅史を兄ょう。
や﹃絵で見る住宅様式史﹄など、鴎別では図解の特
t俊 氏
ギリス住宅の原型とスタイル上・下い(花 m
3 西洋の都市住居﹄
徴を活かした﹃絵でみるイギリス人の住まいいや、
ど 、 さ ま ざ ま な テi マ か ら イ ギ リ ス の 住 宅 文 化 を 考
﹃世界の住まい六000年
イ ン デ ィ ア ン か ら 字 街 (1) の 住 宅 ま で を 様 式 ご と
祭する。
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山口 hHい
民
,d A L L Lド
っ沿
u
tM
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I-h-)/jf
解説した﹃図説アメリカの住宅﹄などがある。そし
スいは、大陸からの古典主義の影響を分析しながら、
・ジルアi ド の ﹁ 英 国 の カ ン ト リ ー ハ ウ
て川島儀次の﹃絵で見るヨーロッパの民家﹄が各国
生活様式の変化とカントリーハウスの関係を考察し
た。これが地方の上流階級の邸宅を扱うのに対し、
M
ごとに民家を紹介している。いずれもカタログ的に
住宅史を眺めるのには便利な本である。
1
J
:
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よ
院、一九八五年。
AAH
消費のメカニズム
L
往まいの同書飴山版川、九八
*・拠出抗人寸アメリカンホlムの文化史 i生活・私有・
政均出版会、一九七八年。
*-v・スカiリ│﹁アメリカ住宅議﹂(糸口ほ近武沢)
ネ-八木しゃ二・山中伴子吋アメリカ木造住宅の旅い丸ぷ川、
一九九二年。
究所、一九じじ年。
iコンサイスガイドし(い谷川火社訳)HICPM研
*・J-M-ベーカー吋アメリカン・ハウス・スタイル
野間以)介上
*-R-w・フランスキル吋イングランドの民家﹂(片
*-R・フィソシュマン日ブルジョワ・ユ iトピア!郊
A ・クワイニ l の ﹃ ハ ウ ス の 膝 史 、 ホ ー ム の 物 語
問中、!
h
もちろん、各種の西洋建築の通史は住宅も合むが、
s
外住宅地の盛一愛人(小池山刊fM仏)助平井ぽ、一九九
εカ
は、庶民の都市住宅史であり、土地・法律・建設を
エタ
O ロ
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どうしても最先端の技術や表涜を駆使した宗教建築
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めくる制度を輸にしてテラスハウスの誕生、スラム
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や公共施設の記述が多くなり、変化の少ない普通の
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ノ
、
の対策、労働者住宅の問題などを論じている。﹃ブ
1
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S- カ ン タ ク シi
印
家はあまり触れない傾向をもっ。
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ノの﹃ヨーロッパの住宅建築﹂も、住宅の袋一本的な
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戸
│
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円
構成をメガロン型、中庭型、無一計画成長型の三つに
分類しているが、言及する対象は城と宮殿、別荘や
大邸宅など裕福な人の住宅に偏っている。一方、太
﹃ヨーロッパの木造住宅いは、架橋形式に注目し、
THEP
U
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A
N
メ
│
悶邦夫の一連の著作吋来ヨーロッパの水造建築﹄や
水浩一の住宅を紹介するが、東欧に詳しく、しかも民
家や農家などの普通の住宅を山霊的に取り上げている。
有名な一六六六年のロンドン大火などの被害の大き
さから、近位以降の法律改正により都市部の木造住
ヌノレ
「コオ
尖する流れを追う。そしてR・フイツシュマンは、
た中産附級の理想の住宅探求から問溺都市運動に結
片木篤の﹃イギリスの郊外住宅 ι は、近代に査場し
一九社紀以降の住宅史を理解するのに役立つ。また
リ テ ィ ッ シ ュ ・ ス タ イ ル 一 七O 年一民のカタログも、
受けた桜山丸山下の本を幾っか紹介しよう。
ト・エリアスらの視点が興味深い。これらに影響を
における日常の行為を分析した初会学者ノルベル
研 究 し たp ・ ア リ エ ス を 含 む ア ナl ル学派や、 室内
なな味を論じた。往築以外では、﹁子供﹂の附脱皮を
機や判明機など、家庭の機械化とデザインのお会的
E
イギリスからフランス、アメリカに旧民間間した郊外住
拠
ι 出直人の﹃アメリカンホ│ムの文化山台は消自社
ル・コルビュジエ派攻染という政治的な意図をもっ。
タイルを定義して現代建築への連続性を指摘したが、
カl リi は 、 ア メ リ カ 的 住 宅 様 式 と し て シ ン グ ル ス
ルいなど、問解の概説者が幾つか存在する。
V- ス
アメリカの場合、﹃アメリカン・ハウス・スタイ
の文化史﹄はベッドをめぐる笠間史として読めるし、
リックの境界線を再考する試みといえよう。﹁寝室
衛生総を示すものだが、同時にプライベート/パブ
変化と空間の関係を分析する。両者ともに各時代の
代のアバルトマンへの浴室の導入など、入浴溜債の
の状況を抗く。吋清潔になる︿私﹀﹄は、一八八0 年
使用など、いわゆるトイレが室内に設汚される以前
は、白山放尿や穴あき椅子の
会との関係からアメリカンドリームの象徴として住
やはり他人主義やプライバシーの概念と無関係では
h
宅 を 読 む 。 ア メ リ カ の 住 宅 は 、 ヨi ロ ッ パ の 影 響 を
こうした態度を建築側にフィードバックした研究と
あり、えない。﹃ム口所の文化史 ι も日常空間を考察する。
﹃トイレの文化史
受けながら、生産の合理性を追求し、やがて大量消
宅地という近代的な問題の行方を考祭する。
波文化に組み込んだ。例、えば、よく知られたA-
D ・ハイテンはフェミニズム的な視点か
グ的な資料としては、 3ECCω 何日開山 へ
J 宮﹀門戸コがあ
た 。 二O 佐 紀 初 頭 の メ ー ル オi ダl ハウスのカタロ
カ的な、ゴシック風什叫んもと郊外生寸前の神話を流布させ
1 ・、タウニングの建築書は、一九社紀後半にアメリ
合せはさまざまに変換した。そして一二世紀の情報
た装涜の集合体ではない。時代によって装置の組み
る現代集合住宅も分析した)。住宅は必ずしも同定し
己防℃自︿何一司などがある(最近は有名建築家によ
しては、 M ・エレブらの
E
H
d見切ω己防戸﹀
﹀見わ出出回。-
る。一方、
苧命も家庭製品と住宅の大きな変不をもたらすだろ
。
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川町市山
工北卜山風太郎/いからし・たろう
芝泌仁業大学・点目爪明科大川 f・明治学院大山千
ド
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21
ィヴヴパ"
⋮九九O年、米京大半i学部後築学科卒業、
州大山下院間十一課松山小佼収符退学、工学的士。
近代宗教処築史を併比九しつつ、引世代処築・都
市の批評を行なう。ウェブトム(宮門司、言者戸
FR52 OM問)でも治動を同出納する。丸
、
町
門
山間同則的何
問委長会委只。
円
コ
ら資本主義が生産する担問的な性差を批判しつつ、
それに代わる家事と住宅のモデル探求の朕史を姉く。
住宅は生活の誌である。ゆえに、もっと微視的に
畿住宅の解剖学
人間の動作と直接的に関わる住宅の装訟も考えるべ
きではないか。これは住宅の各部分をばらばらに解
体し、内側から住宅を凡なおす作業となる。デザイ
ン 史 で は 、 ギl デ イ オ ン や フ ォi テ ィ の 研 究 が 洗 浪
ム
山小・﹀}ロO戸12ロ
叶之内︾刃の工一↓ 刊
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-D・ハイデン町家事大革命i アメリカの住宅、近隣、
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wf他訳)勤 主 ぽ、一九一八五年。
口美
都市におけるフェミニスト・デザインの歴史
のの歴史ヒ
(GK研究所他訳)鹿島川版会、一九じ
*-s・ギl 一アイオン﹁機械化の文化史iものいわぬも
じ年。
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12w∞O U (いけ川丸一中一九訳)出品丸山版会、一九
*-A・フォ iテイ寸欲望のオブジェjデザインと社会
九二年。
-N ・アリエス﹁宮廷社会﹂(波川町山火・山川正勝
以)片山政大中川版川一九八一年。
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松浪未知靴訳
けん山雅俊訳)M文館、⋮九九例年。
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口上
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・ J ・ウィガレロ可清潔になる︿私﹀身体管獲の文
化誌
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打、一九九O年
*
・ P ・ディビ﹁寝室一の文化交
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小 林 仙f訳)
*-R-n・ゲラン吋卜イレの文化史﹂(ト八欠ヤカタカ
訳)筑附庁山古川川、一九八七年。
九九仏政大中山版川、ぬん九一一一司
*・モリi ・ハリスン叫台所の文化史
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叫
No.4
一二月i一
一
月
﹁アジア住宅交流フォーラム﹂委員会の
版ではコ一口同齢者のすまいづくりシステム委
幽、予想を上回る応募があった。また、出
討・分析のないまま結論を急いだもの、あ
の、データの解説に終始し、突っ込んだ検
った。研究目的と結論との議離が大きいも
は終わらず、事務局を慌てさせる事態とな
として、力作ぞろいであった。
大切さがあらためて認識された。記事全体
視点で兇ると、﹁問地(端としての住宅史﹂の
﹁中古住宅再考i 流通市場が未整備
の中で﹂ i11
夏号企部
員会﹂の吋ハウスアダブテlション事典ぺ
るいは、事象の説明に終わり、見山内録の域
を出ないものなど、放しく評価された。毎
叶アジア建築研究﹄の発刊が挙げられる。
特集テ!?は標記に決定した。住まい手
識/隆史的な所有形態/海外比絞などから
が一般的に抱く﹁中古住宅観﹂をよい方向
徒一一一一同を試みることにした。ミニシンポジウ
回のことではあるが、各委員の評価は納郎
中に﹁選考したことに問題がある﹂とい
に導くために、住宅政策/住まい手の意
う自戒の一音楽も混じって、論文一つ一つが
ムテiマは、﹁変、えられるか﹃・中古住宅
は別として、見事に一致することであり、
ニ000年度は、創立五O年を契機とし
綴いi流通市場が未加設備の中で﹂として、
000年度の活動
一会のニ lズに応える新規事業
社
の推進
て、財団設立の理念に立ち戻り、すまいに
慎重に議議された。結問木は主交との折衝を
講師仰に、大野勝彦氏(大野建築アトリエ一
委員構成の巧みさを実感する。
関する社会のニiズに、より的確に応える
経て﹃研究年綴ニ六口ゴに論文と共に掲絞
えて一一000年度へ向けての展開があった。
一九九九年度の活動は、従来の活動に加
開を廷に推進する。一方、研究者には助成
おり、抽出のフォーラムでは一般市民への公
会﹂へ、アジアから﹁関係﹂へを構想して
活動を発展させ、高齢者から﹁少子高齢社
﹁超長期伎宅需要の展望﹂、地問州大成氏に
かえす倒人のための住まい﹂、伊豆宏氏に
文執筆を、西川祐子氏に﹁総合集散をくり
賎伎の未米像﹂の共通テi?で、昨年、論
﹁一二股紀少子高齢社会における家族と
淀川棚は本
ω
吋1
1ジ
に仰向山判。
カッションを行なうことが決定した。
ゲ
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第引図すまいろん綴築委員会一月二 O日開後
﹁異端としての住宅史﹂
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冬号を省みて
住宅史における異なったジャンルからの
プロジェクト委員会
一一月八日間開催
なもの、研究者としての環論的なものなど、
の多分野から、 4
r
d
市中考としての実践報告的
教湾・建築・都市計画・美術・図芸など
あり、そのうち二九編の論文が集まった。
期間﹂論文公募は、四五件の執筆申し込みが
各学会誌で呼びかけた﹁住まい・まち学
二九一樹の多彩な ﹁住まい・まち学習﹂
論文集まる
第5回住教育委員会
第8団住教育委員会
一月一二日隠岬唯
執筆陣は、 m
mべiジの次け予告参 m
m。
して掲載される。
された。ここでの講演と討議内容は記事と
可会として松村秀一氏(東京大学)が推薦
級建築士事務所)、山崎福寿氏(上智大学)、
ための研究や実践活動を支援する。
効成卒業は、応募者にとっての選考過抑制
﹁コミュニティーと裕祉﹂を委託した。シ
lij第二O 回 住 総 研 シ ン ポ ジ ウ ム
二O世紀から一二世紀ヘ i lム家一族・
すまい・コミュニティの未米を考える
される。
研究開速の具体策としては、研究助成特
別枠に﹁木造一戸建住宅﹂の設定、勺マンシ
ョン火規模修繕の事例集﹂の発刊、﹁住宅
図面のデジタルアーカイブ﹂の設援などで
の透明性を確保するため、応募要項を全両
卒業のほかにも、﹁住教育﹂で試みた研究
ンポジウムは三氏の講演に引き続き、広間保
ある。また、フォiラム活動は、昨年度の
改定するとともに、社会から要諮されてい
発表の相場を設けることなどにより、研究成
﹁A
γ年はレベルが低いのではないか﹂の
氏肌明委員のコiディネイトでパネルディス
ながら、研究が的確に応じられなかった分
開という点で特筆される。一方、﹁住教育
第一戸に始まった得議は、予定した時間で
iii一九九八年度研究論文一計二五編の審議
辛口の評続出
第幻図研究運営委員会
常設委員会
果の普及を支援していきたい。
社会のニlズの把擦と研究動向調査を通じ
いきたい。
て、新たなテ!?の掘り起こしを行なって
フォーラム活動では、世間谷区のまちづ
くりセンターと共催した﹁これからのマン
ション選ぴ﹂、﹁江戸東京フォーラム﹂の
フォーラム﹂では、論文募集・発表会を企
﹁地域雑誌からみた向﹂が一般市民への公
一月一九 B開催
野を支援する、特定分野を設けた。今後は、
二000年度へ向けて
活動機況
ws
関匪
L監TT
富
良
多彩な内容となった。
論文発表会での発表者選定にあたっては、
①テ!?と対象の重要性、②視点・仮説、
方法の新機材性、③調査・検註のユニーク
﹁住まい・まち学習﹂論文発表会
三月
日開催
﹁住@まちづくりフォーラム
かわら販問号﹂発行
パi テ ィ ー を 開 催 し た 。 は じ め に 、 稲 垣 栄
三氏から会一討を、そして鈴木成文氏から乾
杯の挨拶を項裁し、会なかばには、中川武
全国各地から集まった学校教脊・建築・
の 取 り 組 み ﹂ ﹁ 学 校 と ま ち を つ な ぐj 地 域
﹁総合学習導入に向けてテ!?タイム
から挨拶があり、委員会の経緯や書評に対
れた。最後に、各委員に続き村松仲委員長
氏と八来はじめ氏からも意見をいただいた。
都市計画・造闘などの研究者・教師・プラ
と教師の協働﹂﹁中・高校生の居場所づく
当 日 は 、 予 想 を は る か に 上 回 る 一 O O名 余
合理性、⑥全体的な商白さ・方向感覚の六
ンナー・学生・まちづくり活動家など、分
り﹂の一一一テ!?について、講演と参加者全
昨年一一月に、﹁まちが子どもを育てて
つの視点をもとに検討した。その結果、
野 ・ 立 場 も 多 彩 な 六O 名 が 集 ま り 、 住 教 資
体で行なった壁新聞づくりワークショップ
これからの﹁住まい・まち学習﹂を
めぐり多彩な討議が展開!
小・中・高校生を対象にした教育現場での
関係者が一堂に会する貴重な機会となった。
の方々により、賑やかな歓談が繰り広げら
実践的な内容、海外を合めたプログラムの
公募で集まった二九一編のうち、さまざまな
いく総会学習導入に向けて﹂と題して行
検討、大学での建築・都市計画などの専門
切り口の一 O 編の
なったフォーラムの記録版。
家教育、学校・地域との迷携のあり方、ま
発表が行なわれ、
l
を
一月二八日開催
誕
生
員(向社会情報研究所)、富沢達一一一氏(神
フォーラムになった。
C
研究から﹁ニュース﹂を向い直す学際的な
美術史、歴史学、歴史社会学、メディア
の紹介があった。
DiROM化 さ れ た 小 野 秀 雄 コ レ ク シ ョ ン
て明らかになった点が発表され、変に、
それぞれの専門分野から、展示をめぐっ
情報社一界﹂の企画者たちでもある。
﹁ニュースの誕生i か わ ら 版 ・ 新 聞 錦 絵 の
大学総合研究博物館で開催された展覧会
奈川大学常民文化研究所)で、昨年、東京
念し、財団創立五
として、出版記念
o
m凶年卒業の一環
された。これを記
版助成も得て刊行
二月に当財団の出
研究﹄が、昨年一
した﹃アジア建築
なって執筆・編集
委員会がや心と
一OO名余参加で盛り上がる
一一月五毘開催
二氏(同大学院人文社会系)、吉見俊哉委
北原糸子氏(同社会情報研究所)、佐藤健
木下直之氏(東京大学総合研究博物館)、
ー
きたこと﹂という演題で開催した。講師仰は、
かわら版・新関錦絵の情報世界から見えて
L 展と江戸東京学
ス
の
第川山回江戸東京フォーラム
こL
﹁叶ニュースの誕生
関学
い際
直的
すに
アジア住宅交流委員会出版記念パーティー
nベl ジ ・ 無 料
A 4判-
する意見などが総指として述べられた。
ちづくりにおける行政や市民としての論文
を通し今後の展開を採っている。
など、分野・立場のバランスを考慮して、
全体討論では、
﹁住まい・まち学
るために、その学
また、論文発表会への参加を広く呼びか
習効果をどう評倒
ー
-,含"尋リh
習﹂を広く展開す
として、全体討議・交流をも大切にするこ
していくのか、と
いうことにまで話
が及んだ。
予告一
﹁住まい・まち学習﹂論文集発行
1
2
まち伊予四亀努",.<
‘
?
掌
け、さまざまな分野・立場の方の討議の場
一一一織の発表を依頼することになった。
さ、④実践性・当事者性、⑤分析・論述の
かわら版 1
2号
パーティー会場風景
とになった。
シンポジウム/フォーラム関寵
﹁すまいろん﹂審号のミニシンポジウム
一一月一六臼開催
再検証地域からのまちづくり
﹁住まい・まち学宵﹂の公募論文全編
(二九編)と、発表会当日のこれからの
日アi マ は 、 ﹁HOPE計画を検証する﹂、
﹁住まい・まち学資﹂についての討議内筏
を合わせて発行する。
講師は、林完治氏(林完治設計事務所)、
山和俊委員(東京芸術大学)で、講演者と
編集住教脊委員会
山石間司氏(建設省建築研究所)、司会は片
参加者を交えた討議が行なわれた。詳約は
発行時期一五月初旬
A 4判 ・ 約 問 ペ ー ジ
本号に掲紋。
ャ内雰・発行日等は予定です。変一史が生じる相場
合もあります。
論文発表会会場風景
つくる会による吋まちづくりがわかる本い、
、小
仕掛川出回江戸東京公開岡市民フォーラム記録発行
h
品明子氏の守人間らしい住まいとまち-つく
大戸徹氏の﹁まちづくり協議会読本
好評を符たフォーラムの記録
﹁地域雑誌からみた時﹂
れた。これからも、被磁的に収集していく
q
ぼくたちのまちづくり九などを交け入
りし、そして協川総一氏による四巻組の絵
予定である。
本
森まゆみ委員(﹁小竹中・必津・千駄木﹂)、
図慈愛案内
昨年一月に、池域雑誌の、ポネおたち、
野口山紀子氏(﹁武波野から﹂)、大野順
、ふ打
立山川上正予氏(﹁ここは午込、神山川米収﹂)、
ノ
子氏(﹁町雑誌千住﹂)に集まってもら
﹃
上記の書籍は丸持株式会社から発売。
小
旧
話
一 03327210521
問い合わせ一九務総出版卒業部
一
FAX 03!3274!0551
研究論文 Mmg582発刊
北東アジアのツングl ス系諸民族住居に関
する歴史民族学的研究l i累議江省での潟
査を中心に
集成、﹁今ト H資料からみた北京アジア什山
は北東アジア諸民絞の住宅に関するぷ紋を
﹁正山丸一氷点伝にみえる住まいのぷ揃﹂で
代点二次川滋削刈(京共同史文化財研究所)
記録ができあがったので、光有五O名の希
問、創立記念日日一一月六日)
闘の休日(文字・冬季の休暇矧
山中し込み(初当一鈴木)
〒ml附 東 京 都 依 問 谷 区 船 橋 4 l m 8
屯約一 03348415381
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山
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印
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臨一割商業内
﹁まちづくり﹂関係際書が増える
刊以近、﹁まちづくり﹂に関する交け入れ
図欝{亙推薦
陥没日が多くなってきた。浦安まちブックを
.
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初間資格一一八歳以上の方
肝制定、﹁川沿能江行におけるツングl ス系ぷ
民族の什山川﹂では山小山穴住 山
M 、テント住川、
川﹂では北京アジアにおける住似の泌聞を
臣
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防法写一コピーは⋮枚一 O円
83wO℃缶詰再-Y仲間出一
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たします。
﹁時半通信社﹂に訂狂いたします。
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f只下段、﹁時半緩一村山社﹂とあるのは、
じつ﹂に訂正いたします。
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しきこじつ﹂とあるのは、﹁ゅうそくこ
担
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ペタミ乃
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した。次のように訂正し、謹んでお詫びい
前口ザ(二000年冬日三に誤りがありま
お詫びと訂正
A 4判門・山間べ i ジ・本体制北川2ioo川
品川を論じている。
M
仙台の特徴をに述・解釈するとともに、
附
川
利
似
川
市 γ白からみた川沿能江行判例川族住川仙の系
の位以とたい治﹂では集孫、什山川、川伯作品悼式、
一千地住民の特伐を論じ、﹁県能、仏行川判鮮族
研 究 年 報26号
資料の貸出はしない
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計十山山パコ H
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新刊刊行物のご案内
住総研﹁研究年報札問m
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⋮九九八年度の助成研究二五編、一九九
九年度のシンポジウム記録・委託論文三一編
を収録している。わが町出の住研究の水準を
示すものとしておい汗術を得ている。
A 4判・捌べ!ジ・本体価終 4 5 0 0円
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望者に賊足する。
い、公開市民フォi ラムを開催した。その
間安時間一九一一一一O i二ハ一 0 0
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フォーラム記録「地域雑誌からみた田J
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次号予告
2 8 8 B年一真田守
六月一五日発行
iii
流通市場が米整備な中で
特 集1変えられるか﹁中古住宅観﹂
︿伊川占。
﹁ム中古住宅観﹂告かえる
服部本生(千葉大宇)
︿ミニシンポジウム﹀
抑止えられるか﹁中古住宅観﹂
1ll
流通市場が未整儀な中で
大野勝彦(大野山叫築アトリエ一級筏築士事務所)
山崎福寿(上旬大学)
-川会一松村秀一(東京大学)
︿
抑
止
口
﹀
中古住宅を取り巻く法体系
八野行正(住宅金融公印)
住まい手の窓談
八山川迷土︿(東京大学)
近世住宅の所有形態
小嶋節子(大阪市立大学)
海外の中古住宅流通市場
小野迎代(岐阜女子大学)
21まいのテクノロジー﹀
住み継ぐ
内山川祥十ム(東洋大学)
︿私のすまいろん﹀
住み方の記
坂崎休明司(エソセイスト)
︿ひろば﹀
鈴木容一(アユミギャラリー)
︿すまい再発見﹀
昭和初期から住み替えが続く町家
関河双山田(谷中学校)
︿凶書室だより﹀
住教育
小漆紀美子(東京学芸大八一ナ)
タイトルは仮題、品問明下名は交わることがあります。
︿住総研ニューズレタi﹀
趣旨
世紀へ
l i 家族@すまい@コミュニティの未来﹂
二O世紀成長システムの終潟は、二一世紀における日本の社会構造の歴史的転換を予測させる。それを象徴する事態が﹁少子
高齢化﹂の急迷な遂行に法づく﹁人口減少時代﹂の到来である。
このような人口の質量両面にわたる急激な変化は、右一局上りの人口増加と抑制市集中を前提としてきた戦後日本の住宅・都市政
ミュニティレベルではハードな住小川 73
問とソフトな住サービスの新たな関係の構築を求め、第三に都市・地域レベルでは住宅需給
策の抜本的再検討を要求する。それは、第一に住宅レベルでは家族の形態と伎一一 lズの構造的変化をともなっており、第二にコ
﹁篠かな未来を展望するためには隆史を振り返らなくてはならない﹂といわれるが、本シンポジウムでは、ニO位紀の家族・
関係の根本的見班しを要求するものと思われる。
住宅・地域福祉の領域で豊かな経験と学識を有する三人の練達の専門家をパネリストに招いて、二一役紀における家族・すま
一三・ 0 o j 一七一 O O
い・コミュニティの未来を展望する。
日時・七月七日(会)
司会H
宏(前掲)
祐子会別掲)
盛明(京都府立大学名誉教授・竜谷大学法学部教授)
会 場 一 建 築 会 館 ホi ル (東京都港区芝五T 目 出 番 加 号 )
パネワストリ西川
討議
伊豆
広原
-西川祐子(京都文教大学人間学部教授)
講演(委託論文執筆者)
増田
﹁近代文学にみるこO世紀の家族とすまい﹂
﹁
一
一O世紀から一二世紀の住宅需要を予測する﹂
伊豆宏(明海大学不動緩学部教授)
o o - - 0 3 6 6 3 9 財団法人住宅総合研究財団)
大成(前掲)
地問山大成(生活協同組合コ lブこうべ名誉理事)
﹁一二役紀福祉ミックス社会をめざして﹂
J
参加資一段一一一OOO円・学生一 000円
申し込み郵便振込(来
﹁すまいろん﹂のご購読について
@発刊日は原則別として、冬悶す一月⋮六日、
春号四月一日、支号六月一五日、秋口す一
O月一日です。したがいまして、送付開
始は、購読料受領後の最新号とさせてい
ただきます。なお、購読予続きには約一
週間かかりますので、お含みおき下さい
e購読満了時にご一法知いたしますので、引
き続きご購読いただきますよう、お願い
申し上げます。
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ております。ご希望の方は、あらかじめ
在庫の有無、送料を左記財団まで、ご確
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、えさせていただき、財団からは改めて発
行いたしません。
備陣購読期間中の購読中止による購読料返金
はいたしません。
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﹁すまいろん﹂は次の庖頭でも販売しており
ますので、ご利聞ください(硲一政での予約
購読の受け付けはしておりませんて
@ 建 築 学 会 資 料 頒 布 所 滋 区 芝51Mmlm
幻
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電話 (03)3456205
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(03)329i338
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振込締切日六月二一二日小
(金)・先着順にて、定昌一一五O名になり次第締切
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お問い合わせは、財団法人住宅総合研究財団﹁シンポジウム﹂担当まで
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議演の泌題、パ、不リスト等に変更が生じる場合もございます。
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「第
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ハ叫
円
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ストリート、テラス八ウス Jて一夕、ティー
ロンドンにおけるライフスタイルをもとにした住まいのあり方
日ミと一文/福井裕司
超越的なものとのつながりにおける狩怒や状態を
続ける流動的な人間の常みと、さらに自然という
建築が、人間という生命体や時間とともに歩み
ン は 渋 観 の 規 制 が 厳 し い た め 建 物 の フ ァ サl ドに
も目立つ控物や日印があるわけでもなく(ロンド
り鮮明に党えていることもしばしばある。必ずし
訪れたことがない場所でも、持ぴ訪れた時にかな
いためか交通上やや国難な断もあるが、了反しか
建物内部からさらに奥に突き当たれば、その先に
床、問料品、天井、設備とも古ければ一新してしまう。
は滅多にないため、川米の往物を川い、内部は、
るのとは大きく呉なる。もともと新築という考え
宅のよ、 7に
ん
本 一
HM ハや電化製品で個性が発揮されてい
う。建築物は人間のアクティビティや け
r 然という
い込みの作業としてそこに笠場してくるのであろ
ートはパブリックな笠間でほ名的でもあるが、側
気の連続性を体感するからなのであろう。ストリ
はあまり特徴がない)、経験的にその場の持つ手間
のストリートの家の庭が銭に映ったように向かい
両隣りの家の庭が境問見、ぇ、前方には一つ向こう
ない場所である。しかし低い塀を挟んでな布には
必ず庭がある。当然ストリート側からは全く見え
生活という流動的ストーリー
指し示すものだとすれば、建築物というものは問
ものなくしては、取に問聞かな冷たい叩俗であり、そ
々に名前があるように場所的にもアイデンティテ
えて前方まで空間が連続的であるため、それら全
合せで見える。一一階、三階から眺めれば左布に加
こには何の出米一やも起こり得ないであろう。しか
ィや独自の引分間気を持ったものでもある。家の前
!とは、快適性や利便性に法づくものではなく、
間的つながりが感じられる。
部が一つの大きな隆のようでもあり、周囲との笠
が配置されているといった感じである。利用者は
や彫刻などといったものはなく、自然の業材のみ
日本の公闘のように人を引き寄せるための遊具
パーク
れることなく流れる時間とともに、時には厳しく、
にデザインされているわけでもない。あくまで気
パーク自体が楽しさや美しさをアピールするため
パi クに娯楽性を求めにやって米るのでもなく、
もヨーロッパから切り附附されている点で、ぬ図的
場所とはいえプライベートな意識で過ごすことも
縫に'
H分 の 庭 の 延 長 と し て 存 在 し 、 パ ブ リ ッ ク な
可能であり、それ故、落ち着く坊となり得る。こ
日本の状況と比絞すると、ロンドンの生活風景か
ら以下のような印象を受け取ることができる。
生活における時間軌に沿って、 ア ク シ ョ ン が 変
ティー
な識がない限り、場所は生成されないわけである。
けを与えられでも本人からかたちづくろうとする
受動的な姿勢で接しがちである。そのため素材だ
しければその良さを享受し体験したことになり、
のものに怠識が集巾・しがちであり、それが素晴ら
からなのであろう。日本ではどうしても自分以外
創造的に自分の日出場所をな識の上でかたちづくる
レメントが満ちあふれでいる空間にいる本人が、
いった造作的工夫によるものではなく、素材的エ
れはパ!ク内にあるパブリックやプライベートと
のストリート名が住所になるわけだが、エリア名
テラスハウスは典型的な住宅形式であるが、日
や悉地よりも愛者や一体感を感じるものだ。
本 の 戸 建 て 住 宅 と は 違 い 、 ス ト リiト 沿 い に 途 切
な区分でとらえられるのに対して、ロンドンも含
ヨi クのそれとも迷い、ストリートとはいえ待州、
テラスハウス
分 岐 し て い る こ と か ら もxlY料 的 な 座 棋 と い う
れなく述統的に建ち放んでいる。一一艇の集合住宅
めた西洋では、通りには全て国有の名前が与えら
感じでもない。ロンドンのブラックキャブドライ
であるが、外側での同じファサードの繰り返しに
応じて徹底的に改装されている。同法が抜いであっ
対して、一日一建物の内部に入ると住み手の好みに
たり、中二階が設けであったりと、日本の集合住
いが、ロンドンの地理は段標的に記憶されるとい
のであろう。法盤自のように区画技理されていな
うより、複雑ではあるが絵柄的に記憶されている
バ ー は ほ と ん ど の ス ト ワi 卜 名 を 党 え て い る ら し
れ て お り 、 ス ト ワiト を 以 て 把 握 さ れ る 。 ニ ュ ー
場所が、日本では多くが番地や町といった阪的
ストリート
な何か共通する部分が感じられる。ただ、現夜の
またアジアにおける日本のように、イギリス自体
ロンドンと東京は同様に国際的な大都市であり、
時にはゆっくりと変化し続ける。
なるのであろう。さらにそのストーリーは間定さ
では環境も含めた我々の心が起伏を伴って段かに
記憶や思い入れ、感仙川に基づくものである。そこ
わ る と 、 そ こ に ス ト ー リ ー が 発 生 す る 。 ス トi リ
し、一日一その静かな冷たい採に流動的なものが加
図
図一 1 ウ ッ ドランドライズ近辺の地図
中央にあるのがウ y ドランドライズ通り、上がクランリ ガーデン通り、下がウソドラン
ドガーデ ン通り というよ うに、通り 名からこ の辺 りが縁の 多い地域であ るこ とが分かる ロ
写真 1 ウッドランドライズ通りのサイン (ロンドン北部住宅地エリア)
通り左手が奇数、岩手が偶数のドア番号であり、通りが向 き合った区画どうしをつなぎ
とめている。
写真 2 ウ ッ ドラ ン ドライズ通り 3
1番のテラスハウス (地下 l階、地上 2階建)
3
6帯や 3
8番は通りをはさみ向かいにある。
写真 一 3 近くにある公園の導入部
背後には大きな公園、緑地が広が っている。入口は少し分かり難いほど小さく控えめに
な っている。
1
写真
、
、人
、
、
t送
ア ク シ ョ ン も 変 わ る 。 そ の 変 極 点 に 常 に 登 場す る
わればその背景の空間も変わり、空間が変われば
のがティ ー で あ り 、 生 活 の 流 れ に 節 目や リズム を
こ のように ロンドンの生活風景を一泊して考えら
窮屈なデザインではなく
はじめて意味を帯び、各自の生活の一部に取り込
の マテリ アルは 利 用 者 の 創 意 工 夫 が プ ラ ス さ れ て
7テ リ ア ル と な っ て い る こ と で あ る 。 そ れ ら 生 活
れることは、生活のエレメントの多くが可塑的な
カフェや サ ンドイッチ ・パ!と同様に、 パブも
与えてくれる。
いたる所にある 。 大 学内 にも必ずパ l ・カウン タ
てライフスタイルを構築するのであり、デザイン
まれる 。 各 自 が そ れ ら の 複 数 の エ レ メ ン ト を 用 い
された エレ メン ト によって構築されるのではない。
ー は 設 置 さ れ て お り 、 ア ル コ ー ル が 置 か れ ている 。
なく、 他人と の コミュ ニケー ションのための場と
つまり、それぞれの エレ メ ン ト は オ ー プ ン で 常 に
しかし、飲食だけを目的に人はやって来るわけで
し て 利 用 し て い る 。 そ れ 故 、 会 話 の 内 容 もよ り建
結合可能なデザインがなされており、必要以上な
一 クティ ビテ ィの中に 位 置 づ け ら れ て い る 。 そ の た
時 め の 時 間 や 空 間 は 決 し て 創 造 的 行為 か ら か け 離 れ
る。っくり手の側も経済や競争社会のなかで生き
り、利用者側は極端に受動的な立場に置かれてい
現在の日本ではあまりにも快適さ重視であった
親切(完結したデザイン、お節介なデザイン)はない。
設 的 で あ りストレ ス発散の場では決してない。
ティーやアルコールですら、生活をかたちづく
たものではなく、ほどよく他との関係性を保持し
いる。 こ の ま ま で は 本 来 の 快 適 性 を 通 り越 し 一 過
残るために消費者を考慮して戦略的になり過ぎて
通常、家というものは外部環境からプライベー
デザインや設計の存在理由や到達点であると考え
なってしまう。快適さの追求、社会への貢献性を
性の流行商品となってしまい、消費の繰り返しに
り、社会全般に対してサービス過剰で完結してお
ている。
る一つの エレ メ ン ト と し て 白 然 な 状 態 で 生 活 の ア
プライベート /パブリック
とパブリックをどのように分割するかというプラ
てしまうのは、あまりにも夢や人間性が欠如して
トを獲得する領域として意識され、プライベート
ン ニン グ が な さ れ る 。 し か し 生 活 は 時 間 や 意 識 の
いるト守7に田
意 識も
づけといっ た 、全 体 に 対 す る 個 人 の 地 図 (
題よりも、環境全体におけるプライベートの位置
し 続 け る 限 り 、 ど ち ら か 一 方 を 固 定 し て も う 一方
はないか。自 己と 環 境 の ど ち ら も 時 間 が 流 れ 変 化
まえた上でのもののあり方が見直されて良いので
も う 一 度 、 超 越 的 な 自 然 と 人 聞 のは かな き を 踏
h
でえヲ匂。
上 で は 常 に 連 続 的 で あ り 、 領 域 を 縄 張 り のように
合 め た ) を 持 つこと がで き る か と い う こ と が 問 題
を 引 き 寄 せ る の で は な く 、 ち ょ う ど 交差 している
分 割 す る の は 困 難 で あ る は ず だ 。 線 引 き と い う問
と な る 。 そ れ は 個 人 の 外 に 線 引 き と な る ル ー ルを
は な い か 。 お そ ら く そ れ が 、 我 々の生活する時間
部分を冷静に見つけだす努力がもっと必要なので
や空間や意識をもとに住まいという場所をつくっ
設ける ことで はなく、個人の 内部に お い て プ ラ イ
ていくことにつながるであろう。
ベート と パ ブ リ ッ ク を 設 け る こ と で あ る 。 し か も
に対応して柔軟に切り替えが可能でなければなら
福 井 裕 司 /ふく い・ゅうじ
東京芸術大学美術学部建築科卒業、英国A Aス
クー ル・ディプロマ修了、ロンドン大学大学院
修了。
東京芸大建築科助手を経て、同非常勤講師。
そ の プ ラ イ ベ ー ト と パ ブ リ ック が 、 状 況 の 流 動 性
な い 。 そ こに プ ラ イ ベ ー ト と パ ブ リ ックが交 錯し
一 て存在する。
真
写
編集後記
ニつの結果は、実際の町や都市が何より
r
の証拠である 。 整 備 す れ ば す る ほ ど 、 チ
とがある 。 う ろ 覚
グ
ハ
グで盛りだくさんな空聞ができあが
あ る 記 事 で 読 ん だ こ♂
,
え
だ
が
、
﹁
林
業
は
子
ど
も
の
た
め
で
も
孫
の
た
り
、 結 果 と し て ゴ ミを つ く っ て い る よ う
' 偽
にしか見えないからである 。
め で も な く 、 五O年一 O O年 後 の 世 代φ
住 宅 総 合 研 究 財 団 ( 略 称 日 住総研) は
昭和 二 =一
年 、 当 時 の 清 水 建 設 社 長 ・清 水
康雄により、戦後の窮迫した住宅問題を、
今回ミニシンポジウムを行なった H O
季刊すまいろん珊年春号
二000年 四 月 一日発行
500円
o
r
mコ
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﹄ω
*J
C刃﹁一 71百 .¥可ぎを︿︿
O﹃-百¥
mlヨω=-Eωoroコ @ ヨとヨωωZ コo
ι
編 集 委 員H
百
委員長
TEL(03)348415381
FAX(03)3484lh794
ml附 東 京 都 世 田 谷 区 船 橋 四 丁 目 ぬ 18
発行H財団法人住宅総合研究財団
ためのもの﹂という内容であったと記憶
P E計 画 は パ一当 初 か ら わ れ わ れ 建 築 家 に 一
現在は古宅に関する 研完助成事 業 を 中
発 行 人 H峰政克義
し て レ ヨ 。 実 は 私 が 学 生 の 頃 の 一 九 六0
であった 。 調 べ て み
も 理 解 し や す い 施 策一
心とL、﹁研究年報﹂﹁研究論文﹂を発刊、
住宅の総合的研究、および成果の公開、
年代後半は、アーバンデザイン教育の盛
たら 、 その H O P Eが ま だ 続 い て い た で
ま た 住 に 関 す る 専 門 図書 室、セ、ベナl室
実 践 、 普 及 に よ っ て 伊 決 す る ことを 目的
んな時代であり、!都市計画るそういうも
はないか 。 人 間 で い え ば 、 ひ ょ ニ り い い
等 を 整 備 、 公 開 、 社 会 のー
お役に立つよう、
干
のだと恩全ていた 。 そ の 思 い は 今 で も 変
奴 が 生 き て い た と い う 感 じ で あ る 。こ の
として設立された財団法人であります。
わらないが、現実に進んでいる都市計画
小 林 秀 樹 ( 建 設 省建築研究所室長 )
片山和俊(東京芸術大学建築科助教授)*
この ﹁すまいろん﹂ 怯、活動の 一環と
公益事業につとめております。
づ く り と 地 域 性 の 問 題 崎探っ てみたいと
立松久昌(月刊﹁住宅建築 ﹂
顧問)一
いい奴との再会をきっかけに、最近の町
J
いう恩ドが、この企画のはじまりである 。
〆
野城智也(東京大学大学院工学系研究科助教授)
,中谷礼仁(大阪 間立大 学建築学科穿往講師)
服部写生(千葉大学デザイン工学科教授)
して、 〆
成果の一端を、市民、実務者、研
事 業 や施策がめ
やまちづくりは、毎年、
、
まぐるしく変わ 寸
、 どう考えても一 貫性
、
が な い よ う に し か 見 え な い 。 したがって
究 者仏 皆 様 に 、 よ り 広 く 、 よ り 手 軽 に ご
理解いただくとともに、その意見交流の
;'
ているU の で す 。 ご 利 用 の ほ ど 、 よ ろ し
/
愚直に変わ与ないことを、どニか
に
求
め
そ し て ニ の 特 集 を 通 じ て 二 貫性こそカ
'
いる 。 そ し て も う 一 つ 。 現 実 の 都 市 や 町
なり﹀という平凡な言葉の大切さを再確
認することになった 。 学生時代の直感は
場になることを願って刊行(季刊)され
/
は文字でつくられるわけでもないのに、
って︿町づくりは一 O O年 ﹀ で い こ う で
正 し か っ た の だ 。 ニれからは金山町に習
,
印刷・製本 H慶昌堂 印刷株式会社
制作 H 建 築 思 潮 研 究 所
F
て空間的に解かないのだろうかと、子ど
くお願い申し上げます。
'
,
、
、
頒
価
•
ノ
山のように報告書 が積 まれていく。どうし
f
はないか 。 ( 本 号 責 任 編 集、
H片山和俊)
/
ものような疑問を常に抱いでいる 。そ の
〆
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