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『 安息日は人のために 』

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『 安息日は人のために 』
知 多教 会説教
2015/ 06/ 21
聖霊降臨後第4主日礼拝
知多教会 牧師:花城 裕一朗
5:12-15
申命記
コリントの信徒への手紙 二
4:7-18
マルコによる福音書
2:23-28
『 安息日は人のために 』
私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、皆さ
んお一人お一人の上に豊かにありますように。
アーメーン。
本日の第一の日課において、主なる神様はモーセの口を通して、
イスラエルの民に次のように言われました。(申命記 5:12-15)「安息
日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六
日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、
主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息
子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町
の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女
の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジ
プトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸
ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのた
めに、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」
この主の御言葉は、イスラエルの民だけではなく、現代に生きる私
たちに向けても、語られている言葉だと言えます。安息日とは、即ち、
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≪私たちがエジプトの国で奴隷であったところから、神が救ってくだ
さったことを思い起こす日だ≫ということなのです。私たちにとって、
エジプトの国とは一体どこなんでしょうか? 私たちは何によって奴隷
とされていたのでしょうか? 私たちは、罪によって奴隷にされていた
のです。罪の世界の王、即ち、サタンの仕業によって、私たちは生ま
れながらにして、縛られており、鎖に繋がれており、奴隷にされてい
たのであります。
私たちは皆、イエス様に出会い、イエス様の御言葉によって照らさ
れるまでは、自分自身が罪の奴隷とされていることも、知らなかったし、
気付かなかったのであります。すべての人間は皆、誰でも、生まれな
がらに罪人であり、罪の力によって盲目にされていて、神の真理が見
えないようにされてしまっているからです。
人間の長い歴史を振り返ってみると、近代に入ってからは、≪ヒュー
マニズム≫という考え方が広がって来ました。そして、「人間は皆、生
まれながらに自由にして、平等である」という言葉も、よく聞かれるよう
になって来ています。しかしながら、神様の目から見れば、そのよう
な見方は誤りだということになります。神様の目から見れば、「人間は
皆、生まれながらに平等である」とは言えるかも知れませんが、しかし、
決して「生まれながらに自由である」とは言えないのであります。
例えば、(サムエル記上 16:7)には次のように書いてあります。「神
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は、人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心に
よって見る。」と書いてあります。またイエス様ご自身も(ヨハネ 8:34)
で次のように言っておられます。「はっきり言っておく。罪を犯す者は
だれでも罪の奴隷である。」と仰っている通りです。人が罪を犯してし
まうならば、その人は自由な者ではなくて、罪の奴隷だということにな
るのであります。
主なる神様は、その御独り子、イエス・キリストを地上に遣わしてくだ
さり、神様の言われている罪とは何であるのか、どのようなものが罪で
あるのか、明らかに示してくださいました。そして、かつてイスラエル
の民をエジプトの国から導き出すためにモーセを遣わされたように、
私たちに対しては、御子をお遣わしになり、御子が十字架で流された
血によって、私たちを罪の奴隷状態から贖い出してくださったのです。
このようにして、イスラエルの民が安息日に主の救いの御業を思い
起こすことと、私たちクリスチャンが安息日にイエス様の救いの御業を
思い起こすこととは、合致しており、完全に繋がっています。なぜなら、
どちらも、奴隷状態からの解放であり、主が導き出し、主が贖いだして
くださった、ということだからです。そのような訳ですから、十戒で言
われている最初の言葉、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプト
の国、奴隷の家から導き出した神である。」(申命記 5:6)という主の御
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言葉は、イスラエルの民だけではなく、私たちクリスチャンにとっても、
同じように意味を持っている、神の言葉なのだと言うことができるので
す。
このようにして、安息日は、私たちが神様の救いの御業を思い起こ
すために定められたと言えます。それは、神様に対する私たちの信
仰を強めることになる、また、神様に対する私たちの感謝の思いを新
たにすることに繋がって行きます。こうして、私たちの「内なる人」と言
われているものが日々、新たにされて行くことになるのです。本日の
第二の日課において、パウロが次のように言っている通りです。(Ⅱコ
リント 4:16)「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの
『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新
たにされていきます。」このようにあります。私たちは、安息日の日に、
神がお命じなられたことを、その言葉の通り実行することを通して、私
たちの「内なる人」が日々、新たにされていく、ということなのです。で
すから、イエス様が仰っている通り、「安息日は、人のために定められ
た」(マルコ 2:27)と、私たちもそのように言うことができるのです。
ところがしかし、この、≪安息日を守る≫という律法を、曲解して、捻
じ曲げた人々がいました。当時のファリサイ派の人たちです。彼らは
思いました。「安息日には休むべきだ。いかなる仕事もやってはいけ
ない。」そのように考え、そのことを絶対視してしまったのです。つまり、
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「いかなる仕事もしない」ということが、イコール、「安息日を守る」という
ことだと、そのように彼らは考えてしまったのです。
ファリサイ派の人々のこのような考え方は、律法として文字に書かれ
たものだけに拘り過ぎた、その結果だと言えるでしょう。文字で書かれ
ていることに拘り過ぎて、その文字が意味しているもの、指し示してい
るものを、かえって見落としてしまっている。このようなことについて
パウロは、次のように言っています。(Ⅱコリント 3:6)「文字は殺します
が、霊は生かします。」と言っています。
何でもかんでも、目に見える行いに拘ったり、形として現れているこ
とに拘り過ぎると、それは、悪しき形式主義に陥ってしまうでしょう。例
えば、私たちルーテル教会は、プロテスタント教会の中でも、比較的、
古い形式にのっとった礼拝のやり方をしています。これはこれでよい
のですが、しかし、「このやり方でないといけない」とか、「このやり方
でないと、神様がお怒りになる」とか、そういうことを言い始めると、そ
れは、ファリサイ派と同じようになってしまいます。悪しき形式主義、悪
しき律法主義に陥ってしまうことになります。
ルターは、聖書の言葉に基づいて、次のように強調しました。「人間
の救いは、行いによるのではない、信仰のみによるのである」と。この
ことは、すべてにおいて通用する、真理だと言えます。すべてのこと
において、表面上に現れる行いが重要なのではない、見える行いの
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中にある、見えないものこそが重要だと、いうことなのです。
ですから、ルター自身は、礼拝の形式とか、やり方そのものについ
ては、あまり重要視してはいませんでした。もしも、礼拝の形式や、や
り方そのものに拘り過ぎるならば、ルターはきっと、反対することでし
ょう。ルターが重要視していたのは、礼拝が指し示しているものです。
つまり、礼拝のやり方そのものの中に秘められている、私たちの信仰
であり、私たちの心です。ルターはそこにこそ、拘ったと、そう言って
いいでしょう。礼拝のやり方の中に含まれている、目に見えないもの
をこそ、ルターは大切に考えていたのです。
本日の第二の日課において、パウロも次のように言っていました。
(Ⅱコリント 4:18)「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに
目を注ぎます。」と。これは実は、神様ご自身も、そうなのだと言うこと
ができます。神様も、見えるものではなく、見えないものにこそ、目を
注ぐということなのです。行いが目に見えるのに対して、心や、信仰は、
目に見えません。しかし、本当に大切なことは、目に見えない部分の
方なのであります。
今日は、『安息日は人のために』ということをテーマに、御言葉を見
て参りました。先に選ばれた民である、イスラエルの人々のために定
められた安息日は、後に選ばれた民である、私たちクリスチャンにと
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っても、同じような意味を持っている、同じように定められた安息日で
あると、そのように言うことができます。イエス様は言われました。「安
息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではな
い。」(マルコ 2:27)と。このイエス様の言葉に生かされて、今日も私た
ちは、安息日を共に守って参りましょう。
祈りましょう。
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