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アングロ・ノルマン史研究の現在の動向

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アングロ・ノルマン史研究の現在の動向
『ノルマン帝国』後の 40 年一貴族層を中心とした
アングロ・ノルマン史研究の現在の動向
子
中
ホす
敦
ノルマン征服が、事件そのものの過程、その前提あるいは影響、後世にもたらした余
波を含め、イギリス史上重要な研究対象として注目を浴びてきたことには異論がない。
そして、歴史的事象をどのように評価するかは、評価する側の歴史家の生きていた時代
や環境に影響を受けてきたことも、改めて指摘する必要はないだろう。実際、ノルマン
征服については、事件直後から近代、現代にいたるまで、この事件を見る側の立場によ
り、さまざまな見解が示されてきた。とくに近代以降、中世にさかのぼる「イングラン
ド対フランス」意識につなげられ、一般社会における認知度の高さとあいまって、イギ
リスとフランスという国家的枠組みにそのまま投影させて理解されがちな側面があるこ
とも指摘されている l 。
さて、本稿の目的は、アングロ ・ ノルマン貴族、すなわち、ノルマン征服により誕生
した、 一人の君主により統治されるイングランドとノルマンディの双方をふくむ王国で
あるアングロ ・ ノルマン王国の貴族たちに関する研究を中心に、現在のアング ロ・ ノル
マン史研究の全体的動向を確認することである 2 。以下、まず、アングロ ・ ノルマン期
の研究の重要な画期となった J ・ ル = パトゥ ー レルの研究を土台に、それ以後の研究の
進展の概略を、貴族研究に関係する点を中心にたどる 。 その後、近年のアングロ ・ ノル
マン貴族研究を整理し、研究の方向性になんらかの展望を得ることにしたい。
J.ル=パ卜ゥーレル『ノルマン帝国』から D
1976 年、
・べイツ『ノルマン人と帝国』ヘ
J ・ル= パ トゥーレルの著作『ノルマン帝国』 3 が刊行された 。 1066 年のへ
イスティングズの戦い 900 周年を迎え、ノルマン征服に関し、一般社会においても、学
界においても盛んに議論がなされ、研究が活性化した時期である。
ノルマン征服後のイングランドとノルマンディが
全体として 1 つのアング ロ・ ノル
マン世界に統合されたと考えたル=パトゥーレルの研究は、それまでイングランド側か
らのみ、そしてイングランドにおける状況のみ研究されがちであった、この時代につい
ての研究の方向を大きく変えることになった 4 o H ·ロ インが、ル = パトゥ ーレ ルの研
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究を「最も創造的」と評価し、また D ・ ベイツが「『ノルマン帝国』の出版は、アングロ・
ノルマン研究の重要な画期である」としたように、同書を集大成とするルニパトゥ ー レ
ルの研究は、まさに転換点となったのである 5 0
同 書を 中心としたル=パトゥーレルの研究の与えた影響や評価については、イングラ
ンドとノルマンディを「アングロ・ノルマン王国 」 Anglo-Norman regnum として、やは
り両者のつながりを強調した C ·W ・ホリスタ ー の研究とともに、邦語でも紹介されて
おり、その詳細を繰り返す必要はないだろう 60
ここでは以下の点を確認しておきたい 。すなわち、ル = パトゥ ーレルの研究の重要性
は、イングランドとノルマンディの密接な関係を指摘し、二つの地域が統合されて成立
した「海峡をまたぐひとつの国 家」という視角から 、双方の関係を全体的に とらえる視
点をうちだしたことである。そして、ル ニ パトゥーレルは、それを「ノルマン帝国」と
呼んだ 。ただ し、「帝国」の語を前近代に使用するにあたり、その定義や議論は様々で
あり、統一されているわけではない 70 そして、ル = パトゥーレル自身が述べるように、
著作『ノルマン帝国』は何よりもまず新しい視角を提唱するものであり、さらなる研究
の起爆剤となることを意図した議論の書であった 8 0
ル=パトゥーレルの研究は、アングロ・ノルマン期全体の研究の活性化を引き起こし、
イングランドとノルマンディの関係を意識した実証的な研究が、多様な分野で試みられ
るようになる。この動向の背景には、ヘイステイングズの戦い 900 周年に関連する研究
の盛りあがりのみならず
西ヨーロッパの、とくに英独仏の大国が中心だった歴史研究
から、それらが相対化され、それ以外の地域を対象とした研究が盛んになりつつあった
20 世紀半ば以降当時の 学界状況を考えることができるだろう 9 。同時に、ル = パトゥ ー
レルの研究の前段階として、
C·H ・ハスキンズ 、そして D ・ C ・ダグラスといった先
駆者たちの存在があった。彼らは、ノルマン征服の前提であるノルマン人たちの活動を、
幅広く全ヨ ーロ ッパ的にとらえ、イングランドとノルマンデイのつながりの重要性を意
識していたのである IO。北欧、ヨ ーロ ッパ、 ロシア、地中海といった広域にわたるノル
マン人たちの活動は、現代の国家の枠組みを越えた動きを意識させ、地域と地域の関係
に新たな視点を開くことになった II 。ル=パトゥーレルの研究やこれらの動きをふまえ、
ベイツは、ノルマン征服を、かつてのようにイギリス史の中での重要な出来事としての
み理解するのでなく、全ヨーロッパ的な文脈で、考察することの重要性を指摘している
1
2
また、それまでのノルマン征服研究が、イギリス国制史的観点から、とくに封建制の
導入に焦点が当てられていたのに対し、研究対象や研究の方向も大きく拡大する 1 3 。も
ちろん、これは歴史研究全体における社会史の発展という大きな流れと重なっていた。
とくに、ノルマン人、イングランド人、という民族意識に焦点があてられ、地域と地域
の関係のみでなく、アイデンティティの問題から、当時を生きた人間たちが自分たちと
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「ノルマン帝国』後の 40 年一貴族層を中心としたアングロ・ノルマン史研究の現在の動向(中
村)
その世界をどのように理解していたのか、という視点の研究も活発化した。この点は、
ノルマン征服後のイングランドとノルマンディの関係についていえば、双方の 地の関係
が人々のアイデンティティにどうあらわれているのか、という問題になる。中世人のア
イデンティティをどのように理解するかという点も含め、当時の社会に生きた人々の自
己認識を探る試みが行われるようになっている 140
こ うして、ル = パトゥ ーレル後の研究は、ル= パトゥ ーレルがイン グランド とノルマ
ンデイの同化を示す根拠とした要素以外にも、実証にもとづき、多様な側面からノルマ
ン征服とそれに関する事象が研究されるようになった点と、イングランドのみ、あるい
はイングランドとノルマンディの関係のみでなく、全ヨーロッパ的な視点を意識しなが
ら研究がすすめられるようになってきたという 2 つ の点が、特徴としてあげられるだろ
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lレ=パトゥーレルの著作から約 40 年を経て、 2013 年、 D· ベイツにより、 2010 年のオッ
クスフォ ード 大学におけるフォ ード ・ レクチャーをもとにした『ノルマン人と帝国」 16
が出版された。前述のように、ル ニ パトゥ ーレルの視点は根本的な 影響を与えたが、そ
の主張については、ベイツ自身も中心となって批判がなされ、 「ノルマン帝国」の呼称は、
一般的な用語とはならなかった 17。しか し、ベイツは、 今回その著作を『ノルマン人 と
帝国』とし、ルニパトゥーレルの主張が発表された 20 世紀後半から大きく変化した研
究状況を背景に、再度「帝国」の語を用いつつ、新たな枠組みを提唱している 1 8 0
『ノルマン人と帝国』において、ベイツは、社会科学諸分野の分析概念を利用し、
11 ・ 12 世紀に おける 「帝国」を、ある集団が他の 集団を強制的に、暴力的に支配し、
また文化的にも影響下においていく力を持つものとしながら 19、イングランド人とノル
マン人という強力なアイデンティティがどちらも継承された点を強調する。そして、ノ
ルマン征服後のノルマンディとイングランドを、「アングロ・ノルマン帝国」でも、「ノ
eNormans として理解する
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ルマン帝国」でもなく、「ノルマン人の帝国」 The e
ことを提案した 200 ベイツによれば、
R· パートレットの使用した「アングロ・ノルマ
ン帝国」の語は、たしかに、ノルマンディとイングランドのつながりを示し、相互交流
や多様なアイデンティティのあり方を示す用語ではあるが、当時の資料に浮かぶエス ニ
シティを映し出してはいないし、ノルマンの圧倒的優越という現実を示すものでもない
のである 2 1 。また 、
ノルマンディは根本的に重要だが、
「 ノルマン帝国」という用語に
すると、エスニシティと帝国を文化的に結合してしまうヘ「ノルマン人の帝国」の語
が示すものは、支配的民族であるノルマン人の主導権・重要性を強調しつつも、ノルマ
ンディとイングランドの相互作用が重視され、また、双方の地にとどまらない、すなわ
ち、ブルターニュやフランドル、ウエールズやアイルランドも視野に含めた大きな領域
が考察対象になりうるのである 。 しかし、以上のような慎重で繊細な定義を述べながら
も、ベイツが実際に本文で多用するのは、海峡を挟む cross-Channel という用語である。
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ベイツの『ノルマン人と帝国』は、「帝国」の理解のみならず、多岐にわたる論点を提
示しており、さまざまな議論を呼び起こしながら、さらなる研究の発展を促すだろう
23
r アング口・ノルマン』という語
前述のように、ルニパトゥーレルによる「ノルマン帝国」という呼称は一般化しなかっ
たが、そのかわりに一般的にこの時代を示す際によく使用される「アングロ・ノルマン」
という用語がある 。 ここではその背景を考えてみたい 。 すなわち、それまで別個に研究
されることが多かったイングランドとノルマンディの歴史を相互関係のうちに検討する
ためには、双方をまとめて呼ぶ呼び、方が必要になってくる。それを担ったのが、「アン
グロ・ノルマン」である。
ここで、歴史研究上の使用について、実際の状況を振り返ってみよう。
J·C ・ホー
ルトは、へンリ 2 世の支配したプランタジネット家の所領のなかで、イングランドとノ
ルマンディは特別な結合体であることを述べ、そこでアングロ・ノルマン王国 Anglo­
NormanRealm の語を使用した 2\また、「ノルマン帝国」の語は使用しないが、ルニパ
トゥーレルのようにイングランドとノルマンディのつながりを強調したホリスターは、
双方を合わせた領域を示す用語として、「アングロ・ノルマン王国」 Anglo-Norman
regnum 「アングロ・ノルマン国家」 Anglo Normanstate を使用した 25 。ここでは、「アン
グロ ・ ノルマン」は、イングランドとノルマンディを合わせた l つの政体、という意味
での使用法と言える 。
王国・国家にとどまらない広い意味での用法は、学会名や論文・論文集タイトルに現
れる。 1978 年、 A · ブラウンにより、アングロ・ノルマン研究学会、すなわち「バトル ・
eonAnglo-NormanStudies が組織された。『アングロ・
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コンフェランス」 Battle C
ノルマン研究』 Anglo-Norman Studies は、 1979 年に l 号が刊行された同学会の学会誌で
あり、アングロ・ノルマン研究の分野でもっとも充実した雑誌であるお。学会名 におけ
る「アングロ・ノルマン」という語は、イングランドとノルマンディの双方をさしてい
る 。学会 ホームページによれば、同学会の対象は 11,
12 世紀を中心としたイングラン
ドとノルマンディの中世史であり、さらに、ブラウンによれば、「同学会の目的は、ア
ングロ・ノルマン史 Anglo-Norman history、とくにアングロ・ノルマン王国 Anglo
Normanrealm
について
そしてそれだけでなく、イタリア、シチリア、スペイン、そ
して十字軍におけるアングロ・ノルマンの偉業へのアングロ・サクソンや北欧の寄与に
ついても同様に、あらゆる側面について議論し、知見を深めることを目的とする」もの
であった 27。学術雑誌である以上、研究の地平を拡大し発展を志向する性質からすると、
上記のようなテーマは理解できる 。 そして、その代表として選ばれた用語は、「アングロ・
ノルマン」であった。同学会の発足が 1978 年、すなわちルニパトゥーレルの『ノルマ
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『ノルマン帝国』後の 40 年一貴族層を中心としたアング ロ・ ノルマン史研究の現在の動向(中
村)
ン帝国』から 2 年後であることを考えると、研究の活性化が進む当時の研究動向が感じ
られる 。
アングロ・ノルマン学会の発足後
アメリカを拠点として、その姉妹学会であるハス
sSociety も 発足し、大西洋を越えて、この時代についての研究を
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キンズ協会 The H
さらに発展させることになった お。 また、フランスでも同様に、カン大学やパリ大学に
おける研究プ ロ ジェク ト 等、活発に研究集会がもたれるようになっている 。 このような
状況を踏まえ、ベイツは、ル二パトゥーレル以後の研究の進展を「かつてない生産的な
時代」と評価する 2\
研究の進展とともに、「アングロ・ノルマン」の用語もますます 一般化する 。 2003 年
にはアングロ・ノルマン期研究のハンドブックである『アングロ・ノルマン世界必携』
が刊行されたことも、研究の高まりを裏付けるだろう 。 同書の前書きでは、「連合王国
と大陸本土西ヨーロッパとの関係が、真剣で熱のこもった論争のテーマである時代、イ
ングランド史におけるアングロ・ノルマン期はあきらかにまだ問題となる 。 たとえ、はっ
きりしたイングランド的性質が形成されたのは、チューダ ー朝期、プロテスタンテイズ
ムと海洋探検によってなのだと考える人々にしばしば無視されるにせよ。」として、イ
ングランド史におけるアングロ ・ ノルマン期が、イギリスとヨ ーロ ッパとの関係を考え
るうえで重要なテーマであることを指摘する 。 そして、アングロ ・ ノルマンという用語
に「海峡にまたがる王国」 cross-Channel realm の双方の構成要素に関わる事象を示す形
容詞としての役割を与えている 。 同書には北欧や地中海もテ ー マに含まれており、ノル
マンディとイングランドだけではなく、それに関連する世界も広くアングロ・ノルマン
世界の視座に入っているのである 30。このように、「アングロ・ノルマン」という用語
を広くとらえる使用法は、 2009 年の、
N· ヴインセント編著の『アングロ ・ ノルマン
王国における記録、行政そして貴族社会』 3 1 や、 20 日 年の、
p ・ドル トン ら編著の『ア
ングロ・ノルマン世界における大聖堂、共同体そして紛争」 32 にあるように、多く見ら
れるのである 。
視野の拡大と研究の大幅な進展とともに、アングロ ・ ノルマンという用語の内容は拡
大していると言えよう 。 だが、 一般にはアングロ・ノルマンの語を、はっきりした定義
なく使用している場合が多い 。 語学史の分野では、そもそも「アング ロ・ ノルマン 」と
は、ノルマン征服後にブリテン島で使用されたフランス語のことである。その意味では、
「 ノルマンの要素にかかわるイングランドの 」になり え、 『 アング ロ・ ノルマン世界必携』
の序文からうかがわれるように、イギリスにおけるノルマン征服への注目と重要性の付
与という暗黙の前提があった 。 だが、前述のように客観的に 「 イングランドとノルマン
ディの双方」という意味でも使用されているのである 。
近年、 E ・オクサネンは、自身の研究における「アングロ・ノルマン」という用語の
使用を定義した。そこでは 、「 アング ロ・ ノルマン世界」 Anglo-Norman world は 、ノル
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マン征服の 1066 年からジョン王の治世の 1216 年をさす 。 そして、 「 アングロ・ノルマン」
を、 1066 年のイングランドとノルマンディの連合により成立し、 13 世紀初頭まで変化
しながらも継続した政治的、社会的、文化的そして経済的交流の領域を示す言葉とした 。
また、このイングランドとノルマンディのつながりは、近代国家とは違う意味だが、「王
国」 realm と言える、としているのであるヘ
だが、
J ・ギリンガムは、 18 世紀のヒュ ー ム以来利用されてきた「アングロ・ノル
マン」の用語が、同時代には存在しなかったことに注意を促したへ最近の研究で、 J .
グリーンは、ノルマン征服後のイングランドとノルマンディについて、当時の年代記作
者はイングランドとノルマンディをまとめて呼ぶことはなかった、という点を確認し、
また研究者の表現を整理しつつ、イングランドとノルマンディの一体性の主張は批判さ
れている傾向を踏まえ、「ノルマン帝国」や「アングロ・ノルマン王国」よりもっと漠
然としたアングロ ・ ノルマン地帯 l’ espace anglo-n01mand という呼び方も出てきている
ことを指摘しているお。 ベイツも、「アングロ ・ ノルマン」という用語の使用には慎重
である 。 すなわち、同時代に 「 アングロ ・ ノルマン」というアイデンティティは存在せ
ず、その呼称は、強く残っていたイングリッシュとノルマンという二つのアイデンティ
ティの存在を覆い隠してしまうものであるとするのである 36。 かわりに、前述のように
ベイツは著作のなかで「クロス・チャネル」(例えば cross-Channel e
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C
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sChannelelite )という用語を使用することで、英仏海峡にまたがる帝国を指
している 3\この点は、アングロ・ノルマンという周五百にふくまれる「イングランドと
ノルマンデイの」というニュアンスを避け、チャネル海峡の双方にまたがる、という地
理的意味で客観的にとらえる方向性を打ち出しているように思われる 。
これらの研究の背景から、さらに大きな「イギリス史」「フランス史」という研究史
の存在が浮かびあがる 。 振り返ってみると、 20 世紀半ば頃から、前述のハスキンズ、
ダグラス、ル=パトウ←レルに加え、 M· チブナル、 M ・ドゥ・ブアルや J - F ・ルマ
リニエ、そして L ・ミュセらがイングランドとノルマンディの関係に目を配り研究をす
すめており、相互交流の土台がなかったわけではない 3 8 0
しかし、それらの貴重な交流は大きな流れではなか っ た 。 中世後期を主なフィールド
とする J-P h ・ジュネは
イギリス史、フランス史の文脈における中世研究の問題点
を明らかにした 。 ジュネは、とくにアングロ・ノルマン期については英語圏研究者が中
心となってきており
フランス人研究者が主体的に研究を進めてこなかった点を指摘し
ている 。 それは、前述したように、ノルマン征服がイギリス史の出来事として、イギリ
スに与えた影響がず、っと注目されてきたことが背景にある 3\また、 D ・ クラウチが『貴
族の誕生』において明快に整理したように、フランス史、イギリス史のそれぞれの研究
の流れのなかで、貴族研究は、方法論や対象の相違も含め、英仏で別個に発展してきた
のである 40 0
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『ノルマン帝国』後の 40 年
貴族層を中心としたアングロ ・ ノルマン史研究の現在の動向(中
村)
この動向が変化し、具体的に研究者同士の交流を進めつつ、イギリス、フランス双方
の研究の交流がなされたという点で重要な画期となったのは、 1992 年レディングで開
催された学会であろう。その成果は 1994 年に論文集『中世におけるイングランドとノ
ルマンデイ』として刊行され、イングランドとノルマンデイの関係を捉えなおす大きな
流れを生み出すことになった 41 。 さらに 10 年後の 2 001 年には、フランスで同様にノル
マンディとイングランドの関係を問う学会が聞かれた位。 そして近年では、フランス側
の研究者によるアングロ ・ ノルマン研究が盛んになり、ノルマンディ史の枠を超えた人
的 ・ 学界交流が活発化してきて いる。すでに英仏関係の重要な転機として、双方から 研
究が進められてきた百年戦争期だけでなく、英仏が直接的なつながりを持っていたアン
グ ロ・ ノルマン期、そして
アンジュ ー 期の研究における研究者間の交流や、共同フ。ロ
ジェクトがすすむことになったぺなかでも、フランスの国立学術研究センタ ー による
研究グループが、 2000 年から継続的にフランスとブリテン島の関係について仏英の研
究者たちによる研究集会を開催し、成果が公表されていることが注目されようへノル
マンディにおいては、スリジ国際文化センタ ー を舞台に、中世ノルマンディに関する各
種の研究集会がもたれ、それらにおいて、イギリスをふくむ視点が意識され、それらが
注目すべき成果を継続的に挙げているぺ
イギリス史、フランス史相互の立場から、それぞれの地域が中心ではあれ、互いに研
究者を招いて研究集会を聞き、人的 ・ 研究上の交流を行うことが非常に活発になってき
たのである。それらの成果が、アング ロ・ ノルマン期の理解に大きく影響し始めている
ことは疑いないだろう 。
こ うして、 「 アングロ ・ ノルマン」という用語は、当初もっていた「イングランドへ
のノルマンの影響」「イン グランドにおけるノルマン朝期 」とい う前提から、ノルマン
征服をめぐる研究の進展と並行し、その持つ意味を拡大させてきた 。 フランス史、ノル
マンディ史とイギリス史との交流が活発になり
そして大陸ノルマンディからイングラ
ンドへの、イングランドからノルマンディへの双方向の交流が意識されるようになって
きた近年の研究動向に伴い、オクサネンが定義したように
「ノルマン征服後のイング
ランドとノルマンディに関わる」という広い意味を持つようになってきたのである。
このように「アングロ ・ ノルマン」という用語の背景に潜む研究の流れを意識 してい
くことにより、しばしば無自覚に使用されてきたそれらの用語により構築された構造か
らこぼれおちていた要素を浮かびあがらせることができるかもしれない。ただ、用語の
成立の背景にこだわりすぎる必要はないだろう 。 成立当初もっていた固有の意味や枠組
みは、時代や研究の発展とともに、成長し抽象化する 。 その過程を意識しつつも、新た
な意味を付与することで、より豊かな可能性が生まれるのではないだろうか 。
先述の様にベイツは、「アングロ ・ ノルマン帝国」という呼称にも、 「 ノルマン帝国」
という呼称にも批判的である。ベイツが理解するような「帝国 」
として、 「 アング ロ・
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人間文化第 30 号
ノルマン帝国 」 を用いる際に浮かぶ問題点を意識しておく必要は、たしかにあるだろう。
だが、そのうえで筆者には、 「 アングロ ・ ノルマン」という形容詞は、オクサネンが定
義したように、ノルマン征服によるイングランドとノルマンデイの連合により成立し、
13 世紀初頭まで変化しながらも継続した政治的、社会的、文化的そして経済的交流の
領域を示す言葉、という意味で有効ではないかと思われる 。 「アング ロ・ ノルマン」と
その使用については、ベイツの見解を含めてまだ検討の余地があるが、本稿では、上記
の意味でアングロ ・ ノルマンという用語を使用することにしよう。
アング口・ノルマン貴族研究の現在の動向
以上のような、アングロ ・ ノルマン期研究の大きな流れを背景に、この時代の貴族に
関する研究も大きく展開してきた。実際、ル = パトゥーレルが
イングランドとノルマ
ンデイの密接なつながりを主張した際、そのつながりの根拠のひとつに挙げたのは、貴
族層だったのである 460 ル = パトゥ ー レルは、ノルマン征服によりイングランドに進出
した 貴族たちが、ノルマンディの所領を保有 したままブリテ ン島にも領地を得て、海峡
を挟む所領、すなわち、クロス ・ チャネル ・エ ステイツ cross-Channel-estates を保有す
るようになった点に注目し、彼らは、イングランドとノルマンディを移動して双方の地
を支配し、全体でひとつの貴族層を形成したと主張する 。 そして、ル = パトゥ ーレルは、
このような双方の地にまたがる同 質の貴族層の存在がイングラン ドとノルマンディの統
合を維持した主要な動因となったと考えたのであるぺ
しかし、ベイツ、グリーンらにより、たしかにそのような貴族たちは存在し、彼らは
王国の維持を望んだとは言えるかもしれないが、それ以外にも多様な貴族層が存在して
いたことが指摘されている 。 従って、貴族層の理解に関しても、ル = パトゥーレルの主
張はそのままでは受け入れられないだろう 48 0
だが、ル=パトゥ ーレル の主張は、前述したように、アングロ ・ ノルマン王国の中世
国家としての構造をとらえる視点を大きく発展させただけでなく、当時の支配層につい
ても、研究を活性化させることにな った 。 著書『ノルマン帝国』の刊行前に、ル=パトゥー
レルは論文「ノルマン ・ バ ロンズ」で、ノルマン 貴族たちの家族と してのネ ットワ ー ク
を重視した。彼らは、ノルマンディに基盤をもち、そこからイングランド、あるいはそ
の 他 へと拡大していくが、常にその所領はユ ニ ットとしてとらえられ、分割されてもま
た再統合されることがあった。さらに、 「 ノルマンディ貴族がイングランドに所領を得た」
と いう単純な図式だけでなく、ブルターニュやフランドルはじめ、ノルマンディ出身以
外の貴族たちも含まれ、さらに彼らはイングランド以外にも所領を得る可能性があった
とするのであるへこのように、大陸出身の貴族たちのネットワ ー クについて、イング
ランドのみ、あるいはノルマンディのみ、そしてノルマンディとイングランドのみ、と
いう視角を越えて、多様なネットワークの存在 と その柔軟性に目を向ける視線を、
)
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Iく・
『ノルマン帝国』後の 40 年一貴族層を中心としたアングロ・ノルマン史研究の現在の動向(中
村)
トンプソンは高く評価する 50 0
このようなルニパトゥーレルの視角を受け、その後のアングロ・ノルマン貴族研究は
大きく発展した。次に、それらの特徴を整理しておこう。
ノルマン期イングランドの貴族について、初めて総合的な研究を行ったのは、グリ ー
ンである 51 。イングランドを中心においているが、ノルマンディとの関係を意識しつつ、
その成立、権力、支配、社会を分析している 。 一方、ノルマンディに関しては、ノルマ
ンディ史を長らくけん引してきた L ・ ミュセによる研究以降、
J. M ・ ブヴリや P ・ボ
ドゥアンらによる個別貴族家系をたどる研究が進んでいる 52。 そして、クラウチは、前
述のように、『貴族の誕生』において、イギリス史とフランス史における貴族研究の流
れをたどった 。 また、貴族の文化様式にも目を向けた点で、政治史を越えた中世イング
ランドの貴族研究を進めている 53 。 ただし、これら貴重な成果は生まれているが、アン
グロ ・ ノルマン王国の貴族層全体についての包括的な研究は、まだ試みられていない。
次に、注目されているテーマをいくつか整理しておこう 。 まず、プロソポグラフィー
的研究が挙げられる 。 これは、イングランド貴族の大陸出自、あるいは土地保有を探る
ことが中心であり、背景にはノルマン征服によるノルマン貴族のイングランド進出とい
う一方的な方向性がある。イング ランドに渡った ノルマン貴族について、古くは L ・ C·
ロイドによる先駆的研究が思い浮かぶ”。 近年では、
K
キS キB ・キーツ=ローハ ンが、
ドゥームズデイ・ブックをもとに人々の出自をたどる作業を行い、アングロ・ノルマン
期におけるプロソポグラフィックな研究を大きく深化させたお。 また、その拡大版と言
える、イングランドの土地保有者の大陸出自をたどる総合的研究フ。 ロジェクトとして、
キーツ=ローハンが中心となっているイングランドの土地保有者の大陸における出自調
査研究 事業がある 56。時代はアンジュ ー期以後になるものの、 2006 年から 2007 年にか
けての、 D· パワーを中心とした石汗究事業「イングランドにおける『ノルマン人の土地』
1204 年から 1244 年」も挙げられよう 5\さらに、アングロ・ノルマン期に限ったこと
ではないが、新しい『オックスフォード人物事典』 58 が利用できるようになったことは
重要である。専門家による個別の人物の詳細な 研究が多数まとまり、貴族研究の 貴重な
土台を提供している 。
これら多数を対象とした研究に対し、個別貴族、とくに政治のあり方に直接大きな影
響を与えていた有 力 貴族、アングロ・ノルマン王国の行方に大きな影響を与えたクロス・
チャネル ・ バロンについての研究がある。海峡の両側に領地を保有した貴族たちは、ル
= ノ f トゥ ー レルがもっとも注目した支配層である。たとえば、 W · E ・ワイトマンによ
るレイシ 一 家についての研究、前述のクラウチによるボ ーモ ン家の双子についての研究
がその初期の成果であろう 59。 だが、有力クロス ・ チャネル ・ バ ロ ンの総合的研究は、
個別論文はあるものの、予想以上に進んでいないのであるべ
また、クラウチの論文 「 ノルマン人とアングロ ・ ノルマン人:分裂した貴族層? 」 は、
)9
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人間文化第 30 号
2 つの点で重要な視点を提起した 。 すなわち、ル = パトゥーレルの主張した「同質の貴
族層」に対し、ノルマンディ出身の貴族たちで、中下層貴族たちが早期にイングランド
に根付き、土着化していった点を指摘しただけでなく、世代が進むにつれ変化していく
貴族層の社会を視野に取り入れた点である 61 。 同様に、グリーンは、クロス ・ チャネル ・
エステイツを維持する貴族たちが存続し、再生産され続けたことを認めつつ、全体とし
てイングランドへ定着した貴族たちがノルマンディから所領的つながりを失っていく傾
向を指摘した 。 そして、個別貴族の利害関心は、考えられているよりず、っと地域的であ
る、とするのであるべル=パトゥーレルが示した「ノルマンディとイングランドの結
合を望みつつ、拡大志向を持つ勢力的なクロス ・ チャネル・バロンたち 」
という理解か
ら、政治状況に翻弄されつつ、君主や家臣、他の貴族たちとの関係を自分に有利にとり
結んでいこうとする個々の貴族たちの利害関係と彼らのネットワ ー クへと、視点はシフ
トしている の。
さらに、支配層のネットワ←クの基本である親族関係の在り方についても研究が進ん
でいるヘプランタジネット朝を中心に、 M ・オレルによる「家族の歴史
中世におけ
る親族関係」シリーズが、幅広いテーマを扱いながら成果を 挙 げ続けているの。 アングロ ・
ノルマン期に関しては、前述のトンプソンがイングランドとノルマンディ双方に目を配
り、家族・親族関係に関する研究を継続して公表している 6\ また、ノルマンディにつ
いて、ボドゥアンが 11 世紀を中心に研究動向をまとめている 67。 なお、社会学的な視点
の影響を受けた研究が増えつつあるのも特徴であろう 68 0
今後の可能性
最後に、以上の研究動向にみられる近年のアングロ・ノルマン貴族史研究における傾
向と、今後の展望を挙げておこう 。
l 点目は、アングロ・ノルマン王国全体の研究動向と同様、ノルマンディとイングラ
ンド双方の動きに目を配る研究がますます中心になってきていることである 。 ノルマン
征服とその後については、これまでイギリス人研究者が研究を進めてきた分野であると
いう伝統がいまだに根強く、貴族たちについても、イギリス人研究者が 多 いという印 象
を受ける 。 実際、ノルマン征服後の時代について、ノルマンディより、イングランド側
の研究が非常に 多 いことも感じられる 。
しかし、ル= パ トゥーレルによるイングランド
とノルマンディの密接なつながり、という視点が導入され、ノルマンディのみ、あるい
はイングランドのみに視点を限定する研究ではなく、双方の状況を意識する研究が増加
した 。 これと並行し、イギリス史、フランス史研究者同士の交流が活発化している 。
この点は、今後、ノルマン征服を特別なことと理解し、従って、その事件を経験した
イギリス中世も特別な状況とする先入観を排し、また、ノルマンディとイングランドの
双方という枠をさらに越え、全ヨーロッパ的な視点から検討する方向へと進んでいく可
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『ノルマン帝国』後の 40 年
貴族層を中心としたアングロ ・ ノルマン史研究の現在の動向(中
村)
能性をうかがわせる 。
たとえば、ノルマン人たちがブリテン島に与えた影響、ノルマン期のイングランドが
ブリテン諸島に与えた影響は、ノルマン化、あるいはイングランド化、と言えるものな
のか、または全ヨーロッパ的変化の一段階ととらえられるのだろうかぺこれは、アン
グロ ・ ノルマン貴族を考察するうえでも重要な視点である。彼らが海峡を跨った所領を
保有しているということを、異なる領主のもとで、離れた場所に所領を保有する貴族た
ちと考えれば、必ず、しもイングランド、ノルマンディのみに特有ではない。アング ロ・
ノルマン貴族のクロス・チャネル ・エ ステイツは、他の地域で広域に領地を保有する貴
族たちと、どの点で異なるのか、どの点で共通性があるのだろうか 。
2 点目は、貴族層の多様性という面から、 貴族層のなかで もトップ・クラスのエリー
ト層か ら中 小貴族たちとの違いの注目、また、境界領域へのまなざしの深化が挙げられ
よう 。ク ロス・チャネル・エステイツを保有する大貴族たちは確かに存在 し、ノルマン
ディとイングランドの統合を期待した。だが、それだけでなく、ノルマンデイ、イング
ランドにのみ利害をもっ貴族たちがいた 。 そして、さらにノルマンディ辺境、あるいは
イングランド辺境の貴族たちは、それぞれの地域の利害も意識せざるを得なかったはず
である 70 0
また、クロス・チャネル・バロンたちゃイングランドにのみ利害をもっ貴族、といっ
た分類が仮に可能としても、それぞれのグループ内部自体、もちろん多様であり、また
グループを超えたつながりが存在しただろう 。 たとえば、イングランドを活動の拠点、に
し、イングランドにのみ所領をもっ貴族といっても、ノルマンディに所領を保有する貴
族と親族関係にあれば、相続の可能性があるのであり、必ずしも「イングランドにのみ
利害をもっイングランド貴族」と 言い切ることはできない。そもそも 、イングランドを
拠点にし、イン グラン ドにのみ所領を持つという意味で「イン グラン ド貴族」であって
も、彼らがノルマンディも支配する君主と関係を結んでいれば、ノルマンディと無縁と
は言えないのではないか 。 さらに、グリ ー ンが指摘したようにへンリ l 世期にもクロス ・
チャネル・エステイツは再生産されえたし、そのことは、この時代においても貴族たち
がノルマンデイ、あるいはイングランドへの分化への道が直線的ではなかったことを示
している 。
そして、貴族層の多様性が理解されるにつれ、変化のダイナミズムへも視点が広がっ
ていくだろう。世代を経て、当時の貴族たちの所領保有、意識、親族関係、あるいは君
主との関係はどのように変化していくのだろうか 。
3 点目として、すでに法制史 、国制史の分野で関心をひきつけてきた家系における相
続問題に加え、当時の人々の意識の在り方への関心の高まりがある 。 アイデンティティ
の問題としてのノルマンディ、あるいはイングランドについての意識、さらに家系や家
族意識といった、家族のありかたの問題へも関心が広がっているといえよう。
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人間文化第 30 号
2 点目、 3 点目に関連し、貴族研究にあたっては、わずかな事例からそのまま全体を
類推するのではなく、できるだけ多様な事例を考察することによって、時代、地域によ
る変化、家系的傾向等を導きだしていくという地道な作業の重要性が意識される 。 また、
アイデンティティは、集団的・個別的であれ、多様で柔軟なものであることが認識され
ている。これは、わずかな事例、叙述史料に断片的に表れる文言に全面的に依拠するこ
との危険性を示しているといえるだろう 71 0
ベイツは、「ノルマン人の帝国」を理解するために、ライフ・ヒストリー研究の可能
性を主張した 。 ベイツによれば、ライフ・ヒストリーとは、プロソポグラフィーより叙
述的である 一方、伝記ほど詳細でその個人の個性を明らかにすることを目的とするので
はないが、個別的経験を叙述するものであり、それにより個人の経験を当時の社会の理
解につなげることができるのである九ライフ・ヒストリーの蓄積、つまり、多数の個
別貴族家系の実際の動きをたどることで、「ノルマン人の帝国」がいかに多様で変化に
富み、さまざまな方向性を持つネットワークを包み込んでいたかが理解されるのであるへ
そして、グリーンが、証書史料の詳細な検討により、個別貴族の所領保有を着実に調査
し、彼らの地域的利害の分析を丁寧に積み重ねていくことの重要性を説いていることも、
同じ方向を示しているだろう 74 0
個別貴族の所領保有や家系をたどる丁寧な作業を行 う ことは、決して容易ではない 。
だが、 21 世紀に入札電子化を含めた史料の編集・刊行が大規模に進められ、オンラ
インでさまざまな文書館にアクセスすることが可能になった現在においてだからこそ、
ようやくそのような調査を期待できるようになった点は、喜ぶべきことではないだろう
か。
封建制論争に見られるように、イギリスという国家の成長の 一過程としてノルマン征
服を理解する視角から、特に 20 世紀半ば以降、ノルマン征服、そしてその後のアングロ・
ノルマン王国をめぐる研究は大きく拡大し、また多様化してきた 。 その流れの中で、ア
ングロ・ノルマン貴族研究は、個別事例の積み重ねという地道な作業により、ノルマン
デイ、イングランドという地域的枠組みを越えて、人的ネットワークの存在とその成長、
そしてその複雑で柔軟な世界を明らかにしてくれる可能性を秘めているだろう 。
(本稿は、平成 26 年度科学研究費補助金基盤研究( c )課題番号 21520764 の研究成果の
一部である。)
注
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ノルマン征服をめぐる研究の概観として、 M .
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らえてきたかについて、 D. Bates ,‘ 1066: d
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『ノルマン帝国』後の 40 年 一 貴族層を中心 と したアング ロ・ ノルマン 史研究の現在の動向(中
村)
pp.443-64. と くに大陸 ヨーロ ッパ と の関係 に つい て、拙稿 『ヨーロ ッパの 仲 間入りー イ ング
ランド史におけるノルマン ・コ ンク エ ス ト 理解をめぐって』京都大学文学研究科 2 1 世紀 C
0 E プ ロ グラム「グ ロー パル化時代の多元的人文学の拠点形成」第二 回 報告書 I 「歴 史篇 」
歴史と して のヨ ーロ ッパ ・ アイデンティティ研究会( 2 11 - 2 5 頁) (2004 年)。なお、本稿 で は、
地域と し ての「イング ラ ンド」に 限定する以外 は 一般的な「イギリス」の語も使用 し て い る。
2 なお、貴族に聖界貴族を含めることもできるが、ここでは教会史の分野には踏み込まず、
世俗貴族を対象とする。また、アング ロ・ ノルマンという用語については後述する。
76)
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インは、へ イ ステイングズの戦い 900 周年に と もなう研究の活性化 を振り返りつつ、 ル= パ
ト ゥ ー レルによるノルマン征服の 本質についての見解を高く評価 した。ベイツも 、 ル = パ
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ト ゥ ー レ ル の議論を 批判・ 修正 し つつ、議論の 土 台を提供し た 点を重視 して いる。 D. B
12.
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6 佐藤伊久男 「 前期プランタジネッ ト 朝の歴史 的地位 ー イングランド『国民国家』形成史論
覚え書」吉岡 昭彦編『政治権力の史 的 分析』 御 茶ノ水書房、 1975 年、 77- 104 頁(佐藤伊久
男『中 世 イングランドにおける諸社会の構造 と 展開』創文社、 2012 年に再録)がル=パ ト ゥ ー
レルの見解を紹介 し 、その後、 山代 宏道「アング ロ= ノルマン国家再考」『史学研究』 183
号、 1989 年、 32-51 頁、また有光秀行「アング ロ= ノルマン王国論のゆくえ」イギリス 中 世
史研究会編『中世イングランドの 社 会と国家』 山川 出版社、 1994 年、 89 114 頁(同『 中 世
ブ リ テン 諸 島史研究』 万水 書房、 2013 年 に 再録 ) が、ル= パ ト ゥ ーレ ルの主張とその 問題
点、を整理 し ている。
.
こ のテ ー マについてのホリスタ ー の研究の代表的な論文として 、 C . W
C.
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202,pp.
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. ル = パ ト ゥ ーレ ル 自 身は、帝国 と いう用語につい
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て、帝国 と は、上位権 力 のない l つの強力な権力に立脚 し 、 民族的 ・ 政治的に複数の構成要
素で成り立っ て おり、 拡大する傾 向 を持ち、広域に わたり、
そし て長期 間存続する国家であ
る、という定義に基づいていた( pp . 323-4 )。
8 LePatourel,
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9 さらに、ル = パ ト ゥ ー レルの視角の背景とし て 、彼がブリ テ ン島 と フランスの聞に位置す
るチャネ ル 諸島出身で、あり、イングラン ド 史の島国性に 批判的 だった点が指摘 されて い る。
.
2
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1976 )な ど 。また、ベイツも、ル ニ パ ト ゥ ー レルに 触 れながら 、 その前史を 指摘し ている。 D.
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,2010 );有光秀行「二人の年代記作者は
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イングランドとノルマンディをいかにとらえたか」『史学雑誌」第 10 0 編 l 号、 74 - 99 、 156 -
155 頁、 1991 年(同『中世ブリテン諸島史研究』万水書房、 2 0 13 年に再録)。
1
5 『ノルマン帝国」を含めたノルマンディとイングランドとの関係をめぐる研究状況の概略
については、朝治啓三、中村敦子「 D ・ ベイツ「ノルマンディとイングラン ド 、 9 00 年一
12 04 年 」翻訳と解説」『関西大学文学論集』 5 4 巻 l 号、 2004 年、 27 48 頁 ; P. Bauduin ,‘ Les
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8 F キJ ·ウエ ストが、ノルマン征服と帝国、植民地化と いった用語の使用に ついて批判的
に整理している。 F. J
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6. ノ ルマン征服と 帝国 という語 をめぐる議論の流れについては 、 Chibnall, The
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3 たとえば、 H ・トマスによる同 書 の書評を参照 O AmericanH
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. また、吉武憲司は、クロス・チャ
ネル ・パロネイ ジ cross-Channel baronage 、す なわち海峡をはさんでイングランドとノルマン
デイの両側に所領を保有する諸侯層(諸侯領)をとりあげた論文で、ホールトの理解を踏ま
えてアングロ ・ ノルマン王国の語を使用している。吉武憲司「アングロ・ノルマン王国と封
建諸侯層
1066 年 一 1204 年 」『西洋史学』 177 号、
1995 年、
1-16 頁、 2-3 頁。
2
5 Hollister ,‘ Normandy, F
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6 毎年夏に開催されるバトル・コンフェランスで発表された論文が、翌年の同学会誌に掲載
される形式になっている。刊行時は、『アングロ・ノルマン研究ノてトル ・コ ンブェランス会報』
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eCoηference onAnglo-Normαn Studies であ ったが、 1983 年刊行の 5 号か
らメインタイ トルが『ア ング ロ・ ノルマン 研究』 Anglo-Norman Studies とな った。
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eConfer百ice onAnglo-NormanStudies
のホームペー ジより。 http :
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com/ba抗le/index.html 閲覧日 2015 年 4 月 20 日。
2
8 1982 年に第 l 回の 学会が開催された。 The H
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sSociety のホームペー ジ によると、同 学
会 は、初期・中期中世、とくにヴァイキング、アングロ・サク ソン 、アングロ・ノルマン、
また初期アンジュー期とともに、
C·H ・ハスキンズの学問的興味にふくまれた領域を対象
としている 。 h即://www.haskinssociety.org/
閲覧日 2015 年 4 月 30 日。また、ベイツ「ノルマ
ンディとイングランド」 30 頁。
2
9 ベイツ「ノルマンディとイングランド」 3 1 頁。
1
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『ノルマン帝国』後の 40 年一貴族層を中心と し たアング ロ・ ノルマン史研究の現在 の動 向(中
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,2009). 同書は、ジ ョ ン王のノルマンディ喪失 800 周 年 を記念 す る 研究 集会 で の
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発表がもとになっている。 Vincent,‘ Introdu cton ’ , p . xi
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46 この点については、有光 「 アング ロ= ノルマ ン 王国論の ゆ くえ 」、 吉武、前掲参照。 また、
拙稿 「 アング ロ= ノルマン王 国 における貴ー族」 『史林』 78 巻、 1995 年、 1-37 ( 175 -211 )頁。
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48 この点について、ル ・ パ ト ゥ ー レルの 主 張に 対 する 批判 と して は 、 Bates ,‘Normandy and
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