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福音信仰の裏側 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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福音信仰の裏側 - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
福音信仰の裏側
新約単篇
マタイによる福音
福音信仰の裏側
マタイ 19:16-27
ちょうど 2 年前に、マタイ福音書のこの箇所を御一緒に読みました。16 節
の「金持ちの青年」とイエスの対話。その次のシモン・ペトロとイエスの対
話。それから、今は朗読は省略しました「ぶどう園の労働者」のたとえの所。
このあたりは、マタイ伝のひとつの山場にもなっていて、私もかなり力を入
れて語りました。「大きさの基準覆る」とか、「“五時から男”が認められ
たら心外か」とか、「小さい者は小さいか」とか……。9 月に「マタイによ
る福音」の本が出ましたら、また読み直してみてください。今朝はその同じ
所を、少し斜めの角度から、また裏側から眺めなおしてみようと思います。
この金持ちの青年、文語訳で言えば「ある若き富める司」ですか。イエス
の言葉を聞いて「悲しみながら立ち去った」という、この純粋な若者の話は、
昔から二つの解釈の仕方がありました。古代教会の「教父」といわれる人た
ちや、また中世の修道院の人たちは大体、この話を真正面から受け止めるの
が、真剣な厳しい受け止め方であると教えました。この青年には本当にもう
ひとつ、大事なことが欠けていて、イエスはこの人の 85 点を 100 点にしてや
るために、「ほら、もう一歩で永遠の命に入れる。行って持物を売り払え。
それを貧しい人々に施せ」と、彼の信仰の不完全なところを仕上げてやろう
となさった。それが、この青年にはどうしてもできなくて、ついにイエスの
弟子にはなれなかった。そういう教訓に使ったものです。
確かに、そう言えば、この後の 27 節のペトロのしたことなどは 100 点満点
と言いますか……この青年とは大違いなわけでして、これは主が言われた「神
には何でもできる」(:26)の見本みたいなケースになります。「百倍もの
報いを受ける」(:29)と言われたイエスのお言葉も、青年の場合に代表さ
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れる「不信仰の不可能」と対照して、「信仰を持つ者の無限の可能」を謳っ
て、ペトロを無条件で励ましておられるように見えます。私たち読者にも大
きなチャレンジを与える読み方です。ただ、こう読むと 19 章の結びが浮き上
がってしまって、「しかし、先にいる多くの者が後になり」の意味が薄れて
しまいます。
聖書をそういう尤もらしい教訓の書としてではなく、福音の書として見直
そうとした研究家たちは、このイエスのお言葉を、この青年の純粋ではある
が底抜けに安易な自信を突き崩そうとされたと……「そういうことはみな守
ってきました。まだ何か……」とノウノウと言ってのけるセンスに対して、
それを根底から崩すためのショックをお与えになったと見ます。ですから、
この人が仮に本当に持ち物を売り払って施したとしても、それで「正解、チ
ーン」と永遠の命を頂けた訳ではないのでしょう。本当はこのくだりの中心
は、むしろペトロが臆面もなく語る、自信満々,の言葉にあります。「わた
したちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何
をいただけるのでしょうか。」
人はどうかすると、「イエスを信じてイエスに従う」とは言っても、多く
の場合、本当に「イエスを」信じているというより、「イエスを信じて努力
している自分」を信じていることがあります。「こんなに苦労してお仕えし
ている私のいじらしさよ」とか、「これだけ働いている私を他の人たちと同
率に見られてたまるか」という、一種の悲愴感みたいな感動です。それがこ
の「金持ちの青年」にあったとしても、無理はないでしょうが、何と、イエ
スの弟子のシモン・ペトロがそれだった……という皮肉です。青年の場合は
まだ無理がないといえば言えます。「掟を守るって……どの掟ですか。ああ
モーセの十戒にあるそれ……でしたら全部もう守りました。まだ何か欠けて
いたら、おっしゃってください。」果して青年はイエスの言葉に従うかどう
か……という所には、本当は緊張感も期待もなくて、これは言わばペトロの
暴言のイントロになっているのです。「エッ、ペトロまで!」そ効果の前置
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きとして、マタイがこの青年の挿話をここに入れたと言えば、分かっていた
だけますか。
「“小さい者”として自分が見えるか。天の国はこの子供のような、だれ
も相手にしないような弱い悲しい者のためにある」(:14)とイエスは言わ
れただけで、それ以上の説明はされなかったのです。でも、ここで言われた
「子供」というのは、日本人の読者がよく早呑込みするように、「素直で純
粋な信仰のシンボル」じゃなくて、子供は「自分の功績や資格を押し立てな
い者」のシンボルとして使われているのです。そんな「子供」として、「小
さい者」として恵みを受けることができるか、それとも……。
そのイエスの御趣旨と対立するように、弟子たちはファリサイ派の宗教家
と変わらない誇りを持ちたいのです。弟子たちは、18 章の初めから早くもそ
の執念を示します。いやしくもイエスの弟子として、私たちはそこらの何に
もしない奴らと違う者になりたい。イエス様から「よし、お前だけは特別だ」
と言って誉めていただけるような優等生でありたい。それが、1 節の弟子た
ちの質問です。「いったいだれが、天の国でいちばん“great”として認めら
れますか」(39 頁)
「そうじゃない」ということを教えようとなさって、小さな子供を見本に
見せて、イエスは弟子たちをびっくりさせようとされます。「発想転換だ。
この子供を見よ。こいつは、どれくらい偉いか。これと同じだと自分で気付
いて初めて、本当に私を受け入れたことになる。」(:5)更に 42 頁では、
もう一度(:10)、「この小さい者を軽んじるな。自分だけ特別に苦労して
勲章を持ってると思うから、小さい者と一緒にして欲しくないんだ。」ここ
までくどくおっしゃって、一人でも気づく弟子がいるかと期待なさるのです
が、なかなか……。
それで今度はもう一度、みんなの目の前で子供を抱き上げておっしゃいま
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す。42 頁の下のところです。「子供たちが来たがっているのに止めるな。」
この時は、叱られて大いに心外だった弟子もいたと思います。次から次から、
親が赤ん坊みたいのを連れてきて、「先生に祝福して頂いたら病気しない元
気な子になれる」なんか言って、お忙しいラビの邪魔をするのを、ちょっと
でもイエス様の負担を軽くして差し上げようと弟子たちは気を利かしたつも
りです。当然、弟子たちの気遣いはイエスも分かっておられるのです。それ
なのに、「いいから、何人でも連れて来なさい。止めるな」と命じて、もう
一度念を押されます。「いいか。天の国に入れるのは、ほかの人より立派に
できた“優等生”じゃなくて、何にもできないこんな赤ん坊なのだ。これで、
前よりは分かるか……。」全然、分からないのです。通じない。
もう 30 年近く前になりますが、ある姉妹が「ここの教会の人たちはあまり
恵まれ過ぎていて、とても私の信仰のことは分かっていただけない」と言わ
れました。この方には、そう見えたのですね。この話、その頃すぐに例話に
使ったら、多分誰か傷つけたり不愉快にしたでしょうが、今ならもう時効で
すね。どなたの話がお分かりになる方も、もういらっしゃらないでしょう。
苦しい時には、無理もないことでしょうが、回りの誰を見ても、みんな気楽
な人ばかりで、本当の信仰の戦いに血を流しているのは、自分ひとりみたい
に思い込みます。
本当は、その「気楽なエリートめ」と思って疎ましく感じる相手のほうが
自分より辛い立場にいて、じっと耐えながら、何事も無いかのように主に委
ねて時を待っているのかも知れないのですが……。そんなことに気づく余裕
ができるのは、ずっと後になってからです。イエス様から頂いている恵みよ
りは、私に負わされている重荷の方が実感があって、あんな温室の胡瓜みた
いな外の連中に、ワシの信仰の辛さなど分かってたまるか。「主よ、天の国
で“great”の部類に私が入らない筈はございませんね。」「シモンよ。ヤコ
ブよ。まだ信仰のことが分からないか。信仰を裏返しの逆のものにしか受け
止められないか。この『小さな子供』を見せてあれほど言ったが駄目か……!」
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主はこうおっしゃるかも知れない。「それは“信仰”ではない。敢えて言え
ばそれは“ウコンシ”だ。信仰の裏返し、信仰とはちょうど正反対のものだ。」
時効の話をもう一つ。これは 30 年も前のことではなく、10 年ほど前の話
です。ある兄弟がこう言われました。「織田さん。私が職場でどんな難しい
場所に置かれているか、話したら、びっくりされると思いますよ。もちろん、
皆さんも苦労していらっしゃるのは知ってますがね。私の場合は、とてもじ
ゃないが、信仰の原則を貫くとか、キリストの証しをするなんてとこじゃな
いのです。そんな所でも私はこうやっているんです。まあ聞いてください。」
私はお話を伺いながら、「ひょっとして、あなた以外にも、同じ戦いをしな
がらオクビにも出さない人もいるかも知れませんよ」と言って差し上げたか
ったのですが、今はまだ時が満ちていないなと思いました。
この時のこの方にとっては、同じクリスチャン仲間でも、よその会社やほ
かの職場の人は「共に信仰を語るに値せず」と軽んじているのに、「この実
社会の苦労も知らぬ末生(うらなり)の胡瓜牧師め」と笑われるのがオチか
な……と口をつぐみました。多分、織田が言っても気休めにしかなるまいが、
本当は、この方はイエス様からこう言っていただきたいのだな、と思いまし
た。「よしよし。お前だけが血の滲むような戦いをしている。天の国では粗
末には扱わないぞよ。お前は特別だ。お前は天の国では“great”な者だ。お
前のはまさにパーフェクトゲームじゃないか。天国のギネスブックにも残る。
でかしたぞ、ペトロ!」そこで手放しで「ワーッ」と泣きたいのかも知れま
せん。こういう場合は……。
イエス様から無条件で誉めていただきたかった。このいじらしい私を認め
て欲しかったペトロは、ちょっとばかり心外だったでしょう。それが 43 頁下
の段、19 章の終わりに来ているお言葉です。「しかし、ペトロ、自分は絶対
優等生で満点のつもりの弟子が後になって、『あんな苦労もない気楽な奴が』
と見えてるようなのが、先になることも考えよ。」
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次の一頁にわたって語られる「“ぶどう園の労働者”のたとえ」は、これ
をさらにドラマ仕立てにして矛先を鋭くされたものです。朝から 9 時間も汗
水流した者と、夕方拾ってもらって 1 時間しか働いていないような“五時か
ら男”と同率にされてたまるかと、“9 時から男”が首を左右にガークガク
させながら怒り出すのが、44 頁の 10 節以下です。
9.最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11.それで、受け取ると、主人
に不平を言った。 12.『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでし
た。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱
いにするとは。』 13.主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なこ
とはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14.自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと
同じように支払ってやりたいのだ……」
この後で主人はこう結びます。16 節。44 頁上の段の終わりです。
16.「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
この主人の言葉は、前の頁にあったペトロへのイエスのお言葉と比べると、
語句の順序が入れ代わっているだけで、全く同じです。イエスは自作のドラ
マの台本を朗読して聞かせてから、その同じ言葉にもどって、パンチを利か
せなさったのです。ここまでくどく同じパターンを反復しなくても……と思
われますか。でも、ここをはっきりさせておかないと、イエスへの信仰は“裏
返し”の似て非なるものに変わるだけでなく、信仰の喜びと平和は消し飛ん
で、呪いと不満と怒りだけしか残らなくなって、霊的にも船は破船する恐れ
があります。
最後の例は、私が京都の教会で修行中のことでしたから、40 年近くも前の
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ことです。私自身がもう、その人の名前も顔も思い出せない位の過去になり
ました。彼はこう言ったのです。「イエス様を信じて、私なりに御言葉を守
って、祈ってきたけれども、家族はクリスチャンにならない。少なくとも私
の願った美しい夢の通りになってくれない。やはり、私の信仰が駄目なのだ
と思う。」自分の引いた設計図の通りにならない。自分の時間表に従って事
が運ばないことへのいらだちです。自分の予定表の通りに病気は治らない。
それどころか、身内に病人は増えてくるわ、家族との問題は解決しないわ、
私の聖なるイメージとは全部逆に、裏目に出てくる。「神様、どうなってる
んです。あなたの救いは無効です。」
こういうのは、一つにはその人の業のような性格(私にもあります)もあ
って、信仰の世界から何度も何度も“自分の予定表”の世界へ引き戻される
のですけれど、一つには、そんなのが“信仰”だと教える宗教家がたくさん
い過ぎることも原因です。「信じたら、そうならない筈はない。祈る時に、
既に与えられたと信じなさい。」そう教えられて人は、自分が神様になり、
主キリストを信じると言いながら、実はキリストを信じている自分の信仰を
信じてしまいます。「ああ、これだけできた。祈って与えられないものはな
い。」しかし、そう言った次の瞬間にはもう、「祈ったのに、神はお与えに
ならない」という不満の方が勝っています。私はこれだけやっているんだ。
外のいいかげんな奴らにこの信仰がわかってたまるか。」大事なペトロにそ
こへ落ちてもらいたくない一心で、イエスはここまでくどく、念には念を入
れる教え方をなさったのです。「天の国で誰が“great”かではない。この頼
りない子供を見よ。うっかりすれば、先の者が後になるぞ。」
《 結び 》
自分なりに聖書を読んで学んだ中から、これが私にとっての大事な福音だ
と信じるものを、舌足らずの言葉で語り続けてきました。大阪聖書学院での
学びを修了して、先代のクラークさんから卒業証書を頂いたのが、ちょうど
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40 年前の 4 月でした。と言いましても、聖書学院を卒業することで伝道者の
資格を得た訳ではありません。多くの教会では、卒業の時に「按手式」とい
うものをして、その日から「だれだれ先生」と呼び名も変わるものですが、
あれは黒いガウンを纏って講壇に立つのと同じで、一種の御愛嬌です。決し
て悪いことではありませんが、聖なる儀式と演出以外の何ものでもありませ
ん。好きな人はやればいい、という程度のものです。先生という名前を通し、
また黒いガウンを通してそこに聖なる「神の人」を見るのだと教えるのも結
構ですし、「それは福音を学ぶ者の福音への敬意である」とか、「主キリス
トへの畏れである」とか、まあ理屈はいろいろありますし、それなりの人物
が重々しい声でおっしゃれば、それらしく聞こえますけれど、そんなに感激
したり恐れ入ったりするほどのことではありません。脱線して済みません。
言いたかったのは、「聖書学院で資格をもらったのではない」ということです。
ですから、来年、田中志郎さんが卒業される時も、学校は何にも資格を差
し上げないことになっています。聖書学院という所は、すでに神がお召しに
なった器に、最低限の霊的準備をさせることと、それに、その人が一生かけ
てする勉強の方法論と方向づけを与えてあげることしかできません。念のた
め、「すでにお召しになった」というのは、「召しが始まった」ということ
です。主の召しは、時間をかけてゆっくり本物になって行くのが普通です。
ところで、あっという間に過ぎた年月を振り返ってみて、結局自分はどん
な伝道を受け持ってさせて頂いたのかと、考えてみることがあります。もち
ろん、“キリストを伝える”という第一命題は別として、人にはそれぞれ、
その人なりの守備範囲と言いますか、その人だけに割り当てられる伝道の分
野があります。ある人は、神とか信仰とかおよそ考えたこともない人を集め
て、信仰に入るヒントやきっかけを与えて回ります。大衆伝道者とかいろい
ろな名前で呼ばれます。大事な仕事です。古くは賀川豊彦、山室軍平、新し
いところではビリー・グレアムや本田弘慈。賛美や音楽で人の心を神に向け
る人も召されます。美しい日本語で讃美をなさる中国人の胡美芳(Hu
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Meifang)さん。キリスト教の学問の世界で偉大な貢献をする人。神田盾夫、
浅野順一。内村鑑三のように何十年後も読まれる著作を残した人もいます。
もっと目立たない所では困窮者や病気の人のために仕えたり、人権を奪われ
た人のために奔走する人もいます。日本アムネスティの桑原重夫さんも、消
えない印象を私に残しました。この小さな私に与えられた私なりの仕事は何
だったのか……。
今になってみると、それがとてもはっきりした確信になって、「私の場合
はこれだ」というものができてきたと思います。それは、「ローマ書の福音」
の 4 講の結びでもちょっと触れたのですが、一言で言うと、福音とは全く正
反対のことを福音だと思い込んで充実しておられる方に、「キリストはそっ
ちじゃなく、こっちですよ!」とヒントを差し上げる仕事だったと言えます。
悲しい自分を責めさいなんで苦しんでいた人が、それで自分の信仰に釘づけ
になっていた目をキリストに挙げて、喜んでくださればそれで私は本望です。
もっとも、それで喜んでくださった方がある反面、それでは充実も感激もで
きなくなって、がっかりしたり憤慨なさったりして、去られた方もきっとあ
ったと思います。多分、これからもあるでしょう。果してこんな主の僕が主
のお役に立ったのか……それとも、単に人をつまずかせて公害を撒き散らし
ただけだったのか、これは主の御判定を待たねばなりません。
ただ、私にはそれしかできなかったし、私には確かにそれができたと思う
だけです。これは、ここで主日の務めを果す上でも、また聖書学院ででもで
す。こんなことは、あまり活動的とも積極的とも言えないし、パッとしない
伝道であることは確かです。でも現に何人かの方たちには、その私がいちば
ん大事と思う福音の中心が伝わって、喜んでいただけたとすれば、後何年主
はお許しくださるかは分かりませんが、私みたいな者でも、無駄ではないの
でしょう。
(1992/07/05)
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