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中世∼戦国時代のようす 打ち続く戦乱(戦国時代)

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中世∼戦国時代のようす 打ち続く戦乱(戦国時代)
中世∼戦国時代のようす
法明(ほうみょう)上人、融通念仏宗を広める
近鉄大阪線長瀬駅の南西、長瀬町にある、東大阪市立斎場(長瀬墓地)をたずねると、
墓地の東北方にひときわ高く、石の玉垣で囲まれた中に、高さ一・八メートルの卵塔形の墓碑が建つ。
法明上人良尊の墓である。
墓碑面は、ひどく風化していて、刻まれていたであろう文字を判読することはできない。
法明上人は、鎌倉時代末期の弘安二年(1279年)十月十日に摂津国東成郡深江村で生まれた。
父は、清原右京亮守道、母は、枚岡神杜の宮司の娘で桔梗前という。
二十五歳のとき高野山に登り、のち天台宗や融通念仏宗を修めた。深江に法明寺があるが、
彼が開いた寺であるという。
法明上人良尊は、石清水八幡宮の神勅により、平野大念仏第七世の法燈を継ぎ、
念仏おどりを広めて寺運を挽回した。念仏おどりは、時宗一遍上人によりおこされたものでおるが、
法明上人は、鉦や太鼓をたたいて村々を踊り歩く念仏おどりを民衆の問に広める中に、
「自己の唱える念仏の功徳が自他ともに融通し、一人の念仏往生が衆人の念仏往生を約束する」
という理念のもとに村を越えて、人と人のつながりを急速に、河内、大和を中心に広くひろめたのである。
法明上人は、1349年、有馬庄長長瀬墓地で荼毘(だび)にふされた。
法明(ほうみょう)上人の墓
打ち続く戦乱(戦国時代)
校区も、この時期、楠氏と足利氏との戦い、畠山氏一族争い、織田氏との戦い、豊臣方と徳川方との戦い
と、多くのの戦いに巻き込まれていった。
田畑は踏み荒らされ、村も焼かれ、校区も戦場となることがあったでしょう。
今から数百年前、村々の荒廃をよそに絶ゆることなく戦乱が続いた。
郷土では大阪市平野区に入るが正覚寺城、
八尾市に入って久宝寺城、八尾城、萱振城
東大阪市に入って若江城があった。
八尾城は南北朝時代に南朝方の八尾別当顕幸が居城とした城である。
応仁の乱のころ、若江城では畠山義就と畠山政長の畠山両家が争奪をくり返した。
萱振城はその時の出城であった。
その後畠山政長は正覚寺城で細川政元の軍に攻められて戦死した。
さらにその後、三好長慶があらわれて飯盛城を根城として河内地方を押さえたが
その養子三好義継は若江城主となり、織田信長の軍に攻められて戦死した。
久宝寺城
久宝寺城は室町幕府に仕えた渋川満貞の居城と云われる。
満貞の長子で、渋川郡を領したことから渋川と称した。
麟角堂を創建し又毎年7月14、15日は城内で精霊祭を催し、領民は5日間盆踊りをしたと言う。
満貞の嫡子の子の光重は播州安井郷を受領、安井と改姓し、定重の時に織田信長に仕えたが、
天正5年、光佐顕如上人の本願寺兵に攻められ、城は陥落した。
城址は寺内町西北の出隅、『城土居』の地名を残している。
現地石碑より
八尾城
http://s43mk.hp.infoseek.co.jp/siro.html
より写真、文。提供
八尾城は、南北朝期の八尾の土豪八尾別当顕幸の築城と伝えられています。
顕幸が南朝方に帰して後は、北朝方に占拠され、その河内における重要な拠点となります。
延元2年(1337年)、南朝方の高木遠盛らは八尾城の奪還をはかり、合戦となりますが、
その折の猛攻撃で、城内の堂社・仏閣・矢倉・役所などがことごとく焼失しました。
八尾城はその後も、南北朝期・室町時代を通じて、幾多の合戦の舞台や陣地となります。
イエズス会日本年報によると、戦国時代末期、八尾城は信長配下のキリシタン武将池田丹後守教正の
居城であり、城下には、数多くのキリシタンが住んでいたということです。
その後、教正は秀吉により美濃に移封され、城は廃城となります。
なお、八尾城の所在地については、常光寺を含む西郷から木戸にかけての地域(現本町)であったとする
西郷説 と、旧大和川に面した別宮から八尾座にかけての地域(現南本町・高美町・安中町)であったとする
八尾座説 の2説があります。
西郷説は、江戸時代の兵学者山鹿素行の描いた『八尾(矢尾)城図』を、八尾座説は、「古城跡無御座候」
という記載のある『西郷村差出明細書(江戸中期)』や城を想定させる小字名、堀跡とも見られる
遺構の存在などを主要な論拠にしています。
八尾市立図書館ホームページより
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