Comments
Description
Transcript
Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL ダブル・バインドにおける第三者的存在のもつ意味 : G.ベイトソンの「学習とコミュニケーションの階型論」 との関わりから 安川, 由貴子 京都大学生涯教育学・図書館情報学研究 (2007), 6: 31-42 2007-03-31 http://hdl.handle.net/2433/44030 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 安 川 :ダブル ・/マイ ン ドにおける第三者的存在の もつ意味 ダ ブル eパ イ ン ドにお け る第三者 的存在 の もつ意 味 - G. ベイ トソ ンの 「 学習 とコ ミュニケー シ ョンの階型論」との関わ りか ら - 安 川 由貴子 Me a nl ngO faThi r dPe r s o ni nt heDo ub l eBi nd: wi t h" Logi c alCa t e go r i e so fLe ar nl ngandCo mmuni c at i o n"byG.Bat e s on Yuki koYAS UKAWA 1 は じめに 学習 とコ ミェニ 本稿では、 G.ベイ トソンによるダブル 。バイ ン ド理論 を、ベイ トソンの 「 ケ- シ ョンの階型論 」との関わ りの中か ら考察 してい くことを通 じて、 ダブル 。バイ ン ドの も つ積極的な意味を見 出 してい くことを 目的 としている。 その際に、 ダブル ・/マイ ン ドか らの解 放の契機 となる存在 として、第三者的な存在が もつ意味を手掛か りとして読 み解 いていきたい と考えている。 ダブル 。ノマイ ン ド理論 は、ベイ トソンが、精神分裂症の原因 とその症状 を説明 しうる もの と して提示 した ものであ り、精神分裂症 の原因が個人の内部のみに帰着す るものではな く、関係 性の中で語 ってい く問題であるとして コ ミュニケー シ ョン的に分析 した点で意義があ った とい える。 この理論 は、後 に家族療法 を中心 と した精神医学 の世界のみな らず、 コ ミュニケー シ ョ ンに関わる問題 として社会学的な側面か らも注 目されている1 ) 。 ダブル 。バイ ン ドには、以下 に見てい くように、累積的相互作用 による関係性の破壊 と新 た な生成 の可能性が存在 している。関係性 の破壊 を恐れてダブル ・バイ ン ドをできるだけな くす ような世界を構築 しようとす るのか、 あるいは、む しろダブル 。ノマイ ン ドを積極的に受 けとめ てそれを乗 り越えてい くことによる成長 の意味を見出そ うとす るのか。 ダブル 。バイ ン ド状況 は、私 たちの 日常的な コ ミュニケー シ ョンの中に普通 に存在 している事象であ り且つ、誰 にで も起 こりうる事象である。 私たちは、 このようなダブル 。バイ ン ドをいかに捉えてい くのか、 そ してその中でいかに生 きてい くのか とい うことに対 して積極的な意味を見 出 しうるのではな いか とい うことが本稿 における問題意識である。 2 G.ベイ トソンのダブル ・バイ ン ド理論 2 . 1 .ダブル ・バイ ン ドとは何か まず、 ダブル ・/マイ ン ドとは何か とい うことであるが、ベイ トソンは以下のような必要条件 を提示 している2 ) 0 1つ 目に、「ふた りあるいはそれ以上 の人間」 の関係 において生 じる事象で -3 1- 京都大学 生涯教育学 ・図書館情報学研究 vol . 6 .2 0 0 7 年 あ り、「この複数の人間の うちの一人を 『犠牲者』として見 ることが定義上必要である」とい うことである。 ダブル 。バイ ン ドの事例 として母子関係が挙げられることが多いが、ダブル 。 バイ ン ドを課すのは母親だけとは限 らず、他の家族のメンバーとの組み合わせによってダブル 。 繰 り返 される経験」 ということである。 これは バイ ン ドが成立す る場合 もある。 2つ 目に、「 1回の経験が心に深い傷を与えるという 「トラウマ」的経験のことを意味す るのではな く、繰 ●● り返 される経験の中で、 ダブル 。′マイン ド構造 に対す る構えが習慣 として形成 されるというこ とを意味 している。 3つ 目に、「第一次の禁止命令 と、 より抽象的な レベルで第一次 の禁止命 生存への脅威 令 と衝突す る第二次の禁止命令」 が同時に発せ られることである。 これ らは、「 シグナル となる処罰またはその示唆を伴 うもの」である。 第一次のメッセージはふつ う言語的手段 によっ て伝え られるのに対 して、第二次のメ ッセー ジは、「ポ-ズ、 ジェスチ ャー、声の調子、有意 な しぐさ、言葉 に隠 された含意」 といった非言語的手段によって この抽象的なメ ッセー ジが伝 え られ ることが多 い 。 4つ 目は、「犠牲者が関係の場か ら逃れるのを禁 じる第三の禁止命令」 の存在である。「 他のふたつの レベルでの禁止命令が強化 されること自体 に、生存への脅威が 内包 されてお り、 また、幼児期 にダブル ◎バイ ン ドに引き入れ られた ものはそ もそ も脱 出の可 能性を もたない」ため、形式的にはこの禁止命令を独立 した項 目として揚げる必要はないか も しれないとしなが らも、「関係か らの脱 出を食 い止 めるための積極的なはた らきけが一気 ま ぐ れな愛の約束などによって-な されるというケースもある」ということもベイ トソンは指摘 し ている。 このような経験 にさらされているとき、人 はダブル ⑳バイ ン ド状況 に陥 っているということ ができる。 そ して、ダブル やノマイ ン ド状況 に捕 らえ られて しまうと、人 は対人関係 において、 次第 に分裂症的な行動を示す ようになるという。 つま り、「メ ッセー ジに付随 してその意味す るところを確定するシグナルを、ノーマルな人間 と共有することをやめる。 これはメタ ◎コミュ ニケーション 。システムを崩壊 させるのと同 じである3 ) 」 というのである。 そ して行動のパター ンとして、「1. あ らゆる言葉の裏 に、 自分 を驚かす隠された意味があると思 い込むようにな 、「2.人が 自分 に言 うことを、みな字句通 り受 け取 るようになる るになるケース」 ( 妄想型) ケース。 そこに、言葉 とは裏腹な口調や ジェスチャーやコンテクス トがあったとして も、言葉 破瓜型) 、 の方 に固執 して、 メタ ◎コ ミュニケーションのシグナルはまった く意 に介 さな い」 ( 「メタな レベルのメッセー ジに対 して過敏 になるので も、無頓着 になるので もない第三の道 は、 ) 。こ それに対 して耳をふ さ ぐとい う方法である」 ( 緊張型)、 という 3つの症状 を挙 げている4 れ らの症状 は、 ダブル ◎バイ ン ド状況か ら身 を守 るための 「自己防衛 の方策5 ) 」 として示 され ているものとして位置づけ られている。 2 . 2.母子関係 に見 られるダブル oJマイン ドの事例 ダブル ◎ノマイ ン ド状況 に陥 りやすい事例 として、「お前を愛 している」 とい う言葉 に母親か らの愛情を感 じて子 どもが近づいてい くと、逆 に子 どもを避 けるような しぐさを とって しまう とい うのは典型的である。 もう少 し詳細 に述べ ると次のような事例である。「 母親が子供の こ とを うとま しく思 い ( いとお しく思 って も同 じだが)、子供か ら身を引かず にはい られない気 …3 2- 安川 :ダブル 。バイ ン ドにおける第三者的存在 の もつ意味 持 ちに襲 われた とき、彼女 は、『もうおやすみな さい 。 疲れたで しょう。 ママはあたなにゆ っ 餐"のメ ッセー ジに くり休んで欲 しいの』とで も言 うだろう。 言葉 にな って発せ られたこの " は、言葉でい うとした ら 『お前 にはうん ざ りだ、わた しの 目に入 らないところに消えてお しま い』 とも表現 される感情を否定す る意図が含 まれている。 ここで もし子供が彼女のメタ 。コ ミュ ニケー シ ョンの シグナルを正確 に識別すれば、母が 自分 を うとま しく感 じ、 しか も優 しいそぶ りでだまそうとしている事実 に直面 しな くてはな らない。 メ ッセー ジの等級 を正 しく区別す る 学習をす ることで 『罰』を受 けることになる。 子供 は、母 に嫌われていることを受 け入れ るよ り、 自分が疲れていることを認 めて しま うことに傾 くだろう。 これは、 自分の身体か ら得 られ るメ ッセー ジに関 して、 自分 自身をあざむいて、母親のあざむきに加担す るとい うことだ。母 親 との生活を守 るために、子供は他者か らのメ ッセージばか りか、 自分 自身が体感す るメ ッセジについて も誤 った識別を行 うように駆 りたて られ るのである6 ) 」。子 どもは、母親の偽装 され たや さ しい態度を本物 として受 け取 って母 に近づ こうとす ると、母親 は子 どもに対 して抱 いて いる不安 や敵意 か ら子 どもを遠のけようとす る。 しか し逆 に、子 どもが素直 に母親か ら身を引 くと、 そのそぶ りか ら、わが子が 自分 を愛情深 い母親でない と言 っていると感 じ取 り、 その こ とで子 どもを罰す るか、 また子 どもに近づいていこうとす る。 しか しまた子 どもとの関係が親 密 になれば、ふたたび子 どもを遠 ざけて しま うとい う繰 り返 しに陥 って しま うのである7)。 ま さ しく、「 子供 は母親 の気持 ちの表れを正確 に認識 した ことで罰せ られ、不正確 に認識 した こ とで罰せ られ る8)」というダブル 。バイ ン ド状況 に捕 らえ られているといえるのである。 ベイ トソンは、 このような状況の特徴 のひとつ として、「 母子関係 の間に割 り込 み、矛盾 の しが らみに捉え られた子 どもの支えになるよ うな存在-洞察力のある強い父親な どがいない9 ) 」 とい うことを指摘 している。 また、子 どもは、父親 だけでな くさまざまな方策 に頼 ろうとす る だろうが、教師な ど周囲の入間か らの支え も得 られに くいという事情 も指摘 している。 なぜな ら、結果的には、母親 白身を子 どもには りつ け、母親 自身 を不安 に突 き落 とす ことに しかな ら ないに も関わ らず、母親 は 「 子供が 自分以外 の ものに愛着 を抱 くとそれを脅威 に感 じて、その 愛着 を断 ち切 り、子供 を身近 に取 り戻そ う10)」として しまうか らである。 そ してベイ トソンは、「 子供が真 にこの状況か ら逃れ る方法 はただ一つ、母親 によって放 り 込 まれた矛盾状況 について発言できるようにな ることだ1 1 ) 」 と述べている。 ベイ トソンは、子 どもが実際にこのような行動 に出た ところで、母親 によって罰せ られ、 おまえは事態を曲解 し ていると言 い立て られ るだろうとい うことは認 めている。 とはい うものの、 このような状況 に ついて語 るというメタ 。コ ミュニケーションの レベルの表現 は、「われわれが コ ミュニケーシ ョ ン行動 を正 しく理解す る上 で、欠かす ことのできない ものだ。 コ ミュニケー シ ョンにつ いて コ ミュニケー シ ョンす る能力、 自分 自身や他 の人間の意味ある行動 について コメ ン トす る能力 は、 社会的交わ りに不可欠な ものである1 2 ) 」 としてその重要性 を指摘 している。 2. 3 .バ リ島の母子関係 に見 られるダブル り マイ ン ドの事例 ベイ トソンは、 ダブル - マイ ン ド理論 を提示す るよ りも以前 に行 ったバ リ島での フィール ド ワー クにおいて も、母子関係 を観察 している。 このバ リ島における文化人類学的研究 は、哲学 -3 3- 京都大学 vol . 6.2 0 0 7 年 生涯教 育学 ・図書館 情報学研究 者 の 中村雄二郎 も指摘 して い るよ うに1 3 ) 、 ダ ブル 。バ イ ン ド理 論 の発 展 に と って も関わ りの深 い もので あ る。 ベ イ トソ ンは、バ リ島の社会 で は、母子 関係 にお いて累積 的相 互作用 が見 られ るに も関わ ら ず、 その作用 にお いて生 じる クライマ ックスが うま くプラ トーの状 態 に置 き換 え られ る システ 。「まず母親 が、 子供 の ちん ちん ムが存在 して い る こ とを見 出 した 14 ) 。 次 の よ うな事 例 で あ る を引 っぼ るな ど して、戯 れ の行為 を仕掛 け る。 刺激 され た子供 は、 その反応 を母親 に向 け、二 人 の間 に短 時間の累積 的 な相 互作用 が生起 す る。 だが、 そ こで子供 が クライマ ックスに向か っ て動 き出 し、母親 の首 に手 を回 した りす るな どす る と、母親 は 自分 の注意 をサ ッと子供 か らそ 感情 の激発 に向 けて相 互 に苛立 ちを らして しま う。 この時点 で子供 は、別 の累積 的相互作用 ( つ の らせ て い くタイ プの もの) を仕 掛 ける ことが多 いが、 これ に母親 はの らず、見 る側 に回 っ て子供 の苛立 ちを楽 しみ、子供 が攻 撃 して きた とき も表情 ひ とつ変 えず にサ ラ リとこれ をか わ して しま う。 これ は、子供 が もって い こうとす る種類 の相互作用 を母親 が嫌 悪 して い るあ らわ れで はあ るが、 同時 にそれが、他人 とその よ うな関 わ りを もって も報 われな い ことを子供 に教 え込 む、学習 の コ ンテ クス トにな って い る点 に注意 したい。仮 に入 間が、 累積 的相互作用 に走 る傾 向を もともと備 えて い る とす るな ら、 それ を抑 え込 む学習 が ここで な されて い くわ けで あ る15)」 とベ イ トソ ンは述 べ て い る。 この よ うな、 「子供 た ちが通 過 す る経 験 の 中で、 他 人 との相 互作用 で クライマ ックスを希 求 しな い方 向へ の しつ けが な され る こ と1 6 ) 」、 お よび 「社 会生 活 に繰 り返 し生 じる コ ンテ クス ト が、 累積 的相互作用 の進展 を抑 え込 む性質 の もので あ る1 7 ) 」 とい うこ とを通 じて、 バ リ島で は、 「社会組織 と 日常生 活 の コ ンテ クス トが競 争 的 な相 互作 用 の コ ンテ クス トを許 さな い 8 」、非 1) ㊥ . 2.で示 した母子 関係 の ダ ブル ◎ノマイ ン ド 分裂生 成 的 な社会 が保 たれ て い る とい うので あ る。2 . 2 .で は母 子 関係 の累積 的相互作用 は悪循環 に陥 って しま う回路 に入 って の状 況 と比 べ る と、2 しま って い る うえ に、学習 の コ ンテ クス トと して の存在 の仕方 は存在 して いな い とい う点 でバ リ島の事例 と異 な って い る といえ る。 3 ダブル e/マイ ン ドと 「学習 とコ ミュニケー シ ョンの階型論 」 3. 1 . 「学習 とコ ミュニケー シ ョンの階型論 」にお けるダブル ・バ イ ン ド ダ ブル ◎ノマイ ン ド理論 も 「学習 とコ ミュニ ケー シ ョンの階型論 」 も共 にベ イ トソ ンによる理 論 で あ るが、 これ らは同時 に相互補完 的な もの と して語 りうる ものであ る。 あ るいは、 ダブル 。 バ イ ン ド理論 によ って、 ベ イ トソ ンの学習 の階型論 の理論化 が一層促進 され た と もいえ る1 9 ) 0 最初 に、 学習 の階型論 につ いて簡単 に述 べ てお く。 それ は、 コ ンテ クス トの もつ論理 階型 に したが って、 ゼ ロ学 習、 学 習 Ⅰ、 学習 Ⅱ、 学 習 Ⅲ、 学 習 Ⅳ とい う階型 に分 類 され た もので あ る20)。 ゼ ロ学習 :「 反応 が一 つ に定 ま って い る」 ケー ス。 試行錯誤 的行動 は含 まれ な い。 学習 Ⅰ :「反応 が一 つ に定 ま る定 ま り方 の変 化、 す な わ ちは じめの反 応 に代 わ る反 応 が、所 定 の選択肢群 のなか か ら選 び と られ る変化」 で あ る。 -3 4- 安 川 :ダブル e/マイ ン ドにおける第三者的存在 の もつ意味 学習 Ⅰ) の進行 プロセス上 の変化である。 選択肢群 その ものが修正 される変化や、 学習 Ⅱ :「( 経験 の連続体が区切 られ る、その区切 り方 p unc t uat i onの変化が これにあたる」。 学 習 Ⅲ :「 ( 学習 Ⅱ) の進行 プロセス上の変化である。 代替可能な選択肢群がなす システムそ の ものが修正 され るた ぐいの変化」 である。 学習 Ⅳ : 「 ( 学習 Ⅲ) に生 じる変化、 ということになろ うが、地球上 に生 きる ( 成体 の)有機 体が、 この レベルの変化 に行 きつ くことはないと思われ る」。 ゼ ロ学習では本能的な反応や単純な機械装置が示す現象が含 まれ、学習 Ⅰはあるメ ッセー ジ とコンテクス トが結 び付 け られるような学習であ り、学習 Ⅱでは学習 Ⅰと並行 して、 コンテク ス トそれ 自体 を学習 してい くような階塑 となる。 すなわち 「 学習す ることを学習す る」 ことに な り、行動 に対す る経済性 を獲得す る一方で、習慣 を形成 してい くことに もなるので ここで獲 得 され る諸前提 に変容を もた らしてい くことは容易ではな くな って くるといえる。 そ して学習 Ⅲでは、学習 Ⅱをな しているシステムそれ 自体 に変容を もた らしてい くような階型 になる。 ダブル e/マイ ン ドと学習 の階塑論 との関係 について、 まず指摘できることは、 ダブル 。バイ ン ドの仮説 によって、 これまで考慮 されていなか った特質が学習 プロセスにつけ加え られるこ とにな った とい うことである。 すなわち、学習 をコンテ クス トの論理階型 によって分類 し階層 間の不連続 を設 けた ことであ り、 この ことな しにダブル 。バ イ ン ド理論 も存立 しないのであ る2 1 ) 。ベイ トソンは、 ここに提示 した学習 とコンテ クス トの階層的分類 という 「この秩序づ け こそ、 ダブル 。バイ ン ドの理論が要求す るところの ものなのである22)」 と述べている。 次 に、学習 Ⅱ (コンテクス トの学習)が行 われていない状況 においては、 ダブル ・/マイ ン ド には陥 らないということである。 この ことは、 イヌによる学習実験 を例 に示 されている。 イヌ に対 して、パ ブロフ的または道具的な コンテクス トで、二者 (円と楕 円)の識別を行 う学習を させ る。 その識別ができるようにな った後 に、今度 は次第 に円 と楕 円の差異 を少な くして問題 の難度 を上 げてい く。 す ると、イヌは次第 に混乱 し始 め、ついには識別不能の段階に達 し、か な り重度の精神的混乱 をきたす ようになる2 3 ) 。ベイ トソンはこれを 「 犬が典型的な 『ダブル 。 バイ ン ド』状況 に置かれた24)」 と表現 している。 しか しなが ら、 もし、 円が完全 にAの意味 に もBの意 味 に もな るとい う状況 に学習実験 に未経験 なイ ヌを置 いた場合、 あるいは、 これが 「 実験」だ とい うことがイ ヌに理解 されないままに実験 を行 った場合、神経症的症状 は生成 さ れないのである25)。 この ことか ら、 ダブル ・バイ ン ド理論がベースと しているのは、学習 Ⅱの階型であるといえ る。 ベイ トソンは、 「この Ⅱの レベルにおける矛盾 こそ、 わた しがダブル ・バイ ン ドと呼ぶ も 6 ) 」 と述べている。 また、「人間 とは、 ヒエ ラルキーの各 レベルで進 む学習が のに他 な らない2 不整合 な ものになる、そ うい う特徴をそなえた動物 であるに違 いない。 そ うでなければ、 ダブ ル ・バイ ン ドによるフラス トレー シ ョンか ら精神分裂症 が生 じるな どとい うことはあ りえない はずである27)」 とも述べている。 すなわち、ダブル ・バイ ン ドとは、私たちのコ ミュニケーシ ョ ンの論理階型 に関わるものであ り、かつ、特別で非 日常的な ことで もな く、 いつで も誰 にで も 生 じうる日常的な もの として捉えてい くことがで きるのである。 -3 5- 京都大学 生涯教育学 ・図書館情報学研究 vol . 6 .2 0 0 7 年 3. 2 .ダブル ・パイ ン ドか らの解放 に向けて ダブル 。バイ ン ドか らの解放の方法 として、ベイ トソンが指摘 しているもの と して、「 治療 的ダブル - マイ ン ド」を挙 げることができる。「 治療 的ダブル ・バイ ン ド」 とは、 サイコセラ ピーの場 において、医者が患者 に対 して意 図的にダブル o/マイ ン ドを しかけてい くことを意味 している。 治療的ダブル ・/マイ ン ドと、 もともとのダブル 。バイ ン ド状況 との違 いにつ いて、 「ひとつ には、医者 自身 は自己存在 を賭 けたぎ りぎ りの闘争 に関わ っていないとい うことであ る。 したが って医者 は、患者 にとって苦痛 の少ないダブル 。バイ ン ドを仕掛 け、 そ こか ら患者 8 ) 」とベイ トソンは述べてい が徐 々に抜 け出 して くることを手助 け してい くことが可能 にな る2 る この事例 として、 7歳 の ときか ら、 た くさんの恐 るべ き神 々が世界 に住みついて 自分 を支 。 配す るという、複雑 な宗教 を編み出 していた、強度 の分裂症をきた した若 い女性 の ことが挙 げ 神 Rが、 あなた と話 を してはいけない と言 いま られ る29)。 その女性 は、治療を始 めように も 「 す」 とい って拒否 して しま うために、医者 は次のよ うに答え る。「は っき りさせ ま しょう。 わ た しにとって神 Rは存在 しない し、 あなたの考えている世界 も一切存在 しな い 。 で もあなたに とっては存在す るわけで、 それをあなたか ら取 って しまお うとは思わない。思 って もできるは ず はないで しょう。 あなたの世界の ことはまるで見 当 もつかないのだか ら。 だか らあなたの世 界 に合わせて話 を しようと思 うの。 ただ、 あなたに分か ってほ しいのは、わた しがそ うす るの は、わた しにとってあなたの世界が存在 しないことを、 あなたに理解 して もらうためだ という こと。 さあ神 Rの ところへ行 って、わた したちは話 し合わな くてほな らないと言 って らっしゃ い。 そ うすれば許 しが もられ るはずです。 わた しが医者だ と言 いなさい 。 それか らあなたは七 歳か ら十六歳 まで九年間 も彼 の王国にいたけれ ど、助 けては もらえなか った ともね。 そ うした ら神 Rは必ず、 おまえたち二人 にそんな ことができると思 うな らや ってみろと、許 しを くれ る にちがいない。 わた しは医者で、 それをや りたが っているんだ って話 して らっ しゃい30 ) 」 と。 このように、医者 が患者 を 「 治療的ダブル ◎ノマイ ン ド」 に追 いやることによって、「この患者 が もし、 自分 の神の存在 に疑 いを抱 くようになれば、 それはすでに博士の言 うことを聞き入れ て治療 に同意 した ことと等 しい。逆 に彼女の神 の実在 を言 い張れば、その神の ところに行 って、 彼 よ り強力 だ と主張す る医者 の ことを告 げな くてはな らな い 3 1 ) 」。 いずれに して も、 医者 と関 係す ることを認 めることにな って しま うということである。 ベイ トソンは次 のように も言 う。「ダブル ◎バイ ン ドの体験が、苦悩 と絶望 によって、心 の 深い レベルにある認識論的な前提 を打 ち くだ くものであるとす るな ら、その儀 を癒 し新 しいエ ピステモロジーを育んでい くためには、なん らかの意味でダブル ◎バイ ン ドの逆 をなす経験が 必要だ という論が立つ。 ダブル - マイ ン ドは、 ある状況 に貼 りつ くしかないとい う、 ひとつの 選択不可能性 の極 みである3 2 ) 」 と。 ダブル ◎バイ ン ド状況か らの解放 にとって、何かそれまで とは逆の体験 な り作用が必要 とされ るであろうとい うことである。 このダブル - マイ ン ドに捕 らわれた認識論的な前提か ら解放 され、新 しい認識論へ と飛躍す ることができれば、 そ こには、 ベイ トソンのい う 「 分裂病 も、第二次学習 も、 ダブル ・′マイ ン ドも、 もはや個人 の心 の問題で あることをやめている思考領域 - それ らが、個 々の生物 の皮膚で区切 られ るのではない、大 きな ` 精̀神" の システムのなかを流れ る観念のエ コロジーの一部 として捉え られ る、 そ うい う -3 6- 安 川 :ダブル ・バイ ン ドにおける第三者的存在の もつ意味 思考領域 - 3 3 ) 」 とな る学習 Ⅲの世界が見えて くるであろ う。 Ⅱの レベルに生 じる矛盾 (-ダ ブル ・バイ ン ド)が、有機体 をⅢの レベルに追 いや るとす る考えが正 しいとすれば、その矛盾 の解消が、 Ⅲの レベルでの強化 になるとい う考えが成 り立つだろうとベイ トソンは考え る34)。 しか し同時 に、 「Ⅲの レベルへ の ジャンプは、試み るだけで も危険を ともな うものである3 5 ) 」 とダブル 。バイ ン ドか らの解放が容易でないことは認めている。 とはいうものの、「` ` いい結果" が出た場合 として、 Ⅱの レベルで習得 されていた ことの多 くが崩壊す るかたちで、矛盾 の解消 が得 られ るとい うケース」が考え られ る し、 また、「 学習 Ⅲがきわめて創造的に展開 した場合、 矛盾の解消 とともに、個人的アイデ ンテ ィテ ィーがすべての関係的プロセスのなかへ溶 出 した 世界が現 出す ることになるか もしれない」 とベイ トソンは述べ、学習 Ⅲに も積極的な意味を見 出 しているといえ る。 このように、ダブル ◎バイ ン ド理論 は、学習 Ⅱと学習 Ⅲをつな ぐ媒介の ひとつ として存在 しているとい うことが言えるであろう。 4 ダブル ・バイ ン ドに内在する積極的な意咲 4. 1 .第三者的な存在の もつ意味 ダブル 。バイ ン ドか らの解放 を考える際、母 と子な どとい ったダブル ◎バイ ン ドの関係 に直 接関わ っている二者 の関係性 においてのみ試行錯誤す ることは適切ではないだろう。 ダブル 。 バイ ン ドを形成 している直接的な関係ではない第三者 的な存在 に注 目し、 よ り広 いコンテクス トか ら包括的に考 えてい くことは意味があるのではないか と考え る。 ここでは、 ダブル 。バイ ン ドか らの解決の鍵 となる存在 として、父親的第三者 の存在 を位置づ け、西洋の童話をベイ ト ソンのダブル o/マイ ン ド理論 によって分析 している十 島薙蔵 と十 島真理 の研究36) を手掛か りと しなが ら、 ダブル ◎バイ ン ド状況 における第三者的な存在 の意味について考察 していきた い 。 、 まず、十 島 らの研究 の概略であるが、『白雪姫』、『赤頭 巾ちゃん』 『子牛 の王様』 の童話 の /「美 しくあるな」、「自立 しろ」/「自立す るな」、 原話 にさかのぼ り、実 はそこに 「 美 しくあれ」 /「王子 らしくあるな」といった相矛盾 したメ ッセー ジが同時に発せ られて 「 王子 らしくあれ」 お り、 また加えて、実の母子関係や親子関係 において生 じているとい うダブル ◎バイ ン ドの状 況が見 出され るとい うものである。 そ して、その経験 の繰 り返 しの上 に童話 の主人公が至 った 「 死」や 「眠 り」 とい う形 は、実 はダブル ◎バイ ン ドか らの防御策 を とった ものであ り精神分 裂症 に陥 った状態であるとして分析 されている。 また この ことは 「 母子間の関係が崩壊す るこ と3 7 ) 」 を意味 していると解釈 され る。 そ して、主人公 のダブル ◎バイ ン ド状況か らの解放 を促 父親である王様 」や 「 狩人」 な どであ り、 それを す存在 と して現 れ るのが、「 王子 さま」や 「 「 父親的第三者 の存在」として位置づ け られているのである。 病的なダブル 。バイ ン ド状況 は、 関係が硬直 して しまっているため、 その解決 には 「 洞察力 のす ぐれた第三者 の介入3 8 ) 」が必要 であることが指摘 されているのである。 そ して、主人公 の 「 死」か らの 「 再生 」は、「 分裂病 9 ) 」と解 の治 ゆ、つ ま り、 ダブル ・/マイ ン ドの解決 と社会 的 自立、 および母子分離 を意味す る3 釈 され る。 他方、『ヘ ンゼル とグ レーテル』を事例 とす ることによって、 ダブル 。バイ ン ドに 一人で立 ち向か うことと、仲間 とともに複数で立 ち向か うこととの違 いについて指摘 している 。 点 も示唆 に富んだ指摘であるといえ る 『ヘ ンゼル とグ レーテル』に もダブル 。′マイ ン ドの構 -3 7 - 京都大学 生涯教育学 ・図書館情報学研究 vol . 6 .2 0 0 7 年 迄 は存在 しているものの、兄妹 という助 け合え る道連れがいた ことが、他 の三つの童話 と決定 死 と再生」 のテーマ とはな らな い 的 に異な る点である。 彼 らの物語 は 「 。「『死』 んだ り、分 裂病 を発症す るどころか、二人 は窮地 を脱す るために懸命の努力をす る40)」のである。 ここで は、 ダブル 。ノマイ ン ドに一緒に立 ち向か う仲間の存在 によって、 ダブル - マイ ン ドを適度な も のに しえた と解釈できるというのである。 ここでベイ トソンのダブル ◎バイ ン ド理論 に戻 ってみ ると、 ダブル ◎バイ ン ドが成立す る条 件のひとつ として、 そこか ら逃れ ることのできない関係性、すなわちそのダブル 。バイ ン ド状 況 に割 り込み、ダブル 。バイ ン ド状況 に置 かれている人 の支え とな りうる存在が不在 であるこ とが挙 げ られていた。 まさ しくこれは第三者的な存在 の不在である。逆 に、第三者的な存在 に よ って、ダブル ◎バイ ン ドを適度 な ものに緩和 しうる緩衝材 となることもあれば、 ダブル e/マ イ ン ドの解決 にとっての鍵 となる存在 ともな るのである。 先 に、 ダブル o/マイ ン ドか らの解放 の手段 のひとつ として挙 げた、「 治療 的ダブル ⑳バイ ン ド」 を積極的に しかけてい くサイ コセ ラピス トの存在 もまた、第三者的な存在 として解釈す ることができるであろう。 そ して、第三 者 的な存在が もつ性質 として、「 洞察力 にす ぐれた第三者」 とい うことに加えて、 サイ コセ ラ ピス トが治療的ダブル 。バイ ン ドを患者 に しかける際の特徴 として述べ られていたよ うな 「医 者 自身 は 自己存在 を賭 けたぎ りぎ りの闘争 に関わ っていない とい うこと」、すなわちダブル 。 バ イ ン ド状況の捕 らわれの中に直接的に関わ っている人間関係か ら少 し距離がある存在 とい う こともまたその特徴 として挙 げることができるであろう。 他方、 メ ッセー ジとメタ ◎メ ッセー ジ (コンテクス ト)が示す内容が相矛盾す るとい う逆説 的 コ ミュニケー ションは日常的に生起 している現象であるとい うことか らも、 ダブル ¢バイ ン ド状況 に もまた、誰で も容易 に陥 りうるものであるとい うことを受 け入れる必要があるだろう。 その上で、 ダブル 。′マイ ン ド状況か ら解放 されてい くための方法 はい くつ もあるであろうが、 第三者的な存在がその重要な鍵 となることもあるであろうとい うことを主張 した い 。 第三者的 な存在 によって、凝 り固まって悪循環 に陥 って しまっている関係性 に対 して新 しい風穴 を明け ることができるようになるであろう。 ダブル e/マイ ン ド状況 に対 して、第三者的な存在が介入 してい くことは、強 い拒否反応 に会 うこともあるだろうし、一気 に関係が 「どん底」 に落 ちて しまう危険性 も存在 していると言わざるをえない。 しか しなが ら、ダブル ◎バイ ン ド状況に陥 っ て しまっているという事実を 自らが引き受 け、第三者的な存在の助 け も借 りなが ら、新 たな関 係性 の生成へ と歩んでい くこと、それは非常 にス リリングではあるけれ ども希望 を も含んだプ ロセスとして考え られ るのではないだろ うか。 また、十 島 らの 『ヘ ンゼル とグ レーテル』に関 わる研究では、兄妹 とい う道づれの存在 によって、彼 らは分裂症的症状 にも陥 らず、 自分たち でダブル ・/マイ ン ド状況を解決す ることができたため、第三者 の存在 は指摘 されていなか った。 」「仲間」の存在 もまた、 ダブル 。バ イ ン ド状 しか しなが ら、 ここで指摘 されていた 「 道連れ 況か らの解放 に関わる第三者的存在 として位置づ けることが可能なのではないだろうか。実際、 AA( Al c o ho l i cAno nymo u s )というアル コール依存症者 たちのセル フヘル プ 。グループでは、 「 治療的ダブル 。ノマイ ン ド」によって 「どん底」に落 ちて しまった後の新 たなスター トの過程 において、共 に自らの体験 を語 り聞 きあ うとい う 「 仲間」の存在が回復のプロセスに とって欠 - 38- 安川 :ダブル 。バイ ン ドにおける第三者的存在 の もつ意味 かせない非常 に重要な要素 とな っている。 ここでの仲間 とは、家族ではない。家族 という関係 がアル コール依存症者 たちの陥 ったダブル 。バイ ン ド状況 に最 も密接な ものであるとすれば、 ともに同 じ経験 を してきた 「 仲間」 の存在 は、家族 とは少 し距離のおかれた、 しか も自分 も経 験 も受 け入れて もらえるような、彼 らの回復の助 けとなる 「 第三者的な存在」として位置 づけ ることがで きるのではないか と考え る。 このように、 ダブル 。ノマイ ン ド状況 における第三者的な存在 とは、 いつ現れ るのかは分か ら なければ、 いつ現れ るべきであるとい うことも決めることはできな い 。 また、第三者的な存在 とは、その関係性 における三人 目の人物 で もなければ、必ず しも人であるとい うことも言えな いか もしれな い 。 時 に環境であ り、時 に時間であ り、時に空間であるとい うこともあるか もし れな い 。 とはい うものの、 ダブル 。バイ ン ドを積極的に引き受 けてい くとい うプロセスを経て こそ、 どこかで突然現れ るような ( 飛躍 の可能性 を もた らす ような)存在 と して、重要な意味 を もつ存在であると考 える。 それは、新 たな関係性が創造 されてい く契機で もあるだろうか ら である。 4. 2 .ダブル ・バイ ン ドのもつ 「学習」 に対する意味 以上の ことか らも分か るように、 ダブル e/マイ ン ド状況か ら学ぶ こととい うのは、明 らかに 何か新 しい知識や事柄 を学習す るとい うこととは異なる。 結果的に、新 しい知識 の学習が付随 す ることは多 々あるとして も、それが学習内容の主 として位置 して くるものではな い 。 つま り、 ダブル 。バイ ン ドは、私 たちの コ ミュニケー シ ョンの力 を一時停止 させて しまう作用を もつ一 方で、それを豊かに発展 させ る契機 とな る作用を もってお り、 コ ミュニケー トしてい くその態 度や関わ り方 を学んでい くことにな るのだ といえる。 2 . 3.でみたように、バ リ島の社会 では、母子関係 において、母親が子 どもに対 して適度なダ ブル 。バイ ン ドを しかけてい くことによって、そのクライマ ックスに至 るところでサ ッとその 相互作用 をかわ して しまうような行動 を とり、子 どもにある一定 の限度 を教え るための学習の コンテ クス トが存在 していた。バ リ島においては、「 人為 的 に簡単 なダブル ◎′マイ ン ド状況 を つ くり出 しつつ、 それか ら自由になる訓練41 ) 」がな されているのである。 バ リ島において、 ダ ブル ・/マイ ン ドは積極的に しつ けの学習の手段 として利用 されていることが分か る. また十 島 らも、「ダブル ◎バイ ン ドは、それを絶対矛盾的に突 きつめてそれに金縛 りにな って しまうと、 分裂病 を生 む原 因 とな るが、一方、適度 のダブル 。ノマイ ン ドの しめつ けを くぐり抜 ける経験 を す ることは、 それを相対矛盾的にや りす ごす ことのできる柔軟 な 自我 を形成す るための必要条 件である4 2 ) 」 と し、 「 子供 に受容力 の大 きい豊 かな人間性 を育 て るには、バ リ島の母親がや っ たような適度 のダブル 。バイ ン ドを経験 させ る必要があるのである4 3 ) 」 と述べて、バ リ島に見 られるダブル e/マイ ン ドの作用 を評価 している。 また、ベイ トソン自身、「 不快 を、 ある一定 の開催 に達す るまで、 ラ ンナウェイ的 に増幅 さ せてい く正 のフィー ドバ ック 。サーキ ッ トを想定す ることは、伝統的な学習理論か らは大 き く 外れることにな るだろうけれ ども、 しか し、不快な ものを 自ら求めて繰 り返 し経験 し、それを 確証 しようとす るのは、人間の性 向 としてかな り一般的な ものではないだろ うか4 4 ) 」 と述べて -3 9- 京都大学 生涯教育学 ・図書館情報学研究 vol . 6 .2 0 0 7 年 いる。 これは、伝統的な学習理論が射程 に入れている学習 工の階型 に、人間の生のパ ター ンの 変容を も意味す るような学習 Ⅲの階型 という非連続な階型を組み入れ、 ひとつの トータルな学 習理論の中で語 ることによって、「 学習」の問題を私たちの生 の、 あるいはコ ミュニケー シ ョ ンの全体 に関わる事象 として捉えてい くことを試みたといえるのではないだろうか。ベイ トソ ンの理論の中にも、 ダブル - マイ ン ドの中に内在す る、絶体絶命的な境地か ら生 じる新たな創 造の可能性 について積極的な意味が置かれていることが読 み取れるであろう。 もちろん、ダブル 。バイ ン ドが もつ、関係性を悪循環 に陥れ るような危険性を無視す ること はナ ンセ ンスである。 しか し、危険を避 けて向き合 うことをやめるのか、できるだけダブル 。 バイ ン ドに陥 らないようにと、できるだけ相矛盾 したメ ッセージを送 らないように リテラルな メ ッセージとメタ 。メ ッセージを送 り続 けることに努力をす るのか。 あるいは、む しろ日常的 に生 じうるダブル ・/マイ ン ドを積極的に引き受 けて、それに向き合 ってい くなかで、そこか ら 生 まれて くる可能性 に希望を向けて歩んでい くのか。 いずれの姿勢をとるかによって、教育や 学習 という現場 において も、人 とどのような 「関わ り方」を し、 どのような実践を行 ってい く か ということとも大 き く関わ って くる問題 となるであろう。 5 おわ リに 以上のように、本稿では、 ダブル 。バイ ン ドの もつ積極的な意味について、ベイ トソンの学 習 とコ ミュニケーションの階型論 との関わ りか ら、および、第三者的な存在 という切 り口か ら 考察す ることを試みた。 そこでは、ベイ トソンのダブル 申バイ ン ド理論 は、精神医学の分野の みに適応 され うる提起ではな く、私たちがいかに自然や人やモノとコ ミェニケ- トしてい くか ということに関わる、広 い理論的射程を もった ものであるということが改めて確認できた。そ して、ダブル 。バイ ン ドは、学習の階型論の学習 Ⅱと学習Ⅲの階型をつな ぐ媒体 となる存在で あ り、学習 Ⅱと学習Ⅲとの関係 は、学習 Ⅲの方が学習 Ⅱよ りもよ り大 きなコンテクス トをな し ていることになる。 したが って、 これ らは質的には異なる非連続な階塑であるが、ダブル e/マ イ ン ドか らの解放 によって、 よ り大 きなコンテクス トの関係性のプロセスの中か ら新 しい関係 性を創 ることができる可能性 にも開かれているといえる。 もちろん、いつ もそのプロセスが容 易であるとは限 らず、む しろ困難な場合の方が多いであろうが、 ダブル ◎バイ ン ドを避 けよう、 コ ミュニケーションの世界か らな くそ うとす るのではな く、む しろ積極的に受 けとめてい くこ とによって、ギ リギ リの ところを くぐり抜 けたところに現れる創造性 に希望を抱いてい くこと にも意味があるのではないだろうか。そ して、私たちの固定化 して しまいがちな関係性の柔軟 さを保つための、そ してまた、固定化 した関係性 に新 しい風穴を明けて くれるような、第三者 的な存在 は、ダブル 。ノマイ ン ドとうま く付 き合 ってい くためにも重要な関係性のあ り方のひと つ となるだろう。 本稿では、第三者的な存在が もつ意味を押 し出そ うとした ものの、第三者的な存在が実際に はどのような関わ り方が可能か といったことまでは考えてい くことができなか った。 ダブル 。 バイ ン ドと私たちの 「 学習」 との関係、そ して、 どのような関係性のネ ッ トワークの創造が可 能か ということを考えてい くことは、更なる今後の課題 とした い -4 0- 。 安 川 :ダ ブル e,マイ ン ドに お け る第 三 者 的存 在 の もつ 意 味 註 1)ベ イ トソ ンの ダ ブル ・/マイ ン ド理論 に着 目 して い る研究 と して 、Lai ng,R. D. ,Se l fandOt he r s , Londo n,1 9 61 .( 笠原嘉 。志貴春彦訳 『自己 と他者』みすず書房、1 9 7 5 年)、『 現代思想 ( 特集 -ベイ ト 』Vol .1 2 5 、青土社 、1 9 8 4 年)、浅 田彰 『ダブル 。バイ ン ドを超 えて』南 ソン 関係性 のパ ラ ドクス) 9 8 5 年、矢野智司 『ソクラテスのダブル 。バイ ン ド- 意味生成 の教育人間学』世塙書房、1 9 9 6 想社、1 年、な どが挙 げ られ る。 2)Ba t e s on,G. ,St e pst oanEc o l o gyo fMi nd,Chi c agoa ndLondon,2 0 0 0.( Or i gi na ll yPr e s s1 9 7 2 ), pp. 2 0 6 -2 0 7 .( 佐藤良明訳 『 精神 の生態学 ( 改訂第2 版) 』新思索社 、2 0 0 0 年 、pp. 2 9 4 -2 9 5. ) 3)i bi d. ,p. 2 1 1 .( 邦訳 p. 2 9 9. ) 4)i bi d. ,p. 2 1 1 .( 朔訳 p. 2 9 9. ) 朔訳 p. 2 9 7. ) 5)i bi dリP. 2 0 9.( 6)i bi d. ,pp. 21 3 21 4.( 邦訳 pp. 3 0 2 3 0 3. ) 邦訳 pp. 3 0 3 3 0 4. ) 7)i bi d. ,pp. 21 4 2 1 5.( 8)i bi d. ,p. 2 1 5.( 邦訳 p. 3 0 4. ) 9)i bi d. ,pp. 21 2 2 1 3.( 邦訳 p, 3 0 0. ) 1 0 )i bi d. ,p. 2 1 5.( 朔訳 p. 3 0 4. ) 邦訳 p. 3 0 4. ) l Di bi d. ,p. 2 1 5.( 1 2 )i bi d. ,p. 2 1 5.( 邦訳 pp. 3 0 4 1 3 0 5. ) 0 01 年、 を参照。 1 3 )詳 しくは、 中村雄二郎 『魔女 ラ ング考 - 演劇的知 とはなにか』岩波現代文膚 、2 1 4 ) ところで、バ リ島においては累積的相互作用が見 られること自体が例外 的な事象であることをベイ ト s c hi s moge ne s i s ) に至 る性質 を もつ ソンは指摘 した。 累横的相互作用 はベイ トソンのい う分裂生成 ( が、 バ リ島の社会では分裂生成的 シ-クウェンスが見 られない非分裂生成社会 (-定常型社会) である と分析 している。バ リ島の音楽、演劇、その他芸術形態の一般的特徴 と して、 クライマ ックスの欠如が あげ られている。 そ して、累積的相互作用が見 られ る例外的な事例 として、母子関係 の他 に争 いごとな どが挙 げ られ、その処理 にはクライマ ックスをプラ トーで置 き換 え る方式が採用 されているとい うこと Bat e s o n,o p.° i t . ,pp.1 1 2 1 1 3.( 邦訳 pp.1 7 7 -1 8 0. ) ) が指摘 されているのである。( 邦訳 pp. 1 7 7 -1 7 8. ) 1 5 )i bi d. ,pp.1 1 2 -1 1 3.( 邦訳 p. 1 9 5. ) 1 6 )i bi d. ,p.1 2 7.( 邦訳 p. 1 9 5. ) 1 7 )i bi d. ,p.1 2 7.( 1 8 )i bi d. ,p. 1 2 5.( 邦訳 p. 1 9 2. ) 9 42 年に 「 社会計画 と第二次学習」 とい う論文 を発表 し、単純で個別的な学習 ( 原学 1 9 )ベイ トソンは、1 習) と並行 して、「 学習す ることを学習す る」 というコンテクス トの学習 ( 第二次学習) が生 じている 9 5 0 年代 には、精神分裂症 の理論化 につ いて 「 学習」 とも関わ らせなが ことを指摘 している。 そ して、1 ら、 ダブル OJでイ ン ドに関わる論文 を複数発表 している。 そ して、 それ らを整理 した もの として、1 9 7 2 年に 「 学習 とコ ミュニケー シ ョンの階塑論」 とい う論文を発表 している。 2 0 )i bi d. ,p. 2 9 3.( 邦訳 p. 3 9 9. ) 1 )i bi d. ,p. 2 4 7.( 2 邦訳 p. 3 4 4. ) 朔訳 p. 3 5 0. ) 2 2 )i bi d. ,p. 2 5 2.( 2 3 )i bi d. ,p. 2 9 6.( 朔訳 p. 4 0 3 . ) 2 4 )i bi d. ,p. 2 9 7.( 邦訳 p. 4 0 4. ) 2 5 )i bi d. ,p. 2 9 6.( 邦訳 p. 4 0 3. ) 2 6 )i bi d. ,p. 3 0 3.( 邦訳 p. 41 1 . ) 2 7 )i bi dリp. 2 5 2.( 朔訳 p. 3 5 0. ) 2 8 )i bi d. ,pp. 2 2 6 2 2 7 .( 邦訳 p. 31 7 . ) AI c o hol i cAno nymo us ) というアル コール依存症 か らの回復 をはか るセル フ 。 2 9 )ベイ トソンは、AA ( ヘル プグループにおいて、「AAのメ ンバーが、 アル コール依存者 をそそのか して、『コン トロール され - 41- 京都大学 生涯教育学 ・図書館情報学研究 vol . 6 .2 0 0 7 年 た飲酒』 を試みさせ、 コン トロールできないことを自分で陰らせ る」 ということも治療的ダブル 。バイ ン ドの一例 と して挙 げている。 ここでは、「酒」 の誘惑 に打 ち勝 ちたいけれ ども負 けて しまうとい う 「 心」 と 「 体」 を分離す る患者のエ ビスデモロジ-の上 に、強力なダブル ・/マイ ン ドを仕掛 け られるこ とによって、「どん底」の状態に至 り、患者は 「酒」 に勝てない自分を認めざるをえな くなる。 しか し、 そこにおいて、「酒」 と 「自己」の間の関係性が対立的な ものか ら 「酒」への降伏 による相補的な関係 性へ と転換 してい くプロセスが見 られることになるのである。 そ して、仲間 と互いの体験を語 り聞き合 うことな どを通 じて、「酒を飲 まないで生 きてい く ( s obr i e t y) 」 という新 しい生 き方を歩み始 めるので ある。 ( i bi dHp. 3 2 8,pp. 3 3 1 3 32 .( 邦訳 p. 4 4 3,pp. 4 47 4 4 8. ) ) 3 0 )i bi d. ,p. 2 2 6.( 邦訳 pp. 31 6 31 7. ) )i bi d. ,p. 2 2 6.( 邦訳 p. 31 7 . ) 31 邦訳 p. 4 5 1 . ) 3 2 )i bi d. ,pp. 3 3 4 3 3 5 .( 3 3 )i bi d. ,p. 3 3 9.( 邦訳 p. 4 57 . ) 3 4 )i bi d. ,p. 3 0 5.( 邦訳 p. 41 5 . ) 邦訳 p. 41 5. ) 3 5 )i bi d. ,p. 3 0 5.( 3 6 )十島 らは、ユ ングらの深層心理学派のような意識 と無意識の個人内相互作用の過程か らの分析 とは異 な り、ベイ トソンのコ ミュニケーションの現象学的アプローチに依拠 して分析 してい くことを試 みてい る。 詳 しくは、十 島薙蔵 。十 島真理 『童話 e昔話 におけるダブル O/マイ ン ド- 思惟様式の東西比 9 9 2 年を参照。 較 - 』ナカニ シャ出版、1 3 7 ) 同上書、p. 5 9. 3 8 ) 同上書、p. 6 0. 4 8. 3 9 ) 同上書、p. 4 0 ) 同上書、p. 1 01 . 41 ) 中村雄二郎、前掲書、p. 2 0 6 . 0 6. 4 2 )十島薙蔵 。十島真理、前掲書、p.1 4 3 ) 同上書、p.1 0 6, 4 4 )Bat e s o n,op.° i t . ,p. 32 8.( 邦訳 p. 4 4 3. ) ※精神分裂症 という用語 は、2 0 0 2 年以降は、英語の s c hi z ophr e ni aに対する訳語が 日本精神神経学会総会 によって統合失調症 と変更 されているが、ベイ トソンの邦訳の訳語を尊重 して本稿ではこのまま使用す ることにす る。 -4 2-