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J:t ぷた:22f

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J:t ぷた:22f
1--
第七章
フック のそ の他の研究
フックの地質学
前章で述べたように 、ウ エストフォ
スの伝統を
ルは、フックの光学理論をアリストテレ
m守 す る も の と し て H
l
j~、た 。
第 1g
sの 序 で 言 及 し た 通 り 、 ウ エ ス ト フ
ォ ー ル は 、 光 学 に 限 ら ず フ ッ ク の 業 総 全 般 に 対 し て 否 定 的 な 評 価 を 下 し た n その
彼までもが、
「フ ッ ク の 最 大 の 科 学 的 達 成 J Iと 附 し た の が 、 フ ッ ク の
的 研 究 で あ っ た 。 フ ッ ク の こ の 分 野 への貢献は、
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9世 紀 の 前 半 に も 知 ら れ て い
た。斉 一 説 を 発 展 さ せ た ラ イ エ ル (
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5)は 、 主 著 『 地 質 学 原 型 』
の地質学史を論じた部分で、 フックの仕事に言及した
20
フックの地質学を最初
に科学史的に俊一ったエ ドワ ー ズ (
W.N.Edwards
)は 、 化 石 に 基 づ い て 砲 の 変 化 を 論
じたことを挙けて 、 フ ッ ク は 時 代 よ り は る か に 進 ん だ 人 物 で あ っ た と 述 べ 介 仁
アンドレー ドも ま た 、 既 に 何 回 か 言 及 した 1
9
5
0年 の 論 文 の 中 で 、 フ ッ ク の 山
学に若干言及した
40
だ が 、 フ ッ ク の 地 質 学 を倣 った学 問 的 な 研 究 論 文 は 、 最 近
まで少なかった 。 こ の 分 野 が 科 学 史 家 に よ っ て 本 緒 的 に 扱 わ れ る よう にな っ た の
9
7
0年 代 以 降 で あ り、 オ ー ル ド ロ イ ド のa
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)ら を中心に、 研 究 が 本 格
は
、 1
的 に 展 開 さ れ る よ う に な った 50
フ ッ ク が 最 初 に 地 質 学 的 な 見 解 を 述 べ た の は、
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5年 の 「ミク ロ グ ラ フ ィ ア J
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こ こ で フ γク は 、 木 材 の 化 石 を 論 じ た 。 そ の 化 石 は 、
副会が顕微鏡飢察)fJに彼に与えたものだった
2
3日に、王立 1
本が石化したものと考えた。彼はまた、化石という現象は、
70
1
6
6
3年 1
2月
フックは、これを
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n物 に 限 ら ず 動 物 に
も 見 ら れ る も の で あ る と 述 べ た 。 良く知られているように、化石は当時、自然の形
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)によって作られるものであり、自然の!Y.み (
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)に 過 ぎ な い と 考 え ら れ て い た 。 これに対してフックは、
「自 然 は 無 駄 を し
ない 」 と い う 闘 を 引 き 、 ヘ ビ 石 ( ア ン モ ナ イ ト ) を 例 に と っ て 次 の よ う に 述 べ
'
"。
私は、このこれら全ての、またこのように帯妙な形で見いだされる他の大部件
の 石 状 の も の の 形 状 は 、 地 中 に 内 在 す る い か な る 形 成 カ に よ る の で'もなく、ム
る極の貝の殻が何らかの洪水、大水、地震、あるいはそれに類する他の方法に
よ っ て そ の 場 所 に 投 げ 込 ま れ 、 あ る 府l
の泥、粘土、腐敗させる水、あるいは他
の物質で埋められ、時間の経過とともにこれらの貝の形にまとまって聞くなり、
今日私たちが見 る よ う な も の の 形 状 に な っ た と 考 え ざ るを得 ま せ ん 九
フックはこのよ?に、化石を過去に存在した生物の 遺骸と考えた 。第四章の目
頭の節で触れたょっに、フックのこの記述は、
『ミクログラフィア Jの 出 版 許 可
を得る際に王立協会で問題となった点であった。このことは、フックの主獲が、
当時の主流からはずれていたことを明磁に示している n
化石についての議論は、フックの 遺 稿 集 に 収 録 さ れ た 「地震についての講話
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みであり、この議論の方法は、人類史を 泣跡や遺物の分析から解明することにな
ぞらえられた川。
ラパポ
7ト(悶吋aRapp叩ロ)が明らかにしたように、
「地震についての締結」は、
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6
7年かり 1
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0年 に か け て 、 四 期 に 分 け て フ ッ ク が 王 立 協 会 で 発 表 し た 内 容 を
6
6
8年 9月 以 前 に 行 な わ れ た 扱 初
編纂したものだった, I。 第 一Jtllの発表のうち 1
の講簡の部分で、フック は ア ン モ ナ イ ト や ウ ニ の 化 石 を 例 に と り 、 こ れ が 生 物 の
近 畿 で あ る こ と を 論 じ た ( 第 21図 ) 。 そ の 後 で 彼 は 、 自 分 の 主 張 を 1
1項 目 に !
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瓦忌詞 pp.107-112
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そこでは、生物の泣f
抜 が 石 化 す る 原 因 が い く つ か 倹 討 さ れ た 。 また、
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Jも 考 察 さ れ た 。 7 "
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l心 の 変 化 、 地 中 の 火 の 噴 出 、 地 震 に よ る 地 般 の 変 動
海から速く綴れた高所に海洋生物の化石が見いだされる理
クは、原閣として、地球の
などを候補として挙げた 。 フックは、今日見られない生物の化石が存住するのは、
これまでに絶滅した生物額があるためであるとも i
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iべ た 。 第 一 J
U
Jの 発 表 の 終 わ り
に近い部分では、絶滅砲の存在とともに、 1庁内の Il~ 現についても議論がなされた 。
このような生物樋の変化は、気候や食物などのJJ;t~立の変化によるものであるとい
う13。 た だ し 、 こ の 内 容 を 現 代 的 に 読 み 込 ん で 、 生 物 砲 の 交 代 の 言 '
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Jを 進 化 の 主
張 と 解 釈 す る こ と は 、 注 意 深 〈 避 け る 必 要 が あ る 1・0
化石が高い場所に診iJi})した原因として、フックは第 一 J
U
Jに は 、 地 震 に よ る 梅 田
の変化を般大の候補と考えていたと思われる 。 これに先立つ『ミクロクラフィア 』
で は 、 洪 水 も 候 補 に 挙 げ ら れ て い た 。 だが、
は、海の生物を高
rJ也~についての締結 」 の第一 j切に
mに 移 動 さ せ る に は 洪 水 は 継 続 時 n
uが 短 か す ぎ る と 見 な さ れ て
い た "。 フ ッ ク は 、 磁 北 の 変 化 の 類 推 か ら 、 地 球 の 重 心 の 変 化 ( 地 取J
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化石の移動の原因となったことが考えられるとした。だがフックは、この時には、
この見解に対してどちらかといえば消極的な対応をとったは。
1
6
8
7年 に 始 ま る 「 地 震 に つ い て の 講 話 」 の 第 二 期 に な る と 、 フ ッ ク は 地 軸 の
移動の可能性について詳しく倹討を加えた
170
地球上の海面は、赤道部分では自
転による遠心力のために膨れあがっている。一方、極の部分の海面は、遠心力の
影 響 を 受 け な L、。 従 っ て 、 地 球 全 体 と し て 見 る な ら ば 、 海 水 の 表 面 は 桁 円 状 に な
っており、赤道付近では極より多くの土地が海水に煩われる。だから、地球の自
転軸が移動しているとすれば、海面下に沈む地表面は、時代とともに変化するこ
とになる,.。
フックは、このような自転軸の移動を、子午線の変化から見いだすことを考え
た。彼 は こ れ を 、 歴 史 的 な 天 文 制 測 資 料 の 分 析 や 、 望 遠 鏡 に よ る 実 際 の 天 測 に よ
っ て 知 る こ と が 出 来 る と 指 摘 し た t・。また 、そ の 検 知 の 方 法 と し て 、 正 確 に 東 西
南北に向かつて賠えられた古い教会などの建物の方向の歴史的変化を見いだすこ
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オクスフォードにいたウォリスから批判が寄せられた 。 T
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)を 見 よ 。
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とも提案した"。しかし、フックは第三 J
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Jの 議 論 で 再 び 地 震 を 論 じ て い る か ら 、
地震に基づく議論を彼は政棄することはなく、両方の可能性を考えていたと思わ
れる 210
以上のようなファクの地質学的決論は、興味深いものではあるが、彼の理論を
べたように、
引 き 継 ぐ 人 物 は 現 れ な か っ た 。 タ ー ナ ー が 止s
フックの地質学の理論の支持者がいなかったことは、完全に理解できることで
ある。なぜなら、それがどんなにもっともらしい理論であったにしても、
1
7
世紀の知識の文脈 にお いて、それは全く{百じることのできないものだったので
ある 220
フックは、自分の理論の必然性を決定的な証拠で説明できなかった。しかも、
彼の体系は、聖替の記述や、自然の形成力といった議論と調和させることのでき
ないものだったのである。
7.
ノヲの 時 計 研 究
フ ッ ク は 、 ア ン ク ル 脱 進 機(卸c
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)と パ ネ 付き テ ン プ (凶]回目 s
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という機械時計の重要な要素の発明者であるとしばしば言われてきた"。しかし、
アンドレードが述べたように 、 フック自身はアンクル脱進機 の 発 明 者 と 自 ら 主 張
してはいない 240 フ ッ ク を 高 く Z
平価した エ ス ピ ナ ス も 、フ ッ ク が ア ン ク ル 脱 進 機
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7. こ の タ ー ナ ー の 見 解 に 、 I
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)は 異 論 を 唱 え て い る。 そ
れ に よ る と 、 フ ッ ク に 類 似 す る 説 ( 周 期 的 な地 表 の 変動 を 主 張 す る説 ) は 、 当 時
比較的 流 布 し て い る も の だ っ た 。 だ が 、 そ れ は フック の 説 と して 伝 わ らなかっ た
のだと い う 。 こ の 観 点 は 興 味 深いが、
I
t
oは 論 点 を 正 し く 捉 え て い な いよう に 思
わ れ る 。 な ぜ な ら 、 フ ッ ク の 説 の 重 要 な ポ イ ン トは、 地 表 の 周 期 的 変 化 の 部 分 で
はなく、化石を生物の 遺 骸と す る 理 論 の 部 分 だ っ た か ら で あ る 。 そ の こ と は -
fミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』 出 版 の 際 に フ ッ ク の 化 石 の 理 論 が 王 立 協 会 で 非 艇 の 的 と t
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った ことから分かる。
" テ ン プ は 、 パ ネ な ど の 等 時 性 を 利 用 して、 時官│の 進 み 具 合 を 正 磁 に 一 定 に 保 つ
?めの工夫。アンクル脱 仰
は、このテンプに動力を J
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発明をフックに帰した例として、
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を発明したことには 懐 疑的であった 。 ホ ー ル は 、 フ ッ ク が ア ン ク ルl
悦jJt-laではな
く、旧来のパージ脱 進織 を 使 っ て い た こ と を 示 し た 日 。 実 際 、 フ
γクの時計へら
Jきテンプの研究に:((,点を当ててきた
寄与を奴片たほとんどの研究は、彼のパ不 j
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のである ・
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その研究の 興 味 は 、 フ ッ ク と ホ イ へ ン ス の ど ち ら が 先 に パ ネ イ l
きテンプを発 l
リ
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したのかという点にあった。航海
mの 綿 密 な 時 計 は 、 経 J
Jr決定という航海術上の
大問題への 一 つ の 解 答 と し て 、 当 時 の 自 然 学 者 速 の 凶 心 を 集 め て い た
270
仮子時
計は、海上では短れのために実月]にならない。パネ付きテンプは、初iP,'な時計を
得るための基本的な技術だった 。 だから、パネ付きテンプの先 1
&備 の 舵 保 は 、 フ
ックにとって重要な~題 だ った。
パネ付きテンプの発明は、今日ではホイへンスに帰されるものである(第 2
2
図 a)。マホーニィ 。恒c
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)に よ れ ば 、 そ こ に 至 る ま で の ホ イ へ ン ス と
時計の関わり合いは、三つの段階に区分される
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.。 第 一 段 階 は 、
1
6
5
7年 か ら
1
6
6
1年 で あ り 、 こ の 間 に ホ イ へ ン ス は 、 仮 子 と 俄 械 時 計 を 結 び つ け て 一 つ の 装
置とする工夫を行なった。彼はまた、サイクロイド娠子の等時性を見いだし、こ
れを時計に応用した。第二段階は、
1
6
6
2年 か ら の 1
0年 間 で 、 仮 子 時 計 を 航 海 に
6
7
5年 の パ ネ 付 き テ ン プ の 発
使用するための努力が続けられた。第三段階は 、 1
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"経度決定問題についての初等的記述としては、標準的な教科
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. [矢 島 祐 利 訳 、
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「科学の歴史 J (岩波書底、
1
95
5年)、上、 2
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0お よ び 2
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5ペ ー ジ 以 下 ]の 記 述 が
まとまっている o 経 度 決 定 問 題 に つ い て は 、
却
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. Merton, 5C
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して 賞 金 を 与 え る こ と と し た 。 ]
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釈、『歴史における 数 学 J ( 抑 制 、
即
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、主 印 刷 、
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第2
2図
パネイ寸きテンプ
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からホイへンス没までの時J
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Jである。
1675年 1月 20日 ( 新 暦 ) に 、 パ ネ 付 き テ ン プ 発 明 の 「へ ウ レ
ホイへンスは、
ーカ[我発見せり
協会に i
去られ、
JJ を替きfI'{めた " 。 そ れ は
1
0日 後 に ア ナ グ ラ ム と し て 王 立
1月 28 日 (1
日1
f
J) の 会 合 に 報 告 さ れ た
で附されたそのアナクラムの解は、
a 2月 1
8 円に 王 立 協 高
J 0
「鉄 の 渦 巻 き の 中 心 附 け ら れ た 刊 は の
内の前I
J
Jだった。それは新しい懐中時計のためのものであった"
ル
フックが段初にバ不付きテンプの先取怖を巾し立てたのは、この時だった。
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フれに
フックは、先取 1
植を確保するために、自らの著作でも主張を繰り返した。例え
ば
、 1
6
7
6年 の カ ト ラ ー 講 義 、
述べた。
『太陽望 遠 鏡 に つ い て 』 で 、 フ ッ ク は 次 の よ う に
1
7年 ほ ど l
町、経度を見いだすために時間測定を正しく行なうことに非常に興
味 が あ っ た の で 、 私 は あ る 発 明 の 伎 術 、 す な わ ち ( 当 時 私 が マ ス タ ー し た )機
械的代数 (mech四 日1a
l
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b
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)" を 用 い て 、 そ の 工 夫 を 、 理 論 的 に も 実 験 的 証 明 に
おいても見いだし、完成した。そのことについて私は何人かの友人に語ったが、
やり方は隠しておいた。
1
5年 ほ ど 前 、 す な わ ち 1660年 に 、 当 時 国 王 陛 下 が 復 活 さ れ た と こ ろ だ っ た
が 、 ~L は何人かの 高貴な方々と(そのうち何人かはご健在だが、 一 人はその後
お亡くなりになった。しかし、その一人であったということについてこの方が
往き記しておられるという十分な証鎚を私は持っている)、その発 s
J
Jに関して、
これを幼:iJj;するための条項について話し合った
4
30
予同町
J
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P町 [ 邦 訳 、 217ペ ー ジ ;
J0出 向 7 即 407叫
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Chap.2を見よ 。 ヘ ッ セ は 、 こ れ は 分 知
あると考えたのに対して
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すなわちここでフックは、
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8年 に パ ネ 付 き テ ン プ を 発 l
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lし 、 そ れ
6
6
0年 に 、 こ の 発 ' ! I J に つ い て 阿 賀 な 人 々 と 何 ら か の 協 定 を 結 ぼ
から 2年 経 っ た 1
うとしたと主仮しているのである。
1
6
7
8年 に 出 版 さ れ た カ ト ラ ー 講 義 、
『復元力について』の中でフックは、
7
の 附 な 人 々 が 維 を 指すのかについて具体的に記述した。それによると、フ;;
は、 時 計 の テ ン プ に パネを応月jしたものを、
ヴ イ ス コ ウ ン テ ィ ・プ ラ ン カ ー 卿 、 ロ パ ー ト ・ボ イ ル 氏 、 ロ パ ー ト ・マ レ ー 卿
に、それについての特許状を得るためにお見せした
フ ッ ク の 『 泣 稿 集 (Pos
的 問o
u
s
)J (1 705)
350
に収められた「ロパート ・ フック t!~ 士
伝 Jの 中 で 、 編 者 の ウ ォ ラ ー は 、 こ の 時 の 合 意 文 の の 草 稿 を 自 に し た こ と に つ い
て触れている。その文書は、フックの発明から得られる利益の分配、発明般のフ
ックへの帰属などについて取り決めたものであり、この特許の使用料に関する議
会 の 法 案 の 草 稿 も あ っ た 360
この 合 意 文 容 は 、 一 つ の 条 件 が 折 り 合 わ な か っ た た め 、 日 の 目 を 見 な か っ た 内
その理由を、フックは、
では、
『太陽望遠 鏡 に つ い て J で 次 の よ うに述べた。 そ の 協
私 の 原 理 を 改 良 す る 方 法 を 彼 ら か 他 の 人 が 見 つ け た 場 合、私 で は な く 、 彼 ま た
は彼らが、特許の期限の II~ 、その利益を得ることになっていた。この条項に、
私 は 決 し て 同 窓 で き な か っ た 。 な ぜ な ら 、 私 の 原 理 を 百 通 り に 変 形 す る こ とは
容易であり、私が最初に見つけたものに使宜 的に何かを加 えることも出来るか
らである 3 7 0
フッ?は、出版物でこのようにホイへンスに対する自分の先取備 を訴える一方
で、 自 b の ア イ デ ィ ア の 完 成 を 急 い だ 。 フ ッ ク は 、 ホ イ へ ン ス の 発 明 に イ ギ リ ス
の特許が与えら れ る こ と を 恐 れ た の だ っ た 。 王 立 協 会 で ホ イ ヘ ノ ス の パ ネ 付 き テ
u
ンプが発表されて以来 、 フックの日記には、時計やパネの記述が多くなっ t~ "
??し国王チャールズ二世は、フックが実際にパネ付きテンプを使った時計
bぽ け れ ば 、 ホ イ へ ノ ス {
日
jに 特 許 を 与 え る こ と を ち ら つ か せ た " 。 そ こ で フ ッ ク
は 時 計 を 作 っ て 、 国 王 に 見 せ た り 試 用 し て も ら っ た り した。
4月 7日に国王は、
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フ ッ ク の 時 計 を 見 て 、 彼 に 特 許 を 与 え る 約 束 を し た 4 0 0 最 終 的 に 満 足 の で き る 1年
以呈 さ れ たのは、
計が国王に I
8刀 26日 の こ と だ っ た
4io
だが国王は、フックに
も ホ イ へ ン ス の 制I
Jに も 、 結 局 は 特 許 を 与 え な か っ た 喝 2 。
フ ッ ク は 、 国 王 に 献 呈した時計に、
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の論文 に よ れ ば 、 1
6
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8年 に パ ネ 十lき テ ン プ を 発 I
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lし た と い う フ ッ ク の 主 肢 は 、
そのままでは受け入れられない。フックは、ホイへンスに対する先取備の申し立
U
Jを 繰 り 上 げ て い る と い う
てを有利にしようとして、発明の時J
44 0
フックがパネを時計に応用した初期の例は、彼の手稲の中に見られる
手術に分析を加えたホールによれば、この手稿の主たる部分は、
450
この
1
66
0年 代 i
i
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j半
ごろに普かれた.,。その中には 、 特 許 を 得 る た め に プ ラ ン カ 一 、 ボ イ ル 、 マ レ ー
などとフックが往いた国王宛の書類が含まれている
470
手荷には 、 申 請 す べ き 発 明に つ い て の 記 述 も 収 め ら れ た 。 そ れ に は 図 が 添 付 さ
れていないが、内容分析に基ついて、ホールはメカニズムの推定図を作成した
(第 2
2図 d) 。 こ れ に よ る と 、 フ ッ ク の 工 夫 は 、 仮 パ ネ を 用 い て テ ン プ を 制 御
しようとするものだった。
ホ ー ル の 分 析 が 正 し い と す る な ら ば 、フ ッ ク が こ の 時 考 え て い た の は
、 パネ付
き テ ン プ と 通 常 称 さ れ る も の と は 違 っ て い る 。 な ぜ な ら 、 パ不付きテンプは、 コ
イ ル 状 の 長 い ヒ ゲ ゼ ン マ イ を パ 不 と し て用 い る も の だ か ら で あ る 。 フ ッ ク が ヒ ゲ
ゼ ン マ イ を 使 っ た も の を 初 め て 記 録 し た の は、
日記の 1
6
7
5年 3月 8 日 の 部 分 だ
っ た . . 。 そ れ は 、 ホ イ ヘ ノ ス の 発 明 が 王 立 協 会 で 報 告 さ れ た 後 の こ と で あ った 内
従 っ て 、 ホ ー ル は フ ッ ク を パ ネ 付 き テ ン プ の 発 明 者 と す る こ と は て 'き な い と 考
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4年 の も の と し て
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だ 、 両 者 は 矛 盾 して いる。
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.)0 従 っ て 、 こ れ は そ の た め の フ ッ ク の 下
書きと考 え る べ き で あ ろ う 。
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ネでテンプを制御することに早い時 JVI から取り~Ilんでいた 。 彼は、ヨ\)J (す な わ
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そして、1&パネを(Jeったのであった 。
フックが海洋時計の改良に取り組んでいることは、早い時 J
V
Jに ホ イ へ ン ス に も
伝わっていた。
1
6
6
5年 の マ レ ー の ホ イ ヘ ノ ス 宛 の 手 紙 に は 、 海 洋 時 計 に 附 し て
「フックが 3年 前 に 発 明 を 跨 っ た 」 こ と が 祢 か れ て い た
8 10
これに 1月 ほ ど 先 立
つ手紙で、マレーは、フックがハネを使ったテンプについて訴をしたとホイへン
ス に 報 告 し た "。
一方のフごクも、ホイヘノスが海上で娠子時計の実験を行なったことに車閣を
受けていた
S
V
時計についてのフックの手稿(ホールが取り級ったもの〉の全体
像の研究を行なったライトによると、フックはその手術の中で、
へンスの海洋仮子の実験に言及しているという
Ho
フックは、
1
6
6
2年 の ホ イ
1
6
7
6年 の 『 太 陽
望遠鏡について』でも、ホイへンスの実験について聞き及んだことを記述した
しかし、
「その発明は私のものと低触することはない」と彼は考えたという
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M
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同じ著書の中でフックは、バネを付けたテンプに関して 1
側 年代に彼が行
った講義について、I'Aのように笹いている。
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1
6
6
4年 に 、 今 は も う 亡 く な っ た 籾 し い 友 人 に 熱 心 に せ が ま れ て 、 グ レ シ ャ ム
・カ レ ッ ジ の オ ー プ ン ・ホ ー ル で 、 こ の テ ー マ に つ い て の 最 初 の カ ト ラ ー 講 義
のいくつかを読み上げた。そこには、王立協会のたくさんの会員のほかに、私
の知らない人々もたくさん出席していた。そこで私は、運動を制御するため
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. 17
4に 転 記 さ れ た フ ッ ク の 手 稿 の 表 現 に よ る 。 た だ し 、 フ ッ ク が
最初からパネ仮子の振動の等時性を明硲に認識していたかどうかは不明である 。
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) これは、後述のフック
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γレ ン ャ ム ・ カ レ ア ジ で の 酬 を 指 す と 思 わ れ る 。
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可申F
時計のテノプにノ fネを応)TJする I
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処と思][白を示した
56 0
フックは、ハネを(J)!_う方法を 2
0通 り 講 義 で 示 し た と j
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iべ て い る 。 この 1
1
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Jの
手 術 と 思 わ れ る も の が 、 先 に も 触 れ た ラ イ ト の 研 究 で 切 ら か に さ れ た 。 それには、
日したものが見られる。その一つを手術からライトが T
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!i成し
ハネ を テ ン プ に 応 I
たのが、第 22図 cである。宜j22図 bは 、 手 術 の 他 の 吉1
1分 に 収 め ら れ た も 有 一
のものの開成だが、ど?の場合も、ホイへンスの場合とは追って、短心バ不
をテンプに使用していた!。
フックの発 I
!
J
Jは 、 こ の こ ろ 王 立 協 会 で も 何 回 か 取 り 上 げ ら れ た 。 例えば、
1
664
f~ 1月 13日 の 委 只 会 で 、 会 長 の プ ラ ン カ ー は 、 フ ッ ク の あ る 発 l
別を報告したが、
こ れ は テ ン プ の 改 良 に 言 及 し た も の と 与 え ら れ る gao また、
1
666年 8月 29 日
、
フ ッ ク ? 「侮て'も隆て'も正路に時を1.1る の に 役 立 つ 新 し い 附 」 を 王 立 協 会 に
干した
0
511
1
削 年 2月 20 日 に 王 立 協 会 を 訪 れ た フ ィ レ ン ツ エ の ロ レ ン ツ ォ イ マ
イ (
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白) は 、 ハ 不 付 き の テ ノ プ を 川 い た フ ッ ク の 時 計 の デ モ V
カロ γア
ストレーンョンを見たことを轡き残している
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。フックのテンプは、フック自主
が後になって主張したとおり、スプラット (
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635-1
7
1
3
)の 『 王 立 協 会
ι
史Jに も 収 録 さ れ た
610
しかし、上の絞論から切らかなように、そ こで使用され
普通のパネ付きテンプに用いられるコイル状のヒゲゼンマイではな
ていたの
かったよ 7 に思われる。
T
フックは 、パ ネ 付 き テ ン プ に対 す る 自 ら の 先 取 権 を主狼して諮らなかった。
だ
オルアンパーグがホイへンスのために特許をとろうとした ことが、ファクを怒 P
せ た "。 ホ イ へ ン ス は 外 国 人 で あ り 、 自 ら イ ギ リ ス の 特 許 を と る こ と は で き な ;
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二
二
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ニ
:
った。しか円、オルデンバーグは 、 ホ イ へ ン ス の 代 理 人 と し て 、 そ の 利 益 を 得 る
; ; : : 二 ホ イ へ ン ス の 発 問 『 フ ィ ロ 1フ イ カ ル
この前後のフックの日記には、
トランザクシヨノズ』に
「裏切り」、
「詐欺」、
「うそつき
:
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5
92よ り 転 似 。 な お 、 パ ネ を 用 いて時計を巾1
1
白l
するフック
:工夫としては、この他にパネをフライホイールとして用いるタイプのものがあ
;。これは、 凶作 に 出 版 さ れ た カ ト ラ ー 講 義 、 『 ラ ン プ 』 に お い て 発 表 さ れ
:。 G回 凶e
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98およびその文末付図を参1I({n
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p.272-273
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-7 7 1の そ の 他 の 研 究
~
六l と い っ た 潟 ? の 言 葉 が オ ル デ ン バ ー ク に 向 け て l
止 わ れ て い る ヘ フ ック は、
上に ~Im したょっに、ホイヘノスの先点 の 後に /1\JtJXされた 『 太陽盟 i且鋭に つい て 』
で 、 白 ら の 先 取 怖 を 主 駁 し た 。 カト ラ
-m義
『ラ ン プ 』 の 後 i
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Fき で は 、 フ ック は
!
fす る に 至っ た "
ト ラ ン ザ ク ゾ ヨ ノ ズ の 出 版 人 」 を 「スパ イ J と して公然と非Jl
この 叩 は 、
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6年 1
1刀 2 日の王 立 協 会 の 委 只 会 で 問 題 と な っ た 日。 委 H会 は :
オ ル デ ノ ハ ー グ が 王 立 協 会 に 誠 実 で あ り 、 彼 が ホ イ へ ン ス の 手 紙 を 『フ ィ ロ ソ フ
イカル ・ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ Jに 掲 似 し た こ と は 正 当 で あ る と 決 裁 を 下 し た い 内
こ う し て 、 社 会 的 な 決 着 は 、 ホ イ へ ン ス 側 に 有 利 な も の と な っ た。
-
とはいえ、実用的な海洋時計を作るという問題では、フック同般に、ホイへン
スも勝利者ーで は な か っ た 。 結 局 そ れ は 、
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8年 か ら 1
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解決されたのだった。ハリソンは、この発明によって、
か ら 賞 金 を 授 け ら れ た eao
1
7
6
5年 に イ ギ リ ス 政 府
観測器 機 へ の 貢 献
フックは、時計の他にも、いくつかの伎術的改良を行なった。 その中には、様
々 な 計 測 を 行 な う た め の 器 畿 が 見 ら れ る 。 特に、
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Jす る 装 置 は 、 時
計問 機 に 航 海 術 の 改 良 に と っ て 重 要 な も の だ っ た
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世稿 集
において、これに関係する実験を 1
6
6
4年 に フ ッ ク が 行 な っ た こ と を 記 述 し て い
る。 だ が 実 際 に は そ れ は 、
ま れ た 課 題 だ っ た 70。
1
664年 に 限 ら れ る こ と な く 、 長 期 に わ た っ て 取 り 組
一王 立 協 会 で は 、 早 い 時 期 か ら 海 の 深 度 の 測 定 に つ い て 関 心 が 持 た れ て い た 。 協
会発足悶もない 1
6
6
1年 6月 1
4日 に は 、 サ ン ド イ
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フックの没後、ゥォラーはオルデンパークのスパイ行
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iEしようと努力した 。 だ が 、 ゥ ォ ラ ー の 挙 げ た 証 拠 の 手 紙 は 、 ホ イ ヘ ン ス
為をムZ
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)に フ ッ ク の 発 明 を 知 ら せ る べ き こ と を 勧 め る マ レ ではなく、他の人 (
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手 紙 で あ り 、 不 適 切 な も の だ っ た 。 W er
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これは、浮
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6
6
2年 3FJ、 テ ー ム ズ 河 な と ' で マ レ ー
やフランカーによって実地され、 l立協会で似合された?に
6
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Ja) 。 改 良 点 は 、 総 で 釣 り 下 げ る こ と な く 海
中に装置を降ろ す ことができるようにしたことであったという。彼は同時に、ifiJ
水 の サ ン プ ル を 集 め る 装 れ 発 表 し た ( ね 図 b)
"0 こ れ は 、 海 底 に お も ら
主したとき、採水用のハケツのふたが閉じるようにしたものだった。
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フックの海深測定装置は、国王に示されることが翌月定められた
二つの工夫は、
740
フックの
『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ Jに 1
6
6
6年 と 1
6
6
7年
に掲載されたこつの記事の中に収められた。それは、
「途方に航海する船来りへ
の指示の付録」および「航海の時に船長、 7
)
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.先 案 内 人 、 そ の 他 適 当 な 人 に よ っ て
なされるべき鍛察と実験についての指示」と題されていた川内
叫ほど後になって、フ
γ
クの仰測定装置に対して、7
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.中 を 下 降 す る 際 の
加 速 の た め に 、 正 確 な 測 定 が で き な い の で は な い か と い う 批 判 が あ っ た " これ
についてフックは、海が十分に深ければ、測定装置の速度は水中で一定になると
答えた。フックの装置には、この他にも、浮上するまでに海流で浮きが流されて
:;;;;::;:?もあった。だが、これに対するフックの回答は、そこに
フックは、気圧計の改良を試みたことでも知られる
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について、
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発 表 し て い る " ) フ ックは、
1
6
6
6年 に 、 こ の 附 必 型 を 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト
こ発表した., 。 さらに、
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二極 類 の 流 体 を 水 銀 と 併 用 し た 気 圧
1
6
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6年 に な る と 、 水 銀 よ り も 縫 い
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:を 発 表 し た "。 こ れ は 、 流 体 の 上
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することで、気圧の変動 を読みとりおくする工夫だった。
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1ク は こ れ ら と は 別 に 、 海 上 で 天 候 の 予 測 に 使 用 す る た め の 海 洋 気 圧 計 の 研
1
667年 1
2月 と 笠 年 1月
究も行なった 。 彼 が こ の 研 究 に 取 り 組 ん で い る こ と は 、
の王立協会の例会 で 報 告 さ れ た
8 30
しかし、フックはこの研究を 2
0年 以 上 紋 置
しておいたものと 思 わ れ る H 。 フ ッ ク の 装 置 が 発 表 さ れ た の は 、 死 の 直 ) Ij
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70
2
年のことだった(第 2
3図 c) " 。 発 表 は 、 病 気 の フ ッ ク に 代 わ っ て 、 ハ レ ー に
よって行なわれた。
フックの海洋気圧計は 、封 印 し て い な い 温 度 計 に は 、 温 度 と 気 圧 の 効 果 が 合 併
g
l
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日温度計と 、密 封 し た 温 度 計 を 比 較
して現れることを利用したものであった。
すれば、その差から気圧を計算することが出来る o ハレ
は、フックの装置を南
洋航海で実際に使用し、天候を予測するのに良好な結果を待たと記述している。
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lに 含 ま れ る 液 体 の 劣 化 と い う 問 題 点 が 指 嫡 さ れ た
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7 '1 ク は 、 気 圧 計 の 他 に も 、 気 象 に 関 す る 装 置 に取り 紐 ん だ 。 例 え I
t、 『ミク
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ログ'77ィア J で 彼 は 、 温 度 計 を 級った..。 そ こ で フ ッ ク は 、 蒸 留 した 7
出す点に温度の原点を定めた。
rミ ク ロ グ ラ フ ィア Jには、
程度計も現れる"。
こ れ は 、 オ ー ト 変 の ヒ ゲ を 観 察 し た 部 分 で 扱 わ れ た 。 フ ッ ク は 、こ の ヒ ゲ の 湿 度
による伸縮を利用した温度計を説明した 。
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フックの回転気圧計、温度計、 i
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1は、彼の風ブJ
'~卜の工夫などとともに、スプニ
y トの『王立 協会史』に、 「フック氏 に よる気 象 史 山 守 。o
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フ γ クはまた、時計仕掛けで 1
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時計 (
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作切にも関与した。 これ は 、 フ ッ ク が レ ン の 気 象 時 計 の 作 製 に 協 力 し た も の で あ
った。レンは、
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6
6
3年 の 末 に こ の 袋 i
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tの ア イ デ ィ ア を 示 し た (第 24図 ・下 側 の
図)。引に〈ックは、この叫に使用するための附を工夫するように協会か
ら命じられた 4 。
記録によ?と、
協会の会合人、
m
年 5月 22 日 、 フ ッ ク は 気 象 附 を 完 成 し た 。 だ が 、 王 立
見知らぬ人が出席していたため、フック氏がちょうど完成した気象時計を示す
こ と は 、 翌 週 の 会 合 ま で 延 期jさ れ た "。
その装置の説明は、翌週の記録にも、あるいはそれ以降の記録にも、残念ながら
見ることはできない。
戸両,
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I典
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十とレンの気象時計
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『守F
第1
1部
フックの天文学・光学研究
干--
〈第 E部 ・序論〉
第 I却では、 i
)
t
r半 で ロ パ ー ト ・ フ ッ ク の 科 学 活 動 の パ ッ ク グ ラ ウ ン ド を 論 じ た 内
そこで比フックの叫と、彼の活動の場であったクレシ仏
カレッジや玉三
協 会 が 分 析 さ れ た 。 フ ッ ク が 積 極 的 な 活 動 を 展 開 し た 17世 紀 の 後 半 に は 、 グ レ
ゾヤム ,カ レ ッ ジ が 担 っ て い た 数 学 的 訪 科 学 の 衰 退 が 見 ら れ た
n
第 I却 の 後 半 で は 、 フ ッ ク の 科 学 的 探 求 に つ い て 、 各 分 野 }
]
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,こ論じた。フック
はほほどの分野においても、第二次世界大戦前から戦後にかけて高い得価を受け
た。だが、ホール、コイレ、ウエストフォールらの戦後の職業科学史家は、手稿
などに基づく t
,','級な研究によって、フックに対する評価を見直した。ホールの
1
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7
8年 の 言 葉 は 、 彼 ら の 立 場 を 鮒 的 に ま と め て い る 。
ロパート
フックの其の長所は、しばしば十分に説明されてきた。それを理不
尽 な ほ ど ま で 拡 張 す る こ と は な い 1。
ホールらに続く新世代の科学史家の研究は、このようなフックに対する見方を
大きく設り替えることはなかった。新世代の人々の研究を吸収した上で執筆され
i
Yか れ た フ ッ ク 像 は 、
た本論文第 I部 の 記 述 は 、 そ の こ と を 立 証 し て い る 。 そ こ に 1
極めて平凡なものであった。すなわち、フックの顕微鏡観察や地質学、技術的貢
献はそれなりに評価できるが、力学においては彼はニュートンに劣るとされた。
光学の分野では、フックはアリストテレスの説を援守したニュートンの劣った論
敵 で あ る か 、 光 の 校 却J説 を 目 白 え た 人 々 の 一 人 と し て 扱 わ れ た 。 筆 者 は 光 学 に つ い
てのこの見方を修正したが、それでも、フックはようやくこの分野でニ;
の対等な論敵の地位を得たに過ぎない。
トン
ピュグリーズが七百ぺーンを越える長大なフック研究論文を執筆した挙げ句に
!何よりもフックは 、初期j王 立 協 会 で 高 く 掲 げ ら れ た ぺ
コンの理念を増進しょ
っとした」人物であ る と い う 隙 腐 な 結 論 し か 出 せ な か っ た の も 、 彼 の 研 究 が 戦 後
の?ツク研究の総指であったということを考えれば、致し方のないことだっド
」 の よ う な 研 究 の 現 状 か ら は 、 ウ エ ス ト フ ォ ー ル が DSBで 与 え た 次 の よ
評価を批判することは難しい。
j
J
科学史における彼[フック]の役割については、平凡な評価を避けることは不
可能である。すなわち、彼は自分の洞察を推し進めることは決してできなかっ
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幻7
附
107 第 E釘l 序 論
た。実際、彼は洞察を、例えばニュートンがしたように、究極の深さまで探求
す る こ と は で き な か っ た の で あ る 3。
第 E却 の 議 論 に お い て は 、 フ ッ ク の 光 学 研 究 を
I
H発 点 と し て 、 こ の よ う な 先
行するフック像を:;/¥:/1日に修正することが試みられる。筆者は、第 1t
¥
i
l
において、
フックをアリストアレスの光の耳目論の箆守者と考えるウエストフォールの見方を
否定した。以下の第 E 部では、フックの光学理論に ~I する考祭をさらにもう一
歩進め、彼の議論を当時の天文研究の文脈の中に位世づけることによって、フッ
ク再評価を行なう。その波論の舟絡は、以下のようなものである- ,
フックとニュートンの光学論争は、従来の研究では、色~~ :,命をらぐるものとし
て汲われてきた。しかしこの論争は、ニュートンの反射式望遠鏡の拠出によって
始まったものであり、何にも先だって、天文観測器機である新しい望辿鏡の是非
をめぐるものだった。後の議論で切らかにされるように、フックがニュートンの
反射式望遠鏡を批判したのは、単なる思いつきからではなかった。フックは、
1
6
6
0年 代 か ら 、 望 遠 鏡 に よ る 月 や 惑 星 の 観 測 を さ か ん に 行 な っ て い た 。 彼 は 、
優秀な性能を持つ巨大屈折式望遠鏡の作製者として知られており、天文分野での
彼の研究?、当時の学界から認知を受けていた。なぜなら、フ
γ クは、
「ガリレ
オ ・バ ラ タ イ ム 」 と 本 論 文 が 名 付 け る 当 時 の 天 文 研 究 伝 統 の 主 流 の 研 究 者 の 一 人
だったからである。フックは、科学革命の霊要な要素であった天文学において、
高い地位を占めていた。このことは、フックが科学の傍流ではなく、主流におい
て重要な人物であったことを証明している。
第 E部 の 議 論 は 、 具 体 的 に は 次 の よ う に 展 開 さ れ る 。 冒 頭 の 第 一 章 で は 、 天
文学に?ける「ガリレオ
パ ラ タ イ ム 」 と い う 、 第 E部 の 鎚 と な る 御 念 の 規 定
を行なっ。このパラダイムは、ガリレオの望遠鏡が惹起した問題を受けて展 開 さ
れた天文研究のプロタラムであった。ガリレオ以降の人々は、月の表面の形状ゃ、
土星の奇妙な形など、ガリレオの見つけた現象を硲認したり、それをー屑精綴に
可究することに関心を持った。彼らはその探求のために、望遠鏡の改良にも熱'1.,、
たった。従来の光学史では、 E宣遠鏡の発展を ~lf るときには、ケプラ一、デカル卜
!いった人々の光学理論への寄与を論ずるのが普通であった。これらの科学者は、
里遺鏡を改良するのに 、 非 球 面 レ ン ズ が 必 要 で あ る こ と を 型 論 的 に l
列らかにして
い た 。 し か し 、 現 実 の 四 銭 の 発 展 は 、理論の予見する方向には逃まなかった。
試行錯誤の結果、当時の人々は、焦点距離の長いレンズを使う「長大笠遠鏡」を
作製することで優れた装 l
i
iが 得 ら れ る こ と を 学 ん だ の で あ っ た 。 ガ リ レ オ
パラ
畠鏡の「本当の」発展と、これに基づく太陽系天体の
アイムとは、このような笠 i
観測の伝統を意味する。
よ手二設においては、 こ の 「 ガ リ レ オ
パラタイム」が、イギリスにおいてどの
フに受け入れられたかを分析する。このプログラムは、履初、イングランド北
海 日 五石r
一 108
第 口町l 序 論
、守--
郊の臼然学者 i
t
lに よ っ て 受 容 さ れ た 。 <!")ーに、ニューカッスル ・サ ー ク ル と U
i
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'ば れ
る人々は 、 ヨ i
且奴 に 大 き な 関 心 を f
J
fっ て い た 。 イ ギ リ ス 革 命 の 激 化 と と も に 大 │ 開
に渡った彼らは、そこでも優秀な望 j
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H置 を 入 手 し よ う と し た 。 こ の I
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Jに は 、 イ
ギリスにおいても、望.i!rl鋭を作製する峨人が仕込jし た 。 イ ギ リ ス 革 命 J
U
Jの ロ ン ド
ンやオクスフォードの科学者クループのメンバーも、
「ガリレオ ・ パ ラ ダ イ ム 」
に関心を持っていた。やがて王立協会を組織する彼らは、.'i'
i
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i
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買の改 Hや天文花見
出l に取り組んだ。 中 でも、クリスト 77 ー ・ レンは、自らの制iJI1J に基づいて、 J~
星のモデルを車n
み立てた。このモデルは、ホイへンスが発表した土屋の輸のモデ
ルとほぼ同時 J
Q
J
のものであり、両省一の 締 法 は 、 非 常 に 似 通 っ た も の で あ っ た 内
第三立では、フ
γクの天文研究の内容がいかなるものだったかを吟味する
Jフ
ヅ ク の 研 究 は 、 先 行 す る イ ギ リ ス の 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 を 引 き 継 ぐ も の で
あり、具体的には、 長 大 望 遠 鏡 の 改 良 や 、 こ れ を 用 い た 太 陽 系 天 体 の 観 測 が 取 り
組まれた 。 フ ッ ク は 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ トランザク:ノョンズ』に、長大望.i!rli
J
l
による惑星の観測を 帯 稿 した。彼の望 遠 鏡 改 良 の 努 力 や 天 文 観 測 の 成 呆 は 、
『
ミ
クロクラフィア』にも現れた。そこで扱われたレンズ研鑓装置には、フランスか
ら 批 判 が 寄 せ ら れ 、 フ ッ ク と の 論 争 が 展 開 さ れ た 。 フ ッ クは 、 望 遠 鏡 作 製 の た め
J
J
l家
、
に 、 望 遠 鏡 職 人 コ ッ ク と も 強 い 関 係 を 持 っ た 。 彼 ら の 望 遠 鏡 は 、 大陸の提Ui
へヴエリウスの自にとまり、彼から注文を受けるほどであった。フックは、長く
て使いにくい長大望遠 鏡 を短縮する工夫にも取り組んだ。 7 '
1ク の 望 遠 鏡 の 改 良
の試みについては、最近になってシンプソンが論文を若ーした
しかし、シンプ
ソンの研究は、 2ま~.lと し ての望遠鏡に焦占を当てたため に 、フックがどのよ弓な
天 文 学 の コ ン テ ク ス トで こ の 改 良 に 取 り 組 ん だ の か と い う視 点 が 欠 落 してい よ
第四章では、望遠照準や銭限マイクロメータ
J
といった精密天文観測糊へら
フ ッ ク の 取 り 組 み を 論 じ る。 精 密 観測苦号機 は 、 「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム Jの 第 二
期に入って 本 格 的 に 登 場 し た 装 置 で あ っ た 。 こ れ ら は フ ッ ク の 発 川 で は な い が 、
伎はこれを改良し、実際 の 天 文 観 測 に 利 用 し よ う と し た 。 フ
γクは、望遠照準や
接0
1
1マ イ ク ロ メ ー タ ー の 使 用 に 批 判 的 な へ ヴ エ リ ウ ス と 、 長 期 に わ た る 論 争 を 日
開 し む ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 間 的 な 肉 眼 観 測 を 弁 護 し 、 フ ッ ク は 新 し い 観 測恭 平
の重要性を訴えた。フックとへヴエリウスの論争の存在自体は、古くから知られ
て い た 九 ピ ュ グ リ ー ズ は こ の 論 争 に ある 程 度 の 分 析 を 加 え 、 ベ ネ ソ ト も 、こ の
論争が天文 制 州
機 に 関 係 す る こ と を 論 じ て い る 6。 し か し 、 ピ ュ グ リ ー ズ の 分
訴は 、論 争 の 郎 分 を 級 うに 止 ま っ て い る 。 ま た 、 両 者 の 譲 論 と も に、
「ガリレオ
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09 第 日前l 序 論
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-パラダイム 」 の流れを.Jt慮に入れていないために、フック の 紛留置Ui
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~を、 天 文学のコンテクストの'),で正し く 評価していな い。 I古\'í"施J!側保険は、
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に 役 立 さ れ た グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 で 必 需 品 と な る も の であり、 7 '
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ヴェリウスの論争は、アマチュア ノ
正文制 i
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j職 業 的 な 天 文伺l
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二 世代の科学者の !L~ /
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[を 象 徴 す る も の と し て 興 味 深 L。
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ガ
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第五 i
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1で、 ニ ュートン式望A!il鋭 の
歴 史 的 位 置 づ け の 再 評 価 を 試 み る 。 フック とニ ュ ー ト ン の 論 争は、
「ガリレオ・
パラダイム 」 に精通したフックと、学!日!伝統を 11~ 解していない学界の新人ニュー
ト ン の 論 争 と し て 今 や 他 僅 し 直 さ れ な け れ ば な ら な L、
。フ
y
クがニュートノを批
判 し た の は 、 反 射 式 望 遠 鏡 の 実 用 性 に フ ック が 疑 I
:
Jを 持 っ た か ら だ っ た 。 フ ック
は、ニュートンの光の粒子説にも非難を加えた。それは、ニュートンが見いだし
た色彩の現象は波動説でも説明できるとフックが考えたからであり、ホイへンス
の場合もそれは同じであった 。 だが、色彩論とは違って、反射式望遠鏡の可否は、
理論上の論争ではなく、実用性をめぐるものだった 。 フ
y
クは、長大化などにー
って、屈折式望遠鏡の一層の改良が可能と考えていた。彼 は ニ ュ ー ト ン 式 の 反 射
式望遠鏡の作製を試みたが、実用レベルの装置を作ることはできなかった。屈 折
式望遠鏡に匹敵する反射式望遠鏡が登場するのは、
ばなら?かった 。 従 っ て 、 フ
y
1
7
20年 代 以 降 を 待 た な け れ
クのニュートンに対する批判は、実際に天文観測
を行なっ立場からは、極めて当然の反応であった。これに対して、ニュートンは、
彼の望遠鏡の理論的可能性を提示することで満足した。二人の態度の差は、実験
器機の実用性をめぐる彼らの科学のスタイルの速いを反映したものであった肉
の荷者の差異は、 1
7世 紀 後 半 に お け る 数 学 的 諸 科 学 の 衰 退 な ど と 関 係 づ け
察されるであろう 。
L
v
考
天文学の文脈からのフックの見直しは 、 もちろんフックの全ての側面での見直
しにつながるもので は な い 。 第 1:
l
l
lで も 指 摘 し た よ う に 、 フ ッ ク の 力 学 研 究 に ニ
ュートン以上の評価を与えることは、恐らく今後も不可能なことであろう。しか
し、科学革命の中心ともいえる天文学においてフックが高い地位を占めていたと
す る ? ら ば 、 ウ エ ス ト フ ォ ー ル の よ う に 、 フ ッ ク に 科 学 者 と し て 「平 凡 な 評 価 」
を加えることは、もはや不可能となるのである 。
- 110 第I
If
l 序論
.
,
.
,
.
.
.
.
.
.
-
第一章
天 文 学 に お け る 「 ガ ・ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」
フックと望遺鏡
ロパート・フックの取り組んだ自然学的研究は多岐にわたる。多くのテーマに
興 味 が 分 散 し て い た こ と は 、 フ ッ ク の 研 究 の 欠 点 て ' あ る と れ ら れ て き た l。 し
かし 、 王 立 協 会 の 俄 関 誌 に あ た る 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル
トランザクゾヨンズ
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日/ η四 四C白o
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)J'に現れるフックに務目すると、これまで無視されてき
た一つの傾向を見いだすことができる。
同誌の記事の中で、フックが自ら寄稿したもの、彼の研究に言及したもの、あ
る い は 彼 と 強 く 閃 述 を 持 つ も の は 、 現 在 ま で に 37件 が 同 定 さ れ て い る ( 文 献 の
詳 細 に つ い て は 、 付 録 3を 参 照 ) 。 こ れ ら を 分 類 す る と 、 第 2表のようになる。
第2
表
rJ IOnih Jl ・ トぅ~~ -ウシ ョ n - Jに 現 れ る フ ッ ク 関 係 の 論 文 の 内 訳
月の観測
13件
?匂・ 1 η d 1 A 1 A q f 匂
気圧計の改良
動物の呼吸
風車の改良
その他
これらのうち、
顕微鏡観察
海深田J
rA
' .航 海 の 改 善
遠隔地の情報
飛行
water-poise
「惑星 ・太 陽 ・ 月 の 観 i
J
l
i
JJ、 「レンズの研磨法」、
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f
マイクロメーター」、
っι 1 A 1 i
本の解説
幻灯
レンズの研磨法
望遠鏡のマイクロメーター
nd
l
句
望遠鏡レンズによる近恨の矯正
タ旬。,u ?
惑星 ・太陽
「望遠鏡の
「四 銭 レ ン ス に よ る 近 視 の 矯 正 J を 合 わ せ る と 、 実 に 全
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千数近い叫が望遠鏡に関係している。このことは、フックが望遠鏡に並
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一ゆ b ぬ 関 心 を 持 っ て い た こ と を 示 し て い る
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- 111 I
I-1 天 文 学 に お け る f リレオ・ハ・7
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これらの盟i
且鋭に I
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I係 す る 記 事 の 出 版 1
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'の 分 布 を 見 る と 、
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0年に 4件、
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6
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0年 代 に 1
11
'、
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0年 代 に HIで あ る 。 従 っ て 、 フ ッ ク の 望 i
且銭関係の研究は、王
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Jの 1660年 代 ご ろ に 展 開 さ れ た と 忠 わ れ る 。 フ ッ ク は 、 彼 の 1 . ' ;)/7を
立協会成立 J
高めた町i微 鏡 に 対 す る よ り 以 上 の 関 心 を 笠Z
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jっ て い た と 与 え ら れ る の で あ
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iI,脱されたフックの顕
微 鏡 関 係 の 記 事 は 2併 に 過 ぎ ず 、 し か も そ の う ち の
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は
、 レーウェンフック
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叩
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632-1723)の 鈴 簡 の 紹 介 で あ る 。
王立協会のホイヘンス
フックの望遠鏡に対する関心を正しく犯促するためには、当時の王立協会にお
ける望遠鏡の意義を、歴史的コンテクストの中で型解することが必裂である n こ
こではまず、フ
γク
の望迷銭への関心が特殊なものではなかったことを闘する
ために、やや迂速ではあるが、当時の有力な科学者の
会での活動に近目したい
30
人、ホイへンスの王立協
そ れ は 、 ホ イ ヘ ノ ス が 、 長 期jに 渡 っ て イ ギ リ ス と 密
な関係を持ち、同時に、大陸でも有力な自然研究者だったからであるの
ホイへンスの父コンスタンティン (
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)は 似 家 の オ
ランタの外交官であり、英語教育を息子に賦し、彼らにブレダ大学のイギリス人
切にあたり、英国か
達との交際を勧めた。ホイへンスの背年時代はイギリス革命J
ら多数の自然学研究者がオランダに亡命していた。ホイへンスは、彼らとも直接
に交際することができた。
J
王立協会が創設されると、彼らの多くは協会の会員となった。同会は、会合で
詩じられた重要な内容について矧繁にホイへンスに報告を送り、見解を求めた一
一方、ホイへンスも、自らの研究等について王立協会 に酬を送った・。彼は
J
ノドンを数回訪問しへ王立協会の自然学者遂と直後交流した。王立 協会に現れ
るホイへンスの活動は、当時のイギリスの科学者集団の関心を反映し、また科学
者向の国際的な叫し、の焦点を解明するための鍵を与えてくれる。
ιこ で は 、 ホ イ へ ン ス の 活 動 を 、 王 立 協 会 の 議 事 録 。o
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)の 抄 録 と し て
京文ヲ7
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と 王 立 協 会 の 関係については、
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2な ど を 多 照 の こ と 。
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花 hの随所を参!I司 。 こ の 文 通 は 、 当 初 は ホ イ へ ン ス の 旧 友 の ロ パ ー ト ・ マ レ -
1Ezrrt::1UiJJifff町 J
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九ついては、上記 M. B
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)の 随 所 え 喪 服 の こ と 。
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f-の訪 問の際には、
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イルのサイフォンがホイへンスの凶
見ポンプ、銃の反動、望述鋭のレンス
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ロ
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天文学における h
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、
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られている
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卜- 7ス ・パ ー チ (Thomas s
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)の 『 ロ ン ド ン 王 立 協 会 の l
箆史 (
The
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fLondoゆ 』 を基礎に、数民的に分析してみよ有 一~マラ
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は、この本に登場するホイへンスへの言及すべてに将日し、その時
を 統 計 的 に 分 する 。
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同占は、
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6
6
0年 か ら 8
7年 の ヱ 立 協 会 の 会 合 を 放 っ て い る 。 こ れ は ホ イ へ ン ス
が 31才 か ら 5
8:;fの時期に対応しており、
主立 協会の創設 から r~f J
己のオルデンバ
7
7
)ま で の 、 ホ イ へ ン ス と 協 会 の 関 係 が 特 に 緊 密 で あ っ た 時 代 を カ パ
ーグの死(16
ーしている 7 0
後 位 に 縮 ま れ た 『ロ ン ド ン 王 立 協 会 の 似 』 へ の 索 引 に よ る と 、 ホ イ へ ン ス の
名前は同世に 山 回 ? れ る ・ 。 ロ ン ド ノ 非 叫 外 国 人 と し て は 、 ホ イ へ ン ス へ の
言及 回 数 は 授 も 多 い 。 1回 の 議 論 内 容 が 多 岐 の テ ー マ に わ た る 場 合 も 勘 案 す る
と、彼の名前は全体で延べ 1
2
6回 登 場 す る 。 こ の 中 に は 、 1
1
1な る 事 務 上 の 手 続 き
やホイへンスの若轡への言及などもあるが、その多くはホイへンスと王立協会の
書簡のやり取りの記録である。
第 3表 は 、 ホ イ へ ン ス へ の こ の 1
2
6回 の 言 及 を 、 分 野 別 に E
監理してグラフにし
たものである。王立協会でのホイへンスの活動は、この図に示されているように、
側 、 陪 ポ ン プ 、 時1
たっていた。
数学、望遠鏡
i
光 学 、 天 文 の お よ そ 六 つ の テ ー マ こわ
ここで速動の項目に分類されているのは、彼の完全郵性衝突問題への有名な取
り組みを反映したものである。この問題については、彼とクリストフ,ー・
の理論の比較など、 日
t
.
.
. '/
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9if::に集中的に王立協会でやり取りが行なられた::
真空ポンプに分類されているものは、主に排気した'@:総 内 の 水 柱 の 異 常 な 仮 る 舞
い(アノマ リ) を め ぐ る も の で 、 こ れ は 1
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6
2年 か ら 6
4年 を 中 心 に 論 じ ら れ た 。
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6
1年 4月 に イ ギ リ ス を 訪 問 し た が 、 こ の 時 ボ イ ル の ポ ン プ を 見
ホイヘンスは 1
? 機 会 に 恵 ま れ 、 こ れ を 参 考ーに し て 自 ら 装 置 を 組 み 立 て む 問 ポ ン プ の ホ イ へ
ノスによる移慌(凶n
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)と 、 彼 の 発 見 し た 実 験 の ア ノ マ リ の 問 題 に つ い て
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.263-329 山 の l I
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l合 で 抑 入 さ れ た ホ イ ヘ ノ
スの名前が 1例 あ る が 、 こ れ は 無 促 し た 。 な お 、 同 一 ペ ー ジ に 複 数 回 ホ イ へ ン ス
の名 前 が 現 れ る 場 合 も 、 こ の 索 引 で は 1回 の 登 場 と カ ウ ン 卜 さ れ て い る 。 し た が
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量的分析は、 一 つ の 目 安 に す ぎ な い 。
って、本論文の数 i
国 非 在 住 外 国 人 で 名 伽 登 場 の 回 数 の 多 い 人 物 と し て は 、 ヘ ヴ エ リ ウ ス の 99
、レーウェンフックの 9
1回 が ホ イ へ ン ス に 次 ぐ 。
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天文
望jg鋭 ・光 学
西
暦
王 立 協 会 で の ホ イ へ ンス の 活 動
第3
表
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5年 以 降 に 論 じ ら れ た 。 数 学 を め ぐ る や り と り は 、
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い。内容としては、求杭やサイクロイドの I
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こ れ ら 各 々 の テ ー マ が 比 較 的 一 時 期 に 集 中 し て 議 論さ れた の に 対 し て 、
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,光 学 に 分 類 さ れ て い る も の は 、 長 期 に わ た っ て 繰 り 返 し 現 れ る 。 そ れ は 、 レ /
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且鋭・光学:を放ったものであ っ た。 天 文 学 研 究 の 内
l
]であることを考慮し、!f
i3表の 「望 遠 鏡 ・ 光
容が主に望遠鏡による惑星等の鍛iJ
学Jと「 天 文 」 の 件 数 を 併 せ て 作 表 し た 第 2
5図を参]I(lするならば、ホイへ/ス
の 望 遠 鏡 関 係 の 議 論 は、 『ロ ン ド / 王 立 協 会 の 歴 史 』 の 対 象 と す る 時 J
U
]に 、 ほ 1
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終始一貫して登場していることは明白である。
以上のような諸テーマが、当時自然学に関心を持つ人々の主要な関心であった
ことは、科学史家の常識と一致する 。天 文 学 や 物 体 の 速 動 の 解 析 は 、 コ ペ ル ニ ク
スからガリレオを経てニュートンへという、いわゆる「科学革命」の中伎をなす
ものであった 。 其:!l?の問題はアリストテレス体系を似砕から特かすものとして重
要であり、広重の言葉を借りれば、
はじめて確立されたのは、
「物 理 学 に お い て 真 に 近 代 的 な 実 験 的 方 法 が
17世 紀 の 第 2 四 半 世 紀 以 降 、 真 空 と 大 気 圧 の 研 究 を
過してであった J JZ0 時 計 の 改 良 の 問 題 は 、 第 I部 の 第 七 草 で 示 し た よ う に 、 経
度決定問題への 一 つ の 解 答 と し て 、 当 時 の 自 然 学 者 逮 の 関 心 を 集 め て い た 。 ホ イ
ヘンスのイギリスにおける活動の分析は、これらの諸テーマが当時の重要な問題
であったという我々の常識の正当性を再確認しているのである。その一方で逆に、
ホイへンスの関心が、当時の科学者集団の一般的関心と一致していたことも明ら
かである。
へしかし、ここで注目しておくべきことは、
『ロンドン王立協会の歴史』のホイ
.ノスへの言及のうち、望遠鏡等に関係するものが全体の三分の ー にも及ぶとい
U
Jに わ た る 興 味 の 服 だ っ た の
っ事実てある。ホイヘノスにとって、望遠鏡は長 J
であり
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、 そ れ は 当 然 王 立 協 会 で 話 題 と な り 続 け た も の で も あ っ た 。 1660年 代
?中心とするフックの望遠鏡に対する興味は、彼個人に限定されたものではなく、
」の時期の 「科 学 者 」 集 団 一 般 の 関 心 を 反 映 し た も の と 考 え ら れ る 。 後 の 談 論 で
干可
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:広重徹、
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『物理学史 J ( 府 側 、
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第
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西暦
陸軍
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ホイへンスの望iA銭関係研究の件数
(第 3表 を 元 に 作 成 )
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/i1Ii認されるように、望 i
畠鋭は王立協会の会
nの 大 き な 関 心 の 対 象 で も あ り 、 実 は
ニュートン笠掛にはるかに先立つ王立協会設立以前から、やがて同会に集う人々
の関心を引き続けた問題だったのである。その関心を具体的に理解するためには一
時代を遡って、四銭の発 I~J からこの時 JVJ までの歴史を簡単にたどる必民同る J
望遺鏡の発明と光学の発展
側
四銭が誰の干によって発明されたかは定かではない。通説では、それは 1
年ごろ、ォランタの眼鏡輸入リッペルハイ (
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明されたと言われている
議会の特許
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・こ れ は 、 オ ラ ン ダ の ハ ー ク に 伐 さ れ た 同 年 10月 の
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訪記録に基づく説である。だが、この分野の優れた研究家て'あるフ
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)に よ れ ば " 、 レ ノ ズ の 組 み 合 わ せ に よ っ て 在 日 察
6世 紀 の 終 わ り に 知 ら れ て い た と い う
対象を拡大すること自体は、すでに 1
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それを望速銭として世に広めたのはリッペルハイの特許の申前て'あり、そム釘
せ は 、 外 交 ル ー ト を 経 て 諸 外 国 に 広 ま っ た 170
ガリレオ (Ga
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i,1564-1642)は そ の 噂 を 伝 え 聞 き 、 望 遠 鏡 を 自 ら 組 み 立 て
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た。望遠鏡を使った彼の天空観測は、当時の自然学に大きなインパクトを与え f
ガリレオが望遠鏡の情報を初めて耳にしたのは 1
6
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.7月 。 そ の 8月には、
4
は 8倍 の 倍 率 の 望 遠 鏡 を ヴ ェ ネ ツ ィ ア に 持 参 し た 。 こ の 望 遠 鏡 は 、 鉛 の 筒 に 凹 レ
ンズと凸レンデを各一枚取り付けた一般にガリレオ式(あるいはオランダ式)と
呼 ば れ る も の た っ た 。 そ の 年 の 末 に は 、 ガ リ レ オ は 20倍 の 倍 率 を 持 つ 望 遠 鏡 を
作ることができた"。
1
6
1
0年 3月 に ヴ エ 不 ツ イ ア で 『 星 界 の 報 告
ガリレオの天体観測の成果は、
"例えぱ、標 4
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辿且鏡 の 歴 史 と し て 知 ら れ る Henry C
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ペー ジ〕が軍 E
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することなどを述べた。これは、コペルニクス休系に有利な発見であった。さら
にガリレオは 、 笠
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Jlで恒星が余り拡大されないこと、銀河やJil雲 が 長 の 集 ま り
であること、また恒星がおびただしい数に上ることも記述している。
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見えることを州に記録した。同年末には金星の満ち欠けを飢測し、迎年の日め
に太陽の,'E点の在Jld
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Jを行なった 。太陽~\占については
たが、いずれの発見も、
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1]:に哲前l
が公刊され
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2年 の 『 天 文 対 話 (D
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)Jに 取 り 上 げ ら れ た n
山鋭によるガリレオのこのような発見は、科学史においては主に二つゐ文脈
中で議議されてきた。その一つは、アリストテレス休系からコペルニクス休系へ
という天文学の革新の文脈である
200
もう一つの議論の文脈は、光学の発展史に
おけるもので、デカルトを経てニュートンに i
l
Jる 光 と 色 の 理 論 の 発 展 を 扱 う も の
である。ガリレオの望述鏡は、天空観測装置としての望遠鏡の流行のきっかけと
なり、その光学的改良は、自然学者の大きな関心の対象となった
210
ここではま
ず、以 下 の 議 論 の た め に 、こ の 光 学 の 発 展 史 を 手 短 に 論 じよう 。
光学の 発 展 史
天文学への寄与で知られるケプラーは、ガリレオの望遠鏡が登場する以前から
光学を研究していた
220
彼は、
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3世 紀 の 光 学 者 ウ ィ テ ロ (
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)の 名 を 冠 し た
"山田 鹿児 ・谷 泰 訳 、 『 星 界 の 報 告 ・他 -1
眉J (岩波文庫 、 1
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6年 ) 。 同 容 は 、
1
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2年 の 「 太 陽 期 点 に か ん す る 第 二 替 簡 」を収める。
. Kuhn, The C
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"例えば 、Thomas S
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1
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2
2
8 [常石敬一訳、
ページ ]などを参照。
『コペルニクス革命』 、 紀 伊 国 屋 書 底 、
1
9
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6年 、 310-321
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. 3-4から 今 日 の 様々 の 科 学 史 の 教 科 也
(例えば前出のメイスンや広重)に至るまで、この視の歴史記述はごく一般的で
あ る 。 な お 、 田 中 一 郎 、 「 ニ ュ ー ト ノ 光 学 の 成 立 」 、 科 学 の 名 著 第 6巻、
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ど J (朝日 J服 、
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, 1604)を 出 版 し た 。 ケ
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プ ラ ー は そ こ で 光 の 反 射 や 屈 折 を 論 じ 、 カ メ ラ ・ オ ブ ス ク ラ ( 臼 mera o
察し、眼球中に結ばれる倣が倒立していることなどを議論した。ガリレオの『尽
界 の 桝 J を 説 ん ? 一 彼 は 、 そ の 影 叫 響 の 下 で 『 周 州 芋 叫 的伺
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近 似 川 原 折 の 酬 をJ
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Jい 、 レ ン ズ に よ る 像 の 形 肘 論 じ た 。 司!
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.々 狭 か ら
彼は、ガリレオのように凹レンズと凸レンズを組み合わせた場合だけでなく、ム
レンズを二枚用いて望逃鋭を組み立てることもできることを解明した。これは:
ガリレオ式叫鋭に対して、今日ケプラー悶逃鋭と称されるものである。ヶプ
ラーはさらに、球 i
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nの 一 郎 と し て 研 隠 さ れ た レ ン ズ が 平 行 光 を 一 点 に 集 め な い こ
と(球而収差)を街摘し、これを避けるには、双山線状の断聞を持つレンズが必
要 で あ る こ と を 明 ら か に し た Z J。
このケプラーの研究をさらに発展させたのは、デカルトの業紡であった"
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印年代初頭にオランタでケプラーの光学告を学んだデカルトは、パリで ミ:
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の人々と交際し、理論を発展させた。
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)と は 独 立 に " 、 光 の 屈 折 の 法 則 (
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I)に到達したー
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)を 序 論 に 持 二
加 、 こ の 法 H凡
Diop
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)Jの 中 で 初 め て 公 に し 、 法 則 が 成 立 す る 背
「屈街光学 (
ニ論考の一つ、
景を論議した 。 さ ら に デ カ ル ト は 、 屈 折 の 法 則 を 基 礎 に し て 、 理 惣 的 な レ ン ズ が
怖円または双山線の断面を持つ必要があることを指摘している。彼は、作製の容
易さから特に双山線レンズを推奨し、その研磨装置も考案した。
ニュートンの反射式望遠鏡のアイディアは、球面収差を克服しようとするデカ
ルトの光学研究を一つの起源としている
260
当 初 ニ ュ ー ト ン は 、 デ カ ル トに従つ
"M.C田 P
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・ Gesamme1te Werk
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e 19vols. (Miinchen,1937-1975),vol・
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.387-389& 371-372.
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附
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pp,99一m
ミユ一ドルジユ
は、アカルトが屈折法 J
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I
Jを 発 見 し た こ と を 示 唆 し た が 、 実 は ミ ュ 一 ド ル ジ ュ 自 身
リ]慌に定式化し?と い う 。 こ の 点 に つ い て は 、
の方が、この法 則 を デ カ ル ト よ り i
子ter(19町
一切地稿、
p
p
.
303ff. の議論を参照されたい 。~
「ニ ュ ー ト ン の 光 学 理 論 形 成 と そ の 背 景 」 、 東 京 大 学 大 学 院 修 士 論 文 、
凶?、引章怜J
I
枯れたい。またそのエッセンスは、州、
JL チ」、吉田止~ ,
j
J
司
、
1
8
5
2
2
2ページ。
『ニュートン自然留学の系:~~ J
fニ ュ ー ト ン の
(平凡社、
1987年)、
- 117 -
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l 天文学における γ'
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曲線レンズを腐こうとしていた。だが彼は、プリズムのスペクトルの現象の
考察から、白色光がさまざまの周折性を持つ光線から榊成されていることを発見
した。 彼は、それによって生じるレンズの色収庄が、球而収 ì~ 以上に望遠鏡の性
能を劣化させるという結論を得 h
この色収差克服のために、ニュ
トノ は レ ン
ズの利用を放染して、反射を用いた彼の望遠鏡を発 l
i
f
Jした。
「ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イ ム 」
このような従来の光学史の記述は、光学史それ自体としては妥 当なものである
が、ファン・へルデンがーi.illの論文で切らかにしてきたように、
1
7世 紀 の 盟 遠
鏡 の 発 展 を 正 し く 理 解 す る に は 十 分 と は い え な L、 。 第 一 に 、 以 上 の 歴 史 記 述 は 、
望遠鏡の発展史を光学の発展史と同一視することによって、試行錯誤に基づく当
時の笠遠鏡改良の努力のm:要性を見失わせている
270
第二に、この記述では、ガ
リレオ以降の人々が実際にどんな天体を鍛iJl
Jし
l 、何を取り組むべき問題としてい
たのかが忘れられている。望遠鏡は、本来天体を観iJl
J
lす る た め の 手 段 に 過 ぎ な い
のであり、観測対象についての観点の欠涼した歴史記述は、きわめてー而的なも
のとならざるを得ない。
そこでここでは、ガリレオ以降の人々が現実に行なった望遠鏡の改良や天文観
測 の 取 り 組 み を 、 天 文 学 に お け る 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 と 命 名 し " 、 そ の 内
容 を 検 討 し て み た い 。 そ れ は 、 ガ リ レ オ の 皇 遠 鏡 が 惹 起 し た -:i.'Jlの研究を指すも
のであり、ガリレオ自身の研究に限られないものである。
以下の議論から明らかになるように、
「ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イ ム 」 は 、 長 大 化 に
よる翌週鏡の漸進的改良と、その望遠鏡を用いた太陽系天体の観測を主な内容と
す る も の で あ っ た 。 こ の パ ラ ダ イ ム を 摘 成 す る の は 、 必 ず し も 宇 宙 観 を 規 定 する
問題だけではなかった。月面の正確な地図、木星や土星の衛星の個数、惑星の正
確な自転周期、あるいは土星の正しい形状、惑星表面の状 1
ぶなどが観測の対象と
して取り上げられたが 、 こ の よ う な 課 題 は 、 コ ペ ル ニ ク ス 説 の 是 非 と は 相 対 的 に
独立の問題であった"。
ガリ
y
オの笠遠鏡発明から約半世紀後にロンドン王立協会の人々やホイへンス
をとらえていたものは、望遠鏡の光学的な改良への関心だけではなく、より広い
範囲を対象とする「ガリレオ・パラダイム」を展開することでもあった。
7
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;
Jelh(ma),p38
J
の用語は、ヶンフリツゾ大学の科学史博物館の
ツト氏の「ガリレオの伝統 (
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)J と い う 表 現 を ヒ ン ト に し た も の
である。ベ ネ ッ ト 氏 は 、 こ の 表 現 を 、 筆 者 と の ケ ン ブ リ ッ ジ で の 而 会 ( 1
9
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3年 2
日目)の際に使用された0
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望遺鏡の漸進的改良
ガリレオの望 i且鋭が登場してからしばらくの 11日望 ~i買に主に JVJ 待 さ れ た の は 、
地上での使用であった。望遠鏡は、航海でi
且方の船を伺定したり、戦場で偵察を
匂 け ら れ る 場 合 に は 、 ガ リ レ オ が 術l
測したことの確
するのに用いられた。天空に l
認が主であり、ÚI:.われる3'L~鋭もガリレオ式のものだった。地上 m と天文川の望
遠鏡の分化は、ょうやく 1
630年 代 の 終 わ り か ら 始 ま っ た
ケプラ
300
の妥遠鏡は 1
61
1年 に 考 案 さ れ た が 、 そ れ が 広 範 に 使 用 さ れ る よ う に
な っ た の は 、 ょ う や く 1640年 代 の こ と で あ る 。 こ れ は イ タ リ ア の フ ォ ン タ ナ
(
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)や ド イ ツ の カ プ チ ン 修 道 士 レ イ タ (Ant
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)ら の 寄 与 で あ る と い わ れ る 。 ケ プ ラ 一 式 は 、 同 一 倍 率 の ガ リ
レオ式に比べ て 鍛 i
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で き る 視 野 が 30-40倍 広 L、。 望 遠 鏡 は 倍 率 が 上 が る と 視 野 が
狭くなるので、ケプラ一式はその占有利である。また、この方式は対象の像が実
i
量であるために、胡1定 器 具 ( マ イ ク ロ メ ー タ ー な ど ) を 装 置 の 中 に 入 れ て 使 用 で
きるという長所を持つ。しかし、観測対象が倒立して見えることは、当時の人々
には大きな欠点と感じられたため、普及には時間がかかった
光学史が教えるところとは違って、ガリレオ式、ケプラ
310
式いずれの場合にも、
そ の 改 良 の 鍵 は 、 双 曲 線 や 初 円 状 の 非 球 面 レ ン ズ を 磨 く こ と で は な か っ た 《 ニ『
- ~ンが
1660 年代になお非球面レンズを磨こうと努力していたことからムか i
よ7 に 、 そ の 試 み は 続 け ら れ て は い た が 、 結 局 は 成 功 し な か っ た の で あ る n
仰の向上は当然の 前提としても、制鏡の実際の改良の一つの方法は:レン
ズを正しく 球 形 に 磨 き 、 分 解 能 を 向 上 さ せ る こ と だ っ た 。 現 存 す る レ ン ズ の 分 析
に よ れ ば 、 性 能 は 時 代 と 共 に 向 上 し た 。 伊lえば、
38 ミ リ 径 の ガ リ レ オ の 1
61
0年
の望遮授の分解能は 1
0秒だった。 (
;
I
(ま 同 じ 径 を 持 つ 1
6
6
0年 ご ろ の 優 秀 な 望 遠 鏡
では、分解能は 3
.7秒 と な っ た 。 ど ち ら も 品 質 に 大 差 の な い ベ ネ ツ ィ ア ガ ラ ス で
作られ て い る が 、 ガ リ レ オ か ら 50年 経 っ た レ ン ズ の 分 解 能 は 、 光 学 的 な 理 論 限
界 近 く に 達 し て い る と い う 320
.
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(
1
9
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),p
p
. 43-4
4 望遠鏡の改良については、
邦詩文献として、広瀬秀雄、
第 5章 も 参 考 と な る 。
K
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ng(
1
9
5
5
),Cha
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. 3も見よ 。
『天 文 学 史 の 試 み J (誠文堂新光社、
1
9
8
1年 ) の
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(
1
974
a
), p
p
. 40-42・ 当 時 望 遠 鏡 は 高 価 で あ り 、 天 文 観 測 を 行 な お う と す
る者は、闘なパトロンから相を借りることが多かった。そしてパトロンは、
望嘩鏡を地上の 制 終 で も 使 っ た の で 、 正 立 像 が 求 め ら れ た と い う 。
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1
976)
,
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0を 見 よ 。 ケ プ ラ 一 式 の 普 及 過 程 に つ い て は i
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.1
9丘 、特に pp
・27-28
7
参照。なお、測定相を制鋭内に入れることは、ケプラー自身の関心ではな
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った。 測 定 器 具 の 装 着 の 仰 に つ い て は 、 本 論 文 節 目前l
第四時見よ。
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1
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)即 日
のである。
この 優 れ た レ ン ズ は 、 後 出 の カ ン パ ー ニ 向
。
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天文学における h
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望i!:! i克の改良のもう一つの流れは、~(\点距離の長いレンズを使って盟 i且鋭を作
く 、
ることであった。長大型i!:!鋭が優れた t
l能を持つことは、l1l1~,命 的な探求ではな
経験によって学びとられたと考えられる。このような望遠鏡は、
ら試みられ始めた。 思抄~
6
6
0年 代 に 257ィトに、
が、 1
になった。世紀末には、
1
6
4
5年 ご ろ か
6-87ィト(約 2メート ル 、 倍 率 30俗 ) 程 度 だ っ た も の
1
6
7
0年 代 に は 40-507ィート(約 1
3メ ー ト ル ) の 長 さ
2007ィート(約 6
0メ ー ト ル ) と い う J
Jr外れに長いものま
で現れた 3 3 0 試 行 錯 誤 の 結 果 修 得 さ れ た 長 大 望 遠 鏡 の 伎 術 は 、 後 知 恵 で 考 え れ ば 、
色収差を回避して高仰を得ることを可能にするものだった。 それはまた、球而
収差の影響を免れる方怠でもあった,.。
こ の よ う な 望 逃 銭 は 、 主 に 専 門 の 職 人 の 手 で 作 られた。'1!.;
且 鋭 用 の レ ノズは、
眼鏡のレンズに比べて正磁な研磨が必要であり、しかも焦点距般の長い、
1
1
1
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芋の
小さいものだった。 そ の た め 、 普 通 の 眼 鏡 職 人 で は 、 良 好 な レ ンズ を 得 る の は 難
しかった 350
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印 空代にfJ
Jる ま で 、 制 の 望 遠 鏡 は ガ リ レ オ 自 身 の も の だ っ た 。 例 え ば ガ
ッサノアイ (
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i,1592-1655)は、
1
6
3
5年 に ガ リ レ オ の 望 遠 鏡 を 一 台 入 手
したが、これは宇がそれまで使用したうちで最善のものだった。ガリレオは、望
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叩 , 間 一1
6悶 を 庖 っ
退鏡の需要に応てるために、職人フランチーニ (
たほどであった 。
長い間ガ リ レ オ の 水 準 で 停 滞 し て い た 望 遠 鏡 の 技 術 は 、
1
6
4
0年 ご ろ か ら 徐 々
ザ展を始めた。ガリレオの望遠鏡を超えたのは、ナポリのフォンタナだった。
前ヘ ジ で 論 じ た よ う に 、 フ ォ ン タ ナ の 望 遠 鏡 は ケ プ ラ 一 式 で あ り 、 ガ リ レ オ の
も の よ り も 高 い 倍 率 と 、 広 い 視 野 を 持 っ た 3 1。
ガリレオを継いだトリチエツリ
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の 名 声 を 取 り 戻 す べ く 努 力 を 重 ね た o その結果、
1608-4η は 、 フ ィ レ ンツェ
1
6
4
6年 ご ろ までに、
トリチエ
ツリの望 遠 鏡 は イ タ リ ア で 最 も 有 名 な も の と な っ た 。 し か し 、 こ れ が 真 に フ ォ ン
タ?を凌ぐ性能を持つたのかどうかは知られていない0
4の 時 期 ト ア ル プ ス よ り 北 の 地 域 で 名 を 知 ら れ て い た 望 遠 鏡 職 人 は 、 ア ウ グ
ohannes W
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)で あ っ た " 。 望 遠 鏡 の 改 良 に 関 心 を 持 っ て
スフルクのワイーゼル (
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日
あり、天 文 削I
Jに は あ ま り 川 し な か っ た と い う 。
・球而収差の大きさは、レノズの焦点距艇の自乗「反比例する o なお 、望遠鏡 の
: ?は 、 対 物 レ ン ズ の 終 占 距 離 と 、 接 収 レ ン ズ の … 開 の 比 で あ る 。
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),
p26;Helden(1974a),
p49.
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1 天 文 学 におけるカ Vレ
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側 年に亡命先のハ/ブルクーイーゼルの望地鋭のことを知り、これを入手
しようとした。ま た ハ ー トリフ (
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)の グ ル ー プ の 一 人 は 、 実
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{レン
際 に ヴ イ ー ゼ ル か ら 望 遠 鋭 を 買 っ て い る 。 ヴ イ ー ゼ ル の ヨ2.i且鋭は、線合l1'iI
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)を 使 mしていたと 言 わ れ る J
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f:ごろにヨー
、で最刊の職人としての*.ff
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)である 。 時計
を勝ち取ったのは、ローマのデイヴィニ (
職人としてローマで仕事を始めた彼は、
jートル近い長さの
1
6
4
6年 に レ ン ズ 臓 人 に 転 じ た 。 彼 は 1
0
強力で高品位の望遠鏡を供給した。 フバンタナやデイヴィニ
は学識ある新しい J
3
fの 暇 人 で あ り 、 自 ら も 天 文 観 測 を 行 な っ て 著 作 を 出 版 し た 川
デイヴィニは、土星の形状をめぐってホイへンスと論争を展開したほどだった 4
10
ローマの若い職人カンパーニ (
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e Campani, 1
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71
5
)は 、 こ の デ ィ ヴ ィ ニ
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e)で 打 ち 破 っ た 4
20 カンパーニは、
の望遠鏡を 、 当 地 の 望 遠 鏡 の 腕 く ら べ (
時計 紙 人 と 科 学 に 関 心 を 持 つ 牧 師 を 兄 却 に 持 ち 、
1
6
6
0年 ご ろ か ら 望 泌 鋭 作 製 に
乗り出した 。 彼 の 望 遠 鏡 は 接 眼 レ ン ズ 系 に 工 夫 が あ り 、 そ れ ま で の も の よ り 短 く
ても高い性能を得ることができた。当時既に 1
5
0倍 も の 倍 率 を 持 つ に 到 っ た 望 遠
鏡にとって 、.広い倶 里
子 を 与 え る 接 眼 レ ン ズ 系 は 重 要 だ った 4 3 0 あ る い は ま た 、 彼
のレンズはカラスの質が良く 、 ガ ラ ス の 研 磨 に用 い た 旋 盤 や レ ン ズ の 検 査 法 に も
工 夫 が あ っ た と い わ れ る 44
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円 9
) 屈 折 式望遠 鏡 にさら に いくつかレ
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ズ を 加 え て 復 合 レ ン ズ 系 に す る と 、 像 を 正 立 さ せ た り 、 視 野 を 広 げ た りす る こ と
ができる。 そ の た め に 使 用 され る 複 合 引 艮 レン ズに は、 現 在 で は ホ イ へ ン ス ( ハ
イケン)型、ケルナー型、ラムスデン型などのいろいろのタイプがある。ホイへ
6
6
3年 に 現 れ た (H
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n(
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7) な お 、 多 レ ン ズ 系 に つ い て は 、
ノス型は 1
? にケプ 7 ー が 『 屈 折 光 学 』 で 言 及 し七 い た oo
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-:?の.望遠 鏡 の 性 能 自 体 に も 、 誤 っ て 疑 問 が 持 た れ たという。
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ノハ ー ニ に つ い て 、 ま た 彼 と デ ィ ヴ ィ ー の 望 退 鋭 の 腕 く ら べ に つ い て は 、
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f 詳しく吟 味す三と 、 ヵ,ハ
? な ど も 影 響 しており 、 決 定 的 な も の では な か っ た
の優位は、 演 出の
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r4月 の 腕 く ら べ で デ イ ヴ ィ ニ の 望 j畠鋭に)協和l
カンパーニの望遠鏡は、
を収めた。この怖は:すぐにヨーロッパ中に広まった。ポローニャ大学の天文学
の 教 授 で あ っ た カ ッ ν ーニ (
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且銭を I
日いて数々の発見を成
ーニの望i
し遂げた。ヵッシーニは、 1
6
6
9年 に フ ラ ン ス に 初 刊 さ れ 、 1
6
71年 に パ リ の 新 天
文台の台長となてた。ここでもカンパーニの望法制唱協し、カッシーニの名声
もあって、カンハ
~、評価を受けた・ 5 。
ニ の 盟 遠 鏡 は 高i
月と土星の 観 測l
このような望遠鏡を 通 して、当時の人々はいったい何を見ていたのだろうか一
川紀前半の人々にとっては、月や太陽、金星、木星、土星などの諸惑星、
J
してそれらの衛星といった、今日でいう太陽系の天体が主な観測の対象だったn
恒星は、惑星の位置を決めるよ性御座綴としての役割を持つに過ぎなかっ士"
。
I
剖
訓
H
目
1
太陽系の天体の観測は、ガリレオの飢測したものの確認から始まり、一引川
鍛化へと向かつた。そしてようやく 1
6
4
0年 代 中 ご ろ に な っ て 、 l
況知の事実の物
密化以外に、新しい発見が加えられるようになった。これが本格化するのは、
1
6
5
0年 以 降 の こ と で あ っ た ・
70
ここでは当時の観測の中から、月と土星をめぐ
る箆求を例として取り上げて論じよう。
天 体 の 観 測 の 中 で 、 月 の 表 面 の 叙 胡1は 多 く の 人 の 関 心 を 引 い た 問 題 で あ っ た . . 。
その目的の一つは、ガリレオの月世界と地上世界の類似性の主眼を磁かめること
であった。これから派生して、やがて月表面の紡 密な地図を作成する月面誌
(
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)と い う 新 し い 分 野 が 現 れ た 。 そ れ は 、 コ ペ ル ニ ク ス 体 系 の 真 偽 の 確
認のためとりよりは、むしろ純粋に天文学的な月の扱いを目的としたものだっ
た。それゆえに、その研究を行なったのは、コペルニクス説の支持者に限られな
かった 4九 月 面 地 図 は 、 恒 星 の 月 に よ る 俺 蔽 や 月 蝕 の 予 測 に 重 要 で あ り 、 そ の 正
確な知識は、経度決定問題の解決にも応用が可能だった。
月面誌は 、 ガ ツ サ ノ デ ィ 、 へ ヴ エ リウス Uo
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es He
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s, 1611-16
8η、 リッチ
弓平日五Iden(1981),p.39;
K
i
ng(
l9
日)
, p
p.58-5
9 彼の発見等については、本論
文第四章の冒顎を見よ。
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叫
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出
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研究に取り組んだ。
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ョーリらの関心の対象となった
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ガッサンディは、彩色した月の地図を作成す
る ア イ デ ィ ア を 持 っ て お り 、 友 人 ペ ル ス ク (N
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)という画家に、
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ごろに月而の図を怖かせた。スペインのフェリペ四 j
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た 。 後 は 、 月 而 の 地 形 に 325の 名 称 を 与 え た と い う
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。ケプラ一式の望遠鏡を普
52
及させたレイタとフォンタナも、月面の図を残した。
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附 年代になっても、なおガリレオ式の望遠鏡で月面を飢測していたのがへ
ヴエリウスである
530
彼は、ガッサノディらの研究に刺激を受けて研究を展開し
た 。 へ ヴ エ リ ウ ス の 『 月 面 誌 (SeJenographia)J (Gd叩 s
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6
47
)は 5
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0ペ ー ジ を 超 え ろ
大著であり、彼の 4年 間 の 観 測 を 集 成 し た も の で あ る 。 これにより彼は、
地形学の祖'の名を与えられた。この本では、
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月一
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4に も 及 ぶ 月 面 地 形 に 名 前 が つ
その名前のいくつかは現在でも使われているが、基本的には、イエズス会士リ
7
チ?ーリの
1
6
51年 の 浩 粉 な 著 作 、
『新アルマゲスト j の 名 祢 体 系 に よ っ て 岱
き換えられた"。 リ ッチョ ー リ の 本 の 第 4巻 第 7叢 に は 、 二 枚 の 月 面 図 が 収 め ら
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れ いる 。 こ れ は 、 彼 の イ エ ズ ス 会 の 友 人 で 、 回 折 現 象 の 発 見 者 で も あ る グ リ マ
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)が 月 面 の 地 図 作 成 を 行 な っ た こ と に 言 及 し て い る 。
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1を 見 よ 。 ハ リ オ ッ ト の 月 面 の 在日
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Iと太陽黒点の在QiJj
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lの 取 り 組 み は 、 ガ リ レ オ
に 先 行 す る も の だ が 、 彼 の 観 測 は、
18世 紀 末 に 至 る ま で 世 に 知 ら れ な か っ た 。
詳しくは、 1
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ので 、 よ り 鮮 明 な 民
自 を与える。なお、へヴエリウスについては、次々主主の「天文
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家へヴ ェリ ウ ス 」 の 節 を参照。
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ョーリ=グリマルディとへヴエリウスのものである。しかし、このような月而図
作成の努力は、その後も数々の人の手で 1
7世 紀 い っ ぱ い 続 け ら れ た "
制鋭で見える土星の奇妙な肌も、当時の天文研究者のl
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4っ た も の
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oに 、 土 星 が あ た か も
のーって'あった。先にも述べたように、ガリレオは 1
三つの星から瓜つごいるように見えることをさF き記した。 '~I~' 火に土星の本体があ
り、それに小さな
つ の 星 が 隣 接 し て い た " 。 低 倍 率 の 望 退 鋭 で は 、 こ の 三 つの
部分が一体となり、長円に見えた。ガリレオは土屋が三体からなると結論して観
測をしばらく行なわなかった。だが驚いたことに、
1
61
2年 秋 に 飢 測 す る と 、 陥
伴するこつの昼は消滅し、土星は木星のように丸く見えた。失われた二つの足は、
ガリレオの予測の辺り、翌年互に再び~を現した。 161 6 年 8 月には、今度は各
々の随伴星に三角形の影が現れ、土星はあたかも二本の半問状のハンドルを持つ
f;状の変化が、
ょっに見 え た 。 後 の 『 天 文 対 話 Jで ガ リ レ オ は 、 こ の よ う な 土 星 の J
本 体 の 回 転 の た め で あ る こ と を 示 唆 し た S90
現在の日からみれば、 このような現象は、土星の輸が様々な角度から観察され
る こ と に よ っ て 起 こ る 。 土 星 の 輪 には 数 百 メ ー ト ル し か 厚 さ が な く 、 地 球 か ら 見
て 垂 直 に な る と 、 現 在 の 望 遠 鏡 で も縦割)
1する こ と は で き な L、 。 輪 が 地 球 に 対 し て
傾く?、望遠鏡の性能によっては、その安は土星本体に二つの星が随伴するよう
に見える。
土 星 に つ い て の 自 然 学 者 達 の 議 論 は 、 ガ リレ オ の 発 表 の 直 後 に 始 ま っ た の で は
ない。 1
630年 代 中 ご ろ に な っ て 、 ょ う や く 土 星 の 「 腕 」 に つ い て の 観 測 や 仮 説
が提出されるようになった。
比較的早くから土星を 観 測していたのは 、 ガッサンディであった。彼 は 1
6
3
3
年 の 夏 か ら 土 星 に 取 り組 み 、 い く つ か の 図 を 記 し た " 。 ケ プ ラ 一 式 望 遠 鏡 を 流 布
させたフォンタナは、 1638 年に二本の半円状のハノドルが付いた土星の~を錨
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0 1642年 に 土 星 が 再 び 球 形 に な っ た こ と で 、 人
き
、 1
6
4
6年 に こ れ を 出 版 し た ,
々のこの星への 関 心 は よ う や く 加 速 し た 。 へ ヴ エ リ ウ ス は こ の 年 に 、 ま た リ ッ チ
ョーリとグ リ? ル デ ィ は 翌 年 に 削 同 開 始 し た。 ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 彼 の 観 測 図 を
1
6
4
7年 の 『 月 而 誌 』 に 収 め 、 リ ッ チ ョ ー リは 、 1
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1年 の 『 新 ア ル マ ゲ ス ト
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自 分 の 観 測 図 を 示 す と 同 時 に 、 そ れ 以 前 の 土 星 の 図 の 分 類 を 論 じ た "。 ヘ ヴ エ リ
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彼はまず、自作の望遠鏡で発見した土星の衛星を論じ、さらに同じ叫鋭て制。;
した機々の土星て帥士述べた。その後、ガリレオ、ゾヤイナ一、リッチョーリ、
へ ヴ エ リ ウ ス 、 ア イ ウ ィ ニ 、 フ ォ ン タ ナ 、 ガ ッ サ ン デ ィ な ど の 約 40年 に わ た る
土 星 の 餓 山 (第 2
6図 〉 を 回 し 、 こ れ ら の 図 に 対 し て 州 川 抑 制l
え、
そ の 上 で 自 り の モ デ ル の 優 位 性 を 示 し た 650
こ の よ う に 、 ガ リ レ オ の 望 遠 鏡 は 、 月 や 土 星 を め ぐ る 問 題 を 鎚 起 し た 。 これら
に加えて、木星の衛星の観測も、ガリレオによって提起された課題であった。 ガ
リレオ自身が提案したように、木星の衛星の i
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iにま日ることができれば、
その動きを時計のぞ代わりに使って、経度決定問題にある程度の解答を与えるこ
とも可能であった 。
こ の よ う な 太 陽 系 主 体 の 削)
1お よ び 望 遠 鏡 の 漸 進 的 改 良 は 、 ガ リ レ オ 以 降 の
「通常科学」ともいつ. べ き も の で あ り 、 こ れ を 含 む ガ リ レ オ 以 来 の 課 題 を 、 我 々
は 「ガ リ レ オ ・ パ ラ タ イ ム 」 と 命 名 し た の で あ っ た 。
王立協会と望 i
君主責の図像学的位置
と こ ろ で 、 こ の 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 は 、 我 々 の 関 心 の 中 心 で あ る べ き イ
ギリスにおいては、どのように扱われていたのだろうか。これを端的に現してい
8
0才 の 高 齢 を
るのが、手稿に遣されたウォリスの証言であるヘウォリスは、
迎えたとき、知人の求めに応じて、自伝を口述した o 彼は、自分が数学に関心を
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・ 『土星の体系』は、安藤正人氏によって前半約 2
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訳 出 さ れ て い る 。 こ れ は 、 科 学 の 名 著 、 第 2J
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i10巻、
つ い て の 論 考 他 J (朝日出版、
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9年)、
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ご以下のホイへンス自身の記述を見よ n
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つにも触れた。その中に、
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5.
(1'ごろのロンドンの自然学者 i
主の活動をli'I
;
o、た
並行に作って、彼らがオクスフォードとロ
却分がある 。 そ れ は 、 イ ギ リ ス 革 命 の i
ノドノの二つのグループに分刻される以前のことであった 。 当時グレシャム・カ
レッジなどに集っていた彼らにとって、
搾脅J
I学 、 幾 何 学 、 天 文
仕事の一つは(神学と国政の問題は排除して)、医学、 j
学、航海術、,)~力学、磁気学、化学、機微学、自然実験といった哲学的研究や
それに関係するものについて語り合い、考察することであり、また、国内外で
え
明らかにされたそれらの研究の現状について議論し、考えることであった。 J
々はその場で、血液の循環、静脈中の弁、コペルニクスの仮説、答星の本性、
新星、木星の衛星、土星の長い J
[
; (当時はそう見えた)、太陽の黒点、自身の
軸の回りの太陽の回転、月の凹凸と月面誌、金星と主主星の様々な相、
:
i
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且鋭の
改良、そのためのガラスの研磨、空気の重さ、真空の可能・不可能、自然の真
子嫌悪、
トリチェッリの水銀での実験、重い物休の蕗下とその時の加速度の度
甘い、その他これに類する様々の事柄を論じあったのである"。
r1645年 と い う 時
すでに吉本が指摘しているように、彼らの論じた話題は、
点 で の ヨ ー ロ ッ パ 科 学 の 最 前 線 の 研 究 事 項 を ほ 時 さ ず 含 ん で い る J 69
0 確かに
血液循環学説、コペルニクスの天文学、瓦空の存在の可否
{&,;は、ハーヴェーの I
といった当時の非常に重要課題を取り上げていた。
しかし、ここで注目すべきなのは、グレンャム・カレッジに
mっ た 科 学 者 逮 が
具体的にどのような天文学のテーマを論じたのかに触れた部分である。そこには、
l
i
i誌、金星の諸相、
木星の衛星、土星の形状、太陽の黒点と自転、月の凹凸、月 l
そして望遠干の改良という、まさに本章で論じてきた「ガリレオ
に該当するァーマが列挙されている。
パラタイム」
切の人々の関心が、単に光学的な望遠鏡の改良だ
このことから、王立協会君主明 j
けではなく、むしろもっと広い天空全般の観測にあったことは明白である。彼ら
にとって、望遠鏡のレノズの研磨という光学的改良は、多くのテーマの一つに過
伊なかった。
このよ?な「ガリレオ
引いは、約
パラタイム」への彼らの l
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後に彼らが
再ひロ?卜ンに集まって王立協会を組織したとき、すて'に失われてはいなかった
Iに 対 す る 彼 ら の 関 心 は 、 ウ ォ リ ス
で 引 っ か 。 結 論 か ら 先 に 言 え ば 、 望 遠 鏡 削J
64
5年 か ら 王 立 協 会 発 足 の 1
660年 ま で 、 絶 え る こ と な く 煤 求 さ れ 続 け
の証言の 1
たのである。その詳細l
は次読で論じることとして、ここでは彼らの関心を象徴す
戸 雨 むl
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吉本秀之、
「ホイ川、
「ロパート
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(朝日出版、
1
9
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9刷 、 pp C
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人と仕事」
科 学 の 名 著 、 第 2附
;
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8巻、
i)
一 126 日一1 天 文 学 に お け る f リレオ・・
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る図{怯とその解釈を示して、この 7
立を結ぶことにしたい
70
そ の 図 像 と は 、 ス プ ラ ッ ト の 『 王 立 協 会 史 Jの 扉 絵 て,
あ る(第 2
7図 a
)1 の書物は 、 王 立 協 会 を 社 会 的 批 判 か ら 守 る た め に 同 会 の 仰 の 下 て ' 執 筆 さ
L
た
も の で あ り 、 協 会 の 性 佑 ・ 組 織 ・ 活 動 を 記 し て い る 。 そのlJil絵は、ピープスに並
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1 火には王立協会のノパ{ Iロ ノ で あ る 図 ヱ チ ヤ 一 ル ズ 二 世の l
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右に I
協白宝雲主の思恕的ノ f ツクホポ,一ンとされるフラ/
‘ユノス ・ベ ー コ ン 、 左 に みj代 会 長 の
フランカーを配している。この人物配置自体象徴的なものであるが、シェイピノ
と ン ェ ー フ ァ ー は 、 彼 ら の 著 書 「リ ヴ ァ イ ア サ ン と 空 気 ポ ン プ 』 で 、 こ れ ら の よ
物の背後に拙かれた実験器具に注意を促している
特に彼らは、チャールズ二
720
世とフランカーの頭の 問 に 位 か れ た 、 丸 い 頭 部 を 持 つ 真 空 ポ ノ プ に 着 目 す る の シ
ェイピ/とシェーファ ー に よ れ ば 、 当 時 ボ イ ル の 日 ポ ン プ は 、 王 立 協 会 が } の
実験プログラムの象徴として誇ることのできる最高のものであり、それ故これが
スプラッ トの 『 王 立 協 会 史 』 に 収 め ら れ た の で あ る
。
73
もしこの解釈が妥当であるとするならば、この扉絵は、王立協会において、望
遼鏡が真空ポノプに匹 敵 す る 地 位 を 占 め て い た こ と も 同 時 に 立 証 し て い る 。 そ れ
は、シェイピンペシェーファーが彼らの本に 収めた先の図の部分拡大図(第 2
7
図b
)か ら 分 か る
7
。 これを良〈見ると、真空ポンプの背後に、高い培に据え付
け た 筒 を 一 人 の 人 物 が 覗 い て い る ス ケ ッ チ が あ る。 一 見 奇 妙 な こ の 筒 こ そ 、 当 時
天 文 学 に 関 心 を 持 つ 人 々 が 盛 ん に 改 良 に 取 り 組 ん だ 長 大 望遠 鏡 を示すものであり、
この図はそれを mい た 天 文 観 測 を 象 徴 し て い る の で ある。
初期王立協会におけるボイルの真空ポンプの 意 義 は、 科 学 史 家 に よ っ て 当 然 の
こととして認められてきた 。 し か し な が ら 、 王 立 協 会 に お け る 望 遠 鏡 鍛 測 の 重 要
性は、これまで十分に論 じられることがなかった。
シエイピンとンェーファーは 、真 空 ポ ン プ の 重 要 性 の 一 つ の 級 拠 と し て 、 それ
が非常に高価?あったことを挙げている。その価格は、控えめにみて 2
Sポ ン ド
で あ っ た と い っ 。 こ れ は 王 立 協 会 の フ ッ ク の 年 俸 に 匹 敵 す る も の で あり 、 「真空
7世 紀 の 『 ビ ッ グ サ イ エ
ポンプは 1
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しかし、良好な長大望遠鏡の価格は、これをはるか
とを指摘しておく必要がある。
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Jの 尺 度 と な り 得 る も の で あ り 、 国
威 の か か っ た 大 装 置 で も あ っ た 17。
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第二章
イギリスにおける望遠鏡
前ljLの 冒 頭 に 述 べ た よ う に 、 フ ッ ク は 、 宅 i
畠鏡 と それによる拒n
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iIJについての記
事を、
1
6
6
0年 代 を 中 心 に 『フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト ラ ン ザ ク ン ョ ン ズ 』 に 得 摘 し
た。 このことは、
「ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イ ム J が、 主 に 王 立 協 会 成 立 初 期 に 会 員 の
関心を 1い て い た 可 能 性 を 示 唆 す る 。 実 際 、 第
I部第 三 章の *4図で見たように、
「フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ トラ ン ザ ク ソ ョ ン ズ J の 1
6
6
5年 か ら 1
7
0
2年 ま で の 論 文 の
統計的?析によると、天文学関係のも の は
、 王立 協 会 成 立 初 期 に 多 い 。 つ まり、
自主主主主員となる人々の興味を 1
6
4
0年 代中葉に,]1,、た 「ガ リ レ オ ・ パラ ダイ
王立 1
ム」は 、 王 立 協 会 の 初 期 の 活 動 の 中 で 大 き な 位 置 を 占 め 、 そ の 興 味 は 、 や が て 弱
まっていったと想像される 。
従って、フックの望遠鏡への関心を理解するためには、王立 f
品会に先立つイギ
リス の 自 然 学 研 究 者 の 活 動 に 着 目 す る 必 要 が あ る 。 本章では、イギリスの自然生走
側 年代から昨代にかけて行なった望遠鏡に関係する取り組みを仰
者連が 1
し 、 そ の 中 で フ ッ ク の 天 文 観 測 の 位 置 を 考 察 し た L、
。
初期の望透鏡への取 り組み
1ω9年にi1!lることができる 。 ガ リ レ
イギリスにおける最初の望遠鏡観測は、
オが望遠鏡を作製したのと同じこの年に、
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)は 、 望 遠 鏡 で 月 の 観 測 を 行 な っ た 。 し か し 、 ケ プ ラ ー な ど と 文 通 し
ていたにも関わらず 、 彼 の 観 測 は 外 に 広 ま る こ と な く 歴 史 に 埋 も れ て し ま っ た
そ?後の発展につながる形で望遠鏡に取り組んだのは、知られる限りウィリ
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グループの 一 人 で あ っ た 20 ガ ス コ イ ン は 、
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いては、前章注 5
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諭文は、ハリオッ トと チ ャ ー ル ズ ・キヤヴエンデッ:ノュの数学での影 響関 係 を 示
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。タフブトゥリーは 、 グレ〉ノヤム ・カ レ ッ ジ の 天 文 学 教 浸 の サ ミ ュ エ ル ・フォ
λターとも文 通 していたという。
- 129 日-2 件 .~ Aに お け る 望 遠 鏡
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堅固な王党派だったガスコインは、イギリス革命で議会派が}~勢を逆転したマ
ーストン ・ム ー ア の 戦 い に 参 戦 し 、 不 帰 の 人 と な っ た 。 だ が 、 彼 の 発 '
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ることなく、知人達の手を経て後ill:に伝えられた 。 例 え ば 、 彼 の マ イ ク ロ メ ー タ
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トによれば、刀スコイ/の二つの発切は、オートリッドなどを経て、
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0年 代
までにレンらのオクスフォードの自然学者にもたらされたともいわれる九事尖、
ガスコインはオートリッドに宛てて、彼のマイクロメーターの術 i
在を図入りで台
き送った(第 2
8図) 。
マイクロメーターは、実像を結ぶ望遠鏡でしか使用できなし、。そのため、ガリ
レオ式望速鏡に装着することは不可能である。だから、ここに現れる笠遠鏡は当
且鋭
然のごとくケプラ一式であり、すでにこの時期にイギリスでケプラ一式の望i
が用いられていたことが分かる。
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)
Iー は 、 先 に も 論 じ た よ う に 、
「 ボ イ ル の 法 則 」 の 成 立 に 寄 与 し た ( 第 I部 第 四
IJの 節 を 参 照 ) 。
章 「フックとボイルの法JlJ
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っていた。また、ホイルの最初のポンプを組み立てた実験器俄製造業者のラルフ
こレートレックスは、オート 1
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」 こ に 収 め ら れ た 轡 簡 で、ケプラーとその著・作に言及している (
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)。 だ が 、 彼 が ケ プ ラ
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車 鋭 に 至 っ た 具 体 的 経線 は 知 ら れ て い な い。
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)も 、 キ ャ ヴ ェ ン デ イ シ ノ ユ 家 の 家 庭 教 師
としてこのグループに加わっていた。
革命を避けた彼らは、亡命イギリス人として次々と大陸に向かい、ハノブルク
や パ リ な ど の 各 地 で 生 活 を 送 っ た 。 だ が 、 チ ャ ー ル ズ ・キヤヴエノディ:ノュは、
脳 年 7月 に 大 陸 に 波 る 以 前 か ら 、 大 陸 ど
ムーアの戦いに破れて 1
マーストン
イギリスの梨け
mと な っ て い た 。 彼 は メ ル セ ン ヌ な ど と 文 通 を 行 な う と と も に 、
大 陸 の 手 稲 類 や 数 学 替 を 集 め て い た 。 彼 は オ ー トリ ッ ド や ウ ォ リ ス な ど の イ ギ リ
ス圏内の数学者とも交流し、 情 報 を 交 換 した
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大 陸 に お い て 、 ニ ュ ー カ ッ ス ル ・サ ー ク ル の 人 々 は 、 デ カ ル ト や ガ
と接触した
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。ホップズはメルセノヌを仲介としてデカルトと文通したが、そこ
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では 、物 質 の 情 造 と と も に 、 光 の 屈 折 も 話 題 と な っ た 。 ホ
γブズはその手紙のや
f屈 折 光 学 Jより 、 自 分 の 理 論 の 方 が 先 に 出 来 た と 主 援 し
た ロ と い つ の は 、 デ カ ル トの 『 屈 折 光 学 Jの 出 版 よ り 早 い 1
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0年 に 、 ホ ッ プ ズ
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ーゴンによる。なお 、 ウ ィ リ ア ム を チ ャ
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クル」の用語はカ
ルズの兄と す る誤った記述が多数見ら
?る。これは、キヤヴエンデイ九家に 類似の名前の人物が多いため 、あるいは
~-7 リ ー の nu 進 つ fこ記述が 繰 り返し 引用 さ れ たためで は ないかと位l 像 され る 。
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淡いに お け る 彼 の 役 割 は 、イ ギ リ ス 史 に お い て し
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1論じら れ る。
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:自 分 の 理 論 を キ ャ ヴ エ ン デ イ ソ ユ 兄 弟 に 知lら せ た か ら だ と い う
。しかし、ホ
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ップズの)1
;学 研 究 が 出 版 物 と な っ た の は 、 デ カ ル ト の 本 に 7年 後 れ る 1
644年 の
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こ と で あ っ た 。 そ れ は 、 『 光 学 論 号 (T
であった l20
このことからも容易に怨像されるように、チャールズ
キャヴエノデインユの
望i!l!鏡への興味は 、 亡命以前からのものであった。彼は、ヨ~.i!:l $
J
tの レ ン ズ や 恨 の
位 置 に つ い て 、 早 く も 1630年 代 に ウ ォ ー ナ
と文通した。その彼らには、パリ
の ホ ッ プ ズ か ら 、 ウ ル トや ミ ュ 一 ド ル ジ ュ ら の レ ン ズ へ の 取 り 組 み の 情 報 が も
たらされた。キャ ワエ ノ デ ィ シ ュ は 、 後 に デ カ ル ト と 光 学 に つ い て 旺 接 文 通 し た
そ の 中 で デ カ ル トは 、 球 而 レ ン ズ の 欠 陥 を 指 摘 し、双 I
1
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J級 レ ン ズ を J
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年から翌年にかけてのペル宛ての 酬
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で 、 キ ャ ゥ・ェ ノ デ ィ シ ュ は 、 一
遥のレンズへの取り 組 み に触 れ ている。ペルとキャヴェンデイ〉ノユは、デカルト
の勧めに従って双山レンズを使うことを考え、これをロ/ドンの光学問職人
?リチヤード ・ リ一 ワ(応恥c
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はまガスコインと知り合いてで,あり、ケプラ
式
王
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望遠銭のt
椛
舟 造を知つていた。
だ が 、 ガ リ レ オ 式 望 遠 鏡 の 方 が 優 れ て い る と 信 じ た 彼 は 、そ の 作 製 を 選 択 し 十 "
大陸に亡命すると、 キ ャ ヴ エ ンデ イ ゾ ユ は ハ ン ブ ルク て'ヴ イー ゼ ル の 望 遠 鏡ふ
を聞き、その入手を試みた o さらに、アントワ
j
プで望遠鏡作製者のレイタと直
車鋭への関心を持ち続けたのである
接面会するなど、望 i
15。
望遺 鏡職人 リ ー ヴ
前章で述べたように、望遠 鏡 は、発 明 されてからすぐに、専 門 の臓 人によって
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)を見よ。
な お 、 ホ ッ プ ズ と デ カ ル トは 直 接 面 会 を し た こ と が あ る 。
"ホップズの光学研究については、
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た レ イ 夕 と ヴ イ一 ゼ ル に つ い て は、 す で に 前 章 の 「 望 遠 鏡 の 漸 進 的
改良」の節で論 じた。 ヴ イー ゼ ル が キ ヤ ヴ エ ン デ イ シ ュ に 送 っ た 望 遠 鏡 の 値 段 表
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作 裂 さ れ る よ う に な っ た 。 そ し て こ の 分 野 で も 、 イ タ リ ア が 先 行 し て い た 。 その
理由の一つは、望遠鏡に使用される良質のガラスがベネツィアから供給された戸
らである。ローマで比ナィヴィニとカンパーニが、相次いで制銃製イ吋とし
ての名声を誇った。
イギリスでヴエネツィア産に匹敵するガラスができるようになったのは、よう
やく 1
6
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0年 代 の こ と で あ る
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これにやや先だって、ディヴィニとほぼ同じこ
ろ、望~綾などの光学総 機 を作製するW- I"I の職人 (opti回1
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)が イ ギ
リスでも現心。その初期の人物として知られているのが、前節で言及したリー
ヴであった
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)ー ヴ が 文 献 資 料 に 現 れ る の は 、
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1
641年 の キ ャ ヴ エ ノ デ ィ シ 吋
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) が最初である。
のジヨノ・ペル宛轡 簡 (前ページ参 J
ー
且鋭の発展は、キヤヴエンディシュらの術怨
しかし、イギリスにおいても、望i
した双曲線レ?ズを磨く方向には進まなかった。フックは、いみじくも彼の泣摘
の中で次のょっに述べた。大陸のデカルトやへヴェリウス、イギリスのポール ・
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.1613-1686
)等の人々の、
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対物ガラス[レンズ]と接眼ガラスを:1(
1円 形 に す る 試 み は 失 敗 に 終 わ る ば か り
であった。けれど も
、 球 形 [ の レ ン ズ ] で は 、 当 初 よ り [ 焦 点 距 離 の]長い、
より正しい形の対物ガラスを作ることで、 かなりの改善がみられた
。
18
'
別の 遺稿 で フ ッ ク は 、 次 の よ う に リー ヴ に 言 及 し た 。 イ ギ リ ス で 長 大 で 良 好 な
望述鏡は、
i:初にポール ・ニ ー ル 卿 、 ク リ ス ト フ ァ ー ・レ ン 卿 、 そ し て ゴ ダ ー ド 博 士 に よ
って成し遂げら れ た 。 彼 [ ら ] は 、 手 作 業 に リー ヴ を 指 導 し 、 庖 っ た 。 そ し て ー
6
07ィートと 7
07ィ ト の 長 さ の 良 い 対 物 ガ ラ ス が 、 そ う い っ 戸
その方法によって、
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も の が フ ラ ン ス で 作 ら れ た と い わ れ る 1甘 か ら 、 完 成 さ れ た の で あ る 2。
・
ニれに 関係 し て 、 前 章 で 触 れ た ウ ォ リ ス の 自 伝 の 中 に は 、 次 の よ う な 記 述 が 見
られる。
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、たちは時にはウッド
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4
5年 頃 の ] 会 合 を 、
こ れ ら の [1
・ス ト リ ー ト (Wood
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)の ゴ ダ ー ド 博 士 の 住 居 ( あ る い は ど こ か 近 く の 都 合 の 良 い と こ ろ ) で 聞
いた。この時、彼は、望遠鏡や顕微鏡のガラスを磨くのに、 2
まに職人を応って
いた"。
上 の 二 つ の 引 用 に ゴ ダ ー ドの 名 前 が 現 れ る こ と か ら 考 え る な ら ば 、 リ ー ヴ は ー
l
叫 ご ろ 、 ロ ン ド ン の ジ ョ ナ サ ン コ タ ー ド Qon
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67
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)の
で望遠鏡の改良に取り 組 ん で い た 可 能 性 が 高 い 。
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こ の 後 、 革 命 下 の 人 事 で ロ ン ドン の 自 然 学 者 の 一 部 が オ ク ス フ ォ ー ド に 拶 る と 、
リーヴは彼らに望 遠 鏡 を 供 給 す る こ と に な る 。
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6
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9年 、 セ ス ・ウ ォ ー ド と ジ ョ
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ン ウォリスは、オクスフオート‘のサウ・ィル教授出v
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)に 任 命 さ れ ;
(それ ぞ れ 天 文 学 と 役 何 学)。 同 じ年に、ク リス トファ ー・ レ ン は 、 ウ ォ ッ ダ ム
ーカ レ ッ ジ に 学 生 と し て 入 学 し た 。
1
6
5
1年 に は 、 議 会 軍 の 医 師 で ク ロ ム ウ ェ ル
の信任の厚かてたゴダードもマ一トン
ドに赴任した
2
カレッジの学寮長となり、オクスフォー
。 サ ヴ ィ ル 天 文 教 袋 と な っ たセ ス ・ウ ォー ドは、 1
6
5
1年ごろに、 彼
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ommone
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)とし て 所 属 する ウ オツダム ・カ レ ッ ジ の 塔 に 、 「 ほ ん
がフエロー (
の小さな天文台」を作った。レンは、後に述べる土星の 観測を、この天文台など
丁なったと推定される
でf
220
そ こに は 、 長 さ 67ィートから 3
57ィート(約 2j-~ ーから
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) ま で の 望 遠 鏡 が し つ ら え ら れ て い たo これら は ポ ー ル
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一
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ニールの指図
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0 関係 代 名 詞 の 先 行 詞 が 唆昧 な た め 、 リーヴを 雇
;たのがゴタード一人か 、 三 人 全 て か は 確 定 て'きない。
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p ぬ) 一 方 、 セ ス ・ウォ ード は、コ タ ー ド は イ ギ リ ス
で段初に自りの手で望 遠 鏡 を 組 み 立 て た 人 で あ る と 記 し た 。 J
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lの 中 に は 、 リ ー ヴ が 作 製 し た も の が あ っ た
だが、その望 .
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白2年 に は 股 立 し て お り 、 イ ヴ リ ン も こ の 年 、
人物として リー ヴ の こ と を 日 記 に 記 し た 250
リ ー ブ の 名 声 は 、 王政復古の後も{果たれた。
へンスは、ト - 7ス
(旧暦) , ロ ン
240
リーヴの名川は
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且眼鏡 (
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)で有名 」 な
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61年 に ロ ノ ド ン を 訪 れ た ホ イ
ストリート(Tho
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印 ー1
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問 と - U lI
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:、 4月 2
3日
Pン の リ ー ヴ の l
苫で水星の太陽面通過の観測を行なった。この口
ウエストミンスター寺院で国王チャールズ二世の戴冠式があったが、この観測の
ために、ホイへンス は そ れを 見 逃 す こ と も 服 わ な か っ た
280
リー ヴは 、 1
6
6
2年 か ら 6
5年 に か け て 、 フ ッ ク や 王 立 協 会 の 初Jめで、
607{
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約 1
8j-9-) と い ? 長 大 望 遠 鏡 に 取 り 組 ん だ 。 最 初 の レ ン ズ が で き た の は 1
6
6
2
年だが、実用に耐えるものが完成したのは 1
6
6
4年 前 後 の こ と と 思 わ れ る "
この望遠鏡は、リ ー ヴ の 手 元 に あ る 頃 か ら フ ッ ク な ど に よ っ て 使 用 さ れ よ 。 例
えばフックは、
1
6
6
5年 の 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』 で 、 こ れ を m い た 実 験 的 制 第 に
"He
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. ニ ー ル は 枢 密 院 の 式 部 官 で あ り、ロ パ ー ト
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"これは、スコッ トラン ド国 立 博物 館 の シ ン プ ソ ン に よ って 、 シ ェ フィ ー ル ド
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)から 明 らかにさ れ た。 そ こに
は、リ ーヴ 作 の オ ク スフ ォー ドの 2
47ィー
ト 望 遠 鏡 の 記 述 が あ る。 なお、 同 じ 手 稿
::は、リーゥ・
の 顕 微 鏡 への言及もあるという。 S
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3 を見よ。
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)P 37 E 5 山 叩 ) , T
川
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ヴyo
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;これは
ホ イ ヘ バ の イ ギ リ ス 旅 行 記 の 5月 3 日 ( 同 ) の 記 述 に よ る 。
間
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2,p
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6-5
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p
.5
7
5)
・ ス トリ ー トが同 席 し た と い う 記 述 は 、 T
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まだ作 製者 の 手 元 に あ る 」 。 な お 、 リーヴが 綬 初 の 6
07ィートのレンズ に 1
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2年に
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ν出 :hr;ごnZ万九
- 135 I
I-2 イ十
")7.にお け る望 遠 鏡
ついて触れた
。また、同じ年にフックは、リーヴは「あの長さであれほど良いも
2.
のを作った 綬 初 の 人 物 と 与 え た い 」 と
、 607,→の望ii:!鋭を 『フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・
ト ラ ン ザ ク ン ヨ ン ズ J で 賃 貸 し た 2・。 1666年、ボイルはこの望ii:!鋭を腕人し " 、
フ ック は こ れ を { 止 っ て 木 星 や 上 星 の 観 測 を 行 な っ た 。 その内科は、
『フ ィ ロ ソ フ
イカル 田 ト ラ ン ザ ク ン ヨ ノ ズ J に 収 録 さ れ た " 。
このように、
607ィートのヨ i
且i
J
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で
、
リーヴの名 J
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fは 頂 点 に i
主したといえよう
320
だ が 、 リ ー ヴ が 当 時 供 給 し た のは、ヨ1
i!:l鋭だけではない 。 彼は、 D
J
i微 鏡 製 作 者 と
しても匁lら れ て い た 。 例 え ば ビ ー プ ス は 、 彼 の 日 記 に 、 リ ー ヴ か ら 顕 微 鏡 を 腕 入
したことを記録した3J。またリーヴは、へンリー
パワーに宛てて 1
6
6
0年 に 送
った光学器機の価 格 表に、 顕 微 鏡 の 値 段 を 記 し た 3九 ン ン プ ソ ン に よ れ ば 、 フ り
クが 『ミ ク ロ ク ラ フ イ ア j 附 の た め に 馴 し た 顕 微 鏡 は 商 業 的 に 作 ら れ た も ら
であった 。 フ ッ ク 自 身 は 作 製 者 の 名 前 を 挙 げ て い な い も の の 、 こ れ は リ ー ヴ 作 と
考えられるという。また、パワー、ボイル、レンらが使った顕微鏡もリーヴが供
給したと見られる aso
リ ヴ は パ ワ ー に 送 っ た 上 述 の 価格 表 に 、 比 較的 短 い 望遠 鏡 の 値 段 を い く つ か
書いている 。 こ の よ う な 「 普 通 」 の 望 遠 鏡 は 、
「アマチュア」向けのもので、 長
大 望 遠 鏡 に 比 べ る と 大 き な 購 買 腐 を 持 って い た と 考 え ら れ る 。
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品 s
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れている 。
607,ート望遠鏡のレンズの口径は 3イ"
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以上とさ
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目n
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、 1(
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),No.4,p
. 66 を 見 ょ 。 フ ッ ク は ボ イ ル 宛 の 1664年の替簡でー
日
1した こ と に 言 及 し て い る 。 Ho
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この望遠鏡で木星を 削 )
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. 490-491ω
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) 同じ告簡は、
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97-200に も 収 録 さ れ て い る ( 以 下 の 酬 も 同 様 ) n
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ホ イ ル に よ れ ば 、 こ れ は こ の 時 ま で に リ ー ヴ の 作 っ た 唯 一 の 60
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ト望 遠 鏡 だ っ た という o l
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l 3,p
. 399・ こ の こ と か ら 、 ボ イ ル の 脈 入 し た
7
?川望遠鏡が、上述の 1
脳 年ごろのものであると推定した
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ーこれについては 、 次 章 の 「 フ ッ ク の 初 期 の 天 文 観 測 」 の 仇 参 I
J
(Iのこと 。 ポイ
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.98
,!,の望連続が使用されたことは、 B
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y 10vols.(Carnbridge,1899-1920),vo
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4
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.2
1
5,1
2 August 1664 (臼井昭訳、
文社、
l
蜘 年、 m ペ ー ジ ]
『サミュ エ ル ・ビ ー プ ス の 日 記 』 、 第 5巻、国
ピープスの日記には、リーヴと彼の也子が混在して
子 、 必 ず し も 両 者 は 区 別 で き な い 。 来 聞 の 索 引 で は 、 二 人 が 混 同 さ れ て いる。
Coun& Rohr(!930-1),p
.1
21
. こ の 価 絡 表 γ よ れ ば 、 リ ー ヴ は 3-6.
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'程 度 の 凱
向を販売していた。~
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),p
.4
1
;Simpson(1985),p
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5
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リ λに お け る 望 速 鏡
匂
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しかし、このようなリーヴの名声は、突然終わりを迎えた 。 1
6
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11
0刀 、 彼
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政 情 し て 誤 っ て 妥 を ナ イ フ で 殺 3 した 。 リーヴは s殺しのかどで捕らえられ、
彼の持ち物は没収された。 釈 れ れ た も の の 、 リ
行のペストのために役した
360
ヴ は 、 附 fr:に恐らくは流
,
Q,子のリチヤード (同名 ) が彼 の 跡を継いだが、
iを 保 つ こ と な く 、 そ の 名 戸 を も う 一 人 の 職 人 ク リ ス ト フ ァ ー
結局彼は父の名,f
l
lる こ と に な っ た 3 70
コックに j
7リストファー ・レ ン と 望 遠 鏡
クリストアァー ・レノは、 一 般 に は 、 処 築 家 と し て 有 名 で あ る "。 例えばー
ロ
ン ド ノ の セ ン ト ポ ー ル 大 寺 院 や 、 オ ク ス フ オ 一 ド の シ ヱ ル ド ン 劇 場 伽d
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羽 見存)は、彼の代表作であろう
390
法
1
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築
3
E以 外 に 、 レ ン が 数 学 や 物 体 の 運
動といった科学研究の分野で優れた貢献をしたことは、科学史家には比較的艮く
知られている 。 彼はサイクロイドの求長に成功し、ホイへンスと独立に、完全 ~ì!
性衝突の法則を発見した。
だが、望遠鏡による天体制iJl
J
lや 顕 微 鏡 観 察 な ど 、 光 学 器 級 を 駆 使 し た 研 究 を レ
ンが行なったことは余り知られていない"。しかしスプラットは、
『王立協会史』
の中でこれに言及し、レノの天体鍛測、望遠鏡の改良、光の屈折の理論への取り
Iと 理 論 、 月 前 誌 と 月 の 秤 動 の J
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及いに触れている.,
組み、土星の微調J
レンの自然学への関心は、彼の父であるクリストファ
レン(問主)や、義
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)の彫 響 を 受 け
理の兄弟で音楽論で知られるウィリアム・ホルター (
て始まったと思われる.,。
革命下の内乱を避けるためにウエストミンスター
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6年 に 離 れ
スクールを 1
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1,pp.995-mO9(p.999)
!レンの科学研究を総合的に切らかにしたのは、ベネットの大きな貢献である。
どツトの諸研究を総指した霊安な著作として、
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レ J 自制身の型替
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簡からも分かる。
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.し 、 レ ン の 光 学 の 詳 細 は 、 こ れ ま で の
!?で切られていない。,"
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」の段務の記述は、
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),p
p
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7 による。なお、ホルダーがレンに
の段初の手ほどきをした 」 こ と 比
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h, 1616-1694)
のらとに滞在した。スカーハフはオートリツドの友人であり、数学、航海術、天
文学に通じていた。彼は、ゥォ
J
スの述べる 1
6
4
5!
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cご ろ の ロ ン ド ノ の 閥 均
の集まりのメンノ fー で も あ っ た 4 。 レ ン の 息 子 が 伐 し た 記 録 に よ る と 、 レ ン の 天
文学への興味は早〈?らのもので、
を加えていたという 4 。
1
配ドごろには、テイコの月の型論に改訂
レンがオクスフォードのウオツダム・カレツンに入学したのは、 1
6
4
9年
(1
6
5
0年 と い う 説 も あ る ) の こ と で あ っ た 。 司
6
4
8年 か
・・ウィルキンズは 1
らこのカレッジの学手長を勤めていたが、彼とレンの父は知り合いて'あり、その
f
t,定される。
関係でレムノはウォッタム・カレッジの学生となったと j
1
帥年、ジョン
ウォリスがエクセター
カレ
サウ,イル天文教授にこの年任命されたセス
γ
戸 伽
ウォードは、レンと同じカレ
J
γジ
属 と な っ た 。 さ ら に 数 年 後 に は 、 ゴ ダ ー ド が マ 一 ト ン ・カ レ ッ ジ (Menon C
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g
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)
1
650年 か ら 5
2年 ま で 、 ウ6-L
の学寮長となった。また、ローレンス・ルックは、
ツタム
カレッジのフエローであつむ彼らは、レンも含めて、自然哲学のー
ドは 1
6
4
5年 ご ろ か ら 望 j
阜
りを持つようになった o 前 節 で 述 べ た よ う に 、 ゴ ダ
鏡 の 改 良 に 取 り 組 ん で お り 、 セ ス ・ウォ
ドは、
1
6
5
1年 ご ろ に ウ ォ ッ タ ム ・カ
レッジに小天文台を作った。このような環境の中で、ウィルキンズのお気に入り
のレンが天文観測に 関 心 を 持 っ た の は 、 当 然 と も い え る
。
45
レ ノ が い つ か ら 天 体 観 測 を 始 め た の か は 、 正 確 に は 分 か ら な L、。だが、彼がウ
ォードの小天文台で比較的早くから観測を行なったと考えるのは自然であろう。
レ ン の 観 測 が 本 格 化 す る の は 、 オ ク ス フ ォ ー ド 大 学 の オ ー ル ・ソ ウ ル ズ ・カレ
γ
ジ刷SouJs C何 ) の フ エ ロ ー を 勤 め て い 山 叫 ご ろ の こ と で あ っ た 。 彼 は :
1
6
5
4年にウ;;-リスの日蝕の観測を手伝い、翌年 9月 に は 、 へ ヴ エ リ ウ ス の レ ベ ル
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. [況に.i!eべたように、
レ ノ は オ ー ト リ ッ ド の 箸 替 『 数 学 の 鍵 Jの 1
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5
2年 版 の 付 録 の ラ テ ン 詰 訳 を こ の
ころ手がけた。
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を~ぐ刀而誌と月のf'H山の扱いを n J:1した。同じ 9 月に彼は、ゥィルキンズとと
もに、月を飢主主するための 807ィ
ー
ト (28)-1-) 1
'
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'大 望 退 鋭 を 試 み た と い う "
レンの月面 i
;l;.への取り組みは、王政復占後も続いた。彼は 1
6
6
1j匹、国王。チャ
ールズ 二 世 の 求 め に 応 じ て 月 の 悦 型 を 作 り 、
8月 に こ れ を 国 王 に 献 上 し た 。 こ の
!~型は、Jl].紙で作製した直径 10 インチほどのものであった 。国王はこの 模型に
喜び、これをE:
Iら の 収 蔵 席 に 収 め た
4 70
オ ク ス フ ォ ー ド時 代 に レ ン が 制 J
i
J
I
iを 行 な っ た の は 、 ウ ; t ー ド の 小 天 文 台 だ け で
はなかった 。 彼 は 恐 ら く は 既 に こ の 時 期 に 、 ポ ー ル ・ ニ ー ル の 家 の 望 i
畠鋭でも観
測を行なったと思われる
4
・当 時 、 ニ
0
ルの屋敷は、ロンドンとオクスフォード
の中程、パークシャー C
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)の ホ ワ イ ト ・ウォルサム(WhiteW
,帥町)にあった 。
レノによれば、ニールは、
2, 2
27ィートから 357{トの]
援 高 の 職 人 [リ ー ヴ ワ ] を 庖 い 、 上 に 述 べ た [6, 1
天 体 観 測 装 位 、 あ る い は そ れ よ り 大 き い 507ィートのものを自宅で作らせようと
し
、
( 彼 の 数 学 に お け る 素 晴 ら し い 判 断 力 に よ っ て ) 自 分 で 作 業 を 監 督 し た 4九
ニールは、プランカーやポール (
W出 回 s
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)
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. 1627-1690
)らととも に、 ロン
,
ト /1})科学者グループに革命 J
切に現れた新人であり、セス
ウォードとも級しか
った"。彼の望遠鏡への取り組みは良〈知られており 、 イヴリンは 1
65
6年 5月 8
日の日記に、
「ホ ワ イ ト ホ ー ル [ 当 時 の 宮 殿 ] に ウ ィ ル キ ン ズ ! 専 士 を 訪 ね た 。 そ
こで:光学ガラス[制鏡]で有名な P
いる
310
ニ ー ル 卿 に 初 め て 会った」 、 と 記 し て
先 の フ ッ ク の 遺 稿 の 引 用 (1
3
3~ • -γ) か ら も 明 ら か な よ う に 、 彼 は ゴ
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(
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8
レンの月の観測への取り組み、またレンとウィル
干ノズの長大望遠鏡への取り組みについては、サミュエル・ハートリブの手稿に
言及がある
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1
9
5
2-3
),p
p
.1
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),p
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1
2・この後、
より大きな月の模型をという
かは不明であるという。
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l待 が レ ン に か け ら れ た が 、 こ れ が 完 成 し た か ど う
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19
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,p.4
7
・ このことは 、 レンとニールが 1
6
56年 以 前 に 土
星の模型の 問 題 で 協 力 して い た こ と か ら 推 定 さ れ る 。 レ ン は し ば し ば オ ク ス フ ォ
7ドとロンドンを 往 復 し て お り 、 そ の 途 中 て ' ニ ー ル の 家 に 寄 っ た 可 能 性 も あ る :
後述のように、
f
1
6
5
7年 8月 に グ レ シ ャ ム に 移 っ た レ ン が 、 こ の 年 の 1
2月 に ニ -
の家で土星の 酬
を行なったことは確実である。
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,p.4
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)p れている。 T
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'リスにおける望 遠 鏡
司
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タード同僚に双 1
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1級 レ ン ズ を 1
sく こ と を 試 み た 。 だ が 現 実 の 改 良 は 、 彼 の 場 合 に
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Jlを長大にする方向に進展した 。 実際フックは、
ら
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「ポー ル
ニール卿は、
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. 367ィートをいくつか作り、 さ ら に 5
07
1斗 の 制 鋭 を 一 つ 作 っ た 」 と
かな り良好 t
jl}き記したーー。
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r定 さ れ る 1
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ドごろの世間で、この 3
67
1
レ ン は 、 ウ ィ リ ア ム ・ぺ テ ィ 宛 と J
-卜
制 鏡 の 一 つ で 行 な っ た と 見 ら れ る 上 星 の 削/
1
)に つ い て 触 れ た ヘ ニ ー ル は ;
1
6
5
8年 に グ レ ン ャ ム ・ カ レ ツ ゾ に 357ィ ー ト の 望 遠 鏡 を 寄 贈 し 、 こ れ は 後 に 、 フ ッ
クによっ て 使 用 さ れ る こ と に な る 判 。
レンの土星の理論
以 上 の 議 論 か ら 切 ら か な よ う に 、 レ ン は 、 セ ス ・ウ ォ ー ド や ポ ー ル ・ ニ ー ル の
叡測の影響の下で、オクスフォード時代に天文観測を始めた。レンは、
1
6
5
7年 8
J
l
)
lは
、
月に、グレンヤム ・カレッ ジ の 天 文 学 教 授 と し て ロ ン ド / に 砂 っ た 。 彼 の 程Qi
そこでも数年以上続いたと考えられる。
当時のグレシャム ・ カ レ ッ ジ の 環 境 は 、 レ ン の 研 究 の 展 開 に と っ て 、 好 部 合な
ものだった。例えばそこには、レンに先だって、ゴダ
スフォ
ドが医学教授としてオク
ド か ら 戻 っ て き て い た (1
6
5
5年 ) 。 加 え て 、 オ ク ス フ ォ ー ド の 自 然 学
l
四 年 に グ レ シ ャ ム ・カレ ッ ジ の 天 文 教 授 に な っ た 己
者のグループの一人で、
ーレノス ・ル ッ ク は 、 レ ン が 着 任 す る と と も に そ の 幾 何 学 教 疫 に 転 じ た 。 こ う し
て 、 ゴ タ ー ド 、 レ ノ 、 ル ッ ク の 存 在 に よ っ て 、 グ レ シャム ・カ レ ッ ジ は 、 自 然 学
の研究 センタ ーと し て の 役 制 を 果 た し た
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. 260. 507ィ → の 望 遠 鏡 は 、 さ し て 性 能 の 良 い も の で は
なかったという 。
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8. Simpson(
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.37-38は 、 ニ
ル の ー 述 の 3671-ト望 遠 鏡 を リ ー
ヴの作としている 。 そ の 可 能 性 は 高 い が 、 確 定 的 な 問 は な い 。 1660i
f
.10Flに
グレン ヤ ム ・ カ レ ッ ジ に 据 え ら れ た お れ 斗 望 遠 鏡 を 見 た 国 王 チ ャ ー ル ズ 二 世 は 、
ホワイトホール宮殿に望遠鏡を据え付けるようにニールに求めた。
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6
1年 5月 3 日の日記には、 玉 の 3
57
1→ の 望 遠 鏡 の 記 述
がある
』の口には 、ブ ラノカ一、マレー、ニール、ホイへンス、ポ
ルらが国
?に会い 、 土 星 の 腕 に つ い て 論 じ 、 王 の 望 遠 鏡 で 木 星 と そ の 仰 の 観 測 を 行 な っ
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ホイへンスは、旅行記のこの日
(
新暦 5月 1
3日 〕 の 部 分 に 、 ホ ワ イ ト ホ ー ル 宮 の 庭 で ニ ー ル の 望 遠 鏡 に よ っ て
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耳 2
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6
. 4月 6日のホワ
土星と月の 制
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)
lが 行 な わ れ た こ と を 記 し た 。 O
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J
イトホ ール宮での徽iJl
)
lの 記 述 で は 、 ホ イ ヘ ン ス 自 ら が 357{ → の 望 遠 鏡 を 使 用 し
し彼は
そ れ が 自 分 の 227け の 望 糊 よ り 劣 る と 見 な
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レンは、ォクスフォード時代の 1
6
5
4年 か ら グ レ ゾ ヤ ム 時 代 の 1
6
5
9iJ'.ごろにム
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J
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:埋 論 的 考 察 に 匝り組んだ 1 10
け て 、 土 星 一 山I
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I
Iの 研 究 は 、 レ ン に と っ て
きな部分を口めるァーマだった。伎のこの研究を段く伝える史料は二つある。そ
の7 71 7 Jンが 1
6
5
8年 に 啓 い た 『上 l
i
lの 本 体 に つ い て (De 印
刷 日 tumi)J と
いっ 77 ノ耐の 小"日子であり、彼が グレソャム ・カレ ツシノで行なった土長の)~状
に関する以をまとめたものであるヘこれは川されることなく、私的に回覧
1
6
6
1年 1
0月 l口の レ ン の ニ ー ル 宛 舎 簡 で 、 こ れ は
された。もつ一つの史料は、
1週間ほど後の 1
0月 1
0口 に 、 王 立 協 会 で ブ ラ ノ カ ー に よ っ て 読 み 上 げ ら れ た ー
問
目
町l
その中でレノは、ホイへンスの土星の理論が発表される前に、自分が同悌の I
に取り斜組l
A
ん
νてで,いたことを 切
l別ら均か、にしている"。
r出をまと
『土星の本 体 に つ い て 』の冒 頭 で レ ン は 、 彼 が 土星研究に取り組む互r
めている。最初に彼は、ガリレオが天空に初めて望遠鏡を向け、新たな発見をし
似す
た こ と を 讃 え た 。 ガ リ レ オ は 、 銀 河 が 多 く の 星 か ら 成 る こ と 、 月 が 地 球 に 芳1
る存在であること、金星が満ち欠けすること、太陽に黒点が存在すること、土屋
が三つの 部 分 か ら 成 る こ と な ど を 明 ら か に し た 。 だ が 、 ガ リ レ オ は 余 り に 多 く の
ことを一時に明らかにしたので、
彼の後に続?者逮は、誇ることのできるそれ以上の新世界はほとんど残されて
いないと考えてうらやみ、リンチュイの後継者逮は、ガリレオの発見から出発
するためにだけ生まれたのであると思った。実際、数学者が屈折光学の理論を
改善し、職人が日々大きな レ ン ズ を 作 る 術 を 進 歩 さ せ る の に 従 って、月の外観
をより正磁に記述し、あるいは土星が月以上に様相を変えることを様々の形状
を用いて説明することは、
(そ れ は な さ れ て い な い の だ か ら ) 、 無 用 で も 不 名
士
一
ー
一
一
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一
一
一
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21.ベネ ッ ト は 、 知 ら れ て い る 限 り 辰
後のレンの観測として、
1
6
5
9年 2月 2
8日 ( 新 暦 ) の ウ ォ リ ス の ホ イ へ ン ス 宛 替
やらわれるもの(0…山 3
5
8
)を 挙 げ て い る 。 川 町 川 町 240
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eu町 時
3
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p
. 419-424seq この冊子の英訳が、 H
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(
1
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6
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),p
p
. 219-226に収め
bれている 。 以 下 で は 、 こ れ も 適 宜 参 照 し た 。 な お 、
『土屋の本体について』の
一年が 1
65
85
"で あ る こ と は 、 そ の 中 で レ ン が 、 , 1
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rに 、 か の ポ ー ル 氏
人(!) [土星の 14
1
?を 初 め て 見 つ け た J (
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?一一ルが l町 年に土星の ~iiï
叫 )と 述 べ て い る こ と か ら 磁 実 で あ
(輸 の 彬 ) を発見したことは、
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が知 られている o 前者は、
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p
.1
9
9ー206に 収 録 さ れ て い る 。 そ の 中
でレノは、土星本休の正 確 な 記 述 だ け で も 天文学者の一生を裂すると述べ、また、
p
.205)。
:
;ず れ 土 星 に つ い て の 講 義 を 行 な う こ と を 予 告 し て い る (
B町川, p
p
.47-49
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キ "17.における望 j
且鋭
可
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者;でもないのである。そのために、いずこにおいても、 l
司氏のうちの優れた人
は、より長い盟遠鏡を作製することに現.([でさえ熱中している包旬 。
こ こ に は 、 我 々 が 本 論 文 で 「 ガ リ レ オ ・ バ ラ タ イ ム 」と名 付 け た 内 容 が 典 型 的
な形で表現されている
o
当時重要であったのは、太陽系の天体(惑星・月
太陽)
に関するガリレオ中発見を、制鋭の改良によって 一 層~!"i微なものにすることで
あった 。 こ れ は イ ギ リ ス に お い て も 同 僚 で あ り 、 先 土s
のようにレンは月而誌に取
り 組 ん で 月 の モ デ ル を 作 っ た 。 ま た レ ノ は 、 火 星 の 旦i
の研究に取り組んだことも
あった"。彼の土星の研究は、このような太陽系天体の研究の一環だった内レ V
は、これらの天側測を可能にした望遠鏡の進歩の背景として、数学者の町光
学 の 探 求 を 挙 げ た 。 し か し 、 彼 自 身 が 直 後 に 述 べ て い る よ う に 、 実 際 の 徽 首J
l
jの進
精進的改良によ
歩は、 「よ り 長 い 望 遠 鏡 を 作 製 す る こ と 」 、 す な わ ち 、 望 遠 鏡 の j
って達成されたのである。
レンは上の引用に続けて、天体の中でただ土星だけが i~ を変えていくこと、そ
の外観の変化の理由としては、土星が三部分から作られていること、あるいは長
円形であることなどが考えられるが、いずれにせよそれは土星の回転に関係して
いると叫べている。ガリレオ、フォンタナ、ガッサンディ、リッチョ
リ、へヴ
j
l者 が 良 い 望 i
畠鋭を使用しな
エリウスらは土星のスケッチを出版しているが、制iJ1
い限り、それらを吟味することは時間の無駄だという。
だ か ら 、 イ ギ リ ス 製 の 各 極 接 眼 レ ン ズ の つ い た 6, 12, 22そ し て お れ ト も の 長
さの非常に良好な望遠鏡が私たちに与えられ、しかもまた、
1
6
4
9年 以 来 の 一
連 の 土 星 の 外 似 の お び た だ し い 観 測 ( そ の う ち の い く つ か は 、 過 去 4年 間 に 我
々が最大の注意を払って描いたものだ)が手に入ったので、すでに長い間学識
ある人々から隠しておいた土星についての仮説をついに公表することを私たち
はためらわなかった 6 1 0
こ れ ら の 望 遠 鏡 は ニ ー ル の 与 え た も の で 、 ニ ー ル は 自 分 の 家 に も 望 退 鏡 を 持 って
おり、より抜きの友達とそこでも飢測を行なった。
9図)。
レンはこれらの観測を基礎にして、自らの土星のモデルを提示した(第 2
それは、本体とそれを因む輪から作られたモデルである。輪はtr1円状で、短軸の
疋可F
戸 …
附
4
… 仇伽州叩叩…
叫
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叩
6
叩
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E原 文 に よ り 改 め で あ る 。
二のことは、
1
65
6年 ご ろ の レ ン の 曾 簡 に
、
7 スには f
l
jiJ!していないが、
…
「弘たちは、まだ良好な 5
07iートの
1
27i トから 367fートまでの非常に長いものは手に
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・Mに お け る 望 遠 鏡
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第 29図
ク リ ス ト フ ァ ー ・ レ ン の 土 星 の モ デ ル (1
6
5
8J
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( Oeuvre
,s 3 よ り )
守- -
部分で土Iil本体と接している 。 レ / は 、 こ の よ う な 怖 を 持 つ t氾がI!!
J転 す る こ と
に よ っ て 、 坊 の 観 測 で 見 ら れ る よ う な 土 足 の 抑 得 ら れ る と し た 。 レノはまた、
)
i
lに 土 星 の 輪 の 影 を 見 つ け た こ と を 指 摘 し て い る n レ
ウ ィ リ ア ム ・ ホ ー ル が 3年 ]
/(;(、総は州に早大であり、それが間体で作られているのだとしたら支え
L
こ
Iiの蒸気からできていると考えた 内
と が で き な い と い っ 。 そ こ で 彼 は 、 こ れ が -F
最後にレンは、銅製の土星のモデルに言及し、
ご
『 土 星 の 本 体 に つ い て Jを 結 ん f
この刷モデルについては、もう 一つの史料であるレノのニール制簡がム
になる 。 そ れ に よ る と 、 1
師 年 1月 ご ろ 、 レ ン は 鋭 で 土 屋 の モ デ ル を 作 製 し た 日 ;
その後、
1
6
5
7年 間 に ホ ワ イ ト ・ ウ ォ ル サ ム の ニ ー ル の 下 で 制l
同している R
!
j
に 、 レ ン は 叩 状 の 輸 の ア イ デ ィ ア に 至 っ た 。 そ こ で 、 こ れ を ま ず二枚 の 厚 紙 で
作製したといっ 。 レ ノ は ニ ー ル に 、 次 の よ う に 往 き 送 っ た 。
金 属 製 の も っ と 頑 丈 な そ の 仮 説 [モ デ ル ] は 、 あ な た の 寄 附 さ れ た 3
57ィートの
望遠鏡を設紅するためにグレシャム・カレッジに 1
6
5
8年 5月 に 起 て ら れ た オ
ベ リ ス ク の 頂 に 掲 げ ら れ た 830
だが、ォベリスクに模型を掲げ時、すでにホイへンスが土星の輪の「正しい」
理論に至っていたことをレンは知らなかった。
ホイへンスの土星の理論
レンが土星の理論を展開しているちょうどその頃、ホイへンスはこれとは独立
に土星の研究を展開していた。彼もまた望遠鏡で観測を行ない、現在のものにほ
ぼ近い土星のモデルを考案した。ホイへンスの土星研究は、振子時計の発明と並
んで、彼の初JtlJの自然学関係の仕事の一つである。後の議論のために、ここでそ
の内容をごく簡単に般観しよう 。
ホイヘノスの望遠鏡への取り組みは、レンの天文観測とほぼ同じ頃に始まったー
ホイへンスが幾何光学の附に若手し、望遠鏡に関心を向けたのは 1
6
5
2年 の ;
とだったと思われるヘ彼はヴイーゼルの望遠鏡に興味を持ち、実物を入手して
検討を加えた。ホイへノスは近在の職人にレンズを作製させようと考えたが、適
?な人物がいなかった。そこで、兄のコンスタンティン(父と同名、
附,
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ωns凶 凶n
1
628-1
6
9
9
)と と も に 、 自 ら レ ン ズ を 防 い て 望 遠 鏡 を 作 製 し た 。 最 初 の 主
fBECAl,p47 原文には、
I
町 年 1月 と あ る が 、 ユ リ ウ ス 府 に よ る も の と 解 釈
V (、 暦 年 を 改 め た o
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8
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陀,
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6
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:2月 に 完 成 し た 。
阜 鋭 を 使 っ て 、 ホ イ へ ン ス は 翌 月 の 3刀 2
5 日 に 、 土 症 の 衛 星 (後 に ハ
この望 i
ー シ ェ ル が タ イ タ / と 命 名 ) を 発 見 し た 。 これは、望jl:!鋭によるガリレオ以米初
めての新天体の発見であった。
6
5
6i
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oの 3 nに 、 土 星 の 衛 星 の 発 見 を 、
ホイへンスは、笠 1
『上 庄 の 月 に つ い
て の 州 側 (D
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田 万 川 町 判 明 J と姐肘する川"附│附仕円子(以肝下川似船削削川
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山
訓
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I
川
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1
1
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で公にした 〉。 そ の 記 述 に よ れ ば 、 彼 が 使 用 し た ヨ2
i
畠鋭は長さが 1
27{
ー
ト (約 3
.
6
@d
H -)、 倍 率 約 50倍 で 、 視 野 は 3
0分 程 度 の も の だ っ た 。 ホ イ へ ン ス は 、 以 i
j
i
Jに
レ イ タ が 上 手 の 衛 星 の 発 見 を 発 表 し た 時 、 へ ゥ・ェ リ ウ ス に 批 判 を 受 け た こ と に 言
及している。 因。 そ し て 、 自 分 の 観 察 は I年 に も 及 ぶ こ と を 強 調 し 、 土 星 の 衛 星 の
公転周期がほぼ 1
6日 で あ る こ と も 指 摘 し た 。 ホ イ へ ン ス は 、
「土 庄 の 体 系 」 に
関するアナグラムを扱後に啓いてこの冊子を給んだ。
ホイへンスが記したこのアナクラムは、土星の輸の形状を記述したものだった
1
6
5
9年 7月 の 『 土 屋 の 体 系
このアナグラムに隠された土星の輪のモデルは、
で公表された
n
J
6 70
その中でホイへンスは、彼の用いた望遠鏡について説明してい
る。彼は、当初、
日
1
1J で 使 用 し た 1
27ィートの望述鏡を用いていた 。 こ の 望
『新鋭 1
遠鏡は、 二枚 の レ ン ズ で 作 ら れ た 装 置 で あ っ た
88 0
彼の観測記録は、この望i.!:li
克
から始まっている。彼にとって、土星の衛星は、
を 使 っ た 土 星 と そ の 衛 星 の 側 担l
コ ペ ル ニ ク ス 説 の 「 極 め て 重 大 な 証 惚 」 で あ っ た 8・。ホイへンスは、
1
6
5
6年 の 2
月に、ほ(;;倍の 237{ートの長さで約 1
0
0倍 の 倍 率 の 望 遠 鏡 を { 吏 い 始 め た " そ の
除、輸は附しており、やがて再び現れた。彼が輪の理論に至ったのは、一ょう
どこの前後と倣定される。
その後、彼が理論を公刊するまでには、
3年 半 近 い 綾 月 が 経 過 し て い る 。 こ の
ように長い時間がかかったのは、彼が先人達の土星の観測を入手するのに手こず
15
O
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u
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r
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,s 1
5,p
p
. 172-177
・ 『土星の月についての新観測』には、安藤正人氏によ
る邦訳がある。 科 学 の 名 著 、 第 2期 第 1
0巻、
考他 J (朝日出版社、
1
9
8
9年)、
『ホイへンスーー光についての論
5
2-5
5ペ ー ジ 。 ま た 、 訳 者 の 解 説 ( 岡 部 P
E泊 以 下 ) も 参 照 。 こ れ に よ る と 、 ホ イ ' へ ン ス は こ の 冊 子 を へ ヴ エ リ ウ ス 、 ゥ
アス、スホーテン (
F.van Sch
∞t
e爪
一O町 問
ロベルヴァルらの友人に附ったという 。
1
5,p
p
.1
74-1
7
5[邦訳、 5
2ペ ー ジ ]
s
a
Sβt
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m
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臼
ωml町 田 O
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,
s1
5,p
p.
209-353[邦訳、科学の名者、
1
1
7
1
7
6ぺージ).
『ホイへンス 』 、
.
.O
e
Ul'Te
,s 15,p
p
.2
2
8-2
2
9 [邦訳、 凶 ペ ー ジ ]
;
;? u m l h p M - 2町
」の 2
37{ト望 遠 鏡 は、
邦訳、
山 ページ ]
1
27ィ ー ト の も の と 並 ん で 、 ホ イ ヘ ン ス 兄 弟 の 代 表 的 な 望
-ト望述鋭とこれがしばしば if~
遠鏡の一つである。なお、彼らが後に作った 1
2
37{
?されていることに注意 o A
lb
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19
7
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p
.38-58(
p.4
6,n
.4
4
)を参I¥q。
し
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ロ-2
イ
ヰ ")
17,における望 i
車鋭
.
.
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.
.
.
.
.
.
-
ったためとも、似した土屋の輸の剛現の f
i
J
I
川失敗したためとも言われる"
;
J
前に論じたょっに 、 ホ イ へ ン ス は 係 々 な 人 の 過 去 叫 聞 の 州 ( 第 2
6肉
検討し、 1
:
1分の縦割 1
)と 比 較 し て 臼 己 の モ デ ル の 正 当 性 を 主 張 し た 。 ホ イ へ ン ス に
l
二尽の輸は 貰 .
i
t
!f
l
iに 対 し て 約 20I
互 傾いて上皇を;IL<I
J
Iむもので、本体と
よると、
oJいものでできているとされた日。
は銭触していない。これは平仮であり、非常に l
レンとホイヘンス
レンがホイへン ス の土星の輸の理論を知ったのは、
1
6
5
9年 始 め ご ろ の こ と で
あった。その 情 報 は 、 ホ イ へ ン ス か ら ウ ォ リ ス に 宛 て た 告 簡 を 介 し て レ ン に 伝 わ
ったと思われる
730
土星に l
却する情報は、それ以前からウォリスとホイへンスの
間 で や り と り さ れ て い た 。 例 え ば 、 土 星 の 衛 星 の 発 見 は 、 発 見 の 約 3カ 丹 後 の
1
6
5
5年 6月 に 、 ア ナ ク ラ ム と し て ホ イ ヘ ン ス か ら ウ ォ リ ス に 伝 え ら れ た " 。 一 万
ウォ リ ス は 、 イ ギ リ ス で も ニ ー ル と レ ン が 土 星 の 衛 昼 に 当 た る も の を 見 て い た こ
とを
γ
へノスに 替 き送った。ニールとレンは、それを恒星と錯誤していたのて'
あった"。レンは 1
657年 の グ レ シ ャ ム 着 任 論 泊' で ホ イ ヘ ノ ス が 衛 星 を 発 見 し た
こ?こ言及しておりぺさらに翌年の『土星の本休について』の中でこれを讃え
『 土 屋 の 本 体 に つ い て Jを レ ン が 執 筆 し た 1
65
8年 の 段 階 で は 、 ホ
た"。だが、
イ へ ン ス の 土 星 の 輸 の モ デ ル の 情 報 は 、 イ ギ リス に 届 い て い な か っ た 。
レンがホイへンスのモデルを知ったのは、
『土星の体系』が公刊される半年ほ
ど 前 で あ る 。 レ ン は 、 そ の モ デ ル の 簡 潔さ、 単 純 さ に 打 た れ 、 自 ら の 楕 円 状 の 輸
のモデルを政棄した。ホイへンスに先行するレンの『土星の本体について』が公
O
)
{
, の に な っ た の は 、 ホ イ へ ノ ス の 土 星 の 輸 の 迎 論 が 発 表 さ れ た後の こ と で あ ;
た!・。ロンドン王立 協 会 発 足 か ら 約 l年 経 っ た 1
6
6
1年 の 9月 4日 の 会 合 で 、 ケ
?ルム
ディグビーは 、 フランスから送ら れてきた土星の運動についての仮説を
読み上げた。その会合には、レンとニールが出席しており 、ニ ー ル は レ ン の 土 星
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9[邦 訳 、 1
6
0ペ ー ジ ] こ の 輸 は 比 較 的 肌 、 も の で 、 問
?り それ が 見 え な い の は 、 リ ン グ の 縁 が 光 を 吸 収 す る た め で あ る と さ れ た o ホイ
〉ノスのこの考えは不評で 、 輪はi1~ く 、 流体などでできているという説が有力と
?った。 He
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6 こ の こ と は 、 『土星の体系 J でも
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、と たった。
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l-2 件'リスにお け る 望 i
畠鋭
の仮説が(f:{
Eす る こ と を 指 摘 し た 。 レ ノ は 、 過 去 に 政 棄 し た 説 を 公 に す る こ と を
6
日 i
l
ミ川 1
ためらった。だが、彼の『上星の本体について』は、先に触れた 1
日のニール宛の手紙とともに、結局は王立協会に総出された。それは無断で何通
も復製され、ホイヘノスにまで開いた
"0 1
6
6
2年初')lIJ)にレンの迎!論を知ったホ
イへンスは、 l
l
r
t年 に 会 っ た と き 、 な ぜ レ ン が こ の モ デ ル を 話 題 に し な か っ た の か
驚いたという一。
6
6
1年 2月 、 ク リ ス ト フ ァ ー ・レ ン は 、 オ ク ス フ ォ ー ド の サ ヴ
これより先の 1
ィル天文学教 i
受 と な っ た 。 レ ン は グ レ シ ャ ム ・カ レ ッ ジ の 職 を 詳 し 、
で サ ヴ ィ ル 教 佼 を 勤 め た o 彼の関心は、
1
6
7
3年ま
1
6
6
6年 の ロ ン ド ン 大 火 を ほ ぼ 境 に 、 彼
を肢も有名にした i
l
l築 に 捗 っ て い っ た 。 光 学 装 置 へ の レ ン の 興 味 は 、 王 立 協 会 発
足後にも失われたわけではない。例えば、
を磨く装泣を発表した
S lo
1
6
6
9年 6月 に 、 レ ン は 双 I
I
l
l
線レンズ
だが、それはもはや彼の中 '
L
、的関心ではなかった《
そのレンと入れ替わるように、受遠鏡等で中心I
叫 役 割l
を果たすようにな;た
人物。それが、本論文の中心テーマであるロパート・フックであった。
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レ ン の 非 球 而 レ ン ズ の 取 り 組 み が こ れ よ り 遡 る こ と は 、 5附 (
附)
,p
3
14の記述から分かる。
- 146 日-2 イド リ1に お け る望 遠 鏡
、
-
第三章
フックの天文研究
ガリレオ・パラダイムの変化
ファクがオクスフォードの自然哲学者の集まりに加わった 1655 年ごろ、ヨ~.ì卓
授とこれを用いた置n
J
i
l
)の 内 容 に 、 変 化 が 生 じ 始 め て い た 。 我 々 が 「 ガ リ レ オ
パ
ラダイム J と 名 付 け た 研 究 伝 統 は 、 こ こ で そ の 第 一 J
切から第二期に修行したと考
えられる¥その転換の内容は、以下のようである。
ガ リ レ オ か ら 1650年代半ばにかけての「ガリレオ・パラダイム」の第-)(1)に
は、月や土星の観測を中心に、ガリレオの発見の一層の精級化が進められた。第
E部第 一 意 で 述 べ た よ う に 、
1640年 ご ろ か ら の 漸 進 的 改 良 に よ っ て 、 望 i
皐鏡の
性能はようやくガリレオの水準を越えた。その結果として、
1
6
4
0年 代 末 か ら
1
6
5
0年 代 初 頭 に 、 へ ヴ ェ リ ウ ス や リ ッ チ ョ ー リ が 月 面 誌 の 研 究 を 発 表 し た 。 手
イヘノスやレンが土星の輸の理論を発展させたのは、
った。
Jに、
1
6
5
5年ごろ始まる第二Jtl
1650年 代 半 ば の こ と で あ
「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 は 、 内 容 の 洗 練 か ら
拡張へと向かった。この時期には、ガリレオに知られていなかった天体が発見ミ
れたり、惑星の自転や表面の偵様など、それまで観測の視野の外にあったものが
仮 わ れ 始 め た 。 第 二 期 初 頭 の 1655年 に は 、 ホ イ へ ン ス が 土 星 の 衛 星 を 発 見 し た n
これは、ガリレオ以降、初めての天体の発見だった。木星表面の併の中に斑が見
い ー さ れ 、 木 星 や 火 星 の 自 転 が 論 じ ら れたのは、
1
6
6
0年 代 の こ と で あ っ た 。 ジ
ヨワァンニ・ドメニコ ・カ ッ シ ー ニ は 、 第 二 期 の 代 表 的 な 人 物 で あ っ た 九 彼 は 、
1
6
7
0年 代 初 頭 か ら 1680年 代 半 ば ま で に 、 土 屋 に 4つ の 新 し い 衛 星 を 見 い だ し た 内
1
6
7
5年 に は 、 土 星 の 輪 に 、 今 日 「 カ ッ シ ー ニ の 附 」 と 祢 さ れ る 隙 き 聞 を 発 え
した。
l
から第二期への変化は徐々に起こったものであり、
一当然のことながら、第一Jtl
一つの時期を被然と区分することはできない。だが、
1650年 代 の 中 葉 に 、 望 i
畠
鏡に関係する研究の対象や方法に変化が生じたのである。
こうして、天文範Ui
l
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)
Iの 対 象 は 、 本 格 的 な 望 遠 鏡 が な け れ ば 原 型 的 に 見 る こ と の
7
て一ーー一一一一一一
」の時JtI)に望 i
且鏡による在J!出)
1の あ り 方 に 変 化 が あ っ た こ と に つ い て は 、 A 1
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)を審問。
四代続けてパリ天文台長を勤めたカツゾーニ初子のうちの初代。
2
- 147 -
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3 7 7の 天 文 研 究
司
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出 来 な い 領 域 に 広 が っ て 行 っ た 30 第 二 J
U
)は 、 長 大 望 遠 鏡 の 能 )Jが f
lL'い尽くされ
Joごろまで継続したと考えられる 4。
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6
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lには、
この第二 J
「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 の 枠 組 み を 突 き 破 る よ う な 、 天 文
学の新しい発展の事j芽 も 見 ら れ た 。 それは、守2
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且鋭の周辺に、'Ir1il':1fJliJiIJのための
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nE!マイクロメーターや望 i
且)1((地の利
器機が受Jt}し始めた こ と で あ る 。 例 え 1
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)の 前 提 と し て 不 可 欠 な 、 正 V
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iな 仮 子 1手i
lが 使 わ れ
用が試みられ た。 精密天文報u
始めたことも見落とせなし、。位置天文学はー
アイコ ・フフーエの肉眼制iJ
l
)の レ ベ ル
で停滞していたが、こ れ ら の 掠 具 は 、 そ の 水 準 か ら の 飛 践 の 基 礎 を 準 備 す る も の
であった s。
こ れ に 加 え て 、 パ リ の 天 文 台 (1
6
6
7年 ) や グ リ ニ ッ ジ 天 文 台 (1
6
7
5年 ) の よ
うに 、位 位 天 文 学 を 担 う 国 立 の 天 文 台 の 制 度 が 登 場 し て き た の も 、 こ の 時 期 の E
要な特徴である。
これらの天文台の観測成巣が笑際に現れたのは、この時期以降のことである 《
例えばカッシーニは 、 1
6
9
3年 に 、 木 星 の 衛 星 の 位 置 表 を 出 版 し ん こ れ は 、 与
度決定や光速の測定に使用できるほど正院なものだった。また、フラムスチード
lamsteed, 1646-1719)の 恒 星 の 観 測 (1676-1689年 ) は 、 テ イ コ の 1
0倍 以 上
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の精度を誇った。それが整理されて出版されたのは、
7γ ク の 天 文 研 究 は 、 イ ギ リ ス に お け る 「 ガ リ レ オ
1
8世 紀 初 頭 の こ と だ っ た
6内
パ ラ タ イ ム Jの 展 開 の 中
で犯握されると同時に 、 こ の よ う な 「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム Jの 性 格 の 変 化 も 念
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)・ メ デ ィ チ 星 ( 木 星 の 衛 星 の う ち
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の四つ!は 、 肉 附 胡)
1の 限 界 で あ る 日 等 星 の 明 る さ を 持 つ 。 木 星 の 衛 星 が 肉
眼で見えないのは、木星本体の鯛[きが邪魔をするためである。これらに対して、
土 星 の 衛 星 タ イ タ ン は B等 昼 で あ り 、 肉 眼 で 見 る こ と は 不 可 能 で あ る 。 こ の 時 J
切
に 望 遠 鏡 の 能 力 が 暗 い 天 体 や 惑 星 の 細 部 の 御 前)
1に 及 ぶ よ う に な っ た こ と に つ い て
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)を見よ 。
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)の 天 王 星 の 発
見 目 、新 天 体 は 見 い だ さ れ な か っ た 。
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甘の有カな天文表は、
孟
ト (1
1世紀 ) 、 ア ル フ ォ ノ ソ 表 ( 1272年 ご ろ
Y ヤ 表 (1
5
5
1I
f
ミ・コ
卜レ
プトレマイオス体系)、プロ
ペ ル ニ ク ス 体 系 ) 、 ル ド ル フ 表 ( 1624年 ・テ イ コ の デ ー タ
によりケ プ ラ ー が 作 成 ) と 変 還 し た 。
- 148 ー
U-3 7,
~の天文研究
、
司
.
.
.
-
頒において理解されなければならない。
フッ ク の 初 期 の 天 文 観 測
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Jへ 修 行 を 始 め て し ば ら く 経 っ た 1
6
6
2年 1
1
「ガ リレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 が 第 二 J
月1
2口
、 7
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r々 j;Lの冒頭でも述べた
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Yク は 王 立 協 会 の 実 験 主 任 に 任 命 さ れ た 。
とおり、この時期、フックは王立協会の「フィロソフイカル・トラノザクシヨ/
スJに 、 天 文 凶 係 の 寄 与 を 多 数 し て い る 。
良〈知られているように、
『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ j は、
師 年 3月 6日 、 王 立 協 会 の 初 代 的 己 の オ ル デ ン バ ー ク 個 人 に よ っ て 創 刊 さ れ た :
I
その創刊号は、同協会への献辞に始まり、本文の冒切には、自然哲学的知識を
f
H
版することの重要性を指摘した序文が置かれている。
それに絞〈実質上最初の記事は、ロ ーマの望遠鏡職人カンパーニを倣ったもの
であり、
「光学 ガ ラ ス [望 遠 鏡 ] の 改 良 に つ い て の 説 明 J 1 と 題 さ れ て い る o ~
脳
千 7月 に ロ ー マ で 出 版 さ れ た カ ン パ ー ニ の 問 、
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)
『二つの新制…報
Jの 要 約 で 、 鋳 型 を 使 わ ず に 旋 盤 に よ っ て
レノズを作製すること、あるいは像に限取りの出ない複合接眼レンズ、土星の輪
の観測、木星に見られる凹凸、木星の自転の可能性、木星の 術星が木星表面に作
る影等に言及していた。
「二つの 新 観 測 の 報 告 』 に お い て カ ン パ ー ニ は 、 彼 に 先 行 す る 望 遠 鏡 職 人 デ イ
ヴィニのものより、自分の望遠鏡の方が優れていると暗に主張していた。実際カ
ノバ
ニは、 1
6
6
4年 4月 、 ロ ー マ で の 「 腕 く ら べ 」 で デ ィ ヴ ィ ニ を 破 っ た ば か
りであった・。
「フィロソフイカル ・ ト ラ ノ ザ ク シ ョ ン ズ 』 の 創 刊 号 の 冒 頭 に 、 望 遠 鏡 技 術 の
最先端を級ったこのような記事が置かれていることは、
「ガリレオ ・ノfラダイム」
が王立協会で大きな関心を引いていたことを示している。
カンパーニの著省紹介に続くのは、
「木星の帯の一つにある斑」、
「先の藍星
?速動の予言」というこつの記事で、 これ ら も ま た 、 天 文 現 象 へ の 王 立 協 会 の 関
66
4年 5月 9日にフ
心の証となる九このうち「木星の祢の一つにある斑」は、 1
; ク が 実 範 し た 観 測 を レ ポ ー 卜 し た も の で あ り 、 彼 が 翌 年 の 1月 に 王 立 協 会 で 報
告した内容であった"
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27ィ ー ト の 望 遠 鏡 を 用 い た こ の 観 測 で フ ッ ク は 、 木 星 表
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、ついて言及がある 。
- 149 -
,
日-3 7 7の 天 文 研究
可
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l点を発見した。このJ:l
l占は、時IlUと と も に t
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rっ た と ! : ぅ 。 こ れ は 、 木 星 の 自 転 も し く は そ の 衛 星 の 影 の 存 在 を 示 唆 す る も の
であったー一。
フックは、この後の 1
66
6年、
『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ト ラ ン ザ ク y ョ ン ズ J に
「木 星 の 永 久 且 [ に つ い て 」 と 題 し た 記 事 を 寄 稿 し た
120
これは、カツレノーニが木
孟の彫とは民なる J
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主を飢 i
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Iし た こ と に つ い て の 報 告 で あ る ー ?
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の斑を観測することによって、木星が自転していることのみならず、その周却
9時間 5
6分 (I
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;f現在の値に等しし、)であることをカツ二ノーニは '
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lら か に し た
のだった 。 木 星 の 自 転 は 予 測 さ れ て い た が 、 そ れ ま で 立 証 さ れ て は い な か っ た
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7'
y クは、火星 、 金 星 、 水 星 な ど も 自 転 し て い る こ と が 予 怨 さ れ る こ と、衛星』;
はこの濁の臼転は考えられないことをここで指摘した。フックのこの記事は、へ
ヴェリウスの月の秤動観ilI"への 言 及 で 結 ば れ て い る 。
の発見の栄誉は、今日ではカッ
へ ル デ ン ら に よ れ ば 、 木 星 の 自 転 と そ の 且i
ニに婦されるものである
130
y
ー
しかし、フックの上記のような論考は、彼が当時の
天文観測の辰先端近くを走っていたことを示している。
7γ ク が こ の 時 期 に 縦 訓lし た の は 、 木 星 だ け で は な い 。
1
66
6年 2月 か ら 3月
に か け て 、 フ ッ ク は 火 星 の 観 測 を 行 な っ た 。 こ れ は 3月 2
8日 に 王 立 協 会 で 発 表
されたが、その短い報告が、
「火 星 に つ い て の い く つ か の 新 観 測 」と して『フィ
ロソフイカル ・ ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ 』 に 収 め ら れ た 。 そ こ で は 、 表 面 の 斑 が 運 動
することを彼犯に、火星が自転していると見られることが指摘された。その細か
い 内 容 は 、 間 も な く 同 誌 に、
「火 星 の 酬 の 詳 細 」 と し て 収 録 さ れ た
述によると、フックはこれ以前から、
1 40
この記
1
27ィートの望遠 鏡 に よ る 飢 測 を i
i
l
lじ て 、 あ
並行の時期を狙って、今度は
る種の斑が火星の表面にあるのを知っていた 。 彼は i
3
6
7
4十 の 長 さ の 望 遠 鏡 を 火 星 に 向 け た 。 火 星 は 肉 眼 で 月 を 見 た 時 の よ う に 大 き
"ピ ュグリーズは、この且I.è:が木星の衛星の~と解釈さ れ た可能性を排除し、フ
ックがここで木星の自転の ~iE~ を示したと 断 定している。 PugIiese, p
. 58
9.こ の 主
張は、当時の天文学の文脈を考えるなら、受け入れられない。実際オルデンバー
グ は 、 フ ッ ク は こ の 斑 を ・ de
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ct. し た 綬 初 の 人 物 で あ る と い う 微 妙 な 言 い 回 し
をしてとるし、オズーは、フックの見つけたものが衛星の影ではないかという疑
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表面に何らかのs!織が存在することは、フック以前にも気づかれていた。
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〈 見 え た が 、 大 気 が 安 定 せ ず 、 制 側 は 不 満 足 な も の だ っ た 。 彼 が 詳細!なデータを
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1に か け て の 飢 i
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であった。この I
Illの火
と る こ と が で き た の は 、 3月 3日から 2
星の表仰州?変化は、医l に揃いてこの論文に添付された(第 30~'J:) 。こ
の観測データかりフックは、火星の自転が 2
4O
.
J1
1
日当たり 一 回 ま た は 二 回 と 1
f
t官
した。一方、王立 協 会 へ の 報 告 て ' は 、 フ ッ ク は そ の 臼 転 川 を 約 2
4州 と し た
仁
l
「フィロソフ イ カ ル ・ト ラ ン ザ ク シ ョ ノ Jの こ の 論 文 の 直 後 に は 、 フ ッ ク の 由
する論文が紹介されてい
測 を 確 証 す る も の と し て 、 カ ッ シ ー ニ の 火 星 の 自 転 に 以l
6
6
6年 の 6月 3 日 に 、 ヴ ェ ネ ツ ィ ア の 大 使 か ら 王 立 協 会 に 届 い
る 160 こ れ は 、 1
f
f)から 4
た 情 報 だ っ た 。 こ れ に よ る と 、 カ ツ ゾ ー ニ は 、 こ の 年 の 2月 6日(新 }
月1
6日 に か け て 火 星 の 且I
の観測を行なった。彼はカンパーニの方式による 2
4ハ
b (= 1
67i-ト)の望 遠 鏡 を 使 っ て 観 測 を 始 め 、 程 な く 、 火 星 の 自 転 周 J 9
1
が 2
4時
間4
0分 ( 現 在 の 値 は 24時 間 37分 ) で あ る こ と を 見 い だ し た 。 し か し 、 カ ノ パ
I
を行なった人々が、自転の周 j
l
J
Iは
ー ニ の ラ イ バ ル 、 デ ィ ヴ ィ ニ の 望 遠 鏡で在日iJll
1
3時 間 で あ る と 主 張 し た た め 、 彼 は さ ら に 飢 測 を 継 続 し 、 自 分 の 最 初 の 結 論 が
正 し い こ と を 確 認 し た と い う 。 こ の 際 に カ ツ ゾ ー ニ も 観 測 図 を 拙 いた。それは、
「フィロソフイカル
3
0図 ・右下)。
トラ ン ザ ク ν ョ ン ズ Jの フ ッ ク の 図 の 下 に 収 め ら れ た ( 第
火 星 の 自 転 の 発 見 も ま た 、 現 在 カ ッ シ ー ニ の も の と さ れ て いる l二 だ が 、 上 の
議論から明らかなように、フックとカッンーニの発見の先取締は微妙だった。い
ず れ に し て も 、 フ ッ ク が 当 時 の 天 文 飯 田1
I
の縁先端の人物の一人であったことは確
実である。
上 の 二 つ の 論 考 が 渇 敵 さ れ た 「 フ ィロ ソ フ イ カ ル ・トラ ン ザ ク ゾ ヨ ン ズ 』 の 同
じ号に は 、 フ ッ ク の 実 施 し た 木 星 と 土 星 の 縦 測 を 記 述 し た こ つ の レ ポ ー トも 収 め
0図 ・左 下 ) 。 二 つ の レ
られている l九 そ して 、 こ れ に も 図 が 添 付 さ れ た ( 第 3
ポートのうち、
「木星 に 関 して ロ ン ドン で 最 近 行 な わ れ た い く つ か の 観 測 」 に お
いては、木星の帯?とその衛星の彫の 観 測 が 扱 わ れ て い る 。 ま た 、 「同一人物によ
る土星の最近の 飢 測 」 で は 、 添 付 さ れ た 土 星 の 観 測 図 に 簡 単 な 解 説 が 加 え ら れ た 内
これら は
、 フ ッ ク が そ れ ぞ れ 附 年 6月 2
6日 と 2
9 日 に 行 なっ た 観 測 に 基 づ く よ
の で 、 ど ち ら も 王 立 協 会 の 会 合 で 報 告 さ れ た 1・。い ず れ の 観測も、
6
07i-トの長
さの望遠鏡を使っていた。木星の 飢側 報告 に は 、 こ の 望遠 鏡 が ボ イ ル の も の で あ
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ったことが明示されている。とはいえ、これらの飢J
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iIJの内容は、従来の発見を λ
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きく越えるものではなかった 。
こ れ に 幻 つ 6月 22 日 、 フ ッ ク は 何 人 か の 人 々 と 一 緒 に 日 蝕 の 制 側 を 行 な っ
た。その結果は、 E 立協会で発ぷされ、
「い く つ か の 場 所 で 行 な わ れ た 段 近 の 日
蝕の制 i
f
l
JJと し て 、 世 界 各 地 に お け る 観 測 の 似 告 と と も に 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・
l
)
ト ラ ノ ザ ク シ ョ ン ズ 』 に 収 め ら れ た "。 こ の 記 官 によれば、これらの日蝕の飢iJ
から、それまでの天文去がどれも正路な予測を与えないことが分かったという。
7γ クらの観測は、
57j -トの望 j
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H
虫で i
象を投射して行なわれた。これと同時に、
の縁が矧iJ
l
)さ れ 、 太 陽 か 月 の い ず れ か に 大
ボイルの 607fート望遠鏡を使って日制l
気が存在する可能性が示された。
このように、
1
6
6
0年 代 中 菜 、 フ ッ ク は 惑 星 の 細 部 に つ い て 、 か な り の 数 の 天
文観測を実行した。惑星表而の模様や惑星の自転といった彼のテーマは、まさに
「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム 」 の 第 二 , 切 に 特 徴 的 な 恕 題 で あ り 、 フ ッ ク の 研 究 は 、 当
時の主流と 一 致 す る も の だ っ た 。 そ の 研 究 の 水 準 は 、
1
7世 紀 後 半 の 代 表 的 天 文
観測家カツゾ一二に匹敵するものだったのである 。
『ミクロ グ ラ フ ィ ア 』 と望 遺 鏡
6
6
0年 代 半 ば 、 こ れ と 並 行 し て フ
望遠鏡による惑星の観測に取り組んでいた 1
ックは 、 『ミク ロ ク ラ フ ィ ア Jの 準 備 を 進 め て い た 。 そ の 関 心 は 、 当 然 の ご と く
『ミクログ ラフィ ア Jに も 現 れ て い る 。 だが、
「ミクロクラフィア Jの 天 文 学 的
側
面i
に は 、 こ れ ま で ほ と ん ど 関 心 が 払 わ れてこなかった。
I
ミクログラフィア
j の 序 で フ γ クは 、 入 閣 の 感 覚 の 欠 陥 と し て 、 対 象 が 感 党
苗官の能力を凌ぐこと 、 知:htが誤ることのこつを挙げた
210
知:R:の誤りについて
は、彼は注意を促すことしかしなかった。しかし、感覚の限界は、道具によって
補うことができるという。伊jえ ば 、 望 遠 鏡 や 顕 微 鏡 に よ っ て 、 人 間 に は 新 た な 可
視的世界が聞かれた 。 霊 安 な の は 想 像 力 や 方 法 、 思 弁 で は な く 、 む し ろ 現 れ る が
ま ま の 物 自 体 を 調 べ て 記 録 す る 手 と 目 で あ る o 機 械 論 的 な実 験 哲 学 は 、 こ の 点 で
議論と論争の哲学に対して優位を占めているという口 。
t
i感 覚 の 改 善 を 議 論 し 、 大 気 圧 の 微 小 変 動 を 見 い だ す 気 圧 計
フックは、記憶や l
を論じた 。 こ こ で フ ッ ク は 、 解 削 学 の 近 年 の 成 巣 に 話 題 を 転 じ 、 さ ら に 天 文 学 の
)に と っ て 、 古 代 の 人 々 は 、 条 件 の 良 い 場 所 に 暮 ら し て い
達成へと進む 。 天 文 飢 前1
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. フックの言う 俄 械 論とは 、質 や 隠 れ た 質 に 帰 せ ら れ て い る 物 体 の
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、小さな自然の 機械 に よ る も の と 考 え る 理 論 で あ る 。 そ の 酬 は 、 辺 動 、
ι、 大 き さ と 臼 然 の テ ク ス チ ャ ー (
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e)に よ っ て 規 定 さ れ る 。 I
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一 152 il-3 7
1
Jの 天 文 研 究
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た。しかし、
~々は、ガラス[望 i畠鋭]によって彼らを淡いだ。それを使うことで、有名な
ガリレオ、ヘヴエリウス、ザリヒェム (
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) [のホイヘンス]、そして我
が同胞であるル γ ク氏、レン~~上、教会と同家の誇りエクセターの大主教[セ
ス ・ ウ ォ ー ド 氏 ] は 、 彼 ら を は る か に 打 ち 負 か し て し ま っ た の だ 230
フックにとって、先行する天文学者とは、ヘヴェリウス、ホイへンス、レノー
ウォードなど、 「ガリレオ パ ラ タ イ ム 」 を 展 開 し た 人 々 で あ り 、 光 学 理 論 を 品
開したケプラーやデカルトではなかった。
卓銭などの光学総般の改良が論じられるのは、序の後半部分である内
顕微鏡やヨ i
フックは、自分が使った光学総織がイギリスで作製されたものであることを泌ベ
た。彼は、そのレンズが術円状であれば一周良いとして、レノズの球而収差の P
I
J
題を取り上げている 240 顕 微 鏡 の 観 測 対 象 に 照 明 を 加 え る 問 題 に 説 明 を 与 え た 後 、
フックは望遠鏡の改良を論じた。
望遠鏡に閲して言えば、唯一の可能な改良の方法は、長さを長くすることであ
る。観測対象が速いので、現在よりもそれを切るく照らすことは考えられない内
だから、口径を大きくするには、ガラス[レンズ]は非常に大きな球に町、九
なければならない日。
フックは長大望遠鏡を~!;光能力からのみ考えており、その俄能を必ずしも正し
く杷握してはいない。だが、焦長距離を長くすると望遠鏡が改良できることは知
っていた。フックによると、
607ィ ト の 焦 点 距 離 の レ ン ズ の 口 径 は 307ィートのレン
07
;ートのレ/ズを見た
ズに比例して大きい。彼は、ロンドンのリーヴが作った 6
ンT
以上あり、それは 、対象をくっきりと見せたという"
が、その口径は 3イ
もっとも、 307 ィートで口径 2 イ n 以上のレンズは希であり、焦占距艇の長~ ,レン
ズ を 容 易 に 焼 く こ と が で き れ ば 、 望 遠 鏡 の 倍 率 を 向 上 さ せ る こ と が で き る ー 7 ''l
ク は 、 そ の た め の 装 置 と し て 、 第 31図 の よ う な 酬 を 提 唱 し て い る 。 こ t L
υ
1
川立
…
は
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軸のザ叫磨装置で、二つの輸が交わる点 Qに 附 さ れ る べ き レ ン ズ が 低 か れ て い る 。
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L
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まされて軸とともに回転しており、これと逆向きに
レンスは、上側の回転軸に l
回転する刃 Kが レ ン ズ を 研 l
怒するようになっている 。フックはこのような装訟を
"あ,
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g,d1v
フックは、この直後の部分で空気に閲する発見に言及し、彼の
!人的パトロンかつ哲学のパトロンとして 、ホ'イルを n
.uえるこ とを忘れなかった《
一円, S
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g仙
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ぜ
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g 山では、問的な形のレンズに関係して、デカルトの名日
明不されているが 、 デ カ ル ト は 、 天 文 学 者 と し て 刊 さ れ て い る の で は な い 。
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『ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア Jの 序 は 、 こ の 後 、 液 体 の 肌 折 棋 を i
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I定する工夫に触れ、
7.,クが こ の 本 を 執 筆 す る の に _
tに 使 用 し た 顕 微 鏡 を 解 説 し た 。 さ ら に 本の WJ坂
のいきさつを説明して、 j
芋は結ばれている。
実 際 の 天 体 制I
Jゃ 、 そ ? に ま つ わ る 山 は 、 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』の 終わりの日1
分に収められた。その白瓜でフックは、大気による光の周折の ):~J :
mを 論 じ た 2 80
彼 は 、 月 や 太 陽 が 地 平線 に 近 づ く と 偏 平 に 見 え る こ と 、 ま た 本 来 見 え な い は ず の
地 平 線 下 の 星 を 観 測 で き る こ と に 触 れ 、 そ の 原 因 と し て 、 天 体 か ら の 光 が 大 気に
llJげられることを挙げた 。 フ ッ ク は 、 光 に 対 す る 周 折 率 が 物 質 の
よって述統的に r
密度によって !J~ なることを指摘し、その伊!として、氷より水の方が周折率が日い
という実験などを引いた
290
彼 は 、 連 続 屈 折 の モ デ ル と し て 、 第 32図 中 の 原 図 番 号 i
fg. 1のような実験装{立
を考案した 。 こ れ は 、 ガ ラ ス 容 器 の 下 半 分 ま で 濃 い 出 水 入 れ 、 さ ら に 残 り の 半 分
に水を注いだものである 。 こ れ に 左 斜 め 上 か ら 光 を あ て る と 、 光 は 密 度 の 浪 い 腹
t
l
Jが っ て い く 。 こ の モ デ ル 同 僚 に 、 大 気 は 地 表 に 近 い 郎
水の方向に向かつて下 に r
分ほど密度が浪〈、上に行くに従って薄くなる。
それ?明らかにするためにフ
ク?グ 7 7ィア J に 収 録 し た
γクは、ボイルの法則に関する実験データを『ミ
300
これを古川として、地表から天に
j
l
j
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ι気 往 を
ひ
考えると、大気は徐々に務くなりながら、無限速まで広がっていることになる。だ
l
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主する光は、地表に向かつて曲げられる。これが、地平
から 、天 体 か ら 地 球 に i
線より下の星が観測される理由であり、地平線の付近で、月や太陽が偏平に見えス
原因であ?。これに加えて、屈折によってプリズムの場合と問様に色彩が生
;
J
ことを考えると、地平 線 の 付 近 で こ れ ら の 天 体 が 赤 く 見 え る こ と も 理 解 さ れ る 山
これらの大規 模 な 大 気 の 肘 と は 別 に 、 温 度 や 温 度 に よ っ て 空 気 の 密 度 は 一
的に変動し、これが星の腕きなどの原因となる。それは、空気のレンズのごとき
もので?る。フックはこの説明の後、天 体 からの光が大気の作用で逸らされると
するなり、視差を使って惑星までの距離を測定することは難しいのではないかと
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協 畠会で行なつた突験である 。 B
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3 その詳 細 な内容は、
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lJlIjを立て、これにいくつかの巧奴を加えている 。 彼 は 、 こ れ ま で 考 え ら れ
也球に近い可能性があることを示唆したヨ ヘ
ていたより、惑星や月は j
フックは、
『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』 で 、 四 鋭 に よ る 尖 際 の 制 測 に 九 し た。 し
n
の 三 似lだ け で あ り 、 制 l
i
J
ilJl8Iとしては、プ
かしそれは、オリオン、プレヤデス、
レ ヤ デ ス と 月 の 二 つ が 収 め ら れ た ( 第 33図 ) .1.10
プレヤデスとは、日本で昂(すばる〕と祢される牝牛庄のプレヤデス星日!のこ
とである 。 肉
n
J!で七つの星に見えるプレヤデスをガリレオは:i.(i
且鋭で在U
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J
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jし、そ
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j
)ら か に し た 。 フ ッ ク も 、 良 好 な 127j -ト
の
れが実際には 36の 星 か ら な る こ と を l
望 遠 鏡 で プ レ ヤ デ ス を 置l
J測 し た 。 彼 は 、 ガ リ レ オ に 比 べ で は る か に 多 い 7
8の 星
0 367j -トの望遠鋭を使用したときには、
を見いだし、これを図として怖いた, '
これよりさらに多くの皇が見られたという。彼は、オリオン座についても同様の
観 測 を 行 な っ た 。 そ の 責)
1の 部 分 は 、 五 つ の 昼 か ら 成 っ て い た
350
! ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア 』 全 体 の 結 び と し て 現 れ る の は 、 フ ッ ク の 丹 市 の 削1
)であ
る3
V こ れ は 、 彼 が 1664年 10月 に 307ィートの望遠鏡で観測したものだった。図に
描 か れ て い る の は 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス が .Ol
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mp
us
'、 リ ッ チ ョ ー リ が
と呼んだ部分である
370
ιHi
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pu
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s.
フックはここで、月の表面のi!:llみ、すなわちクレーター
の 成 因 を 考 察 し た 。 彼 は 、 月 に も 地 球 問 機 に 地 下 に 火 が あ り 、 一 碕 の 噴火 が こ れ
を作ると考えた 。 彼 は 、 地 球 と 月 の 類 似 の 考 え を 推 し 進 め 、 月 が 丸 い の は 月 自 ら
が重力の原理
ωm
哨
o
f伊
V印刷
)を待っているためであるとした。それは、一
,
瓦 p
p
. 236-239 フ ッ ク は こ こ で 、 望 遠 鏡 に 網 状 の マ イ ク ロ メ ー タ を 使 用 す る
J2 l
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I
; と に も 言 及 し て い る 。 こ の 問題 に つ い て は 、 次 章 で 論 じ る の
"これは、フックが 附
1
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. 297
年 8月 26 日に王 立 協 会 に 報 告 し た ム の で あ っ た 。
B川
後 の 記 録 に よ る と 、 フック は プ レ ヤ デ ス を 1664年と 65年 に 観 測 し た と
?れてお札両者は矛盾している。
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主p
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3
•• Mi
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,a p
.24
1
;ガリレオ ・ガリレイ 、 『星界の報告 J (岩波文庫、
1976年) 、
3
8-40ページ。
'5
M
i
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p
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i
,
a
p. 242・彼 は 、 ホ イ へ ン ス が 見 つ け た オ リ オ ン 座 の 剣 の 三 つ の 星 を
367ィト(口径約 3.
5イ:;f)の望 退 鋭 で 観 測し 、 こ れ が 五 つ の 星 か ら 成 る こ と を 見
s
a白 血 山 刀 (Oeuvre,s 15,p. 237)で ホ イ へ ン ス は 、 こ
つけたという。しかし 、 Systema
の部分の 12個 の 星 に 言 及 し て い る の で あ る 。 従 っ て 、 こ れ は フ ッ ク の 誤 解 で は
ないかと思 わ れる O
,
M
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,
a pp.242ff
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"フックは この 直 前 の 1664年 9月 15 日 の ボ イ ル 宛 の 轡簡で、 367イトの望 遠 鏡の
使用を 開始したこ と を知 ら せ て いる
o
従 って
、 フ ッ ク が 月 の 制 測 に 使 JTjした3'Li
S
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で はなく 367j寸 で あ り
、
授は、 307j -ト
『ミク ログ ラ フ ィ ア 』 の 記 述 は ミ ス プ リ
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I-3 7 pの 天 文 研 究
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成 の 日 周 辺 却Jや 渦 に よ る も の で は な い と い う 。 そ し て 、 こ の I
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JJIIjを検討すること
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)I J ) 原 因 を 仰 る の に 刊 で あ る と し て
『
ミ イ ロ グ ラ フ ィ ア Jで、'1
1
仰 をi
止 っ て 制I
Jす る と 肉
このようにフックは、
眼て見る時以上の数の星が見えること、あるいは
れらはとも
こ の 若 山 を締
1
:、 我 々 が 「ガ リ レ オ
J
JfJii誌の I
J
J
JiIIiを取り上げた。そ
パラダイム」と名付けたものに含まれる。既
にiAべたょっに、フックに先行するレンは、刀而誌に取り組んだ。レンはまた、
Iも 行 な っ た と い わ れ る 3 九 フ ッ ク は 、 こ の 而 で も 、 イ ギ リ ス の
プ レ ヤ デ ス の 飢 剖J
「ガリ レオ ・ノfラ ダ イ ム 」 の 延 長 上 に 位 置 し て い る 。 そ し て 、 顕 微 鏡 が 地 上 で も
たらす新世一般に、制鋭の改良は、天における新しい発川もたらすとファ
クは考えた 。
フックと 長 大 望 遠 鏡
前章で論じたように、イギリスでは、キヤヴェンディシュやゴダードなどによ
1
64
0年 代 か ら 望 遠 鏡 の 改 良 が 取 り 組 ま れ た 。 そ の 関 心 は 、 そ の 後 も 絶 え
って、
る ? と な く 、 王 立 協 会 に も引き 継 が れ た 。 例 え ば 、 1
6
6
1年 4月 1
0日 、 初 代 会 長
のフラノカーは、王立協会用の望遠鏡レノズを作製する装置を検討するための委
員会を作り、マレ一、ニール、ウォリス、ゴダード、レンを委員に任命した川
L
望 遠 鏡 の レ ノ ズ を 楕 円 や 双 曲 線 状 に し て 球 面 収 差 を 避 け る 方 法 は 、 良 く まuら
ていた。既に触れたように、
レ ノ や フ ッ ク も こ の 改 良 法 を 知 っ て い た . , 。 しかし、
実際の改良は、イギリスにおいても、望i!l!鏡を長大にすることで達成された。そ
の努力は、
65
0年 代 中 葉 以 降 も 継
「ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 が 第 二 期 に 入 っ た 1
『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア Jの 内 容 か ら も 分 か る よ う に 、 フ ッ ク は
続された o そして、
車鋭にも関心を持っていた
天文 観 測 と と も に 、 長 大 な 盟 i
n
本論文でこれまでに取り上げたフックの望遠鏡への言及を見ると 、彼が手にし
た 望 i S ! 鏡 の 中 に 、 繰 り 返 し 現 れ る も の が い く つ か あ る こ と が 分 か る 。 第 4表 は 、
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に 登 場 し た フ ッ ク の 望 遠 鏡 を 制 して 一 覧 表 と し た も の で あ る 。 こ れ ら
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、
1
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ト (約 3
.
6j-トル) 、 367{
ー
ト (約 1 U-トル) 、 607ィ
ー
ト (約 1
8j-flf)
の望遠鏡は、いずれも長大型遠鏡に分類できるものであろう。従って、フックが
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4
6 フ ッ ク は 、 地 球 の よ う に 、 月 の 谷 に 担l
物が生えてい Z
こ勺予調山 (
p
p
.
242-243) 。 フックが後に述べ t~ ように、月に大気があるか五
古川、ついて 、 当 附 争 が あ っ た 。
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担
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- 1
5
6-
1-3 7,1の 天 文 研 究
~
最もよく J
J
rい た 望 i
畠鋭は、いずれも長大望辿鋭であったと与えられる 。
第 4表
略号
フックの使用した望;a鏡一覧
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. p.218
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6
6.6
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)
M
G
. p.218
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G
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.
2
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6
6
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2
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T. 1
.p
.3
3
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ト
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別日等)
昼の瞬き
木星の ~l (1664.59)
P
T
. 1
. p.240 火 星 の 斑 (1
6
6
6
.2
以前)
M
G
.p
.
2
4
1
プレヤデス
M
G, p.242
オリオン座のへ 'ル
ト (
1663.9
.
7
)
直径3
.5 イ ~f 以上
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W
. 6・ p
.
4
9
1 36ftの 使 用 を 開 始 (1664.9.15・soyle宛 書 簡 )
M
G
. p.242
月 (
1664.10)
3
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7ィートは誤植
ー
ト
6
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. 1
.p
.
2
3
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23
)
M
G
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Reeve製
直径 3 イ ~f以上
s
W
.6
. p.4
9
1
P
T. 1
. p.2
4
5
P
T. 1
. p.246
P
T
. 1
.p
.
2
9
5
木星の縞模様 (
1664.9.15の soyle宛 f
書簡以前)
木 星 の 帯 ? と 衛 星 (1
6
6
6
.6
.2
6
)
日 蝕 の 縁 (1
6
6
6
.6
.2
2
)
先に述べたように、この中で一番長い 6
07ィートの望遠 鏡は、
ろ完成させ、
soyleの 所 有
土星 (
1666.6.29)
リーヴが 1
6
6
4年 ご
1
6
6
6年 に ボ イ ル に 売 却lし た も の で あ る と 推 定 さ れ る
430
興味深い
のは 、 3
67i斗 の 望 遠 鏡 で あ る 。 と い う の は 、 フ ッ ク は 1
6
63年 に こ れ で オ リ オ ン
座のベルトを観測しているにも関わらず、翌 1
6
6
4年 9月 1
5日のボイ ル 宛 書 簡で、
改めて 3
67ィートの望 i
畠鏡の使川開始を述べているからである。フックは、その史
壇鏡で、リーヴの 6
07iー ト 望 遠 鋭 で し か 見 た こ と の な い 木 星 の 縞 模 織 を 見 た と い
苛面下豆刷機人トヴ Jの節を参)l({
-1
5
7-
,
II-3 7 1の 天 文 研 究
可- -
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守
'
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止J
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J してい た と 考 え れ ば 矛
盾なく説明できる の フックは、
1
6641
)
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か ら 3671-ト明il:l鋭を{止 勺て いた
が、この時、新しい 3671-トの主主 l
i!tも使い始めたのだ 勺た。
と ころで、 I lï い )J の 3671 十明 i畠鋭に該当する と ~えられ るの は、
ール
-
1658 q、 ポ
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/した 3
571-ト
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且銭 で ある のこ れに
ニ ー ル が タ レ シ ャ ム ・カレ ッジ に市Jl
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ついてはlIi
J
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[言 及 し た が
1,r
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この虫il:l は 、 グ レ シ ャ ム ・ カ レ ソ ジに 作 ら れ
けられ、レンの土庄の模型はそれに l
Wげ ら れ た
た 「オベリスク Jに飢え十l
n
王立協会に所蔵されたフックの手協の中には、この間続を記録したも らがあ
る..。第 34図 は 、 こ の 手 前 に 添 付 さ れ た 図 で 、 こ れ か ら 望 i
且鋭がどのように設
l
j
立鋭は、
ぼ さ れ た の か が 分 か る 。 この g
367ィートの対物レンズを 1
止 い 、 全 長 は 40
7 1 斗だった 。 限!に ~11{i かれているのはグレシャム・カレッジの中庭であり、 '1' 火に
高さ 5071-ト(約 1
5}?-) の 支 1
1:が立てられている 。 そ の 支 I
J:から、ヨ i
畠鋭はロ
ープで釣り Fげ ら れ た 4 70
7'
1ク は 、 レ ン が こ の 虫 迫 鋭 と 、 も う 一 つ の 2
871斗 望 述 鋭 を 使 用 し て 、 土 星
の モ デ ル を 術 策 し た と 述 べ て い る 。 レ /は 、 こ の :
J
l
j
畠鋭で刀の飢 i
f
J
I
Jも 行 な い 、 そ
のモデルを作 っ て 国 王 に 献 上 し た 4 ・。 その模型とは、
1
6
6
1年 8月 に 、 レ ン が チ
ャールズ 二 世 に 附 っ た も の に 他 な ら な い 。 こ の 3671 ト望迷鋭を使用したのは、
レ ノ だけではない 。 彼と問じオクスフォードのグル ー プの n~ 身で、当時グレゾ+
ム カレッジの幾何学教段であったローレノス・ルックも、これを使って附星
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o Boyle,1
5 September 1
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1分のフ ックの記述はやや暖'刷、で、解釈に囚餓がある 。 彼
iに削ドl
を行なったことになってしまうからである 内
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“
五
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J 7日 に 王 立 協 会 が 予 算 を つ け た 。 必
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且
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鋭
iJ の節を参I
似
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附
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(0 1
6
5
8年、 グ レ シ ャ ム
、のチューブには 、 1
州
処されている時、スプラットはレンに宛てて手紙を静き、
;カレッジが反乱軍に占 l
司を聞から覗き
一 戸 ヤ ム に 「今 あ な た が あ な た の 叫 鋭 を 使 い に 来 た ら 、 天 │
に jj~ び込むようなものです 」 と述べた 。 これは、この望遠鏡を m すものと思われ
る
。Wren,Jr.(1750),p.254
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Jが 倣 わ れ て い る こ と か ら 考 え て 、 こ の
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s以 前 の も の で あ る 。 だ が 、 レ ノ
手 怖 の 倣 っ て い る 内 容 は 切 らかに 1660年 代 初 i
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r' と さ れ て い る の で 、 手 術 自 体 が f
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Fか れ た の は 、 レ ン が こ の 祢 号
の称号が, S
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に 川 い た と 号 え る の は 11
フック と望ill!鏡職 人
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フックが王立 協会 の 実 験 主 任 と し て 前 川 を 始 め た 1
けて論じたロンドンの光学l
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混戦 人 リー ヴ は 、 そ の 初 動 の 汀i点 に あ っ た ー ー ー ー
カァスル
川に引き受けていた彼は、ィギリ刈哨J
VJ
リー ク ル の 炉 内 16401
になると 、 オ ク ス フ ォ ー ドの向然学者i.1lに長大 2
1
1j
且鋭を供給した。王政復古のlIr
t
後には、彼は長大望 j
畠鋭 だ け で は な く 、 顕 微 鏡 も 商 業 的 に 販 売 し た 。 リ ー ヴ は 、
フックや こ
l
ミ立 品
│ 会 の 旬Jめ で 607(-トの EJi
且鋭をI'
rり 、 フ ッ ク は こ れ を 使 川 し た 。
す る よ り も 早 く 、 リ ー ヴ と 協 力 して反
後に論じるが 、 フック は ニ ュ ー トノ
が
.
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i
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J
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射式の望 i
畠鋭 と顕 微 鏡 を試した。
V
Jには光学部;俄職人 リー ヴ と 関 係 を 持 っ た 。 しかし、
フγ クは、このように 初J
1
6
6
0年 代 半 ば に リ ー ヴ が 没 す る と 、
7
'
1ク
は、新しい世代の光学務機職人クリ
ス トファー ・コック (
C
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is
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rCock(
s
),時 に Cox,d・
なった。
コ ックは、
1696) と~~"、 関係 を持つように
リーヴの下でifE5(~修行を行なった職人と
jf~ 定されている。 1666 住
A
L
リーゥ・の死後に年季がりl
け る と 、 コ ツ ク は 同 業 の リ一 ヴ の 息 子 を 手 伝 う の て,
〈し、自分の応を引
H
即
開
日
l
Jく 道 を 選 ん だ 5 00 1
の望遠鋭のレンズを自分と大当字学主
f:のために 4
各干々一つずつ 』
購
昨入
λ、した
5 '0
“
1
6
6
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9年 2月
日
l
I日、王 叱
1
t協 会 は フ γクに 、 「 コ ッ ク 製 の 新 し い 大 き な 顕 微 鏡 はreat
持ってくるように求め
U
認
。 そ れ は 翌 週 に 王 立 帖 で 精 査 さ れ 、 買 山T
定された"。同じ i
,
:
の 5月 4 日、 オ ル デ ン パ ー タ は カ ッ シ ー ニ に 宛 て て 、 イ ギ リ
s
I
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Med
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)の 立 ち 会 い の 下 で 、 カ ン パ ー ニ ム 「 リ
ス訪問中の トス カ ナ 大 公 (Co
クの制鋭が比較されたことを悦送った。その比較では、コックのもの
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r、木星の 衛 星 の 蝕 を 研 究 して い た
t
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85
),pp
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pp.360-36
3
)
ンノプソンは、この論文でコックを l
主 戦 人 の 以 子 と し た が 、 4年 後 の 論 文 で は 、
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)の 息 子 で あ る と 見 解 を 変 更 し て い る 。
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パーニのものを「わずかに凌いだ」という S
30 こ う し て コ ッ ク の 名 声 は 、
年ごろまでには限立したと忠われる。
この時 JgJ のフックとコックの初日~.'な関係は、 1 672
記から?ることができる。コ
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ド 8刀 に 始 ま る フ ッ ク の 日
クの名前は日記の至るところに現れ、彼らが州
に顔を合わせていたことが分かる
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光学部t
機をめぐる彼らの協))の具体例につ
い て は 後 に 改 め て 取 り 上 げ る が 、 優 れ た 光 学 球 機 械 人 リ ー ヴ を 失 っ た 後 も 、 7 ,'J
クが次世代の有制職人コツクの協力何ぴ得られるようになった点は極めて占
要である 。
1
6
6
0年 代 の 中 菜 、 イ ギ リ ス を 代 表 す る 光 学 2
号機職人は、こ の よ う に リ ー ヴ か
らコヅクへと入れ必わった。興味深いことに、イタリアにおいてカンパーニが干
イウ'ィ ニ を 「 腕 く ら べ 」 で 打 ち 破 っ た の は 、 ま さ に 6
0年 代 半 ば の l
仙年のと ー
であっ
h 先にも述べたように、
fフ ィ ロ ソ フ イ カ ル
ト ラ ン ザ ク シ ョ ン ズ Jの
の 記 事 は 、 カ ン パ ー ニ を 扱 っ た も の で あ っ た 。イ タ リ ア の
創 刊 号 の 実 質 上 の 最 初J
天文学者カッシ
ニは、カンパーニの望遠鏡を使用して木星や火星等の細部に関
1
6
6
9年
する事実を発見し、自らの名声と同時に、カンパーニの名声を高めた。
にルイ 1
4世 の 招 き で パ リ に 移 っ た カ ッ シ ー ニ は 、 カ ノ パ ー ニ の 望 遠 鏡 で 観 測 を
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)は、パリの
続 け た 。 そ の 性 能 に 驚 い た コ ル ベ ー ル Ue
天文台のための 3
47j ト の 望 遠 鏡 を カ ン パ ー ニ に 発 注 し た 。
1
6
7
1年 9月 に パ リ 天
文台の台長となったカッシーニは、 それ ら を 用 い て 、 土 星 の 新 衛 星 や カ
の 間 隙 の 発 見 に 至 っ た 5 50
フ ッ ク の 証 言 に よれば、
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シーニ
リーヴの 6
07ィ ー ト 級 の 長 大 望 遠 鏡 は 、 当 時 の イ タ リ ア
の望遠鏡に匹敵する性能を持っていた
代のコ
γ
56 0
そして上に述べたように、その次の世
クの望遠鏡は、イタリアの次世代の職人カンパーニのE
望遠鏡に勝るとも
劣 ら な い 性 能 を 待 っ た 。 イ ギ リス の 望 遠 鏡 は 、 今 や イ タ リ ア 製 の も の と 十 分 に 肩
を並べる裟慣となったのであった 。
オズーとフックの論 争
先に述べたように、フックは、
『ミクログラフィア』の序文で、長大望遠鏡の
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ンズ?附する装置について論じた。この記述に対して、フランスのアドリア
Ad
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6
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1)は 、 疑 念 を 表 し た 。 フ ッ ク は こ の 疑 念 に 反 論
ノ・オスー (
し、 ? の や り と り は 『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル
トラ/ザク ν ョ ン ズ 』 に 収 め ら れ た ー
オ ス ー は ル ー ア ン 生 ま れ の 自 然 学 者 で 、 パ ス カ ル (B
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の真空の実験」の J号案者として、その名
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彼 が こ の 実 験 を身楽したのは、
文ケ?関
jì~ は科学史の教科訟にも現
1
6
4
7年 の こ と と 言 わ れ る 。 ォ ズ ー は 天
を持ち、カソゾーニをフラノスに呼ぶための交渉にも従事したとい
7'一。 依 に 川 び 言 及 す る が 、 オ ズ ー は 3007j・トを超える非 7
i
tに 長 大 な 望 i
畠鋭レン
ズを試みたことでも知られる。
オ ズ ー の 名 前は、
『フィロ:ノフイカル
トラ ン ザ ク シ ョ ン ズ 』 の 創 刊 号 に も 現
れ る 。 こ れ は 彼 が 王 立 協 会に U
1っ た 論 文 に つ い て の 説 明 で 、 こ の 論 文 で オ ズ ー は 、
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}の 予 言 を 放 っ た 5 9 0
そのころ出現した慧星の i
フックとのやりとりのきっかけとなったのは、オズーが舎いた手紙形式の小冊
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『ゾヤルル師への手紙 (
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)に お け る
議論であプた。
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フィロソフイカル
・ ト ラ ン ザ ク ン ヨ ノ ズ Jは 、 そ の I
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r子 の 内 容
を二つの記 事 に 分 け て 紹 介 し た 。 そ の 第 一 帯 目 で オ ズ ー は 、 望 遠 鏡 の 対 物 レ ン ズ
の口径は、一般にその焦点距般の平方根に比例すると論じた。このことは、長大
望 遠 鏡 で は 、 十 分 に 切 る い 彼 自1/像が得られないことを意味する。なぜなら、~{,占
距 離 の 長 い 望 遠 鏡 ほ ど 倍 率 は 高 い が 、 口 径 を 同 時 に 大 き く し な い 限 り 、鉱 大 さ れ
る分だけ像は暗くなるからである。もし口径が焦占距離の平方恨にしか比例しな
い と す れ ば 、 長 大 な 望 遠 鏡 の 像 は惜く 、 実 用 に 耐 え な い も の と な る 。 オ ズ ー は ;
こでフックの名前を挙げてはいないが、 これはフックの長大望遠鏡に対する
1
m銭
的 な 批 判 で あ っ た 。 実 は 、 オ ズ ー 自 身 も 長 大 望 遠 鏡に 関 心 を 持 っ て い た 。 し か し 、
7 ッ ク は 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア J で 、 自 分 の 装 置 な ら l万 Yィートのレンズを磨くこと
もできるという、極鱒な主張までしていた。
fフ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・ト ラ ン ザ ク シ ョ ンズ Jの 第 二 番 目 の 記 事 で は
、オ ズー
60
は フ ッ ク の レ ン ズ 研 磨 の 試 み を 、 彼 の 名 前 を 挙 げ て明 示 的 に 批 判 し て い る 。 オ ズ
ーは ま ず 、 長 大 望 遠 鏡 の レ ン ズ の 材 料 と な る 大 き く 良 好 な ガ ラ ス の 入 手 が 困 難 で
あ る ? を 指 附 る 。 大 き い ガ ラ ス の 場 合 、脈 や 泡 が 入 っ て い る も の が 多 い 。 次
にオスーは、フックのものに限らず、大きいレノズを磨く研磨装世一般が持って
いる難去を挙げた。 この 砲 の 研 磨 装 置 で は 、 レ ン ズ の 中心 が ズ レ 易 く 、 研 磨 に使
苛 万E7広 E 徹、
『物型学史
J (培風館 、 1968年 ) 、 第 四 、 30ペ ー ジ
「真 空 中 の 真 空 の 実 験 」 を 含 む パ ス カ ル の 実 験 を め ぐ っ て は 、 小 柳 公 代 、 「 パ ;
9
7
8年 5月 号 、 6
8-7
7ペ ー ジ が 示 唆 に
カ ル に お け る 実 験 の研究」 、 『自然』 、 1
富む。また 、 同 著 者 の 、
1
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2年) も参 照 の こ と。
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直 街lから 断 定 ま で J (名古屋大学:
出版会、
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p.100-106(
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)
・ オズーは 、 1
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6年 5月 2
3臼 に 王
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, 2
,p.90)。 彼 は ま た 、 ア カ デ ミ ー ・デ ・シアン
立協会の会只に選出された (
スのメンノ、
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の天文 研究
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用する腕き型の]f~も却i れ þ~ し、。人 1m の力には ~N 1Mがある上、一倣に )J を加えて lr~
くことは ~fl しい。だが、レンズは予:\J.I以上にね情さを裂するものである。そのこ
c、 フ ッ ク が 災 際 に 装 { 置 を 試 み た と は 思 え な い と オ ズ ー は 述 べ た 。
とをね-5
『ミクロ 7'57ィ ア 』 で 提 案 さ れ た 装 i
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. (第 31図 ) I
固有の I
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題としては、大焦
点 の レ ン ズ を 磨 く 時 に 、 二 つ の 附 州lの 成 す 角 度 が 小 さ く な る こ と を オ ズ ー は 棋
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fで 長 さ 千 万 一 ト の レ ン ズ の 場 合 、 州 が 成 す j
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正
げた。フックが伊!とした口俊 1
はわずかに 6
ー7分 ぽ ど で し か な い 。 日f
J1'i1主世の二耐Irを同一平而に保つのも闘員l
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だが、両者の成す i
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jがこれだけ小さいと、!iIf隠されるガラスの中心はすぐにズレ
てしまう。しかも 、 ガラスの去而には隠きお}が入って、隙 I
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Jが 生 じ て い る 。 オ ズ
ーは 、 千 7ィートどころか、
3
007j→ の レ ン ズ も 底 く の は 容 易 で は な い と す る 。 た と
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07j斗 の レ ン ズ で 千 倍 の 倍 率 の 長 大 望 遠 鏡 を 作 っ て み て も 、 口 径 が 相 対 的 に
え3
小さいため 像 が u
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gく、 月 も 見えないと言う。もっとも、長大望述iJlを作るという
フックの主狼は、単 に レンズ磨き装置の宣伝に過ぎず、将来の自僚といったもの
かも知れない。このような批判に続けてオズーは、フ
の改良法を提案し た。 彼 は 、 研 磨 す る ガ ラ ス を 、 フ
Y
y
クの装置に対して、 -IZ
クの場合のように上の軸
鋸 え 付 け る の で は な く、 下 の 軸 に 水 平 に 置 く と 良 い と い う 。 上 軸 は 一 本 で は な く
二本として、磨き型 を シリンダー状 にす れ ば 、ガラスは安定する。 殺後に オズー
Rレ
は、望遠授にとって大事なのは焦点距離の長さではなく 、レ ンズの口径と銭 n
ンズの深さである こ と 、 口 径 の 点 で は 、 カ ン パ ー ニ も 十 分 で は な い こ と を 指 嫡 し
た
。
こ れ に 対 す る フ ッ ク の 反 論 は 、 第 二 番 目 の オ ズ ー の 記 事 に 続 く 形 で 、 『フィロ
ソフイカル ・ トランザクシノ ヨ ンズ』 に 収 録 さ れ た " 。 そ の 冒 頭 で フ ッ ク は 、 レ ン
ズ研磨装 u
V
Jを 試 し も せ ず 議 論 し て い る と い う オ ズ
の 批 判 に 反 論 し 、 総 か に 自分
はまだ成功に歪つて は い な い が 、 で き る 限 り の こ と は や っ て み た と 述 べ た。 そ し
て、オズーこそ実際 には 何 も や っ て い な い の で は な い か と 切 り 返 し た 。 球 面 レ ン
ズ研磨装置をフックが実際に作製していたことは 、ハーチの『ロンドン王立協会
の歴史』の 1
6
6
4年 の 記 録 や 、 こ の こ ろ の フ ッ ク の ボ イ ル 宛 刊
とができる
620
から 夜 付 け る ご
フックは 、 『ミクログラフィア』が王立 協会 の 公 の 認 可 を 得 て 出
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9年 6月 1
0日 の レ ン の 双 山 線 レ ン ズ
除、 フック 州 内 レン ズ と別 刷 レンズ を 賂 く 制 の 研 究 も 行 な
つに。最 終 的 に 彼 は 、 レ ン の 談 i
世は 尖 現 不 可 能 であり 、 自 ら の も の に つ い ては 可
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う。 長 大 叫 鋭 作 製 に 必 要 ? 良 好 な ガ ラ ス の 入 手 が 困 難 と い う オ ズ ー の 州 に 対
しては、イギリスではヴエ不ツィアに劣らない脈のない良好なガラスが入手可純
であると反論した。附の際にレ
J
ズの'1'心がズレるという聞については、む
しろ中心のズレたレンズは??通であると彼は述べた 。 長大望 j
畠鋭のレンズを手で
磨くのは鍛しく、
6
07ィ ー ト の 良 好 な レ ン ズ を 初 め て 作 製 し た リ ー ヴ に よ れ ば も 今
まく行くのは 川
のうち一つ叩である。したがって、酬で研倍するのザ
ましいとフックは言う。オズーは研磨聞が理知的な形でガラスに接することはな
いというが、削っていくうちに、研聞の隙l
聞はだんだんと無くなっていく 。 一
を同一平而に保つことも容易である n
磨 装 置 の 軌 の 角 度 づ け は 困 難 で は な く 、 二 制l
3
ω 7j ートだけではなく、千 7 ィートの望遠鏡も不可能とは思えないとフックは主 ~J~ l
た 。 そ の よ う な レ ン ズ を 用 い れ ば 、 月 の 生 物 を 見 る こ と も 可 能 で あ る 。 研 磨 装 記t
改良の提案について は 、 ガ ラ ス を 下 に 泣 い て も 事 悠 は 同 じ で あ り 、 い ず れ の 場 合
も軸がガタつくことはないとフック一蹴する。最後に彼は、焦点距離とレンズの
口径に関するオズーの理論を不明確なものとして退け、オズ
の批判の基本的な
I対 象 に 応 じ て 決 め る べ き も の と さ れ た 。
恨 拠 を 奪 う 。 望 遠 鏡 の 口 径 は 、 縦 割J
オスーは、これ以 外 にも何通 か の 手 紙 を オ ル デ ン パ
グに送った。そのうちの
二通はフックに対するかなり長い反論だった。その二通の聞に、オルデンバ->;
はフックの再反論を要約して一度送った
640
やりとりの内容は、ほとんどが上正
論じたことの繰り返しであり、両者の見解が平行線をたどったことが分かる。多
少目だつ点としては、イギリスで良好なガラスができるというフックの主張をオ
ズが受け入れたこと、
リー ヴ と オ ズ
07
j斗 の 良 好 な 望 遠 鏡
のどちらが先に 6
を作ったかということが話題になったこと、短焦点レンズの焦点距離を伸ばすフ
ックの試みにオズーが関心を示したこと、月の生物を望遠鏡で見る可能性を否定
す る の に オ ズ ー が か な り こ だ わ っ た こ と が あ る 。 最 後 の 問 題 に 側 近1し て 、 フ ッ ク
は肉眼で 1分 以 下 の 角 度 を 見 る こ と の で き る 人 は ほ と ん ど い な い と 述 べ た "
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れは、本論文の後の議論のなかて¥重要な役割を果たす論点となる。これらみふ
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創 出 の 重 要 性 を 論 じ た シ ェ イ ピ ン と ゾ エ ー フ ァ ー の 議 論 と 重 ね 合 わ せ る と 興 味深
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11の 天 文 研 究
たなテーマのうち、月の生物の I[IJ 題とレンズの~(\点をf!l1 ぱす問題に触れた部分は、
『 フ ィ ロ ソ フ イ カ ル ・トランザクンョ ン ズ 』 に 抜 粋 し て 収 録 さ れ た
彼らのこのようなやりとりは、オズーによって、
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冊 子 と し て ま と め ら れ た 67。
可び王立協会に登場するが、その時には、議論はこれとは別のテ
オズーは後に I
ー マ を め ぐ っ て 展 開 された。
天文観測家へヴェリウス
フックの望遠鏡への取り組みに関心を持ったのは、オズーだけではない内当時
優 れ た 天 文 観 測 ヂ と し て 知 ら れ て い た へ ゥ・ェ リ ウ ス も 、 フ ッ ク の 山 側 一 …
心を持った。彼りの関わりを論ずる前に、ここではまず、へヴエリウスとはいか
な る 人 間 で あ っ た の か 簡 単にまとめよう。
ヘヴェリウスは、
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1年 、 バ ル ト 海 に 面 し た 有 名 な ハ ン ザ 都 市 、 ダ ン ツ ィ ヒ
(
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g、 現 在 の ポ ー ラ ン ド の G
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)に 生 ま れ た . . 。 彼 の 姓 は 、 現 地 の 言 葉 で は
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られた。
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へ ヴ エ リ ウ ス Jと は 、 彼 が 自 ら 定 め た ラ テ ン 名 で あ る 。 彼 の 父 級 は 醸
0番 目 の 子 と し て 生 ま
造業者であり、へヴエリウスは経済的に豊かなこの家の 1
れ。彼は末子であったが、
3人 の 兄 が 亡 く な っ た た め 、 父 の 醸 造 所 を 継 ぐ 身 と
弘った。ヘヴェリウスは、地元のギムナジウムなどで教育を受けた。その一方で、
天 文 学 者 ぺ ー タ ー ・ク リ ュ ー ゲ ル ( pe
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)か ら ね 、 的 に 天 文 学 を 学 び 、 天 文 器
彼の作製の手ほどきを受けた。
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0年 、 へ ヴ エ リ ウ ス は ラ イ デ ン 大 学 で 法 律 を
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こ れ は 、 オ ズ ー の 8月 1
2日 の 削 か ら の 抜 粋 。
7 リ テ ィ ッ シ ュ ・ラ イ ブ ラ リ ー に 所 蔵 さ れ る こ の 本 (
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η には、
2日 の 仏 文 容 簡 の 英 訳 が 手 怖 と し て 添 付 さ れ て い る 。 そ の ト ラ ン
オスーの 8月 1
ス ク リ プ ト は 、 上 記 の オ ル デ ン パ ー グ 替 問j集 に 収 め ら れ た (
2,p
p
. 468-474)。 こ れ
は、ォルデンパーグがフックのために訳出したものであると轡簡集の編者は泌べ
てL、
る (
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7
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)。 だがむしろ、
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sに 収 録 す る た め の 制 択 と 考
;るべきではないかと思われる。
ーへヴエリウスの生涯や天文研究の内容については、学nI
J的 に 満 足 の で き る 先 行
研究があるとは言い難い。ここでは、彼の生自主について比較的良〈引用されるも
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.1の 記 述 に よ っ た 。
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学 ぶ た め に オ ラ ノ タ に 向 か っ た 。 その途 l
二で 彼 は 、 日 触 を
翌 年 イ ギ リ ス に 古住宅
Eした彼は、
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oる 俄 会 に 恵 ま れ た 。
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2年 に フ ラ ン ス に 向 か い 、 ガ
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附
年 に 帰 国 す る と 、 そ の 2年 後 ム ヘ ヴ エ リ ウ ス は 削 ギ ノ ; ;
のメンバーとなった。家業や I
J
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fの 仕 事 に 忙 し く な り 、 彼 に と っ て 天 文 学 を 継 続 す
ることは容易ではなくなった 。 このころの彼は、多少の飢測やレンズ作製の勉強、
64
1年 に 参 事 会 只 と
あるいは外国の天文学者との文通に取り組むに止まった。 1
並にこの時期から、彼
な り 、 ヘ ヴ エ リ ウ ス の 義 務 は ま す ま す 重 く な っ た 。 だが、 i
r,l:初の天文台は、屋敷の階上の小:li!J1!.を
は本物的な天文徽測に釆り出した。彼の f
使 っ た も の だ っ た。 1644年 に は 、 屋 上 に 培 を 処 て 、 や が て 大 き な プ ラ ッ ト ホ ー
ムの上に小屋を築くなど、ヘヴェリウスは天文台を拡張していった。グリニッジ
天文台もパ リ天 文 台 もま だ な い 当 咋 ヘ ヴ エ リ ウスの天文台はヨーロッパド泊 二 を
誇 り 、 ポ ー ラ ン ド 国 王 も こ こ を訪れたという。
1
6
6
2年 に 、 へ ヴ ェ リ ウ ス は 段 初
の妥を失った 。 翌 年 再 婚 した 二 番 目 の 妻 は 、 彼 の 天 文 観 測 を 補 佐 し 、 彼 の 没 後 に
は、その 泣 稿 を 出 版 し た 。 そ の 一 つ、
の四 Ig,1690)は、
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『天文学の先駆者 (
目 的
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500を 必 え る 恒 星 を 、 星 座 の も と に 愛 理 し た も の で あ る
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天 文 観 閣 内 本 略 化 させた 1
帥 年 ご ろ 、 へ ゥ・ェリウ ス は 手 始 め に 日 蝕 や 日 蝕 の
rな っ た 。 観 測 対 象 は 、 や が て 太 陽 の 黒 点 や 惑 星 へ と 広 が っ て 行 っ た 。 彼
観測を r
647年 の 『 月 面 誌 』 で あ っ た 。 こ れ は
の最初の著作は、前々立にも取り上げた 1
旬 ここ で彼
彼 の 最 も 重 要 な 著 作 の 一 つ で 、 4年 間 の 観 測 を ま と め た も の だ っ た 6。
が 与 え た 月 面 の 地 形 の 名 前 は 、 フ ッ ク の 『 ミ ク ロ グ ラ フ ィ ア Jに も 現 れ る 。 し か
し、へウ'エ リ ウ ス の 名 称 体 系 は 、 )
' 'Y チ ョ ー リの も の に よ っ て 書 き 換 え ら い の
であった 。
ヘ ヴ ェ リ ウ ス は 、 イ ギ リ ス の 学 者 と つ な が り を 持 っ て い た 。 例 え ば 、彼とサミ
ュエル ・ハ
トリブの文 i
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iは 、 遅 くとも 1647年 に 遡 る ものだった, '
c 1650年 代
には、ヘヴェリウスの名声は磁立したものとなっていた。例えばホイへンスは 、
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四 年 の 引tr土 星 の 体 系 』 の 中 で 、 へ ヴ エ リ ウ ス が 『 土 星 の 本 来 の 形 に つ じ
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)で展 開し た 土 星 の 型 論 に
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言及した"。へヴエ リウスは 、 1664年 3月 30 日 に 王 立 協 会 の 会 員 に選出された。
彼を会員に迎える 提 案 は こ の日 に な さ れ た が 、 彼 が 「 卓 越 し た 価 値 を 持 つ 類 希 な
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していると制したc I
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oL 9,pp.72-73)の 記 述 に よ れ ば 、 ハ ー ト リ ブ の 母 叙 は 、 ヘ ヴ ェ リ ウ ス
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出 身 地 タ ノ ツ イ ヒ の イ ギ リ ス 人 閲 人 の 娘 だつ た
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71の 天 文 研 究
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る人物であるために、J!fJ口選 n
¥さ れ た J" の だ っ た o 1652年 、 へ ヴ エ リ ウ ス は
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ヘヴ ェ リ ウ ス と 長 大 望 遠 鏡
へ ヴ エ リ ウ ス は、 当 時 の 仙 の 人 々 と 問 機 に 、 望 .
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買の改 J
込に凶心を持っていた 。
へヴエリウスも、非球面レンズによって球而収差を回避することを知っていた "
しかし、彼の場合にもまた 、実際の改良は宝遠鏡を長大にする方向で逃められた !
へ ヴ エ リ ウ ス の 刷 の 著 作 で あ る 『月 耐 』 で 使
ので約 1
17{-トだった
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mさ れ た 四 銭 は 、 一 番 長 い {
これは、さほど長い3'lj
且鋭とはいえないが、彼はより
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心を示すようになった。
長い培法 鋭 に I
そ の 関 心 は 、 イ ギ リ ス と の 書 簡 の や り と り に も 現 れ た 。 へヴヱリウスは、
1
666
年 、 フ ッ ク の 木 星 と 火 星 の 観 測 の 見 事 さ に 弛IO、 印 象 を 受 け て 、 イ ギ リ ス か ら リ ー
ヴの 607{ート望遠 鏡 を 購 入 し よ う と 試 み た 。 彼 は ま ず 、 リ ー ヴ の 望 遠 鏡 の 締 法 と
設 置 方 法 に つ い て 説 明 を 求 め た "。 こ れ に 答 え て フ ッ ク は 、 自 分 が 使 用 し た 望 遠
5図 )
鏡の詳細を 、 図 を 橋 付 し て 解 説 し た ( 第 3
7 G0
それに よ る と 、 こ の 望 述 鋭
の 筒 は 、 四 角 い 俄 材 の 長 い 箱 (1
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f角 、 長 さ 337ィ ト ) を 二 個 つ な い だ も の だ
った 。 総 重 量 2∞ ポ ン ド 以 上 の こ の 望 遠 鏡 は 、 図 の よ う に 柱 か ら 釣 り 下 げ ら れ た ー
翌 年 の 州 、 ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 こ れ と同 じ 望 遠 鏡 を 作 っ て 送 る よ う に オ ル
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)・ 127ィートという記述が普 通 だ が 、 ダ ン ツ ィ ヒ の 17{ートが 通 常 の 1
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方 法 は 、 自 分 自 身 が 用 い た ロ ー プ を 使 用 し た 方 法 と は 具 なり 、 木 の f
したものであったと述べた。
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へヴエリウスは、望i
且鋭の選択にあたって、
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した」人物であるフックの院を仰るようにオルデンバークにー
した"。その望辿 鋭 は、へヴエリウスが後に i
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l川l発 注 し た フ ッ ク 担 の 顕 微 鏡 と と
もに 、 2年 後 の 1
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ミ8月 に ロ ン ド ノ か ら 送 り
職 人 ク リ ス トフ ァ ー ・コ
wさ れ た 。 こ れ ら は 、 光 学 総 機
γ ク が 作 製 し た も の だ っ た " 。 フ ッ ク と オ ル デ ノ 1¥-
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は 、 リ ー ヴ の 息子 三 これ を 注 文 す る の を 好 ま ず 、 新 世 代 の 優 秀 な 峨 人 コ ッ ク に ム
在 し た の で あ っ た so
へ ヴ エリ ウ ス の 元 に 着 い た 叫 鋭 の 焦 点 距 離 は 約 5
07ィートて¥当初予定したも
位向
のよりも短いもの で あった。だが彼は、このレンズを、これまで使った中で f
のものと 制
1
例 年 6月 、 ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 こ の レ ノ ズ を 使 っ
したというれ。
た望;gj~ を立ち上けていることをオルデンバーグに舎き送った"
へヴエリ ウ スは、
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抽 出n
a∞伯尚
年 、 『天文 機 械
一
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)Jをタ
ノ Yィ ヒ で 出版 し た " 。 こ れ は 、 四 分 儀 、 六 分 儀 な ど の 星 の 位 置 測 定 装 置 や 、 望
r607ィート光学望
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r号
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7線 を扱ったものだった。この本の第 2
0設は、
遠鏡 な ど の 観 i
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遠鏡 の 組 立 と 設 営 に つ い て 」 と 泌 さ れ て い る 。 そ こ に は 、
3
07ィートから 1
4
07{ト
ま で の 様 々 の 焦 点 距 般 の レ ンズが現れる・ 4 0 そ の う ち 、 507ィート の レ ン ズ は イ ギ
07ィー卜と 7
07ィ
ート
のレンズは 、へヴヱリウスが級
リスから送られたものであり 、 6
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ヘ ヴ エ リ ウ ス は 、 彼 の 著 作 を 何 冊 か イ ギ リス に 送り 、 望 遠 鏡 の 支 払 に 充 て る た め
!ここれを売却するようにオルデンパーグに依頼した。
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711の 天 文 研 究
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興味深いのは、彼が 6
07 ィート R! ~i売を焔えイ l
図と附すると容易に州、る
けた方法である ( 立í 36図 ) 。 立i35
Tう に 、 そ の 胤 は 「イ ギ リ ス に 従 っ た も の J"て'あ
り
、 7 ,y ク が へ ヴ エ リ ウ ス に 不 唆 し た も のだった。 そのこ と は 、 二 本 の 筒 を つ な
く ゾ ヨ イ ン ト の 部 分 に 特 徴 的 に 現 れ て い る 。 フ ッ ク も へ ヴ エ リ ウ ス も 約 3074J
の四 f
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Jい 筒 を j
百い"、高い支4
上から釣り下げたロープは、ジョイン卜部分から上
{
jJぴる柄に銭続された。どちらの場合も、釣り下げロープは、支柱の級元に
方に r
あるウインチで上下するようになっている
畠銭に
。へヴェリウスは、フックが望i
熟逮していることを認めたが、その彰線は、具体的にはこのような}~で現れた 。
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ヘ ヴ ヱ リ ウ ス の 『 天 文 綴 械 ・I
i日
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.J に は 、 非 常 に 長 い 望 i
卓鋭も現れた。これは、
第2
1j在
、
「主 主 々 の 設 長 の 望 遠 鏡 に つ い て 」 で 扱 わ れ た 。 こ こ で へ ヴ エ リ ウ ス は 、
1
5
07ィ ー ト の 望 遠 鏡 に つ い て 論 じ た ( 第 3
7図 ) 。 こ の 望 遠 鏡 は 、
4
07ィートの般の仮
07ィ ー ト の 望 遠 鏡 の 時 に は 、 各 単 位 ブ ロ ッ ク は 、 般 の
を組み合わせて作られた。 6
仮を四角くつなぎ合わせた筒だった。
にする必要があるため、
1
5
07ィ ト の 望 遠 鏡 の 場 合 に は 、 全 体 を 経 査
1ブ ロ ッ ク は 二 枚 の 板 で 作 ら れ た 。 仮 は T 字 型 に 組 み 合
Jけ た 仮 と 支 え 板 が 鋸 え 付 け ら れ た
わされ、ペれと垂直に、光の通る孔をVl
H
。こ
のようなフロックを四つつなぎ合わせて 、 全体をロープで巧みに釣り下げるよう
になっていた 。 使 用 さ れ た レ ン ズ は 、 ブ ラ ッ ー
ーニが作製したものであったと
ao ヘ ヴ ェ リ ウ ス の こ の E
望遠鏡は、対物レンズから接眼レンズに至る光
思われる s
絡の大部分がむき出しになっている 。 この部分を布で渡ったり、紙の筒を用いる
ことはできるが、ヘヴエリウスによると、復いがなくても実用上何等差し支えは
,. 1666年 4月 、 オ ル デ ン パ
グは、ブラッー
ィーニという人物がポーランドで
1
2
07i斗 の 長 大 望 遠 鏡 を 作 っ て い る と い う 明 を 聞 き 、 こ れ が 事 実 か ど う か へ ヴ エ
リウスに問い合わせた。これに対してへヴエリウスは 、ブラッティーニはイタリ
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ア生まれの彼と叙しい職人であり、長大レンズに取り組んでいること、その望i
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ニ製の 627i ト
と 707i-ト の レ ン ズ を 手 に し た こ と は 、
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ィ ー ト 川 で あ る 可 能 性 が 高 い 。 Hωc
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仰がりは
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J題 で あ る
へヴエリウスは、これを避けるために、望i.!i!~責の左右 三 カ所に峨搾を鍛え f.J け、
これと本体を 縫 うように回定ロープを走らせた
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この長大な望j
且鋭は、 I
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lて ら れ た 。 そ れ を 備 え 付 け た 支 住 の 高 さ は 約 907
; ト で あ っ た "。
フック の 望 退 鏡 短 縮 の 試 み
5
07
;斗望遠鏡は、
ヘヴェリウスの 1
上の長さ
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なかった
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例えば、
リーヴやコックの 6
07ィート望遠鏡の 2倍 以
ものだった 。 このような非常に長大な望述鋭は、イギリスでは流行
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だが大陸では、へヴェリウス以外にもこのような試みが見られた《
1脳
年 に 土 星 の 新 衛星 を 発 見 し た 時 、 カ ッ シ ー ニ は 、 カ ン パ ー ニ の ん
007;ートと 1
3
67ィートの望遠鏡を用いた 。 ま た オ ズ ー は 、
った 1
3007;ートと 6007;斗
の レ ン ズ の 作 製 に 成 功 し た と い う ・ 4。 と は い え 、 余 り に 長 大 な 望 遠 鏡 は 、 ど の 程
度の実用性があったのか疑わしし、 。 各 時 代 の 平 均 を 泊 え る 長 さ の 望 遠 鏡 は 、 実 際
の 観 測 に は 余 り 寄 与 し な か っ た の で あ る ・ 50 だ が 、 こ れ ら ほ ど 長 大 な 望 遠 鏡 で は
なくても、長い望遠鏡の操作は容易ではない。
これと関連して興味深いのは、長大望遠鏡をコンパクトにするために、フック
がいくつかの提案を行なったことである。その一つは、 液体を用いてレンズの焦
点距離を見かけ上長くする試みだった。フックはこれを、
1
6
65年 の fフ ィ ロ ソ
フイカル ・ ト ラ ン ザ ク ン ョ ン ズ j の オ ズ ー へ の 回 答 の 中 で 取 り 上 げ た " 。 そ の 詳
細は、翌年間誌に、
「小さな平凸猿面ガラスが、光線を 通 常よりはるかに速くの
距離の焦点に屈折するようにする方法」と題して収録された
E
@70
これは、真鎗の筒の両射を平面ガラスと平凸レンズでふさいだものを作り、で
き た 空 間 に 、 水 、 油 、 ア ル コ ー ル な ど の 液 体 を 詰 め た も の で あ る 。 中 に 詰 め る液
体の屈折率によってレンズ系全体の屈折率を 増減することができるので、見かけ
上焦点距較を
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;fすことが可能である。フックは、このような液体を詰めた光学
。
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・ねng(1955),p.62.
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9・ カ ッ シ ー ニ の 土 星 の 新 衛 星 発 見 に つ い て の イ ギ リ ス で の
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ただし、この望遠鏡は筒を
用いない空中望遠 鏡 として使用された。
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・ フ ッ ク は 、 こ の 年 の 5月 2
9日 の 王 立 協 会 会 合
:これを発表した。
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I-3 771の 天 文 研 究
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系を『ミクログラフィア』でも示唆している 。 それは、顕微鏡の 二つのレンズの
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<な ど を 満 た し た も の で あ っ た ・
1
mに、
フックのもう一つの工夫は、鋭の反射を
mいて光路を折り'."1:んだfI!.遠 鏡 で あ っ
6
6
7年 2月 2
8
た (第 38図 ) 。 フ ッ ク が こ の よ う な 工 夫 を 仮 初 に 従 来 し た の は 、 1
日 の 王 立 協 会 会 合 に お い て で あ っ た "。 彼は i
'
i
!刀 に 同 線 の 装 世 に つ い て の 発 表 を
行 令 た が 、 こ れ は 27iートの長さで普通の 67i トの望遠鏡の役引l
をするものだっ
た 1" 。 同 局 の 装 置 は 、
6月 6日 の 会 合 で も 話 題 と な っ た 。 こ の 時 フ ッ ク は 、 こ
のような望.i!;li.置を mい れ ば 、 手 軽 な 太 陽 望 i
畠鋭 (へ リ オ ス コ ー プ ) を 作 る こ と も
できるのではないかと述べた
。反射鏡の光の反射E
容が低ければ、反射を繰り
101
返 す う ち に 太 陽 光 は 減 衰 し 、 肉 眼 で 見 る こ と が で き る 程 度 の 切 る さ と な る 。 フッ
クは、これらをまとめて 附
年 1月 初 日 の 王 立 協 会 会 合 で 説 み 上 げ た
れは翌年に、ヵトラー講義の一つ、
l
HR;
『太陽皇遠鏡および他のいくつかの装置し二
いての記述 J ( 以 下 再 び 『 太 陽 望 i
皐 鋭 に つ い て Jと 略 す ) と し て ロ ン ド ン で 出 版
された。
フックはここで、太陽を見る術として、色付きのガラスを利用する方法、ラン
プのススの付いたガラスを用いる方法、太陽の像を望遠鏡で投射する方法、レノ
ズの口径を小さくする方法、レンズで像を拡大する方法などがあると述べた。そ
れらの欠点として、フックは色付きガラスやススを用いた場合、像に色が付いた
り像の鮮明?が失われることを挙げた。投射による方法も、拡大率が十分では什
〈、コントフストに問題がある。最悪なのは、レンス'の口径を小さくして光の
を 制 限 す る こ と で あ る と い う 。 こ う す る と 、 像 に 凸 凹 が で き て し ま - j IOJ
良いのは、像叫大することだが、これには像に虹が発生する問題ふぁ
jtN?
フックのぞ腸望遠鏡は、これらの問題を考慮して提案されたo 使用される反
鏡 は 、 黒 ガ フ ス や 黒 い 大 型 石 な ど 、 反 射 の 少 な い も の を mいる
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。もし、水銀
105
を裂に張り付けたガラスの鋭を使えば、これは望遠鏡として使用できる。この場
合には、ガラス表面での散乱光が問題である。だが、この問題は、平面ガラスで
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阜鏡の試みとしてい
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はなく、くさび型のガラスを使川することで防止することができる
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この本の '~I' には、ユニバーサル・
ヨイントや、天文観測を t
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i僚 に 行 な う た め
の工犬も現れる。これについては次主主で倣うが、興味深いのは、フックがこの本
の付録として、
1
6
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5年 1月 1日の月削l
の制 i
J
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Jを 収 め た こ と で あ る 。 こ れ ま で の
研 究 で は 、 フ ッ ク の 『 太 陽 望 遠 鋭 に つ い て Jの な 設 が 論 じ ら れ る こ と は な か っ た n
こ の 本 は 、 こ の 付 録 か ら も 分 か る よ う に 、 7 " ク の 望 辿 鋭 の 改 良 と 、 こ れ を 111J
た天文似剖J
rの 文 脈 の 中 で 、 初 め て 正 し く もI
Eえ る こ と が で き る 。
"
7 " ク と ガ リ レ オ ・ パ ラ ダ イム
卓鋭研究は、
以上の議論から、フックの望j
「ガリレオ ・パ ラ ダ イ ム Jの 第 二 J
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に対応するものであったことが分かる。すなわち、フックは、長大'1
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且鋭を
て、月、太陽、惑星の細部などの矧測を行なった。
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rミ ク ロ ク ラ フ ィ ア 』 の 中 に
は、月面誌にあたるものも収められていた。月面誌は、ヘヴエリウスやレンも取
り紐んだ課題だった。フックは、長大望遠鏡を使用し、その改良に関心を払った a
フックは、へヴエリウスに長大望遠鏡の設置方法を示唆した人物だった。フ
y
J
のこのような天文研究は、前章で論じたゴタード、ニール、レノらの望遠鏡への
取り組み、あるいは、ホイへンスのイギリスでの活動を考えれば、ごく自然に理
解できるものである。フ γ ク は 、 彼 に 先 立 つ イ ギ リ ス の 「 ガ リ レ オ
の匙長上に現れた人物だったのである。
パラタイム J
私たちは、フックの名前を耳にすると、彼のパネの法則や、顕微鏡観察を思い
浮かべがちである。しかし、このようにフックは、天文学者ーとしての側面を色怠
•
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つ
れ九
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〈持っていた。フックは、周凶からも天文学に取り組んでいる人物と思われてご
た。例えば、へヴェリウスとオルデンハ
'ーグは、t!ff
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iで た び た び フ ッ ク の 天 文 観
測を話題にした 107。 オ ズ ー も ま た 、 フ ッ ク の 木 星 観 測 に 関 心 を 示 し た 一 人 で あ
だが 7 " ク は 、 単 に 「 ガ リ レ オ ・パ ラ ダ イ ム 」 を 引 き 継 い だ だ け で は な か っ た 。
喧は、
J
に現れた 、このパラダイム自体を突き
「ガリレオ ・パラダイム 」の第二Jtl
破る新しい潮流を体現する人物でもあった。次章で論じるように、彼は、望遠鏡
の周辺に使われる 締 密 観 測 器 機 の 地 位 の 硲 立 の た め に 議 論 を 行 な い 、 自 ら も 初 密
観測を試みたのであった。
~ Gunthel
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、先に述べたへヴエ 1
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する関心。また、
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Jデータなど。これは、
グが送付したフックの月蝕置J!m
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sp,8,pp.349-353(
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ックが蝕肢 を 害 し た 際 に は 、 オ ル デ ン バ ー グ は 、 そ れ が 原 因 で カ
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!fき送った 。 OJdenburgCorresp,1
0,pp, 181-184
の新 衛 星 を 見 る こ と が で き な い と i
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- 171 U-3 711の 天 文 研 究
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