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Page 1 北海道教育大学学術リポジトリ hue磐北海道教育大学
Title
「清秋」札記 (下) : 詩語のイメージ
Author(s)
後藤, 秋正
Citation
札幌国語研究, 6: 35-44
Issue Date
2001
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2649
Rights
本文ファイルはNIIから提供されたものである。
Hokkaido University of Education
﹁清秋﹂札記︵下︶
−詩語のイメージー
本稿においては、前稿に引き続いて、杜詩中の﹁清秋﹂の語
に つ い て 見てゆく。
前屑の冒頸に、杜甫が宋玉に言及する﹁奉喪中王手札﹂を引
後
力だが、杜甫にとって帰州︵湖北省妨帰県︶は、彼が長江を下っ
て故郷に帰るためには必ず通過しなければならない場所だっ
た。∴杜詩において﹁宋玉﹂の名が単独で見える他の四例は悲秋
の念と密接に結びついている。.そのうちの﹁垂自﹂については
煙添歳有色
風引きて更に糸の如し
燵添いて歳かに色有り
後に触れる。大暦元年正月、婁安での五律﹁雨﹂の後半部を見
よ、つ。
風引更如糸
直ちに覚ゆ巫山の暮るるかと
いた。他にも杜詩には宋玉の名が十一例見えており、うち四例
は屈原とともに言及される。ここでこれらについて見ておこう。
杜詩中、宋玉に単独で言及する例は七例あり、うち﹁奉漠中王
直覚巫山暮
兼ねて催す宋玉の悲しみ
凄涼たるなり。
巫山の暮れは、雨後
﹃評注﹄は、
あらわ
昏翳たるかり。宋玉の悲しみは、客況
五こハは、雨の冥冥たるを承けて、其の細微なるを形す。
客況凄涼也。
五・六、承雨冥冥、形其細微。巫山暮、雨後昏翳也。宋玉悲、
この頸聯・尾聯について
もよお
兼催宋玉悲
要は通ず白帝城
手 札 ﹂ を 含めて三例は宋玉の故宅 を 言 う 。
宋 玉 帰 州宅 宋玉 帰州の宅
雲 通 白 帝城
﹁入宅三首﹂︵其の三︶
曾 聞 宋 玉宅 曾て開く宋玉の宅
つね
毎欲到刑州 毎に刑州に到らんと欲す
﹁送李功曹之刑州充鄭侍御判官重婚﹂
宋玉の故宅は楚の那︵湖北省宜城県︶にあったとする説が有
−35−
中国の文学が、秋を悲哀の季節とすることは、﹁楚辞﹂の
宋玉の﹁九弁﹂に、﹁⋮⋮﹂というのにはじまる。またそれ
と言う。長江を下る旅の途次で、﹁九弁﹂に詠じられたのと同
じ旅愁を感じていると言うのである。七律﹁詠懐古跡五首﹂︵其
で、﹁九弁﹂の著者宋玉を弔って、﹁揺落
が常に杜甫の意識にあったことは、のち婆州での﹁詠懐古蹟﹂
揺落
しみ﹂というのによっても顕著であり、諸往こぞってそれを
の二︶は、さらに﹁九弁﹂の世界と密接に関わっている。
揺 落 探 知宋玉悲
風流・儒雅も亦 た 吾 が 師
月﹂の﹁毛伝﹂にも、﹁春は女悲しみ、秋は士悲しむ、其の
うつ
のをも、顧慮すべきである。類似の語は、﹁詩経﹂﹁南風﹂﹁七
深く知る宋玉の態
風 流 儒 雅亦吾師
千秋を帳望して一えに涙を濯ぐ
引くのは、もとより正しい。しかしそれ以外に、﹁港南子﹂
ぉのこ
の﹁経称訓﹂に、﹁春の女は思い、秋の士は悲しむ﹂という
深く知る宋玉の悲しみ
慣 望 千 秋一混涙
粛粂
での作﹁秋日刑南送石首
時を同じくせず
粛 条 異 代不同時
︵湖北省江陵県︶
異代
大暦三年秋、刑南
帝明府辞満告別、奉寄啓尚書額徳叙懐斐然之作三十韻Lも宋玉
物どもの化りゆきに感ずる也﹂。しからば︹秋を悲しむ︺のは、
ただし、すがすがしい秋に、巫峡などの多くの渓谷のたたず
男子の自然であり、運命であり、ないしは義務である。
このように見てみると、杜甫が宋玉に言及するとき、その故
まいを哀しいと感ずるのは、成都における亡き厳武との親密な
に言及するが、旧交のあった帝景仙の文才を宋玉に喩えている
の で あ っ て、悲秋とはかかわらな い 。
宅を詠ずる例を除けば、李白とはほぼ対照的に、秋に悲哀を感
交遊の回想に触発されたからである。五律﹁垂白﹂も同年秋の
錦江春色逐人来
巫峡
錦江の春色
楼過独移時
江喧長少陸
清秋宋玉悲
垂白鴻唐老
楼退かにして独り時を移す
江喧しくして長く睡り少く
清秋
垂自
宋玉悲しむ
溝唐老い
作である。
じ取った﹁九弁﹂が濃厚に意識されていたと言えよう。
さて、再び﹁清秋﹂の用例を見ていこう。七律﹁諸将五首﹂︵其
巫峡清秋万墾哀
正に憶う往時の厳僕射
前漠の鳩唐は、高齢になっても、文帝に見出されるまで卑官
の五︶ の起・領聯は次のように詠じられる。
正憶往時厳僕射
共に中使を迎う望郷台
彼のような逸材の再来を願う。吾川幸次郎﹃杜甫Ⅱ﹄︵筑摩葦居、
は、かつての同僚であり、入朝する途次に荘川に立ち寄った李
もに、秋を悲しんでいる自身と重なる。﹁贈李八秘書別三十韻﹂
万墾哀し
人を逐いて来り
共迎中便望郷台
に甘んじていた。﹁鴻唐﹂と﹁宋玉﹂は老いて無官であるとと
一九七二︶は、﹁九日藍田謹氏荘Lの冒頭の﹁老去悲秋強自寛﹂
某を送別する詩である。
清秋
一篇は永泰元年︵七六五︶四月に死去した厳武を追想しっつ、
の句の﹁悲秋﹂について、次のように指摘している。
−36−
消息多旗峨
別浦落紅葉
清秋凋碧柳
経過
消息
別浦
清秋
里闘を欺ぜん
旗幡多く
紅葉落つ
碧柳凋み
厭うべきを覚ゆ。還と日い、故と日うは、之を厭うなり。
うところにして、而るに愁いを以て人 之を観れば、反って
反党可厭。日還、日放、厭之也。
漁舟の泣かび、燕子の飛ぶは、此れ人情・物情の各おの適
しば
経過歎里開
と言う。﹁故﹂を、ことさらにととるか、もとよりととるか、
議論は分かれるが、故郷に帰れずに斐州に掩留している杜甫に
この﹁清秋﹂ は﹁別浦﹂と対になって別れの時節を言い、し
かもそれは草木が凋落する﹁九弁﹂の描写と深く結びついてい
のは他の多くの詩が夕刻の清秋を述べていたのとは異なる。七
とって、澄み切った秋空を自在に飛び回る燕は、焦燥を感じさ
清秋を失す
ひさ
別日掩しく
る。ついで、五律﹁第五弟豊独在江左、近三四載、寂無消息、
風塵
せる存在なのである。この辞において早朝の清秋の景物を言う
風塵掩別日
江漢
寛便寄此二首﹂︵其の二︶を見よう。
江漢失清秋
仙遊
と
仙遊終一問
女楽久しく香無し
つい
律﹁闘鶏﹂は、玄宗の開元年間における、鷹山のふもとにあっ
懐懐
すす
る。
を半
引こ
た華清宮での遊楽
楽を
を追追
る後
。半後
をう
引。こう。
女楽久無香
寂実た乃鷹山の道
この一聯は、戦火に隔てられて弟の確かな消息もわからず、
寂美麗山道
清秋
終に一たび閉ざされ
粛散たり個霧の晩
清秋草木黄
すがすがしい秋が虚しく過ぎていこうとしていることを言う。
帯散個霧晩
凄清たり江漢の秋
﹃詳注﹄は、典拠として何遜﹁還渡五洲﹂の、次の句を引く。
凄清江湊秋
著修を極めた婁遊も行なわれなくなり、鷹山への道も閑散と
草木黄なり
すがすがしい秋も、弟豊の不在による欠落感によって悲哀と
過ぎた唐王朝の凋落ぶりを述べて無限の悲哀をたたえている。
﹃評注﹄は末句が宋玉﹁九弁﹂のみならず、漠の武帝﹁秋風辞﹂
tて草木が黄葉しているだけであろう、というのは、全盛期を
朝呼静かなり
の、次の句も意識することを指摘している。
結びつくのである。次にこの時期の代表作とされる、七律﹁秋
千家の山郭
翠微に坐す
興人首﹂のうち、︵其の三︶ の前半を引こう。
千家山郭静朝曜
日日
江楼
日日江楼坐翠微
還た汎汎
秋風起りて白雲飛び
信宿の漁人
秋風起今白雲飛
信宿漁人選汎汎
送示、二首﹂︵其の二︶にも用例がある。
草木黄ばみ落ちて雁南に帰る
草木黄落今雁南帰
ことさら
故に飛飛
清秋の燕子
また、大暦二年︵七大七︶夏の、五律﹁舎弟観、帰藍田迎新婦、
漁舟之法、燕子之飛、此人情物情之各適、而以愁人観之、
第三・四句について、﹃杜臆﹄
、
清秋燕子故飛飛
−37−
衣裳判白露
豊田莫滞留
楚塞難為路
鞍馬
衣裳
清秋に倍す
白露に判す
藍田に滞留する莫れ
楚塞は路を為し難し
塘蜂鳴林椎
開秋兆涼気
撼蜂.林推に鳴く
開秋 涼気を兆し
30未憂筋力弱
29錐悲髪髭変
未だ筋力の弱きを憂えず
髪髭の変ずるを悲しむと難も
上の寓意は見られない。同年秋の﹁昔遊﹂︵全三二句︶には、
とあるのを踏まえたものであるが、﹁清秋﹂に、季節を示す以
の冒頭に、
てす。︶とあり、院籍﹁詠懐静十七首﹂︵其の七︶︵﹃文選﹄巻二三︶
鞍馬信清秋
杜観に向かって、秋になったら新婦を携えて速やかに帰って
汝去きて妻子を迎う
くるようにとうながしているのであるが、︵其の一︶の冒頭に、
汝去迎妻子
高秋
却回せんこと を 念 う
高秋念却回
肇﹁杜甫﹃杖葬﹄考﹂︵﹁筑波中国文化論叢﹂五、一九八四︶は、
と言う。﹁杖葬﹂とは、あかぎのつえをつくことであり、松本
とあるのに留意したい。この連作において杜甫は、﹁清秋﹂と﹁高31杖泰望清秋 泰を杖ついて清秋を望む
秋﹂とを峻別する意識はなかったのであろ、γ。先に引いた同じ 32有興人慮零 輿の庭零に入らんとする有り
憂州での作で虜る﹁夜﹂の冒頭には、次のようにあった。
’︼
露 下 天 高 秋水清 露下り天高くし て 秋 水 清 く
趣に乗じて庭山・蕃山を訪ねてみようと、新たな気力が湧き起
空 山 独 夜 旅魂驚 空山 独夜 旅 魂 驚 く
この詩の用例について、﹁老衰のイメージを導き出す﹂と指摘
天が高く感じられ、空気や水が澄みわたっていることが同時
している。しかし、この詩の﹁杖葬﹂から、過度に老衰のイメー
に描写されるのは、そもそも宋玉﹁九弁﹂に、旅にある悲哀と
ジを読み取ることは不要であろう。白髪になったことは憂えて
ともに、秋のこの二つの属性が取り上げられていたからである。 も、筋力までは弱っていないから、清秋の空を仰ぎ見ては、興
もうしばらく杜詩における﹁清秋﹂の用例を追ってみよう。
●
●
●
大暦二年六月の七律﹁季夏送郷弟舘陪貴門従叔朝謁﹂は、同郷
こったと言うのであるから。むしろこの詩は、同時期の作であ
の杜留が杜鴻漸に従って帰朝するのを見送った詩である。
る五律﹁秋晴﹂と言わんとするところが近いであろう。
わた
莫度清秋吟播蜂 度る莫かれ清秋 蛙蜂吟ずるを
高秋蘇肺気
高秋 肺気蘇せんとし
、えが
早聞黄閤画麒麟 早く聞かん黄閤 麒麟に画かるるを 白髪自能枕 くしけ 白髪 自ら能く枕ずる
●
泰を杖ついて還た客を拝し
●
杖奉還客拝
竹を愛して児をして書せしむ
●
漠の王褒の﹁撃王得賢臣項﹂︵﹃文選﹄巻四七︶に、﹁塘蜂侯秋吟﹂
愛竹遺児書
塘蜂が秋に吟ずるという表現は﹃詩経﹄画風、﹁七月﹂のほか、
蝉妨出以陰。﹂︵塘蜂は秋を侯ちて吟じ、蜂蜂は出づるに陰を以
ー38−
十月
江平穏なら ば
病髄
衰柳に宿す
孤り飛びて俗眼醜とす
ひと
指摘するように要州滞在中の作品である可能性もある。
病鶴孤飛俗眼醜
江辺
巳に身を側て
十 月 江 平穏
ゆ
毎夜
落日
鋳りて首を廻らす
進めて如く所のままにせん
軽舟進所如
毎夜江辺宿衰柳
清秋
帰濾
軽舟
清らかに高く澄みわたった秋の空気は、一時的にせよ、杜甫
清秋落日巳側身
過雁
そばだ
を新たな行動に駆りたてる蘇生のエネルギーを与えているので
過雁帰鳴錯廻首
の秋を体験しているはずである。しかし、﹁清秋﹂の語にこれ
以後の用例はない。
暦三年の作であるとすれば、杜甫はこののち、少なくとも二度
て、もはや杜甫に膚新な活力を与えてはくれない。この詩が大
甫自身の投影でもある。﹁清秋﹂も、﹁落日﹂のイメージと重なっ
むなり。︶と言うように、病んで毛もまばらになった鷹は、杜
﹃評注﹄が、﹁此見野鶴而自傷也。﹂︵此れ野鶴を見て自ら傷
董じ
ある。このことについて﹁秋晴﹂詩の﹃評注﹄が引く﹁鶴注﹂
l山一−1︳
一Jま、
秋晴、与清秋不同。清秋者、秋気粛清也。秋晴者、詞身連
秋候、得以清爽也。
秋侯に逢い、以て清爽たるを得たるを謂うなり。
秋晴は、清秋と同じからず。清秋は、秋気 粛清たるなり。
秋晴は、身
という指摘がある。この発言は、特に第一句に着目してのもの
と考えられる。同じ年の冬、施州︵湖北省恩施市︶刺史の装某
が手紙とかわごろもを贈ってくれたのを感謝した詩である﹁寄
宿昔一たび逢いしに比流無かりき
廊廟の具
東序に在り
悲哀をともなって感傷的な色合いを示してくるのは秦州以後、
都に着くまでの用例は悲哀とは結びつかない。それが旅にある
杜詩における﹁清秋﹂の語について、ここまで見てきたとこ
廊廟之具斐施州
大鉢
清秋に懸かる
裳施州﹂ の冒頭には次のように見える。
宿昔一連無比沈
金鐘
玉衡
すでに﹁奉漠中王手札﹂辞で見たように、杜甫が﹁悲秋﹂の
とに悲哀との結びつきが色濃くなっていると言える。これは帰
郷の可能性が確かにならないままに旅を続けて行く中で秋に出
逢っていることと密接に関連するであろう。
成都滞在中の作品からである。斐州滞在中の用例からは、とき
に﹁清秋﹂から清新な活力を与えられることがあるものの、こ
四十代前半から見られる﹁清秋﹂の語だが、秦州に至り、成
ろをまとめておくならば、以下のようになろう1
金鐘大鋪在東序
妹壷
蒙施州
沐壷玉衡懸清秋
第二聯は国家の重鎮としての蒙施州の才能を請えるもので
あって、玉壷の氷と玉衡が清らかな秋夫に懸かっているという
のも比喩的な表現である。
その後、襲州を離れて江陵へ向かってからの杜甫の詩には、
﹃評注﹄などが
﹁清秋﹂と熟した語は一例が見えるに過ぎない。そのうち、江
陵での﹁野鶴行﹂を見よう。ただしこの作品は
−39−
語を用いなかったわけではない。ここで杜辞中の﹁悲秋﹂の用
君が歓を尽くす
老去悲秋強自覚 老い去きて悲秋に強いて自ら寛くす
例について挙げておこう。
ゆる
輿来って今日
なかった理由にもなっているのではあるまいか。
二
最後に、杜甫とほぼ同時代、及びそれ以後の詩人達の用例に
宮四詠﹂︵其の三︶は、﹁清秋﹂の語こそ用いないものの、清の
輿 来 今 日尽君歓
常に客と作り
ついてもぎっと見ておこう。元結︵七一五−七七二︶の五経、﹁石
悲秋
﹁九日藍田雀氏荘﹂
万里
秋気清く
万 里 悲 秋常作客
石宮
山谷に宜し
字を重ね用いて秋の清らかさを強調している。
石宮秋気清
清気
独り台に登る
清気宜山谷
落葉は霜風を逐い
多病
落葉逐霜風
百年
夕べに向いて 終 わ る
﹁登高﹂
おわ
客と為りて時の了る無きに
お
悲秋
幽人は松竹を愛す
1爽節在重九
物華
爽節
雨余に新たなり
重九に在り
まじ
金澤に散ずるの初め
お
2物革新雨余
●
黄葉下ち
■
清秋
●
3清秋黄葉下
●
菊
示懐﹂
︵七二九−七九五︶
は、重陽
の﹁奉和聖製重陽旦日百寮曲江宴
︵仝二〇句︶は、徳宗の詩に応制したものである。冒頭
桂元翰
12済済羅替据 済済たり羅替の裾
11鉾銀閣練竹 鋪鋸として般竹を問う
︳●
4菊散金澤初
陽日、中外同歓、以詩言志、国示群官﹂︵全一四句︶
の日の宴遊を歌う。
哀と結びつけることはない。徳宗・李適︵七四二−八〇五︶の﹁重
元結は、落葉が舞う秋の風情を好ましく感じてはいても、悲
幽人愛松竹
百 年 多 病独登台
為客無時了
悲秋向夕終
﹁大暦二年九月三十日﹂
﹁大暦二年九月三十日﹂について﹁九家注﹂は、
遭云、陸機云、吾将老而為客、題是九月三十日則秋之可悲者、
向今夕而終尽也。
3
は是れ九月三十日なれば則ち秋の悲しむべきは、今夕に向い
遮云う、陸機云う、吾は将に老いんとして客と為ると、逢
お
て終尽するなり。
の尾聯には、
と亭っ。陸機の作品とは﹁歎逝既﹂を指す。用例は少ないが、﹁九
日荏氏藍田荘﹂
明年
誰か健なるを知らん
明年此会知誰健
酔いて栗東を把りて仔細に看る
此の会
酔把菓英仔細看
と言っているように、杜諸における﹁悲秋﹂は、明日をも知れ
ない命、旅を続けていつ尽きるとも知れない命と重く結びつい
ている。この点が﹁清秋﹂﹁高秋﹂とは異なり、杜甫が頻用し
一40−
豊に偶いて昌期を親
このことばである。唐詩に用例が多見するが、権徳輿の﹁劉
深まる。そうした秋の月の夜、しかも仲秋の月夜を表すのが、
く感じる。それも月光の満ちる夜であれば、涼気は視覚的に
偶聖親昌期
恩を受けて弱質を恵ず
端公の八月十五日の夜月に対して懐わるるに酬ゆ﹂の﹁涼夜
の句を見ておこう。
受恩恵弱質
幸いに良き宴会に逢う
清秋半ばにして、空庭に暗月
ふ
幸逢良宴会
況や是れ清秋の日
あ
況是清秋日
典型である。
と述べている。このような、涼風・月光と清秋との取り合せは
円かなり﹂というのがその一
これらの秋の婁遊を歌う詩には、当然のことながら悲哀の気
配は微塵も感じられない。
巳に先ず知る
来ること幾時ぞ
一望金波照粉田一望の金波
日夜璃台寺対月絶句﹂にも、
涼風遥夜清秋半 涼風 遥夜
粉田を照らす
清秋半ばにして
権徳輿の噂好にかなったものであったらしい。五絶﹁八月十五
清秋
竹に映 じ
の五律﹁和太常李主簿秋中
清秋来幾時
宋玉
霞
地に満 つ
次に慮倫︵七四人?−七九人?︶
宋玉巳先知
晴朗
山
山下別萱即事﹂の起聯と領聯を見よう。
晴 朗 霞 映竹
澄明
の五律﹁八月十五夜玩月﹂には、
清秋の語こそ見えないものの、平易な表現をもって暑熱の去っ
劉南錫︵七七二−八四二︶
と、類似した表現が見えているからである。
澄 明 山 浦池
﹁宋玉﹂の名は見えているが、詩全体に悲哀感は漂ってはいず、
天将今夜月 天
の鋭敏な感覚が秋の到来をまず始めに
捉えたこと言う。権徳輿︵七五人1八一五︶
起聯は、季主簿︵季賛︶
八月十五日夜対月見懐﹂にも清秋の語が見られる。
一遍洗衰滅一遍 衰滅を洗う
暑退九零浄 暑さ退きて九零浄らかに
たあとの秋の夜のすがすがしさを言う。
もつ
今夜の月を将て
涼夜
秋澄万景清 秋澄みて万景清らかなり
の五律﹁酬襲端公
涼夜清秋半
空庭に略月円かなり
自居易︵七七二−八四大︶
清秋半ばにして
空庭暗月円
動揺して積水に随い
の炎熱に苦しみ、﹁清秋﹂は到来しないのかと思った
の﹁苦熱喜涼﹂は、江州︵江西省
動揺随穂水
晴天に満つ
経時苦炎暑 経時 炎暑に苦しみ
分を引こう。
未に、.ようやく涼しくなったことを詠じたものである。冒頭部
九江市︶
咳潔
秋[上]﹄︵同朋舎、
一九八九︶の﹁涼夜﹂
吸潔満晴天
﹃中国文 学 歳 時 記
の項︵執筆は横山伊勢雄︶ ではこの詩を引いて、
秋は空気が澄み、夜ともなればひんやりとしてすがすがし
−41−
但だ煩倦す
嘗て聞く詔妃の鞍
心体
嘗開客妃鞍
水を渡りて塵を生ぜんと欲すと
心 体 但 煩倦
白 日 一 何長 白日一えに何ぞ長き
あ
清 秋 不 可見 清秋 見うべからず
渡永欲生塵
好し棉娩の書くるを借りて
絶﹁房君珊瑚散﹂に用例がある。そのうち、登第を願う﹁横﹂は
次のように詠じられる。
また、七律﹁張十八員外、以新詩二十五首見寄郡楼月下吟、
好借婦蛾著
寿城、南省
玩通夕、国選巻後、 封寄微之﹂にも用例がある。
清秋
寿城南省清秋夜
江郡
明月の時
月輪を踏まん
清秋踏月給
江郡東楼明月時
我を去ること三千六百里
清秋の夜
去我三千大音里
君が二十五篇の詩を得たり
東楼
得君二十五篇詩
﹁秦城﹂は、張籍のいる長安、﹁江郡﹂は、自居易のいる杭
この例は、表面上は月が明るく照る秋を言う。﹁房君珊瑚散﹂
の起・承句も同様である。
不見桓蛾影 見えず桓蛾の影
清秋守月給 清秋 月輪を守るを
李商隠の例は、いずれも婦蛾の伝説と結びついている。つい
で、会昌二年︵八四二︶の進士、地蔵の七絶﹁宛陵館冬青樹﹂
州を指す。この清秋の語は、単に秋の季節を言う。貫島︵七七
九−八些二︶
を見よう。宛陵は安徽省宣城県。彼は開成三年︵八三人︶ころ、
湖光
海月
高楼を射る
自浪より出で
清秋欲尽客重過
碧樹如梱覆晩波
故園にも亦
清秋
碧樹
尽きんと欲して客重ねて過る
個の如く晩波を覆い
の従弟である無可の五律、﹁中秋夜南楼寄友人﹂
の 起 ・ 領 聯は次のように詠じられる 。
海月出自浪
朗吟して緑酒無く
故園亦有如蠣樹
再びここに寓居していた。
湖光射高楼
清秋を買う
鴻雁不束風雨多
鴻雁来らず風雨多し
の例は月の照らす桂林の秋を言う。
遥問桂水鏡城隅 遥かに聞く桂水 城隅を繰り
城上江山浦画図 城上の江山 画図に満つと
為間尊家洲畔月 為に問え醤家洲畔の月
府楊中丞﹂︵其の三︶
秋が深まると異郷で過ごす孤独感がいっそうつの′るのであ
る。また彼の、全篇の結句に無の字を用いる七絶﹁十無詩寄桂
よぎ
朗吟無緑酒
賎価
︵其の二︶
梱樹の如き有り
賎価買清秋
ぺノ
清秋を拍つ
の進士で、
領聯は、良い酒がないのですがすがしい秋だけを伴侶とする
というのであろうか。大中年間︵八四七−八五九︶
歌板
初め分かれて翠黛愁え
▲4−
李商隠と交際のあった雀荘の七律卜﹁和人聴歌二首﹂
錦楚
紅瞼
の例は、楽曲の名を言うのであろ、γ。
紅険初分翠黛愁
錦 楚 歌 板拍清秋
季商隠︵八一二?−八五人︶ には、五絶﹁裸﹂と、同じく五
−42−
清秋擬許酔狂無
清秋
†
いな
酔狂を許さんと擬るや無や
成通十一年︵八七〇︶の進士である張喬の五律﹁書辺事﹂は、
春風対青家
征人借戊楼
詞角断清秋
白日
春風
征人
調角
梁州に落つ
青嫁に対い
戊楼に侍る
清秋に断え
遠征に従う兵士の望郷の思いを詠じている。
白日落梁州
は、厳しく身の引き締まる秋というほどの意味
この・﹁清秋﹂
であろう。唐彦謙︵?−八九三?︶の七律﹁蒲津河亭﹂は、長
較的多いようだ。宋玉﹁九弁﹂が中・晩唐においてもなお濃い
︵続完︶
鈴木修次﹃人生有情﹄︵東京書籍、一九七七︶の﹁高秋・
注
影を落としているということなのであろう。
l
悲秋・白秋﹂の項は、次のように指摘している。
︵杜甫は︶若い時期は、秋のさわやかさを愛した。年をとっ
甫は、秋といえば
悲しみに結びついた。﹁高秋﹂という
てからは、秋の深い感傷を愛した。⋮⋮しかし、晩年の杜
′
葬景澄み
原文︵﹃文選﹄巻一六︶は次の通り。
の連想にすりかえられてゆく。
﹁秋水﹂は、一本に﹁秋気﹂に作る。
いいかたが、しだいに﹁悲秋﹂ということばに、また﹁悲秋﹂
清秋
農輿に向かう
雨が止んだあとのすがすがしさを言い、さらに異郷での別れの
宿雨
高樹
寂 し さ を 詠 ずる。
宿雨清秋弄景澄
広亭
郷を思い古を懐い別れを傷むこと多し
●●●●●●
息郷懐古多傷別
況んや此れ衷吟
意勝えざるをや
況此京吟意不勝
この﹁清秋﹂は ﹁九弁﹂と重なり合うであろう。ちなみに、
彼の七律、﹁秋日感懐﹂の胃頸には次の旬が見えている。 て客と為る。
4 雀荘が社寺を愛好していたことは、﹁道林寺﹂辞に、次の
渓上芙蓉映酔顔 渓上の芙蓉 酔顔に映ず
旬が見られることから確実である。
悲秋宋玉撃毛斑 悲秋 宋玉 髪毛斑なり
我吟杜詩清人骨 我社詩を吟じて清らかなること骨に入る
唐彦謙は晩唐にあって、宋玉﹁九弁﹂の悲愁を直接的に継承
していると言えよう。このような例はあるが、総じて中・晩潅
唐頂何必須醍醐 潅頂 何ぞ必ずしも醍醐を頚いん
﹃全唐詩﹄巻四九一にはこのほか、王初の七絶﹁即夕﹂を
の用例においては特定の故事なり典拠なりを偏愛する傾向は見
られない。ただし、旅途や左遷地にある憂いと結びつく例が収
比録する。冒頭の二旬は、次の通り。
楽陳心其如忘、哀縁情而来宅。託未契於後生、余将老而
為客。
勢しみは心に陳れて其れ忘れたるが如く、哀しみは情に
縁りて来り宅る。末契を後生に託し、余は将に老いんとし
広亭高樹向農興
5
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検案諷零碧漠流 桧葉 諷零して碧漠流れ
玉塘殊霧雨清秋 玉塘 珠霧雨つながら清秋
しかしながら、周助主編膚詩大辞典﹄︵江蘇古希出版社、
一九九〇︶、柊培基編撰﹃全唐詩重出誤収考﹄︵駅西人民教育
出版社、一九九大︶が多くの例証を挙げ、唐人ではなく宋の
仁宗の天聖二年︵一〇二四︶の進士であることを論証し、﹁即
夕﹂詩も﹁七夕﹂と題して、﹃仝宋詩﹄巻一七七に収録する
ことを指摘している。従って引用しなかった。
︹付記︺
本稿はもともと横山伊勢雄先生を追悼し、その学恩に感謝
して出版した松本肇・後藤秋正編﹃詩語のイメージー唐詩を
読むために﹄︵東方書店、二〇〇〇・一一︶のために草した
ものであるが、紙幅の関係で同書には収載しなかった。また、
本稿の冒頭の一部は﹁国語国文学科研究論文集﹂四四・四五
集︵北海道教育大学札幌校国語国文学科、一九九人・一九九
九︶に掲載した拙文を補訂したものであることを断っておく。
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