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第8章 介護事故による人身損害と保険政策 ――賠償責任保険と定額

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第8章 介護事故による人身損害と保険政策 ――賠償責任保険と定額
第8章
介護事故による人身損害と保険政策
――賠償責任保険と定額保険スキームによる対応――
第1節 はじめに ―― 問題の所在と本章の構成
第2節 介護事故の性格と保険スキームによる対応
第3節
現行の賠償責任保険による対応
第4節
オルタナティブの検討(1)―― 無過失補償スキームによる対応
第5節
オルタナティブの検討(2)―― 定額保険スキームによる対応
第6節
オルタナティブの検討(3)―― 賠償責任保険と定額保険スキームの組み合
わせによる対応
第7節
保険スキームの組み換えと法的評価および実務との接合
第8節
まとめに代えて ―― 介護サービス契約および介護保険との関係
第1節 はじめに ―― 問題の所在と本章の構成
介護事故と人身損害、さらにこれらの損害をカバーする保険スキームとの関係を検討
するのが本章の目的である1。
介護サービスの提供プロセスにおいては、さまざまな事故やトラブルが発生する。こ
のうちとくに重大・深刻なのは利用者側に生じる人身損害であり、第 5 章・第 6 章でみ
たとおり、事業者側の損害賠償責任が問題となって裁判で争われることもある。そこで
事業者側では、第 7 章でみたように、このような賠償責任に備えるため、損害保険会社
による賠償責任保険への加入が一般的に行われている2。
しかし現行の賠償責任保険を中心とした介護事故への対応を見ると、第 7 章でも検討
したとおり、モラルハザードや無過失事故の扱い等に課題があることから、現行の商品
だけにとらわれず、より保険政策的な観点から、介護事故の事後的な被害者救済と、将
来的な介護事故防止の両方の観点を見据えつつ、介護事故への対応に際して望ましい保
険スキーム活用のあり方を明らかにする必要がある。そしてこれらが第5章や第6章で
検討してきた介護事故への法的評価と整合性を持つ形で位置づけられる必要がある。
262
以上のように考えると、本章で考察すべきことは、まず現在の賠償責任保険による損
失分散の内容と課題を把握することであり、またこれ以外の保険スキームによる代替的
な政策選択肢により、上記の問題点が解決され得るかどうかということであり、さらに
そのような保険スキームを導入した場合、前章までで検討してきた介護事故に対する法
的評価との間で整合性を確保できるかということである3。
そこで本章では、第2節で事故に際しての賠償責任保険の役割について概観したのち、
第3節で保険スキームによる損失分散のあり方を検討し、第4節・第5節・第6節で現
状を踏まえていくつかのオルタナティブを探る。第7節・第8節ではこれらを受けて、
介護事故への法的評価との整合性と、介護サービスを提供する契約のあり方への示唆を
探る。
263
第2節 介護事故の性格と保険スキームによる対応
2003 年に行われた「介護保険のサービス利用契約に関するアンケート調査」
(主任研
究者本澤巳代子)は、介護保険下における介護サービス契約に関する最近の代表的な調
査であるが、これによれば、介護サービスの提供に伴うトラブルで損害賠償が問題にな
った事業所は 18%にすぎず、問題とならなかった理由としては、
「賠償責任保険に加入
しているから」がもっとも多く挙げられている4。
すなわちこの調査によれば、介護事故における事業者の損害賠償の問題は、大半の場
合は保険で解決されていることになる。介護事故に際しては、その損害をカバーする民
間保険商品が、被害者救済に実際的な役割を果たしているわけである。この賠償責任保
険への加入は強制ではないが、第7章で見たように、実際には保険加入を事業者指定の
要件としている都道府県が多い。
ただし保険によるカバーということになれば、その保険事故の性格が問題となる。す
なわちここでは介護事故の損害というものが、保険によるカバーに馴染むかという点で
ある。保険がカバーする事故は、大数の法則が妥当するような、偶発的なものでなけれ
ばならないはずである。この介護事故の性格について、第5章・第6章の具体的な介護
事故の裁判例に即した分析を踏まえると、概ね以下の点を指摘できる5。
すなわち一方では、事故の発生はどこまでいっても不可避であり、その根絶は現実的
には不可能である。もし一切の事故が容認されず、事故の発生自体が強く非難されると
すれば、介護サービスの提供は事実上不可能となろう。とくに安全性の確保を最優先の
課題とするのであれば、
他のたとえば自立支援の要請や、
快適で人間らしい日常生活等々
のもろもろの価値が置き去りにされる危険もある。
いいかえれば介護事故は、事後的な評価のみで律することは適当ではない。ある程度
は確率の問題であり、損失分散の問題である6。
他方、介護事故は完全な損失分散の問題だとはいいきれない。一定の確率で、均等に
発生する不可避のリスクをどう分散させるかというだけではなく、事後的な評価も依然
として問題となる領域である。
端的には介護過誤というべき事故は、
防止可能であるし、
強く非難されるべきだといえる7。しかし高度に発達した社会においては、いわばその代
償として、一定の職業的危険の発生は不可避であり、その際に事故を発生させた側への
264
追及よりは、被害者の救済を優先するという考え方により、やはり保険による損失分散
は合理性を有する。ただ事故が相対的には防止可能であり、事業者側の過失により生じ
るという点で、不可避的な事故とは性格が異なるといえる。
このように介護事故には、一方では相対的に防止可能な事故、他方では不可避的な事
故というように、異なる性格のものが含まれている。これに応じて介護事故の事後的な
救済のあり方としても、全般的には損失分散の問題として、保険スキームにより対応す
ることが馴染む領域だとはいえるものの、一律の対応よりは、これらの事故の性格の違
いを踏まえた対応がはかられるのが望ましいと考えられる。ただし上述したような、防
止可能な事故と不可避的な事故とは、截然と分かれるものではない。事故防止努力と事
故発生との関係を図にあらわそうとすれば、概ね以下の〔図1〕のようなものになると
考えられる。
〔図1〕事故防止努力と事故発生頻度の関係
事故発生頻度
相対的に
防止可能な事故
不可避的な事故
事故防止努力
縦軸は、介護事故の発生頻度であり、横軸は事業者による事故防止努力の投入量であ
る。
防止努力の投入量を増やしていけば、
事故の発生頻度は減少していくと考えられる。
もちろん一定の防止努力のもとで、どの程度の事故が発生するかは変動幅(volatility)
が随伴するし、どのような局面での防止努力を図るかによっても影響が大きいが、それ
らを織り込んだ事故発生頻度が、防止努力の増加と逆行して増えるということはないと
265
考えられる8。
事故防止努力の内容は、人的資源の量的側面や質的側面、またそれ以外の施設の設備
面など、多岐にわたる。しかしそのような事故防止努力の投入を重ねていっても、事故
の根絶をはかれるとは考えられず、不可避的に発生する事故は残る。ただし不可避的と
いっても、それが絶対に不可避であるとは言いづらく、その意味ではまさに不可避「的」
であり、両者を截然と分けることは難しい。
たとえば介護事故のひとつの典型例であり、裁判例でもしばしばあらわれた「誰も見
ていないところでの転倒」を考えてみても、一見事故防止は困難に見えるものの、転倒
場面に即してみただけでも、手すり、床の材質、スリッパ、衣類などに関して防止手段
はいろいろあり得るし、なぜ「誰も見ていない」状況になってしまったのかという転倒
にいたるプロセスまで含めれば、防止の可能性はさまざまな形で考えられる。しかしそ
れらの手段を限られた経営資源の中で総動員して、完全にその種の事故を防止すること
が現実的に可能かといえば、否定的にならざるを得ないだろう。
このように、介護事故として括られる現象は、相対的には防止可能な事故から、不可
避的な事故というべきものまで、連続的に分布している。そして第 5 章・第 6 章の裁判
例の検討で見てきたように、事業者側の過誤が明らかで、弁解しようのない事故という
よりは、むしろ責任の有無がただちには明らかではない領域に位置する事故がしばしば
裁判にまでなり、裁判所が困難な法的判断を求められることが多いものと考えられる。
このような状況の中で発生する介護事故においては、とりわけその賠償責任をカバー
する保険スキームの位置づけと、法的責任のあり方とが密接に関連しており、それらが
あいまってそもそもの介護サービス提供のあり方にも影響を与え得ることから、両者を
トータルに視野に収めて検討する必要が大きいと考えられる。そこで以下では、まず現
行の賠償責任保険商品による対応の現状と課題について、モデルケースを設定して検討
する。
266
第3節 現行の賠償責任保険による対応
(1)モデルケースの設定
以下では介護事故が発生した場合に、その損害をカバーする保険スキームがどのよう
な役割を果たし得るか、モデルケースをもとに検討してみたい。
よく知られているように、以下で述べるような保険スキームによる損失分散・補償制
度については、とくに自動車事故の領域を中心に、保険論・法政策論・経済学等の観点
からかなりの学問的な検討が蓄積されている9。またアメリカの医療過誤をめぐるいわゆ
る不法行為危機とも関係が深いし、さかのぼれば労災保険の成立とも議論が共通する部
分は少なくない。
しかし本章では、
もっぱら介護事故への具体的な対応に焦点を当てて、
保険スキームの細部については捨象し、介護事故の法政策的および保険政策的な検討に
資する範囲に絞って述べる。
以下、保険集団を〔図2〕のモデルケースであらわすことで、保険によるカバーのあ
り方について検討していくこととする。すなわち5つの介護事業者(3つの○印、●印、
■印)が保険集団を構成し、それぞれ一定期間に1件ずつ介護サービスを提供するもの
と考える。この 5 件のサービス提供のうち、確率的に、2件の事故が発生するものと仮
定し、このうち1件(●印)については、事業者の「過失」により人身損害が発生し、
もう1件(■印)については事業者の「過失」にはよらない人身損害が発生するものと
する。これを〔図2〕ではそれぞれ【過失事故】
、
【無過失事故】と表記している。
いずれも事故による損害の額は一定とし、たとえば死亡による損害額が、一律 100 万
円に相当することを想定して、モデルケースでは 100 と表記する。この損害の全部又は
一部を、保険スキームによりカバーするため、各介護事業者が、保険者に対して保険料
を拠出することを想定し、さまざまな設計による保険スキームの役割を考える。
267
〔図2〕保険集団のモデルケース
保険者
保険料拠出
(一定の保険集団)
○
○
○
■
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
損害 100
損害 100
付言すれば、これらの仮定はもっぱら単純化のためのものである。とくに損害額の算
定は、実際には困難を伴う。また5件のうちで合計2件の事故が発生するというのも、
当然計算の便宜のための想定である10。
このモデルケースでの、少なくとも出発点における重要な前提は、法的な「過失」と
「無過失」が、区分されるという点である。実際には第 5 章・第 6 章の裁判例の分析で
見てきたとおり、両者の境界は紙一重であり、端的には原審と控訴審で判断が分かれる
こともあった11。また裁判にならない場合には、第7章で見たように、事業者側や保険
会社が「過失あり」
、
「過失なし」の線引きに関与してくる。しかしここでは、裁判を通
じてであれ、それ以外であれ、何らかのプロセスを経て、紙一重であるにせよそれらが
振り分けられることを前提として、問題を扱うものである。
(2)現状――賠償責任保険による対応とその問題点
第7章でみたとおり、現在、介護事故の損害をカバーする方法としては、
「指定居宅
サービス等の事業の人員、設備及び運営に関する基準」の趣旨を受けた賠償責任保険が
中心的な位置づけをしめている。その意義は、事故に際して事業者側の賠償資力を確保
することと、スムーズな賠償義務の履行が図られることである12。
この現行の賠償責任保険による対応を図であらわしたのが〔図3〕である。賠償責任
268
保険からの給付は、過失事故の場合(●印)のみに行われる。この損害額 100 を保険給
付でカバーするために、あらかじめ各事業者が均等に、20 ずつ保険料を負担する形にな
っている。
〔図3〕賠償責任保険による対応
保険者
保険料
20
20
20
○
○
○
20
20
■
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
保険給付0
保険給付 100
このような対応が、介護事故に対して一定の有効な解決となっているのは冒頭で述べ
たとおりである。しかしこの場合、ここまでの裁判例の検討を踏まえると、以下の問題
点を指摘することができる。
第一に、
「過失なし」とされた場合(■印)の被害者救済の問題である。第二に、無
過失の場合(■印)と過失の場合(●印)との取扱いの懸隔、いいかえればそのような
裁判所の過失認定にかかる判断の信頼性の問題である13。第三に、過失の場合(●印)
についても、その賠償額の支払を保険スキームにより行うことが妥当か、という問題で
ある。これらを順次検討する。
第一の問題と、第二の問題は、一応別の次元に位置する。すなわち第一の問題は、過
失と無過失が峻別できたとしても、なお事故により損害が生じている以上、
「過失なし」
の場合でも、被害者に何らかの救済があってしかるべきではないかという問題である。
比喩的には、想定外の自然災害の被害者に対して、特定の主体の過失により損害が発生
したわけではないものの、その損害に着目して何らかの被害者救済を行うべきかどうか
269
が問われる問題状況に近い。
これに対して第二の問題は、
「過失あり」
、
「過失なし」の差が紙一重であり、場合に
よっては裁判所の判断も「ぶれる」という状況の中で、保険による支払の有無もこれに
連動させて良いのか、という問題である。すなわち第5章・第6章で見たように、判決
はきわめて微細な事実認定と法的評価により決せられ、地裁レベルの判断が控訴審で変
更されることもある14。これらは第3章で検討したように、介護事故に際しては、作為
と不作為を包含する介護関係の性格や、
主体性と要保護性をあわせもつ利用者側の要因、
準専門性と職務を制約する諸要素が関与する事業者側の要因等が絡まりあって、類型
的・構造的に、その法的責任の有無にかかる評価を難しくしていることに由来する。
しかしもちろん第一の点と第二の点とは密接に関連している。すなわち介護事故が起
きて、骨折や後遺障害、死亡のような重大な損害が同じく発生した場合であっても、き
わめて微細な判断によって「過失あり」
、
「過失なし」の振り分けが行われて、過失が認
定された場合には保険によって損害がカバーされ、被害者に対する少なくとも金銭的な
救済は確実に図られる一方で、過失が認定されなければ事業者側からも、保険スキーム
からも一銭も支給されないという懸隔をどう考えるかという問題なのである。
ただしこれらは賠償責任保険があるかどうかにかかわらず存在する問題ではある。逆
にここで賠償責任保険が介在しないと、
「過失あり」の場合でも事業者側の賠償資力が正
面から問題になることとなろう。しかし介護事故の人身損害に対して、保険給付がある
かどうかは大きな差であり、紙一重の過失認定による「過失あり」
、
「過失なし」の二分
法を、そのまま保険による支払の「有無」に直結させる現行の解決方法には疑問も大き
い。
なおこれらのほかに、医療行為の場合など、法的責任は認められるが、賠償責任保険
でカバーされない領域があることは、前章で指摘したとおりである。
他方第三の、保険スキームによる金銭的解決の問題は、やや別の視点にもとづくもの
とも思われようが、第一、第二の視点とも無関係ではなく、被害者に対する金銭賠償に
よる解決というものの位置づけとも関連している。
序章でも触れたが、そもそも金銭的解決では「本当の解決」にはならないという立論
は大いにあり得る。しかし一つには、少なくとも法的対応の中では、刑事的対応や行政
的対応が必ずしも容易でないことを踏まえると、民事的対応が果たすべき役割は小さく
ないといえる。またそもそも「謝罪」や「真相究明」
、
「再発防止」こそが求められると
270
いうのも正論だが、それが可能であったとても、逆にそれらだけで「本当の解決」にな
るのかという疑問がある。要するに解決のすべてではないが、少なくともその重要な要
素として金銭的賠償があるのであり、そのあり方が本論文のテーマでもある。
しかし金銭的賠償が重要であるとしても、それらをすべて保険スキームからの給付が
「肩代わり」するということになると、若干意味合いが異なってくる可能性がある。そ
こではいわゆる不法行為法による損害賠償の目的として挙げられる内容のうちで、被害
者救済の要請は満たされるものの、将来的な抑止という観点は、かなり後退することに
なる。いいかえれば事業者側の法的責任は認められても、実際には賠償額は、事業者側
が固有の追加的な財政支出により支払わなくてもよいことになる。不法行為法の理念と
して語られる内容のなかで、いわゆる配分的正義の要請は満たされるものの、矯正的正
義の観点が乏しくなりかねない15。
もちろん賠償額の支払にかかわりなく、事業者側の法的責任を明らかにすることこそ
が、被害者側にとっては重要だというケースは多々あり得よう。実際、金銭が欲しいと
いうよりは、相手方に非があることを裁判所で認めて欲しいという理由で提訴するとい
うケースは珍しくないと思われる。
しかし少なくとも英米法のような名目的損害賠償や、逆に懲罰的損害賠償は認められ
ていない日本法のもとで、具体的な賠償請求等を離れて相手方に非があるかどうか自体
の判断を裁判所が行うことは、否定的に解されよう16。さらに多くの介護事故が、裁判
には至らずに保険により解決されていることからすれば、相手方に非があるかどうか自
体の判断こそが重要だという説明は、全体の中ではごく一部の紛争解決にしか妥当しな
いものだといえる。
なお保険料率がメリット制のもとで運用されていれば、保険事故の増加が次年度以降
の保険料支出にはねかえるので、その限りで事業者への制裁的効果や将来的な抑止的効
果が認められることになる。しかし少なくとも現在のところ、賠償責任保険は全般的に
はそのような形で運営されていないし、この規模の保険スキームで、過度でも過小でも
ない適切なメリット制を導入することは困難ではないかと考えられる。過去の事故発生
実績を、次年度の保険料率に有効かつ公正な形で反映させるのは、実務的にはきわめて
難しいことだといえる17。
この点は、保険料拠出のあり方とも関連する。本来、職業賠償責任保険は偶発的な賠
償責任の発生をカバーすることを前提としている。すなわち第2節で述べたとおり、高
271
度に発達した社会においては、いわばその代償として、一定の職業的危険の発生は不可
避であり、その際に事故を発生させた側への追及よりは、被害者の救済を優先するとい
う考え方で、職業賠償責任保険は組み立てられている。
しかし、もし事業者が努力を怠らなければ事故を防止できたとすれば、そもそも賠償
責任を保険スキームにより分散させるのは、理にかなわないことだということになる。
本来はその事故を発生させた事業者が単独で負担すべき賠償金額を、他の事業者に転嫁
することに他ならないからである。さらにいえばそれは商品やサービスの価格を通じて
国民経済全体に転嫁されることになる。
この点は、職業賠償責任保険全般について、意識はされているものの、基本的には被
害者救済を優先させるという観点から、いわば甘受されているものといえる18。もちろ
ん「必要悪」としてのみ割り切られているわけではなく、そもそも「過失あり」
、
「過失
なし」の境界線が引きづらいこと、また事業者が悪質な場合には求償権が行使される場
合があること、場合によっては前述したような料率による対応も可能であることなどの
事情が作用しているものと考えられる。
しかしながら、この点を介護事故にもそのまま適用してよいかどうかは検討を要する。
前述したように、介護事故の中には、不可避的なものがある一方で、事故防止努力を尽
くすことにより、事故の発生を減少させることが可能な面も小さくないからである。
ちなみにこの点は、医療事故とも対照的な点であろう。医療事故にも様々な類型があ
り、病院管理事故などはかなり介護事故と共通する側面を有するが、少なくとも典型的
な医療過誤といわれるものは、誤診や手術ミスのように、あるいは「リピーター医師」
という言葉が示すとおり、直接的に事故防止努力やそのために投入した経営資源とは関
わりなく発生してきたという側面が強い。またそもそもの医療行為についても、それが
治癒に結びついたかどうか、いいかえれば成功したか失敗したかについては不確実性が
大きく19、医療行為の結果不達成自体を事故や損害としてとらえるのが適当ではない点
も、介護サービスとの違いといえる。
(3)小括
現行の賠償責任保険による対応では、被害者救済の成否が事業者側の過失の有無にか
かっている。すなわち介護事故が発生した場合、一方では「事業者側に過失があれば、
272
賠償責任が発生するが、賠償額は賠償責任保険から給付される」が、他方では「事業者
側に過失がなければ、賠償責任は発生せず、賠償責任保険からの給付も行われない」と
いう明快な二分法への当てはめによって、対応が図られている。この点は裁判による場
合も、裁判に至らない場合も同じである20。
いいかえれば事案に対する法的評価としての「過失あり」
、
「過失なし」という二分法
を受けて、賠償責任保険スキームの側でも「オール・オア・ナッシング」の対応を行って
いるものといえる。
その背景には、個々のケースで事業者側の「過失あり」
、
「過失なし」の判断を正しく
行うことができるという前提がある。もちろんこのこと自体は、事案に対して法的評価
を行う場合に、とらなければならない前提ともいえる。
しかし第5章・第6章の裁判例の検討を通じて、具体的な介護事故の法的責任の有無
を判断することには相当の困難を伴い、各事案ではきわめて困難な判断が迫られている
ことがみてとれた。また実際には「過失あり」
、
「過失なし」のどちらかに区分する際に
も、各事案への法的評価には、認められる賠償額水準や法的構成等からニュアンスの違
いがあることが伺えた。それは一般的な法の適用において、限界的なケースがあるとい
う意味とは別の次元での、いわば介護事故全体に共通する困難性であるように思える。
すなわち第3章で検討したような、作為と不作為とを包含するような介護関係自体の性
格、また主体性と要保護性が併存する利用者側の要因、さらに準専門性と職務を制約す
る諸要素が関与する事業者側の要因等があいまって、介護事故を類型的・構造的に法的
評価を難しい領域にしているものと考えられる。これらの点は、医療事故とも異なる点
だといえる。
そしてここでの課題は、これら法的評価の困難性を直視したうえで、そのような法的
評価を通じた「法の適用」自体を断念することではなく、保険スキームとの関係を踏ま
えつつ、介護事故の事後的な被害者救済と、将来的な介護事故防止の双方の観点を見据
えながらその「法の適用」のあり方ないしは法的な対応プログラムの「組み換え」を模
索することだと考えられる21。
以下ではそのような観点から、制度設計のオルタナティブを探ることとする。
273
第4節 オルタナティブの検討(1) ―― 無過失補償スキームによる対応
(1)無過失補償スキームによる無過失事故への対応
前述したような現行の賠償責任保険による対応を踏まえて、とくに被害者救済という
点からもっとも重要な問題といえる、
「過失なし」と認定された事故における損害をカバ
ーしようとすれば、以下のような対応が考えられる。
すなわち無過失補償を行う保険スキームを導入し、
「過失なし」と認定された事故に
ついても過失事故と同等の給付を行えば、被害者救済が図られるとともに、過失認定に
かかる境界線の問題も回避される。
〔図4〕修正案1-1 無過失補償スキームによる対応(1)
保険者
保険料
40
40
40
○
○
○
40
■
40
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
修正案 1-1
保険給付 100
〔現行の賠償責任保険では、 保険給付0
274
保険給付 100
保険給付 100 〕
〔図5〕修正案1-2 無過失補償スキームによる対応(2)
保険者
保険料
20
20
20
○
○
○
20
■
20
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
修正案1-2
保険給付 50
保険給付 50
〔現行の賠償責任保険では、 保険給付0
保険給付 100 〕
まず〔図 4〕の修正案 1-1 は、無過失事故の場合(■印)も、現行の賠償責任保険に
よる過失事故に対する場合(●印)と同等の水準(100)を給付するものである。その
ために、給付総額は倍(200)となり、各事業者があらかじめ拠出する保険料の水準は、
現行の水準(20)と比べて2倍(40)になる。
これに対して〔図 5〕の修正案 1-2 は、各事業者があらかじめ拠出する保険料の水準
は現行と変えずに(20)
、無過失事故(■印)の場合にも過失事故に対する場合(●印)
と同等の水準を給付するものである。そのため給付水準が、現行の賠償責任保険による
場合の水準(100)の半分(50)になっている。
これらの仕組みは、事業者側の実質的な無過失責任を担保する自賠責保険に類似した
形や、後述するような、事故・損害自体に着目して、あらかじめ損害に応じて約定した
定額保険スキームにより設計することができる22。
なお給付額については、無過失補償スキームにおいては定型化に近づくことが指摘さ
れる。事業者側が負担する賠償金額は、実際には損害額の算定にかかわって、過失相殺
や寄与度減殺、素因減額等々の要素が加わってくるが、それらまで勘案すると、裁判を
経ないと保険給付ができなくなるので、あらかじめ損害に応じた給付をテーブル化して
275
対応する方向に傾くためである。とくに〔図5〕の修正案の 1-2 による場合には、無過
失であっても負担する賠償責任そのものをカバーするわけではないので、定額保険スキ
ームによらざるを得ない。
(2)無過失補償スキームの評価
このような無過失補償スキームを、現行の賠償責任保険を評価した際の3つの視点、
すなわち「無過失事故への対応」
、
「過失・無過失での取扱いの懸隔」
、
「保険による金銭
的解決の意味合い」という視点から評価してみると、以下の点を指摘できる。
まず第一の無過失事故への対応という点では、まさにこの無過失補償スキームが役割
を果たす。
「過失なし」とされたが、人身損害が発生しているケースについても、保険ス
キームを通じた被害者救済が図られることになる。
もっとも〔図4〕の修正案 1-1 では、現行の賠償責任保険による場合と同じ水準の給
付が行われているものの、そのための各事業者の事前の拠出が倍になってしまう。逆に
事前の拠出額をあがらないようにすれば、
〔図5〕の修正案1-2 のように、給付は過失
事故の場合も含め、半分になってしまう。
次に第二の過失・無過失での取扱いの懸隔についても、紙一重の過失の有無の判断か
ら、被害者救済の有無が決まってしまうという問題が、無過失補償スキームによって解
消されるといえる。ただその反面として、新たな問題が浮上する。すなわち過失事故で
も無過失事故でも同じ額が支給されることになり、事業者側の法的な責任を追及するこ
との意味が薄れる点である。
このことは被害者側からすれば、事業者側の過失を、少なくとも金銭的な意味では追
及する契機を失うことになる。また事業者側からしても、過失事故をなくそうとする外
的なインセンティブを失うことになる。とくに第7章第4節で検討したように、現行の
賠償責任保険においても、
保険加入に伴う事故防止インセンティブの減少は生じうるが、
無過失補償スキームを導入することにより、過失事故と無過失事故の境界線が全くなく
なってしまうことによって、事故防止のインセンティブにさらに大きなマイナス面での
影響を与えることが考えられる。
これらのことは、第三の保険による金銭的解決の意味合いとも関連する。すなわち現
行の賠償責任保険においても、保険スキームが賠償を「肩代わり」することに伴って、
276
将来的な事故抑止的効果、矯正的正義の観点が後退することを指摘したが、この点が無
過失補償スキームではさらに決定的になる。過失事故であれ、無過失事故であれ、損害
に見合う金額が給付されるということになれば、裁判を起こそうが起こすまいが、また
裁判の結果がどうであろうが、事業者の責任を追及するという契機はほとんど失われ、
また給付される金銭も、事故の発生を受けてごく機械的に支払われるという性格を帯び
てくることは否定しがたい。
この点は、保険料拠出の段階でも問題となる。第3節で述べたように、現行の賠償責
任保険においては、事故防止に努力しなかった事業者の賠償責任を、事故防止に努力し
た事業者の拠出からまかなうことの是非が問題となり得る。その意味では無過失補償ス
キームにより、不可避的な事故も含めて保険でカバーする方が、むしろ事業者全体によ
る損失分散という意味では望ましい方向ともいえる。
ただし前述したように、不可避的な事故についても、防止努力の余地はないわけでは
ない。賠償責任保険に随伴するモラルハザード的な要素が、無過失補償スキームにより
増幅されない保証はない。すなわち無過失補償スキームが導入されることで、比較的防
止が容易な事故についても、また不可避的な事故についても、事業者側が全体として事
故防止努力をより投入するのではない方向に作用する可能性がある。保険スキームに拠
出しなければならない保険料水準が目に見えてあがれば、事業者側の経営を圧迫するこ
とも無視できない。たとえば〔図4〕の修正案 1-1 では保険料水準は2倍に上昇してし
まう23。
なおこれらとは別に、どこまでを無過失事故の範囲に含めるかという難問がある。す
なわち無過失補償スキームの導入により、過失と無過失の境界線の問題は解消されるも
のの、今度はどこまでが無過失補償スキームがカバーする「事故」なのかという問題が
前面にあらわれる。たとえば施設内で要介護高齢者が病死した場合は、介護事故とはい
いづらいのは当然である。しかしたとえば施設内で誤嚥性肺炎により死亡した場合を考
えると、
どこまでが病死で、
どこまでが介護事故かは容易には区別できなくなってくる。
「誤嚥性肺炎を起こさないように注意しながら介護すべきだった」という主張はほとん
どつねに可能なので、介護事故への対応を、過失の有無とは切り離して考えることにな
ると、今度はどこまでが「事故」なのかが重要な問題となるのである。
しかしこの点は、たとえば広く普及している民間の傷害保険が、
「不慮の事故」という
概念で一定の範囲に保険事故を限定していることからすると、介護事故についても同様
277
に一定の線引きは可能であろう。実際に介護事故についても、第 7 章第 3 節で述べたよ
うにこれをカバーする傷害保険が運用されている。もちろん「不慮の事故」の範囲につ
いては保険法の領域で多くの議論があるし、介護事故に関しても同様であるが24、たと
えば第4章で触れた医療事故の定義等を参考にしながら、線引きを検討していくことは
可能だと考えられる。
(3)小括
周知のとおり自動車事故の領域では、強制加入の自賠責保険で賠償責任の履行確保を
裏打ちした上で、過失が一律に高度化・客観化され、実質的に無過失責任とされている
25。他方、介護事故については、少なくとも今のところそうなってはいない。第5章・
第6章で見てきたように、裁判例においては当該事案が事業者側の注意義務違反に当た
るかどうかが激しく争われ、困難な判断を迫られている現状にある。事故の法的責任に
関して、過失責任主義を維持するか、無過失責任に移行するほうが望ましいかは、一般
論としても多数の議論があるが、各事故領域に即してその得失を見定める必要があろう
26。
介護事故が、自然災害のように純粋に確率的なものであれば、保険事故の発生自体に
ついて、人為的な要素が介入する余地はありえない。しかしすべての介護事故がそのよ
うなものかといえば、容易に肯んずることは困難であろう。介護事故のなかには、事業
者側がその当然果たすべき注意義務を明らかに怠ったことによって発生した、非難され
るべき性格の事故もある。裁判例においても、介護事故については少なくとも今のとこ
ろ、損失分散という観点だけではなく、何らかの非難可能性を基準として判決が出され
ている27。
そのなかで、無過失補償スキームに依拠して、介護事故をいわば一元的に解決するこ
とになれば、一方では「過失がある場合には、賠償責任が認められ、損害は保険により
カバーされる」が、他方では「過失がない場合も、賠償責任が認められ、損害は保険に
よりカバーされる」ということになり、被害者の救済には資するものの、矯正的正義の
観点やリスクマネジメントの唱導機能など、失うものも大きいと考えられる。他の無過
失補償スキームが導入されている領域と比べても、とくに介護事故について、被害者救
済だけを突出して重視するよりは、民事責任の追及を通じた矯正的正義の観点やリスク
278
マネジメントの唱導機能を維持する意義が大きいように思われる。
これらを第5章・第6章でみてきた裁判例に即していえば、無過失補償スキームを導
入すれば、事業者側の過失が認められず、請求が棄却された②事案、③事案についても、
死亡や骨折、後遺傷害等の損害が保険でカバーされることになる28。原審で請求が棄却
され、控訴審で請求が一部認容された⑨事案、⑪事案についても、控訴審で争うまでも
なく事故の損害は保険でカバーされることになる。
さらに上記以外の、事業者側の過失が認められた裁判事案についても、無過失補償ス
キームでカバーされていれば、そもそも事業者側の過失を争う必要はなくなる。裁判に
おいても予見可能性や結果回避義務について議論する必要はなくなり、損害額の算定だ
けが問題となる。しかも前述したように、無過失補償スキームのもとでは、損害額の算
定は定型化される傾向があり、過失相殺等も問題とならなくなる可能性が大きい。
たとえば裁判例としてあらわれた①事案、②事案、③事案、④事案の4つの誤嚥事案
についていえば、これらは損害種類としてはすべて死亡事案であったことから、無過失
補償スキームのもとでは、損害額が定型化され、基本的に同じような額の保険給付がさ
れることが予想される。いいかえれば裁判で争われたような諸項目、たとえば食事介助
や救命措置のあり方が適切だったかどうか、また食材の選択や調理法は適切だったかど
うか等々の点は一切問題とされず、ただ利用者が誤嚥事故により死亡したという一点を
とらえて、遺族に対する一定の金銭的給付により紛争が解決されることになる。
しかしこのような紛争解決のあり方は、一般的に共有されている矯正的正義の感覚と
は必ずしも一致しないと思われるし、将来的な介護事故の防止、事業者側のリスクマネ
ジメントの唱導という観点からも有意義なものとはいいづらいであろう。加えて、事故
によって損害さえ発生すれば、賠償が認められるということになれば、いわゆる濫訴や
保険の過剰請求も懸念される。無過失補償スキームをとるということは、事故による損
害はすべて補償するということを意味するが、第4章で検討したように、とりわけ介護
事故についていえば、その概念規定が難しく、
「介護関係」や「事故」のとらえ方によっ
てはその射程がかなり広がる可能性がある。とくに要介護高齢者については、前述した
ように事故死と疾病死・自然死の限界も必ずしも明確ではないことから、極論すれば、
たとえば介護施設内で利用者が死亡した場合、つねに訴訟や保険請求が行われるという
ことにもなりかねない(
〔参考裁判例-4〕を参照)
。
「過失あり」
、
「過失なし」の二分法の困難性に直面して、それを完全に廃棄する、あ
279
るいは一元化するという方向は、とりえないわけではない。しかしそのような法的評価
による区分自体を断念するのではなく、むしろ法的評価により事案を区分する姿勢自体
は維持しつつ、その法的評価とこれにもとづく区分のあり方の「組み換え」を模索して
いく余地があるのではないかと考えられる29。
そこで以下では、やや技術的になるが、定額保険という別の保険スキームによる対応
について模索することとする。
280
第5節 オルタナティブの検討(2) ―― 定額保険スキームによる対応
(1)基本的な考え方
前節までの検討からすると、被害者救済の観点からは「過失あり」と「過失なし」の
境界線が障壁になる一方、矯正的正義や将来的な事故の抑止、リスクマネジメント唱導
の観点からすれば、
「過失あり」
、
「過失なし」の境界線が消失することは必ずしも望まし
くない。これは、見方によっては相矛盾する要請でもある。
しかしながら、やはりこれまでの検討からすると、
「過失あり」
、
「過失なし」の境界
線自体がそれほど明確なものではなく、むしろ各事案における事業者側の法的責任の度
合いが連続的な段階の中に分布していることが指摘できる。この点を踏まえると、過失
事故と無過失事故とで、現行の賠償責任保険のように完全に扱いを変えるのではなく、
また逆に無過失補償スキームのように全く同じ扱いにするのではなく、もう少しなだら
かな対応も考えられるのではないだろうか。すなわち無過失事故の場合でも、被害者に
損害に応じた一定の給付を行う一方、過失事故の場合は、事業者側に対してより重い責
任を問うという形である。
ただしこのとき同時に指摘できるのは、この場合の「過失あり」
、
「過失なし」の境界
線は、必ずしも現在の裁判事例によって引かれている基準に一致させる必要はないとい
う点である。実際問題としては、第5章・第6章で検討したとおり、裁判事例では事業
者側に過失が認められる領域は広がりつつある一方で、必ずしも事業者側に重い責任が
問われているわけではなく、慰謝料程度の支払だけが認められる裁判例も少なくない。
つまり裁判事案においても、実際には事柄の実質に即して、法的評価はなだらかに行
われていることが伺える。しかし判決では、事業者側の法的責任については「過失あり」
か「過失なし」のいずれかに当てはめざるを得ない。仮に事業者側の法的責任の軽重が、
事案によって 0%から 100%にかけて連続的に分布しているとしても、裁判で「過失あ
り」か「過失なし」のいずれかに当てはめる際には、一定のポイントで区切らざるを得
ない。とくに「過失あり」の場合は、そのうえで賠償額について、法的責任の軽重に応
じて調整することが可能だが、
「過失なし」に当てはめた場合には、一切賠償を命じるこ
とはできない。そしてその区分を現行の賠償責任保険は引き継ぐことから、保険による
カバーの有無もこれに連動し、とくに「過失なし」の場合は保険によるカバーも一切行
281
われなくなってしまう。
したがって、ここで目指す制度設計の方向は、従来と同じベースの「過失あり」
、
「過
失なし」という概念によって分けるかどうかは別として、重い責任を問う領域と、そう
ではなく「それほど重くない責任」だけを問う領域とに色分けすることで、
「過失あり」
、
「過失なし」の二分法への当てはめによる解決よりは緩やかな段階的な対応を行うとい
うものである。この2つの領域をどう呼ぶか、たとえば過失事故と無過失事故なのか、
あるいは重過失事故と過失事故なのか、過誤と事故なのか等々は、別途検討を要するの
で後述するが、ここでの要諦は、介護事故の発生構造を踏まえて、法的評価のあり方の
「組み換え」を行うという点である。
しかしここまでの検討との関係を複雑にしないために、以下の制度設計においても便
宜上、用語としては過失事故・無過失事故という区分を引き続き用いる。また上記の「そ
れほど重くない責任」については、責任を問わないわけではないことを示すために、本
章ではあえて直截に「軽い責任」と表記する。これらを図にあらわしたのが〔図6〕で
ある。
〔図6〕新たな責任区分のあり方
事故発生頻度
重い責任を問う
←
軽い責任を問う
→
事故防止努力
なお、このスタンスをより徹底させれば、
「重い責任」と「軽い責任」という二区分
282
ではなく、さらに連続的・段階的に細かく対応していくことも考えられる。実際に判決
において、とくに慰謝料水準の算定などでは、そのような考え方が体現されているとも
いえる。ただここでは以下に示すような保険スキームの設計との関係で、2つの領域に
区分するものである。
(2)定額保険スキームによる対応
そこで以下では、無過失事故についても、一定水準の給付だけを行う保険スキームを
想定した制度設計について検討する。
損害に応じてあらかじめ給付水準を定めておくという点で、これはいわゆる定額保険
スキームといえる。具体的には介護サービスの利用者を一括して被保険者とする団体型
の生命保険・傷害保険に加入させるという、団体型の傷害・死亡保険に近い設計が考え
られる30。
実際に、第7章第3節でも触れたように、福祉施設では賠償責任保険とあわせて、利
用者を被保険者とする傷害補償保険も利用されている。たとえば全社協の「ふくしの保
険」の傷害事故補償プランでは、事業者側に過失がなかったときのため、
「施設の責任の
有無に関係なく、施設の利用者が急激かつ偶然な外来の事故により、身体に傷害(ケガ)
を被った場合に、利用者(または遺族)保険金をお支払いします」としている。ただし
ここではそのような賠償責任保険との併用ではなく、賠償責任保険による対応の問題点
に対処するために定額保険によりこれを代替することを考えている。ただし第6節では
これらの併用についても検討する。
この制度設計も、無過失補償スキームの場合と同様に、賠償責任を定額の範囲でカバ
ーする形で、定額補償スキームにより設計することもできるし、事故・損害自体に着目
して、あらかじめ損害に応じて約定した定額保険により設計することもできよう31。
この保険でカバーする範囲としては、後述するように無過失事故の場合だけを対象と
することも不可能ではないが、損害の発生自体を保険事故とすることからすれば、むし
ろ過失事故・無過失事故の区別を問わず、介護事故を共通にカバーする保険として考え
るのが自然であろう。ただしこのとき、過失事故については、この保険スキームの給付
水準にとどまらない責任追及の余地を残しておくというのが基本的な考え方になる。具
体的には、たとえば以下のような制度設計が考えられる。
283
すなわち〔図7〕で示した修正案2は、あらかじめ各事業者が拠出する保険料の水準
は現行と変えずに(20)
、無過失事故の場合(■印)と過失事故の場合(●印)とで同
等の水準を給付するものである。そのため給付水準(50)が、現状の賠償責任保険スキ
ームによる場合の給付水準(100)の半分になっている。
したがって〔図8〕で示したように、過失事故の場合、実際に法的に認められるはず
の賠償水準(100)すべては定額保険ではカバーしないことになる。法的な賠償水準(100)
と、定額保険によりカバーされる水準(50)との差額(残り 50)は、事業者が保険給付
とは別に、いわば固有の追加的な財政支出によって負担するという仕組みである。
〔図7〕修正案2 定額保険スキームによる対応
保険者
保険料
20
20
20
○
○
○
20
■
20
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
修正案2
保険給付 50
〔現行の賠償責任保険では、 保険給付0
給付計 100(うち保険給付 50)
保険給付 100 〕
〔図8〕修正案2の給付構造
(事業者側の追加的な財政支出)
50
定額保険 50
定額保険 50
【無過失事故】
【過失事故】
284
(3)定額保険スキームによる対応の評価
このような制度設計は、これまで保険スキームを見てきた「無過失事故への対応」
、
「過
失・無過失での取扱いの懸隔」
、
「保険による金銭的解決の意味合い」という視点からす
れば、どのように評価されるだろうか。
第一の無過失事故への対応という面では、一定の水準の給付がなされているという意
味で評価できる。現行の賠償責任保険では、無過失事故の場合にはまったく給付がなか
ったことと比べれば、明らかに前進といえる。他方、過失事故への対応と比べれば、給
付される水準が劣ることになるが、その水準にもよるものの、利用者側としては、裁判
で争っても賠償は得られない可能性が高い領域であることからすれば、やむをえないと
ころであろう。また事業者側としても、事故に関して、利用者側からの請求を「すべて
拒絶する」という厳しい対応をとらなくてすむ。
第二に、過失・無過失での取扱いの懸隔という面では、上記の通り、現行の賠償責任
保険と比べると、
「オール・オア・ナッシング」ではない形で一定の懸隔の解消が図られ
ており、また逆に両者を全く平準化しないという意味では、矯正的正義や将来的な事故
の抑止的効果、リスクマネジメント唱導機能の観点も、一定程度は維持されているとい
うことができる。現行の賠償責任保険と比べると、局面によってその作用は同じではな
いものの、なお一定の役割は果たし得るだろう。ただしこの点で無過失事故を法的にど
う評価するかがかかわってくるので、これについては後述する。
第三に、保険による金銭的解決の意味合いという点では、現行の賠償責任保険と比較
すると、事業者側に固有の追加的な財政支出を求める部分があることから単純に優劣を
つけられないところがあるが、いずれにせよ定額保険スキームにより、無過失補償スキ
ームと同様の範囲でカバーする部分については、ごく機械的に支払われるという性格を
帯びることは否定しがたい。しかし過失事故については、保険による給付水準を超えて
賠償責任を追及する余地を認めることで、金銭賠償による法的責任追及の意味合いを維
持することができよう。
また保険料拠出段階についても、定額保険スキームは介護事故による損害の一定水準
を共通にカバーするものとして位置づけることで、過失があった事業者の賠償責任を他
の事業者が「肩代わり」するという現行の賠償責任保険と比べれば、相対的には事業者
285
の理解を得やすいものであろう。
ただしこの場合、別の問題点が浮上する。それは過失事故の場合、どのように「ある
べき賠償水準」が確保されるかという点である。すなわちひとつには、当事者間で合意
が得られなければ、裁判をしてみないと賠償額が判明しないことになる。またもうひと
つには、仮にたとえば裁判によって賠償額が明らかになったとしても、事業者側にそれ
に見合う賠償資力があるかどうかはわからないという点である。事業者側にその固有の
追加的な財政支出により賠償責任を果たさせる部分については、少なくとも保険スキー
ムによる支払と比べれば、迅速な救済には欠けることになる。
もちろん逆にいえばこれらの点を問題としないですむのが、現行の賠償責任保険の意
義なのであり、したがって定額保険スキームによる設計で、これらの点が改めて問題に
なるのはやむを得ないことともいえる。
(4)小括
このように定額保険スキームは、現行の賠償責任保険や無過失補償スキームとは異な
る対応の可能性を切り開くものである。すなわち介護事故への対応は、一方では「過失
がある場合には、そのうち一定額は保険でカバーされるが、残りの額は別途、事業者が
賠償責任を追及される」ことになり、他方では「過失がない場合には、賠償責任という
次元とは別に、損害のうち一定額が保険でカバーされる」という形で組み換えられる。
これにより過失・無過失での取り扱いの懸隔は、皆無ではないが、
「なだらかな形」に置
き換えられることになる。
いいかえれば「過失あり」
、
「過失なし」という二区分での法的評価に合わせた形での
現行の賠償責任保険による「オール・オア・ナッシング」的な対応と比べれば、少なく
とも相対的にはきめ細かい制度設計になっているといえよう。とくに「過失なし」の場
合、それと保険スキームとが連動して保険給付もまったくない状態から、一定の給付が
行われるようになる点が大きな変化である。
これらを第5章・第6章でみてきた裁判例に即していえば、定額保険スキームを導入
すれば、事業者側の過失が認められずに請求が棄却された②事案、③事案についても、
損害に応じた保険の一定の給付テーブルにより、金銭的給付が行われることになる32。
各事案を振り返ってみると、②事案では、控訴審では 100 万円の慰謝料での和解が行わ
286
れているし、③事案でも、仮に実際的な効果がなかったかもしれないにせよ、吸引等の
救命措置をただちに行わなかった点などは、医療過誤訴訟であれば、因果関係の有無と
は別に慰謝料を認める論拠ともなり得る点である33。いいかえれば請求棄却となった各
事案においても、事業者側に「一切落ち度はなかった」とまではいいづらい、いわば紙
一重の判断であったことが伺える34。このような事案について、現行の賠償責任保険の
もとでは一切の給付が行われなかったところ、定額保険スキームを通じて一定の金銭的
な給付を行うことには、合理性があると考えられる。
もし利用者側にとって、この定額保険スキームによる給付水準が納得できるものであ
り、事業者側に対してそれ以上責任を追及する動機がない場合には、提訴自体を行わな
いことも考えられる。原審で請求が棄却され、控訴審で請求が一部認容された⑨事案、
⑪事案についても同様のことが言える。
ただしこの対応は、モデルケースで行っているため、実際の給付水準を考慮に入れて
いない点には注意する必要がある。すなわちもし定額保険スキームによる給付水準が高
ければ、それは実質的には無過失補償スキームに接近する。逆に給付水準が低ければ、
とくに過失事故については、そもそも保険スキームが介在せず、被害者救済が迅速・実
効的に図られないおそれがある段階に逆戻りすることになりかねない。
第5章・第6章でみてきた裁判例に即していえば、たとえば誤嚥を原因とした死亡事
案である①判決および④判決においては、合計 2000 万円を超える慰謝料等の支払いが
認められた。また転倒を原因とする骨折事案でも、⑧判決および⑩判決で、合計 1000
万円を超える慰謝料等の支払いが認められた。これらについて、もし損害に応じた給付
テーブルが数百万円という水準であれば35、その部分だけは保険給付され、残りは当事
者間で合意が得られなければ、利用者側が改めて裁判で事業者側の過失を追及して請求
することになる。そのような二段階での対応自体はやむを得ないとしても、もし裁判で
事業者側に過失が認められた場合、事業者側の追加的な財政支出は、定額保険で給付さ
れる分を控除するとしても、場合によっては数千万にのぼる。
この水準の財政支出は、事業者側にとっては大きな打撃となることが予想される。ひ
るがえって事業者側の賠償資力に問題があれば、利用者側としても、迅速・実効的な救
済を得られなくなる。介護事故に関して、そもそも賠償責任保険が必要とされた状況に
立ち戻ってしまうのである。
とくに損害に応じた給付テーブルが、比較的低い水準であった場合には、利用者側が
287
その水準では満足せず、上記のような事態が生じやすい。しかし逆に、損害に応じた給
付テーブルを手厚いものにした場合は、無過失補償スキームについて指摘したような、
いわゆる濫訴や保険の過剰請求が懸念される。
このように定額保険スキームの導入は、介護事故に対する新たな対応の可能性を切り
開くものの、定額保険スキームのみによって、多様な介護事故に対処しようとすると、
その給付水準に設定によって、上記のような実際的な問題点が懸念される。
いいかえればこの制度設計では、これまで検討してきた各保険スキームの弱点を少し
ずつ持ち込んでしまうおそれが否定できない。この点を完全に解決することは困難であ
るとしても、少しでも工夫の余地があるとすれば、それは一つの保険スキームだけで対
応するのではなく、複数の保険スキームを組み合わせた対応を模索することではないか
と考えられる。やや細かい議論となるが、この点を以下で検討する。
288
第6節 オルタナティブの検討(3) ―― 賠償責任保険と定額保険スキームの組み
合わせによる対応
(1)賠償責任保険と定額保険スキームの組み合わせによる対応
制度設計が複雑になることをおそれず、もろもろの要請に少しでも応えることを目指
し、とくに定額保険スキームのみによる場合には被害者救済の実効性が掘り崩されるこ
とに対処しようとすれば、賠償責任保険と定額保険スキームとを、重畳的に組み合わせ
ることが考えられる。
すなわち〔図9〕で示した修正案3は、やはりあらかじめ各事業者が拠出する保険料
の水準は現行と変えずに(20)
、無過失事故の場合(■印)にも給付を行うが、過失事
故の場合(●印)の水準(66)よりも低い水準での給付(33)にとどめるというもので
ある。具体的には、修正案2(
〔図8参照〕
)と同様に、過失事故・無過失事故共通に、
定額保険スキームにより給付を行うが、その水準は修正案2の場合(50)よりも低い水
準(33)にとどめる。しかし過失事故については、定額保険スキームによりカバーされ
ない損害額(残り 66)のうち、半分の水準(33)を賠償責任保険でカバーするのである。
〔図9〕修正案3 賠償責任保険と定額保険スキームの組み合わせによる対応
保険者
保険料
20
20
20
○
○
○
20
20
■
●
↓
↓
【無過失事故】 【過失事故】
修正案3
保険給付 33
給付計 100(うち保険給付 66。内訳は
(定額保険)
定額保険から 33、
賠償責任保険から 33)
保険給付 100 〕
〔現行の賠償責任保険では、 保険給付0
289
すなわち〔図 10〕で示したように、過失事故・無過失事故共通で、定額保険スキーム
から一定額(33)を保険給付する。その上で過失事故については賠償責任保険で、損害
額の総額(100)を認定し、定額保険から給付される額(33)を除いた部分(残り 66)
に対して、定率給付(50%)ないしは一定額(33)以上の部分についての給付(33 まで
は免責)を行う。法的な賠償水準(100)と、保険によりカバーされる水準(33+33=
66)との差額(33)は、事業者側が保険とは別に、固有の追加的な財政支出によって負
担するという仕組みである。なお便宜上、端数は切り捨てている。
〔図 10〕修正案3の給付構造
賠償責任保険 (事業者側の追加的な財政支出)
33
定額保険
33
33
定額保険
【無過失事故】
33
【過失事故】
この制度設計は、定額保険スキームで介護事故全体を薄くカバーした上で、過失事故
については、より重い責任を問う一方で、賠償資力確保のために、賠償責任保険を上乗
せしたものとして理解することができる。他方、同じことではあるが、見方によっては
現行の賠償責任保険を前提として、そのいわば下支えとして定額保険スキームを薄く敷
いたものとして理解することもできよう。
なおこのように重畳的にではなく、並列的に保険スキームを並べることも考えられる。
すなわち過失事故の場合はもっぱら賠償責任保険でカバーし、無過失事故の場合は定額
保険スキームでカバーするという設計である。賠償責任保険については免責部分も設け
ることで、モラルハザード的な現象にも対抗しうる。これはある意味では非常に分かり
やすい設計でもあるのだが、過失と無過失の境界線が流動的であることを考えると、実
務的にはかなり運用が難しいものだと考えられる。
290
(2)組み合わせによる対応の評価
このような賠償責任保険と定額保険スキームとの重畳的な組み合わせによる制度設
計は、これまで各保険スキームを評価してきた「無過失事故への対応」
、
「過失・無過失
での取扱いの懸隔」
、
「保険による金銭的解決の意味合い」の各観点からは、どのように
評価できるだろうか。
まず第一の無過失事故への対応という点では、この制度設計では、一定の被害者救済
は行われている。これまでに検討してきた修正案1の無過失補償スキーム〔図4、図5〕
や修正案2の定額保険スキーム〔図7〕に比べれば、より低い給付水準になっているも
のの、現行の賠償責任保険による対応では、無過失事故に対しては一切の給付がないこ
とと比べれば、一定の対応とはなっている。給付される額は低いが、利用者側としては、
定額保険スキームの場合と同様、法的に争っても賠償は得られない可能性が高い領域で
あることからすれば、やむをえないところであろう。また事業者側としても、定額保険
スキームの場合と同様、事故に関して、利用者側からの請求を「すべて拒絶する」とい
う厳しい対応をとらなくてすむ。
また第二の過失・無過失での取扱いという点では、両者で賠償水準にある程度の差が
設けられることになっている。すなわち現行の賠償責任保険のように、過失の有無と連
動して「オール・オア・ナッシング」で処理するのではなく、定額保険スキームによる
場合と同様に、過失事故と無過失事故との間で一定の懸隔の解消が図られている。また
逆に無過失補償スキームのように両者を全く平準化するわけではないという意味では、
矯正的正義や将来的な事故の抑止的効果、また事故防止努力の唱導機能も、一定程度は
維持されているということができる。もちろん保険でカバーされる部分が多くなれば、
これらの役割は弱くなるが、なお一定の役割は果たしうるだろう。
第三に、保険による金銭的解決の意味合いという点では、定額保険により、無過失補
償スキームと同様の範囲でカバーする部分については、
当然定額保険スキームと同様に、
ごく機械的に支払われるという性格を帯びることは否定できない。しかし過失事故につ
いては、賠償責任保険に一定の免責部分を設けることで、事業者が固有の追加的な財政
支出を強いられ、いわば「自腹を痛める」ことになるので、矯正的正義の観点から法的
責任を追及することの実質的な意味合いを残すことになっている。そして何より、定額
291
保険スキームのみによる場合と比べて、高い水準での事業者側の賠償資力の確保が可能
である。
ただし保険料の拠出段階に関して、そもそも賠償責任保険により過失事故に伴う損失
を広く分散することについては、過失事故が「相対的に防止可能な事故」類型として位
置づけられるとすれば、過失事故を起こした事業者の賠償責任を、他の事業者の負担の
もとに保険スキームがいわば肩代わりするものであることから、保険料負担に対する違
和感が生じることが考えられる。しかしその点は現行の賠償責任保険も同様であり、第
3節で述べたとおり、過失事故にも依然として偶然性が随伴し、リスク分散の必要性、
被害者救済の要請があることから、これに職業賠償責任保険によって対応することには
一定の合理性があろう36。しかも現行と比べると保険でカバーされる部分は縮小してお
り、いわば肩代わりの度合いも小さくなっている。
(3)小括
このようにこの設計によれば、あくまでモデルケースのもとではあるが、
「過失あり」
、
「過失なし」の判断が困難を伴う紙一重のものであり、司法判断への信頼性が十全とは
いえないことも踏まえた上での一定の被害者救済になっており、賠償資力の確保、スム
ーズな事故処理の要請も一定程度維持しつつ、矯正的正義の観点も失わず、将来的な事
故の抑止的機能やリスクマネジメントの唱導機能もある程度は果たし得るものとなって
いるように思う。
これらを第5章・第6章でみてきた裁判例に即していえば、賠償責任保険と定額保険
スキームとの重畳的な組み合わせを導入することにより、事業者側の過失が認められず
に請求が棄却された②事案、③事案についても、無過失補償スキームによる修正案1〔図
4、図5〕や定額保険スキームのみによる修正案2〔図7〕の場合と比べれば一層低い
水準とはいえ、損害に応じた一定の給付テーブルにより、金銭的な給付が行われること
になる37。
またこれら以外の、請求が認められた裁判事案については、改めて事業者側に「過失」
があったかどうかが問われ、これが認められれば、定額保険スキームでカバーされる以
外の賠償額の半分は賠償責任保険でカバーされ、残り半分は事業者側がその固有の追加
的な財政支出によって負担することになる。逆に「過失」がなかったと評価された場合
292
には、残りの賠償額は得られないものの、まったく金銭的な給付が受けられないわけで
はなく、定額保険スキームからの給付は得ることができる。
ただしこの場合に問われる「過失」の有無は、従来の過失概念とはその判断基準が変
わることが考えられ、この点については次節で検討する。いずれにせよこのような法的
評価と対応の「組み換え」によって、各事案に対する法的評価の実態に即した保険スキ
ームによる対応に近づくものと考えられる。
もっともこの修正案もかなり技巧的であり、もろもろの要請にくまなく応えようとし
ている分、
それらに少しずつ応え切れていない中途半端な面があることは否定できない。
すなわち定額保険スキームによる対応の場合(修正案2)と比べると、無過失事故の際
の給付水準は少し下がるし、事業者側の追加的な財政支出部分は減るので、賠償資力リ
スクは低くなるが、反面、将来に向けた事故の抑止的機能やリスクマネジメントの唱導
機能は小さくなる。保険実務的にも複雑であり、また法的説明との整合性は後述する通
り依然として難問である。
これらの点は、具体的な保険給付の水準とも関係する。モデルケースでは割り切って、
たとえば 33 や 66 という形で設定したものの、定額保険スキームについて述べたのと同
じように、この水準いかんによっては、制度設計の問題点が強くあらわれることもあり
得る。
したがってこれが保険スキームの制度設計の中で、ベストの選択肢とまでは断言でき
ないものの、いずれにせよ賠償責任保険と定額保険スキームを適切に組み合わせていく
ことに、ひとつの有力な方向性があるのではないかと考えられる。
293
第7節 保険スキームの組み換えと法的評価および実務との接合
(1)保険スキームの組み換えと法的評価の接合
保険スキームによる制度設計により企図したのは、
介護事故の現状と独自性に即した、
法的な対応プログラムの「組み換え」であった。そこでは「過失あり」
、
「過失なし」の
区分をもとに、
「賠償責任が認められれば、保険でカバーされる」と「賠償責任が認めら
れなければ、保険でもカバーされない」という二分法に事故の法的評価を当てはめるこ
との不都合や困難性を緩和するため、複数の政策選択肢を挙げて、民間保険スキームに
よる対応のあり方を検討した。
その結果、本章としては一応、賠償責任保険と定額保険スキームの重畳的組み合わせ
に辿り着いているが、各選択肢は一長一短であり、これが必ずしも最善のものだと断定
できるわけではない。ただ定額保険スキームとの何らかの組み合わせは有効であるよう
に思われる。このような形で賠償責任保険と定額保険スキームを組み合わせることにつ
いては、いくつかの保険実務的な課題を有するが38、他方では後述するように、現場で
は定額保険商品の活用により、この組み合わせがすでに実現している部分もある。
ただしこのときこれらの民間保険スキームを、介護事故の法的評価と、どのように接
合させるかが別途問題となる。すなわちここまでの検討では、事故の法的責任に関する
裁判での判断を前提に、過失事故と無過失事故とに区分してきたが、それを引き続き維
持することでよいかという点である。
モデルケースでは、法的責任の有無を分水嶺として、
「過失あり」
、
「過失なし」とい
う分類に依拠して検討を行ってきた。しかし裁判例で分析したとおり、実際には法的責
任が認められる場合であっても、その賠償額には多寡があり、とりわけ数百万の慰謝料
程度だけが認められる裁判例も少なくなかった。もちろんあらゆる法的紛争について、
同種の判断はありうるのだが、
介護事故では類型的にそのような裁判例が多いといえる。
いいかえれば介護事故においては、過失が認められる範囲が拡大していると同時に、そ
の拡大した責任領域については、比較的低い賠償額だけが認められるという傾向が見ら
れた。
そのような傾向は、民間保険スキームとの接合に際して、むしろ正面から位置づける
294
べきではないかと考えられる。すなわち過失が認められるケースについて、
「明らかな過
失」と、
「明らかな過失」があったとまではいえない場合とに分けて、前者と後者で法的
責任を追及する度合いを変えるということである。
すなわち基本的方向は以下のとおりである。前者の「明らかな過失」を伴う事故につ
いては、事業者としての職業的な責務に由来する重い責任と、それに連動する高い賠償
額を課して、賠償資力の確保のために賠償責任保険によりカバーするものの、免責部分
を設け、事業者側の固有の追加的な財政支出を求めることで、矯正的正義の実現と、将
来的な事故の抑止的機能の維持を図る。また後者の「明らかな過失」があったとまでは
いえない事故については、介護サービスの「場」の提供に伴う不可避性の強い事故とし
て、それほど重くない責任、すなわち「軽い責任」と、それに連動する低い賠償額を課
して、定額保険スキームでカバーする39。
この前者の重い責任を問うべき領域については、従来からある法律用語の中では「重
過失」と呼ぶことも考えられる。しかし重過失というと、故意に準ずるというニュアン
スがあるのに対して、ここで「明らかな過失」に分類するのはそのようなものではなく、
むしろ初歩的なミスや、職業的に当然求められる注意義務を明らかに怠ったことに伴う
責任類型であることから、あえてここでは重過失という呼称は避けている。
故意や悪質なものも、結果的にはこの中に含まれてこようが、それらはむしろ例外的
なものと位置づけられる。故意や悪質なものについても、被害者救済の観点からは、保
険スキームの対象から除外すべきではないと考えられるが、別途、事業者側に対する求
償措置を講じたり、行政や刑事的な手段も組み合わせたりして対応していくべきであろ
う。
なおこの重い責任を問うべき領域についても、前節の制度設計によれば定額保険スキ
ームにより、薄い給付がいわば重複的に及ぶことになる。複数の保険スキームからの給
付をどのように調整するかは保険実務的には難問であるが、定額保険スキームによりカ
バーされる部分を、いわば免責部分と同様に考えて賠償責任保険の料率算定の際に織り
込めば、制度設計は不可能ではないと考えられる40。
また後者の「明らかな過失」があったとまではいえない場合の「軽い責任」について、
これを法的にどう位置づけるかは、一層難問である。この領域については、法的責任を
あえて問う必要はなく、単に保険により損害をカバーすればよいという考え方も、十分
合理性を有するからである。
295
しかし本章ではこの領域を以下の理由から、事業者側の法的責任自体はあるものと位
置づける。すなわち第一に、実際上、慰謝料程度のみにせよ、裁判において法的責任が
認められる領域がかなり拡大している以上、これらを再び縮減させるのは、やや現実性
に欠けるといわざるを得ない。第二に、強制加入等により全事業者が保険に加入してい
れば別だが、保険未加入の事業者のもとで事故が発生した場合、この領域については法
的責任を問わないとすれば、被害者への金銭的な給付は全く行われないことになってし
まう。第三に、この領域での事故発生は、不可避「的」であるとはいえ、事故防止の手
段がまったくないわけではなく、また介護サービスを提供するという債務自体に、後述
するとおり本来、安全性の確保が含まれていると考えることが可能である。
これらの点から、
「明らかな過失」があったとまではいえない領域についても、法的
責任自体はあるものとしたうえで、定額保険スキームによりカバーすべきものと考えら
れる。ただ、次の点を無視することはできない。すなわちどんな形にせよ法的責任あり
と認定されることは、事業者の評判にかかわり、事業者やそこで働く介護従事者等にと
っては大きな打撃である。事故の損害が保険でカバーされるにせよ、あるいは判決でた
とえば慰謝料のごく一部が認められたにすぎないにせよ、少なくとも世間的には「事業
者側に落ち度があった」と見られてしまうことになる。
この点をただちに解決するのは困難ではあるが、以下の点は指摘することができる。
すなわちもし裁判を提起しても、
「明らかな過失」が認められない限り、結局保険でカバ
ーされる程度の賠償額しか得られないとすれば、被害者側としては、少なくとも勝訴の
見込みが薄い訴訟の提起には消極的になり、いわゆる濫訴の弊害はそれほど大きくなら
ないことが考えられる。保険でカバーされるのと同じ賠償金額を得るために、裁判をす
ることで、時間やコストが余計にかかるだけだからである41。その意味では、
「明らかな
過失」かどうかの基準が事例の蓄積を通じて明らかになってくれば、そうでない領域で
の事案は、裁判を経ることなく保険スキームのみによって解決され、裁判はそれらの限
界領域と、
重い責任を追及するためのものに絞られてくることになろう。
「明らかな過失」
かどうかの新たな分水嶺となるラインが、裁判例の蓄積等を通じて明確化されるまでに
は少し時間がかかるかもしれないが、現在のように過失が認められる領域があいまいな
形で拡大していくことと比べれば、まだしも調整期間として容認できるものではないか
と考えられる。
このように判断の軸を、
「過失あり」と「過失なし」から、
「明らかな過失」かどうか
296
へと「ずらす」のは、第 3 章や第 6 章で述べてきた介護事故における過失の判定の本質
的な困難性による。
いいかえれば過失のラインを無理に引くことでの事案の
「過失あり」
、
「過失なし」という二分法への当てはめによる解決への疑問である。もちろんこれに代
わって上記のような非難に値する「明らかな過失」かどうかを判定することも容易では
ないが、これまで見てきたような介護事故の法的紛争としての独自性を勘案すると、
「過
失あり」と「過失なし」の見極めよりは、まだしも法的判断に馴染むように思われる(
〔図
11〕参照)
。
それではその「明らかな過失」かどうかの線引きはどのようになされるべきなのだろ
うか。理屈の上では、社会的な費用が最小化されるポイントというのが一応の回答では
ある。第3章第4節および第6章第8節で述べたとおり、損害額と事故回避費用とを合
計した社会的費用の水準は、事故防止努力を重ねていく中で、あるポイントで最小値を
とると考えられ、このポイントを「明らかな過失」かどうかの分水嶺とするのが、一般
的な定式化としては妥当であろう42。しかしこれでは法的な表現ともまた一般的に了解
される言語表現ともいいづらい。そこで試論の域を出ないが、ここでは次の点を指摘す
る。すなわち以下のような場合には、
「明らかな過失」があるとはいいづらいものと考え
られる。
第一に、専門家の間でもその危険性の評価が分かれるような介護のあり方に起因する
事故の場合は、
「明らかな過失」があるとはいえないだろう。逆にいえば、専門家が一致
して危険性を指摘するような介護のあり方は、
「明らかな過失」といえる。
第二に、現行の人員基準のもとで、各介護従事者が注意義務を尽くした上で、発生し
た事故については、より多くの人員を投入していれば事故の発生を防げたという場合で
あっても、
「明らかな過失」とはいえないだろう。すなわち適切な人的資源を投下し得る
制度的な裏づけ、具体的には適切な介護報酬水準が確保されていない中での人員的制約
に起因する事故は、
「明らかな過失」とはいいづらいであろう。
この点については、しばしば裁判例においても所定の人員基準に従っていたというだ
けでは事業者側は免責されないという趣旨が指摘されており43、それ自体は正当な指摘
といえるが、逆に現実問題として基準を超えて人員配置等を行うのが難しいことからす
れば、現行の人員配置では防止できないような態様の事故については、事業者側の「明
らかな過失」とするべきではないだろう。ただしこのような場合でも、損害は発生して
おり、被害者救済の必要性自体はあることから、前節で示した賠償責任保険と定額保険
297
スキームとの重畳的な組み合わせによる制度設計によれば、定額保険スキームにより一
定の給付を行うという考え方になる。
第三に、過失相殺等が適用されるような、利用者側に起因する大きな事故の要因があ
った場合は、事業者側に「明らかな過失」があるとはいえないだろう。
もちろん一般論としては、過失相殺をもたらす要因は、加害者側とは独立的に生じる
ことが多い。たとえば歩行者が道に飛び出したために起きた交通事故などがこれに当た
る。これらからすると、事業者側に「明らかな過失」があったかどうかは、利用者側の
態様とは関係なく評価されるべき場合もあり得る。しかし介護事故の場合は、介護サー
ビスの提供に伴う事故であり、いいかえれば介護サービスは基本的に利用者側の態様と
の関係で提供されるものといえる。
過失相殺については、一般論としても、加害者側の過失の度合い評価を包含しつつ、
適用範囲が拡大されていることが民法理論では指摘されているが44、介護事故について
はとくにその点が当てはまるといえる。すなわち過失相殺を認めるべき事情がある場合
には、ひるがえって事業者側に「明らかな過失」を認められない場合が多いと考えられ
る。
なお工作物責任の要素については、明確な瑕疵があれば「明らかな過失」と同等に位
置づけられよう。しかしこれまでの裁判例では、⑥事案以外では工作物責任は認められ
ず、むしろ事業者側の法的責任を認める際の補強的な論拠として位置づけられている。
個々の内容につきより詳細な検討を要しようが、以上のような点が、
「明らかな過失」
かどうかを判定する際の重要な要素として考えられる。
なお以上の点を踏まえて、本来であれば第5章・第6章でみてきた裁判例のうちで、
請求が認められたものについて、それぞれ本章で述べた「明らかな過失」に該当するか
どうかを検証すべきであろう。しかしそのことは各判決の当否について、すべて洗い直
すことにほかならず、いいかえれば各判決について詳細な判例評釈を行うという作業を
経なければ、上記のような検証はできないものであろう。たとえば請求棄却事例につい
ても、逆にそれでよかったかどうかを洗い直す必要が生じよう。
ただ、各判決による事実認定と法的評価をみるかぎり、以下のごく形式的な考察だけ
からでも、第5章・第6章で扱った 14 の判決のうち、請求が認められた 10 の判決につ
いて、その多くは本章で述べた意味での「明らかな過失」があったとまではいいづらい
ことが分かる。
298
すなわち第一に、請求が認められた 10 の判決のうち、転倒事案にかかる⑩判決、⑫
判決は、原審が請求を棄却したものを控訴審で覆したものであり、それ自体、紙一重の
判断であったことが推測される。とくに⑩判決は入居者同士のトラブルであり、すなわ
ち事故を引き起こした主体が明らかに別に存在する事案であった。⑫判決についても、
その判断には評者により疑問が呈せられている45。また誤嚥事案にかかる①判決も、控
訴審で賠償額が減額されて和解に至っている。
第二に、やはり転倒事案にかかる⑤判決では6割の過失相殺、⑧判決では3割の過失
相殺を行っているが、過失相殺の実際的な機能として、前述したように両当事者の事情
の総合的考量があることからすれば、むしろ事業者側の過失の度合いが強いものではな
かったと評価された可能性が強い46。とくに6割もの過失相殺を認めた⑤判決について
はそのことがいえる。他方、⑧判決については、過失相殺は3割にとどまり、判決とし
ては事業者側の責任を正面から認めているが、そのような判断に対する評者による評価
は分かれている47。
また過失相殺と比べればさらにその評価は分かれようが、失踪事案にかかる⑭判決で
の因果関係の切断や、転倒事案にかかる⑦判決での素因減額等は、やはり事業者側の過
失の度合いが強いものではないと判決が評価したことを推測させる48。さらに転落事案
にかかる⑬判決での「一切の事情を斟酌勘案」しての慰謝料の大幅な調整についても同
様のことがいえる。
これらの事案のなかには、本章の枠組みでいえば「明らかな過失」までは認められず、
定額保険スキームにより損害に応じた一定の給付を行えばよいと評価される事案に該当
するものが少なくないと考えられる。
ちなみにこれらの事案の多くでは、事故の背景に人員不足の問題や工作物責任的な要
素が介在していることも指摘できる。
第三に、これらに対して、誤嚥事案にかかる④判決、転倒事案にかかる⑥判決では、
裁判所がいわば留保なく、事業者側の過失を認定しているようにみえる。事案自体とし
ても、とくに⑥事案で利用者がみずから事故の起きた汚物処理場に足を運ぶことになっ
た経緯などに鑑みると、認められた慰謝料は数百万円のレベルではあるが、事業者側に
本章で述べた「明らかな過失」があったと呼ぶに値するように思われる。もっとも直接
的な事故の要因となったのは、立ち入り禁止区域での工作物の瑕疵であった。また逆に
④判決については、賠償額についても 14 の判決の中でもっとも高いものなのだが、事
299
業者側に本章で述べた「明らかな過失」があったとまでいえるかどうかはやや疑問であ
る。第 6 章で検討した際に述べたとおり、もし判決の趣旨として、介護従事者が食事介
助に際して利用者が一口一口を飲み込んだかどうかを「口の奥まで」確認すべきだとい
うことであれば、それは不可能ではないし、介護技術としては求められ得るものである
が、そのような確認が必要な対象者の見極めも含め、少なくとも現在の介護現場にとっ
ては、かなり高度な要求ではないかと思われる。
以上のように、各判決による事実認定と法的評価を前提としてみた場合にも、
「明ら
かな過失」があったとまではいえない事案は多いことが分かる。いいかえれば裁判所と
しても、実質的な法的評価としては、事業者側に重い責任を認めているわけではないも
のの、あえて過失の範囲を広げて責任を認定したものと考えられる事案である。さらに
各判決の当否にまで立ち入って検討すれば、そのような事案はさらに増えることが考え
られる。またこのような枠組みであれば、請求が棄却された事案のなかでも、実質的な
法的評価としては、第5節(4)で前述したように、過失の範囲を広げて法的責任を認
めた事案とあまり変わらないものもあることが考えられる。
付言すれば、
「重い法的責任であれば、高い損害賠償額を認める」
、また「軽い法的責
任であれば、低い損害賠償額を認める」というつながりは、論理必然的なものではない。
一般論としては、不法行為において相当因果関係により範囲が画される損害額は、加害
者側の態様とは無関係に、被害者側の偶然の事情により決まる部分が大きく、さらにい
えば初歩的ないしは重篤な注意義務違反があった場合であっても、そもそも事故や損害
が発生しない場合もある。
すなわち法的な判断構造としては、過失の有無と、賠償額の積算は、別次元の法的評
価であるはずである。そのことを認めたうえで、しかし過失の程度が低い場合には、損
害額はあえて定型的に低い形で認定すべきではないかというのが本章での趣旨である49。
300
〔図 11〕責任区分の線引きの組み換え
≪現状≫
事故発生頻度
(過失ありの領域が拡大する傾向)
過失あり
過失なし
→
→
事故防止努力
≪責任区分の線引きの組み換え≫
事故発生頻度
「明らかな過失」に
もとづく重い責任
軽い責任・一定水準の保険給付
事故防止努力
301
(2)実務との整合と政策論としての位置づけ
本章のような保険スキームの検討ないし模索は、机上の空論との印象があるかもしれ
ないが、実際には実務の現状も踏まえつつ検討したものであり、むしろ実務で行われて
いる事柄を再構成したものともいえる。
まず第5章・第6章でもみてきたとおり、介護事故の裁判例においては、判決が介護
サービスを提供する事業者側に対して、過失を認める場合でも、命じる賠償額の水準は
さまざまであり、法的責任の度合いにも濃淡があることが推測される。このような濃淡
は、先行研究においては「過失が認められた」ものとして一括され、民間保険スキーム
との関係とともに、正面から取り上げられることはなかった。しかしこれらの法的責任
の濃淡を、むしろ正面から法的評価の枠組みのなかに位置づけるべきだと考えられる。
実際問題としては裁判における判決文で、正面から「明らかな過失」があるかという
ような二区分的な評価を述べることは期待できないかもしれない。しかし法的責任の軽
重のニュアンスは判決に盛り込めるはずだし、また軽い法的責任を問う場合、いいかえ
れば慰謝料程度の賠償を命じる場合には、保険によりカバーされる水準を意識すること
も可能なはずである。むしろ判決において、少しでも法的責任の軽重のニュアンスに論
及することが、両当事者や、裁判に参加していない関係者に対する適切なメッセージと
なるのではなかろうか。逆にたとえば明確に注意義務違反を述べることで、事業者側に
法的責任を認定しながら、実際には低い慰謝料程度の支払だけを命じるような判決は、
双方の当事者に困惑をもたらすことも考えられる。
また保険スキーム自体に即していうと、本章で提示したのはやや複雑なスキームでは
あるが、以前よりたとえば火災保険などでは見舞金特約が付されているのが一般的であ
り、事故の責任の所在にかかわらず、一定の給付を行う設計が実務上は受け入れられて
いることが分かる50。介護事業者向けの商品においても、第 7 章第 3 節で述べたように、
すでに実際に定額保険との組み合わせが行われている点にも注意すべきである。すなわ
ち介護事業者は賠償責任保険だけでなく、過失のない場合にも給付される傷害保険等に
加入していることが多い51。
このように二区分的な対応は、実務的にはすでに行われているともいえる。その意味
で本章の内容は、保険スキームの細かい制度設計は別とすれば、実務的に行われている
302
事柄を再構成したものだともいえる。ただ少なくとも裁判例によって、事業者側の法的
責任が認められる範囲が拡大方向にあり、介護現場が対応に追われている中では、民間
保険スキームとの関係も踏まえたうえでの法的評価の明確化をはかることは必要であろ
う。いいかえればこれらの二区分的な対応は、実際上・運営上の知恵というよりは、む
しろ正面から法的に位置づけられるべきものだと考えられる52。
なお逆に、上記が現場の実務に擦り寄った対応であるという意味では、政策論として
は、より大胆な制度的対応を行うべきだとの立論も十分ありうる。たとえば保険の加入
強制の提案がそうであるし、さらにいえば、別途独立した救済基金の設立構想もありう
る53。いわゆる救済基金については、最近では「石綿による健康被害の救済に関する法
律」や、医療関係では医薬品副作用基金の例があり、また医療過誤に関しても議論が多
くなされるようになっている。とくに産科領域では政策的な検討も進んでいる54。ただ
医療過誤に関していえば、諸外国でも多くの議論があるものの、少数の例外を除いて救
済基金の設立は実現していない中で、同様の仕組みをただちに介護領域で設けることに
は課題が多いものと考えられる。
またそのような制度的対応は、被害者に対する金銭的な救済の実現に最大の眼目があ
るが、介護事故において、大規模な制度創設をしないとそのような面での進展が見込め
ないかどうかは疑問がある。逆に大がかりな制度対応を行わなくとも、前節で述べたよ
うに保険加入を前提とした賠償体系を取ることができれば、結果的にいわば保険加入の
義務を課したのと同じ効果を生みうるとも考えられる。
政策論としては、法的責任と被害者救済とを切り離す考え方も根強い。すなわち民事
紛争では被害者の救済を最優先して、
保険スキームにより資源の最適配分を目指しつつ、
制裁的機能や法的統制機能は刑事裁判や行政処分等に期待するという考え方である55。
しかし刑事訴訟での立件は容易ではないし、行政による監視機能も万全ではない56。
民事訴訟による法的統制は、訴訟外での慰謝料や見舞金等とも連続性を有する点でも有
効であり、民事訴訟の機能を積極的に活かすことを考えてよいように思われる。また他
方では民法理論の領域でも、矯正的正義の契機が再認識されつつある57。
迂遠なようではあるが、制度創設等によって一挙に解決を図るよりは、現存するもろ
もろの民間保険スキームの組み合わせと工夫によって、地道な政策的対応を図ることの
意義は小さくないものと考えられる。
303
(3)保険スキームにおける給付額の設定
本章で検討のベースとしたモデルケースでは、損害に対する保険給付の水準を、たと
えば 100 や 33 という形で、いわば決め打ちで検討してきたが、とくに定額保険スキー
ムにおいて、実際にあらかじめ適正な給付水準を決定しておくのは困難な作業である。
もっとも労災保険や公的年金等の社会保険や自賠責保険の給付水準においても、制度
的にあらかじめ一定の決め打ちを行っているわけであり、また個々の判決における賠償
金額にしても、前例を勘案しつつ決定していることからすれば、事故前の状態との比較
など困難な点は多いものの、事前に一律的な決定を行っておくことが不可能というわけ
ではないと考えられる。最近では、
「石綿による健康被害の救済に関する法律」や、いわ
ゆる薬害肝炎被害者救済のための特別措置法において、症状や損害に応じた給付テーブ
ルをあらかじめ提示する手法が用いられている。適正な給付水準の設定については、こ
れらの領域も参照しながら試行錯誤をしていくしかないものと思われる。
ただし給付額の設定に関する具体的な論点として、死亡事故と後遺障害等を残した事
故とを比べて、どちらを手厚く扱うかどうかは難しい点である。損害の「重さ」として
は、死亡の方が重大であることは疑いない。しかし金銭賠償の必要性という意味では、
異なる配慮が必要である。死亡事故よりも、重い障害事故などの場合の方が、実際に事
故後に必要となる経済的費用は多いし、迅速な救済も必要である58。さらにいえばその
ような場合、被害者もその家族等も裁判などをしている時間がないことも考えられる。
逆に死亡事故では、もう紛争は終わっており、賠償を受け取るのは遺族である59。
もっともこの点は、不法行為ないしは金銭による損害賠償全体の考え方にかかわるも
のであり、軽々には論じられない。民法理論において指摘される通り、慰謝料には、制
裁的機能とは別に、被害者に対する満足的機能というべきものがあると考えられ、死亡
事故に際してもその点を少なくとも無視すべきではないだろう60。損害額の算定の場面
が裁判内か、裁判外かも絡んで複雑ではあるが、少なくとも現行実務をただちに大きく
変更し、死亡事故と後遺障害を残した事故等とで明確な軽重をつけることは、現実的と
は思われない。
304
第8節 まとめに代えて ―― 介護サービス契約および介護保険との関係
最後にここまで検討してきた民間保険商品による損害のカバーのあり方と、介護サー
ビスを提供する契約および公的介護保険制度との関係に言及してまとめに代える。
まず介護サービスを提供する契約との関係では、このように法的責任を2段階に分け
て把握することは、その債務内容の理解にかかわってくる。介護事故は、交通事故のよ
うに無関係な当事者間で発生するものではなく、法的に契約関係が先行するなかで発生
するものであり、事故への対応においてもその契約内容の理解が影響してくる。
この点、介護サービスの提供にかかる契約内容ないしは事業者側の債務についても、
二区分的に把握することで、本章で提示した民間保険商品の設計との整合性をとること
ができるものと考えられる。すなわち第3章第3節で検討したとおり、介護サービスを
提供する契約の債務内容としては、一方では具体的な介護サービスを適切な形で提供す
る委任契約的な側面があり、他方では具体的な介護サービスの態様とは別に、とにかく
安全に高齢者の身柄を預かるという側面、すなわち比喩的な表現だが寄託契約的な側面
があり、それらがいわば二層構造になっていると考えることが可能である。前者は準専
門的な事業者として、すなわち一般市民ないしは「素人」とは異なる職業的な知識や技
能とそれにもとづく注意義務を前提に、ある程度重い法的責任が問われる領域である。
これに対して後者は高齢者の「身柄を預かる」という契約にもとづいて、結果としての
事故および損害の発生自体に着目して責任が問われる領域であり、そこで問われる法的
責任は、事故の不可避性が強いこともあいまって、軽い(
「それほど重くない」
)ものと
なることが考えられる。
このように介護サービスを提供する契約の内容が高低2種類の債務から重層的に構
成されていると考えれば、それに見合う形で裁判においても、重い法的責任・高い賠償
金額を認める領域と、軽い法的責任・低い賠償金額を認める領域とに分けて扱うことは
合理性を有するものであろう。さらに裁判外で保険により解決される場合でも、同様の
取り扱いがされるべきだと考えられる。そしてそれぞれの領域に応じた民間保険スキー
ムで損害をカバーすることが望ましい。
このような形で契約内容ないしは事業者側の債務の中に、一定の安全性の要求水準を
織り込んで考えるべきではないかというのが本論文の考え方である。ただしそれは介護
305
サービスの本来的な性格や本質などに由来するものではなく、介護保険制度との関係か
ら導かれるものである。いいかえればあらゆる介護サービスを提供する契約について、
このような契約上の債務の構造を読み込むのではなく、介護保険のもとでの契約に焦点
を当てることで、社会的・政策的要請にもとづいて、契約上の債務のなかに一定水準の
安全性の確保を位置づけることが可能になるものと考える。
次章で検討するが、介護保険制度は、あらゆる介護サービスを保険給付の対象として
いるわけではない。それは給付種類や給付額についてもいえることであるが、給付の質
についても同様に考えることができる。すなわち一定の安全性が確保されているサービ
スに限って、介護保険の保険給付の対象となると考えることが可能である。そしてその
ことからひるがえって、介護保険のもとでの契約による介護サービスの提供に際して生
じた介護事故については、政策的に上記のような契約債務に対応する法的責任を求める
ことが可能だと考えられる。そしてサービスの安全性確保に要するコストについては、
事業者側だけに負担させるのではなく、介護報酬の構成要素に位置づけることで、社会
的に負担することが可能であり、このような仕組みを活用できる点が、社会保険の特質
でもある。
付言すれば、ここでは介護保険の対象外のサービスについては、安全性の水準が低く
てよいと主張しているわけではない。ただ次章で述べるように、考え方の順番として、
まず介護保険の対象となるサービスの安全性が、高い水準で設定されるべきであろう。
そのように安全性を媒介として、契約と社会保険との結節を具体化していくべきでは
ないかと考えられる。この点につき次章で検討する。
306
第8章 注
1
本章の初出は、新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』
(日本加除出版、2006 年)第10章「福祉契約の履行プロセスにおける人身損害と事業
者側の責任」として執筆したものであるが、全面的に書き改めた。
2
介護事業者による賠償責任保険の加入動向については、第7章第2節を参照。
3
なお現在でも保険に関する条項が、介護サービスを提供する契約の内容として盛り
込まれている場合があり、具体的には、事業者の責任を保険付保の範囲内とする旨の契
約条項が規定されることがある。しかし賠償責任保険が法的責任と連動する以上、その
ような条項は法的には固有の意味を持たないものと考えられる。前掲・長沼建一郎「福
祉契約の履行プロセスにおける人身損害と事業者側の責任」210-212 頁参照。
4
前掲・新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』第4章
福祉契約(実態調査)参照。
5
具体的な介護事故の裁判例については、本論文では第5章・第6章で検討している。
6
内田貴『契約の時代』
(岩波書店、2000 年)5章の表現に拠るならば、
「脱道徳化」
されていることになる。すなわち労災や学校事故等、いわゆる安全配慮義務が争われる
のは、ある程度の危険性を内包した「場」が提供されるときに不可避的に発生する事故
のコストをいかに負担するかが問題となる場面である。この領域では責任の内容が、加
害者に対する道徳的非難ではなく被害者への救済へと重点移動しており、そこでは保険
制度を中心とした制度的な対応を正面に据えざるを得ないというものである。
ただし同書は、医療過誤訴訟についてはむしろ道徳原理としての不法行為法が拡大さ
れた領域と位置づけているが、介護事故はその双方の領域にまたがっているように思わ
れる。
7
その意味では介護事故は、その発生自体についてはコントロールの余地が少ない自
然災害や傷病などと大きく異なるといえる。もっとも自然災害や傷病などについても、
被害の拡大や支出費用の増大を防ぐ努力は可能である。なお堀田一吉『保険理論と保険
政策』
(東洋経済新報社、2003 年)188 頁が賠償責任事故の諸類型の比較を試みている。
8
経済学の契約理論でいう尤度比の単調性(monotone likelihood ratio condition)が
認められる。伊藤秀史『契約の経済理論』
(有斐閣、2003 年)4章参照。
9
これらの領域にかかる文献には枚挙にいとまがないが、本論文との関係でとくに重
要な最近の文献として、藤岡康宏『損害賠償法の構造』
(成文堂、2002 年)
(とくにⅠ部、
Ⅴ部、Ⅵ部)と前掲・堀田一吉『保険理論と保険政策』
(東洋経済新報社、2003 年)
(と
くに8章・9章)
、Guido Calabresi.“ The costs of accidents : a legal and economic
analysis ”. New Haven ; London : Yale University Press, 1970.がある。
10
実際に5件の介護サービスのうちで2件の人身損害(それも死亡事故)が発生する
というものではない。ただし事業者単位での契約件数と、すべての事故件数との関係か
らすると、モデルとしてもそれほど荒唐無稽というわけではないと思われる。
11
第 5 章における⑨事案、⑪事案で、原審と控訴審の判断が分かれた。
307
12
現行の賠償責任保険による対応の詳細については、第7章を参照。
13
司法判断に対する信頼性(逆にいえば司法判断のエラーリスク)の問題は、訴訟に
つねに随伴するものではあるが、とくに介護事故においては医療過誤と同様に、事実認
定にかかる証拠収集の問題も深刻である。あわせて第6章第7節を参照。
14
注 11 参照。
15
不法行為法の基本的な理念については、後注 57 の文献を参照。
16
謝罪広告の掲載命令についても、憲法 19 条との関係が問題となる。星野英一編『隣
人訴訟と法の役割』
(有斐閣、1984 年)33-34 頁、168-170 頁。
17
経験料率の困難性については、たとえば医療事故に関する全米調査に基づく
Weiler,Paul C., Howard Hiatt, Joseph P. Newhouse, William G. Johnson, Troyen
Brennan, Lucian Leape, A Measure of malpractice: medical injury, malpractice
litigation, and patient compensation, Cambridge: Harvard University Press,
1993.p15,p115 が強調している。
18
この点を明確に述べるのは、西嶋梅治「専門家の責任と保険」川井健・塩崎勤編
『専門家責任訴訟法』
(青林書院、2004 年)所収、42 頁以下(とくに 47-48 頁)である。
19
医療の不確実性は、たとえば小松秀樹『医療の限界』
(新潮新書、2007 年)47 頁
以下が強調する点である。
20
なお賠償責任が発生しても、保険未加入の場合などについては第7章で扱った。
21
以上のような「過失あり」
、
「過失なし」という二分法を維持することの困難性は、
思想的にはいわゆるポストモダン的な状況における「法の適用」の困難性にかかわる問
題と重ね合わせることができよう。村上淳一『現代法の透視図』
(1996 年、東京大学出
版会)第 4 章、村上淳一/土方透「
『法』システムの構想」
『現代思想』
(2001 年 2 月臨
時増刊号)191-192 頁等を参照。
22
23
両者の違いにつき、後注 31 を参照。
アメリカでの医療賠償責任保険に関する保険危機の例が想起されよう。
24
認知症に関して、大阪地裁平成 18 年 11 月 29 日判決(
『判例タイムズ』1237 号
304 頁以下)で争われた。
〔参考裁判例-4〕参照。
25
前掲・藤岡康宏『損害賠償法の構造』
(成文堂、2002 年)48 頁は、
「歴史的にも、
責任保険の生成は過失責任と異なるより厳格な責任基準と結びついているのである」と
述べる。また前掲・堀田一吉『保険理論と保険政策』
(東洋経済新報社、2003 年)は、
もともと初期の責任保険は無過失の事故損害のみを対象としており、過失による損害に
対しては加害者個人が賠償金を負担すべきだとして担保していなかったことを指摘した
上で(同書 197 頁)
、自動車事故について「むしろ責任保険による損害の分配が予定さ
れて、無過失責任が認められたと考えるべきなのである」と述べる(同書 208 頁以下)
。
26
過失主義と無過失主義の得失については無数の文献があるが、
交通事故に関して検
討したものとして、たとえば前注の文献および Shavell, Steven, Economic analysis of
accident law, Cambridge: Harvard University Press, 1987.参照。
27
いいかえれば必ずしも「脱道徳化」されていないといえる。注 5 参照。
28
未公刊裁判例である〈1〉事案も同様である。
29
注 21 参照。
「法の適用」による紛争解決は断念せず、しかしその法的なプログラ
308
ムを組み換えるという考え方である。
30
実際にたとえば全社協の提携商品では賠償責任保険とあわせて、施設側に賠償責
任のない事故にも備えるためという形で、傷害保険が提供されている。一般的に提供さ
れている、介護従事者自身の事故に備えた傷害保険とは別のスキームである。第7章第
3節参照。
31
前者の設計では、過失が完全に客観化・高度化されている状況が前提となるし、後
者の設計では、さらに自然災害や傷病リスクのイメージに近づく。いずれにせよここで
は事業者側の具体的な過失の有無を問うことは、保険給付の支払いの上では無意味化さ
れている。ただしこれらの諸スキームは、法的には無視できない違いを有している。責
任保険は、基本的には実際の賠償責任額を補償するスキームであり、定額保険と責任保
険とでは、対象となる保険事故は同一であっても、性格が異なる。そもそも保険が、賠
償額をカバーするものなのか、事故による損害自体をカバーするものなのかは、大きな
違いといえる。この点は後述するとおり、実際問題として、
「薄い」過失しかない場合の
介護事故を、どう法的に構成するかにかかわってくる。しかし保険料を事業者側が負担
し、給付額が同一である限りにおいて、本章の論旨との関係では重大な違いはないと考
えられるので、ここではモデルケースによる検討の中での単純化として、損害に応じて
一定額の給付が行われるスキームを一括して定額保険スキームと位置づけた。
その他、損害をカバーするために、定額保険を用いる場合と賠償責任保険を用いる場
合とではさまざまな違いがあるが、本論文では立ち入らない。前掲・堀田一吉『保険理
論と保険政策』
(東洋経済新報社、2003 年)9 章のほか、山下丈「損害賠償と保険に関
する諸問題」
『新・現代損害賠償法講座 6 損害と保険』
(日本評論社、1998 年)を参照。
なお民事賠償と保険スキームとの関係については多数の議論がある。とくに人身傷害
補償保険との関係で、最近、東京地裁平成 19 年 2 月 22 日判決(
『判例タイムズ』1232
号 128 頁以下)があらわれ、これに関する裁判官による論稿として桃崎剛「人身傷害補
償保険をめぐる諸問題」
『判例タイムズ』1236 号 70-74 頁(2007 年)がある。
32
未公刊裁判例である〈1〉事案も同様である。
33
既往症の問診確認、心電図検査、ニトログリセリンの投与等の懈怠という医療行為
に過失ある場合における因果関係の証明と不法行為の正否が問題となり、因果関係は認
められなかったにもかかわらず、適切な治療を受ける機会を逸したとの理由で精神的慰
謝料 200 万円が認められた最高裁平成 12 年 9 月 22 日判決(
『判例時報』1728 号 31 頁
以下)を参照。
34
未公刊裁判例である〈1〉事案についても、市民が負うべき事業のコストにかかる
議論まで持ち出して、予見可能性を認めつつも結果回避義務を否定している点には異論
があり得るところであろう。
35
たとえば全社協の傷害事故補償プランでは、保険金は死亡で1口 100 万円、加入は
10 口までと、比較的低い水準になっている。第7章第3節参照。
36
第 3 節(2)および注 18 参照。
37
未公刊裁判例である〈1〉事案についても同様である。
38
実務的な議論については本章の初出原稿である新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著
『福祉契約と利用者の権利擁護』
(日本加除出版、2006 年)第 10 章 222-223 頁を参照。
39
具体的な保険金額の水準については、
(3)で後述する。
309
40
現行の実務では、事業者が賠償責任保険と傷害保険の双方に加入している場合、
過失事故に際しては両方から保険金が支払われている。第7章第3節参照。
41
日本の交通事故訴訟に関する分析である Ramseyer, J. Mark and Minoru
Nakazato, Japanese law: an economic approach, Chicago: University of Chicago
Press, 1998.pp90-99 を参照。
42
第3章第 4 節および第6章第 7 節を参照。
直接的には Cooter, Robert and Thomas
Ulen, Law and economics, 2nd ed., Reading: Addison-Wesley, 1997. pp270-277 に依拠
したものだが、このような考え方を最初に提起したのは、Calabresi, Guido, The costs of
accidents: a legal and economic analysis, New Haven; London: Yale University Press,
1970.である。
43
第 5 章・第 6 章で扱った⑭判決等を参照。
44
第 6 章第 6 節参照。
45
第6章第4節参照。
46
大幅な過失相殺が認められた場合は、そもそも当事者のどちらが勝訴したというべ
きか自体を容易には断定できないといえる。たとえば星野英一編『隣人訴訟と法の役割』
(有斐閣、1984 年)36-37 頁参照。
47
第6章第4節参照。
48
未公刊裁判例である〈2〉判決での 15 万円余という一部認容額についても同様で
ある。
49
過失の程度と損害賠償の範囲額とを直接関連付けるべきだと主張したものとして
鈴木禄彌『債権法講義』
(創文社、1980 年)49 頁、63 頁があるが、本論文はこれを「軽
い法的責任」に際してのみ、定型的に取り入れようとするものである。
50
つとに西嶋梅冶「賠償と保険・補償」
『岩波講座基本法学5責任』
(岩波書店、1984
年)所収、340-341 頁が指摘しているところである。
実務的には自動車保険の分野ではこの方向に舵が切られつつあり、その背景にある問
題意識は、たとえば自損事故等への対応が強く意識されていることから分かるように、
本論文で扱った内容と共通するものがある。これらの点については理論的検討も蓄積し
ている。前注 25 の文献およびそれらに挙げられている諸文献を参照。
51
たとえば全社協の提携商品では賠償責任保険とあわせて、施設側に賠償責任のない
事故にも備えるためという形で、傷害保険が提供されている。これは一般的に提供され
ている、介護従事者自身の事故に備えた傷害保険とは別のスキームである。第 7 章第 3
節(3)参照。
52
たとえば第 6 章
〔参考裁判例-4〕
で挙げた大阪地裁平成 18 年 11 月 29 日判決
(
『判
例タイムズ』1237 号 304 頁以下)では、傷害保険における「不慮の事故」の範囲が争
われたが、判決では事故に関して事業者側の過失があったことから「不慮の事故」に含
まれることを論拠づけている。しかしそれはこの事案の解決としては妥当かもしれない
が、一般論としても傷害保険でカバーされる「不慮の事故」の範囲が、事業者側の過失
の存在を前提として賠償責任保険でカバーされる範囲と同様の形で絞り込まれることと
なれば、本章で述べたような二区分的な対応は意味を失い、被害者救済が図られないケ
ースが多くなることが想定される。
310
53
第2章第4節および第7章第6節参照。
54
第1章注 7 参照。
55
たとえば前掲・西嶋梅冶「賠償と保険・補償」
『岩波講座基本法学5責任』
(岩波
書店、1984 年)所収がこの趣旨を指摘している。
56
医療過誤について、貞友義典『リピーター医師』
(光文社新書、2005 年)2章がこ
れらの点を指摘している。
57
不法行為法において矯正的正義の契機を重視するものとして、
たとえば潮見佳男
『不
法行為法』
(1999 年、信山社)1 部 1 章 3-16 頁、吉田邦彦『民法解釈と揺れ動く所有論』
(有斐閣、2000 年)4 章、前掲・藤岡康宏『損害賠償法の構造』
(成文堂、2002 年)序
説(とくに 38 頁)など。
58
加藤良夫・増田聖子『患者側弁護士のための実践医療過誤訴訟』
(日本評論社、2004
年)46 頁が生存者への迅速な救済を強調する。
59
前掲・小松秀樹『医療の限界』
(新潮新書、2007 年)61 頁がこの点を強調する。
60
慰謝料についての議論は多いが、議論を整理しつつ、この点についても述べるもの
として、前掲・潮見佳男『不法行為法』
(信山社、2004 年)260-264 頁。
311
第8章 参考文献
新井誠・秋元美世・本沢巳代子編著『福祉契約と利用者の権利擁護』
(日本加除出版、
2006 年)
内田貴『契約の時代』
(岩波書店、2000 年)
大村敦志「無償契約――近隣関係とヴォランティア」
『法学教室』299 号 60-65 頁(2005
年)
加藤良夫・増田聖子『患者側弁護士のための実践医療過誤訴訟』
(日本評論社、2004 年)
烏野猛「高齢者施設における介護事故裁判からみた社会福祉の課題」
『21 世紀における
社会保障とその周辺領域』
(法律文化社、2003 年)所収
菊池馨実「介護事故関連裁判例からみたリスクマネジメント」増田雅暢・菊池馨実編著
『介護リスクマネジメント』
(旬報社、2003 年)所収
小松秀樹『医療の限界』
(新潮新書、2007 年)
貞友義典『リピーター医師』
(光文社新書、2005 年)
潮見佳男『不法行為法』
(信山社、1999 年)
潮見佳男『債権総論〔第 2 版〕Ⅰ』
(信山社、2003 年)
鈴木禄彌『債権法講義』
(創文社、1987 年)
高野範城・青木佳史編『介護事故とリスクマネジメント』
(あけび書房、2004 年)
長沼建一郎「賠償責任保険と介護リスクマネジメント」増田雅暢・菊池馨実編著『介護
リスクマネジメント』
(旬報社、2003 年)所収
長沼建一郎「社会保障(法)領域への『法と経済学』適用可能性について」
『社会保障法』
18 号 75-89 頁(2003 年)
長沼建一郎「高齢社会における生命保険の役割と可能性」
『保険学雑誌』584 号 21-34
頁(2004 年)
西嶋梅冶「賠償と保険・補償」
『岩波講座基本法学5責任』
(岩波書店、1984 年)所収
西嶋梅治「専門家の責任と保険」川井健・塩崎勤編『専門家責任訴訟法』
(青林書院、
2004 年)所収
平田厚「福祉契約に関する実務的諸問題」
『社会保障法』19 号 124-135 頁(2004 年)
312
藤岡康宏『損害賠償法の構造』
(成文堂、2002 年)
星野英一編『隣人訴訟と法の役割』
(有斐閣、1984 年)
堀田一吉『保険理論と保険政策』
(東洋経済新報社、2003 年)
毎日新聞医療問題取材班『医療事故が止まらない』
(集英社新書、2003 年)
村上淳一『現代法の透視図』
(東京大学出版会、1996 年)
村上淳一/土方透「
『法』システムの構想」
『現代思想』
(2001 年 2 月臨時増刊号)183-199
頁
桃崎剛「人身傷害補償保険をめぐる諸問題」
『判例タイムズ』1236 号 70-74 頁(2007
年)
山下丈「損害賠償と保険に関する諸問題」
『新・現代損害賠償法講座 6 損害と保険』
(日
本評論社、1998 年)所収
吉田邦彦『民法解釈と揺れ動く所有論』
(有斐閣、2000 年)
吉田邦彦『契約法・医事法の関係的展開』
(有斐閣、2003 年)
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313
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