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「人間万歳」の位置
武者主義の頂点 - 「 人間万歳」の位置 - 一 はじめに 武者小路実篤の初期作品を代表する 「 お目出たき人」 「 桃色 の 室」には、彼独自 の 「 自炊ビ 思想が読み取れる。武者小路の 「 自 炊ご とは、人知では測り得ない原規範 ( 国家'既成道徳'本能を 超越したもの)を意味する.彼は、自身を 「 自炊.J の申し子とし て任じている。作品の主人公たちには、「 自然」の命令に可能な 限り従 い、「 自然」 の境地を目指す強 い上昇志向が認められる。 このような実篤の 「 自炊JJ を基軸とする思想や志向を'本稿では 「 武者主義」と呼ぶことにする。しかし、実篤 の急激な上昇志向 は、「 真理先生」周辺に至り影をひそめる。緩 い上昇志向を伴 い ながらも、開眼の静護な気分が物語全体を覆 っている。その転換 点に位置しているのは、「 人間万歳」である。「 人間万歳」 の初出 は、大正 一一年九月 一日発行 の r 中央公論︼第三七巻第 一〇号で ある。 菅 野 博 本稿は、武者小路文学 の流れに鑑みつつ、「 人間万歳」が武者 主義 の頂点に位置する作品であることについて試論する。使用す 「 自然」 への上昇 ∼ るテキストはtr 武者小路蕎 全集︼ ( 以下 r 全集Jとする)第六 巻 二 九八八年 10月二〇日 小学館 1三 四三頁)である. 二 武者小路文学 の流れから 「 人間万歳」 の位置を検討するにあ た っては'「 自然」と実篤と の位置関係を作品ごとに辿るのが有 効である。「 自然」の境地に向けて上昇する実篤 の思想的到達度 は、各作品における 「 自炊亡 の具体性の度合 いと主人公あるいは 実篤が 「 自炊亡 をどのような視線で準 えているかを把撞すること で測ることができる。この方法論は、大津山国夫氏の説を出発点 としている。 6 5 実篤が、「 まづ神 の存在について間」 い、「 根底から再出発し このような世界観を武者小路が明確化してい-過程を辿 って みる。 彼の 「 自然」主義は下降を志向しな い。豊穣で確実な成長 を手 に入れるために'根底から再出発しょうとしたのであ る。 ようとした」作品をもとめるなら'それはやはり 「 お目出たき人」 ( r お目出たき人]明治四四年二月 1三日洛陽掌 となる. 「 お目出たき人」 の主人公は、武者小路実篤 である。等身大 の分身であるから、主人公の 「 自炊亡 への理解は、そのまま明治 四四年当時の件者のものと考えられる。この時点では、まだ 「 自 て成功しなか ったら万止むを得な いが'自分の意志で背き たくないと思 ってゐる。 それに浅はかな人智で自然を試みるのはわる いが'その ことが迷信か迷信でないかを知りた-思 ってゐる。 ( r 全集J第 1巻昭和六二年二月 10日小学館 100貢) 自分は出来るだけ自然 の黙示と迷信してゐることに従 っ ( r 武者小路実嘉 ︼ 1九七四年二月二五日東京大学出版会 1五七貫) 実篤は、常に 「 自然」を戴 いている。「 自然」 の意志を明らか にする、その道程こそが武者小路文学の根幹 であ-出発点とな っ ( ・ ) た。この点において、亀井勝 一郎の指摘は卓見である。 氏はまづ神 の存在について問うた。それを間ふことと文学 ( r 亀井勝 1郎全集」第五巻昭和四七年九月二〇日講談社 四九〇貫) 炊.J の概念が具体的ではな い.「 自分」は 「 自炊亡 の存在を感じ ながらも半信半疑でいるため'その実体把垣 の欲求が強 い。「 自 的出発と同時であり、実践面では 「 新しさ村」と いふ 「 理 想国」の夢と同時であ った。 武者小路 の言う 「 自然」と個人と の関係を、大津山氏は次 の ように説明している。 分」と コ自炊ご との距離は遠-隔たり、彼の視線は'地上から雲 に隠れて見えな い天空をただひたすら仰 いでいる。「 自然」は、 =実篤)の感情の域を脱していな い。 まだ主人公 ( 桃色 の女。 ( 上略)先づ御自分を大事に遊ばさなければ いけ ませんわ。自分の内の人生を守護しなければ いけません わ。他人のことなんか考 へる暇のな い程生長おしになら 「 人類」は 「 自然」 のもと にあ って個人を統率 している。 「 自炊u は人間をふ-むすべての生物 ・ 無生物の主君であり、 人間の管理と統率を 「 人類」にゆだねている。ここに'「 自 人類」- 個人と いう管理系列が成立する. 炊ごI 「 ( r 武者小路実篤論二 元 六頁) 6 6 更に前進する。 私は他人の主観を信ずるやう になりました。自分の主観 に矛盾する他人の主観は信用しな-な-ました。 なければ いけませんわ。他人 のことはそれからですよ。 1人前 にならな い内 に他人様 のことを考 へるのは生意気 ですわ。 ( 中略)どうしても貴夫は自我の守護者 にならな ければ いけませんよ。 私は自己と云ふも のを最も借用するやう になりました。 神は意久地なしではな い。自然に勝手なことをさしてを -'しかし神 の心を心にするも のは生き甲斐を得られる のだ。 るも のを嫌はれる。自然 の法則はどうあらうと'神はそ れを超過されてゐる.奇蹟がなければ生きられな い程、 に顕はれる。自然 の法則の前に脆づける時に神はあらは れる。神は自然 の法則を肯定する。自然 の法則を無視す ①神は奇抜な行ひのうち にあらほれな い。自然 の法則を変 化する所にあらほれな い。むしろ自然 の法則に従順な時 して 「 新しき村」を創設し'共同生活を開始している。「 幸福者」 から二箇所引用する ( 便宜上'「 ① ②」を引用部に冠する) 0 小説 「 幸福者」は、大正八年 の r 白樺」 1月号から四月号、 六月号に連載された。前年の大正七年に武者小路は思想の実践と この個人主義宣言には'「 桃色 の室」からまた 一歩 「 自然」に 近づ いた武者小路が見出せる。 ( r 全集」第 一巻四二三頁) 私にと つては 「 自己」以上に権威のあるものはありません。 ( r 全集」第二巻昭和六三年二月 10日小学館三 1頁) 「 桃色 の室」 ( r 白樺」第二巻第二号明治四四年二月 一日)の 一節である。「 お目出たき人」 の脱稿が明治四三年 の二月である から、そのほぼ 一年後の作品である。思想的分岐点にあ った武者 ら再出発」した武者小路の上昇が'「 自我 の守護者にならなけれ 小路が、個人主義 の選択を宣言した作品と考えられる。「 根底か ばならな い」と いう言葉を桃色 の女に語らせている。「 自然」に 繋がる道として実篤の選択したのは'「 自我」の道であ った。「 自 我の守護者亡 たることは、実篤にと って 「 自然」の申し子として の宣誓と任務である。「 お目出たき人」で打ち出した 「 自然」の 概念に 「 自我」と いう支柱が建てられたことで'実篤 の世界観は 具体性を増した。引用部にある、「 他人のこと」をひとまず排除 的に保留する姿勢をとるべきだと いう桃色 の女の助言は、実篤の 個人主義 の方法論であり、彼の思想深化の証である。「 桃色の室」 で社会、他者からの圧力が措かれていること、また戯曲と いう形 ( 「 全集」第四巻 一九八八年六月 一〇日小学館二九四頁) 式を用 いて 「 若 い男」や 「 桃色 の女」に作者の思想を語らせる余 このような武者主義 の深化と上昇は'彼が 「 自己の為」及び 裕があることなどは'武者小路の 「 自然」が感情の域を脱Lt思 考の反魂の中で客観性を帯びてきたことの表れである。 其他について」 ( r 白樺」明治四五年二月 一日)を書き得たことで 67 ②自分の 1生を自分の神に捧げ'自分の神 のお 、せのま ゝ に生きた いのが自分 の願ひなのだ。自分の神'その神か ら先づ請-たい。自分の神はどんな神 であるか自分は知 らな い。それは見ること の出来るも のか出来な いも のか それも知らな い。少-もこの肉眼では見えな い。そして その神は世界に満ち満ち てゐられる。神は 一人でゐられ るか'何人ゐられるか、恐ら-人格的の神と云ふよりも、 見えざる神、あらゆるも の ゝ内に生る神、人類 の内に生 き、個人と自然 の内 にも生き、空気 の内にも生き、光 の うちにも生き'時 のうちにも生-。精神 のうち に生き、 美しきも の'清きも の'生々したも の ゝ内 に生き'正義 と善行と、愛 のうちに生-。す べて無限の深さあるもの ゞ に生-0 ( 中略)神は全体として顕はれるのには神は人間 にと って大きすぎ る。た 神を自己 の内 に宿し、神 の ま ,に自己を生かしたも のは神と共にゐるもの'その時、 神が人にな-、人が神になる。( 傍線は論者 による) ( 「 全集」第四巻三二六⊥ 二二七貢) 「 幸福者」は、「 私」が 「 師」と過ごした思 い出を、「 私」 の 回想と いう形式で語られている。作者は'「 私」 に 「 師」 の生き 方や思想を語らせることで、自己の コ自然J 、神を表現している. 「 幸福者」は、神を語る 「 師」を 「 私」が語ると いう入れ子構造 とな っている。「 幸福着工 において、武者小路の 「 自然Jは'「 枕 色の室」での 「 自我」に加えて、さらに 「 神」を戴-ところまで 来ている。② には 「 人類」 の語も見える。「 自然 の法則はどうあ らうと'神はそれを超越されてゐる」 ( ①)とあるように'また 「 人類 の内 に生き、個人と自然 の内にも生き」るとあるように' 人類」- 「 個人」と いう管理系列を包括す 「 神」は 「 自然」- 「 る存在として定義される。その中で 「 師」は、自分が 「 神」の啓 示を受けた伝導者であり'「 神」に忠実な下僕 である旨を語る。 しかし、傍線部のよう に'「 師」は 「 神」を語れな い。 つま-、 作者実篤が、「 神」を形象化できな いでいるのである。武者小路 の上昇は 「 自然Jに 「 神」を感じるレベルに達している. 「 神」を把握するまで'武者小路の上昇志向は止まらない。 三. 「 人間万歳」 の位置 武者小路実篤 の詩 「 其処は」は、大正 一二年三月九日の執筆 と推定されている。以下に引用する。 其処は客観的世界/事実あり のま ゝ見る世界/人間の姿を そのま 、見る世界/そして其処に面白味を見出す世界/私 は主観 の峠を こしたら其処 へ出た/限界 の広 いそ の世界 ( 三、九) ( r 全集︼第 二 巻 一九八九年八月二〇日小学館三三八頁) 武者小路は 「 其処」 に居て、「 世界」を見渡している。「 私」 ( 実篤)の到達した 「 其処」は、「 主観 の峠をこした」「 客観的世 界」である。実篤の上昇志向は'ここには見られない。切迫した 雰囲気も払拭されている。実篤は、静護で見晴らしのよい 「 世界」 6S ( 2 ) 本多秋五は、「 其処は」に触れ つつ次のように述べている。 で解放感に浸 っている。 武者小路さんの生涯 の仕事全体に 「 前期」と 「 後期」と い う二大区分をお-。前期と後期を分 つ分水嶺は 一九二三年 ( 大正 一二年、関東震災の年)である。 ( r r 白樺」派の作家と作品] 1九六八年九月 1五日未来社 九四∼九五貢) 本多秋五は'「 思想家としての武者小路美馬」 ( r 朝日ジャーナル︼ 一九六三年五月 一九日)においても武者小路の転機を語 っている。 其処は」以後 の武者小路は、ほほ 1貫して達観的姿勢を保 ( t 一 )「 新しき村四十九年 のお祝 いの つ。たとえば、昭和四二年 の詩 「 朝」 ( r この道」昭和四二年 1二月)でも'「 其処は」 の精神は変 わらな い。 人間に生まれ'人間として生き ている以上'/出来な い事 は仕方がな いが/出来るだけ/人間の天命がこの世に/完 全 に生きることを望まな いわけにはゆかな いのだ。/今後 も いろいろの事があるかも知れな い/だが僕達 の本願はま ちがいない/現実 の力は無視出来ず/人間 の力以上の事は 出来な い。/だが我等は、自分 の天命を愛する如-/隣人 の天命を愛し/皆がこの世で天命を全うする事を本願にし て/生きるだけ生き/働けるだけ働き/同時に落ち つける だけ落ち ついて/生き てゆきた いと思う。/この世には愛 す べき人が実に多 い/私はそう言う人と協力して/新しき 村 の 一人として/この世に生きられる事を喜んでいる/そ して人間を愛していますと/私は言 いた いのだ。/人間を 愛しています。/人間を信じています。/人間万歳。 ( 「 新しさ村の創苧 冨山房百科文庫 6⊥ 大津山国夫編 昭和五二年六月二七日冨山房二六四⊥ 一 六六貢) およそ関東震災 のころを境にして、氏の生活に大きな転機 が訪れる。外には思想界、文壇 の変化があり'内 には安子 夫人と の新し い結婚があり'大きな自伝小説 r 或る男」が 完結し、芸術社版の全集が発刊 の緒 につき'やがて八年間 住んだ日向 の村を出ることになる。他方'氏の内面生活に も大きな変化があ った。か つて輪郭明瞭な倫理家であ った 氏が、荘洋としてとらえがたい生命主義者になり'青年時 代には 「 西洋思想」を普遍人間的な'その意味でも っとも 「 其処は」 の 「 其処」とは'この詩 のように 「 人間万歳」と 一 貫える場所である。初めて武者小路が 「 人間万歳」と言 い得たの ( r 「 白樺︼派 の作家と作品︼ 一八∼ 一九貢) 自然な思想とLtr 幸福者」執筆当時には、自分をキリスト に比する瞬間をも つほどキリスト教に近づ いた氏が、悠然 たる東洋的観照者に変 った。 は'大正 二 年九月の狂言 「 人間万歳」である。 「 人間万歳」は'実篤が 「 神」を把握した最初 の作品である。 6 9 ( 4 ) 以下は、本多秋五の論である。 作者はか つて 「 自由なものを少しかき つづけると、地面に かじり ついているも のがかきたくなるLt地面にかじり つ いているも のを少しか-と自由なも のがかきた-なるね。 」 ( r 彼が三十の時] )と書 いていたが、この小説と r 人間万歳) とは、この作者 のも のとしても、その 「 自由なも の」 の最 高位に位する作品である。 志賀直哉 の 「 廿代 一面Jに似て、量から いうとその十倍 ちか-もあるかと思われる r 彼が三十 の時」を底辺におき、 その上に r お目出たき人Jや r 世間知らずJをお-とする と、この小説 ( r 第三の隠者 の運命]- 注は論者)と r 人間 万歳」とは、ピラミッドの頂点に来る作品である。 ( r 「 白樺L派の作家と作品」六八∼六九頁) 「 人間万歳」 には、「 宇宙」を舞台として 「 神様」 の日常生活 と'それに仕える様々な天使達が措かれている。そして、「 宇宙」 から 「 地球」を見渡し、また 「 隣の宇宙」 の存在を示すことで、 世界そのものの広がりが説かれる。武者小路辰子は'「 人間万歳」 を次のように 「 解説」している。 一九 二二年 ( 大正 〓 )の 「 人間万歳」 の 「 神様」は人間 を助ける存在としていな い。 ( 中略)人間が 「 神様」によ っ てめざめることを願 っている。しかし、「 神様」は人間に関 心を持たず、責任も持たな い。ただ いつか人間自身がめざ めてい-と いうことが 「 降り の神様」 によ って約束された 時、「 神様」も地球 の天使も嬉しがる。「 神様」 への万歳で な-て'「 笹 からの 「 人間万歳」なのだ った. ( r 全集l第六巻五六七貢) 「 幸福者」までは、人間の側から 「 神」 の存在を説-ことは あ ったが、「 神」そのも のが作品に登場することはなか った。し かし、「 人間万歳」では、「 神」そのものが主人公として登場する。 「 神」 の側から人間界を見下ろすと いう視点は'武者小路の思想 的到達によ って獲得されたもので、「 お目出たき人」「 桃色 の室」 「 幸福者」等に見られた、人間の側から 「 神」を仰ぐと いう視線 を超え、大きく転換している。それまで、抽象的であ った 「 神」 は、ここでは具体的で肉体性を備えた存在とな っている。これは、 「 人間万歳」 の宇宙 モデ ル 「 人間万歳」において 一応の完成を見るのである。 武者小路が 「 神」を明瞭に把撞し'「 神」を求めて上昇を続けて きた精神が、頂点 に達したことを意味している。武者主義は' 四 「 人間万歳」は、「 七」章を境に前半と後半に分けられる。前 半で 「 笹 は、唯 1の絶対的存在として 「 宇宙」を管理し、調 和を施す.しかし、後半では 「 隣の宇宙」と 「 隣-の笹 の出 現により、「 神様」は、 o n e ofthemとなる.その中で 「神様」は' 。大尾は、「万歳」の唱和の中で'二つの 生長意識を大 いに抱「 神様」の調和が描き出される.「 人間万歳」における 「 選 や 7 0 ある。ここでは、「 人間万歳」から武者小路の世界観 ( 宇宙 モデ 「 宇宙」までも相対化する目と 「 無限」 の世界観 の獲得は、武者 小路の思想が、主観を脱し'高度に構造化され、洗練された証で ( r 武者小路実集諭し二九八∼二九九貢) 座視することはできな い。そのとき 「 人類」は 「 自然」に 黙認される範囲で愛と連帯を力説することになる。 「 人間万歳」に登場する主なキャラクターの関係は、「 神様」 神はそれを超越されてゐる」 ( 前掲)と書 いていた。これらを総 合すると、「 楚 ( 超越者)- 「 滑稽天使」 ( 「 自炊u)- 「 天使」 武者小路は 「 幸福者」において、「 自然 の法則はどうあらうと' ル)を読み取 ってい-0 - 「 滑稽天使」- 「 天使」 - 「 人間」 の管理系列とな っている。 そして、「 神様」を頂点とする管理系列 の成立している世界が、 ( 「 人類」 )- 「 人間」 ( 個人)と いうモデルができあがる。「 神様」 が 「 自然」であると の理解もあるだろうが'「 神様」を超越者と 大津山国夫氏は、前掲 の通り、武者小路の世界が 「 「 自然」- 「 宇宙」 である。「 隣 の宇宙」を従える 「 隣 の神様」は、「 神様」 と対等 の関係に置かれている。 みれば、「 神様」と思考パターンをほぼ同じ-する 「 滑稽天使」 こそ 「 自炊亡 の概念をキャラクター化したものと考えるのが妥当 武者小路の世界観を考えるにあた って'亀井勝 一郎 の論は示 ︿ 5 ) 唆を与えてくれる。 である。そうしてみると'大津山氏の論じる 「 自然」と 「 人類」 一 の関係が、「 滑稽天使」と 「 天使」 の関係に合致する。このモデ 71 ルが武者小路の相挙 る世界の基本形と亭 見よう。 一 「 人類」とは、すなはち愛 の化身であり、連帯の化身であ っ た。「 自然」が力と自由 に傾斜するとき'「 人類」はその暴 走に歯止めをかけるかのように愛と連帯に傾斜する.「 自然J 武者小路文学を読んでゐて私のいつも感ずるのは'そこに 「 人類」- 個人」と いう管理系列において成立していることを指 摘している。このことについて、大津山氏は、さらに次のように 論じている。 は荒御魂であり、「 人類」は和御魂 である。 ( 中略)「 自然」 は本能 の跳梁も エゴイズ ムの充足も意 に介さな い。人間が 不倫 の淵に沈んでも、 エゴイズ ムと エゴイズ ムが衝突して の無限 の祈りがあることだ。人間 の悲劇や悪を見据ゑて、 一貫してゐる 「 無限定の愛」とも いふべき思想である。 い かなる意味でも自他を限定しな い、云はば人間の可能性 へ ( r 亀井勝 一郎全集︼補巻 一昭和四八年四月 一六日講談社 への随順に発したも のであり、そのま ゝ作品 の方法ともな ってゐる。 しかも つねに楽天的である。それは自然 の無尽蔵な生命力 人類全体が滅亡 の危険 にさらされても、それは 「 自然」 の 自然」はそれらを矯め 関知しな いところである 。むしろ、「 ることによ って力と自由が失われることを恐れる。しかし、 人間社会以外に自己の版図をもたな い 「 人類」は、「 百万や 二百万」 の喪失 には驚かな いにしても、人類全体 の滅亡を 二〇七頁) 「 人間万歳」において、空間の広がりは、「 神様」 のいる 「 宇 宙」だけで完結してはいな い。「 七」章からは'「 隣の宇宙」と い う新たな空間が設けられる。また、「 向ふ三軒両隣りの宇宙」と いう 「 隣の宇宙 の天使」の言葉や、「 女 の天使」 の 「 宇宙はそん が生長を続けている世界でもある。同時に、「 神様」でさえも生 長を続ける。 神様。 ( 歩き出し)さあ面白-な ったぞ、俺にも話相手 が出来'競争者が出来たぞ。 価を発揮してやるぞ。 調和をお互にやぶるやうな馬鹿なことはしな い。だが急 に世界がひろ-な った。俺が安心してゐる内に隣- の奴 は大したも のを発明しやあが つた。しかし之から俺も真 女の天使。 隣りの宇宙からせめて来たら大 へんですね。 神様。 大丈夫。そんなわからずやではな いことは 一言聞 いたゞけでもわかる。俺達は人間ぢやな いから。宇宙 の いよ- 来たね。僕はこの宇宙より外に宇宙があるとはて また、「 男の天使 こ の言葉も同様である。 なに沢山あります の。 」と いう問 いに、「い-らでもある。 」と答 ︿ 6 ) えた 「 神様」 の言葉に、空間の無限の広がりが示唆されている。 んで考 へても見なか った。しかし宇宙がある以上はそれ以 武者小路 の設定した宇宙 のあり方は、そのまま心 のあり方、 愛 の形でもある。個人が個人として心の独立を保ちながら、「 自 ( 「 全集」第六巻三二貢) ( r 全集︼第六巻四〇∼四 一貫) 他を限定しない」 、コ 無限定の愛」を持 つこと。それが武者小路の 個人主義 による他者と の調和 の方法である。「 神様」 の目指すと ころは、「 隣りの笹 との調和的な心の交流である. 上のも のがなければならな いと思 ってゐた。宇宙以外が空 なわけはな いと思 ってゐた。無限と云ふも のは無限のさき に又無限があることを意味してゐるからね。 一つ 一つの独立した宇宙が集ま って 一つのより大き い宇宙を 形成し、そうした宇宙が集ま って'さらに大きな宇宙を形成して 我 々は今までお互の存在さ へ知らなか った。処が今日は君 達とお友達になれる。御互に助けあふことが出来る。お互 の経験や智織の交換が出来る。お互に永 い歴史で得たお隣 り の宝物を自分 のものにすることが出来る。私達は今日私 達はお隣り同志であることを知ると共にいろ- の点で敦 いる。そのような空間の概念が、先程の 「 宇冨」のモデルに加え られるとき、武者小路の想定する世界は、途方もなくスケールの 大きなものとなる.さらに、 1つ 1つの宇宙はそれぞれ独立して いるものの、それ自体で完結した閉じられた世界ではない。それ は固定した静止している世界ではな-、 外の宇宙に門戸を開 いた、 相互交流のある動的な世界である。しかも'それぞれの字冒自体 72 さに驚嘆しました。そして美と光-が宇宙 のすみぐ まで 行 ってゐるのをうれし-思ひます。私達 のところ へどうか 皆さんも遊びに来て下さ い。少しは珍し いも のもお目にか 他の天使。 誠に済みません。 神様。 あは ゝ\ 馬鹿な奴だ。そんなにかぢをとり損ふ 奴があるか、あき盲目、だが笥 仙 引 付廿川 研創 星を丸塊にして発散さしてしまひました。 けられると思ひます。皆さんの内で、何か聞きた いことが 神様。 すんだことは仕方がな い。 ( 傍線は論者による) はること の多 いことをよろこびます。私はこの宇宙 の立派 ありましたら遠慮な-おき ゝ下さい。 ( r 全集]第六巻四二頁) 天使。 地球にこんなものが生れました。 ( 蛇を見せる) れた積極的態度である。同時に、「 仕方がな い」には、現実に存 在することの真理に対して敬慶の念を抱-武者主義 の 一側面を窺 在や事実は直ちに無条件に認めてしまうことにより確実 に維持、 獲得しようとした、武者小路の上昇志向 の経験によ ってもたらさ 「 仕方がな い」と いう諦観は'既成 の事実を不条理であると憤る ことで停滞し逃してしまう生長の精神や機会を'動かしがたい存 「 神様」にと って 「 仕方がな い」は'切替のスイ ッチである。 ( r 全集」第六巻 1五- 1六頁) 神様。 仕方がない'食はしてお-さ。( 傍線は論者による) 可愛 いゝ動物 ( 兎)を食ふのですが、どうしませう。 天使。 処が、こいつが、こんなに美しい小鳥 や、こんな 神様。 生れたら仕方がないから生かしておけ。 神様。 縄のやうなものが生れたな。 天使。 どうも'見 て気持 のい ゝも のではありませんが' どうしませう。 ( r 全集︼第六巻 1四頁) 川叫その空地を何かでふさぐ必要がある. お互いを存在 のままに認める姿勢が'この 「 隣りの神様」 の 「 人間万歳」に見る武者主義 言葉に表れている。それが'調和の前提条件となるのである。 五 「 人間万歳」における武者 王義 のキーワードは'「 仕方がな い」 と 「 見てゐる」 ( 「 見る」 )である。ことあるごとに相談を持ちか ける 「 天使」たち に対して、「 神様」や 「 滑稽天使」 の返答は、 「 仕方がな い」 、「 黙 って見てゐろ」である。「 天使」たちがどれほ ど救済、処置を懇願しても'その態度は変わらな い。「 仕方がな 「 仕方がな い」について'「 人間万歳」から次の二例をあげる。 い」 の語は、計 一〇回も語られる。「 仕方がな い」と いう態度、 そして 「 見てゐる」 ( 「 見る」 )と いう行為の意味を考えたい。 一つの星と衝突 いたしまして、とう- 両方 の 他の天使。 私が計算を 一寸狂はしまして'私の星の軌道 を髪 の毛 の太さの百分 の 1、右 にかぢを取りましたら' とう- 7 3 うことができる。 「 神様」は、存在やその営みを 「 仕方がな い」こととして無 条件に認めた上で、「 見てゐる」ことを 「 天使」たちに要請する。 よる) ( r 全集」第六巻二二貢) 「 神様」が 「 道徳天使」 に説- のは、傍線 のような 「 見 てゐ る」と いう姿勢、態度を持てと いうことである。「 見 てゐる」こ と以上の行為は認めない.「 笹 は'「 刑事」や 「 探偵二 的な行 相手 の内面に踏み入ることはできな い。生活や内面 への干渉は、 神様。 お前 の役目は何だか知 ってゐるか。お前は探偵で も、刑事 でもな いぞ。天の 1万からたP,,美し い光りをも って天使の心を照してやればそれでいゝのだ。 道徳天使。 だと申しまして'今 のま ゝでは恐ろし い事が 起-ます。私は見るに忍びません。 相手を独立した存在として認めていないからこそできる行為であ る。他者に対して許される行為は、「 見てゐる」ことだけなので 為は 「 出しゃばり」であると言う。実存 への 「 仕方なさ」を敬度 に認める武者主義にと って、 いかなる相手であ っても、独立した 神様。 馬鹿'出しゃばり、見るに忍びな いで泣-奴があ るか。そんな意気地がな いから、皆に馬鹿にされるのだ。 ある。「 見てゐる」ことは、相手 の存在をそのままに認めてはじ めて持てる態度である。存在している限り'それを否定すること 「 神様」 の個人主義、 つまり武者主義は、存在を 「 仕方がな る。当然'「 見てゐる」側も 「 仕方がない」存在である。 はできない。存在していること'それは 「 仕方がな い」ことであ 泣-奴があるか'大事な時に、俺の顔でも平気で吋引対 句切 倒引きうして俺でも穴に入りた いやうな牡かし い気 を起させるやうな強 い日をむき出せ。お前は少しお いほ れたな。さあ、泣かな いでい ゝ。お前は天上界には大事 な星だO何にも驚かずに、黙 って見 つめてゐろ.さうす れば曹'お前を馬鹿 にするやうなことを云 つても'お前 い」と いう諦観と謙虚さでそのままに認め合 い、「 見 てゐる」こ とを通して、間接的に影響し合う関係 の構築を望ましいとする。 こうした関係こそ、最も 「 自炊亡 であり'気楽である。そこにユ ーモアも生まれる。それが調和である。 を怖がるのだ。そしてお前を怖れながらも尊敬し、愛し なければならな いのだ。処がお前が出しゃば って、後悔 してゐる人を責めすぎれば、相手はやけになる許りだ。 にならな いの、 ( 中略)あなたが本当 の価値を出してゐら つ( し た 7 ) ら、皆、どんなによろこび'ありがたがるかわからな いわ。 」と いう 「 女の天使」の問 いに、「 神様」は次のように答える。 「 なぜあなたは、あんな力をも ってゐながら、普段はお出し お前はた ゞ見 つめてゐれば い 、のだ。そして少し位 いな 罪は大目に見てやるのだ。お前の力を本当 に知るも のは、 罪を い-らか作 ってゐるも のだ。天使共が時々罪を犯す のは'お前 の力や、御利益をまして-れるのだ。あ-が た-思 っていゝのだ。以後は少し心得ろ。 ( 傍線は論者に 7 4 の言葉、「 桃色の室」や 「 「 自己の為」及び其他について」に見ら れた、他者を排除する姿勢は、この第 一義に則 ったものである。 あわ り に 以上、武者小路実篤文学における 「 人間万歳」 の位置と思想 について考察してきた。 六 お前と話することも出来な-なる。そして皆は俺がゐると 云ふことを強-知りすぎ て独立性を失な ってしまう'なん る。そしたら俺は いつも力んでゐて、呑気 にかう や って、 処が俺はち っともありがた-な いね。俺が全力を出して生 きたら、宇宙は今とちが った形にな ってしま って、その後 は俺が いつでも力まなければ、宇宙 に虚空な処が出来るや うになる。それも俺 の力が強 いだけなは大きな虚空が出来 でも 一々、あ の地球 の天使 のやう に質問に来たり、報告し に来たりしなければならな-なる、さうしたら 一体、俺は どうしたら い 、のだ。俺の時間は少しもな-な ってしまふ、 実篤 の 「 人間万歳」 への自己評価は高 い。彼は'「 僕 のか いた もの 、内で、何が 一番自分では好きかと聞かれる時がある。その ( 9 ) 時 一番始めに自分の頭に浮ぶのは人間万歳である。」と語る。ま た、「 六号雑記」 ( r 白樺]大正 二 年九月号)でも 「 人間万歳」 に触れて次のように書 いている。 はそれは閉口だ。だから俺が居な いでも万事がよ-ゆ-や 俺と云ふも のは自由 のな い、皆 の奴隷にな ってしまう。俺 この世では夢中によろこべる時を持 つことは幸福なこと ゝ 思ふ。寓意や、理屈をあ の内からさがし出さうとするも の うに俺は自分の力を内に書 へてあらはさな いのだ。 ( r 全集]第六巻二八頁) は失望するだらう。も つと子供 のやうな気持で見たらよろ こんでもら へると思 ってゐる。自分以外 の人間にはあんな 出席目なものはかけな いと思ふ。しかし云ふまでもなく芸 術品にはな ってゐるつもりだ。 「 神様」が意識的に力を行使したとき に、良 い結果は出てい な い。「 神様」が 「 女 の天使」 の所に 「 立派な青年に化けて」出 かけたとき の失敗談は、それを物語 っている。 「 天の 1方から たゞ美しい光りをも つて天使の心を照らしてやればそれでい、の ( r 全集j第六巻五七二∼五七三貴) 実篤は'か つて、「 「 それから」に就 て」 ( r 白樺j明治四三年 だ」と 「 麓 亡 は語る。それは つまり、個々が存在しているだけ で影響を与えられる太陽のような存在になることを調和の前提と する'武者主義 の要請である。ゆえに、武者主義は、自己を高め 。 四月( 一 日)の中で、「 自分は運河よりも自然 の河を愛する」と喝 _O ﹀ この 「 六号雑記」は、「 自然 の河」を愛し続け、「 人間 破し 万歳」に至 って、 ついに 「 自炊巴 を'そして 「 神」を身 の内にで た ることを第 一義とするのである。「 俺のゐることは忘れて骨、自 分のすることだけしろ。他の天使を支配したり、他の天使の支配 ( 8 ) をうけては いけな い。するだけのことをしろ。 」と いう 「 神様」 75 きたこと の喜びの声 である。 「 人間万歳」 には'人間の醜さ、美しさ'哀しさ、愚かさと いったあらゆる側面を見据え許容した上での、人間に対する素朴 な他意 の無 い信頼と愛情が読み取れる。 「 人間万歳」は、武者小路実篤 の'人間と いう存在 への賛辞 であり'未来にお いて調和的世界に至る可能性をも つ人間 への期 待と祈りである。 ( ( 注) -)亀井勝 一郎 「 宗教的人間武者小路実篤」 ( 「 文芸﹄臨時増刊 ﹃ 武者小路実鴬読本﹄昭和三〇年八月) 。 2)本多秋五 「 武者小路実篤論」 ( 「 日本の文学﹄の 「 武者小路実 弟」の解鋭 一九六五年二月中央公論社) 0 ( ( ( 3)ただし、「 大東亜戦争私感」 (一九四二年 ( 昭和 一七)五月二 〇日河出書房)周辺の作品を除-。武者小路は、大東亜戦争 にあたり'「 其処は」以降 の達観的態度を変じ、国策 への接 近と戦争を是認する態度を示した。 4)本多秋五 「 「 第三の隠者 の運命﹄その他」 ( F 現代日本文学全 集﹄ の 「 武者小路実篤集」 ( 二)の解説 一九五七年三月筑摩 書房) 0 ( ( ( ( 5)亀 井勝 一郎 「 武者小路実篤論」 ( F 現代日本文学全集 19武者小 路実篤集」の解説昭和三〇年五月二五日筑摩書房) 0 6)﹃ 全集」第六巻三〇⊥ 三 貢参照。 7)「 全集﹄第六巻二八頁。 8Vr 全集﹄第六巻二七頁。 ( の「 序文」 の 1部である.なお、本文は、r 全集﹄第六巻五 9)市瀬書店から昭和二二年三月 一五日に刊行された ﹃ 人間万歳﹄ ( 七三貢から引用した。 10VF全集﹄第 一巻二三 二頁。 その他 の参照した文献 寺沢浩樹 「 「 人間万歳」の世界- 人類調和の願 い⊥ ( ︻ 日本文芸論 稿l第 1四号昭和五九年 一二月1 1 1 0日東北大学文芸談話 会 ) 0 相田清人編松本武夫著 r 人と作品 36武者小路実焦し ( 昭和四四年六 0 月二〇日清水書院) ( すげ の ひろし ・福島県立会津第 二高等学校数翰) 76