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日 光 日 光

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日 光 日 光
日 光
光
日
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 1 )
シャープ社友会
栃 木 支 部
2001 1
新 春 号 (第7号)
栃
木
発行責任者
浦 川 正 司
タイトル:
紺碧の空に、燦々と輝く日の光、緑豊かな大地。自然に恵まれた栃木をシンボルします。
と、同時に当地を代表する観光名所“日光”を顕わします。
カラーコンセプト:日光の赤(R)、栃木の緑(G)、バックの青(B)は、カラーテレビの信号の、
R・G・Bをイメージし、AVシステム事業本部のルーツを象徴します。
同時に、グリーンは社友会のシンボルカラーでもあります。
写真撮影
中 村
茂 氏(会員番号917) 男体山
趣
懇
度
部
も
要
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 2 )
イベント
アルバム
第十二回支部定期総会
特
に秋の懇親旅行への参加(アンケートと共に)の
第十二回支部定期総会は、大田原市〟シヤトーエ
望があり、古市正昭氏を議長に選出し議事に入っ
スポワール″で平成十二年五月二十八日(日)午前
た。
十一時より、会員四十六名の出席により開催 された。 平成十一年度活動・会計・監査報告、平成十二年
活動計画・予算案は議案書どうり承認された。支
来賓としてAV事業本部より山口映像機器事業部
にパソコンを設置の為、基金積み立てよりの支出
長、高井総務部長、喜多村副参事。労組より中村、
併せて承認された。
岩村両副執行委員長を迎え、それぞれ会社の業務近
総会終了後別室で懇親会に移り、相互の近況交換、
況、労組活動の近況について挨拶があった。
味や健康維持の秘訣など、和気あいあいのうちに
浦川支部長から、日頃の社友会支部活動について
親を深め午後二時過ぎ散会した。
(仲谷 記)
お礼とともに、会員の積極的な行事への取り組み
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 3 )
チャリティーバザー大盛 況
七月二十九日(土)に開催された「二〇〇〇年
シャープサマーフエスティバル」に今年も例年
通りチャリティバザーを出店参画致しました。
今回で六回目、会員からご提出された提供品
は二〇七点もありました。
夕四時ごろには、すべて完売の大盛況でした。
売上金及び愛の募金箱で得た金四万円を、矢
板市福祉協会へ寄付させて頂きました。
ご協力有り難うございました。
中村義雄 (記)
五回歩こう会
四月十六日(日)晴天
小田代ヶ原の木道にてノアザミ・ホサキシモ
ツケの花見頃。日光連山に囲まれた戦場ヶ原と
小田代ヶ原は、初夏に美しい花々が咲き乱れる。
広大な湿原と草原を眺めて気分爽快。
中村 茂(記
第六回歩こう会
十月八日(日)晴天
那須朝日岳(標高千八百九十六米)の山頂征
服の喜びと、三百六十度の展望を楽しむ。
茶臼岳・朝日岳一帯はゾウザンツツジを主
とする樹木の紅葉最盛期。登山者も数珠繋ぎ
で 皆、異口同音感嘆の一言。
中村 茂(記)
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2000.5.28 発 行 ( 4 )
人法繁栄
旅 行 で 海 の 幸 を 存分 に 楽 し みま し た。 参 加 者 の 声 と して 来て よ か
った、皆さんと の顔合わせ懇談が何より楽しい、と談笑に花が咲
いて いました。
会員数も百五十名を越 え活動の地盤は出来て 居ます 。以前にも お
話 し い た し ま し たが 、 会 員 夫 れ夫 れ が 持て る 知識や 、 腕を 磨 き 会
う同好会活動の交流がなぜ出来ないのか残念です。広くご意見を
求め幹事会で運 営を検 討して 居ますが 、地域の広が り年齢のバラ
輝やく二十一世紀の新年を寿ぎ
社友会栃木支部の益々の発展と
ツキ、などと色んな問題を抱えて一律的な活動は無理と思考され
夢への再挑戦
タートで 一段と飛躍した栃木支部への再挑戦を祈念いたします 。
に当たります。活動指針などよく討議し新体制で、二十一世紀ス
五月 実施 の定例 総会には全員が 参加して 、今年 度は役員改選の年
残され た時 間 を 楽しく生 活 して 行く ために再挑戦 しましよう。
社会に 役立て る よう 頑張て います 。
二年ですが 生涯学習ボラ ンティアに参加して 、熟年パワーを地域
私も七十歳になり高齢者の在り方も変わりつつあります。まだ
居ます 。
パソコン同好会がスタートしました。多数の参加をお待ちして
同により、購 入設置完了。
社友 会室にもや っとパソコン機器が会社のご支援と皆さんの賛
出来ない事の繰返し今一度考えてくださ い。
そのうち ○○○○と
そのうち 時間が 出来 たら
そのうち ○○が 落ち 着いたら
めに
ますが 、 各位の相互 理解と 互助の精神で 喜ばれる社友会とす る た
皆様のご健勝とご多幸を心より
ご祈念申し上げます
平成十三年元旦
栃木支部長
浦川 正司
希 望にあ ふ れ る 初 春 を 迎 えて 心 新た に 思 考致 して 居 りま す 。
昨年を振返り見ますと、夫れ夫れに色んな思い出が楽しく駆け巡
る事と推察いたします。
支部として振返ると、相変わらず特色なく時を過ごしたと思い
ま す が 、 で も 皆 さ ん に 支 え ら れ 、「 歩 こ う 会 」 も 第 七 回 と い ま だ 少
数の参加者ですが世話人幹事さんのご尽力で実績を上げて来てお
ります。一昨年は懇親旅行が出来ず残念で したが、今年は徳川ブ
ウムに乗り学習と、グルメ旅行で水戸の史跡探訪「常陸太田端滝
(
)
山 水戸家十五代歴代の墓地 」水戸藩勤皇殉難志士を祭る回天神
社、天狗党の変とその戦い、など歴史を紐どき散策、過去にない
>
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 5 )
懇親旅行
水戸史跡探訪
勇
小名浜いわきグルメの旅
田中
田市に着く。門前の家並みの奥に小高い山
飲み物が廻り久し振りに会え た仲間達と世
問話や近況を 語りながら 暫く進むと常陸太
があり、ここが水戸徳川家墓所、瑞竜寺、
森林に 囲 まれ 荘厳 な 中に造ら れて い る。藩
祖咸公(徳川、家康公十一子頼房公)より十
人 が 葬 ら れ て い る 、 棺 郭 の 上 に 盛 ら れ た塚
四代 敬公(圀齋公)に至る迄で の藩主及び夫
は三角形に形造ら れて いる。古来中国で は
霊が山々に 登る のを 竜、獅子、亀等が 手伝
って く れ る と 信 じら れ 、 そ う し た考 から 造
ら れて い る。
大洗海岸に着く。大洗漁業市場の奥に入
って イエローボートで昼食。こ れは凄い
めいめいに丸い桶に刺身、魚貝類が盛られ、
染み の、こ れが 目に 入ら ぬか、 葵 の御紋、
あ んこ う鍋 も あ る 。 食 後 、 水 戸 市街に お 馴
水戸黄門漫遊記に関わった人物の常磐共有
墓地につく。墓地 内には 藤田幽谷をはじめ
・格さん・のモデルとされる史家、安積覚
延干等の墓 のほか高橋多一郎等安政 の大獄
兵 衛 ・ 大 日 本 史 の編 さん に 携わっ た、 青 山
・桜田門外の変等に倒れた幕末水戸藩の悲
劇を 担 っ た 人 々 の 墓 塔 も ある 。
安政以降、明治維新まで 殉した名前を 連
ね た 心 魂 碑が 建って お り 回 天 神 芒と して 祭
祀 して い る 。 回 天 と 命 名 し た のは 世 の 中 を
変え る 主旨で 名付 け た。 門 ・ 拝 殿共 に 彫 刻
が渾 身 を 込 めて 刻 ま れて い る 神 社 の 庭 園 に
は 水 戸 黄門様を 囲 んで 助 さ ん ・ 格 さん、 の
石像もある・常磐自動車道をいわき に向か
って 快調に 走る 。 宿泊 先の「ホ テル」塩屋 崎」
に 日 暮 れ 前 に到 着 。 部 屋 から 眺 め る 太 平洋
は 波 静で 美 空ひ ば り の 「み だ れ 髪 」で 有 名
な 塩 屋 崎灯 台が 左 側 に 見え る 。 ト ロン 温 泉
に夕暮れの景色を 満喫しながら 浸かる。
懇親会にうつり蟹、鮮魚の刺身等海岸な
らで は の特 別な 美 味 し さ、 浦 川 支 部 長 より
「我々は昔こ いしい懐かしい年頃になるか
と 思い ます 。 気を 許 して 共 に 苦 労し た仲 間
と 一 夜を 語 り 明 かす 。 人生 に と って こ れ 程
幸せな時は無いと思います。皆さんと共に
歓 談を 頂き 明日 へ の英 気を 養 い 来 年 再来 年
と ひ と つ づ つ 年 を 重 ねて 行 き た い と 思 い ま
す 。」 主 旨 の 挨 拶 が あ り 新 入 会 、 岡 本興 二
郎 さ ん の 乾 杯 の音頭で 宴 会 が 始 ま り 、 カラ
オケ あ り 特 別 余 興 披 露 あ り、 久 しぶ り の仲
間 と 話 が 弾み 懇 親 を 深 め 波を 枕に 夢 の中 に
入る。海と雲を赤々と染めながら大き な太
陽 が 昇 っ て き た 。 日 の 出 が 拝 めて 清 々 し い
朝 、 岬 に灯 台 が 聳 えて い る 美 空ひ ば り の”
み だ れ 髪 ” の 舞 台 に な っ た所で 記 念 碑 が 建
って い る 。 碑 に 近 づ く と み だ れ 髪 の 歌が 聞
こ え て く る 。 ひ ば り の没 後 も 人 の 心を い ま
だ に 獲え る 。
小名浜の「アクア マリンふくしま」に着く。
海の生物の種類が多いこ と目の保養になっ
た。小名浜港に「いわきらら ミュウー」海産
物 市 場で 食 事を し た。 バ スで 白 河 南 湖 に 着
く。湖畔には松平定信公の像がありこれを
とり囲む様に公園が広がり紅葉が真っ盛り
で湖面に映え見事である。南湖だんご、が
有名で何十年も味は変わらず美味しい。
東北自動車道を白河インターより矢板シ
ャープに午後4時半無事到着した。海鮮等
の土産と仲間と懇親の土産を携えて、又元
気で再開出来る事を祈りつつ家路に着きま
した。
塩屋崎灯台にて
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 6 )
北 峯
稔
のだ から 、英語は出来 る 人も 行く から心 配す
るな 、君らの年代で の子供は それくらいの年
令で 当たり 前だ 等々 、こ りゃ だ めだ !行き た
くな い理由は沢山あるが 、行けない理由は何
かないか!
こ れで は 退 職す る か 、 持病 あ りと 言 う 以外は
逃げられな い、 ええい、後は どうにかなるか
らもう諦めて行け と、もう一人の自分が言う。
し か しこ れ は 野 球 大 会で 、 ピ ッ チ ャ ー が 不調
になり観客の私に、突然投げろと言われたよ
うな もの、ベンチにはユニホームを着た選手
が大勢居るのに俺がなんでや、ピッチャーの
補欠がいな いチーム(ビデオ事業部に)なん
てあるか!。
こ の 予 期 せ ぬ 出 来 事 が ま た ま た 五 年 後 も 起こ
るのですが。
なんで私 が海 外勤務
時は一九八四年(昭和五十九年)ヨーロッパ
へのビデオ輸出は ダンピング法で出来なくな
ると のこ とで 、既に他の日本のビデオメーカ
は欧州各地に工場建設、いつも決断の遅い、
我社もやっと昨年イギリスに決める。
当 時 私 は 開 発 プ ロ ジ ェ ク ト チ ー ム か ら ビ デオ
ディ スク事業部に、スタートして 一年、新事
業は 必 ず 発 展す ると 聞かさ れ 自分にも そうだ
そう だと言い聞かせながらも、ほんねはち ょ
と 無理じゃないの?と不謹慎な思いを抱きつ
つ発展を夢見て働いていました。
「
い瓦礫のビル街のようだし、道路はゴミだら
け、あちこちにごみ袋が散乱、赴任地のレク
サ ムも 同様 、 ゴ ミの 集 収 人が スト を して いる
とのこと。鉄道をはじめストは多発珍しくな
い。
季 節 は 冬 、 日 暮 れ は 早 い 、 四 時 頃 に は 暗 くな
り明るくなるのは朝九時過ぎ、毎日が雨か曇
りかその組合せ、雲一つな い日本晴れは、や
はりここイギリスゆえになかった。
も し一 人部屋で いたら 、 ノ イ ロー ゼにな りそ
うな、暗い天気と雰囲気だ。
日曜日は休息の日、商店はお休み、街はほと
んど人はいな い、みんな教会に行くわけでも
ないだろうに
な にが 日 本 よ り 先進 国だ 、こ れで は 十 九 世 紀
の町に来たようではないか。
「
レクサム町は 、昔は豊かな 炭坑の町、あちら
こちらに大きなぼた山もある。しかし長年の
不況の為、州をあげて 、最 新産業を好 条件で
誘 致中、日本企業は特にウェルカム、求人募
牧 草 地 の よう な 土 地 に 建 築 工 事 が 始ま って い
た 、 その近くにレ クサム町から 仮事務 所と し
て 無償で 借りた二階建工場長屋の一軒、こ れ
がまた汚い。
わ が 社は 金を 使わ な いのが ポリ シーと 美徳と
は いえ 、もう 少しなんと かならんのか! そ
れから間もなくガラ スを割られ、こ そ泥が侵
入する取るものがなく誰かの下着入りのボス
ト ンバ ックが取られ た 、な んで ホ テルに置 い
てこないのか、取った方もびっくりして二度
と来るまい。
。
八四年十二月二十一日、山中、宮本君と三人
で 赴任者最終チームとして 、イギリ スへ、ま
もなく正月だと いう のに何故今ごろ ?先発隊
の連中は我々が日本で 楽しい正月を迎えるの
が気にいらぬのか、
先 発 メ ン バ ー 某 氏 曰 く 、 年 内 赴 任す れ ば イギ
リスの所得税が安くなるから!
その後確認したら、特に赴任時期には関係な
かったようだと、ああ無責任な!
イギリ スは 当時大不況、販売会社のSUKの
ある、産業革命で 有名なマンチェスターは汚
」
一月に 宮本事 業部長が SEプロジェクト チー
フに転出、送別会で 「工場建設からのスター
トで 大変で す が 頑張 って くだ さ い」と、ひ と
ごとながらこれは大変だと思った。
と こ ろ が 三 月 末 チー フ か ら 呼 び 出 しが あ り 、
立上げの応援者の依頼かと軽い気持ちで 行く
と 、 君も イギリ スだと 言わ れ、大ショック、
青天 の 霹 靂。
な んで私が、ビデオ事 業部には生産部のほ
か 部長 は 多 く 居る じゃ 有り ま せ ん か
会議
で 君が適任だと決まった 。
私は 、ビデオデッキの事は少しもわからな
いし 、英語もできな い、子供が中学と高校生
で大変な時期です
ビデオ技術は知らなくてもそれぞれの専門
家が行く、君は工場のマネージメントをする
?
「
「
」
」
」
「
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 6 号 】 2000.5.28 発 行 ( 7 )
集には町の協力もあり、求人予定の何倍かの
応募者が来た。ロンドン出身の誇り高き人事
マネージャーと共に面接する。
採用基準は二十三歳まで女 性を八〇 % とし
た 、 自己申 告の 特長、 特技はす ばら し いが あ
て にな らな い。顔、体格、しゃ べり方と雰囲
気で見分けるしかない。
初日終了後 、Youは顔で 採用して いるのか
と 聞く ので 、 言 葉 はわ か ら な い か ら ( それ で
なくともウエールズ訛りの英語)顔とスタイ
ルで選んでいる、と答えた。
彼には 、どうもこ の日本 人自分 の好みで選ん
で いると思ったらしい(それは間違っては い
ないが)
。それならと翌日からは作戦変更した。
一 人 の 面 接が 終わ る と 、 昨 日 と 同 じ よう に 、
す ぐ ど う か と 聞 いて き た ので 、 お 前 は どう 思
う と聞き返したら いや意見を言ってくれ お
前はどう 思う の か 、決 めろ 。 結 局 結 論 を 言わ
な いから、NOと 言う と 俺も そう 思う とあわ
せてくる。
こ れ で は 時 間 が か か る ので 、 昨 日 と 同 じ よう
に私が 先に意見を言い決める事とした。こ の
マネージャー偉そうに言うわりには採用試験
の 経 験 が な い ので は な いか ? ( ま あ お 互 い よ
く 似たも のだが )その後は 文句を 言わなくな
った。
面 接で 感 じ た 事 は 、 イ ギリ ス 女 性は 明 る く 、
よく しゃ べり 自己 PRも抜け 目な いが 、男子
よ り し っ かり して いる 、こ れ から の 大 いな る
戦力になるとの期待と安心をした。
八 五年 二月 、出 向 者 、 応援 者の 懸命の 努力
により、生産準備、生産もスムースに立上が
り 、 いろ いろ と 問 題を 抱 え な がら も 順 調に 増
産を進める事ができた。
始 めて の 社 長 の 工 場 視 察 「 君 も っ と ち ゃ ん と
し たも のを 付けなさいよ」工程説明用の看板
が確かにお粗末である。
「予算がないものですから―」「その位の金額
は、マンチェースターユナイテッドの宣伝費
用からみたらしれているじゃないか、ねえ―」
とSUKの社長に 、「いやあ!SUKで 考えま
す」「この工場はSUKの宣伝にもなるからね」、
先 ほ ど ま で は 、 蜘 蛛 の 巣 が あ る と か 、 ガラ ス
が 曇って いると か、お叱 りばかりだ ったが 、
さすが社長!、日本側で負担せずに、ちゃん
と 解決するところ はす ご い。お かげ さまで そ
の 後 デ ザ イ ナ ー に よ る しゃ れ た工 程 説 明 板 が
出来上がった。
春 を 過 ぎ る と 気 候 も 良 く な り 、だ ん だ んと 日
が 長くなって くる、六時でも昼間 のように明
る く 、十 一 時 頃よう や く薄 暗 く な って く る 。
従業員に若者が多いため、デイスコが大好き、
何かの名目をつけては開催、日本 人も よく連
れて 行かれた、鼓膜が 破れそうな音楽にあわ
せて踊った、歳を忘れるひとときでもあった。
パ ーテイーも多い、夫婦同伴も いいけれど、
言葉と話題に苦しむ。
あちこちに歴史の重みを感じさせる建物と街
並み 、広 い屋 敷とき れ いな 庭 、芝生は 冬も 緑
で 、自然もきれいだし人々も親切だ 、第一日
本人のように、せこせこと忙しくしていない、
な かな かイギリ スもいいで はないか、やはり
先進国だ !と一年ぐら いして 落ち 着いて くる
とそう思えてきた。
(身勝手な男)
国民性、ものづくりに対する考え方の違いに
加え、言葉に よるコミュニケーション不足か
」
「
」
「
「
」
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 6 号 】 2000.5.28 発 行 ( 8 )
ら か、最 初マネー ジャーとして 採用した者は
辞 めて しま い、 スーパ ーバ イザー(係長、班
長)と して 採用したメンバーが シャ ープシス
テ ム ( 複 雑な )を よく 理 解し 、 そ の後 マ ネー
ジャ ー に成 長 し 今も 活躍して く れて い る 大 変
うれしい事だ 。
八九年のクリスマス休暇、パリに、天気が
悪 く エ ッ フ ェ ル 塔に 登っ たけ れ ど も 曇 って い
て 視 界 ゼロ、 正月 早々こ れで は 今 年は良 くな
いな と 、思 いな が ら帰 宅し たら マレー シア 行
き が 、 年 末 ぎ りぎ り 決 定 して いたと の事 、な
んで 又 俺が!
対米輸出の円高対策として のマレーシア工
場 建 設 と 、 プ ロ ジ ェ クト メ ン バ ー は 決 定 して
い た が 、責 任者 の決定 が 遅 れて いると の噂 は
聞 いて い た 。 マ レ ー シ アで は 気候 、 文 化 、 国
民 性 等 々 イ ギリ ス 以上 に 大変 、誰 が 行 く のか
と 気に して いたが、まさかなんで ? 適任者は
日 本 に は いく らで も いる ので はな いか 、 ま た
しても 青天の霹靂。
人事関係者は社長からは督促されるし、正
月 も く る 、 早く 結 論を と 「 え い、 やあ 」で 決
め たの かと 、勘 ぐ り た い ぐ ら いに 腹が 立 っ た 。
ここも六年目動くとしたら、日本と思って い
ただけ にそんな 馬鹿な !
イギリス、マレーシアにしても事前に打診
があれば、心の準備も 出来るというもの、同
じ敷地の中の移動で はないぞ!辞令発令日ま
で 決 めて か ら の 話 、 そ りゃ な い ぜ !
しかしかっこ良く退職を覚悟して逆らうほ
どの勇 気も経 済力もない、何処にも 言えない
不 満 パ ワーが 体内で 減 衰す る のに 一週間 ぐ ら
い か か っ た 、 ま た も う 一 人 が 出 て き て 、「 く
よくよせず、前進ある のみ、行こうぜ」と言
い始めた。
「 辞 令 をあ りが たく 受け 、 新し い職場で ベ ス
ト を 尽くし ます」 と笑顔で 言えないの は、大
人になりきれないからか?とやや反省もした
が、そうはで きん!抱負書には 書くけれど。
時は一九九〇年一月、私の新しい世界と時
代 への幕開け 、マレ ー シア生 活六年間 の 始ま
りでした。
あとがき
どうも文句の多い内容となり反省していま
す。
書き 始めるとまだまだ いろ いろと 書き たく
なりますが、読者には退屈かも知れず、また
マ レ ー シア 編 も 一 緒 に と 思 いま し た が 長 く な
ります ので こ れで 終わ ります 。
貴重な海外生活を十一年間経験出来た事を
会 社に 大変感謝して います 。
もし読者に当時の私の人事に関係して いた
方が おられま したら、よくぞ私を決めて くだ
さ っ た と お 礼 申 し 上 げ ま す 。( い や 本 当 に )
尚イギリスに行く際、SMCAの膨大
な人事マニュアルを翻訳していただい
た富岡さんにあらためて お礼申しあげ
ます。
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 6 号 】 2000.5.28 発 行 ( 9 )
フルトメンクラウ氏と第九? !
大いなる改定を施したのです。
楽聖ベートーベンの曲にチェックを入
れるとは何という偉大な日本
人!!!!
何と その偉 大な る改訂版「第九」を、フ
ルトメンクラウ氏の指揮で歌うと言
う、光栄に私は浴したのです。
お よ そ 三 〇 年 前 、 京都 市 交響 楽団 の「 第
九」演奏会でフルトメンクラウ氏は指
揮したのです。
その頃私はテナーを歌っていたのです
が、それこそ大幅な改定がなされて、
殆どソプラノとユニゾンで歌う状態で
した。
残念ながらアルト、バスのパートがど
うなって居たかは全く記憶に有りませ
んが、オーケストラもオリジナルと大
分違った響きとなっておりました。
素 人 合 唱 団 を 指 揮す る為 か 、幸 い に も 、
棒 は 「 振 ると 面 食 らう 」 事 は 有 り ませ ん
でした。
西 村 光 二
フルトベングラーの間違いじやない
の?
いえいえこれで良いのです。
戦前、戦後のクラシック音楽会の功労
者として必ず登場する、やんごとなき
華族(出身)の指揮者、近衛秀麻呂が
その人なんです。
この人はフルトベングラーに心酔した
結果、彼の指揮ぶりを真似て、長い指
揮棒を大きく振りまわして指揮をした
と言うことです。
しかし、そこは所詮真似事。くるくる
回る棒の意味が楽員に伝わらず、ご本
家の棒のように楽員を熱演の境地に引
き込む事が出来なかったと言うことで
す。
その結果付いたあだ名が″振ると面食
らう!?”
更に、このフルトメンクラウ氏はベー
トーベンの交響曲全曲を詳細に研究し
た結果、大胆にも、現代の楽器と演奏
技術を持ってすればこう有るべきと、
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 (10)
『私 の メ
修 行』
富 岡 尭 子
関 内 側 の デ ィ ヴ ァ ン ( 座 椅 子 ) の 傍ら で 待 機
す る 。 お 二 人 の 乗 り 込 ん だ キ ャ デラ ッ ク は 、
最敬礼する私を後に闇に消えて行く。それ
から私はキッチンに戻り、純金で縁取りし
た 白 い お 皿 を 洗 い 、 コ ック の S 子 さ ん に 「 ま
だ覚えてないの?」と呆れられながら、必
死に肉用のナイフとフォーク、魚用のナイ
フ と フ ォ ー ク の 違 い を 頭 に 入 れ よう と す る 。
ーーコーヒーは銀のポットで入れ、あたた
めたミルクを後から入れる。紅茶は陶器の
ポットで入れ、ミルクは冷たいまま先にカ
ップに入れる。おまけにマダムのコーヒー
は特別なカフェイン抜きだなどと誰が一度
に覚えられるだろう!。
その当時既にセントラルヒーティングの
邸内で、朝は七時から半袖のユニフォーム
にズック靴、ビニールのエプロンを掛けて
せっせとお掃除。メーカーはGEか、長い
コードをひきずって丸い樽型の掃除機と格
闘 す る 。( シ ャ ー プ な ん て ブ ラ ン ド が こ の 世
に 存 在 す る 事 な ど 知 ら な か っ た ) 午後 は 新 し
いユニフォームに着替え胸当てのついたエ
プロンを掛けて、来客の対応をする。夕方
はマスターとマダムのお給仕。お肉の料理
の後はフランス風に必ずセロリとチーズ。
マ ス タ ー と マ ダ ム は 英 語で 会 話 を さ れ る が 、
私に聞かせたくない時はサッとフランス語
イ ド
十月が来た。三十四年前の今月、私はど
こで何をしていたか、ーーそれは東京の某
区、某石油会杜の杜長の公邸で電話の度に
「ジスイズM(杜長の名)レジデンス」を繰
り返していた。
隣家は元宮様。当家も庭にゴルフコース
付の芝生のある豪邸!玄関を入りピカピカ
した黒レザーに金ビョウ打った扉を開ける
と、右手にホームバー、時計の逆回りにス
モールラウンジ(小客間)
、ビッグラウンジ
(大客間)
、十二人の正餐用の食堂、白いテ
ーブルセットを置いたサンルームのような
ブレックファーストルーム。二階は英国人
であるマスターとフランス人であるマダム
の寝室、図書室、浴室とあって、圧巻は二
階からビッグラウンジへ緩やかに降りて来
るワインカラーのビロードを張った螺旋階
段で、それはもうハリウッド映画の世界だ
った。ー
昨夜は高輪の光輪閣で高松宮主催のレセ
プション。今夜はフランス大使館で癌のチ
ャリティショーだとか。五十三才、私の母
と同年のマダムは水色繻子のイブニングド
レスや赤と白の模様のイブニングドレスで、
銀のサンダルも軽やかに、燕尾服(!)のマ
スターとその螺旋階段を降りて来られる。
私はシルクハットとステッキを捧持して玄
に 切 り 替 え る 。( ア ア 、 フ ラ ン ス 語 の フ の 字
も 知 ら ざ る 無 念 さ よ )食 後 の イ チ ゴは 「 ここ
の家では洗いません」とS子さん。おまけ
に「お食事の用意が出来ました」と申し上
げ る の に 、「 こ の 家 で は ″ デ ィ ナ ー イ ズ レ デ
イ ″ 、 と は 言 い ま せ ん 」「 ? 」 ″ マ ダ ム イ
ズ サーヴド″と言います」。
(これぞハイ
ソサイティー)
六尺豊かなマスターは、武勲嚇嚇たる英
国空軍将校であられたそうな。人柄は極め
て お 優 し い 方で あ っ た。 が 、マ ダム の 方は ?
S子さんの言によれば半年間に逃げ出し
たメイドの数は二十四人!ーー普通の人で
三日、長いので二週間、短いのはたった三
時間!その朝も一人逃げ出した処へ四ツ谷
の日米会話学院を終了したばかりの私かジ
ャパンタイムスの求人広告でノコノコ現れ
た わ け だ っ た 。「 私 の 家 で 一 年 間 勤 め れ ば 大
使館のハウスキーパーが勤まる、お前はロ
イ ヤ リ テ ィ ( 忠 誠 ) と い う 言 葉 を 知 って い る
か?」
「ハイ」
「私はお前にヨーロッパ最高
のマナーを教えるであろう」プロのメイド
でも勤まらなかったものが、シロウトの私
に勤まるわけがない。逃げ腰の態を見透し
たか、マダムは私の手をしっかり握って放
さ な い 。「 と て も 簡 単 な 仕 事 だ 」 と 力 説 さ れ
る 。 内 心( 知 りま せ ん ヨ )と 眩 きな が ら 意 志
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.1 発 行 ( 11)
の弱い私はズルズルと引き込まれてしまっ
たのだ。
しかしその大変な事。公邸だけあって、
使用人は私とS子さんの外、二台のキャデ
ラックの運転手が二人、守衛が一人、営繕
係が一人、庭番が一人、数年前までは執事
まで居たそうな。これだけのお邸なら最底
パーラー(客室)メイドが一人、チェンバー
(寝室)メイドが一人いなければならぬ処。
私か二人分兼ねるわけで三万円の給料も高
いとは言えない。ラウンジの観葉植物は牛
乳を水で割って葉の表面を拭く。階下が終
われば二階の寝室でベッドメイキング、灰
色と赤紫の大理石でしつらえた浴室の掃除、
一週間に一度は別棟の客室スィートルーム
の掃除と、昼間はメイドが続かない理由の
一つであるマダムのお小言。
「スロー」だの
「ステュピッド」
「フーリッシュ」
「イデオ
ット」等等を浴びながら働く。夜ともなる
と「仕事は終わったのか?」
「ハイ」
「よろ
しい、それではお前にマージャンを教える
であろう」ーー香港製の最高級のパイが持
ち出され、S子さんも加わって始めるのは
良いが、もはや私の頭はモウロウ、使用人
宿舎のおフロで寝てしまう始末。とこうす
るうち、マスターが友人三人を招いてブリ
ッジパーティを催されるとの事。そのお三
人というのはイランとトルコとアフガニス
タンの大使で、マダムはS子さんと献立の
相談を始めた。私かキッチンに行くとS子
さんが怒って居る。マダムのレシピでデザ
ートのチョコレートムースを試作した処、
どうしても固まらないのだそうだ。ロケッ
卜の事故で亡くなったご主人が、メキシコ
系アメリカ人であったS子さんは、内緒で
アメリカ式にゼラチンを入れ無事固まっ
た。固まらない方は天火で焼いて皆のおや
つにした。
当日は高輪のクラブからタキシードに身
を固めたボーイが来た。私と通いの洗濯係
のK子さんも黒のワンピースに白いサロン
エプロン、黒のパンプスを履いて衝立の陰
まで料理を運ぶ。まずアペリチーフのおつ
まみにポテトチップと二種類のディップ、
海苔巻あられ、クレソンとレタスのサラダ。
主菜はチキンパプリカでバターライス添
え。デザートが問題のチョコレートムース。
生クリームを絞り出し、チェリーを飾りに
のせたすばらしい出来。私はデザート用の
スプーンがどれか分からず、コーヒー用の
小さなスプーンと間違えてS子さんに叱ら
れたり、
「西洋ではお米は野菜として食べ
ます」と教わって感心したり。背の高いボ
ーイ君の一回の出張料が千五百円ときいて
「いいわね」と羨んだら「僕らのは特殊技
能だもの」と一蹴された。食事が終わって
マスターが、キッチンまで客の礼の言葉を
伝えに来られた。有能なS子さんのお陰で
大成功だった。
このように外界から隔絶された塀の中で
毎日面白い事が続いたが、労働基準法も何
のその、一日十三時間の肉体労働では段々
願色が悪くなって来た。マダムに「ビタミ
ン剤を飲め」と言われる程。夏はキャデラ
ックで軽井沢の別荘に行くそうで、勿論メ
イドもお供するのだが、夏どころかクリス
マ ス まで 生 き て い られ る か ど う か 。 私 は M 邸
での住み込みメイドの最長記録である一ヶ月
をマークして、三万円を受け取りやっと解放
された。
タ ク シ ー を 拾 い 、 赤 坂 の 叔 母 の 家 まで 一 直
線。従姉に「お願い。わかめの味噌汁に納豆
で ゴ ハ ン 食 べ さ せ て 」、 M 邸 で は そ の 頃 珍 し
か っ た パ ン プ キ ン パ イ や 、ブ ラ ウ ニ イ が 食 べ
られ たが 、 私の日本人 として のアイ デン ティ
は 怪 し く な り か けて い た の だ 。 ご 飯 の後 、 マ
ダ ム仕 込 み の 腕 で 従 姉 の流 し を 、 ピ カ ピ カ に
磨 き 上 げ た の で 親 威 中で の 私 の 株 は 一 度 に 上
がった。
もし矢板工場の草創期に、この私にして何
ら か の 功 績 あ り と せ ば 、 それ は 全 く 履 歴 書 に
書 く 必 要 が あ る と も 思 わ ず 、 事 実 記 入 す るこ
と も な か っ た こ の一 ヶ 月 の 苦 行 に よ る も の に
外 な ら な い 。 メ イ ド キ ラ ー な り し マダ ム M に
心からの感謝を捧げる次第である。
シ ャ ー プ 社 友 会
栃 木 支 部 会 報
【 第 7 号 】 2001.1.15 発行
(12)
「ゴルフ同好会」の活動状況
Fair.Way、腰を振りふり目をむいて。
芝を踏みふみ、ナイスジョーク??
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
平成7年 10 月会員相互の親睦と健康維持、エチケット、マナー、ゴルフ技術の
向上、を目的として「ゴルフ同好会」を結成。発起人 兼 世話役 「三好 斉
さん」 を中心に通年定期的にゴルフコンペを開催。同時に主旨に賛同した会員
数も徐々に増加し(現在 31 名)ゴルフ環境に恵まれた栃木県内を中心に、継続
的にゴルフライフをエンジョイしています。
直近のゴルフコンペ開催状況と、平成 13 年(21 世紀)に向けさらに充実と継続
の為の施策等について、パーティの席上賑々しく協議しましたのでお知らせしま
す。
直近のゴルフコンペ開催状況(20 世紀最後のコンペ)
◎通算 26 回目…H12.11.22 日(場所)那須野ヶ原CC
好天、温暖と好コンディションの中、生嶋 良幸さんが、コンペベスト対
“GROSS 77 ストローク(3 9/3 8 )
”で優勝。
☆同スコア 住吉 幸人さん(第 17 回、41/36)
◎世話役(主幹事)の交替(H13 年/通算 27 回目より)
(旧)岡沢幸男 ⇒(新〉生嶋 良幸さんに交替する。
◎ハンディキャップの見直し(第 27 回目開催前に(新)H:Cを通知する)
特にベテラン会員の視力、体力、等を配慮し公平に優勝のチャンスを与え
られるよう実績スコアの平均値、を元にハンデキャップ改定を検討する。
(提示資料にて協議)又、1回/2 年定期的にハンディキャップを見直しす
る事を決定した。
特別賞(20 世紀賞)の贈呈
同好会の発足に寄与及び、戦績等、を考慮し感謝の意としで“トロフィ”を
贈呈した。
MVP…三好 斉さん(写真/左)
最多出場=26 回、連続出場=26 回、優勝回数=3 回
珍賞品王…浦浜 望さん(写真/右)
B:B賞=2 回ニヤピン賞=2 回準優勝=2 回
H12 年 11 月(記)岡沢
シ ャ ー プ 社 友 会
栃 木 支 部 会 報
【 第 7 号 】
2001. 1. 15 発行 ( 13 )
「歩こう会」へのお誘い
歩く運動を通して、各自の健康の維持増進と相互の親睦を目的とした「歩こう
会」は、発足して1年が経過し昨年末までに7回実施しています。
四季折々の見所、自然の景色を満喫し、感動とともに記憶に残る内容にするべ
くコース設定に努めており、幸いにも参加した方々からは好評をいただいており
ます。
会員の皆さん、興味の扉を押し開け、大いなる自然へ一歩踏み出してみよう。
自然のなかを歩くことに現在人の健康の鍵がある。自分の2本の足で地面を踏み
しめることで生活習慣病は解消する。身近で恵まれた自然をくまなく歩きましょ
う。 奥様方の参加も大いに歓迎します。
【実施要領】
★真冬を除き2ヵ月に1回実施しています。(年間5回程度)
★主に栃木県内及び近隣のハイキング又は、トレッキングコース。
★各地で開催の健康ウォーキング大会への参加。
(随時実施)
栃木県ウォーキング協会会員
問い合わせ先: TEL
0287-44-0097
中村
茂
カメラクラブ紹介
カメラクラブは写真の出来栄えもさる事ながらレクリェーション気分で遊び歩
き、会員の近況情報を語り合いながら会員相互の親睦を目的にしていき度いと思
っております。
皆さんが撮るスナップ写真 記念写真 人物 風景等々を自分なりに感じたも
のを撮れば、それが最高の出来栄えの写真だと思います。人はそれそれの性格
考え方 感じ方も異なっているのですから、あまり出来栄えを気にせず気軽にい
つでも思い立ったら連絡を取り合って近場の日帰りで行ける程度の場所でと考え
ていますので、クラブの会員以外の方も参加して賑やかに行こうではありません
か。実施の際は多数参加をお待ちしています。
--‐i
【行事予定】
1,年2回程度(春秋)
2,その他思い立った時に連絡を取り合い随時
---
問い合わせ先: TEL 0287-44-1787
TEL 0287-36-3915
徳田
田中
浩
勇
① 1626
② 柿内健一
③ 昭和 15. 4. 5
憾
暑
着
栽
倚珊
蕃
艦
栃木支部の皆さん明けましておめでとうございま
す。H一二、四、一五卒業致しました新人の岩田で
す。
今後共ご指導の程よろしくお願い致します。卒業し
てから温泉、孫、酒と今の所毎日楽しい毎日です。
その内おつきあいさせて下さい。
あけましておめでとうございます。会社は退職した
ものの、二一世紀に社会的貢献を果たすために、垣
根を越えた模索をしています。手段はシャープ仲間、
大学仲間、若手とのパソコン通信です。メール下さ
い。″
宛、誠意をもってお返
事します。
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j
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本年四月、四二年間お世話になった会社を定年退職
し、これから社友会の仲間に加えさせて貰います。
S五五年電化より転勤して来ましたが、こちらに永
住する所存です。
先輩諸氏のご教示、ご鞭捷の程お願いいたします。
S
20世紀最後の六月に社友会に入会させて頂きまし
た。今後ともよろしくお願いいたします。特にこれ
といった趣味(ひと様に云える様な)も無いので、
今、野菜造りに挑戦していますが、土造りの難しさ
に苦慮しているところです。
皆様方の御指導など、よろしくお願い致します。
章
① 1678
② 山口一武
③ 昭和 l5.7.10
シャープ入社後、四二年間、当時の平野工場を皮切
りに電化、栃木、天理と会社の発展と事業拡大に向
け、仕事一筋の会社人間であった様な気がします。
無事、定年を迎えられたのも、環境の異なる地域へ
妻を始め、子供三人の温かい協力があったらこそ、
仕事一筋にこれたものと、感謝の気持ちを一度たり
と忘れた事が有りません。定年後に栃木にいる長男
夫婦と孫(二人)と同居し、父親として私達の子供
にしてやれなかった分を孫と楽しく過ごす様つとめ
ています。
社友会の御先輩の皆々様今後共によろしく、お願い
致します。
① 1692
② 川崎精一
③ 昭和 l5.7.24
① 1627
② 岩田節雄
③ 昭和 15. 4. 15
① 1667
② 鍋田三朗
③ 昭和 15. 6.9
発行 (14)
【 第7号 】 2001. 1. 15
栃 木 支 部 会 報
シ ャ ー プ 社 友 会
平成一二年七月社友会に入会させて頂きました。幹
事、諸先輩の方と一緒になり、有意義な第二の人生
を過ごしたいと考えております。
改めてまた御世話になりますが、よろしくお願い申
し上げます。
諸先輩の御指導により無事社友会に入会する事がで
きました。みなさんに感謝しています。
これからもよろしく御願いします。
一二月五日、社友会に入会、六〇歳迄よく頑張って
きたという気持ちと、少々ほっとしております。幸
い、私は定年後も八時三〇分までに会社に出社しな
くなった以外の生活パターンは変わらないので、あ
まり深刻に定年日を迎えませんでした。当面は、妻
と二人で楽しみの時を多くつくっていきます。また、
私自身の楽しみはゴルフは時間の無い時にプレーす
るのが楽しく、時間が出来た時のゴルフはあまり楽
しくないと聞きますが、好きなゴルフは続けたく、
ぜひ、ゴルフは誘ってください。
今後とも、よろしくお願い致します。
あけましておめでとうございます。一二月七日映像
機器(事)第二技術部を定年退職し新たに参加させ
ていただく事になりました。スキー、ハイキング、
囲碁をします。最近パソコンも購入しました。
先輩方のご指導をお願い致します。
二〇世紀後半(一二月一五日定年退職)四一年間
の任務を無事終えた現在、在任中の諸先輩方のご尽
力とご協力は、多大なことと心に存在しておりこの
場をおかりし、感謝と御礼申し上げます。又、この
度社友会に入会させて頂く事になり、再び諸先輩の
ご指導を得ることになりますが、引き続き宜しくお
願い致します。
② 1794
② 松山 匡
③ 昭和 l5. 12. 15
一一月一八日付けで定年退職致しました。これから
の第二の人生は健康に留意して今まで出来なかった
趣味、スポーツに取組自由気侭に過ごして参りたい
と思っておりますので、皆様これからもよろしくお
願い致します。
① 1797
② 城本 昭
③ 聊 15. 11. 18
① 1792
② 岩村 博
③ 昭和 l5.12.4
① 1793
② 高橋 彰
③ 昭和 l5. 12. 7
① 1695
② 南里政俊
③ 昭和 l5. 7.24
① 1696
② 田村 栄
③ 昭和 l5.8. 4
【 第 7 号 】 2001.1.15 発行 (15)
栃 木 支 部 会 報
シ ャ ー プ 社 友 会
シ ャ ー プ 社 友 会 栃 木 支 部 会 報 【 第 7 号 】 2001 .1.15 発 行 ( 16)
メビウスクラブ、本格スタート>
21世紀入りと共に、いよいよ念願のメビウスクラブが本格的にスタートをしました。1月15日に、初の定例
会の開催をして、今後の運営方針、会則の検討、世話役の正式決定などの話し合いを持った後、2台のパソコンを
使ってパソコン操作の研修をしました。パソコン初体験の会員も、パソコンに入っている練習用ソフトを使って、
熱心にトレーニングされ、自信を深められました。是からもネズミ講的会員の増加を期待しておりますが、
以下のような方々は是非お気軽にご入会されます事をお勧めします。
① IT革命の21世紀を迎えて、パソコンを使いたいが、手がかりがつかめないで困っている人。
② 既にパソコンを持っているが、使い方がよくわからない人。
③ 今話題のインターネット、Eメールを是非やってみたい人。年賀状をパソコンで作りたい人。
④ ご自分のパソコンに、更に新しいソフトを入れてパソコンの、能力アップをしたい人。
⑤ デジカメ、プリンター、スキャナー、など周辺機器を使おうと思っている人。
等々‥‥
このような方々は、
今すぐ入会されてご自分のご希望を100%かなえられるチャンスを生かしてください。
入会申込先:中村事務局長:℡ 0287-44-2373
喜寿・古希 お目出度う御座います
会員番号 御祝い
お 名 前
御 祝 い の 日
360
古希
船山 忠平
平成12年 3月14日
394
古希
平山 ミチ
平成12年 9月28日
386
古希
中村 義雄
平成12年10月2日
316
喜寿
大久保義隆
平成12年12月15日
375
喜寿
室井 勘二
平成11年 6月20日
編 集後 記
▼会報 7号から 、念願の編集
委員全員参 画による社友会室
での編集作業をスタートでき、
誠に恐悦至極と、編集 委員全
員が喜んでいます。
◎ 是も 、栃 木支 部会 員皆 様方
の深 いご 理解 と 、会社のご 厚
情のたまものと紙面を借りて、
改めて 厚く御礼を 申し上げる
次第です。
★導 入 、 お よび 貸与 いた だき
ま したこ れ ら 機 器 を有効 に活
用 して 、会 員皆 様方へ の、よ
り一層のサービスの向上を図
らせて 頂く所存故、何なりと
も 、ご 指 示 、ご 提案を お申 し
出願います。
◆ サービスの一つとして、
二 十 一世紀 に 於 いて 、 ますま
す急 展開 するこ とが予想され
ます、IT革命に社友会会 員
各位 が 、乗 り 遅れ て 、デジ タ
ルデバイドの悲運を被らない
よ う 、支 部 役 員 と して も ご 援
助申し上げることも必要かと、
考慮しております。
● 以 上 の 観 点 から 、 支部会 員
各位が、メビウスクラブを積
極 的に 、ご 活 用 さ れ ます 事を
ご 提 案申 し 上 げ る 次第で す。
( 編集 子一同 )
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