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ドイツと平和作戦 - 防衛省防衛研究所

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ドイツと平和作戦 - 防衛省防衛研究所
ドイツと平和作戦
1
山下 光
〈要 旨〉
ドイツがポスト冷戦期に従事した平和作戦の実績をみると、①国連からEU・NATOへ
の参加枠組みのシフト、②平和作戦の軍事的側面における役割拡大、という二つの変化が
みられる。このような変化を理解するため、本論は連邦軍の活動枠組みとそのポスト冷戦
期における変化に考察を加え、冷戦期には矛盾なく共存していた枠組みの諸要素(西側と
の統合、戦略文化、基本法)が、冷戦構造の崩壊とともに緊張関係を生むようになったこ
とを明らかにした。その緊張関係は、具体的にはEU・NATOに対する国際的コミットメ
ントに対しいかにドイツが法制度と戦略文化を調整していくかという課題となって現れ
る。本論ではその調整過程を四つの転機(湾岸戦争、1994年の連邦憲法裁判所判決、コソ
ボ、アフガニスタン)から説明し、法的な整備は漸進している一方で、「抑制の文化」は
依然としてドイツ軍による平和作戦のありかたを強く規定し続けていることを指摘した。
平和作戦への関与に関してドイツと日本とではいくつかの重要な相違点(国内法の役割、
地域機構の存在)があるが、平和作戦を巡る政策調整の歴史やドイツによる「包括的アプ
ローチ」の追求は、日本にとっても参考になる部分を含んでいるように思われる。
はじめに
日本の平和維持活動や国際平和協力といったテーマについて議論する際、引き合いに出
されることが多いのがドイツである2。そのことには、ドイツ軍(Bundeswehr)が日本と
同様、ポスト冷戦期において平和作戦に本格的に取り組むようになったこと、また武力行
使の考え方や米国との関係について類似した背景を持っていることなどが関連していると
いってよいであろう。だが他方、両国は平和作戦に参加する場合の選択肢や前提において
大きく異なっており、それがドイツを平和作戦におけるより積極的なプレーヤーたらしめ
るようにもなっている。
1 本論は2010年1月末に脱稿したものに最低限の修正を加えたものである。なお、本研究の一環として
ベルリンで意見聴取を行ったが、その際駐独日本大使館からは多大なご支援をいただいた。特に同大
使館の小橋史行防衛駐在官にはお世話になった。ここに記して感謝したい。
2 国際危機管理における日独のアプローチを比較したものとしては、例えば神余隆博『国際危機と日本
外交−国益外交を超えて−』
(信山社、2005年)173-188頁を参照のこと。
3
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
そこで本論ではドイツ軍による平和作戦の変遷を、その活動の背景にある政策思考の理
解を視野に入れつつ考察することとする。なおここでは平和作戦(peace operation)を
「多国間(国際機構、地域機構、多国籍軍など)により国際的紛争管理を目的として組織
される、安全保障面でのプレゼンスを伴う活動」として広く理解することとしたい3。ま
た、統一ドイツの誕生は西ドイツが東ドイツを吸収する形で行われたことも踏まえ、本論
で冷戦期のドイツを分析する際には西ドイツを対象とする。
まず第一節ではドイツ軍による平和作戦の趨勢の変化を把握し、つぎに同活動をめぐる
枠組みの中にその変化を位置づけて考察を加える。最終節では、日本のこの分野における
政策に対する意味合いを、日本との比較を踏まえて考察する。
1 活動の趨勢
まず、活動の主な実績から見ることにしよう。表1は資料上確認できる範囲で、ドイツ
表1
地域・期間
カンボジア
92∼93
ソマリア
92∼94
ボスニア92∼
コソボ98∼
東ティモール
99∼00
平和作戦における実績:主要な参加
約150名
活動規模
枠組みと主な活動
UNAMIC/UNTAC:医療支援
約2,500名
UNOSOM:兵站支援
(輸送、施設)
フリゲート艦(2)、偵察機(3) NATO-WEU
(Sharp Guard)
:制裁監視
(アドリア海)
約480名、AWACS
(3)
NATO(Deny Flight):飛行禁止区域の施行
トルネード
(14)、輸送機(12)、 NATO
(Deliberate Force):敵防空網制圧、
約530名
輸送、医療
約4,000/∼3,000名
NATO(IFOR/SFOR):医療、兵站支援、
即応部隊
∼2,400名
EU
(Althea):治安維持
トルネード
(14)
NATO(Allied Force):航空作戦
∼8,500名
NATO
(Eagle Eye/Joint Guarantor/KFOR)
:
空域監視、OSCE監視員救出、
和平合意履行支援
約80名、C160(2)、A310
INTERFET:医療、輸送支援
3 「平和作戦」は日本語では「平和活動」と表現されることのほうが多いが、原語(peace operation)
をより忠実に反映した用語でもある前者を本論では使用することとしたい。ほかに同用語を用いた論
考としては、例えば星野俊也「平和作戦と国連」『海外事情』第57巻第4号(2009年4月)2-17頁など
がある。
4
ドイツと平和作戦
地域・期間
マケドニア・
アルバニア99
マケドニア
01∼03
活動規模
約1,000名
約600名
約560名/約70名
03
地中海01∼
約40名
約220名、高速監視艇
アフガニスタン
02∼
∼3,900名
∼4,500名
コンゴ(民)
03, 06
レバノン06∼
約350名、C160、A310
∼780名
∼2,400名
(含海上TF)
スーダン07∼
ソマリア沖
08∼
∼250名
∼1,400名、フリゲート艦、
艦載ヘリ
枠組みと主な活動
NATO
(Allied Harbour):人道支援
NATO
(Essential Harvest):武装勢力の武装
解除
NATO
(Amber Fox/ Allied Harmony):
国際監視員の警護
EU
(Concordia):国際監視員の警護
NATO(Active Endeavour)
:商船警護、
海上監視(対テロ)
NATO
(Enduring Freedom)
:NBC防衛
(クウェート)、海上警護(ソマリア沖)、
医療、輸送、特殊作戦
NATO
(ISAF):復興支援、治安維持、
緊急展開能力
EU
(Artemis):輸送、医療
EU
(RD Congo):選挙期間中の治安維持
UNIFIL:海上監視、輸送、人道援助、
訓練支援
単独:UNAMIDに対する輸送支援
EU(Atalanta):海上監視、海上警護、
海賊行為の抑止
注:コソボ紛争におけるセルビア空爆やアフガニスタンの対テロ作戦までも「平和作戦」の実績として
本表に含めるか否かは議論のあるところであるが、両地域でのNATOによる活動(KFOR、ISAF)
との連続性にも鑑み、ここでは含めて記載することとした。
出典(表1、2共通):Rachel E. Utley, “A Means to Wider Ends? France, Germany and Peacekeeping,” in
Utley (ed.), Major Powers and Peacekeeping: Perspectives, Priorities and the Challenges of Military
Intervention (Aldershot: Ashgate, 2006), pp.70-75; Timo Noetzel and Thomas Rid, “Germany’s Options
in Afghanistan,” Survival Vol. 51, No.5 (October-November 2009), pp.71-90; American Institute for
Contemporary German Studies (AICGS), Redefining German Security: Prospects for Bundeswehr Reform
(German Issues 25, September 2001); 松浦一夫「ドイツ連邦軍域外派遣の法と政治(I)―「NATO
域外派兵」合憲判決(1994年7月12日)以後の実行と軍隊域外派遣法」『防衛法研究』第28号(2004
年)資料1; 独連邦政府、ドイツ軍、国防省、外務省、豪国防省、UNDPKO、NATO各ウェブサイ
ト;ドイツ国防省でのインタビュー(2009年9月24日)
軍がこれまで参加してきた平和作戦の実績の主なものを年代順に示したものである。
このリストは比較的小規模な参加(小隊規模以下の兵站面での貢献、軍事監視や司令部
要員などの個人派遣、資機材の提供など:表2参照)は省いている。また、各ミッション
に対する派遣規模は時期によって差があることが多いが4、ここでは全体としての参加規
模を示すため、入手可能な情報の中から最も大きな数値を上限として挙げている。
4 また、ミッションによっては実際の派遣規模が政府により定められた派遣上限を下回っていることも
想定されるが、政府としてのコミットメントの規模を示すため、ここでは特に両者を区別せずに記し
ている。
5
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
このリストから、少なくとも2つの趨勢を読み取ることができる。第一は、ドイツが国
連、NATO、EUという三つの多国間枠組みのいずれかの中で活動していることである。
だが、この三つの中でも資源のコミットメントの程度にはかなりの差がある。NATOと
EUに対し、ドイツは継続的かつ各ミッションの中でも中枢を担う部隊提供国として、両
機構が平和作戦に実質的に乗り出した最初のケース(NATOはボスニア内戦、EUはコン
ゴ(民)を舞台とした地域紛争)から一貫して参加してきている。これに対して国連ミッ
ションへの派遣は相対的に抑制的である。最初の国際任務としてカンボジア、ソマリアに
兵站・医療要員を提供して以降、ドイツ軍がある程度の部隊規模で参加した国連ミッショ
ンはレバノン(国連レバノン暫定隊:UNIFIL)に限られ、国連・AU合同ミッション
(UNAMID)に対する輸送支援ではミッションの傘下に入ることなく活動を行っている。
一方、小規模な参加(表2)に目を転じると、軍事監視要員を中心に国連ミッションに対
する貢献が多いことがわかる。
第二は、各ミッションにおけるドイツ軍の活動内容が、非軍事的なものから軍事的なも
のを含むより包括的なものへと拡大していることである。90年代前半における活動(カン
ボジア、ソマリア、ボスニア)では、医療と輸送面での支援提供が最も大きな割合を占め
ていた。これに対し近年の活動実績を見ると、空爆への参加(コソボ)、警護・治安維持
(マケドニア、コンゴ(民))、さらには海上での警護や監視(レバノン、ソマリア5)とい
った活動にも取り組むようになっている。
以上からは、ドイツが①参加する多国間枠組みとしては国連からEU・NATOへ重点を
表2
平和作戦における実績:小規模な参加
地域
イラク(91∼96)
グルジア(94∼09)
ルワンダ(94)
エチオピア/エリトリア(04∼)
アフガニスタン(02∼)
スーダン(04)
スーダン(05∼)
コンゴ(民)(06∼)
グルジア
枠組みと主な活動
UNSCOM:輸送(約30名)
UNOMIG:軍事監視(∼20名)
UNAMIR:難民輸送(約30名)
UNMEE:軍事監視(2名)
UNAMA:軍事監視(1名)
AUスーダン・ミッションに対する輸送支援
UNMIS:軍事監視(∼75名)
EUSEC RD Congo:司令部(1名)
OSCEグルジア・ミッション:軍事監視(∼15名)
5 ソマリアでの対海賊作戦にはEUだけでなくNATOも参加している。ドイツがEUの作戦への参加を選
んだのは①アタランタ作戦のほうが時間的に先行していた、②海賊対処に必要な法的措置についても
EUの枠組みは対応している、③EUの安全保障面における包括的対応能力の向上に資する、という考
慮があったとされる。ドイツ国防省でのインタビュー(2009年9月24日)。
6
ドイツと平和作戦
移行しつつ、②平和作戦の軍事的側面にも役割を拡大させてきたと言うことができるだろ
う。ではなぜドイツは平和作戦における軍の役割をこのように変化させてきたのだろうか。
この問いを以下では考察することとしたい。
2 制度と態勢
本節ではまず、ドイツが平和作戦に従事する際の制度的枠組みを同定し、その枠組みが
ポスト冷戦期における国内外の環境変化を受けていかに変化していったかを理解する。後
半では以上を踏まえつつ、平和作戦に係る現在の取り組みを整理する。
(1)制度的枠組み:冷戦期を中心に
ドイツ軍の活動を規定する枠組みを規定する重要な要素としては、冷戦期における西側
陣営への統合、軍事力の使用に対する消極性、そしてドイツ基本法の規定がまず挙げられ
る。それぞれについて以下触れておこう。
第一は冷戦期における西側陣営への統合である。この統合には少なくとも二つの意義が
ある。ひとつは、ドイツにとっての安全保障の確保である。東欧と西欧の「真ん中」
(Mittellage)に位置しているドイツは、常に西からと東からの(少なくとも潜在的な)
不安定要素を抱え、それへの対応を模索し続けてきた歴史を持つ。だが冷戦の発生は、こ
うした歴史に重要な変化をもたらす。というのも、ドイツ自体が東西に分断され、分断線
が欧州における東西両陣営の分断線そのものとなったからである。そしてこの環境 ― い
わば「真ん中」の消滅 ― において西ドイツが採った政策は、西側との深い統合を果たす
ことによる安全保障の確保であった6。この統合は、軍事面では西欧同盟(WEU。1948年
のブリュッセル条約を起源とするが、西ドイツとイタリアを加えた軍事機構として1954年
に発足)とNATO(1949年創設、西ドイツは1955年参加)、経済・社会面においては欧州
石炭鉄鋼共同体(ECSC。1952年創設、西ドイツは原加盟国。のちに欧州共同体:ECを経
て現在のEUに発展)を通じて具体的には進展することになる。
もうひとつの意義は、欧州全体の安定と秩序を確保することである。前述したドイツに
よる安全保障の模索の歴史は、その過程でドイツ自体が周辺諸国に対する軍事的脅威とな
る歴史でもあった。このためドイツの西側への統合は、こうした歴史を繰り返させないと
いう意図からも行われた。その意図は、ECSCがルール地方の石炭・鉄鋼産業を共通の管
6 Ronald D. Asmus, Germany’s Contribution to Peacekeeping: Issues and Outlook (Santa Monica, CA: RAND,
1995), pp.7-8.
7
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
理下におくことで戦争遂行のための経済的能力をも管理しようとしたことにもあらわれて
いるが、より直接的にはNATOとドイツ軍との関係にみてとれる。ドイツに再軍備を認
めるか否かという問題は、その前提として常に再軍備後のドイツをいかに管理するかとい
う問題と密接に結びついており7、ドイツの再軍備化はNATO統合を通じた「国家の文脈
から超国家の文脈への移管によってはじめて可能となった」のである8。そしてこの統合
により、ドイツ軍は実質的にNATO司令官の指揮下におかれただけでなく、西ドイツ国
内にも約40万人の兵員がNATOの枠組みで駐留することになった9。
第二は「抑制の文化(culture of restraint)
」10としばしば呼ばれる、軍事力の使用に対
する消極的な姿勢である。ロングハーストは、第二次大戦後の西ドイツにおける安全保障
政策を特徴付ける「戦略文化」の根本的要素とそれに由来する政策的観点を、次のように
整理している(表3)11。
表3
第二次大戦後のドイツにおける「戦略文化」
根本的要素
・歴史的転換点(切断点)としての終戦
・政策手段としての武力行使の正当性失墜
・軍国主義の否定
・民族主義・国家主義に対する疲弊感
政策的観点
・単独主義回避・多国間主義
・安保環境の安定促進志向
・非対立的・抑止重視の安保戦略
・抑制された軍事力の使用
・透明性と責任感を持った安保政策
・過去の過ちに対する贖罪
・社会への軍の統合と政治による強い統制
・政策決定における国内・国際的コンセンサ
ス確保
出典:Kerry Longhurst, Germany and the Use of Force: The Evolution of German Security Policy 1990-2003
(Manchester: Manchester University Press, 2004), pp. 46-47.
7 こうした過程は必ずしもスムーズだったわけではない。よく知られているように、再軍備後のドイツ
を組み込んだ西欧の防衛構想としては欧州防衛共同体(EDC)があった。NATOが連邦軍にとって
の主要な枠組みとなるのは、EDCがフランスの拒否によって頓挫(1954年)して以降のことである。
岩間陽子『ドイツ再軍備』
(中央公論社、1993年)第4章。
8 Peter J. Katzenstein, Cultural Norms and National Security: Police and Military in Postwar Japan (Ithaca,
NY and London: Cornell University Press, 1996), p.171.
9 Katzenstein, Cultural Norms and National Security, p.172. 連邦軍で作戦幕僚
(Einsatzführungskommando)
ができたのは2001年夏のことである。See “Einsatzführungskommando der Bundeswehr” (June 2009),
available from<http://www.einsatz.bundeswehr.de/fileserving/PortalFiles/C1256F200023713E/
W26KXL4S657INFODE/20090623_EFK%20Broschüre.pdf>, accessed 3 September 2009.
10 例えばクラウス・キンケル外務大臣・副首相(当時)はNATO機関誌への寄稿でこの用語を用いて
いる。Klaus Kinkel, “Peacekeeping Missions: Germany Can Now Play Its Part,” NATO Review (web edition) Vol. 42, No. 5 (October 1994), available from <http://www.nato.int/docu/review/1994/94051.htm>, accessed 3 July 2009.
11 See also AICGS, Redefining German Security, pp.11-12; Hanns W. Maull, “Germany and the Use of
Force: Still a ‘Civilian Power’?” Survival Vol. 42, No.2 (Summer 2000), pp.65-69.
8
ドイツと平和作戦
これら諸項目は、戦後(西)ドイツがいかに自国軍による武力行使の抑制を強く意識し
てきたかを示唆するだろう。それは戦前の経験とそこからの意識的決別に根ざし、国内政
治・社会と軍との関係(政治の優位、社会との交流)や外交・安全保障政策の諸傾向(コ
ンセンサス重視、多国間主義、非対立的アプローチ)に反映されている。(西)ドイツが
NATOおよびECSC(EC、EU)との深い統合を志向したことが、こうした戦後ドイツの
戦略文化をも背景としていることは、言うまでもない。
第三に、西ドイツの憲法に当たる ― そして、東西統一後のドイツにおいても憲法とし
て機能することになる ― ドイツ基本法の規定である。基本法第24条は(西)ドイツが
「相互集団安全保障システム」に参加することを可能にする一方、第87条a項はドイツ軍が
防衛目的および明示的に基本法に記された活動のみを行うことを定めている12。西ドイツ
が東西対立における欧州での前線防衛を担った冷戦期において、これらの規定は国軍の任
務を自国とNATO同盟国の防衛に限定するものとして理解されていた。そしてこのコン
センサスは、軍がNATO域外で活動することを禁じた1982年の連邦安全保障委員会(首
相を議長とする内閣委員会のひとつ)の決定によっても裏打ちされる13。西ドイツ軍の活
動は目的(自国および同盟国の防衛)と地域(NATO諸国域内)の二面で限定されてい
たのである。そしてさらにいえば、国内においてNATOは西ドイツ防衛のために同盟国
の支援を得る為の手段であると見られており、逆に「ドイツ軍が他の同盟国への支援を求
められるかもしれないという可能性についてはほとんど考えられていなかった」という14。
つまり西ドイツにとってのドイツ軍とは、西側防衛の前線防衛を担うというよりは(同盟
国の支援を得ながら)自国防衛に専念する組織としてのみ存在してきたのである。
自国の戦略文化とNATOを通じた安全保障の確保を背景に自国軍の使用に抑制的な姿
勢をとり続けてきた西ドイツにとって、軍事力を用いた平和作戦に本格的に取り組むこと
がなかったのはその意味で当然のことであった。しかし他方で、ここまで述べた諸要素の
中にその後の変化を準備する側面も既に含まれていることも看過すべきではないだろう。
12 なお、英訳版原文(ドイツ連邦議会ウェブサイト)では以下のようになっている。
“24(2) With a view to maintaining peace, the Federation may enter into a system of mutual collective
security; in doing so it shall consent to such limitations upon its sovereign powers as will bring about
and secure a lasting peace in Europe and among the nations of the world....
87(a) (1) The Federation shall establish Armed Forces for purposes of defence. Their numerical
strength and general organisational structure must be shown in the budget....
(2) Apart from defence, the Armed Forces may be employed only to the extent expressly permitted by
this Basic Law....”
13 Longhurst, Germany and the Use of Force, p.38; 安全保障委員会については福井千衣「欧米主要国の危
機管理機構」国立国会図書館調査及び立法考査局『主要国における緊急事態への対処』(調査資料
2003-1、2003年6月)
、55頁を参照のこと。
14 Asmus, Germany’s Contribution to Peacekeeping, p.11.
9
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
まず、ドイツの安全保障にとってNATOとEUが中心的な重要性を統一後も占めていると
すると、ポスト冷戦期における両機構の変質はドイツの活動にも強い影響を与えずにはお
かない。そしてその変質の中には、両者が平和作戦に取り組むようになったことが含まれ
ている。またドイツの戦略文化について言えば、軍事力の行使に対する消極性は非対立的
アプローチの重視と表裏一体の関係にある。そして後者のアプローチが安定した安全保障
環境の促進や多国間主義と結びつく限りで、それはドイツ軍が平和作戦に従事することの
国内的受容を促す下地を提供していると言える。最後に、ドイツ軍の任務に関する限り、
基本法の規定は潜在的な柔軟性を含んでいる。基本法は防衛以外の活動を軍の任務とする
場合には明示的に定めることを求めてはいるが、同時に「相互集団安全保障システム」へ
の参加を認めている。そして冷戦期に活用されることはなかったとはいえ、後者の規定は
連邦軍の任務の範囲を ― もちろんそれが「相互集団安全保障システム」である限りにお
いて ― 拡大させる可能性を有している。そして実際にこれが比較的早い段階に起きたの
が、東西統一がなされ、ポスト冷戦期を迎えたドイツであった。
(2)枠組みの変化:ポスト冷戦期以降
東西ドイツの統一を主要な契機とする冷戦の終焉は、統一後のドイツの安全保障認識と
それに基づく政策形成にも大きな変化をもたらす。そしてその変化はドイツの平和作戦を
積極化する一方で、その積極化に一定の方向性を与える役割をも果たしている。
まず西側陣営との統合から見ていこう。冷戦期、西ドイツにとってNATOは自国防衛
に不可欠である一方で、NATO諸国にとっても西ドイツの防衛は西側防衛全体に不可欠
であった。冷戦の終焉は、この構図そのものをも陳腐化させることになる。というのも、
冷戦の終焉は自国の統一を再復させ東西対立の最前線にいることからドイツを解放する一
方、伝統的な地政学上の脆弱性に対する自覚をも復活させる意味合いを持つからである。
つまり、再び欧州の「真ん中」に自らを見出したドイツは、再び自国の安全保障をいかに
確保するか、またその過程でいかに自らが脅威とならないかを模索せざるを得なくなった
のである15。
ここでドイツがとった選択は、引き続きNATOとの関係を強化することであった。こ
の選択は、①ドイツ統一が長年のNATO加盟国である西ドイツの主導で行われたこと、
②ドイツ軍はNATOとの統合を前提として成立してきた軍隊であること、③NATOはポ
15 これに呼応して、統一後のドイツでは地政学的な分析が主に保守派の論客を中心に再登場するよう
になっている。Mark Bassin, “Between Realism and the ‘New Right’: Geopolitics in Germany in the
1990s,” Transactions of the Institute of British Geographers, New Series, Vol. 28, No. 3 (September 2003),
pp. 350-366を参照のこと。
10
ドイツと平和作戦
表4
ポスト冷戦期におけるNATO・EU加盟国拡大(2010年1月現在)
NATO(28カ国)
チェコ、ハンガリー、ポーランド(99)
ブルガリア、エストニア、ラトビア、リトア
ニア、ルーマニア、スロヴァキア、スロヴェ
ニア(04)
アルバニア、クロアチア(09)
EU(27カ国)
オーストリア、フィンランド、スウェーデン
(95)
チェコ、キプロス、エストニア、ラトビア、
リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーラン
ド、スロヴェニア、スロヴァキア(04)
ブルガリア、ルーマニア(07)
パートナー国:アルメニア、オーストリア、 加盟候補国:クロアチア、マケドニア、トル
アゼルバイジャン、ベラルーシ、ボスニア、 コ
フィンランド、マケドニア、グルジア、アイ
ルランド、カザフスタン、キルギス、マルタ、
モルドバ、モンテネグロ、ロシア、セルビア、
スウェーデン、スイス、タジキスタン、トル
クメニスタン、ウクライナ、ウズベキスタン
注:カッコ内は加盟国総数
出所:NATO、EUウェブサイト
スト冷戦期においてその役割を変え、かつての東側陣営諸国を積極的に取り込むようにな
っていること(表4参照)、を考慮すると当然の選択のように思われる。欧州全体の安全保
障を確保するための地域機構の性格を持ち始めたNATOは、ポスト冷戦期のドイツの脆
弱性を緩和する上で重要な役割を果たしているのである。
しかし、このようにドイツがNATOの重要性を冷戦期とは異なる形で見出したのに対
し、NATOにおけるドイツの重要性は冷戦期のような絶対性を持たなくなったとも言え
るのである。ドイツ防衛が西側防衛において枢要であった地政的構造はすでに解消してい
る。そうである以上、ドイツが欧州の安全保障(そしてそれを通じた自国の安全保障)に
影響力を ― それも自らが脅威とならない形で ― 保つためには、NATOに対するより積
極的な貢献を行う必要が生じてくる。そして同様の論理は、EUに対する関係についても
言うことができるだろう。EUはポスト冷戦期にNATOと類似した変化 ― ①旧東側諸国
の積極的な取り込み、②欧州および周辺地域の安全保障に対する役割の拡充 ― を遂げて
いる。その意味で、EUは従来的な意義(経済・社会面での欧州諸国との統合)を引き続
き有するだけではなく、ポスト冷戦期のドイツの安全保障にとってもNATOに次ぐ重要
性を持つと考えることができる。
NATOとEUとの関係を重視するこうした姿勢は、最新(2006年度版)の国防白書でも
明言されている。白書はドイツ外交・安全保障政策の「中心的目標」を「将来を視野に入
れて同盟における大西洋パートナーシップを形成し、米国との緊密かつ信頼に満ちた関係
11
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
を涵養し続けること」としつつ、ドイツ安全保障政策にとって「もう一つの最重要目的」
が欧州統合の深化とEUの積極的近隣政策を通じた「欧州における安定地域の強化」であ
ると論じている16。
本論の関心からここで注意したいのは、現在に至るEUとNATOの変化の重要な部分を
平和作戦が担っていることである。NATOはボスニアでの経験などを踏まえつつ1999年
の新戦略概念で紛争予防と危機対応作戦を含む危機管理をその主要任務に加え17、それ以
降も域内および域外における平和作戦に積極的な取り組みを見せている。同年には、EU
がWEUのペテルスベルク任務(人道・救難任務、平和維持任務、平和創造を含めた危機
管理における戦闘部隊任務)を取り込むことを定めたアムステルダム条約も発効し18、こ
れをもとに平和作戦を目的とした軍事ミッションを2003年以降組織するようになっている
(表5参照)19。
表5
開始年
1992
1999
2001
2003
2004
2005
2006
2007
2008
2009
NATOとEUによる主な平和作戦(軍事ミッション、派遣地域別)
NATO
ボスニア
コソボ
地中海、マケドニア
アフガニスタン
(イラク)
(スーダン)
(ソマリア)
ソマリア沖
ソマリア沖
EU
マケドニア、コンゴ(民)
ボスニア
(スーダン)
、コンゴ(民)
コンゴ(民)
チャド・中央アフリカ、
(ギニアビサウ)、ソマリア沖
注:ドイツの参加が確認されているものは太字。同地域に対し時期的に連続して活動している場合(ボ
スニア、コソボ、マケドニア)には、複数の作戦・ミッションが存在していても一括りにまとめている。
なお、括弧でくくっているものは部隊派遣ではなく軍事面でのさまざまな支援活動を指している。
16 German Federal Ministry of Defense, White Paper 2006 on German Security Policy and the Future of the
Bundeswehr, p.21.
17 NATO, “The Alliance’s Strategic Concept Approved by the Heads of State and Government Participating
in the Meeting of the North Atlantic Council in Washington D.C.,” 24 April 1999; see also “The Alliance’s
Strategic Concept Agreed by the Heads of State and Government Participating in the Meeting of the
North Atlantic Council,” 8 November 1991.
18 “Petersberg Declaration,” 19 June 1992; “Amsterdam Treaty (Consolidated Version of the Treaty on
European Union),” 2 October 1997, Article 17(2). なお、アムステルダム条約を最初に(1998年5月)批
准したのはドイツであった。
19 ちなみにEUとしての最初の平和作戦部隊はEU警察ミッション(ボスニア)であるが、これに対し
てもドイツは活動の最初から多くの要員(2003年時点で提供国中最大となる82名、うち警察要員は77
名)を出しており、2008年1月以降はドイツ人(ステファン・フェラー准将)が隊長を務めている。
Michael Matthiessen, “Aspects of European Security: The Current Police Mission in BosniaHerzegovina” (speech at the 6th European Police Congress in Bonn, 18 February 2003), available from
<http://contenido.euro-police.org/polizeikongress/pdf/Vortrag%20Michael%20Matthiessen.pdf>,
accessed 9 July 2009.
12
ドイツと平和作戦
両機構によるこうした平和作戦の積極化に、ドイツは機敏に対応してきている。
NATOおよびEUが組織した軍事ミッションを派遣地域別に整理したものが表5だが、EU
チャド・中央アフリカ部隊(EUFOR
TCHAD/RCA)を除けば20、両機構が軍事面で関
与してきた主な情勢にドイツはほぼ満遍なく参加していることがわかる。ドイツが
NATOとEUを通じた平和作戦を強化してきていることには、ポスト冷戦期におけるドイ
ツの基本的な安全保障認識とEU・NATOとの関係の変化が背景にあるのである。
以上に述べた変化がドイツ軍による平和作戦の積極化を説明する動因であるとすれば、
他の二要素(基本法の規定とその解釈、軍事力行使に対する消極性)の変化は、その積極
化がどのように進んでいったかを理解する上で重要である。実際、ドイツ軍による平和作
戦をめぐる重要な転機は、いずれもこの二つの要素のいずれかをめぐってのものである。
そうした転機は、少なくとも四つあるように思われる。
第一は、湾岸戦争である。湾岸戦争は、連邦軍の活動を抑制する役割を果たしてきた制
度的枠組みの諸要素間に矛盾を生じさせた。その矛盾は端的に言えば、国際的期待と国内
的コンセンサスとの乖離として現れる。既に見たように、冷戦期のドイツ軍は、国際的要
素(西側陣営への統合)と国内的要素(基本法、戦略文化)との両者により、その役割の
抑制的な性格が規定されていた。しかし湾岸戦争に際し多国籍軍を編成した米国などの西
側諸国がドイツに期待したのは、同盟国としての軍事的貢献であった21。このことが、ド
イツ軍の使用に関しては冷戦期と変わらず抑制的な国内世論22と乖離したのである。1991
年1月31日の連邦議会における演説で、コール首相は次のように述べている。
20 このミッションはチャド東部と中央アフリカ北東部においてダルフール紛争の難民・避難民を保護
し、両国への紛争拡大を防ぐことを主な目的としたが、ドイツはイギリスとともに参加を拒否した。
この決定には、①提唱国であるフランスが両国の旧宗主国であったこと、②アフガニスタンやボスニ
アなど他地域への展開に既に多くの兵力を提供していることに伴う負担感、③アフリカの紛争に対し
ては部隊派遣よりもアフリカの地域機構の対応能力強化に注力していること、が背景にあったと思わ
れる。①について言えば、チャド・デビー政権とスーダン・バシール政権は相互に反政府勢力を支援
する対立関係にあり、このためダルフール紛争は両国の代理戦争の色合いも持つようになっていた。
一方、フランスは1986年以来二国間合意に基づいて仏軍をチャドに駐留させる(Operation Epervier)
ほどの緊密な関係を有しており、こうした経緯が他国にとっての抵抗感を生んだのである。結局フラ
ンスが半数以上(3,700名中2,100名)の要員を提供することで、EUFORは当初の予定(2007年11月)
から遅れた2008年1月末から活動を開始した。Denis M. Tull, “The Chad Crisis and EUFOR
CHAD/CAR,” SWP Comments 2 (February 2008); ドイツ国防省でのインタビュー(2009年9月24日)
。
21 さらに、戦争においてはイスラエルがイラクの攻撃対象とされる可能性が高かったことも、同国に
歴史的負い目を持つドイツには貢献への圧力として働いた。Ronald D. Asmus, Germany after the Gulf
War (Santa Monica, CA: RAND, 1992), p.14-16.
22 また、イラクによるクウェート侵攻(1990年8月2日)から戦争(1991年1月17日∼2月末)に至る期
間はドイツ再統一(1990年10月3日)前後の期間とも一致していた。再統一に伴うさまざまな作業が
佳境に入っていたこと、そして国内世論やメディアも自国の再統一に関心が集中しがちであったこと
もこの時期の政府の対応に影響している。Asmus, Germany after the Gulf War, p.4.
13
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
世界政治の中では、われわれドイツ人にとって安全な小さな一角など存在しえな
い…好むと好まざるとにかかわらず、われわれは自身の責任に向かい合わなけれ
ばならない。今までわれわれは世界の経済的安定のため積極的かつ成功裡に努力
してきた。それだけでは、これからは不十分になっていくだろう23。
この発言は①戦争への参加に否定的な国内世論の存在、②ドイツの貢献に対する国際的
期待はすでにこの段階で圧力へと変わっていたこと、そして③国内世論を国際的圧力に沿
った形で調整しようとする首相の意図、を示しているだろう。実際、ドイツの消極的姿勢
に対しては西側諸国、とりわけ英米のメディアや議会で強い批判(典型的には①ドイツの
同盟としての信頼性を疑問視する、②ドイツ再建と再統一への国際的支援とドイツによる
今回の貢献の不均衡を指摘する、といった趣旨の批判)を生むようになっていた24。そう
した批判に答えるように、戦争が不可避となってからのドイツは大規模な財政および兵站
面の支援で連合国の活動を支えたものの25、結局戦闘に直接参加することは無かった。ド
イツによる軍事的貢献は、地中海での掃海艇による活動とトルコへのアルファ・ジェット
18機および防空ユニット(約700名)派遣を中心とする間接的なものに止まった26。
以上の経緯が重要なのは、第一にドイツが平和作戦に取り組み始める直接的なきっかけ
を湾岸戦争が提供したからである。実際、ドイツ軍が初めてNATO域外の活動に参加し
たのは、イラクの大量破壊兵器査察を目的として終戦直後に設立された国連特別委員会
(UNSCOM)が最初であった。そして翌年にはカンボジアとソマリアの国連PKOミッシ
ョン、NATO-WEUによるアドリア海での制裁監視活動にドイツ軍を派遣している。前者
はミッションに対する医療・兵站支援、後者はあくまで監視活動のみに限定されてはいた
が、ここにドイツ軍の平和作戦が実質的なスタートを切ったのである27。
23 “Germans Are Told of Gulf-War Role,” New York Times, 31 January 1991.
24 Asmus, Germany after the Gulf War, p.13.
25 主要なものとしては、対米支援として総額約65.7億ドルの財政・物品支援(現金55億ドル、民航機
チャーター費用2.72億ドル、NBC偵察車71機、輸送車4,000台以上、弾薬など)、対英財政支援約8億ド
イツマルク、対仏財政支援3億ドイツマルク(ともに「砂漠の嵐」作戦への参加費用)
、対トルコ軍事
支援15億ドイツマルクおよび輸入金融1.1億ドイツマルク、対イスラエル軍事・物品支援約8億ドイツ
マルク分のほか、経済制裁の影響を受けた周辺国(トルコ、エジプト、ヨルダン)には17億ドイツマ
ルクの非軍事援助を行った。その後、対米財政支援は米国の依頼により55億ドルから90億ドルへと増
加している。Asmus, Germany after the Gulf War, pp.12-13.
26 Friedemann Buettner and Martin Landgraf, “The European Community’s Middle Eastern Policy: the
New Order of Europe and the Gulf Crisis,” in: Tareq Y. Ismael, Jacqueline S. Ismael (eds.), Gulf War and
the New World Order: International Relations of the Middle East (Gainesville, FL: University Press of
Florida, 1994), p. 98; 松浦一夫「ドイツ連邦軍のNATO域外派兵をめぐる改憲論議の現況」『防衛法研
究』第16号(1992年)90頁。
27 これ以前に連邦軍が国外に派遣された例がなかったわけではない。例えば1960年のモロッコにおけ
る地震に対しては、連邦軍は医療チームを派遣している。
14
ドイツと平和作戦
第二に、ドイツ軍による平和作戦をめぐる以後の議論の構図が、湾岸戦争をめぐるそれ
を基本的に継承して行われていることが挙げられる。そこでは、NATO・EUとの関係重
視とそれに伴う軍事面での貢献への国際的期待を受け、国内の法制度をいかに整備し、ま
た自国の戦略文化をいかに調整していくのかという点が問題となりつづけている。残りの
三つの転機は、そうした調整過程の一環として見ることができる。
第二の転機は、1994年7月12日の連邦憲法裁判所による決定である。1991年以降国連下
におけるイラク、カンボジア、ソマリアでの人道活動や兵站支援を入り口としながら、ド
イツ政府はアドリア海での制裁監視やボスニア上空の飛行禁止区域の施行といったより軍
事的な活動にも次第にドイツ軍を参加させるようになった。ドイツ国内でも理解が得やす
い国連下の活動から漸進的に活動幅を広げていくというのが政府の方針であった28。これ
に対し、当時野党であった社会民主党(SDP)はドイツ軍がソマリア、アドリア海、ボスニ
ア上空の活動に参加することの合憲性を問う三つの訴訟を起こす(飛行禁止区域関連の訴
訟では連立政権の一角を担っていた自由民主党:FDPも参加)29。連邦憲法裁判所はかくし
てドイツ軍が平和作戦に取り組む場合の法的根拠を明確にするよう求められたのである。
7月12日の判決が重要なのは、それが①NATOやWEU下のものを含むこれら域外活動
が基本法第24条第2項(相互的集団安全保障)を憲法上の根拠とすることを認め、②平和
作戦を含む全ての武装軍隊の出動について議会の承認(単純過半数)が必要とされること
を明らかにし、さらに③PKOのさまざまな様態については異なる扱いをすることができ
ないとした点にある。すなわち、判決はドイツ軍の平和作戦が憲法上の根拠を持つとした
だけでなく、議会の承認が得られれば平和強制的要素を含む活動に対する参加への途をも
開いたのである30。これ以降、ドイツ軍の平和作戦に関する議論は法的特徴を薄め ― こ
の点で最も重要な課題であった派遣決定に係る議会承認手続きは、2005年に法律化されて
いる(議会参加法、下記参照)31―、個々の情勢に対する政府の判断の是非をめぐるもの
を中心とするようになっていく32。そしてその点で最も高いインパクトをもつと思われる
28 これを野党は(またリューエ国防大臣自身も)「サラミ戦術」と呼んでいたという。Maull,
“Germany and the Use of Force,” p.63.
29 Asmus, Germany’s Contribution to Peacekeeping, pp.24-25.
30 Longhurst, Germany and the Use of Force, p. 64; 松浦「ドイツ連邦軍域外派遣の法と政治(I)」6-8頁
および46-53頁。
31 “Gesetz über die Parlamentarische Beteiligung bei der Entscheidung über den Einsatz bewaffneter
Streitkräfte im Ausland (Parlamentsbeteiligungsgesetz),” Bundesgesetzblatt Jahrgang 2005, Teil 1, Nr. 17,
Bonn, 23 March 2005.
32 もちろん、その後もドイツ軍の活動の文脈で法的諸問題がたびたび提起されてきてはいるが、ドイ
ツ軍の実際の活動を原則として疑問に付す状態には至っていない。松浦「ドイツ連邦軍域外派遣の法
と政治(I)」「ドイツ連邦軍域外派兵の法と政治(II)―「NATO域外派兵」合憲判決(1994年7月
12日)以後の実行と軍隊域外派遣法」『防衛法研究』第29号(2005年)参照。
15
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
ケースが、コソボ紛争における対セルビア空爆(1999年)とアフガニスタンでの対テロ活
動(2002年∼)への参加である。これらが、ドイツの平和作戦をめぐる第三、第四の転機
をなす。
コソボでのアルバニア人武装勢力とユーゴスラビア軍との武装対立、ラチャクなどでの
アルバニア人に対する虐殺の発生、そして和平交渉の決裂を経てNATOが行った対セル
ビア空爆(3月∼6月)にドイツが参加したことは、二つの点でそれまでの活動の方向性に
変化を与えるものであった。第一は、その参加が平和強制を目的とした戦闘行為を伴うも
のであったことである。コソボ以前に連邦軍を使用するいかなる場合においても、ドイツ
は直接的な武力行使を必要とするような形での参加を慎重に避けていた。対セルビア空爆
に参加したことは、ドイツ連邦軍にとって創設以降初めての戦闘行為への参加を意味した。
第二は、空爆が国連安保理の明確な授権を欠いた活動であったことである。それまでのド
イツ軍による平和作戦は国連PKOまたは安保理の授権に基づくNATOの作戦のいずれか
であったのに対し、対セルビア空爆は安保理常任理事国間の意見対立に由来する明確な授
権の不在の中で行われた。
対セルビア空爆がその強制性と正当性根拠においてドイツにとっての転機をなすものだ
とすれば、アフガニスタンでの対テロ作戦とその後の平和作戦への参加は、展開地域にお
いて転機をなしている。もちろん、アフガニスタン以前にもカンボジア、ソマリア、東テ
ィモールなどでドイツ軍は活動してきていた。だがこれらの欧州外の活動がすべて非軍事
的なものであったのに対し、NATOによるアフガニスタンでの対テロ作戦は軍事作戦で
あった。つまりアフガニスタンはドイツにとって、欧州外で軍事行動に参加するという初
めてのケースだったのである。
以上の実績は、ドイツが平和作戦で期待される軍の役割のほぼ全域をカバーする意思が
あることを示すように見える。だがそう考えることにはひとつの留保が必要だろう。この
ことは、コソボとアフガニスタンへの派兵決定に至る過程を簡単に振り返ることによって
示唆される。
1998年10月16日、連邦議会は503対63(18棄権)という大差でNATOの対セルビア軍事
活動への参加を認めた。この決定は、ドイツの政権交代期とちょうど重なる時期に行われ
ていた(参考:表6)。9月27日の総選挙で大勝を収めたSPDは90年同盟/緑の党(以下緑
の党)と連立協議に入り、しかも緑の党にはNATOとの同盟そのものに反対する勢力が
存在していた。しかしフィッシャー党首(のちの外務大臣)の説得もあり、緑の党選出議
員(解散前の議会であるため、この時点では野党)のうち反対・棄権は17名(反対9名、
棄権8名)にとどまり、29名は賛成に回っている33。
16
ドイツと平和作戦
この決定がなされた時点で、参加する活動が烈度の高いものであり、介入を明確に授権
する安保理決議が採択される見込みは乏しいということは理解されていた。では、なぜド
イツは、あえて参加に踏み切ったのだろうか。カンボジアなどで国連PKOに参加するよ
うになったそもそものきっかけが、湾岸戦争に際して軍事面での貢献を打診されながらこ
れに応えることができなかった経験にあったことはすでに見た。そしてその後のボスニア
紛争に関連しても、ドイツはNATOの対セルビア攻撃にも直接には参加せず、ボスニア
派兵も紛争が終わったのちになって(NATO和平実施部隊:IFOR以降)初めて行われた。
こうした経緯のあとで、しかもボスニア紛争と同じ欧州内で発生したコソボ紛争に際して、
ドイツには今まで以上の役割を担うことが期待されていた。コソボはその意味で、ドイツ
がNATOの他加盟国と少なくとも同等のメンバーたりうるかの試金石と見られていたの
である34。派兵決議に対する支持の高さは、こうした一種の危機感をドイツの主要政党が
共有していたことを示している。
だが、違う見方をすれば、参加の可否が極めて高い政治的代償を潜在的に含んでしまう
ような状態になって初めて、ドイツは軍事面での貢献に踏み出すようになったとも言える
だろう。実際、ドイツがコソボで武装活動に参加したことの背景にはコソボ紛争に特有の
背景 ― 特に人道的側面(民族浄化再発の阻止、大規模な難民流入への危惧)35 ― が存在
しており、コソボ紛争の経験を境に軍事力の使用に対する従前の消極性が解消していった
わけではないのである。
アフガニスタン派遣はそのことを端的に物語っている。2001年9月11日の同時多発テロ
後、ドイツのみならず多くの国々は予想される米国による対テロ作戦に対しどのように関
わっていくのかという課題を突きつけられることになった。言うまでもなく、ドイツにと
って米国は最も重要な同盟国である。また米国の要求により、NATOは史上はじめて共
表6
期間
∼1998.10.27
∼2005.11.22
∼2009.10.28
∼現在
ドイツ連邦政府の変遷(統一後)
与党
CDU/CSU−FDP
SDP−90年同盟/緑の党
CDU/CSU−SDP
CDU/CSU−FDP
首相
ヘルムート・コール(第4∼5次内閣)
ゲアハルト・シュレーダー(第1∼2次内閣)
アンゲラ・メルケル(第1次内閣)
アンゲラ・メルケル(第2次内閣)
出所:ドイツ首相府ウェブサイト
注:CDU/CSU=キリスト教民主同盟・社会同盟
33 “Bonn Commits Jet Fighters for Action in Yugoslavia,” International Herald Tribune, 17 October 1998.
34 See, e.g., “Germany’s Greens Jettison Principles,” Independent, 17 October 1998.
35 Maull, “Germany and the Use of Force,” pp.60-61.
17
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
同防衛の規定(第5条)を適用し、今回の事態を同条により対処する旨を9月12日の時点で
宣言していた36。しかし他方ドイツ国内では、①ブッシュ政権の一国中心主義(ユニラテ
ラリズム)と過剰な対応が生み出す影響(特に中東紛争への)に対する恐怖37、②軍事力
の使用に対する消極性、そして③バルカン地域への派遣に由来する負担感が複合し、アフ
ガニスタンへの積極的貢献には消極的な声が支配的であった。
シュレーダー首相は困難な舵取りを求められることになった。テロ直後にブッシュ大統
領に宛てた書簡で首相は米国との「限りなき団結」を誓ったが38、その約一週間後(9月19
日)の連邦議会では「ドイツはリスクを ― 軍事的なそれをも ― とる用意があるが、冒
険をする準備はしていない」と発言している39。軍事的な貢献を求める米国からの強い要
求に、「冒険主義」(あるいは米国のそれに組している)との批判を生まない形で応えるこ
とが必要だったのである。また、より直接的な問題としては、野党内よりも与党である
SDPと緑の党内部で参加に対する反対の声が強かったことがある。11月6日、シュレーダ
ーは3,900名規模の派兵計画を発表し、その後閣議決定にまでは至ったものの、この時点
でも与党内の反対は強かった40。アフガン派兵をめぐる政治危機は、同時に連立政権自体
の危機でもあったのである。こうした情勢を受け、首相は連邦議会での派遣決議に連邦史
上四度目となる首相信任決議をセットするという賭けにでる。連立政権の命運を結びつけ
ることにより、派兵に対する与党内の支持を取り付けるとともに、首相自身の政権内での
支持基盤を強化しようとしたのである。
しかし、この投票はこうした意図に必ずしも沿わない影響を生み出した。まず、2001年
11月16日の投票結果は336-326という僅差であった。与党では、二党所属の議員総数341名
のうち緑の党から4名、SDPから1名の造反者が出た。また賛成票を投じた与党議員のうち
77名は説明文書を添えていたが、それらの多くがシュレーダー首相の強引な政治手法に対
する批判を含んでいたほか、中には派遣そのものには反対でありながら連立維持のために
やむを得ず賛成したことを説明するものも含まれていたという41。野党側では、派遣には
賛成でありながら首相信任を問う投票でもあったためにCDU/CSUやFDPが反対に回っ
た。このため、過半数の可決に必要な334(議会定数は666)をわずか二票上回るぎりぎり
の賛成しか得ることができなかった42。投票は国内の広範な支持を取り付ける意味でも、
36 NATO, Statement by the North Atlantic Council (Press Release 2001-124, 12 September 2001).
37 Longhurst, Germany and the Use of Force, p.82.
38 “Friend and Foe Send Sympathy to US,” The Times, 12 September 2001.
39 “Schroder Refuses to Play Part in US ‘Adventures’,” Independent, 20 September 2001.
40 Longhurst, Germany and the Use of Force, p.84.
41 松浦「ドイツ連邦軍域外派兵の法と政治(II)
」327-328頁。また、コソボ派遣決議に賛成した議員の
なかにも、やむを得ずの投票であったことを説明するものが多かったという。同上292-304頁。
18
ドイツと平和作戦
また連立政権を強化する意味でも期待された効果を生まなかったのである43。次に、国内
の強く否定的な世論を踏まえて作成された派遣パッケージは、アフガニスタンにおける対
テロ掃討そのものというよりはそれへの支援を中心としたものであり、戦闘任務を担いう
る唯一の部隊である特殊部隊(100名の派遣が予定)も「警察」活動に限定され、しかも
ドイツの指揮統制下に置かれるものとされた44。派遣が決定した時期のアフガニスタンで
は北部同盟と有志連合による軍事作戦が奏功していたが(11月13日には北部同盟が首都カ
ブールを奪還している)、ドイツの派遣内容はその決定の相対的な遅さとあわせ、必ずし
も高い対外的評価を生まなかった45。
コソボ、アフガニスタン派遣の経験は、ドイツ軍の平和作戦の範囲を活動内容としては
戦闘行為を含む活動へ、地域としてはNATO域内から欧州、さらには欧州外へと拡大す
る転機をなした。そしてこうした派遣の決定が、伝統的に軍事力の使用に消極的な政治勢
力であったSPDと緑の党による連立政権下で起こったことも注意されてよいだろう。そこ
にはポスト冷戦期にドイツがとりわけNATO(米国)・EUとの関連でおかれた構造的圧
力の強さが看取できるとともに、ドイツ軍のより積極的な平和作戦への取り組みを可能と
する政治的土壌をも準備する結果となったように思われる。その限りで、連邦軍を用いた
平和作戦の必要性に対する政治的コンセンサスは広範に存在していると見てよい。しかし、
これら二つのケースを仔細に見ていくと、ドイツ政府が依然として自国軍による軍事力の
行使に極めて慎重であること、そしてその背後には軍事力行使への消極性が国内社会で根
強く存在し続けていることがわかるだろう。西ドイツ時代以来の「戦略文化」は未だに生
き続けているのである。
(3)現在の態勢
本節ではここまで、ドイツ軍による平和作戦の変遷とその背景を考察してきた。では、
ドイツの平和作戦は現在どのような態勢からなっているのだろうか。最後にこの点を、平
和作戦に対するアプローチと派遣態勢の側面から捕捉しておきたい。
42 野党の中で派遣そのものにも反対であったのは、旧東ドイツの政党であった民主社会党(その後
SPD左派と統合し左翼党:Die Linkeを結成)である。“Schroeder Wins His Gamble on Troop
Deployment Vote,” Washington Post, 17 November 2001.
43 さらにいえば、シュレーダー政権がこの派遣をめぐって求心力をむしろ失ったことは ― 2002年9月
の連邦議会選挙に向けた支持率回復への考慮とも結びついて― イラク戦争に対するドイツの強硬な
拒否姿勢を形成する政治的背景となっていくのである。See Anja Dalgaard-Nielsen, “Gulf War: The
German Resistance,” Survival Vol. 45, No.1 (Spring 2003), pp. 99-116.
44 ルドルフ・シャルピング国防大臣の発言による。“Vote on War Underscores Fragility of Berlin
Goals,” International Herald Tribune, 16 November 2001.
45 たとえば“Schroder’s Narrow Win Clears Way for Troops to Go to Afghanistan,” Independent, 17
November 2001を参照。
19
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
平和作戦に対するアプローチとしては、その包括性が挙げられる。この特徴は、ドイツ
の安全保障政策全体の特徴でもある。例えば2006年度国防白書は、次のように述べている。
ドイツの安全保障政策は包括的な安全保障概念(a comprehensive concept of
security)に基づいている。リスクや脅威はそれに適合した範囲の諸手段によっ
て対応がなされなければならない。そうした手段としては外交、経済、開発政策
や警察的手段、そして必要な場合には、武装作戦をも含んでいる。後者は生命・
身体に対する危険を生み、また広範な政治的帰結を持つ可能性がある。連邦政府
はしたがって将来においても、どのようなドイツの価値と利益が連邦軍の活動関
与を必要とするのか、個々それぞれのケースにおいて検討し続けることになるだ
ろう46。
この引用の後半部分が示唆するように、ドイツ軍の活動を説明・理解する文脈で使われ
る包括性という概念には、特徴的な含みがある。すなわちそれは、ドイツの安全保障に対
する「リスクや脅威」に対応する手段としての軍事力の役割を抑え、他方で非軍事的政策
手段の役割を強調する意図を含んでいる。この観点からすれば、「武力は安全保障の非軍
事的諸側面を強調する広義の戦略枠組み内における一つの道具としてのみ」位置づけられ
ることになる47。
しかし、包括的アプローチは単なる説明のための表現にとどまっているわけではない。
例えばNATOのコソボ介入が行われた1999年の前半、ドイツはEU・WEUおよびG8の議
長国であった立場を活用して停戦努力を積極的にリードし、またその過程では、空爆に至
る経緯から軋轢を生じていた国連やロシアを取り込むことにも成功している。ロシアとの
関係では4月上旬、政府はフィッシャー外務大臣、ミヒャエル・シュタイナー首相補佐官、
ウォルフガング・イシンガー外務次官などをモスクワに派遣して二国間折衝を行い、これ
を踏まえて6項目からなる停戦プランをEU非公式サミットで発表した48。そしてこれに呼
応して、発表と同日(4月14日)にロシアもヴィクトール・チェルノムイジンを政府特使
に任命し、停戦努力にロシアとして参加する意思を示した49。またドイツが召集したこの
46 White Paper 2006, p.22.
47 Timo Noetzel and Benjamin Schreer, “All the Way? The Evolution of German Military Power,”
International Affairs Vol. 84, No. 2 (March 2008), p.219.
48 “German Official to Hold Kosovo Talks in Moscow,” Reuters News, 11 April 1999; Ivo H. Daalder and
Michael E. O’Hanlon, Winning Ugly: NATO’s War to Save Kosovo (Washington, DC: Brookings
Institution Press, 2000), p.166.
49 PBS, “A Kosovo Chronology,” available at <http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/kosovo/etc/cron.html>, accessed 29 July 2009.
20
ドイツと平和作戦
非公式サミットには、国連による調停にこの頃から積極姿勢を見せ始めたアナン国連事務
総長も呼ばれている50。結局この停戦プランは結実しなかったが、これを境に停戦とその
後の安定化を支える外交的枠組みが出来上がった51。また、連邦軍は武装活動のほか、ア
ルバニア人難民キャンプの運営や救援物資の供給(物資2,500トン、空輸約250回)にも大
きな役割を担った52。
アフガニスタン復興では、タリバン後の国家再建および国際的復興支援の出発点となっ
た会議を2001年11月25日から12月5日にボン郊外で開催し53、その一年後にも同地でフォロ
ーアップ会合を行った。また2004年にはベルリンでアフガニスタン支援に関する国際会議
(3月31日∼4月1日)を開催したことに続き、ドーハでの警察協力に関する会議(5月18∼
19日)ではアフガニスタン、国連とともに共同議長を務めた54。
現地での活動に目を転じると、ドイツは2003年からクンドゥス、2004年からはその東隣
であるフェイザバードで地域復興チーム(PRT)を展開している55。クンドゥスPRTを例
にとると、PRTは軍事部門(上限450名:司令部中隊、防護中隊、医療中隊、軍事警察中
隊、作戦教育連絡中隊)および国防、外務、内務、経済協力・開発の四省からの代表者
(各上限5名)からなり、軍民(後者は外交官)二名が長を務めるという構成になっている56。
PRTはそもそもOEFおよびISAFに参加する諸国が編成する軍民統合チームであるが、そ
れだけにその派遣国の民軍関係のあり方に関する考え方の違いを見ることが可能である。
ドイツのPRTは①民軍の物理的・役割上の明確な分離、②軍事部門による部隊防護手段
の重視、③文民部門が現地社会およびNGOとのフォーカル・ポイントを担っていること、
50 “Peace Hopes Rise as Bombs Continue to Fall,” Guardian, 8 April 1999; “U.N. Chief Pushes for Role in
Crisis,” Inter Press Service, 14 April 1999.
51 また、G8ケルン・サミット前に開催されたG8外相会合(1999年6月8∼10日)ではコソボ問題が主要
議題として取り上げられ、同問題に関する国連安保理決議案(6月10日に決議1244として採択)に関
する調整が行われている。Nicholas Bayne, Staying Together: The G8 Summit Confronts the 21st Century
(Aldershot: Ashgate, 2005), pp.54-55.
52 Maull, “Germany and the Use of Force,” p.59.
53 この会議招致のためにドイツは積極的なロビー活動を行ったと言われている。“Peace in Kabul or
Not, Berlin Wins on Global Stage,” International Herald Tribune, 7 December 2001.
54 “Afghanistan on the Road to Reconstruction,” <http://www.auswaertiges-amt.de/diplo/en/
Laenderinformationen/01-Laender/Afghanistan.html>, accessed 25 August 2009.
55 また、2006年6月からは北部地域の司令部(マゼリ・シャリフ)、2008年2月からはPRTより小規模な
地域アドバイザリーチーム(PAT、タルカン)も掌握している。2009年9月時点での展開規模はクン
ドゥス800、フェイザバード600、タルカン100、北部司令部2,000である。Federal Foreign Office,
“Germany’s Commitment to Northern Afghanistan (Kunduz, Feyzabad and Mazar-e-Sharif)”,
<http://www.auswaertiges-amt.de/diplo/en/Aussenpolitik/RegionaleSchwerpunkte/
AfghanistanZentralasien/Engagement-D-Kundus-Faisa-Mazar.html>, accessed 15 October 2009; 独外務
省でのインタビュー(2009年9月23日)。
56 2007年時点。また以上に加え、実際の活動においては軍民協力小隊、心理作戦チーム(2)、軍事諜
報チーム(3)、電子戦タスクフォース、偵察・爆発物処理小隊(ベルギー)が利用可能であった。
Horst Walther, “The German Concept for Provincial Reconstruction Teams (PRT),” Doctrine No.13
(October 2007), pp.104-106.
21
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
において特徴的であると言われている 57 。実際には軍事的な役割の比重が大きい他国の
PRTと異なり58、軍民を明確に分離した上で文民部門の活動の自律性を確保しようとする
姿勢がドイツのPRTにはあるように思われる。
この関連でいえば、国際的支援活動の中でドイツがおそらく最も主導的な役割を果たし
ている分野は警察改革であることも指摘しておこう。ドイツは2002年以来警察改革のリー
ド・ネーションを務めており、約40名の警察要員からなる「ドイツ警察プロジェクト室」
(GPPO)を通じてアフガニスタン国家警察(ANP)に対する助言・訓練の供与を行って
きた59。2007年にEUの警察改革ミッションであるEUPOL Afghanistanが設立されてから
は、ミッション長を含む最大数の要員(上限120名)を提供してきている60。また警察改革
関連のプロジェクト費用として2008年までの7年間で合計1.177億ユーロ、2009年は単年で
過去最大となる5,020万ユーロを提供しているだけでなく、同年12月には国連開発計画
(UNDP)が運営する「アフガニスタン法と秩序信託基金」(LOFTA)に対し、ANP要員
の給与支払い用として1,300万ユーロを提供すると発表した61。
以上からわかるのは、軍事的に重要な仕方で関与を行う情勢に対しては、ドイツは非軍
事面での貢献をも併せて積極化させる傾向があるということである。これが「包括的アプ
ローチ」の内実であるとすると、それは前述の戦略文化とも通底したアプローチであると
評価できるだろう。包括的アプローチは軍事力行使に対する消極性だけではなく、多国間
主義、安定した安全保障環境の促進、コンセンサスの重視といった戦略文化の他の諸要素
をも反映させ、具体化した政策であると言える。軍事力はその構成要素の重要な、しかし
あくまで一部なのである。
では、その軍事力は現在どのような派遣態勢にあるのだろうか。軍組織と政府の政策決
57 Stuart Gordon, “The Changing Role of the Military in Assistance Strategies,” in: Victoria Wheeler and
Adele Harmer (eds.), Resettling the Rules of Engagement: Trends and Issues in Military-Humanitarian
Relations, Humanitarian Policy Group Report 21 (March 2006), p.47; Stewart Patrick and Kaysie Brown,
Greater than the Sum of Its Parts? Assessing “Whole of Government” Approaches to Fragile States (New
York, NY: International Peace Academy, 2007), pp.112-113.
58 たとえば英PRTはドイツと同様に文民部門の自律性を重視しているが、全体としては軍事・治安関
連(治安部門改革支援など)が活動の中心となっている。また米国の場合は軍事部門が人道や復興支
援活動に直接従事する傾向が強い。Gordon, “The Changing Role of the Military,” p.47.
59 “Frequently Asked Questions about Assistance in Rebuilding the Afghan Police Force,”
<http://www.en.bmi.bund.de/nn_1165434/Internet/Content/Themen/Police/Afghanistan/DataAndFa
cts/afghanistan__fragen__und__antworten__en.html>, accessed 31 July 2009.
60 “EUPOL Afghanistan−EU Support for the Afghan Police Force,” <http://www.auswaertigesamt.de/diplo/en/Aussenpolitik/RegionaleSchwerpunkte/AfghanistanZentralasien/PolizeiaufbauEUPOL.html>, accessed 31 July 2009.
61 “Federal Government Helps Fund Salaries for Afghan Police Officers,” 17 December 2009,
<http://www.auswaertiges-amt.de/diplo/en/Infoservice/Presse/Meldungen/2009/091217-AFGPolizeigehaelter.html>, accessed 7 January 2010.
22
ドイツと平和作戦
定手続きの二つを見ておきたい62。
ドイツ軍は冷戦後の環境変化に対応して常に組織改革を行ってきたが、2010年までの改
革後における連邦軍の軍事要員定員数は252,500(予備役2,500を含む)であり、これが反
応部隊、安定化部隊、支援部隊に編成されている。それぞれの概要は以下のとおりである。
・ 反応部隊:35,000名。特殊部隊を含む。平和強制を含む高烈度な事態への緊急展開を
想定。
・ 安定化部隊:70,000名。どの時点においても5つの作戦地域に最大14,000名まで派遣が
可能。中・低強度の安定化作戦に一定期間従事することを想定。
・ 支援部隊:147,500名。反応部隊、安定化部隊の活動に対し兵站面で支援を行うことを
目的とする。63
この態勢は、次のような作戦所要を踏まえて計画されたものである。
表7
NATO対応部隊(NRF)
EU(EU戦闘グループなど)
国連待機制度
自国民救難・避難
ドイツ軍の作戦所要
上限15,000名(うち待機5,000名)
上限18,000名
上限1,000名
上限1,000名
出所:White Paper 2006, pp.66-68
2006年度国防白書は現在の連邦軍の態勢が「厳密な意味で派遣指向型の態勢(a strictly deployment-oriented posture)」であると説明する64。この場合派遣の枠組みとして意
図されているのが主にNATOとEUによる平和作戦であることは、これまでに見たドイツ
の政策上の優先順位を想起すれば当然のことである。他方、国連PKOへの提供枠として
62 なお、文民面での平和作戦要員の養成を担う機関として、2002年に国際平和作戦センター(ZIF)
が創設されている。センターでは国連などの実務者を講師として招いて文民サイドの諸活動に関する
教育を行っているほか、ロスター登録制度を通じて求職に向けたフォローアップも行っている。ZIF
でのインタビュー(2009年9月23日)
。
63 White Paper 2006, pp.78-80 and p.69. なお、最新版『ミリタリー・バランス』によれば、実際の軍事
要員は250,613名(陸軍163,962、海軍24,407、空軍62,244)、予備役は161,812名(陸軍144,548、海軍
3,304、空軍13,960)となっている。予備役の実際数が定員数よりもかなり多いのは、『ミリタリー・
バランス』における予備役数の推定が全日での勤務を終了して5年以内の者を全てふくんでいるのに
対し、定数の方は予備役訓練を受けている者の一日単位での最大数となっているためであろう。The
International Institute for Strategic Studies, The Military Balance 2010 (London: IISS, 2010), P.8 and
p.134.
64 White Paper 2006, p.65.
23
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
表8
対象(第2条)
手続き
(第3, 6 , 7条)
例外(第4, 5条)
撤回(第8条)
議会参加法の概要
基本法115a(防衛事態)を除く武装軍隊の海外派遣。武装行動を行うミッ
ションへの司令部要員も対象とするが、派遣準備および武器使用が自衛に
限定される人道支援・救助活動は対象外。
事前承認。政府により提出された派遣案(任務、派遣地域、法的根拠、派
遣要員上限、部隊能力、派遣期間、費用見積・財政措置を記載)に基づき、
議会が可否を決定する。派遣後は議会に定期的な報告がなされ、派遣延長
にはその都度の議会承認が必要(内容に変化がない場合の延長には略式手
続きを適用)。
事後承認:急迫の危険や緊急人命救助への対応の場合、事前承認は不要。
ただし議会への報告と政府の速やかな派遣案提出は必要であり、否決の際
には活動終了。
略式承認:小規模、低烈度の活動(武器使用が自衛に限定される調査隊お
よび個人派遣)の場合、議会会派議長、防衛・外務委員会委員長および会
派代表委員に派遣案を伝達し、7日間以内に議会会派または連邦議会議員
の5%以上が本会議での決定を要求しないかぎり承認されたものとみなす。
議会は派遣に与えた承認を撤回することができる。
注:派遣の詳細な情報は通常部隊の派遣に限定される。特殊部隊(KSK)が派遣部隊に含まれる場合、
活動の性質に鑑みて詳細な情報提供はなされない。
出所:“Parlamentsbeteiligungsgesetz”; 松浦一夫「ドイツ連邦軍域外派遣の法と政治(I)」「ドイツ連邦
軍域外派兵の法と政治(II)」; Directorate-General for External Policies of the Union, Parliamentary
Oversight of Civilian and Military ESDP Missions: The European and National Levels (Brussels: European
Parliament, 2007); ドイツ外務省でのインタビュー(2009年9月23日)
想定されているのが(ローテーションも含めて)1,000名程度であることは、今後もこの
方面の貢献は小規模な部隊または個人単位での派遣が中心となるだろうことを示唆してい
る。
他方、現在の連邦軍派遣の手続きを定めたのが2005年3月24日に施行された議会参加法
である(表8参照)。
議会参加法は自国防衛を除く連邦軍の国外活動に対する議会承認を定めたものであり、
その内容は1994年判決以来積み重ねられてきた議会による承認手続きの実行を整理したも
のである。参加法は迅速な対応を可能にするための仕組みがさまざまに盛り込まれてはい
るものの、連邦軍の活動(特に軍事力を用いた活動)に対する議会のコントロールが明確
に定められている65。そして軍に対するこの「民主的に正当化された政治の優越」66がドイ
ツの戦略文化の一端をなしていることは、冒頭に見たとおりである。
65 国際的に見ると、同目的で明確な法制度を有する国は必ずしも多くはないようである。福田毅「欧
米諸国における軍隊の海外派遣手続き(事例紹介)― 議会の役割を中心に ―」国立国会図書館調査
及び立法考査局『レファレンス』
(2008年3月)114頁。
66 White Paper 2006, p.56.
24
ドイツと平和作戦
だがこの手続きは、潜在的な軋轢とジレンマを含むものでもある。というのも、議会は
政府により提出された派遣案には可否の決定を下すことができるが、政府がどのミッショ
ンに対しどのような形態で派遣を検討し決定するのかは政府の専管事項だからである67。
そしてここで留意すべきは、政府レベルでの派遣決定は主にドイツの国際的なコミットメ
ントに基づくものであり、この結果時の与党の従前の政策に修正が求められる場合すらあ
る点である。アフガニスタン派遣時のように、このことが与党内部の分裂や国内政治の混
乱をもたらす可能性もある68。もちろん、こうした事態を避けるため、政府と議会とが与
党レベルで、あるいは主要な会派の代表者も交えた形で、派遣案の内容について事前に非
公式調整を行うことは可能であろう。だがそれが行われすぎた場合、議会の権威が骨抜き
になってしまうというリスクを生む。国際的期待と国内的コンセンサスとの軋轢は、ここ
では政府と議会との緊張関係という形で現れているのである。
3 課題と意味合い
(1)課題
ここまでの議論を振り返っておこう。本論ではまずドイツ軍による平和作戦の実績を振
り返り、そこに①国連からEU・NATOへの参加枠組みのシフト、②平和作戦の軍事的側
面における役割拡大、を指摘した。このような変化を理解するため、次節では連邦軍の活
動枠組みとそのポスト冷戦期における変化を考察した。そこで明らかになったのは、冷戦
期には矛盾なく共存していた枠組みの諸要素(西側との統合、戦略文化、基本法)が、冷
戦構造の崩壊とともに緊張関係を生むようになったということである。その緊張関係は、
具体的にはEU・NATOに対する国際的コミットメントに対しいかにドイツが法制度と戦
略文化を調整していくかという課題となって現れる。本論ではその調整過程を四つの転機
(湾岸戦争、1994年の連邦憲法裁判所判決、コソボ、アフガニスタン)から説明し、法的
な整備は漸進している一方で、「抑制の文化」は依然としてドイツの平和作戦の形を強く
規定し続けていることを明らかにした69。
以上を踏まえて改めて実績の変化を考えるとまず言えることは、参加枠組みのシフトは
①湾岸戦争(国連安保理授権に基づく多国籍軍の活動への貢献)を契機としてドイツが平
67 Directorate-General for External Policies of the Union, Parliamentary Oversight of Civilian and Military
ESDP Missions, p.34.
68 またNRFとEUBGはともに機構レベルでの派遣決定から実際の派遣まで短期間を想定していること
から、連邦議会の審議にはこの場合常に時間の圧力が存在することになる。
69 この姿勢は、アフガニスタン情勢の悪化によってむしろ強められていると言われている。独外務省
でのインタビュー(2009年9月23日)
。
25
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
和作戦に本格的に取り組むようになったこと、②他方でEU、NATOがその方面の取り組
みを行うようになるのは1990年代の中盤以降であること、③そして両機構が平和作戦を行
うようになった以上、両者に深く組み込まれているドイツはそれらに注力するようになっ
た、という点から説明することができる。軍事面での役割拡大も、①EUやNATOが行っ
てきた活動の多くが軍事的側面を含むことが多く、②両機構で中核的なメンバーであるド
イツに対するその面での貢献も次第に(両者が行うミッションが増えてくるにつれ)強ま
ってきた、という背景から理解することができる。
また、ここまでの議論はドイツが今後平和作戦に取り組んでいく上での課題も示唆して
いる。第一は、国際的期待と自国の戦略文化との調整をいかになしていくのかであるが、
注意すべきは両者の関係は緊張関係ではあるものの必ずしも対立関係にはないことであ
る。というのも、ドイツの戦略文化は軍事力使用に対する消極性を特徴とするものの、同
時に多国間主義や安定した安全保障環境の促進などをも含むものであり、その限りで多国
間枠組みでの平和作戦への理解を促す役割も果たしているからである。つまりここでの課
題とは、ドイツの平和作戦に対する国際的期待を背景としながら、平和作戦に消極的対応
を導きだしかねないような諸要素をいかに整理していくのか、という課題なのである。
そしてこの点でコソボやアフガニスタンにおけるドイツの「包括的アプローチ」は、一
つの方向性を示しているだろう。すなわちこれらの状況に際し、ドイツは期待された軍事
的貢献を一定の規模で行いつつ、この貢献に関する①国際的な不満への対応と②国内的な
不安の払拭を目的として、非軍事的関与を積極化させているのである。したがって、ドイ
ツが今後連邦軍による平和作戦を積極化させるとすれば、それは同時に非軍事面での貢献
の積極化をも促すことを意味するだろう。
アフガニスタンの安定化についても、ドイツはこの方策で対応しようとしているように
思われる。ドイツが活動している北部セクターは比較的治安が安定していたが、2009年の
春以降、パシュトゥン族が多く住むクンドゥスとゴマーを中心して不安定化しつつあると
言われている。さらに、北部に限らず不安定化しつつある現在のアフガニスタン情勢に対
処するため、米国は派遣部隊の増派を決定し、これに相応してISAF参加国にも増派を求
めてきた。これに対し、第一次メルケル内閣の方針は①より治安が流動的な南部への連邦
軍派遣は認めない、②部隊の増派ではなく現地軍事・警察に対する訓練要員の増加によっ
て安定化に貢献する、というものであった70。そして、ロンドン会議(2010年1月28日)に
臨んで第二次メルケル政権が打ち出した対アフガン支援パッケージも、この線に沿ったも
のとなった。それは以下の四つの層からなるものである。
70 独外務省でのインタビュー(2009年9月23日)
。
26
ドイツと平和作戦
・ 文民面での再建支援:支援額を倍増し、2013年までに毎年4.3億ユーロ拠出
・ 警察要員訓練支援:2010年中に警察訓練要員を123名から200名に増員、EUPOL
Afghanistanへの専門家派遣を45名から60名に増員
・ 国軍再建支援:訓練・警護目的で軍事要員を500名増加、350名の予備役を確保
・ 復員兵士の社会復帰支援:支援プログラム(総額3.5億ユーロ)に対し条件を満たせば
5,000万ユーロ拠出する準備があることを表明71
第二は、平和作戦枠組みとしてのEUとNATOとの関係である。ドイツがEUとNATO
を平和作戦の枠組みとして最重視していること、そしてそれがドイツの安全保障という観
点から論理的な選択であることはこれまでに見てきたところであるが、言うまでもなく、
EUとNATOとは同一ではない。その違いとは端的に言えば①両機構それぞれが平和作戦
ミッションを組織していること72、②米国との関係、の二つが挙げられる。①はドイツに
とって、どちらにどの程度コミットするのかという問題をその都度提示する。そしてその
際、重要な考慮要素となるのが②であり、NATOミッションへの貢献のあり方が特別な
問題となるのはこの文脈においてである。
しかし、戦後から現在に至るドイツの歴史を踏まえれば、EUとNATOがドイツにとっ
て二者択一を迫る選択ではありえないことは明らかである。この点について2006年国防白
書は、NATOとEUが「競争者でなく、われわれの安全保障に決定的な貢献をなしている」
こと、そしてドイツとしては両機構の「関係改善に向けた努力を続けていく」ことを記し
ている73。ここには、両機構のいわば橋渡しにドイツの役割を見出そうとする姿勢がある。
だが、そうした役割を実際に果たして行くことは簡単ではない。それは外交努力だけでは
なく、軍事的貢献を含む実地の活動の継続とおそらくは拡大をも要請しかねないからであ
る。
71 “Change in Strategy in Afghanistan” (26 January 2010), available from <http://www.auswaertigesamt.de/diplo/en/Aussenpolitik/RegionaleSchwerpunkte/AfghanistanZentralasien/AktuelleArtikel/100
126-afghanistan-papier,navCtx=23336.html>, accessed 28 January 2010; “Auf dem Weg zur Übergabe in
Verantwortung: Das deutsche Afghanistan-Engagement nach der Londoner Konferenz” (25 January
2010), available from <http://www.auswaertiges-amt.de/diplo/de/Aussenpolitik/RegionaleSchwerpunkte/
AfghanistanZentralasien/Downloads/100126-papier.pdf>, accessed 28 January 2010.
72 もちろん、このことは両者が重なり合う部分をもたないわけではない。たとえばEUとNATOの間に
は、EUの活動に際してNATOのアセットの使用を可能とする「ベルリン・プラス」と呼ばれる合意
が存在する。しかしそれを踏まえても、両機構がそれぞれに独立した意思決定システムを持ち、活動
実績としても異なるミッションを実際に組織してきている事実には基本的に変わりはない。そしてこ
のことが、ドイツのように両機構のメンバーである国にとって、政策上の選択をときに必要とするの
である。「ベルリン・プラス」についてはMartin Reichard, The EU-NATO Relationship: A Legal and
Political Perspective (Aldershot and Burlington, VT: Ashgate, 2006), Ch.8.参照。
73 White Paper 2006, p.7.
27
防衛研究所紀要第13巻第 1 号(2010年10月)
第三は、資源の問題である。統一後ドイツの防衛予算は①政府予算自体の削減傾向、②
軍事費増加を望まない世論、③防衛予算の構造(人件費・重装備品への過剰投資、派遣費
用の防衛予算からの捻出)を背景に低水準を続けてきている74。このことは上述したよう
なドイツ軍の組織改編を装備調達面で遅らせるだけではなく75、派遣の要請に対して参加
を躊躇させるもう一つの理由にもなっている。言うまでもなくいずれの背景も構造的なも
のであり、その対処には時間を掛けた取り組みが必要であり、その制約の中で政府はミッ
ション参加の要請に対応しなくてはならない。
(2)日本にとっての意味合い
最後に、日本にとっての意味合いを相違点と類似点の指摘を通じて考えてみたい。
主な相違点としては、二つをあげることができるだろう。一つは国内法の役割に関係す
る。まず強調すべきは、連邦軍の平和作戦をめぐる法的議論の焦点はNATO域外派遣の
是非と連邦議会による関与のあり方が中心であり、武力行使のあり方そのものではないこ
とである。ドイツ基本法とそれに基づく政府解釈は連邦軍の活動目的・地域およびその活
動に対する議会の統制を主要な論点としてきたというのは、換言すれば、そうした目的と
手続きを踏んでいれば連邦軍の活動は ― それが武装行動であっても ― 法的な正当性を
持つということでもある。やや単純化された言い方をすれば、ドイツにおける武力行使の
問題は法的というよりも戦略文化上の、すなわち政治的・社会的な問題だったのである。
ここが、武力行使に関する憲法上の規定がしばしば決定的な考慮要件となっている日本の
状況とは異なる点である。
もう一つの相違点は、地域機構の存在の有無がある。ドイツ軍による平和作戦は、ドイ
ツが安全保障面でも依拠しているEUとNATOが平和作戦に取り組むようになったこと
に、その進展の最大の動因がある。この場合、EUとNATOはドイツに信憑性ある安全保
障上の枠組みと平和作戦の多国間枠組みを同時に提供しているのであり、後者を通じてそ
の活動の国際的正当性が根拠付けられている。そのような地域機構の存在を媒介として、
74 Jesse Kalata, “Europeanizing the Bundeswehr? An Europeanization Analysis of ‘Misfit’ between the
EU’s Security and Defense Policy and German Military Policy,” Tübinger Arbeitspapiere zur
Integrationsforschung Nr.2 (2009), pp.17-20.
75 例えばESDPに対する貢献として当初ドイツは73機の新型輸送機(A-400M)を購入することになっ
ていたが、その後60機にまで削減された。しかし技術上の障害や、それに伴う開発コストの増加とス
ケジュールの遅れもあり、ドイツ国防省も発注を再検討していると言われている。Gunther
Hellmann, et.al, “De-Europeanization by Default? Germany’s EU Policy in Defense and Asylum,”
Foreign Policy Analysis Vol.1, No.1 (March 2005), p.160; “Can the Airbus A400M Be Saved?” Spiegel
Online, available at <http://www.spiegel.de/international/business/0,1518,605262,00.html>, accessed
20 October 2009.
28
ドイツと平和作戦
ドイツの平和作戦は自国の安全保障戦略と直截的に結びついているのである。
この二つの相違は言うまでもなく大きなものであり、ドイツ軍による平和作戦が相対的
に高い実績を残している理由となっているように思われる。しかし、類似点も存在する。
それは平和作戦をめぐる政策思考、とりわけ国際的要求と国内世論との調整に存する。繰
り返し指摘したように、ドイツの戦略文化には現在の平和作戦に親和的な部分(多国間主
義、安定した安全保障環境の促進など)と抑制的な部分(武力行使に対する消極性)とが
共存している。そしてその都度の国際的要求と期待の高まりに際して政策担当者は、国内
的には親和的部分を強調して理解を求めつつ、国際的には抑制的部分を強調して期待をコ
ントロールするというのが基本的なパターンであった。さらにいえば、上掲した「包括的
アプローチ」は、この意味でもドイツ的な政策コンセンサスを反映していると言えるだろ
う。
外部からの要求・期待を背景に平和作戦をめぐって戦略文化の調整を行うというこの構
図は、日本にもある程度当てはまるものと考えられる。既に見たように、この政策調整は
きわめて難しいものであり、ときに政局全体の危機をも生じさせてきた。また日本のよう
な国内法上の諸限定が存在しないことも、困難を先鋭化させている。しかしそれだけに、
本論で辿ってきたドイツの歩みは、今後日本が平和作戦を積極化させる際の参考となる歴
史を含んでいるように思われる。
29
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